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 投稿番号:101518 投稿日:2016年03月18日 03時23分26秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LXIII(16年の課題確認6)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101515_84.html
長上郡の服部氏族LⅫ(2016年の課題確認5)スレッド62の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。
最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月19日 00時20分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 秦氏がユダヤ教の神社をなぜ原始キリスト教に変えて行ったのか……
 どう解釈すればいいのだろうか―

 飛鳥氏の『失われた徐福のユダヤ人 「物部氏」の謎』の中にあるその
答にあたる部分は、難解でよく理解できない。
 同じく『失われた卑弥呼の金印 「親魏倭王」の謎』にも同じようなテ
ーマの部分があり、煎じ詰めた形で答が書かれています。それは―
 「奈良時代以前の神道は一神教であり、ユダヤ教だった。そこへ原始キ
 リスト教が上書きされたのだ。もともと同じ『旧約聖書』を聖典とする
 宗教であり、物部氏も秦氏も、ともにイスラエル人である。瞬く間に全
 国の神社は秦氏によって乗っ取られていった。」
 「秦氏を日本列島に招いた応神天皇自身、そもそも秦氏の血を引いてい
 た可能性がある。応神天皇が八幡大神と習合しているのは、その証拠だ。
 応神天皇の母親である神功皇后の系図を見ると、祖先に「天之日矛」が
 いる。天之日矛は日本に渡来してきた新羅の王子とされるのだが、きわ
 めて神話的要素が強く、実際は秦氏集団の象徴だと学術的には考えられ
 ている。よって、応神天皇は秦氏の大王でもあったのだ。」
 「ユダヤ教は唯一神教だが、その奥義は三神教である。ユダヤ教神秘主
 義カッバーラの奥義「生命の樹」は三本柱から成り、これが絶対三神を
 意味する。カッパーラを人々に公開したのが、イエス・キリストだった。
 ゆえに、直系の弟子であるエルサレム教団のユダヤ人原始キリスト教徒
 たちはカッパーラを理解していた。」
 「絶対神ヤハウェの巫女だった卑弥呼や台与は、秦氏が渡来して来る以
 前にも関わらず、カッパーラを手にしていた可能性がある。絶対三神の
 存在を知っていた可能性があるのだ。」

 結局のところ、徐福、海部氏、物部氏、応神天皇、秦氏がキーパーソン
ということになる。
 では、服部氏はどうなのか―ということを、これから探って行きたいと
思います―
[2]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月19日 09時26分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 最近思う事は、「歴史」を「数学」のように表現できないものだろうかと
いうことです。つまり、書き手によって表現方法がすべて変わってしまうと
いうことに、辟易としているからであります。
 「考古学」の方はどちらかというと「数学的」であります。「歴史学」は、
表現するのに文学的要素がからんでくる。つまりは事実の「点」があるとす
ると、その「点」と「点」をつなぐ文章化作業=「推理」が入ってくるから
であります。この「点」と「推理」の量によって数学的かどうかが決まって
くるのですが、「文献」という「点」に偽りもあるので、よけい間違ったも
のになってしまう。
 科学がどんどん進むのに、歴史学は進まない―おかしな話であります。研
究者の英知を結集すれば必ず「数学のような歴史書」ができるはずだといつ
も思っています。歴史学会は保守的であるということでしょうか……。

 
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月19日 14時24分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


>書き手によって表現方法がすべて変わってしまう


はい
こちらは読むたびに混乱します。



>科学がどんどん進むのに、歴史学は進まない―おかしな話であります。

まず文献派と遺跡(物的証拠)派が対立してますからね。

その前に対立する<A>の立場からの話と<B>からの立場の話の齟齬がありますしね。

人間のことは「みんな違っていい」というのが現代の捉え方ですしね。



歴史は難しいですね。
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月19日 22時03分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いよいよ明日の早朝に出発しますので、書けるのはあさっての夜となりま
す。しばらくoffとなります。

 飛鳥氏の説はあいまいさをできるだけ排除して書くという方針のようで、
それはそれでよりわかり易いということでありますが、ややもすると強引な
結論をだされることがあるので、論理的に困惑することがあります。
 徐福についても、=海部氏(第一次)、物部氏(第二次)という単純化はわか
りやすいのですが、実際はもっと複雑であるはずであります。

 いずれにしても、「海部氏」と「服部氏」と「織姫」の謎をもう少し追及
いたしたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

 明日、出発が早いので、これにて―
 
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月19日 22時27分45秒 ) パスワード

三つ柏さん


お気をつけて〜



>徐福についても、=海部氏(第一次)、物部氏(第二次)という単純化はわかりやすいのですが、
>実際はもっと複雑であるはずであります。

はい。
人間のことは、実際は複雑、と思います。


だいたい、まず、後の世に記録されていたことであったり、違う民族によって記録されていたり、という事では改竄があったのだろうなと思いますし。

でも、大筋ではそんなもんなんだろうな、と。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月21日 10時46分08秒 ) パスワード

下記の情報を頂きました:



小宮神社  三重県伊賀市服部町1158
http://kamnavi.jp/en/mie/omiya.htm
の中で見つけました。



初酉神社(はっとりじんじゃ) 茨城県つくば市漆所 常陸国 筑波郡 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E5%BD%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE

蚕影神社(こかげじんじゃ)は、茨城県つくば市神郡にある神社。
正式表記(旧字体)は蠶影神社。通称は蚕影山(こかげさん)神社[1]。全国にある蚕影神社の総本社。
古名は蚕影山桑林寺、蚕影明神など。近代社格制度に基づく旧社格は村社。

筑波国造が創祀に関わることから、古来筑波山神社とも縁が深い。筑波山神社の御座替祭を構成する祭祀に神衣祭と神幸祭とがあり、いずれも神衣を祭器としているが、蚕影神社は神衣を織るための養蚕、製糸、機織の技術伝来の地として、養蚕の神を祀っている[2]。

[2]について
近隣のつくば市漆所に初酉神社があり、機織部に起源を持つ服部連の祖神、天御鉾命を祀っている。
伝承にはないが服部神社の変化という(現地案内板。つくば市教育委員会)。




:::::::::::::::::

真庭市で勝山藩で西遷御家人の三浦氏の領内で三浦氏の身内の生き残り者が別名で存続している居る地の神社のことです。

江戸期の三浦氏とは遠縁の一族です。



源平戦の直後は「梶原景時」の支配地関連の役所の在ったところです

(諏訪の段と言います)。

後白河天皇の長講堂領(源義経が西国の山寺にいると誤報が流れた山寺ですね。)を受けたようです。



この山の北側山麓の神社です。

神社紋の記述に「一手矢(ひとてや)」と有るようです。





検索した限りでは、甲矢(はや),乙矢(おとや)の一対の矢で、「並び矢紋」と受け取れるのですが・・・・・。

一手矢紋とした言葉や使用例が見当たらないのです。



服部氏族の使用例から分かることは無いでしょうか。





以下は検索した一例です。



以前に調べた *右回りに回転する甲矢(はや)。*左回りに回転する乙矢(おとや)の二本が一組と成ることでした。

矢は2本(甲矢(はや),乙矢(おとや))を一手(ひとて)と呼ぶ。

4本を単位として使用することが一般的である。

世界大百科事典内の【弓道】より



「・ひとてや【一手矢】 一対の矢 」の意味から、「並び矢」しか浮かびません。

家紋の【並び矢紋】のことと思われます。



行き当たったのが、「梶原景時」家紋です。ずばり【並び矢紋】でした。

三浦氏と同じ平氏良文流で三浦半島そのものですね。



 梶原景時家紋

坂東平氏_鎌倉氏流、桓武平氏良文流などに見られる。

代表家紋は:【並び矢紋】



梶原(かじわら): 

坂東平氏_鎌倉氏流、桓武平氏良文流などに見られる。 景時嫡流以外の梶原氏。

神奈川県鎌倉市梶原。三浦半島基部、葛原岡の東に位置する。低丘陵に囲まれた谷あい地。

平安末期には、当地に梶原氏の祖先が居住していたという。【角川日本地名大辞典】




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%AC%9B%E5%A0%82%E9%A0%98
長講堂領(ちょうこうどう-りょう)は、中世荘園公領制下における王家領荘園群の一つ。

長講堂は後白河院の院御所である六条殿(ろくじょうどの)内に建立された持仏堂を起源とする、法華長講弥陀三昧堂(ほっけちょうこうみださんまいどう)の略称で、現在も京都市下京区本塩竈町の六条通沿いに存在している。

後白河天皇の即位時、父の鳥羽法皇が所有していた広大な所領(安楽寿院領)は、既に異母妹の八条院・子内親王に受け継がれており(八条院領)、天皇自身はこれと言った所領を有していなかったが、直後に勃発した保元の乱に勝利し、藤原頼長の没官領を後院領として入手し、これを基軸として荘園の集積を進めていった。

1191年(建久2年)後白河院は莫大な荘園を長講堂に寄進し長講堂領が確立する。翌年、後白河院は死を前に長講堂とその所領を寵姫丹後局所生の宣陽門院覲子内親王に譲り、源通親を別当に任じた。42ヵ国89ヵ所に及ぶ長講堂の膨大な荘園は後白河院の没後も増加を続け、また宣陽門院が後鳥羽院の子である雅成親王を猶子として将来の譲渡を約束したが、承久の乱が起こった際に雅成親王は乱に連座して配流され、長講堂領は鎌倉幕府の管理下に置かれた。


以下略
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月21日 22時28分38秒 ) パスワード

こんな記事がありました:
http://www.news-postseven.com/archives/20160321_394030.html


松尾芭蕉 旅費捻出のため旅先でバイトをしていた
2016.03.21 16:00



 誰もが名前を知っている歴史上の偉人たち。彼らの「カネ」にまつわるエピソードには興味深いものが多い。

 東北・北陸を巡った紀行文『おくの細道』で有名な俳人、松尾芭蕉。旅費を捻出するために旅先のアルバイトで稼いでいたという。


歴史研究家で文教大学付属高等学校教諭の河合敦氏がいう。



「旅の途中に各地の句会で、一句100文(約1200円)で4〜6句程度の添削を行ない、旅費の半額程度を稼いでいたようです」





 また、東日本を代表する豪商の紀伊国屋文左衛門は、城や武家屋敷などの整備が進んだ“建設バブル”ともいえる元禄時代に材木商として50万両(約500億円)もの財をなした。吉原遊郭で豪遊していたエピソードが伝えられている。

 その紀伊国屋を上回るのが、西日本の豪商「淀屋」の五代目である淀屋辰五郎。あまりに財産を持ち過ぎていたがゆえに、その影響力を幕府に恐れられた。

『江戸商人の経営哲学』(にっかん書房刊)の著者で江戸商人研究家の茂木正雄氏の話。

「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余るという理由で屋敷(大阪の心斎橋や御堂筋周辺の敷地約1万坪)、金12万両(約120億円)、銀12万貫(同2000億円)を幕府に没収された。さらに将軍家に貸していた80万両(同800億円)も踏み倒されて没落してしまいました」

 知れば知るほど面白い歴史上の偉人のカネの話。新たな資料の発見によって、今後意外な人物の懐事情が明らかになるかもしれない。

※週刊ポスト2016年3月25日・4月1日号
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月21日 22時39分02秒 ) パスワード

>「旅の途中に各地の句会で、一句100文(約1200円)で4〜6句程度の添削を行ない、旅費の半額程度を稼いでいたようです」

この部分は知らなかったです。


旅費の半額あたり、ということで
決して金銭的に楽な旅ではなかったんだな
と思いました。

意外でした。
[9]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月21日 23時28分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 走行距離往復600キロの旅でした。いろいろ大変なこともありましたが、
とても満足のいく旅でした。今、旅で知り得たこと、体験したこと、合わせて
史料・写真・頭の中を整理しているところであります。
 疲れもありますので、睡眠を取り、頭をスッキリさせた上で書きます―
 
[10]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月22日 06時46分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 名張関係について、書くことは一杯ありますが、それらを総合的にまとめ
る力は今の所ございませんので、総論からでなく各論から入ることにいたし
ます。
 まず、今回の目的ですが、まずは「名張(なばり)」という言葉の響きから
来る眩惑的なイメージを探りたいということ、そしてあを様より聞いていた
名張のいくつかのスポットについての幻想、そして天正伊賀の乱に於ける壮
絶な地獄の戦場の最後の砦への想い、また伊賀全体の土地勘も掌握したいと
いうこと等、かねてより抱いていたことがたくさんあり、それらを実際にこ
の目で確かめること、体感したいということでありました。
 旅日記のように細かなことをクダクダト書くのはこの際できるだけさけ、
単刀直入に、時系列的に、箇条書き的に記して行きたいと思います―

 まずは「花垣神社」について―

 一旦、ここで切ります―
 
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月22日 15時48分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 観光案内書によると、「花垣神社」は「服部半蔵」一族の氏神であると
のことでありました―

 花前川の橋を渡ると真正面に「花垣神社」があった。正面入り口に階段
式石段(ピラミッド型)の上に天守閣をのせたような縦長の灯篭が二基、そ
の奥には朱塗りの鳥居が華々しく建っておりました。ちょうど厳島神社の
赤い鳥居をずっと小さくしたような感じの鳥居でありました。
 鳥居の横には、地元出身の俳聖松尾芭蕉の句碑が建てられていました。
 「一里(ひとさと)は 皆花守(はなもり)の 子孫かや」
と言う句でありました。
 その句意は―
 「ここ花垣の庄は、その昔、奈良の八重桜の咲く頃は花垣を結い、里人
 が宿直(とのい)をして桜の花守ををしたという由緒深いところである。
 今でも、この一里の人たちは皆、花守の子孫であろうか」
ということであると案内板に書かれておりました。
 
 この日は日曜日でありますが、午前中ということと、寒さがぶり返した
ということで神社に人は一人もいませんし、また訪れる人もありませんで
した。訪れたのは私だけ……でも、桜が咲き始めれば多くの人が訪れるだ
ろうなとは思いました。

 本殿のすぐ西隣(歩いて十数歩)に寺殿があり、「花垣山 池辺寺 不動
院」と書かれておりました。
 花垣神社で二礼二拍一拝を捧げ、すぐこの寺殿の前に移動し、服部家の
祖先と天正伊賀の乱等で亡くなった人々の霊に対し、心底よりの祈り―不
動明真言七巻と般若心経二巻を捧げました。

 その時のことですが、般若心経を一心不乱に唱えている時に、人の近づ
く足音と気配を感じ、振り向きましたが、人っ子一人おりませんでした。
 後で神社の回りをぐるっとまわってみましたが、やはり人影は見当たら
ず、私の思い違いかなとも考えましたが、まだ頭はボケておりませんので、
やはり何かの事象が起こったのだと感じております。

 一度、ここで切ります。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月23日 07時29分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


来ましたか!来ましたか!三つ柏さんにも来ましたか!


10歳前あたりの少女ならワタクシの分身でしょうね。
少年〜青年ならワタクシの恋人だった人。

でも普通の大人でしたら、その他の人で、三つ柏さん限定で、会いに来たんでしょうね。
「何しに来たの?」
と言いたかったあたりと思います。


緑色のキンキラ金の派手な狩衣着た感じでしたらワタクシの恋人だった人なので人畜無害です。
彼が言いたかった言葉は「来てくれたんだね」だと思います。

でも他のむくつけきオトコ達だったら分かりません。
黒党系かも。



伊賀はスゴイ所です。
わたくしもいろいろありました。

でも伊賀の乱の時の血生臭い景色は見えていません。
やっぱりソコにはいなかったからかも。



でも良かったではありませんか。
三つ柏さんのお経を
確かに受け取ってくれたのですから
良い慰めになりました。


わたくしの分もありがとうございました。
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月23日 11時58分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 花垣神社についてのコンパクトな案内板があり、そこには花垣歴史研究会
によってこう書かれていました―
 「奈良時代に予野から八重桜を都に献上した縁で、寛弘元年(1004)、奈良
の春日宮を勧請し、地元の池辺宮と共に祭祀してきた。棟札によれば、江戸
時代の寛永二年(1624)、予野出身の藤堂藩・伊賀上野城代家老・初代藤堂采
女によって再建された。拝殿、鐘楼などは藤堂采女の曾孫の「三国地志」の
著者である藤堂元甫などによって再建された。同時に八重桜や蘭若池の藤の
植え替えも行っている。」

 服部一族の氏神という説明書きはどこにも見当たりませんでしたが、藤堂
采女(服部一族)が再建したということをみても、それは間違いないことだと
思いました。
 また、境内には「皇大神宮遥拝所」と刻まれた高さ三メートル位の石柱が
建っており、以前訪れた伊賀市服部町の小宮(おみや)神社にも確かあったこ
とを思い出しました。
 その他には、襖二枚位の「平成の大造営記念碑」が建てられており、平成
十六年に改修が完了し、総工費で約五千万円程かかったということ、寄附し
た人の名前が沢山刻まれておりましたが、その中に服部という苗字が二名だ
けあり、それはいなべ市の服部J子さんと、名古屋市の服部S子さんであり
ました。地元の服部さんは載ってなかったので不思議に思いましたが、服部
という苗字は思う程には多くないのではないのか……服部町でもそうだった
ことを思い出しました。

 神社の東側の奥の方には桜公園があり、桜はまだ咲いていませんでしたが、
いろいろな桜が植えられておりました。中でも三重県指定天然記念物「花垣
のヤエザクラの後継樹」と書かれた看板、及び「史跡名勝天然記念物八重桜」
と刻まれた高さ二メートル位の記念碑が建てられておりました。
 また、西側に建物があり、「花守庵」と書かれておりました。建物の中に
は絵が懸けられており、「花垣の八重桜縁起絵」ということで、王朝絵巻の
ような感じの絵でありました。

 花垣神社の社紋は「下がり藤」でありました。

 以上で花垣神社関係は終わりますが、奈良時代に予野から八重桜が献上され
ていたということで、奈良の都との関係が深かったことがわかりました。

 次は、「千賀地城跡」について記します―

 
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月23日 23時00分06秒 ) パスワード

>花垣神社の社紋は「下がり藤」でありました

意外・・・・

花だから?

でも「花」なら「桜」でしょうにねえ?


