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 投稿番号:101499 投稿日:2015年11月13日 01時48分16秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LV(M氏家譜19 +芭蕉・伊賀あたり)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101496_67.html
長上郡の服部氏族LW(M氏家譜18+芭蕉・出雲・伊勢あたり)
スレッド54の続きです。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月13日 10時44分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 スレッドありがとうございます。

 週末は天気が悪い(雨)の予想ですので、木曽(長野県)へ行くのは二週間
延期することにいたしました。木曽へ行く目的の一つは、木曽義仲に対す
る芭蕉の強い想いがどこから来ているかということを突き止めたいからで
あります。
 もう一ヶ所は、大津の義仲寺にも行きたいと思っています。義仲と墓を
並べるということは、お寺さんのコンセンサスもなければなりません。
 義仲と芭蕉…いったい義仲のどこに芭蕉は身も心も魅かれたのでしょう
か? 「弘法大師と一緒」=「同行二人」、死後の旅は義仲と「同行二人」
で「枯野をかけめぐる」という夢・憧れを抱いたのか……?。
ほかにもこれはという人はいろいろいたでしょうに、なぜ義仲に……???

 伊賀の愛染院には、芭蕉の遺髪が納められているそうです。愛染院は松尾
家の菩提寺。松尾家の心の故郷です。「愛染明王」といいますと、確か空海
が我が国に初めてもたらし仏像及び概念だと思います。

 あを様、松尾家の菩提寺の「愛染」院…ここに「芭蕉の心」の根本が宿
っているのかも知れません……調査をお願いします。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月13日 11時29分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


          「しぐれ」が出て来ましたよ。
           ということは「しぐれ」は芭蕉にとって大切な意味がある雨のようですね。

          芭蕉にとっての「しぐれ」の意味を探りたいですね。



取り敢えず、まず、愛染院について1つ目をアップ。

http://igakanko.net/index.php?%E6%95%85%E9%83%B7%E5%A1%9A%E3%83%BB%E6%84%9B%E6%9F%93%E9%99%A2


芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日、旅の途中の大阪で病に倒れ没し、

亡骸は遺言により「ふる里のごとく」愛した滋賀県大津市膳所の義仲寺に葬られましたが、

訃報を受けた伊賀の門人・服部土芳(蓑虫庵主)と貝増卓袋によって遺髪が奉じ帰られました。

二人は形見に持ち帰った芭蕉翁の遺髪を松尾家の菩提寺「愛染院」の藪かげに埋め、
標の碑を建て『故郷塚』と称しました。

当時の塚から、現在の場所に移されたのは、
芭蕉翁50回忌の元文3年(1738)の時と伝えられています。




本堂左手の小さな門をくぐり生け垣沿いの小径を進むと、つき当たりが故郷塚です。
茅葺き屋根の小堂の中に高さ70センチほどの自然石の塚があり、
碑面は読みにくくなっていますが、門人・服部嵐雪の筆によるもので、
中央に「芭蕉翁桃青法師」・右に「元禄七甲戌年」・左に「十月十二日」と刻まれています。

翁の没後、伊賀の門人たちは毎年ここで「しぐれ忌」を催し追善し、
その志は今日まで連綿と続けられています。

ここには文豪尾崎紅葉や川端康成をはじめ多くの文人墨客が参詣されており、
今も香煙の絶え間がありません。




遍光山願成寺という真言宗のお寺で、愛染明王を安置することから
「愛染院」と名付けられました。


           へえ〜、すぐ近くなんですね。

松尾芭蕉の生家から徒歩3分のところにあり、代々松尾家の菩提寺とされてきており、
境内には、大津に滞在していた51歳の芭蕉が、実家の兄・半左衛門より手紙で郷里に招かれ、

伊賀上野に帰郷した際、一家そろって祖先の墓に詣でた折に詠んだ、
「故郷の盆会に一族の者と墓参りにでかけた。みな年老いてしまい、杖をつき白髪の者もいる。
自分もまた同じように、年をとってしまったものだ。」という意の
『家はみな杖にしら髪の墓参り』の句碑が建っています。



本堂前には、「一回一誦(いっかいいちじゅ・いちえいちず・いちえいちじゅ)」の
石碑が建っています。 

一回一誦の石碑の上部の回転部分は『摩尼車(まにぐるま)』または
『後生車(ごしょうぐるま)』といい、正法のお経が刻まれた車輪型の経文石板に触れ、
一回転させる事でお経を一回読誦(一回一誦)した事になります。

更に心を込めて回すと、その回数のお経を読んだ事と同じ功徳がいただけるとされ、

また、一心に合掌し誓いや願いを祈りながら摩尼車を回すと、
必ず祈願が叶うと信じられています。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月13日 11時35分03秒 ) パスワード

時雨とは


http://hai575.info/sa11b/03/03.htm


[季節] 初冬を主に三冬(11月を主に11月から1月)天文季題
[季題] 時雨(しぐれ)
[副題] 時雨る(しぐる)    片時雨(かたしぐれ)
    朝時雨(あさしぐれ)  夕時雨(ゆふしぐれ/ゆうしぐれ)

    小夜時雨(さよしぐれ) 時雨虹(しぐれにじ)
    時雨雲(しぐれぐも)



 冬の初め晴れていても急に雨雲が生じてしばらく雨が降ったかと思うとすぐに止みまた降り出すことがある。これを時雨という。



 古くは京都の北山あたりで見られるこの現象を「時雨」と詠まれていたが次第に各地の冬の通り雨をも時雨と詠まれるようになった。



 陰暦10月は「時雨月」ともいわれるように時雨の多い時期である。

 一方では晴れていながら一方で時雨れているのを片時雨という。




時雨はその定めなさ・はかなさを趣として句に詠まれことが多い。


 また晩秋や春にも同じような雨を見ることがあるが「秋時雨」「春時雨」と詠み別題となる。



____________________________

>>>時雨はその定めなさ・はかなさを趣として句に詠まれことが多い。

これが芭蕉が義仲を好きな心象風景なんでしょうか?
義仲を俳句の季語で例えると「時雨」?


    おっ!
    すごい発見?(謎)
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月13日 11時42分21秒 ) パスワード

河合 曾良(かわい そら 慶安2年(1649年) - 宝永7年5月22日(1710年6月18日))

     (だがこの日に曾良が没した記録が、巡見使随員の日誌に無いため、没した正確な月日は判明していない)


江戸時代中期の俳諧師。


松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行した弟子。蕉門十哲の一人とされる。




経歴[編集]

信濃国高島城下の下桑原村(現長野県諏訪市)の高野七兵衛の長男として生まれる。幼名は与左衛門。

その後、両親が亡くなったため伯母の養子となり、岩波庄右衛門正字と名乗る。

12歳の時、養父母が亡くなったため伊勢国長島の住職・深泉良成の元に引き取られる。


              曾良が伊勢長島藩にいたとは驚きでした。
              両親も亡くなり、養父母も亡くなって、伊勢長島へ?


              伊勢長島といったら(我が家に関係しますし)反信長の拠点でした。

              曾良さん、やっぱりアヤシイ。

寛文8年(1668年)頃より長島藩主松平康尚に仕え、河合惣五郎を名乗る。

天和元年(1681年)頃に致仕。江戸の吉川惟足に吉川神道を学ぶ。元禄2年(1689年)、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅に同行し、「曾良旅日記」(天理大学附属天理図書館所蔵、重要文化財)を残した。



宝永6年(1709年)に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、
翌年、壱岐国可須村風本(現長崎県壱岐市勝本浦)で巡見の途上に病没した。
享年62。
戒名は賢翁宗臣居士。
墓所は壱岐島の能満寺。元文5年(1740年)、没後30年を経て故郷・諏訪の正願寺にも墓標が建てられた。



平成6年(1994年)5月24日に旧勝本町と諏訪市が河合曾良の終焉の地と生誕の地としての縁で友好都市提携を結び、旧勝本町が旧壱岐郡3町と合併(平成の大合併)後も壱岐市に受け継がれた。
[5]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月13日 14時43分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 さっそくの調査ありがとうございます。
 「時雨」の風景、そういえば安藤広重も時雨の風景に何か感じて何枚か
描いていますね。
 北山時雨・・・京都にいた時、よく聞きました。
 「時雨煮」・・・桑名の「時雨蛤」の命名は芭蕉十哲の「支考」だった
そうです。
 昔の人は、「時雨」にも感性豊かに感じたのですね。今の人は合理的に
しか見ない。アナログ時代再びを願いますね。
 
 あお様、さらに「愛染明王」について調べていただくとありがたいので
すが。芭蕉には人間愛があったような気がします。詫び詫びての果てにや
はり救いの光を欣求していたのではないかと思うからであります。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月13日 15時05分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくし的には  愛染=愛染かつら  というイメージがあって男女のドロドロ  なんですが

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%9F%93%E6%98%8E%E7%8E%8B

愛染明王信仰はその名が示すとおり「恋愛・縁結び・家庭円満」などをつかさどる仏として古くから行われており、


また「愛染=藍染」と解釈し、                                              ココ!
染物・織物職人の守護仏としても信仰されている。


さらに愛欲を否定しないことから、古くは遊女、現在では水商売の女性の信仰対象にもなっている。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月13日 15時08分05秒 ) パスワード

メンタル・ブロックがかかっているようで
なかなか  愛染明王 と 松尾家の繋がり を検索する手掛かりが見つかりません。


   アタマ休ませます。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月13日 17時07分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございました。わかりました。ここが一番真言宗の考え方の
誤解を生み安い部分でありました。空海は「理趣経」で生命の営みを肯定
し、衆生の救済に生死をかけよと教えているのであります。
 きっと、愛染院において、松尾芭蕉も真言宗の「理趣経」を聞いたでし
ょうし、僧侶のお説教話も聞いたでしょう。理趣経は陽性な教え、アンチ
ペシミズムの教えであります。芭蕉の最後の句を読んでも、死後の世界の
ペシミズムではなく、それでもなお生命活動を肯定しようとする薄明るい
い光が見えてまいります……。

 芭蕉は仏の道ではなく、俳諧の道での求道者であったのです。この自説
については今後検証して行きたいと考えます。
[9]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月14日 01時35分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 日曜日には天気が回復するとのこと。木曽へ行ってまいります。
 芭蕉と義仲の関係…納得のいくまで探究したい……。

 さて、松尾芭蕉の租先は福地氏で、織田信長側に付いて道案内をした、
いわば伊賀の裏切り者であったとばかり思っておりましたが、それは間違い
である表記が見つかれましたので、芭蕉の名誉のため記します―
 「松尾芭蕉の祖父も、この柘植の人で、福地氏の旧家臣だった。その祖父
 は福地氏と離れて、天正の乱に信長軍と闘って戦死しており、その人の子、
 つまり芭蕉の父はのちに伊賀上野へ出て手習師匠を始めた。」
ということが、『伊賀天正の乱』(横山高治著)に書かれておりました。

 では、夜も遅くなりましたので―
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月14日 07時13分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございました!
朗報ですね。



福地の旧家臣だった、
というのが真相だったのですね
それでお祖父さまは信長と戦って武運つたなく討ち死になさった。


良い情報でした。



木曽で何か分かりますように。
徳音寺なんど、いらっしゃるのですか?

昔、行った時に、ご近所の善男善女たちがゲートボールをしてましたっけ。
木曽軍の子孫たちは幸せそうで何よりと思いました。

そして今井の子孫という人も九州から来てましたっけ。


良い出会いがありますように。
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月14日 13時45分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉の出自からいくと、平家筋になるのに、なぜ源氏の義仲に魅かれた
のか? 義仲は源氏ではあったけれど、源義経に滅ぼされているので、
「敵の敵は味方」ということか。芭蕉のルーツとしての平宗清は情けが深く、
捕えた源頼朝の助命をはかった。「助けた敵は味方」になるということか。
 いずれにしても、源氏も平家も最初は共存していたのである。

 芭蕉(平家)から見た義仲(源氏)の関係…「敵ながらあっぱれの男」で
あるが、「悲運のヒーロー」であった。
 その義仲を滅亡させた義経は、頼朝に滅ぼされ、「敵ながらあっぱれの
男」であるが、やはり「悲運のヒーロー」であった。

 悲運のヒーロー=滅びの美学=ロマンティシズムではないか……。

 滅び行くものへの哀惜…やはりそれが「伊賀の心」なのか……。

 …あまりいい推論にはなってない感じがします。いずれまとめ直します。

 本日は、芭蕉と服部氏との関係をずっと調べ直しておりました。果たして
芭蕉は「服部」との関係を認識していたでしょうか。当然身の回りは「服部」
に囲まれていたわけですから、認識していたと思いますが……。ここら辺も
今後さらに探究して行きたいと思っております。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月14日 16時29分57秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「敵の敵は味方」ということか

はい
これは言えますね。


「敵の敵は味方といいたくなくても敵ではなくなる」ですね。



平家と義仲の関係は
どっちがどっちだったか記憶にありませんが
頼朝に対抗して手を組もうと(たぶん平家が申し入れたのを義仲が)蹴ったのだと思います。


なので平家方は義仲をそんなに憎んではいないと思います。



でももっと読まないといけません。
たくさん読まないといけません。

いろいろな人の書いたものを読まなくては。
異なった視点から考えたいので。
[13]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月15日 05時47分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は『浜松の歴史』という本に目を通しておりましたところ、М氏に
関連すると思われる新たな史実を発見しました。
 それは、土地所有の形態で、熊野の御師が荘園を支配していたという事実
であります。平家が新熊野神社に羽鳥荘を寄進した後の支配体制だと思われ
ます。
 詳しくはもう少し探究した上で―

 それでは行ってまいります。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月15日 15時16分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


お気をつけて!


最近はメンタルブロックがかかってて全く検索のヒントが得られないのですが
本日は面白い情報をゲットしました。


戸隠流34代宗家  初見良昭氏  千葉県野田市に於いて古武術の武神館をやっているそうです。

古武術ですからスポーツではなく(言葉は現代にはポリティカリー・インコレクトの)アヤメルものです。
要するに忍術です。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%A5%9E%E9%A4%A8

武神館(ぶじんかん)は、日本の古武術の道場。忍術、体術、武器術と幅広い武術を教えている。


創設者は、忍術で有名な初見良昭。今では世界50か国に道場が存在し、多くの門下生がいる。武神館の武術は実戦的な事で有名であり、門人には世界各国の軍人や警察関係者も多い。

初見は「蒙古の虎」と呼ばれ、武術の達人であった高松寿嗣に師事し、15年間の修行を経て1958年(昭和33年)に九流派を受け継いだ。その後1970年代に千葉県野田市で武神館を起こした。

多くの武器を用いた練習も行っているが、普通は古流武術では教えない対拳銃用の技や拳銃を用いた場合の技も仮想敵対処として教えているため、一般市民が銃を持つ日本以外の文化圏の国でも護身術としても人気がある。



流派[編集]

戸隠流忍法体術、玉虎流骨指術、九鬼神伝流八法秘剣術、虎倒流骨法術、神伝不動流打拳体術、高木揚心流柔体術、義鑑流骨法術、玉心流忍法、雲隠流忍法の九つの流派を組み合わせて教えている。


武神館 円月道場(東海地区 岐阜県恵那市、愛知県名古屋市)
武神館 手塚道場
武神館 栗田道場(福井県敦賀市)
http://tetupan-22 武神館(世田谷・奥飛騨 山本道場)
武神館 青山支部
武神館 河俣道場(大阪府高石市)
武神館 坂口道場(大阪府大阪市阿倍野区)
武神館 関西支部
武神館 越谷道場
武神館 柳生道場(大阪府八尾市)
武神館 福上道場(栃木県宇都宮市)
武神館 不動庵道場
武神館 藤本道場
武神館 長瀬道場(よみうりカルチャー荻窪)
武神館 長瀬道場(よみうりカルチャー北千住)




[15]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月16日 06時57分16秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は530キロの旅でした。木曽路は紅葉が真っ盛りで、心の栄養に
なりました。また、木曽福島の「くるまや本店」さんの「そば」はうまか
った。とても満足いたしました。帰宅後は、木曽の地酒「中乗(なかのり)
さん」で一杯やり、疲れもあり寝てしまいました。

 義仲については、後ほど―
 
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月16日 11時29分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


ご無事でお帰り、安堵致しました。
義仲についてのご報告を楽しみにしております。


本日知ったことは

秦の始皇帝は統一した後、諸国巡行に行って
   斉の国は太陽信仰だったので
真東に向かって斉の国の神を祀ったそうです。

   こうして人心を掌握したわけです。

ここまでが情報です。

   学習院大学の鶴間教授のお話です。



ということは中国の東の果ての斉の国のそのまた東の端に日本があったのを知ったことは衝撃だったでしょうね。

そして太陽が出て来る斉の国のそのまた東に国がある  再生  = 不老不死 そんなのを考えたのかもですね。


で、徐福の日本行きに繋がったのかと。


斉の国が太陽信仰だったというのが驚きでした。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月16日 17時31分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 義仲については、想像以上に奥深い史実と伝承となっておりますので、
いろいろ取りまとめております……もう少しお待ちください。

 木曽福島に行って一番驚いたことは―
 @山村代官屋敷において、稲荷神が本物のキツネのミイラであったこと
 であります。運よくご開帳に浴しましたが、本物のキツネのミイラであ
 ありました。
 A山村氏の家紋は松島氏と同じ「丸に一文字」―現地では「マルイチ」
 と呼んでおりました。

 この家紋をヒントとして、木曽と浜松における「マルイチ」の謎を追っ
てみます。私の親友に、山村氏がおります。ひょっとして、木曽からやっ
て来たのか……?。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月16日 21時51分29秒 ) パスワード

三つ柏さん

山村氏が松島氏と同じ「丸に一文字」というのには驚きました。

ボチボチ調べてみます。

    
いろいろ想像はしていますが、最近、どんどん想像がアホな方向にズレまくるので慎重に行きます。
     トシということでしょう。
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月17日 09時10分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 山村氏を調べておりました。山村氏は遠山氏(友政)、千村氏(良重)、馬場
氏(半左衛門某)、そしてもちろん木曽氏(義昌)と親族関係になります。
 特に、遠山友政(大名 初代苗木城主)と千村平右衛門良重、山村甚兵衛
良勝は親族で、それぞれ裏木曽、伊奈、木曽の代官を務めました。また、
大久保長安とのパイプも関ヶ原の合戦以来、太いものがありました(戦後は
木曽材の調達において)。

 山村氏が浜松に来たかどうかは、しかとはわかりませんが、遠山氏が
苗木城を奪還する前、1583年に苗木城を豊臣方の森長可に攻められ、
開城し、家康の浜松に身を寄せたことは事実としてあり、山村氏の一族
関係者も一緒に来た可能性は否定できません。
 「丸一」の家紋は、市野氏が家康から賜っている。市野氏との関係かど
うかわからないが、松島氏も使用に至っている。ここの関係がわかれば
いいのですが……。山村氏と市野、松島氏が親族関係になり、同一家紋を
使用するようになったということならその可能性ありですが。

 山村良利は木曽義昌の娘を妻としている。そして千村・遠山氏らとも
姻戚関係があり、木曽氏の一族となっている。つまり、「木曽義仲」の
後裔の親族ということになる。

 木曽義仲に対する評価は、想像以上に高いものがあります―現代の人は
余り知りませんが。

 芥川龍之介が十九才の時、『義仲論』という論文を書いていました。
国民にとってのクーデターによる革命児ということで……。

 では、芭蕉が義仲に心酔したのは―

 次回まとめますので、ここで切ります。

 
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月17日 09時44分47秒 ) パスワード

http://trc-adeac.trc.co.jp/Html/BookletView/2000710100/2000710100100010/1804/?pagecode=71

山村良利は江州の人だそうです。


うまく出なかったら
http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000710100/2000710100100010?hid=ht181860
ここからクリックしてみてください。


木曽に来て武田に仕えた。
信玄の娘が木曽源太郎の男子義昌に嫁いで
信玄が良利を木曽家に仕えさせて木曽家の政治を執らせた
土民が良利を慕った
木曽で病死した。86歳
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月17日 09時51分14秒 ) パスワード

信玄の子について:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

義信、
海野信親、
西保信之、
黄梅院、
見性院(穴山信君正室)、
勝頼、
真理姫(木曽義昌正室)、    このヒトではないかと思いますが
仁科盛信、
葛山信貞、
信清、
松姫、
菊姫(上杉景勝正室)
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月17日 10時00分26秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BE%E7%BE%A9%E6%98%8C


木曾 義昌(きそ よしまさ、天文9年(1540年) - 文禄4年3月17日(1595年4月26日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。幼名は宗太郎。左馬頭・伊予守。木曾義康の長子。弟に上松義豊。正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。子に千太郎、義利、義春、義通、娘(毛利高政正室)などがいる。



天文9年(1540年)、 木曾義康の嫡子として誕生する。当初は小笠原氏や村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗するが、弘治元年(1555年)に更なる侵攻を受けて武田家に降伏した。木曾氏は源義仲の嫡流と伝わる名族であり、隣接する美濃・飛騨との国境地帯を押さえていたため、計略家の信玄は義昌に3女(一説に4女か5女とも)の真理姫を娶らせ、武田家の親族衆として木曽谷を安堵した。しかし実際には主だった家臣や親族を甲府に人質として置き、木曽の治世はすべて武田家監視の元であって、甲斐への属国化を余儀なくされた。これにより木曽は、武田家の美濃や飛騨への侵攻における最前線基地化された。

信玄の死後、凋落しはじめた武田家の行く末に不安を抱くと共に、義兄の武田勝頼による新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせた義昌は、天正10年(1582年)、遠山友忠を仲介役として織田信長と盟約を結んで勝頼に対し反旗を翻し、甲州征伐のきっかけを作った。勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に向けて派遣するが、義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て鳥居峠にてこれを撃退する。しかし、武田軍が新府城を出発する前の2月2日、人質として送られていた70歳の母、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫が新府城にて処刑されるという悲劇に遭遇している。


武田家滅亡後は、戦功として安曇・筑摩二郡(安筑10万石)を新たに加増され、深志城(後の松本城)に城代を置いて松本地方経営の拠点とした。しかし僅か3ヶ月後に本能寺の変が勃発すると、信濃国内も新たな支配権を巡って混乱し、義昌は北信濃の所領を放棄して美濃へと逃げる森長可の命を狙ったが、企みに気付いた長可に木曽福島城に押し入られ、逆に子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束されてしまう。

岩松丸を人質に取られたことで義昌はやむなく遠山友忠など長可をよく思っていなかった将達に森軍に手出しをしないように依頼して回り、むしろ長可の撤退を助ける役目を負わされた。また、変後の信濃の混乱を好機と見た深志の旧領主・小笠原氏の旧臣が越後国の上杉景勝の後援を受けて前信濃守護・小笠原長時の弟である洞雪斎を擁立し、木曾氏は深志城を奪われ、本領木曽へ撤退するに至った。


武田家の遺領を巡り景勝と徳川家康・北条氏直が争うと(天正壬午の乱)、初めは氏直に従っていたが、寝返って家康に通じて盟約を結び、再度安曇・筑摩両郡および木曽谷安堵の約定を得たが、天正12年(1584年)、家康と羽柴秀吉との対立をうけて義昌は盟約を反故にし、次子・義春を人質として秀吉に恭順するに至った。家康が小笠原長時の子・貞慶の深志城復帰を認めたからとも言われている。このため家康は義昌を攻め妻籠城に戦ったが、義昌が勝利している。これらによって、家康は木曽家を快く思わなくなったと史書は伝えている。



天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、秀吉から徳川附属を命ぜられて下総阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)1万石(あるいは2万石とも)が与えられて木曽谷を退く。理由には諸説あり、秀吉の小田原征伐の際に自身は病気と称して行かず、嫡男・義利を代理として参加させたため忠誠心を疑われたせいだとも、交通の要衝にあり優れた木材を産出する木曽谷を取り上げると同時に、家康を懐柔するために体よく使われたともいわれている。この移封によって精神的にも経済的にも逼迫した義昌は、文禄4年(1595年)に失意のままに同地で死去し、家督は義利が継承した。

法名は東禅寺殿玉山徹公大居士。墓所は千葉県旭市網戸の東漸寺(旧名は東禅寺)にあり、遺体は椿海に水葬されたという。寛文11年(1671年)、椿海は干拓され干潟8万石と称される田園地となった。現在、その一角に木曾義昌公史跡公園が造られ、義昌の銅像がある。

