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 投稿番号:101406 投稿日:2014年12月26日 15時38分20秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]]U
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族]]Tからの続きです。

自称「歴史探偵」の目で歴史の奥底に潜む謎の解明に挑む。

最終目的は、服部氏族についての解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月28日 19時02分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秀康の母はやはり永見氏でありました。インターネットのサイトのいくつ
かは、永井氏と表示していますので間違えてしまいます。ありがとうござい
ました。

 さて、本日の松島さんとの話の中で、松島の血が近藤家に入ったというこ
とを知り、改めて血縁関係というのは意外なところでつながって行くんだな
あと思いました。

 御器所の関係で中井・服部について調べていただきありがとうございまし
た。こんどその知人に会ったならば、過去にこんな歴史的経緯があったとい
うことをお伝えしようと思っています。

 本日は、午後から浜松の中心部、浜松城の西南にある普斎寺と西来院へ行
ってまいりました。結果を簡単に報告しますと、両寺とも家康と大いに関係
があった寺。普斎寺は三方ヶ原の合戦で退却。浜松城を焼いたように見せか
けるために普斎寺を焼いたという。
 一方の西来院には、築山御前の墓と廟がありました。立派な廟で、墓の両
脇にはとてもきれいなお花が活けられておりました。こうして今でも花を添
えてくれる人があるということは、庶民のレベルから見たら、そんなに悪い
人ではなかったろうに、歴史に翻弄されたかわいそうな人、息子までが切腹
させられて・・・と涙を誘うからだと思います。
 築山御前の墓の前で般若心経を一巻。築山殿の菩提に心から祈りを捧げた
次第であります。
 とりあえずここで―
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月28日 20時11分12秒 ) パスワード

三つ柏さん


そうでしたか
築山殿のお墓には今でも花が絶えませんか。

良いご報告を頂きました。



>浜松城を焼いたように見せかけるために普斎寺を焼いたという。

普斎寺にとってはひどい話ですね。
気の毒でした。
でも大を生かすため。
[3]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月29日 10時26分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は朝、雨が上がりました。午後からは晴れの予想。
 昨日は2寺を回りましたが、両寺とも大きな敷地にあるお寺。約70年前の
戦争で焼けてしまったと思われます。というのは両寺ともコンクリート造りで
ありましたので。そういえば鴨江寺もコンクリート製、浜松城もコンクリート
製・・・歴史を語るには興ざめしてしまいます。コンクリートでは、余りにも
風情がありません。浜松は艦砲射撃とB52の爆撃で焼け野原になってしまっ
た故、燃えないようにと慮ったからでしょう。また木造の方が巨額な費用がか
かり、維持費もかかるということで当時としては致し方なかったのでしょう。
掛川城が木造で再建されたように、できれば浜松城もいつか木造で再建されん
ことを願うばかりであります。

 築山御前の法名は、「清池院殿潭月秋天大禅定法尼」。亡くなった日は、天
正7年8月29日(1579年9月29日)。38歳。法名には清らかな佐鳴湖
に映る中秋の名月と静かなる禅定の境地が込められているようです。
 ただ、一つ気になったのは、廟の前にずらっと並んだ墓があり、関係者の墓
だと思いますが、どの程度の関係者が処せられ、また殉死したかは調べており
ませんが、たぶんそんな気配はいたします。一度調べてみますが、家紋は源氏
車(八本骨)ばかりでありました。
 こちらの西来院の方は、家康の異父弟松平源三郎の墓や、その他水野とか、
立派なお墓がたくさん並んでおりました。誰の墓かはこれもまた今後調べて
みたいと思っております。

 もう一つ、西来院の西に宗源院というお寺がありますが、ここには徳川家ゆ
かりの武将の墓があるということですので、また近々行ってみたいと思います。
 本日は、奥山方広寺に行ってみます。

 なお、普斎寺の斎は済が正しかったので、普済寺と訂正させていただきます。
 
 
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月29日 20時57分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


ただいま窓8太郎は入院中です。
窓7太郎も近々入院をと考えていますが歳が歳だけにこのまま老衰が相応しいのかなとも思います。

養子も考えているのですが
取り敢えず夫のところで書いています。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月29日 21時03分43秒 ) パスワード

>家紋は源氏車(八本骨)ばかりでありました。


全く分かりませんが

    三河の服部さんは源氏車紋です。


でも築山殿を囲んでいる墓でしたら
実家の関口氏関係
それから今川方の家々
こんなあたりの関係者の家紋でしょうね。


関口家の家紋が分かると良いのですが。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月29日 22時53分53秒 ) パスワード

関口氏では 一応  六つ星紋 が出てましたが
今川義元の弟の関口氏=瀬名氏=ですから  桐紋と2つ引両が正当と思います。


ということは源氏車紋は今川関係でも関口関係でも無いということに?

他の家でしょうか?
[7]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月29日 23時48分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 PCの件、了解です。年末年始ということでもありますので、ゆっくり
モードで行きましょう。

 源氏輪の家紋の件ですが、たしかに築山御前の廟の前にありましたが、
必ずしも関係者という証拠はありませんので、深追いせずにおきます。
ただ、この墓地には同じ家紋で、「佐藤」氏の墓がいくつかありました。

 本日は、後醍醐天皇の子、宗良親王の弟が開山した奥山方広寺へ行って
まいりました。ところが年末は拝観休止となっており、本堂の中には入れ
ませんでした。過去に2〜3回は拝観してはいましたが、新たなる境地で
見ることができなくて残念でした。
 境内には五百羅漢の石仏が並べられているのは知っていましたが、新た
に説明書きを読むと、開山当時、弟子が500人位いて、参禅し修行をし
ていたということでした。
 その他には特に得る者はなく、門前の茶店でおでんを食した後、近辺の
お寺を回りました。
 臥雲院というお寺には、伊賀家、織田家、豊田家等があり、東隠院とい
うお寺には、加茂家、やはり豊田家等の墓がありました。
 次に、前回井伊城址に行った時に行きそびれた井伊神社と二宮神社へ行
くことにしました。
 井伊神社は天白遺跡のすぐ下に鎮座していますので、先に遺跡というよ
り磐座と言った方が正解ですが、そちらに登りました。山頂に、その岩群
があり、圧倒されそうな大きさであります。古代信仰の地、今ではパワー
スポットと呼ばれて訪れる人が多いようです。
 以前一度来ていますので、今回はその時程の驚きはありませんでした。
 下に下って、井伊神社を参拝する。井伊家初代共保の産神として元々は
龍潭寺境内に祀られていたものを、南北兵乱の時に現在地へ移したという
ことであります。また、旧地頭近藤氏の信仰も厚かったということです。
 続いて二宮神社へ。ここは多道守(たじまもり)と宗良親王を御祭神とし
ています。元は三宅神社と言ったそうです。多道守は橘を我が国に将来し
た人で三宅氏の祖。三宅氏は井伊郷の荘司であった。
 井伊氏は式内社井伊神社を象徴する「井桁」と、この三宅神社の「橘」
を組み合わせて家紋としたということです。
 今回はこんなところです。収穫は余りありませんでした。
 
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月30日 03時41分03秒 ) パスワード

>この墓地には同じ家紋で、「佐藤」氏の墓がいくつかありました


ちょっと調べて来ましたら

藤原姓佐藤さんと源氏系佐藤さんが源氏車紋を使用しているそうです。


また源氏車紋といえば  藤原秀郷子孫の佐藤と榊原  と言うようですよ。


でも家紋からは、あんまり期待できないです。
多分、関口氏に仕えた佐藤氏ということだったのかも。



方広寺について

山号は深奥山(じんのうざん)と称し、静岡県浜松市北区引佐町奥山に所在します。
禅宗のうち、臨済宗方広寺派を構成し、その大本山として厚い信仰を集めています。
また、かつては癩(らい)患者のための病院施設を開き地域の福祉に貢献しました。
さらに、明治14年の山林大火の際に類焼に遭うも開山円明大師の御墓所と七尊菩薩堂、開山様本像、そして半僧坊真殿が焼け残ったことから、方広寺の鎮守の神である半僧坊の信仰も全国に広がっています。



1371年、無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)は、当地を治めていた豪族奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)の招きにより、奥山家の治めていた所領のうちから60町歩の土地と建物を寄進され、ここに方広寺を開かれました。

無文元選禅師を御開山と称し、奥山六郎次郎朝藤を開基と称します。
元選禅師は、この地が、かつて訪れたことがある中国の天台山方広寺の風景に似ていることから、この寺を方広寺と名付けられました。