う〜ん・・・
貴族の藤原氏がらみで?
[15]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月23日 23時31分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 千賀地城跡は地図にもナビにも出ておらず、ただ花垣神社の近く、予野の
どこかにあるということだけはわかっていました。行けば案内板か何かがあ
るはずだと思っていましたが、ありませんでした。結局地元の人、三人に道
を聞きながら軌道修正してやっと入り口を見つけることができました。
 案内板の類はなく、田舎の幹線道路に直角につながる細い道の入口に、た
だ「千賀地城跡」と刻まれた小さな石柱があるだけで、ここを訪れる観光客
はさぞかし見つけるのに苦労するだろうなと思いました。でも苦労して見付
けた時の嬉しさは何ともいえませんでした……。

 民家の横を通り小山の麓に行きつく。そこから階段を登る。約三十メート
ル位の高さだろうか、ビルでいうと十階建てくらいの階段を登った所に、約
百坪位の開けた場所があった。そこには大きな石碑(石版)と、その奥に三つ
のとんがり岩の墓石のようなものが五メートル間隔位で建っていました。

 奥のとんがり岩の墓石らしきものを、まず確かめに行きました。
 驚いたことに、何と三つの墓石らしきものには、次のように文字が刻まれ
ていました―
 @「服部半蔵 故郷塔」
 A「藤堂采女家 供養塔」
 B「伊賀乱横死者供養塔」
 服部半蔵と言う名前は、具体的には、千賀地から服部に戻した保長(半三)
の子、半蔵正成のことを中心にして言っているのでありましょう。
 藤堂采女家も服部半蔵の一族であるけれども、この場合は初代の采女のこ
とを中心にして言っているのでしょう。
 第二次伊賀の乱は伊賀殲滅作戦で、たくさんの伊賀の人達が無残な殺され
方をしました……。

 そして、それらの三つの石塔の前に鎮座する大きな石碑(石版)―そこには
こう書かれていました―
 「服部半蔵・藤堂采女誕生の地
  服部半蔵は、天文十一年此の堡に生まれ、千賀地氏を稱す。鞍馬権現を
 念じ、十八歳にして遁形の術を得、海内一の忍術者となる。徳川家康に仕
 えて後、江戸半蔵門に住す。文禄四年歿す。享年五十四。
  天正十年、子元則亦此の堡に生る。藤堂高虎に仕え、藤堂采女正を稱す。
 学徳高く、伊賀司城職となり、仁政を施して庶民の敬慕篤し。万治三年、
 七十九歳を以て歿す。」
 この説明書きはいくつか正確ではないところがありました…但し、一般大
衆にはこれでいいのかも知れません。

 ここで、私はこの四つの石塔に向い、般若心経を心底から二巻捧げました。
 半蔵や采女に会えたようで、とても嬉しくなりました。また、伊賀の乱の
 横死者へのささやかではありますが供養もでき、心が軽くなりました。

  帰る時にもう一度この場を振り返り、しばし手を合わせました―

 
 次は赤目四十八滝です―

  



[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月24日 10時38分03秒 ) パスワード

<16>の書き直し


三つ柏さん


>@「服部半蔵 故郷塔」
>A「藤堂采女家 供養塔」
>B「伊賀乱横死者供養塔」

背筋がゾクゾクしました。

@の「半蔵」とは、

「故郷塔」ということで  「所謂、忍者の服部半蔵は、ココが出身地だったんですよ」の意味でしょうね。



>それらの三つの石塔の前に鎮座する大きな石碑(石版)―そこにはこう書かれていました―
>「服部半蔵・藤堂采女誕生の地   服部半蔵は、天文十一年此の堡に生まれ」

生年が天文十一年でしたら家康と同年生まれだったということで
我々の思う半蔵ですよねえ。

ワタクシ的には半蔵は三河生まれかと思ってましたが・・・




情報が分かり難いのは
要するに、いろいろな情報がごっちゃに書かれている感じですね。
記録に残したヒトが分かってない上に、刻印にお金を節約でもしたのかもですね。



藤堂采女元則
http://www.ninja-museum.com/ninja-database/?p=662
上野市西連寺 墓

『寛政重修諸家譜』によると藤堂采女元則は服部半蔵正成とは同族の予野生まれ。

その後紀州土豪保田氏の保護を受け、
藤堂高虎が今治に居た時代より高虎に仕え、
慶安4年(1640)に上野の城代家老を世襲する藤堂采女家を興し七千石を与えられている。

采女家が城代職になり藤堂姓を許されたのは伊賀地侍の名族服部家の出自故、
伊賀地侍達の懐柔の目的であったと云われる。

『伊賀付差出帳』には、元則、元住は伊賀全土の郷士を調べ登録し、鉄砲組や忍び衆等の組を作った。

藤堂采女故郷碑は服部半蔵故郷碑、伊賀乱供養碑と共に予野の千賀地城址にある。





>子元則

このヒトは予野の千賀地の元・保田さんの子ですよねえ。


子孫は通称を代々「采女」を名乗ってたようなので記しておきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E5%85%83%E6%96%BD

藤堂 元施(とうどう もとひろ、天保7年10月23日(1836年12月1日) - 明治11年(1878年)6月26日))

江戸時代末期(幕末)の伊勢津藩の家老で、藤堂元則(采女)に始まる藤堂采女家第9代。

津藩の所領である伊賀上野城代でもある。別名は元施、通称は采女。
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月24日 10時39分57秒 ) パスワード

ということで勝手に移動させて頂きました:




丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月24日 08時52分45秒 )


空の青海のあを様

 本日は筆の会のため、今は記す時間があまりありません。帰ってからゆっ
くり記すことにいたします。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月24日 10時46分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


草書を読めるとか古文書を読めるとかいうのは特技になりますし
非常に尊敬される高尚な趣味ですから
頑張って習ってください。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月24日 21時01分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今年は桜前線の異常が起っています。普通は南から北へ向かって咲いて
行くものなのですが、静岡県は全国でも温かい地方なのに、それを飛び越
えて東京・関東圏で開花ということで、この異常現象がどこに原因がある
のか心配です。このところずっと寒の戻りが続いておりますので、こちら
で桜が咲くにはもう一週間ぐらいかかりそうです。それよりも寒暖の差が
激しいので調子を崩してしまいそうです……。

 さて、赤目四十八滝ですが、以前より一度行ってみたいとずっと思って
おりました。以前は四十八滝や紅葉を見るという観光を考えておりました
が、歴史に目覚めた昨今は、赤目地域の百地三太夫や忍者との関係、天正
伊賀の乱の最後の砦となった柏原城等に興味を抱いておりました。

 千賀地城跡から赤目四十八滝へ向かいました。距離的には二十キロ強あ
りますでしょうか、位置的には、千賀地城跡・花垣神社と赤目四十八滝は、
名張市街を中心として、北―南線上、それぞれ十キロ前後の所に位置して
おります。伊賀の中心街と名張の中心街は、やはり北―南の線上で十六キ
ロ程離れています。従って、伊賀市街から赤目四十八滝まではおよそ二十
六キロ前後はあると思います。

 名張には桔梗が丘という新興地があり、そこのホテルに泊まることにな
っております。
 名張を過ぎて赤目口の手前に「黒田」という交差点がありました。よく
よく考えてみたら、「黒田の悪党」を思い浮かべました。東大寺勢力に反
抗したという地域……。

 赤目口からやや細い道に入って行きました。確かこの辺に柏原城址があ
るはずと思いながら、いつの間にか通り越してしまい、まあ帰りにしよう
と心を切り替え赤目町の奥に入って行きました。滝川という川に沿って奥
深い山に入って行く。着いた所は、赤目滝という所。そこには、「日本サ
ンショウウオセンターがあり、赤目渓谷への入り口となっており、入場料
を納めました。

 ここは国定公園で、正式には「室生赤目青山国定公園」と呼ばれており
ます。あの女人高野と呼ばれる室生寺もそんなに遠くないところにありま
す。青山というのは少し興味を引かれております。探究すれば何か秘密が
出てきそうな雰囲気ではあります。
 
 川沿いの細い道を進んで行くと、銚子滝、行者滝とあり、不動滝の手前
に赤目の由来についての案内看板が出ておりました―
 「赤目の由来は、役の小角(えんのおづぬ)が滝に向って行を修めている
 と、不動明王が赤い目の牛に乗って出現したという伝説から来ています。
  赤目四十八の四十八は、数が多いことを意味します。
  また、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時代、四十八願をたて五却の思惟をこら
 し、修行を成就したことからこの名がつけられたとも言われています。
  滝の名前には、仏名に因んだものがたくさんみられます。これは、赤
 目の自然景観を一大曼荼羅図に見立て、大日如来を中心として千手観音、
 不動明王、吉祥天、役の行者、などが並び、妙法山の阿弥陀如来を配し
 ていることから名付けられたもので、四十八滝を全周することで諸願が
 達成されることに通じると考えられているためです。
  また、ここから約三キロメートル西に今も屋敷が現存する伊賀流忍者
 の祖、百地三太夫が、この地を修行の場として多くの忍者を輩出したこ
 とも伝えられています。
  古来より赤目四十八滝は霊地として修行し、あるいは参拝する滝だっ
 たのです。
  そして、ほど近いこの護摩の窟は、弘法大師が護摩を修したところと
 伝えられ、現在は大師の像を安置しています。」
ということであります。

 そしてさらに奥へ進む。乙女滝、大日滝、千手滝、布引滝、縋(すがり)
藤滝、陰陽滝、そして百畳岩で引き返すことにしました。ここまでで約一
時間の行程。サンショウウオの住む清流のやさしい水、滝の水しぶき、そ
して川の音・滝の音、すがすがしい谷の風、暖かい陽光……今までの人生
の中で、これ以上に癒された所はありません。ましてや、弘法大師にも出
会えるなんて―

 次は、百地三太夫屋敷についてです―

 

 
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月24日 22時33分13秒 ) パスワード

書き直し


三つ柏さん


いろいろ興味深いお話ばかりでした。


桔梗が丘には我が家の古い知り合いが引っ越しています。
引退後はゴルフ三昧。
でも冬は寒いでしょうね。


また「滝川」って
ひょっとすると滝川一益がらみかも。

     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A
        父は近江国甲賀郡の国人・滝川一勝もしくは滝川資清といわれているが、この2人は同一人物説もあり、
        どのような人物であったかは定説を見ない。

        また、兄として高安範勝が挙げられることもあるが、
        一族(父の従兄弟)とする系譜もある。

        また、池田恒興と同族(従兄弟)とされる場合もある。


        更に中村一氏は甲賀二十一家の一つ・滝氏の出身ともいわれ一益の同族とする説もある。

        また、忍者であったという説もあるが、これも明確な根拠があるものではない。


        甲賀出身という説の他に、志摩の国人・九鬼嘉隆が織田信長に仕官する際に一益が仲介したこと、
        婿の滝川雄利は伊勢国司北畠氏の一族木造氏の出身であること、
        長年伊勢攻略を担当し、攻略後も北伊勢に広大な所領を与えられていることなどから、伊勢あるいは志摩出身とされる場合もある。

        なお、諱は一般には「かずます」と読まれるが、
       『寛永諸家系図伝』および『寛政重修諸家譜』に「いちます」とあり、
        「一」を通字とした子孫も本家は代々「いち」と読んでいる(分家では「かず」と読んでいる)。

        このため「いちます」が正しいとする説があるが、当時としては音読みさせることは珍しく、
        読みについても今日まで定説を見ない。

        なお、通称として「彦右衛門」とされることもあるが、これは同姓の別人である[注 1]。


        [注 1]=子には長男の一忠、次男で嫡子となった一時がいる他、辰政・知ト斎、婿養子に滝川雄利がいる。

        他に、一族には滝川益氏・滝川益重がおり、益氏または益重の子とされる前田利益も親族となるが、いずれも続柄は不明である。

        長男の一忠は父と行動を共にしていたが、
        天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに関する蟹江城合戦での不手際を秀吉に責められ、追放処分となる。


              蟹江城の戦いで服部保長の次男保正の長男保成が35歳で討ち死にしてましたね。
              水野勝成の配下だったような?



        以降生涯、仕官せずに暮らしたと伝わる。但し、一忠の孫の滝川一明は後述のように旗本として再興された。



大永5年(1525年)、滝川一勝もしくは滝川資清の子として生まれたが、尾張国の織田信長に仕えるまでの半生は不明である。父が甲賀出身であるとする立場からは近江国の六角氏に仕えていたとされることもある。『寛永諸家系図伝』には「幼年より鉄炮に長す。河州(河内国)にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」とあり[1]、鉄砲の腕前により織田家に仕官したとされる。なお、後年に水戸藩の佐々宗淳から織田長清に送られた書状には、「滝川家はそれなりに由緒ある家だったが、一益は博打を好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せた」と書かれている[2]。

信長に仕えた時期は不明であるが『信長公記』首巻によると、信長が踊りを興行した際、「滝川左近衆」が餓鬼の役を務めたという記述があり[注 2]、また親族とされる慈徳院が、弘治年間(1555年〜1558年)に生まれた織田信忠の乳母であったことから、この頃には信長の家臣であったようである。

永禄3年(1560年)、一益は、北伊勢の桑名は美濃との境であり、患となる可能性があるため、桑名長島の地を得、北畠氏や関氏に対し備えることを信長に進言した。まずは尾張国荷ノ上の土豪で長島城主・服部友貞の資金によって蟹江城を構築し、やがて友貞を放逐して蟹江城主となる。永禄6年(1563年)には松平家康(後に徳川に改姓)との同盟交渉役を担う(清洲同盟)。

永禄10年(1567年)と同11年(1568年)の2度に渡る伊勢攻略の際には攻略の先鋒として活躍しており、源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じ北畠具教の弟・木造具政を調略、具教が大河内城を明け渡した際には津田一安と共に城の受け取りを任され、戦後は安濃津・渋見・木造の三城を守備することを命じられた(大河内城の戦い)。津田一安は天正3年(1575年)頃から北畠氏の軍事行動を先導しており、一益と連携して越前一向一揆討伐や大和宇陀郡の統治を行っている[3]。



以下略
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月24日 22時39分38秒 ) パスワード

さすがに伊勢伊賀のお話になりますと
知ってる地名や人名・家名のオンパレードで
胸に迫るものがございます。


大河内・大河内さんも南朝方でしたから、その関係?と思ったり
いやいや
大河内さんは三河じゃないかと思ったり


きっと調べたら古い古い時代からのお付き合いだったのかしら?
と思ったりして感慨深いものがございます。



>尾張国荷ノ上の土豪で長島城主・服部友貞の資金によって蟹江城を構築し、やがて友貞を放逐して蟹江城主となる

土豪だって!
ホント失礼しちゃう。

ホンヤさんが「うちは土豪」とおっしゃるなら受け入れますが
吉野忠臣11家の1つでもあるし
「豪族」と書いて欲しいものです。


   ホンヤさんは余裕で笑って「土豪ですか」とおっしゃるでしょうけど。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月24日 22時43分08秒 ) パスワード

>青山というのは少し興味を引かれております。
>探究すれば何か秘密が出てきそうな雰囲気ではあります。


はい。

ワタクシの感じとしましては
もともと伊勢伊賀にも関係して
その後
坂東に行ったのでは?と。

南朝方以前から何重にも結ばれた関係のように思います。


百地のお話も楽しみにしております。
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月25日 15時01分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 千賀地師も百地氏も太田亮氏の『新編 姓氏家系辞書』には姓氏として
載っていない。何故なのか……千賀地氏は服部氏に戻したということで、
まずはいいとしても、百地氏はその子孫が現在まで残って生活している―

 百地三太夫の屋敷があるということは、赤目四十滝に近づいた時に、ナ
ビでその文字を発見しました。ナビ上では、道なき山の中にあるような感
じでありました。お土産屋のおばさんに聞いたところ、自動車で行けると
いうことなので、細い道は苦手だけれど行ってみることにしました。
 ナビをたよりに約三キロ位走っただろうか、小さな村落が見え、ナビで
は終着点を示しておりました。

 そこで目に入ったのはお宮でありました。どんなお宮なのかと思って行
ってみる―それは「白山神社」でありました。平安末期に創建されたと由
緒書に記されている。「白山神社」は修験道系で、忍者とは密接な関係が
あるはずで、そこに百地屋敷があるということは、百地一族と修験道との
深い関係が推察されます。

 百地屋敷は神社の建っている小山の中腹の反対側の山の中らしく、立派
な屋根が見えている。
 登り道を少し登ると、その屋敷へ行く道がつながっており、約五十メー
トル位行った奥に、立派な屋根つきの開閉門があり、その奥に大きな瓦屋
根の屋敷の上部が見えた。門の外には農業用の倉庫やら、軽トラック、小
さなユンボ等があり、これは実生活をしている民家であると推察し、勝手
に入って行くのは止めにしました。ここが確かに百地屋敷であるという確
証はないものの、それらしきものがあったということで、まずは満足して
引き返しました(後にインターネットで調べたところ、たしかに百地家で
あり、十九代目として個人的に博物館としても開業しているけれど、予約
が必要とのことでありました)。

 百地三太夫(丹波)の直系の子孫が残っているということで、いつか改め
て予約して訪れてみたいと思っています。

 百地丹波は、第二次天正伊賀の乱の最期の砦―柏原城に籠って抵抗し、
多くの一族と戦死したとも、また根来へ逃れたとも言われています。その
辺のことをしっかりと探究したいと思っております。

 百地屋敷を後にして、百地丹波が戦ったという「柏原城址」へ向かいま
した―
 
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月25日 15時45分53秒 ) パスワード

三つ柏さん

こんな情報がありました:

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%8D%83%E8%B3%80%E5%9C%B0

服部半蔵正成の父 保長が室町幕府に見切りをつけ伊賀に戻り地名から千賀地氏を名乗った。



http://mail.myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%99%BE%E5%9C%B0

【名字】百地

【読み】ももち

【全国順位】 13,581位
【全国人数】 およそ440人

現奈良県である大和国宇陀郡の豪族にして北畠氏の武将。近年、三重県名張市に多数みられる。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月25日 15時51分15秒 ) パスワード

百地家ご当主は現在19代目さんですか。

やはり予約は入れないと失礼ですよね。
生活の場でしょうから。


いつかまた機会があるでしょう。


喰代砦の百地氏
なんかスゴイ。
強そう。



服部友貞が滝川一益の罠にかかって殺されたことは
やっぱり滝川氏も伊賀伊勢あのあたりの忍者に関係があって友貞に油断があったのかなとも思います。
[29]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月26日 02時17分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 百地氏について実によくまとめた記述が、黒井宏光著『煙りの末』の中に
ありますので、記します―
 「百地三太夫は南伊賀の忍者の頭領として知られている。かつて、伊賀の
 豪族といえば、北部は服部氏、南部は大江党が栄えていた。百地氏は大江
 党の一氏族になる。
  大江氏は平安末期から鎌倉期にかけて、名張郡随一の在地領主として勢
 力をふるった。出自は平城天皇皇子・阿保親王からみて四代孫の大江三河
 守蔵人定基(貞基)という。
  阿保という地名が残っている青山町は、大江氏の本拠地でもあり、「青
 山」とは、墓地を意味する青山(せいざん)に由来するという。阿保親王の
 墓と伝えられている。ちなみに、同じ大江氏には大和の柳生氏、安芸の毛
 利氏、菅原氏らがいる。
  百地氏の系図や資料から推察すると、室町時代に大江氏の一氏族が名張
 の「モモジ」を拠点としており、地名から百地氏を称したという。代々百
 地丹波守を名乗り、大和の興福寺と結びつきながら、土豪として成長した
 ものと考えられる。
  百地丹波の城は、伊賀滝口(名張市滝口)と大和滝口(奈良県室尾村滝口)
 との境界の通称「城山」にあったという。いずれの場所とも、現在もそれ
 ぞれ子孫がいる。
  さらに、北伊賀の喰代(上野市喰代)にも百地砦跡が残っている。喰代に
 進出した百地氏は服部氏と結び付いて勢力を伸ばしていった。百地氏の家
 紋が七曜星・二枚矢羽根なのは、伊賀服部氏の矢根と酷似しており、結び
 付きの深さがうかがえる。
  喰代の百地氏は、藤堂高虎の馬廻りを務めるなど、江戸時代にも有力土
 豪としての地位を保ち、服部、藤林とも縁を結んでいる。
  1581年(天正9年)の伊賀の乱では、柏原城(名張市赤目町柏原)にこ
 もり、最後まで抵抗した諸将の中に、滝口村の百地新之丞、百地太郎左衛
 門、喰代の百地丹波の名が見られる。
  織田の伊賀侵攻軍を相手に約1カ月にわたって奮戦するが、大和(奈良
 市)の興福寺にいた猿楽師、大蔵五郎次郎申楽太夫の仲介により開城した。
  百地氏は、神社で猿楽の奉納などを行う勧進元という側面も持っている。
 興福寺とのつながりも強かったことから、和睦を工作したのだろう。その
 後、百地丹波らは一時高野山に隠れたという。
  江戸期の系図の信頼性を考えると、完全には否定することができない記
 録がある。西国浪人から百地家に養子入りした伝左衛門保次に、嫡子・半
 十郎の他に重左衛門という男子がいる。その注に「藤堂新七郎様御家来ヘ
 養子ニ参、芭蕉ト改名」とあり、俳人の松尾芭蕉を百地家の出身としてい
 るのが興味深い。」  
 
 芭蕉の出自については他の説もありますので、あくまで一つの説ということ
でとらえたいと思います。

 次回も、百地氏について「続き」を記します。
こと
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月26日 06時28分17秒 ) パスワード

三つ柏さん

ありがとうございます。


阿保親王の子孫の「大江氏」が百地の祖として、ここに登場するとは思っていませんでした。

なるほど、それで、阿保親王の墓があったり、地名の阿保が「あお」に変化していくのですか。


さらに、同じ大江氏に、大和の柳生氏、安芸の毛利氏、菅原氏らがいたのですか。
へえ〜



青山氏はやはり伊賀あたりで大昔から服部氏と関係があったのかもですね。


青山氏がらみで出て来た忍者の百々氏は
     「百々」どーど
百地=ももち=百百地 ということから「地」が落ちて「百百」→「百々」=どーどになったのかも。


青山も服部も百々も百地も元は地縁血縁でしっかり結ばれた人々だったのかなと感慨深く思います。


伊賀滝口(名張市滝口)と大和滝口(奈良県室尾村滝口)はスグ近くですものね
確かに一族だったんでしょうね。


大和の興福寺にいた猿楽師、大蔵五郎次郎申楽太夫とは   大久保長安の時に出て来た  「猿楽師の大蔵」
で出て来た猿楽師と同じグループなのか?一族なのか?祖父以前が同一人物なのか?