子孫[編集]

義昌の死後、義利は叔父・上松義豊を殺害するなどの乱暴な振る舞いにより、慶長5年(1600年)に改易に処されたとされる。義利は浪人し、その後蒲生氏を頼り、蒲生氏の伊予松山転封に随行、そのまま同地に居住したとされるが、阿知戸を退去した後の義利に関しては、確たる史料に基づく消息は残っていない。そもそも改易に際しても、「下総国に流罪」とする説と単に「追放」とする説がある。また、寛永16年(1629年)に伊予松山で没したとする説もあるが、確証は無い。その子の玄蕃義辰(よしとき)は久松松平家に仕えたが後に故あって浪人し、

その子らは最終的には親族であった千村氏・山村氏を頼り後ろ盾に頼むことにより美濃・尾張また江戸にて秩禄を喰んだ。

                       ここで千村・山村と親族だった
                       と書かれていますね。



                  


義昌には他に次男・義成と三男・義一(義通)がおり、義成は大坂の陣における豊臣秀頼の浪人募集に応じ大坂城に入って戦死。義一は母の真竜院と共に木曽谷で隠遁しとされるが、その後や子孫に関しては伝わっていない。

大名家としての木曽家は消滅したが、その名跡と領地(総禄高1万6千2百石にのぼる)は家臣(親族)であった千村氏・山村氏や久々利九人衆が継承した。



小説
伊東 潤 『木曾谷の証人』(『戦国鬼譚 惨』収録の短編)

この本はお読みになってください。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月17日 10時02分14秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BE%E6%B0%8F


木曾氏(きそし)は、南北朝時代から室町時代後期にかけて信濃国南部の木曾谷を領した国人領主。戦国時代の木曾氏は、かつて治承・寿永の乱で木曾谷から発して上洛を果たした木曾義仲の子孫を自称した(義仲の子である義宗(夭折)の末裔と自称)。実際には本姓は藤原氏(上野国沼田郷を拠点とした沼田氏、藤原秀郷流)とされ、沼田氏の当主の沼田家国(伊予守)の子で、義仲の義弟(義仲の側室の弟)で、義宗の母方の叔父でもある木曾基宗(刑部少輔)が「木曾氏」と称して、義仲・義宗父子の末裔と仮冒し、信濃国筑摩郡木曾谷を支配したとされる。

出自[編集]

木曾家の家譜「高遠記集成」(「木曽福島町史」)によると、鎌倉時代に信濃国木曾谷に義仲の五男と称した基宗(巴御前の子?)・義茂父子が存在したといわれる。以降は義茂の子・基家、家仲、家教と木曾家直系が相続されたという。

「西筑摩郡誌」(1973年) では初代を木曽義仲として2代目を二男義重とし、天福2年(1233年)鎌倉幕府4代将軍藤原頼経から義重が木曽と仁科を賜り、自身は仁科を領し、弟の四郎義宗に木曽を譲ったとある。また、木曽を譲られた義宗は沼田に居を構えて「沼田義茂」を称した、としている。

江戸時代に木曽谷を実質支配した尾張藩の木曽代官・山村良景が編纂した「木曽考」(大日本地誌大系刊行會)では、義仲を祖としている点は同じだが、2代目は三男義基としている。

「木曽殿伝記」によると、義仲没落後に義重・義基・義宗は外祖父にあたる上野国沼田の「伊予守藤原ノ家国」を頼り、その地で蟄居したとある。そして鎌倉幕府5代将軍藤原頼嗣の時代に、木曽氏4代目とされる基家が上野国と相模国に所領を得たとしている。

この伝承は「木曽考」にも取り上げられており、木曽との関係について「木曽考」では、沼田氏を称していた7代目家村が、暦応元年(1338年)に足利尊氏に属して戦功を挙げ、恩賞として木曽谷北部の大吉祖荘の宛行を受けて入部したとある。

「日本苗字大辞典」では「木曽考」の説に則っており、三男の義基から義茂・基家と続き、家仲と家教が沼田姓、家仲の孫の家村から木曽姓となっている。

ただし、これらは伝承として伝えられているものである。

史料上の初見とされるのは、至徳2年(1385年)の水無神社と黒沢御嶽神社(共に現木曽町)の棟札に記された「伊与守藤原家信」(「伊与」=「伊予」)とされる。更に、正長元年(1428年)の木曽白山神社の棟札には、「当地頭藤原家友」と記されている。その他に、木曽郡大桑村の定勝寺に宛てた享徳4年(1455年)の「左京大夫家賢」の書簡、康正2年(1456年)の「家定」の判物などがある。

これらの史料から、初期の木曽氏は藤原氏を称していた事、「家」を通字としていた事が判る。反面、木曽義仲や源氏との繋がりを示すものは見つかっていない。また藤原姓として残る「家信」と「家友」は木曽氏の系譜には載っておらず、どのような位置付けにあったかは、いまだ判明していないが、領内の有力社寺の棟札に名のある点から、少なくとも木曽氏本流に近い有力者であったことは想定できる。

木曽氏が木曽義仲を意識して源氏を称するようになるのは、室町時代後期の文正元年(1466年)に興禅寺(木曽町福島)に寄進した梵鐘銘の「源朝臣家豊」からとされる。

南北朝時代〜室町時代[編集]

南北朝時代の木曽氏に関する確かな史料は少ないが、伝承では概ね家村(又太郎家邨)が弟の家定・家道とともに、足利尊氏の北朝方として活躍し、木曾谷に勢力を扶植したとしている。木曾氏の系図でも、家村の子らから木曽谷の土豪である黒川氏、千村氏、馬場氏らを輩出している。

また。「高遠記集成」では家村には全ての男子が早世したため、弟・家道の子・家頼が伯父・家村の養子となり、木曾氏を継いだとしている。

正中2年(1385年)、家頼の子・家親の代に御嶽神社の若宮を建立、次代の親豊は永享2年(1430年)に禅院定勝寺を、永享6年(1434年)には福島に興禅寺を創建しており、木曾谷に勢力を拡大していることがうかがわれる。

また、前述の木曽氏の書簡としては最古とされる木曾家賢(左京大夫家賢)による享徳4年(1455年)の定勝寺住持補任状には、「木曽庄浄戒山定勝禅寺」と木曽谷全域を指すと思われる「木曽庄」の文言が使用されており、古来からの呼び名(北部を大吉祖荘、南部を小木曽荘)からの変化により、この時期に木曾谷全域をほぼ支配下に置いていたと考える向きもある。

応仁元年(1467年)に時の将軍足利義政から小笠原家長の子定基に宛てた御教書には、「濃州凶徒等退治の事、木曽殿に仰せつけられ、合力致し」として「木曽殿」が登場する。また、同じ定基宛の細川政国の書状にも、「木曽兵部少輔」と協力するようにと記載されている。これらは木曾家豊を指すと考えられ、当時の室町幕府に木曾氏が認知されていたことが判る。

戦国時代[編集]

戦国時代には義元が領国の隣接する信濃守護・小笠原氏と争い、更に西に隣接する飛騨の三木氏と争う。永正7年(1510年)に義元は三木重頼(三木直頼の父)との戦いによる戦傷がもとで義元が死去し、12歳の義在が後継者となる。

義在は叔父の義勝に後見され、永正10年(1513年)に将軍足利義稙に従って近江に出陣した記録もあるが、父の代に争った飛騨の三木氏との関係も修復するなど対外的な勢力拡大策を取らず、内政重視の施策に専念する。そして天文2年(1533年)には、木曽谷を南北に縦断する妻籠から新洗馬までの宿駅を定めるなど交通網を整え、信濃と美濃や飛騨との流通を握ることで経済的基盤を確立することに成功する。

天文11年(1542年)に家督を相続した義康(中務大輔、宗春)も、小笠原氏や信濃諏訪郡の諏訪氏との友好関係を築くなど、父義在の内政重視策を継承して木曾氏の勢力基盤を充実させていった。しかし甲斐の武田信玄により、天文14年(1545年)には諏訪氏が没落、天文17年(1548年)には小笠原長時が塩尻峠の戦いに敗北して没落する。

翌天文18年(1549年)には、ついに木曽谷にも武田軍が侵攻する。いったんは鳥居峠で撃退するものの、天文23年(1554年)武田氏による木曽攻略が本格化すると、義康は武田氏に臣従することになる。なお、木曽氏が武田氏に降伏した時期を弘治元年(1555年)とする説もあるが、前年であることが指摘される。

義康は娘の岩姫を人質として武田家に送るものの、信玄の三女・真理姫と嫡男・義昌の縁組により、御一門衆として遇されることになる。武田氏の下で木曽氏を継承した義昌は、永禄7年(1564年)に信玄の命で飛騨の江馬時盛支援のために出兵するが、その他は対外的な活動は見られず、祖父以来の領内経営に当っていたと思われる。

元亀4年(1573年)4月12日に信玄が死去。後を継いだ勝頼が天正3年(1575年)5月21日に長篠の戦いで織田・徳川に敗北する。東京国立博物館所蔵「甲州・真宗・武州古文書」収録の「某起請文写」では織田・徳川・上杉らを敵と認識し、武田勝頼・木曽義昌への逆臣がないことを誓約しており、木曽家臣が提出されたものであると考えられている[1]。年代は天正4年4月に推定されており、同時期に武田家中において提出された起請文は見られないことから、勝頼が木曽氏の動向に対して注意を払っていた資料として注目されている[2]。

天正10年(1582年)2月以前に義昌は織田信長の誘いに応じて離叛する。この離反は同年3月の織田信忠による甲州征伐の引き金となり、武田氏滅亡へと繋がる。

武田滅亡により、義昌は織田家から安曇郡と筑摩郡の宛行を受けて深志城主(現在の松本城)となる。同年6月の本能寺の変により甲斐・信濃の武田遺領を巡り天正壬午の乱が発生する。越後上杉氏の支援を受けた小笠原洞雪斎の侵攻を受け、木曽谷へと戻ることになった。

その後は、徳川家康と盟約を結び本領を安堵され、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉に与するが、戦いの後はまた徳川家に帰参。天正18年(1590年)の小田原征伐後、徳川家の関東移封に伴い、下総国海上郡阿知戸1万石(現在の千葉県旭市)に移封された。

文禄4年(1595年)阿知戸城にて義昌は死去。その後を嫡男の義利が継ぐが、義利は叔父の木曾義豊(上松蔵人)と不和となり殺害するなど粗暴な振る舞いが多く、慶長5年(1600年)頃に改易となった。尚、義昌が木曽から阿知戸1万石に移封された事に関しては「実質的な減封」、義昌の死去に対しては「失意のうちに」と表されることが多い。ただ江戸時代に木曽谷を実効支配した木曽代官の山村家(木曽氏の旧重臣)が7千5百石(一説には一万石)とされている点から、石高上は減封では無い。それが「実質的な減封」と伝えられる理由にはいくつか説(環境の激変や当時の阿知戸は実質6千石程度だった等)があり、また義利の改易に至った振る舞いも、「実質的な減封」に由来する不満からとの説がある。

関ヶ原の戦いで家康は下野国小山の陣に木曾氏遺臣の山村良勝、千村良重を召しだし、豊臣方の石川光吉が抑える木曽路を平定するよう命じた。

その後[編集]

阿知戸を退去した後の義利に関しては、確たる史料に基づく消息は残っていない。そもそも改易に際しても、「下総国に流罪」とする説と単に「追放」とする説がある。また、寛永16年(1629年)に伊予松山で没したとする説もあるが、確証は無い。 義利の子の玄蕃義辰(よしとき)は後の伊予松山藩主松平家に仕えたが後に故あって浪人し、その子らは最終的に元の木曾家臣で親族であった千村氏・山村氏を頼り美濃・尾張また江戸にて秩禄を喰んだ。 義昌には他に二男義成と三男義一(義通)がおり、義成は豊臣秀頼に仕えて大坂夏の陣で戦死、義一は母の真竜院と共に木曽谷で隠遁しとされるが、その後や子孫に関しては伝わっていない。

この後、木曾氏に関する同時代史料は途絶えているが、江戸時代後期に至り、江戸幕府の奥医師、葦原検校(木曾義長)が木曾氏末裔を称し、子に祖先の事蹟を執筆させた「木曾氏家禄」が群馬県渋川市北橘村の子孫の家に伝わっている。これによれば、寛文3年(1663年)義辰が松山で死去後、次代義徳は寛文6年(1666年)江戸に出て尾張藩への仕官を求め、その養子義近が尾張藩に800石で取り立てられた。次代義敦は享保末頃浪人となり、次代義忠、その次代義富と仕官を求めて剣術師範として諸国を遍歴した[3]。

義富の子義長は幼くして失明したため、異母の家名葦原氏を称し、鍼術を以って松代藩主真田家に仕えたが、次第に名声を得て、遂に江戸幕府奥医師に取り立てられた[4]。

弘化元年(1844年)、東漸寺(千葉県旭市)において、「木曾義昌公250回忌」を営んだ記録が残されている。この東漸寺は義昌が阿知戸に入部した際に木曽家累代の菩提寺として建立された寺で、このとき寄せられた追悼の和歌400首を収めた「慕香和歌集」が現在も旭市の指定文化財[1]として残されている。この「慕香和歌集」には公卿や大名の追悼歌も含まれている。 尚、この時に国学者野々口隆正が所謂、木曽義仲:旭日将軍を詠んだ「信濃より いつる旭をしたひきて 東の国にあととどめけむ」との追悼歌から、明治時代に旭町の町名が生まれ、現在の旭市へと継承された。

幕府で高位を得た葦原検校は木曾氏の再興を目指し、当初長男義寛の番入を画策、天保13年(1852年)夭逝したため、三男義久を総領とし、安政3年(1856年)遂に大番に取り立てられた[5]。

義久の死後、その弟義方が養子として家督を継いだが、江戸幕府が瓦解し、明治5年(1872年)頃、木曾氏旧臣の集住していた群馬県勢多郡箱田村(渋川市北橘町)に単身移住し、木曾三社神社宮司、玉匣小学校訓導を務めた[5]。

明治12年(1879年)義方が死去すると、東京にいた一人息子義孝が箱田に迎えられ、以降同地に義一、義久と続いている[5]。

一族[編集]

木曾氏(河内源氏義賢流)[編集]
源義仲(木曾義仲)
源義高(木曾義高、清水冠者義高) 「尊卑分脈」では「源義基」と表記。
「平家物語」では「源義重」と表記。
「木曽考」・「木曽殿伝記」・「西筑摩郡誌」では「義隆」と表記。

源義重(「西筑摩郡誌」では二男とし、木曾氏の祖とする)
源義基(「木曽考」・「木曽殿伝記」では三男とし、木曾氏の祖とする)
源義宗(「尊卑分脈」では四郎とされ、「西筑摩郡誌」では後の義茂)
源基宗(「高遠記集成」では義仲の五男とし、木曾氏の祖とする)

信濃木曾谷・木曾氏(藤原氏)[編集]
木曾義茂(基宗の子、別名:宗仲) 木曾経義(義茂の弟、別名:宗詮) 木曾義任(経義の子)
木曾為教(経義の子)


木曾基家(義茂の子)
木曾家仲(基家の子)
木曾家教(家仲の子、兵庫頭) 木曾家宗(家教の弟、贄川氏祖)

木曾家村(家教の子、又太郎家邨、木曾家再興者と称する) 木曾家定(家村の弟)
大石信重(家村の弟、大石氏祖)
木曾家道(家村の弟) 木曾義親(家村の子、夭折)
木曾家昌(家村の子、夭折)
木曾家景(家村の子、甲斐馬場氏祖)
木曾家満(家村の子、夭折)
木曾家重(家定の子、千村氏祖)
木曾家佐(家定の子、上野氏(牧野氏)祖)
木曾家任(家定の子、黒川氏祖)


木曾家頼(家村の甥でその養子、家道の実子)
木曾家親(家頼の子)
木曾頼豊(家親の子)
木曾信道(頼豊の子)
木曾豊方(信道の子)
木曾家賢(豊方の子) 木曾家信(家賢の弟) 木曾義光(家信の子)
木曾正行(家信の子)
木曾政春(家信の子)


木曾家豊(家賢の子) 木曾家範(家豊の弟)
木曾家益(家豊の弟)
木曾家盛(家豊の弟)

木曾義元(家豊の子) 木曾義勝(義元の弟、熱川氏祖)

木曾義在(義元の子) 木曾玉林(義在の弟、諱は不詳。古畑氏祖)

木曾義康(義在の子)
木曾義昌(義康の子) 木曾義豊(義昌の弟、上松蔵人、上松氏祖)

木曾義利(義昌の子) 木曾義春(義利の弟、豊臣秀頼に仕えたとも)
木曾義通(義利の弟、母とともに木曾に隠棲)

木曾義辰(義利の子、玄蕃充、法名:宗剣)
木曾義広(義辰の子) 木曾義徳(義広の弟)
木曾義偶(義広の弟)


[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月17日 10時07分29秒 ) パスワード

江戸時代に木曽谷を実質支配した尾張藩の木曽代官・山村良景が編纂した「木曽考」(大日本地誌大系刊行會)では、義仲を祖としている点は同じだが、2代目は三男義基としている。



尾張藩の飛び地で木曽の山を持っていたことは知ってましたが
    ホンヤさんとこも木曽に山を持ってたと聞いたことがありますし

ああ、あのヒトか、と驚いています。


山村氏が家康に仕えた経緯も分かりました。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月17日 10時17分03秒 ) パスワード

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%B1%B1%E6%9D%91
山村氏


山村臣、山村宿禰、山村忌寸、用明帝子孫、大江氏(土師の族で相撲の元祖の野見宿禰の子孫。平城天皇の子孫ともいわれる)、秦氏、中臣氏(太古以来の大族。天児屋根命が始祖。主として神事、祭事を司る)など様々な流派がみられる。

「山」は山の地形を表す。「村」は村(邑)を表




残念ながら文字化けしてて読めません。

http://koskan.nobody.jp/hoka.html
信濃国武将 - 小助官兵衛の部屋

山村良利 1514年〜1599年。木曾地方の国人。以前は木曾氏と争っていたが配下となる。木曾氏が武田傘下になると、晴信から直接指示を受ける半独立の代官として活躍 ...
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月17日 10時19分45秒 ) パスワード

山村家について


http://takatoshi24.blogspot.com/2010/11/blog-post_19.html


山村良利【やまむらよしとし(1514〜1599)】

木曾家臣。官途は三河守。武田晴信から直接知行も与えられ、木曾領の代官的性格も併せ持っていた。1575年、武田晴信の上洛作戦の折りにも、山村良利に独自に作戦を指示した。



山村良候【やまむらよしとき(1544〜1602)】

山村良利の男。木曾義昌、木曾義利の二代に仕えた。木曾義利が転封後も筑摩郡に残って松平元康に属した。1600年「関ヶ原の役」では、石田三成方に捕らえられた。のち解放され、その忠節によって筑摩郡の支配を命じられ木曾郡で5,700石を領した。



山村良勝【やまむらよしかつ(1563〜1634)】

山村良候の男。通称甚兵衛。室は遠山友忠の娘。父山村良候と共に木曾義昌に仕え、その没後は木曾義利に仕えた。1584年「小牧、長久手の戦い」では羽柴秀吉に属し信州妻籠城を守備した。松平元康家臣の菅沼定利、諏訪頼忠らの攻撃を受けるが撃退した。木曾義昌が転封されるとこれに同行した。木曾義利が不行状により改易されると松平元康に仕えた。1600年「関ヶ原の役」では松平元康勢に属した。山村良候は、石田三成勢に属した石川貞清に敗れて犬山城に拘禁された。このため、山村良勝は木曾郡国人衆を率いて犬山城を攻撃して山村良候を救出した。木曾谷は尾張藩の所領となったため、山村良勝は松平義直に仕えて木曾谷の代官に任じられた。1608年、嫡男山村良安に家督を譲って隠居した。



山村良安【やまむらよしやす(15??〜1619)】

山村良勝の男。1608年、山村家の家督を相続した。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月17日 11時21分26秒 ) パスワード

山村良利と市野惣兵衛は江州繋りかも。
江州繋がりはあったかも。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月17日 11時28分05秒 ) パスワード

山村良利が初め若狭武田に仕えていて浪人して甲斐武田に仕官したのなら面白いなと思うのですが
見つかりません。


このサイト、なかなか面白いです。

http://sky.geocities.jp/yamanasinomori/yamanasinagano.html
[29]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月18日 00時23分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、目新しいことがございまして、パソコンに向かうのが遅くなって
しまいました。
 それは、義兄の家にて十湖の書を見せてもらっている内に、蔵から山本五十
六の原田熊雄(西園寺の私設秘書 貴族院議員 二・二六事件でも狙われた)
に当てた手紙が見つかるというハプニングがあり、それについて筆跡・内容・
背景等を調べていたからであります。昭和十八年の二月、即ちブーゲンビル
島上空で撃墜される二か月前の手紙であります。文体は古文書に近く、読解
するのにてこずっております。解読するのには時間がかかると思いますが、
解読できましたらお伝えいたします。その手紙の入手経路につきましては、
それを入手した人が既に故人となっておりますので、皆目わかりません。
その点についても推理をしなくてはなりません。
 今のところ、他の五十六の手紙を参照してみますと、筆跡についてはほぼ
同じようでありますし、内容についてもその局面での切実さが部分部分です
が伝わってまいります。本物である確率は高い感じがいたしております。

 さて、話は木曽義仲に戻ります。
 木曽福島では真っ先に山村代官屋敷に行き、次に福島の関所を訪れ、そこ
にも丸一の家紋が幕に描かれているのを発見し、関所の向かい側に興禅寺が
あるのが見えましたので訪れました。木曽義仲の墓は裏手の墓地の高い所に
ありました。そこにて手を合わせ、般若心経を二巻唱えました。私にとって
は、まだ実感のできない木曽義仲。どちらかと言うと芭蕉が主で、義仲は従。
芭蕉が何故義仲にあれほどまで心酔したか……。

 調べて行く内に、この点について疑問に思うのは私だけではありませんで
した。やはり、多くの人がそう思い、答えを探していました。
 義仲館では、館長にズバリ訊いてみました―
 「芭蕉のお墓は大津の義仲寺の義仲の墓の側にあるようですが、何で芭蕉
はそんなにまで義仲に魅かれたのでしょうか?」
 館長はズバリ答えました―
 「『平家物語』の「木曽の最後」の段に芭蕉は感慨しましたと言っており
ます。義仲寺に埋葬後、弟子が詠んだ句があります。それを見ればわかりま
す。」
との答えであった。

 ただ、私としてはある程度基礎知識は仕入れて行ったので、『平家物語』
巻第九の木曽の最後には目を通していた。義仲寺の弟子の又玄(ゆうげん)の
句碑「木曽殿と背中合わせの寒さかな」も知っていた。仮に、私が芭蕉だ
ったとしたら果たして義仲の墓の側に埋めてくれと言うだろうか……?
そこには現代人と芭蕉との三百年の感性の乖離があるような気がする……。
 江戸時代の人は、義仲・兼平・巴御前の最後の別れにきっと感涙の涙を
ほとほとと流したのでしょう……。
 
 あを様、『平家物語』について教えて下さい。平家物語は本で読むもの
ではない? 琵琶法師が語って聞かせるもの……その口調に人は感慨する?
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月18日 08時23分06秒 ) パスワード

またもや消してしまいました。




三つ柏さん

琵琶法師の語り口も良いけれど
伴奏の琵琶の弦の引っ張り具合と申しますか  ビヨヨ〜ン  と余韻のあるのがBGMとしてスゴイと思います。

   儚さとか怨みとか
   聞く者の腹に増幅して聞こえると思います。


芭蕉が木曽どのの最期に感動したというのはイマイチ分かりません。

   「今日は鎧が重く感じられる」
   「女連れで討ち死にしたなんて言われたくない」



今井兼平が木曽どのの最期を見届けて死んでいくシーンは日本人で好きじゃない人はいないと思います。

武将ともあろう者ならば今井兼平ほどの部下を自分も持ちたいものよ
と誰もが思ったでしょうね。

    でもコレって木曽どのに対するより今井に対して感動していると思うのですけどね。



ほかにも義経だって最期は弁慶という一心同体の部下がいました。
でもこっちは「夏草やつわものどもが夢の跡」で終わってますよね。



義仲と一緒の寺に死後いたいという本心はやっぱり分からないです。
とは思うでしょうけど 
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月18日 08時42分18秒 ) パスワード

何故義仲寺なのか?

