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 投稿番号:101474 投稿日:2015年07月19日 14時45分55秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について27

コメントの種類 :その他  パスワード

平川家についてもついに27となりました。

日本の苗字七千傑様、白石様、沢山の御教示本当にありがとうございます。

地元「球磨」に戻り、各市町村史や関連書籍を読む事が可能な環境になった事も、今後の調査の進展に繋がっていければと思います。

書籍に書かれていた事などを含めコメントさせて頂く予定ですが、何分にも歴史の理解度が低い私ですので、意味が解らない部分も多数あります(..)
どうか、今後とも御教示の程よろしくお願い致します。

平川家について26 コメント73より続きます。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101466_72.html

[1]子孫よりさんからのコメント(2015年07月19日 14時58分46秒 ) パスワード

白石様
平川家について26 コメント72で私が調べた
明治十三年九月、熊本から移転の善正寺について。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101466_72.html

細川藩士であった「高岡氏」と「佐田氏」。熊本の善正寺と何らかの繋がりがあったという事はないのでしょうか・・??

この部分が気になります。

私は、書籍の内容をコメント出来るようにデータ化をがんばります(^・^)
では(^・^)
[2]白石さんからのコメント(2015年07月19日 21時23分35秒 ) パスワード

こんばんわ
毛利 大友 黒田 細川と次々と仕え 戦国時代をのりきったという佐田文書をお持ちの うちと同じ紋の豊前宇都宮流佐田氏。

こちらにもしかしててがかりがないか?お聞きしたことがあります。しかしうちの資料が乏しすぎて思い直してそのままになっておりました。
そちらは その時点では広島に住所がありました。

熊本が本貫だと思って東光寺にお願いした。ときいております。

この東光寺がどこにあるのか?宗派はなにか?きいておりません。
 田中左平衛というひとについてのブログで この人は「佐久間氏」で
毛利氏の菩提寺「東光寺」に入っている と いう情報を得ました。

田中 
曽我氏 曽我倉山田石川麻呂にかんよする 。 蘇我氏(林)と何らかの形で姻戚関係があり そが氏は南家武智麻呂の母。

林は相良氏のおじ。
林正盛が狐の教えで球磨川の大石を取り除き八代への水運を開いた。

人吉に田中香華堂があります。

これらの田中が うちの萩の田中と関係があるかどうかわかりませんが
萩の田中は萩の高岡と姻戚関係があり つまりは 田山と 関与してきます。 

 

[3]白石さんからのコメント(2015年07月19日 21時30分29秒 ) パスワード

四浦深水
上流の深水集落と思います。近くに野原がありそこに薬師堂があった。

川下の深水は もとは 川村のはずです。

そのあたりから
善正寺まで通ったか?
行ったろうと思います。
父は 山道を岡原まで徒歩で 朝出かけ 夜帰ってきていました。

うちと深水は子供の足で一時間以内位です。

親鸞聖人は 北家真夏の子孫ですね。
[4]子孫よりさんからのコメント(2015年07月20日 12時11分12秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、コメントありがとうございます。

私が先日お寺に伺った理由は「植付け法要・お盆法要」のお参りの為です。
球磨に戻ってすぐも、春の彼岸法要に伺いました。
家のお寺様は浄土真宗本願寺派です。
今年は家がお寺様の係りをさせて頂いている御縁もあり、ぜひ、伺ってみたいと思い父と一緒にお参りさせて頂きました。

今まで何十年も都会で好き勝手に生きてきて、祖母や父にも何も孝行出来ていなかった私です。
先祖供養の意味も適当に考えていたのが事実だと思います。

御彼岸の法要に伺った際は、郡内から沢山の方々が集まってこられて、住職様のお話や他郡からお見えになられた別のお寺様の住職様のありがたい御説法を聞かせて頂きました。
先日の「植付け法要・お盆法要」でも、別のお寺様からこられた方の御説法をお聞きする事が出来ました。

私なりの理解ですが・・(理解度はまだまだ足りていませんが(..))聞いて下さい。
お寺様から頂いたカレンダー(6月)に書かれている言葉
「いのちの差別をしない 仏の願い」
この言葉が浄土真宗の「全て」を表しているのだと思うのです・・
先日の法要でのお話で「南無阿弥陀仏」という御念仏の本来の意味を初めてしりました。

浄土真宗本願寺派 本願寺 公式ページ
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/
教え
『教義』 阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願力(ほんがんりき) によって信心(しんじん)をめぐまれ、念仏(ねんぶつ)を申(もう)す人生(じんせい)を歩(あゆ)み、この世(よ)の縁(えん)が尽(つ)きるとき浄土(じょうど)に生(う)まれて仏(ぶつ)となり、迷(まよ)いの世(よ)に還(かえ)って人々(ひとびと)を教化(きょうけ)する。

『生活』 親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教(おし)えにみちびかれて、阿弥陀如来(あみだにょらい)のみ心(こころ)を聞(き)き、念仏(ねんぶつ)を称(とな)えつつ、つねにわが身(み)をふりかえり、慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)のうちに、現世祈祷(げんぜきとう)などにたよることなく、御恩報謝(ごおんほうしゃ)の生活(せいかつ)を送(おく)る。

===============================================
先日、お寺にお伺いして聞かせて頂いた御説法からも理解出来たのですが、
阿弥陀如来様は「南無阿弥陀仏」という御念仏を唱える事によって万民を御救いなさって下さる。地位や職業うんぬんは全く関係なく全て「平等」である・・という考えだと・・私なりに解釈させて頂きました・・(..)

だから・・
※明治十一年に球磨の十ヶ村におよぶ十七日講の中央に位置する深田村にも、熊本の善正寺を誘致しようという気運が盛り上がり、明治十三年九月、熊本から移転の善正寺本堂が深田村に竣工した。

この事と親鸞聖人様の系とは全く関係ないと私は考えるのですが・・
親鸞聖人様がどのような系でおありになっても、四浦や深田の方々そして私の高祖父も含めては「系とは関係なく」あくまでも御教義に賛同された、強い宗教心からのお寺の建立または移転だったのだと思います。
(偉そうに言って大変申し訳ありません(..))

私の家「宮原家」には、皆様御存じの通り、日蓮宗のお寺様との繋がりもあります。先祖が大事にお守りしてきた観音様も、家をお守り下さっていらっしゃいます。本当にありがたい事だと思います。先祖にも感謝しています。
だから、私は何も解らない若輩者ですが、わからないけれども私なりに、先祖供養をさせて頂こうと思っているのです・・

今まで書いた事が無かったのですが・・
父が祖父・祖母や平川の曾祖父・曾祖母から伝え聞いて教わった事を私も父から聞いてきました。

父は私にいつもこう言います。
「先祖様がどのような立場や系であったとしても、それは、お前が偉いという事ではない!お前は偉くもなんにも無い。人は皆平等なんだ!。先祖様には、自分が生まれてこれた事をいつも感謝しなさい。」
「ただし、”血の誇りだけは忘れるな”。」
「”血の誇りを忘れるな”とは決してプライドを持てという意味では無いよ。御先祖様に恥ずかしいと思うような生き方をしてはいけない。お金が無くても、どうような仕事をしていても関係無い、ただ”まっすぐに正直に生きなさい”という意味だからね」と・・

でも・・
私は「御先祖様に恥ずかしい」という事ばかりを今まで何度もしてきました・・
日々、仏壇にお参りする時にはいつも
「御先祖様、心配ばかりおかけしてすみません」と反省しています(..)

球磨に戻って来れて本当に良かったと思います。
人として、一番大事な事をこの年でやっと気付いた・・いえ(ー_ー)!!少しずつですが、勉強する事が出来ています。 感謝です(^・^)

では(^・^)
[5]白石さんからのコメント(2015年07月20日 15時21分49秒 ) パスワード

こんにちわ
梅雨がはれたのですね。これからあついあつい毎日・・・セミの声もここぞとばかりにふりそそいで 家のドアを開けると熱気とセミの声におしもどされそうです。

>上人の血系は関係ない
そうですね。ただ 昔は 血縁血縁で動いていることも
あったとは思います。

それと東光寺 善正寺について あれっと思う情報があったのです。

お寺の名称は余りつながりはないのかもしれませんが・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
善正寺(ぜんしょうじ)は、
大阪府富田林市に所在する日蓮正宗の寺院。山号は心蓮山(しんれんさん)。
•1982年(昭和57年)12月23日 - 建立される。
開基は日蓮正宗★大石寺第67世法主日顕上人。

•大阪府★富田林市★錦織東2丁目7-1

大石寺は江戸城では独礼席を許され、また大石寺第25世日宥★は後水尾天皇の皇孫であり第6代将軍★徳川家宣正室の天英院の猶子(養子)に迎えられている他、将軍家や大名家、江戸時代著しく力の衰えていた皇室・公家などの崇敬を得たが、他の宗派と同様に布教活動は江戸幕府の厳しい統制を受け続けた

※比較的新しいお寺だけど日蓮は鎌倉時代。
※関連する創価学会の話は私も若いころ見たり聞いたりしているけど 位牌を焼いたりお墓をこわしたり していた。
[6]白石さんからのコメント(2015年07月20日 17時47分30秒 ) パスワード

またパソコンの調子がおかしくなりかけたのでいったんアップしました

ちょうど その頃だったと思います。徹夜で父に改宗を迫った人が来た後
「なんね」と 私が尋ねると
「位牌ば焼いて 墓ばこわさんばならんとたいな」と父が答え

その後 来阪して しばらくして
寮生活をしていたら
朝4時頃 大きな声で 同室の人が お題目をとなえているのです。

元気はつらつの人でしたが 皆 驚いて飛び起きていました。
法華教については
どこかの藩で藩主が信仰するようになり 民も強制的に入らされ
「いやいや法華ですわ」といいながら 信仰していたところもあるそうです。
天草のあたりでは 山口村だったか 強制的に小西行長にキリスト教にはいらされたそうで
信仰心とは別のケースもあったようです。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
維新がなって 徳川家は新政府のめんばーになれず 先ほど書いた尾張徳川も小御所会議のメンバーにはいっていたのに 結局北海道へ。
この高須からきている徳川の系に 高岡藩井上系図というのがあり 井上先生がちいきにいたけど 岡山倉敷井上町に坂上一族がいた と して
いる。

相良氏は 
幕府方についたけど 許され おかげで 私たちは ちりぢりにならずすんだ。
ーーーーーーーーーーーーーーー
大石寺(たいせきじ)は、静岡県富士宮市にある日蓮正宗の総本山。

日興の法脈を継承し
日興(にっこう、寛元4年3月8日(1246年3月26日) - 元弘3年/正慶2年2月7日(1333年2月21日))は、日蓮の弟子で、日蓮六老僧の一人。日蓮正宗など富士門流では、日蓮の唯一の正統な後継者と見なされている。白蓮阿闍梨と称される。

※日蓮は河野氏。
ーーーーーーーーーーーーーー
一方
東光寺
・東光寺, 日蓮宗, 熊本市東子飼町5−20

・京都東山臨済宗東福寺塔頭東光寺|公式ホームページ|トップページ

・東光寺 (萩市) - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/東光寺_(萩市) - キャッシュ

歴史[編集]. 吉田松陰誕生地近くの★萩市大字椿東字椎原にあり、元禄4年(1691年)萩 藩3代藩主毛利吉就が建立した。吉就は若くして黄檗宗に帰依して、本山★黄檗万福寺に 範を求めて広壮な堂を建立。萩出身の高僧・慧極道明禅師を開山に迎えた。
※こちら高槻の近くの萬福寺に後水之尾天皇がよく遊びに来ておられた。
※田代あたりに萬福寺(廃寺)があった。
 
※萩 椎原   四浦萩の山の向こうはどこになるのか高岡のおじにたずねたことがあったけど「椎葉」たいな と  いう 返事でした。
※尾方のおじさんが生きていた頃 「山のあっちで江戸時代に古文書がはっけんさされたと」と教えてくれ 多分それは 大友文書といわれる 上記のことと思われる。高岡のおじさんは 萩からは市房のみゆっと とおしえてくれました。

[7]子孫よりさんからのコメント(2015年07月20日 17時48分36秒 ) パスワード

白石様、御教示ありがとうございます(^・^)

〉ただ 昔は 血縁血縁で動いていることもあったとは思います。
確かに、「昔」は血縁関係が係わっている事は、私にも理解出来ています。(^・^)
(この事で先祖も、宗派が色々変わっているようです・・)
私の地元「宮麓」に昔は曹洞宗の寺院「庭柏寺」がありました。
※人吉城第十七代相良晴広の次男徳千代(後の頼貞)は享禄二年(一五二九)旧岡原村宮原に竜興山(龍興山)庭柏寺を建立。
※相良晴広の次男徳千代(後の頼貞)は庭柏寺の天山常茂の法脈を継ぎ、宮原村に移り住まわれたものの生れつきの勝気であった。

ウィキより
20歳を過ぎた頃に勝手に還俗し八代に住むようになった。その後、島津氏の水俣城攻めが開始される前後に義陽と対立、八代の谷山に押し込められたが逃げ出し、飯野(あるいは栗野とも)に移り住んだという。
天正9年(1581年)12月2日に義陽が響ヶ原(宇城市豊野)にて戦死すると、その後継に座ろうと同月22日に飯野から出兵して常秀寺へと入った。これに多良木城主の岩崎加賀が同調している。またこの際に頼貞は人吉城を攻撃したらしく、この戦いにより岡本頼氏が負傷、その体内から火縄銃の玉が二個摘出されている。 深水長智は頼貞の元へ出向き、「人吉城の者は頼貞に従う意志があるが、上球磨の者達の意志が不明である為、出向いてほしい」との虚言を伝え、それを承諾して上球磨へと出向いた頼貞勢を島津勢が囲み、この謀反を成功させる難しさを説く。頼貞はこれに諭され岩崎加賀と共に兵を退き、日向国へと去った。

こちらのお話には「深水長智」も奔走されたようです。

※人吉城第十七代相良晴広の次男徳千代(後の頼貞)は享禄二年(一五二九)旧岡原村宮原に竜興山(龍興山)庭柏寺を建立。
宮原龍興山庭柏寺は相良義滋の室である 原田郷豊永氏の娘「法名庭柏祐意」。この方の墓所です。

(゜-゜)以降・・どうやら家の親戚一族は明治に入るまで「曹洞宗」だったようです・・

所で・・※マークの部分ですが・・
日蓮宗と創価学会の教義は違うのではないのでしょうか・・・???