   やっぱり大久保長安とも昔っからの関係だったのかもですね。


         大久保長安
         氏族   大蔵氏(秦氏)→土屋氏→大久保氏
         父母    父:大蔵信安(大蔵太夫十郎)
         兄弟    大久保新之丞、大久保長安

         妻:正室:下間頼龍の娘
            継室:大久保忠為の娘

         子
         大久保藤十郎、大久保藤二郎、青山成国、大久保運十郎、
大久保藤五郎、大久保権六郎、大久保藤七郎、長女(服部正重室)、 次女(三井吉正室




>江戸期の系図の信頼性を考えると、完全には否定することができない記録がある。
>西国浪人から百地家に養子入りした伝左衛門保次に、嫡子・半十郎の他に重左衛門という男子がいる。
>その注に「藤堂新七郎様御家来ヘ養子ニ参、芭蕉ト改名」とあり、俳人の松尾芭蕉を百地家の出身としているのが興味深い。  

母が百地の出身という説もありましたね。


日本の場合は、人間関係が狭い社会で婚姻していますから、芭蕉はどっちにしろ、服部とも百地とも同族なんでしょうね。


>西国浪人

西国に行って浪人した猿楽の大蔵氏かも知れないですしね。



名字が違うからといって赤の他人じゃないというのが日本なんでしょうね。
同じ兄弟なのに兄弟全員が違う屋号=名字を称したというのもアリですから。


ややこしいですね
特に伊賀はああいう大惨事がありましたから。


素晴らしい情報をありがとうございました。
[31]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月26日 18時32分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大蔵流の開祖は玄恵法印という天台宗の傑僧で、後醍醐天皇に宋学を教導
した人で、また足利尊氏にも用いられた人だという。また、大蔵家は天細女
命と秦河勝の両方の血統を継いでいる立派な家系であるそうです。

 さて、黒井宏光著『煙りの末』からですが―
 「百地家は代々”百地丹波”を名乗っているが、最もよく知られているの
はやはり、百地三太夫であろう。大盗人・石川五右衛門の師匠として、古く
から有名だ。だが、百地家の系図に彼の名前は見当たらない。
 三太夫は創作上の人物かというと、そうとも言えない。上野市予野の郷土
史家、故・吉住勘元氏の説によると、1571年(元亀2年)、現在の名張市
中村の地で、父清右衛門と母クレハとの間に生まれた実在の人物だ。幼名を
三吉といい、6歳のころに伯父の百地丹波を頼って滝口に住んでいたという。
 天正伊賀の乱のころ、丹波は滝口の砦を二男の新之丞に任せ、長男ととも
に上野市喰代に移った。この時、12歳の三太夫も伯父に従ったという。
当時は一人前に見られる年頃だったので、彼も戦いに加わったことであろう。
だが、一隊を率いるような将ではないので、記録に名前はのっていない。伊
賀の乱後の消息は見当たらない。
 大和滝口の百地家系図には、百地党は紀州の高野山に落ち延びたと記され
ている。恐らく、三太夫もその中に含まれているのだろう。その後、百地丹
波は滝口に戻って新左衛門と改名し、郷士として生きたという。伊賀滝口の
百地家は三太夫の異母弟・四太夫が祖先だと伝えられている。
 逃亡ルートは、伊賀、甲賀を中心に、行者(山伏)や木地師、忍者が利用し
た、秘密の道だった。北は日本海に面した加賀(石川県)へ、南は瀬戸内海、
太平洋に出る港がある雑賀(和歌山県)と、「賀」のつく地名が結ぶルートで
あった。
 逃亡の際は、一度も人里に出ることなく移動できたという。三太夫は伊賀
に戻らず、高野山から「賀」の道を通り、紀州の雑賀に出たのではないだろ
うか。そこで根来衆の反織田勢力に合流したことも考えられる。天正伊賀の
乱の翌年に起った本能寺の変の裏で、信長に恨みを持つ、三太夫ら伊賀者が
動いていたかも知れない。」
ということであります。

 ところで、この中にある「賀」の道とは、「加賀」―「多賀」―「甲賀」
―「伊賀」―「賀名生」―「那賀」―「雑賀」を結ぶ道のことで、、もとも
とは修験者(山伏)による行者の道だったらしい。修験道と関係の深い伊賀、
甲賀の忍者は、この道を使い、人知れず移動することによって、正に神出鬼
没の活躍をしたといわれています。

 次回は、いよいよ最後の砦「柏原城址」について記します。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月27日 05時26分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

今朝、伊賀の青山氏や百地氏や百々氏のことを考えていましたらホロッと来ました。
名字は違うものの同族なんだろうな、と。



>大蔵家は天細女命と秦河勝の両方の血統を継いでいる立派な家系であるそうです。

名家で大蔵氏といったら、やっぱり九州の原田家かな、と。平家方だった原田氏。


ということで引っ張って来ました:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E6%B0%8F

原田氏の前身は大蔵氏であるといわれている。

天慶2年(939年)大宰府の藤原純友の乱鎮圧のため大蔵春実が源経基・小野好古らとともに出陣。

戦功により菊桐の御紋と日の丸の御印を拝領、征西将軍に任じられ、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の管領職となる。
城を築き移り住んだ御笠郡の地名をもって原田氏と名乗る。


平安末期、原田種雄(『大蔵姓 成冨家譜』では種成とも)の長子種直は太宰少弐に任官される。
そして嘉永年間に源氏と平氏が争い始めると、種成・種直父子は平氏方として活躍。
平清盛の長男である平重盛の養女(清盛の弟・平家盛の娘)を妻とし、事実上の大宰府の長官となり、九州における平氏の基盤を築く。

平家都落ちの際には岩門城の私邸を安徳天皇の仮皇居にする。

壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、種直も領地を没収され、鎌倉に幽閉の身となる。
扇ヶ谷の土牢にて13年、放免後は怡土庄の地を与えられる。



また『大蔵姓 成冨家譜』によれば、種成の
次男次郎種雄は秋月城に住んで秋月氏を名乗り、
三男三郎実種は筑後国田尻村に住んで田尻氏を、
四男四郎種光は筑後国江上に住んで江上氏を(成富氏はこの江上氏の庶流)、
五男五郎光種は筑後国御原郡高橋に移り高橋氏をそれぞれ名乗ったとしている。



             中略


全国には
平家家人筑前の大蔵朝臣原田氏や
三河の大蔵姓(平朝臣)原田氏の他、

美作菅家(桓武平氏)原田氏、
遠江藤原朝臣工藤氏族、
藤原姓菊池氏族原田氏、
菅原朝臣原田氏、
伯耆東郷姓原田氏(東郷氏)、
指宿氏族平姓原田氏などがある。



なんかね、今、すっごく喜んでくれているのを感じました。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月27日 06時01分19秒 ) パスワード

なんか、すっごくホロッと来ます。
でも何故なのかは分かりません。

    平家がらみかも。



>百地三太夫は創作上の人物かというと、そうとも言えない。
>上野市予野の郷土史家、故・吉住勘元氏の説によると、
>1571年(元亀2年)、現在の名張市中村の地で、父清右衛門と母クレハとの間に生まれた実在の人物だ。


母の名が  クレハ  とは此れ如何に?です。



「賀」の道?

「賀衆の使う道」ということで大昔に「X賀を称する一族」がいたのでしょうね。
それぞれ多賀とか伊賀とか甲賀とか雑賀とか加賀とか賀名生とか那賀とかに分かれたのかな?

何かに行きあたりそうですね。


歴史を掘り起こす作業って面白いですね。
知らないことが次々に姿を現します。


ありがとうございました。
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月27日 13時06分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「賀」についてですが、呉の国に「賀斉」という武将がいて、姓は「賀」
氏でした。呉の国からの民の流入を考えた時、何か関係があるのではと思
っています……。

 花垣神社について、記してなかったことが、一つのありました。それは
「賀」のことを考えていた時に、「賀」は太陽に関係するのかなと思い、
調べている内に、花垣神社に「皇居遥拝所」の石碑があることを思い出し
たのです。先日、花垣神社を訪れた時には、この石碑は天皇陛下を遥拝す
るものだと勝手に解釈しておりましたが、加茂喜三氏の『日本の超古代史
 ヒミコの故郷(ふるさと)』を読むと、「皇居」とは明治以降のもので、
その前は江戸城。それ以前の「皇居」とは、富士山麓の”高天ヶ原”に
あった「皇居」を表すという。
 一方「皇大神宮遥拝所」の皇大神宮は伊勢内宮を表す。
 いずれにしても、夏至、冬至、春分、秋分等の太陽の方向に関係してい
る太陽信仰がからんでいるようであります。
 この両「遥拝所」は、四日市を中心とした伊勢・伊賀地方に多いという
ことであります。伊勢に残る伝説はそのことと関係しているように思えま
す。

 今回、色々なテーマに波及して来ましたが、百地、百々などの姓・地名
にも奥深いものがあります―猿投の地にも百々がありますし、どちらかと
いえば、川のドーッという音よりも、「桃太郎」の「桃」に関係するので
はないか……今後、いろいろ探究して行きたいと思っております。

 さて、柏原城跡についてですが、百地三太夫屋敷から赤目口近くへ戻り、
途中の分岐点に「柏原城跡」の矢印があったので、そちらに向かいました。
一キロ位走ったところで、通りがかりのおじさんに訊いてみたが、もっと
後ろの方だという。来過ぎたということで戻り、見当をつけて途中の分岐
点から山側へ向かう。たぶん、こんもりしたところあたりだろうと思い、
行ってみたがそれらしき看板もない。そこで出会ったおばさんに訊いてみ
る。三百メートル程下だという。来過ぎたか、ということでまた戻る。こ
んもりとした所へ行ってみたが、池がありそれ以上行けない。どうにもこ
うにもわからない。もう諦めようと帰りはじめ、未練がましく山側を見る
と、神社らしきものがあった。行ってみた。車を留めて、神社の表側に
回る。――驚いた……そこには「天正伊賀乱四百年記念 決戦之地柏原城」
という高さ1.5m位の台座にのった丸型の石碑が建てられているではない
か。やった!よかった!……嬉しさがこみ上げて来た。これを見たかった
のだ―天正伊賀の乱の伊賀の民が最後に集合して戦った砦!
 そこには確かに神社が建てられていた。神社の由来書きにはこう書かれ
ていた― 
 「勝手(かつて)神社
  柏原地区の氏神として古くから鎮座している。
  元来の勝手神社は、天忍穂耳命をまつり、永禄5年(1562)柏原城の城
 主瀧野十郎吉政が勧請したものとされる。
  天正9年(1581)天正伊賀の乱において織田信長に攻められ落城したが、
 その後、村民これを氏神として崇敬し、文禄2年(1593)新たに神殿を再建
 した。
  女手児4年(1871)には、村社に指定され、明治40年(1907)地区内にあ
 った無格社を合祀している。」
 勝手神社という名前は「勝手にしろ」の勝手のイメージを抱いてしまいま
すが、天忍穂耳命は正式には「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつ あかつ
かちはやひ あめのおしほみみ のみこと)」とも呼ばれているので、この
「勝」に由来しているものと推察されます。ちなみに、この天忍穂耳命は、
天照の子であり、兄弟に天穂日命、妻に万幡豊秋津師比売命(よろずはた と
よあきつしひめ のみこと 織物の神)、子に天日明命(あめのほあかり の
みこと)、邇邇芸命(ににぎ のみこと)であります。調べてみると、勝手神社
は大元が吉野に鎮座していまして、いろいろな故事があるようです。

 この勝手神社にて拝殿を済ませた後、その屋根を見てびっくりした―そこ
に「三つ柏」のいわゆる”鬼瓦”が飾られているではないか……ええっ!と
頭の中で問い返すも、厳然として真正面に見えている。
ウーンとうなったまま、しばらく感慨にふけった。柏原の「柏」にちなんだ
ものであろうとか……丸に三つ柏とどうつながるのか……論理を組み立てる
には至らなかった。

 さて肝心の柏原城跡はどこにあるのかと、神社の奥の山手の方に向かった。
小さな看板があり、「←柏原城跡」とでていた。少し坂を登ると堤防のよう
なあぜ道の向こうにうっそうとした小山が見えた。白い看板らしきものが建
っている。近づいて見る―
 「柏原城跡(滝野城)
柏原城は、高善山(竜神山)の北西にあたる丘陵地にあり、本丸は、高い
  四方を土塁に囲まれ、その南に入口が設けられている。東隅に「御滝女
  郎化粧井戸」と呼ばれている大井戸が残っている。外側に空堀が二重に
  めぐり、さらに東の丘陵には堀切があるため、三重となっている。
   城主が瀧野十郎吉政であったとき天正9年(1581)に織田信長が全国制
  覇に燃え、伊賀に3万数千の大軍で攻め入り、伊賀の神社・仏閣をこと
  ごとく焼き払い、伊賀一円を焦土と化した。
   柏原城は、伊賀土豪たち1600余人が最後まで立て籠もり、織田の
  大軍と奮戦した由緒あるしろである。」
ということである。
 そこから山の中へ続く坂道があり、登ることにした。「マムシ注意」の
看板がいくつかあったが、今はまだその季節ではない。50メートル程進む
と広場に出た。ここが城址の中と判断し、広場全体に向って般若心経を2巻
大きな声で唱えた。木漏れ日がやさしく揺らいでいた―

 これで今回の旅の目的はほぼ終わりましたが、まだおまけがいくつかあり
ます―藤堂家・乱歩・観阿弥です。
 それでは次回に―

[35]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月28日 11時58分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 名張の町の小高い丘陵地に藤堂家屋敷(跡)がありました。(跡)というのは
当時は広大な屋敷があったということですが、現在はその7分の1位しか残
っておりません。城は造れなかったけれど、広大な屋敷を中心として、いわ
ゆる”城下町”は造られました。
 ここで藤堂高虎及び藤堂家の徳川幕臣としての歴史、及び伊賀の歴史を
『上野城絵図集成』の記述を参考にして、簡単に記してみます―
 @1579年  第一次 天正伊賀の乱
 A1581〜1582年 第二次 天正伊賀の乱
 B1582年  本能寺の変
 C1586年  小牧・長久手の戦い 戦後、徳川家康は豊臣秀吉に臣従
         を誓い、聚楽第に邸地を賜る。秀長の命を受けた藤堂高
         虎が家康の居館を造営する。この時より、高虎と家康と
         の親しい関係が始まる。 
 D1592〜1598 文禄の役・秀次事件・慶長の役
 E1600年  関ヶ原合戦 家康勝利。東軍の藤堂高虎、伊予今治藩へ
 F1608年  家康による大規模な大名の国替えにより、藤堂高虎は、
         伊勢・伊賀22万石余を与えられ、安濃津(津)城主に
         転封。後、32万石余に増封。
 G1611年  高虎、上野城(伊賀)は有事の根城に、津城は平素の居城
         にとして、両城の修築に入る。
         しかし、大阪の役(1614冬 1615夏)も終ると、津城が主
         城となるが、上野城も伊賀国の城として認められたので、
         藤堂家は2城を持つことになり、家臣を津と上野に二分
         することになった。伊賀附けと呼ばれる家臣は、上野城
         下に屋敷をもらって生活した。
         上野は有事の拠城のため、高虎の弟、出雲(高清)や一族
         の新七郎(良勝)・玄蕃(良重)の他、渡辺勘兵衛(了)や
         桑名弥次兵衛(一孝)などの重臣が配置された。
 H1640年  二代目の高次時代、藤堂采女元則(服部半蔵の甥)を上野
         城代家老とする。忍衆の登録と組織化、また士分として
         扱った。『伊賀付差出帳』作成。
 I1670年  久居藩成立で、上野城内に屋敷を拝領していた以下の者
         達は久居藩に異動。
         藤堂源助(3000石)、藤堂十三郎(1000石)、小野藤右衛門
         (900石)、田中内蔵丞(500石)、箕浦少内(500石)、服部
         平左衛門(400石)、桑名源兵衛(300石)、柳生九左衛門
         (300石)、七里勘十郎(300石)、萩森又兵衛(200石)、入交
         惣右衛門(200石)、浅木与三右衛門(200石)、宇津伝右衛門
         (200石)、田公次郎兵衛(150石)、西之丸の押川権左衛門
         (500石)、城下から山岡左衛門(400石)、加納次兵衛(200
         石)、和田三郎右衛門(200石)、岡山勘左衛門(150石)等、
         御家中知行取19人。
 
 この中に「名張藤堂藩」の経緯が出てきませんが、その説明は次にいたし
ます―
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月28日 13時29分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


>富士山麓の”高天ヶ原”

こんなお話がありました・・・


高尾山古墳は邪馬台国に敵対した狗奴国の女王・卑弥弓呼の墓だった!? 邪馬台国畿内説は証明されるのか?

