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 投稿番号:101576 投稿日:2017年01月02日 03時35分48秒  パスワード
 お名前:三つ柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXXXX(課題確認28)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101575_55.html
長上郡の服部氏族LXXXW(課題確認27)
スレッド84の続きです。



     自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
     最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


間もなく大河ドラマ「おんな城主 直虎」が始まります。

井伊谷
井伊谷宮と龍潭寺

松下家の墓の他に
小野家の二十基余りの墓群
小野玄蕃朝直の墓
新野左馬助公の墓
今村藤七郎一族の墓
菅沼忠久・忠道供養塔
奥山 十代 親朝公 十一代 朝村公 十二代 朝宗公の墓
鈴木重時公の墓
中野氏の墓
木俣家の墓
安間家累代の墓
桶狭間戦死者の墓
近藤康用公の墓
その他には、
大石家、野末家(「丸に並び矢」)、水野家、新田家、永田家、服部家の墓

どういう関係でしょうか?
ドラマの中に出て来ると良いですね。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月02日 17時24分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いずれにしも、三河一向一揆に加わった家康家臣に対し、忠義を裏切る
行為として、大久保彦左衛門は許せない気持ちを抱いていました。それは
忠世、忠佐、忠隣も一緒の気持ちを持っていたと推察いたします。彼らは
忠臣であり、武断派であり、そして正に主君に命を懸ける「武士」の鑑の
ような存在であったのでないでしょうか。服部党とは武断派として、戦闘
の中でのコラボレーションを行ってきたのだと思います。戦術の中の忍術
とは、斥候であり、密使であり、忍び込み、特殊工作、偽情報の流布、調
略、情報収集…etc.―それらは、近代的兵器のない時代に、勝つためには
敵に先んじて行わなければならないものであった……。

 大久保家と服部家の姻戚関係をまとめますと――
 @服部保長の長男保俊の曾孫の妻=大久保治右衛門忠佐の娘
 A服部権大夫政光の次男政重の孫=大久保四郎左衛門忠重の次男(養子入)
 B服部中保次の次男保信の子保信(保重)の妻=大久保次郎八郎忠重の娘
 C服部半蔵の次男正重の妻=大久保石見守長安の娘(準大久保家)

戦術としての忍術の時代は、よりハイレベルの情報戦略の時代になって
より組織化されたものに変わられて行く……のだと思います。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月02日 22時48分43秒 ) パスワード

三つ柏さん

>戦術の中の忍術とは、
>斥候であり、密使であり、忍び込み、特殊工作、偽情報の流布、調略、情報収集…etc
>それらは、近代的兵器のない時代に、勝つためには敵に先んじて行わなければならないものであった……。

まさに「孫子の兵法」の実践ですね。


大久保家と服部家は遠江でガッチリ結ばれているのですねぇ。
ビックリ
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月03日 13時08分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

江戸には大久保百人町という所があり、「甲賀組」、「根来組」、「伊賀
組」、「大久保組」の四組の「鉄砲百人組」の内、大久保組の組屋敷があり、
そこに与力二十五騎、同心百人が配置されていた。大久保組は大久保家の名
を指すというよりも、地名からそう言われたのであろうけれど、実際に「正就
事件」の後、その配下の伊賀同心二百人は、大久保忠直、久永重勝、服部中
保正、加藤正次に分けられて附属させられている。
 ここからみても、大久保家と服部家・伊賀者との関係は深いことが推察され
ます。

 これで、大久保氏からは一旦離れ、井伊氏関係に戻ります――
[4]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月04日 10時24分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 歴史において何が真実かというと、あらゆる角度から鳥瞰してみて、最大
公約数を取るといったことにより、より真実に近づいと行く…つまり、書面
に書かれていることに対しても、常に客観的なスタンスで臨んで行かなけれ
ばならないということであります。

 『寛政重修諸家譜』もそういった意味では、基本が大名や旗本から提出さ
せたそれぞれの系譜を、1799年に編纂・校訂されたものでありますので、
提出資料には、もちろんそれぞれの思惑が込められているでありましょうし、
またチェックする側=体制側の意志が働いて、都合の悪いことは除かれたり、
ぼかされたり、書き直しされたりしているとみた方がいいと思います。

 それはそうとしても、『寛政重修諸家譜』は江戸時代を理解するためには、
なくてはならない最高の資料ではあると思います。
 この中で、服部半蔵正成の信康事件とのかかわりは、「(天正)7年9月
15日、岡崎三郎信康君御ことあるのとき、おほせをうけて天方山城守通綱
とともに其事にあづかる。正成これを本意なきことにおもひ、後、信康君の
ために麹町にをいて一寺を建立し、安養院(後、西念寺とあらたむ)と号し、
尊碑を安置す。」
 この点においては大久保家も同じ対応をとって行きますので、やはり服部
家と大久保家は同じ側にいたと言えます。
 ただ、服部半蔵の具体的な行動については書かれておりませんし、天方氏
については、「通興」とあるべきところ「通綱」と書かれております。

 「神君伊賀越え」に関しては、『寛政重修諸家譜』は半蔵正成について、
「(天正)十年六月、和泉の堺より伊賀路を渡御の時従ひたてまつり、伊賀は
正成が本国たるにより、仰をうけたまはりて郷導したてまつる。」となって
います。特に大げさな活躍ぶりは書かれておりません。

 やはり、半蔵に関する履歴は、ある意味武勇伝・英雄譚・講談的に脚色さ
れた…服部シンパの大久保彦左衛門もそだろうし、また伊賀者が書いた由緒
書き――例えば『伊賀者大由緒書』(伊賀市上野図書館蔵)なども、伊賀者の
地位を高めるために脚色したように思われます。
 
[5]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月04日 22時33分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 検死役の天方氏については、父通興と子通綱(通興32歳の時の子)の区別
を間違えてしまいました。これも昔のウッカリメモによるものです。

 信康事件を記している史料の多くは、信康の検死役を、天方山城守か天方
山城守通綱と記しているようです。

 しかしながら、よく調べてみますと、実際は服部半蔵も渡辺半蔵と記され
たりしているように、通興と通綱も混同されて記されているものもあるよう
です。

 信次事件には、リアルタイムの正確な記録がないそうです。それは、事件
の真実が、神君家康にとってはよろしくないものであった可能性があるから
かも知れません……。
 
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月04日 22時56分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


昨夜は大久保家の謎についてネットサーフィンしましたが
欲しい話(笑)が出てませんでした。

    アタマを休めるのにゲームをしましたが
    ギャンブル系はダメですね
    中毒化してしまいます。だらだら際限なくし続けてしまいます。



>意志が働いて、都合の悪いことは除かれたり、ぼかされたり、書き直しされたりしているとみた方がいいと思います。

はい
都合の良い話に変えられますね。

なんせ権力者が怖い時代でしたから「真実」は書けないわけで
一応「事実」に沿って書いてるけど「事実」はいくら書き連ねても「真実」には成らない。



>通興と通綱

通字があるのでこんがらがりますね。


さらに!昔の人は楷書で書いてくれているわけじゃないので
後世に印刷にする時に能力の無い人が誤記することもあるわけで

    我が家の家書でも「顕如」に従ったのか「教如」に従ったのかワケ分からない箇所があります。

    こういうのは「そのまま」にしておかないといけないとつくづく思います。

         先祖の名前に「彦狭シマ」というのがいて我が家の家書では「鳴」が使われています。
         これが「我が家は南朝方であった証拠」で
         北朝方は「彦狭嶋」を使っています。



>信次事件

三つ柏さんも  こんがらがりました  ね。
ホント!アタマを休めないと自分で自分が信じられないようなミスをやってしまうんですよね。

         「遊びなはれ」
          ですね
          アタマは休ませないといけないですよね

          ま、ここでやらかすような間違いはどうってことないミスですが
          お仕事とかですと取り返しがつかない場合が出来しますね。

                       自戒
[7]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月05日 00時46分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 信康と秀次が、ままゴッチャになる時があります。秀次と秀忠も同様、
まま無意識的に分別されずに表現に出てしまうことがあります。もっとも
パソコン画面では、入力した後の校正・チェックが字が小さいためしにく
いという事情もあります。もちろん老化現象による認知不足は確かに少し
あるのではないか(自分では認めたくない……頭脳の状態にもよる)?!

大久保家は、築山殿の子信康の妹亀姫の子の@仙姫、Aその娘、B孫の
千代姫と、三代にわたって姻戚関係になります。具体的には、大久保忠隣
の子の@忠常、A孫の忠職、B忠常の弟教隆の孫の忠増が婚姻にて。
 築山殿は井伊直平の長女の子の瀬名姫であり、つまりは直平の孫にあた
っており、大久保家は井伊家と築山殿を通じてつながっているということ
になります。
 ということは、大久保家と服部党も婚姻関係でつながっていますので、
服部党と井伊家とは関係があるということにもなります。
 ただ、大久保家と井伊家とのエピソードは、今の所拾えておりません。
井伊直政と忍者の関係はありますので、服部党とのエピソードは拾える
かも知れません。

 本日は、浜松中央図書館に行き、松下常慶関係について調査をしてきま
した(影の者とのつなぎ役ということで)。飛躍的には新たな情報は発掘で
きませんでしたが、次回には触れてみたいと思います――
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月05日 02時24分47秒 ) パスワード

三つ柏さん

>大久保家と井伊家とのエピソード


こんなのがありました:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E6%94%BF

1.
関ケ原の後、井伊直政は石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられ、従四位下に任官された(『井伊家譜』)[2][注釈 9]。

家康は、西国の抑えと非常時に朝廷を守るため、京都に近い彦根に徳川最強の軍団である井伊家を配したと伝えられ、
これを見ても徳川家から強い信頼を受けていたと考えられる。

                                       ココ↙


この頃、家康が直政・大久保忠隣・本多正信・榊原康政・本多忠勝・平岩親吉ら6人の重臣を呼び集め、
自分の世嗣を誰にするか尋ねているが、
直政はこの時自分の娘婿である忠吉を推している。[要出典]
しかし結果的には忠隣が推した徳川秀忠が世嗣となった。

                                      [要出典]になってますが、ナカナカ面白いです。

               

2.
直政がまだ家康の小姓だった頃、大久保忠世の陣中に招かれて他の若手の武将とともに芋汁を振舞われた。

だが、戦場の事であり味噌は糠味噌、具は芋の葉や茎が混ざったものであった。だが、他の若い武将は芋汁を食べているのに、直政の食は進まない。

忠世がどうしたのかを尋ねると、直政は「醤油はありませんか」と応じた。
このことを聞いた他の武将達は「ここは戦場だと言うのにそのような物があるわけがないだろう」と口々に直政を非難した。

忠世は直政に「同僚の者たちは皆、同じものを食べている。兵士達はこのような物でも満足には食べられない。
ましてや農民達の中にはもっと苦しい生活をしている者達もいる。
一軍の将になりたいのであれば、このことを絶対に忘れてはならぬぞ。
そのためにここへ呼んだのだ」と言った。


新参でありながらも若くして選抜され、部下にも厳しかった直政に対する周囲の目は厳しかった。


これ以後、直政はよりいっそう自分にも部下にも厳しくなっていくのである(『名將言行録』卷之五十・大久保忠世の項)[注釈 10]。


へぇ〜



このURLには直政が性格にちょっと問題のあった逸話がいくつか出てますが本多家がらみで1つコピペ:

大身になる前の頃、直政がどうしてもとねだるので家康が数ある愛馬の中から、特に栗毛の名馬を直政に与えた。

これを聞いた本多重次がわざわざ直政のいるところで、
「あのような名馬を万千代みたいな子倅にくれてやるとは、殿も目が暗くなったのではないか」
といった意味のことを放言した。

年が下って家康が関東に移ると直政は家中一の大身となったのに対し、重次は3,000石しか与えられなかった。

そして、大身になった直政は重次と顔を合わせた時、
「昔、殿が名馬を下さった時に子倅だの何だのと馬鹿になされましたが、このような大身になれたのは、名馬に違わぬ働きをしたからでございます。目が暗かったのは本多殿の方でありましたな」
と言い放った。

このことから、直政は人に言われたことをすぐ根に持つタイプ、すなわち負けず嫌いであったということが分かる(『井伊年譜』[14])。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月05日 02時43分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


直虎や直政関係の人物を検索してたら   もうヤヤコシくて   既に脱力です。汗


例えば
松平康親
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BA%B7%E8%A6%AA


名前を変えるからワケ分からなくなるし
名字まで変えるから更に混乱。

その上に東条吉良だの出て来るし今川が出て来るし
さらに東条城の吉良義昭が出て来るし

名前カードを作らないとゴチャゴチャ。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月05日 03時06分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


龍潭寺に中野氏の墓があるということで何者かな?と思いました。

     井伊家家臣団
     http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/ii.html

答:
井伊家の分家でした。


井伊一門

 

 

  井伊直村 (?〜?)

 井伊直房の子。井伊直平の従兄弟。

 

 

  井伊直重 (?〜?)

 井伊直房の子。井伊直平の従兄弟。

 

 

  中野直房 (?〜1513年)

 井伊忠直の子。井伊直氏の弟。中野氏を興す。永正十年五月一日没。

 

 

  中野直村 (?〜?)

 中野直房の子。子は直由。

 

 

  中野直由 (?〜1564年)

 中野直村の子。越後守、信濃守。永禄三年、井伊直盛の遺言によって井伊保を預かる。永禄七年九月十五日、氏真の命により井伊直政の義父新野親矩と共に引馬城を攻める。しかし、新野親矩と共に天間橋で討死した。子は直之。元和年間後、中野直由の妻は安中藩菩提寺として井徳山龍潭寺の建立を松下一定に願い出たと云う。

 

 

  中野直之 (?〜?)

 中野直由の子。子は三孝、一定。

 

 

  中野三孝 (?〜?)

 中野直之の子。井伊家家老千五百石。弟は松下一定。子は三宜。

 

 

  中野三宜 (?〜?)

 中野三孝の子。子は清三。



 松下一定 (1574〜1641年 68歳没)

 中野直之の子。中野三孝の弟。松下清景の養子となる。志摩守。井伊家家老となる。元和年間、上州井徳山龍潭寺の建立を許可。井徳山龍潭寺は中野直由の妻が安中藩の菩提寺とするため、松下一定に創建を願い出たと云う。寛永八年、龍潭寺に鐘楼を寄進。寛永十八年六月二十三日没。六十八歳。法名「正覚院傑堂天英居士」。子は高冬。

 

 

  松下高冬 (?〜1640年)

 松下一定の子。寛永十七年四月九日没。

 

 

  新野親矩 (?〜1564年)

 井伊直政の養父。妹は井伊直盛の側室となる。左馬助。今川一族。永禄五年、幼少の井伊直政が今川氏真に誅殺されかかると、助命を願い出た。そして直政を養子に迎え、生母も保護した。永禄七年九月十五日、氏真の命により井伊家重臣中野直由と共に引馬城を攻める。しかし、新野直由と共に天間橋で討死した。妻は直政の身を案じ、叔父である浄土寺和尚と珠源という僧侶に預けて出家させた。

 

 

  松下清景 (?〜1597年)

 松下加兵衛の兄。源左衛門。永禄十一年、龍潭寺に匿われた井伊直政の生母を娶った。天正二年十二月、井伊直政を養子に迎えた。天正三年二月十五日、直政を徳川家康の小姓として出仕させた。後に井伊家筆頭家老となる。中野直之の次男一定を養子に迎えた。慶長二年五月十九日没。法名「本光院心月不染居士」。墓は上州箕輪龍門寺。

 

 

  奥山親朝 (?〜1497年)

 井伊一族奥山家当主。明応六年没。子は朝利。

 
奥山朝利 (?〜1544年)

 奥山親朝の子。因幡守。井伊直政の外祖父。天文十三年没。子は朝宗、朝重、朝家。娘は井伊直親に嫁ぐ。

 

 

  奥山朝宗 (?〜?)

 奥山朝利の長男。子は奥山朝忠。

 

 

  奥山朝忠 (?〜1629年)

 奥山朝宗の子。六左衛門。永禄十一年、井伊家臣小野道好の謀反に際し、井伊直虎や幼少の直政は龍潭寺に匿われた。南渓瑞聞和尚は奥山朝忠に命じ、直政を三河鳳来寺に預けた。天正八年、井伊直政に出仕。千五百石。寛永六年没。子は朝久。

 

 

  奥山朝重 (?〜?)

 奥山朝利の次男。子は朝正。

 

 

  奥山朝正 (?〜?)

 奥山朝重の子。子は朝長。

 

 

  奥山朝家 (?〜?)

 奥山朝利の三男。子は朝房。

 

 

  奥山朝房 (?〜?)

 奥山朝家の子。子は朝次。

 

 

  井平直種 (?〜?)

 井伊一族。河内守。子は弥三郎。

 

 

  井平弥三郎 (?〜1590年)

 井平直種の子。天正十八年六月二十二日、後北条家との合戦で討死。


なるほどねぇ〜
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月05日 03時14分59秒 ) パスワード

井伊家家臣  

 

  今村正実 (?〜1573年)

 藤七郎。天文十三年十二月二十九日、井伊直親が今川家に誅殺されかかると、これを匿う。東光院住職能仲は信濃市田郷松源寺に連絡し、直親を匿うよう依頼。今村正実は松源寺に同行し、直親を養育した。天正元年十二月二十三日没。

 

 

  木俣守勝 (?〜?)

 土佐守、清三郎。家康の直臣であったが、家康の下を離れて明智光秀に仕える。明智家での活躍が家康の耳に入り帰参。天正十年、武田旧臣の懐柔のために奔走。さらに北条家と若神子対陣の講和の使者になった井伊直政を補佐。家康の命により附家老となる。守勝を通じて徳川家に属した者は井伊直政に附けられ、「井伊の赤備え」になった。守勝の功績により、井伊家に重点的に配置されたのだ。天正十一年一月、家康が信州高遠の押さえに甲斐、信濃の軍勢に動員をかけた時、井伊家の「同心の物主」として守勝を挙げ、これを指揮するよう命じた。赤備え先鋒木俣隊八百人は、徳川全軍の攻めの要となるため、井伊家の選りすぐりの勇士を揃えていた。なかでも関口何右衛門、野田新九郎、中村太郎右衛門は守勝をよく補佐したという。

 

 

  椋原政直 (?〜?)

 天正十年、家康の命により木俣守勝、西郷正友と共に井伊直政に附けられ、家老となる。

 

 

  西郷正友 (?〜1604年)

 西郷元正の子。西郷義勝の弟。正員、市十郎、藤左衛門、伊予。兄義勝とは一歳違い。あるいは同年か。天正十五年、井伊直政付けとなる。二千石と伝わる。後に隠居し、三百石。 慶長九年没。

 

                わたくしからの註
                西郷 義勝(さいごう よしかつ、生年不詳 − 元亀2年(1571年))
                戦国時代の武将。通称、孫太郎。右京進。西郷正勝の孫。
                正勝長男で西郷家当主の西郷元正の子。西郷清員は叔父にあたる。弟に西郷正友。
                正妻の他、後妻に戸塚忠春娘のお愛(のちの西郷局)。

                                          ☝ココ、ビックリよね?!

 

  西郷重員 (?〜1609年)

 西郷正友の子。勘兵衛。三千石。慶長五年、関ヶ原合戦では井伊直政に属す。慶長十四年没。

 

 

  西郷員吉 (?〜?)

 西郷重員の子。勘兵衛。室は井伊家臣椋原正長の娘。

 

 

  近藤康用 (1516〜1588年 73歳没)

 井伊三人衆。小牧・長久手合戦で井伊直政に付けられる。永禄十一年、徳川家に仕える。天正十六年三月二日没。七十三歳。子は旗本近藤秀用。

 

 

  菅沼忠久 (?〜?)

 井伊三人衆。小牧・長久手合戦で井伊直政に付けられる。

 

 

  鈴木重時 (?〜1569年)

 井伊三人衆。永禄十一年十二月十三日、徳川家康の遠州攻めの先導役となる事を承諾。永禄十二年二月五日、徳川家康の堀江城攻めに加わるも討死した。子は重好。

 

 

  鈴木重好 (?〜1626年)

 鈴木重時の子。平兵衛。井伊直政に仕える。慶長五年、土佐浦戸城の受け取りに向かう。しかし、城兵は平兵衛らを銃撃。長宗我部家改易を取り消し、盛親に土佐半国、もしくは二郡だけでも返還するよう求めた。この「浦戸一揆」は五十日にも及び、平兵衛は京都柳ヶ辻の商家に幽閉された盛親に城兵説得を命じたと云う。一揆は元長宗我部家老らの謀略で二百三十七名が討たれ、鎮圧された。慶長十年、井伊家から追放される。後に水戸徳川家に仕官。寛永三年没。子孫は水戸徳川家家老となった。

 

 

  小野和泉守 (?〜1554年)

 井伊家臣。井伊直満と不和になる。天文十三年、今川義元に井伊直満、直義について讒言。これにより直満、直義は誅殺された。天文二十三年没。子は道好、朝直。

 

 

  小野道好 (?〜1569年)

 小野和泉守の長男。但馬。永禄五年十二月、今川氏真に井伊直親の徳川家内通を報告。これにより井伊直親は誅殺された。永禄十一年、井伊直虎に謀反した。同年十二月十三日、徳川家康に井伊城を攻められ、井伊谷に逃れた。永禄十二年四月七日、徳川家によって磔にされた。

 

 

  小野朝直 (?〜?)

 井伊和泉守の次男。玄蕃。子は朝之。

 

 

  小野朝之 (?〜?)

 小野朝直の子。亥之助。天正三年二月十五日、井伊直政が徳川家康に出仕すると、その共となる。その際、徳川家康は井伊直政に万千代、小野朝之に万福の名を与えた。

 

 

  横地吉晴 (?〜?)

 後北条家に仕える。修理。後北条家滅亡後、井伊直政から千石を賜り、井伊家家老となる。

 

 

  熊井戸半右衛門 (?〜?)

 井伊家家臣。「小牧陣始末記」に「三千梃ノ足軽頭」と記される。鉄炮隊を率いたのだろうか。

 

 

  大久保与兵衛 (?〜?)

