[1] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月23日 08時43分34秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
忍衆の働きの事例を収集していますが、いずれそのデータベースをまとめ
てみたいと思っております。
それらについて飛躍的に分かるのは、『幕府御家人 伊賀者の研究』(井上
直哉著)ですが、これは伊賀へ行った時、芭蕉の生家で販売していましたので、
即購入しました。次に伊賀に行った時に購入し、送ります。この本は、あを様
には絶対役に立つものであると断言できます。
例えば―
「伊賀組 天正十年(1582)の神君伊賀越えに従った伊賀者を中心に、約二百
人が徳川家に召し抱えられた。その一部が慶長七年に伊賀組として編成され
たと思われている。組頭は青山忠成が老中と兼任して務めた。」
ここでも青山忠成が出てまいります……。
掛川城攻めでも、服部半蔵はじめ忍衆の活躍があった、高天神城でもしか
り。戦いにはすべて忍衆が用いられました。忍衆の活躍、総てをデータべー
スにしたいと思っております。
これから、掛川に向います―
[2] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月23日 22時31分48秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は国一バイパス経由で掛川へ直行しました。まずは中央図書館へと思
って行きましたが、掛川城の北東側より南へ右折するとお寺が見えましたの
で、そこへまず寄ってみることにいたしました。
日蓮宗常住山正願寺と神宮寺――二寺が仲良く並んで門を構えておりまし
た。掛川城の建つ竜頭山(標高五十メートル位か)の東側に位置しています。
まずは、神宮寺から入って行きました―
[3] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月23日 22時37分46秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
楽しみにしていますね。
>その一部が慶長七年に伊賀組として編成されたと思われている。
>組頭は青山忠成が老中と兼任して務めた。」
>ここでも青山忠成が出てまいります……。
青山忠成ですか・・・
「表の顔」として青山忠成なんでしょうね。
「百々」がキイワードでしょうね。
青山家のそもそもをまた一から探る必要がありますね。
掛川での成果を期待していますね。
[4] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月23日 23時31分47秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
神宮寺の墓地で出会った墓……何と、さい先良く「服部家」に出会いまし
た。家紋は「丸に揚羽蝶」。昨日のレスで掛川城のすぐ南の服部家は「向い
蝶」と言ってしまいましたけれど、それは記憶間違いで、「丸に揚羽蝶」に
違いありません(但し、そちらの家の方はまだ直接には確認しておりません)。
さっそく服部家の墓に向い、般若心経を二巻上げさせてもらいました。
他に服部家はないかと探しましたところ、あるある…丸に揚羽蝶の家紋の
服部家の墓がもう二基、そして「丸に違い鷹羽」の服部家が一基ありました。
今まで二年間程いろいろお寺を回ってきましたが、服部家の墓がまとまって
あるのは、自分のところの善地のお寺と伊賀のお寺しか見たことがありませ
んでした。直接の先祖でないかも知れませんが゜、何か晴々とした嬉しい気分
になりました。
服部家だけに絞って報告しますと、次の日蓮宗正願寺ではもっとすごい
遭遇がありました―
何と、「丸に縦三つ並び矢」の服部家の墓が三基、そして三畳間位の台座
に建てられた立派な大きな服部家の墓―それは隣にある服部家の墓か先ほど
の「丸に縦三つ並び矢」でしたので、一族の本家筋の墓で同様の家紋である
に違いないと推察いたしました。
そして、そこで般若心経を二巻捧げました。
服部家の墓は、まだありました。今度は天満宮系の「梅」(丸が五つ、真ん
中の芯につながっている形)紋の墓が三基ありました。
もう一度、般若心経を二巻上げさせてもらいました。
そして、もう一軒、近くのお寺真如時へ行きました。
そこには、服部家の墓が一基…家紋は、「丸に縦並び矢」(上も下もVの字
にくびれている矢筈)でありました。
ここでも般若心経を二巻上げさせていただきました。
なんだか今日はいい日になりました。午後から雨が降り出しましたが、心の
中はすがすがしさがずっと持続しました。
とりあえずは服部家に関してのご報告まで―
[5] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月24日 02時36分19秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
わたくしの分まで、ありがとうございます。
良い供養になります。
きっと一族ですものね。
家紋は難しいですね。
同じ名字なのに。
蝶紋服部家でしたら(平家系ということでしょうね)というのは思いますが
平六服部家長の子孫だろうになぜ?蝶紋なの???
富士川の戦いで居残った平家で服部氏なの?と。
「丸に縦並び矢」(上も下もVの字にくびれている矢筈)はかなり古い服部氏の系統とは思いますが?
尾張藩藩士の服部氏はこの紋でした。
掛川藩に仕えた服部氏なのかしら?
「丸に縦三つ並び矢」ここは次男三男よりもっと、生まれた順番が下に生まれた家あたりでしょう。それか庶子だったか。
「丸に違い鷹羽」は藤原氏系の市野家・大橋家、平氏系でしたら永井・長井氏など。
この欄にも服部家の名は無く、どういう経緯でなの?です。
市野家と親戚になった服部家?そうすると松島家に近い服部家?
とにかく空想は広がりますが、やはりその家のアイデンティティにまでは辿り着けないです。
>なんだか今日はいい日になりました。午後から雨が降り出しましたが、心の中はすがすがしさがずっと持続しました。
逆に家紋の奥の深さにもやもやが濃くなりました。
笑
でも本当にありがとうございました。
掛川だけでも、いろいろな服部家があったということですね。
それだけ栄えたということなので誇らしく思います。
[6] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月24日 09時33分27秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
家紋については多種多様・渾沌としているということがよくわかりました。
伊賀の並び矢は逆に言うと、「忍者」「草」につながるので避けられた、ある
いは変えざるを得ない状況にあった、また明治初めの苗字の強制の頃より家紋
も替えられたり、新たに付け加えられたのかも知れませんね。
自分の「丸に三つ柏」は永井家からのものとほぼ確信していますが、昨日訪
れた三寺だけでもこの家紋をつけている家は次のとおりたくさんありました―
・山内家(五軒 その内一軒は土佐柏)
・青野家
・片山家
・中村家
・大村家
・中川家
・そして河井(河合、川井、川合)家は「丸に蔓柏(三つ蔓柏 えびす紋)」
でありました。
日蓮宗の正願寺には、武士系の名前がたくさんみられました―
・松下家
・浅井家
・黒田家
・遠山家
・甲賀家
・内藤家
・太田家
・笠井家
・鈴木家
・諏訪家
・本間家
・永田家
・長田家
・大村家
神宮寺にも―
・本多家
・大石家
・長谷川家
・加藤家
・朝比奈家(ちなみに家紋は「丸に立ち沢瀉(おもだか)」でありました。)
また、この寺の一番奥の山には、今では誰も訪れないような所に次の墓が
半ば傾きながら建っていました―
・太田織部源資魚
また、同じくその手前には、川合氏族としての立派な墓石群が一団で十基
以上並んでおりました。これはただ者ではない気配がいたしました―
朝比奈氏のその後ですが、調べましたら次の様になっておりました―
・駿河朝比奈氏→土佐の山内家家臣、幕臣朝比奈氏
・遠江朝比奈氏→庄内酒井家臣、水戸徳川家家臣、紀伊徳川家家臣、及び
幕臣朝比奈氏
掛川にも結構歴史物語がたくさん残っています。今後それらについて記し
たいと思っております―
本日も掛川にこれより出かけます―
[7] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月24日 11時43分23秒 ) | パスワード |
太田織部源資魚
この人物は全く分かりませんが「太田織部」という名前は聞くように思います。
清和源氏頼光流で殿さまの一族なのでしょうか?
ということで太田織部について調べました:
http://www.digistats.net/usakoji/shrine/1211.htm
常住山正願寺 これですね。
掛川藩主太田家の家臣の墓がある日蓮宗の寺院。
太田家の数百の家臣の墓があったが写真を撮るのを逃した。
訪ねた当日、住職さんが不在で隣の家の人に尋ねたところ裏山の古いお墓を案内してもらった。
この古いお墓は太田家にゆかりのある方のものらしい。
太田織部とある。家紋も藩主家と同じ。
++++++++++++++++++++++
太田織部さんを調べていたら 三重県史 にお名前があるようで(でも見つかりませんでした)
ダウンロードして見てたら
19ページ目20ページに服部一忠が載っていました。
服部一忠
織田信長につかえ,桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元の股(また)を槍(やり)でつく。
本能寺の変後,豊臣秀吉にしたがい,天正(てんしょう)19年(1591)伊勢(いせ)(三重県)松坂城主となった。
関白豊臣秀次の事件にかかわり上杉景勝にあずけられ,文禄(ぶんろく)4年7月切腹した。
また服部寿安という人も載っています。
[8] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月24日 16時28分22秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は掛川へ行くつもりが、外気4℃、及び寒風ピュービューでしたので
行くのを中止し、古本屋へ行ってしまいました。
掛川へは、実は「長松院」へ行き、昨日神宮寺で見た川合家の謎を探る予定
でありました。長松院は河井宗忠公の菩提寺となっているということで、この
河井氏って何者なのか…我が服部家にも川合氏(表記はいろいろ)と親戚という
謎がありますので……。
古本屋では、『考証忍者物語」(田村栄太郎著)という本を手にいれました。
これからひも解くところです。新たな情報がはいりましたらお知らせいたし
ます。
[9] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月24日 22時31分29秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
外気温4℃で風が吹いてたら体感気温はマイナス3度とかになって
冷えて頭が痛くなります。
外を歩くのは危なかったかもです。
風邪でも引いてお仕事に行けなくなってはご先祖さまに笑われます。
ふふふ
>古本屋では、『考証忍者物語」(田村栄太郎著)という本を手にいれました。
>これからひも解くところです。
>新たな情報がはいりましたらお知らせいたします。
楽しみにしております。
目新しい情報が読めるといいですね。
[10] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月25日 00時19分27秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
まずは昨日の掛川のお寺「真如寺」関係した話題です。
真如寺には由緒書きが書かれておりまして、簡単に要約しますと―
「曹洞宗日輪山真如寺は、天正十八年(1590)、掛川城主山内一豊公が、
叔父の在川謙昨(ざいぜんけんさ)大和尚を駿府長源院より招じて開創、
門葉十ヶ寺を擁する名刹なり。
徳川の世となり、山内氏は土佐高知に国替え、掛川は家康公の異父弟、
松平定勝公が継ぐところとなる。
定勝の嫡男遠江守定吉(さだよし)公、一旦の憤怒により、慶長八年
十一月十一日切腹、当山の開基に祀られる。
その不運の一生は、田宮虎彦の「鷺」に著されてもいる。」
ここで、『考証 忍者物語』の中に書かれていることと関連すること
でありますが、この定勝・定吉との人間関係を持つ人間服部半蔵の嫡男
服部正就であります―
正就の妻は、この松平(久松)隠岐守定勝の子松平定吉の娘であります。
松平定勝の母は、徳川家康の実母であり、故合って久松家に再婚という
形になり、松平定勝を 含めて三男三女を生んでいる(定勝は三男)。
つまり、松平定吉の娘は家康にとって姪にあたり、その姪を妻にした
正就は、家康の義理の甥ということになります。
定吉の一旦の憤怒とは、三方ヶ原の合戦において戦功を上げるも、論功
行賞がなかったのを嘆き切腹したということであります。
一方の正就は、伊賀二百人同心を強権的に扱ったので、反発をくらい、
改易の身になり、元和元年(1615)の大阪夏の陣で戦死(恨まれて殺された)
とも言われています(死体がなかった)。
定吉と正就――何か似たような運命ですが、本当のところはどうだった
のでしょうか、少し掘り下げれば何か出て来るかも知れません。
ちなみに、定吉のもう一人の娘は「山内忠義」に嫁ぎ、さらにもう一人
の娘は「酒井忠行」に嫁いでいます。
[11] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月25日 02時38分13秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>掛川は家康公の異父弟、松平定勝公が継ぐところとなる。
わたくしもココにビックリしました。
「掛川」がらみでしたか。
やはり現場100回
何度も何度も読み返さないといけませんね
こういう年代になりますと。
>定吉の一旦の憤怒とは、三方ヶ原の合戦において戦功を上げるも、論功行賞がなかったのを嘆き切腹したということであります。
小説では「鷺」をしとめて家康から叱責されて19歳で腹を切った
とか言われる人ですね。
定勝の子女
定吉、定行、定綱、定実、定房、定政、
松尾(長女、服部正就正室)、 昔の人間関係は今とは違うから、松尾は定吉の娘という説もありますか。
阿姫(家康養女、山内忠義正室)、
娘(中川久盛正室)、
菊姫(酒井忠行正室)、
正寿院(阿部重次継室)、
玉子(池田恒元正室)
[12] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月25日 09時25分04秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
人間関係を考えていて、松平定勝と家康は(異父)兄弟であり、松平定吉と
家康は(義理)甥・叔父の関係となる。家康と服部半蔵は同じ年であるので、
家康の(異父)弟の定勝と半蔵の子正就とは同年代となる。従って、定勝の子
定吉の娘と正成とは親子の関係くらいに歳が離れていることになり、おかし
いなと寝ながら考えていたところです。
ありがとうございました。正就の妻は定勝の娘に間違いありません。訂正
させていただきます。
ところで、正願寺で見た「梅紋」、正しくは「梅鉢紋」(六曜のような紋)
を家紋としている立派な服部家の墓……正就は定勝の娘を嫁にもらい、その
後改易、またその後定勝にお世話になっている。
定勝は元は久松氏、久松氏は本姓菅原氏、菅原道真を祖としています。
菅原家ということから、久松家の家紋は「梅鉢」であります。
この「梅鉢」の家紋を、この服部家と久松家が同じくしている。
ということは、この服部家は久松家と親戚になった服部正就の親族である
可能性があります……?
服部半蔵・正就親子と松平(久松)定勝・定吉親子は、関ヶ原の戦いでたぶ
ん一緒に戦った仲だったのではないか、もちろんそれ以前からの仲であり、
娘を嫁入りさせた……。そこに、忍家の要素がからむ可能性はないだろうか。
菅原氏を祀る天満宮といえば、伊賀上野市の中心に立派な天満宮がある。
菅原道真を介した形での服部家と久松家の関係というのはありえるだろう
か……?
[13] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月25日 13時52分07秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
家紋は難しいですね。
でも梅鉢または梅で服部氏というのは表立って「無い」ようなので
やはり婚姻とかで梅系に替えたのかもですね。
家紋がただ1つだけの家というのは (そんな家、あるの?)と思ってるクチなので
最終的にお墓に使った(選んだ)のが「それ」ということで
やはりアイデンティティなのかなと。
久松氏から拝領した紋かもですね。まさか葵のご紋は下賜できないけど梅の紋なら平気ということで。
または久松家ではない全く別の菅原系の家から貰ったかも知れないし
例えば菅原系の太田家とか長谷川家とか、更に、南朝がらみで恒川家も梅ですから。
恒川さんも南朝忠臣のなんとかの1つだった記憶です。さらに長島一揆で我が家と共に戦いました。
ということで恒川さんに近い服部氏というのも考えられますしね。
>>菅原道真を介した形での服部家と久松家の関係というのはありえるだろうか……?<<
ということで恒川さんを挟んで服部家久松家恒川家松平家の関係も考えられますね
でもとにかく家紋は難しいですね。
[14] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月25日 13時55分44秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部半蔵 vs. 対柳生宗矩
関ヶ原の合戦で柳生は調略において活躍した。戦う前の説得取り込み作戦
である。
服部伊賀衆をゲリラ戦闘部隊とすると、柳生は諜報調略部隊と言えるかも
知れません。
久松家と柳生家は菅原氏の後裔ということでつながっていた。なのに服部
半蔵・正就とつながり、嫁までもらって親族となってしまった。
関ヶ原の戦いでの功労評価は、事前の調略戦を演じた柳生に傾いたとみる
のは間違いであろうか……。定吉の切腹の謎……忍集の徴用の仕方が変わっ
た、関ヶ原の戦いは、戦わずして勝つ―即ち、情報を制するものが世界を制
するということの教訓元年……。
[15] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月26日 06時30分58秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>服部伊賀衆をゲリラ戦闘部隊とすると、柳生は諜報調略部隊と言えるかも
知れません。
これでは 戦術 vs 戦略 ということで柳生の勝ち決定でした。
>情報を制するものが世界を制するということの教訓元年……。
現代にも言えますね。
[16] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月26日 10時02分29秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
戦術か戦略か―戦略の方が貢献度が高いという論功行賞についての事例は、
これ以前にすでにあったことが、昨年八月発刊の小和田哲男氏の『合戦図
屏風で読み解く! 戦国合戦の謎』の中に書かれておりました―
「驚きの論功行賞
(屏風)『尾州桶狭間合戦』―
ここに描かれているのは誰かというと、まず討たれようとしている人物
こそ、今川軍の総大将・義元である。組み討つは、一番槍の服部小平太と、
首をかききった毛利新助ら、信長の親衛隊「馬廻り」の面々である。
義元も必死に抵抗し、最後の執念を見せている。
これを見れば、大将の首級をとった新助こそ、最大の戦功者と信じて疑
わないはずだ。ところが戦後の論功行賞で新助は小平太と並んで二位だっ
たという。
では、一位は誰だったのかというと、なんと戦場での槍働きに活躍した
者ではなく、義元が桶狭間で休息しているという情報をもたらした簗田(や
なだ)政綱という人物だった。
政綱は在地の野武士集団を掌握する情報将校ともいうべき存在だった。
信長の命により彼は義元の動向を探り、逐一報告していたのである。そし
て、合戦当日も義元の休息場所を主に伝えたのだ。
信長の奇襲において勝敗の分かれ目となるのは、義元の正確な居場所を
知ることだった。場所を間違って義元を討ちもらせば寡兵の織田軍は逆に
取り囲まれてしまう。そこで信長は、情報を集め、分析した上で、一戦必
勝に勝機を見出すべく戦に臨んでいたのだ。それを支えたのが政綱の情報
だったというわけだ。
桶狭間の合戦に見られるように、じつは信長は戦国武将のなかでも早く
から情報戦を重視していた武将としても知られる。桶狭間の場合も奇襲ば
かりが注目されるが、信長はその裏でじつに一年前から緻密な情報戦を展
開していたのである。」
情報を収集すること、意図をもった情報を流すこと、説得して寝返えら
せること・・・孫氏の「戦わずして勝つ」の戦略である。上忍はこれを心
得ていた。この「簗田政綱」という人の名は初めて知ったけれど、上忍と
して「服部中保次」もこの時織田方にいて、義元を討つのに貢献している。
服部中保次は、信長に仕える前は「足利義輝」に仕えている。というこ
とは、今川義元は足利氏であり、足利義輝に仕えていた服部中保次はその
顔を知っていたと推測する。従って、桶狭間で今川の陣に突入して、その
中で義元を識別するのに服部中は貢献したのではないか。もちろん、そこ
に至るまでの情報収集にも多大なる貢献をしたと思われる。
足利義輝は剣豪将軍とも言われ、塚原卜伝、上泉秀綱から剣を学んでい
る。この上泉秀綱は義輝から紹介されて柳生の里を訪れ、柳生宗厳と合い、
「無刀取り」のテーマを与え、一年後見事に応えたので「新陰流」を伝授
している。
また、更に遡って、足利義満の頃、観阿弥・世阿弥は義満の保護を受け
ている。
また、中保次の祖先は楠木正成を遠祖に、南朝側に属し活躍していた。
そして、そんな環境下・経歴化での服部中保次、足利義輝を中心にして、
柳生宗巌とも上泉秀綱とも、また能役者達ともネットワ−クを持ち、さら