私は、子供の頃から、仏壇にお参りする時は「南無阿弥陀仏」と御念仏を唱えますが、家のお観音様にお参りする時は「南無妙法蓮華経」とお唱えします。
ず〜っと「何でかな??」と子供の頃は思っていたのですが、やっと今頃理解する事が出来てきました。(トホホ(..))
私に出来る事は先祖の「意」を継承することだけですので・・
お守り頂けているという事は本当にありがたい事だと思います。

浄土真宗本願寺派 善正寺 というお寺様は熊本県内に数ヶ所あるようですよ(^・^)
※ 熊本県 熊本市南区 城南町坂野
※ 熊本県八代市本町
※ 熊本県阿蘇郡小国町大字宮原
などです(^・^)

何か見つかるといいですね。

では(^・^)
[8]子孫よりさんからのコメント(2015年07月20日 18時35分27秒 ) パスワード

白石様、御教示ありがとうございます(^・^)
私がコメントを書いている間にアップして頂いていたようです(^・^)

所で・・
先ほども書きましたが、日蓮宗と創価学会は、教義は異なるのでは?ないでしょうか・・

浄土真宗本願寺派 善正寺(熊本県内数か所在)とお調べになられた日蓮宗「善正寺」の関係は私には全く解りませんが・・
〉※日蓮は河野氏
どういう事でしょうか?日蓮聖人は父が貫名氏、母方が大野氏では・・???

実はちょっと気になる事があったので・・
お伺いしました・・
では(^・^)

[9]白石さんからのコメント(2015年07月20日 21時58分40秒 ) パスワード

こんばんわ

〉※日蓮は河野氏
前に見た系図に河野氏のところについていたのです。
10羽ひとからげ で 書いてあったのかもしれません。
一遍とまちがっているわけではないですよ。

>日蓮宗と創価学会は、教義は異なるのでは?ないでしょうか・
知恵袋より
創価学会も破門されるまでは、日蓮正宗の教義に従っていましたが、今は日蓮聖人を「 御本佛」と立てる教義には変わりはありません

だそうです。
同室にいた人は「南無妙法蓮華経」と唱えていました。
私は教義についてはきいたことはありません。
でも こちらは多いんですよ。信者の方が・・・それで 「みんなでみてあげましょう」と言って生活に目をひからせている ということをしている人もいるので 私はてっきり 真宗のように 阿弥陀仏などの仏様がいるのでなくて
そういう生活のありようを説いているのかと 思っていました。

はじめ 八代野津町の東光寺の方に深水氏はかよっていたのですね。
野津町は氷川町ですか?

八代なら山岳ルートで通っていたのかなあと思いますが 二泊三日位かかったのかなあ と 思います。
高岡が熊本善正寺とかかわっていたかどうかは わかりません。
父が平江と姻戚関係を持っていて その前からも 平江とは
かかわりがあったらしく あちらはどちらかといえば地理的には熊本の内分のようですね。

平江は無量寿寺(廃寺)という言葉を聞いたことがあり真宗ではなかったか?と思いますが。過去にしらべたことがありますが少し忘れました。あととりもなくなってしまったと言っていました。地蔵堂のところに
いえがあって庄屋をしていたそうです。役場の人はこの辺りは平江・木原姓が多いと言っていました。

ただ 
平江 高岡ともに 鹿児島に移った人がいます。高岡は長男がです。

密教から キリスト教 真宗へと 変わった家があることは 本で見ました。何何家ということではないですが。

>橘紋は藤原の紋
どこのお寺だったかが思い出せないのです。京都観光バスで3つお寺をまわるコースがあって そのひとつだったのですが・・・

南都焼き討ちあたりから宗派的におかしくなっているのですかしら?
[10]子孫よりさんからのコメント(2015年07月20日 22時24分19秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

早速ですが、

変貌する須恵村 社会文化変化の基礎的研究 牛島盛光氏著 ミネルヴァ書房 に
球磨の律令制以前の構造及び律令制時代の球磨について・鎌倉時代以降の勢力についてなど詳しい記述が記載されていました。
先祖調査には必要不可欠の内容だと感じ、ぜひ、皆様にご紹介させて頂きたく、抜粋して転記させて頂きます。

※律令制以前及び律令制以降(10世紀まで)の球磨について
変貌する須恵村 社会文化変化の基礎的研究 牛島盛光氏著 ミネルヴァ書房
24ページ〜27ページより
中略・・
須恵村上阿蘇・釈迦堂西方の扇端部の斜面一帯からこれまで多数の須恵器片が採集されており、須恵器の窯跡として確認されている。
通常そのような遺跡には須恵をはじめとして・須衛・須江・主恵・末・陶などの地名がおきており、須恵器生産の工人の集団を陶部(すえつくりべ)と呼んだ。以上の須恵器窯跡の資料を整理しながら当時の政治情況と須恵氏の形成過程を考察しよう。

県主的政権久米氏が球磨川南岸(旧久米村 町村合併後は多良木町久米と多良木町久米の接する所 ※久米郷・・久米村・湯前町・岡原村・上村の一部★27ページに記載あり)の弥生遺跡(推定地)地帯に勢力の基礎を置き、農耕地を東部及び東北部に拡げていったのに対して、球磨川北岸(現在の須恵村南部の沖積層平野)に農業経済力を養ってきた一大土豪勢力は、外国から導入された新技術−須恵器の多量生産−をもって農耕併進の生産様式に踏み切り、まず、須恵器の窯を上阿蘇に築いたのであろう。この工人集団の首長が後に須恵氏の名前で呼ばれるようになったのではなかろうか。
かくして、まず北に勢力を拡張した須恵氏は次には西及び西南に農耕地を拡げていった。
六四五年、大化改新によって従来の国・県制が国・郡制に編成替えされると、いままでの火の国は肥前と肥後に区分され、肥後の国には十四の郡が置かれ郡の長官を郡司と呼んだ。
球磨県(くまのあがた)は球磨郡に改変された。
また、郡司の多くは従来の土豪勢力の首長・県主が引きついで任命されたから、久米氏がそのまま郡司に任命替えされたとみていいのであろう。
このような支配機構の改新以上に支配者・被支配者(庶民)共々に大きな経済変動を余儀なくせしめたのは班田収授の法と、そのために実施された大耕地整理−条里制であったろう。
今日、条里制の遺構はおおむね国府・郡家の所在地と一致することが多いとされるから、球磨郡においても東は多良木町・旧久米村の一部から南西に向かって約15q、錦村西(旧西村)に到る帯状の沖積平野をもって条里遺制の推定地と考える事ができよう。
須恵村字浜ノ上に京ノ坪という地名が残っている。条里遺制によくある地名は里・条・坪であるから、あるいは球磨郡条里制の東端を意味するのかもしれない。ともかく、律令制が西日本僻遠の球磨地方に滲透したであろう八世紀から九世紀に至る農業生産の波に乗って、須恵氏の西進策は着々と進められていった。
かくして須恵村上阿蘇で成功した須恵器生産の経験は今度は一武(旧一武村・町村合併後は錦町一武)の白髪岳山麓にひらけた扇端部に生かされ、上阿蘇窯よりも規模の大きいものが開かれたのである。
この下り山窯の所在地は今でこそ一武であるが、明治八年までは西村(町村合併後の錦村西)に属していた。今日、須恵庄という地名を遺す文書と文化財が残っているが、これまた須恵氏最盛期における支配圏が西村まで及んでいた事を示唆するものであろう。
かくして、律令制下(8世紀〜10世紀)の球磨郡は東西に大きく分割され東半は久米氏、西半は須恵氏の支配下におり、均衡のとれた時代が続いたものと思われる。
大化改新の地方行政単位は国の下に郡、その下に五十戸ごとに里が置かれた。七一五年には郡と里の間に郷(おおさと)をおき、それに三つの里を含ませた。球磨郡内で郷の名がわかっているのは、久米・球玖・人吉・東村・西村・千脱の六郷である。
これを現在の行政区画に当てはめ、次のように復元することができよう。
千脱郷・・・水上村
久米郷・・・久米村・湯前町・岡原村・上村の一部
東村郷・・・多良木町・黒肥地村
球玖郷・・・須恵村・免田町・深田村・木上村・上村の一部
西村郷・・・西村・一武
人吉郷・・・人吉市・山江村・川村

久米氏が久米の地に本拠を構え、東半の三郷(久米郷・千脱郷・東村郷)に伝統的勢力を維持してきたのに対して、免田の地で急速に有力化した新興の須恵氏は勢力拡張の方向を北(上阿蘇の須恵窯を中心として)と西にとることによって久米氏との無用の摩擦を避けたのは前述したとおりである。

(゜-゜)まずはここまでの記述の中で理解出来た事をまとめます。

※県主的政権久米氏が球磨川南岸(旧久米村 町村合併後は多良木町久米と多良木町久米の接する所 ※久米郷・・久米村・湯前町・岡原村・上村の一部★27ページに記載あり)の弥生遺跡(推定地)地帯に勢力の基礎を置き、農耕地を東部及び東北部に拡げていった
※球磨川北岸(現在の須恵村南部の沖積層平野)に農業経済力を養ってきた一大土豪勢力・・須恵氏 外国から導入された新技術−須恵器の多量生産−をもって農耕併進の生産様式に踏み切る。
※六四五年、大化改新によって従来の国・県制が国・郡制に編成替えされると、いままでの火の国は肥前と肥後に区分され、肥後の国には十四の郡が置かれ郡の長官を郡司と呼んだ。
球磨県(くまのあがた)は球磨郡に改変された。
また、郡司の多くは従来の土豪勢力の首長・県主が引きついで任命されたから、久米氏がそのまま郡司に任命替えされたとみていいのであろう。
※班田収授の法と、そのために実施された大耕地整理−条里制
 条里制の遺構はおおむね国府・郡家の所在地と一致することが多いとされるから、球磨郡においても東は多良木町・旧久米村の一部から南西に向かって約15q、錦村西(旧西村)に到る帯状の沖積平野をもって条里遺制の推定地と考える事ができよう。
※須恵村上阿蘇で成功した須恵器生産の経験は今度は一武(旧一武村・町村合併後は錦町一武)の白髪岳山麓にひらけた扇端部に生かされ、上阿蘇窯よりも規模の大きいものが開かれた
※律令制下(8世紀〜10世紀)の球磨郡は東西に大きく分割され東半は久米氏、西半は須恵氏の支配下におり、均衡のとれた時代が続いた

(゜-゜)
県主的政権久米氏 → 球磨川南岸(旧久米村 町村合併後は多良木町久米と多良木町久米の接する所 ※久米郷・・久米村・湯前町・岡原村・上村の一部)弥生遺跡(推定地)地帯に勢力の基礎を置く
球磨県(くまのあがた)→ 球磨郡に改変
首長・県主 → 久米氏
条里制の遺構 → 東は多良木町・旧久米村の一部から南西に向かって約15q、錦村西(旧西村)に到る帯状の沖積平野

上記の内容によって、私の住む旧岡原村宮原が弥生遺跡推定地であり、なお且つ条里制の遺構内である事が理解出来ます。
この事により、私の今までの調査の中で浮かんでいた大きな疑問・・が見えてきました。
それは、「地名」です。
私の祖父の実家近くの地名「府内」さらに「府本」。
以前、御紹介していましたが
あさぎり町立岡原小学校について
明治7年  4月     府本小学校創立、
             府内稲積神社拝殿に附設草葺平屋37坪
明治13年 4月 1日  外園に移転開校
明治18年 3月 1日  移転開校
明治21年 9月 12日 麓小学校と改称
大正10年 9月     別府桧山現在地に移転増築

(・_・)最初の学校名は「府本小学校」
  ※ 府内稲積神社拝殿に附設
  ※ 外園に移転開校

(゜-゜)県主的政権久米氏の支配する「条里制の遺構内」において、私の地元は「国」もしくは「県・郡」の施設が置かれていた場所ではないのでしょうか?

さらに・・
当時の球磨県・球磨郡の政治中心地が、現在の球磨・人吉の中心的地域である人吉市周辺ではない事にお気づき頂けたと思います。
明日、中世以降の球磨について詳しくコメントさせて頂く予定ですが、前もってこちらの記述を御紹介させて頂きます。

変貌する須恵村 78ページより
人吉庄六〇〇町、今日でこそ人吉市が球磨地方の中心的存在であるが、律令制時代においては、開発が最も遅れた地域であった。そのようなところであればこそ、旧地頭達にとって勢力伸張のための格好の土地とされたに違いない。

(゜-゜)地元球磨・人吉でさえ、現在の行政区間等を念頭に置くと理解不可能だという事がしっかりと解りました。

須恵氏の記述にあった
※須恵村上阿蘇で成功した須恵器生産の経験は今度は一武(旧一武村・町村合併後は錦町一武)の白髪岳山麓にひらけた扇端部に生かされ、上阿蘇窯よりも規模の大きいものが開かれたのである。
白髪岳山麓・・
辰韓系種族の権利を示すのが白髪岳
須恵氏・・外国から導入された新技術−須恵器の多量生産−をもって農耕併進の生産様式に踏み切り・・
あれっ???? もしかしたら・・????

明日は11世紀以降の球磨について御紹介させて頂きます。
では(..)
[11]白石さんからのコメント(2015年07月20日 22時26分47秒 ) パスワード

何度もすみません。
下のスレッドを見ていたら 私本で秀忠母は西郷氏と覚えていましたが 実父は服部氏なのですね。
平宗清裔:観世・伊賀服部・本能寺真相より
二代将軍秀忠の生母お愛は、西郷清貞の養女で実父は伊賀の服部平太正尚。

正尚のいとこが名張城主服部保章で
その娘が明智光秀の妻

光秀の妻は服部家の人なのですね。
じゃあ玉子は服部家の妻の子?
などが 書いてありました。
[12]子孫よりさんからのコメント(2015年07月21日 10時02分52秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、御教示ありがとうございました。
私がコメント10を書いている間にアップして頂いてようで、すみません(..)

