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 投稿番号:101512 投稿日:2016年02月09日 17時59分11秒  パスワード
 お名前:ミヤハラより
平川家について30

コメントの種類 :その他  パスワード

日本の苗字七千傑様、白石様、酒井とも様
皆様、大変ありがたい御教示の数々を頂き心より感謝申し上げます。

私の調査も新しい局面を迎えたようです。

今後とも、ご教示の程、どうぞよろしくお願い致します。

こちらは「平川家について28−1」コメント80より続きます。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101506_79.html

[1]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年02月09日 20時29分01秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>旧春野町でも、なかなかに山の方になりますね。
 
火防の神様として和銅二年創建の古社、秋葉神社が有り全国の本社。
静岡県浜松市天竜区春野町領家に鎮座。
全国に分社があり、江戸期には各地で秋葉代参講が組織され、山の中とはいえ多くの参詣者が訪れている。
その秋葉山の北東部に、春野町宮川字久保田が存在する。
現在、宮川は河内、高瀬、久保田、平木、里原の五つの小字から構成。
[2]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月10日 09時29分58秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございました。

〉火防の神様として和銅二年創建の古社、秋葉神社が有り全国の本社。
〉静岡県浜松市天竜区春野町領家に鎮座。
〉秋葉山の北東部に、春野町宮川字久保田が存在する。

ウィキで調べたのですが
秋葉山本宮秋葉神社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E7%A7%8B%E8%91%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE
秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)は、静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する、標高866mの秋葉山の山頂付近にある神社。日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約800社)、秋葉大権現および秋葉寺の殆どについて、その事実上の起源となった神社である

祭神と呼び名[編集]
祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。秋葉山に鎮まる神で「秋葉大神」(あきはのおおかみ)とも称される。
江戸時代までは秋葉権現を祀(まつ)る秋葉権現社(あきはごんげんのやしろ)と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆(しんぶつこんこう)の山だった。 秋葉大権現について秋里籬島『東海道名所図会』(寛政9(1797)年成立)では「秋葉山大権現〔本堂の側にあり当山鎮守とす〕祭神大己貴命〔或曰式内小國神社〕三尺坊〔秋葉同社に祭る当山護神とす〕」と三尺坊とは異なる鎮守神とし、僧侶の編纂した「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」(享保2(1717)年)では三尺坊を秋葉権現であるとしている。実際には鎮守と三尺坊は混淆され、人々は秋葉大権現(あきはだいごんげん)や単に秋葉山(あきはさん)などと称し信仰した。
賀茂真淵門人の内山真龍は『遠江国風土記傳』(寛政11年(1799)成立)で『日本三大実録』に記載された「岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)」の後身であるとの説を唱えた。
三代実録に曰く「貞観十六年五月十日、遠江国正六位上岐氣保神に従五位下を授く」、と、按ずるに倭名鈔に岐氣は山香郷の郷名なり、保は火なり、此山岐氣の保神社の地に当る、而して火防神と称するか
神仏判然に際し教部省は秋葉権現を三尺坊とは異なる神祇(鎮守)と考証し、その上で秋葉権現社を秋葉神社と改称することを命じた。この時祭神名については修験の家伝を採用し「火之迦具土大神」とされた。
また別称として古くは寺号を霊雲院(りょううんいん)と称した。
社紋[編集]
神紋と社紋を分けており、神紋は「七葉もみじ」(しちようもみじ)、社紋は剣花菱である。剣花菱は武田信玄の寄進と社伝にある。

サイト 秋葉信仰とは
http://tohyamago.com/rekisi/akiba_sinkou/index.php
こちらにも詳しく記述されていました。

秋葉権現 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E6%A8%A9%E7%8F%BE
秋葉事記[編集]
「秋葉事記」(原本不明だが伴信友『神名帳考証』(文化10年(1813)成立)に抄録)及び秋里籬島『東海道名所図会』(寛政9年(1797)成立)では
本堂聖観音〔行基作〕、秋葉山大権現〔当山鎮守〕祭神大己貴命〔或曰式内小國神社〕、三尺坊〔秋葉同社ニ祭ル当山ノ護神也〕
と秋葉山大権現を三尺坊とは別の神霊とした上で祭神名を大己貴命と説いている。
遠江古迹図会[編集]
藤長庚『遠江古迹図会』(享和3年(1803)成立)でも
秋葉は祭神大己貴尊(今云ふ大黒天これなり)。すなはち、秋葉大権現と号く。寺を大登山秋葉寺と云ふ。祭神なるゆゑ、この寺より大黒の像を出すもこの謂なり。その後、嵯峨天皇の御宇大同四己丑年、越後国蔵王堂(天台宗)十二坊の内三尺坊に住する僧、この山に来て一万座の護摩を修行し、行法に依りて翼生じ、天狗と成り、永くこの山の守護神となる。すなはち三尺坊と名乗り、白狐に乗りて飛行自在をなす。火の神とならせたまふ。後に火災有りて不動の尊体を顕す。世俗誤りて、秋葉権現は三尺坊と心得たるは間違ひなり。齟齬したる事なり。三尺坊の宮の脇に別に宮有り。
と三尺坊とは異なる大己貴尊としている。
秋葉三尺坊大権現とするもの[編集]
遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起[編集]
大登山秋葉寺(しゅうようじ)で作成された「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」(享保2年(1717)成立)では秋葉三尺坊大権現と称し秋葉権現は三尺坊であると説く。観音菩薩を本地仏とし、その姿は飯縄権現と同じく白狐に乗り剣と羂索を持った烏天狗の姿で表され、75の眷属を従えると伝えられる[2]。 縁起によれば三尺坊は信州の産で母親は観音を篤く信仰していた。成長して出家すると越後蔵王堂十二坊中の第一「三尺坊」の主となる。この時、不動三昧の修行をし、その満座の暁、「烏形両翼にして左右に剣索を持ちたる霊相」が現れ、飛行自在の神通力を得た。更に白狐が現れたため、これに乗り狐の止まったところを安住の地と定め度生利益を専らにせんと誓ったところ秋葉山に止まった。秋葉山へ来たのは大同4年(809)のこととされ、のちに弘仁2年(811)より諸国遊化して衆生利益しつつ霊山を廻り永仁2年(1294)に帰山した。
歴史学者の田村貞雄は各由緒を比較検討し、「秋葉事記」に基づく説を批判し、「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」を評価している[3]。

三大誓願[編集]
秋葉三尺坊大権現の三大誓願は、以下の通り。
第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。
第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。
第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。
真言[編集]
オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ
「ヒラ」とは愛宕山太郎坊の前身とされる日羅の名前を本来の「にちら」ではなく「ひら」と読み変えたものであるとされる[5]。

\(◎o◎)/!あっ!!「日羅」です!!
何だろう!?スレッド「平川家について」を立ち上げた最初の頃に日本の苗字七千傑様に頂いた御教示に繋がってきました!!

日羅 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85
日羅(にちら、? - 583年12月)は、6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人。父は火(肥後国)葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登。
父阿利斯登は宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した大伴金村に仕えた九州出身の武人で、日羅は百済王から二位達率と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚であった。敏達天皇の要請により583年日本に帰国し、朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上した。その内容が百済に不利な内容であったため、同年12月に百済人によって暗殺された。物部贄子と大伴糠手子により難波小郡の西の丘に埋葬され、後に葦北に移葬されたたとされる。
聖徳太子伝暦や今昔物語などでは、聖徳太子が師事した、百済の高僧であるとされている。
墓は父阿利斯登の縁の地である熊本県八代市坂本町百済来下馬場の百済来地蔵堂前に現存する[1]。
大分県大野川流域や宮崎県などに多くの密教系寺院を開基し、磨崖仏を建立したとされている。

脚注
『日羅公伝』によれぱ、墓は現在の坂本村久多良木字馬場の地蔵堂前にあることが記されている。
『新羅国志』に、「久多良木村の馬場に地蔵堂あり。是は日羅を葬れる所と云伝ふ。」と記されている。
『百済来村久多良木地蔵堂文書』に、「久多良木字馬場の地蔵堂は、目羅墓所の印として建立した」と記されている。

坂本村久多良木と球磨郡多良木 そもそも球磨の「多良木」の地名の由来は何なのだろう???(?_?)

秋葉権現を調べたら「日羅」に繋がってきました??

秋葉権現 ウィキの記述より
祭神名について教部省は「秋葉事記」の大己貴命説は採用せず、修験の家伝を元に火之迦具土大神と称することが妥当と判断した。全国の秋葉権現を祀る祠堂もこれに準じて神仏判然がなされ、多くが神道の秋葉神社となったと推測される。

今朝は秋葉山本宮秋葉神社を勉強しました。
〉秋葉山の北東部に、春野町宮川字久保田が存在する。

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございました。
[3]酒井ともさんからのコメント(2016年02月10日 10時59分22秒 ) パスワード


こんにちは。横レスです。

所で
>>参考に東北のあの国のあの場所って、どこなんですか?

>宮原の一族の先祖「橘公員」所領の出羽国「秋田県」です。


こんな記述を見つけました。

磐城の窪田氏
 1)菊田郡窪田邑に窪田城があり梶原氏がいた。また結城戦場物語に窪田の太郎が見える。(『姓氏家系大辞典』)

岩代の窪田氏(藤原南家伊東氏流)
 1)岩代国安積郡窪田村より起こる。工藤祐経の次子左衛門尉祐長を祖とする安積伊東氏の一族に窪田氏あり。

岩城市・郡山市も須賀川市の隣市ですね。



平川家について10
[2] 子孫よりさんからのコメント(2014年03月27日 09時08分53秒 )

抜粋。

と言う事で北条時章の妻をみると・・・二階堂行有の娘
ここで、二階堂氏が登場しました。

ではウィキより二階堂行有
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E6%9C%89

二階堂 行有(にかいどう ゆきあり、承久2年(1220年) - 正応5年6月5日(1292年6月27日))は、
鎌倉時代の幕府実務官僚。二階堂行義の次男。出羽大夫判官、尾張守、備中守と称し、
1270年に出家して道証と号した。子に二階堂行藤、娘(北条時章妻)がいる。
★二階堂行藤。ここで繋がっていたのですね(゜-゜)(何度も言いますが驚き・・えっ?しつこいですか?(^v^))

二階堂行藤・・禅門道我ですね。

平河の越訴において、平河弥五郎入道々照(道照)こと二階堂和泉守行方と禅門道我こと二階堂出羽守行藤は、
平河師高を先祖と呼び、そして永吉庄そして西村を「先祖代々開発之地」と呼んでいました。



上記を鑑みて、
二階堂行方は建永元年(1206年) - 文永4年6月8日(1267年7月1日)二階堂行政の孫
二階堂行藤は二階堂行有の子ですね。


二階堂(工藤)行政の母は、源頼朝の母(熱田大宮司範季の娘)の妹で、
行政の娘は北条義時の正室となり、工藤一族は、幕府内でも相当な実権を掌握していたと云われる。

一方、遠江においては、後に鎌倉五代将軍九条頼嗣が将軍職を奪われ追放された建長四年(1252年)の頃に、
遠江国佐野郡下の西郷の地には(鎌倉から?)落ちてきた二階堂と追随してきた
御側用人の戸塚を名乗った二人の人物が実在したことが現地に伝承されている。


遠江国の二階堂流は、藤原(工藤)維兼から四代目となる行政が二階堂姓を称したことを出自とするが、
後裔の家系は繁雑に加え特に傍系部分に不明点が多い。




二階堂氏も出自は、工藤為憲の一流のようです。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022.htm

二階堂家家紋の「三つ盛亀甲に花菱」は、横地家家紋の「亀甲に花菱」に近い家紋を使用しています。


また時代は下りますが、陸奥須賀川城主
二階堂盛隆(永禄四年1561年〜天正十二年1584年)の家臣団の中にも、
相良一族(相良)・横地一族(横地・小畑・戸塚・西那や井伊一族(奥山・奥平)や
狩野一族(狩野・曽我・大森)などの名が記され、深い歴史的な関係性が伺い知れる。


上記のような遠江・駿河より発生した武士団が陸奥の地に根付いたように、
相良氏と移住した武士団が肥後に根付いたのでしょうね。


ところで、宮原観音の縁日の写真
http://washimo-web.jp/Trip/HitoAsagiri/a04.jpg

この拝殿幕の紋は菊紋の中に何紋があしらわれているのでしょうね?
何か由縁のある紋にたどり着くと良いですね。
[4]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月11日 09時59分30秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

酒井とも様、ご教示ありがとうございます。

昨日は一日中外出していて、コメントのお礼が遅くなりました。
申し訳ありません(..)

〉磐城の窪田氏
 1)菊田郡窪田邑に窪田城があり梶原氏がいた。また結城戦場物語に窪田の太郎が見える。(『姓氏家系大辞典』)
〉岩代の窪田氏(藤原南家伊東氏流)
 1)岩代国安積郡窪田村より起こる。工藤祐経の次子左衛門尉祐長を祖とする安積伊東氏の一族に窪田氏あり。

※菊田郡窪田邑に窪田城があり梶原氏・・梶原氏は橘薩摩の一族とは姻戚関係にありますね。
※工藤祐経の次子左衛門尉祐長を祖とする安積伊東氏の一族に窪田氏あり。
・・・実はどう言う繋がりなのか全く解らないのですが、球磨郡免田町には虎御前の墓があります。
熊本県公式ページより
http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_8420.html
転記しますと
確たる資料がないので詳しいことは分からないのですが、虎御前については、次の二つの説があります。一つは、「曽我物語」(注1)の主人公である鎌倉時代の武士、曽我祐成(そが すけなり)の恋人で遊女だった虎御前という説。もう一つは、平家の侍大将であった平景清(たいらのかげきよ)の母という説です。虎御前の墓前にあるお堂の記念碑には「平景清ノ生母虎御前ノ墓ト称シ」と書いてあります

と言う事です。
伝承については確かな事は解らないのですが、しかし球磨郡は「遠江国」との縁がとても深い場所ですので、何か”意味”があるのでは?と感じています。

平河氏の訴訟状には「二階堂氏」の法名を持つ方が・・
平河弥五郎入道々照(道照)こと二階堂和泉守行方と禅門道我こと二階堂出羽守行藤

この時点で「平河氏」は球磨にはまだ居なかったのじゃないのかな?と、この頃私は推測しているのです。
所領の安堵は行われているが、未だ「関東」にあったのでは?と・・
あくまでも推測ですが・・

酒井とも様のおっしゃる通り
〉上記のような遠江・駿河より発生した武士団が陸奥の地に根付いたように、
相良氏と移住した武士団が肥後に根付いたのでしょうね。

そう言う事なのだと痛感しています。
相良長頼と橘公業も、いえ「工藤氏」と「橘薩摩氏(伊予橘氏)」もおそらく「関東」もしくは「奥州」において早くからの姻戚関係にあったのでは?と。
こちらもあくまでも推測ですが。

所で・・
宮原観音堂をご覧になられたのですね。ありがとうございます(^'^)

宮原観音堂の紋は「天台宗」の紋です。
昨秋のお彼岸には、一週間に渡り、宮麓内の各集落が日毎に担当して参拝者の方々の「御接待」をさせて頂きました。
今は、バスツアーが企画されていて、観光ガイドブックを参拝者の方から見せて頂いたのですが、相良三十三観音堂の中で宮原観音堂の「御接待料理」がクローズアップされていました。(^'^)
地域の皆さん「料理上手」な方が沢山いらっしゃいます(^'^)
一日、500人以上の方がお参りに来られますので、その方々に御接待料理を出すのですが、去年初めて「御接待」を担当して、かなり大変でしたが、喜んで下さる方々のお顔を拝見して、とても嬉しくなりました。
私は「料理」担当ではなく(ー_ー)!!「愛嬌」で乗り切りました(..)

「拝殿幕の紋」のお話がありましたが拝殿幕には「平等院」と書かれていました。(むむっ(p_-)・・と確認しています)

宮原観音堂についてここで書かせて頂きます。
宮原観音堂は、龍泉寺(竜泉寺)の一仏堂でありました。
龍泉寺とは中嶋霧島神社(中嶋大権現 別名宮原神社)の神宮寺であったお寺です。
中嶋霧島神社は大同元年(806年)に大神惟基により創建されました。
中嶋霧島神社の史料には
中嶋霧島神社社殿を永享四年(1432年)に「別當龍泉寺重慶」が修造したとあります。
戦国時代に廃絶したようですが(元禄十一年の寺院帳龍泉寺なし)にはただ、資料には「寛永十八年四月十七日 権大僧都法印林蔵房」と刻まれた墓碑が堂の北側に建っている・・とあります。

その後、昭和十年茅葺を一旦瓦葺に替えたのですが(前年の巨大台風により被害あり)その時の棟札には
「昭和十年八月屋根瓦総葺替世話人 星原歳蔵、深松休太郎、星原健蔵、宮原石蔵」とあります。
棟札にある屋根瓦総葺替世話人ですが
宮原石蔵とは・・私の祖父です。この時祖父は21歳。前年に曾祖父が亡くなり曾祖父から祖父への「家督相続」なる書類が家に残っています。
深松休太郎とは・・宮原の曾祖母(新堀家の娘)の弟です。深松家の養子となりました。
星原健蔵とは・・宮原の曾祖父の「姪」の娘となる「お公おばさん」の御舅さんです。妻は前回のスレッドでコメントした「山本吉兵衛」の娘(もしくは孫)です。

昭和十年八月屋根瓦総葺替ですが・・
地元の歴史研究家の方から伺ったのですが、前年の昭和9年、球磨郡は大干ばつにあい、各村々で「水騒動」が発生したそうです。
「水騒動」の後、今度は巨大台風が直撃。
球磨郡中は大打撃を受けたそうです。
地元歴史研究家の方は、私に
「その翌年の昭和十年八月屋根瓦総葺替世話人が如何なることか!をよく考えてみて下さい」・・と言われていました。
じいちゃんも大変だったんだな〜と(..)孫は全然ダメです(ー_ー)!!・・(..)反省。

と言う事で、今日は「宮原観音堂」について、詳しく書かせて頂きました(..)

酒井とも様、ご教示ありがとうございました。
[5]酒井ともさんからのコメント(2016年02月12日 15時23分30秒 ) パスワード



こんにちは。横レスです。

昨日ですが、上平川の春日神社に参詣しました。
「池村」の氏子衆が住む、集落に抱かれるように大事に祀られているのがよく分かりましたが、
真っ平らな地に鎮座しているので、山や樹木を纏えるような荘厳な佇まいとは違う趣きがありました。

その後に菊川市の小笠図書館により、平河郷の成り立ちを求めましたが、余り良質な資料は探せまでした。

ただ、少しあった資料によりますと、平安期には城飼郡荒木郷の中に「平河」は組み入れていたようです。

「平安期に見える郷名。「和名抄」遠江国城飼郡十一郷の1つ。比定地は現在の菊川市高橋と考えられる」

高橋郷の方が成り立ちは古いようで、平河郷が文献に現れて来るのは、鎌倉時代でしょうか。

時代は下り、南北朝期?に上平川と下平川に分村されたようです。

この頃から、平河が平川と称されるようになったようです。



>平河氏の訴訟状には「二階堂氏」の法名を持つ方が・・
>平河弥五郎入道々照(道照)こと二階堂和泉守行方と禅門道我こと二階堂出羽守行藤

二階堂行方は球磨の平河郷の関係で、それとも遠州の平河郷の関係で平河氏を名乗ったのですか?


>この時点で「平河氏」は球磨にはまだ居なかったのじゃないのかな?と、この頃私は推測しているのです。
>所領の安堵は行われているが、未だ「関東」にあったのでは?と・・
>あくまでも推測ですが・・

ミヤハラさんの記述を読んでいますと、平河氏を名乗った方が沢山いられますよね。
上記の二階堂氏や少弐氏(頼尚?)等々

球磨地方に平安末期に国造末梢、もしくは平家関係の前期「平河」家があって、
その後、鎌倉前期に関東?から移住した各々が「平河」家を継承したということでしょうか?



しかし、平河家関係の文書は後世に上手に受け継がれていますね。

遠江には平安期から鎌倉時代の原本文書って沢山は無いような気がします。

今更仕方がないことですが、特に戦国期の戦火により黄塵に還した為で、
歴史家の方々が口々に残念がります。


「和名抄」遠江国城飼郡十一郷の1つと考えれる、高橋郷の高橋氏にしても、
物部氏系か南家藤原流狩野氏の一流と考えれているようです。

ちなみにこの高橋氏は「一蓋笠」「丸に九枚笹」を家紋に使用したようで、
工藤氏流でしたら、為憲系には違い無いようですが、
どうやらこの高橋氏は横地氏流の末孫ではないようです。




>宮原観音堂の紋は「天台宗」の紋です。

天台宗の御紋は菊紋なんですね。

遠江には天台宗は少ないです。
改宗したのでしょうが、曹洞・臨済等の禅宗が多いです。


>昭和十年八月屋根瓦総葺替ですが・・

戦前の事業でしょうが、天災などがあった苦しい時期に
ミヤハラさんの御祖父様を中心に皆さんで成し遂げたんですね。


私も二十代の頃に西国・坂東・秩父の百観音に詣でました。

どのお寺も立派でしたが、宮原観音堂のような
茅葺屋根の観音堂を今に残している御堂は少なかった記憶しています。

先月、坂東札所のお寺へ詣でる機会がありましたが、
鉄筋の寺院になっておりました。


「虎が雨」は俳句の季語ですね。

虎が雨 とらがあめ
曾我の雨,虎が涙ともいう。旧暦5月 28日に降る雨をいう。
この日は曾我兄弟の仇討ち決行の日で,曾我十郎祐成に愛された大磯の遊女虎御前が,
十郎の死を悲しんで流す涙が雨となって降るというもの。

大磯は相模の国ですので、

虎御前の墓とされる謂れは
「平景清伝説」が基礎にあるのかもしれませんね。
[6]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月12日 18時02分10秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

酒井とも様、御教示ありがとうございます。

〉上平川の春日神社に参詣しました。
〉菊川市の小笠図書館により、平河郷の成り立ちを求めましたが・・

酒井様、本当にありがとうございます。
私自身、ご教示を頂いた上平川の春日神社や菊川市の歴史を調べたいと思いながらも今はネットに頼る事のみで、先日近代デジタルライブラリで太田亮氏著「遠江」を見つける事が出来たのですが、土地勘が全くないので、書かれている内容と地図を見比べながらの作業となり、自分自身で中々前に進めないもどかしさがありました。

コメントを拝見して、感謝の気持ちでいっぱいとなり、涙が出て参りました。
ありがとうございます。

〉平安期には城飼郡荒木郷の中に「平河」は組み入れていた
〉平安期に見える郷名。「和名抄」遠江国城飼郡十一郷の1つ。比定地は現在の菊川市高橋と考えられる
〉「和名抄」遠江国城飼郡十一郷の1つと考えれる、高橋郷の高橋氏にしても、
物部氏系か南家藤原流狩野氏の一流と考えれているようです。

高橋氏。
相良(人吉)藩相良氏族にも高橋氏がありました。
さらに、相良氏の所領地に関してですが
相良氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F
主な根拠地
肥後国球磨郡多良木荘
肥後国球磨郡人吉荘
肥後国山鹿郡泉新荘[2]
豊前国上毛郡成恒荘[3]
脚注より
[2]現在の熊本県山鹿市菊鹿町相良。「泉荘(菊鹿町及び鹿本町北東部)」のうち、高橋(鹿本町高橋)・津袋など南部一帯を「本荘(高橋荘)」、内田(鹿本郡内田村)・相良など北部地域を「新荘(新庄)」といった。泉荘(泉之庄、いづみのしょう)
[3]大分県中津市三光・成恒、渋味成恒中津線、福岡県築上郡上毛町成恒、などに名を残す。中世吉富の歴史と文化財

肥後においても相良氏と「高橋」という地名は非常に縁が深いようです。

遠江国高橋郷の高橋氏
※物部氏系か南家藤原流狩野氏の一流と考えれている・・
球磨の相良氏及び平河氏さらには物部氏族伊予橘氏である橘薩摩一族と全く無関係ではないような気がします。

今からコメントする事と上記の件を結びつける事は出来ないのですが・・
実は、わたくし、小学生の頃「養女騒動」がありまして・・
父と祖母に私を養女に迎えたいと言ってこられた方がいらっしゃったのです。
子供さんがいらっしゃらない御夫婦で「大人になり他所へ嫁がれるのであれば家に養女に頂きたい」との事だったそうです。
家の事情(弟が病気で私が跡取り)などあまり詳しく御存じなかったのでは?と今は考えるのですが、もちろん祖母と父はきっぱりと御断りしました。(私は本来宮原家の跡取り娘ですので・・一度道は外してしまいましたが・・(..))
私も子供心に大変驚いた記憶があります。
その方が「某高橋家」の方だったのです。
昨年球磨に戻り、最初の頃この事を思い出して父に訪ねたのですが父は思いだすのもあまり愉快な事ではないようでしたので、詳しくは聞く事が出来ませんでした。
こちらの「高橋家」と家の宮原家との関係はよく解りません。(祖母もあまり愉快な話ではなかったようなので、後年も聞く事は遠慮していました)

偶然ですが「高橋家」が登場したので、今までコメントしていなかった事を書いてしまいました。
もちろん、現在の調査とは無関係だと思います。

〉戦前の事業でしょうが、天災などがあった苦しい時期に
ミヤハラさんの御祖父様を中心に皆さんで成し遂げたんですね。

私は単純に「じいちゃんも大変だったんだな〜」くらいしか考えていなかったのに、酒井様からの御言葉を頂いて、祖父も「大変ありがたいお言葉だ」と喜んでいると思います。
ありがとうございます。(孫の私も、もっともっとしっかりしなければと強く反省しました)

最後に
〉大磯は相模の国ですので 
 虎御前の墓とされる謂れは
「平景清伝説」が基礎にあるのかもしれませんね。

平景清伝説・・
ちなみに、私の住むあさぎり町岡原北の宮麓地区切畑には平景清公の姫(息女)のお墓があります。
あさぎり町公式ページより
平景清息女の伝説(その1) 
http://www.asagiri-town.net/q/aview/48/629.html
平景清息女の伝説(その2)
http://www.asagiri-town.net/q/aview/48/631.html

〉虎御前の墓とされる謂れは
「平景清伝説」が基礎にあるのかもしれませんね。
酒井様から御教示を頂き、地元の伝承が何かを語っているのだ!と言う事を痛感しました。

重ね重ね、ありがとうございました。
[8]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年02月12日 21時13分03秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>遠江国高橋郷の高橋氏
※物部氏系か南家藤原流狩野氏の一流と考えれている・・
 
高橋氏は天下の大姓なので、出自は多彩だが静岡に限れば大宅姓が多い。
 
関心があれば、下記URLを熟読のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/top_10.htm
[9]白石さんからのコメント(2016年02月13日 01時26分23秒 ) パスワード

みやちゃん 皆様こんばんわ

精力的におしらべになっておられますね。


天台宗の神紋
少し前に宮原の観音堂の神紋の中にある星みっつがなんだろうと思って天台宗の神紋で打ち込んだら

 三つ巴の謎。 - 古代妄想|戦国奇譚|寺町奇譚 油獏の歴史 ...
blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/96ca8e6072ee5a0c5d8eec37fc3b0159/
2015/09/13 - 多くの神社は三つ巴を神紋としている。宇佐神宮を ... そして、天台山の三台星信仰を持った江南の海人は、北方の漢人に追われて南西諸島や列島に渡っている。 ... 綿津見三神は半島との拘わりの中で、住吉海人の信仰から生まれている。
というのがでました。

私の母方 佐田氏の紋 三つ巴紋
過去に この もんとは と思って調べたとき 天皇即位の万歳旗に使われると知りました。

前に 最澄・漢王室子孫の三津の首・実母は王氏 ・・のことで書いたとき
天台山で修業した  と 書きましたが

今の浙江省天台県に位置する天台山でまなんだ 。
以下は 勝手に上のブログから抜粋して 出してきましたが、 

多くの神社は三つ巴を神紋としている。

そして 私の注
三つという数字が大事で 三つ星は

天帝の星、紫微星(北極星)を支える三台星の真下に在るとされ、天台山は三つの峰をもつ神聖な山。
三つ星を宗紋とするのちの天台宗もここで生まれている。
 江南の海人にとって三台星は大切な星。夜、渡海する船は北極星を目印にして、三台星がそれを示す。ゆえに、北を示す三台星は航海神となった。
 そして、天台山の三台星信仰を持った江南の海人は、北方の漢人に追われて南西諸島や列島に渡っている。

三つ巴は江南海人の三台星信仰に因むようである。(*1) が、末羅の海人、のちの波多氏(佐志氏)の家紋などは、丸が三つの「三つ星」であった。本来、海人のシンボルは三つ巴ではなく、三つ星であった。

とありました。
波多氏は 高岡に 波多氏の族というのがあり
私的には 後年 になって 族になったと思っております。


四浦平川集落の高岡の紋は まだ 聞いておりませんが
その親戚の同級生は 前に お寺のことを 言っていたとき
天台宗かな? いや 善正寺 いや 古見院とか 初神の寺とか言っていました。
親戚のことで 余り言えないのかもと 思い 今度 本人に聞いてみようと 思っています。
天台宗からは 後 曹洞宗などに 変わっているのですね。


毛利氏は 三つ星紋で 
横浜の曹洞宗のお寺に 毛利氏のお墓が
ある と 過去に見たことがありますが 何らかの かかわりがあったのか?と思っています。




[10]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月13日 12時35分31秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

日本の苗字七千傑様、白石様、御教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様
10大姓の分析より「高橋氏」を拝読致しました。
〉高橋氏は天下の大姓なので、出自は多彩だが静岡に限れば大宅姓が多い。

※静岡県高橋氏の代表は、駿河国庵原郡高橋邑発祥の大宅氏(敏達帝裔)で越後高橋氏は同族である。
※大宅氏系高橋氏の子孫は、備中、石見へも繁衍
※石清水祠官高橋氏は紀姓。
※能因法師裔の高橋氏は橘姓
※伊予(愛媛県)高橋氏の代表は、大三島神社大祝家にて越智姓
※筑後国御原郡高橋邑発祥の大蔵姓高橋氏
〉高橋氏は天下の大姓なので、出自は多彩
でも・・上記※印「高橋氏」。出自は違っても、全て、私の今までの数年間の調査に繋がっているような気がするのですが・・(平川家について〜平川家について30)
偶然でしょうか??