には柳生の門下生や親戚の松下之綱系ともつながっていたと推察いたしま
す。また、南朝グループともつながっていた。松下系を通じて、修験にも
通じていた。もちろん、服部半蔵や伊賀忍衆ともつながっていた。
つまり、「服部中保次」こそは、「情報将校」エリートだったのである。
これが、本日の私の推論であります。
[17] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月26日 12時38分34秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
信長はやっぱりスゴイ。
「捉われない」という印象を持ちます。
我々は管理教育を受けて小さく纏まりすぎて、裏目に出てるな、と思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B0%97%E7%94%B0%E6%94%BF%E7%B6%B1
簗田 政綱(やなだ まさつな)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。名は広正とも伝わる。
アヤシイですね。
尾張国の人で、春日井郡九之坪城主であった。来歴は不明だが、永禄2年(1559年)領内に十所神社を建立した記録が残っている。織田信秀・信長父子に仕えたという。
「簗田政綱」の名は、『三河後風土記』の桶狭間の戦いの条に見られる。通称は出羽守で、桶狭間の戦いに織田方として参戦した武将として名前が挙がっている。同資料によると、信長の突撃行動を織田家臣たちは口を揃えて諫めたが、政綱は信長の奇襲攻撃に同意し、密かに今川義元の本陣の裏手へ兵を動かしたという。また緒戦で織田軍が敵の首級を挙げると、政綱は信長を励まして敵本陣の強襲と義元の首級を挙げる事を進言し、織田軍の先陣にも加わって勇戦している。ほぼ同様の内容が小瀬甫庵の『信長記』にも記されているが「政綱」の実名は『三河後風土記』以外には見られない。
『太閤記』によると、桶狭間の戦いの戦功によって3,000貫文の知行と沓掛城を与えられたとしている。簗田出羽守(政綱)が沓掛の領主であった事は、里村紹巴の『紹巴富士見道記』にも見られる。その後は天正年間まで簗田出羽守の名が散見される。
後に別喜右近と改名した簗田右衛門太郎は、政綱の子ともいわれる。なお右衛門太郎の実名は「広正」とされる事が多いが、簗田出羽守の実名を「広正」とする資料もあり、その場合子の名は「正次」としている。また『寛政重修諸家譜』の梁田氏系図では、江戸幕府に仕えた梁田正勝の祖父の名を「四郎左衛門」としている。『信長公記』には尾張守護斯波義統の家臣で、後に信長に仕官した簗田弥次右衛門が登場するが、同姓であること以外に政綱との関連性は不明。この弥次右衛門と同一人物かは不明だが、天正10年(1582年)に簗田弥次右衛門が、かつて政綱が建立した十所神社を修築している。
桶狭間の戦いの功績[編集]
桶狭間の戦いの功績の内容は不明だが、一説には、今川義元の本陣の場所を織田信長に伝え、義元の首を挙げた毛利良勝よりもその功績は大きいとして、沓掛城主となったという。しかし、なぜ本陣の場所を簗田が知っていたのか、なぜ功績を讃えられたのか、不明な点が多く、小和田哲男や武田鏡村らの歴史研究者が推測を発表しているが定説はない(詳細は桶狭間の戦いの項を参照)。
また、後世において桶狭間の奇襲作戦を立案し、合戦直前に善照寺砦の軍議において他の諸将を差し置いて作戦続行を主張。立案した作戦が成功したために一番手柄とされたというが、それを証する史料はない。簗田を一番手柄としたことが、信長が情報を重視する表れとする解釈を司馬遼太郎が小説『国盗り物語』にて描いているが、前述の通り歴史学においては司馬の解釈を証明するだけの証拠が発見されていない。
参考文献[編集]
『信長公記』(富士出版、1991年)
『改正 三河後風土記』(金松堂、1886年)
『尾張志』愛知県郷土資料刊行会、1979年)
加藤國光 編『尾張群書系図部集』(続群書類従完成会、1997年)
演じた俳優[編集]
二代目曾我廼家一二三 【現】三代目曾我廼家五九郎 (大河ドラマ『太閤記』、1965年、NHK)
河原崎建三 (大河ドラマ『武田信玄』、1988年、NHK)
五森大輔 (大河ドラマ『秀吉』、1996年、NHK)
矢部義章 (新春ワイド時代劇『国盗り物語』、2005年、TX 、※役名:梁田四郎左衛門)
岡田和範 (大河ドラマ『功名が辻、2006年、NHK)
[18] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月26日 12時48分22秒 ) | パスワード |
梁田氏
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%B0%97%E7%94%B0
現栃木県である下野国簗田郡簗田御厨が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)繁盛流がある。
近年、青森県旧南部領地域に多数みられる。
梁田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yanada_k.html
水葵三本立ち
(桓武平氏維茂流)
簗田氏は桓武平氏の後裔と伝えられている。『系図纂要』によれば、平維茂の子に良衡を掲げ、「余吾軍団大毅、近江久田郷に住む」とみえる。久田郷というのは、どこに比定されるのかは分からない。高島郡安曇川の上流に久多庄と呼ばれたところがあるが、ここではないらしく、余呉湖に近い伊香郡の内ではなかったかと推定される。つまり、簗田氏の先祖は余呉湖近くに住んで、余呉将軍の子孫というようになったと想像される。
歴史への登場
良衡の孫・助衡は久田を称し、「後三年の役」には源義家に従って活躍し、源氏と関係をもつ初めとなった。助衡の子家助の家の一字は義家からの偏諱を受けたものと思われ、助衡の時代に源氏と主従関係を持ったのであろう。家助は、義家の子義国が佐竹昌義を追討した際に、それに従って活躍した。この義国こそ足利氏の祖に他ならない。家助の子義助は、その後、「当御料所簗田郷同庄内之夫丸所之被仰付」れ、下野簗田郷に始めて住んだと考えられる。そして、その子氏助が簗田勘解由左衛門を称して、簗田氏の祖となった。ここに、近江久田郡から簗田御厨を名字の地とする領主簗田氏が成立したのである。
氏助は、鎌倉将軍頼家による畠山六郎追討に活躍し、武蔵国梅沢郷を拝領したという。氏助の子は俊助とされるが、年代的に整合せず、その間に某が存在したものと思われる。俊助は尊氏の討幕運動に際して、その「本国之武士」の一人として活躍し、北条蔵人を捕らえた功で武蔵国生駄郷を拝領したという。すなわち、鎌倉時代の簗田氏助・俊助の活躍は、足利氏の根本家臣としての行動であって、幕府御家人としての活動とは考えられない。これが、簗田氏の名前が鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』にまったくみえない理由である。
鎌倉時代における足利氏の家臣団に関する史料は高氏などをのぞけば、まことに乏しくその概要を知ることは困難であり、わずかに足利氏所領奉行注文などに奉行人の名が散見できるのみである。そして、そのなかに簗田氏の名を見い出すことはできない。簗田氏は足利氏の家臣ではあったが、家臣団内部における地位は決して高いものではなかったと想像される。
元弘の乱(1333)によって鎌倉幕府が滅亡し、建武新政が開始されたが、足利尊氏は新政に反旗を翻し、足利幕府を開いた。以後、南北朝内乱の時代となり日本全国で合戦が繰り広げられた。足利幕府の開設によって、高氏などの足利氏の根本被官らは、幕府の奉公衆の中核に位置付けられ、全国的に飛躍する道が開けた。そして、幕府は各地に幕府組織を成立させ、関東には関東十国を統括する機関として鎌倉府が設けられたのである。
鎌倉府奉公衆への道
京都の幕府は在京人を中心とした奉公衆が組織され、一方の鎌倉府では鎌倉在住の武士を中心に奉公衆が組織された。『簗田家譜』によれば、俊助の子経助は平一揆の叛乱に際し鎌倉公方に属して河越次郎らを追討、その功によって武蔵国小沢郷を賜ったといい、以降、鎌倉公方との関係が叙述されている。簗田氏の名前は京都幕府の御番帳に見えないことから、その立場は、鎌倉公方家に限定されたものであったと考えられる。 鎌倉公方の奉公衆としては、貞治四年(1365)の鎌倉公方足利基氏連署奉加帳には、三戸・海老名・芳彦部・大平・二階堂・南・梶原などの鎌倉期以来の根本家臣が鎌倉公方の「近習」としてみえるが、そこには簗田氏の名はみえない。
簗田家譜によれば、経助の子良助は「上杉禅秀の乱」でときの公方足利持氏に属して大活躍したといい、さらにその子満助の代になると、簗田氏の一大発展の画期になったと記している。それでは、満助の時代に簗田氏が一大発展を遂げた理由とはなんであったのだろうか。それは、満助の代に下総国下河辺庄へ移住したことがあげられる。下河辺庄は室町幕府成立後、鎌倉府の御料所となった。ちなみに、その中心はのちに鎌倉公方が移住した古河であり、古河公方の名の由来となった場所である。
鎌倉府は時代が下るにつれ、幕府との対立を深めるようになり、幕府は鎌倉府を牽制するために、関東の諸大名を「京都扶持衆」として独自に組織していた。下河辺庄は鎌倉府にとって、その帰趨が東国支配に重要であり、とくに北関東の伝統的豪族層への軍事的抑圧の前線基地となった。つまり、鎌倉府は幕府の御料所である足利庄に匹敵する有力な根拠地として、下河辺庄を位置づけようとし、下河辺庄を本格的に所領経営を行うようになったと考えられる。そして、鎌倉府の奉公衆が下河辺庄に配置されるようになった。そのことは、奉公衆の一人である野田氏が十四世紀後半に下河辺庄に移住したことが史料などからうかがわれ、簗田氏も奉公衆の一人として下河辺庄に移住したのであろう。のちに野田氏は栗橋城主として、一方の簗田氏は関宿城主として古河公方を支えつつ勢力を拡大していった。
このように、下河辺庄に移住して、その地に拠点を築いた満助こそ簗田氏発展の基礎を築いた人物であり、「中興の祖」とよばれ後世「御家之鏡」と尊敬されるようになった。また、満助の女は足利持氏の室となり、成氏を生んでいる。この姻戚関係も簗田氏が鎌倉府内に勢力を拡大する要因になった。
関東の争乱
応永二十三年(1416)、上杉禅秀の乱が起こり、幕府軍の協力もあって持氏は禅秀の乱を平定できた。しかし、乱後、北関東の禅秀与党、京都扶持衆らの反乱が続き、持氏は連年のごとくそれらの追討に奔走した。永享七年(1435)六月、常陸長倉氏を追討した「公方勢」に野田・佐々木・梶原氏らとならんで簗田氏の名がみえている。持氏はこうした諸氏の討伐を古河を軍事拠点として簗田氏らを先兵として行ったのである。
この持氏の軍事行動は、鎌倉府と幕府との対立を深めることにもなり、ついに、永享十年(1438)足利持氏は管領上杉氏の諌言を斥けて幕府に対して挙兵した。しかし、持氏は幕府軍に敗れて自害し、良助・満助父子も持氏とともに自害した。一方、持氏自刃のとき、満助の子持助は持氏の子成氏を鎌倉から脱出させた。その後、簗田出羽三郎が持氏の遺児安王丸・春王丸らを守って、結城氏らとともに結城城に籠城し、幕府=上杉軍を迎え撃った。結局、結城城も落ち鎌倉府は完全に瓦解してしまった。
以後、関東の地では上杉氏の勢力が増大し、国人・一揆らの台頭など新しい状況が生じ、関東諸豪は鎌倉府の再興を幕府に願った。本来ならば、そのような願いは入れられるものではなかったが、幕府は持氏の遺児である千寿丸を赦して鎌倉に下らせて鎌倉府を再興した。千寿丸は名を成氏と改め、鎌倉府の主となり、上杉氏が管領としてこれを補佐した。この成氏の外祖父こそ満助であり、俄然、簗田氏が注目されるようになった。満助の子持助は持氏の偏諱を賜り、孫の成助は成氏から偏諱を賜るなど、鎌倉府内における簗田氏の台頭は著しいものとなったのである。
こうして、簗田氏は鎌倉府の権力構造のなかで、一定の政治的地位を獲得し、公文書の世界にも名を現すようになってくる。ところが、新しく鎌倉公方となった成氏は次第に上杉氏と対立するようになり、永享の乱・結城合戦で一敗地にまみれた反上杉勢力は成氏のもとに結集し失地回復をはかった。このなかに、成氏の出頭人である簗田氏もいた。そして、簗田氏は成氏の先兵となって活躍することになるのである。
享徳三年(1454)、成氏が管領上杉憲忠を謀殺したことが引き金となって「享徳の乱」が勃発、以後、成氏方と上杉方とは関東の各地で合戦を繰り返し、関東を戦国時代に叩き込むことになる。関東の状況を重くみた幕府は成氏追討を決して上杉氏を支援し、駿河守護今川範忠に命じて鎌倉を攻めさせた。今川軍の攻撃により鎌倉は焦土と化し、成氏は古河に奔り、以後「古河公方」と呼ばれるようになった。その後、古河に逃れた成氏が鎌倉を回復することは二度となかった。
古河公方家の重臣に台頭
持助は里見・結城・小山氏とならんで公方成氏の出頭人となり、また公方の外戚として奏者をつとめ、次第にその地位は強化され他の公方重臣らを圧倒していくようになる。
持助は文明十四年(1482)に没したが、その生涯はまさに享徳の大乱そのものであった。持助は大乱が起こると、鎌倉を離れた成氏の先陣をつとめ、北関東の反乱分子の追討に活躍した。長禄三年(1489)以降、五十子陣を中心とする上杉方と、古河を中心とする成氏方とが古利根川を境として対峙するようになると、にわかに古河の戦略的重要性が高まり、簗田氏の役割も増大した。
持助は「関宿より打って出て、武州過半を押領し、市川の城を取云々」とあるように、下河辺周辺に行動範囲を拡大していった。そして、公方の側近の一人として、「披露」役を勤め「奏者」となった。奏者とは公方の御書の副状を認める重職である。このようにして、持助は関宿という軍事要衝の地を根拠地として政治的に大きく飛躍しながら、下河辺庄方面にも進出していった。
持助の子成助の代になると、一族内部における矛盾が表面化してくる。すなわち、成助の行動はあまり知られることなく、逆に弟の政助の台頭が目立つのである。政助の政の字は成氏の跡を継いだ政氏からの偏諱であり、庶流ながら政助は簗田氏の当主の座にあったことは疑いない。そして、政助は政氏の奏者として活躍した。しかし、古河公方内部で政氏と子の高基との間で対立が起こり、高基は宇都宮に奔るという事件が起こった。のちに高基は古河に戻ったが父子の対立は深く、永正四年(1507)、両者の間で武力抗争が起こった。
高基を支えたのは、成助の子高助であった。政氏と高基の抗争は、永正九年政氏が古河城から去り、高基が関宿城から古河城に入ったことで新たな展開を見せた。以後、高基は古河城に入ったことで公方としての立場を不動のものとし、高基の御書に対して簗田高助の副状がみられるようになる。一方の政氏は、その後、小山城・岩槻城などを経て久喜甘棠寺に隠遁したが、その最後まで政助は随伴したようだ。
簗田氏の戦国大名化
簗田氏は高助の代に大きな画期を迎える。高助は政助との一族分裂の危機を克服し、一族に対して家督としての立場を明確にし、一族庶子の家臣化を推進した。つまり、封建的家臣団の整備を行い、一族庶子の家臣化をふまえた「給人」層を中心とした家臣団の再編成を通じて「簗田家」の確立をはかった。そして、それを土台として、古河公方内の「宿老中」筆頭の地位を獲得し、実体として国人領主化を遂げようとしたのである。このことは、古河公方の家臣という立場から戦国大名への脱皮を目指したとも理解されよう。また、高助は女を高基の嫡子の晴氏に嫁がせ、公方家との姻戚関係をふたたび生みだしている。
とはいえ、古河公方を取り巻く政治的状況は、天文年代以降、大きな転機を迫られつつあった。それは、天文七年(1538)の国府台合戦に勝利した後北条氏の勢力拡大と、晴氏と北条氏綱の娘との婚姻関係の成立によってもたらされた。
以後、簗田高助は古河公方筆頭老臣として、後北条氏との交渉をもつようになる。天文八年には、氏綱と起請文を交わし、天文十二年には氏綱の跡をついだ氏康と起請文を交わしている。後北条氏は高助と諸事「申合」わせ、古河公方権力の政治的機能を掣肘しようとしたのである。そして、天文十五年、晴氏は後北条氏の圧迫から自立するため、関東管領上杉憲政に味方して河越に出兵した。しかし、結果は上杉=公方連合軍の大敗に終わった。この一戦は、のちに「河越合戦」とよばれ関東の政治地図が塗り替えられる画期的な戦いとなった。
戦後、氏康から高助に書状が届けられ、晴氏の行動が厳しく糾弾された。こうして、古河公方家に後北条氏の権力が及ぶようになったのである。高助も連合軍の一角を担って合戦に出陣しており、戦後出家して家督を嫡子の晴助に譲った。これは、後北条氏に対する高助の韜晦行為でもあったろう。
晴助の時代になると、後北条氏の古河公方家に対する政治的介入はさらに深刻となった。そして天文二十一年、北条氏綱の娘と公方晴氏との間に生まれた義氏が兄藤氏を斥けて家督を継承した。後北条氏の横槍で実現したことはいうまでもない。このような小田原北条氏の古河公方家に対する積極的介入は、簗田氏の政治的地位を決定的にゆるがすものであった。やがて、それは現実のものとなり、晴助は公方奏者としての地位を失うことになる。
一方、公方の地位を逐われた晴氏は天文二十三年(1554)、古河城に立て籠った。これに一色・簗田・二階堂氏らが味方したが、戦いらしい戦いもなく公方は古河城を落居し、以後、後北条氏によって相模秦野に幽閉され、義氏も小田原に移された。ここに、古河公方家は実質的に滅亡した。永禄元年(1558)、公方義氏の鶴岡八幡宮社参に、晴助は太刀役を勤めた。この時点では、簗田氏は古河公方義氏の忠実な家臣としての行動をとっていた。
後北条氏との対立
簗田氏が拠る関宿城は関東の戦略的要地であり、後北条氏は簗田氏と関宿城を分離する策を講じた。すなわち、公方義氏を関宿城に移し簗田氏を古河城に移すというもので、古河公方と簗田氏とを切り離し公方権力を換骨奪胎しようとするものであった。しかし、簗田氏を取り巻くこのような状況は、永禄三年、越後の上杉謙信(当時長尾景虎)が関東に出兵したことにより大きな変化をみせることになる。
謙信の関東出馬に際して関東の諸豪はその麾下に集まり、一方、後北条氏は義氏に命じて味方するように御書を発行させたが、謙信の破竹の勢いに諸将は謙信に与し、翌永禄四年、小田原城下は謙信軍によって席巻されたのである。その後、謙信は鶴岡八幡宮で上杉憲政から関東管領と上杉の名跡を譲り受けた。そして、古河公方の擁立をめざし晴助に起請文を呈した。このことは、謙信とて簗田氏の協力なくしては、公方の擁立はありえなかったことを示している。
かくして、謙信に擁立された藤氏が古河公方に就任し古河城に入り、晴助は藤氏を奏者として支えたのであった。しかし、永禄五年、後北条氏の攻撃によって古河城は落ち、晴助は関宿城を回復してふたたび根拠地とした。以後、関宿城は上杉謙信方の拠点として重要な役割を担うことになる。永禄三年の越山のとき上杉謙信が記述させた『関東幕注文』のなかに、簗田氏は古河衆として把握されている。古河衆は晴助をはじめとした簗田一族と、一宮・二階堂・相馬の諸氏、梁田氏の被官家風である横田・石川・箕匂らの諸氏であった。
永禄七年、北条氏康は第二次国府台合戦で房総里見氏を破り、岩槻城の太田資正を追放するなどその勢力圏を着実に回復していった。当然、関宿城へも後北条氏の攻勢が及び、翌永禄八年、後北条氏の関宿城攻撃が行われた。この攻撃は、簗田氏が公方義氏に叛いたということでなされたもので、おおきな戦いにはならなかったようだ。
謙信は毎年のように越山し、関東で越冬するということを繰り返した。謙信が関東に滞在している間は後北条方は勢力を後退し、謙信が越後に帰ると後北条氏が勢力を回復するという、いわゆる、イタチごっこが繰り返された。しかし、永禄九年の下総臼井城攻めに謙信が失敗してのちは、次第に、後北条氏の優勢となっていった。
簗田氏の没落
簗田氏も、その影響を受けて後北条氏と起請文を交わしたりしている。しかし、両者の和睦はならず、永禄十一年、第二次関宿合戦が起こった。この間、簗田氏の盟友ともいえる野田氏の栗橋城は後北条氏の支配するところとなり、簗田氏は守勢に立たされていた。ところが、永禄十二年、上杉謙信と後北条氏との間で越相同盟がなり、簗田氏は危機を回避することができた。言い換えれば、簗田氏は上杉氏という軍事的支援を得てはじめてその危機を克服できたのであり、そこには簗田氏の主体性はなかった。それ故に、簗田氏はさらに安定を求めて甲斐武田氏らとも積極的に外交活動を展開したのである。
天正二年(1574)、第三次関宿合戦が起こった。戦いは総力戦となり、関宿城中からも後北条氏への内通者があらわれたようで、持助によって横田孫七郎らが成敗されている。簗田氏は謙信の援軍をまったが、結局、謙信からの援軍は来ず、簗田氏はついに後北条氏に降伏、数次にわたる関宿合戦は後北条氏の完全勝利に終わった。以後、簗田城は後北条氏の支城として本格的に改築され、北関東進出の重要拠点となった。以後、簗田城は永遠に簗田氏の手に戻ることはなかった。
関宿城の落城後、持助は水海城に退いた。これによって、簗田氏は完全に後北条氏に屈服することとなり、その居城水海城は後北条領国の一支城に位置づけられた。その後、天正十六年に簗田助縄の名がみえ、文禄三年(1594)には晴助の死去が確認される。ついで、文禄から慶長期になると、助利なるものがみえる。助利の系図的位置は不明だが、持助の子ではないかとみられている。この助利は徳川氏に仕え、元和元年五月の大坂の陣に従軍して戦死した。その後、簗田家の再興がはかられ、御留守与力の家柄となって、江戸時代を過ごしたのである。
簗田氏は鎌倉公方家の重臣として名をあらわしたが、北条氏滅亡後、鎌倉公方家の血脈を伝えた義氏の娘氏姫によって興された喜連川藩には属さず、徳川氏家臣となったのである。
・近世簗田氏の「水に三つ葵」紋
【参考資料:鷲宮町史/古河公方足利氏の研究 ほか】
[19] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月27日 00時00分11秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
情報収集には忍衆等が必ず関係しています。ただそれはほとんど表に出て
来ませんので、推測するより他ありませんが……。
『寛政重修諸家譜』によると、服部中保次の桶狭間での活躍について―
「保次その名(義元)を呼ばり衆に先立ちて義元が本陣に馳せ向い戦功を励す」
とあります。
永禄三年(1560)にに桶狭間の戦いがあった。足利義輝に仕えていたはずの
服部中保次はこの時信長の下で戦って戦功を残した。が、褒賞の記録はない
のではないでしょうか。何故か?