〉※日蓮は河野氏
前に見た系図に河野氏のところについていたのです。
10羽ひとからげ で 書いてあったのかもしれません。
一遍とまちがっているわけではないですよ。

(゜-゜)・・そうなのですね。ありがとうございます(^・^)

〉はじめ 八代野津町の東光寺の方に深水氏はかよっていたのですね。

深水氏は通っていないと思うのですが・・
通っていらっしゃったのは
四浦村深水の伊七という篤信の隠れ念仏の徒・・
四浦村深水に住む「伊七」という方のようです。姓ならば「深水伊七」と書かれると思うのですが・・どうなのだろう(?_?)

〉野津町は氷川町ですか?
調べたのですが八代郡竜北町野津が町村合併により現在八代郡氷川町野津に変更されたようですよ(^・^)
この頃嘉島町に出かける事が何度かあって「氷川町野津」は通るのですが古墳群があるようです。
お父様の「高岡氏」は苗字帯刀をゆるされていたという事ですよね・・
「細川藩士」や「相良藩士」さらには「島津藩士」・・この辺りをもっと調べて見られたら良いのではないのかな・・?と思うのですが・・
特に気になるのはやはり細川藩士の高岡氏なのですが・・

私は、相良氏の下向前に球磨に登場した「平河氏」についてを理解する為には、球磨の土豪勢力からを理解しなければ・・と思いまして、今は球磨の古代以降について勉強しています。

では(^・^)
[13]子孫よりさんからのコメント(2015年07月21日 11時31分15秒 ) パスワード

早速(^・^)

まず・・
コメント10で最後に書いた
※今日でこそ人吉市が球磨地方の中心的存在であるが、律令制時代においては、開発が最も遅れた地域であった。
この記述なのですが・・
私の単なるヒラメキを皆様お聞きください(..)

人吉・・農地開発は遅れていたのかもしれませんが、農地ではなく「鉄」の生産において重要な場所であった・・と
平川家について21 コメント41
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101407_80.html
こちらで
「求麻郷土研究会」発行の「郷土」第32号 「白鳥地名の考察(住吉献太郎氏) 」。こちらを御紹介していました。
=============================================
球磨の「白鳥」という地名、そして「白鳥神社」には
「鉄」・「製鉄」「鍛冶」が強く関わっているようです。
そして、製鉄そして鍛冶の技術を持った、蝦夷からの多数の移民の方々が、球磨に移住していた・・。
人吉市の横穴古墳近くから出土した「わらび手刀」。九州に3本しか発見されていないという貴重な逸品。
この「わらび手刀」は東北・奥州で作られていて、この地に多く出土する「古代の刀」という事でした。

中略・・
大和政権に順化した蝦夷の人達を移住させた、”球磨盆地は「移配地」である可能性が高い”との記述がありました。
以下、少し転記します。
「移配された現地には移住者の食糧としての稲を出させている。「俘囚料」と言われ、移住した人がかなり優遇されていた事が判る。
そしてその「俘囚料」が全国でも最も多いのが、わが肥後であり全国の15パーセントを占めているのには驚かされる。
なぜ、この肥後に多くの蝦夷(俘囚)が移住してきたのであろうか。考えられるとすれば、肥後を拠点に東北までも進出し活躍した多氏の存在であったかもしれない・・
=========================================
※人吉市の横穴古墳・・大村横穴古墳群です。

※肥後を拠点に東北までも進出し活躍した多氏の存在であったかもしれない・・
実は、こちらの続きがありまして、以前は転記していなかったのですが、非常に気になりまして・・

「求麻郷土研究会」発行の「郷土」第32号 「白鳥地名の考察(住吉献太郎氏) 」55ページ〜56ページより

「移配された現地には移住者の食糧としての稲を出させている。「俘囚料」と言われ、移住した人がかなり優遇されていた事が判る。
そしてその「俘囚料」が全国でも最も多いのが、わが肥後であり全国の15パーセントを占めているのには驚かされる。
なぜ、この肥後に多くの蝦夷(俘囚)が移住してきたのであろうか。考えられるとすれば、肥後を拠点に東北までも進出し活躍した多氏の存在であったかもしれない。
『多氏一族は神武天皇の皇子である神八井耳命の子孫と伝えられ、九州の火の国に端を発して東遷し、常陸に達したと見られているので・・』といった説と装飾古墳の分布とが一致するという研究などが参考になるが、多氏の一族が居住したとされる地名を見ると「大生」「意宇」「多」「大」などがあり、人吉の「大村」なども多氏との関係を考えられないだろうか。
また、阿蘇神宮の祭神は健磐竜命で父は神八井耳命である。
とすれば多氏は阿蘇神社との関わりも深く、青井阿蘇神社勧請の豪族が多氏ではなかろうかとの思いも浮かぶ。
大村一帯が多氏を中心に発展し、移住してきた俘囚がまた地域の発展に寄与したものと考えることは出来ないだろうか。
人吉の白鳥神社は、古い地名の「大村」の北辺の「日多峯」に建てられている。「ヒタミネ」のヒタはヒナでもあり、ヒナは「夷」であり「夷峯」としてもよい地名である。日向国の古代地名として「夷守」が残っており、地名のおこりを暗示しているようである。

==========================================
※人吉大村・・大村一帯が多氏を中心に発展し、移住してきた俘囚がまた地域の発展に寄与したものと考えることは出来ないだろうか。

(゜-゜)
※球磨県(くまのあがた)→ 球磨郡に改変
※県主的政権久米氏 → 郡司久米氏
※律令制下(8世紀〜10世紀)の球磨郡は東西に大きく分割され東半は久米氏、西半は須恵氏の支配下におり、均衡のとれた時代が続いた

球磨郡の久米氏・須恵氏の勢力以外に人吉地方を中心とした「多氏」の勢力があったのではないでしょうか??
すなわち、当時の球磨・人吉の土豪勢力とは
久米氏・須恵氏そして多氏。
人吉は開発が遅れたのではなく、久米氏・須恵氏の勢力外であり、開発を行っていたのは「多氏」。
※球磨郡は東西に大きく分割され東半は久米氏、西半は須恵氏の支配下にあり、人吉大村地方は「多氏」の勢力下にあり、均衡のとれた時代が続いた
(?_?)ではなかろうかな??と・・私のヒラメキでございます(..)

所で、
お忙しい所申し訳ございませんが日本の苗字七千傑様にお伺い致します。
昨晩のコメントにも書いたのですが
私の実家周辺の地名「府内」「府本」は県主的政権久米氏の支配する「条里制の遺構内」において、「国」もしくは「県・郡」といった施設に何らかの関係があると考えてもいいのでしょうか?
御教示の程、どうかよろしくお願いいたします。

では。

[14]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年07月21日 12時04分15秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>光秀の妻は服部家の人なのですね。
 
ヨタ話の類でしょう。
光秀に側室が居た様だが詳細不明、正室は妻木家の熈子。
下記の系図を良く眼を開いて確認して下さい。
 
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01004c2_005.gif
 
何故、光秀が織田信長の重臣だったか?
本能寺の変時の光秀の筆頭家老が齋藤利三だったのか?
事変後の加勢に細川氏、筒井氏を頼りにしたのか?
閨閥を一覧すれば、明解になるでしょう。
戦国時代は、尚更閨閥第一ですよ!
光秀敗北の最大原因は閨閥が貧弱だったこと。
その後の「折敷に三文字紋」の勢力は凄かったですね!
 
永禄三年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ったのは、服部小藤太(弘宗)。
しかし天正10年、本能寺の変で二条御所にて討ち死に。
弟の小平太(春安)は秀吉に仕え、文禄4年自害。
 
併せて、下記系図を参照すれば、戦国期から江戸初期の中央閨閥が解る。
政治力の裏に財力は、いつの世も同じ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01206b_003.gif
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01051d2_007.gif
 
服部氏が織田氏寄りになったのは織田敏豊の時代からでしょう。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01110a.gif
[15]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年07月21日 20時28分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>球磨郡の久米氏・須恵氏の勢力以外に人吉地方を中心とした「多氏」の勢力があったのではないでしょうか??
 
無関係。やはり「古代日本の領土」を閲覧しないと理解不能。
肥後北部は矢部矢筈岳。(ここは多氏の勢力地域)
肥後南部は水俣矢筈岳。
但し、天草地域は天草矢筈岳、本渡矢筈岳、栖本矢筈山、西平矢筈岳と4地域に別れている。
都合熊本には6つの矢筈岳が存在する。
多氏は阿蘇を中心ににした肥後北部だけ。

 
条里制なんて全国各地の旧国府地域や殉ずる地域には当たり前。
相模なんて国府比定地域も複数存在、地名以外に痕跡そのものが消滅。
フモトは外城制度による郷士が居住していた麓集落のある薩摩にゴロゴロ。
[16]子孫よりさんからのコメント(2015年07月21日 23時45分41秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、お忙しい中御教示ありがとうございました。

球磨郡の久米氏・須恵氏の勢力以外に人吉地方を中心とした「多氏」の勢力は「無かった」という事ですね。
ヒラメキは大きな間違いでした。すみません。
古代日本領土の起源を閲覧しないと理解不能という事ですね。

〉肥後北部は矢部矢筈岳。(ここは多氏の勢力地域)

現在の山都町(やまと町)ですね。
五木からも山を越えていける道があり、八代方面であれば旧宮原町から山都町に向かう道がありました。

〉条里制なんて全国各地の旧国府地域や殉ずる地域には当たり前
〉フモトは外城制度による郷士が居住していた麓集落のある薩摩にゴロゴロ。

実は・・
「久米」内に郡衙があったのであれば、その場所が何処だったのか?を知りたかったのです・・

様々な書籍にて「平河氏」は、国衙の役人として球磨に下向・・といった記述を目にします。

中世日本の諸相 - 第 2 巻 - 49 ページ より
前稿で私は平河氏を本来郡収納使ではなかったかと推定したが、半不輪の球磨御領であるから、国衙側かれ、もしそれが平河氏の権限を継承したものとすれば、平河氏こそ本来の荘下司(ないしその代官)であったということすると、この相良氏の権限は・・

東アジアと日本 - 第 2 巻 - 109 ページ より
国使等として球磨は各地の反国衙行動を報告し然るべき処置を求めたものであるから、この守高(師高)は国衙系に属する勢力で ...

などです。

※今日、条里制の遺構はおおむね国府・郡家の所在地と一致することが多いとされるから、球磨郡においても東は多良木町・旧久米村の一部から南西に向かって約15q、錦村西(旧西村)に到る帯状の沖積平野をもって条里遺制の推定地と考える事ができよう。

平河師澄の名が球磨に登場したのは康平六(1063年)年前後です。

ぜひ、ご覧頂きたい情報があります。「平河伝授巻」の内容です。

変貌する須恵村 80ページより
さて、次の攻撃目標は平河義高その人である。平河伝授巻に
「伝に曰く、義高その前は川辺川より東、河北の地頭なり、南は久米殿と称して、以上両人これある由、又、下もは平家御代官所にて候処、蓮仏公(長頼法名)御下向遊ばされ、義高を御頼み、矢瀬殿を御退治なされ、即刻、人吉在城遊ばされ候故御当地大方三が二は割々に随い奉り候え共、義高一家盤石故聢と御安堵も無く、依って、数年の御計略を以て寛喜年中(一二二九〜一二三一)終に義高を謀り、御追伐成され候、それより義高一門段々追伐故、郡中一統仕り候」
とあるように、平河氏を制圧しない限り一円知行の実は挙がらないとして、寛喜年中、血敷原(球磨川と川辺川の合流する地点、現在の錦村木上・高原台地“たかんばる”)で剪滅したのである。

以前から、ぜひ読んでみたかった内容が、やっと解りました。

※伝に曰く、義高その前は川辺川より東、河北の地頭なり、南は久米殿と称して、以上両人これある由、又、下もは平家御代官所にて候処、蓮仏公(長頼法名)御下向遊ばされ、義高を御頼み・・・

義高その前は・・※川辺川より東、河北の地頭 ※南は久米殿と称して ※以上両人これある由?

上記の内容から、「平河氏」が永吉庄だけではなく「久米郷」もしくは「久米氏」とも関係していたとは推測出来ないでしょうか?

私の地元に鎮座の切畑神社記に平河師澄の名が残っています。
平河師澄が球磨に登場した後、相良氏入国までの約130年以上は「久米氏」「須恵氏」「平河氏」は均衡を保っていた・・
この130年の間に3氏(久米・須恵・平河)間に姻戚関係(政略結婚?)があったのでは?

球磨の久米氏は伊予の久味国造裔。
越智姓久米氏や旧越智姓伊予橘氏も存在することから、伊予の久米の地名が肥後に遷移したことが真実と思われる。
伊予の久味国造族も平折敷、折敷に三文字の家紋を使用していることから、越智氏に次第に合流したのではないかと考えられる。

と御教示を頂いていました。

平河氏建立の荒田寺に名跡を残す、僧「川野林与」という方。「川野」氏。

私は、全て繋がっているのでは?と思うのですが・・

日本の苗字七千傑様、御教示本当にありがとうございました。

では(^・^)
[17]白石さんからのコメント(2015年07月23日 00時25分14秒 ) パスワード

こんばんわ
>深水伊七 
はやとちりでしたね。
四浦深水は集落が少ないので おいおいわかると思います。

高岡 近辺の藩士をしらべるのと同時に 四浦村の成立は1600年頃であり
(縄文 平家城跡 相良外城と遺構が重なっているようだ)と時代的に若く このあたりのこともしらべなければ と 思い 調べていました。

相良村誌が残っているようなので 送っていただこうと思いながら 今日は病院に行ったので時間が遅くなり 明日村へ電話しようと思います。

ーーーーーーーーーーー
>高岡は苗字帯刀を許されていたのですね
許されていたのは  母方・佐田です。
高岡は地域の旧家と母は言っており 
高岡のおばは 高岡は源氏でもへいけでもない といっていました
いろいろなことから 元はぶしだったようだ と 思われます。

戸籍の 一番最初につく人の妻が文政12年生まれ。
明治27年長男が遺跡を継ぐとあり
この人は安政元年に生まれています。

ともかく江戸時代には高岡を名乗っていました。
嫁方には相良氏族などがあり 平川は 元士族と言っており
まだまだ家言っている頃にそういう家と姻戚関係を持つのは

高岡も昔は武士だったと思えます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ところで 時代的に若い頃のこと と してみると
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
相良長寛という人がいまして

相良長寛 - Wikipedia - ウィキペディア


ja.wikipedia.org/wiki/相良長寛 - キャッシュ

相良 長寛(さがら ながひろ)は、肥後人吉藩の第11代藩主。 生涯[編集]. 宝暦元年( 1751年)12月6日、備前岡山藩主・池田宗政の次男として生まれる。幼名は護之進。 のち初名の政長(まさなが)を名乗る。 外祖父(母方の祖父)にあたる6代目筑前福岡藩 主、 ...

