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 投稿番号:101468 投稿日:2015年06月30日 03時05分13秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部さんの代理
長上郡の服部氏族XLX(M氏家譜9+市野氏解明済?)
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101462_74.html
長上郡の服部氏族XLW(M氏家譜8+市野氏解明済?)のスレッド44の続きです。


自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月30日 06時53分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 スレッド長上郡の服部氏族XLWからの続きです。

 とりあえずのご報告を―

 一泊二日で、軽井沢・嬬恋・長野(市・善光寺)へ行ってまいりました。
 観光ツアーでしたが、私の主目的は、昔の信濃・上野(かみつけ)の土地勘
を頭にインプットするためでありました。地図だけでは土地勘は養えません。
山や川、道路、風土を立体感、距離感をもって捉えるということ。戦国時代
の戦いを理解するためにはどうしても必要となります。


 ―書き出しましたが、とりあえず一旦ここで切ります。 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 09時12分34秒 ) パスワード

三つ柏さん


軽井沢って北佐久なんですよね。
そして近くに浅間山がある。

東にそれこそ新田氏の太田がある
西に千曲や上田や松本や塩尻がある。


ホント、土地勘が無いと戦国時代が語れませんね。
良い遠足になりましたね。
まるで武士ですね。戦さをするには土地勘が無いとね。
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月30日 10時42分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 そうなんです。浅間山を初めて見ましたが、現在噴火中(水蒸気を噴出中)
でちょっと心配でしたが、信濃と上野(群馬 かみつけ)を結ぶ「中山道」と、
信濃と甲斐を結ぶ佐久甲州街道の出会う所が「佐久」であります。佐久から
中山道を東に行くと軽井沢があり、その更に東には上野の「安中」やその北
には「高崎」があります。浅間山を二分するように、東西に県境が通っており、浅間山の北に位置する嬬恋村は群馬県でありました。
 ちなみに佐久より南に約45キロ下がった清里は山梨県で、長野県との県
境にあります。

 佐久の気候は冬はとても寒く、雪に閉ざされてしまうそうです。長野、松
本、伊那(長野県の三大「平」=平地、盆地)とは少し違う風土です。

 信濃というのは、山の中に所々開けた平地があ、山合いを縫うように道が
続いている。その道も登ったり下ったりうねったりで、戦闘には不向きとい
うイメージが私の中に出来上がりました。従って、少人数での夜襲・謀略戦
が特に有効かなと思いました。イコール特殊特任部隊(いわゆる忍者部隊)の
出番ということになります・・・。

 ちょっと一休み。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 13時24分22秒 ) パスワード

三つ柏さん


なるほどねえ〜
地図帳からは想像の出来ない実地調査の報告を聞いたような気分です。


>少人数での夜襲・謀略戦が特に有効かなと思いました。
>イコール特殊特任部隊(いわゆる忍者部隊)の出番ということになります・・・。

なるほど
それで秀忠が真田攻めに失敗したのかしら?と想像しました。

ありがとうございます。
[5]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月30日 14時29分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長野の善光寺で6年に一度のご開帳の期間は終了してしまいましたが、
本堂前の「回向柱」は6月末まで立てられており、触れることができると
いうことなので、触れさせていただきました。前回来た時もあったような
気がしますが、6年に一度のサイクルに合致すれば、回向柱に触れること
が可能ということであります。
 善光寺で不思議なのは、神仏混淆的なところが残っているということ、
そして秦氏・聖徳太子との関係もあるということ。何かに関連して、それ
らの謎を解く必要が生じた時には探究してみたいと思っています。

  今回のツアーは観光目的のツアーでしたので、歴史関係の収穫はそんな
にありませんでしたが、自由時間に善光寺門前西にある「西方寺」を訪れ、
法然上人の開基であることを初めて知ったこと。そして善光寺は真言宗で、
空海と関係するということ。またたくさんのお寺が集まっていて、基本的
にはどんな宗派も拒まないという、大変不思議な所であることがわかりま
した。

 小笠原氏、麻績服部氏の関係で、長野県は今後も継続して調べに行きた
いと思っています。また「そば」がたいへんうまいので、うまさ最高の店
を探したいと思っております。

 さて、これから高天神城の話に戻ります―

 
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月30日 16時08分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 忍者というとどうしても固定化されたイメージから抜け出せませんので、
もう少し実態に合わせた言葉を使うならば、
  @最前線調査の斥候
  A敵方に潜り込む隠密
  B情報操作・撹乱のための工作員
  C刺客または暗殺部隊
  D破壊工作員あるいはゲリラ部隊
  Fその他

 戦国時代には、どの大名・土豪にもこういう人・部隊が必ずいたはずで
す。中でも徳川家康は特にきわだっていたし、武田信玄もしかり。

 高天神城の戦いに関しても、服部系、松下系の特殊部隊が活躍している。
そこらへんの情報を困難ではありますが収集したいと思っています。
松島五平については、今のところ、どの松島系かわかりません。

 
[7]ともさんからのコメント(2015年06月30日 21時05分35秒 ) パスワード


こんばんは。

> 長上郡の服部氏族]]]V
>『羽鳥村松島家系譜』

市野家を調べていると、幕末頃に松島紋之助なる人物が出てきました。

上記の羽鳥村松島家系譜には
松島紋之助なる人物の記載はありますでしょうか?

[8]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 22時33分22秒 ) パスワード

三つ柏さん


>基本的にはどんな宗派も拒まないという、大変不思議な所であることがわかりました。

これが本来あるべき日本の宗教ですよね。
穏やかな仏教ですから、こういうのが良いです。

一神教で「これ以外はダメ」というのは日本人には合いません。


法然上人のお名前が出るとは本当に意外でした。
へえ〜
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月30日 22時40分58秒 ) パスワード

>松島五平については、今のところ、どの松島系かわかりません。

松島五平
松島五兵衛

「五」ですから「5男」だったのでしょうか?





ともさん


>松島紋之助

出てないです。
[10]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月30日 23時58分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様
とも様

 もう一人「松島五兵衛」なる人物、小笠原右京氏義(長忠)の配下で高天神
城の大手池の段の守備部隊におりました。松島氏はいつもそれ以上突っ込め
なく終わってしまう・・・情報が出てこない。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月01日 02時58分25秒 ) パスワード

面白かったですよ。

https://www.youtube.com/watch?v=6451_hcRRAU

忍者の真実  乱世の影に忍びあり



https://www.youtube.com/watch?v=YlO00ZwPMbI
綱吉の真実    磯田先生も出ています
[12]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月01日 09時25分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。NHK「歴史館」の「ここまでわかった忍者の
真実」は、私のイメージと合致しておりました。
 この番組は3年前に放送されたということ、番組欄を見落としておりま
した。

 忍家がその出来事を記録に残していた。そんな荻野家の文書を画像であれ
見ることができ、驚きを持って視聴いたしました。「忍び」の人間は跡は残
さないはずだ、いわゆる与えられた使命についての秘密厳守は死守するのが
鉄則ではないのかと思っておりました。但し、時代が変わったのでしょう。
戦国時代も終息に近づき、その記録を残しておこうとした動きはたくさんあ
りましたので、萩野家もそうされたのかと推測いたします。
 できれば、萩野家に残されたその書物の中身を覗いて見たいものでありま
す。

 忍びの棟梁は中忍、さらに戦略を考えるのが上忍とすれば、服部半蔵は
上忍であったと思われますので、武断派、武闘派のように概して描かれて
おりますが、知略・謀略・裏戦略にはたけていたと思われます。そこを
知りたいと思っているのですが、まだそういった事実を示す資料にはめぐ
り会えておりません。もっとも、トップもトップ、最高権力者のシークレ
ットでありますので、完璧にカムフラージュされているとは思います。その
トップシークレットとは何かといえば、「家康自体にからむ秘密」という
ことになります。

 そんな気持ちをいつも抱きながら、家康にまつわる出来事・歴史の探究
に臨んでおります。

[13]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月01日 16時02分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 徳川家康が浜松城を拠点にしたのは、1570年(元亀元年)から1586
年(天正14年)の17年間であった。その時代及び近辺にどんな戦いがあっ
たのかを整理してみると―
 @1560年 「桶狭間の戦い」 <今川義元死す>
 A1568年 駿府城攻略(武田軍)、掛川城攻略(徳川軍)
 B1569年 天方城攻略(武田軍)

 C1570年 「姉川の戦い」 <家康浜松城入城>
 D1571年 「第1次高天神城の戦い」(武田軍中途撤退)
 E1572年 天方城奪還(天方軍)
 F1573年 「三方原の戦い」、天方城攻略(徳川軍)
 G1574年 「第2次高天神城の戦い」(徳川軍負 武田軍勝利)
 H1575年 「長篠の戦い」(武田軍負)
        二俣城奪還(徳川軍)
        犬居城攻略
 I1578年 「第3次高天神城の戦い」の始まり
    〜
  1581年 第3次高天神城の戦いの決戦(武田軍負 徳川軍勝利)
 J1582年 「高遠城の戦い」(仁科軍負 織田軍勝利)
        本能寺の変(信長死す)
        (神君伊賀越え)
        「山崎の合戦」
 K1583年 「賤が獄の戦い」
 L1584年 「小牧・長久手の戦い」

 この間に今川滅び、武田滅び、織田滅び、豊臣と徳川が残る形となって
行く。

 また、高天神城だけをとらえるならば、今川氏の時代に築かれ、福島氏、
小笠原春茂と引き継がれ、更に小笠原氏興(氏清)、小笠原長忠へと引き継
がれる。武田と徳川の今川領同時侵略の直前に、氏興・長忠親子は徳川に
寝返る。第1次高天神城の戦いは何とか守り切ったものの、第2次では敗
戦。長忠は武田側に降服(東退組)。長忠以外の小笠原一族は徳川へ(西退組)
戻る。第3次の決戦は壮絶な戦いとなる。翌年の高遠城の戦いも壮絶な戦い
であった。高遠城跡の桜が赤いのは血と涙の色か、また高天神城跡にも高遠
の桜が植えられた。両城跡につわものどもの滅びの美を見る思いがする。

 でもまあ、よくもこんなに戦ったものだ! 家康も生き残っているのが
不思議である!? でもまだまだ戦いは続いて行く・・・。
 
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月01日 21時21分13秒 ) パスワード

三つ柏さん


レス<13>
なんか泣けて来ます。

ホントに戦国時代ですね。


こういう悲しい涙の年月を経ての平和と幸せな生活があるのですねえ。


>でもまあ、よくもこんなに戦ったものだ!            ホントに! 
>家康も生き残っているのが不思議である!?           諜報戦がうまかったのかも?
>でもまだまだ戦いは続いて行く・・・。             すごい時代でしたね


松島氏はいったいどういう家だったのでしょうね?
家康方に松下氏・山下氏とともに名が一応ある。

   松島氏家譜にある「高天神城落城」の意味は何だったんでしょうね。


松島五平さん、いったい何者だったのか?
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月01日 21時21分58秒 ) パスワード

http://www.daitakuji.jp/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%B4%A9%E3%82%8C-%E3%81%AE%E6%8E%A8%E6%B8%AC/



城将の姓から見る「高天神崩れ」の推測


高天神史における地元著名な藤田清五郎(鶴南)氏による「高天神の跡を尋ねて」からこの城に関わる人たちを有名無名にかかわらずピックアップしました。今に続くこの地に伝わる家々の姓との繋がりの推測の端緒となればと思いますが何より高天神城に遇いまみえた人々をウェブ上に記すことによって彼らの生きた証としたい思いです。


       「高天神の跡を尋ねて」      藤田清五郎  より


元亀二年辛未の二月十六日、武田信玄は二万五千余の軍勢を率いて甲府を発して駿河に進み、同二十三日志太の田中城に着した。

二十四日遠州に入り、能満時山に築城して小山城と称え、続いて地の利を考えて相良城を築いた。当時四方風を望んで武田氏に従ったが、菅ケ谷村の川田平兵衛、湯日村の中山是非之助は城主小笠原長忠の招きに応じて徳川氏に帰従した。

同月二十五日、武田信玄、高天神を攻撃するの報を聞き、城主長忠は直ちに使者、小笠原彦七郎貞頼が従士、相田又兵衛と伊勢治部右衛門を浜松へ馳せて徳川家康に報告した。

高天神城内では武田信玄来攻に備えて三月早々籠城の手配をしてそれぞれ

部署を次の様に定めて守備の確保を計った。


本丸


大将   小笠原与八郎長忠 二十一歳 兵数五百余騎

武者奉行 渥美源五郎勝吉

是に従う主たる武将

 福岡太郎八 村松郷右衛門 曽根孫太夫長一 

 木村弥兵衛 三井孫左衛門光忠

     




三の丸


大将   小笠原与左衛門清有 兵数二百五十余騎

武者奉行 丹羽縫殿左衛門

是に従う主たる武将

 小笠原庄太夫盛高 小笠原清兵衛 小笠原作衛門興康等一族

 丹羽五郎右衛門一族 松下助左衛門範久 村松郷八

 野々山七左衛門 鈴木権太夫 中根日根之丞 鈴木五郎太夫  


西の丸


大将 本間八郎三郎氏清 

副将 同弟の丸尾修理亮義清 兵数三百余騎

是に従う主たる武将

 丸尾三郎兵衛 丸尾五郎三郎 丸尾新五郎 本間源右衛門

 本間五太夫 本間兵右衛門 小笠原治右衛門 大原新平

 百々徳右衛門 佐和戸市兵衛 高岡七兵衛 山本与五右衛門

 大河内孫右衛門 松島五平 西村八兵衛 朝比奈十左衛門

 柘植八右衛門 村山八右衛門 市川門太夫 花井八郎右衛門

 西村清左衛門 高岡弥五右衛門 高岡瀬左衛門 朝比奈新助

 浅井吉兵衛 権田惣右衛門 福富市兵 岡本藤右衛門 杉浦源七郎

 見野浦茂左衛門 杉浦一学 柴田四郎次 三井弥七郎 浅井五六郎  

 西郷市郎左衛門 岡本久弥  




御前曲輪


大将 斉藤宗林        兵数二百余騎

副将 小笠原河内守長国

各士族組み合わせて主たる者

 大須賀五六左衛門 伏木久内 永田太郎左衛門伝 馬淵半一

 糟屋善左衛門則高 村松左近 村松五郎右衛門 杉浦能登郎

 武藤源右衛門 匂坂半之助 斉藤権兵衛 斉藤左門 斉藤五郎七

 村井太左衛門 安西越前 池田縫平 池田佐内 池田十内

 浅羽次郎左衛門 梶川奥兵衛 漢人十右衛門 浅山吉兵衛

 木村長兵衛 木村又右衛門 伊藤入道 戸塚九平 小嶋与五右衛門

 小島武左衛門 市川門左衛門 荒瀬孫五左衛門 松下平八      

 犬塚市平 犬塚又右衛門 田中兵助 赤尾孫助 客輪平助 

 桜井源吉 浅田伊助 小川久助 桜井九郎右衛門

 


搦手門


大将 渡辺金太夫照       兵数二百五十余騎

副将 小笠原長左衛門義信

   林平六

是に従う主たる武将

 戸塚半弥 長坂新五郎 佐々安右衛門 川上兵太夫 佐京権左衛門

 村上左太夫 宮地三郎太夫 森前右衛門 奥垣八内




大手池の段


大将 小笠原右京氏義   兵数三百余騎

副将 赤堀大学正信

是に従う主たる武将

 川田平兵衛 川田平太郎 大石外記氏久 大石新次郎久末

 小池左近 鈴木左内 小笠原久兵衛良忠 村田弥惣 今沢弥右衛門

 海福岳兵衛 波切金右衛門 波切金十郎 村越半右衛門 

 長坂門三郎 山下七郎右衛門 野間与五左衛門(清水善兵衛)    