『失われた卑弥呼の金印「親魏倭王」の謎』(ムー・スーパーミステリー・ブックス



 邪馬台国の所在地をめぐっては畿内説と九州説をはじめ、四国説や沖縄説、さらには海外のスマトラ説、エジプト説などが知られているが、今、大きな転換期を迎えようとしている。考古学的な発見により、ほぼ畿内説で固まりつつあるのだ。最近もまた、これを裏づける発見があった。

 『魏志倭人伝』によると、倭国は大きくふたつに分かれていた。卑弥呼に従うクニと敵対する“卑弥弓呼(ひみここ)”を支持するクニがあったのだ。

 後者を束ねていたのは狗奴国だった。狗奴国は邪馬台国の南にあったとされるため、方位が正しいとする九州説なら鹿児島あたりに比定され、距離が正しいとする畿内説であれば、東海地方から関東地方にあったと考えられてきた。


実は、この卑弥弓呼のものと思われる墓が見つかったのだ。場所は静岡の沼津市で、高尾山遺跡として知られている。問題の古墳は前方後方墳で、長は約62メートルと、当時としては東日本で最大級だ。築造は3世紀前半と見られており、卑弥呼の時代と重なる。規模から考えて、東海地方を治めていた大王の墓だと推測されている。畿内説からすれば、まさしく卑弥弓呼の墓の可能性が高い。

 きわめて重要な遺跡が注目されるきっかけは、なんとも皮肉なことに、人域的な破壊の危機に直面したからだ。地元の要請によって計画した国道建設のルートに高尾山古墳が重なってしまったのだ。道路を作るためには、古墳を一度破壊して、移設する必要が出てきた。これに対して、地元の有識者が協会を立ち上げ、移設反対を強く訴えた結果、幸いにして道路のルートを変更することが議会で決定され、古墳は保存されることとなった。

 だが、かなり工事は進んでおり、すでに古墳の上にあった神社は取り壊され、古墳はむき出しの状態。調査発掘も行われていたが、昔の面影はない。聞くところによれば、この工事に関連して、ふたりの方が亡くなっており、地元では祟りではないかとも噂されている。

 いずれにせよ、全国的に注目されることとなった高尾山古墳だが、改めて被葬者が卑弥弓呼だったと確認されることとなれば、邪馬台国論争は一気に加速、畿内説で、ほぼ決まったと認識されることになるだろう。

 だが、もしそうなった場合、最後に問題となるのは方位である。 『魏志倭人伝』は狗奴国を邪馬台国の南に位置づける。邪馬台国を畿内とすれば、東海地方は東。約90度の違いがある。これは確定している九州の対馬、壱岐、松浦から見た邪馬台国や投馬国などの方位も同様で、畿内説が抱える大きな課題のひとつだ。方位の読み替えに関しては、太陽運行の季節変化などがあがられているが、定説にはいたっていない。

 これに関して、もっとも大胆な仮説を提示しているのがサイエンス・エンターテイナーの飛鳥昭雄氏だ。飛鳥説によれば、 『魏志倭人伝』の方位は正しく、かつ邪馬台国は畿内にあった。間違っているのは、昔の地形と今の地形が同じだという認識にあるとし、かつて日本列島は約90度、時計回りに回転していたと考える。逆転列島倭地理観に立てば、邪馬台国は畿内であり、狗奴国は東海地方になると主張する。

 高速プレートテクトニクスという激変論に立った邪馬台国=畿内説は、他に類を見ないほど突拍子もない説にも思えるが、これを支持する人々もいる。日本の歴史を裏から支えてきた秘密組織、八咫烏である。彼らは飛鳥説を認めながら、そのしるしとして、なんと卑弥呼が魏の皇帝から送られた「親魏倭王」の金印の写真を見せられたという。

 詳しくは本書に譲るが、高尾山古墳が卑弥弓呼の墓として注目される今、いよいよ邪馬台国論争も大詰めを迎えつつあるのかもしれない。


●三上丈晴(みかみ・たけはる)
1968年、青森県生まれ。学研「ムー」の5代目編集長。筑波大学を卒業後、学習研究社(現・学研)に入社。「歴史群像」編集部を経て、入社1年目より「ムー」編集部に所属。

●「ムー」
出版社:学研パブリッシング/発売日:毎月9日/税込価格:670〜690円/発行部数:7万部/概要:「世界の謎と不思議に挑戦するスーパーミステリーマガジン」として、UFOや超能力、UMA、怪奇現象、オーパーツ、陰謀論など、オカルト全般を追求する情報誌。
公式HP<http://gakken-publishing.jp/mu/
[37]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月28日 13時34分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『名張藤堂家邸跡』というパンフレットから(一部要約)―

 「藤堂高虎には嗣子がなかった。織田信長の重臣丹羽長秀の三男の高吉
(たかよし)は、信長死後、秀吉の所望もあり、羽柴秀長の養子に入った。
その後秀吉は、秀長の嗣子に秀保を立てたので、高吉を高虎の養子とした。
 高吉は、高虎と共に文禄・慶長の変、関ヶ原合戦にも参戦し、戦後に高
虎が伊予今治に転封となった時、同じく今治に向かう。

 1608年に、高虎が伊勢・伊賀に転封となるも、高吉は今治2万石と
して残り、その後27年間そこで過ごす。

 1630年、高虎が死ぬと、高次(高吉が養子になった後に生まれてい
る)が跡を継ぐ。結果、高吉は家臣格となってしまう。

 1635年、伊予と伊勢内2万石の替地の命が出ると、伊勢2万石の
内の5000石を名張と替地する。

 1636年、高吉は名張に移住。居館を構え、同時に城下町の体制を整
えた。

 高吉の死後、次男以下3名に5000石が分地され、1万5000石と
なり、その後高節で明治維新を迎えた。子孫は現在東京に在住する。」
ということです。

 名張藩の歴代の藩主名です―
 @高吉(たかよし)―A長正―B長守―C長源(ながとも)―D長熙(ながひろ)
 ―E長美(ながよし)―F長旧(ながひさ)―G長教(ながなり)―H長徳
 (ながのり)―I高美(たかよし)―J高節(たかもち)

 結局のところ、藤堂家は、伊賀上野、津、久居、名張の4拠点を支配する
こととなったということであります・

[38]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月28日 13時44分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「天正伊賀乱四百年記念 決戦之地柏原城」
>高さ1.5m位の台座にのった丸型の石碑

見つかって良かったですね。



>勝手神社
>天忍穂耳命は正式には「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつ あかつかちはやひ あめのおしほみみ のみこと)」とも呼ばれている

>ちなみに、この天忍穂耳命は、天照の子であり、兄弟に天穂日命、妻に万幡豊秋津師比売命(織物の神)、子に天日明命、邇邇芸命

へえ〜
びっくりですね



>勝手神社は大元が吉野に鎮座

吉野・・・・へえ〜


     ということで検索しましたhttp://www.geocities.jp/miniuzi0502/jinjadistant/mie/yakatte.htm

     山畑【やばた】の地は、昔から旱魃に見舞われる事が多く、常に雨乞いの願をかけていた。
     それで大和吉野の水分神社に願の火を受け、御神体はその御分神とも伝えられる。

      明治37年〜明治41年にかけて、山神社など十五社を合祀している。




>勝手神社にて拝殿を済ませた後、その屋根を見てびっくりした―そこに「三つ柏」のいわゆる”鬼瓦”が飾られているではないか

>……ええっ!と
>頭の中で問い返すも、厳然として真正面に見えている。

>ウーンとうなったまま、しばらく感慨にふけった。

>柏原の「柏」にちなんだものであろうとか……丸に三つ柏とどうつながるのか……論理を組み立てるには至らなかった。


不思議ですね
村の人に訊けると良かったですね。



柏原城での般若心経
わたくしの分もありがとうございました。


次回は柏紋について訊けると良いですね。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月28日 13時58分30秒 ) パスワード

藤堂家は2つも城を持つことになってスゴイですね。
感慨深いものがあります。

   家康に信用されたからでしょうけど。



>名張藤堂藩

こんなのもありましたか。
知らなかったです。
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月28日 14時50分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 名張藤堂家(初代高吉)の家紋は「桔梗紋」でありました。私が泊まった
ホテルが”桔梗が丘”にありましたのも、藤堂家との関係の地からでしょ
うか?
 先日訪れた掛川城の藩主太田備中守も桔梗紋で、桔梗が大好きのよう
です。明智光秀も桔梗紋……これら三者の間に何か通ずるものがあるので
しょうか?
 桔梗には何か深い謎が隠されているのでしょうか?

 江戸川乱歩の生地を見に行きました。藤堂家邸よりまっすぐ坂を南に約
五分下った町中の、路地を入ってすぐのところに石碑が建っておりました。
江戸川乱歩の写真を見ると、本人の顔自体はおどろおどろしい顔ではあり
ませんでした。以前、あを様より教えていただきましたように、お父さん
か(おじいさんか?)藤堂藩に勤めていた関係で名張の出身ということなの
ですね。でも、文学史に残る怪しげな作家の出生地を見れたということ、
名張という風土を考えると興味深いものがあります。エドガー・アラン・
ポウから名前をとったというところもミスティーで、キャラクター全体
を深淵なものにしています。

 ホテルの場所が桔梗が丘―そのすぐ東に「観阿弥」に関係する場所があ
りました。びっくりしました。次は観阿弥についてです―

 なお、狗奴国については別途探究したいと思います。沼津にも行ってきた
いと思っています。


[41]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月28日 22時40分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


家紋は難しいですね。
名字以上にグチャグチャです。

藤堂家は蔦かと思っていたら桔梗も名張藤堂家でアリでしたか。


それが  アイデンティティ  ということなんですから外野に意外なのは当然ですね。



そして  観阿弥  も?
へえ〜

やはり旅はしないといけませんね。
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月29日 09時20分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 名張藤堂家屋敷(邸跡)で丁寧な説明を受け、嗣子にからむ問題で、いろ
いろ複雑な模様もあったようです。ボイスレコーダーで録音しなかったの
で詳細は記憶から飛んでしまいましたが、何かあったということだけは残
っています。
 ここの受付で本を売っておりましたので、購入いたしました。その本は、
 @『おきつもの名張 今と昔』
 A『幽玄のふるさと なばり』
というものです。@の「おきつもの名張」は万葉集の歌から採っており、
本来の歌は、「吾せこは いつく行くらむ 於己都藻の 名張の山を 今
日かこゆ良舞」で、「於己都藻の」は「沖つ藻の」で、「隠」(現代は張を
使用)即ち「隠れる」の枕詞であるということです。
 この本には名張の古代から現代までの地形・自然・歴史が書かれており、
名張を知る上で大変役立つものでありました。 
 Aの方は、まさに驚いたのですが、「観阿弥」が名張と密接に関係して
いたということです。その詳細については、次に引用いたします(簡単に
要約いたします)―
 「観阿弥は伊賀国阿蘇田杉之内(現在の伊賀市守田町付近)の豪族・服部
 元成の三男として誕生。その後、長谷の猿楽法師に預けられ、山田小美
 濃大夫の跡を継いだ太田家光の養子になった。母は河内国玉櫛庄楠入道
 正遠の娘で、楠正成の姉妹のようである。
  猿楽役者の家庭と縁の深かった観阿弥は、幼少のころから奈良・長谷
 寺の大和猿楽者に預けられ、技を身に付けたと思われる。
  辛い修業時代から二十数年、観阿弥は伊賀に立ち返って、自分の座を
 持ち、猿楽能を広めたいと思うようになった。とはいっても、一座をた
 てるには相当の資金が必要だった。その観阿弥ら微笑みかけてくれたの
 が妻であった。
  妻は、伊賀国名張郡小波田の領主として権勢を誇った竹原大覚法師の
 養女。相談を受けた大学法師が娘婿の夢を快く承諾してくれた。こうし
 て、観阿弥は名張小波田にて念願の座をたてることができた。
  詳細な時期はわからないが、大覚法師の相当な後押しがあったことだ
 ろうと考えられている。長男元清(後の世阿弥)がそのころに誕生してお
 り、年齢的には30〜32歳だったと思われる。」
ということであります。

 やはり、伊賀国を中心として「服部」には何かある、何か天啓のような
ものがある……その源は何か……?
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月29日 13時28分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


http://www.city.nabari.lg.jp/s061/060/050/020/201502051936.html

能楽大成者 観阿弥は妻の出生地である名張市小波田で初めて猿楽座(後の観世座)を建てました。

その後、足利三代将軍義満の絶大な庇護を受け「能楽」として京の地で開花し、伝統芸能の一つの頂点になりました。




奈良県との境、三重県名張市上小波田地区。国道165号線にそって小波田の里があります。里をとりまくゆるやかな山、近くを流れる一筋の小川をはさんで、田や畑が広がっており、緑の繁った鎮守の森があります。きれいな木立ちに囲まれた坂道を登ると、そこが観阿弥ふるさと公園です。この公園は観阿弥の偉大な功績を後世に伝えるため整備されたもので、毎年、11月の第1日曜日には「観阿弥まつり」が行われ、能楽愛好家による仕舞や地元の子ども達による狂言などが演じられています。



観阿弥は田楽や猿楽という歌舞が唯一の娯楽であった時代に生きた猿楽師の一人で、元弘3年(1333)伊賀の国に生まれました。(ただし、大和盆地南部を本拠とする山田猿楽の出身との説もあります)幼名は観世丸、本名は清次といいます。伊賀の人という説ですが、伊賀のどこで生まれたかはっきりしません。学界でも問題になっている、上野の上島家の文書によれば、観阿弥は伊賀国阿蘇田(現在の名阪国道、上野インターチェンジ付近)の豪族、服部元成という人の三男として生まれ、母は河内国玉櫛庄楠正成の兄姉ということです。父の元成は上島家に生まれ、服部家を継いだので、観阿弥の本名は、服部三郎清次になっています。

「観阿弥創座之地」の記念碑の裏面には、次のような申楽談義の一文が刻まれています。
此座の翁は弥勒打也
伊賀小波田にて座を建て初められし時
伊賀にて尋ね出したてまつりし面也

意味は「観世座に伝わる翁の面は、弥勒という能面師が作ったものである。父の観阿弥が伊賀の小波田で、初めて猿楽の座を建てた時、伊賀で手に入れたものである」ということです。




http://www.iganinja.net/gjkanse/

能の大成者・観世家は伊賀服部氏の出である!

秦河勝から何百年かのち、散楽を昇華させる天才が出現した。
観阿弥・世阿弥父子である。

「秘すれば花なり。秘せずぱ花なるべからず、となり」(『風姿花伝』)という有名な言葉がある。〃花〃と称する秘伝の本義を秘するというわけだが、「そもそも、一切のこと、諸芸道において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆえなり。しかれば、秘事ということをあらわせば、させる事にてもなきものなり。これを、させる事にてもなし、という人は、いまだ秘事という事の大用を知らぬがゆえなり」と。

これほど明確に〃秘の効用〃を説いたものはほかにない。あの造化神のごとき上忍の心を坊篠とさせるものだ。



この観世家は、伊賀服部氏の出である。
「伊賀杉内の服部氏に一二人の子があった。上はつぎつぎ早死したので、残った末子を連れ、大和の長谷寺に参詣する道すがら僧に会い、観世という名をつけてもらった」

(『観世系譜ごこれは観阿弥清次のことだが、伸の世阿弥元清の弟の子が幸臼阿弥、その七子に小次郎信光雲という者がいて、この者の画像賛(画中に題する詩文)に、なっている。


伊賀服部という武士出身であることを、多少誇りにしていたと思われる。
この服部氏は、忍者としてもっとも有名な「服部半蔵」の姓である。
陰の系譜の具体的なかたちとして、伊賀者、ひいては伊賀の大族服部氏こそ、忍者の源流を探る唯一の手がかりである。



そこで、もう少しこの観世氏とのかかわりをみてみよう。
昭和三十一年ころ、上野市の「上島氏文書」が紹介された。
整理するとこうである、

     一、観阿弥は伊賀杉の内の服部信清の3男で、のち長谷の猿楽師に預けられた
     二、観阿弥の母親は、河内国玉櫛庄楠入道正遠の娘である
     三、観阿弥の妻は、伊賀小波多の領主、竹原大覚法師の娘である
     四、観阿弥の伯父は、服部行心入道で、所領が大和結崎にあったこれによると、観世家諸所伝は納得いくが、注目すべきは、しかし母親が楠正遠という人の娘であるということである。


             楠入道正遠は正成の父親と伝えられる人物である。

             古来、楠木正成ほど有名で、かつ素姓のわからない人物はいない。
             わずかに伝えられる『楠木氏系図』では、姓は橘氏、父の名は正遠とある。
             すると、観阿弥は正成の甥ということになる。
             個人的な伯父・甥の関係ばかりではなく、楠木一族と服部一族との関係が推察される。
             まだ、この文書を裏づけるなにものもない。

             また、観世家の服部氏が、忍者(上忍)服部半蔵の系統とどのような関係にあったかも明らかではない。

             が、姻戚関係を結んだとしても、決しておかしくないと思われる背景があった。
             すなわち前に述べた「悪党」の横行である。

              当時活躍した悪党楠木氏が、同じ悪党の匂いのする服部氏と結ばれて、なんの不思議もない。

              楠木氏は坐どらに、散所(古代、賎視された民の一つ)の長だったという説もある。
              だとしたら、賎視されていたにちがいない申(散)楽の座主と結ばれても、これまた不自然ではない。
[44]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月30日 08時12分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊賀・名張で思ったこと―それは、天正伊賀の乱での焦土作戦・皆殺し
作戦によって神社・仏閣・民家ありとあらゆるものが焼かれ、戦った者も
含めて数千の伊賀人が殺され・亡くなったということ、信長の犯してきた
数々の残虐な殺傷事件による報いは、伊賀の乱後、ひるがえって自分のと
ころに襲ってくることになった。これこそ、因果応報というべきだろう。
因果応報というには、余りにも規模が大きすぎて、万死に匹敵するであろ
う。長島一一揆においても、降伏した門徒の男女二万人を焼き殺したとい
う。戦国時代だから許されるというものではない。もっとも近代・現代に
おいても同じことが繰り返されている……人間は、裏を返せば悪鬼・邪気
の塊なのだろうか……まだまだ進化が足らないのだろうか……

 用事で、これにて切ります。また―
[45]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月30日 20時23分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回名張に行って得たものは、土地勘的な把握が大きかったと思います。
 つまりは―
 @伊賀上野と奈良北部を結ぶ線
 A千賀地と斑鳩を結ぶ線
 B名張と葛城を結ぶ線
があるということが、土地の風景や道、そして地図での確認を通し、イメー
ジできるようになったことです。まだ距離感は体験不足ですが、いずれ@の
線で、笠置、柳生、そして奈良までは行ってみたいと思っております。
 後醍醐天皇や楠正成の動きもその辺とからんでいますので、その点からも
一度体験してみたいと思っております。

 さて、もう一つ得たものは、名張の歴史の深さからです。つまり、縄文時
代から東西の文化の接点として存在していたということ。従って歴史におけ
るいくつかの謎を解く状況証拠を握っているということです。
 例えば、『おきつもの名張 今と昔』の中に書いていますが、卑弥弓呼
(ひみここ)の問題を解く鍵―それは、名張川が大和高原の裾を流れるところ
の丘陵に、塚原遺跡という「高地性環壕集落」が作られたということ。それ
は、「倭女王卑弥呼」と「狗奴国男王卑弥呼呼」との軍事的緊張がもたらし
たものと言えるということであります。

 もう一つ得たことは、伊賀が平家―南朝―家康の関係線上にあり、遠江も
源氏が少し入りますが、基本的には平家―南朝―家康の関係線上にあり、両
地域が関係ないようで大変関係深い間柄である、ということに確信が持てた
ことであります。天正伊賀の乱の時に9万の伊賀人がどれだけ殺され、また
どれだけ各地へ脱出して行ったことか……東に流れて家康・半蔵のいる浜松
に流れて来た人々もたくさんいたはずであり、遠江のどこかへ定着したはず
であります。これらのことが、今までよりずっとリアルに感じ取ることがで
きるようになりました。

 遠江に移り住んだ伊賀人……これを見つけ出したいと思います。
 また、天正伊賀の乱の頃、服部半蔵はどういう動きをしていたのか、伊賀
に残した親族・郎党、部下たちの家族・親戚のことを思ったときにどうした
行動を取ったのか、是非知りたいと思っています。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月30日 22時58分45秒 ) パスワード

またやってしまった・・・泣


長々と書いてて自分のミスで消してしまいました。



三つ柏さん


レス<11>の花垣神社での御体験

    般若心経を一心不乱に唱えている時に、人の近づく足音と気配を感じ、振り向きましたが、人っ子一人おりませんでした。

    後で神社の回りをぐるっとまわってみましたが、やはり人影は見当たら
ず、
    私の思い違いかなとも考えましたが、まだ頭はボケておりませんので、
    やはり何かの事象が起こったのだと感じております。



レス<34>の勝手神社の屋根瓦の

    勝手神社にて拝殿を済ませた後、その屋根を見てびっくりした―
    そこに「三つ柏」のいわゆる”鬼瓦”が飾られているではないか



今回のレス<45>の土地勘

    @伊賀上野と奈良北部を結ぶ線
    A千賀地と斑鳩を結ぶ線
    B名張と葛城を結ぶ線


    伊賀が平家―南朝―家康の関係線上にあり、
    遠江も平家―南朝―家康の関係線上にあり、
    両地域が関係ないようで大変関係深い間柄である、ということに確信が持てた


遠江の服部家が三つ柏紋を使用している謎の解明に半歩近づいたのかもですね。
伊賀ではなくて名張だったかも知れず


いよいよ背筋がゾクゾクします。
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2016年03月31日 10時22分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『煙りの末』という本が手に入りましたので、本日送ります。

 さて、伊賀や名張から東へ行くと海岸線に出ます。南は鳥羽・伊勢・松阪、
北上して久居・津…があります。即ち、東への窓口であり、伊勢湾・三河湾
があり、海は穏やかで、海上輸送が盛んであった。湾の内側では長島や津島、
知多半島西岸から衣浦、蒲郡から豊橋まで……。鳥羽と伊良湖岬は目と鼻
の先、伊良湖の先の神島は鳥羽市に属しています。

 伊勢水軍・九鬼水軍が生れたのも、リアス式の海岸線と、湾があったから
だと思います。他国の領を通らず、一気に目的地へ着けるという利点もあっ
たと思います。

 鳥羽から伊豆半島までは風に乗れば一日で着けたそうです。季節風の向き
もありますので、冬から春・秋から冬は西風、夏は東風ということで、東西
の往来は季節風を計算して行ったものと考えられます。この季節風の向きに
ついて、各地域に独特の言葉の表現があります。まず、「コチ」(東風)、は
有名であります。「ダシ」(北風)、「イナサ」(南東風)、その他数十種類の
風向きの表現があります。

 総合すると、正に三重県の海岸線は、東への窓口だったのです。 

 4月下旬には、伊良湖からフェリーで鳥羽へ渡り、尾鷲、松阪、久居、津
を回る予定であります。松阪では、「神服織機殿神社」と「神麻績機殿神社」
及び「本居宣長邸」を見て来ようと思っています―
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2016年03月31日 14時28分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


>正に三重県の海岸線は、東への窓口だったのです

地図で確認して来ました。
http://www.mapion.co.jp/m2/34.58078661,137.02236746,16/poi=L23202073000000000003

ビックリ!