 天正三年、井伊直政が徳川家康に出仕すると同心衆として附けられる。

 

 

  八股甚左衛門 (?〜?)

 天正三年、井伊直政が徳川家康に出仕すると同心衆として附けられる。

 

 

  萩原図書 (?〜?)

 上州後閑村の住人。文禄四年以降、井伊直孝を養育する。

 

 

  齋藤半兵衛 (?〜?)

 甲斐武田家臣。武田滅亡後、井伊直政の家臣となる。

 

 

  飯島半右衛門 (?〜?)

 甲斐武田家臣。武田滅亡後、井伊直政の家臣となる。

 

 

  成嶋勘五郎 (?〜?)

 甲斐武田家臣。武田滅亡後、井伊直政の家臣となる。

 

 

  石原主膳 (?〜?)

 北条家臣。北条家滅亡後、井伊直政に仕える。

 

 

  加藤新左衛門 (1559〜1591年 33歳没)

 「九戸軍記」に名がある。天正十九年、九戸征伐に従う。井伊家の陣にほど近い、穴牛という土地に老夫婦が暮らしていた。九戸の乱によって周辺の百姓は退去したが、老夫婦は屋敷に住まい続けていた。ある日、亭主は井伊家の陣中から馬が逃げ出し、垣根の貝玉を蹴り散らしたと呟いた。これを聞いた加藤新左衛門は、垣根のどこに貝があるのかと亭主を嘲笑った。亭主は憤り、和歌では露に濡れた蜘蛛の巣を貝玉と言うのだと諭した。そして、加藤新左衛門に扶持を与える井伊直政を罵倒した。これを知った井伊直政は激怒し、主君に恥をかかせたとして加藤新左衛門に自刃を命じた。三十三歳没。

 


 

  兵法者

 

 

  長野無楽斎 (?〜1649年)

 長野業通の子。上州長野業正の一族。新吾郎、十郎左衛門、業利、業真、無楽斎槿露。永禄年間頃に生まれる。小田原の上泉家を頼る。後北条家滅亡後、浪人。居合術の祖となる林崎重信に師事。一説に林崎重信の高弟田宮平兵衛に師事したとも伝わる。関ヶ原合戦で井伊直政に属す。以後、井伊家臣となる。侍大将、槍奉行、家老職五千石。大坂の陣に参戦。寛永十一年、隠居。慶安二年、九十余歳で没す。生涯不犯とされる。高弟に上泉秀信、一宮照信、白井成近、沼沢長政らがいた。特に上泉秀信には居合を教授したと言う。

 


 

  砲術家

 

 

  宇津木泰繁 (?〜?)

 北条家臣宇津木氏久の子。勝三郎。砲術稲富流を学ぶ。天正十八年、父氏久に代わり井伊直政に仕える。この時、十九歳。九戸の乱に出陣し、その功により上州福島に六百石を賜る。また、直政が家康より拝領した具足、脇差も賜った。天正二十年正月十一日、父の隠居料二百五十八石を継ぐ。慶長三年八月、秀吉の葬儀に出席。慶長四年、前田利家の葬儀に出席。慶長五年、関ヶ原合戦で物頭。慶長七年三月七日、直政の遺言により二百石を加増される。大坂の陣で物頭。戦後、二百石を加増される。元和元年七月、伏見にて徳川秀忠に鉄炮の腕を上覧。元和四年、三百石を加増。寛永四年、七百石を加増。計二千二百余石。寛永十二年正月没。同じく稲富流を学んだ松平忠直から極意の教授を依頼される。しかし、時期が悪く教授を行うことが出来ず、同門の浜口長久が慶長十七年に代わって教授した。

 

 

  宇津木次郎右衛門 (?〜?)

 御鉄炮吟味役。慶長十七年十一月三日、大坂城攻略用の長距離狙撃用の鉄炮八十六挺の試し撃ちを行う。

 


 

  僧侶

 

 

  珠源 (?〜?)

 井伊直政の恩人。名は守源とも伝わる。井伊直政の養父新野親矩が永禄七年に討死すると、親矩の妻は幼い直政の身を案じて叔父の浄土寺和尚、そして珠源に預けて出家させた。永禄十一年、井伊家臣小野道好が謀反すると、珠源は龍潭寺に匿われた直政を連れて三河鳳来寺に逃れ、さらに浜松に移っている。僧籍のまま直政に仕えたようで、慶長七年分限帳の切符衆の項目に三十石、五人扶持と記される。

 

 

  黙宗瑞淵 (1463〜1554年 92歳没)

 龍泰寺一世。寛正四年生。文叔瑞郁に師事。永正年間、文叔瑞郁は信濃市田郷の松岡貞正に招かれ、松源寺を開山。共に信濃に向かう。永正十二年八月、文叔瑞郁が勅命によって妙心寺二十四世住持に就任すると、共に妙心寺に入る。天文元年、井伊直平に招かれ龍泰寺を開山。後の龍潭寺である。天文三年、妙心寺首座職となる。天文年間、正法寺に入る。また、鎌倉禅興寺より招かれるも固辞する。美濃大智寺に入る。妙心寺に開堂する。天文二十三年四月六日、九十二歳没。

 

 

  傑山宗俊 (?〜1592年)

 南渓瑞聞の弟子。龍潭寺三世。弓の名人。天正十二年、井伊直政に仕える。小牧長久手合戦参戦。文禄元年十二月五日没。

 

 

  悦岫永怡 (?〜1622年)

 龍潭寺四世。慶長十五年二月十六日、妙心寺住職となる。元和九年八月十八日没。

 

 

  昊天宗建 (?〜1644年)

 南渓瑞聞の弟子。龍潭寺五世。方広寺院代。長刀の名人。天正十二年、井伊直政に仕える。小牧長久手合戦参戦。慶長七年、井伊直政が没すると遺命によって佐和山に豪徳庵を建てる。慶長十六年三月十六日、妙心寺住職となる。元和元年、彦根龍潭寺を開山。この頃、弟子の大龍和尚は上州安中に井徳山龍潭寺を創建し、昊天宗建を開山に迎えた。井徳山龍潭寺は中野直由の妻が安中藩の菩提寺とするため、松下一定に創建を願い出たと云う。寛永元年、井伊谷住人与三左衛門ら六人は罪を犯し、井伊谷領主近藤秀用に捕縛されそうになった。与三左衛門らが龍潭寺に逃げ込むと、昊天宗建はこれを匿った。龍潭寺は無縁の場と見なされていたようだ。寛永八年二月六日、近藤秀用が没し、方広寺に葬られた。昊天宗建はその葬儀を行った。正保元年十二月十日没。

 

 

  萬亀惟鑑 (?〜1663年)

 龍潭寺六世。寛永二年十一月十九日、妙心寺住職となる。寛文三年五月十六日没。

 

 

  白庵正関 (?〜?)

 下野富田大中寺八世。文禄元年、井伊直政に招かれ、上州箕輪龍門寺を開山。


  鍛冶

 

 

  国友兵四郎 (?〜?)

 近江国友の鉄炮鍛冶。天正十年六月、羽柴秀勝に鉄炮鍛冶として仕えた。天正十三年、秀勝の死により国友に戻る。慶長六年、井伊直継から知行百石を賜る。井伊直継の領する彦根は国友と近く、井伊家に仕えた後も兵四郎は国友で鉄炮を造っていたようだ。

 


 

 【付記】

 

 【井伊家と築山殿の関係】

 「井伊年譜」、「井伊直平公御一代記」は井伊直平の娘が今川義元の側室になったとしている。これが正しいとすれば、今川家臣関口氏広は義元の義妹を娶るという形で直平の娘を拝領したことになる。徳川家康の正室築山殿は、井伊家の血縁者の可能性がある。
 

 

 【井伊の赤備え】

 甲斐武田家では飯富虎昌、浅利信種、小幡信貞がそれぞれ赤備えを部下に持った。徳川家は武田家の赤備えを吸収したが、甲冑を揃えるために時間がかかった。天正十二年、小牧長久手合戦で漸く赤備えの甲冑を用意出来たと云われる。後年、大坂夏の陣で家康は若い赤備えを見て落胆した。美しく飾った赤い甲冑など合戦では役に立たないと嘆いたのだ。若者の後ろに飾りの少ない十騎ほどの老武者がいることを見つけた家康は、彼等は物見を心得ていると喜んだ。さらに老武者は武田の遺臣だろうと予想すると、これが当たった。家康は武功の者の体は見て快い。若武者は何も知らないと述べた。
 

 

  【孔雀尾具足陣羽織】

 徳川家康は有能な井伊直政を重用した。特に天正十年の神君伊賀越えの際、井伊直政が警護を務めたことを大いに喜び、孔雀尾具足陣羽織を与えている。全周に孔雀の尾羽を縫いつけた異様な陣羽織は、傾奇者の出で立ちと言っても過言では無い。



結局、日本人はホント!みんな親戚よね。オソロシイぐらい繋がってる。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月05日 03時29分42秒 ) パスワード

戦国時代は地名と人名でゴチャゴチャになりますが
地と血で繋がってる
そういう人間関係ですね。



井伊直政の母の後夫が松下氏で、
もともと
井伊家の出身者、

井伊と松下は元々が一族。
さらに
新野氏も。


直政の母の奥山氏も井伊の一族だし。


日本の名字はヤヤコシイけど
結局は地と血で切り離せない関係ですね。
なるほど日本の社会(と会社)は運命共同体なはずです。


来年の大河は大物登場人物の俳優の顔が結構知ってる人みたいで
(三浦春馬の顔が分からないけど)  ←  この子、個性 無さ過ぎ
俳優の顔でついていけそうみたい。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月05日 03時37分18秒 ) パスワード

表題の最後に「どういう関係でしょうか?」と書きましたが

井伊家と服部家とは、もともと南朝方以来の仲ですから、
井伊谷に残った服部氏もいたでしょうし

そこへ三河経由で服部氏が家康と共に入って来たのですから
龍潭寺に服部氏の墓があってもおかしくないし

この服部氏の家紋が伊賀伊勢系の矢紋でなくても不思議じゃないわけでしょうね。
伊勢伊賀系の矢じゃないところにこそ、その服部家のアイデンティティがあるんでしょうね。


忍者系仕事で松下氏と関係を持っていたというのもこれまで以上に分かって来ました。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月05日 11時21分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


でも三つ柏さんのお家は、「柏紋」ということで、長田系の永井氏関係かも知れないですね。
それか永井系長田氏関係者か。

今年のお盆あたりに皆さんで集まる時に訊けないですか?
[15]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月06日 06時37分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 井伊家の一門及び家臣団についての情報、ありがとうございました。今後
たいへん役に立ちそうです。一人ひとりに履歴・人脈がありますので、根気
よく調べて行きたいと考えております。

 家臣団の中でも、西郷(正友)家は西郷局―秀忠につながっていますので、
興味深々、何か秘密が発掘できるかもしれません。つまりは、服部正尚とつ
ながっている、青山成重とつながっている……。

 また、一門の松下清景(直政の養父)、その養子の一定(井伊家家老となる)
……この松下家はもっと血族のすそのは広く、清景の弟常慶安綱、及び一統
の松下加兵衛之綱等を中心として、井伊家を盛り立てた影の立役者となって
います。私は、特にこの「松下常慶安綱」は、すべてのバックグラウンドを
解明するキーマンととらえております――
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月06日 07時10分37秒 ) パスワード

三つ柏さん

>特に「松下常慶安綱」は、すべてのバックグラウンドを解明するキーマン

はい。



南朝方時代に既に<忍者・諜報>の必要性を見出していたでしょうし
戦国時代には決定的に必要になったんですから

伊賀や服部氏との関係で松下常慶安綱が学んだことは大いにあったでしょうね。


松下氏が秀吉が世話になっていた時代はまだ地方の豪族だったでしょうけど
秀吉に引っ張り上げられて中央に進出して以降
プロの諜報集団を必要とするに連れて
服部家は頼りにされたでしょうね。

で、そこへ柳生が進出?