 今村新之丞 小島次郎右衛門 加藤伝次 鈴木九郎左衛門

 浅羽角平 古川清右衛門 神野八郎兵衛 村井久右衛門

 丹羽弥惣氏吉 牧野勘右衛門 八木勘左衛門 坂部又十郎正家

 市川伝兵衛 前島金太夫 奥村仁左衛門 佐津川伝右衛門

 竹田右衛門 柴田佐左衛門 戸田助左衛門 堀田九郎右衛門

 堀田九八 大岡次郎太夫 小笠原与次郎 松島五兵衛 

 山中与五右衛門 星野新八郎 広田五左衛門 寺西市右衛門

 近藤武介 門名七郎右衛門 松浦佐太夫 小柳津喜太夫 村松佐内

 村山八右衛門      


帯曲輪


吉原又兵衛以下組付二十五騎 弓銃卒三十人


遊軍


伊達与兵定鎮 中山是非之助の組付騎士軽卒百七十人




この外籠城の士


 渥美重経 丹羽四郎左衛門 本間権三郎正季 浅井九左衛門

 柘植又十郎 朝夷小九郎兵衛 匂坂牛之助 海福主税之助

 小島武左衛門 戸塚左近衛門 宮地六太夫 朝夷左太夫 

 倉知加兵衛 牧伝兵衛 伊達藤十郎 滝弥之助 鮫島加賀

 横井越前 坂部又蔵 永田太郎左衛門清伝 筧助太夫 高須武太夫

 鷲山伝八郎 県刑部左衛門 幡鎌三平 福島十郎右衛門 福島河内

 匂坂加賀 等 


以上籠城軍兵二千余騎に及んだ。

これ等の軍勢は元今川家に仕えていた小身の武士で近辺を知行していた者もあり、或いは駿河より馳せ参じた浪士なども加わっている。

これら多くの者は掛川城攻撃の時、天王山合戦の頃、小笠原の配下に置かれ、この度亦家康より高天神籠城を命ぜられたものである。


その他の伝承


松林家

 旧御前崎町の御前崎地区

 「本家と七分家」本家は十四代目 分家で十一代目といいます。

 伝承では今川時代の高天神城代小笠原家について遠州入りし武田勝  

 頼の介入で小笠原家が分裂四散したことにより御前崎の先端部分に 

 土着したとのこと。



斉藤家

 旧御前崎町の白羽地区

 「斉藤」と言えば高天神城御前曲輪、大将の斉藤宗林がいますがそ 

 一族かも知れません。三方原で討死した斉藤六郎左衛門宗林の墓は  

 静岡市の宗林寺、天正初期の御前曲輪の宗林は父子どちらかでしょ 

 う。旧屋敷跡近く旧大東町中の満勝寺が旧菩提寺と推測されます。



小野田家

 御前崎女岩(めいわ)区小野田一統

 本家には武田勝頼朱印状が残ると聞きます。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月01日 21時37分14秒 ) パスワード

http://www.daitakuji.jp/ 高天神城武将案内/

ここに武将案内がありますがコピペ出来ません。

松下助左衛門範久入道如伯     これまた立派なお名前  後、紀州に行く
松下平八  =  鷲山伝八郎も名乗る   落城後、新野に住む



松嶋五平は載ってないです。
[17]箱柳永田さんからのコメント(2015年07月02日 00時29分26秒 ) パスワード


  あを様

 高天神関係武将について


                     増田実氏 資料 原文のまま


●本間八郎三郎氏清

 元、久野家の家臣で山名郡高部村(磐田郡袋井市笠西の内)にいて

 付近数ケ村を知行した。天正二年六月二十八日討死した。

 子孫小笠郡浜岡町池新田の地を拓き、現在子孫同地に居住(軍記)

●丸尾修理亮義清

 本間の弟で山名郡赤尾村(高部村と同所)に住して赤尾長者と云った。

 天正二年六月二十八日討死。子孫浜岡町池新田にある。(軍記)

 ★ブログ→2013.7/3、7/4

●斉藤宗林

 下方(小笠郡城東村の字 下土方)を知行す。天正二年落城後甲州に

降り、のち浪人して駿河国宇津谷で討たれた。

その墓は静岡市寺町宗林寺にある。また嫁の墓と称するもの、中村の

屋敷址にある。

●中山是非助 姉川七本槍

 榛原郡湯日村(島田市初倉の内)を知行した。天正二年落城後、甲州に

 行き、さらに奔って浪人し、のち三州岡崎に老衰した。(甲斐国誌)

●渡辺金太夫信重 姉川七本槍 (武徳編成集成には「照」てらす)

 下土方村(城東郡の大字)を領した。屋敷址は今に渡辺池と称して

 その遺跡を伝える。現在の面積は一町六反五畝歩ある。

 のち甲州に降り、天正十壬午年三月五日信州高遠城に奮戦討死した。

 (甲斐国誌及集成二十巻後世その子孫細川侯に仕えて現存する)

●伊達与兵衛宗春 姉川七本槍

 房州鶴ケ谷の人。はじめ小田原に仕え、武者修行してのち高天神に

 入り、天正二年甲州に降り、また小田原に奔り、天正十八年徳川氏に

 降った。大坂の役で真田の出丸を攻めて討死した。(寛政譜)

● 横田甚五郎尹松

 十郎兵衛の男 初名は甚五郎、のち甚右衛門、勇謀父祖に継ぐ。

 天正壬午徳川にて御使番軍監を勤め寛永十二年七月五日卒。歳八十。

 (寛政譜)子孫幕府に仕えた。(甲斐国誌)

●江馬右馬允

 甲陽軍鑑に足軽隊将騎卒十人、飛騨国江馬常陸介の弟であると。

 天正九年高天神落城の時、軍監として在城戦死した。甲府の

 緑町内成寺に看経仏並びに墓所がある。(甲斐国誌)

●吉原又兵衛 姉川七本槍

 天正二年甲州に降り、足軽隊将五人の内である。 兵家茶話に、

 今川家の吉原又兵衛、織田家の中野又兵衛、武田家の小幡又兵衛

 という。大石和筋能呂に墓所がある。(甲斐国誌)

●林平六 姉川七本槍

 天正二年甲州に降り、同六年上州膳所の城に討死した。太平夜話に

 高天神衆林平六は、遠州頭陀寺で、一日に六度槍を合わすと。   

 (甲斐国誌)

●門奈左近右衛門俊武 姉川七本槍

 武隠草話に、姉川の役の時、門奈は最先なれど、猿の皮の投頭巾にて 

 指物なき故、河向より見え兼ねた由を記した。(目立ちまくった渡辺 

 金太夫に対して) 兵家茶話に名、俊政に作る。のちに越前に仕えた  

 という。また子孫紀州にあると。

●伏木久内 姉川七本槍

 信長から感状を賜ったうちの一人

●松下助左衛門範久入道如伯

 馬伏塚城門の側に住して、この地を松下村という。高天神落城後

 横須賀組下となり、七人衆の一人である。のち紀州に行く。

●渥美源五郎勝吉

 首取り源五といわれた。天正二年落城後、横須賀組下となり、七人衆

 の一人である。大須賀五郎兵衛(康高の弟)の下知を潔しとせず、上土 

 方の領地に引込み病死した。墓所は上土方御前山にある。

 その子源五郎は紀州に仕えた。(軍記 華厳院文書)

(ブログ20120607)

●曽根孫太夫長一

 小笠郡朝比奈村を知行した。天正二年落城後、横須賀組下となって

 紀州に行く。朝比奈村に屋敷址を伝える。(寛政譜 集成)

●小笠原与佐衛門清有

 天正二年落城後、横須賀に復して、のち紀州に仕えた。慶長十七年

 七月卒し、墓は横須賀撰要寺にある。

●黒田九郎太夫義則

 平川村を知行した。はじめ今川氏に属し、のち徳川氏に仕え、高天神

 小笠原に属して籠城した。子孫同所に在る。(小笠町下平川)

●松下平八

 天正二年落城後、致仕(隠居)して新野村に住した。その末裔同村に

 在るというが、子孫不明。鷲山伝八郎。平田村某寺に墓所がある。

 平田村の子孫 県、鷲山一代替りに名乗り、今同村に県、鷲山とが

 存する。

●大石外記氏久

 富士郡善徳寺の人、天正二年六月大手池の段の戦に戦死した。

 歳五十五、子新次郎久末横須賀組下となり、子孫大浜町報地に居住

 する。

●川田平兵衛真皆

 榛原郡菅ケ谷村を知行した。高天神籠城の時榛原諸郷の組頭であっ 

 た。子の平太郎真勝は六月大手の尾崎で戦死した。子孫榛原郡菅ケ谷

 村に居住する。

●坂部三十郎広勝

 天正二年落城後、横須賀組下となり、のち幕府の旗本となった。

 元和八年十一月二十日卒、六十二歳。(寛政譜 集成)

●久世三四郎広宣

 坂部広勝と相並び戦功があった。天正二年落城後、横須賀組下となり

 のち幕府の旗下となった。寛永三年三月卒、六十歳。大須賀町浄泉寺 

 に葬る。三男広之諸侯に列した。

●竹田右衛門のち十左衛門と改

 天正二年落城後、横須賀組下となり七人衆に列した。

 のち大須賀忠政に従い、千三百石を受けて上州館林に移った。

 (軍記 了教院記)

●栗田刑部

 一本栗原刑部とある。軍監に栗田刑部とある。東鑑に栗田寺別当

 大法師範覚と見えた。兵家茶話に栗田鶴寿、武田氏に属して天正八年

 高天神にあり後永寿男源左衛門は庄内藩に仕えた。小笠郡菊川町

 中内田、平尾八幡宮神主、栗田家系図には栗田刑部少輔吉信とある。

 同人か別人か不詳。

●粕谷善左衛門則高

 掛川在西郷村を領した。

●池田縫平

 一本抜平毛森村を領し、縫平屋敷跡、享保末年迄は土居囲いそのまま

 あったという。

●木村長兵衛

 天正二年落城後、横須賀組下となり、三俣村を領し屋敷跡を殿屋敷

 また殿海戸という。岩滑村にも領地有り。

 「門先の松」というものがある。

●大須賀五郎左衛門康高

 横須賀城主となり天正十六年六月二十三日六十二歳で卒去。

 大須賀撰要寺に墓がある。榊原国千代を養って子となし家を継ぎ

 松平忠政治という。その子忠次に至り、榊原氏継無く、大須賀

 榊原、両家を合わせて忠次これを継いで榊原氏を称し、上州館林に

 移された。

●孕石主水元㤗

 今川家臣でのち武田氏に仕え天正七年高天神に入って武者奉行となっ 

 た。同九年三月二十二日の夜切って出て生捕されて切腹を命ぜられ 

 る。徳川家康の幼き時、駿府の少将の宮の町に居住した時、孕石も

 隣屋敷にあった。当時家康の狩猟の鷹が折々孕石の屋敷に入ると

 「三州の倅には飽きれ果てたと」たびたび放言したという。

 家康これを記憶して「吾に飽いた孕石なればはやく切腹せしめよ」

 と申し渡した。孕石これを聞いて「さらに後悔なし」とて潔く南を

 向いて腹を切った。

 傍らにある者これを見て「流石の孕石ほどの者が最期を知らぬか、

 西へ向かいて腹を切れ」と云えば主水いわく「汝はものを知らずや

 仏は『十方仏土中無二亦無三除仏方便説』」と説き給う。

 「西方許に極楽は有りと思うか。あら胸狭きことや。何の極楽を

 嫌わんや」と。南を向いて腹を切ったという。子孫土佐山内氏に仕え

 たという。掛川市原泉字孕石は旧領地である。



増田実編 郷土教育資料(第六輯) 高天神城址案内より

※増田実氏 明治三十九年小笠郡城東村生 文化財専門委員

 適当にやってみたら、、できてしまった?? 
 @坂部三十郎 広勝  水野藤十郎と白柄組で暴れまわる方の祖父!?
 父親? おなじみの名が出て、、、興味の種は、、多すぎ、、ですね。
[18]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月02日 00時44分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「高天神の跡を尋ねて」(藤田清五郎)に書かれている名前、この地方には
珍しくない名前がたくさんあり、意外とその子孫達が根付いているのであろ
うと思います。
 松島、山下、小笠原の名前は、ひょっとしたら状況証拠になるような気も
します。

 第3次高天神城の戦いのさ中、1579年に秀忠が生れ、築山御前が殺害
され、信康が自刃します。身内に対する苦渋の決断だったとは思いますが、
そこから秀忠路線が動いて行くような気がします。すべてを知っていた家康
は、本当は秀忠に何を託したのでしょうか? それとも・・・?
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月02日 03時01分18秒 ) パスワード

永田さん

ありがとうございます。
ガード破り、すごいですね。
ワタシには無理でした。


で、水野勝成ですが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%8B%9D%E6%88%90
戦国時代の気風にはピッタリの人物だったようですね


         放浪中に家康のスパイ役をやってたというのも
         わざとそうなるように仕向けたのかも、ですね。
         隠密活動がし易いですから。



高天神城の戦い[編集]

初陣は天正7年(1579年)の遠江高天神城攻めで忠重に従って出陣するが、このときは武田勝頼の撤退により戦にはならなかった。同年、徳川秀忠が誕生すると、勝成は乳兄弟とされた。天正8年(1580年)、父の忠重が織田信長に引き抜かれ、刈谷の大名[註 15] になる。勝成は奥田城、細目城を任される。

同年の第2次高天神城の戦いに忠重と共に参加し城を攻めた。しかし、戦いは翌年(天正9年)まで続き最後は城から城兵全員が討って出て大激戦になったといわれる。このとき勝成は16歳にして首級をあげ、信長から感状を与えられる。なお、このとき勝成は城内に祀られていた天神社より渡唐天神像を奪い、以後これを守り本尊として肌身につけたという。


    その後、服部家に関係するのでビックリしました。「出奔」の項。


天正壬午の乱        天正10年1582年
勝成は鳥居元忠、三宅康貞と共に北条氏忠の陣に攻め込んだ(黒駒合戦)。
北条氏と徳川氏の講和を成立。10月29日、和議の証として、大道寺孫九郎某等が人質として送られてくると、家康は人質は不要として勝成、鳥居元忠、榊原康政に見坂の城まで送らせる。

      大道寺あや子のご先祖さまでしょうか?


小牧・長久手の戦い  天正12年(1584年)

豊臣秀次麾下の白江成定の陣に突入し一番首を取って[2]、徳川家康に持参した。以後は家康の下で行動し家康配下の井伊直政と武勇を競った。森長可は水野家臣・水野太郎作清久の足軽・杉山孫六が射殺した[3]。しかし父からは「先駆けは軍法に背く者、許さぬ」と怒りを買った[2]。


出奔[編集]

天正12年(1584年)の蟹江城合戦では家康の旗本衆と行動を共にする。

このとき服部保英(服部半蔵正成の甥)は勝成に属して武功をあげた。       ココ



家康・信雄が秀吉と伊勢桑名で睨み合う陣中において、父・忠重の部下を自らの不行状を報告したとして斬り殺したことから、忠重は激怒し勝成を奉公構(事実上の他家への仕官禁止)として勘当した[2]。その後しばらく家康によってかくまわれ須賀口(清洲)の寺に引きこもっていたが、忠重の追及があり逃れた。美濃、尾張の関係城主を訪ねて、その地に逗留していたが、忠重よりの奉公構に各城主は遠慮して、長居はできず、遂には京都にいく。

京都では従者も連れず闊歩し、京都南禅寺の山門に寝泊まりし、町に出ては多くの無頼の徒と交わり、清水では大いなる喧嘩を始め、多くの人を殺害する事件を起こした[4]。天正13年(1585年)に四国征伐(第2次四国征伐)が行われることになると、仙石秀久家中としてこれに加わった。この戦の直後、勝成は豊臣秀吉から摂津豊島郡700石の知行を授かっているが、間もなく知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」と名乗るようになった。秀吉から刺客を放たれた[5]というから、相当の怒りを買ったと思われるが、勝成自身はこの時期の行動を記録に残しておらず、詳細な成行は不明である[註 18]。



    さらには徳川家康の密偵として全国を旅していた!!!!!ビックリ!!!


    加藤清正の正室、徳川家康養女の清浄院は、実は勝成の父忠重の女、即ち勝成の妹である。
    加藤家断絶の時に勝成・勝俊は熊本城受け取りの役目を勤め、この時に清浄院を福山に引き取った。


            これにもビックリ!!!


