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 投稿番号:101553 投稿日:2016年09月02日 08時45分29秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について36

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様
数々のありがたい御教示、心より感謝申し上げます。

平川家についても、すでに「36」となりました。

今後とも、どうぞよろしくお願い致します。

こちらは
平川家について35 コメント68より続きます(^'^)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101544_67.html

[1]三つ柏服部さんからのコメント(2016年09月02日 11時20分09秒 ) パスワード

ミヤハラ様

 ミヤハラ様のおかげで、遠い存在であった九州が、至近距離にあるように
感じられてきました。特に「相良」「相良氏」はさらに身近に感じさせてく
れます。
 でも、飛行機のない時代、相良氏はいったいどうやって移動したのでしょ
うか……? 

 九州の地図を見たりしておりましたので、おかげさまで九州の地理もわか
ってきました。志賀島、名護屋、大宰府、島原、天草……等の位置について、
今までの把握がなんといい加減であったかに気付かされました。

 九州には古代からの歴史が色濃くあるということもわかってきました。
 歴史の宝庫でもあります。ますますのご活躍とご健勝をお祈りいたします。
[2]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月02日 11時45分12秒 ) パスワード

平川家について36の一番最初のコメントは
「球磨」という土地で見えた事 を書かせて頂きます。
今まで私が「平川家について」で調べてきた事は全て上記の「地縁」によるものだと痛感したからです。

私が調べていた系・・それは「氏族」ではなく「種族」の繋がりだった・・

スレッド「永田姓で抱き茗荷紋の平家の末裔」で永田ニワトリ様にご紹介させて頂いた「球磨」の遺跡について、勝手ながらこちらに転記させて頂きます。

====================================================
私の住む集落には”切畑”という場所に縄文遺跡があります。切畑には平景清公の姫君のお墓もあります。
時代は下りますが、宮原城跡(山城)の頂上からは弥生時代の須恵器で造られた骨蔵器が見つかりました。(拝見したのですが、中が青く輝きとても綺麗でした)
すぐ近くには風の神様が鎮座。もしかしたら、風葬の風習が”いずこ”から伝わっていたのかな?な〜んて空想したりしています(^'^)

他に私の住む現あさぎり町の免田地区(旧免田町)では才園古墳や本目遺跡があります。
本目遺跡で見つかったのが有名な”免田式土器”です。
本目遺跡では三世紀頃に中国で造られた鏡で造られたペンダント(破鏡、方格規矩四神鏡)等が出土しています。古墳時代前期(1世紀〜4世紀)にかけての遺跡です。
才園古墳では三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられた鎏金獣帯鏡が出土しています。
鎏金獣帯鏡の他、黄金の馬具等も出土しています。
http://wajinden.com/item/%E6%89%8D%E5%9C%92%E5%8F%A4%E5%A2%B3/

こちらのサイトより
中国の鏡の研究者である王士倫氏によると、三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられたものという。鍍金鏡は中国でもたいへん貴重なもので、日本では3枚しか出土していない。(一貴山銚子塚古墳:福岡県糸島市、城塚古墳:岐阜県三野)相当の実力者の墓とみられる。
上記の王士倫氏が書かれた鑑定書?は以前、私のブログにアップしていました。
中国本土で発見されたならば、国宝級の鏡であると書かれています。

上記の鎏金獣帯鏡の内区には12、外区に32の銘文があり、「この鏡を持てば諸侯に抜擢される」と、極めて珍しい内容の呪文が刻まれています。
サイト 才園古墳出土鎏金神獣鏡と百済・南朝 より
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51568075.html

その呪文とはこちらです。
http://www.netpia.jp/history/ryukinjutaikyo.htm

百済や南朝・・
この鏡は中国南朝の諸国豪族へ下賜した鏡で、日田市ダンワラ古墳の朱龍紋鉄鏡に匹敵する豪族が九州南部にいたことを証明。
南朝は、百済とのえにしが非常に深く、人吉から宮崎南部あたりまでの氏族が、百済を通じて、あるいは直接、長江河口の南朝と交流したあかしと考えてさしつかえない。
(サイト 才園古墳出土鎏金神獣鏡と百済・南朝 より)
==================================================

(p_-) と私はコメントさせて頂きました。
球磨の古代・・

日本の苗字七千傑様より頂いていた御教示
私の住む旧宮原村(旧岡原村、現あさぎり町)にそびえる山「黒原山」について
「黒原山」・・九州アイヌ系黒目(久米)族、漁猟。部族守護山であり権利の象徴。
旧上村(現あさぎり町)にそびえる白髪岳について
「白髪岳」・・辰韓系種族の権利を示す部族守護山。
※辰韓系種族
ウィキ記述 辰韓より
辰韓(しんかん、紀元前2世紀 - 356年[1])は、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、日本海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。
(p_-)・・後の新羅に繋がる「辰韓」
記紀の記述で「熊襲」と表記された勢力の背後には新羅があったと記述されています。
「白髪岳」はその巨大勢力の部族守護山であり権利の象徴であった・・

しかし・・
現あさぎり町の免田地区(旧免田町)才園古墳(さいぞんこふん)。才園古墳・・6世紀-7世紀
三国志時代(3世紀)に中国の江南地方(呉の領域)でつくられた鎏金獣帯鏡が出土。
転記させて頂いた記述によると
サイト 才園古墳出土鎏金神獣鏡と百済・南朝 より
この鏡は中国南朝の諸国豪族へ下賜した鏡で、日田市ダンワラ古墳の朱龍紋鉄鏡に匹敵する豪族が九州南部にいたことを証明。
南朝は、百済とのえにしが非常に深く、人吉から宮崎南部あたりまでの氏族が、百済を通じて、あるいは直接、長江河口の南朝と交流したあかしと考えてさしつかえない。
サイト 族倭人伝 才園古墳より
http://wajinden.com/item/%E6%89%8D%E5%9C%92%E5%8F%A4%E5%A2%B3/
中国で3世紀につくられたものが、中国国内で伝世した後、球磨郡にきたのか、それとも3世紀ごろに球磨郡にやってきて、伝世したのか。(出土品は熊本市立博物館が所蔵)

さらに サイト才園古墳出土鎏金神獣鏡と百済・南朝 より
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/51568075.html
才園古墳出土装飾品をつぶさに見ると、百済系耳飾、倭人系耳飾が同居している。

百済と中国南朝・・に繋がる”球磨”
辰韓(しんかん)が後の新羅と重なり、馬韓(ばかん)は後の百済と重なる・・
「相当の実力者」のお墓であった才園古墳。(6世紀-7世紀)
才園古墳に眠る「相当の実力者」は百済と中国南朝に繋がっている・・
記紀に書かれた「熊襲」と呼ばれた勢力に方々は新羅と繋がっている・・
すなわち!全く別の勢力である!という事です!!

※鎏金神獣鏡
中国で3世紀につくられたものが、中国国内で伝世した後、球磨郡にきたのか、それとも3世紀ごろに球磨郡にやってきて、伝世したのか。???

百済と中国南朝について・・記述を見つけました。
百済 ウィキの記述より
中略・・
中期:熊津時代(475–538年)[編集]
王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。
南朝・倭国との外交関係[編集]
東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。

(p_-)中国南朝や倭国との外交関係を強化を図った方が「東城王」
偶然にも良峰(良峯)氏の祖となる良峰安世の母「百済永継」。この方は24代百済国王「東城王」の後裔と言われている・・
「東城王」(とうじょうおう、生年不詳 - 501年)

私は、今回、あらためて日本の苗字七千傑様の 仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」を拝読させて頂きました。
やはり、全ては「こちらに記されている!!」と感じました!!
仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/hypothesis.htm
さらに【神別総括系図】
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/029/02900f.htm
※高天原・・1世紀頃から朝鮮半島南半の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)連合帝国の皇帝天御中主尊(馬韓王)に始まる王家が君臨する帝国

天御中主尊を御祭神とする「妙見宮」。球磨において初めての創建となった・・
「稲積妙見」(稲積神社)
稲積妙見(稲積神社)のすぐ近くにうちの宮原家がありました。そして200メートル程先には祖母の実家「平川家」。さらに100メートル程先が「新堀家」。

このように、様々な「根本」と為る事を理解して・・
やっとやっと気が付いたのです。

以前より日本の苗字七千傑様から頂いていた御教示
系図は・・銀河系と同じである。

私が今まで調べていた事を平安時代初期まで遡ったその「銀河系」の中心点にあった人物とは
百済永継 この方でした。

良峰姓はもとより、藤原北家全ての氏族に繋がり、清和源氏の氏族に繋がり、平高望王の後裔の氏族に繋がり、さらには藤原南家 藤原為憲(工藤氏・相良氏の祖)に繋がり・・
上記の氏族の平安初期の最初の銀河系の中心点となる人物は「百済永継」この方です!
「百済永継」この方がいなければ・・上記の系、特に良峰氏・藤原北家全ての氏族・清和源氏の全ての氏族さらに・・平良望(国香)の系(伊勢平氏・常陸平氏・岩城氏 他)平良兼の系(水野氏・永井氏・長田氏他)・平良将の系(相馬氏他)・平良繇の系さらに桓武平氏良茂流の「三浦氏」「梶原氏」他は
決して存在する事が出来なかったのです!!
上記の系を繋げる全ての出発点、銀河系の中心点は「百済永継」この方です!
もし「百済永継」この方がいなければ・・上記の系に繋がる方々は私も含め、現在、この世には存在していなかった・・という事です。

やっとやっと気が付きました!!
おそらく皆様は私が何を言っているのか???とお思いの事だと思います。
詳細は次のコメントで書かせて頂きます。

あと・・もしや?ですが良峰氏と「丹羽臣躬依」の関係に近づいたかな?と思われる事にも気が付きました(..) 「宮原氏」と「良峰氏」の縁に島田氏も繋がっているようです。(p_-)

では(..)
[3]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月02日 16時45分25秒 ) パスワード

三つ柏服部様 今日は(^'^)

三つ柏服部様から頂いたご教示「長田氏・永田氏と永井氏の繋がり」。
三つ柏服部様の御教示で、私は今後書かせて頂く”大きな輪の中心点”に気が付く事が出来ました。
本当にありがとうございます(^'^)

〉遠い存在であった九州が、至近距離にあるように感じられてきました。

私は、逆に遠い存在であった静岡県が至近距離にあるように感じられてきました(^'^)

まだまだ、地震はおさまりを見せていませんが、ぜひ、安定したら九州・そして球磨・人吉にお越しください。(^'^)

お待ちしています(^'^)
[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月02日 17時32分38秒 ) パスワード

皆様 あらためての登場です(^'^)

コメント2で書いた
〉私が今まで調べていた事を平安時代初期まで遡ったその「銀河系」の中心点にあった人物とは 百済永継 この方でした。

この事に気が付いたきっかけは皆様方から頂いたありがたいご教示の数々。
そしてもう一つ
韓国ドラマ『階伯』(ケベク)を見たからです(p_-)
(おんやっ??何処から笑いながら椅子からズドンと落ちた方がいらっしゃったような(?_?)・・でも私はいたって真剣です(p_-))
韓国の宮廷ドラマが大好きな父が現在BS放送で13:30から再放送されている『階伯』(ケベク)を見ていて、私も一緒に見ています。(韓国の宮廷ドラマは今まで全く見た事がありませんでした(..))
http://www.bs4.jp/drama/gyebaek/outline.html

そこで、初めて日本の苗字七千傑様の【百済氏/和氏】姓氏類別大観に記されている
※白村江の敗戦により義慈王の子、禅広は日本に帰化して持統天皇7年に一族は百済姓を賜わる。
上記の「義慈王」が、ドラマ『階伯』(ケベク)の中のウィジャ皇子である事がドラマを見てやっと解ったのです(p_-)
うんっ??何だか静岡県方面からワッハッハ〜と言う笑い声や「トホホ・・」と言う嘆きのお声が聞こえてきたような・・でも私はいたって真剣です(p_-)
さらに大阪方面からは「やっと見たのね(^'^)」と言う白石様のお声が聞こえたような・・でも私はいたって真剣です(p_-)

ドラマ『階伯』(ケベク)のムジン将軍が大好きな私は・・違った(ー_ー)!!
ドラマ『階伯』(ケベク)を見て白村江の戦に至る百済と新羅の戦い、そして百済王朝に”やっと”興味を持った私は

日本の苗字七千傑様の【百済氏/和氏】姓氏類別大観をじ〜っと見つめる事になりました。
そして、自分の調査を平安時代初期まで遡った際の「始まりの中心点」が理解出来たのです。
日本の苗字七千傑様の【百済氏/和氏】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03013.htm

次のコメントでは”お笑いなし”で書かせて頂きます(p_-)

ただ・・今から夕飯を作るのでコメントは明日になるかもしれません。すみません、皆様、お待ち下さい(..)

しかし・・何の興味も持とうとしなかった私が「ドラマ」を見た事はきっと何かの「御導き」だと思います。

では(..)
[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月03日 17時01分42秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

台風が近づいていますので、十分に気を付けてはいますが、もしや停電になったらコメントが書けないので、今日は精力的に書かせて頂きます(..)
まず、訂正をさせて頂きます。
昨日のコメント
〉藤原北家全ての氏族  訂正します 藤原北家の中の藤原冬嗣・藤原真夏を祖とする氏族です。
申し訳ありませんでした(..)

球磨の古代。新羅・百済・中国南朝との繋がり・・後世の地縁よる「氏族」

平城京・長岡京 そして平安時代初期までの時代、比較的新しい時代ではありますが(弥生時代以降を新しい時代と感じる今日この頃です(..))
この時代まで遡ってみると、今までの私の調査で登場した系を繋げる、言いかえれば銀河系のように広がった系の中心点となる人物が解りました。(この時代からもっと遡る事は今後の課題です(..))
その人物とは「百済永継」

当初藤原内麻呂の妻となり、長男真夏、次男冬嗣を儲け、その後桓武天皇の後宮で女嬬となり、桓武天皇の御子である良峰安世の母となった「百済永継」。
百済永継とは31代百済国王「義慈王」の後裔もしくは24代百済国王「東城王」の後裔、となる方です。
確かに
後ほどご紹介する『百済の会アカデミー:歴史講座 「百済と百済王」百済王家と藤原南家・北家』では昆支王の後とあり
なお且つ
後ほどご紹介する『百済の会アカデミー:歴史講座 「百済と百済王」第4部 大仏建立と百済王敬福』記載の百済王系図では義慈王の子、禅広の後裔に永継という記載があります。
※良く解りませんが、個人的には昆支王もしくは24代百済国王「東城王」の後裔なのかな・・と。

百済永継の子は藤原真夏・藤原冬嗣・良峰安世 この3人の方々です。
日本の苗字七千傑様の《藤原北家》姓氏類別大観を拝見すると明白で藤原真夏・藤原冬嗣以降の系は「百済永継」に全て繋がる方々です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02000a.htm
藤原冬嗣以降の系は後ほど詳しく書きますが、まず藤原真夏の系を見て下さい。
【藤原氏真夏流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02016.htm
※堂上家としては、日野家、広橋家、柳原家、烏丸家、竹屋家、日野西家、勘解由小路家、裏松家、外山家、豊岡家、三室戸家、北小路家の12家
さらに【六角氏】【四条氏】【坊門氏】【服部氏】【内空閑氏】【牧野氏】【古賀氏】
さらに《服部氏/内空閑氏》そして《松波氏》姓氏類別大観を見て下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02016a.htm#002
こちらで藤原利仁流齊藤氏さらに長井氏に繋がっている事が解ります。
上記の方々は辿れば藤原真夏すなわち「百済永継」へと繋がっています。

サイト それぞれの四季 歴史の中の女性たち 百済永継(下)/尹美恵 氏 より
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2000/sinboj2000-3/sinboj20000320/sinbo00032054.htm
摂関家として「王権」に対抗する存在となった藤原北家。その北家興隆のキャスティングボードを握った百済永継は、百済王明信と同じく百済王の流れをくむが、明信とは系譜を異にする。

 百済王氏が第31代義慈王の子善光(631年に渡来)を始祖とするのに対し、永継は「日本書紀」によると第21代蓋鹵王の弟の昆支王(461年に渡来)を始祖とする。昆支王の子孫は、河内国安宿郡(現在の大阪府羽曳野市・柏原市あたり)を本拠地として繁栄したが、この河内飛鳥には今も飛鳥戸神社が鎮座し、祭神を百済昆支王とする。また、近辺には蘇我氏系の大王の陵墓も点在している。

 永継の二男藤原冬嗣の娘順子は、仁明天皇との間に文徳天皇をもうけ、文徳は順子の兄良房の娘明子との間に清和天皇をもうけている。つまり、清和は父方にも母方にも永継、ひいては昆支王の血が流れていることになる。そのためか、清和即位の翌年、人臣初の摂政となった外戚良房の意向でもあろうが、それまで無位だった飛鳥戸神社に正四位下が授位されている。

 しかし、時代は下り、藤原氏に代表される貴族政治は終焉を迎え、代わって武士が歴史の表舞台に躍り出る。この時河内飛鳥は、河内源氏の本拠地となった。

 河内源氏は清和天皇を祖とする清和源氏の流れで、とりわけ武門の誉れとして名高い八幡太郎義家が大活躍する。以後、「武士の長者」としての河内源氏が源氏の本流となり、1192年にはその末裔頼朝が鎌倉幕府を開く。

 義家の弟新羅三郎義光は、東国に赴き、甲斐源氏の祖となった。  (歴史研究者)

(p_-)
※清和天皇は父方にも母方にも百済永継、ひいては昆支王の血が流れていることになる。

日本の苗字七千傑様の【清和源氏総括】姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01000.htm

一目瞭然ですね・・
越智姓河野氏にもこちらから繋がっていると言う事ですね・・
ただ中でも清和天皇皇子「貞保親王」。母は藤原長良の娘。藤原長良は藤原冬嗣の長男です。
「貞保親王」の後裔となる「滋野氏」「海野氏」(後の真田氏に繋がる)「禰津氏」「望月氏」「増田氏」他
清和天皇は父方も母方も百済永継に通じ、さらに滋野一族の祖となる貞保親王の母も藤原長良の娘、すなわち百済永継の曾孫となる方でした。

※平賀義信は清和源氏義光流(平賀氏)
※球磨の平安時代末期に平河氏建立の荒田寺「木造釈迦如来坐像」に名を残された川野(河野)氏。
※相良頼景が球磨多良木に来られた時の随行者であった「望月氏」・・

では・・相良氏はどうだったのか?
藤原為憲 工藤氏の祖となる。工藤氏からは、伊東氏、伊藤氏、吉川氏、鮫島氏、二階堂氏、相良氏などが派生し、また子孫に工藤茂光、工藤祐経などを輩出した。同時に平将門・平貞盛の従兄弟にもあたる。
藤原為憲の母は平高望(高望王)の娘です。
平高望(高望王)の正室は・・藤原良方(藤原冬嗣の三男)の娘。この方も百済永継の曾孫となる女性でした。
藤原為憲の母の生母は不明とありますが・・

平高望(高望王)の正室「藤原良方(藤原冬嗣の三男)の娘」が産んだ方々は
@長男:平良望(国香)(?-935) - 子孫は伊勢平氏・常陸平氏
A次男:平良兼(?-939)
B三男:平良将
C男子:平良繇(又は良孫)  ウィキより

日本の苗字七千傑様の【桓武平氏総括】姓氏類別大観 を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01100.htm

@長男:平良望(国香)この方の後裔は伊勢平氏・常陸平氏 等
伊勢平氏はもちろんですが、常陸平氏がありますね・・桓武平氏繁盛流

日本の苗字七千傑様の【桓武平氏繁盛流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01113.htm

こちらから《岩城氏》姓氏類別大観に進むと
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01113d.htm
こちらで「椎葉氏」が見えて来ると言う事ですね・・
やっと解りました。椎葉氏も藤原冬嗣・・すなわち百済永継へと繋がっていたのでした・・

A次男:平良兼(?-939)
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良兼流】姓氏類別大観 を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01115.htm
※平高望の四男、良兼に始まり尾張国長田荘司の家系であるが、長田荘の所在は不詳。
この流れは桓武平氏長田流とも呼ばれ、幕臣永井氏と長田氏は長田親致の後裔を称する。
長田氏の祖である平良兼の母は「藤原良方(藤原冬嗣の三男)の娘」すなわち百済永継の曾孫娘であったと言う事が解りました。

さらに日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良兼流】姓氏類別大観をじっと見ると「良茂流へ」と見えます。

日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良茂流】姓氏類別大観 に進むと
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01117.htm
鎌倉氏・梶原氏・大庭氏・豊田氏・長江氏・長尾氏 そして・・良文流三浦氏が見えます。
なるほど・・こう繋がっていたのか・・

日本の苗字七千傑様の《三浦氏》姓氏類別大観 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116e1.htm

そうか・・こう繋がっているのか・・
と言う事は梶原氏も三浦一族(佐原氏ほか)も・・みな「藤原良方(藤原冬嗣の三男)の娘」すなわち百済永継の曾孫娘に繋がっていたのですね・・

B三男:平良将
日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良将流】姓氏類別大観を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01114.htm
こちらで相馬氏に繋がるのですね。(千葉氏・・)
平将門。祖母は「藤原良方(藤原冬嗣の三男)の娘」すなわち百済永継の曾孫娘だったと言う事が解りました。

所で・・
私の調査で頻繁に登場する【桓武平氏良文流】が何故登場しないのか??
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm
平良文の母は藤原範世娘(藤原師世娘とも)

妙に気になって調べたのですが『日 本 史 疑:平』というサイトに
※『二中歴』の記す平良文の母方祖父は瞭らかに後世の粉飾であり、しかし、日本史の真相を示唆する重大な点は藤原済時が御堂関白の兄として・・
という記述が・・
(..)『二中歴』の記す平良文の母方祖父は瞭らかに後世の粉飾であり・・????
真相はよく解りませんが・・しかし・・ここまで色々繋がっている中【桓武平氏良文流】が登場しないのは、私も何だか・・不思議な感じがします・・(..)

まだまだ続きはありますが、ここで皆様にご覧頂きたい記述があります。
こちらのコメントでご紹介した
百済の会アカデミー:歴史講座 「百済と百済王」第6部 百済王家の衰退とその背景 ――百済王家と藤原南家・北家―― です。

リンク出来ませんから 検索ワードに「第6部 百済王家の衰退とその背景」と入力すると必ず検索にあがってきます。

こちらに
※2.北家の台頭
藤原三家の中で北家が台頭した背景には、桓武天皇が百済王家に対して「百済王は朕が外戚である」と述べた言葉を、自らに置き換えて実践した藤原良房の強引な策略がありました。良房は権謀術策によって天皇の外戚である地位を築き上げたのです。
しかしその基礎を作ったのは良房の祖父内麻呂であり父冬嗣でした。

など、他転記は出来ませんが、「教科書には決して書いていない」上記に関するとても興味深い記述があります。

今日は
球磨の古代。新羅・百済・中国南朝との繋がり・・後世の地縁よる「氏族」と百済永継の関係を御紹介させて頂きました。

続きはまだまだあります。
もちろん良峰氏は
良峰安世の子である良峰宗貞の後を神武天皇の後裔である「丹羽臣躬依」の子が継いだと推測されている事は重々承知しています。

しかし・・私が百済永継という方に着目した事によって
百済姓「宮原氏」・良峰氏・島田氏・藤原冬継・菅原氏の関係に気が付く事が出来ました。
予告と致しましては
藤原冬継の七男藤原良仁の母は・・島田村作の娘です(..)

では(..)
[6]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月04日 11時21分44秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

台風が近づいています。停電になっては困るので色々書きたいのですが・・

コメント5の続きを書く前に(..)

私、とても重要な球磨の古墳を御紹介する事を忘れていました(@_@。トホホ

平川家について23 コメント68・69で一度ご紹介していた「京ヶ峰横穴墓群」と「大村古墳群」です。
この二つの古墳群には日本で最古の「菊花紋」「車輪状紋」が施されていたのでした!!
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101441.html

あらためてご紹介を(..)
まずは「京ヶ峰横穴墓群」(錦町)
紹介されているサイトを(..)
http://obito1.web.fc2.com/nisiki.html
球磨川に架かる鉄橋の手前にあります。3基からなりますが、1、2号墓が並んでいて、3号墓はどこかわかりません。石室構造から1号墓が六世紀前半、2号墓が六世紀後半と時期差があります。1号墓は羨道長0.4m、玄室長2.5m、幅2.35m、高さ1.75m、平面は方形でコの字形の屍床があります。天井はドーム状ですが、軒先を表現しています。装飾は二ヶ所にあり、1号墓入口の向かって右側の外壁に大小二つの靱の浮彫、左側の外壁に盾、剣、車輪状紋の浮彫が残っています。靱の一部は線刻彩色(赤)で表現されています。2号墓はドーム形で玄室長1.83m、幅1.92m、高さ1.16m。状態は良くなく、外壁に盾の浮彫がありますが、後世のものとされているようです。

(p_-)「右側の外壁に大小二つの靱の浮彫、左側の外壁に盾、剣、車輪状紋の浮彫」

熊本県錦町の古墳
http://homepage3.nifty.com/obito/nisiki.html

さらに・・
YouTube アドレスをコピーすると見れます!よろしければ、後でじっくりとご覧ください(..)
https://www.youtube.com/watch?v=JI8CKYXDf7I

上記のムービーの中で専門家の方は
「靱の浮彫」について矢を入れる道具であり矢も彫刻されていると言われています。なお且つ、赤い色が塗られていて(酸化鉄)であるとのお話でした。
さらに実際の所いつの時代の古墳なのかはっきりとは解らないとの話がありました。
「盾、剣」は埋葬された方を「守る」ものだという事です。
でも、私が非常に気になったのは「車輪状紋の浮彫」についての説明でした。
「車輪状紋の装飾は全国の古墳の中で唯一、この場所にだけある。その意味は解らない」との事でした。
\(◎o◎)/!「車輪状紋の装飾は全国の古墳の中で唯一、この場所にだけある。」

さらに
京ヶ峰横穴墓群の「車輪状紋」の写真を大きくアップにして紹介しているサイト
画面をスクロールすると京ヶ峰横穴墓群の「車輪状紋」の写真が出てきます
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53137336.html
上記サイトより
『いずれも熊本県南部の古墳の5世紀!の菊花紋である。つまり日本最古の菊花紋だ。』
『ひとつは宇土地方の石棺。あとのふたつは人吉地方の横穴墓の「まよけ」として。
どれもあとから彫られたものでないことは明白である。
これらは5世紀に使われていた!

この謎を解くためにはなんともはるかな話だが、さらに数十世紀遡った中国雲南省まで行ってくる必要がある。
つまり黄河文明以前の世界で、これとまったく同じ「車輪状紋」が存在した。』

続けて『人吉の大村横穴14号古墳』
「円文の内側に菊花文状の模様を入れた車輪状文が陰刻されていました」
http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/50287365.html
上記サイトより
『横穴入口の上の壁面に鼓型の盾と、円文の内側に菊花文状の模様を入れた車輪状文が陰刻されています。更に、斜め前に張り出した左側の壁面には二個の靫を陰刻しています。陰刻ではありますが、彫りが深いのでほとんど浮彫に近いものです。』

写真のアップです
http://livedoor.blogimg.jp/warabite/imgs/b/3/b37e1ff8.JPG


平川家について23 コメント68・69で私が御紹介した「古墳群」を本日、まとめて再度ご紹介させて頂きました。

そして・・
平川家について23 コメント70では日本の苗字七千傑様からご教示を頂きました。

〉紋章の発祥はバビロニアであり、基本は円形(旭日、日足、菊花、車輪、輪宝)。
だから当然でしょう・
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#024
 
Y染色体D型頻度が高い日本は、バビロニアが起源と推察。
日本へは海路で到達したものが多く、山岳地帯移動組を遙かに凌駕。
山岳ルートは、パミール高原、チベット、雲貴高原、長江下流経由で朝鮮半島中南部、日本列島へ、こちらは稲の伝搬ルートでもある。
通過地域は残滓としてD型が、やや残存する。

日本の苗字七千傑様、皆様
私は、長い時間をかけてようやく自分の住む球磨という土地がどのような場所であったのか理解出来ました。

ここ『球磨』は
古代バビロニアを起源とする『方々』。時代は下り『九州アイヌ系黒目(久米)族』『魏』『辰韓系種族』さらに時代は下り『中国南朝』『百済国』『新羅国』
上記の方々に縁を持った土地であった。

激しい雷雨となってきました(..)
まだまだ、書きたい事は沢山あるのですが、一旦アップさせて頂きます。

では(..)
[7]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月04日 16時55分02秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

実は、衝撃の光景を目にしまして・・・
朝の続きを書こうとは思うのですが、頭が混乱しています。

先程まで、お寺で行われた先祖の法要に、父と、椎葉のおばと伺っていました。
家のお寺様は天井に各家の家紋が施されている事は以前書きました。
丁度わたしが座っていた場所から目に入ったのが
『三つ鱗紋』と『四つ目結紋』

あっ(p_-)!と思い、お経が終わった後にその二軒の家の紋の下まで行って「どちらのお家だろう?」とお名前を見たら・・
ぎゃあ〜〜〜〜!!ナンデスト!!\(◎o◎)/!
二軒とも家の親戚だったのです!!
個人情報なので、「姓」は一文字の暗号?で書きますが・・

『桑』の文字が付く親戚の家紋は・・・三つ鱗紋
『窪』の文字が付く親戚の家紋は・・・四つ目結紋

声には出せませんので、頭の中で『マジ!?マジカ!マジカ!??マジデスカ〜!!」と叫んでいました\(゜ロ\)(/ロ゜)/

何だ何だ今まで何をやっていたのだわたしは!!
気が付いていなかった〜〜〜〜!!
『三つ鱗紋』と『四つ目結紋』が、めちゃくちゃ近くに・・親戚の家紋として存在していた・・!!
四角と三角が頭の中でグルグルグルと回ってる〜〜〜(@_@;)

と言う事は・・
家の親戚には『丸に三つ引き両紋』と『三つ鱗紋』と『四つ目結紋』が存在している・・・と言う事に・・(@_@;)
(『四つ目結紋』ですが平になっていたか何だろう角が立っていたか・・家に帰ってきたら思い出せないのです(@_@。外は豪雨なので、今度お寺様に伺って再確認します(..))

さらに椎葉のおばさんからも衝撃の発言が!!
先日、椎葉のおばさんの実家『尾方家』が宮司をされている築地権現にお参りに主人と伺った話をして色々聞いていると、おばさんが
「実家の尾方家と永井家は親戚よ〜(^'^)」と\(◎o◎)/!
コレマタナンデスト\(◎o◎)/!
と言う事は・・
私の高祖母は永田家の娘で・・椎葉のおばさんの実家の尾方家は永井家と親戚・・
何だか間接的ですが・・繋がっています・・・(?_?)

築地権現のお話を書いたので思い出した事が一つ。
築地権現の横に建つ薬師堂の由緒紀を見ていたら・・
藤原幸水こと片岡勝仁と言う方の記述がありました。
球磨の片岡氏はどうやら「藤原氏」のようです(p_-)
さらに・・こちらの由緒紀には
創立未詳 時宗の久木崎寺(築地権現の別当寺)としてあったが今は廃絶し薬師堂が現在祀ってある。
と書かれていました。

椎葉のおばさんの実家の尾方家が代々宮司を務める、築地権現様の別当寺久木崎寺は『時宗』のお寺だったようです・・
こちらには築地五輪塔群があります。

あさぎり町公式ページより
http://www.asagiri-town.net/q/aview/52/330.html
整然と並んでいる石塔は、室町から桃山時代にかけて建立された五輪塔群。
永正13年(1516)銘が最古。
熊野座神社内にあった久木崎寺(時宗)に関わりのある住職や檀家の武士たちの供養塔で、散乱していたのを地元の有志が整備した。
なお熊野座神社本殿は宝暦10年の建築で昭和52年に茅葺屋根を改変。

椎葉のおばさんは
「権現様(熊野座神社本殿)は建物が古かろ〜(..)もうねぇ〜新しゅう(新しく)せんばんと(しなければいけない)やろうけどね〜(..)」と。
私は「おばさん!!新しくなんて!!ダメぇ〜!!あの風情が素敵なの!!」と。
おばさんは「本当ね?〜?」と。

球磨郡の南北朝時代以前建立の神社の中には、新しく建て替わって、「公民館」と併用されている神社様もあります・・(..)(私の住む旧岡原村の神社様も数か所(@_@。)
維持は大変でしょうがしかし、やはり風情が・・(@_@。

と言う事で、余談になりましたが
衝撃を受けた『家紋』というお話でした(..)
[8]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月06日 09時09分19秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

先日からの続きを書きたいのですが
昨日も所用で外出、本日も朝から外出しなければいけません(..)

しかし・・どうしても気になる事がありまして

平河氏の鎌倉時代における相論(訴訟・越訴)に関する記述についてです。

平河氏と大江広元の外孫になる「近衛中将実春朝臣」の相論。

かなり以前東大の鎌倉遺文フルテキストデーターベースで検索した、平河家文書の一部を転記していました。

その中の記述
住当所畢、不及尋例於他所者也、依実春朝臣之押領、良貞乍帯御下

『実春朝臣』

朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)。
近衛中将実春朝臣 が徳大寺実春であれば実際は「藤原朝臣」となるはずです。
(?_?)
ずっと気になっていたのです・・・

ところが・・
先日ご紹介した『百済の会アカデミー:歴史講座 「百済と百済王」第6部 百済王家の衰退とその背景 ――百済王家と藤原南家・北家―― 』
こちらに記載の
(付)百済王凋落についての一考察 (三松みよ子氏) より

飛鳥戸造一族の改賜姓は複雑をきわめ、最終的に御春朝臣で落ち着くまでに、三通りの賜姓がお
こなわれたもの考えられる。
・飛鳥戸造→百済宿禰→御春朝臣 ・飛鳥戸造→御春宿禰→御春朝臣
・飛鳥戸造→御春朝臣

(?_?)・・・
※『実春朝臣』
※『御春朝臣』

平河氏の相論・・訴訟状・・『実春朝臣』
もしかしたら・・ですが・・
『近衛中将実春朝臣』『実春朝臣』とは・・
近衛中将実春 と 『御春朝臣』 を かけて・・謎解きのようにしているのでは・・???

な〜んて考えたりしています。
(マタマタ(ー_ー)!!との声が・・・)

でも・・しかし・・だって・・(?_?)?????

では(..)
[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月07日 11時16分39秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

まず・・・
現代のDNA研究の結果『日本人と韓国人のDNA』は異なる。
これは、あくまでも「国民」単位で考えるとそうなるのでしょう・・
しかし「国王」の単位(恐れながら)では・・おそらく『DNA』は一致するのでしょう・・
この事を理解する上でやはり、日本の苗字七千傑様の『仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」』を熟読する事は必須だと痛感します。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/hypothesis.htm

日本の苗字七千傑様、申し訳ありませんが、私の頭をちゃんと整理する為に、勝手ながら一部転記させて頂きます。 すみません。

東夷伝韓条では韓の地理的位置を述べている。
 @韓は帯方郡の南、東西は海、南は倭と接している。
 A韓は三種類あり、馬韓・辰韓・弁韓という。馬韓は西にある。
 B辰韓は馬韓の東にある。
 C弁韓は辰韓と雑居している。弁辰の瀆廬国は倭と境を接している。
 濊伝に「濊は南方で辰韓と接している。」
 何と魏志倭人伝の海島の倭とは異なる。陸上国境が有ったのである。

※元々倭族とは中国雲南省の水稲農耕民で、黄河流域で黍などの畑作農耕民である漢族・苗族とは異なる。
※長江下流に移住した倭族の一部は山東半島へ北上して、春秋時代の呉滅亡(前473)を契機として朝鮮半島の中・南部に亡命したのである。
※ 前漢時代(前202-8)の朝鮮半島中・南部に辰国を建国したのが倭族であり、後漢時代(25-220)に馬韓・辰韓・弁韓に分立する。 

(p_-)上記の『倭族』とは古代メソポタミアを起源とする『方々』。と理解しました。
※馬韓・・後の百済 辰韓・・後の新羅

古代メソポタミア ウィキより
メソポタミア(ギリシャ語: Μεσοποταμία、ラテン文字転写: Mesopotamia、ギリシャ語で「複数の河の間」)は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。
古代メソポタミア文明は、メソポタミアに生まれた複数の文明を総称する呼び名で、世界最古の文明であるとされてきた。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。
地域的に、北部がアッシリア、南部がバビロニアで、バビロニアのうち北部バビロニアがアッカド、下流地域の南部バビロニアがシュメールとさらに分けられる。南部の下流域であるシュメールから、上流の北部に向かって文明が広がっていった。土地が非常に肥沃で、数々の勢力の基盤となったが、森林伐採の過多などで、上流の塩気の強い土が流れてくるようになり、農地として使えない砂漠化が起きた。
古代メソポタミアは、多くの民族の興亡の歴史である。 例えば、シュメール、バビロニア(首都バビロン)、アッシリア、アッカド(ムロデ王国の四つの都市のひとつ)、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、古代ペルシャ人の国々があった。古代メソポタミア文明は、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってその終息をむかえヘレニズムの世界の一部となる。

なるほど(p_-)

日本の苗字七千傑様の『仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」』より 続けます(..)

※後漢書東夷伝韓条に「大なるは万余戸、小なるは数千家、各々山海の間に在り、地は合わせて方四千余里、東西は海を以て限りとなし、みな古の辰国なり。馬韓は最大、共にその種を立てて辰王となし、月支国に都し、尽く三韓の地に王となる。その諸国王の先は、皆これ馬韓の人なり。」の記述がある。

※即ち三韓分立後も連合王国の王は馬韓人であり、馬韓国(高天原)の始祖は天御中主尊である。
天御中主尊・・古代メソポタミア・シュメールに繋がる「スメルミグト」の後裔になられる方ですね・・
(p_-)・・馬韓国(高天原)後の「百済」・・始祖は天御中主尊

※記紀の神代編から神武紀までは、天津神(天神族)と国津神(地祇族)の戦いであり天神族の豊国建国に始まり地祇族の国家を次々と併合して、最終的には畿内を本拠とする長髄彦が率いる大倭連合王国を併合して神日本磐余彦尊が皇位に就くまでの歴史記録である。
★記紀は神武即位の紀年延長を行ったが、併存する中臣氏・物部氏・大伴氏の系譜との整合性から四世紀(辛酉年の伝えからは361年)の出来事と逆算出来る。

※天神族宗家の遠祖とされる天御中主尊は馬韓国(高天原)の始祖であり、諡号は葦原中津国を間接統治した所以による。
(p_-)・・葦原中津国とは「図」を拝見すると一目瞭然!ですね出雲も含まれています。

(p_-)・・天神族の豊国建国に始まり・・
豊国とは・・現在の以下の地域
旧熊国「熊本・佐賀・長崎地域」
旧曽国「鹿児島・宮崎地域」
豊・・「大分県・福岡県北部(北九州・豊前地方)」
筑紫・・「福岡県(宗像・博多・大宰府・筑後などの地域)」
穴門・・「山口県(長門・豊浦・下関地方)」
粟洲・・四国全域
と言う事は・・私の住む「球磨」は最初に天神族が建国した『豊国』の一部である・・と。解りました(p_-)
さらに、神武天皇即位は四世紀(辛酉年の伝えからは361年)の出来事と逆算出来る。
あさぎり町免田の本目遺跡は古墳時代前期(1世紀〜4世紀)にかけての遺跡。
すなわち神武天皇即位以前の遺跡・・と言う事ですね!!

