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 投稿番号:101538 投稿日:2016年06月17日 09時36分16秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について34

コメントの種類 :その他  パスワード

前スレッドにおいて、
祖母の実家の「平川家」の氏神様を調べた事により
平河氏(本姓:良峯)の本当の「出自」について、真実が見えて参りました。

皆様の「ご教示」そして、拙い私への「御声援」のお陰です。
ありがとうございます。

今後も精力的に調査を進めて参ります。
これからもどうぞ、よろしくお願い申し上げます。

こちらは「平川家について33」コメント71より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101534_70.html

[1]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月17日 11時06分27秒 ) パスワード

皆様、
天孫人種六千年史の研究を読ませて頂いて、早速、地元に残る「地名」の意味が見えて参りました!

私の住む、旧久米郷宮原村(旧岡原村・現あさぎり町)にそびえる黒原山。
黒原山について、以前、日本の苗字七千傑様より「久米族」の権利の主張をあらわし、九州アイヌの守護山であったと御教示を頂きました。

この黒原山を家の方から見て(麻郡神社私考より)
左裾野(麓)に「切畑大明神」 御祭神 阿蘇神社同體 大同元年(806年)創建
中央(麓)に「中嶋大権現」 御祭神 日州霧嶋神社同體(中嶋霧島神社神社・宮原神社)大同元年(806年)創建
右裾野(麓・旧岡本村)に「大炊神権現」御祭神 日州霧嶋神社同體 大同元年(806年)創建
さらに、黒原山頂上近く(中腹より上に)
雨引山王(宮原中峯山王山) 社家傳云垂跡神三取 雨引明神 山王権現 八大龍神
御祭神 傳云雨引明神ハ罔象女命

御紹介した
「切畑大明神」は旧字「宇土山」に鎮座であり、「宇土山」には後世「切畑城」が築城されていました。
「中嶋大権現」は旧字「宇土谷」に鎮座であり、同じく旧字「宇土谷」には後世「宮原城」が築城されていました。

前置きが長くなりましたが・・
ずっと疑問だったのですこの「宇土山」「宇土谷」の「宇土」(ウト)とは何なのだろうと・・(知識不足で、八代方面の「宇土」からの地名遷移かな?なんて単純に考えていました)
しかし、「天孫人種六千年史の研究」を読ませて頂いて、早速、地元に残る「地名:宇土(ウト)」の意味がやっと理解できました。
「天孫人種六千年史の研究」の九項に疑問を解く文章が書かれています。

※日神ウツ又ウトは、我が国に於いても、ウツ、ウトと云い又■化してウヅ、ウチ、、ウヂ、ヲチ、ウサ、ウス、ウツシ、ウツツなど唱えた。
そして・・日本各地の神社名・地名として残っているのですね\(◎o◎)/!

すなわち、私の住む旧宮原村にそびえる黒原山の麓には「ウト山」「ウト谷」が存在し、そこに神社が創建され・・「ウト」とは日神ウツ又はウトを表す言葉だった!!

やっと解りました\(◎o◎)/!
さらに!!
※ウチ(内・宇知)は天孫第一の王都たる薩摩国加世田、第二王都高千穂宮跡たる大隅国鹿児島神宮の地、伊勢大神宮の稱号等、皇室並天孫族の日神名稱で、神名地名として、この外尾張大和にも存す。
このウチを後世倭人語系統の國語に因りて内外の義に誤解した。

中略・・
ヤータ(八幡)は大隅、豊前、対馬等に海神が祀られ、ヤマダ(山田)は薩摩第一王都たる地、大隅国第二王都たる地、伊勢、尾張、長門、信濃等の地名に・・(以下省略します)

こちらもやっと!やっと!解りました!!
平河盛高の本拠地であり弟平河師高に譲られた「旧深田村(現あさぎり町)の地。
鹿児島神宮(深田阿蘇神社-境内神社乙6)(流鏑馬7番:深田内山神社:小八幡) より
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.291210637662303.43106923.269261349857232&type=3
上記サイトから解る事は・・
平河氏が建立したお寺「有智山寺(萬福寺)」この地域の地名は「内山」です。
深田阿蘇神社の境内社として平河師高が勧請したと伝わる「鹿児島神宮」が鎮座しています。
平河氏が勧請した「鹿児島神宮」。実は
鹿児島神宮=深田内山神社(小八幡) となるようです。
内山・・ウチヤマ・・ウチ
※ウチ(内・宇知)は天孫第一の王都たる薩摩国加世田、第二王都高千穂宮跡たる大隅国鹿児島神宮の地、伊勢大神宮の稱号等、皇室並天孫族の日神名稱・・
\(◎o◎)/!そう言う事だったのか!!

さらに・・平河氏の同じく所領地は「山田村」です!
※ヤマダ(山田)は薩摩第一王都たる地、大隅国第二王都たる地、伊勢、尾張、長門、信濃等の地名に・・
\(◎o◎)/!そう言う事だったのですね!!
祖母の先祖「平河氏」の名跡が残る「旧宮原村」「旧深田村」「旧山田村」には
「ウト」「ウチ」「ヤマダ」(ヤータ八幡)という名稱が残っていました!!\(◎o◎)/!

うん??(?_?)祖母の先祖「平河氏」の名跡が残る「旧宮原村」・・(?_?)・・??
この地に代々住んでいるのは祖母の先祖「平河氏」だけではありませんね(?_?)
うち(宮原家)もです・・(?_?)

ウト谷は宮原城が築城されていましたよ・・(?_?)
おんやっ??(?_?)・・(p_-)

所で・・
平河氏の所領地の一つ「荒田」ですが、「天孫人種六千年史の研究」を読み進めなければ解りませんが、一つ「荒田」に繋がるのは
尾張国丹羽郡のようだ!と言う事には気が付きました!
この件は次回にコメントさせて頂きます(..)

では(^O^)/
[2]白石さんからのコメント(2016年06月18日 00時56分45秒 ) パスワード

こんばんわ
丹羽郡
前にも話題にしたことがありますね。
あの頃は どうつながっていくのか?わからず祭神や いろいろ・・・

尾張氏の男子を大荒田の娘が生んで 稲束をもらった という。
稲を食べればそれでおしまいだが 芽を出させて 来年収穫すれば 数倍にふえ
それも我慢すれば 何年かで うなるほどの収穫になり 子供が大きくなるころには 
いわば 大分限者になるわけですね。

まだ おこめだって 貴重な時代だったようだと思います。

集落の少し上は 「小野」という小字です。
昨日 小野ということばから 小野篁の先祖をみていました。
篁は 閻魔大王に会いに 夜な夜な 井戸にもぐっていたそうです。
また 篁の祖父・好古は 母が 王氏だそうで
王氏とは 天皇家からわかれて 5世孫くらいまでは 名乗ることがでせきたそうですね。又 花山天皇子孫は 神祇伯で 王氏をなのったとか・・・

先代旧事本紀のひとつ 拍家白河本は ここが もっておられるのでしょうか?

郡名は日本武尊の末裔である爾波県君(にわのあがたのきみ)がこの地を統治したことに由来するという説や、『丹(に)』の一字で「赤土・粘土」を意味するという説がある。

[3]白石さんからのコメント(2016年06月18日 01時19分19秒 ) パスワード

余談ですが 伊予橘氏を見ていました。
本姓は「越智氏庶流」となっています。

越智氏
越智氏と秦氏【T】 ( 歴史 ) - 千時千一夜 - Yahoo!ブログ  より
越智─河野氏の家伝書『水里玄義』の「越智姓」の項の「内伝」では、秦の徐福を祖とするとあり、

一方、「外伝」として、公的な氏姓の出自認定書ともいえる『新撰姓氏録』(弘仁六年〔八一五〕の成書)には「神饒速日命」を祖とする越智直の記述があると書かれています。

私には どうも 平川と高岡は 遠祖で からまっている と思えるので ほかのものも しらべてみているのですが・・・

また 高岡 佐田につき
日本の苗字7000傑様サイトで 前に 秦氏のところで ふたつとも ついていたのですよね。
それで どっちが 秦かな? と 思っていたのですが
島津 細川 津軽などは サダだと本で見て

高岡の姓系辞典では にぎはやひ子孫があって
ネットに出る 高岡系図は 秦人子孫があって

上の 越智氏の話で 高岡と佐田があってよいのだと 思っているのです。

[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月18日 23時02分28秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

一時間ほど前、熊本県内で震度4の地震があり、私の住むあさぎり町は震度2でした。
地震への注意は必要なのですが・・
どうしても頭を駆け巡り続ける気が付いた事があり、やはりコメントさせて頂きます。

橘遠江入道道公・・「道公」は「みちひろ」と読めるのですね。
杢助入道三池道智・・「道智」も「みちひろ」と読めるのですね。
三池道智は三池師時
平河氏には平河師時

三池道智(杢助入道)と「後家尼如円」の間にうまれた娘「尼しんねん」は島津忠宗の妻です。
尼しんねんと島津忠宗の娘が阿久里御前
「尼しんねん」の譲り状では
肥後国久米郷、百五十一町の内二十町は 六郎殿(三池貞家)に譲られ残り百三十一町が阿久里御前へ。
さらに、文保2(1318)年3月15日『島津忠宗譲状』で島津忠宗が子の島津貞久に譲り渡した土地の中には
※豊前国副田庄 副田三郎次郎種信跡 があります。
肥後国久米郷も豊前国副田庄の橘公業が西園寺公経と替地をして得た領知です。

もう一度繰り返します。
橘遠江入道道公・・「道公」は「みちひろ」と読めるのですね。
杢助入道三池道智・・「道智」も「みちひろ」と読めるのですね。
三池道智は三池師時
平河氏には平河師時

日本の苗字七千傑様の【良峰氏】姓氏類別大観 さらに《椋橋姓丹羽氏》姓氏類別大観をずっと見つめていました。

丹羽氏 ⇒ 改 「良峰」 ⇒ 改「橘」
上記の事から平河氏がもし「丹羽氏」であったら・・「橘」を名乗っても不思議ではないのですね・・

他に、今日、読んでいた
人吉歴史研究 平成9年(1997年)創刊号には
相良氏と平河氏と税所氏が二重三重に姻戚関係を結んでいた証拠の系図・相関図が記載されていました。

永富氏は「平河系 相良氏」と記載されていました。

詳しくは明日、コメントしますが・・

先祖「平河氏」の系は「誰かに隠されていた」のではなく「隠していた」のは実は平河氏であったような気がします。
[5]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月19日 07時06分18秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