このサイト、面白かったです。
http://members.jcom.home.ne.jp/3221308801/gichuuji.html

でも、やっぱり分からないです。


義仲にしてみれば一緒に葬られたいのは樋口今井兄弟とじゃあないかなあ?


         背中合わせで葬られるより義仲の背を拝しながら葬られる方が芭蕉は嬉しかったんじゃないかな?
   
               背中合わせでしたっけ?記憶無し。



 寿永3年(1184年)正月20日、木曽義仲は源範義、義経の軍勢と戦い、討ち死に。

        木曽の情雪や生ぬく春の草

        行春をあふミの人とおしみける

        月見する座にうつくしき貌もなし


 元禄3年(1690年)9月21日、鬼貫は江戸に向う旅の途上、木曽塚を訪ねている。

松本を過てもころ川に至る。人の家のうしろに柿の木ありて、

      義仲塚

   柿葺や木曾が精進がうしにて


『鬼貫句選』

同年9月28日〜9月30日、芭蕉は「無名庵」に滞在。


元禄三年の秋ならん、木曾塚の旧草にありて、敲戸の人々に対す



            草の戸を知れや穂蓼に唐辛子
               翁


          義仲寺で月見。

            三井寺の門たたかばやけふの月





寛政7年(1795年)10月12日、小林一茶は義仲寺の芭蕉忌時雨会に参加している。

              義仲寺へ急候はつ時雨



                  芭蕉には時雨が似合うんでしょうか?



やっぱり分かりません。

木曽の山奥から京を目指して怒涛の如く席巻し
そして敗れて

この心境は芭蕉の先祖の姿に似ている?
だから義仲が好き?


やっぱり分かりません。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月18日 16時44分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉と木曽義仲の関係を、いわば「同行二人」とすると、義仲が弘法大師
か、それとも芭蕉が弘法大師か……。
 芭蕉の信心ははっきりとはわかっていないが、松尾家の菩提寺は真言宗で
あったので、弘法大師に帰依していたかも知れない。そこは、今後の調査を
待たなければいけないが、衆生を救うために命をかけた弘法大師、民衆を救
うためにいわば地獄の業火の中に生きた義仲は、芭蕉の心の中でオーバーラ
ップしたのかも知れない。芭蕉は絶対、信仰を持っていたと推測します。

 さて、芭蕉についてはまだまだ謎があります。
 その出自についてですが、芭蕉の母は、藤堂新七郎家初代当主藤堂良勝と
宇和島の女との間に生まれた娘であったという説が浮上しました。
 ということは、芭蕉が仕えた二代目当主藤堂良精(よしきよ)は、芭蕉の母
の腹違いの兄、芭蕉にとっては、叔父さんということなります。従って、そ
の子良忠は従兄弟ということになります。
 芭蕉はこのことを知っていたと思います。知っていたからこそ、ある種の
コンプレックスを心に秘め、それがその後のパワーになった。
 そして、死ぬときは、「侍」になりたかった…義仲はちょうど芭蕉の望み
にかなった人間モデルであった……。

 もう一つ、謎が浮上しました。深川の芭蕉庵の土地は伊奈半左衛門忠克の
所領であった。伊奈家のルーツは木曽満快(みつよし)であり、木曽義仲の三
世代目にあたる。
 この事実は、芭蕉と義仲との実際の関係を知る手がかりになりそうです。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月18日 21時46分05秒 ) パスワード

伊奈氏


伊奈氏は、清和源氏の流れを汲む源満快の曽孫にあたる為公が、信州伊奈郡熊蔵に住んだことから地名をとって、伊奈氏を名乗ったといわれています。 後に、忠基の代になり、三河国幡豆郡小島(愛知県西尾市)の城主となり、徳川家康の父、松平広忠に仕えました。 この忠基の子が忠家、忠家の子が備前守忠次です。

埼玉県指定史跡 伊奈氏屋敷跡 | バラのまち埼玉県伊奈町公式 ...
www.town.saitama-ina.lg.jp/0000000302.html
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月18日 21時51分14秒 ) パスワード

伊奈 忠次(いな ただつぐ)  この人は苦労して、百姓の気持ちの分かる人だったという記憶です。

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。武蔵小室藩初代藩主。


三河国幡豆郡小島城(現在の愛知県西尾市小島町)主の伊奈忠家の嫡男(忠家の父・忠基の末子との説もあり)に生まれる。永禄6年(1563年)に父・忠家が三河一向一揆に加わるなどして徳川家康の元を出奔。天正3年(1575年)の長篠の戦いに陣借りをして従軍して功を立て、ようやく帰参することができた。家康の嫡男・信康の家臣として父と共につけられたものの、信康が武田氏との内通の罪により自刃させられると再び出奔し、和泉国・堺に在した。


天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し、堺を遊覧中であった家康を本国へと脱出させた伊賀越えに小栗吉忠らと共に貢献する。この功により再び帰参が許され、父・忠家の旧領・小島を与えられた。また三遠奉行の一人として検地などの代官であった吉忠の同心となり、後に吉忠の跡を継ぐ形で代官衆の筆頭になる。以後駿・遠・三の奉行職として活躍、豊臣秀吉による小田原征伐や文禄・慶長の役では大軍を動かすための小荷駄による兵粮の輸送、街路整備などを一手に担い、代官としての地位を固めた。


家康が江戸に移封された後は関東代官頭として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に家康の関東支配に貢献した。


                         大久保長安の名が出ました


慶長15年(1610年)、61歳で死去した。



功績[編集]

武蔵国足立郡小室(現・埼玉県北足立郡伊奈町小室)および鴻巣において1万石を与えられ、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している。また、伊奈町大字小室字丸山に伊奈屋敷跡がある。


諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民たちはもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などをすすめ、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたという。伊奈町は忠次が町名の由来である。嫡男の忠治は茨城県筑波郡伊奈町(現在のつくばみらい市伊奈地区)の町名の由来となっており、親子2代で地名の由来となっている。


伊奈町音頭は「ハァ〜伊奈の殿様忠次公の(ヤサヨイヤサ)」と歌い出される。



逸話[編集]

小田原征伐の後、家康は後北条氏の旧領を与えられて関東に入るが、このとき忠次は家康より小田原城内の米蔵の量の検査を命じられた。普通ならかなりの時間がかかるはずだが、忠次はわずか数日で検査結果を家康に報告した。家康が「なぜこんなに早くわかった?」と訊ねると「不正を防ぐために蔵は封印しました。そして村長に命じて北条家に納めた租税の量を詳しく書き記させました。これで蔵の米量は明らかになりました。蔵ごとに調査していたら、時もかかりますし間違いも多いですから」と述べた。家康は忠次の機転を誉めたという(本間清利『関東郡代』)。



甲斐国で家康が鷹狩りをしていたとき、付近の村で騒ぎが起きた。家康の命を受けた忠次が様子を見に行くと村は野盗に襲われて荒らされていた。忠次は野盗の住処を見つけ出し、大蔵左衛門という首領を自ら斬った。家康は忠次を血気の功としながらも賞賛し、斬った刀は「大蔵」と名づけて家宝とした(本間清利『関東郡代』)。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月18日 22時15分21秒 ) パスワード

伊奈氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E6%B0%8F

伊奈氏(いなし)

日本の氏族。武士の家系。清和源氏義国流足利氏系(異説あり)。
家紋は左頭二つ巴、または剣梅鉢。


足利氏の支流である戸崎氏の分家といわれ、初め荒川氏を称していたが、荒川詮頼の曾孫荒川易氏(やすうじ)のときに将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫の易次(やすつぐ)の代に伊奈熊蔵と号した。

易次は叔父の易正(やすまさ)との所領争いに敗れて居城を奪われたため、三河国に移り松平氏の家臣となった。

その子伊奈忠基(ただもと)は松平広忠・徳川家康父子に仕えて三河国小島城(現在の愛知県西尾市)を居城とした。


      三河って「戸崎」という地名が多い感じ。
      尾張には無いような。


忠基の嫡男伊奈貞政(さだまさ)の系統は伊奈昭綱のときに断絶した。



もう一人の子の伊奈忠家(ただいえ)の系統は伊奈忠次が徳川家康に仕え、
家康の関東入国に従って代官頭(関東郡代の前身)となり、
徳川氏の関東領国支配の中心的役割を担った。

忠次はその後譜代大名として武蔵小室藩の初代藩主となり、
長男の伊奈忠政が2代藩主となったが、
3代伊奈忠勝の代で無嗣除封となった。


忠次の次男伊奈忠治の系統は旗本となり関東郡代を世襲した
(ただし、近年では伊奈氏が就いたのは関東代官であり、
関東郡代は伊奈氏の自称に過ぎなかったとする説がある)。




伊奈氏の出自[編集]

上記のように伊奈氏を足利氏の庶流と見る説が一般的だが、
『寛政重修諸家譜』には藤原氏と記載されている。
また清和源氏満快流(満快の曾孫源為公の子孫)とする説もある。

[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月18日 22時21分56秒 ) パスワード

信濃源氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E6%BA%90%E6%B0%8F


信濃源氏(しなのげんじ)は、中世に信濃国に土着し本拠とした源姓の氏族を指した呼称。


以下の数流がある。

清和源氏満快流。源満仲(多田満仲)の五弟源満快を祖とする信濃国を本拠とした一族。満快の曾孫為公の後裔が中津乗氏(知久氏)、伊奈氏、信濃村上氏 (満快流)、依田氏、片切氏(片桐氏、大島氏)、堤氏、波多氏などに分かれ主に南信濃を中心に勢力を持った。鎌倉時代には伊奈氏の一族である泉親衡・公信兄弟などが知られるほか、承久の乱以後には出雲国にも庶族を広げた(三刀屋氏、三沢氏など)。また、諏訪大社の大祝を代々務めた諏訪氏がこの流れを汲む(依田氏の一族)とする見方も存在する。

                    知久氏が出てる
                    諏訪大社系だから



                    三沢氏は義仲の子孫とも称する




清和源氏頼清流。源頼信の次男源頼清を祖とする信濃国を本拠とした一族。信濃村上氏 (頼清流)、屋代氏、栗田氏などが知られ、南北朝時代には村上信貞が「信濃惣大将」と呼ばれた。




清和源氏頼季流。源頼信の三男源頼季を祖とする信濃国を本拠とした一族。子孫は井上氏族(高梨氏、保科氏、須田氏など)として北信濃を中心に勢力を持った。



清和源氏義光流。源義光(新羅三郎義光)を祖とする一族。甲斐源氏の支流にあたる小笠原氏族(伴野氏、跡部氏、赤沢氏、大井氏など)のほか平賀氏の一族などが知られる。小笠原氏は南北朝時代以降、度々信濃守護を輩出した。



                ココかな?

清和源氏為義流。源義仲(木曾次郎義仲)を祖とする河内源氏の一族。河内源氏の源為義の子の源義賢が甥の源義平に討たれ、信濃国木曾谷の豪族の中原兼遠の元で育った義賢の子の源義仲(木曾義仲)が信濃国木曽谷を領した頃から始まる。おもな氏族には、義仲の子孫を称する木曾氏、義重(源義賢の子)の子孫を称する横林氏など。長野県には他にも義仲後裔と自称する氏は多く存在するが真偽は不明。また、上記満快流三沢氏が義仲を祖とするとも伝える。




上記のほか、清和源氏義隆流の一族(若槻氏など)も信濃を地盤とした。
[37]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月19日 01時06分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そういえば思いだしました。伊那忠次は大久保長安と一緒に検地をやりま
した……。それにしても、伊奈忠次が神君伊賀越えに貢献しているとは……
小栗吉忠らと一緒にということですが。

 伊那忠次は遠江見付の代官をやっている。また小栗家の一門の小栗九郎
左衛門清平の子雪舟恵宗禅師は遠江羽鳥で正光寺を開山している。
 小栗吉忠は掛川城攻めで同心(忍者)41人を預けられている。

 やはり、伊賀越え協力者の世界は、忍者ワールドである。伊賀者または
甲賀者にからむ。
 
 ということは、やはり芭蕉も伊賀者でつながっている。ネットワークで
つながっていたということを改めて感じます。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月19日 03時31分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


ゾクゾクしました。
伊奈氏・大久保氏・小栗氏・そして伊賀者

芭蕉も裏で繋がっているということですね。




雪舟ではなく雪斎恵宗禅師(小栗氏)でしょうか?


正光寺


正光寺の歴史
http://www.shokoji.net/rekisi4.html


所在地 静岡県浜松市東区豊町749番地       伊那備前守除地と書いてありますからアヤシイですね。

                            除地 - 江戸時代、領主により年貢免除の特権を与えられた土地。よけち。


                         伊賀者の溜り場だったかもですね。


山号寺号 金光山 正光寺
所属宗派 臨済宗(禅宗)大本山奥山方広寺
本尊 聖観世音菩薩
合祀仏 薬師如来 弥陀三尊仏 他
鎮守 北星妙見菩薩


由緒 当寺は、往古より妙見菩薩の霊場として知られ、創立年代は不明であるが、17世紀の初め慶長年間までは、真言宗に所属し、美薗並びに羽鳥郷の内八ヶ寺の本寺にして、当時の境内面積は52万坪(約171万u)あり、境内中央より何れへも八丁四方を所有していたと云う。

室町時代は今川家累代の祈祷所であり、今川氏真公直筆の花押入り古文書も寺宝として蔵されている。

慶長17年8月、雪斉惠宗禅師開山となり、臨済宗方広寺派に属し爾来法燈世系連綿として今日に及ぶ。明治初年県下寺社合併の令達後、村内自光院(薬師堂)及び下石原(豊町下)海福寺の2ヶ寺が当寺に合併され、各本尊仏も合祀された。

朱印 慶長元年8月、大獣院殿(徳川家光公)御朱印、北条安房守殿(新蔵家)知行所内より正光寺領を六石壱斗、薬師堂領を弐石下賜される。その他伊那備前守除地四石一斗、施餓鬼料を弐石、了仙庵領を弐石賜る。徳川家光公より家茂公に至るまで九通りの旨令書を存していたが、慶応三年九月、西京弁事御役所へ返納される。





http://www.shokoji.net/kurumakitou.html

 「北極星」の化神である「北星妙見大菩薩」の御尊前で車のご祈祷を行ないます。

 古くから妙見菩薩の霊場として栄えていたとされる正光寺では、室町時代、今川家累代の祈願所であり、今川氏眞公直筆の御朱印(1560年)も残されています。

  その後、慶長十七年(1612年)に雪斎恵宗禅師(小栗の氏)が開山となられ、臨済宗方広寺派に所属して以来、今日に至っております。

  現在の妙見菩薩像は、享和元年五月(1801年)正光寺第九世の愚翁和尚の時代に改めて奉安されたものです。



 星に対する信仰は、古代バビロニアやインドなど世界中で行なわれてきました。特に「北極星」は方角を知る唯一の手段であり、「自分達を導いてくれる星」として、人類は命運を委ねてきたのです。この北極星への信仰(北辰信仰)は、三〜四世紀の中国仏教とも融合し、妙見菩薩として広く崇敬されました。朝鮮半島に伝わった妙見信仰は、推古五年(597年)に日本の聖徳太子に伝えられました。太子は妙見菩薩を朝廷の守護神として都の四方に祀られ、太子ご自身が用いられた刀も「七星剣」といい、大阪四天王寺に国宝として現存しています。このことからも推古天皇や聖徳太子が政治はもとより、鎮護国家や人として歩むべき道を妙見信仰に求められた事が推察されます。


 平安中期の武士団からは軍神としても信仰されてきました。天台宗の最澄や真言宗の空海、のちには日蓮らも布教の中で盛んに妙見菩薩の御利益を説かれ、一般大衆に守護本尊として深く浸透していきました。近畿を中心に発生し、中国・四国・九州へと広がり、さらには渡来人の東国移住と共に関東へと、そして鎌倉、室町、江戸時代に入ってからも信仰は衰えることはありませんでした。



 徳川家康が江戸の北方に位置する日光東照宮に祀られたのも北辰との同化であり、葛飾北斎の名にも、北辰一刀流の千葉一族の生き様などにも妙見信仰の篤さを見ることができます。


 明治の廃仏毀釈・神仏分離などの影響はあったものの、仏教での妙見菩薩が神道では天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とされ、いずれも北辰尊崇として多くの信仰を集め続けました。

 天の中心に在って動くことのない妙見菩薩の御利益は、妙見の名の通り、いつでも地上の私達の営みをあまねく見通され、悪を是正し、善を願われることであるに違いありません。
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月19日 12時45分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 雪斉でした――訂正。

 正光寺について改めて見直しました。古来より妙見菩薩の霊場であった…
いわゆる修験道の拠点であったということ。
 八丁四方を所有というこは、1町(丁)≒109m、8町≒872メートル、
おおよそ1キロメートル四方の土地を所有していたということになります。
私の住む善地はその北側の隣接地となります。
 いつからそれだけの土地を所有したのか、その時期を特定したいと思って
います。

 正光寺の所有する土地が、伊那備前守の除地であったということ。伊奈備前
守忠次は、小栗吉忠の与力をかわきりにして大活躍をしています。遠江に於け
る中泉御殿の造営、駿府にては家康の近習衆になり、その後5ヵ国検地を行な
う。
 家康の関東移封後に於いては、武蔵小室・鴻巣一万石の大名に、同時に代官
を束ねる代官頭に。そして、関ヶ原の戦いには、大久保長安、彦坂元正らと
小荷駄奉行として活躍。戦後は従五位下備前守に叙任された。

 正光寺は天領内にあり、中泉代官所の支配下にあって、初代の代官は岡田
郷右衛門であるが、伊奈備前守の手代であるようだ。正光寺の開祖は小栗氏
(三河より)の一族であり、小栗吉忠は伊那忠次の上司。家康→忠次の命によ
り、正光寺に土地を安堵されたものと思われる。

 伊奈氏…義仲の流れをくみ、また諏訪氏の流れも知久氏を通じてくんでい
る。即ち、諏訪大社とつながっている。
 そして、伊賀は諏訪とつながっている。
 従って、諏訪を通して芭蕉は信濃源氏、義仲(木曽)にシンパシィを感じてい
たと推測いたします。というかネットワークのなかでつながっていた……。
表の形としては修験道ではないか。伊賀・甲賀と諏訪と遠江そして関東も
修験道でつながっていた……。この点について、更に検証して行きたいと思
います。
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月20日 12時00分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 江戸時代について、いろいろ知っておかなければならないことがたくさん
あります。
 の身分制度
 A氏姓制度
 B戸籍制度
 C年貢制度
 D通貨制度
 E関所制度
 F諜報組織
 国を統治するということは、考えてみると大変なことであります。もちろ
ん、国の下には藩があるわけで、まずは藩における統治が基本となります。
国は藩に対して指示し、また把握し、トータルコントロールをして行く。そ
の際に必要なのは、現地の生の情報……、今のように録音・録画、電気・電
波による通信はない世界ですので、人が実際に現地に潜り込んで、あるいは
現地の人を呼んで、口頭か文書での報告を受けるという形になります。

 江戸時代の諜報に関する組織について、一度深堀りしてみたいと思ってい
ます。
 藤堂高虎と柳生宗矩…諜報の中核であったと思います。また、江戸時代に
入る前と入った後の体制は、戦闘の必要性がなくなりますので、忍びの使い
方も変わって行くということになります。



 
 
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月20日 14時41分41秒 ) パスワード

三つ柏さん


幕府は諸藩の内情を探るため(潰したいから)
諸藩は幕府の隠密を阻止するため(潰されないため)

お互いに鎬を削ってたでしょうね。



ゾロアスター教の聖なる儀式(スゴイのです)を見つけました。
閲覧注意

http://tocana.jp/2015/11/post_7948_entry.html

インド・ムンバイでは・・・って
昔の上司がムンバイ出身のゾロアスター教徒でした。

前にチベットの鳥葬の準備の映像を見ましたが
鳥葬ってチベットだけじゃなかったんですねえ。
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月21日 13時40分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の祖父祖母位までは「土葬」でありました。いわゆる土に返すという
ことでしょうか。「土葬」の場合は、故人はいつまでも墓地に眠っている
というイメージで頭から消えない。ところが、「火葬」の場合は見るも哀
れな灰になってしまうので、故人のイメージは立ち切られてしまう。これ
が現代の合理性といえば合理性なのであるが、人間が本来持っている信仰
心(先祖霊をうやまう心)を断ち切ってしまっているような気がします。死
というものを、無味乾燥したものにしてしまっている気がいたします。
 そういった意味では、「鳥葬」は、一見残酷なように感じられますが、
鳥と同化して天国へ運ばれて行くというイメージは鮮烈に残ります……。

 死んでしまえばそれまでなのですが、芭蕉のように「死んだら木曽義仲
の側に埋めてくれ」と言い残したのは、芭蕉の悲願のように感じられます。
国のため、人のために、俳諧ではなく武士として命を尽くしたかったとい
う思いがあったのかも知れません。俳諧はしょせん虚業ですから。

 明日、一泊でミステリーツアーに行ってきます。行先は信州です。どこに
寄るのかは推測するしかありませんが、写真の一部から判断すると、上田城
には寄りそうな気配であります。信州は何回でも行きたくなる故郷のような
所の一つだと思います―。

 
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月21日 21時50分58秒 ) パスワード

三つ柏さん


お気を付けて〜


そうなんですか、信州に思い入れがお有りですか。
やはり、そちらがアイデンティティに関わるのかも、ですね。


ゾロアスターでは火は聖なるものだから
死体なんか焼いては火に失礼になる、
ですね。


イスラムでは火葬は罪人を罰するためだそうで
同性愛の人は2度焼かれるというのを読んだ記憶です。
2度焼かなければならないほど、許せないこと、なんでしょうね。


芭蕉のこと、上田城のこと、またアレコレ検索したりしてみます。


伴野には先祖の一族が流されたとか(そこで斬られた)
後世の親族が訪れたとか
30年ほど前に中世の遺骨の入った甕が見つかったとか(当時うちの先祖がらみかどうかは確定はしていなかった)
佐久は親友のご先祖の出身地で横田河で戦死。
天竜川を遡って転戦した先祖やそこから上州に行った先祖がいるのだ、とか。

まだまだ点だけ
ほんのちょっとだけ信州には引っ掛かりますが
知らないことばかりです。
[44]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月22日 05時34分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 信濃というところ、一度大局的な見地で総括してみます。信濃武士とは、
いったい何だったのだろうか。どこに始まったのか。どこに源泉があった
のだろうかというところ……。

 それでは、行ってまいります。
[45]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月24日 06時51分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今回のツアーは、信濃(長野県)の一番奥(新潟県境)の信濃町まで行きました
ので、縦に長い信濃の地形を把握することができました。まだまだ、信濃全体
を把握するのは先の先になりますが、とりあえず、南北、東西の広がりまでは
わかりました。
 今回の旅行は、「ミステリーツアー」というものでした。行く先はふせられ
て、行って初めてわかるというものでしたので、歴史に関しては期待できない
ものと思っていましたが、いくつかの拾い物はいたしましたので、それらにつ
いて記したいと思います。

 一旦ここで切ります。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月24日 12時54分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


お帰りなさい。

「ミステリーツアー」って、どんなものかサッパリ分かりません。
もうすっかり寒かったのではないですか?


楽しみにしております。

[47]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月24日 22時47分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 芭蕉が木曽満仲に寄せる想いというものの真の源泉については、謎のまま
であります。私は、どこかに血縁関係に近いものが祖先においてあるのでは
ないかと推測しておりまして、調べておりますが、今のところ壁にかぶつか
っております。
 ひとまずこのテーマからは離れようと思います。もちろん手がかりが出て
来た時には、即探究し直したいと考えております。

 今回のミステリーツアー自体には、謎を追及するという意味は含まれてお
りません。ただ、行先が参加者にはっきりと伝えられていない=ミステリー
というだけであります。但し、ミステリーとうたうからには、それなりのサ
プライズがなければならないと思いました。はたして、そのサプライズはあ
ったのか……?