永禄八年、足利義輝が殺害されると、今度は家康に仕えている。
永禄九年、仰せによりて足軽同心五十五人を預けられる。
天正四年(1576)、また同心二十二人を加え預けられ、合戦あるごとに仰せ
を受け賜り、敵地の境を警護する。
天正五年、四月二十三日、遠江國引佐郡及び三河國岡村の内において、百
二十貫文の采地を給わっている。
桶狭間に登場する「服部氏」には、「服部中保次」そして「服部一忠」、
何れも「小兵太」と呼ばれている。服部氏族が関係している可能性ありと思
うのですが……。
従って、簗田氏と服部氏の間には何らかのつながりがあったのではないか
と推察いたします。
忍衆とのかかわり合いは、記録にはあまり出てこないのが難点……。
簗田広正(政綱の子)については、谷口克弘著の『信長軍の司令官 武将た
ちの出世競争』の中に、二ページにわたって記されておりますが、この情報
の入手について、どのように入手したかは書かれておりませんでした。
本日はこれまで。明日は、本日行って来ました「松葉城跡」と「長松寺」
について記したいと思います。
[20] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月27日 04時12分26秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
そもそも梁田という人物も家もピンと来ません。
下野国の梁田氏のことは全く置いておいて
琵琶湖の近くに住んでた
ということで尾張に流れて来たのかな?
琵琶湖の近くということで伊賀や甲賀と近かったから諜報活動には慣れてたのかな?と。
服部中保次と服部一忠の関係がイマイチ分かりません。
尾張の服部家ホンヤが織田と手切れになった辺り=義元と組む=あたりにこの2つの家がどうなったのか?
同一人物なのか兄弟なのか従兄弟あたりなのか?(中保次)影と(一忠)光なのか?
この問題が全く解明されていないし。これこそが影の軍団そのものなのかも。
織田信長+津島の服部小平太+梁田 −Xー 服部家ホンヤさん と 義元+家康(元康)連合
分かりません。
服部小平太は津島の人
義元を刺した槍は服部家ホンヤさん宅に
この槍がホンヤさん宅にあるということはそれだけの理由があって譲られたのでしょうし。
いろいろゴチャゴチャ考えるけど伊賀のノウハウには迫れないです。
戦争しているんだから、いろいろ闇の中の駆け引きがあったのだろうとは思います。
梁田氏もその後、鳴かず飛ばず、パッとしないですね。
服部小平太の恩賞については
桶狭間の勇士−文藝春秋、中村彰彦著
に出てるのでは?と思います。
一説には梁田政綱が3000貫、服部小平太が1000貫、毛利新助が500貫というハナシも読んだことがあります。
「おんな太閤記」では服部小平太は5000貫だったと記憶しています。
永禄八年、足利義輝の殺害は義輝29歳の時で
この人の人生はまさに群雄割拠の時代で
この人が将軍でいられたのは松永久秀のお蔭だろうし。
混沌の時代だから「家」という家格の高さは問題とされても実力のもののいう世界になっていて
だからスペア(影武者)みたいに服部小平太が複数いて当たり前だったのかなと。
一説には家康だって複数説がある?
ま、伊賀らしいハナシなのかなと。分かりません。
[21] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月27日 14時43分14秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
服部氏といってもいろいろな出自の服部氏がいますので、一概に伊賀の
服部氏に結び付けるのは無理がありますね。
第一次天正伊賀の乱は1578年。
桶狭間の戦いは1560年。
即ち18年前。
その頃は伊賀への憎しみはなかったでしょうし、当然伊賀衆も織田方に
付いた者もあったでしょう。本能寺の変で二条城に立てこもって討死した
服部氏も二人記録されています。
―服部六兵衛と服部小藤太であります。
桶狭間の今川方の情報は、今川方からもたらされた、あるいは今川方に
潜り込んだエージェントからもたらされたという可能性もあれますね。大将
の首を取るのは、それと敵対している者からみれば、なし崩しに事を運ぶこ
とができますから……。今川義元が亡くなって一番得するのは、まずは徳川、
次に武田であります……。桶狭間の六年後に服部中保次は徳川家康に仕えて
いる――ということは、家康と早くから内通していた可能性もあります。
やはり、情報網を屈指して裏でストーリーを描いていたと考えられませんか?
さて、昨日訪れた掛川市倉真(くらみ)の松葉城と長松院について記します。
河井(河合・川井・川合)は親戚だという一門の残した言葉もあり、また釣り
仲間や同級生にもいますのでシンパシィを感じております。浜松では、河合
楽器を起こした河合氏もおります……。
松葉城については打ち込むのも大変なので、次のサイトを引っ張りました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/matubakakesizuoka.htm
「 松葉城跡
所在 静岡県掛川市倉真字松葉
交通 JR東海道線掛川駅よりバス倉真温泉下車
歴史 松葉城は室町時代中期、河合氏によって築かれたとされる。
河合氏の出自は諸説あり、平治の乱で敗れた藤原信西入道の子
宗忠の子孫とする説、源頼政の子孫とする説等がある。
明応五年(1495)、当時の城主・河合成信は今川派に属し
ていたが、今川氏に敵対していた斯波氏に与していた勝間田城
城主勝間田播磨守及び志戸呂城城主鶴見因幡守らの軍勢に攻めら
れ松葉城は落城。成信は自害したとされる。」
この場所を見つけるのに苦労しました。結局地元の人に訊いて探してやっ
と見つけることができのした。看板が小さく、木陰にあったのでわかりませ
んでした。
結構勾配のきつい登り道でありましたが、あらかじめ杖を積んでおりまし
たし、またイノシシ等に出会ってもいいように腰刀(草払いのナイフ)も積ん
でありましたので、まずまず用意は万端。できれば笛と携帯用のロープも積
んでおけばよかったなあと思いながら、息をつきつきのぼりました。
山を登ること十五分、頂上らしきところにたどり着きました。そこには、
松葉城跡と書かれた高さ1メートル位の石碑と、少し離れて小さな仏塔らしき
ものが建てられておりました。
ちょうどペットボトルの水を携えていたので、仏塔と石碑に水をかけ、山
の頂上で人っ子一人いませんので、般若心経を大声で2回唱えました。
そのあとで石碑と仏塔の写真を撮ったのですが、後で開いてみるとその部分
だけ飛んでいるのです。長い経験のなかで初めての出来事でありました。
次に、ナビにより、長松院へ向かいました。ここの説明と河井公の説明も
打ち込むのはたいへんなので次のサイトより引っ張りました―
http://www5a.biglobe.ne.jp/~nazoden/site3/sub5.htm
「河井宗忠公傳
(河村隆夫「河井宗忠公略傳」『長松院開基河井宗忠公五百回忌』講演資料 平成十一年二月二十六日)
夕立をのがれて、長松院本堂の軒を借りた。
夏の白い敷石が、雨粒にたちまち染まってゆく。
見上げれば鬱蒼たる杉木立である。
*
深澤山長松院は、開基を河井宗忠公、開山を石宙永珊禅師として、文明三年
(一四七一)に創建された。
今から五百二十八年前、応仁の乱の余波をうけて、各地に争乱が続いていた
頃のことである。
開基河井宗忠公は、平安末期、平治の乱のとき、源義朝に与して敗れ、山名
郡川井村に土着した源氏の末裔であると云われている。確かに菊源氏成信と史
書にも記されている。
河井氏は、始め遠江今川氏に属し、今川了俊の九州遠征にも従軍している。
のちに駿河今川氏が天下一名となると、遠江今川氏は堀越氏と改称した。
当時の遠江守護職は斯波氏で、堀越氏はそれに対抗する中遠国人領主層の盟
主として、いわゆる中遠一揆をおこしたが敗れ、堀越範将が敗死、範将の領地
である山名郡堀越・河井は御料所として没収された。
ここに河井氏は本貫地(名字の地)を失うことになった。
文明二年(一四七○)に今川義忠が遠江に侵入した頃であろうか、河井氏は
新たな領地を求めて掛川に入部したものと思われる。本貫地川井村を失ったの
が寛正六年(一四六五)、長松院の開創が文明三年(一四七一)であるから、
少なくともその六年間に河井氏は掛川に拠点を築いたものと思われる。懸河に
居城をもつ鶴見氏が、河井氏によって横岡城へ追われたことは、後の鶴見氏
松葉城攻めの遠因となったものであろう。
この文明三年の長松院開創については、川僧慧済の『人天眼目抄』に「懸河
河井方、母儀点海妙愛ノ佛事ノ用意ニ罷越留守ニ此聴聞ハアリ」とあり、開基
河井宗忠公と開山石宙永珊禅師との関係及びその年代が確認されている。
ところで、掛川は遠江守護である斯波氏の闕所地(領主の欠けた土地)で、
今川の勢力が及びやすい地でもあった。
今川義忠は、掛川に河井氏が前線拠点を築いたのを見て、将軍家に働きかけ、ついに文明五年(一四七三)懸革荘代官職を拝命し、遠江守護職奪回の布石を
東遠に打ちはじめる。
『駿國雑志』には、このとき朝比奈備中に命じて遠州掛川に新城を築いたと
ある。同時に今川義忠は、掛川城の北面を押さえるため、河井氏を倉見川筋に
配したものと思われる。松葉城主河井成信の誕生である。
文明七年(一四七五)、義忠は、斯波方と小夜中山付近で戦い、そのとき前
出の堀越範将の子陸奥守貞延が戦死する。翌文明八年(一四七六)、義忠は
横地・勝間田を殲滅するが、凱旋の帰途、塩買坂で残党の襲撃をうけて落命し
た。
この後の約二十年間は、河井氏に関する歴史的史料が欠けている。
つぎに河井氏について確認されるのは明應三年(一四九四)伊勢長氏による
原氏高藤城攻撃の記録が、『圓通松堂襌師語録』に認められることである。
おそらく今川氏親は、倉見川筋の河井・松浦両氏に背後を守らせ、また退路
を確保させてから原氏を攻めたものであろう。
いよいよ運命の年、明應五年(一四九六)を迎える。
明應五年七月十八日、氏親の叔父長松院二世教之一訓和尚からの要請によ
るものと思われる長松院宛文書がある。
「(今川氏親花押)
於当寺長松院、甲乙人等令濫妨狼藉者、速可処厳科者也、
仍而如件、
明應五年七月十八日」
この書状を契機に、長松院開基として氏親の叔父一訓和尚に深く参じ、今川
氏被官である河井宗忠公は、斯波方鶴見・勝間田両氏と、一触即発の対立関係
に発展した。
『當院開基来由扣記』は、その経緯を、河井氏の家臣落合九郎左衛門の末裔、
新兵衛の話としてつぎのように記している。
公(河井氏)が、粟嶽に登って宴をひらいていた。そこへたまたま勝間田
播磨守が現れて公の幔幕を掲げて中をのぞいた。公の怒りに、勝間田は謝罪
したが、心を焼くが如き怨みを抱いた。やがて、勝間田は偽計を設けて、志
戸呂城主鶴見因幡守を煽動して公を滅ぼそうとした。公の家臣の落合氏はも
ともと公に疎まれていたが、その落合氏の内応によって、鶴見・勝間田は公
を攻め、遂に公は戦死した。
明應五年九月十日、その日の河井成信の所在は知る由もないが、長松院裏手
の石塔と五輪塔、また今なお長松院境内に祀られている若宮権現「鎮守護法
宗忠大士」を人々が尊崇していることを思うと、自決の地は、氏親の叔父一訓
和尚の待つ長松院境内であったと考えるのが妥当と思われる。
明應五年九月二十六日、氏親は河井成信の死を悼み、長松院に采地を寄進
する旨の書状を、叔父の長松院二世教之一訓和尚に送っている。この経緯を
『深澤山長松院誌』は、次のように記している。
「公の戦死を聞いて今川氏親は大いに悼み、
采地
遠江国金屋郷深谷・山口郷内奥野・下西郷内仏道寺 五段田事右、
為料所奉寄進之上者、如前々可有執務之状如件、
明応丙辰九月廿六日 五郎 印
を寄進し長松院を香華所とし、永く菩提を弔い、堂内に霊牌を祀り英檀と称
し、門外に一宇を設けて鎮守の神と恭敬せり。
「 法名
宗忠 河井院殿補庵宗忠大居士
御内 月渓院慶室妙讃 大姉
明応丙辰九月十日卒」
直ちに今川氏親は鶴見・勝間田殲滅戦の火蓋を切る。
『掛川誌稿』「鶴見氏城跡」の条に、「今川家の時、大井川の東相賀村に
偽旗を張り、奇兵を長者原より下して此城を陥たりと云傳ふ。」とあり、現在
も横岡城の対岸に旗方(はっさし)の地名を残している。また、鶴見因幡守が
討ち取られ、井戸に身を投げた奥方はやがて唇の紅い小蛇と化して井戸の中に
棲息し、人々に畏れられたとも伝えられる。
*
雨あがりの空を見上げると、遠い過去から、瑠璃色の風が吹きおろして
くる。
振りかえるとそこに、河井成信が立っているように感じられる。
因縁時節遇冤讎。剣刃光中歸凱秋。
端的萬關透過去。一心忠義徹皇州。
(『圓通松堂襌師語録』)
河井公とその奥方の墓の前で、また般若心経を2回唱えさせていただきま
した。歴史のかけらはいたるところに落ちているのだなとつくづく思いました。
今度は掛川の「美人ヶ谷」へ行ってまいります―
[22] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月27日 22時39分21秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>石碑と仏塔の写真を撮ったのですが、後で開いてみるとその部分だけ飛んでいるのです。
>長い経験のなかで初めての出来事でありました。
不思議ですね。
我が家の場合は1993年に比叡山の根本中堂で同じことが起きました。
夫はカメラを扱うのはプロですから(ハリウッドの映画やテレビの仕事をしてたし)
対応できてる筈ですし当時はまだ脳がちゃんと働いてた時期でドジるわけがないのに
根本中堂の中だけは映ってませんでした。
夫が言うには「根本中堂は休火山のように表面は静かだけど奥でマグマが滾っている感じがした」そうです。
般若心経が慰めになったら良いのですが。
良いことをなさいました。
ありがとうございます。
服部小藤太は小平太の兄だと思って来ましたが
何故小藤太と小平太なのか?
藤太とは藤原秀郷のこと。藤原氏の長男ということ。しかし「小」がついてるのは何故?
兄の方は織田信忠と共に二条御所で討ち死にした、と読みました。
平太とは平氏の長男ということ。しかし「小」がついてるのは何故?
服部小藤太とは?その弟が小平太とは?
母が伊藤氏の出なのか?これは100%そうだろうなという方向で考えています。
小藤太も足利将軍家に仕えてたと読みました。
でも 名づけからしても 何か分からないです。
伊勢の名家の服部さんは秦氏だと聞きました。
今でもお祀りをしているそうですし。
分からないです。
[23] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月28日 01時11分44秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
裏話ですが、実は昨日の「河井公の墓参り」に際して、以前、高槻(旧摂津
)の「服部連の古墳(墳墓)参り」に行った時と同じ現象が起こったということ
をお伝えしておきます。それは、現地で車でバックしようとした時、右前輪が
溝に脱輪し、いずれもレッカー車を呼ぶはめになってしまったということであ
ります。それは、ただ単に運転がへただということなのかも知れませんが、私
といたしましては「よく来てくれた、帰らないでくれ」と霊が言っているのだ
と解釈し、般若心経で供養できたことは本当に良かったと思っております。
私は霊というものを今の所信じるますまでには至っておりませんが、四十歳
の時に摩訶不思議なことを体験して、この世には人智を超える不思議な現象が
あるという事がわかりましたので、霊というものも必ずやあるのではないか、
いつか必ずや信じられる時が来るのではないかと思っております。毎年、胃カ
メラ等の検査で、麻酔を打つのですが、段々意識が薄らいで行くのではなく、
いきなりストンと意識が落ちてしまうので、自分の霊も麻酔で眠ってしまうの
かと甚だ冗談じみた疑問を抱いたりしております……!?
さて、美人ヶ谷(びじがや)ですが、本当に美人がいるかどうか調べに行きた
いと思っております――これは冗談です。昔は遊女等がいたのかも知れませ
ん。掛川市の教育委員会が出している本で『ふる里かけがわ』という本の中に
美人ヶ谷と西郷(美人ヶ谷は上西郷にある)に関しての面白い話が出ていました
ので記します。新たな発見でもあります―
@今よりおよそ700年前、鎌倉時代から明治時代の初め頃までは、粟ヶ岳
から倉真(くらみ)、前之谷、美人ヶ谷、石ヶ谷辺は東海道に次ぐ人馬の往来が
繁く、美人ヶ谷辺りは交通の要所でもあり、ここに足を止めた人も多数あり、
あるいは農家に一夜の宿を乞われることもしばしばであっただろう。
又、殿垣戸城は、初め二階堂氏から西郷氏、のちに石ヶ谷氏の居城であった
から、婦人もおれば美人も多くいた。時には宴会や茶話会も開かれ、琴も弾け
ば鼓も打ったことであろう。
A西郷十郎右衛門政清の時、今川義元が永禄三年に桶狭間で戦死して、今川
氏の勢力が衰えてから、西郷氏一族は徳川家康に仕え石ヶ谷の館に入り、忍者
となり、石ヶ谷の近辺を舞台に忍者の練習に励んだと言われる。
B徳川家康の重臣で伊賀国の服部平太夫は蓑笠之助とも云うが、甲賀流忍者
で西郷氏と親交があったと云うから、武芸も余程達者であったことであろう。
殿垣戸城は、西郷氏、後に石ヶ谷氏の居城であったから、主君の徳川家康も
立ち寄ったこともあろう。
C徳川家康が石谷邸へお忍びで鷹狩りに来て、三日程滞在した時、接待役を
務めたのが構江の住人で戸塚五郎太夫忠春の娘のお愛様とその縁故者のお国様
の二人だった。お愛様は、家康の目にとまり、浜松の城に召されていくという
筋になっていた。
ということで、特にAの西郷氏一族は忍者であり、忍者の修行していたとい
うこと、及びBの服部平太夫は伊賀流でなく甲賀流忍者であるとということで
あります。
これは正に驚きであり、特ダネであります。あを様のご意見をお聞きしたい
と思います!
[24] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月28日 04時48分57秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>「よく来てくれた、帰らないでくれ」と霊が言っているの?
ワタクシも経験があります
1993年、赤間神宮に行って帰ろうとバスを待っていたのですが
ものすごく強い力で「行かないで!帰らないで!」と文字通り、後ろ髪を引かれる思いがしました。
それで赤間神宮のパンフレットを見たら平家の七盛塚があるのを見て急いで戻りました。
その後、新幹線で帰ろうとしたら
オットは反対側の席を作ってて
ワタクシは背中のバックパックを下ろそうとしたら背中に人の手を感じました
(来てくれてありがとう)
と言われた気がしました。
最初はオットがバックパックを下ろすのを手伝ってくれてるのかと思いましたが
絶対に手の届かない席で違う方向を向いてましたから
(誰の手?)
と驚きました。
平家というか父方先祖には全く興味が無かった頃で
オットが結婚後、厳島神社に行きたい、自分は蟹だった、などと言い、この人はバカかと思ってましたが
赤間神宮にも行くようになったのは12年かかりました。
七盛塚に家長の塚もあって感動しました
その後です
平家に興味が出たのは。
自分の先祖に向かい合うようになったのがオットとの結婚だったのが不思議です。
紀伊国屋書店でちょっと関心のあった母方先祖の本が向うから目に飛び込んで来たのもオットと結婚してからです。
その後は偶然が続いていろいろなことを知るようになりました。
読む物・見る物
すべて先祖に関わる情報が入って来ました。
大学時代には出来の悪いワタクシなんぞクチもきいてもらえなかった
現在某有名大学の教授をしている元クラスメートとも連絡があるようになり
訪ねて行って授業の終わるのを待ってた図書館で母方先祖の墓がどこにあるのかも分かりましたし。
そういうことが永く続きました。
今は記憶(特に短い記憶)が続かなくなってて
「あれ?その名前って少し前に見たよね」
という感じで、何のハナシで見たのか、どのサイトで見たのか思い出せません。
トシですね〜
でも日本人ですからね
みんな繋がってますからね
ほぼ日本人は縄文時代の人々の子孫でしょうから
現在日本の1憶2000万人の先祖は殆ど同じなんでしょうね
だから誰かを検索してると関連人物が別の人を検索してる時にも出て来るわけです。
記憶に残らないのが残念です。あはっ
でも父方だけじゃなくて母方でも繋がっているんでしょうね
そして今わたしが存在している。
ま、おおまかに把握してるから、いいか、と。
[25] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月28日 05時11分46秒 ) | パスワード |
>Aの西郷氏一族は忍者であり、忍者の修行していたということ
これはどこかで読みました。
へえ〜
っと思った記憶はあります。
>Bの服部平太夫は伊賀流でなく甲賀流忍者であるとということであります。
わたくしの母方の親戚で甲賀出身者と結婚しているのがいて、この伯父の家紋が丸に並び矢なんです。
これには驚きました。
伯母が袱紗にお金を包んで渡してくれたので
丸に並び矢だから(あ、うちのか)と思ったので持って帰ろうとしたら
「ちょっと、袱紗は返して」
と言われてビックリ!