渥美半島と三重県ってすぐ近くじゃないですか。
鳥羽も二見浦も、伊良湖のスグ近く!


やはり場所の分からない者には歴史の流れが読めないですね。
旅をして、歩いて距離を体感するというのを本当にしないと、見えて来ないですね。
ただの人には。

驚きました。


4月の土産話に今からワクワクしています。


 
>『煙りの末』

ありがとうございます。
楽しみにしております。
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月01日 09時51分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あと半月で丸二年になります。歴史は地中深くに無限に根を張っていて、
掘れば掘るほど色々なものが分かって来ます。また色々なつながりがわか
ってきます。

 ではまた―
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月01日 13時03分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

2年かかって、やっと少し近づいたのかな?、と思います。


伊賀の乱の情報がたくさん手に入ると良いですね。


とにかく沢山読んで、いろいろな場所に行って、多くの人と知り合うこと。
この3つが鍵でしょうね。


また機会をお作りになって伊賀や名張のお寺などで墓石の家紋をチェックなさってみてください。
[51]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月02日 08時57分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日と本日は終日身動きがとれません―

 いずれにしても、私のとりあえずの大きなターゲットは、余野服部氏…
…服部連、海部氏、織機姫等の関係の究明であります―

 しかしながら、まずは名張への旅から帰ってきて抱いた興味から、一つ
一つ考察を重ねて行きたいと思っています―

 家康は、1570年(元亀元年)より1586年(天正14年)までの17
年間、浜松城を居城としております。
 その間、たくさんの戦い・こぜりあい、出来事が発生します。
 家康家臣としての半蔵は、その中を泳ぐようにして動き回り、活躍した
ものと思われます。

 その中で、服部半蔵の特に天正伊賀の乱(1578〜1579、1581)時の状況・
動きを推察してみたいと思っています。 
 
 その辺の整理を、一度時系列的にいたしたいと思います―
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月04日 00時37分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は久しぶりに二日酔いが残り、思考能力ゼロでありました。
 
 さて、天正伊賀の乱(第一次:1578年10月〜1579年10月、第二次:1581年9月
〜10月)のあたりに、家康に関係して、どんな小競り合い・戦い・出来事が
あったかを整理してみました―
 1577年 10月 第一次持舟城の戦い
 1578年 3月 第二次小山城の戦い 
     3月 馬伏城の戦い 
     3月 第一次田中城の戦い
     8月 第二次諏訪原城の戦い
     10月 ●<第一次天正伊賀の乱始まる>
 1579年 4月 ●秀忠生れる 
     8月 ●築山殿殺害 
     9月 ●信康自刃
     9月 駿府の戦い 
     9月 第二次持舟城の戦い
     10月 ●<第一次天正伊賀の乱終る>
 1580年 5月 第二次田中城の戦い
 1581年 3月 ●第三次高天神城の戦い 
     5月 第一次当目の戦い 
     5月 第三次持舟城の戦い
     9月 ●<第二次天正伊賀の乱>
 1582年 2月 小山城の戦い 
     2月 第二次当目の戦い 
     2月 第四次持舟城の戦い 
     2月〜3月 第三次田中城の戦い 
     6月 ●本能寺の変
     6月 ●神君伊賀越え 
     8月 戸倉・韮山の戦い 

 第一次天正伊賀の乱が家康37歳の時の10月に始まり、家康38歳の時
の4月に秀忠が生れている。この間の6か月は、服部半蔵正成には出身地の
伊賀に戻り、手助けする余裕はあったのではないか。
 その後、8月に築山殿が殺害され、9月には信康を自害させるべく、半蔵
は二俣城に行っている。地元での状況が不安定であり、また武田軍の侵略も
あるので、その後からは伊賀には行けなかったものと推測しています。ただ、
情報は伝えられていたとは思いますし、色々な計画を家康と練っていたのか
も知れません。

 とりあえずはここで―
 
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月04日 04時33分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


まとめてくださって感謝です。

一覧を見ていると  妄想が沸き上がって来ます。
家康って  喰えないオトコ  だから。


    家康の本心はどうだったんでしょうね。


義元の姪の築山殿と信康と妻の徳姫とその父・信長。
そして次男の秀忠が生まれた。


この事件は小説になるなと。
ミステリーにも出来るし。


半蔵の気持ちも小説になります。
真相を知ってたのかな、と。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月05日 06時52分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ゴルフの聖地はリンクスであるが、半蔵服部家の聖地は与野千賀であり
ます。そこには千賀地城があり、氏神を祀る花垣神社が鎮座している。
今、花垣神社の八重桜は満開でありましょう。
 
 服部半蔵正成が、第一次天正伊賀の乱の時にどのような行動を取ったか
ということが気になって調べていましたが、主君家康と織田信長との関係
上、伊賀に味方するわけにはいかないという建前があった……。

 これは、フィクションではありますが、大橋蘭著『半蔵』においては、
正成は、第一次天正伊賀の乱の時に、隠密行動を取って伊賀に出向き、戦
いの指導・手伝いをしている。が、第二次天正伊賀の乱では出向かなかっ
た。保長の代から伊賀を離れたという負い目と、百地系との意思疎通の問
題もひびいたのでしょうか。ま、フィクションということではありますが
……。

 橋場日月氏の『服部半蔵と影の一族』(ノンフィクション)は労作で、今
もう一度読んでいます。服部党のことを、よくまあ調べたものだと感心し
てしまいます。忍者系の話は、記録を残さないのが鉄則なので、書かれた
情報自体少ないと思われますので、書くのに苦労が伴ったのではないでし
ょうか……。

 いずれにしても、情報の収集と整理をいたしたいと思っています―
 但し、四月の初頭は忙しく、思うようにはかどりません―


 
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月05日 07時23分51秒 ) パスワード

三つ柏さん


4月の初めは超忙しい時ですよね
それに新年度の宴会もあって、ご自分の時間は無理ですね。



わたくしも長野さんの「鉄」のお話を読み直していますが
ダメです
覚えられない!

長野さんがものすごく研究なさったというのは分かるのですが
ワタクシの脳がついていけない!

    一応海馬には情報として入れているのですが
    前頭前野に転送不能のようで

    サッパリ覚えて無いのです。

    内容が高度過ぎるんでしょうね。
    例えば「燕」が出て来て驚いても、少し後で、燕はどうしたんだっけ?と反芻しようとしても覚えていない体たらく。
    余りに意外だったので記憶に残るはずが、残らない。


        何だろう?
        何か「燕」を拒否する過去の経験でもDNAにあったのか?
        う〜む・・・




        とにかく古代のことって、読んでる時はフムフムと興味深く目には入りますが
        結局アッチの神社コッチの神宮がこんがらがって
        神様や人名や地名が昔ムカシのそのまた昔に覚えた情報でしか分かっていない。

              なかなか覚えていないのです。
              結局、先入観の神様であり人名であり地名です。アタマ悪過ぎ(泣)



『服部半蔵と影の一族』は本当に詳しく書かれていますよね。
驚きました。

でもたまに(あれ?)と思う部分もあったりして
それは自分にとっての服部一族と自分以外の服部氏の思いの違いなのかなと思ったりします。



三つ柏さんが柏原城にこだわるのには何か理由があるのかもですよ。
ご自分のDNAに刷り込まれた何かがあるのかも。

    うちは伊勢長島一揆でこてんぱてんにやられていますから
    村の再建で手一杯で、
    伊賀一揆の方には手が回ってないですから
    捉え方が違うんだろうな、と。

やはり、名張にはまたいらっしゃって名張の古いお墓を捜し回ってみてください。
名張でも史料を集めて、読み直すとかね。


長上郡の服部氏は伊賀じゃなくて名張なのかな?と。
だから家紋が違うのかなと?

名張あたりに知り合いが出来るといいですね。
[56]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月06日 09時05分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊賀の土地勘は少しつきましたが、近畿全体の中の土地勘といいますか、
方向勘、地域勘がありません。土地勘は歴史を探究する上で大変重要であ
ると思います。
 伊賀と摂津(高槻)は頭で考えてもつながりませんが、地図で調べると、
距離的には60q位、これは浜松〜佐久間間の距離ですので、1日早足で
歩けば着ける距離であります。即ち、遠くないということであります。

 伊賀と摂津の関係は、ないようであります。
 まず、伊賀に「与野」がありますが、摂津にも「与野」があります。
 摂津に服部郷があり、「服部連」塚(古墳)があります。
 伊賀に服部郷があり、服部連の子孫が服部郷を領したといわれています。
 摂津には芥川城があり、三好氏が城主であったじだいがあり、また松永
 氏とも関係が深く、両者とも伊賀忍者と関係をもっています。
 
 摂津と伊賀……深いつながりがあるのではないかと思っています―
 
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月06日 14時06分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


「煙りの末」をありがとうございました。
少しずつ読み始めました。

トピを絞って書いてあるのが助かります。
オットの病院への付き添いの暇な時にも読み易いです。


伊賀の服部姓もいろいろなようで
奈良ですか・・・
山添さんという人が身の回りにいましたが  伊賀の服部氏のご先祖がらみだったのかな?  と思いました。
伊賀の服部氏のご先祖で繋がっていたと考えると納得する人でした。


物部が  もののふ  &  もののけ  というのが驚きでした。
でも古代の豪族なら当然ですね。



更に摂津との関係
どんな関係があったのでしょうね。


松永氏との関係には驚きましたが詳しく分かるといいですね。
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月07日 00時56分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊賀(与野)と柳生は、距離にして17キロ位でありますので、ちょうど
伊賀と甲賀の距離とほぼ同じ、非常に近いと言えます。
 藤岡周三著『松永久秀の真実』によれば―
 「石舟斎は柳生新陰流の開祖で、剣術の達人として知られるが、一方で
 伊賀の忍者とは特別なつながりがあった。石舟斎の長男の厳勝の妻は、
 伊賀の守護もつとめた豪族仁木氏の娘であった。当然、忍者との縁は深
 い。その石舟斎が、戦国時代に松永久秀に従属していたのである。」
 (ということは、松下之綱も、娘を柳生宗矩に出しているということで、
 伊賀との縁、伊賀忍者との縁が深いということになる。とくに服部党と
 近かったものと思われる。) 

 話は変りますが、「赤目」と「海人」との関係について―
 『歴史読本』編集の『伊賀・甲賀忍びの謎』によれば、
 「(赤目の地名は)本来は「赤目」でなく、「おう滝」「黄竜(おう)滝」
 「黄生(おう)滝」であった。「おう」は「海人」と関係する地名である。
 『万葉集』と『日本書紀』では、「意宇」を「おう」と読み、出雲国に
 は「意宇」の地に熊野大社がある。〜中略〜
  名張郡は早くから渡来人との混交があって、文化的に開けた土地であ
 ったようだ。」
ということであります。
 即ち、名張―服部連(伊賀服部氏の祖)―海部(海人)―倭姫(海部氏、名張
に訪れている)がつながってきます―
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月07日 05時18分56秒 ) パスワード

三つ柏さん


やはり名張のことはもっと色々情報を得ないといけませんね。

>名張―服部連(伊賀服部氏の祖)―海部(海人)―倭姫(海部氏、名張に訪れている)



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A7%AB%E5%91%BD

倭姫命(やまとひめのみこと。生薨年不明)

記紀に伝える古墳時代以前の皇族。第11代垂仁天皇の第4皇女。母は皇后日葉酢媛命。

天照大神を磯城の厳橿之本(笠縫神社、檜原神社比定)に神籬を立てて、
(垂仁天皇25年3月丙申)伊勢の地に祀った(現伊勢神宮)皇女とされ、
これが斎宮の直接の起源であるとも伝えられている。



第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、

神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる(御杖代は依代として神に仕える者の意味であるが、
ここでは文字通り「杖の代わり」として遷幸を助ける意味も含まれる。

ちなみに、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれる)。


後に、東夷の討伐に向かう日本武尊(尊は倭姫命の甥王にあたる)に草薙剣を与えている。

伊勢では、伊勢の地に薨じ、尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝える。伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女で、これが制度化されて後の斎宮となった。



伊勢神宮を創祀したときの天照大神から倭姫命への神託は『日本書紀』に次のように載せる。


倭姫命への神託
伊勢神宮を創祀したときの天照大神から倭姫命への神託は『日本書紀』に次のように載せる。

是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國

(この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。
傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ)

— 垂仁天皇25年3月丙申(10日)条

意味
伊勢は常世の国からの波が何重も寄り来る国であり、辺境ではあるが美しい国なのでこの国に鎮座しよう。



邪馬台国の卑弥呼

倭姫命を『三国志』魏志倭人伝に載せる邪馬台国の女王、卑彌呼に比定する説がある。
これは「邪馬台国畿内説」論者によって提唱される説で、命が神を祀る役目を負っていたことに由来する。



尾上御陵

伊勢神宮内宮と豊受大神宮(外宮)との中間に位置する伊勢市倭町の間の山(あいのやま)に倭姫命を埋葬したと伝えられる古墳があり(尾上御陵)、
昭和3年(1928年)10月宮内省より命の陵墓参考地に指定、
現在宮内庁により「宇治山田陵墓参考地」として整備、管理されている。

また御陵に隣接する倉田山には大正11年(1922年)に内宮の別宮として倭姫宮が創建され、そこで命を祀っている。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月07日 05時29分00秒 ) パスワード

「海」がキイワードですね。
常世の国、ですか。


http://nihonsinwa.com/page/417.html
常世の国

常世の国は、海の向こうにあるとされる異界のこと。

高天原が天にあり、地上の下に黄泉の国(死者の国)があるという三相構造の世界観とは別に、
海の向こうに神や死者の国があるという世界観があります。



複数の世界観の構造
日本の神話には東南アジアと似たものが見られます。例えば動物がワニの背を飛び越えて行く「因幡の白兎」、例えば「コノハナサクヤヒメとイワナガヒメ」のバナナ型神話、オオゲツヒメのおもてなしのハイヌウェレ型神話、これらの物語が東南アジアの神話に似ている、もしくはほとんど同一です。


日本の文化的源流は東南アジア
日本神話をざっとみると「思想」は中国の影響が見て取れます。古事記が日本最古の書物で、それ以前の日本の様子は中国の史書から知れるのみ。

しかし、当時の日本には文明が無かったというわけではなく、少なくとも「漢委奴国王印」を受ける国家があったのことはハッキリしているのです。金印を受けるには中国から「国」と認められる必要があり、単に中国の一方的な見解だけでなく、双方の意思疎通が必要です。それなりの文明があったのは間違いないです。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E4%B8%96%E3%81%AE%E5%9B%BD
常世の国(とこよのくに)

古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界である。
一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた、日本神話の他界観をあらわす代表的な概念で、
古事記、日本書紀、万葉集、風土記などの記述にその顕れがある。

こうした「海のはるか彼方の理想郷」は、沖縄における海の彼方の他界「ニライカナイ」にも通じる。



常世の国の来訪者

日本神話においては、少彦名神、御毛沼命、田道間守が常世の国に渡ったという記事が存在する。
浦島子(浦島太郎)の伝承にも、常世の国が登場する。



少彦名神

大国主国造りのくだりでは、少彦名神が大国主とともに国土を成した後に帰った地とされる。

『古事記』上巻の記述では、この国を作り固めた後、少彦名神は常世の国に渡ったとあり、
日本書紀神代巻の該当箇所では、本文ではなく第八段の一書第六の大国主の記事中に、大国主神が少彦名命と力を合せて国作りの業を終えた後、少彦名命は熊野の岬に行き、そこから“常世郷”に渡った、またその直後に異伝として「淡嶋(鳥取県米子市)に行き、登った粟の茎に弾かれて常世郷に渡ったとある。
この茎に弾かれた話は「伯耆国風土記」逸文にも出てきており、伯耆国の「粟嶋」という地名の由来譚となっている。



御毛沼命[編集]

御毛沼命(三毛入野命)は鵜草葺不合命の息子で、神武天皇の兄にあたる。

『古事記』の中ではまったく何の事跡もなく、上巻末尾の鵜草葺不合命の子を並べたところに、御毛沼命は波の穂を跳みて常世の国に渡ったとのみある。

『日本書紀』では三毛入野命が神武天皇の東征に従軍して軍船を進め熊野に至った折、暴風に遭い、「自分の母と姨はともに海の神であるのに、なぜ波を起こして我々を溺れさせるのか」と嘆き、波の秀を踏んで常世郷に往ったという。



田道間守[編集]

『古事記』では垂仁天皇が多遲麻毛理に時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)を、
『日本書紀』の垂仁紀では、垂仁天皇が田道間守を常世国に遣わして、「非時香菓」を求めさせたが、その間に天皇は崩御したという記述がある。「非時」は、時を定めずということから「いつでも香りを放つ木の実」を指すと解され、「今の橘なり」と言われる。橘は葉が常緑であることから、すぐに散る桜とは対照的に「永遠性・永続性」の象徴と考えられており、「非時香菓」もまた不老不死の霊薬と考えられる(「黄金の林檎」も参照せよ)。



浦嶋子

『万葉集』巻九・1740の高橋虫麻呂作の浦嶋子を詠んだ歌では、浦島子が漁に出て、七日帰らず海を漕いで常世に至り、海若(わたつみ)の神の宮に神の乙女とともに住んだという。神の宮では老いも死にもせず、永世にわたって生きることができたにもかかわらず、浦嶋子は帰郷し、自分の家が既に無くなっていることを知って開けてはならぬ玉笥を開けてしまう。この歌における常世の国は、海の神の支配する不老不死の世界であること、また外界とは時間の流れの異なる世界であるという観念が読み取れる。『日本書紀』の雄略天皇二十二年や、『丹後国風土記』逸文にも同様の話があるが、いずれも海中の「蓬莱山」に至ったという。



常世の国の重層的観念

先に引いたように、常世の国へ至るためには海の波を越えて行かなければならず、海神ワタツミの神の宮も常世の国にあるとされていることから、古代の観念として、常世の国と海原は分かちがたく結びついていることは明らかである。『万葉集』の歌には、常世の浪の重浪寄する国(「常世之浪重浪歸國」)という常套句があり、海岸に寄せる波は常世の国へと直結している地続き(海続き)の世界ということでもある。


しかしながら、常世の国には、ただ単に「海の彼方の世界」というだけでなく、例えば「死後の世界」、「神仙境」、永遠の生命をもたらす「不老不死の世界」、あるいは「穀霊の故郷」など様々な信仰が重層的に見て取れる。


