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 投稿番号:101558 投稿日:2016年09月23日 08時32分15秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXX\(16年の課題確認22)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101556_55.html
長上郡の服部氏族LXX[(16年の課題確認21)
スレッド78の続きです。


      自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
      最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。


三つ柏さんは菩提寺、定明寺でいろいろ考えることがあった
ということで再び基礎に戻って考え中です。

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月23日 16時23分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浜松地方は、家康統治の前は今川・吉良(斯波)氏統治の時代が長かった。
 @1330年代、今川氏は遠江の守護になる。
 A1405年、斯波氏が遠江の守護となる。
 B1517年、斯波氏撤退。今川氏、再び遠江を支配。
 C1570年、徳川家康、遠江浜松城に入城。
 つまり、今川氏が通算で100年以上、斯波氏も100年以上支配したと
という厳然たる事実はあります。でもその歴史の地層は今は隠れてしまって
余り見ることはありません。
 今川と徳川と武田の関係と一口にいいますが、それぞれが互いにどの程度
の憎しみ・敵対心をもった関係だったのか。その時代に生きていた人がどの
程度の憎しみや恐れを持っていたのか、あるいはシンパシィを感じることが
あったのかということを、リアルに肌で感じてみたいと思います。もっとも
これは、情報を相当頭にインプットした上での、イマジネーションの世界で、
ではありますが……。
 特に家康は今川氏に人質に入ったものの、雪斎等にしっかり教育もされも
しておりますし、茶ぶ台返しするような関係ではなかったはずです。
 今川義元の桶狭間の戦いでは、家康も今川方で出陣もしています。
 義元の死とともに、パワーバランスが崩れてしまった……一番悪いのは、
武田信玄か……同盟を覆し駿河に侵攻した。
 約束を反故にするのは戦国時代の常か……今川と武田、そして徳川の評価
をいずれしてみたいと思っています。
 

[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月23日 22時59分09秒 ) パスワード

三つ柏さん

>今川と徳川と武田の関係と一口にいいますが、
>それぞれが互いにどの程度の憎しみ・敵対心をもった関係だったのか。

>その時代に生きていた人がどの程度の憎しみや恐れを持っていたのか、
>あるいはシンパシィを感じることがあったのか

>もっともこれは、情報を相当頭にインプットした上での、イマジネーションの世界で、ではありますが……。

>特に家康は今川氏に人質に入ったものの、雪斎等にしっかり教育もされもしておりますし、茶ぶ台返しするような関係ではなかったはずです。


まさに良い御指摘ですね。


基本的に
今川・武田・徳川
この3氏は「源氏」を称してますね。


源氏ってもともと平家に比べて身内の中で争ってますね。
義仲VS頼朝VS義経

鎌倉幕府の中でも争いが絶えなかったし。



だから戦国時代の今川・武田・徳川が三つ巴で争ったことは  源氏だから当たり前か  という納得があります。笑


義元は家康を結構可愛がってたようですね。
家康がどう思ってたのかは  源氏を称するだけあって(笑)  余地がありますね。家康は嫌だったのか?


義元は可愛い身内の女の子を家康に嫁がせてますしね。
義元だったら築山殿を京都の貴族や天皇家に嫁にやらせることだって出来たでしょうし。それが、家康に、ですから。
家康のことを実は買っていたのかもですね。



信玄は海が欲しかったでしょうね
(越後に出るか)駿河に出るか小田原に出るか三河に出るか
海が欲しかったでしょうね。


面白いですね。
空想が尽きないです。
[3]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月24日 01時01分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さすがあを様、みごとなイマジネーションに感服いたしました。
 海か……武田と海……現代の常識では考えられませんですね。つまり水軍
をほしがっていたということですね、忘れていました。
 水軍と水運=兵站(今の言葉でロジスティクス)が、戦略的にものすごく
重要であるということ。山の武将武田信玄は、それをどこで知った、あるい
は体験したのでしょうか……?
 いろいろな歴史書もドラマも船のことには余り言及しない。戦いといえば、
馬と槍と鉄砲しか表現しない。
 早く、大量に運ぶということができるのは馬ではなく舟。もちろん場所に
もよりますが。天候や流れや岩礁といったリスクもあるけれど、いわゆる
水軍ならば、いろいろ熟知しているのでそんなリスクもみごと乗り越えたと
思われます。

 徳川・今川・武田・北条、その間で翻弄され、あるいはみごとに采配し
た女性の方々の真剣さとまた悲哀を感じます。
 北条早雲の妹(今川義忠の室)、京都中御門家のご息女寿桂尼(今川氏親
の室)、武田信虎の娘(今川義元の室)、その他の数人の女性……。
 女城主直虎は来年の大河ドラマで注目を浴びますが、今川氏等を中心と
しこれらの女性たちにも、ぜひスポットライトを当ててもらいたいですね。

 そして、男性では太源雪斉……この人が生きていたなら、今川家は全然
ちがう展開になっていたのにと思います。一体雪斉って何者? 軍師に
なるには、広範な知識・人脈・交渉力・現実的戦術・総合的戦略・情報力
・人心掌握術、読み……限りない総合力が必要だと思うのですが……。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月24日 10時09分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


太源雪斎は2007年の大河ドラマ『風林火山』(内野聖陽が山本勘助役)で
山本勘助とは縁戚になるという話がありました。


その部分をコピペ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E6%9E%97%E7%81%AB%E5%B1%B1_ (NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)


太原崇孚雪斎(たいげん すうふ せっさい)

演:伊武雅刀

今川家の軍師にして義元の師僧。今川家の重臣、庵原家の生まれで、出家して京で修行していた。義元の天下統一による平和の実現「天下平安」を望み、主にその才能は外交面で発揮される。甲駿相の外交関係において暗躍する勘助の好敵手として描かれ、三国同盟を締結。勘助を同じ「軍師」という立場から常に注目し続けているが、同時に「私利私欲の域を出ぬ」とも評していた。第二次川中島の戦いの調停を果たして駿河に戻った直後に松平元信(後の徳川家康)と酒を飲んでいたが倒れ、急死する。その死は今川家のその後の運命に大きく影響を与えた。



庵原忠胤(いはら ただたね)

演:石橋蓮司

勘助の大叔父で雪斎の異母兄、今川家重臣。通称は安房守。勘助の今川家への仕官を斡旋したが成功せず、浪人時代の勘助に捨扶持を与えて養った。武田家の家臣となることを決意した勘助を意思を尊重して送り出す。




庵原之政(いはら ゆきまさ)

演:瀬川亮

庵原忠胤の長男、今川家家臣。勘助とも親しく、花倉の乱や信虎追放、河東の乱などでも行動を共にし、勘助の活躍を陰ながら応援している。義元の尾張攻めの進軍経路を勘助に相談したことが、桶狭間の結果に微妙な影響を及ぼす。義元の最期の場で間近にいたが無事に生き残り、岡部元信と共に義元の首級を寿桂尼に送り届けた。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月24日 10時31分11秒 ) パスワード

俗語の「やまかん」の語源は

@山本勘助から
A山師の勘から



山勘。勘でやまをはること。また、その勘。あてずっぽう。


________________________________


@’
山本勘助からきたという説。
ご存知の方も多いと思いますが、山本勘助とは武田信玄に仕えたと天才的な武将であり兵法家。
はかりごとを巡らし、数々の作戦を立てる軍師という役がその仕事。
勘助は軍略や計略、奇襲を様々に巡らし軍を操るのですが、そこから策をもてあそぶことやごまかすことを「山勘」と呼ぶようになったというのがこの説。
つまり「山本勘助」の名前をあだ名のように略したということですね。
ただこちらの説は、言葉の遣われ始めた時代と人物の活躍した時代の違いや策略に長けていた勘助が当てずっぽうに変化するといったことが想像しににくいため、その可能性は薄いようです。




A’
山師の算勘(=計算)からきているという説。
鉱山などを採掘するときに、頼りとされたのは職人の勘でありました。
ただその為に、当たり外れが多かったと言います。
そういったことから、うそつきや詐欺師の事を、「山師」と言うようになったといいますが、山師がペテンというった解釈と、今回の山勘については切り離して考えたほうがよさすです。
「山師の勘」という事で、「ヤマカン」と呼ばれるようになったとうのがこの説。

___________________________________
http://www.yuraimemo.com/1423/


「勘」
辞書でひいてみるとその意味は、
物事を直感的に感じ取る能力。第六感。よく調べて考えること。罪を調べただすこと。


勘の語義としてあげられるのは、
直覚いわゆる〈第六感〉、虫の知らせ、無意識および下意識、練習による機械化や自動化、技神に入るの妙、神徠(しんらい)、霊感、悟り、禅、三昧(ざんまい)以心伝心、手加減、こつ、呼吸などなど・・・




ある大学教授の言葉を見つけました。

「勘というのは、棚ボタ式に出てくるものじゃない。それまでに経験したことが体の中に残っているから、ピンとくるのだ。」



山勘とは、勘に頼って成功を狙うこと。当てずっぽうのことも言います。

「山師の勘」という説のほうに分が有るわけですが
「勘」の語源としては「山本勘助」の方に分がある気がします。(もちろんそのような事実はまったくありません)

                                                   永禄4年9月10日(1561年10月18日) の「川中島の戦い」が大外れで武田方が上杉に大敗しましたものね。



「やまかん」とは当てずっぽうか、経験から導き出される知略か。
それをとぼけていることも、もしかしたら戦略の一つなのかもしれません。
以上
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月24日 10時36分15秒 ) パスワード

太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ[1])
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E9%9B%AA%E6%96%8E

戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。

父は庵原城主・庵原政盛(左衛門尉)。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める一族。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。両家とも今川氏の譜代の重臣。今川義元に仕えて義元の家督相続に尽力。相続後は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた。

後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡された[2]。



生涯

義元の幼少時代


主君の今川義元
雪斎が義元と初めて出会ったのは大永2年(1522年)頃のこととされる[3][4]。はじめ雪斎は九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗って、駿河富士山麓の善得院(現在の臨済寺)に入寺し、幼名を芳菊丸といった義元の教育係を務めた[3]。後に京都五山の建仁寺で修行をしていた。この頃から秀才として将来を嘱望されていたと言われる。この噂を聞いた主君の今川氏親から帰国して今川家に仕えるよう要請されるが、一説にはこの要請を2度までも断ったと伝えられる。享禄3年(1530年)、建仁寺の師である常庵龍崇によって芳菊丸が得度の儀式(薙髪染衣)を行い、承芳と名を改める。2人はさらなる修行のため、大永5年(1525年)と天文2年(1533年)の2度にわたって上洛し、善得院から建仁寺へ、さらに妙心寺へと移った[4]。この頃に承芳は道号「栴岳」を与えられ栴岳承芳と名乗り、承菊はそののちに太原崇孚(雪斎)に改めたとされている。

今川家では大永6年(1526年)に氏親が死去し、義元の同母兄である氏輝が跡を継ぎ、母の寿桂尼が後見した[3]。天文4年(1535年)、善得寺の住持であった琴渓承舜の7回忌法要のため駿河に戻り、再び善得寺に入る。



義元の家督相続

天文5年(1536年)3月17日、氏輝が死去、為和の日記や武田家臣の日記『高白斎記』などに拠れば同日に氏輝の後継的立場にあった次弟の彦五郎も死去している。継嗣が無かったため、氏親の3男で義元の異母兄である玄広恵探と栴岳承芳こと義元の家督争いが起こる。この時、雪斎は義元の家督相続に尽力し、花倉館に籠城した玄広恵探を攻め、自刃に追い込んだとされる[4][5](花倉の乱)。このため、還俗して家督相続を実現させた義元は雪斎を厚く信頼し、政治・軍事における最高顧問として重用する。



雪斎の活躍

弟子とされる徳川家康


天文14年(1545年)、雪斎が開寺した臨済寺(2016年8月14日撮影)
雪斎は義元を政治・軍事の両面で全面的に補佐した。義元も雪斎を厚く信任して手厚い庇護を与えた[6]。天文6年(1537年)、雪斎は氏親の時代から悪化していた甲斐の武田信虎との関係改善に務め、義元の正室に信虎の長女・定恵院を迎え、信虎の嫡子・晴信に三条公頼の娘・三条の方(今川家の遠縁)を周旋して、両家の間に甲駿同盟を成立させた[4][6][7][8]。だがこのため、これまで同盟関係にあった相模の北条氏綱との関係が悪化し、氏綱は駿河東部に侵攻し、同地を占領した[7](河東の乱)。雪斎はこれに対して拙速を避け、天文14年(1545年)に関東管領の山内上杉憲政を誘い込んで武田晴信と共同して河東に出兵し、同地を取り戻している[7][9][10]。(河越城の戦いも参照)。


天文15年(1546年)10月、織田信秀が西三河に侵入して松平広忠が救援を要請してきたのを機会に、雪斎は大軍を率いて西三河に介入する[11]。天文16年(1547年)、今川軍を率いて三河田原城を攻めて、同城を落とした[12][13]。天文17年(1548年)3月19日、三河小豆坂で尾張の織田信秀と戦い、織田軍を破った[11][12][13](第2次小豆坂の戦い)。天文18年(1549年)11月、三河安祥城を攻めて織田信広を捕縛し、織田信秀と交渉を重ねて、織田家に奪われていた人質の松平竹千代(のちの徳川家康)を今川氏のもとへと取り戻している[9][13]。この時の人質交換は笠寺(現在の愛知県名古屋市南区)で行なわれた[9][14]。安祥城を失ったことにより織田氏の勢力は著しく減退し、今川氏は西三河の支配権を得た。