コメント4の訂正と補足をさせて頂きます。

〉「尼しんねん」の譲り状では
肥後国久米郷、百五十一町の内二十町は 六郎殿(三池貞家)に譲られ残り百三十一町が阿久里御前へ。
さらに、文保2(1318)年3月15日『島津忠宗譲状』で島津忠宗が子の島津貞久に譲り渡した土地の中には
※豊前国副田庄 副田三郎次郎種信跡 があります。
肥後国久米郷も豊前国副田庄の橘公業が西園寺公経と替地をして得た領知です。

上記の
〉肥後国久米郷も豊前国副田庄の橘公業が西園寺公経と替地をして得た領知です。
は、正しくは
〉肥後国久米郷も豊前国副田庄も橘公業が西園寺公経と替地をして得た領地です。

です。すみません。訂正させて頂きます。

コメント4でご紹介した
「人吉歴史研究 平成9年(1997年)創刊号」とは
人吉市教育委員会 人吉市文化財保護委員会 編集・発行の書籍で
正しくは
編集発行 人吉市教育委員会(文化課) となっています。

球磨・人吉を統一した永富長続(相良長続)の永富氏を「平河系 相良氏」と記されているのは
同書に記載の
鶴嶋俊彦氏が書かれた「人吉庄の歴史的景観の復元」。
鶴嶋俊彦氏は当時の人吉市教育委員会文化課主任をされていた方です。
氏は「相良家文書」(国重要文化財 慶應義塾大学所蔵)の中から主に「人吉庄起請田以下中分注進状」を中心資料として使用、他、旧字図・国土地理院発行空中写真・人吉市発行「人吉都市計画図一般図」等、さらには現地調査により地名の聞き取りを実施されてたとあります。

そこから、見えてきた「相良氏」「平河氏」「税所氏」の複雑な姻戚関係。
相良700年の歴史の中の「謎」を解く大きな「鍵」に鶴嶋氏は当時すでに気が付いていらっしゃったようです。

永富長続(相良長続)が居城したと言われる「左近城」跡が残る、旧久米郷に位置する私の住む「旧岡原村」。

この岡原村の祖母方が「平河氏」である、宮原家に生まれた私。
強い絆と呼ばれる親戚関係は「宮原氏」「平河氏」「多数の相良氏族(久保田・新堀・深水・犬童・恒松・桑原・山北 他」「本姓:大神氏」「松浦氏一族」「熊野氏一族」「千葉氏・畠山氏」他・・・

親戚関係を調べていて、大きな壁・疑問の数々が見えて来るのは何故だろう?と考えていました・・

おそらく家のようなこの「絆」を持つ「家」は人吉・球磨の至る所に「存在」しているのだろう・・と思います。

税所氏は、家のすぐ近くに鎮座であった「稲積妙見」の記録に「相良氏の代官」として名が残されています。(1400年代後半・永富長続(相良長続の球磨統一直後)
鎌倉時代初頭の「税所氏の最初の拠点」は人吉(旧永吉庄の境界線)にある「井口」です。
家の前を流れる川は「井口川」。

皆様。
先日より、祖母の実家の「平川氏」の2000年近く遡った「祖」が見えてまいりました。
この事が見えた事により、後世の「平安末期」「鎌倉時代」「室町時代」「江戸時代」の記述が「別の視点」でしっかりと見えて参りました。

これからの私の課題は「机上での推理」を実証する為の「物証」を見つける事です。
こちらのコメントではまず重要な「机上での推理」を今まで以上に精力的に進めて行きたいと思っています。

今後とも、御教示の程よろしくお願い申し上げます。
[6]白石さんからのコメント(2016年06月19日 10時59分14秒 ) パスワード

おはようございます。
税所氏
吉歴史研究 平成9年(1997年)創刊号には
相良氏と平河氏と税所氏が二重三重に姻戚関係を結んでいた証拠の系図・相関図が記載されていました。

日本の苗字7000傑税所氏を見ると
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 百済氏/和氏【2】
が出ます。

開くと
純陀太子にはじまる 和氏 の 系が目に飛び込んできて
光仁天皇の皇后に立つ高野新笠がみえまして
この人の母方の系に土師氏がおります。

大枝 菅原に関与する氏ですね。

和氏ということで 贏姓 高丘系図1をひらき
下へスクロールして 

百済蓋鹵王妃に立つ 高氏の女子がいます。
三嶋鴨神社に関与する 斯摩王が子供

ここをクリックすると 扶余系図が出て
左下へスクロールすると 倭氏 和氏が出ます。
下へおろすと 若さ彦神社神主・和宅継が出て クリック







[7]白石さんからのコメント(2016年06月19日 11時00分50秒 ) パスワード

すでに 6代 孝安天皇からはじまっています。
笠氏です。

31代 義慈王の子・百済王禅廣(善光)をあけると 
三松氏系図が出ます。

永継の女子が藤原内麻呂室になり 冬嗣を生む。冬嗣の室にさらに 三松から女子が入っている。
北家におりる 人にも 百済氏の血が入っているのですね。

一度上にかえり 敬福のすじからたどってくると 藤原基房室になる人がいます。

松殿基房のようです。
この人のまわりが
九条兼実 慈円 育子 忠、家房、師家、忠房、伊子、実尊、行意など
それぞれをみると華やかです。祖先は 道長。
宗子なんかもいて 池の大納言家の同大な所領の話なんか もありましたよね。

先日 誰でしたかしら? 九条の系図が出ていましたよね。
育子様が 六条天皇に関与するひとで 壱岐氏が出てくるのですね。
壱岐氏から 有栖側の宮にきて 現天皇家へ

[8]白石さんからのコメント(2016年06月19日 11時02分11秒 ) パスワード

平川の霊者があったと伝える 山田葉木。
山田のことばから 山田氏を見ると
。古くは渡来系氏族が称したウヂ名であり、『新撰姓氏録』には、右京の
山田宿祢氏(やまたのすくね、周霊王の太子晋の子孫と称する)、同じく
山田造(やまたのみやつこ、山田宿祢と同祖)、河内国の山田宿祢(魏の司空王昶の子孫と称する)、同じく
山田連(やまたのむらじ、山田宿祢と同祖)、同じく
山田造(山田宿祢と同祖)、
和泉国の山田造(新羅の天佐疑利命(あまのさぎりのみこと)の子孫を称する)が記録されている。平安時代初期の能吏として知られる
山田古嗣(やまたのふるつぐ)もこの山田氏に出自していると見られている。

周の太子・普は 熊野の三つある伝説の一つで
 子孫は 王辰時につながっていた。

藤井になり 王氏。
この人が 仏教戦争で 曽我氏の邸宅が焼けたとき 国紀を持ち出した人。

先に出た 藤原北家になっていく冬嗣の系から 南家武智麻呂がいるがこの人の母は 曽我氏。
この人の血筋も 蘇我氏を介して 今に伝わるという。
[9]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月19日 15時40分00秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

白石様、御教示ありがとうございます。
「税所氏」について御教示を頂きましたが、
「人吉歴史研究 平成9年(1997年)創刊号」掲載
当時の人吉市教育委員会文化課主任であった鶴嶋俊彦氏著の論文「人吉庄の歴史的景観の復元」に記されていた「税所氏」の系図は
「大隅国在国の”藤原綾氏”」を祖とする「税所氏」です。

皆様 早速、球磨の”歴史”に繋がる「税所氏」の系を鶴嶋俊彦氏著の論文「人吉庄の歴史的景観の復元」記載の
”相良氏・平河氏・税所氏・永富氏系図相関(推定)図”から引用させて頂き御紹介させて頂きます。

光考天皇・・(数代略)・・家継「大隅国在国 藤原綾氏」・・略・・@圓實(員実)「妻:良峯依高の娘」 ⇒ A師継「税所氏を名乗る」 ⇒ B圓昭(員昭)「球磨入部」・・・以下は今は略させて頂きます(..)
※圓實(員実)の妻は良峯依高の娘です!
すなわち、球磨入部時点で「税所圓昭」は「良峯氏(平河氏)」とはすでに姻戚関係にあった!
藤原綾氏を改め”税所氏”を最初に名乗った「税所師継」は・・母が「良峯氏(平河氏)の娘」であったと言う事です!

さらに、驚きは続きます!!
相良長頼の兄弟である「佐原頼忠」が繋がっていました。
系図では・・
大隅国正八幡地頭「頼忠」(佐原頼忠)の妻は上記「税所氏系図」のB圓昭(員昭)の娘です!!
すなわち藤原綾氏から「税所氏」へと名を変えた「税所師継」は母方が「良峯氏(平河氏)であり、その母系を「良峯氏(平河氏)」とする「税所氏」の系から「佐原頼忠」の妻は嫁いできた!!と言う事です!!

やっと!やっと!「佐原頼忠」と「良峯氏(平河氏)」がここで繋がりました!!

続けます。
大隅国正八幡地頭「佐原頼忠」の子は相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)。
妻は・・紀氏 西山九郎道房(税所氏被官向笠氏?)女子。
ここで「紀氏」に繋がります。
上記の相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)から・・略・・相良又三郎「薩摩郡光富領主」に繋がります。

「又三郎」という通称は「平河氏」ではよく見かける「通称」です。
ちなみに日向真幸院(現えびの市)など「少弐頼尚跡」を給された「平河師里」も”平河又三郎師里”と名乗っています。

さらに鶴嶋俊彦氏著の論文「人吉庄の歴史的景観の復元」では
人吉庄稲冨豊永名田名主注進状案」(相良家文書)には二つの名に所属する三十一名の田名主の名と各々の水田面積が記載されています。
その中にあったのが「なかはらの又三郎」(現鬼木町永春)
※「なかはらの又三郎」とは一体どなたなのか?・・当時の田名主として「なかはら」氏はちゃんと名を残されていたようです(p_-)

まだまだ、書きたい事はありますが、ここで一旦(..)

では(..)
[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月19日 17時10分00秒 ) パスワード

追記
慌てての登場です!!!
危なくスルーしそうになりました\(◎o◎)/!

家継「大隅国在国 藤原綾氏」・・略・・@圓實(員実)「妻:良峯依高の娘」 
上記の略は私が書籍の点(・・)が長いのでとりあえず「略」と書いただけで、論文には「略」はかかれていません(..)(すみません)

で!!家継「大隅国在国 藤原綾氏」!!
藤原姓綾氏は!「藤原家成」に繋がっていたのでした!!
綾貞宣の娘が讃岐に赴任した藤原家成との間に章隆を生み、以後藤原姓を称し・・
日本の苗字七千傑様の【綾 氏】姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01220_2.htm
何度、この画面を見たことか!なのに・・危なくスルーしそうになっていました。
藤原 家成(ふじわら の いえなり、嘉承2年(1107年) - 仁平4年5月29日(1154年7月11日))
綾貞宣の娘が讃岐に赴任した藤原家成との間に章隆を生み、・・
と言う事は「大隅国在国 藤原綾氏」家継 この方は子の圓實(員実)「妻:良峯依高の娘」 と記されている所から推測すると・・
おそらく平安末期のそう離れていない同時代の話となり・・「大隅国在国 藤原綾氏」家継は羽床章隆とは一代程度しか離れていない計算になります(きっとですが・・)

えええええええええええええっ!!
藤原家成の養子は「西光」。羽床章隆とは義兄弟!
西光の子は「藤原師高」。藤原師高と「大隅国在国 藤原綾氏」家継とは義従兄になる可能性があり・・\(◎o◎)/!
「大隅国在国 藤原綾氏」家継の子 圓實(員実)「妻:良峯依高の娘」

と言う事はもしかしたら・・
圓實(員実)の妻(良峯依高の娘)から見ると
「わたくしの、義父のいとこは”藤原師高”様ですのよ(*^_^*)」
\(◎o◎)/!と言う事になってくる!!!!!!!