「旗本奴」として知られた旗本の水野成之(十郎左衛門)は勝成の孫である。

勝成はこの孫をとても可愛がったという。
水野十郎左衛門は白柄組という有名な旗本奴集団を作るが、
肖像画や長久手の合戦屏風に描かれる勝成の刀の柄も白い。

十郎左衛門が祖父に影響されたのではないか、と思われる。

十郎左衛門が、幡随院長兵衛を殺した時にも、「御家創業の功臣の血統を、やみくもに罰せられない」と老中評定で無罪になっている。

十郎左衛門が賜死となったのは、旗本白柄組の無法ぶりが、それからますます激しくなり、勝成が亡くなったあとである。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月02日 03時08分02秒 ) パスワード

水野勝成の父が忠重。
その母が華陽院さま。   家康の祖母です。  つまり家康の従兄弟じゃないですか。


       なるほど
       「御家創業の功臣の血統を、やみくもに罰せられない」
       と老中評定で無罪になったはずです。

       だから親戚の皆さんがすごい人ばかりなのですねえ。



水野 忠重(みずの ただしげ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
水野忠政の九男。
母は華陽院。

子に水野勝成、水野忠清、清浄院(加藤清正継室)。

徳川家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人に数えられている。
法名は賢忠。道号は勇心[1]。



生涯[編集]

天文10年(1541年)、尾張国知多郡方面を治めた水野忠政の九男として誕生。
母は華陽院。
兄弟に水野信元、於大の方などがいる。

はじめ、兄の信元とともに尾張国の織田信長に属し、永禄元年(1558年)の尾張緒川・石瀬での戦い、同3年の刈屋十八丁畷の戦いに功を挙げたという[2]。その後、信元と不和になり、そのもとを去って三河国の徳川家康の麾下に仕える[3]。

家康からは鷲塚の地をあてがわれ、自ら築城した。

三河一向一揆の鎮圧に戦功をあげた。
『三河物語』によれば、「金ノ団扇ノ指物ヲ指ケル間、新九郎ト見懸て我モ/\ト追(懸タリ。水野藤十郎(忠重)殿懸付て、突落シテ打取給ふ。頓て佐馳(橋)甚五郎(吉実)・大見藤六郎、是兄弟モ一つ場にて打取。」とある。

一揆方となった蜂屋貞次と戦ったという[4]。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月02日 03時15分25秒 ) パスワード

三つ柏さん


 「高天神の跡を尋ねて」(藤田清五郎)に書かれている名前、
  この地方には珍しくない名前がたくさんあり、
  意外とその子孫達が根付いているのであろうと思います。

 松島、山下、小笠原の名前は、ひょっとしたら状況証拠になるような気もします。


松島氏は家康方だったんでしょうか?


武田信玄に滅ぼされた松島氏の一族関係でしょうか?

    またココに戻りましたね。


何かハッキリした証拠が欲しいですね。
[22]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月02日 15時51分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様


 一つ訂正を:高天神城址にも高遠の桜 → 久野城址にも高遠の桜


 増田実氏の「高天神関係武将」、半蔵の兄弟や水野家に関すること等、
ありがとうございます。

 
 永田様よりの武将達、一人一人調べればそうそうたるメンバーだと思い
ます・・・。

 中でも、大須賀五郎左衛門康高は、横須賀城主。先祖は桓武天皇につな
がるそうです。その横須賀党(第3次高天神城の戦い時)には、次のような
人々がいたそうです。
 @服部半蔵正成
 A渡辺半蔵盛綱
 B塙田右衛門直之
 C久世三四郎広宣
 D松下加兵衛之綱
 E坂部三十郎広勝

 従って、城攻めにあたっては、忍びの者の活躍があった(松下常慶等)。

 
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月02日 16時51分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様
とも様

 去年、高天神城址を訪れた時、何気なく見過ごしてしまったものがありま
した。
 それは、「高天神社」であります。何でこんな所にとは思いましたが、た
ぷん村人達が、高天神城の戦いの後で勧請したのだろうくらいにしかとらえ
ておりませんでした。

 ところが、昭和11年の『静岡県郷土研究第7号』を調べてみると、こん
なことがわかりました。これは永田様にも関係して来ると思います。
 つまりは、この地方には西遠(遠江の西部)地方から移動して来た出雲系
遠江国造と同族である土師連の統率した土師部等が住んでいたらしいという。
土師氏は、天菩比命・・・建比良鳥命(遠江国造の祖)・・・野見宿祢・・・
土師臣・・・菅原道真・・・永井氏とつながっている。

 そして、この高天神社は高天神城よりもずっと古い時代に勧請されている。
 勧請された神様は、3神―
 @高皇産霊尊(瓊瓊杵尊の外祖父)
 A天菩比神(天穂日命)
 B菅原道真
である。
 高い山の上にある天神ということで、高天神と言われる。
 またそこに造られた城は、高天神城と言われる。

 ということで、羽鳥にある「服織神社」と善地にある「天満宮」の関係を
彷彿とさせられました。服織神社は「天穂日命」を祀り、善地の天満宮は、
「菅原道真」を祀る。服織神社と善地天満宮は1.5キロの距離である。服部
と永井が仲良く暮らしている。

 遠江はいわゆる出雲系の土地柄ということ・・・。

 ということで、俄然、高天神城が高天神社とともに身近な存在となりまし
た。

 来年の4月の桜の時期には、高天神城址に高遠桜が咲いていないか(植えら
れていないか)どうかも含めて、また調査に行ってみます。
[24]ともさんからのコメント(2015年07月02日 22時14分56秒 ) パスワード


こんばんは。

松島紋之助さんは『羽鳥村松島家系譜』には記載がないのですね。

高天神6代目
6。城代浅羽弥九郎幸忠
 長享元年(1486)、竜王丸十七歳伊勢、福島両氏の助力に依っ
て今川範満を討って、駿府の館に入城した。福島正成補佐
の任に就いた。此の年浅羽弥九郎幸忠、高天神城代となる。
幸忠は同年石雲寺より法子隆谿を迎えて、城下日向ケ谷に
梅月山華厳院を創建した。明応四年八月二十四日に歿した。


高天神の六代目は城代ですが、浅羽の庄を治めた
浅羽庄司後裔の浅羽幸忠が務めたようです。


弥九郎幸忠の子孫のお宿だそうです。

修善寺温泉旅館『あさば』
「先祖、あさば弥九朗幸忠は、遠州華厳院から修禅寺開山のために
派遣された隆渓繁詔禅師に従い、 この地にやって来ました。
西に達磨山がそびえ、美しい桂川の流れが彩る、 豊かな温泉郷に、
弥九郎はこのときから浅羽姓を残すことになりました。
その後、浅羽安右衛門が温泉宿をおこし、以来350年、
あさばは多くの人びとと安らぎの時を重ねながら、
修善寺の町とともに永い伝統を育んできました。」


確か法多山の『田遊び』には浅羽氏の子孫?が
招かれるような記憶があります。

法多山尊永寺こと、法多山はもとより、白山権現の山であるが、
柴村の百姓、浅羽善蔵の先祖の浅羽庄司という者が、
田の中から観音を掘り出してこの山に御堂を造って納めたのだともいい、
行基が一木で二体の観音を造り、本木の方を法多山に、
末木の方を祝田村に安置したのだともいう。

法多の里は尊永寺の門前に寺百姓が十六戸あって、法多の町とも法多村ともいう。
この人達は、毎年正月七日に観音堂の前で田遊びということをした。
この田遊びの時に、浅羽の柴村からも供物を捧げ、
白山権現にも観音にも奉っていたのである。



[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月02日 22時33分40秒 ) パスワード

錚々たるメンツですね。

 @服部半蔵正成
 A渡辺半蔵盛綱
 B塙田右衛門直之
 C久世三四郎広宣
 D松下加兵衛之綱
 E坂部三十郎広勝




>羽鳥にある「服織神社」と善地にある「天満宮」の関係を彷彿とさせられました。
>服織神社は「天穂日命」を祀り、善地の天満宮は、「菅原道真」を祀る。
>服織神社と善地天満宮は1.5キロの距離である。
>服部と永井が仲良く暮らしている。

やはりココに回帰しますね。
もちろん、古代が始まりで  中略  戦国時代に、と至るわけで。

人間は大昔から繋がっているのだなと改めて思います。



>遠江はいわゆる出雲系の土地柄ということ・・・。

そして物部氏・賀茂氏・三輪氏・秦氏にも繋がっていきますね。


人間って・・・
というのをしみじみと考えさせられます。


知らずに住んでいても古代からの繋がりがあるんですね。
さすが日本です。
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月02日 23時31分46秒 ) パスワード

とも様

 修善寺の「あさば」旅館の話、ありがとうございます。修善寺には縁が
あり、今度行った時には見て来ます(できれば泊まれるといいのですが)。

 法多山の話、ちょうど法多山に行ってみようと思っていたところですの
で、興味深く読ませていただきました。

 ありがとうございました。
[27]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月03日 00時18分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 高天神城のそうそうたるメンバーの内、渡辺金太夫信重は姉川の戦七本槍
の一人でありましたが、高天神城の戦いのあと、高遠城の仁科盛信につき、
高遠城の戦いで壮絶な最期を遂げています。瀧川一益率いる五千の兵の真っ
ただ中に駆け入って獅子奮迅の戦いをします。多勢に無勢で不利な情勢に
陥ると、城外十間ばかりの所にて、指物を抜いて大地に突き立て、大声で
こう叫んだという。
 「やあやあ我こそは元遠州高天神の住人たりし渡辺金太夫照(てる)、生年
 五十一、武運拙く唯今ここに討死す。美濃・尾張の面々見知りの者あらば、
 近寄って首を取り手柄にせよ。」

 取り巻く敵の真ん中へ馳せ入って、敵七人を突き殺し、十一人に痛手を負
わせ驚かせたそうです。最後は力尽き、十方から槍にさされ、首を岩田市右
衛門に取られてしまったということです。

 仁科五郎盛信は、武田信玄の五男の五郎晴清であり、信玄の命により、
清和源氏の末流の名門仁科家の名跡を継ぎ、高遠の城主となったものであり
ます。
 武士道を貫き、わずか三千の兵にて織田信忠の五万の兵に対し奮闘し、
武田氏滅亡の最後を飾ってはなばなしく散って行ったのです。それはちょう
ど高遠桜の赤い花びらが、満開の後、風に吹かれてハラハラと散るのと同じ
散り際の美しさであったのかも知れません。
[28]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月03日 23時59分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ・天正3年(1575)「長篠の戦い」にて武田方敗戦。これをきっかけに武田方
 の没落が始まる。


 ・天正9年(1581)に「高天神城の戦い(第3次・決戦)」があり、武田方敗戦。

 ・同年、伊賀では、壮絶な「天正伊賀の乱(第2次)」があった。


 ・天正10年(1582)にこれまた壮絶な「高遠城の戦い」があり、武田方敗戦。

 ・同年、「天目山の戦い」にて武田家は滅亡。

 ・同年、「本能寺の変」があり、織田家滅亡。

 ・同時に「山崎の合戦」と「伊賀越え」。


 天正年間は、正に破壊と生き残りの凝縮された時代であった。


 家康の伊賀越えの時に付き添った伊賀者200名について「伊賀者由緒書」
の中にその名前が記載されている(但し、その内10名の名前は不詳)。

 その中で、わたくし的に興味のある名前を拾ってみました。
  @服部伝次郎
  A服部源助
  B服部源兵衛
  C服部孫平
  D服部七九郎
  E服部新九郎
  F服部内蔵
  G服部勘六
  H服部伝五右衛門

  I永井八郎左衛門
  J永井太郎八
  K永井安房
  L永井水之助
  M永田久右衛門

  N柘植甚八郎
  O柘植三之丞
  P柘植五平次

  Q加々爪半之丞
  R加々爪遊徳

  その他
     青山三右衛門
     百々百右衛門
     市野源右衛門
     松下甚兵衛
  等々

  加々爪、百々、市野があるのが興味深い。
   

 
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月04日 06時21分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


渡辺金太夫信重の最期。
人は死んで名を残すといいますが
本当に見事な最期でした。

渡辺金太夫信重、まさか2015年にまた名を挙げることが出来たとは
浮かばれますね。


般若心経を唱えてあげてくださいね。




>加々爪、百々、市野があるのが興味深い。

本当に意外ですね。


加賀爪氏は服部保長の次男=保正=の家に嫁にきています。

保長  →  保正  →  保成(蟹江城の戦いで戦死)  →  保次(源兵衛)幼年より家康に仕え大番に列し、
                                   のちに小普請となり明暦元年84歳にて亡くなりました。

                                   この人=保次=の妻が加賀爪備前守政豊の娘です。



なお保次の子保好は家光に仕え、寛文9年に御書物奉行。
また保次の子の服部半之丞保忠は加賀爪備前守政豊が養子と書かれています。


保好の曾孫=保親は吉宗に仕え、妻は加賀爪右近保快の娘。



ずっと後の子孫にも
加賀爪半之丞保正が養子
加賀爪弥太夫保長が養子
などと書かれています。



遠江加賀爪氏復習
http://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/kagatsumeshi-yakata/


加賀爪氏は藤原北家勧修寺流で、上杉修理亮政定が今川範政に猶子となって加賀爪氏を称した事に始まる。

天文16年(1547年)加賀爪泰貞は長久保の戦いで討死、その子政豊は永禄12年(1569年)徳川家康に従った。政豊の子政尚は天正12年(1584年)長久手合戦で敵兵を討ち取る戦功を挙げ、徳川家康が関東へ転封となると、これに従い、武蔵国高坂で三千石を領した。

加賀爪氏は直澄のとき、一万三千石を領して大名に列し、掛塚に陣屋を構えて掛塚となっているが後に改易となった。静岡県袋井市上新池字高木には江戸時代加賀爪氏の代官屋敷があったとされる。


加賀爪氏館は栄泉寺の南側一帯に築かれていたという。 かつては茶畑となった方形に一段小高い区画があり、堀の一部が残存していたというが、現在は宅地化されている。

北に隣接する栄泉寺には「加賀爪氏の墓」と伝えられる宝篋印塔があるとされるが、見つけることができなかった。


付近の城址
2.0km 遠江・丸尾氏館
2.9km 遠江・馬伏塚城
3.0km 遠江・堀越城
4.0km 遠江・貫名氏館
4.0km 遠江・久野城
4.2km 遠江・岡崎城
4.7km 遠江・城之崎城
5.1km 遠江・見付端城
5.5km 遠江・原川城
5.6km 遠江・向笠城
6.2km 遠江・掛塚陣屋
6.3km 遠江・中泉御殿
6.3km 遠江・中泉陣屋
6.5km 遠江・秋鹿屋敷
6.9km 遠江・本城山砦
7.1km 遠江・門奈屋敷
7.3km 遠江・横須賀城
8.1km 遠江・飯田城
8.3km 遠江・匂坂城
8.4km 遠江・匂坂館
8.5km 遠江・長者屋敷
8.6km 遠江・小笠山砦
8.6km 遠江・高木陣屋

※距離はおおよその直線距離です。
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月04日 06時25分50秒 ) パスワード

>市野源右衛門
>松下甚兵衛


伊賀越えに、この2人のお名前があるのが意外でした。
やっぱり市野氏も松下氏もアヤシイ?
[31]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月04日 14時05分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は小笠原氏と松島氏関係を調べておりましたら、次の二つの事実がわか
りました。

 @戦国大名三好氏は小笠原長房を祖として始まっていること。

 A茶屋四郎次郎は、小笠原長棟の家臣の中島明延が茶人として代々名のった
  ということ。何代目かが、あの家康に仕えた茶屋四郎次郎であったこと。

 その他、いろいろ探究中。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月04日 20時55分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 伊豆修善寺の旅館「あさば」、調べましたら何と1泊6万円ということで
ビックリ! 
 この温泉宿の創設者は浅羽安右衛門で、その祖は浅羽弥九郎幸忠。幸忠は、
今川に属し、高天神城の城代であった時に曹洞宗「華厳院」の開基となって
いる。
 開山は、石雲院(榛原町)の開祖崇芝性岱禅師の高弟にあたる隆谿玄紹和尚
である。隆谿玄紹は、将軍足利義持の管領斯波右兵衛義重の子孫にあたり、
幼少から仏門に入り、やがて石雲院の崇芝性岱について修行を重ね、印可を
受けたということです。
 今川氏の重臣北条早雲の招請を受けて、隆谿玄紹は伊豆の修禅寺に移り、
それまで臨済宗であった修禅寺を曹洞宗に改めた。浅羽一族の中に隆谿玄紹
に従った者がいて、やがて温泉宿を解説するに至ったということになります。

 修善寺については、今後少し探究してみます。

 本日は、法多山尊永寺に何か秘密がないかどうかと、午後から行ってまい
りました。
 境内と寺は大きい。高野山真言宗別格本山で、行基の開山だということです。
真言宗なので、墓はない。本殿を見ても特に秘密めいたものはない。くし団子
が有名だが、これは江戸時代から150年以上続いているという。
 それ以上の収穫もなく、家に帰る途中、塚らしきものを見つけた。
 「勅使塚」と看板が出ていた。車を止め畑の中の道に入って行く。案内板
が出ていた。
 「勅使塚 
  昔、後白河天皇の命により勅使が法多山に参向された。参拝する日時が
 決められていたため、勅使は茶屋で一休して参拝しようとした。しかし、
 ちょうど月夜の光で夜明けと勘違いした雉が声高く鳴き、勅使も夜明けと
 思い、決められた日時に参拝できなかった申し訳として、切腹してお詫び
 した。
  土地の人は、その死をあわれみ、塚を作って葬り、雉を飼うことを遠慮
 したと伝えられている。」

  切腹するほどの状況がよくわからないが、天皇の勅使として恥ずべき
 失態であったということなのだろうか・・・。

 その勅使塚のすぐ背面が小山となっていて、石塔らしきものが見えたので、
ぐるっと回って見に行くことにした。小山の裏側には墓地があった。そこで
見つけたのは「井谷家」の墓・・・「いいのやけ」なのか「いやけ」なのか
「いたにけ」なのか?
 次に「白畑家菩提塔」というのがあった。卒塔婆が二本あり、「山本三郎
平家先祖代々霊位菩提也」と書かれているものと、「白畑家先祖代々霊位
菩提也」と書かれているものがあった。
 今この時点では、平家に関係するものかどうかはまだ調べておりません。

 明日は、細江の気賀で「家康公の遠州侵攻と井伊直政」というテーマの講
演会がありますので聴講に行ってきます。
 

 
[33]ともさんからのコメント(2015年07月04日 21時08分57秒 ) パスワード


こんばんは。

今日、古文書会で「式内服織田神社」を少し勉強しました。

そこで質問になるのですが、
服織田神社の神主(祢宜)一族が繁栄して服部氏になるのですか?