名字が違うから まさか 家紋が丸に並び矢とは思ってなかったので
すごい偶然!と思って帰宅してから母に言ったら
「あの人は甲賀の人」
と言うのでまたまたビックリしました。
それで昔は甲賀も伊賀も一衣帯水。
山の向こう側とこちら側の違い、というのを知りました。
昔は同じ国だったとか。
で、この甲賀で忍者のことを紹介しているヒトの名字が母方の俗姓なんです。
これにもビックリ。
ネットでバラせないのが残念です。
つまり日本人ってことですね。
袱紗の家紋のハナシですが
伊賀と甲賀が敵だったら、伊賀の服部家の代表紋であるような丸に並び矢なんか使わないんじゃないかと思うのです。
甲賀だし。
そうそう最近の情報ですが ある人に「家紋が1つしかないなんて信じられないよね」と言ったら
彼女の家は 家紋が2つ、幕紋が1つ、旗紋が3つ だそうです。
(え゛〜、アンタんとこ、家紋、2つしかないの)と言いそうになりました。あはっ
徳川家康は二人だった
By 八切 止夫
服部平太夫 鍛冶屋の平太
http://books.google.com/books?id=waipAQAAQBAJ&pg=PT108&lpg=PT108&dq=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%B9%B3%E5%A4%AA%E5%A4%AB%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=bnBCyqtL0m&sig=igXnZhsFwLItbVf-dW2cXnY9sLM&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjg-cug5MrKAhUK-GMKHTOpAgQQ6AEITjAI#v=onepage&q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%B9%B3%E5%A4%AA%E5%A4%AB%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
[26] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月28日 08時57分17秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
八切止夫氏の『徳川家康は二人だった』は実は持っており、読んでおります。
氏の著作はその時代にバッシングを受け、マイナーな存在となってしまったの
は、誠に残念です。この本はフィクションではありますが、歴史の事実はビッ
クリするほどよくとらえていると尊敬しております。掛川の郷土史家からいた
だいた論文の中で、西郷地域の忍者や服部平太夫が掛塚で鍛冶屋をしていたと
いう話が出てきますが、正に八切止夫氏のこの小説の記述とピッタリ合致いた
します。特にこの本は歴史の下層の部分の事実にも踏み込んでいますので、り
アリティーが出て来るのだと思います。
実は、この本の内容について、いずれここで取り上げるつもりでした。テー
マとしては「家康と影武者(代役)」ということであります。家康にまつわる
歴史を追っていくと、腑に落ちない局面がいくつか出て来ます。それを本人で
はなかったと仮定すると、論理的に納得できるということであります。家康の
影武者説については、いろいろ資料を集めておりますので、いずれ機会を持ち
たいと思っております。
松葉城の河井公についてはどういう「人と成り」であったのかもっと知りた
いと思っておりますが、まずは寛政重修諸家譜で追ってみたいと思っておりま
す。特に、紀伊家へ付いて行ったカワイ氏を探したいと思っています。
さて、霊の話になりますが、「肉体はほろびても霊は残る、つまり霊は生き
続ける」という一つの寓題については、一生のテーマとして追及して行きたい
と考えております。最近「霊も死ぬ」というような本が出ましたが、一度読ん
でみたいなと思っております。仮に霊として生き続けることができるなら、私
は三途の川で巨大魚を狙いたいと思っております。
話は原点に戻りますが、服部氏の古代から近世までの歴史についてまとめた
いと構想を練っています。が、まだヒラメキが降りてきません。もう少したて
ばまとまって来るとは思っていますが、「はっとり京都」様のお話はすごく
事実を掌握しておられるなあと尊敬しております。
ポイントは、ハッタイト―シルクロード―酒君(秦氏)―服部郷―服部連だと
思っています。服部という氏族は万世一系のような氏族ではないのかなとも
想像しております。
本日は、美人ヶ谷に足を踏み入れます……どんな昔の美人がお出迎えしてく
れるのか楽しみであります。
[27] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月28日 09時35分35秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>私は三途の川で巨大魚を狙いたいと思っております。
いいですね
笑
>美人ヶ谷に足を踏み入れます……どんな昔の美人がお出迎えしてくれるのか楽しみであります。
地図によると掛川の北北西の山の中ですね。
川がありますから交通の要衝だったのが分かりますね。
いいですね「美人ヶ谷」なんて夢のあるステキな名前で。
山の中のようですから寒いかも知れないです。
気を付けてくださいね。
でも蛇は出ないから大丈夫。笑
どんな美人だったのか、楽しみに待っていますね。
[28] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月28日 22時32分19秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
美人ヶ谷、行ってきました。西郷にある平塚古墳には三回くらい行ってい
ましたが、美人ヶ谷は今回初めてでありました。目印としては、山本神社を
目指しました。
ナビにより、山本神社に着く。神社の側に建物があり、美人ヶ谷公民館と
書かれていました。美人ヶ谷という地に間違いないことが確認できました。
神社の坂を少し登るとすぐに神社が現れた。神社自体は取り立てて述べる
程のものでもなさそうでした。神社の西側に報徳碑が建てられていて、その
裏手に細い山道があり、木と杭で階段が作られていた。私の癖として、すぐ
奥へ奥へと入って行ってしまう。三十メートル位の高さを登ったろうか、少
し開けた所に出た。眼下に村や五社神社のある山並みも見える。さらに見渡
すと、この開けた場所の北側から東側のさらに高い山に向かって道が続いて
いる。またしても歩き出す。小さな看板が目に入る―何と「美人ヶ谷城址
150m」と書かれていた。久しぶりに嬉しくなった。宝物を発見したよう
な感じであった。
早足になった。坂道も林も何のその……はやる気持ちでどんどん進む。空
堀と書かれている凹みがあった。さらにその奥へ。また空堀と書かれていた。
今度のはやや深い。そこから5メートルくらいの急坂になっていたが、ロープ
が付けられていたので楽に登れました。すると「南曲輪」の看板が見えた。
高天神城のように尾根伝いに城はあったようだ。さらに進むと、広い平地に
出た。「本曲輪」と書かれていた。ここが本丸である。石組み等は全くない。
あるのは枯れた松葉とマツポックリばかり。
ここで、いつもどうり、般若心経を2回大きな声で捧げました。ここには
二階堂氏、西郷氏、石ヶ谷氏が城主として居住していたということでありま
す……。
帰りに、マツポックリを一つ、バックに忍ばせて下山いたしました。
次に自転車(折り畳み)で向かったのは、二階堂観音でありますが、地図には
載っていない。ちょうど道端で「昔の美人」に出会いましたので訊いてみまし
たところ、100メートくらい西に行った所にありますよと親切に教えて下さ
った。顔の美しさより、心の美しさ・やさしさが人を美人にするなと心底思い
ました次第です。
大きなお屋敷の角を曲がると、50mくらい奥に行った所の坂の上に観音堂
がありました。その左手前に一段の墓群。それは戸塚一族の墓でありました。
そういえば、ここの入口の右手にある大きなお屋敷も戸塚家でありました。
観音堂の左手に、仏塔が2つと、仏像が2つありました。事前に調べたとこ
ろによると、仏塔(墓)の方は「二階堂民部少輔美啓」と「戸塚兵内左衛門辰信」
を供養するものだということでありました。
ここで、仏塔に向い、般若心経を2巻捧げました。
その帰りに写真を撮り、帰ってから再生したところ、二階堂氏の仏塔に丸いオーブのようなものがかかっておりました。時間は正午で、お日様ははるか上
空にありました。
自宅に帰ってからは、西郷の郷土史家の書いた論文をもう一度読み直しまし
た。この地西郷において、戸塚氏と西郷氏、そして服部氏は徳川二代将軍秀忠
を産む西郷の局の親近者であったということで―
「徳川家康に仕えた服部平太夫は、叉の名を蓑笠之助と云ったといい、当地
(掛川市西郷)では五カ所に忍者群をもつ頭であったと伝えられます。
服部正尚は伊賀の住人で、当時は遠州掛塚で鎌・鍬などを作る職人をなりわ
いとしていた。正尚は家康の命により、上西郷構江の屋敷に移り住んだ。構江
でも鍛冶屋をやっていたという。
後の西郷局(お愛)の父戸塚五郎太夫忠春は、天文二十三年(1554)遠州大森で
武田軍と戦い討死した。やむを得ず忠晴の妻(名はお才か?)は娘のお愛を連れ
て服部平太夫正尚の許に再婚した。お愛は正尚の家で育てられ成人した。
お愛は永禄十一年(1568)、歳十八で三河の西郷元正の子、西郷右京之進義勝
に嫁いだ。だが、三年後の元亀二年(1571)三月四日、義勝は武田の将、秋山
伯耆守晴近と三河国竹広で戦い討死してしまったので、お愛は二児を連れ、構
江屋敷の養父の許に戻って来た。
天正二〜三年頃、平太夫正尚は構江屋敷を弟七右衛門(後の青山図書助)に
譲り、正尚始め一族は浜松城に入った。家康は正尚の屋敷にいたお愛に目を
とめて同六年、お愛の伯父西郷左衛門清員の養女という名目で引馬城に入り、
家康の寵愛を受ける身となった。
そして城内で同七年四月、二代将軍秀忠を産み、同八年九月には松平忠吉
を産んだ。戦乱に明け暮れる世にお愛は西郷局となり家康の身の回りを、服部
平太夫正尚もまた諜報活動により家康を守る状況になった。
昔から平塚山に伝わる「平塚おちょぼ」の話は、平塚山に狼煙が上がれば、
二百人三百人の伊賀忍者衆が集まって来たという。また、女狐のように人を
欺き遠ざけていたという話は、掛川城攻防の前後のことで、永禄十二年今川
氏真は五月六日掛川城を開き、朝比奈泰朝ともども掛塚湊から小田原に向った。
落城後の永禄十二年五月六日、家康は引馬城に戻り同七日、これより正式に
浜松城と呼んだ。」
西郷局と服部正尚、二代将軍秀忠を産みだした源である……そこに我々の
知らないシナリオがあったのではないか?
[29] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月29日 03時22分40秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
なかなか興味深いお話をありがとうございました。
そして般若心経も、わたくしの分まで、ありがとうございました。
いろいろ効率的に訪れることが出来てラッキーでした。
もしかすると「昔の美人」も戸塚一族かも知れませんね。
服部平太夫が鍛冶屋をしてたのは、まさに、ニンジャにはうってつけの「表」の仕事ではありませんか。
「裏」で武器の研究が出来ますから:
手裏剣が作れる
笠の中などに仕込む小さい刀を作れる
などなど
人が出入りしても怪しまれませんしね。
>昔から平塚山に伝わる「平塚おちょぼ」の話は、
>平塚山に狼煙が上がれば、 二百人三百人の伊賀忍者衆が集まって来たという。
へえ〜
群雄割拠・下剋上・戦乱
こういう時代の生き抜く知恵は失われていますね。
平和ボケですね。
山の中に
空堀と書かれている凹みがあった。さらにその奥へ。また空堀と書かれていた。
今度のはやや深い。そこから5メートルくらいの急坂になっていたが、ロープが付けられていたので楽に登れました。
すると「南曲輪」の看板が見えた。
高天神城のように尾根伝いに城はあったようだ。
さらに進むと、広い平地に出た。「本曲輪」と書かれていた。ここが本丸である。石組み等は全くない。
こういう基地があったなんてね。すごい力ですね。
いつナンドキ命がとられるか分かったもんじゃない時代ですものね。
戸塚・西郷・服部は
ひょっとすると大昔から一緒に行動を共にしてたのかも知れないですね。
>西郷局と服部正尚、二代将軍秀忠を産みだした源である……そこに我々の知らないシナリオがあったのではないか?
服部正尚と家康の関係にも、ですね。
それにしても家康という人は 健康な女性・子をたくさん産む女性・母として実績のある女性 こういうのが趣味だったんでしょうね。
自分自身の祖母=華陽院=とか、生母=お大=のことがあるからかも。
秀吉は出自コンプレックスがあるから家のいい女性を集めるのが好きだったんでしょうね。
こういう「女」のことも、正尚は家康に教えたのかもですね。
メンド臭い女はダメ、とか。笑
築山殿とかお万とか。
家の良い女はプライドが高いから厄介だし
お万は三河の大きな神社から来ているから自分は三河の正妻になったつもりだったかも知れないし。
そこへいくと西郷局は出戻りだからオトコに対して期待はしてないし、
女の間の格付け争いや嫉妬などの争いも無いとかなんとか。
正尚は家康に、なにか「女」についての心得を教えたのかもね「オンナに振り回されていてはだめだ」とか?
「美人ヶ谷」の城なんかのお話を拝見して、いろいろ空想が行きました。
立地条件を知ることは時代を知る一助になりますね。
[30] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月30日 08時19分40秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
昨日は集中力が拡散してしまい、文章の組み立てに迷いが生じておりまし
た。時間だけが勝手に過ぎて行きました。
それは、一昨日の山登りと自転車での走行(結構坂があった)の疲れがあっ
たせいかもしれませんが、決定的なのは、八切止夫氏を追及して行くと、
日本史のタブー部分に触れざるを得なくなるからであります。また、それは、
偶像崩壊ということにもなり、歴史的論理の基盤が根本から覆されるという
パンドラの箱なのでもあります。
八切止夫は果敢にそれにいどみましたが、結局は敬遠されました。
生きた時代も悪かったのでしょう、今であれば許容されたも知れませんが、
小林久三氏などはさらりとやってのけている……。
ということで、パンドラの箱を開けるのはいずれの日にかということで、
結論としては、「秀吉もそうであったが、やはり家康もその乗った神輿を
担ぐ者たちがあった」ということにしておきます。
テーマを「服部」に絞って行きたいと思います―
[31] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月30日 10時30分10秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>日本史のタブー部分に触れざるを得なくなる
Politically Incorrect というのです。
真相は闇の中に、ですね。
日本史の1番のタブーは天皇家です。
明らかになったら我々自身が ヤ・バ・イ 。笑
我々自身のアイデンティティそのものが引っ繰り返ってしまう、鴨。笑
>テーマを「服部」に絞って行きたいと思います―
はい。
カシコイ軌道修正です。
[32] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月30日 11時59分01秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
タブーの部分をさらりと述べますと―
月海黄樹氏によれば「鬼族」ということになります。
鬼族は「山窩」と「海人」に大別されます。地理的にいえば、その人達は、
山、または川・海の側に住んだということになります。平地の中では、唯一
「産所」という荘園物資の集積・運搬拠点が一部許されていたということで
あります。
また、鬼族の先祖は、オリエントから金属文化を携え、天孫族ま渡来以前
の日本列島に渡来して、先住民とともに、丹後、若狭、但馬、丹波、近江、
大和、紀伊、など近畿一円を中心に王朝を築いた人々であるということです。
ということは、鬼族の先祖は、出雲族や物部氏、尾張氏、賀茂氏、三輪氏、
海部氏等々ということか……。
天孫族とは、神武〜崇神〜応神〜ということか……。
では、秦氏、服部氏はどこに位置するでしょうか……?