全く知りませんでした
           ↓
無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ/1323〜1390)

無文元選禅師 元亨(げんこう)3年(1323)2月15日、後醍醐天皇の皇子として、京都において誕生されました。母は昭慶門院と称されます。

7歳の時、乳母が亡くなった事をことのほか悲しまれたと伝えられております。


父後醍醐天皇が崩御(ほうぎょ、亡くなること)された翌年、暦応(りゃくおう)3年(1340)、18歳の時、京都の建仁寺において出家されました。

貞和(ていわ)元年(1345)、元王朝末期の中国に渡られ、大覚妙智寺に古梅正友(こばいしょうゆう)禅師を訪ね、ここで修行を積み重ね、大悟して、正友禅師の法を継がれました。

観応(かんおう)元年(1350)秋、日本に帰国され、応安(おうあん)4年(1371)、奥山六郎次郎朝藤の招きにより、方広寺を開かれました。

禅師のもとには、その名を聞いて、多くの修行僧が集まり、日夜修行に励んだと伝えられております。

明徳(めいとく)元年(1390)、閏(うるう)3月22日、方広寺で亡くなられました。68歳でした。

嗣法(しほう)の弟子に 東隠院開基の悦翁建・(えつおうけんぎん)、臥雲院開基の空谷建幢(くうこくけんどう)、三生院開基の在徳建頴(ざいとくけんえい)、蔵龍院開基の仲翁建澄(ちゅうおうけんちょう)、虎洞院開基の休卜守仲(きゅうぼくしゅちゅう)の5人がおられます。


南朝方、というわけじゃないのですねえ。

九州にいらっしゃった懐良親王は中国とも親交を持っていらっしゃったので
そのご縁で中国に留学なさったのかもですね。
[9]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月30日 21時00分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、先日行きそびれた浜松の宗源院へ行ってまいりました。ここは、
築山御前の墓のある西来院の南にあります。普済寺にしろ西来院にしろ宗
源院にしろ、広沢や蜆塚や鴨江という地域は高低差があり、道が細く、ま
た蜘蛛の巣のように曲がり交差し、また予想もつかない袋小路が待ってい
る。とても観光バス、車の簡単に行けるところではない。従って、メジャ
ーな観光地とはなり得ない。区画整理がされないままに現在まで来てしま
った感じであります。
 宗源院は三方ケ原の戦いに奮戦した成瀬正義、外山正重等、具体的には
わかりませんが、これは、すごいことです。
 すみせん、飲んでしまいパスパカになりましたました。
[10]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月30日 21時42分15秒 ) パスワード

>空の青海のあを様

 すみません。息子と飲んでしまいました。でも、いろいろ仕入れましたので

今後ご期待下さい。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月30日 22時57分46秒 ) パスワード

成瀬正義

成瀬氏の家紋の1つは  一文字  ですって。

成瀬氏は尾張藩の付け家老にされて気の毒でした。
幕末にやっと城持ちになれたのに維新になりました。


国宝です。


今は50歳ぐらいの正浩さん?が御当主で
父上の時に10年ほど前に市に管理を渡されました。



成瀬 正義(なるせ まさよし、天文4年(1535年) - 元亀3年12月22日(1573年1月25日))は、戦国時代の武将。徳川家康の家臣。通称は藤蔵。

生涯[編集]

成瀬正頼の長男として生まれ、家督相続後は木戸城主、六名城主となる。徳川家康に仕え、使番・旗奉行を兼任する形で任命されて家康の主要な合戦の多くに参加した。永禄5年(1562年)に同僚を斬り出奔するが、三河一向一揆がはじまると帰参を許され、一揆鎮圧に当たる。永禄11年(1568年)の織田信長の上洛では、織田氏への援軍の将として参戦し、六角氏の箕作城攻めで武功を挙げた。元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加して武功を挙げた。

元亀3年(1572年)12月22日、三方ヶ原の戦いでは旗奉行として家康本陣を守り武田信玄軍と戦い奮戦したが、武田氏の武将・馬場信春隊の突入を防ぐために、後事を弟・成瀬正一に託し、家康の身代わりとして討ち死にした。成瀬氏の家督は正一が継いだ。

三方ヶ原の戦いの前夜、物見に出た鳥居忠広が武田勢の多さに篭城を主張したことに対して、腰抜けと言ったために喧嘩となるが仲直りする。この話は講談「湯水の行水」として知られている。正義が戦死した地は、今でも成瀬谷と呼ばれている。墓所は宗源院。

正義の妻・勒(本多忠勝の姪という)釋尼妙意は四人の正義の遺児を連れて夫が出奔して滞在した地である菊川の西方に訪れ、のち菊川段平尾の本楽寺に末の男子とともに入寺した。本楽寺は高天神の戦いで徳川方の陣場となり武田方に攻められ炎上し、家康の手で相良(現牧之原市)大沢の地に本尊阿弥陀如来の寄進を受けて本楽院大澤寺が再建された。その子釋祐傳を婿入りさせ大澤寺を継承させる。寺には現在も正義と釋妙意の位牌が伝わる(大澤寺古文書釋尼妙意記)。



異説[編集]

正義は三方ヶ原の戦いでは討ち死にせずに生き残り、息子と共に出家して戦死者の供養をしたとの言い伝えもある。




成瀬氏




成瀬氏(なるせし)は日本の氏族。家紋は丸に酢漿草、下り藤、一文字。



三河成瀬氏[編集]

南北朝時代の関白二条良基と三河足助氏の当主・足助重範の娘(滝野)の間に生まれた子(成瀬基久)がはじまりである。その子孫は松平親氏の代から松平氏に仕えたとされている。成瀬正成が諸侯に列し、江戸時代を通して尾張藩の御附家老を勤める。華族類別録では第42類の藤原朝臣(藤原忠通裔)とされているが、足助氏の分流として清和源氏満政流を称することもある。


     

三河成瀬氏[編集]

徳川家康の時代には成瀬正頼の子の正義・正一兄弟が武功をあげ、大いに活躍した。

三河成瀬氏歴代当主[編集]
1.成瀬基久(二条良基 庶子)
2.成瀬基直
3.成瀬政直
4.成瀬直庸
5.成瀬国平
6.成瀬国重
7.成瀬正頼
8.成瀬正義
9.成瀬正一

犬山成瀬氏(尾張藩)[編集]

正一の長男、正成は家康の元で武功を上げ、栗原藩主に封ぜられ諸侯に列した。後に尾張藩の御附家老として犬山城を与えられるが、正成の代から明治維新まで、犬山成瀬氏は陪臣の扱いを受け続けることになる。このために紀州や水戸の付家老と連携して大名への昇格を画策し、明治維新後、9代当主成瀬正肥は悲願の立藩を果たし、犬山藩の藩知事となるが、すぐに廃藩置県が実施される。維新後は男爵、1891年4月23日には子爵に陞爵した。

11代当主に東京大学教授で国文学者の成瀬正勝。また成瀬氏は2004年まで国宝の犬山城を代々私有していた。

犬山成瀬氏歴代当主[編集]
1.成瀬正成(初代藩主)
2.成瀬正虎
3.成瀬正親
4.成瀬正幸
5.成瀬正泰
6.成瀬正典
7.成瀬正壽
8.成瀬正住
9.成瀬正肥(最期の藩主)
10.成瀬正雄
11.成瀬正勝(国文学者)
12.成瀬正俊
13.成瀬正浩

「家老#陪臣の叙爵」を参照

栗原成瀬家(栗原藩)[編集]

正成が犬山城へ転封となった後に、栗原藩は正成の次男、之成が相続する。之虎が夭折したために、無継断絶となった。

栗原成瀬氏歴代当主[編集]
1.成瀬正成(初代藩主)
2.成瀬之成
3.成瀬之虎(無継断絶)

成瀬掃部家(加賀藩)[編集]

正一の次男、吉正は、はじめ家康の小姓として仕えるが出奔。浅野幸長、小早川秀秋、前田利常に仕え、最終的に加賀藩の家老となり1万1千石を領する。子孫は、人持組の成瀬掃部家。

成瀬吉右衛門家(旗本)[編集]

正一の家督は四男、正勝が相続する。

成瀬(伊東)家(飫肥藩・尾張藩)[編集]

正一の三男、正武の子孫。正武切腹後は妻於仙の実家に戻り、飫肥藩の一門三家の内、伊東主水家、伊東図書家の祖となる。正武の嫡系子孫は尾張藩士となる。明治維新の際に、青松葉事件に連座して処刑された正順はこの家の人。

系譜[編集]