天文19年(1550年)6月に義元の正室・定恵院が死去し、今川家と武田家の婚姻関係が絶えた。このため天文21年(1552年)11月に義元の長女・嶺松院を晴信の嫡子・義信の正室として嫁がせて同盟・婚姻関係を保持した。


天文23年(1554年)3月には甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、甲相駿三国同盟の締結に尽力した。この同盟に伴い、義元の嫡子・氏真に氏康の娘・早川殿が嫁ぐ。これにより、今川家は三河など西方面への作戦に兵力を集中することが可能になった[7][10][12]この同盟に際し、武田晴信、北条氏康、主君の今川義元の三家の当主を駿河の善得院(現・臨済寺)で会合させたとの伝説もあり、現在では面会そのものは後世の創作との説が有力である。(甲相駿三国同盟#善得寺会盟)。


このように外交と軍事の活躍が目立つ雪斎であるが、天文14年(1545年)に高僧を招いて駿府に臨済寺を開寺し、自らは2世住持となり、天文19年(1550年)には京都妙心寺の第35代住持に就任するなど、僧侶としても活躍している[6]。雪斎の時代に駿河では善徳院と清見寺を中興し、今林寺や承元寺、葉梨長慶寺、庵原一乗寺が、遠州では定光寺が、三河では太平寺が興され、妙心寺派の普及がなされている。


天文22年(1553年)、今川家の分国法である今川仮名目録33か条の追加21箇条の制定に寄与する。また臨済宗を中心とした領内における寺社・宗教の統制や、在来商人を保護する商業政策なども行ない、今川氏の最盛期に大きく貢献した。中国の史書である歴代序略を印刷している。



最期

弘治元年(1555年)閏10月10日、駿河長慶寺にて死去した[14][15]。享年60[3]。



人物像

今川義元の右腕として手腕を発揮し、今川氏の発展に大きく寄与したことから「黒衣の宰相」「名補佐役」「軍師」などと現在では評価されている。『今川分限帳』では「執権」と評している。このように雪斎の手腕は今川義元の全盛期を築き上げた人物として後世には見られていた[16]。そのため『甲陽軍鑑』では雪斎の死後、山本勘助が「今川家の事、悉皆坊主(雪斎)なくてはならぬ家」と評したとしている。また家康も「義元は雪斎和尚とのみ議して国政を執り行ひし故、家老の威権軽ろし。故に雪斎亡き後は、国政整はざりき」と評したという。



なお、庵原一族の庵原忠胤が武田信玄の家臣・山本勘助の義母(父の後妻)の親族と見られており、雪斎と勘助は縁戚関係にあった可能性もある[2]。



人質時代の徳川家康の学問・軍学の師とする説も存在しており、小和田哲男が支持している[17]。しかし雪斎の駿府不在時期と重なり、異論・反論も多く、雪斎を家康の師匠としている『朝野旧聞褒藁』の記述も疑問視されている。


雪斎は『御屋形対諸宗礼之事』という義元の太守としての心得を遺している。これによると雪斎は有徳の僧侶であれば形式などくだらないものにこだわらないで尊敬する事、禅師・上人などの号に奢って堕落する高僧を非難するなど、合理主義者としての素養を伺わせる一文がある。



脚注

注釈
出典

1.^ 一般的には「すうふ」で通っているが、近年の研究では「そうふ」と読むのが一般的である。小和田哲男『今川義元』(2004年)、有光友學『今川義元』(2008年)など参照
2.^ a b 川口素生『戦国軍師人名事典』P76
3.^ a b c d 川口素生『戦国名軍師列伝』P91
4.^ a b c d 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P293
5.^ 川口素生『戦国名軍師列伝』P92
6.^ a b c 川口素生『戦国名軍師列伝』P93
7.^ a b c d 川口素生『戦国名軍師列伝』P94
8.^ 川口素生『戦国軍師人名事典』P77
9.^ a b c 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P295
10.^ a b 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P296
11.^ a b 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P294
12.^ a b c 川口素生『戦国軍師人名事典』P78
13.^ a b c 川口素生『戦国名軍師列伝』P95
14.^ a b 川口素生『戦国軍師人名事典』P79
15.^ 川口素生『戦国名軍師列伝』P96
16.^ 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P292
17.^ 小和田哲男『今川義元:自分の力量を以て国の法度を申付く』、ミネルヴァ書房、2004年9月。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月24日 10時56分06秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B5%E5%8E%9F%E6%B0%8F

庵原氏                                     これが面白かったです



駿河国の有力な豪族の1つである。
出身に諸説あり、
別の氏族とされるが不明。


1.
庵原国造を祖とする庵原氏(吉備氏族)

庵原氏は廬原国造の家系である。
日本書紀の伝えるところによると景行天皇の時代、日本武尊東征の際の副将、吉備建彦が蝦夷征伐の功によりこの地(駿河国)に封ぜられる。

廬原国造の祖、意加部彦は吉備建彦の子、建彦は日本武尊の外舅なり、とある。

以後永くこの地を治め、倭国の将としても度々歴史上に登場する。



663年中大兄皇子の外征「白村江の戦い」では、この一族の廬原君臣が一軍の将として戦った。

天智紀二年條に「大日本の救将廬原君臣が健児万余を率い、正に海を越えて至る」との記述があり、常時かなりの勢力を誇っていた。

後に菴原の字を用い、後世は多く庵原の字を用いた。


室町時代になると今川氏傘下に入るものの、地方豪族としての勢力は衰えなかった。
「今川仮名目録」には明応の頃、庵原周防守という人物が親族間の借金問題で今川氏親に仲裁を求め、今川は貸主の庵原左衛門に周防守の料所のうち焼津郷を引き渡して分家させこれを収めたという記述があり、駿河に複数の庵原家があって一族がこの地で栄えていたことが伺える。


1560年の桶狭間の戦いで今川勢とともに一族多数を失った後、戦国大名としての今川氏が滅ぶと一族も離散する。

最後まで今川に殉じた者、甲斐武田へ仕官した者、徳川に仕官して幕臣となった者など、系譜は多岐にわたる。

地元駿河が後に徳川幕府の御領となってからも庵原家は地頭として焼津郷に存続し、明治を経て昭和までこの地に系譜が残っていた。



寛永諸家系図伝や江戸時代の幕臣録などでは庵原家系の本姓を越智氏と記しているものが多いが、これは古事記にある系譜に基づいたためと考えられる。

                       @孝霊天皇の流れの小千皇子(=越智)の出身
                       A吉備津彦が孝霊天皇の流れ

                            ざっとこんな感じから吉備氏とか越智氏を称するのでしょう
                             神代の人間関係はややこしくて、それで@とAが理解できるあたり





また、意加都彦命の父を日子刺肩別命とし、孝霊天皇の裔であるとする説もあるが、この説をとった場合、日本武尊の東征との整合性がなくなり、意加都彦命(この説によると天皇の孫)が何故当時は辺境であったであろうこの地で庵原国の祖となったのか説明できなくなってしまう。

さらに日本武尊と駿河地方に伝わるその伝承とも矛盾する。

孝霊天皇皇子については稚武彦と彦狭島=ひこさしま=を混同している例もあり、
孝霊天皇裔説は信用できないとする記述が後年の姓氏録などの資料にある。

                       彦狭「島」の第3子が小千皇子だった記憶
                       南朝方では彦狭「鳴」と書きます
                                    これが南朝方と北朝方のアイデンティティの差です


「国造本記」には「廬原国、吉備建彦命の児、伊加部彦命を以って国造と定め賜う」と記述があり、駿河庵原氏に関しては吉備氏族とするほうが自然である。




藤原秀郷流・庵原氏

藤原秀郷の子孫・蒲生惟俊(近江蒲生氏の祖)の子・庵原俊忠が駿河国庵原に住み、庵原氏を称したという。


後に重臣として今川氏に仕え、庵原城主。


今川義元に仕えた名軍師の太原雪斎を輩出し、また最後まで忠誠を尽くした今川家の重臣・庵原将監もこの家の出身である。


武田信玄の駿河進攻に際しては一族で抵抗したが敗退している。


今川氏滅亡に前後して一族は離散し武田家などに仕えた。


武田氏に仕えた庵原朝昌は、後に井伊直政に仕えて大坂の役で活躍。


以後彦根藩家老となり、幕末には庵原朝儀の名がみえる。




坂上田村麻呂流・庵原氏

坂上田村麻呂の末裔・土師維正の子・正雄が庵原三郎を称したという。

治承・寿永の乱では庵原朝綱が出ており、源頼朝の御家人となっている。

しかし中先代の乱において北条時行に加担し、今川範国に討伐されたため、家は途絶えたという。


「朝」の通字や、左衛門尉の仮名から、名跡は藤原秀郷流の庵原氏が継いだと思われる。




藤原南家流・庵原氏

藤原南家の後裔と伝わる。

やはり駿河国に住し今川氏に仕えたが、庵原元親は主家衰亡後に北上して片倉景綱や伊達政宗に仕えたという。


                           あららら
                           真田幸村との関係を連想しました。あったのかしら?
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月24日 22時48分54秒 ) パスワード

山本勘助って「いた・いない」という全く逆の説がありますよね。
わたくしが思った「甲斐国に於ける山本勘助像」についてちょっと書いてみたいと思います。


海の無い甲斐国にとって海への憧れが絶望的にあって
どこへ出るのが1番海に近いかを考えたと思います。


それで背後の今川や北条と同盟を結び
越後の上杉を破って
例えば糸魚川・上越・柏崎あたりに出たいと思ったのではないか、と。


今川義元は「東海一の弓取り」の誉れが高く
北条も北条早雲以来の名家であり

それで信玄には今川と北条は武田よりも手強い感があったのじゃないかな、と。
だから越後を狙ったのでは?と。



で、山本勘助というヨソモノが来て信玄と考えが一致。


かなりの切れ者であった山本勘助は今川家の庵原氏とも雪斎とも縁戚になるということもあって信玄の信頼を勝ち得たのではないか、と。


ところが山本勘助のヤマカンが大外れ、
謙信の方が1枚の2枚も上手で裏をかかれ有力武将を失い
信玄は最愛の弟である信繁まで失ってしまった。


失意の信玄は山本勘助の存在を消したかったのじゃないのかな?


以後の信玄の作戦がボロボロになっていくのを思うと
                                今川や北条と戦ったり同盟を回復させたり西に行って信長と戦ったりしたこと
川中島で勝てなかったことがかなりのダメージになったのではないかな、と。


それで山本勘助が信玄にはトラウマになったのではないかな、と。


ということで甲斐武田家の記憶から山本勘助の存在は抹消されたのではないのかな、と。
[10]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月24日 22時57分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 太原雪斎が能力を発揮できた背景には、両親の庵原家、興津家の全面的
協力があったからということ……ありがとうございました。

 雪斎といえば、こちら羽鳥の北隣の石原に「正光寺」という今川家累代
(室町時代)のお寺がありますが、『豊西村誌』によりますと、ここの開山
(1612)は、雪斎惠宗禅師となっております。太原雪斎は1555年に
没しているはずでありますので、これとは整合性がとれない。また、雪斎
は小栗氏の出身とも書かれて、庵原氏の出身とは違っている。
 ひょっとして、雪斎にはまだ知られていない謎があるのであろうか、そ
れとも、正光寺を開山した雪斎が別人であったのか、あるいは色々な情報
が入り混じったものなのか……調べてみましたが、時間の浪費のみに終っ
ております――
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月25日 02時09分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


>ここの開山(1612)は、雪斎惠宗禅師となっております。
>太原雪斎は1555年に没しているはずでありますので、これとは整合性がとれない。
>また、雪斎は小栗氏の出身とも書かれて、庵原氏の出身とは違っている。


『豊西村誌』を纏めた人、歴史が苦手どころか、文章を書く以前の常識から分かってない人だったようですね。


だれかが気付きそうなのにね。校正なんて全くやってないんでしょうね。
恥かし過ぎ。


http://www.shokoji.net/rekisi4.html

正光寺の歴史


所在地 静岡県浜松市東区豊町749番地
山号寺号 金光山 正光寺
所属宗派 臨済宗(禅宗)大本山奥山方広寺
本尊 聖観世音菩薩
合祀仏 薬師如来 弥陀三尊仏 他
鎮守 北星妙見菩薩



由緒

当寺は、往古より妙見菩薩の霊場として知られ、創立年代は不明であるが、17世紀の初め慶長年間までは、真言宗に所属し、美薗並びに羽鳥郷の内八ヶ寺の本寺にして、当時の境内面積は52万坪(約171万u)あり、境内中央より何れへも八丁四方を所有していたと云う。