それにしても人間関係は大きくなると諸刃ですね。
味方が敵になってしまう。

小さい一族は必死に纏まるけど大きくなり過ぎるとそれぞれの利害関係が生じて分裂。

服部氏も柳生に足をすくわれたのかもですね。
それで柳生宗矩とその妻のおりんさんとは夫婦仲が悪くなったのかも、ですね。


これが人間の宿命なんでしょうかねぇ。
[17]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月07日 08時29分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いよいよ明日、「女城主 直虎」が始まります。何だかそわそわ落ち着き
ません。
 私が興味があるのは――
 @女性の活躍社会の今にグッドタイミングなテーマのドラマが、どう女性
  の皆様に反響をもたらすかという点。
 A小野家老家がどのように描かれるか、一方的に悪役として描かれるのか
  どうかという点。
 B井伊家と宗良親王・南朝との関係を、どう位置付け表現して行くかの点。
 C四天王となっていく直虎との主客のバランスを、どうとって行くかの点。
 Dダイナミックさにおいて、戦国のどの戦いを取り上げるかとい点。
 E松下常慶を中心とした、「影」働きをどう取り上げるかの点。
等々があります。

 影働きとしての服部党との関係でいいますと、「服部中」家の方がより濃く
つながっているように思われます。具体的には、細江の刑部の領主になって、
警備中に暗殺されてしまいます……。
 いずれ松下常慶と服部中家については、書き込みをいたします――

[18]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月07日 12時16分54秒 ) パスワード

三つ柏さん


    B井伊家と宗良親王・南朝との関係を、どう位置付け表現して行くかの点。

                       残念ながら、コレは無い  でしょうね。



    E松下常慶を中心とした、「影」働きをどう取り上げるかの点。

                       「真田丸」では出浦昌相=寺島進=がとっても魅力的に描かれていました。
                        こんな感じに存在感の重い「影」だといいな、と思っています。ふふふ


そうですか
いよいよ明日からですか。
楽しみですね。



頑張って「幕府御家人」を読んでいます。ありがとうございます。
ものすごく細かいですね。
ビックリしています。
それだけに難しいです。


でも半蔵と仲についてあらましの所が分かっているので(汗)
アタマを休め休め(で、単語が難解で忘れてしまうのですが)3歩進んで2歩下がって・・・なんとか・・・


「鳴海の伊賀者」なんて書かれていると鳴海というか有松というか
あそこの服部家を思い出します。


いろいろな人の名が出てて楽しいです。
そしてココでは書けない人の名前も出てました。
[19]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月07日 23時40分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 女城主というと、大河ドラマ候補として「直虎」が浮上する前は、岩村城
の織田信長の叔母の「おつやの方」のことを思い浮かべたものでした。

 彼女は、武田軍に攻められ、夫も病死し、城を守るためやむを得ず武田軍
の重臣の秋山氏と政略的に結婚してしまう。……が、信長はこれを許さず、
彼女らを逆さ磔にしてしまう……というような残酷でかわいそうな悲話があ
りました……。

 この女城主おつやをイメージとして、お酒の名前にしたのが、岩村醸造の
「女城主」であります――この生酒がまた最高に旨いのであります!!!

 「女城主直虎」にちなむネーミングのお酒も、このところ出始めました。
一度味わってみたいと思っておりますが、地元の酒造会社の酒の味は推測で
き――岩村の「女城主」にはかなわないのではないかと思ったりもしています……。

[20]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月08日 13時01分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


女城主というと、あとは
筑後・立花城主であった立花・千代。(ぎんちよ)ですね。

父親の戸次道雪に男児がいなかったため一人娘の・千代が城主になった。
その時、・千代はわずか7歳。


主人の大友家の重臣であった高橋家から養子をもらって
この人が有名な立花宗茂。

西軍について大名の座から転落。
・千代は夫が復職(笑)大名に復帰したのを見届けることなく亡くなってしまいました。


この夫婦の関係がややこしいのでコピペ:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82

天正9年(1581年)、男児の無かった大友氏の重臣・戸次鑑連(立花道雪)[注 6]が統虎を養嗣子として迎えたいと希望してきた

        (道雪と紹運は共に大友氏の庶流にあたり、同僚であった)。


紹運は宗茂の優秀な器量と、高橋氏の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度も請うてきたために拒絶できず、
8月18日[4]、宗茂を道雪の養子として出している。

このとき、宗茂は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・・千代と結婚して婿養子となり、
名も戸次統虎(べっき むねとら)と改め、・千代に代わって道雪から家督を譲られたが、
・千代とは険悪な仲だった上に子に恵まれず、道雪の死後程なくして、二人は別居したという。


立花宗茂の名の変遷がこれまたややこしいのでコピペ:

改名歴:

吉弘千熊丸→高橋彌七郎(幼名)→高橋統虎→戸次統虎→立花鎮虎→宗虎→正成→親成→尚政→政高→俊正→経正→信正→宗茂→立斎(号)


別名
羽柴柳河左近侍従

通称:立左、立飛州、飛弾入道・宗茂入道

渾名:西国無双(西国一の弓取)、鬼将軍[注 2]、武神[注 3]、飛将[注 4]



現代は名前が結構限定的なので
昔の人が名前をコロコロ変えたのについていけないですね。


五木ひろしは何度も名前を変えていますけどね。
名前って変えると運も変わるのかしら?
[21]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月08日 17時03分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 立花宗茂のお話、ありがととうございました。立花氏については初めて
知りましたが、西国一の猛将であったということで、家康から絶賛された
ということ、また、出世魚もはるかに及ばない改名の履歴には驚きです。

 さて、いよいよ本日の夜から「おんな城主 直虎」が始まります。予告
編で見ると、直虎の幼少時の子役がまたいい! きっとフィーバーするぞ
との予感がいたします――

 
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月09日 11時25分24秒 ) パスワード

三つ柏さん

「おんな城主 直虎」
見ました。

子役が上手ですね。
思わずもらい泣きでした。

ムカシの子役は泣くシーンで「アーンアーン」とか「エ―ンエ―ン」と言うレベルだったのに
今の子役は本当に上手に泣きますね。


鶴と亀の違いが判りましたよ:
亀は笛が上手
鶴は「ピー」と単調に鳴らすだけでしたね。

やっぱり女心を掴むのには楽器が上手じゃないとね。
ココを勘違いして下手くそなギターを掻き鳴らしてもモテない。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月09日 11時35分14秒 ) パスワード

http://井伊直虎.xyz/iike-roots/

井伊家の家系のルーツは?家紋や子孫についても解説!

                        面白かったですよ。


井伊家の家系のルーツをさかのぼると、初代当主である井伊共保(いい ともやす)に行き着きます。この井伊共保は元々は捨て子だと言われているのですが、遠江の国司を務めていた三国共資という人物の養子になり、その家督を継いだとされています。

その後、井伊共保は自分が捨てられていた場所である井伊谷(いいのや)に城を構えて井伊氏を名乗ります。ここに井伊家のルールはあると言えそうですね。


南北朝時代になると、遠江の豪族として名を馳せていた井伊家は南朝に味方し、その後南朝の衰退と共に北朝方の今川氏の家臣となります。しかし、主君にあたる今川家との関係は決して良いものとは言えなかったようで、何度も争いの危機を迎えたと言われています。
今川家との争いを防ぎたいと考えた、井伊直虎の曽祖父にあたる井伊直平は娘を今川義元に妾として差し出し、何とか危機を回避したこともありました。

一方の今川義元は、この娘を妾ではなく妹として迎え、家臣に嫁がせます。
実はその直平の娘と家臣の間に生まれた子が、徳川家康の後の正室となる築山殿なんですね。


そこで井伊家の家紋についての伝承を少しご紹介します。

井伊家の初代当主であった井伊共保ですが、実は彼は実は捨て子であったとする説があり、どうやらそこに井伊家がこの家紋を使った由来があるようです。

1010年の元旦、遠江国井伊谷の八幡宮神主がお手洗いの井戸の傍らに赤子が捨てられているのを発見しました。その赤子は端正な顔立ちで大きい瞳が明るく、とても聡明そうであったため神童と噂され、その後その子が井伊家の当主・井伊共保となるのですが、その捨てられていた井戸の傍には立派な橘が咲いていたのでその捨て子の産着の紋としました。

これが井伊家の橘紋の始まりだと言われています。

その後、神童の噂を聞きつけた遠江国の豪族・三国共資に引き取られた共保は元服と同時に、共資の娘婿となり家督を継いだのち井伊氏を名乗ったようです。また、この三国家には男子ができなかったことから、生命力の象徴である橘を家紋に取り入れたとする説も存在しています。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E5%85%B1%E4%BF%9D

井伊共保(いい ともやす、1010年1月18日(寛弘7年1月1日) - 1093年9月8日(寛治7年8月15日))

遠江守藤原共資の養子。井伊氏初代当主。井伊共宗の父。



主な経歴[編集]

静岡県浜松市北区引佐町井伊谷にある伝井伊共保出生の井(浜松市指定史跡)[1]寛弘7年正月元旦、遠江国井伊谷の八幡宮神主が御手洗の井の傍らに男児の捨て子を発見した。その子の顔立ちは端麗で瞳が明るく、聡明であったという(諸説あり)。

7歳の時、神童と称され、その噂を聞きつけた遠江国司藤原共資の養子となり、藤原共保と称し共資の一女と婚した。

1032年(長元5年)家督を継ぐと故郷の井伊谷に居館(井伊谷城)を構えて井伊氏を称した(諸説あり)。

1093年、84歳で没し、八幡山地蔵寺(現:龍潭寺)に葬られた。
また別説として、延喜年間に奈良より荘司として着任した三宅好用が井伊谷に居を構え、それより三代目の井端谷(いはたや)篤茂の娘が共資に嫁し、共保はその実子として生誕したとも伝えられる(三宅氏の家紋は井伊氏と同じく橘)。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月09日 12時31分09秒 ) パスワード