続けます(p_-)

※葦原中津国は豊国と連合して九州・中国・四国・北陸までを統治する豊葦原国となる。
 豊葦原千五百秋瑞穂国とは、豊(九州+四国+長門)と葦原(石見以東越後迄)と千五百(周防)と秋(安芸)と瑞穂(備後)の五カ国を総称した国名なのである。
※豊葦原国連合の神聖条約締結地は玄界灘に浮かぶ沖ノ島(現:宗像大社奥津宮)。

(p_-)・・その後
※列島の過半を版図とした豊葦原国の間接統治が困難となり、宗主国の馬韓国(高天原)は天照大神の孫瓊瓊杵尊を南九州の笠沙岬に上陸させて韓国岳を経て高千穂峰より降臨して日向に奪回の橋頭堡を築くのである。

※天孫降臨に随従した重臣は天児屋根命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命・天忍日命・天津久米命で、それぞれ中臣・忌部・猿女・作鏡・玉祖・大伴・久米の七氏族の祖と記紀は伝える。
 いずれも天御中主尊を遠祖とする三韓連合王国の馬韓(高天原)系の天神族なのである。瓊瓊杵尊の曾孫神日本磐余彦尊の代になり、ようやく準備が整い東征の民族大移動で統一新国家を建国する。

※三韓連合王国が列島に統一新国家を建国直前の朝鮮半島南半は、346年百済建国、356年新羅建国。
 369年御間城入彦尊(神日本磐余彦尊の子か孫と思われる)が弁韓の新国家(任那)建国を承認する。

(p_-)さらに・・
「図 記事から推測される初期系譜仮説」を拝見すると・・なるほど「新羅王家」は・・・・(p_-)

続けます(..)
四世紀の民族大移動の痕跡として、本邦への三韓の地名遷移
※馬韓(後の百済)系地名として高天原に代表される原(ハル、バル)が付く地名は豊筑肥地域に非常に多く分布、天孫降臨の日向も西都原、糸原、小原、川原、塚原、田原、楠原、柏原、八重原、餅原などに見られる。
※辰韓(後の新羅)系地名として九州では豊筑肥地域に白木の地名が多く、新羅をシラギの慣用読みが定着する。
(p_-)・・ここで(..)
皆様、私の住む旧宮原村は「みやはら村」ではありません(ー_ー)!!(そう読んでいらっしゃる方が多いのか?と推測しています(..))
私の住む旧宮原村は、読みは「みやはる村」又は「みやのはる村」です(..)
ですから旧岡原村は「おかはら村」ではなく読みは「おかはる村」です。
読みから推測すると私が住んでいるこの場所は『馬韓(後の百済)系地名』なのであります(p_-)

続けます(..)
※同様に肥後国葦北郡の久多良木は、百済をクダラの慣用読み発祥地となる。

(p_-)韓国ドラマ『階伯』(ケベク)の字幕版を見ているので解ります(p_-)
百済を『クダラ』と読むのは日本だけ(p_-)
本国では百済は『ペクチェ』ですね(p_-)
『肥後国葦北郡の久多良木』は『日羅』の故郷ですね(p_-)。すぐお隣は球磨郡の球磨村です。

日羅 ウィキより
日羅(にちら、? - 583年12月)は、6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人。父は火(肥後国)葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登。
父阿利斯登は宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した大伴金村に仕えた九州出身の武人。
日羅は百済王威徳王から二位達率(だっそつ)と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚であった。
敏達天皇の要請により583年日本に帰国し、河内阿斗桑市(あとくわのいち)の地に館を与えられた。
朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上した。
その内容が 人民を安んじ富ましめ国力を充実したうえで船を連ねて威を示せば百済は帰服するであろうことや、百済が九州に領土拡大を謀っているので防御を固め欺かれぬようにすべきこと等の 百済に不利な内容であったため、同年12月に百済人によって難波で暗殺された。
物部贄子と大伴糠手子により難波小郡の西の丘に埋葬され、後に葦北に移葬されたたとされる。
墓は父阿利斯登の縁の地である熊本県八代市坂本町百済来下馬場の百済来地蔵堂前に現存する[1] 大分県大野川流域や宮崎県などに多くの密教系寺院を開基し、磨崖仏を建立し、坊津にその名称の起源となった真言宗一乗院3坊を創建したとされている。

(p_-)ドラマを見たので
※日羅は百済王威徳王から二位達率(だっそつ)と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚であった。
『達率』の意味は解ります。日羅さんは百済において相当な権力を手にしたようですね(p_-)

所で・・日羅は越智氏とは同族になるのですね(p_-)
※景行朝、吉備津彦命の子三井根子命が葦北国造に任じられる。
日本の苗字七千傑様の【越智氏】姓氏類別大観 を拝見すると一目瞭然です。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm

※肥後国葦北郡の久多良木は、百済をクダラの慣用読み発祥地となる。

ここでおそらく「あれっ???」と声をあげた方が沢山いらっしゃると思います(p_-)
そうです。私の住む旧宮原村のお隣は旧「多良木村」です。
相良頼景が住まわれた村でございます(p_-)
上相良一族と呼ばれた「多良木氏」の本拠地でございます(p_-)

芦北の『久多良木』と球磨の『多良木』・・到底「無関係」とは思えないのですが・・

とても長くなりましたが
私は、まず頭を一度きちんと整理させて頂きました。

結局は三国の『王族は同族』という事なのかな・・と。

日本の苗字七千傑様『仮説「天孫降臨は四世紀の民族大移動」』
多数転記させて頂きました。
申し訳ありませんでした。
[11]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月08日 17時17分52秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

平安時代末期以降に球磨に来られた方々と球磨という土地の「地縁」をまず理解していなければ、今まで調べてきた事が「何故」だったのかちゃんと説明がつかない!
そう考えて、最近のコメントを書いていました。

球磨の古代、そして日本の苗字七千傑様から頂いていた御教示。

自分なりに頭を整理しながら、再度調査をした結果・・・
皆様!!!!!私、理解出来ました!!記紀に書かれた「熊襲」と呼ばれた方々がいったい「どの人達」だったのか!!

日本書紀に書かれた『景行天皇紀』にその秘密がちゃんと書かれていました!!

御紹介をする前に
古事記・日本書紀を現代語訳したとても便利なサイトを見つけました。
古事記・日本書紀をそれぞれ現代語訳してとても解りやすくなっています。
サイト 日本神話・神社まとめ
http://nihonsinwa.com/

こちらのサイトの
『熊襲八十梟帥の娘の市乾鹿文と市鹿文』
『景行天皇(十三)不孝をひどく憎み誅殺』の條に「熊襲」と呼ばれた方々の「秘密」に繋がる事が書かれています。

『熊襲八十梟帥の娘の市乾鹿文と市鹿文』
http://nihonsinwa.com/page/1123.html

『景行天皇(十三)不孝をひどく憎み誅殺』
http://nihonsinwa.com/page/1127.html

原文 『熊襲八十梟帥の娘の市乾鹿文と市鹿文』
十一月、到日向國、起行宮以居之、是謂高屋宮。十二月癸巳朔丁酉、議討熊襲。於是、天皇詔群卿曰「朕聞之、襲國有厚鹿文・迮鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。是謂熊襲八十梟帥、其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。何不假鋒刃之威、坐平其國。」時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾鹿文(乾、此云賦)、弟曰市鹿文、容既端正、心且雄武。宜示重幣以・納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」天皇詔「可也。」

原文 『景行天皇(十三)不孝をひどく憎み誅殺』
於是、示幣欺其二女而納幕下。天皇則通市乾鹿文而陽寵、時市乾鹿文奏于天皇曰「無愁熊襲之不服。妾有良謀、卽令從一二兵於己。」而返家、以多設醇酒令飲己父、乃醉而寐之。市乾鹿文、密斷父弦、爰從兵一人進殺熊襲梟帥。天皇、則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文、仍以弟市鹿文賜於火國造。

現代語訳はサイトの方でお読みください(..)

『熊襲八十梟帥の娘の市乾鹿文と市鹿文』より
「わたしは襲国(ソノクニ)に厚鹿文(アツカヤ)・迮鹿文(サカヤ)という者がいると聞いた。この二人は熊襲の渠帥者(イサオ=勇ましい人)だ。衆類(トモガラ=仲間・部下)は多い。これを熊襲八十梟帥(クマソノヤソタケル)と言う。」
「熊襲梟帥(クマソタケル)には二人の娘がいます。姉を市乾鹿文(イチフカヤ)といいます。 」
「妹は市鹿文(イチカヤ)といいます。」
「容姿は美しく、心は雄々しいです。 」
「たくさんの幣(マヒナヒ=贈り物)を示して、麾下(オモト=幕下=幕は幕府と同じで出陣中の状態を表す言葉。よって戦争しているときの妃が入る場所のこと)に召し入れるべきです。」

『景行天皇(十三)不孝をひどく憎み誅殺』より
「幣(マヒナヒ=宝物)をその二人の娘に示してその二人の娘を欺いて幕下(オモト=戦争地での妃がいる場所・後宮)に迎え入れました。天皇はすぐに姉の市乾鹿文(イチフカヤ)を呼び寄せて偽って寵愛しました。」
「「熊襲が従わないことを愁(ウレ)わないでください。わたしめに良い策略があります。すぐに1、2人の兵(ツワモノ)をわたしに従わせてください」
それで市乾鹿文は家に帰って、非常に醇(カラ=辛い=アルコールが強い)い酒を用意して、自ら父に飲ませました。すぐに酔っ払って寝てしまいました。市乾鹿文は密かに父の弓の弦を切ってしまいました。ここに従えてきた兵の一人が進んできて熊襲梟師(クマソタケル)を殺してしまいました。

天皇はその不孝(オヤニシタガワヌコト)の酷い様子を憎み、市乾鹿文を誅殺してしまいました。それで妹の市鹿文(イチカヤ)は火国造(ヒノクニノミヤツコ)に与えました。」

登場人物は
景行天皇・厚鹿文(アツカヤ)・迮鹿文(サカヤ)・市乾鹿文(イチフカヤ)・市鹿文(イチカヤ)

さらに 原文より
※仍以弟市鹿文賜於火國造。
サイトでは現代語訳として
※妹の市鹿文(イチカヤ)は火国造(ヒノクニノミヤツコ)に与えました。
サイトの方は「妹の市鹿文は火国造を任じられたのでしょう。つまり九州では「女系家族」の集団が多かった、女系家族が一般的だった、だから実際には妹の市鹿文は国造を任じられたのじゃないかとも個人的に思います。」
と書かれていました。

では!熊襲と呼ばれた方々はいったい「どなた」だったのか!!

日本の苗字七千傑様の【松野氏】姓氏類別大観を皆様ご覧ください!!
日本書紀に書かれていた登場人物は
厚鹿文(アツカヤ)・迮鹿文(サカヤ)・市乾鹿文(イチフカヤ)・市鹿文(イチカヤ)です!!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03026.htm

あった!!ありました!!
厚鹿文(アツカヤ)・迮鹿文(サカヤ)・市乾鹿文(イチフカヤ)・市鹿文(イチカヤ)!!!!!!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/ \(゜ロ\)(/ロ゜)/

呉王太伯の舎弟仲雍の後裔夫差は子慶父忌と共に筑紫に来たり、肥後国菊池郡山門里に住する。
西暦213年魏王となった曹操は、文王の子叔振鐸の後裔であり遠祖は同じ。
西暦238年(曹操の孫明帝の治世)、倭の卑弥呼は魏に使者を送り親魏倭王に封ぜられる。
西暦243年(斉王の治世)、倭の卑弥呼は再度魏に使者を送る。
子孫筑前国怡土郡に居り評督となり、推古朝、筑紫国夜須郡松岟野に住して松野連を称姓。

つまり!!!!!
熊襲と呼ばれた方々は『呉王太伯の舎弟仲雍の後裔夫差』の後裔です!!!!
正しく言うと熊国王家(球磨国王家)です。

私はこの事を日本の苗字七千傑様よりしっかりとご教示頂いていたのにちゃんと理解していなかったのです(..)

平河家について23での私のコメント及び日本の苗字七千傑様の御教示です!!
コメント51〜55です
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101441.html

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熊曽の国は、はじめ熊国と曽の国との二国からなる連合。
豊国に蚕食されて熊国を奪われ、火(肥)の国に改称され熊国滅亡。
政府は曽の国へ逃亡して同居。
以降の熊曽国とは、曽(いわゆす大隅地方と沖縄)を領土とする麻人(南方和人)と九州アイヌとの連合国家。
旧熊国奪還の為に出撃したのが俗に熊曽の反乱と呼ばれる。

実は数世代後に熊曽族は旧領奪還に成功した様ですが、中央政府は記事を削除した疑い濃厚。
日本書紀景行天皇条に記載の厚鹿文、迮鹿文、市乾鹿文、市鹿文が、松野連系譜に有り。
恐らく、讃の時代と推測されます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03026.htm
 
また曽国へ逃亡した系は、種子島氏の祖となったものと推測。
熊が付く種子島(大隅国熊毛郡)でしょう。
種子島氏が平氏というのは、熊曽族を隠す為の仮冒と見るのが正解。

=======================================================
上記の
※実は数世代後に熊曽族は旧領奪還に成功した様ですが、中央政府は記事を削除した疑い濃厚。

この御教示が、日本書紀に書かれていた
※※仍以弟市鹿文賜於火國造。 ですね!!

やっとやっとやっと!!理解出来ました!

火國造
サイト 日本辞典
http://www.nihonjiten.com/data/263385.html
火国造(肥)

ひのくにのみやつこ【国造】
[火国造(肥)]
火国造は火国(現・熊本県、佐賀県、長崎県)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると崇神天皇(10代)の時代、大分国造と同祖で、神武天皇(初代)の皇子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とする多氏族系統である志貴多奈彦命(しきたなひこのみこと、敷桁彦命)の子・遅男江命(ちおえのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。しかし肥前風土記などでは建緒組(たけおぐみ)や別名の健緒純(たけおみず)を火国造の祖としており、また日本書紀では景行天皇(12代)の皇子・弟豊戸別皇子(とよとわけのおうじ)が火国別の祖とあり、同じく日本書紀の景行紀に熊襲梟帥(くまそたける)の娘・市鹿文(いちかや)を火国造に与えたとも記される。

私は単純な人間だから・・熊襲梟帥(くまそたける)の娘・市鹿文(いちかや)と神武天皇(初代)の皇子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とする多氏族系統・・姻戚関係を結んだのかな?とも推測します(p_-)

あさぎり町免田の本目遺跡は熊国時代の遺跡であり、才園遺跡は火国の時代の遺跡・・かな??

しかし!!皆様!!わたくし!やっとやっと解りました!
(理解するのが遅い!!とのお声が・・・(..))

わたしは、邪馬台国論争は本当の事を言うとどうでも良いのです。
事実を知りたいだけです(^'^)

では(^'^)
[13]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月11日 05時32分46秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

コメント11で日本書紀 景行天皇紀 について書かせて頂きました。
球磨には景行天皇に御由来の地名・神社が多数残っています。
平河氏が所領した土地であり、現在「天子の水公園」となっている地域も同じくです。
天子の水公園のすぐ上にある天子神社の御由緒は
公園案内板より
天子神社の由来は実に古く、神話時代の伝説によれば景行天皇がクマソを親征された時、天子神社にしばらく神輿をおとどめになった聖地という。
その天子神社の近く、地区集落の中ほどにある豊かな湧水は、時の景行天皇が御愛飲になったという伝説があり、故事にちなんで地元では影向(よごう)と呼んでいた・・・以下略。

実は・・
上記の天子神社について、今まで皆様にはご紹介していなかった事があります。
こちらのサイトをご覧ください(..)

人吉盆地にユダヤの紋章を持つ神社がある
http://ameblo.jp/hiborogi-blog/entry-11818970632.html

〉この神社はこれまで続けてきた天子宮調査の一環で発見したものですが、あまりにも衝撃的な神紋だけに、散逸する前に記録に留めておこうと、今回公開することにしました。
という言葉から始まっています。

写真を拝見すると・・確かに三角定規とコンパス?のようにも見えますが・・?

実は、先月、天子神社の御神紋について、地元の歴史研究会の方にうかがったのですが、会長がこちらの研究会に入会した当時(十数年前)に、話題に上っていたが、現在に至るまで詳細は不明との事でした。

さらに・・
コメント6で御紹介した「京ヶ峰横穴墓群」(錦町)。
こちらも、平河氏の所領地でした。
菊花文状の模様を入れた車輪状文が施されたこちらの古墳の真上に鎮座しているのが「天下神社」(アモリ・アモイ神社)・・地元の人は「アモイ」神社もしくは「アモリ」神社と呼ばれています。

「天下神社」についても紹介されているサイトがありました。
http://hiborogi.sblo.jp/article/175334822.html

こちらのサイトにも京ヶ峰横穴古墳群が紹介されていたのですが
〉し てみると、天下神社がある小集落が京ヶ峰であり、峰とは川に臨むこの断崖のように思えてきます。実は、この墓制にそっくりなものが揚子江流域の少数民族の 一帯にあります。極端なものに至っては桁だけを掛けて崖の中ほどに木棺を渡すものまでありますので驚愕の墓制なのです。 

天下神社を守ってきた人々のルーツが揚子江流域から渡って来た呉越の民に思えるのですが、無論、他に根拠があっての話ではありません。何やら「呉は太伯の後」が気になってきます。

と記述されていました。

しかし・・
「呉太伯」の後裔が熊襲と呼ばれた熊国を建国。(曽国はどうなんだろう?)
熊国であった球磨郡。当時の古墳からは「菊花文状の模様を入れた車輪状文」
日本の苗字七千傑様からの御教示
〉〉紋章の発祥はバビロニアであり、基本は円形(旭日、日足、菊花、車輪、輪宝)。
だから当然でしょう・
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#024

と言う事は・・・
もしかしたら・・「呉太伯」の後裔と言っても、遡ると実は出発地は同じ・・??
バビロニア!!?

あんれ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!

早朝から頭を整理してみて、隠された真相に一歩だけ近づいたような気分です。

では(^'^)
[14]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月11日 22時56分23秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

皆様に御報告があります。
魏志倭人伝に、当時、球磨に住していた事が明らかである人物の子息二人の名前が記されていました。
今回の調査は、私の父も強力してくれています。


日本の苗字七千傑様
松野連系図は国立国会図書館と東京・世田谷の静嘉堂文庫の二カ所に所蔵される非常に貴重な系図であり、その系図が日本の苗字七千傑様のサイトで拝見可能な環境にあると言う事がいかにありがたい事であるか、しっかりと理解出来ました。
日本の苗字七千傑様のお陰で、魏志倭人伝の記述と「球磨」の関係に気が付く事が出来ました。
心より、感謝申し上げます。

日本の苗字七千傑様の『松野連系図』と日本書紀『景行天皇紀』が私を導いて下さいました。

明日の朝、まとめた情報をアップさせて頂きます。

では。
[15]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月12日 10時56分22秒 ) パスワード

皆様、今日は。

早速、コメント14でご紹介させて頂いた調査内容を御紹介させて頂きます。

サイトサイト 日本神話・神社まとめより
日本書紀 景行天皇(十七)兄熊と弟熊、水嶋の崖の泉
http://nihonsinwa.com/page/1131.html

原文
夏四月壬戌朔甲子、到熊縣。其處有熊津彥者、兄弟二人。天皇、先使徵兄熊、則從使詣之。因徵弟熊、而不來、故遣兵誅之。

現代語訳
(即位18年)夏4月3日に熊県(クマノアガタ=現在の熊本県球磨郡・人吉市)に到着しました。そこに熊津彦(クマツヒコ)という兄弟が二人いました。天皇はまずは兄熊(エクマ)を呼び寄せました。すぐに使者に従って、(天皇に)詣でました。次に弟熊(オトクマ)を呼び寄せました。しかし来ませんでした。そこで兵を派遣して誅殺しました。

日本書紀に記された内容から
※熊県(クマノアガタ=現在の熊本県球磨郡・人吉市)に熊津彦(クマツヒコ)という兄弟(兄熊・弟熊)がいらした事が解ります。

日本の苗字七千傑様の《姫姓後裔氏族綱要》【松野氏】姓氏類別大観を拝見すると「熊津彦」の名が見えます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03026.htm

この事を、早速父に説明すると、【松野氏】姓氏類別大観を見た父が
「熊津彦の子となる『難升米』。難升米は倭からの使節として魏に行った倭の大臣の名前だ!!」と。
※父は、以前から書いていましたように鎌倉時代を”新しい時代”と呼ぶような人で、しかし、古代関係の書籍であれば数多く所有しています。

父の所有する書籍の中から、私でも理解しやすいだろうと
歴史から消された邪馬台国の謎 豊田有恒氏著 を見せてくれました。

歴史から消された邪馬台国の謎 豊田有恒氏著 より
景初二年(238年)六月、倭の女王は、大臣の難升米(なんしょうまい)達を派遣してきた。
かれらは帯方郡にやってきて、中国の皇帝のところに貢物をもって行きたいと、申しでた。そこで太守の劉夏は、部下に命じて、かれらを送らせ都に行かせたのである。
その年の十二月、皇帝の命令書が、倭の女王に与えられた。
「親魏倭王の卑弥呼に勅令をくだす。帯方郡の劉夏が、使いをよこして、そなたの大臣の難升米と副使の都市牛利とを送ってきて、男の奴隷四人、女の奴隷六人と、斑(まだら)模様の布を二匹(ひつ)二丈を献上するため、都へ来させた。
そなたのいる場所は遥か遠いにもかかわらず、わざわざ使節を派遣して貢物を持参させた。
このことは、そなたの忠孝の心の証であり、わたしは、そなたたちに、感動するにいたった。
そこで、そなたを親魏倭王に任命しよう。
紫の綬のついた金印も授けよう。包装して帯方太守に託し、授けるものとする。
そなたは、国民を教えさとし、忠誠を誓うようにさせるがよい。
そなたの使者の難升米と牛利は、遥か遠い道を、なみたいていでない苦労のすえに、やって来た。
いま、難升米には率善中郎将、牛利には率善校尉の位を与え、青い紐のついた銀印も授けよう。
このふたりを引見して、慰労してから、帰国させることにした。
そこで赤地に二頭の竜をデザインした錦を五匹、赤いシャギー・モヘアの布地を十張、黄色の錦を五十匹、紺青の織物を五十匹など、そなたがもたらした貢物に報いてとらせよう。
また、そなたには、特に、紺地に模様のついた錦を三匹、斑の細かい模様の毛織物を五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹をそれぞれ五十斤を、与えるとしよう。
すべて包装して、難升米、牛利に託しておく。
帰国した際、目録と照らし合わせて、そなたの国民共に展示し、わが中国が、そなたたちの国に好意を持っていることを、よくしらしめるがよい。だからこそ、わたしは、そなたに良いものばかりを丁重に授けとらせるのである」とのことであった。
正治元年(二四〇年)、太守の弓遵(きゅうじゅん)は建中校尉の梯儁(ていしゅん)を派遣し、命令書、金印、などを持たせ、倭国に行かせた。
そこで、倭王の位を授け、皇帝の命令書をもたらし、刀、鏡などの贈り物を与えた。
倭王は、令状を持たせた使いを送り、皇帝の恩に感謝した。
同四年(二四三年)、倭王は、また大臣の伊声耆(いせき)、掖邪狗(えきやく)など八人を派遣し、国産の錦、赤と青の絹織物、錦のドレス、絹の布地、赤い顔料、弓の部品、弓の部品、短弓の矢などを献上した。
掖邪狗たちは、いっぺんに率善中郎将に取立てられたのである。
同六年(二四五年)、皇帝は、倭の難升米に黄色い軍旗を与えるよう命令し、帯方郡を通じて授けた。
歴史から消された邪馬台国の謎 豊田有恒氏著 より 

※皇帝は、倭の難升米に黄色い軍旗を与えるよう命令し・・
その後の記述には狗奴国との戦いの前に「中国の権威を示す黄色い軍旗を難升米に与え、(中国が介入することを)檄を飛ばして知らせたのである。
とありました。

上記に登場した
『難升米』『掖邪狗』が熊縣(球磨郡・人吉)の「熊津彦」の子息であるのか?
父が所有の多数の書籍にはその事が書かれていない為に父より、もっと精査するように言われました。

するとネットに『鈴木 真年』による注記入りの「松野連〈倭王〉系図」が公開されていました。
『鈴木 真年』とは ウィキより
鈴木 真年(すずき まとし、鈴木眞年とも。天保2年(1831年)- 明治27年(1894年)4月15日)は日本の江戸時代末期から明治時代にかけての系譜研究家・国学者。初めは紀州徳川家に属して系譜編輯事業を担当、明治維新後は弾正台に属して新政府の下での系譜編纂事業に就く。のち、宮内省・司法省・文部省・陸軍省と所属を変遷しながらも、この間に系譜編纂を継続し公的・私的いずれの立場においても多数の系譜集を編み世に送った。

1831年(天保2年)、江戸神田鎌倉河岸[1]に煙草商橘屋の主・鈴木甚右衛門(今井惟岳)の嫡子として生まれる。
中略・・
1865年(慶応元年)35歳、紀州和歌山藩に招かれ藩士となり、同藩の系譜編集事業を任される。住居を熊野本宮に定めたために、紀州熊野大社の関係事業にも関与した。これより、明治維新までの4年間に織田家系草稿を初め、諸系譜草稿・諸家譜草稿を相次いで書き上げる。
中略・・
1871年(明治4年)41歳、11月8日宮内省に異動し内舎人になる。俳号・松柏を称す。 以後、1891年(明治24年)61歳で東京帝国大学を退官するまで約20年間を政府官吏を勤務しながら、幾多の諸系譜の編纂事業と東京帝国大学・交詢社等の教鞭を取った。退官後は国学校の設立を計画し、その設立運動を展開した。また、熊野大社の復興にも尽力した。

※宮内省に異動し内舎人になる。

『鈴木 真年』注記 の入る「松野連〈倭王〉系図」は
久留米地名研究会様のサイト、一番下に公開されています。
http://chimei.sakura.ne.jp/f-32yodohime.htm

画像はリンク出来るか解りませんがこちらです。
http://chimei.sakura.ne.jp/f32-1223.gif

http://chimei.sakura.ne.jp/f32-1224.jpg

「松野連〈倭王〉系図」には明らかに
熊津彦 ⇒ 難升米 兄夷守大夫 率善中郎将
熊津彦 ⇒ 掖邪狗 弟夷守 率善中郎将

と書かれていました。

鳥肌が立っています・・・・

以上、球磨に住した熊津彦の子息二人「難升米・掖邪狗」は魏志倭人伝に名前を残していた!というお話でした。

では(..)
[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月14日 10時18分49秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

相良氏・相良氏族・相良氏と共に球磨に来られた氏族、さらに宮原の一族、平河氏、平安時代初期に球磨に来られた清和天皇の更衣であり貞頼親王の母君である方の父となる「藤原真宗」(後裔球磨の藤原姓久米氏)、須恵氏、菊池姓合志氏 他・・は、
古代の球磨の方々からすれば、言葉は悪いですが「新参者」となる訳でして・・(..)
しかし、上記の方々が、遠路はるばる何故「球磨」に来られたのか?それを考えるとものすご〜く遡った所にあるやはり「地縁」なのかな・・と。
ではこの「地縁」によるメリットは何か?
球磨は魏・呉・百済・新羅に繋がりを持つ・・すると後世においても、やはり「貿易に有利」と・・
※スレッド「長上郡の服部氏族」の空の青海のあを様、三つ柏服部様の御調査を拝読して、大変勉強になりました。ありがとうございます。

相良氏は日明貿易を行い、平安時代の平河氏居城跡「蔵城」からは
錦町教育委員会 調査報告書より
『遺物は、土師器、瓦質土器、須恵質の擂鉢など中世の日常雑器のほか、青磁碗、白磁碗、宋銭のような中国からの舶載品も出土しています。また、西側高台をはじめ各所から土錘が出土しています。』
と記述されています。

球磨以外にも言える事は、古代の国外と縁があった地域。
平安時代以降を考えると”その「地縁」”は「利」をもたらした・・。

お話は変わりますが
皆様、古代に繋がる「発見?」が、また出て参りました。

次のコメントにて書かせて頂きます(..)
[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月14日 18時22分44秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)
〉古代に繋がる「発見?」が、また出て参りました。

書かせて頂きます(..)

日本の苗字七千傑様のQ & A 仮説「神代紀概要」をじっくり拝読させて頂きました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/jindai-ki.htm

※神代とは「古事記」の伊邪那岐尊迄の神世七代と天照大日霊尊(天照大神)から鵜草葺不合尊 迄の五代を合わせた十二代である。
撰録者太安万侶は、奈良期の音韻表字法則(甲乙二類)も摘要不可の迷彩工作と音韻融通法を縦横に駆使した神話的表現方式により、古今の解読者を半島と列島の諸国家抗争史から目をそらさせ神話世界に埋没させている。
※記紀は紀年延長と系譜変造を行った為、中国史書との整合性が取れないので紀年再構成が焦点となる。

上記と表を拝見して
私が調べていた事、例えば「熊津彦」という方が何故「日本書紀『景行天皇紀』」に記されているのか?時代が合わない・・と疑問だったのですがその『理由』がやっと理解出来ました。

熊県(球磨・人吉)に住された熊津彦。
子息 難升米 兄夷守大夫 率善中郎将
   掖邪狗 弟夷守 率善中郎将
この方々、いえ、熊国の方々はどのようにして、統一国家の中に吸収されて行かれたのだろう。その後裔は「松野氏」以外にも実は沢山の系が存在しているのではないのだろうか?
そう考えて、調べてみました。

まず・・
難升米 兄夷守大夫 率善中郎将
掖邪狗 弟夷守 率善中郎将「夷守」です。夷守????
夷守・・と言えば、この辺りで真っ先に思い浮かべたのが霧島連山の夷守岳です。
平川家について33で
私の住む集落に明治初期まで御鎮座であった中島霧島神社(正確には中嶋大権現※中嶋興)の御祭神について書かせて頂いた時に、日本の苗字七千傑様から御教示を頂いていました。
平川家について33 コメント64 日本の苗字七千傑様からの御教示
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101534_71.html
>御祭神は霧島神宮と同體。
 
正確には、霧島岳の別峰夷守岳の夷守神社(雛守神社)のこと。
火山で火神。
夷守は断じて旧説の鄙守のことでは無い。
「天孫民族六千年史」の154頁参照のこと。
==============================================

上記をしっかりと頭に入れて、調査を進めると以下の記述を見つけました。
ヒナモリ
http://gejirin.com/src/Hi/hinamori.html
夷守 (鄙盛)。 
霧島連山の夷守岳山麓一帯の地。宮崎県小林市細野夷守。
兄弟のヒナモリが治める。  → 国守
景行天皇のクマソ討伐の帰路、ここのイヅミ姫の家で諸県主らの御饗を受ける。 
宮崎県小林市大字細野、夷守神社 (霧島岑神社)

(p_-)※兄弟のヒナモリが治める。
難升米 兄夷守大夫 率善中郎将・・※兄夷守大夫
掖邪狗 弟夷守 率善中郎将・・※弟夷守
あれっ(p_-)・・
私の目の前にそびえる黒原山の向こう側、山を越えるとそこは宮崎県小林市です。
白髪岳の向こう側も同じく、宮崎県小林市とえびの市。
そちら側からは夷守岳は目の前にそびえています。
推測ですが、球磨に住した「熊津彦」。この方の二人の子息は宮崎県小林市大字細野、夷守神社 (霧島岑神社)付近に住されていたのかな??
何せ、古代を考える時は「現在の行政地図」は頭から外さなければ・・(p_-)
さらに南北朝時代にはえびの・小林まで相良氏は進出していましたし・・(平河氏がいました(p_-))
さらに・・
旧宮原村宮麓に鎮座の中島霧島神社(正確には中嶋大権現※中嶋興)の御祭神は
宮崎県小林市大字細野、夷守神社 (霧島岑神社)と同體。

ただ・・・もう一つ、気になる記述があります。
ウィキ 難升米 より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E5%8D%87%E7%B1%B3
難升米(なしめ、生没年不詳) または難斗米(なとめ)[1]は、3世紀の人物。邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫。
『三国志』魏書巻三十・東夷伝・倭人の条(魏志倭人伝)中に卑弥呼の使いとして登場する。
中略・・(先日のコメントとほぼ同じ内容です)
238年の遣使の際に魏から率善中郎将の官職を得ているが、これは243年の邪馬台国からの使者(掖邪狗ら)にも与えられている。こうした官職は外国からの使者に与える形式的な名誉職であり、魏の国内においても中郎将や校尉が黄巾の乱以後の戦乱の影響で任官が濫発されていたとは言え、245年に突然、(卑弥呼やそれを補佐する男弟ではなく)難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられていることは注目される。同時期、魏の帯方郡に対して、三韓が反乱を起こして帯方郡と楽浪軍の太守によって鎮圧される事件が発生しており、難升米に黄幢(魏の軍旗)と詔書が与えられたことの関連性が注目される。

京都大学教授だった内藤湖南の説では、難升米を垂仁朝に常世の国に使者として赴き景行朝に帰朝した田道間守(たぢまもり)としている。

(..)・・・京都大学教授の方ですね・・父から「論争」について少しだけ聞きました。(..) 「論争」については言及は避けます(..)
※難升米を田道間守(たぢまもり)としている

田道間守(たぢまもり) ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E9%81%93%E9%96%93%E5%AE%88
田道間守(たじまもり/たぢまもり)は、記紀に伝わる古代日本の人物。
『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。
天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神・菓祖としても信仰される[1]。
田道間守の生まれについて、『日本書紀』垂仁天皇3年条では天日槍(新羅からの伝承上の渡来人)の玄孫で、清彦の子とする。一方『古事記』応神天皇段では、天之日矛(天日槍)の玄孫は同じながら多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子とし、清日子(清彦)は弟とする。
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」[2]すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派遣された。
中略・・
『古事記』垂仁天皇段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」[2](同じく橘)を求めに常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着くとその実を取り、縵8縵・矛8矛を持って帰ってきた。

中略・・
信仰
田道間守に関しては、『日本書紀』『古事記』の説話に基づいて菓子神・菓祖とする信仰があり、中嶋神社(兵庫県豊岡市、位置)では「田道間守命」の神名で菓子神として祀っている[1]。この中嶋神社の分霊は、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都府京都市)など全国各地で祀られ、菓子業者の信仰を集めている。
また、奈良県高市郡明日香村の橘寺の寺名は田道間守伝説に由来すると伝わるほか、田道間守の上陸地の伝承がある佐賀県伊万里市では伊萬里神社には田道間守命を祀る中嶋神社が鎮座し、和歌山県海南市の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は田道間守が持ち帰った橘が初めて移植された地であると伝える。

================================================
あの・・皆様・・
私が先祖調査を始めたきっかけの一つとなった「夢」の話をご記憶でしょうか・・
白石様に「お菓子を配る神様」もしくは「お菓子の神様」御存じでしょうか???とお伺いした事もあったと思います。
おそらく・・マタマタ(ー_ー)!!との声も(..)
大きなお寺?神社?宮殿?のような場所で「金の巾着にお菓子を入れて配る?神様」のような人が出てきて私が一生懸命その人を追いかけて、大きな門の前まで来た所す〜っと私の傍に大きな四角い帽子?のようなものを被った方が来られて「追ってはいけません」と言われ・・
私が追いかけた「金の巾着にお菓子を入れて配る?神様」のような人は、その時門の外の橋の上にいて、私に向かって・・「調べなさい(^・^)」と言われて・・・
この夢こそが、私が最初にこちらのスレッドを見つけるきっかけともなった・・とかなり以前(スレッドを立ち上げた頃だったかな?)コメントしていたと思います・・
何だかドキドキしますがこれはもちろん偶然でしょう・・
田道間守 現在は菓子の神・菓祖としても信仰される・・

夢の話はさて置き・・
しかし、気になる事が・・
※中嶋神社(兵庫県豊岡市、位置)では「田道間守命」の神名で菓子神として祀っている[1]。この中嶋神社の分霊は、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都府京都市)など全国各地で祀られ、菓子業者の信仰を集めている。
※奈良県高市郡明日香村の橘寺の寺名は田道間守伝説に由来すると伝わるほか、田道間守の上陸地の伝承がある佐賀県伊万里市では伊萬里神社には田道間守命を祀る中嶋神社が鎮座し、和歌山県海南市の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は田道間守が持ち帰った橘が初めて移植された地であると伝える。

(..)・・
※中嶋神社・・「田道間守命」の神名で菓子神として祀っている
※旧宮原村の私の住む集落に鎮座であった神社は中島霧島神社(正確には中嶋大権現※中嶋興)
中嶋・・・????
※「橘」という文字が記述の中に数多く・・??

しかし・・
※中島霧島神社(中嶋大権現)の御祭神は宮崎県小林市大字細野、夷守神社 (霧島岑神社)と同體。
※宮崎県小林市大字細野、夷守神社の附近は『兄弟のヒナモリが治める。』
※難升米 兄夷守大夫 率善中郎将・・※兄夷守大夫
※掖邪狗 弟夷守 率善中郎将・・※弟夷守

※京都大学教授だった内藤湖南の説では、難升米を垂仁朝に常世の国に使者として赴き景行朝に帰朝した田道間守(たぢまもり)としている。

どうなっているのでしょうか?????(?_?)
何だか「全て」の内容が「何か」を繋げる「影」が見えてしまって、少々頭が混乱してしまいました。

しかし、本来の調査目的は
〉熊国の方々はどのようにして、統一国家の中に吸収されて行かれたのだろう。その後裔は「松野氏」以外にも実は沢山の系が存在しているのではないのだろうか?
です。
次回は日本書紀 欽明天皇紀 からの調査を書かせて頂きます。

では(..)
[18]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月16日 12時17分00秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)
昨日は、集落の敬老会のお手伝いで朝から出かけていました。(来週からお彼岸に入り、家の集落は宮原観音堂の御開帳となり、お参りの方々の御接待をさせて頂きますので、早めの敬老会となりました。お彼岸の間は県内外から観光バスに乗った相良三十三観音めぐりの方々もいらっしゃいます。一日平均500人以上の方々で1週間続きます(^'^))

では、早速先日からの続きを(..)
『日本書紀 欽明天皇紀 からの調査』の前に一つ二つと気が付いた事から書かせて頂きます。
『鈴木 真年』氏注記 の入る「松野連〈倭王〉系図」を拝見すると『熊鹿文 姓姫氏 称卑弥子 熊津彦』の子?と思われる方に 『迮鹿文』という方が見えます。
http://chimei.sakura.ne.jp/f32-1223.gif
注記には
新羅阿達羅尼師今 廿年遣使 景行十二年熊襲梟師也
とあります。
新羅阿達羅尼師今 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%81%94%E7%BE%85%E5%B0%BC%E5%B8%AB%E4%BB%8A
阿達羅尼師今(あだつら にしきん、生年不詳 - 184年3月)は、新羅の第8代の王(在位:154年 - 184年)であり、先代の逸聖尼師今の長男。姓は朴。母は朴氏の支所礼王の娘、王妃は第6代祇摩尼師今の娘の内礼夫人。
154年2月に先王が死去し、王位に就いた。北方の靺鞨(及びその背後の高句麗)に備えるために、新羅と百済とは緩やかな同盟の態勢を保っていたが、阿達羅尼師今の時代から、交戦状態に入ることとなった。

とあります。
ウィキの記述では
※173年5月、倭の女王卑彌乎が使者を送ってきたとする。しかしこれは、『三国志』東夷伝倭人条の景初2年(238年)記事からの造作であり、且つ干支を一運遡らせたもの、と考えられている。(→井上訳注1980、p.61 註9)
とありますが、
「松野連〈倭王〉系図」を拝見すると
『迮鹿文』という方の父は『熊鹿文 姓姫氏 称卑弥子 熊津彦』・・称卑弥子
『刀良』は『卑弥呼姫氏也」・・卑弥呼
と卑弥子や卑弥呼と似たお名前がありますので(こらっ!との声が(..))・・
しかし・・
『迮鹿文』注記には
新羅阿達羅尼師今 廿年遣使 景行十二年熊襲梟師也
ですから、おそらく新羅阿達羅尼師今への使者は「卑弥呼」からの使者ではなく『熊鹿文 姓姫氏 称卑弥子 熊津彦』からの使者として『迮鹿文』が新羅へ行かれた・・と言う事なのかな?と推測しました。

さて・・皆様!ここで気が付いた事ですが・・
『迮鹿文』・・『迮』の文字の読みなのです。(普通はサクと読んだりしますね・・)
皆様、ワードなどを立ち上げて普通に「たちま」と入力して変換して見て下さい。『迮』が変換リストにあがります。
『迮』は「たちま」とも読めるのです。
この事に気が付いたのは・・私が漢字が読めないおバカさんだからです(..)
読めないから、入力するのにIMEの手書き機能を使ったら偶然気が付きました。
おバカだから気が付く事もあるものです・・(^◇^)・・(p_-)

田道間守(たじまもり/たぢまもり)・・『たぢま』
『迮鹿文』・・『迮』は「たちま」とも読める・・『たちま』
偶然ですが・・何か似ています(おバカだからそう感じるのかな?)・・(^◇^)・・(p_-)

つづけて・・
「松野連〈倭王〉系図」を拝見すると
http://chimei.sakura.ne.jp/f32-1223.gif

先日、コメントした『市鹿文』の注記に
同時賜 火国造 魏正始八年立為王 景初二年貢奉 被称壱■ とあります。(■の文字は私には読めませんでした(..))