日本の苗字七千傑様の《敏達帝裔氏族綱要》姓氏類別大観を拝見しました。
「大宅氏」「橘氏」さらには【熊野氏】(熊野国造)・・同族ですね。

さらに・・
サイト「高橋」の名字の由来
http://folklore2006.jp/402.htm
※藤原鎌足の末裔の藤原維頼が遠江国城飼郡(きこうぐん)高橋郷(静岡県菊川市高橋)を領したのに由来する。
※遠江国城飼郡高橋郷をルーツとする高橋氏は物部氏族と藤原南家_狩野氏族の二系統。藤原維頼が高橋氏を称すという説もある。

(..)藤原維頼・・相良荘司藤原維頼(光頼とも云われる)
すなわち相良氏の祖「相良頼寛」の父「工藤光頼」ですね。

私の推測を聞いて下さい。
日本の苗字七千傑様の10大姓の分析「高橋氏」より転記させて頂いた※マークを付けさせて頂いた出自の異なる「高橋氏」そして「遠江国城飼郡高橋郷をルーツとする高橋氏は物部氏族と藤原南家_狩野氏族の二系統」「工藤光頼」
全て繋がっている気がします!!(あくまでも、今までの私の調査に関してですが・・)

さらに・・
梶原景時一族の供養碑が建立されている静岡県静岡市清水区高源寺のページを「高橋氏」を検索していて偶然見つけました。
臨済宗妙心寺派 高源寺
http://homepage3.nifty.com/kougenji/rekisi.html

こちらのサイト「目次」ページを見て頂くと
http://homepage3.nifty.com/kougenji/siryou.html
どこへ行ったか郷土の鎌倉武士
清水区の高橋の地名に残る高橋氏をたずねて。鎌倉時代から戦国時代までをめぐります
とあります。さらに
※はじめに
※大宅系高橋氏について  @ A B C
※入江系高橋氏について
※付記 不尽燈の碑(梶原一族供養碑)について

と其々のページを読み進んでみました。

梶原景時の孫娘は橘公業の妻で、肥後国球磨郡久米郷東方を譲られた「橘公員」の母となります。

やはり・・どう考えても・・偶然ではないのでは!?と思うのですが・・
しかし・・
本来、遠江国発祥の「平河氏」を調査しているのにも関わらず・・結局毎度のごとく「宮原の一族」の先祖、伊予橘氏である「橘薩摩一族」に繋がってしまいます・・
ただ・・
※大宅氏系高橋氏の子孫は、備中、石見へも繁衍
臨済宗妙心寺派 高源寺
大宅系高橋氏のこと その2
http://homepage3.nifty.com/kougenji/s/takahasi/0003.html
こちらに
6.高橋氏の備中への移転と、その後の高橋氏の動向
 この大宅系高橋氏は、元弘元年ころ(1332)備中松山城(現在の岡山県高梁・たかはし市)へ移動したと思われます。(高梁市史による)
中略・・
高橋氏が松山城主だったのは、高梁市史によると元弘元年(1332)〜正平10年(1355)のようです。
とあるのですが・・1332年〜1355年 備中
あの・・
先日御紹介した「平川家について28−1」コメント72の
熊本県文化財調査報告第237集 小 枝 遺 跡
ご覧頂きましたでしょうか・・
こちらの75ページに記されている
※ 一方で、平河氏が肥後国外にも所領を有していたことが確認できる。日向国真幸院(現宮崎県えびの市内か)など少弐頼尚跡を給された平河又三郎師里、同国三俣院(同北諸県郡三股町内か)内の地を給された平河小三郎師頼などで、彼らは康永四年(1345)、近隣の領主との間に濫妨沙汰を引き起こし、それを訴えるべく上洛した使者を待ち伏せして殺害に及んでいる18)

上記の件はかなり以前こちらのスレッドで御紹介していましたが、その時は「もしや・・」とは思っていたのですが、熊本県文化財調査報告第237集 小 枝 遺 跡でははっきりと「上洛した使者を待ち伏せして殺害」と書かれています。
その場所は・・ 「備中」だったのですよね・・
上記の件はもう一度過去のスレッドを見直してあらためてコメントさせて頂きます。

日本の苗字七千傑様 御教示ありがとうございました。

白石様、ご教示ありがとうございます。
〉天帝の星、紫微星(北極星)を支える三台星の真下に在るとされ、天台山は三つの峰をもつ神聖な山。
三つ星を宗紋とするのちの天台宗もここで生まれている。
 江南の海人にとって三台星は大切な星。夜、渡海する船は北極星を目印にして、三台星がそれを示す。ゆえに、北を示す三台星は航海神となった。
 そして、天台山の三台星信仰を持った江南の海人は、北方の漢人に追われて南西諸島や列島に渡っている。

三つ巴は江南海人の三台星信仰に因むようである。(*1) が、末羅の海人、のちの波多氏(佐志氏)の家紋などは、丸が三つの「三つ星」であった。本来、海人のシンボルは三つ巴ではなく、三つ星であった。

天台宗・・三つ星
白石様 御教示ありがとうございました。

では(..)

[11]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年02月13日 15時16分32秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>遠江国高橋郷の高橋氏
※物部氏系か南家藤原流狩野氏の一流と考えれている・・
球磨の相良氏及び平河氏さらには物部氏族伊予橘氏である橘薩摩一族と全く無関係ではないような気がします。
 
>※物部氏系か南家藤原流狩野氏の一流と考えれている・・
 
ここが誤解の原点でしょう!
相良頼綱の養子となった頼之(高橋に改姓)は、元々相良姓なんだから。
伊豆国賀茂郡の高橋氏は、藤原南家相良長頼の子左近将監頼之が遠江国城飼郡高橋庄を領して称したと言うことですよ。
その後相模へ移動、源実朝→大森氏→北条早雲に仕え、北条氏没後は伊豆へ移動して賀茂郡雲見村の雲見浅間社神主家になる。
[12]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月13日 18時46分41秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様
御教示ありがとうございます。

〉相良頼綱の養子となった頼之(高橋に改姓)は、元々相良姓なんだから。
伊豆国賀茂郡の高橋氏は、藤原南家相良長頼の子左近将監頼之が遠江国城飼郡高橋庄を領して称したと言うこと

\(◎o◎)/!そういう事なのですね!!
と言う事は・・
酒井様からの御教示により理解出来た事と繋げると・・
〉平安期には城飼郡荒木郷の中に「平河」は組み入れていた
〉〉平安期に見える郷名。「和名抄」遠江国城飼郡十一郷の1つ。比定地は現在の菊川市高橋と考えられる
〉「和名抄」遠江国城飼郡十一郷の1つと考えれる、高橋郷の高橋氏は・・
相良氏!!

\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!\(◎o◎)/!・・失礼しました(..)

(p_-)・・・・そうすると・・\(◎o◎)/!ピンときました!!
日本の苗字七千傑様の《相良氏》姓氏類別大観をあらためてなお且つ教科書的な発想を取り外して・・
じ〜っと見つめてみました。

相良長頼の子「頼忠」・・佐原氏・・佐原頼忠

佐原氏と言えば
師高の曾孫にあたる良貞と師時は訴訟を起こし、弘安六年(1283年)七月の関東下知状で「永吉地頭并名主職」の返付が認められた。
★平河三郎入道観蓮<俗名良貞> 
同じ法名を持つ
佐原(三浦)六郎左衛門尉時連〈法名観蓮〉

やっと!やっと!見えてきました!!
偶然か?と思っていた事がおそらく偶然ではない!

平川家について10-1 コメント21
http://hikoshima.com/bbs/heike/101345.html
講座 日本荘園史 四国・九州の荘園 より
こちらの内容とさらに記述をまとめていました。
皆様、ぜひ、もう一度ご覧頂ければと思います。

上記のコメントから時系列に並べた記述をあらためて転記します。
平川家について10-1 コメント21より
@良峯(平河)師高の所領は、球磨郡全体に一郡的な広がりをもつ王家領荘園球磨荘の一部を構成していたものとみられる。(この時代までは師高の所領は永吉荘とは呼ばれていなかった)

A平河師高は一旦「謀反他に勝る」として幕府の没官を受ける

B文治三年(1187年)六月関東御教書によって師高は「其実を安堵され」る。

C永吉荘という荘名の成立は、建久三年八月以降〜建久八年閠六月以前という事になる。

D建永二年(1207年)三月十四日には、広元は平河師忠に下文を下し、目良生(もくろう)・永池等の三ヶ村を別納とする事を認めている。

E貞永元年(1232年)当時は、中神村地頭「平河良高」・目良生村地頭「平河師瀬」・平野村地頭「平河師久」というように平河一族が村毎に地頭職を知行し、領家年貢も地頭請所となっていた。

F嘉禄元年(1225年)、須惠尼が狼藉の咎で西村を広元の譲りを得た外孫の近衛中尉春実に召し上げられる。

G師高の曾孫にあたる良貞と師時は訴訟を起こし、弘安六年(1283年)七月の関東下知状で「永吉地頭并名主職」の返付が認められた。
★平河三郎入道観蓮<俗名良貞>は佐原(三浦)六郎左衛門尉時連? では師時の姓は? ここがまだ解りません。
2016/02/13 ここが見えてきました!!!

H永吉荘預所職は武藤(少弐)景資に与えられた。しかし景資は弘安八年十一月の岩門合戦で没する。

Iその後、永吉荘預所職は備前々司入道(北条一門の佐介朝房であろう)に与えられた。彼は預所職のみでなく、永吉西村を一所とみて地頭職を知行した。

J平河道照はその回復(永吉荘預所職?)に努力した。
★平河道照は鎌倉幕府引付頭人二階堂和泉守行方

K建久二年末、足利尊氏は九州下向に先立ち少弐頼尚を筑前・豊前・肥後の守護に補し、永吉荘は山鹿荘とともに守護領とされた。
★★永吉荘内山田城が北朝方の一大拠点とされていた。

L少弐頼尚は観応擾乱で佐殿(足利直冬)に与同して解補されたが、それは相良定頼并一族等所領注文(「相良家文書」)に「一所 肥後国 玖磨郡永吉庄半分百七十五町五百石三百貫 平河左近允頼尚跡」と見えている。

M永吉荘の荘としての実態は鎌倉幕府滅亡をもって終わったものと判断される。
==============================================
佐原氏と相良氏!

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございました。
[13]酒井ともさんからのコメント(2016年02月13日 21時42分40秒 ) パスワード


こんばんは。横レスです。


数年来、城飼郡高橋郷の天ケ谷城主の「高橋左近将監」に関心があります。

この高橋氏は今川氏の横地城攻略後の塩買坂の乱にて
今川氏と共に討死したと伝わります。

ただ、後裔は続き、
武田家の「駿河記」によれば、長篠の合戦の前年当たりの
高天神城攻めの頃に滅亡したとの記載もあります。


>白石さんの、
>多くの神社は三つ巴を神紋としている。

私がお世話になっている高橋さんの家紋は三つ巴です。


私の、
>「和名抄」遠江国城飼郡十一郷の1つと考えれる、高橋郷の高橋氏にしても、
> 物部氏系か南家藤原流狩野氏の一流と考えれているようです。

>ちなみにこの高橋氏は「一蓋笠」「丸に九枚笹」を家紋に使用したようで、
> 工藤氏流でしたら、為憲系には違い無いようですが、
>どうやらこの高橋氏は横地氏流の末孫ではないようです。

相良氏族になるんですね。


ミヤハラさんの、
>肥後国山鹿郡泉新荘[2]
>[2]現在の熊本県山鹿市菊鹿町相良。「泉荘(菊鹿町及び鹿本町北東部)」のうち、
>高橋(鹿本町高橋)・津袋など南部一帯を「本荘(高橋荘)」、内田(鹿本郡内田村)・
>相良など北部地域を「新荘(新庄)」といった。泉荘(泉之庄、いづみのしょう)

ここですよね。
遠州の高橋(菊川市)・内田(菊川市)・新庄(牧之原市、旧相良町)
横地・相良・勝田氏系の地名繋がりがあります。


日本の苗字七千傑さんの
>ここが誤解の原点でしょう!
>相良頼綱の養子となった頼之(高橋に改姓)は、元々相良姓なんだから。
>伊豆国賀茂郡の高橋氏は、藤原南家相良長頼の子左近将監頼之が

>遠江国城飼郡高橋庄を領して称したと言うことですよ。
>その後相模へ移動、源実朝→大森氏→北条早雲に仕え、
>北条氏没後は伊豆へ移動して賀茂郡雲見村の雲見浅間社神主家になる。

上記の記述を知らないで、

本日の午後、違和感があって地元の図書館に通いました。

地元の図書館の資料の少ない情報ですが、

菊川市高橋/藤原南家為憲流狩野氏族
家紋 丸に笠 丸に九枚笹
狩野九郎維次の維頼の後裔とありました。


自分の違和感は伊豆の狩野氏の一族が何故遠江の高橋郷?

私は横地一族の方もしくは相良一族の方が統治が自然では
ないかと考えていましたので、日本の苗字七千傑さんの
見解に賛同させて頂きます。

普通では相良(工藤)維頼の裔が正しいのだと思います。
(数日前までは横地系と考えていましたが・・・)

ただ、まだまだ「「高橋左近将監」疑問があります。
今一度精査して吐露させて下さい。

[14]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年02月13日 23時33分02秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>ただ、まだまだ「「高橋左近将監」疑問があります。
今一度精査して吐露させて下さい。
 
無理も無いことですよ!
実は、九州の高橋将監高種(大蔵姓)が足利家に仕え、命により伊豆国賀茂郡雲見村の上ノ山城に入る。
後に北条早雲の家臣となる。
 
遠江も異流の高橋氏が多数居た様だが、伊豆雲見にも藤原姓と大蔵姓の高橋氏が併存したのかな?
[15]白石さんからのコメント(2016年02月14日 01時58分22秒 ) パスワード

こんばんわ
高橋 ふじた 浜松 など 
我が家にも かかわりがある家 また 地域にいたなあ という家の長出て 興味があります。

うちの高橋は 長野から来ているそうです。
家の歴史を調べ始めたころは 球磨郡にも高橋があり 酒屋などしているので そこらの親戚でもあるのか? と 思っておりましたが

高岡女子の話では 長野から来ているそうです。
彼女の夫が 高橋です。

ふじた
藤田という集落があり 川辺川ダムをつくろうとしたところ
同級生におりました。

浜松
ほろにがい記憶が・・・
春山地区にいて 私が小学高学年の頃 シーソーに 誰かれなく五人位ずつ
別れて乗っていて 

釣り合いが取れすぎて 動かなくなったので
そこが B型なのですね つくづく この頃思います。
自分の頭の中で 私がおりて 釣り合いをとってやろうと思い

シーソーから 体を浮かした瞬間
こちら側の子が 後ろに目があるかのように 一斉に 飛び降りたのです。
ひとり 残っていたのが その子で 

まるで サーカスの曲芸のように 空中を飛び あちらがわへと 落ちていきました。皆 なすすべもなく ぽかーんと 見ていました。

生きていました。
後年 会うことがあって 
あの時はいたかったばい と 言われましたが・・・

浜松は他に一人
長崎県松浦郡にいました。

静岡 浜松 は すぐ 思いつきますが
なんで こんなところに と ずっと 思っていました。
私の注意不足かもしれませんが

浜松って ルーツは何でしょうね?

[16]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月14日 12時39分38秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

酒井とも様、日本の苗字七千傑様、白石様
御教示ありがとうございます。

酒井とも様
>遠州の高橋(菊川市)・内田(菊川市)・新庄(牧之原市、旧相良町)
>横地・相良・勝田氏系の地名繋がりがあります。

肥後国山鹿郡泉新荘[2]
[2]現在の熊本県山鹿市菊鹿町相良。「泉荘(菊鹿町及び鹿本町北東部)」のうち、
高橋(鹿本町高橋)・津袋など南部一帯を「本荘(高橋荘)」、内田(鹿本郡内田村)・
相良など北部地域を「新荘(新庄)」といった。泉荘(泉之庄、いづみのしょう)

ビックリしました!地名が動いた(地名遷移)と言う事だったのですね!

でも・・本当に歴史を勉強するという事は・・面白い〜!!です。
御教示により様々な「謎」が解けてきました!

日本の苗字七千傑様
>実は、九州の高橋将監高種(大蔵姓)が足利家に仕え、命により伊豆国賀茂郡雲見村の上ノ山城に入る。
後に北条早雲の家臣となる。

高橋 高種 ウィキで簡単にですが勉強しました(..)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E9%AB%98%E7%A8%AE
高橋 高種(たかはし たかたね)は、戦国時代の武将。筑後国出身で大蔵姓高橋氏の当主であったが、のちに伊豆国に赴き、伊勢盛時(北条早雲)に従った。
筑後大蔵高橋氏の当主となるが、継母の讒言により父の不興を蒙り、その座を捨てて、文明16年(1484年)母方の縁者畠山氏を頼り逐電した。その年、京都に上って室町将軍足利義尚に仕え、文明19年/長享元年(1487年)の長享・延徳の乱に参加。長享3年(1489年)に足利義尚が病死すると、畠山政長の内意により、堀越公方足利政知に請われて伊豆国へと赴き、伊豆雲見城を与えられてその城主となる。しかし延徳3年(1491年)に足利政知が死去すると、堀越公方家は内紛を起こし、足利茶々丸が弟を殺害するなど、その勢力は衰退の一途を辿る。
高種は伊豆雲見に蟄居したが、伊勢盛時の重臣である多目権兵衛尉からの再三にわたる招きを受け、伊勢盛時に従い、伊豆平定で戦功を挙げた(高橋文書)。この時の戦功で、伊勢盛時の養女(外山豊前守娘)を妻として北条一門としての扱いを受けている。明応3年(1494年)相模大森氏からの小田原城奪取にも参加し、奇策を以て功を挙げた。また、文亀元年(1501年)に伊豆下田に城を築くなど海岸の防備を強固にし、活躍した。この時に、高橋左近将監高種と改名した。しかし、中年より足病を発し、常に籠居していた。このため、永正12年(1515年)8月3日没に死去。46歳。家督は長男の北条綱高(高橋種政)が北条氏綱の猶子となり、別家を興したため、次男高橋氏高が継いだ。
父母 父:高橋顕種、母:畠山政長娘(神保為行養女)
妻 正室:伊勢盛時養女[1]、継室:伊勢盛時娘[2]
[1]高雲院殿前北条大夫人妙晴日芳大法尼:外山豊前守娘、永正3年(1506年)7月13日没
[2]高蘭院殿前北条大夫人青光日芳大芳尼、永禄2年(1559年)7月13日没

外山豊前守・・外山氏は相良藩士にもいらっしゃいます。
でも伊勢盛時と北条早雲は同一人物なのですよね・・?
北条 早雲 この方も勉強しました(..) ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%97%A9%E9%9B%B2
北条 早雲(ほうじょう そううん)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。
名称と生年[編集]
諱は長らく長氏(ながうじ)または氏茂(うじしげ)、氏盛(うじもり)[1]などと伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている[2]。通称は新九郎(しんくろう)。号は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が有力視されつつある[3]。
なお伊勢家が、北条姓を称したのは早雲の嫡男・氏綱からであり、存命中に「北条早雲」の名が使われた確実な史料は乏しい[4]点に注意する必要があるが、通例では遡って「北条早雲」と呼ばれる[5]。

(?_?)・・あの・・伊勢氏ですね・・伊勢氏から「北条」を名乗った・・

相良頼景が預けられたのは多良木の「伊勢弥次郎」
武家家伝 相良氏 より
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html
頼景は弟の頼兼、一族の平原頼範らを従えて多良木荘に下向したが、多良木は平家没官領であり、そこには伊勢氏が入部していた。頼景はこの伊勢氏にあずけられたか、頼っていったかしたものであろう。それから四年後の建久八年、頼景は鎌倉に行き将軍頼朝に謁見、ついで頼朝の善光寺参詣の随兵として参加し、御家人の列に加えられたのである。そして、所領として多良木荘を授けられたのであった。
※多良木は平家没官領であり、そこには伊勢氏が入部していた。
伊勢氏なのですが・・実は書いていませんでしたが家の遠い親戚です・・
家にとっては身近な姓なので、あまり気にしてはいなかったのですが・・
急に気になって調べてみたのです。
すると・・
熊本県には現在「伊勢」さんは18軒しかありませんでした。
なお且つ内訳は
熊本市 5軒 荒尾市 3軒 後は宇土市・玉名市・五木村に一軒づつ・・
そして、最も熊本県内で「伊勢」家が多いのは我があさぎり町 7軒。
あさぎり町 7軒の中のさらに「5軒」は・・旧岡原村宮原地区です。

なんだっ!?伊勢さんは熊本ではポピュラーな姓ではなかったのか!?と驚いてしまいました。

そう言えば・・さらに熊本県ではそんなにポピュラー?ではない姓と言えば
家の親戚の「畠山家」と「千葉家」もそうですね・・?
「千葉家」に至っては現在熊本県では33軒しかありません。
親戚の千葉家は子供達は都会に出て行かれたようです・・
郷士が全体の半分を占める旧宮原村なので・・縁があってこの地に来られた方々がず〜っといらっしゃったのかな〜?と推測します。

話を戻しますが・・
橘薩摩の一族と高橋氏(大蔵姓)は御縁がありました。
以前、こちらで御紹介した橘公業と西園寺公経が替地した副田の庄についてです。
豊前佐々木氏 より
http://homepage3.nifty.com/ganryu/sub/soeda.htm
大蔵姓原田氏
 
 郷土史家の原田夢果史氏によると豊前佐々木氏は本姓を添田(副田)氏といい、大蔵姓原田氏の一門だという。大蔵氏は漢の高祖の末裔を自負し、朝廷で大蔵の職に任じられたことからこの姓を称したという。大蔵春実という人物が藤原純友討伐に功績があり、対馬守に任じられて初めて九州に下った。後に筑紫の原田郷に住んで、子孫が原田姓を名乗ったという。
 戦国時代の国人領主、秋月種実や高橋元種はこの一族である。そして、この二人の名に共通する「種」の字が大蔵姓原田氏に代々受け継がれたという。天正十五年十月、岩石城に立て籠もった一揆勢を率いたのは佐々木雅楽頭(うたのかみ)種次であった。
 
田川郡副田庄地頭副田氏
 
副田氏が副田庄の支配者として記録に現れるのは鎌倉時代である。
『到津文書』と呼ばれる古文書に正応五(1292)年三月十六日、副田四郎左衛門尉法師(法名西念)、同六月に「副田二郎左衛門入道の名が見られる。『田川市史』によると、副田氏は鎌倉幕府の御家人であったという。
次に文保元(1317)年の『島津文書』には、副田二郎三郎種信の名がある。この時、副田庄は副田氏の手を放れ、島津忠宗に地頭職がゆだねられた。
さらに『姓氏家系事典』や『応永戦乱』に、応永・正長の頃、副田九郎の名があるという。地頭職は追われたが、在地勢力として生きながらえたのであろう。その後も時代の波にもまれながら有力地場勢力として戦国時代を迎えるのである。

(-.-)副田氏(大蔵姓)は橘薩摩一族と何等かの縁を持ち、現地の地頭となっていたのではないのかな??と推測します。
その後副田庄は副田氏の手を放れ、島津忠宗に地頭職がゆだねられた。
島津忠宗の娘は球磨郡久米郷の土地の一部を譲渡されています。

でも・・その後
橘薩摩公多所領譲状より
肥後国久米郷東方分宮原・豊前国副田庄の内、大屋敷並に地頭職を左衛門が処に譲与する・・
と「地頭職」が橘薩摩一族に戻っていた事が解ります。

この件は詳しく今後コメントしたいと思っていますが・・

所で・・
皆様のご教示が大きなヒントとなり
今日、ナント佐原氏と相良氏の繋がりを見つける事が出来ました!!
今、まとめていますので、お待ち下さい。

では(^'^)
[17]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月14日 18時49分17秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

先程のコメント16で書かせて頂いた発見を早速御紹介致します。

日本の苗字七千傑様と酒井様から頂いた御教示で理解出来た事。

〉平安期には城飼郡荒木郷の中に「平河」は組み入れていた
〉〉平安期に見える郷名。「和名抄」遠江国城飼郡十一郷の1つ。比定地は現在の菊川市高橋と考えられる
〉「和名抄」遠江国城飼郡十一郷の1つと考えれる、高橋郷の高橋氏は・・
相良氏!!

そしてさらに
相良長頼の子「頼忠」・・佐原氏・・佐原頼忠

佐原氏と言えば
師高の曾孫にあたる良貞と師時は訴訟を起こし、弘安六年(1283年)七月の関東下知状で「永吉地頭并名主職」の返付が認められた。
★平河三郎入道観蓮<俗名良貞> 
同じ法名を持つ
佐原(三浦)六郎左衛門尉時連〈法名観蓮〉

遠江国城飼郡と佐原氏は深く関係していました!
相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで
著者: 鈴木かほる氏
ネットにも公開されています。
https://books.google.co.jp/books?id=MFJI9SU6RaAC&pg=PA138&lpg=PA138&dq=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E8%8D%98&source=bl&ots=fOeDuv5MtR&sig=TgFHbgsMxy4Vfya0PJ1McdHxkEY&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjBq7X40vXKAhVFjJQKHaTPB9AQ6AEIIDAB#v=onepage&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E8%8D%98&f=false
137ページより
遠江国笠原庄と佐原義連
佐原義連は紀伊、和泉両国の守護であり、また遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市辺り)の惣地頭兼預所でもあった。
同荘の預所はもと平重盛(清盛の嫡子)であったが、平家滅亡後、木曾義仲追討に功があった甲斐源氏武田信義の子一条忠頼に宛行われた。
ところが、忠頼が余に威勢を振るい、世を乱したという理由で、市谷戦から四か月後の元暦元年(1184年)六月、刺客天野遠景によって酒宴の最中に抹された(吾妻鏡)。
一条忠頼の娘は三浦義村の妻室であったが(深堀系図)、義村は縁座の咎めはなかったが、忠頼の父は駿河守護職を解任され、このとき笹原庄の惣地頭兼預所が、佐原義連に給されたとみられる。
笠原庄内の一の宮高松神社は佐原義連の守護国・紀伊熊野権現を勧請した社である。義連は正治二年(1200年)六月、同社に近辺の荒野を寄進しているが、このときの発給文書は、義連の花押を載せる現存する唯一の古文書となっている。(新横須賀市史・資四一二号)
この遠江国笠原荘は、のちに義連の子盛連が国守に任官している。
中略・・
笠原荘は、佐原氏の後、三浦義村の娘婿毛利季光の手に渡っている。

相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで
著者: 鈴木かほる氏
こちらの書籍は小倉に住んでいる時に図書館で借りて読んでいたのですが、その時は「遠江国城飼郡笠原荘」について全く理解出来ていなかったので、こちらの記述を読んでもスルーしてしまっていました。
しかし、今は違います!
皆様からの御教示のお陰で、やっと気が付く事が出来ました。
本当にありがとうございます。

笹原庄の惣地頭兼預所 
一条忠頼 → 佐原義連 → 佐原盛連・・佐原盛連の子 佐原(三浦)六郎左衛門尉時連〈法名観蓮〉すなわち佐原時連(新宮時連)
平河三郎入道観蓮<俗名良貞> 

ただ・・
一条忠頼が酒宴の最中に天野遠景に刺殺された・・この事は、かなり以前なのですが(佐原氏について全く知らない頃)何故だか「平河氏」に繋がっているのでは?と・・その時スレッドのコメントに「怖くなった」と書いた記憶があるのですが・・
一条忠頼が暗殺された日は六月十六日

爰如良貞等所進遣于遠景(天野)・盛時(平)時六月十六日付
文治3年6月16日 源頼朝、天野遠景に、「平河師高」の所領を安堵するように命じる。
年は違いますが偶然にも六月十六日。
平河家文書にてしっかりと日付が記入されている書類はあまり無かったような・・きっと偶然だと思いますが。

遠江国城飼郡笠原荘・・惣地頭兼預所「佐原氏」

では(..)
[19]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月15日 09時28分56秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

今朝は求麻外史における「相良頼景」の記述から非常に気になる一文を御紹介させて頂きます。

そもそも、相良頼景の多良木追放に関しては以下の記述と同様の内容が一般的です。

※頼景は、源頼朝より遠江守に任じられていた安田義定に逆らって相良荘の大半を失い、建久4年(1193年)に肥後国球磨郡の多良木荘を与えられ、追放同然で下向した。この時、長頼は相良荘の一部を相続して遠江に留まった。(ウィキより)
頼景流配の真相 サイト
http://kuma.atukan.com/rekisi/bangai/yorikage.htm
 「東鑑」養和元年(1181)3月13日の項によると、当時源頼朝配下になっていた安田三郎義定は、橋本城改修のため国内から夫役を集めたのですが、配下の相良三郎頼景や浅羽庄司宗信などはすぐには応じなかったようです。

 安田義定が普請を巡視をした時、頼景と宗信は下馬をしないで打ち通る(争い走り抜けた)など無礼な振る舞いがあったとされています。そこで義定は立腹し、家臣・武藤五郎を遣わして鎌倉へ訴え、相良頼景・浅羽宗信らは所領を没収されたとなっています。

(-.-)「安田義定」。この方に対して無礼な振る舞いを行って「義定は立腹」。
という内容が一般的ですが、本当に「立腹」して、相良頼景を多良木に流配した「影の主」は別の「人物」であったようです。
求麻外史より
歴代私艦、族蹟備考、探源記に曰く、建久四年、一條次郎忠頼、濱松城を繕う、公(※頼景)、其の所を過りて馬を下らず、忠頼怒りて公(※頼景)を鎌倉に劾す、頼朝其の食邑を収め、肥後求麻郡多良木に放たると。
政■案ずるに忠頼は元暦元年、誅に伏す、建久四年に至りて忠頼の死を距る既に久し、三書誤(諛?)れり。
(-.-)と書かれていました。

求麻外史によると、相良頼景が馬を降りなかった事に怒り鎌倉に訴えた人物は
「一條次郎忠頼」すなわち一条頼忠と書かれている・・・
一条頼忠・・忠頼は元暦元年、誅に伏す と、六月十六日の事件も書かれています。

求麻外史に「佐原頼忠」について書かれているはずだ!と朝から求麻外史をじっくり読んでいたら・・御紹介した一文に気が付いたのです・・
昨日、コメントを書いたばかりで、「一条忠頼」という人物の名前がピンポイントで出たので・・少し震えがきました。それほど驚いてしまいました。

一条忠頼と相良頼景。相良頼景は一条忠頼をきっと憎んでいたのでしょうね・・推測ですが・・

一条忠頼に宛行われた遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市辺り)の惣地頭兼預所職は・・
一条忠頼が天野遠景によって暗殺された事により、佐原義連へと給された。

一条忠頼 → 佐原義連 → 佐原盛連・・佐原盛連の子 佐原(三浦)六郎左衛門尉時連〈法名観蓮〉すなわち佐原時連(新宮時連)

佐原氏と姻戚関係にあったと推測できる「相良氏」・・「相良頼忠」(佐原頼忠)

平河氏の訴訟・・平河三郎入道観蓮・・

真実に近づいているのかもしれない・・・と今朝は感じています。
でも、若干・・怖いです。

では。
[20]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月15日 11時43分22秒 ) パスワード

先程のコメントに訂正を(..)