井伊氏の出自はハッキリしない
ということですが

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%9C%9F%E6%88%90

井 真成  いのまなり  という日本からの留学生がいて中国で亡くなってたことが新聞に出ましたよね。


文武天皇3年(699年) - 天平6年/開元22年(734年)
唐代の日本人の留学生または官吏。
日本名は不明。
中国の古都・西安で墓誌が発見された。


墓誌には、日本人留学生の井真成が、開元22年(西暦734年)正月■(朔〜十,廿のいずれか)日に死去したので、
「尚衣奉御」の官職を遺贈されたなどと記されている。

これは考古学的に、中国で発見された最初の日本人の墓誌であり、現存の石刻資料のなかで日本の国号を「日本」と記述した最古の例である。



井伊氏は本来は  源氏方  だったのかもですね。
案外松嶋氏に近かったのかも。



http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ii_k.html

武家家伝:井伊氏
一部コピペ


『保元物語』には「井八郎」という武士が後三年の役のとき 源義朝に従軍して出陣したことが記されている。

「井八郎」は遠江国の武士で、井伊氏の祖と思われる。

「井伊」は「井」を「イー」と発音していたものが転じた結果と思われ、井伊氏が井伊谷を本拠とする武士として 平安時代には相当の勢力を有していたことは間違いない。

さらに、井伊氏は鎌倉から南北朝時代「井伊介」あるいは 「井介」とよばれていたことが当時の記録から知られる。
「介」とは国司の次官であり、国衙の在庁官人の有力者が任命されることが多かった。
在庁官人は地方の豪族から出仕するものが多かったが、中央から赴任してきた役人が土着=在庁官人化するケースも少なくなかった。


井伊氏の共保伝説は、中央の役人が地方豪族と縁を結んだことを示したものだったのかも知れない。



 他方、安芸国賀茂郡高屋保に拠った国人領主平賀氏が、井伊氏と同じく藤原利世を祖とする系図を有している。 共保の子共宗から七代の孫松葉資宗が源頼朝に仕えて出羽国平賀郡を賜り、子孫は平賀を名乗り、元寇に際して安芸の 所領に下ったというのだ。

『古代氏族系譜集成』の三国真人系図にも井伊氏と松葉氏とは同族としてみえ、 両家は三国真人の流れを引いた武家とすることの方が違和感がないように思われる。

 ところで、秋田城介、三浦介、千葉介、上総介、狩野介、富樫介、大内介、そして井伊介を「八介」とよびならわされていた。

秋田城介・上総介は正式職名だが、それ以外は武士が言い習わした通称であった。
三浦・千葉・富樫など錚々たる 地方豪族であり、井伊介を称する井伊氏は出自のことはともかくとして遠江国における有力在地領主だったのである。

 井伊谷を本拠とした井伊氏は、井伊谷城を常の居館にして、詰めの城として三岳城を築いたようだ。
そして、 井伊氏を惣領家として多くの庶子家を分出している。
盛直の子からは赤佐氏、貫名氏が出たが、赤佐氏からは井伊家を 凌ぐ勢いを見せた奥山氏が分かれ、
貫名氏からは日蓮宗の宗祖となった日蓮が出ている。

                                         奥山氏は直政の母の実家ですね。



弥直の子からは田中・伊平・ 谷津・石岡氏、さらに田中氏からは田沢・松田氏らが分出した。
これらの庶子家の名字を地図上においてみれば、 浜名湖の東方一帯が井伊氏の勢力範囲であったことが浮かび上がってくる。
[25]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月09日 18時59分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 子役もその他全体のキャスティングも、皆いいような気がいたします。
 子供達は、いい演技をいたしました。特に亀之丞が父親の首の入れられた
桶を抱きながら、泣き叫ぶところには泣けました……。
 直虎の子役は天真爛漫な目をしていて、声やしゃべり方が愛らしい!
 とりあえずは、上々のスタートだと思いました。
 子役の直虎の周りで、サササ―と草をかき分ける謎の音――忍びか山伏
か……私は松下常慶ではないかと推測しております……。
 南朝や宗良親王の話はややこしくなるので、やはりでてきませんでした
ね。

 本日は、浜松市内で行われた磯田道史氏の講演を聞きに行ってまいりまし
た。今メモを整理しているところであります。また次回記します――
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月10日 08時51分35秒 ) パスワード

NHKの「50ボイス 直虎・浜松編」を見ました。

高根城って本物だったのですねぇ。

それも亀の妻の実家の奥山氏が築いた城なんですって。
へぇ〜
それも後醍醐天皇のお孫さんの尹良(ゆきよし)親王を守るために。
ということは奥山氏は南北朝の時には既に奥山姓になってたようですね。
確かに「奥山」ですものね、場所的にも。


高根城で維持管理してた人?が大河で門番役をしてたようですよ。



http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/bunkazai/shitei/misakubo/misakubo/takane.html

高根城跡 たかねじょうあと (浜松市天竜区水窪町地頭方)
昭和57年2月16日 市指定史跡

高根城跡は、町の東南端の久頭合の山頂、標高420mに位置しています。

南北朝時代、後醍醐天皇の孫尹良(ゆきよし)親王を守るためにこの地の豪族である奥山金吾正定則が応永21年(1414)に築いたといわれています。

この城は近くを流れる河内川が水窪川に合流する地点の自然の堀を利用した山城でここから一望できる水窪川の対岸には奥山氏が親王のために仮宮を建て、ここを内裏(大里)、御旗を掲げられたところを御旗(小畑)として地名が残されています。


時代は南北朝から戦国時代と移り、この地域に権力を及ぼしていた今川義元も桶狭間の戦いによって倒れ三河の徳川家康、甲斐の武田信玄の力が及ぶことになりました。

そして永禄12年(1569)高根城主民部少輔貞益の時、信州遠山郷の遠山土佐守に攻められ落城しました。

高根城落城後、元亀3年(1572)甲斐の武田信玄は2万5千の大軍を率いて青崩(あおがれ)峠を越して上洛の途上、三方原で徳川家康と戦い勝利をおさめていますが、この時すでに高根城は武田の手が加わり遠江侵攻を目指す武田軍の拠点として大改修が行われていたと考えられます。


平成5年に「整備計画策定委員会」を設置し、県文化課の指導援助の元に高根城を中世の城として復元整備するべく発掘調査を行いました。

現在では、本曲輪(ほんくるわ)部分に井楼櫓(せいろうやぐら)、主殿、城門などが復元されています。


復元しておいて良かったですね。
グッジョッブ!
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月10日 15時42分26秒 ) パスワード

「50ボイス」で紹介してた1つに「井伊直虎物語」もありました。
浜松の主婦、全くの素人、でも歴女のみなさんがお作りになった、と。

    (あら?どこかで見たような???)

手元にありました!
ぺこり
[28]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月11日 13時09分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は1月11日水曜日、「長上郡の服部氏族」を初めてから1001日
目(千一夜)になります――
 次は「石の上にも3年」を目指し、がんばってみたいと思っております。

 いずれにしても、精神的また肉体的にも乱れがなく、思考に集中できるよ
うな状態を維持できるよう心掛けて行きたいと思います。ついこのお正月も
食べ過ぎ飲み過ぎで、気が付いたら血圧の高さにビックリ。ただいま平常に
戻すべく、ほどほどの食事・1日4キロのウォーキング、早めの睡眠を心が
け、実行し出しました。

 さて、磯田先生の講演は、「直虎は男か女か」ということで、昨年末に
発見された井伊美術館の木俣文書の中の「次郎」と、出家した「次郎法師」
のどちらが「直虎」であったかという話が中心でした。両人はイトコにあ
たるようであります。最終的には古文書に書かれている「次郎」「次郎法
師」「次郎直虎」のそれぞれの筆跡を鑑定するしかないが云々の話でした。
いずれにしても、次郎法師そのものの存在は否定できない事実であります
とのことでした――
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月11日 15時11分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


戒名が  妙雲院殿月船祐円大姉  ですから女性だと思いますが。


>木俣文書

「木俣」ですから信用度が上がりますね。
にっこり


そうなんですか
筆跡鑑定で決めるより仕方ないことになりますか。


      でも本人じゃなくて祐筆が書いたかも知れないし
      花押は本人でしょうけど
      実はこれも誰かが代筆したかも知れないし

      そういう問題もりますよね。

                       ワタクシなんぞは毎回字が違います。
                       自分が書いた字が自分で読めないし。



>本日は1月11日水曜日、「長上郡の服部氏族」を初めてから1001日目(千一夜)になります

すごい!
3年は楽勝で行けますよね。


直虎の本をまた読んでいたら
鈴木という名があったりして
さすが「静岡は鈴木姓の世界!」と思いました。
[30]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月11日 19時37分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:初めて→始めて(チェックもれ)

 本日は、小野篁の息子「俊生」がこの地「遠江赤佐」に来て小野村と名
付け、「小野篁神社」を作ったということで、そこを訪ねてみました。
 岩水寺から西の方角に、小野氏の菩提寺「大宝寺」がありますが、その
西にあたります。現在では小野篁神社ではなく、「高根山観音」となって
いました――

 4Kmほど山道を歩いてサウナに入り、夕食も済ませたので、急に眠くな
ってまいりました――
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月12日 01時51分07秒 ) パスワード

http://www.d2.dion.ne.jp/~okamoto1/ono.rekisi.kodai.html
小野篁神社を検索してたら尾野の歴史がヒットしました。

多分コピペは無理と思いますが:スゴイ!

 約14,000〜18,000年前頃  浜北人の活躍
本州で唯一旧石器
  時代人骨と確認   昭和36年4月27日岩水寺の石灰会社の採石場から旧石器時代の化石人骨を
発掘。20代女性のものと推測。現在、現地に詳しい説明の看板がある。
浜北人骨が旧石器時代人骨として確認された事は極めて貴重である。 郷土浜北のあゆみ
浜北市史資料編(原始中世) 27
615
縄文時代
 約1万年前頃 根堅に縄文人 中通遺跡(天浜線、岩水寺駅北付近)に居住跡を発掘。 中道遺跡現地説明会資料
弥生時代 高根山遺跡 金刀比羅神社の北側付近一帯に古墳が存在していた。北側はゴルフ場であり、
南側は第二東名道路。年代は縄文時代から弥生時代そして古墳時代、さらに
平安・鎌倉時代までの長い年代の古墳や遺物が発掘された。 浜北市史資料編(原始中世)
浜北市史資料編(原始中世)
浜北市史資料編(原始中世) 32
146
156

 紀元前8世紀頃〜3世紀
古墳時代
 3世紀〜7世紀 人形山古墳 大沢の北、東ノ谷池の東側の山(人形山)。第二東名の工事により、17基の
古墳が確認され、須恵器や鉄製品、小玉などが発掘された。 浜北市史資料編(原始中世) 138
飛鳥時代
 飛鳥時代700年頃 藤原宮出土木簡 「・荒玉評赤□里・丈部古末呂」の表記あり
      荷札集成-61(木研5-82頁-(15)・奈良県『藤原宮』-55)
静岡県の地名
奈良文化研究所データベース 743
6世紀〜7世紀 高根山古墳群 高根山から6〜7世紀の古墳群と中世(約900年前)の墓127基が発掘された。 浜北市高根山古墳群
奈良時代
奈良時代中期 東ノ谷瓦窯跡 東ノ谷一番池付近で瓦類や須恵器などが発見されている。 浜北市史資料編(原始中世) 336
791 延暦 10 小野村の開発 平安時代の延暦10年から貞和14年頃の約50年の間に小野篁の長子、小野
俊生が小野村を開くとある。由緒として小野篁朝臣の長子俊生と申す御方この
里を切り開き此の所へ住居を定む。その後、小野篁朝臣は近江国にてご病死
あそばされ其の葬礼を此の地にて致し石塔を建つ。よって此の時、村名を小野
村とし字名を小野開土と伝えり、現今、小野海道とす。とある。 小野篁と遠州小野一族
天竜市史 17
↓ ↓ ↓
平安時代
847 承和 14
852 仁寿 2 12 22 小野篁 52才の生涯を終焉す。 小野篁と遠州小野一族 23
853  3 春 小野篁神社建立 小野俊生は、父の骨臓器を遠江国赤狭郷小野村に移して塚を造立し小野篁
神社を建立し、その一辺を小野垣内とした。とある。 小野篁と遠州小野一族 23
907 延喜 7 多賀神社・小野村
(高根神社)の存在 延喜式に「麁玉郡四、並に小、於呂神社、柴本村に在り、多賀神社、小野村に
在り、長谷神社、堀谷に在り・・・」とある。多賀神社とは現在の高根神社である。 遠江風土記伝第4巻 179
938 承平 8 赤狭の存在 和名抄の麁玉郡の郷名で 三宅 碧田 覇田 赤狭(阿加佐)とある。  倭妙類聚抄巻第六巻国郡部
  第十二遠江国第七十八