『市鹿文』。この方は魏志倭人伝 にある正始八年(二四七年)の記述
『卑弥呼の縁続きの壱与という十三歳の女を立てて王とした』
と一致するのでは・・

上記から『市鹿文』が火国造 すなわち火国王(女王?)となられた・・と推測致しました(..)

さて・・
「松野連〈倭王〉系図」の少し下った系の注記に登場する「夜須郡」を調べると後世の相良氏と秋月氏の姻戚関係が「地縁」に繋がっている事も見えてきました。
『夜須郡』『日本書紀 欽明天皇紀 からの調査』『隋代の秦王国』
と調査が進んでいます。
しっかりとまとめてコメントさせて頂きます。(..)
[19]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年09月18日 21時29分44秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>同時賜 火国造 魏正始八年立為王 景初二年貢奉 被称壱■ とあります。(■の文字は私には読めませんでした(..))
 

壱■は壱與のこと。(表記は壱与も有り)
ほかに市乾鹿文の可能性も有り。
市鹿文が壱與と同一と断定は困難。
[20]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月19日 11時15分22秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)
昨日は朝8時から宮原観音堂御開帳の準備に行って参りました(^'^)
お堂内を掃除させて頂いたり、周囲の草むしりや旗をたてたりと、集落総出の作業でした。この一連の作業を何故か集落では「道作り」と呼んでいます。

日本の苗字七千傑様 御教示ありがとうございます。

〉壱■は壱與のこと。(表記は壱与も有り)
ほかに市乾鹿文の可能性も有り。
市鹿文が壱與と同一と断定は困難。

市乾鹿文・市乾鹿文・壱與・壱与
全てに共通な文字とは「いち」ですね。「壱」の文字は「いち」でもあります。
御教示を頂いた後に何気なくですが「いち」と入力して変換して表示されるリストをじっと見つめて気が付きました。
「市」「壱」「壹」 すべて「いち」です。

邪馬台国論争にはあまり興味はありませんが、その邪馬台国について今朝ウィキの記述をしっかり読んでみると・・

『なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本稿でも「邪馬台国」と表記する。』
『名称・表記[編集]
現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」と書かれている。『三国志』は晋の時代に陳寿(233-297)が編纂したものであるが、現存する刊本で最古のものは、12世紀の宋代の紹興本(紹興年間(1131年 - 1162年)の刻版)と紹煕本(紹煕年間(1190年 - 1194年)の刻版)である。一方、勅撰の類書でみると、宋代の『太平御覧』は成本が10世紀で現存の『三国志』写本より古いが、『三国志』を引用した箇所をみると「邪馬臺国」の表記が用いられている。
『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。これらの正史は、現存の宋代の『三国志』より古い写本を引用している。
日本の漢字制限後の当用漢字、常用漢字、教育漢字では、「壹」は壱か一にあたる文字(ただし通常は壱で代用する)であり、「臺」は台にあたる文字である。
表記のぶれをめぐっては、11世紀以前の史料に「壹」は見られないため、「壹」を「臺」の版を重ねた事による誤記とする説[注釈 19]のほか、「壹與遣,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣臺,」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いず「壹」を用いたとする説[3]などがある。』

位置に関する論争
中略・・
いずれにせよ、北部九州上陸地点は「末廬国」であり、末廬国から邪馬台国までは残「2,000余里」であるという点は共通している。

旅程日数
中略・・
いずれにせよ、北史・隋書・旧唐書・新唐書ともに、倭国は「南北三月行」の領域であり、北史・梁書・魏志ともに、邪馬台国への旅程は「二月行」である。

方角
中略・・
いずれにせよ、魏志・梁書・北史ともに、邪馬台国への方角は「南」である。

方向感覚[編集]
韓国沿岸を「南」や「東」と判断している。
對馬國(対馬)から一大國(壱岐)方向を「南」と判断している。
末盧國(北部九州上陸地点)から「東南」〜「南」方面に邪馬台国があると判断している。

距離の計算
短里説[編集]
距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説である[12]。魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。いわゆる周髀算経・一寸千里法という考え方である。この短里という概念で計測すると、実際に、帯方郡から狗邪韓国までの距離が魏志倭人伝の記載通り、七千餘里となる。

邪馬台国までの距離
中略・・
実際の距離として、狗邪韓國から一大國(壱岐)までの2000里の距離は「約180km程度」、對海國(対馬)から末盧國までの2000里の距離は「約150km程度」であるため、大凡、符合する。
また、邪馬台国への日数・方角については南行二月[13]である。
中略・・
短里説(一里75m〜90m)を採用した場合、末盧國から邪馬台国までの残2000里は「約150km〜180km」程度となる。
中略・・
いずれにせよ、邪馬台国は北部九州上陸地点(末盧國)から2000里「約150km〜180km」程度にある。

邪馬台国の所在地
北史・隋書『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。』、(旧唐書)新唐書『(依山)島而居、東西五月行、南北三月行』を考慮に入れた上で、「末盧國」から「北史・梁書・魏志倭人伝」の記述どおりに日数、方角、距離を辿ると、邪馬台国は・・中略・・末盧國から東南〜南方面に、2000里、二月行で邪馬台国。

ウィキの上記記述の以下は邪馬台国畿内説と邪馬台国九州説の論争が書かれていました。

難しい「論」は私にはよく解りませんが、しかし
「市」「壱」「壹」 すべて「いち」と言う事は解りました(^'^)

所で・・
日本書紀 景行天皇紀 には
十一月、到日向國、起行宮以居之、是謂高屋宮。十二月癸巳朔丁酉、議討熊襲。於是、天皇詔群卿曰「朕聞之、襲國有厚鹿文・迮鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。是謂熊襲八十梟帥、其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。何不假鋒刃之威、坐平其國。」時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾鹿文(乾、此云賦)、弟曰市鹿文、容既端正、心且雄武。宜示重幣以・納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」天皇詔「可也。」

上記で解る事は
※襲國有厚鹿文・迮鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者
※熊襲梟帥有二女、兄曰市乾鹿文(乾、此云賦)、弟曰市鹿文

市乾鹿文・市鹿文は「襲國」に居た。がしかし、その後・・
天皇、則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文、仍以弟市鹿文賜於火國造。

※市鹿文賜於火國造

連合国としての「豊国」の形成の段階で、熊国も曽国(襲国)も最初は反発していたが、「豊国」が戦いを優位に進め、熊国の政府(王家一族?)は曽国(襲国)に逃れていた。
しかし、『市鹿文賜於火國造』という事は、豊国の勢力下に入った(服した)熊国は「火国」と名を替え、『市鹿文』は『火國造』の地位に就いた・・という事でしょうか・・。
上記に、同族間でも反発した(豊国の勢力下にはまだ入らないぞ!と)のが魏志倭人伝(正確には魏書東夷伝)に登場する『狗奴国』なのかな・・?と。
しかし「魏書東夷伝」・・『夷』とは「火」を表すのでした・・。

私は・・上記は『神代』と呼ばれる時代に起こった事だと思っています。年代は1世紀〜3世紀にかけてかな・・と。
子供の読書感想文のようになってお恥ずかしいのですが・・
日本書紀を読んでいると、「神代」の記述は殆どが「神話」のような記述です。
神代の時代。実際には数多くの国が「連合国家」としてまとまる為の『過程』として戦を繰り返していた。その数多くの国の中に「熊国」も「曽国」もあり、紆余曲折を経て「連合国家”豊国”」が形成された。
神代の時代はあくまでも「神様の時代」ですから、リアルな人間同士の戦いを描く訳にはいかなかったのだと・・
『描けなかった神代に実際には起こっていた”生身の人間戦いなどの模様”を』景行天皇紀以降に詳しく記されているのかな・・と(..) あくまでも私の『感想文』ですが・・。
記紀はよく読んでみると決しておとぎ話の神話のような話ではないと思うのです。(今まで全く読んでいなかった事を反省しています)

例えば
是に二柱の神、議りて、云ひけらく、「今吾が生める子良からず。猶天つ神の御所(みもと)に白すべし。」といひて、即ち共に参上りて、天つ神の命を請ひき。爾に天つ神の命以ちて、布斗麻邇爾卜相ひて、詔りたまひけらく、「女先に言へるに因りて良からず。亦還り降りて改め言へ。」とのりたまひき。

現代語訳
そこでイザナギとイザナミは話し合いました。

「今、産んだ子供は不吉だった。
天津神の所に行って報告しましょう」
と言って、すぐに高天原に上り、
天津神に聞いてみました。

天津神は、太占(フトマニ=鹿の肩の骨を焼いて占うこと)で占いました。
「女が先に話しかけたのが良くなかった。
もう一回言いなおしなさい」
と天津神は言いました。

※布斗麻邇=フトマニ…鹿の肩の骨を焼いて占うこと。

布斗麻邇(太占)の記述は魏志倭人伝にも書かれていました。

ここで、狗奴国に関連して気が付いた事を最後に書かせて頂きます。

狗奴国 ウィキより
その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。(中略)その八年(正始8年)、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず、倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王 (中略)其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼興狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状」 -- 『魏書』東夷伝 
※『魏書』東夷伝 ・・「夷」は「火」を表しました(p_-)

位置に関する説
(p_-)気になる記述だけをピックアップ致しますので、詳しくは皆様ウィキの記述をお読みください(..)
南九州説
肥後国説。もっともメジャーな説である。熊襲は熊国と襲国の連称であるが、肥後国球磨郡は熊国つまり記紀の熊県(くまのあがた)の遺称地であってこれを狗奴国とし、同国菊池郡を狗古智卑狗と関係付ける[2]。水野佑も同じ説であるが、魏志倭人伝の習俗記事を2ヶ所に分割し、一方にしか南方系習俗が含まれないことから、これを邪馬台国の習俗と狗奴国の習俗が別々に記載されたものであるとし、南方系習俗は狗奴国のものであるとした。
その他の諸説(南九州の各地に比定される)
四国説。本居宣長は伊予国風早郡河野郷に比定している。
出雲地方説

(p_-) 『球磨』・『伊予国風早郡河野郷』

邪馬台国畿内説における狗奴国[編集]
邪馬台国畿内説に立つ論者は狗奴国の位置について大きく三つに分かれる。
南九州説。狗奴国の位置に関する限り上記の九州説論者と変わらない。内藤湖南も狗奴国を熊襲に比定した[要出典]。

熊野地方説。邪馬台国畿内説においては邪馬台国は奈良盆地であることから、その南にある熊野だとする説。

東国説。魏志倭人伝は「東に海を渡る千里また国あり皆倭種」と「狗奴国」を別のものとしているが、後漢書東夷伝が両者を同一視していることから狗奴国を南ではなく東に想定するものであり、文献批判的にはやや弱い。
 ※D静岡県説。久努国造と関係付けるもので、その勢力は遠江の久努(袋井市)から駿河の久能(静岡市)まで広がっていたとする。また狗古智卑狗を菊川と関係付ける。

驚いたのは・・
『球磨』・『伊予国風早郡河野郷』
さらに・・遠江の久努(袋井市)から駿河の久能(静岡市)まで広がっていた・・狗古智卑狗を菊川と関係付ける。
\(◎o◎)/!
今までの私の調査に登場して来た「地方」ばかりです!!
何でしょうか・・私の”調査”は「古代」を知らずしては何も解らない・・という事なのか?!!と(鳥肌が立っています)

いずれにしても『狗奴国の位置』として登場すると言う事は其々の場所に「繋がり」があったと言う事なのだと私は推測しました(あくまでも・・私はですが)

日本の苗字七千傑様
御教示を頂きまして、本当にありがとうございました。

私は目を四方八方に広げて調査を続けて行きたいと思っています(^'^)
[21]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月19日 11時35分19秒 ) パスワード

追記
天孫人種六千年史の研究 には

「鹿」は水を表すと言う事が記されていました。(^'^)

人吉にある「河合又五郎」の話でも有名な「鹿目の滝」の「鹿」の意味が解りました(^'^)

「鹿目の滝」
http://pawasupo.net/1662

画像
http://img-01.pawasupo.net/files/2016/06/29/1467184839-e711703dbb8a06d17d031870815a4371.jpg

(^'^)
[23]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年09月25日 10時21分40秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

コメント22で書かせて頂いた
『祈願』をするよう『令旨を下された』御方について、
相良長毎(相良頼房)相良清兵衛こと犬童頼兄 この方々の時代を念頭に様々な記述を見たのですが、もしかしたら・・という御方の記述を拝見する事が出来ました。
が、しかし、内容が非常に重大な事なので、その御方については言及は御控え致します。

所で、昨日は、朝8時前から夕方5時まで、宮原観音堂で、お参りの方々の御接待をさせて頂きました。
宮崎・鹿児島の方々も多くお見えになり、遠くは福岡からお見えの方々もいらっしゃいました(^'^)
「遠くからお見えになってお疲れでしょう」と集落の奥さん方は、心を込めて作った、田舎ならではの料理を出しておもてなしします。(私も頑張って作った料理を出しました・・でも味はともかく煮崩れしてしまって(@_@。トホホ)
「とても美味しいです」と喜んで食べて下さる皆さんの言葉は集落のみ〜んなの心の支えにもなっています(^'^)

昨日の宮原観音堂の写真をブログにアップ致しました。
今は彼岸花が満開です(^'^)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12203339835.html

所で・・
昨日、集落内の家の姻戚関係にある家のおばさんが、「キャラ柿」を沢山持って来られて美味しく頂きました(^'^)
がっ!その時、集落の80代の方が
「昔、家のじいちゃんが『キャラ柿は元々球磨にしか生えていなかったって』言いよったバイ(^'^)」と・・
すると他の方も
「じゃっ!!(そう!)家のじいちゃんもそげん(そう)言いよった(言っていた)!キャラ柿は球磨の柿タイ!」
そう言えば、私が子供の頃に家にあった柿木は「キャラ」と「ミカド」でした。
「ミカド」という柿の木は祖母の実家平川家にあった柿の木で、平川の曾祖父が家の庭に植えてくれたと父が言っていました(^'^)
その我家の柿の木(ミカド)は、今は相良清兵衛(犬童頼兄)の居館跡に住む旧岡本村の親戚の庭に移植?されています(^'^)
(しかし柿の種類にミカドという名前が付くとは、ナント言うか・・厳か過ぎて・・良かったのかな????(?_?)何だかヤバいのでは・・不敬ではないのかな・・(@_@;))

「キャラ柿は球磨の柿タイ!」というおばさん達の言葉がちょっと気になって子供の頃から親しんでいた「キャラ」(柿)を調べて見たのですが・・

サイト 工人舎・木のモノ語り 伽羅柿(きゃらがき)
http://koujinsha.otemo-yan.net/e539541.html

サイト 工人舎・木のモノ語り 伽羅柿(きゃらがき) より(..)

秋の人吉・球磨地方には
栽培されている色々な果物がありますが

梨や栗のように栽培されることもなく
庭先などに自然な形で植えられてる柿があります

この地方ではその柿を「キャラ」と呼んでいます
↑輪切りにした伽羅柿(きゃらがき)
ゴマ(柿渋の結晶?)がいっぱい入っていると
甘くて美味しく頂けます

伽羅柿(きゃらがき)の木が30年くらい経たないと
甘い柿にはならないそうです
また渋が戻るとも言われ木にならしたまま放っておくと
渋くなり食べられなくなります

この柿はお隣の県・佐賀県の特産だそうです
我が家の伽羅柿(きゃらがき)も今食べごろとなっています


とあります(^'^)
(^'^)な〜んだ!今は佐賀県の特産になっているんだ〜
おばさん達に「キャラ」は球磨だけじゃないよ〜(^'^)と教えなきゃ〜(^'^)
と思いながら・・ふと・・
キャラ柿・・伽羅柿・・伽羅??・・伽羅!!
なっ!何だこれは!!「キャラ」は漢字で書くと難しい(゜-゜)
じゃなくて(ー_ー)!!
伽羅って何だっ!!????

伽羅って・・??。
伽羅ってお香???でも何だか妙です(p_-)インド??

そこで伽羅を調べました(p_-)

するとウィキの記述 「伽耶」の脚注に
※南斉書での表記は加羅。伽羅(高霊) 
とあり、まずここに到る記述を読んだのですが・・

伽耶 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6
伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。また加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。以下、本文上は加羅で統一する。
呼称[編集]
414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている[1]。
中国梁国の時の537年に蕭子顯が編纂した史書に南齊書よると、加羅國,三韓種也。建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登,遠夷洽化。加羅王荷知款關海外,奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。 と記録されている。
倭国の後継国である日本で720年に成立した『日本書紀』では、加羅と任那が併記される[2]。
中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される[3]。その後の『南斉書』、『梁書』、660年に成立した『翰苑』[4]、801年成立の『通典』[5]、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)も同様の併記をしている。唯一、清代に編纂された『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が用いられている[6]。
基本的には加羅と呼ばれる。「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今6年(202年)条に「伽耶」という表記があるが[7]、「三国史記」同14年(210年)条には「加羅」と表記されている[7]。

三韓の一つの弁韓を母体とする。
『三国史記』『三国遺事』などの文献史料は、3世紀までは加羅諸国の神話・伝承を伝えるに過ぎないが、農耕生産の普及と支石墓を持った社会形態などの考古学資料からの推定により紀元前1世紀頃に部族集団が形成されたと推測されてきている。1世紀中葉に倭人の国で最も北に位置する狗邪韓国(慶尚南道金海市)とその北に位置する弁韓諸国と呼ばれる小国家群が出現している。後に狗邪韓国(金官国)となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)以後になると従来の土器とは様式の全く異なる弥生式土器が急増し始めるが、これは後の狗邪韓国(金官国)に繋がる倭人が進出した結果と見られる[8]。首露王により建国されたとされる「金官国」が統合の中心とする仮説が主張されている。
4世紀初めに中国の羈縻支配が弱まると馬韓は自立して百済を形成したが、辰韓と弁韓の諸国は国家形成が遅れた[9]。『日本書紀』や宋書、梁書などでは三国志中にある倭人の領域が任那に元の弁韓地域が加羅になったと記録している。任那は倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した国家群で、倭の支配機関(現地名を冠した国守や、地域全体に対する任那国守、任那日本府)の存立を記述している[10][9][11]。
5世紀初めには倭国の支配力が強まるとともに任那地域では金官国の影響力が衰え、5世紀後半には加羅地域で大加羅国(慶尚北道高霊郡)の影響力が強くなった。
加羅と関係の深い任那諸国は6世紀になると百済や新羅の侵略を受け、西側諸国は百済へ倭から割譲或いは武力併合され、東側の諸国は新羅により滅ぼされていった[12]。512年に4県を倭が百済へ割譲し、532年には南部の金官国が新羅に滅ぼされ、また562年には洛東江流域の任那諸国を新羅が滅ぼした[9]。

倭国および任那との関連[編集]
詳細は「任那」および「任那日本府」を参照
加羅地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が、当地で統治権・軍事指揮権・定期的な徴発権を有していたことが有力視されている[13][11][14][15]。倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。

中略・・
倭国と高句麗の戦争[編集]
詳細は「広開土王碑」および「三韓征伐」を参照
4世紀末から5世紀前半にかけては広開土王碑文によれば、391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする[24]。393年には倭が新羅の王都を包囲する[25]。397年、百済が倭国に阿莘王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ[26]。いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる[24]。400年には倭が新羅の王都を占領していた[24]。高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した[24]。402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界(帯方郡との境)にまで倭が攻め込んでいる[24]。
405年、倭国に人質となっていた百済王子の腆支が、倭国の護衛により海中の島で待機して、のちに百済王として即位する。このように倭の朝鮮半島への影響力が伸張していた。なお三国史記では、この時期の加羅に関する直接的記述は空白となっている。

日本書紀では、249年もしくは369年とされる神功皇后49年3月条に神功皇后が新羅へ親征し服属させた三韓征伐の記事や、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を派遣し、比自ホ(ひじほ)、南加羅(ありひしのから)、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳(たくじゅん)、加羅(から)の七カ国を平定し、西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑を降伏させた記事などがある。

後期伽耶連盟[編集]
この呼称も文献史料には一度も出現せず、現代韓国の概念である。
新羅は5世紀中頃に倭に従属して加勢を受け高句麗の駐留軍を全滅させ、高句麗の長寿王は南下政策を推進して475年に百済の首都・漢城(ソウル特別市)を陷落させると、百済は南下して統一された国の存在しない朝鮮半島南西部への進出を活発化させた。統合されて間もない新羅は、機に乗じ秋風嶺を越えて西方に進出するなど、半島情勢は大きく変化した。 5世紀末に百済の南下と新羅の統合により、任那加羅のうち北部に位置する加羅地域への倭国の支配力が衰えると、小国群に自衛の為の統合の機運が生じ、高霊地方の主体勢力だった半路国(または伴跛国)が主導して後期伽耶連盟を形成したという説がある。479年、南斉に朝貢して〈輔国将軍・加羅王〉に冊封されたのは、この大加羅国と考えられている。[27]

(p_-) すごく長くなりましたが・・
転記、最後の記述
※479年、南斉に朝貢して〈輔国将軍・加羅王〉に冊封されたのは、この大加羅国と考えられている。
こちらの脚注が、
※南斉書での表記は加羅。伽羅(高霊)
であったのでした(..)
漢字の苦手な私にはかなり一苦労のウィキの記述だったのですが・・(..)
何だか「加羅」と「伽羅」は・・一緒???(?_?) (こら〜っ!!簡単に言うな!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!とのお叱りの声が・・(..))

しかし・・
サイト 伽羅(高霊) を読むと 気になる記述がありました(..)
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/heainsa_002.htm

中略・・
また、中国南朝「宋」が451年に倭王「済」(允恭天皇とされる)に対して与えた称号(使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国書軍事安東大将軍倭国)に「任那」とならび「加羅」が加えられていることからも、かなり勢力が伸びていたことが分かる。日本側から求めた称号には「加羅」が入っていないのに、中国側が「任那」と別に「加羅」の称号をつけたのである。この称号は倭王「武」(雄略天皇とされる)に与えられた称号でも同様であった。

上記の記述は「松野連〈倭王〉系図」の注記にもありました・・・

も〜しかすると・・
伽羅柿の「キャラ」って球磨弁をそのまま漢字に割り当てたから間違っているのではないのでしょうか??

あの・・
球磨弁は「モノ」によれば「カ」を「キャ」って発音するのです(..)
例えば「貝」は「カイ」ですよね・・
しかし、旧宮原村の字である「貝崎」を地元では「キャンサキ」と言います・・
「キャ」です・・

カラ柿を「キャラ柿」って呼んでも球磨の人ならあり得るけど・・(..)
本当は「加羅柿」じゃないのかな・・・(..)?

今朝は、柿の名前から「加羅」を勉強する事になってしまいましたが・・
(何やってるの?と呆れた方もいらっしゃるでしょうね・・(@_@。)
本当は、色々気が付いている事を書けば良かったのですが・・(..)

しかし・・
昨日頂いたキャラ柿はとても美味しかったです(^'^)

では(..)
[24]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年10月02日 16時29分13秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

久々のコメントになります。(..)

まずは先日のコメント18で書きました
〉「松野連〈倭王〉系図」の少し下った系の注記に登場する「夜須郡」を調べると後世の相良氏と秋月氏の姻戚関係が「地縁」に繋がっている事も見えてきました。

こちらを書かせて頂きます(..)
正しく言うと『「夜須郡」を調べると後世の相良氏と秋月氏の姻戚関係が「地縁」に繋がっているのでは?と想像する”事”に気が付きました』・・でございます(..)


「松野連〈倭王〉系図」を拝見すると
http://chimei.sakura.ne.jp/f32-1224.jpg

牛慈  金刺宮御宇服降為夜須評督
長提  小治田朝評督筑紫郡夜須郡松峡野住

とあります。
筑紫郡夜須郡松峡野を調べました。
まず『夜須郡』とは
解りやすいサイトを見つけましたのでご紹介致します。
サイト 青春の城下町
http://inoues.net/club/akiduki/akiduki1.html

サイト 青春の城下町 より 『夜須郡』地図
http://inoues.net/club/akiduki/new_amagi20083.jpg

【「甘木・朝倉」名のおこり】

歴史的には甘木・朝倉は古代から一つの行政区として扱われ、甘木市が市制を施くまでは大きな一括りの地域であったため、今でも甘木・朝倉地域と呼ばれるのである。承平年間(931-938)に成立した和名抄(わみょうしょう) によれば、「甘木・朝倉」地域は、古代から筑前国15郡の内の「夜須」・「上座」・「下座」の3郡からなっていた。そもそもは、7世紀末期に上下に分割され、「カミツアサクラ」、「シモツアサクラ」となり、和銅6年(713)、郡名を二字表記するよう定められたため、下座・上座となったものと思われる。和名抄は下座を下都安佐久良(しもつあさくら)、「延喜式(平安中期の律令施行細則。)」は上座を上都安佐久良(かみつあさくら)と記している。夜須郡は現在の夜須町と三輪町に、下座郡は甘木市に、上座郡は朝倉町・杷木町・小石原村・宝珠山村に相当している。

サイト 青春の城下町 より 『夜須郡』地図
http://inoues.net/club/akiduki/new_amagi20083.jpg

旧『夜須郡』は、大蔵春実の後裔「秋月氏」すなわち「秋月藩」の所領地でありました。
秋月種実は ウィキより
島津義久と手を結んで大友氏に対して反抗し、一時期は筑前に六郡、筑後に四郡、豊前に一郡と推定36万石にも及ぶという広大な所領を築き上げ、秋月氏の最盛期を現出する。1587年、豊臣秀吉の九州征伐では島津氏に属して豊臣勢に抵抗したが、もとより豊臣秀吉の敵ではなく、種実は名器「楢柴肩衝」を献上することで降伏は許されたが、日向国高鍋に移封された。

相良氏と上記の秋月氏との縁戚関係は二重にあります。
しかしながら・・・以下の記述はかなりの”黒い影”が見える相良史となります(..)

※相良長在(さがら ながあり/ながあきら)肥後人吉藩の第6代藩主の正室は寿昌院(秋月種弘の娘・於称為)

※肥後人吉藩の第7代藩主 相良頼峯(相良長在の長男・母は於要、都築氏の女)が江戸参府の途上、発病し、江戸到着後に死去。享年24。この若さのため、一説に毒殺ともされている。跡を養子の頼央(頼母)が継いだ。(ウィキより)

※相良 頼央(さがら よりひさ)は、肥後人吉藩の第8代藩主。
元文2年(1737年)7月3日[1]、第6代藩主・相良長在の次男として生まれる。母は側室・於要(都築氏の女)。
宝暦8年(1758年)に頼峯が死去したため、その末期養子となって家督を継いだ。宝暦9年(1759年)6月から人吉に入って藩政を執るが、同年閏7月15日に薩摩瀬屋敷(現熊本県人吉市下薩摩瀬町近辺)観欄亭で休養していたところ何者かに鉄砲で撃たれて負傷し、その傷がもとで1か月後の8月3日[2]に死去した。享年23。
銃声が聞こえたのだから暗殺に他ならないとして、人吉藩の一部からは背後関係の調査を訴える声が上がったが、藩上層部は聞こえたのは子供の遊戯による竹鉄砲(爆竹)と結論してこれを病死として処理した。故にこの暗殺事件は「竹鉄砲事件」と呼ばれることになる。事実関係は明らかにされなかったものの、当時からこの暗殺の背景には前藩主時代から対立していた相良氏の一門が関与していたことが噂されていた。
事件後、急遽寿昌院の弟である日向高鍋藩主・秋月種美の三男・晃長を末期養子として迎え、家督を継がせた。これで人吉藩の取りつぶしは避けられたものの、相良家の血統は断絶、以後人吉藩では10年間に4代の藩主を次々に他家から迎えるという混乱の時代に入る。

(..)以後人吉藩では10年間に4代の藩主を次々に他家から迎えるという混乱の時代に入る。
こちらの他家から迎えられた『第9代藩主』以降の方々も今日はまとめて書かせて頂きます。
後で書かせて頂く「古代」からの繋がりなのか?と「”き”になる」事に関わってくるからです(..)

では・・以下は全てウィキの記述を転記させて頂きます(..)

※公式には第9代藩主とされる2人目の人物 相良 頼完(さがら よりさだ) ウィキより
寛延2年(1749年)、羽林家公家の大納言鷲尾隆熙(大炊御門経音の次男)の次男として生まれた。
宝暦12年(1762年)に(本来の)第9代藩主相良晃長が死去する。鷲尾家と相良氏は縁戚関係に当たることから[1]、その後釜として藩主に擁立され、人吉藩内において極秘のうちに宝暦12年(1762年)12月15日に家督を継いだ。
明和4年(1767年)1月17日に死去した。享年19。跡を養子の福将が継いだ。
(..)補足します。
上記の”鷲尾家と相良氏は縁戚関係に当たることから”とは
『第2代藩主・頼寛の継室・妙光尼は鷲尾隆尚の娘、第3代藩主・頼喬の継室・月仙院は鷲尾隆量の娘であった。』からです。
※鷲尾 隆量(わしのお たかかず)は、江戸時代前期の公家。広橋兼勝の次男。
※広橋 兼勝(ひろはし かねかつ、永禄元年10月23日(1558年12月2日) - 元和8年12月18日(1623年1月18日))は、安土桃山時代、江戸時代初期の公家、歌人。藤原北家日野流、家格は名家で、広橋国光の子。母は高倉永家の娘。兄に日野輝資、弟に日禎(本圀寺16世、常寂光寺開山)がおり、兄が本家筋の日野家を継いだことで兼勝が広橋家の嫡子(跡取り)となった。子に広橋総光(- ふさみつ)、油小路隆基(あぶらのこうじ たかもと)、鷲尾隆量、新遍、観助、広橋局、樋口信孝室、中御門宗保室、裏辻季福室。号は後是称院。一字名は貢。法名は快寂。官位は権大納言(慶長2年叙任)、従一位内大臣(元和4年叙任)。勧修寺光豊とともに江戸幕府初代の武家伝奏(慶長8年(1603年) - 元和5年(1619年))
日野家 ⇒ 鷲尾家 と相良氏は縁戚関係でありました(..)

続けます(..)
※肥後人吉藩の第10代藩主 相良 福将(さがら とみもち)
寛延3年(1750年)6月13日、美濃苗木藩主・遠山友明の次男として生まれる。初名は友充(ともみつ)。
遠山友充改め相良福将(「福」は第4代藩主頼福の偏諱である)は、頼完の末期養子として家督を継いだ。同年4月15日、将軍徳川家治に御目見する。同年12月16日、従五位下越前守に叙任する。
明和6年(1769年)1月12日に死去した。享年20。若死にのため、一度もお国入りすることはなかった。跡を養子の長寛が継いだ。
(..)補足します。
相良福将の父 遠山友明(とおやま ともあきら)
享保2年1月11日(1717年2月21日) - 宝暦3年6月1日(1753年7月1日))は、美濃苗木藩の第8代藩主。
常陸府中藩第3代藩主・松平頼明の三男。母は林氏。子に友随(長男)、相良福将(次男)。官位は従五位下、丹後守、のち佐渡守。
享保18年(1733年)3月11日、第8代藩主・遠山友央の養嗣子となり、その長女と結婚する。元文5年(1740年)8月27日、友央が隠居したため家督を継ぐ。呉服橋や日比谷、常盤橋などの門番役を務めた。
宝暦3年(1753年)6月1日、江戸で死去し、跡を友央の長男で養嗣子の友清が継いだ。享年37。墓所は岐阜県中津川市苗木の雲林寺。
※母は林氏なのですね・・・

続けまして
※肥後人吉藩の第11代藩主 相良 長寛(さがら ながひろ)
宝暦元年(1751年)12月6日、備前岡山藩主・池田宗政の次男として生まれる。幼名は護之進。のち初名の政長(まさなが)を名乗る。
母:藤子(福岡藩主黒田継高の娘)
明和6年(1769年)3月5日、第10代人吉藩主・相良福将が死去した際に、末期養子として家督を継いだ。同年3月15日、将軍・徳川家治に御目見した。同年4月28日、藩主として初めてお国入りの許可を得る。同年5月4日に江戸を出発し、6月16日に人吉城に入った。お国入りにあたって、板倉勝興の三男・至親を仮養子に指名した。明和7年(1770年)12月16日、従五位下壱岐守に叙任された。安永3年(1774年)11月15日、長泰(ながやす、政長から改名)から長寛と名を改めた。
享和2年(1802年)2月5日に庶長子・頼徳に家督を譲って隠居し、文化10年(1813年)4月26日に死去した。享年63。

(..)

※公式には第9代藩主とされる1人目の人物 秋月種美の三男 相良 晃長(さがら みつなが)
※第9代藩主 大納言鷲尾隆熙(大炊御門経音の次男)の次男 相良 頼完(さがら よりさだ)
※第10代藩主 美濃苗木藩主・遠山友明の次男 相良 福将(さがら とみもち)
※第11代藩主 備前岡山藩主・池田宗政の次男 相良 長寛(さがら ながひろ)

(..)以降は池田宗政の次男 相良長寛 の系が藩主として続きます。

続けさせて頂きます(..)
肥後人吉藩の第12代藩主 相良 頼徳(さがら よりのり)
安永3年(1774年)5月16日、第11代藩主・相良長寛の長男(庶長子)として生まれる。はじめ世子は嫡子(正室の子で次男)の義休と決まっていたが、義休は寛政4年(1792年)9月25日に江戸にて乱心し、樅木九郎兵衛を斬り殺害したため(樅木は事件の二日後に死去)、寛政5年(1793年)1月28日に廃嫡され(系図には病のためと記されている)、代わって頼徳が世子に指名された。
正室は松平頼謙の次女・於津
文政元年(1818年)10月6日、長男・頼之に家督を譲って隠居し、安政3年(1856年)10月1日に死去した。享年83。

※肥後人吉藩の第13代藩主 相良 頼之(さがら よりゆき)
妻 正室:於賀(亀井矩賢の娘)
  側室:慶寿院(侍女)
子 長福、準之助、於栄、於保(米良則忠室のち宮原健之助室)、池田章政、於英(相良中務室)、頼基、貞四郎

(..)・・・・
池田宗政の次男 相良長寛から続く肥後人吉藩の第13代藩主 相良頼之の娘於保。
この方は、球磨の宮原一族「宮原健吉(幼名健之助)」の室となられていらっしゃいます。
ここで皆様には日本の苗字七千傑様の
@《伊予橘氏》元越智姓 A《楠木氏嫡流》B紀姓《池田氏》C《池田氏(室町期以降)》の其々の 姓氏類別大観をご覧頂ければと思います(..)

@《伊予橘氏》元越智姓 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201b1.htm#002
(..)宮原の一族の祖 橘公業(小鹿島公業)と楠木氏は同族です(..)

A《楠木氏嫡流》 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01201c.htm#002
(..) 紀姓池田氏へ・・と見えます。

B紀姓《池田氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01209d.htm
(..)池田氏は紀長谷雄の後裔ですね・・

C《池田氏(室町期以降)》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01209d.htm#006
(..)楠木教正。この方が池田氏を継いでいらっしゃいます・・

伊予橘氏(元越智姓)・楠木氏・紀氏・池田氏・・そして相良氏・・池田宗政の次男 相良長寛
相良頼之の娘於保は球磨の宮原一族「宮原健吉(幼名健之助)」の室
越智氏は紀大人の後裔でもあります・・
何だか・・ぐるりんこ〜と・・

相良頼之
子 長福、準之助、於栄、於保(米良則忠室のち宮原健之助室)、池田章政、於英(相良中務室)、頼基、貞四郎

所で・・上記の肥後人吉藩の第13代藩主 相良頼之 の息 「池田章政」
ウィキより
池田 章政(いけだ あきまさ、天保7年5月3日(1836年6月16日) - 明治36年(1903年)6月5日)は、備中国鴨方藩の第9代藩主。備前国岡山藩の第10代(最後の)藩主。岡山藩池田家宗家の第12代当主。栄典は従一位勲一等侯爵、麝香間祗候。
肥後国人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。正室は戸田氏正の娘鑑子。子は池田政保(長男)、池田詮政(次男)。備前守、侍従、左近衛権少将。幼名は満次郎。鴨方藩主時代の名乗りは池田 政詮(いけだ まさのり)。
頼之の祖父の相良長寛は岡山藩の第4代藩主池田宗政と正室(宝源院・黒田継高の長女)の次男であり、章政は宗政の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田家宗家の養子に迎えられることになった。

弘化4年(1847年)3月5日、鴨方藩の第8代藩主池田政善の末期養子となるため、人吉から江戸に入る。同年3月下旬、江戸の人吉藩邸から鴨方藩邸に移る。同年7月、鴨方藩主池田政善の末期養子として家督を相続した。嘉永2年(1849年)12月、従五位下内匠頭に叙任する。後に信濃守に改める。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し、藩内における尊皇攘夷派からの信望もあった。
慶応4年(1868年)3月15日、章政は宗藩の岡山藩主を継いだ。先代藩主の茂政が新政府からの実兄徳川慶喜の追討の命令を受け、隠居したためである。鴨方藩主は章政の長男の政保が継いだ。そして章政は戊辰戦争においては新政府軍に与して藩軍を関東・奥羽・函館にまで送った。明治2年(1869年)の版籍奉還により藩知事となる。明治4年(1871年)、廃藩置県により免官となり、東京へ移った。明治36年(1903年)、従一位となったが、同年6月5日に68歳で死去した。法名は珠国院殿琢堂勳記大居士。墓所は岡山県岡山市中区円山の曹源寺。家督は次男の詮政が相続した。
年譜[編集]

(..) 第13代藩主相良頼之の次男 「池田章政」
※章政は宗藩の岡山藩主を継いだ。先代藩主の茂政が新政府からの実兄徳川慶喜の追討の命令を受け、隠居したためである。
(?_?)・・先代藩主の茂政・・実兄徳川慶喜・・・?????????(?_?) えっ?とここで意味が解らなくなりまして・・調べました(p_-)

池田茂政
池田 茂政(いけだ もちまさ)は、備前岡山藩の第9代藩主。岡山藩池田家宗家11代。名は茂政のほか、松平昭休、松平忠矩、池田修政。位階勲等は従一位勲二等。
常陸水戸藩主・徳川斉昭の九男。正室は池田慶政の娘・萬寿子。子は池田勝吉(長男)、西尾勝順(次男・西尾忠篤養子のち離縁)、娘(堀川護麿室)、娘(中川久任正室)、娘(佐々木祐哲室)、娘(泉谷祐勝室)。
主な兄弟に水戸藩主徳川慶篤と昭武、鳥取藩主池田慶徳、そして江戸幕府第15代将軍徳川慶喜がいる。
養子:章政(池田 章政 肥後国人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男)

こういう事だったのですね(p_-)・・やっと理解出来ました・・

すごく長くなりましたが
まずは、相良氏を継いだ他家の方々と江戸末期の相良藩主の系についてご紹介させて頂きました。

上記をまず書かせて頂いた理由は・・
次回書かせて頂きますが
姫(き)氏 松野連 後裔 松野正重(松野重元)の妻が『本姓越智氏 河野一族一柳氏の娘』である事に気が付いたからです(..)
上記に気が付き・・さらに「き」の文字が気になり・・そのお陰で、「鎌倉初期に紀平次を名乗った」平河師高の子息?の”謎”にも近づく事が出来ました。
詳細は次回にて(..)