>求麻外史によると、相良頼景が馬を降りなかった事に怒り鎌倉に訴えた人物は
「一條次郎忠頼」すなわち一条頼忠と書かれている・・・
一条頼忠・・忠頼は元暦元年、誅に伏す と、六月十六日の事件も書かれています。

訂正します(..)
求麻外史によると、相良頼景が馬を降りなかった事に怒り鎌倉に訴えた人物は
「一條次郎忠頼」すなわち一条忠頼と書かれている・・・
一条忠頼・・忠頼は元暦元年、誅に伏す と、六月十六日の事件も書かれています。
です。すみませんでした。

所で
遠江国城飼郡笠原荘 勉強しました(..)
袋井市立図書館 荘園の名前にちなむ「笠原村」より 転記させて頂きます(..)
https://lib.city.fukuroi.shizuoka.jp/info/chimei/05.html
笠原村の成立
「笠原村」のもとになった「笠原」という名前は、九世紀頃成立した笠原(かさはらの)荘(しょう)という荘園名に由来しています。
荘園というのは貴族(含皇族)や大社寺の私有地のことで、笠原荘は馬を飼育し供給する「笠原牧(まき)」に起源を持つ荘園で、その範囲は菊川河口を中心に遠州灘にそって広がり、旧浜岡町・大東町・大須賀町・小笠町、これに袋井市笠原地区のごく一部にまで及ぶ広大な荘園でした。
はじめの頃は左大臣 源俊房(としふさ)家が家領としていたことが史料からうかがえ、その後、関白藤原頼道や平重盛(しげもり)が荘園の権利をもち、鎌倉時代には賀茂斎院(さいいん)(賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王・女王)領にと、中央貴族や社寺との関わりが常に見られる荘園でした。
近年の研究によって、この荘園の中心は菊川に沿った旧大東町中と考えられるようになり、そこには「公文(くもん)」「政所(まんどころ)」「紋誅所(もんちゅうじょ)(問注所)」という、役所の名前を示す小字も残っています。
  
笠原荘の鎮守は熊野三山が担い、東方を高松神社(熊野新宮)、北方を小笠神社(那智)、西方を三熊野神社(熊野本宮)がそれぞれ守護しています。この荘園名が、明治22年の山崎村と岡崎村の合併時に採用されたわけです。(Y)

(..)平重盛
相良氏入国前の球磨 より
http://kuma.atukan.com/rekisi/bangai/zengo.htm
康平6年(1058)、平河三郎帥澄が求磨郡(球磨郡)臼麻荘を領しているという記録もあります。このあたりが球磨で最古の支配情勢の記録でしょうか。このほか久寿元年(1154)、平河氏が深田村に万福寺を建立しています。同じく深田村の勝福寺は、平河氏が平重盛の菩提を弔うために建立されたものといわれ、本尊の木造毘沙門天立像ほか7立像が現在も残されています。
こういった事から相良氏入国以前は、平河氏が強い力を誇っていたと伺えます。
 平安時代末期・源平の争乱のころの球磨は平頼盛(平清盛・異母弟)の領地でした。その配下に入っていた人吉氏(矢瀬氏?)、須恵氏、久米氏、合志氏、平河氏が記録にあります。

※深田村の勝福寺は、平河氏が平重盛の菩提を弔うために建立されたものといわれ、本尊の木造毘沙門天立像ほか7立像が現在も残されています。

平重盛(正室:藤原経子<藤原家成の娘。藤原家長の姪>)
須恵庄阿蘇山平等寺釈迦堂再興長禄三年(一四五九)再興されたが、寺の創建は、
相良氏入国前、永厳上人で、仁平元年(一一五一)八月十四日入寂、後弘安年中円パン上人中興、同上人は、有智山万福寺、荒茂勝福寺の塊基である。
★有智山万福寺  深田内山
★荒茂勝福寺   深田荒茂

「永厳上人」は東寺長者、広沢流、保寿院流祖であり、40歳前後に醍醐寺から球磨に戻り平等寺を創建したと記述有り。
俗姓は平(たいら)。字(あざな)は平等房。通称は下野法印
下野守 平師季息
永厳上人の父は平師季。「桓武平氏高棟王流」
平師季の父は「平親信」。「平範国」「平師季」「行親」。この方々は兄弟です。
「平親信」の祖父、平時望の妻は「藤原良尚の四男:藤原菅根の娘」であり、藤原良尚と球磨の久米氏、市房神社を創建した、「藤原真宗」とは兄弟でした。

といった方々が、鎌倉時代に球磨に移住してきた「平河氏」が名跡を継いだ平安時代の球磨の豪族「A氏」に繋がってくるのでしょう。

コメント19の訂正と、鎌倉時代に「平河氏」が名跡を継いだ平安時代の「豪族A氏」についてでした。

では(^'^)
[21]酒井ともさんからのコメント(2016年02月15日 15時28分02秒 ) パスワード


こんにちは。横レスです。

>笠原村の成立
>「笠原村」のもとになった「笠原」という名前は、九世紀頃成立した笠原(かさはらの)荘(しょう)という荘園名に由来しています。
>荘園というのは貴族(含皇族)や大社寺の私有地のことで、笠原荘は馬を飼育し供給する「笠原牧(まき)」に起源を持つ荘園で、
>その範囲は菊川河口を中心に遠州灘にそって広がり、旧浜岡町・大東町・大須賀町・小笠町、
>これに袋井市笠原地区のごく一部にまで及ぶ広大な荘園でした。


笠原の荘
広大な土地だったんですね。
今は袋井市の南部の笠原地区の僅かな名残しか知りませんので、
現、御前崎市高松地区が何故古来、笠原庄と云うのかやっと納得出来ました。


>笠原荘の鎮守は熊野三山が担い、東方を高松神社(熊野新宮)、北方を小笠神社(那智)、
>西方を三熊野神社(熊野本宮)がそれぞれ守護しています。


『笠原庄一宮社記』
鎌倉期に書かれた地頭名には「平家小松殿」次に「一条次郎殿」とあります。
平重盛の後の地頭が一条忠頼に引き継がれたようです。


>深田村の勝福寺は、平河氏が平重盛の菩提を弔うために建立されたものといわれ、
>本尊の木造毘沙門天立像ほか7立像が現在も残されています。


桓武平氏高棟王流
平重盛小松殿と同じ平氏で、その平家御曹司の小松殿地頭領が
球磨郡、城飼郡笠原庄(荒木郷も含む)などにあって平等房 通称は下野法印の「永厳上人」の
一門が目代のような役割を担って、城飼郡笠原庄荒木郷内に平河分郷が出来たと考えられますね。


相良忠頼と多良木
一条忠頼は元暦元年6月16日(1184年7月25日)に天野遠景に討たれますので、
一条忠頼が源頼朝に讒言をして配流になれば、1184年以前になりますが、
まだ平氏も健在ですので、無理でしょうか。

史実に基づく、建久四年(1193年)住したに多良木へ移住したなら、時の遠江守護は安田義定です。
しかしこの安田義定は建久5年8月19日(1194年9月5日) に斬首されていますし、
義定の子の安田義資も前年の建久4年(1193年)に罪をきせられ斬られ、同時に義定も遠江守護を失います。

ですので安田氏の粛清が、相良頼景が配流の遠因になったのかも知れませんね。

もしくは安田義定の手から逃れる為に、縁者を頼って多良木へ閉居した可能性もありますよね。


>それから四年後の建久八年、頼景は鎌倉に行き将軍頼朝に謁見、ついで頼朝の善光寺参詣の随兵として参加し、
>御家人の列に加えられたのである。そして、所領として多良木荘を授けられたのであった。


長命
頼景が多良木に移住した時が「75歳」との記述がありました。
その四年後ですと、「79歳」ですか、故郷の遠江に今一度戻れた時には感涙したでしょうね。

この時には遠江相良の庄には惣領の長頼以下の一族が居住していたでしょうし、
仮説を言えば、この時に球磨の平河郷の地名が、頼景と共に遠江に移った可能性もありますよね。


球磨永吉への移住後
歴史家に聞いたことが無いので、上手く書けませんが、惣領長頼一族が球磨永吉に移住して、
鎌倉末期には相良庄は横地・勝田氏の支配を色濃く受けていたような気がします。

なので、遠江相良庄に残った相良一族の中では一番に名を繋げたのは
武田勝頼の高天神城攻略の頃に滅んだ、高橋郷の「高橋左近将監」で良いのかもしれません。


平原頼範
ところで、相良頼景と共に多良木に移住した、平原頼範の子孫って相良藩士に続いているのですか?
[22]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月16日 10時24分50秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

酒井とも様、ご教示ありがとうございます。
酒井様の御教示
>一条忠頼は元暦元年6月16日(1184年7月25日)に天野遠景に討たれますので、
一条忠頼が源頼朝に讒言をして配流になれば、1184年以前になりますが、
まだ平氏も健在ですので、無理でしょうか。
>史実に基づく、建久四年(1193年)住したに多良木へ移住したなら、時の遠江守護は安田義定です。
しかしこの安田義定は建久5年8月19日(1194年9月5日) に斬首されていますし、
義定の子の安田義資も前年の建久4年(1193年)に罪をきせられ斬られ、同時に義定も遠江守護を失います。

そして、コメント17で私が転記した記述・・
>佐原義連は紀伊、和泉両国の守護であり、また遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市辺り)の惣地頭兼預所でもあった。
同荘の預所はもと平重盛(清盛の嫡子)であったが、平家滅亡後、木曾義仲追討に功があった甲斐源氏武田信義の子一条忠頼に宛行われた。
ところが、忠頼が余に威勢を振るい、世を乱したという理由で、市谷戦から四か月後の元暦元年(1184年)六月、刺客天野遠景によって酒宴の最中に抹された(吾妻鏡)。
一条忠頼の娘は三浦義村の妻室であったが(深堀系図)、義村は縁座の咎めはなかったが、忠頼の父は駿河守護職を解任され、このとき笹原庄の惣地頭兼預所が、佐原義連に給されたとみられる。

じっくり読んでみて感じた事ですが
遠江国の「相良氏」と「一条忠頼」・「安田義定」は敵対関係にあったのか!?と・・

理由は求麻外史の記述にはもちろん一般的に言われる
>安田義定が普請を巡視をした時、頼景と宗信は下馬をしないで打ち通る(争い走り抜けた)など無礼な振る舞いがあったとされています。そこで義定は立腹し、家臣・武藤五郎を遣わして鎌倉へ訴え、相良頼景・浅羽宗信らは所領を没収されたとなっています。
という事が書かれた上で、わざわざ、脚注のように「一条忠頼」の名もあげている・・という所からなのですが・・
しかし、これはあくまでも私の推測に過ぎませんが(..)

しかし、非常に気になる事があります。
※義定は立腹し、家臣・武藤五郎を遣わして鎌倉へ訴え・・
武藤五郎・・武藤氏。
この武藤五郎とは「武藤 頼平」の事でしょうか??
武藤 頼平 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E9%A0%BC%E5%B9%B3
武藤 頼平(むとう よりひら、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。武藤頼兼の子。武藤景頼(近藤貞成)の猶子。
『武藤系図』によれば、頼平の姉妹が平知盛の妻で平知章の母とある。平知盛の目代として武蔵国に在住したという。治承・寿永の乱で源頼朝に臣従し、鎌倉幕府の御家人となる。養子に武藤資頼(後に鎮西奉行として少弐氏と称する)がいる。墓所は師岡郷にあったという。

((+_+))・・あの・・養子「武藤資頼」の子が平河氏の訴訟によって鎌倉御領「球磨永吉庄」の預所となった「武藤(少弐)景資」です。
「武藤(少弐)景資」が「永吉庄」の預所となった事で平河氏側は納得し一旦訴訟騒動は治まったのですが、その後「武藤(少弐)景資」が霜月騒動で亡くなると・・また訴訟問題が勃発・・
時代は下り南北朝時代・・少弐頼尚は球磨山田城にあり「平河」を名乗った・・

かなり、以前、この事は調べていたのですが、今、新たに「遠江国」との繋がりを勉強させて頂いた事により、「少弐氏」が非常に気になり始めました!

武藤資頼 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E8%B3%87%E9%A0%BC
武藤 資頼(むとう すけより、永暦元年(1160年) - 安貞2年8月25日(1228年9月24日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
出自は不詳。藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となり武藤氏の名跡を継ぐ。初め平知盛の部将であったが、一ノ谷の戦いのおり知人の梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人となる。頼朝の嫡男頼家の元服の式典において有職故実の指導をし、ついで奥州合戦に出陣し功を立て、出羽国大泉庄の地頭に任ぜられる。この在任期間中、修験道の本拠・羽黒山領を侵し、羽黒山衆徒と抗争する。
建久年間、九州に派遣されて大宰府の少弐職に任ぜられ、義父頼平の甥に当たる大友能直と共に鎮西奉行に就任。さらに、肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の守護となった。
一介の御家人の身分でありながら、本来公家の官職である大宰少弐に任ぜられたのは資頼が初めてであった。大宰少弐職は資頼の子の資能に継承され、以降世襲となる。資能は少弐を称し、その子孫は北九州の名族の少弐氏として発展した。

\(◎o◎)/!・・えええっ!!
※初め平知盛の部将であったが、一ノ谷の戦いのおり知人の梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人となる。
\(◎o◎)/!「梶原景時を頼って」
梶原景時の孫娘は「宮原一族」の先祖「橘公業」の妻で球磨郡久米郷を譲られた「橘公員」の母です。
※初め平知盛の部将であったが・・と言う事は「橘公長」「橘公忠」「橘公業」と同じです・・・

今、一度「永吉庄」の預所であった「武藤(少弐)景資」を調べます(..)
ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%BC%90%E6%99%AF%E8%B3%87
少弐 景資(しょうに かげすけ)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。少弐資能の三男。武藤 景資とも。
元寇に際し、大将軍として九州御家人達の指揮にあたり、父の資能や兄の経資と共に蒙古軍と戦った。『八幡愚童訓』によると、文永11年(1274年)の文永の役で、景資は10月20日での博多湾沿岸での戦闘において「日の大将軍」であったと言い、景資ないし彼の郎党が蒙古軍の副司令官のひとり(征東左副都元帥)であった劉復亨と思しい人物(流将公)を矢で射止める大功を挙げたと言われている[1]。弘安4年(1281年)の弘安の役にも参陣して奮戦した。
父・資能の死後、兄・経資との間で家督をめぐる争いが起り、弘安8年(1285年)鎌倉で有力御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱とが対立した霜月騒動が起きると、景資は泰盛側に与して泰盛の子で肥後の守護代であった安達盛宗と共に筑前で挙兵したが、頼綱側に与した兄・経資の追討を受け、居城である岩門城で敗死した(岩門合戦)。享年40。
竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』には、小勢で出陣する季長を大将として見送る景資の姿も描かれている。
\(◎o◎)/!・・・ナンデスト!!
※資能の死後、兄・経資との間で家督をめぐる争いが起り、弘安8年(1285年)鎌倉で有力御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱とが対立した霜月騒動が起きると、景資は泰盛側に与し・・
※平頼綱側に与した兄・経資の追討を受け、居城である岩門城で敗死した(岩門合戦)。享年40。

\(◎o◎)/!「平頼綱」は!!宮原一族の先祖「橘公綱」の同母兄弟です!!
平頼綱の「母」は頼綱を産んだ後、橘公員との間に「橘公綱」を産んでいます!!

\(◎o◎)/!・・少弐氏を調べたら、何故かいつもの如く宮原一族の先祖伊予橘氏である「橘薩摩一族」に繋がってしまいました\(◎o◎)/!

酒井様から御教示を頂き「安田義定」を調べ家臣の「武藤五郎」から武藤氏を調べた結果、何故か「平河氏」では無くて・・橘薩摩一族に繋がってしまいました!!

酒井様
>平原頼範
ところで、相良頼景と共に多良木に移住した、平原頼範の子孫って相良藩士に続いているのですか?

求麻外史には相良頼景の項に
「公の族、平原次郎頼範、その弟 新堀又四郎頼兼、公に従って来り、遂に家す。」
とあるのですが、平原氏の「その後」が私の勉強不足でよく解りません。
肥後相良藩士分限帳や求麻外史・南藤蔓綿録他、相良藩に関する書籍は多数所有していますので、熟読してみます。
今、しばらくお待ちください(..)

酒井様 御教示本当にありがとうございました。

あと・・酒井様。
横レスではなくて、酒井様は私に大切な御教示を授けて下さる大事な先生のお一人です。
ですから、今後は「横レス」は無しでお願い致します(..) (^'^)

では。
[24]ミヤハラさんからのコメント(2016年02月16日 23時28分58秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
スマホからのコメントです。
昼間書いたコメントを読み返していて文章がかなり変でした。
訂正します
酒井様、
酒井様は私の大切な先生のお一人です。
今後は「横レス」という言葉は無しでお願い致します。
です。
では(^-^)
[25]酒井ともさんからのコメント(2016年02月17日 13時47分26秒 ) パスワード


皆様、こんにちは。


白羽官牧
>遠江国には、律令制下に白羽官牧(しろわのかんまき)があり、やがて荘園化して白羽荘(しょう)とも称し、
笠原(かさはら)牧や相良(さがら)牧という私牧を分出させた。 両私牧とものちには荘とよばれた。

>白羽牧の故地は御前崎西方の砂丘地帯から北方の牧之原台地におよび、
相良牧と笠原牧は、それぞれ榛原郡相良町と小笠郡浜岡町丁大須賀町)付近とに措定(そてい)される。 
これらの牧の地域・周辺には、勝間田・相良・新野・横地・内田・浅羽などの武士団が輩出した。


なるほど、相良・笠原荘は元は白羽官牧だったのですね。

現在の、御前崎市の白羽地区から灯台のある御前崎地区は家々が点在しますので、
想像出来ませんが、律令の頃は草原に放たれた馬が、のびのびと暮らして居たのでしょう。

平家棟梁の重盛宰相は旧白羽官牧の馬を、
重盛叔父の池殿頼盛は駿河・伊豆に拡がる大岡牧を領有して馬を得ていたようです。

武家のシンボルである良馬を求めていたんですね。



平重盛の目代
>伊東祐親は源氏重代の家人でありながら平氏に鞍替えし、
逆に「平家重恩の者」とさえ称されるようになった。
祐親は平氏の政権下で京都大番役をつとめ、工藤祐経(すけつね)も
その所領久須美(くすみ)荘の領家平重盛につかえていた。

棟梁の小松宰相重盛没後に「入道相国最愛の息子」弟の知盛が
久須美(くすみ)荘の領家を継承したのでしょうか?



「十郎左衛門尉殿」
>『笠原庄一宮社記』鎌倉期に書かれた地頭名には「平家小松殿」次に「一条次郎殿」とあります。
平重盛の後の地頭が一条忠頼に引き継がれたようです。

「一條次郎殿」の次の記されたのが、「十郎左衛門尉殿」

佐原義連は十男で通称、十郎。
建久3年(1192年)の頼朝上洛に従い左衛門尉に任ぜられると
ありますので、義連が十郎左衛門尉殿なんですね。

平家小松殿(平重盛) 一條次郎殿(一条忠頼) 十郎左衛門尉殿(佐原義連)
の順で間違いなく、笠原荘の地頭は引き継がれたようです。



橘姓
平重盛は21歳で遠江守、次いで22歳で伊予守に任ぜられます。
ミヤハラさんの記述に度々伊予の橘氏とありますよね。

駿・遠関係と思われる、橘遠茂は伊予橘氏と同族で

駿・遠関係と思われる、橘公長一門は別系で良いのですか?

自分は平安末期の駿遠に橘姓が居た事すら知りませんでした。

小松殿(重盛)が伊予守になった時に、遠江を経由して伊予に関係を持った
橘一族が居たのかなと思いましたので。



橘ノ公員
小鹿島・きんかず。公業の息。1288年北条家と対立し秋田郡の地頭職を放棄。肥後国久米庄に隠居。

この方がミヤハラさんのミヤハラ姓の御先祖様で良いのですか?


橘ノ入居
播磨守・遠江守・右中弁・左京大夫。奈良麻呂の息。
息に永継、永石、逸勢。娘婿に桓武天皇(桓武平氏祖)

平安三筆の逸勢の父も遠江守なんですね。




>求麻外史には相良頼景の項に
「公の族、平原次郎頼範、その弟 新堀又四郎頼兼、公に従って来り、遂に家す。」
とあるのですが、平原氏の「その後」が私の勉強不足でよく解りません。
肥後相良藩士分限帳や求麻外史・南藤蔓綿録他、
相良藩に関する書籍は多数所有していますので、熟読してみます。
今、しばらくお待ちください(..)

>肥後国山鹿郡泉新荘[2]
[2]現在の熊本県山鹿市菊鹿町相良。「泉荘(菊鹿町及び鹿本町北東部)」のうち、
高橋(鹿本町高橋)・津袋など南部一帯を「本荘(高橋荘)」、内田(鹿本郡内田村)・
相良など北部地域を「新荘(新庄)」といった。泉荘(泉之庄、いづみのしょう)


山鹿市菊鹿町相良
菊鹿町のマップ眺望しますと、相良氏関係の地名が多々あります。
遠州由来の高橋(菊川市、旧小笠町)・内田(菊川市、旧菊川町)・新庄(牧之原市、旧相良町)

太田(旧福田町)・佐原(城東郡?)も遠江の地名でしょうか?

宮原なる地名もあるんですね。


ただ、相良頼景と共に平原頼範・新堀頼兼は球磨へ移住したようですが、
「平原」「新堀」由来の地名を特定したいのですが、中々にたどり着きません。



「新堀」は相良頼景と共に領地召上げになる、浅羽庄司宗信が治めた旧浅羽町にはあるのですが、
調べてみると、そんなに古い地名ではないようです。

[26]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月17日 18時15分08秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

酒井とも様、ご教示ありがとうございます。

まずは・・やった〜(^'^)「横レス」の言葉が無かった!です(^'^)
ありがとうございます。
酒井様はわたくしの大事な先生のお一人です。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。

早速勉強に(p_-)
白羽官牧
>>白羽牧の故地は御前崎西方の砂丘地帯から北方の牧之原台地におよび、
相良牧と笠原牧は、それぞれ榛原郡相良町と小笠郡浜岡町丁大須賀町)付近とに措定(そてい)される。 
これらの牧の地域・周辺には、勝間田・相良・新野・横地・内田・浅羽などの武士団が輩出した。
(p_-)武士団にとっては「馬」は重要ですよね。

>>『笠原庄一宮社記』鎌倉期に書かれた地頭名には「平家小松殿」次に「一条次郎殿」とあります。
平重盛の後の地頭が一条忠頼に引き継がれたようです。
「一條次郎殿」の次の記されたのが、「十郎左衛門尉殿」
佐原義連は十男で通称、十郎。
建久3年(1192年)の頼朝上洛に従い左衛門尉に任ぜられると
ありますので、義連が十郎左衛門尉殿なんですね。

酒井様の御教示にある『笠原庄一宮社記』が非常に気になってネットで検索したのですが、以下のサイトを見つけました。
武士の発生と牧
http://tatsuo.gnk.cc/jk/rekishi/shizuoka/sh25_bushi/sh25_bushi.htm

こちらのサイトに『笠原庄一宮社記』の写真が載っていたのですが・・・
笠原庄地頭職・・「十郎左衛門尉殿」(佐原義連)の後が・・・
「森入道殿」・・森氏です!!\(◎o◎)/! ビックリしました!!

森氏とは・・・・!!
酒井様のご質問
>橘ノ公員
小鹿島・きんかず。公業の息。1288年北条家と対立し秋田郡の地頭職を放棄。肥後国久米庄に隠居。
この方がミヤハラさんのミヤハラ姓の御先祖様で良いのですか?

に関連して御説明致します。
球磨郡の橘姓「宮原氏」は橘公員が球磨郡久米郷東方を譲られた事から始まっています。
橘公業 → 橘公員(母:梶原景時の孫娘) → 橘公綱(平頼綱と同母兄弟。母:豊田五郎景基の娘)→ 橘公資(自此代称宮原氏肥後宮原名)
しかし、肥後国球磨郡久米郷東方に名跡を残す橘氏は南北朝時代までは橘公員の兄「橘公義」の系である「肥前渋江氏」の系「大崎の一族」が主です。
系図には橘公義(通称十郎)の項に「一書、公員ノ父ト有リ。三百五十丁領」と記されています。

ちなみに「肥後国久米庄に隠居」とありますが、「隠居」は無かったと思います。
橘公綱は人吉庄鎮西探題召文の宛先に「橘薩摩左馬大夫」という名で登場します。
系図では橘公綱は「八郎、左馬丞、佐渡守」とあります。
服部英雄氏著 景観にさぐる中世 では
公員流のうち公綱流については、肥後国球磨郡久米郷に根拠を置きながらも京都で活躍していた事が考えられる。
と書かれています。

「森氏」ですが
橘公員の姉「薬上助局」の夫が「森 頼定」で「森氏の祖」です。
森 頼定 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%A0%BC%E5%AE%9A
森 頼定(もり よりさだ)は鎌倉時代の武将。鎌倉幕府御家人で源義家の孫にあたる若槻頼隆の次男。森氏の祖。
父より相模国毛利庄を継承して森姓を称し、安嘉門院判官代などを務めた。子孫には織田信長の家臣である森可成、長可、成利、忠政らの他、讃岐国の豪族となった家系が派生したともいうが、忠政を祖とする近世大名の家系は仮冒とする説もある。
康元2年(1257年)1月13日、79歳で死去[2]。

ですから・・『笠原庄一宮社記』
笠原庄地頭職・・「十郎左衛門尉殿」(佐原義連)の後が・・・「森入道殿」
こちらを見た時は、腰がどうかなるんじゃないか!?と言う程、後ろに仰け反ってビックリしました。

ちなみに・・昨日、もう一つ「森氏」について気が付いていたのです!

求麻外史の相良長頼の項に相良長頼に従って球磨に入った方々の名が記されていたのですが、相良長頼の兄弟以外の譜代の士先頭にあった名が「森某」すなわち・・
「森氏」だったのです!!
この事もすごくビックリしました・・そして今日は笠原庄地頭職「十郎左衛門尉殿」(佐原義連)の後が「森入道殿」。

考えてみると・・
先日、コメントしましたように、家の親戚ですが・・
新堀家から嫁いだ曾祖母。新堀の曾祖母の弟の嫁が「森家」から嫁いでこられています。
やっと気が付きました。
森氏は早くから「球磨」に来られていたようです!!

所で・・
平原頼範・・「平原」はもしや姓では無かったのでは?本姓は「別」なのでは?という事に気が付きました。
明日、コメントさせて頂きます。

さらに今朝
スレッド 永田姓で抱き茗荷紋の平家の末裔 箱柳永田様がコメントに大変ありがたい遠江国の永田姓についてをお書きになっていらっしゃいました。

私も横からコメントさせて頂きました。
もしや、深水の高祖母(永田家の娘)も「遠江国」に繋がる系なのでは!?と考えています。

酒井様
御教示ありがとうございました。
[27]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年02月18日 01時57分20秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「平原」「新堀」由来の地名を特定したいのですが、中々にたどり着きません。

新堀の地名は各地に多く有るが、遠江に限れば山名郡と豊田郡に存在。
平原の地名は紀伊国那賀郡安楽川庄平原、紀伊国伊都郡官省符庄平原。
 
江戸期はともかく街道が整備されない古代は黒潮が移動ルート。
阿波→紀伊→伊勢→三河→遠江→伊豆→相模→房総
阿波と安房の二粟、紀伊、伊勢、伊豆の三伊は偶然で無く太古より関係密接。
九州方面は、鳴門、来島、関門の難所があるが、瀬戸内海経由が一般的。
しかし最大難所の来島海峡は、世界で唯一の信号機で航路規制をしている。
 
畿内から蝦夷地は、瀬戸内海→関門海峡→日本海経由が当たり前。
出羽〜肥前も日本海経由で安倍氏と肥前松浦氏が連携していた。
 
何故かと言えば、海路の方が輸送能力、速度が優れているからですよ!
古代だってアラビアから潮流に乗れば、日本まで高速移動が可能。
 
孫悟空的な陸路移動はヨタ話、始皇帝も海路移動で漢土を席巻。
[28]酒井ともさんからのコメント(2016年02月18日 14時56分40秒 ) パスワード



皆様、こんにちは。



橘姓宮原氏
日本の苗字七千傑さんのHPを拝見しましたが、「橘姓」は名族通りに他流に分かれていますね。


>球磨郡の橘姓「宮原氏」は橘公員が球磨郡久米郷東方を譲られた事から始まっています。
 橘公業 → 橘公員(母:梶原景時の孫娘) → 橘公綱(平頼綱と同母兄弟。母:豊田五郎景基の娘)→ 橘公資(自此代称宮原氏肥後宮原名)
 しかし、肥後国球磨郡久米郷東方に名跡を残す橘氏は南北朝時代までは橘公員の兄「橘公義」の系である「肥前渋江氏」の系「大崎の一族」が主です。
 系図には橘公義(通称十郎)の項に「一書、公員ノ父ト有リ。三百五十丁領」と記されています。

橘公義(通称十郎)の父は「公員ト有り。」 あれっ、橘公員の父は橘公業では?



>「森氏」ですが
 橘公員の姉「薬上助局」の夫が「森 頼定」で「森氏の祖」です。

赤穂藩・三日月藩・新見藩・佐伯藩は本姓は「森氏」ですね。

「森 頼定」を各藩は祖としているのですね。

ただ豊後佐伯藩の毛利家(森氏)は宇多源氏佐々木六角流だそうです。

>笠原庄地頭職・・「十郎左衛門尉殿」(佐原義連)の後が・・・「森入道殿」
 こちらを見た時は、腰がどうかなるんじゃないか!?と言う程、後ろに仰け反ってビックリしました。

そうですか、何がヒントになるか分かりません。
確か、何かの資料に「森入道殿」を含めた全員の名が記載された文書がありました。

「森入道殿」がどなたか分かりましたら、書き込みますね。




>江戸期はともかく街道が整備されない古代は黒潮が移動ルート。
 阿波→紀伊→伊勢→三河→遠江→伊豆→相模→房総
 阿波と安房の二粟、紀伊、伊勢、伊豆の三伊は偶然で無く太古より関係密接。

阿波と安房は同じ読みですね。
黒潮移動ルートで繋がった、国同士とは勉強になります。

紀伊の津秦・伊勢の安濃津・伊豆の河津は「津」繋がりでしょうか?


平原・新堀姓
>>「平原」「新堀」由来の地名を特定したいのですが、中々にたどり着きません。

>新堀の地名は各地に多く有るが、遠江に限れば山名郡と豊田郡に存在。

山名郡の「新堀」は旧浅羽町の新堀村で良いのでしょうか?
古地名辞典のみですが、戦国末期に拓かれたと書かれていたような。

豊田郡にも「新堀」はあるんですね。勉強してみます。

ミヤハラさんの記述に勝田氏の本拠、勝間田村に「新堀」があったとありますので、
その地を特定出来ればと考えています。

勝間田城の新らしい堀に、「勝田流、新堀氏」が分家したような記述が見受けられません。
それが

>平原の地名は紀伊国那賀郡安楽川庄平原、紀伊国伊都郡官省符庄平原。

>>平原頼範・・「平原」はもしや姓では無かったのでは?本姓は「別」なのでは?という事に気が付きました。

楽しみにしています。


[29]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月18日 22時38分44秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

日本の苗字七千傑様、酒井とも様、ご教示ありがとうございました。

日本の苗字七千傑様
>出羽〜肥前も日本海経由で安倍氏と肥前松浦氏が連携していた。

安倍氏 (奥州) ウィキで勉強しました。(かなり以前に調べたきりでした(..))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%B0%8F_(%E5%A5%A5%E5%B7%9E)
従来、安倍氏を東北地方の在地の土豪と捉え、前九年の役を中央による辺境支配への反乱と見る解釈が主流であった。しかし近年の軍事貴族研究の進展とともに、安倍氏を王朝国家特有の「兵(つわもの)」[5]と見る考え方が登場している。関幸彦は、平氏や源氏、秀郷流藤原氏のような中央の貴族の末流の軍事貴族とは別にして、在地の土豪が中央の権力に従って軍事貴族化したものも存在したであろうと指摘し、安倍氏もこの中に含まれるのではないかと論じている。その傍証として関は、『陸奥話記』において安倍頼時が「大夫(五位の官位を持つ者の通称)」と呼ばれていることを指摘している。一方で、安倍忠良が陸奥権守に任命された記録を理由に、中央官人末流とする説もある[4][6]。また、元々は京都から下向した官人出身である安倍氏の祖先が現地の有力者(俘囚の末裔)の婿となってその勢力を引き継いだのが奥州の安倍氏の始まりで、在庁官人であった平永衡・藤原経清が安倍氏の婿となってその勢力基盤を築いたのもそれと同じ構図であるとする説もある[7]。
前九年の役と安倍氏の滅亡[編集]
安倍氏は婚姻などによって勢力を拡大し、忠良の子、安倍頼時の代に最も勢力を広げた。安倍氏は北上川流域の奥六郡(現在の岩手県内陸部)を拠点として糠部(現在の青森県東部)から亘理・伊具(現在の宮城県南部)にいたる広大な地域に影響力を発揮していた。しかし後に頼時が朝廷と対立し、源頼義率いる討伐軍との間で前九年の役と呼ばれる戦いを繰り広げる。頼時は途中で戦死したものの、その後を継いだ子の安倍貞任は頼義に対し終始優勢のうちに戦いを続けた。だが秋田仙北の俘囚主清原氏が度重なる頼義の要請に応えて参戦すると、これを支えきれず貞任は敗北。安倍氏の勢力は失われた。
頼時の三男・安倍宗任、五男・安倍正任はそれぞれ、伊予(のちに筑前の宗像)、肥後に配流された。また、亘理(宮城県亘理町)の豪族藤原経清の妻となっていた頼時の娘は清原武貞の妻となり、息子(後の藤原清衡)も武貞に引き取られ、養子となった。清原氏は安倍氏の地位を受け継いだが、後三年の役で滅亡し、藤原清衡がその地位を継承して奥州藤原氏による黄金時代を築き上げた。
末裔[編集]
前九年の役で一旦滅亡したが、その子孫を称する人々が現れ繁栄して現在に至っている。安倍貞任の子孫を名乗る津軽安東氏・安藤氏、その後裔で戦国大名として活躍した秋田氏、安倍宗任の子孫を名乗る九州松浦党とその後裔である平成時代の総理大臣安倍晋三が特に有名である。また昭和初期に総理大臣・海軍大臣として活躍した米内光政も安倍貞任の末裔であると自負していた。

※安倍宗任の子孫を名乗る九州松浦党
※安倍頼時の三男・安倍宗任、五男・安倍正任はそれぞれ、伊予(のちに筑前の宗像)、肥後に配流された。

安倍頼時の三男・安倍宗任 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AE%97%E4%BB%BB
安倍 宗任 (あべ の むねとう)は、平安時代中期の武将。陸奥国の俘囚の長とされる豪族、安倍氏の安倍頼時の子。鳥海柵の主で、鳥海三郎とも呼ばれる。嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあったと推察されている[1]。
※鳥海三郎・・球磨には鳥飼氏はいらっしゃいます。

前九年の役[編集]
奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う(前九年の役)。一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降服し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという。(『平家物語』剣巻)
配流[編集]
四国の伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に3年間居住し、その後少しずつ勢力をつけたために、治暦3年(1067年)に九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流された。その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。そして、嘉承3年(1108年)2月4日に77歳で亡くなった。
子供[編集]
長男・安倍宗良
宗良は大島太郎・安倍権頭として、大島の統領を継いだ。その子孫の安倍頼任は、九州の剣豪として知られ、秋月氏に仕え、剣術流派・安倍立剣道を開いた。
次男・安倍仲任
仲任は、薩摩国に行ったとされる。
三男・安倍季任
季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。
長女・藤原基衡の室
藤原秀衡の母(異説あり)。
末女・佐々木季定の室
佐々木秀義の母。平治合戦の後、本貫の近江国蒲生郡佐々木庄(現・近江八幡市)を追われた秀義は、母方の伯母の嫁ぎ先である奥州藤原氏を頼って落ちのびる途中、相模国の武将・渋谷重国に武勇を見込まれて食客することとなった。
子孫[編集]
松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍し、その為、治承・寿永の乱により、現在の山口県長門市油谷に流罪となった。その後、高俊の娘が平知盛の子平知貞に嫁ぎ、源氏の迫害から逃れる為に安倍姓を名乗った。ただし平家の家系図には平知貞という人物は存在しない。

(-.-)・・すごく気になる記述があるのですが・・
※在庁官人であった平永衡・藤原経清が安倍氏の婿となってその勢力基盤を築いたのもそれと同じ構図であるとする説もある

平永衡 ウィキより
平 永衡(たいら の ながひら、生年不詳 - 天喜4年(1056年)頃)は、平安時代後期の陸奥国伊具郡の豪族で、伊具十郎と称し、八竜城を拠点とした。郡司であったとも在庁官人として陸奥国府多賀城に勤務していたとも言われる。父は不明だが、下総国の平氏の一族とする系図があり、海道平氏、岩城氏と繋がる家系であったとする意見がある。『陸奥話記』にのみ、その名が登場する。藤原経清は相婿、奥州藤原氏の祖である藤原清衡は甥。

※岩城氏と繋がる家系であった
岩城氏・・桓武平氏繁盛流《岩城氏》姓氏類別大観を拝見すると
そうでした岩城氏から「椎葉氏」に!
岩城隆行の子が椎葉隆義(椎葉氏の祖)でした!

