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 投稿番号:101433 投稿日:2015年04月20日 13時50分31秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]]]V
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族]]]Uよりの続きです。

自称「歴史探偵」の目で、歴史の奥底に潜む謎を発掘し、解明する。

最終目的は、服部氏族に関する謎の解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 02時14分51秒 ) パスワード

http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101432_86.html の続きです。

長くなりますからちらに移動しましょう。



[86] 丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月21日 00時40分34秒 )

 本日は松島氏について考察をいたしておりました。あを様も以前よりご
指摘されていますが、どこから来たのかという謎であります。伊那に松島
という所があり、松島城がある。4代目の松島信久以下八人が武田軍によ
り処刑されている。たぶんこの松島の系統が天竜川を下って長上郡豊西あ
たりにやってきたのではないかとの推測でありました。
 松島十湖についてもいろいろ調べましたが、祖先に遡る資料がありませ
ん。先日、浜松中央図書館の郷土資料室でしらみつぶしに資料を当たって
おりましたら、『羽鳥村松島家系譜』という家系図にぶつかりました。さ
っそく全部をコピーし、解読を始めたのですが、なかなか松島十湖とは結
びつかない。曾孫さんに一部コピーを差し上げ中を見てもらいましたとこ
ろ、「源左衛門」という名前が一か所出ており、これを基に分家筋ではな
いかとの推測が聞けました。
 そしておとといの高遠行きにて仕入れた資料を読み、武田、織田の勢力
争いの歴史をだいたい理解し、その中に松島氏以下8氏の磔刑もありまし
たので、もう一度『松島家系譜』に戻り、一字ずつ調べてみたところ、家
紋の「丸に一文字」について小笠原一文字という記述があったので、ほぼ
間違いなく伊那の小笠原氏の後裔の松島氏であると今確信に至りました。
 5月の連休には曾孫さんと松島城址・松島家墓・博物館へ行く予定です。
 小笠原氏の家紋は三階菱でありますが、小笠原氏は馬弓の達人で、那須氏
(首藤氏)と弓の名手という点で通じるものがあります。松島氏はその那須氏
の弓と家紋の意「かたきなし(無敵)の意」にあやかって「丸に一文字」をつ
けたのではないかと推測しています。『家譜』には家紋について里見八犬伝
だの新田義貞だの源経基だのと書かれていますが、解釈ができません。その
内にわかる時がくるかもしれませんが、とりあえずは自分なりの推測でおさ
めておきます。

 松島家について、鈴木家について、永井家についてだいたい見えてきまし
た。あとは加藤・服部の核心部分についてであります。
 平家つながり、南朝つながり、秀次つながり、服部つながり、その他キー
ワードはいくつかあります・・・。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 02時23分55秒 ) パスワード

三つ柏さん


思わぬ形で意外な情報に遭遇するものですね。



小笠原氏は3つに分かれて
信玄方と反信玄方で戦って、信玄方が勝ったようですね。



そして松島家の家紋ですが
   >「丸に一文字」
   >『家譜』には家紋について里見八犬伝だの新田義貞だの源経基だのと書かれていますが、
   >解釈ができません。


・「源左衛門」という名からは本来源氏または源氏方だったのかなと思います
・「新田義貞」ということは新田の家紋が「鍋の蓋」 @    ○に一文字
             ちなみに足利の家紋は「お釜の蓋」 J  ○に二文字だから


またゆっくりアチコチ検索して拾って来ますね。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 05時33分46秒 ) パスワード

『羽鳥村松島家系譜』


すごいですね
  図書館にあったとは。
  どの系統なんでしょうね。



「丸に一文字」について小笠原一文字
伊那の小笠原氏の後裔の松島氏?
那須氏の弓と家紋の意「かたきなし(無敵)の意」にあやかって「丸に一文字」?
里見八犬伝だの新田義貞だの源経基だの?



こんなあたりをキイワードに頑張ってみます。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 05時41分16秒 ) パスワード

まず小笠原氏について


http://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B0%8F-39718

1.
甲斐源氏の祖源義光の子孫。
加賀美遠光の次男長清が甲斐巨摩郡小笠原村に住して小笠原を称した。
長清は源頼朝に仕えて御家人となり,承久の乱ののち,阿波守護に補任され,以後鎌倉幕府滅亡にいたるまで子孫相伝した。


2.
信濃(しなの)の守護大名。
甲斐(かい)源氏で甲斐国小笠原村出身。

15世紀半ばに相続をめぐる内紛で松尾と府中に二分,          ココ


松尾小笠原氏は江戸中期に越前(えちぜん)勝山藩主となり,
府中小笠原氏は徳川家康につかえて豊前(ぶぜん)小倉藩主となったほか,  ココも
一族は播磨安志(はりまあんじ)・肥前(ひぜん)唐津などの藩主となって明治に至る。


3.
甲斐出身の中・近世の武家。
甲斐源氏加賀美遠光の次男長清が,甲斐巨摩郡小笠原(山梨県北巨摩郡明野村と中巨摩郡櫛形町との2説がある)に住んだのに始まる。

長清は父とともに源頼朝に従って平家追討に戦功をあげ,遠光は信濃守,長清は信濃国伴野荘地頭に任ぜられた。

後に長清は軍功によって阿波の守護職を与えられ,守護職は子の長経を経てその子長房の子孫に伝えられた。

長経・長忠の嫡流は武田氏とともに由緒ある御家人として幕府に仕え,とくに騎芸乗馬礼法の家として尊重された。



4.
新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)を祖とする甲斐源氏(かいげんじ)で、武田氏と同族。

3代遠光(とおみつ)の子長清(ながきよ)が甲斐国小笠原(山梨県南アルプス市小笠原)の地に住んで小笠原を名のった。

遠光は平氏追討に戦功があって信濃(しなの)(長野県)の国司に任ぜられ、
長清も信濃の伴野荘地頭職(ともののしょうじとうしき)に補(ぶ)せられ、
源頼朝(みなもとのよりとも)の親任が厚かった。

その後、長清の子孫が阿波国(あわのくに)(徳島県)の守護職を継いだ。
元弘(げんこう)の変(1331)には貞宗(さだむね)が足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って戦功をあげ、
北条氏にかわって信濃の守護となり、その地に多くの所領を得た。

小笠原氏宗家(そうけ)は本拠地を甲斐から信濃に移し、
南北朝の内乱時代を幕府方として活躍した。

政康(まさやす)は関東の影響で乱れる信濃を1440年(永享12)に平定したが、
その死後、一族は府中小笠原(ふちゅうおがさわら)と伊那小笠原(いなおがさわら)に分裂し対立した。

庶流の京都小笠原家は室町将軍家の弓馬指南として、後世に小笠原流を伝えた。


                                 ココ    

天文(てんぶん)年間(1532〜1555)の武田信玄(たけだしんげん)の侵入により、戦国大名小笠原長時(ながとき)は府中(松本市)を追われたが、

その子貞慶(さだよし)は徳川家に仕え、               ココ

武田氏の滅亡のとき信濃に入って家を再興した。

その後、小笠原氏は豊前国(ぶぜんのくに)小倉(こくら)(福岡県北九州市)に移封となった。
越前(えちぜん)藩主の小笠原は伊那の系統である。[湯本軍一]
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 06時15分59秒 ) パスワード

つまり小笠原家は


源氏→  嫡流は武田氏   小笠原は庶流
 ↓
加賀美
 ↓
小笠原     阿波小笠原に分家もあり
 ↓
ここから3家に分かれる
  
          A.      府中小笠原・・・・・・家康に

          B-1      伊那鈴岡小笠原
          B-2      伊那松尾小笠原


とにかくグチャグチャで南北朝の時は殆どが北朝方だったが南朝についた家もある。


   新田氏が南朝方だったので新田義貞がらみで「鍋の蓋」の家紋にした南朝方の小笠原氏の可能性もあり。



松島氏も
A.武田信玄に押されて負けて遠江に下ったのか?
B.家康が支配するようになってから組み込まれて遠江に来たのか?
分からないですね。


とにかく家康の時代になったら、家康の家は新田系ですから(笑)、鍋の蓋の家紋はラッキーですね。


南総里見八犬伝で有名な里見家は新田の子孫ですから、ウソ800ではないのです。

           でも里見家も南北に分かれて戦っているのです。
           恐らくその松島家は新田義貞に従った南朝方ということでしょう。            


ただし里見家の分家は

天童氏、船田氏、大井田氏、正木氏、尾崎氏、竹林氏、山本氏、小原氏、粟屋氏、竹林氏、山本氏、小原氏、
仁田山氏、太田氏、古山氏、牛沢氏、大島氏、鳥山氏、蜂須賀氏、伊賀氏、堀内氏、海保氏、豊岡氏、富岡氏、
田中氏、今西氏、小沢氏、真崎氏、久永氏、田井氏、木戸氏、木部氏、金野氏、北角氏、西塚氏、馬場氏、
木山氏、中屋氏、吉野氏、中村氏、藤沢氏、東条氏、天津氏、中里氏、中沢氏、小谷氏、鍋田氏、大岡氏、篠原

残念ながら松島家は載ってないです。



ということで、その『羽鳥村松島家系譜』は「事実」の「断片」を書いていると思います。


「断片」をどう処理していくか
「断片」にしなかった部分は一子相伝だったかも知れず

とにかく「羽鳥村に松島家という立派な家があった」というのは確かでした。
家譜があるということは、かなりの家、ですものね。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 06時33分38秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B0%8F


     小笠原氏庶流:

         三村氏  浅原氏  小見氏  跡部氏  打越氏  大井氏
         大倉氏  長船氏   大日方氏   下条氏   仁賀保氏
         二木氏   根田氏  羽場氏  林氏  伴野氏  船越氏

         赤沢氏   井深氏  三好氏   水上氏  三間氏。

         越後長岡藩の抜擢家老を勤めた三間氏、小諸藩大参事を勤めた三間氏、徳川旗本の三間氏にあり。



     また府中系小笠原氏には「遠江小笠原氏」があります。
         ビックリ



小笠原家が徳川時代にものすごく優遇されたのは何故?
これも不思議です。
信康の娘を嫁にしている家については全く不思議ではないのですが。




信濃小笠原氏[編集]

信濃小笠原氏は、小笠原持長の系統で本来は嫡流の府中小笠原氏(深志小笠原氏)と、小笠原宗康の系統で鈴岡城を居城とする鈴岡小笠原氏と、小笠原光康の系統で松尾城を居城とする松尾小笠原氏(伊那小笠原氏)と三分されていた。


当初は鈴岡小笠原氏の小笠原政秀(宗康の子)が優勢であったが、政秀が謀殺されて鈴岡小笠原氏が滅亡すると府中小笠原氏と松尾小笠原氏との争いになり、やがて府中小笠原氏の小笠原長棟(持長の玄孫)が松尾小笠原氏を破って一族を統一し、小笠原氏の最盛期を築き上げた。


         コレでしょうか?
             ↓

長棟の長男である長時期には甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃の領国化を開始し(信濃侵攻)、長時は小県郡の村上義清らと連携して抵抗するが、天文19年(1550年)には本拠の林城が陥落すると信濃から駆逐される(『高白斎記』)。



このころ中央では将軍足利義輝を推戴する三好長慶が勢力をもっていたが、三好氏は小笠原一族を称し長時を庇護し、長時と三男貞慶は三好氏や京都小笠原氏など同族間ネットワークをもつ京に滞在し在京奉公を行う。永禄4年には北信豪族を庇護し武田氏と川中島の戦いを繰り広げていた上杉謙信に長時の帰国支援が命じられるが、川中島合戦は永禄4年を境に収束し、長時の帰国は実現していない。

その後は将軍義輝の没落により長時は会津へ逃れる。天正10年(1582年)、武田遺領を巡る天正壬午の乱においては長時の弟である小笠原洞雪斎が越後上杉氏の支援を受け、小笠原旧臣の助力を得て木曾義昌から深志城(松本城)を奪還する。洞雪斎は上杉氏の傀儡であったといわれ、長時三男の貞慶は徳川家康に仕え、小笠原旧臣の支持を得て深志城を奪還する。


天正18年(1590年)には貞慶長男の秀政が下総国古河(現在の茨城県古河市)3万石を与えられ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、翌年の慶長6年(1601年)には信濃国飯田(現在の長野県飯田市)5万石に加増の上で転封となる。



京都小笠原氏[編集]

京都小笠原氏の一族は、嫡流は幕臣として続いたが、小笠原稙盛が永禄8年(1565年)の永禄の変で将軍足利義輝とともに討死すると、稙盛の子の秀清(少斎)は浪人し、後に細川氏(後の熊本藩主細川氏)に仕えた。秀清は関ヶ原の戦いの際に細川ガラシャの介錯を務め殉死し、秀清の子孫は江戸時代には熊本藩の家老を務めた。また、庶流の小笠原元続は将軍足利義澄の死去後に幕府を離れ、縁戚の後北条氏を頼った。元続の子の康広は北条氏康の娘婿となった。小田原征伐で後北条氏の嫡流が滅亡すると、康広の子の長房は徳川家康の家臣となり、子孫は旗本として存続し、江戸時代の歴代の当主は縫殿助を称した。



その他の小笠原一族[編集]

府中小笠原氏の一族(小笠原長棟の兄の長高といわれる)が小笠原氏の内紛を逃れて、やがて今川氏に仕え、遠江小笠原氏(高天神小笠原氏)となったとされる。

江戸時代には紀州徳川家に仕えた。

府中小笠原氏に敗れた松尾小笠原氏は府中小笠原氏の滅亡に先立って武田氏に仕え、武田氏の滅亡後は徳川氏に仕えた。

阿波小笠原氏の子孫の三好氏などについては、それぞれの記事を参照。

石見小笠原氏は、川本温湯城を拠点に勢力を持ち、石見銀山の支配を巡って対立する大内氏と尼子氏との間を転々とした末、毛利氏に仕えた。小笠原長雄などが居る。

小笠原貞頼が徳川家康に命じられ、南方探検に出た際、文禄2年(1593年)に小笠原諸島を発見しているといわれている。
しかし、小笠原氏の系図にはこの人物は存在しない。

            えっ?そうなの?日本国の大恩人なのに?



大浦氏の家臣(大浦三老)に小笠原信浄なる人物がいる。信浄は小笠原氏の一族とする説もあるが、無関係とする説もある。
出羽の楢岡氏は小笠原氏の庶流で戸沢氏の家臣である。



江戸時代以降[編集]

信濃小笠原氏[編集]

江戸時代には、小笠原氏からは五家が大名となった(いずれも譜代大名)。

府中小笠原氏では小笠原秀政が松平信康の娘の登久姫と婚姻し、有力な譜代大名となった。
秀政は下総国古河から信濃国飯田を経て、慶長18年(1613年)には父祖縁の地である信濃国松本(現在の長野県松本市)8万石に転封となる。
秀政と長男の忠脩は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で討死し、忠脩の長男の長次は幼年であったため、秀政の次男の忠真が家督を相続した。
忠真は元和3年(1617年)に播磨国明石(現在の兵庫県明石市)10万石に転封となり、寛永9年(1632年)に豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)15万石に転封となる。
同時に秀政の三男の忠知には豊後国杵築(現在の大分県杵築市)4万石が、忠脩の長男の長次には豊前国中津(現在の大分県中津市)8万石が与えられた。
また、寛文11年(1671年)には忠真の四男の真方が兄の忠雄から1万石を分与され小倉新田藩(千束藩)を立藩した。


忠真系は幕末まで小倉藩主として継続、忠知系は転封を重ねて最終的には肥前国唐津(現在の佐賀県唐津市)6万石に、長次系は悪政や無嗣による改易で最終的に播磨国安志(現在の兵庫県姫路市)1万石に移った。
長次系の歴代当主は小笠原氏ゆかりの信濃守を称した。



松尾小笠原氏からは小笠原信之が大名となり、この家系は本庄、古河、関宿、高須を経て、越前国勝山(現在の福井県勝山市)2万2000石に移った。

信濃守護小笠原氏が伝えた文書群『小笠原文書』はこの家系に伝わった。
また小笠原長巨が交代寄合旗本(伊那衆)となった。


明治時代になると、小倉藩主家は伯爵、分家の唐津・安志・千束藩主家、勝山藩主家はいずれも子爵に列せられた。


秀政系(府中小笠原) 忠真系:信濃松本藩(忠真)→播磨明石藩(忠真)→豊前小倉藩(忠真、忠雄、忠基、忠総、忠苗、忠固、忠徴、忠嘉、忠幹、忠忱)

長次系:播磨龍野藩(長次)→豊前中津藩(長次、長勝、長胤、長円、長邕)→播磨安志藩(長興、長逵、長為、長禎、長武、貞幹、貞孚)

真方(忠真四男)系:豊前小倉新田藩(千束藩)(真方、貞通、貞顕、貞温、貞哲、貞謙、貞嘉、貞寧、貞正)




忠知系:豊前杵築藩(忠知)→三河吉田藩(忠知、長矩、長祐、長重)→武蔵岩槻藩(長重、長煕)→遠江掛川藩(長煕、長庸、長恭)→陸奥棚倉藩(長恭、 長堯、長昌)→肥前唐津藩(長昌、長泰、長会、長和、長国)



信之系(松尾小笠原):武蔵本庄藩(信之)→下総古河藩(信之、政信)→下総関宿藩(政信、貞信)→美濃高須藩(貞信)→越前勝山藩(貞信、信辰、信成、信胤、信房、長教、長貴、長守)



京都小笠原氏[編集]

旗本となった小笠原長房の子孫は家禄780石余、縫殿助を称した当主が多いため縫殿助家とも呼ばれる。
長房の曾孫の持広は享保元年(1716年)に将軍徳川吉宗の命により家伝の書籍91部と源頼朝の鞢(ゆがけ)を台覧に供した。
これは吉宗が射礼や犬追物など弓馬の古式の復興に熱心で諸家の記録を調べていたためで、「世に稀なる書ゆえ永く秘蔵すべき」旨の言葉があったという。
後に吉宗は近侍の臣らを持広の弟子として射礼を学ばせている。
持広は弓場始(的始め)の式に伺候するとともに、小的、草鹿、賭弓、円物、百手的などを上覧に入れるなどした。


               面目を果たしてラッキーでした。


子孫も同様な役を勤め、幕末には小笠原鍾次郎が講武所で弓術教授を勤めたが、この家は維新期に断絶する。
つまり、室町幕府以来最も長く礼法を伝える家系は現代には続いておらず、縫殿助家と共に徳川幕府の師範家となっていた旗本小笠原平兵衛家(もと赤沢氏)が現在では小笠原流(弓馬術礼法小笠原教場)宗家となっている。
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月21日 09時22分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いつもありがとうございます。小笠原氏についてややこしいですが、一応
把握しました。
 
 松島城に住んでいた松島氏は小笠原長清の子孫を称しているということで、
家紋がどんなものであるか、興味あるところです。丸に一文字なら文句なし
ですが・・・そうはなかなかいかないでしょう。

 羽鳥村の松島家の系譜は1400年代から始まっていて、
 初代が、松島右衛門尉源宗忠、
 次が、松島左近、
 次が、松島忠兵衛源宗茂、
 次が、松島右衛門源宗房
というように、源姓がついてまわっています。
 また、よく見ると、「天正9年当国高天神城落城。岩井新田御免定松忠兵衛
殿、弘化3年に源四郎持来て見せる盛郷の書判也」と文脈的意味はわかりませ
んが、高天神城も出てまいります。

 なんとなく雰囲気はでているのですが、決定的なものがない・・・。
 ま今後更に調べて行けば、少しずつわかってくるとは思いますが。
 
 本日は、高薗の長谷川、小杉の家紋を調べに行くことと、磐田の惣社淡海国
玉神社、そして袋井の松下氏の久野城址を調べたいと思っています。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 11時19分44秒 ) パスワード

三つ柏さん


すごい情報じゃないですか!