例えば、縣=県=安形=阿形のように。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月04日 22時24分23秒 ) パスワード

三つ柏さん

茶屋四郎次郎 = 小笠原長棟の家臣の中島明延


中島明延とは   呉服商人だった = ということは女性達からも情報収集?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E5%B1%8B%E5%9B%9B%E9%83%8E%E6%AC%A1%E9%83%8E


茶屋 四郎次郎(ちゃや しろうじろう、ちゃや しろじろう)

安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった。


正式な名字は中島氏。信濃守護小笠原長時の家臣であった中島明延が武士を廃業し、大永年間(1521年〜1527年)[1]に京に上って呉服商を始めたのがはじまりとされる。茶屋の屋号は将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下る(現在の京都市中京区)に設け、160年にわたって本拠とした。

初代清延が徳川家康と接近し、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。三代清次は家康の側近や代官の役割も務め、朱印船貿易で巨万の富を築いた。また角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し、「京の三長者」と言われた。しかし鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師・生糸販売を専業とするようになる。10代延国(延因)時代の1800年(寛政12年)には納入価格をめぐって呉服御用差し止めを受け、1807年(文化7年)に禁を解かれたものの以降はふるわず、明治維新後間もなく廃業した[2]。江戸時代初期の豪商に多い「特権商人」の典型とされる。




代表的な当主[編集]

初代:茶屋 清延(ちゃや きよのぶ、天文14年(1545年) - 慶長元年閏7月27日(1596年9月19日))明延の子で「茶屋家初代」とされる人物。若い頃は家康に仕え、三方ヶ原の戦い等で活躍して橘の家紋を賜ったとされる[3]。本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し、後世に「神君伊賀越」といわれた脱出劇の際、物心ともに支援を行った。この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられる。二代:茶屋 清忠(ちゃや きよただ、生年不詳 - 慶長8年4月1日(1603年5月11日))初代の長男。父の地盤を引き継ぎ、徳川家御用達商人をつとめた。豊臣秀吉死後、徳川家康の権勢が絶大になるに及び、清忠も「淀川過書船支配」など京・大坂の物流の取締役に任命され、優遇されるようになる。1600年の関ヶ原の戦い後には京都の情勢不穏を家康に進言し、京都所司代設置のきっかけを作った。板倉勝重が所司代に就任すると上方五カ所(京都・大坂・奈良・堺・伏見)町人の御礼支配、京都町人頭にも任命されたが、1603年に死亡した。三代:茶屋 清次(ちゃや きよつぐ、天正12年(1584年) - 元和8年7月16日(1622年8月22日))二代の弟で、長谷川藤広の養子となっていたが、兄の急逝のため江戸幕府の命で急遽跡を継いだ。呉服師の一方で藤広の長崎奉行就任後は長崎代官補佐役などを務める。1612年、朱印船貿易の特権を得ることに成功し、主にベトナム北部に船を派遣し、莫大な富を得た。その財産によって茶道具を蒐集し、本阿弥光悦らの芸術支援にも熱心であったが、38歳の若さで死去した。家康の死の原因とも言われる「鯛の天ぷら」を家康に勧めたのは清次とされる。



その他[編集]

蛸薬師下るの本邸は1708年(宝永5年)の大火によって焼失し、上京区小川通出水上るに移転した。このためこの付近は茶屋町と呼ばれる[4]。左京区北白川の瓜生山に別荘を持っていたことから、一帯の丘陵を古くは「茶山」と称した。「中島情延」の代であったことから、情延山とも呼ばれる[5]。

清延三男の新四郎長吉(長意)は尾張藩に下り、尾張茶屋家(新四郎家)を創設した。尾張茶屋家は尾張藩主の御側御用と、本家同様公儀呉服師も勤めた。また新田開発に従事し、茶屋新田・茶屋後新田を拓いた。蓬左文庫には尾州茶屋家文書が収録されている[6]。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月04日 22時54分19秒 ) パスワード

三つ柏さん

>勅使塚

朝廷はいろいろな決まり事がありますから
それを外したら
朝廷の中では生きて行けないでしょうから
死んでお詫びをして一族に類が及ばないようにしたのでしょうか?

今の我々には、気の毒に、と思うばかりですね。



>小山の裏側には墓地があった。
>そこで見つけたのは「井谷家」の墓・・・「いいのやけ」なのか「いやけ」なのか「いたにけ」なのか?


【名字】井谷

【読み】いたに,いや,いのや

【全国順位】 2,551位  
【全国人数】 およそ5,700人

現和歌山県と三重県南部である紀伊国および志摩に多し、清原氏(天武天皇の皇子舎人親王の子孫)支流。
現在も和歌山県、三重県に多数みられる。
「谷」は谷の地形を表す。

北海道 3,057位 およそ200人
山形県 3,229位 およそ10人
千葉県 3,481位 およそ100人
福井県 3,578位 およそ20人
岐阜県 2,405位 およそ60人

     静岡県 2,227位 およそ100人     少ないですね。

愛知県 3,139位 およそ100人
三重県 516位 およそ600人
滋賀県 3,207位 およそ30人
京都府 1,749位 およそ200人
大阪府 888位 およそ1,400人
兵庫県 1,327位 およそ600人
奈良県 981位 およそ200人
和歌山県 230位 およそ800人
鳥取県 1,324位 およそ60人
島根県 804位 およそ100人
岡山県 2,925位 およそ60人
徳島県 3,316位 およそ20人
愛媛県 1,361位 およそ100人
高知県 2,450位 およそ20人
宮崎県 2,085位 およそ60人


>次に「白畑家菩提塔」というのがあった。
>卒塔婆が二本あり、
>「山本三郎平家先祖代々霊位菩提也」と書かれているものと、
>「白畑家先祖代々霊位菩提也」と書かれているものがあった。
>今この時点では、平家に関係するものかどうかはまだ調べておりません。


平家方で山本さんは全く分かりません。
源氏なら有名どころでもありますが。


    山本姓は日本全国にある名字でしょうね。



【名字】白畑       源氏みたいですね。

【読み】しらはた,しらばた,しろばたけ,しろはた

【全国順位】 5,173位  白畑さん都道府県別ランキング!!
【全国人数】 およそ2,100人


関連姓は白幡であり、語源は白旗。源氏ともいわれる。
白旗とは源氏の旗の色を表している。
前九年の役の平定に向かう際に空に白雲がたなびくのを見て勝利を確信したことから。
近年、山形県酒田市や静岡県周智郡森町に多数みられる。 


北海道 3,090位 およそ200人
青森県 3,681位 およそ20人
岩手県 978位 およそ100人
宮城県 3,959位 およそ20人
秋田県 2,518位 およそ20人
山形県 461位 およそ300人
埼玉県 3,029位 およそ200人

           静岡県 1,186位 およそ400人   結構多いですね

鹿児島県 3,727位 およそ60人


[36]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月05日 09時16分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 茶屋四郎次郎についてお調べ下さり、ありがとうございます。小笠原氏の
家臣で、小笠原氏の立ち位置をうまく利用できたということにもなりますね。
 小笠原氏は裾野が広いので、全体を把握するのが並大抵ではありません。
三好氏も小笠原氏でありますし、その他にも名前がかわった小笠原氏はたく
さんいると思います。一度7000傑様の系図で勉強してみます。

 「勅使」というと朝廷からの使いということ。朝廷からの使いに「勘解由使」というものもあります。これは国司の引き継ぎの立会・鑑査の時に派遣される
人のことでありますが、後に「勘解由」という苗字として残っています。市野
の宗安寺に勘解由家の墓を1つ見つけました。いろいろ調べましたところ、蒲
御厨の八幡宮の神主(源範頼が預けられた)が勘解由氏でありました。
[37]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月05日 10時20分00秒 ) パスワード

とも様

 神主の服部氏はたくさんいますね。過去も現在も。はっきりとした理由は
分析しておりませんが、ルーツは古代・古墳時代の弓月の君が機業を伝え、
機織りの部「秦部」はやがて「服部」とよばれるようになり、管理者秦人は
全国の織部の総領として「服部連」の姓を賜ったという説がある。
 服部という地名から服部を名乗ったり、あるいは服部連の子孫は服部を名
乗ったこともあるのか、いろいろな可能性があります。

 服織田神社は牧之原にあります。
 服織田の社号の由来には、次の3説があります。
 @鎮座地が、往古、服織田村と称した地名に由来。
 A四国の服織から移住してきた人々が奉祭した神。
 B祭神が、服織の神。
 いずれにしても、この地域は往古、服織田村と称していて、秦氏が多く住
んでいたようです(もっとも、秦氏というのもそう単純明快ではない)。
[38]ともさんからのコメント(2015年07月05日 20時57分55秒 ) パスワード


こんばんは。

服織田神社=服部氏?について教えて頂き感謝します。

神主=服部氏が多いのは初めて知りました。

土曜日に習った文書では「公文所 白川殿」よりの
榛原郡内の式内社への宮司承認を戴いたような内容でした。

>服織田神社は牧之原にあります。

良くわかりませんが、もう一社榛原郡内に服織田神社があり
どちらも式内社の可能性があり、専門家でもいまいち解らないとのことでした。

ありがとうございました。
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月06日 13時27分06秒 ) パスワード

とも様

 神主に服部が多いというのは誤解を招きますので、「ちらほら見られる」
程度の解釈でお願いします。「ちらほら」が多いのか少ないのかは、また
相対的なものですので、本当のところは実データを掌握しなければなりま
せん。
 過去・現在の神主の姓氏のデータがあれば、一度見てみたいとは思って
います。
[40]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月06日 14時17分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 タッチのミスで、書き込んだものが消えてしまいました・・・ショック!

 「なでしこ」が序盤から圧倒されたのもショックでした!

 少し自分をクールダウンさせます。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月06日 21時04分28秒 ) パスワード

三つ柏さん


>タッチのミスで、書き込んだものが消えてしまいました・・・ショック!

窓8の宿命でしょうか?

長々と書いてる途中、左手が何かのキイに触れると瞬時に消えたり
ブラウザーの「戻る」で消えたり
実に不思議です。


それで最近は書いてる途中で下記の「断家譜」に一時置いて、消えた時の用意をしています。
結構間に合ったりします。


http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101436_29.html

無事にアップできたら消してください。
その後、きれいさっぱり消しますから。


ほんと、長々と書いていてせっかくの労作が瞬時に消えるって、悔しいですよね。


「なでしこ」
残念でした。
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月07日 08時22分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 おとといは細江に行き、実相寺と「徳川家康と井伊直政」というテーマの
講演会に行ってまいりました。収穫はありました。

 j-dayにつき、あとで記します。
[43]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月07日 08時44分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 実相寺、正確には「松源山 實相寺」といいます。臨済宗方広寺派の古刹。
開山の悦翁和尚は方広寺開山無文元選禅師の第一弟子で、嘉慶元年(1387)に
現在の引佐高校裏山に新正院を開創。のち、旗本近藤登之助貞用(さだもち)
の菩提供養のため、寛永5年(1678)にこの地に移し。寺号も改めた。

 行ってみて驚いた。なかなかの寺であった。

 一度、切ります。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月07日 10時33分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


http://www.s-arakawa.jp/trip/tokai/shizuoka/hamamatsu/jissoji.htm

ホント!
すごい立派なお寺ですね。

コピペ・ガードがついてますね。



http://d.hatena.ne.jp/hantubojinusi/20110516/1350265979
半坪ビオトープの日記

浜名湖の北東、浜松の北西にあたる、金指にある実相寺は、嘉慶元年(1387)悦翁和尚が開山した臨済宗方広寺派の寺で、秀吉、家康に仕えた旗本、近藤登之助季用(すえもち)を開基とし、その長子貞用(さだもち)により当地に移された。万治3年(1660)寺号を松源山実相寺と改め、金指近藤氏始祖の菩提寺とした。


ヤマツツジってこんなに大きく育つものなんですか。
ビックリ
こんもりと剪定したのしか知らなかったです。



http://www.asa1.net/siseki-meguri/t20-hatamotokondouke.html
旗本近藤家     旗本退屈男のモデルですか。知らなかった!


 ◆近藤貞用(1606〜96)  号を語石
   金指近藤氏の祖。秀用の子。徳川頼宣に属し大阪冬の陣(1614)に参加。元和5年(1619)頼宣に従って、紀州(和歌山県)に赴いたが。翌年父季用に召還され、三千余石を受けた。

  明暦3年(1567)の大火には、抜群の功績により幕府から賞された。

特に文武を好み、旗本奴、町奴等の暴挙を征したことは有名である。
歌舞伎の幡随院長兵衛の芝居に出てくる近藤登之助としても知られる、旗本退屈男のモデルでもある。
                                     ココ
                                

 また、領内においては開墾・植林・放牧・製紙等の事業に力を注いだ。道路の整備、金指に市場を開設、六所神社の勧請や、黄檗宗の独湛禅師を招いて初山宝林寺を創建するなど、土地の殖産興業、民衆教化に貢献した。元禄9年2月2日金指陣屋で病没。91歳。初山宝林寺に葬る。「棲雲院語石性訥居士」。


(注)旗本近藤家(五近藤)について

  近藤家は、清和源氏の流れをくみ、応永の頃(1394〜1428)三河八名荘宇利郷の郷士近藤左衛門尉乗満から4代目の孫・乗直・忠用は徳川家康の祖父松平清康に仕えていた。


   忠用の子庸用(のぶもち)は永禄11年(1568)家康の遠州進攻に際して、井伊谷三人衆(都田の菅沼忠久・井伊谷の近藤用庸・瀬戸の鈴木重時)の一人として、道案内をし、その功績により家康より「康」の一字を賜り「近藤石見守康用」と改名した。


   康用の子秀用も石見守に任ぜられ、慶長19年(1614)には上野國(群馬県)や相模國(神奈川県)で禄高一万五千石を与えられ、諸侯の列に加わったが、のち郷里に替地を願って井伊谷に帰り,敷智・引佐・榛原の各地を領有支配した。


その後、願い出て指定に分与して漸次独立させたので、石岡・金指・気賀・井伊谷・大谷のいわゆる「五近藤」が生まれた。


即ち、秀用の弟(用継)が家康に召し出され、相州(神奈川県)の五百石を拝領し、のち石岡花平の三百石を追加分知して「石岡近藤」となり、秀用の子季用が慶長5年(1600)井伊谷において三千五百石を賜り、のち五千四百余を分知して「金指近藤」となった。


 秀用の二子用可(季用の弟)が元和元年(1615)父秀用の領地である引佐・長上・麁玉・敷智の四郡のうち、五千石を分知して「気賀近藤」となり、秀用の三子用義(用可の弟)が井伊谷五千石を知行して「井伊谷近藤」となった。


 「気賀近藤」の用行(用可の子)Hさ?  長男であったが庶子であるため「気賀近藤家」を用治に譲り、寛永元年(1624)用治の采地より二千石を分知して「大谷近藤」となった。



それで某近藤さんは気位が高かったのか。
なるほどね。
[45]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月07日 12時51分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「旗本退屈男」は映画で中村歌右衛門が演じていて、よかったです。あと
片岡知恵蔵、大友龍之介もよかった・・・その他にも何人か好きだった俳優
がいますが、今の人達にはわからないですね。
[46]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月07日 15時42分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 旗本退屈男のモデルは近藤登之助貞用ということですが、遠山の金さんと
いい、長谷川平蔵といい、意外と身近な存在となってきました。ましてや
服部半蔵も実在の人物で、遠江で8000石の知行地をたまわうということ
で、小池村がその中に入る。本当のところ8000石が具体的にどこまでの
地域が含まれるのかを知りたいのですが、今のところわかっておりません。
ただ小池村はそうであるということ・・・私は会社の通勤にこの小池町(今は
町)を通ってきますので、どこかの隅から服部半蔵が顔を出さないかと、変な
幻想に陥ることがあります。でも何か半蔵のいたという証左はないだろうか。
小池町にあるお寺というお寺をすべて回ってみようとも思っています。