さらに・・安倍 宗任 父:安倍頼時、母:清原氏
※三男・安倍季任
季任は肥前国の松浦に行き、松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名乗る。その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったともいわれている。
平川家について28+1コメント59で書いた
※藤原家基の叔父「尋覚」が本来、平河師高が地頭に補任されるはずであった小値賀島地頭職に補任された。
上記の「尋覚」の母が肥前松浦の清原氏の娘でした。

日本の苗字七千傑様から頂いた御教示で理解出来ました。
全て繋がっているのですね・・

先日ブログにアップした、「宮原家」の写真。家のすぐ近くに明治初期まで鎮座の稲積妙見(稲積神社)
稲積妙見 久米領 稲積山
※八代郡白木社妙見同體
※當郡妙見勧請ノ最初也・・球磨郡内において最初の妙見宮勧請であった。
※草創年紀未考
※社人 椎葉久左衛門 
※明應五年丙辰(1496年)
 藤原為續(相良為続)公・相良長輔公 御願トシテ 中興
※中興に関わった人物
  代官最取式部少輔綾(アヤノ)末續 宮原出雲橘續久・・橘(宮原)続久
  石井太郎兵衛尉 阿部貞豊 等

「椎葉氏」「綾氏」「橘(宮原)氏」「石井氏」「阿部氏」
球磨の「阿部氏」は通字は「貞」です。(球磨の多数の阿部氏に貞の字が・・)

酒井とも様
>あれっ、橘公員の父は橘公業では?

橘公員の父は橘公業。通説ですね。
しかし・・何故か?系図の橘公義(通称十郎)の項には「一書として・・公員ノ父ト有リ」と書いてあるのです・・
時代が時代なので・・何かあるのかもしれませんね・・
ただ、確かに鎌倉時代中期から南北朝時代後半までの球磨に残る橘氏の名跡は橘公義の系「渋江氏大崎の一族」なのです・・
この辺りは、相良氏との関係性をもっと調査する事によって事実は見えて来ると思っています。

日本の苗字七千傑様、酒井様
>新堀の地名は各地に多く有るが、遠江に限れば山名郡と豊田郡に存在。
>平原の地名は紀伊国那賀郡安楽川庄平原、紀伊国伊都郡官省符庄平原

日本の苗字七千傑様より頂いた御教示により、昨日私が書いたコメント
>平原頼範・・「平原」はもしや姓では無かったのでは?本姓は「別」なのでは?という事に気が付きました。

この事がもしや?から実は!?という風に私自身の中で変わってきました!
きちんとまとめて明日コメントさせて頂きます。

長いコメントとなりまして申し訳ありません。

では(..)
[30]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月19日 09時09分33秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

酒井様
>何がヒントになるか分かりません。
確か、何かの資料に「森入道殿」を含めた全員の名が記載された文書がありました。
「森入道殿」がどなたか分かりましたら、書き込みますね。

本当にありがとうございます。
酒井様からの御教示にあった『笠原庄一宮社記』。
大ヒントでした!
「森入道殿」とは?・・お手数をおかけ致しますが遠江国に何等かの情報が残っているかもしれません。御教示の程よろしくお願い申し上げます(..)。
[31]酒井ともさんからのコメント(2016年02月19日 12時28分23秒 ) パスワード


皆様、こんにちは。


旧浜岡町史 編纂記録よりです。

『笠原庄一宮社記』

中略

1.當庄地頭御次第

@平家小松殿 A一條次郎殿 B十郎左衛門尉殿

C森入道殿  D中城介殿城 E陸奥入道殿

F潮音院殿  當御代



@平家小松殿 平重盛
平家棟梁


A一條次郎殿 一条忠頼
甲斐武田氏


B十郎左衛門尉殿 佐原義連
相模三浦氏


C森入道殿 毛利季光
>[17] ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月14日 18時49分17秒 )
 中略・・
 笠原荘は、佐原氏の後、三浦義村の娘婿毛利季光の手に渡っている。


源姓毛利(森)氏は相模国毛利庄(現・神奈川県厚木市毛利台)を領有。

大江姓毛利氏は源姓毛利(森)氏より相模毛利庄を譲られるようですが、

八幡太郎以来の相模源氏嫡流の陸奥領を、大江流の毛利氏が継承するというのは、
血縁関係で円満に相続か、陸奥家の失政か大きな政治力的な配慮が働いたのでしょうか?


D中城介殿 安達義景
父は安達景盛。子には安達泰盛、覚山尼(北条時宗室)がいる。


E城陸奥入道殿 安達泰盛
弘安8年(1285年)、霜月騒動にて誅される。


F潮音院殿 覚山尼
建長4年7月4日(1252年8月10日) - 徳治元年10月9日(1306年11月15日))
安達義景の娘。第8代執権・北条時宗の正室
文永8年(1271年)12月、20歳で嫡男・貞時を出産。

日蓮の回想によれば、時宗は嫡子誕生の喜びから
日蓮を恩赦して死一等を減じ、流罪に減罪したと言われる。

鎌倉松ヶ岡に東慶寺を建立。


宝治合戦で三浦一族に加担した佐原氏・毛利氏が没落し、
霜月騒動までは、安達一族が笠原庄を領有していたのですね。

永仁元年(1293年)の平禅門の乱で平頼綱が滅ぼされた後に
泰盛の弟、顕盛の子宗顕は霜月騒動で討たれ、一族の多くが滅ぼされたが、
宗顕の子時顕は幕政に復帰し、安達氏家督である秋田城介を継承した。

大伯母である潮音院殿 覚山尼も実家である安達家の
復興に尽力したのでしょうね。

[32]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月20日 09時01分16秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

酒井とも様、御教示ありがとうございます。

旧浜岡町史 編纂記録より 『笠原庄一宮社記』

森入道殿 毛利季光

毛利季光。この方だったのですね!
森頼定を祖とする「森家」ではなかった・・しかし!!
毛利季光は「大江広元」の四男。
大江広元は平河氏が地頭を務めた、球磨永吉庄の預所です!!

遠江国笠原庄と球磨の永吉庄が全く無関係では無く(ー_ー)!!深く繋がっていたと言う事がしっかりと解りました!!
酒井様、本当にありがとうございます。心より感謝申し上げます。

毛利季光 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%AD%A3%E5%85%89
中略・・
宝治元年(1247年)、北条氏執権派と対立した妻の実家三浦氏方に付き敗北(宝治合戦)。鎌倉法華堂で息子の広光・光正・泰光・師雄らと共に自刃した。合戦の直前、季光は将軍御所に向かおうとしたが、妻の「兄泰村を見捨てる事は、武士のする事ではない」との言葉で三浦陣営に付いたという。毛利一族はこれによって大半が果ててしまったが、越後国にいた四男の経光の家系だけが唯一残ったとされ、この経光の子孫から戦国時代に吉田荘の国人領主から一躍中国地方の覇者となる毛利元就が出る。
なお、季光の娘は宝治合戦を執権として指揮した北条時頼の正室となっていたが、戦後に離別している。時頼の子北条時宗の母である葛西殿は季光の娘とする系図が一部にあるが、複数の確かな史料では時宗の母は継室の北条重時の娘である事が認められるため、季光の娘説は否定されている

※北条時宗の母である葛西殿は季光の娘とする系図が一部にあるが、複数の確かな史料では時宗の母は継室の北条重時の娘である事が認められる

※北条重時
鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男。母は正室で比企朝宗の娘・姫の前。初代執権・北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥にあたる。極楽寺流の祖。
改名 重時、極楽寺観覚 法名「観覚」

平河宮内左衛門入道観覚
平河又三郎師里は平河宮内左衛門入道観覚の甥になります。
ちなみに・・
北条重時の正室:苅田義季の娘。「荏柄尼西妙」
尼西妙は鎌倉初期の人吉庄の地頭の一人です。
肥後国球磨郡図田帳より 
蓮花王院人吉庄六百町
  本所 蓮華王院
  領家 八条女院
  預所 対馬前司 中原清業
  下司 藤原友永 字人吉次良
  政所 藤原高家 字須恵小太良
  地頭 藤原季高 字合志九良
     藤原茂綱
     藤原真宗 字久米三良
     尼西妙

旧浜岡町史 編纂記録より 『笠原庄一宮社記』
※中城介殿 安達義景
安達義景 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E7%BE%A9%E6%99%AF
父母 父:安達景盛、母:武藤頼佐の娘
中略・・
時頼の得宗専制体制に尽力した義景は格別の地位を保ち、時頼の嫡子・時宗は義景の姉妹である松下禅尼の邸で誕生している。義景の正室は北条時房の娘で、その妻との間に産まれた娘(覚山尼)は時宗の正室となる。また、長井氏、二階堂氏、武藤氏など有力御家人との間にも幅広い縁戚関係を築いた。
※長井氏、二階堂氏、武藤氏・・

わたしは・・全てが繋がっているのだと「推測」ではなく「確信」に近づいてきました!

酒井様!!
私が、ここ数年「平河氏」を調査していた中で「何故?ここに繋がる??」と理由が解らなかった数々の「姓」「人物」が全て「笠原庄」地頭職に繋がっています。

本当に本当にありがとうございます。

さらに御報告が(..)
「平原氏」の手掛かりを調べようと読んでいた「麻郡神社私考」なのですが・・
「平原氏」では無く「久保田氏」と久米郷「宮原村」を繋げる大きな「鍵」を見つける事が出来ました。
全くの偶然です。
この事を”発見”した時には「震え」がきました。
後ほど御紹介させて頂きます。

では(^'^)
[33]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年02月20日 13時18分38秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>八幡太郎以来の相模源氏嫡流の陸奥領を、大江流の毛利氏が継承するというのは、
血縁関係で円満に相続か、陸奥家の失政か大きな政治力的な配慮が働いたのでしょうか?

謎の様に見えるが、藤原広元→中原広元→大江広元と家系を乗り替えている。
大江維光の長男であるはずの大江弘忠が、多くの系図から抹消されていることである。
鎌倉初期の大争乱の影の主役が大江広元ということ。
 
藤原氏は長家流で、後裔は三井氏/藤原姓森氏/毛利氏、佐伯毛利家に繋がる。
 
詳細は膨大になるので、下記書籍参照のこと。
大江隻舟著「大江広元改姓の謎」
[34]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月21日 07時55分48秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
>鎌倉初期の大争乱の影の主役が大江広元ということ。

やはり・・大江広元ですね・・
平河氏の訴訟に関連した近衛中将実春朝臣(徳大寺実春)は北条泰時の娘婿であり大江広元の外孫でした。
ここでも「大江広元」に繋がっている・・
やはり大江隻舟氏著「大江広元改姓の謎」は必読である・・と言う事ですね。

所で・・
昨日、コメントをしました旧宮原村と久保田氏の関係ですが、一国一城令発令の前「弘治二年(1556年)」に旧宮原村中嶋神社内の治頼神社に名を残した当時の宮原村地頭の名を見つけました。「久保田氏」との関係は後ほどコメントさせて頂きます。
その前に・・
相良氏族「窪田(久保田氏)」の系図ならびに詳細を皆様にご紹介させて頂きます。
以前から系図(木上村史記載)は所有していたのですが、実際に転記してさらに調べてみると様々な事が解りました。

久保田(窪田)氏系図 初代〜十五代 木上村史より
※相良長頼 次男 相良頼氏の次男「頼吉」を祖とする。
「多良木氏」「窪田(久保田氏)」「佐牟田氏」「岩崎氏」「黒肥地氏」
相良頼氏 → 一代 頼吉(頼善)※窪田民部少輔。木上岩城館に住。知行四百八十石 
→ 二代 頼成 上総介 → 三代 頼清 九郎三郎 → 四代 頼実 与十郎 → 五代 頼時 与五郎 → 六代 頼次 九郎三郎 → 七代 頼治 下野守 → 九代 頼代 (九郎左衛門 対馬守 修月長善)
 ※九郎左衛門 → 上総介 → 長男 新九郎(→監物)次男 新左衛門(永禄二年八月十五日うそ野原にて戦死) 三男 彌九郎
→ 十代 頼重 (九郎五郎、九郎次郎、慶繁) 
→ 十一代 長益 (大蔵大輔 天文十六年二月十三日没 岩城に葬る) 
→ 十二代 長善(越後守、初与三郎、うそ野原合戦にて功あり感状及水田五町三反を賜い、木上村に大平山を賜う。天正八年十二月没。 昌山勝繁、岩城に葬る)
→ 十三代 頼富(長門守 宗春 文禄四年八月五日没)※弟 九郎左衛門(天正九年十二月二日 響野原にて戦死)
→ 十四代 頼豊(大蔵少輔 文禄二年六月二十九日高麗国にて戦死、妻は須恵城主恒松氏の娘。岩城に墓在り)
→ 十五代 九介(官房丸 八才の時孤となる。大村に移住。本翁宗官、墳墓は大村塘池に在り。)
※十五代 九介について
父窪田大蔵(頼豊・木上地頭)は「晋州」にて戦死、母も若くして亡くなり、八才の時に弟と共に大村に移り住み他家に養われて成人したとあります。
「大村」とは、現相良村内にある旧深水村・旧柳瀬村を指します。
当時の旧深水村・旧柳瀬村の地頭は「深水氏」と「平河氏」です。(其々のむらに深水氏・平河氏あり)

※十五代 九介の弟 甚助 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正に仕え五百石を賜う。
中川内膳正とは・・中川久盛
中川 久盛 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E4%B9%85%E7%9B%9B
中川 久盛(なかがわ ひさもり、文禄3年7月15日(1594年8月30日) - 承応2年3月18日(1653年4月15日))は、豊後国岡藩の第2代藩主。
初代藩主・中川秀成の長男。母は佐久間盛政の娘(新庄直頼の養女)・虎姫。正室は久松松平定勝の娘(徳川家康の養女)。子に中川久清(長男)、娘(水野忠職正室)。官位は従五位下、内膳正。賤ヶ岳の戦いで敵味方となり戦った中川清秀と佐久間盛政を両祖父に持つ。
1612年(慶長17年)、父が死去したため跡を継いだ。1651年(慶安4年)に長男・久清に家督を譲るまで39年間、藩主として在職した。
承応2年(1653年)、59歳で没した。
世界帝王辞典 中川氏
https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%B0%8F
上記サイトを拝見すると、中川氏は「森氏」「池田氏」「酒井氏」「松平氏」「水野氏」「佐久間氏」「秋月氏」「久留島氏」「石川氏」等 多数の姻戚関係が見えました。
窪田(久保田)甚助が何故「中川内膳正(中川久盛)」に仕える事となったのか?は未だ調査していません。

久保田(窪田)氏系図 十五代以降〜
→ 十六代 長盛(又次郎、梅林宗香全定門、墓は地代峰に在り。慶安三年七月二十日卒)
→ 安滋 七左衛門。延宝九年八月十七日卒。墓は毘沙門堂に在り。妻は豊永氏の娘。
  弟 彌次郎。 岩崎喜之助養子と為る。
→ 安時 享保十七年三月五日卒。妻は岩崎氏女。
→ 安秀 以心 茶道役。妻は税所新助女。
  姉妹 宮 小新馬場の村上孫兵衛妻
  弟  九八 七地村 岡本氏の養子と為る。
※七地村 岡本氏とは
岡本河内守頼氏の後裔。
岡本 頼氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E9%A0%BC%E6%B0%8F
岡本 頼氏(おかもと よりうじ、天文6年(1537年) - 慶長11年11月13日(1606年12月12日))は、人吉藩相良氏の家臣。通称は弥十郎、源次郎。別名は頼真。官位は主馬、河内守。父は岩本隆吉。
先祖は菊池氏で、球磨郡永里の地頭職にあったことから「永里氏」を称した後、相良前続の頃、先祖が原田岩本に水田一町を賜って以後、「岩本氏」を名乗った。
頼氏は深水姓を賜り深水主馬と称したが、その後に岡本の領主であったことから岡本姓を名乗った。槍の名手で武勇に長け、歌道にも通じていたという。弘治元年(1555年)の初陣から大小19の戦いに出陣、傷を被る事31ヶ所、相良氏の主要な合戦の大半に出陣して武名を挙げた。特に永禄11年(1568年)の島津氏との戦いでは菱刈氏と共に大口城を死守し、敵将の川上久朗を討ち取るという大功を挙げている。
相良氏が島津氏の配下になると菱刈源兵衛隆豊、内田伝右衛門と共に島津義弘に所望され、島津軍とともに大友氏攻めに出陣し、功を挙げている。69歳のときに剃髪するも、その翌年病没した。法名は「悟了永頓」。
※岡本城 球磨郡旧岡原村岡本。後に相良清兵衛(犬童頼兄)が居城。
※岡本河内守頼氏は晩年七地村に移る。
※岡本家先祖供養碑は旧宮原村宮麓地区にあった庭柏寺跡に現存しています。

久保田安滋 七左衛門。妻は豊永氏の娘。
同時代、宮原喜兵衛(宮原公全”宮原宇右衛門の孫)の妻も豊永氏の娘です。
佐牟田(宮原)武左衛門の母となります。
この事は、後ほどコメントする宮原村と久保田氏の関係に繋がっているように推測出来ますので、現段階で書かせて頂きます。

御紹介したい記述を今まとめています。
まずは、窪田(久保田)氏について、概略を御紹介致しました。
では(..)
[35]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月21日 17時56分32秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

先程のコメント34で
>世界帝王辞典 中川氏
https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E6%B0%8F
上記サイトを拝見すると、中川氏は「森氏」「池田氏」「酒井氏」「松平氏」「水野氏」「佐久間氏」「秋月氏」「久留島氏」「石川氏」等 多数の姻戚関係が見えました。
と書きましたが、良く見ると「井伊氏」「稲葉氏」「小池氏」「藤堂氏」「丹羽氏」との姻戚関係もありました。
少しピックアップしてみると・・

中川清秀 生没年:1542-1583
娘 
糸姫(播磨姫路藩初代藩主 池田輝政室)
ちぼ(信濃川中島藩主 森忠政室)

中川久恒 生没年:1641-1695
正室:左阿(父:備前岡山藩初代藩主 池田光政)

中川久通
生没年:1663-1710
正室:紀伊姫(父:上野前橋藩四代藩主 酒井忠清)
娘(伊勢津藩五代藩主 藤堂高敏室)
娘(日向高鍋藩五代藩主 秋月種弘室)

中川久貞
生没年:1724-1790
父:>遠江浜松藩初代藩主 松平信祝
義父:豊後岡藩七代藩主 中川久慶
側室:小池氏 
 娘:牧、巻(播磨赤穂藩七代藩主 森忠賛室)

中川久徳
生没年:1745-1811
正室:(父:陸奥二本松藩六代藩主 丹羽高庸)

中川久教
生没年:1800-1840
父:近江彦根藩十三代藩主 井伊直中
義父:豊後岡藩十代藩主 中川久貴
幼名:悌之丞
初名:井伊直教
別名:久通

中川久昭
生没年:1820-1889
父:伊勢津藩十代藩主 藤堂高兌
義父:豊後岡藩十一代藩主 中川久教
娘 : 芳子(安房館山藩五代藩主 稲葉正善室)

今まで日本の苗字七千傑様に御教示頂いた「歴史の大きな流れ」に中川家は繋がっているのですね・・
何故?父母を亡くし、他家(深水氏?平河氏?)で養育された窪田(久保田)甚助がこちらの中川家「中川内膳正(中川久盛)」に仕え500石を賜る事になったのか???
非常に興味が湧いてきました。

皆様
重要な記述に関して今まとめています。
もうしばらく、お待ちください(..)
[36]酒井ともさんからのコメント(2016年02月24日 13時00分40秒 ) パスワード


皆様、こんにちは。


武藤氏


藤原秀郷流が近江に根付き、近藤氏を興したようです。
その後に道長流の武藤氏が猶子となり、
家を継承したようです。


@駿河国、島田(近藤)権守
その後、駿河島田に土着した島田(近藤)権守景親の子、
島田景重が伊豆移住して、本姓の近藤氏を名乗る。

A島田(近藤)景頼系の繁栄
近藤景重弟、景頼の子孫が繁栄します。

B豊後守護大友氏
その近藤(島田)景頼の実子が近藤能成で、
その子が中原氏の養子となる大友能直のようです。

近藤氏−島田氏−古庄氏−中原氏=豊後大友氏

C遠江気賀関所
大友能直の兄弟の直景の子孫は
遠江気賀の関所守の旗本、近藤氏になるようです。

武藤氏−島田氏−遠江近藤氏

D武藤頼平
近藤(島田)景頼の猶子が武藤頼平のようです。

長頼−頼氏−頼家−頼兼−武藤頼平(島田景頼の猶子)

頼平の姉か妹が、平知盛に嫁ぎ、知章を産みます。
これは駿豆の大岡牧の関係でしょうか。

E太宰少弐氏
武藤頼平の猶子が資頼のようですが、

景頼=頼平=資頼と続けて猶子(養子)が迎えられます。

さらになんと資頼は素性不明だそうです。
この武藤資頼が太宰少弐氏を名乗ります。

近藤(島田)氏−武藤氏=太宰少弐氏

F少弐資頼の兄弟
兄が太郎頼忠・少弐資頼・弟が武藤五郎

G武藤五郎
伝承では少弐資頼の弟が、遠江守護の安田義定の
嫡男、安田義資に仕えた五家老の一人、武藤五郎になるようです。

安田義資は建久5年8月19日に梟首、次いで翌月20日五家老殉死。
>名越(なごや)邊被刎首所謂、前瀧口榎本重兼、前右馬允宮道遠式、
麻生平太範国、柴藤三郎、武藤五郎等也(和田義盛奉行此、事)吾妻鏡。

この武藤五郎の子孫は、遠州森一宮の真田城主、武藤刑部丞として続き、
最後は徳川勢が攻略した、高天神城にて斬られます。

その後、刑部丞の子孫は坂上田村麻呂が遷座させたと伝えられる
遠江日坂の事任八幡宮などの関係宮司を務めたようです。

森町 香勝寺(桔梗寺)
http://www.kikyoudera.jp/history.html


豊後の大友氏と太宰少弐氏が駿河の島田に縁が有ったのは知りませんでした。

調べればいろんなことが分かりますね。


H近藤(島田)氏の直系
近藤(島田)景重の直系が甲斐へ移住しておりますので、
関係姓である武藤氏を名乗った可能性はないでしょうか。

近藤氏−島田氏−甲斐近藤氏


I甲斐武藤氏
武田信玄の両眼と云われた、武藤喜兵衛(真田昌幸)は甲斐武藤氏を一時継承します。
史実では、武藤氏は信玄の母の大井殿の一族とされているようです。

もしかしたら、
真田昌幸が継いだ、武藤氏が近藤(島田)氏の系譜を伝えているとしても、
甲斐源氏の一流の武藤氏の方が箔が付きますね。

[37]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月25日 15時35分03秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

酒井とも様、ご教示ありがとうございます。
わたくし、先日から「書きます!」と言っていた”内容”を調べれば調べる程、単純な構造ではなく、おそらく「宮原銀山」が発見された後の相良藩内の”内乱”や遡ればもしや”文安の内訌”にも関係あるのでは?という様々な”事実”に気が付いてしまって・・コメントをどうまとめれば良いのか、右往左往していました。
でも・・私、まとめる能力は乏しいので、気が付いた事をそのまま、こちらにコメントして皆様にも御一緒にお考え頂くのが一番的確なのではないか・・と考えました。
後ほど気が付いた事”第一弾”をコメントさせて頂きます(..)

酒井様、「武藤氏」お調べ頂きましてありがとうございます。

〉D武藤頼平
頼平の姉か妹が、平知盛に嫁ぎ、知章を産みます。

平知盛・・球磨の宮原一族の先祖である橘公長、子の公業(橘次)・公忠(橘太)は元は平知盛の家臣。
さらに武藤頼平は一ノ谷の戦いのおり知人の梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けらた・・
梶原景時の孫娘は橘公業の妻で、球磨久米郷を譲られた橘公員の母・・
三浦義澄は佐原義連の兄弟です・・

〉F少弐資頼の兄弟
兄が太郎頼忠・少弐資頼・弟が武藤五郎

〉G武藤五郎
伝承では少弐資頼の弟が、遠江守護の安田義定の
嫡男、安田義資に仕えた五家老の一人、武藤五郎になるようです。

武藤五郎とは少弐資頼の弟なのですね・・ありがとうございます(^'^)

〉この武藤五郎の子孫は、遠州森一宮の真田城主、武藤刑部丞として続き、
最後は徳川勢が攻略した、高天神城にて斬られます。
〉森町 香勝寺(桔梗寺)

森町 香勝寺・・静岡県周智郡森町草々谷
静岡県周智郡森町・・前スレッドの平川家について28-1コメント78で私調べていました!
>1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、森町村、向天方村、橘村、天宮村、城下村が合併して(旧)森町が発足
こちらには「久保田山」があるのですね!

と書いていました。
気になるのは「久保田山」だけではなく「森町」・・”森”・・さらに”橘村”・・偶然かもしれませんが・・ここまで「久保田」「森」「橘」と言葉が揃うものなのか??と・・もちろん偶然だとは思いますが・・でもな・・???
森町は「遠江国周智郡久保田邑」のお隣なのですよね・・

武藤氏・少弐氏・・こちらは今までのコメントで書かせて頂いていたように球磨の平河氏に繋がりがあります。

武藤氏は・・宮原一族の先祖「橘公長」の一族さらに平河氏にも繋がりがあると言う事がしっかりと解りました。
酒井様、ありがとうございます(^'^)

所で・・
球磨から見える景色についてを(^'^)
岩城(平安時代後期〜鎌倉初期平河義高居城、後窪田(久保田)氏居城)のある木上村より相良村方向(人吉方向)に少し進むと「高原」(たかんばる)という高い大地があります。
「高原」(たかんばる)は古代球磨が巨大湖だった時の名残で「高原」周辺(球磨盆地の殆ど)は沈下してしまいましたが、「高原」台地は残り、もちろん標高は低いのですが、まるで球磨のテーブルマウンテンのような台地です。
この「高原」(たかんばる)から見ると、えびの方向は山が連なって見えるのですが一か所、山と山の広い谷間のような所があり、その谷間からは天孫降臨の地、霧島連山の「韓国岳」がはっきりと見えます。
先日、その事に気が付いた時には車から降りて「わぁ〜!ここから韓国岳が見える!!」と感動しました。
もしや・・「高原」(たかんばる)は霧島連山の韓国岳が見える事からの地名遷移かな??などと・・(あくまでも、もしや??ですが(^'^))
この「高原」(たかんばる)台地は戦時中は飛行場が作られていました。
「高原」(たかんばる)台地のすぐ下には由留儀大明神(由留儀神社)が鎮座。
熊本県神道青年会 加茂神社
http://www.kumamoto-shinsei.jp/shrine-map/modules/gnavi/index.php?lid=174
江戸時代は「由留儀大明神」と呼ばれていたが明治元年加茂神社と改められ明治5年村社列格。
例祭は11月の初亥の日で十日市に在る。京都の賀茂神社の祭神と同じである。
 天文16年(1547)に第17代藩主相良晴広公の願いにより、木上の地頭、藤原長善(窪田越後)が指揮して神社の再興をした。それから19年後の永禄9年(1566)11月20日に第18代藩主相良義陽公の願いによって竹田彦三郎(平 重昌)の指揮で拝殿が造り替えられた。
 木上の住人が長年敬仰していた大平山の恩人窪田越後の400年祭を機に神社庁のご認可を得て、昭和55年11月22日当神社の秋の大祭前夜窪田越後の守、藤原長善命として増祀し、三柱となる。
神社は由留木の兵陵の中腹に在り、東面して鎮座されている。境内高燥間奚谷にして眺望勝れ神社の脚下岩窟より湧出する泉は流れて小川をなし如何なる豪雨の時と雖へども混濁する事がない。
 当神社は雷鳴を慎れる者、雷災を避くるに霊験顕著なりとて、其の崇拝信仰深く遠近よりの参拝者あり、特に夏祭り(舊6月1日)当日は人吉方面の参拝者多く賑わいを呈する。
主祭神 別雷神、加茂御祖神
配祀神 窪田越後守、藤原長善命

こちらの神社にお参りした際に由来を拝見したのですが「荒田大王神社」(祭神 平河義高)から神像を移されたとの話が書かれていました。

岩城には木本神宮(このもと神宮)が鎮座。木本神社境内に窪田越後守、窪田大蔵のお墓があります。
木本神宮 熊本県公式ページ
http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_8410.html

全国の「木本神宮」を検索してみたのですが
木本神社 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E7%A4%BE
木本神社(きのもとじんじゃ)は三重県熊野市木本町の神社である。
安政2年(1855年)徳川御三家の紀州藩直轄から新宮城主・水野氏に知行替えが交付された際、現三重県熊野市木本町周辺住民の猛反対が起こった。当時の藩士吉田庄太夫の尽力により知行替えは中止された。境内には庄太夫を称え吉田大明神の石祠が祀られている。
(?_?)・・あれっ??
知らなかった・・というか全くの勉強不足です・・・今、コメントを書きながら初めて知りました・・
新宮城主・水野氏
新宮城 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%AE%E5%9F%8E
新宮城(しんぐうじょう)は、和歌山県新宮市にあった日本の城である。別名は丹鶴城(たんかくじょう)。また、沖見城(おきみじょう)とも称された[1]。城跡は「新宮城跡附水野家墓所」として国の史跡に指定されている
新宮城は、熊野川沿岸の田鶴原(たづはら)と呼ばれたあたりの小高い丘である丹鶴山(現在の和歌山県新宮市新宮字丹鶴)に築かれた平山城である[1]。別名・丹鶴城は、もとこの地に、源為義と熊野別当の娘の子である丹鶴姫の住まいがあったことによる[4]。ちなみに、「堀内新宮城」(別名・堀内屋敷)を築城した堀内氏[5]以前に、熊野地方を統治した新宮氏の祖とされる新宮十郎行家(源頼朝の叔父[6])は、丹鶴の弟である[7]。現在の地に築城したのは浅野忠吉であり、一国一城令により一度廃城した後、忠吉が再築城した新宮城には、大・小の天守や二ノ丸(水野氏時代には鐘ノ丸)などがあった[8]。松ノ丸のある姿となったのは水野2代重良の頃である[4][9]。
歴史[編集]
もともと田鶴原と称されたこの地には、平安時代末に熊野三山を支配した熊野別当の9代殊勝(よしかつ)の別邸や11代快真(かいしん)の屋敷が建てられ、その後代々が居住した。源為義は、熊野別当の娘のもとに通い1女1男をもうけたが、その女子が丹鶴山および丹鶴城の別名の由来となった丹鶴姫である[1][10]。丹鶴はのちに熊野別当第19 代となる行範(ぎょうはん)に嫁ぎ、行範が死去すると剃髪して鳥居禅尼と名乗り、1130年(大治5年)、丹鶴山に夫の菩提を弔う東仙寺を建立した

なんでしょうか??!!
岩城(平安時代後期〜鎌倉初期平河義高居城、後窪田(久保田)氏居城)の「木本神宮」を調べたら・・
三重県熊野市木本町「木本神社」に繋がり・・
さらに「熊野別当家」さらには「水野氏」に繋がりました・・!!??
伊予橘氏である宮原一族の先祖「橘薩摩」と、熊野別当家との繋がりは前スレッド平川家について28+1で日本の苗字七千傑様より
>橘氏、越智氏、熊野国造は密接な関連。
偶然じゃありませんよ。
と御教示を頂いていました。
さらに・・今日は「水野氏」も登場・・
「水野氏」と言えば・・先日コメントしましたように
※十五代 九介の弟 窪田(久保田)甚助 初、加藤清正に仕う。後、中川内膳正に仕え五百石を賜う。
中川 久盛(なかがわ ひさもり、文禄3年7月15日(1594年8月30日) - 承応2年3月18日(1653年4月15日))は、豊後国岡藩の第2代藩主。
初代藩主・中川秀成の長男。母は佐久間盛政の娘(新庄直頼の養女)・虎姫。正室は久松松平定勝の娘(徳川家康の養女)。子に中川久清(長男)、娘(水野忠職正室)。
中川氏は「森氏」「池田氏」「酒井氏」「松平氏」「水野氏」「佐久間氏」「秋月氏」「久留島氏」「石川氏」「井伊氏」「稲葉氏」「小池氏」「藤堂氏」「丹羽氏」他・・との姻戚関係
木上村岩城・・木本神宮を調べた結果・・
私の妄想とかではなく、さらに偶然とかではなく・・何かある!と確信しました。(でも・・やはり・・偶然でしょうか???)