もう少し詳しく見ると 楠木正行の血が入った もしくは 腹違い男子 要するに楠木氏の血が入った後のことで

長寛が来たとき 近くに五藤もおり 味方したかもしれない。

思い出したことがあるけど 先代のお寺様の時 お寺に行ったとき
「お父様のお名前は」と聞かれ 「白石● です 」と答えると
また同じ質問をされ 考えて 「高岡●です」と答えると うなづいておられました。
ーーーーーーーーーーーーー
それで
相良 長寛をみていると 井口がでるのですね。家老ですけど。
武家家伝井口氏をみると
近江六角佐々木氏とありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
武家家伝井口氏 家紋 丸に井の字
井口氏は★延暦寺千僧供領であった★近江国富永庄総政所を主宰する荘官で、高時川 右岸を灌漑する伊香郡用水を管理していた「井頼り」でもあった。「井口氏系図」によれば 、井口氏は崇峻天皇の後裔という近江★中原氏の一族ということになっている

六角氏 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/六角氏 - キャッシュ

宇多源氏佐々木氏の流れを汲み、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江南部を中心に 勢力を持った武家(守護大名)

★中原は豊前宇都宮流佐田氏もなのっているのですね。
★中原は多氏の同族
★中原清業は坂上清業
★宇多源氏佐々木氏は高岡系図がある

高岡 佐田がでるのです。

平川子孫23をみると 井口川 黒原山など 書いてありましたね

相変わらず
パソコンの調子がおかしいので 今までかかりました。
23を見ると あちこち 変な文字が入っていますね。
[18]子孫よりさんからのコメント(2015年07月24日 10時42分42秒 ) パスワード

宮原様、こんにちは。

コメントをご覧頂いていたとの事でありがとうございます。

歴史研究家のM田様から一昨日、お電話を頂き、M田様、T様が昨日お見えになりました。

私の方の宮原家先祖の墓は江戸時代中期?以降は城山の麓近くの山にありますが、それ以前の先祖の墓地群は、その場所からさらに山を登った、位置で言うと岡原霧島神社の裏手の山の高台(丘)にあるようです(祖母から伝え聞いています)。
祖母は、若い頃にはそこまで向かう事が出来たようですが、後年は山を登るのが難しくなり、さらには、私自身、一度も山を登ってお参りした事はありません。

季節がかわり、過ごし易くなった頃、M田様とT様が墓石調査を行って下さるとの事で大変嬉しく思っています。

今後ともどうぞよろしくお願い致します。

暑い日が続きます、どうかお体ご自愛下さいませ。

では。
[19]子孫よりさんからのコメント(2015年07月24日 10時49分20秒 ) パスワード

白石様、御教示ありがとうございます。(^・^)

肥後相良藩士分限帳をお借りする事が出来まして、今、私の手元にあります。

四浦村・もしくは四浦村に関する記述も載ってるようです。

出来ればスキャンしてデータ化した状態で白石様のお送りしたいのですが、ただ、現在、旧宮原村・久米村・岡許村に関係するコメントをまとめている途中ですので、もうしばらくお待ち下さい(..)

歴史研究家のM様とT様から色々お伺い出来て、さらなる、我が故郷の秘密?も知る事が出来ました。

後ほど、コメントさせて頂きます。

では(^・^)
[20]子孫よりさんからのコメント(2015年07月25日 07時41分54秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

とてもありがたい事に、郷土の歴史研究家のM様、T様より様々な我が故郷に関わるお話を沢山お伺いする事が出来ています。

まずは・・
大変悲しい事が解りました。
球磨・人吉の各市町村には、其々の市町村史があります。久米氏・須恵氏・平河氏の遺跡も詳しく記述されていますが、我が”旧岡原村だけ”には明治時代以前の宮原村・岡許村の歴史を知る為の古文書等が殆ど残っていません。
理由が解りました。

明治時代に村が合併した後、宮原村・岡許村に現存する「古・いにしえ」に繋がる家々に代々受け継がれてきた古文書等は其々の「家」から村に提出・提供されて、村が一括して管理をしていたそうです。
その極めて重要な歴史を語る品々が、昭和の時代に全て失われてしまいました。
もちろん「悪意」や何らかの「意図」による事では無かったのだと思いますが、貴重な歴史財産が失われた事に私は強い怒りを感じています。
しかし、失われた物が戻る事は決してありません。今となってはどうする事も出来ません。
ですから、私は、怒りを抑える為にこの出来事をあえて「昭和の焚書」と呼ばせて頂きます。
「昭和の焚書」により、旧宮原村に在した”うちの方”の「宮原家」の歴史や宮原村・岡許村の他の家々の歴史は「空白状態」となってしまいました。

その空白状態となった我が郷土の歴史をM様・T様は、球磨・人吉地域だけではなく、熊本県内全域、いえ九州全域の郷土史等から拾い集め、そして、自らの足を使った山の発掘・村内の遺跡調査に十数年尽力されていらっしゃるという事を伺いました。
ただ、他市町村史に残る記述等は、あくまでも、その「村」や「町」を中心とした視点で構成されていますので、そこに記されている宮原村・岡許村に関係する記述はあくまでも「外の視点」から見た内容となり、「本当の村の歴史」が中々見えてこないのが現状のようです。
ですから、現地調査・足を使った調査が重要となられると・・
現在は野山と化した遺跡に道無き道を分け入っての調査・もしくは、村に残る口伝えの伝承をもとに、遺跡の推定地を予測して、また道無き道分け入って進む。
大変な御苦労です。私は、お話を伺い、とても感動し、そして感銘を受けました。
我が郷土の歴史を一つでも復活させたいとのお二人の強い信念により、かなりの数の「村」の遺跡が発見されています。

ただ「昭和の焚書」の責任は村だけではなく、家々に残る古文書等を信じて預けた側にもあると私は思っています。
父や主人に相談の上、その歴史を失った「家」の一人として、私は自らの”責任”において、M様・T様そして他多数の皆様の活動に参加させて頂く事にしました。
学校の歴史教科書の内容さえろくに覚えてもいなかった私ですので、活動の足手まといになるかもしれませんが、何らかの形で私も御協力させて頂ければと思っています。
さらに、今後は、活動を行っていらっしゃる方々から、人吉・球磨の歴史をじかに教えて頂ける事になりまして、本当に楽しみにしています。

歴史が苦手で、周囲から聞かされる先祖の伝承に全くの意味を感じず、興味を持たず、故郷を飛び出し、好き勝手に生きて、自らが選んだ道により辛い苦しい事も多々経験してきた私が、何故、故郷球磨に戻ってきたのか・・今、あらためて・・ようやく意味が見えてきました。
でも・・あまり背負わず、私なりの形でがんばってみようと思います(^・^)

次のコメントでは
郷土の歴史に関する、「初めて解った事」をお伝えします。
では(^・^)
[21]子孫よりさんからのコメント(2015年07月25日 15時56分14秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

早速のご報告ですが・・

以前から何度かコメントしていた、地元に鎮座とあった稲積神社(稲積妙見)についてです。
関係していたのは、「橘氏(宮原)」でした。

球磨郡神社記に残る 稲積妙見の神社記によって判明致しました。
ちなみに稲積妙見・中島霧島神社・切畑神社などの神社記及び復元図のコピーを頂く事が出来まして、今、手元にあります。

以前、稲積神社(稲積妙見)は久米領 稲積山に鎮座という、記述があり、私の故郷ではなかったのか??と言っていましたが、これは私の大きな知識不足が原因でした。

稲積神社(稲積妙見)は地元の古老は皆、私の祖父の実家(旧城主居館跡との伝承)の近くに鎮座されていたと言われていましたが、この事は事実でした。
では何故?混乱していたのか・・
単純です。この地は後世において久米領の飛び地であったからです。
以前、宮原村下地に、実家周囲の「侍村(まちむら)」の中に何故か「久米氏」と書かれている??とコメントしていましたが、これが私の知識不足からの疑問であり、「侍村(まちむら)集落」の中には後世において久米領の飛び地があったという事を伺い、知る事が出来ました。
さらに、肥後相良藩士分限帳(寛政・1798年〜安政・1859年)や郷土研究家の方々からの御教示により、郷氏の多い球磨郡内には各村毎に通称”地頭”と呼ばれる在地の藩士が居て、宮原村にも12名程の名が見えます。
「宮原姓」だけを例に挙げると、旧久米郷である宮原村・岡許村・久米村には宮原姓が散在している事が解ります。
驚いたのは、宮麓集落に残る他の家の名(その家の御先祖の名)が久米村の項にあったり、さらには、とある家(宮原姓以外)を例に挙げると・・ある年は宮原村の項に”その方”の名が残り、ある年は久米村に”その方”の名が・・と言った具合で、詳しい方々に確認すると、居住地そして所有地はそのままで、今でいう所の”転勤”のような形で、宮原村⇔久米村に名が残っているとの事でした。
久米領の飛び地を持つ、”麓”集落ならではの事のようで・・私見ですが、相良藩内では旧久米郷内の村々を一つの仮称”郷”として捉えていたのかな??などと考えてしまいました。
ただ・・※宮原の曾祖母の実家である新堀家は一貫して宮原村に関係しているようです。

前文が長くなりました(..)
では早速 稲積神社(稲積妙見) について です(..) 
稲積神社(稲積妙見)御祭神 天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)「右五神」別天津神(ことあまつかみ)
御祭神 天之御中主神 高御産巣日神 神産巣日神 宇摩志阿斯訶備比古遅神 天之常立神

球磨神社記より
稲積妙見 久米領 稲積山
  祭 二月上五日 十一月上五日
         社人 椎葉久左衛門 
社家傳云八代郡白木社妙見同體
草創年紀未考 ■社は當郡妙見勧請ノ最初也
棟札日明應五年丙辰 藤原為續公同長輔公御願トシテ 代官最■式部少輔綾(アヤノ)末續宮原出雲橘續久及ビ宮守 石井太郎兵衛尉阿部貞豊等再興
天文廿一年亥地頭阿部貞次修造國郡泰平 藤原晴廣公武運勝利并 當後 藤原長陸安全ノ願辞アリ
延寳(延宝)七年巳 赤里民拝殿修復

上記より、祖父の実家近くに御鎮座の稲積妙見について以下の事が判明致しました。
※八代郡白木社妙見同體
※當郡妙見勧請ノ最初也・・球磨郡内において最初の妙見宮勧請であった。
※草創年紀未考
※社人 椎葉久左衛門 
※明應五年丙辰(1496年)
 藤原為續(相良為続)公・相良長輔公 御願トシテ 中興
※中興に関わった人物
  代官最■式部少輔綾(アヤノ)末續宮原出雲橘續久・・橘(宮原)続久
  石井太郎兵衛尉阿部貞豊等

(゜-゜)
相良為続 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E7%82%BA%E7%B6%9A
相良 為続(さがら ためつぐ、文安4年(1447年)- 明応9年6月4日(1500年6月30日))は、相良氏の第12代当主。第11代当主・相良長続の3男。母は犬童兼長の娘。官位は従五位下・左衛門尉。通称は次郎三郎。初名は頼元、後に肥後守護菊池為邦と長続からそれぞれ偏諱を受け、為続と改名した。
(゜-゜)
父の相良長続(永留長続)は球磨・人吉を統一した方ですね。
ウィキには・・多良木氏を滅ぼした[3]ことで、相良頼景より数えて8代220年余り分裂してきた上相良氏と下相良氏の争いはついに解消され、多良木・久米・湯前・湯山・江代の五村[4]を支配下にいれ、相良氏は初めて球磨郡内の統一を果たした。
とあります。
母は・・犬童兼長の娘

相良長続により久米郷(宮原)は相良氏の配下となり、宮原城は相良氏の外城と化した訳ですね・・
だからか・・
代官 宮原出雲橘続久  橘(宮原)続久・・・代官か・・(..)
(?_?)通字が「続」へと変わっていますね・・????? (公の字は何処かに隠れているのかな??)
そう言えば・・相良長続・相良為続・橘(宮原)続久・・皆「続」が付いていらっしゃいます???
もしかしたら・・ですが・・
橘(宮原)と「相良長続・相良為続」の系との姻戚関係が発生??

さらに・・宮原出雲橘続久 「出雲」ですが、八代郡宮原町に居城した宮原公忠も「出雲守」。
ただし・・宮原公忠の父「橘公次」は但馬守です。
宮原公忠の系は1504年〜1581年まで6代に渡り宮原町に名跡が残っているような記述が宮原町史にはあり、その後、宮原公忠の系は八代の「宮原町」から「人吉」に移ったと宮原町史ではあります。(宮原村は何処へいったのかな??)
外城となった久米郷宮原の相良氏の代官 宮原出雲橘続久は明應五年丙辰(1496年)に稲積妙見宮にその名を残す。
宮原公忠の兄弟?もしくは叔父?といった関係なのかな????
さらに、他の方でも、球磨(宮原)の相良氏の代官として名を残している方がいらっしゃいます。
宮原公忠の弟「橘武冬(宮原武冬)」です。

橘武冬(宮原武冬)・・「冬」の字ですが・・
南九州国人一揆の署名に、橘(宮原)の一族代表?として名を残した「宮原在判橘公冬(宮原公冬)(旧宮原村在)」が。
さらに遡ると・・久米(宮原)領主として名を残す「橘(宮原)道公」。
いずれにしても・・宮原町史にある「宮原系図」には上記の方々は「名が」ありません(?_?)(?_?)
段々解らなくなってきました(?_?)(?_?)

