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 投稿番号:101492 投稿日:2015年10月18日 02時38分28秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族LV(M氏家譜17+芭蕉・出雲・伊勢あたり)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族LU(M氏家譜16+芭蕉あたり)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101489_73.html
スレッド52の続きです。



自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月18日 06時34分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松尾神社・十念寺・・・興味が湧きます。

 本日、これから諏訪に向います。いろいろ見て来ますので、ご報告は
帰宅後に―
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月18日 13時46分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


>松尾神社・十念寺・・・興味が湧きます。

一体どういう関連性なんでしょうね?


諏訪の情報を楽しみにしていますね。
それにしてもフットワークが軽いですね。
にっこり
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月18日 20時30分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ただ今戻りました。往復600キロ、所要時間12時間(運転時間7時間、
現地滞在時間5時間)、高低差800メートルの旅でした。
 9か所回る予定が、6か所+1か所となり78パーセントの充足となりまし
た。
 時間の都合で行けなかったのが、「本陣岩波家」と「諏訪大社下社春宮」
及び、「サンリツ服部美術館」でありました。
 従って、回ったのは以下の通りです。
 @法華寺
 A諏訪大社上社本宮
 B諏訪大社宝物館
 C諏訪市博物館
 D神長官守矢資料館
 E諏訪大社下社秋宮
 F諏訪大社下社宝物館
 
 今、運転による疲れが残っておりますので、資料の整理をして睡眠に入る
ことといたします。明日に記したいと思いますので、よろしくお願いいたし
ます。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月18日 22時18分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


7か所制覇ですか。
すごいですね。


服部一郎さんのコレクションはゆっくりお時間の取れる時が良いですよ。
    とはいえパンフレットが手に入ったら、
    どんな物があるのかの予習が出来ますから
    次に行く時に何を中心に見たいか心積りできますね。


とにかくごゆっくりお休みを。

[5]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月19日 12時59分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 まずびっくりしたのは、諏訪上社でなく、その裏にある法華寺の奥の
墓地(ひょっとして以前の神宮寺の敷地になるのかも知れない)に何と武田
信玄の墓がありました。といっても一かかえ程の岩石の墓であります。ま
さかと疑う程のものであります。地元の人に訊いたところ、信玄の遺骨は
各地に分散されて祀られたとのことでありました。
 もう一つは、蓮花寺の裏に吉良上野介の養嫡子義周の墓があったことで
す。討ち入りの翌年に諏訪高島藩に配流となったそうで、その三年後に病
気のため亡くなったそうであります。
 まずは、信玄の墓、そして吉良義周の墓に向かって、般若心経を二巻ず
つ捧げました。
 そして、その裏手の墓地を観察しましたところ、「守矢」と「岩波」の
墓が、一番上手の方にいくつかかたまってありました。

 続く——
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月19日 14時13分20秒 ) パスワード

三つ柏さん


武田信玄は分骨されていますか。
   死を隠していましたよね。
   諏訪湖に沈めらたというハナシを、聞いたことがございます。

   分骨されたのは信長あたりから蹂躙されたくなかったから、みんなで各地へ持って逃げたのかもですね。



義周は気の毒に、江戸時代の刑法は残酷ですね。
若くして亡くなったのは生きる力を無くしたからかもですね。



>般若心経を二巻ずつ捧げました。

ありがとうございます。
良いことをなさいました。



>「守矢」と「岩波」の墓が、一番上手の方にいくつかかたまってありました。

なかなか興味あるところですね。
さすが。

最近、守矢という姓を見掛けます。
不思議です。


http://mail.myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AE%88%E7%9F%A2

現長野県である信濃国諏訪郡が起源(ルーツ)である、洩矢神の子孫と伝える。近年、長野県諏訪地域に多数みられる。



洩矢神(もりやしん、もれやしん)

長野県諏訪地方を中心に信仰を集めた土着神。
諏訪信仰の一翼を担う神であり、史料としては『諏訪大明神絵詞』にその存在が確認できる。
ミシャグジ神と同一視されることもある。


『諏訪大明神絵詞』などの伝承によれば洩矢神は古来諏訪地方を統べる神であった。

しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、
洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。

以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。


また、その名が残る洩矢神社(長野県岡谷市川岸区橋原)はこの戦いの際の洩矢神の本陣があった場所とされる。


中世・近世においては
建御名方神の末裔とされる諏訪氏が諏訪大社上社の大祝を務めたのに対し、
洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官である神長を務めた。



守矢 頼真(もりや よりざね、永正2年5月25日(1505年6月26日) - 慶長2年9月10日(1597年10月20日))

戦国時代の神職。
信濃国諏訪郡に所在する諏訪大社の神長官。
守矢有実の子。
子は守矢信真。初名は頼実。


略歴[編集]

守矢氏は物部守屋の後裔とも言われるが不明。
諏訪大社大祝家の諏訪氏に従い、たびたび禰宜太夫の矢島満清と対立する。

特に諏訪大祝就任の際に争い、当初劣勢だったが、天文7年(1538年)の諏訪頼高の大祝就任時に復権した。
また諏訪大社への課税をめぐって諏訪頼重とも対立した。


天文11年(1542年)、甲斐国の武田晴信(信玄)は信濃侵攻を本格化させると諏訪氏との同盟を破棄して諏訪侵攻を開始し、
当主頼重は同年7月に甲府へ護送され死去しており、
頼真は武田氏の諏訪支配を先導し、戦勝祈願などで信頼を得た(『守矢頼真書留』)。

永禄2年(1559年)に引退し、嫡子で禰宜太夫に就けていた信真に神長官を譲った。

武田家滅亡後は諏訪満隣らと諏訪家再興を図る一方、諏訪大社の復興にも力を入れた。



守矢頼真書留[編集]

頼真の自筆書留。全一冊。父の満実の代から書き継いだ諏訪大社の神事や神社経営に関する記事が書き留められており、天文11年(1542年)から天文21年(1552年)分が現存している。

書留には天文11年4月の諏訪頼重嫡子寅王丸の生誕や同年7月の頼重自刃など、武田側の記録である『高白斎記』とともに諏訪侵攻に関する基本資料となっているが、天文12年以降は社務中心の記述となっている。

原本が守屋家に伝存し、刊本は『新編信濃史料叢書』第七巻、『山梨県史』資料編6中世3下(県外記録)など。


神使御頭之日記[編集]

亨禄元年(1528年)から天文23年(1554年)まで、年ごとに御頭役を務めた神職や郷名を記録している。

天文4年(1535年)の武田信虎と諏訪碧雲斎が甲信国境である境川に参会し上社宝錫を鳴らし和平を行ったことをはじめ、晴信期の諏訪侵攻に到るまで関係する事件についても記されている。

守屋家には原本が伝わっていたとされ、『信濃史料』『新編信濃史料史料』においてはこれに基づいて翻刻が行われているが、原本の存在は現在確認されていない。『山資』6では文化14年(1817年)写本に基づいて翻刻している。





守矢姓

【全国順位】 9,155位
【全国人数】 およそ850人



北海道 8,322位 およそ40人
福島県 6,114位 およそ10人

茨城県 9,783位 およそ10人
栃木県 4,323位 およそ20人
群馬県 3,732位 およそ30人
埼玉県 7,017位 およそ50人


千葉県 10,353位 およそ30人
東京都 5,829位 およそ150人
神奈川県 4,661位 およそ150人


       長野県 1,176位 およそ220人      さすが。

岐阜県 11,898位 およそ10人
愛知県 9,600位 およそ20人
滋賀県 7,134位 およそ10人

大阪府 36,113位 およそ10人
兵庫県 27,799位 およそ10人
広島県 10,881位 およそ20人

香川県 8,387位 およそ10人
愛媛県 3,582位 およそ20人

福岡県 11,256位 およそ20人
宮崎県 7,013位 およそ10人

[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月19日 14時15分12秒 ) パスワード

「人は死して名を残す」と言いますが
守矢氏も絶滅の危機にあるような希少の名字であっても
ネットに名が出ているというのはご先祖さまは嬉しいでしょうね。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月19日 15時32分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 あ、そうそう、肝心なことを忘れていました。この守矢氏の墓に刻まれた
家紋は、な、何と「丸に十文字」であったのです!

 
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月19日 22時11分18秒 ) パスワード

三つ柏さん

>守矢氏の墓に刻まれた家紋は、な、何と「丸に十文字」であったのです!


調べてみました。


1.十字紋は秦氏系に使用家が多い

2.もしかすると三つ柏さんが十字紋とお思いになったのは「轡紋」かも知れないこと(十字と轡は似ているので)


       轡紋は甲斐源氏の小笠原氏から出た大草氏の代表家紋

       由来について
       「先祖正吉、しばしば東照宮の御馬の轡にすがり、戦場に於いて働きありしかば
       轡をもって家紋とすべしとおほせにより用ふるところなり」
       とある、だそうです。


轡紋について:
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/kutuwa.html

轡 紋


 轡は馬の口に含ませ、手綱をつけるための金具。

 口輪から転化したものと考えられる。
 轡の両端に手綱を引く鐶があり、その形や文様にさまざまな技巧が凝らされた。

 轡の鐶の形には、時代によって変化があり、奈良時代頃にはS字形のもの浜菱形のものがあり、平安時代には、「杏葉轡」「十文字轡」などが用いられた。轡紋はこの鐶を紋章化したものである。

 ふつう丸のなかに十字形がついているものが多いが、種々の変形もある。

 他の馬具と同様、尚武的意義から選ばれたものだろう。
 しかし、江戸時代、信仰を禁じられたキリスト教徒が、轡紋のなかに十字架をカムフラージュした形跡もある。




【主な使用家】

 「見聞諸家紋」に、轡紋は大草氏の代表家紋と出ている。

  大草氏は代々足利氏に仕えた家で、一族の島崎、後藤、浅井、島。久保田、下田の諸氏も轡紋を用いている。

  豊後の中川氏の家紋は「クルス紋」であったが後世「轡紋」と呼称されている。

  島津氏の丸に十字紋も、轡紋に分類される場合もあった。
  十字がキリストの十字架に通ずるので、疑いを避けるため、便宜上「轡」の語を用いたのであろう。



3.守矢氏の十字または轡の使用については全く分かりません。

       秦氏がらみ?甲斐源氏の大草氏がらみ?


轡紋
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月20日 02時42分33秒 ) パスワード

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6076&id=29705459
の<359>に



    うちは漢字の 一 の字というシンプルな家紋です
    ご先祖様は徳川家康の長男の切腹の介錯を服部半蔵の替わりに行ったお方らしい、です...
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月20日 06時10分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 写真をよく調べてみますと、守矢家にも3種類位の家紋がありました。丸に
十字紋については、まさに大草氏、島津氏と同じ・・・丸に車輪のような十字
でございました。

 諏訪大社(上・下)、宝物館(上・下)には、特にこれといった発見はありませ
んでした(まだ細かな分析はしていませんが)。
 それよりも、「神長官 守矢資料館」を訪れ、見たものが強烈な印象・・・
謎また謎に包まれていました。

 この神長官守矢家の屋敷の鬼瓦は、丸に十文字・・・十は毛筆で素早く十を
書いた時の十、しかも丸の外枠にくっついていない。

 続きます―
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月20日 11時40分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 確かに「轡」(かなえ)は大草氏の家紋でした。

 守矢氏の大元である神長官の守矢資料館が諏訪上社の東の茅野市にありま
す。そこの屋敷の鬼瓦に「丸に十文字」紋を見つけました。丸の中に和数字
の十を筆で書いた形の紋です。外枠の丸と十はくっついてはいません。

 何れにしましても、「丸に十文字」の意味するものを推察すると―
 @十字を切る意(真言宗では「九字を切る」及び「十字を切る」しぐさが
  あります) 
 A十字架
 B十戒
 C失われた10支族
 Dシュールで言われていたマルドゥク、またの名をニビル(謎の第12番
  惑星)のシンボルマーク
 Eその他
 「十字」についての歴史を研究する必要があります。
 
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月20日 12時29分04秒 ) パスワード

三つ柏さん

「十字」について調べる前にもう1度  諏訪・守矢・ミシャグジ神 について振り返ってみますね。


そしたら  諏訪  蛇  が出て来ました。  信仰 のところです。
蛇は出雲大社から来ているのかもですね。
でも  蛇は日本中どこにでもいたでしょうね。



<レス6>のミシャグジ神とは?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B0%E3%82%B8

ミシャグジは日本古来の神。柳田國男によれば塞の神(サイノカミ)であり、もとは大和民族に対する先住民の信仰[1]。

伝承は多岐に及び、石神(シャクジ、サクジ)という他にミシャグチ、オシャモジ、シャクチ、サクチ、サグチ、サクジン、オサクジン、オシャグチ、オミシャグチ、サゴジンなど、多様な音転呼称がある[2]。ミシャクジ[3]、ミシャグヂ、ミシャグジン[4]、シャゴジ、オシャゴジ(御石神)、オシャグジ[5]、サグジ[6]とも。また御社宮司、御左口など多くの漢字があてられる[7]


概要

塞の神(サイノカミ)=境界の神、すなわち、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に立てた一種の標識であると柳田國男は考察している[1]。信仰の分布からミシャグジ信仰の淵源は、諏訪信仰に関わるとする見方もある[2]。神徳は百日咳治癒、口中病治癒、安産、子育てなど様々だが、社祠・神座や伝承は年々消滅し続けている[2]。


『駿河新風土記』には、村の量地の後に間竿を埋めた上でこの神を祀る一説がある他、『和漢三才図会』は「志也具之宮(しやぐのみや)」を道祖神(サイノカミの一種)としている[2]。ミシャグジの実態は解明されたとは言い難い[2]。



呼称[編集]

「塞」はサエ、ソコ、サキなどの語との結びつきがあり、その語源にはアイヌも絡んでいる[1]。

石神(シャクジ)と石神(いしがみ)を同一視する辞書は複数ある[8]が、『日本民俗大辞典〈上〉あ〜そ』は「石神(いしがみ)とは異なる」としている[2]。シャグジは社貢寺とされるが、その名の社寺は現存せず、土俗名ともされる[9]。北左農山人の『江南駅話』には「あの宮が釈地大明神といふ。それをあがめておの字を附け、言ひちがへておしゃこじといふわなぁ」とある[5]。



信仰[編集]                                ココです

諏訪地方では特に諏訪の蛇神であるソソウ神と習合されたためか白蛇の姿をしているともいわれており、建御名方神や洩矢神(モレヤ神)と同一視されることもある[10]。諏訪地方に於いては太古の昔からのミシャグジ信仰に後から来た建御名方神が習合、同一視されるに到ったともいわれるが、元々諏訪地方の土着神だったミシャグジ神が記紀神話に取り入れられて建御名方神になったという説もある[11]。


考古学的成果としては、
守矢家が守ってきた「七本の峰のたたえ」はミシャグジが降りる木とされ、
この内の一本(守矢家屋敷の近くの尾根先端にある一本)が発掘調査されており、
尾根は「狐塚」と呼ばれ、当初は古墳という説があったが、発見されたのは縄文時代の墓としての土坑であり、認定された[12]。


                                           すごいですね守矢氏には縄文時代がからむ?