[33] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月30日 13時38分34秒 ) | パスワード |
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1727807.html
これですね。
日本に渡来したイスラエル族 その4
紀元前722年、アッシリアに滅ぼされたイスラエル10支族の末裔が東方に流れ、縄文末期の丹後半島に上陸、海部氏を称して海民を支配し、丹後古王国を建てた。右は丹後国龍神社神官の海部家と分家の丹後穴太村の上田家に伝わる伝承として月海黄樹が紹介したもので、天孫神話とは矛盾するが、その根底は却って信ずべきものと、これまで述べてきた。
天武朝に始まる史書官撰は、天孫族を列島支配者として正統化することを眼目とし、先行諸王朝の系譜に応神天皇を接続する一方で、先行王朝を卑小化するため海部氏の祖・ホアカリを無視した。ニギハヤヒは子孫の物部一族の存在が大き過ぎて無視できず、天孫族に留めはしたが嫡流から外し、皇統譜上の位置を曖昧にした。そのため物部一族は天孫族中の異端とされ、実質的に国津神(先住民)として扱われた。海部氏の子孫は、直系の海部・上田家の他は、大半が同族の物部氏を称して生きてきた。
官撰以外にも史書はあった。平安中期に成立した『先代旧事本紀』がそれで、日本書紀・古事記とあわせて官撰史書の三部作と考えられた時期もあったが、実は物部氏が編んだ史書で、ニギハヤヒとホアカリを同体とした点が特色である。
同書は官撰皇統譜を否定せず、むしろ迎合したうえで、物部氏をそこに嵌め込んだもので、見ようでは物部系譜を奪還したとも言える。江戸中期までは官撰史書よりも尊重されていたが、水戸光圀や伊勢貞丈によって偽書扱いされ、以来名のある史家は言及を避けてきた。
事ほど左様に、官撰の権威は時とともに増大する。江上波雄が戦後発表した騎馬民族説は、海部伝承から応神襲来と列島征服の部分を抜き出したものと見られるが、一時は国史界に衝撃を与えたものの、今や当初の勢いを失いつつあるようで、やがて官撰史書に権威負けしてしまいそうだ。
かく言う落合も、最近まで物部史観の意義を知らず、先月まで『先代旧事本紀』を官撰史書の異種と見ていたから、他家を批判できない。しかし以前経営していた東興書院で、古伝ホツマツタヱの解説書『神代巻秀真政伝』と入門書『ホツマツタヱ入門』を出版したのは、官撰史書にない説得性を感じたからで、ことに天照大神を男神とする点に感動した。
「ホンマ(真実)を伝える書」と題するこの書は、天照大神(男神)の事績を詠った叙事詩で、官撰史書が女系優位の倭人に迎合して天照大神を女神に改変したような不純性は見られない。尤も純粋だからこそ、『先代旧事本紀』と同様、時々の権力を憚ったものと思われる。
だが、龍神社をコモリ神社と読み「神武天皇を育てた子守神を祀った」と説く点などを見ると、起源が海部伝承と異なるようで、そういえば十数年前、『ホツマツタヱ入門』を龍神社に寄贈したら、神官・海部氏から内容について抗議を受けた。結局、この書の本質は、純粋な天孫史観に立つ一種の聖書というべきであろう。
海部・物部史観の重要性は認むべきだが、月海黄樹を通じた海部・上田家の伝承(月海伝承)には俯に落ち難い点がある。それは神武・崇神・応神の3天皇同体の説で、要するに 「海部家の口伝では、神武天皇は応神天皇、崇挫天皇と同一人物であるとし、古事記においては3世紀頃の天皇とされる応神天皇の時代に、朝鮮・北九州の合衆国の王・応神天皇が大和に東征するに至り・・・」(月海黄樹著『龍宮神示』)という辺りである。
皇統譜は、縄文を含む先行の諸王朝を直列に接合し、すべての王朝を同一血統と見なし、その後へ天孫族の応神天皇を接続して万世一系とした。応神の河内王朝が数代で絶えた後を継体の新王朝に繋ぎ、以後も何度か交代した諸王朝をすべて同一の血統で繋いだ。つまり、応神の河内王朝以後も縄文以来の【同一血筋】で繋ぎ、皇統万世一系の史観いわゆる血のミトスを貫徹したのである。
皇統譜上で太祖に位置づけられた神武だが、現実の皇室とは同じ血統でないから、皇室が宗廟に奉祀するのは筋が通らない。皇室も、内心では神武を観念的存在と意識したから、神武の陵墓とか神宮は古来建てられなかった。今の橿原神宮は、宇都宮藩による文久の修陵の際に、種々の論議で決定した御陵候補地に、維新後の東京王朝が創設したものだ。
ところが天照大神については神武とは扱いが全然違う。天照大神は元もと天照国照彦と呼ばれた男神で、海部氏がイセの宮に祀っていた太陽神ホアカリのことだから、海部氏とその支配下の海民・倭人の崇敬を受けて当然で、倭人が主流をなす国民の間では、伊勢信仰は今日も盛んである。古来、伊勢神宮を「国家の大廟」と尊称し、応神を祀る宇佐八幡宮を「皇室の祖廟」と区別して呼んだのは、そのあたりを反映したものと思われるが、伊勢・ハ幡信仰の隆盛に対して、神武信仰というのは政治的主張を除けば、聞いたことがない。
崇神を『古事記』は第10代天皇とするが、史家は実在した初代の天皇という。大和地方に古来、崇神陵と伝わる壮大な陵墓が存在していて、物証もある(「行燈山古墳」或いは景行陵と目される「王の塚」)。官撰史書が崇神の没年干支を戌寅とするのも疑う必要なく、実年は紀元258年ないし318年と推定されている。崇神が神武と同じくハツクニシラス(国家創立者)と呼ばれる所以は、3世紀の大和で垂仁・景行と続く三輪王朝を始めたことにあるが、これは同じ時期に文化的変移が発生し、大和地方が弥生文化から古墳文化に移行したとする考古学的知見と符合するから、崇神と三輪王朝の実在はなおさら否定しうべくもない。
ところが月海伝承は「ニギハヤヒが大和でナガスネヒコとの連立政権を立てたのは3世紀のことで、この時西方から侵入してきた勢力があった」という。そのまま受け取れば、3世紀の大和に、ニギハヤヒ・ナガスネヒコの連立政権とは別に崇神の三輪王朝が存立したことになるが、有り得まい。
前月号では、ナガスネヒコを縄文系、ニギハヤヒをイスラエル系の新渡来民とする私見を述べたが、崇神の出自についても、ここに私見を示したい。曰く、崇神はニギハヤヒと同体である、と。
月海伝承は、ニギハヤヒは丹後古王国の海部氏と同族の大和の大王と言い、崇神(神武・応神と同体)は西方からの侵攻勢力というから、両者は真っ向から対立するが、私見は同体と見るのである。天孫神話に「ニギハヤヒは天孫軍の先駆けで大和へ降りたが、ナガスネヒコに籠絡された」とあるのも「応神の軍事侵攻に先立ち、崇神がナガスネヒコと同盟して三輪王朝を樹てた史実を天孫神話に投影したもの」と見るわけである。さらに言えば、崇神の三輪王朝は、土着部族と婚姻を通じて培った交易力を基盤とした商事政権で、ナガスネヒコの役割は軍事保護者、いうなれば傭兵だと思う。
崇神の出自はイスラエル支族だが、中でも秦始皇帝の国土統一を支えた胡商呂不韋の一族の泰氏だと思う。泰氏の一派は先秦の滅亡後、秦人を率いて朝鮮半島の南端に流移し、そこで立てた秦韓が華僑的商事政権だったことは、当時の支那史書からも窺うことができる。
秦氏は2世紀頃からぽつぽつと北九州に渡来し、筑前の宇佐郷で縄文族の宇佐君と通婚し、自ら宇佐氏を称した。この説の根拠は、上田家の血筋を引く渡辺政雄が吉薗周蔵に伝えた上田家伝である。「海部も物部も元はユダヤであり、他には宇佐がいて、元々日本人だったが婚姻を重ねてユダヤとなった。宇佐ハ幡」と、渡辺が語った通りを周蔵は記録した (『吉薗周蔵手記・別紙記載』)。
秦氏は宇佐から豊後に拡がり、その支配地は秦韓に似せて 「秦王国」と呼ばれたが勿論商事政権であった。ニギハヤヒは秦韓の所在する任那から外航用船舶(天磐船)で来航した秦氏後続隊の頭領か、ないしは宇佐で生まれたその子であろう。先遣任務を帯びて大和に入り、ナガスネヒコと交易拠点設置に関する協約を結び、妹を娶って同盟した。ニギハヤヒが舶来物資と一緒にまたらした半島南端の文化は、3世紀の大和の弥生社会を急速に変えたが、今日では古墳文化と呼ばれている。
以上の私見は、月海のいう3天皇同体説すなわち「古事記においては3世紀頃の天皇とされる応神天皇の時代に、朝鮮・北九州のの合衆国の王・応神天皇が大和に東征するに至り・・・」と、どう整合するのか。
皇統譜では第15代天皇とされる応神は、月海の言うように「古事記においては3世紀頃の天皇とされる」が、今日の史学は官撰史書の年代を、干支二巡すなわち120年分繰り上げたものと見ており、応神が4世紀に実在したことはまず疑いない。応神が始めた河内王朝の実在も、応神陵・仁徳陵・履中陵の巨大陵墓群が証明して余りがある。
以上から見ると、前掲文で月海が「古事記においては3世紀頃とされる」とわざわざ強調したのは、自分は応神の実年代を4世紀と見る、との意味だろう。おそらく海部家口伝が応神3世紀説を明言するため、それとの調和に苦しみ、上記の表現を用いざるを得なくなったものか。つまり海部家口伝が、官撰史書の重圧に押されて解釈の歪みを来し、いつしか応神3世紀説が固まってしまい、応神と3世紀に実在した崇神が重なってしまい、両者を同体と解釈せざるを得なくなってしまったものではないだろうか。
月海伝承の合理的な解釈は、「ニギハヤヒがナガスネヒコと同盟して大和に連合政権を建てたのは3世紀のことで、4世紀になり、西方から応神が侵攻してきた」とするしかないだろう。三輪王朝の首長の名は代々ニギハヤヒで、3代目・景行の代に応神軍が西から侵攻してきた。景行ニギハヤヒはナガスネヒコ(これも世襲名)との同盟軍を率いて戦うが、早々と義兄を裏切り、東征軍に投降した。これは宇佐の秦王国からの指令によるものではないかとも思える。
魏・呉・蜀の抗争の余波で満洲では騎馬民族が興隆し、その1つが満洲奥地から半島を南下した。応神は元々騎馬族の亡命政権で、半島南端では辰王と称していたが、押し出される形で九州に来襲した。侵入者の応神を、宇佐の秦氏が入婿にした。応神は辰王自身ないし秦氏との間の子で、これに軍権まで与えたのは、秦氏伝統の傭兵戦略には違いない。しかし、その奥には、半島時代すでに辰王と秦韓の間に特別な関係があったと思う。
[34] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年01月31日 04時20分08秒 ) | パスワード |
>鬼族の先祖は、オリエントから金属文化を携え、天孫族ま渡来以前の日本列島に渡来して、
>先住民とともに、丹後、若狭、但馬、丹波、近江、大和、紀伊、など近畿一円を中心に王朝を築いた人々であるということです。
なるほどね。
あの日本列島本州の中央部は昔っから日本の中心になるべき場所だったのか。
場所的にはどうしても明治以降の東京中心の日本を考えてしまうのがいけないですね。
「尾張」は畿内中心の世界観からは「終わり」の土地だったのかも、と思いました。
[35] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年01月31日 22時13分57秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は、秦氏関係の本を整理したりしておりました。秦氏に関する本は
可能な限り入手しており、だいたいは目を通しておりましたが、しばらく
秦氏から遠ざかっていましたので、思い出しながら、頭の中を整理してお
ります―
しかしながら、はっきりいいまして秦氏はわかりそうでわからないのが
現状でございます。
秦氏というのは、
@どういう人たちで
Aいつ
Bどこから
C何の目的でやって来て
D何をして
Eどうなり
Fそしてこれからどうなるのか
がわかればそれで十分満足なのですが、特にCの「何の目的でやって来て」
と、Fの「そしてこれからどうなるのか」が一番のポイントです。
たぶん、これらがわかりにくいのは、天皇家の奥深い秘密とからんでいる
からだと推察しております……。
飛鳥昭雄氏と三神たける氏は探究心旺盛で、秦氏・ユダヤ関連の本を、次
のようにたくさん出しておられます―
@1995 失われた原始キリスト教徒 「秦氏」の謎
A1997 失われたイスラエル10支族 「神武天皇」の謎
B1998 失われたイエス・キリスト 「天照大神」の謎
C1998 失われたカッバーラ 「陰陽道」の謎
D1999 失われたアークは伊勢神宮にあった
E1999 失われた契約の聖櫃 「アーク」の謎
F2001 失われたイエスの12徒 「八咫烏」の謎
G2002 失われたキリストの聖十字架 「心御柱」の謎
H2006 失われた古代ユダヤ王朝 「大和」の謎
I2008 失われた極東エルサレム 「平安京」の謎
J2011 失われた日本ユダヤ王国 「大邪馬台国」の謎
K2011 失われた徐福のユダヤ人 「物部氏」の謎
また、もう一人、ユダヤ通であります久保有政氏も次のとおり秦氏・及び
ヤダヤ関連の最新情報の本を出しておられます―
@2003 日本の中のユダヤ文化
A2005 仏教の中のユダヤ文化
B2008 神道の中のユダヤ文化
C2011 日本とユダヤ 運命の遺伝子
D2014 日本とユダヤ 聖徳太子の謎
その他、注目されるのは、イスラエル側からのアプローチで―
@2005 失われたイスラエル十支族 (ラビ・エリヤフ・アビハイル著)
A2013 古代日本に辿り着いたユダヤ人 失われた十部族の足跡
―イスラエルの地から日本まで (アビグドール・シャハン著)
であります。
その他にも、過去から現在まで無数の書籍が出版されておりますが、必要
に応じて今後引用・紹介させていただきたいと思います。
本日はここまでといたします―
[37] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月01日 05時18分03秒 ) | パスワード |
書き直し
三つ柏さん
整理してアップしてくださって、ありがとうございます。
とにかく「秦氏とは分からない」で終わります。
>C何の目的でやって来て
「幸福の追求」ということでこれは簡単じゃないですか?
A.一攫千金(自分達の国が欲しい。豊かになりたい。信仰の自由)
B.難民
C.冒険(未知の世界を知りたい)
このあたりじゃないですか?
神話は何を示唆してるのかなと思いながら読むのですが結局は突き当たってしまいます。
面白いけれどやっぱりワタシには読めないな、読めていないなと。
作者に非常に納得はするけれど自分の言葉でまとめようとするとサッパリです。
つまり分かってない、ということに尽きます。
でも物語としては面白いです。
昨日いろいろ読んでましたが ハァ〜 っとため息でした。残念
[38] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月01日 12時01分28秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
秦氏とユダヤの問題を解くには、ヘブライの歴史、ユダヤの宗教、シナイ
半島からシルクロードや中国から朝鮮半島の歴史、日本の古代史、日本の神道
等、膨大なデータを理解しなくてはなりませんし、また秘匿されている部分も
ありますので、そこは推理で補わなくてはなりません。
膨大なテータには、それぞれ違った解釈・主張がありますので、ストーリー
として論理的にわかりやすくまとめるということは大変難しいことであります。
それでも、私は次の本は、全体の流れをさらりとうまくまとめていると評価
しています。しかも、値段は五百円。コンビニでも売っていましたので即購入
いたしました。
著者は坂東誠氏。日本・ユダヤ比較文化研究家。ユダヤ教のイェシバーを
経て、ヘブライ大学にてユダヤ民族史を学ぶ。イスラエル滞在中、ベン・
アミ・シロニー教授らとの出会いを通し、失われた十部族の存在、また彼らが
日本に渡来していた可能性を知る。以来、日本各地のユダヤゆかりの地を歩き、
研究を続けているということであります。
約二千七百年の歴史というのは、全くもって複雑なものだと思いますが、そ
うは言ってもある程度単純化、即ちストーリー化しないと全体を理解できない
ということになります。そのストーリーに肉付けしていけば更に信憑性が出て
くるという訳です。
坂東氏の本によってストーリーをまとめてみますと―
@紀元前七百二十二年に、北イスラエル王国はアッシリアにより滅亡。
A紀元前五百八十六年に、ユダ王国はバビロン王国により滅亡。
B紀元七十年に、ローマ帝国により再びユダヤ王国は滅亡。
ということで、何波にも及び離散・逃亡したということである。特に、北
イスラエル王国の滅亡の時の離散・逃亡は、「失われたイスラエルの十部族」
という最大の謎のキーワードを生み出しました。
彼らは、東方へ東方へと流れて行った。それは、何故かということであり
ますが、ここは私の総合的な推測です―
@西方面は塞がれていた。
A東に行けば、アフリカを経てイスラエルに戻れるとも考えた。
B日本を知っていて、明確に日本を目指した(シルクロードの情報網)。
C太古、東に母なる国があり、そこへ向かった。それはムー帝国だったの
かも知れない(ヘブライ・シュメールの出現の謎)。
秦氏は、応神天皇の時に大量に渡って来たという。紀元七十年のユダヤ
王国の滅亡からは、およそ三百年経っている。世代で言えば約十二世代か
ら十五世代後のことである。
その間、「東へ向かう」という命題は、忘れられずに保ち続けられた…
…それは民族と宗教に根差した強い信念だったに違いないと思われます。
日本に渡った秦氏達は、先行グループと合体しながら、天孫系を神輿に
担いで裏方に徹した。初期目標の、平安京(エルサレム)、そして伊勢神宮
(神殿)、天皇制(王政)の確立はなんとか形づくられた……。
さて、それでこれからどこへ向かうのか…最後は八咫烏まかせということ
になるのであろうか……?
ところで、服部氏はと言えばである―
今回はこれで終わりといたします。
ことになります。
[39] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月01日 12時05分41秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
坂東氏の著書の名前を忘れておりました。それは―
『古代日本ユダヤ人渡来伝説』(PHP研究所)であります。
[40] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月02日 06時41分19秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
日本人はユダヤ人と同祖と主張するのは、ま、ちょくちょく聞きますし
あれがユダヤの子孫の証拠だ、というのも聞いたりします。
どうだかな?です。
秦の始皇帝もユダヤの子孫だとかいうの、読んだことがあります。
あ、「始皇帝」という表現も中国人にしてみると秦の王にすぎないのが中国的な理解のようですよ。
秦人と日本人には「皇帝」でも、他の国の子孫には「秦の王」に過ぎないようです。
アレキサンダー大王の件で書いたと思いますが
日本人とある人々にとっては「大王」だけど
ペルシャ人にすれば「バイタの息子のアレキサンダー」に過ぎないし
ギリシャ人にすれば「野蛮なド田舎のマケドニアのクソガキ」なんだそうです。
ギリシャの各都市の人々にとってマケドニアとはどういう立ち位置かというのが分かれば
このお話は理解されると思いますが
分からなかったら「ふつうの日本人感覚」ということで流してください。
で、日ユ同祖のお話は面白いし
アメリカでもアメリカインディアンとユダヤは同祖という話があって面白いけれど
でも So what? だから何? なんて言われてます。
ワタシは、メリーさんだっけ?ジャニーズのお母さんのご主人だった藤島 泰輔にすっかり丸め込まれた過去があります。
へえ〜
フランス人だったらそう考えるのか?
と。
フランス人なんて宣教師=神父=しか知らなかったから
すっかり藤島泰輔の作ったフランス精神を信じてしまいました。
その数年後に本物のフランス人の表面を知って・・・アッチャー!・・・でした。さらに、その奥を知って・・・そうなんだ・・・とまたまたヒックリ返りました。
(1933年(昭和8年)1月9日 - 1997年(平成9年)6月28日)
日本の小説家、評論家。ポール・ボネ名義の著作も多数刊行。
今上陛下のご学友の1人です)
ユダヤ人は数百人しか知りませんが
たぶん数千人も知らない
この人達が我々日本人と同祖?ニヤリ
さらに
http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese-Jewish_common_ancestry_theory
Researcher and author Jon Entine emphasizes that DNA evidence excludes the possibility of significant links between Japanese and Jews.
DNAの証拠上の、日本人とユダヤ人の確実なリンクの可能性は「無いよ」と。
わたくし自身のDNAから言ってもユダヤ人の祖先は1000代換算で1人もいないのです。
中国人は4人いた記憶。
1000代といったら1万5000年あたりで良いでしょうか?
ネアンデルタールのDNAは2.7%あるそうですが。
ということでこれが21世紀の最新科学で言えることです。
[41] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月02日 08時52分43秒 ) | パスワード |
遺伝子検査では男性は父方先祖と母方先祖が分かるので1度試しにお受けになってはいかがでしょう?
目からウロコの驚きがあるかもですよ。
そうしますとご自分が何氏系子孫か、また、考え方が引っ繰り返るかも。
ワタクシは茂木健一郎さんと近かったです。
残念ながら脳味噌はブランドが違ってたようです。あはっ
[42] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月02日 10時18分45秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
DNA情報の分析方法と解釈は、ここ何十年かの間に随分と進化ます。つ
まり精度も解釈方法も確定できていなかった。正確に鑑定できる、また解釈
できるようになったのは近々のことであります。
DNAについては、男性はXとY染色体を持ち、女性はXとXの染色体で
あります。この男性のY染色体は、父から息子へのみ引き継がれて行きます。
従って、仮に千年前の男性と現代の男性の関係を調べたいという場合は、そ
れぞれのY染色体のDNA鑑定をし、塩基(遺伝子)の配列形態が、AからT
までのタイプのいずれかということを調べます。そのタイプが一致すれば、
遺伝子が受け継がれていることがわかり、祖先は共通である可能性が非常に
高いということになります。
ちなみに、Y染色体についていえば、日本人の40パーセントはDタイプ
だそうです。そしてそれは、チベットも同様だそうです。
また、ユダヤ人についていえば、Eタイプだそうです。
DとEでは違うということになりますが、さらに微細に調べて行くと、こ
のDタイプとEタイプのみが、YAP(ヤップ)という特殊な塩基配列を持っ
ており、他のタイプには見られないということであります。従って、DとE
は同じ祖先から派生したとみることができ、故に、日本人の40パーセント
はユダヤ人とつながっている可能性があるということであります。
但し、純粋な日本人、純粋なユダヤ人というのは、人類の歴史が経過する
なかでの現在、純粋種はないので、あくまでも確率的にということではあり
ます。日本のかつての日ユ同租論的精神論でなく、イスラエル側からの失わ
れた10氏族の探索における科学的アプローチを踏まえての話であります。
このことは、久保有政氏の2011年に出された『日本とユダヤ 運命の遺伝子』
の中に詳しく書かれております。
私はユダヤの専門家でもないし、DNAの専門家でもありませんが、久保氏
についてはかなり信頼を置いています。飛鳥氏も久保氏もそれぞれの研究を
ひいき目に見ることもあるでしょうが、それを差し引いても十分信頼できると
思っております。
以上はあくまでも私の個人的見解。あを様はあを様の見解でいいのではない
かと思います。
さて、服部氏と秦氏の関係について考察したいと思いますが、その関係の
形としては、次の三つのパターンの内のどれかだと思われますが―
@服部氏は秦氏である。
A服部氏は秦氏グループ内に所属する氏族である。
B服部氏と秦氏は出自の全く違う氏族である。
了氏族の生活形態・居住形態からいきますと@かAのように考えられます。
文献―特に『新選姓氏録』を見ますと、次のように書かれております―
@大和國神別 服部連 天御中主命十一世孫天御桙命ノ後也。
A摂津國神別 服部連 熯之速日命十二世孫麻羅宿祢ノ後也。允恭天皇
ノ御世、織部司二任ジラル。領ノ諸國ノ織部ヲ
捴ル。因って服部連と號スル。
B河内國神別 服連 熯之速日命ノ後也。
※服=服部
ここからは、秦氏とはルーツが別のように読み取れますが……。
ここのところは大事なところであります。服部氏は秦氏なのか秦氏でない
のか、あるいは……?
本日はここまでといたします―
[43] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月02日 10時26分34秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
修正 進化ます。→進化しています。
了氏族→両氏族
DNA鑑定は一度やってみたいとは思っています(服部氏の謎に少しでも
迫れるならば)。
[44] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月02日 13時14分09秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
是非是非遺伝子検査を受けてみてください。
>服部氏と秦氏の関係について考察したいと思いますが、
>その関係の形としては、次の三つのパターンの内のどれかだと思われ @服部氏は秦氏である。
A服部氏は秦氏グループ内に所属する氏族である。
B服部氏と秦氏は出自の全く違う氏族である。
@の秦氏系服部氏は確かに今でも存在していてお祀りをしていることを聞いています。
ただし将来の後継者は「やる気は無い」ようです。
家紋も並び矢系じゃなかったです。
Bについては服部氏の勢力範囲に来て地縁血縁で名字をパクった服部氏もあろう
(平家系はこれだと思っています)
何度も平熱で書きましたが11世紀の初めだったかに(1006年だったような)東国から伊勢伊賀に越して来たことから
伊賀にいた服部氏の名字を使うようになったのだろうと思っています。
でも正解なのかどうかは分かりません。
伊賀の平六服部家長の生母の名字がハッキリしないので。
妻の実家が服部氏だったかも知れないし。
ココがハッキリすれば良いのにと思っています。
[45] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月03日 00時57分08秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
『新撰姓氏録』に見られる服部連の祖(ルーツ)は―
@大和國 服部連 → 天御桙命 → 天御中主命
A摂津國 服部連 → 麻羅宿祢 → 熯之速日命
B河内國 服連 → → → 〃
ということでありました。
神様の名前はいろいろ複雑すぎてわかりにくいですが、
@の「天御桙命」は素戔嗚から数えて七世孫であり、それは物部氏の祖
でもあります。「天御中主命」は造化三神の一柱であります。
Aの「熯之速日命」は、「イザナギ・イザナミ」から生まれた「ヒノカグ
ツチノカミ」の血から産まれた「甕早日神(みかはやひのかみ)」の子であり
ます。
一方、秦氏はどうかといえば―
太秦公宿祢 → 秦の始皇帝の三世孫孝武王より出る也云々。
秦氏 → 天御中主命と同租
となっており、秦氏は渡来系一色ですが、服部氏の場合、造化三神の一柱ま
で遡ってしまう。
造化三神は神話の世界ですので、ルーツとしては相当古い時代より存在し
ていたと推察されますが……。
秦氏と服部氏は別氏族か……どこかの時代に合流したのか、秦氏と云う
一団の機織の部門が服部となったのか、あるいは両方か、いずれにしても
「連」というのは大臣クラスの地位であり、地位は高いものでありました。
連というものについても、何人いたのか、世襲制でいろいろな子孫がなっ
たのか、その辺がはっきりしておりません…今後も追跡していきたいと思い
ます。
いずれにしても、服部氏の属性は、織物に関係した集団ということでは
ありますね。秦氏の方が概念として大きく、その中に服部氏は含まれる―
織物分野の職業人として……ということでありましょうか。
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月03日 06時50分08秒 ) | パスワード |
服部連の祖は
@大和國 服部連 < 天御桙命 < 天御中主命 伊賀にも影響し小宮神社へ?