現在、宮原町に残る、宮原公忠の系である宮原一族の方々は「自分たちは岡原が”元”ですもん(^・^)」と言って下さっていらっしゃるようです。岡原人としては大変ありがたく、涙が出そうになります(..)
でも・・その宮原一族の名のもととなった橘公業の所領地久米郷東方下分宮原。その、岡原村(旧宮原村)の宮原城に関係した「宮原一族」の系が本当に・・段々解らなくなってきました・・(..)

ちなみに
宮原公忠の弟「橘武冬(宮原武冬)」という方は、すぐに僧になられたそうなので・・結局・・宮原の相良氏代官 宮原出雲橘続久の系が相良氏の外城となった「宮原城」と宮原村を含む旧久米郷の一部を守っていくのかな???

もっと、もっと勉強しなければ(p_-)解りません(..)

ちなみに、一国一城令にて宮原城が廃城となった時の最後の城主。
寛永十二年(1635年) 宮原十兵衛 菩提 心涼祐傳禅定門 三月二十八日 宮原谷中 敬白
この方は犬童姓も添えてあります。宮原十兵衛であり犬童十兵衛でもあった方。

この方に必ず到達する事を心から願い、調査目標にしたいと思います。

しかし・・
祖父の実家近くに御鎮座の稲積妙見宮の神社記には沢山の方々の「名」が残っていますので、今後も調査を進めて参ります。

では(^・^)
[22]子孫よりさんからのコメント(2015年07月25日 19時42分42秒 ) パスワード

追記

先ほどのコメントは説明不足でしたすみません(..)

実は
寛永十二年(1635年) 宮原十兵衛 菩提 心涼祐傳禅定門 三月二十八日 宮原谷中 敬白 
※あさぎり町岡原北 宮麓地区

寛永十二年(1635年)心涼祐傳禅定門 宮原 犬童十兵衛 城主 三月二十八日
※人吉市浪床町中尾墓地

と宮原十兵衛という方の墓碑・供養塔は二か所にあります。

かなり、以前コメントした時は、この方が宮原町史に載る、宮原公忠の系「公久」と判明と書いたのですが・・
実は、再検証の結果、「公久」ではないと結論が・・
しかし、宮原町史に載る、宮原公忠の系には該当者が存在しません。

公忠から7世の「公久(1598年〜1673年)」以降14世の方までは別の人吉市富ケ尾の墓地にて墓碑が確認されたとの事です。
この方々には全て「居士」が付く法名となっています。

しかし宮原十兵衛の法名は「心涼祐傳禅定門」
「禅定門」と法名に付く宗派は「天台宗」「曹洞宗」もしくは「日蓮宗」。
「居士」の法名は「真言宗」
ちなみに宮原十兵衛の墓碑が見つかった中尾墓地は当時真言宗のお寺がありました。

そして・・
当時、宮原城近くにあった「寺」は庭柏寺(曹洞宗)と竜泉寺(宗派不明)。しかし竜泉寺跡にある「宮原観音堂」は天台宗です。

上記の事が何を意味するのか?偶然なのか?
そして宮原十兵衛という方はいったいどなた?なのか?

コメント21での補足でした。

さらに・・
代官最■式部少輔綾(アヤノ)末續宮原出雲橘續久
※代官最■(取という字に似ています)式部少輔綾 アヤノ 末続 宮原出雲橘続久
※式部少輔綾末続・・お名前かと思ったのですが違うような・・?探したのですが・・??

代官最■式部少輔綾(アヤ)ノ末続とは??名前かな?それとも何かの意味かな?と・・???

「綾氏」ですね・・?

では????
(..)
[23]白石さんからのコメント(2015年07月25日 20時21分01秒 ) パスワード

こんばんわ
遺跡を継ぐ と いう言葉
小山勝清の或る村の近世史p122より
戸長様は官選で今でいう村長。戸長の家がそのまま村役場になった

それに対し 隣村の五木では 旦那様と呼ばれる地頭がいた。33人いた。

★戸長の家をつぐことを 遺跡をつぐ と いう。
この部分を 近世史か村誌の人文編で見たか 
私はどうしてこう 肝心のところを うかっとよみすごすのか
でも 読み返すうちに 出てくると思います。 
[24]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年07月25日 22時32分40秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>宮原公忠の系は八代の「宮原町」から「人吉」に移ったと宮原町史ではあります。(宮原村は何処へいったのかな??)
 

移ったのでは無く、地名遷移が有ったということ。
八代郡に宮原村、上宮原村、下宮原村は存在するが熊本藩領。
球麻郡の宮原村は人吉藩領ですから混同しない様に。
また米良領も球麻郡に属していたが、明治5年日向国児湯郡へ組み替え。
 
この辺の詳細は、「旧高旧領取調帳」(九州編)を参照して下さい。
[25]白石さんからのコメント(2015年07月25日 22時46分43秒 ) パスワード

村誌の人文編の写真の部分
四浦深水のみょうごうさん(妙号さん)にかけられる
掛け軸は 親鸞聖人の直筆とのことです。
伊七の家は出ていませんが
八代に行って いただいてきたものでしょうかね?



四浦袴谷の
初盆を仏式でする家の仏壇という写真では
きんきらきんの仏壇がうつっています。これは 真宗の仏壇です。

そして
初盆を神式でする家の祭壇の写真もあります。四浦大谷

どれも家の名はありません。

神式で思い出しましたが そして うちの宗派は神道ではないけど
神棚もありました。
どこでもそうだと思って不思議ではありませんでしたが
床の間には 天照大神の掛け軸がかけられていました。

川辺の方に 「天理教」の建物があるんですよね。
橘紋がついていたのを 思い出したのです。

どんつくどんつくするところですね。
天理教開祖 中山みきの霊言 - プンダリーカの部屋 - ココログ
pundarika7.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/2-bb25.html - キャッシュ

2014年11月3日 - 幸福の科学総裁の大川隆法氏が、天理教教祖の中山みき氏と、天理教の祭神(崇拝 対象)の天理王命の霊言なるものを発表し、それを『天理教開祖 中山みきの霊言』として 出版したには、大きく2つの素地があったと思う。

2 大本教
www.geocities.jp/shumeic3/oomoto2.html - キャッシュ

分かったらたいへんだからね。 そんなようなわけで応身の弥勒と言うのは観音です。 そこで観音会をつくった。観音を芯にしてやっていたからね。 つまり大本教は天理教と 姉妹教になる。 それで大本教では天理教の教祖を祀ってやっている。

なんだか わからないけど
また 伊勢に帰って きたみたいです。
大本教は伊勢神功宮に関与していますよね。




[26]白石さんからのコメント(2015年07月26日 00時02分04秒 ) パスワード

伊勢神功宮→伊勢神宮です。すみません。
ーーーーーーーーーー
五木の子守唄

或る村の近世史
P48で
「五木の子守唄」の一節
花は何花つんつん椿 水は天からもらい水
は勝清先生のつくった歌詞だと書いてます。

ーーーーーーーーーーーーー
維新になり 廃藩になって一番に村に帰農したのが士族の「吉田」さん。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
小山勝清先生の父・小山文郁(文中安藤宗栄)はとなり藩の者で 医を業としていた。文郁の実家は 熊本市無田口町。

この人の妻が 文中・生田家から来ている人、相当な家柄だった。
文中の苗字を そのまま 信用すれば 
生田家は 新田の筋になる。

非常に美しい人だったそうで それは 孫娘さんが 私の同級生で顔を知っているから そうだろうと 思います。子供の頃 百済観音の写真を見て 雰囲気がにている と 思ったことがあります。

生田家を7000傑様サイトで見ると
世良田氏へ戻る - 日本の苗字7000傑
www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01014d.htm - キャッシュ

姓氏類別大観. 《額戸氏》 義重流トップへ戻る. 【額田氏】【額戸氏】【合土氏】【合戸氏】【 合田氏】【長田氏】【長岡氏】 【鶴生田氏】【庄田氏】【生田氏】【正田氏】【勝田氏】【松田氏 】【甲矢氏】 ※上記の他【小橋氏】は甲矢氏支流、【池永氏】は額戸氏族。 ※現皇后陛下 ...
が真っ先に表示されます。

いずれ どこかの代で わかれているのでしょうけど。勿論他にもいろいろ筋があります。江州中原氏の系も。

生田家だというのが大前提ですけど・・

 





[27]子孫よりさんからのコメント(2015年07月26日 09時12分39秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、御教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様
〉移ったのでは無く、地名遷移が有ったということ。
〉球麻郡の宮原村は人吉藩領ですから混同しない様に。

御教示の意味をじっくりと自分なりに一晩考えて、大変重要な事に気が付きました。
本当にありがとうございます。
私は、おそらく「久米郷宮原村」の「宮原家」の歴史を調べる為の「出発点」からほんの少しだけ進んだ所にあった「大きな分岐点」に気が付いて無かった、いえ、その部分を無視してしまっていた・・その重大な分岐点を理解出来ていないから中世以降の「久米郷宮原村」や「久米郷」そしておそらく最後の宮原城主。そして旧久米郷在の宮原一族がどういう系なのかが全く解らなくなっていたという事に気が付きました。
ちなみに、八代郡旧宮原町に残る記録によれば、八代の旧宮原町宮原城に居城した宮原公忠の系は、公忠から数えて6世「頼重」の代では合志郡窪田村に居住し、7世「公久」で「始人吉移住」とあります。
その後はこちらの系の方々は、人吉城下にあり、相良藩の重臣として仕えていらっしゃいます。
さらに、気が付いたのですが、宮原町の資料では橘公綱(宝治元年・1247年誕生)から数えて4世で「宮原公忠」となっていて、「宮原公忠」の活動時期は1500年代。 冷静に考えても4代で「公忠」とは・・?????
この間、球磨郡久米郷に名を残した「宮原氏」。
実は、昨日、初めてお聞きしたのですが、鎌倉時代前期(寛喜年間)に建てられた久米氏の菩提寺 球磨郡湯前町の「城泉寺」寺社記に宮原一族の久米郷の領主の名が残っていました。
後日、コピーを頂けるのですが、現時点で伺っているのは
橘(宮原)公多・橘(宮原)公好・橘(宮原)道公・橘(宮原)佐衛門○○・橘(宮原)公冬(宮原在判)です。
橘道公は足利直冬に与同した久米領主として、南北朝の乱の記録に名を残しています。
※足利直冬・・「冬」・・橘(宮原)公冬・・「冬」・・橘武冬・・「冬」・・あれっ??? 今、気が付いたのですが・・偶然かな??

日本の苗字七千傑様、御教示頂いた「旧高旧領取調帳」(九州編)しっかりと活用させて頂きます。 ありがとうございます。

所で・・御報告が(..)
私、とんでもない勘違いをしていました。
うちの「宮原家」は藩士から江戸時代末期に庄屋に変わった・・と聞いていると以前書いていましたが、間違っていました(..)

歴史研究家のM様・T様より、教えて頂きやっと意味が理解出来ました。
うちの「宮原家」は明治以降大きな地主となった、相良藩士でした(..)
明治以降、小作人(何か別の表現はないのかな(..))の方を沢山抱えていて、だから、通称「庄屋」と呼ばれていたようです。
旧宮原村以外に旧岡許村や旧久米村そして旧多良木町、他球磨村等に土地を持っていた理由は、姻戚関係からの土地の譲渡や、他、何らかの理由で家に土地を渡した方がいらっしゃるようです。
曾祖父の時代の土地関係の資料などを見て頂き、その他、伝え聞いている事などをお話して、曾祖父から祖父へと渡った「所有地」の意味が見えてきました。

ちなみに、宮原の曾祖母の実家新堀家一族は人吉城下の藩士でもあり、旧宮原村にかなりの土地を所有している事も解りましたので、おそらく、曾祖父・曾祖母の結婚の際も、曾祖父に新堀家の所有する土地のいくらかが譲渡されたようです。
ですから・・江戸末期に庄屋に変わった・・と書いていたのは大きな間違いでした。皆様、すみませんでした(..)

白石様、
現相良村内の旧村、柳瀬村・深水村・川辺村・四浦村・毎床村のうち・・柳瀬村・深水村に「平川氏」の名が散在しています。
さらに白石氏は深水村に名が残っています。
白石様の御親戚の一族「平川氏」「白石氏」の先祖様・・となるのでは(^・^)。
四浦村は「岩崎氏」と「永井氏」です。

ただ・・四浦村ですごく気になるのが・・人吉城下の「宮原氏」(系の確認はしていません)が四浦にかなりの土地を所有している事が記録されています。
宮原・・「橘」・・四浦・・四浦の橘紋を使用する家々・・・
何だかモヤモヤするのですが・・

私は、鎌倉時代以降の久米郷そして久米郷宮原村の空白の歴史を少しでも見つける事が出来るように調査を続けます。
では(^・^)



[28]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年07月26日 11時44分13秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>人吉城下の「宮原氏」(系の確認はしていません)が四浦にかなりの土地を所有している事が記録されています。
 
人吉藩は球磨郡(米良領を除く)に実高64,760石。
 
例として多良木村は4、699石、宮原村は2、640石、四浦村は273石。
 
また人吉藩の表高が22,100石と実高と大きく乖離していることも注意。
薩摩と同じく外城制を採用したので、郷士身分の士族が多いことも念頭に。
[29]白石さんからのコメント(2015年07月27日 05時08分37秒 ) パスワード

おはようございます。
>白石氏は深水村に名が残っています。
所右衛門がつく家ですね。川下の方の。

善正寺 了円寺様 どちらだったか とか
川辺本家白石へ尋ねたことがありますが
違うといっていました。

本家は あっちは 別に寺ば持ってるもん と。

歴史的には
深水 田代氏は もとは 阿蘇氏家臣。のちに相良氏家老になる と。
集落に名が残るのことと 深見 田代 は 相良氏の歴史にも出るので
また 深水は 皇室領だったので 下はその筋かと・・・

阿蘇氏から菊池氏へ養子が入り 菊池に仕えていた佐竹氏族の白石はのち相良へ仕えており あやうく 接触しそうですが すこーし 違うようです。

どこかの代で わかれたのでしようが ・・・

四浦で宮原
前に書いた宮原さん
野原の分校から来ていた人で 親たちはあれは菅原たい と いっていて 私はてっきりそうだと 思っていて のち 黒川さんと結婚して熊本に住んでいるという人

野原には 上村さんもいて ヤナセの宮原さんと結婚しています。

宮原姓は 上流の方と 下流の方にありました。あとは 記憶にありません。

菊池には大友からも養子が入っていて 全体の流れからは 菊池に関与していく方が濃いいかな ? と 思います。

大友 大内 毛利は 中原つながり。

神道の祭壇の家は もしかしたら 池井さん。?