室町時代は今川家累代の祈祷所であり、今川氏真公直筆の花押入り古文書も寺宝として蔵されている。


慶長17年8月、雪斉惠宗禅師開山となり、臨済宗方広寺派に属し爾来法燈世系連綿として今日に及ぶ。


明治初年県下寺社合併の令達後、村内自光院(薬師堂)及び下石原(豊町下)海福寺の2ヶ寺が当寺に合併され、各本尊仏も合祀された。


朱印
慶長元年8月、大獣院殿(徳川家光公)御朱印、北条安房守殿(新蔵家)知行所内より正光寺領を六石壱斗、薬師堂領を弐石下賜される。

その他伊那備前守除地四石一斗、施餓鬼料を弐石、了仙庵領を弐石賜る。

徳川家光公より家茂公に至るまで九通りの旨令書を存していたが、慶応三年九月、西京弁事御役所へ返納される。



【今川氏朱印】

今川氏累代の祈願所で、永禄四年九月今川氏真より遠江国美薗ならびに羽鳥郷の内寺院十ヵ所の内へ八ヵ寺云々と書いた直筆を寄せられていた。


今川氏滅亡以来寺運は甚だしく衰頽したが慶長十七年八月になって本派臨済寺から雪斎和尚を懇請して臨済宗方広寺直末金光山正光寺と改称中興の開山とした。


雪斎和尚は本村羽鳥、小栗九郎左衛門の子で、足利氏に仕えていたが、その衰亡帰すや駿河に至り今川義元に仕えて、その軍師となった。

                                         ↕この部分の整合性が無いですね。


今川氏滅びてから大岩臨済寺に入り禅学を修めた。
                                         滅びてから、って   義元が討ち死にする前に雪斎和尚は亡くなってるのにね


____________________________


[駿河の国にすぎたるものが二つあり、富士のお山に、原の白隠]

といわれたこの名僧は、

十四歳でふる里駿河の原の松隠寺で得度、諸方歴参ののち、信濃飯山の正受老人の法をつぎ、やがて京都妙心寺第一座となり晩年は三島の竜沢寺を開いている。

正光寺の山号額を白隠が書いたのは、同寺八世環渓和尚が白隠の弟子であったつながりによるもののようである。

環渓和尚は人々を寺に集め、碧厳録を講じたというから学才のほどがしのばれる。

同和尚が示寂したのが寛政六年六月十三日、七十五歳であった。

正光寺の現在は十八世松尾正澄である。

[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月25日 02時28分43秒 ) パスワード

雪斉惠宗禅師
この人物がみつからないです。
[13]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月26日 01時14分50秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日(昨日)は、正光寺は石原にありますので、かつて石原の領主だった
青山忠俊の蟄居した小林の心宝寺に行ってきました。
 この件につきましては、明日(本日)の午後に記そうと思います――
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月26日 01時45分41秒 ) パスワード

青山忠俊はなかなか剛毅なタイプだったようですね。
画像を見ても  豪傑  っぽいですよね。


書き込み、楽しみにしていますね。


[15]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月26日 01時51分18秒 ) パスワード

この画像の家紋は「無地銭」でしょうね。




もう1つが「葉菊」。


[16]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月26日 23時33分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 遠州鉄道小林駅は二俣街道の東100mの所に位置しますが、そこから
また逆に西へ700m行ったところに心宝寺はありました。
 今でも田舎でありますが、開拓される前はもっと田舎だったと思います。
 心宝寺から北へ4.5q行ったところに岩水寺があります(ここでは最近、
浜北原人の再発掘をしようと学術団が準備を始めております)。
 
 さて、心宝寺の前の駐車場に車を止めると、眼前には「山門」が目に入
りました。あずき色のトタンで屋根が覆われているところを見ると、元々
は茅葺だったのだろうと推測されます。ちょっと想像すると、茅葺の門が
目に浮かんて来ました。何とも言えない風情であります……。大きさは、
通常に点在する寺の山門と変わりません……大きくもなく小さくもなく、
ちょうどいい感じ……でありました。これが「青山忠俊」の蟄居した邸の
門であります。
 
 ここで、ちょっと話題が一時それますが、心宝寺の墓地でとんでもない
ものを見つけました。それは、「鎮守府将軍 清原武則」の宝篋印塔であ
ります。建立したのは、小畑家有志となっており、昭和38年に建てられ
たものであります。ただし、隣に古ぼけて崩壊しそうな墓石があり、僅か
ながら「寛文七年……奥州鎮……」の字のみ、何とか読み取れました。
 奥州鎮守府将軍・清原武則の宝篋印塔・墓が、何故遠江の小林の心宝寺
にできたのか、あを様推理していただけませんでしょうか?

 奥州鎮守府将軍をWebで調べていましたら、長田氏と奥州藤原氏の関係
のサイトに行き当たりまして、面白い試論がありましたので、ちょっと参
考までに載せておきます――

天下侍魂 ‐将を語る‐ 
http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi11.htm
「《個人的感想》として――
 この時代に東海道の「常滑焼」が奥州藤原氏の支配域にて出土すること
について・・、太平洋側ルートの交流(妄想)。

 常滑のある尾張知多郡といえば、当時の支配者は長田氏。

 戦国時代・水野家に取って代わられていますが、長田氏は命脈を保ち、
織田信長初陣の敵となり、子孫は池田恒興を討つ勲功を挙げ、江戸幕府で
は永井氏と名を改め残るわけですが、

 平安末期の「平治の乱」に、長田氏により源ノ義朝が討たれたのは、
長田氏が源氏よりも、奥州の藤原氏を尊重し、藤原氏は義朝よりも平家を
尊重したという結果なのではないでしょうか。

 義朝の長男、鎌倉御曹司・義平は、関東の義平17騎を頼れず。飛騨に行
かなければならなかったのは何故か。悪名鳴り響く義平は関東に戻れなか
ったのでは、関東の状況が奥州藤原氏により劣勢となっていたのでは?

 関東の大庭氏は、源ノ義朝に所領を侵され、苦い思いをした経験もあっ
たため、平家と藤原氏に通じたのでは?

 東海道・関東一円の豪族は、敗戦の時点で義朝を見限って、平家と奥州
藤原に依存しつつあったのではないでしょうか。清盛が最大の功労者・
長田忠致を厚遇しなかったといわれますが、平家直参ではなく藤原氏を通
じての陪臣であったとすれば、恩賞が薄いことにも納得がいくというもの
です。

 長田氏としては、娘婿の鎌田正清を救うよりも、奥州藤原氏との貿易の
方が、巨利を得る為の優先事項だったのではないでしょうか(妄想。」


 次回以降も、引き続き青山氏関係は続けて行きます――
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月27日 02時52分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「鎮守府将軍 清原武則」の宝篋印塔であります。
>建立したのは、小畑家有志となっており、昭和38年に建てられたものであります。
>ただし、隣に古ぼけて崩壊しそうな墓石があり、僅かながら「寛文七年……奥州鎮……」の字のみ、何とか読み取れました。

>奥州鎮守府将軍・清原武則の宝篋印塔・墓が、何故遠江の小林の心宝寺にできたのか?


さっぱり分かりません。

寛文七年=1667年    江戸幕府が落ち着いてますね
小畑姓についてもさっぱり分かりません。
藤原千晴の名が清原氏関連を読んでいると出て来るので連想するのは松嶋家家譜の藤原千常。


やはりさっぱり分かりません。
恐らく清原氏の子孫が遠江に土地を貰って、東北から遠江に転居してきて、先祖である清原武則を顕彰したのか?と。


               松嶋家がヒョロヒョロと姿をチラッと出すような感触があって
               松嶋家自体が一体何者なのかな?と。



参考までに:

小畑姓

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%B0%8F%E7%95%91
【読み】おばた,おはた,おばたけ,こはた,こばた,こばたけ

【全国順位】 702位
【全国人数】 およそ28,100人

             http://myoji-yurai.net/myojiPrefectureRanking.htm?myojiKanji=%E5%B0%8F%E7%95%91

             東北では宮城と山形に多い姓ですね。


現鳥取県東部である因幡国八束郡東村小畑城に拠る。

現愛知県である尾張藩、小浜藩、鯖江藩にみられる。
日本列島の西側に多くみられる。

語源は小さい田畑、古い田畑、小開墾地などの意味である。
地名も全国に多い。



http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi102.htm
検索してた時にこんなのがヒットしました。
<神世伝説> 天照に反逆した6部族の王。六族(ムツ)・陸奥=ハタレ・酋長




http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi11.htm
清原光頼・武則の家臣団と軍団

826年関東国守に「親王任国」を推し進めた清原夏野あり。真の目的は?。

<出羽清原氏の系譜 清原氏一門衆> 878年からの出羽国の兵乱「元慶の乱」に入植か。

↑清原令望 (*)真人・左衛門小尉・出羽権掾・秋田城司。舎人親王の子孫。長統王の息。878年小野春風の与力。「出羽俘囚の反乱」の鎮圧に軍功。息に仲海。<子孫は北陸道に繁栄。>

清原仲海 (*)越前権小掾家。清原令望の息。

▽清原樹蔭 (*)越後守。清原仲海の跡職。兄弟に光蔭。娘婿に藤原尹忠。孫に藤原貞廉。

▽清原光蔭 (*)出羽小掾・秋田城司。清原仲海の跡職。兄弟に樹蔭。

清原武頼 (*)出羽山北俘囚長。清原光蔭の跡職。息に光頼、武則。<光方と同一人物?>



<出羽国山北 俘囚主 清原光頼 大鳥海山家>

清原光方 (*)真人・(大鳥〈海〉山)・山北主。出羽仙北の豪族。出羽山北「俘囚主」。息に光頼、武則。娘婿に安倍頼良。<光蔭の流れでしょうか。>

清原光頼 (*)(大鳥〈海〉山)・真人。出羽仙北の豪族。清原光方(武頼?)の息。清原家当主。義兄弟に安倍頼良。源ノ頼義より援軍を要請される。舎弟・武則を旗頭に任じ出兵に応じる。娘婿に安倍正任。<↑清原 令望 (*)878年「出羽俘囚の反乱」の鎮圧に軍功。の子孫説が有力。>

▽清原頼遠 (*〜1087)大鳥〈海〉山太郎・大鳥山ノ太郎。清原家当主、光頼の息。安倍正任を匿う。後三年の役に清原家衡に与力し、金沢柵の陥落後処刑される。跡職は藤原清衡の息・小館正衡が継承。義兄弟に安倍正任。<叔父・武則とは対立的関係?><大鳥山の現在の地名は大鳥井。鳥海山との位置関係からして、どうなんでしょう。太平洋側の安倍氏に鳥海がいて、日本海側の清原氏の方に鳥海がいないとは思えません。宗任・正任兄弟が、清原惣領家の頼遠と、縁がありそうなのは鳥海山関連の何かなのでは?。>



<鎮守府将軍 武則・武貞 荒川家>

@清原武則 (*)「鎮守府将軍」。出羽俘囚長、清原光方(武頼?)の息。清原真人・光頼の弟。雄物川上流域の豪族。「前九年の役」に10000余騎で安倍氏攻撃。兄・清原光頼の代理として源ノ頼義に加勢する。旗本1000余騎。安倍氏討伐に活躍した事から、浮囚の長にして始めて鎮守府将軍に任官される。<清原氏が、本家の兄、朝廷方の弟、2大勢力で分裂させられたということか。>

▽A清原武貞 (*)荒川・荒河太郎。武則息。1500余騎。安倍氏征伐第一軍。1062年「小松柵攻略」。「衣川柵攻略」。「白鳥柵攻略」。「鳥海柵攻略」。「厨川柵攻略」。室に藤原経清の妻(安倍頼良の娘)を迎える。息に家衡、真衡。養子に藤原清衡。<一門・吉彦秀武も荒川太郎。それぞれの家督候補者が継承する名乗りか?><鎮守府将軍となり「貞衡」の名を冠するとも。源ノ頼俊と奥州全土を統一し、頼俊失脚のちに、奥州を統べる代官として、朝廷から「衡」の一字を下賜されたのでしょうか。度量衡の「衡(はかり)」を司り、奥州の鉱山を統べる任を受けたとの、後ろ盾の意味で、奥州藤原氏にも「衡」の字が受け継がれていれば、おもしろいですね。>


清原武道 (*)貝沢三郎。清原一族。1500余騎。安倍氏征伐第七軍。1062年「小松柵攻略」。「衣川柵攻略」。「白鳥柵攻略」。「鳥海柵攻略」。「厨川柵攻略」。<三郎つながりで、武道と武衡は親子か、兄弟か、もしくは同一人物か、謎の人です。>

▽清原武衡 (*〜1087)岩城・三郎・将軍三郎。清原一族。武貞の弟。真衡・成衡親子を後見する。1083年「後三年の役」に甥の清原家衡を後援して、武貞の養子・藤原清衡と抗争。金沢柵に籠城。源ノ義光に降伏を申し出るが拒否される。

⇔↓▼城ノ資国 (*)平ノ・九郎・城九郎・助国。越後奥山荘の豪族。城永基の息(三男)。清原武衡の娘婿。息に資職、資茂。

≪個人的感想≫ 安倍氏討伐の軍功と、海東平氏との縁から、鎮守府将軍の家系となるか。



<清原氏の軍団と家臣(緩い血縁的同盟関係か)> 安倍氏征伐第五軍は関東(東海道)衆。

橘ノ貞頼 (*)逆志万太郎。清原一族。武則の甥。1500余騎。安倍氏征伐第二軍。1062年「小松柵攻略」。「衣川柵攻略」。「白鳥柵攻略」。「鳥海柵攻略」。「厨川柵攻略」。<平家家人として東海道に勢力を張る橘氏との関係不明。><男鹿半島に独自の勢力をもつ豪族だったようです。>