上記はあくまでも「いとこ」なのか「ふたいとこ」なのかは解りませんが・・
しかし!!
「大隅国在国 藤原綾氏」家継の子 圓實(員実)の妻が良峯依高の娘である事により「西光」・「藤原師高」と「良峯依高」の「良峯氏(平河氏)」は縁戚関係にあったという事になります!
\(◎o◎)/!\(゜ロ\)(/ロ゜)/\(◎o◎)/!・・・・・!!

どうしよう!本当に・・マジで・・マジで・・繋がった!!(私の心の声です)

どうしよう・・・どうしよう・・・

皆様、どうしましょう(..)
[11]白石さんからのコメント(2016年06月19日 18時14分03秒 ) パスワード

光考天皇・・(数代略)・・家継「大隅国在国 藤原綾氏」・・略・・@圓實(員実)「妻:良峯依高の娘」 ⇒ A師継「税所氏を名乗る」 ⇒ B圓昭(員昭)「球磨入部」・・・以下は今は略させて頂きます(..)

すなわち藤原綾氏から「税所氏」へと名を変えた「税所師継」は母方が「良峯氏(平河氏)であり、その母系を「良峯氏(平河氏)」とする「税所氏」の系から「佐原頼忠」の妻は嫁いできた!!と言う事です!!

女の筋をみればわかる ということですね。
光孝天皇の前世代は

光孝天皇は
仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。
父 仁明天皇 

母 藤原沢子
子 宇多天皇

沢子へ至る系は 藤原鎌足―不比等(興福寺縁起・大鏡・尊卑文脈・公卿補任では天智天皇御落胤と書かれる) 母:蘇我娼子(蘇我連子の娘)―藤原房前―藤原魚名―末茂―¬ 藤原総継



日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 綾 氏【1】


www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01220_2.htm

姓氏類別大観 【綾 氏】 景行天皇の皇子日本武尊の孫爾彌麻命が綾氏を称する始まり、後裔の綾貞宣の娘が讃岐に赴任した藤原家成との間に章隆を生み、以後藤原姓を称し、この系統は讃州藤氏と呼ばれる。 《日本武尊裔氏族 ...
.

武家家伝_香西氏 - 播磨屋 Pert2


www2.harimaya.com/sengoku/html/kosai_k.html

三階松 (藤原氏北家流/讃岐綾氏流) ・『見聞諸家紋』には"三階松に岩に笹"とある 讃岐の名門香西氏は、保安元年に讃岐の国司となった藤原家成と綾大領貞宣の娘との間に生まれた章隆を祖とするという。

[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月24日 18時44分50秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

ここ数日間、豪雨と激しい雷が続き、落雷によるパソコンの影響を考慮して、殆どパソコンは起動していませんでした。
(スマホを利用して「平家物語を熱く語る」内の皆様のスレッドを拝見していました(^'^)・・ものすご〜く気になる情報が続いていました!)

今日は曇り空で、やっとネットを使った調査が出来ると喜んでいたのですが、先程から、時折激しい雨が降っています。

書きたい事は山積みなのですが・・
一つ一つ御紹介をしなければ・・と思っています。そこで
@式内社 大県神社を信仰宗主とする丹羽氏
A良峰姓より「橘姓」に改姓した「為通」(良峰氏系図より)の父は”伊予介”だった。
B三浦氏と良峰氏(丹羽氏)・・不思議な共通点
と題して進めて行こうと思います(..)

@式内社 大県神社を信仰宗主とする丹羽氏
サイト 尾張北部の氏族..丹羽氏 より
http://akon.sakura.ne.jp/owari/niwa.html
中略・・
「続日本紀」承和8年(841)4月
縣主前利連氏益賜姓縣連。神倭磐余彦天皇第三皇子神八井耳命乃後也
つまり
丹羽郡前刀(さきと)郷の住人で、この時の県主の前利連(さきとのむらじ)氏益が県連(あがたのむらじ)の姓を認められる。先祖は神八井耳命の後裔であると認められる。
神八井耳命は神倭磐余彦天皇(神武)の第三皇子である。白山平に三角縁神獣鏡と共に眠る御霊を首長としたこの氏族は500年歳月命脈を保ち、ここに朝廷の擬似的血縁系図に繋がったことになる。
この歳月を物語るように、丹羽郡には式内社 前利神社がある。
さて、式内社 大県神社を信仰宗主とする丹羽氏であり式内社 前利神社もその系列と考えられるが、もうひとつ式内社 田県神社の系譜はどうなのだろう。
田県神社祭神 玉姫命玉姫命は爾波縣君祖大荒田の娘とある。
以下略・・

※式内社 大県神社を信仰宗主とする丹羽氏であり式内社 前利神社もその系列と考えられるが・・
※玉姫命玉姫命は爾波縣君祖大荒田の娘

大縣神社(大県神社)を勉強しました(..)
まずはウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B8%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE
大縣神社(おおあがたじんじゃ)は、愛知県犬山市にある神社である。旧社格は、式内社(名神大)・尾張国二の宮・旧国幣中社・別表神社。
社伝によれば「垂仁天皇27年(紀元前3年)に、本宮山の山頂から現在地に移転した」とある。
祭神は、大縣大神(おおあがたのおおかみ)としている。大縣大神は、国狭槌尊とする説、天津彦根命(大縣主の祖神)とする説、少彦名命とする説、大荒田命(日本武尊の三世孫で迩波縣君の祖)とする説、武恵賀前命(神八井耳命の孫)とする説などがあり、はっきりしない。いずれにしても、「大縣大神は、尾張国開拓の祖神である」とされている。 境内には、いくつかの境内社がある。かつては別宮二社、末社52社があったとされる。その中の一つの摂社の姫の宮には、玉姫命が祀られている(倉稲魂神とする説もある)。ここは古来より安産・子授など女性の守護神として崇敬されており、女陰をかたどった石などが奉納されている。これは小牧市田縣神社の男根に対応するものである。本宮山の山頂には、大縣大神の荒魂を祀る本宮社がある。
また同神社は、愛知県で二番目に大きい前方後円墳である茶臼山古墳(青塚古墳)も管理している。付近には、円墳などの古墳群が点在する。

あの・・決してふざけている訳ではないので誤解しないで下さい(..)
※姫の宮には、玉姫命が祀られている(倉稲魂神とする説もある)。ここは古来より安産・子授など女性の守護神として崇敬されており、女陰をかたどった石などが奉納されている。
姫石 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B8%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE#/media/File:%C5%8Cagata-jinja_Himeishi.jpg

そこで気が付いたのです!!
旧新堀家のお堂が残る深松家のおじさんの言葉を!
「ここはお産の神様と聞いているよ」
旧新堀家のお堂には、近くに明治初期まで鎮座であった「稲積妙見」の御神像の内、数体の御神像が残されていると思っていたので、「お産の神様」と聞いてその時は「何故?」と考えていたのですが・・(コメントにも書いていませんでした(..)反省)
大縣神社の記述を読んで、「もしや?!」と気が付いた事があります。
お堂にお祀りの不思議な形の石の御神像です。
御神像をネットにアップして大丈夫かな・・とは思ったのですが、父に話すと「きっと、お前が調べてくれて、御先祖様はお喜びになるよ(^'^)」と言ってくれたので、写真をブログにアップ致しました。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12173888002.html

右側の「中央に穴が開いた」御神像です。
よく見て頂くと、穴の上に女神様のお顔が見えます。言いかえると女神様のお身体の中央に穴が開いているようです。

こちらの御神像が元々稲積妙見(稲積神社)にお祀りされていたかどうか?は今は何も解りませんが、稲積妙見(稲積神社)の当時近くにあった家と言えば・・うちの「宮原家」と「新堀家」と祖母の実家の「平川家」とお隣の「平川家」です。
ブログにお写真をアップした旧新堀家のお堂にお祀りの「御神像」は、「お産の神様」・「女性を守って下さる女神様」ではなかったのでしょうか・・?
皆様、お姿をご覧になってどう思われますか?
私の勘違いでしょうか・・(..)

さらに・・
大縣神社(大県神社)を勉強しました(..)
大縣神社 公式サイト より  大縣神社について
http://ooagata.urdr.weblife.me/pg149.html

姫之宮
摂社 姫之宮は、御祭神の神裔 玉比売命(たまひめのみこと)を祀り、古来より女性の守護神として称えられ、安産・子授け・婦人病 特に縁結びの神様として篤い信仰があります。
本殿裏手には、良縁成就のむすひ池があります。

むすひ池
このむすひ池は、願い事を良き縁に導くようにご祈念いただく清らかな池です。
「むすひ」とは、人と人とを結ぶ意味だけではなく、天地・万物を生み出す霊的な意味があります。
神話の時代より私たち日本人は、自然を始め全てのものに神の存在をみいだす価値観があり、目に見えないものにも心配りをし、自然の驚異にも畏敬の念を懐き常に自然を崇め共存してまいりました。日本最古の書物「古事記」の冒頭は、「天地の初発の時、高天原に生りませる神の名は、天之御中主、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。此の三柱の神は、並独神成り坐して、身を隠したまひき」と云う文章から始まっております。この天地開闢の最初に成った三柱の神は、造化三神と称えられ、世界(宇宙)の全ての源である むすひ(むすび)の神様です。

※ちなみに「稲積妙見」(稲積神社)は妙見様ですが、ただ、球磨郡誌(昭和15年発行)の493ページに岡原霧島神社の記述では以下の通り書かれています。
稲積神社の御祭神について 球磨郡誌より
※同村馬場田鎮座稲積神社祭神 天之御中主神 右五神を前と同時に本社に合併した。
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
「右五神」とは別天津神(ことあまつかみ)でした。

続けて
大縣神社 公式サイト より
大国恵比須神社
出雲の大国主神・事代主神を祀る。世に大国様・恵比須様として親しまれ、古くから福の神・縁結の神・農耕の神・医薬の神などの祖神として、又恵比須様は商売繁昌・学問の守護神として尊崇されています。正月3日の初ゑびす祭は、県下三大ゑびすの一つに数えられております。

※出雲の大国主神・事代主神を祀る。

祖母の実家の「平川家」の氏神様をお祀りのお堂(正確には神殿)
先日、コメントしたように「大黒天様」・・「大国主神」様をお祀りさせて頂いています。

大縣神社を勉強させて頂いた結果・・
最近の「集落の調査結果」と偶然にしては、あまりにも「共通点」が多い事に驚いています。
しかし・・偶然かもしれませんので、早とちりはいけませんね(..)