では(^'^)
[25]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年12月27日 10時23分01秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

久々にコメントを書かせて頂きます。(まずは・・取り留めもない事なのですが、・・すみません)

私が怪我をした後、父も具合が悪くなり三週間程寝込んでいました。(今はもう大丈夫です)その後、弟の具合も悪くなったのですが、奇跡的に回復致しました。
弟の状態が急変(脳のてんかん発作で意識が戻らなくなってしまいました)てんかん発作を治める点滴が入っても医師の方や看護師さんの声にも全く反応しなくなり昏睡状態になった弟だったのですが、その状態になった直後、偶然にも私が弟の病院に到着(本当に偶然なのですが、当日、主人が休みが取れたので、弟に会いに行こうと言う事になりました)
突然あらわれた私に先生や看護師さんが「お姉さんも声をかけてあげて下さい」と。
慌てた私は弟に向かって
「こらっ!!○○(弟の名前)。折角、ねえちゃんが来たと言うのに、なん(何)寝とるんね!! 起きなさい!! 起きろ○○(弟の名前)!!」
と回りが引くくらいに怒ったように叫ぶと・・
弟は「パチッ!」と目を覚まして、私の顔をニコ〜ッと笑って見ました。
そのタイミングに先生も看護師さんも皆さん一斉に「エッ!!エエエエエエエエエエッ!!」と・・・
その日以来、弟の状態は以前と同じく安定しています。(^'^)
しかし・・弟の病気は筋肉が委縮する筋ジストロフィーなのですが、脳も筋肉で出来ている事がよく解りました・・
25日もクリスマスプレゼントを持って弟に会いに行ったのですが・・
穏やかで静かな主人と違って、ペラペラとよくしゃべる私。
私が喋っていると、弟は別の用件を私に頼むのでフト
「○○(弟)!私が来ると最初は嬉しいけど、だんだん時間が経つと”うるさいな〜トホホ”と思っているでしょ?」と聞くと
弟はニヤ〜ッと笑って私ではなく主人の顔を見ていました。(二人の気持ちに相通じる物があるのでしょう(;一_一) )

私の怪我も段々と回復した矢先に、不注意で父の育毛剤を使ってしまい、体調を崩してしまいましたが・・
教訓!薬剤師さんに相談しなければ購入出来ない育毛剤等を他の人は勝手に使用してはいけません(ー_ー)!!
もちろん「薬剤師さんに相談の上」と言う事は私は知っていたのです。
しかし・・あの時(使った時)はこの事が頭から抜けて、思わず使ってしまったのですよね・・こう言うのを”魔がさした”と言うのでしょう。

こちらのスレッドにコメントを書いてはいませんでしたが、その間、購入している「相良藩」や「球磨」に関する沢山の書籍を読んでいました。
最近は気が付いた事を、朝から父に”延々”と喋り続けるので、父もかなりウンザリした様子で、「もう、この辺で結構です・・トホホ」となっていました(..)

よ〜し、父がウンザリする位、色々頭に浮かんで来ると言う事はそろそろ「調査復帰」だな!\(^o^)/と思いまして・・(勝手な自分の判断ですが)
うんっ??もしや?皆様方、私が登場しない間、静かで良かったな〜と思っていらっしゃったりして・・(..)

最初のコメントは取り留めもない事を書いてしまいましたが
次のコメントではまず、その「父に延々としゃべり続けた」気が付いた事から書かせて頂きます。

おそらく、その事も、コメント24で書いた「鹿児島」との繋がりに関係してくるのか?と推測しています。

皆様
今後もどうかよろしくお願い致します(^'^)
[26]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年12月27日 23時06分38秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

しばらくは
コメントを書いていない間に私の頭を駆け巡った?様々な事を書かせて頂きます(..)

まず・・
古代に心を惹かれる自分と母方の系について   です(..)

かなり以前にコメントしていましたが・・私の父と母の離婚原因は「お互いの先祖が合わなかったから」と祖母と祖母の兄である平川のおじさん(通称みなみのじいちゃん)から聞いていました。
(不思議な理由ですが・・(..))
私の母の実家は宮崎の高鍋(蚊口※かぐち)で姓は「岩切」です。高鍋の鵜戸神社の宮司家の一族でもあります。
高鍋の鵜戸神社  宮崎神宮サイト より
http://miyazakijingu.jp/modules/gnavi/index.php?lid=5
鵜戸
鵜戸は神武天皇ご東遷の際御駐輦された所として顕彰されている。
鵜戸神社の創建は年代が詳かでないが、古来鵜葺草葺不合尊御上陸の旧地に、社殿を建設したと伝称し、境内本殿の西側にある高さ三尺、縦横九尺五寸の小丘は、尊、御上陸の旧址と伝えられる。当社は景行天皇熊襲征伐の際、海陸安全、全戦勝祈願の為、天皇十二月十月行幸あらせらると伝えるも拠るべき史料なく、確証し得ざるを遺憾とす。古来海上鎮護の神とせられ、社伝旧記には其の鎮座地を、日州高鍋領内河口村と記している。

母方の岩切の姓を日本の苗字七千傑様のサイトで拝見すると
【日下部氏】(隼人族)姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02153.htm

掲載姓氏の中に「岩切」がありますが、実は同じく掲載姓氏の中に記されている「杉田」家は母の姉の嫁ぎ先であり、両家は隣同士。かなり古くから親戚関係にあるそうです。他にも掲載姓氏の中に母方の親戚の姓が少なくとももう一軒見えます。
古代の九州南部が気になって、日本の苗字七千傑様の【日下部氏】(隼人族)姓氏類別大観を拝見している時に、父にも画面を見せた所、上記に書いた母方の親戚関係について教えてもらいました。
そうか・・そういう事か・・と父も母方の親戚関係に納得していました。

私が古代に心惹かれるのは、母方の”血”がそうさせるのか?もしくは父方の”血”がそうさせるのか・・自分でもよく解らなくなってはいます・・(..)
もしくは両方からかな???

しかし・・
そうすると・・???
一体、何が、父方と母方の先祖は”合わなかった”のか???
伊予橘氏である宮原の一族と同じく橘公業の後裔となる鹿児島(桜島)の大崎氏。
実は大崎氏の系図では鹿児島の「岩切氏」との姻戚関係が幾重にも見えるのです。
と言う事は「伊予橘氏」と「日向 日下部氏」とは合わない?事は無かった・・
では、残るは、祖母の実家の「平河氏」?

確かに平安時代末期、球磨の平河氏(良峰氏)の城に日向の日下部氏が奇襲をかけたとの記述が残っています。
何故、わざわざ日向の日下部氏が奇襲をかけたのか、理由は不明です。????

とこのように疑問を持った事がきっかけで、又、あらたに気が付いた事がありました。

この続きは明日書かせて頂きます(..)

古代に心を惹かれる自分と母方の系について でした(..)

では。
[27]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年12月28日 18時49分29秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

コメント26を書いた後、日本の苗字七千傑様の
【日下部氏】(隼人族)姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02153.htm

をもう一度拝見していて気が付いたのですが
(田部姓)土持則綱 この方と日向日下部氏は姻戚関係を持ったと言う事ですよね・・
あれっ??田部姓・・土持氏・・??どこかで見たぞっ?!と・・?
そうです!!多良木の王宮神社の御由緒書きでした!

【多良木町】王宮神社(おうぐうじんじゃ、黒肥地神宮)
こちらのサイトの下部にも記述されています。
http://yumeko2.otemo-yan.net/e364065.html

県重要文化財
王宮神社(おうぐうじんじゃ)
古来より王宮と称し、明治元年(1868)に黒肥地神宮(くろひじじんぐう)と改称された。
創建は大同2年(807) 日向国(宮崎県)の住人・土持太郎、田部忠網が久米蓑毛(現・多良木町久米)に住、多良木源島に帝廟(天子のみたまや)を勧請した。その後現在地に遷座したもので、祭神は神武天皇である。
楼門は応永23年(1416)、相良頼久によって建立されたが、その後、数回にわたって修復されている。
明治40年(1907)の修復で、上層の桁から上が新規に造りかえられたが、下層は創建当時のおもかげを残し、全体の意匠もすばらしい。禅宗様を基本にした室町時代の貴重な建築である。

\(◎o◎)/!
※創建は大同2年(807) 日向国(宮崎県)の住人・土持太郎、田部忠網が久米蓑毛(現・多良木町久米)に住、多良木源島に帝廟(天子のみたまや)を勧請した。その後現在地に遷座したもので、祭神は神武天皇である。
※日向国(宮崎県)の住人・土持太郎、田部忠網

あった!ありました!・・・うわぁ〜!!何だかモワ〜ッとして参りました(@_@;)

何だろうこれは?合わないどころか何だか球磨とは御縁がありそうな・・(?_?)

うん(?_?)と言う事は・・もしや・・合わなくなったのは古代ではなくもっと後??
ちなみに、両親の離婚に関して、子供の頃の記憶ですが、祖母や平川のおじ・おば、多良木の平川家のおじ・おば、深水家等の親戚が、宮崎に何度か来られて、母方の親戚も交えて、話し合いをしていたのはおぼえています。
(部屋に入ろうとすると、子供は入って来たらダメと叱られた事も憶えています)
それと・・
かなり以前、母が言っていたのは
「平川家は平家方だったって言われていたけど(球磨の親戚が)、家の岩切家は源氏方だったからじゃないのかな・・?」
「家の岩切はむか〜し先祖が島津氏に仕えていたからかな?」と。
上記の事は以前もこちらにコメントした記憶はあるのですが、
源平合戦の関係ではないような気がするのですよね・・そう言う事であれば家の宮原家はどうなる!?と考えますし・・
さらに、岩切の先祖が島津氏に仕えていた・・という話は、私もよく理解出来ない事で・・?
だって「高鍋」って秋月藩でしたから・・(?_?)・・母は何を言っていたのだろう??
母の先祖の岩切氏はむか〜し島津氏に仕えていた・・????
母は何か勘違いをしているのかな?
もし勘違いでなくても・・島津氏の家臣と球磨の”うち”の方とに因縁?があったとは想像しがたい事で・・(あったのかな?)
あまり母方の事は調べた事がないのですが(本当の事を言うと調べるのを躊躇していて)直感的には「平川家」もしくは「深水家」との”合わない”関係だったような気がしています。(あくまでも妙な感ですが)
それは・・父は「高鍋のお前のおじいちゃんとおばあちゃんの事は、お父さん大好きだったよ!」と言っているからです(..)

昨日のコメント後に気が付いた事を長々と書いてしまいましたが・・

実は!「先祖が合わなかった」と言うこの「発言」の根底に関わるであろう記述に気が付いていました!

相良藩史 「歴代 嗣誠獨集覧」 429ページから肥後人吉藩の第6代藩主相良 長在が制定した「家中之式制」が記されています。
沢山の項の中にあったのが

一 養子ハ同姓の内を選ふへし、若これなきにおいてハ、由緒を正し、存生の節願出へき事、
 附、徒士以上の輩、私ニ縁辺をむすふへからさる事、


この相良藩の「家中之式制」の元で何百年も姻戚関係を結んできた「うちの一族(親戚関係)」。

時代が変わり、戦後も二十年以上も経った現代の父と母の結婚(恋愛)に問題が発生した時に、「やはり一族間(それまでの縁戚関係)からの結婚ではなかったから」という感情が皆の中によぎったのではないでしょうか・・?
私は、じぶんなりにそういう方向に考え始めています・・(..)

他にも相良藩では相良氏の分国法である相良氏法度がありました。
相良氏法度 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F%E6%B3%95%E5%BA%A6

相良氏法度(さがらしはっと)は、肥後国の戦国大名である相良氏の分国法である。15世紀末から16世紀半ばにかけて成立。後世、相良氏法度との通称で呼ばれるが、「申定条々」と呼ばれた文書、所謂、壁書(かべがき / へきしょ)の集成で、相良氏壁書とも言う。
概要[編集]
広義の戦国相良氏は、文安5年の内訌[1]を治めて球磨郡を統一した永留長重に始まるというのが通説[2]であるが、相良氏の分国法はその息子である第12代当主相良為続から、途中の内乱期(大永の内訌[3])の中断を挟んで、第17代当主相良晴広の代までの歴代4当主によってそれぞれ定められ、追加されることで成立した。その内の3人の当主の名前を冠した3つの壁書があり、すなわち為続法(7ヶ条)・長毎法(13ヶ条)・晴広法(21ヶ条)の計41ヶ条からなる。
中略・・
相良氏法度には、下記の様に土地売買の慣行や銭貨の基準(第5条)についての特徴的な記載があり、戦国時代の日本社会の史料としてしばしば珍重される。また随所に武士道的規範が言外に盛り込まれており、単なる掟に留まらず一種の道徳律ともなっていた。また晴広法には一向宗禁制が複数条で明示されている。
人吉藩では、幾つかの条項を除き、江戸時代まで用いられた。

所で・・
「家中之式制」や相良氏法度を少し勉強して・・さらに書かせて頂いた
一 養子ハ同姓の内を選ふへし、若これなきにおいてハ、由緒を正し、存生の節願出へき事、
 附、徒士以上の輩、私ニ縁辺をむすふへからさる事、

上記で、マタマタ気が付いた事があります。

以前、平川家について28+1 コメント9 で書かせて頂いたのですが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_81.html

家老(三百石)であった宮原宇右衛門 公全の甥(または孫)である公行(金兵衛)という方についてです。
転記します(..)

※M公全(宮原宇右衛門)の弟(もしくは次男)が長盛(次郎正市丞 剃髪而称一斎房山伏也) → 公行(金兵衛)
とあります。

こちらの公行(金兵衛)と言う方をあらゆる書籍等そして肥後国相良藩士分限帳で「宮原公行」「宮原金兵衛」という方を探したのですが全く見つかりませんでした。なおかつ肥後国相良藩士分限帳には当時「金兵衛」と名乗った人物は二名しかいらっしゃいませんでした・・
「岡原村の豪族」と呼ばれた系であり、家老(三百石)であった宮原宇右衛門 公全の甥(または孫)である 「宮原金兵衛」さんはいずこへ!!(?_?)
ところが・・当時・・
「宮原金兵衛」ではなくて「宮原村の」「金兵衛」さんはいらっしゃいました。
宮原村の 地頭は 「新堀金兵衛」です。(肥後国相良藩士分限帳より)

宮原金兵衛・・宮原村 地頭 新堀金兵衛
宮原金兵衛・・宮原村の金兵衛さん・・・・あんれっ???(?_?)偶然かな??
しかし(ー_ー)!!
こちらのスレッドで
相良氏・横地氏・新堀氏・そして伊予橘氏・伊予橘氏・伊予北条氏の「繋がり」を日本の苗字七千傑様からの御教示により私は理解する事が出来ました。
宮原村の金兵衛さんである「新堀金兵衛」と「宮原金兵衛」
偶然ではないような・・推測ですが予感がします・・
===========================================================

と私は書いていたのです。
球磨の歴史研究家の方々に伺ったのですが、当時の相良藩ではよくある事で
宮原公行(金兵衛)という方と宮原村 地頭 新堀金兵衛と言う方は
同一人物である可能性は高い!という事でした。(墓石調査等を進めなければまだ断言はできませんが・・)

一 養子ハ同姓の内を選ふへし、若これなきにおいてハ、由緒を正し、存生の節願出へき事、
 附、徒士以上の輩、私ニ縁辺をむすふへからさる事、

と言う事はもしかすると伊予橘氏であった「宮原氏」と相良氏と共に球磨に来られた「新堀氏」は何らかの縁が元々あったと推測する事が可能となる訳で・・

遠江国から球磨に来られた新堀又四郎頼兼 この方と 橘遠保の後裔である球磨の橘一族。
どう繋がるのだろう??そう言えば・・南北朝時代の久米の城主は「橘遠江入道 道公」
球磨の橘一族は殆どが「橘薩摩」もしくは「橘佐渡」を称しているのに何故この方は「橘遠江」なのだろう??

相良氏と新堀氏と遠江国と橘の一族・・・どう言う事なのだろう??
と考えているとマタマタ沢山の事に気が付きました。

この事は次のコメントでお伝えします(..)
(まだまだ大掃除をしているので明日書ければいいな〜(..)とは思っていますが・・)

では(^'^)
[28]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年12月29日 12時00分07秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

昨日のコメントの続きでございます(..)


一 養子ハ同姓の内を選ふへし、若これなきにおいてハ、由緒を正し、存生の節願出へき事、
 附、徒士以上の輩、私ニ縁辺をむすふへからさる事、

上記の「家中之式制」の元で数百年に渡る縁戚関係を繋いで来た「うちの親戚関係」
慶應三年生に久保田家(多良木村初代副村長家)に産まれた私の曾祖父は明治十二年の二月に12歳で宮原家の養子に入りました。
養父は宮原蔵吉(母もしくは義母は蓑毛氏の娘)
久保田家から宮原家を継ぐために養子に入った曾祖父の妻は昨日のコメントで書いた宮原村の新堀氏の娘です。
此の事で「宮原家」「久保田家」「新堀家」の姻戚関係が解ります。
新堀金兵衛という方は本姓橘(橘遠保後裔 元越智姓 伊予橘氏)の宮原公行(金兵衛)と同一人物の可能性が高い・・
と言う事は・・
「家中之式制」「相良氏法度」の元で縁戚関係を結んできた一族の繋がりから推測すると「久保田氏」は「橘氏」との”縁”が元々存在していなければつじつまが合わない事になります。(明治維新からわずか12年弱しか経過していない時代です)
さらに・・
私の曾祖が生まれる前に、子供がいなかった曾祖父母の養女となっていたのは、淵田家(多良木村初代村長家)に久保田家から嫁いだ(もしくは婿養子に入った)曾祖父の兄弟(姉妹)の娘。
つまり、うちの宮原家には淵田家から曾祖父の姪が養女に入ったと言う事です。
淵田家(多良木村初代村長家)に生まれた娘達は、うちの宮原家の養女の他、祖母の実家の平川家・桑原家・千葉家・畠山家に嫁いでいます。
私の平川の高祖母は、宮原の曾祖父の姪でもあった訳です(少々ややこしいですが(..))
淵田家(多良木村初代村長家)・・明治維新以降の多良木村初代村長・第四代村長も渕田家。多良木町初代町長も渕田家です。
平川家について28+1 コメント61以降に東松浦郡史・松浦古事記に記載の
「吉志峯城主 波多三河守」の家臣であった
※淵田祐四郎秀里 橘 秀里  立川村(西松浦郡立川)三百石 ※東松浦郡史より
※野田祐四郎橘秀里  立川村   三百石 ※松浦古事記より
についてを書かせて頂いていました。
平川家について28+1 コメント61以降 をよろしければご覧ください(..)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_81.html

コメント62では日本の苗字七千傑様より
〉公業は早くから頼朝に従い、伊予、肥前、肥後、薩摩などに領地を賜う。
小鹿島公業は奥州征伐の折、羽後男鹿島に領地を賜う。
この関係から安倍氏、嵯峨源氏松浦氏との姻戚関係が出来た。
松浦氏との姻戚から、公業の後裔は肥前松浦郡小鹿島が本拠。
後裔の多くも肥前に栄え、渋江氏は直胤。
とご教示を頂いていました(..)

淵田祐四郎秀里(橘 秀里)

一 養子ハ同姓の内を選ふへし、若これなきにおいてハ、由緒を正し、存生の節願出へき事、
 附、徒士以上の輩、私ニ縁辺をむすふへからさる事、

「宮原家」「久保田家」「新堀家」「淵田家」は”橘”の縁が色濃く見えます。

所で!「久保田家」についてさらに気が付いた事があります!!

先程もご紹介した 平川家について28+1 こちらのコメント 74以降に繋がる事です。(やはり遠江国抜きでは私の先祖調査は考えられないです(..))
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_81.html

転記します(..) 平川家について28+1 コメント74より

日本の苗字七千傑様のご教示を念頭に置き、先入観を取り払い、今日、論文や文献を読んでみたのですが・・
ナント!相良氏・平川氏ではなく・・球磨郡久米郷東方を支配した「橘氏」について気が付いた事がありました!!

求麻郷土研究会 郷土 第十八号(平成二年三月発行)
こちらに記載の論文、「上相良藩の興亡 園田健昌氏著」。
第三代六郎頼宗の項に
「永仁元年(1293年)に父、頼氏の跡を継いだ様である。
頼宗の代に久米の地頭、橘薩摩より久米の東方を引継ぎ知行した様である。
橘氏は肥前の国へ・・
\(◎o◎)/!・・
相良六郎頼宗は橘薩摩より久米の東方を引継ぎ知行!!
相良六郎頼宗とは上相良二代弥五郎頼氏(相良長頼の次男)の子。
さらに・・ 相良六郎頼宗の子「頼吉」こそが久保田(窪田)氏の祖となります。
あんれっ??久保田(窪田氏)の祖は・・「頼吉」・・「吉」??でした・・
今頃気が付きました・・(..)
相良六郎頼宗の治世は短く九ヵ年位で正安三年(1301年)卒。法名蓮空。

上記の記述に気が付いてあらためて考えてみると・・
家の前の川は「井口川」。井口です・・井口氏は後世の相良藩士(人吉城下)のイメージが大きくて(先入観がじゃまをしていました)スルーしていたのですが、井口氏の祖は・・
橘薩摩より久米の東方を引継ぎ知行したと言われた相良六郎頼宗の孫「相良頼召」でした!!
相良六郎頼宗と橘薩摩氏との関係は・・引継いだという事は何等かの姻戚関係が発生したのでしょうか?!
相良六郎頼宗に久米郷東方を引継ぎ「肥前の国」へ・・の橘薩摩氏ですが、その後「久米郷の地頭」としてやっと?名前が登場するのは・・
人吉・球磨 郷土史年表 永野博蔵氏著 で確認出来ます。
康永二年(1343年)六月頃 橘遠江禅門下着せり
こちらの記述からですね・・
橘遠江禅門とは橘遠江入道道公か?と推測します。
「下着」と言う事は何れかより、久米郷東方に下着した・・と言う事ですね。
================================================
と書いていたのでした(p_-)

この後、「久保田(窪田)」姓の「発生の地」は何処だろう?と私が疑問を持つと
日本の苗字七千傑様より頂いたご教示が
〉あくまでも推測だが、遠江掾橘遠保の後裔橘公忠(小鹿島公業の兄弟)も遠江に住する。
恐らく後裔は遠江国周智郡久保田邑に住したものと思われる。
後に後裔が肥後国球磨郡久多良木に移ったのと考えるのが妥当であろう。

さらに平川家について30 コメント1で頂いたご教示
〉火防の神様として和銅二年創建の古社、秋葉神社が有り全国の本社。
静岡県浜松市天竜区春野町領家に鎮座。
全国に分社があり、江戸期には各地で秋葉代参講が組織され、山の中とはいえ多くの参詣者が訪れている。
その秋葉山の北東部に、春野町宮川字久保田が存在する。

秋葉神社! 球磨には無いな〜と思っていた所・・あったのです!!\(◎o◎)/!
秋葉大権現様がお祀りされていました!!永国寺です! ぼ〜っと人吉散策のパンフレットを見ていて気が付いたのです!
記述されているサイトをご紹介致します。

秋葉大権現様の写真はサイト一番下にあります。
http://yumeko2.otemo-yan.net/e366647.html
転記します。
永国寺(えいこくじ)の由来
永国寺は、蓬莱山永国寺と称し、曹洞宗の寺院で特に大本山総持寺(横浜市鶴見区)の御直末として球磨人吉曹洞宗十六ヶ寺の本寺である。寺の創立は、応永17年(1410)(応永15年説もあり)で、相良9代前続(さきつぐ)の開基により、実底超真和尚が開山した。以来、現在の住職で四十代になる(2010年現在)。

本尊は、釈迦牟尼仏で脇侍に文殊、普賢両菩薩を安置する。鎌倉末〜室町初期の作と推定され、像内に延宝元年(1673)より同3年まで、京師大仏法橋康祐に依って補修された旨記してある。なお、昭和52年(1976)に現住職の晋山にあたり、約300年ぶりに再補修した。また、裏の蓬莱山頃には、鎮守稲荷富勝大明神を祀っている。この社殿よりの眺めは、人吉市街を一望に収める絶好の眺望である。本堂の外左側に、秋葉大権現を祀っている。秋葉三尺坊は鎮防火獨の権現である。

※本堂の外左側に、秋葉大権現を祀っている。

ありました!!
さらに境内には
五重石塔
嘉禄3年(1277) 4月24日 大檀那藤原□重の銘文があり、球磨地方最古の在銘重層石塔である。
現在は四重で相輪と屋根も他のもので補充してある。
銘文中の□は不明文字だが、相良家初代長頼(ながより)の弟・宗頼(むねより)の子の頼重(よりしげ)に推定されている。

(p_-)永国寺の創建前にすでに五重石塔が建てられていた事が解りました。

此の事に気が付いて私が興奮していた時に、主人が「僕も秋葉という文字を頻繁に見ているような・・?」と。
うん??「えびの」で??
そこで調べた所、マタマタ見つけたのです!!
秋葉神社(旧保壽院) えびの市飯野
http://yorihime3.net/jisya/akiba_ebinoiino.html
秋葉神社 御祭神 本殿 秋葉権現 邊川御前
防災・火除け 旧保壽院址

元和年中創建なり
本尊阿弥陀の像は
松齢公の前夫人相良氏
球磨相良候の女
俗に邊川御前といふ

こちらは主人の仕事場のすぐ近くです。

相良氏と秋葉大権現様 ついに見つけました。人吉の永国寺とえびの市飯野(原田)の秋葉神社。

日本の苗字七千傑様より頂いたご教示
〉あくまでも推測だが、遠江掾橘遠保の後裔橘公忠(小鹿島公業の兄弟)も遠江に住する。
恐らく後裔は遠江国周智郡久保田邑に住したものと思われる。
〉火防の神様として和銅二年創建の古社、秋葉神社が有り全国の本社。
静岡県浜松市天竜区春野町領家に鎮座。
全国に分社があり、江戸期には各地で秋葉代参講が組織され、山の中とはいえ多くの参詣者が訪れている。
その秋葉山の北東部に、春野町宮川字久保田が存在する。

日本の苗字七千傑様
やっと秋葉大権現様と相良氏族の繋がりを見つける事が出来ました!
ご教示本当にありがとうございました。

私が今まで想像していた以上に相良氏・橘遠保後裔「伊予橘氏」・遠江国 の繋がりは深いように感じてきました。

そして・・私が今、もっとも関心のある球磨の「橘氏」は「橘遠江入道 道公」
この方です。

続きは次のコメントで(..)
今日は今から大掃除再開です(^'^)
[29]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年12月29日 14時15分47秒 ) パスワード

皆様、先程のコメント28で長々と書いたのに
マタマタの登場です(..)

酒井とも様 お久しぶりです。こちらを今でもご覧頂いていらっしゃいますでしょうか?
酒井様に頂いたありがたい御教示の数々。
平川家について28+1
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_81.html
を何度も読み返して、今、私が心を惹かれている事は、酒井様から頂いた御教示が深く繋がっている事を確信し、あらためてお礼を申し上げます。

最近、酒井様から頂いた御教示を受け、平川家について28+1 コメント69で私が書いた
〉ちなみに井伊氏の家紋は丸に橘(彦根橘)。
井伊氏 → 貫名氏 貫名氏からは日蓮聖人が・・
日蓮聖人を擁護した南部 実長・南部 実継親子。
南部実継の娘は私共、宮原の一族の先祖「橘公綱」の妻となります。

何か、全てが繋がっているような気がするのですが・・
========================================
この事がどうも気になってしかたなかったのです。
宮原の一族の先祖「橘公綱」の妻は日蓮聖人を擁護した南部実継の娘。
何故?どう言う縁で?南部実継の娘を橘公綱は妻としたのか?
日蓮聖人は貫名氏。
井伊氏と貫名氏は同族。さらに相良氏とも同族である。
日本の苗字七千傑様の【藤原南家為憲流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm

日本の苗字七千傑様の《井伊氏/赤佐氏/貫名氏》 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm


宮原の一族は伊予橘氏。遠祖は橘遠保。
橘遠保は天慶3年(940年)正月、平将門の乱に際して防戦した功に対する恩賞として、遠江掾に任ぜられる。
遠江掾・・遠江掾・・遠江掾・・

「橘遠江 入道(禅門)道公」・・南北朝期 球磨郡久米郷の城主(南朝方として活躍)

酒井様から頂いた御教示に実はもう一つ非常に気になるお言葉があるのです。
〉平川の堤城ですが、築城が比較的新しく、1500年頃とのことです。
しかも、城主の松井氏が北遠の二俣城主となり、その時に廃城したようで
〉この松井氏が移住した二俣城ですが、昔は横地太郎の養い親の二俣氏が城主だったようです。

横地太郎の養い親の二俣氏一流は横地城の北面の神社宮司になった記述があります。

時代は下がりますが、横地城も破却され、横地の地も松井氏が統治していたと考えます。
その松井山城守が、その二俣城へ城主として栄転するとは、何か因縁を感じます。

ちなみにこの松井家は室町幕府御家人らしく、同族には熊本藩八代城主の松井氏もいます。

============================================

松井氏ですね。
様々な系の松井氏がいらっしゃる事はわたくしでも理解出来てはいるのですが
しかし、どうしても気になるのは「系」ではなくこの「松井」という姓にあるのです。

日本の苗字七千傑様の【松野氏】姓氏類別大観 を皆様、もう一度ご覧下さい(..)
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm

掲載姓氏の中に
※他に【松井氏】も夫差の裔を称する。

とあります。

平川の堤城 城主の松井氏とはもちろん系は異なるのでしょうが、しかし同じ「松井」という姓である事が、どうしても私には不思議でならない・・
全国に苗字は7000以上あるというのに・・
こう言う偶然てあるのでしょうか・・?

平安末期以降ももちろんの事ですが、やはり、古代に関してはどうしても気になるわたくしでございます(..)
[30]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年12月31日 09時57分44秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

今朝は、朝から、自分はおっちょこちょいと言うより本当に「バカ」だな(..)と痛感して悲しくなりました(@_@。

永田様の 永田姓で抱き茗荷紋の平家の末裔 を今朝、拝見したのです。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100821_73.html

永田淳様のコメントを拝読して、あらためて、永田様の 永田姓で抱き茗荷紋の平家の末裔をコメント1から読ませて頂いたのですが・・・

私の疑問、「斎藤実盛の末孫であるあさぎり町の永井家が何故『永井姓』なのか?」に三つ柏服部様からありがたい御教示を頂いていました。
〉長井直勝は大江広元から数えて12代孫になります。
〉大江広元の孫の時広が越前国の長井里に居住し永井を名乗り、また、大江
系の永井利長は永井斎藤家の実盛の叔父親頼の4代目を継いでおります。
〉従って、永井直勝と永井斎藤氏は大江氏つながりということになります。

私、完全に頭からスルーしていました(..) 
私の住む、旧宮原村の宮麓集落の中の小集落「まちむら」(字ではありません。通称です。今では町村と書かれますが、本来は「侍村」とかいて「まちむら」です)
「侍村(まちむら)」集落には現在12軒の家が残っているのですが
その内の1軒は「斉藤さん」です。
近くに「斉藤家」があるのに・・私は完全に頭からスルーしていたのです。
球磨郡・人吉市全体で29軒の斉藤家。(かなり少ないのです)
29軒の中で私の住むあさぎり町には12軒と一番多いのですが、その1軒は私の住む「侍村」集落の方です。
もちろん、御近所付き合いで、頻繁にお家にもうかがっているのに・・
完全に頭から「スルー」していました\(◎o◎)/!
内の集落わずか12軒の中によ〜く考えて見ると
「斉藤さん」の他に「森さん」「別府さん」がいらっしゃいます!
「斉藤氏」「森氏」「別府氏」って、私がここ数年行ってきた先祖調査の中で・・今までに何度も登場して来た「姓」ではありませんか!!
折角、故郷に戻ってきたのに、私は、今まで何をしていたのだろう・・ボ〜ッと気が付かないなんて本当に「バカ」です。悲しくなりました(@_@。

今年の夏、親戚の旧新堀家(現深松家)と祖母の実家の平川家とお隣の平川家を、求麻郷土研究会の溝下様と調査させて頂いた時に溝下様が
「ここの集落には、新堀・平川・宮原と球磨の古くからの姓が集まっているのは何故だろう?」と言われてらして、その時「何かあるのかな?」と自分でも言っていたのに・・
御近所の事を考える事をしていませんでした(..)

斉藤氏はもちろんですが、「森氏」は橘公業に繋がる姓であり「別府氏」は河野氏の一族。時宗の開祖は一遍上人は河野一族の別府通広の子でありました。
余談ですが旧宮原村の中に小村「別府村」がありました。その小村別府村の中にさらに小豆島村が。
この小豆島村には江戸時代に小豆島から住人180人以上の方が移住して来られています。
何故小豆島の方々が旧宮原村に来られたのか・・? 私はまだ、理解していません(..)

さらに・・・侍村(まちむら)内では無いのですが、めちゃくちゃ近い所に「野島さん」もいらっしゃいます・・
野島氏も河野一族にあったはずだと(p_-)・・
日本の苗字七千傑様の《河野氏》 《河野氏(室町期以降)》 姓氏類別大観を拝見すると解ります。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206a.htm#002

野島氏の他「桑原氏」もありますね・・(p_-)

今朝は・・本当に自分のおっちょこちょいと言うよりぼ〜っとし過ぎが悲しくなってしまいました。

では(@_@。
[31]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月02日 13時25分36秒 ) パスワード

皆様、明けましておめでとうございます。

昨年、熊本地震の際には、皆様方には大変ご心配をおかけ致しました。
あたたかい、御声援を頂き、余震に怯える私にとって、皆様のお声が心の支えとなり状況を乗り切れる事が出来ました。
心からお礼を申し上げます。 ありがとうございました。

今年は、真っすぐ前を向いて、新たなる年を進んで行きたいと思います。
皆様の御多幸をお祈り申し上げます。
本年も、御教示の程、よろしくお願い申し上げます。

昨日の元旦には、穐岡(秋岡家)※旧姓伊藤家の叔父(私の父の弟。婿養子にはいる)・叔母・従弟夫婦家族・椎葉家のふた従兄が家に集まって新年をお祝しました。

そこで新たな情報が解ったので、新年第一段はまず、こちらのお話を書かせて頂きます(^'^)

まずは、ビックリ!
@八代郡旧宮原町の伊藤家と河野家は親戚関係にあった  から始めます(..)
長くなりますが、御了承下さい(..)

親戚の穐岡(秋岡家)※旧姓伊藤家
叔母さんから聞いた話では、(叔母さんのお父様から聞かれていた話です)
伊藤家は、元々静岡県の伊豆に住されていたそうです。
伊豆には「伊東」と「伊藤」があるが、どちらも「同じだ!」と聞かれているそうです。(ううん(p_-)どう言う事なのだろう・・??勉強不足です(..))
熊本城内の絵を修復する為に、肥後に来られた絵師の方がこちらの伊藤家の肥後での祖にあたる方で、絵師として来られた後に、八代郡の旧宮原村に土地を受け、代々のお墓は八代郡旧宮原村(現氷川町宮原)。
宮原町郷土誌(宮原町教育委員会出版)に記載の「八代郡」の項に
三、文久二年戌九月、伊藤市作見聞密録抄
  伊藤市作ハ、八代郡代付目付デ、ソノ「見聞密録」中、宮原町関係ノ記事ヲ抄録スル
とあり、上記の伊藤市作は穐岡(秋岡家)※旧姓伊藤家の御先祖様です。

他宮原町郷土誌(宮原町教育委員会出版)に記載の
伊藤家古写本抄
○宮原橘公忠伝

上記の伊藤家古写本抄 も叔母さんのお父さん(私は伊藤のおじいちゃんとお呼びしていました(..))の旧宮原町「伊藤家」に伝わるものです。
何故、伊藤家に生まれた、伊藤のおじいちゃんは「穐岡(秋岡)」を名乗る事になったかと言いますと・・
伊藤のおじいちゃんの母が、松橋の秋岡家の方で、実家の秋岡家には女子しか生まれず、伊藤のおじいちゃんの母は秋岡家の長女。
伊藤家に嫁ぐ際に「子供が生まれたら一人は秋岡の姓を継ぐ」約束だったそうで、数人の男子が生まれた伊藤家から、伊藤のおじいちゃんが穐岡(本当は秋岡じゃなくてはいけなかったそうなのですが・・執事の方が・・この件は以前書きました(..))を継ぎました。

当時の伊藤のおじいちゃんの兄弟
兄は三菱銀行のニューヨーク支店の役員としてニューヨーク在住。
弟(だったかな?)は宮原郵便局の局長
だったと言う事で
伊藤のおじいちゃんは三菱銀行のニューヨーク支店の役員としてニューヨークに在住していた兄を頼って渡米。ニューヨークで最新の写真技術を勉強されました。
大正時代の話です\(◎o◎)/!
三菱銀行ニューヨーク支店 三菱銀行(1920年) 写真を見つけました(^'^)
http://www.bk.mufg.jp/kigyou/origins/1920_01.html

伊藤のおじいちゃんは、アメリカで写真技術を認められ、当時の有名な女優さん等の写真を撮られた事もあるそうです。(女優さんの名前を聞いたのに・・忘れてしまいました(@_@。)
伊藤のおじいちゃんの写真は、ナント、ニューヨークタイムズにも掲載された事があったそうです\(◎o◎)/!名前もMASA● ITOU と載っていたそうです。
この辺りは叔母さんが資料を持っているので、今度見せて下さるそうです(^'^)

ニューヨークでの生活が順風であった伊藤のおじいちゃんの元に届いたのが
「父、危篤」の電報。
そこで、伊藤のおじいちゃんは慌てて帰国となりました。
帰国後、松橋の「秋岡家」との約束で秋岡の姓を継がれました(結局、色々あって、穐岡を名乗られましたが・・)

余談ですが・・
伊藤のおじいさんの従弟は以前書きましたが(以前は名前を伏せていましたが、お正月なので(-.-))・・・
衆議院議長(第64代)、法務大臣(第40代)、防衛庁長官(第33代)、文部大臣(第91・92代)、厚生大臣(37代)、衆議院議員(17期)等を歴任した「坂田 道太氏」です(..)
ウィキ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E7%94%B0%E9%81%93%E5%A4%AA

話を戻して(..)
伊藤のおじいちゃんは、帰国後、球磨郡多良木町に写真館を開きます。
家の宮原家・祖母の実家の平川家・親戚の椎葉家・深水家・犬童家・桑原家等と親しくされていたようです(写真が沢山残っています(^'^))
さらに、私の祖父とは年が離れているのに大変親しかったようです。
(ここなのですが・・祖父は高校を卒業後陸軍士官候補生学校に入学したので、特に親しくなる接点が・・うううん(p_-) 謎です(p_-))

私の祖父は戦後すぐに亡くなりました。
が・・その後、二十年以上経ち
伊藤のおじいちゃんは、家の宮原家に父の弟を「ぜひ、宮原家の息子さんを婿養子に頂きたい」と来られました。
叔母さんの話では、ある日突然
「岡原の宮原家の息子(父の弟)を婿養子にする」と叔父を連れて来られたのでビックリされたそうです(-.-)

と言う縁で叔父(父の弟)は穐岡(秋岡家)※旧姓伊藤家に婿養子に入りました(^'^)

昨日、皆で、話している時に、私が「伊藤のおじいちゃんは何か色々知っていらしたのではないかな??」と言うと、叔母さんも
「うん!知っとったよ(^'^)」と言っていました。
伊藤のおじいちゃんは歴史に大層詳しい方で、叔父も結婚後、八代に一緒に行った時に「あそこは相良さんのお妾さんの家だった!」とか通常知られていない事を色々教えてもらって連れて回られた・・と言っていました(p_-)

さて長くなりましたが(..)本題の「伊藤家と河野氏」の関係について書かせて頂きます(p_-)

旧宮原町にある伊藤家代々の墓所。
非常に広い墓所で、そこには伊藤家墓所をお守りする「墓守」の方の「家」も建てられていたそうです。
この話を聞いている時に叔母が
「伊藤家の墓所は伊藤家だけのお墓だけではなくて親戚の”かわの”家のお墓もあって、すごく広いと。伊藤家と”かわの”家のお墓を墓守さんは守って来られたとよ(^'^)」と。
「”かわの”家??叔母さん”かわの”の字は??」と私。
「”かわの”はサンズイの河野よ(^'^)」

ぎえええええええええええええええええっ!!!!\(◎o◎)/!
ナンデスト「河野家」ですと!!!\(◎o◎)/!
私は聞いた瞬間に頭からつま先まで鳥肌がびぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!と立ちました\(◎o◎)/!