[32]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月12日 02時01分57秒 ) パスワード

1568年
徳川家康が、二俣城へ御出馬の節、家康公の御乗馬が落馬したので、小野村
の小野治朗兵衛が自家用の馬を差し上げた。

                          小野篁と遠州小野一族


ということは今でも小野一族は続いているのかもですね。



この表の中に出て来る人名が愛しくなります。


1572年
武田氏の遠江進行が本格する原器3年12月武田信玄が奥山大善亮吉兼に遠江進攻に対する戦功として「小野宮口并あかさ」からの300貫文を含め2,000貫文を与えている。この頃、赤狭郷は久頭郷城(水窪)の城主、奥山大善の勢力下。


人名や地名が生き生きと心に入って来ますね。


1597年
小野家は徳川家康の落馬した馬の遺骸を高根山山麓に埋め、徳川家康の馬であったと云う事で馬頭観音として高根神社に合祀し、繁栄を祈願した。


1603年
時の領主、近藤石見守季用は赤佐村小野村の小野源右衛門方に代々伝わる重宝(勅書、勅賜宝剣、家康から拝領の馬具・鞍など)を預かる。

                            つまりふんだくったというのでしょうね。
                            お前なんかが神君家康公ゆかりの物を所持しててはいかん、って感じ?
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月12日 02時58分22秒 ) パスワード

血圧を上げない努力の1つに塩を市販の安い塩ではなく、高いけど(笑)良質の本物の塩にするのが良いですよ。


ヒマラヤの岩塩の検索サイト
http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%81%AE%E5%A1%A9%E3%80%80%E3%81%AF



例えば
ヒマラヤの岩塩。ピンク色をしています。鉄分の色だそうです。

http://ganen.chu.jp/
1kg 840円    (1kgも買ったら何年もつ?笑)

25kgで1万800円とか。笑   (一族で小分けにしないと消費し切れない  汗)


エフアール株式会社
〒583-0883
大阪府羽曳野市向野1丁目10-3
■TEL     072-931-3300
■FAX     072-931-3400
■メール   ganen@mj.chu.jp
■受付時間  10時〜18時まで
■定休日    土・ 日・祝日



塩もいろいろあって
紅茶の△のティーバッグみたいな塩とか  (中に空気が入ってるのかな?忘れました)
いろいろなのがありますよ。


塩の安いの(専売公社の売ってるようなタダ同然の値段のもの)はやめた方が良いですよ。


東京の新しいなんとかタワー(634Mのタワー)には塩の専門店があったような。


知り合いの医者が塩に凝ってて味を比べさせられました。

ヒマラヤのピンクソルトを舐めたら専売公社の安物の塩なんて不味くて苦くて二度とゴメンと思いました。
ヒマラヤの塩は甘くてフワッとしてて後味が良いです。広がりが全く違います(って、味盲のワタシが言って良いのか?)


我が家は  ヒマラヤの塩>海の塩>フツーの安物の塩  と3種類あります。
ヒマラヤの塩は既に空で  底の方に溜まってるの  を久し振りに味わって来ました。



日本でも「藻塩」とか良質の塩がありますでしょ?高価ですが。

料理の味も良くなりますしね。(料理をしないワタシが言うかっ)
取り敢えず良質の高価な塩に総取り替えしてみてはいかがでしょう。


      ひところ毎朝ヒマラヤの塩を水に溶いて飲んでました。
      四角のコップの底の角に岩塩が出来ましたよ。笑  コップの中でヒマラヤ山脈を作りました。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月12日 23時23分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 尾野の歴史サイト、ヒマラヤの岩塩についてのご紹介、誠にありがとう
ございます。

 尾野の高根神社のさらに五十m位上に、古墳がありました。羽鳥にある
蛭子森古墳に似ているなあと思いながら、後で調べてみましたら、築造年代
はほぼ同時代であるようです。
 大きな岩を動かす技術については、ミラクルの一言につきます。
 この高根古墳の内部をフラッシュ撮影したところ、奇妙なものが映って
おりました。今は真冬だというのに、「ツチノコ」の形のような物体が映っ
ておりました。但し、色は白黒のようです。今度行った時には、中に入って
調べてみたいと思っております。

 本日は、筆の会があり、終了後浜松市博物館へ行ってまいりました。そ
の目的は、「井伊直虎と湖北の戦国時代」というテーマの資料展示会が開催
されていたからで、「次郎直虎」の署名のある蜂前(はちさき)神社の文書に
出会うことができました。これは、今川氏真が次郎法師の徳政令実施先送り
に対し圧力をかけ、2年後のことでありますが、実施の命令とその承諾の
証書であります。
 文脈からいけば、この地(祝田郷)の統治者にかかわるものでありますので、
次郎法師であってしかるべきもの、即ち次郎法師は「直虎」を名乗り、次郎
直虎と署名をし、かつ花押を押したということになります……。

 直虎問題は、今後の調査を待つとして、井伊家と服部党との関わり合いを
今後調べていきたいと考えております。
 それを証明する接触の事実はほとんど発掘できませんが、状況証拠的な事
象をなんとかピックアップしてみたいと思っております――
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月13日 14時41分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「ツチノコ」の形のような物体が映っておりました。但し、色は白黒のようです。

緑色だったら「ジガルデ」じゃないの?
と茶々を入れたいところです。秩序ポケモン、のことです。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%81%E3%83%8E%E3%82%B3

縄文時代の石器にツチノコに酷似する蛇型の石器がある(岐阜県飛騨縄文遺跡出土)。

また、長野県で出土した縄文土器の壺の縁にも、ツチノコらしき姿が描かれている。

奈良時代の『古事記』、『日本書紀』にはカヤノヒメ神の別名であり野の神、主と書かれてある。

江戸時代に出版された百科事典『和漢三才図会』に、「野槌蛇」の名称でツチノコの解説がある。

1972年、作家の田辺聖子が、ツチノコ捕獲に情熱を燃やす作家山本素石をモデルとした小説『すべってころんで』を朝日新聞夕刊に連載。ツチノコの名が全国的に知れ渡ることとなった[3]。

1973年、ツチノコに遭遇した経験を持つという漫画家の矢口高雄が、ツチノコをテーマとした漫画『幻の怪蛇バチヘビ』を発表[6]。ツチノコブームのきっかけを作った[3]。なお、同作品は『釣りキチ三平』と共に、1974年の第4回講談社出版文化賞を受賞している。

1974年、漫画『ドラえもん』においてツチノコを描いたエピソード「ツチノコさがそう」が雑誌「小学五年生」に掲載され、翌1975年には「ツチノコ見つけた!」が「小学六年生」に掲載された。後に『ドラえもん』が台湾へ輸出されたことで、台湾の多くの学生たちにはツチノコの姿として、これらの作中で漫画風にアレンジされたツチノコのイメージが定着している[7]。

フジテレビ系バラエティ番組、奇跡体験アンビリバボーでは、太平洋戦争当時の日本軍が捕獲し、軍の研究所で飼育、観察されていたとされるツチノコの話題を取り上げた。不鮮明ながら、モノクロ写真とされる物も残されている。死後解剖された際の結論は、毒の成分から考えてニホンマムシの亜種だったと記されている。


>「次郎直虎」の署名のある蜂前(はちさき)神社の文書に出会うことができました

ラッキーでしたね。
にっこり



>井伊家と服部党との関わり合いを今後調べていきたいと考えております。

南朝方時代からは確実にあるんですから井伊家と服部家の関わりが見つかると良いですね。
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月14日 00時23分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 考えてみれば、「桶狭間の戦い」がすべての始まりだったと言っても
いいのではないか。
 それも、「今川義元の首を服部党が中心にして取った」ということは、
実際「ものすごい事」ではないか。
 このインパクトがどんなものであるか、今改めて想像し直しています。

 服部中保次はその中の小平太であるとも言われている人物であります。
 この時、服部党はどんな状況だったのでしょぅか――

 井伊直盛等井伊家の主要な人達はこの時今川方にいて、たくさんの者
が命を落としている。

 ただ、今川義元が討たれて、すべての潮目が変わる――

 
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月14日 03時30分22秒 ) パスワード

三つ柏さん

>考えてみれば、「桶狭間の戦い」がすべての始まりだったと言ってもいいのではないか。
>それも、「今川義元の首を服部党が中心にして取った」ということは、実際「ものすごい事」ではないか。

なるほどねぇ。
もともと井伊一族は今川家に積年の怨みがありますからね。



http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1147181286

彦根井伊家の家老:

彦根藩筆頭家老は木俣家1万石です。   ← 木俣文書ですね。直虎は男だったの
次席家老・庵原家5000石       ← 武田家臣の山本勘助と関係がありますね
3席家老・長野家4000石


その他の家老
河手家4000石
西郷家3500石            ← 西郷さんが出てますね
中野家3500石
小野田家3000石           ← 小野田?
横地家2600石
三浦家2500石
宇津木家2500石
貫名家2300石
新野家2000石
脇家2000石
岡本家1950石
松下家   ?石
以上コピペ
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月15日 23時50分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部中保次についての履歴――
  1526年、誕生(死亡年より満年齢で遡ると)   
  1560年、足利義輝に仕えた後、信長に仕え、桶狭間の戦いにて今川
        義元を討ち取るのに貢献
  1565年、家康に仕える
  1577年、刑部を領す
  1587年、刑部にて暗殺さる、62才(数え歳か)

 本日は、1万歩歩いたため、眠くなってきました――
  
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月16日 01時51分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

>1526年、誕生(死亡年より満年齢で遡ると)   
>1560年、足利義輝に仕えた後、信長に仕え、桶狭間の戦いにて今川義元を討ち取るのに貢献


オトコ盛りの数え35歳ですね。
   今とは違うかも知れないですけど
筋骨隆々の年齢ですね。


「真田丸」の山本耕史(40歳 1976年10月31日生まれ)
2004年の大河「新選組!」の時(29歳)はガリガリのヒョロヒョロのペラペラに薄い胸をしてましたが
今回の「真田丸」や「陽炎の辻〜居眠り磐音 江戸双紙」では胸も厚くなって筋骨隆々でした。