コメントがすごく長くなりました。すみません(..)

酒井様、ご教示本当にありがとうございました。
今後とも、よろしくお願い致します。
では(^'^)
[38]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月25日 18時36分09秒 ) パスワード

追記

先程、由留儀大明神 加茂神社の御紹介をしたのですが・・
この場所は、そもそも永吉庄の一部で、鎌倉時代初期の図田帳にもあるように平河氏の所領地でした。
一昨日、平河氏の所領地の一つであった「深田村」を車で通っていて気が付いた事がありました。

平河氏が平安時代から鎌倉時代初期まで所領したあさぎり町深田北、荒茂地区。
荒茂は「あらも」と読みます。
荒茂地区の隣の地区が「加茂」(かも)地区でした。ナビを見て気が付きました。
加茂神社・・加茂地区・・

加茂神社は ウィキより
古代の賀茂氏の氏神を祀る神社で、古くは「賀茂大神」とも呼称した。両社の祭事である葵祭は特に有名である。また、この賀茂神社から勧請を受けた、「加茂神社」・「賀茂神社」・「鴨神社」などといった神社が日本各地に約300社ある。
加茂氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E6%B0%8F
天神系(賀茂県主)[編集]
八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命[1]を始祖とする天神系氏族[2]。代々賀茂神社に奉斎し、山城国葛野郡・愛宕郡を支配した。子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家となった。また、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。
氏人には鴨長明(下鴨社家)、賀茂真淵(上賀茂社家)がいる。
出自に関する諸説[編集]
山城国葛野の賀茂県主は、大和国葛城の地祇系賀茂氏が山城に進出したものとする説がある。『山城国風土記』逸文では、賀茂県主の祖の賀茂建角身命は神武天皇の先導をした後、大和の葛城を通って山城国へ至ったとしている。しかし、『鴨氏始祖伝』では鴨氏には複数あり、葛城と葛野の賀茂氏は別の氏族であるとしている。また、『出雲風土記』では意宇郡舎人郷 賀茂神戸とあり、また現在の島根県安来市には賀茂神社があり、祖神である一言主の同一神、言代主の活躍地である東部出雲に属することから、ここを本貫とする説もある。
地祇系(三輪氏族)[編集]
大物主(三輪明神)の子である[3][4]大田田根子の孫大鴨積を始祖とする[4][5]、三輪氏族に属する地祇系氏族。大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。姓は君のち朝臣。
大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された[6]。なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。
姓は君であったが、壬申の乱の功臣である鴨蝦夷を出し、天武天皇(684年)13年に朝臣姓を賜与された。

※賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。
秦氏と球磨は深い関係があります。
700年代初頭、大勢の宇佐の太秦氏(秦氏)と四国の久米氏を朝廷は隼人の監視の為に、球磨に派遣しています。
私は、四国の久米氏が球磨郡久米郷に来られたのでは?と推測していました。
四国の久米氏は、越智の一族「物部氏」と繋がりが深かったと記憶しています。
宇佐の太秦氏(秦氏)は球磨の何処に?
多良木町黒肥地東光寺の東光寺経塚(鎌倉初期)。金銅製経筒にあった藤原氏の名以外に「太秦氏」の名もあります。
ウィキの記述に
※代々賀茂神社に奉斎し、山城国葛野郡・愛宕郡を支配した。
とありますが、黒肥地東光寺内坊村愛宕山には愛宕権現。
愛宕権現と言えば勝軍地蔵(将軍地蔵)。
以前、平川家について28コメント2で書きましたように、
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101490_76.html
平川の曾祖母は深水家から嫁いでこられていて、曾祖母の実家深水家には将軍地蔵がお祀りされています。
さらに、球磨の愛宕権現に関係する将軍坊(勝軍坊)と言う方がいらっしゃったようで、記述には「先は勝間田氏也」と南藤蔓綿録に書いてありました。
加茂氏そして太秦氏(秦氏)は相良氏入国前(平安時代)の球磨に深く関わりがあるような気がしてきました。
その名跡を継いだ鎌倉時代に球磨に入部した各氏族・・と言う事なのかな・・

実は別件で相良藩の外城「大畑城」について調べていたのですが、その時に気が付いた事があったのです。外城の「深水」と「柳瀬」についてです。
外城
寛政十年(1798年) 深水 永池助左衛門
          柳瀬 服部惣介
天保元年(1830年) 深水 永池要助
          柳瀬 服部宗助
安政年間
(1854年〜1859年) 深水 永池助左衛門
          柳瀬 服部宗助
外城深水の城代は永池氏・・すなわち平河氏の一族。
外城柳瀬の城代は服部氏です。
球磨では服部氏の記述はあまり残っていないのでビックリしました。
深水・柳瀬地区は「平河氏」「深水氏」に縁の深い場所です。
深水地区にも「平河氏」「深水氏」柳瀬地区にも「平河氏」「深水氏」の名跡が残っています。
服部氏・・

加茂神社についてコメントをした後で、急に深田の「加茂地区」について思いだしたので、少し調べてみた結果です。

では(p_-)

[39]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月26日 13時47分45秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)
今日御紹介するのは以前から「コメントします」と書かせて頂いていた件です。
「旧宮原村宮麓に鎮座(明治初期岡原霧島神社合祀)の中嶋霧島神社(中嶋大権現・宮原神社)境内にあった治頼八幡宮の建立」に関して です。
治頼八幡宮は相良治部少輔治頼公之霊社也。
相良治部少輔治頼 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B2%BB%E9%A0%BC
相良 治頼(さがら はるより、永正11年(1514年) - 天文15年5月11日(1546年6月9日))は、戦国時代の武将。相良氏の家臣。相良長弘の子。頼泰の孫。官途は治部少輔。
略歴[編集]
永正11年(1514年)、相良長弘の子として八代にて誕生。祖父頼泰が宗家に謀反を起こしたため、幼少であった父長弘は八代に逃れて死を逃れた。
治頼は成長すると16代当主相良義滋(長唯)に仕えた。治頼は天性器量に優れ、武技に通じ、天道兵法に詳しく芸能の嗜みも深かった。八代岡(八代市岡町)の地頭として功があり、民心も得ていた。それで球磨郡の重臣の中にもその人となりに心服し、謀反(下克上)を唆す者があった。治頼もついにその気になって決意するが、その企みは内通者によってすぐに露見した。義滋が治頼に切腹を命じるつもりであるという話が伝わると、治頼は観念して自害しようとしたが、犬童頼安(軍七)と宮原玄蕃がこれを止めて、人吉に逃れて同志を集めて一戦交えようと説得したので、これに従って球磨郡に向かった。
天文14年(1545年)6月15日夜半、10名程度の一行は、万江川(球磨川の支流、人吉市の西の境)に至った。しかしその情報をつかんだ人吉の井手隼人と林田忠次郎が待ち受けていて、「人吉の謀臣は皆自害した」と嘘を教え、郡内に入るのを妨害しようとした。治頼はこれを怪しみ、厳しく詰問したので、両人は答えに窮し、怒った治頼は林田を斬るが、井手を取り逃がしてしまった。治頼は取りあえず山道を使って、一時真幸院まで逃れることにした。義滋は八代から追手を差し向けたが、この頃には治頼はすでに逃れていた。
しばらくして、球磨・葦北の味方が治頼の元へ集まって来たので、林田・井手に騙されたことがわかり、改めて手勢40余人を率いて球磨郡に向かった。7月14日夜、多良木に至って鍋城に入った。鍋城では税所源兵衛が応対したが、治頼らを歓迎するふりをして、城は城壁が強固ではないからと入城を拒み、地頭岩崎加賀の家に入れと勧めて、そのうちに直接八代に通報。岩崎加賀も深水出羽と謀って歓迎するふりをして家に泊めるが、夜のうちに逃亡した。結局、治頼は期待した応援を得られなかった。
義滋は人吉の兵を追討に派遣することにした。9月13日、治頼は耳取原にて僅か40人余りの手勢でこれを迎え撃ったが、衆寡敵せずに敗退。久米の地頭を頼ったがこれにも断られたので、日向国に逃れ、さらに豊後国に移住した後、一年後の天文15年(1546年)、佐賀関にて病死した。享年33。法名は摩利支天正位。
治頼の祟りが原因で義滋もほどなくして亡くなったという伝承がある。他方、犬童軍七と宮原玄蕃はそれぞれ出家して諸国を流浪するが、後に帰参を許される。
天文18年(1549年)、治頼とその母の祟りがあるということで、第17代当主晴広は、西村・久米・宮原・黒肥地・多良木東村の各地[1]に新八幡宮という治頼神社を5社造らせ、その霊を祀らせた。

上記ウィキの記述にあった
犬童頼安(軍七)と宮原玄蕃。
犬童頼安(軍七)は犬童清兵衛の父です。出家して「伝心」と名乗りました。
宮原玄蕃は出家して「祖心」と名乗り、二人は治頼公の鎮魂の旅に出て諸国を流浪します。そして後に帰参を許されました。
宮原玄蕃は「うそ野原の戦い」において永禄二年(1559年)湯前牧原にて討死します。

中嶋霧島神社(中嶋大権現・宮原神社)境内にあった治頼八幡宮の建立に関して「麻郡神社私考」ならびに「歴代 嗣誠獨集覧」には以下の記載があります。
宮原中島社脇新八幡宮ハ弘治二年丙辰地頭佐牟田出羽介草創、初ハ同所竹野ニ鎮座、天和年中依徊禄金山ニ鎮座、於茲又徊禄ニ依テ寛文十五年戌寅今ノ地に鎮座
上記は歴代 嗣誠獨集覧より転記しましたが、麻郡神社私考には元和年中依徊禄金山ニ鎮座、寛永年中今ノ地に鎮座とあります。年代があやふやですが、しかし、「麻郡神社私考」ならびに「歴代 嗣誠獨集覧」ともに「弘治二年丙辰地頭佐牟田出羽介草創」とあります。
※弘治二年(1556年)地頭「佐牟田出羽介」草創。
※天和年中依徊禄金山ニ鎮座・・「金山」とは「宮原銀山」のある「山」です。「宮原銀山」の発見は天文十五年(1546年)相良氏の第16代当主「相良義滋」の時です。

地頭「佐牟田出羽介」
以前、こちらの記述を見た時は、隣村の「奥野村」(旧奥野村までは私の家から700メートルも離れていません)南北朝の動乱中の地頭が「佐牟田氏」だったので、その関係かな?と考え、調査を怠っていました。ですから、先日のコメントで「昨日見つけました」と書いていましたが実際は「見つけていたけど調査は行っておらず、昨日、重要な事項を見つけました」と言うのが正解です。
すみません(..)
ちなみに上記の「奥野村」の慶長年間の地頭は「上村長陸」です。
補足 上村長陸 ウィキより
上村 長陸(うえむら ながみち、生没年不詳)は、肥後国相良氏の武将。上村頼孝の次男。通称は新左衛門。正室は亀徳(相良晴広の娘)。子は鶴松丸(早世)、鶴満(那須重康室)。
父・頼孝は相良義陽に対して謀反を起こし後に殺害されるが、長陸は幼少であった為に許され、成人すると義陽の勧めで、島津義弘と離縁していた義陽の別腹の妹である亀徳を貰い受け、また奥野地頭にも任じられた。
しかし、義陽の弟である相良頼貞が義陽の死後、その後継に立たんとした際に随身したり、更に義陽の後を継いだ相良頼房が、朝鮮の役に伴い渡海して留守の際に謀反を企てるなどした。慶長年間、その企てを知った者たちにより、原城の柳江院門の前で討ち取られた。法名は「正澤蓮貞」。
長陸の祖父・頼興に暗殺された岡本頼春は、暗殺の際に上村家の断絶を予言して死んだが、長陸と嫡子の鶴松丸が死去した事で予言は的中した(以後も続く上村氏は、上村姓を与えられた者で正統ではない)。

本題に戻ります(..)
佐牟田出羽介・・
出羽介とは?調べました・・
秋田城介 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E5%9F%8E%E4%BB%8B
秋田城介(あきたじょうのすけ)は、古代から中世の日本において、出羽国の秋田城を専管した国司である。はじめは官職ではなく、国司の一人の任務にすぎなかったが、平安時代中期に出羽城介という令外官となり、鎌倉時代に秋田城介と呼ばれるようになった。
秋田城介の起源は奈良時代末の780年に出された、秋田城に専当の国司を置くという決定にある。この担当者は鎮秋田城国司などと呼ばれ、出羽介がその役にあてられることが多かった。後、平安時代中期までに出羽城介という令外官が出羽介の兼任職としてあると観念されるようになった。出羽城介は秋田城に赴任して出羽国北部を統治する要職であったが、前九年の役のとき廃止された。鎌倉時代に秋田城介と名を変えて復活し、有力御家人の安達氏が任命された。安達氏は秋田城に赴任しなかったが、周辺を支配した[1]。室町時代以降は名誉職になった。
※平安時代中期までに出羽城介という令外官が出羽介の兼任職としてあると観念されるようになった。
※鎌倉時代に秋田城介と名を変えて復活し、有力御家人の安達氏が任命された。
安達氏・・秋田城介・・\(◎o◎)/!
酒井様から頂いた御教示、コメント31『笠原庄一宮社記』・・笠原庄地頭職!
>D中城介殿 安達義景
父は安達景盛。子には安達泰盛、覚山尼(北条時宗室)がいる。
>E城陸奥入道殿 安達泰盛
弘安8年(1285年)、霜月騒動にて誅される。
>F潮音院殿 覚山尼
建長4年7月4日(1252年8月10日) - 徳治元年10月9日(1306年11月15日))
安達義景の娘。第8代執権・北条時宗の正室
文永8年(1271年)12月、20歳で嫡男・貞時を出産。
>宗顕の子時顕は幕政に復帰し、安達氏家督である秋田城介を継承した。
※宮原中島社脇新八幡宮ハ弘治二年丙辰地頭佐牟田出羽介草創
(弘治二年(1556年)地頭「佐牟田出羽介」草創。)
出羽介・・

実は、治頼八幡宮の建立に関して「麻郡神社私考」ならびに「歴代 嗣誠獨集覧」の記述をあらためて読んだのには理由があります。
先日「麻郡神社私考」にて以下の記述を見つけた事から始まりました。(昨日コメントした愛宕権現の詳細です)

愛宕権現(多良木町黒肥地)について
愛宕権現 麻郡神社私考より
愛宕権現 黒肥地村愛宕山 東光寺内坊
社家傳云山城愛宕神同體 愛宕本傳ハ見亍人吉地蔵院愛宕ノ下
棟札曰天文廿年辛亥 藤原晴廣公武運長久并久保田大炊助長堅安全ノ祈願トシテ院主海蔵坊山伏再興。

※天文廿年(1541年)
※久保田大炊助長堅・・?????
久保田(窪田)氏系図には「長堅」という名は見えません。黒肥地・・上相良氏族?「長堅」といえば・・
佐牟田長堅?!通称「佐牟田城之助(さむたじょうのすけ)」?!
しかし・・佐牟田長堅、通称「佐牟田城之助(さむたじょうのすけ)」は天文15年(1546年) − 天正6年12月24日(1579年1月21日)。
黒肥地の愛宕権現・・天文廿年(1541年)再興。・・年代が異なります。
※補足 球磨ではこの方を本名の「佐牟田長堅」ではなく佐牟田城之助(さむたじょうのすけ)」と呼ぶ方が今でも一般的です。
「佐牟田氏」・・佐牟田・・! そこで宮原村の「宮原中島社脇新八幡宮ハ弘治二年丙辰地頭佐牟田出羽介草創」
この記述を思い出した・・と言う訳です(..)
佐牟田長堅 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%89%9F%E7%94%B0%E9%95%B7%E5%A0%85
佐牟田 長堅(さむた ながかた、天文15年(1546年) − 天正6年12月24日(1579年1月21日))は、戦国時代から安土桃山時代の武将。相良氏の家臣。大畑城主。通称は城之助。父は佐牟田頼秀。弟は佐牟田忠興。子は佐牟田長治[1]。
相良氏の庶流の一族で、対島津氏戦で活躍した勇将であった。常に犬を連れて狩りに出掛けつつも、論語や六韜三略を携え、相良家が薩摩国を手に入れる方法を思案していたという。島津義弘は、国境の大畑城主である長堅を味方に誘おうと飯野万右衛門という長堅の狩り仲間を介して調略しようとしたが、長堅は逆に万右衛門に、義弘の首を取って見せてくれないかと返した。これを気にいった義弘は、自らの屋敷に長堅を呼び寄せて太刀を授けると、長堅も携帯していた秘蔵の火打石を返礼として渡した。
天正6年、耳川の戦いの際に相良側は大口を伺う動きを見せていたのだが、相良・島津両家に緊張感が走る中、長堅は薩摩国の山中にある深田(深仁田とも)というところで火縄銃を用いて狩りを行っており、その最中に島津氏の送り出した刺客によって銃殺された。

※佐牟田 長堅 大畑城主。通称は城之助
城之助・・???・・秋田城介・・出羽介・・
佐牟田城之助(大畑城主)※天文15年(1546年)− 天正6年(1579年)
佐牟田出羽介(宮原村地頭)※弘治二年(1556年)宮原村地頭として名を残す。
佐牟田氏は・・秋田城介(出羽介)に何等かの繋がりがあるのでは????

佐牟田長堅が城主であった「大畑城」は一国一城令の後おそらく、廃城となったのかな?と私は推測していたのですが、肥後国相良藩士分限帳を見ると、「外城」の項に「大畑」の名があります。
佐牟田氏の所領地であった「大畑」の“その後”が非常に気になりまして分限帳を基に調べてみました。

『大畑』
※貞享三年(1686年) 窪田与惣右衛門 (大畑の他、一武・西村・田代の各村に土地を持つ)
    同       窪田平右衛門  
    同       窪田 平八   

※享保三年(1718年) 久保田与惣右衛門
他 諸郷役人 同   大畑横目 久保田太郎左衛門
       同    同   久保田 彦助
       同   大畑庄屋 久保田 助六

『大畑 外城』城代
※寛政十年(1798年) 窪田甚左衛門
※天保元年(1830年) 久保田与三右衛門
※安政年間(1854年〜1859年) 久保田与三右衛門
調べた結果、「佐牟田氏」の所領した“大畑”は江戸期において分限帳で見る限り「窪田(久保田氏)」の名が色濃く見えます。
大畑の窪田(久保田氏)の通称を見て下さい。
窪田与惣右衛門・久保田与惣右衛門・窪田甚左衛門・久保田与三右衛門
サイト 九州地方の窪田(久保田)姓 より
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Roots/sub4-4f.htm
中略・・
4)また肥後の細川家家臣にも窪田氏・久保田氏が見える。
  『肥後細川家侍帳』(松本寿三郎編)より

  窪田弥三郎 (元和7年 150石 馬廻組)
  窪田安右衛門(寛永9年 150石 馬廻組)

  窪田与左衛門(元和7年 200石 供者)
  窪田与右衛門(寛永9年 200石 御小姓組衆)
※窪田氏は、初期には知行取りにいたようだが、いつのまにか寛永までにいなくなり、かわって、幕末には久保田氏が100石取りで出てきているそうである。

ちょっと気になるのですが・・
肥後の細川家家臣 窪田与左衛門・窪田与右衛門
相良藩大畑城代  窪田与惣右衛門・久保田与惣右衛門・久保田与三右衛門
通称が・・素人の私が見ても何だか似ているような気が・・???
窪田(久保田)与○右衛門・与○左衛門・・
所で・・大畑城代 窪田与惣右衛門・久保田与三右衛門・・与三右衛門ときたら与四右衛門さんは?
実は「与四右衛門」という人物がいらっしゃいました。
しかし、場所は大畑でもさらに姓は「久保田」でもありません(―_―)!!
「与四右衛門」・・とは
宮原村 天保元年(1830年) 地頭 宮原与四右衛門
宮原村 安政年間(1854年〜1859年)地頭 宮原与四右衛門
与四右衛門さんは久保田姓ではなく宮原村の「宮原与四右衛門」さんでした。
年代は大畑城代の久保田与三右衛門と同じ「天保元年(1830年)・安政年間(1854年〜1859年)」
大畑城代の久保田与三右衛門と宮原村の地頭 宮原与四右衛門はもしや兄弟?義兄弟?と言った姻戚関係があるのではないでしょうか?
「宮原中島社脇新八幡宮ハ弘治二年丙辰地頭佐牟田出羽介草創」
※宮原村 弘治二年(1556年)地頭「佐牟田出羽介」

※大畑村 大畑城主 佐牟田氏

※大畑村 佐牟田氏からの大畑城を江戸期に継ぐ 「窪田(久保田氏)」

※大畑村 外城「大畑城」城代「窪田与惣右衛門・久保田与惣右衛門・久保田与三右衛門」

※宮原村 地頭 「宮原与四右衛門」
※宮原村 → 大畑村 → 宮原村 と言う風に見えてしまうのは私の錯覚でしょうか?
先日、コメントしたように
〉久保田安滋 七左衛門。妻は豊永氏の娘。
同時代、宮原喜兵衛(宮原公全”宮原宇右衛門の孫)の妻も豊永氏の娘です。
佐牟田(宮原)武左衛門の母となります。
私には「宮原氏」「佐牟田氏」「窪田(久保田氏)」が宮原村と大畑村を繋げる点と線に感じるのですが・・偶然かもしれませんが皆様はどうお考えになられますでしょうか?
ちなみに・・
私の曾祖父への手紙をブログにアップしていましたが、あの手紙に登場する「外家内一同」。
実は「外家内一同」と記された方々の名前が別の曾祖父宛ての契状に書かれていまして、その中の一軒が「佐牟田氏」です。
曾祖父への手紙 ブログアドレス
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12121660870.html

宮原与四右衛門・・この方はもしや私の高祖父の「蔵吉」ではないか?とも考えるのですが、しかし、家は旧久米村・旧岡本村・旧多良木村・旧奥野村の「宮原家」と姻戚関係にあるので、実際の所が良く解りません・・
旧久米村・旧岡本村・旧多良木村・旧奥野村と言えば上球磨なのですが、うちの親戚は上球磨だけではなく、実は、現人吉市の蟹作(がんつくり)にもあります。
祖母の話では非常に近い縁を持つ親戚だったそうなのですが、父も詳しくは聞いていなかったそうです。
今日、コメントを書きながら人吉市の蟹作(がんつくり)町を調べたのですが
人吉市 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E5%B8%82
蟹作町(旧藍田村七地)
蟹作町は旧藍田村七地でした・・ビックリして今、鳥肌が立っています・・

非常にながくなりました。申し訳ありません。

では(..)
[40]酒井ともさんからのコメント(2016年02月26日 16時11分08秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。


こんな記述を見つけました。
>※文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、
そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。

近藤四郎とは、近藤家嫡流の景重の子、国隆で良いのでしょうか?


武藤五郎
http://www.yamaoma.com/oma/kaigenji/kaigenji-yosisada.htm

>【安田義資】
 保元3年(1158)1月18日、安田荘に生まれる。
 文治元年(1185)8月16日、平家追討に功績のあった事により越後守に任ぜられる。
 文治5年(1189)7月、奥州・藤原氏追討に参加。
 身分は「従五位下越後守」で「源朝臣義資」といった。
 しかし、そろそろ安田一族も邪魔になってきた頼朝は、些細な罪で、まず義資を陥れる。
 永福寺の薬師堂が完成した翌建久4年(1193)11月28日、その薬師堂の供養の時、
 参列した女のところへ、義資が艶書を投げ込んだ事が、梶原景時の讒言により頼朝に発覚。
 名越の自邸(佐竹秀義邸の隣)で自刃。

【吾妻鑑】
>1193年 (建久4年)
  11月28日
  僧正帰洛せらる。今夕越後の守義資女事に依って梟首す。加藤次景廉に仰せ付けらるる所なり。
  その父遠江の守義定、件の縁坐に就いて御気色を蒙ると。
  これ昨日御堂供の処養の間、義資艶書を女房聴聞所に投げをはんぬ。而るに後害を顧み、
  敢えて披露無きに、梶原源太左衛門の尉景季が妾(龍樹の前と号す)、夫景季に語る。
  また父景時に通ず。景時将軍家に言上す。仍って眞偽を糺明せらるるの時、女房等の申す詞
  符号するの間此の如しと。三年東家の蝉髪を窺わずんば、一日に豈白刃の梟首に遭わんや。
    従五位下越後の守源朝臣義資(年)、遠江の守義定が一男、
    文治元年八月十六日任叙。

  12月5日
  遠江の守義定が所領を収公せらる。当国浅羽庄地頭職は、景廉を以てその替わりに補せらる。
  今日御下文を賜る。大蔵の丞頼平これを奉行すと。
  
  ↑大蔵の丞は武藤頼平ですね。

>1194年 (建久5年)
  8月19日
  安田遠州梟首しをはんぬ。子息義資を誅せられ所領を収公するの後、頻りに五噫を歌い、
  また日来好有るの輩を相談り、反逆を企てんと欲す。縡すでに発覚すと。
    遠江の守従五位上源朝臣義定(年六十一)、安田の冠者義清が四男。
    壽永二年八月十日遠江の守に任じ、従五位下に叙す。
    文治六年正月二十六日下総の守に任ず。
    建久二年三月六日遠江の守に還任す。同年月日従五位上に叙す。


  8月20日
  遠江の守が伴類五人、名越の辺にて首を刎ねらる。
  所謂前の瀧口榎下の重兼・前の右馬の允宮道の遠式・麻生の平太胤国・
  柴籐の三郎・武籐の五郎等なり。和田左衛門の尉義盛この事を奉行すと。


>たかが、艶書を投げ込んだ事を理由に、義資のみならず、父・義定も縁坐の罪に陥れ、
 滅ぼしており、鎌倉幕府の陰湿さが現れている。

補足
8月21日 己酉
  義盛(和田)新恩に浴す。彼の誅戮等の賞なり。勲功度々に及ぶの間、次いでを以て行わると。

閏8月7日 甲子
  義定朝臣跡の屋地、江間殿拝領せしめ給うと。


武藤の五郎は遠江ではなく、鎌倉の名越邸の辺りにて誅されたようです。

しかし梶原・和田・加藤・武藤・安田氏、いずれの苗字も鎌倉初期を彩った名家ばかりです。


>平知盛・・球磨の宮原一族の先祖である橘公長、子の公業(橘次)・公忠(橘太)は元は平知盛の家臣。
 さらに武藤頼平は一ノ谷の戦いのおり知人の梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けらた・・
 梶原景時の孫娘は橘公業の妻で、球磨久米郷を譲られた橘公員の母・・
 三浦義澄は佐原義連の兄弟です・・


どうやら橘氏は梶原・武藤系の一門に属しているようです。



橘谷山大洞院
如仲置文によれば、永享の頃の曹洞宗橘谷山大洞院の
本主は武藤氏という人であるとも記されているようです。

森の石松のお墓で著名な、曹洞宗橘谷山大洞院は3,400の末寺有する。

昵懇のご寺院様よりも、大洞院は洞門では格式の高いお寺だと聞いています。

その大洞院の本主が武藤氏で、山号が橘谷山に魅かれました。

何度も行ったお寺ではありませんが、
確かに永享の頃は深山幽谷の谷深い有縁の地であったでしょうが、

原生の橘が咲いていた谷で「橘谷」なのか、

それとも、遠州橘氏所縁の地で「橘谷」なのでしょうか。


解かりました。昨日、下記をミヤハラさんが書いていました。

>森町 香勝寺・・静岡県周智郡森町草々谷
 静岡県周智郡森町・・前スレッドの平川家について28-1コメント78で私調べていました!
 >1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、森町村、向天方村、橘村、天宮村、城下村が合併して
(旧)森町が発足こちらには「久保田山」があるのですね!

>気になるのは「久保田山」だけではなく「森町」・・”森”・・さらに”橘村”・・偶然かもしれませんが・・
 ここまで「久保田」「森」「橘」と言葉が揃うものなのか??と・・もちろん偶然だとは思いますが・・
 でもな・・??? 森町は「遠江国周智郡久保田邑」のお隣なのですよね・・


橘谷山大洞院 周智郡森町 橘249
http://enshu33.com/all-guide/%E5%A4%A7%E6%B4%9E%E9%99%A2/

橘村に開創したので、「橘谷山大洞院」

では、何故に「大洞院」

大洞院は院号寺院ですので、開基の方の院号を戴き、開かれた寺院?