 さて、実相寺ですが、最初「実相」というと日蓮に関係するのかなあと思
いました。日蓮は井伊氏がルーツなので近藤家も関係するのかなあと推察し
た訳でありますが、臨済宗でございました。
 時代は変わりますが、松島十湖が引佐郡長をやっていた関係もあり、その
二男が近藤家に養子に入った。実相寺にはこんな案内看板が出ておりました。
 「遠江小図の渡辺謙堂顕彰碑と松島十湖句碑
  渡辺兵治謙堂は文化6年(1809)金指に生まれた。幼年の頃より学問を好
み、実相寺の要寺、初山宝林寺の末山和尚について、和漢の学を修めた。
のち浜松藩の関流和算家原田団兵衛に師事した。天文、地理、和算、測量の
術に秀で、嘉永5年(1852)43才の時、遠州地方の地図「遠江小図」を自家
刊行し、また滝沢鍾乳洞の測量等、当時の産業文化の振興に大いに寄与した。
この地図は木版4枚の表裏8枚の刷りで、うち3枚が実相院に保存されてい
る。安政2年47才の若さでこの世を去った。
  初め来た跡は 何処としらざれば 今行く先も 知らぬ旅立ち
の辞世の句を遺している。

 明治17年時の郡長松島十湖の肝煎りでこの地に墓誌銘が建てられた。
 松島十湖は嘉永2年豊西村に生まれ、若くから俳諧を学びまた、報徳の門
に投じた。33才で初代引佐麁玉郡長に就任し、当地域開発に精力的な働き
をした。当句碑は謙堂碑と同時に建てられ、35才の時のものである。のち
遠江一円に遺された句碑の中でも初期のものである。
  何事も かかる浮世か 月の雲 
                           引佐町商工会」  
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月07日 22時49分08秒 ) パスワード

三つ柏さん


>どこかの隅から服部半蔵が顔を出さないかと、変な幻想に陥ることがあります。

分かります。
でも浜松には短かったでしょうね。


>でも何か半蔵のいたという証左はないだろうか。

駿府にいたそうですからね。



>小池町にあるお寺というお寺をすべて回ってみようとも思っています。

はい
お寺さんにお聞きになったらいいですよね。
何か情報が得られると良いですね。


>松島十湖が引佐郡長をやっていた関係もあり、その二男が近藤家に養子に入った

松嶋家と近藤家は親戚ですか。
すごいお家へ養子さんになったのですねえ。



>渡辺兵治謙堂

この人についても調べてみたいと思います。


http://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1200/WJJS24U/2213005100/?Word=%e6%b8%a1%e8%be%ba%e5%85%b5%e6%b2%bb&Relation=AND&TypPttrn=BODY&SelectPage=1&BfrDispId=WJJS06U

『浜松市文化遺産デジタルアーカイブ』

第七章 文化の興隆 第五節 庶民の教養・娯楽 三 和算 幕末の算法
[幕末の算法]

【渡辺謙堂】その門に金指(引佐郡引佐町)の渡辺兵治謙堂がある。謙堂は嘉永五年(一八五二)に・・・略



 関流六伝内田恭の高弟小松式部恵竜(一八〇〇−一八六六、号無極子)は、京都嵯峨御所天文測量方を勤めたのち、諸国を遊歴して各地で算法を教えた(『和算研究集録』)。

 遠江には天保十二年(一八四一)に来遊し、浜松に逗留している。


 『諸邦門人自筆名録』によると、当地方の恵竜の弟子にはつぎの人々がある。
 
 「浜松藩         軽部佐一郎敏武
  引佐郡金指町      渡辺兵治謙堂
  敷智郡浜松宿      川上三九郎貴行
  敷智郡浜松宿      清水清吉廉慶
  敷智郡浜松五社神社祠官 森讃岐守猶竜
  敷智郡浜松宿      小池権十郎薫運」


頭の良い人が何人もいたんですね。
[48]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月09日 01時08分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は雨の中、二俣城と内山真龍記念館へ行って来ました。後で報告い
たします。

 実相寺の墓地は寺のすぐ裏手とまたそのずっと奥にもあった。まずはぐ
裏手の墓であるが、芝の生えた小山の上に五輪塔と笠塔が建てられていた。
そこに説明看板があった―
 「当山開墓近藤登之助季用(すえもち)公夫妻御廟
  季用公は、天正元年(1573)生まれ、井伊谷3人衆旗本近藤康用の孫。
 織田原陣(天正18年)で父秀用と共に井伊直政隊に属し、篠曲輪に一番
 乗り、足軽大将を討ち取って秀吉から紅梅胴服と鞍置、青毛黒馬を下賜
 され初陣を飾った。九戸陣・朝鮮出兵を経て慶長5年(1600)関ヶ原の戦
 いで御徒の頭として従軍、このとき家康から恩賞として父祖の旧領当地
 に3,050石を采地として賜った。
  のち、駿府城で家康に近侍、40才にして病を得、城中にて没し、都
 田に葬られた。
  長子貞用(時に23才)は、寛永5年(1628)、父の17回忌を期して、
 稲荷山の南麓にあった新正院を当地に移転、高さ9尺(2.7メートル)
 周囲16間(29メートル)の円墳を築き、五輪塔を造立して墓を移した。
 併せて寺観を整え、慈父への報恩の誠を尽くした。
  万治3年(1660)、慈母が没し、この円墳の左脇、6メートル程の位置
 に同規模の円墳を築き、四面の石塔を建立してその恩に報いた。
  法号、大見院殿実相成参大居士、寒松院殿妙心性耆尼大姉に因み、山
 号・寺号を松源山實相寺と改め、金指近藤氏始祖の菩提寺とした。
  この墓の前面に位置する實相寺庭園は、まさに両墓を荘厳するために
 築庭されたものであるといわれている。
                              山主」

 そして、そのずっと奥に大きな墓地があり、古い墓石群が並んでおりま
した。その中に、松嶋家の墓が3つ程ありました。
 @松嶋家(丸に立ち沢瀉紋)
 A 〃 (丸に左三階松)
B 〃 (  〃   )
 これらは松島十湖家(丸に一文字)と関係するのかどうか、するとすれば
家紋はもともとは小笠原系の三階松(三階菱)だったのか。この墓地には
小笠原家の墓もあり、三階菱であった。

 その他には、加茂家、中村家、天野家、九鬼家、安間家、鈴木家、渡辺
家、等々の古い墓があった。

  
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月09日 06時16分35秒 ) パスワード

三つ柏さん


またまた混線しますね。
松嶋姓で沢瀉や丸に左三階松。

   家紋の世界は更に複雑ですね。
   つまり  分家   分家のそのまた分家  または全くの別流れの可能性?




近藤さんですが!ビックリですよ〜
ご先祖さまは藤原秀郷の子の  千常  ですよ〜
冷水を浴びせられた気分です。


近藤氏    http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kondo.html
鹿 角
(藤原氏秀郷流)


 藤原秀郷の後裔脩行が近江掾となり、やがて土着した。

そして、官名の「近」と藤原の「藤」とを結び付けて近藤太と称したのが近藤氏の始まりである。

藤原氏で左兵衛尉でったところから佐藤氏を生じたのと同じ型である。



 脩行の孫景親は駿河権守となって、駿河島田郷に土着して島田氏を名乗ったようで島田権守とも見え、その子景重は島田八郎大夫を称した。

景重はやがて伊豆に移住し、平治の乱において源義朝に従って戦死している。

景重の子が国澄で、『尊卑分脈』に近藤八として見え、『源平盛衰記』には「伊豆国住人近藤四郎国澄」とある。

その子国平は『源平盛衰記』や『吾妻鑑』に、いずれも「近藤七国平」と記されている。


 国平は、頼朝挙兵に参加し山木攻めや石橋山の合戦に臨んでいる。
その後、各地で転戦し、やがて頼朝が鎌倉へ落ち着くと、側近の一人となって同地に在住した。

文治二年(1185)二月には、中原久経とともに頼朝の命で鎌倉殿御使として上京。

七月末には畿内十一ケ国にわたる武士の乱暴狼藉を鎮定するために活躍している。

この業務葉占領地域の拡大とともに四国・九州にも及んだ。正治元年(1199)には、罪科に処せられて讃岐国守護を免ぜられた後藤基清に代わって、国平が同職に就任している。


 後藤基清は承久の変で院方についたため、鎌倉方に捕えられて死罪となったが、国平もまたこの乱後、正史のうえから姿を消している。



乱世を生きる                    家康の家来の近藤さん

 景重の弟島田二郎景頼の系からも近藤氏が出た。

景頼の孫直景を祖とし、戦国期、徳川家康の祖父松平清康に仕えた近藤満用・乗直の父子である。

「家譜」に、乗直は清康に従い三河国宇利の丸山で猟をした、そのとき鹿一頭をとらえてその角を引き裂いた。

清康はその勇力に感じ入って、以後「鹿角」をもって家紋とすべしと言葉を頂戴したと伝える。

以後、「鹿角」が近藤氏の定紋となった。



 その後、乗直は戦場で歩行の自由をなくしたため、弟忠用が家督を継ぎ、清康の思わぬ死による、いわゆる「守山崩れ」の後、心ならずも一時期を今川義元の下に服し、やがてその子の康用・秀用が家康の自立期に介する。

秀用は近藤登介を称し、この名がその後代々近藤宗家の通称となった。



 秀用は三方ケ原の戦い、長篠の対武田戦に活躍し、大坂の役にも老体をひっさげて先陣として働いている。

慶長八年秀用大往生のあと、宗家に五千五百石を残し、孫の用将に五千五百石などを分与した。


結局大名家とはなりえなかったが、大身の旗本が分出したことになった。


 国平の流れの近藤氏は、国平の子国重が承久の乱以後甲斐の万沢にいたって閑居し、正元元年(1259)同地の浅間神社神主職を勤めたという。

国重の孫宗光は『太平記』に「近藤三郎左衛門尉宗光」と見え、明徳三年(1392)和州吉野において死亡している。

そこで家督は弟の国光が継ぎ、以降代々甲斐に住した。


戦国期は武田氏に仕え、国義の跡は武田一族の今井氏から義甫が婿養子として入り、子孫は連綿として今日に至っているという。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月09日 06時17分21秒 ) パスワード

近藤さんの系図


[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月09日 06時25分04秒 ) パスワード

>松嶋家の他には、加茂家、中村家、天野家、九鬼家、安間家、鈴木家、渡辺家、等々の古い墓があった。

ということは
これらの家は近藤家とかなり近い家でしょうか?


安間さんのみ知らないので検索しました。
静岡の人のようですね。


【名字】安間

【読み】やすま,あかん,あんま,あま,あんけん

【全国順位】 2,766位  

【全国人数】 およそ5,200人

あわへの路という意をもつ現淡路島の有名氏族、海氏の子孫。
高島藩、現静岡県西部である遠江、現山梨県である甲斐、現東京都、埼玉県広域、神奈川県北部である武蔵などにみられる。


これまた意味深ですね。


群馬県 3,228位 およそ30人
埼玉県 2,511位 およそ300人
千葉県 3,285位 およそ200人
東京都 2,772位 およそ500人
神奈川県 2,682位 およそ300人
福井県 810位 およそ100人
山梨県 1,971位 およそ20人

          静岡県 243位 およそ2,800人   ダントツに多いですね

愛知県 2,027位 およそ300人
沖縄県 1,607位 およそ30人


ということは元々静岡の名家だったということですね。
その前は淡路島?
というと古代の神様の子孫?

[52]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月09日 08時54分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松嶋氏の墓については、今度訪れた時、住職に訊いてみます・・・。
 松島氏の丸一文字、市野氏の丸一文字、天方氏の丸一文字、那須氏の一文
字、新田氏の新田一引両・・・源氏関係か。市野氏の「おぼんにかつお節」
というのは比喩かも知れませんね。でも松島氏は小笠原系か諏訪系とみてい
るのですが・・・。どうも伊那の松島あたりでで混ざり合ってわからなくな
っています。

 安間氏のいた場所を安間と言ったのか、安間にいた氏族を安間と言ったの
か、これは服部にも言えますが、ニワトリが先か卵が先か・・・土地名が先
行のパターンが多いと思いますが。

 浜松の国道一号線の天竜川寄りに中野町という所がございますが、その西
側に安間町(どちらかというと国一の南側)という所がございまして、そこに
は金原明善の生家があります。安間という名前は海部族・海人族がルーツだ
とは思いますが、昔の船での移動・往来が想像されます。

 本日はこれから「筆の会」へ行きますので、続きは帰宅後に記します。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月09日 09時20分18秒 ) パスワード

個人で国家がするべき事業をやってしまうというのがスゴイ。
それに保護司の先駆けとは人道主義者だったのですね。


金原 明善(きんぱら めいぜん、天保3年6月7日(1832年7月4日) - 大正12年(1923年)1月14日)


明治時代の実業家。遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)出身。浜名郡和田村村長。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した。

天竜川の治水[編集]

1868年(慶応4年)5月、天竜川は大雨により堤防が決壊。浜松及び磐田に大被害をもたらした。明善が19歳(1850年)の時に発生した洪水は、一瞬に安間村を沈めてしまった。それは明善にとって一生忘れられない災害であった。天竜川沿岸に住んでいる人達の苦しむ様に途方に暮れていた時に、明治維新をむかえる。そんな新政府の「政体」の布達が明善に希望をあたえた。

早速、京都に上がり天竜川の治水策を民生局へ建白した。だが明善の必死の訴えも届かなかった。しかし、8月に新政府は急に水害復旧工事に着手した。明治天皇東京行幸の道筋になる東海道の補修が目的であった。当時の明善は、その事を知らずに堤防の復旧工事を行う。明善の優れた運営手腕により、8月下旬に開始した工事は10月上旬に大略が終了。その功績が認められ、明治天皇東幸において浜松行在所の時に苗字帯刀を許される名誉を得た。

翌1869年(明治2年)に明善は静岡藩から水下各村の総代・又卸蔵番格に申付けられた。そして明治5年に浜松県から堤防附属を申付けられ、戸長役・天竜川卸普請専務に任命された。1874年(明治7年)には天竜川通堤防会社を設立。

1877年(明治10年)、全財産献納の覚悟を決めた明善は内務卿大久保利通に築堤工事実現の為に謁見した。明善自身も一介の田舎農民が内務卿への謁見は叶わないと思っていた。ところが快く大久保利通との謁見は実現した。それは長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している明善の話が大久保利通の耳に入っていたからである。

そして、近代的な治水事業が始まった。

それは、主に堤防の補強・改修をはじめ
1.天竜川を西洋式の測量器を使用して全測量
2.鹿島村から諏訪湖に至る高低測量
3.天竜川河口から二俣村に至る実測量
4.駒場村以下21箇所の測量標建設
5.自宅に水利学校を開き、治水と利水の教育を行う。

を実施した。後年の天竜川における治水計画の基礎となった。

しかし、流域の住民の利害争いが原因で1883年(明治16年)天竜川通堤防会社は、幕を閉じた。以後、明善の計画を雛形にして国・県が天竜川の治水事業を引き継いで行っていった。そのスタッフには、天竜川通堤防会社や自宅で開校した水利学校の人材も多数残った。

天竜川流域の植林事業[編集]





金原明善
明善は、下流域での堤防による治水が軌道にのると、次に天竜川流域の山間部の植林事業にのりだした。

当時、天竜川の山間部は荒れていて大雨が降ると大量の水と土砂が一気に川に流れてしまう状態であった。明善は植林による治水を考えていた。そして、1885年(明治18年)より植林を始める。これが、後に天竜杉となり浜松市天竜区(旧天竜市・龍山町・水窪町・佐久間町)の林業発展のきっかけとなった。

疏水事業[編集]

明善は、第三番目の事業として疏水事業を計画した。

これは、水量豊富な天竜川を二つの方向に分水。一つは三方原台地に通して堀留運河(現・堀留川)に連絡、そして舞阪町に至らせる。そして、もう一つは都田川から浜名湖に通ずる様に計画された。目的は、
1.運河を利用して材木などの輸送を行う。
2.三方原台地の農業を発展させる。
3.浜松地区の工業に必要な水を確保する。

事業計画の為に測量を行い、用水路の概要が出来た。この実測と計画には数年の歳月と多額の資金を費やした。その資金は明善自身が負担した。しかし、県では「現在の河工技術では実現の見込みなし。」とされ計画は不採用となった。