▽橘ノ頼貞 (*)志万二郎。清原一族。貞頼の弟。1500余騎。安倍氏征伐第四軍。1062年「小松柵攻略」。「衣川柵攻略」。「白鳥柵攻略」。「鳥海柵攻略」。「厨川柵攻略」。<男鹿半島に独自の勢力をもつ豪族だったようです。>

吉彦秀武 (*)吉弥候・君子・荒河太郎。清原一族。武則・武貞・真衡3代の重臣。武則娘を妻とする。のち真衡と衝突し後三年の役の原因を作る。4500余騎。安倍氏征伐第三軍。1062年「小松柵攻略」。「衣川柵攻略」。「白鳥柵攻略」。「鳥海柵攻略」。「厨川柵攻略」。藤原清衡を後援し、武衡・家衡、真衡、成衡ら清原一族と抗争。<男鹿半島の近くに独自の勢力をもつ豪族だったようです。><砂金を持ち参じるということは、本家の光頼系の家臣から、陸奥守の清原家に出仕替えする挨拶にでも来ていたのでしょうか・・。>

吉美候武忠 (*)吉弥候・君子・斑目四郎。清原一族。1500余騎。安倍氏征伐第六軍。1062年「小松柵攻略」。「衣川柵攻略」。「白鳥柵攻略」。「鳥海柵攻略」。「厨川柵攻略」。<吉彦氏に近い一門か?。>




<陸奥守 歴代> *家臣ではない 

 藤原良経 (*)陸奥守・良綱。源ノ頼義に代わり陸奥守。陸奥国政情の混沌さに任官を辞退する。再び源ノ頼義が陸奥守に就任。

1062年 清原武則〜(この間の陸奥守?)〜1074清原真衡

*橘ノ則隆 (*〜1023*)蔵人・陸奥守・但馬守・刑部大輔・中宮亮。橘敏政の息。「橘氏長者」。兄弟に清少納言の夫・則光、行平。前美作介・敦成親王家司別当職。息に成任。娘婿に藤原能長、道経。<源ノ頼朝が「奥州征伐」の後、橘家を出羽に封じるのは過去の事例に従ったということでしょうか。>

*橘ノ成任 (*)陸奥守。則隆の息。「橘氏長者」。息に蔵人・成綱、以綱、資清。成綱の息に上総守・宗季。娘婿に藤原師家。孫に藤原光家。

▽*橘ノ成綱 (*)成任の息(長男)息に以宗、宗季。甥に(大江)広房。

▽*橘ノ以綱 (*)鎮守府将軍・陸奥守・相模守。「橘氏長者」。成任の息(次男)。弟に資清。息に大江匡房の養子となる(大江)広房。

⇔*源ノ頼俊 (*)源ノ判官・左衛門尉・上総介・陸奥守。検非違使。加賀守・源ノ頼房の息。兄弟に親宗、為房。藤原定輔の娘婿。1067年陸奥守任官。1069年「延久蝦夷合戦」。1070年後三条天皇の勅命で津軽蝦夷征伐。1070年陸奥南部の豪族・藤原基通の反乱を下野守・義家の協力で鎮圧。1074年まで「蝦夷征伐」に出征、与力に清原貞衡(真衡)。<津軽の蝦夷討伐に乗り出し、荒ぶる津軽蝦夷と抗争を繰り広げた源氏です。><源ノ義家や義綱兄弟との関わりがどのようなものであったことか・・・。>



1067〜69年「延久蝦夷合戦」

衣曾別嶋ノ荒夷 (*〜1074)蝦夷別島・荒恵比寿。蝦夷の民。1067陸奥守・源ノ頼俊に反抗。<えぞわけしま?「渡島半島」の蝦夷か。>

閉伊七村山徒 (*〜1074)蝦夷の民。岩手宮古周辺(太平洋沿岸部)の蝦夷。1067陸奥守・源ノ頼俊に反抗。<閉伊の集団名でしょうね。>



≪個人的感想≫ 11世紀の北海道渡島半島側の状況と、すごく連動していそうです。安倍氏の残党もきっと渡島に逃れていたことでしょう。

津軽の十三湊も、陸奥守・源ノ頼俊が侵攻するまでは、蝦夷の民が自由に交易をおこなっていたことでしょう。

平泉藤原家が、奥州全土に影響力を持つ段階で、十三藤原氏が進出し、直轄経営が行われたのでしょう。


清原真衡・成衡の家臣団と軍団



B清原真衡 (*〜1083)海道小太郎・(貞衡?)・実平。鎮守府将軍・武則の孫。武貞の息(養子?)。陸奥守・源ノ頼俊に従い蝦夷を討伐した「延久蝦夷合戦」(1067〜69〜1074)に活躍し、1074年鎮守府将軍任官。養子に成衡。<海道の名は、平ノ安忠からの旧縁があったのでしょうか。><貞衡は父・武貞の最終的な名乗りか。>

<真衡の世代、武貞の子息達>

▽清原家衡 (*〜1087)武貞次男。清原一族。真衡・清衡の弟。1083年「後三年の役」に叔父の武衡と共同して清衡・秀武と対立する。守役に藤原千任。金沢柵落城後に県次郎・次任に捕縛される。

⇔▽藤原千任 (*〜1087*)千任丸・平ノ千任。清原家衡の後見人。1083年「後三年の役」に、清衡・秀武と対立する。金沢柵にて源ノ義家を罵倒し勇名。<藤原秀郷流の、千晴などの子孫なのでしょうか。源氏だけでなく秀郷の子孫も、奥州の覇権に関わりをもっていたのでしょうか。視点を変えれば、源氏と藤原秀郷家の擁立した、清原家跡取り同士の私的な抗争だったのかもしれませんね。><平姓の千任や、千任丸という名も目にします・・。海東平氏からの守役的付家老、または小姓だったのでしょうか。>

↓▽藤原清衡 (1056〜1128)清原清衡。藤原経清の実子、清原(荒川)武貞の養子。1083年「後三年の役」で源ノ義家の後盾を得て、弟・家衡を金沢柵に討ち清原家を継承する。関白藤原師実に使者を送り、臣従。源ノ義家の家人から脱却する。平泉に選地し、中尊寺を建築。<縁戚に出羽国人・平ノ国妙。>



C清原成衡 (*)海辺(海道?)小太郎・成平。真衡養子。越後・城ノ貞成の息、または海道平氏(岩城氏)からの養子(直成の息?)とされる。一門の武衡と家衡に擁立される。息に良貞。<常陸の豪族・多気宗基の娘と、源ノ頼義との間にできた海道平氏の娘を成衡の妻に迎えた。と『奥州後三年記』にあるので後世に養子と混同されてしまったのではないでしょうか。のち源ノ義家の怒りを買い下野国の館で誅殺されるとも。><「実は直成の子」、平ノ貞成?平ノ貞繁に変換される人物か?>
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月27日 02時59分11秒 ) パスワード

ということで更にネットサーフィンしました。


http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hoashi1.htm
豊後清原氏の1番下の方に  清原氏と遠江との関係  が出てます。汗


最後に、正高がなぜ清原真人姓を称したかの事情は、相変わらず不明のままである。

ただ、遠く離れた遠江国山名郡に奇妙な暗合があるので、参考のため付記しておく。


それは、遠江国一宮とされる小国神社の神主は清原真人氏であったことである。


『朝野群載』巻六に所載の「神祇官移」には、永保二年(1082)十月に小国社の神主に清原則房を補任したと見える。
                                       コレでしょうか?



 遠江国の式内社である小国神社が鎮座するのは現・周智郡森町であり、同社末社に塩井神社があり、近隣の森町天宮には天宮神社があって、欽明天皇の時に、九州筑紫国の宗像神社の祭神を遷し祭ったのが創祀とされる。

近くの太田川流域には飯田の地名も見えるが、ここであげた「小国、森、塩井、天宮、太田、飯田」は、玖珠郡及び阿蘇郡で見える地名と神社である。


遠江国一宮では十二段舞楽が伝統的に伝えられ、大祢宜の鈴木左近家は代々舞楽師範家であったというが、肥後の神楽歌に上記一目神社が読み込まれ(宣長の『玉勝間』)、豊後の玖珠郡では上記嵐山滝神社などで神楽が盛んに行われてきたという事情がある。



  遠江国造が天孫族の物部氏族の流れを汲んでいたことと、阿蘇氏族も天孫族から出たという事情は共通するが、それだけで類似現象が起きるのであろうか。

いずれにせよ、阿蘇と遠江とのつながりは興味深い。



そうしますと  浜北原人の時代からの関係でしょうか?   ロマンですね。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月27日 03時17分19秒 ) パスワード

出ました!遠江と清原氏の関係!決定事項!もともと遠江には貴族の清原氏(清少納言の実家)との関係があったのでした。

それが清原武則の家柄ロンダリングに使われたのか?もともと清原武則は本当に貴族だったのか?
そういう関係で江戸時代に小畑家が顕彰したのかも。

ということは小畑家は清原氏関係かも知れないですね。貴族の清原家なのか武家の清原家なのかは分かりませんが。


でも江戸時代のことですから武家の清原氏系を標榜したのかも。すごい気骨の家!
「うちは徳川家よりも名家だ」宣言しちゃったのかも。

             いますよね、「うちは○○家よりも名家」なんて言っちゃう人。今は言論の自由が保証されてますから言ったもん勝ちですが。

それにしても時代が江戸幕府下で奥州鎮守府将軍清原武則を顕彰?
ということは本当に子孫でそこの名家だったのかもですね。
お代官さまも手出し出来ない史実があったのかもね。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD
国司

遠江守

定員:1名。官位相当:従五位下 ※日付=旧暦



下毛野多具比(従五位上):天平宝字8年(764年)任官
橘入居(従五位下):延暦5年(788年)任官
大枝管麻呂(従五位下):延暦25年(806年)任官
和建男(従五位上):弘仁4年(813年)任官


清原長谷(従五位下):弘仁10年(819年)任官                  ココ



藤原衡(従五位下):弘仁14年(823年)任官
文室助雄(従五位下):承和7年(840年)任官
正躬王(従四位下):承和11年(844年)任官
安倍氏主(従五位下):承和12年(845年)任官
石川越智人(従五位下):承和13年(846年)任官 藤原氏範(従五位上):承和15年(848年)任官(権守)

文室助雄(従五位上):嘉祥3年(850年)任官
橘数雄(従五位下):嘉祥4年(851年)任官 藤原冬・(従五位下):仁寿元年(851年)任官(権守)

紀弘岑(従五位下):斉衡2年(855年)任官
藤原真冬(従五位下):天安3年(859年)任官
高階菅根(従五位下):貞観2年(860年)任官
笠弘興(従五位下):貞観6年(864年)任官
長岡秀雄(従五位下):貞観6年(864年)任官
田口統範(従五位下):貞観7年(865年)任官

清原惟岳(従五位下):貞観12年(870年)任官                   ココも

藤原清保(従五位下):元慶2年(878年)任官
橘良殖(従五位下):延暦7年(895年)任官
島田房年(従五位下):昌泰2年(899年)任官
藤原忠行(従五位下):昌泰3年(890年)任官
平中興(従五位下):延喜4年(904年)任官
藤原治方(従五位下):延喜20年(920年)任官
平随時(従五位下):延長2年(924年)任官
平統理(従五位下):天慶9年(946年)任官 源扶義(従五位上):天元3年(980年)任官(権守)

藤原惟貞:長保5年(1003年)任官
源忠重(従四位下):寛仁2年(1018年)任官
藤原兼成:寛仁3年(1019年)任官
藤原永信:長元2年(1029年)任官
菅原明任:長暦4年(1040年)任官
橘資成:康平3年(1060年)任官
藤原家範:治暦3年(1067年)任官 源頼仲:治暦4年(1068年)任官(権守)

源為憲
藤原為房
藤原俊成(保延3年〈1137年〉12月16日〜久安元年〈1145年〉12月30日)従五位下→従五位上
平重盛(保元3年〈1158年〉8月10日〜平治元年〈1159年〉12月27日)正五位下
平宗盛<1159年(平治元年)12月27日〜1160年(永暦元年)1月21日>従五位下
安田義定(寿永2年〈1183年〉8月10日〜文治6年〈1190年〉1月26日) 従五位下(建久2年〈1191年〉3月6日〜建久4年〈1193年〉11月28日)従五位上
北条時政(正治2年〈1200年〉4月1日〜元久2年〈1205年〉閏7月19日)従五位下
北条時房(元久2年〈1205年〉8月9日〜元久2年〈1205年〉9月21日)従五位下
大江親広
北条(江馬)光時
北条朝時(嘉禎2年〈1236年〉7月20日〜仁治3年〈1242年〉5月10日)従五位上→従四位下
北条朝直(寛元元年〈1243年〉7月8日〜寛元4年〈1246年〉4月15日)正五位下
北条時直
北条教時(文永7年〈1270年〉閏9月23日〜文永9年〈1272年〉2月11日)従五位上
北条時基(弘安3年〈1280年〉11月〜弘安7年〈1284年〉4月)
北条時定< 〜正応3年〈1290年〉>
北条時範(嘉元2年〈1304年〉6月6日〜徳治2年〈1307年〉8月14日)従五位上→正五位下
北条随時( 〜元亨元年〈1321年〉6月23日)従五位下
[20]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月27日 12時46分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 清原氏の件での調査、たいへんでございました。感謝申し上げます。