所で
A良峰姓より「橘姓」に改姓した「為通」(良峰氏系図より)の父は”伊予介”だった。
B三浦氏と良峰氏(丹羽氏)・・不思議な共通点

もしかしたら・・とこれはあくまでも「もしかしたら・・」の話ですが
「三浦氏」と「良峰氏(丹羽氏)である平河氏」は、想像するより、かなり以前から、何らかの繋がりがあったのでは・・と考える”ある事”に気が付きました。
明日にでもコメントさせて頂きます。

最後に・・
ブログにアップの平河氏系図 Cに見える 惟重(妻犬童伝兵衛の娘)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

上記の犬童伝兵衛に繋がる「犬童氏系図」を見たのですが・・
犬童伝兵衛の母は・・「伊作氏の娘」でした・・ビックリしています。
ちなみに上記の「犬童家」と家の縁戚となる「犬童家」は「共通の親戚」でしっかりと繋がっています(..)

日本の苗字七千傑様の【桓武平氏良文流】姓氏類別大観 を拝見すると
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01116.htm
「伊作氏」は三浦氏と同族ですね。

では。
[13]白石さんからのコメント(2016年06月25日 01時50分13秒 ) パスワード

こんばんわ
みやちゃんも ここのブログをはじめから読んでいましたか?
私も 高岡(高岳・高丘)が秦氏 から 秦氏に関して確か書いてあったと思って 読んでいました。
このことは 平川家とは 関係ありませんが・・・
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
佐原のことばがある 次のものを 見つけました。大友能直もいます。

2001年09月07日 21時30分51秒  パスワード
 お名前:服部 明子

平 貞能
※この人は 平川集落にある 阿蘇神社再興の棟札にある 平貞尚にかんけいしているひとではないか?と私が思っている人です。
平河阿蘇神社は同地の氏神です。
上村綱吉の鎮魂碑があります。


コメントの種類 :人物  パスワード
源三どのの「源氏方武将:波多野氏・大友氏」のスレッドより独立させました。


平貞能の四人の娘の一人が波多野(大友)四郎経家の養女になり、
このひとが大友能直の母の記述が・・・。


貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。
貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、
後に頼朝卿が鎌倉に召して、
一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。
これが真野五郎胤連の母である。
一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。
これは小三郎盛季の母である。
一人を安芸国羽山介宗頼に下された。
そして一人を大友四郎経家に下された。

これは豊前守大友能直の母である。

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平貞能の四人の娘の一人が波多野(大友)四郎経家の養女

☆貞能の子、大橋太郎貞経
☆貞能が尾張で成した四人の女子
彼らはきょうだい

一人を三浦の「佐原太郎平景連」に下された。
これが真野五郎胤連の母である。

一人を「佐々木三郎兵衛西念」に下された。
これは小三郎盛季の母である。

一人を安芸国羽山介「宗頼」に下された。

そして一人を大友四郎経家に下された。
これは豊前守「大友能直の母」である


女つながりですね。
[14]白石さんからのコメント(2016年06月25日 03時49分37秒 ) パスワード

平貞能・・・・・・・貞尚と仮定して
貞尚は 四浦平川阿蘇神社再興棟札にある人(1515年)

相良村誌p177より
康永4年(1345)11月24日の関出羽守嶺吉田村年貢濫妨事書(相119)によると 平河惣領「平川弥三郎(頼貞)」の一族に 馬関田庄請所「平河宮内左衛門入道観覚」「平河又三郎頼里」が 見える。

「平河又三郎頼里」は 「平河子三郎師頼」とともに 人吉庄一分地頭(相良125・160)であり 師頼は 永吉庄目良生村地頭で「目良生師頼」とも名乗っている。

感応の繚乱後 作成された相良定頼 併一族等 所領注文 (相161)の中に
永吉庄地頭で惣領の 「平河左近充」 が 見える。

文和二年 (1353)11月 平河惣領の平河小三郎貞継の弟 定家・貞世兄弟は筑前・豊前・大宰府を転戦し 貞世が討ち死にした。

永和三年 (1377)10月 南九州4か国の61人が 神水契状に参加 した。この中では 球磨郡が最も多く 「平河兵庫充師門」の名も見える。この人物は永吉庄地頭の平河氏にも見えない。

このことから 人吉庄の平河一族である可能性がある。

以上少し長いですが 相良村誌から写しました。




[15]白石さんからのコメント(2016年06月25日 04時45分47秒 ) パスワード

>三浦の「佐原太郎平景連」に下された。
これが真野五郎胤連の母である。

真野氏
樹童氏のいうひとつの真野氏

、近江の真野氏についても見ておきたい。

 真野臣は「孝昭天皇後裔と称する「和邇氏族」の出」であって、『新撰姓氏録』には右京皇別下に真野臣をあげて、「天足彦国押人命の三世孫、彦国葺命の後也」であり、韓地から帰来した和珥部鳥らが近江国志賀郡真野村(現大津市北部の真野)に住んで庚午年に真野臣の姓を負うとある。この後裔は史料にほとんど現れないが、当地に続いていたとみられる。

また「
1) 東大史料編纂所蔵の『幕府諸家系譜』第二九冊に
「平姓という真野氏」
の系図が見えており、鎮守府将軍平良兼の第十三代として真野豊後守をあげ、その二男が真野孫三郎重政であって近江人と記し、その子の新太郎重則は近江に生まれて鷹匠として大神君家康に召し出されたとして、その子の九兵衛重吉以下子孫の系譜を記載する。

ところが、『姓氏家系大辞典』では『寛政譜』などにより、

この家は、「三浦佐原義連の三代真野五郎胤連の後」
であって、「金右衛門重政(尾張富塚の人、仕信長)−同重吉(元亀二卒)−同重家(寛政に孫三郎重政、仕家康)−惣右衛門重則(近江二百四十石)」と記載する。この辺にも、尾張と近江に大きな混乱が見られるが、解明が困難である。

なお、真野金右衛門重宗(重家同人か)の養子に女系親族の庄九郎重勝(正勝)もおり、もと野尻氏を称していたが、真野氏を名乗り秀吉・家康に仕えて鷹匠頭をつとめた。

鷹匠
五木は全国でも有名な クマタカ の 産地でも あったようですね。



[16]白石さんからのコメント(2016年06月25日 04時56分01秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑より
【春日氏/和邇氏】
 孝昭天皇皇子天足彦国押人命の裔、大和国添上郡和邇を本拠とするが、後に同郡春日に移り春日氏を称する。
 上古屈指の名族で

歴代后妃を出した家柄であり、万葉歌人として有名な柿本人麻呂、山上憶良も同族である。

 春日氏宗族は後世衰微するが、

支族の小野氏は多くの分流を輩出する。(詳細は小野氏を参照)
石上神宮祠官布留氏や富士浅間神社社家和邇部氏は後裔である。



[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月25日 11時18分05秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

白石様、沢山の御教示ありがとうございます。

〉みやちゃんも ここのブログをはじめから読んでいましたか?

私が拝読させて頂いていたのは
三つ柏服部様と空の青海のあを様が御研究の「長上郡の服部氏族LXX(16年の課題確認12)」です(^'^)
事実証談物語様と酒井様の御投稿も大変興味深く読ませて頂いていました。
とても勉強になりました。
こちらのスレッドで書かせて頂いて申し訳ありませんが、静岡県いえ「遠江国・駿河国・伊豆国」と私の調査は必ず繋がっていると私は確信しています。

白石様の御教示にある「平貞能」の伝承。
私もかなり以前にこちらのスレッドでコメントさせて頂いていました。
確かに「肥後守平貞能」の妻は尾張の原大夫高春(良峰氏)の娘。
大橋家伝 http://nanteo.s14.xrea.com/nami/nami021.html
上記によれば
※肥後守平貞能は尾張国の原大夫高春が匿っていた。
※貞能を尾張で匿っていた原大夫高春は千葉上総介広常の外甥であり薩摩守平忠度の外舅である・・。

日本の苗字七千傑様の【良峰氏】姓氏類別大観 から《良峰姓原氏/長塩氏》姓氏類別大観を拝見していくと”しっかりと解る事”があります!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm#001
「良峰氏」「三浦氏」「上総氏」「平貞能」は縁戚関係にあります!!

私の推測で申し訳ありませんが・・
大橋家伝にある「貞能が尾張で儲けた四人の女子」
※三浦の佐原太郎平景連に嫁がせた。真野五郎胤連の母である。
※一人を佐々木三郎兵衛西念に嫁がせた。小三郎盛季の母である。
※一人を安芸国の羽山介宗頼に嫁がせた。
※一人を大友四郎太郎経家に嫁がせた。豊前守能真の母である。
上記はもしかしたら「平貞能」を介した(と言うか名を借りた)「良峰氏(実は丹羽氏)」の縁戚関係を暗示しているのでは・・??

所で白石様の御教示コメント14にあった
〉感応の繚乱後 作成された相良定頼 併一族等 所領注文 (相161)の中に永吉庄地頭で惣領の 「平河左近充」 が 見える。

「平河左近充」とは少弐頼尚です。
ブログにアップしていた「相良定頼并一族等所領注文」を限定公開から一般公開に切り替えました。
色々悩んだのですが、やはり皆様にもぜひご覧頂きたいとの考えからです。
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12099386694.html

画像@に記されています。
肥後国球磨郡永吉庄半分・・平河左近充頼尚跡
画像Cに記されている
平河又三郎分 日向国真幸院引田・・頼尚跡
日向国真幸院は少弐頼尚の領地跡です。(以前コメントしていました)

上記以前、鎌倉時代後期、永吉庄の預所も少弐氏。

武藤氏・少弐氏に繋がる日本の苗字七千傑様の 【藤原氏秀郷流】《近藤氏》姓氏類別大観を拝見すると解るのですが・・
近藤氏は「島田姓」を名乗っています。

偶然か・・丹羽氏は・・島田姓より、のちに「丹羽氏」へと改姓
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01222a.htm

偶然とは・・内心・・思ってはいません・・

では(..)
[18]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月25日 17時56分10秒 ) パスワード

皆様、マタマタの登場です(^'^)

(ー_ー)!!と笑っている場合ではありません(ー_ー)!!
昨日のコメントの続きを書く為に、もう少し丹羽氏について勉強しようと、ネットを色々見ていたら・・
ビックリ\(゜ロ\)(/ロ゜)/の情報を見つけてしまいました。
と言う事で・・今回はその”ビックリ!”の情報を御紹介させて頂きます(..)