関連人物[編集]
成瀬正恭 - 犬山成瀬家の分家の子孫香川県木田郡の豪農成瀬岩太郎の2男。十五銀行最後の頭取。
成瀬正一 - 正恭の長男。九州大学名誉教授。
成瀬正二 - 正恭の2男。海軍少将。

外部リンク[編集]

系譜参考[編集]
日本の名字七千傑「二条家」
大名家の系図を現代までつなげてみる「成瀬氏」

菩提寺[編集]
尾張藩 白林寺公式HP - 犬山成瀬氏菩提寺
犬山城下 臨渓院 - 犬山成瀬氏初代から四代墓碑あり
千葉 宝成寺公式HP - 犬山成瀬氏、栗原藩成瀬家
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月30日 23時01分25秒 ) パスワード

夫が起きてきたので切ります。

http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi63.htm

外山正重も出てると思います。




息子さんからお聞きになった面白いお話を是非分けてください。
メールにてもかまいません。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月31日 03時56分32秒 ) パスワード

外山正重 (*)小作。石川数正与力。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。のち榊原康政与力。


これだけしか載ってないですね。



家康の家来に知ってる人の家の名前が出てます。

現在の家業は医者をしているんですが
彼の趣味は車で
それも古い古い車を大事に大事に直し直し乗っています。

それこそ1950年代あたりの車じゃないかなと思います。


    このあたりで誰のことか分かる人には分かっちゃう
    更にいでたちも書いたら直ぐに(ああ、あの医者か)と分かってしまう。


そんな感じで  すっごいコダワリの人だな  と思って来ましたが
なるほどご先祖さまから代々今に至るも頑張っているのかと納得しました。


そして!  近藤さんにも関係します。
わたくしがこの医者を知ったのは近藤さんが間にいたからです。


なので  おお!先祖つながりか!  といよいよ納得しました。



やっぱりその土地の名家というのは代々名家だったんでしょうね。
名家つながりで、おお、やっぱり、と納得する。

わたくしもまさかこの話を今頃書くことになるとは思ってませんでした。
そうか家康で繋がったのか
いやいや南朝方で今まで繋がってきてたのか
です。


結局は古代のスサノヲとか神武とかアマテラスとか出雲とかそういう時代から延々と知り合いだったのかもね。


そして上記のサイトを見てたら
仲の良い男の子
   なんか関係が切れない人
のご先祖さまを見つけてしまいました。


今でも大地主だから昔は土地の豪族だったんだろうなと思ってましたが
いえいえ家康の家来だったのか

その上に寛政重修諸家譜に彼の家と服部家が婚姻しているのが書かれているから
やっぱり関係があったのかと

彼からは平家との繋がりを聞いてましたが
家康時代にも繋がってたのかと。


徳川幕府時代には勝手にふらふら出歩けなかったから途切れていたのでしょうね。
でもなんか繋がってるその背景が今日はハッキリ分かりました。
[14]丸三柏服部さんからのコメント(2014年12月31日 15時36分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

  昨日はワインを飲み過ぎてしまい、頭の中がスカスカになり、ふがいな
いレスとなってしまいましたこと、誠に申し訳ございません。
 本日は午前中二日酔い、午後からは覚めて書きかけた訳でありますが、せ
っかく1時間程かけて書いたレスが、操作ミスで消えてしまいましてガック
リです。

 宗源院には色々な墓があり、もちろん成瀬、外山の墓もありましたが、戦
国、あるいは江戸時代を思い起こさせる名前の数々が見られました。例えば
以下のとおりです。
 ―青山、江間、新田、松永、嶋津、太田、武田、高山、天野、加藤、中村、
  伊達、芥川、松島、鳥居、松下、三輪、堀内、平野、加茂、等々です。
 きっと、子孫がずっと続いて来ているのだと思うと、とうとうと流れる
歴史の川のようなものを想像し、何だか感慨に浸ってしまいました。

 さて、話は変りますが、「熊野水軍と熊野信仰」について知りたいと思っ
ておりましたが、昨日、古本屋で色々仕入れた本の中に、『伊豆水軍物語』
(永岡治著)という本があり、色々な事が書かれておりましたので、これから
何回かに分けてお伝えしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 一度ここで切ります。

[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月31日 21時23分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


消えて?消して?しまいましたか。
惜しい!

でも時々やってしまいますよね。



青山、    これは親戚にもなる青山でしょうか?
江間、    坂東平氏以来でしょうか?
新田、    南朝方以来?それかもっと前の源頼義以来?
松永、    なんとなく分かります
嶋津、    頼朝絡み?
太田、    太田道灌がらみの太田さん?加賀の儒者の太田さんなら知ってますが
武田、    甲斐の武田がらみ?それとも秀吉の側室の1人の前夫がらみ?
高山、    南朝絡み?
天野、    天野氏と服部半蔵は親しかったという天野?
加藤、    既出の加藤氏かも?
中村、    中村一氏とかの関係?あ、遠江の名家の中村さんでしょうか?
伊達、    伊達氏の伊達さん?これは全く分からないです
芥川、    時々目にしています
松島、    あの松島氏でしょうか?
鳥居、    100%三河武士の鳥居さんでしょうか?
松下、    あの松下氏関係でしょうか?
三輪、    もともと古代氏族の三輪さんとは繋がってたでしょうね
堀内、    時々目にします
平野、    南朝方以来の刎頸の友の?
加茂、    松平家のご親戚の?


こんな感じで、懐かしかったり、どなた?と思ったり、全く予想外だったり

稲葉とか榊原とか井上とか堀田とか井伊とか鈴木とか神谷とか杉浦とかはなかったのかな?
と思ったり。


空想が広がりますね。



>子孫がずっと続いて来ているのだと思うと、とうとうと流れる歴史の川のようなものを想像し、
>何だか感慨に浸ってしまいました


はい
お墓で眠っていらっしゃる皆さんと語りたくなりますね。



>『伊豆水軍物語』(永岡治著)という本

楽しみにしております。

少しずつアップなさってください。
でないと貴重なお時間が・・・
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月01日 09時06分12秒 ) パスワード

窓8太郎復活!
窓7之介は入院中!
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月01日 09時56分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 一足先に、新年明けましておめでとうございます。とても寒い元日となり
ました。寒波がまたやって来ています。

 さて、伊賀と柳生の関係について、更にわかりましたので記します。
『松永久秀の真実』(藤岡周三著)によるとこんな事が述べられております。

 「永禄2年(1559)、久秀が大和攻略を開始して間もなく、奈良町の
 東山中を本拠とした柳生石舟斎宗厳(むねよし)は、いち早く久秀に従属
 した。二男の柳生但馬守宗矩は徳川家の剣術指南役となり、後江戸時代
 には全国の大名の動静をさぐる大目付となって1万2500石を領し、
 大名に列している。本拠地の小柳生は、山越えで北伊賀とほとんど隣り
 合わせ、国境まで10キロ余りしかない。柳生宗矩が徳川家に仕えたの
 は、関ヶ原の戦いの頃からだが、この時父・石舟斎は柳生に閑居中で、
 石田三成挙兵の時、家康に大阪方の情報を提供したといわれる。石舟斎
 は柳生新陰流の開祖で剣術の達人として知られるが、一方で伊賀の忍者
 とは特別な繋がりがあった。石舟斎の長男、厳勝夫人は伊賀の守護もつ
 とめた豪族仁木氏の娘であった。当然、忍者との縁は深い。その石舟斎
 が戦国時代、松永久秀に従属していたのである。」

 「南伊賀に勢力を張った百地氏の本拠は、元来は伊賀国山田郡友生村喰
 代にあったが、戦国期には大和竜口、伊賀竜口にも別な砦を築いていた。
 伊賀忍法の拠点が大和にもあったわけである。
  大和を制覇した松永久秀だが、その領域の中には伊賀忍術の拠点があ
 り、当然配下には数多い忍者がいたと考えられる。また久秀に敵対した
 筒井順慶や、その他の国人衆の配下にも、数多い忍者がいたとしても不
 思議はない。」