いっ!伊藤家と河野家は古くからの親戚ですと!!!!\(◎o◎)/!

と(p_-)・・正月早々元旦から「河野家」が登場した・・と言う訳です(p_-)

でもナンダナンダ!!!
※平安末期に平河氏の建立した荒田寺の御仏像の胎内銘文にも「川野氏」
※戦国時代の木上城主 窪田氏(久保田氏)の墓所にも「河野氏」のお墓が。
※旧宮原町に代々住した伊藤氏の親戚も「河野氏」
そう言えば
親戚の星原氏。以前書きましたが
日向河野氏・・日向三俣院高城の有水村に居住
星原氏・・宮崎県都城市高城町有水(旧日向三俣院高城の有水村がルーツ)

何だか「河野氏」の名が何処を見ても繋がっている!!\(◎o◎)/!

あの・・もう一つお正月なので(..)書きますと・・
コメント30で書いた
日本の苗字七千傑様の《河野氏》 《河野氏(室町期以降)》 姓氏類別大観を拝見すると解ります。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206a.htm#002

野島氏の他「桑原氏」もありますね・・(p_-)

以前書いた「三つ鱗紋」のうちの親戚は・・「桑原家」なのです・・(書いちゃった(..))

さらにもう一つ
コメント30で書いた
〉時宗の開祖は一遍上人は河野一族の別府通広の子でありました。

元旦を一緒に過ごした、椎葉家のふた従兄。
母は国宝青井阿蘇神社第67代大宮司の妹で、尾方家の娘。こちらの尾方家からは、実は椎葉家の養女になった祖母の姉の婿養子の方の実家でもあります。
上記の尾方家が代々宮司家をしている築地の熊野座神社。
実は別当寺は「時宗」のお寺でした(p_-)

詳しくは、椎葉家に関して新しく聞いた情報として、次のコメントで書かせて頂きます。(..)
明日書けたらいいですけど・・(..)

と言う事で
親戚の伊藤家と河野家は繋がっていました!!
でした(..)

では(^'^)
[32]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月04日 12時03分45秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

主人がやっと休みが取れたので(いち日だけですが(..))、昨日は、球磨郡内の神社「岡原霧島神社」「北岳神社」「青井阿蘇神社」の三社参りに行ってきました(^'^)(伺った神社は主人の意見です(..))
補足します(..) 三社参りとは・・
ウィキをよろしければお読みください(..)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A4%BE%E5%8F%82%E3%82%8A

青井阿蘇神社は国宝と言う事もあり、昨日の三日でも沢山の方々がお参りに来られていて、拝殿前は長蛇の列だったのですが、その中には海外からのツアー客の方々も、と並んでいらっしゃいました(@_@;)

所で・・私、昨年の秋頃初めて気が付いていたのですが
(多分殆どの方は御存じないと思いますが・・)
九州内には名だたる神社様が御鎮座なのですが、その九州内の神社様で現在国宝指定の神社は
宇佐八幡宮と人吉の青井阿蘇神社の二社のみです。
宇佐八幡宮は「そうだろうな〜!!」と思いますが、青井阿蘇神社は子供の頃から慣れ親しんだ神社様なので「あんれ〜っ!!?」と驚きました。
(名だたる神社様が御鎮座の中・・何故だろう?と書くと、うちの先祖だけではなく、親戚中の御先祖様から叱られそうなのですが・・御先祖様方すみません(..))
後、もう一つ、昨年末に気が付いていたのが青井阿蘇神社の鳥居についてです。
昨日撮った写真をブログにアップしているのでよろしければ皆様ご覧下さい(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12234796074.html

鳥居の形が気になって、今朝、調べて見たのです(p_-)
ウィキ より 鳥居
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85

ウィキの記述を読むと、青井阿蘇神社の鳥居は「神明鳥居」のようです。
画像「A」に近いです。ウィキ 画像
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85#/media/File:Torii_gate_variation.svg

ウィキより
神明鳥居に代表されるもの[編集]
神明鳥居に代表されるものは、柱や笠木は丸材を用いることもあるが、全体的に直線の部材が用いられる。神明鳥居は素朴な形式で、全体的に直線的である。笠木柱には丸材、貫には板材が用いられることが多い。笠木の下に島木がなく、貫は貫通せず、柱は地面に対し垂直に立てられている。伊勢鳥居とも言うように、伊勢神宮において現れたと考えられており、この類に外宮鳥居がある。この形式のバリエーションとして、貫に角材を用いたものが、靖国神社をはじめとする各地の護国神社で広く見られることから、特に靖国鳥居と区別することがある。

(p_-)しかし・・
別のサイトを読むと、伊勢神宮の鳥居は白木で赤くないと書かれていました。
出雲大社も同じく白木の鳥居。
そう言えば・・岡原霧島神社には入口と拝殿前に鳥居があるのですが、拝殿前の鳥居は白木です(老朽化の為、最近、あたらしく建て替えられましたが)

よ〜く考えて見ると私は、青井阿蘇神社をあまり勉強していませんでした(@_@。
(相良藩に関する書籍は多数持っているのにも関わらず(@_@。)

ウィキに詳しく書かれていますのでご紹介致します。
国宝青井阿蘇神社 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E4%BA%95%E9%98%BF%E8%98%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE

青井阿蘇神社(あおいあそじんじゃ)は、熊本県人吉市にある神社である。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。地元では親しみを込めて「青井さん」と称されている。
本殿など5棟の建造物が国宝に指定されている。
祭神[編集]
建磐龍命とその后神である阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)、両神の御子神である国造速甕玉神(くにのみやつこはやみかたまのみこと)を祀る。この3神は阿蘇三社とも称される、熊本県阿蘇市の阿蘇神社の祭神12柱中の3柱である。
近世までは両部神道に基づく神仏習合が行われ、建磐龍命は十一面観音を、阿蘇津媛命は不動明王を、国造速甕玉神は毘沙門天を本地仏とし[1]、神体として仏像を祀っていたが、寛文5年(1665年)に唯一神道へ改めてこれを改替した[2]。なお仏形の神像絵は現も神社に保存されている[1]。
歴史[編集]
大同元年(806年)9月9日に阿蘇神社の神主尾方権助大神惟基が神託により阿蘇神社から阿蘇三社の分霊を当地球磨郡青井郷に祀ったのに始まると伝える。その後天喜年中(11世紀中半)に再興され、建久9年(1198年)に領主として藤原(相良)長頼が当地へ下向した際にも再営して自家の氏神として尊崇、神領216石を寄進する等相良家歴代の篤い崇敬を受け、延徳3年(1491年)の同為続による社殿造営を始めとする数度の社殿の造営、修造が行われた。

(p_-)ここで・・一つ
※大同元年(806年)9月9日に阿蘇神社の神主尾方権助大神惟基が神託により阿蘇神社から阿蘇三社の分霊を当地球磨郡青井郷に祀ったのに始まると伝える。

私の住む、旧宮原村宮麓に鎮座であった中嶋大権現(中嶋霧島神社・宮原神社)も同じく「大同元年(806年)大神惟基が神託を受け建立」です(p_-)

ウィキの記述、気になる所の転記を続けます(..)
相良氏は八代衆や球磨衆といった衆中と呼ばれる国人層を家臣団として抱え、その衆議を踏まえて領国経営を行ったが[3]、『八代日記』に永禄元年(1558年)2月26日に制定された17箇条の法について、同23日に八代郡の八代衆が妙見宮(現八代神社)で神裁(一味神水)を行った後に条文を球磨へ送った事と、同28日には球磨衆が「春井ニ御籠」って神裁をしたことが見え、この「春井」は「青井」の誤写で当神社を指し、当神社で制定前の衆議や制定後の神裁が行われたものと思われるので、相良氏にとっての当神社が信仰の対象であるとともに家臣団を統制する存在でもあったことがわかる[4]。
近世には青井大明神と称され[2]、相良家20代目に当たる長毎(頼房)は文禄の役での朝鮮出兵に際して当神社へ戦捷を祈願し、帰国後の慶長2年(1597年)に当神社を球磨郡内の神社250余社の総社と定め[1]、同6年に大村内の田地1町1,000歩(約4,000坪)を寄進[5]、戦捷祈願の報賽として社殿の大造営を行う等、近世を通じて同氏及び人吉藩による崇敬を受けた。なお、阿蘇神社の分霊社ではあるが、同神社の大宮司家(阿蘇氏)が南北朝の内乱期や戦国時代に相良氏と対立することが多かったためか阿蘇神社との関係は薄く、当神社は独自の宗教的展開を図っていたものと考えられる[6]。

(p_-)・・・やはり「何故だろう?」とか言うと、親戚中の御先祖様に叱られますね(@_@。

続けます(p_-)
祠官[編集]
詳細は「青井家」を参照
当神社の創祀を果たした大神惟基を家祖とする青井氏が大宮司として歴任し、江戸時代には当地方一帯の神職を統括するほどの存在であったが、大正14年(1925年)に断絶した[8]。なお、神社に隣接した青井氏の邸宅と庭園は、平成22年(2010年)より、「文化苑」として公開されている。

社殿
現存の本殿、廊、幣殿、拝殿の中心的社殿と楼門の計5棟は、人吉藩初代藩主相良長毎とその重臣相良清兵衛の発起により、慶長15年(1610年)から同18年にかけて造営されたものである。
本殿は三間社流造銅板葺。側面と背面の桟を×型とする点や長押上の小壁に格狭間(ごうざま)を設ける点などに球磨地方の社寺建築の特徴が見られる。廊は本殿と幣殿を連絡する社殿で、梁間1間、桁行1間切妻造銅板葺。左右両柱の持ち送りに龍の彫刻を施すが、これは南九州の近世社寺建築に影響を与えたとされる。幣殿は梁間3間、桁行5間の寄棟造妻入茅葺で前面は拝殿に接続する。内部外部ともに華麗な装飾が見られるが、内部小壁の装飾彫刻の図様が柱間内で完結せずに柱を超えてつながる点や餝金具の技法に特徴があり、これは当時の最先端技法をいち早く取り入れたものという。以上3棟は慶長15年の竣工。拝殿は慶長16年の竣工で、桁行7間、梁間3間、寄棟造平入茅葺。前面に1間の唐破風造銅板葺の向拝(こうはい)を付ける。梁間3間のうち手前1間通りを吹き放しとし、その奥は拝殿、神楽殿、神供所(じんくしょ)の3つに仕切られ、当地方独特の舞台装飾が施された神楽殿では、10月8日の夕刻に球磨神楽が演じられる。
慶長18年に竣工した楼門は禅宗様に桃山様式を取り入れた寄棟造茅葺の三間一戸八脚門。組物は初層を二手先、上層を三手先とし、柱間は地覆と貫で固め、柱上には初層・上層ともに台輪を渡す。上層四隅の隅木下に陰陽一対の鬼面を嵌め込む点が珍しく、これは当地方独自の人吉様式と呼ばれる。また、初層組物間の琵琶板には二十四孝等の彫刻が施され、初層天井には雌雄の龍が描かれる。楼門に掲げる神額は人吉藩3代藩主相良頼喬が延宝5年(1677年)に奉納したもので、天台座主堯恕法親王の揮毫、林春常の裏書がある。

(p_-)・・ここで(..)
※楼門に掲げる神額は人吉藩3代藩主相良頼喬が延宝5年(1677年)に奉納したもので、天台座主堯恕法親王の揮毫、林春常の裏書がある。
天台座主堯恕法親王 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%AD%E6%81%95%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
堯恕法親王(ぎょうじょ ほっしんのう、寛永17年10月16日(1640年11月29日) - 元禄8年4月16日(1695年5月28日))は、江戸時代前期の皇族・僧。後水尾天皇の第十皇子。母は園基音の娘・新広義門院園国子。天台宗延暦寺別院妙法院の門跡。幼名は照宮。諱は完敏(さだとし)。字は体素。号は逸堂。

(p_-)と言う事は楼門に掲げる神額は後水尾天皇の第十皇子「堯恕法親王」様の「揮毫」(揮毫(きごう)とは、毛筆で何か言葉や文章を書くこと。)
\(◎o◎)/!ぎええええええええええええ〜っ!!知らんかった〜〜〜!!(はしたない声が驚きのあまり出てしまいました(..))
楼門を見るといつも「かっこいい〜!!」と写真を撮って・・普通に通らせて頂いていましたが・・(何と厳かな楼門だったのでしょう(..)今までの行為を大反省(..))

※林春常の裏書 
林春常 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B3%B3%E5%B2%A1  
林 鳳岡(はやし ほうこう、寛永21年12月14日(1645年1月11日) - 享保17年6月1日(1732年7月22日))は、江戸時代前期・中期の儒学者。特に元禄時代の将軍・徳川綱吉のもと江戸幕府の文治政治の推進に功績があったひとり。父は林鵞峰。名は又四郎・春常・信篤。字は直民。号は鳳岡・整宇。
儒学者・林鵞峰の次男として江戸に生まれた。兄の春信(梅洞)が早世したため林家を継いだ[1]。
延宝8年(1680年)に父・鵞峰が死去したのちは、その職禄を継いで大蔵卿法印・弘文院学士となった[1]。その後、江戸幕府の4代将軍・徳川家綱以後、8代将軍・徳川吉宗まで5代にわたって幕府に仕えた。特に5代将軍・綱吉、8代将軍・吉宗からの信任が厚く、綱吉の命により殿中諸士に講義したこともある[1]。

中略・・
その後、鳳岡は吉宗までの歴代将軍に仕え、講学だけではなく官爵や系譜、祭典など、幕府の文書行政に参与し、この間、朝鮮通信使の応接にもかかわった。また『武徳大成記』などの編纂に従事し、林家の官学的傾向をつよめ、服忌令を定めた。また、その門下は幕府や諸藩に仕え、儒学の発展におおいに寄与した[1]。

\(◎o◎)/!・・・・!!!
※楼門に掲げる神額は人吉藩3代藩主相良頼喬が延宝5年(1677年)に奉納したもので、天台座主堯恕法親王の揮毫、林春常の裏書がある。

勉強すると・・今までの不敬を大反省です(@_@。

青井阿蘇神社 ウィキの記述転記を続けます(..)
以上の5棟は、軒から下を黒漆塗としつつも組物や角材の面取り部分に赤漆を併用する技法や、急勾配な茅葺屋根、壁面の格狭間や木鼻(きばな)等に見られる細部の意匠に中世以来の人吉球磨地方独自の意匠を継承する一方で、鍍金を施した餝金具等の繊細、優美な植物文様といった桃山時代の華麗な装飾性も取り入れたものとなっている。昭和8年(1933年)1月23日に国宝保存法に基づき当時の国宝(いわゆる旧国宝)に指定され、同25年には文化財保護法施行に伴い重要文化財となった。同34年の解体修理で梁木から発見された棟札と銘札5枚は昭和55年に重要文化財の附(つけたり)として追加指定されている[9]。同時期に一連の建造物として統一的意匠を持って造営されたものである点や、地方的様式を継承しつつ桃山様式も採り容れて当地における社寺建築の手本となっている点、南九州地方における近世神社建築へ影響を与えた点が認められ[10]、平成20年(2008年)6月9日付で国宝に指定された(平成20年文部科学省告示第86号)。これは茅葺の社寺建造物としては初の国宝指定であり、また建造物はもとより熊本県に現存する文化財としても初めての国宝指定となった。

国宝
青井阿蘇神社 5棟
本殿(附棟札1枚、銘札5枚[9])

幣殿
拝殿
楼門

\(◎o◎)/!
勉強してやっと解りました「国宝 青井阿蘇神社」
「何故かな?」と疑問を持ってしまった事を相良家の御殿様、そして宮原の先祖や相良氏族であった親戚中の御先祖様、大神氏である尾方家の御先祖様、椎葉家の御先祖様にお詫び申し上げます(..)

と言う事で「国宝青井阿蘇神社」について でした。

次のコメントでは、今朝御紹介した「青井阿蘇神社」に関係する「尾方家」に繋がる椎葉家についてと、宮原氏系図に書かれている橘遠保の記述についてを書かせて頂きます(..)

では(^'^)
[33]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月05日 12時53分53秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

昨日 青井阿蘇神社について書かせて頂きましたが・・
よかった!書いて!!と痛感しています。(^'^)

昨日のコメントを読み返していたら気が付きました!!!!!

昨日のコメントより(..)
〉社殿
現存の本殿、廊、幣殿、拝殿の中心的社殿と楼門の計5棟は、人吉藩初代藩主相良長毎とその重臣相良清兵衛の発起により、慶長15年(1610年)から同18年にかけて造営されたものである。

読み返して気が付いたのです「人吉藩初代藩主相良長毎とその重臣相良清兵衛の発起により」

※相良清兵衛!!  あれっ???と。
そこで 相良清兵衛 ウィキで再確認すると・・
相良清兵衛 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%85%84
犬童 頼兄(いんどう よりもり/よりえ[3])は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。相良氏の家臣。後の失脚事件により、地元人吉では相良清兵衛(清ビア)の名前でも知られる。
永禄11年(1568年)、肥後国南部の戦国大名・相良氏の重臣である犬童頼安の子として誕生した。
はじめは延命院の稚児であったが、父・頼安が島津氏との戦いで水俣城を守った際に寺を抜け出して共に籠城したことから、以後は武将として仕えた。
家老・深水長智は頼兄の才覚を認めて、死去した嫡子の代わりに自らの後継にしようとしたが、竹下監物ら深水一族から慣例に背くと反対されたため、主君・相良頼房の許しを得て、甥で養子とした深水頼蔵を奉行とし、頼兄をその補佐役とするように主張した。しかし頼房は、頼蔵よりも才気のある頼兄をむしろ信頼して、2人を同格の奉行とすることにした。しかし、これが原因で両者は益々不仲となった。
筆頭家老として[編集]
頼兄は頼房の信頼を得て家老となり、天正20年(1592年)2月1日、相良姓を与えられ、相良兵部少輔頼兄を名乗った。同じく頼蔵にも相良姓が与えられたが、両人の不和は様々な支障を生じるようになっており、頼房もこれを憂慮し朝鮮出兵の際には両人に誓紙を書かせた。同年3月1日からは朝鮮出兵にも副軍師として頼房と頼蔵と共に渡海している。
文禄2年(1593年)、深水一族で頼蔵派である竹下監物とその嫡子・知行が、太閤検地により所領を召し上げられた際に、監物はこれを頼兄の計略と訝ったため深水一族600人が湯前城に籠城する騒動が起きた。これは頼房の命で監物ら数名が切腹して沈静化したが、この頼兄(犬童氏)と頼蔵(深水氏)の対立は明治時代を迎えるまで打ち続く人吉藩の藩内抗争へと繋がっていく。朝鮮出兵から帰国した頼蔵は、暗殺を恐れて肥後の加藤清正を頼った。実父・織部ほか深水一族も相次いで佐敷に出奔したので、頼兄は家臣の流出を止めるべく一勝地[4]に人をやって捕え、73名の深水一党を斬った。これには庇護者であった加藤家が怒り、豊臣秀吉の惣無事令が禁じる私闘であると訴え出た。しかし頼兄は巧みな弁舌で奉行の石田三成を納得させ、お咎め無しとなった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に付いた相良氏は、伏見城の戦いなどで率先して戦ったが、大垣城にて西軍本隊が大敗したと知るや、徳川家臣・井伊直政と内通していた頼兄は、頼房に東軍に寝返るように進言し、同じく内通していた秋月種長・高橋元種兄弟と共に、西軍諸将を謀殺して、相良氏の存続を成し遂げた。これらの功績から頼兄は筆頭家老として国政を任され、人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石を与えられた。
徳川家の時代になると頼兄は、関ヶ原の戦後交渉で恩があり、同じ兵部少輔であった井伊直政を憚り清兵衛尉と改めた。

\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!
※慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に付いた相良氏は、伏見城の戦いなどで率先して戦ったが、大垣城にて西軍本隊が大敗したと知るや、徳川家臣・井伊直政と内通していた頼兄は、頼房に東軍に寝返るように進言し
※徳川家の時代になると頼兄は、関ヶ原の戦後交渉で恩があり、同じ兵部少輔であった井伊直政を憚り清兵衛尉と改めた。
\(◎o◎)/!・・・・(p_-)
そう言う事だったんだ・・・・・(p_-)
西軍側であった相良氏が徳川側についた背景(バック)には「犬童 頼兄(相良清兵衛尉)と井伊直政の内通」があったとは!!
さらに
※同じく内通(井伊直政と)していた秋月種長・高橋元種兄弟と共に・・
何度もコメントしていましたように秋月氏と相良氏は姻戚関係にあります!(p_-)

こう言う形で井伊直政・「井伊氏」が出て来られるとは・・・なるほど(p_-)

所で(..)
※これらの功績から頼兄は筆頭家老として国政を任され、人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石を与えられた。
この事が原因となり・・その後藩ではもめにもめた訳です(..)

転記続けます(..)
弘前へ流刑[編集]
寛永17年(1640年)、頼寛が「頼兄は専横の家臣である」と幕臣・阿倍正之と渡辺図書助宗綱[5]に相談した。阿部が大老・土井利勝に報告したところ、土井は頼兄親子を江戸に呼び寄せて幕臣から訓戒させてはどうかと頼寛に内談したが、頼寛は清兵衛一派の報復を恐れてこれを承知せず、頼兄親子の横暴を長々と書状にしたためて報告した。これを受けて江戸幕府は公儀として対応することになり、頼兄は江戸に召された。この一大事に人吉藩は改易か取り潰しかと騒ぎになり、当時73歳の頼兄は江戸に発った。箱根を越えると武器を取り上げられ、囚人同然の待遇となった。また出立は極秘であったが、国許では頼兄の養子・田代半兵衛[2](半兵衛の母の再嫁先が頼兄)が叛乱を起して、百数十人が死傷する騒ぎとなった。
「人吉藩#お下の乱」も参照
8月11日、藩主・頼寛は、頼兄が私曲13ヶ条の罪を犯したとしてこれを幕府に訴えた。結局、頼兄は津軽に流刑に処された[6]が、徳川家康にも仕えた長年の功績もあって実際的には強制隠居・蟄居であり、頼兄は米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西方の高屋村に置かれたが、そこで火災が起こったために鏡ヶ池の畔に移り住んだ。なお、現在の青森県弘前市相良町は頼兄の屋敷があったことに由来している。
明暦元年(1655年)、津軽で客死。享年88。

(..)もめにもめた藩内です。
詳しくはこちらのサイトに書かれています(..)
サイト内「清兵衛の遠流と、お下の乱」をご覧ください(..)
http://kuma.atukan.com/rekisi/kinsei5/kinsei5.htm
上記サイトより
※相良清兵衛の所領は公称2千石。しかし一説には8千石とも1万石ともといわれていました。相良藩は2万2千石(※1)といわれているので、ほんとなら尋常じゃない。 
 そして岡本(現在のあさぎり町・岡原)に隠居所といいながらを城下町までつくり、人吉から商人・町人を呼んで賑わったそうです。(※2)
21代・頼寛は、寛永17年(1640)5月、ついに清兵衛を幕府評定所へ訴え出ます。

 頼寛が訴え出た内容(要約)は・・・・

 1. 岡本に隠居所造営にあたって、人吉城下から大勢の商人・町人たちを召し寄せ住まわせたため、
   城下を衰徴させた。

 2. 清兵衛は内蔵助頼安(清兵衛の息子)と談合して家中の知行を調べ、二百五十歩を一反とし、それ
   で生じた三千石あまりを横領した、

 3.当主不在の際、藩主に随行した家臣30人の知行を没収し、家臣で先代当主・長毎より貸し与え
   た金銀の返済不能者に厳罰をあたえながら、清兵衛の近親者には優遇した。

 4.長毎・頼寛へ忠勤を励んだ家臣を、偽りの嫌疑で知行没収や改易をおこなった。また巧みに恩を
   着せて味方に付けた。

 5.島原の乱の際、出陣を渋った。

 6.長毎の治世の頃、藩の出納をほしいままにした。

 7.その知行を証さず、推量で一万石とも二万石とも思われる収入がある。

 8.息子・内蔵助頼安が江戸で死去したさい、家来に殉死者が出たが、その子頼章(清兵衛の孫)が止
   め、「もし頼章に家老職を申しつけられないときは命を捨てて奉公せよ・・・・」と申し聞かせ、その
心情悪心分明らかなること。(※4)
======================================================

(..)・・あの・・・
球磨では相良清兵衛(犬童 頼兄)に対しての感情は今でも賛否両論です。
確かに、私の知っている方はには「御先祖が清兵衛さんに土地を取られた旨(悔しさ)をつづる古文書」が家に残っていました(拝見しました)
しかし・・家の一族は・・・
皆様、もうすでにお気づきの事と思いますが
この騒動の舞台は・・私の住む旧岡原村です(..)
これまたすでにお気づきとは思うのですが
※岡本(現在のあさぎり町・岡原)に隠居所といいながらを城下町までつくり、人吉から商人・町人を呼んで賑わったそうです。
(..)の「隠居所」に清兵衛さんが球磨を去られた後に住んだのは家の親戚です\(゜ロ\)(/ロ゜)/
相良清兵衛隠居所跡に代々住んだ親戚は実は家の宮原家だけではなく祖母の実家の平川家も、宮原の高祖母の実家であり、宮原の曾祖母の弟が新堀家から養子に入って跡を継いだ久保元(本)家も其々親戚になります。
家の親戚関係で清兵衛さんを悪く言う人は誰もいません(..)
相良清兵衛隠居所跡は家から500メートルも離れていません(..)

さらに・・相良清兵衛(犬童 頼兄)と宮原の一族は御縁があります。
まず・・
相良清兵衛(犬童 頼兄)と一緒に(従して)騒動後江戸に赴いた方々の一人は「宮原内記」です。
さらに・・
相良清兵衛(犬童 頼兄)の父「犬童 頼安」と宮原の一族は縁があります。
良い事も悪い事も含めての「調査」なので書きます(..)
犬童 頼安 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%AE%89
犬童 頼安(いんどう よりやす)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。相良氏の家臣。出家して伝心、還俗後に再出家して休矣と名乗る。
生涯[編集]
大永元年(1521年)、肥後国南部の戦国大名・相良氏の家臣・犬童重安の子として誕生。
犬童一族は、大永4年(1524年)の相良長定の謀反に与したため、後の享禄3年(1530年)に犬童長広ら一族の大半が殺害されたが、熊徳丸(後の頼安)は僅か10歳であったため、僧籍に入ることで助命された。出家して「伝心」と名乗り、天文14年(1545年)に復讐を果たさんと相良治頼に与して相良家の本家と戦うが敗北して逃亡し、その後は各地を修行して回った。

※犬童 頼安・・相良治頼に与して相良家の本家と戦う
相良治頼 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B2%BB%E9%A0%BC
相良 治頼(さがら はるより、永正11年(1514年) - 天文15年5月11日(1546年6月9日))は、戦国時代の武将。相良氏の家臣。相良長弘の子。頼泰の孫。官途は治部少輔。
略歴[編集]
永正11年(1514年)、相良長弘の子として八代にて誕生。祖父頼泰が宗家に謀反を起こしたため、幼少であった父長弘は八代に逃れて死を逃れた。
治頼は成長すると16代当主相良義滋(長唯)に仕えた。治頼は天性器量に優れ、武技に通じ、天道兵法に詳しく芸能の嗜みも深かった。八代岡(八代市岡町)の地頭として功があり、民心も得ていた。それで球磨郡の重臣の中にもその人となりに心服し、謀反(下克上)を唆す者があった。治頼もついにその気になって決意するが、その企みは内通者によってすぐに露見した。義滋が治頼に切腹を命じるつもりであるという話が伝わると、治頼は観念して自害しようとしたが、犬童頼安(軍七)と宮原玄蕃がこれを止めて、人吉に逃れて同志を集めて一戦交えようと説得したので、これに従って球磨郡に向かった。
天文14年(1545年)6月15日夜半、10名程度の一行は、万江川(球磨川の支流、人吉市の西の境)に至った。しかしその情報をつかんだ人吉の井手隼人と林田忠次郎が待ち受けていて、「人吉の謀臣は皆自害した」と嘘を教え、郡内に入るのを妨害しようとした。治頼はこれを怪しみ、厳しく詰問したので、両人は答えに窮し、怒った治頼は林田を斬るが、井手を取り逃がしてしまった。治頼は取りあえず山道を使って、一時真幸院まで逃れることにした。義滋は八代から追手を差し向けたが、この頃には治頼はすでに逃れていた。
しばらくして、球磨・葦北の味方が治頼の元へ集まって来たので、林田・井手に騙されたことがわかり、改めて手勢40余人を率いて球磨郡に向かった。7月14日夜、多良木に至って鍋城に入った。鍋城では税所源兵衛が応対したが、治頼らを歓迎するふりをして、城は城壁が強固ではないからと入城を拒み、地頭岩崎加賀の家に入れと勧めて、そのうちに直接八代に通報。岩崎加賀も深水出羽と謀って歓迎するふりをして家に泊めるが、夜のうちに逃亡した。結局、治頼は期待した応援を得られなかった。
義滋は人吉の兵を追討に派遣することにした。9月13日、治頼は耳取原にて僅か40人余りの手勢でこれを迎え撃ったが、衆寡敵せずに敗退。久米の地頭を頼ったがこれにも断られたので、日向国に逃れ、さらに豊後国に移住した後、一年後の天文15年(1546年)、佐賀関にて病死した。享年33。法名は摩利支天正位。
治頼の祟りが原因で義滋もほどなくして亡くなったという伝承がある。他方、犬童軍七と宮原玄蕃はそれぞれ出家して諸国を流浪するが、後に帰参を許される。
天文18年(1549年)、治頼とその母の祟りがあるということで、第17代当主晴広は、西村・久米・宮原・黒肥地・多良木東村の各地[1]に新八幡宮という治頼神社を5社造らせ、その霊を祀らせた。

(..)私の住む旧宮原村の中嶋大権現の境内に相良治頼公をお祀りした治頼神社がありました。・・・(..)

犬童頼安(軍七※相良清兵衛の父)と宮原玄蕃 の関係・・お解り頂けましたでしょうか(..)

宮原玄蕃は球磨に帰参後、しばらくして起こった相良藩内での内乱「うそんばるの乱」で戦死されました。
その時に一緒に戦死した宮原村の沢山の宮原一族の名前や、私の家のすぐ近くに建っていた、稲積妙見の別当寺の僧の方々も一緒に戦死されている事が求麻外史等に書かれています。(..)

※徳川家臣・井伊直政と内通していた犬童頼兄(相良清兵衛)
先程書いた宮原の一族との縁以外に・・旧宮原村の宮原城最後の城主は「犬童十兵衛(宮原十兵衛)
犬童十兵衛を名乗った「平河高政」

こうも同じ姓が続くものなのか?・・・
もわ〜っとします(..)
犬童頼兄(相良清兵衛)は宮原村にそびえる黒原山頂上近くの雨引神社を中興されています・・・

所で・・
一説には8千石とも1万石とも言われる所領を手にした犬童頼兄(相良清兵衛)が終の住処として4年間住んだ、旧岡本村。(結局、津軽へと配流となりましたが(..))
旧岡本村や旧宮原村がどのような場所だったのか?皆様にご覧頂こうと思いまして、旧岡原村の航空写真をブログに乗せました(..)

田んぼば〜っかりの私の住む場所です。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12235152696.html

この山の麓から広がる田園風景が、隣の旧上村、旧奥野村、旧久米村、旧湯前村、と続き、ここが和名妙に言う「球磨郡久米郷」です(^'^)

久米郷だけではありません(ー_ー)!!
この風景が球磨盆地いっぱいに広がっています(^'^) ・・およそ20キロ以上かな・・
そこから一旦山に入ってその先には人吉市を含む盆地が広がっているのです(10キロ以上)。

変な事は書けないので・・皆様、ブログにアップした写真と私の球磨盆地・人吉盆地の説明から本当の相良藩の石高を推測して見て下さい(^'^)・・あっ書いてしまった(..)・・(;一_一)

ちなみに球磨盆地は「東西約30キロメートル、南北約15キロメートルの範囲に広がる盆地」です。
偶然なのですが・・
奈良盆地と全く同じ大きさなのです・・
奈良盆地は「東西に約15キロメートル、南北に約30キロメートルの面積」

ちなみに古代中国では盆地の事を「山門」と書きました(p_-)
あっ!(..)これを書くとまた頭が古代の事でいっぱいになってしまいそうですから・・止めておきます(..)


「青井阿蘇神社」に関係する「尾方家」に繋がる椎葉家についてと、宮原氏系図に書かれている橘遠保の記述については
長くなったので次のコメントに続けさせて頂きます(..)

では(..)
[35]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月07日 11時05分14秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

早速
〉「青井阿蘇神社」に関係する「尾方家」に繋がる椎葉家についてと、宮原氏系図に書かれている橘遠保の記述

について書かせて頂きます。
先に書いておきますが・・昨日『宮原氏系図』から発展して調査したら「何だこれは!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/」と言う事を見つけました。
椎葉家の新情報の後に続けて書かせて頂きます(p_-)

まずは、
「青井阿蘇神社」に関係する「尾方家」に繋がる椎葉家について から(..)
最初は・・
「青井阿蘇神社」の宮司家であった「青井氏」について先日のコメントでも書いたように
〉祠官[編集]
詳細は「青井家」を参照
当神社の創祀を果たした大神惟基を家祖とする青井氏が大宮司として歴任し、江戸時代には当地方一帯の神職を統括するほどの存在であったが、大正14年(1925年)に断絶した[8]。なお、神社に隣接した青井氏の邸宅と庭園は、平成22年(2010年)より、「文化苑」として公開されている。

青井家 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E4%BA%95%E5%AE%B6
青井家(あおいけ)は熊本県人吉市鎮座の青井阿蘇神社の社家。本姓大神氏(おおがし)を称するので大神青井氏とも呼ばれる。
家歴[編集]
青井阿蘇神社は大同元年(806年)に肥後国阿蘇郡の阿蘇神社の神主尾方惟基(大神惟基)が阿蘇神社の分霊を球磨郡青井郷へ分祀したものと伝えるが、その惟基を家祖とする。代々青井阿蘇神社の大宮司職を襲い、その起源は同神社創祀の翌大同2年9月13日に惟基が同神社の大宮司に補任された事に因るという[1]。
延文年中(14世紀中半)に第27代前清が球磨郡の領主藤原定頼の5男頼範を女婿に迎えて家を継がせ[2]、永禄10年(1567年)に第46代惟元が神祇管領長上吉田家へ入門、慶長2年(1597年)に青井阿蘇神社が球磨郡内全神社の総社と定められてからは近世を通じて人吉藩内の神職の元締めともされた。
第47代の惟延が慶長15年に吉田家の神道伝授を受けて初めて同家から官位を授けられ、第50代惟治も明暦4年(1658年)に上洛して吉田兼連から神道の秘法と正六位下信濃守を受領、以降代々正六位下を受領する例となった。また惟治は寛文5年(1665年)にも上洛して吉田家から唯一神道の大護摩と諸加持行法等の奥義を授かったが、帰国の後にそれまで仏像であった青井阿蘇神社の神体を改替する等、両部習合であった同神社を唯一神道へと改めた。
大正14年(1925年)に第60代の淑人が歿する事で断絶した[3]。
なお氏名(うじな)は、相良長毎が文禄元年(1592年)に朝鮮へ出兵(文禄の役)するに際して惟延(47代)が長毎の武運長久の祈祷を行った縁で長毎から犬童の家名を授かって改姓したが、次の範重の代の寛永18年(1641年)、藩主頼寛の命により旧に復している。

(p_-)
@延文年中(14世紀中半)に第27代前清が球磨郡の領主藤原定頼の5男頼範を女婿に迎えて家を継がせ
(p_-)気が付きました!
「第27代前清」・・清の文字がついていらっしゃいます(p_-)
以前、平川家について31 コメント51で書かせて頂いたのですが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101516.html
熊本県神社誌 第八章 熊本県内社家と神職 第一節 古い社家略系図より
※親戚の宮司家「尾方家」遡った14代
岡留熊野座神社 尾方(●●※椎葉のおじの妻の兄の名)家 (姓 大神 氏 尾方)
初 緒方太郎右衛門(元禄十二年)・・A左仲・・B右門・・C右源太・・D早馬惟利・・E太市惟金・・F早馬惟忠・・G右馬清雲・・H文平惟信・・I早馬・・J馬才・・K清治・・L清馬・・M現在(●●※椎葉のおじの妻の兄の名)
となります。
※13代「清馬」この方が椎葉のおじの妻の父であり、椎葉のおじの父(椎葉家に婿養子に入る。私の祖母の姉の夫)の兄です。
※12代「清治」この方が椎葉のおじ・おじの妻其々の「祖父」となります。

なお、12代「清治」。この方は市房神宮社司の項にも名が記されています。
======================================================
(p_-)気になっていたのです。
親戚の尾方家の代々のお名前に「惟」の文字の他「清」の文字が付く事が・・
8代・12代・13代・14代・・実は15代も・・(この方以降も清が付きます)

で気が付きました。
青井家「第27代前清」 あった!!この方にも「清」の文字が!!!!
そう言う事か・・!と先日のコメントを書いた後に気が付きました(p_-)

ウィキの記述より気が付いた事を続けます(p_-)
Aなお氏名(うじな)は、相良長毎が文禄元年(1592年)に朝鮮へ出兵(文禄の役)するに際して惟延(47代)が長毎の武運長久の祈祷を行った縁で長毎から犬童の家名を授かって改姓したが、次の範重の代の寛永18年(1641年)、藩主頼寛の命により旧に復している。

(p_-)・・長毎から犬童の家名を授かって改姓したが、・・・
そう言う事か!!青井家が犬童の姓を一時期名乗っていらっしゃった事がわかりました!!!!!!
文禄元年(1592年)〜寛永18年(1641年)の間です!
ううううん「もわ〜っ」としてきましたよ・・・(p_-)

(椎葉家の事を書こうと思っていたのですが、最新の気が付いた事なので先に書きました)
でも・・何故「清」の文字?・・・調査不足です(..)