 シビアに言って、一つだけありました。それは、「苗名滝」でした。信濃
町(野尻湖がある)のナウマン象の博物館よりさらに新潟県寄りに5〜6キロ
行った所、正確には新潟県に属すと思います。滝としては見事な滝でありま
した。落差は50m位、下流に吊り橋がかかっており、その一帯からパノラ
マ的に滝の景色が見られる。
 その場所で1つ出くわしたものがありました。それは小林一茶の句碑であ
りました。そこには次の俳句が刻まれておりました―
 「瀧けぶり 側で見てさえ 花の雲」
 今までは、芭蕉ばかり追いかけて来たので、一茶や蕪村には目もくれずに
おりましたが、一茶のことも、蕪村のことも一度は探究する必要があるとこ
の時感じました。一茶はこの信濃町、柏原の出身でもあったのです。

 今後、一茶について芭蕉と比較してみたいと思っています。もちろん蕪村
についてもであります……。

 ツアーの企画側の意図したサプライズではありませんが、こちらで感じた
サプライズは次の通りであります。
 @松代城址(海津城址)についてでありますが、ここには松平忠輝が藩主、
 花井遠江守吉成が城代として置かれた時があったということであります。
 A野尻湖畔には外人村があり、そこにはカトリック等の神父さん達の別荘
 か研修所がたくさんあり、夏場には全国から集まるという……。なせこの
 野尻湖へ……? また、キリスト教会にはそんな潤沢な資金があったのか
 というサプライズであります。
 B松代町には佐久間象山の生家と象山神社があり、改めて佐久間象山とい
 う人間が、万能の天才に近かったことを知りました。

 こんなことが今回の収穫ではありました。芭蕉がらみのテーマに関係する
ものと言えば、一茶でありますので、今後少し深堀りしたく存じます。
 また、江戸時代及びそれ以前におけるヨーロッパのキリスト教布教政策が、
どのような意図と戦略の下に推進されたか…ということも探究しておかなけ
ればならないと思っています。



 
 
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月25日 04時06分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


なるほど
芭蕉が義仲に憧れたのは実は過去に於いて関係があったからではないか?

すごい焦点の当て方ですね。

    わたくし的には「同じく頼朝に滅ぼされた」という共通点しか考えませんでした。


    平家が東国にいた頃に源家と何か繋がりがあったろうことは考えますが    何故義仲に?
    ということになりますとサッパリ分かりません。


一茶は芭蕉に尊敬の念を持っていたことから
共通する目のつけどころ、情景が見えますよね
    例えば
    芭蕉は「蛙」  一茶は「蠅」。



     A野尻湖畔には外人村があり、そこにはカトリック等の神父さん達の別荘か研修所がたくさんあり、
      夏場には全国から集まるという……。
      なぜこの野尻湖へ……? 
      また、キリスト教会にはそんな潤沢な資金があったのか
      というサプライズであります。


日本の夏の湿度は耐えられませんから涼しい所へ避暑するというのは分かります。
野尻湖に、という理由は分かりませんが軽井沢にも外国人が避暑に行きましたし
欧米人は「湖」というのは好きですよ。

またキリスト教会に潤沢な資金があったのか、という件ですが
もちろん!
特にカトリックはものすごいお金持ちですよ。

    もともと世界中の富を独り占めしようとしてましたし
    宗教税というのがあって国民から一定の率で徴収してましたし

       わたくしが行ってたドイツ系の学校でもドイツの宗教税の恩恵も受けてました。


    仏教同様キリスト教も世俗を離れて山の上や湖の近くに修道院を作っていました。



>江戸時代及びそれ以前におけるヨーロッパのキリスト教布教政策が、どのような意図と戦略の下に推進されたか


秀吉や徳川幕府が何故カトリックと手を切ったかというと
  人身売買があった
と言われていますね。

信長は伊勢長嶋一揆の捕虜で見目麗しい乙女達を伴天連に売ったという話があって
(だから名古屋はブスばっか   というオチがあります)

とにかく推定50万人の日本人がいろいろな意味で伴天連に連れて行かれた
支倉常長がヨーロッパで日本人の奴隷に何人か出会った
という話も聞いたことがあります。



伴天連は、世界中で、いろいろ悪いことをしてますからね。
特にひどい目に遭ったのが南北アメリカ大陸で、ですね。
    アフリカでも同じだったと思います。


わたくしもカトリックの嘘、とかカトリックの犯罪というのにはアメリカで現実に出会いました。
カトリックのやった数々の悪行は今に至るも中南米諸国に根強く行われているって思います。


   でも今年、フランシスコ(フランシス)法王のニュースがたくさん流れて
   立派な人だなと感動しました。

      でも彼も実はという噂がありますから
      やっぱりカトリックということかなとも思います

   個人的には本当に素晴らしい人です。



航海時代のカトリック以前にもメジチ家の腐敗ぶりを考えたら宗教って何?となります。




日本は宗教について教えないから、日本人は、宗教について当たらず遠からずだと思います。

   日蓮宗は
   (我が家は浄土真宗のそれもいわゆる一向宗バリバリです)
   日本の仏教の中でも最下層の穢多に対しても平等だった
   と知りました。

   浄土真宗ですと穢多は穢多用の専用の寺があったそうで
   今回の第二次大戦でも協力したと聞いています。     



別に興味のある話ではなかったので浄土真宗の過去に対する反省の話はきちんとは覚えていません。
     

いろいろなことがオブラートに包まれて語られるのでホントの所にはなかなか到達できません。


つい先日も某宗教の親分が半島出身者だという話から
    この話は彼が半島の言葉を父親から習ったということで(だろうな)とは思ってました
  
でもお釈迦さまだって出自はインドの王子ですし
キリストさまに至ってはユダヤ人ですし


じゃ、日本人の古来の宗教は?と言ったら
縄文人の時代に遡れってこと?
と笑い話になりました。


最近話題のイスラムでも
はねっかえりの若者は何億もいる信者のうちのせいぜい数十万人でしょう。

アメリカは結構収まっていると思います。
当局の傍聴とか検閲とかスゴイですから。

わたくしが自覚したのは  ビン=ラーデンが暗殺される半年前  です。
(え゛〜、私も対象なの?)
とビックリしました。

   一応専門家からは  
   アメリカから外に発するものは検閲されないけど
   アメリカに入ってくるのはチェックされてる
   と聞いてましたが
   嘘800だというのは見破りましたし
   スノーデンもバラしたし

だからアメリカでは一応みんな仲良くやれてます。
わたくし的には検閲オーケー盗聴オーケーです。

   ただ引っ掻き回して黙って出て行くのには時々腹が立ちましたけど  
      税関みたいにチェックしましたよという紙を入れておいてくれるのはスンナリ納得できますけど。


宗教はどこまで迫るか
迫ってもせいぜい教義ですね
人間の作った教義を人間が各自解釈する
そこから千差万別。
だから争いにもなる、悪徳も行われる。


キリスト教もユダヤ教もイスラムも、あっちの神様ただ、お1人、がこんな混乱にしているのは
第一次世界大戦のイギリスの謀略が今に引きずっているからだそうですが
今は日本も関係無い
とは言えなくなってるし

   キリストさま個人は素晴らしいヒトだったんでしょうけど
   この2000年間に人間が組織を作ってこうなった
   ということ。


人間の限界ということにぶち当たっています。
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月25日 07時55分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 なるほど、よくわかりました。宗教にも本音と建て前がある。人間が人間で
ある限り、人間的欲望の入り込む余地がある。また、政治と結びつくことによ
って、征服のための手段として使われる。また、宗教側としても教線を拡大し
よう(宗教をより広く布教しよう)とする欲求が自然と出て来る、それは衆生の
救済という美名の下に……。
 宗教とは何か、信仰とは何か…科学とは別の次元の世界ではある。でも人間
からそれを取ってしまうと、ロボットのような無味乾燥した存在に4なってし
まうのではと推察します。
 私自身も無神論者てありましたが、四十代で密教に出会ってから、色々な体
を経て、科学を越えたものが宗教的世界にはあるということを実感しました。
いずれそれらは科学的に解明(実証というより推論)されるのかも知れませんが
……。

 さて、話は俳諧にもどりますが、一茶も蕪村も、また十湖も芭蕉に憧れ、そ
の道を追及した。それだけ芭蕉は偉大だったということではある。一茶は生涯
で二万句ほどの句を詠んだとも言われる。蕪村は二千句余り、十湖は九千句余
り……。ちなみに、芭蕉は俳句に関してはおよそ千句位。
 俳人になるには、千句は作らないとだめか……。今年は、十湖賞に応募して
みました。五七五の最少の言葉で、マクロコスモスまでを表現することもでき
る……。

 ところで、奥信濃(飯山)の地酒「水尾」、なかなかうまい酒でありました。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月25日 14時40分45秒 ) パスワード

三つ柏さん

神ってひょっとすると  ↓  これで説明がつくのかな  と思ったりします。 

      宇宙を構成するすべての物質は、
      クォークとレプトンという素粒子の仲間から形成されています。

       例えばクォーク3つからできる陽子1つと、レプトンの仲間である電子1つを組み合わせて水素原子が作られます。

      ニュートリノは電荷を持たないレプトンで、他の物質とほとんど反応しません。



                  ↑
                へえ〜
                何のこっちゃ


梶田先生・小柴先生あたりが「神」の正体に気づいていらっしゃるのかなと思ったりします。




芭蕉は1000句あたりなんですか?
ビックリ
やっぱり裏の仕事で忙しかったのかしら?

    ま、数より質、ということかもですが。



>奥信濃(飯山)の地酒「水尾」、なかなかうまい酒でありました。


美味しい理由は「水」でしょうね。そして「お米」も合ってるんでしょうね。
良い杜氏さんにも恵まれているんでしょうね。


地酒が今でも造られているというのは良いニュースですね。
現代の大量生産時代にコツコツと造っているというのは文化だなと感動します。


友人宅は江戸時代からの造り酒屋でしたが今はお休みしているそうで
酒造りの厳しさをちょっと知っている身としましては
地酒は消費者からも是非とも守って欲しいと思います。
[51]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月25日 15時20分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 素粒子の話、さすがです。神変の現象は素粒子や波動…ミクロ・異次元
の世界に起因しているのでしょうか。そこでは時間は超越されます…よく
わかりませんが……。
 
 ひとつ忘れていました。「苗名滝」へ行く山道で、五十匹程の山猿に出
合いました。芭蕉の「初時雨 猿も小蓑を 欲しげなり」(『猿蓑』)を思
い出しました―

[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月25日 22時10分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


全く分かりませんが、ものスゴイ数が宇宙から降り注いでいて
我々の体もコンクリも通り抜けているという話ですね。

目に見えないと我々人間が勝手に思っているものでもちゃんと存在している。
そういうのを発見した小柴・梶田先生はすごい。

神も人間の目には見えないけれどちゃんと存在してて見える人には見えてる?
小柴・梶田両先生が存在を証明したんですものね。



>「苗名滝」へ行く山道で、五十匹程の山猿に出合いました。
>芭蕉の「初時雨 猿も小蓑を 欲しげなり」(『猿蓑』)

本当にそんなに大勢の猿が棲んでいるんですか。
きっと三つ柏さんのために一族全員で出て来て歓迎してくれたのかもですね。



      芭蕉の「初時雨 猿も小蓑を 欲しげなり」を思い出すことができて良かったですね。
      良い旅になりましたね。
[53]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月26日 08時58分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、貴平町のガソリンスタンドへ行ったついでに、かねてより探した
かった内藤家のお屋敷を探しに行きました。
 まずは、お寺を探して―ということで、清観寺という所へ行ってみました。
特段の発見はありませんでしたが、寺の東側に細葉の垣根で囲まれた大きな
お屋敷らしきものがあり、その前の道を行きますと、正門があり、何と表内藤
という表札が出ていました。内藤家のお屋敷でございました。

 その後、北側の吉祥寺というお寺に行きましたら、内藤家の立派な墓群が
ありました。

 本日は、これより「筆の会」へ行きますので、一旦ここで切ります。

 
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月26日 11時38分03秒 ) パスワード

三つ柏さん


内藤氏ですか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E6%B0%8F

内藤氏(三河系)

三河の松平氏(徳川氏)の家臣で江戸時代に大名となった内藤氏は丹波・周防の内藤氏と同祖とされるが、
この間、戦国期までの事蹟は明らかではなく、仮冒の可能性も強い。

                              あらら


戦国時代から安土桃山時代にかけて、内藤清長・内藤正成・内藤家長・内藤信成らが徳川家康に仕え活躍し、
その功績により江戸幕府の成立後は数家に分かれ、
信濃高遠藩、陸奥湯長谷藩、三河挙母藩、日向延岡藩、信濃岩村田藩、越後村上藩などの地で譜代大名として隆盛した。

明治維新時には大名内藤家は全部で6家あり、維新後すべて子爵に列した。


特に清政の系統は、高遠藩江戸屋敷のあった内藤新宿(現在の新宿区内藤町)の地にその名を残している。



内藤氏(甲斐系)

内藤氏には甲斐に土着した一派も存在する。
代々武田氏に仕えたとされるが内藤虎資が守護武田信虎に粛清され、一時断絶した。


戦国期には平安時代後期に甲斐へ土着した工藤氏の系譜を引く内藤氏の活動がみられ、
「工藤下総守」は郡内領主小山田氏とともに武田宗家の内訌に関係し守護武田信虎に対抗し、
「工藤殿」は伊勢宗瑞(北条早雲)を頼ったという。


工藤下総守の子と考えられている内藤昌豊(昌秀、工藤祐長)は晴信(信玄)期の譜代家老衆・側近として活動が見られ、
信濃侵攻や川中島の戦いに従軍している。


昌秀は西上野国衆との取次を務めており、浅利信種の後任として箕輪城の城代となり、
内藤姓への改姓はこの時点である可能性が考えられている。


昌秀は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて討死する。


昌秀には実子がなく信濃国衆保科氏からの養子(内藤昌月)を迎え、武田氏滅亡後は会津保科氏(のちの会津松平氏)に仕えた。

[55]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月27日 06時52分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日より急に寒くなりまして、昨日は調子を崩しました。

 内藤家については、浜松市の資料(本の名前をうっかり記録するのを忘れた)
に詳しく載っておりました。また、『浜名郡豊西村誌』にも詳しく載っており
ますが、いずれにしましても長くなりますので短くまとめますと―

 「六世紀に羽鳥に蛭子森古墳が造られた。これは、秦川勝の末子が、上宮
 太子の薨去後、蘇我入鹿の乱を避け、皇子三人を連れて、遠江羽鳥に蟄居
 した。この古墳は、この三人の墓である。」
  
 続きは後で―
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月27日 13時54分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


浜松の内藤家は秦川勝がらみですか。
すごい話が出て来ましたね。

楽しみです。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月27日 14時29分26秒 ) パスワード

こんなのがありました。

http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100020?hid=ht009200&word=

浜松市史 ニ

第七章 文化の興隆 第五節 庶民の教養・娯楽 一 俳諧 俳諧の庶民化 



[俳諧の庶民化]

 【普大寺 完来筆芭蕉句碑】寛政二年(一七九〇)浜松普大寺の庭に芭蕉の「白露もこほさぬ萩のうねり哉」と刻んだ句碑が建てられた。前にのべた白輅・徐生・柳也・知白などの月並会の人たちが建てたものと思われる。雪中庵四世完来の染筆で、このころ完来が浜松を訪れたと考えられる。

 普大寺は明治初年廃寺となり、句碑は伝馬町に移された(大正年間にふたたび鴨江の遊郭に移されたが、昭和二十年の戦災で破壊)。




http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100020?hid=ht009210


遠州の俳壇はほとんど雪中庵系でしめられるようになり、吉田徐生を中心とする浜松の同好者は寛政から文化年間にかけて兄弟庵連と称し、江戸の雪中庵で毎年年頭に刊行する句集『歳旦歳暮』にたびたび投稿している。


 【内藤彦端】また笠井村(当市笠井町)の内藤彦端(げんたん)も多くの門人を指導している。

【左光】彦端は元文五年(一七四〇)、貴平村(当市貴平町)の旧家内藤弥市右衛門家に生まれ、若くから俳諧をよみ、酔春亭左光と号した。左光に教えをうける者は近村ばかりでなく、浜松宿の名もみえる。文化年間には酔春亭連として盛んであった。

 【翁百吟解 遠津安布美句集】左光は芭蕉の句を研究して『翁百吟解』を著わし、さらに遠江の俳人の句を集めて、文化十三年(一八一六)の秋『遠津安布美句集』を版行した。よみ人を地域別(西遠地方)に表示したのが次表である。(うち十余名酔春亭連)。遠州全体にわたる句集はこれが最初である。

 【左光句碑】左光は文政元年(一八一八)九月六日没、齢七十九。門人は彼の七回忌にあたる同七年九月、笠井の定明寺に「葡萄の実熟したりけり珠の色 左光」の句碑を建てている。
 文化十四年(一八一七)九月、浜松兄弟庵連の徐生・完枡・燕来・素流らは、藩主井上河内守正甫(まさもと)の移封に従って陸奥棚倉(福島県東白川郡)に移り、浜松の竹坡・薬師の小枝来圃らと兄弟庵連は二つに分かれたが、それぞれ雪中庵の「歳旦歳暮」へ投稿をつづけている。
 
「元日や立出見れは昼のそら 徐生(奥棚倉連)
           行年や波のうへにも山のある 完枡(同)
   徐生老人浜松に兄弟庵を残され棚倉に又兄弟庵を建てたまふと聞えけるに
 陳(つらなる)を深空の兄よはつからす 竹坡(遠浜松兄弟庵連)
           元日や膝にもくへき小田の雁 来圃(同)
 人はおそく我に尋ねつ花の春 可道(同)」
               (文政二年『歳旦歳暮』)
 


遠津安布美句集
 麓には桜咲けり峯の花        酔春亭七十七翁 左光
 春の山ふたたび踏てものおほへ    松しま 可道
 桜咲日やそっと打時の鐘       中ノ町 季竜
 秋のかぜ浪音西にのこりけり     半場  北魚
 鹿鳴や古郷遠き旅こころ       恒武  文明
 小夜砧打や都の片辺         笠井  竜岫
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月27日 14時37分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 なかなか時間がとれません。小刻みなレスとなります。

 羽鳥の「服織神社」から、北に0.4キロメートル行った所に「蛭子森
遺跡」、更にその北へ0.4キロメートル行った所に「正光寺」、更にそ
の北1.2キロメートル行った所に我々の住む「善地」があります。
 逆に、「服織神社」から南(正確には南南東)へ2キロ行ったところに、
貴平の「内藤家」があります。いずれにしても、往古より羽鳥という村
があり、服部連の管轄・指導の下に絹・絹織物を生産していたことは間
違いないと思われます。
 秦川勝の五男の貴平が、聖徳太子の3皇子を連れて羽鳥へ避難して来た
ということは、この地方は秦氏族が中心となっていたということが言えま
す。そこら辺まで具体的にわかっているということは、歴史的に言って大
発見の事実になるのですが、それ以上の探究も、またそれに興味を持って
研究する人も途絶えているようでありますので、一度深堀りしてみたいと
思います。この部分について、論文を書けば、秦氏について、また、聖徳
太子についての歴史的把握が一歩も二歩も進みます……。

 後で、少し長くなりますが、わかっている情報を記しますのでごらん下
さい。

 明日は、西三河の一色・西尾・東浦へ行ってまいります。主目的は一色
で「うなぎ」を食べることですが、「了願寺」と「善導寺」に行き、それ
ぞれ「永井家」及び「家康の母於大」の墓を見てまいります。
 またご報告いたします―ご期待下さい(たぶんサプライズはあると想像し
ています)。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月27日 22時20分11秒 ) パスワード

三つ柏さん

松下氏は秦氏の子孫説もある、ということですが
川勝の子孫なんでしょうか?

なんかそんな気がしてきました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%B0%8F

日本の氏族のひとつ。戦国武将として有名なものに、豊臣秀吉が少年時代に仕えた松下之綱らを輩出した遠江国頭陀寺城主の松下氏がある。


松下氏の苗字の地は、
三河国碧海郡松下郷(現在の愛知県豊田市枡塚地区・矢作川の西岸)である。
家系は、宇多天皇の第八皇子・敦実親王の子孫を称する近江源氏佐々木氏一族の庶流・
近江八幡市円山城主西條氏から分かれたとする説と、


                       秦氏の系統とする説がある。     コレですね



                       江戸時代の武士は普通は出自の家の格を上げたいのに、
                       秦氏の子孫を名乗る、というのが、より、信憑性がありますね。
                       秦氏出身より清和天皇だ桓武天皇だ藤原氏だと言いたいものだと思いますから。



傍系として松平忠輝の姉婿花井三九郎が出た花井氏がある。

佐々木氏流松下氏の系統で最も有名なのは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて大名となった之綱の系統である。之綱は遠江久野城主16000石となった。之綱の子・重綱は久野から転封され、常陸小張城主となり、「小張松下流綱火」(国の重要無形民俗文化財に指定)を考案して、領民に伝えたと言われている。その後、下野烏山城主を経て陸奥二本松城主5万石となった。重綱の子・長綱は年齢を理由に陸奥三春城主になり、土佐藩主・山内忠義の娘・喜与(喜代、清とも)と婚姻するが、縁戚であった加藤明成・明利の改易に連座して改易され、以後は上総・伊豆に所領を持つ交代寄合旗本3000石として存続した。江戸時代の旗本であった松下家は13家を数えるほどである[1]。子孫の松下加兵衛重光は幕末維新には、箱根戦争で、木更津脱藩藩主・林忠崇(昌之助)や小田原藩の軍と戦っている。子孫の長至(ながよし・松下家14代)は明治31年(1898年)、親族の侯爵・山内豊景(とよかげ)や子爵・加藤明実(あきざね)、子爵・小笠原家の連名で、宮内大臣・田中光顕に対して男爵に推挙されたが、果たされなかった[2]。なお、子孫は現在に至る。

他には、徳川家康の家臣、松下清景・松下安綱(常慶)兄弟があり、清景の子孫の系統は、越後(井伊)与板藩の家老を代々務めた。常慶は家康の信任厚く、子孫は、火付盗賊改方を務めている。子孫は現在に至る。

高知県には、土佐山内家の中老職を務めた之綱の弟・継綱の家系がある。また、荻野山中藩(神奈川県)の用人を務めた松下家(松下長範の子孫)では、幕末に松下祐信が出ている(厚木市)。子孫は現在に至る。





一色のウナギは確かに、今は、ですが
名古屋人には「鰻」=浜松です。笑    昔の話でしょうか?
[60]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月28日 21時10分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は岡崎インターを下りた後に道を間違えてしまい、東浦町に着くまで
苦労しました。

 了願寺に着くとすぐに墓地へ行きました。墓地のほぼ中心部に「永井家」
の墓石群が、数えると約三十基程ありました。江戸時代を中心として造ら
れた墓石でしょうか、時代を経た感じがいたしました。
 家紋が彫られた墓は五つ前後でありました。それ以外には家紋はありま
せんでした。これはどういうことなのか、神道系は家紋がない場合が多い
のか、一度調べてみたいと思っています。
 その家紋は、すべて「一文字に三星」(一文字が上にあるもの)でありま
した。そういえば、当方善地のお寺にある永井家の墓の家紋も、古いもの
には「一文字に三星」がみられました。その他は半数が「永井梨の切り口」、
半数が「丸に三つ柏」でありました。

 そして、この日のサプライズは、三十基程の永井家の墓石のすぐ隣に、
何と「服部家」の墓が、それも大きな墓があったのです。家紋は「丸に
並び矢」でありました。どういう関係であったのでしょうか…想像力を
刺激されます。

 次に、近くの「善導寺」に行きました。家康の母、於大の菩提寺という
ことで、社紋は「三つ葉葵」でありました。水野家の墓がたくさんありま
した。

 何れの寺も、時間を余りとれませんでしたので、いずれまた必要に応じ
て来ようと思いました。

 一色のうなぎ、絶品でありました。なぜ一色が有名になったのか…生産
量と流通の問題かなと思いました。浜松では、養鰻場がどんどん廃止され
て太陽光発電のパネル群にとって代わられております。「浜松うなぎ」と
いうブランド性も、今後は心配です。うなぎの焼き方の違い、秘伝のたれ、
好き嫌いの違いもありますので、何とも言えませんが……。

 碧南の衣浦湊も見ました。一色町から吉良町を通り、蒲郡、音羽インター
へと抜け、西三河と東三河のおおよその土地勘が養われました。

 三河には徳川に関係した武士の生まれた村・町が多いということ、改めて
感じております。

 また、何回か来て、更に三河を探究してみたいと思います。

 
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月29日 06時07分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


長々と書いていたら、また、消えました。
どうして消えるんでしょうね?