この神を祀っていた神社では、神官に憑依して宣託を下す神とされた。また1年毎に八歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供として殺されるという「一年神主」の伝承も残る[13][11]。


ミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており、当初は主に石や樹木を依代とする神であったとされる。

地域によっては時代を経るにつれて狩猟の神、そして蛇の姿をしている神という性質を持つようになったと言われている。

その信仰形態や神性は多様で、地域によって差異があり、その土地の神や他の神の神性が習合されている場合がある。

信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事や、
マタギをはじめとする山人達から信仰されていたことからこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられている[11]。



注釈[編集]

1.^ 今井「御社宮司の踏査集成」では、長野県および他1都1府13県にまたがる、数千社での呼び名を調査している。


脚注[編集]

1.^ a b c 「『遠野物語』研究草稿」20頁
2.^ a b c d e f 『日本民俗大辞典〈上〉あ〜そ』802頁
3.^ 「ミシャクジ--太古からの生命のつらなり」pp.255-271
4.^ 『竜神信仰: 諏訪神のルーツをさぐる』p.28
5.^ a b 「オシャグジデンダとオシャゴジデンダ」p.14
6.^ 柳田国男 『石神問答』 近代デジタルライブラリー、2014(初版1910)、1ページ(コマ番号8)。
7.^ 「御社宮司の踏査集成」118-187頁
8.^ 大辞泉・明鏡国語辞典・ブリタニカ国際大百科事典・百科事典マイペディアにおける「いしがみ」の項。
9.^ 『世界大百科事典 第2版』「オシャグジデンダ」
10.^ 『東洋神名事典』463頁
11.^ a b c 『悪魔事典』184-185、282-283頁
12.^ 『太陽の地図帳 楽しい古墳案内』 監修松木武彦 平凡社 2014年 ISBN 978-4-582-94560-7 77頁
13.^ 『神道の本』85頁

文献[編集]

後藤総一郎編 「『遠野物語』研究草稿」明治大学政治経済学部後藤総一郎ゼミ、1996年。
福田アジオ・新谷尚紀・渡辺欣雄・神田より子・湯川洋司・中込睦子 『日本民俗大辞典〈上〉あ〜そ』 吉川弘文館、1999年。ISBN 9784642013321。
山本賢一「ミシャクジ--太古からの生命のつらなり」、『帝京日本文化論集 (17)』、pp.255-271、2010年。
大庭祐輔『竜神信仰: 諏訪神のルーツをさぐる』、論創社、2006年。
横山健三「オシャグジデンダとオシャゴジデンダ」、『新潟県植物保護 第32号』、p.14、2002年。
平凡社『世界大百科事典 第2版』、「オシャグジデンダ」、1998年。
『東洋神名事典』 山北篤 監修、新紀元社〈Truth In Fantasy 事典シリーズ〉、2002年。ISBN 4-7753-0123-3。
『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』 古部族研究会、永井出版企画、1975年。 今井野菊「御社宮司の踏査集成」、『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』、 pp.118-187。

『神道の本 八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界』 少年社・後藤然・渡辺裕之・羽上田昌彦、学研〈NEW SIGHT MOOK Books Esoterica〉、1992年。ISBN 4-05-106024-1。
『悪魔事典』 山北篤・佐藤俊之 監修、新紀元社〈Truth In Fantasy 事典シリーズ〉、2000年。ISBN 4-88317-353-4。

関連文献[編集]

柳田國男 『石神問答』。
『諏訪信仰の発生と展開』 古部族研究会、永井出版企画、1978年。
金井美典 『諏訪信仰史』 名著出版、1982年。
『お諏訪さま 祭りと信仰』 鈴鹿千代乃・西沢形一 編、勉誠出版、2004年。
『神長官守矢史料館のしおり』 茅野市神長官守矢史料館 編・刊、1991年。
中沢新一 『精霊の王』。


「塞」はサエ、ソコ、サキなどの語との結びつきがあり、その語源にはアイヌも絡んでいる[1]。

石神(シャクジ)と石神(いしがみ)を同一視する辞書は複数ある[8]が、『日本民俗大辞典〈上〉あ〜そ』は「石神(いしがみ)とは異なる」としている[2]。シャグジは社貢寺とされるが、その名の社寺は現存せず、土俗名ともされる[9]。北左農山人の『江南駅話』には「あの宮が釈地大明神といふ。それをあがめておの字を附け、言ひちがへておしゃこじといふわなぁ」とある[5]。
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月20日 17時07分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様


守矢資料館
 igneousfatuus.fc2web.com/page/diary/kansou/touhoumeguri19.html

このサイトには、神長官守矢史料館についてその通りの写真が撮られており
ます。中にはニエの動物も撮られておりますので、ビックリしないで下さい。

 鹿のニエが75頭ということで、この75という数字が古代ユダヤに関係
しているようです。

 いずれにしましても、守矢家について説明するのは長くなりますので、入
手した『神長官守矢資料館のしおり』のコピーをお送りします。

 前回のレスで大草家の家紋「轡」をうっかりして(かなえ)と読みを入れて
しまいました。正しくは(くつわ)ですので訂正させていただきます。
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月20日 22時10分22秒 ) パスワード

三つ柏さん


守矢資料館の紹介のサイト
http://igneousfatuus.fc2web.com/page/diary/kansou/touhoumeguri19.html
ありがとうございました。


素晴らしいですね。
ああ、こうやってたのか、というのがちょっと分かります。



          それにしましても  守矢家  というのはスゴイ家なんですね。驚きました。



http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E3%80%80igneousfatuus.fc2web.com%2Fpage%2Fdiary%2Fkansou%2Ftouhoumeguri19.html

ここに守矢資料館がらみで出てきた「75」について?
吉備の「75」の秘密について出ているようですが
http://www.geocities.jp/ki_warabi/kibitu75soroe.pdf
残念ながら開きません。
[16]ときおさんからのコメント(2015年10月21日 00時46分32秒 ) パスワード

あを様

吉備津絡みみに物部氏絡み・・・・。我が地も他ならず蘇我氏に白猪氏
秦氏・百済氏等々で百済や新羅絡みの土地です。屯倉であり、皇室御料や
幕府の得宗家所領だったりと中央絡みの成り行く所です。

出雲にしろ、吉備津にしろ、モリヤ神にしろ、菅原道真よろしく皆が恐ろしくも

都の人々に畏怖し恐れられる「たたり神」となっての信仰ですね。
大きな神社・神様として広く信心されており、究極の目的は達成されている
様に思えます。見にくい真実が美しい神話置き換わっている事をです。


「吉備の「75」の秘密について」のまとめをコピペです。

4 まとめ
2 回目のなぜを「先住民族、洩矢神の渡来元の推定」とした。
御贄柱(おにえはしら)から子供の生贄に到達し、
@ 『旧約聖書』創世記第22 章から、イサク奉献伝承に到達。
@ 『新約聖書』使徒行伝第7章14 節から、イサクから枝分かれした親族数が75 と解読できた。


イスラエルの失われた十支族の一支族の信濃渡来とは、ユダヤ教・キリスト教の伝来のことであり、
アブラハムの子孫の渡来とまでは断定できない。
守屋山という山の名前、守矢家(中世より諏訪神社上社の神官)より、地名学として『旧約聖書』『新約
聖書』のモリヤに関連した祭りと断定する。
大山祇宮(愛媛県今治市大三島町宮浦)にも『大頭』という神事があった。『一遍上人縁起伝』に、「毎
年祭祀二度、桜会と云ひ大頭と云ふ、祭毎に鹿の生贄を備ふ、正応(1288〜1292)中に及て僧一遍神教に
託て其礼を止むと曰へり」とある。
吉備津神社の七十五膳据神事の初見記録は永正五年(1508 年)の秋季祭礼である。室町時代半ばには、
その原型の行事が行われていたと志水陽子氏は報告している。諏訪大社と比較して新しい行事記録であ
り、諏訪大社の御頭祭の献饌行事の七十五膳という形のみを真似たものである。そして、献饌を備中内
の諸郷からの新穀や産物に変更している。工夫改善である。
『白州正子の宿題日本の神とは何か』の質問に対する回答の一つが、「神道の祭りの起源とは、渡
来人の故郷の祭りの記録」である。
5
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月21日 02時58分22秒 ) パスワード

ときおさん

早速のレスをありがとうございました。
助かります。



「75」吉備津編をありがとうございます。
    もともとの「75」はイサクから枝分かれした親族の数でしたか。
    そして   吉備津神社の75膳据神事   こんなのもありましたか。

    諏訪大社の御頭祭の献饌行事の七十五膳という形のみを真似たもの


こういうところに失われたイスラエルの民の痕跡がありましたか。
驚いた〜
さらに社家同士で交流があったのですね。



>『白州正子の宿題日本の神とは何か』の質問に対する回答の一つが、
>「神道の祭りの起源とは、渡来人の故郷の祭りの記録」である。

面白いですね。


本当にありがとうございました。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月21日 12時30分36秒 ) パスワード

頂きました:諏訪大社が古代イスラエルと繋がる動画:



諏訪大社のイサクの祭り

http://www.youtube.com/watch?v=opbryiIc9D4    

御柱祭りが!御頭祭が!出ています。

明治以前は鹿のアタマではなく子供を捧げたそうです。
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月21日 12時48分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 諏訪大社について語るのはなかなか大変であります。
 ただ、帰宅後に資料を整理してまとめてみました―
 @生贄神事は、物部氏の「古神道」にからんでいないか。
 A諏訪大社は、太陽信仰と星辰信仰の要素をもっている。
 B Aは、古代エジプトの時代にまで遡ることができる。
 C星辰信仰は、特にオリオン座に関係している。
 Dオリオン座は、海人族にとっての航海の目印であった。
 E信濃には、安曇族(海人族)が来ていた。
 F諏訪の七不思議に、茅野市の「葛井神社の幣帛」があり、大晦日の夜
  葛井池に諏訪神社の幣帛を投げ込み納めると、翌日「遠州のサナギ池」
  に浮かぶという。小浜と東大寺二月堂の水の通底と似ており、ひょっ
  として、ゾロアスター教的要素も含んでいるのではないか。
 G下社の大祝金刺盛澄は、木曽義仲を娘婿とし女子が生れて、親子の
  関係にあった。芭蕉が義仲、そして義仲寺を好んだのは、ひょっとし
  て、諏訪信仰(出雲信仰)と関係していたのではないか。
 H上社元旦の神事に「蛙狩」がある。これは御手洗川の底に潜む蛙を
  三宝の上に乗せ、射抜き、贄とするものである。これは中国古代神話
  の「月の中の蛙退治」ともつながり、死からの再生を意味する。
  芭蕉の「蛙飛び込む」の句には、こうした深い意味合いが含まれてい
  たのではないか。

 諏訪上社の裏山に少し登りましたが、この山は守屋山でありました。頂上
までは4時間位かかるそうですが、一度いつか登ってみたいと思っています。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月21日 22時23分30秒 ) パスワード

三つ柏さん

はい。

諏訪大社について語るには我々門外漢には無理でしょうね。
何か諏訪大社から「これを読めば諏訪一族が分かる」という本でも出てれば良いのですが。
まさか一族の秘密をさらけ出すようなことはなさらないでしょうね
かならず鬱陶しいのが出て来てイチャモンをつけるでしょうから。


>@生贄神事は、物部氏の「古神道」にからんでいないか。

生贄は古今東西あったのじゃないかと思いますが
キリスト教のパン=キリストの体とワイン=キリストの血で西洋では無くなったのかなと勝手に想像しています。




       http://tocana.jp/2015/03/post_5944_entry.html
       インカの500年眠ってた少女のミイラの画像など


物部守屋の「もりや」は守矢氏に繋がるのでしょうか?
いよいよ知りたくなりました。


       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E8%B4%84
       生贄についてのウイキ記事


      
     H上社元旦の神事に「蛙狩」がある。
      これは御手洗川の底に潜む蛙を三宝の上に乗せ、射抜き、贄とするものである。
      これは中国古代神話の「月の中の蛙退治」ともつながり、死からの再生を意味する。
       芭蕉の「蛙飛び込む」の句には、こうした深い意味合いが含まれていたのではないか。


これ、面白いですね。

[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月21日 22時36分15秒 ) パスワード

上記ウイキより諏訪大社の生贄の記事抜粋



現在(現代)の事例

長野県諏訪大社では2015年現在においても、蛙狩神事として蛙を捕らえ矢を以てこの蛙を射抜き、生贄として蛇神に捧げる行為が伝統行事として受け継がれている。


この神事は2011年の神事直後から、地元の環境NGO団体から抗議をうけ、2013年には地元の環境NGO団体が撮影した動画と写真がネット上に掲載され「現代においてもまだ生贄などを遣っているのか!」、「時代遅れだ!」、「子どもへの悪影響が懸念され、犯罪に繋がる可能性がある」などの意見が噴出して話題となった。


現在でも複数の動物愛護団体[誰?]から動物虐待であるとして、代替品の物に置き換えて神事を行なう事や所作だけにするようにとの抗議を受けている[6]。


これに対し諏訪大社側は「諏訪の伝統、文化であり、神事は守っていかなくてはいけない。静寂の中で行う神事の妨げになるような行為で困惑している」と主張している。




アラスカの土着民のクジラ漁だったか?
これは神事系なのでアメリカでは許されています。


>地元の環境NGO団体から抗議

地元からだった、というところに21世紀になって諏訪大社の御威光も落ちた、ということかな、と。
[22]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月22日 09時39分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「イサクの祭り」の動画、解説者も信憑性のある方ですので、ほぼ間違い
ないものと推測いたします。

 出雲より諏訪に古代イスラエル色が出ているのも不思議ですね。
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月22日 12時56分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日資料air-mailにて送りました。
 その中に、河合曾良の資料も入っております。諏訪歴史博物館にて入手
したものです。

 諏訪と遠江の関係を探究したいと思っています。遠江のさなぎ湖という
のがどこなのか、銅鐸のことをさなぎとも言いましたので、物部氏、伊福
部氏と関係してくるものと思っています。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月22日 13時38分47秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。
ただいま半蔵と影の一族を読書中です。
ありがとうございます。


____________________________


さて  さなぎ湖  についてですが

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1462741169

Q
長い質問です。


諏訪大社七不思議の一つ、「葛井の清池」に関する質問です。

茅野市・葛井神社の池に、上社で1年使用された道具や供物を大晦日の夜に沈めると、
元旦に遠州(静岡県西部)の佐奈岐池に浮く…とありますが、
この「佐奈岐池」は具体的にどこにあるのでしょうか?


なお、私が調べた内容を下記します。

諏訪教育会編『諏訪資料叢書』に『諏方上社物忌令之事(神長本)』「七不思議」の一つとして載っている。

    遠江いまの浦見付郡猿擲(さなげ)池…という記載有り。
    →浦見附郡って?今の磐田市か?ジュビロの本拠地の。
    戦前、磐田郡に浦川村、見附町があった。
    矢奈比賣神社がある。別名・見附天神。ただ諏訪の神様は合祀していない。

    「さなげ」と聞くと愛知県豊田市の「猿投」を思い出す。猿投温泉と関係ありか?


『諏方大明神画詞』に「遠州さなぎの社」という言葉が有るが、この「さなぎの社」も具体的場所が不明。


遠州七不思議についても調べてみた。(桜ヶ池、池の平)

桜ヶ池(御前崎市)に沈めたお櫃が、同じく竜神伝説の残る長野県の諏訪湖に浮いたことがあるとされ、
諏訪湖と地底でつながっているという言い伝えがある。

これに関連して、静岡県浜松市(旧・水窪町)の池の平では7年周期で池(幻の池)が湧くという不可思議な現象が起こるが、
これは桜ヶ池の竜神が諏訪湖に赴く際に休息するためであるという言い伝えがある。


桜ヶ池にある池宮神社の祭神の一つは、諏訪大社の祭神である・建御名方神(たけみなかたのかみ)である。


今の浦・見付郡という解釈が正解の模様。
現在の磐田市「今之浦」と「見付」
「見付」という漢字が正。文献によって「見附」の場合もあり。
律令〜安土桃山まではここが国府。家康が浜松城に来る以前までの中心地。

桜ヶ池。近代宮司家や地名が「佐倉」→佐倉池?
だが磐田とは場所が大分違う。

浜松に佐鳴湖・佐鳴台という地名あり。近くに蜆塚古墳という古代遺跡あり。
佐鳴(さなる)池?

イザナギ→さなぎ…も浮かんだが、どうか?

回答は次のレスへコピペ。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月22日 13時41分51秒 ) パスワード

A

佐奈岐池は桜ヶ池のことで良いのではないでしょうか(有力説として)。

佐奈岐とはすなわちサナギ鈴。
サナギ鈴は諏訪神社の神事において使用されていた鈴のことです(諏訪神社固有の品物ではないと思います。神話のアイテムでしょうか)。
この鈴は鉄製の鈴であり、意外にも諏訪地方は大昔は鉄の産地として、鉄器文化があったといわれているようです。

縄文の頃(?)。御柱祭の歴史上にも鉄との関わりが出てきます。
サナギ鈴は上社近所の博物館(守矢なんとか…)にレプリカを展示してあるそうです。


諏訪(茅野)は鉄平石の産地であり、上川などでは砂鉄が産出されていたようで、この砂鉄を精製して鉄器を作っていたようです。
鉄文化は弥生時代頃なので、それ以前に鉄を使っていたということで、おそらく鉄は神と同じぐらい尊いものだったのでしょう。

そういう尊い原材料名を充てて、葛井神社の池と繋がっているとされる池(例えば、桜ヶ池)の名前を、神話としては佐奈岐池と称したのではないかと思います。


なぜその名称をサナギにしなければならなかったかはわかりません。



サナギという言葉が、諏訪神社ではこのサナギ鈴という言葉しか見当たらなかったので、多分そんな感じなんじゃないかと”想像”します。


______________________________


質問した人からのコメント
2011/5/27 12:34:19
回答ありがとうございました。


佐奈岐はサナギ鈴でしょうね。

桜ヶ池が有力説のようでしたが、磐田郡今の浦・見付や天竜川からは遠いなど疑問点が多いことも判明。
(今話題の浜岡原発の近所であることも。旧・浜岡町)


葛井は九頭井(明神)とも書きますが、神社界では九頭龍(箱根、戸隠、九頭竜川など)の方が有名。

桜ヶ池関係は箱根・九頭龍のことは知っているようでしたが…(赤飯入りの櫃を鎮める神事がある!双方。)

幻の池の池の平か?
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月22日 13時44分57秒 ) パスワード

尾張猿投山と狭投神社について - 慶應義塾大学学術情報 ...
koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/.../download.php?file_id...

by 伊東肇 - ‎1989

... となっていたと考えられる。このサナギ神社は、国内神名帳に﹁正一位猿投大明神と云ひ﹂︵地名辞書︶ ..... 言うべき祭政圏を想定する。 ところで、前述した遠江佐鳴湖と諏訪上社の密接な関係・因縁にたち一戻ってみると、十ナギはサナギでも、前者が銅 ...