>松島城に住んでいた松島氏は小笠原長清の子孫を称している

コレ、すごい情報じゃないですか。


https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%B8%85-451233#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29

小笠原長清   おがさわらながきよ  (1162―1242)


        小笠原氏は加賀美遠光の子の、この人から始まっているんですよね


鎌倉時代の武将。
小笠原荘(しょう)(山梨県南アルプス市小笠原)の館(やかた)で応保(おうほう)2年3月5日出生。
幼名は豊松丸。
長兄光朝(みつとも)は平氏、木曽義仲(きそよしなか)に従ったが、
二男長清は父遠光(とおみつ)とともに源頼朝(よりとも)に仕え、
小笠原氏の始祖となった。


遠光が関東知行国(ちぎょうこく)の一つ信濃(しなの)国司に補(ぶ)され、
長清も同国伴野荘(ともののしょう)地頭となり、
年貢未済を理由に後白河院(ごしらかわいん)から頼朝を介して年貢催促を受けた。

承久(じょうきゅう)の乱(1221)で東山道大将軍となり、
反幕公卿(くぎょう)源有雅(ありまさ)を所領甲斐国稲積(いなつみ)荘小瀬村に誅(ちゅう)した。

1216年(建保4)頼朝菩提(ぼだい)のため将軍祈願寺を設立、仁治(にんじ)3年7月15日没した。

その子孫は、伴野、大井両荘を中心に信濃小笠原氏の基礎を築き、また「馬達者」ともいわれ、
6世の孫貞宗(さだむね)は弓馬の道を家芸として将軍家に奉仕する小笠原流を創始した。[井原今朝男]



    実はわたくしの先祖の一族の者1名は  伴野に流されたのです。
        甕に入った骨が出てきたと1980年代に?新聞記事で読みました。


    流された場所に不思議でしたが、そういうご縁もあったのか、です。
    ひょっとすると小笠原家と遠縁か何かで伴野に預けられたのかも。
    妻の実家、とかで?





>家紋がどんなものであるか、興味あるところです。

どこかで読みましたが、小笠原氏の松皮菱の家紋は加賀美家のものだと。


家紋は1つの家にたった1つではありません。
複数あるのが武家なら普通ですよ。

    特に3男以下なら家紋が違って普通ですし。



>丸に一文字なら文句なしですが・・・そうはなかなかいかないでしょう。

どこからでしょうね?
   新田義貞がらみで14世紀からか?
   戦国時代か?
   はたまた徳川時代に遠江に住居を定めてからか?



丸に一文字紋で那須与一がらみでこんなのがありました:
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sen_bon.html


千本氏は、『寛永系図』によれば、那須太郎資隆の十男十郎為隆に始まると伝えている。

十郎為隆は、平家追討のとき、弟与一宗隆とともに源義経に従い、一ノ谷・屋島の合戦で功があった。

しかし、命に背くことがあって信濃国に下り、下宮に住して戸福寺を称したという。

                  那須与一関係者が信濃国にいた!
                  これでも、家譜の話はウソ800じゃないということになりますね。



>羽鳥村の松島家の系譜は1400年代から始まっていて、
    初代が、松島右衛門尉源宗忠、
    次が、松島左近、
    次が、松島忠兵衛源宗茂、
    次が、松島右衛門源宗房
>というように、源姓がついてまわっています。

すごい!
正統なる源氏ですね。


    だって勝手に「源姓」を名乗れないのですよ。
    家譜に書かれていたということは当時の有力者=幕府=も認めていたということです。



1400年代ということはそれこそ鎌倉幕府の末期=南北朝あたりですね。


>初代が、松島右衛門尉源宗忠

右衛門尉と  源宗○  で松島家の詳しい事情がネットで見つかると良いのですが。


    源氏で「宗」が通字って?

    ひょっとすると  南朝方で  宗良親王から頂いたのか
    もともと源氏で「宗」が付く一族?

小笠原氏だと「長」・「貞」・「忠」あたりが多いのですが「宗」から始まっている人々がいますよ。


     府中小笠原氏の先祖の宗長・貞宗父子
     伊那鈴岡小笠原氏の宗康


勝手に小笠原氏だとか源姓とか名乗れないし「宗」の字だって勝手に使えないですよ。

     「宗」の字に関しては、どなたか上司のお名前の  「○宗」から拝領したかも知れないし。




>また、よく見ると、
    「天正9年当国高天神城落城。岩井新田御免定松忠兵衛殿、
     弘化3年に源四郎持来て見せる盛郷の書判也」
     と文脈的意味はわかりませんが、
>高天神城も出てまいります。


<レス7>に高天神が出てますね:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B0%8F

    その他の小笠原一族[編集]

    府中小笠原氏の一族(小笠原長棟の兄の長高といわれる)が小笠原氏の内紛を逃れて、
    やがて今川氏に仕え、遠江小笠原氏(高天神小笠原氏)となったとされる。


    そうすると、府中系=正統な=小笠原氏で
    今川に仕えた

    だから家康とは今川時代に知り合いだった?
    となりますよね。



消えるとハラ立つのでココでアップ。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 11時27分21秒 ) パスワード

>     「天正9年当国高天神城落城。岩井新田御免定松忠兵衛殿、
        弘化3年に源四郎持来て見せる盛郷の書判也」


天正9年当国高天神城落城    これは分かりますよね。


岩井新田御免          岩井新田の開発が御許可になった   ?


定松忠兵衛           どなた?


        定松氏
        http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AE%9A%E6%9D%BE


        【名字】定松

        【読み】さだまつ

        【全国順位】 8,999位  
     
        【全国人数】 およそ910人

    
         貞松姓と起源をともにする。
         桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)という説もある。

         近年、佐賀県に多く、特に杵島郡に多数みられる。
        

                 都道府県別ランキング


                 愛媛県 2,592位 およそ40人
                 福岡県 2,866位 およそ200人
                 佐賀県 573位 およそ200人

                     絶滅の危機ですね。




ここでアップ

[11]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 11時32分03秒 ) パスワード

貞松氏   http://www2.myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%B2%9E%E6%9D%BE


【読み】さだまつ,ていしょう

【全国順位】 8,177位
 
【全国人数】 およそ1,100人


桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
現愛媛県である伊予大洲より現佐賀県と長崎県である肥前に移る。
大村藩にみられる。

佐賀県 541位 およそ300人
長崎県 1,017位 およそ200人



[12]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 11時44分00秒 ) パスワード

岩井新田とは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E9%83%A1

山名郡にあった
旗本領で
岩井村のこと?

村内に寺社領と寺社等の除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)が存在していたようです。


現在のどこでしょう?
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 11時58分43秒 ) パスワード

浜松市北区三ヶ日町只木字岩井で検索しましたら

   長岩砦 ながいわとりで    別名  行者岩

こんなのがヒットしました。       井伊道政と宗良親王がらみ!!



千頭峯本城の防備のために築かれた砦


長岩砦は千頭峯本城の北方300m程谷を隔てた地籍只木区の小字岩井の
俗称長岩と称する尾根の西南に傾斜している谷合に築かれている郭で、
塁段をなし、本城の井戸郭と相対している。


井戸郭防備のためのものか隠郭の形式を採っている。


その遺構は谷底より100m程登った処に東西30m、南北25mの楕円形郭を作り、
それより30m降下して東西30m、南北20mの円形郭を配し、
その下には順次近接した四段の塁段郭を配置している。


第二段郭には寄石積あり、
当砦の使命は本城北方岩井の谷間より井戸郭を登って搦手へ迫る敵を防備する為のものと思われ、

上手の長岩より中千頭へ続く陵線には各所に見張所の削平陣地跡が認められる。


砦の配置場所位置から考え本城落城の間近い頃まで防備を支えていたかと推測される。





http://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/sentogamine-jyo/
遠江・千頭峯城

            地図あり
 

                  地図の左下部に
                  源兵衛屋敷があります。

                  国道362のところ 


史跡指定県指定史跡 形態 山城(137m/100m) 歴史
築城年代は定かではないが南北朝時代に築かれたと云われる。

千頭峯城は井伊道政が後醍醐天皇の皇子宗良親王とともに籠もった三岳城を本城とした西方の支城で井伊氏の一族奥山朝藤を守将として浜名神戸荘官県氏、大江氏などが籠もった城とされる。

千頭峯城は中千頭峯砦、長岩砦、鯉山砦などを従えた城砦群であったが、暦応2年(1339年)北朝方の高師兼によって攻められ落城した。

その後の動向については定かではないが、現在残る遺構は戦国時代の今川氏、もしくは徳川氏によるものと推測されており、南北朝時代の千頭峯城は東の標高202mの地点にある中千頭峯砦に推測する考えもある。


説明

千頭峯城は釣橋川の東岸、摩訶耶寺の北東にある標高137.4mの山に築かれている。

主郭は山頂にあり、北から東下に二の曲輪がある。二の曲輪は北側が一段低くなっており、東西別郭となっているようだ。

主郭から南へ降る道沿いには段があり現在は登山道がそれを破壊する形で付いている。その一番下に位置するのが南曲輪で北を除く三方に土塁を設けている。この南曲輪は摩訶耶寺から登る大手道がたどり着く最初の曲輪で、現在はそのまま南斜面を登って登山道が付いているがもともとはここから西曲輪に至る道が大手道であったと推測する。

西曲輪は主郭の北西にあり西の二の曲輪とは堀切によって遮断されている。西の曲輪には四方を土塁で囲んだ曲輪があり東側に虎口を開いている。堀切に面してはこの西曲輪の土塁と西二の曲輪の土塁が面しており、堀切の先端からは南曲輪へ至る道が付いている。

山頂から南東に向かって延びる尾根には東曲輪があり、ここは土塁はなく二条の堀切で区画した二つの曲輪がある。また主郭から30m程東斜面を降った所に井戸曲輪がある。


城主 奥山氏

案内

摩訶耶寺を目指す。
摩訶耶寺からも登山道があるがその北東側に見える千頭峯トンネルの南側の入口付近に千頭峯城専用の駐車場があり、
そこから東曲輪を経て登る道がある。

所在地 静岡県浜松市北区三ヶ日町摩訶耶

[14]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 12時01分50秒 ) パスワード

http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/1106093/

源兵衛屋敷

      後藤氏でした。
      残念

本坂居館
ほんざかきょかん

別名  源兵衛屋敷



室町中期に本坂後藤氏の有力者が築いたと推測される居館


これは現在附近に後藤姓の住民が多く住んでいる地域の一角であるが規模は小さく後藤主流の人の居住地とは考えられない。
遺構は南北に楕円形の郭をなし、約900uの広さで郭全体を中位の石を使った石垣で内外とも覆った土塁を以て囲っている。この郭より東南方150mの丘陵上に後藤氏専用墓地あり、観音堂一宇現存している。その創始は後藤一類の有力者源兵衛と云う者か。源兵衛屋敷と伝えている。

浜松市北区三ケ日町本坂字金山

[15]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 12時07分45秒 ) パスワード

城東郡

岩井寺村   ちょっと名前が違いますが   旗本領内の寺社領

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E6%9D%B1%E9%83%A1


これは関係無いでしょうね。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 12時15分38秒 ) パスワード

http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/04tyubu/22_sizu31.htm
市町村名の変遷サイト


岩井村 (向笠村)
(豊田郡) (向笠村) (向笠村)   現在は磐田市?


岩井村
(山名郡)                現在は磐田市?



この辺りに散歩なんていかがでしょう?
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 12時23分16秒 ) パスワード

http://homepage1.nifty.com/joichi/1-5o.html

文字化けして読めません。




岡 オカ 阿加(おか)の阿(お)は大、加は古代朝鮮語の村の意味で、
大ノ国(後の ...... 六 三ヶ尻村( 熊谷市 )


            ココ
             ↓

の小笠原氏 遠江国高天神小笠原系図に「小笠原春儀(今川家 ...... 営業税(下段)に「浦和町・奥田三之助・三十三円、蕨町・奥田定松・百十一円・九十八 ...


             ちょっと状況証拠的に
                参考になりますか?


               奥田定松?
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 12時29分39秒 ) パスワード

http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/cat_77985.html?p=10


サダマツ 貞松 佐賀県、長崎県、兵庫県。佐賀県・長崎県(旧:肥前国)に愛媛県大洲市から来住した平氏の後裔と伝える。兵庫県神戸市灘区(旧:都賀荘)に室町時代に貞松名があった。



サダマツ 定松 佐賀県、福岡県、兵庫県。




http://homepage1.nifty.com/joichi/2-5sa.html
文字化け

            こんな情報

三枝 サイグサ 続日本後紀に「甲斐国山梨郡の郷人三枝直平麻呂・承和四年死去」と見ゆ。甲斐国造族の三枝 ...... 一 源姓匂坂氏 遠江国豊田郡匂坂村(静岡県磐田市)より起る。中興武家諸 ......

定松 サダマツ 蓮田、越谷、入間、所沢等に存す。

貞松 サダマツ ...
[19]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 12時33分13秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takato_k.html

またもや文字化け。


武家家伝_高遠氏


伊那郡竜東で高遠氏が台頭しはじめたころ、
諏訪郡では府中の小笠原氏が諏訪社の上社を牽制するため下社を後援したことから、上社と下社が対立し抗争が繰り返され ...



    この関係から  松島氏が諏訪大社系の名字である可能性が感じられますが。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 12時54分02秒 ) パスワード

また消しちゃった・・・・・怒



http://www.kakeisi.com/survey/survey_nagano.html


     長野県のお話


       結論
          松島氏は諏訪氏流(神家党)
          家紋については長野県中部・南部になると梶紋や文字紋、竹笹紋がベスト10入りします。




以下コピペ:


長野県のご先祖調べ


令制国の信濃国にほぼ相当します。(旧神坂村・旧山口村が岐阜県中津川市に編入)
古代は「科野(しなの)」の文字を用いています。



■戦国期以前の長野県

 南北朝時代の信濃国は、南朝方の諏訪氏や仁科氏・香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられ、 応永7年(1400)「大塔合戦」では守護小笠原氏と村上氏を中心とする反守護勢力の在地豪族との間に争いがありました。

そこに、足利幕府と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領との対立が加わり複雑な対立関係がつくられていました。

 そのため信濃国では強力な支配権を持つ戦国大名が成長できず、信濃国守護の小笠原氏も一族内での対立もあり一つの地域勢力に留まりました。

 主な勢力としては、越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高井郡の高梨氏(中野城)、埴科郡の村上氏(葛尾城)、関東管領上杉氏の被官である小県郡の海野氏・真田氏(戸石城)、 佐久郡の大井氏(岩村田城)・伴野氏(大井城)、安曇郡の仁科氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏(高島城)、 信濃国守護職の小笠原氏(林城)、木曽谷を領す木曽氏(福島城)、伊那郡の保科氏(高遠城)・伊那小笠原氏(松尾城)・知久氏(神之峰城)があります。


 戦国時代も後半期になると、甲斐武田氏が侵攻し武田信玄の代には信濃国の大半を制圧、信濃北部の諸豪を援助する越後上杉謙信との攻防が繰り広げられます。

信玄、謙信の死後、織田信長が信濃国を制圧し、「本能寺の変」で信長が死ぬと徳川氏・北条氏・上杉氏の勢力が進出します。

その後、豊臣秀吉が天下を取り、徳川家康は関東に移封され信濃は豊臣方の武将の支配下になりました。


 現地調査では、武田信玄・上杉謙信時代の古記録や伝承を見聞きできます。


                           ココ!
                            ↓ 
信玄は甲斐(山梨県)ではヒーローですが、信濃では征服者ですから特に佐久地方では悪役で通っているようです。



■長野県の名字

 戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。

長野県を概観すると、清和源氏がほぼ全域にわたり広がり、諏訪地方に諏訪神家党、安曇郡地方に仁科氏を中心とする桓武平氏、 小県郡佐久郡に滋野一族があります。


以下は長野県発祥の名字です。この苗字であれば比較的ルーツを探しやすいと思われます。

 埴科郡の村上氏流・・・入山・山田・今里・屋代・上条・下条・栗田・千田・小野・寄合・小野沢・飯田

 高井郡の井上氏流・・・高梨・米持(よなもち)・時田・桑洞(くわぼら)・芳美(はみ)・須田・村山・保科(諏訪神家の分れともいう)

 木曽谷の木曽氏流・・・上松・三富・野路里・馬場・熱川・高遠・上総・千村・市岡・沼田・山下・原・寺尾・安食野(あじきの)・黒川・立石

 信濃国守護職の小笠原氏流・・・赤沢・大井・八代・小田・藤崎・鳴海・大倉・下条・上野・米田・麻積(おみ)・勅市(てし)・益田・内村・長坂・高畠・矢田・山中・ 勅使河原(てしがわら)・丸茂・常盤・島立・西条・坂牧・下枝・岩尾・長窪・小諸・耳取・平原・安原・志賀・板鼻