 「松永久秀は柳生石舟斎らを通じて、忍術と接触があった。先に述べた
 ように、忍術の技術の中で最も重要なものは情報収集である。永禄11
 年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて入京したが、この時、松永
 久秀は時を移さず信長に人質を入れ、名物茶器・九十九髪茄子茶入を献
 じて従属し、大和一国の進退を任された。この和解を取り次いだのは、
 柳生石舟斎であったといわれる。久秀は、それまで京を支配していたこ
 ともあり、それなりの兵力を持っていたが、石舟斎を通じて信長軍が当
 時の日本ではきわだって強力な兵力を擁しており、信長軍に太刀打ちで
 きないことをいち早く見てとり、その軍門に下った。その裏には信長軍
 の圧倒的兵力の情報が久秀に伝えられていたはずだ。大和支配をめぐっ
 て松永久秀と抗争を続けていた筒井順慶らも、信長に通じようとしたが、
 すでに久秀との和解を終えていた信長は、順慶らの希望を退けている。
 情報戦で久秀は、順慶に一歩先んじていたことになる。その裏には伊賀
 忍者と繋がりの深かった柳生石舟斎の存在があったのではなかろうか。」

 ここで切ります。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月01日 16時29分10秒 ) パスワード

三つ柏さん


>この時父・石舟斎は柳生に閑居中で、石田三成挙兵の時、家康に大阪方の情報を提供したといわれる


あれですね、
島左近が関ヶ原で西軍の作戦を漏らした
というのですね。



>大和竜口、伊賀竜口にも別な砦を築いていた。伊賀忍法の拠点が大和にもあったわけである。

百地は喰代砦中心の南伊賀だけじゃなく西伊賀や大和にも勢力を伸ばしていたのですね。

   だから服部半蔵家が徳川幕府に重宝されたのは悔しかったでしょうね。
   (誰のお蔭で)
   というのがあったのだろうなと思います。



江戸時代に柳生家が隠密業を任される土台は柳生3代い確立してたのでしょうね。



最近「清州会議」を見ました。


滝川一益が元は忍者だと語られてました。

    余談ですが
    織田信雄がバカだったというのはよく知られていますが
        今でいうADHDみたいなkyみたいな
    自分の世界に没頭するタイプだったのかなと思います。

    道を究めればなかなかの人物になっていたのだろうなと。
      この点、今川氏真に似ていたのかなと。

      結局2人とも後世に子孫が残ってますものね。
      家康はそういう2人を許容してたのかな?すごいな!と思いました。


     最近家康ってすごい人だったのだなと思います
     でもわたくしでしたら柴田勝家とか(もっと古い処では伊東祐親とか)のような
     終わり方をするタイプなんだろうなと思います。

       性分が。
    


[19]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月01日 19時13分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 これは、私の知人の郷土史家の加藤鎮毅氏の書いた『花と女性と家康公』
という本の中に書かれていた築山御前の評価ですが、私が今まで読んだ他の
本の中では、築山御前の性格はヒステリックで性悪なイメージばかりが書か
れておりましたので、全然違った見方もあるのだな、先日のお墓に活けられ
ていたような美しい花々のようなイメージもあるのだなと、改めて考え直し
た次第であります。加藤氏によればこうです―
 「家康公の正室築山御前を想う時、イギリスの世にも美しい物語といわれ
 る「湖上の美人」(オールター・スコット作)のヒロイン「エレン」が心を
 よぎる。
  家康が成人して、駿府の華とうたわれた「瀬名姫」を正室として迎えた。
  織田信長の過酷な要求を何らの弁解もせず受け入れて、その命のまま
 受容して死についた。
  その道徳的高潔こそ戦国女性の鏡ともいうべきだった。
  徳川幕府265年の礎は築山御前が築いたともいえる。」
 また、この本の中である女性の方も述べられていますが―
 「白百合のような清楚な気品をただよわせた瀬名姫様は、青春の華とうた
 われたと伝えられています。周囲に対して常におもいやりと配慮のいきと
 どいた少女の頃の瀬名姫様・・・。幸福そのものだった駿府での家康公と
 の夫婦生活。人生を狂わしたのは、桶狭間における思いもかけぬ義元公の
 敗死にあります。」

 その義元を討ったのが服部中保次、人生は皮肉なものですねえ。ひょっと
すると祖先かも知れない・・・。御前の墓の前で般若心経を唱えたのは正解
でありました。何だか瀬名姫が俄然いとおしくなりました。

 ここで一度切ります。  
 
  
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月01日 22時37分54秒 ) パスワード

>周囲に対して常におもいやりと配慮のいきとどいた少女の頃の瀬名姫・・・。


瀬名姫は家康が好きだったんでしょうね。
それで愛する家康のためにと死んでいったのかな?

好きだったのは確か。


瀬名が家康が好きだと発覚した時は大騒ぎだったでしょうね。
にっこり


家康がお万に手を出したのを知った時は嫉妬に狂ったでしょうね。


いろいろ考えます。
わたくしも子供の時に大好きな男の子に出会って好きになったら
瀬名のように行動したのかな
などと考えます。


今でも香華が絶えないというのは彼女の人となりからでしょうね。
[21]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月02日 12時01分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今川義元が桶狭間で敗死したのは何故か、どんな戦い模様だったのかという
ことで、『信長をめぐる子女たち』(江崎惇著)を読んでみました。
 それによると、今川方四万(四万はオーバーで実際は二万二千)の兵力対織田
方三千の兵力という圧倒的な優位さがまずあった。
 今川方の最前線基地は鳴海城と大高城であった。
 これに対し、織田方は鳴海城には丹下、善照寺、中島の砦、大高城に対して
は、鷲津、丸根の砦を築いていた。
 今川軍は案の定鷲津と丸根の砦を落とした。そこで田楽狭間(桶狭間)で大休
止(だいきゅうし 四時間くらいの休み)し、夜は大高城に泊まることにした。
 一方の信長の作戦としては、
 1.前もって鳴海や熱田の野天で塩を作っている塩田の長老達に天気予報を
  させ、褒美を取らせて情報を仕入れていた。天候に左右される塩田である
  ので天気予報はお手の物であった。天候、特に雨の情報は戦闘上、また作
  戦上重要であった。
 2.今川方に思い上がりがあったのか、斥候一人すら派遣した形跡がないと
  いう(世木一族等の活動はどうなっていたのかは別途調べなければなりま
  せんが)。それに対し、信長は蜂須賀小六に命じて、岡崎あたりより義元
  の本軍のあとをつけさせていた。そして、鷲津、丸根の砦が落ちた時に大
  休止をした時、近くの庄屋と偽って鶏20羽ばかりを携えて、お祝いの言
  上に上がった。
   時期的には梅雨の季節で、蒸し暑く、義元は鎧を脱いでおり、兵の馬も
  倉を下ろさせて、裸馬同然の無防備さであった。
   小六はこの状況をいち早く馬で信長に伝え、信長は山間を遠回りして田
  楽狭間を見下ろす太子ヶ根へ向かった。その時に塩田の長老達の言ったと
  おり、大雷雨になった。そのため敵に悟られることなく太子ヶ根へ着くこ
  とができ、信長軍は雨の止むのを待った。義元の本軍は五千騎であるが、
  行軍体形をとっているので義元を守る直属の旗本は五、六百騎しかない。
   信長は太子ヶ根の頂から逆落としに義元の中枢部目指して二千騎余りで
  突入。戦闘となり、服部小平太がいち早く義元に槍を突きつけ、毛利新介
  が羽交い絞めにして脇差で刺し、倒れた義元の首を打ち落とす。その時、
  新介の指が三本義元の口に入っていたので食いちぎられたという。これで
  勝負はあった。今川方の死者は二千余。織田方は三百余であった。
   服部小平太が服部中保次であったかどうかは、服部中が伊賀出身で、情
  報網を有し、忍者も引き連れていたからこそ、真っ先に義元に迫ることが
  できたものと思われます。

   次回に熊野の関係を記そうと思います。
   
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月02日 12時53分45秒 ) パスワード

http://ncode.syosetu.com/n6873bm/8/

桶狭間の戦いについてなかなか面白く書かれています。


桶狭間の戦いの真実は?

 信長の戦勝する確率は七割ほどだったと言われます。意外と勝ってるじゃん、と思われるかもしれませんが、一敗が命取りになる戦国の世においては、この戦績でよく生き残ってこられたと驚くほうが正しいでしょう。事実、武田家や上杉家は戦勝率九割を超えていたそうですから。
 その危うげな信長は、でも二六歳の年までそれほどの大きな戦を経験することもなく、ほぼ不敗の成績を打ち立ててきました。そして迎えた『桶狭間《おけはざま》の戦い』。おそらく日本がいまのように我慢強く堅実な社会を築いて来られた礎となった戦いでしょう。貴族の母を持ち戦国武将としては政治家の資質のほうを取り沙汰される今川義元を、生粋の武家社会の中で鍛えられた信長が打ち倒した、非常に大きな意味を持つ戦です。

 一五六〇年六月。愛知県の桶狭間に進軍してきた今川軍。指揮官は今川義元の息子の今川氏真(うじざね)になっていましたが、父の義元も参戦していました。まだ四一歳だったもの。隠居するような歳ではなかったのね。
 今川氏っていうのはそれまでも三河や尾張(愛知県の北と南)を攻略しようと幾度も攻撃してきていたんです。今川の領地は駿河(静岡)だったので、都のある京都に行こうとすると、必ず愛知を通らないといけないでしょ? だからこの要所を抑えておく必要があったのです。これはあとに出てくる甲斐(山梨)の武田信玄にとっても同じ。
 そうして以前から小競り合いを起こしていた織田氏と今川氏。ところが今回の義元は本気でした。信長に大した兵力がないことを見抜いていながら四万もの大軍を引き連れてきたんです。過たず、五〇〇〇に満たないほどの兵士でこれを迎えなければならなかった信長。しかも自分の城に少しは人を残しておかないといけないもんね。最終的に清州城を出た信長(このころの居城は清州城)の軍備は四〇〇〇人でした。まさに一〇分の一。だから現在桶狭間の戦いを語る人は「信長の勝利は奇襲と強運の賜物だった」というわけなんです。
 でも本当にそれが信長の勝てた理由なんでしょうか?
 決戦当日。朝から織田勢の砦を三つも潰した義元は気を良くしていました。そこに地元の信長に反感を持つ民が「どうかがんばってください」と酒や食べ物を振舞ってきたのです。すでに織田軍なけなしの四〇〇〇の兵さえ半分に減らしていた義元は、絶対の勝利を確信して宴を開いたのです。午後一時。それまで晴れ渡っていた空からにわかに豪雨が叩きつけてきました。酔っ払いながらも慌てて避難しようとした義元の背後すぐに、なんと信長の家臣が立っていたのです。服部小平太は斬りつけるも義元の反撃に遭い負傷してしまいます。そこで信長の小姓(身の回りの世話をする少年。森蘭丸もこの一人)の毛利新介がとどめを刺しました。大将とも言える位置にあった義元の死によって、今川軍は総崩れになるのです。
 義元が油断して酒なんか飲んだから敗けた。
 突然雨が降りだして視界が悪くなったから気づかれなかった。
 信長の勝利の裏にはその二つの要因が関わっていたとされますが、でも、じゃあ。
 今川氏ってそんなに間抜けなの?
 豪雨ってそんなに都合よく来るものなの?
 実はこれらの記述は『信長公記《しんちょうこうき》』によるもの。この史料は信長の功績を記した書物です。つまり信長の不利になることは書かない。実際、信憑性を問う声も上がっています。
 では桶狭間で行われた真実はどうだったのか。

 桶狭間の戦いでは、まず前哨戦とも言える小さな戦いが名古屋近郊で繰り広げられました。名古屋の東南に位置する丸根砦と鷲津砦に迎撃軍を待機させていた信長に対し、今川の同盟国の松平元康《まつだいらもとやす》(後の徳川家康)と家臣の朝比奈泰朝《あさひなやすとも》が襲撃をかけたのです。そしてまず松平元康が丸根砦を、朝比奈泰朝が鷲津砦を難なく陥落させました。というのも信長はこれらの砦に五〇〇人ぐらいしか配備していなかったのね。今川軍が進撃してくれば当然ここを突破してくるのにそんなに力を注がなかったんです。調子づいた今川軍はさらに中嶋砦も攻め、前門を守っていた佐々(さっさ)正次《まさつぐ》たちを全滅させます。信長の拠点とする砦はこの敗北で残り二つになってしまいました。圧倒的な劣勢です。
 が、前述したとおり、これが信長に思わぬ勝機をもたらします。相次ぐ戦勝の報告に油断した今川軍が酒宴を始めたからです。もしこの三つの犠牲がなければ信長の逆転は望めなかったと思われます。
 ただ、後年になって「だから貴族上がりの武将はダメなんだ」と過剰に揶揄されるようになる今川義元ですが、この流れを見たら浮かれるのも無理ないと……思っちゃいますよね? だって自分の計画がことごとく上手く行ってるんですから。人間は思わぬ幸運には警戒を抱きますが努力の結果は疑いません。義元が敵の領地において緊張を解いてしまったのも道理だったのです。
 そして、この心理状態を、同じ戦国武将である信長なら想像し得たと思いませんか?

 四万もの大軍を率いてきているとの情報が入っているのに、玄関口に五〇〇の兵しか配さなかった信長。それはすなわち『今川を油断させる捨て石になってくれ』ということではなかったでしょうか。丸根砦、鷲津砦が落とされたと聞いたとき、浮き足立つ重鎮たちを尻目に、信長は何かを決したように『敦盛《あつもり》』という演舞を舞ってから出陣します。敦盛とは源平合戦のときに武蔵(埼玉)の熊谷直実《くまがいなおざね》が敵の少年兵を泣く泣く討ち取るシーンを表現した演目でした。年端もいかない弱小の人間を立場上殺さねばならなかった直実の悲哀。それが大切な家臣の死を自ら誘発してしまった信長自身の悲しみに合致したのではないでしょうか。
 そして計略どおりに弛緩した今川軍に対し、信長の陰謀がまた炸裂します。桶狭間山という高台に陣取り、信長軍の動向を丸見えとした今川義元に、地元の百姓が「もう信長様の時代じゃねえです。義元様、この地を平定したらぜひまた村に立ち寄ってくだせえ。ささ、前祝いに一献」と杯を傾けました。実はこの百姓の中には蜂須賀小六《はちすかころく》という信長の家来が混ざっていたのです。そんな人がいて義元は気づかなかったの? と思われるかもしれませんが、この小六、三河を中心とした盗賊団の頭なんです。だから立ち居振る舞いも武士らしくはなかったんでしょうね。
 相次ぐ『歓待』に完全に戦意を喪失した今川軍。そこに最終的な詰めが敷かれます。信長軍の動きを監視していたはずの葛山延貞《かつらやまのぶさだ》が信長の進軍を報告しなかったのです。え、なぜ? それは彼が今川の家臣ではなく武田信玄に送り込まれた間者だったからです。当時、信長は信玄を恐れていろいろとご機嫌取りをしていました。いまの歴史にその事実が書かれないのは明らかな捏造だと思われます。武田信玄というのは戦国武将たちにとって非常に恐ろしい存在でした。今川のように隙があるわけでもなく、上杉のように温情をかけてくれるわけでもない。だからさすがの信長も信玄だけは敵に回したくなかったのね。というわけで信長と裏取引をしていた信玄は、信長を勝利に導くために自らの家臣を今川軍に紛れ込ませました。どうしてそんなふうに断言できるかというと、桶狭間の戦いの詳細が信玄の戦の記録を記した『甲陽軍鑑』に書かれているからです。もし武田の人間がそばにいなければわかるわけないですよね。
 偶然の豪雨については真実を図る術はありません。蜂須賀小六というスパイをあらかじめ今川の膝下に送り込んでいた信長にとって、奇襲は、たとえ晴れていてもそれほど難しくはなかっただろうと思われるからです。ただ、信長が愛重していた鉄砲を使っていないこと、源義経による屋島の戦いの戦法(嵐の中で船を漕ぎ出して敵の監視をくぐり抜けた)をゲン担ぎのように考えていたことなどを鑑みれば、時期も梅雨のまっただ中、雨を待っての襲撃だったと推測しても自然かなとは思います。

[23]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月02日 12時54分41秒 ) パスワード

続き

きわめて個人的な考えですが、この大成功を収めた桶狭間の戦い、でも信長には一つだけ誤算があったのではないか、と推測するのです。
 今川軍との競り合いの最初の舞台になった丸根砦。ここを攻めたのは松平元康でした。さっきも書きましたが後の徳川家康ですね。元康が今川軍に参戦していた理由は、松平氏と今川氏が同盟を結んでいたからです。けれど実際には勢力の関係から松平氏は今川氏に隷属していたのでした。裏切り行為を防ぐ目的で幼少時から今川の屋敷に人質として軟禁されていた元康。でも今川の元康への扱いは屈辱に満ちたものでした。実際、落ち込む元康に側近の鳥居忠吉《とりいただよし》が「いまは我慢なさい。いつか今川の支配から逃れて三河(愛知県南部=松平氏の拠点)に戻ったときに役に立つように、今川の蔵からちょこちょこと財宝を盗んでおきますから」と慰めた逸話も残っています。そんなわけで元康は今川軍に対して忠誠心を持ってはいなかったんですね。
 そこに信長が目をつけないわけはない。ではどうやって敵である元康と接触したかというと、実は元康はちょっとしたお家騒動に巻き込まれて幼少期に織田家に送られてしまった過去があるんです。織田家は今川氏と通じた松平の次期当主である元康を、当然殺そうとしました。結局、元康は母の嘆願などによりピンチを切り抜けたのですが、その際に信長はかなり友好的に元康に接したと言われます。「お前も家の事情であっちこっちにやらされて大変だなあ。なあ、俺、いつか今川を倒すから、そのときはお前も協力しないか」。そんなやりとりがあったと想像すると少し楽しくなりませんか。
 そして年を経て契機が訪れました。松平元康が丸根砦を攻めたのは、戦況がわからず一番危険な立場である先鋒になるよう、義元が命じたからです。つまり義元にとって元康はあくまでも捨て駒だったわけです。元康は、たとえこの瞬間まで今川に着くか織田に着くか迷ったとしても、この仕打ちに織田への傾倒を決意したでしょう。信長の奸計をあらかじめ聞き及んでいたこともあり、遠慮なく丸根砦を撃破したのでした。
 でも、もし自分が信長の立場だったら、この緊迫した状況下でも、元康に「砦を殲滅してくれ」とは頼まないですよね? せいぜい「籠城させておくから手こずったふりをして包囲を長引かせてくれ」程度の依頼に留めると思うんです。だって全滅を視野に入れていたとしたら、今度は逆に貴重な兵を五〇〇も丸根砦に送らないと思うもの。
 そんな密約をしていたにもかかわらず、元康は丸根砦の兵士を潰してしまった。あ、一つ元康側に立って言い訳すると、元康襲撃時、丸根砦の防衛軍は籠城ではなく城の外に出てきてしまったのね。だから白兵戦をするしかなかったんです。
 そういう事情はあれど元康に対してわずかな不信感を持った信長。それが後に元康(そのころは家康)への無理難題を吹っかけるきっかけになった。家康の正室の築山御前《つきやまごぜん》と愛息の松平信康(のぶやす)は、信長に言いがかりをつけられて殺されているんです。

 『尾張の大うつけ(大馬鹿者)』と蔑視された織田信長は、実は父の信秀と同じく陰謀に長けた非常に計算高い武将だった。そしてそれは逆に、信長が決してモンスターではなく一介の智将であったという証明にもなります。
 今川義元を斃して全国の諸大名に名を轟かせた織田信長。次の章では、彼がこのあとにどんな成長を遂げていったのかを、またミステリーを絡めて書いて行きたいと思います。

[24]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月02日 13時21分51秒 ) パスワード

>信長軍の動きを監視していたはずの葛山延貞《かつらやまのぶさだ》が信長の進軍を報告しなかったのです。
>え、なぜ? 
>それは彼が今川の家臣ではなく武田信玄に送り込まれた間者だったからです。

この部分は意外でした。



葛山氏
庵の内舞鶴*/丸に違い鷹の羽
(藤原北家伊周流)
*『見聞諸家紋』に「庵の内一つ舞鶴」。 『長倉追罰記』に「庵のうちの二頭の まひ鶴は 天智天皇の後胤葛山備中守」 また、『藤原姓葛山御宿系図』には 「庵の内舞鶴」「二頭巴」とある。


 葛山氏は藤原惟康の孫親家が大森に住んで大森氏となり、子惟兼が葛山に住んで葛山氏となった。

 『吾妻鏡』に葛山太郎とか葛山次郎とみえ、惟兼−惟忠−惟重のころ、源頼朝の時代にあたり、家伝によれば、源頼朝に従って石橋山の合戦に参加して、軍忠を尽くして恩賞を与えられた。そして鎌倉幕府御家人として駿河国駿東郡に勢力を伸ばしていったのである。


幕府奉公衆に列す

 室町期の永亨六年(1434)、足利五代将軍義教に初めての男子が誕生した。このとき、葛山駿河守はお祝を贈ったことが知られる。駿河守が将軍に直接お祝を贈ったのは、同氏が駿河守護今川氏の家臣ではなく、「奉公衆」という将軍の直臣だったからである。奉公衆は平時でも戦時でも、交代で将軍のそば近くに仕えることを任務とし、そのために番を組んだので、番ごとに名を記した「御番帳」と呼ばれる帳面が残されている。番は一番から五番まであり、そこに名を連ねる奉公衆の数は三百人余りである。「文安年中御番帳」に葛山氏は、四番の「在国衆」に出ている。その後も、「葛山兵庫助」「葛山源次六」の名が見え、葛山氏が代々奉公衆になっていたことがうかがわれる。

 ところで、葛山氏の諸本伝わる系図には駿河守・兵庫助・源次六を名乗った人物は登場しない。駿河守は葛山氏の嫡流の家筋の人物と考えられるから、同時代の人物を系図に求めるとすれば、「藤原姓葛山御宿系図」では俊綱にあたるであるか。同系図では丹後守を名乗っている。同人は、葛山惟遠の妹と佐々木四郎との間に生まれて惟遠の養子となり葛山氏を継いだとされ、将軍家に仕え、寛正二年(1461)に六十二歳で亡くなったという。

 俊綱のあと、惟方-春吉-惟長と続きいずれも備中守を名乗った。そして、惟長の跡を武田信玄の子信貞が継ぎ、信貞が葛山氏嫡流最後の人となった。しかし、葛山氏の最後の人である信貞は、葛山氏元の養子となったものであり、氏元の父は氏広であったことは確実とされ、系図の記述は事実と異なっている。

 とはいえ、系図に記される俊綱のあたりから葛山氏が奉公衆となった可能性は高い。そして、惟方のころに、守護今川氏との関係を強めてきているのである。そもそも幕府が奉公衆を編成した目的のひとつは、各国の支配を任せた守護が、国内の武士を家臣として強大になることを防止することにあった。葛山氏をはじめとする奉公衆になった武士が、守護と同じく将軍の家臣であるというプライドと独立心をもっていた。戦に出陣するときは、将軍から直接に出陣命令をうけた上で、守護の軍事指揮下に入っていた。


戦国乱世を生きる

 しかし、守護が実際にさまざまな目的や名目で軍勢を指揮する機会が増え、逆に将軍の力が弱まってくるようになると、守護はしだいに国内の奉公衆に対する支配を強めてくるようになる。たとえば、応仁元年(1467)に始まった応仁の乱に際して、葛山氏は上洛する守護今川氏の軍勢の後陣に配置されていた。一方、奉公衆の方でも将軍の権威に頼るだけでは所領や地位を守ったり、勢力をのばしたりできなくなる。そうして、守護からの独立姓を維持しつつ、守護との結び付きを深めて新たな発展の道を模索せざるを得なくなった。これが、室町中期から戦国初期における武士の状況であった。

 文明十一年(1479)、応仁の乱で焼失した京都清水寺を再建するための勧進が始まった。それに応じて寄付をした人々のなかに。将軍夫人の日野富子らとならんで「駿河国葛山氏広」がみえている。この氏広は奉公衆とみられ、そのころ上京していたようである。  さて以上のような葛山氏であったが、戦国期の領主として国人領主制を展開するのは氏時のころからである。氏時は伊勢新九郎(北条早雲)の二男といわれ、維貞の養子となって葛山備中守氏時を名乗ったといわれている。

 次の氏広(さきの氏広と同一人物か)との間に氏尭がかぞえられる場合のあるが、氏時が養子になって氏尭と名乗ったのか、子に氏尭があり氏広と続いたのかは明かではない。氏広の官途名は中務大輔で、『冷泉為和和歌集』によると、天文二年八月に駿府の葛山邸で歌会が催されており、すでに戦国大名今川氏の重臣の一人に組み込まれていたことがわかる。

 氏広の子が氏元と推定され、この氏元時代に葛山氏は全盛時代を迎え、駿東郡からさらに富士七郡の一部にまで支配の範囲を広げている。また氏元の支配下の佐野郷で天文二十一年(1552)に検地が行われている。


葛山氏の終焉

 今川氏の没落にともなって葛山氏も衰退し、永禄十二年(1569)二月から六月にかけて三通の知行宛状を出しているのを最後に、その動きはつかめなくなる。とはいえ同年、氏元は武田方の穴山信君と北条方の富士兵部少輔信忠の守る大宮城を攻撃し、橋本源左衛門尉の軍功に対し三十貫文を与えていることが知られる。その後、氏元は北条に通じているとの疑いを受け殺された。当時、氏元の娘二人は信州に人質としておかれていて、長女の「葛山姓を残したい」との思いに感じた武田信玄は、六男を養子として葛山姓を名乗らせた。これが信貞である。信貞は今川義元の命で尾州笠寺城を守り、永禄三年義元とともに戦死したと伝える。



    あら、ここで笠寺が出てますね。


 ところが、「武田源氏一流系図」によれば、武田氏の一族油川信恵の子油川信貞が、維康の養子として入ったとも、氏元の娘の一人が嫁いだとも見られる記述が残されている。葛山氏の戦国末期の歴史に関しては、さまざまに伝わるところがあり、そのいずれが真実を伝えているかはいまとなっては分からないというのが実状だ。


*戦国期の葛山氏は武田・北条氏から養子が入り、繁雑である



今川と武田と北条は三角同盟をやってたのは表で
裏では足の引っ張り合いだったのかも。



歴史の真相はなかなか分からないものですね。


信長は雨になるのを待ってたと書かれていますが
名古屋は西から崩れて来るので御在所岳の頂上に注目して予想します。

でも時は今の6月12日というから
    永禄3年5月19日(1560年6月12日)
名古屋の梅雨にはまだ1週間早いな、と。


    名古屋の梅雨は6月20日から7月20日としたもんです。

信長は(降れ!降れ!)と念じてたのかな?
でないと自分の軍が義元軍に踏み潰されるのだから。



名古屋のホンヤさんとこは義元が負けてほうほうの体で
   (熱田神宮の近所に火をかけて)
逃げ帰ったのですが
やっぱり信長が勝つことは天命だったのかな?
[25]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月03日 09時21分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それでは、「熊野」の歴史的存在意義について、永岡治著『伊豆伊軍物語』
から抽出してみます。何故伊豆なのか、熊野から黒潮ルートに乗ると自然と
伊豆に着く。また、伊豆には船の停泊できる湾がいたるところにあった。
 「熊野と伊豆の往来
   東海道はもともと”海つ道”であった。東海沿岸地方は、太古から一つ
  の生活圏”黒潮文化圏”を形成し、海人族が互いに船で行き来していた。
  伊豆は特に紀伊半島(熊野)との結びつきが強く、両者は歴史的に極めて
  密接な関係にあった。
   黒潮に洗われている東海地方や熊野地方は、陽光まぶしい南国である。
  しかしまたこの地方は、本州の脊梁山脈の南側にあって、中国大陸から
  は最も遠い位置にある。従って、大陸から流入する文化が主流であった
  時代においては、この地方は”文化果つる地”であった。むしろ、日本
  海沿岸の方が大陸に近く、文化的に先進地だったのである。現在、日本
  列島の日本海側を”裏日本”、太平洋側を”表日本”と称しているが、
  古代の場合、両者の関係は全く逆で、太平洋岸の方が”裏日本”だった
  のだった。

   その太平洋岸の中でも、熊野や伊豆のように更に奥まった半島をなし、
  その上深い山襞のヴェールに隠れている地域は、中央の人々から、とり
  わけ遠く隔たった国、異郷、神秘の国と見られていたに違いないのであ
  る。熊野は海と山と川の地方で、平野はほとんどない。縄文的な”山”
  ”海”の文化が、熊野の文化の特異さである。山の修験道も、また海の
  かなた”常世”への信仰も、熊野に発祥した。
   常世とは、日本人の魂が帰っていく所で、穀物が常に熟している楽園
  を意味しているという。つまり常世は、海人族の祖先が黒潮に乗ってや
  って来た南海のの故郷なのであった。補陀落渡海の船が、西方浄土をめ
  ざして熊野から南の海に消えて行ったが、これも同じ発想である。

   本宮・新宮・那智のいわゆる熊野三山を崇敬する”熊野信仰”は、平
  安末期以後次第に全国に広まった。現在、日本全国に”熊野”の名を冠
  した神社が三千以上もあるが、明治末の神社合祀奨励以前は、現在の数
  倍もあったろうといわれている。特に東国から東北にかけては、その数
  が著しいのだが、この熊野信仰の伝播者は、熊野の”海賊と山伏”に他
  ならなかった。

   伊豆に熊野信仰が伝わった時期は定かでないが、各村落に熊野神社が
  勧請されるようになったのは、南北朝期以後である。一例として、熊野
  から伊豆に移住した海賊鈴木氏の事蹟を示そう。
   ”鈴木氏”は古代以来の熊野の水軍氏族で、元は那智勝浦に住んでい
  た。全国に数多い鈴木姓は、ほとんどがこの熊野鈴木氏から発している
  といわれる。鈴木氏は熊野信仰の布教のために海を利用して各地に移住
  し、”熊野神ある所、鈴木あり、鈴木の住む所、熊野神あり”と称され
  る程各地に広がった。」

   それにしても、熊野信仰と鈴木氏の全国への拡散と増加、ちょっと信
  じられない位の数値ではないでしょうか。何か謎がありそうです。
   熊野から弓なりの黒潮東海ルート、文化・信仰・経済等ずっとつなが
  っていた・・・いわゆる一つのゆるい文化圏、中でも尾張が一番の中心。 



[26]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月03日 09時54分35秒 ) パスワード

伊豆最南端の神社ということで  石室神社。熊野神社と一緒に語られる


石室神社

所在地
静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎125

位置
北緯34度36分9秒
東経138度50分36秒座標: 北緯34度36分9秒 東経138度50分36秒

主祭神
伊波例命

社格等
(伝)式内社、無格社

創建
(伝)大宝元年(701年)    ←  微妙ですね
                  世の中がかなり落ち着いていたのでは?と。
 
                 この年の1月に伊豆大島に流されていた役小角が赦された





石室神社


石室神社(いろうじんじゃ、いしむろじんじゃ)は、伊豆半島の最南端に位置する石廊崎の突端付近、静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎にある神社。石廊権現(いろうごんげん)や石廊崎権現(いろうざきごんげん)とも呼ばれる。

古くは伊波例命神社(いはれのみことじんじゃ)とも呼ばれていたとされ、また祭神は現在では伊波例命(いわれのみこと)と云われるが、以下に記すように必ずしも定かではない部分もある。

尚、50メートルほど離れた岬の最突端には熊野神社(くまのじんじゃ)があるが、事実上ひとつの神社として扱われることが多く、本項では一緒に記載する。



石室神社の歴史と伝説[編集]

由来や創建時期には以下のように諸説があり、必ずしも定かではない。社伝によれば文武天皇大宝元年(701年)に初めて堂が建てられ、最初は観音像と第六天神を安置していたが、その後役小角が神託を受けて伊波例命を祀ったという。


一方「石廊山金剛院縁起」(拝殿内に展示されている)によると、役小角が伊豆大島へ流されたとき(文武天皇3年(699年) - 文武天皇5年(701年))、十一面施無畏の神力を得てこの地に至り、また文武天皇4年(700年)に大地震があった際にも、龍と白鳥が現れてこの地を守った。

村人の一人が夢の中で海中より宝殿が浮かび上がって岬の中腹の岩窟に座すのを見たため、行ってみると果たして宝殿が出現し中に十一面観音が安置されていた。その後更に天平年代(729年 - 749年)、行基によって第六天神が祀られたという。

             秦氏子孫の弓月君
                ↓
また「秦の始皇帝5世の孫と云われ日本に帰化した(異説もある)弓月君(ゆつきのきみ)が物忌奈之命(ものいみなのみこと)と称されるようになり、これを祀る神社として、その子孫を名乗る秦氏が建立したもの」とする説も有力である。

但しこの物忌奈之命が、同じ旧伊豆国の神津島に祀られている物忌奈命と関連があるか否かは明らかにされていない。


延喜式神名帳には、伊豆国賀茂郡に「伊波例命神社」があったことが記されており、一般には当社のことであるとされているが、後世の付会であるとの説もある。


以降、神仏習合の金剛山石室権現として人々の崇敬を集めた。江戸時代には韮山代官所を通じて徳川幕府から米2表の寄進を受けたという。伊豆七不思議のひとつで当社にまつわる「石廊崎権現の帆柱」の伝説が生まれたのはこの時代であるとされる。


明治初期の神仏分離により石室神社と称するようになった。現在の社殿は明治34年(1901年)に再建されたものである。海上安全や商売繁盛、学業成就の神として、また伊豆半島の先端に位置する景勝地として名高い。


熊野神社の由来と伝説[編集]