PDFなのでうまく開けられなかったです。


http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E9%81%A0%E6%B1%9F+%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%8E%E6%B9%96+%E3%81%AF
ここから拾いました。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月22日 13時52分12秒 ) パスワード

http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/kuzui.htm

葛井神社・葛井大明神−御手幣送と葛井の清池− 15.1.3

 正月三が日も最後という日に、初めて葛井神社に行ってきました。
 大晦日の深夜に行われた「御手幣送神事(みてぐらおくりしんじ)」を、テレビの「新春特集」で見たからです。






「葛井の清池」は名のみでした。

言わば“白っぽいモスグリーン”の中に、溶けたような輪郭の鯉が見えるだけでした。

 風が作り続ける甍(いらか)の波が反射し、その辺りを凝視しても「御手幣送神事」で投げ込まれた幣帛は見えません。

 カメラにPL(偏光)フィルターを付けてファインダーをのぞくと、白っぽい何かがわずかに見えます。日射しのない3時とあって、それを撮り終えると早々に葛井神社から退散しました。


 思い出して駐車場から「前宮」の方向を見通そうとしましたが、林立する建造物が立ちはだかっていました。
復活を望んだ「御室からの御燈(みあかし)」は全く不可能でした。
前宮御室での神事もはるか昔に途絶え、その場所も推定地となっては偲ぶ余地もありません。



葛井神社の幣帛偏光フィルターの効果 

自宅で画像処理(レベル補正)をすると、幣帛らしきものが浮かび上がってきました。
別に、諏訪七不思議の一つ「さなぎ池」の真偽をどうこう言うつもりはありません。
フィルターを買ってはみたものの、使うチャンスがなかったのでこの効果を確かめたかった、ということです。

深さも、幣帛が沈んだ場所は「深そうな色」に比べ意外と浅いようでした。



葛井神社から静岡まで2時間

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に『諏方上社物忌令之事(神長本)』が収録してあります。ここに「七不思議」の一つとして載っています。


       一、楠井池 御幣・御穀・酒、十二月晦日夜寅剋(刻※朝4時)に彼(かの)幣穀を奉入れば、
         遠江(※静岡県)いまの浦見付郡猿擲(さなげ)池に正旦夘刻(※朝6時)に彼幣酒穀彼池浮かぶ、
         宮人取上拝す、楠井與(より)猿擲池の間七日路あり、只一時に通ずるなり


『諏方大明神画詞』にも、諏訪湖の御神渡(おみわた)りを見ようとした「タフト坊」が神力で一晩の内に「遠州さなぎの社」まで“飛ばされて”、諏訪へ帰るのに七日間かかったと書いてあります。

言い伝えには「なにがしかの真実がある」ものです。

(かつて)葛井神社の「清池」の底に時空の歪みがあり、何かの条件で静岡県までテレポートができたのかもしれません。


葛井神社「御手幣送神事」

 撮影年不明のビデオですが、内容はまったく変わらないので紹介します

           動画


葛井神社には今でこそ本殿がありますが、かつては、池そのものが神体でした。「永禄九年八月、武田信玄、九頭井太夫に朱印状を与える」と題した『矢島文書』には

          …、九頭井社瑞籬・鳥居、諏方郡上原南北之田役を以て七箇年に一度造立之由、…
              茅野市『茅野市史 史料集』



とあり、他の文書に見られる「宝殿(本殿)」が書いてありません。

画像:葛井神社「台石」 

竹村美幸著『ちの町史』には、「江戸時代の絵図を見ると、葛井神社の近くに、地蔵清水とか宝蔵院清水が記されていて、第二次大戦の頃までは葛井の池は湧水であふれ、それが小川になって江川橋に流れていた」「葛井神社は、明治以降も社殿はなく、池そのものが神の鎮まるところ、すなわち神殿であった。(中略) 現本殿は、高い石積みの上に建てられているが、この石積みも大正期のもので、それ以前は本殿のすぐ裏の池の中に台石があるが、この上に小さな祠があった」とありました。
 

  その台石がまだ残っているのを確認すると、思わず、鼻孔から「ウーン」と感嘆符が出ました。かつては「瑞籬に囲われた際限なく湧き出る清水と池」で、その後は「その脇に慎ましく鎮座する小さな祠」という景観だったのでしょう。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月22日 13時54分13秒 ) パスワード

http://www.japanmystery.com/nagano/kuzui.html

葛井神社
(くずいじんじゃ)
長野県茅野市ちの
 諏訪大社上社の摂社の1つであり、諏訪大社の大祝の即位の際に御社参りをする13の神社の1つに数えられる。祭神は槻井泉神(つきいずみのかみ)。
 この神社の信仰の対象は本殿に隣接する池である。この池は諏訪七不思議の1つ“葛井の清池”に数えられ、色々な伝承が残されている。
 最も有名なものは、上社の年中行事の最後となる「葛井の御手幣(みてぐら)送り」の神事である。大晦日に、上社で使われた幣帛や榊、柳の枝や柏の葉を取り下げて、葛井神社に運ぶ。そして寅の刻に前宮御室の御燈を合図に、それらを池に投げ入れるのである。すると翌元日の卯の刻に遠江国の佐奈岐(さなぎ)池に浮き上がってくるという。
 またこの底なしの池には片目の魚がおり、それが池の主であり、捕ると祟りで死ぬとも言われている。町中にある何の変哲もない池であるが、非常に神秘的な伝承を持つ場所である。
<用語解説>
諏訪大社
本宮と前宮からなる上社、春宮と秋宮からなる下社の計4つの神社。信濃一ノ宮として崇敬を集める。祭神は、出雲国譲りの際に諏訪へ来た建御名方神と、その妃の八坂刀売神である。また土着信仰の対象であった蛇神のミシャグジ神とも一体視されている。

諏訪七不思議
諏訪大社の上社と下社の神事などにまつわる七不思議(上社と下社にも独自に七不思議があり、それらを総合した形で諏訪七不思議が形成されている)。
湖水御神渡・蛙狩神事・五穀の筒粥・高野の耳裂鹿・葛井の清池・御作田の早稲・宝殿の天滴。

佐奈岐の池
具体的にどこの池を指すかは不詳。しかし比定地として最も有力なのは、静岡県御前崎市佐倉にある、遠州七不思議の1つ、桜ヶ池である。この池にも龍神に供えるために赤飯を詰めたお櫃を池に沈める「お櫃納め」がおこなわれており、そのお櫃が諏訪湖に浮かび上がったとの伝承が残されている。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月22日 13時57分56秒 ) パスワード

竜神信仰: 諏訪神のルーツをさぐる - Page 35 - Google Books Result

竜神信仰: 諏訪神のルーツをさぐる
By 大庭祐輔

大庭祐輔 - 2006 - ‎Dragons

白羽神が多く祀られているのは、遠江国の沿岸地帯であるが、その所在と白羽の地名を残して『古語拾遺』を論拠として長白羽と天白羽が同じ神であると強調している。「神名式に常陸国に ... (サナギの鈴) 11 に注目したうえでの発想である。藤森氏は、諷訪の鉄 ...



縦書きなのでコピペ出来ないです。

http://books.google.com/books?id=zuiAUVX8IwMC&pg=PA35&lpg=PA35&dq=%E9%81%A0%E6%B1%9F+%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%8E%E6%B9%96+%E3%81%AF&source=bl&ots=SequhDGPJE&sig=Ah262kpv2z_Y8L-af4DxINCWD5I&hl=en&sa=X&ved=0CGQQ6AEwCGoVChMI4ODBhaLVyAIVDMJjCh0spA3f#v=onepage&q=%E9%81%A0%E6%B1%9F%20%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%8E%E6%B9%96%20%E3%81%AF&f=false
[30]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月22日 17時09分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 大庭祐輔氏の『竜神信仰 諏訪神のルーツをさぐる』という本は、ぜひ
手に入れたいと思っていますが、プレミアがついていて2倍くらいの値段
になってしまっておりますので、なかなか買うところまで行きません。
 図書館を探せばありそうなので、あたってみます。
 人類は敵か味方かの二元論で生き抜いてきました。その二元論の判断要素
として、信仰・宗教はかなり大きなウェイトを占めていると思います。場合
によっては100パーセントの場合もあったのではないかと思います。
 信仰の歴史の参考資料として、大庭氏のこの著作は本当のところ手に入れ
たいのですが・・・。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月23日 08時26分56秒 ) パスワード

三つ柏さん

取り敢えず図書館にいらっしゃって、あるかどうか、他の図書館から取り寄せてくれるかどうか、お問合せになってください。


どんな内容か知らないのに高値のついた本を買うのはもったいないです。


取り敢えず、読めると良いですね。
グッドラック
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月23日 08時30分35秒 ) パスワード

次のページの白羽神社のことも興味深いですね。


我々にはまだまだ「基礎」が出来ていないのを認識するばかりですね。
でもネット時代になって助かりますね。


ではお早めに図書館へGO!ですね。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月23日 09時45分46秒 ) パスワード

拾い読みだけですが。。。。


2ページ前のP33も興味深いですね。

天白・麻績・員弁・伊那谷・麻績神社
    員弁が造船に関係した?


読み難いのできちんと読めないので残念です。
本当に早く最初っから読めるといいですね。



第4章の諏訪に来た神々の章に「天竜川」が出て来るんですね。
荒ぶる竜のお話でしょうか?

ホント早く手に入れたいですね。
[34]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月23日 10時31分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 出雲の歴史はかなり神話化されておりますが、諏訪については原初の状態
の残滓が残っている。
 やはり、「日本渡来人史」を確立する必要があります。
 日本に渡来した民族の歴史。
 渡り鳥のように、あるいは難破漂流民のように、あるいはボートピープルの
ように、あるいは目的をもった移民団のように、ひっきりなしに日本列島には
国外から人が渡来していたと考えることは自然であります。
 その中でも、民族移動のような、いわゆる難民のような大規模な移動・渡来
は何波かに亘ってあった。正確な資料は今持ち合わせておりませんが、おおよ
そは、第一波として、紀元前200年代、いわゆる徐福船団でいわゆる物部氏
を中心とした集団(後に秦氏に同化する)、そして応神天皇の時代の秦氏を中心
とした集団、その後は百済滅亡後の百済からの民、・・・etc.
これの点については、いずれなんとかまとめたいと思っております。

 諏訪にも、古代、物部氏は来ていた。物部古神道はユダヤ教に近いという。
アブラハム-イサク-ヤコブのストーリーは、旧約のストーリーであると思いま
す。諏訪の地で、古代のストーリーを残すことができたということは、奇跡
的なことであったと言えるのではないでしょうか。

 いずれにしても、諏訪の歴史は、古代の渡来人=ユダヤがキーワードで、
それ以外に解くことは難しいのではないか、ならば、そこは率直に認めて、
前向きに解明したほうがいいのではないかと思っています。

 出雲と諏訪と伊勢を結ぶトライアングル、伊賀は伊勢よりの場所で静かに
潜んでいます。伊賀には何か大きな秘密がありそうな気がいたしております
・・・。

 いずれにしても、芭蕉の調査も更にしたいので、伊賀には近い内にまた行っ
てまいります。

[35]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月23日 13時22分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 やはり伊賀(甲賀)と諏訪は通じていました。キーワードは「甲賀三郎」、
そして「敢国神社」です。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月23日 13時35分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


>「甲賀三郎」

望月ですね。
あの本で読みました。


そして曾良はやはり伊賀の一族で良いようですね。
だから芭蕉のお供をしたのでしょうね。

   まだハッキリとした箇所には行き着いていませんが。  


あの本は読み易いですね。
書いてる人の頭の中が整理されてるのを感じます。


敢国神社の記憶は派手なイメージです。
何かそれまで知っていた日本の神社のイメージと違いました。
わたくしの中では整理出来ていません。


でも是非ゆっくりお時間を取って行ってらっしゃいませ。
[37]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月24日 05時39分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 睡眠は頭の栄養です。今睡眠から目が覚め、頭の中のアイデア・イメージ
が統合されました―
 諏訪信仰は巨人です。現代人の感覚はやはり脱ぎ去る必要があります。神
道なら神主・氏子、仏教なら和尚・檀家を我々は単純に連想しますが、その
感覚は過去に遡るとズレてしまうのではないか。
 明治・江戸と遡って行くと、神も仏も両方兼ね備えた「修験」という形が
信仰形態の主流だったのではないかと頭の中でひらめきました。
 そういえば、私が四十代の頃、大福寺で行者さんの下で仏道修行をしたこ
とがございますが、今客観的に考えますと、それは修験・山伏に近いジャン
ルであったような気がいたします。
 行者と言えば「役の行者」と言われた小角(おずぬ)がいました。修験道の
租であります。首から数珠を下げ、錫杖を振って教を唱える。密教系のお経
(私の場合真言宗でしたが)を唱える・・・いわゆる祈祷。
 そして、見えて来たのは、諏訪と伊賀(甲賀三郎で通底)、諏訪と遠江(葛井
池とさなぎ池の通底)、この通底は「修験者」ネットワークによってつながれ
ていたということではないか・・・。伊賀の敢国神社は諏訪信仰の中心で、
修験者が集まっていたという。浜松の馬込(まごめ)は修験者部落(お寺がいく
つもあり身を寄せていた)であった。それらは必ずしも諏訪信仰だけではなか
ったと思われます。秋葉信仰、御嶽信仰、白山信仰、熊野信仰といわゆる「山
岳信仰=修験」であります。修験者同士が仲が悪かったということも余り聞き
ませんし、多分ネットワークとして相互依存していたのではないか・・・。
 この考えを延長すると、出雲と諏訪も修験でつながっていた。出雲も諏訪も
伊賀も遠江も修験でつながっていた・・・。
 そして、修験と忍者もつながっている・・・井伊家に仕えた忍者系の松下
常慶も白山系修験であったし、秋葉系も装っていた。秋葉で三尺坊の出身地は
信州伊那松島であった。また諏訪までは40〜50キロメートルである。
 芭蕉の親は敢国神社の近くの出身だという。芭蕉は敢国神社も訪れている。
もちろん伊賀天神社にも訪れている。芭蕉の信仰形態を知りたかったが、たぶ
ん修験であったかも知れません。その証拠として、『奥の細道』の出羽三山で
は修験者になっています。
 そして、芭蕉は修験者ネットワークを利用できた・・・。もちろんそれは
伊賀忍者ネットワークともつながっている・・・。

 
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月24日 09時52分11秒 ) パスワード

三つ柏さん


   修験と忍者もつながっている・・・
   井伊家に仕えた忍者系の松下常慶も白山系修験であったし、秋葉系も装っていた。

   秋葉で三尺坊の出身地は信州伊那松島であった。
   また諏訪までは40〜50キロメートルである。
 

   芭蕉の親は敢国神社の近くの出身だという。
   芭蕉は敢国神社も訪れている。
   もちろん伊賀天神社にも訪れている。

   芭蕉の信仰形態を知りたかったが、たぶん修験であったかも知れません。

   その証拠として、『奥の細道』の出羽三山では修験者になっています。


    そして、芭蕉は修験者ネットワークを利用できた・・・。
   もちろんそれは伊賀忍者ネットワークともつながっている・・・。


すごい所に繋がりましたね
背筋がゾクゾクします。

伊賀行きが実り豊かなものであることを願っております。
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月24日 21時01分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 伊賀を中心とする裏の世界にますます興味を引かれます。深い深い歴史の
海の底、そこにはどんな謎が潜んでいるでしょうか。ブラックボックスかも
しれません。パンドラの箱なのかも知れません。百地、藤林、服部等の忍家
・・・どんなネットワークが広がっていたのでしょうか・・・?