だが、この計画は近代における天竜川利水の第一歩となった。この時に計画した材木の運輸は、後に天竜運輸会社(現・株式会社丸運)設立のきっかけになった。

北海道開拓[編集]

明善の知人で、後に静岡県知事となった小野田元熈(オノダモトヒロ)なる人物がいた。その小野田元熈の旧友に丹羽五郎がいた。丹羽五郎は会津藩士族で明治初期に警察官になり、後に東京神田和泉橋警察署長になったが幕藩出身者であるがゆえに苦悩があった。やがて、北海道に新天地の開拓を夢見るようになった。そして、実地調査を行い綿密な開拓計画をたてる。

丹羽五郎は小野田元熈の紹介で明善と面会した。そして、北海道開拓の意志を明善に話した。丹波五郎の熱意に心打たれた明善は、丹波五郎に無抵当無利子で出資を快諾した。

丹羽五郎はその出資金を元に、渡道。北海道瀬棚郡目名地区(後・北海道瀬棚郡今金町鈴岡)に農場の開拓を開始した。その農場は金原農場とよばれた。

当時、北海道の開拓は挫折が多く当時の北海道長官北垣国道は苦労していた。開拓事業に明善は直接携わらなかった。しかし、幾度も渡道して農場を巡回慰安・激励した。

事業・経営[編集]

明善の事業経営の基本方針は
1.身を修め家を斉えて後、始めて報効の道は開かれる。
2.事業には必ず資本を必要とする。この資本は質素倹約を基調として求むべきものである。そしてその事業が大きくなるに従ってしの資本は共同出資方式にならねばならぬ。
3.事業の発展進歩はその事業に携わる人々にある。そしてこの人物の育成は教育に俟たねばならぬ。

明善は、「金は値打ちのない場所(町)で儲けて、値打ちのある所(田舎)で遣え」という金の活用法を実践した事業家でもある。

余業[編集]

明善の余業は、岐阜県の行脚から始まった。濃尾地震以来荒廃した被災地区の復興に協力した。

1888年(明治21年)には、静岡県出獄人保護会社を創設し、日本で最初に刑余者の保護事業に着手した。現在の保護司制度の原点とされる。なお、静岡県出獄人保護会社は、後に「静岡県勧善会」となり、今も更生保護事業を進めている。

1906年(明治39年)には、広島県知事・山田春三の招きで、植林思想普及および実践促進のために広島県に出かけた。

栄典[編集]
1888年(明治21年)3月31日 - 従五位[1]
1902年(明治35年)2月22日 - 勲六等瑞宝章[2]
1914年(大正3年)10月8日 - 正五位[3]
1923年(大正12年)1月14日 - 紺綬褒章[4]

[54]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月09日 16時17分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日見た『東方見聞録 浜松市東区の文化誌』という本の中に、たまたま
「安間了願」という人の名前が出ていましたので、調べてみますと―


blog.goo.ne.jp/buzz_and.../e/faf311c44293bbe44842042a469a1edf

遠江街道古跡図会(東海道12)松林禅寺と六所神社由緒

2008-09-12 18:18:02 / 遠江街道古蹟図絵(東海道)


「鶴翁山松林禅寺は、旧東海道北側に沿って立つ臨済宗方廣寺派のお寺です。
 ご本尊は地蔵菩薩で行基の作と伝えられています。

 山門前の石柱には、「後醍醐天皇皇子圓明(えんみょう)大師古道場 松林
禅寺」と刻まれています。

圓明大師は無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)ともよばれ、後醍醐天皇
の皇子・満良(みつよし)親王であると伝えられています。

無文元選禅師は、浜松市北区(旧引佐町)の奥山方広寺(鎮守の半僧坊も有
名)を開山したことでも有名です。

伝説によれば、南北朝の時代にこのあたりを開拓したのは「安間(阿間)了願
(あんまりょうがん)」と言う豪族で、南朝方の楠木正行の家臣であったそう
です。

了願は屋敷近くに氏神である六所神社(現在の中野町六所神社)を祀り、圓
明大師の道場である「松林禅寺」を建てたといわれています。

(注:安間了願が四条畷で討死したのが正平3年(1348年)、中野町六所神社
勧請が建治2年(1276年)、松林禅寺建立が元中元年(1384年)、これらが全て正
しいとすれば、了願一人でなく安間一族により勧請、建立されたと考えるべき
でしょうか)


《中野町六所神社由緒》

 ところで、中野町六所神社の祭神は底・中・表津綿津見神(そこ・なか・
うわつわたつみのかみ)と底・中・表筒之男命(そこ・なか・うわつつのおの
みこと)の六柱です。

 綿津見(わたつみ)三神は、すなわち海神(わたつみ)、筒之男命は住吉三
神とよばれる航海の神です。

 そして、安間氏は阿間氏(あま)とも呼ばれ、海人・海部(あま)と同じ海
の一族だそうです。」


 
 安間氏の浜松市での世帯数は、5年前の電話帳では185世帯、服部氏に比
べて、約半数です。

 次に、金原明善と天竜川の話になりますが、昨日、内山真龍記念館へ行き、
真龍が作成した、「天竜川絵図」の複製を偶然にも購入してきておりました。
 その絵図に関する話をしたいと思います。

 一旦、切ります。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月09日 22時36分17秒 ) パスワード

三つ柏さん


「安間了願」楠正行家臣
南朝後醍醐天皇皇子満良親王


ということは矢張り「南朝方」の影響があったのですねえ。


当然、松嶋家とも関係があった、のでしょうね。


昨夜は金原明善氏のことを感心しまくったせいか
夢にまで明善氏の偉業を見ました。
明善の会社の証券を義母から相続した夢を見ました。

セキュリティと書いてあったので「証券」です。


   たぶん昨朝友人の香港爺さんからフェイスブックの株がドカンと下がった話を聞かされて
   うちは金鉱株を持っているだけ
   と言いたかったのに香港爺さんは耳が遠いから(聞こえないだろうな)と言わなかったから
   こんな夢を見たのでしょう。


明善氏はどうやって莫大な資金を確保なさったのでしょうね。
いくら資産家でも国家レベルの事業をするには資金確保が大変だったでしょう。

そういうのも含めて「偉人」ということですね。


   戦国時代の英雄達もそういうような凡人には無い「能力」があったということなんでしょうね。
[56]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月10日 12時08分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 内山真龍の「天竜川絵図」ですが、説明書にはこう書かれていました。

 「絵図は山林や田畑の地境論争などの時に有力な証拠となるので、村の
 指導者や為政者は、必要に応じて絵図を作成した。
  江戸時代後期の国学者で、大谷村名主の内山真龍(1740〜1821)は、
 享和3年(1803)に中泉代官小野田三郎右衛門に命じられて、諏訪湖から
 掛塚湊までの『天竜川絵図』(長さ351p 幅79p)を、約2か月間を費や
 して作成した。これは勘定奉行の巡見に供するために用意されたものと
 思われる。
  天領(幕府の直轄地)の村々の地名は白色に、私領(大名・旗本の領地)
 の村々は赤色に、また山・原野・郡境などが、それぞれ色わけされている。
                          天竜市教育委員会」

 地図でも諏訪湖から掛塚までを1枚に表したものはたぶんないだろう。そ
ういった意味でも貴重であるし、また、享保(1800〜)の頃の川の流れ、町の
所在、橋、渡し場といったものがどうなっていたのかもわかる貴重な資料で
あります。天竜川を通じての信濃と遠江の交流・物流もこの地図によってあ
る程度推測できます。
 地図の中には諏訪湖より掛塚(天竜川河口)までの行程が次のように書かれ
ておりました。
 「諏訪より南 青崩まで2日余 掛塚より青崩まで4日路」
すなわち約1週間かかったということです。今では自動車で5時間くらいで
しょうか。とばせば4時間かからないかも知れません。」

 旧天竜市二俣の天竜川岸辺に、いかだ問屋の「田代家」があり、現在も史
蹟として建物等残っておりますが、「いかだ」を船の代わりにうまく使った
ようであります。竹で二重に床組し、結わえて水によく浮かぶようにしてあ
ります。材木のいかだは人が乗れて船頭が竿で操作できるようにしたと思い
ます。
 信濃と遠江の水運については、改めて調べてみたいと思っております。

 田代家は二俣城と鳥羽山城の中間点の天竜川岸辺にあります。二俣城に
行ってみましたが、西側を天竜川に囲まれ、断崖に近いので難航不落では
あったけれど、水を天竜川より汲む櫓を壊され、落城に至ったようです。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月10日 13時51分40秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうなんですか
名主だったりすると絵図で土地を描いて持っていたのですか。

すごい話ですね。


でもそういう教養というのも備えていないと名主は勤まらなかったわけで
絵の描ける人や測量できる人を抱えていたんでしょうね。


能忠敬が日本全国を測量して回った時に土地の人が来て
というハナシを聞いたことがございます。


こうやって土地土地でみんな勉強して切磋琢磨したんでしょうね。


そしてやっぱり天竜川沿いに信濃から遠江に落ちて来たという人の流れも感じます。


>水を天竜川より汲む櫓を壊され、落城に至ったようです

思わぬ落城秘話ですね。
攻める方もよく考えたものです。


貴重なお話の数々をありがとうございます。
[58]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月11日 01時53分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「家康公の遠州侵攻と井伊直政」のセミナーの報告がまだでしたので報告
をということで、7月5日、細江町気賀の浜松市みおつくし文化センターで
講師はおかざき塾・歴史教室を主宰している「市橋章男」氏。

 このみおつくし会館は気賀の関所のすぐ近く、また例の「堀川城址」の近
くでもあり、壮絶な戦いを思い出します。1568年の出来事でありました
ので、直政8才の時でありました。

 市橋氏は1954年岡崎市生まれ。国学院大学で史学専攻。岡崎市史調査
員、教員を退職後、徳川家康を専門的に研究し出したということであります。
著書も5冊以上はあるでしょうか。その内の1冊を会場で購入して来ました。

 この講演会の主催はNPO奥浜名湖観光まちづくねっと事務局でありまし
て、誰あろうあの龍潭寺前住職の武藤全裕氏が会長としてご挨拶をなさいま
した。
 挨拶後、偶然にも私の座った跡のすぐ左にすわられたのでビックリいたし
ました。会場では、武藤氏の最新の小冊子「徳川家康井伊領侵攻における
井伊谷三人衆私見他」も頒布されておりました。

 井伊直政についてはだいたい知っているつもりなので、内容的には以前の
小和田先生の時のほぼ同テーマのセミナーでも驚きはありませんでしたが、
今回記憶に残ったいくつかの話を記します。
 @家康は小太りのイメージで描かれることが多いが、じつはそれは孫の家光
  が祖父が好きで、霊夢の中で見た家康像を絵士に描かせたのが始まりで
  あった。証拠として、法隆寺に残されていた家康74才の時の戦勝祈願
  時の肖像画は、細面であった。
 A家康が生き残って強くなったのは、まずは自軍の軍制改革をしたことが
  寄与している。それは4つのグループ分け、即ち「西三河グループ」、
  「東三河グループ」、「旗本グループ」、「諸奉行グループ」に分け、
  それぞれに有力大名を配した。西三河Gには石川家成、東三河Gには酒井
  忠次を、旗本Gには「旗本先手役」として榊原や大久保、本多、鳥居、
  植村、大須賀等、「馬廻衆」として服部、渡辺、蜂谷等、諸奉行Gとして
  三河三奉行の高力等・・・。
 B遠江侵攻には、あらかじめ信長の了解を得ていた。
 C遠州侵攻に寄与したのは、天竜川沿いの二俣城二俣氏、高薗城浅原氏、
  頭陀寺城の松下氏とうの国人を味方に付けたのが大きかった。
  (高薗に城があったという話でした。今は田んぼの中に神社があるのみ)
 D直政は本能寺の変後にめきめきと出世する。伊賀越えの31人の伴の中
  に入っている。
 あとさまざまな話がありましたが、細かく長くなりますので今回は省略し
ます。
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月11日 01時58分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 訂正:私の座った跡→席 (自分では正しく変換されていると思い込んで
いる)
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月11日 09時16分23秒 ) パスワード

丸三柏服部さん


小太りの家康像は家光が見た夢からでしたか。
これまた貴重なお話ですね。



>家康が生き残って強くなったのは、まずは自軍の軍制改革をしたことが寄与している。
>それは4つのグループ分け、
  即ち「西三河グループ」、「東三河グループ」、「旗本グループ」、「諸奉行グループ」に分け、
>それぞれに有力大名を配した。

なるほどね。

だってゴチャゴチャになると仲が悪くなって足の引っ張り合いが生じたりしますものね。
さすが苦労人ですね。


    これは信長のやった事を見てて学習したのかもですね。


>龍潭寺前住職の武藤全裕氏が会長としてご挨拶をなさいました。

良かったですね。
もっと親しくなれますね。



いろいろな人とお知り合いになれて、更に交流があって、ライフワークが見つかりましたね。
[61]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月11日 23時54分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松下常慶安綱に関する情報が得られました。川島幸雄氏の『井伊氏家系史
考』によると―
 「徳川家康が浜松で最も信頼したのが加賀白山先達の松下常慶安綱である。
  家康は、浜松在城の頃から白山修験道の崇信あつく、本山派に属する修
 験道場二諦坊に住む松下常慶を加護し、堂宇を建立して、毎月18日には
 必ず参拝したという。
  松下常慶は井伊虎松(のちの直政)の義父松下清景の弟であるのと同時に、
 遠州長上郡頭陀寺の松下館の松下嘉兵衛之綱の同族でもあった。
  松下常慶は遠州浅羽庄松下村の郷士であった松下連昌の子である。また、
 松下常慶は非常に闊達にして大度の人だったらしい。その上に賦税に精通
 していたところから特別に徳川家康は浜松にいる間は陣中に従えて、兵糧
 を奉行させたり、祈祷祓禊(きとうふっけい)の祭事を司しめらせた。」
ということです。ここから松下氏の人物像・バックグラウンドが見えて来る。
とても大事なポイントに出くわしました。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月12日 05時09分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


>徳川家康が浜松で最も信頼したのが加賀白山先達の松下常慶安綱である。
>家康は、浜松在城の頃から白山修験道の崇信あつく、
>本山派に属する修験道場二諦坊に住む松下常慶を加護し、堂宇を建立して、毎月18日には必ず参拝したという

これは知らなかったです。

一体どうしてだったのでしょうね?



>祈祷祓禊(きとうふっけい)の祭事を司しめらせた。

これもビックリ!
全く想像も出来なかったことです。



こういうのから推測する松下常慶とは   普通の人間じゃなかった  ということでしょうね。

何か超人的な精神力とか身体能力とか   特別な人  だったんでしょうね。


   多分、山伏達を使って情報収集に他の忍者より優れた情報を得ていたのか?