常世の国=死の国という観想は、神武東征における御毛沼命の常世の国渡りの話から読み取れる。これは、ヤマトタケルの東伐の中で弟橘媛が嵐を鎮めるために海に身を投げたというエピソードと状況が非常に類似しており、仮にこの対比が妥当だとすれば、御毛沼命は海に身を投げてわが身を生贄としたのであり、直接に「常世の国=死後の世界」を暗示させる。


また、常世の国は神々の住まう神仙境としても信仰されている。『万葉集』の浦嶋子の歌におけるワタツミの神の宮(「常代尓至 海若 神之宮」)はまさに神の居所であり、『日本書紀』の垂仁紀では、天皇崩御の翌年に実を持ち帰った田道間守がついに間に合わなかったことを慨嘆して、「遠く浪を踏んで遙かに弱水(河川)を渡って至った常世の国は、神仙のかくれたる国、俗のところではない。このため往来に十年かかってしまった。帰還を果たせないと思ったが、帝の神霊によってかろうじて帰ることができた」と述べている。


田道間守が持ち帰った「非時香果」はまさに永遠性の象徴であり、常世の国に渡った浦嶋子が老いることも死ぬこともない世界に至ったという『万葉集』の歌からは、常世すなわち永久不変の国という観想が見られる。


それ以外にも、常世の国に渡った神話的存在がいずれも多少は穀物神・豊穣神の属性を持っていることから、常世の国は豊穣・穀物をもたらす「穀霊の故郷」としての信仰も考察されている。すなわち、少彦名が国造りに協力した創造的な神であること、御毛沼命の名義は「御食」に通じ穀物神の要素を持つと考えられること、そして田道間守が「非時香果」を持ち帰ったという事績があることより、「豊穣・穀物をもたらす存在」と「常世の国」が結び付けられうる、とする考察である。



常世の神

前述のように、「橘」は常世の国に生える「非時香果」のこととされた。『日本書紀』の皇極紀によると、橘に発生する「虫」を、常世神として祀る新興宗教が富士川の近辺で起こり、都にまで広がった旨が記されている。この神を祀れば、富と長寿が授かると説かれた。

しかし、民を惑わすとして秦河勝に討たれ、常世神信仰は終息した。


                 ↑コレも面白いですね。
[61]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月08日 15時29分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 名張が観阿弥の旗揚げ地であったということで、観阿弥・世阿弥について
も更に理解度を深めたいと思います―

 私の生地は池田荘の北境界に近く、江戸時代には池田の船役も課せられて
いたことから考えますと、ほぼ池田荘と一体といってもいいと思われる所に
位置しています。池田荘、羽鳥庄との境界線付近……。

 今は池田は天竜川の東岸=磐田側にありますが、暴れ天竜ということで、
江戸時代のいつからか、それ以前には池田は天竜川の西岸=浜松側にありま
した。そして、池田宿は、東西の交通(東海道)の要所でありました。

 遠江は元は平氏の支配を受けておりました。

 1158年 平重盛(清盛の長男)が遠江守に任ぜられる。
 1159年 平宗盛(清盛の三男)が遠江守に任ぜられる。

 1180年 池田の熊野御前、京に上り平宗盛に仕える。後、母の病気で帰郷。

 そして、1180年 頼朝が伊豆で挙兵し、鎌倉幕府成立―

 1183年 安田義定(甲斐源氏)遠江守となる。

 1184年 一ノ谷の戦い。平重衡捕えられ、鎌倉へ護送途中、池田宿に泊る。
     宿にて熊野に会う。6月に処刑される。

 1185年 壇ノ浦の戦い。宗盛・清宗父子、鎌倉へ護送途中、池田宿に泊る。
     宿にて熊野に会う。7月に父子共処刑される。

 その後―
 1434年 壇ノ浦の戦いから約250年が経ち、佐渡に流された世阿弥が、
     京都へ帰る途中、池田の宿に泊まり、熊野の事績を見聞し、帰京
     してこれを作詞作曲(謡曲)した。
 1442年 世阿弥は、8代将軍義政の前で「熊野」を演じ、ひとり将軍ばか
     りか、並居る諸将の感涙を催させて一躍有名になる。

     「熊野」は謡曲「松風」と共に、能300余番中、最高の地位を
     得ている。

 池田での熊野とのやり取りは、ここで具体的には書けませんが、それこそ
辛く苦しく悲しいやりとり(悲哀)であったということです。

 松尾大社の元荘園の池田荘、そこの長者(荘官か)の娘熊野、そして平家の
武将(平清盛の息子・孫)、そして平家と服部党の血を引く世阿弥……
 名作は、名作になるべきシチュエーションにあった。

 
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月09日 09時47分04秒 ) パスワード

<62>では「熊野」の説明がスッキリしなかったので削除し、他のサイトを当たりました。
こちらの方がずっと良かったのでアップ。

http://homepage2.nifty.com/~bunko/kyoku/217yuya2.htm


「熊野」と書いて「ゆや」と読みます。ここでは物語の女主人公の名前です。



謡曲「熊野」

  ベースは『平家物語』巻十「海道下(かいどうくだり)」

謡曲「熊野」(喜多流では「湯谷」)は、作者不明ですが、この曲名初出資料の『歌舞髄脳記」』が1456(康正2)年に成立していますので、それ以前に作られたといえます。

「熊野・松風に米の飯」といわれるほどの春の季節を代表する作品です。(「松風」は秋の名曲)


 原拠といわれるのは『平家物語』巻第十の「海道下」。
しかし、ここでは、重衡中将の海道下りであって、能以下で有名な宗盛と熊野の話ではありません。



      「・・・そもそも、熊野というのは、池田の宿の長者自身の名前で、その娘の名前は侍従である。
      重衡が、その侍従が歌の名手であることをいぶかると、かつて宗盛に仕え、老母の長者のもとに帰してもらえたかった時に、

          「いかにせん都の春も惜しけれど、馴れし東の花や散るらん」

      という名歌を歌って帰国を許されたという話を聞かされるといった、いわば劇中劇のようなエピソードに過ぎない。



それを、能においては、
その侍従の名を親の熊野の名に代えて、
宗盛がなかなか帰国を許さなかった理由として、
清水の花見があることを絡ませて、
一段能ではあるが、
二場からなる楽劇の大作に仕立てたものである。



したがって、後代の「熊野もの」の原拠としては、
『平家物語』というよりは、
能の「熊野」がそれであって、能の「熊野」を知らないことには、
ほとんどこの「熊野」の話は通じない。」(「平野健次「『熊野もの』の箏曲」より)




熊野の気持ち(オンナの気持ち)

   「東の花」−母の命をたとえた、熊野の歌

        いかにせん、都の春も惜しけれど、馴れし東(あずま)の花や散るらん

熊野は平宗盛に仕えて京の都におりますので、遠く離れた故郷の母のことが心配でなりません。
花見の宴で突然村雨に舞う桜の花を見ながら母への気持ちを歌います。
この歌に宗盛は熊野の気持ちに感動し、帰郷(暇)を許すのです。




宗盛の気持ち (オトコの言い分)

    熊野の帰国を許さなかったその理由

宗盛は、はじめ熊野の帰郷を許さず、身勝手オトコと評されています。
果たしてそうでしょうか?


                なるほど!ココが大事よね。



       「・・・「この春ばかりの花見の友と思ひ留め置きて候」とある。

             この一言の真意がわかるようになったのは、私もつい最近のことである。

             つい最近までは、単に色好みの大将であるから、熊野を帰さないのだと思っていた。

                               はい、わたくしも。


        しかし、京都に住んでみるとよくわかるのであるが、
        たかが清水の花見といえど、桜前線の予報と天気予報とを、よく研究した上で出掛けないと、容易に絶好の花見にはぶつかり得ないのである。

                   なるほど


いわば桜の女王に白羽の矢をたてた女性が、肝心の花見の前に帰国するなどといい出されては、宗盛としては、たまったものではない。

花見の友として、多分精一杯着飾らせて、ハレの舞台を踏ませてやりたいというのが、宗盛の愛情である。


                   おお、なるほど、宗盛は美しさの分かるオトコでしたか。


そして、「この春ばかり」というのは、
この年を最後として、
もはや宗盛は、都を落ちて修羅の巷に入らなけれぼならないことを予測していたに違いない。


                   すごぉ〜い!
                   こういう背景には思い至りませんでした。


してみれば、最後の花見、それに最愛の熊野を欠くというのは、
宗盛としては、
耐え難いことであったに違いない。

                   なるほどね。



こうした宗盛の愛情が、それは男の身勝手であるかもしれないが、まず、この宗盛の思いが前提となって、この劇は展開していく。

                   この部分が分かっていませんでした。

                   


清水へ向かう道行、
そして、清水へ着いてからの熊野の舞と、
和歌を短冊にしたためて宗盛に渡すくだり


その和歌に感動して宗盛が帰国を許すと、大急ぎでそのまま帰国の途につく熊野。


歌舞伎ならば、最後花道の七三のところで、空を見上げて雁が北へ飛ぶのを見送って、自らは急ぎ足で揚幕を目指すといった絵のような幕切れ。


舞台中央では、桜の花びらが散る中を宗盛がじっとこれを見送り続ける、
というような展開は、能であろうと歌舞伎であろうと、
とにかく美しい。」
(「同「『熊野もの』の箏曲」より)




さらに桜の美しさ                      この比較もスゴイ!

 源氏の桜と平家の桜



源氏の桜:

       「桜といえば、源氏方では、無論、「義経千本桜」の狐忠信と静御前との吉野山の道行が有名である。

        そちらは、完全に全山満開の桜でなけれぱならない。

        静のほうは、逃げるのではなく、あくまでも義経に対する「追っかけ」を実行しようというのである。



平家の桜:

        それに比して、この熊野のほうは、何とも薄情で桜の花もむなしく村雨に散ってしまうのである。



源氏方と平家方で、同じ桜の美しさでも、やや趣が異なる。

        義経も悲劇の名将とはいえ、演劇の世界では、勝修羅の人である。

        それに対して、平家方の公達たちは、ほとんど全員悲劇の人たちである。」(同出)




                          なるほどね!







         熊野が目指す東路とは、遠江国の池田宿。宿場町として栄えた現在の愛知県豊田町。


                              はい?





聞かせどころ        蛇足ですが

美しいドラマを楽の音で表現。
 唄い分けによる演出 熊野(シテ)と宗盛(ワキ)の対話を、謡曲に準じた分担で唄い分け、さらに、クセやキリの歌曲的部分も独自に唄い分けることによって、それぞれフシを聞かせるようにしています。桜の美しい情景をさらりと描き、能では有名な「中ノ舞」もわざと省略しています。
 江戸浄瑠璃ふうのコトバ 熊野(シテ)と宗盛(ワキ)のやりとりにみられます。
 合の手 「…春も千々の花盛り」のあとの合の手は、鼓の手をとり入れたような手があり、緩急のはげしい変化によって、雲行きが変わるさまを暗示しています。 
  曲前半部分は、『平家物語』の冒頭の文を引用し、仏教的無常感を漂わせる重々しい雰囲気から始まります。他方、宗盛に帰国を許された後半部分では、熊野の東国へとはやる心情がにじみでるかのようにテンポが速くなり、前半部分とは対象的な構成です。そして結末クライマックスもまた、「それは越路」 「我はまた」 という歌い分けが聞かせどころとなってます。








和歌の引用

 「熊野」の詞章には和歌からの引用がふんだんにあります。
  ここでそれらを並べてみました。



『袋草紙』などに見える和泉式部に恋した牛飼童の歌

            時雨する 稲荷の山のもみぢばは 青かりしより思ひそめてき



『新古今』釈教に清水観音の歌とあるものを『沙石集』に取った
           
            ただ頼めし めぢが原の さしも草 われ世の中に あらん限りは



『古今』春下、大伴黒主(六歌仙の一人)の歌

            春雨の 降るは涙か桜花 散るを惜しまぬ人しなければ



清少納言

            夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の関は許さじ



『古今』巻上、伊勢

             春霞 立つを見捨てて 行く雁は 花なき里に 住みや慣らへる
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月09日 10時11分10秒 ) パスワード

<63>の書き込みで  「熊野」の物語の美しさが一段と理解出来ました。
       (自分で気付けてたら最高だったのですが   泣)


圧倒的な「美」の世界が描かれていたのですね。

    そもそも文字で書かれた平家物語の世界が美しい。
    能の「熊野」の世界が美しい。
    そこに謡曲で、耳にも、さらに、一層、美しく奏でられた

そういう作品だったのですね。



     背景の季節が春ということ、
     時代は平家が最盛期を迎え、後は滅びゆく展開が待っている、
          そういう「時」が流れていて
     そこに美の文化・雅の世界を愛する平家の公達がいて
     美しい女を更に美しく演出したいとオトコは考え



その後は武士の時代になって行きますから
平安時代の貴族趣味の最後の華の世界を描いていたんだなと。
     



能 熊野

時は平家の全盛期、ワキ(平宗盛)の威勢の良い名乗りで幕を開ける。
宗盛には愛妾熊野(シテ)がいるが、その母の病が重くなったとの手紙が届いた。
弱気な母の手紙を読み、熊野は故郷の遠江国に顔を出したいと宗盛に願う。
だが、宗盛はせめてこの桜は熊野と共に見たい、またそれで熊野を元気づけようと考える(「この春ばかりの花見の友と思ひ留め置きて候」)。

熊野の心は母を思い鬱々としながらも、道行きに見る春の京の姿にも目を喜ばせる。
やがて牛車は清水寺に着いた。
花見の宴会が始まり、一方熊野は観音堂で祈りを捧げる。
やがて熊野は呼び出され、自分の女主人としての役割を思い出す。

宗盛に勧められ花見の一座を喜ばせようと、
心ならずも熊野は桜の頃の清水を讃えながら舞(中ノ舞)を舞うが、
折悪しく村雨が花を散らす。

それを見た熊野は、
          いかにせん都の春も惜しけれど、馴れし東の花や散るらん
の歌を詠む。

宗盛もこれには感じ入り、その場で暇を許す。
熊野は観世音の功徳と感謝し、宗盛の気が変わらない内にとすぐさま故郷を目指し出立する。

「東路さして行く道の。やがて休ろう逢坂の。関の戸ざしも心して。
明けゆく跡の山見えて。花を見捨つるかりがねの。それは越路われはまた。
あずまに帰る名残かな。あずまに帰る名残かな。」


そうか・・・しみじみ・・・
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月09日 10時37分52秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101524.html
スレッド64をご用意致しました。
キリの良いところでどうぞ。
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月09日 20時56分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今年も池田で能の上演があるはずですので、行くつもりでおります。

 「熊野」が桜に因んだシチュエーションということで、刺激されて浜松城
に行ってきました。浜松城の桜も今が満開、というか、このところの雨風に
当たって、全体的には花びらが既に二分程落ちてしまっておりました。
明日の日曜日が最後の見納めか、もちろん木によっても違いますし、また山
の方へ行けば、これからが満開という所もあるでしょう。
 私の場合、桜には「味噌おでん」です。浜松城には、市の方針により、
公的な店(テント)が一軒出されていて、焼きそばとかおでん・その他を売っ
ています。
 公園の岩に腰掛け、桜の花天井を見ながらおでんを食べる……これは至福
の一瞬でありました。
 しかしながら、風にはらはらと舞い落ちる白い花びらを見て、自分の人生
も一つの花びらと同じかと、妙に感じ入った次第であります。落ち行く平家
と熊野の涙が頭の中にあったからでしょうか……。
 
 明日は久しぶりに「芝刈り」です。桜が所々に咲いていて、その中でボール
を打つ。正に気分最高であります―
 
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月09日 22時56分39秒 ) パスワード

三つ柏さん


染井吉野は散り始め
山桜はそろそろ美しい時期じゃないかと思います。
予野の桜はもう少し先かと。



浜松城はテキヤは追い出しですか。

1軒だけ営業を許されているなんてちょっとサミシイです。
やっぱり屋台がズラッと並んで
アヤシゲな小屋なんかがかかっていたりすると最高です。見世物小屋とかね。
                                        あ、これは今は差別ということで人権侵害なのかな?


お城と桜は合いますよね。

姫路城なんて本当に絵の世界です。
名古屋城は広過ぎて間がのびた感じであんまり良くない。
大坂城も広過ぎて。
岡崎城は夜桜がそれはそれは美しくて幻想的でビールひっかけて歩いていると別の世界に迷い込みそうなオソロシさがあります。
松本城もいいかも。


    テキトーな広さの敷地というのか縄張りがブラブラ歩いて桜を見るのに良いかも。
    あはは


いいですね
桜の中の「芝刈り」運動。

もう少し先になると毛虫が出るのでその頃はご用心を。

[68]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月10日 20時21分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ゴルフといえば、今オーガスタでゴルフ大会が開かれております。日本の
松山英樹が一位のジォーダン・スピースと二打差の三位の位置におります。
明日の決勝戦(日本時間では本日の深夜から明朝)が楽しみです。
 私も、本日は松山さんという方とまわりまして、エイジシュートというも
のを初めて目撃いたしました。七十五歳の方が十八ホールのトータルスコア
を七十五でまわるというものです(ちなみに、パープレイは七十二)。日頃から
の精進のたまものであり、その努力を見習う必要がありそうです。

 

 
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月10日 22時54分38秒 ) パスワード

三つ柏さん

健康的な生活のようで安心です。


ゴルファーといえば
名前が混乱していますが

15年ほど前に聞いたことですが、レーシックの手術を受けた、と言ってる人がいました。
遠くを見るのには良いけど、と言ってました。



      丸山茂樹か、あのあたりの年代の人です。
      

今は松山英樹の時代ですね。
日本人が活躍するのは楽しみですね。
[70]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月11日 06時30分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 マスターズゴルフは、アメリカのスピースが優勝に向けてひた走りに走っ
ております。精密機械のような完璧なゴルフで、ミラクルであります。松山
は少し落ちてしまいましたが、10位以内に又入れそうな気配であります。

 さて、再来週の三重行きは、九鬼に行ってみたいと思っています。九鬼水
軍の発祥の地で、またブリ漁で有名な所でもあります。
 あとは松阪で神服織機殿神社、神麻続織機殿神社を見ます。松阪に泊まり、
翌日は津へ行く予定です。
 伊勢を中心の歴史、やはり倭姫が中核に存在しているような気がします。
 倭姫のことを深堀したいと思っています―
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月11日 08時34分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


三重県の地図を見て来ました。
愛知県の渥美半島と三重県鳥羽がすぐ近くなんてホント不思議です。
渥美半島なら浜松から近いですよね。(とはいえ渥美半島のあのド田舎をエンエンと走るのですからやっぱり遠いですけど)

でもやっぱり倭姫とか伊勢神宮を考えると
松阪の神服織機殿神社、神麻続織機殿神社と遠江の服織神社は近いですよね。
不思議です。

       ついつい  浜松ーー名古屋ーー四日市ーー松阪  で考えてしまうから見えるものが見えなくなってしまうんでしょうね。


どこかで三つ柏紋が見られますように!さらに服部氏関連であったら最高ですね。
津あたりで見られるといいですね。
[72]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月11日 10時38分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「浜松」と「松阪」の関係は、「賀茂真淵」と「本居宣長」の関係―国学、
万葉・古事記のつながりでもあります。これも偶然でない何か深いつながり
があるように思われます。いずれ深堀りしたいと思います。

 あを様の言われるように、鉄道ができるまでは、海上交通の方が盛んで、
名古屋・三河経由で歩くより、鳥羽・津等より知多・渥美・新井等へ船で行
き来した方が早かった、また安価に大量に荷物も運べ、場合によっては他領
を通って行くより、直接に港へ行った方が安全だったものと思われます。