池井さんは 初神の白鳥神社の神職をしておられました。 初神白鳥 神社 谷の対岸にある霧島の白鳥神社の分身とされている。

北岳神社にも 関与。ここらの話はネットで公開されています

近畿の方の百済の王族と思われる陵のまわりに 池井があると前に新聞でみました。

或る村の近世史に 村長として原田瑞穂の写真もあります。
事跡は書いてないようですが
この人の顔も百済観音に似ている。

原田姓がいる ・・・漢王室子孫原田・・・他に 上村 下村などいる。
上村 下村は村主になった。

郡誌に 白石 平川が セットで 相良の外城を守っているところがあります。
ごくごくわずかの石高ですが・・・

村自体は  四浦から相良村へ改名しています。

四浦平家城について 今よんでいるところですが 今のところ いつごろ 誰が築城したのかはわかりません。




[30]子孫よりさんからのコメント(2015年07月27日 11時05分46秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、御教示ありがとうございました。
昨日は、外出していまして、お礼が遅くなりまして、申し訳ありませんでした。

日本の苗字七千傑様
〉人吉藩は球磨郡(米良領を除く)に実高64,760石。
 
例として多良木村は4、699石、宮原村は2、640石、四浦村は273石。
 
また人吉藩の表高が22,100石と実高と大きく乖離していることも注意。
薩摩と同じく外城制を採用したので、郷士身分の士族が多いことも念頭に。

こちらの御教示を頂き、知識の無い私は一から勉強をさせて頂きました。
(一石とか田畑の単位「町」とか「反」とかさえ解っていませんでした(..))
えええええっ!!そこから!!との嘆きの声が聞こえてくるような(..)

※米1石を収穫できる面積を1反
※米1石は、大人1人分の年間消費量
※その面積が、約360歩(ぶ)であったことから、1反は360歩に固定
※太閤検地によって、1反は300歩に改められる
※現在では、1反といえば10アールとなる
やっと意味がわかりました(..)

〉人吉藩は球磨郡(米良領を除く)に実高64,760石
〉人吉藩の表高が22,100石と実高と大きく乖離
〉薩摩と同じく外城制を採用したので、郷士身分の士族が多い

宮原村の郷士に関連して、手元に相良文書内の「三反地名前帳」があります。別名「三反地足軽」嘉永六年十月改 となっています。
「三反地名前帳」とは球磨郡中に在した沢山の郷士の中から、足軽相当へと変わった方々の名簿?です。私が頂いたのは近隣村の資料だけなのですが・・
宮原村では、22名の方々の名前が記録されています。
ちなみに、この方々は宮原村に在した郷士のごく一部だそうです。
「三反地名前帳」旧岡許村には5名の方々の名前が記録されています。岡許村にも、この方々以外に多数の郷士が居住していたそうです。

宮原村の22名ですが、近隣の上村が20名ですので、村の土地の広さは上村が宮原村よりかなり大きいのですが・・何だか宮原村は土地の割には郷士の方々がかなり集結していたような・・??
ちなみに、上村は3986石。(旧高旧領取調帳で調べました(^・^))

上記の22名は先日コメントした、通称「地頭」と呼ばれた肥後相良藩士分限帳に残る宮原村付けの12名とは別の方々です。
その地頭と同姓の方が、さらに城下藩士(城内)の名簿に「宮原村」繋がりの記述と共に記録されています。(まだしっかりと確認出来ていないのですが、現時点では宮原姓・新堀姓・蓑田姓などが見えます)

上村 3、986石 宮原村2、640石。
宮原村は大変だったろうな・・・(..)っと思いながら、ふと、ある記述を思い出しました。
明治以降、旧宮原村・旧岡許村には熊本県内各所、八代や特に天草方面から集団で移住されて来られた方々が非常に多い・・という事です。
何故なのだろう?と思っていたのですが、先日、全くの偶然にも父の知り合いの方が遊びに来られまして、子供の頃の話をされていた所で、その方の家のすぐ隣に住んでいらっしゃった方の思い出話が出ました。
「あのおじいさんは、天草から岡原に来られていた。天草では岡原に住めば田畑が豊富で、必ず食べるには困らん!と皆が言い、こぞって、岡原に移って来られた。この話は水俣や芦北、八代方面でも有名ですよ!」
と伺ったのです・・
宮原村は1600年代に完成した幸野溝が村の上部を横方向(上村方向)につらぬき、なお且つ、同じく1600年代に完成した百太郎溝が、多良木方向から、村の中央部少し下を横方向(免田方向)につらぬいています。
黒原山の麓以下は全て広大な水田地帯で、旧築地原の辺りまで水田が広がっています。

何だか、宮原村2、640石の数字がモヤモヤしてきました・・(?_?)
そこで、旧高旧領取調帳をじっくりと見たのですが・・

木上村 3,452石 深田村 2,851石 須恵村 2,495石 岡本村1,533石
岡本(岡許)村1,533石も・・??何だかモヤモヤ・・

地元に住んでいるから解るのかもしれませんが・・深田村と須恵村と宮原村が近い石高?。 今でも一目了然、水田地帯の広さが何だか違うような・・???

須恵村 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E6%81%B5%E6%9D%91
面積 17.98km²
地理[編集]
熊本県の南東部、球磨郡の中央に位置した。北部は面積の7割を占める山地と一部が畑地帯となっている。南部は水田地帯となっている。

岡原村 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%8E%9F%E6%9D%91
面積 20.23km²
地理[編集]
熊本県の南東部に位置し、村の南東部は山地となっており、北西部は水田地帯となっている。
山:黒原山

(?_?)・・何だろうモヤモヤが・・
須恵村は面積 17.98km²で面積の7割を占める山地と南部は水田地帯。
すなわち面積のおよそ3割が水田地帯。須恵村 2,495石

黒原山の反対側は久米領槻木村という事でお解り頂けるかと思うのですが、岡原村はおそらく村の面積20.23km²の7割以上は水田地帯だと推測します。

宮原村 2、640石 岡許村 1,533石 単純に合わせて4173石
こうやって、考えると岡許村の1,533石も・・・何だかモヤモヤします・・

相良藩の、地元に残る不思議な?伝承、「実高は10万石以上はあった」
あくまでも、伝承ですが、この「不思議」な部分になにか関係しているのでは??と。先にも記述したように、村内の郷士の数もかなり多いようで・・

幕府は何か知っていたのでは?
人吉藩(相良藩)は幕府に治める「税率」が全国の藩内で3番目に高いのですよね・・
うん(p_-)逆に、そうだから、何らかの「処置」?が藩内で取られていたのかな??
これも、郷士を多数抱える藩の苦肉の策だったのかも・・??

近世人吉藩の懐事情 というサイトを見つけました。
http://bushispirit.blog.shinobi.jp/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F/%E8%BF%91%E4%B8%96%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9%E3%81%AE%E6%87%90%E4%BA%8B%E6%83%85
近世の人吉藩は、球磨郡と日向国児湯郡米良谷(こゆぐんめらだに)・同東臼杵郡椎葉山一帯を支配していました。
椎葉山を支配するに至った経緯は、犬童清兵衛頼兄カテゴリーの『犬童頼兄のお嫁さん』で書きました。
さて。
藩を運営し、土地を管理するには銭が必要です。
人吉藩の財政はどのような具合だったのでしょうか。

宝永7年(1710)の「御三使様御家来衆庄屋町人共応侍之覚」によると。
表高は2万2100石余で、実高は5万2900石余、うち蔵納高は2万4300石なので、年貢米としての実質的な収入は約半分程度だったそうです。
貞享(ていきょう)2年(1685)から宝永6年までの25年間に生じた新田高は4875石7斗でしたが、これは表高から外されていました。
さらに、小物成(雑税)は桑・漆・茶・楮(こうぞ・繊維作物)で、米に換算すると489石4斗4升。
これは当時の相場、石あたり銀50匁として24貫472匁になります。
畑租の銀納は、上々畑1反に銀5匁、以下畑等級ワンランクごとに1匁くだりでした。
中略・・
当時の人吉藩の支配体制は、中世的な兵農未分離の状態だったそうです。
幕藩体制になったと言えど、中央から遠くその影響を受けにくい人吉藩は、その低い農業生産能力のために武士が外城や伝来の農村に住み、土地や農民を直接支配するという中世的な社会構造を自然と維持していたようです。
社会構造だけでなく、貢租の中に年貢・公役のほかに公事が課されている点も中世的です。

(゜-゜)こちらのサイトで、江戸後期の藩の緊迫した財政や、それを助けた「大阪の近江屋と薩摩藩」という記述もありました。

すごく長くなりましたが、今朝も新たに勉強をする事が出来ました。
日本の苗字七千傑様、本当にありがとうございました。

白石様
郷土の歴史を研究する会に、私、入会させて頂きましたので、白石様の故郷「四浦」についても、色々教えて頂けると思います(^・^)
お待ち下さいね(^・^)

では(^・^)
[31]白石さんからのコメント(2015年07月28日 22時31分15秒 ) パスワード

こんばんわ
石高 お米なんぞつくってもお殿様の口にはいるばかり
つくらずとも 川ではあゆ うなぎ やまめ 川にな しじみなどとれるし
そばや さつまいもなど食べていればうえはしのげるし

開けた水田のダダ広いところより
山の中の方が 実際生活では生きていける

とんち話ではないけど
土の上にとれるものを年貢にすれば土の下にとれるものを作り
反対なら反対のものを作り
百姓の知恵みたいなものでいきていたのではないか?と思えるところがあります。

私も学校帰りに 三つ葉 セリ ふき うど などなど およそ 食べられそうなものをつんで帰り どこそこの竹林ばい と 言われていない 川沿いの竹林から たけのこを掘って帰り 季節はいつだか 山芋を掘り 
お茶つみの帰りには ぜんまい こごめなど栗ひろいの帰りは 柿やリンゴやあけびや 水あそびの時は 木になっている甘い実をとって
およそ 食べるには困りませんでしたね。

そんなこんなを知っていると 不便はないもので
白石の祖母など 関東に移り住んだ 姉夫婦のところですむようになっても 近くの田んぼから せりなど とってきて あえものにしたり クレソン のびる と いろいろ とってきて おかずをつくっていました。

そのぶん お金はつかわずに すみますしね。

四浦で何がほしかったかというと 現金で それも まだ その頃は あまり なくてもこまらない くらいでした。

急激に お金がないとダメ 
これからは 学歴社会ばい と いうようになりましたね。 
江戸時代では 五木などは よそ者が入り込めば切り殺されていた

辞典に書かれるように 人吉で飢饉で二万人からの餓死者を出した時も 四浦では一人の餓死者も出さず 貧しくはあったが 渡世に困らず

尾方先生の祭礼の時の行列で思い出しましたが
「先生のとおんなっばあい」という声に 少しの坂をかけおりて 県道に出てみたらちょうど先生が馬で通られるところで

普段は人などどこにいるのか? と 思うようなところなのに
もう その時は 道を埋め尽くすほどの人で おそらくは 川向の初神からも人がきていたのだろうと 思うけど いっぱいの人が 道にいました。

うち自体は核家族になっていたけど
高岡の戸籍は 32人ほどついていて 尾方の家も 知っている分では 親せきの家族も同居していたようです。

書かれている数字からはなかなか 実態はわかりませんね。


[32]白石さんからのコメント(2015年07月28日 23時38分55秒 ) パスワード

四浦平家城
明治の頃絵図を内閣文庫に収めたが 関東大震災で焼け落ち 熊本は複写をつくっていたから わかった といい 現在熊本大学に収められているという。

城は 上 下と二か所あり ひとつは 詰め城で いわば 最後の砦というもの。
これを考えると 時代は古いと思われ 記録はないかもしれないと思うけど
城を作った人の候補には 
宮内左衛門 平貞尚 太田某 などが あげられています。

村誌P178では 平河惣領「平河弥三郎頼貞」の一族に 馬関田庄詰所「平河宮内左衛門入道観覚」とあります。
南北朝の内乱の中で 平河氏は北朝方の年号を用いている。しかし 北朝方であったことをうらづける資料は少ない。また球磨郡の内乱が永吉庄を舞台に展開していく。このことは平河氏の生産基盤に大きな打撃を与え勢力が衰退する原因になったとも考えられる。
以後 平河氏は人吉庄の平河一族を中心に
人吉相良塩支配下に組み入れられていく。

※貞
(うちの平川が定長)
う〜ん
[33]白石さんからのコメント(2015年07月29日 00時21分13秒 ) パスワード

平貞尚は 平川集落の地蔵堂の再建もしています。この地蔵堂は 人吉願成寺二世が親族に謀殺されその霊を慰めるために建てられたもので
郡誌に書かれる二世の名と 実際とは違い
だれかが すり替わった可能性がある。
[34]子孫よりさんからのコメント(2015年07月29日 12時28分56秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、
勝手ながら、メールを送らせて頂きました。
お忙しい中申し訳ございませんが、ご覧頂ければ大変ありがたく存じます。
[35]子孫よりさんからのコメント(2015年07月29日 21時59分07秒 ) パスワード

白石様
御教示ありがとうございます(^・^)

四浦の平家城城主に関して、現在、様々な推論が展開されているようです。
早く、何らかの糸口が見つかると良いですね。

所で・・
今、私は体調を崩していまして、中々思考回路が働きません。
プクプク太ってしまったので、今日は完全に食欲がありませんから、これで「ダイエット?」になるかな???
心が苦しいのは、一番身体に応えますね。
父や主人に心配かけないように、早く元気になりたいです。

コメントは体調が回復次第、書かせて頂きます。

猛暑が続いていますので、白石様もお身体には十分お気を付け下さい。
では。(^・^)
[36]白石さんからのコメント(2015年07月30日 17時40分53秒 ) パスワード

こんばんわ
子孫様大変ですね。
私も昨日久しぶりに病院に行きました。

体調は良かったのでうきうきと行きましたら 血糖価が異常に上がっていて280
になっていました。
お昼は何を食べましたか?
おにぎりとサラダです。(栄養指導のとうりです)