続けまして(..)
椎葉のおじから作年末に聞いていた最新情報です。
椎葉家は以前から書いていたように
永田家の娘と島津家老家の子息との間に生まれた「源一」おじいさんが養子に入って継ぎました。
永田家の娘とは私の高祖母にあたる人でもあります。
「源一」おじいさんの妻は上村の麓にある「犬童家」の娘。
二人に子供が生まれなかったので幼い頃に養女に入ったのが「平川家の長女」。私の祖母の姉です。
〉「源一」おじいさんの妻は上村の麓にある「犬童家」の娘。
おばあさんの実家「犬童家」。おばあさんの弟は以前は名を伏せて「当時の県会議員」だったとだけ書きましたが、椎葉のおじさんが「書いていいよ(^'^)」と言ってくれたので書かせて頂きます(..)
椎葉のおばあさんの弟の名前は当時の県会議員「犬童敬太郎」です(..)
詳しくはこちらのサイトに書いてあります(..)
熊本県教育情報システムサイトより
http://es.higo.ed.jp/uesyou/index.php?active_action=journal_view_main_detail&block_id=315&post_id=384&comment_flag=1
転記します(..)
立派な石蔵がありました。大正11年(今からおよそ100年前)に作られたそうです。扉もその当時のままで、銅製の扉が残っていました。米などの保管に使われていたそうです。
中学生が使用する「熊本の心」に掲載されている「植林人生・・犬童敬太郎氏」の御生家で、犬童敬太郎氏の名前が記されていました。

(p_-)「熊本の心」とは熊本県内の中学生が使用する道徳の教科書です。

こちらの石蔵がある家が椎葉のおばあさんの実家である上村麓の犬童家です(..)

さらに
椎葉のおばあさんの弟「犬童敬太郎氏」の子供がやはり県会議員であった「犬童俊一」氏です。

椎葉のおばあさんの甥にあたる「犬童俊一」氏については国立国会図書館に本が保管されていました。
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000001616574.php
坂田大氏 著の「犬童俊一伝」がそれです(..)

※犬童俊一伝 | 主題書誌データベース | 国立国会図書館
rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000001616574.php
犬童俊一伝. [書誌情報]. 責任表示: 坂田大 著; 出版者: 蘇麓社; 出版年月日: 1982.11. 請求記号: GK61-61; 書誌ID: 000001616574. [書誌情報 続き]. 出版地: 熊本; 資料形態: 269p 19cm; 注記: 犬童俊一の肖像あり / 犬童俊一年表: p255〜266; 全国書誌 ...

犬童敬太郎氏の姉であり、犬童俊一氏の伯母にあたる人が椎葉の源一おじいさんの妻の○○おばあさんであります(..)

しかし・・島津家老家の子息が何故?家の一族を頼ってきたのか・・?
未だ「謎」でございます(..)・・(p_-)

宮原氏系図に書かれている橘遠保の記述と
〉昨日『宮原氏系図』から発展して調査したら「何だこれは!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/」と言う事を見つけました。

今から外出しますので、明日にでもしっかりと書かせて頂きます(..)
では(^'^)
[36]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月08日 19時30分45秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)
早速ですが(..)
〉宮原氏系図に書かれている橘遠保の記述と『宮原氏系図』から発展して調査したら「何だこれは!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/」と言う事を見つけました。
を書かせ頂きます(..)

以前、(ちょうど一年前です)平川家について28+1 コメント9で
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_81.html
宮原町郷土誌(現八代郡氷川町)に記載の“宮原家系譜”を拝見すると「氷川町宮原の宮原城主であった宮原公忠」この方に繋がる系と、宮原健吉(健之助)この方に繋がる其々の「宮原家」は、おそらく時代で言うと南北朝時代の頃に分かれた”同族”ですが別系となるようです。
でも”元を辿れば同祖”ですね(^'^)
=============================================

と書いて、其々二系の「宮原氏の系」を書かせて頂いていました。
上記の「氷川町宮原の宮原城主であった宮原公忠」。この方から数えて15代、江戸時代末期の宮原公継。この方の後裔となられる「人吉の宮原家」様。(今は県外にお住まいです)
かなり、以前、こちらにコメントを頂いた事があります。
実は、私、昨年の9月に「人吉の宮原家」様とお会いする事が出来たのです(^'^)
初めてお会いした「人吉の宮原家」様は、とてもお優しい素敵な方でした(^'^)
「人吉の宮原家」様が御苦労をなさって、入手された松橋の宮原氏に伝わる「宮原氏家系図」を、ありがたい事に私も頂く事が出来ました。

「氷川町宮原の宮原城主であった宮原公忠」とは別系の宮原宇右衛門(公全)(後裔は宮原健吉(健之助)に繋がる)さらには宮原宇右衛門(公全)の甥又は孫?にあたる公行(金兵衛)までの系図もこちらに記されていました。(宮原町家系図と同じです)

南北朝時代、南朝方として活躍した球磨の久米の領主であった「橘遠江入道 道公」。球磨の橘一族は「橘薩摩」もしくは「橘佐渡」を称しているのにこの方は「橘遠江」・・
この方が最近どうしても気になって、あらためて、頂いていた系図を見たのです。
一つ気が付いた事は
系図に記された名前は「公●」と「公」の文字が先頭に付いています。
私の住む旧岡原村の1692年建立の庚申塔(家から300メートル程先)には施主「橘公貞」の名が残っています。
こちらも「公貞」。やはり「公」の文字が先です。
「橘遠江入道 道公」 この方は「道公」。公の文字は「道」の文字の後ろ・・何故??だろう??
「道」の文字と「公」の文字・・「橘」「遠江」「道」「公」
ふと遠江の橘氏であり「道」の通字を持つ何れかの系に関連する方かな??と。
そう考えながら一番に頭に浮かんだのは宮原の一族の遠祖であり「遠江掾」であった「橘遠保」。
「橘」「遠江」「道」「公」「遠」「保」分解した文字が頭の中をグルグルと回っています。
もしかしたら・・すごく大きな鍵となる「文字」なのかもしれない・・と思いながら・・(?_?)(?_?)
南北朝時代、球磨の橘一族は南朝と北朝に分かれて戦いました。
球磨の久米の領主「橘遠江入道 道公」は多良木経頼(上相良氏)に同調して河尻幸俊を通じて足利直冬とも組し南朝方として戦った。
一方・・
橘公好は足利尊氏の側近として京に在して、その後球磨に。下相良氏一族の軍中状は橘公好の花押があり、実質的には、球磨の北朝方の侍大将の役割を荷っていました。
橘公好は建武三年(1336年)足利尊氏が京都での合戦に敗れて九州に下向した際には、四月二十日に球磨を出発し、博多まで出迎えに。その後足利尊氏の上洛に供奉。
ちなみに「上相良氏」とは上球磨地区の相良氏で「下相良氏」とは人吉を拠点とした相良氏。
私が住む「旧宮原村」は「上球磨」の地域です(..)

続けます(..)
※宮原氏系図に記されている橘遠保の記述について
頂いた宮原氏系図に記されている橘遠保の項には
橘将軍是延喜廿年生
とあります。
ウィキの橘遠保の記述には
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E9%81%A0%E4%BF%9D
橘 遠保(たちばなの とおやす、生年不詳 - 天慶7年2月6日(944年3月3日))は、平安時代中期の官人。官位は従六位上・美濃介。
(p_-)生年不詳 - 天慶7年2月6日(944年3月3日)
※生年不詳・・・ネットを色々拝見すると殆どが生年不詳
ここで、御紹介を(..)
橘 遠保は「延喜廿年生」でございます(p_-)
延喜廿年とは920年。すなわち24歳の若さで亡くなったと言う事になるのです。
ちなみに兄弟は橘近保 副将軍と書かれています。後裔は書かれていません。

「保」の文字は遠江の橘氏を探す為のキーワードの一つなのかな・・・
と何となくですが感じています。

遠江に関係した橘氏と言えば 宮原の一族の先祖である「橘公長」。
遠江とは無縁ではありません。
こちらのスレッドではやはり書かせて頂くのが躊躇しますが(..)

橘公長 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%85%AC%E9%95%B7
経歴[編集]
弓馬と知謀に優れ、元々平知盛の家人であったが、治承4年(1180年)12月に平家を見限り、同僚であった加々美長清の仲介で源頼朝の麾下に入る。粟田口で当時源為義の家人であった斎藤実盛と片切景重と喧嘩になった際、頼朝の祖父・源為義が朝廷に訴えず斎藤・片切を諫めた事から、公長は源家への恩を忘れず、縁者を訪ねて遠江国に下向し、鎌倉へ向かったという[5]。なお、実際には片切景重(原文「片桐」)は平治の乱(平治元年(1159年))で討ち死に、為義はそれ以前の保元の乱(保元元年(1156年))の直後に刑死していることから、原因となった喧嘩は治承4年(1180年)より相当前に発生したものと考えられる。
「京に馴るるの輩」という事で頼朝に重用され、元暦元年(1184年)、平頼盛の帰洛にあたって餞別の宴に同席した。その後源義経の下で戦い、元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦い後、捕虜となった平家の総帥・平宗盛の処刑を担当し、その事と平重衡の最期について鎌倉の頼朝に報告した。

※縁者を訪ねて遠江国に下向し、鎌倉へ向かったという
ずっと遠江国の縁者とは????と考えていました・・

さらに
※粟田口で当時源為義の家人であった斎藤実盛と片切景重と喧嘩になった
斎藤実盛と橘公長は知人であった訳です。
喧嘩とは書かれていますが、「戦った」とか「争った」とかは書かれていません。
喧嘩の表記は吾妻鏡にあります。
喧嘩・・・私には近しい物同士の関係で起こす事の言葉に感じているのです・・
ちなみにウィキでは橘公長「生没年未詳」とありますが
宮原氏系図には橘公長は康和元年生まれとあります。
康和元年とは1099年です。
吾妻鏡や平家物語に書かれた橘公長の当時の年齢は80歳を超えていた・・と言う事です。

実は
橘公長・そして橘公業の兄「橘公忠」をあらためて調べて、昨日書いた
〉「何だこれは!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/」と言う事を見つけました。
と言う事に気が付いたのです。

この続きは明日、書かせて頂きます。
では(..)
[37]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月09日 16時00分01秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

早速、昨日の続きを書かせて頂きます(..)
が、その前に簡単に平安末期から鎌倉時代初頭の球磨・人吉について書いて置きます。
私の住む、和名妙に記された球磨郡久米郷は天皇御領であり、平安末期は後白河法皇領でございました(..)
鎌倉時代初期、橘公業は久米郷東方(湯前・久米・奥野・宮原・岡本・上村(半分)を西園寺公経と替地しました。
久米郷東方
後白河法皇領 ⇒ 西園寺公経領 ⇒ 橘公業 ⇒ 橘公員  となる訳です(..)※平安初期から鎌倉初頭にかけて久米に在していたのは藤原姓久米氏です。
後白河法皇領・・橘公業は薩摩守の前は長門守護として短期間ではありますが山口県の長門地方に住していた・・気になる事がありますが此の事は・・とりあえず・・(..)

球磨郡全体で言うと平安末期には,半不輸で一郡的広がりをもつ球磨荘が成立していました。
半不輸とは ウィキ 免田より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%8D%E7%94%B0
免田(めんでん)とは、日本の古代末期から中世にかけて、国が規定の課税を徴収するのを免除する田地。国衙に納める官物・雑役のうち、雑役を免除されて官物だけを納める田地を雑役免田(ぞうえきめんでん)と言う。
中略・・
雑役免は、国衙と給主(寺社・貴族)が官物・雑役を分け合う体制で、半不輸(はんふゆ)とも言った。

平安末期の人吉庄は
※1159 球磨、平頼盛公の采地となる。
平頼盛公が1186年に亡くなると荘園は公領とされた。
人吉庄 本所:蓮華王院 領家:八条女院
※預所 
平光盛(平頼盛公子息)(後見として中原清業)
平光盛(後見として中原清業)から中原盛通。
徳治二年(1307年)中央势力である中原盛通から在地势力の平河師種に代わる。

皆様、お気づきの事と思いますが「相良氏」は地頭職。預所は「平河氏」です。
さらに人吉庄一分地頭であった平河師頼。
平頼盛公の名跡は人吉庄だけではありません。
私の住む、旧宮原村宮麓切畑に鎮座であった切畑大明神。
※永萬元年乙酉、池大納言平頼盛により切畑大明神再興。(1165年) 星原内記が記した神社記に書かれています。
切畑大明神の絵図は以前、ブログにアップしていました(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12145838672.html

と・・・
ここまで、御説明させて頂いた所で早速、昨日の続きを(..)
※橘公長と平頼盛公について
一番解りやすい説明が何故かウィキの「やぐら」の項にありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%90%E3%82%89
京の文化と鎌倉武士[編集]
鎌倉の武士は、あるいは武士そのものが主に王朝貴族の末裔で[79][注 28]、 土着しながらも中央(京の権門)と結びつくことによって、在地での自分の身分職(しき)を維持し、うまくいけば官位を手にして在地での身分をより強固にした階層。 あるいは京の下級官吏が権門に所職を与えられて関東に下った者達である。 平安時代末期には関東の多くの在地領主は中央の権門、女院とか平家などと結びつくために出仕し、京の文化に触れている。 例えば元暦元年(1184年)6月に、鎌倉に来ていた頼朝の恩人、平頼盛が京に帰るというので、頼朝が送別の酒宴を開いたが、そのときに「京に馴るるの輩」として小山朝政、三浦義澄、結城朝光、下河辺行平、畠山重忠、橘公長、足立遠元、八田知家、後藤基清らが同席した。 彼らは単に京に行ったことがあるということではなく、正二位権大納言つまり貴族として最上位に近い平頼盛のための酒宴の席で、ちゃんと頼盛を和ませるだけの京風の教養とマナーを心得た者ということである[80]。

※平頼盛公 送別の酒宴出席者「京に馴るるの輩」
小山朝政、三浦義澄、結城朝光、下河辺行平、畠山重忠、橘公長、足立遠元、八田知家、後藤基清
人吉庄の領主であった平頼盛公と橘公長は面識があった!と言う事になります(p_-)

ここで一つ(..)
橘公長は康和元年(1099年)生まれでかなりの高齢です。
橘公業は宮原氏系図では久安五年(1149年)生まれとなっています。
すなわち橘公長50歳の時に生まれたと言う事です。
橘公業(橘次)の兄 橘公忠(橘太)の生年は書かれていません。
他に兄弟として「橘範時」(おそらく二人の弟か?)の名前が系図に書かれています。
※皆様、ぜひ「範時」の「範」の文字を頭にインプットしていて下さい(..)
他、ウィキを見ると橘公経・橘公仲の名もあります。
ふと・・思ったのですよね・・橘公長50歳の時に生まれた橘公業。
本当は、橘公長には子供がもっといたのではないのかな・・?と・・
橘公長は平知盛公の家臣でありました。
そう言えば・・平知盛公の家臣の中に西光法師の娘を妻に持つ「橘姓」の方がいらっしゃいました・・・?????
今は、あまり考えないようにして続けます(p_-)

橘公業(橘次)・兄橘公忠(橘太)の記録は吾妻鏡に詳しく
http://cubeaki.dip.jp/azuma/azuma-1/azuma1-12-2.html
治承四年(1180年)十二月小の月二十日、戊戌(つちのえいぬ)。新築の屋敷にて三浦介義澄が大宴会を開催しました。宴の後、新設の弓場で、初めて弓を射る儀式がありました。このことは特にその予定などはなかったのですが、右馬允橘公長の二人の息子が、ことのほか弓の腕に優れていると聞いていたから、その腕前を見てみたいと、酒宴の余興に言い出されたとか云々。

  射手

   一番
      下河原庄司行平    愛甲三郎季隆

   二番
      橘太  公忠      橘次  公成

   三番
      和田太郎義盛     工藤小二郎行光

今日、初めての外出する儀式があり、藤九郎盛長の甘縄の家にお入りになり、盛長は引き出物として馬を一匹献上し、佐々木三郎盛綱がこの馬を引いたとか云々。

(p_-)ここで解る事は
※三浦介義澄の家の新築祝いで橘公業(橘次)・兄橘公忠(橘太)が弓を引いた。
※藤九郎盛長は引き出物として馬を一匹献上し、佐々木三郎盛綱がこの馬を引いた。
昨日から気が付いていました(..)
私がずっと気になっていた方々は結局当時「皆顔みしり」だったと言う事ですね(..)

橘公業(橘次)・兄橘公忠(橘太)
橘公忠(橘太)。宮原氏系図には上記の「弓」の話のみが書かれていますが
以前、平川家について28+1 コメント78で書いたのですが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_81.html
〉橘公忠
サイト 渋江系図より
http://tatibanaya.web.fc2.com/shibue.html
橘公忠
生没年未詳。鎌倉初期の武士。橘公長の男。源範頼の家人。建久4年(1193年)8月源範頼の配流先の伊豆国、浜の館にて討たれる。

さらに私はこの時(p_-)
源 範頼。この方を少しだけ調べて・・
平川家について28+1 コメント78より
妻 安達盛長女・・妻は安達氏ですね・・
子 範圓、源昭

※源 範頼。この方も遠江国の生まれなのですね・・・
 源 範頼は書籍等で「源頼範」と記述されているものもありました・・


※橘公忠・源 範頼。死没 建久4年8月17日(1193年9月14日)
あの・・・単なる偶然かとは思うのですが・・
相良頼景が「平原次郎頼範」と「新堀又四郎頼兼」等と共に多良木に追放?されたのは「建久四年」です・・・多良木に伝わる伝承では「ボロボロの姿で多良木に来られた・・」と言われています。
偶然の「建久四年」だとは思いますが・・
=======================================================
と書いたのです。

”公忠
生没年未詳。鎌倉初期の武士。橘公長の男。源範頼の家人。建久4年(1193年)8月源範頼の配流先の伊豆国、浜の館にて討たれる。”
そこで、今回、ものすご〜く!気になる橘公忠(橘太)を調べる為に再度「源範頼」この方を調べなおして見たのです。
そこで・・ついに!!!ナンダコレハ\(゜ロ\)(/ロ゜)/という記述に気が付きました!!!
早速(p_-)

源範頼 ウィキより 以前と重複する所もあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%AF%84%E9%A0%BC

源 範頼(みなもと の のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。
遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺された。
武蔵国横見郡吉見(現在の埼玉県比企郡吉見町)のあたりを領して吉見御所と尊称された。

ここで(p_-)
※遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育った・・・
※藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。

続けます(..) 気になる所をピックアップします
蒲冠者 中略・・
父・義朝が敗死した平治の乱では存在を確認されず、出生地の遠江国蒲御厨で密かに養われ、養父の藤原範季が東国の受領を歴任する応保元年(1161年)以降、範季の保護を受けたと考えられる。
治承4年(1180年)に挙兵した兄・頼朝の元にいつ参戦したかは明示した史料はないが、最初は頼朝ではなく、出身の遠江国を中心に甲斐源氏などと協力して活動して、遠江国を占拠した甲斐源氏安田義定と協力関係にあったと考えられる。
(p_-)
※出生地の遠江国蒲御厨で密かに養われ・・
※出身の遠江国を中心に甲斐源氏などと協力して活動して、遠江国を占拠した甲斐源氏安田義定と協力関係にあった・・

続けます(p_-)
大将軍代理 中略・・
福原を本営に強固な防御陣を築いて待ち受ける平氏に対し、範頼軍は東側から正面攻撃を行い、生田の森において激戦が展開された。この間に西側に回り込んだ義経軍による奇襲によって戦いは7日に終結し、平氏を海上に追いやって大勝する。義経の評価はいっそう高まった。しかし諫言で有名な梶原景時や、畠山重忠などの勇将を統率した範頼の手腕を凡将という言葉で説明することはできない。むしろ、頼朝の名代である範頼は自身が前線で武功を上げるよりも義経以下の配下の諸将を指揮して武功を上げさせる役割を担っていた。墨俣渡で御家人と先陣争いをした事を頼朝に叱責されたのも範頼の役割に反するものとみなされたからと考えられる[4]。
3月、範頼は上洛の際の乱闘騒ぎの咎で謹慎させられ、何度も嘆きわびてようやく許されている。
6月、範頼は戦功により三河守に任じられ、この守は名義上のものではなく建久4(1193年)8月の失脚に至るまで最高責任者として同国を支配した。[5]現在も三河の地には範頼の名で建設された寺が存在し、政治においても高い能力を持っていたと思われる。

(p_-)
※諫言で有名な梶原景時や、畠山重忠などの勇将を統率した範頼の手腕・・
梶原景時・畠山重忠を統率。

続けます(p_-)
九州征伐 中略・・
範頼は防長から、11・12月にかけて兵糧の欠乏、馬の不足、武士たちの不和など窮状を訴える手紙を鎌倉に次々と送る。それに対して頼朝は食料と船を送る旨と、地元の武士などに恨まれない事、安徳天皇・二位尼・神器を無事に迎える事、関東武士たちを大切にする事など、細心の注意を書いた返書を送っている。特に安徳天皇の無事は重ねて書き送っている。

(..)あっ!・・・・・・・・・・・・・・・

続けます(p_-)
文治元年(1185年)1月26日、豊後国の豪族・緒方惟栄の味方などを得て、範頼はようやく兵糧と兵船を調達し、侍所別当の和田義盛など勝手に鎌倉へ帰ろうとする関東武士たちを強引に押しとどめて周防国より豊後国に渡ることに成功。
(p_-)緒方惟栄。球磨郡上村の白髪神社宮司家の尾方家は「緒方惟栄」の後裔を名乗られています(p_-)

続けます(p_-)
同年2月、頼朝から出撃の命を受けた義経が屋島の戦いで勝利する[注釈 2]。
範頼は頼朝に窮状を訴える手紙の中で、四国担当の義経が引き入れた熊野水軍の湛増が九州へ渡ってくるという噂を聞いて、九州担当の自分の面子が立たないとの苦情も書いている。

ここで・・
橘公忠(橘太)は源範頼に付き、弟 橘公業(橘次)は源義経に付いていました・・

続けます(p_-)
最期  
皆様、お願いします(..)どうか「じっくり」とお読みになって下さい。
私が驚愕した事実がここに書かれています!!

建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる[注釈 3]。
8月2日、範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽した。10日夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝は、17日に範頼を伊豆国に流した(『吾妻鏡』)。
8月17日、伊豆国修禅寺に幽閉される。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという。ただし、誅殺を裏付ける史料が無いことや子孫が御家人として残っていることから後述のような異説の背景になっている。
8月18日には、範頼の家人らが館に籠もって不審な動きを見せたとして結城朝光、梶原景時父子、仁田忠常らによって直ちに討伐され、また20日には曾我祐成らの同母兄弟である原小次郎(『曽我物語』では京の小次郎)という人物が範頼の縁座として処刑されている。
菱沼一憲は処刑された原小次郎が範頼の郎党であったと推測し、曾我兄弟の仇討ちのきっかけとなった曾我氏と工藤氏の所領争いに範頼が何らかの関与をしていたと推定するとともに、事件の際に常陸国久慈郡の御家人が頼朝を守らずに逃亡した件や直後に発生した多気義幹の挙兵などの常陸国の混乱が、常陸国内に影響力を持ち同国の御家人達の調整者的な役割を果たしていた範頼に対する政治的責任問題として浮上し、その結果として頼朝が範頼に対して何らかの嫌疑を生じさせたのではないかと推定している。ただし、それは嫌疑の範囲で留まった(範頼は義経のように挙兵をしていない)ことから、範頼やその近臣が処分されても範頼の子の処分には至らなかったとしている[6]。

皆様!!!!!! ピックアップします!!
8月17日、伊豆国修禅寺に幽閉される。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』『北條九代記』などによると誅殺されたという。ただし、誅殺を裏付ける史料が無いことや子孫が御家人として残っていることから後述のような異説の背景になっている。
\(゜ロ\)(/ロ゜)/ 『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明!!

『保暦間記』『北條九代記』では・・
※8月18日には、範頼の家人らが館に籠もって不審な動きを見せたとして結城朝光、梶原景時父子、仁田忠常らによって直ちに討伐され、また20日には曾我祐成らの同母兄弟である原小次郎(『曽我物語』では京の小次郎)という人物が範頼の縁座として処刑されている。

範頼の家人らが館に籠もって・・
”橘公忠”
生没年未詳。鎌倉初期の武士。橘公長の男。源範頼の家人。建久4年(1193年)8月源範頼の配流先の伊豆国、浜の館にて討たれる。
討ったのは・・
結城朝光、梶原景時父子、仁田忠常らによって・・・
梶原景時父子・・えっ??嘘?嘘?うそ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
梶原景時の孫娘は橘公忠の弟橘公業の妻ではありませんか!!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
梶原景時父子の「子」がもし梶原景高であれば
橘公忠(橘太)は弟橘公業(橘次)の妻のじいちゃんとお父さんに討たれたと言う事になる〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!(弟橘公業(橘次)の妻は梶原景高の娘)
ええええええええええっ!!!かなりショックです!!!!!そんな・・
そんな・・・・・(@_@。
梶原景高はウィキでは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E6%99%AF%E9%AB%98
梶原 景高(かじわら かげたか、永万元年(1165年) -正治2年1月20日(1200年2月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府御家人・梶原景時の次男。通称は平次。妻は小野成綱の娘。
経歴[編集]
治承・寿永の乱に際して、父に従い源頼朝の麾下に参陣。寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いにおいては、源範頼率いる大手軍に属し・・・・

そんな(@_@。そんな(@_@。・・・・・・・・弟の妻のおじいちゃんとお父さんに討たれたなんて・・橘公忠(橘太)・・そんな・・・

うん(?_?)・・・う〜〜〜ん(゜-゜)・・・ううううううん(p_-)
本当に討たれたのかな(?_?)・・(p_-)
一緒だったのは・・「結城朝光」
皆様、今日のコメントをもう一度上にスライドして見て下さい(..)
※平頼盛公 送別の酒宴出席者「京に馴るるの輩」
小山朝政、三浦義澄、結城朝光、下河辺行平、畠山重忠、橘公長、足立遠元、八田知家、後藤基清
結城朝光は橘公長と同じく「京に馴るるの輩」のメンバー?です・・(p_-)

『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明!!と書いているのに
『保暦間記』『北條九代記』では・・8月18日には、範頼の家人らが館に籠もって不審な動きを見せたとして結城朝光、梶原景時父子、仁田忠常らによって直ちに討伐され・・と書いている。
しかし・・
宮原氏系図には橘公忠の項には上記の記述”浜の館”で討たれたなど一言も書いていない・・
何故??? うむむっ??本当に討たれたのかな??????
そうか!!『保暦間記』『北條九代記』を書かれた方々は、数百年後、球磨に住む、宮原の一族のひとりの娘が、まさか、このように根掘り葉掘り調べようとは思ってもいないはずで・・・(p_-)
それに・・宮原の先祖の妻であった方々を詳しく記した同族の鹿児島の藤崎家系図は、鹿児島大学の方が論文で公開するまでは「門外不出」の事として藤崎家が守ってこられていたのでした・・
むむっむっ(p_-)

さらに気になる事が!
※また20日には曾我祐成らの同母兄弟である原小次郎(『曽我物語』では京の小次郎)という人物が範頼の縁座として処刑されている。
※菱沼一憲は処刑された原小次郎が範頼の郎党であったと推測し、曾我兄弟の仇討ちのきっかけとなった曾我氏と工藤氏の所領争いに範頼が何らかの関与をしていたと推定・・

\(゜ロ\)(/ロ゜)/
源範頼は曾我氏と工藤氏に繋がっているようです!!
原小次郎・・原氏が登場!!!!いずこの「原氏」か?!!

マダマダ気になる事が沢山あります。
転記を続けます(..)
伝説
範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。
このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある。範頼の伝説に由来する蒲ザクラは大正時代に日本五大桜の天然記念物に指定され、日本五大桜と呼ばれる。

(p_-)
※『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により
皆様、ご記憶でしょうか・・?
平川家について35 コメント15で書きました(..)
〉『建立(願成寺)の目的は、正應六年(1293年)の「沙弥某(長氏)置文」によれば、相良長頼が「竹御所」の菩提と自他の仏道を修めて悟りを開く為に建立したとする』
※「竹御所」母は比企能員の娘若狭局と考えられる
※母方が比企氏・・「竹御所」
※平賀義信の妻・・比企尼の三女

比企尼 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E5%B0%BC
娘が3人おり、源範頼の系譜である『吉見系図』によると、嫡女・丹後内侍は惟宗広言と密かに通じて島津忠久を産んだのち、関東へ下って安達盛長に再嫁し、盛長は頼朝の側近となる。次女(河越尼)は武蔵国の有力豪族・河越重頼の室となり、三女は伊豆国の有力豪族・伊東祐清に嫁ぎ、死別したのち源氏門葉である平賀義信の室となっている。比企尼は比企郡から頼朝に米を送り続け、3人の娘婿に頼朝への奉仕を命じていたという。長女と次女の娘はそれぞれ頼朝の異母弟・源範頼、源義経に嫁いでいる。
しかし男子に恵まれなかったため、比企氏の家督は甥の比企能員を尼の猶子として迎えることで跡を継がせている。
\(゜ロ\)(/ロ゜)/結局、気になる方々は全て比企尼に繋がっている訳です。

(p_-)ここまでのコメントでもかなり長くなっていますが、マダマダ気になる事が沢山繋がっています。

※『吉見系図』
※範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。

武蔵国横見郡吉見って何処なのかな?と思い、ウィキの文字をぽちっとクリックすると・・
横見郡(よこみぐん)は、埼玉県(武蔵国)にあった郡。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E8%A6%8B%E9%83%A1
郡域[ソースを編集]
現在の比企郡吉見町。
吉見村・久保田村各組は1村に数える。

くっ久保田村・・久保田!!久保田村って書いてある〜〜〜\(゜ロ\)(/ロ゜)/

橘公忠(橘太)を調べると遠江国にも「久保田村」。武蔵国にも「久保田村」
”久保田”が沢山出てきます!!!!

ちなみに(p_-)場所はよく調べていないのですが・・球磨郡久米郷の地頭職を得た橘公員(橘公業の子・橘公忠の甥)は武蔵国の地頭職も得ています。
宮原氏系図に
「橘公員領知武蔵国池邉郷参分二地頭職事」(詳しくは転記しませんが)書かれています。
武蔵国池邉郷って何処だろう???

めちゃくちゃ長くなってきましたが・・
ここで(..)
〉※橘公忠・源 範頼。死没 建久4年8月17日(1193年9月14日)
あの・・・単なる偶然かとは思うのですが・・
相良頼景が「平原次郎頼範」と「新堀又四郎頼兼」等と共に多良木に追放?されたのは「建久四年」です・・・偶然の「建久四年」か???

についてですが(..)
源 範頼・・養父の藤原範季が東国の受領を歴任する応保元年(1161年)以降、範季の保護を受けたと考えられる。
藤原範季 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%AF%84%E5%AD%A3

藤原 範季(ふじわら の のりすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公家。藤原南家高倉流の祖。後白河法皇の近臣。順徳天皇の外祖父。
生涯[編集]
式部少輔・藤原能兼の子。保延5年(1139年)10歳の時に父・能兼が没し、兄・範兼の養子になる。文章得業生から越後大掾を経て、久寿元年(1154年)対策に及第し、翌久寿2年(1155年)大膳亮に任じられる。保元2年(1157年)には六位蔵人に補せられて後白河天皇に仕え、翌保元2年(1158年)従五位下に叙爵された。
どのような伝を辿ったのか不明だが、平治元年(1159年)の平治の乱で没落した源義朝の六男・範頼を引き取って自らの子・範資と一緒に養育している。長寛3年(1165年)4月に範兼が死没すると、残された子の範子・兼子・範光らを引き取った。

(..)・・・あっ!!????
藤原 範季 藤原能兼の子。兄・範兼の養子になる。
兄の名前は藤原範兼・・うううううん????「範」「兼」??ううううん??
偶然にも建久4年に相良頼景と共に球磨追放された人物は・・
「平原次郎頼範」と「新堀又四郎頼兼」
藤原範兼・・「頼範」「頼兼」
何だナンダ!!足して2で割ったような名前が付いているぞっ!!!!
何だか・・プンプン匂います(^0_0^)
失礼な!とお思いの方・・良いのです(p_-)「新堀又四郎頼兼」は私の御先祖様にもなる方ですから(..)
源 範頼・・養父の藤原範季 この方を調べたら・・怪しい空気が!!

源範頼・藤原範兼・平原頼範・新堀頼兼・・
源範頼の側近だった橘公忠(橘太)
二人の人物を調べたら「久保田村」も登場
源範頼は相良氏と同族の伊豆の工藤氏・曽我氏と縁があり!
新堀頼兼の妻は相良頼景の娘
平原次郎頼範・・一説藤太頼寛ノ甥 又工藤太夫光頼ノ弟ノ子 説から推測すると伊豆工藤氏との縁が見てとれる。
源範頼・橘公忠(橘太)を討ったと書かれた「梶原景時父子」。
梶原景時の孫娘は橘公忠(橘太)の弟橘公業(橘次)の妻。
新堀頼兼の後裔の妻を持つ、久保田家から宮原家に養子に入った私の祖父。
旧宮原村の新堀氏には橘姓宮原氏から養子もしくは婿養子に入った可能性あり「新堀金兵衛」

相良藩に続いた
一 養子ハ同姓の内を選ふへし、若これなきにおいてハ、由緒を正し、存生の節願出へき事、
 附、徒士以上の輩、私ニ縁辺をむすふへからさる事、

かなり長くなりました。すみませんでした(..)
一気に書いてしまいました。

此処までの調査から、私が推測(あくまでも私の推測に過ぎませんが)
橘公忠(橘太)は・・浜の館では亡くなってはいないのでは?と・・・
さらに源範頼・橘公忠(橘太)と平原頼範・新堀頼兼は何らかの関係があるのではないのか?と・・
源範頼・橘公忠(橘太)と相良氏族「久保田氏」も何らかの関係があるのではないのか?と・・
そこに相良頼景(遠江国出身)が大きく関わっているのではないのか?と・・

これが私の推測です。

こちらのスレッドをご覧の皆様。
どうか私に御意見をお聞かせ下さい。御教示を下さい。
よろしくお願い申し上げます。
[38]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月11日 11時21分30秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

空の青海のあを様と三つ柏服部様の御調査
スレッド「長上郡の服部氏族LXXXX(課題確認28)」を勉強の為にいつも拝読させて頂いています。
お二人の御調査の中でコメント23において、空の青海のあを様がお書きであった伊井家のルーツについて、興味深く読ませて頂き大変勉強になりました。
初代当主である井伊共保。
ウィキの記述から三宅好用(三宅家橘紋を使用)に繋がる別説のあり
出生に関して、諸説がある事も理解出来ました。
空の青海のあを様と三つ柏服部様の御調査は大変勉強になります。
こちらのスレッドにて大変失礼ですが
空の青海のあを様と三つ柏服部様がお持ちの広く深い知識の数々に敬服申し上げます。

皆様
空の青海のあを様と三つ柏服部様の御調査を拝読した私はやはり「保」の文字が益々気になってしまいました。
「保」の文字だけではなく現在の「静岡県」にあたる「地域」が自分の調査の根底である事を認識致しました。

遠江掾 橘遠保 延喜廿年(920年)〜 天慶7年2月6日(944年3月3日)
兄弟は橘近保

井伊共保・・遠江守藤原共資の養子。井伊氏初代当主。井伊共宗の父。

じっとお名前を見ていると 「遠保」「近保」「共保」「共資」「共宗」
「保」「共」の文字が頭をグルグル回ります。
(最近「文字」に拘りはじめた理由は親戚から聞いた話が理由なのですがこの事は後で書かせて頂きます(..))

三国氏である「井伊氏」。後世、相良氏と同族の「藤原南家為憲流」の井伊氏が跡を継ぐ・・
日本の苗字七千傑様の【藤原南家為憲流】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
工藤道親 ⇒ 道貞 ⇒ 道直 ⇒ (井伊氏へ)

日本の苗字七千傑様の《井伊氏/赤佐氏/貫名氏》姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
井伊(工藤)道直 ⇒ 泰直(三国氏系井伊氏に養子に入る)
系図を拝見すると井伊直政は泰直(三国氏系井伊氏に養子に入る)の後裔になられるのですね。
さらに藤原南家「井伊道直」の後裔が道永(泰直 兄弟) ⇒ 道政・道勝(兄弟) ⇒ 道三

そして、井伊氏は私がずっと気になっていた三国姓平賀氏に繋がる「松葉氏」と同族である・・
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm

とここまで、書いてきて、今、初めて気が付きました!!!!!!
〉工藤道親 ⇒ 道貞 ⇒ 道直 ⇒ (井伊氏へ)
〉井伊(工藤)道直 ⇒ 泰直(三国氏系井伊氏に養子に入る)
「道親」「道貞」「道直」「道永」「道政」「道勝」「道三」・・「道」! 「道」の文字です!!!!

あった!!遠江国に「道」の文字を持たれる方々が!!!!

コメント36に書いた 球磨の南朝方として活躍した「橘遠江入道 道公」について

「橘遠江入道 道公」 この方は「道公」。公の文字は「道」の文字の後ろ・・何故??だろう??
「道」の文字と「公」の文字・・「橘」「遠江」「道」「公」
ふと遠江の橘氏であり「道」の通字を持つ何れかの系に関連する方かな??と。
そう考えながら一番に頭に浮かんだのは宮原の一族の遠祖であり「遠江掾」であった「橘遠保」。
「橘」「遠江」「道」「公」「遠」「保」分解した文字が頭の中をグルグルと回っています。
もしかしたら・・すごく大きな鍵となる「文字」なのかもしれない・・と思いながら・・(?_?)(?_?)

偶然か!!!偶然でしょうか!!!!!
今日のコメントに書かせて頂いた方々は
「道」「保」が付いている「遠江国」の方々です!!!!!!
でも・・偶然かも知れませんが・・

橘公長は「遠江国の縁者のもとへ寄った」・・・
縁者とは、私、「知り合い」と言う意味かと思っていたのです・・
しかし・・今朝・・当時の「縁者」という言葉を調べたら
縁続きの人。親戚。「親類縁者」
一族という意味に解説されている文もありました。

色々、模索しても偶然の可能性が大ですが・・

では(..)
[39]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月12日 13時43分17秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

昨日のコメントで
〉最近「文字」に拘りはじめた理由は親戚から聞いた話が理由なのですがこの事は後で書かせて頂きます(..)
と書きましたが、こちらのお話から書かせて頂きます(..)

親戚の椎葉家は永田家の娘と島津藩家老家の子息との間に生まれた源一氏が養子に入って継いだ・・
と言う事は今まで、書かせて頂いていました。
永田家から深水家へと嫁いできた源一氏の母。私の高祖母でもあります。
永田家の娘(高祖母)が生んだ子供達は、平川家に嫁いだ私の曾祖母(長女)と福田家(湯前村村長)に嫁いだ二女、そして男子二人。
椎葉家に養子に入った「源一」氏と深水家を継いだ弟の「源吾」氏です。
其々二人には「源(げん)」という字が付いています。
源一氏の孫にあたる椎葉のおじ、そして、兄、二人の兄弟には読みは同じだけど別の「げん」と言う文字が付いています。
その言われを椎葉のおじが教えてくれました。
源一おじいさんは本当は二人の孫に「源」の文字を付けたかったのだけど、あえてそれを「避けた」そうです。
親戚の椎葉家は元々「平家」(平姓)の家系であるだけではなく平家一門の守り観音様が伝わる家です。
さらに詳しくは絶対に書けない事がありまして・・・
この事は、歴史研究家の方が椎葉家を訪ねて来られても話す事が出来ない事で・・
理由は・・古くからの言い伝えが今でも残っているからです。
詳しくは書けないのですが、椎葉家は壇ノ浦からこの地(旧宮原村宮麓)に逃れて来られた10数人(本当は知っているのですが・・)の方々の御霊をお祀りする家です。(詳細は知っているけどこれ以上は・・すみません(..))
※ここの部分はすぐに削除してコメントし直すかも知れません。御了承下さい(..)