                ココに入ってます、松島氏
                 ↓

 諏訪氏流(神家党)・・・知久・片倉・笠原・中沢・藤沢・座光寺・中尾・沢・平林・宮処・平出・小田切・手塚・武井・山田・宮下・金山・桑原・宮川・中尾・下平・沖・ 関屋・深沢・皆野・三塚・若尾・四宮・岩波・高木・浜・横田・保科・宮崎・海口・中島・茅野・

                 松島            ココ

上原・矢・・栗沢・向山・中野・桜山・西保・真野・肥間・ 福島・平島・遠山・大妻・風間・小島・有賀・花岡・安部・保坂・元沢・小坂・春日・浦野・大塩



 小県郡の滋野氏流・・・海野・根津・望月・鎌原・西窪・羽尾・小田切・会田・塔原・田沢・清野・大塚・光野・真田・中村・湯本・春原・岩下・横尾・浦野・野々口・ 諸星・樋口・吉川・吉宗・城・清原・西山・福満・福島・豊田・浜岡・池長



 長野県の苗字ベスト20位をあげると、以下の通りです。

            英語の用法が間違ってる
            名字にベストは無いよねえ
                トップ
                という言葉を使って欲しい

              

1小林 2田中 3中村 4丸山 5伊藤 6佐藤 7清水 8高橋 9山崎 10宮沢
11林 12柳沢 13宮下 14山田 15原 16竹内 17渡辺 18滝沢 19中島 20小松


長野県の名字の特徴の一つに、「〜沢」の名字が多いことがあげられます。
ベスト(笑)20にも、宮沢・柳沢・滝沢が入っています。


長野県には谷が多く、「〜沢」の地名がたくさんあります。これらの地名を名字にしていることと関係しています。


また長野県は南北に長いため、北信・東信・中信・南信で名字の特徴が異なっています。

第1位の小林は北信地方に多く、第4位の丸山は中信に多くあります。




■江戸時代の長野県

 江戸時代の信濃国は多くの藩領・天領・旗本領・寺社領にわかれていました。

廃藩置県時に長野県に存在した藩は以下の通りです。


藩名 城下町 主な藩主の変遷
松本藩 松本市 水野氏→戸田氏
上田藩 上田市 仙石氏→藤井氏
飯山藩 飯山市 本多氏
小諸藩 小諸市 牧野氏
岩村田藩 佐久市 内藤氏
高島藩 諏訪市 諏訪氏
高遠藩 伊那市 保科氏→内藤氏
飯田藩 飯田市 脇坂氏→堀氏
須坂藩 須坂市 堀氏
松代藩 長野市 真田氏

この他に木曽地方は尾張国名古屋藩領があり、
伊那郡内には美濃国高須藩(美濃国に在った尾張藩の飛び地です)・陸奥国白河藩、
高井郡内には越後国椎谷藩、
佐久郡内には三河国奥殿藩の飛び地がありました。


その他に善光寺、諏訪大社などの寺社領、天領、旗本領もありました。


 藩庁が置かれた城下町には、大名家の移動にともない家臣や町人、寺院も移動します。よって前の領地との関係も考える必要があります。


「江戸時代は武士」との伝承があれば、まずは藩士名簿である「分限帳」を確認することをお勧めします。詳しくは各藩の項を参照してください。



■長野県の家紋

 長野県の使用家紋をみてみましょう。


『都道府県別姓氏家紋大事典』によると、長野県の家紋ベスト(苦笑)10は次の通りです。


1位 片喰 2位 鷹の羽 3位 木瓜 4位 沢瀉 5位 蔦 6位 柏 7位 藤 8位 橘 9位 竹笹 10位 菱・花菱


 日本の十大家紋と比べると、茗荷紋と桐紋がランク外となり、かわりに竹笹紋と菱紋がランク入りしています。



さらに地域別にみてみると、長野県北部はベスト(どうしようもないね)10に日本の十大家紋がそろいます。

県中部・南部になると梶紋や文字紋、竹笹紋がベスト(ははは)10入りします。


このなかで長野県の代表する家紋は梶紋と菱紋です。


梶紋は、諏訪大社の神紋として知られています。
梶の木は神聖な木とされ、その葉は供え物の敷物に使われました。 神官や神社に奉仕する家々は梶紋を家紋として使用するようになり、 さらに諏訪氏の一族や諏訪大社を信仰する者の間で広がりました。


長野県の中・南部に梶紋が多いのは諏訪一族と諏訪信仰の広がりによるためです。



長野県出身で梶紋を使っているとすれば、諏訪氏一族といわないまでも、 先祖が諏訪信仰と関係していたかもしれません。


一方の菱紋(三階菱、松皮菱紋)は小笠原氏族の代表紋です。

小笠原氏の同族武田氏は四つ割菱紋を使っています。
甲斐源氏の流れを組むもの中に菱紋を使っているものが多いようです。
小笠原氏の家臣には菱紋と別の紋を組み合わせている者もいます。

          

■長野県の寺院
 長野県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、長野県の宗派別の割合は以下の通りです。
  県北部
(長野・飯山など) 県中部
(松本・上田・諏訪) 県南部
(伊那・飯田)
天台宗 5% 5% 6%
真言宗 9% 29% 11%
曹洞宗 40% 39% 38%
臨済宗 1% 4% 23%
浄土宗 19% 13% 9%
浄土真宗 25% 5% 9%
日蓮宗 1% 5% 9%
長野県全体を通して曹洞宗寺院が最も多くありますが、2位以下には特徴があります。
 県北部は曹洞宗以外に浄土真宗・浄土宗の寺院が多くあります。真宗は新潟県の真宗勢力と関係があるようです。
 県中部は曹洞宗・真言宗の勢力が強く、県南部は曹洞宗・臨済宗の禅宗勢力圏です。 他地域に少ない臨済宗は木曽・上伊那地方に多いようです。
真言宗や曹洞宗・臨済宗は墓石を建てる宗派ですので、比較的に古い墓石が残されています。
調査においては大きな味方になってくれます。




■長野県の神社

 信濃国一之宮は諏訪信仰の総本社諏訪大社です。その関係から県中部・南部を中心に諏訪神社が数多く創建されています。


 主祭神は大国主命の御子神建御名方神 (たけみなかたのかみ)と妃神の八坂刀売神 (やさかとめのかみ)。

 『古事記』では次の説話が記されています。武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りを迫った時、建御名方命は反対し、武甕槌命に相撲を挑みましたが負けてしまい、 諏訪まで逃れました。そして以後は諏訪から出ないで、天津神の命に従うことを条件に許されたとされています。



 諏訪大社には、大祝(おおほうり)を筆頭に五官の神職が置かれました。

 上社 大祝:諏訪氏(神氏。祭神・建御名方神の後裔) 神長官(じんちょうかん):守矢氏
  禰宜大夫(ねぎだゆう):小出氏 権祝(ごんのほうり):矢島氏 
 下社 大祝:金刺氏(科野国造の後裔)のち武居氏 武居祝(たけいほうり):武居氏

[21]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 12時59分14秒 ) パスワード

<レス20>は去年アップした記憶です。



小笠原氏の内訌については明日考えてみます。
とにかく頭の中を空っぽにして読まないと小笠原氏の人間関係がワケ分からないです。



松島氏と小笠原氏の関係はおそらく諏訪大社の松島氏の名字を使っているのでは?と思います。
小笠原氏と血縁関係があるのでしょうね。

   府中小笠原氏でしょうか?確か・・・
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 13時16分26秒 ) パスワード

再び
     「天正9年当国高天神城落城。岩井新田御免定松忠兵衛殿、
      弘化3年に源四郎持来て見せる盛郷の書判也」



      弘化3年(1846年)


盛郷で検索したらこんなのがヒットしました。
意味不明ごめん。


•母は仁保盛郷の娘

陶弘護

没年:文明14.5.28(1482.6.14)
生年:康正1.9.3(1455.10.13)
室町・戦国時代初期の武将。大内氏の家臣で,周防(山口県)守護代。鶴寿丸,五郎,尾張守。父は弘房,母は仁保盛郷の娘。山口に生まれる。幼少より優秀で,和歌にも秀でていた。文明1(1469)年元服し,大内政弘の諱の1字をもらい弘護と名乗る。政弘が応仁の乱で上洛したときは,その留守を守った。同3年には反乱を起こした大内教幸を敗死せしめ,同7年に吉見信頼軍を下した。政弘帰国後の同10年には筑前(福岡県)守護代に任ぜられたが,翌年辞任。14年5月28日,政弘の設けた宴席で信頼と刺し違えて死す。
(佐伯弘次)




こんなのもヒットしました。
これまた意味不明のようですが  山内一豊  です。
しかし盛郷の意味は不明です。


10月25日(旧暦)(11月22日)、遠江国周智郡一宮(静岡県周智郡森町一宮)
1万9980石の代官にもなる。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A

天正18年9月20日(1590年10月21日)、遠江国掛川城主として5万石を領す。
さらに10月25日(11月22日)、遠江国周智郡一宮(静岡県周智郡森町一宮)1万9980石の代官にもなる。



豊臣幕下の小大名として[編集]

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、その前哨である伊勢亀山城(三重県亀山市)攻めで一番乗りの手柄をあげている。また、翌12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、家康を包囲するための付城(前線基地)構築に当たっている。この後、豊臣秀次の宿老となり、天正13年(1585年)には若狭国高浜城主、まもなく近江長浜城主として2万石を領した。同じく秀次の宿老に列した大名として田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末らがいる。

天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦し、山中城攻めに参加している。まもなく遠江国掛川に5万1000石の所領を与えられた。掛川では城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を川向いを領する駿府城主・中村一氏とともに行っている。また朝鮮の役には他の秀次の宿老格であった諸大名と同じく出兵を免れたが、軍船の建造や伏見城の普請などを担当して人夫を供出している。文禄4年(1595年)には秀次が謀反の疑いで処刑され、一豊と同じく秀次付き重臣であった渡瀬繁詮はこの事件に関わって秀次を弁護したために切腹させられた。しかし一豊は他の宿老の田中・中村・堀尾らとともに無関係の立場を貫き、連座を免れた。このときに秀次の所領から8000石を加増されている。

[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 13時33分01秒 ) パスワード

http://www.skk-net.info/ranking/desc/11900

好き嫌い投票ネット(人物編) - 殿堂入り人気者

伊勢国三重郡松本村(現在の三重県四日市市)の出身。 ..... 越前・尾張・遠江守護。斯波氏( ..... 翌年末に母方の伯父である大組来原良左衛門盛郷の養子となった。

         この記事、見つからなかったです。



小笠原家
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/ogasawa.html



政長貞宗子豊松丸孫二郎右馬兵庫遠江信濃 信濃守護 ... 光康嗣国松丸彦二郎彦五郎政貞兵庫左京鈴岡城主信濃守護. 長貞政秀子 .....

細野盛郷仁科明盛子. 北沢盛実 ...

  ↑

この人?

     

星野盛通仁科盛能子内膳

細野盛郷仁科明盛子               ⇔   ココ

北沢盛実仁科持盛子

  実清

  吉次対馬

千国盛信仁科盛忠子鬼八郎?





岩井重直泉政重弟                       岩井がありました

義如須田源七左衛門

満高大和

成能満高子満長兄?式部

訴能成能子民部

元成訴能子彦兵衛

元正元成子与惣左衛門



満長====1584満高弟昌能民部備中

信能====1620満長子源蔵源三民部備中飯山海津城主若松奉行

元能信能子源蔵

元則元能子相高嗣源蔵大学

信門元則子民部源兵衛

相政元則子長次郎源三源五左衛門



相高信能子長沼利忠弟七郎太郎大学

忠行信能子木工

忠親忠行嗣菅名次郎左衛門子半十郎源五兵衛

勒負



長四郎

久親長四郎嗣近藤宗親子虎之助右門左京

秀親久親子右門五郎左衛門
                         岩井氏終り



芦田光徳依田経光子葦田又三郎           服部氏で蘆田信蕃の家来がいましたよね

光玄

孝玄

義玄光玄子

  信守====1575義玄子依田時朝子?依田下野幸成三岳城主

  信蕃15481583信守子源十郎依田常陸右衛門二俣城主

  康国15701590信蕃子竹福丸源十郎従五位下松平修理 武田織田木曾人質小諸城主

  康真15741623信蕃子福千代丸新六郎松平康勝康貞従五位下右衛門加藤康寛蘆田宗月 小諸藤岡城主

  吉賢康真子蘆田図書

  右衛門吉賢子

  信幸信守子

  信盛信幸子

  政勝信盛子

  政武

信政信幸子

信重信政子

信弘信政子



  光慶光玄子依田六郎肥前備中

  信政光慶子依田伊勢



  政次信蕃子?依田六左衛門仕穴山信君

政定政次子弥吉左衛門

  政矩依田正左衛門

政長依田八右衛門
                           蘆田氏終り





松島政親千野親信子                  松島あった〜!!!

時幸

道存

満久

月窓

満長

満清

重清

民部満長子



頼実====1531政行?対馬

貞実====1547筑前

  信久豊前
                         松島終り

[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 13時35分45秒 ) パスワード

服部清正

  清信左衛門清延


も載ってました。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 13時46分57秒 ) パスワード

蘆田信蕃の家来だった服部氏は正吉です。
本多正信の手に入って旗本になったと思います。


上記の清正とどういう関係なんでしょうね?



地理的にヒバリさんの方でしょうか?
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 13時48分57秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/kawabemasatake/

この方が家臣団の人名録をお作りくださった方です。
感謝!


レッズのリーグ初制覇 H18.12.2
織田家人名録 約3700名 織田信長家臣概略
徳川家人名録 約2500名 徳川家康家臣概略
北條家人名録 約3500名 北条氏康家臣概略

得宗家人名録 約1100名   鎌倉幕府


足利将軍家人名録 約1800名  足利幕府


斯波家人名録 約2500名 斯波家臣団概略


畠山家人名録 約2100名 畠山家臣団概略


細川家人名録 約3500名 細川家臣団概略

錦小路被官・鎌倉府 約1350名 関東武士団


上杉家人名録 約2600名 上杉家臣団概略


山名家人名録 約950名  山名家臣団概略


六角家人名録 約1150名 六角家臣団概略
京極家人名録 約1800名  京極家臣団概略


赤松家人名録 約2250名 赤松家臣団概略
土岐家人名録 約1350名  土岐家臣団概略
今川家人名録 約1350名  今川家臣団概略

武田家人名録 約1750名 武田家臣団概略
信濃国人衆 約1800名   信濃勢力概略
佐竹家人名録 約1800名 佐竹家臣団概略
藤氏一揆 約1450名    藤氏一揆概略


千葉家人名録 約900名 千葉家臣団概略


大内家人名録 約2650名  大内家臣団概略


少弐家人名録 約2600名  少弐家臣団概略
大友家人名録 約1800名  大友家臣団概略
島津家人名録 約6400名  島津家臣団概略


持明院統 約1650名    北朝勢力概略
一条家人名録 約750名  土佐勢力概略


大覚寺統 約1300名    南朝勢力概略

新田家人名録 約1200名 新田家臣団概略


肥後国人衆 約1050名   肥後勢力概略


伊予国人衆 約750名  伊予勢力概略


伊達家人名録 約1850名 伊達家臣団概略


南部家人名録 約1950名 南部家臣団概略


葛西家人名録 約1850名 葛西家臣団概略


芦名家人名録 約1300名 蘆名家臣団概略


本願寺 約400名   一向一揆

こんな感じ。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 14時04分09秒 ) パスワード

    「天正9年当国高天神城落城。
     岩井新田御免定松忠兵衛殿、
     弘化3年に源四郎持来て見せる盛郷の書判也」


書判とは 


【書(き)判】
「 花押(かおう) 」に同じ。

盛郷の書判とは盛郷の花押。
つまり  証拠  ですね。



身言書判

意味

人材を登用する際に、人物鑑定の規準とするもの。
中国唐代における、官吏登用の人物試験の四つの規準、容姿・言葉遣い・筆跡(文字)・文章をいう。

▽「身」は容貌ようぼう、「言」は言辞、「書」は書道、「判」は文章のこと。
身言書判 出典

『新唐書しんとうじょ』選挙志せんきょし


身言書判 句例
◎身言書判に照らす




【書(き)判】.



昔の文書の末尾に書いた署名。
特に草書体で書かれたものを草名(そうみょう)とよび、
さらに図案化された書体のものを花押(かおう)とよぶ。

花押が一般的になってからは、書き判が花押の別称とされることがある。
→草名 →花押


[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 14時10分16秒 ) パスワード

仁保盛郷  いました!