      脱力・・・・


      ちょっと精神的に回復できないです・・・・



尾張の知多半島〜三河にかけての所はなかなか面白いところですよ。



永井家のお墓のご近所さんが服部家で丸に並び矢ですとワタクシ的には非常に座り心地が良いです。
     お〜
     伊賀=平家=以来の関係か、と。


   でも永井氏が長田さんじゃないという所がちょっと不安定ですが
   なので、お互いに子孫同士という関係、ということにします。



知多半島も三河もなかなか面白い所です。

でも丸に三つ柏紋の服部氏がなかなか見つからないですね。
   善地限定なんでしょうか?
   永井氏がらみ?
   それか神服神社系?



東三河の千秋家のご近所あたりはどうなんでしょうね?
このあたりの服部家は丸に三つ柏紋でしょうか?
千秋氏がらみで。

   もし丸に並び矢でしたら、尾張の服部家の系統だろうなと思います。
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月29日 23時58分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、funeralがあり、喪主の家紋が丸に三つ柏であることを知りました。
白柳家であります。細江の方に多い姓であります。

 また本日、『浜北市史 浜北と天竜川』を読んでおりましたところ、当方
の村の天保二年(1831)の名主の名前を発見しました。今まで全く情報がなか
ったのであきらめかけていたのですが、ようやく念願の情報に出会ったこと
になります。名前は「藤兵衛」といいますが、残念ながら苗字の方がわかり
ません。今後、更に色々な史料を探ってみます……。
 
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月30日 12時49分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 服部嵐雪の掛け軸、手に入れて解読をいたしました。最初は読めない漢字
がいくつかありましたが、ある人の力も借りて読むことができました。
 その句とは―

 「酒くさき 人にからまる こてふかな」

でありました。
 蕉風というよりも俳諧といった感じで、胡蝶が遊女の意味を含んでいると
思います。江戸の風俗を表現していて、元禄の雰囲気が漂います……。 
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月30日 13時03分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


不謹慎ですが白柳氏についてちょっと調べて来ました:くろやなぎ 黒柳・畔柳 さんはよく見掛けますが。


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%99%BD%E6%9F%B3

関連姓は柳氏。

清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)小椋氏流、吉見氏流、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、
紀氏(紀朝臣出が多い。竹内宿禰を祖とする。

源平藤橘につぐ大姓)などにもみられる近年、静岡県遠江地域に多数みられる。                                            ココですね

【読み】しらやなぎ,しらやぎ,しろやなぎ,はくりゅう

【全国順位】 6,010位
【全国人数】 およそ1,600人

静岡県 619位 およそ910人
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月30日 13時11分13秒 ) パスワード

http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2888817.html

シラヤナギ 白柳 静岡県浜松市。静岡県浜松市北区細江町気賀が本拠。同地に江戸時代にあった。



静岡県に多い名字:

http://myoujijiten.web.fc2.com/shizuoka.htm


ここに収めた苗字は、@当県内の人口が100人以上、A当県に最多、B当県の占有率が全国の30%以上、の3条件をすべて満たす苗字です。したがってにどんなに多くても、当県以外にも多い苗字は載せていません。赤字で示した苗字は県内の人口が500人以上の苗字です。

 数字は各苗字の人の何十%以上が当県に住んでいるかを示しています。たとえば、30とあれば、30%から39%の間です。右端の欄には、県内でそれぞれの苗字が最も多い市町村を記しました。


静岡県に多い苗字の20傑(電子電話帳「写録宝夢巣ver.8」による)

@鈴木A渡辺B望月C山本D杉山
E佐藤F伊藤G山田H加藤I佐野
J中村K大石L高橋M小林N増田
O田中P石川Q村松R土屋S山下

 鈴木は首都圏に多いことで知られるが、密度でも絶対数でも首位は静岡。
静岡県の人口が東京の3分の1弱であることを考えれば、たいへん特徴的で浜松市では2位の伊藤の3.5倍で断トツ。


       らしいですね。
       「おーい、鈴木君」なんて呼んだら数人が同時に返事をするなんて聞きました。


静岡市では「望月」が最多の苗字。
「池谷」は西部に多く「いけや」と読み、東部でも同じだが、中部の静岡市とその周辺に限っては「いけがや」が一般的。野球の池谷(いけがや)公二郎は静岡市、世界的に知られるアマチュア天文家の池谷(いけや)薫は浜松市の出身。

 明治期に天竜川の治水に努めた金原明善の名は浜松市では小学校でも教えられており知らない人がいない。放送作家の野末陳平とタレントの大澄賢也・熊切あさ美も浜松市出身。

日本よりヨーロッパで有名な作家の芹沢光治良は沼津市、野球の大石大二郎は静岡市、赤堀元之は藤枝市、元衆議院副議長の勝間田清一は御殿場市、衆議院議員榛葉賀津也は菊川市、サッカー王国だけに、いずれも日本代表に選ばれた名波浩が藤枝市、望月重良と堀池巧がともに静岡市清水区の出身。ハンマー投の室伏重信は富士市、息子の広治は沼津市出身。俳優のエリックまたひら(本名:又平エリック康憲)も静岡県出身。




阿井 あい 30 藤枝市
相佐 あいさ 80 富士宮市
相曽 あいそ 70 浜松市
相磯 あいそ  50 沼津市
青島 あおしま  60 静岡市
青嶋 あおしま  40 静岡市
阿形 あがた 30 御前崎市
県 あがた 30 浜松市
縣 あがた 30 浜松市
赤堀 あかほり 40 掛川市
赤掘 あかほり 70 菊川市
秋津 あきつ 30 伊豆市
芥田 あくた 30 浜松市
揚張 あげはり 70 御前崎市
朝比奈 あさひな 30 静岡市
芦川 あしかわ 30 富士市
阿隅 あずみ 80 浜松市
渥美 あつみ 40 浜松市
荒波 あらなみ 50 島田市
荒浪 あらなみ 70 島田市
有海 ありうみ  40 菊川市
有ケ谷 ありがや 80 藤枝市
有谷 ありや 30 浜松市
粟倉 あわくら 30 磐田市
安間 あんま 60 浜松市
井伊谷 いいや 50 菊川市
伊海 いかい 70 沼津市
生熊 いくま 40 浜松市
伊熊 いくま  50 浜松市
伊久美 いくみ 70 藤枝市
幾見 いくみ 70 富士市
池ケ谷 いけがや 70 静岡市
池沼 いけぬま 60 浜松市
池ノ谷 いけのや 30 裾野市
池野谷 いけのや 30 浜松市
池谷 いけや (表末の注参照) 40 浜松市
伊郷 いごう 40 伊豆市
井指 いさし 50 菊川市
石貝 いしがい 40 掛川市
石ケ谷 いしがや 70 静岡市
石切山 いしきりやま 80 静岡市
石津谷 いしづや 80 浜松市
石埜 いしの 30 浜松市
石間 いしま 40 島田市
石牧 いしまき 60 浜松市
伊豆川 いずかわ 50 静岡市
泉地 いずみち 60 牧之原市
稲勝 いなかつ 70 浜松市
稲木 いなき 30 沼津市
井鍋 いなべ 70 藤枝市
稲穂 いなほ 40 富士市
伊野瀬 いのせ 50 浜松市
渭原 いはら 70 浜松市
五十右 いみぎ 90 焼津市
井柳 いやなぎ 70 静岡市
居山 いやま 30 西伊豆町
伊代田 いよだ  70 浜松市
伊代野 いよの 60 伊東市
入月 いりづき  30 富士市
入手 いりて 80 浜松市
岩ケ谷 いわがや 80 焼津市
岩科 いわしな 70 静岡市
岩品 いわしな 50 浜松市
岩辺 いわなべ  70 静岡市
浮海 うきがい 80 湖西市
潮木 うしおぎ 60 伊豆市
宇津山 うつやま 70 浜松市
右原 うはら 30 伊豆市
埋田 うめた 30 袋井市
漆畑 うるしばた 60 静岡市
粳田 うるちだ  60 焼津市
海野 うんの 30 静岡市
江塚 えづか  60 磐田市
榎土 えのきど 90 浜松市
江間 えま 40 浜松市
遠津 えんづ 80 静岡市
大石 おおいし 30 静岡市
大榎 おおえのき 50 静岡市
大川井 おおかわい 90 静岡市
大古田 おおこだ  50 沼津市
大胡田 おおごだ  50 御殿場市
大澄 おおすみ 50 浜松市
太田川 おおたがわ 70 富士宮市
太田良 おおたら 40 焼津市
大箸 おおはし 70 富士市
小粥 おがい 50 浜松市
小楠 おぐす 50 浜松市
納本 おくもと 70 静岡市
刑部 おさかべ 30 浜松市
帯金 おびかね  40 沼津市
小柳出 おやいで  50 伊豆市
尾鷲 おわし 30 沼津市
海瀬 かいせ  30 沼津市
掛井 かけい 40 磐田市
影島 かげしま 60 富士市
糟屋 かすや 70 静岡市
加瀬沢 かせざわ 70 静岡市
片瀬 かたせ 30 静岡市
片橋 かたはし 60 浜松市
勝沢 かつざわ  30 静岡市
勝又 かつまた 50 御殿場市
勝間田 かつまた 60 御殿場市
勝亦 かつまた 70 富士市
金指 かなざし 50 下田市
金刺 かなざし  50 富士市
兼高 かねたか 30 静岡市
釜下 かました 40 御前崎市
賀茂 かも 40 浜松市
嘉茂 かも 30 焼津市
鴨狩 かもかり 30 静岡市
河守 かわもり 60 焼津市
河原崎 かわらざき  60 御前崎市
漢人 かんど 70 菊川市
木佐森 きさもり 80 菊川市
岸山 きしやま 50 静岡市
桔川 きつかわ 50 浜松市
絹村 きぬむら 50 牧之原市
杵塚 きねづか 80 藤枝市
木又 きまた 30 富士市
桐部 きりべ 50 富士宮市
金原 きんぱら 30 浜松市
草ケ谷 くさがや 60 静岡市
草谷 くさがや  40 静岡市
工島 くしま 80 静岡市
沓間 くつま 50 御殿場市
国持 くにもち 80 静岡市
窪野 くぼの 40 袋井市
熊王 くまおう 40 富士市
熊切 くまきり 40 掛川市
粂田 くめた 30 掛川市
雲野 くもの 30 熱海市
榑林 くればやし 60 御前崎市
暮林 くればやし 70 島田市
紅林 くればやし 60 牧之原市
榑松 くれまつ 60 菊川市
桑高 くわたか 40 島田市
見城 けんじょう  40 静岡市
源平 げんぺい 60 静岡市
源馬 げんま 70 浜松市
甲賀 こうが 30 焼津市
公野 こうの 70 伊豆市
紅野 こうの  40 伊豆市
石代 こくだい 40 磐田市
五條 ごじょう 50 島田市
五条 ごじょう 30 島田市
小梢 こずえ 70 浜松市
古知 こち 50 静岡市
小長井 こながい 70 静岡市
小永井 こながい 40 富士市
小長谷 こながや 50 焼津市
小岱 このた 60 富士宮市
小梁 こはり 70 焼津市
小代田 こよた 50 富士宮市
惟村 これむら 70 富士宮市
今場 こんば 40 浜松市
今駒 こんま 40 掛川市
鷺坂 さぎさか 50 静岡市
匂坂 さぎさか 60 浜松市
左口 さぐち 70 磐田市
作原 さくはら 40 藤枝市
提坂 さげさか 80 島田市
笹ケ瀬 ささがせ 90 浜松市
篠ケ瀬 ささがせ 60 浜松市
笹下 ささした 40 静岡市
笹瀬 ささせ 40 菊川市
笹竹 ささたけ 40 浜松市
佐塚 さづか 40 静岡市
薩川 さつかわ 60 静岡市
沢入 さわいり 60 御前崎市
澤入 さわいり 50 御前崎市
塩坂 しおさか 50 静岡市
四條 しじょう  60 富士宮市
実石 じついし  70 焼津市
四ノ宮 しのみや 30 牧之原市
下位 しもい 80 浜松市
庄古 しょうこ 80 浜松市
勝治 しょうじ 70 藤枝市
生子 しょうじ  70 静岡市

白柳 しらやなぎ  60 浜松市         ココですね

進士 しんじ 40 下田市
榛地 しんち 80 牧之原市
榛葉 しんば 60 掛川市
新間 しんま  60 島田市
榛村 しんむら 70 掛川市
杉保 すぎほ 60 浜松市
勝呂 すぐろ 50 伊豆市
菅ケ谷 すげがや 70 藤枝市
鈴掛 すずかけ 60 牧之原市
数原 すはら 30 島田市
須部 すべ 70 浜松市
墨岡 すみおか 60 浜松市
諏訪部 すわべ 30 富士宮市
清 せい 40 富士宮市
堰沢 せきざわ 90 沼津市
芹沢 せりざわ  50 沼津市
芹澤 せりざわ  40 沼津市
先生 せんじょう 70 牧之原市
曽布川 そぶかわ  70 浜松市
染葉 そめは 70 掛川市
大長 だいちょう  30 静岡市
高氏 たかうじ 40 浜松市
田形 たがた 40 静岡市
滝戸 たきど 60 静岡市
滝浪 たきなみ 60 静岡市
田京 たきょう 40 伊東市
田光 たこう 50 浜松市
忠内 ただうち 50 湖西市
多々良 たたら 40 静岡市
田力 たぢから 70 浜松市
田地川 たちかわ 70 浜松市
谷米 たにごめ 60 富士市
種石 たねいし 80 焼津市
種茂 たねも 70 磐田市
多米 ため 50 森町
田米 ため 40 浜松市
丹所 たんしょ 30 牧之原市
津ケ谷 つがや 60 浜松市
筑地 つきじ 70 静岡市
月見里 つきみさと 40 静岡市
土切 つちきり 50 静岡市
角皆 つのがい 70 掛川市
角替 つのがえ 80 掛川市
鶴橋 つるはし 60 焼津市
手老 てろう  70 伊豆市
時森 ときもり 40 静岡市
登崎 とざき 60 静岡市
土佐谷 とさや 60 沼津市
栩木 とちぎ 30 浜松市
戸塚 とつか 30 掛川市
渡仲 となか 80 焼津市
外岡 とのおか 40 静岡市
外木 とのき 40 富士市
鳥羽山 とばやま 60 浜松市
外波山 とばやま 60 浜松市
飛奈 とびな 60 富士市
渡村 とむら 30 焼津市
豊竹 とよたけ 40 函南町
鳥沢 とりさわ  40 東伊豆町
富部 とんべ 60 浜松市
仲秋 なかあき 70 浜松市
仲亀 なかがめ 30 富士市
中津川 なかつがわ 30 浜松市
長房 ながふさ 40 焼津市
仲安 なかやす 50 焼津市
奈木 なぎ 30 沼津市
百鬼 なきり 60 磐田市
那須田 なすだ 80 浜松市
夏賀 なつが 70 藤枝市
名波 ななみ  60 牧之原市
奈良間 ならま 60 川根本町
成岡 なるおか 40 島田市
西ケ谷 にしがや 50 静岡市
西子 にしこ 40 静岡市
仁藤 にとう 40 富士市
二藤 にとう  30 伊豆の国市
二橋 にはし  40 浜松市
糠谷 ぬかや 40 静岡市
根上 ねがみ  30 御殿場市
祢次金 ねじがね 80 静岡市
野秋 のあき 60 沼津市
野賀 のが 60 菊川市
野ケ山 のがやま 80 掛川市
野極 のぎわ 60 伊豆の国市
野毛 のげ 40 清水町
野末 のずえ 50 浜松市
野寄 のより 40 浜松市
法月 のりづき  70 焼津市
袴田 はかまた はかまだ 50 浜松市
萩倉 はぎくら 60 御殿場市
萩田 はぎた 30 掛川市
羽切 はぎり 60 沼津市
橋ケ谷 はしがや 90 焼津市
初又 はつまた 70 沼津市
花枝 はなえだ 30 掛川市
早房 はやぶさ 60 富士市
原川 はらかわ 40 焼津市
原木 はらき 50 藤枝市
原崎 はらさき 30 焼津市
原科 はらしな 30 静岡市
半場 はんば 30 磐田市
引馬 ひくま  50 浜松市
彦山 ひこやま 60 河津町
一言 ひとこと 70 島田市
一杉 ひとすぎ 30 沼津市
日内地 ひないじ 90 浜松市
日吉 ひよし 30 伊東市
平垣 ひらがき 30 静岡市
広住 ひろずみ 40 島田市
福世 ふくよ 80 吉田町
福代 ふくよ 30 牧之原市
藤ケ谷 ふじがや 40 焼津市
藤浪 ふじなみ 30 静岡市
藤曲 ふじまがり  40 小山町
二又川 ふたまたがわ 60 富士市
太箸 ふとはし 80 浜松市
船村 ふなむら 40 富士市
古牧 ふるまき 40 静岡市
細沢 ほそざわ 30 静岡市
細澤 ほそざわ 40 静岡市
堀池 ほりいけ 30 静岡市
堀住 ほりずみ 70 静岡市
堀水 ほりみず 40 富士宮市
本樫 ほんがし 60 浜松市
本目 ほんめ 30 静岡市
馬飼野 まかいの 50 富士宮市
巻本 まきもと 60 静岡市
蒔山 まきやま 90 焼津市
又平 またひら 80 島田市
馬塚 まづか 80 浜松市
間渕 まぶち 60 浜松市
美尾 みお 80 静岡市
見崎 みさき 30 焼津市
御宿 みしゅく  30 富士宮市
溝垣 みぞがき 30 掛川市
密岡 みつおか 70 磐田市
光林 みつばやし  40 沼津市
三ツ谷 みつや 30 磐田市
三津山 みつやま 50 静岡市
峰野 みねの 40 浜松市
見原 みはら 40 焼津市
宮城島 みやぎしま 80 静岡市
宮司 みやじ 30 浜松市
美和 みわ 30 浜松市
向笠 むかさ 40 清水町
向島 むこうじま 40 藤枝市
無州 むしゅう 80 浜松市
胸組 むねぐみ 80 静岡市
村串 むらくし 30 河津町
村松 むらまつ 30 浜松市
室伏 むろふし  50 小山町
杢谷 もくたに 50 浜松市
杢屋 もくや 70 浜松市
持麾 もちざい 60 御殿場市
持塚 もちづか 70 島田市
望月 もちづき  40 静岡市
望野 もちの 70 富士宮市
持山 もちやま 30 静岡市
茂津目 もづめ 60 浜松市
本杉 もとすぎ 30 牧之原市
森主 もりぬし 80 静岡市
諸伏 もろふし 40 伊豆の国市
門西 もんざい 30 富士宮市
門名 もんな 90 浜松市
矢岸 やぎし 70 西伊豆町
安竹 やすたけ 40 静岡市
保竹 やすたけ 70 富士市
谷高 やたか  70 浜松市
谷津倉 やつくら 80 富士市
薮崎 やぶざき 30 藤枝市
藪崎 やぶざき 40 藤枝市
山泉 やまいずみ 30 袋井市
山梨 やまなし 60 静岡市
山杢 やまもく 80 静岡市
由比藤 ゆいとう 80 静岡市
雪島 ゆきしま 60 袋井市
弓桁 ゆみげた 80 掛川市
湯山 ゆやま 30 小山町
与五沢 よごさわ 60 伊豆の国市
横田川 よこたがわ 80 島田市
吉筋 よしすじ 80 森町
吉添 よしぞえ 50 牧之原市
吉林 よしばやし 60 浜松市
世田 よだ 50 浜松市
良知 らち  80 焼津市
和久田 わくだ 50 浜松市
鷲巣 わしず 60 静岡市
鷲山 わしやま 30 浜松市
渡井 わたい  50 富士宮市
藁科 わらしな 60 焼津市


(注)池谷……静岡市など県中部では「いけがや」が一般的
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月30日 13時29分36秒 ) パスワード


「藤兵衛」さんで検索しましたが

         初代島田代官 長谷川藤兵衛長盛
         当然この人ではないでしょう


2人目
http://bambi.u-shizuoka-ken.ac.jp/~kiyou4228021/12_1/12_1_01.pdf
[PDF]近世東海道の宿駅文化 - 静岡県立大学短期大学部

印西派と遠江との関係は、『湖西市史』第七巻所収の「日置流系図」などによると、次のよう. である。 ...... 竹藪は天竜川の氾濫原を開墾して新田畑を切り開いていく姿を映し、洪水から守る屋敷森を形. 成してい ...... 参照。袴田勘左衛門喜祖、号八方観南素については、拙稿『浜北市史』通史編上巻、1151 .... 光岡藤兵衛


  光岡藤兵衛さんがヒット
  ただし  文字化けしてて読めません



3人目の藤兵衛さん     残念!   静岡県静岡市葵区藤兵衛新田  でした。場違い(恥)


[ODF]こちら - 静岡県立中央図書館
www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/.../chiikigakushu.ods


1、富士は爆発するか、突如爆発する眠った火山、和歌に詠まれた富士山、日本史の ...... 町、新居町、湖西市、細江町、三ヶ日町、引佐町、浜北市、天竜市、春野町、森町、 ...... 口新田、遠藤新田、藤兵衛新田、(安部川流路変更計画)、中ノ郷、足久保口組・足 ...
 