 わかったことは、小畑家のルーツは清原氏ではないかということ……。
 これについて、念のため太田亮著『新編 姓氏家系辞書』を調べてみま
した……みごと当たっています! そこには、こう書かれていました――
 「小畠氏族:小畑、小幡、尾畑と通用することがある。清原氏族。武國
 を祖とする。清家系図に――平野大明神は清原の氏神で、云々。武衡の
 末子・武國という者、幼少にして丹波国に落ち下る。小畠と号する者也
 と」ということです。

  昔の人は、信じられないほどの距離を移動したのですね。攻めて行っ
 てその地に留まる場合もあれば、生き延びるために落ちて行き隠棲する
 場合もある。それにしても、今のモータリゼーションの時代から考える
 と、「歩いて長距離を移動する」などという事はもはや死語同然となっ
 ております……。
 
 清原氏は、どうも天武天皇にルーツがある……? 九州の大分県玖珠郡
にも清原氏がいたということ。これは天武系と違う可能性もありますが、
遠江森町の一宮神社の神主にも清原氏がいたということで、九州と遠江の
間にかかる目に見えない大橋……歴史には常識の及ばない深い謎が横たわ
っているのを感じます。

 また、国司・遠江守として9世紀前半と後半に二人の清原氏が登場して
いるということ。これは天武系でしょうね。

 ――大変勉強になりました。東北の藤原氏については余り知識も興味も
ありませんでしたが、これを機会にチャレンジしてみようという気持が湧
いて来ております。興味さえ出れば、勉強は楽です(興味の湧かない勉強は
苦痛です)。

 では、また話題を青山氏に戻して行きます――
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月27日 13時39分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


>東北の藤原氏

取り敢えず「炎立つ」をお読みになると良いと思いますよ。
東北の藤原氏+安倍氏そして勝者の清原氏。
悲しい悲しい歴史が書かれています。

今ネットで調べましたら動画がアップになってました。
http://www.youtube.com/watch?v=2cJTaL9LIuk
第一話


PCの調子が悪いのでここでアップします。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月27日 13時55分39秒 ) パスワード

>小畠氏族:小畑、小幡、尾畑と通用することがある。
>清原氏族。
>武國を祖とする。

>清家系図に――平野大明神は清原の氏神で、云々。
>武衡の末子・武國という者、幼少にして丹波国に落ち下る。
>小畠と号する者也と


藤原千任とう名が出て来ると  やっぱり  松嶋氏  との関係が気になります。

藤原秀郷の子藤原千晴(配流になった人)    その弟  藤原千常  鎮守府将軍の家   この名が松嶋家譜に書かれています。何故?


     きっと松嶋氏は世を憚って何か大事な事を書かなかったのではないかな?と。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%AD%A6%E8%A1%A1
清原 武衡(きよはら の たけひら、生年未詳 - 寛治元年11月14日(1087年12月11日)[1])
平安時代後期陸奥国出羽国の武将[2]
。父は鎮守府将軍清原武則[1][2][3][4][5]、母は安倍頼清女[6]と伝えられる。

武貞の弟[3][4]。
義理の兄弟に吉彦秀武がいる[6]。
通称は将軍三郎[1][3]、岩城三郎[7]。



清原氏は出羽に勢力を持った豪族であった。武衡は、『清原系図』によると陸奥国磐城郡を領していたという[3][注釈 1]。父武則が源頼義の要請により前九年の役に参戦し安倍氏を滅ぼした際には名前は見えない[注釈 2]。清原氏の相続争いとなった後三年の役において沼柵(現秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった甥家衡が清原清衡・源義家連合軍を破るとこれに応援に駆けつけ、家衡が義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、難攻不落といわれる金沢柵(現秋田県横手市金沢中野)に移ることを勧めた[1][4][3][8]。

しかし、義家方に加わっていた吉彦秀武の献策により兵糧攻めが行われると柵内の士気は低下し、これを回復しようと、家衡の乳母の子の藤原千任が義家に向かって「汝が父頼義、貞任宗任をうちえずして、名簿を捧げて故清将軍を語らい奉り、偏にその力にて、たまたま貞任をうちえたり。恩を担い徳を頂きて。いづれの世にか報ひ奉るべき。しかるを汝すでに相傳の家人としてかたじけなく重恩の君を攻め奉る。不忠不義の罪さだめて、天道の責めをこうぶらんか」と言ったが、義家方の恨みを買っただけであった[8]。

武衡は義家の弟義光に連絡して降伏しようとし、一度義光の郎党である藤原季方が交渉にやってきた事もあったが義家はこれを許さなかった。柵の陥落後、近くの蛭藻沼(現秋田県横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられた[8]。刀の鞘の尻を切って口に当て、水中に沈んでいたとされる[8]。義家は武衡に「軍の道、勢を借りて敵を討つは、昔も今も定まれる習ひなり。武則且は官符の旨にかませ、かつは将軍の語らひによりて、御方に参り加れり。然るを先日従僕千任丸に教えて、名簿ある由申しは、件の名簿さだめて、汝傳へたるならん。すみやかにとり出べし。武則えびすの卑しき名をもちて、忝なく鎮守府将軍の名を汚せり。これ将軍(頼義)の申行はるるによりてなり。是すでに功労を報ふにあらずや。いはんや汝らは、其身に些かの功労なくして謀反を事とす。何事によりてか些かのたすけをかふるべき。しかるをみだりがはしく、重恩の主となのり申、その心如何たしかにわきまへ申せ」と責め立てた[8]。武衡は一日の助命を請い、義光も降人を助けるのは古今の例と助命嘆願したが、義家は宗任のように自首する場合を降人と言うべきで、武衡は違うとして斬首した[8]。

その後義家は、千任の歯を金箸で折り舌を切った上で木の枝に吊し、足下に武衡の首を置き、千任が疲れて首を踏むと「二年の愁眉今日すでにひらけぬ」と喜んだという[8]。

注釈[編集]

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1.^ 樋口知志は、「藤原清衡論(上)」(『アルテス リベラレス(岩手大学人文社会科学部紀要)第82号』岩手大学、2008年)の中で、海道平氏に一時養子入りしていたとの説を述べている。
2.^ 樋口知志は、「藤原清衡論(上)」の中で、前九年の役に参戦した清原武道と同一人物でないかとの推察をしている。

出典[編集]


1.^ a b c d “【清原武衡(きよはらのたけひら)】” (日本語). 朝日日本歴史人物事典(朧谷寿). 2011年11月10日閲覧。
2.^ a b “【清原武衡(きよはらのたけひら)】” (日本語). 百科事典マイペディア (2010年5月). 2011年11月10日閲覧。
3.^ a b c d e 竹内一朔「清原氏【武衡 たけひら】」『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年、ISBN 4870200074
4.^ a b c “【清原武衡(きよはらの-たけひら)】” (日本語). デジタル版 日本人名大辞典+Plus (2009年1月). 2011年11月10日閲覧。
5.^ “【清原武衡(きよはら-の-たけひら)】” (日本語). デジタル大辞泉. 2011年11月10日閲覧。
6.^ a b 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
7.^ 『菅家系図』など
8.^ a b c d e f g 『奥州後三年記』

参考文献[編集]
高橋崇『蝦夷―古代東北人の歴史』中央公論新社<中公新書>、1986年、ISBN 4121008049
高橋崇『蝦夷の末裔―前九年・後三年の役の実像』中央公論新社<中公新書>、1991年、ISBN 4121010418
野口実「11〜12世紀、奥羽の政治権力をめぐる諸問題」古代學協會編『後期摂関時代史の研究』吉川弘文館、1990年、ISBN 4-642-02242-2
野中哲照「出羽山北清原氏の系譜――吉彦氏の系譜も含めて――」「鹿児島国際大学国際文化学部論集」15巻1号、2014年6月
野中哲照『後三年記詳注』汲古書院、2015年、ISBN 978−4−7629−3616−6

関連項目[編集]
出羽清原氏
『暫』(歌舞伎十八番):清原武衡に相当する人物が悪役として登場する。
『炎立つ』(NHK大河ドラマ、1993 - 1994年)演:渋谷天外

[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月27日 14時02分58秒 ) パスワード

この表を見ててもやはり松嶋氏を連想してしまいます。さらに結城氏とかを見てると。



http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_30.html

ということで藤原秀郷の子  千常と千晴   について:



藤原千常・兼光系

千常流では、秀郷から数えて5代に渡って鎮守府将軍に任じられ(「結城系図」によればですが)関東北部から奥州にかけて勢力を広げます。

秀郷から4代目の兼光については、あまり史料は残っていないようですが、その子、孫、甥に受領任官が多く、京武者・軍事貴族としてそれなりの評価と地位はもっていたと見ても良いでしょう。
しかし、「平忠常の乱」で疑われたためか、京武者・軍事貴族として秀郷流藤原氏を代表するのは兼光の甥にして娘婿、相模守公光の方に受け継がれた様に見えます。
その後、この兼光系の子孫達は受領の選考に登ることはなく、国衙の在庁官人を兼ねながら北関東の各地に土着していったと見て良いと思います。頼朝挙兵時に北関東で大きな勢力を持っていた小山、藤姓足利、下河辺(常陸)はこの兼光の子孫です。



秀郷の子・千常

•従四位下・鎮守府将軍・美作守・大夫尉下野守護(結城系図)


•千晴が係争で調べられた同じ年の安和元年(968)末、信濃国から千晴の弟の千常の乱が奏上されている。


•さらに、約十年後、下野国が前武蔵介藤原千常と源肥が合戦におよんだという解文を奏上しているそうです。 坂東千年王国、「伝説の将軍藤原秀郷」(野口実 p52)


•子:文脩


藤原文脩

•父:千常 


•従五位上・鎮守府将軍・舎人頭・陸奥守(結城系図)


•「小右記」988年10月3日条「今日、直物、少叙目あり・・・・、鎮守府将軍藤文脩。選か、くだんの文脩は摂政の賀料、皇太后宮に任料を納めらるると云々」 「伝説の将軍藤原秀郷」(野口実 p68)
「選か」とあることで、文脩は中央に出仕してそれなりの評価を得、実績をあげていたことが判る。


•子:文行、兼光


藤原文行

•父:文脩、千常の孫


•左衛門尉 従五位下


•「御堂関白記」1006年6月16日条に平正輔と口論喧嘩から検非違使に追われ道長宅に逃げ込む。


藤原兼光

•父:文脩、千常の孫、


•従五位下・鎮守府将軍・阿波守(結城系図)


•従五位下左馬允・鎮守府将軍(小山系図)


•1012年から鎮守府将軍を二度務る。
同じ名前の太政大臣が居ますがもちろん別人です。時代も違うし。


•平忠常の乱のとき、忠常は下野の藤原兼光を通じて追討使に講和への意志を伝え兼光はそれを京へ伝える。京では後一条天皇から、兼光に忠常の所在を問い質してはどうかという意見が下される。(小右記) 


•乱の後、藤原兼光は忠常の乱への同与の風聞があり出家。(小右記)


•子:正頼、頼行、行範、貞光




藤原正頼

•父:兼光


•従五位下・左馬允・鎮守府将軍(小山系図)


•従五位下・下野権守(結城系図)


藤原頼行

•父:兼光、 


•右近衛将監、「小右記」1014年12月25日条 近江国に住み、悪事を働くので道長の子に召還され、その従者と合戦に及ぶ。


•1022年の叙目で鎮守府将軍


•従五位下・下野守・鎮守府将軍(小山系図)


•鎮守府将軍・従五位下・左近将監・安房守・下野守(結城系図)


•子:兼行、武行


藤原行範

•父:兼光、


•左馬充? 壱岐守  (結城系図)


•1024年の叙目で壱岐守、道長に臣従 「小右記」


•子:行高


  行高

•父:行範、


•武蔵守(結城系図)これは疑問、尊卑分脈では大田権守


行善(ゆきよし)

•尊卑分脈では父:行範だがおそらく誤記


•「春記」に「前将軍頼行の子行善」、文章生を採用する式部省の試験を受けている。


貞光

•父:兼光


•従五位下・対馬守(結城系図)


兼行

•父:頼行


•散位従五位下・安房守・下野守(結城系図)


•藤姓足利氏の祖                              この家は平家方でした。源氏の足利氏ではないですよ


武行

•父:頼行


•従五位下・壱岐守(結城系図)


行隆(尊) 


•父:武行


•太田大夫(従五位下)、下野介(小山系図)


•別当大夫宗行(結城系図)


行政(快實) 

•父:行隆(尊)


•太田大夫(従五位下?) (小山系図)


•二郎(結城系図)


行光 

•父:行政


•太田四郎(小山系図)

•四郎(結城系図)