サイト
丹羽の二派・岩崎の丹羽右近/児玉の丹羽長秀 (下) こちらに気になる情報が記載されていました。
http://www.gokuh.jp/ghp/keifu/keifu_02.htm
中略・・
『尾張郡書系図部集(下)』には、もうひとつ、丹羽氏の祖を紹介している。
建仁元年(1201)八月、梶原平次景高子息豊丸(梶原平九郎景親)を奉じて、尾州丹羽郡羽黒村へ来往した七人の従士の中に、丹羽(弥右衛門)家兼の名が見えている(「山姥物語実記」)
「山姥物語実記」を未だ調べていないので詳細がわかりませんが…、
梶原景高といえば、鎌倉幕府の有力な御家人で後、追われ討たれた梶原景時の次男である。
豊丸とあるからには幼少であった為、尾張国丹羽郡に落ち延びたという事か・・
以下略・・

何だか!「梶原平次景高子息豊丸」「丹羽(弥右衛門)家兼」こっこれは!!

(p_-)『尾張郡書系図部集(下)』を調べました。
リンク出来なければすみません(..)
https://books.google.co.jp/books?id=E493GGnhcq4C&pg=PT101&lpg=PT101&dq=%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E3%80%80%E5%AE%B6%E5%85%BC&source=bl&ots=XMtjVHtC_d&sig=SfvvGRlyYRyP8BAcapZXpPOQ46k&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjJhovh2cLNAhXLJ5QKHa5dCRAQ6AEIOTAE#v=onepage&q=%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E3%80%80%E5%AE%B6%E5%85%BC&f=false

確かに!サイト「丹羽の二派・岩崎の丹羽右近/児玉の丹羽長秀 (下)」こちらに記述と同様の内容が書かれています!
梶原平次景高子息豊丸(梶原平九郎景親)を奉じて・・
梶原景高子息豊丸(梶原平九郎景親)・・梶原景高の子息・・えええええええええっ!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/

こっこの方は!!宮原の一族の先祖である橘公業の妻と兄妹(姉弟?)ではありませんか!!
橘公業の妻は梶原景高の娘。肥後国久米郷を譲り受けた「橘公員」の母であります!!
鳥肌がビーーーーーーーッと身体中に出る程、ビックリしました。

さらに、ネットで調べたのですが、ナントこちら「平家物語を熱く語る」内の過去のスレッドにお調べの方がいらっしゃいました!
梶原七家臣と山姥物語
http://hikoshima.com/bbs/heike/100315.html
勝手ながら転記させて頂きます(..)

山姥物語は源頼朝の功臣梶原平三景時一族が正治2年(1200)正月20日駿州清見関で討死後、相州寒川の梶原屋敷にあった景時次男平次景高の遺児豊丸君のちの梶原景親公を守護して尾州丹羽郡羽黒村に落ちのびた景時家臣福富万蔵国秀ら七家臣にまつわる物語である。七家臣とは福富万蔵国秀、福住治部定清、吉野兵衛忠明、丹羽彌右衛門家兼、斎木外記貞住、寺澤右門充重、田山地右京綱原である。七家臣の血脈は尾北の地に継ぎ、この地の豪族として枝葉を張っている。

梶原七家臣の中に「丹羽彌右衛門家兼」と言う方のお名前が。
(?_?)「丹羽(弥右衛門)家兼」この方どなたなのだろう??

しかし!スレッド「梶原七家臣と山姥物語」を拝見して解りました!
川口 信様からのコメント より(..)
梶原景時は平忠盛につかえ、忠盛は尾張守を受領した(1144年)。景時は目代として尾張国府に下向し、この時以来、小弓荘や稲木荘とは関係があったとされている。源頼朝の家臣となってからは、景時の受領国は、播磨・美作の両国であるが、一族の所領地は九州はじめ全国各地に点在しており、尾張では篠木庄が、次男平次景高、内海野間の庄が同じく景高妻室(野三刑部丞成綱女)の所領地で尼御前(北条政子)の寵愛深かったので梶原一族滅亡後もこの地は安泰であったとされている。 

※梶原景時は平忠盛につかえ・・
今朝、コメントしたばかりでした!
平忠盛の子息「薩摩守平忠度」の母は「原高成(良峰氏)」の娘。「原高春」とは兄妹(姉弟?)になります。

※景時は目代として尾張国府に下向し、この時以来、小弓荘や稲木荘とは関係があったとされている。
\(◎o◎)/!しっ知らなかった・・・
小弓荘については、今日、コメントしよう(^O^)/と思っていた所でした・・

と言う事は・・
宮原の一族の先祖「橘公業」の妻であり、球磨郡久米郷を譲られた「橘公員」の母方である「梶原氏」は尾張の国の「丹羽氏」と縁のふか〜い地域と「関係があったとされている。」となる訳ですね・・
さらに
梶原景高の遺児豊丸君のちの梶原景親公を守護して尾州丹羽郡羽黒村に落ちのびた景時家臣「梶原七家臣」の中に「丹羽彌右衛門家兼」

もう私は偶然とは思いませんよ(ー_ー)!!

椋橋氏が「良峰氏から橘氏へと改姓した経緯」も「伊予介」となり伊予に赴任していた事が関係しているのでは?と「疑い(p_-)」を以っていた所ですから・・(p_-)

何だか・・みんな・・やっぱり・・繋がっているようです(p_-)

では(-.-)
[19]白石さんからのコメント(2016年06月26日 01時01分27秒 ) パスワード

みやちゃん こんばんは
>宮原先祖 橘公業の妻は梶原景高の娘。肥後国久米郷を譲り受けた「橘公員」の母

子息・豊丸(梶原平九郎景親)を奉じて来た7人の中に 丹羽(弥右衛門)家兼の名が見えている(「山姥物語実記」)
―――――――――――――――――
丹羽氏 平川 とは 直接つながりませんが

前にうちの「佐田」の菩提寺の住職が 「香川氏」で 
香川氏とは 鎌倉氏から出ている と しらべたことがあります。一般論ですが・・・
お寺様からは 防州最古の真宗寺院で 佐田はその 檀家筆頭だと 教えてもらいました。
―――――――――――――――――――
景親に関して ウィキより
平良文の末裔である「鎌倉景政」の流れを汲む大庭氏の一族(景親は景政の曾孫にあたる)。

景久のひ孫 景時の時に 大いに 栄えた。
梶原景時は平忠盛につかえ・・
――――――――――――――――――――
前に 丹後の方で 「大庭の宮」 というのがあり ウィキで見たら 
神魂神社(大庭の大宮) - じゃらんnet

神魂神社(大庭の大宮)は
「天穂日命」の創建
で,出雲国造家の斎場として栄えた。乱れ積の石段上の本殿は現存する大社造りの社殿のうちでは最も古く国宝。
とあり「
「さだびこ」 は 天孫ににぎ」を 先導した人です。
「佐太大神」「
は『出雲国風土記』に登場し、「神魂命」 の子の「枳佐加比売命」を母とし、加賀の潜戸で生まれたという。金の羽羽矢伝承を持ち にぎはやひの持ち物・天羽羽矢を見て「神武天皇」が  同族と認めたということから 彼らは 
皆 同族で 先に来たか 後からきたかのことだけでしょう。

金 では 神武東還の時 飛び来った 「金のとび」も ありますね。 

[20]白石さんからのコメント(2016年06月26日 01時25分02秒 ) パスワード

>橘公業の妻は梶原景時女子 
   女子ときょうだい・・、景季(長男)・景茂(三男)
  
梶原氏 - Wikipedia
梶原氏(かじわらし)は、日本の氏族。坂東八平氏の一つで「鎌倉氏の一族」が著名である。 ... 本姓 桓武平氏 良文流鎌倉氏支流 家祖 梶原景久―

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
梶原 景高
(1165年) -(1200年2月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府御家人・

「梶原景時」の次男。通称は平次。

★ 妻は「小野成綱」の娘。

ーーーーーーーーーーー

前に 集落に 「小野」 という字があると書きました。
ーーーーーーーーーーーー


小野妹子の子孫たち その2:小野妹子の子孫たち

小野妹子の子孫が横山など二十数の在名(ざいみょう)を名乗り、・・・

小野氏は、横山・大串・猪俣・岡部・中条(ちゅうじょう)など、
住んでいた地名を在名(ざいみょう)にした子孫が大勢いました。

小野成綱
源頼朝より阿波(あわ)(徳島県)「麻殖保」(おえほ)の地頭に任じられる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
小野氏は 7000傑様サイトより 
孝昭天皇子孫でしたね。


[21]白石さんからのコメント(2016年06月27日 14時49分51秒 ) パスワード

こんにちわ
徐福と書いて この人は 孝霊天皇のころの人と 宮下文書にある というので 気になりますのと 

都利という人は 弓月君の系にあるというので こちらは サダのようで これも 気になります。

神八井耳命は ずっと前の人ですものね。

本によっては 神武の系は 饒速日の 系につないだもの と 書くのもありました。

古いころのことは どうも 霧のかなたの ようです。

ーーーーーーーーーーーーーーー
ネットから 徐福に関して みてみました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
徐福伝説 - //邪馬台国大研究//より
倭を解く鍵 徐福 資料集
などから
ーーーーーーーーーーーーーー
徐氏家譜
徐姓の起源は夏朝の伯益まで遡る。伯益は、東夷族の首領で瀛$姓である。
「史記」、軒轅(黄帝)の第二子、昌意。その子、高陽(せんぎょく帝)。
徐氏は首領、端$玉$せんぎょく高陽氏の後裔である。

彼の先祖は夏王朝の初期に「徐」に封じられた王で、子孫は代々長江(揚子江)、准河(わいが)、泗水(しすい)、済
水(せいすい)の流域一帯に栄えたと言う。つまり「徐福」は中国屈指の名門徐王の末裔という事になる。

徐氏は、高陽から始まる。皋陶は、伯益を生み伯益は若木を生む。後に夏は、若木を徐に封じた。偃王32世に至たって国滅ぶ。周はその子を封じて子宗とする。その11代孫の章禹は呉に滅ぼされ、子孫は国名を氏とする。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「宮下文書」、