[29]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 14時18分37秒 ) パスワード

仁保盛郷の名字になった仁保庄は周防の国です。

平子が頼朝から地頭に送られた所。
盛郷はこの人しかヒットしないのですが。




仁保氏(平子→仁保→三浦氏)
●丸に三つ引両
●桓武平氏三浦氏族

家紋
伝えられた肖像画や武具を見ると、「三つ引両」、「藤に三つ引」などの紋が確認できる。
 


 相模国の豪族三浦氏の支族。はじめ武蔵国在名に拠り、平子氏を称した。「平子系図」によると、 三浦平大夫為通の子次長が久良三郎を称し、また、叔父景通は平子民部大輔を号したという。 また、「武蔵七党系図」には、横山時広の子に広長があり平子野内と注記がある。さらに、為継の弟に 通継をあげる系図もあり、その子木工助重経の子重資が平子を称している。

 平子重経は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参加して活躍、のちの論功行賞において周防国吉敷郡内仁保・深野・長野・吉田・恒富の地を賜ったという。そして、建久八年(1197)、仁保荘・恒富保の地頭職に任じられた重経は仁保荘に下向、以後、重経の子孫が仁保荘の地頭職を相伝した。当時、仁保荘・恒富保周辺は、周防国衙の在庁官人大内氏の勢力が強く、所領支配には相当の苦労があったようで、それが重経の仁保荘への入部につながったようだ。

 仁保荘に入った重経は鶴岡八幡宮を勧請し、菩提寺として源久寺を建立して、仁保荘定着の決意を示すとともに、平子一族の精神的支柱とした。その後、出家した重経は西仁と名乗り、仁保荘地頭職を三男重資に、恒富保地頭職を四男重継に、そして、荘内深野地頭職を長男重直の子重綱に譲渡した。いわゆる、惣領制による分割相続を行ったことが知られる。こうして、所領各地に平子一族が割拠し、在地支配を強化していったのである。


南北朝の争乱

 元弘元年(1331)、後醍醐天皇は鎌倉幕府討伐を計画したものの破れて、隠岐国に流された。その後、同三年に至って、天皇は隠岐を脱出し伯耆国船上山に拠って、諸国の武士に綸旨を発した。これに対して長門探題北条時直は、長門の豪族に出陣をうながし、みずから伊予に進攻して勤王軍と戦ったが敗れて長門に逃れ帰った。

 一方、後醍醐天皇の綸旨に応じた石見の高津長幸らが長門に進撃し、探題北条軍と戦い、敗れた時直は九州に逃れた。かくして、後醍醐天皇は京都に遷幸ということになり、「建武の新政」が発足した。平子氏は幕府方に属していたようで、重嗣は新政のはじめ所領を収公されたが、のちに尊氏に従って活躍したことで、仁保庄地頭職ほか旧領安堵の勅裁を賜った。

 建武の新政は、何の手柄もない公卿や寺社が恩賞にあずかるなど、恩賞の沙汰や訴訟における不手際や依怙贔屓が目立ち、倒幕の原動力となった武士から次第に見放されていった。建武二年(1334)、北条高時の遺児時行が信濃で兵を挙げ、たちまち鎌倉を攻め落とした。中先代の乱とよばれる争乱で、足利尊氏は後醍醐天皇の勅許を得ないまま関東に下り、時行軍を撃破して鎌倉を回復した。ところが、尊氏は天皇の召還命令を無視して鎌倉に居座り、ついには叛旗を翻して新政は崩壊した。

 天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を送ったが、尊氏軍に敗れ、京都は尊氏によって制圧された。しかし、北畠顕家軍の上洛によって敗れた尊氏は九州に逃れ、再起すると九州の武家方諸将を率いて海陸から京都を目指した。このとき、周防守護大内長弘、長門守護厚東武実らは尊氏に味方し、平子重嗣も尊氏に味方し、尊氏の東上軍に参加した。

 延元二年(1337)重嗣は尊氏方の大将山名時氏に従って、京都三条大宮で戦い、ついで、同じく三条大宮で軍忠を尽くした。さらに、阿弥陀峯の戦いで右足に負傷しながら敵軍と戦い、多々須川原の合戦では家来に負傷者を出すなど京都における戦いで活躍している。その後も重嗣は尊氏方に味方して、各地の戦いに参じて活躍し、貞和二年(1346)、長門国三隅荘六分の一地頭職を宛行われた。

 南北朝の争乱は六十年にわたって続いたが、平子氏は一貫して武家方として行動した。康暦二年(1380)、貞重は大内義弘から阿武郡高佐の地頭職を預けられ、大内義弘の注進によって将軍足利義満から御教書を賜っている。つぎの重房は、仁保庄ならびに多々良庄の地頭職を譲られたが、「明徳の乱」における京都内野の戦いにおいて傷を負った。明徳の乱は山名氏が義満に叛したもので、重房は幕府方として出陣した大内義弘に従い負傷したもので、この傷がもとで死去してしまった。享年二十一歳の若さであった。早世した重房には子がなかったため、弟の重頼が家督を継いだ。そして、この重頼の代に平子氏から在名である仁保を称するようになった。


乱世のなかを生きる

 平子仁保氏は、鎌倉以来の地頭職を相伝し、その安堵は足利将軍から受けていた。ところが、室町時代の盛郷のころより、将軍家の安堵ではなく、大内氏から安堵を受けるようになっている。このことは、大内に属して行動していた仁保氏であったが、ついには、大内氏に従属するようになったことを示している。そして、盛郷の子弘有は、大内教弘から一字を賜って元服したものである。

 大内氏に従属した仁保盛郷の女の一人は、大内氏の筆頭重臣である陶弘房の室となって弘護・弘詮をもうけた。もう一人の女も同じく大内氏重臣である杉重道の室となるなど、大内氏との関係強化につとめている。

 弘有の代に「応仁の乱」が勃発した。大内政弘は西軍に加担して上洛、京都周辺の戦いに明け暮れた。この政弘の陣に仁保弘有も従軍し、応仁二年、摂津の戦いに大勝したが、その後の相国寺の戦いで義兄にあたる陶弘房が戦死した。弘有の姉で弘房室はその菩提を弔うため、安養寺を建立した。その後、弘房の二十五回忌に一宇を建立し瑠璃光寺と名付けた。瑠璃光寺はのちに山口に移され、現在、国宝の美しい五重塔で知られている。

 文明二年(1470)、弘有は嫡子護郷に家督を譲って隠居したようで、以後、護郷の活動が知られるようになる。延徳三年(1491)、将軍足利義材(義尹・義稙)が近江六角氏攻めの陣を起こすと、大内政弘はこれに従軍した。ついで、明応二年(1493)には政弘の嫡子義興が河内畠山氏を討伐した。護郷はこれらの陣に加わり、京都・近江・河内を転戦し、義興から感状を受けている。

 このころになると、九州地方では少弐氏が肥前の松浦氏、有馬氏らを支配下において勢力を拡大していた。少弐氏は九州探題と不和であったため、幕府は探題を支援するため大内氏に九州出陣を命じた。大内軍はただちに九州に出陣、少弐氏は肥前千葉氏の居城晴気城に入って大内氏に対抗した。護郷もこの陣に加わり、晴気城攻略に活躍し義興から感状を得た。翌年には、少弐氏の残党掃討に活躍、義興の命によって九州探題の居城である肥前綾部城に在城した。そして、文亀元年(1501)、大友氏と結んだ少弐氏が豊前国に侵攻、護郷は救援に向かい豊前沓尾崎の戦いにおいて戦死した。



仁保氏の戦国時代

 戦国時代初期における仁保氏の所領は鎌倉期以来の本領のほか、周防国楊井領家、長門国紫福郷を加え、さらに筑前国国分寺領・麦野清水村、豊前国吉田領家など九州にまで広がり、大内家中の大身に成長していた。そして、護郷の子興棟・興貞兄弟、興棟の子興奉らはいずれも名乗りに「興」の字があり、これは大内義興の偏諱を受けたもので、当時の大内氏家中における仁保氏の勢力のほどがうかがわれる。

 さて、応仁の乱後、幕府内では権力闘争が深刻になり、明応二年(1493)には将軍義材が管領細川政元に追放され、大内義興をたよって周防に逃れてきた。永正四年(1507)になると、今度は管領細川政元が暗殺されるというように、政局は混迷をきわめていた。政元の死を知った義興は義材を奉じて上洛軍を起し、翌永正五年、京都にはいり義材を将軍職に復活させた。仁保興棟も上洛軍に加わり、義興の護衛に任じた。

 大内義興が京都で将軍義稙を補佐している隙を狙って、出雲の尼子氏が勢力拡大を目論み、反大内行動を見せるようになった。さらに、義興とともに京にあった厳島神主が死去し、その後継をめぐって内紛が起こり、これに安芸武田氏が乗じるという事態になった。永正十五年、義興は分国の争乱をおさめるため、ついに京都をあとにして帰国した。

 翌永正十六年、興棟は死去し興奉が家督を継承し、興奉は義興の尼子征伐に加わり出陣した。このころ毛利氏は尼子方に属しており、興奉は尼子軍の先鋒をつとめる毛利元就と戦った。大永七年(1527)、大内氏の重臣陶興房が尼子経久と戦ったとき、興奉はこれに加わり奮戦、多大な犠牲をはらっている。

 尼子氏と大内氏の抗争は繰り返され、天文十一年(1542)、大内義隆みずからが尼子攻めに遠征したが、戦いは大内方の敗北となった。この敗戦をきっかけとして義隆は文弱に耽るようになり、ついに天文二十年、陶隆房(晴賢)の謀叛によって大内義隆は自害した。隆房は大友氏から晴英を迎え、晴英は義長と名乗って大内氏の家督となった。

 毛利元就もはじめは陶氏に従っていたが、次第に自立するようになり、ついに「厳島の合戦(1555)」で陶氏をたおすと、弘治三年(1557)には、大内義長の討伐に着手した。このとき、仁保隆在は義長に従っていたようだが、一族の仁保隆慰らの活躍で、義長滅亡後、仁保隆在は毛利氏に降って命脈を保つことができた。



そして近世へ

 毛利元就から所領安堵を受けた隆在は永禄九年に死去、隆在は男子がなかったため女子に吉川元春の二男少輔三郎を迎えて仁保氏を立てた。仁保氏を継いだ少輔三郎は元就から元の字を与えられて元棟と名乗ったが、のちに元氏と改めている。

 元亀二年(1571)、毛利氏に滅ぼされた尼子旧臣らが尼子勝久を奉じて、出雲に出陣してきた。毛利氏は小早川隆景と吉川元春を大将に、尼子討伐軍を発した。このなかに元氏も従軍し、初陣の功をあげたと伝えられている。

 元氏には五人の男子があり、嫡男の元景は輝元、秀就に仕え仁保から毛利に改め、子孫は阿川毛利氏として続いた。他の男子もすべて分家させ、仁保氏には輝元の寵臣神田惣四郎を養嗣子に迎え、女を配して家を継がせた。

 惣四郎は元忠と名乗り毛利輝元の信頼を受け、天正十四年(1586)に豊臣秀吉の島津征伐、文禄元年(1592)の朝鮮出兵に出陣した。慶長元年(1596)、上洛した輝元に従って元忠も伏見に上ったがその地で病をえて、帰国する途中に死去した。仁保氏は元忠の代に三浦姓に復し、江戸時代を通じて萩藩士として続き明治維新を迎えた。・2005年07月07日
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 15時05分36秒 ) パスワード

系図を見ながら思ったのですが

平子重経は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参加
盛郷はその10代目ですから、200年は経ってますよね。または250年あたり?


盛郷は15世紀の人?
時代的には足利義満(在職1368年 - 1394年)かその後あたり?

       孫が陶弘護で
             生年:康正1.9.3(1455.10.13)
             没年:文明14.5.28(1482.6.14)
             この人の母方祖父ですから。 

まだ南北朝のゴタゴタがあった頃に北朝方の仁保盛郷がその土地を持っていた?
    高天神あたり?
    岩井新田あたり?
        土地勘が無いので分かりません。




   「天正9年当国高天神城落城。          1574年
    岩井新田御免定松忠兵衛殿、
    弘化3年に源四郎持来て見せる盛郷の書判也」  1846年

              主語と目的語がハッキリしない!でも古文書の読み方で解けると思います。
              講師の先生に誰が見せたのかお訊きになってください。



                 見せた人=主語=は忠兵衛さんなのか源四郎さんなのか?
                 見せられた相手は源四郎さんなのか忠兵衛さんなのか?



源四郎さんは松島氏でしょうね?

     悠久の時が流れてますよね。

つまり岩井の新田開発を許された定松忠兵衛殿に?源四郎さんが?自慢そうに仁保盛郷の花押を見せに行った?


     その古文書は岩井の土地が盛郷のものであると書かれていたから?


源四郎さんという人はお茶目だった?

とにかく古文書の読み方の先生にお尋ねしたらハッキリしますよ。誰が主語なんでしょう?
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 15時05分59秒 ) パスワード

高天神城

築城年    16世紀初頭

主な改修者  武田勝頼

主な城主   福島氏?、小笠原氏、岡部氏

廃城年    1581年


鶴翁山 高天神城略年表[編集]
913年 藤原鶴翁山頂に宮柱を建つ
1180年 謂伊隼人直孝山砦を築く           井伊直政の先祖?

1191年 土方(ひじかた)次郎義政城砦を築く
1446年 福島佐渡介基正城主となる
1467年 戦国乱世、城飼郡内大いに乱る

1471年 福島上総介正成城主となる
1536年 小笠原右京進春儀城主となる
1542年 小笠原彈正忠氏清城主となる
1560年 城兵、桶狭間に出陣す

1564年 小笠原与八郎長忠城主となる
1568年 当城徳川氏に従属す
1569年 城兵掛川に出陣す
1570年 城兵姉川に出陣す

1571年 3月武田信玄兵二万五千騎来攻包囲す。城兵二千騎籠城す
1572年 城兵三方原に出陣す
1573年 城兵諏訪原に出陣す

1574年 5月武田勝頼兵二万騎来攻包囲す。6月18日大手門の戦。6月28日二の丸陥落す。7月2日休戦・長忠降伏す。



築城[編集]

高天神城には治承・寿永の乱(源平合戦)の際に築城されたとの伝承があるが、それと確認できる文献も考古学的発見もなされていない。確実な文献としては16世紀初頭に今川氏の家臣であった福島助春が城代として土方の城(土方は高天神城のある地域の地名)に駐屯したとの記述が初見である。ただし、発掘調査によると15世紀後半から16世紀初頭と推定できる陶器などの出土があり、今川氏進出以前に菊川下流域の在地勢力が「詰めの城」とした可能性が指摘されている。



今川氏の支城として[編集]

福島氏は花倉の乱により没落し、その後は、今川氏に服属した在地の土豪小笠原氏が城代となった。今川氏は義元のときに大きく領土を広げるものの永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで敗れ、義元自身も討死したために一気に衰退する。ついに永禄12年(1569年)、今川氏は武田信玄・徳川家康の挟撃にあって滅亡、小笠原氏の当時の当主・小笠原氏興、小笠原氏助父子は徳川家康の家臣となった。しかし、まもなく武田・徳川両氏は激しく争うようになり、駿河・遠江の国境近くにある高天神城もその角逐の舞台となる。


武田・徳川氏の戦い[編集]

元亀2年(1571年)3月から5月にかけて、武田信玄は高天神城や東三河の足助城、野田城、吉田城を攻略したとされるが、これは関係文書の年次比定の再考から天正3年(1575年)の出来事であったことが指摘されている[1]。

信玄の死後、その子勝頼も天正2年(1574年)に高天神城を攻撃、猛攻を加えて結果二ノ丸が落城した。城主小笠原氏助は織田・徳川の援軍を期待したが、徳川単独で援軍を出す力はなく、織田軍は各地の一向一揆の対処のために援軍が送れずにいた。こうした状況に絶望した氏助はついに降伏、高天神城は開城した。氏助(信興)は武田方に臣従を誓い、ともに籠城していた大須賀康高などは逃がされて浜松まで落ち延びた。信玄でも陥とせなかった高天神城を落城させたことは、当時の武田勝頼の武名を大きく上げることとなった(第一次高天神城の戦い)。

天正3年(1575年)5月、武田氏は長篠の戦いで大きな損害を受ける。さらに上杉謙信没後に発生した御館の乱において、上杉景勝の和睦要請に応じる。勝頼は北条方の上杉景虎との間に和睦を成立させるが、勝頼の撤兵中に景勝・景虎間の和睦が破綻し、景虎は滅亡する。これにより武田氏と北条氏の甲相同盟が破綻し、勝頼は景勝との同盟を強化して甲越同盟を結ぶ。

こうした外交関係の変化により、武田氏は駿河方面において西の織田氏・東の北条氏を同時に対応することとなる。この間、勝頼は高天神城の拡張を行って縄張りを西側の峰・現在の高天神社の範囲まで広げ、城代として今川氏の旧臣である岡部元信(真幸)を任命している。

一方、徳川家康は光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に諏訪原城を奪取したことで大井川沿いの補給路を封じた。さらに付城として横須賀城など6箇所の拠点を築いて締め付けを強化し、高天神城は利点の裏で維持のための補給線が長く負担も大きなものとなっていった。そして天正8年(1580年)9月、徳川軍は満を持して高天神城を攻撃した(第二次高天神城の戦い)。岡部元信は千程度の軍を率いて激しく抗戦するものの、兵糧攻めにあって兵の士気が大きく衰えた。勝頼も援軍を送ろうとするが、東西に敵を抱える状況でそれがかなわない状況が続いた。ついに翌天正9年(1581年)3月、逃亡する城兵が続出し、城代岡部元信以下そのことごとくが討死して高天神城は陥落した。わずかに生き残った城兵は助命されたが、武者奉行孕石元泰のみが切腹させられた。これは、徳川家康が今川氏の人質であった時代に、孕石が人質であった彼に辛く当たったことを遺恨に思ってのことであった。また、西側の尾根を伝って軍監の横田尹松が脱出に成功し、甲斐(山梨県)の勝頼に落城の事実を報告した(この脱出道は現在も残っている)。





眺望
なお、この高天神城の攻防戦に最後まで援軍が送れなかった武田勝頼の声望が致命的に低下し、翌年に木曾氏・保科氏など豪族が寝返っていく理由となったといわれ、『信長公記』でもことさらにそのあたりを強調する記述となっている。ただし、織田信長が籠城側の降伏を拒否するよう家康に指示した書簡が現在残っている。このことから、籠城側が既に早い時点で降伏の意思を家康に伝えていたにもかかわらず、籠城戦を長期化・劇的なものとすることで、援軍の出せない勝頼の声望を意図的に下げようとした信長の策略だったのではないかとの指摘がある。

落城後、高天神城は廃城となり、その後も城郭として整備されることはなかった。城の山頂に高天神社があったために、山自体は地元のシンボル的存在としての役割を継続することとなった。

[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 21時30分24秒 ) パスワード

反武田の8人の武将が今でも顕彰されているのは
   府中系小笠原方だったことと
   府中系小笠原氏が早々と家康方に付いたこと
   さらに
   府中系小笠原氏が大名になれたこと
などの理由で今でも記憶が風化しないように大切に守られているのかしら?と。



小笠原氏のことがちょっと分かったので3つの小笠原氏の家のことを読む余裕ができて来ました。



あの小笠原家中の「服部」氏は妃羽理さんのお家と関係があるのか無いのか
http://gree.jp/hibari_g/blog/month/2010-04
興味が出て来ました。


ここでアップ
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 21時34分45秒 ) パスワード

http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/427486605

復習



私の忍術の流派は、麻績服部流といいます。伊賀流忍術の一派ですが、伊賀といえば、皆さん真っ先に思い出す人物は、服部半蔵ですよね

でも、この服部半蔵、大半の人が、忍者だと思い込んでいるようですが、それは全くの誤解です!
服部半蔵は、武士です!
ただ、代々服部家は伊賀地方の豪族だったので、伊賀の忍者をとりまとめていたという事実が、どういう訳か、半蔵自体が代表的な忍者というイメージになってしまったようです

その服部氏の成り立ちをお話します。
時は、大和政権の成り立ちの頃。
朝廷の組織は、氏姓制度によって創られていました。
氏とは、名字のこと、姓とは位のこと。
位には、臣、連、君、直などがあった。
もちろん、一番頂点は、天皇の祖先、大王。
葛城、平群、蘇我氏などの大和の有力豪族には臣。
大伴、物部、中臣氏などの特定の職能を持って朝廷に仕える有力豪族には連。
筑紫、毛野などの地方の有力豪族、つまり、もと縄文民族には君。
大和政権の支配に服した一般の地方豪族、つまりもと縄文民族には直。
という具合に位づけをした。
それぞれの姓には、伴と呼ばれる、朝廷の警備や神の祭りを担当する人民、後の武士の原形。品部と呼ばれる職人。名代、子代と呼ばれる農民などが支配されていた。
そのうちの品部には、陶部、錦織部、鞍作部などのそれぞれの専門職人がいた。
そのうちの機織部(はたおりべ)と呼ばれる服を作る専門職人がいた。
それはやがて、服をつくることから、服部(はとりべ)と呼ばれるようになっていった。
これが、服部氏の始まりである。
これらの部民は、大陸から渡ってきた帰化人がなっていったのだが、そのうちの秦氏の一派、呉服(くれは)一族がもたらした機織り技術が、服部(はとりべ)の技術に発展していったことから、服部氏の祖先は、秦氏という見解が有力である。
ともあれ、もともと、服部氏は、大和政権の組織下に生まれた氏族であり、もともと縄文民族であった山の民を束ねるに至ったわけであり、忍者そのものになりえない家柄なのである。
服部半蔵自身が忍者ではないことを説明するには、ちょっと難しすぎたかな?