朝は?
牛乳と野菜とカロリーメイトです。
カロリーメイトは血糖値をガーンと はねあげるのよ。知らなかった?
ガーン!!知らなかった。

夕食は?
暑くて暑くて 食欲が出なくて 食べませんでした。
空腹は体が糖分を出して維持しようとするから血糖値があがるのよ 。
 
ということで がっかりでした。
そういえば去年の夏です。目の調子がおかしくなり 我慢して 今年二月病院へ行ったのは・・・

子孫様 新陳代謝の狂いは体のやわらかい組織をいためるので 本当にお気を付けくださいね。私 とにかく お野菜だ と 思って がんばっています。
一回の食事量は片手のひら いっぱいくらいだというのは 仕事をしているから すこし 勘弁して・・・と いうところですが・
でも もう 馬鹿食いは していません。

どんなお宝より 健康が一番ですね。
[37]白石さんからのコメント(2015年07月30日 20時13分36秒 ) パスワード

平河又三郎頼里は「平河小三郎師頼」と共に人吉庄一分地頭(相125・160)であり師頼は人吉庄目良生村地頭で「目良生師頼」とも名乗っている。

観応の擾乱後 作成された相良定頼併一族等所領注文(相161)の中に、永吉庄地頭で惣領の「平河左近充」が見える。

文和二年(1353)11月惣領の平河小三郎貞継の弟定家・貞世兄弟は筑前・豊前・大宰府を転戦し貞世が討死した。

永和3年(1377)10月南九州4か国の61人が神水契状に参加した。この中では球磨郡が最も多く「平河兵庫充師門」の名前も見える。

この人物は永吉庄地頭の平河氏にも見えない。
このことから人吉庄の平河一族である可能性がある。
※人吉庄一分・・・うちの平川の嫁は一武から来ている。
関係ないとは思うけど。このころは恋愛結婚になっていて お見合いなのか恋愛なのかわからない。
※筑前・豊前・大宰府と転戦
これも関係ないとは思うけど 筑前には平江の親戚・伊津野がいて 豊前には豊前宇都宮流佐田氏の名が・・・阿蘇氏は宇都宮の家来になっている。
※観応の擾乱 激しく動いたころですよね。このころは高岡も武士だったと思うのです。同じ字を書く地域の高岡は曹洞宗です。

資料が少ないのでゆっくりほぐさなければわかりませんね。
[38]白石さんからのコメント(2015年08月01日 18時17分19秒 ) パスワード

こんばんわ
久しぶりに同級生から電話がきたので 平川姓が四浦にあったか?と聞いてみました。
その子も 平川いうたら あなたの集落にあったでしょう。他には うーんと 六藤にあったかな・・・ 
私 九州電力につとめとんなさったっじゃろうか?
うーん 余り記憶にないけど・・・

それから 小山先生の孫娘さんの話に移って

 家に遊びに行ったら 勉強しとって 誰か男の人が横についとんなさったっとよ
同級生
 家庭教師がついてたんや どうりで 頭が良かった
と たわいない話になりましたが

子孫様
おばあ様はあさぎり町のかたですよね。
ご先祖のときに そちらに移って行かれたのでしょうか?

同級生たちはたいてい あちこちの話をしっているのですが 平川姓について 余り知っていません。

うちの平川男子≪一つ下≫は 他の誰も 四浦平家城の存在を話していないのに 「四浦平家城」のあったと と 言っていました。
[39]白石さんからのコメント(2015年08月02日 20時11分55秒 ) パスワード

>村誌P178では 平河惣領「平河弥三郎頼貞」の一族に 馬関田庄詰所「平河★宮内左衛門入道観覚」とあります。
南北朝の内乱の中で 平河氏は北朝方の年号を用いている。しかし 北朝方であったことをうらづける資料は少ない。また球磨郡の内乱が永吉庄を舞台に展開していく。このことは平河氏の生産基盤に大きな打撃を与え勢力が衰退する原因になったとも考えられる。

過去に平川の話から 藤堂家がでました。丹羽長秀の子:高吉が養子。
藤堂家について

名張藤堂家(なばりとうどうけ)は、江戸時代の藤堂氏の一門。代々★宮内を称し、★藤堂宮内家ともいう。藤堂高虎の養子・★藤堂高吉を祖とする。

藤堂高虎の父は★三井虎高(藤堂虎高)で、母は藤堂忠高の娘・おとら(多賀良氏の娘・盛 との説もある) 父の三井虎高は、若くして ... 有能な武将であったが、他の家臣に嫉妬 され★武田家を離れると、★近江犬上郡藤堂村に戻り、藤堂忠高の娘と結婚して養子に入っ た。
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うちの平川がつながっていくかどうか?ですが
まわりに溝口がおり
高岡 佐田 とからめば なんとはなく もやもや と したものがあります。

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また子孫26より
  宮原一族の先祖「橘公綱」の同母兄★「平頼綱」の妻は★「飛鳥井 雅有」の娘。
飛鳥井家3代当主。
★肥後高岡氏の祖である「飛鳥井雅親」この方は飛鳥井家8代当主ですね。

飛鳥井家 ウィキより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E5%AE%B6
飛鳥井家(あすかいけ)は、藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流である。家格は羽林家。

こちらも かぎりなく うちの高岡に近いのではないか?と 思うのですが
じつは もう一つ
ネットで 冬嗣にはじまり 西園寺公つねをとおる 高丘をみたのです。
これが気になって そのあと もう一度 検索をしようと するのですが とうとう出てきません。

こちらなら
伊予の地を 橘公業から西園寺公つねが 幕府の外戚をかさに 強引に取り換えた というとき ★公業がおい 公つねがおじ の関係は 高岡が高岡系図で橘氏のとき ありうる。
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上にかえって
三井氏は 山内氏でもある。



[40]白石さんからのコメント(2015年08月02日 21時14分39秒 ) パスワード


 > 宮原一族の先祖「橘公綱」の同母兄★「平頼綱」の妻は★「飛鳥井 雅有」の娘。
飛鳥井家3代当主。

★平頼綱 頼がついている。
★宮内は頼貞の一族

ちぢめて書けば 平川 高岡の姻戚関係ととらえられ
藤堂遠祖は
藤堂氏は江州中原氏(舎人親王裔、旧説は崇峻天皇裔)だが

球磨で 中原清業は 坂上だった。

佐田も中原を称していた。
佐田は 藤原道兼子孫でもある。

坂上は 漢王室子孫という。

このとき
良岑は 劉邦出自に 関わってくると 私 過去に書きましたけど そうなのではないのか? と 思うのです。

高岡は 秦。
劉邦は 漢。



でも これも ゆっくりほぐさなければ・・・・
[41]白石さんからのコメント(2015年08月02日 23時25分28秒 ) パスワード

高岡の方で気になるのが



高政は毛利姓を名乗っているが、長州藩の大江姓毛利氏との血縁関係はなく、高政は本能寺の変が起こったときは秀吉に従って備中高松城にあったが、秀吉の中国大返しのとき、秀吉の命で兄・重政とともに毛利家の人質となった。高政の元来の姓は★鯰江氏の森であるが、毛利輝元から大いに気に入られたため、兄弟ともに毛利姓を与えられ、以後は毛利と称したものである

毛利 高政(もうり たかまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。 ★豊後佐伯藩の初代藩主。 父は森高次。母は瀬尾小太郎の女。兄に毛利重政がいる。正 室は木曾義昌の娘。子に毛利高定(長男)、高成(次男)、娘(松平重長室)
鯰江高久 ★六角満綱の三男 ★三井乗定の養子. 鯰江尚昌 鯰江高久の子. 鯰江実忠 鯰江 高久の子. 三井安隆 鯰江実忠の子. 鯰江義尭 鯰江尚昌の子. 鯰江為定 三条為季の子 母:★江尚昌の娘 鯰江義尭の養子. 鯰江定秀 鯰江為定の子. 鯰江氏秀 鯰江為定の子.

六角氏 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/六角氏 - キャッシュ

六角氏(ろっかくし)は、日本の氏族の1つ。宇多源氏佐々木氏の流れを汲み、鎌倉時代 から戦国時代にかけて近江南部を中心に勢力を持った武家(守護大名)。なお、藤原北 家流の公家六角家とは血のつながりは無い。

藤原北家の筋
園基氏

生没年:1211-1282
父:権中納言 ★持明院基家
むすめが西園寺公相の室になっている。公相は西園寺実氏の子供。

園基任は
妻:
1602-1656 壬生院 京極局 光子(後水尾天皇後宮)

娘(権大納言★ 柳原茂光室)文英尼

で 柳原家の愛子が明治天皇

園基福
妻:(父:備後福山藩二代藩主 水野勝俊)
1675-1695 (養子)★波多基維(六角家へ)

園基香の妻は
妻:(父:兵部大輔 高倉永重)
1721-1794 基衡
1738-1786 六角知通(六角家へ)
1725-1791 (養子)壬生基貫(壬生家へ)

園基衡
妻:(父:権大納言 高倉永房)
1747-1790 高野保香(高野家へ)
1752-1773 基村
1758-1815 基理
娘(参議 六角光通室)
娘(千家俊秀室)

園基茂

生没年:1793-1840
父:権大納言 中山忠尹
義父:園基利
妻:季子(父:肥前平戸藩九代藩主★ 松浦清)

1833-1905 基祥
娘(左近衛権中将 藤谷為兄室)
1816-1841 (養子)基万
1817-1906 (養子)★愛子(准大臣 中山忠能室、父:肥前平戸藩九代藩主 松浦清)→→→この方たちの女子が明治天皇ご生母と公表されている。

細川利文

生没年:1865-1944
父:伯爵 園基祥
義父:肥後熊本新田藩十代藩主 細川利永
1901-1944 子爵
妻:細川同子(父:肥後高瀬藩主 細川利永)
1890-1946 利寿
1896-1975 長岡護孝(長岡氏へ)

細川利寿

生没年:1890-1946
父:子爵 細川利文
1944-1947 子爵
妻:毛利艶(父:子爵 ★毛利元功)
1917- 素子(夫:★伊達宗英)
1920-1989 利康
1924-1983 利喜(妻:増田鋭一郎女 久恵1922-)
1927- 幸子(夫:ビィル・メリル)
1929- 季子(夫:ダン・トラクセル)
※※又 肥後 宇土藩主家も毛利佐伯藩と関係している。
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武家家伝_毛利(森)氏
www2.harimaya.com/sengoku/html/m_mouri.html - キャッシュ

毛利氏は★宇多源氏佐々木氏の一族である。すなわち、佐々木泰綱六代の後裔にあたる ★六角満綱の三男高久が、その祖とされる。高久は、★三井乗定の婿養子となって、近江国 鯰江に城を築いて住し、これより藤原氏となり鯰江を称した。と。

ながくなりすぎましたが
過去に公卿辞典の中のたかおか を 追いかけて見ましたが いろいろ あちこち 養子養子でつながっていて あとまわしにしようと 思っていました。







[42]白石さんからのコメント(2015年08月04日 18時55分37秒 ) パスワード

こんばんわ
猛暑日が続いて 体が 持ちそうにもありませんが 何とか頑張っています。
とはいえ 朝は 前より少し涼しくて だんだん 暑さも落ち着いてくるのではなかろうか と 肌が感じています。

キュウリが できて 「冷汁」で いただいています。ほっとします。

同級生から この間 6人くらいまで海外の交通費が無料のぶんがあるから イギリス フランスなど 20日くらい 豪遊してきた と 電話してきました。
お誘いではなかったです。

何をつかったのか? たぶん そういう特典がついている海外株を持っている とか? なのだろうと思いますが

渡辺姓の人と結婚して マンションも複数手に入れて 社長夫人で 出世頭だよねえ  と 他の同級生と話しているのですが

世の中知ると知らないとでは 大違いの人生になると 思います。

他にも 音響の会社の社長に教えてもらったことですが
皆は海外旅行といえば パックで行くが 
自分は 交通費は出すけど 向こうでは自炊をするのです。 
そうすれば 人が 一回行くところを 二回 三回楽しめるのです。 
と いうこと。

そのときは 話は話で 終わりましたが  ・・・その後も 海外旅行は会社から連れて行ってもらったきりでご縁がありませんでしたが

海外で お土産を買って 支払いを カードでするとき 
為替差益  損が関係する?
という意味のことを お店の人に教えていただいたのです。
つまり カードの支払期限までに 自分にとって有利に展開すれば 今の値段よりはるかにお安く手に入れたことになる。 と。


母が 昔手に入れていた金の指輪が何個かありました。今度 思い切って処分しました。結構なお値段になり よかった。
もっとお金持ちなら 一生手放さず持っているでしょうけど・・・
昔の女性が 宝石を身に着けているのも 
家土地などは 女では守りきれない 身に着けるもので 財産にしたのか? と 思います。

指輪などは シンプルがいいようです。宝石がついていてもとる手間賃の分売るときは安くなり 傷がいっていると さらに安くなりするみたいです。

味を占めたので 子供には 金が安くなったら 延べ棒で 買っておきなさいと 教えようか?と。

[43]白石さんからのコメント(2015年08月04日 19時09分56秒 ) パスワード

清盛の宋との貿易
Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/日宋貿易 - キャッシュ

日宋貿易(にっそうぼうえき)は、日本と中国の宋朝の間で行われた貿易である。10世紀 から13世紀にかけて行われ、日本の時代 ... 平治の乱の直前の1158年(保元3年)に大 宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ

詳しく見ると
越前守でもあった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになった。

平氏政権が成立すると、平氏は勢力基盤であった伊勢の産出する水銀などを輸出品に貿易を行った。平治の乱の直前の1158年(保元3年)に大宰大弐となった平清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。

また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行う。1173年(承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、3月に正式に国交を開いて貿易振興策を行う。

清盛は車引きをしていたのでしょう?
でも 目は大きく 海外へ向いていたのですね。
[44]白石さんからのコメント(2015年08月04日 20時07分15秒 ) パスワード