ここも文字化けしてて読めません 


残念!
分かりません。



でも教育委員会では名主さんの苗字は分かるでしょうね。
図書館でお訊ずねになってはいかがでしょう?                
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月30日 13時41分13秒 ) パスワード

 「酒くさき 人にからまる こてふかな」


>蕉風というよりも俳諧といった感じで、胡蝶が遊女の意味を含んでいると思います。
>江戸の風俗を表現していて、元禄の雰囲気が漂います……。 

へえ〜



     「夜の蝶」という表現はこの時代にはあったのかもですね。





「こてふ」についてついでに調べてみました:


こ−てふ 【来てふ】

来いと言う。


出典古今集 恋四
「月夜よし夜(よ)よしと人に告げやらばこてふに似たり待たずしもあらず」


[訳] 今夜は月も美しく穏やかな夜ですよとあの人に言ってやるならば「来い」と言うのと同様である。私だって待っていないというのでもないのだ。



なりたち

カ変動詞「く(来)」の命令形「こ」+助詞「と」+動詞「い(言)ふ」からなる「こといふ」の変化した語。


         ああ、なるほど
         「こてふ」=「こといふ」=『「来」と言う』、ですか


こ−てふ 【胡蝶】

名詞
@(昆虫の)ちょう。[季語] 春。



A「胡蝶楽(らく)」の略。
A
舞楽の曲名。
四人の子供が、背中に蝶(ちよう)の羽の形をした衣装をつけて、冠に山吹の花をさし、手にも山吹の枝を持って舞う。
「胡蝶」とも。


B         
舞楽の一つ。
右方高麗楽。
高麗壱越(いちこつ)調。
童舞。
四人舞。
背に胡蝶の羽をつけ,山吹の挿頭(かざし)のある天冠をかぶり手に山吹の花枝を持って舞う。
胡蝶の舞。
胡蝶。
蝶。

[68]丸三柏服部さんからのコメント(2015年11月30日 16時52分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 素早いレスポンス、ありがとうございます。そう、図書館の郷土資料室
で訊いてみることにいたします。

 いろいろテーマがあっちへ行ったりこっちに来たりですみません。同時
進行で色々調べていますので、一つのテーマについて自分の情報が枯渇し
て来ると、他のテーマに移ります。その間にまた情報を補充するといった
感じであります。そんなこんなで何とか毎日レスを続けることができてお
りますが、それもこれも、あたたかくレスポンス(ご指導)していただける
あを様のおかげと感謝申し上げます。

 芭蕉については、知りすぎない方がいいのではないかという気持ちにな
って来ました。隠密であったにせよ、代作者がいたにせよ、その一連の
俳句としての革新と芸術性に変わりはないからであります。
 一体誰が芭蕉を追い越すことができるのでしょう……日本人の心象風景
=アイデンティティーを究極の形で洞察、そして問いかける。そこにおい
ては時間は止まり、永劫への扉が開く。
 芭蕉に小堀遠州のような庭園を造らせたら、どんな庭園を造るだろうか
……きっと、借景には無数の星々を孕んだ無限空間を用意するだろう。

 
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年11月30日 23時02分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


アチコチ行くのは良いことなのですよ。
どこかでインスピレーションが沸いて、手掛かりを見つけることになることもありますから。


最近、よく思うのですが、三つ柏さんは「教養」を深めていらっしゃるな、と。


古文書はなかなか習おうというヒトはいません。
ご自分1人で読めるようになると良いですね。

その道の人は若い時代にちゃんと習ってますから
それを三つ柏さんは今、取り組んでいらっしゃる。

   立派なご趣味でもあります。



芭蕉が作庭するとしたらどんな庭になるんでしょうね。
そういう世界に行くことも素晴らしい教養だと思います。


趣味と実益
本当に良いライフワークになっています。
羨ましい

わたくしはお零れで楽しませて頂いております。
[70]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月01日 08時38分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 地元に密着したいわゆる郷土資料を集めておりますが、集めれば集めるほど
新しい事実が発見でき、おもしろいです。
 以前は郷土史家というものを余り理解しておりませんでしたが、歴史は土地
に密着して、そうちょうどレコードに音の溝を刻んで行くように、残っている
ものだということを理解しました。人間の土地の上に残した足跡―それが歴史
というものだということがわかりました。

 本日は一日用事のため、また後で記します。
 いずれにしても、毎日が「蟻の一歩」です。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月01日 09時27分19秒 ) パスワード

三つ柏さん


この日々のお蔭で遠江の歴史研究家のいろいろな人と知り合うことがお出来になってラッキーでした。

早く服部家を研究なさっている方と知り合うことができると良いですね。
でも願っている時は会えないとしたものです。
何かのきっかけで会えるかも知れません。

その日のために研鑽を積んでおきませんとね。


千里の道を行き、万巻の書を読み、そして友を見つける。


松下家や井伊家を研究なさっていらっしゃる方がいるように服部家を研究なさっている方がいるはずです。

    でもニンジャ研究のほうに特化してしまうんでしょうね


県の教育委員会とか市の教育委員会の方でどなたか紹介してくださると良いですね。
県立図書館とか、そういう所でも結構ご存じですよ。



とにかくいろいろな方とお喋りなさって手広く交流なさいますと見つかったりします。
まだそういう時期じゃないのかもですね。
[72]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月02日 13時57分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 蟻の一歩―
 
 昨日より、郷土にまつわる古文書に目を通しておりました。そして、松島
氏の家系譜をもう一度調べ直しました。実は、松島氏の家譜については、そ
の後、より情報を収集してありました。そして系譜をよく見直したところ、
新たな事実が浮かんでまいりました。
 それは例の対助より数えて六代前の租、「松島右衛門尉源宗忠」のところ
の説明書きですが、今まではなかなか解読できませんでした。が、本日、今、
ようやくそれについて少し理解が進みました。

 そこには、だいたいこう書かれておりました―
 「氏書きの原書、戦国に失くせたる記名分二十代。それより末の事を新し
 く記しむ。〜。羽鳥庄司家人と伝う。〜。」

 ここの「羽鳥庄司家人」ということが重要な意味を持ちます。
 即ち、羽鳥庄司とは羽鳥庄の荘官であり、年貢の徴収や輸送を担当してい
たと思われます。荘官は徐々に領主化・武士化して行きます。その家人とい
うことは、代々仕えた家来ということになります。尉というのも官名であり
ます。
 ところで、羽鳥庄は平清盛により新熊野神社に寄進されたということです。
これが十二世紀。その後、平家から源氏へ、特に甲斐源氏の安田義定が地頭
となって、磐田の国衙にやって来ます。従って、平家から源氏に土地も支配
体制が変ったと思います。松島家は源氏を名乗っております。羽鳥庄他にた
くさんの土地を持ちます。従って、松島氏は甲斐源氏に属す松島氏ではなか
ったかと推察し直しました。信濃伊那の松島氏では、時代が十六世紀になっ
てしまう。
 また小笠原がらみでもつながる。馬がらみでも白羽の山下氏(小笠原氏)と
もつながり、市野氏ともつながる。
 甲斐の松島に八幡神社があり、ひょっとすると八幡寺であれば、対助の伯
父さんが住職を務めたことになります。

 甲斐源氏及びその関連氏族、臣下をもう一度改めて探究したいと思います。

 

[73]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月02日 14時02分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:租→祖

 補足:小笠原氏については、甲斐でも信濃でも回り回ってつながります。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月02日 22時55分43秒 ) パスワード

三つ柏さん


対助さんのご先祖さま
すごいことが分かりましたね。


>羽鳥庄司家人

つまりもともと羽鳥の現地有力者で羽鳥に派遣された役人に仕えたのかもですね。


だから平家とも源氏とも繋がりがあった。


面白い発見でしたね。
[75]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月03日 12時55分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 蟻の一歩―

 少しずつしか情報が出てきませんのが歴史の事実。
 それは、旬のタケノコの皮むき作業―何枚も何枚も皮をむいて、やっと
のことでコアの部分を取り出す……コアがない場合もある。

 あとは、「点」と「点」をつないで「線」とする―即ち、ストーリーを
完成させるということ。

 羽鳥の松島氏については、「点」として「羽鳥の荘官に仕えた家臣」と
いうことが判明しました。

 もう一つの「点」は、浜松市史を調べていきましたら、羽鳥庄に「御師」
の存在が明らかになりました。具体的には、新熊野神社の荘園(寺領)となり、
現地での「管理者兼布教者」が置かれたと推察いたしますが、やがてその者
が力をつけて(土豪化か)土地の所有権を持った。そして、自由に住民ごと
売買がてきたということであります。
 羽鳥庄も、そのような事態を経ているようです。詳細な情報はまだ見つけ
ておりませんので何とも言えませんが、それは松島一族に直接からむこと
になったはずです。
 「御師」とはどういうものであったかについてはただ今ほとんど情報を
もっていませんので、これから探究したいと思います。

 時代・時間としての縦糸と、領主・支配という横糸を明らかにしなれれば
歴史の謎は解けません。

 松島氏がいつから「松島」と名乗ったのか、どういう所以でそう名乗った
のか……これが最大の謎です。

 諏訪神族の松島氏は十三世紀前半に起源を見ます。その後、一ヶ所に留ま
っていたとは考えられません……どこへ広がったのでしょう。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月04日 03時19分06秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101501.html
スレッド56を立てました。
キリの良いところでどうぞ。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月04日 03時40分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


>対助さんより数えて六代前の租、「松島右衛門尉源宗忠」
>説明書き
>そこには、だいたいこう書かれておりました―
>「氏書きの原書、戦国に失くせたる記名分二十代。それより末の事を新しく記しむ。〜。羽鳥庄司家人と伝う。〜。」

宗忠さんは  1400年あたりの人物  でしょうから
その前の20代      つまり    400年前あたりの人物から始まっているということでしょうね。


つまり1000年代
11世紀あたり

この頃に   羽鳥庄司家人  だった。



では、この平安時代の人物のその前はどこにいたのか?
熊野の前は諏訪から来てた?



ということは遠江の平安時代の初めあたりまで遡って遠江の歴史を読むと良いということですね。


その頃、その前後、羽鳥庄はどこの荘園だったか?
どんなヒトが派遣されていたか?
やっぱり古代から読まなきゃいけないし、そして、神代の時代に遡りますね。


「宗忠さんの前に20代あるんだよ」というのがハッキリ分かって、かなり方向性が動きましたね。


>「御師」とはどういうものであったかについてはただ今ほとんど情報をもっていませんので、
>これから探究したいと思います。


面白くなりましたね。


御師さんは、忍者と違って背後の神社の名前を堂々と背負って表立って活動したまさにリーダーシップを有した孫子の兵法の世界の人物だったんでしょうね。

情報収集分析、情勢判断市場調査、勝算を目指した戦略構想、攪乱煽情、陽動作戦裏切り

実際にはどういう仕事をしたのでしょうね。
忍者は闇から闇に動いたんでしょうけど。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月04日 04時06分30秒 ) パスワード

今年のNHK大河のアホらしいこと!
なんせ脚本家が全部で計4人ですって?!
それで話がバラバラなのね、と納得。

    ムリに無理を重ねたハナシで、実際は各章の中心人物が主役なんでしょうけど
    いつも見終わって(あ〜、時間、損した〜)と思っていました。


でも最終章の「中心人物」が阿久沢夫妻。
上野国を調べてて出て来ましたね阿久沢氏。

阿久沢夫妻のみごとなこと!
実際にはもっと有能な商人だったんだろうなと思います。
特に奥さんの「おせいさん」のオトコマエなこと!
スゴイ!
毎回、「あ〜、今回も主役はおせいさんだったな〜」という感想でした。

    江守徹や三田佳子の前には若い役者は大根過ぎて、カスムなあ、と。




で、上州で阿久沢というのが出て来て、おお、あの阿久沢氏の子孫か!と感動でした。
    もとは  南朝忠臣の桃井氏の子孫。


          ここに松嶋氏も出て来るわけですね。


南北朝の戦いで一族はバラバラになり
一部は新田氏の出身である東国に居を定め
そして戦国時代に蹴散らされた、ということですね。


     阿久沢氏らは天正18年(1590)の小田原籠城戦に参加し、
     後北条氏と運命を共にした。

     一方、このころ松嶋氏はどうしていたか、
     今ひとつ分らないが、
     沢入辺りの松嶋氏子孫は江戸期には名主や銅問屋、明治期には村長になっており、
     阿久沢氏のように武士身分には戻れなかったが、地域の名望家として現代に至っている。


負けて歴史の表舞台から消えても実力者というのは別の形で名を残すのかという例の1つですね。


         http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/4_1_0.htm


次のレスにコピペしますね。
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月04日 04時09分32秒 ) パスワード

http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/4_1_0.htm

ずっと前にもコピペしてますが。



阿久沢・松島両氏と黒川八城

黒川郷士の旗頭である阿久沢・松島両氏と、黒川郷士が拠った黒川八城について。


阿久沢氏と松嶋氏



かつて、黒川谷の郷士の旗頭は阿久沢、松嶋両氏であり、永正7年(1510)以前に松嶋左衛門が、桐生氏に属したことから、黒川郷士は桐生氏に従属する一方で、戦国期を生き抜くために、上杉、後北条氏と、大きな勢力を背景に、独自の勢力圏を確保、後に太田金山の由良家に仕えることを余儀なくされ、後北条氏の小田原合戦に加担したことで、多くは帰農したが、その戦国期を生き抜いた戦略からは現代の我々も学ぶところがある。
黒川郷士は前九年の役で捕虜となった安倍宗任の家臣の末裔という伝承があるが、今回、本当のところはどうなのか、阿久沢氏の出自を探ってその答えを模索したいのと、松嶋氏で歴史上初めての登場人物となった松嶋左衛門とその子孫について述べ、また黒川郷士が拠った黒川八城についても紹介したい。




阿久沢氏の出自について



阿久沢氏は、黒川郷士の旗頭的な存在であったが、俗に言う奥州安倍宗任の家来(族臣)が源義家の安堵状をもって土着したという話は、戦国時代に周囲の諸将からの侵略に対し、独立を維持するための方便であって、実は加賀の国に名前の由来をもつ桃井氏末流である。安倍氏の子孫という伝承は、同じ群馬県の水上にもあり、やはり源義家の降人云々といった話である。

これは阿久沢氏が徳川家直参の旗本に取り立てられた所以でもあるが、後に幕府に提出された由緒書にも、阿久沢氏は桃井氏の系統であることが明記されている。


寛政重修諸家譜には「先祖は桃井の庶流にして加賀国津々井里愛久沢の邑に住せしより、地名をもって家号とし、のち文字を阿久沢にあらたむ」という阿久沢長右衛門行次〜弥左衛門広高の系統と「家伝に九条左大臣師輔が三男師高大隈国愛久沢に居住し、愛久沢判官と号す(略)其末孫対馬守直定入道道範上野国深沢城に住し阿久沢にあらたむといふ、此家伝證すべきものなく疑ふべし」という阿久沢専左衛門直富〜丑助直内の系統の二家をのせているが、後者の家伝は後世に作られたものと思われ、「疑ふべし」の言葉通り信憑性がない。両系統とも家紋は洲山(須山:州浜)紋が共通しており、前者はさらに二引両の紋も使用している。二引両は言うまでもなく、源姓足利氏とその分流の用いた紋であり、桃井氏もこれを使用している。両家とも、深沢城主であった阿久沢氏の末裔で、いつの頃か分家したものであろうが、室町・戦国の世ならともかく、旗本として徳川幕府の内部にあってなぜ先祖を別々に名乗るのか理由がよく分らない。何か直富〜直内の系統は、桃井の流れであることを隠す事情でもあったのであろうか。一方、深沢城址に建つ正円寺に残る阿久沢氏代々の墓の銘には丑助直内などの名前が見られ、阿久沢専左衛門直富〜丑助直内の系統の方が深沢城主であった阿久沢氏直系と思われる。通字である「直」も、桃井直常の「直」など桃井氏の通字を思わせるのだが。また、阿久沢氏の旗下にあって戦国期に後北条氏から感状を受けるなどした目黒氏の先祖書でも、阿久沢氏の出自を「本国播州桃井の庶流」とし、武者修行のために上州へきて深沢城主となったとしている(黒保根村目黒八重治家文書)。これは本国を播州としている以外は、前記の阿久沢長右衛門行次〜弥左衛門広高の家譜に近い。



桃井氏は北朝・南朝と一族のなかが割れていたようであるし、桃井直常のような桃井氏主流も、足利直義に従った観応擾乱の後は、足利幕府に対して南朝に降伏して敵対し、数度にわたって京都を占領している。いわば足利幕府からみれば、お尋ね者であった。赤城山南麓の宮城村から神梅、深沢にかけて、山中に潜むように室町から戦国期に活動してきたことや、同じ赤城山南麓で新田氏ゆかりの新川には、「桃井の腹切石」(新里村新川字桃井大屋)という南朝についた桃井氏(桃井尚義か)の古跡もあり、阿久沢氏はこの南朝方の桃井氏の出自ではないかと推察する。



新川の鏑木氏所蔵古記録に「三寶院配下、桃井山南善寺照明院 在所新屋敷 當アラ宮 桃井大明神 大屋小社地 祭主照明院 新田旗下 桃井を祀ると云 本村異名村主格式帳中、安養院殿 新田義重公 桃井神社祭主桃井末孫照明院 桃井山照明院 御先祖新田末」とあり、この桃井神社は桃井次郎尚義を祀るという。



明治4年に、前述の阿久沢直富〜直内の子孫である、静岡県少属阿久沢直道が前橋藩庁に提出した由緒書では、九条家云々ではなく奥州前九年の役で降った安倍宗任の家来が土着したとの伝承に続き、愛久沢対馬守直定入道道伴の代に至って上杉管領(関東管領上杉謙信)に属す、道伴より愛久沢の愛を阿に改めたとあり、対馬守直定より二代目が阿久沢対馬守貴綱、三代目阿久沢左馬允綱次は北条家に属し、四代目阿久沢能登守直崇は深沢城主にして北条家に属するため、北条家よりの感状数通あり、天正18年(1590)小田原北条没落の後、深沢城の麓なる神梅に退去、城地に天台宗正円寺を建立したという。今も正円寺には阿久沢氏の代々の墓があり、寛永14年(1637)6月20日に亡くなったという能登守直崇の墓も大きな自然石に「宗無居士」という戒名が刻されて墓地の中ほどにある。



筆者の母方の本家は、この阿久沢の四天王の一つといわれる家で、阿久沢氏から拝領したという越前下坂の脇差が残っていたが、その脇差は江戸初期のもので神梅に退去した能登守直崇か後代の当主の誰かから貰ったと想像する。


阿久沢氏に限らず、黒川郷士につきまとう安倍宗任の家来が土着したというルーツ話は、後世の「話」であって、これは確たる証拠もなく、あくまで筆者の推論であるが、高草木氏(元は真野氏)が京都周辺の出身であるといわれるなど、黒川郷士には上方から来た人々も多かったと思われ、南朝の影が感じられるのである。



次は松嶋氏について。
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月04日 04時14分37秒 ) パスワード

五蘭田城に拠った松嶋左衛門の悲話とその後の松嶋氏



黒川郷士は室町中期くらいまでは独立した武士団として、諸大名の支配をうけていなかったと思われる。ところが、桐生の領主であった桐生靱負亟重綱は、前原美濃に命じて突如黒川谷に出兵し、五蘭田(五覧田、五乱田とも書く)城の松崎左衛門を降した(「桐生地方史」岡部赤峰、「桐生市史」桐生市)。

そして、桐生重綱は家臣岩崎大六の姉を側室にしていたが、その側室が生んだ女子を左衛門に嫁がせ、友若という男子が生れている。永正7年(1510)に北条早雲に呼応して主君である管領上杉憲房に反乱をおこした上田蔵人が立て籠る武州神奈川権現山城を攻めるという、山内上杉氏の号令に対して、桐生重綱はこの左衛門を名代にして派遣した。永正7年(1510)7月28日、左衛門は戦死し、残された妻子は一時同族によって夜討をかけられて避難したが、後に和談がなって、友若が左衛門を名乗り、本家家督を継いだという。

この松崎氏は上杉謙信の作成させた永禄4年(1561)の関東幕注文には「松崎大和守 根篠」と記されている者の先祖であろう。



ところが、「松崎」という苗字は五蘭田城のあった勢多郡東村になく、周辺地区にも殆ど存在しない。「桐生地方史」の著者岡部赤峰も「渡良瀬沿岸地方史蹟」のなかで「松崎」は「松嶋」の間違いであろうとしている。実際、電話帳掲載の名前を調べても、勢多郡東村で松から始まる苗字は「松島」(「松嶋」等を含む)が63件、その他3件の登録であり、隣の黒保根村では「松島」(「松嶋」等を含む)が30件(うち上田沢居住が20件)、その他、黒川郷士で天正16年(1588)紀銘の石幢を建立した松井備後守の子孫と思われる「松井」4件ほか7件(「松崎」姓の登録はない)である。他地区からの流入者が多いと思われる大間々町や桐生市では「松崎」姓の登録もあるが、数の上では圧倒的に「松島」が多い。


やはり、松崎左衛門は、「松嶋左衛門」であって、かつて関所があったといわれ、小黒川と渡良瀬川が合流する現在の勢多郡東村荻原字関守に、関所防備のために砦程度の単郭の城(通常五蘭田城という山頂にある城は戦国期に黒川郷士が築き、真田や由良の手に落ちた後、後北条氏に後援された阿久沢氏らが奪回、整備したもの)を構え、小中や沢入に同族がいたと思われる。


元亀4年(1573)由良成繁から安堵状をうけた松嶋右京助は、安堵状が見つかったのが黒保根村上田沢の松嶋家であり、上田沢辺りの住人と見られ、また上田沢には皿窪の砦や寄居など、五蘭田城の周辺城砦が存在することから、五蘭田城に拠った松嶋氏は、上田沢に平常時住んでいたのではないだろうか。



権現山合戦の後、前述のような経緯があって左衛門の跡を継いだ友若と寡婦となった母とは、かなり後にはなるが再び桐生氏の政略結婚で引き離されることになる。つまり桐生氏は、左衛門未亡人を赤城南麓に勢力を張った膳城の城主膳因幡守に再嫁させ、膳氏の取込のための政略に利用したのである。

膳氏と桐生氏の対立はいつに始まるかしれないが(一説に桐生氏の家老格であった、摂津細川氏の末裔である細川内膳が天文13年(1544)3月2日に突如桐生大炊介祐綱に討たれ、膳氏はこの妹婿の仇をうつ機会を狙っていたという)、膳氏はついに天文13年(1544)7月15日に21騎500人の兵を組織し、桐生を攻撃すべく進軍、桐生勢は家老の谷丹後守浄綱(一説に里見上総介勝広)を大将に迎え撃って、桐生近くの渡良瀬川畔の間の原(あいのはら)で戦闘に至った。


その結果、間の原、笠懸野と合戦し膳勢の敗色が濃厚となった夕方に、膳城近隣の曹洞宗龍源寺の和尚の仲裁により、和睦が成立、膳因幡守は弟大学と家老の鶴見玄蕃を人質として桐生に差し出した。その後桐生祐綱からの要請で、祐綱からは異母妹にあたる松嶋左衛門未亡人との政略結婚を受け入れた膳氏は、人質を返還され、桐生の幕下についたのであった。

実に左衛門戦死から34年後であり、松嶋左衛門未亡人も年配になっており、名ばかりの結婚であることは言うまでもあるまい。



一方、左衛門を神奈川の合戦場に赴かせた桐生重綱は、永正13年(1516)10月荒戸野での鷹狩の際に突然死した愛馬浄土黒から落馬してなくなった。桐生重綱の子祐綱は、浄土黒を埋葬した場所に柳を植えて弔ったといい、その柳は桐生大炊介手植ヤナギとして群馬県指定天然記念物となっている。

松嶋左衛門、友若の後、松嶋氏がどうなっていったかは、松嶋氏の子孫が保有する古文書類や江戸時代に書かれた軍記類、その他伝承からアウトラインは分かる。すなわち、永禄4年(1561)の関東幕注文にある「松崎大和守」も「松嶋大和守」の誤記と思われ、当時は上杉謙信の支配を受けていた。

そのことは、沢入御用銅問屋松嶋十郎治所蔵の文書のなかに松嶋駿河守にあてた上杉輝虎の一種の感謝状があることでも証せられる。また、「関八州古戦録」などの軍記物にたびたび登場する松嶋式部入道古伯は永禄から天正くらいの人で、沢入から高津戸まで勢力を伸ばした。

一方、同時代の小中の松嶋淡路守はいち早く桐生氏を見限り、他の黒川郷士とも別行動をしていた模様で、天正6年(1578)10月、黒川郷士と由良勢との合戦に先立ち由良方の武士として使者にたったところを川で遭難した事件が軍記類の記事に見られる。上田沢、湧丸あたりの松嶋氏も桐生氏を見限り、水論に始まる桐生・由良の合戦では由良に加担したと思われ、前出のように桐生家が滅亡した元亀4年(1573)に松嶋右京助宛、由良成繁の安堵状が出されている。


天正5年(1577)松嶋左近之丞宛に上杉謙信の重臣河田重親から「禁制になっている竹木をみだりに切るな」という趣旨の文書が出されており、当時既に上杉氏の支配が揺らぎ、松嶋氏をはじめ黒川郷士たちは由良氏や後北条氏によしみを通じていくことになる。すなわち、天正の初め頃までには松嶋氏らは桐生氏よりも上杉氏の直接支配をうけ、さらに一部は由良氏とも通じていた。


里見兄弟の高津戸合戦の後、その由良氏と黒川郷士は、天正6年(1578)10月に合戦を行ったが和睦し、以降黒川郷士は一旦由良氏の配下に入ることになった。この頃、上杉謙信の後継者をめぐる越後上杉氏の内紛、いわゆる御館の乱で上杉景虎が敗死し、越相同盟が破棄されている。

したがって、上州へ後北条氏が攻勢をかけていくことになり、天正10年(1582)3月甲斐武田氏滅亡の後上州へ進出した織田信長家臣の滝川一益は、その年6月本能寺の変後、神流川合戦で後北条氏に敗れ、上州は後北条氏の支配が一層強まることになった。天正11年(1583)その後北条氏からの独立を目指す由良国繁は、小田原城に軟禁され、太田金山城は包囲されるなどしたが、由良氏の支配下にあった五蘭田城を攻略するため、後北条氏は阿久沢彦二郎に朱印状を与え五蘭田攻略の恩賞として仁田山五郷の所領を約束している。


すなわち、深沢城主であった阿久沢氏らは、また後北条氏配下として由良氏とは対立している。天正12年(1584)7月、後北条氏に指示された阿久沢氏、目黒氏らは、五蘭田城を奪回し、普請を固めた。これが五蘭田城址の現況になっている。阿久沢氏らは天正18年(1590)の小田原籠城戦に参加し、後北条氏と運命を共にした。一方、このころ松嶋氏はどうしていたか、今ひとつ分らないが、沢入辺りの松嶋氏子孫は江戸期には名主や銅問屋、明治期には村長になっており、阿久沢氏のように武士身分には戻れなかったが、地域の名望家として現代に至っている。

