【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101542 投稿日:2016年06月26日 22時40分09秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
「神君伊賀越え」再現サイト

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48986

面白かったです。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月27日 05時17分55秒 ) パスワード

<3>

政変の多い京で、何かに巻き込まれたとき、家康は脱出経路をおおむね想定してあったというのはあながち空想ばかりでもないでしょう。ただ、そんな家康でも工作しきれていなかったのが、これから行く宇治田原近辺でした。

阪神高速を下りたバスは、307号線に入って木津川の渡しを通り、宇治田原の「山口城址」へ。木津川あたりまでは、元武田の重臣・穴山梅雪が同行したことがわかっている。

[2]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月27日 05時19分24秒 ) パスワード

<4>

穴山は途中で家康と袂を分かち、結果的に命を落とした。家康の密命による暗殺ともいわれるが、細い一本道を見ていると、ただでさえ少ない手勢を割いて、はたして他人の謀殺まで手が回ったものか、はなはだ怪しい気もする。磯田氏が続ける。

磯田 じつは家康にとって、「神君伊賀越え」ルートで一番危なかったのは、この序盤の宇治田原周辺ではないかと思います。というのも、神君伊賀越えにおいては、次々に家臣や臣従してきた在地領主を走らせて調略にあたらせた。それによって、逃避行最後の6月4日の頃には、かなりの人数が集まってきていたと伝承されています。

むしろ、一番危険があったのは、まだ主従一行だけで、しかも京に近く、時世を見るに敏な土民が住んでいた宇治周辺であると思われるのです。ただ、家康が助かったのは、堺脱出にあたって、茶屋の尽力でかなりの資金を調達できたこと。

たとえば木津川渡河点とされる草内(くさうち)では舟を調達して渡らなければならなかったが、材木を運ぶ柴船であるので、積み荷を捨てさせるのに苦労した、とあります。本多忠勝が力で脅したようですが、おそらく、積み荷の金銭補償をしたりもしたのではないでしょうか。

現在、茶畑が広がる「山口城址」は、「神君御休息」の伝説が残る最初の地点。6月3日午後3時(現地の言い伝えでは午前10時)に到着して案内人を得て馬を替え、午後4時に発ったとされる。時速6kmぐらいというから、馬上の家康はまだしも徒(かち)の者はほぼ小走りだったはずだ。

このあたりから車道は片側1車線になり、両側に鬱蒼と緑深い山が迫る杣(そま)の道へと変わる。山口城からバスで20分あまり走ると、次の「御休息」伝説がある遍照院。ここで新たな案内人を立て、甲賀郡信楽の有力武士である多羅尾氏の山城・小川城へと向かった。再び、磯田氏の解説を聞こう。

磯田 ここでまた、一行の意見が分かれます。つなぎのついたと言われた多羅尾光俊を信じてよいのか、と疑心暗鬼に囚われる者が出たのです。このとき、本多忠勝はこう言っています。

「何を言うか。多羅尾がもし裏切っていたら、どのみちここから先を無事で通り抜けることはできんのだ。信用できるかどうかなどと話し合っても意味がない。ここは信用するしかないではないか」

その通り。いかにも場数を踏んだ忠勝らしい発言で、ぐずぐず言っているより、決断してスピードを上げて通り抜けることこそが一行を救う鍵だとわかっている。こうした一行の様子を察した多羅尾光俊は、自分が門番の役を仕りましょう、と申し出て居館を家康に譲り、夜の闇の中、番をしたとあります。

平成の一行は、このあたりで昼食。家康同様、腰を落ち着けての食事ではなく、竹の皮で包んだ握り飯3個が渡されたのみ。それでも甲賀名産・黒影米はもちもちとして腹持ちがいい。鷹狩りに弁当箱を持ってきた息子・秀忠を叱ったという家康だから、きっと逃避行の最中の飯も、こうした握り飯程度でも文句などいわなかったろう。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月27日 05時21分16秒 ) パスワード

車中で握り飯をほおばり30分ばかり走ると、道の両側には、信楽焼にはおなじみの、たぬきやがまの焼き物が並び始める。陽射しは強いが吹き抜ける風が心地よい。余り知られていないが、ここ信楽は、日本で唯一オーロラが観測される不思議の地でもあるという。

<5>


街道沿いの「小川城址入口」の看板前でバスを降り、ここからは徒歩で山道を登らねばならない。30分後にたどりついた標高400m強の山頂には、草に覆われた石垣と、数個の礎石が残っていた。家康が短い仮眠をとったとされる、多羅尾光俊の居城・小川城址だ。