加賀白山        これが関係するんですかねえ?ちょっと読みましたがサッパリ分かりませんでした。


白山とは
最高点の御前峰(ごぜんがみね)には、一等三角点と白山比・神社奥宮がある。
富士山、立山と共に日本三名山(日本三霊山)のひとつ。


白山を霊峰とする白山信仰は古くからあり、中世には白山は白山修験の霊山として栄え、
登山口には修験の道場がひらかれて白山信仰の全国的広がりのもととなった。

2011年現在、日本各地に約2,700社の白山神社があり、白山比・神社(石川県白山市)がその総本社となっている。


白山比・神社(しらやまひめじんじゃ)は、石川県白山市三宮町にある神社。
式内社、加賀国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

全国に2,000社以上ある白山神社の総本社である。
通称として「白山(しらやま)さん」「白山権現」「加賀一の宮」「白山本宮」とも。

神紋は「三子持亀甲瓜花」。



主祭神は以下の3柱。
白山比・大神 - 菊理媛神(くくりひめのかみ)と同一神とされる。
伊邪那岐尊
伊弉冉尊


菊理媛神、又は菊理媛命(ククリヒメのカミ、ククリヒメのミコト、キクリヒメのミコト)

日本の神。
加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比・神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。


神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、そこで伊弉冉尊と口論になる。そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言い、菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれを褒め、帰って行った、とある。菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない。

この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。ケガレを払う神格ともされる。

神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる。他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜り」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある。

なお、神代文字で記されているとされる『秀真伝』には、菊理媛神が、天照大御神の伯母であるとともにその養育係であり、また万事をくくる(まとめる)神だと記されている。
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月12日 16時40分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 修験道に関する研究書に和歌森太郎氏の『修験道史研究』という本があり
ます。一口に修験道といっても裾野が広く難解でありますが、歴史を理解す
るためにはこの修験道も理解しないといけないと思っています。忍者関係は
特にそうだと思います。

 白山信仰ということで、修験に関係する神社には加賀国に、唯一の一宮と
して「白山比・神社」があります。
 また、お寺でいうと、円城寺、三井寺、醍醐寺、聖護院等が修験道に関係
しています。
 三井寺といいますといろいろな関係が想像されます・・・。
 ま、今は探く追及するのは止めておきますが・・・。

 川島幸雄氏は常慶についてさらにこう述べています。
 「松下常慶安綱はいわゆる身辺警護人、後のお庭番的存在であるが、修験
 道に精通していた者と思われ、俗に鴨江白山二諦坊に住み、家康の加護を
 受け、石川数正と共に、堀川城の戦後処理に引佐郡代官を勤め活躍した。
  その後は、家康に付き従って駿府城の賄方(まかないがた)として活躍し
 たが、事蹟伝承の年齢の間違いからか、10年程度の年齢誤差で歴史の
 表面で活躍している不思議な人で、引馬城の没落の原因はこの松下常慶
 安綱が隠密的な活躍で江間氏の従兄弟同士を武田方、徳川方へと引離し、
 飯尾氏を滅亡に追いやった人物である。」

 浜松の馬込村は修験の街として元禄年間には23ヶ院の修験の堂院(寺)が
あったという。そして北遠には修験の秋葉山、信濃北伊那箕輪町松島はその
ルーツの三尺坊の生地であった。
 修験者・山伏が遠江から信濃へ、あるいはその他駿府、甲斐等各地へ出か
けていって情報を掴んで来た、あるいはこちら側の都合のいい情報を広めて
きたのではないかと思われます。
 いずれにしても箕輪松島は、遠江と非常に関係の深い所であることは確か
です。

 さて、調べますと旧浜松市には白山神社が9社ありました。その他には、
三ヶ日と細江に集中していました。
 浜松にある白山神社でも旧吉野町にある白山神社には、家康との逸話が
残されておりました。
 それは―
 「三方ヶ原の戦いに敗れて当地に逃れて来た。領主渡辺次郎昌遠に会い、
 苑草の中に隠れることができた。白山大権現に武運長久を祈り武田軍か
 らの追跡を逃れた。」 

「新浜松市の宝箱」によると―
http://www.ast.gr.jp/takarabako/syousai.php?id=223&Chi=

「白山神社の西側から北東にかけ、全長約300mにおよぶ谷を総称して与市ヶ
谷と言う。 現在は排水路となり、その面影は残っていない。かつては上流
部に清水が湧き出ていて、今でもこの場所は下井戸と呼ばれている。 与市
ヶ谷のいわれは、渡辺次郎昌弘の15代目子孫にあたる與市兵衛が住んでいた
ところで、その名をとって与市ヶ谷と言い伝えられている。 なお、渡辺
次郎昌弘は南北朝時代の元中3年(1386年)台風にみまわれ、白羽の海岸に
漂着し本村に移住したと言われている。」
 
 即ち、渡辺氏は宗良親王に従って白羽経由で井伊谷にやって来た。その後
いろいろあり、親王は最終的に井伊谷にて崩御した。渡辺氏は当地に移住し、
領主となって社殿を作ったということである。

 白山、修験、南朝・・・奥深いものがあります。

[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月12日 22時37分42秒 ) パスワード

三つ柏さん


>旧浜松市には白山神社が9社
>白山、修験、南朝・・・奥深いものがあります。


我々は  歴史について  ほんの表面しか知らないのですね。
何も知らない、の方が良い表現ですね。


それにしても日本という国は(外国もそうでしょうけど)こうして成り立って来たのか、と。


遠江の国もすんなり家康の配下とは言えないのですねえ。


江間氏には松島家から嫁に行ってますね
後ろのほうの子供がたくさん出てる右のページの「お五百」さん。お良ともいう、と書かれた人。
[65]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月14日 01時36分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一つのテーマを継続して探究して行くには時間がかかりますが、していか
なければ壁にぶちあたったままで終わってしまう。継続するためには次から
次へと探っていく努力をしなければならない。
 ということで、せっかくいい線まで謎解きにせまったのに、そこから前に
進めないというテーマが多々あります。
 というかほとんどがそうでありますね。最近つくづく感じております。
 ま、あせらず地道に努力ということしょうか。
 このところ、台風の影響下の暑さ(蒸し暑さ)が思考力の低下をもたらして
います。

 さて、話は過去に戻りますが、服織神社は天穂日命を祀り、即ち出雲系神
道であった。その後、羽鳥荘が新熊野神社に寄進されたため、当然熊野系の
宗旨になってしまったと考えられる。そこで今までの氏子にはそれに従えな
い者がいた。そこで新たな出雲系・物部系の宗旨を求めた。土師氏は物部氏
とともにこの地方に一体化していたので、系列の菅原氏を祀る天満宮を勧請
することになったと考えられないか。善地に建てられた天満宮の創設の由縁
として考えられないか。
 もう一つの由縁として考えられそうなのが、今までは神道系であったのが、
今川氏の遠江支配になり、仏教重視の政策となり、神道系は圧迫されたので、
新たなる地に祖先と関係する神社を建てた。それが善地天満宮だったのでは
ないだろうか。
 いずれにしても、氏子が揃って移動したのではないだろうか。
 そんな観点から服織神社・天満宮の謎を更に探究してみたいと思っていま
す。

 宗教・信心の関係を突っ込んで考えたことはかったので、今後の歴史探究
にも、そういった観点から見てみるということも必要と思っています。例え
ば一向一揆・・・浄土真宗。そしてキリスト教。いわゆる戦国の戦いと並行
して起っていた宗教弾圧・宗教一揆・・・。実際、民衆も宗教と一体であっ
たと思いますので、やはり宗教的世界観からのアプローチも必要かなと思い
ます。

 更には、もう一つの観点として、戦乱の世の中での臣下、そして民百姓の
過酷さというものを理解する必要があるということと、戦乱がいかに残酷で
あったということを認識する必要があると思います。この平和で豊かで民主
主義の自由な現在の状況とはまったく違った世界であったということ・・・。
 例えば、首級を上げる・・・即ち、戦国時代には首狩り族と同じことをし
ていたのです。語るのに躊躇してしまいます・・・。
 
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月14日 08時16分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 徳川家康と白山勢力との関係、即ち修験・山伏との関係、これはどこから
もたらされたものであるか・・・起源は南朝と伊賀・甲賀、修験勢力、いわゆ
る「まつろわぬ者達」との接近、この流れが服部保長・正成親子に引き継がれ
ていた。家康がこれらのまつろわぬ者達と接近できたのは、半蔵正成に負うと
ころが大きかったのではないか・・・。

 この点について、本日は充電したいと思っております。南朝・伊賀・甲賀・
柳生・・・これらは一連の流れの中でつながっていると思われます。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月14日 08時33分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


>服織神社は天穂日命を祀り、即ち出雲系神道であった。
>その後、羽鳥荘が新熊野神社に寄進されたため、当然熊野系の宗旨になってしまったと考えられる。

>そこで今までの氏子にはそれに従えない者がいた。

>そこで新たな出雲系・物部系の宗旨を求めた。
>土師氏は物部氏とともにこの地方に一体化していたので、系列の菅原氏を祀る天満宮を勧請することになったと考えられないか。
>善地に建てられた天満宮の創設の由縁として考えられないか。


なるほどねえ。


裏付けが欲しいので知っている人が見つかると良いですね。
   神職さんや地元のご老人。
   どういう話が伝わっているのか。
   また浜松市の歴史の中に書かれてはいないか。

三つ柏さんの推測が当たっていると良いですね。
にっこり


>語るのに躊躇してしまいます・・・。

今の時代から考えると恐ろしいことです。
でも当時の人には当たり前でした。負ければ自分の首を取られる。

そして今でもそういうことをやってる国々・人々・宗教がある。
ビックリしますが、昔の日本もそうだった、と考えると   思考がこんがらがりますね。

ナイフでゴリゴリ首を切られるのと、日本刀で瞬時に落とされるのと、
どっちが   ???   なんて。


自分1人の命と引き換えに数十人の敵の命を奪う・・・
まさにこれは70年前までの日本人が熱望してたことですよね


ホントに歴史って
迫りながらも寸でのところで肩透かしを食らうし
今の時代には考えられない残酷なことが行われていて今の自分がある

とにかく多くの人に会い、たくさんの書物を読み、
なんとかして丸に三つ柏紋の服部氏に辿り着きましょう。

    服部政信系の家で母方の千秋氏の出身の名残りを家紋に残している家が見つかると良いですね。
    必ず浜松にいたと思うのですが。
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月14日 08時38分04秒 ) パスワード

三つ柏さん


>南朝・伊賀・甲賀・柳生・・・これらは一連の流れの中でつながっていると思われます。

はい、繋がっています。




柳生氏の出自[編集]

新井白石が作成した系譜の『藩翰譜』(または後世の『寛政重修諸家譜』)によると、
柳生氏の姓は菅原姓とされ、菅原道真が祖先とも言われている。

使用の家紋は、「地楡に雀」、替紋に「柳生笠」。


実際の柳生氏の事項が明らかになるのは、南北期の播磨守永珍(別名:宗珍、大膳亮永家の子とされる)の頃からで、
柳生家の家譜である『玉栄拾遺』によると、元弘3年(1331年)に、南朝方として、
六波羅探題の北条仲時・時益の軍勢と戦った永珍は戦功によって、
後醍醐帝から賜った大和国小楊生(大楊生とも)庄の領主となり、
柳生氏と名乗ったことから始まるとされる
(ただし、『玉栄拾遺』の記述自体も伝承の域を出ないという)。


柳生家の発祥地は大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)で、大和国北部にある。

また「楊生」・「夜岐布」・「夜支布」・「養父」とも記され、いずれも「やぎう」と発音するという。


戦国期に、上泉信綱から新陰流を相伝された柳生宗厳(石舟斎)は、永珍(宗珍)から8代目の子孫に当たる人物である。
[69]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月15日 00時14分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『松下加兵衛と豊臣秀吉』を書いた冨永公文氏の祖先は、新城市の野田
城の城主であったことを知り、調べていましたら野田城より前の時代に、
また場所としては野田城の南に、野田館という館があり、そこの城主は千秋
氏であったということで、遠江の意外に近くに千秋氏はいたことになります。


http://blogs.yahoo.co.jp/kurajiro63/58779657.html

野 田 館 跡 (所在地:愛知県新城市野田字貴船)

〔城 主〕
 千秋氏〜富永氏〜菅沼氏(野田菅沼)

〔歴 史〕
 11世紀終わりころ、熱田神宮大宮司千秋季兼が新城市稲木の長者と諏訪部
曲を滅ぼして勢力を拡大。 3代清季が千歳野に野田館を築いて居住。千秋氏
が領主として代々治めたが、建武の中興で戦功のあった富永直郷が野田館に
入り、広大な富永荘を支配。富永氏も戦国の世となり、領主(千若丸)の乱心
自刃により没落。地元に残った家臣今泉四郎兵衛が田峯菅沼定忠の三男竹千代
(新八郎定則)をいただき、野田館に迎え入れた。水害をたびたび被ったため、
永正13年(1516)上ノ山に城(現在の野田城)を築いて移った。

 この千秋氏の家紋、その一族のその後を知りたいものです。

 養老の千秋氏は時として服部を名乗ったといいますが、なぜなのか?

 新城に服部村があったことに関係しているのでしょうか、御器所の服部氏
に関係するのでしょうか・・・。いずれにしても、千秋氏の家紋を実際に見
てみたいと思います。

 さて、柳生についてですが、柳生と島左近はもっと知らなくてはなりませ
ん。松下之綱の娘おりんと柳生宗矩、島左近との関係、どんな裏での行動が
あったのか・・・特に島左近はくせもの・・・何で一族は遠江に逃げて来た
のか・・・敵陣ではないか?
 柳生氏の祖は菅原氏で、菅原道真が祖先であると新居白石が言っている?
 ということは、柳生氏と永井氏は同根かも知れません。あるいは大江氏
が松下氏と永井氏をつなぎ、松下氏により永井氏と柳生氏はつながる?

[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月15日 09時21分00秒 ) パスワード

三つ柏さん

>冨永公文氏の祖先は、新城市の野田城の城主であったことを知り、調べていましたら
>野田城より前の時代に、また場所としては野田城の南に、野田館という館があり、
>そこの城主は千秋氏であったということで、遠江の意外に近くに千秋氏はいたことになります。

事実はこんなものなんでしょうね。
意外な近さに手掛かりがあったのかも。

   ひょっとすると冨永氏と三つ柏さんは繋がるのかも知れないですしね。



>この千秋氏の家紋、その一族のその後を知りたいものです。
>養老の千秋氏は時として服部を名乗ったといいますが、なぜなのか?
>新城に服部村があったことに関係しているのでしょうか、
>御器所の服部氏に関係するのでしょうか・・・。
>いずれにしても、千秋氏の家紋を実際に見てみたいと思います。

ホント
千秋氏について知りたいものです。


おりんさんと宗矩は仲が悪かったそうで
どうしてなでしょうね?
夫の腹黒さが嫌だったのか?


柳生と永井が繋がりそうですか?


このレス<69>は服部氏に大いに関わりますので、あちらにも転載致しますね。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月15日 09時27分37秒 ) パスワード

御器所の服部でしたら
平家時代に服部氏が御器所にいて何の不思議もありません。

御器所は清盛の父上の忠盛の持ってた土地ですから
当然
その代官には平家一族の嫡流の家の家令の平家貞の息のかかった者でしたでしょうから
充分考えられるな、と。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月15日 09時41分25秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101473.html
長上郡の服部氏族XLY(M氏家譜10+市野氏解明済?)  スレッド46を御用意致しました。

切りの良いところでどいうぞ。
[73]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月15日 16時13分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の知人の中井氏は祖先が京都から御器所へやって来て、地元の服部氏の
娘を娶ったという。どうも大工頭の中井氏に関係する一族ではないかと推測 御器所の服部氏ということで調べてみますと、御器所荘に服部一族がやっ
てきたのは、1429年から1441年の間で、すでにこの地に城を築いて
しています。


いた佐久間氏と姻戚関係になり、属し、そして信長に仕えたということであ
ります。
 また、服部満喜の子である善昌は、佐久間信盛の失脚とともに、この一角
に隠棲したということです。

 服部は服部でも服部党とどうつながるのか調べてみたいと思います。


 柳生については、剣術指南役である以前に、忍者集団を引き連れていたよ
うです。関ヶ原の合戦を機会に秀忠に仕え出した。秀忠は、伊賀・甲賀とは
違った新しい自分固有の戦力として取り込んだようであります。

 まだまだ情報が足りませんので、引き続き収集します。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月15日 22時33分54秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101446_40.html
レス<40>と重複します。


三つ柏さん


まったく分かりません。以下は想像です。


ただ尾張の服部氏は2つの違う紋を使っています。
1つは車に並び矢紋で   こちらは尾張南西部
もう1つは矢筈紋で    こちらは尾張徳川に仕えた「かみ」の服部氏

でもこの2つしか知らないです。


想像しますと、
信長と尾張徳川に仕えた「矢筈紋」の服部氏が御器所服部なのかな、
と。

    信長の育った那古野城に近いし



そうすると津島の服部氏と近いのかなとも想像しますが
これが今川義元を刺したという服部小平太系です。


服部党の服部氏は、信長の時代には、津島の服部とは「敵」になります。


でも小平太系も服部党も  車+並び矢紋だから  この2つは紋も場所も近いだろうし


でも分かりません。
[75]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月16日 00時48分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 小説の中にもいろいろあって、歴史的事実をとことん追求し骨格とした上で、不足する部分を想像力で補う・・・そんな色合いの強い歴史小説は読みたいと
思います。
 柳生宗矩・島左近のありさまをうまく表現している(事実かどうかは検証
できるものならしたいと思います)小説に、『影武者 徳川家康』(隆 慶一
郎著)があります。歴史書では拾えなかったありさまを、実に手に取るように
ストーリー展開して表現しています。上・中・下の三巻本ですが、実に歴史的
マターの押さえもしっかりしていて、もしこんな風に歴史論文だけで書けたら
最高ではありますが・・・。
 もう一つ注目する本は、『家康は関ヶ原で死んでいた』(島右近著)であり
ます。この著者は、島左近の後裔にあたる人で、島左近の活躍を大胆に拾っ
ています。
 この二冊で、柳生宗矩と島左近のことがバーチャルにわかって快いです。
 島左近の後裔が二俣におりますので、よけいに島左近には興味を持ってお
る次第です。島右近氏の著書は仮説論文でありますので、今後引用したいと
思っています。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月16日 05時43分05秒 ) パスワード