 このテーマでいろいろ調べてみたいと思っています。

 本日は名古屋に行き、明日は芝刈りです。時間的余裕がありませんが、修
験について、もう一度本をあたってみたいと思っています。
たってみます。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月24日 22時29分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


深い深い闇の底に沈んでいるんでしょうね。
情報収集と言えば合法的な明かるいイメージですが
人には言えない闇から闇に葬ったことばかりだったのかも。

   それ故に面白いですね


お忙しいようですね
体調を崩さないようになさって
伊賀に早くいらっしゃいますように。

調べたいこと・行きたいところ
しっかり復習なさいますように。
[41]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月26日 15時24分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 少し書き込んだものが消えてしまいました。

 本日より急に寒くなり、うっかりすると風邪を引いてしまいそうです。
 昨日も、やや寒さがやってきており、日なたでは暑く、日陰ではやや寒い
といった複雑な気候でとまどいました。
 いずれにしても、風邪には気を付けたいと思います。

 修験道のネットワークを中心として、裏世界が見えてきました。「聖護院
(三井寺) v.s. 醍醐寺」、即ち「本山派 v.s. 当山派」といったような
図式もあります。
 長上郡の羽鳥庄も京都の新熊野神社に寄贈されています。聖護院がからん
でいると思います。 
 ま、じっくり腰をすえて取り組みたいと思っています。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月26日 22時56分05秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたくしも窓8にして以来、突然、消えます。
その消える理由がいまだに分かりません。
友人が(開業医)先に窓8にして不安定で使い難いと言ってたのですが
彼女の場合は仕事中に消えるのですから大変さが違います。汗


わたくしの場合は「一時置き場」を作って保護していますが
ちょっと油断すると、ホントに突然消えるので、しょっちゅう置き場に保管せねばイライラします。

一体何なんでしょうね。


今は「さんぱい所」というスレッド名ですから
あそこに一時仮置きでお使いください。
ご自分で古いのを消してくだされば
少しすれば、
きれいサッパリ消えてますから。



風邪にはご注意を。
今年は新型ノロウイルスも活動だそうで
やられたら大変です。

わたくしもノロに抵抗の無いほうの10%の1人なので気を付けています。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月26日 22時58分12秒 ) パスワード



       自分の土地を守るのに寄進という手があったのをあの本で読みました。
       ありがとうございます。



修験道のネットワークを中心として、裏世界が見えてきました。「聖護院
(三井寺) v.s. 醍醐寺」、即ち「本山派 v.s. 当山派」といったような
図式もあります。
 長上郡の羽鳥庄も京都の新熊野神社に寄贈されています。聖護院がからん
でいると思います。
[44]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月27日 13時33分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今、修験道を中心に調べていますが、相手は大きいので把握するのに時間
がかかります。出雲、諏訪、伊賀、遠江・・・片鱗はつかんでいるのですが
・・・。

 今から、秋葉山へ行ってまいります・・・何かヒントが得られるのではな
いかと思っています。

 本日、文庫本を送付します。これから郵便局へ行き、その足で秋葉まで―
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月27日 13時46分18秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。
楽しみにしております。


秋葉山本宮秋葉神社

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E7%A7%8B%E8%91%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE

修験道[編集]

平安時代初期、信濃国戸隠(現在の長野県長野市戸隠)の出身で、越後国栃尾(現在の新潟県長岡市)の蔵王権現(飯綱山信仰に由来する)などで修行した三尺坊(さんしゃくぼう)という修験者が秋葉山に至り、これを本山としたと伝えられる。

しかし、


1.三尺坊が活躍した時期(実際には鎌倉時代とも室町時代とも言われる)にも、出身地や足跡にも多くの異説がある
2.修験道は修験者が熊野、白山、戸隠、飯綱など各地の修験道場を行き来しながら発展しており、本山という概念は必ずしも無かった
3.江戸時代には秋葉寺以外にも、上述の蔵王権現や駿河国清水(現在の静岡県静岡市清水区)の秋葉山本坊峰本院などが「本山」を主張し、本末を争ったこれらの寺が寺社奉行の裁きを受けたとの記録も残されている
4.戦国時代より以前に成立した、秋葉大権現に関する史料が殆ど発見されていない

よって現状では、祭神または本尊であった秋葉大権現・三尺坊の由来も「定かではない」という他はなく、今後の更なる史料の発掘および研究が待たれている。



近世期[編集]

戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康と関係のあった可睡斎の禅僧茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げてゆくこととなった。

秋葉山には禰宜・僧侶(曹洞宗)・修験(当山派)の三者が奉仕し、別当は僧侶が務めた。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、修験も十七坊(時代によって増減あり、三十六坊の時期もある)あったと伝えられる。

徳川綱吉の治世の頃から、秋葉大権現は神道、仏教および修験道が混淆(こんこう)した「火防(ひぶせ)の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯(秋葉灯篭)が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた。


龍燈(龍頭)と呼ばれる祠を兼ねた特殊な常夜燈があり、そこが町内・講中の信仰の場となった。現在でも町内で神符を受けて常夜燈に祀る地域は多い。



近代以降[編集]

1868年(明治元年)に明治政府によって神仏分離令が、1872年(明治5年)には修験宗廃止令が強行され、秋葉山も神仏分離を行うこととなったが、秋葉権現が神仏いずれかという神学論争に加え、山内の修験派と僧派の対立もあり、その決着が容易につかなかった。明治5年に教部省は秋葉権現を三尺坊とは異なる鎮守と判断し、更に修験の家伝に基づき祭神名を火之迦具土大神であるとした。秋葉山を神道の秋葉大権現と仏教の秋葉寺に分離し、更に秋葉大権現を秋葉神社と改称した[1]。翌1873年(明治6年)、秋葉寺は無住無檀という理由で廃寺となるが、これは当時の社寺に関する法令が適用された結果であり、秋葉寺が神仏分離で廃寺されたというのは正確ではない。秋葉寺の廃寺に伴い、三尺坊は萬松山可睡斎(静岡県袋井市)に遷座、宝物什物も移管された。全国各地の分社もそれぞれの土地の事情で神仏分離令に従い、神社または寺として独立の道を歩むこととなった。明治6年に県社列格。


第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、山頂(上社、かみしゃ)が山麓から発生した山火事の類焼により本殿東側の山門を除く建物全てを焼失した。戦中戦後は再建も容易ではなく、山麓に下社を造営し祭祀を継続した。しかし、1986年(昭和61年)に現在の山上の社殿が再建され、相前後して山頂に通じる林道の整備も成ったため、ここに名実共に秋葉山本宮秋葉神社として再興を果たした。尚、戦後秋葉山本宮秋葉神社と改称したのは、社格制度がなくなる中、全国の秋葉神社の本宮であることを示すためである。 平成21年(2009)御鎮座1300年を記念して本殿西側の神門を建立。



名所・旧跡[編集]

機織井(はたおりのい)                           これまた不思議ですね
古来より神聖視されてきた井戸で如何なる時にも枯れないと伝えられる。「遠州秋葉山本地聖観世音三尺坊略縁起」では修行者が祈ったところ天龍鬼神の感応があって水が湧き出し、そこに秋葉の文字を背負った蝦蟇が泳いでいたと伝える。


信玄谷・権現谷 
36丁目から37丁目の間にある。秋葉山は元亀天正の頃武田家と徳川家が勢力を争った境界線であることからこの地名がある。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月27日 23時00分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 修験に関連して思いつくまま―

 @若い頃、京都と亀山の境にある愛宕山に登り、「愛宕神社」に参って
 きました。火伏の神で、祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)、伊邪那美神、
 大国主神でした。結構きつい坂道だったので、忘れません。

 A秋葉山には今回も含めて5回くらい登って「秋葉神社」に参っており、
 火防の神の火産霊神(ほむすびのかみ)を祀っております。この神は、ま
 たの名を火之迦具土大神といいます。愛宕神社と同じ祭神です。

 B秋葉神社は火祭が有名で、それは鞍馬寺の火祭、東大寺二月堂の火祭
 を思い浮かべさせます。火は拝火教、ゾロアスター教を思い浮かばせま
 す。

 C秋葉山は標高866メートルということで、丁度信濃の諏訪大社あた
 りと同じくらいの高さであります。秋葉山から信州街道を北に行くと、
 水窪に至り、さらに青崩峠を越えて南信濃に入ります。そして一本道で
 高遠に至り、更に北上すると諏訪に行きつきます。昔の人はこの道を歩
 いたのです。諏訪〜浜松は徒歩で7〜8日ぐらいかかりました。
  天竜川を利用して下る場合は、その半分以下で下れたでしょう。

 D秋葉山は天狗で有名。鞍馬山も天狗で有名。秋葉三尺坊は伊那出身で
 あると思います。秋葉山の天狗伝説を書いた本があったのですが、今探
 してみましたところ見当たらなかったので、改めて調べてみます。
  袋井の可睡斎も秋葉神社の本山ということで、天狗の像が飾ってあり
 ます。

 E山岳・修験というと、厳しい修行を思い浮かべます。空海も山岳で修
 行しております。虚空蔵求聞持法を百万遍唱えて明星が口の中に飛び込
 んだといいます。すべてがわかってしまう悟りの境地というものでしょ
 うか。

 F山伏の装束はいわゆる「死に装束」でしょうか。首には数珠をかけて
 いる。袈裟もかける場合があると思います。

 G修験者は護摩を焚きます。火には不思議なパワーがありそうです。

 以上、とりとめもない話を書いてしまいました。今後、さらに情報を
仕入れ、統合してストーリーを組み立ててみます。
 
 
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月28日 02時35分40秒 ) パスワード

三つ柏さん

まとめをありがとうございます。


 
>F山伏の装束はいわゆる「死に装束」でしょうか

これだけは見当も連想もつかなかったです。
なるほど、「死に装束」ですか。




>諏訪〜浜松は徒歩で7〜8日ぐらいかかりました

思っていたより3倍は遠い道のりに驚きました。
随分遠いんですねえ。



http://www.jisyameguri.com/zatsugaku/ogoma/
お護摩って何のためにやるの?護摩の意味とは?

護摩は天への供物                             ビックリ!

「護摩」というのは、サンスクリット語の「ホーマ」を音写したもので、「物を焼く」という意味です。

物を焼くと、炎があがりますが、実はその炎が重要なんです。
燃え上がる炎は「天の口」であって仏の智慧の象徴でもあり、その口から供物を食します。


     つまり納めた護摩木は、供物として焼かれるのです。

そして、煙が天に届くことで、天は食を頂くことができ、代わりに人に福を与えるとされています。

このような考え方、由来はバラモン教にあります。
バラモン教が儀式で行っていたやり方を、大乗仏教も取り入れたんです。

                                     全然知らなかった〜



今では主に天台宗や真言宗など、密教系の仏教宗派が護摩行(護摩供ごまく)という修行の一環として行います。
やり方は宗派によって違いますが、主に寺院内の護摩堂というお堂の中に護摩壇を用意し、そこに護摩木を投げ入れて、焚き続けます。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%91%A9

護摩(ごま)とは、「焚く」「焼く」を意味するサンスクリットのホーマ(homa)を音訳して書き写した語である[1]。

インドで紀元前2000年ごろにできたヴェーダ聖典に出ているバラモン教の儀礼である。

仏教には釈尊入滅から約500年後に発生した大乗仏教の成立の過程でバラモン教から取り入れられた、と考えられている。そのため、護摩は密教(大乗仏教の一派)にのみ存在する修法であり、釈尊の直説に近いとされる上座部仏教には存在しない。おもに天台宗、真言宗で行われる。なお、専ら護摩を修するための堂を「護摩堂」(ごまどう)と称する。


護摩の実際[編集]

護摩の炉に細長く切った薪木を入れて燃やし、炉中に種々の供物を投げ入れ(護摩焚き)、火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうとする素朴な信仰から生まれたものである。火の中を清浄の場として仏を観想する。


護摩の種類[編集]

(1) 護摩壇に火を点じ、火中に供物を投じ、ついで護摩木を投じて祈願する外護摩と、(2) 自分自身を壇にみたて、仏の智慧の火で自分の心の中にある煩悩や業に火をつけ焼き払う内護摩とがある。

また、その個別の目的によって一般的には次の五種に分類される。
1.息災法(そくさいほう)…災害のないことを祈るもので、旱魃、強風、洪水、地震、火事をはじめ、個人的な苦難、煩悩も対象。
2.増益法(そうやくほう)…単に災害を除くだけではなく、積極的に幸福を倍増させる。福徳繁栄を目的とする修法。長寿延命、縁結びもその対象。
3.調伏法(ちょうぶくほう)…怨敵、魔障を除去する修法。悪行をおさえることが目的であるから、他の修法よりすぐれた阿闍梨がこれを行う。
4.敬愛法(けいあいほう)…調伏とは逆に、他を敬い愛する平和円満を祈る法。
5.鉤召法(こうちょうほう)…諸尊・善神・自分の愛する者を召し集めるための修法。



野外の護摩法要[編集]

修験道で野外において修される伝統的な護摩法要を、柴燈・採燈(灯)(さいとう)護摩という。日本の伝統的な二大修験道流派である真言系当山派では、山中で正式な密具の荘厳もままならず、柴や薪で檀を築いたために「柴燈」と称する一方、同じく伝統流派である天台系本山派では、真言系当山派の柴燈から採火して護摩を修するようになったため「採燈」と称する。

近年では、伝統的な本山派・当山派の流派には属さない寺社、また、分派、独立した宗団や密教系新宗教などでも、独自の方法と解釈により「斉燈護摩」(真如苑真澄寺)や「大柴燈護摩供」(阿含宗)、「お火焚き」「火祭り」などの別称を用いて実施されている。



神道[編集]

護摩は本来は仏教の密教の修法であるので、密教や修験道で行われるが、神道の神社の一部でも護摩が実施される。もともと神仏習合だった権現社や宮が、明治維新の神仏分離(神仏判然令)によって寺院を別の法人として改組した事例も少なくないが、現在でも神社において神職や山伏による護摩祭が続いていることがある。
愛宕神社(京都府京都市)の千日詣の夕御饌祭[2]
安井金比羅宮(京都府京都市)の春季金比羅大祭、秋季火焚祭[3]
熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)の権現講祭[4]
八菅神社(神奈川県愛川町)の例大祭の護摩供養火生三昧の修法[5]



「ごまかす」の語源説[編集]

「誤魔化(ごまか)す」とは不利益を被らないように取り繕うという意味で、「護摩」が語源という説がある。「ごまかす」の「護摩の灰」の「ごま」に「だまかす」あるいは「まぎらかす」の「かす」がついたものとする説である[6]。「護摩の灰」とは旅人の道連れに金品を盗み取る者をいい、江戸時代にただの灰を高野聖の装束を身に着けて空海(弘法大師)の護摩の灰と称して偽物を売り歩く者がいたことに由来する[7]。なお、他説として「ごまかす」は「胡麻菓子」の動詞化であるとする説もある[6]。


すっごく勉強になりました。
護摩ってバラモン教の影響でしたか。

   インドの人に言わせると仏教はバラモン教の1派だそうで
   「護摩」がまだバラモン教の影響を残しているということですか。


        さらにヒンドゥ教ともなるとワケ分からなくなっていきます。
        多神教なんだろうなというのは分かるけど
        やっぱり分からない。


護摩って祈祷や呪詛の時に景気づけるパフォーマンスかと思ってました。
赤面
神道でしたらお鈴をガラガラ鳴らせるみたいなもの、と思ってました。
[48]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月28日 06時58分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 護摩のことを調べていただき、ありがとうございます。たいへんいい勉強に
なりました。
 祈り・祈祷は修験にはつきものです。それは、いい方にも悪い方にも使えま
す。
 山岳信仰・修験の歴史は歴史が古いので、一度その変遷を理解してみたいと
思っています。
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月28日 13時33分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


知っているようで知らないものですね。



>山岳信仰・修験の歴史は歴史が古いので、一度その変遷を理解してみたいと思っています。

基本のキですね。
最初に知らなくてはいけませんね。

   基礎が無かったなと反省しております。



ということで調べて来ました:

山岳信仰
http://www5e.biglobe.ne.jp/yamamosa/5sinkou-1.html
これが面白かったです。


以下コピペ

山岳信仰とは、山を崇め奉る信仰である。基本的には山や、山にある大木、巨大な岩を信仰母体とすることが多い。  

山岳信仰の始まり                
 山岳信仰は縄文時代に狩りの獲物をもたらし、家屋の材料や燃料を与えてくれるのは山であるから、縄文人が山に対する感謝と畏敬の念をもっていたことから始まり、山を神として崇拝し、一方で恐れるということは、農耕の伝播以降に始まったと考えられる。

                                     縄文時代から、というのはなんとなく想像がつきましたが、意外でした。



山に対する信仰の基本は、豊かな収穫を祈ることにあったから、山の神は実際には田の神であった。山の神が農作業の時期に山から降りてきて田の神になるというところも少なくなかった。
                     


 
 琵琶湖の南には太神山(たなかみやま)(600メートル)という山があり、田上山地の最高峰となっているが、これなど文字通り山が田の神であったことを示しているといえよう。

 宗教民俗学者の堀一郎は、わが国における山岳信仰の始まりを火山系、水分(みくまり)系、葬所系の三つの型に分けて考えている。

 火山系とは火山が噴火し、爆発することに人間が畏怖の念を抱いたことに起源するものである。激しく活動する火山の姿は、それだけでも何か超自然的な力の存在を感じさせる。噴火の原因やメカニズムを知っている私たちですらそうなのであるから、当時、火山そばに住んでいた人たちが火山を崇拝するようになるのはごく自然ななりゆきといえよう。


 水分系というのは、分水嶺即ち水源の山に対する信仰である。農耕を営む人々にとっては山は生命の源であり、かつ水害を引き起こす脅威でもあった。こうした山に対する感謝の念と畏敬の念が山岳信仰を発生させてのである。


 葬所系というのは、人が死ぬとその霊は高いところに行くという考えから出てきたものである。山は霊の棲む場所とされ、さらに使者を葬る場所にもなったことから祖霊の居場所ともなり、人が最期の還っていく場所ともみなされるようになった。