山中にはへばりつくようにいくつもの館跡があり、疲労困憊した家康はおそらく山頂の本丸ではなく、標高の低い多羅尾の館に体を休めたのだろう。

家康を迎えた13年後、この小城は豊臣秀次に孫娘を側室に出していた光俊が太閤秀吉の勘気を被ったことで廃城とされてしまう。だが後に、一宿一飯の恩義を忘れなかった家康によって多羅尾家は旗本として迎え入れられて、4500石を拝領し、代々、信楽代官などを歴任。幕末まで存続している。

汗だくになって山を登りながら、徳川家広氏は「今、自分はご先祖のあとをたどっているんだ、と痛感してきました」と笑った。

徳川 徳川はもともと、三河の山奥、松平郷の出身ですが、武士であり、山賊であり、材木商であり、という生き方をしていたのでしょう。久能山東照宮のお祭では必ず木遣歌(林業の労働歌)を歌ってくれる方々がおられますし、私の曾祖父・徳川家達(宗家16代。徳川慶喜から宗家を受け継ぐ)にしても、葬儀の折に木遣り唄で送り出されています。

こうして甲賀伊賀の山あいを歩いていると、もしかしたら松平の原風景もこんな感じだったのかと親近感が沸きますね。

小川城址を下り、再びバス通りに出て674号線を走る。このあたりからは護衛も増えて、家康一行は窮地を脱した気分になったことだろう。伊賀(三重県)と甲賀(滋賀県)の境界のこのあたりについては、丸柱の宮田氏、柘植氏らの助力を得たという伊賀忍者の貢献説、和田八郎・山岡景隆ら甲賀忍者の貢献説が入り乱れている。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2016年06月27日 05時22分53秒 ) パスワード

<6>




平成の一行は甲賀地域の明王寺(ここには家康から家綱まで将軍4代の位牌がある)を経て、伊賀国柘植の徳永寺へ。当代住職が語る。

「うちの寺は藤堂藩の菩提寺でも何でもないんですが、藩祖・藤堂高虎から幕末まで代々の藩主から代替わりのたびに直筆の寄進状を受け取っているんです。しかも寺の瓦には三つ葉葵紋を使っていまして、これも藩から許可されています。書としては一切残っていませんが、伝承として、小川城を発った家康公一行が、海に向かいひた走るとき、あまりに喉が渇いてここに立ち寄り、当時の住職が家康公に茶をお出ししたと伝わっています」




偶然にも、徳川家広氏は自身が持参した水、そしてツアーで提供されたペットボトルの茶も飲み干し、「・・・水分が欲しいです」と道の各所で所在なげに自動販売機を探していた。あいにく、行けども行けども鄙びた里に自販機は見つからない。まさにご先祖家康公と同じような状況で、徳永寺にたどりつき、本堂に設置されていたウォーターサーバーから美味しそうにお茶を飲んでいたのであった。

所要時間7時間強。文明の利器のおかげで神君家康公が2日がかりで通過した道を半日で踏破していった。同時代資料で通過が記されていても、バスが通れない細い道も多く、迂回せざるを得なかった箇所もある。

イベントの後、徳川氏はこう感想を述べている。

徳川 伊賀甲賀は、関東や中部地方のような、岩肌が覗く峻険な山とは違って、柔らかでしかも奥深い地でしたね。

私のご先祖は、漂泊の僧から身を起こして松平を名乗って武士となり、戦国の乱世のなかで、より活動的な版図を目指して沿海地域に進出しました。これが徳川家の基礎となっています。伊賀の山奥から海を目指して走った家康は、松平から徳川への歴史を追体験したようなもの。私自身も、途中から次第に自身のルーツをたどっている気になりました。

その日の夜。宿舎の周囲には、折り重なるようなクサガエルの鳴き声が響き渡っていた。この闇の中、本拠地・岡崎へ向けてひた走った家康は、朝日に照り返す浜の水面を見た瞬間、泣きたいほどの安堵を覚えたことだろう。

[5]箱柳永田さんからのコメント(2016年12月23日 15時22分14秒 ) パスワード

 三つ柏様 あを様

 私は神君伊賀越えでは
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/160/
 船による師崎立ち寄り説を取っています、叔母の嫁ぎ先の衣川さんに伝わる
 伝承を信じるからです。 宗真寺の丘に登ると三河湾どころか伊勢湾のかなりの部分が一望でき、http://loco.yahoo.co.jp/place/g-w42LvUaLP4A/map/
 衣川さんの墓地に立った時、腑に落ちてしまったのです。
 なお電話帳では師崎に衣川さんは見当たりません。
 
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月23日 22時58分07秒 ) パスワード

箱柳永田さん

地図を見て来ました。
師崎とか衣川とか、懐かしいです。


それより地図を見て方向音痴なのを改めて実感しました。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapah.