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 投稿番号:101407 投稿日:2015年01月03日 23時46分52秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について21

コメントの種類 :その他  パスワード

日本の苗字七千傑様、白石様、公忠公の末裔様、そして、こちらのスレッドをご覧頂いている皆様、
明けましておめでとうございます。

本年もどうかよろしくお願い致します(^・^)

新しいスレッドを立ち上げました。

こちらは平川家について20より続きます<(_ _)>
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101403_81.html

実家に帰省しまして、あらたなる情報が次々とわかりました。

次のコメントでご紹介いたします。<(_ _)>
では(^・^)

[1]子孫よりさんからのコメント(2015年01月04日 02時31分01秒 ) パスワード

球磨に帰省して様々なことが解りました。

見出しをつけると
@稲積神社の土地と岡原小学校の移転先について
A岡原霧島神社の神官の系について
B相良村の宮原一族の家々と実家宮原家のご縁について
C旧宮原村「宮原家」「平川家」「椎葉家」「深水家」の家紋について
D人吉藩の石高について
E平川の曾祖父について
F親戚「田丸家」について
G福田のおばについて
H大正時代の平川家の縁戚関係について
I宮原の縁戚関係について

となります。まだまだ、沢山あるのですが、今日はまず、上記の件を。

では・・

@稲積神社の土地と岡原小学校の移転先について

平川家について20-1コメント80でご紹介致しました、府本(後、麓)小学校について、かなり情報が解りました。

平川家について20-1コメント80より
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101398_83.html
明治七年四月元宮原村岡本村併合小学校として創立し、宮原村字外園稲積神社拝殿内に開校す。
坪敷三十七坪。明治十三年四月宮原村字外園に新築し、十八年に改築落成す。・・・略
大正十一年五月校舎移転増築、現校舎之なり。

あさぎり町立岡原小学校
http://es.higo.ed.jp/okaharues/gaiyou/

 学校の沿革

明治7年  4月     府本小学校創立、
             府内稲積神社拝殿に附設草葺平屋37坪
明治13年 4月 1日  外園に移転開校
明治18年 3月 1日  移転開校
明治21年 9月 12日 麓小学校と改称
明治26年 9月 8日  岡原尋常小学校と改称
明治40年 3月     高等科併置 岡原尋常高等小学校と改称
明治41年 3月     高等科廃止
大正 5年 3月     高等科併置
大正10年 9月     別府桧山現在地に移転増築

  ※ 府内稲積神社拝殿に附設
  ※ 外園に移転開校
  ※ 別府桧山現在地に移転

=============================================

稲積神社
稲積神社の御祭神
「天御中主神右五神」
天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)「右五神」別天津神(ことあまつかみ)

球磨郡誌 岡原村神社史 コマ番号299
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

「岡原神社についての記述を読むと、沢山の神社を合祀された事がわかります。
というか・・実家周辺にはものすごく沢山の神社があった事に驚きました。
その中の記述に「外園鎮座菅原神社」とあります。」
と平川家について20-1コメント80では書かせて頂いたのですが、球磨郡誌には

「同村(宮原村)馬場田鎮座 稲積神社」
と記述されています。

まず・・「外園」という場所は・・
私の実家の住所は、昭和20年代まで「岡原村大字宮原字外園」だった事が、実家にあった様々の書類に記されていました。
おそらく、通称「侍村」という場所の一部が「字外園」であったと思います。
さらに・・馬場田鎮座 稲積神社 こちらの「馬場田」という土地は・・
まさしく平川家の所有する土地でした。
先ほどもお伝えしたように、実家には「宮原家」「平川家」の所有する「土地」に関する大正時代からの書類が保管されていました。
その中の書類に平川家の所有地の一つとして
「岡原村宮原馬場田」の記述がありました。
平川家所有の土地である「馬場田」に稲積神社 鎮座ということです。
さらに稲積神社拝殿内に府本小学校が設立されたとなります。

ではあさぎり町立岡原小学校 学校の沿革にもありましたように
大正10年 9月     別府桧山現在地に移転増築

現在の岡原小学校そして廃校となった岡原中学校の建物および、校庭の土地は・・
祖父の実家である「宮原家」の所有地だったそうです。
ビックリしました。
すなわち、平川家の所有地にあった「府本(麓)小学校」は宮原家の所有地であった現在の場所に移転したという事です。

現在の小学校は以前コメントしましたように実家から1.5キロメートル(以前はアバウトに書きましたが、父に確認しました<(_ _)>)ほど先にあります。
実は・・・学校に至るまでの広大な土地(農地)は第二次世界大戦終結時まで、殆どが「宮原家」と「平川家」が所有していた土地であったという事です。
終戦後、国の政策によって、かなりの土地を両家は失ったと書きましたが・・
「宮原家」も「平川家」も古来より沢山の家人(おそらく郷氏の方々)が働いていらっしゃったので、両家は、農地政策前に、数百年に及ぶ、その方々の労に感謝して、土地を家人であった方に譲渡したそうです。
宮原の曾祖父そして平川の曾祖父は、土地だけではなく、その土地に新しく家を建てた上で譲渡した・・という方もいらっしゃったそうです。

全く知らなかった事でした。
初めて、自分の二人の曾祖父がどのような人物だったのか・・あらためて理解する事が出来ました。

A岡原霧島神社の神官の系について
球磨郡誌 岡原村神社史 コマ番号299
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

上記に記されているように岡原神社(岡原霧島神社)には中島霧島神社・大炊霧島神社を始め、先に記述した稲積神社、他、宮原村・岡許村に鎮座されていた沢山の神社様が合祀となりました。

岡原霧島神社は十数年前までは、宮司家が居住されていたのですが、今は「尾方家」の宮司様が、居住はせずに、通ってこられています。

岡原霧島神社に十数年前まで居住されていた宮司家とは・・
「横瀬家」でした。(父・親戚から聞きました)
横瀬家と平川家はとても深い縁で結ばれていました・・
後世においても横瀬家の宮司様の奥さんと平川のおば(祖母の兄嫁)は大親友であったと言う事です。

「横瀬家」。皆様、すでにご存じと思いますが、
良峯依高 子息・・深田盛高 山田遠高 平河師高 横瀬高実
こちらの「横瀬氏」(多良木黒肥地所領)となります。

横瀬氏の系は岡原村にもいらっしゃったという事です。なお且つ、岡原霧島神社の宮司家であったという事です。

B相良村の宮原一族の家々と実家宮原家のご縁について

2日に親戚と色々な場所に出かけました。その際に相良村川辺川沿いの集落に案内されて
「ここは、うちの宮原家と、とても縁の深い地域で、こちらの集落には沢山の宮原家があり、皆、親戚になる。特に橋の麓にある宮原家とは付き合いが戦後しばらくは続いていた。」と説明を受けました。

相良村の川辺川沿い橋の麓の宮原家「宮原ハジメ」という方は、私の祖父と非常に仲が良く、祖父が亡くなった後は、平川の曾祖父を訪ねて、頻繁に私の実家「宮原家」に遊びに来られていたそうです。
相良村の宮原家の方は、私の実家「宮原家」だけではなく祖母の実家「平川家」とも縁深くお付き合いされていたという事でした。
「公忠公の末裔」様は本籍が「相良村」という事でしたが、すなわち、私の実家「宮原家」と「公忠公の末裔」様の御親戚の方々は、「親戚関係」をもって、お付き合いをしていた・・という事ですね\(^o^)/
「宮原一族」にとって岡原村と相良村内にある多数の宮原家が住んでいらっしゃる集落は非常に重要な場所であったのでは?と推測致します<(_ _)>

今晩のコメント最後になりますが・・
C旧宮原村「宮原家」「平川家」「椎葉家」「深水家」の家紋について

仏様にお参りするために、祖母の姉が養女に入った「椎葉家」に行きました。
先祖調査を始めてから、初めて、お参りしたのですが・・
「椎葉家」の家紋は私の実家「宮原家」と同じ「丸に剣片喰」でした\(◎o◎)/!
私は、伯父に
「伯父さん!家紋が家(宮原)と一緒!」と言うと、伯父は
「そうよ!椎葉・宮原・深水・平川は皆”丸に剣片喰”タイ!!」と・・
えええええっ!!平川も??さらに深水も??!!(?_?)・・となり・・
伯父に「椎葉は”平家”宮原は”橘”平川は”良峯”深水は”藤原”の姓だったよね??!!何で、みんな同じ家紋”丸に剣片喰”なの??!!」と聞くと・・
伯父は「姓は関係ない(ー_ー)!!。姓は違っても宮原・平川・椎葉・深水は同族タイ!!(^・^)」と・・??
さらに伯父は・・
「ここの(宮麓の)宮原家・平川家・椎葉家・深水家は堅い絆で結ばれた同族タイ!。同族だけんが(だから)その証として”丸に剣片喰”の同じ家紋になっとるとヨ(^・^)」
とニコニコ優しく笑って言いました。

えええええええええええええええっ!!「姓は違っても同族」「堅い絆で結ばれた同族の証が同じ家紋の”丸に剣片喰”」・・?????
(?_?)(?_?)(?_?)
何だろうこれは・・??

と私は頭が「?」となりながら、帰宅したのですが・・
でも、「堅い絆で結ばれた同族」という言葉はとても好きです。何だか・・「愛」を感じます。

伯父の話を聞いて、ますます、故郷に帰るのが楽しみになりました。

という事で、今晩はここまでとします<(_ _)>(^・^)

明日は、「宇佐神宮」に参拝します。
続きは、次のコメントで明晩になるかもしれません。

では(^・^)



  
[2]子孫よりさんからのコメント(2015年01月04日 23時12分02秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

今日は、宇佐神宮へ初詣に出かけて参りました。
沢山の人がお参りに来られていて、駐車場は満車で、国道は大渋滞でした。
やはり、宇佐神宮様でございます<(_ _)>

では、早速、昨日の続きを・・

D人吉藩の石高について

人吉藩の石高は
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1192239101

少し転記します。

名目上の石高である草高(表高)と、実際に藩内で年貢を決める時に使われた内高(実高)は、『藩制一覧』や『各藩高並租税調帳 (大隈重信関係資料)』によると

●草高(表高) 2万2000石
●内高(実高) 6万3419石3斗3升4合8勺6才

この内高は人吉藩が公式に明治政府へ申告した石高ですが、一方『旧高旧領取調帳』(府藩県三治制時代の領地や石高の状況を調べたもの)によると、人吉藩は肥後国求麻郡一円のほか、日向国臼杵郡の内に4村の飛び地を有しており、これらの石高を足すと

●内高(実高) 6万5351石1斗6升3合3勺7才
内訳:
6万4760石9斗7升7合3勺7才 肥後国求麻郡一円(40村)
107石0斗7升2合 日向国臼杵郡大河内村
224石1斗5升7合 日向国臼杵郡松尾村
91石7斗9升5合 日向国臼杵郡向山村
167石1斗6升2合 日向国臼杵郡下福良村

となります。

中略・・・
5ヶ年平均収納高としては多分2万5090石が正しく、5ヶ年平均の正税2万4585石に、『藩制一覧』に記載漏れの雑税収入が505石あれば、合計で2万5090石ぐらいになります。

==============================================

(・。・)となっているのですが・・・

では、球磨・人吉では、かなりの家が「知っている」事を・・もう時効だと思いますので・・

人吉藩は
●草高(表高) 2万2000石
●内高(実高) 6万3419石3斗3升4合8勺6才
※5ヶ年平均の正税2万4585石に、『藩制一覧』に記載漏れの雑税収入が505石あれば、合計で2万5090石

とありますが・・実際には「12万石」中には「15万石」であったと言われています。
問題は、転記した情報にあった
6万4760石9斗7升7合3勺7才 肥後国求麻郡一円(40村)・・・ここです。

まず、2万5090石・・こちらの部分ですが
人吉城下(人吉盆地)だけの石高と言われています。

じゃあ、残りの球磨郡一円は・・

人吉盆地と球磨盆地は合わせるとちょうどひょうたんのような形をしています。
ひょうたんで言う所の、幅が狭くなったところ、現在で言うと、胸川から少し上がった、錦町寄りの場所に、幕府の公儀隠密などを監視する、監視所が設けられていて、もしもの時は
「ここから先は、山また山で何もありません(ー_ー)!!」と返していたようです。
実際には、そこから先の球磨盆地の方が、人吉盆地に比べて、数倍広く、なお且つ広大な農地・山林を有していたわけです。
同じような監視所は、宮崎県側の各所に設けられていたという事です。
現在もその名残を残す場所が点在しています。

ちなみに、球磨郡盆地内のとくに宮原村・岡許村・深田村・などを称して「隠れ里」と呼んでいたと聞きました。

「隠れ里」。
なるほどな〜と( 一一)
実際に「郷氏」が三分の一を占めるという特殊な体制も関係していたのかもしれませんし、もしかしたら、その特殊な体制ゆえに「人吉藩主」も口出しできない何か?があったのかも?しれません。

「伝説じゃあないの??(ー_ー)!!」と思ったのですが、父も伯父も親戚も皆、同じような事を言うので????となりました。
そして、この話は郡内の士族な間では常識のように、皆、知っていたという事でした・・・

がっ!!しかし・・私は、おそらく幕府には「バレバレ」だったのではないのかな(ー_ー)!!・・・・と思います。
何せ、末期養子の件も、幕府は知っていて知らぬふりをしたようなので・・?
何で、こういう事になるのだろう????

所で、前スレッドで調べた、人吉藩 9代10代11代養子の藩主について、父や、伯父、親戚に話したのですが・・
「( 一一)よ〜う調べたの〜(-。-)y-゜゜゜」と苦笑いをしていました・・(?_?)

ちなみに・・
相良頼之 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%A0%BC%E4%B9%8B
相良 頼之(さがら よりゆき)は、肥後人吉藩の第13代藩主。

(・o・)系譜
子 長福、準之助、於栄、於保(米良則忠室のち宮原健之助室)、池田章政、於英(相良中務室)、頼基、貞四郎

人吉藩の第13代藩主相良頼之の娘「於保」この方は・・
米良則忠室のち宮原健之助室

上記の宮原氏は人吉城下の方だった・・と聞いて参りました(-.-)

(-.-)(-.-)(-.-)(p_-)
まだまだ沢山の事を、我が一族には「事情聴取」?する必要があるようです・・(p_-)

では続けまして・・

E平川の曾祖父について

戦後すぐの「岡原村」村長および議会等の構成についてなのですが・・
実は平川の曾祖父は当時行われた村長選挙に沢山の方々からの意向で出馬する予定だったのですが、ある日、「某氏」が私の実家にいた平川の曾祖父の元を訪れ、「平川さんが出馬すれば当選する事は間違いないです。しかし、どうしても、自分は村長選挙に出馬して当選したい。どうか、出馬を断念して頂けませんか<(_ _)>」と懇願されたそうです・・
平川の曾祖父はその事を受け入れました・・がっ!しかし!!
曾祖父は自分が出馬しない代わりに、それまで、平川家で家人として働いて来られた複数の方々を、助役や村議会議長そのほかの役職に次々と着任させて・・
村長さん以外の村の首脳部をすべて、平川家の元家人の人で固めてしまったそうです。
恐るべし曾じいちゃん\(゜ロ\)(/ロ゜)/
戦後の私の実家「宮原家」には毎晩の如く、球磨郡内の名だたる方々や、中には熊本県の県庁の方などが、平川の曾祖父を訪ねて来られて、焼酎を飲みながら、将来の展望を皆で語り合っていたという事でした・・・
全く関係ないのですが私には先ほどコメントした「隠れ里」という言葉が別の意味に聞こえてしまいました・・

ちなみに・・(ここからが核心でございます・・)
曾祖父は縁側で、ある「人物」と焼酎を飲みながら・・
その方が「家は源氏やった!」と言うと、曾祖父は「家は平家やった!」と何度も繰り返しながら二人で言い合い、最後は笑いながら肩を組んで焼酎を飲んでいたそうです・・
この話を聞いたときに私は「(?_?)なぜ?なぜ?」と思ったのですが・・

平川の家に代々継承されてきた絵巻物の話をあらためて聞いて、少し納得しました。(かなり覚えていた事と違っていました(-.-)すみません<(_ _)>)

まず、以前コメントしていましたように、祖母の実家には、代々当主しか見てはならない絵巻物が沢山継承されてきました。
その中の一つの絵巻物に描かれていたのは・・
大変高貴な着物を着た女性が男の子を抱いて、沢山の侍従を引き連れて、「平河家」に来られた絵だったそうです。
継承では、その「男の子」こそが、宮原村の「平川家」の祖であるという事です。

すなわち、球磨の「平河家」を頼って、何方かが?来られて、その方の系が宮原村の平川家を継いできた・・との事です。
で・・どうもその人物が「平家」に関連する方であったようです。

(+_+)話はしっかりと聞くべきだと痛感しました(@_@;)
私は大変な思い違いをしていたようです<(_ _)>
継承されてきた刀も、ドウダヌキ?だけではなくおそらく守り刀であったのだろう・・という事でした<(_ _)>

だから、平川の曾祖父は、「平河氏」の系でもあり「平家」の系でもあるので「家は平家じゃ!」と言っていたようです・・
「落人伝説は伝説ではない(ー_ー)!!」・・という事なのでしょうか・・???

という事で「平川の曾祖父について」というお話でした<(_ _)>
では(^・^)
[3]子孫よりさんからのコメント(2015年01月05日 08時18分17秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

では、コメントを続けて早速
F親戚「田丸家」について    でございます<(_ _)>

田丸家とは、縁戚関係にあるのですが・・・
球磨の田丸家は、那須大八郎(那須宗久)に繋がる系だという事です。
那須大八郎(那須宗久) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E5%AE%97%E4%B9%85

那須宗久(なす むねひさ)は鎌倉時代初期の武士とされる伝説上の人物。宮崎県椎葉村に伝わる鶴富姫伝説で知られる。通称は大八郎。
弓の名手として有名な那須宗高(与一)の弟とされる。江戸時代中期に編纂された『椎葉山由来記』によると、源頼朝の命を受け、病身の兄・宗高の代理として、宗高の次男とされる宗昌ら手勢を率いて、日向国椎葉へ平氏残党の追討に向かい、元久2年(1205年)向山の平氏残党を討つ。次いで椎葉に進撃するが、平氏残党が農耕に勤しみ、戦意を喪失している様を目の当たりにし、追討を取り止め、幕府には討伐を果たした旨を報告した。宗久はそのまま椎葉に滞在し、屋敷を構え、農耕技術を伝え、平家の守り神である厳島神社を勧請するなどして落人達を慰めた。また、平清盛の末孫とされる鶴富姫を寵愛し、鶴富は妊娠したが、その直後の貞応元年(1222年)に宗久は鎌倉より帰還命令を受けたという。宗久は「やがて安産なし男子出生に於ては我が本国下野の国へ連れ越すべし、女子なる時は其身に遣す」と言って太刀と系図を与え帰国したと伝わる。その後、鶴富は女子を生み、長じて婿を取り、婿が那須下野守を名乗って椎葉を支配したといわれる。戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、宗久と鶴富の子孫とされる。
元久元年(1204年)に平家追討の宣旨が出されているが、その追捕使が那須宗久であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である。

(・o・)
那須大八郎に繋がる「田丸家」の先代当主のおじい様と私の祖父は大親友であり、田丸氏は私の祖父を「師匠」と呼ばれていたそうです。(おそらく、祖父の方が年上だったのかな?)
生前、私の祖父は、田丸家先代のおじい様と「将来、孫の代くらいで、双方の孫どうしで「結婚」となったら良いな〜(^・^)」と話していたそうです。
時は流れ・・・・
私の従弟と偶然知り合い恋愛結婚をした相手の方は、ナント!上記の田丸氏の孫娘でございました\(◎o◎)/!
もうビックリ!!です。すごい!じいちゃん!!
従弟夫婦はこの話を全く知らずに、偶然出会い、恋愛をして結婚した・・
もう、こうなれば、「人の出会いはご縁ですな〜(^・^)」などとは言ってられません(ー_ー)!!ビックリしました。

ちなみに・・・
叔父(父の弟)が養子に入った穐岡(秋岡)家は、伊藤家の先代のおじい様が母方の姓を継いで穐岡(秋岡)となったのですが・・
秋岡家は大分県にあり、御先祖様のお墓参りに叔父や従弟が行った際には、山一面が「秋岡家」のお墓でとても驚いたと言っていました。

では続けます(・_・)
G福田のおばについて   です。
以前、白石様より御親戚の「福田家」のお話が出ていましたが、家の親戚の「福田家」は湯前町にありました。
祖母の叔母にあたる「福田のおばさん」は、戦前湯前町長を務めた「福田氏」の妻でした。(この辺りは、父と叔父では「○代町長」いいや(ー_ー)!!△代町長」ともめていましたが・・とりあえず、「福田町長」だったそうです(-.-))
戦中は夫婦で朝鮮半島に渡り、農園を経営していたという事です。
白石様の御親戚も「福田家」。もしかしたら、家の親戚である「福田家」と何らかの縁戚関係があるのでは?ないでしょうか(^・^)
福田のおばは、夫である福田のおじが亡くなった後は、湯前の家には殆ど戻らず、岡原村の椎葉家にいて、私の実家にも頻繁に来られていたそうです。
子供さんがいなかったので、おそらく寂しかったのかな?と父は言っていましたが、晩年は岡原で過ごしたいという希望からだったとの事でした。

所で・・
祖母の従兄(平川氏)も湯前町長(曾祖父の弟が湯前町の平川家を継ぐ)。福田氏も湯前町長・・・という事でとても「湯前町」が気になり、球磨郡誌をみたのですが・・
球磨郡誌 コマ番号 586
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042262

歴代 戸長・村長・町長
人吉縣(県)時代 平川栄 
「戸長」 加賀氏 田中氏 木村氏 的場氏 永田氏 森田氏 菊地氏
「村長」 菊地氏 的場氏 河野氏 野口氏 岩野氏 林氏
「町長」 平川源市 岩野氏

(-.-)おやっ?? 何だか、ここに名を連ねていらっしゃる方々の中に平安時代から南北朝時代そして室町時代の「平河家」を調査した時にあがった「姓」の方々がいらっしゃいますヨ〜〜〜!!
特に 「河野氏」「野口氏」・・・あんれっ??(-.-)(p_-)
なんだろうこの「モヤッと感」は・・・??モヤモヤしてきました・・

湯前町も、もっと深く、今後は調査したいと思います(p_-)

ではさらに続けます(・_・)

H大正時代の平川家の縁戚関係について  です。

私の実家には先日コメントしたように「宮原家」「平川家」の大正時代以降の様々な書類が保管されていました。
平川の曾祖父は、娘(祖母)や孫たちの事を心配して、晩年は殆ど私の実家「宮原家」で過ごしていたそうです。(亡くなったのも私の実家「宮原家」での事だったという事です)
ですから、色々な書類が残されているのかな??とは思います。

沢山の書類の中に大正3年付けの平川の親戚に関するものがありました。
そこに記載されていた姓の中に「土屋家」「杉本家」「長野家」の記載がありました。
父に確認したのですが、どこの「家」かよく解らない??との事でした。
もしかしたら「岡原村」や「球磨郡」の家ではないかも知れない??でも解らないけど・・・と推測していました。
ただ・・大正3年当時「土屋家」「杉本家」「長野家」とは平川は縁戚関係にあったのは事実です。

所で・・古い書類なのですが、私が今回帰省して見たのはごく一部でして、押し入れの天袋には、まだまだ、膨大な書類が残っているようです。
球磨に戻ったら、今後は書類の確認も行っていきます(-.-)

という事でまずは今朝の「帰省」にて解った事・・・でございました。
では<(_ _)>(^・^)

[4]アキオカさんからのコメント(2015年01月05日 08時51分34秒 ) パスワード

おはようございます。Aです。田丸の祖父ではなく祖母が那須大八郎の子孫です。
[5]子孫よりさんからのコメント(2015年01月05日 09時23分56秒 ) パスワード

もしかしたら・・J君??

ぎゃおっ(@_@;)\(◎o◎)/!

びっくりしました。よくこのスレッドを見つけましたね!
と言うか・・・

ごめんなさい<(_ _)>お話を載せました<(_ _)>
これも、ばあちゃんの先祖、すなわち平川の系を調べる為です。縁戚関係に糸口が無いか調査しています(._.)
許して下さい<m(__)m>

那須大八郎の子孫は田丸のおばあ様の系で「子孫」という事ですね。
(しっかりと、理解していませんでしたごめんなさい(._.))

あの・・・ついに私のスレッドが愛する従弟に「発見」されましたので・・

今後はJ君も、よろしければご協力をよろしくお願いいたします<(_ _)>

では<(_ _)>(^・^)
[6]アキオカさんからのコメント(2015年01月05日 09時57分47秒 ) パスワード

Jの嫁です。去年、北岳さんに行った頃、気になって調べてたら、たまたま見つけて時折拝見してました。私には難し過ぎてほとんど理解できてないですが…
[7]子孫よりさんからのコメント(2015年01月05日 10時40分10秒 ) パスワード

\(◎o◎)/!Aちゃん!!
ビックリしました\(◎o◎)/!

おじい様やおばあ様、J君との出会いを書いてしまって本当にごめんなさい。
二人から話を聞いていた時に、いつもの「感」で、これはおそらく近年の縁戚関係だけではないな・・と感じてしまって・・・
宮原のじいちゃんをも含む、すごい縁ですから・・

それに、Aちゃんの事を、亡くなったばあちゃんが話す時に、「まるで、本当の孫のように可愛いと」言っていたので、先日、話を聞いていた時に、ばあちゃんの言葉を思い出して、おそらく、縁が深いのだろうな〜と思いました。
「糸辺」の姓との繋がりも偶然とは思えません。

正月、宮原の父には言ったのですが、私は、Aちゃんが妹のように可愛いです。
初めて会った時には、何故かずっと前から知っていたような気持ちになりました。
Aちゃんは迷惑かもしれませんが、今後とも、よろしくお願い致します。(^・^)
[8]アキオカさんからのコメント(2015年01月05日 12時02分04秒 ) パスワード

全然迷惑とは思ってませんよ。色々な事、昔からのご縁などを知ることができ感謝してます。こちらこそお願いします。
[9]子孫よりさんからのコメント(2015年01月05日 14時49分40秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

Aちゃん、本当にありがとうございます。
今後も、Aちゃんからの言葉を胸に刻んで、しっかりと調査していきますね(^・^)
それから、私の尊敬する桃井かおりさんの言葉では「30過ぎたら同い年・・」ですが、今後は私の事を「ねえちゃん」と呼んでください(^・^)

所で・・・
Aちゃんからの初めてのコメントもあり、何だか正月そうそう、「秋岡氏」がものすご〜く気になりまして・・(いつもの感がザワザワしています)

大分県(豊後)を念頭に入れ、日本の苗字七千傑様の姓氏類別大観で検索させて頂いたのですが・・・

ありました\(◎o◎)/!「秋岡氏」!!
豊後大神氏 大神惟基の末裔「阿南氏/稙田氏」の姓氏類別大観の中に「秋岡氏」が見えます!!

ぎゃあああああ\(◎o◎)/!とっ言う事は!!
「秋岡氏」は人吉の青井阿蘇神社そして旧岡原村内 旧岡許村に鎮座されていた大炊霧島神社さらに旧宮原村の中島霧島神社を創建した「大神惟基」の末裔という事になります!!
大神惟基 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E6%83%9F%E5%9F%BA

Aちゃんには解るよね!!「大蛇伝説」がありますよ!!

遡ると「秋岡氏」は
素戔男尊(スサノオノミコト) → 大国主命 → 三輪氏 → 大神氏 → 豊後大神氏(大神惟基)→ 稙田氏 → 秋岡氏
となるのですね!!

そうだったのか〜!!
という事は「緒方氏」とは「同族」となる・・\(◎o◎)/!

やはり、きっと「全ては繋がっている」と思います(・_・)

では<(_ _)>(^・^)
[10]子孫よりさんからのコメント(2015年01月06日 09時41分35秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

まず、初めに・・

昨年末に「先祖の業」という話を書きましたが・・
今回の帰省で初めてこの事を父に話しました。ずっと心の中を覆っていた厚い重い黒い雲のようなものでした。
父は、私の話を聞いて
「あの当時は、お父さんとお母さんが離婚して、弟も病気が判明して・・と、一族の中では今まで無かったような事が次々と起こってしまって、皆、何かに理由をつけたかっただけだと思うよ。先祖さまのせいでも何でもない。そんな事を、お前が思っていたら、先祖さまが悲しく思われるよ」
「そして・・その事を最初に言い出したのは、お前のお母さんだった。お母さんも苦しかったのだと思うよ」
と言いました。
そして「お前のお母さんとは別れてしまったけれど、お父さんは、お前を産んでくれたお母さんに、心から感謝している。球磨にお前が帰ってくるのは本当に嬉しいが、お母さんが寂しい思いをする事を考えると、申し訳なくも思う。お母さんにはずっと幸せになってほしいと思っていた」
と言っていました。

「いつも先祖に感謝しています」と言いながら、私の心には、本当は重たい黒い影があったのだと思います。
今回の帰省で、父に、子供の頃からずっと心に残っていた影の部分を話して本当に良かったと思います。

これからは、素直な気持ちで先祖調査にのぞむ事が出来るようになりました。

皆様、これからも、どうぞよろしくお願い致します。

================================================
では、早速ですが・・・

先日のコメントで御紹介した平川家に伝わってきた絵巻についてです。
私と父の発想?が全く違う事に驚きました。

私は「その絵巻に描かれていた方は何方だろう?」と言ったのですが・・
父は「それは解らん(ー_ー)!!でも、お父さんが知りたいのは、何故、平家の方々が球磨の地に来られたのかだっ!球磨に沢山の方々の名跡が残っているのは何故かだっ!何故?平河家を頼ったかだっ!それは、きっと、もっともっと遡った所を調べないと解らないと思うよ」
と言っていました。

そうか・・・(・o・)・・

父は、目の前の事実を調べるよりも、その”根源となる事”を理解していなければ何も解らないという考えでした。

だって・・・
私が木上村の平等寺の話、そして東寺長者であった永厳上人のお話をしても父の言葉は・・
「何故?そのような方が球磨の木上に来られたのか?球磨が選ばれた理由は?」
と聞いてきました。
私は、何も答えられませんでした・・(._.)

全ての繋がりは・・「遡った事実を知らなければ解らない」と痛感しました。

さっ!!勉強開始でございます。
あっ、白石様。パソコンのウィルスの脅威?はもう大丈夫のようです。遅くなりましたが、頂いていたメールへの返信をしています。
ご覧になってください(^・^)

では<(_ _)>(^・^)
[11]子孫よりさんからのコメント(2015年01月06日 14時12分02秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

実家にある兜についてです。

帰省して、確認したのですが、兜には3つの家紋が付いていました。

まず、中央には”丸に剣片喰”の紋。
”丸に剣片喰”の紋は、兜の何というか、広がった裾?みたいな部分より少し上に周囲を取り囲むように数か所ついています。

さらに、頭の下あたりの周囲には”違い鷹の羽”紋とそして数字の「一」の紋がぐるりと兜を囲むように描かれていました。

”違い鷹の羽”は去年から気が付いていたのですが、数字の「一」の紋には気がついていませんでした。
さらに中央に飾りのようについているのは、色々形を確認したのですが「十拳剣」といわれる剣にとてもよく似ています。

しかし数字の「一」の紋はいったい何を意味しているのだろう?と思ったのですが、こちらのサイトに何かヒントになるような記述がありました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1069386015

転記いたします(..)

一文字紋は、かたきなし(無敵)という周易の意味から、武士の間で尚武的に使用されはじめられた家紋で、古くからの使用家は弓矢の名手で知られる那須与一ら那須氏や、土佐山内氏などの首藤氏の氏族が知られています。
とくに、一文字紋を多く使用することで知られる首藤氏の氏族は、先祖の藤原資通の官位が主馬首(しゅめのかみ)であったことから首藤を称するようになったといわれています(主馬首とは、東宮の馬について乗馬や馬具を共進する部署(主馬署)の長官を著す官位、つまり馬関係の管理職です)。那須氏も首藤氏だとも言われています。

(゜-゜)なるほど・・・「一文字紋」には官位が主馬首(しゅめのかみ)主馬首とは、東宮の馬について乗馬や馬具を共進する部署(主馬署)の長官を著す官位、つまり馬関係の管理職。

先祖は「馬」に関する役職を継承していた・・ということでしたから
やはり祖父、いえ、「じいちゃんの兜」には、装飾にも意味があった事がしっかりと理解出来ました。(._.)

でも・・・「那須氏」・・偶然かな??
ただ、祖父の「父違いの姉」が那須家に嫁いでいるのです・・?

という事で祖父の兜についてでした。では(._.)(^・^)
[12]子孫よりさんからのコメント(2015年01月06日 14時27分19秒 ) パスワード

追記

祖父の「父違いの姉」と書きましたが、私には二人の曾祖母がいました。
状況は・・う〜ん・・時代が平安時代から江戸時代くらいまでは、記述でも見かけるような・・それが大正時代にも・・という事でしょうか・・

でも、私は、会ったことはもちろんありませんが、二人の曾祖母が大好きです。
色々、話を聞いて、二人の曾祖母をとても尊敬しました。

祖父を自分が産んだ子供のように愛おしみ、大事に育てて下さった「宮原家」の曾祖母。
そして、祖父を産んだ、もう一軒の「宮原家」曾祖母。

二人は私にとって、とてもとても、大事な心から尊敬する曾祖母です(^・^)

では(^・^)
[13]白石さんからのコメント(2015年01月06日 21時01分28秒 ) パスワード

あけましておめでとうございます。
こちらのお正月は白いお正月でした。
早速ですが
子孫様 賑やかになっていますね。
那須氏
兄弟が多く他の兄弟はみな 平家についたのに 与一一人源氏についた。屋島のとき 小舟にたてた扇を射抜いた与一は 義経の旗下にいた。
同級生には那須さんもいました。顔が小さく背が高い人でした。
那須与一は武田系図についており 3人与一のことなどがあって この人かどうか私にはわかりませんが
うちの佐田に婿養子に入ってついでくれた人は 武田の血をひいています。佐田の血も入っていて あとをついでいるようです。広島から来ています。

そして
今年年賀状を見ていて思いだしましたが 
柳瀬の宮原さん
上村という同級生が結婚した人です。
旧姓で覚えていたので 失念していましたが・・・

五木の方の緒方さんとうちの高岡と親戚か?のコメントが少し前にありましたが
うちの高岡とつながっているかどうか わかりません。
ただ 五木と四浦はもとはひとつ 阿蘇氏支配の頃二つにわけられた
といい
四浦の村としての成立は 1600年位 と されています。が 実は 縄文  平家城跡 相良外城 というように 遺構が重なっているようだ として 奥に住んでいた人たちが次第に 川にいそっておりてきたのだろう と してあります。
 そして
前にテレビでうつされましたが 球磨拳をしている「高岡さん」がありました。
どこかで つながっているかもしれませんね。
[14]子孫よりさんからのコメント(2015年01月06日 22時31分47秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^・^)

白石様、明けましておめでとうございます(^・^)
今年もよろしくお願いいたします<(_ _)>(^・^)

ご教示頂いた
「那須氏
兄弟が多く他の兄弟はみな 平家についたのに 与一一人源氏についた。屋島のとき 小舟にたてた扇を射抜いた与一は 義経の旗下にいた。」

こちらのお話ですが、
「他の兄弟はみな 平家についたのに 与一一人源氏についた」
知りませんでした(._.)全くの勉強不足です。椎葉村の伝説のイメージが強くて、那須氏=源氏の武将と思い込んでいました。
ご教示頂きありがとうございます。

「小舟にたてた扇を射抜いた与一は 義経の旗下にいた」
義経の旗下にいた・・・うん(゜-゜)?という事は・・私の先祖と那須与一は知り合い?であったという事ですね・・・これまた、理解していませんでした・・(._.)

そうか・・という事は「那須氏」と先祖は縁が無かったわけではナイという事ですね・・・・

五木村と四浦。私も去年初めて伺いましたが、確かに近かったです!
五木の方が四浦に川辺川沿いに降りてこられた・・

私も川辺川沿いを今年もドライブしましたが、水がとても綺麗で、心が洗われるような気持ちになりました(^・^)

緒方氏に関してなのですが・・
椎葉のおじと尾方から嫁いでこられたおばと久しぶりに話をする事が出来ました。
私は、子供だったので、やはり何も知らなかったのだな〜と・・

緒方・尾方・椎葉の姻戚関係は、かなり濃厚?でした。

緒方家から尾方家に嫁がれた方の子供達「4人」の方が平川家と椎葉家にこられていました。
尾方家「娘」・・・→ 平川家長男の嫁

さらに尾方家と椎葉家との姻戚関係は濃厚?です。
まず、二男の方が、子供のいなかった椎葉家に養子にはいりました。所が、子の方が亡くなった為に、椎葉家には平川家の長女が養女に入りました。
そして、椎葉家に養女に入った平川家長女(私の祖母の姉)の婿養子に、尾方家の3男の方が来られたのです。
すなわち、尾方家兄弟の二男(養子)三男(婿養子)という訳です。
さらに続きます(゜-゜)
尾方家の跡取りとなった長男の娘が、椎葉のおじ(祖母の甥になります)の嫁となります。

整理すると・・
母を緒方氏の娘とする、「尾方家」の兄妹4人

長男の娘(椎葉家の跡取りであるおじの嫁)
二男   椎葉家に養子
三男   椎葉家に婿養子
長女   平川家長男の嫁

しっかりと聞いたのは初めてでしたから、本当にビックリしました。
さらに祖母の兄妹5人の従兄となる深水のおじには緒方家から嫁ぐ・・
という事です。めちゃくちゃ濃厚な姻戚関係だったという事です。

それから・・・
以前、白石様に「富田家」のお話を伺いましたが・・・
私、今回、帰省して初めて知ったのですが
宮原家と久保田(窪田?)家と富田家はグルリと回るような?姻戚関係でした。
富田家→久保田家→宮原家→富田家・・・という具合です。
さらに
平川家→宮原家
宮原家→平川家  ・・・という姻戚関係も。

やはり、きっとどの姻戚関係も遡ると繋がるのでしょう・・

さあ、日々勉強でございます(^・^)

では<(_ _)>
[15]白石さんからのコメント(2015年01月06日 23時19分42秒 ) パスワード

私 前に 高岡の嫁方に五藤がいて つきあっているのは 後藤だ と 書きました。
高岡から平川に婿養子に入っているのは 母が 五藤氏です。
私が 高岡女子と書いている人は 母が 山井氏です。2代にわたって山井から嫁がきています。
高岡女子の父の代で 平川に婿養子に入った人と異母兄弟なわけです。

五藤なのに後藤? と 思っていました。
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-tou-goto.html
後藤系図を見てください。
後藤氏は藤原利仁流。その先は大職冠公に出ず。 後藤又兵衛は大坂の陣の時華々しく討死したるといふ。
と いう系図で
48 後藤壱岐守 基顕
養子 實雲・★ 佐々木隠岐守泰清五男と宇田源氏で 高岡系図から出る人が養子に入り  この系は子孫を 書いてないけど 枝分かれした系で
60 後藤左京  美作住人後仕 山内一豊侯 
福基(  -  )  慶長5年(1600) 土佐御入領 
         翌年母衣役被 仰付禄500石

山内家に仕え
※五藤家さかに嫁の人がいる。
子孫に橋本から養子がはいったりして 後藤象二郎は伯爵。
子孫は岩崎弥之助室もいる。

岩崎は うちの集落で市房神宮の御鏡を預かっている家があるところと 同じ集落の家の女子(同級生・恒松)が結婚した人の姓が 岩崎。
 あさぎり町の方で 文書を持つ恒松家があるがつながっているのではないかと思います 。

岩崎はネットでは武田氏流で 岩崎家(いわさきけ)は、三菱財閥の創業者一族。創始者・岩崎弥太郎とその弟で2代目 当主の岩崎弥之助の2家系からなる。

うちの高岡の系が 近世でこういう家と直結してるわけではないが
昔にさかのぼったら 枝分かれの系で いずれは一つになるのではないか?と思います。

五藤(橘氏にみえる)が嫁方なのに 後藤とつきあっているのは? というところからの話でした。 
[16]子孫よりさんからのコメント(2015年01月06日 23時20分35秒 ) パスワード

追記

忘れていました!!

実家の前と平川家の前を流れている井口川。祖母が「うちの川」と呼んでいた井口川ですが、もう一つ、通称があります。

結構、年配の方は、井口川のことを「鶴の川」と呼んでいます。
私が子供のころは、祖母や椎葉のばあちゃん、平川のおじなどは「鶴ん川(つるんかわ)」と球磨弁で呼んでいました。

岡原村誌が家にあったので、読んでいたところ「井口川」通称「鶴の川」とありました。

ううううん???鶴でもいたのかな??「鶴の川」・・??

という事で、完全に忘れていた故郷の川の通称でございました(._.)
[17]白石さんからのコメント(2015年01月07日 22時33分47秒 ) パスワード

子孫様 こんばんは
メールは入っていませんでした。
というか 前に アウトルックが入っているメールごと 消えてしまい 新しく入れたと書きました。業者のメルマガとか プランターの花とかだけだったので構わないのですが
こちらから 改めて私から送りますので それに 返していただけないでしょうか?
それから
過去に 平賀が話題になったことがありますが 平賀源内が白石と書いたことがあります、
ところが
腹違いの姉の母が 高岡(木原)と 書いてあるのを 見つけました。
屋根裏で 父のアルバムにはりつけてあった 一族でうつしているらしい写真をはがして 持ってきていたですが どこの家なのかは わかりません。
写真の後ろに 高岡(木原)○○○ と 書いてありました。

木原は 7000傑様サイトで 坂上子孫 大蔵子孫 に あります。
又 白石の祖父から父へのハガキで 上村堀之角木原 と 書いてありました。

木原も 平賀でした。
平江の家があったところが 木原村とか 下益城郡守富木原とか書かれており そこにいる福田という家から 私にわかる範囲の平江の始祖に 嫁に来ております。
つまり 白石に福田から養子に入る前 山口を介して白石に嫁に来ている人とかの前に 平江に福田が関係しているわけです。
姉の娘 私の戸籍上のめいの写真を送ります。メール見てください。
もう二人の子持ちのおばさんになっています。
[18]子孫よりさんからのコメント(2015年01月07日 23時17分14秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^・^)

白石様、コメントありがとうございます(^・^)

おそらく、ヤフーメールの方に入っているのでは??
メールを送って頂ければ、そちらに再送します。
(実は、数日前から風邪をひいていて、今日は、最悪の体調でして・・病院で薬をもらったので、ちょっとポワ〜ッとしています。今日は、早めに寝ようと思いますので、メールは明日になるかもです。すみません(._.))

所でお話の中にあった「上村堀之角木原」との記述についてですが、
調べたのですが、現在、あさぎり町になった旧球磨郡上村に堀ノ角という地名がありましたよ(^・^)
http://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=43&city=1435091&id=153399&merge=2

今は上乙の中にあるようです
上乙(堀ノ角、今井、柳別府、神殿原、平和)

「上村堀之角木原」・・こちらの上村堀之角は、旧球磨郡上村堀ノ角という地名ではありませんでしょうか?

さらに・・あさぎり町に合併する前の旧住所にも無かった、「小字」が昭和20年代〜30年代前半?くらいまで残っていたようですから、もしかしたら「木原」は小字?という可能性はいかがでしょうか?
例えば、私の実家は旧旧?住所では小字が「外園」ですし、近くの平川の土地は小字は「馬場田」でした・・・

「下益城郡守富木原」「上村堀之角木原」
白石様のご先祖様に関わる系の一つのカギは「木原」なのかな・・?とふと・・(勝手にすみません)

「木原」については、帰省した際に誰にもきいていませんでした・・すみません。

それから・・・お詫びがあります。
うちの親戚であった「福田」の叔母は・・
祖母の母の妹。すなわち「深水家」の娘でございました。深水家から湯前町の「福田家」へ養女・・という事です。
すみません、すぐに勘違いをするので、父に再確認を致しました(._.)
湯前は深水家が所領していたので、おそらく繋がっているのだと思います(._.)

ではメールお待ちします(^・^)
[19]白石さんからのコメント(2015年01月08日 06時46分13秒 ) パスワード

おはようございます。
娘が明日から帰省してくるので興奮して起きてしまいました。
深水
同級生(故人・結婚した家で 38度の熱があるのに 寝かせてももらえず 働かされてそれが原因で 悪化して死んだのだと聞きました。昔はそんなだったのです。)に深水さん(旧姓)がおりました。

川筋の上流 五木との間に分校があり そちらから 来ていました。上流の方も深水という集落です。

川下の深水集落は 昔は皇室領。良峯師高領は鎌倉領となります。
深水にも白石が 結構家数多くあったのですが うちは そことは 関係ないようです。

前にも書きましたが 祖父は本家の跡取りだったのに ベビーの時に親を亡くし 親戚の叔父夫婦か?に育てられ 自分は大きくなって 家を出て 自力で家土地を買い 橘の家紋に二重丸をつけたと お寺様から兄が聞いています。お寺様の天井に家紋が入っています。

その家が 農高からまっすぐ来た道と 免田小学校に行く道と交差するところにあり 家の前がバス停で バス停はそこは 魚など売っているおみせでもありました。

その店のすぐ裏に思えるところにも お寺があったと思っています。水をくみながら 「あそこは何?」と聞くと 「お寺」と教えてもらったので・・・

白石の祖母に溝口という家のおばあさんが親しくしていて のち 五木の方に一家ぐるみで移住して洪水で死に絶えた と 聞いています。親戚かどうかわかりません。

私の知っている同級生の溝口は 子供の結婚式に 遠い親戚として高岡 永田(どちらも同級生)を呼んだそうです。

この溝口は 私が子供の頃 まだ 日本刀を持っている と 大人から聞いたことがあります。
川向の溝口は お茶をつくっており その家は 熊本城でつかわれた柱をもってきているそうです。そこのいとこの人が 大きくお茶の店をやって成功しているようですよ。

子孫様の方の深水家は 水俣からはいってこられている と 前のコメントにあったように思っていますが 私の記憶違いでしょうか?

そして
深水は深見とかくとき 渤海の読み替えで 鹿児島に関係しているようですが 才園古墳の北魏などにも関係していくかもしれませんね。

メール 写真つきで 送りました。
 
[20]子孫よりさんからのコメント(2015年01月08日 09時00分58秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

風邪のほうは・・咳がひどくて・・(._.)
咳は体力を消耗すると聞きましたので、この10カ月で拡大した、腹筋の上の”オイル?”に効果があるかもと前向き?に考えていたら・・娘に怒られました(トホ(._.))

所で・・
祖母の系を遡って調べようと(^O^)/・・先に進めるつもりだったのですが、どうも「宮原」の先祖が「ま〜だま〜だあるバイ!」と言っているようで・・
またまた見つけてしまいました(゜-゜)

題して「橘公綱を祖とする肥後”藤崎氏”系図」について・・・でございます。

先祖 橘公綱。私はこの方をあまり理解していないな〜と思い、調べてみよう(^O^)/と検索していたところ・・
名字の由来について。 藤崎と言う名字の由来 という情報が登場しました
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1045518750

読み進めていくと・・

「肥後国飽田郡藤崎庄を発祥の地とする橘姓の藤崎氏。公綱が藤崎氏を称する。この一族は薩摩・大隅にもあり。(「さつまの姓氏」という本で、この藤崎氏を紀姓としているようですが、誤り)
肥前龍造寺家臣の藤崎氏もこの流れか?」
との記述が・・

(゜-゜)橘姓の藤崎氏。公綱が藤崎氏を称する。・・・おんやっ?何だこれは?
と・・さっそく橘姓の藤崎氏を調べると・・

鹿児島県の地名 より
藤崎氏は公頼の祖父公綱の代に「始テ于隅州二下向シテ、桜島場之村之内二住居ス、俗二村。藤崎氏系図

とありました・・

ますます気になり調べると
鹿大史學 - 第 31〜41 号 - 35 ページ
兄弟分派多、嫡々相続而系焉、然而熟考之、下野守公盛者長元八年誕生而行頓五十五歳之子也、長門守公長者康 ... 長巻のものだが、前半は省略し問題の系図は「橘姓藤崎氏系図」として「人王三十一と相違なく子孫に秘蔵するようと述べている。
※長門守公長・・(゜-゜)やはり!そうです!!こちらは我が「宮原一族」の先祖でもある橘公長!!
さらに・・
※「橘姓藤崎氏系図」として「人王三十一と相違なく子孫に秘蔵するようと述べている。・・とは「秘蔵」・・ってワオ(゜-゜)

最初に転記した記述には「公頼の祖父公綱」とありました。
という事は・・橘公綱の子供は「公民」「公能」そして最初に宮原を名乗った「公資」。
法名宗栄という方は「公民」「公能」「公資」のいずれか?・・法名宗栄の子供が藤崎「公頼」という事になります。
やった\(^o^)/藤崎さんは「同族」だ〜!!

そして、さらに調査を進めると・・
鹿大史學 より
伝説に正だ(和)玉与サ一一月法名宗栄」として永仁六年七月誕生,母源実継女|錄醉」とあり、公頼については「八郎、從五位下、修理亮、佐渡守」 ... 移居之、〇或日、公紀始号藤崎矣、今以公網之伝考之、藤崎者肥後内在名也、然則非公紀始立号、而既公網在肥州立藤崎号者実乎」とある。 ... 平景高女、〇正応一一年五月廿五日死、享以下公員については「與一、法名公阿」として「 0 元古、爲政、行平、行順、公盛、公長、公業となる。
兄弟分派多、嫡々相続而系焉、然而熟考之、下野守公盛者長元八年誕生而行頓五十五歳之子也、長門守公長者康和元年誕生而公 ...

文字化けしていまして・・すみません(._.)

よ〜く見ると・・
@「法名宗栄」として永仁六年七月誕生,母源実継女
※法名宗栄という人物の母が「源実継女」ですね・・法名宗栄が橘公綱の子供「公民」「公能」「公資」のいずれか?
A公頼については「八郎、從五位下、修理亮、佐渡守」
※「佐渡守」です。久米郷の橘一族に関して、最初は橘薩摩と言われていましたが、その後「橘佐渡」「橘遠江」という称号が多くなります・・
B... 平景高女。
※系の中の何方かの「妻」ないし「母」は平景高の娘・・かな?
C公員については「與一、法名公阿」として・・
※橘公員の記述ですね・・うん!間違いない!私のDNAの中でおそらく?最大なる影響力を持っている?先祖「橘公員」でございます(゜-゜)

(゜-゜)おやっ!!未だ、あまり記述がなかった男衆?の「妻」ないし「母」の記述が多く見られますヨ!!

さっそく調べます(゜-゜)
法名宗栄という人物の母が「源実継女」。
法名宗栄が橘公綱の子供「公民」「公能」「公資」のいずれか?
という事は・・あっ!橘公綱の妻は「源実継女」??!!

これはっ!!さっそく「源実継」とはどなた??と調べました。
すると・・
南部実継 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E7%B6%99
南部 実継(なんぶ さねつぐ、弘長2年(1262年前後) - 元弘2年12月13日(1332年12月31日))は、鎌倉時代末期の武士。南部実長の子。別名=源清長、通称=次郎、六郎次郎、波木井南部氏2代目。子に南部長継、南部政行室。

人物[編集]
波木井南部氏の一族は皆反骨精神の強い人物であったと言われており[1]、実継もまた父実長の気質を受け継いだ人物であった。
(;一_一)おんやっ??
※波木井南部氏の一族は皆反骨精神の強い人物であった・・あんれっ??(;一_一)どこかの一族に非常によく似ていますよ・・(?_?)・・(p_-)

続けます<(_ _)>

経歴[編集]
弘安5年(1282年)、父実長が身延山に匿っていた日蓮が老衰による疲れの為に下山を希望し、池上宗仲の邸宅に身を寄せる際、随行する役を命じられた。
それから約50年後の元弘元年(1331年)に元弘の変が起こるが、この時既に70歳を越えていた実継はこれに与し、護良親王、尊良親王に随従して赤坂城に篭城した。
朝廷方は奮戦したが、幕府の大軍に攻められて落城、実継は幕府軍に捕縛され、元弘2年(1332年)12月13日、六条河原で倒幕に荷担した他の武士達と共に斬首された。千葉県茂原市の日蓮宗の寺藻原寺に収蔵されている僧侶日静の書状によれば、実継は最初に斬首されたという。実継の最期は日蓮宗の僧侶達によって、甲斐国の波木井南部家の人々に伝えられたという。
実継が元弘の変に荷担した動機は、北条氏と癒着した三戸南部氏との対立といった幕府への不満の他に、その謹厳で一徹な性格や、父実長の代からが帰依し鎌倉幕府と対立した日蓮の思想の影響によるものであり、同じく幕府に反撥し、倒幕を企図する後醍醐に強いシンパシーを抱いたからだと推測[2]されている。家督は子の長継、更に南部政行の次男の又次郎師行が継承することとなる。
実継の死は北畠顕家に仕えて活躍した根城南部氏の師行をはじめとした南部氏が南朝方に協力し、恪勤する契機にもなった。

(゜-゜)上記の「南部実継」の父「南部実長」とは?

南部実長 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E9%95%B7

南部 実長(なんぶ さねなが)は、鎌倉時代中期の御家人。南部光行の三男。八戸氏(根城南部氏)の祖。日蓮の有力壇越として知られ、また甲斐国波木井(はきり)に居住したことから波木井実長とも呼ばれる。
生涯[編集]
父光行から甲斐国巨摩郡飯野御牧内にある波木井郷(現在の南巨摩郡身延町梅平一帯)を割譲され、地頭職を兼ねた。嘉禎4年(1238年)、4代将軍藤原頼経が上洛した際には、兄実光と共に随兵を務めた。文永6年(1269年)頃、鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し日蓮に帰依した。同11年(1274年)には、流罪を解かれ佐渡から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった。弘安4年(1281年)、十間四面の堂宇を建立寄進し「妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し法寂院日円と号した。弘安5年(1282年)9月、病身の日蓮は病気療養の為常陸の湯に向かう途中現在の東京都大田区池上に着くと病体が更に悪化し、実長への9ヶ年の感謝と死期の近いことを知らせる最後の手紙を送っている(『波木井殿御報』)。10月13日朝、61歳の生涯を閉じた日蓮の遺言通り遺骨を身延の澤に埋葬し実長を中心に六老僧等で護った。
後代、長男実継の家系は陸奥国を地盤とする八戸氏(根城南部氏)として存続し、本拠地である甲斐国波木井郷は四男(一説には長男とも)長義の家系が継承した。

\(◎o◎)/!きゃあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
私。この方以前調べています!!
平河の一族と呼ばれた「三位房」を調べていて、「日蓮」という方も勉強しなきゃ!!と・・・皆様、覚えていらっしゃいますか〜〜!!

うっうち!伊予橘氏 橘公業の系に繋がっていたという事ですか!!

続けます<(_ _)>
人物[編集]
七宮・三は、鎌倉幕府に迫害された日蓮を庇護し信仰したその事績から、信念を貫徹する気骨のある人物であったろうと推測している。実長の気概の形成には日蓮と共通するものがあり、日蓮宗の教義の影響があった。そしてその気質は、子の実継や外孫の師行にも引き継がれたと指摘している[1]。 日蓮の死後、身延山初祖日興と実長の間に、日蓮によって禁止されたと思われる「神社参詣、神社への寄進、釈迦立像建立の可否」についての論争を生じ、その結果日興は身延を離山した。この論争については、未だに富士系日蓮の派(いわゆる勝劣派)と身延系日蓮の派(いわゆる一致派)との決着をみていない。はじめは日興によって教化され、日興が身延の初祖の時は師としていたが、次位の日向が神社参詣、神社への寄付などを認めたので、日向に師を変更した。このため、日興との間に確執を生み、日興は身延を去って、富士に移った。

(゜-゜)そうか・・っ!!橘公業の系に繋がるという事は・・やっぱり平川ではなくて「宮原」に繋がっていたのか・・
(不思議な感で以前調べていましたが・・何だか、もしかしたら、私の感は不思議?とかじゃないような・・気がしてきました・・)

続けます<(_ _)>

南部実長の父「南部光行」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%85%89%E8%A1%8C

南部 光行(なんぶ みつゆき)は、日本の平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。加賀美遠光の三男。南部氏の始祖。
略歴[編集]
治承4年(1180年)、石橋山の戦いで源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた。このときに南部姓を称したという。文治5年(1189年)、奥州合戦で戦功を挙げ陸奥国糠部郡などを与えられ、現在の青森県八戸市に上陸し、現在の同県三戸郡南部町相内地区に宿をとり、その後、奥州南部家の最初の城である平良ヶ崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いたという。建久元年(1190年)には頼朝に従って上洛し、その後、自身は奥州にはほとんど赴かず鎌倉に在住した。
また、『吾妻鏡』同年6月9日条に拠れば源頼朝の鶴岡八幡宮への御塔供養に際して「信濃三郎光行」が先陣随兵を務めておりこの頃は「信濃」を名字としていたが、『吾妻鏡』建久6年(1195年)5月20日条の源頼朝天王寺参詣に際には南部姓を称しており、この記事が下限となっている。
また、健治元年(1275年)「六条八幡宮造営注文」に拠れば、列挙された甲斐国御家人の中に「南部三郎入道跡」が見られる。
死没年には建保3年(1215年)11月21日、嘉禎2年(1236年)3月18日など様々な説があるが、嘉禎4年(1238年)2月に将軍藤原頼経に従って上洛したという説もあり、定かではない(有力な説は1236年説であり、頼経時代以後も生きていたかどうかには疑問がある)。死後、従三位を贈られた。

系譜
父母 父:加賀美遠光 母:杉本義宗の娘(和田義盛の妹)
兄弟 秋山光朝、小笠原長清、光行、加賀美光経、於曽経行、大弐局
子 一戸行朝、実光、実長、七戸朝清、四戸宗清、九戸行連

(゜-゜)そうか・・・この方の兄弟が小笠原長清(加賀美長清)
小笠原長清は先祖 橘公長の幼なじみであり親友であった・・という事でした・・なるほど、やはり系も繋がっていたのですね・・

あっ!!そういえば日本の苗字七千傑様より「加賀美氏の全ては加賀美遠光の裔か」というご教示を伺っていました。

日本の苗字七千傑様 加賀美氏の全ては加賀美遠光の裔か より

鏡作部は鏡を製造する品部で、神代紀に「鏡作部遠祖天糠戸者造鏡」、一書に「鏡作遠祖天祓戸兒石凝戸辺」。
 和名抄には大和国城下郡に鏡作郷(註:加賀美都久利)、神名帳に鏡作伊多神社、鏡作麻気神社、鏡作坐天照御魂神社などの記載がある。
 鏡作連の祖神として、古事記は伊斯許理度売命(豊石窓神)、古語拾遺は石凝姥命とするが、天孫降臨に随従した重臣の一人である。
 和歌山県和歌山市秋月に鎮座する日前国懸神宮の祭神は、石凝姥命(伊斯許理度売命)が鋳造した日像鏡(日前大神)と日矛(国懸大神)で、天道根命以来の紀国造家により奉祭されている。

(・_・)すべてが天孫の時代に繋がっているのですね・・

物部氏族 伊予橘氏 橘公長・橘公業の系は「鹿児島」にも広がっていた・・

という事で「橘公綱を祖とする肥後”藤崎氏”系図」でわかったこと・・というお話でした。

ちなみに平河の一族と呼ばれた「三位房」なる方を調べていたのは
平川家について8 コメント37そして38でございました・・
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101343.html

では<(_ _)>(^・^)
[21]子孫よりさんからのコメント(2015年01月08日 09時37分05秒 ) パスワード

白石様、おはようございます(^・^)

コメントありがとうございます(^・^)
私が先ほど転送したコメントの入力に長引いていたもので、気がつくのが遅くなりました。すみません(._.)

「深水家は 水俣からはいってこられている と 前のコメントにあったように思っていますが 私の記憶違いでしょうか?」
というお話ですが・・

私の曾祖母の実家「深水家」は相良氏族の「深水家」でございます(._.)
白石様が「水俣」と記憶されていたのは・・
水俣・芦北を所領した、同族・相良氏族「深水家」の縁で、芦北の浄土宗の僧の方が宮原村に来られて、深水の高祖父が土地を提供してお寺を創建した・・という話からだと思います(・_・)
すみません(._.)わかり辛いですよね(._.)

深水家は湯前城主でもあったので、湯前の飛び領である宮原村切畑地区は曾祖母の実家の深水家が所領していた・・という事でございます(・_・)

でも・・
白石様のコメントにあった「川下の深水集落は 昔は皇室領。良峯師高領は鎌倉領となります。」

私も、こちらのお話がすごく気になっていました。
祖母の実家、旧宮原村の「平川家」と曾祖母の実家「深水家」は、以前からお話していますように、強い縁で結ばれています。

相良氏族「深水家」と「平川家」の縁もかなり遡るのでは?と思います。

コメント20で書いたように、「加賀美遠光」の系は橘公綱の系と繋がってきましたし・・やはり平川と宮原”は”どう考えても”繋がっています。
いえ物部氏族 伊予橘氏と平川は”どう考えても”繋がっています。
さらに白石様のおじい様は「橘の家紋に二重丸をつけた」。

何故「橘紋」なのか?という事ですよね。
きっと繋がっていると私は確信しているのですが・・

やはり、きっと源平藤橘という括りではない、もっと遡った所だと思います。

では(^・^)



[22]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年01月08日 21時18分00秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

伊予および肥前の白石氏は、いずれも越智姓河野氏族。
代表的な家紋は、いずれも折敷に三文字紋。
三島神社と同紋ですね。
[23]白石さんからのコメント(2015年01月09日 19時30分54秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑様 
あけましておめでとうございます。
ご教示ありがとうございます。

>伊予および肥前の白石氏は、いずれも越智姓河野氏族。
代表的な家紋は、いずれも折敷に三文字紋。
三島神社と同紋ですね。
さっそく 近くにある三島神社に行ってきます。
白石は 父母の養子先とはいえ
高岡や山口や平江などを とおして私に血がつながっており
ご先祖様がおられたからこうして はるか昔のことと つながってきたのだと
命をつなぐ 大事さ というものを 改めて 感じます。

子孫様 
高岡のおじの顔 平川のおじの顔 写真送りました。
高岡のおじにも 平川のおじにも 母・五藤の血が入っています。
高岡の叔父たちと いとこになる 父と平江の女子の子が姉で
姉が主張する なりまつ という家の血が母方の方に 入っている という
その姉の娘が 先日の写真の子です。姉と義兄(山口)はいとこです。
[24]子孫よりさんからのコメント(2015年01月09日 20時23分39秒 ) パスワード

皆様、こんばんは(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様、良かったですね\(^o^)/
「伊予および肥前の白石氏は、いずれも越智姓河野氏族」

やっぱり!!白石氏と宮原(伊予橘氏)は同族だったのですね!!
おそらく、球磨の様々な系は、このような形で、繋がっているのでしょうね(^・^)

所で、白石様、昨日伺ったメールそして、今日送信したと言われたメール、まだ届いていません(゜-゜)
と言うか・・今まで、お待ちしていたのですが、メール一度も届いていないのですが・・
私、てっきり、まだ、送っていらっしゃらないのかな?と思っていました。

何故だろう??

もしかして、私のセキュリティソフトが原因?でしょうか??

しかし・・
繋がりが見えてきて、白石様、私、本当に嬉しいです(^・^)

では(^・^)


[25]子孫よりさんからのコメント(2015年01月10日 11時40分02秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

今日は、先祖の調査によって、私が本当は何を理解しなければいけなかったのか・・
その事が、見えてきた・・というお話をさせて頂きます。

以前、コメントしましたように、私の弟は筋ジストロフィー(デュシャンヌ型)という診断を3歳児検診の際に受けました。6歳から入院して今年彼は48歳となります。
気管切開を19歳で、そして口から食べ物を食する事が不可能となり、胃ろうでの栄養補給となっていますが、もちろん意識はしっかりしており、昨年は、筆を咥えて絵も完成させました。
弟の現在の状態を、担当の先生は「奇跡だ」とおっしゃっています。世界的に見ても例がないと・・

私の父は毎日、仏壇へお参りする時には「全ての先祖そして先祖に所縁の方々への感謝の気持ち」、そして、「息子(弟)をお守りください」とお祈りしています。

そして・・母は・・
実は・・私の母は、弟の病気が発覚してすぐに一人である宗教団体に入信しました。入信して、40年以上が経過しています・・
宗教団体名は書けませんが教義の中には「南無妙法蓮華経」という題目を唱え「日蓮上人を末法の本仏と仰ぐ」等がありました。(私は、まったく解らないので、ウィキで調べました)・・

母の信心が理由で、喧嘩をしたことは無いと父は言っています。
父は「きっとお母さんは、弟の病気が発覚し、”守って頂きたい”という心のより所が必要だったのだと思うよ」と言っています。

祈りの形は違っても、父と母の「弟を思う心」が私には解ります。

先日、伊予橘氏である「小鹿島一族」に繋がる可能性のある「南部実継」「南部実長」という方々の記述を勉強しました。

私は、この事により、色々な事を考える事が出来ました。
そして・・
きっと、弟は全ての先祖、先祖に由縁の方々にお守りして頂けているのだな・・と、そして、心から、感謝する事が出来ました。

今まで、私が口にしていた感謝の言葉はきっと、自分を正当化するための偽善的な言葉であったことを痛感しました。

今は、本当に、心から、先祖、先祖に由縁の方々への感謝の気持ちでいっぱいです。

もしも、私が先祖についてを勉強していなかったら、きっと、私は本当の意味の感謝をしらないままでいた事でしょう。
ですから、昨年末にコメントした「先祖の業」などというお話は・・反省しても足りないくらいの言葉でした。

今、考えるに、私の先祖調査はきっと、私の心を修復する為の手段であったのだと思うのです。
きっと、その事に気がつかせてくれたのも「先祖様」です。

私は、宗教に関して、全くの無知識です。仏教の宗派の違いも、全く解っていません。

でも、心から、先祖への感謝の気持ちを持つ事が出来ました。

科学で証明などというお話ではありませんが・・・
私だけではなく、全ての人は、皆、ご先祖様よりお守り頂けているのだと思います。

それから・・
白石様。
マタマタっておっしゃらないで下さいね(@_@。

昨日の白石様のお言葉
「>伊予および肥前の白石氏は、いずれも越智姓河野氏族。
代表的な家紋は、いずれも折敷に三文字紋。
三島神社と同紋ですね。
さっそく 近くにある三島神社に行ってきます。
白石は 父母の養子先とはいえ
高岡や山口や平江などを とおして私に血がつながっており
ご先祖様がおられたからこうして はるか昔のことと つながってきたのだと
命をつなぐ 大事さ というものを 改めて 感じます。」

この白石様のお言葉を読んだ時、私、心から「良かった〜!」と思いました。
それが・・不思議な事に、全身がぽわ〜っと温かくなるような、心の底から、いえ、私の全身から「本当に良かった」という言葉が湧き出てきました。

何だか、私に流れる先祖のDNAも心?から白石様のお言葉を「良かった〜」と喜んだようです(^・^)
(マタマタ(ー_ー)!!と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、信じていただける方は信じて下さい(^−^))

という事で、今朝は、今の心のうちを書かせて頂きました。
では(^・^)
[26]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年01月10日 14時59分05秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「南部実継」「南部実長」
 
南部氏、波木井氏の家紋は対い鶴。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01013e.htm#007
 
日蓮大聖人の母方大野氏の家紋は鶴丸。
その由縁から。静岡大石寺、京都本能寺、本満寺、住本寺等の寺紋は鶴丸。
 
父方の遠江貫名氏の家紋は遠江井伊氏と同じく井桁に橘。
東京本門寺、京都久遠寺、京都常照寺等の寺紋も井桁に橘。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm
 
安房の日蓮大聖人の本国が遠江と言うのも、
信長が最後を迎えた京都本能寺も微妙な縁ですね。http://rabbitah.img.jugem.jp/20130830_22794.jpg
[27]子孫よりさんからのコメント(2015年01月10日 16時50分34秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「南部氏、波木井氏の家紋は対い鶴。」
《波木井氏/八戸氏/九戸氏》姓氏類別大観を拝見いたしました。

そこで・・まず、最初に「悲鳴をあげるほど」驚きました。
南部実長。この方の子供となる南部実継。兄弟に「長義」。
この方の子息「光氏」。・・「宮原氏」
偶然でしょうか?「宮原氏」。
一瞬、姻戚関係があったのでは??と思ってしまいました。(違うのかもしれませんが、本当にびっくり致しました)

「日蓮大聖人の母方大野氏の家紋は鶴丸」

南部氏、波木井氏の家紋は対い鶴、そして日蓮大聖人の母方大野氏の家紋は鶴丸。
鶴・・つる・・鶴? 偶然かな??井口川の通称は「鶴の川」・・??
「鶴」に何か重要な意味があるような・・気がするのですが・・「鶴」?

「父方の遠江貫名氏の家紋は遠江井伊氏と同じく井桁に橘」
貫名氏・・遠江・・。井伊氏・・遠江・・・「遠江」・・あれっ!?

《赤佐氏/井伊氏/貫名氏》姓氏類別大観を拝見いたしました。
「橘紋」がずらりです・・!?

《赤佐氏/井伊氏/貫名氏》は三国氏の系ですよね・・?
《継体帝閨閥図》を拝見していたのですが・・頭の中で「グッワ〜ングワ〜ン」と音が鳴っています。(マタマタとおっしゃらないで下さい(@_@。)

三国氏の系に「松葉氏」さらに「惟」の通字をもった「平賀氏」が・・
「松葉」という名だったか定かではないのですが・・私は、平河の古文書のどこかで「松葉」という言葉を目にした記憶があるのですが・・偶然とは思いますが、もう一度、確認してみます。

「安房の日蓮大聖人の本国が遠江」
やはり、勉強不足です。全く気がついていませんでした・・ありがとうございます。

京都本能寺の寺紋も「鶴」・・
東京本門寺、京都久遠寺、京都常照寺等の寺紋・・井桁に橘

物部氏族 伊予橘氏 である宮原一族が地頭となった久米郷宮原に流れる「鶴の川(井口川)」・・

幼稚な表現かもしれませんが・・
今日、頂いたご教示から・・
「鶴」と「橘」の紋。そして「鶴」と「橘」そして「遠江」という言葉が頭の中を駆け巡っています。

日本の苗字七千傑様。ご教示本当にありがとうございました。
引き続き、勉強いたします(^・^)

[28]白石さんからのコメント(2015年01月10日 23時03分58秒 ) パスワード

こんばんは
メールの方に没頭していました。
写真ふたつ送りました。見てください。

木原の顔です。
23の
高岡の叔父たちと いとこになる 父と平江の女子の子が姉で
姉が主張する なりまつ という家の血が母方の方に 入っている という
その姉の娘が 先日の写真の子です。姉と義兄(山口)はいとこです。

自分で自分に送ったら入っていたので 大丈夫と思いますが・・・

  −
  −
[29]白石さんからのコメント(2015年01月10日 23時37分39秒 ) パスワード

高岡と平川の顔も送りました。向かって右が高岡。左が平川です。
平川は元士族。二人の母は 五藤です。
     

尾方
||ーーーーーーー女子
平川定長     ||
        高岡(平川)
この頃聞き込んだのですが 上の尾方。平川のおばが 平氏だった といっていたところ。中村という同級生がいるのですが
ここの父の兄弟は多く あちこちとつながりを持っており この尾方へも男子がいっているとのこと。

中村は姓系辞典に 橘氏で
伊勢神宮の渡会の地を 中村の地ともいっていた。

橘は平氏にもわけられるはずで もしかしたら この記憶を平川のおばは言ったのかもしれない。
[30]白石さんからのコメント(2015年01月10日 23時44分54秒 ) パスワード

あくまでも あくまでも 私のイメージですが
高岡の叔父の顔は 比叡山の橘氏の写真の顔にそっくり と 思っています。
前に 本で見たのですが・・・叔父の顔をもうすこし えべす様にした顔が橘氏でした。

今日はえべすさま
近くの三輪神社でもえべす様をします。
なんで 大和三輪神社を引っ張ってきたのにえべす様だろうと 思っていましたが 今日 テレビで
大黒様とえべすさまは 親子関係。大黒様が 大国主みたいでした。

[31]白石さんからのコメント(2015年01月10日 23時59分28秒 ) パスワード

ついでに娘の顔も送りました。
13才くらいの顔だから もう おばさんになっています。

トルコに旅行したとき 現地の子が寄ってきて オリジナルの日本人かと聞くのでイエスというと きれい と いってくれた と 喜んでいました。

子供の顔なので シャープな線ですが・・
[32]子孫よりさんからのコメント(2015年01月11日 00時15分39秒 ) パスワード

白石様、メール届きました(^−^)

白石様の御親戚の「平川」様なのですが・・
輪郭や雰囲気が、私の平川のおじ(祖母の兄)に似ていらっしゃいます\(^o^)/

「高岡」様ですが、実は多良木の平川のおじ(祖母の妹の夫)に目鼻立ちがかなり似てらっしゃいます(^・^)
びっくりしました(^・^)
何故だろう??きっと、多良木の平川にも高岡様と同じDNAが繋がっていると思うのです・・特に目元がよく似ていらっしゃいます。

姪御様、お綺麗な方ですね(^・^)
姪御様なのですが・・何故か?椎葉のふた従姉に雰囲気がよく似ていらっしゃいます。
「木原」様ですよね・・上村・・?上村は確かに椎葉の親戚は多いと思います。
何でしょうか・・ううん・・他人には見えないのですが・・
今度、椎葉のおじに聞いてみます(^・^)

今、娘様のお写真が届きました(^・^)
キリッとしたとても綺麗な御顔立ちをされています。
目元は白石様に似ていらっしゃるのですか?お鼻が高い\(^o^)/

娘様や御親戚のお写真を送って頂いて、ありがとうございました。
確信しました(-.-)
しっかりと「繋がって」いますね。\(^o^)/

では(^・^)

[33]白石さんからのコメント(2015年01月11日 12時08分42秒 ) パスワード

こんにちは
きれいといってくださって わたくしではないのですが ありがとうです。

平川
平川定長(徳川末期から明治位)という人の 兄弟のおうちがわかれば いいなあ と 思っているのですが。

あ それから 
件の尾方氏
同じ集落で どこかのお寺から来られていて 息子の一人が 最高裁判所に勤めていたといい 本人も人吉の裁判所に勤めたと言っていました。
うちと同じ橘紋。
嫁は 五木から 息子の嫁も五木からと聞いています。

村会議員を務め その時 ウグイス嬢をば頼まれてくれんねと 言われて マイクを握りました。

萩の山の上や 川向の山の上などにも 舗装をしてくれて 助かりました。
平川のおじもなくなり 息子もなくなりましたけど その子は男二人で
息子(私の一つ下)の弟は 関東で警察署に勤めていると聞いています。もう定年したはずですけど・・・







[34]子孫よりさんからのコメント(2015年01月11日 12時39分39秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

井口川が通称「鶴の川」であったりと、地元に帰らなければ、思い出せないような事や、地元の親戚に聞く話、家に残っている書類・文書が、やはり、先祖の調査では重要な部分なのだな〜と痛感しています。

実家には、マダマダ確認していない書類や文書が沢山残っていますので、これからが本当に楽しみです。

祖父は生家を出て、現在、私の実家がある場所に新しく家を建てる準備を行っているさなかに亡くなったという事を、今回の帰省で初めて知りました。
それまでは、祖父の生家に家族で住んでいたそうで、祖父の生家は、江戸時代に建てられたものでしたが、当時の球磨ではめずらしい二階建ての家で、二階にも部屋が沢山あり、1階が祖父の従姉のおば夫婦のスペースで二階が祖父と祖母夫婦の居住スペースとなっていたそうです。

椎葉のおじは、私の祖父に弟のように可愛がられていたという事で、当時5歳だった父や3歳だった叔父以上に、椎葉のおじが私の祖父の事を良く知っていました。
椎葉のおじは、私の祖父から、新しく建てる家の建築図を見せてもらっていて、一緒に手伝うのを楽しみにしていたそうで、複写した建築図(仮)を大事に今でも保管しているそうです。
おじ曰く、「お前の祖父ちゃんは、あと3倍くらい大きな家を建てるつもりだったんゾ」と、残念そうに話していました。
祖父が沢山の夢・希望を持っていたという事がよく解りました。

前置きが長くなりましたが・・
実家におそらく祖父が亡くなった直後に作成されたであろう書類が複数あったのですが、中に当時の公文書がいくつかあり、中に「家督相続」について書かれているものがありました。
内容は 宮原家の家督を 宮原の曾祖父から祖父へ。祖父から父の兄へ(伯父は祖父が亡くなった後、しばらくして幼くして亡くなりました)
というものでした。

「家督相続」?この当時はこのような書類が存在したのだな〜と驚きました。

良く解らないので調べたのですが
http://members2.jcom.home.ne.jp/souzoku-hp/page050.html

家督相続とは
明治31(1898年)年7月16日に施行された旧民法下では、家督相続制度がとられていました。

家督相続とは、戸籍上の家の長として、これまで戸主がもっていた地位(一身に専属するものを除いた一切の権利義務)を、次に戸主となる者が1人で承継することで、嫡出長男子による単独相続を原則としていました。

つまり、簡単に言ってしまえば、兄弟が何人いようと、基本的には長男が家督相続人となり、家の財産をすべて受け継ぐ…ということです。

前戸主の身分や財産をすべて受け継いだ家督相続人は、家の財産を守り、一族の面倒をみる立場にも立たされるため、戸主となる者はとても強い権限を持っていたといえます。

ところが、時代の流れとともに人々の意識や社会状況が少しずつ変わっていき、このような独占的な相続は相応しくないということで、昭和22年(1947年)に施行された現日本国憲法の精神に則った形で大幅に改正された現民法が、翌年の1月1日から施行されました。

この法改正により、旧民法下で行われていた独占的な家督相続制度は廃止され、長男、次男、長女、次女等関係なく、子や配偶者であれば平等に相続することができる法定相続制度が定められました。

(゜-゜)なるほど・・勉強になりました。父の兄である伯父が幼くして亡くなったのは昭和22年の1月。だから、家には家督相続制度に関する書類があったのですね。
でも、上記の記述に「家督相続人は、家の財産を守り、一族の面倒をみる立場にも立たされるため・・・」
家督を相続した人は「一族の面倒をみる立場」・・・当時、家督を相続した人はとても大変だったのですね・・
当時の宮原家の一族って・・わあ(;一_一)たっ大変です(@_@;)
そして、「昭和22年(1947年)に施行された現日本国憲法の精神に則った形で大幅に改正された現民法が、翌年の1月1日から施行されました。」という事ですね。
本当に知らないことばかりです。(゜-゜)でも、自分なりに当時どのような状況にあったのか何となくですが、見えてきました。
平川の曾祖父が、祖母・そして可愛い孫達をいかに心配して、さらに、不憫に思っていたのか・・良く解りました。
だから、ずっと、私の実家の方に、平川の曾祖父はいたのですね・・
平川の曾祖父の私の祖母や幼かった父そして叔父への愛情がすごく伝わってきました。
平川の曾祖父は、私の実家で亡くなり、そしてお墓は、先祖代々からの平川家の墓所ではなく、さらに、平川の家よりも遠く離れた、まさしく私の実家が上から見える少し高台となっている平川の土地にお墓を建てるようにとの遺言を残し、遺言通りにお墓を建てたそうです。
そして平川の曾祖父は「私の実家である”宮原家”をずっと見守り続けたい」と言ったそうです。

以前、お話したことがありますが・・
私の娘の誕生日は平川の曾祖父の命日。
私の息子の誕生日は平川の曾祖母の命日。

今回の帰省で、様々な事を深く考えました。
数年前まで家を継ぐという事に関して、「名前を継げばいいのでしょう」などと簡単に考えていた自分が情けないです。

そして・・
宮原と平川がいかに強く結ばれていたのかがしっかりと解りました。
だからこそ、宮原家と平川家は同族もしくは、遡れば必ず一つとなる系であるという事を、確信したのです。

所で・・
私にはどうしても無知識のせいか解らないことがあります(?_?)
旧宮原村の平川家も宮原家も相良藩士。
書類にも両家「士族」と記載されています。
参勤交代にも同行して江戸にも行っていた・・
そもそも、藩士とは今でいうところのサラリー(給料)を藩から頂いて生計を立てているものですよね・・
祖母は生前「うち(平川)の方が、ここ(宮原)より石高は高かった(-.-)」
と父に言っていたそうです。(ばあちゃん全く(-.-)。父も、トホホよね〜と笑って言っていました)
所が・・宮原家も平川家も、膨大な土地を所有していた・・・???
両家には「家人」と呼ばれる方々が沢山いらした・・・??
この構造?はいったい何だろう??
自分なりに色々調べたのですが、あまり例を見かけないような・・??
人吉城下の藩士の方々とは、何だか違うような・・??
これも、郷士が三分の一という人吉藩の特殊構造なのかな??とも思うのですが・・

勉強不足のせいだと思うのですが、やはり意味がよく解りません(?_?)何故だろう??

もっと勉強することが沢山あるようです。
では(?_?)<(_ _)>
[35]白石さんからのコメント(2015年01月11日 13時53分59秒 ) パスワード


「小舟にたてた扇を射抜いた与一は 義経の旗下にいた」
義経の旗下にいた・・・うん(゜-゜)?という事は・・私の先祖と那須与一は知り合い?であったという事ですね・・・これまた、理解していませんでした・・(._.)

義経の旗下には 相良氏もいたと 本にありました。
[36]子孫よりさんからのコメント(2015年01月11日 18時38分28秒 ) パスワード

白石様、ご教示ありがとうございます。

「義経の旗下には 相良氏もいた」

勉強不足です。知りませんでした。

そうか・・・っという事は、もちろん橘公業と相良氏は・・
そう言えば、承久の乱でも、一緒に戦っていますね・・
以前、コメントさせて頂いています。

ふ〜む・・

辿れば同族・・やはり繋がっていますね。

ありがとうございました(^・^)
[37]子孫よりさんからのコメント(2015年01月12日 14時57分08秒 ) パスワード

皆様、今日は。

実は、平河の古代に繋がる調査に進もうとしても・・毎日、夢ばかり見て・・
次々と色々な方が夢に現れて、私に沢山の話をされるのですが、目が覚めると全く覚えていません。
いつも、お話を聞く場所は一緒です。とてもおおきなろうそくの炎が見えます。
蝋燭の灯る場所は畳2畳ほどのスペースが一段他の床より高くなっていてそこに相手の方が座り、その下の床に、私は向き合った状態で座ってお話を聞いています・・
以前、見た夢のような豪華絢爛な場所ではありません。そうですね・・まるで、お話を聞くための場所?のような所です。床は板で、畳はありません。
目が覚めたら、伺ったお話は全く覚えていないのですが、ただ、「今こそが重要なのだ・・」と言った内容の言葉を皆さんが言われる事は覚えているのです・・
(マタマタ(ー_ー)!!という声が・・!!でもあくまでも夢ですから(..))
ですから、物部氏族である「宮原」の系をまだがんばって調査していく事にしました(..)

すると・・解ったのですが・・
どうやら・・佐原氏にも三位房という方にも、物部氏族である、伊予橘氏「小鹿島氏」の一族は繋がっているようです。

先日、コメントした
※「橘姓藤崎氏系図」として「人王三十一と相違なく子孫に秘蔵するよう
この言葉がどうしても気になりまして・・
橘公綱そして「法名宗栄」という方に繋がる「南部実継」「南部実長」つまり南部氏が頭から離れないのです・・

もう一度、見直してみたのですが・・
南部 光行 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%85%89%E8%A1%8C

系譜を確認しました。
父母 父:加賀美遠光 母:杉本義宗の娘(和田義盛の妹)
兄弟 秋山光朝、小笠原長清、光行、
    加賀美光経、於曽経行、大弐局
子 一戸行朝、実光、実長、七戸朝清、
    四戸宗清、九戸行連

(゜-゜)やはり見落としていました。
母:杉本義宗の娘(和田義盛の妹)
先日、コメントしましたように、大正時代の平川の親戚関係に「杉本家」がありました。でも・・繋がっていたのは「小鹿島氏」・・

母:杉本義宗の娘(和田義盛の妹)という事で「和田義盛」・・ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E7%BE%A9%E7%9B%9B
和田 義盛(わだ よしもり)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人で、初代侍所別当。
三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、二代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。

久安3年(1147年)、三浦義明の子である杉本義宗(すぎもと よしむね)の子として誕生。和田氏は坂東八平氏のひとつ三浦氏の支族で、相模国三浦郡和田の里(神奈川県三浦市初声町和田)、あるいは安房国和田御厨に所領があったことから和田を苗字とする。

(゜-゜)この方は三浦義明の子である杉本義宗(すぎもと よしむね)の子なのですね・・
※ここで、すでに「三浦氏」に繋がりました・・
佐原義連は三浦義明の子。すなわち「杉本義宗」「佐原義連」。この方々は兄弟なのですね・・

続けます<(_ _)>(気になる部分をピックアップします・・)
中略・・
治承寿永の乱と奥州合戦[編集]
『吾妻鏡』では、その後、義盛は罪人の処断や、平家と対峙する遠江国への派遣などの活動をしている。源義仲との合戦や、一ノ谷の戦いの軍中にはその名は見えない。
(゜-゜) この方も「遠江国」に関係されているのですね・・

御家人の乱[編集]
建久元年(1190年)9月、頼朝の上洛に際して義盛は先陣を賜った。12月1日、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした[1]。さらに、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられた時、その1人に入り左衛門尉に任ぜられる。
建久3年(1192年)、侍所別当職を梶原景時と交代。『吾妻鏡』によれば、景時が「一日だけでも」と義盛に頼み、所領へ帰る暇のついでに職を預けたが、景時の奸謀によってそのまま奪われてしまったという。
建久10年(1199年)正月に頼朝が死去し、源頼家が2代将軍になると義盛は宿老として十三人の合議制に列した。
10月、梶原景時が結城朝光を讒言する事件が起こる。これを知った御家人たちは激怒し、義盛や三浦義村(義盛の従弟)ら諸将66人の連署での梶原景時弾劾状を作成して大江広元へ提出した。広元は御家人間の抗争を恐れて、しばらくこの弾劾状を留めていた。11月になって、それを知った義盛は御所で広元と会い「貴殿は関東の爪牙耳目として、長年働いてきた。景時の権威を恐れて諸将の欝憤を隠し立てするのは、法に違えるのではないか」と激しく詰問した。やむなく、広元は弾劾状を頼家に披露した。景時は失脚して鎌倉を退去し、翌正治2年(1200年)正月に討伐されて滅びている(梶原景時の変)。同年2月、景時の失脚によって、義盛は侍所別当に復職した。

(゜-゜)私が、以前、平河の訴訟状がこちらのお話に似ている(60余名の署名を提出した)とコメントした件に関係されていたのですね・・
でも・・・繋がっていたのは・・平河ではなく「小鹿島氏」・・

続けます<(_ _)>
和田合戦
中略・・・
重ね重ねの、この義時の挑発に対して、義盛は横山党や反北条派を誘い挙兵を決意する。鎌倉では流言飛語が飛び、騒然とした。4月27日、憂慮した実朝は使者を義盛の邸へ送った。使者に対して、義盛は「上(実朝)には全く恨みはございません。相州(義時)のあまりに傍若無人について仔細を訊ねるべく発向しようとしているだけです」と答えた。
挙兵に際して最も頼りにしたのが、本家に当たる三浦氏の当主・義村であった。義村は挙兵への同心を約束し、起請文まで書いた。だが、義村は弟の胤義と相談して、変心して義盛謀反を義時に通報する。・・・

(゜-゜)義盛は横山党や反北条派を誘い挙兵を決意する。
「横山党」 ウィキより(すみません。自分が解っていないので再勉強です(..))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%9A

横山党(よこやまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国多摩郡(現・東京都八王子市)横山荘を中心として、武蔵国(大里郡・比企郡 - 橘樹郡)および相模国北部に割拠した同族的武士団である。武蔵七党の一つ。家紋は丸ノ内万字卍。武蔵七党系図の筆頭。有名人としては、中条家長(初代評定衆として御成敗式目の策定に関与)や愛甲季隆(弓の名手。畠山重忠を討ち取る)、横山時兼(正治2年)(淡路国の守護)などが居る。時兼の叔母は鎌倉幕府侍所別当の和田義盛の妻、妹は和田義盛の長男常盛の妻であった。建暦3年(1213年)和田義盛と執権北条義時とが対峙した和田合戦で姻戚関係にあった和田氏に与したが敗れ衰退した。なお猪俣党も一族である。(八王子市の歴史を参照)横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣となった。

(゜-゜)有名人としては、中条家長(初代評定衆として御成敗式目の策定に関与)や愛甲季隆(弓の名手。畠山重忠を討ち取る)、横山時兼(正治2年)(淡路国の守護)などが居る。
そうか・・こういう形でも中条家長に繋がっていくのですね・・でも・・繋がっていたのは「小鹿島氏」・・
「横山党の諸氏」・・の中に「愛甲氏」「成田氏」「横瀬氏」・・しつこいですが(..)でも・・繋がっていたのは「小鹿島氏」・・

そうか・・・(-.-)
和田義盛。この方の系譜ですが
妻 正室:度会康高の娘(豊受大神宮七社の禰宜)
  側室:横山時重の娘
(..)度会氏にも繋がっていらっしゃるのですね・・

では、続けて「南部 実長」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E9%95%B7

系譜を見てください
父母 父:南部光行
兄弟 一戸行朝、実光、実長、七戸朝清、四戸宗清、九戸行連
子 実継、実氏、祐光、長義、娘(小笠原長経室)

南部実継の娘が、橘公綱の妻の可能性ありなのですが・・
南部実継の兄妹 「小笠原長経室」

小笠原長経 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E7%B5%8C
小笠原 長経(おがさわら ながつね)は、鎌倉時代前期の信濃国の武将。鎌倉幕府御家人。小笠原長清の子。

系譜を見てください
父母 父:小笠原長清、母:藤原邦綱の娘?
兄弟 長経、伴野時長他
妻 家女房
子 七郎長村、長忠、長房、赤沢清経

(゜-゜)母:藤原邦綱の娘  藤原邦綱ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%82%A6%E7%B6%B1
藤原 邦綱(ふじわら の くにつな、保安3年(1122年) - 治承5年閏2月23日(1181年4月8日))は平安時代後期の公卿。右馬権助・藤原盛国の子。官位は正二位・権大納言。五条大納言と号す。

(゜-゜)やはり繋がりました・・実は私、「右馬権助・藤原盛国」という人物がどうしても気になってコメントは確か、していなかったと思うのですが、以前、調べてはいました・・・

経歴[編集]
藤原北家良門流の系統に属する下級官人だったが、文章生から蔵人になる一方で藤原忠通の家司として頭角を現わす。和泉・越後・伊予・播磨の受領を歴任して財力を蓄えるとともに成功により昇進し、永万元年(1165年)破格ともいえる蔵人頭に補される。
4人の娘を六条・高倉・安徳の三天皇及び高倉天皇中宮・平徳子の乳母とし、豊かな財力を活用してその養育に力を尽くした。平家と親密な関係を深め白河殿盛子(関白・近衛基実室)の後見をつとめたが、仁安元年(1166年)に基実が没すると多くの摂関家領を盛子に相続させた。このことについて基実の弟・九条兼実は激しく非難を行っている[1]。邦綱は権大納言まで昇進したが、邦綱の系統で公卿に列したのは平安時代前期の藤原兼輔以来のことであった。

(゜-゜)系譜を見てください
父:藤原盛国
母:藤原公長の女
妻:増仁の女
男子:藤原重邦
妻:藤原公能の女
男子:藤原清邦 - 平清盛の養子
男子:藤原基行(1180-1221) - 持明院基家の養子
妻:理髪鶴子
男子:円綱
妻:藤原公俊の女
女子:藤原成子 - 六条天皇乳母、藤原成頼室
女子:藤原邦子 - 高倉天皇乳母
女子:藤原輔子 - 安徳天皇乳母、平重衡室
生母不明:
男子:藤原長綱
男子:藤原忠綱
女子:藤原綱子 - 平徳子乳母
猶子:藤原泰季 - 実父は高階仲親

(゜-゜)・・・そういう事か・・妻のお一人は徳大寺公能(藤原公能)の娘・・徳大寺家にも繋がっていたという事ですね・・
他の皆様はご覧の通りです・・

※南部実継の娘が、橘公綱の妻の可能性あり・・
 南部実継の兄妹 「小笠原長経室」
 小笠原長経の母は「藤原邦綱の娘」
 小笠原長経の母の兄弟姉妹は・・藤原邦綱の「系譜」をご覧の通りです・・
 小笠原長経の父は「小笠原長清」
 小笠原長清の妻は藤原邦綱の娘
そして・・小笠原長清は橘公長の幼馴染であり親友・・二人は平知盛の元家人・・
 橘公長の後裔である橘公綱の妻は「南部実継の娘」の可能性あり・・・
 橘公綱の後裔が私「宮原」の先祖・・
 宮原家と平川家は、球磨の旧宮原村で、700年にも渡る堅い絆で結ばれています・・
「藤崎家系図」が見つからなかったら、ここまで、解りませんでした・・

今、書いた「藤原邦綱」の情報は、コメントを書き始めるまで気がついていませんでした・・
ですから、途中で気がついて、最初にコメントしようと考えていた内容にあらたに加えてきたのですが、調べながら・・だんだん「どうしよう・・」と・・

ここまで、書いて、画面を消そうかな・・とも考えたのですが、やはり、意を決してコメントします・・

それから・・
最初に書きました「三位房」も「小鹿島氏」に繋がっているようです・・とのお話ですが・・

南部 実長 再度ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E9%95%B7

こちらの記述にあった日蓮大聖人の弟子となる「日向」という方をしらべたのですが・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%91_ (%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97)
日向(にこう、建長5年2月16日(1253年3月16日) - 正和3年9月3日(1314年10月12日))は、日蓮六老僧の一人。佐渡公日向、また後には民部阿闍梨日向(みんぶあじゃりにこう)、安立院とも名乗った。現在の日蓮宗の宗史上においては、総本山身延山久遠寺第二世に列せられている。

※佐渡公日向・・佐渡公・・佐渡公?・・佐渡? あれっ?!!

経歴[編集]
安房国の尾金に生まれ、13歳で日蓮に入門して出家得度してからは、折伏弘教のため日々各地に奔走した。弁舌に優れ、日蓮門下の「論議第一」と称された。1276年、日蓮の使者として、日蓮の旧師道善房の墓前に赴き、日蓮による旧師追悼のための著述『報恩抄』を朗読するという大役を務めた。1280年には日蓮より本尊を授与され、同年、日蓮による法華経講義の記録『御講聞書』を著した。日蓮の本弟子六老僧の一人として、日興筆の『宗祖御遷化記録』に「佐土公 日向」とその名を確認することができる。
1313年、日向は身延山別当の地位を日進に譲り、上総国の藻原に隠居するも、その翌年に62歳で死去した。

(゜-゜)上記の「日向は身延山別当の地位を日進に譲り・・」
こちらに記述されている「日進」という方こそが「三位房 日進」となるのです・・

三位房までもが「小鹿島氏」に所縁の方(南部実継・南部実長)に繋がっていました。

(゜-゜)本当は、ここで、こう締めくくるつもりだったのです・・
「こうなると宮原と平川は同族・・ではなく「同一」?と?もしくは・・宮原の系を平川に被せた?・・」

でも、このコメントを書いている途中で新たに色々、発見しましたので・・
少し、冷静に考えてみようと思います・・

では<(_ _)>
[39]子孫よりさんからのコメント(2015年01月13日 07時16分16秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、コメント33を頂いていたのに、確認出来ていませんでした。
遅くなりまして、すみません(@_@。

「平川定長(徳川末期から明治位)という人の 兄弟のおうちがわかれば いいなあ と 思っているのですが。」
というお話ですが・・

私が、帰省した時に見た、祖母の実家「平川」の大正初期の書類に、高祖父もしくはその前の代と思われる方々の名前があったのですが、この当時は、まだ通字があったのか、殆ど「義」の字がついていました。
平川義○ 平川義△ といった名前が「ズラリ」でした。
あっ!そうだ!祖母の兄達も「義」がついています・・
「公」の字も何名か・・? あっ!そうか・・
宮原 → 平川 の姻戚関係がありますので、「公」・・なるほど(-.-)
昔の方は、当時まで、色々な事を知っていたのですね・・
ちなみに、湯前の平川は「栄」のついた方が多いです。
多良木の平川は大正生まれの方までは「文」の字が多いですね・・
久米の平川はどうなのだろう・・?
今度、確認します。

というのが、私の親戚である上球磨地区の平川の「名」なのですが、でも、もちろん他の名前もあるかもしれませんので、私も白石様の御親戚となる「平川定長」という方を探してみます。(^・^)

では(^・^)
[40]白石さんからのコメント(2015年01月13日 22時03分37秒 ) パスワード

こんばんは
伊勢の仙のブログ
http://ameblo.jp/isenosenn/entry-11842748805.html
スポンサー倉谷(伊勢神宮内宮社家、大塔宮南朝)と歴代伊勢慶光院システムの基本資料をみていました。

山本清順慶光院

清和源氏を祖とし近江山本に土着し山本姓を名乗る(山本山)
★先日コメントしたかと思います。山本を打ち込むと山本山の昆布やがでると・・・

源平の源氏白旗を再興した近江源氏山本義経の子孫
★山本義経は松浦水軍を育てた。義経の弟の筋がのちに玉松になり(本名・山本真弘(まなひろ)) 王政復古の書を書く。
熊本の山本郡には九条家の荘園があった。

山本は湖北を支配した京極に仕え、同じ京極に仕えた浅井氏がいて
★京極は宇多源氏。浅井は 九州の方の白鳥神社に近江の人・浅井の文字があった。

清順の実家の山本義里が、小谷城の浅井氏から妻を迎えていた。

義里の時は湖南を支配する六角に見方し、義里は信長の観音寺城合戦で戦死
★観音寺城は佐々木城ともいい また 六角を中原でつくる系図もネットで見ました。

この戦死した山本家を継ぐかたちで浅井の養母の元に

養子になる内宮権禰宜の山幡の男子の新之亟季時が山本姓を継ぎ

清順の後を山幡の実家の娘の周養が慶光院になる。

この山幡の男子の孫(権禰宜男系)が山本太夫★(荒木田)を設立し

徳川本家・前田家・二条家・九条家の伊勢御師になる。

以後の周清・周宝・周長・周貞まではこの権禰宜系山本が慶光院を務める

したがって伊勢神宮の遙拝で慶光院(荒木田)だからではなく

僧籍で尼僧ゆえ正宮から離れた遙拝所(五十鈴川の伊射波止美の祠近く)だった。



後醍醐天皇の皇女祥子内親王が祖の伊勢慶光院家、そのスポンサーが護良南朝内宮社家。

地方公務員の剣神社の忌部の織田氏を、中央役人として越前派遣の護良南朝内宮社家の倉谷が剣神社と織田氏中央官僚として管理し庶派の倉谷(永平寺や高速もんじゅに多い苗字)は越前に土着。

そして明治天皇裏面史の護良南朝内宮社家が後白河天皇の高倉さんに皇統のルーツ(鳥羽の皇孫の橘氏)を求めていて源氏白旗再興の山本家子孫の清順を慶光院にする。
★後白河天皇の高倉 高倉→白石から求められた
★鳥羽天皇孫・橘氏

浅井の3姉妹は豊臣大阪城内を牛耳った京極(かつて浅井が仕えた)、豊臣、3代家光将軍や女帝(1代天皇皇統)へ、その浅井からの養母に養子に入る荒木田山幡が継ぐ山本慶光院系。

これが慶光院家と山本家を取り持つ縁が、慶光院家のスポンサーの裏面史の護良南朝内宮社家のルーツにあるんですね。織田の三姫が近江源氏京極、豊臣の淀、徳川家光の生母で山本慶光院とは外戚関係。山本慶光院の親は藤堂(近江ルーツ)と同僚。

慶光院記だと、お万の方は慶光院の従者の1人


慶光院の旧記を維新で世襲した二条慶光院家が、昭和の慶光院少宮司の頃編集した慶光院紀を見ると。確かいわゆる慶光院院主は、この時山本慶光院に荒木田神主(山幡)の男子が、その女系が慶光院を務めていた。その荒木田女系(山本)が慶光院(院主)になった事を、徳川将軍家に報告に行く事になり「戦国時代、山本清順慶光院の近江源氏の山本の実家の女系に浅井がいて、徳川家光の母の遠縁もあり」家光将軍の千代田城に(遠縁もあり千代田城内では伊勢神宮神宮家の荒木田神主は下座で、慶光院は上座に座る席順が維新まで続く)行く。その慶光院(荒木田系山本)院主の「「2人の従者のひとりが六条有純の娘のお万の方(永光院)」」で、女に興味を示さない家光が示し、春日局の強い願いからそのまま千代田城にとめおきになり家光の側室〜、春日局の後任で大奥を仕切る、時は1639年ごろで、その徳川和子(マサコ)の子の明西女帝の世である(公武合体)。大奥創建はお万で以後は幕府で君臨し慶光院(尼僧)と関係を強める。千代田城での将軍謁見は伊勢神宮の荒木田神主の上座に座る(慶光院の裏は伊勢神宮の南朝がいて代理扱い、徳川は南臣子孫得川世良田)
★この世良田に関して 佐田がある。

慶光院が後醍醐天皇の最後の伊勢斎宮(後醍醐朝2人目で野の宮どまりでそのまま皇女祥子内親王は出家、最後の斎宮)が南北朝の動乱で僧籍で慶光院を創建(初代慶光院この祥子内親王)し、後奈良天皇が追認のかたちで院号(慶光院)を贈る。

前に小山勝清先生から息子へあてた手紙で
池井 の ことばがあり
池井なら集落にある池井校長先生とこだろうと 見当しましたが
そこの道の上に 村山があり これも 手紙に書いてありました。
そして 道をあがっていくと 小野の集落があり 宮田 松本他の家があり
この集落には 観音堂がある。
★村山 宮田 松本などは 伊勢神宮の社家にあると 過去に ネットでみました。
★池井は川向の白鳥神社に関与していて
九州の白鳥神社には 近江 浅井氏のことばがあるところがある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山本から 伊勢神宮がより 近くなりました。



[41]子孫よりさんからのコメント(2015年01月14日 02時00分27秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

「白鳥神社」

帰省した際に、実家にあった「求麻郷土研究会」発行の「郷土」第32号を持って帰りました。
その中にあった「白鳥地名の考察(住吉献太郎氏) 」では、球磨における「白鳥」という地名についてのとても詳しい調査が記録されていて、中に球磨に現存する「白鳥神社」3社(以前は4社であったそうです)についての記述もありました。

15ページにわたる文章なので、すべて転記する事は出来ませんが、
球磨の「白鳥」という地名、そして「白鳥神社」には
「鉄」・「製鉄」「鍛冶」が強く関わっているようです。
そして、製鉄そして鍛冶の技術を持った、蝦夷からの多数の移民の方々が、球磨に移住していた・・。
人吉市の横穴古墳近くから出土した「わらび手刀」。九州に3本しか発見されていないという貴重な逸品。
この「わらび手刀」は東北・奥州で作られていて、この地に多く出土する「古代の刀」という事でした。
人吉市の白鳥神社 御祭神 彦火火出見尊
白鳥神社の御祭神は一般では日本武尊であるが、山幸彦の物語の中に、失った釣り針の代わりに千本の釣り針を作り差し出した話もあり製鉄に関わりをもつ神として信仰されていたのではなかろうか。宮城県石巻市の上品山にも彦火火出見尊が祭られており、鍛冶師の記念碑が建ててあるという。製鉄との関わりを示すものであろう・・・
とありました。
四浦そして多良木黒肥地の白鳥神社の御祭神 彦火火出見尊

さらに、
谷川健一氏 著「白鳥伝説」より、「白鳥を神格化する信仰は、東北地方を中心に蝦夷が居住していた時代にもさかのぼり、遠くはシベリヤ東部のバイカル湖付近のブリャート族の人々の中にも、強烈な白鳥信仰がみられたというのである」
という記述もありました。

以下少し転記します。
蝦夷地から日本の各地に移配された人々の中には鍛冶の技術を認められての者の多かったようで、彼らは地方において、農業や林業の用具製作鍛冶として地方開発の役割を果たしたのではないかと考えられる。
谷川健一著 「白鳥伝説」のなかでは「鍛冶氏族には鳥の伝承がまつわる」として「鍛冶氏族が雷神を尊崇する事と並んで、金属精錬には鳥の伝承が深くかかわりあっている。」・・中略 「金屋子神が白鷺に乗って出雲国の黒田の桂の樹の梢に羽をやすめ、そこからタタラ製鉄を教えた」などと、鍛冶師が白鳥を保護霊と考えていたことを紹介している。
白鳥神社があるということは、近くに鍛冶氏族や鋳物師がいたことを示唆する事になる。

(゜-゜)大和政権に順化した蝦夷の人達を移住させた、”球磨盆地は「移配地」である可能性が高い”との記述がありました。
以下、少し転記します。
「移配された現地には移住者の食糧としての稲を出させている。「俘囚料」と言われ、移住した人がかなり優遇されていた事が判る。
そしてその「俘囚料」が全国でも最も多いのが、わが肥後であり全国の15パーセントを占めているのには驚かされる。
なぜ、この肥後に多くの蝦夷(俘囚)が移住してきたのであろうか。考えられるとすれば、肥後を拠点に東北までも進出し活躍した多氏の存在であったかもしれない・・
(゜-゜)ここで、解からないので勉強いたしました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%98%E5%9B%9A
俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。
(゜-゜)「多氏」と製鉄技術そして高度な鍛冶の技術を持つ、蝦夷の移住民。
古代の球磨の姿がここに見えてくるのでは?と思いました。

(゜-゜)アイヌ語も球磨には多数のこっているようです。
人吉の白鳥神社の建立されている場所。その狭い谷間には小川が流れていて、その小川の事を地元の人は「モヒトンコウジ」と言っていたそうです。
転記します・・
球磨では、小溝の事を「コウジ」と言っていたという。「モヒトン」が不明だがアイヌ語辞典を見ると「モ・フトウネ」(小さな谷・狭い谷間)があり、ここの地形を表現した言葉になり、蝦夷地から入来した人々の生活の跡を思わせる。
相良村初村の白鳥神社をみると、その北方には「金川」地名や”一つ目魚!の伝承があり、五木銅山があり、南には深田銅山が栄えていた。
まさに、鉱山の守り神のような観さえある。
鍛冶師には鳥の伝説がまつわるといった谷川説を立証するようでもある。
中略・・
「黒肥地」も全国の地名には見えない。黒肥地「白鳥神社」の北部には幾つかの小鉱山があったようであるし、南の山岳には辰砂の産したと思われる「仁原(にわら)」(丹原 にゅうわらか?)の地域がある。
以上のように、球磨盆地の白鳥神社や白鳥地名が、鉱山資源や蝦夷よりの移住民との関わりのある社と地名であると思われるのである。

とありました。
ここで・・すみませんが、転記に際して「蝦夷よりの移住民」という言葉を別の言葉より私が勝手に変えました。(._.)

製鉄遺構に関してを転記します(゜-゜)
熊本県の調査によると、球磨盆地にも数か所の製鉄遺構が報告されている。その中で特に球磨村の球磨川南岸、奈良川流域の製鉄遺構に注目したい。その西を流れる「芋川流域」では、世界大戦中に鉄鉱石を採掘していた露天掘りの山があり、今も砂鉄の多い場所である。
製鉄のための砂鉄探しをした古代の人々には、球磨川河岸の調査しやすい所であったと思われる。また、燃料の薪炭材が豊富なことも製鉄には大切である・・

(゜-゜)記述の中に
※世界大戦中に鉄鉱石の採掘をして搬出していた
※かなり、古代に掘ったであろう穴があった
※この地域の鉄を掘った山塊の一つそっくりを小字地名で「戸屋」という事も判った。(ドヤとは砂鉄を掘るための長い池。東北では鋳物師の事を指す。)
※磁石を持って芋川に入ると驚くほどに黒い砂が付いてきた。他の川では見られない現象であり「砂鉄」と思われる。
※鉱石を運んだ山に登ると、今でも、落とされたと思われる鉱石がいくつも残っていた・・

などとありました。\(◎o◎)/!
本当にビックリしました。球磨と「鉄」。球磨は古代の有力な鉄鉱石の産地だったのですね。なおかつ、郡内には多数の「銅山」もあり・・資源の宝庫であったという事ですね。

「白鳥地名の考察(住吉献太郎氏) 」には、まだまだ、多数の球磨に関する研究が書かれているのですが、あまりにも、内容が濃くさらに多いので、今後もご紹介していきたいと思います(^・^)

そして・・
青森市の三内丸山遺跡の遺物を見ても解かるように、文化レベルの高い蝦夷の地であった。その高い文化を持った人々が来て地域の開発に汗し、これまでに無い賑わいを見せた球磨の地であったように思われるのである・・・
とありました(゜-゜)

終わりに の記述に住吉献太郎氏は
「相良氏は、鎌倉時代から700年の球磨統治の中で、先輩諸氏の歴史を消してきた。しかし、古代の歴史の無かった球磨ではない。何かで古代の球磨の様子を知りたい。地名を基に。寺社や神仏の像、銘文などと組み合わせて検討する事により、あぶり出しの紙のように何かが出てくるかもしれない。地名の中に球磨の古代を解き明かすようなものが隠されてはいないか。そのような思いで、この球磨に残る白鳥地名について考察をしてきた。
まだまだ真底には到達はしていない。
これから付加しなければならない諸々の問題も見えてきた。ただ、白鳥地名についての意味するものは、上述した方向に間違いないものと思っている・・以下中略」
とありました。

「球磨の古代」を何とかして知りたいという思いからの研究。本当にすばらしいと思います。計り知れない御苦労だと思います。
このような方々の熱心な調査によって、球磨の古代は姿を現してくるのですね。

私は、球磨の歴史を調べている方々のご苦労を全く考えずに、今まで、好き放題の事を言っていた事を、心より反省しました。
消された球磨の古代の歴史を蘇らせる・・素晴らしい事だと思います。

球磨に戻るのが、またまた楽しみになりました。
では(^・^)

[42]子孫よりさんからのコメント(2015年01月14日 02時05分53秒 ) パスワード

追記

先ほどのコメントに
※世界大戦中に鉄鉱石の採掘をして搬出していた
と書きましたが搬出先は「八幡製鉄所」だったという事です。

(._.)・・ビックリです。
[43]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年01月14日 18時38分15秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

井伊は遠江の地名。
三国姓井伊氏と藤原姓井伊氏は、泰直で合流。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm
 
藤原姓三国氏を遡ると、藤原南家の周時(井伊祖)、周頼(相良祖)の兄弟が祖。
井伊氏/相良氏の遠祖というわけだ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022.htm
 
遠祖も貫名や赤佐を名乗る者が居り、遠江本貫地が明らか。
平川氏も遠江が本貫地であることは濃厚。
東京の紀尾伊町の周辺に平河(川)天神や相良藩邸があることは偶然か?
紀尾伊町は紀州家、尾張家、井伊家の藩邸から命名されたが?
[44]子孫よりさんからのコメント(2015年01月14日 22時57分57秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の名字7000傑様、御教示ありがとうございます。

「三国姓井伊氏と藤原姓井伊氏は、泰直で合流。」
「藤原姓三国氏を遡ると、藤原南家の周時(井伊祖)、周頼(相良祖)の兄弟が祖。
井伊氏/相良氏の遠祖」

御教示を伺い、姓氏類別大観を拝見しながら、身体中が「ゾクッ!」となりました。

さらに
「東京の紀尾伊町の周辺に平河(川)天神や相良藩邸があることは偶然か?
紀尾伊町は紀州家、尾張家、井伊家の藩邸から命名されたが?」

こちらの御教示を伺い、「紀尾伊町」に関して全く無知識なので調べてみたのですが・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B0%BE%E4%BA%95%E7%94%BA

地理[編集]
東京都千代田区の西部に位置し、港区(赤坂・元赤坂)・新宿区(四谷)との区境にあたる。
区内では東部に平河町、南部は永田町、北部は麹町にそれぞれ接する。現在は主に大学と商業地域になっており、オフィスと住宅の複合型ビルである紀尾井町ビルやホテルニューオータニ、グランドプリンスホテル赤坂が在る所として知られる。
※東部に平河町 南部は永田町

今まで、もちろん目にする機会が多い地名だったのですが、こうしてあらためて見ると、これまた「ゾクッ!」としました。
「平河」と「永田」

単純に言えば私の祖母「平川(平河)」と高祖母「永田」其々の実家の「姓」です・・・??
こちらの周辺に相良藩邸があった・・・
これって、偶然でしょうか????

永田町のイメージはあくまでも「政治の街」だったのですが、気になって調べてみたのです・・
永田町 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E7%94%BA

地名は、江戸時代初期に永田姓の屋敷が並んでいたので一帯が「永田馬場」と呼ばれたことに由来する。
江戸城に近いことからさらに大名屋敷が建ち並ぶようになり、江戸末期に暗殺された井伊直弼をはじめとする多くの大名屋敷があった。2003年の旧首相官邸改築工事の際には村上藩内藤家の屋敷跡が発見されている。
※江戸時代初期に永田姓の屋敷が並んでいたので一帯が「永田馬場」と呼ばれたことに由来する。

(゜-゜)「永田姓」に関係があったのですね・・
※井伊直弼をはじめとする多くの大名屋敷があった。・・

紀尾井町の記述に戻りますが・・
地名の由来[編集]
地名はこの地にかつてあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来しており(それぞれ紀州家、尾州家、井伊家と呼ばれた)、各家の文字を1文字ずつとって町名とした。
紀州徳川家の中屋敷跡は現在のグランドプリンスホテル赤坂・清水谷公園、尾張徳川家の屋敷跡は現在の上智大学、井伊家の屋敷跡は現在のホテルニューオータニ付近にそれぞれあたっている。

あの・・・
私は今まで徳川家について調べたことなどありませんでした。
学校で習ったイメージのごとく「雲の上?」のような感じで・・・
しかし、先日、物部氏族 伊予橘氏 先祖「橘公長」の系を調べたら「徳川家康の養女を妻とする」中村氏が登場して・・
やはり、学校で習った教科書の内容をもとにした先入観を、自分の先祖の調査では「外さなければ」真実は見えてこないのかな・・・?と
松平家・・
徳川家・・

重ねて書くと見える文字は・・
「平川」(平河)という文字は、遠江国を本拠地?とした物部氏族にとって、何らかの意味があるのでは・・? (飛躍しすぎました(._.))

それから、まだ、まとめていないのですが、
徳川家(得川家)を調べると、何だか、マタマタ、物部氏族 伊予橘氏 である「小鹿島一族」の繋がりが見えてきました・・・??

後ほど、コメントさせて頂きます。

あらためて、日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございました。
では(^・^)
[45]子孫よりさんからのコメント(2015年01月15日 01時45分22秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様!!白石様!!皆様!!\(◎o◎)/!

わたし!!ついに見つけました\(◎o◎)/!

皆様、もう眠っていらっしゃるかな・・
起きてくださ〜〜〜い!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/(それは無理か(ー_ー)!!)

物部氏族 伊予橘氏 である「小鹿島一族」の系をもう少し調査!と思って調べていたところ・・・

宮原の先祖「橘 公綱」の母であり、橘 公員の妻であった女性がどなた?だったのかが、ついに解かりました\(◎o◎)/!

こちらをご覧ください(゜-゜)
鹿大史學 - 第 31〜41 号 - 35 ページ より
藤崎故爲号乎. ... 籍佐渡守、法名公円」として「〇宝治元年誕生、母豊田五年六十六」とあり、公網については「八郎、從五位下、仁元年誕生、母平景高女、〇正応一一年五月

解かり辛いですが・・
※公網については「八郎、從五位下、仁元年誕生、母平景高女

橘公綱の母が「平景高」の娘。
すなわち橘公員の妻は「平景高」の娘・・という事ですね!!

「平 景高」という方は・・・・時間軸などから推測して、この方と・・
梶原 景高 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E6%99%AF%E9%AB%98

梶原 景高(かじわら かげたか、永万元年(1165年) -正治2年1月20日(1200年2月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府御家人・梶原景時の次男。通称は平次。妻は小野成綱の娘。

\(◎o◎)/! 梶原景時の次男  あああああああああああっ!!
妻は小野成綱の娘 あああああああああああっ!! 小野氏にも繋がった〜〜〜!!

経歴[編集]
治承・寿永の乱に際して、父に従い源頼朝の麾下に参陣。寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いにおいては、源範頼率いる大手軍に属し、生田口を守る平家軍の主力と対峙する。この際景高は、梶原勢500余騎の先陣を切って敵陣に突進し、父景時より「後続の進度を考慮しないで、ただ単身先駆けする者には恩賞はないと、大将軍からの仰せであるぞ」とたしなめられる。しかしそれに対し景高が、「『もののふのとりつたへたる梓弓ひいては人のかへすものかは』(武士が先祖から伝えられた梓弓が一度放ったら帰ってこないように、自分も一旦進み出た以上はどうして引き返すことなどできましょう)」と即座に返答し、勢いを止めようとしなかったため、景時もこれを追うような形で進撃。景高、景季(長男)・景茂(三男)らとともに敵陣の逆茂木を取り除きながら奮戦し、結果的に戦果を挙げ、世に「梶原の二度懸け」として賞されることとなった。
その後、文治5年(1189年)の奥州合戦にも従軍し、味方が奥州藤原氏の要害を次々に突破して平泉を目前にした時、その戦勝を祝する和歌を詠み、頼朝の歓心を買っている。
このように、父や兄同様、文武に秀でた御家人として鎌倉幕府創業に功があったが、正治元年(1199年)に父が他の御家人からの弾劾を受けて失脚すると、父兄とともに相模国の所領に退去。一族郎党とともに上洛を目指すが、途中駿河国において吉川友兼らの追討を受け討ち取られた。36歳没。
一子・景継は、3代将軍実朝の時代になって幕府への帰参を許されるが、承久の乱において京方に属し戦死したという。

\(◎o◎)/!私、平川家について13で、平河に関連したであろう「武藤資頼」を調べていて、こちら「梶原氏」について勉強していました!!
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101358_91.html
コメント54 55 56 57 58としばらく続いています。
皆様、ぜひ、ご覧ください(゜-゜)

※武藤資頼は梶原平三景時(梶原景時)の娘婿
※梶原景時の次男「梶原景高」の娘は橘公員の妻
※梶原景時の次男「梶原景高」の娘は橘公綱の母

\(◎o◎)/!という事は
武藤資頼の姪は橘公員の妻・・・\(◎o◎)/!
橘公綱は梶原景時のひ孫・・・\(◎o◎)/!

どっどうしよう・・・つっついに「武藤氏」に繋がりました!!
それも、平河ではなくて「宮原」がです!!

心を落ち着かせるために日本の苗字七千傑様の桓武平氏良茂流 《梶原氏》そして《野呂氏/団氏》姓氏類別大観 を拝見したのですが・・
ぎゃあああああああああああっ!!なっナント!!

じいちゃん、いえ、祖父の兜に付いている「違い鷹の羽」と「丸に剣片喰」の家紋が私に手を振っていま〜〜〜す!!

私が、以前、平河の訴訟をもとにどのような調査をおこなっていたのかは、皆様、もう一度「平川家について13」
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101358_91.html

こちらをご覧ください(._.)

本当に、こうなると、完全に
「平川家について」ではなくて「平川家と宮原家について」でございます。

では<(_ _)>\(◎o◎)/!
[46]子孫よりさんからのコメント(2015年01月15日 15時16分54秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

衝撃の?情報を発見して一夜が明けました・・(何の事やら・・(-.-))

昨日、見つけた
鹿大史學 - 第 31〜41 号 - 35 ページ より
藤崎故爲号乎. ... 籍佐渡守、法名公円」として「〇宝治元年誕生、母豊田五年六十六」とあり、公網については「八郎、從五位下、仁元年誕生、母平景高女、〇正応一一年五月

この記述をもう一度じ〜〜っと見つめていたら
「宝治元年誕生、母豊田・・」
何だろう??母 豊田??

豊田氏? そこで、もう一度、日本の苗字七千傑様の桓武平氏良茂流 姓氏類別大観 を拝見したのです。

ありました!!豊田氏!
鎌倉景村 → 景明 → 景宗 → 景俊(豊田氏)
宝治元年誕生した「小鹿島一族」橘公員の系の「だれか?」の母が「豊田氏の娘」という事でしょうか・・??

でも・・
昨日、見つけた「梶原氏」との繋がりといい、先日、見つけた「南部氏」との繋がりといい・・
これでは、まるで、子供の頃に体験した「宇宙のファンタジー」のような・・

(._.)何の事を言っているのか、意味が判りませんよね(ー_ー)!!

では、御説明を(._.)・・マタマタとの声が・・!!

小学校の高学年か、中学に入ったばかりの時、私は「アース・ウィンド・アンド・ファイアー 」の宇宙のファンタジーという曲が大好きで、カセットテープに曲を録音して、いつも聞いていました。
すると、父が、「アース・ウィンド・アンド・ファイアー 」のLPレコードを買ってくれたのです。
(CDではありません。(ー_ー)!!・・懐かしい!!)
ある日、私はいつものように、そのレコードの中にある「宇宙のファンタジー」を聞きながら、窓を開けてぼんやり夜空を見ていました。
球磨の夜空には、数えきれない星が輝いています。
その星空を「宇宙のファンタジー」を聞きながら、ボ〜ッと見ていたら、身体中に「ビビビ〜ッ」と衝撃が走って、ナント、夜空の沢山の星が・・
沢山の人の顔に変って見えたのです!!(ホントウです(._.))

男の人・女の人、沢山の人でした。みなさん、私を見てニコニコ笑っていました・・(本当です(._.))

祖母に、話したら「あ〜そうね(^・^)御先祖様タイ」と、何だかよく解からないけれど、祖母も笑っていました・・・??

それからしばらくして、例の「UFO訪問?」があったのです。
そう言えば、あの時祖母は
外に向かって、「どうか!この子を連れていかないで下さい!」と言っていました。
(だから、私は「うん?ばあちゃんではなく何故に私??(-.-)」と冷静に考えたのです)

次の朝、祖母に「昨日の夜に外にいたのはUFO?」と聞いたら
祖母は「御先祖様が乗っていらっしゃるとタイ」と意味不明な回答をしたのでございます・・(p_-)

今考えると・・我が一族には不思議な言い伝えがあるのではナイノカ?と・・(p_-)

でも、時折わたしは・・今でも夜空をぼ〜っと見ながら、大好きな祖母「ばあちゃん」が空飛ぶ乗り物に乗って私を見ていてくれないかな〜と思う時があります。

でも(ー_ー)!!
本当に「宇宙のファンタジー」を聞いて空を見ていたら、星が人の顔に変わったのですよ!!
信じるか信じないかは・・皆様次第でございます(-.-)<(_ _)>

では、雑談「宮原のファンタジー」でございました<(_ _)>

ちなみに、YouTubeに曲がアップされていましたので、懐かしいと思われた方はどうぞ(._.)(^・^)
https://www.youtube.com/watch?v=O-rzL48_Y5Y&list=RDjnPFk4WvtKU&index=9

では(^・^)

[47]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年01月15日 23時01分38秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>景俊(豊田氏)
 
相模国大住郡豊田庄発祥ですから、名乗っただけですよ。
[48]子孫よりさんからのコメント(2015年01月15日 23時29分08秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

宮原の先祖である橘公綱の母であり、橘公員の妻である梶原景高の娘。
この結果「梶原氏」との繋がりにより、「宇都宮氏」にも繋がっていました。

橘公綱は梶原景時のひ孫。
そして、梶原景時の娘は「宇都宮頼綱」の妻でもありました。

宇都宮頼綱 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E9%A0%BC%E7%B6%B1

宇都宮 頼綱(うつのみや よりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の人物。藤原姓宇都宮氏第5代当主。官位は従五位下越中守。鎌倉御家人でもあり伊予国守護を歴任。歌人としても著名で藤原定家との親交が厚く京都歌壇、鎌倉歌壇に並ぶ宇都宮歌壇を築いた。宇都宮成綱の子で宇都宮泰綱の父。

治承2年(1178年)頃に宇都宮成綱と平長盛の娘の間に生まれる。その後、源頼朝の乳母であった寒河尼の元へ預けられ、その夫小山政光の猶子となった。文治5年(1189年)の奥州合戦に紀清両党を従えて従軍し功績を立てる。建久5年(1194年)2月には北条義時の嫡男金剛(後の泰時)の元服の儀に参列する。
系譜
父母 父:宇都宮業綱、母:平長盛の娘
   養父:小山政光
兄弟 頼綱、業綱、永綱、塩谷朝業、
    小山朝政、長沼宗政、結城朝光
妻 稲毛重成の娘(先妻)
    北条時政の娘、梶原景時の娘
子 時綱、横田頼業、泰綱、児山宗朝、
    藤原為家の室、三条実房の室、笠間時朝

※養父は小山政光(妻は寒河尼。八田宗綱の娘。八田知家の兄妹)

という事で、こちらとの縁戚関係が宮原の先祖「橘公業」の系にあったという事です。

平河の調査で「宇都宮氏」そして「八田知家」に繋がりが見つかればそれは・・
と頑張ってみたのですが、もちろん、何の形跡も残っていませんでした・・
がっ!しかし・・必死に繋がりを探していたこちらの系に「宮原」の先祖「橘公業」の系は、しっかりと繋がっていました・・

もう、どうなっているのかチンプンカンプンです。

さらに・・
先日、わかった「南部氏」と宮原の先祖「橘公業」の系との姻戚関係。
※南部実継の娘が、橘公綱の妻の可能性あり・・
 南部実継の兄妹 「小笠原長経室」
 小笠原長経の母は「藤原邦綱の娘」
 小笠原長経の父は「小笠原長清」
 小笠原長清の妻は藤原邦綱の娘
そして・・小笠原長清は橘公長の幼馴染であり親友・・二人は平知盛の元家人・・
平河の一族では?と言われた「三位房」
 身延山別当 三位房 日進 と「南部氏」・・・

上記の情報を調べたら、「麻植氏」そして「藤原師高」の娘を妻とする藤原長方にも繋がっていました・・

※小笠原長清の妻は藤原邦綱の娘
藤原邦綱 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%82%A6%E7%B6%B1

系譜の中にあった
妻:藤原公俊の女
女子:藤原成子 - 六条天皇乳母、藤原成頼室
女子:藤原邦子 - 高倉天皇乳母
女子:藤原輔子 - 安徳天皇乳母、平重衡室
生母不明:
女子:藤原綱子 - 平徳子乳母
男子:藤原基行(1180-1221) - 持明院基家の養子

まず・・
女子:藤原成子 - 六条天皇乳母、藤原成頼室
藤原成頼 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%88%90%E9%A0%BC
藤原 成頼(ふじわら の なりより、保延2年(1136年) - 建仁2年(1202年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての人物。公卿。藤原北家勧修寺流、権中納言藤原顕頼の三男(四男とも)。母は権中納言藤原俊忠の娘で、光頼、惟方の同母弟に当たる。正三位、参議、修理大夫。兄光頼の猶子となる。

(゜-゜)母は権中納言藤原俊忠の娘
藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の母も藤原俊忠の娘。
すなわち藤原成頼と藤原長方は従兄です。

さらに・・
女子:藤原輔子 - 安徳天皇乳母、平重衡室
藤原 輔子 ウィキより(以前、この方も気になって調査してコメントしていました・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%BC%94%E5%AD%90
藤原 輔子(ふじわら の ほし/すけこ、生没年不詳)は、平安時代後期の女官。大納言藤原邦綱の次女。母は藤原公俊の娘。平重衡の妻。

『平家物語』には藤原伊実(惟実)(鳥飼中納言)の娘で、藤原邦綱の養女となったとあるが、『尊卑分脈』や『愚管抄』の記述から邦綱の実子と考えられている。平清盛の子の重衡の妻となり、後に安徳天皇の乳母をつとめ、従三位典侍・大納言典侍(大納言佐)と称した。
治承・寿永の乱が起こると夫の重衡は平家の将軍として転戦し、その戦いの中で治承4年(1180年)に蜂起した興福寺、東大寺を攻撃して堂塔伽藍を焼き払い、東大寺盧舎那仏像を焼失させてしまう(南都焼討)。
寿永2年(1183年)に平家が源義仲に敗れると、重衡とともに都落ちした。寿永3年(1184年)2月、一ノ谷の戦いで平家は源範頼・義経に大敗し、重衡は捕えられてしまった。重衡は京へ送られ、後白河法皇は重衡の身柄と都落ちの際に平家が持ち去った三種の神器との交換を試みる。平重国が使者となって讃岐国屋島の平家の本営へ向かうことになり、重衡は罪人の身で書状は書けないので口頭で「旅の空でも、あなたは私を慰めました。こうして別れてしまってどんなに悲しいことだろうか『契は朽ちないもの』と言います。どうか、来世でも必ず逢いまみえましょう」と妻への伝言を頼み重国は涙ぐんだ(『平家物語』)。
結局、平家の総帥宗盛は交換を拒否し、重衡は鎌倉へ送られた。元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡し、輔子は他の女たちとともに入水するが助け上げられ捕虜となった。戦後は山城国日野(京都市伏見区)に住む姉の邦子(大夫三位)の居所に隠棲した。

(゜-゜)夫 平重衡との再会と別れ(以前も書きましたが、同じ女性として、とても切なくなりました・・)
重衡との再会と別れ[編集]
重衡は南都大衆からひどく憎まれており、源頼朝に引き渡しを要求していた。同年6月に源頼兼の護送のもとで鎌倉を出立し奈良へ送られた。
罪人なので京には入らず、大津から山科を経てる醍醐路を通り、日野の近くに差しかかった時、重衡は護送の武士に「私には子がないので思い残すことはないのですが、この近くに妻がおりますので今一度対面して後生のことなど申し伝えておきたいのです」と最後の情けを願い、武士たちも涙してこれを許した。屋敷まで来て人に呼びにやらせると輔子は駆けつけて重衡と対面した。
輔子は「夢かうつつ(現実)か」と涙を流して招きいれ、重衡はこれまでのことを物語りして、出家して髪を残したいがそれも叶わないのでと額に垂れた髪をひと房噛み切って輔子に渡し形見とした。輔子は「(壇ノ浦で)入水して死ぬべき身でありましたが、貴方が生きていると聞き、今一度お姿を見ることもあるかもしれないと願い生き長らえてきました」と涙を流した。輔子は重衡を白の狩衣に着替えさせ、それまで着ていたものも形見とし、最後に別れの歌を交わした。

重衡は「契りあれば来世にあってもまた逢えるでしょう」と言い残して、立ち去った。
輔子は後を追おうとしたが叶うことではなく、大声で泣き伏し、その声を聞いて重衡は駒を進めることもできずに泣き、なまじ逢うべきではなかったかと後悔もした。・・・・

「その後」
輔子は夫の亡骸を日野の地に持ち帰り、荼毘に付して供養した後、高野山に納めた。
その後、自身も出家して重衡の菩提を弔い、大原寂光院の建礼門院(平徳子)に仕えた。『平家物語』の終末の部分、大原御幸の巻で建礼門院とともに薪と蕨を拾っているところを後白河法皇と出会っている。そして、最後の六道の巻で建礼門院が極楽往生を遂げる際に阿波内侍とともにこれを看取った。

(@_@)すごく切なくなりました・・

※建礼門院が極楽往生を遂げる際に阿波内侍とともにこれを看取った。
「阿波内侍」・・信西の養女であり、実父は麻殖大宮司家 麻植正光。西光(藤原師光」の実の伯母ですね・・

さらに・・
男子:藤原基行(1180-1221) - 持明院基家の養子
持明院基家 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E6%98%8E%E9%99%A2%E5%9F%BA%E5%AE%B6

系譜を見てください
父:藤原通基
母:上西門院一条(源師隆の娘) - 待賢門院官女、上西門院乳母
妻:上西門院因幡(源長時の娘)[1]
男子:持明院基宗(1155-1202)
妻:平頼盛の娘
男子:持明院保家(1167-1210)
女子:持明院陳子(北白河院)(1173-1238) - 後高倉院妃、後堀河天皇母
女子:藤原実宗室
妻:白拍子阿古女
男子:園基氏(1211-1282) - 園家の祖
生母不明:
男子:行雲(本名覚全)
男子:俊玄
女子:平資盛室
女子:源兼忠室
女子:惟明親王妾

(゜-゜)持明院基家の妻は「平頼盛」の娘。人吉庄の預所であった平光盛の姉弟です。
他にも女子:平資盛室。
平資盛は平重盛の二男であり、私の親戚である「緒方家」の祖となる平清経の兄弟です。
そして・・
父を持明院基家、母を「平頼盛」の娘とする方は「藤原実宗室」
この方こそが「西園寺公経」の母。

西園寺公経と橘公業が替地をして橘公員が所領したのが・・肥後国球磨郡久米郷東方下分。久米郷宮原の地名をとって「宮原氏」となる・・

(゜-゜)・・・・
宮原の先祖「橘公綱」の妻は「南部実継の娘」。
調べてみたら・・全部繋がりました・・
「麻植氏」にも、そして「藤原師高」にも「藤原長方」にも「平頼盛」にも「西園寺公経」にも・・
全部繋がってしまいました・・

本当にどうなっているのでしょうか?・・・
私が、今まで、平河について必死に調べていた事は・・全て、「宮原」の先祖の系にあったという事ですね・・

こうなったら・・「中原氏」にも繋がっていたりして・・

皆様、私が見つけた真実をどうお考えになりますか?

では<(_ _)>
[49]子孫よりさんからのコメント(2015年01月15日 23時46分30秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、御教示ありがとうございます。

景俊(豊田氏) 相模国大住郡豊田庄発祥

ありがとうございました(^・^)

色々「登場」するので?ドキドキしてしまいます・・

相良氏も遠江国。橘公長も遠江国に深い縁があり、さらに遠江国には「平川」の地名があり・・

完全に繋がっているのは、しっかりと、解かりました。

でも・・平河の調査で「あと一歩」の所で、何の形跡も残っていない・・という事に全て、宮原の先祖「橘公業」の系が繋がっている・・
これはどういう事なのか・・
本当は混乱しています。
同じ、物部氏族・・という事だけではないような・・気がしているのですが・・

しかし・・具体的な情報が見つかってきた事は、非常にうれしい事です。
調査、がんばります(^・^)
[50]子孫よりさんからのコメント(2015年01月16日 08時55分24秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、宮原と平川(平河)について「物部氏族・・という事だけではないような・・気がしている」と書いた事についてですが・・

様々な事実が発見されている・・という事だけではないのです。
帰省した時に父や叔父から聞いた話がずっと気になっていたからなのです。

祖父についてです。
祖父は、中国から球磨に戻り、1年もたたないうちに、32歳で亡くなりました。
亡くなったのは、入院していた久米の病院だったそうです。

そして・・
祖父の遺言により、お葬式は・・「平川家」で行われたそうです。
祖父は「平川家」より、旅立った・・と。
熊本県下の「宮原の一族」そして球磨郡中の名士、さらには熊本県下の名士と呼ばれた方々までも参列した葬儀だったという事です。

祖父の実家である「宮原家」での葬儀ではなく、何故、祖父は「平川家」からの旅立ちを希望したのか?

私が、聞いている生前の「祖父」から、考えても、単純な意味ではないような気がしています。
先日もコメントしたように、祖父が軍刀掛けに使用していた「兜」。「3種類」の家紋が施されています。
祖父は、宮原の先祖そして平川の先祖について、しっかりと理解していたのだと思うのです。

さらに・・
平川の曾祖父は、「宮原家」を見守り続けたいという希望により、私の実家がしっかりと見える高台のお墓に眠った・・
この場所は、そもそも、墓所ではありません。
曾祖父の希望により、その場所を、曾祖父だけの「墓所」とした・・という事です。

祖父そして平川の曾祖父が行った事・・
この事が、遡った、「宮原」と「平川」の真実に繋がっているような気がしています・・

それから・・
実は、私は子供の頃から必ず行っている事があります。
祖父の生家の横を通る時は、必ず立ち止り「一礼」をして通ります。
子供の時は「宮原の先祖様に御挨拶をしてから通りなさい」と祖母に言われていたのですが、今回、帰省した時に父と祖父の生家前を通る時に父が
「宮原の一族はここから始まった。だから、古の先祖様に敬意を表して御挨拶をしなければいけない」と言われました。

祖父の生家は今でも、周囲を大きな石垣で囲まれていて、今回、じっくりと見たのですが、家の土台?部分は、平地の上に沢山の石垣が積まれていて、その上に家が建っていました。
周りの景色より、家が高い位置に立っている(少し高台に建っている)と思っていたのは、実は、家の下に、数メートルの高さの石垣があったからなのでした。
初めて気がつきました。

昨年、コメントした求麻郷土研究会発行「郷土」第31号に「宮原城」について
「平時の山城(宮原城)は見張りの兵士が交代で昼夜問わず警戒に当たり、異変が生じた時は直ちに城下の住民に知らせるようにシステム化されていたのであろう。城主や家臣たちは平常、城中では生活せず、城下に居住し、城主は城近くの居館に住み、以下の武士たちは城下周辺に居を構え、農事に従事し、食糧生産などに携わっていたのであろう。
戦国時代の平和は長く続く事は出来ず、一時にして敵からの侵略が戦に変じる。領民たちは皆、手に持てるだけの食糧(残りは地中に埋めて隠したという)や武器、大事な日用品を高い山城に運び籠城し、戦闘準備を行う。
農民たちもその時だけは兵士の一員となり戦ったに違いない。この様に変事の時だけに使う一時的な山城と思われる」
と記されていました。
以前、私のブログに「宮原城」の推定復元図をアップしていました。

上記にあった「城主や家臣たちは平常、城中では生活せず、城下に居住し、城主は城近くの居館に住み、・・」
もしかしたら、この「居館」が、祖父の生家が建っている場所にあったのでは・・と。
だから、私は子供のころから、前を通る時に必ず「御先祖様、こんにちは(^・^)」と御挨拶をしていたのかな・・・?

「宮原の一族はここから始まった。だから、古の先祖様に敬意を表して御挨拶をしなければいけない」
とても「ズシン」とくる父の言葉です。

しかし、皆様はこのお話を聞いて、「この時代に?」と思われたかと・・
でも、私は、このようにして、子供の頃から「教育」されてきたのであります・・
当時は自分では当たり前の事だったのですが、大人になり都会での生活を行っていると、確かに今の時代の周りの人とはちょっと違う教育?だったのかな・・とは思っていました。

何せ、家に兜があるのは普通の事だと思って成長したような「娘」ですので・・
だから、今までの社会生活の上で、周囲の人から「不思議ちゃん」と呼ばれていたのかな・・????

でも、今の時代だからこそ、祖母や親戚、父からの「教え」はとても大事な事なのだと思えるようになりました。

では<(_ _)>(^・^)
[51]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年01月16日 21時08分32秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>同じ、物部氏族・・という事だけではないような・・気がしているのですが・・
 
当たり前ですよ!
貴方の先祖総数は平安中期で、当時の全人口と一致して飽和してしまいます。
重複を除けば一致はしませんが、物部氏族が圧倒的に多い傾向は変わりません。
古代から本貫地の傾向を引きずっているのです。
更に遡れば、日本人の大多数は古代シュメールからのDNAを引きずっているのです。
DNAのパターンは全世界バラバラですが、地域毎に一定の傾向があるのです。
[52]白石さんからのコメント(2015年01月16日 22時32分29秒 ) パスワード

【桓武平氏良茂流】
平高望の十男、良茂に始まる。 曾孫景成が相模国鎌倉を領有して鎌倉権守を称する。
 子の★鎌倉権五郎景政は源義家に属して、後三年の役に従軍して勇名を馳せる。
 後裔は鎌倉氏族とも呼ばれ、大庭氏、長尾氏、梶原氏などの諸氏は一族である。

★梶原景高の系は 子孫・香川氏になるのですね。
『陰徳太平記』をあらわす香川氏。
こちらの香川氏は岩国の人ですが 母の口から 岩国もよく聞かれました。
私の母の実家・佐田のお寺の住職は 香川氏。周防国最古の真宗寺院で佐田は檀家筆頭です。

★梶原は宇都宮にもつながり・・・
三つ巴の佐田は豊前宇都宮流でもあるので つながってくるかもしれませんね。

[53]子孫よりさんからのコメント(2015年01月17日 00時57分47秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、白石様、御教示ありがとうございます。

「重複を除けば一致はしませんが、物部氏族が圧倒的に多い傾向は変わりません。
古代から本貫地の傾向を引きずっているのです。」

私は、考えれば「当たり前の事」で立ち止ろうとしていたのですね・・
御教示、本当にありがとうございました。

白石様
「梶原景高の系は 子孫・香川氏になるのですね」・・・とのお話ですが
私も、以前より白石様から、お母様の御実家「佐田家」のお寺様が「香川氏」と伺っていた事により、宮原と梶原氏との繋がりが見えた瞬間に「あっ!白石様!!」とすぐに思いました(^・^)

色々な所で、繋がっていくものなのですね(^・^)

所で・・・
日本の苗字七千傑様からの御教示を読ませて頂いた後で
「物部氏族」「古代シュメール人」・・・と頭で繰り返しながら、検索をしてみたのですが、このような記述を見つけました。
http://ameblo.jp/yamadori0250/entry-11890963142.html
『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』
飛鳥昭雄  三神たける  学研     2011/5/11

少し転記させて頂きます。
<ニギハヤヒ命>
・読むとわかるが、ここに描かれたニギハヤヒ命は、まさに大王である、記紀においてはまったく無視された降臨神話がドラマチックに描かれている。すなわち、九州を出立したニギハヤヒ命は配下の32神と25部の物部氏一族を引き連れて、幾内は河内国の河上にある哮峰に降臨。大和国の鳥見にある白山に進出して、自らの王国を築いたというのだ。

 問題は、ここ。ニギハヤヒ命が築いた王国は物部王国であって、神武天皇が
ではないという点である。物部氏が歴史的にも封印された理由も、実はここにある。同じ天津神の末裔を主張しながらも、物部氏は大和朝廷以前に、まったく別の王国を築いていたのである。

<物部王国「日本」>
・なぜ海から見ての方角をもって地名としたのか。これに関して『先代旧事本記』には興味深い記述がある。物部氏の祖であるニギハヤヒ命は、河内に降臨
する際、天磐船(あめのいわふね)に乗って大空を駆けめぐった。同記述は『日本書紀』にもある。ニギハヤヒ命は空から眺めて、眼下の国を「虚空見つ日本国(やまとのくに)」と命名したというのだ
 天空を駆けめぐる船とは、飛行機やUFOを連想させるが、あくまでも現実的な史実の反映と見なすならば、海を渡ってきたと解釈できる。

(゜-゜)
※読むとわかるが、ここに描かれたニギハヤヒ命は、まさに大王である・・
※九州を出立したニギハヤヒ命は配下の32神と25部の物部氏一族を引き連れて・・
(゜-゜)
※『先代旧事本記』には興味深い記述がある。物部氏の祖であるニギハヤヒ命は、河内に降臨する際、天磐船(あめのいわふね)に乗って大空を駆けめぐった。同記述は『日本書紀』にもある。ニギハヤヒ命は空から眺めて、眼下の国を「虚空見つ日本国(やまとのくに)」と命名したというのだ・・・

『先代旧事本記』・・・やはり、必ず読みます。
ニギハヤヒ命は、天磐船(あめのいわふね)に乗って大空を駆けめぐった。

そうか・・・こちらのお話が何らかの形で、伝承されてきたのであれば・・
祖母の「空飛ぶ船には、御先祖様が乗っていらっしゃる」という言葉の指す、本当の意味がわかりました・・

でも、・・天磐船(あめのいわふね)のお話は初めて聞きました・・
私が、子供の頃から聞いていた話は『先代旧事本記』に記述されていた事に繋がっていたのですね・・驚きました。
「あくまでも現実的な史実の反映と見なすならば、海を渡ってきたと解釈できる。」・・そういう事なのですね・・

先祖は「星」になった・・この話も、きっと何かに繋がる事なのかもしれません。調べてみたいと思います。

でも・・・
日本の苗字七千傑様から伺ったように「物部氏族」は圧倒的に多い・・
他の、物部氏族末裔の方々も、私の家のように、色々な伝承を今でも聞いているのかな・・?
さらに、私の家では、子供の教育に「ハンムラビ法典」まで、取り上げますので・・よそのお家は如何なのかな?と・・

きっと、代々、何かしら継承している事なのでしょう・・

『天孫人種六千年史の研究』も、いまだに読めていません・・
「日本人シュメール起源説」の謎 というサイトに
http://hexagon.inri.client.jp/floorA3F_hb/a3fhb301.html
中略・・
この原田説を継承、発展させたのが三島敦雄氏である。

伊予大三島神社に奉職し、神社・古典に造詣の深い三島氏は、昭和2年12月に発行した『天孫人種六千年史の研究』で、「日本人シュメール起源説」を論じている。これは600ページ近い大著で、その論証は多岐にわたっている。
中略・・
三島氏の日本人シュメール起源説を要約すると、次のようなものになる。

「古代の日本列島にはさまざまな民族が渡ってきたが、建国の大業を経営統一した中心人種は、世界の諸文明の祖であるシュメール系民族だった。彼らは今から数千年前その大宗家たる皇室を奉戴して、人類文明の揺りかごである西の豊葦原の瑞穂の国から、日出ずる豊葦原の瑞穂の国に移住し、シュメール人本来の大理想を表現するためにこの日本を築いた」……と。

(゜-゜)
人類文明の揺りかごである西の豊葦原の瑞穂の国から、日出ずる豊葦原の瑞穂の国に移住し、シュメール人本来の大理想を表現するためにこの日本を築いた

「豊葦原の瑞穂の国」

葦原・・
私、実家にあった手紙の最後に記されていた「葦原様」の本当の意味が、少し見えてきたかもしれません・・

シュメール人 豊葦原の瑞穂の国 物部氏族 葦原様・・・

もしかしたら・・「葦原様」とは物部氏族である「宮原」もしくは「平川」の敬称だったのでは・・(あくまでも推測ですから、もちろん違うかもしれませんが・・)

それに、帰省した時に父と話したのですが、あの「手紙」は、もしかしたら、宮原宛だったのではないのかな・・・と。
(この件も、推測の域ではありますが・・)

勉強しなければいけない事が沢山あります。
でも、以前は「歴史は苦手」という気持ちが先行していたのですが、今は、歴史の勉強?が一番楽しいと思えるようになりました(^・^)

では<(_ _)>(^・^)
[54]子孫よりさんからのコメント(2015年01月17日 09時19分40秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

朝、目が覚めたら、先日、日本の苗字七千傑様に御教示頂いた
「井伊は遠江の地名。
三国姓井伊氏と藤原姓井伊氏は、泰直で合流。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01233a.htm
 
藤原姓三国氏を遡ると、藤原南家の周時(井伊祖)、周頼(相良祖)の兄弟が祖。
井伊氏/相良氏の遠祖。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022.htm  」

こちらのお話がすごく気になりまして・・

この頃調べていた事に、上記に繋がる「何か」があるかもしれない!と思い、さっそく、再確認をしたのですが・・
やはり、ありました!!

南部実継の系・・「南部氏」に非常に気になる「伝承」が残っていたのです・・
南部実継の娘は橘公綱の妻・・・

あらためて 南部実継 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%AE%9F%E7%B6%99
南部 実継(なんぶ さねつぐ、弘長2年(1262年前後) - 元弘2年12月13日(1332年12月31日))は、鎌倉時代末期の武士。南部実長の子。別名=源清長、通称=次郎、六郎次郎、波木井南部氏2代目。子に南部長継、南部政行室。
※子に南部長継、南部政行室

さらに・・
家督は子の長継、更に南部政行の次男の又次郎師行が継承することとなる。

(゜-゜)南部政行室・・という事は、橘公綱の妻が南部実継の娘・・
すなわち、橘公綱の妻の姉妹が「南部政行室」

南部政行 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%94%BF%E8%A1%8C_ (%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3)

南部 政行(なんぶ まさゆき)は、鎌倉時代末期の武将。南部氏第3代当主南部時実の次男(『続群書類従』)。次郎行長。
(゜-゜)ここで・・
南部政行の父「南部時実」とは南部実光の子供
南部実光の系譜は
父母 父:南部光行
兄弟 一戸行朝、実光、実長、七戸朝清、四戸宗清、九戸行連
子 時実(南部時実)・・・こちらの方ですね(゜-゜)

(゜-゜)南部 政行の記述転記を続けます・・

略歴[編集]
南部氏の初期の系譜は異同が激しいため諸説あるが、兄弟として南部政光、宗実、実政、宗継、義元がいたとされる。[1]

子は南部時長、師行、政長。しかし時長については南部義元の季(すえ)という説もあるなど、系譜で差異がある。山梨県南部町の諏訪明神社神官家若林家蔵の「南部氏系図」では、通説では甥にあたる南部祐行を政行の子とした上、祐行から南部祐政・南部政行と続いて南部宗家へ至っている。

また『寛政譜』や『祐清私記』によれば、政行は東氏の祖といい、『改正諸家系譜』には東氏を継いだ子として東重行、および孫・東政純の名がある。

政行は工藤氏に婿入りしたという(『陸奥南部一族』)。伝承では、政行の妻は工藤祐親(工藤祐光とも)の娘・八重姫で南部師行・南部政長をその子としている。 ただし、『八戸根城と南部家文書』(小井田幸哉、1986年)によれば、政行の室は南部実継の娘といい、政行との間に南部時長・師行・政長があり、また政行は後室との間に南部資行という子もあったという。のち時長兄弟と資行は祖父・時実の遺領を巡って争いを起こしている。

\(◎o◎)/!・・・・???
政行は工藤氏に婿入りしたという(『陸奥南部一族』)。伝承では、政行の妻は工藤祐親(工藤祐光とも)の娘・八重姫で南部師行・南部政長をその子としている。
(・・? でも・・こちらの伝承は時間軸が合わないような・・・??

ただ、伝承が残っているという事は、全く、無関係という事ではないような・・
南部政行よりも、もっと「前の世代」に関連する事なのでは・・??
気になるのは・・「政行は工藤氏に婿入りした」こちらですね。

ただし・・
先ほどの伝承「政行の妻は工藤祐親(工藤祐光とも)の娘」に登場した
工藤祐親(工藤祐光とも)
この方は・・
日本の苗字七千傑様に頂いた御教示にあった
「藤原姓三国氏を遡ると、藤原南家の周時(井伊祖)、周頼(相良祖)の兄弟が祖。
井伊氏/相良氏の遠祖。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02022.htm  」

【藤原南家為憲流】姓氏類別大観 を拝見すると、工藤氏の系「伊東祐光」の子「光頼」は工藤氏に養子に入り・・・
工藤光頼は相良頼寛の父です\(◎o◎)/!

(゜-゜)
「政行は工藤氏に婿入りしたという(『陸奥南部一族』)。伝承では、政行の妻は工藤祐親(工藤祐光とも)の娘・八重姫で南部師行・南部政長をその子としている。」
こちらの伝承?は確かに時間軸が「合わない」のかもしれませんが、しかし、偶然?にも「相良頼寛」に繋がる「情報」が何故か??残っている・・・
これって!????やはり「偶然」でしょうか????

宮原の先祖である伊予橘氏 橘公業の系と「南部氏」と「相良氏」は繋がっているような気がします・・

では<(_ _)>
[55]子孫よりさんからのコメント(2015年01月18日 00時29分09秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

三位房 日進 この方について調べたのですが・・・
まず、こちらをご覧ください。

日蓮宗 富士宮市 正法寺
http://www.myouhou.com/jiin/2008/09/post-121.html

御宇多天皇の御代、建治3年6月8日(1277年)宗祖日蓮大聖人の中老僧の1人三位阿闍梨日進上人の開山。日進上人は嵯峨源氏安倍貞任の後裔である。上人の父は仏道に帰依し、日蓮上人の鎌倉における説法に深くうたれその弟子となり、その子3人も亦弟子になった。父は日元、子は日進・日善・日上の法名を賜る。文永8年(1271)9月12日、聖人竜ノ口法難の折、13才であった日進上人は日朗上人と共に捕えられて土牢に入れられる。後、聖人佐渡流罪も御赦免となり、文永11年6月17日身延山に入られ、日元は奉侍のため聖人の草庵近くに居を移し、日進・日善共に御給仕申し上げている。この居所は後の竹ノ坊で、日元上人の開基、日朗上人の開山となっている。
 日進上人19歳の折、身延への途中、駿州柚野の里で足をいため、湯治中、当時この正法寺は真言宗の道場で慈眼法印なる者がいた。日進上人は此の法印と大いに法論し、これを折伏し、この道場を日蓮宗となし、身延山直末竹養山正法寺とした。今より約735年前のことである。
  日進上人55才の折、身延2世日向上人の嘱を承け祖山3世となり、祖山の為に尽力され、在位22年元徳2年(1330)12月8日76才にて遷化された。

(゜-゜)日進上人は嵯峨源氏安倍貞任の後裔である。上人の父は仏道に帰依し、日蓮上人の鎌倉における説法に深くうたれその弟子となり、その子3人も亦弟子になった。父は日元、子は日進・日善・日上の法名を賜る。
※日進上人は嵯峨源氏安倍貞任の後裔・・

安倍貞任 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%B2%9E%E4%BB%BB

安倍 貞任 (あべ の さだとう)は、平安時代中期の武将。安倍氏の棟梁・奥六郡の俘囚の豪族安倍頼時の第2子。厨川柵主として、安倍厨川次郎貞任とも。妹聟に藤原経清(奥州藤原氏初代藤原清衡の父)がいる。

※安倍氏の棟梁・奥六郡の俘囚の豪族安倍頼時の第2子
あれっ??先日、コメントした球磨の白鳥地名のお話が頭に浮かびました・・?

続けます・・・
永承6年(1051年)に、安倍氏と京都の朝廷から派遣されていた陸奥守藤原登任との争い[2]に端を発して、以降12年間にわたって続いた前九年合戦において、東北各地に善戦する。登任の後任として源頼義が翌永承7年(1052年)に赴任すると、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原彰子)の病気快癒祈願のために大赦が行われ、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなったが、天喜4年(1056年)に、阿久利川において藤原光貞の営舎が襲撃される阿久利川事件が起こると、頼義は事件の張本人と断定された貞任の身柄を要求し、父の頼時がこれを拒絶して再び開戦となる。天喜5年(1057年)、安倍頼時が戦死したため貞任が跡を継ぎ、弟の宗任とともに一族を率いて戦いを続けた[3]。

同年11月には河崎柵に拠って黄海(きのみ、岩手県東磐井郡藤沢町)の戦いで陸奥守・源頼義勢に大勝している。以後、衣川以南にも進出して、勢威を振るったが、康平5年(1062年)7月、国府側に清原氏が頼義側に加勢したので形勢逆転で劣勢となり、安倍氏の拠点であった小松柵、・衣川柵・島海柵が次々と落とされ、9月17日には厨川柵の戦いで貞任は敗れて討たれた。深手を負って捕らえられた貞任は、巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ったという。その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた(この故事に倣い、後年源頼朝によって藤原泰衡の首も同様の措置がされた。平泉の中尊寺に現存する泰衡の首には、釘の跡が残っている)。なお、弟の宗任は投降し、同7年3月に伊予国に配流され、さらに治暦3(1067)年太宰府に移された[4]。
(゜-゜)弟の宗任は投降し、同7年3月に伊予国に配流され、さらに治暦3(1067)年太宰府に移された・・「伊予国」と「大宰府」・・・

背丈は六尺を越え、腰回りは七尺四寸という容貌魁偉な色白の肥満体であった(『陸奥話記』による記述)。衣川柵の戦いにおいては、源義家と和歌の問答歌をしたとされる逸話も知られる。 『今昔物語』には、安倍頼時(貞任の父)は陸奥国の奥に住む「夷」と同心したため源頼義に攻められ、貞任・宗任兄弟らは一族とともに「海の北」[5](北海道)に船で渡り河の上流を30日余り遡った当たりで「湖国の人」[6]の軍勢に遭遇した、と伝えられている。[7]。

後裔[編集]
津軽地方の豪族・安東氏(のち秋田氏)は貞任の子、高星の後裔を称した。盛岡市出身で東京府知事の阿部浩も末裔を自認した。 第90・96代内閣総理大臣・安倍晋三氏も末裔であると日下公人氏に語ったとされ、また第23回参議院議員通常選挙に向けて北上市で遊説を行った際、「貞任の末裔が私となっている。ルーツは岩手県。その岩手県に帰ってきた」と聴衆に語りかけた。

(゜-゜)津軽地方の豪族・安東氏(のち秋田氏)は貞任の子、高星の後裔を称した・・・

安東氏(のち秋田氏) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%B0%8F
安東氏(あんどううじ、あんどうし)は、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで、陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。本姓は安倍を称した。

概要[編集]
鎌倉時代の歴史書によると安藤五郎が鎌倉時代初期に津軽地方に置かれ蝦夷対応に当たったのが初めとされているが、正確なところは不明である。鎌倉時代末期には御内人として蝦夷沙汰代官職を務め、津軽地方を本拠地に西は出羽国秋田郡から東は下北半島まで一族の所領が広がった[4]。のち二家に分裂し檜山郡と秋田郡にそれぞれ割拠し、室町時代には秋田郡の一族が京都御扶持衆に組み入れられている。二家は後に統合し戦国大名となった。本家は16世紀後半以降秋田氏を名乗り江戸時代を通じて大名として存続し、明治維新後は子爵となった。

(゜-゜) あれっ??檜山郡と秋田郡
檜山・・・ええっ?!檜山? 旧岡原村にも「檜山」地区がありました。(いまでもそう呼んでいます。)
岡原小学校が平川の土地から移転したというあの場所です。当時は宮原家の土地でした・・
日本の苗字七千傑様から以前「小字」は領主の好みで名が付けられた・・と伺いました。\(◎o◎)/!そういう事か!!

(゜-゜)続けます(すごく長い記述なので、気になるところをピックアップいたします)
安東氏一族の所領は現青森県地方・道南地方に留まらず、鎌倉中期から橘氏の支配を離れた出羽小鹿島が北条氏の所領となり、安東氏がその地頭代となったのではないかとする説もあり、惣領家とは別の安東一族の海を通じた広がりが推定されている。鎌倉時代後期[32]から室町時代[注釈 7]には、南下し秋田郡に拠った一族は上国家を称した。

(゜-゜)鎌倉中期から橘氏の支配を離れた出羽小鹿島が北条氏の所領となり、安東氏がその地頭代となったのではないかとする説もあり、・・・
\(◎o◎)/!えええっ!!
橘氏つ〜ことは・・出羽小鹿島は 橘氏(宮原先祖) → 北条氏(地頭代 安東氏) という事ですか!!

三位房 日進 という方はちょうどこの時期の人物ですよね・・!??

うわぁ〜〜!!何だか、ビックリしました。三位房 日進という方を調べたら、このような展開となってしまって・・

ものすご〜〜く気になり始めたので・・
日本の苗字七千傑様の【安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏/難波吉士氏】姓氏類別大観 から順番に拝見したのですが・・
もう、最初からビックリです。
「安倍氏は孝元天皇の皇子大彦命の子建沼河別命の裔孫と伝えられ、大和国十市郡発祥説が有力である。
 同族の大臣命は景行朝に那須国造となり、後世家系は藤原に改姓して源平合戦では那須与一宗隆が活躍する。」
那須氏!!です。という事は「那須大八郎」この方はこちらの系なのですね・・
祖父の父違いの姉は「那須家」に嫁ぎ、「那須大八郎」の末裔を妻とする田丸家の当時の当主は、私の祖父と「将来、お互いの孫同士で結婚させる事が出来たらいいな〜」と夢を語っていた・・(実際、現実となりました)
さらに「武内宿禰」様も見えます・・(今年も宇佐神宮に伺った際は「黒男神社」にしっかりとお参りしました・・父が必ずお参りしなさいといつも言っています・・あれっ?・・??)

陸奥安倍氏 姓氏類別大観 を拝見したのですが・・
「白鳥氏」です! ええええっ!!こうなると、先日のコメントは、今日の調査の為の「予習」だったような・・・\(◎o◎)/!
あいゃ〜!!(奇声が出てしまいます)
「松浦氏」にも繋がっています〜!!「松浦氏」と「大村氏」については、以前、平河の調査で気になって少し調べていました・・!
「新田氏」にも「足利氏」にも繋がっています〜!!
《安東氏/秋田氏》 姓氏類別大観 を拝見したのですが・・
こちらにも「藤崎氏」が・・偶然かな??

《小松氏/白鳥氏/安藤氏》 姓氏類別大観 を拝見したのですが・・
\(◎o◎)/! ああああああああっ!!
偶然でしょうか?? 「一の文字?」の家紋がっ!!

先日からの調査で祖父の兜に付いていた「三種類」の家紋が全て揃いました。
「違い鷹の羽」と「丸に剣片喰」と「一の字」

(゜-゜)
そもそも・・以前見つけた「三位房」という方の情報「平河の一族であろう三位房・・」という記述から今まで調査を行っていたのです。

所が・・調査の結果は、上記のとおりです・・

「三位房 日進」という方を調べたら・・こうなりました・・というお話でした。

では<(_ _)>
[56]子孫よりさんからのコメント(2015年01月18日 07時55分22秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日のコメント55で、平安末期から鎌倉時代にかけての「阿部氏」「安東氏」と、伊予橘氏である宮原の先祖との繋がりが見えてきたところで、本当は、もっと遡ったところに何かあるのでは?と考え、調べてみました。

すると・・とても興味深い記述を見つける事が出来ました。
阿部氏・安倍氏・膳氏 安東氏・高橋氏 というサイトです
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/abe.htm#kurahashi

こちらに以下の記述が・・
安倍頼時 安倍貞任 安倍宗任 について

安倍頼時(あべのよりとき)
平安中期、陸奥の豪族。会津で会見した大毘古命&武渟川別命の子孫と伝わる。初名、頼良。貞任・宗任の父。奥六郡の司として蝦夷を統率。陸奥守源頼義に攻められ、敗れて流矢に当り、1057年、鳥海柵(とりのみのき・安倍宗任の城柵。現在の岩手県胆沢郡金ヶ崎町鳥海が遺跡という。)で没。

安倍貞任(あべのさだとう)
平安中期の豪族。頼時の子。宗任の兄。厨川(くりやがわ)次郎と称す。前九年合戦で源頼義・義家と戦い、厨川柵(岩手県盛岡市大字下厨川にあった城柵)で敗死。(1019〜1062)
長男、千代童丸は父と共に自害したが、3才の次男高星丸は、津軽平川郡(現、青森県藤崎町)に旧臣と共に逃れ、その子孫が十三湊に居城を構えたという。そして、安倍氏季の娘、露姫が、平泉から藤原秀衡の弟、秀栄を婿に迎えた時に、「安東」と改姓したと言われている。しかし、このような伝承の明確な裏付けは無く、資料の真偽・解釈を巡り、現在も論争は絶えない。

安倍宗任(あべのむねとう)
平安中期の豪族。頼時の子。貞任の弟。鳥海(とりうみ)三郎。前九年合戦(1051〜1062)で源頼義と戦って敗れ、いったん京都に連行されたが、伊予流刑の後、大宰府に移され出家。一族、旧臣も美作、国東、伊予、肥前松浦、長門豊浦に移住したという。松浦党(中世、肥前の松浦地方を中心として九州の北西部に割拠した武士団。同族的結合が強いので著名。)はその後裔という。生没年未詳。
松浦といえば、「松浦の小夜姫」の本拠地。海人のネットワークの良さには、本当に脱帽する。

(゜-゜)安倍貞任の記述に・・
3才の次男高星丸は、津軽平川郡(現、青森県藤崎町)に旧臣と共に逃れ、その子孫が十三湊に居城を構えたという。
橘姓の「藤崎氏」は「肥後国飽田郡藤崎庄を発祥の地とする橘姓の藤崎氏。公綱が藤崎氏を称する。」となる事は理解できています。
しかし・・津軽平川郡(現、青森県藤崎町) 「平川」と「藤崎」・・偶然でしょうか??

さらに前九年合戦(1051〜1062)。 球磨に「平河」を名乗る「師澄」が登場した時期に近いです・・?

さらに「松浦党」と言えば・・
僧尋覚と松浦十郎連の相論 平川家について12 コメント70・71で調べていました。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101352_93.html

※安倍貞任の3才の次男高星丸は、津軽平川郡(現、青森県藤崎町)に旧臣と共に逃・・「平川」「藤崎」・・?
※安倍宗任伊予流刑の後、大宰府に移され出家。一族、旧臣も美作、国東、伊予、肥前松浦、長門豊浦に移住。松浦党はその後裔・・・?
(?_?) 偶然でしょうか・・・??

でも・・奥州合戦の時には橘公業は奥州藤原氏と戦っていますよね・・??
さらに、その後秋田を所領(橘公員)。
そういえば・・お隣は「中原氏」が所領していました・・
まるで・・饒速日尊を祖とする物部氏が同地域を治めたような・・??

どんどん気になるので先ほど御紹介したサイトをじっくり読んだのですが・・
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/abe.htm#kurahashi

安東蓮聖(あんどうれんしょう)
鎌倉末期の北条氏の御内人。摂津守護代。民謡「十三の砂山」で有名な、津軽半島の十三湊(とさみなと)を本拠地として、瀬戸内海方面を中心に海上輸送・銭貨貸付などによって巨富を積んだ。安東氏の交易範囲は、蝦夷地から千島・沿海州に及び、敦賀・小浜の拠点からは、中国とも交易していたという。(1239〜1329)

安東氏自身は、大和生駒で神武天皇に滅ぼされた長髄彦の兄、安日彦(あびひこ)が、一族の先祖だと伝えている。安日彦は安倍氏を名乗り、その子孫が頼時&貞任・宗任親子であるといい、安東氏は、貞任の次男の末裔だというのだから同族であろう。長髄彦は、別名「登美毘古(とみびこ)」といい、「登美」は「鳥見」とも書く。大和鳥見郷(生駒山東方)の土豪で、妹の鳥見屋媛(とみやひめ)は、饒速日尊(越智氏・物部氏・穂積氏の祖)の妃だ。
この「鳥見」は、神武天皇が皇祖天神(高皇産霊命)を祀った鳥見山の鳥見だ。鳥見郷は、奈良市富尾町付近の古名とするのが定説だが、平群町の石床神社、天理市の石上神宮と、饒速日尊を祀る神社は東に広がっており、生駒山の東、つまり奈良一帯が勢力範囲だったものと思われる。それに字もズバリ「鳥見」だ。当に阿倍の地は、長髄彦の本拠地だったといっても過言ではないと思う。

\(◎o◎)/!
※安東氏自身は、大和生駒で神武天皇に滅ぼされた長髄彦の兄、安日彦(あびひこ)が、一族の先祖だと伝えている。
※安日彦は安倍氏を名乗り、その子孫が頼時&貞任・宗任親子であるといい、安東氏は、貞任の次男の末裔だというのだから同族であろう。
※長髄彦は、別名「登美毘古(とみびこ)」といい、「登美」は「鳥見」とも書く。大和鳥見郷(生駒山東方)の土豪で、妹の鳥見屋媛(とみやひめ)は、饒速日尊(越智氏・物部氏・穂積氏の祖)の妃だ。

ミカシキヤヒメ ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%82%AD%E3%83%A4%E3%83%92%E3%83%A1

ミカシキヤヒメは、日本神話に登場する女神。『日本書紀』では三炊屋媛、鳥見屋媛、長髄媛、『古事記』では登美夜毘売と記する。御炊屋姫、櫛玉姫命、櫛玉比女命、櫛玉比売命、などとも表記される。

長髄彦の妹で、饒速日の妻となる。饒速日との間に物部氏の祖先神である、可美真手を生んだ。

\(◎o◎)/!
という事は!!
※安倍貞任の3才の次男高星丸は、津軽平川郡(現、青森県藤崎町)に旧臣と共に逃れ、その子孫が十三湊に居城を構えたという。そして、安倍氏季の娘、露姫が、平泉から藤原秀衡の弟、秀栄を婿に迎えた時に、「安東」と改姓したと言われている。
※安東蓮聖は、津軽半島の十三湊(とさみなと)を本拠地として、大和生駒で神武天皇に滅ぼされた長髄彦の兄、安日彦(あびひこ)が、一族の先祖だと伝え・・
※長髄彦 安日彦 この方々の妹が「鳥見屋媛」
※鳥見屋媛(御炊屋姫)は饒速日尊(越智氏・物部氏・穂積氏の祖)の妃。

\(◎o◎)/!そういう事だったのですね!!
という事は・・饒速日尊の末裔である物部氏族 伊予橘氏「橘公業・公員」と「安東氏」は、ものすご〜〜く遡れば「縁戚関係」にあった・・
\(◎o◎)/!奥が深すぎる〜〜〜!!
単純な事ではないのですね・・・

という事で・・
「三位房 日進」という方を調べたら「安東氏」に繋がり・・「さらに」こうなりました・・というお話でした。
では<(_ _)>
[57]子孫よりさんからのコメント(2015年01月19日 09時58分05秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

昨日、「ここまでの勉強?が、以前の調査に何か関係していないか?さらに見落としがないか?」と思い、あらためて、コピーしていた「山江村誌」を読んでいたのですが・・・

ありました\(◎o◎)/!沢山、見落としています!(実際には、山江村誌を読んだ当時の私が知識不足であったというのが正解です・・)

では早速(p_-)
平川家について20 コメント2 http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101403_82.html
で登場した相良長頼の娘と言われていた「犬童女」という女性と「平姓」の某氏についてです。

必要な部分を転記します(._.)
平川家について20 コメント2 より
==============================================
「甲斐源氏」のお話ですが・・・・
あの・・この頃ずっと「源氏?」に繋がっていると思い込んでいたのですが、実は、強烈な衝撃を受ける記述を読んでしまいまして・・この数日、頭が混乱していました。
尼妙阿(良峯女)の夫の姓は「平」の人だった様なのです・・・????(?_?)

※1/19追加・・白石様の御教示にあった「甲斐源氏」・・繋がっていたのは「宮原」(橘公業・橘公員・橘公綱でございました(._.))
(._.)コメントを整理しながら転記を続けます・・・

※尼妙阿とは「犬童女」の法号である
※・・この犬童丸名を得ていた西信(永網)は犬童氏祖にあたる人物と推定される。
※平永綱は ... 犬童丸名地頭であつた西信は平永綱(法名西心)と同一人物と考えられる。
※長頼女の一人を犬童女と記しているが、この女性こそ正しくは長頼の姉妹であり、永綱の母 ...
※平永綱は相良(藤原)長頼の甥である。平姓であるから長頼妹(または姉)※犬童女こと「尼妙阿」を母とし平某を父とした。
※平永綱 法名西心とは実は 相良頼員 法名西信 ・・・同一人物
※「尼妙阿」は良峯氏に嫁いで「良峯氏女」と呼ばれていた・・

==============================================

(゜-゜)という事が調査して解かったのが「平川家について20 コメント2」だったのですが・・
山江村誌にも、上記に関係する記述が記されていたのです。
球磨の図田帳に記されていた「人物」に関する調査内容でした・・
肥後国球磨郡図田帳より 
蓮花王院人吉庄六百町
  領家 八条女院
  預所 対馬前司 清業
  下司 藤原友永 字人吉次良
  政所 藤原高家 字須恵小太良
  地頭 藤原季高 字合志九良
     藤原茂綱
     藤原真宗 字久米三良
     尼西妙

(゜-゜)上記の 地頭 藤原茂綱についての推測が「山江村誌」にありました。転記します。

山江村誌より
藤原茂綱の字名は不明であるが、寛元元年(一二四三)十二月二十三日の関東下知状に見える「蓮仏(相良頼景)遣 平左衛門尉盛綱」と同一人物である可能性が高い。
また、相良頼景との関係と通字「綱」から「田部氏系図」(多良木町、源嶋明美所蔵)に見える「緒綱」も候補の一人である。そして、もう一人「平永綱」がいる。
永綱は、「伯父永頼法師」という関係であるから、永頼(長頼)娘が藤原茂綱に嫁ぎ、永綱の母になったのではないだろうか。
尼西妙については不明である。工藤敬一氏は「平河氏か」とも推測されている。税所氏の可能性もある。

(゜-゜)藤原茂綱という人物の推論
@「蓮仏(相良頼景)遣 平左衛門尉盛綱」と同一人物である可能性が高い。
A「田部氏系図」に見える「緒綱」も候補の一人
B永頼(長頼)娘が藤原茂綱に嫁ぎ、永綱の母になったのではないだろうか。

上記にある「可能性が高い」と言われた「平左衛門尉盛綱」とは?・・調べました。

平 盛綱 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E7%B6%B1_ (%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%85%B5%E8%A1%9B%E5%B0%89)
平 盛綱(たいら の もりつな、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の武士。鎌倉幕府の執権北条氏の家司。内管領長崎氏の祖。
平資盛の子[1]、或いはその曾孫[2]ともされるが、確かな出自は不詳である。
鎌倉幕府執権の北条氏に家司として仕え、執権が別当を兼ねる侍所の所司を務める。承久の乱や伊賀氏の変の処理において実務能力を発揮して北条泰時・経時・時頼ら3代の執権を助けた。承久の乱の後に幕府の「安芸国巡検使」として安芸国に赴き、同国国人の承久の乱当時における動静を調べて泰時に報告したことなどは、その事跡の一つである[3]。
元仁元年(1224年)には泰時の命令を受けて北条氏の家法を作成したとされる。御成敗式目制定の奉行も務め、初の武家成文法の制定に関与した。文暦元年(1234年)には家令の地位に就いて、後世その子孫が幕府内管領の長崎氏として発展する礎を築いた。
仁治3年(1242年)に出家して隠退。『吾妻鏡』により、建長2年(1250年)3月には既に死亡していることが知られているが、詳細は不明である。法名は盛阿。
平禅門の乱で著名な平頼綱は、その孫である。

(゜-゜)平 盛綱(たいら の もりつな、生没年不詳)は、鎌倉時代初期の武士。鎌倉幕府の執権北条氏の家司。内管領長崎氏の祖。
平資盛の子[1]、或いはその曾孫[2]ともされるが、確かな出自は不詳である。

(゜-゜)?内管領長崎氏の祖・・

長崎氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E6%B0%8F
平資盛の末裔と称する平盛綱が北条得宗家の家令となり、伊豆国田方郡長崎郷(現在静岡県伊豆の国市)の地を得て長崎氏を称したのに始まるという[1]。
\(◎o◎)/!現在静岡県伊豆の国市・・これまた「静岡県」です。

平盛綱は、北条泰時・経時・時頼の3代の得宗に仕えた。承久の乱で、泰時が出立の時に従った18騎の一人となる。伊賀氏の変、宮騒動でも活躍した。1234年(文暦1年)8月5日には、尾藤景綱のあとを受けて泰時の家令となり、御内人の頂点に立った[1]。 盛綱の子の平頼綱も得宗北条時宗・貞時の家令(内管領)となり、1285年(弘安8年)幕府の有力御家人である安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし幕府の実権を握ったが、1293年(永仁元年)貞時に襲撃されて自害した(平禅門の乱)。

(゜-゜)とあるのですが・・
山江村誌に記述されていた「平左衛門尉盛綱」と「平盛綱」が同一人物かどうかこの時点では解かりません。

さらに調査をすると・・
平盛綱の子「平 盛時」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E6%99%82_ (%E5%BE%A1%E5%86%85%E4%BA%BA)
平 盛時(たいら の もりとき)は、鎌倉時代中期の武士。北条氏得宗家の御内人。侍所所司。鎌倉幕府執権、北条泰時・経時・時頼に仕える。系譜ははっきりしないが、平盛綱の子で、平禅門の乱で知られる平頼綱の父と推定されている。
生涯[編集]
史料上の初見は安貞2年(1228年)10月15日、将軍藤原頼経に進上する馬を曳く記録である。その後も歴代執権の椀飯で馬を引く役目を務めている。嘉禎2年(1229年)、鶴岡八幡宮の弓始義で射手を務める。
暦仁元年(1238年)、将軍頼経の上洛に随兵として従う。延応元年(1239年)、九条道家の病気見舞いに頼経の使者と共に上洛。寛元2年(1244年)4月、頼経からその子頼嗣への将軍交替を伝える使者となって上洛する。同年8月15日、新将軍・頼嗣の鶴岡放生会に供奉。
寛元4年(1246年)の宮騒動では諏訪盛重・尾藤景氏らと共に執権時頼に近侍し、将軍側近の使者に対して時頼との面会を拒絶している。騒動後の寄合に加わって事件処理を行う。翌年の宝治合戦後は侍所所司として諏訪盛重と共に罪人の尋問や三浦一族自害の様子を目撃した承仕法師から事情聴取を行い、恩賞問題や三浦遺族の戦後処理にあたった。
正嘉元年(1258年)正月、御弓始の射手となる。同年将軍宗尊親王の仁所詣随兵の奉行。弘長元年(1261年)、三浦義村の子大夫律師良賢を逮捕。近衛宰子御参の供奉人を奉行。
弘長3年(1263年)には出家して平左衛門入道と称し、子息の1人が将軍宗尊親王上洛の随兵に選ばれている。

(゜-゜)平 盛時 平左衛門入道と称す・・・・あれっ??
余談ですが・・
嘉禎2年(1229年)、鶴岡八幡宮の弓始義で射手を務める。
鶴岡八幡宮の弓始義と言えば・・
http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/jyomasinji.htm
「除魔神事」は、源頼朝が幕府において「御的始」「御弓始」と称して行った武家の事始めを起源としています。
弓矢には古来より魔を退ける力があるとされています。

〜御弓始の最初の記録〜
『吾妻鏡』の記録では、1180年(治承4年)12月20日、源頼朝の新造御所(大倉御所)での「椀飯」(おうばん)の折、酒宴の余興に「御弓始の儀」が催されました。
これが「御弓始」の最初の記録となります。
 ※「椀飯」とは、御家人が頼朝を饗応する行事のこと。 
一番 下河辺行平 対 愛甲季隆
二番 橘公忠     対 橘公成
三番 和田義盛 対 工藤行光

(^・^)「御弓始」の最初の記録に先祖様の「名」が載っていました(^・^)・・・
すみません(._.)脱線しました・・

調査に戻ります(p_-)
「平左衛門尉盛綱」と「平盛綱」が同一人物かどうか?
「平盛綱」の子 平盛時 平左衛門入道と称す・・
まだまだ、解かりません(p_-)・・・と思っていたら・・
見つけました(^・^)

清和源氏義光流「竹内系図」の中に
平賀盛義の系・・小野義行の妻であり小野時綱の母が「平左衛門尉盛綱女」とありました(^・^)
http://www.geocities.jp/okugesan_com/hanke2.htm

という事は・・山江村誌の記述にあった
※藤原茂綱の字名は不明であるが、寛元元年(一二四三)十二月二十三日の関東下知状に見える「蓮仏(相良頼景)遣 平左衛門尉盛綱」と同一人物である可能性が高い。
上記の「藤原茂綱」の可能性が高い「平左衛門尉盛綱」とは「平盛綱」という事ですね\(◎o◎)/!

\(◎o◎)/! 山江村誌の記述を基に推測すると
※「平左衛門尉盛綱」こと「平盛綱」は「藤原茂綱」と同一人物である可能性が高い
※永頼(長頼)娘が藤原茂綱に嫁ぎ、永綱の母になったのではないだろうか。

そして今までの調査で解かっていた事は
※尼妙阿とは「犬童女」の法号である
※・・この犬童丸名を得ていた西信(永網)は犬童氏祖にあたる人物と推定される。
※平永綱は ... 犬童丸名地頭であった西信は平永綱(法名西心)と同一人物と考えられる。
※長頼女の一人を犬童女と記しているが、この女性こそ正しくは長頼の姉妹であり、永綱の母 ...
※平永綱は相良(藤原)長頼の甥である。平姓であるから長頼妹(または姉)※犬童女こと「尼妙阿」を母とし平某を父とした。
※平永綱 法名西心とは実は 相良頼員 法名西信 ・・・同一人物
※「尼妙阿」は良峯氏に嫁いで「良峯氏女」と呼ばれていた・・

\(◎o◎)/!ありゃ〜〜〜〜!!
こうなっちゃいました!!


あっ!!イカン!もっと大事な事を見逃すところでした・・
平賀盛義の系・・小野義行の妻であり小野時綱の母が「平左衛門尉盛綱女」
「平賀氏」です!!あれっ?????

日本の苗字七千傑様の【清和源氏義光流】姓氏類別大観をマタマタ拝見する事となりました・・

「宮原」の先祖もこちらに繋がり(甲斐源氏)・・平河の調査(尼妙阿について)もこちらに繋がり※平賀盛義の系小野時綱の母が「平左衛門尉盛綱女」

日本の苗字七千傑様の【清和源氏総括】姓氏類別大観 に戻ってみれば・・
※相良頼寛の姉妹は源義家の妻で子の「家永」は横地氏の祖
※源義光の系は宮原の先祖「橘公員・橘公綱」と繋がり・・
※同じく源義光の系は「平河(良峯氏)に嫁いだ尼妙阿」の夫可能性大の「平盛綱」に繋がり・・
(゜-゜)みんな繋がっています・・・?

あっマタマタ忘れる所でした・・
平 盛綱の父、もしくは曾祖父とされる「平資盛」についてです。

平 資盛 ウィキより(何度めだろう・・よく登場されます・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%87%E7%9B%9B
平重盛の次男。母は藤原親盛の娘。位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。
妻 正室:藤原基家の娘
   妾:建礼門院右京大夫

「妾:建礼門院右京大夫」 この方なのですが

建礼門院右京大夫 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E7%A4%BC%E9%96%80%E9%99%A2%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%A4%AB
建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうのだいぶ、保元2年(1157年)? - 没年未詳)は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての女流歌人。父は藤原(世尊寺)伊行。母は大神基政の娘で箏の名手である夕霧。名は伊子という説がある。[1]
承安3年(1173年)高倉天皇の中宮建礼門院平徳子に右京大夫として出仕。藤原隆信、平資盛と恋愛関係にあり、資盛の死後、供養の旅に出たという。建久6年(1195年)頃後鳥羽天皇に再び出仕した。
家集に資盛との恋の歌を中心とする「建礼門院右京大夫集」がある。
山路の露の作者であるとする説がある。

(゜-゜)この方は「藤原義孝」の後裔となるのですよね・・・
「藤原義孝」は「良峯少尉義孝」・・

(゜-゜)平 盛綱。平資盛の子、或いはその曾孫ともされるが、確かな出自は不詳である。
平 盛綱の母はどなたなのでしょうか・・・・・・?

という事で
肥後国球磨郡図田帳にあった
「藤原茂綱」とは「平盛綱」の可能性が高く、「平盛綱」と尼妙阿の子供が、「平永綱」こと「相良頼員」(犬童氏の祖)である可能性が、これまた高く、なおかつ「尼妙阿は良峯氏(平河)に嫁いでいた・・」のは事実で・・
どうなっているの??というお話でした。
では<(_ _)>(^・^)
[58]子孫よりさんからのコメント(2015年01月19日 12時40分25秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

平盛綱は平資盛の子ではなく平盛時の子供なのですね\(◎o◎)/!

日本の苗字七千傑様の【桓武平氏維盛(駿河守)流】姓氏類別大観で確認しました。
※旧説で長崎氏の祖平盛国は平資盛の子とされるが、実は本系図盛基の子盛国。
と書かれています。

こちらの系図を拝見すると・・
藤原(山科)実教の養子「藤原教成」が見えます・・
あっ!!そうでした。藤原実教の子「公長」の妻は「藤原師高」の娘でした!
※徳大寺公能の兄弟「徳大寺公親」養子「藤原実教」→ 山科公長(妻:藤原師高の娘)

長崎氏の姓氏類別大観に目を移すと・・
「藤原氏長良流 有馬氏へ」・・\(◎o◎)/!
【藤原氏長良流】姓氏類別大観には、ずっと気になっていた「師純(師澄)」。この方の系をたどると「有馬氏」「大村氏」・・・

「平河」の調査では初めて具体的な「名」をもとに系図の繋がりが見えました\(◎o◎)/!
長崎盛綱の系では「頼」の通字が複数見られます・・?

そうか・・・
平盛綱(長崎盛綱)の系は遡れば「藤原家成」にも「藤原師澄」にも繋がっていくという事ですね・・

では(^・^)・・・(?_?)



[59]白石さんからのコメント(2015年01月20日 06時51分53秒 ) パスワード

おはようございます。
夢を見ました。
夢の中の設定は
戦乱で生き別れた大事にかわいがっていた馬と偶然再会して安心しました。ということですが
毛並みもつやもよくて どうやって生き延びたのかしらん?と思うけど
人に飼われているようでもなかったです。
顔をこすりつけて 全身で喜びを表して私も懐かしさがこみあげ
二人?一頭と一人で喜び合いました。
そして
水路があって そこを抜けるとあちら側に行けるのだけど
トンネルのようになっていて 頭の高さが低く 通れるのかしら?と思っているうちに
その 馬が しゅるんと 小さくなって 先頭を切って進んでいくのです。

夢はそこで 終わりましたけど 
亡くなった父は 午年だったんです。父が夢にでてきたのかしらん?とか 思いながら 夢の中で 馬を信じて進んでいこうとしていたので 
何か 父が導いているのだろう?と も 思うことでした。

でも
いきているものみんな が 幸せに楽しく暮らせる地球であるように
これ以上は 地球を汚さないように しないといけませんね。
そして
テロ行為のように 主義主張があるなら もう少し 他のやり方でやってほしいというようなこと
も 声を大にして みんなで 訴えたいことだと思います。

去年から 知り人のお母さんが 二人 大往生をとげました。
勝清先生の娘さん 92歳だったか?
同級生が結婚した渡辺さん の お母さん やはり 92歳だったか?
天寿を全うしての 大往生です。
私の 知っている人は 大体 天寿を全うしているので
長生きの人たちだと思います。

こうやって 自分の寿命をまっとうできる ように
地球をきれいに 争いのない世の中になるように
我々も務めていかなければならないと 改めて思ったことでした。

ネットに出ていた 勝清先生から むすこへ の手紙の 息子は 関東に住んでいるそうで
先日 私の同級生という お孫さん(こちらは 球磨に住んでいる)
と 話して
池井とは やはり 校長先生をしていた池井先生とこで
その お父さんが 神職をしていたと 言っていました。
[60]子孫よりさんからのコメント(2015年01月20日 08時33分40秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、コメントありがとうございました(^・^)

不思議な夢ですね
でも、きっと遥かなる昔に白石様の御先祖様が大事に愛しんでいた馬さんだったのではありませんか(^・^)
白石様と「馬」さん・・・馬・・馬?

あの・・めちゃくちゃ気になったのですが、お父様が「午年」で・・
どうして「馬」に関係するのですか?私、知識が全くないのですが「馬」と「牛」という「文字」には何か関係性があるのでしょうか?

尼妙阿は「牛御前」とか「牛尼御前」と呼ばれていたのです・・?

今まではず〜っと「牛」(モォ〜〜〜)のイメージが強かったのですが・・
そう言えば尼妙阿に対しての「鎌倉幕府将軍家政所下文案」に宛先を「藤原字牛」と書いてあって・・ワァ〜オと思った事がありました。

でも、白石様のお話を伺って「牛」と「馬」の文字に何か意味があるのかな??と・・

そう言えば、ず〜〜〜っと気になっている事があります。

先祖「橘公業」の系は「馬」に関連する役職を継承していた・・これは理解しているのですが・・
この頃の調査で登場する方々、殆ど(大げさではありません)が「馬」に関連する役職?がついていました・・
記述を読むたびに「あっまた!馬さん・・?」となっています。
調査に登場してきた「どれだけの方」に「馬」に関連する役職?が付いているのか今度、まとめてみようかな??と思っていたところです。

「馬」・・近年でしたら祖父が「馬族の長になる!!」と名言?を球磨に残していますし・・
(この言葉は、親戚だけではなく、色々な人から「あなたのお爺様はね・・」と聞かされてきました・・(-.-))

白石様のコメントが私を導いて下さったのでは?
牛御前こと尼妙阿は良峯氏(平河)に嫁いで「阿夜」を産んだ・・・
「牛」「馬」「馬に関連する役職?」「馬族の長」・・・・?

所で、今日は所用で「球磨」に帰ってきます。

コメントは明日、小倉に帰ってからさせて頂きます。
では、行ってきま〜す(^・^)
[61]白石さんからのコメント(2015年01月21日 14時34分29秒 ) パスワード

子孫様
こんにちは
馬でしたよ^^
今回のは 私の家の事で 片付いていない問題があったので(実家の事)
そのことの 父の想いかな?
と 思うのです。どうしても 兄嫁たちでは やりたくない ことなので
私が黙って片付けようと思って ・・・ でも 私も この年では・・・
山の事です。
さいわい 父が 生きている頃 きっちりと してくれているので うちの中だけのことなら すぐできるのですが

今 全国で あっちもこっちも 大変ですよ と 聞きます。
何十年 何百年まえから もう ひ孫どころか 玄孫 その次までいて 子孫がどこへ行ってしまっているのか ・・・ 解決もつかない問題を抱えているところもあるので・・・

うれしいことに 
同級生がまだ 健在で 話せば ツーカーで どこそこの場所と わかり
木の本数も 私が 間違って 本数少なく覚えていることも
じゃんかばい 何千本とあっとばい
ひのきも 杉と 言えば ひのきばい と 教えてくれたりと 
しゃべれば コロコロと兄弟みたいに育ったころのことが よみがえり

故郷はありがたきかな です。
子孫様
子孫様が受け継ぐことになっている財産は きっちり 確認をお父様が健在のうちに 確認をされるがいいと 思います。
みんなが 善意の人なのだけど 
代替わりがきちんと できていない家があれば
解決がむつかしくなってきますから。

そして
お話していてふいと 思い出したのですが
子孫様の最初の頃のコメントの
人の後ろに隠れて 人を動かして の 文言の意味は何だったのでしょうか?


 
[62]子孫よりさんからのコメント(2015年01月22日 00時10分11秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

実家から、帰って参りました。(帰郷に向けての準備です)

白石様、コメントありがとうございます(^・^)

あの・・
「最初の頃のコメントの
人の後ろに隠れて 人を動かして の 文言の意味は何だったのでしょうか?」
このお話ですが・・どこで私、こういうコメントをしていたのか・・??
(この年で・・悲しい(._.))

もしかしたら・・?
コメント2の「岡原村長選挙と曾祖父」のお話かな・・??と。

今では、絶対に出来ない事ですが、当時はそれが可能だったのかな?
でも、人の後ろに隠れてとは書いていないつもりなのですが・・解り辛いですよね・・すみません。

隠居しても、自分の「腹心」で、村の中枢を固めた・・という意味です。

ところで・・
今回の帰省にはM田さんも初めて一緒に行ったのですが・・
父が、ハーフのような顔だとは以前からM田さんには言っていたのですがM田さんは「お父さんの御顔立ちは、絶対に、日本人じゃないみたい!。」と驚いていました。
髪がグレーになった事も一因ですが、父はこの頃痩せていまして、なおのこと、彫が深くなり、さらに、口髭もはやしていますので、スペイン系の侍?のようです。
草刈まさおさんがもっと年をとって、もっと彫が深くなって、髭をはやしている・・ような感じですね・・
M田さんも、遥かなる私の先祖が世界のどの辺りから来られたのか想像がつく!と、言っています。(おそらく父は当時のDNAが強く出ているのだと思います)
初対面の人の言葉ですから・・間違いない!と思います。

それから・・
昨晩、星空をM田さんと見たのですが、「数えきれない星が輝いている!!」とM田さんはすごく感動していました。
さらに驚いたのが「北斗七星」です。
市房山の方向なのですが、北斗七星が夜空全体にものすごく大きく見えました。
イメージしていただくとすれば・・
標高が高いから?なのか、今の時期がそうなのか?星空が低い位置に感じて、実家の後ろ、市房山の方向に夜空の暗い壁?が広がり、その壁?の上から下まで北斗七星が大きく描かれているような感じです。
星座の一番下の星は山に届いているのでは?と見間違うような・・
星座(北斗七星)全体が、心臓がドキドキするほど、大きく見えました。(この表現・・解りますかね・・・)
子供の頃には、解らなかった・・「感動」です。

さらに・・
井口川(鶴の川)なのですが・・
私が子供の頃は河川工事が行われて、現代的な一般の川の風景だったのですが・・
今は違います(ー_ー)!!
実家より少し下流から川上に向かっては完全に「原生林?」のような状態に戻っています。
車が走れた道は細い高い竹がまるで森のように無数に山に向かって道のようにまるで壁のように川沿いに茂っています。その細い高い竹の「森?」の中に整列したように等間隔で大きな木が立っています。
何という木なのか、先ほどネットで調べたのですが「ナギ」という木でした。他に写真を撮っていた木は「モチノキ」という木でした。
川の向かい側、岡本の方も同じように高い細い竹が道のようにつながって無数に茂り、同じように木が等間隔で整列したように立っていました。
実家から200メートル位、下ったところに橋があるのですが、その橋の中央に立って山に向かう川を見たら、子供の頃とは全く違う風景、おそらく、本来の井口川(鶴の川)の姿に戻っているような・・そして、両端の木々や竹によって川がまるで山に向かう「神様の道?」のようになっているのです。
これには、本当に驚きました。
橋より上流400メートルほど先の川の横には祖母の実家平川家の土地で完全な何故か「三角形」の形をした土地である高い杉の森があり、その場所だけが周囲と違う雰囲気となっています。
ただし、この風景は完全に橋の上流のみです。
橋の下流は、子供の頃と全く変わらぬ、整備された現代的な河川となっています。
ちなみに・・10年程前までは川の上流近くに温泉施設があり、以前は施設の排水を川に流していたそうですが、今はこの施設は廃止となり、温泉施設は、檜山地区に移転しました。
何でも、本来は施設をもっと川の上流、山に建設する予定だったそうですが、なにやら調査が行われて、急きょ、現在の位置「檜山地区」に変更となったと父が言っていました。
その為に温泉を現在地まで送る巨大なパイプラインの建設を町は行ったそうです。
確かに以前の施設があった場所は、先ほど書いた平川の土地である三角形の土地「杉の森」のすぐ横で、なおかつ、岡原霧島神社の真向かいでした。
その施設は廃止となった・・という事です。

私は、父に橋の上から見た川の様子を「まるで神様の道?」のようだったと言うと、父は「そうか・・お前はそう感じたか・・」と言っていました。
私は、父に「橋から上流の川の様子は、絶対におかしい!?あさぎり町はきっと何かを知っていると思うよ・・」と言うと、父は・・
「お前がそう言うなら、何か、町は知っているかもしれんな・・確かに、お父さんが子供の頃の川の風景に戻ってきた。」と笑って言っていました・・
橋から川の上流を見た写真を撮ってくれば良かったのですが、あまりの光景に
さらに、そのパワーに圧倒されて、写真を撮ろうという意識になりませんでした。
「鶴の川」という呼称は、子供の頃の整備された現代的な井口川では何もイメージが湧かなかったのですが、今日、橋の上から上流方向を見た井口川いえ「鶴の川」。
きっと以前から気になっていた「鶴」という言葉に意味があるのかな?と考える風景でした・・

やはり、地元に戻ってその場に立たないと解らない事、気がつかない事が沢山あるようです。
でも、父いわく「住んでいたら、今度は慣れてしまって、解らなくなることもあるよ」と。
だから、私は、別の視点で、故郷の風景を見る事が出来る「今がチャンス」なのかもしれません。

という事で、最後は「昔の風景に戻ってしまった」井口川(鶴の川)というお話でした。

では(^・^)
[63]白石さんからのコメント(2015年01月23日 21時23分48秒 ) パスワード

こんばんは
>小笠原長清
こちらの小笠原は 1200年代位の方のようですが

ほつまつたえ に関与している 小笠原長清がおり
秀真(ほつま)伝えから - 自然治癒力セラピー協会 というページで

★秀真伝え が景行天皇の命を受け朝廷に大直根子(おおたたねこ)によって. 献上された

景行天皇はヤマトタケルの父
景行天皇の父が垂仁天皇
おおたたねこは 荒田に関与していた

昭和 58年4月、小笠原通当(道正)様の ひ孫にあたる小笠原長清様より

この長清は 昭和年代の人

”箱根大神は天照大神と瀬織津(せおりつ)姫との

間の皇子、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)”と答えた。

天忍穂耳尊 は 天皇家の遠祖 ひいては 日本人の大多数の遠祖で
瀬織津姫は サガラ竜王の娘。
(とりあえず 今は 遠祖に海神の娘の血が入っているとしておきましょうか)

瀬織津姫:愛姫伝
そして、南予の内子町や双海町では、 瀬織津姫のことを、 「河内大明神」 と して、河内 神社に祀っています。 ...... その本当の姿を知った円空は、その生涯を、瀬織津姫が封印 されてしまった場所を探し、十一面観音や、善女竜王を掘りながら、姫の魂を鎮めるため に旅 ... 星離去」 (星やさがらん)=星は遠ざかっている とよめますが

開けて読むと
ご紹介する神社は、 松山市に鎮座する 「河内神社」

愛媛には、 「河内神社」 という名前の神社が、各地にあります。

また
枚岡神社は、 この住所から見てもわかるように、本来は出雲の土地でした。
そして、本来祀られていたのは、 ★★ニギハヤヒと瀬織津姫。

そして
十一面観音は、瀬織津姫
「橘諸兄」 もまた、瀬織津姫と深いかかわりのある人物
★★瀬織津姫:愛媛伝

★★大山祇神社の真実 (瀬織津姫):愛姫伝
★★蛇から狐へ 「稲荷神」と「瀬織津姫」:愛姫伝
[64]子孫よりさんからのコメント(2015年01月24日 11時01分44秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、御教示ありがとうございました(^・^)

ニギハヤヒノミコトと瀬織津姫。
興味深く読ませていただきました。
★★大山祇神社の真実 (瀬織津姫):愛姫伝
★★蛇から狐へ 「稲荷神」と「瀬織津姫」:愛姫伝
しっかり拝見致しました(^・^)

実家の父の書斎には、この時代?をテーマにした数えきれない程の書籍がありました。
父は私に「帰って来てから、ゆっくり読めば良い」と言っています。

所で、先日の帰省の際に、M田さんの希望で宮原観音堂にお参りしたのですが・・扉は閉まったままで、観音様にお目にかかる事は出来ませんでした(._.)

しかし、私が、今まで気が付いていなかったことをM田さんはすぐに発見してくれました。
宮原観音堂の屋根の下、お堂の入り口に卍が刻まれていました。
M田さんは周囲の墓石にも卍が刻まれていると・・・

子供の頃から、「観音様」には行っていたのに、私は全く気がついていませんでした。やはり、別の視点から見るという事は大事な事なのだな〜と・・

さらに、岡原霧島神社にもお参りしたのですが・・
M田さんが、由緒の書かれた看板を見つけて読みながら
「原尻の滝に行った時にお参りした緒方神社の御祭神の御先祖様(緒方惟基)が、中島霧島神社を御神託により創建されたんだね〜」と感慨深く言うので、私も、その由緒書きを見まして・・
「あっ!!ここに書いてある〜〜〜!!」っとなりました。
毎年、初詣にお参りしているのに、何故、気がつかなかったのだろう??(._.)

他の地の神社様にお参りするときは、必ず、私は由緒書きを読むのに・・
岡原霧島神社の由緒書きは読んだ事がありませんでした\(◎o◎)/!
きっと、子供の頃の遊び場であった岡原霧島神社ですから、深く考えた事が全くなかったのが理由です・・
M田さんは「去年、故郷の神社の由緒が解った(^・^)と得意げに言っていたけど・・何?ここに書いてあるじゃ〜ないの??(ー_ー)!!」と・・
全くトホホでございます(._.)
「中島霧島神社は藤原晴広より中興された・・」との記述もありました。

先日、書きました実家から少し下流にある橋の上から見た上流の景色に最初に気がついたのも実はM田さんです。
「わぁ〜!!すごい!この風景!!」と感動していたので、私も「どらどら??」と立って見て、「わっ!」と気がついたのであります。

所で、宮原観音堂から家に帰って父にお参りしてきた事を伝えると
「御開帳は春と秋だけ。ごめんねM田さん。この娘はな〜んにも知らんから(ー_ー)!!」と・・
父は「帰ってきたら、今後は一つずつ勉強していけば良い」と言ってくれました。全く、私は本当に「トホホむすめ」でございます(._.)

宮原観音堂は山城「宮原城」の下に建っているのですが、城跡の山は、久しぶりに見上げると、かなり整備されていまして、父に言うと「星原のおじさんが、しっかりと管理されているから」と言っていました。
M田さんに父は「城山の方に行くのだったら案内してあげれば良かったね」と・・
うんがっ!( 一一)。私が聞いても「うん?知らん?よ」といつも言っているのに・・これは確実に「宮原の代々受け継がれたヘンチクリン?の血」だっ(._.)

帰省中の朝は、子供の頃と同じように、神棚にお参りして、家の観音様にお参りして、仏壇にて先祖にお参りをして、さらに、家の外の氏神様にお参りして・・。
と、父の後ろをついて、一緒にお参りしました。

帰郷したら、日々の当たり前の「行い」となります。
今までは、心の中で「先祖への感謝」を忘れずに過ごしてきたつもりですが・・
やはり、地元に帰り、きちんとした「行い」を毎日続けている事とは、全く違うな〜と痛感しました。

先祖調査を続けていますが・・
先祖の調査で「先祖を理解」する事と、「先祖・先祖に関わる方々」の供養を心を持って日々行う事とは全く意味が違うのだと・・

父は「お前が、これまで調べてきた事で解った、”先祖さまが関わりを持たれた方々”にも、感謝の気持ちを忘れないようにしなさい。お参りしたら、心は通じるから(^・^)」と言ってくれました。

さあ、日々、勉強でございます(^・^)
では(^・^)

[65]子孫よりさんからのコメント(2015年01月24日 11時25分12秒 ) パスワード

追記

祖父の兜をM田さんにも見てもらったのですが・・

中央についている、「十拳剣」といわれる剣に良く似た取り外しの出来る飾りの「剣」を外して気がついたのですが・・

飾りの剣の後ろ兜本体の正面には、丁度、頭のてっぺんから前に向けて三本の「剣」が描かれて(正確に言うと刻まれて)いました。
三本の剣の内、左右の二本は少し短く、中央の剣が他の剣よりも長くなっています(言っている事おわかり頂けるかな??)
「十拳剣」といわれる剣に良く似た「剣の飾り?」は差し込むと、その三本の剣の前になります。

という事で祖父の兜にある剣は合計4本。
二本の少し短い剣の間に長い剣。(剣はつるぎ?のような形です)
そして、「十拳剣」といわれる剣に良く似た剣です。

3本の剣はどこかで見た事があるような気がするのですが・・
まだ、調べていません。

という事で、こちらもM田さんが気がついてくれました・・
全く私は「トホホ娘」でございます(._.)
[66]子孫よりさんからのコメント(2015年01月24日 17時24分02秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

先日コメントした「平盛綱」そして「平盛時」この方々なのですが・・
私、「平盛時」というお名前を以前、確実に見ていたような気がする・・と思って今までの調査を調べなおしたのですが・・・

ありました\(◎o◎)/!
平河と徳大寺実春の訴訟に平河側から提出されたものの2通が「平盛時」作成のものでした!

平川家について10-1 コメント25 26 27 で調べていました。

必要な部分を転記します。平川家について10-1 コメント25 26より
http://hikoshima.com/bbs/heike/101345.html
===================================================
今日は一日中、本を読んでいました。

「鎌倉時代の社会と文化」と言う本の中に、天野遠景に関する研究があり、天野遠景が源頼朝より受けた支持の内容が表になっていて、内容は10件。
その中の2件が「平河」に関するものでした。

●文治3年6月16日 源頼朝、天野遠景に、「平河師高」の所領を安堵するように命じる。
★脚注あり。 
弘安6年7月3日の関東下知状(「肥後平川文書」『鎌倉遺文』)に「曾祖父平河三郎師高右大将御時、文治3年給安堵御下文、伊豆藤内遠景令成施行畢」とあり、遠景が頼朝の安堵を施行している。
この下知状によると平河良貞は文治3年年6月16日の遠景宛ての盛時奉書案とこれを施工した遠景の「同年12月月状案」を提出している。他の例からこの盛時奉書案には源頼朝の袖判があったと考えてよいだろう。また、文治5年7月17日の遠景宛ての盛時奉書案も提出している。

●文治5年7月17日 源頼朝、天野遠景に、平河師貞を京都大番役で上洛させるよう命じる。
★脚注あり。
この文治5年7月17日の遠景宛ての盛時奉書案には「御判在」と注記があるので頼朝の袖判があったのであろう。
内容は「平河次郎師貞為謹京大番、所令上洛也云々詮取」であった。

●文治3年6月16日 源頼朝、天野遠景に、「平河師高」の所領を安堵するように命じる。
★脚注あり。 
弘安6年7月3日の関東下知状(「肥後平川文書」『鎌倉遺文』)に「曾祖父平河三郎師高右大将御時、文治3年給安堵御下文、伊豆藤内遠景令成施行畢」とあり、遠景が頼朝の安堵を施行している。
この下知状によると平河良貞は文治3年6月16日の遠景宛ての盛時奉書案とこれを施工した遠景の「同年12月月状案」を提出している。他の例からこの盛時奉書案には源頼朝の袖判があったと考えてよいだろう。また、文治5年7月17日の遠景宛ての盛時奉書案も提出している。

2015/1/24 補足 
ここで私は・・
「コメントに本の内容を転記して、気が付いたのですが「盛時奉書案」の「盛時」とは・・どなた? あれっ?
「盛時」・・・ありましたよ(>_<)見ましたよこちらの名前は(>_<)
ううううん(>_<)  調べます。

という事で「盛時奉書案」の「盛時」とは・・どなた?・・と調べた結果・・

平川家について10-1 コメント27 より
================================================
盛時は平盛時でした。

本をよく読んでみると解りました(^・^)

所で、私、良く解らないのですけど・・
盛時奉書案は天野遠景宛てに送られたものですよね。
それと、「同年12月月状案」は施工した天野遠景が作成しているものですよね・・・・。
この二つの書を、訴訟の為に良貞は提出している。
でも、何故、良貞は、この二つの書を持っていたのでしょうか?
こういうものは、良貞(平河)が持っておくものなのでしょうか?
いえ、持っていても良いものなのでしょうか?

よく解らないのですが、この部分が、私何だかひっかかるのですが・・

===========================================
と・・疑問を抱きながら、次のコメント28でも・・
「昨日の最後にコメントした??の部分は、私の知識不足なのかとは思いますが(書の管理について)未だ、何故か、みぞおち?の辺りに引っかかっています。?」

(-.-)・・と書いていました・・

気になっていたのはこの部分でした・・平河が訴訟の際に提出したものの中に・・
※平河良貞は文治3年6月16日の遠景宛ての盛時奉書案とこれを施工した遠景の「同年12月月状案」を提出している。
※また文治5年7月17日の遠景宛ての盛時奉書案も提出している。

(-.-)この時は「何故、上記の天野遠景宛ての盛時奉書案(平盛時作成)を平河が持っていたのか??」ここが不思議でならなかったのです。
一応、私も「国の公務」に携わる仕事をしてきたので「文書」の管理が何だか変だな??と疑問を感じていたのです・・

所が、ここにきて、突然「平盛綱」「平盛時」という方々と「妙阿」そして平河との関連性が見えてきたので、本当に驚いています・・

調査していて「何だか??」と疑問を感じる時は、やはり何かが隠されていた・・という事でしょうか・・

という事で「平盛時」と平河の訴訟についてでした・・(._.)
では(^・^)
[67]子孫よりさんからのコメント(2015年01月24日 23時40分05秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

平河の訴訟で提出された2通の盛時奉書案(平盛時作成)に疑念?を持った方が私以外にいらっしゃったようです・・

史學雜誌 - 第 93 巻、第 1〜6 号 - 74 ページ より
関東御領考〔筧)七(さ九)要段によって知られるのであるが、その日付は建久三年八月であって、平河氏が地頭として安堵されたと覚しき文治三 ... もちろん盛時奉書の直接の意図は、平家に加担した平河氏に赦免をあたえるところにあり、平河氏側えでさかのぼり得る最古の文書となっている ... けれども、特に鎮西の国々にあっては、明らかにこの文書は、鎮西奉行天野遠景に充てられた頼朝側近の奉行人、平盛時の奉書であって、文書 ...

※けれども、特に鎮西の国々にあっては、明らかにこの文書は、鎮西奉行天野遠景に充てられた頼朝側近の奉行人、平盛時の奉書であって

(-.-)こちらでも「明らかにこの文書は、鎮西奉行天野遠景に充てられた・・」という所に「けれども」という言葉が繋がり・・疑念が見えるのですが・・?

所で・・
先日、コメントした
「清和源氏義光流「竹内系図」の中に
平賀盛義の系・・小野義行の妻であり小野時綱の母が「平左衛門尉盛綱女」とありました。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/hanke2.htm

という調査内容なのですが・・
(-.-)ここから先を調べると・・藤原南家為憲流「岡部氏」と「小野氏」そして「小野姓猪俣党 猪俣氏」との関係が見えてきました・・

内容をまとめて、次回コメント致します(-.-)
では(^・^)
[68]子孫よりさんからのコメント(2015年01月25日 05時44分00秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

本来であれば、平盛綱と平河の関係を調査していたはずなのですが・・・・

偶然、違う情報を見つけてしまいました。

先祖、「橘薩摩」に関するものです。

秋田県本荘市 本荘市史: 通史編, 第 1 巻 より
北条氏台頭後も、承久三年七月長門国守護となり、安貞元年十月薩摩守、寛喜元年からは、その側近として鎌倉に屋敷を構え、当時頼朝側近の筆頭であった梶原景時の孫娘を後妻にするなどその保暦元年九月には、のちの ...

\(◎o◎)/!
@※承久三年七月長門国守護
A※安貞元年十月薩摩守
B※当時頼朝側近の筆頭であった梶原景時の孫娘を後妻にする

\(◎o◎)/!
@Aは明らかに橘公業についてです!
じゃあBは・・??
google book からの情報なので、ピックアップされている内容が、縮小されている可能性がありますが、年代から言うと「橘公業」もしくは「橘公員」。
やはり「梶原景時」の孫娘、すなわち「梶原景高」の娘が妻であったという事ですね。

ちなみに・・
梶原景高は「梶原景時の次男。通称は平次。妻は小野成綱の娘。」でございます。
こちらも「小野氏」との姻戚関係があるという事です。

さあ!調査調査!!勉強がんばります(^・^)
[69]子孫よりさんからのコメント(2015年01月25日 06時16分00秒 ) パスワード

追記

\(◎o◎)/!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
皆様!!

橘公業もしくは橘公員の妻であった「梶原景高」の娘。
梶原景高は「梶原景時の次男。通称は平次。妻は小野成綱の娘。」
という事で「小野氏」がとても気になり「小野成綱」を調べたのですが・・

小野成綱 コトバンクより
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%88%90%E7%B6%B1-1063867

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 より
?−? 平安後期-鎌倉時代の武将。
治承(じしょう)・寿永の乱に活躍,源頼朝より阿波(あわ)(徳島県)麻殖保(おえほ)の地頭に任じられるが,文治(ぶんじ)4年(1188)保司の平康頼に年貢の抑留をうったえられている。尾張(おわり)(愛知県)の守護もつとめた。「吾妻鏡(あづまかがみ)」の記事で建暦(けんりやく)元年6月21日以前に死去していることがわかる。通称は野三刑部丞(ぎょうぶのじょう)。

朝日日本歴史人物事典の解説 より
小野成綱
生年:生没年不詳
平安後期から鎌倉前期の武士。武蔵七党のうちの横山党に属す。父は成任。野三刑部丞と呼ばれた。鎌倉幕府の草創期に活躍し,阿波国麻殖保(徳島県麻植郡)などの所領を与えられ,尾張国の守護に補された。『吾妻鏡』の記事によって建暦1(1211)年6月21日以前に没したことが知られる。<参考文献>八代国治・渡辺世裕『武蔵武士』

世界大百科事典内の小野成綱の言及 より
尾張国】より
…これに対し平氏勢につくものは在庁官人以下その数も多く,墨俣(すのまた)川の戦では源氏勢を圧倒したが,平氏の没落後は反平氏勢が勢いを挽回した。84年(元暦1)頼朝は在庁大屋安資に国内を鎮める任務を与えたが,守護・地頭の設置が認められると,武蔵武士小野成綱を尾張守護とした。尾張は頼朝挙兵当時は,その支配領域―東国の西限に組み入れられたが,86年(文治2)地頭設置をめぐる朝廷との交渉の結果,平家没官領以外の所領での地頭停止を約した37ヵ国の中に含まれ,東国からはずされた。…

\(◎o◎)/!
小野成綱は!!
※武蔵七党のうちの横山党に属す。父は成任。野三刑部丞と呼ばれた。鎌倉幕府の草創期に活躍し,阿波国麻殖保(徳島県麻植郡)などの所領を与えられ,尾張国の守護に補された。

\(◎o◎)/!阿波国麻殖保(徳島県麻植郡) 「麻植」についに繋がりました!!

さらに横山党であり!尾張国の守護!!

「尾張」と「麻植」が梶原景高(娘は橘公業もしくは公員の妻)の舅「小野成綱」によって繋がりました!!

そうか・・そうだったんだ!!
先祖「橘薩摩」の系譜に「妻」の記述が殆どなく、今まで繋がりが全く見えませんでしたが「橘姓藤崎家系図」の登場で一変しました!!
「橘姓藤崎氏系図」は「人王三十一と相違なく子孫に秘蔵するようと述べている。」

何故?秘蔵だったのか・・

しかし、橘姓藤崎氏系図のお陰で
「尾張」と「麻植」が梶原景高(娘は橘公業もしくは公員の妻)の舅「小野成綱」によって繋がる事が解りました。

「宮原」の先祖と「平川」の先祖と「遠江」と「尾張」と「麻植」・・
「小野氏」によって繋がってきました。

どんどん調査をがんばります(^O^)/
[70]白石さんからのコメント(2015年01月25日 13時32分55秒 ) パスワード

こんにちは
小野氏・・・徳川家康に関与してくる系でみたような・・・

ほつま伝えを持つ小笠原家の話の続きです。

四国・伊予宇和島仙台藩(伊達正宗の側室の男子が初代藩主)

の家老職であった、小笠原長弘氏とその甥の小笠原長武氏の”秀真解説文”だった。

伊達家 家老の小笠原家
★★姉の母方に入る成松は伊達家 (続)群書類従で 小笠原のしっぽに 白石がついていたのを みたことがあります。 

5年9月3日発行/新人往来社/秀真伝

l 滋賀県高島郡安曇川町大字西万木(よろき)の日吉神社(ご祭神 ニニギネの尊)

前に北嶽神社の祭神で 大山祇神 大山咋神で話題になりましたが、ニニギネは山の神の娘を妃にしており 
又 山の神は水の神でもあるので 興味深いところです。

の 御輿蔵奥深く埋もれていた 天・地・人のそれぞれ8冊、計24冊

原典著者は 大田田根子命(おおたたねこのみこと)/ 

漢記筆録は 和仁估(わにこ)安聡(やすとし)氏 。
秀真伝』作者である 神武朝の大臣奇甕玉の命の、遥かな裔孫であると言う三輪安聡(和仁估安聡)であった

三輪には前に書いたことがある まるこちゃん が おられるのですね。

三輪氏と賀茂氏で検索したら
大物主(三輪明神)の子である★★大田田根子の孫大鴨積を始祖とする、三輪氏族に属する 地祇系氏族。大和国葛上郡鴨( ... 大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたこと から、賀茂君の姓を賜与された。

賀茂の女子が平清盛の母になる。

[71]子孫よりさんからのコメント(2015年01月25日 18時36分48秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

白石様、御教示ありがとうございます。

お話の中にあった大田田根子命は大神氏の祖でもあるのですよね。

日本の苗字七千傑様の【三輪氏/大神氏】姓氏類別大観から進み《大国主命系綱要》を拝見してあらためて確認致しました(^・^)

所で、朝、コメントした内容ですが、精査すると

橘公綱の母が梶原景高の娘。すなわち橘公員の妻が「梶原景高」の娘。という事ですね。
梶原景高は「梶原景時の次男。通称は平次。妻は小野成綱の娘。」

小野成綱の父は成任。小野成綱とは成田成綱の事だったのですね・・
(えええええっ!今頃、気がついたの?!との叫び声が聞こえたような・・(._.))
という事は・・宮原の先祖「橘公綱」は梶原景高のひ孫であり小野成綱のひ孫でもあった・・という事か・・・なる程(-.-)

日本の苗字七千傑様の《横山党》姓氏類別大観を拝見しました。
小野成綱の兄弟が中条成尋。そして中条成尋の子供が中条家長と苅田義季。
あっ!繋がっちゃいました\(◎o◎)/!

苅田義季は小野成綱の甥です!!

苅田義季の娘は北条重時の正室。荏柄尼西妙です!!
北条重時は「平河観覚」を名乗り、そして人吉庄預所 平河師種は北条重時の甥でした。

※苅田義季の娘は北条重時の正室。荏柄尼西妙
コメント57で書きましたように人吉庄の地頭に名を連ねた「尼西妙」。
山江村誌では「工藤敬一氏は”平河氏か?”とも推測されている。」とありました。

※宮原の先祖「橘公員」の妻であり「橘公綱」の母であった「梶原景高の娘」
※梶原景高の妻は「小野成綱の娘」
※小野成綱の甥が「苅田義季」
※「苅田義季の娘」が北条重時(平河観覚)の正室「荏柄尼西妙」
※人吉庄預所 平河師種は北条重時(平河観覚)の甥
※人吉庄地頭職に名を連ねた「尼西妙」

\(◎o◎)/! 繋がっちゃいました!!

さらに・・
※小野成綱は源頼朝より阿波(あわ)(徳島県)麻殖保(おえほ)の地頭に任じられ・・
※阿波(あわ)(徳島県)麻殖保(おえほ)の保司は平康頼。平康頼は中原頼季の子。
※麻殖保(おえほ)の保司は康頼の嫡男・平清基が承元年中に保司職を継承した。
※阿波国は佐々木氏に代わって、小笠原長清が阿波守に任じた。
※麻植保では平清基が保を没収され、保司職を解任された。
※平清基に代わって小笠原長清の嫡男・小笠原長経が阿波の守護代及び、麻植保の地頭に補任された。

\(◎o◎)/!皆様、もうお解りですね!!
※南部実継の娘が、宮原の先祖「橘公綱」の妻。
※南部実継の兄妹 「小笠原長経室」・・(小笠原長経が阿波の守護代及び、麻植保の地頭となる)
※小笠原長経の父は「小笠原長清」・・(小笠原長清が阿波守に任じた)
※小笠原長経の母は「藤原邦綱の娘」
※小笠原長経の母の姉妹は藤原成頼の妻。
※藤原成頼と藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)は従兄。

日本全国津々浦々 ( つつうらうら )、数えられない土地名があるにも関わらず・・
なんで宮原の先祖「橘公員」「橘公綱」の妻や母をたどれば「阿波(あわ)(徳島県)麻殖保(おえほ)」に繋がるのだろう〜〜〜〜!!
\(◎o◎)/!\(゜ロ\)(/ロ゜)/なんでぇ〜〜〜〜〜〜!!

それはだにぃ〜(;_;)平河師高が藤原師高だからだよ〜〜〜〜!!と何処からか「声」が・・?? なんちゃって(ー_ー)!!聞こえてはいません・・

小野成綱は成田成綱・・成田氏・・成田氏??
系は違いますが、そう言えば藤原義孝の末裔である「成田氏」に”助広さん”がいらっしゃいましたね・・?(-.-)

「小野氏」と言えば・・こちらも系は違いますが

平賀盛義の系・・小野義行の妻であり小野時綱の母が「平左衛門尉盛綱女」
平左衛門尉盛綱・・平盛綱は妙阿の夫である可能性が高い・・・
本来は・・妙阿の夫は「良峯氏(平河)」

「義行」や「時綱」という名は「小野氏」いえ(ー_ー)!!「小野を名乗る方」には多いのでしょうか?(-.-)
系は違いますが、日本の苗字七千傑様の《横山党》姓氏類別大観を拝見しましたが、小野成綱の系に「時綱」。そして苅田義季の系に「義行」・・・
な〜んだかな〜(-.-)????

体中に流れる?DNAが「見つかっちゃいそうですゾヨ」とザワザワしているような気がします・・(-.-)
早く「平河の先祖様、見〜つけ(^◇^)」とならないかな〜
宮原の先祖様は、かなり「見〜つけ(^◇^)」となっています・・(^・^)

という事で、がんばって「先祖様、見〜つけ(^◇^)」と調査続行でございます。
では(^・^)
[72]子孫よりさんからのコメント(2015年01月25日 18時50分32秒 ) パスワード

追記

こちらのサイトを見つけました。
コピーは禁止のようなので、皆様、ご覧になってください。

邪馬台の国講座児島宮歴研会
http://6729.teacup.com/siyujin/bbs/303

では(^・^)
[73]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2015年01月25日 23時09分37秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>麻殖保
 
と言えば、麻殖氏(齋部姓)の西光(師光)じゃありませんか!
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02122a_002.gif
 
師高、師経、師平、広永、親家が子。
中原氏が媒介家系。(中原氏の通字が暗示していますね)
大江、大友など鎌倉幕府の中枢が養子や改姓などで、
巧妙に真実を覆い隠したのでしょう。
[74]白石さんからのコメント(2015年01月26日 00時18分52秒 ) パスワード

71小笠原長
★★「清和源氏武田氏流」というのは、
有名な武田信玄の祖先に当たる家系で、
甲斐国における武田氏の祖である源義光(新羅三郎義光)の
三男である武田義清の三男・遠光は後に「加賀美」という姓を
名乗り、甲斐加賀美氏の祖となります。★★この加賀美遠光の長子で
ある長清は甲斐小笠原の祖となりますが、
この長清の子である小笠原行長が「藤崎氏」の祖とされています。

★★>\(◎o◎)/!皆様、もうお解りですね!!
※南部実継の娘が、宮原の先祖「橘公綱」の妻。
※南部実継の兄妹 「小笠原長経室」・・(小笠原長経が阿波の守護代及び、麻植保の地頭となる)
※小笠原長経の父は「小笠原長清」・・(小笠原長清が阿波守に任じた)
※小笠原長経の母は「藤原邦綱の娘」
※小笠原長経の母の姉妹は藤原成頼の妻。
※藤原成頼と藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)は従兄。

義光(新羅三郎義光)の三男である武田義清の三男・遠光は後に「加賀美」という姓を名乗り、甲斐加賀美氏の祖となります。
★★この加賀美遠光の長子である長清は甲斐小笠原の祖となりますが、

これが ほつま伝えに関与してくる。
この長清の子である小笠原行長が「藤崎氏」の祖とされています。
★★小笠原のしっぽに 白石がいる。


小笠原長清ー小笠原長経
ーーーーーーーーーーーーーーーー
人皇31とは 用明天皇でしょうか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※梶原景高の妻は「小野成綱の娘」
※小野成綱の甥が「苅田義季」
★★刈田氏は 白石でした。

前に小野と白石とのつながり というのを しらべたことがあり
市房神宮の御鏡を預かる 田山という姓は
阿保姓で 青森に多い。
阿保は 安部(阿部)に通ずるといい
阿部郡磐井郷という言葉がある。


★★安倍貞任の子の高星丸が藤崎に逃れて藤崎氏を称した。



[75]子孫よりさんからのコメント(2015年01月26日 01時31分24秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

ついに「麻殖保」西光(藤原師光)に繋がりました!

「名」が残っていない「巧妙に覆い隠された真実」にやっとたどり着ける「道」が見つかったような気分です。
「大江、大友など鎌倉幕府の中枢が養子や改姓などで、
巧妙に真実を覆い隠したのでしょう。」

このお言葉が、やっと解るようになれました。

実は、もう一つ、理解できた事があります。

日本の苗字七千傑様の《阿波小笠原氏》姓氏類別大観から《大西氏/一宮氏》姓氏類別大観へ進むと・・
小笠原長久の孫「義盛」の娘と西光(藤原師光)そして藤原師高の末裔である「近藤某氏」との子供が大西元高。

以前、こちらを拝見した時は、この事が何を意味するのか、全く解らなかったのですが・・今は、こちらの系が表す、本当に意味が見えてきました。

小笠原長久は小笠原長房の子供。小笠原長清の孫となるのですね。
さらに小笠原長房と小笠原長経は兄弟。

そして、《小笠原氏》姓氏類別大観を拝見すると・・
小笠原長清の子「行長」。この方は”藤崎”姓となっています。(もちろん橘姓藤崎氏とは系が違う事は解っていますが、でも、もう偶然かな?なんて書きません)

さらに小笠原長清の子「朝光」。この方は《大井氏/仁賀保氏》へ・・
画面を拝見して「あ〜なるほどな〜」と思いました。
家紋が「一文字に三つ星」です。


まだまだ、頑張って調査いたします(^・^)
では(^・^)
[76]子孫よりさんからのコメント(2015年01月26日 06時54分06秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

「長清の子である小笠原行長が「藤崎氏」の祖とされています」

白石様も、こちらに着目されていたのですね・・
橘姓藤崎氏は熊本県飽田郡藤崎を発祥の地としているようですが”藤崎”繋がりで、私も???と思っていました。
”藤崎”に至ってはコメント55 56でも登場していますが、なんだか繋がっているような気がしています。

ちなみに「飽田郡藤崎」・・飽田とは「あきた」と読みます・・・

★★小笠原のしっぽに 白石がいる。
★★刈田氏は 白石でした。

とのお話から推測すると・・宮原の先祖の系に”白石氏”は確実に繋がっていると・・いう事ですね(宮原の先祖の系に平川も確実に繋がっているようですから・・?皆、繋がっているという事ですね(^・^))

ところで・・「ホツマツタヱ」ですがウィキで勉強してみようと思ったのですが、読んでもあまり意味が解りませんでした。・・難しいです('_')
ホツマツタヱ  ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B1

所で・・・
源義光(新羅三郎義光)この方の「名」を見て思い出しました・・

先日、実家に帰った時に父に現在九州国立博物館で開催されている「特別展:古代日本と百済の交流」の話をしたのですが・・

私が今までの調査で登場した”百済”に関連した話を熱く?していると・・
父はポツリと「家(宮原)は、百済・新羅で言うならば”新羅系”と今まで思っていたのだがなぁ・・・(-.-)」と目をそらしながら言っていました・・
( 一一)おんやぁ?? ( 一一)何か知っていそうだゾ〜??・・とこの時は思ったのでした・・
(-.-)ふぅ〜 

所で、実家で思い出したのですが、球磨の歴史についての研究書、「求麻郷土研究会」発行の「郷土」。
実家に数冊あるものは、「宮原家」に関する記述や「宮原村」に関する記述があると、「求麻郷土研究会」の方が実家に持って来て下さっていたようです。

私、よ〜く思い出してみると・・10年以上前に実家に帰省した際、父から読みなさいと渡されて・・その時ナント!読まずに帰っていたのでした・・
(-_-)/~~~ピシー!ピシー!\(◎o◎)/!
父が教えてくれていなかったのではなく・・私が知ろうとしていなかったダケです・・(@_@;) すごく反省しました(+_+)

ちなみに、今回、持って帰った「求麻郷土研究会」発行の「郷土」第32号には、ナント、宮原村にあった小豆島村についての研究がされていました。

かなり沢山の文章なので少しだけ転記します・・
球磨郡あさぎり町岡原北(前岡原村大字宮原・旧宮原村)内に、江戸時代、小豆島村という集落があったという。今はこの地名はない。
「岩野村地誌」(明治八年「肥後国求麻郡村誌」)の中に「宮原村ノ内小豆島村ハ讃岐国小豆島ヨリ移住ノ人民ニテ宅地無税ナリシ処、後税地トナル」とあり、今から300年前、現在の香川県である瀬戸内海に浮かぶ小豆島の人達が岡原の別府地区に移住してきたと言うのである。

(゜-゜)別府とは岡原の地名では「びゅう」と呼びます。

文化七年(1810年)作成の宮原村下絵図には小豆島村の地名が記載されているとの事です。

「親村として「宮原村」の村名があり、枝村として「別府村」の地区名があって、小村として「小豆島村」の小組合名が形成されていたようである・・・」
と記載されていました。

(゜-゜)やはり、実在したのです「小豆島村」は・・
というか・・先日、この件をネットで見つけた時に「ワァ〜!!」と驚いたのですが・・実家にあった郷土誌にちゃんと記載されていたという事で・・
本当に、私は「トホホ娘」でございます(+_+)

球磨に戻って周囲の人から「宮原のトホホ娘」と呼ばれないように(+_+)・・しっかりと勉強いたします
(^O^)/
では(^・^)
[77]子孫よりさんからのコメント(2015年01月26日 07時07分46秒 ) パスワード

追記

ちなみに実家にあった「岡原村誌」も、村誌が出来た時に祖母が役場の方から頂いたそうです。
実は・・この本も祖母が生前「読みなさい」と帰省した時に渡されたのですが・・
私は読んでいませんでした\(◎o◎)/!(+_+) 読まずに帰っていました・・(+_+)

「岡原村誌」の中に稲積神社についても書かれていました・・
(@_@。・・本当にトホホです(@_@。

ばん回しなければ(-.-)
がんばります(^O^)/
[78]子孫よりさんからのコメント(2015年01月28日 10時17分42秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

こちらのスレッドも、コメント80に近づいて参りました。
様々な情報が明らかとなった「平川家について21」でございました。

新しいスレッドに入る前に、今回の「平川家について21」を締めくくる?お話をさせて頂きます(._.)

正月の帰省で解った事です(^・^)

先日、私には曾祖母が「二人」いました。というお話をしましたが・・・
私にとっては、とても尊敬する大事な二人の曾祖母です。

何故?二人の曾祖母が?という事なのですが、よ〜く考えた末、コメントする事にしました。

父と叔父から聞いた話です。では(._.)

以前より、宮原家には「久保田(窪田)?」家から養子が入っている事により、父は宮原家と「久保田(窪田)?」家の縁戚関係、さらには宮原家と「久保田(窪田)?」に血縁関係があったのか?を気にしていたのですが・・

実は、「久保田(窪田)?」家から宮原家に養子に入っていたのは、私の曾祖父でした。
すごく近い(曾祖父であった)ところだったので、尚更、父は気にしていたようです。(私は、この事すら全く知りませんでした・・)

そして・・
正月、父と叔父が曾祖父の話をしていたのですが・・
整理してお話します。

@曾祖父について
旧宮原村で、先祖代々の土地を継承してきた「宮原家」(家の方の「宮原家」の系では本家とか本宅?と呼ばれています)に曾祖父は「久保田(窪田)?」より養子に入りました。
「久保田(窪田)?」家も士族だったそうです。
曾祖父と曾祖母の間には子供が生まれませんでした。

A祖父を産んだ曾祖母について
宮原本家と近しい親戚関係にある別の「宮原家」(旧宮原村在)。こちらに八代の某有名な神社から嫁いだ女性(私の高祖母ですね)が産んだ娘が私の曾祖母です。
曾祖母はK池家(士族)に嫁いで3人の子供を産みました。
しかし、ある事情が発生して、とてもプライドの高かった曾祖母は後継となる子供を一人残し、二人の子供を連れて岡原村の実家に戻ってきました。

そして・・様々な事情があり・・曾祖父と上記の曾祖母との間に生まれたのが私の祖父です。
祖父を宮原家(本家)の曾祖母は、自分が産んだ子のようにして大事に愛おしく育てて下さった・・という事です。

「宮原本家」と曾祖母の実家「宮原家」は近しい親戚関係にあり、曾祖父の実家「久保田(窪田)?」家も双方と親戚関係にあった・・

この話を父と叔父から聞いたのですが、やはり二人とも男性の目線で話をしていたのですが・・
私がポツリと
「曾じいちゃんは、きっと、”宮原家の血”と”久保田家(窪田)の血”を継承する”血”すなわち子供を残したかったのじゃないのかな?・・それを理解していたからこそ、宮原の曾ばあちゃんは、”じいちゃん”を大事に育ててくれたんじゃないのかな?・・私はじいちゃんを自分の子供のように愛して育てた、宮原の曾ばあちゃんを心から尊敬するよ」と言うと・・
父と叔父は「そうか・・・・・」と。
さらに・・私が「とっ言うか!!お父さん、”久保田家(窪田家)とは・?”と久保田家の祖を考える事も大事だけれど、そもそも祖父ちゃんはそれこそ紛れもない”宮原家”の系じゃん!」と言うと・・
父は「あっ!!・・・・・本当じゃ・・」と・・
叔父は「何の事??・・・?」と・・
叔父に今までの事を説明すると「なんじゃそりゃ?!!」と笑っていました。

という事で「宮原」の二人の曾祖母が大事に考えた「宮原家」ですから、私も、心をしっかりと持って、「帰郷したい」とあらためて思います。女は強し!です。

ところで・・
コメントを書いてあらためて思ったのですが「久保田(窪田)」家も私の大事なご先祖様です。
(久保田(窪田)の先祖様が”家はどうなっとるとか〜〜!!”と言われているような・・)

久保田と言えば・・
「求麻郷土研究会」発行の「郷土」第32号に、井口川(鶴の川)について書かれていたのですが・・ピックアップして転記します。

「ツガン・ガタ」岡原の地名 (平山義之氏)
あさぎり町岡原南の井口川上流に「ほうきうちだし」「ツガン・ガタ」「ドショウイデ」と言う、面白いそして忘れ去られようとしている通称地名がある。場所は県道43号錦・湯前線の井口川(通称鶴の川)に架かる岡本橋の直ぐ下流から約300メートルにかけてほぼ等間隔に在る。
岡原霧島神社、岡原老人憩いの家の西方、直ぐ下段で解りやすい・・

(゜-゜)実は、ここが、先日コメントした、原生林のように戻ってしまった井口川の地域なのです。
「ドショウイデ」が井口川の実家前付近で「ツガン・ガタ」は平川家の直ぐ裏になります。(゜-゜)
続けて転記します(p_-)
中略・・「ツガン」とは「ツガニ」の地方名で一般には「モクズガニ・藻屑蟹」と呼ばれ、一説には昔話「さるカニ合戦」のモデルになったカニである。ツガン・ガタには大正期頃までには岡原では大変美味で今では貴重なツガンが大変多く生息していたそうである。
「ツガン・ガタ」は「ほうきうちだし」から約百メートル下流にあり、ここで右曲して岡原では珍しく大きなシラスの塚が川渕に高く出っ張っていた。夏休み頃には子供達の格好の水泳場となり、シラスの突起は飛び込み台に利用していた。(今は河川改修で昔の地形と変わっている。)
このシラス塚渕一帯を昔の人達は「ツガン・ガタ」と呼んでいた。
旧字図では「久保田」と記されている場所の一部である。

(゜-゜)私が子供の頃、井口川を上流に向けて冒険したお話を以前コメントしていたと思うのですが、「右曲」している所・・このあたりがシラス塚渕一帯だったのです・・と言うか、シラスの台地が家の直ぐ近くにあったとはビックリしました!。
さらに、この辺りを旧字図では「久保田」と呼んでいた・・

祖母の実家「平川家」のすぐ裏、シラス塚渕一帯は旧字図では「久保田」と記されている場所の一部であった・・という事ですね。

(-.-)(p_-)・・・
「宮原家」「平川家」「久保田家」・・・
おそらく・・いえ・・きっと、今までの流れから言うと・・繋がっているような気がします。

そういえば・・
平川義高の城であった「木上 岩城(きのえ)」は、平川本家殲滅後、「窪田(久保田)越後」が居城していたのでありました・・・
おんやっ????(p_-)

肥後・岩城 http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/iwan-jyo/

別名
  木上,木本城,木枝城,一武城
形態
  丘城(153m/40m)
歴史
  築城年代は定かではないが平安時代末期に平河義高によって築かれたと云われる。
  平河義高が相良氏に討たれた後は窪田氏が城主となり、窪田氏没落後は犬童氏が城代となったという。また肥後国誌によれば久保田大蔵、新宮伊予守が城主とある。

説明
  城は球磨川の北にある独立丘陵に築かれている。丘陵は南北に二つの小山があり北の木本神社の建つ地が木本城(このもとじょう)、南の丘陵を前城(まえんじょう)と呼び区別している。

南の丘陵の入口に窪田越後の墓があると道標が出ているが見付けることができなかった。
  
城主
  平河義高,窪田氏,犬童氏

(p_-)・・こっこれは・・??

※犬童氏の祖は「相良頼員」実は尼妙阿と平河氏の子である「平永綱」と同一人物
※時代は下り、宮原家先祖代々の墓所にある「犬童十兵衛」とは「宮原十兵衛」の事でもあり、犬童家と姻戚関係にあった「宮原公久」(宮原公忠から数える事七代目)であった。
※黒肥地「平川家」の系図には「平河」ではなく「犬童」を名乗る人物が数名あった。
※後世の「宮原家」と姻戚関係にあった「久保田家(窪田)」。
※祖母の実家「平川家」の裏、旧宮原村の旧字図では、シラス塚渕は「久保田」と記される一部であった。

もう一度転記します
「岩城(別名 木上,木本城,木枝城,一武城)
築城年代は定かではないが平安時代末期に平河義高によって築かれたと云われる。
平河義高が相良氏に討たれた後は窪田氏が城主となり、窪田氏没落後は犬童氏が城代となったという。また肥後国誌によれば久保田大蔵、新宮伊予守が城主とある。
城主
  平河義高,窪田氏,犬童氏

(p_-)・・・何だか、曾祖父の話から・・見つけてしまったような気がしてきました・・

では(-.-) (^・^)
[79]白石さんからのコメント(2015年01月28日 21時21分26秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 元気よくおしらべになっていますね。

私 今度 二月五日から 入院することになりました。
年も年ですし いよいよかなあ という感じです。

子孫様の前のコメントにありました
先天性の糖尿病 
先祖をたどっていけば ひとつになっていくのだという遺伝子からみた 説があるので
わたくしの病気も そういうことからきているのかなあ
と 思いますが 
何と言っても 病院はいやですね。
こわくて こわくて・・・・・

スペイン人のような感じ
姉の母が写っている写真 
多分 昭和10年まで位 そんなに 離れていない 長兄が生まれたのが昭和10年なので 
そして
いろいろ調べた結果 平江一族? と思われる写真に 背広を着て写っている男性陣 の 顔は面長で 
錦織選手に 似ています。

ネットで 壮絶イケメンスペイン人というのを みました。
う〜ん 世界一のイケメンは トルコ人だった というのを 前に見ましたが
あの顔に似ている。

スペインの 元をネット検索したら セルビア人になりました。

セルビア人の宗教とかいうのが
ミストラ教(ミトラ教)だそうです。キリスト教以前のもの。

人がかわったのではない 宗教がかわったのだ という言葉もあるので
最初そういう人たちが のちに いろいろな 宗教に変わったかもしれないしですね。

ただ
花野小骨があるかないか は 遺伝的に 違う種みたいですね。 
[80]子孫よりさんからのコメント(2015年01月28日 22時34分52秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

白石様、お身体の具合がお悪いとは知りませんでした。
そういう時に、様々なご教示を頂きまして、本当にありがとうございます。

実は、昨日、家の近くの小倉 妙見宮にお参りに行ったのですが、境内に寄進された塔に宮原氏と白石氏というお家の名が並んでいまして、それを見た時に、一緒に行ったM田さんに「どこの地域でも宮原と白石家は一緒。本当に縁があるのだと思う(^・^)」と話したばかりでした。

入院はおつらいでしょうが、私は、白石様が早くお元気になられる事を心から祈っています。
退院されて、落ち着いたら、球磨でお会いしませんか?(^・^)
たまには、故郷の空気を吸ってのんびりされませんか?(^・^)
私は、2月末で北九州を離れ、球磨に戻ります。

白石様が病院で”休養”されている間に少しでも、私の先祖と白石様のご先祖様の調査が進展できるように、私もがんばりますので、楽しみにしていて下さいね。

新しいスレッドを立ち上げました。
平川家について22
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101413.html

皆様のご親切なご教示のお陰で、かなり調査が進展してまいりました。
新しい局面を迎えています。
今後ともご教示のほど、どうかよろしくお願い致します。
では(^・^)
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