初めは本主の武藤氏の戒名での開基かと思いましたが、

調べると、開創の「後小松帝」の東洞院仙洞御所の「東洞院」を戴き「大洞院」ですかね。



橘村
伊予国越智郡橘村(現今治市)にも橘村があるのですね。

遠江国周智郡橘村や周智郡久保田邑もきっと「橘氏」繋がりでしょうね。



周智郡
平安末期までは「橘氏」が、鎌倉初期より戦国末期までは「武藤氏」が
それなりに統治していたようですね。

いずれにしても、遠江の戦国期にはあまり名前の出てこない、
武藤氏が北遠に大洞院や香勝寺を創建していたのは驚きました。


[41]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月26日 18時48分09秒 ) パスワード

酒井とも様
御教示ありがとうございます。

御紹介頂いたサイトを拝見しました。
安田義定→義資→義高 ・・義高という方がいらっしゃったのですね・・

〉武藤の五郎は遠江ではなく、鎌倉の名越邸の辺りにて誅されたようです。

名越邸・・ドキッとしました(..)
北条 時章 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E7%AB%A0
北条 時章(ほうじょう ときあき、ときあきら)は鎌倉時代前期の北条氏一門。鎌倉幕府の評定衆。名越 時章(なごえ ときあき、ときあきら)とも。名越流北条氏の初代北条朝時の子。名越流北条氏2代当主。
母と妻を見て下さい。
父母 北条朝時、大友能直の娘
妻 二階堂行有の娘
妻は二階堂行有の娘。
こちらのスレッドでも酒井様のコメント3で「二階堂行有」この方の名は登場しています。
ウィキより二階堂行有
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E6%9C%89

二階堂 行有(にかいどう ゆきあり、承久2年(1220年) - 正応5年6月5日(1292年6月27日))は、
鎌倉時代の幕府実務官僚。二階堂行義の次男。出羽大夫判官、尾張守、備中守と称し、
1270年に出家して道証と号した。子に二階堂行藤、娘(北条時章妻)がいる。
二階堂行藤・・禅門道我

別のサイトでは北条 時章の妻を「二階堂行方の娘を妻とする。」と記されていました。
名越流北条氏2代当主 北条時章は肥後守護でした。
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/hojyo-nago.html

二階堂行方・・法名「道照」
※平河の越訴・・平河弥五郎入道々照(道照)こと二階堂和泉守行方と禅門道我こと二階堂出羽守行藤

相良頼景の多良木流配の理由・・
※相良頼景は、源頼朝より遠江守に任じられていた安田義定に逆らって相良荘の大半を失い、建久4年(1193年)に肥後国球磨郡の多良木荘を与えられ、追放同然で下向した。この時、長頼は相良荘の一部を相続して遠江に留まった。(ウィキより)
※頼景流配の真相 サイトより
http://kuma.atukan.com/rekisi/bangai/yorikage.htm
 「東鑑」養和元年(1181)3月13日の項によると、当時源頼朝配下になっていた安田三郎義定は、橋本城改修のため国内から夫役を集めたのですが、配下の相良三郎頼景や浅羽庄司宗信などはすぐには応じなかったようです。

 安田義定が普請を巡視をした時、頼景と宗信は下馬をしないで打ち通る(争い走り抜けた)など無礼な振る舞いがあったとされています。そこで義定は立腹し、家臣・武藤五郎を遣わして鎌倉へ訴え、相良頼景・浅羽宗信らは所領を没収されたとなっています。

※安田義定の家臣・武藤五郎。
〉武藤の五郎は遠江ではなく、鎌倉の名越邸の辺りにて誅された・・

怖いけど・・やはり・・全て繋がっているような気はします・・

でも!酒井様(^'^)一つ嬉しい記述があります(^'^)
御教示頂いた「橘谷山大洞院」を私も調べてみたのですが・・
大洞院 縁起
大洞院の開創は後小松天皇の応永18年(1411)時の高僧永平八世の嫡孫、恕仲天ぎん禅師は観音菩薩の教示により、はじめてこの地に錫を留めると、時の将軍足利義持公は禅師の高徳を慕い帰依して自らその荘園とその境内の地とを寄進し、禅師のために一大梵刹を創建し、これを橘谷山大洞院と号したと言われる。恕仲禅師は本師梅山禅師を請して開闢開山となし、自らは第二世となって開堂演法の実をあげ、禅風の挙吹に力をつくしたとある。

※高僧永平八世の嫡孫、恕仲天ぎん禅師「恕仲禅師」
http://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%C7%A1%C3%E7

定義】

室町時代の日本曹洞宗僧侶。号は如仲(恕仲)、名は天・。太源派の伸張に寄与した。

生没年:貞治4年(1365)〜永享12年(1440)?
俗 姓:海野氏
出身地:信州上田

【内容】

貞治4年9月5日に、信州上田に生まれた如仲禅師は、5歳で母が亡くなったこともあってか、9歳で信州伊那の恵明法師に就いて教学を習い、上野(群馬県)吉祥寺の大拙祖能に参じて出家した。そして、越前龍澤寺の梅山聞本にも参じて、その法を嗣いだ。

後には、近江塩津に洞春庵を開き、更に同国内に洞壽院を開いた。

遠江の飯田城主であった山内対馬守が、師の道誉を聞いて、領国内に崇信寺を開いて請したが、住して後、応永8年(1401)になると住持の位を厭うて隠棲し、同国内の橘谷山に入って庵を構え、総巨院と称した。これが、後に大洞院に改められ、本師・梅山を勧請開山としている。足利義持も荘園を寄進している。また、可睡斎も開創したという。

後に、總持寺にて出世するも、退いて洞壽院に入った。また、太源派の有力寺院である越前龍澤寺にも入り、3年尽力して殿堂の荒廃を復興した。終わって洞壽院に戻ると同地で亡くなった。

恕仲禅師  俗 姓:海野氏
海野氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F
海野氏(うんのうじ/うんのし)は、信濃国小県郡海野荘(現在の長野県東御市本海野)を本貫地とした武家の氏族。
平安時代から同族(海野広道の弟から始まる)根津氏、望月氏と並んで「滋野三家」と呼ばれ、三家の中でも滋野氏嫡流を名乗り、東信濃の有力豪族として栄えた。資料の初見は『保元物語』で、源義朝揮下の武士に「宇野太郎(海野太郎)」の名が見える。平家物語には源義仲の侍大将として広道の子の海野幸親・海野幸広親子の名が出てくるが、共に戦死を遂げている。
(^'^)・・望月氏と同族の「滋野三家」
望月氏は私の主人の母方です(^'^)
静岡県では望月氏は非常に多い姓だと聞いていますが、九州では数少なく、主人の母方の望月氏は小倉小笠原藩の藩士でした。
うちの親戚一族は普段はとても優しいのですが、一旦怒ると皆めちゃくちゃ激しい(..)(特に父は・・)何せ目には目を歯には歯を!!お前はハンムラビ法典は知っているか!!と子供の頃言われていたくらいで・・。
でも、主人は全く怒らない。すごい静かな優しい人で・・まるでお坊様のような人です。
父も主人の言葉を聞くと「ほっ(^'^)」とするようで、先日、とある出来事があり、主人の言葉を聞いて父は「ポロッ」と涙を流して、「本当に仏様のような優しい心をもった○○ちゃんじゃ」と言っていました。
その時、父は主人に「○○ちゃんに真の武士の魂を見た!」と良く解らない事を言っていました((+_+))
でも私には「お前は何でそうあるかな〜(..)」と。・・イエイエあなたの娘ですから(-.-)
大洞院の開創は恕仲禅師(俗 姓:海野氏) 何だか殺伐とした内容が多い中でホッとする気持ちになりました(^'^)

でも・・一つ気になる事が・・
海野氏
支流、分家 根津氏(武家)
望月氏(武家)
真田氏(武家)

あんれっ????(?_?)・・真田氏・・??
これって・・
酒井様のコメント36の御教示に繋がっていませんか\(◎o◎)/!

何だか、ホッとした後に・・ビックリしました!!

最後に先のコメント39の訂正を(..)
外城「大畑城 城代」 と書きましたが、勉強不足ですみません(..)
父に話すとお前は「城代」の意味を理解していない!!と叱られました。
外城の大畑城の場合は何て言ったらいいのでしょうか・・「外城大畑城」の管理責任者でしょうか!?
もちろん大畑には相良藩士は他にもいらっしゃるのですが、ううん(?_?)
久保田(窪田)氏は
外城 大畑 久保田与三右衛門 と分限帳に書いてあるので・・やはり今でいう所の管理責任者かな??(?_?)

皆様にぽか〜ん(-.-)(ー_ー)!!とされてしまったような・・トホホ(..)

酒井様、ご教示ありがとうございました(^'^)
[42]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月27日 10時03分40秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

まずは・・
酒井様!!!!!\(◎o◎)/!
酒井様から頂いた御教示「真田氏」(武藤氏?)橘公業の後裔と繋がっています!!

先日、父から
「真田信繁(真田幸村)の娘は関ヶ原の合戦の後に伊達氏の家臣”片倉家”に嫁がれた。敵味方を越えた話ですごいなお父さんは感動したぞ!」
とテレビでこの話を知った父はすごく嬉しそうに「これぞ、武士道だ!」と言っていたのです。
その時、私は「あんれっ??片倉家は以前調べた様な・・??」と思っただけで・・
しかし、酒井様の御教示に「真田家」が登場したり、私が昨日調べた「大洞院の開創は恕仲禅師(俗 姓:海野氏)」すなわち真田氏と同族・・とあったり・・
そこで、以前調べた事をもう一度確認してみたのです。
平川家について25 コメント68に書いています。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101460_78.html

転記します
橘姓矢内氏伝譜 
http://www.ne.jp/asahi/yanai/roots/tachibana.html

こちらの系図で確認できる事は
※橘公業の5代孫「小鹿島仲幹」。この方は北条高時臣となっています。
※小鹿島仲幹の子「矢内幹清」。この方が「矢内氏祖」ですね。畠山義清の家臣。
※矢内弥市清教 伊達尚宗に仕える。
※白石片倉一家 矢内藤兵衛信定の兄妹は 小十郎白石城主 片倉景綱の妻となり二代 小十郎 片倉重綱を産む。 
中略・・
http://www.ne.jp/asahi/yanai/roots/body09.html
こちらに戻ると、先ほどの系図の説明が載っています。

転記させて頂きます。
E 白石(宮城県白石市)城主片倉氏の一家矢内藤兵衛
前述@青山家のところでお話ししました矢内和泉重定の娘が、伊達家の重臣片倉小十郎景綱の妻となり、2代小十郎重長を産みました。その縁で和泉の子藤兵衛信定は片倉家に仕え、「一家」という最高の知遇を得ました。(『片倉代々記』)

球磨の宮原一族の先祖「橘公業」を祖とする”同族”矢内和泉重定の娘が、伊達家の重臣片倉小十郎景綱の妻となり、2代小十郎重長を産みました。
そして小十郎重長の妻が真田信繁(真田幸村)の娘!!
片倉 重長 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E9%87%8D%E9%95%B7
父母 父:片倉景綱
母:矢内氏の娘
妻 指月院(針生盛直の娘)、後妻・阿梅(真田信繁の娘)
子 喜佐(松前安広室)、養子・片倉景長(外孫、松前安広の子)

以前、調べていた事が今の調査で繋がりました\(◎o◎)/!
サイト
真田幸村が真田大八と阿梅を片倉重長に託した理由とは
http://senjp.com/daihachi-2/
こちらのサイトには「望月氏」と「片倉氏」の関係が記されています。
記述されている「理由」の他にもう一つ、もしや鎌倉初期における「武藤氏」と「橘氏」の関係が江戸初期にも繋がっているのでは?(あくまでも私の推測ですが・・偶然かな??)

所で・・
昨日〉うちの親戚一族は普段はとても優しいのですが、一旦怒ると皆めちゃくちゃ激しい(..)(特に父は・・)
と書きましたが親戚と父の名誉?の為に一つ(..)
父は普段は本当に優しいです。家族にだけではありません。相手をとても思いやる娘から見ると「優しすぎる」くらいの人です。
しかし・・一旦怒るとそれはそれは怖い・・激しい怒りとなります。
優しい父は「どう言う理由」で怒るのか・・
@嘘をつくこと。
A素直に謝らない事
 ※人は誰でも間違いを行う。それを素直に認めてすぐに謝るのが人としての道。と父は言います。失敗してもすぐに非を認めて謝ると「ニコッ」と笑ってくれるのですが屁理屈を言うと・・激怒
B他人を思いやる事を怠った時・・激怒
C卑怯な事をする事、される事。
 ※もちろん卑怯な事を私がしたとしたら父は激怒。しかし、逆に私や家族・親戚・父の友人(知人)が卑怯な事をされた時には手が付けられない程、激怒します。
D年上の人を敬う事を怠った時。・・激怒
これが父の激怒ポイントですね。(この年になっても「お前は横着だっ!」と激怒されました(..))

今朝は遠江国に関して頂いた御教示が江戸期にも繋がっていました!というお話でした。
では(..)
[43]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月27日 18時17分11秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

すみません(..)御紹介したサイト「橘姓矢内氏伝譜」が現在消えてしまっているようです。
そこで、色々探したのですが見つかりました。

畠山家 サイト
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/hatake.html
こちらに
小鹿島仲幹公業裔橘公長流
矢内幹清小鹿島仲幹子孫次郎仕畠山義清
清教弥市
伊賀
内匠
重定和泉
信定重定子藤兵衛
勝定重定弟出雲

とありました。(^'^)
※重定和泉 信定重定子藤兵衛
ここが、コメント42で書いた
※白石片倉一家 矢内藤兵衛信定の兄妹は 小十郎白石城主 片倉景綱の妻となり二代 小十郎 片倉重綱を産む。 
矢内藤兵衛信定の父が矢内重定。
片倉景綱 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E6%99%AF%E7%B6%B1
妻 矢内重定の娘、側室(上原五兵衛の娘)
子 女子、重長、友綱、行綱、女子(左婦)
系譜より
正妻:矢内重定の娘
側室:上原五兵衛の娘
1子:女子(のち片倉八郎兵衛祖母)
2子:片倉重綱のち重長(母は矢内重定の娘)
3子:片倉友綱(母は上原五兵衛の娘)
4子:片倉行綱(母は矢内重定の娘)
5子:女子(左婦)

と言う訳です。サイトが消えているのに御紹介してすみませんでした(..)
[44]酒井ともさんからのコメント(2016年02月27日 22時47分57秒 ) パスワード


皆様、こんばんは。


如仲天・禅師
>貞治4年9月5日に、信州上田に生まれた如仲禅師は、5歳で母が亡くなったこともあってか、
9歳で信州伊那の恵明法師に就いて教学を習い、上野(群馬県)吉祥寺の大拙祖能に参じて出家した。
そして、越前龍澤寺の梅山聞本にも参じて、その法を嗣いだ。

>後には、近江塩津に洞春庵を開き、更に同国内に洞壽院を開いた。

>遠江の飯田城主であった山内対馬守が、師の道誉を聞いて、領国内に崇信寺を開いて請したが、
住して後、応永8年(1401)になると住持の位を厭うて隠棲し、同国内の橘谷山に入って庵を構え、
総巨院と称した。これが、後に大洞院に改められ、本師・梅山を勧請開山としている。
足利義持も荘園を寄進している。また、可睡斎も開創したという。

草庵だった、総巨院が大洞院に発展するんですね。

大洞院の前身が「総巨院」だったのは初めて知りました。
総巨院とは、どなたかの院号戒名開基だったのでしょうか?


例えば、久能氏関係で書きますと、
「東海大僧録」として三河国・遠江国・駿河国・伊豆国の曹洞宗寺院を支配下に収めた
可睡斎の前身は久能城主姻族の久能宗隆開基の「東陽軒」が源流になっています。

>後に、總持寺にて出世するも、退いて洞壽院に入った。また、太源派の有力寺院である越前龍澤寺にも入り、
3年尽力して殿堂の荒廃を復興した。終わって洞壽院に戻ると同地で亡くなった。

如仲天・禅師より興った直系六派が、現在の曹洞宗の土台寺院の一翼を築くようです。
曹洞宗御門には遠江国周智郡は越前・能登同様に開創の地になります。



仙台伊達藩
海野氏→真田氏→片倉氏

>片倉 重長 ウィキより
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E9%87%8D%E9%95%B7
 父母 父:片倉景綱
 母:矢内氏の娘
 妻 指月院(針生盛直の娘)、後妻・阿梅(真田信繁の娘)
 子 喜佐(松前安広室)、養子・片倉景長(外孫、松前安広の子)

重長公の生みの親は橘公長流矢内氏なんですね。
肥後人吉の遥か北の仙台藩にもミヤハラさんの御親族がいるのですね。

ちなみにですが、重長公の前妻、針生氏は蘆名支流で、角館蘆名家が無嗣除封後に
伊達綱村の命で蘆名へと姓を戻します。

養子(外孫)の景長公の松前氏は言わずと知れた、蝦夷松前氏ですね。
伝承では甲斐武田氏流が松前氏ですね。


片倉阿梅
先日、テレビにて、仙台片倉氏真田家に伝わる梨地文箱にあしらわれていた家紋が
「剣片喰紋」だったのは感嘆しました。

これは大阪の陣折りに真田幸村(信繁)が片倉小十郎に預ける娘の「阿梅」の、
子孫繁栄を願い「剣片喰紋」を施した文箱を与えたそうです。

方喰紋(酢漿草紋)は繁殖率が強く子孫繁栄の暗喩があるそうです。

智将で名高い真田幸村(信繁)も人の親でした。
娘の幸福を願いあつらえた品物の存在を知って感無量でした。



[45]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月28日 10時01分48秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

酒井様、ご教示ありがとうございました。

〉草庵だった、総巨院が大洞院に発展するんですね。

〉如仲天・禅師より興った直系六派が、現在の曹洞宗の土台寺院の一翼を築くようです。
曹洞宗御門には遠江国周智郡は越前・能登同様に開創の地になります。

酒井様、感服致しました。(..)
私は、コメントに情報を転記するのが精いっぱいで、そこに書かれている「内容」は全く意味が解らず・・
御教示を頂いて初めて「あっ!そういう事なのか!」と。
本当に、勉強させて頂いております。ありがとうございます。

ちなみに、私が住む集落、旧宮原村宮麓地区にあった庭柏寺も曹洞宗のお寺様でした。
享禄二年(1529年)竜興山庭柏寺建立とあります。

〉養子(外孫)の景長公の松前氏は言わずと知れた、蝦夷松前氏ですね。
伝承では甲斐武田氏流が松前氏ですね。

私、松前氏についても全くの不勉強で、ネットで色々拝見したのですが、一つ気になる事を見つけました。
蠣崎氏(松前氏) サイト
http://www.geocities.jp/keizujp2011/kakizaki.html
松前景広 まつまえかげひろ 松前慶広の七男 母:斎藤宗繁の娘 河野季通の養子 生没年:慶長5年(1600年) - 明暦4年1月18日(1658年2月20日) 没歳:59歳
松前安広 まつまえやすひろ 松前慶広の八男 生没年:慶長11年(1606年) - 寛文8年7月8日(1668年9月25日) 没歳:63歳
※松前安広の兄「松前景広」河野季通の養子\(◎o◎)/!越智流河野氏に繋がっています!!「越智流河野氏」すなわち伊予橘氏と同族です!!

河野 季通 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%AD%A3%E9%80%9A
河野 季通(こうの すえみち)は、戦国時代の武将。
生涯[編集]
河野氏の一族とされる河野政通の嫡男として生まれる。父同様、安東氏(政季・忠季)に臣従して「季」の1字を賜い季通と名乗る。
父とともに蝦夷地開拓を行っていたが、それに反発したアイヌの軍勢によって永正9年(1512年)に宇須岸河野館を攻撃され、父の政通と3歳になる娘を逃した後に自害した。
娘は後に蠣崎季広の正室となり、松前慶広等を産んだ。季通死後、河野氏の名跡は断絶していたが、慶広の六男が継ぎ、河野時広と名乗ったが、後に名字を松前に戻して、松前景広と名乗った。以後は河野系松前氏として松前藩の藩政に貢献した。
氏族 越智流河野氏
父母 父:河野政通
子 女(伝妙院、蠣崎季広正室)

\(◎o◎)/!私、昨日、「片倉重長」この方の記述を転記した時には全く「松前氏」についてスルーしていたのですが酒井様から頂いた御教示を拝見して「松前氏」を少し調べて見た結果です。
ありがとうございます。
しかし・・何だかモヤモヤします・・
「橘公長の系」「海野氏」・・「遠江国」で何か繋がっていたのではないでしょうか??
やはり鍵は「遠江国」だっ!!と今朝はあらためて痛感致しました。

所で酒井様。
私の家も家紋は丸に剣片喰紋です。
実は、家の宮原家・親戚の「平川家・深水家・椎葉家」すべて家紋は「丸に剣片喰紋」。
堅い絆の証だと椎葉のおじは言っています。

実は先日、家の宮原家の親戚がある相良村の川辺集落のお寺を訪ねました。
川辺集落には宮原姓が多数あります。
お寺の宮原家のお墓の家紋は「橘紋」でした。
きっと、うちの親戚一族「宮原家・平川家・深水家・椎葉家」は椎葉のおじの言うように「絆」を表す為に家紋を其々が替えて「丸に剣片喰紋」に統一したのかな?と推測しています。
〉方喰紋(酢漿草紋)は繁殖率が強く子孫繁栄の暗喩があるそうです。

御教示本当にありがとうございました。


[46]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年02月28日 16時23分19秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「橘公長の系」「海野氏」・・「遠江国」で何か繋がっていたのではないでしょうか??
 
滋野姓望月氏は、肥後国球磨郡多良木庄に住す。
相良頼景、承久八丁巳三廿八、源頼朝信州善光寺参詣時の随兵たり。
 
望月姓は信濃佐久郡望月発祥だが、現在、長野県では90位に過ぎない。
静岡県では3位、静岡市では首位、小生の静岡県の知人にも望月姓は頗る多い。
しかし遠江地域には、意外と少ない。
また現代、熊本県の望月氏は、橘姓を名乗っているようだね?
[47]ミヤハラさんからのコメント(2016年02月28日 19時14分42秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
スマホからのコメントです。
今日は、桜島が見たくなって鹿児島まで出かけていました。
まだ、帰宅していません。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
ご教示頂いて、震えが止まりません。
実は、私、この頃ずっと気になっていた事があったのですね
皆様、またまたとおっしゃるかもしれませんが。
去年、球磨に帰って来て2日目の事です。
主人と買い物に出かけて、岡原と免田の境界の所で、急に主人が、ここの景色が凄く好きだと車を止めて外に出ました。
私は見慣れた景色なので、車の中でボンヤリしながら、主人が車を止めた場所が民家の前なので迷惑にならないか気になって、そのお家の方を見ていて、何気なく表札を見たら、「望月」という方でした。
私、球磨に望月氏?と。凄くビックリしたのです。
車に戻って来た主人にこの事を言ったら、あっ本当だ❗と。
偶然の出来事だったのですが、どうも私は大きな縁(えにし)によって何か動いているような気がしてならないので、今まで、この出来事が心にずっと残っていました。
妙な事を言ってすみません。
ただ、昨日も望月氏に関して、相良頼景、さらに新堀又四郎頼兼にも関わる人物の追討を望月氏が行ったと言う記述を読んで明日にでもコメントしようと、桜島を眺めながらボンヤリ考えていた所でした。
スマホなのでうまくコメント出来なくてすみません。
日本の苗字七千傑様、
ご教示本当にありがとうございました。
[48]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年02月29日 18時22分48秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

昨日、日本の苗字七千傑様より頂いた御教示。
〉滋野姓望月氏は、肥後国球磨郡多良木庄に住す。
相良頼景、承久八丁巳三廿八、源頼朝信州善光寺参詣時の随兵たり。
〉また現代、熊本県の望月氏は、橘姓を名乗っているようだね?

望月氏と橘氏の関係、さらに望月氏とは?もしや平河氏との関係は?と自分なりに今日は調べてみました。
気が付いた事を書かせて頂きます。
@相良頼景と望月氏について
相良頼景の多良木配流のきっかけ
※安田義定が普請を巡視をした時、頼景と宗信は下馬をしないで打ち通る(争い走り抜けた)など無礼な振る舞いがあったとされています。そこで義定は立腹し、家臣・武藤五郎を遣わして鎌倉へ訴え、相良頼景・浅羽宗信らは所領を没収されたとなっています。
※源頼朝より遠江守に任じられていた安田義定に逆らって相良荘の大半を失い、建久4年(1193年)に肥後国球磨郡の多良木荘を与えられ、追放同然で下向した。「公の族、平原次郎頼範、その弟 新堀又四郎頼兼、公に従って来り、遂に家す。」
安田義定のその後・・
※望月重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれるほどの弓の名手として知られた。文治4年(1188年)、奥州藤原征伐に従い、建久5年(1194年)の安田義定・義資父子の謀反を、幕命により追討している。

A望月氏と伊予橘氏「橘公長」の系について
橘公長の子橘公忠(橘太)。遠江国周智郡久保田邑。隣接する周智郡森町 橘の橘谷山大洞院。大洞院の開創は恕仲禅師。
俗 姓:海野氏
出身地:信州上田
伊予橘氏と滋野姓一族の接点はないのか?調べました。すると、一つ気が付いた事があります。
日本の苗字七千傑様の《伊予橘氏》 元越智姓 姓氏類別大観を拝見すると
橘公長 → 公忠 → 公高(矢野氏)
さらに日本の苗字七千傑様の《望月氏/増田氏》姓氏類別大観を拝見すると
望月重俊 → 清重(矢野氏)
望月氏系図に「矢野氏」。「矢野氏」・・こちらのスレッドの中で私は「橘姓 矢野氏」については何度もコメントしていましたが、滋野姓「望月氏」にも「矢野氏」が・・初めて気が付きました。
※補足
〉貞治4年9月5日に、信州上田に生まれた如仲禅師
上田・・偶然かもしれませんが書かせて頂きます。
相良義陽は天文13年(1544年)、相良晴広の嫡男として木上村上田の館で生まれました。母は木上村上田の上田織部允の娘です。
当時の木上村岩城城主は窪田氏(久保田氏)。 上田織部允の館は岩城にあったとあります。
木上村岩城 城主 
平安末期〜鎌倉初期 平河氏
鎌倉中期以降    窪田(久保田)氏

B海野氏・望月氏と中原氏の関係について
望月国親 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E5%9B%BD%E8%A6%AA
木曾源氏への従軍理由[編集]
当時の望月家の勢力は同じ滋野御三家の海野家、祢津家を圧倒しており、信濃国佐久郡一帯と小県郡の一部にまで勢力を持ち、平安時代末期(源平合戦時)には常時1500頭の良馬を有しており、それを飼育放牧する農民の動員数は、後に挙兵した源義仲にとって魅力的であり、望月家を招いた理由であるという。事実、滋野党の軍事・経済・政治の中枢を担い御三家の中心にいた望月家の軍事力は徒武者・騎馬武者1000騎に上り、白川横田河原合戦では滋野党全軍で2000騎を率い木曾軍と合流している。
更には、源義仲が幼少の頃、平家に追われていた時斎藤実盛は佐久郡に立ち寄り、佐久郡領主で信濃守を務める滋野御三家 (御三家の本姓である滋野家当主が歴任してきた(主には御三家の宗家筋の海野家が滋野家の当主であるが、『吾妻鏡』や『平家物語』には海野家は“海野家”と表記されているが、望月国親は“望月秀包(次郎)”・“滋野次郎”や“滋野國親”、望月重隆は“望月三郎”或いは“滋野三郎”と表記されていることから、世間の認知は望月家が滋野家の主筋と思われていたか、望月の駒で飼育されている望月の馬の知名度故に海野家や禰津家を差し置いて滋野一族望月家の名が通っていたのではという説が強い。[1]))の望月国親と木曾を治める信濃権守の中原兼遠に駒王丸(源義仲の幼名)を預け[2][3]、後事を託した。
この時、中原兼遠と望月国親に相談したのは、信濃国の領主に多大な影響力を持ち、なおかつ朝廷との繋がりのある上級貴族の中原家と滋野貞主の嫡流である滋野御三家の望月家が互いに協力関係にあり、両家の中継ぎ役をしたのが、滋野御三家の海野家に中原兼遠の弟である中原兼保が海野家当主海野広道に養子入りし[4]、海野家の当主となり、滋野御三家有力筋の望月家との中継ぎを取り持った為、中原家と望月家との繋がりが生まれた。この事から、後の平家方(平宗盛)や源義朝方(源義平)からの引き渡し要求を両家は拒否し守り抜いた。

※滋野御三家の海野家に中原兼遠の弟である中原兼保が海野家当主海野広道に養子入りし[4]、海野家の当主となり・・
※滋野御三家有力筋の望月家との中継ぎを取り持った為、中原家と望月家との繋がりが生まれた。
球磨の平河家に繋がりがあると推測出来る「中原氏」。しかし、一切の記録は存在していません。にも関わらず・・球磨の多良木に住した「望月氏」には「中原氏」との姻戚関係が明らかであった・・と言う事ですね。

C滋野氏分家について
海野信濃守幸恒の長男海野小太郎幸明の次男の滋野直家は分家して小県郡祢津(根津)の庄を継承して根津氏(根津小太郎直家)を起こし、三男の滋野重俊は佐久郡望月邑(望月ノ牧)を継承し望月氏(望月三郎重俊)を起している。
※望月氏(望月三郎重俊)・・望月三郎・・三郎
偶然だとは思いますが、平河氏の嫡男は鎌倉初期、みな「三郎」を名乗っていました。

D肥後細川藩の「窪田氏」について
窪田(久保田)甚助は加藤氏に仕えその後中川氏に仕えた・・この事から後裔が細川藩へ残って仕えているのでは?と推測し、細川藩士の窪田(久保田)氏を調べました。
サイト 新・肥後細川藩侍帳 より
http://www.shinshindoh.com/samurai/08-ku.htm
気になる記述を転記します。
久保田治部丞  (南東33-26)(南東65-90 *)
     窪田肥前(吉左衛門)
     窪田吉左衛門
    1、源兵衛  御次 御擬作百石
    2、藤太
    3、英助   百石   細川斎樹公御書出(文化九年)百石
    4、源太郎  御番方・杤木内匠組 百石
    5、権十郎(治部丞)
通称「吉左衛門」「源兵衛」

E望月与右衛門について ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E4%B8%8E%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
望月与右衛門(もちづき よえもん、慶長9年(1604年)- ?)は、甲賀流忍者。甲賀五十三家の筆頭格望月氏の出身とされる。
近江水口に在住していた。寛永14年(1637年)、島原の乱に出陣する松平信綱を甲賀衆百余名とともに水口で出迎え、参陣を申し出たが大勢は連れて行けないと断られ、与右衛門ら10名が代表として参陣する。忍びとして一揆勢の籠城する原城の見取り図の作成を命じられた。当初、潜入は肥後細川家の忍びが命じられたが、警戒が厳重で城に近付くこともできず失敗し、改めて甲賀衆が命じられた。しかし、事前に忍びを潜入させておくことに失敗したため、情報収集は困難を極め、与右衛門と共に潜入した芥川七郎兵衛は落とし穴に落ちて石礫を打ちつけられ重傷を負い、任務は失敗した。同年12月、城方の兵糧米の奪取の命を受け、海側から城内に侵入、米俵13俵を奪い取る戦果を上げる。翌寛永15年(1638年)側衆中根正盛の命を受け、城内を偵察、兵糧が尽きかけていることを報告した。この報を得て、信綱は総攻撃を決断、原城を落城させることに成功した。落城前日の1月27日には城内に潜入して敵の旗を奪って脱出し、城の防衛能力が消失していることを実証した。

(-.-)通称が気になります。望月「与右衛門」

マダマダ様々な事に気が付いたのですが、今日はこの辺りまでとさせて頂きます。
では(..)
[49]酒井ともさんからのコメント(2016年03月01日 15時39分52秒 ) パスワード



皆様、こんにちは。


>>「橘公長の系」「海野氏」・・「遠江国」で何か繋がっていたのではないでしょうか??
 
>滋野姓望月氏は、肥後国球磨郡多良木庄に住す。
 相良頼景、承久八丁巳三廿八、源頼朝信州善光寺参詣時の随兵たり。
 
>望月姓は信濃佐久郡望月発祥だが、現在、長野県では90位に過ぎない。
 静岡県では3位、静岡市では首位、小生の静岡県の知人にも望月姓は頗る多い。
 しかし遠江地域には、意外と少ない。
 また現代、熊本県の望月氏は、橘姓を名乗っているようだね?

確かに旧小笠郡では余り望月姓は聞きません。
静岡市には、会社名や会社の社長姓を含めて望月姓は多いですね。

ところで、望月姓は武田家滅亡(1582年)の折りに故国信濃を逃れて
一族諸共に駿河国へ移住したと聞いていたのですが、

肥後国球磨郡多良木庄に関係する望月姓は
源頼朝の善光寺参詣の折りに、相良頼景に関係を持たれた子孫で宜しいのですか?





>ちなみに、私が住む集落、旧宮原村宮麓地区にあった庭柏寺も曹洞宗のお寺様でした。
 享禄二年(1529年)竜興山庭柏寺建立とあります。


山号に竜興山を持つ寺院は、力強い河川を「竜」に見立てたか、
もしくは殊の外に風雨が強い地域性の関係でしょうか。

寺号の庭柏寺は、禅宗三派のみならず、密教系の僧侶も揮毫される
禅語の「庭前柏樹子」から名を戴いた寺院でしょうか。

訪ねる寺院の名や山号を読むと、その土地の風土や人間性が宿っていると感じます。




>所で酒井様。
 私の家も家紋は丸に剣片喰紋です。
 実は、家の宮原家・親戚の「平川家・深水家・椎葉家」すべて家紋は「丸に剣片喰紋」。
 堅い絆の証だと椎葉のおじは言っています。

そうなんですね、当家の家紋も「丸に剣方喰紋」です。
それで、真田幸村(信繁)が娘に送った品物のエピソードに感嘆してしまいました。
[50]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月01日 18時38分28秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

酒井様、ご教示ありがとうございました。

酒井様、御家の家紋は「丸に剣方喰紋」。
そうでしたか!

実は、私、以前「丸に剣方喰紋」を少しだけですが調べた事がありまして
剣方喰紋と言えば「酒井氏」。と勉強していました。
ですから、酒井様の家紋が「丸に剣方喰紋」と伺って「やはりそうか!!」と(^'^)
どうぞ、これからもよろしくお願い致します。
藤原北家山蔭流藤原実宗を祖とする中村氏も「丸に剣方喰紋」ですね。

〉寺号の庭柏寺は、禅宗三派のみならず、密教系の僧侶も揮毫される
禅語の「庭前柏樹子」から名を戴いた寺院でしょうか。

すばらしい。私は何も考えた事がありませんでした。(..)
「庭前柏樹子」
勉強しようと、こちらのサイトを拝見したのですが・・・マダマダ私には難しいです(..)
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2004/03.htm
私は雑念の塊のような・・

所で!!御報告があります!
家の宮原家・親戚の「平川家・深水家・椎葉家」すべて家紋は「丸に剣片喰紋」。
そして椎葉のおじはこの親戚関係を「強い絆」と呼んでいるのですが・・
その強い絆の一族の一軒「椎葉家」に伝わる品物に「丸に剣片喰紋」以外の「紋」が見つかりました!
椎葉家に伝わる「和鏡」です。
ブログにアップ致しましたので、皆様、まずはご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12134511121.html

鏡の柄の部分は先日椎葉のおじが磨いたそうです。
昨日、おじから話を聞いて、今日早速、おじの家に行って写真を撮ってきました。
この鏡は
@平川家から養女に入った椎葉のおじの母(私の祖母の姉)が平川家から持参したもの。
A犬童家から嫁いで来られた椎葉のおじの祖母が持参したもの。
B椎葉の源一おじの母(永田家から深水家へ嫁ぐ。私からみると高祖母)が、椎葉家に養子に入った源一おじに持たせたもの。
上記の何れかとは思うのですが、椎葉のおじもよく解らないそうです。

紋が「丸に三つ引両」のようです・・・・

酒井様、ご教示ありがとうございました。
では(^'^)



[51]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年03月01日 22時59分49秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>肥後国球磨郡多良木庄に関係する望月姓は
源頼朝の善光寺参詣の折りに、相良頼景に関係を持たれた子孫で宜しいのですか?
 