             画像<五蘭田城址の関守側入口と権現山城址(横浜市神奈川区)>


黒川郷士の八つの城



黒川郷士のいわゆる黒川八城とは、以下の城である。

座間城(群馬県勢多郡東村座間:橋爪修理亮の城)
沢入城(同東村沢入:松嶋氏の城)
草木城(同東村草木:高草木筑前守の城)
神戸城(同東村神戸:小曾根筑前の城)
小中城(同東村小中:松嶋淡路守の城、松嶋氏の本家は小中であり、沢入、小夜戸に広がったという説がある)
三ヶ郷城(同東村三ヶ郷(花輪の近く):東宮修理の城、永禄年間に東宮丹波守が築く)
五蘭田城(同黒保根村関守:もともとは別に松嶋氏が築いた崖端城があったが、戦国期に黒川郷士が山頂に築城、整備、のちに上杉氏、真田氏に占拠され、由良氏に属した後、由良氏が後北条氏から離反するや後北条氏の命により阿久沢氏らが奪回)
深沢城(同黒保根村城:深沢氏ら神梅地衆が永禄年間に築城、天正2年(1573)上杉氏に占拠され、後に阿久沢氏が再び入る)

ほかに、皿窪の砦(同黒保根村上田沢)、手振山の砦(群馬県山田郡大間々町神梅〜大間々)があり、小さな寄居などもあったらしい。
高津戸の要害山にある高津戸城は、上杉謙信に後援された里見兄弟が立て籠もったことで有名であるが、南北朝の頃山田氏によって築城され、戦国の天正期にいたり、一時松嶋式部入道古伯が出城として使用していたことが分っている。高津戸から程近い大間々町塩原の松源寺は松嶋式部入道古伯の子である松嶋図書助創建といわれ、近辺には松嶋姓の家も割合多い。

ちなみに、中曽根康弘元首相が紹介して全国的に有名となった星野物産の「手振うどん」は、手振山から名前がつけられている。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月04日 04時21分02秒 ) パスワード

http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/4_1.htm



黒川郷士と渡良瀬川沿岸地域

筆者のルーツである黒川郷士と、その活躍の舞台となった桐生から山中に入った渡良瀬川沿岸地域について。



黒川谷の郷士たち



かつて、黒川谷と呼ばれた現在の群馬県桐生市から山中に入った渡良瀬渓谷には、独立不羈の気概をもった松嶋、阿久沢らの郷士たちが蟠居していた。

桐生の桐生家に合戦をいどまれ、やむなく降った松嶋左衛門が、桐生家名代として参加した神奈川権現山の合戦で戦死するなど、黒川郷士は戦国時代初期から苦難の歩みを余儀なくされた。

天正期には桐生家の支配から脱し、上杉氏、後北条氏の勢力下に一時置かれたが、最後は太田金山の由良家に仕え、由良国繁が後北条氏の小田原合戦に加担したことで豊臣秀吉により牛久に転封されてからは、多くの者は帰農したが、阿久沢氏は徳川家直参旗本となり、ある者は元の武士に戻せと徳川幕府に嘆願書を送ったが、聞き届けられなかった。

江戸時代、帰農した郷士の子孫たちも、野にあって、楳本法神のような剣客に剣を学び、和歌をたしなんだ。

だが、彼らの子孫からは、明治以降軍人や政治家、実業家として大いに活躍する者が輩出した。

今や、彼らの足跡は、山中の城館址に残されているのみ。

           画像<松嶋氏が一時出城として使用し、里見兄弟が立て籠もった高津戸城址>




http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/4_1_1.htm

高津戸城

中世に築城され、戦国時代に里見兄弟が拠った高津戸城について。





高津戸城の歴史



高津戸城は、現在の大間々町高津戸の渡良瀬川右岸の要害山の山頂から中腹にかけて、階梯式に郭展開する山城であり、要害山の名の通り、切り立った断崖を見ると、攻めるのは容易でない印象を受ける。

天保2年(1831)に渡辺崋山が書いた毛武遊記によれば、「堀河院の御宇、山田七郎平吉之、寛治2年(1088)築城し、筑後守則之が代に至り観応2年(1351)桐生国綱に滅ぼされる」とある。

しかしながら、山田氏が当城に拠ったという確たる文献などが残っていない。また寛治2年の築城という根拠もないが、要害山麓の阿弥陀堂に南北朝期の墓があることから、その頃には城もあったのではないか。この高津戸城は、仁田山地域城といわれる仁田山城や皿窪砦などの城の一つであり、桐生表に対する防備のための拠点であった。元は山田氏が当地を含めた仁田山地域を治め、二階堂氏も後に統治したという。高津戸城址のある、要害山麓の阿弥陀堂にある南北朝期の墓が、山田氏のものと伝承される山田氏はともかく、二階堂氏については話だけで信じ難い。しかし、里見兄弟の逸話の発端となった事件であるが、元亀元年(1570)3月に里見上総介勝広が家臣である石原石見の裏切りもあって、仕えていた桐生親綱の軍勢に襲撃されたとき、赤萩砦という仁田山城地域城の一つにいたらしく、里見氏が桐生氏の城代として仁田山城におり、仁田山地域城付近の仁田山八郷を治めていたことは事実であろう。



伝承ではあるが、里見家の七代、義連の三男氏連が仁田山八郷に入ったのは建徳2年(1371)で桐生国綱の娘が氏連の正室となり、その縁で仁田山八郷を国綱からまかされた。また、氏連より四代後の宗連は、天正2年(1574)9月越後の上杉謙信に攻められ自刃したという。里見上総介勝広はその宗連と何らかの血縁関係があったと思われるが、軍記物に書かれていたように安房の里見実尭が里見家の内紛を生延びて、名前を変えて桐生家に仕えたということではなく、元々上州にいた里見氏の一族が仁田山に移住したのが、里見上総介勝広の先祖であり、戦国期の人である勝広は家中がみだれていた桐生親綱の代に何らかの事情で誅されたということであろう。


その後、高津戸に松嶋氏が進出し、一時高津戸城を桐生方面への出城として使ったようであるが、里見勝広の子息である随見勝政、平四郎が上杉謙信の後援のもとで、松嶋氏にかわって高津戸城に入り、天正5年(1577)から翌6年桐生氏にかわって桐生を治めていた由良氏に滅ぼされるまで使用したとされる。


なお、里見兄弟の逸話は有名で、土地の銘菓「里見まんじゅう」の名前にもなっている位であるが、親の仇である石原石見(直接の仇は桐生親綱だが)を討つべく、上杉謙信や黒川郷士の支援を受けた里見兄弟が高津戸城に拠ったが、桐生氏は既に桐生領主ではなく由良氏が取ってかわっていた。それでも、用命の砦など桐生勢の拠点を襲撃するなど、里見兄弟は奮戦するが、石原石見が仕える由良氏によって、結局里見兄弟と従う越後浪人たちは討たれてしまったという話である。

これは上杉謙信の東上野への進出と土地の小領主たちの動向が背景としてあり、ちょうど上杉氏の支配力が弱まり始め、同時に黒川郷士たちも上杉氏の配下から離脱する直前の状況で起きた事件であり、上杉謙信というビッグネームとあわせて長く人々の記憶に残ったのであろう。




高津戸城の縄張り
  

高津戸城は前述した通り、階梯式の郭展開という特徴をもつ山城である。右図は、その縄張図であるが、本丸とは現在要害神社の建っている直径50m強の円形に近い郭であり、東と北西、南に虎口があった。その郭を取り巻くように、腰郭(山崎一氏によると、これが本丸であり、その上段が「詰の丸」という)がついており、その腰郭と下段に位置する二の丸と称せられる階段状に小さな郭も含めて展開している部分の最上段との段差は3m〜4mあり、その間を区切るように空堀がある。

二の丸といっている部分は本丸の南側に階段状の小さな平場の積重ねとして展開するが、結構広く、現在駐車場となっている三の丸との間に、やはり空堀が走っている。三の丸は二の丸のさらに南側にあるが、駐車場にした際に空堀の一部が埋められている。空堀は、本丸北側の尾根にも見られ、敵軍勢の進攻を妨害する役割を果たしている。

三の丸の南にも家臣の屋敷などがあったようで、小郭が階段状になっている。これは、かなり山の麓に近い部分でも展開されている。




高津戸城を戦国期に大規模改修したのは松嶋氏か



電話帳の調査では、勢多郡東村で「松島」姓(「松嶋」等を含む)が63件、隣の黒保根村では「松島」(「松嶋」等を含む)が30件であるが、高津戸にほど近い大間々町塩原あたりでも「松島」、「松嶋」姓が多い。松嶋氏が高津戸に進出したのは、天正に入って桐生家中に乱れが起き、統治基盤も弱体化してからであろうが、桐生氏が軽視し、南北朝期以降放置されてきた高津戸城を整備した模様である。里見兄弟の逸話では、里見兄弟の頼みにより松嶋氏ら黒川郷士が田井氏を奉行として、堀を掘り、逆茂木を植えるなどして整備したとあるが、もっと前に松嶋氏の手によって改修は行われていたと思われる。大間々町塩原にある曹洞宗の松源寺は松嶋式部入道古伯の子である松嶋図書助創建といわれるが、あるいは松嶋式部入道古伯はその子図書助に当城を守らせていたのかもしれない。
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月04日 04時29分29秒 ) パスワード

うちのマンションの図書館から借りた本ですが

テレビで報道された戦慄の霊現象
竹書房文庫
ロム・インターナショナル(編)

P48


枝を切るたびにいまわしい出来事が!
JRも頭を悩ます諏訪神社の御神木(朴の木で樹齢2000数百年)
のお話

ヤマトタケルノミコトに由来する木


甲斐大和駅




http://blog.northwing-jc.com/?eid=80

訪神社  甲州市大和町初鹿野

甲斐大和駅の少し手前に諏訪神社がある。ヤマトタケルノミコトが杖にしたものが発芽して朴の木になったという伝承があると云うが・・・・・・


本殿の裏にある神木の朴の木は、二千数百年を経たと云われており、幹は幾度か枯れては根本から発芽し、現在に至っている。この朴の木は、日本武尊がこの地に憩った折り、杖にしたものが発芽したものと伝承されている。古来からこの神木を疎(おろそ)かにすると、不詳の事件が起きると信じられているので、神意に逆らわないようにしている。平成元年三月 大和村教育委員会・・・とあるから怪奇な事件があったようだ。さわらぬ神に祟り無しだから早々に退散することに、クワバラ クワバラ・・・・・。


しかし社伝には、信濃国諏訪社国体にして建御名方命を祭り、命此地に巡狩ありける・・・・・・・・・・・・朴の枝を逆さに地に指入置賜うに枝葉栄えて今に存す、拾抱計にして繁茂す、神木と号し杉の木八抱計りにして同所日向か宮と称す。とある。

朴の木は諏訪の神『建御名方命』が植えて、神木は杉となっている。境内右側にある東屋は、杉の大木の切株を蔽うように建っていた。案内板と社伝の違いには違和感が残る。
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月04日 04時33分06秒 ) パスワード

http://blogs.yahoo.co.jp/mt_book_92/61298552.html


甲斐大和に立ち寄りました。大月よりちょっと手前。
ワタクシ、「チキン」などと名乗っていますが、そのルーツがここ甲斐大和の諏訪神社にあるのです。



【以下回想】

サークルの先輩と飲んでいますと、「なぁ。この神社の木なんだけどさ、怖そうだから行ってみない?」と誘ってきました。


山梨県大和村にあるJR東日本甲斐大和駅のすぐそばには、ヤマトタケルノミコトが突き刺した枝から芽を出したとされるホオノキのご神木が存在する。
鉄道の架線に引っ掛かりそうなほど枝が伸びているが、うかつに伐ると大変なことになるという。
昭和28年に枝降ろしをした6人は数年のうちに5人が死亡し1人が重傷を負った。
昭和43年には線路の複々線化工事で枝をいじったが、その直後に村の修学旅行生が乗ったバスが事故に遭い、6人が死亡したそうである。


現地で見たホオノキはそれはそれは立派で、神々しさすら感じました。

そのスケールの大きさからくる威圧感は半端じゃありません。


近所の酒屋さんにビール買いがてら「伝説」のお話を聞きに伺いました。

ご主人によると、
「その祟りは本当なんだから。」
「葉っぱ1枚踏んだだけでも災いあるんだから。」
「よーく神様拝んで行きなさい。」
とのことです。

葉っぱ1枚…ですか。
まぁ地元の人はそういうこと大袈裟に言いますよね。

ある意味、「祟り」が観光スポットの意味をなしている。ふーん。
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月04日 04時46分44秒 ) パスワード

この本には朴の木のたたりのハナシがいろいろ書かれています。



で、次のハナシが
「地元村会議でも話題にのぼった?!呪われた国道122号線  城下トンネル」
です。

P56

心霊スポットだった。


深沢城のあったところ。
処刑場もあった。
渡良瀬川の氾濫   1947年のカスリーン台風で水死者が流れついた場所
足尾銅山からの逃亡者が不慮の死を遂げた所


今は慰霊碑も建てられて事故死が減ったそうです。


ちょうどこんなお話を読んでいたところに三つ柏さんから松嶋宗忠さんのお話が出て
その偶然の一致にドキリとしていました。

   実は我が家の中で心臓が止まるかと思うようなドッキリもあったし。
   多分、「影」なだけと思いますが。

     ハワイのこのマンションは出ないと思う。
     オットは3人いると思う、って今でも言ってますが。

     ベガスの家は義母が時々出てた。
     眷属が1度来てた。

     ロスの家は最後までオカルトかかってた。
     フランス人の友人が「ドイツ系の名字だからオカルトかかってるでしょ」と言ってたけど
     あの家は引っ越しの前夜もすごかった。


ハワイのこのマンションのアレはほんの「影」と思う。
ドキッとしたのは、こんな本を読んだせいと思う事に決定。

今夜見なかったら、無事、脱出ということにします。
[85]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月04日 15時55分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 由良成繁の三男の渡瀬繁詮ですが、秀吉より遠江横須賀城三万五千石を与
えられますが、その後、秀次事件にからみ、秀次の家老であったために自刃
した……。
 由良成繁の三男。「松島古伯」という松島氏が由良家の家臣となっている。
 自刃後、その息子は浜松の渡瀬町に住んだと言われている。
 由良氏の家臣の松島氏については、遠江と関係する可能性はなきにしもあ
らずでありますが、これ以上の情報が見つからない。

 やはり、小笠原氏、源氏、そして羽鳥庄の豪農か土豪…そのクロスする
時代に松島氏が浮上してくる可能性が高い。二十代分の祖先が羽鳥庄にいた
ならありがたいが、松島という姓はよそから移入されたものではないか……。

 また、蟻の一歩の前進に向けて、地元の古文書関係、市史をしらみつぶし
に探してみます……。
[86]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月04日 22時38分27秒 ) パスワード

三つ柏さん


>由良成繁の三男の渡瀬繁詮ですが、
>秀吉より<<<遠江横須賀城>>>三万五千石を与えられますが、
>その後、<<<秀次事件>>>にからみ、秀次の家老であったために自刃した……。
>自刃後、その息子は浜松の<<<渡瀬町>>>に住んだと言われている。

絡みますね。


頂いた  松嶋家譜  にも抵触するような。
加藤氏が、秀次事件があって、という話にも抵触するような。



>二十代分の祖先が羽鳥庄にいたならありがたいが、松島という姓はよそから移入されたものではないか……。

神代の時代から既に住んでいたのかもですね。
    ヤマトタケルノミコトがらみで既に羽鳥に既に住んでいた?
    諏訪大社がらみで羽鳥に住んでいた?


>また、蟻の一歩の前進に向けて、地元の古文書関係、市史をしらみつぶしに探してみます……。

はい
よろしく、です。


人間のことですからアッチに行ったりコッチに行ったり
いろいろな権力者と手を組んだり
単純にはいかないですね。

(だろうな)というのは分かってても「記録」「証拠」が欲しいですね。
[87]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月06日 08時49分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一昨日は忘年会、ついつい飲み過ぎて二日酔い。昨日は養生しておりまし
た。

 甲斐源氏、安田義定について調べてみました。
 富士川の戦い後、遠江は義定が治めることになり、遠江の国衙の所在地の
見付に居を構えたようです。
 遠江に入部し独自の支配を展開したようで、しばしば寺社領と紛争を起こ
しているということです。

 これから防災訓練がありますので、一時中断いたします。
[88]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月06日 13時45分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 安田義定は、鎌田御厨、小杉御厨(大井川町)を押領し、荘園領主側から訴
えられているようです。
 それから、ここがポイントですが―
 用水の問題で、熊野山領住民と切傷沙汰を起こしている。この熊野山領は
「羽鳥庄」とも言われる。遠江の国司として高圧的に臨んだのであろうとい
うことです。高野山領「頭陀寺庄」へも入部し、惣検校職補任を背景に、荘
園年貢を押領し、高野山側から訴えられたが、その後も押領し続けたようで
あります。

 ここで、羽鳥庄について振り返ってみますと、羽鳥庄は永暦元年(1160)年
、京都に建てられた新熊野神社に平氏により寄進されている。
 富士川の戦いの1180年においては、平家は敗走したけれど、源平の決着は
まだついていません。もう少し先になります。
 平家支配から源氏支配へと次第に変わって行くということで、羽鳥庄にお
いても源氏の色彩は濃くなって行ったのではないかと推察されます。

 松島氏が源氏を名乗っているということは、安田義定の甲斐源氏につなが
っているのではないかと結論付ける由縁であります。
 但し、源の姓を公称することができたのは、「御門葉」と呼ばれた次の八
人だけであったということです。即ち―
 @三河守 源範頼
 A駿河守 太田広綱
 B武蔵守 大内義信
 C伊豆守 山名義範
 D相模守 大内惟義
 E上総介 足利義兼
 F信濃守 小笠原遠光
 G越後守 安田義賢
 公に名乗ったかどうかはわかりませんが、羽鳥の松島氏は源氏筋であるこ
とは表明したかった。羽鳥庄司の家人として。

 遠江の守護は1238年より「北条氏」に代わって行く。承久の乱も制しなお
も北条氏の執権政治が続く。

 松島氏の結論は―
 @源氏でA松島氏でB諏訪に関係し(服織神社には、天穂日命と建御名方
命が祀られている)、なおかつC羽鳥に住むとい四条件を満たす松島氏は、
諏訪神党で伊那の藤沢氏の後裔の松島氏しか該当する者はない。
 問題は、十二世紀ごろどうやって伊那からこの地にやって来て土着したか
であります……。
 
[89]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月06日 20時26分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 遠江は、甲斐源氏安田義定の支配から北条氏の支配へと移りますが、
諏訪神党は北条氏の臣下で戦っており、また南朝側でもありましたので、
この遠江においては、北条氏の支配、南朝支援の土地柄とあいまって、
諏訪神党(諏訪氏の血族)が活躍できる場としての条件は整っています。
 北条氏と松島氏との関係を探究してみたいと思います。
 また、諏訪氏(大祝)の動きを追ってみたいと思います。
 北条氏、諏訪氏の間の中に松島氏は埋もれているのかも知れません。
 松島氏の祖の藤沢清信は、諏訪有員(大祝)から数えて十七代目であり
ます。
[90]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月07日 05時18分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


>問題は、十二世紀ごろどうやって伊那からこの地にやって来て土着したかであります……。


松島家譜の宗忠さんのご先祖さま20代分の最初の方は
ひょっとすると  この12世紀ごろ  伊那から  やってきた人物かも知れないですね。


    とはいえ
    その前の伊那の地または信濃の国の本貫地とも切れずに続いていたでしょうし

         藤沢氏でしょうか?



諏訪大社がらみの記録に12世紀あたりに遠江に行った松島氏の記録があるかもですね。


    宗忠さんの奥様が藤原智常の娘というのもヒントになるかもですね。
    この藤原智常という人はきっと名のある人だったんでしょうね。


何か近づいた感じですね。
[91]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月07日 11時44分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 遠江と源平の関係というと―
 @池田庄と熊野(平家との関係)
 A千寿(平家との関係)
 B蒲御厨(源範頼が育った)
 がありますが、平家と源氏が実際どのように態度で住民と接したのかは、
実際のところあまり情報をつかんでいません。ただ、@とAはロマンが漂っ
ておりますし、貴族文化の匂いがいたします。源氏については、総合的に
見て、平家よりもより武士階級の荒々しさを感じます。

 AD1200年前後に、源氏の隆盛をみますが、この頃の世の中がどの
ような状態であったのか知りたいと思っています。戦乱の世となり、民百
姓は踏みにじられたのかどうか……その頃を境にして世の中の体制が破壊
され、秩序が壊されてしまったのではないか。貴族社会から武家社会への
パラダイムシフトが起こったのではないか……。

 源氏については、義経と義仲と範頼に対してはいわゆる判官びいきがあ
りますが、その他については概してあまりいい印象がありません。
 平家については、滅びゆくものへのいとおしみのようなものが感じられ
ます。

 あを様は特に源平関係が得意分野だと推察いたしますが、平家と源氏の
決定的な違いは何だったのでしょうか? また、世の中に何をもたらした
のでしょうか?
[92]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月08日 05時51分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


わたくしの思うところなど、どこにでも書かれているようなレベルですが


京都=天皇と貴族=は平家に嫌がらせしたほどには鎌倉を苛められなくなった、かな。
京都政権がらみの寺社についても京都に出来た嫌がらせが鎌倉は遠すぎてゴリ押しが通じなくなった、かな?


京都が力を無くしたことは地方にとっても由々しき変化だったでしょうね。
    それまでの氏素性という身分に縛られていたのが緩んだのだから
    地方の寺社も武士ともども覇者を目指して動き出すことになった、かな?