上記の理由から源一氏は「源(げん)」の文字を避けて別の「げん」を孫たちに付けた・・
椎葉のおじは「源の文字を避けた」事は聞いているけど理由は聞いてなかったそうですが、自分なりに子供の頃から考えて、今はその理由を自分なりに理解しているようです。

私は、源一氏が椎葉家に養子に入った理由は椎葉家と深水家が縁続きであったのかな?と思っていたのですが、もしかしたら、椎葉家と永田家との縁続きであった可能性もあるのかな?と最近思っています(..)
何せ、源一氏の養女に平川家から養女に入った私の祖母の姉。婿養子に入った方の実家の「尾方家」と「永井家」は親戚関係なので・・・(でも、家の親戚関係はグルグルとややこしいので・・もしかしたら永田家と深水家の両方が椎葉家と縁があった可能性もあり・・・(..))

椎葉のおじは続けて、親戚中に広がる「良」の文字についても説明してくれました。
「良」の文字は、私の父の亡くなった兄、椎葉家の私のふた従兄、深水家と親戚関係数人に付いている文字です。
「良」の文字の云われは、深水家にありました。
安政年間の親戚の深水家の当主(私の御先祖様にもなります)は「深水作右衛門」。
「深水作右衛門」は通称で本名は「良市」(良市だったかな・・忘れました(@_@。)
その前の天保元年の代は「深水源助」
しかし深水家は通称ではなく本名?には代々「良」の文字が付いていたそうです(^'^)
だから、その「良」の文字を、その血を引く親戚の家々が子供に付けている・・と言う事でした。
なるほど〜(^'^)・・・(p_-)
この風習?は昭和30年代まで続いています(..)
結構最近まで風習?を続けているのは・・知らなかった〜と思いながら・・ふと気が付いた事が・・
もし、そう言う風習?を親戚一族が残してきたのであれば・・これはどう言う事なのか?と。
それは・・
平川家と深水家の長男の系(あくまでも長男の系です)には皆「公」の文字が付いています・・・(゜-゜)・・あんれっ(?_?)
実は、かなり以前、この事を私と同じく宮麓に住む、求麻郷土研究会の会員である土屋さんから聞かれた事があったのです・・
家に来られていた土屋さんが、父と私に
「所で・・前から気になっていたのだけど、お宅の親戚関係には”公”の付く人が多い、何でかな〜?」
この時、父と私は「偶然じゃろ〜(^'^)」と答えていました(..)

でも、よ〜く考えて見ると何だか変だ(p_-)
名前を付ける際に、古くからの風習に拘る一族が、偶然に「公」の文字を使うかな????
「公」は普通「きみ」と読む場合が多いですが・・
祖母の実家の平川家の長男(私の父の従兄)は「公」を「きみ」ではなく「きん」と読む名前です。
「公●」で「きん●」です・・・あんれっ??????

よ〜く考えて見ると・・
相良藩に続いた
一 養子ハ同姓の内を選ふへし、若これなきにおいてハ、由緒を正し、存生の節願出へき事、
 附、徒士以上の輩、私ニ縁辺をむすふへからさる事、

私、「宮原」「新堀」「久保田」の「橘氏繋がり」の関係には拘ってきたけど・・・ここには「平川」もしっかり繋がっていた・・
あんれっ??????

しかし・・
名前はやはり重要な先祖調査の「鍵」だな(p_-)・・と言う事は感じています。

所で・・
先にも書いたように私の住む「宮麓」地区は、源平合戦の後、逃れて来られた方々が多数、いらっしゃった場所でもあります。
平景清(藤原景清)公の姫様のお墓もお祀りされています。
さらに、切畑大明神の御祭神として平景清(藤原景清)公の母君も鎌倉時代初頭に合祀されました。(当地でお亡くなりになられています)
お伴の方々のお墓もお祀りされています。

ずっと、前から、父と話していたのですが・・
何故?ここに皆様、逃げてこられたのだろう?と・・・
先日も書いたように「この地」が後白河法皇の御領地だったからかな・・・?・・

球磨・人吉全体は「日本遺産」です。

タイトル
 相良700年が生んだ保守と進取の文化
   〜日本でもっとも豊かな隠れ里─人吉球磨〜

所で・・
皆様方は、橘公長は平家「平知盛」公に仕えた後に源氏に寝返った・・というイメージを強くお持ちの事だと思います。
しかし・・橘公長の子供「橘公忠」「橘公成(公業)」を除く、殆どの「公長」の子供達は、そのまま、平家方に仕えて、戦死した・・と言う事を御存じでしょうか・・
次回のコメントではこの事を含めた、新たに「私が知った事」などを
書かせて頂こうと思っています。

では(..)
[40]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月13日 11時51分19秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

コメント39で書きましたように、今日は、私が新たに知った事を書かせて頂きます。

@横山の地名について
球磨郡錦町一武に字横山という地区があります。
こちら「横山」には、椎葉家・平川家に繋がる親戚があり、以前から、とても気になる地名だったのですが、その由来をやっと理解する事が出来ました。

相良長頼の娘「虎若女」は小野姓横山党の愛甲景元の妻となります。
愛甲景元の後裔「愛甲氏」は代々相良氏の重臣として使え、相良藩士分限帳で見ると、寛政十年(1798年)〜安政年間(1859年)にかけて、人吉城下土手馬場の項に愛甲弥五左衛門・愛甲次左衛門・愛甲光治 と其々200石。他、球磨郡内には在郷藩士として愛甲氏の名が多数残っています。
相良藩では給人格(100石以上)の藩士は給与(石)とは別に知行地が給されていました。
分限帳にはその知行地が殆ど記されておらず、明治維新後城下を離れ各地に分散したのは、この知行地の何れかに居住したものと思われる・・
と肥後国相良藩士分限帳を編集した佐藤光昭氏は記されています。
給人格(100石以上)の藩士の知行地には私も大変興味があったのですが・・
偶然、愛甲氏の知行地の一つを知る事が出来ました。そこは「横山」地区でした。
錦町一武横山の愛甲家から、私の住む、旧宮原村宮麓の某家に婿養子に入っていらっしゃる方から、実家の「愛甲家」が明治以降横山地区の大地主であった事、そこは「愛甲家」の知行地であった事を教えて頂きました。
※相良長頼の娘「虎若女」は小野姓横山党の愛甲景元の妻
後裔の愛甲氏の知行地の一つ 錦町一武横山・・「横山」 ナルホド(p_-)
何故?ここの地区は「横山」なのだろう??という謎が解けて頭の中のモヤモヤが一つスッキリしました(^'^)
しかし・・この「横山」地区の道を挟んだ向かいの地区は「中原」なのですよね・・(p_-) ここはスッキリしません(..)
親戚の椎葉家と平川家の双方の親戚はこの横山地区にあり・・?
実は、うちの親戚の深水家はこの地区とは別の「愛甲家」と親戚であり・・?
ただ・・多良木の平川家に伝わる平河氏系図を見ると(ブログにアップしています(..)系図Cです)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html
惟重・・紀治無子以愛甲次左衛門二男為養子
とあり、平河氏と愛甲氏の姻戚関係が記されています。
小野姓横山党の愛甲氏と平河氏の「縁」が見えるのであります(p_-)

小野姓横山党 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%9A
横山党(よこやまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国多摩郡(現・東京都八王子市)横山荘を中心として、武蔵国(大里郡・比企郡 - 橘樹郡)および相模国北部に割拠した同族的武士団である。武蔵七党の一つ。武蔵七党系図の筆頭。有名人としては、中条家長(初代評定衆として御成敗式目の策定に関与)や愛甲季隆(弓の名手。畠山重忠を討ち取る)、横山時兼(正治2年)(淡路国の守護)などが居る。時兼の叔母は鎌倉幕府侍所別当の和田義盛の妻、妹は和田義盛の長男常盛の妻であった。建暦3年(1213年)和田義盛と執権北条義時とが対峙した和田合戦で姻戚関係にあった和田氏に与したが敗れ衰退した。なお猪俣党も一族である。(八王子市の歴史を参照)横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣となった。
出自[編集]
多くの文献から、小野篁の後裔とされている。但し、これには異論を唱える研究者(安田元久は諸系図の精査や世代間の年数の計算、当時の国司の任命状況から見て後世の作為で、実際は在地の開発領主の末裔であろうと推測し、太田亮の『姓氏家系辞典』での所見である、古代日本における地方官であり軍事権・裁判権などを持ち祭祀を司ったその地方の支配者武蔵国造の末裔ではないかという見解を消極的に支持している)もいる。
武蔵国多摩郡横山(現・東京都八王子市元横山町)を本拠として横山姓を称したとされる。 当時「横山」とは多摩丘陵を指し、『万葉集』に「多摩の横山」と詠われている。ここは武蔵の国府周辺であって、由比牧、小野牧との関連があった。前九年の役を境にして、武蔵の北部熊谷市より本庄市にいたる、条里地域に面する台地の縁辺に移り、一族が繁栄する。荒川の扇状地上であるから条里の崩壊も少なく、生産的にみても最良の地である[1]。

(p_-)・・・そうか・・遠く離れた球磨の「横山」地区は辿ると「武蔵国多摩郡横山(現・東京都八王子市元横山町)」が地名の由来なのですね(p_-)

歴史[編集]
平安時代[編集]
924年(延長2年)、小野氏が武蔵守として着任した際、石清水八幡宮を勧請して、八幡八雲神社を建立した。
1113年(天永4年)、愛甲内記太郎の殺害事件により追討を受ける。源為義に服属する。
1156年(保元元年)の保元の乱および1159年(平治元年)の平治の乱では、源義朝麾下(畠山氏に従属との説もあり)に従軍し活躍した。
鎌倉時代[編集]
『平家物語』によると、治承・寿永の乱でも活躍し、小野成綱は尾張守護に補任さた。
源頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広は軍功により横山荘の所領を安堵された。
1213年(建暦 3年)和田合戦で、姻戚関係にあった和田義盛に加勢したが和田氏と共に敗れ横山時兼とその一党は、その後横山党としては歴史の表舞台から消える。横山党本拠地であった横山荘は大江広元に与えられた。なお、横山氏末裔として、横山氏居館のあった八王子市八幡八雲神社に並ぶ妙薬寺(みょうやくじ)には、 横山将監小野秀綱の供養塔がある(妙薬寺縁起)。この宝篋印塔は永禄3年(1560年)に造立されたもので、東京都指定旧跡となっている。
1214年(建保 2年)、大江広元は横山党の始祖横山義孝を祀った横山神社を八幡八雲神社の境内に創建した。
1221年(承久3年)、承久の乱で院側についた小野成綱の子尾張守護小野盛綱は、乱後逃亡し守護職を没収された。
小野盛綱逐電後、跡職に中条家長が就いたといい、1225年評定衆に抜擢される。中条氏繁栄の礎を築いた。

(p_-)・・・あっ\(◎o◎)/!そうだった!!そうでした!!
※『平家物語』によると、治承・寿永の乱でも活躍し、小野成綱は尾張守護に補任さた。
小野成綱!
橘公成(公業・橘次)の妻は梶原景高の娘。
梶原景高の妻は小野成綱の娘。
小野成綱 コトバンクより
http://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%88%90%E7%B6%B1-1063867
小野成綱 おの-なりつな
?−? 平安後期-鎌倉時代の武将。
治承(じしょう)・寿永の乱に活躍,源頼朝より阿波(あわ)(徳島県)麻殖保(おえほ)の地頭に任じられるが,文治(ぶんじ)4年(1188)保司の平康頼に年貢の抑留をうったえられている。尾張(おわり)(愛知県)の守護もつとめた。「吾妻鏡(あづまかがみ)」の記事で建暦(けんりやく)元年6月21日以前に死去していることがわかる。通称は野三刑部丞(ぎょうぶのじょう)。

そうでした(p_-)・・
※阿波(あわ)(徳島県)麻殖保(おえほ)の地頭
阿波(あわ)(徳島県)麻殖保は藤原師高の父「西光」。この方の「故郷(ふるさと)」でした・・
源頼朝より阿波(あわ)(徳島県)麻殖保(おえほ)の地頭を任じられた小野成綱は橘公成(公業・橘次)の妻の祖父であり、球磨郡久米郷を父より受け継いだ「橘公員」の曾祖父にもあたる方でした・・
小野姓横山党愛甲氏・同じく横山党小野成綱を曾祖父にもつ「橘公員」の後裔となる宮原の一族。
其々が球磨・人吉に現在も続いている・・と言う事が解りました。
しかし・・阿波(あわ)(徳島県)麻殖保(おえほ)・・西光・・藤原師高・・・
小野成綱・・橘公成(公業・橘次)・・橘公員・・
阿波(あわ)(徳島県)麻殖保(おえほ)に繋がるのは・・宮原の一族かぁ・・・???

(p_-)ウィキの横山党 転記を続けます(..)
横山党の諸氏[編集]
横山、椚田、海老名、野部(野辺、矢部)、藍原(相原、粟飯原)、淵辺(淵野辺)、平子(現在は三浦氏族とする説が有力)、山崎、鳴瀬(成瀬)、古郡、小倉、由木、室伏、大串、千与宇、伊平、樫井、古市、田屋、八国府、山口、愛甲、小子、平山、石川、古沢、小野、古庄、中村、大貫、田名、小沢、小俣、本間、中野、成田、中条、横瀬氏(由良氏、新田氏と自称)、小山など。
安田元久は横山党の分家の多さから横山党が強勢を誇っていたものと推測している。
系図[編集]
女子については系図に記さないが、秩父氏や波多野氏、梶原氏や和田氏、渋谷氏との通婚関係がみられる。 横山隆兼の娘は秩父重弘の妻となり畠山重能・小山田有重を産む。さらに隆兼の孫娘のうち一人は三浦一族の和田義盛、一人は高座渋谷の渋谷高重の妻となった。 (秩父氏を参照)

(゜-゜)・・・・あの・・・
偶然かな・・??
横山党の諸氏・・愛甲氏は確かに球磨に来られていますが・・
相良氏の重臣の一族に渋谷家があり、平河の一族に「横瀬氏」があり、他、相良藩士に「平山氏」もあり・・
モワ〜ッとします(..)

何はともあれ(p_-)
錦町一武横山の地名は「武蔵国多摩郡横山(現・東京都八王子市元横山町)」が地名の由来と言う事はしっかりと解りました。

まずは「最近知った事」
@横山の地名について でした。

では(..)
[41]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月13日 18時07分31秒 ) パスワード

皆様、マタマタの登場です。
本当は、昨日のコメントの続きを書こうと思っていたのですが・・・
「私が最近知った事」の最最新情報!が解ったので、取り急ぎ書かせて頂きます。
私が最近知った事
A親戚の永田家と斉藤実盛後裔の球磨の永井家との関係について です。
椎葉のおじが今日、家に遊びに来ていて、先程まで話をしていました。
話の途中で
「所で・・永田のばあちゃん(通称です。正確には椎葉のおじの曾祖母で私の高祖母です)の永田家について何か解ったか?」
と椎葉のおじ。
椎葉の源一おじいさんの父の方が未だ解らないので申し訳ないな〜と思いながら・・
皆様から御教示頂いた長井別当斉藤実盛の系である永井氏と永田氏のお話を始めると・・(私、よく考えて見ると椎葉のおばには永井家との関係を聞いたけど、おじさんには聞いて無かったな〜と思いながら)
椎葉のおじが
「ながい氏!?ながいの漢字は?」と聞くので
「長井もしくは永井」
椎葉のおじが「永井家は親戚ぞ!!!」と言うので
「うん!尾方家の親戚に永井家があるって聞いた(^'^)」と私が言うと・・おじが
「ば〜か!!もっと沢山ある!深松(新堀家の祖母の弟が跡を継ぐ)の親戚も永井。!」
ええええええっ(゜-゜)・・(?_?)ナンデスト??
そこで、私が以前こちらでコメントした
斉藤実盛の後裔となる球磨の「永井家」について書かれたあさぎり町のサイトをおじに見せると・・
http://www.asagiri-town.net/q/aview/52/421.html

画面を見てすぐに椎葉のおじが
「地図!あさぎり町の地図を持って来い〜!!」
と、いつも優しい眼差しのおじが何かが憑依したような「キリリ!」とした目で言うので私は地図を用意!(あさぎり町全戸に配られている住宅地図のような物)
おじは、該当するページを見つけるとテーブルに「バン!」と広げ・・
「良かか!ここが、上村の武家屋敷と言われる一体」
ふむふむ・・と私。
武家屋敷の通りに入ってすぐが「稲葉さんの家」(おじ)
「いっ稲葉さん!!!・・(?_?)」(私)
「そして・・(数軒先を指さして)ここが!お前が見せてくれたページ(あさぎり町のサイト)の永井さん!その隣が●●ばあちゃんの実家”犬童家”タイ!!」
(?_?)(?_?)(?_?)・・ぎえ〜〜〜っ!!ナンデスト!!!
椎葉家の源一おじいさんの妻●●ばあちゃんの実家(犬童家)の隣が斉藤実盛後裔と伝わる永井家デスト!!
と言う事は何だ(?_?)(p_-)
永田家の娘が生んだ椎葉の源一おじいさんの妻は斉藤実盛後裔と伝わる永井家の隣の犬童家から嫁いできた!と言う事になります。

さらに・・
地図を指さして「ここが、お前が、前聞いてきた親戚の(椎葉家の)”深水家”」と。コレマタすぐ隣です・・
以前、あさぎり町のサイトを見て、椎葉のおじにこちらを知っているか?聞いたのでした。
あさぎり町ホームページ
http://www.asagiri-town.net/q/aview/52/429.html
元、深水家は吉賀江姓。天正9年(1581)島津氏の北上によりに水俣城は落城。その時、城代犬童美作に従って上村に来住し、以来郷士として続いてきた家柄。中世文書9点を所蔵。その中には、相良家第18代頼房(義陽)から久木野での働きで傷を被ったことの見舞状として吉賀江十郎に宛てたものもある。

げっげええええ!!皆、御近所さんだ!

そこで!気が付きました!!
永田家の娘(椎葉のおじの曾祖母で私の高祖母)と、島津某家老家の子息は・・
湯前町の深水家でこっそり生活していて・・
西郷隆盛公から島津某家老家の子息あての手紙の宛先に「”よしがい”もしくは”よしがえ”」の文字が書かれていた事を!
椎葉のおじが子供の頃聞いていた記憶です。
深水で「”よしがい”もしくは”よしがえ”」???とその時は意味がよく解らなかったのですが・・
冷静に考えて見ると・・
もしや、湯前の、二人が隠れて住んでいた「深水家」とは上記の「本姓吉賀江氏の深水氏」と何等かの繋がりがあったのではないか!?

段々、点と線が繋がってきたような・・
上村の武家屋敷群に住む「椎葉の●●おばあちゃんの実家」と「斉藤実盛後裔と伝わる永井家」と「本姓吉賀江氏の深水家」はお隣同士だった・・!!
椎葉の源一おじいさんの母は永田家の娘。

確実とは言えませんが・・私の高祖母の実家の永田家は上村武家屋敷群の永井家と繋がっているような気がします。
偶然かもしれませんが・・

でも・・考えて見ると・・家の親戚は永田家もあれば長田家もある・・(p_-)
椎葉家だけではなく尾方家も別の永井家と親戚で、なおかつ、新堀家(現深松家)も別の永井家と親戚関係にあり(今日、初めて知りました)
何だか「永井家」が親戚をグルグル取り囲んでいるような気分になります・・

椎葉のおじから
「いつも、解らん事や気が付いた事があればおじさんに聞け!と言っとるのに・・何でか(-.-)」
確かに私の重大ミスでした・・おばさんに聞いたからおじさんには聞かなくてもいいかな・・と思っていました(..) 反省

所で・・
高祖母の実家の写真がサイトにまた記載されていました(^'^)(以前ご紹介したサイトとは別です)
http://blogs.yahoo.co.jp/usapi4423jp/27313989.html
大正か昭和初期に建てられているんでしょうか?
と書かれていますが、建築は明治45年です(..)

サイト
第 2 章 湯前町の維持向上すべき歴史的風致 PDF 11/25(79ページ)に書かれています(..)
http://www.yunomae.com/userimage/2syou1.pdf
下村区内の山北家住宅と旧永田医院(永田家住宅)は、共に明治 45 年(1912)
の建造で、平成 27 年度(2015)に熊本県が行った近代和風建築調査の対象とな
っており、特に和洋折衷の外観が特徴的な旧永田医院は、天草の大工がその施
工に携わったといわれている。

あっ!今、コピーして気が付きました!
こちらの山北家は・・うちも、椎葉家も平川家も皆親戚です。
(コメントを書く前に見た時は気が付きませんでした(..)トホホ)

相良藩内ではかなり以前から永田姓があり、江戸時代後期を例にあげると
人吉城下新小路(寺馬場)に寛政十年(1798年)〜安政年間(1859年)にかけて、100石+知行地の永田氏の名前が連なっています。
球磨の各地に在郷の永田氏もあり・・
永井氏の名前ももちろん残っています。

だけど・・
永井氏も永田氏も長田氏も・・いつ球磨に来られたのだろう・・??
皆さん、一緒に来られたのかな??
それとも、最初に来られた系の後、縁を頼ってその後に続く系の方の何方か(どなた)が来られたのかな・・?と。
確かに、永吉庄の預所は大江広元。地頭は平河氏。 ですが・・・
この辺りは、もっと調べてみなければ解りません。

A親戚の永田家と斉藤実盛後裔の球磨の永井家との関係について

永田家の娘が生んだ椎葉の源一おじいさんの妻は斉藤実盛後裔と伝わる永井家の隣の犬童家から嫁いできた・・
と言うお話でした。

では(..)
[42]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月16日 11時01分26秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

一昨日、やっと大河ドラマ「おんな城主直虎」を見る事が出来ました(お昼の再放送です)
8日の第一話を楽しみにしていたのですが・・父と主人が「マグロ漁師さんのドキュメント」を見ていたので(年初めはこれは欠かせない!と二人(..))私は昨日の再放送を心待ちにしていたのです(^'^)
御初代様と井戸にまつわるお話もあって、とても勉強になりました。
がしかし・・昨日も、見れませんでした・・
土曜日の再放送を楽しみにしています・・
昨年の真田丸は一年を通して見ました(父が見ていたので)・・がしかし、これも再放送を・・
家の男衆に「リアルタイムで見せて」と声を大にして言いたい(;一_一)
けど・・家は今の時代でも、チャンネル権は男性にあります(..)
リビングの他にテレビはあと3台あるけど、父と主人が和気あいあいとテレビを見ているのをほっといて、他の部屋に行き、別のテレビを私が見るなど父にとってはあり得ない行為なのです(..)
この風習?に少しずつ主人も慣れてきたような気がします(;一_一)
しかし(ー_ー)!!
確かに家の親戚一族は「普段は優しいけど怒ったら怖〜い」男衆が多いけど、その男衆が恐れるのは、怒った時の「女衆!」です。
普段静かに「ハイハイ」と言っている女衆が堪忍袋の緒が切れた時の「激怒」を目の当たりにした「男衆」はすご〜く大人しくなった・・・という話を沢山の親戚から耳にします(^'^)
怒り方が半端ない(ー_ー)!!色々な物が飛んできたという話もよく聞きます・・(^◇^)
父も主人も、私の「本質」をよ〜く知っているので、そのボーダーラインを越える事はまずないです(ニヤッ)
何せ、「目には目を歯には歯をじゃっ!やられたらやりかえせ!!」と言われて育った”女衆”ですから・・(ニヤッ)・・しかし怖い教育方針です(..)

所で・・話は変わりますが
私が声を大にして言いたい事は家の事ではなく(ー_ー)!!他にもっとあります!

「日本でもっとも豊かな隠れ里」とは球磨郡・人吉の人達が自分たちで言っている言葉ではなく・・
司馬遼太郎先生が紀行集「街道をゆく」の中で人吉球磨の地を「日本でもっとも豊かな隠れ里」と記した事に由来します。
「隠れ里」・・
私個人の意見なのですが・・球磨・人吉に「隠れる」「隠す」「逃れて来られる」「移ってくる」?という行為?は”源平合戦の後”という時代からではなく
もっともっと「古(いにしえ)」(古代)の時代から「第二次世界大戦中」まで続いてきた、なんだろう・・バックに大きな「影」をにおわす(それは国の中枢部?」だけが知る事の「伝統?」のような気がしているのです・・

例えば近代「第二次世界大戦中」に球磨の高原(たかんばる)と神殿原(こうどんばる)に其々あった海軍と陸軍の基地。
高原(たかんばる)には「人吉海軍航空基地」
地下の軍事施設
作戦室(55u) 無線室(40u) 兵舎(6500u) 格納庫(1140u) 燃料庫(1800u)
弾薬庫(2000u) 魚雷庫(296u) 自力発電所(257u) 指揮室(100u) 工場(7200u)
軍需品庫(2500u) 材料庫(1500u) 寄宿舎と事務室(1800u) 酸素発生工場(150u)
「山腹には一万一千立方メートル以上の洞窟が構築されていた」
  『人吉球磨は秘密基地』(非売品)第6版・平成28年4月30日 より

さらに神殿原(こうどんばる)には
陸軍人吉(神殿原)秘匿飛行場がありました。
九十五式中間練習機による特攻隊「陸軍第八十九振武隊」が駐留。
秘匿飛行場なので、もちろん秘密とされていた飛行場です。
周辺には飛行機を爆撃から守るために作られた木製有蓋掩体壕が現在五基確認されていて、一か所の飛行場では全国最多と言われています。
神殿原秘匿飛行場は沖縄戦の敗色が濃厚となり迫りくる本土決戦に向けて、作られた「振武隊」すなわち「特別攻撃隊」の秘匿飛行場でした・・

20世紀に入っても「国の中枢部」はここ球磨・人吉に「秘匿」すなわち「隠す」という行為を行っている・・

時代を遡ると・・
私の住む旧宮原村にあった「肥後宮原銀山」。
「肥後宮原銀山」。幕府と相良藩は”その場所”を隠していた・・
確かに相良藩は「隠す」のが上手だ・・(p_-)
旧宮原村は「隠されている」事が多いような気がします・・
例えば・・
球磨・人吉内にあった「城」。城主であった方々の名前は相良藩の歴史を綴った書物に殆どは書かれている・・しかし
宮原村にあった宮原城と切畑城の城主の名前は記録されていない(隠されている)
銀山を有した「村」の城主の名前が隠されている・・何故だ?
お隣の旧岡本村にあった左近城(宮原城にほど近い)の城主が球磨・人吉を統一した「永富長重(相良長続)」であった事が解ったのは近年の調査によってだ・・
「永富長重(相良長続)」を最大の後援者とした仏師慧麟。
「永富長重(相良長続)」から命を受け仏師慧麟が最初に建立した仏像は旧宮原村に鎮座の熊野神社(熊野権現)の千手観音座像(寛正二年・1461年)
それ以降「永富長重(相良長続)」から命を受け仏師慧麟が建立した「仏像」は
※寛正三年(1462年)作の縛婆仙像・功徳天像 (水上村岩野竜泉寺観音堂)
上記の水上村岩野竜泉寺は旧宮原村の中嶋大権現(中嶋霧島神社)の別当寺の「竜泉寺」が移ったお寺です(p_-)
以降・・
寛正六年(1465年)作 虚空蔵菩薩座像 (多良木黒肥地)
寛正七年(1466年)作 薬師三尊 (多良木町)
応仁三年(1469年)作 十二面観音像 (山江村)
文明元年(1469年)作 女神座像 (水上村霧島神社現存)
以上 上村重次氏著 九州相良の寺院資料より

「永富長重(相良長続)」は山田(山江村)城主の永富氏だと伝わっているのに・・
仏師慧麟に命じて建立した「仏像」の一つが永富長重(相良長続)の故郷?と言われる「山江村」に建立されたのは「永富長重(相良長続)」没後の応仁三年(1469年)とはどういう事だ!!!
相良長続 生誕 応永18年(1411年) 死没 応仁2年[1]2月15日(1468年3月9日)
最初に建立された「仏像」とその次に建立された「仏像」も其々旧宮原村に関係しているのは何故だ・・
(上記の事は足を怪我して、本ばかり読んでいる時に気が付きました(p_-))
平河氏系相良氏と囁かれている「永富長重(相良長続)」。この方の「本当の出自」も恐らく隠されているはずだ・・・
「永富長重(相良長続)」からの相良家には平河氏と”縁”があった徳大寺家、宮原の一族と同じく伊予橘氏の系が繋ぐ池田家、そして小野好古の娘を妻に持つ大蔵春実の後裔の「秋月氏」と「養子」に入っているのは「何故だ〜っ」!!


旧宮原村には何故か「小豆島」からの移民の方々が180人以上も来られている・・
その理由は・・何処にも書かれていない・・何故だ!!
郷士が球磨郡全体の三分の一の人口を占めていたと、島津藩と同じく全国でも珍しい体制?を取っていた相良藩内において、郷士が村全体の半分(二分の一)を占めていた旧宮原村って・・何でだっ!!!〜〜〜〜〜〜〜〜!!??

と私は声を大にして叫びたい!です(..)

「隠される」事ばかりの私の住む旧宮原村。ここでの先祖調査は難攻不落。
しかし、私は進み続けるのです\(゜ロ\)(/ロ゜)/

しかし・・(^'^)
お陰さまで又又「最最新情報」が入って参りました(^'^)
昨日、親戚の多良木の「平川家」のおじさんが家に来て聞いた事は・・
「多良木の平川家の先々代の妻は、私の曾祖父の実家の久保田家から嫁いで来られていた!」と言う事です
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
きゃ〜〜〜〜〜〜!!! グルグルぎゅぎゅ〜っ!!と皆、繋がっていた!!

上記の件は、詳しく、あとのコメントで書かせて頂きます(今日は、外出致します(..))

今日は・・「何でだっ?!!!!」と言う事を叫ばせて頂きました(..)

では(^'^)
[43]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月17日 22時51分42秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

昨日のコメントに書いた
〉旧宮原村は「隠されている」事が多いような気がします・・

そう考える根拠の一つが宮原観音堂の御詠歌です・・以前コメントした事があります(..)
宮原観音堂とは中嶋大権現(中嶋霧島神社)の別当寺であった竜泉寺(天台宗)の観音堂です。(お寺の建物は残っていません)
御詠歌は相良三十三観音にゆかりの相良家家老「井口武親」そして末裔の相良家家老「井口美辰」が詠んだ歌なのですが・・
〇露のみや 野はらにおくと 詠ふらし  うき身も終の 宿ぞここなる(武親)
〇秋草の 葉すへにむすぶ 露のみや  のはらのかぜに 明日も散りなん(美辰)
御詠歌其々読まれた時代は違うのですが「露のみや」は同じです。
しかし、気になるのは井口武親が詠まれた
※うき身も終の 宿ぞここなる
”うき身”であった”どなたか”がこの地を”終の宿”とされた・・”ここなる”・・ここなのだ!と詠まれているような気がするのです・・?

どなたか・・うき身であった方がこの地に来られたのはおそらく確かなような気がします・・やはり「隠里」です(゜-゜) お坊様かな?とも思うのですが・・?

所で・・
コメント42で書きましたように、先日、親戚の多良木の平川家のおじ夫婦が家に遊びに来ました。
「本当は正月に来なきゃいけんかったけど遅くなって・・仏様参りに来たよ」と(私が子供の頃は、正月に各親戚の仏様にお参りするのが習わしでした(^'^))
親戚の多良木の平川家のおじは、椎葉のおじから、私が平川家について調べている事やその謎の解明?に親戚関係の先祖も調べている事を聞いていました。
「兄の方が詳しいけど、俺が解る事は教えられるケン(^'^)」とおじ。
そして・・多良木の平川家の先々代の妻は・・『私の曾祖父の実家の久保田家から嫁いで来られていた!』という事を知る事になったのです!
と言う事は・・宮原家に養子に入った私の曾祖父の実家の「久保田家」の血は・・宮原家以外に
祖母の実家の平川家の高祖母・・「私の曾祖父の姪」
多良木平川家先々代の妻・・「曾祖父の実家の久保田家から嫁ぐ」
となり・・さらに祖母の実家の平川家からは高祖母の生んだ男子が
@湯前平川家に養子に入り平川家を継ぐ(湯前初代村長家)
A別の湯前平川家に養子に入平川家を継ぐ
B久米の平川家に養子に入り平川家を継ぐ
C久米の別の平川家に養子に入り平川家を継ぐ
D久米の田山家に養子に入る
E旧宮原村の黒木家に養子に入る
湯前・多良木・久米・宮原・・といった、旧球磨郡久米郷東方と呼ばれた地域にある「平川家」には「久保田家」の血(系)が入っている!と言う事になります。
\(゜ロ\)(/ロ゜)/きゃ〜!!何だこれ???

(p_-)・・考えてみました
コメント27・28で書いたように
〉「宮原家」「久保田家」「新堀家」「淵田家」は”橘”の縁が色濃く見えます。
そこに「平川家」も強く繋がっている・・
ちなみに祖母の実家のお隣の「平川家」は新堀家から婿養子が入っています・・

・・・・何故だろう?何故平河氏は橘氏と繋がっていくのか?と先日考えていたけど・・私は本当にバカでした(..)
そうだ!平河氏は本姓「良峰氏」
日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観を拝見すれば一目瞭然!!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
良峰氏は「橘姓」にかわりその後「良峰姓」に戻っている!そうだった!!!

\(゜ロ\)(/ロ゜)/こう言う事なんだ!!!!
しかし・・良峰氏は何故、「橘姓」に改姓したのだろう??どちらの「橘姓」と繋がっていたのだろう????

所で・・上記に気が付いてさらに気になりはじめたのが
「岩城(木上城)」の城主家です(p_-)
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/iwan-jyo/
築城年代は定かではないが平安時代末期に平河義高によって築かれたと云われる。

平河義高が相良氏に討たれた後は窪田氏が城主となり、窪田氏没落後は犬童氏が城代となったという。また肥後国誌によれば久保田大蔵、新宮伊予守が城主とある。

平河氏 ⇒ 窪田(久保田)氏 ⇒ 犬童氏(城代)

・・・・・無関係とは何だか思えない・・

マダマダ新しく知った事がとても沢山あります(p_-)
続きは明日に。

では(..)
[45]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月18日 16時11分00秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

昨日のコメント
〉・・・・何故だろう?何故平河氏は橘氏と繋がっていくのか?と先日考えていたけど・・私は本当にバカでした(..)
そうだ!平河氏は本姓「良峰氏」
日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観を拝見すれば一目瞭然!!

(..)すみません。うまくリンクが張られていなかったようで・・
日本の苗字七千傑様の良峰氏姓氏類別大観は
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm
今朝、日本の苗字七千傑様の良峰氏姓氏類別大観をじ〜っと見ていて気が付いたのは
良峰氏 ⇒ 改椋橋姓丹羽氏 ⇒ 復良峰姓 ⇒ 改橘姓・・ここから数代後に
公兼・公俊  と言う方々が”現れる” 橘公兼・橘公俊・・ですね
あっ(゜-゜)・・(?_?)・・(p_-)
公兼・公俊・・むむっ!「公」の文字です・・おんやっ??何処の「公」の文字がこちらに動いたのかな???(p_-)

時代で言えば平安末期ですね(p_-) 原高成・原高春と同じ世代の方々か?・・むむっ(p_-)
日本の苗字七千傑様の良峰姓原氏 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm#001
こちらの姓氏類別大観を拝見するとやはり「もわ〜っ」とします・・
平貞能の妻は原高春の娘。
平貞能は源平合戦の後に球磨に来られています。
山江村山田(平河氏所領地)の高寺院
http://yumeko2.otemo-yan.net/e366444.html
高寺院(たかでらいん)
高寺院(たかでらいん)は山号を金剛山と称し、人吉・球磨最古の古刹で毘沙門天(びしゃもんてん)を本尊とする高野山真言宗の寺院です。草創の記録は不明ですが相良氏入国以前(平安時代後期)に人吉城代であった矢瀬主馬祐の創建と伝えられています。

境内には毘沙門三尊像(秘仏)、勢至菩薩立像(県指定文化財)、多宝塔(たほうとう、県指定文化財)、地蔵菩薩立像(村指定文化財)、西行法師座像(村指定文化財)、釈迦涅槃図、地獄相伝図(十三図)等々の多数の宝物が奉安されています。
毘沙門天・・
中央と左の二躯が平安時代後期の作で大正時代に国宝の指定を受けた優作です。
一躯は平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を、滅後家人の平貞能が供養の為に躯内に納めて祀ったものと云われ、もう一躯は人吉市下原田町の真福寺から寛永18年(1641)に遷座されたものと伝えられています。

毘沙門天立像のお写真は山江村の公式サイトに(..)
http://www.vill.yamae.lg.jp/?type=article&mode=articleView&articleid=1716&categoryid=26
※高野山真言。宗相良氏が当地に入国する以前の、正徳2年(1198)に平重盛の菩提を弔うために建立されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あっ!!!!皆様、!!私、今、本当に今、大発見を致しました!!
コメントを書きながら”橘”という文字を付けて「橘公兼・橘公俊」と書いて、一瞬「どこかでみたぞ!」と思い、色々探したらありました!!!!!
先日、「橘公長の系は殆どが平家方に残って亡くなっている」と書いた時に実は見ていた
東京大学学位論文(著者:服部英雄氏 論文審査委員 主査:東京大学 教授 五味文彦氏 他)
「景観にさぐる中世:変貌する村の姿と荘園史研究」
こちらの中に確かに「橘公俊」と言うお名前が記されています。
ページ番号470ページから第六章 肥前長嶋庄と橘薩摩一族 が記されています。
「橘公俊」の名は481ページ以降に記されている『長嶋庄入部までの橘薩摩氏』の482ページ「吾妻鏡』『吉記』にみる橘氏・橘・馬允で公を通字とするものたち・・の中にあります!
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/21647/5_%E7%AC%AC%E2%85%A2%E9%83%A8-2.pdf

先日、お話した内容も含まれますので、勝手ながら、必要な部分を転記させて頂きます(..)
「吾妻鏡』『吉記』にみる橘氏
『吾妻鏡』の治承四年(1180年)十二月十九日条によると、平知盛家人であった橘右馬允公長、その子橘太公忠、橘二公成がこの日源氏の幕下に参じたことが知られる。一方『吉記』(同年十一月八日条)によると、その一か月程前、馬允公言なる人物が追討使平維盛が富士川合戦に敗れて入京するまでの経緯を吉田経房に報じている。
公長、公言、おそらくは同族であろう。ともに初期には平家家人として行動していたが、公長親子は源氏方となったのである。
橘・馬允で公を通字とするものたち
平安末期の古記録には、馬允公盛、その子右馬允橘公清、また左馬允橘公景、右馬允橘公定、左馬允橘公里、橘公俊、右馬少允橘公基、左馬允橘公頼等、橘姓で「公」を通字とし官も左右の馬允であった人物が散見されるが、彼らが一族であり互いに同族意識をもっていたことは間違いなかろう。
彼らは在京型の武士団で、平氏政権下では大半が平氏方に加担していたと考えたい。
そして、おそらく公長流を除いては平氏に従い没落したのであろう。
===========================================================
\(゜ロ\)(/ロ゜)/あった!!!
※橘・馬允で公を通字とするものたち・・平安末期の古記録には、橘姓で「公」を通字とし官も左右の馬允であった人物が散見されるが、彼らが一族であり互いに同族意識をもっていたことは間違いなかろう。
『馬允公盛、その子右馬允橘公清、また左馬允橘公景、右馬允橘公定、左馬允橘公里、橘公俊、右馬少允橘公基、左馬允橘公頼等、』
あった「橘公俊」!!あった!!ありました!!!!!!!
もし!良峰氏系図にある「橘公俊」という方と『一族であり互いに同族意識をもっていた』”橘公俊”と言う方が同一人物だとしたら・・・
\(゜ロ\)(/ロ゜)/ 橘公長の系は「橘公俊」を”同族”と認識していた事になる!!!