三つ柏さん


最近、コピペがうまくできなくて、窓8はよく分かりません。


>「影武者  徳川家康」

有り得ますよね。



>「家康は関ヶ原で死んでいた」

これも有り得ます。


島左近の子孫の島右近氏の作、というのが余計に面白そうですね。


わたくし的には  長曾我部氏が大坂の両陣の戦いで敗れて  子孫が「島」を称した
というのが興味深いです。


島左近もその最期については、

・黒田長政軍の菅正利率いる鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷し後、死去した。

・正午過ぎ、小早川秀秋の東軍寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなり、左近は死を覚悟して再び出陣。
 正面の黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃し、奮戦した末に敵の銃撃により討ち死した。

その他、目撃談もあったりして


生きてた可能性、アリ、ですよね。
なんせ頭の良い人だったので自分の最期をどうするかぐらい考えていたでしょう。


だから島右近さんのお話は興味深いものがありますね。
[77]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月16日 16時46分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、柳生について、『柳生一族 新陰流の系譜』(今村嘉雄著)という
本を読んでおりました。その中で、柳生宗矩の父、宗厳に「陰流」を伝授し
たのが「上泉伊勢守秀綱(のち信綱)であるということで、この秀綱の祖先は
「遠州の俵藤太秀郷」であると書かれておりました。俵藤太秀郷は藤原秀郷
のことのようであり、なぜ遠州と関係するのかの点がわかりません。

 ウェブで該当する情報を探しました―

http://www.eonet.ne.jp/~yamatoshinkage/yamatoshinkage2.htm

 新陰流の歴史

 一、剣聖上泉伊勢守信綱公について
     
  新陰流の開祖上泉伊勢守信綱は、先祖は「遠州俵藤太秀郷」より出て、
  その家は代々上野大胡の城主として大胡の庄を治め、信綱の代には箕輪
  城主長野信濃守業政の旗下として戦場を掻け回り、その功より十六人槍
  の一人と称せられる戦国武将でありましたが、長野業政が武田信玄に滅
  ぼされるのを境に、それまで修行を重ねてきた剣術の道へ没入すること
  となります。
  
  信綱は若き頃より常陸の国・鹿島にて鹿島神流を伝える松本備前守尚勝
  の下で修行を致しております。この備前守尚勝は、一の太刀と呼ばれる
  兵法の極意を編み出し、後に塚原卜伝に伝え渡したと云われる人物であり
  ます。

  その後戦乱に備前守が倒れると、次いで陰流を起こした愛州移香斎久忠
  に師事し剣術の修行をし、その二人の師の教えを更に極めついには自らの
  一流を開きます。
  その剣の体系こそ「新陰流」であります。これは読んで字のごとく自ら
  が師事し修行した陰流より新たに出でし流儀を顕わしたものです。
   
  大胡の家督を一子常陸介へと譲り渡した後、伊勢守は修行のため疋田文
  五郎景兼(後に疋田陰流を創設)、神後伊豆守宗治(後に神陰流を創始)
  を同道し諸国を回る旅に出、新陰流を広めていくことになります。
  その門からは、柳生宗厳(柳生新陰流)、丸目蔵人佐長恵(タイ捨流)、
  奥山休賀斎公重(神景流)、宝蔵院胤栄(宝蔵院流)等の当代一流の兵法
  者が輩出されることになります。
  なぜ彼の門にこれほどまでに優れた門弟が多かったのかはおよそ次の
  理由であると言われております。
  信綱が、彼自身奥義を極めたのみならず剣法を組織化しこれを判り易く
  教授する術と、門弟の才に応じて導いていく優れた能力を持っていた為と
  考えられます。
  信綱は、第一にそれまで戦場で会得するものとされていた太刀打の術を
  技術的に分析し、各組の太刀使いに分かちそれぞれに理論をづけて系統立
  て独自の名称を与えました。
  信綱の相伝書に拠ると、燕飛・遠廻・山陰・月影・浦波・浮舟の表に始
  まり、一刀両断・斬釘截鉄・半開半合等の三学五個の太刀、それらに加え
  必勝・逆風等の九箇の太刀が名づけられています。そしてこれら全てに
  信綱の自筆とされる図解が入っております。これはそれまでの剣法の修行
  教授のされかたとは全く比較にならない精密で理論的なものであると共に、
  これらの技法を各段階毎に分け上達に合せて伝授をしていくことで門弟達
  のやる気を引き出し、ひいては一層精進することになり、これらが信綱の
  新陰流が隆盛を極めた理由であるとされております。
  
  又、現代の剣道の竹刀の原型を考案したのもこの信綱であります。
  当時、剣の修行には主として木刀が用いられましたが、これで実際に打
  ち合うと当然大怪我をする為、身体の手前一、二寸で止めることとなり
  その近さが剣の腕のようになっておりました。信綱は実際の打ち合いを
  しても大きな怪我をせずに済む様に「ふくろ竹刀」を考案し剣の教授に
  大いに活用を致します。
  これは、一メートル程の竹を細かく割り、三十から六十節くらいを合わ
  せて皮の袋に入れたもので鍔はないものでした。これが後に改良を加えら
  れ現在の竹刀になっています。
  
  大胡を発した信綱一行は関東をめぐり西へと向かいますが、その間の詳
  しい足跡はわかっておりませんが、まず信綱は伊勢路に現れます。
  その頃の伊勢国は北畠具教が国司として治めておりました。北畠具教は、
  前出の塚原卜伝より一の太刀秘伝を受けた達人でもあります。
  この地での逗留の内に、信綱は当時畿内第一の使い手の呼び声があった
  柳生但馬守宗厳の世評を聞いたとされております。
  一行はその後、京に入り相国寺に滞留したとされます。
  ※この間足跡は柳生へ入ったとされる文献もありはっきり致しません。
  京滞在中に伊勢守は多くの弟子を取りその中には、後にタイ捨流を開く
  当時北面の武士であった九州人吉の丸目蔵人佐長恵がおり、時の将軍足利
  義輝公への御前演武の際に打ち太刀をつとめております。
  将軍義輝は、尊貴な身でありながらも塚原卜伝より新当流の皆伝を得て
  いる剣の達人でもありました。この際、伊勢守はその型およそ百太刀を
  上覧したとされ、その見事さに義輝は下記の一書を認めたとされておりま
  す。

  「上泉兵法、古今比類無し。天下一。並びに丸目打ち太刀、これまた
    天下の重宝たるべきものなり。
                             三月十日                              義輝(花押)
         上泉伊勢守殿
         丸目蔵人佐殿                  」

  この後、戦国の業蠢く京より伊勢守一行は柳生の庄の領主・柳生但馬守
  宗厳からの招待を受け大和の国を訪れます。
  一行は、興福寺塔頭である宝蔵院に入り、槍の名手であった院主の胤栄
  法印と宗厳と対面致します。
  宝蔵院での宗厳との立会いは概ね下記のようなものであったと伝わって
  おります。
  
  立会いを強く所望する宗厳に対して伊勢守は先ず同行の疋田文五郎との
  立会いを申し渡します。
  この時に宗厳の態度には諸説入り乱れの状態です。倣岸というものや
  丁重というもの、文五郎とは互角であったというものから歯が立たなか
  ったというものまで。ただ、諸説に共通していますのはこの時に宗厳の剣
  は伊勢守には全く歯がたたず、又、なぜ間合いを詰められるのかなぜ打た
  れるのかすら全く理解出来ない状態であったとされております。
  この後、伊勢守との決定的な実力差を身をもって知った宗厳は礼を尽く
  して門弟たらんことを乞い、宝蔵院胤栄と共に許され、翌年伊勢守が柳生
  を去るまでの間に剣の技を授けられます。

  その後も伊勢守は二年程の間に数回柳生を訪れ、ついには宗厳に一国一
  人の印可状を授け新陰流の正統を継がせることになります.
  この時、伊勢守は宗厳に対して無刀取りの工夫を成し遂げることを言い
  残し一旦柳生を去ります。
  伊勢守の言う無刀取りとは、身に寸鉄も帯びずいかに強大な敵と言えど
  も恐れることなく立ち向かい、敵の武器を奪い取り制圧する組太刀を指し
  ます。
  伊勢守が去った後宗厳がどのような工夫を重ねたのかは不明です。
  そして2年後に再び伊勢守が鈴木意伯を共に柳生の庄を訪れた折には
  その工夫はなされていたとされます。
  立会いは、宗厳と鈴木意伯と行われました。宗厳は身に寸鉄も帯びず
  鉢巻に皮襷姿、意伯は旅装に木太刀を引っさげ相対します。
  まず初手においては、猛然と木太刀を宗厳の頭上に打ち込む意伯に対し、
  宗厳は意伯の懐に入り身を寄せるや否や、その右手を掴み瞬く間に木太刀
  を奪い取ってしまいます。
  これを「無刀の術」とし、次ぎに「手刀の術」を見せます。
  「手刀の術」とはすなわち素手を刀とし使い闘うものです。
  お互い間合いを取り合う最中に、意伯の強烈な打ち込みを紙一重でかわ
  し宗厳はその瞬間意伯を自らの間合いに置き、その手を手刀で打ち木太刀
  を打ち落とします。
  そして最後が「無手の術」になります。
  これも素手で闘い相手の刀を落とし組み伏せるもので、意伯も持てる技
  の全てを駆使しますが最後には木太刀を落とされ足を手刀で払われ組み伏
  せられます。
  「無刀の術」とは、相手の力を利用しその力によって投げたり組み伏せ
  たりするものであり、投げられる方にはなぜ打ち込んだ自分が、投げ伏せ
  られるのか全く判らないとされます。現在の新陰流にも口傳としてその技
  は伝承されております。
  この無刀の術を見た伊勢守はその工夫を褒め称え、伊勢守に新陰流の
  正統を授け新陰流の秘書である目録四巻も譲り渡します。」
  
 本日はここまでとします。



  
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月16日 21時55分24秒 ) パスワード

三つ柏さん


またもやコピペ出来ないです。

「遠州俵藤太秀郷」の子孫って  どなたのこと  でしょうね?

それに「多胡」も出て来ました。   羊太夫  について随分前に勉強しましたよね。


いったいどういう関係なんでしょう?


また無い知恵を絞って考えて検索してみます。
[79]箱柳永田さんからのコメント(2015年07月17日 00時53分39秒 ) パスワード

 あを様
  
http://www.eonet.ne.jp/~yamatoshinkage/yamatoshinkage2.htm
出典 がこれだとすると

 新陰流の開祖<上泉伊勢守信綱>は、先祖は遠州俵藤太秀郷より出て、
その家は代々上野大胡の城主として大胡の庄を治め、信綱の代には箕輪城主長野信濃守業政の旗下として戦場を掻け回り、その功より十六人槍の一人と称せられる戦国武将でありましたが、長野業政が武田信玄に滅ぼされるのを境にそれまで修行を重ねてきた剣術の道へ没入することとなります。

 という事で 上泉伊勢守信綱の先祖が 遠州俵藤太秀郷 になる
  疑問 遠州俵藤太 すみません 初耳です
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7
 ウィキだと、、、遠州との繫がりが読み取れなかった。
  
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月17日 06時00分21秒 ) パスワード

箱柳永田さん


ありがとうございます。



>遠州との繫がりが読み取れなかった。

要するに  藤原秀郷の子孫で遠州に定住した人物  ということだと思います。


    案外  松嶋家にも関わる 藤原千常  がらみかも。



子に  千常、千時、千晴、千国、千種  これだけいますから
この中の子または子孫または妻がらみで遠州と関わった者がいたのでしょう。

充分考えられますが、誰でしょう?
ネットで捜せるのは千常と千晴だけですね。


秀郷の子孫が西へ移動する途中で土地の女性との間に子をなしたのは非常に有り得ます。

こういう場合、仮冒なんて言われちゃうでしょうしね。気の毒です。




[81]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月18日 00時29分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様
箱柳永田様

 藤原秀郷が何で遠州俵藤太秀郷と言われたのかの謎は解けませんが、ただ
ひとつヒントになるのは、小堀政一が1608年駿府城普請奉行として修築
の功により従五位下遠江守の叙任を受けてから、「遠州」と名乗るようにな
った。小堀氏は藤原秀郷の後裔と言われているということであり、ひょっと
すると秀郷の別称にちなんだのかも知れない・・・。

 本日はその謎に少しでも近づくために、掛川市にある東光寺と「十九首塚」
を訪ねて来ました。
 そこにはこんな過去の物語がありました―
 「天慶3年2月14日、平将門を滅ぼした藤原秀郷は、将門、家臣19人
 の首級を持って京に帰る途中、京からの検視役と掛川で出合いました。
  検視が済むと首を捨てるように命じましたが、秀郷は「将門は逆臣とは
 いえ、名門の出である。その屍に鞭してはならない。」と言い、19人の
 首を別々に埋葬し、丁寧に供養しました。」

 ここの町の名前が「十九首町」。知らない人が町名の看板を見たら、百人
一首か何かの和歌か、あるいは俳句に因む地名かと思うでしょう。だけど首
塚に因んだ町だったのです。お寺自体はひなびたお寺で、昔の細い路地の奥
にあり、逆に裏側の墓地の方に車で入れる道がありました。そこには川があり、「逆川」という意味深な名前で「まさかど橋」という橋が架かっていました。
逆川という名の由縁は、昔聞きかじったことがありますが、たしか「血が遡った」(首を洗った血か?)と聞いたようなことを覚えています。
 十九首塚は、建て替えられたようで、円形に19基の墓が並んでおり、その
一つ一つに名前が刻んでありました。ここで般若心経を唱え、しばし黙祷を捧
げてまいりました。 

 歴史のかけらがあちこちに落ちています・・・。
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月18日 07時11分38秒 ) パスワード

三つ柏さん


それでしたら秀郷自身の子が生まれているかも知れず
秀郷の一族や家来の子が生まれているやも知れず


「遠州俵藤太秀郷の子孫」

結構いそうです。
中には実際に掛川や掛川近辺の遠江に残った者もいるでしょうし。

遠州俵藤太秀郷の土地があったら興味深いところです。


将門の首は結構いろいろな所に葬られていそうですね。
[83]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月18日 07時59分44秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、高天神城と「撰要寺」を回って来る予定です。また後で報告いたし
ます。

 また、島左近の一族の痕跡が旧天竜市にあれば調べてみたいものだと思って
います(願望)。
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月18日 09時13分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


「撰要寺」は横須賀城のすぐ近くなんですねえ。
首取り坂というのも結構近くにありますね。


なかなか興味深いエリアですね。



>島左近の一族の痕跡が旧天竜市にあれば調べてみたいものだと思っています(願望)。

あると良いですね。




秀郷の子孫が松嶋家のお嫁さんの於美知さんなのかなあ?と思ったりします。
藤原智常の娘、ってどういう意味なんでしょうね。

    またもや振り出しに戻りました。
[85]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月19日 00時27分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 この三連休はずっと忙しく、じっくり書いている余裕が余りありませんの
で、申し訳ありません。簡潔に記述いたします。

 本日は、M氏と高天神城跡、撰要寺、そして柿園・伊藤嵐牛蔵美術館へ行
ってまいりました。

 高天神城跡については特に報告すべきものはありません。撰要寺は大須賀
康高の菩提寺で、立派な五輪塔、宝篋印塔、墓が立ち並んで、ミニ高野山と
いった具合でした。その点では遠州一と言ってよいでしょう。

 伊藤嵐牛は松島十湖の俳句の師匠になります。今回、嵐牛の六世孫と十湖
の四世孫が初めて顔を合わせたという、歴史的瞬間に立ち会うことができ、
未だ興奮が冷めやらずといった所です。嵐牛を芭蕉門下のいわば「九世孫」
とするならば、十湖はその下の「十世孫」ということになり、芭蕉の系譜
のいわば「末裔」であります。
 今後、芭蕉から十湖までということで、その謎にいどんで行きたいと思っ
ております。
[86]丸三柏服部さんからのコメント(2015年07月19日 07時12分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今年は俳句大会「十湖賞」が第八回を迎えます。テーマは「自然とともに
生きる日々」です。私も初めてですが応募しようと思っています。

 本日は名古屋行き ―
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2015年07月19日 08時38分21秒 ) パスワード

三つ柏さん


この暑い中、東奔西走でお忙しそうですね。
熱中症にやられませんように。


伊藤嵐牛蔵美術館の画像を見ました。
すごいですね。
さすが旧家!


>テーマは「自然とともに生きる日々」

この1年ちょっと遠江を中心に各地の古城跡を訪ねていろいろな感慨があったと思います。
それだけでも句になりますね。


でも「夏草や  つわものどもが  夢の跡」に敵う句は無いですね・・・



http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101473.html

そろそろスレッド46に移ってくださいね。
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