徐福は軒轅(黄帝)から出た。軒轅氏の第四子、忠顕氏の六世孫の万正氏は、夏の禹に従え代々、夏王朝に仕えたが、夏滅亡後、仕えることを止めた。万正氏の48世孫、正勝(子宗)は文学に優れ、周の武王(發)に仕え徐姓を得て、楚国に封じられた。その17世の子孫は殺された。その弟は、失地回復する一方で、遺子と母は、深山の大洞にかくれ、農夫となった。その九代の孫が孔子の十哲の一人、子路である。以後、代々儒学を修め、その八代孫が徐福であ

※文中に「子」が 出てくるのが 気になります。殷は 子」姓だというし、前に イシュタルの足のことで 院の子孫という人の足も 同じだったから・・・

殷の遺跡から出る 青銅器は 西の方の文明の影響があると 辞典にありました。

殷の「キジャ」が 周武によって 朝鮮に封じられた人ですね。

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徐福は斉の王建10(BC255)年、斉国の瑯邪#ろうやに生まれた。別名、徐市じょふつ。別名徐市。

草坪徐氏の原籍は、東海郡である。
※ 徐は、草坪徐氏の第一世代とする。
伯益を生み伯益は若木を生む。後に夏は、若木を徐に封じた。偃王32世に至たって国滅ぶ。周はその子を封じて子宗とする。その11代孫の章禹は呉に滅ぼされ、子孫は国名を氏とする。
正氏48世孫の正勝(子宗)、周の武王(發)に仕え徐姓を得る。
正勝の17世の子孫は殺されたが、弟により失地回復する。
正勝の遺子、農夫となる。
その九代孫が孔子の十哲の一人、子路である。
秦の方士、徐市は草坪徐氏の祖先である。

そして 秦の始皇帝の時 当時の中国の最高の文化水準を誇っていた 斉の方士
として 始皇帝から 善男善女3000人余りとさまざまなものをさずけられ 蓬莱山の不老不死の先約を探しに大会に船出し 

二度ともどらなかった。子孫は 始皇帝をおそれ 徐の姓を韋ウエイ、王ワン、劉リウなどに変えたので、徐福村には徐の姓をもつ者はいなくなった。

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「徐福伝承」
徐福の一団が済州島を訪れたとき、高こう、粱りゃん、夫ぶという三人の男が島に残った。それぞれ日本から妻を迎えて島を開いた。

※ 「高麗史〜地理誌」、「瀛州誌」、「南左#録」、「耽羅誌」、「耽羅紀年」、

済州島は、耽羅、瀛州ヨンジュえいしゅうと呼ばれた。三神人がいて、高乙那こうるな、良乙那やんうるな、夫乙那ふうるなという。三姓という。

「日本書紀〜斉明」斉明7(661)年、耽羅、始めて王子、阿波伎等を遣わして貢を献ずる。



[22]白石さんからのコメント(2016年06月27日 18時14分56秒 ) パスワード

斉のことばが 出てきましたが 
伊勢神宮大中臣氏(荒木田氏)・・・神宮をでられたかも・・・

※内宮の宮司に 辞典に 佐田 が あったのと
南朝 北畠親房は 伊勢神宮で 少しの本を読んで 後村上天皇のために 署を書いたという。

伊勢北畠氏の一族に 佐田がいる。
ことから 
伊勢神宮も みました。

荒木田氏の「阿多羅しい古事記」に
「斉」の王と王子をのせて 青州を発ったこと。
祖先を周としていること。
などが 書いてありました。
ただ
ここも あまのたりしひこ だったか 少し後の世代の人の名が 書かれていました。

荒木田家伝承記の筆者の家は「親魏倭王印」を持っていた。卑弥呼の印。

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斉 は 
舜の子孫の男子と 周武の女子との間の子に始まり
田斉。

荒木田家伝承記の筆者は「伊勢神宮にまつられているのはおおひるめ。この人は 出雲の大国王の子孫で、卑弥呼女王だと伝えられているという。
卑弥呼は 熊襲の女王(吉田氏・大田氏)だった。

★熊襲は 新羅だった。新羅は 台湾 沖縄に目されており 沖縄の祖神は「海部」で、籠神社 伊勢神宮 熱田神宮とつながるのだった。
  熊襲は 新羅王家と同じ姓の 菌 昔 朴 であり、その中の 昔氏が 女王国を僭称した。
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これは 別口で 過去にしらべていたのが 出て来たので

★大宛の話に 「鬼谷先生」が でる。
  秦の始皇帝の頃、大宛で 飢饉があり 鳥がくわえてきた草を死者の顔の上にかぶせると、死者が生き返った。

  始皇帝が「鬼谷先生」に尋ねると、東方の「十州」という国に 不老不死の草があります。と答えた。皇帝は 田斉の方士「徐福」にその草を求めさせた。

★新選姓氏録「山田条」
   周の王子 の 子孫。王姓。魏の司空。鬼谷先生と呼ばれた。

鬼谷は 始皇帝が 儒者を大勢生き埋めにしたところで
また 
あまり 美しく 寵を独り占めしていた 秦 漢のころにあった インドマガダ国の 善財王の后の一人が 宮中を追い出され 鬼谷で出産した。 後 成人した王子をつれて 上人がきて 訳を話し 

公開した王は 三人で 熊野にやってきた。「5本の矢」伝説。
熊野のもう一つの伝説 全財童子の話。

孔子は インドで 仏陀になったとも・・・ 孟子? 老子?

★伝説というのは 何かしら 祖先の記憶を持つもので、同じ伝説は 同じ系統の人のもつものという解釈から、平家が五木に来た時、五本の矢を飛ばし、住むところを定めた。というのも 同じ系統の人のもつものと考えられる。

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魏は 黄帝の子孫といった。魏(梁) 秦 周 殷 燕 晋 北扶余 百済 高句麗 渤海 他 皆 同族としている。
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「北史〜列伝」に 新羅の王は百済から来た。
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※ 鏡は 三種神器の 一つ。又 

  稲荷の社の本体。
 「
日本書紀〜神武天皇即位前紀」                         稲荷の使いは 狐」
   神武天皇の東還に際し、香具山へ赤土を採取に行ったのは、倭氏の祖、椎   根津彦             
   この場所が、現在の丹生川上神社(上社:奈良県吉野郡川上村、       ※ 宇賀弁財天=蛇  荼吉尼天=狐                                                     中社:東吉野村、下社:下上市町)であるという。                           
この両者は眷族が異なっているが,実は伏見稲荷山はも
ともと蛇信仰(龍神信仰)が中心だった。弥生の古代か
                                   ら蛇仰があったわけだが,伏見稲荷山地区に渡来系の
秦氏が 稲荷神を祀り始める前は,紀氏=三輪系,賀茂氏
系の古代氏族の管轄地だった。
丹生川上神社 祭神 高神 配 大山祇神、大雷神                                       

伏見稲荷は サダ 弓月君系ですね。
[23]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年06月28日 12時12分28秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

白石様、沢山の御教示ありがとうございます。

コメント20 白石様より
〉梶原 景高
(1165年) -(1200年2月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府御家人・

「梶原景時」の次男。通称は平次。

★ 妻は「小野成綱」の娘。

梶原 景高の「孫」と呼ばれる方は、「球磨」に関連した「金銅山王十社御正体」にしっかりと名前を残していらっしゃいます。

平川家について28+1 コメント40の中盤に書かせて頂きました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_41.html
「平景俊について」恒松光蔵氏著 より
この懸仏の制作は、三枚共に日吉山王(滋賀県)であろうと思われる。銘文については、ここでは詳細に述べる事は省略するが、三枚共に背面に針書きされた銘文であり、平景俊の名が読まれる事から、全く個人的な奉納で、子々孫々までの領掌知行(支配)を願った願文であると思われる。
次に主要な部分のみ揚げると
『一、 預所院主惣公文 二、子子孫孫之永代為領掌知行也 三、預所●院主惣公文 子子孫孫永代為』
いずれも、鎌倉前期の懸仏であるが、先に述べたように景時一族は正治二年(1200年)北条氏によって、子の景季、景高、景茂等は討たれ滅亡しているが、系図に見られる通り景高は景信、景家(上坂)と続き、景茂の家系は景俊、景綱と続いている。
一、 の建保六年の懸仏の銘に『預所院主惣公文』とあるが、寛喜元年(1229年)の懸仏にも同銘が書かれており、預所院主の意は、平等寺の院主であろうと考えられる。惣公文はこの時代の中央の公文所の事で、惣公文はその頭の意と思われる。

三 懸仏と阿蘇神社
この承久二年の懸仏は、何時頃、誰が、何処へ奉納したかが問題となるが、勿論主人公は平景俊で、その名代と奉納した人物は、豪族須恵氏と思われる。
須恵氏は平景俊の荘官と思われ、阿蘇谷には平等寺もあり、建久八年(1197年)閏六月の『肥後国球磨郡田数領主等目録写』によると、人吉庄六百町歩は蓮華王院領であり、当時、須恵地区を基盤として一武、西村付近まで領有していた豪族である事から、平景俊の名代として須恵村内及び郡内の寺社に奉納するには十分な人物と思われる。
以下省略・・

※「金銅山王十社御正体」に名前を残した「梶原景時」の孫「梶原景俊」は球磨須恵庄阿蘇谷『預所院主惣公文』
※球磨の須恵氏は平景俊の荘官と思われる。
※「梶原景俊」の父梶原景茂は梶原景高と兄弟。

すなわち・・
宮原の一族の先祖である「橘公業の妻(梶原景高の娘)」と、コメント18で書かせて頂いた、弟(もしくは兄)の「豊丸君のちの梶原景親」は、球磨郡須恵庄阿蘇谷『預所院主惣公文』であった「梶原景俊」と”いとこ”であったと言う事です。

数年間の調査で登場した「様々な姓」や上記のような「今に言う”文化財”」は、結局「繋がっている」と言う事ですね。

〉梶原景高の★ 妻は「小野成綱」の娘。

小野氏・・横山党。 横山党には”横瀬氏”あり。平河氏系図にも良峰依高の四男「高実」は「横瀬」を名乗りました。

横山党「横瀬氏」については橘薩摩一族との関係も以前書かせて頂いています。

平川家について31 コメント5 中盤に書いています。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101516_81.html

転記します(..)
★橘薩摩一族と「横瀬氏」について
「橘薩摩氏」系図を見ると
橘公長の子「橘公経 飛騨守」(公業・公忠の兄弟)→ 橘公茂 (橘四郎 渡瀬先祖)
渡瀬氏。日本の苗字七千傑様のサイトで検索させて頂きました。
【清和源氏義重流】《岩松氏/新田氏(義貞以降)/脇屋氏》 新田貞氏 → 《横瀬氏/由良氏》
《横瀬氏/由良氏》姓氏類別大観を拝見すると【渡瀬氏】が見えます。
渡瀬氏と横瀬氏は同族なのですね。
さらにこちらには「長尾氏」も見えます。
系は違いますが【桓武平氏良茂流】「梶原氏」「大庭氏」「長尾氏」は伊予橘氏である「橘薩摩氏」と姻戚関係にありました。
【桓武平氏良茂流】すなわち三浦氏・佐原氏も同族ですね。
【清和源氏義重流】新田氏 → 横瀬氏・由良氏 → 渡瀬氏