 各地の著名な山岳信仰はこの分類の何れかにあてはまるといえる。


        小泉 武栄著「登山の誕生」中央公論新社刊 2001年6月25日
 

宗教と信仰の違い            山岳信仰概要の表題へ戻る
 ”靖国問題を考える”という特集記事の中から、宗教と信仰の関わりについてその要旨を紹介する。
 政治と権力、経済と利殖が違うように、宗教と信仰も実は別個のものである。信仰のない宗教は空虚だが、宗教なしにでも信仰は成りたつ。

 本来、宗教は世俗の形式に過ぎず、したがって政治と経済と宗教はさまざまな形で密接な関係をもっている。ただ信仰は人の内面に根ざす厳粛な精神上の問題であり、安易に他人の容喙(ようかい)すべきものではない。戦後およそ半世紀、靖国問題はもっぱら国内・国際両面で政治問題、つまり政治と宗教の問題として語られてきた。信仰の問題として語られることはほとんどなかった。・・・・・中略

 宗教には信仰、政治には信義、経済の信用、他者への信頼、そして自らの自信と信念ーー「信」とはこれらすべての融合体である。一つが欠けても全体が崩れる。だから信仰と敬虔(けいけん)抜きの靖国論議は、「信」を忘れた戦後日本の精神的荒廃を省象徴している。・・・・・中略
 元寇は、近代以前の日本にとって最大の対外戦争だった。それでもかつての日本人にはこれだけの度量と深い宗教心があった。今の日本人もこの精神を受け継ぐことはできる。・・・・・後略

        2002年8月5日 読売新聞朝刊 筆者は 早大名誉教授 河原 宏氏「靖国問題を考える」 

宗教意識調査結果
                              山岳信仰概要の表題へ戻る
 1978年に実施されたNHKの放送世論調査の「全国県民調査」結果、日本国民のうち、特定の信仰や信心を持っている人は30%であって、残りの70%は宗教無関心者であるというのである。

 笑い話的にいえば、前の文化庁統計では、日本人は一人で、二つも三つも信仰を持っているほど宗教熱心な国民であるのに、一人一人の面接調査になると、なんと信者はわずが30%であるであって、70%は宗教無関心者であるという。しかもこの調査によれば、この70%の無関心派が、自分は無関心でありながら、「人間にとって宗教心は大切か否か」という問いに、そのうちの75%の人が「大切である」と答えたというのであるから、奇々怪々と言わざるを得ない。要するにこのようなアンケート結果だけでは、答えを引き出すには至らない。  

          梶村 昇 著  「日本人の信仰」   中央公論社 1988年8月25日

 

 

宗教史全般                                山岳信仰概要の表題へ戻る

 宗教は我々が生まれる前から好むと好まざるとに関わらず、現在ここにあるのである。 宗教という言葉自体は”RiIigion”の訳語として明治以降に使われ始めたのであり、これを研究する宗教学や宗教哲学は、ヨーロッパのキリスト教国で始まったものである。だからヨーロッパ人の宗教に関する定義は、「宗教とはキリスト教及びこれに類似するものである」ということになってしまう。

 「仏教は宗教に非ず」とも言い得ようし、「神道は宗教に非ず」とも言い得よう。しかしたとえキリスト教嫌いの者でも「キリスト教は宗教に非ず」とは言っていないのである。ヨーロッパ人はキリスト教だけが宗教になってしまう。


 一方、日本の場合は幸いにして宗教博物館のような国である。

 日本人のうち、宗教嫌いの者に完全な食わず嫌いは稀で多少は食いかじった上での嫌いなのだから話はしやすい。生まれてから死ぬまでの間に、誰しも何度かは宗教的な環境に入らされるのである。


 現在は江戸時代のような宗門改めはなく、信教は自由である。そこには信じない自由もあり、宗教生活を一切拒否することもできる。

 ほとんどの人は産婦人科の病室で生まれ落ちて青年期には、異性と婚姻届けに署名捺印して届け出て結婚生活に入り、死んだら公営の火葬場で焼いてもらって、公営墓地に葬ってもらえば宗教と無縁で一生を終わる。

 農村や漁村のような地域社会の結合が強く、社会慣習の拘束力の強い土地では、実際問題として実行困難かも知れないが、隣同志がお互いに顔も知らないような都会生活では、できないこともないだろう。しかし、実際問題として、完全に宗教生活と絶縁をして生活している人は、ほとんど皆無に近いだろう。

 

神社は祭のためのもの

 神が祀られるのは神社であるが、著名な神社は別として、大部分の神社は、誰一人として人影が見えず子供の遊び場ぐらいになっている。これは祭り以外の時は神がおられないのであって、神社はあき家なのである。神は祭りの時だけ神社に迎えられる。では神社はふだんはどこに居られるのか。

 それはトコヨにちがいないが、その位置にはいろいろな説がある。山の上という説と天という説は関係があり、天の場合には山を依坐と考えるのである。その他に海の彼方という説もある。その神社ごとに伝承があっていちがいには言えないのである。

 柳田説によると、伊勢神宮なども神は常在せず、神迎えが行われていたらしい。神社参拝はそのつど神を迎える臨時祭に相当するものである。

 

人は平野、神は山

 山といっても奥深い山ではない。農民が平野に住んでいて、朝、雨戸をあけると先ず目に映るような山である。関東平野の西郊、関東山脈のとっつきにある、青梅や五日市付近ではどこの山にも神が祀られているが、多摩川や秋川の上流の方に入ると高い山にも神は祀られていない。日本アルプスの奥深い山にも神は祀られていない。平野からとっつきの山で目に立つものはどうしても火山の方が多い。今日、汽車で旅をして、あれは何山ですかと目につくような山には地方神が祀られて信仰の中心になっている。  

有名なところでは、

・岩木山   岩木神社

・鳥海山   大物忌神社

・月 山   月山(がっさん)神社

・日光山   二荒(ふたら)山神社

・筑波山   筑波山神社

・富士山   浅間(せんげん)神社

・立 山   雄山(おやま)神社

・白 山   白山比め(しらやまひめ)神社

・比叡山   日吉(ひえ)神社

・大 山   大神山(おおみわやま)神社

・石槌山   石槌(いしづち)神社

・彦 山   英彦山(ひこさん)神社

・阿蘇山   阿蘇神社

・霧島山   霧島神社

などがある。しかし小さな山でも厚い崇敬の対象になっている所もあり、豪族の墓にしたのは、人工で山を築いて霊のおくつきをこしらえたものであろう。


 山が高い場合には、その山の神を麓に迎え里で祭を行う。これが一般的な形であるが、山が小さかったり、山とは名ばかりの森であったりする場合は、直接その場が祭の場になり、神社の社殿が設けられているが、それでも別にお仮屋を設け、神輿で神はそこにおいでになって、ここで祭の行事が営まれる。


           小池 長之著「日本の宗教史」学芸図書(株)1963.8.8

神と、仏の違いは?                                 山岳信仰概要の表題へ戻る
  神は、神社の祭神で、信仰の対象となる尊いものとなって居るが、日本では、天皇や、その県の昔の大名、その他、山の神、田の神、七福人などがある。又、有名人なども、神の本尊として、神社に祭られて居る。
  仏は、悟りを開いた人、ブッダとなっており、仏様(大日如来)の仏法を悟り、感謝と慈悲があり、三業が三密になった人(即身成仏)をいう。

  三業とは、一、身業(他をかえりみず自己の欲望を高め様とする心)二、口業(相手をだます事は、自分をだます事になる)三、意業(人をいやがる心、憎む心、人を嫌う心をいう)。

  三密とは、一、身密(仏様と一体となり仏様の姿になる事で手に印を結ぶ)二、口密(仏様と一体で話をする事、すなわち仏様の言葉となる事で仏様の真言を唱える)三、意密(仏様の心になる事で大日如来を心に念ずる、すなわち相手に対し慈悲を持つ事)

  御利益面からは、神様が生きている現世の願い事を祈願することに対して、仏様は他界してから極楽浄土に行くことを祈願することのようだ。その証拠に神様に対して極楽浄土を祈願する人はいないと思う。

  形の面(信仰の対象)からみれば、神様が形のない紙に書いたものを信仰の象徴とすることに対して、仏様は文字どおり仏像を信仰の対象として拝むのである。 
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月28日 13時37分34秒 ) パスワード

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2 山と神


                                 わたくしも「山」に土足でヅカヅカ入ってました。


古代山岳信仰                          


 山は未知と危険とに満ちた存在である。その存在が、四時の美しいよそおいをもって、人々に限りない魅力をなげかける。

 山は、日本人の生活に深く結ばれていた。山の信仰が生まれ、説話が生まれ、文学と歴史が生まれたのは、そのためであった。日本における山の信仰が、特色ある内容をもつがゆえに、欧米人のまなこをみはらせたことがある。

 たとえば、1878(明治11)年7月3日、日光の男体山に登ったアメリカの生物学者モースは、この山の頂上に祀られた神社があるのに瞠目し、さっそく得意のスケッチに描くとともに、その著「日本その日その日」のなかで次のように記した。

 

 聞くところによると、日本の高山の全部とまでは行かずとも、殆んどすべてには、神社があるそうである。驚くべき意想であり、彼等の宗教に対する帰依である。8月にはかかる場所へ、日の出とともに祈祷をささげんとする人々が、何千人と集まる。その中には難苦を堪え忍んで、何千哩の旅をする者も多い。私は我々の宗教的修業で、メソディストの幕営集合以外、これに比すべきものは何も思い出せない。

 

 山の頂上に神社があり、そこへ何千人という巡礼者や修行者が集まってくるということは、モースにとって大変な驚きであったことが察せられる。

 また、1893(明治26)年の夏、立山の頂上にある雄山神社の社前で行われた敬虔な宗教的儀礼をみた時の、英人ウェストンの驚きも、同様であった。彼の著「日本アルプス−登山と探検−」は次のように記す。

 

 頂上近くには、疲労者が登り易いようにと、鉄の鎖が二つ三つ一番険しい岩々にぶら下がっている。鋭い岩の円錐形山頂には、絵のような朱塗の社が、あたりを睥睨(へいげい)して、最高点を示している。この素晴らしい景色を眺めようとしていると、この聖山の守り役をしている神主に連れられた巡礼者の一行が登って来るのが見えた。神主はいかにも形式張って、その社の前にかけられた鷲の羽の組み合わせ模様が、金で染めてある真紅の錦欄の幕を開いた。それから彼は扉を開け、かずかずの霊宝をとりだし、不思議そうに眺めている巡礼者に見せた。

 

 ウェストンが19世紀の末に目撃した立山山頂の宗教儀礼は、20世紀後半のいまも変わることなく行われている。

 しかし、標高3000メートルの高山の頂上において、人と自然との結びつきがあやなす特殊な儀礼をもつ山の信仰は、もともとどのような内容をふくみ、どのような経過によって形成されたのであろうか。こうした観点から、日本古代における山岳信仰の位相を史学の立場から究明してみたい。
 

山と神の特性                        山と神表題へ戻る 

 日本は、その面積三十七万平方キロメートルに過ぎない狭い面積であるにもかかわらず、やまがちの国土である。どこへ行っても、山の見えないところはない。しかも山の高度は、相当に高い。

 日本の代表的なひとつである富士山は、その高さ3776メートルにおよび、その優美な姿をもって、町や村を見下ろしている。このような山及び山地が占める面積は、国全体の76%に達する。そして平野は、山および山地にへだてられながら、各地に散在するにすぎない。


 このような地形・地質の特性を反映して、日本の湖は、火山の活動によって生じたものが多いという。そして火山のなかには、いまも濛々(もうもう)たる煙を吐いてやまぬ活火山がある。桜島・阿蘇・浅間・立山などがそれである。高度の高い山地に源を発する河川は、比較的狭い平野を貫き流れて海にそそぐ。したがって急流をなすものが多い。このように考えてくると、山または山地の状況こそ、日本の地形を特色づけているのであって、日本はまた山国であるということができる。


 しかし山という山地が特色づけるのは、単に地形ばかりではない。気象も当然、山と山地の影響を受ける。気象ばかりでもない。日本に住む人々の思想や文化の発達の仕方、あるいは日本人の宗教生活にも、山と山地が関連しなかったとはいえないのではないか。現に日本の小学校や中学校の校歌にして、その土地の山を讃美していないものはほとんどない。

 国民は、山を仰ぎ、山に親しんで育ったといっても過言ではない。日本の和歌や俳句や絵画の分野に、山がとりあつかわれなかった時代はない。山と山地の多い自然環境の中に生をうけ、やがては再びそうした自然の中へ帰入していった人々にとって、それは当然の結果であったのかも知れない。


 山を仰ぎ、山を望んで、人々は何を考えたか。山に対し、山に入って、人々は何を思ったか。山に関し、山について人々は何を信じたか。

 山の思念や山の信仰は、ときとところによって異なり、人によっても違ったのかも知れない。けれども、なかんずく時代よって異なるところがあるに違いない。


 しかるに、民間信仰としての山岳意識を考える場合、古代の山岳信仰や固有の山の神の信仰に対する仏教や儒教や道教の影響、またそうした諸要素を包含しながら成立する修験道を通じて、その複雑な内容を探っても、容易に解明しうるものではない、と思われるが、あえてその解明を試みることに意義がある。

 

山の神とは                             山と神表題へ戻る     


 山の神は山に宿る神のことである。木樵、猟師、木地師、鋳物師など山民が信仰する山の神は、山の動植物、鉱物を支配し、山民の生業にたいし恵ともたらす神である。生業に種により神徳が異なり、神のまつり方も違う。山の神が女性であったという伝承は、北から南にかけ国土山地に広く分布する。必ずしも女性と考えなかった土地もあるが、女神であるとするのが圧倒的に多い。


 農耕民の信仰する山の神は、農神である。多くの地方で、山の神は年々歳々山と里のあいだを去来するという了解があった。すなわち、山の神は春に山から里に下り、田の神となって稲作と守り、秋には収穫をもたらして山に帰り、また山の神になる。このことにもとづいて日本の祭りの主要な部分がかたちづくられている。


 山の口および山中には山の神の祭場がある。猟師や木樵は山中随所に山の神を祭ることがあった。だから、私たちは一回の登山で数カ所の山の神祭場を通り過ぎることも間々ある。それらはだいたい、大木(枝振りが尋常でない木)、岩、小祠、石塔などによるささやかなものである。


 一方、「山の神」といえば、男性が自分の妻のこと、特に結婚後、年を経てから口やかましくなった女房を指して人に話す代名詞にも使われている。
 しかし、もとの意味は、山を支配する守護神のことである。

日本語大辞典によれば、この二つの結びつきについて次のように記されている。
1 恐ろしいものの代表としての山の神。その神が山ばばであるということから。
2 多くの神は女性だから。また、山ばばの子育て伝説などで、山との関係が深かった。
3 女の取り乱した姿が山の神に似ている。
4 人の妻を指す敬称としてカミサマ(上様)と言う。これを「神様」としゃれ、これを「山の神」とした。
5 農村では山の神をまつるのは女性がつかさどっていた。
6 山の神は女神であり、山全体の主導権を握っていた。
7 醜女のイワナガ姫が姫の山の神の一員であったという「古事記」による。

              「定本柳田国男集」巻四 光書房

              堀田吉雄著「山の神信仰の研究」光書房
              日本山岳ルーツ大辞典  日本語大辞典

山の神という言葉
 「古事記」には山の神ということばが四回出ている。
 第一は、神々の生成のく だりに「次に山の神、名は大山津見の神を生みたまひ」とある。

 第二は倭建(やまとたける)
 命(のみこと)の西征を叙した最後に、「山の神河の神また宍戸の神をみな言向けし和してまい上りたまひき」とある。

 第三は「同じく倭建命の東征を叙したところに、かれここに御合したまひて、その御刀の草薙の剣を、その美夜受比売(みやずひめ)のもとに置きて、伊服岐の山の神を取りに幸でましき」とあるのである。

 第四は、神功皇后の条に、「今まことにその国を求と思ほさば、天つ神地(くに)つ神、また山の神海河の神たちまでに、ことごとに幣奉(ぬさたて)り、我が御魂を御船の上にませて、真木の灰を瓢(ひさご)に納(い)れ、また箸と葉盤(ひらで)とを多(さわ)に作りて、皆々大海に散らし浮 けて、度(わた)りますべし」たあるのがそれである。


 神は山だけでなく、峠にもあると考えられた。峠の神は、旅行者の安全を守る神とされたらしく、「万葉集」の、周防なる磐国山を越えむる日は手向(たむけ)よくせよ荒しその道(567)という歌は、旅の安全のために峠の神に手向をよくせよといったものと解されている。

    高瀬 重雄著「古代山岳信仰の史的考察」名著出版 1989年8月30日                       

                                
 