A摂津國 服部連 < 麻羅宿祢 < 熯之速日命 高槻の神服神社になった?
B河内國 服連 < < < 〃
@は伊賀と関係?
式内社 伊賀國阿拝郡 小宮神社http://www.genbu.net/data/iga/omiya_title.htm
旧村社
御祭神
呉服比賣命
配祀
健御名方命 大山祇命 健速須佐之男命
三重県伊賀市にある。
伊賀上野駅から南東に、直線2Kmの服部町にある。
服部川の北、服部バス停の前に鎮座。
境内入口は西側の道路に面している。
境内に入り、参道を東へ歩くと南向きの社殿。
拝殿後方、垣の中に、中央に本殿。
左に、狹伯社。右に、蛭子社。
本殿の幕には、並び矢の紋がついていた。
『惣國風土記』によると、天武天皇三年三月の奉祭。
社名、小宮は「おみや」「をみや」と読む。
祭神・呉服比賣命に因んで、麻績(おみ)から来たものだとか。
伊賀一宮・敢国神社の大宮に対する、伊賀二宮としての小宮であるとか。
祭神に関しても諸説ある。
『惣國風土記』では、園韓神。
『伊水温故』『伊乱記』では、服部氏の祖神として酒君。
『三国地誌』では、諏訪明神。
『神社覈録』では、天鉾御命。 ココ
現在の祭神は、服部の地名から、機織の神・呉服比賣命となっている。
境内に入って左手に、ひとつの境内社がある。
大事に祀られている様子だが、社名は不明。
『平成祭データ』には、摂末社として、3社記されており、
狹伯社、蛭子社の他に、小宮神社(こみやじんじゃ、祭神少彦名命)とあった。
本社が、小宮(おみや)で、境内社が小宮(こみや)というのは面白いが、
この境内社が、そうであるかどうかは知らない。
A神服神社?
http://masakaki.web.fc2.com/newdir/oosaka/kamuhatori/kamuhatori.htm
神服神社
かむはとりじんじゃ
大阪府高槻市宮之川原元町1
祭神:素盞嗚命・熯之速日命・麻羅宿禰 ココ
すさのおのみこと・ひのはやひのみこと・まらのすくね
延喜式:攝津國嶋上郡 神服神社
国道171の今城交差点から府道6を北上し、満福寺交差点を右折。橋を渡ってすぐ、殿町交差点を左折。名神高速の高架下をくぐってから500メートルほど行った信号を左折すると、右手に鎮座。
一般的には“しんぷくじんじゃ”と呼ばれているらしい。社伝によると、第19代允恭天皇の頃に創建されたという古社。この地は服部連はとりべのむらじの居住地であり、その氏神を祀ったと思われる。地名も服部郷と言っていた。周辺には服部連の墓と思われる古墳が点在している。元々は服部神と称していたが、平安中期に神服神社に改称したらしい。
服部連は複数の氏族が存在しているが、いずれも機織部はたおりべ・はとりべを統括した氏族で、当地の服部連は火の神である熯之速日命とその十二世孫である麻羅宿禰を祖神と仰ぐ一族。
[47] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月03日 06時59分59秒 ) | パスワード |
下の方にある 因幡国の服部神社の 服部の弥蘇の連 って?ということでアップ
因幡国の服部
http://houki.yonago-kodaisi.com/H-Reikai-Kuroda1.html
「因幡国法美郡服部郷について──海部と服部の痕跡をたどる」
平成27年9月26日 講演 黒田 一正
諸言
鳥取市福部町は古代においては、「因幡国法美郡服部郷」であった。現在、町内の海士に、式内社の服部神社が鎮座している。祭神の「天羽槌雄命・天棚機姫命」は、『古語拾遺』によれば、倭文氏の遠祖で、天羽槌雄神が文布を、天棚機姫神が神衣を織る神であった。
その神を祭神とする当社の祭祀氏族も、機織りに関わる人々であった可能性が高いと思われる。福部町の「福部」は、この「服部」からきている。
一方、因幡国戸籍残簡(『正倉院文書』)には、海部牛麻呂を戸主とする十七人の名前が記録されており、「服部郷」のものと考えられている。「海士」という現在の地名は、この海部との関連が考えられる。
そうすると、一つの疑問が浮かんでくる。なぜ服部神社は海士に鎮座するのか、あるいは逆に、なぜ海部と関わる地に、海の神を祀る神社ではなく、服部神社が祀られるのか。郷名にしても同様である。
以下、服部・海部関連の式内社や郷の分布を通じて、この疑問に迫ってみたい。
T 福部町海士の地誌
@「和名抄」法美郡服部郷 (福部の町名は「服部」に由来)
成立時期 6世紀〜7世紀?
因幡国
巨濃郡(こののこほり)
「高山寺本」蒲(ネ+甫)生・大野・宇治・日野・石井(いわい)・高野
「東急本」 蒲生・大野・宇治・日野・罵城(とき)・広田
法美郡(ほうみのこほり)
「高山寺本」大草(おほかや)・津井(つのい)・稲羽・服部・罵城・広西(ひろせ 広域郷)
「東急本」 大草・石井(いわい)・高野・津井・稲羽・服部・広西(ひろせ)
邑美郡(おほみのこほり)
美和・古市・品治(ほむじ)・鳥取・邑美
※参考 水衣評(みよりのこほり)
伊福部氏の系図である『因幡国伊福部臣古志』の26代都牟自臣(つむじのおみ)の条に水衣評についての記載が
ある。
㋑「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇(孝徳天皇)二年丙午、水衣評を立て督(かみ)に任じ、
小智冠を授く。
時に因幡国は一郡を為し、更に他郡無し」
㋺「後岡本朝庭(斉明天皇)4年戊午、大乙上を授く。同年正月、始めて水衣評を懐き(壊し?)、高草郡を作る」
㋩水衣評をめぐる諸説
・「因幡国は一郡を為し、更に他郡無し」をめぐって
ⓐ因幡国=水衣評、ⓑ因幡国の一部
・「始めて水衣評を懐き(壊し?)、高草郡を作る」
ⓐ水衣評→高草郡、ⓑ水衣評→邑美+法美、
ⓒ水衣評→高草+邑美+法美、ⓓ水衣評→高草+その他の評
※この問題は、因幡国造氏と伊福部氏との関係を解明する糸口として重要。
《@についての考察》海を意識した郡名
福部町は古代においては、法美郡服部郷と呼ばれていた。
東隣りの岩美町は巨濃郡、西は邑美郡である。
法美郡・邑美郡いずれも「ミ」が含まれている。
この二つの郡の元となった水依評(みよりのこほり=『』)の「ミ」も同様で、おそらくは「ミ」は「海」の「ミ」だと
考えられる(鳥取県史)。
会見郡の「ミ」も海の「ミ」、「アフミ」である可能性が高い。いずれも海を意識した郡名であろう。
A考古学的要素=砂丘下の遺跡群(『日本の古代遺跡・鳥取』参照)
直浪(すくなみ)遺跡
京都府竹野郡丹後町の平(へい)遺跡との関連性(出土した縄文土器が平式土器とのつながりを示した)。
遺跡周辺の砂丘形成の層順は、下から
@湯山砂層、A褐色火山灰層、B黒ボク状黒色粘土層、C黒スナ層、D新砂丘層となっている。
古墳時代の土器がB黒ボク状黒色粘土層に混入しており、その上層を厚くおおっているD新砂丘層は、
古墳時代以降、とくに奈良・平安時代以降に形成されたと思われる。
※米子周辺の砂丘・弓浜の形成と比較する必要
栗谷遺跡
塩見谷の入口に立地。標高は高くなく、低湿地。鳥取砂丘東端部にあったラグーン(細川池)の南岸に位置する。
前期〜晩期の縄文土器、石斧、石皿、石匙、石鏃など、弥生時代の土器と石斧、古墳時代の土師器、須恵器、
シャモジや火鑚臼などの木製品などが出土、長期にわたる生活の場であった。
(栗谷村には寛永年間に金鉱が発見され、短期間採掘された。岩美との類似)
※関連事項「荒坂浜に新羅人漂着」
『日本三代実録』貞観5年(863)に「57人の新羅国人が荒浜(現在の高江・箭渓(やだに)あたり)の浜辺に来着
した」という記事がある。
㋑栗谷遺跡のある塩見谷を形成する塩見川は、高江・箭渓を形成して北流する箭渓川と合流し、駟馳山(しちやま)
南麓の細川を経て、岩戸で日本海に注ぐ。
㋺細川集落の南には江戸時代まで細川池が存在し、享保年間に埋め立てが本格化、寛政頃には埋め立てが完了。
㋩こうしたことから、新羅人が漂着した荒坂浜は、塩見谷のあたりまで入海であった可能性をうかがわせる。
湯山6号墳
福部町湯山の大谷山先端部にある直径13m、高さ1mの円墳、5世紀初頭。
出土品には、土師器、鼓形器台転用の枕、鉄刀、鉄鏃など。
特に注目されるのが、三角板革綴短甲、小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)である。
高度な鋲留技法、鍛造技術は、朝鮮半島から伝わったか、渡来系の技術者によって作製したものか、いずれかである。
※関連遺跡
岩美町の古墳
㋑穴観音古墳 ㋺砂丘地の古墳 牧谷の熊井古墳群と浦富の砂丘地に5基の古墳
㋩新井銅鐸(神戸市灘区桜ケ丘町出土の14個の内の一つと同笵)
鳥取砂丘の古墳
砂丘地の地層は下から、@基盤岩床、A古砂丘層、B火山灰層、C新砂丘層 BとCの間に黒色化した
黒ボク層があり、そこに縄文以後の遺物が多く含まれている。
㋑多鯰ケ池北側から縄文や古墳時代の土器 ㋺池の中の小島から水の祭祀と関わる土馬
㋩池南側に総数78基の古墳からなる開地谷古墳群
各地のラグーン
福部―砂丘―湖山池―気多―東郷池(長瀬高浜)―伯耆の海岸線(北栄町、赤碕、名和)―淀江―中海
《Aについての考察》ラグーンを利用した交流
主な遺跡としては、直浪遺跡、栗谷遺跡、湯山の古墳群などがあるが、いずれも砂丘の下に形成された遺跡。
『日本三代実録』貞観5年(863)の記事によると、「57人の新羅国人が荒浜の浜辺に来着した」とある。
荒浜は現在の高江・箭渓(やだに)あたりと考えられ、おそらくその辺りまで、入海だったと思われる。
江戸時代まで、細川池や湯山池があり、低湿地を形成していた。
栗谷遺跡のあたりも海がきていた。
したがって古代においては、この辺りはラグーンが形成されており、港の機能をもち、海を通じてさまざまな地域との交流が行われてきた。
※鳥取県の海岸には、岩美町、福部町、湖山池―気多―東郷池(長瀬高浜)―伯耆の海岸線(北栄町、赤碕、名和)―
淀江―中海とラグーンがつづく。
おそらくはこれらの地域が、時には競い、時には協調して、海を舞台に密接な関係を形成していたと思われる。
B二つの式内社
式内社=『延喜式』(延喜5年905〜延長5年927)全五十巻の冒頭の一巻から十巻がいわゆる「神名帳」と呼ばれ、全国の
神社が列記されている。これに記録された神社で、いわば畿内政権の認めた神社ということになる。
服部神社
所在地 鳥取県鳥取市福部町海士(あもう)591
祭神 天羽槌雄命、天棚機姫命、素佐雄命
※祭神の天羽槌雄命は、倭文神社の祭神と同じ。天棚機姫命は、地元では「あめのはたおりひめのみこと」と
呼ばれる。
※横山利宮司によれば、
「@元宮は9号線をはさんだ南の摩尼山山麓の御内谷(おうちだに)にあった。
A神社の供え物として「山繭」を奉納していたが、今は廃れた。
B大正の頃までは、この辺りは一面、桑畑で養蚕が盛んであった」という。
荒坂神社
旧社地 矢谷(明治4年、摂社荒神宮の旧社地に移転)
所在地 鳥取県鳥取市福部町八重原328
祭神 大己貴命・少彦名命・素盞嗚命
㋑関連伝承・『播磨国風土記』
讃容郡中川(なかつがわ)の里の条「弥加都岐原」の記事
伯耆の加具漏(かぐろ)・因幡の邑由胡(おほゆこ)の二人、大(いた)く騎(おご)りて節(さだめ)なかく、清酒を以ちて手足を洗ふ。
ここに、朝廷、度に過ぎたりと為して、狭井連佐夜(さいのむらじさよ)を遣りて、この二人を召さしめき。
その時、佐夜、乃ち悉(ことごと)に二人の族(やから)を禁(いまし)めて、参赴(まゐおもむ)く時、屡、水の中に漬(ひた)して酷拷(たしな)めき。
中に女二人あり。玉を手足に纏(ま)けり。
ここに、佐代恠(あや)しみ問ふに、答へて曰ひしく、「吾は此、服部の弥蘇の連(はとりのみそのむらじ)、因幡の国造阿良佐加比売(あらさかひめ)にみ娶(あ)ひて生みませる子、宇奈比売(うなひめ)・久波比売(くはひめ)なり」といひき。
その時、佐夜、驚きて云ひしく、「此は是、執政大臣(まつりごとまをしたまふまへつぎみ)の女なり」といひて、即ち還し送りき。
送りし處を、即ち見置山と號け、溺(かづ)けし處を、即ち美加都岐原と號く。
《考察》
「服部の弥蘇の連」は服部神社の祭祀氏族、「因幡の国造阿良佐加比売」は荒坂神社の祭祀氏族を象徴するか?
㋺祭神・天羽槌雄命、天棚機姫命について
・『古語拾遺』 斎部広成 大同2年(807)撰上
太玉神をして諸部(もろとものを)の神を率て、和弊(にきて)を造らしむべし。
仍りて、石凝姥神(いしこりどめのかみ)[天糠戸命(あめのぬかと)の子、作鏡が遠祖なり]をして天香山の銅(あかがね)を取りて、日の像(かた)の鏡を鋳(い)しむ。長白羽神(ながしろはのかみ)[伊勢国の麻続(をみ)が祖なり、今の俗に、衣服を白羽と謂ふは、此の縁(ことのもと)なり]をして麻を種(う)ゑて、青和弊(あをにぎて)[古語に、爾伎弖(にきて)といふ]と為さしむ。
天日鷲命(あめのひわしのみこと)と津咋見神(つくひみのかみ)とをして穀(かぢ)の木を種殖(う)ゑて、白和弊[是は木綿(ゆふ)なり。已上(かみ)の二つの物は、一夜に蕃茂(おひしげ)れり]を作らしむ。
天羽槌雄神[倭文が遠祖なり]をして文布(しつ)を織らしむ。天棚機姫神(あめたなばたつひめのかみ)をして神衣(かむみそ)を織らしむ。
[48] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月03日 07時07分07秒 ) | パスワード |
この講演の内容はすっごく面白いので続けます。
他で調べていた新羅の王子のハナシとか
服部 服部直 服部連のハナシとか
下記に1部コピペ
㋑播磨国風土記の記載=服部連
㋺「高庭庄坪付注進」(天平勝宝7年=755)記載の「服部小丸」。この人物が高草郡の人か、法美郡服部郷の
人かは不明。
㋩県内の「服部」関係の地名は、因幡国法美郡服部郷、高草郡の服部、倉吉の服部がある。後の二地区は、
いずれも倭文神社と近接、祭神も同じ。
㊁『新撰姓氏録』「允恭天皇御代任織部司・領諸国織部因服部連」や『続日本紀』「……
但馬因幡伯耆出雲播磨…等廿一国始織綾錦」の記事により、因幡や伯耆に機織り集団の配置が確認できる。
問 題点 因幡国法美郡服部郷で重なる海部と服部の関係
海との関わりが深く、実際に海部氏の根拠地でもあった地が、なぜ「服部郷」という郷名で、祀られる神社
も服部神社なのか。
[49] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月03日 07時16分50秒 ) | パスワード |
続き
・『日本書紀』第九段(本文)国譲り伝承の末尾
一に云はく、二の神(タケミカヅチ・フツヌシ)遂に邪神及び草木石の類を誅(つみな)ひて、皆已に平(む)けむ。
其の不服(うべな)はぬ者は、唯星の神香香背男(かかせを)のみ。故、加(また)倭文神建葉槌命を遣せば服(うべな)ひぬ。
《考察@》
ここには忌部氏が、伊勢国の麻続(績)や倭文など織物に関わる氏族を統率して、伊勢の祭祀や宮中の鎮魂祭、大嘗祭に奉仕する姿が書かれている。
《考察A》
「天羽槌雄命、天棚機姫命」という祭神を倭文と共有する服部氏も、《考察@》の忌部体制の一翼を担ったと思われる。
《Bについての考察》 因幡・伯耆における服部神社と倭文神社の分布
この服部郷には、服部神社と荒坂神社の二つの式内社がある。
二つの神社と関連すると思われる伝承が『播磨国風土記』に記載されている。
服部神社の祭神は、天羽槌雄命、天棚機姫命、素佐雄命だが、素佐雄命は後の時代に付近の荒神を合祀したもので、本来は前者の二神。
天羽槌雄命は古事記には登場しない。
大同2年(807)に、斎部広成によって書かれた『古語拾遺』に載っている。
ここには、伊勢や宮中のお祭りに、忌部氏を中心に鏡や衣服などを作成したさまざまな氏族が登場しているが、「天羽槌雄神[倭文が遠祖なり]をして文布(しつ)を織らしむ。
天棚機姫神(あめたなばたつひめのかみ)をして神衣(かむみそ)を織らしむ」とある。
倭文は機織り氏族だから、同じ神を祀ることからして、服部氏も機織りに関わる人々であろう。
因幡・伯耆にも倭文氏の存在が確認できる。
千代川の中流域に「服部」という集落がある。
服部神社が鎮座し、「天御桙命(あめのみほこ)」を祀る。この神については後述するが、大和国の服部連の租神である。
したがって福部の服部と何らかの関係があったと推定できるが、そこから少し上流に、「倭文」集落があり、式内社の倭文神社が鎮座している(祭神=武葉槌神)。また伯耆では、東郷池の東に宮内があり、倭文神社(祭神=武葉槌神・下照姫命)がある。
伯耆一の宮である。
また倉吉の小鴨川左岸の丘陵地に「志津」という集落があり、そこにも倭文神社(祭神=経津主神・武葉槌神・下照姫命)がある。
この丘陵地には「服部」集落がある。ここにも服部神社が祀られているが、この神社は大国主神と保食神を祀り、古くは桑原大明神と呼ばれていた。
おそらくは養蚕に関わる人々が祀ったのであろう。
このように、倭文と服部は、因幡・伯耆においても密接である。
では次に、この地域にはどのような人たちが住んでいたのであろうか。
C服部郷の人々
海部 海部直 因幡国戸籍残簡(『正倉院文書』)
戸主海部牛麻呂戸
男海部小人 年廿四 正丁
男海部男 年十六 小丁
女海部刀自売 年廿八 正女
女海部津村女 年廿七 正女
女海部足女 年十二 小女
女海部小女 年六 小女
従父妹海部稲依女 年五十 正女
姪女海部小妹女 年卅二 正女
男伊福部得麻呂 年卅四 正丁
寄海部身麻呂 年卅四 残丁
妻伊福部小足女 年卅 正女
女海部黒女 年七 小女
弟海部得安 年廿七 正丁 兵士
妻海部直橘足女 年廿三 正女 (得安の妻)
男海部長田 年二 緑子
弟海部真床 年廿一 中男 (戸主の弟)
妹海部真成女 年廿五 正女 (戸主の妹)
㋑以上は神部、海部牛麻呂戸、伊福部小足の戸籍(神部と伊福部省略)
㋺「海部直橘足女」、伊福部小足の戸籍中の「海部直羊女」の記述は、海部の中に、「直」姓をもつ有力者が
いたことを示す。
㋩日本海沿岸には、「越前国 海直(天平3・4年税帳)」「丹後国 海部直(天平10年税帳)」「但馬国 但馬海直
(姓氏録左京神別)」などが見え、その関係性が注目される。
とくに隣接する巨濃郡は、但馬の影響を強く受けており、但馬や丹後の海部との関連は重要であろう。
服部 服部直 服部連
㋑播磨国風土記の記載=服部連
㋺「高庭庄坪付注進」(天平勝宝7年=755)記載の「服部小丸」。この人物が高草郡の人か、法美郡服部郷の
人かは不明。
㋩県内の「服部」関係の地名は、因幡国法美郡服部郷、高草郡の服部、倉吉の服部がある。後の二地区は、
いずれも倭文神社と近接、祭神も同じ。
㊁『新撰姓氏録』「允恭天皇御代任織部司・領諸国織部因服部連」や『続日本紀』「……
但馬因幡伯耆出雲播磨…等廿一国始織綾錦」の記事により、因幡や伯耆に機織り集団の配置が確認できる。
問 題点 因幡国法美郡服部郷で重なる海部と服部の関係
海との関わりが深く、実際に海部氏の根拠地でもあった地が、なぜ「服部郷」という郷名で、祀られる神社
も服部神社なのか。
《Cについての考察》 「海部と服部」
@海部
因幡国には幸いなことに、極一部だが古代の戸籍の断簡が残されている。
神部と伊福部、そして海部の戸籍であるは。
資料に海部の戸籍をあげたが、これは海部牛麻呂を戸主とする一戸の戸籍である。17人の名が記載されている。
全国的な平均としては、一戸25人とも50人ともいわれており、50戸で服部郷が構成されていたとすれば、約1000〜2500人の人が住んでいたと思われる。
この戸籍でわかることは、
@14番目の「妻海部直橘足女」が注目される。「直」は「アタエ」と読み、国造、郡領クラスの人に与えられる姓である。
Aまた10番目の「妻伊福部小足女」は、伊福部氏とも通婚する家柄であったことを示す。
山陰海岸沿いに、丹後国には「海部直」、但馬にも「海部直」がいる。
丹後には籠神社が鎮座し、この神社には、火明命という尾張氏系の神を始祖とする「海部系図」が伝わる。
但馬の「海部直」も火明命を始祖とし、城崎にある海神社や西刀神社などの祭祀に関わっている。
地縁からすれば、因幡の海部もあるいはこれら山陰海岸沿いの海部と関係する可能性は高い。
A服部
@先述の播磨国風土記に登場する「服部連弥蘇(ミソ)」が因幡の住人だった可能性がある。
A千代川左岸から湖山池を郡域とする高草郡の中に、東大寺の荘園・高庭庄が成立するが、度々土地のもめごとがあり、「高庭庄坪付注進」という仲裁の文書が残っている。
そこに「服部小丸」なる人物が署名している。
この人物が服部郷の人だったかどうかは不明だが、証文に署名するくらいの高い身分だった人物である。
Bまた『新撰姓氏録』の「服部連」には「允恭天皇の時代に服部連が諸国の織部を統括した記事があり、『続日本紀』には「但馬、因幡、伯耆、出雲、播磨など21の国に織部たちが派遣され」という記事により、因幡や伯耆に機織り集団の配置が確認できるのも、因幡国・伯耆国における服部氏の存在を推定する傍証になる。
B疑問点
そこで、諸言にも述べたような疑問がわいてくる。
なぜこの郷は、海部郷ではなく、服部郷、神社も海部系の神社ではなく、服部神社なのか、という疑問である。
そこで参考になるのが、次の隠岐国の氏族構成である。
[50] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月03日 07時17分52秒 ) | パスワード |
U 隠岐国の戸籍から見えてくる海部・服部
@隠岐国居住者の郡・郷別の分布
(加藤謙吉「隠岐の氏族・部民と畿内政権」『原始・古代の日本海文化』より)
[島前]
智夫郡 大領=海部 主帳=服部
宇良郷 壬生
由良郷 津守部 壬生部 阿曇部
大結郷 服部臣
大井郷 各田部
三田郷 石部(3)
郷不詳 海部
海部郡 少領=海部直 主帳=日下部 少領=阿曇部
布施郷 阿曇部
海部郷 壬生部(3) 阿曇部 勝部 三□部 物部首?