(p_-)・・・・・と言うように私は書いていたのでありました・・

横瀬氏・由良氏は ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%80%AC%E6%B0%8F
横瀬氏(よこせし)は、上野国の戦国大名である。戦国時代に由良氏(ゆらし)と改姓した。明治維新以前は由良氏 新田氏も名乗っている。
横瀬氏は、小野篁の流れをくむ小野氏の末裔とされる武蔵七党の横山氏・猪俣氏の一族である。新田荘横瀬郷を本領とし、横瀬氏を称した。岩松氏の重臣であったが、次第に実権を握り主家を圧倒、下克上し金山城主となった。
その先祖は新田義貞の3男・新田義宗の子と伝える[1]貞氏である。貞氏は家臣の横瀬時清の娘婿となり、横瀬氏を称した。ただし室町時代の横瀬氏は小野姓[2]を称しており、新田子孫と自称するのは戦国時代と見られている[3]。

(p_-)・・・・やはり・・何だか・・み〜んな繋がっているような・・

所で、皆様、私、「ある発見」をしました。

「三浦氏」に繋がり、「佐原氏」に繋がり「良峰姓原氏」と縁戚関係にあり、「平忠度」とも縁戚関係となり「工藤左衛門尉祐経の娘」に繋がり、「日蓮上人の直弟子」にも繋がり「下総国葛飾郡平賀村の平賀二郎有国」にも繋がる・・
この系は「犬童氏」ではなく(ー_ー)!!「印東氏」でした!!
詳しくは後ほど(-.-)

要は・・
日本の苗字七千傑様の《良峰姓原氏/長塩氏》姓氏類別大観が「真実の全て」を物語っている!と言う事だと思います。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217.htm#001

では。
[25]白石さんからのコメント(2016年06月28日 19時43分16秒 ) パスワード

>橘公業妻と梶景親と景俊はいとこどおし

梶原景俊」の父梶原景茂は梶原景高と兄弟。


ですね。

四浦小野に観音堂があって 「鎌倉時代」の ものだと 確か 書いてあったと思います。

小さな豆ブックみたいな 村誌でしたが・・・

もうひとつ上の集落の 田山が持つ 「市房神宮」の 岡上とあわせて 昔 固まって入り込んできた人たちが住み着いていたと 思われます。

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小野は 高さは 初神の鍾乳洞より わずかに 高いところ。
小学校があったところは 初神鍾乳洞と同じくらいの高さ。
確か 標高138メートルくらいだったと思います。

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この頃
彦島関係の まったく 別の ホームページで
1万年くらい前には 今より 140センチくらい水位があがっていた

ということが 書いてありました。
初神鍾乳洞には 縄文時代の遺物が露出していたそうです。

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[26]白石さんからのコメント(2016年06月28日 20時05分12秒 ) パスワード

過去ログや ウィキなどより 抜粋

日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年08月04日 22時55分19秒 )
天皇を表わす皇尊(スメラミコト)はシュメール・ミグトの転訛であり
日本への民族移動ルートはシルクロード経由ではなく、バビロニア−ペルシャ湾−ゴア−バハン−海南島−沖縄−鹿児島の海上ルートと推定される。
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コメント6
アケメネス朝ペルシャのゾロアスターが秦氏の期限と考えられる。
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ウィキより
ゾロアスター教は、古代のアーリア人が古くから信仰してきた自然崇拝の宗教を母体としていると考えられ、また、それを体系化していったのがザラスシュトラであると考えられる

ゾロアスター教の葬送は、鳥葬ないし風葬であり、今日ではあまり見られない風習のひとつである

ゾロアスター教では、自分の親、子、兄弟姉妹と交わる最近親婚を「フヴァエトヴァダタ」と呼んで最大の善徳としており、聖典『アヴェスター』のウィーデーウ・ダート(英語版)(除魔の書)などでその教義が説かれる。

ゾロアスター教の影響下にあった古代ペルシャでは、王族、僧侶、一般の人々など階級の区別なく親子・兄弟姉妹間の近親婚が行われていた。

『アヴェスター』は、アケメネス朝時代の古代ペルシア語とは異なる言語(ガーサー語, 古代アヴェスター語)によって、1,200枚の牛の皮に筆録されていたという[8]。

『アヴェスター』は、イスラーム時代にその約4分の3が失われたと伝えられており、教義の詳細や教団組織の全容を解明することはなかなかの難事である[3]。ただし、「ガーサー」に示された「最後の審判」「天国と地獄」などの終末論的世界観が、後期ユダヤ教やキリスト教に影響をあたえたことは確かであり、さらに、死者にとって最後の結界の場である「チンワト橋(英語版)」を教義のなかで設定していることは、仏教における「転生」」思想の形成プロセスを考慮するうえでも非常に示唆に富むできごとといえる[3]。総じて、創造神であり最高の善神であるアフラ・マズダーへの信仰に基づく、究極の善悪二元論としての神義論の思想で首尾一貫している啓典であるといえる。

また、古代メソポタミアや古代エジプト、古代ギリシャの信仰が失われてしまっている今日、ゾロアスター教はヒンドゥー教とともに現存する世界最古の体系的宗教、経典宗教だということができる[8]

イラン高原北東部に生まれたザラスシュトラは、従来インド・イラン語派のなかで信じられてきた信仰に、善と悪との対立を基盤に置いた世界観を提供し、また、きわめて倫理的な性格をもつ宗教に改革したといわれる。

ザラスシュトラ以前のアーリア人(インド・イラン語派)の信仰においても、すでに「三大アフラ」として叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた

ユダヤ教を母体としたキリスト教

ペルシャ高原東部では大乗仏教の伝播にともない弥勒菩薩への信仰と結びつき、マニ教もまたゾロアスター教の影響を強く受けた[注釈 6]。イスラームもまたマニ教と並んで、ユダヤ教やキリスト教を通じてゾロアスター教の影響も受けており、イスラームの啓典『クルアーン』(コーラン)にもゾロアスター教徒の名が登場する。

―西北部に居住するトルコ族の国ウイグル(回鶻、現在の新疆ウイグル自治区)では、マニ教とともにゾロアスター教も広く信仰されたが、11世紀から13世紀にかけての西域はイスラーム化が進行した。
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前にコメントに出て来た 橘嘉智子の 鳥葬 も この影響があったのか?と 思います。

神武天皇の超近親婚も 昔だから 今より文化が低く どこへも行く力がなかったのだろう では なかったのですね。

海をつかったのか ・・・ 海神の女子を 妻にしているので

今 より はるか 行動範囲が広いのですね。
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[27]白石さんからのコメント(2016年06月29日 18時10分45秒 ) パスワード

こんばんわ
血液型は あまり 関係ないかとは 思いますが みてみました。
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地球人類は三種に大別される|真のジャーナリズムがここにあるより
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B型は基本的にウラル=アルタイ語族に多い。

A型はアーリア系に多い。

そして、離島とか奥地のネイティヴには、O型が90%を越えるような純血の人々がいるのです。

ナバホ族などは、1960年代の調査では、O型99%、A型1%です。

また、A型が70%くらいの部族もいたわけですが、

B型はどんなに純血に近い方でも50%いくかどうかくらいです。

3)鷲鼻が特徴のテュルク系騎馬民族。

これは偽ユダヤやメディチ家、ハプスブルク家にも見られる特徴。
[28]白石さんからのコメント(2016年06月30日 09時51分23秒 ) パスワード

101538 投稿日:2016年06月17日 09時36分16秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について34
>
>小野の篁の母 御井氏
周の霊王の子孫
山田氏

鳥トーテムをもつ秦王室とその族裔たち より

日本神話には「御井神」という水利を所管するとみられる神がいる。『書紀』には見えず、『古事記』にのみ見えて、同書では、大国主神と稲羽の八上比売との間の子神とされる「木俣神」の別名と記される。

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この神をまつる神社は結構あって
玄松子の祭神記より
御井神社 奈良県宇陀市榛原檜牧字高取964
御井神社 岐阜県養老郡養老町金屋字村之内237
御井神社 兵庫県養父市大屋町宮本字高尾481
御井神社 兵庫県豊岡市日高町土居字天神228
耳井神社 兵庫県豊岡市宮井字大門215
五百井神社 滋賀県栗東市下戸山20
大井神社 京都府亀岡市大井町並河1−3−25
子檀嶺神社里社 長野県小県郡青木村大字田沢字宮下2378
子檀嶺神社中社 長野県小県郡青木村大字田沢
子檀嶺神社奥社 長野県小県郡青木村大字田沢子檀嶺山頂
駒形大重神社 奈良県御所市大字楢原字石川1662
松方社跡 三重県松阪市垣内田町
津田神社 三重県多気郡多気町井内林159−1
久武神社 境内 木俣祠 島根県出雲市斐川町出西字随心1834
高座結御子神社 境内 御井社 愛知県名古屋市熱田区高蔵町9−9
富士山本宮浅間大社 境内 水屋神社 静岡県富士宮市宮町1−1
和田八幡宮 境内 愛宕神社 島根県浜田市旭町和田字八色山1739
神目神社 石川県鳳珠郡能登町藤波16−150−1−2
須倍神社 外宮
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「五百井」は「いおのい」
五百井神社 滋賀県栗東市下戸山20のよみは いおのい とのこと。
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五百 に 注目すると
母が光仁天皇の皇女・能登内親王。摂津大夫・市原王の子。
(兄弟の五百枝王は延暦4年(785年)の藤原種継の暗殺事件に連座して伊予国に配流)
という人がいます。
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ウィキより
春原 五百枝(はるはら の いおえ、天平宝字4年(760年) - 天長6年12月19日[1](830年1月17日))は、平安時代前期の公卿。当初五百枝王(いおえのおう)を名乗るが、春原朝臣姓を賜与され臣籍降下。志貴皇子の玄孫[2]。摂津大夫・市原王の子。母は能登内親王。官位は正三位・参議。

一度アップします。画面が勝手にきりかわって おかしいのと
先日のコメントを読み返したら 文字がかわっているのと 例・・お鏡→岡上 など。判読してください。

[29]白石さんからのコメント(2016年06月30日 10時18分44秒 ) パスワード

志貴皇子
この方が 現天皇家につながる方ですね。

五百枝王は やしゃご。伊予に配流。

直接 ど真ん中ということではないですが 周りにいた わけですね。


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能登内親王
光仁天皇第一皇女。母は高野新笠。桓武天皇の同母姉にあたる。