以下略





妃羽理さんのお家の麻績服部氏
http://gree.jp/hibari_g/blog/entry/428791695



今日は、私の忍術の流派、麻績服部流忍術のネーミングのもとになった、麻績服部(おみはっとり)氏の説明をします。
麻績服部流の祖は、鎌倉時代の藤原朝臣服部伊賀守という人。
藤原は中臣の子孫なので、位としては連だが、蘇我氏などが滅んだことで一番最初の氏姓制度が崩れて来たので、飛鳥時代天武天皇の頃、新たな姓が生まれた。
そのうちの一つが朝臣(あそん)。
朝臣とは、皇族だけど、天皇とは血縁関係が遠い臣姓。
ここまでを聞くと、凄く高貴な家柄?と思うかもしれませんが、そうではありません。
その高貴な人の配下にあった服部(はとりべ)の家柄ということ。
〜守というのは、一国の民政、裁判を司るために、中央政府から派遣される地方官に与えられる役職。
つまり、伊賀守とは、伊賀の国の地方官ということ。
服部半蔵は代々石見守だったが、これは、徳川家が、服部家に、石見銀山の管理を任せようとして与えた役職。
しかし、服部伊賀守と服部石見守の決定的な違いは、
伊賀守は、朝廷から与えられたきちんとした役職であるのに対して、
石見守は、一つの家であるにすぎない松平家(徳川家)が、朝廷の制度を真似て勝手に付けた役職。
どういうことかというと、幕府というのは、初めは単なる朝廷の組織する軍隊のことだったので、鎌倉時代の承久の変までは、全国に及ぶ政治権力は、朝廷の方が強かった。
しかし、承久の変で、幕府が、朝廷に勝つと、幕府が完全に全国を支配するようになったにすぎないので、〜守に本当に役職的に意味があるのは、鎌倉時代の承久の変以前であって、それ以降の〜守というのは、安易に付けられる役職になってしまい、実際に石見に勤めなくても石見守という名前がついてしまうようになった。
何が言いたいかというと、この服部伊賀守は、承久の変以前の役職なので、きちんと伊賀で勤めた人だということ。
つまり、伊賀地方の服部氏の祖であるということ。
もっというと服部半蔵の祖先ということ。
その服部半蔵の祖先の服部伊賀守が、伊賀守の任期を終え、承久の変以後力を持った鎌倉幕府から、今度は地頭として派遣された地が、信濃(長野県)の麻績(おみ)の地だった。
この麻績の地は、承久の変以前は、朝廷の直轄地だったので、地頭はいなかったのだが、承久の変以後は、幕府領になったので、地頭が置かれた。
では、なぜ、服部伊賀守を起用したのか?
それは、伊賀も朝廷の直轄地だったので、武士の勢力の及ばない土地の民の扱いに慣れていたことが、この抜てきの理由だろう。
ともかく、この服部伊賀守が、伊賀から連れて来た民衆と、もともと縄文民族の末裔の多い信濃の民衆との技術が錬磨されたのが、麻績服部流忍術の源流なのである。
その服部伊賀守の子孫である麻績服部左衛門清信の頃に、完成したのが、麻績服部流忍術なのである。
私の本名は、宮下というのですが、宮下家は、服部清信の弟、服部加信斉が神主を務めた麻績神明宮を代々守っている家で、私はその一族の流れを組むものです。
そういった縁で、私が麻績服部流忍術の正当継承者になった訳です。


以下略

[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 21時36分52秒 ) パスワード

ヒバリさんのお家の名字は  宮下  さんですが
本家さんの服部さんは  「清」が通字だったようで


小笠原氏の配下の服部清正に通じるのかしら?と。


    >服部伊賀守の子孫である麻績服部左衛門清信の頃

とありますから。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月21日 21時55分12秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/kawabemasatake/ogasawa.html


小笠原家中を見て来ました。




服部清正               ヒバリさんの本家さんかもですね。
  清信左衛門清延




麻績盛清兵衛太郎           この「麻績」氏はヒバリさんのご実家の宮下家と関係があるのでしょうか?
  清長勘解由左衛門
  光貞市之丞





浪合胤成 浪合村出身者でしょうか?
         南朝方だった関係?




こうやって「名前」が残されているとは驚きます。
「千載に名を残す」という表現、面目でもありますね。

   不運な生に終わった人々が出て来てわたくしとしましては「成仏なさってください」としか言えませんが
   般若心経を唱えることが出来たら、と今は強く思いました。



5月の連休にはわたくしの分も般若心経を唱えてあげてください。


それにしても日本という国は本当に不思議です。
「記録が残っている」というのは有名ですが
本当に残っているもんなんですねえ。


初めて会ったとしても
   顔を見れば分かる、名字を聞けば分かる、出身地を聞けば分かる、
不思議な素晴らしい国民です。

先祖達の物凄い思いと感じます。



松島氏のことが連休前にちょっと分かって嬉しく思います。
松島氏のご先祖さまも姿を現してくださったのかも、ですね。
[36]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月21日 23時32分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「労作」を読ませていただきました。本当に脱帽です。よくもこれだけ
徹底してお調べになった・・・平身低頭して御礼申し上げます。

 小笠原氏・松島氏についてよくわかりました。
 松島氏の「頼実=正行」は対馬守で松島氏の2代目、「貞実」は筑前守で
3代目、「信久」は豊前守で4代目だと思います。
 「貞実」は木曽義康に1547年、謀殺されたそうです。
 「信久」は1556年に武田軍により磔刑になった8氏の1人です。
 5月の連休に、松島城址・松島氏墓・歴史博物館を見に行く予定です。

 私の中途半端な情報により、あを様にこんなにも苦労をかけさせてしまい
ましたので、遅ればせながら松島氏の家系譜のコピーをお送りいたします。

 本日は、おもしろい「出会い」がありました。夜も更けてまいりましたの
で、明日記すことにいたします。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 06時56分09秒 ) パスワード

三つ柏さん



≪松島家譜≫
届くのを楽しみにしております。


どんな「出会い」だったのでしょう?
早く読ませてくださいね。
楽しみにしております。


連休が有意義に過ごせますように!





[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 08時09分10秒 ) パスワード

今、気付きました!
レス<23>の松島氏の件。


松島政親千野親信子                  松島あった〜!!!
時幸
道存
満久
月窓
満長
満清
重清
民部満長子


頼実====1531政行?対馬
貞実====1547筑前
 信久豊前
                         松島終り




これって、   「 松島政親千野親信子 」

 松島政親  は   千野親信  の子  ???
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 08時11分00秒 ) パスワード

千野氏
 http://from.yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/kame.htm


西茅野と安国寺の間に、現在も亀石明神を祀る「千野川社」があります。しかし、前記の通り、御神体とも言うべき亀石は洪水で流されて行方不明になっています。
 千野廣著『千野(茅野)氏概説』に「亀石」に関連する文があります。長文ですが、引用してみました。廣氏は、亀石を祀った千野氏の末裔です。

 千野氏は、この古屋敷に住むようになってから邸内に亀石大明神を祀り、千野氏の御社宮神、すなわち潔斎屋となした。
 亀石というのは、諏訪七石の一つで、古代における奇石信仰の一神体である。亀石がそこに運ばれる前にはどこにあったか、また、古屋敷のどの辺に祀られていたかは確かでないが、多分宮川河畔に近いところであったらしい。
 しかるに、文明14年(1482)のたびたびの宮川の洪水、堤防の決壊などのため、その亀石は押し流されて行方不明になってしまった。貴重な亀石がなくなってしまったことは、千野氏の驚きはいうに及ばず、地方民もこれを惜しむこと一通りではなく、百方手を尽くして河中を探したが、遂にそれを発見することができなかった。
 そこで止むなく、亀甲形の亀裂がある石をどこからか探してきて、今度は絶対に洪水のために流される心配のない高いところに据えてこれを祀った。
 天正18年(1590)、秀吉が家康に関八州の地を与え、家康が江戸城に入るに及び、家康に属していた諏訪氏は武州奈良梨の地に移封され、千野氏は諏訪氏と共にその地に移るようになったので、亀石大明神の御神体を、そのまま古屋敷の地に残して行くのも止むと得ないことであった。
 かくて、亀石大明神のその後の保守も十分でなかったので、地方人もその失われることを惜しみ、近年に至ってその近くに石造りの小祠と共にそれを祀ったのが、現在の亀石大明神である。そこにある石碑に刻まれている文字を読んでみると、万延辛酉(1861)12月とあるから、それは、諏訪氏が武州奈良梨の地から、文禄元年(1590)上州総社の地に転封を命じられ、さらに慶長6年(1601)旧諏訪の地に復封を許されてより、260年も後のことである。

 文明14年(1482)に行方不明となった亀石は、新井(小町屋の北方、宮川と上川との間)の取りこわし(治水関係の工事)の際、宮川の河床中に埋まっていることが発見され、それを掘り出すことができた。それは源地亀石の地に復帰せしむべきであると主張するものもあったが、川堀の役人の指図により、高島藩主のもとに提出することに決し、高島城内に搬入された。
 そしてその後、明治7年(1874)高島城取りこわしの際、亀石は売り払われてしまい、現在は諏訪市清水町、河西義雄氏の庭に保存されている。
 この亀石は、現在亀石大明神として祀られている亀石に比して、だいぶん大きく、かつ、その全体があたかも大亀がはっているような形をしている。この亀石が、果たして千野氏が、その古屋敷の邸内に亀石大明神として祀っていた亀石そのものであるかどうかはわからないが、もしそうだとすれば、この大きな石が、古屋敷から宮川の下流1500米もの川下、小町屋付近まで押し流されたものとすれば、宮川の大洪水もさぞかし驚くべきものであったろうと思われ、さらに、延長年間に地護宮※を襲った大洪水も、これに劣らないほどの、激甚なものであったろうと推察される。

※千野氏発祥の地たる茅野郷の口碑に残る一番古いその居館は、延長年間(923-930)に宮川の大氾濫にあって押し流された。

 『千野(茅野)氏概説』が、「亀石」を解説したものの中では一番情報量が多いと思われます。「鶴は千年・亀は万年」と言いますから、河床中に眠りこけて(人類の歴史の中では)目覚めることはないかもしれません。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 08時12分06秒 ) パスワード

http://pomehouse.com/3po/shiro/shinano/o-kuma/index.html


もともと千野氏は諏訪上社大祝敦貞の子敦真(貞方の弟)の子光親を祖とし、古来から大熊の地を治めていたようです。
 文明12年(1480)2月、諏訪上下社の争いが起こると、千野氏は矢崎肥後守や小坂氏らと下社大祝金刺興春を討ち、二日二晩大熊城に晒した…とあります。

 同15年、上社の内訌により惣領家政満一家が大祝継満に殺されると、千野氏は矢崎・福島・小沢・有賀・神長官らと共に挙兵し、継満の干沢城を落城させたようです。

▲土塁の石は後世のもの? ▲主郭土塁上に建つ石祠

▲主郭から四の郭 ▲主郭脇から茅野方面。この下の削平地は郭?


 武田の諏訪侵攻が始まった天文11年(1542)、7月には高遠・武田の連合軍が大熊口に攻め寄せ、千野兄弟(千野伊豆入道・千野南明庵)奮戦も空しく落城。千野南明庵は討死したといいます。
 同年9月、諏訪惣領家乗っ取りを企む高遠氏が謀反を起しますが、その折、千野氏(千野伊豆入道)は高遠頼継の野心を憎み、矢崎・有賀・小坂・福島・神長官らと武田方に組し、安国寺門前において激戦の末、頼継を敗走させます。
 大熊城は、天文17年頃(1548頃:塩尻峠の戦い後か?)破却されたと案内板にはありますが、信玄没後の天正10年(1582)、徳川帰属を迫った家康に向けて諏訪頼忠が遣わした使者の一人千野丹波房清は二城の城主で1300石を領したと言われ、一城は有賀城であるとすると、もう一城はこの大熊城ではないでしょうか?
 主郭土塁上に後年(江戸中期)に建てられた石祠にも「大熊城主 千野丹波守房清霊祠」の刻があります。

▲六の郭から中央道を隔てて主郭方面を望む。 ▲主郭西側の空堀は幅が約10mで深さは4m。

▲主郭先端部。道で削られてますが、なかなかのボリュームです。 ▲千野氏の古城から茅野市を望む…って? 石祠に「後孫千野源五郎房儀建之 千野儀正再建」の刻が見える。

▲主郭の土塁部分。最高部で約3mほどでしょうか。 ▲主郭から南面を望む。手前が四の郭、右中央が六の郭です。


案内板の解説文を掲載しておきましょう。

大熊城跡
 大熊城は千野氏居城と伝えられ、文献上では文明15年(1483)にその名がみられる。諏訪神社上社大祝(おおほうり)側に属する山城で、当時対立していた下社大祝金刺氏との攻防の場となった。天文11年(1542)武田信玄の侵攻によって落城し、天文17年頃破却された。
城は三日月形をした自然丘陵上に主郭を築き、周囲に6ヶ所の郭(曲輪)を配置したいわゆる連郭式城郭である。主郭の南端には長さ20mの土塁があり、その上には千野氏の名を刻んだ石祠が建っている。
 昭和48年に行なわれた発掘調査では堀・建物跡・土橋が発見され、築城の様子が明らかになった。また大熊城に隣接する城山遺跡・荒神山遺跡からは城主の居館跡とみられる建物跡も発見された。
大熊区・諏訪市教育委員会


 2月末に訪城した折、いくら暖冬とは言え、城跡にはもう福寿草が咲き始めていました。

 春には福寿草園として賑わうとか。
 現在城跡は、中央道の貫通によって郭の一部(五の郭)が消滅していますが、他の郭は耕作地となっているため比較的よく旧態をとどめていると言えるでしょう。
 昭和43年に中央道建設に伴う発掘調査が行なわれ、城跡からは堀・建物跡・土橋が発見されたようですが、発掘時の遺構は埋もれてしまったのか、私が訪城した折には郭の配置と空堀だけしか解らない状態でした。


07年2月28日追記


DATA

住  所: 長野県諏訪市湖南大熊
アクセス: 諏訪湖岸通りより県道16号線に入り約5km、名前のない信号機(片側点滅信号)を右折。道なりに進み、北方御社宮司社前を通過して直進。中央道に架かる橋手前が城跡です。
別  名: 千野城
区  分: 平山城
築 城 者 : 千野氏?
築 城 年 : ?
主な城主: 千野氏
遺  構: 曲輪、土塁、空堀
城  域: 南北約70m×東西約100m
保存状態: ★☆ お勧め度:★☆
訪  城: 04年5月13日 / 07年2月27日

[41]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 08時13分00秒 ) パスワード

http://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/ohguma-jyo/


信濃・大熊城
城郭放浪記





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大熊城の写真 写真館(8枚) 形態 丘城(810m/40m) 歴史
築城年代は定かではない。千野氏の居城と伝えられる。

文明15年(1483年)に諏訪氏は惣領家と大祝家による内訌が激化するが、このとき千野氏は惣領家に属し、大祝家に属した下社の金刺興春と戦っている。

天文11年(1542年)武田信玄と高遠頼継が結んで諏訪へ侵攻した。このとき大熊城には千野入道兄弟が立て籠もっていたが、武田氏に攻められ落城した。
説明
大熊城は諏訪大社上社本宮の西1km強の位置にある大熊集落の背後の丘陵に築かれていた。中央道の建設により全面的に発掘調査が行われており、堀・建物跡・土橋が検出され、中世の瀬戸・常滑・鉄釉天目茶碗が出土したという。

現在城址は中央道によって分断されている。中央道の北側の畑の所に案内板が設置されており、この辺りが主郭、北西側に二郭・三郭、南に四郭・五郭・六郭があったようである。
城主 千野氏 案内
諏訪西中学校の南東側に北方御社宮司社があり、その前の道を道なりに東へ進むと中央道に架かる陸橋に出る。その手前に案内板がある。
所在地 長野県諏訪市大字湖南大熊

[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 08時14分33秒 ) パスワード

出掛けるので取り敢えずアップ
URLに行ってくださいね。


http://umoretakojo.jp/Shiro/TokaiKoshin/Nagano/Aruga/index.htm



有賀峠の要衝を押さえる

有賀城

あるがじょう Aruga-Jo

別名:天狗山城





長野県諏訪市豊田



城の種別
山城


築城時期
不明

築城者

有賀氏


主要城主
有賀氏、原氏、千野氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀、横堀、石積み


主郭背後の巨大堀切<<2005年04月29日>>



歴史

築城時期は不明だが、諏訪氏の一族である有賀氏が築き、代々居城としたという。

天文十一(1542)年、有賀氏ら諏訪西方衆は諏訪頼重の近習衆と争いとなり合戦寸前となったが、このときは福与城主・藤沢頼親の取成しで調停された。天文十一(1542)年に武田晴信(信玄)が諏訪郡に侵攻した際には有賀備前守昌武は武田氏に味方したが、天文十七(1548)年七月十日、小笠原長時に呼応して武田に叛乱を起こして鎮圧され、追放された。