間違いなし。
しかし肥後望月氏は望月氏の中では例外的存在。
 
望月氏の多くは、駿河国安倍郡北部に蟠居した安倍七騎(杉山、望月、石谷、狩野、末高、朝倉、海野)の一つ。
 
安倍郡と言えば、安倍川餅で有名。
また広重の描いたとろろ汁で有名な鞠子宿の茶店は、平成の現代でも江戸時代の雰囲気を醸し出している。
[52]白石さんからのコメント(2016年03月01日 23時30分02秒 ) パスワード

みやちゃん
こんばんわ
所用で名古屋に行っていました。

お話が盛り上がっていますね。
名古屋の知人が しきりにありまつ まない なるみ というので まないのあたりで 聞き耳を立てると お寺が 華厳宗誓願寺というのです。

誓願寺って なんか 聞いたことがある と思って いると
お寺はまだ 歴史は新しく 当代で3代目とのこと。
しかし 初代の方が 村人に慕われ 徳の高い方だったそうで 
修二会の時は 東大寺からお水がはこばれるとか
去年だったかの 何かの行事の時は 東大寺官長・・・と書くのでしょうか?みずからおいでられた とか

当人も宗教的なことや歴史の事は あまり 知らず 私も まない と聞いて あれっと 思って 聞き耳をたてた くらいなので さだかではありませんが・

当人の親はなるみ 有松の生まれ育ちで 親の小さい頃は そのお寺は山の中に建っていたので 「おやまさん」とよんでいたそうで

地域の縁で 檀家になっているそうです。当人のところは 禅宗だといっていますが・・華厳宗から禅宗に移り変わっているのでしょうかねえ。
あちらでは 一軒しかその名のお寺はない と 当人はいっていましたが
真宗では 誓願寺というお寺はあり

こちらは 松尾芭蕉が 関係しているみたいです。

望月姓
会社の社内報に 望月さんの顔写真が載っていました。男性。
この人の顔立ちは 私が昔一緒に働いていた 藤堂さん男性の顔とそっくりで
つまり いけめん と いうような 面長 あごが きれいにすぼまっている
顔立ちです。

地下鉄にのったら 高岳の地名も。
ネットでみたら 近くに 観音寺があったようです。近江源氏佐々木氏。
六角氏の言葉もあって 中原のことはもあるようです。



[53]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月02日 17時30分46秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

日本の苗字七千傑様、白石様 御教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様
〉肥後望月氏は望月氏の中では例外的存在。
〉望月氏の多くは、駿河国安倍郡北部に蟠居した安倍七騎(杉山、望月、石谷、狩野、末高、朝倉、海野)の一つ。

安倍郡・安倍川餅・・安倍川・・駿河国・・駿河国なのに何故?こちらの地名及び河川名は「安倍」が付くのでしょうか?
安部氏と繋がっているのかな??と・・
肥後望月氏・・熊本の望月氏・・現代では橘姓を名乗っている??
こちらの「望月氏」は「望月」という姓のままなのでしょうか・・?
すごく気になります。

白石様
お久しぶりです。名古屋に行かれていたのですね(^'^)
お元気なご様子で安心しました(^'^)

華厳宗・・華厳宗大本山東大寺ですね。
華厳宗をウィキで調べてみようとしたのですが・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E5%AE%97
難しいです・・難しすぎて・・

所で・・白石様
家の親戚には残念ながら「高岡氏」「高丘氏」はいらっしゃらないのですが・・
でも「片岡氏」は親戚でした。
宮原の曾祖父の養女になったおばさん(ブログにアップした宮原家の集合写真で赤ちゃんを抱いた女性)のお婿さん(ブログ写真前から二列目のお坊様の横の若い男性)の弟は「片岡家」に跡継ぎとして養子に入っていました(^'^)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12123383239.html

何だか気になりまして日本の苗字七千傑様のサイト検索で「片岡氏」を調べたのですが様々な系に「片岡氏」がありました。
千葉氏の系にも「片岡氏」
【藤原氏長家流】姓氏類別大観 を拝見すると「武藤氏/少弐氏」と同族の「加藤氏/片岡氏」と・・
気になる「片岡氏」が沢山いらっしゃいます・・。

所で昨日ブログにアップしました「椎葉家に伝わる品」の写真ですが
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12134511121.html
B源一おじいさんの父が西郷隆盛公から頂いた瓢箪
こちらの写真、ブログにも説明を追加しましたが、椎葉のおじいわく
※赤い房が元々付いていたのですが、古くなったので新しく似た色の紐を付けたそうです。
※瓢箪の蓋?は鹿の角で出来ていたそうです。(鹿の角で出来た蓋?栓?は紛失)
と言う事でした。

では(^'^)
[55]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月03日 09時22分40秒 ) パスワード

コメント53の追記
球磨の錦町の地名で気になる場所があります。
平河氏にも繋がる旧西村の先日コメントした窪田(久保田)氏にも関わる場所でして
「久保宇野」という地名です。
久保は何となく解るのですが「宇野」とは??「久保宇野」??
しかし、先日「海野氏」について調べている時に気が付いたのですが
海野氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F
平安時代から同族(海野広道の弟から始まる)根津氏、望月氏と並んで「滋野三家」と呼ばれ、三家の中でも滋野氏嫡流を名乗り、東信濃の有力豪族として栄えた。資料の初見は『保元物語』で、源義朝揮下の武士に「宇野太郎(海野太郎)」の名が見える。
※宇野太郎(海野太郎)・・宇野・・久保宇野・・
モヤモヤします・・
細川藩藩士の窪田(久保田)氏の通称・大畑の窪田(久保田)氏の通称 望月氏の通称・・

日本の苗字七千傑様から頂いた御教示にある「駿河国安倍郡」を調べたのですが
安倍郡 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E9%83%A1
気になる村の名前がありました。
南賤機村 ← 安西井宮村、安西外新田、安西内新田、籠上村、籠上新田、伝馬町新田、与一右衛門新田、松富村、安西村
美和村 ← 遠藤新田、足久保村、西ヶ谷村、藤兵衛新田、内牧村、幸庵新田、安倍口新田、与左衛門新田、中ノ郷村、松野村、津渡野村、油山村
※与一右衛門新田
※与左衛門新田

間違っているかもしれませんが・・
窪田(久保田)氏と望月氏には何らかの姻戚関係があったのでは??

今回は先程のコメント53の追記でした。
では(..)
[56]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月03日 10時00分16秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

コメント54で書いた「鷲尾家」の話は、おじにスレッドで書いて良いか許可を取っていませんでしたので、削除させて頂きました。
後日、おじに確認して許可してもらえればあらためて書かせて頂きます(..)

所で・・
平川家について28+1コメント61でお隣にあった「久保元(本)」家の話を書かせて頂きました。
(江戸末期に久保元津(権か?)左衛門と言う方がいらっしゃったお家です)と書いていましたが・・

実は、上記の方の名前は、宮原の曾祖父から祖父へと家督相続が行われた書類に書かれていました。
筆書きの文字でよく読みとれなかったのですが、お隣が昭和初期まで「久保元」だったので私の先入観で「久保元津左衛門」と読んでいました。
しかし、先日、家督相続書(と呼ぶのかな?)を父とあらためて見てみると・・
父が「これは”久保元津左衛門”じゃなくて”久保大津左衛門”と書いてあるじゃないか!」と。
ええっ??(?_?)・・(p_-)・・と私も父に言われて虫めがねを使って見てみると、確かに「久保大津左衛門」と書いてありました!
父は、「お前が先入観を持ってみるからだっ!!」と・・(..)
実は「久保大津左衛門」の娘が宮原の高祖父「蔵吉」の妻です。
こちらの「久保大津左衛門」家が「久保元(本)」家となります。
こちらには、宮原の曾祖母の弟が「新堀家」から養子に入られました。
すなわち宮原の曾祖母の弟は新堀家から其々「深松家」「平川家(祖母の実家のお隣)」「”久保大津左衛門”家」に養子に入ったという事です。
そして「”久保大津左衛門”家」から、旧岡本城の下にある犬童清兵衛の館跡に代々居する”柳瀬家”に、後に嫁いだ方がいらっしゃいます。

現代、家の集落「宮麓」には新堀家はもうありませんが、しかし(ー_ー)!!・・新堀家の「血」は現代にしっかりと繋がって残っているという事です。(^'^)

では(^'^)
[57]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月03日 12時16分29秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

日本の苗字七千傑様、酒井様
南藤蔓綿録の中に記されている”大変重要な記述”を私は読み飛ばしていたようです。

日本の苗字七千傑様の御教示の通りです。
転記します。
一 建久八年丁巳三月廿三日 右大将頼朝公信州善光寺御参詣ノ時為後陣隋兵也
  為望月三郎配対矢其時ノ文書示今有之(東鑑建久七八九年ノ間脱巻絶此文書御当家ニ有之)

さらに同南藤蔓綿録記載 相良頼景公以前藤原御系図 より
荘司四郎頼景
初三郎後鳥羽(八十二代)建久四癸丑(頼朝之時)球麻多良木下向領湯前、久米、多良木、江代、湯山以嫡男長頼二男弥五郎頼氏続家秩 建久八丁巳三月廿三日 頼朝公信州善光寺参詣時為後陣隋兵与望月太郎配対其時文書今存之 東鑑脱此文書故為家宝 多良木居住始蓮花寺之上大川端今謂東之前屋敷之也 彼処鍋倉城築也

私は望月氏と窪田(久保田)氏の関係は?とか言っていましたが・・高齢の相良頼景の隋兵となった「望月太郎(望月三郎)」。
望月氏と相良氏こそが姻戚関係にあったのでは!!!

日本の苗字七千傑様、御教示本当にありがとうございました。
[58]酒井ともさんからのコメント(2016年03月03日 13時10分44秒 ) パスワード



皆様、こんにちは。


「望月姓」
>>肥後国球磨郡多良木庄に関係する望月姓は
源頼朝の善光寺参詣の折りに、相良頼景に関係を持たれた子孫で宜しいのですか?
 
>間違いなし。

>望月氏の多くは、駿河国安倍郡北部に蟠居した
 安倍七騎(杉山、望月、石谷、狩野、末高、朝倉、海野)の一つ。

なるほど、静岡市の望月氏の多くは
駿河の安倍川筋の望月氏が繁栄したのですね。



「安倍郡」
>安倍郡・安倍川餅・・安倍川・・駿河国・・駿河国なのに何故?
 こちらの地名及び河川名は「安倍」が付くのでしょうか?
 安部氏と繋がっているのかな??と・・


川の名前の由来
http://www.cbr.mlit.go.jp/kawatomizu/kasen/abegawa/abegawa.html

昔の安倍郡に由来して安倍川と名がつけられました。
一説には安部氏にちなんでつれられたという説もあります。
また、安倍川のアベは低湿地の意味、
またアイヌ語のアベ(火の意)をもつとも考えられています。


その他には崇神天皇の時代にその流域の族を退治した、
安倍川別命が安倍姓を賜り、安倍将軍を称した。

安倍将軍の子孫が、東北の俘囚長の安倍の貞任・宗任兄弟に
なるような逸話もあるようです。


その安倍郡には草薙なる地名があります。

この草薙の起こりは、日本武尊の東征の折りに
三種神器の一つである、天叢雲剣(草薙剣)にて
「草をなぎ倒して難を逃れた」神話を由来としているようです。

天叢雲剣(草薙剣)は熱田神宮の御神体ですね。

いずれにしても、安倍国府や安倍川の基になる「安倍」の名は、
蝦夷征服の過程での惨劇が基になったのかもしれません。


武蔵国岡部藩主の安部(あんべ)氏の祖は「安倍」姓を称していますので、
今川家時代の所領地は安倍谷に持っていたのでしょうね。

この安部氏は滋野流の末孫で、元々は海野氏を名乗ったようです。
旗印は真田家の家紋同様の「六文銭」を使用しています。

安部七騎の海野氏がこの安部氏なのかもしれませんね。



「新田地」
>※与一右衛門新田

宝暦年間に奥津(池ヶ谷)與(与)一右衛門によって、
安倍川沿いに拓かれた新田です。

>※与左衛門新田

江戸時代、駿府の町年寄を勤めた豪商、友野與(与)左衛門が、
安倍川岸の芝地を開墾して設けた新田です。

大凡ですが、何々新田は江戸期の豪商や義民の手によって
拓かれた田地が多いのではないでしょうか。



「和鏡」
>椎葉家に伝わる「和鏡」です。
ブログにアップ致しましたので、皆様、まずはご覧ください(..)
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12134511121.html

落款には「天下一 山城守」とありますね。

http://www.tkc.co.jp/kaze/backnum2004/0409/koramu.html

抜粋
>信長は元亀4年(1573)7月、京都奉行・村井貞勝に宛てに定書を出している。

>「天下一の号を取る者、何れの道にても大切なる事なり。
ただし、京中の諸名人として内評議ありて相定【あいさだ】むるべき事」(『当代記』)

>天下一の称号を取ることはどんな道でも大切なことだ。
ただしこれを決めるには京都の名人たちが集まって評議して決定しなければならないという定めである。


確か天和年間には江戸幕府により「天下一」そのものが使用禁止となりますので、
「天下一 何々守」のような様式は江戸も古い時代の品でしょうか?

江戸時代後期の手鏡(和鏡)には「苗字 何々守 氏 姓 諱」落款と印譜の様式が流行ります。
当家にある丸に剣方喰紋入りの手鏡(和鏡)はこの様式です。





「三つ引き両紋」

>三つ引き両と呼ばれる紋がある。
こちらは桓武平氏流三浦氏の家紋として知られている。
三浦氏は源頼朝の創業を援け、鎌倉幕府初期の重鎮であった。

>この三浦氏の幕は、黄紫紅(きむらご)の三色に染め分けられたもので、
それがのちに三つ引き両の紋に転じた。嫡流は執権北条氏に敗れて滅亡したが、
一族は各地に分散し三つ引き両の紋を広めていった。
葦名・佐久間・朝比奈などの諸氏が有名である。
ちなみに三浦氏の名跡は庶流佐原氏の流れが継いで戦国時代に至った。

>引両「引竜」とも記す、竜は雨を呼び天に昇る霊力のある動物で
古来竜神とあがめられた、引両はその姿を表すとあります。

[59]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月03日 22時32分07秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^'^)

酒井様、ご教示ありがとうございます。

安部川の由来。
様々な説が存在しているのですね。しかし・・安部氏・・

〉武蔵国岡部藩主の安部(あんべ)氏の祖は「安倍」姓を称していますので、
今川家時代の所領地は安倍谷に持っていたのでしょうね。

この安部氏は滋野流の末孫で、元々は海野氏を名乗ったようです。
旗印は真田家の家紋同様の「六文銭」を使用しています。

滋野姓安部氏。
勉強しなければ!とネットで調べました。
サイト 武家家伝 安部氏 より
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sige_abe.html
 集団は、諏訪信仰からこれを明神とした、そして諏訪明神の神紋である「梶の葉」を結団のしるしとしたが、南朝方振るわず、初志を貫きえないまま各地に散っていった。安部氏は駿河の安部谷に移り住んで、安部氏を称した。本来は北信濃の真田氏と同じく海野氏を名乗っていた。大きくいって、信濃の名族であり大族である滋野氏の一族である。その証ともいうべき、「連銭」紋も安部氏を旗紋としていたことが知られている。
 安部谷に移住してからは、先の「梶の葉」と「六連銭」を旗紋として、はじめ駿河の今川家に属していた。今川氏が没落してのちは徳川家に属した。とくに、家康自立期における安部元真、小牧・長久手における次代信勝のはたらきがよく知られている。
 安部家の関東移住は、後北条氏の没落後の家康の関東入国にともなうもので、はじめ信勝がえたのは武蔵の岡部に五千石であった。次代の信盛のとき、三河、摂津の地を加えて、慶安二年(1649)一万九千石の大名に列した。知行はその後多少の増減はあったが、大体二万石を保持した。
 この間いくつもの庶流家を出している。家紋はいずれも「丸に梶の葉」「丸に三つ引両」「六連銭」であった。大部分は「丸に梶の葉」を定紋にしたが、「丸に三つ引両」「六連銭」を定紋にした家もあった。

私の住む旧岡原村。数々の内乱の舞台となった岡本城は私の家から真正面に700メートル程進んだ場所になります。
岡本城跡には現在諏訪神社が鎮座。地域の人達は皆、岡本城の事を「お諏訪さん」と呼んでいます。
http://www.asagiri-town.net/q/aview/48/1105.html

所で・・安部氏の家紋ですが
※家紋はいずれも「丸に梶の葉」「丸に三つ引両」「六連銭」であった。大部分は「丸に梶の葉」を定紋にしたが、「丸に三つ引両」「六連銭」を定紋にした家もあった。

酒井様から頂いた御教示にもありますように
〉三つ引き両と呼ばれる紋がある。
こちらは桓武平氏流三浦氏の家紋として知られている。
〉嫡流は執権北条氏に敗れて滅亡したが、
一族は各地に分散し三つ引き両の紋を広めていった。
葦名・佐久間・朝比奈などの諸氏が有名である。
ちなみに三浦氏の名跡は庶流佐原氏の流れが継いで戦国時代に至った。

三浦氏の家紋として知られる「三つ引き両の紋」。
滋野姓安部氏の中にも「丸に三つ引両」を定紋にした家もあった・・
三浦氏・滋野姓安部氏・・共通の紋を使用しています・・
すごくモヤモヤします。

酒井様、「三つ引き両紋」について詳しく御教示頂きまして本当にありがとうございます。
〉三浦氏の名跡は庶流佐原氏の流れが継いで戦国時代に至った。
佐原氏と言えば御存じの通り、鎌倉時代初頭から続く平河氏の訴訟・越訴に関係したであろうと推測出来る「佐原時連」。
平河氏に関する数年間の調査で「三浦氏」「佐原氏」と平河氏はきっと何等かの繋がりがあるのでは!?と疑念を抱いてきました。
しかし、訴訟状の「法名」以外には記録は全くありませんでした。
しかし・・ついに「丸に三つ引両」の紋が椎葉家から見つかりました。
椎葉家の和鏡は先日コメントしましたように、どのような経緯で椎葉家に伝わったのかは未だ解りません。
しかし、椎葉のおじいわく、親戚の一族・・すなわち
「宮原家」「椎葉家」「平川家」「深水家」は強い絆(堅い絆)の一族。
その「強い絆(堅い絆)の一族」の一軒から「丸に三つ引両」の紋が見つかったという事は、一族のいずれかと”丸に三つ引両の紋の家”が明らかに繋がっていたと推測出来るのではないでしょうか?
実の所を言いますと、すごく高揚しています。

〉落款には「天下一 山城守」とありますね。
「天下一」についてお調べ頂きありがとうございます。
〉確か天和年間には江戸幕府により「天下一」そのものが使用禁止となりますので、
「天下一 何々守」のような様式は江戸も古い時代の品でしょうか?

時代はどうなのでしょう・・??
ただ、椎葉のおじは、「椎葉家に養子に入った源一氏以降の誰か(源一氏も含む)が持参した可能性が高い」とは言っています。
鏡を持参した”人物”の家に代々伝わってきた鏡の可能性もありますし・・

〉>引両「引竜」とも記す、竜は雨を呼び天に昇る霊力のある動物で
古来竜神とあがめられた、引両はその姿を表すとあります。
※竜は雨を呼び天に昇る
雨を呼び・・
旧久米郷の象徴とも言える、故郷の山「黒原山」ですが、古くは別名「雨引嶽」と呼ばれていたようです。

酒井様、本当にありがとうございました。(^'^)
[61]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月04日 09時52分24秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

昨晩のコメント59の追記です。
酒井様
>※与一右衛門新田

宝暦年間に奥津(池ヶ谷)與(与)一右衛門によって、
安倍川沿いに拓かれた新田です。

>※与左衛門新田

江戸時代、駿府の町年寄を勤めた豪商、友野與(与)左衛門が、
安倍川岸の芝地を開墾して設けた新田です。

御教示頂きましてありがとうございました。
奥津(池ヶ谷)與(与)一右衛門
奥津氏を調べてみよう!と日本の苗字七千傑様のサイト検索を行ったのですが・・
奥津氏は「藤原南家為憲流」!相良氏と同族でした!!
日本の苗字七千傑様の《岡部氏》姓氏類別大観を拝見すると
岡部清綱 → 奥津近綱 → 工藤義綱 とあります。

江戸時代、駿府の町年寄を勤めた豪商、友野與(与)左衛門
友野氏ですね。
友野氏 こちらのサイトでは
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2888542.html  
トモノ 友野 長野県、東京都、岡山県。伴野の異形。長野県佐久市田口に江戸時代にあった。岡山県総社市岡谷に江戸時代にあった。同地では長野県の友野からと伝える。バンノ 伴野 参照。※岡山県美作市友野は江戸時代から記録のある地名。
※長野県佐久市田口・・「友野氏」は佐久市に繋がる「姓」なのですね。

「藤原南家為憲流」 相良氏と同族の「奥津氏」※奥津与一右衛門
「長野県佐久市」  佐久市に繋がる「友野氏」※友野与左衛門

いずこを調べても・・共通の何かが見え隠れしますね・・

所で・・
酒井様、御家の「丸に剣方喰紋入りの手鏡(和鏡)」
手鏡(和鏡)は当時の女性の大切な必需品であり宝です。
私、「丸に剣方喰紋」紋のお話を酒井様から伺うたびにワクワクします。
家の場合は親戚一族がどういう理由で「丸に剣方喰紋」紋に統一したのかは解りませんが、しかし、子供の頃から慣れ親しんだ「丸に剣方喰紋紋」を心から「家の家紋!」と愛しています。
様々な家紋が世にはあり、どなたも御自分の家の家紋には同じ気持ちだとおもいますが、椎葉のおじも椎葉家の家紋「丸に剣方喰紋紋」に誇りを持っています。私も同じです。

今後ともよろしくお願い致します(^'^)
[62]白石さんからのコメント(2016年03月04日 19時26分51秒 ) パスワード

こんばんわ

鷲尾 久保元? 松前など 興味ある言葉が出ていますが。
先日から どうも 華厳宗南都から禅宗への移り変わりが気になりあれこれネットを見ていました。
で ネットあれこれ 寄せ集めの抜粋ですが

東大寺の開祖・良弁は一説によれば、
染屋時忠は、奈良東大寺を開いた良弁の父である。。
染屋時忠は、藤原鎌足の子孫で、関東諸国の総司令官として東国8ヶ国を治め、「由比の長者」と呼ばれていた。 鎌倉最古の神社といわれる甘縄神明神社を建てたのは時忠だといわれている。

碑文 染屋太郎大夫時忠は藤原鎌足の玄孫(やしゃご)に当り 南都東大寺良弁(りょうべん)僧正の父

三室戸寺
最澄が延暦寺を作り上げてまもなくの・・・11世紀には三井寺の末寺になり、その流れを汲んで・・・、
現在は天台宗寺門派に属す。

その三井寺に境内には、見るからに立派な新羅神社がある。。
新羅(しんら)三郎もそこで元服したという・・まさに志賀漢人(しがのあやひと)の聖地である。

道元
曹洞宗開祖で ただ 座禅を組むことを言っている。この座禅は達磨大使も7年間座り続けていて 大師のいた天台山のお寺に最澄が行っているのですね。

 道元は、五摂関家の祖・藤原忠通の子である藤原(松殿)基房と忠子との間に生まれた娘・伊子と、久我通具との間に生まれた嫡子であった。


[63]白石さんからのコメント(2016年03月04日 20時13分04秒 ) パスワード

松殿 中山を号す。
   
久我家 村上源氏 堀川 後 久我侯爵家に伝わる池大納言領とあり平頼盛と関係あるのか?

堀川という家は地域にあったと過去に書きました。

最澄は 漢王室子孫で 祖の実母は王氏。
滋賀の方の人で 志賀の漢人などの言葉が気になります。

先日テレビを見ていたら 王氏は 「西海竜王」の末裔という伝説があるとか・・・体の一部に龍のうろこがあるとか ・・・

龍は蛇にも通じて 尾形には 背中にへびのうろこがあると・・・

[64]白石さんからのコメント(2016年03月04日 21時02分54秒 ) パスワード

私の知り合いは 稲垣です。
父の世代は 農家だったそうで 農業をきらって会社勤めをし 母は有松しぼりの内職をしていたそうです。

華厳宗のお寺の檀家で 禅宗ということから 古い記憶をもっているのでは?と思い 7000傑様サイトで見ると
金星華族の家があり
その前は 藩主。
知り合いの家の結婚式で見た幕紋は 二引き両でした。二引き両は足利将軍家に関与している。
三つ引き両は三浦氏はど。

稲垣氏は 経基王の子孫で 菊池氏も同じ流れに あるような?
[65]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年03月04日 23時58分49秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>いずこを調べても・・共通の何かが見え隠れしますね・・
 
当たり前のことですよ!
近くの人物と婚姻を重ねるのが、ごく最近までの大勢だからです。
多くの系図は尊卑分脈を基としており、尊卑分脈から派生したものだからです。
その尊卑分脈は、藤原道長を系図の中央にした名家の銀河系なのです。
約1100年前の道長の光を尊卑分脈で確認している訳です。
藤原道長を過去に遡れば、藤原鎌足さらに津速産霊命に到達します。
道長から現代には、摂家歴代(近衛家ほか)を重ねて現代まで。
さらに道長の子、長家の後裔は大江広元を核として鎌倉幕府を確立します。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213.htm#003
 
すなわち中原氏、清和源氏の源頼朝、熱田大宮司、惟宗氏、島津氏、八田氏、
宇都宮氏、大江氏、大友氏、近藤氏などの華麗な閨閥を形成。
中でも膨大な所領を持つ大江氏裔は毛利氏など戦国大名の系譜に繋がります。
長家流は、那須氏、首藤氏(さらに山内氏)、三井氏(財閥の雄)、
冷泉家(歌道宗家)、加藤氏(後裔に加藤清正)、武藤氏、少弐氏など。
 
九州方面では、これらの諸家の縁戚も多彩です。
 
道長から周辺部を拡大調査すると、思わぬ発見に遭遇しますよ。
家紋的には、牡丹と藤が多い傾向。
まあ尊卑分脈に掲載されている家は、道長を中心とする銀河系の一員なのです。
[66]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月05日 09時34分41秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

日本の苗字七千傑様、白石様
御教示ありがとうございました。

白石様
白石様のお知り合いの方「稲垣」様とおっしゃるのですね。
「稲垣氏」と言えば・・
橘氏系図を見ると
橘公長の子 橘公忠(橘太)・橘公業(橘次)の兄弟に「橘範時」の名があります。
橘範時の項には「稲垣先祖」と記されています。
私も日本の苗字七千傑様のサイトを検索してみたのですが
稲垣氏
※清和源氏満重流 
源経基の七男満重に始まる。 
江戸期の大名稲垣氏(2家)は満重の子重長が伊勢国一志郡稲垣邑に住して称した後裔と称する。
※【紀 氏】姓氏類別大観を拝見すると
掲載姓氏 稲垣氏 紀貫之十六世孫藤能の裔を称する。
※【桓武平氏貞季流】大橋氏 姓氏類別大観 より
大橋貞元 の子「貞英」より「稲垣氏」とありました。

上記「紀姓」稲垣氏 姓氏類別大観を拝見して良く解りました。「越智氏」と繋がっています。
【桓武平氏貞季流】大橋氏は平貞能からの系で平貞能の妻は「原高春」の娘(良峯氏)
平貞能は球磨に名跡を残されていました。
サイト 球磨郡肥後国 くまもとの歴史より 
http://yumeko2.otemo-yan.net/c4034456.html   
高寺院(たかでらいん)
高寺院(たかでらいん)は山号を金剛山と称し、人吉・球磨最古の古刹で毘沙門天(びしゃもんてん)を本尊とする高野山真言宗の寺院です。草創の記録は不明ですが相良氏入国以前(平安時代後期)に人吉城代であった矢瀬主馬祐の創建と伝えられています。

境内には毘沙門三尊像(秘仏)、勢至菩薩立像(県指定文化財)、多宝塔(たほうとう、県指定文化財)、地蔵菩薩立像(村指定文化財)、西行法師座像(村指定文化財)、釈迦涅槃図、地獄相伝図(十三図)等々の多数の宝物が奉安されています。
375段の石段を登ると奥之院があり、毘沙門堂(登録文化財)が建っています。球磨地方に現存するもっとも古い瓦葺き建造物。
その中に三躯の毘沙門天立像(二躯は国指定重要文化財)が安置されていましたが、現在はの収蔵庫に移されています。

毘沙門天は四天王のうちの多聞天が独尊で信仰される場合の呼称で、七福神のひとつにも数えられていますが、元来インド、ヒンズー教の神であり、仏法を擁護し須彌山の北方を守護する善神でもあります。高寺院は人吉城の北方に位置する為、これを祀ったと考えられます。中央と左の二躯が平安時代後期の作で大正時代に国宝の指定を受けた優作です。
一躯は平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を、滅後家人の平貞能が供養の為に躯内に納めて祀ったものと云われ、もう一躯は人吉市下原田町の真福寺から寛永18年(1641)に遷座されたものと伝えられています。

※毘沙門天立像(二躯は国指定重要文化財)
 一躯は平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を、滅後家人の平貞能が供養の為に躯内に納めて祀ったものと云われる。

橘公長の子橘公忠(橘太)・橘公業(橘次)の兄弟「橘範時」
橘範時の項には「稲垣先祖」と記されていて・・
稲垣氏を調べると「紀姓」稲垣氏(越智氏に繋がる)さらに【桓武平氏貞季流】大橋氏からの「稲垣氏」。大橋氏は平貞能からの系で平貞能の妻は「原高春」の娘(良峯氏)
平貞能は御紹介したように球磨「高寺院(たかでらいん)」に名を残された・・
と言う事が解りました。

白石様の御教示にある「久我氏」。
以前、うちの親戚の「多良木平川家」と親戚関係にある「久我家」のお話をさせて頂きましたが、久我家は多良木の他、私が住む岡原の旧宮原地区にもあります。
祖母は非常に親しくさせて頂いていました。
此の事は日本の苗字七千傑様から頂いた御教示のお陰でよく理解できました。
〉近くの人物と婚姻を重ねるのが、ごく最近までの大勢だからです。
多くの系図は尊卑分脈を基としており、尊卑分脈から派生したものだからです。
その尊卑分脈は、藤原道長を系図の中央にした名家の銀河系なのです。
約1100年前の道長の光を尊卑分脈で確認している訳です。
藤原道長を過去に遡れば、藤原鎌足さらに津速産霊命に到達します。
道長から現代には、摂家歴代(近衛家ほか)を重ねて現代まで。
さらに道長の子、長家の後裔は大江広元を核として鎌倉幕府を確立します。

久我氏は、大江氏さらには平頼盛の子「平光盛」と姻戚関係を結んでいました。(過去に調査)
平頼盛 → 平光盛 と人吉庄の預所は移っています。
さらに永吉庄の預所は「大江広元」。

日本の苗字七千傑様からの御教示
〉さらに道長の子、長家の後裔は大江広元を核として鎌倉幕府を確立します。
ここですね!!