•子:小山政光、下河辺行義


小山政光

•父:行政


•下野大掾


[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月27日 14時11分33秒 ) パスワード

1つ思い出しました。


随分前に三つ柏さんが松嶋氏について宮城県の松島のことに言及なさってましたが
こうして清原氏の奥州鎮守府将軍だの、藤原千常の鎮守府将軍を見ていると
三つ柏さんのご存知の松嶋氏とやはり関係があったのかな、と。


ひょっとすると松嶋氏と小畑家とには何か結びつきがあったのかもですね。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月27日 14時19分39秒 ) パスワード

http://www.yokotekamakura.com/08_gosannen/01_gaiyou/05_emaki.html
後三年の合戦絵巻
目次


http://www.yokotekamakura.com/08_gosannen/01_gaiyou/05_emaki/08_chitou.html

後三年の合戦絵巻
藤原千任、ふじわらのちとう、義家を罵倒するの図
[26]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月28日 23時45分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秋雨前線の停滞により、6月の梅雨時のように雨や曇りの日がずっと
続いております。湿度が高いため、うっとうしいです。

 昨夜来、ずっと調べものをしておりました。松島氏を核にして、この地
方の歴史的背景、過去のノートのメモ、各種資料、源氏、平家、藤原氏、
小笠原氏等の家系図、その他それらにかかわる書籍……。

 もちろん、青山忠俊のことも幸いにしてこの地域のことなので関連して
おります。内藤氏も関連、匂坂氏も関連しております……。

 これらの調査のまとめをいかに書くか、のヒラメキが湧くのを今待って
おるところであります。一晩の眠りでうまく熟成されるはずだと思ってお
りますが、jobdayになってしまいますので、今のうちに少し進めておきま
す。

 青山氏の邸の門(屋根は銅板張りで緑青色でした)が移設された心宝寺の
墓地には、小畑氏の墓が多かった。大石氏もそれと同じ位多く、あとは、
滝口、鈴木、中村、野本、村松、小栗、岡部といったところがそこそこあ
りました。服部家の墓が一基あり、家紋は丸に立ち沢瀉紋でありました。
ある調査によりますと、羽鳥郷の常光町にはこの門の服部家が少し存在
していて、どうも水野家(も存在)と親戚関係にあるようだとのこと。

 石原の正光寺の情報誌によると、青山忠俊が家光の傅役として疎まれて
配流になり、貴平の内藤家とは親戚(青山家から嫁入りしている)であるの
で、忠俊親子一族12人と家来30人余は内藤家に1年余り逗留し、その
後、内藤家持山の小林に御殿を用意してくれ、移られたという。

 心宝寺の「小栗」姓は、青山氏が石原の領主でもあったので、家臣とし
て、石原から小林へ移ったものと思われるということであります。主君が
動けば、家臣も同時に動かざるをえない……武家社会の定めだと思います。
 この小栗氏は、調べたらやはりなかなかの由緒のある氏族でありました。
ルーツは常陸大掾氏でありました。重家が始祖であります。

 小畑氏といい、小栗氏といい、元は百姓ではなかった、武士であったと
いうこと。それは、石原の南の羽鳥の松島氏にもいえるし、内藤氏もそう、
内藤氏と親戚の匂坂氏もそうであります。意外と遠江には元武士であった
氏族がうじゃうじゃと多いのかもしれません。源平から始まって、今川、
斯波、吉良、徳川、武田…etc.に関係する氏族達。

 本日はとりあえずここまでとします――
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月29日 03時29分48秒 ) パスワード

三つ柏さん

>意外と遠江には元武士であった氏族がうじゃうじゃと多いのかもしれません。

多いでしょうね。
まさに「中原に鹿を逐う」の1つでしたから。
今川氏は東海一の弓取りと称された家ですから立身出世を求める武士が日本全国から集まったでしょう。


武士の家は狭い社会で横の繋がりが累々と続いて来ましたから
  大名レベルから旗本レベル・家臣レベルでも
特に尾張・三河・遠江あたりでしたら先祖以来密接ですから
現在でもご縁関係がウジャウジャとありますよね。



松嶋家系譜の初代右衛門尉源宗忠さんの奥様の於美和さまのお父上・藤原智常という人物は何者なのでしょうね。
それなりの身分のあった方、というのは分かりますが。


江戸時代に日本を支配したのが徳川家とその取り巻きですから
取り巻きは取り巻きで親戚関係を続けて来たわけで
江戸へ行って国政に携わった者と地元に残って実効支配した者とに分かれ
地元に残った者は明治維新を迎えてもやっぱり土地の有力者で有り得た。
いわゆる大地主ですね。


こういう家は同じレベルの家と婚姻を結ぶわけで、それが敗戦まで続いた。
その後、70年+経ってその記憶がプッツリ途切れた。

バブルとデフレを経て今ではすっかり分からない。
力関係も逆転したでしょうし。


恐らく80歳以上の世代ならいろいろご存知でしょうね。
10月の講演でお年寄りから情報が得られると良いですね。


切手を貼った封筒にご住所とお名前をお書きになって「当地の歴史を教えてください」ということで皆さんにお渡しになったら結構情報が得られるかもですよ。

必ずご存知の方はいるのです。ただしドンドン鬼籍に入ってますが。
恐らく今年が最後のチャンスなのかもですよ。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2016年09月29日 03時35分49秒 ) パスワード

年寄りは若者に教えたくて仕方ないのですよ。
自分の代で終りにしたくないから。

でも若者が自分を無視するから
誰が教えてやるものか
と意固地になってる。


ここは若者が「教えてください」とアタマの1つでも下げて謙虚さを示せば
年寄りは素直に教えたいのです。


冥途への良い土産にもなるし。
自分も安心して死んで行けるし。


そんなもんかも、ですよ。
やってみる価値はありますよ。
[29]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月30日 13時29分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨夜はパーティーがあり、お酒を飲んでしまいましたので、思考能力ゼロ
となり、それでも調べものをしなければと思いながら、ついに寝てしました。

 本日も朝から調べものをしており、今ようやく一段落つきました。
 私がやろうとしていることは、色々な情報を広く知り、総合的に服部氏の
謎を解こうということです。
 たまたま私が服部であり、遠江の善地というところに住み、そこは天領で
服部、永井、加藤、鈴木、松島の五苗が寄り添って生きて来たという歴史が
あります。
 何でこの善地に服部が、永井がということの理由を一番知りたい訳であ
ります。もちろん、加藤氏、鈴木氏、松島氏との関係もそうであります。
 それぞれの氏族同士が、それぞれどういう関係でこの善地に来たのかとい
うこと……それぞれの相関関係がわかれば、ひいては己を照らす鏡となりう
るものと確信しております。

 目的は、はっきりしておりますので、話題はあっちにとんだり、こっちに
とんだりはいたしますが、目指すところは一つであります。
 そういった意味で、今やろうとしているのは、この地方の歴史的バックグ
ラウンドの把握、そして人間関係の絆を見つけることであります。

 松島氏については、色々見直してみましたが、私の推論としては、小笠原
系の松島氏(源氏)が主流にあると強く感じております。理由については、長
くなりますので、別のところで述べます。山梨(ルーツは甲斐)にも一度行っ
て来たいと思っております。もちろん伊那の松島氏も関連していると思って
おります。甲斐の松島氏と伊那の松島氏が一本につながれば、一番分かり易
いのですが。

 斎藤系永井氏と長田系永井氏の謎がようやくわかりました。どちらも藤原
利仁流の斎藤氏に大江氏の血が混ざり、後者については、さらに大橋氏、そ
して尹良親王の血が入り、長田氏を宿主としております。

 斎藤系永井隼人(斎藤利三のはとこ 斎藤利隆の子)は、織田家に徹底して
抵抗したという。あを様のいわれるように津島系服部氏も、徹底して信長に
抵抗した。岐阜に服部氏も永井氏も多い。かたまって存在している。一度、
調査に行ってみたいと思っています。

 服部氏(保章)の娘は明智光秀の妻である。何で服部と明智がつながったの
か、そのバックグラウンドが大事であると思っています。
 一方、斎藤系永井氏は土岐氏・同族の明智氏を支援しております。
 ということは、服部と永井は、明智を通じて近しい関係ということになり
ます。

 永井と加藤はどうかといえば、双方とも藤原利仁流でルーツは一つであり
ます。従って、永井と加藤は近い関係であります。

 次回は青山氏に言及したいと思います――
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月01日 05時55分26秒 ) パスワード

三つ柏さん

>次回は青山氏に言及したいと思います

なかなか青山氏に行けないですね。



>甲斐の松島氏と伊那の松島氏が一本につながれば、一番分かり易いのですが。

はい。


でも群馬の松島氏もありますし。
                                    群馬の黒川谷郷士の阿久沢氏と松島氏。阿久沢さんは昨年の大河「花燃ゆ」第三部の主人公でしたね。笑




阿久沢氏と松嶋氏
http://mori-chan.art.coocan.jp/sakusaku/4_1_0.htm


かつて、黒川谷の郷士の旗頭は阿久沢、松嶋両氏であり、
永正7年(1510)以前に松嶋左衛門が、桐生氏に属したことから、黒川郷士は桐生氏に従属する一方で、
戦国期を生き抜くために、上杉、後北条氏と、大きな勢力を背景に、独自の勢力圏を確保、
後に太田金山の由良家に仕えることを余儀なくされ、
後北条氏の小田原合戦に加担したことで、多くは帰農したが、
その戦国期を生き抜いた戦略からは現代の我々も学ぶところがある。


黒川郷士は前九年の役で捕虜となった安倍宗任の家臣の末裔という伝承があるが、
今回、本当のところはどうなのか、阿久沢氏の出自を探ってその答えを模索したいのと、
松嶋氏で歴史上初めての登場人物となった松嶋左衛門とその子孫について述べ、
また黒川郷士が拠った黒川八城についても紹介したい。

以下略

                                        松嶋家家譜の初代さんは松島右衛門尉源宗忠でした。
                                        何か引っ掛かる。
                                        新田氏の㊀紋に似てるし。


ごちゃごちゃ書いて再びヒックリ返すのを避けるためにココで止めておきます。
[31]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月02日 01時39分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 やっと本日の酔いが醒めたところであります――真夜中といっても真夜中
への入口、時計が両腕を真上に挙げる……ちょうどフリーズのポーズでもあ
ります。

 歴史について言及するということは、改めて大変であるということをつく
づくと感じます。というのは、歴史を語る場合に参考にする資料というのは、
他人の書いたものがほとんどであります。自分で実体験ということは100
%ない。あっても遺跡ゃ遺物を見るだけであります。系図ひとつとっても
その信憑性は100パーセントではない(但し、七千傑様の提供される系図
については、最も信頼がおけるものであると感じております)。
 前回、長田系永井氏のルーツの件で、長田家は宿主と書いてしまいました
が、これは一旦訂正し、長田家の流れの中に尹良親王、大橋氏、大江氏の流
れが交わったと訂正させていただきます。というのは、系図における養子と
いうのは@子がなくて家督を継いでもらうために養子をとる場合と、A男子
が生まれなく娘の婿として養子をとるという場合があり、系図だけでは、そ
こ(血の流れ)がはっきしない場合が多いからであります。
 従って、自分の思い込みだけで勝手に物事を断定・断言しないこと――
今後この点については注意を払って行きたいと思います。

 さて、青山氏についてではありますが、青山氏と服部氏が何故姻戚関係に
なったのか、またこの地において青山氏と内藤氏がなぜ姻戚関係になったの
かという、ファンダメンタルの部分についての事情・真実というのは、非常
に大事だと思っています。ただ結婚したから血が混じった――では表面的な
事実だけで本質を見逃すことになります。

 服部氏については戦国時代のある意味スターでありますので、色々語られ
ておりますが、青山氏については語られる機会が余り多くありません。
 そもそも青山氏とは……寛政重修諸家譜によりますと、祖を藤原北家、
道長の4代孫の花山院家忠としております。藤原氏の一番の主流であります。
そして、その家忠の7代孫師賢が後醍醐天皇に仕えたということであります
ので、南朝方であるということが大きな特徴であります。
 さらに、師賢の4代孫師重は、尹良親王に仕え、上野国吾妻郡青山に住み、て青山と称したという。バリバリの南朝方であります。吾妻郡は忍者・修験の
地でもありますので、青山氏も忍者関係者かもしれません。
 従って、祖先が南朝方であり、忍者関係者であった服部保長の兄弟の正清
の息子正信が青山忠教の娘を室にしているということは、ごく自然の流れで
あったように思われます。
 とりあえず、今回はここまでで――

 

 
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月02日 09時28分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


内藤氏ですか。
名古屋でも内藤氏というのは名家です。

青山氏と関係があるのですか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B0%8F

三河の松平氏の家臣で江戸時代に大名となった内藤氏は丹波・周防の内藤氏と同祖とされるが、
戦国期までの事蹟は明らかではなく、仮冒の可能性も強い。


戦国時代から安土桃山時代にかけて、内藤清長・内藤正成・内藤家長・内藤信成らが徳川家康に仕え活躍し、
その功績により江戸幕府の成立後は数家に分かれ、
信濃高遠藩、陸奥湯長谷藩、三河挙母藩、日向延岡藩、信濃岩村田藩、越後村上藩などの地で譜代大名として隆盛した。