武田氏は有賀城に原美濃守虎胤を置き、さらに天文十八(1549)年には千野靭負尉に与えられ、千野氏が居城とした。慶長六(1601)年、諏訪頼水が高島城に入ると、その重臣であった千野丹波守房清が屋敷を構えたという。


有賀城は諏訪湖の南西岸の高台にあり、江音寺の背後の尾根先端附近を使ったお城です。ここは諏訪湖沿岸から高遠を経て伊那谷へと抜ける有賀峠の入り口にもあたり、交通の要衝でもあります。「高白斎記」天文十三(1544)年十月二十八日の項にも「在(有)賀へ酉刻御着陣」と記されています。このときは高遠頼継との諏訪をめぐる抗争の最中であり、諏訪から高遠へ到る道筋として、本道の杖突峠とともに有賀峠も重視されていたものと思われます。

もともとここは諏訪氏の一族、有賀氏の居城でした。この有賀氏ら「諏訪西方衆」は天文十七(1548)年に武田氏に対する叛乱に加担して没落、代わりにここに入ったのが「鬼美濃」原虎胤でした。のちに虎胤は小笠原氏の残党への押さえとして、平瀬城将に任じられますので、比較的短期間でここを離れたでしょう。

その後ここに入ったのが千野氏でした。千野氏もまた諏訪氏の一族でありその家臣でしたが、この一族は武田に与する者と反武田に与するものに分裂したらしく、千野山城入道などは反武田に身を投じて没落、逆に千野靭負尉は武田に与して諏訪の安定化に腐心、先方衆としても第一次川中島合戦における八幡の合戦では自身が負傷するほどの働きをしています。また第三次川中島合戦の際には、上杉軍の裏をついて北安曇郡へ電撃侵攻した際にも従軍しています。のちにこの千野氏は、近世大名として復活した高島城主・諏訪氏の重臣となって有賀城を与えられますが、おそらく山城としての有賀城はこの頃にはすでに機能停止していたことでしょう。この有賀城の麓の江音寺は千野頼房の建立といい、お寺の裏手には千野家の墓所があります。またこの墓地脇の畑のあたりには「丹波屋敷」の地名が残り、千野丹波守屋敷跡と伝えられています。

有賀城は尾根が先端附近で二俣に分かれる分岐点に主郭を置き、二方向の尾根と背後の主尾根に遺構を残しています。主郭背後の堀切1は10mはあろうかというダイナミックなもので、一番の見所です。主郭からの眺めはよく、諏訪湖の湖面を眼前に見下ろすことが出来ます。ここから東の支尾根には堀切6や斜めに延びる竪堀5、小曲輪などの遺構がありますが、伐採された木がゴロゴロ放置されていて歩きづらく、遺構もあまり大きくはありません。逆に北東に伸びる主尾根は比較的広い削平地が続き、U曲輪などは主郭と見紛うばかりの大土塁があります。この尾根には横堀8、9、10も見られ、ちょっと新しさを感じるところです。この横堀は通路のようでもありますが、交通の要所である有賀峠への街道に面しており、この方面の防備を特に意識したものと捕えることもできます。全体に遺構もよく残っており、諏訪郡域では突出して攻撃的な縄張りを持っている、見ごたえのあるお城です。

見学に際しては江音寺に車を停めさせてもらい、南側の模擬冠木門から谷戸の中を登ると良いでしょう。この登り口あたりが近世諏訪氏の家老であった千野丹波守の館跡(丹波屋敷)といい、その前を走る農道がかつての鎌倉街道だったといいます。谷戸のダラダラ坂(結構きつい)を10分ほど登り、あとは道なりにつづら折の急坂をゴイっと上がると、巨大な堀切がザックリ山を断ち切っているのに歓喜するでしょう。諏訪の隠れた名城です。





有賀城平面図(左)、鳥瞰図(右)

クリックすると拡大します。


[2007.06.23]



有賀峠に面した有賀城、江音寺の赤い屋根が目印。尾根続きよりかなり低いのが気になりますが、このあたりの地形条件では致し方ないことなのでしょう。 江音寺墓所脇の畑のあたりは「丹波屋敷」といわれ、千野氏の屋敷があったといいます。写真の何の変哲も無い農道もかつての鎌倉街道だったという。

尾根の東側、模擬冠木門から谷津の中を登ります。ダラダラしていて結構きつい坂道です。 最後のつづら折を登りきると目の前に巨大な空堀1が現れ、ビックリ&歓喜します。

先に尾根続きをチェック。堀3は小規模なものですが、これによってY曲輪が独立し尾根続き方面への馬出しのようなカタチになっています。 さらに堀4。尾根続きが弱点のこのお城ですが、堀切は堀1以外、意外なほどささやかなものです。

尾根続きの鉄塔附近から見下ろす。Y曲輪はいかにも防御の要のようですが、ちょっと心もとない気がします。 主郭の大土塁東側が虎口らしいです。Y曲輪の直下に小さな削平地があり、そこと曳き橋で繋がっていたのではないかと想像。

主郭は小奇麗に整備され、とても気持ちが良い。尾根続き方向を守る土塁も迫力満点。 その土塁には石積みが、城郭遺構というよりも後世の神社、祭壇などに伴うもののようですが、神氏につながる有賀氏と関連があるのかも・・・?

ちょっとガスっていますが、主郭からの諏訪湖の眺めは最高です。 主郭北東に伸びる支尾根には数段の削平地があり、堀切なども設けられています。

支尾根の堀5、6。このあたりは伐採された木だらけで実に歩きにくい。堀6は大きな竪堀7と繋がっています。 主郭北側のU曲輪との間を分断する堀7も素晴らしい。長い竪堀となり、山の両側に繋がっています。

主尾根上にはまとまった広さの曲輪が連続します。写真はU曲輪。 U曲輪には堀7に面して主郭と見まごうばかりの大きな土塁があります。

V曲輪は西側のみに土塁があります。 有賀峠に面した西側には2、3段の横堀状通路(堀8〜10)があります。単なる通路というよりも、街道を意識した防御の一環と考えたい。

倒木などで判然としませんが、西側には数本の竪堀が落とされています。木々の間に有賀峠へと繋がる街道が見えています。 この堀8〜10に繋がる帯曲輪は竪堀11〜13で分断されています。このあたりの技法は武田氏の改修が入っていることを想像させます。

再び江音寺へと戻ります。江音寺は千野氏ゆかりのお寺です。 その江音寺にある千野家墓所。別家の御櫓脇千野家の墓所もすぐ近くにあります。


 

 



交通アクセス

中央自動車道「諏訪」ICより車15分。

JR中央本線「上諏訪」駅徒歩60分。


周辺地情報
近隣では干沢城、花岡城などがあります。諏訪周辺では上原城、桑原城と近世高島城は必見。

関連サイト
 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信州の山城」(信濃史学会編/信毎書籍出版センター)

現地解説板


[43]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月22日 10時46分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 家のパソコンが立ちあがりにくくなりまして困っています。直ればいいん
ですが・・・。

 松島氏の祖は小笠原氏だと思っていましたが、千野氏も祖であるというこ
と・・・いろいろなつながり、あって当然だとは思います。
 千野氏により、松島氏の諏訪氏との関係が鮮明になり、あを様の推測も信
憑性を増しました。
 望むらくは、千野氏と小笠原氏との関係(筋)がわかるといいんですが。

 有賀氏については、学生時代、クラブの先輩で信州出身の有賀さんという
方がおりましたのでなつかしく思っています。浜松でも有賀さんはいまして、現在お付き合いをしております。

 昨日の「出会い」について記します。
 一つ目は「一柳氏」との出会い。
 二つ目は「高遠こ彼岸桜」との出会い。
 三つ目は「日本カモシカ」との出会い。
 四つ目は「宇治山田市」との出会いです。

 「一柳氏」との出会いは、磐田市見付の「身代り地蔵」で有名な「宣光寺」
であました。この地蔵尊は宣光寺にありますが、三方ケ原の戦いで信玄に追
われた家康が見付に逃れて町に火を放った。地蔵は逃げ惑う人々を助けるた
め、幼児に変身、身にやけどを負いながら火を消してまわった。その功徳に
よって、多くの人々は難を逃れた。深く地蔵に帰依した家康は、のち天下人
となった。
 以来、心や身体の苦しみなどの災難を、身代りとなってくれる仏として、
信仰を集めている。
 世に身代り地蔵と云う、ということであります。
 その宣光寺にありましたのです、「一柳家之墓」がひっそりと。花も添え
られていましたのでよけい嬉しくなり、心を込めて般若心経を一巻捧げました。

 「高遠こ彼岸桜」との出会いは、袋井市の松下之綱が城主を務めた「久野
城祉」を見に行ったときのことです。どういうわけか、大手門跡地の隣に、
高遠こ彼岸桜が植樹してありました。看板で分かりました。高遠から帰った
ばかりでしたので、何で?と思いながらもなつかしく、「そめい吉野」より
も、つわものどもの夢の址を忍ぶのにはたしかにふさわしいなと思った次第
であります。
 久野城祉はしっかり整備されていましたが、石垣等はすでになく、小山が
城あととなっておりました。昔は秀吉の命により、松下之綱が故郷に錦を飾
れよう素晴らしい城に改修されたようです。また周りに堀がめぐらされ、難
攻不落の城であったと書かれていました。
 天守閣址まで登り、周囲を見渡し、高天神城のことを思い出し、戦いに開け
くれた祖先たちの霊をなぐさめるべく、般若心経を丁寧に唱えました。
 そして、その帰りのことであります。
 城祉の北側の小山に六所神社がありましたので、車で登ろうと参道を登り
かけた時、林の中から「日本カモシカ」が5メートル位の所まで近づいて来
て、私と一瞬目を合わせると、また奥の方に駆けて行ったのでした。こんな
深くもない山間の里になぜ「日本カモシカ」が・・・ミラクルな出会いであ
りました。

 「宇治山田市」との出会いは、家康とのエピソードのある「可睡斎」の入
り口でのことであります。
 そこには灯篭が2基建てられていて、それを寄布した人達の名前が刻まれ、
その上に「宇治山田市」の大きな刻がありました。何で宇治山田市?と思い
ましたが、なんとなくわかるような気はいたしました。
 可睡斎は牡丹が有名ですが、今盛りを過ぎ、シャクナゲやサツキが一斉に
咲き始めており、美しい花々が心の癒しとなりました。もちろん花に「おで
ん」はつきもの。何よりのごちそうでした。


 
 
 
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 14時31分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


なるほどナカナカ面白い出会いがたくさんあったのですねえ。


一柳家の名を出している時に一柳という名に遭遇するとはすごい偶然の一致ですね。

カモシカだってめったに見られる動物じゃないですし
たった今「カモシカ」と変換しようとしたら「賀茂鹿」になってしまい
笑ってしまいました。




松島氏の名字は千野から出て、千野は諏訪大社がらみ。

もともと諏訪大社があって
そこに小笠原氏が入って来た

だから小笠原氏と諏訪大社の関係が12世紀から。
この間に小笠原氏と諏訪大社と婚姻によって結ばれたのは有り得ます。

ですから松島氏が小笠原氏ゆかりというのも有り得ます。


その説明のサイトに辿り着けると良いのですが。


それにしても諏訪大社の中でも内訌があったのですねえ。
こういうことがきっかけで小笠原氏と松島氏が強く結ばれたというのも分かります。


     内訌の話は皆さん名字が同じで下の名前も似てるしワケ分からなくなります。汗
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 14時39分52秒 ) パスワード

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%9D%BE%E5%B3%B6


【名字】松島

【読み】まつしま


諏訪神党、滋野氏(中世以来の豪族。信濃の族は清和天皇の子孫)、
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、
安倍氏(祖先は第八代孝元天皇の孫)、
熱田神宮社家(大原真人)、
紀氏(紀朝臣出が多い。竹内宿禰を祖とする。源平藤橘につぐ大姓)などにもみられる。

「島」は一定の小区画を表す。


【全国順位】 359位  

【全国人数】 およそ59,400人

都道府県別ランキング


都道府県

順位

人数


北海道 519位 およそ1,700人
青森県 868位 およそ200人
岩手県 865位 およそ200人

宮城県 1,324位 およそ100人
秋田県 708位 およそ200人
山形県 1,619位 およそ40人
福島県 912位 およそ300人

茨城県 605位 およそ900人
栃木県 134位 およそ2,800人
群馬県 81位 およそ4,600人
埼玉県 331位 およそ3,700人
千葉県 487位 およそ2,000人

東京都 354位 およそ6,000人
神奈川県 419位 およそ3,400人

新潟県 922位 およそ400人
富山県 136位 およそ1,300人
石川県 319位 およそ600人
福井県 446位 およそ300人

山梨県 610位 およそ200人
長野県 250位 およそ1,700人
岐阜県 820位 およそ300人
静岡県 184位 およそ3,700人 静岡に多いんですねえ
愛知県 561位 およそ2,000人

三重県 248位 およそ1,300人
滋賀県 585位 およそ400人
京都府 674位 およそ600人
大阪府 414位 およそ3,400人
兵庫県 515位 およそ1,800人

奈良県 429位 およそ500人
和歌山県 464位 およそ400人
鳥取県 295位 およそ400人
島根県 298位 およそ500人

岡山県 383位 およそ900人
広島県 271位 およそ1,900人
山口県 649位 およそ400人

徳島県 262位 およそ600人
香川県 1,087位 およそ100人
愛媛県 692位 およそ300人
高知県 704位 およそ200人

福岡県 435位 およそ2,100人
佐賀県 941位 およそ100人
長崎県 172位 およそ1,500人
熊本県 297位 およそ1,200人

大分県 1,387位 およそ100人
宮崎県 1,650位 およそ90人
鹿児島県 802位 およそ400人
沖縄県 441位 およそ400人
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 14時43分12秒 ) パスワード

http://folklore.office-maeta.jp/70001.htm

■ 松島(まつしま)


# 群馬県や静岡県に多くみられる。


# 信濃の松島氏は信濃国伊那郡松島(長野県上伊那郡箕輪町中箕輪松島)をルーツとする。


               ま、そうでしょうね


# 遠江の松島氏は遠江国長上郡松島村(静岡県浜松市南区松島町)をルーツとする。


               これは驚き!
               松島村の由来を知りたいですね。






# 紀伊の松島氏は紀伊国名草郡松島(和歌山県和歌山市松島)をルーツとする。
# 肥前の松島氏は肥前国彼杵郡松島(長崎県西海市大瀬戸町松島)をルーツとする。
# 第二次安倍改造内閣の松島みどり法務大臣は大阪府の出身。
# 「松島」の地名
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 14時46分55秒 ) パスワード

http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/1239561.html



マツシマ 松島 


群馬県、静岡県、東京都。


@宮城県宮城郡松島町発祥。平安時代から記録のある地名。群馬県みどり市東町小夜戸の小字の松島は経由地。1063年(康平6年)に来住したと伝える。新田義貞の家臣に松島式部の名前があり、福井県東部(旧:越前国)で1338年(建武5年・延元3年)に新田義貞が敗死したことにより全国に離散した。



A静岡県浜松市南区松島町発祥。江戸時代から記録のある地名。

            江戸時代ですか・・・・これは収穫でしたね。
            なんとなく納得出来ますね
            今1つ、ハッキリ知りたいですね。

            浜松市に記録があるということでしょうね。




B長野県上伊那郡箕輪町松島発祥。



C和歌山県和歌山市松島発祥。南北朝時代から記録のある地名。
D長崎県西海市大瀬戸町松島内郷・松島外郷発祥。
E創賜。鹿児島県いちき串木野市大里に江戸時代にあった門割制度の松嶋(マツシマ)門から。
F沖縄県に琉球王国時代にあった。琉球音はマツィシマ、マチシマ。


マツシマ 松嶋 福岡県、大阪府、栃木県。
マツシマ 松嶌
マツシマ 柗島
マツシマ 柗嶋
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 14時53分24秒 ) パスワード

http://blog.livedoor.jp/gardendesigner/archives/52317186.html

諏訪氏は代々諏訪大社の大祝を務めてきた一族である。

その血筋は「神氏」といい、欽明朝や推古朝の頃から平安時代初期に
信濃国地方政治で活動した金刺氏や他田氏の名が諏訪社の神官として続いて来た。

出雲神話の神・建御名方神(タケノミナカタヌシ)に始まるともいう。


後世には桓武天皇を祖とするとも清和源氏の源満快を祖とするとも称したが
皇胤や摂関家をはじめとする公卿の末裔を称する武家が多い中で
祭神・建御名方命の血筋を称しながら極めて尊貴な
血筋としてとらえられた特異な家系といえる。




諏訪神家一党33氏

以下の氏族は諏訪氏の一族であるという
南北朝時代は宗家の諏訪氏ともども南朝方となる



関屋氏、深澤氏、皆野氏、三塚氏、四宮氏、若尾氏、不覚氏、保科氏、神野氏、笠原氏、

             千野氏、松島氏、           ココ

座光寺氏、栗原氏、上原氏、栗林氏、矢崎氏、風間氏、平島氏、平方氏、栗澤氏、

遠山氏、向山氏、中村氏、西保氏、真志野氏、真野氏、脇間氏、繭屋氏、大妻氏、

小島氏、中野氏、禰津氏、浦野氏、大垣氏、有賀氏、平井氏、神田氏、神内氏、知久氏、

桓原氏、宮所氏、小坂氏、安倍氏、元澤氏、高遠氏、原氏、安部氏




その他の諏訪氏一族

岡屋氏、栗田氏、三輪氏、箕輪氏、埴原田氏、一瀬氏、武井氏、安宿氏、足羽氏、桑原氏、山井氏、花岡氏、関氏、大平氏、大島氏、小野氏、小林氏、平林氏、周防氏、片倉氏、藤森氏、原氏、矢澤氏、宮下氏、宮崎氏、金山氏、津波木氏、岩波氏、高木氏、横田氏、海口氏、西條氏、櫻井氏、栗澤氏、福島氏、春日氏、大藍氏、宮坂氏、吉田氏、小井弖氏、平栗氏、早出氏、濱氏、中尾氏、波間氏、吉田氏、木村氏、大木氏、米澤氏、沖氏、杵淵氏、寺尾氏、保坂氏
          