    実力を養って、ひたすら戦国時代へと突き進むことになったんでしょうね。


    ただし人口の95%を占める民百姓には更に苦難が待ち受けていたんでしょうね。
    京都の力が弱まって、別の勢力からも年貢を要求され、暮らしは苦しくなる一方だったでしょうね。


頼朝は藤原氏の守って来た貴族社会とは違う世界を築いたから
武士への憧れという夢を新たに生まれさせたんでしょうね。

    頼朝ってスゴイ人だと思います。



北条時行と信濃:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E8%A1%8C

兄の邦時が正中2年(1325年)の生まれであるため、それ以後の誕生と考えられている。

後醍醐天皇が討幕運動を起こすと、幕府御家人であった足利高氏や新田義貞らが宮方に属し、鎌倉は新田義貞に攻められて高時ら北条氏は滅亡する。

この際に時行は得宗被官諏訪盛高(もりたか)に連れられ[4]、叔父の泰家と共に鎌倉を脱出、泰家は奥州に遁れている。

幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始されると、時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった信濃に移り、諏訪氏などに迎えられた。

北条一族の残党は各地に潜伏して蜂起し、泰家は京都で西園寺公宗らとともに各地の北条残党と連絡を取り新政の転覆と鎌倉幕府再興を図るが失敗する。



建武2年(1335年)7月、10歳前後(7歳とも)であったと考えられている時行は信濃の諏訪頼重、諏訪時継や滋野氏に擁立されて挙兵し、足利方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し、道中建武政権に不満を持つ武士を糾合しながら武蔵国へ入り鎌倉に向けて進軍した。


7月22日には女影原(埼玉県日高市)で待ち構えていた渋川義季と岩松経家らの軍を破り、さらに小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を破って、ついに尊氏の弟である鎌倉将軍府執権足利直義を町田村(現在の町田市)の井出の沢の合戦で破り鎌倉を奪回した。

時行軍は逃げる直義を駿河国手越河原で撃破するが、京から直義救援に駆けつけた足利尊氏に、遠江国橋本、小夜の中山、箱根、相模国相模川、片瀬川などの戦いで連破され、時行の軍は壊滅し時行は逃亡した。

時行が鎌倉を占領していたのはわずか20日間であるが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に立った鎌倉の一時的支配者となったことから、この乱は中先代の乱と呼ばれる。


尊氏は中先代の乱を契機に新政から離反し、宮方を破り京都に武家政権を設立する。後醍醐天皇は吉野で南朝を開いて南北朝時代となり、延元2年(1337年)時行は吉野の後醍醐天皇と接触し、朝敵恩赦の綸旨を受けて南朝方に属する[5]。時行は北畠顕家の軍に属し、顕家の2度目の西上の時に青野原の戦いなどで足利方と戦う。


貞和元年(1345年)、新田氏とともに鎌倉を占領する(正平の一統)[6]。


観応の擾乱の直後の正平7年/文和元年(1352年)に、新田義貞の遺児義宗・義興と共に上野国で挙兵するが、武蔵国で尊氏とその子基氏に敗れて捕らえられ、翌年5月20日に鎌倉龍ノ口で処刑された。時行の死により北条得宗家は滅亡する。
[93]丸三柏服部さんからのコメント(2015年12月08日 10時39分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 貴族社会から武家社会へのパラダイムシフト(平安から室町まで)

 @平安時代の貴族階級の興隆。
 A荘園の発展と律令制度の崩壊。
 B平安中期より御家人の平氏・源氏の勃興。
 C平氏の興隆と滅亡。
 D源氏の興隆と滅亡。
 E北条氏の興隆と滅亡。
 F建武の中興
 G南北朝時代へ
 H南北朝の統一
 I足利氏の時代へ
 Jそして応仁の乱
 K戦国時代へ突入

 あを様よりのご指摘の二つのポイント、よくわかりました。平安後半より
鎌倉・室町までは一番ややこしいところ。改めて知識のなさを痛感しており
ます。しかしながら、現実にあった時代の層(レイアー)でありますので、
掘れば貴重な資料に当りつけるものと確信しています。集中して理解したい
と思っております。

 松島十湖の子孫が製菓会社を興し、「源氏パイ」という売れ筋商品を作り
ましたが、これも「源氏」との因果関係かなと今ふっと思いました。

 戦乱・戦争にきれいごとはありません。武士道という美学に基づく美談
はありますが、戦争の実態は、殺すか殺されるか、田畑を踏みにじり、放火
・略奪・殺戮・凌辱・拉致・奴隷化・人身売買…とありとあらゆる人間の
魔性にスイッチが入ってしまう。
 落武者狩り…平家の落武者狩り、南朝の落武者狩り、遠江には伝説として
多く残っております。なぜ遠江に……? 南朝の落武者については理解でき
るのですが、平家の落武者がなぜ遠江に……その点を追及してみます。
[94]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月08日 11時30分31秒 ) パスワード

三つ柏さん


「源氏パイ」って松嶋家ゆかりでしたか。
    大好きですよ。

>これも「源氏」との因果関係かなと今ふっと思いました。

そうかも知れないですね、本姓は源氏ですから。



他に新幹線がらみですと「わさび漬け」
それから「うなぎパイ」も好きです。
    夜のお菓子、というフレーズもいいですね。


そう言えば、安倍川餅、なんてのもありましたね。


今は  ヤマハ・スズキ・ホンダ  などの高価な工業品になってますけどね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E3%81%AE%E8%90%BD%E4%BA%BA
平家の落人伝説



平家の落人にゆかりあるとされる姓
     赤間、池田、岩尾、色川、青田、阿佐、安徳、大庭、西村、織田、落、

     葛西、梶原、上総、讃岐、門脇、上時国、神長、川端、桐原、葛原、久保、

     小松、坂梨、渋谷、下時国、平(たいら、ひら)、橘、古坊(ふるぼう)、

     種子島、遠藤、平山、秩父、釣田、寺田、土肥、伴、長尾、永野、長濱、

     西山、野崎、八尾、八巻、服部、花本、平野、平家、宇部、大沢、星、星野、

     宗、谷内、椎葉、高倉、旗手、廣實、一ノ宮、千葉、千種、下総、糸賀、門田、木下、羽柴



東北地方
宮城県仙台市青葉区定義地区 平貞義(平貞能)が落ち延びたと伝わる。
                      結局は名古屋に最終的に住んだと地元では

鳥海山麓(山形県酒田市) 平家方として落ち延びた池田彦太郎秀盛兄弟が隠れ住んだと伝わっており、秀盛の後裔と称する氏が戦国時代の土豪として存在し、最上氏等の家臣となっている。

福島県南会津郡檜枝岐村 平家方として落ち延びた平氏・藤原氏の者が土着し、星姓、平野姓を称したという。

岩手県久慈市宇部町 平重盛の隠し子の兄弟が大唐の倉に漂着し、後に氏を宇部と大沢の姓を称し、野田氏に仕えたという。


関東地方
古分屋敷(茨城県久慈郡大子町) 平家方についた大庭景親の残党が落ち延びた伝承がある。尤も、武者ではなく平家方に随身した武将の姫であったといい、古分屋敷に子孫は10軒の家を構えたとされる。二人の姫と土着した子孫の姓は桐原氏、神長氏という。桐原氏は坂東八平氏のひとつ鎌倉氏の流れを汲む大庭氏の血筋であり、神長氏は藤原氏であるという。また、この二氏は佐竹氏の家臣としても存在している。

栃木県那須塩原市上塩原 平貞能が平重盛の遺族ともども宇都宮頼綱を頼ってきた地とされる。

平貞能が宇都宮頼綱に庇護され、鎌倉幕府もそれを認めたことは吾妻鏡にも残っている史実であるが、平貞能と重盛一族の行方は同時代の史書に残っていない。江戸時代の史料では平貞能はこの近辺の寺を巡礼して92歳で病没、湯西川の平忠実(重盛六男)は、塩原から更に奥地の湯西川に到達した一族を統率して湯西川を開拓したという。

           ワタシ的には湯西川は服部家次一行だという感触ですが
           貞能の家は重盛の家の家老ですから
           結局は同じことでしょう
           

栃木県日光市川俣 平藤房(藤原藤房とも)らが落ち延びたとされ、大将塚・平
家杉などの史跡が散在するが、平藤房なる人物の史料は残っていない。

栃木県日光市湯西川(湯西川温泉) 平忠実もしくは平清定の子、平景定が落ち延びたとされる。湯西川の平家の落人伝説は現地の平家落人民俗館や平家の里などでも紹介されているほか、平家大祭などの行事も行われている。湯西川温泉では積極的に落人伝説を観光業に活用している。平家の者であることを悟られぬよう苗字を「伴」とした。「伴」の人偏は人を表し、右の半は上部の点を半の横線の間に移し、半の一番上の横線から飛び出た部分を消すと「伻」という字になる。つまりは「平の人」ということを意味し、平家血縁者であることを示す。現在も「伴」という苗字の平家の子孫がこの土地に存在している。独自の風習として、端午の節句にもこいのぼりを揚げない・たき火をしない(煙を立てない)・犬を飼わない・鶏を飼わないなどがある。これらは人が山中に暮らしていることを外部にかぎ取られないためである。

群馬県利根郡片品村 関東では最北に位置する落人伝承の村である。あちこちで敗れた平家一門は尾瀬も近く、片品村に至るまでも険しい山々が連なる場所まで逃げた結果、片品村に平家の落人が住み着いて繁栄することになった。


千葉県館山市畑集落[要出典]

千葉県南房総市増間集落[要出典]



中部地方[編集]
新潟県佐渡市相川地区 長兵衛尉 長谷部信連が落ち延びたとする伝承がある。

新潟県中魚沼郡津南町・長野県下水内郡栄村にまたがる秋山郷 源頼朝に敗れた平勝秀が落ち延びたとされる。

五箇山(富山県南砺市) 倶利伽羅峠の戦いで敗れた者の子孫という説、あるいは源義仲に敗れた平維盛の子孫が住みついたという説がある。この話をもとにしたのが「むぎや」である。

石川県輪島市 平時忠が配流となり、子孫が上時国氏、下時国氏を興した。

石川県加賀市山中温泉真砂町(まなごまち) 惟喬親王を奉ずる木地師集落。山中漆器の源とされる。[3]

福井県福井市赤谷町(あかだにちょう) 平維盛は父の所領であった越前国に落ち延び、山伏の修行場所であった赤谷に隠れ住んだという言い伝えが残っている。維盛は赤谷で約30年間生き、次第に血筋が増えて一つの村になったという。宮中の流れをくむという風習が現在も受け継がれている。[4]

福井県越前市五分市町(ごぶいちちょう)にある城福寺 城福寺は平保盛が鎌倉時代に建立し、現代に至るまで平家の子孫が住職を務めている。後の平家追討の中で保護されたのは池禅尼の尽力によるものと伝えられている。[4]

福井県大野市西谷地区・和泉地区 この地域ではあちこちの集落に平家の落人伝説が残されている。集落の高齢化や過疎化、ダム建設に伴い、消滅集落となったところも多い。特

に大野郡西谷村(現・大野市西谷地区)では全住民が離村し、1970年6月30日限りで廃村となった。西谷村には平家の落人にまつわる「平家踊」や「扇踊」(ともに県指定無形民俗文化財)が伝わり、村が廃村となった今でも旧村人が大野市内で踊を続けている。


長野県伊那市長谷浦 壇ノ浦の戦いに敗れた平維盛の子孫が住み着いたと言われている。維盛の父である平重盛が小松殿と呼ばれていたことから、小松姓を称した。壇ノ浦の「浦」が地名となった。



静岡県富士宮市上稲子(かみいなこ) 紀州にて入水したという伝承が伝わり、同地には平維盛のものとされる墓が伝わる。現在のものは墓は天保11年(1840年)の再建。「上稲子の棚田」に墓が建っている。



近畿地方[編集]
三重県伊勢市矢持町 「平家の里」という名が残る。

三重県志摩市磯部町五知 地区の福寿寺に「平家の赤旗」と伝えられる旗が保存されている。

南島八ヶ竃(三重県度会郡南伊勢町) 南伊勢町に多く見られる「竃」が付く地名は、平家の残党がそこに住み着いて塩を作って生計を立てていた集落であるという。詳しくは南島町#伝説を参照。

大阪府豊能郡能勢町 1185年、安徳天皇が能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したという。「安徳天皇来見山御陵墓」がある。

兵庫県赤穂郡上郡町小野豆 平経盛が落ち延びたという伝説がある。

奈良県吉野郡野迫川村平(たいら) 平維盛がその生涯を終えた場所とされ、平維盛塚の付近は「平維盛歴史の里」として整備されている。

奈良県吉野郡十津川村五百瀬 山林中に平維盛の墓と伝えられる祠がある。

和歌山県東牟婁郡那智勝浦町口色川 平維盛が屋島から逃亡し、紀伊国色川郷に隠れ住んだと伝わる。

小森谷(和歌山県田辺市龍神地域)[要出典]

和歌山県日高郡みなべ町堺 国道42号線沿いに平家塚があり、年に一度地元の常福寺が平家祭りを行っている。平家の落ち武者が当地に流れ着き、幟をあげたために源氏の落ち武者狩りにあい絶滅しその後当地では鯉のぼりをあげなくなったと言う言い伝えがある。



中国地方[編集]
鳥取県鳥取市国府町岡益

詳細は「岡益の石堂」を参照

鳥取県八頭郡若桜町 平経盛が郎党らと落ち延びて、自刃したと伝わる。

鳥取県八頭郡八頭町姫路 安徳天皇らが落ち延びたという伝説が残る。天皇に付き従った女官などのものとされる五輪塔が存在する。

鳥取県東伯郡三朝町中津 安徳天皇が落ち延びたという伝説が残る。

岡山県久米郡久米南町全間 平維盛が落ち延びて、其の後裔が持安氏と称して幕藩体制で全間を治めた。全間(またま)から連続する大垪和にかけて山上の隠れ里のようになっており、平氏、貴族、関ヶ原で敗れた石田氏などさまざまな落人伝説が伝わる。

広島県庄原市 「敦盛さん」という民謡(市の無形民俗文化財)が伝わっている。その内容によると、熊谷直実に討たれたとされる平敦盛が実は生きて庄原に落ち延びたという話になっている。

広島県福山市沼隈町横倉地区 この地に落ち延びた平通盛一行は、山南川を奥へと分け入り横倉に隠れ住んだという伝承があり横倉には平家をしのぶ痕跡が多数あり平家谷とよばれている。なお平通盛は清盛の弟教盛の長男。また当地にある赤旗神社には平家の軍旗である「赤旗」を祀っている。

広島県尾道市百島 壇ノ浦の戦い後敗走した平家一族が、落ち延びた島と言われている。ここに落ち延びた平家は旗を埋めて”旗”、平家の平と言う文字に似ている”手”を加え”旗手”と言う姓を名乗るようになったと言われている。戦国時代は、毛利水軍(村上水軍)に属したとも

山口県岩国市錦地域 平家の武将を葬った平家七墓があるという。

山口県下関市彦島 山口県彦島にも平家の残党と伝わる落ち武者達が後年来訪したことが伝わる。この武者は、平家の守本尊の阿弥陀如来像を持参し、再興の夢を持ったが、法師にさとされ、彦島の発展に尽力したとされる。

山口県下関市大字高畑 壇ノ浦の戦いがあった早鞆の瀬戸から直線距離で約2kmしか離れていない谷間の集落。あまりに近すぎたため追手に気づかれなかったと言い伝えられている。平家塚と呼ばれる場所に五輪塔などがある。

山口県萩市(旧川上村) 平清宗一党が築いた隠れ里を由緒とする村落がかつて存在したが、昭和50年に建設された阿武川ダムの底に水没している。清宗の墓とされる五輪塔が現存する[5]。



四国地方[編集]
徳島県三好市東祖谷阿佐 屋島の戦いに敗れた平国盛率いる30名の残党が、讃岐山脈を経て、阿波へと入り、現在の徳島県東みよし町から三好市井川地区にかけての一帯に住んだが、追手に脅かされ、祖谷に住んだと伝わる。阿佐集落に、平家の末裔と言われる阿佐氏が居住し、平家屋敷や、平家のものと伝えられる赤旗(軍旗)が数百年前から現存する。この東祖谷阿佐の平家落人伝説は、遺物が残っていることから学界の注目を集めており、松永伍一や角田文衛が論考を発表している。角田によれば、平家の赤旗は古過ぎて年代比定が出来ず、少なくとも平国盛が屋島の戦い以降消息不明であり、九条兼実『玉葉』では逃亡したと記されていることから、他の平家落人伝承より注目度が高いとしている。[6]

徳島県三好市東祖谷栗枝渡 安徳天皇が逃れて隠れ住み、同地で崩御したという。栗枝渡八幡神社には、安徳天皇を火葬した「安徳天皇御火葬場」があり、遺骨を御神体として祀っている(『美馬郡誌』)。

切山(愛媛県四国中央市金生町山田井) 元暦元年(1184年)6月、田邊太郎・平清国(清盛の外孫)、真鍋次郎・平清房(清盛の八男)、参鍋三郎・平清行、間部藤九郎・平清重、伊藤清左衛門国安(紀州熊野神社修験者)ら五士とその一族が、幼い安徳帝(平清盛を外戚に持つ幼帝)を守護し、祖谷から山道を歩き続けて切山に辿り着いた。切山は昔、「切明山」「霧山」「桐山」等とも呼ばれていた。安徳帝は半年間切山で過ごした後、平知盛、平教経らの迎えをうけ下谷越えから田野々へ下り、讃岐詫間の須田ノ浦から船で長門国赤間へ向った。

※切山にある主な遺跡院の墓の碑…壇ノ浦での平家敗北を知り、再挙の夢が消え去った人々は、安徳帝の御衣と御念持仏を此処に埋め、仮の御陵としたとされる。土釜神社…真鍋次郎平清房、田邊太郎平清国の子孫が祀られている。土釜薬師…帝の安泰を祈って祀られた。五士が最初に辿り着いた所とされ、警備の要となっていた。下谷八幡宮上の宮…安徳帝の安泰と、平家の武運長久を祈って祀られた。推古6年(598年)宇佐八幡宮から分霊された、十四代仲哀天皇、十五代神功皇后が祀られている。八幡宮の側に、安徳帝を祀る祠・安徳宮が鎮座する。安徳の窪500m、安徳の渕100m、安徳の滝1km、安徳帝下向道、詫間町須田浦へ30kmと書かれた石碑が建つ。安徳の窪…安徳天皇行在所の碑が建つ。下谷八幡宮下の宮…鳥居を潜り参道を上がって行くと、石段脇に宮石灯籠と刀石が並んでいる。この刀石は、安徳帝が神器の一つである宝剣を置いたとされる自然石。鳥居側に熊野権現社が祀られている。平家谷(愛媛県八幡浜市保内地区) 壇ノ浦の戦い後、落ち延びた残党が佐田岬半島の伊方越にたどり着き、宮内川上流の谷に隠れ住んだとの言い伝えがある。8名で畑を開き暮らしていたが、源氏の追っ手の知るところとなり、6名は自害、残った2名が両家集落の祖となったという。平家谷には平家神社がまつられている。

高知県〜愛媛県〜徳島県の山地一帯 高知県の越知町(おち = 落ち?)にある横倉山に安徳天皇陵墓参考地がある。またその周辺に県境とは無関係に屋島からたどり着いた平家の人たちが分散して隠棲したとの言い伝えがある。横倉山の前を流れる川を仁淀川と名付けたほか、京都ゆかりの地名が多く存在する。当時京の北の守りであった藤社神社から北の集落を藤社と呼んだりした。歴代皇族とそっくり同じつくりの立派な陵が、非常に険しい山中にひっそりと建立される姿は尋常では説明が付かないものの、安徳天皇の墓であるという確証はない。ただし周辺に点在する平家一門の隠れ里では明治に入るまで墓石がなく石に名前を書いて並べ置く風習があったがこれは戦時の伊勢平氏一門の風習と合致するうえ香川県の屋島→徳島県の東祖谷→と逃れた平家一門が最後に住み着いた場所である可能性は高い。愛媛県にある平家追討軍が引き返したという地にはひっそりと「平家終焉の地」の碑があるがそのすぐ南には仁淀川が流れ平家の隠れ里がある。村おこしや明治以降の尊王思想でできた派手な周辺施設の多くは後の創作物と思われ本物の末裔は余りの不便さでほとんどは都会でひっそり暮らしている。



九州地方[編集]
福岡県北九州市八幡西区上上津役 乳飲み子を連れた平家方の女性が源氏方の武者に赤子の声を聞かれ、見つかりそうになり親子ともども命を絶ったという伝説がある。

福岡県北九州市小倉南区合馬 安徳天皇に随行した官女が遊女となり、後に病死したという伝説がある。

福岡県糸島市二丈満吉唐原地区 平清盛の嫡男、平重盛の内室と二人の姫(「千姫」「福姫」)が侍女や郎党と一緒に筑前の武将である原田種直を頼って落ちのびてくる。種直は人目につきにくい唐原(とうばる)の里に一行をかくまった。隠れ住んで1年ほどがたったころ、源氏からの刺客が唐原に差し向けられ、2人の姫を殺害。この事件を目の当たりにした内室は自害したという伝説がある。唐原には、この伝説を物語る遺跡として、落人一行が京都を懐かしんで上った「都見石」(みやこみいし)や重盛の遺髪を納めた「黒髪塚」などが残る。

福岡県筑紫郡那珂川町安徳 同地安徳台は源平合戦の最中、現地の武将・原田種直が帝を迎えたという。『平家物語』では平家は大宰府に拠点を築こうとしたものの庁舎などは戦火で消失していたため、帝の仮の行在所を「主上(帝)はそのころ岩戸少卿大蔵種直が宿処にぞましましける」と記述している。

長崎県対馬市 安徳天皇が落ち延びて住んだという伝説がある。対馬の宗家は新中納言平知盛の末裔と自称している。[7]

長崎県佐世保市 平家盛が上陸して当地の領主となり、宇久氏(後の福江藩主五島氏の前身)を名乗ったという[8]。

佐賀県唐津市 平清経が逃げ落ちて、釣田氏を名乗ったという。[9]

熊本県八代市泉地区 平清経が当地にある五家荘に落ち延びたとされる。平家の落人の伝承という「久連子古代踊り」があり、国選択無形民俗文化財となっている。

熊本県球磨郡五木村 五家荘に落ち延びた落人と同族という説がある。

熊本県八代市坂本地区 市ノ俣(げずのまた)にて伝承される。

大分県宇佐市院内区域 平家七人塚、経塚の由来記。宇佐にいた平家一門が駅館川の支流の院内川を遡って大門に辿り着いた。大門の地は、平安時代に宇佐神宮に参籠した僧の行基菩薩が開山したと伝えられる龍岩寺周辺に仏典を書き写して、経筒に納め埋納した経塚がある。信仰厚い平家落人が住むには安全な地だった。門脇中納言平教盛公の子孫らは矜持を保ち塚を築いた。現在も「門脇」を姓とする子孫一族がいる。

宮崎県東臼杵郡椎葉村 江戸期に著された「椎葉山由来記」によると、下野国の住人・那須宗久(通称は大八郎、那須与一の弟とされる)は、平氏残党追討のため日向に下り、向山に拠った残党を追討。次いで椎葉に赴いたが、残党に戦意はなく追討をとりやめた。宗久は現地で平清盛の末孫とされる鶴冨姫と恋仲になり娘が生まれた。やがて、宗久は本領へ引き上げたが、娘婿が那須姓を名乗り椎葉を治めたという。椎葉の国人・那須氏は宗久の子孫とされる。この一連の逸話を謡ったものが宮崎県の代表的民謡ひえつき節である。椎葉には、「鶴富屋敷」と通称される那須家住宅(国の重要文化財)が残り、観光名所となっている(現存の住宅は江戸時代の建立)[10]。

鹿児島県指宿市 鹿児島民具学会発行『鹿児島民具』14号に、旧山川町尾下について、「落人の里の民俗」として言及あり。

鹿児島県鹿児島郡三島村
平清盛の孫行盛の遺児が、北条時政の養子となり時信と名乗って種子島に入ったとされる。

鹿児島県 種子島 西之表市中種子町南種子町 種子島氏と一緒に移ってきた家来衆(遠藤、平山、鎌田姓)も平氏と言われる。特に中種子町には平家由来の平(たいら)姓の者も多い。平経正、平業盛らのほか、30あまりの史跡があるとされる。

鹿児島県大島郡(奄美群島) 平家一門の平資盛が、壇ノ浦の戦いから落ち延びて約3年間喜界島に潜伏、弟の平有盛、いとこの平行盛と合流して、ともに奄美大島に来訪したという。2005年に平家来島800年記念祭が行われた。柳田國男は「モリ」というのは郷土の神の名であり、後世になってこの伝説は作られたのではないかと考えているが異論も多い。喜界町志戸桶(喜界島)、奄美群島に到着した平家が最初に築いたと言われる七城跡がある。
喜界町早町、源氏警戒のため築いた城跡がある、平家森と呼ばれている。

奄美市名瀬浦上(奄美大島)、有盛を祀った平有盛神社がある、有盛が築いた浦上城跡と言われている。

瀬戸内町諸鈍(加計呂麻島)、資盛を祀った大屯(おおちょん)神社がある。

龍郷町戸口(奄美大島)、行盛が築いた戸口城跡がある。現地には行盛を祀った平行盛神社もあるが、城跡とは離れている。

龍郷町今井崎(奄美大島)、行盛により今井権田大夫が源氏警戒のため配された、今井権現が建っている。

奄美市笠利町蒲生崎(奄美大島)、有盛により蒲生佐衛門が源氏警戒のため配された。

鹿児島県垂水市牛根麓 硫黄島から移って来た安徳天皇が13歳で崩御し、居世神社に祀られているという。



運天港(沖縄県国頭郡今帰仁村) 『おもろさうし』の「雨降るなかに大和の兵団が運天港に上陸した」とある記述は「平維盛が30艘ばかり率いて南海に向かった」という記録を基に平維盛一行のことだとされることがあり、いわゆる「南走平家」の祖として沖縄史では盛んに議論が行われている。

沖縄県宮古島狩俣 落武者の物という古刀など遺品が伝わる。また平良という地名は平家の姓に由来するものという。

沖縄県竹富島 赤山王は平家の落人で、竹富島に流れ着いたとの言い伝えがある。なごみの塔は居城跡とされる。

沖縄県西表島 16世紀初頭の豪族慶来慶田城用緒は、平家の末裔であると称していたことが知られる。
[95]空の青海のあをさんからのコメント(2015年12月08日 11時31分54秒 ) パスワード

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長くなって来ました。
そろそろスレッド56に移動しましょう。
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