        2013年の大河「八重の桜」の西島秀俊(現在45歳)のハダカが脚光を浴びましたが
        山本耕史も脱ぐシーンに備えて頑張ったんでしょうね。
        なんせ「新選組!」の時のハダカは肺気腫?漏斗胸?のようなえぐれたような貧相な胸板でしたから。笑
        最近の山本耕史は脱ぎたくてしかたないかも。笑




>本日は、1万歩歩いたため、眠くなってきました――

食生活を白米をやめてカラス麦(燕麦)にしてはいかがでしょう?
コレステロールを下げてくれますよ。

大麦(バーリー)が1番美味しいですけど燕麦も美味しいですよ。
ただし水分少な目で。
どんぶりにカップ1杯の穀物に水カップ1で電子レンジで1分温め(我が家の電子レンジ1200W)その後しばらくそのままにしておきます。

これなら奥様の負担になりません。
自分で出来ますから。
ただし押し麦にしてある簡単に煮えるものが良いです。
粉状に挽いたものはワタシは嫌いです。


ピーナッツの油のオレイン酸は悪玉コレステロールのLDLを下げてくれます。
ピーナッツの他の油は血管を強くしてくれますしね。
1日20粒あたりで。



とにかく悪玉LDLを下げるのは物凄く難しいです。

知り合いの医者に
「頑張ったけどLDLがやっぱり100を割らなかった、11月の検査も12月の検査も109だった」と言ったら
「ウッソー」
と言うので

「ね、LDLが高いでしょ?いろいろやってるけどLDLはどうしようも出来ないのよね」
と言ったら
「違う!逆!109なんて信じられないぐらい低いよ!」
と言われました。

「LDLで100を割るなんて、まず、無理だよ」
とその医者に言われたので
「100を割りたかったらスタチン系でも服用しないと無理かしらねぇ」
と言ったら
「うん」
なんて言われました。


とにかく麦は繊維も多いし、コレステロール対策にバッチリですよ。


玄米は糖尿病対策に良いです。
血糖値を上げるけどすぐに下げます。本当におりこうさんです。
ご自分で血糖値検査器を購入なさって1週間チェックなさっては?
自分の体質がどんなかそれを把握なさったらいいですよ。


玄米は炊くのも後片付けもメンド臭いですからね。ふふふ
奥様の仕事を増やさないであげてください。
あはは

そこに行くと挽き割り燕麦とか大麦は楽です。食後のどんぶりを洗うのもね。
電子レンジで1分煮た後にらっきょうの汁をかけて味をつけたのがマイブームになっています。
かわいそうなワタシの食生活。泣
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月16日 02時17分14秒 ) パスワード

井伊家の家老小野家は父子2代で井伊家を潰した。

コピペ出来ません:

http://taigadorama.net/2017/01/10/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%94%BF%E7%9B%B4%E3%83%BB%E6%94%BF%E6%AC%A1%E3%81%AF%E4%BA%95%E4%BC%8A%E5%AE%B6%E5%AE%B6%E8%80%81%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%9B%B4%E8%99%8E%E3%82%92%E9%99%A5/



小野 道好(おの みちよし)   ==鶴==
戦国時代の武将。遠江国引佐郡井伊谷の人。
小野 政次(まさつぐ)とも伝わる。


遠江国引佐郡井伊谷を治める井伊直盛の家老を務めた小野政直の嫡子として誕生。
天文23年(1554年)、父が病死するとその家督を継承する。

父・政直は井伊一門である井伊直満(直盛の叔父)らと対立し、
これを謀殺するなどした奸臣として知られており、

直満家の脅威であった政直の死により、
信濃国へ亡命していた直満の子・直親が帰郷し、==亀==
直盛の養嗣子の座に収まっている。


永禄3年(1560年)、井伊氏は主家にあたる今川氏の西上軍に従うが、
今川軍は桶狭間の戦いで織田信長に大敗を喫し、井伊直盛も戦死する。

直盛は死ぬに先立ち、小野氏が再び専横する事を懸念して、
井伊氏の分家筋である中野直由に直親の後見するよう遺言しており、
直盛の祖父・井伊直平はこれに従って直親の後見役とした。


なお小野家でも道好の弟・朝直と、一族とみられる小野源吾が討死している。


一方、隣国三河国では徳川家康が今川氏を離反し、今川氏を破った織田氏と同盟を結んだ。

この頃になると直親も徳川氏に心を寄せ、密かに内通していたという。

道好と直親は、父同士が因縁もあり関係は不仲だった。
道好は井伊谷を横領しようと画策していたとされるが、
直由が後見役に収まっていたために果たせずにいた。

そこで直親の内通を知った道好は、永禄5年(1562年)に駿府の今川氏真に直親が織田・徳川氏に内通している旨を密告した。


氏真は直親追討の軍を挙げようとしたため、
直親は氏真へ陳謝するために駿府へ向かうが、途中の掛川にて今川氏重臣の朝比奈泰朝によって殺害された。


道好は氏真の命を奉じて直親の遺児・虎松(後の井伊直政)も討たんとしたが、井伊氏に近い今川家重臣・新野親矩によって阻まれた。


その後、永禄6年(1563年)には井伊直平が死去し、永禄7年(1564年)には中野直由が戦死した。


井伊谷を預かっていた直由が亡くなり井伊谷が無主となったため、井伊氏は直盛の娘である次郎法師(井伊直虎)を当主とした。


永禄11年(1568年)、甲斐国の武田信玄が今川氏の本国・駿河国に侵攻した。
これに際して道好は駿府で今川軍に従っていたが、虎松を殺害して井伊谷を掌握し、その軍勢を率いて加勢するよう氏真より命じられる。

道好はその命を奉じて井伊谷に入り、井伊氏より井伊谷を横領する事となった。


虎松や次郎法師、直盛後家の祐椿尼は井伊氏菩提寺の龍潭寺に入って難を逃れている。
だが徳川家康は道好の専横に対し、近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久の井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷を奪還させた。

道好は敗北して井伊谷から退去し、近隣に潜伏していたが捕えられ、永禄12年(1569年)に堀川城攻撃の仕置きで、獄門を言い渡され井伊谷で処刑された。

そのひと月後には道好の男子2人も斬罪となった。



やっぱりワケ分からない。
誰が誰やら。

そうなの?高橋一生は悪役なの?


登場人物の名前がみんな似てて細かいハナシになるとワケ分からなくなります。
ある一族の中の内訌の話は大河には向かないかも。

やっぱり核となる  信長・秀吉・家康  を巡って   衛星になる武将という設定でないと
ハナシがこんがらがって視聴率がドーンと落ちるかも。第一話はクリア出来たけど。
今日第2話です。8時間ほど後。
[41]箱柳永田さんからのコメント(2017年01月17日 00時32分17秒 ) パスワード


 三つ柏服部様 あを様
 本日の<鶴瓶の家族に乾杯>舞台が
  浜松北区 細江付近でした。
 >http://www4.nhk.or.jp/kanpai/5/
  再放送 毎週金曜 午前0時10分(木曜深夜) 1月19日深夜。
 視聴率が上がったころ=暖かくなったころ うろついてみます。
  個人的に浜松の印象は、強風の町なんです。
 浜松駅のコンビニ(ベルマート)のドラバーガーがお勧めです。
 >http://www.tokyostyling.com/blog/archives/5671
   歓声が上がる事は、確認済みです。
             ダイエット中なのにと言う悲鳴も、、。
[42]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月17日 01時09分54秒 ) パスワード

箱柳永田様

 「鶴瓶の家族に乾杯」見ました。タイミング的には、「おんな城主直虎」
の放映に合わせたキャンペーンのような感じもいたしました。内容的には
強引な取材アタックが、意外性のある方向に展開して行くという一種のどん
でん返しが面白かったです。偶然にしては偶然でない出来のようでした。
でも、直虎で盛り上がっている時の主役が来たのですから、思わずテンショ
ンは上がってしまいますね。ハンバーグの「さわやか」や、関西焼きのうな
ぎの「うな吉」、竜ヶ岩洞、渭伊神社…等は、きっと観光客がたくさん訪れ
るでしょうね。私も行きたいと思いました。
 空っ風の町であります。ウォーキングも、風がある時は寒さも違いますの
でつらいです。風がなければ天国なんですが……。
 ドラバーガーにはビックリです。一個食べたら四キロは歩かないと脂肪
腹がまた太ります……。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月17日 03時03分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

メール拝見しました。
了解です。


浜松は風が強いんですか?
風が吹くと体感温度が下がるからウオーキングは辛いですが
アタマと首を風に当たらないようにすれば大丈夫ですよ。

ムカシの日本人女性の御高祖頭巾みたいな頭と首をすっぽり覆う
そういう寒冷地用の衣類って無いでしょうか?

ラスベガスの砂漠の真冬もこれで朝のウオーキングをやってました。


ま、男性の場合は  アヤシイ  と思われて用心されちゃうかもですね。
あはは



箱柳さん

さっそく録画予約しました。

NHKはしっかり番宣してくれるから出演者には助かりますね。
地元も潤うし。


浜名湖は新幹線でしょっちゅう通ってましたが
これで充分美しい風景なのに
「50ボイス」で見た山からの浜名湖の美しさには驚きました。


ハンバーガーはカロリーがすごいので今は食べないようにしています。
毎日マックを食べてた時の中性脂肪値は400近かったですよ。
ま、中性脂肪値は簡単に落とせますが。
LDLを上げたら大変。これはなかなか落とせません。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月17日 10時20分51秒 ) パスワード

ネタバレ

ムロツヨシの演じた「あばらやの男」という人物:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E6%96%B9%E4%B9%85


瀬戸 方久(せと ほうきゅう)           方の字は「保」とも、久の字は「休」とも書く。
戦国時代の商人、武将。
のち新田氏も称した。


元は遠江国引佐郡瀬戸村を与えられた郷士で、井伊谷の領主・井伊氏の庇護を受けて豪商に成長したと見られている。

永禄9年(1566年)井伊次郎法師(直虎)が渋川村の福満寺に梵鐘を建立しているが、方久は鋳造の資金を担い、
四郎右衛門の名で願主として名を連ねている。


永禄9年(1566年)今川氏真が井伊谷や瀬戸といった地域に徳政令を発布するも、井伊谷の井伊氏はそれに抵抗し、
徳政令を実施しなかったという事件が起こる。

結局徳政令は2年後の永禄11年(1568年)に実行される事となったものの、
それまでの間に今川氏真に取り入り、
刑部城・堀川城の軍資調達を請け負う代わりに自身の田畑や屋敷を徳政令の対象外とする安堵状を得ており、
その後は堀川城主となって姓も祖先の新田氏に復姓した。



永禄12年(1569年)遠江国に侵攻する徳川家康に対し、堀江城の大沢基胤が反徳川の構えを見せていた。

方久は家康への帰順を考え、金指街道の道案内をするなど協力したが、
斎藤為吉・竹田高正・山村良等・尾藤高明らがこれに反発したため、
城を抜け出て尉ヶ峰の山中に庵を結んで逼塞した。

その後ほどなく堀川城は落城している。


その後は気賀宿近くの呉石で余生を過ごしていたが、
慶長11年(1606年)訴状を書いた罪によって地頭・石川半三郎によって呉石で処刑された。
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月17日 10時23分20秒 ) パスワード