 古代から近世までの交通史を一度まとめてみる必要があります。
 また、水軍の発生と歴史における活躍・貢献のウェイトも探究してみる必
要があります。

 水軍関係の資料はいくつか集めてあります。なかなか水軍の歴史を頭で整
理するのは大変で、未だ手つかずとなっていますが、今後「九鬼」水軍を突
破口にして理解を深めて行きたいと考えております。
 ただ、九鬼水軍は最初織田に仕えていたということで、尾張までの海岸線
を支配した……? 最後は家康―藤堂高虎についた……? 今後、深堀りを
いたします―
[73]丸三柏服部さんからのコメント(2016年04月11日 10時41分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 次回より、新しいスレッドに移ります―
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月11日 11時29分50秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「浜松」と「松阪」の関係は、「賀茂真淵」と「本居宣長」の関係―国学、 万葉・古事記のつながりでもあります。
>これも偶然でない何か深いつながりがあるように思われます。


はい
接点を伊良湖岬と考えれば、東と西、隣り同士。
遠い関係じゃなかった、ですね。
昔っから何か繋がりがあったんでしょうね。



九鬼水軍についてはココに出てました:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E6%B0%B4%E8%BB%8D

九鬼嘉隆は、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った織田信長に対する尊敬の念から志摩から三河へ船で向かった[14]。

            やはり伊勢志摩から三河にも行ってたのですね。


永禄11年(1569年)に織田信長の大淀城攻めの際には織田軍の水軍の将となる。2年後の織田家の大河内城の攻略作戦の折には、九鬼水軍は伊勢の海岸をすべて封鎖して、伊勢湾からの援軍を寄せ付けなかった[15]。この作戦には新たに織田信長の味方についた志摩国の水軍も加勢して、志摩水軍は全部九鬼水軍の配下となったが、志摩水軍の反発があり、志摩の他の水軍と九鬼水軍が交戦した。信長から学んだ戦術と織田家の鉄砲戦術で勝利する自信があった。九鬼水軍は船の上からの鉄砲一斉射撃の戦法で田城砦をひとたまりもなく陥落させた[16]。志摩の水軍は降伏して、九鬼水軍は小浜・泊浦・安楽島を攻略して信長の援助で3年がかりで越賀・和具を攻略して志摩の海を平定した。この活躍により九鬼嘉隆は信長から信頼されて、長島一向一揆の伊勢湾からの攻略や、石山本願寺攻めの際には、大安宅船を建造して敵ばかりか味方も驚かせた[17]。この船は長さ40メートル幅13メートルあり、鉄の板が貼ってあり造船に約2年かかった。大軍の毛利の水軍を大阪湾で打ち破る。九鬼水軍の名は日本全国に響いた。

伊勢国における関ヶ原の戦いの最大の前哨戦である安濃津城の戦いでは、嘉隆は西軍方の将として海上を封鎖し、東軍方の援軍を寄せ付けず、安濃津城陥落に寄与している[18]。また隠居の身ながら紀伊国新宮城主の堀内氏善の援軍を得て、東軍方に付いた息子・守隆が留守にしていた鳥羽城を奪取した[19]。しかし関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、嘉隆は答志島へ逃れ、家臣の豊田五郎右衛門に勧められるまま、慶長5年10月12日(グレゴリオ暦:1600年11月17日)に自害した[20]。

嘉隆亡き後、守隆は水軍を率いて大坂の陣を戦い、江戸城の築城に当たっては木材や石材を海上輸送して幕府に貢献した[21]。しかし守隆没後家督争いが起き、九鬼氏は二分された上に内陸へ転封となり[22]、水軍としての歴史は終わりを迎えた。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月11日 11時37分58秒 ) パスワード

九鬼氏の話:



http://yorozubp.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-41f1.html

海賊と九つの鬼たち



 津市に住んでいたころ、時々行っていた居酒屋に「海賊」という店があった。

店の造りはどうみても居酒屋なのだが、大将は自分のことをシェフと呼ばせていた。店の看板には西洋料理などと書いてあって大将はフランス料理が得意だというのだが、多くの客は信じていないからそんな料理は注文しない。

 刺身の後になんとかブイヤベースとかいわれたら一気に酔いが回りそうになる。一度だけ大将が勝手にビーフシチューをつくってくれたことがある。その時はまだビールしか飲んでいなかったから確かにうまかったのだが・・・。



 話したいのは食べ物の話ではない。


この大将は尾鷲市の九鬼(くき)という漁村の近くの出身である。
氏神さまは九木神社、鬼の字はなくなっている。
九鬼は 戦国時代に海将として名を馳せた九鬼義隆の出身地である。
九鬼一族は源平の戦いで活躍した熊野水軍の末裔で、織田信長、豊臣秀吉につかえた。


朝鮮戦役では 表面に鉄板を張り巡らせた日本丸という名の戦艦をつくり、李舜臣の亀甲船に唯一負けなかった。


徳川の時代になって兵庫の三田と京都の綾部の藩主に転封され、海との縁を切られた。



 この店を二度目に訪れたのは南アフリカのヨハネスブルグで出会った九鬼さんと飲んだ時である。
この九鬼さんは商社マンで、おじいさんの代まで九鬼に住んでいた。
九鬼一族の傍系の人であることを聞いていたのでご接待するなら海賊がぴったりだと考えたのである。



 任地に半年も住んでいると地名についてかなり知識を得ることになる。
尾鷲から熊野にかけて面白い地名がたくさんあるのだが、僕が関心を持ったのは「鬼」 の名のつく地名だった。

三重県だけでも、鬼の名のつく地名は二木浦(二鬼)、三木里(三鬼)、八鬼山(やきやま)、九鬼がある。


 以前、陸前の友だちが岩手県の九戸という村の出身だった。その友だちから、青森から岩手にかけて一戸、二戸、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸と一か ら九まで「戸」の名のつく地名があることを知らされていた。「戸」ってなんだろう。分かったことは平安時代からここらには馬を飼育する牧場がたくさんあっ て、順番に一から九まで名を付けられたということだった。


 戸の代表的地名は神戸である。「こうべ」「かんべ」などと読む。
神の戸だから神社が所有していた“領地”だった。
ちなみに関東から東北にかけて戸のつく 地名は数多くある。まず江戸だ。
水戸、松戸、登戸など上げればきりがないが、
いずれも「と」と発音し、青森と岩手の「へ」と区別する必要があるのかもしれ ない。




 熊野は水軍が育った土地柄である。
連想で思い付いたのは「戸」(へ)が馬なら「鬼」(き)は船かもしれないということである。
水軍が一から九まであって その水軍を熊野別当が統帥していた。
つまり戸は陸軍で鬼は海軍ということである。


そう考えると鬼の名のつく地名が一から九まで組み合わされていたとしても おかしくない。素人考えの続きである。


 平安時代末期の陸奥は安倍、藤原の天下で、陸奥をなんとか朝廷の支配下に置こうと源義家らが戦った地である。
戸と一から九までを組み合わせて地名としたのは源氏方であろうと考えた。
先住民が地名に順番をつけるはずがないからである。


 そうなると話は俄然おもしろくなる。熊野水軍はもともとが平家方だった。
宮廷で熊野信仰が盛んになるのは白川上皇からで、平清盛と時代を同じくする後白 河法王は熊野に34回も詣でている。

朝廷と熊野信仰との蜜月時代である。

宮廷の女官らにも熊野に連なる人々が多く輩出し、宮廷−平家−熊野の三位一体の時代が一定期間続いたのである。



 その熊野水軍が源平の雌雄を決する壇ノ浦の戦いで平家から源氏にくら替えした。
これが平家にとって最大の読み違えだった。
これは歴史的事実である。
弁慶は熊野別当の湛増の子どもだったという説があって、紀州の田辺市では歴史的事実のように語られている。
弁慶が熊野で寝返り工作したはずである。



 繰り返すが鬼の地名にはなんの根拠もない。
素人の連想である。
熊野市の中心地の木本で当地出身の演歌歌手である紀の川良子さんにその話をしたら、「木本」(きのもと)はむかし「鬼本」(きのもと)と書いたのだそうだ。
さも当たり前のように「だから木本は一鬼よ」というのだ。

 おー、やっぱりそうだったのか。
一鬼が見つかってなんとも嬉しかった。
木本、二木、三木と続いて、八鬼、九鬼がある。
じゃあ四、五、六、七、はどこにあるのだ。住宅地図をなめるようにして調べたがみつからない。


 五鬼だけは見つけた。奈良県十津川村の北山川沿いに前鬼という在所がある。
神代の時代、葛城山に住んでいた役小角(えんのおずぬ)が調伏した前鬼と後鬼 という夫婦の末裔が住む集落で、鬼の夫婦には五人の子どもがいて、
それぞれ五鬼熊、五鬼童、五鬼上、五鬼助、五鬼継を名乗り、代々修験道の山伏たちの世話をしてきたが、
明治以降になって、五家は五鬼助だけになったという。
名字だけではあるが五鬼は存在した。
だがこの五鬼はどうやら水軍とは関係がなさそうなのである。


 だれか四、五、六、七の鬼の地名を知っていたら教えてほしい。(伴 武澄)
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月11日 11時44分16秒 ) パスワード

ムカシ昔そのまたムカシですが、1970年代か?
三鬼陽之助が「うちは九鬼には負けっ放しで」とおっしゃってましたっけ。
詳しいことは忘れてしまいました。



三鬼氏

現和歌山県と三重県南部である紀伊国熊野の豪族、近年、三重県尾鷲市三木浦町に多数みられる。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%AC%BC%E5%A4%A7%E6%A8%A9%E7%8F%BE

三鬼大権現(さんきだいごんげん)は、真言宗系の天狗信仰や山岳仏教の信仰対象となる鬼神である。別名、厳島三鬼坊。


主に広島県廿日市市宮島の弥山の三鬼堂と、同島の大聖院内魔尼殿(まにでん)等に祀られる。

三鬼大権現は大小の天狗を眷属に従え、強大な神通力で衆生を救うとされ、地元では三鬼さんと親しまれている。

初代総理大臣の伊藤博文も篤く信仰したといわれる。

追帳鬼神(ついちょうきしん):「福徳」の徳を司る鬼神で、大日如来を本地仏とする。
時眉鬼神(じびきしん):「知恵」の徳を司る鬼神で、虚空蔵菩薩を本地仏とする。※
魔羅鬼神(まらきしん):「降伏」の徳を司る鬼神で、不動明王を本地仏とする。

(※弥山本堂にはその虚空蔵菩薩が本尊として祀られている。)

神仏分離令により元々祀られていた御山神社(みやまじんじゃ)から現在の三鬼堂へ遷された経緯がある。

由来

 弘法大師空海が大同元年(806年)に弥山を開基した時、三鬼大権現を勧請し祀ったのが始まりとされる。



真言

オン・アラタンノウ・ウン・ソワカ

また、三鬼大権現の功徳和讃も存在する。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月11日 11時52分46秒 ) パスワード

尾張の水軍は「佐治氏」です。
有名どころでは  信長の姪のお江  の最初の夫です。秀吉に勝ってに決められたとか。
      さらに勝手に離縁させられて、お江は秀吉の甥と再婚。
      再婚相手は朝鮮の役の時に死亡。

      で3人目の夫が家康の息子の秀忠。


この佐治さんはお江には従兄になるとかならないとか。





http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%B2%BB%E4%B8%80%E6%88%90
佐治 一成(さじ かずなり)

戦国時代から江戸時代前期の武将。織田氏の家臣。佐治信方の嫡男。母は織田信長の妹・犬。


尾張佐治氏は、知多半島の大野を中心とする西海岸地域を領する一族で、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いていた。その立場は織田氏に従属的な家臣とする説と、独立的な国衆で、父の信方が永禄初年頃に信長の妹・犬を室に迎えていることから、織田一門格であるとする説がある[1]。



父・信方は織田氏による伊勢長島攻めに従軍して戦死(天正2年(1574年)とも、元亀2年(1571年)[2]ともいわれる)したため、幼少の一成が家督を相続する[注釈 1]。


近江国小谷城主・浅井長政の娘・江[注釈 2]を妻に迎えたといわれており[3]、後に離縁したといわれているが、諸説ある。


天正10年(1582年)の本能寺の変による信長横死後、その次男・織田信雄に仕えるが、羽柴秀吉と徳川家康・信雄の敵対から発生した天正12年(1584年)3月の小牧・長久手の戦いにおいて、合戦後に家康が三河へ帰陣する途中の佐屋街道の渡しにおいて船を提供し、秀吉の怒りを買い大野を退去したという(佐屋の渡一件[注釈 3])。一方、文書上においては小牧・長久手後にも一成の大野支配が確認されているが、天正13年(1585年)の頃とみられる『織田信雄分限帳』においては一成の名が見られず、一成の大野退去は小牧・長久手後の論功行賞によるものであると考えられている[4]。


その後、伯父・織田信包の領する伊勢へ逃れてその家中にあり(丹波・柏原藩筆頭家老など[5])、後に信長と側室・お鍋の方の娘で従妹にあたる於振を正室に迎えたと伝えられる。


寛永11年9月26日(1634年11月16日)、京都にて死去した。享年66。墓所は龍安寺にある。




江(崇源院)との婚姻について[編集]

江(崇源院)の母のお市の方は、本能寺の変における信長横死後の天正10年(1582年)に織田家臣・柴田勝家に嫁ぎ、江ら浅井三姉妹も越前国北之庄に移る。翌天正11年4月24日(1583年6月14日)に勝家と市は北の庄において羽柴秀吉に敗北し自害しており、三姉妹は秀吉の元へ引き取られている。

天正12年(1584年)に一成が大野を追放され、江と離縁したとされる経緯から、一成と江の婚姻時期は天正12年初めで、佐治氏や信長の次男で一成の従兄にあたる織田信雄の懐柔を目的とした秀吉の意向であったものと想定されている[6]。 宮本義己は上記の小和田説に疑問を呈したうえで、婚姻を決めたのは秀吉ではなく、織田信雄であるとし、婚姻時期は天正12年(1584年)春としている[7]。

一方で、一成と江の婚姻を記した記録や佐治氏系図においては、時期や事情を記したものは見られず、近世後期の鳥取藩主池田家の由来書[8]には婚姻時期を信方戦死後の天正2年とする説もあり、犬の再嫁に伴い佐治氏との婚姻を必要としていた信長の意向であった可能性も考えられている[4]。なお、『徳川幕府家譜』においては浅井三姉妹のうち、茶々を「御台所」、初を「室」と記するのに対し、江については「妻」と格下表現を用いており、一成と江の婚姻の意義や婚約のみであった可能性など[4]、実態については議論が存在する。



脚注


1.^ 母の犬は信方の死後、織田家に戻り、室町幕府管領細川氏の細川昭元に再嫁している。こうした事情から、犬は一成の生母でない可能性も考えられており、また一成は信方の子でなく弟とする説も存在する。福田千鶴『江の生涯』(中公新書、2010年)

2.^ 江(崇源院)は長政と信長の妹・市の三女。姉には茶々(淀殿)、初(常高院)がいる。江は後に豊臣秀勝に嫁ぎ、秀勝死後は家康の三男・徳川秀忠に再び嫁いで将軍御台所となっている。長政は天正元年(1573年)に信長により滅ぼされており、市と三姉妹は織田家に保護され尾張へ戻っていたと考えられている。

3.^ 『柳営婦女伝系』ほか。佐屋の渡一件については不明であるが、小牧・長久手合戦の発端となった事件として尾張では信雄家臣の星崎城主岡田重孝が秀吉に内通して粛清されており、一成もこれに関係して大野退去に至った可能性が考えられている。瀧田(1965)

[78]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月11日 11時57分05秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sazi_k.html

佐治氏
●日の丸扇/軍扇
●桓武平氏  
大野佐治氏の後裔の方より情報をいただきました。ちなみに、『系図綜覧』所収の佐治氏系図には軍扇紋と記されています。  



 佐治氏は甲賀郡佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。甲賀は近江国甲賀郡の地をいい、伊賀と並んで忍者のことが思われる。戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。そのなかでも佐治氏は、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。

 佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。そして、業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。以後、佐治氏は佐治郷にあって激動の中世を生きたのである。



知多大野に勢力を築く

 近江佐治氏の分流の一家に、尾張の知多半島に勢力を張った佐治氏が知られる。そもそものはじめは、佐治氏の一族という佐治備中守が、一色氏の重臣に迎えられたことにあるという。

 一色氏は室町幕府将軍足利氏の一族で、鎮西管領、若狭・三河守護職にも補されるなど幕府の有力者であった。十四世紀の中頃、知多半島へ進出した一色氏は青海山に大野城を築き、大野湊を中心に伊勢湾の海運を手中におさめ知多半島の実権を掌握した。ところが、十五世紀のはじめ、一色氏は将軍足利義教と対立し守護職を奪われ、次第に勢力を失墜していった。さらに、応仁・文明の乱を経て戦国時代になると、家督をめぐる一族の内訌もあって没落の運命となったのである。その一色氏の内訌に乗じて勢力を拡大したのが、佐治氏と田原城主の戸田宗光であった。一色氏にとって代わった佐治氏は、大野・内海を拠点に知多半島西部を掌握した。

 一方、知多に勢力を振るった佐治氏の初代は、室町時代後期、近江国から移住してきた佐治駿河守宗貞とする説もある。すなわち、一色氏に仕えた駿河守宗貞は、主家の内訌をついて勢力を拡大、ついには一色氏を逐って大野城主となったというものである。そして、その領地は三万石とも六万石ともいい、ひとかどの戦国大名といえる存在となった。

 駿河守宗貞のあと、上野守為貞(為景とも)、八郎信方(為興とも)、与九郎一成と続いた。そして、佐治氏は緒川城の水野氏と知多半島を二分するほどの勢力を持ち、大野衆と呼ばれる佐治水軍の将として伊勢湾全域の海上交通を掌握したのである。

 やがて、尾張の織田信長が台頭してくると佐治氏は信長に属し、信方は信長の妹である於犬の方を正室に迎えた。しかし、天正二年(1574)、信長に従って伊勢長島の一向一揆攻めに出陣した信方は、一揆方の反撃に遭って討死した。二十二歳という若さであったが、於犬の方の間に与九郎一成と久右衛門秀休の二人の男子をもうけていた。信方が戦死したのちは、為貞が幼い一成を補佐して家政を取り仕切った。



乱世に翻弄される

 天正十年六月、本能寺の変が起り、織田信長は明智光秀の謀叛によって横死した。信長の死後、明智光秀を山崎の合戦に討ち取った羽柴(豊臣)秀吉が出頭、信長後をめぐって対立した柴田勝家を賎ヶ岳の合戦で破ると、にわかに天下取り競争のトップへと躍り出たのである。天正十二年、一成は秀吉のすすめで、浅井長政と信長の妹御市の方の三女で従姉妹でもある小督の方を正室とした。一成は織田家の一族として、秀吉から優遇されていたのである。

 ところが、秀吉の出頭を快しとしない織田信雄が徳川家康と結んで秀吉に対抗すると、一成は豊臣秀吉に従わず、織田信雄・徳川家康連合軍に加担した。そして、小牧・長久手合戦においては家康方として出陣した。その結果、秀吉の怒りを買い、戦後、小督と離縁させられ、さらに所領没収のうえ追放処分となった。

 秀吉から追放された一成は伊勢国に蟄居し、伊勢安濃津城主で伯父にあたる織田信包の家臣となった。そして、新たに妻を迎え為成をもうけたという。慶長三年(1598)、信包が丹波国柏原に移封されるとそれに従った。系図によれば、一成は寛永十一年(1634)九月六十六歳を一期として京都で病死したと伝えられている。かくして、佐治氏が大名に返り咲くことはついになかった。

 一方、一成と離縁させられた小督は、秀吉の甥で岐阜宰相と呼ばれた羽柴秀勝のもとへ嫁いだが、秀勝は朝鮮の役で陣没した。その後、徳川家康の三男で江戸幕府二代将軍となった徳川秀忠に嫁ぎ、千姫、三代将軍家光らを生んだ。まことに数奇な運命を歩んだ小督であったが、ついには天下人の妻、母として生を終えたのである。・2006年12月15日

【参考資料:甲賀郡誌/甲賀町史/常滑市誌/図説知多半島の歴史/知多郡史 ほか】  →甲賀佐治氏の情報   続く
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月11日 12時01分34秒 ) パスワード