〉すなわち中原氏、清和源氏の源頼朝、熱田大宮司、惟宗氏、島津氏、八田氏、
宇都宮氏、大江氏、大友氏、近藤氏などの華麗な閨閥を形成。
中でも膨大な所領を持つ大江氏裔は毛利氏など戦国大名の系譜に繋がります。
長家流は、那須氏、首藤氏(さらに山内氏)、三井氏(財閥の雄)、
冷泉家(歌道宗家)、加藤氏(後裔に加藤清正)、武藤氏、少弐氏など。
 九州方面では、これらの諸家の縁戚も多彩です。

私が調べている事は全て「頂いた御教示に当てはまる」と言う事がよく理解できました。

日本の苗字七千傑様、白石様
御教示 ありがとうございました。
[67]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月05日 10時21分00秒 ) パスワード

追記
先程のコメントで「大江広元」に関した事を書いた後で気が付いたのですが・・

酒井様
酒井様の御家の家紋は「丸に剣方喰紋」。
丸に剣方喰紋「酒井氏」・・・・
酒井氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E6%B0%8F
概要[編集]
松平氏、徳川氏の最古参の譜代筆頭で、松平氏と同族という。徳川幕府の古記録である『柳営秘鑑』では、「三河安祥之七御普代(ふだい=譜代)、酒井左衛門尉、元来御普代上座」と、ある。また、同書物「葵之御紋来由」の項目に、「坂伊(さかい)ノ郷より為(として)加勢来りし」とある。
江戸時代の徳川幕府では、大老四家の一つに数えられ、一族から大老や老中を輩出している。
出自[編集]
酒井氏は元来、三河国碧海郡酒井村あるいは同国幡豆郡坂井郷の在地領主であったと考えられている。江戸時代に作成された酒井氏の系譜によると、大江氏の流れを汲み、その祖は大江広元とされ、大江広元の五男の大江忠成(一説に海東判官忠成)を開祖とする三河の海東氏の庶流という。その後、14世紀の末頃に酒井郷の領主であった酒井忠明の子が酒井忠時(酒井太郎左衛門少尉忠時)で、さらに忠時の子に当たる酒井忠則は、新田氏の支族、世良田氏の一族を名乗る時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を娘婿に迎えたという。その間に生まれた子が酒井広親(庶長子)で、成長した広親は親氏系の酒井氏の始祖となったとされる。
中略・・
家紋[編集]
酒井氏の家紋は新田氏以来の 片喰紋であり、一族や子孫は、それに装飾を加えた「丸に片喰」や「丸に剣片喰」などの家紋を用いた。
『柳営秘鑑』には、徳川家の三つ葉葵の家紋が、酒井氏より由来することが詳細に記載されている。
松平親氏 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E8%A6%AA%E6%B0%8F
酒井氏との関係[編集]
また、後に松平氏の重臣となる酒井氏の系譜によると、同氏の始祖広親は、親氏が松平氏を継ぐ以前に三河国碧海郡酒井村の領主の婿となって生んだ子であるという。この説に従えば酒井氏は松平氏の同族ということになる。 ただし平野明夫の研究によると、松平信重の長女が坂井郷に嫁いだことによって生じたものであるとされる。いずれにしても松平、酒井両氏は縁戚にあたる。

酒井氏・・
※江戸時代に作成された酒井氏の系譜によると、大江氏の流れを汲み、その祖は大江広元とされ、大江広元の五男の大江忠成(一説に海東判官忠成)を開祖とする三河の海東氏の庶流という。その後、14世紀の末頃に酒井郷の領主であった酒井忠明の子が酒井忠時(酒井太郎左衛門少尉忠時)で、さらに忠時の子に当たる酒井忠則は、新田氏の支族、世良田氏の一族を名乗る時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を娘婿に迎えたという。その間に生まれた子が酒井広親(庶長子)で、成長した広親は親氏系の酒井氏の始祖となったとされる。

大江氏に繋がっていらっしゃいます・・

私の親戚は強い絆(堅い絆)を元に「丸に剣方喰紋」を家紋とする・・「宮原家」「平川家」「深水家」「深水家より養子に入った源一氏が継いだ椎葉家」
さらに、実は先日コメント56で書いた
「久保大津左衛門」の娘が宮原の高祖父「蔵吉」の妻の「久保大津左衛門」家(あえてこう書かせて頂きます(..))
こちらも「丸に剣方喰紋」紋なのです。

冷静に考えてみました(..)
※平河氏は永吉庄の地頭。預所は大江広元。
※深水氏は旧永吉庄であった球磨の「深水村」を知行。球磨の「深水村」、こちらは鎌倉時代地頭は「平河氏」預所は「大江広元」

酒井氏・・大江氏の流れを汲み、その祖は大江広元とされ、大江広元の五男の大江忠成(一説に海東判官忠成)を開祖とする三河の海東氏の庶流という。
家紋は「片喰紋であり、一族や子孫は、それに装飾を加えた「丸に片喰」や「丸に剣片喰」などの家紋を用いた。

うちの親戚の「平川家」「深水家」は「丸に剣片喰」紋を使用・・
平河氏・深水氏の所領地は「大江氏」に繋がる・・
うちの親戚一族が使用する「丸に剣片喰」紋。強い絆とはもしや「大江氏」に繋がっているのでは・・???
親戚の強い絆には「久保大津左衛門」家も含まれていた・・
久保・・「大津左衛門」・・かなり長い通称ですが・・宮原の高祖母の父。
大津左衛門・・大津? (..)ここは今後考えるとして・・

と・・
気が付いた事を書かせて頂きました。
では(..)
[68]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月06日 18時00分43秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

今日は、お寺で春の法要があり、父と二人で伺って参りました(..)
沢山の方々がお見えになっていまして、住職様の御経を聞いていると心が洗われるような気分になりました(^'^)

所で、以前も書いたのですが、家のお寺様の御本堂の天井には其々の家の家紋がずらっと並んでいるのですが、今日、よ〜く見ると
三つ鱗紋もあり、他、今までの調査で”お目にかかった”家紋がズラリとありまして・・
どうも、この村、いえ(ー_ー)!!相良藩には様々な系に繋がる家々が多数あったのだな〜と、痛感いたしました(..)
しかし・・「丸に三つ引両」の紋は無かったのですよね・・・???
よく見ると、橘紋・柏紋・竜胆紋が多かったような気がします。(家に帰って早速ネットで確認致しました(p_-))

さて・・
話は変わりまして、今日は古代の球磨についてコメントしたいと思います(..)

最近読んだ「人吉・球磨の100万年の歴史」について書かれた本があります。
本書の記事、無断転載は堅くお断りします。とありますので、本のタイトルは御紹介出来ませんが、国立国会図書館のサイトの紹介ならばと(..)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I025376252-00

著者は、我が旧岡原村出身の名城大学名誉教授の方です。
実は・・この方は、私の祖母の姪(私の父の従姉)の嫁ぎ先の二男の方でして、すなわち、私の父の従姉の義弟となる方です(..)
(祖母の従弟の大学教授の方とは別の方です(..))

実は、私、全く存じていませんでした(..) 高校を卒業するまで、何度も父の従姉の嫁ぎ先のお家には遊びに行っていたし・・おばさん(父の従姉)もおじさん(父の従姉の夫)も頻繁に家に遊びに来られていたにも関わらずです(..)

先日、別の親戚のおばさんから、「歴史を勉強しているなら、この本をぜひ読んでみたら(^'^)」と貸して頂きました。
こちらの書籍の中に、先日、コメントした旧木上村(現錦町)の高原(たかんばる)にある夏女遺跡について書かれていました。
高原の夏女遺跡から「内向花文銅鏡」や「銅釧」が出土していた事を、こちらの書籍で初めてしりました\(◎o◎)/!
「内向花文銅鏡」は後漢時代を起源とするのですね!
ただし、夏女遺跡の「内向花文銅鏡」は状態が悪く文様がはっきりしないそうです。
すご〜く気になってネットで夏女遺跡を調べたのですが、あまり詳しく書かれていませんでした。
http://kyouiku.higo.ed.jp/page/pub/default.phtml?p_id=1233

夏女遺跡 遺跡ウォーカー
http://www.isekiwalker.com/iseki/254486/
遺物概要
map94:古墳前期+弥生後期-鏡+銅釧。 歴博報56、弥生小型倭製鏡(銘文なし、完形8.4cm、1989年発掘、熊本県教委蔵)、同(銘文なし、完形7.9cm、1990年発掘、熊本県教委蔵)、伴出、石庖丁+鉄鏃+土器
※古墳前期+弥生後期-鏡+銅釧。

そこで、色々探して見たのですが、サイトを見つけました。
勝手ながら転記させて頂いて御紹介をさせて頂きます(..)
山都〜球磨−北中島西原遺跡 より
http://blogs.yahoo.co.jp/kizaki_yasu/23309654.html

球磨には、細形銅剣、内行花文鏡、方格規矩鏡、銅釧が僅かではありますが、見つかっています。
この中で、内行花文鏡、方格規矩鏡、銅釧がちょうど免田式土器の頃のもので、内行花文鏡2面、銅釧は夏女遺跡から見つかっています。
つまり、ほとんどが夏女遺跡で見つかっていることになります。

私は「本目遺跡」については少しだけですが勉強させて頂いていました。
本目遺跡の調査を担当された関西外国語大学の佐古教授が昨夏あさぎり町にいらっしゃった際には佐古教授と御一緒に本目遺跡や才園古墳を廻る「ウォークラリー」にも参加させて頂きました。

才園古墳で発見された「リュウ金獣帯鏡」については以前、こちらのスレッドでも御紹介させて頂いていました。
http://www.netpia.jp/history/ryukinjutaikyo.htm

本目遺跡
http://kumanago.jp/event/?mode=detail&id=430000001155
墳丘墓、破鏡、管玉、ガラス玉の出土で注目され、盛り土のみで作られた墳丘墓は、熊本県や南九州ではあまり例を見ないものであります。破鏡については、墓から出土した破鏡としては、4例目であるが、方格規矩鏡が破鏡として使用され、しかも穿孔されたものが出土した遺跡は県内でも本目遺跡が最初です。

本目遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期(1世紀〜4世紀)にかけての遺跡です。

しかし!!
高原(たかんばる)の夏女遺跡で内行花文銅鏡2面、銅釧が見つかっていたとは知りませんでした〜\(゜ロ\)(/ロ゜)/

やっぱり・・熊本いえ(ー_ー)!!球磨は考古学会では何やら・・
日本の苗字七千傑様より以前頂いた御教示のとおりのような・・気がします(..)

内行花文銅鏡は京都府宮津市大垣にある籠神社に2000年に渡って伝わっているものなのですね・・ 御紹介させて頂いた書籍より勉強させて頂きました(..)

籠神社・・

今日は夏女遺跡について御紹介させて頂きました。
では(..)
[69]白石さんからのコメント(2016年03月06日 23時28分17秒 ) パスワード

こんばんわ
子孫様 橘の系に稲垣あるとは知りませんでした。

【桓武平氏貞季流】大橋氏は平貞能からの系で平貞能の妻は「原高春」の娘(良峯氏)
これも大変興味深いものですね。

すこし話が飛びますが 
父たちが 私の同級生の宮原さんのことを 
「ありゃ 菅原ばい」と言っていたのが 気になります。

大江広元は 毛利へ養子に入った人の子孫だけど 毛利氏は天穂日命を遠祖にいただいているのですね。
そして 出雲へ。

桓武平氏平貞季流大橋氏
大橋氏は平貞能からの系で平貞能の妻は「原高春」の娘(良峯氏)

平貞能
平清盛(平ノ清盛)の年表と、平清盛の家臣団と軍団
1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi18.htm
盛信の息。1168年検非違使。1180年源ノ季貞とともに河内源氏の石川氏(二条義資)を攻撃。1185年「壇ノ浦の合戦」に捕縛される ... 家貞の兄弟。平家家人。 平ノ家資 (*)富田進士・家助。伊勢平氏。家季の息。貞能の従兄弟。平家家人。<戦国時代の明智 ...

★平ノ家資 (*)富田進士・家助。伊勢平氏。家季の息。貞能の従兄弟

太田亮氏の辞典では 高岡条に高岡は富田進士かとあり
富田家助など書いてある。

進士氏という家は 足利将軍系の奉公衆にありよう
一色などのことばもあり

前に丹後男山城主の高岡・・・一色の陣代だり という系がありました。
ニギハヤヒの子孫の系です。

ネットをつぎつぎおいかけていたら こんな時間になりました。もう少しまとまってから・・・

四浦平家城 や 平川の地蔵堂に関して前に 貞尚の言葉が出て
貞は 後 定に かわっているんですね。
何か 気になります。うちの 平川の祖父の代は 定長という名前。元士族。
[70]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月07日 11時06分24秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

〉四浦平家城 や 平川の地蔵堂に関して前に 貞尚の言葉が出て
貞は 後 定に かわっているんですね。
何か 気になります。うちの 平川の祖父の代は 定長という名前。元士族。

肥後国相良藩士分限帳を見ると
以前、コメントしたように四浦に関係する方々は
貞享三年(1686年) 宮原五右衛 蓑田又左衛門 同藤六
享保三年(1718年) 宮原長兵衛 蓑田又六

外城 四浦
寛政十年(1798年) 宮原又七 蓑田藤兵衛
天保元年(1830年) 宮原貞助 蓑田又左衛門
安政年間      宮原伴作
外城以外 四浦
天保元年(1830年) 岩崎市右衛門
安政年間      岩崎利右衛門
          永井芳助

とあり、旧宮原村と同じく「宮原氏」「蓑田氏」「岩崎氏」の名が見えます。

〉四浦平家城 や 平川の地蔵堂に関して前に 貞尚の言葉が出て
〉うちの 平川の祖父の代は 定長という名前。元士族。

白石様の御親戚の「平川氏」は相良藩士でありなお且つ「貞」の文字が見える・・と言う事ですね。明治以降に何れかの平川氏の系が移って来られた可能性もありますよね。
ここから推測すると柳瀬村の平川氏が気になります。

分限帳を見ると
柳瀬
寛政十年(1798年) 平川貞六 平川孫兵衛
天保元年(1830年) 平川貞七 平川孫兵衛
安政年間      平川貞蔵 平川孫兵衛
 
上記の平川氏の系の方は現在も柳瀬にいらっしゃるようです。
気になるのは「貞」の文字で
平川貞六 平川貞七 平川貞蔵・・「貞」の文字です。
白石様の御親戚の「平川氏」はこちらに繋がっていらっしゃるのでは?すみません(..)あくまでも私の推測ですが(..)
先程、「明治以降に何れかの平川氏の系が移って来られた可能性もありますよね。」と書きましたが、もしくは柳瀬村「平川貞六 平川貞七 平川貞蔵」この方々の系の何れかに繋がる方が、明治以前、四浦村に住されていた・・という可能性もあるのかと思います。

さらに「貞」の文字と「貞六」「貞七」というお名前を念頭に置いて「四浦 外城」をもう一度見ると一つ気が付いたのですが
外城 四浦
享保三年(1718年) 宮原長兵衛 蓑田又六
寛政十年(1798年) 宮原又七 蓑田藤兵衛
天保元年(1830年) 宮原貞助 蓑田又左衛門
旧宮原村と同じく四浦の外城「宮原氏」と「蓑田氏」は姻戚関係にあったのでは?ないでしょうか・・?
さらに四浦の「宮原氏」と「蓑田氏」は柳瀬村の「平川氏」と姻戚関係にあったのでは?ないのかな・・??
と、あくまでも私の推測ですが・・(間違っている可能性はもちろん大ですが(..))
しかし伊予橘氏・松浦氏はそもそも姻戚関係にあるので・・

白石様のお父様の従兄の方が御親戚の「平川家」に婿養子に入られたと言う事でしたよね。
高岡氏は現在までの私の調査ではまだ見えていません。すみません(..)
しかしお父様の実家の「高岡家」の家紋は橘紋。
今日、書かせて頂いた「何か」に繋がっているのでは・・・?

日本の苗字七千傑様の《池田氏》姓氏類別大観を拝見すると見える
物部氏に繋がる高岡氏が気になります。通字が「貞」のようです・・

白石様、勝手な推測をしてすみません(..)
しかし、分限帳を見ると色々見えてくるので、今日は分限帳をもとに推測してみました。
では(^'^)
[71]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月07日 14時40分47秒 ) パスワード

皆様、今日は(^'^)

先程のコメントで「分限帳を見ると色々見えてくる」と書きましたが・・
平川家について28+1コメント31でも書きましたように
転記します(..)
〉私の故郷「球磨郡旧宮原村」を調べるにあたり、肥後国相良藩士分限帳を見る場合は一つポイントがあるそうです(p_-)

旧宮原村の宮麓地区は他の村の飛地が二か所あります。
切畑地区は「湯前領」。そして、元々うちの宮原家があった場所すぐ近くの稲積妙見宮は「久米領」。
故郷の歴史研究家の方々から伺うと、住居は宮麓でも分限帳では例えば「久米村」に名がある・・という方々が多数・・と。
解りやすく言うと「転勤」と一緒だそうです。
ですから、旧宮原村の歴史を調べようと思ったら、分限帳では「宮原村」「岡本村」「久米村」「湯前村」「奥野村」等もしっかり参照しなければいけない・・と言う事です。

白石様へのコメントに分限帳を元にした調査を書かせて頂いた理由は、私の祖母の実家「平川家」の私の高祖父の父(何て言えば良いのでしょうか?曾曾曾じいちゃん?)も分限帳で見つける事が出来たからです(^O^)/

私の父と椎葉のおじ(従兄同士)の記憶では
「平川家には”こうさく”じい様と言うめちゃくちゃ”やかましか”(厳しい)じい様がいたそうだっ」と。
もちろん、父も椎葉のおじも”こうさく”じい様が亡くなった後に産まれていますので会った事はありません。
この”こうさく”じい様の話は父と椎葉のおじが子供の頃、自分達の平川の祖母(深水家の娘)から聞いた話を思い出しながら、ニコヤカに話していました。
こちらの”こうさくじい様”の息子が平川丈蔵。妻は渕田家の娘(宮原の曾祖父の姪)と為る訳です。
二人の話を聞きながら私は「こうさくじい様」・・こうさく・・こうさく?・・\(◎o◎)/!
何処かで見たぞっ!!と・・

旧宮原村の平川氏 分限帳では
寛政十年(1798年) 平河甚吉
天保元年(1830年) 平川甚吉 ・・※ここで「平河」から「平川」に変わっています(p_-)
しかし 安政年間(1854年〜1859年)には宮原村には「平川氏」は無く、その替わりに「久米村」に平川氏が登場します。
この事は先に平川家について28+1コメント31より転記した事に該当している訳です。
父と椎葉のおじの前で肥後国相良藩士分限帳を広げて、確認しながら「久米村」の項を見ると・・
安政年間(1854年〜1859年) 平川幸作
平川幸作・・平川こうさく・・\(◎o◎)/!あった「こうさくじい様」!!
三人で「あった!!」と。
父と椎葉のおじは分限帳を見ながら
(p_-)・・この人があのやかましかった(厳しかった)と伝説?の「こうさくじい様か〜っ(^'^)」と言っていました((+_+))
久米村の項に名はあるとはいえ、平川の家から歩いて2〜3分で久米領の飛地「稲積山 稲積権現」ですので(-.-)
別の書籍では久米村・槻木村・宮原村・岡本村・奥野村は相良藩内では幕末まで「久米郷」として行政管理されていたようで、通称は五村合わせて「東村」と呼んでいたようです。
しかしこの五村合わせた石高は・・相当な石高となります。(p_-)

所で私の先祖である「平川幸作」ですが「幸」の文字があります。
深水村 寛政十年(1798年) 平川幸兵衛 「幸」の文字
ブログにアップした平河氏系図 写真Dを見て頂くと
http://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html
長男は安敬。 平川幸三郎 安春又安純ト改 とあります。
平川幸三郎 「幸」の文字です。
「平川幸作」「平川幸兵衛」「平川幸三郎」・・「幸」の文字です。
あと・・気が付いたのですが「安敬 安春又安純ト改」「安」の文字です。
平川氏には墓石調査の結果 「平川安載」の妻と言う方のお墓が見つかっています。
実は久保田氏の系図を見ると、妻を豊永氏の娘とする「安滋」以降の通字が「安」なのです。(通称ではありません”名”の通字です)
さらに「平川安載」という方は「岡本河内守頼真」にも関わりがあります。
旧七地村の岡本河内守の菩提堂にその名を残しています。

実は以前から気にはなっていたのですが何せ読めなくて(..)しかし、おそらく非常に重要な記述では?と考える記述があります。
ぜひ、皆様にもお読みいただきたく転記させて頂きます(..)

渋谷敦氏著「岡本河内守頼真小傳」より
「郷土雑誌球磨」昭和五年七月号に載った柳瀬人吉氏の文に
「それより観音堂に行く、此の観音堂は岡本河内守の菩提堂である。実に立派なものである。大小太刀系図等がある。棟札一枚がある。左に記す。
岡本家先祖代々伝来悟了永頓居士江御感状並諸書附代々之武器子々孫々に至るまで、我家に永く伝はりてこそ末代の重宝とも成べけれど、示時文政十三庚寅暦十月十八日堂建設就いたし宝珠院運識律堂供養相頼右之品々奉安置者也
岡本覚左衛門藤原重
岡本家系図並数通之
御感状拝し奉りて感謝して読伝ふ
  原城山外廻住人平河源兵衛将良峯安載入道中齊 凌雲院友明守信
武士の八十うち川のなかにまた
  きよき流れも人やくらん

(..)・・
転記させて頂いた岡本河内守の菩提堂の棟札一枚に記されている内容。
読めないなりに・・平河源兵衛将良峯安載入道中齊と岡本河内守頼真には何等かの関わりがあるような気がするのですが・・
さらに棟札に書かれている
岡本覚左衛門藤原重・・こちらの岡本家に養子に入った方が久保田安秀 以心の弟「九八」です。
こちらのコメント34に詳しく書かせて頂いていました。

さらに・・偶然かな?宮麓地区の庭柏寺跡に残る「岡本家先祖代々の供養塔」にお参りをしていたのは・・家の宮原家。「祖母と父」

岡本河内守の菩提堂の棟札の内容等。
皆様、私は知識不足でお恥ずかしいですが読めません。
ぜひ、ご教示の程よろしくお願い致します。

今日、初めてコメントして、文章を書きながら、私の調査にとって”とても大事な事”のような気がしています。

よろしくお願い申し上げます(..)
[72]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月07日 15時10分13秒 ) パスワード

追記

先程のコメント一部訂正します(..)
〉平川の家から歩いて2〜3分で久米領の飛地「稲積山 稲積権現」ですので(-.-)
訂正します(..)
「稲積山 稲積妙見」です。
すみません(..) 御先祖様にお叱りを受ける所でした・・(..)

ちなみに・・
岡本河内守頼真の妻は「薩摩宮原殿息女」と岡本家系図には記されています。

では、重ね重ね、皆様、先程お願いをさせて頂いた「書」の御教示よろしくお願い申し上げます。(..)
[73]白石さんからのコメント(2016年03月07日 23時56分54秒 ) パスワード

こんばんわ
書の読みときは ごめんなさい。

ところで私 平川集落のことで 間違っていました。
相良村誌によればP575に

地蔵堂の横に石の祠があり そこを村山ドンまたは 平川ドンと言っており、平川の(集落の)祖先だということです。

平川阿蘇神社
集落の南にあり 同地の氏神です。肥後の国の阿蘇神社を勧請してあります。
永正12年1515年平貞尚の再興した棟札がある。

貞尚はこちらですね。

さて
村山ドン
大谷 小野集落にも 村山はありました。
初神 六通にも・・・

小野集落には観音堂があり 松本 宮田などの家があり これらは 伊勢神宮社家にもあって 初神(はじめて神社を祀ったからはつかみという)

初神には中村があってそこから ぐるぐる 縁続きができており うちの平川も中村から尾方に血が入り 緒方から祖母の代で嫁。 
中村も 伊勢地方にある。

とにかく 伊勢に関与するものがあるらしく
村山は伊勢神宮の社家にある。

7000傑様サイトでは
中臣(黒田)鎌子の子孫 から 村山氏があります。

平氏にみれば 桓武平氏秩父氏 の子孫 平良文の子孫に 村山があり
三浦氏などもあります。
坂上氏 隆家流 春日氏 和邇氏

きのうお話した 平貞能のことは 平高望の子孫 平正度の子孫 平良文の兄弟に国香がおり この人の子孫。

良文の系と姻戚関係によりということも考えられますね。

伊勢平氏の平貞能は
本拠 伊賀国 父平家貞 母宇都宮氏
平資盛の補佐役をまかされた・

貞能は筑後の守・肥後の守を歴任し
子は肥後山本郡に住んだ。

Click Times-平家物語を熱く語る!!-平 貞能
の見出しからだけど

大友能直は、九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。 平 貞能は、平家の滅亡 後、肥後守は肥後国大橋という所に蟄居した。 宇都宮に仕えて常陸に赴き、出家して 三河国に移り住んだ。

大友氏が中原つながりで宇都宮とつながるとき 平貞能の母・宇都宮氏が関与してくるのではないか?

確か大友氏 大内氏 毛利氏は義兄弟の間柄と。

相良村誌では
P」177に 平河一族の消息として
鎌倉幕府滅亡後は少弐氏に従った。
このころは平川氏は北朝方であったようである。

又 1353 平河惣領の平川貞継の弟・定家・貞世兄弟は筑前・豊前・大宰府を転戦した。

以後平河氏は人吉平河氏を中心に人吉相良氏の支配下に組み入れられていく。
ーーーーーーーーーーーーーー
伊賀国ですが
観音寺城があったあたりに近く 城主は望月氏をたよって甲賀・三雲城へ落ち延びた。

六角氏は中原でもあり
観音寺城は近江源氏佐々木氏
出雲源氏は近江源氏の分流
ーーーーーーーーーーーーーー
柳瀬の平川氏とのつながりは今はわかりません。
現平川の嫁は一武からきており(見合いだったのかどうか)
一武は木上とかわをはさんだあっちとこっち

一武はのち 人吉相良氏領だったようですね。


 
[74]白石さんからのコメント(2016年03月08日 07時25分50秒 ) パスワード

>緒方から祖母の代で嫁

尾方です。すみません。尾方から平川へ定長の嫁。

>村山はありました。
村山という家がありました。です。

>貞尚はこちらですね。
貞尚は地蔵堂ではなく 阿蘇神社再興のほうですね。
★地蔵堂は願成寺二世智心の霊をまつる と 村誌でも書いてあります。不思議ですね。

>平資盛の補佐役をまかされた・
資盛が宇都宮に何らかの形で関与していると 
宇都宮は 中原も称しており 何らかの形で 佐田に関与してくるのでは?と思います。

すみません。でがけにあけて読み直したら 意味がわからないかも?と思って・・・





[76]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月08日 16時53分51秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^'^)

白石様、ご教示ありがとうございました。
〉柳瀬の平川氏とのつながりは今はわかりません。
すみません(..)白石様のコメントに大きな手掛かりがあった!「相良藩士・平川・通字が”貞”」と思い、分限帳でまず「平川氏」で通字が「貞」の系を調べた所相良村柳瀬の「平川氏」が見つかったという事です。
それと・・以前コメントしたかな?とは思うのですが、昨秋、相良村柳瀬の平川氏墓地周辺を探索した時に、少し離れた広い敷地内にポツンと二基のお墓が並んでいまして「平川氏」と「淵田氏」のお墓でした。
その時に「何処の地域も似たような姻戚関係なんだな〜」と思いまして・・
昨日、分限帳をもとに調査して柳瀬の平川氏の通字が”貞”であると気が付いた時には「やった〜!!白石様とやはり私は御縁があった!!」と喜んでしまいました。
しかし、白石様が気にかけていらっしゃる
〉平川阿蘇神社
集落の南にあり 同地の氏神です。肥後の国の阿蘇神社を勧請してあります。
永正12年1515年平貞尚の再興した棟札がある。
分限帳は貞享三年(1686年)からの相良藩士及び庄屋等の記録ですから、年代が合いませんね・・すみませんでした。
ちなみに「麻郡神社私考」を見ると
阿蘇大明神 四浦平川
 社人 稲冨源右衛門 とあります。
稲冨源右衛門という方は「四浦領初神 阿蘇大明神」「四浦領田代 阿蘇大明神」「四浦領晴山 坂本大明神」の社人でもありました。
さらに「四浦領初神 阿蘇大明神」の項には
※天正二年申戌 地頭 大田某修造 とあります。
天正二年(1574年)の四浦領初紙 地頭は大田某 と言う方だったと解りました。
〉平川阿蘇神社 永正12年1515年平貞尚の再興した棟札がある。
平貞尚と言う方ですね・・・
ただ、南藤蔓綿録や嗣誠濁集覧等の書籍を見ると、球磨には「本姓を”平”」とする家々は多数ありますし記録・記述も多数残っています。
相良藩士で言うと「土屋氏」「土肥氏」他多数・・
例えば先日コメントした 木上の加茂神社の記録でも
転記します(..)
熊本県神道青年会 加茂神社
http://www.kumamoto-shinsei.jp/shrine-map/modules/gnavi/index.php?lid=174
江戸時代は「由留儀大明神」と呼ばれていたが明治元年加茂神社と改められ明治5年村社列格。
例祭は11月の初亥の日で十日市に在る。京都の賀茂神社の祭神と同じである。
 天文16年(1547)に第17代藩主相良晴広公の願いにより、木上の地頭、藤原長善(窪田越後)が指揮して神社の再興をした。それから19年後の永禄9年(1566)11月20日に第18代藩主相良義陽公の願いによって竹田彦三郎(平 重昌)の指揮で拝殿が造り替えられた。
※竹田彦三郎(平 重昌)・・竹田氏も”平”姓です。

平貞尚と言う方はいったい”どなた”なのか・・?
私も気になります。実は来週、相良村の郷土歴史研究家の方とお会いする機会がありますので、その時にお話を伺ってみます。
白石様、しばしお待ち下さい(..)

昨日の「棟札」に書かれていた書は、自分でもとにかく読めるように今頑張っています(^'^)
では。
[77]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月08日 16時56分00秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様
ご確認して頂きたい書があります。
勝手ながらメールを送らせて頂きました。

よろしくお願い致します。
[78]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2016年03月08日 20時01分11秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

ミヤハラさんへ。
 
小鹿島公業の祖を、旧説の橘広相とするか橘遠保とするかの話でしょ!
中央の橘氏に結び付けたい話で、仮冒系図に過ぎません。
この系は越智姓が橘に改姓、末流が肥前小鹿島に栄える。
まあ、詳細については様々な系図が存在する。
[79]ミヤハラよりさんからのコメント(2016年03月08日 21時32分29秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様
お忙しい所、ありがとうございました。

〉この系は越智姓が橘に改姓、末流が肥前小鹿島に栄える。

しっかりと認識させて頂いております。

ありがとうございました。

日本の苗字七千傑様、白石様、酒井様
沢山の御教示ありがとうございます。
「遠江国」を知る事が、鎌倉以降の球磨を知る事!と痛感いたしました。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

新しいスレッドを立ち上げました。
平川家について31
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101516.html
こちらに続きます。
[80]白石さんからのコメント(2016年03月10日 00時30分00秒 ) パスワード

こんばんわ
柳瀬の平川さんとの関係がわからないまま 
すこし 他の気になることをネットで見ていました。

つまり 
我が家のつながり・木下 坂本 平川 高岡 丸目 五藤 川辺 福島
田山 田中 小林 平江 山口 なりまつ 白石 etc

ここから
先日お話した 平川集落の阿蘇神社のことから
日本の苗字7000傑村山氏を見ると中臣氏・大中臣氏1をみると
・・・他にもいろいろ系があるのですが・・・
黒田鎌子がいて御食子の子・鎌足から藤原氏。

鎌子ー磐余ー荒猪ー布忍から村山氏

また
伊賀津臣命というひとがいて 子孫・伊香氏・・・柏原氏

椋垣氏】というのもあり
 中臣氏と同族。津速産霊命十三世孫鯛身命の孫御身宿祢の子真束が倉垣臣を賜姓される。
 近江大津宮朝13年(674)豊毘登は椋垣朝臣に改賜姓、鹿養以降は摂津国能勢郡大領、後裔の池田政扶の女は紀姓池田維実の妻となり後世の大名家池田氏の祖となる。この系の祖先に国摩大鹿島命がいるんですね。
多分 摂州多田院御家人高岡系図とからんでくるのでは?と おもうのだけど
・・・

それと 山口氏
村山氏にからんで 山口氏がいっぱい と思ってみていたのだけど
そこに 大根が日本ある紋があったのですよね。
でも 今日見たら あれっ どこにいったのか? 

あねが 山口のおばあちゃんが 家紋は ちょうじなんとか と 言っていたのだけど まだ 若くて ふんふんと聞いていただけで 夫婦で本屋で見つけて 大根紋。お墓かなんかで 覚えてはいたみたい。

また 占部家の源流系図総覧 というのがあり 伊賀津臣命は壱岐氏の祖先。
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壱岐氏は 
皇室と壱岐氏について | 壱岐と日本の神社というブログで後水尾天皇の子・霊元天皇の子を産むひとがおり現皇室へ。

松室さんの先祖は壱岐族で、すなわち、占部です。さらに遡ると、天児屋根命といわれ、五摂家のもとである、藤原氏の先祖でもありますが、松室さんは藤原氏といわず、「壱岐氏」といっています。

霊元天皇は後水尾天皇の御子です。霊元天皇には松室7流の中に女房になっておられる方があります。松室重敦の娘ー伊勢の局ーで、この方が有栖川職仁(よりひと)親王をお生みになり、この親王が有栖川宮の第5代となられましたが、その先代、正仁(ただひと)親王にお子様がなかったので、この職仁(よりひと)親王から松室の血が続くのであります。 ということは現在の天皇家にまで続いていることになるのです。

に閑院宮家ですが、この宮家は東山天皇からでています。そして同天皇の第一皇子「なおひと親王の御孫が光格天皇で、この天皇から、仁孝天皇ー孝明天皇ー明治天皇ー昭和天皇ー今上天皇、と続いています。

と書いています。

なんだかなあ ・・ という気がします。姉がしきりに言っていた母系の方はなりまつ だよ ということばから出てきた 。阿野の分家に山本があり 山本は こことのつながりは?だけど 母()
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