今日はテレビでコーカサス地方の特集をしていました。

大要は 石油を売って大金持ちに・・・
でも 戦争でお金が全国民に行きわたらず 格差社会が・・・
はるか古代に ノアの方舟が流れついた アララト山が近くにある。

過去に本で見たのですが 
エホバの証人 というのは 中原という人が関与していると・・・

コーカサス - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/コーカサス - キャッシュ

厳密には、ロシア連邦クラスノダル地方のソチ周辺はコーカサス山脈の南、 アゼルバイジャンのダヴァヒ県(英語版)・クバ県(英語版)・クサル県(英語版)・シアザン 県(英語版)・ハヒマズ県(英語版)・ヒジ県(英語版)はコーカサス山脈の北に位置する。

詳しく見ると
全体的に山がちな地形で、山あいには様々な言語、文化、宗教をもった民族集団が複雑に入り組んで暮らしており、地球上でもっとも民族的に多様な地域であると言われる。
この地域には人類が古くから住みついていたことが分かる証拠として、紀元前9500年ごろの金属器が発見されている。
ロシア革命が起こると、南コーカサスではアルメニア、グルジア、アゼルバイジャンが1918年に独立を宣言するが、相互に対立を続けるうちに1921年に赤軍の侵攻を受け、1922年にザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を結成してソビエト連邦に合流した。

人類の四大人種のひとつであるコーカソイド、英語で「白人」を意味するCaucasian (コケージアン)も同語源である。


アララト山とコーカサス | 会員エッセー | 日本記者クラブ ...
www.jnpc.or.jp/communication/essay/e00011837/ - キャッシュ

ここでは、ノアの箱舟がおりたというアララト山(5165m)にとにかく会いたかった。 ... アララト山はトルコ領内だが、手にとるように近くに見える。 ... ブドウ栽培の発祥地は どこかというと、約5000年前のコーカサス地方から地中海東部海岸地方、が定説 らしい。

せっかく得た利益も 戦争に食われて弱者に行きわたらないのはよくありませんね。
皆が幸福になる道を歩んでほしいものです。



[45]白石さんからのコメント(2015年08月06日 06時49分58秒 ) パスワード

おはようございます。
四浦の岩崎・永井家
岩崎さんは一つ下にいました。父は村役場の防災課長をしていて 家は薬屋でした。初神にありました。
永井家も初神で ここは いつぞや 火事で夫婦ともになくなられました。
岩崎家には 堀川 中村をとおして ぐるりとつながるものがあり
永井家は 木下をとおして つながるものがあります。

中村は うちの平川へ血が入ってくる筋があり
永井に関する木下家は 直接うちとつながっていませんが 同じ集落で いずれつながってくるものがあるのでしょう。

岩崎家は 中央のおおきなところでは 三菱にかんよしているのですね。ウィキにその閨閥つながりが書いてあります。

日本人の姿かたちを見ると どうみても アジアですね。ずうっと 上の人を見てもそうだと思います。

特別違って見えてもやはり 枠の中にいるみたい。
この頃 出雲大社とか 出雲特集のテレビを見て
お店で働いている女性の顔が出ましたが 近代風で 目がくりっとしていて お口はすこし 大らかで 顔は小顔で きれい!!と思う人が出ていました。何人か出ていて あちらは ああいう系が多いのかしらんと 思ったほどです。

伊勢も丹後・丹波から出てきていて 球磨も出雲に通じているような節があり 出雲は日本の原点の一つですね。

弟の容態が余り良くないみたいで 頸椎をやられているみたいです。
すこし いそがしくなるかな と 思います。
がんばらなくては・・・
子孫様 お体くれぐれもお大事に。まだまだ 暑さはつづくと思われます。

毛利高丘をほじくりかえしていると 村上水軍 河野通信など出てきて こちらもう〜ん にたグループだなあ と 思います。
[46]白石さんからのコメント(2015年08月12日 23時00分04秒 ) パスワード

こんばんわ
子孫様 お体だいじょうぶでしょうか?
 
私事 弟は脊髄損傷とかでほぼ寝たきりの状態になったようです。
離れているので ぱっぱと対応するのがむずかしく

10月に会いに行くため手配しているのですが
なにせ いるところが山の中で交通の便が悪く 車の手配ができなければ行くこともできません。

当然 金銭的負担も重く 気持ちばかりが走って ・・と いう状態です
父母の時もそうで 大阪に帰ってきたかと思えば もう 呼び返されという状態で 自分たちの生活費もやっとの中では とても 満足のいくことではありませんでした。兄などそのせいもあって 仕事を追われるがごとくになて・・・が ともかく やらなければ と 思ってます。季節が涼しくなっていくのが救いです。

先日 テレビで クレオパトラの鼻というのをやっていました
昔 エリザベス・ティーラ―だったかが やっていたイメージがあって 
その余りの違いに ぶっと なりました。

カラス天狗のような 鼻だったのですって。つまり 鷲鼻。

もちろん 本当かどうかは ?です。

しかし 俵淘汰 平将門 蚩尤のお顔は 大天狗のように ぎゅーんとたかいのですよね。
カラス天狗の鼻は 竹内宿ねがそうだったとネットで見ましたが・・・


マチュピチュなどに先祖のつながりを求めているネットも見ましたが
マヤの人の顔は 平面なのですね。



[47]白石さんからのコメント(2015年08月13日 00時23分08秒 ) パスワード

少林寺は曹洞宗

又 少林寺のドラマも見ました。なかなか おもしろかったです。
棒術は房を大分進んでから習得するものなのですね。

武内氏(竹内)の 古武術・棒術。橘神道と竹内氏。
武内の系は波太氏などもいて 平群氏をとおってきています。

日本の苗字7000傑様サイトでは

本来は平氏も 平群氏(もしくは平野氏)と名乗るところを唐風一字姓化の流れに沿ったのだろう。
と書いています。

清盛は母が高氏としても
平忠盛は平群氏だった?

で 少林寺 曹洞宗 最澄 と ばらばらのつながりですが ともかく 話がつながるものが出てきて もちろん 血系がつながるとか 我々のご先祖様云々ではありませんが・・

毛利高丘
法号 ★蘭陵院香全性大居士

欄陵の意味
戦国時代の楚 (そ) の邑 (ゆう)

『蘭陵王』(らんりょうおう、原題:蘭陵王)は、2013年に制作 された中国・台湾のテレビドラマ。南北朝時代の北斉の高長恭(蘭陵王)を主人公とした 時代劇・恋愛ドラマである。
この人は絶世の美形で 仮面をつけて戦場に赴いたという人。
拓跋につながっていく。

又 楚という国は 高陵君 けいよう君の母の国。この国の人は風貌がほかの国と異なっていたという。

中国では、4世紀頃まで朝鮮半島南部にあった三韓の一つの辰韓も、秦と表記 することがある。

北斉の前身は 北義で その前は 高句麗が敗れた後 その遺民が たてた渤海。このあたりは 書き方が少しあやふやですが。

渤海の使者・うすぼつ が やってきたとき 自分とこの王と天皇家は昔   本枝の間だったのだから 付き合いを復活しようと言ってきて 日本の方も そうだ といって 国交がふっかつした という話。

楚の羋姓
为の言葉も出ている。
この氏は 顔立ちが 杉原さんにつながっていた。








[48]白石さんからのコメント(2015年08月13日 00時41分47秒 ) パスワード

最澄と少林寺
SportsClick:格闘技


www.sportsclick.jp/combat/01/index09.html - キャッシュ

研究家の藤原稜三先生は、最澄と武術のかかわりは、その師である行表が師事した、 735年日本に渡来した高僧・道センにつらなる ... この五祖弘忍の弟子に神秀と並んで法 如(638〜89)がいるが師は衰退した少林寺を再興した人であり、神秀の弟子普寂は ...

日本の武術はどこから来たのか?それが紀元前にインドまで攻めてきたアレキサンダー大王と結び付いているとしたら?古代オリンピックのトレーニング制度とも関係あったとしたら?実はみんな大いに関係があったのだ!アレキサンダー大王から始まる日本への武術の道……悠久の時を越え武術ロードが甦る!

などと 壮大な話になってひろがっていきます。
[49]白石さんからのコメント(2015年08月14日 16時10分57秒 ) パスワード

こんにちわ。
子孫様 お体大丈夫ですか?
さしもの暑さも心なしか陰り始めて 今日はセミの声も聞こえません。

太る
私も一時期 息をしても太って太って というじきがありました。
病院で 息をするだけでも太ります。と言ったら
「あんたは 食べてない 食べてない と 言いながら 食べてる
」と一括されました 。

前に最澄が中国に行って 習得が早いことについて書いたことがありましたが
少林寺から 最澄をもう少し 調べてみました。

最澄
・漢王室孝献帝子孫と伝える。美津首氏。平安時代の貴族の子弟。
・先祖・孝献帝(実母・王氏。)の苗裔・登万貴王 なり 
・父は百枝(ももえ)。
母は藤子(とうし)
・ 藤子は応神天皇の9代の孫で、かつ藤原房前(ふささき:不比等の子で、藤原四兄弟の次男)
のひ孫という説もあるが、真偽は定かではないらしい。幼名は広野(ひろの)。
ーーーーーーーーーーーーーー
最澄は先祖はだるま だとしている。
・「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉です。
・「達(ダチ)」を「ダル」と読むのは、中古漢語の入声[t]が朝鮮語漢字音で流音[l]に変化したためで、達[dat]は朝鮮半島で[dal]に変わり、その音が日本に伝わったためといわれています

ここでひとつおもしろい発見をしました
達摩との表記もありますが、いわゆる★中国禅の典籍には達磨、★古い写本は達摩と表記されています。
★★★球磨郡 石を書く

達磨ですが

・曇林が伝えるところによると、南インドのタミル系パッラヴァ朝において国王の第三王子 として生まれ
・ 南天竺国香至王の第三王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨(ボーディダルマ)になった、ということになっていますが、

時に西域の沙門で菩提達磨という者有り、波斯(ペルシア)国の胡人也。起ちて荒裔(はるか)なる自(よ)り中土に来遊す。
〈塔の〉金盤日にかがやき、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。と。

タミール系王朝とは
南インドのドラヴィダ系タミル人の国。スリランカ、スマトラに進出。 インド南部東岸・・・・・ たドラヴィダ語族系のタミル人の国。

ドラビダ族とは
出雲向家の人が先祖としている族で 4000年前には日本に来ていて奈良時代までは歴史上 重要な地位を占めていて
パピルスに書かれた古文書があったという話がありました。


達磨が来たとき 中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁がおさめていたが、縁なしとして 北魏に行く。

達磨は嵩山少林寺にいた。

禅宗で「祖師西来意」(そしせいらいい:達磨大師が西から来た理由)と言えば、「仏法の根本の意味」ということです。



★★波斯(ペルシア)国の胡人也
仏教を伝えた人にも胡人がいたのですね。

[50]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年08月14日 22時58分35秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

白石さんへ
 
以前に説明をしたが、秦はペルシャからの借史。
キルス2世(懐公)からダリウス3世(孝文王)まで一致。
荘襄王(ベッソス)は帝国崩壊で敗走。
次の始皇帝は漢土西部から快進撃で秦帝国を成立。
また秦(シン)の音を借りて後世、晋、前秦、後秦、西秦、後晋、清と、
中国王朝にすこぶる多い。

滅亡後は半島に辰(秦)韓を建国、辰韓滅亡後は後裔の弓月王が来朝。
 
ペルシャは漢土では太秦と呼ばれる。
秦氏は本朝では、太秦(うずまさ)に本拠を構える。
 
また一説に秦氏はユダ族との異説も存在する。
「秦氏の正体」を参照のこと。
http://www.historyjp.com/articlelist.asp?bu=22
[51]ミヤハラよりさんからのコメント(2015年08月15日 10時55分33秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、白石様
メールを送らせて頂きました。

猛暑が続きますので、お身体には十分お気を付け下さい。

ハンドルネーム「子孫より」をあらため
ミヤハラより
[52]白石さんからのコメント(2015年08月16日 14時59分22秒 ) パスワード

こんにちわ
子孫様 メールは入っていませんでした。
前の時のように家のまわりにポストが四つもある状態か?と思いいろいろ開けてみましたがだめでした。

一月付のメールは 例の H動画にばけていました。

弟は今日明日という状態ではなさそうで 一安心です。
山の中なので とんぼ返りというわけにいかず 泊まるところもなく
温泉旅館などは 女一人は泊めてくれず 10月の連休に娘と泊まると あっという間に交通費も含めて結構なお金がふっとびます。

気持ちばかりは空回りして という状態です。

七千傑様 ご教示ありがとうございました。
相良村誌には 海を知っていた人吉・球磨の人たち
川辺川をみおろして暮らしていた人たち
など書いてあり
縄文の頃 春夏は海で 秋冬は山で 移動しながら暮していた人たちがいたこと

丁度萩の家があるところは 昔の道路だったところの高さと同川下の深水集落は
[53]白石さんからのコメント(2015年08月16日 15時14分06秒 ) パスワード

丁度萩の家があるところは 昔の道路だったところの高さと同川下の深水集落は

川下の深水集落は 皇室領
川上の深水集落は野原の近く

このあたりは早くに人がすんでいたようで
そのあたりのことを村誌を読んでみたいと思います

戦後だったか 調査が入ったと思います;
川の上を飛行船が飛んで行って 人が のぞいていたのを 家の前の柿の木の間から見ていました。

[55]白石さんからのコメント(2015年08月18日 21時20分40秒 ) パスワード

こんばんわ
子孫様 メールはいっていました。

今日は ビジネスホテルなら女一人泊まれるということを知り
観光協会で教えてもらって 来月早速行こうと思っています。

施設に泊まるところは無 温泉旅館は一人は泊まれず 二人で泊まると
法外にと思えるほど高く

とんぼ返りをすれば 夜遅くにこちらにつき そうなれば
夫が家のかぎをかけて 入れようとせず
お手上げの状態が ずっと続いていましたが
もう大丈夫。

母の時なんか 同腹の兄など
家に帰りついたと思ったら もう 呼び戻されて
しまいには 職場を追われるくらいの目にあい

知っている人の親の時も
来てくださいと言われ なんだろうと思っていけば
部屋を変わる話で そんなこと 電話で済ませられないのか?と 怒っていました。仕事をつづけなければ 生活できませんものね。

ビジネスホテルを知って 一安心です。
と いう お話でした。
平家物語とは かけはなれた話ですが
知っていると知らぬでは 大違い
の ことです。

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