高野新笠
光仁天皇の宮人、後に夫人。桓武天皇・早良親王・能登内親王の生母。桓武天皇の即位後、皇太夫人。薨去後に贈皇太后、贈太皇太后。諡号は天高知日之姫尊。


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父は和乙継、母は土師真妹。

和氏は 「贏姓 高丘系図1」に でます。
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土師氏は 菅原氏ですね。
菅原遠祖は 天穂日命 出雲国造家になっていく。

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この 国造家が 大国主をまつる 泉尾大社に関係するひとですが
その はるか 前
4000年くらい前に きて 
出雲大社を自力で建てて 大国主をまつってきた という 
「向家」があり パピルスで書かれた 古文書があると いうことです。
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五百井神社
祭神は次の1柱[1]。
木俣神 - またの名を「御井神」とする。平安時代の作の神像(滋賀県指定有形文化財)が伝世される。

[30]白石さんからのコメント(2016年06月30日 12時04分19秒 ) パスワード

粟東市の五百井神社は

玄松子より
古代豪族 「蘆井造」 の祖を祀った神社と考えられているが
社伝によると、甲斐国大井俣神を勧請したという。

蘆井造 の ルーツは あきらかでないが 神社関係より 御井神に つながると推考される。
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御井神の母について

その六【八上比売の謎vol.1「八上比売の生誕地はここだった .より
..
八上姫の旧居は今の智頭郡用瀬(ちずごおりもちがせ)★宮原 といふ村なり。上古此処に八上ひめ住玉ふなり。其の親の名は安蔵長者(あぞうちょうじゃ)といふとあり。……分かれて今曳田(ひけた)ノ郷に鳥越といふ農家は其末なりと

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前方後円墳
野見宿禰を先祖に持つ、土師氏によって八上姫の前方後円墳は作られた事は歴史的事実であります。(350年〜550年の間の古墳時代です)

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「ここがふるさと」八上姫物語


宮原が 出てきて
父が私の知っている みやはらさんのことを
「ありゃ 菅原ばい」といい
本人に すがわらさんね と 訪ねると うなずいていて
名前が すがこ なので みょうに なっとくしたのを 覚えています。


 

[31]白石さんからのコメント(2016年07月04日 03時58分26秒 ) パスワード

みやちゃん 私の父母以下 みんな B型です。 

10羽ひとからげの話で うらる アルタイ系ですね。
ネットより
朱邪氏始祖伝説
一般的に、トルコ系諸民族の祖先はオオカミだと言われているので、沙陀についてもいわずもがななのでしょうが、朱邪氏には次のような始祖伝説があります(朱邪は朱耶とも書きます)。

太祖武皇(李克用)はもともと朱耶赤心の跡継ぎで沙陀族の人である。その先祖はワシの巣の中に生まれた。族長はその子の生まれが尋常でなかったので、身内の者たちに申し送って育てさせた。そのため、とうとう諸爺を氏にした。一人の父が育てたのではない事を言うのであって、その後なまって諸が朱に、爺が耶になった。(五代史補巻二)

 トルコ族の名を漢字で解説してどうするって気もしますが、先祖から他の人とは異なっていたんだぞ、という所が一番言いたい事かもしれません。その辺の目的は充分に達成しているかも?

いわゆる「捨子伝説」とかとはちょっと違うのかな?
 狼に育てられたロムルスとレムス(ローマ始祖)みたいに…
 山の中である谷に鳥がたくさん飛んでいるのを不思議に思って近づいてみたら2歳くらいの子供がいて、鳥たちが果実をくわえてきて養っていた、。

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沙陀

沙陀の故郷
このぺーじは よん様の テレビドラマでのはなしのようですが

 史敬思(シー・チンツー)のセリフに、「北西から来た沙陀族の出だ」、
ヨン様のセリフに「天山の美酒を客人に振る舞うのだ」というのがありますが、

沙陀が北西の河西回廊(といっても当時は吐蕃領)からやって来たのは、ヨン様の祖父の代。ヨン様の代だと、北東から来たとするのが正しく、酒も天山でなく陰山の酒とした方が良いのではないかと思います。


 ま、沙陀がトルコ族だというイメージを強調した表現なんでしょうね。それなりに史実を下敷きにしてるあたりがこそばいです(笑)。

 沙陀は、蒲類付近の沙陀磧という名の沙漠で遊牧していたためにそう呼ばれるようになったのですが、吐蕃の進出を避けてビシュバリク(北庭)付近に移住し、ウィグルに貢物を納めていたようです。

その後、ウィグルと吐蕃の抗争に巻き込まれて西暦789年頃から吐蕃に仕え、甘州に移動しました(というか移動させられた)。

西暦808年、ウィグルが涼州を占領したために吐蕃は沙陀がウィグルとのよりを戻すのではないかと疑い、甘州から移動させようとします。さんざん吐蕃軍の先鋒を勤め、吐蕃のツェンポ(王)のために働いてきたのに、このようなひどい仕打ちを受けて、沙陀の首領の沙陀尽忠、朱邪執儀らは計らって吐蕃と縁を切り、かつて仕えていた唐にまた仕える事にしたのです(沙陀は、安史の乱の時にも唐の皇帝を助けるために軍隊を派遣しています)。

 ところで、ヨン様や李嗣源はヒョウ皮のお召し物を着ていますよね。
吐蕃では戦争で功績をあげた者に「タクツァル(虎皮の肩掛け)」が勲章として与えられるのですが、どうもトラもヒョウも同じ大型ネコ類なのでどっちでも良かったのか、唐書などには吐蕃の名のある将は虎豹の皮をまとっている、と書かれています。

 で、李嗣源の衣装を見て「うわー、タクツァルだ! 沙陀が以前吐蕃に仕えていたことをふまえているんだ!」と感動してしまいました。……本当はそこまで考証しての衣装かよくわからないのですが、そう思いたいです(笑)。

 さて、沙陀が逃げたと知った吐蕃は追っ手を差し向けます。
「……吐蕃の追討部隊が極めて接近したのでチョウ水から石門まで転戦し、数百回も交戦した。(沙陀)尽忠は死に、兵士や民の半分以上が死んだ。……」と資治通鑑は伝えています。

 朱邪執儀が生き残った部衆を率いて唐の霊州にたどり着いた時には、もともと3万人いたといわれる部衆が2000人、騎兵はわずか700騎になっていました。後からバラバラにたどり着いた者をかき集めても一万人に満たなかったという事です。この朱邪執儀(執宜)こそがヨン様の祖父なのであります。

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唐(陳 玄奘三藏は皇帝の弟)
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さだとっけつは 唐の頃 王室に真珠を売りに行っていた。
唐と親戚。

この 突厥も 鷲鼻。
[32]たいさんからのコメント(2016年12月23日 12時36分04秒 ) パスワード

はじめまして
初めて投稿させていただきます
平河に縁あるものです

このたび12月18日に父が亡くなりまして、ふと自分のルーツをネットで調べていたところにここに辿り着いた次第です

こちらでは人吉市の平川家について語られておりますが、現柳川市の西鉄中島駅付近で出自しております平河家との因果関係があるのかどうかをお話したく投稿した次第です

私の戸籍を通じた調べでは平河家は明治以前より現柳川市に住んでおり、人吉市の平川家とは縁があるのかどうかわかりませんが、平川家を平河と表しているあたりになにかご縁があるのかと思いました

ちなみに、戸籍を調べる限りは当方の系統は戸籍上の始祖からは嫡男の系統のようです
ただし、事情があって現在は柳川市どころか福岡にもおらずに関東に居を移しておりますが、私の父が高校生までは福岡(福岡市内)に居住しておりました

生前に父に聞いても父はそういう歴史に疎く、またその父(私の祖父)とも疎遠になっていたために自分のルーツについてはあまり知らなかったようです
ただし、父の妹は私の祖父と少し話を聞いていたようで、現柳川市のルーツに辿りついたしだいです

私の知るところは少ないですが、お互いに何らかの繋がりや手掛かりがあればと思っております
[33]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年12月24日 10時52分30秒 ) パスワード

たい様。

はじめに
お亡くなりになられましたお父様の御冥福を心からお祈り申し上げます。


私の調査をご覧になられ、コメントを頂きありがとうございました。
たい様は柳川市にルーツを持たれていらっしゃるのですね。

〉平川家を平河と表しているあたりになにかご縁があるのかと思いました

私もそう感じます。
私の祖母の実家の平川家は寛政十年(1798年)までは「平河」を名乗り、その後天保元年(1830年)の記述では「平川」を名乗っている事が分限帳で確認出来ます。

たい様のお話から、柳川に「平河氏」が在していらっしゃったと言う事が解り、大変勉強になりました。
ありがとうございます。

球磨の「平河氏」は良峰氏であります。
日本全国に様々な系の「平川氏」があります。
日本の苗字七千傑様のサイトで確認させて頂くと

宇多源氏佐々木氏⇒合志氏⇒平川氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051c2.htm

宇多源氏佐々木氏⇒六角氏⇒平川氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051a3.htm

三輪氏/大神氏 ⇒ 豊後大神氏 ⇒ 戸次氏庶流 平川氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02106c.htm

百済の近肖古王の後裔 三善氏 ⇒ 町野氏 ⇒ 平川氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03011.htm

桓武平氏頼盛流 八木氏 ⇒ 平川氏
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105.htm#001

柳川の平河氏と上記の「平川氏」との関係は、私は勉強不足でお答えする事が出来ませんが、私の「妙な感」で恐縮ですが、全国の「平河氏(平川氏)」には何らかの「ネットワーク」が存在したのでは・・?と推測しています。

私の調査はこちらの「Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!」様のスレッドをお借りして「平川家について」〜「平川家について36」まで進んでいます。
「Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!」様のスレッド一覧は
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/
でご覧いただけます。

現在「平川家について36」まで進んでいますが、怪我をした後、色々ありまして、しばらくコメントをお休みさせて頂いていました。
中々、球磨の平河氏の謎は簡単には解けない状況ですが、コメントを休む前に「鹿児島」との縁を見つけていました。
今後、徐々に調査を復帰していくつもりです。

たい様
ご自分のルーツが気になると言う事は、きっと、たい様の御先祖様がたい様に「メッセージ」を送っていらして、それをたい様が受け取られている・・
と私は考えるのですが・・(すみません、変な事を書いて、私自身も先祖調査をしていてそのように感じているもので・・)

お父様がお亡くなりになられて、大変お寂しい事と存じます。
寒暖の差が激しい年末となりましたが、どうかお身体ご自愛下さい。

拙いわたくしですが
今後ともよろしくお願い致します。

ミヤハラ
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