続き

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sazi_koga.html


佐治氏
●九本骨扇に日の丸
●桓武平氏  

大野佐治氏の後裔の方より情報をいただきました。大野佐治氏は丸がなく、本家に近い筋が九本骨の日の丸扇、その次が七本骨の日の丸扇(掲載家紋)、最後の末流の佐治家が五本骨の日の丸扇と、嫡流に近いほど扇の骨の数が多くなっているそうです。家紋の嫡庶の区別のあり方が分かり、興味深い。


 佐治氏は甲賀郡佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。甲賀郡は近江国南部に位置し、伊賀と並んで忍者の里として有名なところである。戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。そのなかでも佐治氏は、山中氏、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。
 佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。そして、業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。

乱世を生きる

 佐治氏の歴史に関しては不明なところが多いが、南北朝の動乱期、佐治河内守基氏と一族が近江守護佐々木道誉に属し、北朝方として活動していた。建武四年(1337)の正月、後醍醐方の勢力が信楽に蜂起した。これに対して道誉は、山中・岩室・美濃部・小佐治ら甲賀武士たちをもって迎撃させた。その後の一連の戦いにおいて、山中道俊が本隊を率い、小佐治基氏は別働隊に属して奮戦したことが『小佐治基氏軍忠状』によって知られる。
 その後、近江国南半分の守護職に佐々木六角氏が補任されると、甲賀郡の武士たちは六角氏の被官に組み込まれていった。佐治氏も六角氏の被官として勢力を維持、応仁の乱に際しては、美作守為氏が六角軍の一翼を担って各地に転戦している。また、為氏は乱の最中の文明二年(1470)、小佐治、伊佐野、平野三ヶ村の氏神である佐治神社の再建を行ったことが棟札に残されている。
 応仁の乱を生き抜いた六角高頼は、寺社領を押領するなどして勢力を拡大していった。幕府からは再三にわたって返還命令が発せられたが、逆に高頼は幕府奉公衆の所領までも押領するようになった。長享元年(1487)、将軍足利義尚は幕府の命令を無視し続ける高頼を討伐するため、近江に出陣した。いわゆる長享の乱であり、佐治河内守は三雲氏らとともに高頼を支援して活躍。義尚の拠る鈎の陣を夜襲、大いに武名をあげた。この戦いに活躍した甲賀武士五十三家が甲賀五十三家と呼ばれ、そのなかで高頼から感状をもらった二十一家がとくに甲賀二十一家に数えられ武名を讃えられたのである。

■甲賀二十一家
●柏木三家
山中十郎 伴佐京介 美濃部源吾
●北山九家
黒川久内 頓宮四方介 大野宮内小輔 岩室大学介 芥川左京亮 隠岐右近太夫
佐治河内守 神保兵内 大河原源太
●南山六家
大原源三郎 和田伊賀守 上野主膳正 高峰蔵人 池田庄右衛門 多喜勘八郎
●荘内三家
鵜飼源八郎 内貴伊賀守 服部藤太夫


 その後も六角氏は、戦いに敗れると甲賀に奔り、甲賀武士たちの支援を得て勢力を盛り返すということを繰り返した。時代は下剋上が横行する戦国乱世であったが、甲賀諸将の中から甲賀を統一して六角氏を倒して戦国大名に飛躍する者は出なかった。戦国時代、甲賀の武士たちは同名中を組織し、さらにそれが集合して「甲賀郡中惣」という地縁的連合体を結成しており、突出した大名が出にくい環境にあった。いいかえれば、甲賀郡の平和と秩序を維持した強固な自治組織をみずからで運営し、その庇護者として六角氏を立て、その軍事力の一翼を担ったとも考えられる。  


画像説明
佐治城址を常楽院方面から見る。城址には虎口とおぼしき土塁の跡、城主と奥方が入水したという桝形池が往時を偲ばせ、出丸と思われる高所には小さな祠が佇み周囲には堀切の跡が残っている。城址はのどかな丘陵にあり、その素朴な風景は何かしら懐かしさを感じさせ、落城の修羅場があったことは微塵も感じられない。

 

画像説明
佐治氏が佐治城の鎮護社として建立した佐治神社、文明二年の棟札には「佐治美作守平為氏」の名が残されている。・境内の神馬像には、佐治神社の神紋「巴」が刻まれている。佐治神社の北方にある佐治氏の菩提寺常楽院を訪ねると、境内に建立された墓石に佐治氏の「九本骨扇に日の丸」紋が刻まれていた。



佐治氏の没落

 やがて、江北の守護職であった佐々木京極氏が勢力を失うと、その被官であった浅井氏が勢力を拡大してきた。そして、長政が浅井氏の当主になると、六角氏と対立するようになった。両者は小競合いを続けたが、次第に六角氏は劣勢へと追い込まれていった。

 一方、永禄年間(1560ごろ)になると、尾張の織田信長が台頭、天下布武を目指す信長は浅井氏と同盟を結び上洛を企てた。永碌十一年(1568)、足利義昭を奉じて上洛の軍を起した信長は六角承禎に協力を求めたが、浅井氏と対立関係にある承禎はきっぱりと拒絶すると観音寺城に立て籠った。信長の攻勢に敗れた承禎は、観音寺城を脱出すると甲賀に奔りゲリラ戦を展開した。しかし、すでに六角氏には往年の求心力はなく、元亀元年(1570)、鯰江城落城をもって六角氏は没落した。

 当時、佐治氏の当主は美作守為次(為祐とも)であったが、為次は六角氏を離れて織田信長に通じたようだ。永禄十一年、信長の上洛軍に従って六角氏攻めに加わり、それらの功により佐治、平野、伊佐野、稗谷、今宿を安堵され、さらに蒲生郡にも給地を受けた。所領併せて一万四千石、佐治氏は小さいながらも大名に出世した。

 天正十年(1582)六月、信長が本能寺の変で横死すると、為次は豊臣秀吉に属して勢力を保った。しかし、天正十三年、為次ら甲賀諸将は秀吉の怒りにふれ領地没収の処分を受けた。すなわち、秀吉の紀州攻めに従軍した甲賀武士たちは、紀ノ川の堤防工事を担当したが、工事が遅れて秀吉から責任を問われたのであった。その背景には、秀吉が織田信雄・徳川家康連合軍と尾張で戦ったとき、甲賀武士たちが家康方に通じた気配があったこと。さらに秀吉は、甲賀武士たちが郡中惣をもって自立意識が強かったことを嫌い、甲賀武士たちを排除する機会を待っていたようだ。

 かくして、秀吉の理不尽ともいえる甲賀破議によって、甲賀武士たちはにわかに没落の憂き目となった。この秀吉の命に対して、為次ら佐治一族は佐治城に籠って抵抗した。しかし、多勢に無勢、堀秀政、中村一氏らに率いられた攻撃軍にさらされ、佐治城は敗れて落城、佐治氏は没落した。・2007年01月08日

【参考資料:甲賀郡誌/甲賀町史/甲賀武士と甲賀・知多大野の佐治一族  ほか】続く





[80]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月11日 12時03分53秒 ) パスワード

続き


■参考略系図
・『系図綜覧』所収の佐治氏系図から作成。本文の記事に記した名と違う部分があるが、そのまま掲載した。初代の為綱は伊佐野とあるところから、近江国甲賀郡佐治郷五ケ村のうち伊佐野を領した佐治一族の一人と思われる。



[81]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月11日 12時07分30秒 ) パスワード

甲賀系佐治氏系図

参考略系図
・『佐治平氏由緒書』『甲賀郡誌』などの記述から推論して作成、親子・兄弟関係は必ずしも明確ではありません。詳細(正確な)系図をご存知の方、ご教示ください。


[82]空の青海のあをさんからのコメント(2016年04月11日 12時18分48秒 ) パスワード

思わぬところと思わぬところが繋がっていますね。
さすが日本。

まさか佐治氏が平氏の流れだったとは。

それで平氏の子孫だとか自称している織田家と縁があって更に浅井の末娘のお江とも結婚?



細かい事情は分からないけど日本ならでは有り得るんだろうなと思います。

わたくしもこの平熱で父方で明らかに繋がる人とは母方でも思わぬ形で繋がっていたのを最近知ったということも有りますし。
      遠く離れた母方の身内から明らかにされてビックリしました。
[83]A.AKECHIさんからのコメント(2016年05月14日 17時17分10秒 ) パスワード

 丸三柏服部様。  
 〔15〕千賀地の「半蔵」のことですが、〔18〕でご指摘のように、服部半蔵正成は三河生まれではないでしょうか? 千賀地城跡の碑文を書かれた方が勘違いされたのかも知れません。
 千賀地の「半蔵」は、正成の父・保長、あるいは元則の父・則直ではないでしょうか?
〔40〕名張藤堂家の桔梗紋は、土岐桔梗です。
 その由来は、美濃の土岐家→越前の朝倉家→朝倉家臣出身の藤堂高吉家臣→高吉が採用 ということが分かっていますが、土岐の縁者でない高吉(丹羽長秀の三男)が家紋にした理由は不明です。
[84]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月14日 23時42分10秒 ) パスワード

A.AKECHI様

 地元での「半蔵」の説明書きはあいまいでした。詳しく書くと諸説を説明
しなければなりませんので長くなります。従ってほどほどに書いたのだと思
いますが、私もおかしいと認識しておりました。AKECHI様の言われる
とおりだと思います。

 一般の皆様は、半蔵と言えば忍者くらいにしか思っていない人が多いので、
うわべだけサラッと流してしまった方が、かえっていいのかも知れないと、
変に納得はしておりました。

 名張藩邸に行った時に、一番先に目に飛び込んできたのが桔梗紋でありま
した。その由来について係りの方に質問しなかったのが今更ながら悔やまれ
ます。

 桔梗には、「更と吉」の文字が入っていて「更に吉」で縁起がいいとか、
陰陽道における五芒星の意味もあるようです。

 遠江でも掛川城主だった太田氏が桔梗紋でありましたし、森町には桔梗寺
と呼ばれる武藤氏の菩提寺香勝寺があります。

 桔梗に関する興味は尽きません―
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月15日 07時24分16秒 ) パスワード

>名張藤堂家の桔梗紋は、土岐桔梗です。

>その由来は、美濃の土岐家→越前の朝倉家→朝倉家臣出身の藤堂高吉家臣→高吉が採用 ということが分かっていますが、
>土岐の縁者でない高吉(丹羽長秀の三男)が家紋にした理由は不明です。


不思議・・・
藤堂高吉(丹羽仙丸)の藤堂家に対する意趣返し?嫌がらせ?
藤堂高吉は気の毒ですね。

腹いせに明智の家紋を使った?




丹羽氏の家紋


1.
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11100113436
Q
丹羽氏の家紋は?

A
直違紋(すじかいもん)の一種ですね。

江戸時代において陸奥二本松を領した大名の丹羽氏が使用した直違紋は「丹羽直違」といい、縦長に描きます。

丹羽氏の直違紋の由来については、長秀が戦の後に馬印(笹枝に金の短冊を複数吊るしたもの)を見たところ残った短冊が交差していたものを家紋としたというものと、長秀が刀をぬぐったその跡が直違の印であったのを豊臣秀吉が見て紋として使用するように命じたというものがありますが、確たる証拠はありません。

軍旗や馬印を描いた絵図ではこの縦長の直違紋が描かれた旗があるので、桃山時代から江戸時代以前の成立であるのは間違いなさそうです。



2.
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1339255523
Q
以前、複数の文献から丹羽家の家紋を調べていて、正式名称は『丹羽直違』と書かれていたんですが、文献のタイトルが思い出せません。
最近、丹羽家の御貸具足の胴丸に合印された家紋の名称が『抱違棒』というのを見て、正式名称は何なのかを知りたくなりました。

A
戦国武将の丹羽長秀は馬印の直違(筋違、すじかい)を家紋にしました。http://www.tokyoisho.co.jp/event/number/015.html
家紋の丹羽直違は角度を付けた様です、子孫の二本松丹羽の家紋は丹羽直違、三葉笹、三木瓜です。

具足の『抱違棒』は馬印に合わせて「四つ組直違」と推察致します。

[86]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月15日 07時32分45秒 ) パスワード

藤堂高吉は秀吉にも腹を立てていたでしょうし
藤堂家にも腹を立てていたでしょう。

そもそも実家の丹羽家は秀吉より格の高い家だったし
藤堂家に対しても丹羽家の方が格上。


それなのに、何でこんな扱いを受けなくてはならないのか?という鬱屈した思いがあったでしょうね。


嫌がらせで桔梗の紋を用いたのでしょうか?
秀吉への嫌がらせ、藤堂家への嫌がらせ。


すると  当時の武士達は明智が何故ああなったのか知ってた?
高吉の紋に込めた嫌がらせも分かってた?



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E5%90%89

藤堂 高吉(とうどう たかよし)
江戸時代前期の武将。丹羽長秀の三男で、羽柴秀長、次いで藤堂高虎の養子となった。母は杉若無心の娘。


生涯

天正7年(1579年)、近江佐和山城で丹羽長秀の三男として生まれる。幼名は仙丸(せんまる)。天正10年(1582年)の織田信長の死後、羽柴秀吉が長秀を取り込むため、仙丸を秀吉の弟・秀長の養子として迎えた。このため、実子の無い秀長の後継ぎになるはずであったが、天正16年(1588年)に秀吉が自身と秀長の甥の秀保を秀長の後継ぎにしようとしたため、その話は消滅してしまった。

しかし、後継ぎを仙丸にしようとしていた秀長は秀吉に反発し、秀吉と秀長の仲は険悪になってしまった。[要出典]そこで、当時秀長の家臣であった藤堂高虎が仙丸を養子としてもらい受けた。仙丸は従五位下宮内少輔に叙任され、名を高吉に改めた。

文禄元年(1592年)の文禄の役において朝鮮半島に渡海し、武功を挙げた。文禄4年(1595年)、溝口秀勝の七女を娶るが数年で離縁し、その侍女の慶法院を側室に迎えている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも東軍に与して活躍、伊予2万石を領した。高虎は実子に恵まれなかったため、養子として迎えた高吉を後継者にしようと考えていたが、慶長6年(1601年)に高虎に実子・高次が生まれると、その話も消滅したため、伊予を離れて高虎の家臣となった。高虎は高吉を疎んじて参勤交代に同伴しなかったという。

慶長9年(1604年)、加藤嘉明と些細な騒動を起こしたため蟄居処分を受けたが、慶長11年(1606年)に許されて江戸城普請を務めた功績により、伊予今治城主(高虎の城代)に任じられ、1万石を加増、名張川の治水や城下町の発展に努めた。地元では現在でも名君と慕われているという。

慶長19年(1614年)からの大坂の役では徳川方として参戦し、夏の陣では長宗我部盛親隊を相手に活躍した(八尾の戦い)。寛永7年(1630年)、養父の高虎の死後はその子・高次の家臣として仕えるようになる。寛永9年(1632年)、松平定房が今治へ移封されることとなったため、伊勢国へ2万石の移封となった。しかしその後、寛永13年(1636年)、高次の命により更に伊賀国名張に移封され、名張藤堂家の祖となる。次男以下3名に5000石を分知し、1万5千石となった。

高次は高吉の存在を危険視したとされ(幕府に高吉を藤堂本家から独立した大名に取り立てようという動きがあったためといわれる)、高虎の葬儀にも出席させず、帰国を命じている。名張移封も高吉に対する高次の冷遇の一環であったといわれる。その後、享保年間まで名張藤堂氏と本家との対立は続いた。名張藤堂家は代々宮内を称し、藤堂宮内家ともいう。


11代の高節の時に明治維新となり、子孫は現在も東京に在住する。

寛文10年(1670年)に死去した。享年92。墓所は名張の徳蓮院にある。
[87]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月15日 21時30分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 
 第二次天正伊賀の乱の決戦地―名張には、伊賀人の憤怒のマグマがあった
……そしてその憤怒は、本能寺へ一直線に向かった(一番乗りした)のだと思
います。

 名張藤堂藩の桔梗紋は……元丹羽家であった高吉のショウ・ザ・フラッグ
だった(伊賀と明智へのシンパシィ、藤堂宗家・豊臣への反骨及び自身の意地
)……なるほどそうかも知れませんね……。
 
[88]空の青海のあをさんからのコメント(2016年05月15日 22時54分06秒 ) パスワード

三つ柏さん


藤堂高吉という人は神童だったのかもですね。

それで秀吉に拾われて秀長の養子になった。
秀長に可愛がられた。


             ここまでは高吉は幸せだったでしょうね。


でも優秀過ぎて秀吉は高吉を警戒し秀長の後継者にするのは避けた?

             ここから先、高吉の運命の歯車が狂っていった。


で、藤堂の養子になった。

             秀長の後継者になれなかったどころか
             藤堂に引き取られただなんて、なんで?怒怒怒!
             さらに高次から冷遇された。


で、藤堂家の中で、冷や飯食い。
その上に、名張藤堂家では「殿様」という尊称はホンケに遠慮しなくてはならなかった。



あの「桔梗紋」にはどういう意味が込められていたのでしょうね。
実は明智の事件に藤堂高虎も絡んでいた?


謎が謎を生みますね。
にっこり
[89]A.AKECHIさんからのコメント(2016年05月16日 20時22分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様。

>藤堂家に対する意趣返し?嫌がらせ?

 そんな発想があるとは、驚愕です。
 (武将ですから、実際はもっと政治的な何かの意図があったのでしょうが、残念ながら伝承されていないようです。)


丸三柏服部様。

>名張藤堂藩の桔梗紋は

 残念ながら「名張藤堂藩」という藩はありませんでした。
[86]のように高吉は高次より格上との思いから、出来ればそうしたかったようですが、逆に次男、三男らを津藤堂藩の家臣に出すことで取り込まれてしまいました。
 でもご安心下さい。藤堂は藤堂でも、高虎ではなく家康から「藤堂」姓を賜った元則が初代である上野城代の藤堂釆女家に仕えたのです。ご存知のとおり、藤堂采女家は、もともとは「服部家」ですから…
 高吉の立藩の思いは、曽孫の長熙(丹羽長秀の玄孫)に受け継がれ、「名張騒動」となりましたが、津の藤堂家に鎮圧されました。
[90]丸三柏服部さんからのコメント(2016年05月17日 05時42分27秒 ) パスワード

A.AKECHI様

 現存する名張藤堂家邸跡は、往時の十分の一位ですので、往時にはあたか
も大名屋敷の態をなしたであろうと想像いたしました。城下町としての体制
も整備したということなので、「藩」と勘違いしてしまいました。邸跡での
口頭での説明の中で、何か「いざこざ」があったということを聞きましたが、
耳から得た情報は何パーセントしか記憶に残らないので、ボイスレコーダー
で記録しておくことも必要であると最近つくづくと感じています。
 
 明智家に関係する者が、伊賀に逃れて忍者になったという情報をどこかで
見た覚えがありますが、その資料が見つからない。やはり、見た時にノート
に記録しておかなければわからなくなるということも、最近つくづく感じて
おります。
[91]A.AKECHIさんからのコメント(2016年05月17日 14時50分48秒 ) パスワード

丸三柏服部様。

>あたかも大名屋敷の態をなしたであろうと…
>城下町としての体制も整備した…

 そのとおりですので、「名張藩」だったと思われても無理はありません。

 「服部の謎」とは関係ないことですが、訪問された藤堂家邸は、昭和、しかも戦後まで住居として使うことで名張藤堂家が自力で保存されておられました。本当に頭の下がることです。因みに、津の藤堂家邸は現在残っていないのではないでしょうか?

 明治維新の後、上野の藤堂采女家は「藤堂」姓を(徳川から戴いたものなので?)返上し、「保田」に戻られたこともあって、我が家とは疎遠になってしまいました。
 むしろ名張の藤堂様の方が、戦後になってからも(三重県庁にお勤めだったので通勤途中に)何度もお会いする機会があった、と聞いたことがあります。
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