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 15時01分40秒 ) パスワード

不思議ですね。


レス23で書いて以来松島氏の名字の由来がアチコチに出ているのが分かりました。


次は諏訪氏と小笠原氏の関係を知りたく思っています。
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月22日 15時07分36秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 松島村の松島氏はもとは熊野の鈴木氏です。天竜川の河口付近の島(中州)
に住むようになり、松が生えていたので松島村とし、苗字も松島にした。
 熊野より熊野神社を勧請しています。こちらの方が開拓・治水で繁栄し、
松島氏族としては有名かもしれません。
 もう一方の豊西を中心とした松島氏は松島十湖という個人で有名です。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 15時09分06秒 ) パスワード

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%8D%83%E9%87%8E


【名字】千野

【読み】ちの,ちや,ちば,ちよの,せんの

【全国順位】 1,882位  

【全国人数】 およそ8,600人


現長野県である信濃国諏訪郡千野村が起源(ルーツ)である、諏訪神党。
ほか忌部氏(現徳島県である阿波)などにもみられる。

岩村藩、高島藩にみられる。


語源は湿地などにはえるイネ科の植物による。

長野県、千葉県、東京都、山梨県、新潟県などに多い。



都道府県別ランキング


北海道 2,667位 およそ200人
山形県 3,286位 およそ10人
福島県 2,913位 およそ40人
茨城県 2,305位 およそ100人

群馬県 1,901位 およそ90人
埼玉県 905位 およそ1,100人
千葉県 2,262位 およそ300人

東京都 1,113位 およそ1,600人
神奈川県 1,442位 およそ800人

新潟県 884位 およそ400人
山梨県 144位 およそ1,300人
長野県 318位 およそ1,300人

静岡県 1,965位 およそ200人
愛知県 3,341位 およそ100人
滋賀県 2,827位 およそ40人

和歌山県 2,249位 およそ50人
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 15時10分55秒 ) パスワード

http://folklore.office-maeta.jp/461.htm


千野(ちの)


# 関東地方南部から甲信地方にかけての名字で特に山梨県甲府市に多くみられる。

# 長野県や山梨県に多い他、関東地方南部や静岡県に多くみられる。

# 長野県では長野市から茅野市付近にかけて多くみられる。

# 山梨県では甲府市に多くみられる他、長野県境方面の地域に多い。

# 信濃国諏訪郡千野郷(長野県茅野市)をルーツとし、諏訪氏の支流。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 15時19分58秒 ) パスワード

諏訪家のお家騒動


諏訪忠厚


時代
江戸時代中期 - 後期

生誕
延享3年9月29日(1746年11月12日)

死没
文化9年6月17日(1812年7月25日)

改名
軍蔵(幼名)→忠厚

墓所
長野県諏訪市湯の脇の温泉寺

官位
従五位下、安芸守

幕府
江戸幕府


信濃諏訪藩主

氏族
諏訪氏

父:諏訪忠林

兄弟
忠倫、忠厚、頼訓


正室:阿部正福の娘


忠粛、頼庸



諏訪 忠厚(すわ ただあつ)
信濃諏訪藩の第6代藩主。第5代藩主・諏訪忠林の四男。



生涯[編集]



暗君の登場[編集]    あらら・・・


宝暦13年(1763年)、父の隠居を受けて家督を継ぐ。

この頃、諏訪藩では財政悪化から藩政改革を迫られていた。先代の忠林の代にも改革は行なわれたが、反対派の動きなどもあって失敗している。

このような中で跡を継いだ忠厚は、政務に関心を示さない暗愚無能の人物であった。

このため、筆頭家老の千野貞亮が実権を掌握する。            千野氏!


千野は藩財政再建のため、明和元年(1764年)に新役所を設置し、翌年には領民に対して重税を強いるなどの方針で領民を大いに苦しめたが、藩財政はいくらか再建された。千野は忠厚から賞賛されることとなったが、このことが騒動の火種となった。




二の丸騒動[編集]

事件は、千野が藩財政をいくらか再建することで始まった。

諏訪氏には当時、家臣に二つの派閥があった。

    ひとつは鎌倉時代から諏訪氏に仕えてきた累代の重臣・千野氏で、高島城三の丸に屋敷を構えていた。

    これに対抗するように初代藩主頼水の弟・頼雄を祖とする高遠藩の家老一族がいたが、これは二の丸に屋敷を構えていた。

これらは知行は共に1200石で、交代で歴代の家老を輩出してきた家柄である。



ところが千野が改革で功績を挙げたことで、もう一人の家老である諏訪頼保は、千野に藩の実権を完全に掌握されるのではないかと恐れおののいた。そこで頼保は、千野の追い落としを計画する。忠厚には渡辺助左衛門という寵愛している江戸詰の側用人がいたが、頼保はこれに近づいて、共に千野の追い落としを図った。頼保は忠厚に対して「千野の改革は領民から税をむしり取るだけのものであり、領民は一揆を起こしかねないほど千野を恨んでいる」と讒言した。


確かに千野の改革は税を搾取するのが主であったため、領民が苦しんでいたのは確かであったが、忠厚はこれに対して大した調べもせずに千野を家老から解任して知行を召し上げ、閉門処分にした。


こうして頼保は首席家老となり、150石の恩賞までいただくという栄誉を受けた。しかし、このような頼保に清廉なところも、政治手腕もなかった。頼保はいわゆる「時代劇の悪代官」であり、賄賂を払う者を多く取り立て、女や酒を周りに集めては遊興や淫らな行為に走るなど、千野以上の悪政を行なったのである。


しかし千野はこのまま黙っていなかった。安永8年(1779年)3月、勢いを盛り返して江戸にいる忠厚のもとに乗り込み、頼保の淫らな行状を訴えた。これを知った忠厚は激怒し、頼保を家老から罷免し、知行を召し上げて閉門に処した。



だが、頼保はすぐに巻き返しに出た。忠厚には正室との間に男児がおらず、側室との間に2人の息子がいた。ひとりはおとめ(木村氏)が産んだ軍次郎(後の忠粛)、もうひとりはおきそ(北川氏)が産んだ鶴蔵(後の頼庸)である。

ところが忠厚はおきそを溺愛したため、家督を鶴蔵に譲ろうと考えていた。そこで頼保は忠厚の寵臣である渡辺と手を結んで、軍次郎を廃嫡して鶴蔵を跡継ぎとしようと画策した。こうすれば、鶴蔵が藩主になったとき、頼保は藩主擁立の功績の第一人者となれるからである。


     これを知った千野は、いくら何でも主家の家督にまで手を出すのには反対で、家督は長男が継ぐべきと考えていた。

     そこで二の丸派の動きを阻止しようとしたが、渡辺が忠厚に対してまたも讒言したため、
     千野は忠厚の命で家老罷免の上、押し込めとなった。


こうなると頼保は勢いづき、軍次郎を調伏し、さらに忠厚の正室が軍次郎を支持しているのを苦々しく思って、忠厚に対して正室との離別を提言した。忠厚もいつまでたっても子を産まない正室に苛立っていたため、正室は強制的に離別させられた。


一方、押し込めとなっていた千野は、このような家督騒動の事態になったことを憂慮し、自分の死を覚悟して押し込め身分から脱走し、江戸の松平乗寛のもとへこの事態を訴え、助けを求めた。


乗寛は忠厚の妹婿で、幕府の奏者番を務めていた。事態を知った乗寛は幕府がこれを知れば改易になりかねないことを憂慮して天明元年(1781年)10月、忠厚を説得して家督を長男の忠粛に譲らせることを実現した。さらにこの功績で、千野は再び家老に復帰した。



そして頼粛を調伏して藩政を牛耳ろうと企んでいた二の丸派は天明3年(1783年)7月、
頼保が切腹、渡辺ら4名は斬首という処分が下され、ようやく二の丸騒動は終焉した。


全ては単純暗愚の藩主・忠厚から始まったと言っても過言ではない騒動であった。

文化9年(1812年)、67歳で死去した。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月22日 17時36分02秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レス50に書いておきましたが、松島村の松島氏と羽鳥村の松島氏は系統
が違っています。
 松島村は天竜川の河口。羽鳥村は池田庄の西で天竜川の中流です。
 ややこしいところですが、源氏に絡むところが違いですか・・・。
 
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月22日 22時25分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


ありがとうございます。
2つ(もしくは2つ以上の)系統がありますか。


>松島村の松島氏はもとは熊野の鈴木氏です。

     ではこちらの松島氏は鈴木氏と仲が良いということになりますね。


>天竜川の河口付近の島(中州)に住むようになり、松が生えていたので松島村とし、苗字も松島にした。
>熊野より熊野神社を勧請しています。こちらの方が開拓・治水で繁栄し、松島氏族としては有名かもしれません。

     かなり古くから住んでたということになるでしょうね。


>もう一方の豊西を中心とした松島氏は松島十湖という個人で有名です。



暇な時とか行き詰った時に頭の中を空っぽにするために
旧松島村の墓石の家紋を調べてみてくださいね。
[56]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月22日 23時19分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 昨日の磐田市見付行きでいくつかのお寺を回りました。見付には結構立派
なお寺がたくさんあります。身代わり地蔵の「宣光寺」もそうですが、「大
見寺」も今川氏によって境内に城が築かれたというすごい寺である。この寺
には、びっくりすることがありました。それはあの「鳥人幸吉」の墓がある
ということです。残念ながらサッと回ったところでは見出すことはできませ
んでしたが、代わりに後陽成天皇第八皇子の良純法親王(1604〜1669)
の墓がありました。知恩院初代宮門跡と刻まれていました。
 鳥人幸吉の本は持っておりますが、未読となっています。表具屋で翼を作
って空を飛んだということで、ひょっとしたら忍術の秘伝書を読んでいたか
も知れませんね。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 02時45分38秒 ) パスワード

浮田幸吉(うきた こうきち、1757年(宝暦7年)- 1847年(弘化4年)?)

日本で初めて空を飛んだとされる人物。
鳥人幸吉、表具師幸吉、表具屋幸吉、櫻屋幸吉、備前屋幸吉、備考斎(びんこうさい)とも呼ばれる。



経歴[編集]

江戸時代中期1757年(宝暦7年)備前国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜)の浮田(櫻屋)清兵衛の次男として生まれた。7歳で父を亡くし岡山の紙屋に奉公に出て表具を習う。

空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを熱心に研究した。「鳥の羽と胴の重さを計測しその割合を導き出す。それを人間の体に相当する翼を作れば人間も鳥と同じように空を飛べるはずである」と結論づけた。

表具師の技術を応用し、竹を骨組みに紙と布を張り柿渋を塗って強度を持たせた翼を製作した。試作を繰り返し1785年(天明5年)夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がった。風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したとも言われる。河原で夕涼みをしていた町民の騒ぎとなり、即座に岡山藩士によって取り押さえられた。時の藩主池田治政により岡山所払いとされた。この出来事は同時代の漢詩人菅茶山の著書『筆のすさび』にも言及されている。

その後、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、「備前屋幸吉」の名で郷里児島の木綿を扱う店を開いた。軌道に乗ったところで兄の子に店を継がせた。自身は歯科技師「備考斎」として技術力の高い義歯を製作することで評判となった。

晩年は、駿府でも再び空を飛んで見せて騒乱の廉で死罪となったとも、遠江国見附(現在の静岡県磐田市)に移り妻子を得て平穏な余生を送り、1847年(弘化4年)に91年の長寿を全うし死去したとも伝えられる。

墓は静岡県磐田市の大見寺にあり、戒名は「釋帝玄居士」。

幸吉の飛行が事実であるならば、それは1849年のジョージ・ケイリーのグライダーによる有人滑空実験よりも60年以上早い。とはいえ、幸吉はこの種の実験を試みた最初の人物というわけではなく、古くは9世紀から同様の実験家たちが存在したことが知られている(下記リンク参照)。また、重航空機に限らなければ、有人飛行はモンゴルフィエ兄弟の熱気球によって幸吉の飛行の2年前の1783年11月に達成されている。

なお、1997年(平成9年)(没後150年余り?)には旧岡山藩主池田家当主・池田隆政より、幸吉の岡山所払いが許されている。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 02時54分46秒 ) パスワード

三つ柏さん


もとが岡山の人でしたか。


だったら「飛びたい」という思いは
岡山人だったら当然ですね。

なんせ吉備真備が唐で難題を吹っ掛けられて空を飛んで難を逃れた話がありますから。



ま、空を飛ぶ話はアラビアにだってあるし
世界共通の夢だったんでしょうね。



きっと賢い人だったんでしょうね。
その上に「浮田姓」ということはフツーの身分の人間じゃなかったということなんでしょうね。


現代に生まれてたら東工大あたりに行って宇宙工学を修めたような人かもね。

    実は知り合いでそういう男の子がいたのです。
    で、その人の身内の人が締めてた帯が「柳に飛び付く蛙」でした。

    うちの父が最初に気づいて笑ってました
        蛙飛行か・・・
    なんて。


浮田幸吉は合理的!
100年生まれるのが早かったですね。
生まれ変わってアメリカに来たのかもね。
案外ライト兄弟の1人に生まれ変わってたのかも。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 02時56分13秒 ) パスワード

どんどん重くなって来ましたね。
XXXIV  34  をそろそろ立ててくださいね。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 07時45分48秒 ) パスワード

諏訪神党

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E7%A5%9E%E5%85%9A

諏訪神党(すわしんとう)は、諏訪氏を中核として諏訪明神の氏人によって鎌倉時代に形成された武士団。
神党に属する一族は「神」を本姓とする神氏を称した。
また、通称に「神」を加えて(神左衛門など)諏訪神党であることを示す。


           つまり「三輪氏」とも関係がるのかも???




1355年(文和4年/正平10年)、
宗良親王を擁した桔梗ヶ原の戦いで
信濃守護小笠原長基に敗れて以降は、
信濃の南朝方勢力の衰退は決定的となり、
盟主である諏訪氏の内紛もあって諏訪神党の各家も結束力を失っていったとされる。


諏訪神党の各家[編集]

諏訪氏の係累にあたる血族を諏訪神族(諏訪神党とも)といい、信濃国には一門が多い。

さらに鎌倉時代に諏訪氏が北条氏の御内人となったことから全国に社領を拡大し、多くの一族が全国に拡散していった。

地方の領主としては駿河国の滋野氏系の安部氏、丹波国の上原氏、出雲国の牛尾氏、薩摩国の上井氏なども諏訪氏の一門に該当する[1]。



神家一党33氏                  

以下の氏族は諏訪氏の一族であるという。
南北朝時代は宗家の諏訪氏ともども南朝方となる。

関屋氏、深澤氏、皆野氏、三塚氏、四宮氏、若尾氏、不覚氏、保科氏、神野氏、笠原氏、千野氏、

               松島氏、

座光寺氏、栗原氏、上原氏、栗林氏、矢崎氏、風間氏、平島氏、平方氏、栗澤氏、遠山氏、向山氏、中村氏、西保氏、真志野氏、真野氏、脇間氏、繭屋氏、大妻氏、小島氏、中野氏、根津氏、浦野氏、大垣氏、有賀氏、平井氏、神田氏、神内氏、知久氏、桓原氏、宮所氏、小坂氏、安倍氏、元澤氏、高遠氏、原氏、安部氏
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 07時56分06秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/kawabemasatake/sinano.html

信濃国人衆



信濃守護 小笠原(深志、鈴岡、松尾)氏 




小笠原家臣 

伴野氏、大井氏、下条氏、二木氏、板西氏、溝口氏〈一部織田家収録〉、山中氏、常盤氏、西条氏、跡部氏〈一部武田家収録〉、島立氏、平賀氏、犬甘氏、三村氏、後庁氏、赤沢氏〈一部細川家収録〉、大池氏、市河氏、青柳氏、麻績(小見)氏、関岡氏、島立氏、平林氏、



仁科一族 仁科氏、関氏、松田氏、千日(伊藤)氏、沢渡氏、丸山氏、飯森氏、渋田見氏、穂高氏、古厩氏、細萱氏、


村上源氏 村上(勝、山浦)氏、出浦氏、屋代氏、室賀氏、楽厳寺氏、清野氏、雨宮氏、


村上家臣 島津(長沼、赤沼)氏、小泉氏、芋川氏、杵渕氏、若槻氏、福沢氏、栗田氏、松本氏、泉氏、下村氏、


井上一族 井上氏、高梨氏、大熊氏、須田氏、吉田氏、岩井氏、草間氏、


依田一族 依田氏、芦田氏、平尾氏、相木(阿江木)氏、


片切一族 片切氏、飯島氏、大島氏、赤須氏、上穂氏、



諏訪大祝 諏訪氏、高遠氏、藤沢氏、知久氏、

諏訪家臣 金刺氏、武居氏、守矢氏、中沢氏、矢嶋氏、千野氏、
座光寺氏、有賀氏、木田氏、鷹野氏、保科氏、

                         松島氏は千野氏の中に入るのでしょうね

滋野党 海野氏、禰津氏、望月氏、会田氏〈北条家収録〉、羽尾氏、塔原氏、岩下氏、香坂氏〈一部武田家収録〉、大日向氏、春日氏〈武田家収録〉、真田氏、矢沢氏、常田氏、鎌原氏、小田切氏、


木曾党 木曾氏、上松氏、高遠氏、馬場氏、千村氏、山村氏、島崎氏、





諏訪氏は系譜が滅茶苦茶なので整理が難しいです。
その原因は「大祝」にあります。

「大祝」とは諏訪氏の年少の子が順番に務める職なのですが、
「大祝」継承順と親子関係が混乱しているうえに、
室町時代の途中から惣領家と大祝家とが分立し、
惣領職の交代も何回かあったので、訳がわからなくなりました。




それにしても信濃武士は源氏を名乗っているのが多いですねー。

小笠原氏はともかく、村上氏、井上氏、諏訪氏、滋野氏、木曽氏のなかで本当に源氏であったのは
いかほどあるんでしょうか?