三宅郷 日下部(2) 勝部 □部?
佐作郷 海部直(3) 海部(3) 凡海部 阿曇部(6) 勝部(2)
佐吉郷 日下部(3) 阿曇部(2)
[島後]
周吉郡 大領=大私直
上部郷 私部(3) 蝮王部 孔王部 日下部
山部郷 服部(2) 壬生部 物部 檜前部 雀部 宗我部
賀茂郷 雀部 鴨部
新野郷 私部(3) 宗我部 日下部
奄加郷 蝮王部 □部
郷不詳 宗我部
隠地郡 大領=大伴部 少領=磯部(3)
都麻郷 石部
武良郷 私部 勝部 大伴部 三那部
河内郷 鴨部
奈□郷 □棘部
郷不詳 大田部 日下部
郡不詳 服部(臣)(3) 阿曇 阿曇部
《@についての考察ⓐ》 隠岐国の海部と服部
㋑まず目につくのは、島前における海人系の部民が圧倒的に多い点である。
㋺そこに「服部」も存在し、しかも智夫郡では大領=海部・主帳=服部という体制が成立している。
この重なりは、因幡の海部と服部の重層を考えるうえで重要である。
㋺島後では、海部が見当たらないが、服部は二つの郷に存在する。
㋩また宗我部や物部、大伴など畿内有力氏族の進出が注目される。
《@についての考察ⓑ》 海部設置の二つの側面=御贄の貢進と対新羅の防備
@ⓐの考察に関して、加藤謙吉氏は「隠岐の氏族・部民と畿内政権」(『原始・古代の日本海文化』)の中で、次のような見解を示している。
㋑宗我部や物部、大伴など畿内有力氏族の進出から、部民による隠岐国の畿内政権による支配は6世紀にまで遡れる。
㋺隠岐国の木簡から、中央に運ばれた物資は100%海産物である。
特に隠岐のアワビは珍重された。このことは、隠岐国に配置された海人系の人々は、魚介類を贄として貢納する働きを期待されていた。
㋩「しかし『延喜式』によると、隠岐は旬料や節料として御贄を貢進する諸国のなかには含まれておらず、(中略)志麻や若狭・淡路のような近国とは自ずから立地条件が異なる」とし、「隠岐の特殊性は、御贄の貢進体制そのものにあるのではなく、(中略)御贄の貢進自体は二義的なもの……」とする。
㊁その上で、『延喜式』の「陸奥国・出羽国・佐渡国・隠岐国・壱岐国・対馬国を辺要の地」とする記述を重視し、特に隠岐国は「新羅に対する辺要の地」であったことに注目する。したがって、隠岐の海部は日常的には海産物の捕獲に従事しながら、緊急時には軍事的な働きを期待されていたのである。
《@についての考察ⓒ》 隠岐国の部民・氏族構成からの推論
そのような視点で、隠岐国の氏族や部民の構成をまとめると、以下の諸点である。
第1点は、島前では、海部と服部が混在し、特に智夫郡では大領=海部・主帳=服部という体制が成立しているという事実。
第2点は、「臣」姓や「直」姓の服部、「直」姓の海部が存在し、彼らは隠岐国における統括者としての役割が与えられていたと思われる。
第3点は、宗我部や物部などの畿内氏族の進出があったと思われる。
そこで改めて、隠岐国の氏族や部民の構成をみると、海部・服部・津守部・阿曇部・勝部・鴨部・大田部など、多くが摂津国に縁のある氏族・部民であることが注目される。
このことから、私は、海部氏と服部氏は、摂津を中心とする氏族・部民集団の一員として、山陰沿岸から隠岐へと展開していったのではないかと考えている。
それを確かめるには、服部という氏族について、もう少し掘り下げてみる必要がある。
[51] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月03日 07時18分20秒 ) | パスワード |
続き
いよいよ服部について!
V 服部氏とは?
@『新撰姓氏録』に見る二系統の服部
大和国神別
服部連 天御中主命十一世孫天御桙命之後也
摂津国神別
服部連 熯之速日命十二世孫麻羅宿禰之後也。允恭天皇御世。任織部司。捴領諸国織部。因号服部連
河内国神別
服連 熯之速日命之後也
分布地 服部連 大和 山背 摂津 和泉 播磨 近江
服部 武蔵 安房 美濃 因幡 隠岐 備中 阿波
A各地の服部
㋑服部郷
大和国山辺郡服部郷 摂津国島上郡服部郷 近江国野洲郡服部郷
伊賀国阿拝郡服部郷 伊勢国奄芸郡服部郷 美濃国安八郡服織郷
常陸国真壁郡羽鳥郷 越前国今立郡服(勝)部郷
備前国邑久郡服部郷 備中国賀陽郡服織郷 因幡国法美郡服部郷
参考
武蔵国都筑郡高幡郷・幡屋郷、男衾郡幡々郷、久良郡服田郷
下総国埴生郡酢取郷→この地は、後世、羽鳥村であり、「羽鳥」の誤りか
駿河国安倍郡服職庄
㋺式内社
大和国城下郡・服部神社 祭神・天之御鉾命
摂津国島上郡・服部神社 祭神・熯之速日命、麻羅宿爾、素盞鳴尊
加賀国江沼郡・服部神社 祭神・天羽槌雄命
因幡国法美郡・服部神社 祭神・天羽槌雄命、天棚機姫命
遠江国長上郡・服職神社、榛原郡・服織田神社
参考
伊勢國多氣郡 服部伊刀麻神社 祭神・大命津姫命、速佐須良比賣神
服部麻刀万神社二座 祭神・木俣(股)神
《@についての考察》 『新撰姓氏録』に見る二系統の服部
平安時代に成立した『新撰姓氏録』によると、天御中主命十一世孫天御桙命を祖とする大和国の服部連と、熯之速日命十二世孫麻羅宿禰を租とする摂津国の服部連の、二系統の 服部連がいたことが記録されている。
大雑把にいえば、天御桙命は忌部氏系、熯之速日命は尾張氏系ともいえるが、この二系統がまったく関係のない氏族だったのか、元は一つのものが枝分かれしていったのか不明。また二系統が重なり合うケースも多々ある。
《Aについての考察》各地の服部
「考察@」 大和の服部連
大和国山辺郡服部郷と大和国城下郡・服部神社の存在から、大和国の服部氏の本拠地とも考えられる。
服部神社は現在、村屋坐弥富都比売神社(みふつひめ=三穂津姫命、奈良県磯城郡田原本町大字藏堂)の摂社として、境内の左奥(本殿域西側)に鎮座する。
祭神の天御鉾命は記紀等には見えないが、神宮雑例集(13世記初頭頃、上古から鎌倉初頭までの伊勢神宮に関する雑記録集)には、「天照大神が高天原に坐せし時、神部(かかむはとりべ)等の遠祖・天御鉾命を以て司とし、八千々姫を織女と為して織物を奉る」とある。
この城下郡に隣接する高市郡には、忌部氏の本拠地があり、天太玉命神社(奈良県橿原市忌部町)が鎮座する。また同郡は蘇我氏の本拠地でもあり、宗我坐宗我都比古神社も鎮座する。さらに葛下郡には葛木倭文坐天羽雷命神社が鎮座し、倭文氏の本拠地である。
これらを勘案すると、蘇我氏の影響下で、忌部氏が服部や倭文などの機織り氏族を統率する体制がみえてくるように思う。
しかし一方で、服部郷は山辺郡に属する。物部の本拠地であり、石上神宮が鎮座する。
隠岐国に宗我部と物部があることと、この大和において近接する忌部・倭文・服部の分布状況は関係するのだろうか。
「考察A」 摂津の服部連
摂津国島上郡服部郷と式内社・服部神社の存在から、摂津を本拠とする服部氏の存在が明らかになる。しかも祭神の熯之速日命は尾張氏の祖神であり、『新撰姓氏録』の記述と矛盾しない。
この服部郷には「塚脇古墳群」と呼ばれる古墳時代後期の群集墳があり、紡錘車など機織りに関係する遺物が出土している。
このことから、服部連一族の墓陵の可能性が強いとされている。
また、芥川をはさんだ対岸に式内社「阿久刀神社」があり、そこにも顕宗天皇の時代に蚕織絁絹の見本を献上したという伝承がある。
このように、服部郷周辺は養蚕・機織りに関係する氏族が集中していたと思われる。
一方、摂津には住吉大社が鎮座地する。津守氏と安曇氏が祭祀する神社であり、中央における安曇氏の拠点でもある。
『日本書紀』応神天皇3年11月によると、「所どころの海人が命に従わないので、安曇連の租、大浜宿禰を派遣して、その騒ぎを治めた。
よって安曇を海人の統率者にした」とある。
九州を本拠とする安曇は中央に進出し、海人の統括をしたと思われるが、摂津はまさに中央における安曇の本拠地であった。
隠岐国の氏族構成に、津守、安曇がある点を踏まえれば、おそらく隠岐国に濃密に分布する海部系の人々は、この摂津の津守氏や安曇氏の影響下にあったと思われる。
このように見てくると、服部、海部、津守、安曇の他、鴨、勝部、日下、太田など、隠岐国の氏族・部民と、摂津の氏族は重なってくる。
中でも、勝部氏の存在はきわめて重要である。以下、その実態を追ってみたい。
「考察B」勝部氏――摂津、因幡、伯耆、出雲、隠岐を結ぶ移動の痕跡
摂津の服部郷は現在でいうと高槻市にある。その隣の茨木市に太田神社という式内社がある。
服部郷とは数キロの距離である。
この太田神社はサルタヒコを祭神とし、この周辺を本拠とする「中臣大田連」、あるいは渡来系の勝部氏により祀られたが神社である。
この勝部氏については、『播磨国風土記』揖保郡大田里の条に「呉の勝が、韓国から渡って来て、紀伊の大田、摂津の太田を経て、播磨に来た」という伝承が記録されている。
実は勝部は因幡にも来ている。
鳥取市青谷町の勝部川流域がかつての気多郡勝部郷で、因幡における勝部の本拠地であった。
この勝部郷に神前神社という神社がある。
祭神はサルタヒコ。
この神社の社伝によると、「当社は、初め大和の葛城に鎮座したが、雄略天皇のころ摂津国神前の里に移り、慶雲4年(707)に鳴滝村美古峯、至徳2年(1385)に鳴滝村亀山(現宮坂)に遷座した」とある。
社伝というものは、あまり信憑性が確かではないが、この社伝が一定の事実を踏まえていると思えるのは、摂津の太田神社はサルタヒコを祀り、その祭祀に勝部氏が関わっている事実と符合するからである。
因幡の勝部郷には、もう一つの式内社・幡井神社があり、まさに機織り集団とも縁の深い地域である。
また勝部氏は伯耆国、出雲国にも痕跡を残している。出雲国大原郡の大領に勝部氏の名が載る。
この郡内には、幡屋神社が鎮座し、その周辺には、幡屋・高麻山(=植麻した山)・古機・御機谷・神機谷・広機・長機など、機織り関連の地名が密集する。
称徳天皇の神護慶雲三年に天下諸神に「神服」をご下賜されたとき、この幡屋神社も含まれていた。
さらに、大原郡の郡家は、初め幡屋神社近辺(現在の大東町幡屋)周辺にあったが、後に斐伊郷(現在の木次町)に移る。この郷の新造院について、風土記は「新造院一所。斐伊郷の中にあり。郡家の正南一里なり。厳堂を建立つ。
[僧五軀あり] 大領勝部臣虫麻呂が造りし所なり」とあり、斐伊郷が勝部氏の根拠地であったことがわかる。
問題は、その斐伊郷について、風土記は「樋速日子命、此の処に坐せり。故、樋と云ふ」と記す。
長々と勝部氏について述べたが、この「樋速日子命」は、摂津の服部連の祖神「熯之速日命」と同じ神である。
この勝部氏の、摂津→因幡→伯耆→出雲→隠岐というルートは、すなわち、隠岐国に多い摂津と関わる氏族の山陰進出コースを象徴しているのではないではないかと思われる。
なかでも、海部と服部という組み合わせは、隠岐国智夫郡の「大領=海部・主帳=服部」にみられるように、統治システムとして機能していることは重要である。
W 結語――麻績王(おみのおおきみ)伝承――海部と服部をつなぐもの
因幡国法美郡の服部と海部の重なりから始めた考察は、隠岐国の知夫郡における服部と海部の統治体制の分析を経て、両者の結びつきが偶然のものではなく、大和政権の意識的な配置であった可能性が高まった。
さらに隠岐国の氏族・部民の構成から、摂津との深い関係が見えてきた。特に勝部氏の移動経路に象徴されるように、摂津→因幡→伯耆→出雲→隠岐という日本海ルートが想定されると思われる。
しかし、服部と海部の関係はこれだけではない。
大和から伊勢、紀伊、阿波、さらに三河、遠江、東国へと繋がる太平洋ルートについても考察するのが当然であるが、次回に回したい。
その予告編というのではないが、最後に、海部と服部をつなぐものとして、麻績王(おみのおおきみ)伝承について記しておきたい。
麻績王とは、伊勢の機織り氏族である麻績部と関わる人物であるが、『日本書紀』天武4年4月条に、麻績王を因幡に流すという記事がみえる。
そして、『万葉集』に「打つ麻を 麻績王 白水郎なれや 伊良虞の島の玉藻刈ります」という歌が残されている。機織り氏族の象徴的人物が、「白水郎(あま)なれや」と歌われているのである。
また王とともに流された子どもたちの流刑地は、伊豆嶋、血鹿嶋(五島列島)、伊勢の伊良虞の島、三重県鳥羽市の神島と広範囲にわたり、いずれも海と関わる地である。さらに『常陸国風土記』行方郡条は。同郡板来(いたく)村(茨城県行方郡潮来町)とも記す。
折口信夫は、この伝承を海の民による貴種流離譚とする魅力的な見解を示すが、いずれにしても、この伝承の背後には、海の民と機織り集団との密接な関係が隠されていることは言えるであろう。
この王が因幡国に流されてきたという。因幡国法美郡の岡益石堂は、麻績王の墓とする説がある。またその近くには太田神社が鎮座し、サルタヒコを祀るのも興味深い。
以上、愚考を重ねたが、福部町における海部と服部の重なりは、海の民と機織りの民の深い因縁を語り、その系譜は全国各地に広がっている。
[52] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月03日 07時41分51秒 ) | パスワード |
以上。
非常に面白くて引き込まれて
で、最後に自分の言葉でまとめようとすると
あれ?ワケ分からなくなった!
です。
スサノオを考えると 因幡や伯耆の服部は外せないな、と。
結論は、服部連には2系統あった、で良いですか?
平安時代に成立した『新撰姓氏録』によると、
天御中主命十一世孫天御桙命を祖とする大和国の服部連と、
熯之速日命十二世孫麻羅宿禰を租とする摂津国の服部連の、
二系統の 服部連がいたことが記録されている。
大雑把にいえば、
天御桙命は忌部氏系、
熯之速日命は尾張氏系ともいえるが、
この二系統がまったく関係のない氏族だったのか、
元は一つのものが枝分かれしていったのか不明。
また二系統が重なり合うケースも多々ある。
ここに更に新羅がらみで?秦氏が乱入し、場外乱闘に拡大発展。
新羅の神様も
同一神ではあるがユダヤの神様も景教の神様も入り乱れて
しっちゃかめっちゃかに。
忌部氏と尾張氏が出て来てまたまた混乱のきわみ。
忌部氏系服部連と尾張氏系服部連?
古代日本史は物部氏と蘇我氏の2極で語られるとスッキリするのですが人間のことはそういうワケにもいかず。
ああ、やっぱりワケ分からなくなって来ました。
[53] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月03日 12時33分00秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
一つ訂正させていただきます:
秦氏 「天御中主と同租」(間違い)→「太秦公宿祢と同租」(正しい)
さて、大変な情報、さすがあを様であります!
「安曇氏と服部氏」―これをヒントに一気に頭の中の情報が統合されまし
た!
それは即ち、安曇族という海人族がその頃の日本にはベースにあって、
渡来人と持ちつ持たれつ(とりひき)で協力した。その中には徐福の大船団の
民=移民もいた。その移民は秦から来たと云う意味の秦氏(当初名前を変える
も後に復姓)、第一波の秦氏であろうし、同時に徐福(ニギハヤヒ)に仕える物部氏
グループであろう。麻を扱う麻績氏(後に絹織物を扱う服部氏含む)もその中
にいた。紀元前三世紀の終り、すらわち紀元前二世紀直前のことである。
また、古代から近代まで、軍事的にも経済(特に農業生産)的にも、強くな
るためには、「鉄」を手に入れることが最優先課題であった。そういった
意味では、「鉄」というキーワードで物部氏も安曇氏も秦氏も服部氏もつな
がっていたとみることもできる。鉄を手に入れるための金、また絹であった。
新たな地平線が開けました!