岩木山のお山参詣                  山と神表題へ戻る
 山という空間は、古来から日本人にとってある特権的な信仰の場であり、対象の場であったようにみえる。
 津軽に暮らす人々の信仰の中心は、岩木山である。岩木山信仰は岩木山の見えるところに限られている、という。津軽の人々ははるかな昔から、お岩木様を眺めつつ生き死にを重ねてきたのだ。この、標高1600メートルあまりの、女性的な美しい稜線をもつ山は、農耕や水にかかわる大地の象徴として、また祖霊のこもる山として、篤い信仰の対象となってきた。「おなご山だ」ともいわれ、森鴎外の「山椒大夫」で知られる安寿と厨子王伝説とかかわり深く、安寿を童女=女神として祀る山でもある。

 旧暦の8月1日、津軽の人々は精進潔斎して、岩木山山頂の奥宮に参拝する。このお山参詣は、五穀豊穣の祈願と、祖霊への感謝のための行事であるという。

    赤坂憲雄著   「山の精神史」  小学館  1991年10月20日

 

山岳信仰と山歩き                     山と神表題へ戻る   

 この国土に人の信仰に関わる山で、霊山といわれる山は奥羽から九州にわたって満遍なく点在し、その数は351座におよぶという。今後山岳宗教の研究が進めば、またあらたに霊山が発見され、その総数は増えていくものと思われる。

 山々の高さは富士山を筆頭に、300メートルそこそこの山も含まれており、信仰に関して山の高さは問題でないことが明らかである。

 この中で、生き生きとした信仰活動が現在も続いている山は、ほんの一握りで、大多数の山において、信仰は影が薄くなってしまった。しかしどの山も、長い歳月の間、さまざまな人達と関わりをもってきたのである。


 信仰の山の多さをとるだけでも、山の信仰が広汎なものであったことが分かるが、山を信仰した人達も多岐にわたる。

 直接山によって暮らした山の民、山の周辺の地元農漁民、講や教団に属した人達、あるいは聖(ひじり)、山伏、御師といった専門の宗教者など、その流れは次から次へと山の信仰を生み出し、山岳信仰時代は途方もなく長いものになった。

 山岳信仰は、入山のうえ直接に神々と交信するという実践面を伴っていた。ところが、入山には精進が不可欠で、また女性は入れさせないとする制限付きであったけれど、人はさかんに登拝を繰り返し、また山での修行に勤めた。


 しかし山での実践的行為のみが山岳信仰ではない。つまり、人々の日々の暮らし、一年一年の暮らし、人の一生が、山を信仰しなければならない事情を生じさせていた。

 また山の宗教者のうちには、山林修行を通じて自らの宗教的目的を達成する者もいたが、多くは世俗に交わり、山で獲得した超自然力を駆使して、呪術的な宗教活動をおこなった。

 このような人々の生きざまこそが山岳信仰にとって大事であり、人々の生きざまを規定する時代的背景も山岳信仰のあり方と深い関係にある。

 また、山岳信仰は多彩な文化を生み出していった。信仰を携えて民間を遊行した人達は、また文化の運搬者として重要なはたらきをした。山の文化は広く深く人々のなかに浸透し、日本文化の形成に大きな影響を与え続けた。

 以上のように、山岳信仰は山を頂点としつつも、裾が広くひとくちに山岳信仰といっても、これに一つの枠組みを設定することは不可能である。

                 吉村 迪(すすむ)「信仰の山」東京新聞出版局1995年4月8日

 私が、山を舞台とした山岳信仰に興味と関心をもったのは、これでよいという限度がなく、その理解が決して生易しいものではない、ということである。だからといって、山岳信仰は遠く離れたものではなく、身近に点在し、山を一歩一歩踏みしめながら、先人の霊を肌に感じるのである。

 先人の足取りを追い、山岳信仰を理解することは、山歩きを愛する人々が一度は試みなければならない、山への大事な礼儀かもしれない。

 「山岳信仰を知らずして、山に入る事なかれ。」私にはそのような叫び声が、山を歩く度に山の大地から聞こえるような気がする。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月28日 13時41分29秒 ) パスワード

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3 宗教とたたり


キリスト教はなぜ日本に根づかなかったのか 

・仏教・神道の習合と国民宗教化により、政治・社会システムの圧力に屈した。
・キリシタン弾圧。
・外国の侵略を懸念した排除政策。・・・などによる。


外来宗教が受容されるための三つの課題 

日本人による外来宗教の受容の仕方に独自の個性があった。この受容のパターンに順応した外来宗教は日本に定着することに成功し、それに順応し得なかった宗教はそのことに失敗したということになる。具体的にいえば、仏教はそのことに成功し、キリスト教はそれに失敗したということになる。

 そして日本人の外来宗教の受容という課題に関して、まず考えておかなければならない問題に三つある。すなわち、「山岳信仰」「他界観」、そして「遺骨信仰」がそれである。



1山岳信仰

 天孫のニニギノミコトは日向の高千穂の峯に降りたっている。つまり天は天上の神々が地上に降下する時の最初の上陸地点であったわけである。そしてもう一つ、「万葉集」の中で山部赤人の富士山をうたった歌で、彼は富士の山は高く貴く美しい、とうたっている。それに加えて富士の山は神のごとくふるまう、「神さびた山だ」といっている。ここでは「山」そのものが「神」であるという信仰が息づいている。これは要するに、古代世界において、「山岳」とは まずもって死者の昇る霊地であり、天上の神が天降る聖地であり、そして最後にそれ自体が「神体山」として崇拝の対象とされる異界であったということである。



2他界観

 仏教の日本受容ということを考える上で、これは最重要の課題となる。インドの仏教において、人間の死後の運命について深く考えたのはいうまでもなく、浄土教思想であった。そのインドでは人間が死後に再生すべき理想的国土として「浄土」が考え出されたのであるが、それは「西方十万億土」の彼方に存在すると考えられていた。しかしながら、この「浄土」観は日本に伝えられるや、たちまち変質を遂げることになる。

 何故なら日本においては、そのような抽象的な西方十万億土の彼方にある浄土観は受け入れられず、むしろ、より一層素朴で実在感のある山の中に浄土があるという「山中浄土」観にとって代わられたからである。そのような読み替えの背景に、先に述べた山岳信仰の伝統があったことはいうまでもない。死者霊の昇る霊山が、そのままインドの浄土教によって持ち込まれた浄土と観念され、同一視されるようになったのである。インドの仏教が日本の文化風土的条件によって軌道修正を受けた好例といってよいだろう。



3遺骨信仰

 縄文・弥生・古墳の各時代において、特定の遺骨を保存して祀っていたという痕跡を見いだすことはできない。その時代、遺骨信仰は見られなかったということである。奈良時代から平安初期にかけても、そのような徴候は発見されていない。そして人々の関心はもっぱら死後の霊魂の行方の方にあって、後に残された遺骸や遺骨に注意が向けられることは全くなかったのである。

 ところが、事態は十世紀から十一世紀の時期にかけて、一変する。なぜなら、この頃を画期として、まず天皇・貴族の遺骨を寺院に奉安して祀ることが始められ、やがてその遺骨の一部を高野山に納める習慣がまたたく間に一般に広がっていったからである。その背景に浄土教の普及が大きく作用していたことを上げなければならない。十世紀を機に、比叡山では源信や空也の活躍によって浄土信仰が朝野に広まった。


 高野山納骨の風は人々の心をとらえ、それがまたたくうちに地域を越え宗派の垣根を越えて広がっていった。そしてこの納骨習慣が近世にいたって、寺檀関係に組み入れられ寺への納骨という形をとって、寺と墓所の緊密なネットワークをつくりあげていった。


祖先崇拝の重要性を見誤ったキリスト教

 第3の問題は日本宗教の根幹を規定していると考えられる「祖先崇拝」に関わる問題である。外来宗教としての仏教は、この伝統的な祖先崇拝を受け入れることによって土着化に成功した。しかし、キリスト教は日本の信仰における祖先崇拝の重要性を見誤ったために、土着化に失敗した。

 今後キリスト教が日本の精髄ともいうべき祖先崇拝の問題に、根本的に取り組まない限り日本伝道は難しい。

 

たたりに見る日本人の霊魂信仰  


1神の神話的種類

(1) 隠れる神

 神話の舞台でさまざまな活動をし、さまざまな事業をした後、自然にこの舞台の前面から退いていく、そういう神の一群がいる。この神の一群は決して死ぬことがない、ただこの世からこの世の背後へと退いて隠れていくだけの神である。隠れる神はしたがって当然、いついかなる時でも再び表れてくる、そういう可能性を持った存在であ る。

 天つ神と称する神々はほとんどこの「隠れる神」である。


(2) 葬られる神

 この神々は一定の事業を終えて、寿命を終え、息を引き取って山稜に葬られる。死すべき運命を持った神々である。

 国つ系統のものが「葬られる神」といってよい。

 ところが、以上二種類の神々の、ちょうど中間的な段階を示す神々が、イザナギ・イザナミではないかと思われる。夫のイザナギノミコトは、隠れる神々である。だから死んで葬られた形跡が一つもない。天つ神であるその固有の性格を貫いて、この世から身を退いていく。


 それに対して、妻のイザナミノミコトの方は、これはカグツチノミコトという火の神を産んで、そのため陰部を焼かれて死んでいる。「日本書紀」では、この神は熊野の有馬村というところに葬られている。


2肉体性を持たない神

 日本の神々は肉体性を持たない、つまり個性を持たないということである。その性格はそもそも、日本の神々が目に見えない存在であるということと深い関係があると思われる。よく、記紀神話の神々を総称して八百万の神々という。八百万の神々の体系というのは、これは多神教の世界をあらわしている。そういう宗教的な常識がある。しかし、この宗教的な常識というのは、半分正しくて半分間違っているともいえる。なぜならば、多神教には、目に見える多神教と、目に見えない多神教の二種類があるというところが大切と思うからである。


3 記号化される神

 日本人は神々をよびならわす時に、もっとも単純な記号に置き換えてそうする。そういう習性が非常に強くみられる。

 たとえば、稲荷大明神の御本家は、京都の伏見稲荷だけど、あの伏見稲荷に祀られている主要な神々は、三柱ある。第一の神さんが例のウカノミタマノオオカミで稲の神。二番目がサダヒコノオオカミ、三番目がオオミヤノメノオオカミである。これらをいちいちフルネームで表現するケースは非常に少ない。


4 特定の場所に鎮座する神

 日本の神々を名づける場合に、特定の場所に結びつけて名づけるケースが、比較的由緒ある神、古い神々に多いという特徴がある。例えば、飛鳥に坐(いま)す神、・・・ここで坐るという字が用いられていることにご注意いただきたい。・・・というように、どこそこに坐すという言葉を使った神々が非常に多い。飛鳥に坐す神、出雲に坐す神、熊野に坐す神、山城国に坐す神・・・・だから例えば東京に坐す神というのも、これは原理的に可能である。昔の人々はそういう感覚で神を呼んでいたと思われる。


5 無限に分割可能な神

 日本の神には、いくらでも分割することが可能だという性格がある。あるいはそれは日本の神だけの問題ではないかも知れない。

 例えば、八幡神は宇佐の地から石清水、そして鶴ヶ岡へと分割され、細胞分裂するように勧請されていった。もちろん石清水に勧請される以前には奈良の東大寺に勧請され、そこにも八幡神がつくられているわけである。そういう本社宇佐の八幡、それから支店としての石清水や鶴ヶ岡、そこを今度は中心にして、同心円状に日本全国に勧請されていくわけである。分霊、分社が無限につくりだされていく。日本全国津々浦々どこにいても八幡社が鎮座していることになる。

 つまり、八幡神の生成発展をみている限り、どうも日本の神には細胞分裂していく傾向がある。


6 日本の神の畏怖(いふ)すべき性格

 日本の神は漂着性という性格を考えることができるのではないか、目にも止まらぬ速さでどこにでも漂着する神の性格のことである。この漂着性というのは、おそらく日本の神々のシャーマニスティックな性格と深い関わりがある。霊魂というのは、目にも止まらぬ速さでどこにでも飛んでいって漂着する、そういう性格を本来もっている。

 

 この六つの性格を統合するといったいどういう神の全体像が見えてくるか、というのが次の問題である。目に見えない、非常に身軽である、個性を持たない、肉体性を持たない、いつどこへでも特定の場所に飛んでいける漂着性。しかも無限に分裂してとどまるところを知らない。同時発生的に一つの神が別々の地域に、いつでも飛んでいって漂着する。これは考えれば考えるほど恐るべき性格ではないだろうか。こういう神の性格というのは、まことに畏怖すべき性格ではないかと思う。


 その結果として、「たたり」という現象が生じてくるのではないか。日本人における「たたり」信仰の問題であるが、これはお隣の韓国の怨霊信仰(おんりょうしんこう)とも関係があると思われる。しかしその場合、たたる霊、たたられる人について、違いがあるのではないか。これなども今後の検討課題である。


 日本的なたたりの感情・怨念というものは、一つの大きな勢力へと社会化されることがなかった。むしろ社会化することを回避するためにこそ、それぞれの時代の政治家たちは腐心し、そのためのさまざまな装置をつくりだしてきた。その代表的なものが神社であった。非業の死を遂げた英雄たちをみんなこの神社の奥殿に祀り上げてしまった。    

 

「夕焼小焼」と仏教  

 韓国の仏教学者「李箕永」先生が「自分は日本人がとてもうらやましい。なぜなら、日本人の心の中に仏教が深く、広く浸透しているからだ」「え?どうして」すると先生は、「あなたがたは『夕焼小焼』という童謡を歌うでしょう。あの中に仏教の根本的精神が全部歌い込まれていますよ。」

                           



夕 焼 小 焼 (1) (2)

夕焼小焼で日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないで皆帰えろ
烏と一緒にかえりましょう
小供が帰った後からは
円い大きなお月様
子鳥が夢を見る頃は
空にはきらきら金の星

中村 雨紅 作詞    大正12年作

草川  信 作曲



 平安時代以来、歌人、詩人、家たちの作品に「夕焼け」の光景がどれほどうたわれ、また描かれてきたのであろうか。あるときそれがおびただしい数にのぼることに気が付いた。日本の画家たちがいかに夕焼けの光景を好んで描いているかを、ヨーロッパのルネッサンス以降の画家たちと比較したことがある。問題にならないほど日本の方が多い。ではなぜ我々日本人はこんなに夕焼け空に感動するのか。それにこだわり続けてきたのか。それは夕焼けの彼方に浄土をイメージしてきたからではないか。李先生は夕焼けの彼方に浄土あり、ということは一言もおっしゃってないけれども、落日の光景と浄土信仰の関連がピンときた。


 二行目の「山のお寺の鐘が鳴る」は日本の仏教がやがて山の仏教として定着したことを象徴する一句だと解釈した。奈良時代の仏教は都市仏教、学問仏教だったが、比叡山に最澄が天台宗を開き、空海が高野山で真言宗を開いた平安時代以降、仏教の真の土着化が始まったのだと思う。お坊さんたちが山に入って修行をするようなり、そこから新しい日本の仏教が展開して現在に至っているが、その山の仏教が、朝晩山頂で鐘を鳴らしていた。その鐘の音がやがて『平家物語』の冒頭に出てくる「諸行無常」を響かせるようになったのである。山のお寺で鳴らされる鐘の音を聞きながら、庶民は毎日の生活を送っていたのである。


 三行目の「お手々つないで皆帰えろ」は、ストレートに読むと、お日さまが沈む頃になったら子供たちはお母さんやお父さんのいるお家に帰りなさい、ということなのだろう。しかし、ここはもう少し別にメッセージを読みとることができるのではないだろうか。「人間本来、帰るべきところに帰れ」というメッセージである。


 最後の「烏と一緒にかえりましょう」は、帰るべきところに帰るのは人間だけではない、カラスも、小動物も、小鳥たちも一緒だということである。これこそがまさに共生の思想というものではないだろうか。最近はどこでも「共生」「共生」という言葉を聞く。人間と自然との共生、人間と動物との共生、人間と地球との共生・・・・共生、共生で世が明け、世が暮れている。だけど、そういう思想をもっと簡略な言葉で表現したのが、この「夕焼小焼」ではないかと思う。

 李先生のこうした発想は、外部の人間だからこそわかるのかも知れない。

 

この世とあの世を結ぶ鐘の音

 鐘の音に興味を持って、さまざまな鐘を集めている方の講演の一部を紹介する。

 日本の鐘は主として日本の仏教が生み出したものであり、鳴らすと「あっちへいこう」つまり「あの世へいこう」というように鳴るという。英語でいえば「gone gone」と鳴る。これは、鐘の音のゴーンと、英語のgone と引っ掛けたものである。それに対してヨーロッパの鐘の音はキリスト教が生み出したもので、「こっちへ来い」つまい「カーン、カーン、カーム(come)」と鳴り、現世に歩み寄っていなさいというふうに聞こえるという話である。

 「gone」と「come」を引っ掛けたジョークといってしまえばそれまでだが、この鐘の音の東西比較はなかなか含蓄があると思う。


 鐘の音というのは、この世とあの世を結びつける音、あるいは地上の人間世界と宇宙世界との間をつなぐ音だと思う。そして、それは太鼓の音と異質のものである。太鼓の音は宇宙の背後まで突き抜けるような性質は持っていない。