以上
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 08時09分00秒 ) パスワード

上記のブログ主がワケ分からないと言ってるぐらいなので
ワタシが分かるワケがないな、と。


     水戸のオトコはなんとか   水戸っぽ    水戸のオトコもうるさかったっけ
     松本のオトコはなんとか
     薩摩のオトコはなんとか
     土佐のオトコはなんとか

     こんな事を聞くけど、松本のオトコが理屈っぽいとか言われるのがなんとなく分かった感じ。


     三河のオトコは単純だったってコトか、と。

     尾張のオトコは全く分からない。自滅
    
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 13時47分19秒 ) パスワード

本日仕入れた情報で   松本城に学校があったんだとか。
さすが教育県の長野。

その上に松本深志といったら名門中の名門というか
お城に学校を持って来るというところが長野だなと。


   明治になって殿様が東京に引っ越したりして屋敷が学校に変わったというのは結構聞くけど。    
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 13時48分24秒 ) パスワード

またもや全然関係無いけど

今井城
〒385-0015 長野県佐久市今井

兼平城、兼光館ともいう。
木曽義仲(源義仲)を擁して挙兵したという今井兼平の城。


へえ〜
佐久の人だったの?
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 13時52分18秒 ) パスワード

蘆田氏の城ということでアップ。

蘆田信蕃に仕えた服部氏って一体何者だったのか謎になって来ました。



押出城
〒384-2205 長野県佐久市春日岩下
大小屋城ともいう。依田氏(芦田氏)の居城。


小倉城
〒384-2205 長野県佐久市春日入新町
依田氏(芦田氏)の詰城。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 13時54分03秒 ) パスワード

芦田城
〒384-2305 長野県北佐久郡立科町芦田

蘆田城、倉見高井城、木宮城、木ノ宮城ともいう。


中山道の宿場町があったところで本陣の跡などが残る。
芦田滋野氏の築城。
文安2年(1445年)に依田光徳が築城したともいう。

文明18年(1486年)に村上氏が依田氏と高井米持氏とともに陥落させ依田氏が居城とした。
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 14時00分58秒 ) パスワード

武石城
〒386-0503 長野県上田市下武石

大和守屋敷、大井本城ともいう。武石大井氏の居城。


永和元年(1375年)に大井長信が築城。南方に中山城、西方に堀之内城(堀の内館)を支城にもつ。
大永年間(1521〜1527年)に大井光照の五男大井信広(武石信広)が入り改築。

天文14年(1545年)に武田晴信が攻め落とした。


のちに武田氏に降り属した芦田信蕃が居城としたともいう。        そうなの?

http://koskan.nobody.jp/sengokusi_shinano.html

矢崎城

〒386-0701 長野県小県郡長和町和田中組
下和田城、矢ヶ崎城、矢ケ崎城ともいう。


大井信定、秦幸清らが討たれた城。                  秦氏?!
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 14時14分31秒 ) パスワード

千野関係の城


金子城
〒392-0015 長野県諏訪市中洲下金子
諏訪大社上社の近く。諏訪頼忠が築城。
戦国時代には茅野氏(千野氏)が居城とした。
金子左衛門尉が在城した。



大熊城
〒392-0131 長野県諏訪市湖南大熊
武居城の支城。
茅野氏の居城。
天文11年(1542年)に武田晴信が攻略した。
天文17年(1548年)頃に破却されている。



有賀城
〒392-0016 長野県諏訪市豊田有賀
天狗山城ともいう。
有賀氏の居城。
承久年間(1219〜1222年)に有賀次郎が築城。
天文11年(1542年)に高遠頼継が挙兵したときには武田氏に味方したが、
天文15年(1546年)に有賀泰時は木曾義昌に通じて武田氏に滅ぼされ、
原虎胤が城主となった。

天文18年(1549年)には茅野靭負尉(千野靭負尉)が城主となった。

慶長6年(1601年)に諏訪頼水が高島の領主となると、
茅野房清(千野丹波守房清)が城主となった。

[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 14時23分46秒 ) パスワード

やっと出ました!

ヒバリさんの本家さんの服部家。
なんと武田勝頼の祖母の家が服部!


ということは   蘆田信蕃の仕えていた服部氏はヒバリさんの本家さんにも関係?

http://koskan.nobody.jp/sengokusi_shinano.html
下の方です。


麻績城
〒399-7701 長野県東筑摩郡麻績村麻
服部氏の居城。

麻績服部氏の娘が諏訪頼重に嫁いでおり、
後にその諏訪頼重の娘は武田晴信の側室として武田勝頼を産んでいる。

天文22年(1553年)に武田晴信は青柳城を降伏させ、
青柳頼長を従え
麻績城の服部清延を追い払い青柳氏を移した。



思わぬ話でした。

わたくし達も諏訪家と絡み武田信玄とも絡んじゃう?
ヲイヲイ
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 14時24分34秒 ) パスワード

矢倉城
〒399-7701 長野県東筑摩郡麻績村麻矢倉

服部氏の居城。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 14時27分40秒 ) パスワード

全然関係無いけど   上杉家に仕えた直江兼続の実家じゃないですか?



白駒城
〒399-8605 長野県北安曇郡池田町陸郷
物見城ともいう。

鎌倉時代に仁科義重家臣の樋口兼時が居城とした。
後に袖上上野介が居城とした。
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 14時29分59秒 ) パスワード

関係無いけど、ちょっとだけ関係するからアップ



駒沢城
〒398-0002 長野県大町市大町
大沢寺城、大澤寺城ともいう。

南北朝時代に宗良親王に従った一條氏の居館。
一條正信らの墓がある。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 14時32分14秒 ) パスワード

松島城です!



松島城
〒399-4601 長野県上伊那郡箕輪町中箕輪松島

松島信久(松島豊前守)、松島越前守の居城。

福与城の藤沢氏に属していたが武田氏に降った。


松島信久(松島豊前守)は弘治2年(1556年)7月に武田晴信が川中島で合戦中に謀反を起こす。
その後武田晴信に捕らえられ処刑された。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 14時34分17秒 ) パスワード

松島家関連でアップ



荒城
〒399-4602 長野県上伊那郡箕輪町東箕輪長岡
福与城の出城。



福与城
〒399-4604 長野県上伊那郡箕輪町福与
箕輪城、鎌倉城ともいう。

藤沢氏が築城。
茅野光親(千野光親)の子茅野親貞(千野親貞)が藤沢に住み藤沢氏を称した。



木下城
〒399-4601 長野県上伊那郡箕輪町中箕輪木下
箕輪城ともいう。
木下惣蔵(木下総蔵)の居城。
木下惣蔵(木下総蔵)が下伊那へ移ってからは藤沢頼親の養子藤沢重時が入城した。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 14時39分25秒 ) パスワード

松島信久ととの与党の皆さんの処刑に関する城ということでアップ

    
春日城
〒396-0021 長野県伊那市伊那

伊那部城、伊奈部城、鋳鍋城ともいう。


平家の末流粟田口重吉(粟田口民部)の一族がこの地に移り春日氏(伊那部氏)を称した。

                平家?
                いなべ?
                伊勢国の員弁いなべと関係?



春日重慶(伊那部大和守重慶)は天文3年(11534年)に300貫文の領地と10騎の将として在城した。

天竜川の段丘と谷を利用して築城された。

春日重慶を嗣いだ春日重成(春日但馬守)には嫡男春日重親(春日左衛門尉)と次男春日重国(春日新左衛門)があり、
春日重国は東春近中殿島区に分家し殿島城を改築。
殿島大和守を名乗った。


                                 ココ

弘治2年(1556年)7月に、武田晴信が川中島で長尾景虎と対戦していたすきに
上伊那南部の地侍たち春日重親(伊那部左衛門尉)、殿島重国(伊那部大和守)、溝口正慶(溝口民部少輔)、黒河内政信(黒河内隼人)、松島信久(松島豊前守)、宮田親房(宮田左近正)、小田切正則(小田切大和守入道)、上穂重清(上穂伊豆守)らが謀反を起こした。

のちに武田晴信によって処された。

天正年間(1573〜1593年)に居城としていた春日昌吉は高遠城で討死した。
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 14時41分43秒 ) パスワード

葛島城 〒399-3803 長野県上伊那郡中川村葛島 片桐久信の居城。のちに片桐信正らは大島城攻防戦で討死した。


船山城 〒399-3802 長野県上伊那郡中川村片桐 箕輪上ノ平城主藤沢氏の分家片桐氏の居城。武田軍が攻略した。のちに子孫は徳川氏に仕えた。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時05分04秒 ) パスワード

藤沢城 〒396-0301 長野県伊那市高遠町藤澤 藤澤城ともいう。

藤沢茅野氏が築城。のちに保科正俊が居城とした。武田氏に属したが、高遠城攻防戦で高遠城が落城後は徳川氏に仕えた。


大田切城 〒399-4301 長野県上伊那郡宮田村大田切

平安末期に平氏に仕えた菅野友則の居城。治承4年(1180年)に源氏の武田信義らの侵攻に戦わずして自害したという。


桃井城 〒399-3302 長野県下伊那郡松川町生田 桃井氏の居城。

                    南朝方の桃井氏?



                宗良親王の大河原の屋敷の件

駿木城 〒399-3501 長野県下伊那郡大鹿村鹿塩

南北朝時代に宗良親王を迎えた香坂高宗は大河原に居城を置き、駿木城を砦とした。


飯島城 〒399-3704 長野県上伊那郡飯島町本郷

寿永元年(1182年)に飯島氏が築城。飯島氏は大塔合戦や高遠城攻防戦で戦っている。
子孫が徳川家臣井伊直政に従った。




北山城 〒399-3705 長野県上伊那郡飯島町七久保 船山城の属城。

千人塚が近くにあり、織田信長軍の進攻戦に多くの戦死者が葬られている。



葛島城 〒399-3803 長野県上伊那郡中川村葛島
片桐久信の居城。のちに片桐信正らは大島城攻防戦で討死した。



船山城 〒399-3802 長野県上伊那郡中川村片桐

箕輪上ノ平城主藤沢氏の分家片桐氏の居城。武田軍が攻略した。
のちに子孫は徳川氏に仕えた。



大草城 〒399-3801 長野県上伊那郡中川村大草  
                          大草?

[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時46分11秒 ) パスワード

武田勝頼の母  と  祖母
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%BE%A1%E6%96%99%E4%BA%BA

諏訪御料人



諏訪御料人(すわごりょうにん、享禄3年(1530年)?[1] - 弘治元年11月6日(1555年12月18日))は、武田晴信(信玄)の側室で武田勝頼の母。


諏訪頼重と側室の小見(麻績)氏の娘。諏訪御「寮」人とも表記される。異母弟には、頼重の後室の禰々の産んだ寅王がいる。



      つまりヒバリさんのホンケさんは麻績服部または小見または服部とも書かれるのですか。
       へえ〜


早くに死去した諏訪御料人に比べ、その母の小見氏は長生きしたようである。

天文11年(1542年)に、夫の頼重が切腹し、諏訪惣領家が滅亡した後は、同じ諏訪氏の一族の禰津元直の元に、娘と共に身柄を預けられていたという説がある。

禰津元直の息子の禰津神平は、武田信虎の娘婿でもあり、武田氏と諏訪氏双方と関わりが深かったため、禰津元直の元に小見氏と諏訪御料人は預けられたと考えられている。その後、何年かは不明だが、娘が信玄に嫁いだ後、小見氏は引き続き、禰津元直の元に身を寄せていたと思われる。

永禄8年(1565年)の3月21日に、小見氏が自身の死後の冥福を弔う逆修の仏事を行なった記録があり、当時、高遠城主になっていた孫の武田勝頼に引き取られ、御大方様(祖母)と呼ばれ、共に高遠城で暮らしていたらしい。また、小見氏が天正6年(1578年)に、大工の池上清左衛門がよく奉公してくれたため、勝頼の側近小原継忠・跡部勝忠に依頼し、彼に五貫文の所領を与えてくれるように頼み、それを実現させたという、彼女直筆の手紙も残っている。

その後は、葬儀の記録もなく、天正10年(1582年)の3月3日、勝頼達と新府城から脱出した後、3月11日に切腹した勝頼一行の中に名前が見られないため、逃げている途中に彼らとはぐれてしまったのではないかと考えられている。

その後、古川寺に逃げたが、無人であったために森元家に匿われた。同地にて死去した。

長野県長野市大岡地区天宗寺や同県朝日村古川寺に墓所がある。

[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時51分33秒 ) パスワード

そうすると武田の家臣だった母衣衆の服部さん=川越の服部さん=の家はヒバリさんの本家の服部家と一族?


川越の服部さんの家の家紋は
源氏車に並び矢でした。
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月23日 15時55分47秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A6%8B%E6%B0%8F#.E6.BA.90.E5.A7.93.E9.BA.BB.E7.B8.BE.E6.B0.8F


小見氏



小見、麻績(おみ)氏は、日本の氏族の一つ。

平姓小見氏[編集]

下総国香取郡小見郷(現・千葉県香取市小見)発祥の小見(小海)氏は房総平氏の氏族で、以下の流れがある。
匝瑳党小見氏と呼ばれる上総氏の流れ
千葉常胤の弟胤隆の流れ
椎名胤光の子胤澄の流れ
東胤頼の子木内胤朝の孫胤直の流れ

鎌倉時代以降、千葉氏のもとで歴史に名を残した。

源姓麻績氏[編集]

麻績(小見)氏は、信濃国筑摩郡麻績郷(現・長野県東筑摩郡麻績村)の豪族。その始まりは鎌倉時代に遡り、小笠原長親が麻績の地頭となり麻績氏を称した。即ち小笠原氏の庶流であり、阿波小笠原氏や石見小笠原氏と同祖である。

このことは「中興武家系図」に、
麻績、清和、本國信濃、小笠原阿波守長房の男、四郎長親これを称す。
とあることからも伺える。

一族の詳しい動向や系図は不明だが、諏訪頼重の側室で武田勝頼の祖母にあたる女性は小笠原の家臣 小見(麻績)氏の娘とされており、麻績氏の一族と伝わる青柳氏の青柳清長(麻績城に入り麻績清長と改名)が武田信玄の下(軍役は10騎と伝えられている)で活動している。

生島足島神社に残された武田信玄配下多数の起請文の中に麻績清永の物は2通あって異彩を放っている。前日付の決まりきった内容と異なる翌日の再提出文は国侍同士で仲良くしないこと。特に互いに元村上氏の配下であって領地を接している屋代氏や室賀氏、大日方氏とは殊更仲良くしないことを誓わされている。

これらのことから、少なくとも戦国時代までは武家として存続していたようである。

藤原姓小見氏[編集]

小見(麻績)氏は、藤原秀郷を祖とする足利氏の庶流佐野氏の流れをくむ氏族である。戦国時代の末に、佐野秀綱の弟是綱が下野国安蘇郡麻績郷(現・栃木県佐野市小見)を領し小見是綱と名乗ったことが始まり。

また、武蔵国埼玉郡小見邑(現・埼玉県行田市小見)発祥の小見氏とは同族である。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 02時52分58秒 ) パスワード

最近思うこと:


ひょっとすると長上郡の服部家と松島家は「諏訪つながり」でしょうか?


武田勝頼の母方の家なら諏訪家もすごいし
それこそ名家です。
武田信玄もすごいし。

長上郡の「名家」どころじゃないですよ。
日本の「名門中の名門」ですよ。


「名門」なんて表現じゃ足りないですよ。


それに別家の松島家?でも
盛郷の花押のついた書類を持っていた?
なんてフツーの名家じゃないですよ。

こういう話がヨソの家=定松さん=から来たとしてもスゴイし。

     このハナシはコピーを見てから考え直しますが。


信濃もたいしたもんですね。
木曽義仲の樋口今井兄弟の城があった処だし。



なんかもっと頭の中を空っぽにしなくっちゃ。
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 03時06分25秒 ) パスワード

三つ柏さんが  ひょっとしてヒバリさんとご親戚?  と思ったことや
ヒバリさんがきれい・・・派手・・・・派手な美しさだから、信玄がゾッコンになったのかな  と思ったことや


麻績明神   これって服部貞信の呉服明神にも通じるかも知れないし
当然伊勢神宮とは関係があるし
そうすると熱田神宮にも通じて千秋氏とも関係があったかも知れないし


1つ1つがすっごく座りが良いのですよ。


また考え直してみます。
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 04時15分12秒 ) パスワード

ヒバリさんの麻績村から
   北へは直江津や糸魚川へ
   南へは豊橋や名古屋に出ますね。

要衝の地ですよね。
やっぱり伊賀の忍者がらみでしょうね。


諏訪氏にしても信玄にしても謙信にしても
手に入れたかった
協力の欲しかった場所でしょうね。


唸ってしまいましたよ。
[84]丸三柏服部さんからのコメント(2015年04月24日 05時51分48秒 ) パスワード

空の青海のを様

 おとといよりアクセスができなくなり、調べましたらパソコンのゴミがたま
りにたまっており、一掃する作業を行いました。ようくアクセスができるよう
になりました。本日は早朝からパソコンに向かっております。

 いろいろお調べいただき、視界が広がります。麻績服部氏も深いものがあり
ますね・・・。服部半蔵もいろいろな所へ旅したといいますので、ネットワー
クでつながっていたかもしれません。いずれにしても、武田もそうですが、忍
家の諜報力や潜入・攪乱・破壊力というものの力を利用しなければ、他に勝て
なかった・・・情報とすばやい行動が勝負を決するということを、有能な戦国
武将し心得ていた。信玄しかり、徳川家康にあってはその全てを飲み込み、結
集していた。

 大久保長安の八王子1000人同心というのも忍者だったのでしょうか。知
りたいです。長安も忍家にからんでいると思いますが・・・。

 松島氏については、だんだんわかってまいりましたが、インターネットサイ
トで、こんな情報がありました。
 「新田義貞の家臣に松島式部の名前があり、越前で新田義貞が敗死したこと
  により、全国に離散した。」
ということであります。私の能力では、この式部について大した情報は集めら
れませんでした。あを様のお力で、少し解明していただけませんでしょうか。

 昨日、『武鑑』を読んでいたら、加藤光泰に養子に入った一柳光吉は、光泰
に長男が生まれたので、加藤家より出たと書かれていました。こういう場合は
加藤という姓をそのまま継ぐのでしょうか、あるいは復姓するのでしょうか。

 5月の連休に伊那・松島へ行くことが具体化して来ました。責任重大となっ
てきました。松島氏が本当に伊那出身なのかどうか・・・?
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2015年04月24日 06時32分18秒 ) パスワード

三つ柏さん


直って良かったです。
ゴミが溜まってましたか。


やはり空っぽにしないといけませんね。



では向うの  XXXIV  に移りましょう。
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