ネタバレ 2


第一話でおとわが屋敷にまっすぐに走る田んぼは
あれは岩手県のセットで

稲穂が実ったシーンの撮影後、5日後には
冬のシーンの撮影があったので
皆さん大変だったそうです。


あの水の美しいシーンも岩手のようです。
[46]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月18日 00時19分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、井伊谷から約15キロ程北の渋川という所にある東光院という
臨済宗方広寺派のお寺に行ってきました。
 東光院は、あの青葉の笛の亀之丞が、今村藤七郎に背負われて逃げる途中
に一時逃げ込んだ寺であります。

 屋根の鬼瓦の部分に「橘」の紋がありました。東光院の裏山に井伊直親
の墓があると看板の地図にありましたので、行ってみました。識別できるよ
うな大きな墓も案内板もなく、小銭のお供えのある宝篋印塔がありましたの
で、たぶんこれだと思い、般若心経を2巻捧げました。

 町の中心部に診療所があり、広場もありましたので、車をそこに留め、
診療所の前に建てられている大きな周辺案内図をカメラにおさめました。
その地図上には、思ってもいなかった井伊一族の墓、井伊共保の墓、井伊
親範の墓の位置が書かれておりました。

 ウォーキングのつもりで歩いて見に行きました――約4キロ歩き回りま
した。分かり易い案内板は出ておりませんでしたので、四苦八苦いたしま
したが、田舎ではよくある話、行ったり来たりしてようやくそれぞれの墓
へ到着することができました。
 そして、それらの墓の前で、般若心経を2巻づつ捧げました――
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月18日 10時02分59秒 ) パスワード

三つ柏さん


「おんな城主  直虎」の復習になりましたね。
にっこり


行ってみるものですね
井伊一族のお墓の案内板を見ることができたなんて。
今年の夏か秋にはもっと行き易くなるかもですね。


般若心経、わたくしの分もありがとうございました。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月18日 10時04分14秒 ) パスワード

ときおさんから頂きました:


日本ではキリスト教が流行やらない元ですね。
http://quasimoto2.exblog.jp/23524468/  

真言密教はもろに景教とバラモン教等により出来ていますね。
浄土真宗もキリスト教(景教)であると言っています。
納得。
仏教様式ですが、やっている理念はキリスト教と同じですもんね。
神道にはユダヤ教が潜んで居ますしね。
[49]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月19日 05時57分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、「頭陀寺」に行ってきました。以前にも二回程行っているので
すが、今回は「おんな城主 直虎」の放映に合わせ、井伊家との関係、松下
家との関係、豊臣秀吉との関係等を特別展として、寺の「歴史資料館」にて
開催しているという話を聞いたからであります。

 以前からこの歴史資料館はあったのかどうか、どうもなかったような気も
しますが、いずれにしても松下之綱一族と井伊家とはつながっておりますの
で、というよりも影の立役者でもありますので、頭陀寺の住職さんが前向き
に取り組んでいただいた事に感謝であります。

 「頭陀寺城」の発掘調査も踏まえて、そのジオラマ模型も展示されており
ました。後で実際に頭陀寺城跡に行った時、ボランティアガイドの男性から、
色々説明を受けましたが、現在の街並みと戦前の街並みとは全然ちがってい
るし、ましてや500年前ともなれば全く違っている。その当時は天竜川の
支流がいくつも分かれていて、その中洲のような所であったと言う。頭陀寺
城のすぐ側には船着き場があり、船で行き来していたということであります。
ということで、ジオラマには堀もあり、船着き場も船も表現されていました。

 とっておきは、磯田道史先生の「頭陀寺及び頭陀寺城と松下氏」に関する
特集録画がかけられていたことですが、残念ながら50分ものであり、じっ
くりと視聴することはできませんでした。

 松下家や頭陀寺・頭陀寺城についてはあらかたの知識はありましたので、
私は復習のつもりで展示物に目を通しておりましたが、初めての人ならビ
ックリすると思いました―豊臣秀吉との関係、井伊家との関係、柳生宗矩
との関係……。松下之綱(加兵衛)、松下清景(源太郎)、松下安綱(常慶入道)
はもっともっとクローズアップされ、人物像を浮き上がらせる必要がある
と思いました――
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月19日 14時35分40秒 ) パスワード

三つ柏さん

>松下安綱(常慶入道)

この人は忍者を支配して治安維持をしたり秘密破壊工作なんかもやってたのでしょうね。
それで子孫は表に出て火付盗賊改方を拝命したのでしょうね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%B0%8F



徳川家康の家臣、松下清景・松下安綱(常慶)兄弟があり、清景の子孫の系統は、越後(井伊)与板藩の家老を代々務めた。常慶は家康の信任厚く、子孫は、火付盗賊改方を務めている。子孫は現在に至る。

高知県には、土佐山内家の中老職を務めた之綱の弟・継綱の家系がある。

また、荻野山中藩(神奈川県)の用人を務めた松下家(松下長範の子孫)では、幕末に松下祐信が出ている(厚木市)。子孫は現在に至る。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月20日 02時11分17秒 ) パスワード

箱柳永田さんより

 基本的な違いが、一つあります

>浄土真宗もキリスト教(景教)であると言っています。

  浄土真宗には地獄はありません、たとえ意識して仏の道に背いても
 それでも掬われると教えられています。

 縁起もかつぎませんので、もの知らずと言われています。

  葬儀の後で塩をまくのも、お盆に付き合い程度に
 仏壇や墓を飾ります、が、忙しければ手抜きしてます。

  私見ですが、親鸞様は、仏に背を向け、照らされて生じる影に
     今までの悪行を見いだし、恐れおののき
  それでも、掬われることに感謝したと、思っております。  釈覚浄
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月20日 02時37分08秒 ) パスワード

続き


http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/4022/tabuu/
浄土真宗のタブーの数々・・・・
なんと!右クリックもタブーなんだって。アッチャァ〜〜〜(絶叫)
でした。汗


伊勢長島の戦い後、子孫はこのていたらく。
[53]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月20日 12時15分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浄土真宗について教えていただき、今まで知らなかったことが恥ずかしい
ほどの驚愕です。そもそも仏教をはじめとして宗教について、上辺しか知ら
ない自分の現実というものがあります。でも祖先より受け継がれている浄土
宗に沿って仏事は行っておりますし、また上辺だけの感覚で何の支障もない
からであります。ただ、真言宗については、空海を理解するために色々研究
したことがあり、おおよそのことはわかっておるつもりですが……。

 法然・親鸞・一遍……いわゆる浄土仏教、在家者の仏教。法然の浄土宗か
ら、親鸞の浄土真宗へ……。
 一遍は時宗―すべてを捨てた境地で南無阿弥陀仏を唱え、一身を任せると
いう形……。
 にわか知識ではうまくまとめられませんが、おもしろいことは、法然は
漆間氏の生まれ、親鸞は日野氏の生まれ、一遍は河野氏の生まれであるとい
うことです――

 宗教とは一体何かといえば、最終的には「救いの哲学」のエッセンスに行
きつくのではないでしょうか。そこは各種宗教・宗派をこえた次元の高い真
理の世界があるのではないでしょうか?
[54]三つ柏服部さんからのコメント(2017年01月20日 21時20分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 おとといの渋川行きの帰りですが、途中に何か遺跡のあるような看板が
出ておりました。車を止めてよく見ると――
 「渋谷金王丸(こんのうまる)の墓
  渋谷金王丸は生まれは平家であるが、源義朝に育てられた。義朝が愛
 知県知多郡の内海において、長田忠致(ただむね)に入浴中に襲われて倒
 れた時、金王丸はその場を逃れ、後に渋川のこの地に住んだ。源氏の落
 武者達は、金王丸に平家に仕官することを強く奨めた。しかし金王丸は
 源氏に対する臣節を固く守り、口論となり、ついに七十四人の源氏の残
 党と闘い、これを皆殺しにしてから自決した処と云われている。
  血沢(ちさわ)が珍田(ちんだ)という字名になった因である。
渋谷について――
  これは、相模国渋谷庄(現東京都渋谷町)の一族で、五兄弟は鎌倉末期
 に、九州薩摩に下り所領を支配して、その子孫は七百数十年後の今日、
 なお現住とのこと。金王丸は岐阜の長森岡山の英田にも在城したことが
 ある。佐賀県に定光寺を建てている。金王丸は平の重久の子で、渋谷庄
 司重曲の弟である。」

 金王丸の墓は、その看板から三十メートル程北の茶畑にありました。
 また、七十四人の墓は、そこから西二十メートル位の畑の中にありまし
た。金王丸の墓は石塔でしっかり建てられ、「渋谷金王丸終焉之地 
一一八七年」と刻まれておりました。七十四人の方は、石が二つ建ってい
いるというだけのものでありました。

 でも、なぜ金王丸はここ遠江井伊谷の奥の渋川の地に逃れて来たのでし
ょうか。ちなみに、この地は井伊家の領地でありました。金王丸は鎌田
政家(出身は遠江磐田郡鎌田)と同じく義朝の近習でありました――
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月20日 22時56分58秒 ) パスワード

三つ柏さん

>金王丸

ひょっとすると
蒲冠者の実家に身を寄せるつもりだったのかな
と思いました。


またネットサーフィンしてみますね。

[56]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月21日 01時32分50秒 ) パスワード

メールにて頂きました:


渋谷氏の金王丸の話題。

東京都の遺跡に成って居ましたよ。
東京の渋谷近くです。
渋谷駅と國學院の中間点の丘の中腹に遺跡が有ります。
今は「金王丸神社」と成って居ます。

最近、青い目の神職の方がTVに出て居ましたね。



館城(やかたじろ)ようです。


戦国末期前だと思います。
遺跡台帳に妹尾氏の居城にも成って居たと記述されていました。
秀吉の小田原攻めの時、
岩槻城(さいたま市岩槻区太田)で凄絶な戦死した妹尾氏(北条早雲の遠縁)が居たのではと想像しています
(岩槻城物語に記述されています)。



++++++++++++++++++++++++++++

妹尾氏が北条早雲の遠縁というお話に納得です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%97%A9%E9%9B%B2


一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた[3]。

しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である[4]。

1950年代に発表された藤井論文以降、
伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘(現 岡山県井原市  いばらし)で生まれたという説が有力となり、
その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる[5])であることがほぼ確定した[6]。



幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状を照らし合わせたところ、
記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である事も決め手となった[7]。

従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、
さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたる事も出自解明に寄与した[7]。


近年の研究で早雲の父・伊勢盛定が
幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている[8]。

早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。決して身分の低い素浪人ではない。


早雲は盛定の所領、備中荏原荘で生まれ、
若い頃はここに居住したと考えられる[9]。

荏原荘には文明3年(1471年)付けの「平盛時」[注釈 2]の署名の禁制が残されている[10]
(ただし、花押が後のものとは異なる[11])。


井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられている[12]。

備中からは大道寺氏、内藤氏、笠原氏など後北条氏の家臣が出ている[13]。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
     
        妹尾氏が家臣に名を連ねているのは当たり前中の当たり前ですね。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月22日 06時00分19秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101578.html
長上郡の服部氏族LXXXY(課題確認29)
スレッド86を立てました。

キリの良いところでどうぞ。
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