[54] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月03日 13時39分03秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
結局、グルグル回って、結論は 鉄を手に入れるための金、また絹、であった に収束しましたね。
だから「服部」だったんか、と。
これも面白かったです:
「考察A」 摂津の服部連
摂津国島上郡服部郷と式内社・服部神社の存在から、摂津を本拠とする服部氏の存在が明らかになる。しかも祭神の熯之速日命は尾張氏の祖神であり、『新撰姓氏録』の記述と矛盾しない。
この服部郷には「塚脇古墳群」と呼ばれる古墳時代後期の群集墳があり、紡錘車など機織りに関係する遺物が出土している。
このことから、服部連一族の墓陵の可能性が強いとされている。
また、芥川をはさんだ対岸に式内社「阿久刀神社」があり、そこにも顕宗天皇の時代に蚕織絁絹の見本を献上したという伝承がある。
このように、服部郷周辺は養蚕・機織りに関係する氏族が集中していたと思われる。
一方、摂津には住吉大社が鎮座地する。
津守氏と安曇氏が祭祀する神社であり、中央における安曇氏の拠点でもある。
『日本書紀』応神天皇3年11月によると、「所どころの海人が命に従わないので、安曇連の租、大浜宿禰を派遣して、その騒ぎを治めた。よって安曇を海人の統率者にした」とある。
九州を本拠とする安曇は中央に進出し、海人の統括をしたと思われるが、摂津はまさに中央における安曇の本拠地であった。
隠岐国の氏族構成に、津守、安曇がある点を踏まえれば、
おそらく隠岐国に濃密に分布する海部系の人々は、
この摂津の津守氏や安曇氏の影響下にあったと思われる。
このように見てくると、服部、海部、津守、安曇の他、鴨、勝部、日下、太田など、隠岐国の氏族・部民と、摂津の氏族は重なってくる。
ワタクシ的には、古代人も現代人に劣らず、行動範囲・経済圏が広かったんだな、と。
それだけ強大な力を持っていたのだな、と。
[55] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月04日 08時53分50秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
徐福に関する書物は少なく、なかなか正しいと思われる史料が入手できま
せん。私のところに五冊くらいあるのですが、日本へついてからの軌跡が
よくわかれません。また三千人の少年少女を乗せてやって来たというのも、
白髪三千丈の類で、せいぜい三百人位とみた方がいいのではないか。全体を
三百人とみると、工人(技術者)が漕ぎ手を兼ねて百人位、少年少女は二百人
程度ということになります。
これだけの人数で、どれだけの産業革命ができただろうと思うと、秦氏の
第一波を徐福船団の人々とすることに不安を覚えてしまいます。
たぶん、渡来人の流れは、応神期等を除き、こまめにまんべんなくあった
のではないかと考え方を変えてみる必要があるような気がします。
何れにしましても、安曇族が海運・海上交通を担っております。拠点は
「志賀島」です!
これから書の会へ行きます―
[56] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月05日 00時07分55秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
少し補足、及び修正をいたします。
まず、海人(海神)集団について―
「安曇氏」は全国の海人集団「海部氏」を管掌する伴造の地位にあった。
その安曇氏と同族というか、むしろ嫡流的存在が「和珥氏」であり、大和
朝廷の大王家の多くに后妃を輩出している。
そして、秦氏の渡来でありますが、秦氏の上位概念としては広義のヤダヤ
人ということで、基本的には、大きな流浪(東へ)の元となったのは―
@紀元前722年のアッシリアによる北イスラエル王国の滅亡。
A紀元前586年のバビロン王国によるユダ王国の滅亡。
B紀元70年のローマ帝国による再度のユダヤ王国の滅亡。
であります。
この流れの中のどこに「徐福渡来船団」の人数が史記によるように3000
人だったのか、それはオーバーということで300人位なのか、富士古文書に
よるように85隻の船団だとすると、荷物もあり仮に60人乗ったとして、約5000人ということになる。この人数は大きな影響力を持つので無視できな
いものである。
いずれにしても、これらの流れをもう一度整理してみたいと思いまして、
飛鳥氏の『失われた徐福のユダヤ人 物部氏の謎』を読んでみますと、お
およそ次のようにまとめることができます―
@古代より、イスラエルの民が日本に渡来して来ていた。
A紀元前200年の少し前に、徐福がユダヤ人を連れてきた。
それが海部氏と物部氏である。
B応神天皇が、海部=物部氏の王家に婿入りし、大和朝廷を開いたことで、
朝鮮半島の伽耶で待機していた秦氏が大集団で渡来して来る。
Cユダヤ人原始キリスト教徒であった秦氏は、たくさんのイスラエル系神社
を創りながら、またユダヤ人ユダヤ教徒の物部氏が創ったユダヤ系神社を
ことごとく乗っ取っていった。
D秦氏の中の秦氏、賀茂氏はやがてすべての神社を支配するようになった。
ということであります(宗教も含んででありますが)。
イスラエル・ユダヤから東方へ向かった人の数は、一体何人位だったでしょ
う? シャハン博士の『失われた十部族の足跡』から推測してみても、百万人
単位、ひょっとすれば五百万人以上の数になるかも知れません。いわゆる古代
の難民、あるいは民族大移動のようなものだったのかも知れません。
服部氏もその中にいた……もともと「ハトリ」と呼ばれていた? それは、
遡れば「ハッタイト・ヒッタイト」の「ハッタイト」、さらに言えば「ハッ
ティ」族だったのではないか? 「ハタ」「秦」もまた、「ハッタイト」が
語源だったのではなかろうか?
昨日より花粉症が出まして最悪です―
[57] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月05日 02時54分05秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
花粉症、大変ですね、暫く。
まだ2月の初めなのにね。
お大事に。
古代のお話は現代のちゃんとした記録(客観的数値)の話と違って
と言いたいところですが
実際には現代でも積載量オーバーとかやってますから
古代の話となると全くの闇の中での話でしょうね。
遣唐使船よりずっと前の時代のことですから
1艘に60人というのは妥当なところかも、ですね。
でも85艘で来たということは、実は、もっと少ない人数しか1艘には乗ってなかったのかもね。
時代が時代ですから、船もずっと小さかったでしょうし、船員も入れて20人ぐらいだったかも?謎
ま、3000人の派遣、というのは中国的見栄だったでしょうね。
中国側の本音としては30人(男女15組)も日本に着ければ良いということでその100倍の3000人を送ったと記録したのかも。笑
でもユダヤ人が(中東あたりの人々が)いつごろ日本に来たかと考えると
正倉院の宝物から考えて、その頃には来てたのは確かだろう
では、その前は?というと想像も付きません。
中国大陸あたりで右往左往してたろうなとは思います。
もっと遺伝子の解明が進んで詳しく分類されたら
男性の場合は父方も分かるのですから
それこそ父方母方両方の先祖が分かります。
でもコレでは 父の父の父の ・・・ ∞ ・・・ の父しか分からないですよね。
逆に日本の天皇の万世一系(笑)の父方を追求するにはサイコー!笑
これですと、将来、三つ柏さんはどこでユダヤ人の血が入ったか分かり易いかも。
ワタクシの場合は母方しか分かりませんからね。で、中東人も欧州人もいない。入ってたら美形になってたかもしれないのにね。残念
ということは日本では女性天皇なんてあってはいけないんだなあと思います。
なるほど人類が後継者は息子に限りたかったというのが分かるような感じ。笑
遺伝子研究が進んだらハッキリしちゃうかも。
近い将来ですよ。
そしたら人類は近親憎悪で殺し合って来たというのがハッキリしちゃうかも。
パレスティナ人の先祖はユダヤ人と同じなんて言いますからね。ユダヤ人もイスラムになってますしね。
今年になってここ数日で逆に日本が万世一系に拘って来たというのに納得しちゃいました。
父親の「血」に拘って来た(笑)日本人ってすごいなぁ(笑)、と。
つい最近まで愛子が天皇でもいいじゃないかと思ってましたが、あ、そうじゃないんだぁ、と。
血に拘るということを(あ〜、アホらし)と思いつつ(あ〜、すごい思いが入ってるんだ)と。
http://www1.cts.ne.jp/fleet7/Museum/Muse019.html
遣唐使船
唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報入手と、先進的な唐文化の摂取が 目的だったが、日唐関係が安定した八世紀以降は後者の比重が大きくなった。 唐の諸制度や文化に通じた留学生・留学僧は、建設間もない日本の律令国家を整備する上で 不可欠であり、その意味で遣唐使は律令国家の繁栄を支えていた。 また、当時の我が国には、今の東京大学のような官僚養成大学が無かったので、外国に情報収集もかねて留学させていた。しかし当時は航海技術が未熟であったため、渡航はまさに命がけだった。
当時の船は船底が平底で、まるで箱が海に浮いているようなもので、波を受けるとあっけなく沈んでしまった。八世紀の遣唐使のうち全ての船が往復できたのは、なんとたった一回だけという遭難率だった。遣唐使船が四隻なのは、どれか一隻でも中国に着くためだったといわれる。遣唐大使に任命されても嫌がって拒否する人もいたようで、まさに命がけの 航海だった。
舒明天皇2年(630)から寛平6年(894)の間に、日本から唐に派遣された公式の使節である遣唐使は、およそ20回任命されたが、そのうち、実際に渡唐したのは16回だった。
遣唐使の長官は大使である。その上に執節使や押使の置かれた場合もある。大使の下に副使。大使・副使は通常1名。その下に判官・録事若干名ずつ。このほかに知乗船事・造舶都匠・訳語(おさ)・医師・陰陽師・画師・史生・射手・船師・新羅訳語・奄美(あまみ)訳語・卜部(うらべ)・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・激師(かじとり)・域人(けんじん)・挟抄・水手らがあり,これに留学生・留学僧らが加わり、1隻に120人ほど乗っていた。はじめのころは、1隻か2隻の帆船で渡海したが、8世紀にはいると4隻となり、多い時は一行全員で500〜600人にもなった。
遣唐使船の大きさは長さが30m、幅7〜9m、排水量約300t、帆柱2本で平底箱型。鉄釘はほとんど用いず、平板をつぎあわせて造ってった。そのため波切りが悪く、不安定で、強風や波浪に弱いという欠点があった。また、航期や航路をあやまることが多く、遭難する船が少なくなかった。なお、近年では遭難の最大の原因は、定員オーバーや積載オーバーではなかったかとみられている。
唐への航路は、はじめ朝鮮半島沿いに渡海し、山東半島に上陸して唐の都・長安に向かう北路をとったが、朝鮮半島にあった新羅との関係が悪化した8世紀以後は東シナ海を横断して、直通で行くかあるいは南の奄美大島に寄って行く航路で、揚子江の河口付近に上陸し、長安に向かう南路(南島路)をとるようになった。遣唐使船は無風や逆風の際は帆をおろし、櫓を用いたので多数の漕ぎ手を乗せており、また漂着した場所での安全を守るため、同じく多数の射手を乗せていた。
奈良朝、平安朝の時代に遣唐使船は18回出港したが、無事任務を果たして帰ってきたのはたったの8回だと言われている。
[58] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月05日 14時03分51秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
坂東誠著『古代日本ユダヤ人渡来伝説』(PHP研究所)を本日送りました。
[59] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月05日 14時16分01秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
本日木曜日「鉄」の本を頂きました。
ありがとうございました。
『古代日本ユダヤ人渡来伝説』楽しみにしております。
[60] | ときおさんからのコメント(2016年02月05日 23時36分18秒 ) | パスワード |
あを様へ
スマホで書いています。書きかけが途中で消えてしまいました。
徐福について新しく本を読み直していました。しかし、ネットで
下記のサイトに行き着きました。九州の有明湾の徐福についての
伝承地が多く存在して居ますので、無視は出来ません。しかし、
下記の徐福の船団の船用バラスト石ならば真実味が出てきますね。
当然、最終の地になるかもですね。
『東海・関東地域の徐福情報について』xufu.sakura.ne.jp2015-7ronbun-maeda.pdf
と『とうかいちほう・東三河の徐福伝承』も面白いです。
ときお より
[61] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月06日 05時23分32秒 ) | パスワード |
ときおさん
ありがとうございます。
いくつか見てきました。
アッチにもコッチにも伝承があるというのが面白いですね。
九州上陸はすんなり(そうだろうな)と受け入れられます。
3000人の子孫が瀬戸内海沿岸や遠江や東国に行ったというのも受け入れられます。
豊葦原の瑞穂の国が豊橋の前身というのも面白いです。
でも中国的詐欺の延長というのも想像するし。
徐福って歴史的なペテン師だったのかもというロマンも分かるし。
笑
夢があります。
http://xufu.sakura.ne.jp/2015-7ronbun-maeda.pdf
前田 豊 さんの東海・関東地域の徐福情報について
状況証拠がたくさん!
http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/page006.html
前田 豊 さんの
東三河と徐福伝説
----秦の徐福は東三河に定住していた!?----
夢がある
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1291.html
東三河の秦氏 その15
秦氏に2流れあり
[62] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月06日 05時41分59秒 ) | パスワード |
http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-2193-7.html
徐福と日本神話の神々
前田 豊 著
四六判 / 205ページ / 並製
定価:2,000円 + 税
ISBN978-4-7791-2193-7 C0021
奥付の初版発行年月:2016年01月 / 書店発売日:2016年01月21日
内容紹介
今から2200 年前、徐福一行は日本列島に渡来した
といわれている。
縄文から弥生時代への変わり目の頃である。
日本古代史は天皇の歴史でもあるが、徐福伝承は
全国に存在し、その活動状況も少しずつ
明らかになりつつある。
本書は、第1編で、日本各地の伝承の実態をまとめ、
第2編で、徐福に関する古代文献から
これまでの論考を整理、徐福像の確立を目指し、
その足跡と精神の日本文化への影響を探る。
徐福伝承を通した日本列島の古代史を広げ、
進化させる労作。
著者プロフィール
前田 豊(マエダ ユタカ)
1941年兵庫県生まれ。大阪大学工学修士、繊維化学会社にて
炭素繊維技術研究開発に従事。不思議現象の発現メカニズムと
意識科学に関心をもつ。
サトルエネルギー学会学術委員長、エネルギー資源学会会員、
イワクラ学会理事、神奈川徐福研究会理事、国際縄文学会会員、
歴史研究会会員。
著書『古代神都 東三河』、『倭国の真相──古代神都 東三河2』、
『消された古代東ヤマト──蓬莱の国 東三河と徐福』、
『徐福王国相模──古代秘史・秦氏の刻む歴史』(以上、彩流社)、
『炭素繊維の最先端技術』、
『炭素繊維の製造・応用技術の最前線』など多数。
目次
まえがき
第T編 日本の徐福伝承
第1章 古代日本列島への渡来者
第2章 日本各地の徐福情
第3章 中国地方・近畿の徐福情報
第4章 東海の徐福伝承
第5章 関東──相模の徐福情報
第6章 富士山麓の徐福伝承
第7章 東北、伊豆諸島の徐福伝承
第8章 日本古代史における徐福の位置づけ
第U編 徐福に関する論説
第1章 徐福と富士古文献の関係について
第2章 竹内文書と富士文献の繋がり
第3章 徐福の民族的考察
第4章 東三河の秘史から推定される徐福
第5章 イワクラ信仰と徐福・秦氏の関係
第6章 日本神話の神々は徐福集団が反映されている!?
第7章 日本精神文化の基層──神仙思想と不老不死の世界
あとがき
徐福って一体何者だったんだろう?と思います。
日本の神話は実は徐福集団のこと?
ホント、夢とロマンに満ち溢れた古代の人々、秦氏!笑
母方の遺伝子的には95%縄文人のワタクシは古代の神話に非常に納得するのですが
秦氏がからむと アレ? となって引っ繰り返って
さらに広東の人には「アンタは中国人認定」されるし(ワタシは1000代のうち4人しか中国人の女の先祖はいないのに)
ワタシって何者?
自分のアイデンティティが揺れまくります。笑
ユダヤ人も入ってるのかな?母方には中東系はいないから Hit & Run =やり逃げ=のオトコがコッソリ紛れ込んでるのかな?
[63] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月06日 09時22分59秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
徐福が鐃速日であったかどうかは別途考察するとして、物部氏の謎につい
て、別冊宝島『神社仏閣に隠された日本史の謎と闇』は「蟻の一歩」どころか
「蟻の三歩」位の価値のある特集でした。
後でまとめたいと思います。
[64] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月06日 12時52分33秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
別冊宝島『神社仏閣に隠された日本史の謎と闇』は、文庫本でも出版され
ておりまして、著者はあの『出雲大社と千家家の秘密』を書いた中見利男氏
でありました。『信長の暗号上・下』でもすごいなとうならせてもらった
覚えがあります。飛鳥氏とは別の意味で信憑性がありそうな感じであります。
[65] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月06日 22時24分34秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
>徐福が鐃速日であったかどうかは別途考察するとして、
>物部氏の謎につい て、別冊宝島『神社仏閣に隠された日本史の謎と闇』は「蟻の一歩」どころか
>「蟻の三歩」位の価値のある特集でした。
>後でまとめたいと思います。
よろしくお願い致します。
>『信長の暗号』
ヴァリニャーノが信長から安土城を描いた屏風を贈られた話ですね。
屏風はいまだに行方知れずとかいうの。
>飛鳥氏とは別の意味で信憑性がありそうな感じであります。
屏風なんぞから話を発展させられるんですからすごい想像力です。
(読んだわけじゃないのですが、屏風の絵はローマ教皇への挑戦状、という話なんですか?)
とすると信長の野望の話かな?
日本は息子に任せて信長は大陸を征服するとかのお話?
[66] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月07日 01時05分31秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
本日は一日conferanceでありましたので、明日にいたします―
[67] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月07日 03時46分35秒 ) | パスワード |
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101511.html
長上郡の服部氏族LⅪ(2016年の課題確認 4) スレッド61を立てました。
キリの良いところでどうぞ。
[68] | 丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月07日 15時03分25秒 ) | パスワード |
空の青海のあを様
訂正:conferance → conference(英語のスペルはあらためて難しいと実感
しています)
さて、花粉症(?)も木・金・土と徐々に和らいで、本日はかなりよくなりま
した。水曜日にゴルフで外気をマスクなしで思いきり吸ってしまったのが原因
で、その夜から突然ひどい状態に陥りました。
毎年二月から五月あたりまで、風邪をひいていないのに風邪をひいているよ
うなうっとうしい日が続きます。アレルギー反応については特定できておりま
せんが、私の想像ではPM2.5と黄砂ではないかと想像しております……。
『信長の暗号』は、あを様ご指摘のとおり、ブァリニャーノに持ち帰らせた
『安土図屏風』から始まる暗号解きのミステリーです。屏風の裏には「いろは
歌」が書かれていて、それを解読するためにオルガンテイーノが日本にやって
来て、空海のこの歌を暗号士と共に解いて行く。その謎は剣山に隠された契約
の箱に至る…というもの。信長、秀吉、家康、秀忠、伊達政宗…確かに色々謎
めいたところはありますね。物部氏の十種神宝の喪失問題も、信長あたりから
始まり、天海で終結している。安土桃山・近世におけるキリスト教の裏戦略に
何か秘密がありそうで、探究する必要がありそうです。
この『信長の暗号』を書いた中見利男氏が、2013年の10月に編著したのが
『神社仏閣に隠された日本史の謎と闇』であります。それについて、私は未だ
全部を読み通しておりませんが、肝心なところを抜出し要約しようとしまし
たが、まとめにくい書き方でありました。そこで、中見氏の『出雲大社と千
家氏の秘密』をひも解きましたところ、その第六章「天孫降臨に隠された不
比等のクーデター!」にそのほとんどがオーバーラップされておりました。
いずれにしても、不比等の目論んだことは古代の失われた十支族を引き継
ぐ物部氏とヘブライ色を隠蔽し、天孫降臨という神話に変え、また万世一系
の血脈をうたい、正当化したということ。それは持統天皇以下、藤原氏も含
めての正当化・権威付けができたということ。さらには、それは、天皇家の
秘密の漏洩防止、失われた契約の箱等の喪失防止にもなった―私利私欲のた
めだけではなかったというような気もいたします……?
[69] | 空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月07日 22時26分04秒 ) | パスワード |
三つ柏さん
そちらの話でしたか。
ノアの箱舟は剣山にあった?
>『出雲大社と千家氏の秘密』をひも解きましたところ、
>その第六章「天孫降臨に隠された不比等のクーデター!」にそのほとんどがオーバーラップされておりました
ではココを読めば良いのですか?
にっこり
>不比等の目論んだことは古代の失われた十支族を引き継ぐ物部氏とヘブライ色を隠蔽し、
>天孫降臨という神話に変え、
>また万世一系の血脈をうたい、正当化したということ
へ〜
今朝は3時にイギリスに2つ送信せねばならぬところ
1つ目はスンナリ送信できたのですが
2つ目はネットが切れてしまって大騒ぎ
朝の3時にアチコチ叩き起こすことも出来ず
オットが直してくれて復旧したところでございます。
汗
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.25 Rapah. |