もしそうならば・・
ついに、私は「良峰氏」と「橘遠保(元越智姓)の伊予橘氏」との繋がりを発見した事になります!!!!!
きゃ〜〜〜〜〜〜〜!!
うむっ(p_-)まてよ・・私が探していたのは「平河氏」と「良峰氏」の繋がりだっ!
だけど・・ついに「平河氏」ではなく(ー_ー)!!
「宮原氏(伊予橘氏)」と「良峰氏」の繋がりを発見した事になる・・((+_+))・・微妙・・

所で・・橘右馬允公長
記されていた『右馬允橘公清』とは人吉宮原家様から頂いた「宮原氏系図」に記されています。
橘公長の弟です。公清 父下野守佳国之時為宇都宮智■孫號氏家 とあります。
■は川の横に七?があってその下に子の文字が書かれています。
他に橘公長の弟「公■(経かな?)」の子が「公茂」で橘四郎渡瀬先祖 とあります。渡瀬とはいずこかの土地(地名)かな?どこの「渡瀬」だろう?
他の橘公長の兄弟に「盛國」 平荘先祖とあります。 平荘・・どこだろう??

先日も書いたように橘公長は橘公長は康和元年生まれ(1099年)
吾妻鏡や平家物語に書かれた橘公長の当時の年齢は80歳を超えていた・・と言う事です。
※『吾妻鏡』の治承四年(1180年)十二月十九日条
この時はすでに80歳もしくは81歳。
よく橘太公忠を長男・橘次公成(公業)を次男と書かれている記述を目にしますが、橘次公成(公業)は久安五年(1149年)生まれ、すなわち橘公長「50歳」の時の子供です。
橘太公忠・橘次公成(公業)が長男次男だったとは到底想像出来ない事です。
様々な系図に他の橘公長の子供達(橘太公忠・橘次公成の弟だという)が書かれていますが、系図毎に名前が一致しません(..)
ただ・・解っている事は
橘公長は橘太公忠・橘次公成(公業)という二人の子供だけを連れて源氏方に向かったと言う事です。

気分を害する方々もいらっしゃると思いますが、すみません。
私・・何か大きな理由があるような気がしてならないのです・・
1180年の前にもしかしたどうしても我慢出来ない出来事が発生していたのでは・・?
もしや・・それは・・「鹿ヶ谷事件」ではなかったのかな・・?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%82%B1%E8%B0%B7%E3%81%AE%E9%99%B0%E8%AC%80

あらためてじっくり読むと、今までの私の調査で登場して来られた方々は殆どが「鹿ヶ谷事件」に関係されています・・・

実は今日は「私が知った事」の最最新情報を書こうと思ったのですが、思わぬ発見により、後日書かせて頂きます。

良峰姓 ⇒ 改橘姓 ・・橘公俊
※橘・馬允で公を通字とするものたち・・平安末期の古記録には、橘姓で「公」を通字とし官も左右の馬允であった人物が散見されるが、彼らが一族であり互いに同族意識をもっていたことは間違いなかろう。
上記に記述されていた「橘公俊」

思わぬ発見でした。

では(..)
[46]たけぽんさんからのコメント(2017年01月19日 21時19分42秒 ) パスワード

はじめましてm(_ _)m

お話し途中に水を指すようですみません(>_<")

以前から、ご先祖様の事が知りたいと色々探してたら、此処にたどり着きました( 〃▽〃)

下記は、私の祖母が、生前話してくれた数少ない話です。

祖母は須惠の平川の出です。

うちは家老の家で、ばぁちゃんが子供の時に近所の人から〈あんたは、世が世なら、うちらは物も言われん位の家柄なんだよ〉と言われたそうです。

あと、うちは平川うざえもん義高って言うんよ。

昔、闇討ちにあったけど、うちを闇討ちににした人も又、闇討ちにあったんよ。

・・・と。

相良の御姫さんを嫁にもらった、とも言っていました。

私は県外で生まれ育ったのでこちらの事はあまりよくわからなくて
手探りで探してましたf(^^;

ここで、色々勉強出来て良かったです♪ヽ(´▽`)/

ありがとうございました(^o^)
[47]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月21日 10時30分16秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

たけぽん様、初めまして!(^'^)

コメントありがとうございます。
お返事遅くなりましてすみませんでした(..)

たけぽん様の御祖母様は須恵の平川家のご出身なのですね(^'^)
同じ、平川氏の血脈をひく者同士、今後ともよろしくお願い致します。

たけぽん様が御祖母様から聞かれていたお話を伺って、私は、こちらのスレッドを利用させて頂いて、「平川氏とは?」と調査を始めた、最初の頃を思い出していました。
〉うちは平川うざえもん義高って言うんよ。
こちらの「平川家について」の調査を始めたのは2013年09月01日。
「平川家について」は今や「36」まで、進みました。
私もたけぽん様と同じく、先祖は「平河右衛門義高(義高)」であると言う事と「相良氏に滅ぼされた」と言う事を祖母や親戚から聞いて育ちました。
調査のきっかけは「平河義高」という人物は、何処から球磨に来られたのか?そもそも、「平河義高」という方は「どういう人だったのか?」と疑問を感じた事に始まります。
当時の私は、球磨ではなく北九州市の小倉に住んでいました。
沢山の方々からありがたい御教示を頂き、歴史に全く疎かった私は、少しずつ勉強を積み重ねて、一年十カ月前に球磨に戻って来たというしだいです。
今は、相良藩に関係する史誌や神社記等を揃えて勉強中でございます(^'^)

調査を始めると・・
平河氏が自分が知っていた事だけではなく、本当は、「滅ぼされた」と言われている寛喜年間以降も、球磨においてその「地位」を持続していた事も解りました。
そういう過程を経ての現在の調査です(^'^)
しかし、未だに謎ばかりで・・トホホ・・・

たけぽん様からコメントを頂き、私も原点に戻ったような感覚になりました。
〉うちは家老の家で・・
実は、私も同じ事を聞いていました。(初期の平川家についてをご覧頂ければ解ります(..))
ただ、私の記憶は祖母から聞いていた事がおそらく、「平河氏」だけではなく「新堀氏」や「宮原氏」の事で、歴史に興味を示さなかった子供の頃の私はその聞いた事を「ごちゃごちゃと混ぜた記憶」へと変換?してしまっていたのでは・・?と今まで思っていました。
しかし、親戚は今でも「平河は家老家だった」と言います。
さらに、たけぽん様も御祖母様からおなじく「うちは家老の家で・・」と聞かれていらっしゃる・・
でも「平河氏」は家老であった記録はどこにも無いのです・・
これはどういう事だろう?とコメントを拝見した後にずっと考えていたのです・・(二日間、主人が連休だったので外出していてお返事が遅くなりました(..)しかし、頭の中はこの事が駆け巡っていました・・)

南藤蔓綿録・求麻外史・歴代嗣誠濁集覧 等の相良藩の史誌には「平河氏」が家老職にあったとは何処にも記されていません。
ただ、どう考えても「平河氏」の系だよな・・(p_-)と推測する「稲留氏」や江戸時代の犬童彦右衛門十兵衛を名乗った「平河高政」で見える「犬童氏」との関係・・犬童氏は相良清兵衛で知られる「筆頭家老」です。
※「稲留氏」の祖は「頼貞」。平河氏系図をブログにアップしているのでご覧ください。「頼貞」の名があります(p_-)
ナンバーAの系図です。「相良弥三郎頼貞」の名があります。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

「稲冨氏」「犬童氏」だけではなく相良藩の家老職にあったのは米良氏をはじめ、渋谷氏、田代氏、深水氏、他「宮原宇衛門公全」もそうですし、他多数の「氏」がありますので、その中に「平河氏」の系が潜んでいる?可能性もあり・・
「平河氏が家老職にあった」という不思議?な伝えは何か勘違いをした「家の親戚関係」だけかな・・?とずっと思っていたので、たけぽん様からのお話を伺い、これは・・単なる勘違いではないのでは!?と・・
やはり調査の必要がある(p_-)・・と感じています。

所で・・
「平河右衛門義高(義高)」が先祖である!
この伝えですが、先にも書いたように家の親戚関係の「平河(平川)」(岡原・多良木・久米・湯前)も皆、同じ事を言います。
たけぽん様も御祖母様から”「平河右衛門義高(義高)」が先祖である!”と聞かれていらっしゃる・・

私、実は、ずっと人吉・球磨郡中の「平河一族の末裔」の方々に聞いてみたかった事があります・・
先祖は「どなた?と聞いてこられましたか?」と。
もちろん、近代の研究で、平河師高他の各氏が「平河氏」に繋がっていく事は解っていますが・・
それ以前(研究うんぬん)を抜きにして、明治以降、大正前期頃までに生まれた方々から「平河氏の系をひく末裔」の方々が「先祖は誰と聞いている」という事を一度確かめてみたかったのです・・

平河氏の研究で知り得た情報を伝え聞いた・・というのではダメです(ー_ー)!!
そうじゃなくて・・先祖からどう伝え聞いているのか? ここなのです。

現在、人吉・球磨には105軒の平川姓があります(あくまでも電話帳での調査ですが)
この平川姓の方々の中で「先祖は平河師高だと伝え聞いている」という方がどれくらいいらっしゃるのか・・確かめてみたい・・と常々思っていました。

球磨に戻ってきて、感じているのですが・・
古(いにしえ)のここ球磨に生きた方の、人の温もりというか・・ここに確かに住していた「人」としての痕跡を感じるのは「平河義高」と言う方のみで・・
私には「師高」という方が、ここ球磨に「生きたという温もり」を感じる事が出来ないでいます・・
色々勉強して頭の中には「平河師高」という方は平河氏の先祖として理解はしているのですが・・どうしても、「感」というかそういう部分では、球磨に住していらしたという何だろう血の温もりを感じる事が出来ないでいるのです。
妙な事を言うといわれるかもしれませんが・・
今までの先祖調査の中には自分の「ヒラメキ」というか「妙な感」は結構、当たっている部分は多いのでは・・?とはそれも感じているので・・
上記に書いた「血の温もりを感じる事が出来ない・・」と言うのはどういう事なのだろう・・?と今までコメントには書いていませんでしたがこれが球磨に戻ってからの「本当の感想」です(..)

所で・・
たけぽん様に一つぜひお伺いしたい事があります。
御祖母様の実家である須恵の「平川家」の近くに「菅原神社」または「天満天神」様は鎮座されていませんか?
もしくは鎮座されていたという伝承を聞かれた事はありませんか?

私の祖母の実家の「平川家」とお隣の「平川家」の前に明治時代まで鎮座であった神社は「菅原神社」です。(現在、岡原霧島神社に合祀)
偶然か・・現相良村(旧柳瀬村)には十島菅原神社が鎮座。
柳瀬村の氏神様であり、相良藩士分限帳記載には柳瀬村と隣の深水村には「平川氏」の名が残り、さらには十島菅原神社の社殿や石灯篭・鳥居にいたるまで、「平川氏」の名が残されています。
先程、偶然か?と書きましたが・・
先日、親戚の多良木平川家のおじから聞いた”事”により、上記が偶然ではないのでは?と思っていた所です。
親戚の多良木平川家のおじから聞いた”事”とは
数年前に親戚の多良木平川家に地元の有志の方から「多良木えびす神社の氏子になって頂きたい」とのお話があったそうです。
所が、親戚の多良木平川家の長男(遊びに来られたおじの兄)は
「家は先祖代々、多良木菅原神社の氏子です。先祖からの教えは変えられない」
と御断りしたそうです。
この事を聞いて・・私はどうしても
※祖母の実家の「平川家」とお隣の「平川家」の前に明治時代まで鎮座であった神社は「菅原神社」
※現相良村(旧柳瀬村)十島菅原神社に多数の名を代々残す旧柳瀬村の「平川家」
※先祖代々、多良木菅原神社の氏子である親戚の多良木「平川家」

私は、先日、親戚の多良木「平川家」のおじから話を聞いたあと「この事」が単なる偶然ではないのでは?と感じているのです・・

菅原氏との繋がりは・・
実は、今まで色々調査してきた中にとても気になる事が多数残っているので、今後コメントしたいと考えています。

たけぽん様、お忙しいとは存じますが、よろしければ、
〉御祖母様の実家である須恵の「平川家」の近くに「菅原神社」または「天満天神」様は鎮座されていませんか?
この事をお調べ頂ければ、幸いです(..)

たけぽん様、
今後ともよろしくお願い致します。(^'^)
ミヤハラ
[54]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月22日 20時26分56秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

たけぽん様、コメントありがとうございます(^'^)

御祖母様は、きっと、たけぽん様に、「平河一族の長となる本家に生まれた」という「心の内・誇り」をお伝えされたかったのだと私は思います。
これからの時代を生きていく、たけぽん様への「御先祖様への感謝の気持ちを持って強く生きて欲しい、御先祖様がいつも守って下さっている」という御祖母様からの「声援」でもあったのではないでしょうか・・
系を繋ぐとは大変な事で、系図から見てもその事が良く解ります。
私の祖母も、平河の一族である事にとても誇りを持っていました。
何せ、宮原家に嫁いで来ているのに「ここ(宮原家)よりは平河家の方が先に球磨郡の豪族になっていた!」と私の父に言っていたくらいですので・・(..) (トホホ(..)ですが・・)
しかし、たけぽん様からお話を伺って「平河氏とは!?」と言う事に益々興味が湧いてきました(^'^)

先日までの調査も含めて、今後も精力的に調査を進めていこう!と思っています。

厳しい寒さが続きますが、お身体お気を付け下さい。

では(^'^)
[55]たけぽんさんからのコメント(2017年01月23日 15時01分47秒 ) パスワード

ミヤハラ様

こちらこそ、ありがとうございます(^^)/

ミヤハラ様の言われる通り、系を繋ぐのは、並々ならぬ事だったでしょう。

うちも、ミヤハラ様の所みたいな話があったみたいですよf(^^;

まだ、祖母が若いとき?に祖父が(祖母の夫)多分冗談半分でいっとは思いますが・・・

"うちの財産目当てにうちに来たんじゃろ?(笑)"

と、言ったらしいんです。

そしたら曾祖母(祖父の母)が、すかさず

"なん、馬鹿んこといいよっと‼○○ちゃん(祖母の名前)所の財産は、財産が違うてよ!(*`Д´)ノペチペチ"

と、こっぴどく?怒られたそうですよ(笑)


話はかわりますが

うちには、ミヤハラ様の所みたいに、昔の話をしてくれる、貴重な人物が、身近にいません(多分もういないと思います)

家系図や文書を見れたり、色々なお話しをして下さる方々が身近にいらっしゃるミヤハラ様が羨ましくもあります。

本家・分家に関わらず

ミヤハラ様の言われる通り、平河一族の誇りや心の在り方などを、これから生まれてくる方々にも伝え繋ぐのも、また、大変な事と思います。

本音を言うと、うちも、祖母の家系図を一度でいいから、きちんとした家系図を見てみたい‼と思っています。

叔母(母の姉)が、どこにあるのか知ってるみたいなので、叔母が元気なうちに連れて行って♪と、頼んでる最中です(笑)

本当に、最近は色々(地震や等)ありますが、お互い、無理せず身体に気を付けて行きましょう(o^-')b !
[56]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月23日 16時01分25秒 ) パスワード

たけぽん様、皆様、今日は(^'^)

昨日、マタマタ気が付いた事がありますので、書かせて頂きます。

色々気になる事があり相良藩史「歴代 嗣誠濁集覧」に記載の「相良家 長頼以前藤原氏系図」(南藤萬綿録 所収)をじっと見ていたのです(p_-)

すると、多良木に追放された?と言われる「相良頼景」この方の兄弟の項に以下の記述がありました。
「相良頼景」の兄弟
※ 伊藤大夫頼尭  五郎西国下向無之
※ 亀魚丸  異本比井伊介者謬也
       井伊介若年仍居住本国今関東之相良是也
※ 井伊介  建久六乙卯三月十日南都東大寺大仏供養頼朝公御参詣時隋兵
       寛元三乙巳正月九日将軍家弓始之射手見東鑑

「相良頼景」の兄弟 ※伊藤大夫頼尭 ※亀魚丸 ※井伊介

※亀魚丸 ※井伊介 こちらの方々の記述非常に気になります(p_-)
別の事が気になって系図を見ていたのに・・今まで、上記の記述に気が付いていませんでした(@_@;)

さらに「相良頼景」この方の記述には
初三郎後鳥羽(八十二代)建久四癸丑(頼朝之時)球麻多良木下向領湯前・久米・多良木・江代・湯山以嫡男長頼二男弥五郎頼氏続家秩建久八丁巳三月廿三日頼朝公信州善光寺参詣時為後陣隋兵与望月太郎配対其時文書今存之
東鑑脱無此文書故為家宝
多良木居住始蓮花寺之上大川端今謂東之前屋敷是也  彼処鍋倉城築也

(p_-)とあります。
やはり気になるのは・・
※頼朝公信州善光寺参詣時為後陣隋兵与望月太郎配対其時文書今存之
※東鑑脱無此文書故為家宝

源頼朝善光寺参詣の時、『後陣隋兵与望月太郎配対』の記述が東鑑から「脱」すなわち抜けていると言う事ですね(p_-)
求麻外史には上記の内容を「隋兵」の名を全て書いて最後に『此の事東鑑は遺脱す』と記されています。
ちなみに上記の源頼朝善光寺参詣の隋兵の先陣の隋兵の中には宮原の一族の先祖「橘次」橘公成(橘公業)の名も記されています。
相良頼景の周囲の方は
前 左:梶原源太左衛門 右:野三刑部亟
   左:望月三郎    右:相良四郎 ※補足 求麻外史では長は荘司次郎頼景、改めて三郎と称し、後改めて四郎と称す とあります。
後 左:海野小太郎   右:藤澤四郎

となっています。
相良頼景と望月三郎(太郎)が随行した 源頼朝善光寺参詣の隋兵 の記録は
何故?吾妻鏡から『遺脱』したのだろう・・・やはりこの事はひっかかります・・?

所で・・
たけぽん様の御祖母様も「平川家に相良家から嫁がれた方がいらっしゃる」と言われていらっしゃいましたが
広瀬家のおば様も「家には相良家からお嫁さんが来られた」と電話で話していらっしゃいました。

で・・冷静に分析してみたのです。
※相良頼景と共に多良木に随行した新堀又四郎頼兼(新堀氏の祖)妻は相良頼景の娘(母:須恵氏の娘)
※相良氏から平河氏へ嫁いだ方がいる(おそらく尼妙阿かな?と)※相良長頼の娘もしくは姉
※相良長頼の娘(虎若女)は愛甲景元の妻となる

相良氏の鎌倉初期の姻戚関係
相良氏 ⇒ 新堀氏
相良氏 ⇒ 平河氏
相良氏 ⇒ 愛甲氏

すなわち鎌倉時代初頭 相良氏・新堀氏・平河氏・愛甲氏 は其々姻戚関係にあった!
と言う事ですね・・(p_-) なるほどそうか・・
私の高祖母の実家「新堀家」から祖母の実家の「平川家」のお隣の「平川家」に養子が入った・・
鎌倉時代初頭の其々の姻戚関係から推測すると・・何だか納得しました。

※建久四癸丑(頼朝之時)球麻多良木下向領湯前・久米・多良木・江代・湯山以嫡男長頼二男弥五郎頼氏続家秩

上記の『嫡男長頼二男弥五郎頼氏』(相良頼氏)この方の子「頼吉」が窪田(久保田)氏の祖となります。

鎌倉初頭の記述や系図をみると
相良頼景・井伊介・新堀又四郎頼兼・相良長頼・相良頼氏・愛甲景元・「橘次」橘公成(橘公業)・「平河氏」・「須恵氏」・・・・
やっぱり・・出てきますね・・・

所で・・旧宮原村の平川家とも、家の宮原家とも縁戚関係になる「深松家」なのですが
一軒の深松家は新堀家から養子(婿養子ではありません)に入り、もう一軒の深松家には山北家から養子(婿養子ではありません)に入っていて「深松家」も気にはなっていたのですが・・
先日、親戚の星原家の本家のおじが家に遊びに来て、コレマタ色々話を聞いたのですが(ここが鷲●家と親戚関係にあります)
※星原家本家には四百年以上前の位牌?練札?があってそこに「星原権大夫」と記されているそうで、この星原家は「権大夫家」と代々呼ばれている事を初めて聞いたのです。
その他に「宮屋敷」と呼ばれた土地でおじさんが見つけた遺構についても聞いたのですが・・この件は追々コメントさせて頂きます。
でも・・権大夫って・・何だろう??

大変気になったのは・・
星原家本家のおじさんいわく
「宮原・星原・深松は一派(いっぱ)と聞いとル!」と・・・
一派ってなんだっ????????
家の宮原家から祖父の従姉(正確には従姉の娘)は確かに星原家に嫁いではいますが、星原家から家の宮原家に嫁いで来られたという記録は150年くらい遡っても存在せず・・
しかし、この星原家に嫁いだ祖父の従姉(正確には従姉の娘)と夫に、私の祖父は宮原家の全てを預けており・・どういう関係なのかな?とは思っていたのですが・・
一派って何だろう?と思いながら、その一派と呼ばれた「深松家」が益々気になったのです・・???

そこで、深松家について調べてみたのですが・・(家の場合は調査網を全国に広げる必要がありますので(p_-))
どうも気になる記述を見つけてしまいました。
サイト 共生の里 さ々郷
少し長くなりますが転記させて頂きます(..)
http://www.sasagou.com/suwajinzya/pg20.html

笹川諏訪神社(1)
笹川の信仰(神社編)  氏神→ 三社建立→ 笹川諏訪神社建立→ 三社合祀


笹川では古くは、氏神と言われる同族神の祭祀は、氏人によってのみ行なうことを前提としていたが、
竹内氏の氏神に堀内、深松氏が加わり、折谷氏の氏神に小林、宇津の両氏が加わると、
同族団は一つの神を媒体とした擬制的な同族集団としての気分が強くなり、さらに他氏との分家、
婚姻等も行なわれると、中世末期までには、ほぼ血縁的な同族関係の単位よりも、
住居地の「おもて」の折谷、小林、字津は十二社権現を、「なか」は竹内、堀内、深松の諏訪社を、
「うら」は長井、勝田の八幡宮と、地縁的集団の祭祀に移行してきて三社が建立されたものと見られる。

三社合祀
 多説あるが、寛政11年(1799年)8月26日還宮にかかわる【社殿再建の棟札】があったことから、
それ以前に笹川諏訪神社に合祀していたと思われる。
現在も、祭禮にはその三社の神旗を掲げ、社殿には漫幕を貼りめくらしいてる。

木曽義仲と笹川諏訪神社
笹川諏訪神社は1182年(寿永元年)に信州の諏訪大社の分祀社として建立されたと謂われている。
当時から地元住民に盤座(いわくら)として尊ばれていた諏訪山の大岩をご神体の本尊として中段に神宝殿、
下段の宮平には拝殿と祭り広域が設けられた。
 ご祭神は諏訪大社と同様、出婁の国の大国主命と妃神、越の沼河姫命(ぬなかわのみこと)を両親とする
建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)と妃神、八坂刀売命(やさかとめのみこと)である。
 建立には木曽義仲の参謀、金刺盛澄(かなざしもりずみ)【諏訪大社の総官総代】があたり、
北陸の宮(ほくろくのみや)の還俗と元服の儀式や尊称奉呈や木曽北陸軍の象徴となる推載式などで
元服親、木曽義仲は平家討伐の大義名分を手にして決意を固めたとされる。
 後に倶利伽羅合戦で戦功のあった長井氏(党)の八幡社や折谷氏の十二社権現の二神を合祀して篠林(ささごう)の総氏子神社となり現在に至っている。

※笹川では古くは、氏神と言われる同族神の祭祀は、氏人によってのみ行なうことを前提としていたが、
竹内氏の氏神に堀内、深松氏が加わり、折谷氏の氏神に小林、宇津の両氏が加わると、・・・
※住居地の「おもて」の折谷、小林、字津は十二社権現を、「なか」は竹内、堀内、深松の諏訪社を、
「うら」は長井、勝田の八幡宮と、地縁的集団の祭祀に移行してきて三社が建立されたものと見られる。
※建立には木曽義仲の参謀、金刺盛澄(かなざしもりずみ)【諏訪大社の総官総代】があたり・・
※後に倶利伽羅合戦で戦功のあった長井氏(党)の八幡社や折谷氏の十二社権現の二神を合祀して篠林(ささごう)の総氏子神社となり現在に至っている。

登場した「姓氏」
「竹内氏」「堀内氏」「深松氏」「長井氏」「勝田氏」「小林氏」「宇津氏」「木曽義仲」「金刺盛澄」「折谷氏」

この記述を見て・・私、実は鳥肌が立ってしまいました・・
※「竹内氏」「深松氏」「長井氏」「勝田氏」「木曽義仲」「金刺盛澄」
私の今までの調査で登場した「姓氏」「名」がずらりと・・・(゜-゜)

この「姓氏」「名」の方々は・・「姓」は異なるけど・・
※同族団は一つの神を媒体とした擬制的な同族集団としての気分が強くなり、さらに他氏との分家、婚姻等も行なわれると、中世末期までには、ほぼ血縁的な同族関係の単位よりも・・
『同族団は一つの神を媒体とした擬制的な同族集団として』
なんでしょう???この記述は!

深松氏を調べたら上記のような記述を見つけてしまいました・・
又、何か「大きな謎」の鍵を見つけたような気分です・・

今日も気になる事を調べて色々気が付いてしまいました・・(..)
では・・
[57]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月23日 16時33分21秒 ) パスワード

きゃ〜!!
コメント56を長々書いていたら・・
たけぽん様からコメントを頂いていました・・
ありがとうございます(^'^)

〉昔の話をしてくれる、貴重な人物が、身近にいません

私は、椎葉のおじに本当に感謝しているのです。
色々教えてもらえるし、今回もたけぽん様と私の縁も、椎葉のおじが教えてくれなかったら、おそらく私は一生解らなかったと思います。

色々教えてくれるうんぬんを抜きにして私は子供の頃から椎葉のおじが大好きでした。(^'^)
椎葉のおじは、普通の人が面倒だと思う事さえ、それを一つの「楽しみ」にして何でも研究して、こなしています。
私は毎朝、先祖と家の観音様に椎葉のおじが幸せである事・健康で長生きされる事をお祈りしています(^'^)

椎葉家は長男が教師だったので、家の事は次男のおじが受け継いできました。
家の方の平川家繋がりの親戚は大学教授(工学博士)※久米平川家や小中高校の教師が多くいます。
その中で、そういう”頭”の遺伝子を受け継がなかったのは・・(..)私だけです(@_@。
父は竿のせいだ!と言います。
私が三歳の頃、
母の手伝いで洗濯物を干していた父の足元にまとわりついて遊んでいた私の頭に
「ゴ〜ン!!」と大きな竹竿が落ちてきて、父は大慌てしたそうです。
幸い、頭には怪我はしなかったのですが、びっくりして急にしゃがんだ事でふくらはぎの肉離れをしました(..)
でも父は今でも「あの竹竿が頭に落ちなかったら・・お前は今では・・」と言います(..)・・微妙・・しれっと「けなされている」ような(..)
その後、竹竿がどうなったのか・・御想像どうり(p_-)
父は木端微塵(こっぱみじん)に竹竿を切り刻み、燃やしたそうです!(怖い・・)

余談でした(..) すみません。

〉家系図・・叔母(母の姉)が、どこにあるのか知ってるみたいなので

私も、広瀬のおば様に聞きました(^'^)
どうして動いたのかの経緯も・・ここでは書けませんね・・(..)

湯前の平川家の事を先日書きましたが、気になる事があるので、又、書かせて頂きますね(^'^)

そうですね(^'^)お互い、無理せず身体に気を付けて行きましょう!
(^'^)
[59]人吉宮原家さんからのコメント(2017年01月24日 13時42分22秒 ) パスワード

ミヤハラ様ごぶさたしています。
平川家の事は、よくわかりませんが以前熊本県立図書館で、相良家家臣の略歴に平川氏の系図の記載が有ったので、以下に記載します。
ただ図書館に有るのは、相良家文書のコピーでかすれている為、文字の不明な箇所が多く読みずらい為、不明確とは思いますが、たけぽん様の参考にして下さい。

平川家系図(相良家家臣)
原ノ城と有り、初代安則(四郎□□肥後国山本郡より来たり。木上村平河居城し平河□□氏→義高(左衛門□□、相良長頼公に仕える。□50石)→盛高(太郎□□)→師貞(平次)→師良(五郎)→良貞(三郎)→法師(観達?)→頼貞(三郎)→貞継(二郎)→長時(次郎)→師久(六郎)→師光(但馬守?)→宗良(□楽助)→師親(源兵衛門?)→自心(源兵衛門?)→頼秀(源兵衛門?)→頼重(□源守?)→長金(源兵衛門?)→頼重(源兵衛門?)→高政(彦右衛門? 文禄十年没)→時雑?(彦右衛門 □保二年没)→則光(伊兵衛門 □保十八年没)→紀治(庄七 宝暦十年没)→久敬(源兵衛門 天保四年没)→安春(幸□□ □□十八年没)→張榮(彦右衛門□ □小七年十月没)→繁男(□五□□□□ □□七年十月家督相続)最後の方は明治初期の最後の家臣と思われる。

以上で記載は終わりです。尚年号や()書きの文字も相良藩士分限帳で確認していませんので間違いも多いと思います。
人吉宮原家より
[60]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月24日 14時36分27秒 ) パスワード

人吉宮原家様
御無沙汰しております。
お元気でしたか?私は相変わらずせわしく生きております。
昨年、人吉宮原家様とお会いできて本当に嬉しかったです。感動致しました。
初めてお会いしたのによく喋る「おばさんだな・・」とお思いになられたのではありませんでしょうか・・
お恥ずかしい限りです。
興奮して、家に帰り、父に色々話すと父より
「こちらに来られた際はぜひ、家にお立ち寄りください」と言っておりました。


人吉宮原家様、平川家系図、転記下さいまして、本当にありがとうございます。
大変な御作業だったと存じます。
お手数をおかけ致しました。
たけぽん様の参考にして頂きます。

しかし・・「平河師高」。この方の名が無い事には驚きました・・

たけぽん様、
人吉宮原家様は現氷川町の宮原城城主 宮原公忠公から数えて第19代となられる宮原家の現当主の方です。

人吉宮原家様、
心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
そちらも、寒波到来で厳しい寒さだと思います。
こちら、あさぎり町も、周囲の山々、白髪岳・黒原山・市房山と雪化粧をして
南国球磨にいるとは思えない寒さです。
風邪などおひきにならないよう、お身体ご自愛下さい。
ミヤハラ
[61]たけぽんさんからのコメント(2017年01月24日 15時06分52秒 ) パスワード

人吉宮原様

お初にございますm(_ _)m

わざわざ、ありがとうございます(≧▽≦)♪

自分は、須惠の平川の子孫です。

以後、宜しくお願い致しますm(_ _)m


ミヤハラ様

今、ネットで少し調べてたのですが・・・

平河師高公は、義高公の三男坊の事ですか?σ( ̄∇ ̄;)

深田大王神社(あさぎり町深田)に、師高公が祀られてるとあったのですが・・・f(^^;

それと、相良から嫁がれた姫様って、阿夜(あや)さん?ってのも記載にありました。

ちょっと気になるので、近々 調べに行こうと思いますが、答えがあるか心配ですf(^^;

ミヤハラ様がおっしゃっる尼妙阿さんならいいのですが・・・

[62]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月24日 16時56分47秒 ) パスワード

たけぽん様 今日は(^'^)

相良長頼の娘、もしくは姉と呼ばれている方が「尼妙阿」です。
尼妙阿は良峰氏に嫁ぎ娘「阿夜」を産みます。
尼妙阿は「牛尼御前または牛御前」とも呼ばれています。
私のブログに以前「良峯氏(平河)尼妙阿代道観の申状に関連する文書」をアップしていますのでご参考にされて下さい(^'^)
http://secret.ameba.jp/hirom0211/amemberentry-11951697139.html

私もかなりの書籍を読んではいるのですが、尼妙阿・阿夜の母娘について詳しく書かれた書籍を目にする事はありません。

先にも書いたように「相良長頼の娘、もしくは姉と呼ばれている」ここが問題で、球磨郡誌の作者は「尼妙阿」自体がどう言う存在であったのかクエスチョン?をにおわせる文書を書かれています。

相良長頼の娘は「虎若女」と「犬童女」と呼ばれる方二人で、「虎若女」この方は、愛甲景元の妻となっていますが、「犬童女」は犬童氏の祖となる「長綱」の母もしくは妻となり、「犬童女」の法名が「妙阿」であった可能性も高いのです。(球磨郡誌記載)
この辺りは、求麻外史や球磨郡誌、南藤蔓綿録、歴代嗣誠濁集覧等の相良史には殆ど記載されていません(..)
鎌倉初期の平河氏については、相良史には殆ど書かれていないのです。
ちなみに、山江村誌には平河氏について詳しく記載されています。
山江村誌は山江村歴史資料館にて購入する事が出来ます。「歴史編」です。

私の今までの調査の中で、何度か文書をスレッドに転記してはいます。
しかし・・何年も調査しても、中々「平河氏」の謎は解けないでいます(@_@。

平河師高についても以前かなり調べていますが・・山田大王神社の祭神であるにも関わらず、その「人となり」が書かれた書物は全くありません。
平河氏は鎌倉時代に「西村」の地頭職をめぐり、大江広元の外孫「徳大寺実春」と言う方の代官を幕府に訴えています。越訴も行いました。
この辺りの事が詳しく記されているのは「山江村誌の歴史編」ですね。
その中に「平河家文書」が数点書かれているので、どのような状況であったか知ることが出来ます。
その文書の中のみに「師高」の曾孫であるという方々が登場するのですが、この方々も法名のみの記述でいったい誰であったかは未だ謎です。
これまでの調査で該当しそうな人達を見つけてはいるのですが、どうも球磨にいた人達とは思えないのです・・

まあ・・ここまでは私の現在の調査の過程で知った事ですが、ぜひ、たけぽん様も、御自分の目でしっかりと確認して見られた方が良いと私は思います(^'^)

最初のおすすめはやはり、山江村誌(歴史編)かな・・
全体が解り易かったです(^'^)

今、県外にお住まいであれば、図書館で取り寄せになると思います。
人吉市立図書館にはあるのですが、管内閲覧のみになっています(@_@。

あと、荘園について詳しく書かれている
講座 日本荘園史 四国・九州の荘園 こちらの書籍もお勧めです(^'^)
平河氏の訴訟関係が詳しく記載されています。
私の調査 平川家について10-1 コメント21でもピックアップして書いています。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101345.html

球磨郡誌はネットでも読めます(^'^)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

あと、求麻外史もネットでも読めます(^'^)
「新訳求麻外史」のコマ番号「34」に頼俊公の記述がありますのでご覧ください。ここに尼妙阿の記述があります(^'^)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959084

正嘉元年丁巳秋九月十四日、幕府宗尊親王教書 相模守北条時頼 武蔵守北条長時連書 を公に賜い、人吉荘の南方成恒 (鎌倉の下文及び教書は皆成恒に作る。譲状は国字を以て書す。亦奈利門所に作る。洞然状は奈利恒に作る。歴代参考は成恒に作る。今之に従ふ、・・)荘の地頭職に補す(教書に曰く、寛元四年、永頼法師蓮佛の譲状及び建長六年十一月某日、蓮信送傳状に地頭職を補すとあるに従う。蓮信未だ何人なるを詳かにせず。)下文を尼妙阿及び西心法師に賜ひ、食邑を給す(尼妙阿未だ何人たるかを詳かにせず。政■案ずるに嘉暦二年探題府の蓮道公に奥ふる所の書に曰く、三郎入道蓮佛の女子尼妙阿と、此れに依りて則ち蓮佛公の女たること疑ひなし、■し犬童女の法号なり。今考ふる所なし。疑ひを存して以て博覧の士に俟つ)

私は、こちらに戻ってから、書籍を買い集めましたが、中々手に入る物ではないので、ネットで読めるものはそれを利用した方が楽かな・・と思いますよ。
(^'^)
[63]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月24日 17時36分19秒 ) パスワード

追記
たけぽん様
リンク出来ないので(..)
ネット検索でまず「小 枝 遺 跡」と入力すると
PDF]小 枝 遺 跡 がリストにあがるのでそこをクリックして下さい。
ダウンロードされたPDFの74ページから
士野雄貴氏著の論文「文献に見える平河氏」が表示されますので
良かったら読んで見られて下さい(^'^)

私が調査を始めたばかりの時は公開されていませんでした。(@_@。
年表も書かれていて解りやすいですよ(^'^)

私は、印刷して保管しています(^'^)

お勧めです(^'^)
[64]たけぽんさんからのコメント(2017年01月24日 22時16分25秒 ) パスワード

ミヤハラ様

ありがとうございます(≧▽≦)♪

まだまだ、平河の事は探しだしたばかりなので
勉強不足で・・・f(^^;

お手間をとらせてしまい、すいませんでした(>_<")(汗)

やはり、理由はどうあれ

滅ぼされた方の記述は、どの一族のものでもナカナカ残されていないので探し当てるのは一筋縄ではいきませんね(;_q)

人吉市図書館にも行ってみようと思います。

その前に、武家屋敷跡の方が近いので、そちらを先に行きたいと思います。

何かしらヒントがあれば良いのですが・・・(。・_・。)
[66]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月25日 06時59分37秒 ) パスワード

たけぽん様 おはようございます(^'^)

コメント49と51と65は個人情報が多いので削除致しました(..)
書籍に書かれている事は(例えば湯前とか久米とか)家の親戚関係の状況も書けるのですが・・すみません。

椎葉のおじの従弟家に問い合わせが入ったら問題なので(..)すみません。

一応整理すると
椎葉のおじとおばの其々の従弟の妻は須恵の平川家の本家から嫁いで来られている。
こうなりますね。
たけぽん様の御祖母様も須恵の平川家の本家のご出身。

所で、系図が動いた理由は須恵の平川家の本家の方ならおそらくどなたでも御存じの言葉「伊勢」に関係します。
きっと、お母様ならお解りになられると思います(^'^)

あと・・
おそらく私の推測ではたけぽん様はお若い方かな?と
そうすると
「椎葉のおじとおばの其々の従弟の妻」の方は、年代から見るともしかしたら、たけぽん様の御祖母様の姉妹となられるのでは?

と・・

では(^'^)

[67]ミヤハラさんからのコメント(2017年01月25日 07時07分22秒 ) パスワード

追記
問い合わせとは「外部から」です。
色々な機関が平河家を研究されてますので。
(^-^)
[68]たけぽんさんからのコメント(2017年01月25日 16時45分31秒 ) パスワード

ミヤハラ様

お疲れ様です( ・∀・)っ旦

うちも、幾つかのコメント、削除させて頂きました(汗)

ご迷惑おかけ致しました(>_<)

うちは、ミヤハラ様のおっしゃる通り
・・・多分若いと思いますf(^^;⬅ウソコケって言われるかも(苦笑)

多分、ミヤハラ様のおっしゃるのに間違いないかと。

この前のはす向かいの件、今、たまたま叔母が来たので聞いてみたら、謎が解けました(^-^)v

〈伊勢〉ですか・・・

うちは聞いたことないなぁ・・・(・◇・)???

[69]ミヤハラよりさんからのコメント(2017年01月26日 09時31分13秒 ) パスワード

たけぽん様、今日は(^'^)

「伊勢」については、須恵の平川家の本家に行って聞かれたら
すぐに解りますよ(^'^)

新しいスレッドを立ち上げました。

たけぽん様、皆様
今後ともよろしくお願い申し上げます。

平川家について37
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101581.html

に続きます(^'^)
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