 秩父では、12月3日に秩父の夜祭りという有名な祭りが行われる。秩父の夜祭りは大きな山車がたくさん出るが、その山車の下の方からものすごい太鼓の音がする。それが夜祭りの大きな魅力になっている。太鼓の音が闇の中で繰り広げられる祭り全体は、地の底から聞こえてくるリズムの祭りのように聞こえる。

          山折 哲雄著「宗教の力」 PHP新書 1999年3月8日

 

 

野田成亮の山岳行脚                  

 江戸時代の文化文政年間に書かれた旅日記、「日本九峰修業日記」というのが歴史の研究者に注目されているようである。

 この旅日記は多くの山名が記載されている。作者は野田泉光院成亮という九州日向国の山伏である。作者は旅日記を「修業日記」と題したように、修業、参詣の宗教的目的をもって回国した。登山もこの宗教的目的の下におこなわれた。この点野田成亮の登山は、私達の行うものとは性格が異なる。しかし、野田成亮は、回国修業の登山によって当時として一流の登山家になったと考えられている。


野田成亮の日本九峰とは

 @ 英彦山

 A 石鎚山

 B 箕面山

 C 金剛山

 D 大峯山

 E 熊野山

 F 富士山

 G 羽黒山

 H 湯殿山

だと泉光院はいう。

しかし、九峰修業の旅で、彼はもっと多くの山に登拝した。九峰以外の主な遍歴の山を列記する。

 九州・・阿蘇山 太郎岳(多良岳)黒髪山 求菩提山(くぼてやま) 

 山陰・・妙見山 大江山 三滝山(三岳山) 

 山陽・・後山 瑜伽(ゆか)山

 近畿・・比叡山 朝熊(あさま)山 愛宕山

 北陸・・白山 石動山 立山 

 東海・・光明山 秋葉山

 信越・・浅間山 米山   

 関東・・行道山 中ノ岳(妙義) 八溝山 加波・足尾山 筑波山 鹿野(かのう)山

 奥羽・・月山 鳥海山 金華山 水晶山



このサイト面白かったです。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月28日 13時46分41秒 ) パスワード

その他の山岳信仰雑学のコーナーも面白いですよ。



子供の時に近所の御夫婦が御嶽山を信仰してました。

浄土真宗しか知らなかったので異次元の世界の人に思えました。

今はテキトーな宗教観のワタクシよりは「信仰」に篤かったんだなと分かります。
日本人の宗教の基本だったんだなと思います。


この山岳信仰のサイトを読むまでそういうのが分からなかったです。
[53]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月28日 16時53分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 修験道を宗教としてまともに追及して行ったら、膨大なものになって焦点
がぼけてまとまらなくなってしまいました。

 それよりも、誰が修験者になったかのほうが歴史として意味があるのでは
ないかと視点を変えてみました。即ち敗者、権力者に立ち向かい敗れた者、
しいたげられた者、追われた者達は、身を隠すためには、山奥へ逃げ込まざ
るを得なかった。平地や海岸端では見つかってしまうし、逃げ切れない。山、
それも険しく奥深い山、動物、木の実、果物、山菜、渓流魚・・・うまくや
れば食料は確保できるであろう。

 日本の古代の歴史の中で、大量の敗者・逃亡者・避難民が出たのは、「出雲
の国譲り」(表面上は穏やかに装っているけれど、壮絶であった)、そして
「壬申の乱」・・・。敵につかまれば粛清される奴隷化されるということで、
山へ逃げ、山の民となる・・・。
 修験道は、そういう人たちの生きる支え・糧になって行ったのではなかろう
か・・・。高貴な出でありながら、地を這うようなしいたげられた身分とな
った人がたくさん生み出された。山間で心身ともに鍛え上げ、ネットワーク
化し、来るべき時に備えた・・・。
 権力側の人間に対し、反権力側の人間、つまりまつろわぬ人間も大量にい
たのではないか・・・。その辺の実態はまだはっきりとは見えていないが、
身分制度の中では、最下層以下の、いわゆる非人・・・。
 それらのパワーを結集できた者は、今度は勝者となることができた・・・。

 今はこんなところです。具体的な事例を今後収集して行きたいと思ってお
ります。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月29日 06時12分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 敗者=落人といってもいいかも知れません。そうすると、南朝方、平家
は我々の知り得るところの代表格かね知れません。一体、日本の歴史の中で、
落人狩りがどれほどあったのか・・・実態はわかりませんが、敵の芽を徹底的
につぶすのが権力者の常であります。もう一つのやり方は、懐柔させる、取り
込む、婚姻により血族化し、味方とするというやり方です。
 ま、いずれにしても権力闘争によって「鬼」を産み出したということになり
ます。

 徳川家康は、修験を利用したあげく、1613年に「修験道法度」を打ち出
します。これにより、修験者を聖護院と醍醐三宝院の管理下に置き、統制を
行ないました。前者を「本山派」、後者を「当山派」と呼びます。

 明治政府は1866年に、「神仏分離令」を出し、神道を重視し、仏教を
排斥したということですが、往古、蘇我氏が物部神道を排斥したという逆の
現象もありました。

 奈良時代の大仏建立あたりから、神道と仏教が混合して行ったようでありま
すので、神仏混合の時代は長く続いて来たわけであります。従って明治政府に
より神仏分離が行われ、また1872年に修験道禁止令を出されたということ
で、宗教・信仰形態が大きく変わってしまったということです。
 従って、現代の感覚で江戸時代以前の宗教・信仰形態を類推すると、ズレが
生ずるということになるかも知れません。
 神仏混合といえば、やはり「修験道」ですので、日本人の根本的信仰心は、
修験道にあると言ってもいいかも知れません。仏教はいわゆる葬式仏教になり
ました。禁止された修験道系から新興宗教が生れております。
 
 このように修験道は統制されたり、禁止されたりした訳でありますが、それ
は逆に言うと権力側からは恐れられてていたということで、権力闘争の逆転・
あるいは権力者への抵抗はこの修験道と結びついた勢力の協力・支持によって
もたらされたといっても過言ではないでしょう。
 天武天皇、後醍醐天皇、そしてどういう訳か源義経・・・。

 ここで一旦切ります―

[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月29日 14時05分06秒 ) パスワード

三つ柏さん


現在のシリア難民。
あの苦労。


でも日本人(だけでなく世界中で)も何度も何度も難民をやって現代があるのだなあ、と。
日本では落人とか逃散とか言いますが。



http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8475739.html

修験道の衰微の理由



質問者:moto_koukousei
質問日時:2014/02/15 08:52

.
Q
ichikawaseijiさんか、あるいはどなたかにお教えいただきたいのです。
天狗に関する回答の中で、「明治元年に明治政府が神仏分離令を出したときに、修験道は仏教でも神道でもないことから行き場を失って途絶えてしまいました。」との話が出ています。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8471633.html

これは有名な話で、私の住まいの付近でも江戸時代には大きな勢力を有していたところが、明治以降衰微し見る影もない状態になっています。

宗教や信仰でも権力との関係は重要で、盛衰は権力との関係でみる必要があると思ってはいるのですが、神仏分離令をトリガーにして廃仏毀釈がおき、多くの寺院は直接破壊盗難を受けたにもかかわらず、葬儀の従事者として存続し、何とか命脈を保ちました。

(1) 修験道に関して、廃仏毀釈のような暴力的行為が多く行われたのでしょうか。 そのような記録あるいは事実等を記した書籍、webサイトなどありましたら、お教えください。

(2) 修験道は、修験者の個人的利益追求で隆盛したのではなくて、一般民衆の要求にあった祈願祈禱(加持祈祷)をしたり、代替医療をしたりで、民衆の支持を得、経済的物的見返りも得られたので、大きな勢力に発展したと思っています。 多くの修験の寺は学僧や葬儀僧専従ではなくて、半分農業・半分修験僧のような生活という民衆密着、土着の色彩が強かったのではないかと思っています。 修験道は精神修養や解脱などではなくて、現実生活での功徳や験力獲得で勢力を伸ばしてきたのだと思います。その場合、神仏分離や明治政府の宗教政策で寺領を奪われたにしても、修験それ自体が衰微する、仏教寺院や密教系寺院よりも衰微するというのがわかりません。明治から学制で義務教育、文明開化、西洋科学が怒濤のように流れ込んだにしても、オカルト的験力を期待したい気持ちは強くあったと思います。 

何故、修験道は衰微したのでしょうか。




A




No.1

回答者:ichikawaseiji
回答日時:2014/02/15 13:55
.
>私の住まいの付近でも江戸時代には大きな勢力を有していたところが、明治以降衰微し見る影もない状態になっています。
失礼ですが、どちらにお住まいでしょうか?
現在、修験道は一時よりも復活してきているはずですが?

(1) 修験道に関して、廃仏毀釈のような暴力的行為が多く行われたのでしょうか。 そのような記録あるいは事実等を記した書籍、webサイトなどありましたら、お教えください。
下記サイトを御覧下さい

神仏分離・廃仏毀釈の歴史経過
www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm
出羽羽黒大権現
www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_hagurosan.htm

>修験者の個人的利益追求で隆盛したのではなくて・・・現実生活での功徳や験力獲得で勢力を伸ばしてきたのだと思います。
江戸時代の寺社とくに寺院の役割を御理解下さい。
寺院は、信仰の対象としての役割だけではなく行政機関として戸籍の管理を担っていました。
宗門人別改帳と呼ばれるもので、現在の戸籍原簿や租税台帳に相当するものです。
現在、銀行や役所などで自分を証明するものとして運転免許証や健康保健証、パスポートなどが使われますが、これに相当するものとして寺請証文が発行利用されていました。
この証文がなければ、住むことも働くこともできませんでした。
逆に言うと、住民である以上は必ず何処かのお寺の檀徒であったということです。
埋葬、法事などの際の費用は自動的に寺の収入となります。
現在のような葬儀社などというものは存在しません。
更に、規模の大きな寺院は、藩や幕府から認められた領地を所有していてそこから独自に収入を得ていました。
江戸時代の寺院というのは、行政機関であり尚且つ独自の収入源を所有する機関でもありました。
慶長18年(1613年)に幕府は修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにしました。
即ち、修験道といえども一般の仏教寺院と同じように幕府や藩の行政の中に組み込まれていました。
現在のような信者の祈祷料のみで維持運営されていた訳ではありません。

勘当というのは、親が子供をこの人別帳から削除することです。
勘当された子供は、自分を証明してくれる証文を入手できなくなりますので、住むことも働くことも出来なくなります。
この状態を無宿と言います。
時代小説などで無宿人が旅を続けながら博打で露命をつないでいるのはこの為です。
江戸時代は乞食、物貰いであっても制度として組織化されていて、組織外の人間はできませんでした。

>明治から学制で義務教育、文明開化、西洋科学が怒濤のように流れ込んだにしても、オカルト的験力を期待したい気持ちは強くあったと思います。
修験道はオカルトではありません。
オカルトと信仰。宗教とは厳密に区分してお考え願います。
江戸時代は、儒教と仏教、神道に基づいた思考風俗習慣が徹底していて、オカルト的な祈祷や呪いはまともには扱われませんでした。
江戸時代の庶民というのは無知蒙昧だった訳ではありません。
無暗に霊力や験力を信じていた訳ではありません。
明治時代であっても、家には仏壇と神棚が設置されていました。
国家神道がいくら頑張っても、仏教行事は大切にされていました。

>何故、修験道は衰微したのでしょうか
山岳信仰を土台としていますので、明治以降は、葬儀や法事による収入の確保が難しかったのではないのでしょうか。
宗教といえども、先立つものがなければ、何時如何なる時代でも存続が難しいのが娑婆世界です。
さらに、明治時代に一部が神道系へ変わってしまったのも影響しているでしょう。
都市や農漁村部などの平地では神社の形で存続しているところが多数あるのではないのでしょうか。
一方、山岳信仰主体で復活したところは観光に耐えるだけの史跡を保有している寺院です。
最近は都道府県や市町村も観光収入を目当てにバックアップしているようです。
寺院側も簡易修行体験コースなどというイベントを盛んにやっているようです。

[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月29日 14時09分01秒 ) パスワード

この回答へのお礼


回答をありがとうございました。
特に、2つのサイトの紹介をいただき、感謝します。
神仏分離・廃仏毀釈の歴史経過 www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm
出羽羽黒大権現 www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_hagurosan.htm
 
❶ 私の住まいの付近でも江戸時代には大きな勢力を有していたところが、明治以降衰微し見る影もない状態になっています。
これは、次のものです。
http://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/rekishi
熊野も出羽も白山も、修験道は明治に衰微します。上記の埼玉笹井のものは見る影もないです。 廃仏毀釈のような暴力的行為が行われたのは、比較的短期間でしかも、対象は権現とか聖護院などの施設と仏具のようです。天台とか真言とかに宗旨替えしたり、神社として鞍替えしたりして行きますが、修験はほとんど消えてしまいます。 修験が半農的修験者によって担われ、その修験者の験力に民衆が期待するところのものであるならば、政府や神祇官による寺的なものや寺領の取り上げ、僧籍や社人、神官への肩書き変更には大きな影響を受けないのではないかと思いまして、、、、 その辺りはいかがなのでしょうか。 修験そのもの、修験に期待する民衆がいなくなったのでしょうか。 それが明治の第一四半期で起きてしまうというのは、なんででしょうか。

❷ 江戸期において仏寺が行政機関化し、その仏寺と仏僧の経済負担が住民にとっても藩にとっても耐えがたい状態になっていて、明治の初期の動乱期に乗じて排斥、攻撃の対象になった事情はわかるのですが、修験まで攻撃や排斥の対象になるのがしっくりしません。おそらく寺請は真言や天台などになっていたのではないでしょうか。また修験では妻帯修験はもともとの形態で、堕落というようなものではなかったでしょう。むしろ清僧修験という仏寺のような形もとっているところで生活している僧侶?が問題で、明治にあっさり鞍替えしているようにも思います。

❸ >明治から学制で義務教育、文明開化、西洋科学が怒濤のように流れ込んだにしても、オカルト的験力を期待したい気持ちは強くあったと思います。 ⇒ 修験道はオカルトではありません。 オカルトと信仰。宗教とは厳密に区分してお考え願います。
私は信仰と宗教って何だろうとと思い悩んでいるような状態なので、ちょっと変なことを思っているのかもしれません。 「オカルト=秘学・神秘的なこと・超自然的なもの・呪術祈禱や個人の験力を期待するもの」というイメージで考えているので、修験はオカルトだと思っています。修験には基本的に教理体系がしっかりした経典も教説もないと思っています。修験者が修験で獲得した超自然の力を期待するものであって、権現の救いを信じるものではないと思っています。
「無暗に霊力や験力を信じていた訳ではありません」とのことですが、霊力や験力を期待したので真宗でも密教でもなくて修験道を支えたのだと思っています。単に、阿弥陀、大日、観音、権現、妙見と選んだだけではないと思います。 修験の本山派、当山派などは幕府の影響もあるでしょうが、教理体系がないことをカバーするための化粧のような面が大きいと思っています。
「国家神道がいくら頑張っても、仏教行事は大切にされていました」 この仏教行事の主要なものは葬送と法事でしょう。 そうであるならば、修験に関しても、国家神道がいくら頑張っても広く継続して不思議がないように思うのです。 仏寺は大量に閉鎖され、残ったものも規模が縮小したようですが、とにかく偉容を後世に伝えるだけの存続がありました。ところが修験は仏寺か神社に鞍替えしてしまうようです。

❹ >何故、修験道は衰微したのでしょうか
山岳信仰を土台としていますので、明治以降は、葬儀や法事による収入の確保が難しかったのではないのでしょうか。 宗教といえども、先立つものがなければ、何時如何なる時代でも存続が難しいのが娑婆世界です。 さらに、明治時代に一部が神道系へ変わってしまったのも影響しているでしょう。 都市や農漁村部などの平地では神社の形で存続しているところが多数あるのではないのでしょうか。 一方、山岳信仰主体で復活したところは観光に耐えるだけの史跡を保有している寺院です。 最近は都道府県や市町村も観光収入を目当てにバックアップしているようです。 寺院側も簡易修行体験コースなどというイベントを盛んにやっているようです。
⇒ 日本の宗教や信仰って、葬儀や法事による収入で維持するものでしかないのでしょうか。 年忌法要、葬送儀礼、祖霊追善のようなことで収入を得るのが重要なのはわかるのですが、それが日本の宗教や信仰だとすると、そうではない宗教がメジャーにならないのは何故でしょう。 現実の生活を律する、道徳の戒め、迷妄や不安からの脱却、生きていく信条の獲得は、日本の宗教や信仰では重視されないのは何故でしょう。 上部座仏教、オカルティックな宗教、一神教的宗教にも転進できないで、観光やパワースポット、ヨガ的/オカルト体験での山岳修行という形にしかいけないようだから、明治にあっさり神社や仏寺に転進し修験としては衰微してしまったのでしょうか





回答者:ichikawaseiji
回答日時:2014/02/17 12:43
.

わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます
お礼の中に追加のご質問がありましたので、説明させて頂きます。

各項目毎にお話しする前に、現在残っているお寺さんは下記の三点の何れかを満足したものだけだというのが現実です。
イ)観光寺院
ロ)墓地をを事業として運営している。
ハ)檀家を400軒以上所有している。
つまり、安定した収入源を持っているお寺さんということです。
この収入の補助として、保育園の経営や駐車場の経営などを行っています。
仏教であれ修験道であれ当事者は霞を喰って生きている訳ではありません。

(1)笹井観音堂につきましては、詳細は寡聞にして知りませんが、狭山市にあるという歴史地理的な影響が大きいのではないのかと推定しています。
関東地方というのは、他の地域とは異なり、城下町を中心とした藩領というものが明確ではありませんでした。
幕府の直轄地、旗本領、大名領、寺社領の四つがモザイクのように入り乱れていました。
いずれの支配者も常駐していませんでした。
代官という、下級役人が江戸から派遣されてきていました。
地域の統治は、名主(庄屋)を頂点とする村役人が中心たなった農民の村落単位の自治組織が行っていました。
旗本の場合には一人の旗本が複数の村から年貢を受け取ったり、一つの村が複数の旗本に年貢を送ったりしていました。
これらの管理は旗本ではなく、各自治組織が行っていました。
村によっては、旗本以外にも送ることがありました。
年貢というのは村単位の総額で決められていました。

笹井観音堂を支えていたのは、この自治組織だったのではないのかと推定されます。

明治になって地租改正ということが行われ、村単位の納税が個人単位でしかも現金納入に変えられました。
同時に村の自治組織も解体させられました。
笹井観音堂の場合は、神仏分離令の影響だけではなく、地租改正の影響ももろに受けてしまったのではないのでしょうか。
支えていた基盤というか、スポンサーが消滅してしまったのではないのかということです。

県或は市立の図書館に詳しい郷土史があるかと思いますので一度目を通されることをお薦めします。


(2)修験まで攻撃や排斥の対象になるのがしっくりしません

ご紹介したサイトにも記載されておりますように、廃仏毀釈運動を実際に行ったのは官権ではなく、狂信的な国学や神学者の集団です。
彼等にとっては、神道以外の組織、建造物は全て破壊の対象でした。
あまりの粗暴さに、政府も慌てて明治5年に神祇官制度を廃止し、廃仏毀釈運動は消滅しました。
ということで、教義の内容とは無関係です。


(3)

>修験には基本的に教理体系がしっかりした経典も教説もないと思っています。
経典、教説というものの存在に拘るのは、聖書に基盤をおいたキリスト教の思想です。
「宗教」という言葉は、明治になってキリスト教圏の文献を翻訳する再に作られた言葉です。
従って、言葉の定義としては、キリスト教思想に基づいた定義が適用されています。
学術上の定義では、経典、教説の有無などは問題とされません。
日本の神道にも、経典や教説は存在しません。
経典、教説の有無のみをもって修験道を評価できません。
学術上にも国際的にも、神道、修験道のいずれもも立派に宗教です。

>修験者が修験で獲得した超自然の力を期待するものであって、権現の救いを信じるものではないと思っています。
この考え方は自力本願、他力本願とよばれる仏教思想の自力本願に属するもので禅宗や密教と一緒です。
密教には即身成仏という考え方があります。
禅宗では一切衆生悉有仏性といって、仏典に書かれた仏だけを特別視しません。
日本の仏教では山川草木悉皆成仏と称して、身の回りにあるものは全て仏の姿とする考えがあります。
修験道固有のものではありません。
確かに浄土真宗の他力本願とは異なりますが、あくまでも仏教思想の範疇です。

>現実の生活を律する、道徳の戒め、迷妄や不安からの脱却、生きていく信条の獲得は、日本の宗教や信仰では重視されないのは何故でしょう。
現実の生活を律する、道徳の戒め=仏教は厳しい戒律を設けています。
迷妄や不安からの脱却=仏教の究極の目的がこのことです。
生きていく信条の獲得は=江戸時代の人々は仏教に求めました。

山岳信仰というのはオカルトではありません。
日本の神道では、山や島に神格があるとしています。
大和三山、戸隠山、厳島など数え上げたら切がありません。

下記書籍を是非参考にして下さい
お坊さんが困る仏教の話 村井幸三 新潮新書                こんな本が出てるんですねえ。

第五章 葬式仏教に徹すべし という章があります。

日本の仏様がわかる本 松濤弘道 日本文芸社
修験道で尊崇される仏についての記載があります

死生観を問い直す 広井良典 ちくま新書
最近の終末医療に関わる問題から解き起こされています。
宗教と死生観 という章があります

日本人の死生観を読む 島薗進 朝日選書
明治以降の作品を通じて日本人の死生観を概観しています。

老荘と仏教 森三樹三郎 講談社学術文庫
修験道でも取り入れられている道教にかんする記述もあります。

修験道・実践宗教の世界 久保田展弘 新潮選書
修験道の来歴や存続理由を述べるとともに、修行の実態が書かれています。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月29日 14時11分48秒 ) パスワード

A  2人目


回答者:DieMeute
回答日時:2014/02/15 18:25
.
まずは下に貼ったウィキぺディアの「修験道」をご覧下さい。
「修験道」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E9%A8%93%

このウィキぺディアに書かれていますが、明治政府は「修験宗廃止令」を出しています。
これが修験道にとり大きなダメージとなりました。


改めて、ウィキペディアに書かれている事、書かれていない事を書きますが・・・

まず、江戸幕府は修験法度を制定し、修験行者は真言宗の当山派か、天台宗の本山派に所属するよう決められます。
つまり修験行者は法的には仏教の僧侶の身分となりました。
ただし、真言、天台に所属しているとは言っても、修験行者の活動としての独立性は維持されます。
なお、修験行者は法度により諸国を遊行するような事は禁止されています。
その結果、町や村に定住する修験行者、里修験が増加します。
彼らの活動については、質問者さんの仰るような、
>半分農業・半分修験僧のような生活
の度合いが強かったようです。


そして明治時代になりますが、明治政府においても修験行者は、江戸幕府と同様に仏教と認識されました。
明治政府では仏教界を再編し管理しようという構想が出ます。
これは簡単に言えば小さな宗派を大きな宗派に統合、その傘下に置いたり廃止してしまおうという構想です。
一例をあげると、律宗は元は真言宗の流れを汲むという事で、真言宗の所轄にされました。他の宗派でも苦難に晒されたりしています。


修験道もその対象となり、明治五年に「修験宗廃止令」が出されます。
これにより「修験宗」は廃止され、修験行者は天台宗の本山派か、真言宗の当山派に帰入する事が求められました。
この「帰入」というのが、修験業者にはダメージでした。

元々、江戸幕府時代より天台宗の本山派か、真言宗の当山派に所属するよう定められていた修験行者ですが、前述したように修験行者の独自性は維持されていました。
しかし、ここでの「帰入」というのは、修験行者は天台宗、真言宗の僧の下におかれ、天台、真言の宗風に従うよう定められたのです。
修験行者は天台、真言の僧より下という事にされ、修験行者としての活動、独自性が大幅に損なわれてしまいました。
しかも、さらにダメージだったのは、医療行為としての加持祈祷が明治政府により禁止された事です。
明治政府は日本を近代国家とするために迷信の類を排除する方向で動きますが、加持祈祷もそれに含まれてしまいます。

こうして修験行者は天台、真言の風下に立たされ、独自性を失い、その活動の根幹に関わる加持祈祷を禁止され、衰退を余儀なくされました。

ただし、後には日本でも宗教の自由が法によって定められたので、律宗が真言宗から再び独立したり、修験道にしても新たな宗派が起こるなどしています。



この回答への補足

補足記入が遅くなり、申し訳ありません。
ご回答ありがとうございました。
いわゆる「修験宗廃止令(太政官布告)」は宗派団体としての修験宗が整理され僧としては天台宗、真言宗に帰入させられることになったと点で、宗派活動が打撃を受けたのはわかります。
しかし、修験がもともと教説教理もない個人的な験力を基本とするものを民衆が受け入れ、祈願、疫病治療などの効果を期待されて繁栄していたのであれば、政府の施策で宗派編成が変わったところでベースが変わるとは思いにくいです。
ちょっと考えてみたのですが、明治維新、御一新、四民平等、士分や僧身分の特権的身分制度の否認、文明開化、学校教育制度の実施、廃藩置県、徴兵制実施などがあったのですよね。 民衆が、修験を卑俗で賤しいものと考えるようになり、修験や山伏を見捨てたのではないでしょうか。

http://www.chisan.or.jp/denbouin/book/gendaimikk

「今日まで妄りに山伏と唱へ修験と指して一種侮蔑の意味に」と修験の側の人物が憤慨していますが、宗派組織の問題、一部の人物の行状問題ではなくて、既に時代が変わり、民衆の大半が修験を聖とも思わず、「従来の修験者を見るに、無智にして教義の意得なき者十に七八を占め、其の品性陋劣にして無信狡猾なる昔は火渡り湯探りの業を作し効験を駄りて愚民を誑惑し、甚しきは法に托して財を貪り」とあたかも香具師の類だとみなす人が増えて来てしまったので、世の趨勢として、修験ではもはや強く信者をつなぎ止めることができなくなったのではないでしょうか。

学校教育、軍隊、鉄道、輸出産業、西洋文明が日本社会を変えていった中では、修験道は衰微するしかなかったってことでしょうか。
明治の宗教政策の影響は、修験道衰微にとってさしたることではなかったのかもしれないと思い始めました。

http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f43-5.pdf
http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/research/30/10.

宗教・信教・信仰は基本的に個人の勝手、団体結社の自由があっても、オカルト的なもの、アミニズム、呪術、祈禱では、21世紀に大きくなれないのと基本的に同じことが、開国と西洋文明の積極的取り入れで、19世紀の日本にも起きたのでしょうか。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月29日 14時13分50秒 ) パスワード

回答者:DieMeute
回答日時:2014/02/17 03:13
.
2人目の回答者です。補足があったようなので、それに対して少し…


>政府の施策で宗派編成が変わったところでベースが変わるとは思いにくいです。

宗派編成よりも、その活動内容が問題です。
最初の回答でも書きましたが、江戸時代にも修験行者は真言と天台に属するようにされています。

しかし、その時は修験行者の独自性とその活動は保たれました。

明治の場合は、活動が保てませんでした。そこが問題だったのです。
だから最初の回答のまとめとして、
「こうして修験行者は天台、真言の風下に立たされ、独自性を失い、その活動の根幹に関わる加持祈祷を禁止され、衰退を余儀なくされました。」
と記述しました。



>明治の宗教政策の影響は、修験道衰微にとってさしたることではなかったのかもしれないと思い始めました。

質問者様が補足に貼って下さった一番最初のURLの「修験道の近代化の問題」の90ページと91ページには、

「神仏分離令は、修験末寺、里修験をその存在自体が消滅せざるを得ない状況まで追い込んでいった。
…中略…
分離令による還俗命令によって、多くの修験者たちは、還俗して神官になるか、あるいは一般人として農業等に従事せざるを得ない状況であった。
さらに両本山である聖護院、三宝院においても、皇族の後ろ盾を失い、朱印地も上地され、また配下の修験者たちの激減による上納金も得られず、権威的な力も、財政的な力も失い、中央機構としての統率力もとどこおりがちになっていた。

以上のごとく修験宗は勢力的に減少の一途をたどっていった。
さらに追い討ちをかけるように、政府は明治五年、修験宗を廃止し、天台、真言に帰入するよう太政官布告が発せられ、
さらにその後、修験者の宗教活動を抑制するような次のような発令も出されていった。

明治5年6月28日…自葬を禁じ葬儀は神官僧侶に依頼せしむ
明治5年11月8日…無檀無住の寺院を廃す
明治6年1月15日…梓巫、市子、憑祈祷、狐さげ、玉占、口寄などを禁ず
明治7年6月7日…禁厭、祈祷をもって医薬を用うる妨げとなすことを禁ず
ここで掲げた禁止条項は、殆ど修験の生活に関わるものであり、前章で述べたように、修験者の寺は殆ど檀家が無く、
また祈祷を中心として生計を立てていたことから、これらの発令は一般修験者の宗教活動を実質上禁止するものであった」

とあります。


これらの文章を読むと、神仏分離令と還俗命令、そして修験宗廃止令と、その後に出された発令により、修験宗はダメージを受け衰退していったと受け取れます。

特に、
『これらの発令は一般修験者の宗教活動を実質上禁止するものであった』とあるように、政府の命令により宗教活動を禁止されれば、衰退するのも当然かと思います。


>民衆が、修験を卑俗で賤しいものと考えるようになり、修験や山伏を見捨てたのではないでしょうか。

との質問者様の考えも要因にはあると思いますが、私としては、質問者様と同じURLを読んでも、私の回答は最初の回答通りであり、明治政府による宗教政策が修験道衰退の大きな要因だと思います。
だからこそ、後に宗教の自由が許されると修験道にも新たな風が吹いて新しい宗派ができ、信者を増やしたのだと思います。

同じ文章を読んでも質問者様とは違った結論になるようですが、
イギリスの詩人ブレークが
「二人は昼も夜も聖書を読んだ。だが私が白と読んだところをあなたは黒と読んだ」
と言うように、何事も解釈は人それぞれだと思いますので、
修験道衰退の理由も、どう解釈するかは、当たり前の事ですが、質問者様の自由です。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月30日 03時41分08秒 ) パスワード

三つ柏さん

高遠の紅葉は美しい盛りでしょうね。

目的がお遊びでも案外良い情報をゲットすることがあるかも。
良い情報が手に入ると良いですね。


アタマを切り替えるのに遊びは最適です。
面白いお話を期待しています。
[60]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月30日 11時43分48秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨晩は久しぶりに飲み過ぎてしまいました。でも、焼酎だったので余り二
日酔いは残っておりません。

 昨日、ある本を調べていたところ、「絵馬」について書かれている頁があ
りまして、意外なことがわかりました。
 即ち、「絵馬」とは現代では馬の絵でなくても絵馬と言っておりますが、
本来は馬の絵であったということです。これまでに見つかった最古の絵馬は
浜松市伊場遺跡出土のもので、八世紀の終りから九世紀の初めの頃のもので
あるということです。それには馬の絵が描かれております。
 さらに、奈良市の平城宮東院南方遺跡から、天平時代(八世紀初め)の絵馬
が見つかったということであります。それにも馬が描かれております。
 これは、それ以前には馬や牛を「生贄」としてしていたが、殺生を嫌う
仏教の影響もあり、動物の代用品として「絵に描いた馬」が用いられ出した
ということであります。

 物部古神道では生贄を捧げたようです。諏訪の鹿の生贄も物部古神道によ
るものだったのでしょうか。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月30日 14時24分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


>物部古神道では生贄を捧げたようです
>諏訪の鹿の生贄も物部古神道によるものだったのでしょうか。


山の中には鹿はたくさんいますから
それに鹿って人間の生活を脅かします

ロスの我が家の裏庭(山)には鹿が2002年当時最大17頭住んでいました。
植物を毎年すべて食べつくしていました

   バラやオレンジやレモンやその他の木も。


ま、現代人にとって「鹿」はかわいいとか愛すべきの動物でしょうけど
やられる方にとっては古今東西害獣かも、です。


諏訪の鹿の生贄は、どういう意味だったのかな?と思います。



[62]丸三柏服部さんからのコメント(2015年10月31日 06時19分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日は、とりとめもなく情報を収集しておりました。それらの中から一筋
の情報を紡ぎ出したいと思っています。芭蕉と千利休はどうつながっている
のか・・・血縁ということではなく、「わび」「さび」の代表者としてであ
ります。
 
 本日はこれから行ってまいりますが、はたしてどんなお土産話を手に入れ
ることができますか・・・。蓮花寺には寄りたいと思っています。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月31日 08時50分42秒 ) パスワード

三つ柏さん

わたくしは昨日は日本の宗教と一神教の宗教について考えていました。


日本の場合は「生活に密着していた大自然からの発生」、かな?
一神教の場合は「敵の中に住む環境の中でどう自分を律するか」、かな?



こんなことを考えていました。



蓮華寺。

このお寺さんは参拝客集めということではラッキーですね。
300年前とはいえ江戸時代の大スキャンダル事件の1つの中心人物のお墓があるのですから。

参拝客がたくさん来てくれればお墓も整備されるでしょうし。

でも般若心経を詠んでくれる観光客は珍しいですから
江島さまは嬉しいでしょうね。


何かお礼に良い情報をくださると良いですね。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年10月31日 16時27分10秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101496.html

長上郡の服部氏族LW(M氏家譜18+芭蕉・出雲・伊勢あたり)スレッド54をご用意致しました。

キリの良いところでどうぞ。
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