明治維新時には大名内藤家は全部で6家あり、維新後すべて子爵に列した。
特に清政の系統は、高遠藩江戸屋敷のあった内藤新宿(現在の新宿区内藤町)の地にその名を残している。
[33]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月03日 00時53分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 浜松市史 ニ
 第四章 浜松藩の確立 第一節 幕府政治の推移と浜松城主 
 浜松城主 青山宗俊       110 〜 111 / 686ページ

 「青山宗俊の父忠俊は天正六年浜松に生まれ、後に家光の傅(ふ)となり
 大坂の陣に戦功をたてた。元和六年には江戸の根城として重視されてい
 た武蔵岩槻城主に封ぜられた。宗俊は父とともに幼少から将軍家に奉仕
 していたが、元和九年忠俊が家光の勘気をこうむり(直諫のゆえか)、
 所領の岩槻四万五千石を没収されて蟄居の身となるや、これに連座して
 父と共に下総・相模・遠江と転住した。【内藤氏 小林村】とくに遠江
 は青山氏の「故郷里」とされ、親戚の貴平村(当市貴平町)内藤氏が小林
 村(いま浜北市)の自分持山林に家宅を提供した。ここでの数年間(寛永
 初年)の蟄居生活のひとこまを宗俊はつぎのように詠んだ(訪問者は遠江
 代官市野惣太夫)。 
  ――山里の冬のつれづれ思ひ出でて訪はれし人をいつか忘れむ   」
とありますように、内藤家と青山家は婚姻による親戚となっております。

 もうちょっと詳しい資料をメモし忘れてしまいましたが、確か、青山家
から内藤家に嫁が入っているかその逆だったかも知れません。

 でも、今ほかの資料でわかりました。寛政重修諸家譜には、青山宗俊の
父忠俊の叔母が内藤刑部大夫助吉に嫁いでいると書かれております。一方、
豊西村史には、貴平の内藤家について、ルーツは秦河勝の五男の貴平。
 その三十一代孫が、内藤刑部大輔(藤原助吉)であると書かれております。
藤原とあるのは、貴平二十七代孫助尭の親の助義が南朝に仕えて戦功があり、
此の時に姓を改めて藤原にした。助尭の時に至り、南帝の皇子宗良親王が
井伊城に移り終り給いし時供奉し給い、その後暇を賜って木部邑に帰り、
以後多くは農民となって再び新田を開発した、と書かれております。

 内藤刑部助吉なるものが寛政重修諸家譜に載っているということは、一
応メジャーな存在ということで、青山忠俊の父忠成(宗俊の祖父)の朋友の
内藤正成、同じく内藤清成とどういう関係にあるのか、おそらく同族に違
いないのではなかろう……。
[34]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月03日 00時59分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ひとつ付け加えます。内藤家の二十六代目の助義が南朝に仕えたという
ことは、青山家の祖も南朝に仕えておりますので、南朝つながりというこ
とにもなります……。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月03日 02時28分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


旗本の服部家の婚姻関係をもう1度見直しています。
内藤家と結婚しているのかな、と。


       服部中保次の長男の保久の次男が  小栗仁右衛門信政の娘を貰っています。
       へ〜
       なんて思ってたら


結論:服部中保次の次男保信の家が内藤家と何代にも亘って関係を強めていました。


服部中保次の次男保信の妻が内藤平右衛門の娘でした。

                      保信の長男保重の妻が大久保忠重の娘。


保信の次男保儀の長男保寿は養子で内藤政康の5男。


保儀の次男保勝   ここから人間関係がゴチャゴチャで  ワケ分からなくなるのですが
保勝が保寿の養子になって  保寿の次男の正儀は  内藤正房の養子。


さらにココからややこしくなって
保勝の子が2人いて保頼は実は内藤正勝の次男。



とにかく分かったことは服部中の家は次男から内藤家と何重にも親戚になっているということでした。

なので南朝がらみということは勿論根底にあったのでしょうね。



親子関係がワケ分からなくなるので他の服部家の内藤家との縁捜しは止めておきます。



つまり
江戸時代に縁戚になってるということはずっと前の時代からのご縁があって遠縁だから信用出来たというのが基礎にあるのでしょうね。


そして内藤家は青山氏と関係があり当然服部氏とも関係があったということですね。

そして大久保家との関係も強固にあって・・・


つまり江戸時代の武士の家はみんな繋がってるということですね。
あ〜、ややこしい
と言うか
簡単!というか。


もともとが日本の人口の数%の世界での関係ですから、遠江国内に限ったら、もっと結びつきは強固だったんでしょうね。



善地の名家5つが何代にも亘って何重にも婚姻を重ねたというのは当たり前のことですね。

なるほどね〜
[36]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月03日 14時51分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございました。おかげさまで、また一歩確信に近づくことが
できました。

 四百年〜四百五十年の時の経過は、色々なものを希薄にしてしまいます。
 また、先の太平洋戦争では、艦砲射撃と空からの爆撃を受け、辺り一面
焼野原になってしまい、貴重な資料等は焼失してしまいました。
 また、天竜川といえば、つい五十年前くらいまでは、しばしば洪水が
ありました。それ以前については言うまでもありません。暴れ天竜と言わ
れたように、洪水後に川筋が変わってしまうことはあたりまえでありまし
た。村が消失してしまった例もいくつかあります。従って、家系図などか゜
あっても、流されてしまった場合が多いと思います。

 でも、あを様のおかげで今回も状況証拠の発見において、一歩進むこと
ができました。
 それは、羽鳥地域にからむ武士の位置・配置ということであります。
 南から言うと――
  @上石田:服部中氏
  A市野:市野惣太夫
  B喜平:内藤氏、秋鹿氏
  C羽鳥:松島氏
  D石原:小栗氏
  E善地:問題の服部氏(+永井・加藤・松島・鈴木氏)
  F高薗(善地の東隣り):長谷川氏
 そして、天領の管轄は磐田今泉代官所――代官:秋鹿氏、大草=永田=
長田=永井氏。
 さらに、それらを統括する幕府代官頭:小栗氏、伊奈氏、大久保(長安)氏。

 これらの配置には、家康の意思が反映されていると思えます。なぜならば、
天竜川西岸地域は浜松の東の守りの地域であり、家康は息のかかった武将・
武士を要所要所に配置したといわれているからであります……。

 本日の成果について、じっくり分析してみたいと思います――
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月04日 02時23分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


下記は全くの妄想です:


松島氏は市野氏と同格かそれ以上の家だったのでしょうね。
@〜Fを見てて思いました。


わたくし的には松島氏は南朝方で新田系=つまり諏訪系かなと。その後、諏訪系および伊那系。
小笠原系になるのは、もっと後の時代かなと。



松島氏は本来は南朝方で、宗良親王の薨去で、一部は群馬に、一部は長野に分かれた。


こんな感じだったのかなと。
まだまだですが。


大きな世の乱れで一族が分解して敵味方に分かれたというのは何度もあったのだろうと思います。
細い細い繋がりを頼って敵に当たったのだろうなと。

家書には世を憚ってハッキリ書くことが出来ない事もあったのだろうなと。



また再び寛政諸家譜を眺めて来ました。

善地の服部氏は中保次関係者か政信関係者かな?と。
                        南朝方
                        新居の関所奉行

ということで現場責任者として勤めていたのだろうから、どちらかの一族なのかなと。


また振り出しに戻りました。
[38]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月05日 13時55分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 出自がはっきりしている松島氏は、諏訪氏の流れの中に見出せる松島氏
のみであります。
 これは、建御名方命の後裔「諏訪有員(ありかず)」から数えて十三代目
が「千野光親」、十四代目が「藤沢清貞」、十五代目が「藤沢清親」、十六
代目が「藤沢清正」、十七代目が「藤沢朝清」と「藤沢清信」。この「清信」
が松島を名乗った初代であるといいます。
           (『信濃史源考』参考―「武家家伝―藤沢氏」より)

 松島氏と小笠原氏の関係は、松島氏の本家筋の「藤沢朝清」の十三代孫の
「藤沢頼親」において間接的に見られます。
 つまり、「藤沢朝清」から十三代孫の「藤沢頼親」は、「小笠原長時」の
妹を妻に迎えています。さらに、「藤沢頼親」の娘は「小笠原長時」の子
「小笠原貞慶」に嫁ぎ、「小笠原秀政」をもうけております。この「秀政」
は、家康の第一子の信康の娘「登久媛」を娶り、「万姫」をもうけ、やがて
「蜂須賀至鎮」に嫁がせております。

 間接的であれ、小笠原氏秀政の母方が藤沢氏で、松島氏も元藤沢氏であっ
たということは、ステータスとして高いものであると思われます。
 ちなみに、「藤沢朝清」の九代孫「有政」、十代孫「信有」は両人とも、
「遠江守」を名乗っております。

 さて、小笠原氏でありますが、清和源氏の主流の中の「新羅三郎源義光」
(1045〜1127)を氏祖としております。

 義光―義清―清光―遠光―長清―長経―長忠―長政―長氏―宗長―貞宗

と続きます。

 この内、「清光」と「遠光」は遠州の官領を兼ねております。また、遠光
の弟の「安田義定」は遠江守護となっております。

 「小笠原長清」は「小笠原」の名を高めた氏祖といってもいい。やはり、
遠州の官領も兼ねた。

 「長経」は遠江守。

 「貞宗」は遠州の官領。また後醍醐天皇の弓術、乗馬術の御師範でもあっ
た。ただ、足利尊氏に従った。

 この「貞宗」の長男が「政長」―遠江介。遠州の官領も兼ねる。政長の
後裔はずっと下って「小笠原長時」―「小笠原貞慶」―「小笠原秀政」と
続く。

 「貞宗」の弟が「宗政」。そしてその子供が「宗安」。

 そして「宗安」の子「政忠」が、遠江白羽(竜洋駒場)の「山下家」に
養子として入ったその人であります。この山下氏の祖は、「大友氏」で、
大友氏の祖は、あの「藤原千常(智常)」であります。

 以上を総括すると――
 @小笠原氏は遠江・遠州と密接な関係があります。
 A松島氏は藤沢氏でもあり、諏訪氏でもあります。
 B藤沢氏は源氏に仕えていますので源氏姓を名乗っても不思議でない。
 C「宗」の通字は小笠原氏の末の方にあります。
 D「松島右衛門尉源宗忠」の妻「おみち」は藤原智常(藤原秀郷の子)を
  祖としているようで、山下家から松島家に嫁が入ったとすれば、辻褄
  が合います。
 E松島家は「源姓」を強烈に名乗っておりますが、藤沢頼親と小笠原氏
  の婚姻関係が松島氏が藤沢氏の分流となった後のこととは言え、何ら
  かのよりどころとはなっただろうし、またもっと昔に松島氏は小笠原
  長清の子孫であったとの説もある……(ここはどうであろうか。諏訪氏
  が小笠原氏と合体したというのならよくわかるのだが)。

 松島氏の一番の謎は、この遠江に、いつ、どうやってやってきたのかと
いうことであります。そこの証左がないのですが、少なくとも安田義定あ
たりの時代には来ていないと、羽鳥庄の庄司であったということと合わなく
なります。もっとも何派かに亘ってやって来たのかも知れません――
 
[39]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月05日 20時37分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:何派→何波

 松島氏の件で一つ付け加えるのを忘れていました――
 藤沢清信が松島氏と名乗るようになったのは、1200年代の初めの頃
であります。たぶん箕輪の松島の地名にちなんでのことでしょう。それか
ら松島氏がどうしていたのか、どう動いたのかということは、よくわかっ
ておりません。ただ、『太平記』の中に、宗良親王に味方した信濃国の武士
団のことが載っていて、諏訪神(みわ)家一党三十二家の中に松島氏が出て
来るという。太平記がこの世に出たのは1371年のことであります。

 次に諏訪神社の記録として、大県介としての松島氏の名前が1500年
代初頭に出ています。

 そして次は、狐島で処刑された松島豊後守信久の時代。処刑は1556
年でありました。

 1200年代の初めから1556年までというと350年くらいありま
すので、松島氏が一カ所にじっとしているはずもなく、あちこちに出かけ
て行ってその地に根を張った可能性はあります。ひょっとすると、群馬の
黒川衆の松島氏、遠江の松島氏なども、その可能性があるのかも知れませ
ん……。ただ、その確たる証左がない。松嶋俊光氏の『黒川衆の戦い』と
いう本、国会図書館か地元へ行けばあると思いますので、いつか調べたい
とは思っております――
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月05日 22時59分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


整理してくださってありがとうございます。

点と点と点が  触手を伸ばして絡んでいるのがいるのが分かります。
でもその触手が
絡み過ぎててもうちょっとスッキリして欲しいという所ですね。
それには
松嶋俊光氏の『黒川衆の戦い』が読めると良いのかもですね。


>松島氏の一番の謎は、この遠江に、いつ、どうやってやってきたのかということであります。

>山下氏の祖は、「大友氏」で、大友氏の祖は、あの「藤原千常(智常)」であります。


では松島氏と山下氏が強く結びついたのは「松島右衛門尉源宗忠」と妻「おみち」以降当然だったのですね。

ということはもっと前から松島氏と山下氏は関係があったのでしょうね。



人間関係はホントに縺れていますね。



整理をありがとうございました。
[41]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月06日 13時19分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 落穂拾い――

 @小笠原長清(遠光の子。安田義定は叔父)は、19才まで京で「平知盛」
  に仕えていたという。
 A小笠原長清の妻は、「平重盛」の娘である。
 B長清は、平氏を裏切り、源頼朝に馳せ参じた。
 C松島氏のルーツは小笠原持長(長清の11代孫)の子「政豊」であるとい
  う説がある。証左はいまのところない。
 D竜洋町白羽には、野生馬が多く、ここを官牧として山下氏(大友氏、後、
  小笠原氏が養子に入る)が管理していた。
 E市野惣太夫は馬監のようであり、従って竜洋白羽には馬の関係でしばし
  ば行ったものと推察されます。
 F馬の関係で市野氏はすごく出世したようですが、馬の買い付けで遠方へ
  行き、情報を収集して家康に伝えたものと推察されます。
 G市野家と松島家が婚姻により姻族となりますが、これは山下(小笠原)
つながりではないだろうか……。
 H松島家の家譜を見ると、4代目の妻が山下家から来ており、、家紋は
  「丸一」または「丸に三蓋菱」と書かれております。
 I同じく五代目の妻も山下家から来ており、、家紋は「丸一」と書かれて
  おります。
 J四代目の説明書きの後に、人別長のことが書かれており、譜代下人が
  四十三人いて、白羽村の山下氏は「丸一小笠原」紋と書かれております。

 松島家の資料にはまだまだ謎がありますので、今後、市野氏の家譜も読み
直しながら、青山氏との関係についても言及したいと思います――

  
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月06日 22時50分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


>小笠原長清は、19才まで京で「平知盛」に仕えていたという。
>小笠原長清の妻は、「平重盛」の娘である。
>長清は、平氏を裏切り、源頼朝に馳せ参じた。


頼朝の挙兵以前の平家全盛期には日本中の殆どが平家になびいていた時ですから、
各地の豪族は子弟を京都に送って平家に仕えさせていたでしょうね。
頼朝が挙兵すると不満を持っていた各地の豪族は平家に反旗を翻した。

                                        当たり前ですね。


それにしても驚きました。なるほどね〜



勅旨牧

大室牧(水内郡)
笠原牧(高井郡)
高井牧(高井郡)
新張牧(小県郡)
塩原牧(小県郡)
望月牧(佐久郡)
長倉牧(佐久郡)
塩野牧(佐久郡)
猪鹿牧(安曇郡)
埴原牧(筑摩郡)
大野牧(筑摩郡)
岡屋牧(諏訪郡)
山鹿牧(諏訪郡)
萩倉牧(諏訪郡)
平井手牧伊那郡)
宮処牧(伊那郡)
埴原牧に牧監庁を併設。左馬寮に属し、後に左馬寮領の荘園となった。



御厨

芳美御厨(高井郡)
保科御厨(高井郡)
布施御厨(更級郡)
富部御厨(更級郡)
村上御厨(更級郡)
仁科御厨(安曇郡)
矢原御厨(安曇郡)
麻績御厨(筑摩郡)
会田御厨(筑摩郡)
いずれも伊勢神宮領。




守護

藤原行道 (1156年頃?)
藤原顕賢 (1157年)
藤原是憲[33]
源重成 (1159年)
藤原伊輔 (1160年)
藤原親経 (権守) (1160年)
藤原伊輔 (再任) (1163年)
藤原隆雅[34] (1168年)
藤原実教 (1172年)
大江泰友 (権守) (1174年)
大中臣盛実 (権守) (1178年)
藤原盛長 (1179年頃)

         藤原景清 (1180年)                            モロに平家の武門を担当していた伊勢藤原氏(伊藤さん)

                                               小笠原長清の不満はこの辺りにあったのかもですね。自分だって守護に選ばれる資格があるのに、と。

                                               妻が重盛の娘なんだから、と。


大江成棟 (権守) (1182年以前?)
藤原能成 (権守) (1183年)
加々美遠光[35] (1185年)
吉田資経 (1190年)
源為公(年代不詳)
源有房 (年代不詳)



信濃介

紀某 (1055年頃?)

平康清 (1176年)                              苗字からして平家ですね                               
中原国盛 (権介) (1181年)
藤原良宏 (権介) (1181年)
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月06日 22時56分50秒 ) パスワード

そうしますと  小笠原家・松嶋家・山下家  は、
ずっとずっと前からの繋がりだったのでしょうね。

そこへ市野氏との繋がりも出来た。


我々現代人は父系の名字から判断するから分からなくなりますが母の実家を考えると
本当に日本人は何重にも繋がっていますね。


本当に  表層的なことからは  何も分からないということですね。


ありがとうございました。
[44]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月07日 16時34分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松島氏の課題も、謎の解明に向けて少しずつ進めております。
 松島氏と山下氏(小笠原氏・大友氏)を結ぶキーワードは、「馬」であり
ます。
 
 市野氏の課題も、その謎の解明に向けて少しずつ進めております。
 市野氏と徳川家康を結ぶキーワードも、また「馬」であります。

 もし松島氏が伊那や信濃、あるいは竜洋白羽と関係するなら、松島氏と
市野氏を結ぶキーワードも「馬」になると思います。松島氏の祖先と思わ
れる藤氏市や小笠原氏と弓馬は切っても切り離せないものだからでありま
す。

 昔のことで記録に残されていないものは、今となっては全くわかりませ
んが、戦国時代には、馬の数は極端に言うと人と同じくらい多かったので
はないかと推察いたします。従って、市野庄にも羽鳥庄にもある程度の規模
の牧があって、馬を飼育していたのではないか、と推察するところでありま
す。

 今のように自動車のない時代、まさに戦力の優劣を決めるのは「馬」の
数、それも訓練された馬の数であったからであります。馬は戦車であり、
トラックであり、乗用車であり、時にはオフロードバイクに相当するからで
あります。とにかく「馬」なくしては、戦闘は成りたたなかったと言っても
過言ではなかった思います。

 馬について、突っ込んだ考察というものは、余り見られません。これはど
ういうわけでありましょうか。馬には何か隠された秘密があったのかも知れ
ません……いやあるはずです!
 馬についての情報は、門外不出の掟があったのではないか……この辺の裏
情報が出て来るとおもしろいのですが――
[45]三つ柏服部さんからのコメント(2016年10月07日 21時01分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 明日は、関の刃物市に行ってきます。改めて、「関の孫六」の歴史を
探求してみたいと思っています――。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月07日 22時31分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


>関の孫六

関の孫六で連想するのは明智光秀の一族とされる明智秀満です。
                       光秀とは従兄弟関係とか、
                       光秀の娘=荒木村重の息子の村次の妻だった女性=を妻にした人とか言われています。


明智秀満は元は白銀師=刀のハバキを作る人=で、遠縁の光秀の部下になったと読んだことがあります。

人間的になかなか立派な人だったと。



関の孫六=美濃=という連想からでは「カミソリの貝印」が浮びます。

子供の時はもっぱら貝印のカミソリで顔を剃って貰ってました。
小学生の時は、貝印のカミソリはすっごくシャープで切れ過ぎで自分でコワゴワ剃ってました。
その後は資生堂のカミソリを使ってました。安心感がありました。


で、今は?
ということで調べて来ましたら  KAI だって。笑
やっぱり貝印でした。

近所の虹屋マーケットで買い占めてたくさん在庫があります。顔は1つしかないので一生分どころか二生分も三生分も使えそうです。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月07日 22時35分05秒 ) パスワード

ハバキ:ハバキ(鎺・鈨・はばき)とは日本刀の部材の一つで、刀身の手元の部分に嵌める金具。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%90%E3%82%AD


ハバキは刀身が鞘から・鞘が刀から抜け落ちるのを防ぎ、かつ、固定する機能がある。

刀身は鞘の中で棟(むね)とハバキによって支えられ、他の部分は宙に浮いている状態で保持される。

白鞘・拵えともにハバキを基本にして製作し、鐔などの各金具もハバキに依存する。
そのため、日本刀の付属金具の中で、もっとも重要な役目を持つ。

ハバキの形状は太刀ハバキ・一重ハバキ・二重ハバキに大別される。



古くは、刀匠が鉄で作っていたが、のちに専門の白銀師(しろがねし・ハバキ師)によって、素銅、赤銅、銀、金などで製作される。
時代を経るに従い装飾性が増し、現在は、銀や金で作られる場合が多い。
銀は無垢が多いが、金は銅で下地を作り薄い金を着せた金着せハバキが多い。


江戸末期までは、資力や刀身の価値に合わせて、銅無垢、銅地銀着、大名家の蔵刀でも実用性を考慮した銅地金着、新刀や新々刀には一重、古刀には二重などが慣例であった。

近年は、銀無垢、金無垢、一重、二重は個人の好みで新調されることが多く、ハバキ鑑定[1]という言葉もあまり使われない。


[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月09日 05時52分13秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101564.html
スレッド80をご用意致しました。
キリの良いところでどうぞ。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月09日 06時47分19秒 ) パスワード

スレッド81
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101566.html
長上郡の服部氏族LXXXI(M氏家譜22 M氏の秘密)も立てました。

松嶋氏の出自の謎を解こうとなさる三つ柏さんの労作を埋もれさせたくないので。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年10月09日 06時53分27秒 ) パスワード

途中レスナンバーが飛んでいるのはローマ数字とアラビア数字がこんがらがりまくってワケ分からなくなったせいです。
大汗

新しいスレッドを立てようといくつかのスレッドを行き来しているうちにワケ分からなくなりました。
それでスレ主のお名前の所もこんがらがってしまいました。



脳は本来3つ同時にこなせるそうですが
歳と共に脳は同時にアレコレ考える事が出来なくなるという証左であります。


あ〜
恥かしい
[54]箱柳永田さんからのコメント(2016年12月23日 02時31分10秒 ) パスワード

 三つ柏様 あを様

天領の管轄は磐田今泉代官所――代官:秋鹿氏、大草=永田=
長田=永井氏。
 さらに、それらを統括する幕府代官頭:小栗氏、伊奈氏、大久保(長安)氏。

 伊奈氏の家老に永田(埼玉土屋)がおります、川湊の石組や用水の術に
 優れているのは、矢作川の舟運に関わった技術者集団のまとめ役を
 長田永田が関わっているからだと考えています。
  大浜港には古くから問丸があり、三河湾ではここだけです。
 問丸のある港と無い港の差はサービスエリアとパーキングエリア以上の
差があります。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月24日 06時34分55秒 ) パスワード

>問丸のある港と無い港の差はサービスエリアとパーキングエリア以上の差があります。


知らなかった
感謝!



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%8F%E4%B8%B8

問丸(といまる)

年貢米の陸揚地である河川・港の近くの都市に居住し、運送、倉庫、委託販売業を兼ねる組織。
問(とい)とも呼ばれる。


概要

平安時代後期から鎌倉時代頃から組織され、取扱うのは主に荘園からの年貢米。その由来については不明な点が多いが、荘園にあった納所や木守など物資の管理に従事していた人々がその物資を輸送する業務を行ったり、反対に河川や港で物資の輸送にあたっていた問職と呼ばれる人々が物資の一時的な管理業務にあたるようになったりしたと考えられている。

鎌倉時代末になると問丸は、港湾や荘園を所有する領主に隷属して仕事をするだけではなく、その港湾を利用する他の領主の要求にも応じ、年貢米の輸送管理を引き受けて領主への隷属を脱した。また、馬借などの陸上輸送とも連携・統率するようになり、仲介業者または運送業者として独立した地位を築くようになる。また、領主の依頼を受けて一種の関銭を徴収する者や領主の保護を受けて単独もしくは複数の問丸とともに座のような組織を結成して現地の流通に関する独占的権利を確立して港湾支配を確立した者もいた。

後には、様々な展開を見せ始め、一般の商品も取り扱うようになって室町時代には問屋へと展開するものや、逆に独占的支配の特権によって他者の流通を妨げる存在に成長したために戦国時代後期に入ると「諸問諸座一切不可有之事」とした楽市楽座政策によって、同じく独占的な要素を持つ流通組織とみられた座とともに解体に追い込まれたものもある。背景として中世後期に流通機構の分化が進んで、流通・輸送における段階的分業が進んだ影響が大きいとされている。その中で総合的な流通管理を断念して問屋や輸送業者、商人宿など分化の一翼を担う存在になったものには規模は縮小しても生き残ったものが存在し、反対に従来の特権を維持しようとしたものは、大量の物資調達を必要とする「戦国時代」という状況下において全国市場とのつながりを試みる領主権力との摩擦を生みだして解体させられることになったと考えられている。
[56]箱柳永田さんからのコメント(2016年12月24日 23時44分22秒 ) パスワード

 あを様
 問丸には船の製造・修理及び消耗品(錨・帆・綱)も必要で、大浜は錨の製造はできなくて亀崎から購入し、常備していたようです。
 永井直勝の弟の庶子(永井)で船の修理・販売する者が幡豆のあたりで開業し
 その工場の暖簾分けでは、永井を許していたようで、三重愛知に数軒はあるそうです。残念ながら家紋は聞きそびれました。 
 
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