石廊崎近くの長津呂の郷に住むお静という名主の娘が、漁師の幸吉と恋に落ちたが、身分の違いで許さぬ恋であったため、幸吉は神子元島に流された。幸吉を忘れられないお静は、毎夜石廊崎の先端で火を焚き、神子元島の幸吉と愛を確かめ合っていた。

ある晩、神子元島の火が見えないことを心配したお静は、たまらず小船を出して神子元島に向かったが、折りからの大風で波は高く船は進まず、お静は一心不乱に神に祈った。その甲斐あって神子元島に漂着し、無事二人はめぐりあい結ばれた。その後二人を親たちも許すこととなり、末長く幸せに暮らしたという。

お静が火を焚いたところに熊野権現の祠が祀られ、以来縁結びの神として知られることとなった。明治初期の神仏分離により熊野神社と称するようになった。





石廊崎権現の帆柱


石廊崎権現の帆柱(いろうざきごんげんのほばしら)とは、
伊豆七不思議のひとつで伊豆半島先端の石室神社に、江戸時代から伝わる伝説である。


海面から30メートル以上の断崖絶壁の上に、石室神社の社殿が千石船の帆柱を枕に建てられており、これにまつわる不思議な伝説が江戸時代からある。


昔、播州濱田港から塩を運んでいた千石船が石廊崎の沖で嵐に遭い、その帆柱を石廊権現に奉納すると誓って祈ったところ、無事に江戸に到着することができた。

その帰途、帆柱奉納のことをすっかり忘れていると、何故か石廊崎の沖で船が進まなくなり、天候が急変して暴風雨となった。往路に誓いを立てたことを思い出した船主が千石船の帆柱を斧で切り倒すと、帆柱はひとりでに波に乗り、断崖絶壁(およそ30メートル)を石廊権現の社殿あたりまで、まるで供えたかのように打ち上げられた。

同時に暴風雨も鎮まり、船は無事に播州へ戻ることができたという。


帆柱は社殿の基礎として今も残っている。材質は檜で長さは約12メートル、現在では社殿の床の一部がガラス張りにされ、直接覗くことができるようになっている。

へえ〜
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月03日 09時59分20秒 ) パスワード

名古屋で熊野って?
ということで熊野神社と名古屋の関係を知りたいと思いました:


やっぱりたいしたことないでした。尾張だったら稲沢かな?


熊野社 (名古屋市中村区)

所在地
愛知県名古屋市中村区権現通3丁目37番地

位置
北緯35度09分48秒
東経136度52分26秒座標: 北緯35度09分48秒 東経136度52分26秒

主祭神
伊邪那美神など2柱

社格等
村社

創建
正徳2年(1712年)9月

例祭
10月20日


由緒[編集]

正徳2年(1712年)9月の創建と伝わる神社で、主祭神として伊邪那美神を祀る[1]。1871年(明治4年)に村社に列格。1828年(昭和3年)10月には神饌幣帛料供進社に指定されたが、1946年(昭和21年)11月に宗教法人となった。

境内には市の保存樹にも指定されているクスノキやケヤキの大木があって鎮守の森の様相を残す[2]。神社の西側には1939年(昭和14年)から街区公園の茶ノ木島公園が置かれていたが[3]、周辺が住宅密集地となったことから防災公園とするため土地買収が進められ、「米野公園」として再整備が行なわれている[4]。


境内末社[編集]
子安社 - 享保18年(1733年)8月鎮座と伝わり、祭神は木花之佐久夜毘売命で安産の守護神とされる[2]。毎年7月に行なわれる「茅の輪禁厭行事」は、子供の虫封じ・悪病避けを祈念するものであるという。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月03日 10時26分15秒 ) パスワード

名古屋で熊野神社というのは聞いたことが無いのです。
名古屋は熱田さんの世界だから。

でも一宮という市がありますから、昔はココが中心だったんでしょうね。


愛知県で熊野神社一覧:

http://www.mikumano.net/zenkoku/aiti.html


この5か所は海部郡ですから古代の海洋族がいた処なのかしら?

・愛西市古瀬町 熊野社
・海部郡大治町大字砂子字千手堂703 十二所神社
・海部郡七宝町安松下屋敷2137 熊野社        七宝町は昔「服部村」でした
・海部郡七宝町大字鯰橋字郷廻104番地 熊野社
・海部郡美和町大字森山字東江端3番地 十二所神社

ここからはいわゆる昔の尾張の中心部です

・一宮市萩原町串作字郷541番地 室原神社
・一宮市新生三丁目1-1 熊野社
・一宮市大和町北高井字北重田1604番地 熊野社
・一宮市大和町苅安賀字伝冶越2669番地 熊野社
・一宮市森本2丁目11-15 十二所神社
・一宮市木曽川町黒田字錦里24番地 熊野社
・一宮市今伊勢町本神戸字宮山 熊野権現社(酒見神社境内社)
・一宮市萩原町 花井方熊野社

・稲沢市稲沢町北山2丁目53番地 稲葉神社
・稲沢市高御堂一丁目18番11号 十二社
・稲沢市船橋町字市場949番地ノ1 熊野神社

・岩倉市神野又市277 熊野社



・犬山市大字橋爪字巾屋敷53番 熊野神社
・犬山市大字善師野字奥洞4番 熊野神社
・犬山市大字塔野地字南の切55番 熊野神社
・犬山市大字塔野地字東屋敷31番 熊野神社
・犬山市大字犬山字東古券228 熊野神社



名古屋の東の果てという場所

・愛知郡長久手町大字熊張字入之洞2332番 熊野社



知多半島に近い場所

・大府市吉田町中ノ坪脇67番地 熊野神社



こっちは三河ですね。

・安城市藤井町東山7番地 熊野神社
・安城市尾崎町亥ノ子地内 熊野神社


・岡崎市宮地町字馬場31 糟目犬頭神社(by 河合さん)2009.10.1 UP
・岡崎市羽栗町字山の上19番地 熊野神社(by 河合さん)2009.9.6 UP
・岡崎市箱柳町字宮坂24番地 熊野神社(by 河合さん)2009.8.18 UP   ← 箱柳ですって
・岡崎市田口町字堂前18番地 熊野神社(by 河合さん)2009.8.14 UP
・岡崎市蔵次町字神田36番地 熊野神社(by 河合さん)2009.8.13 UP
・岡崎市小久田町字屋下41番地 熊野神社(by 河合さん)2009.8.9 UP
・岡崎市奥殿町字西日影16番地 熊野神社 元宮(by 河合さん)2009.7.28 UP
・岡崎市八ッ木町字八反田52番地 熊野神社 元宮(by 河合さん)2009.7.27 UP
・岡崎市八ッ木町字郷北ノ切(詳細番地不明) 熊野神社 下宮(by 河合さん)2009.7.26 UP
・岡崎市中園町字宮西10番地 熊野神社(by 河合さん)2009.7.25 UP
・岡崎市六名町字真宮1番地 熊野神社(by 河合さん)2007.5.4 UP
・岡崎市久後崎町字郷西36番地 熊野神社(by 河合さん)2007.4.28 UP
・岡崎市大和町字平野135番地 白鳥神社熊野森(by 河合さん)2007.3.27 UP




下記は知多半島です。


亀崎潮干祭(しおひまつり)・・神前神社(かみさき)半田市亀崎地区

潮干祭は、神前(かみさき)神社の祭礼で 社伝によれば、東征の途中、伊勢から海を渡って この地に立ち寄った神武天皇を里人が小舟に桟橋を架けて出迎えたことから、この伝説に因み、5輌の山車を潮干の浜に曳き下ろしたことから、この名がつけられたという。

なお、神前神社の祭神は神倭盤余彦命(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇である。

祭の起源は定かでないが、元禄〜宝暦年間(17世紀から18世紀前半)とされる。

・・・国指定重要無形民俗文化財 
   (平成18年3月15日指定)





下記の2つの神社はセットで天下の奇祭の1つですね。笑
これに熊野神社が絡むというのは知らなかったです。


田縣神社豊年祭り・・・田縣神社(愛知県小牧市)


愛知県小牧市の田縣神社は、祭神は、御歳神(みとしのかみ)と玉姫命(たまひめのみこと)とし、往古より五穀豊穣の神様として崇敬されている。

当社では、例年3月15日、例祭である豊年祭りが挙行されており、
御旅所である熊野神社から田縣神社まで大男茎型を載せた神輿が渡行する。

最終会場である田縣神社では、お祓い済みの布が厄除けとしてくばられる。




大縣神社豊年祭り・・・大縣神社(愛知県犬山市)

大縣(おおがた)神社は、愛知県犬山市の南部・本宮山の麓に鎮座しています。祭神は、尾張国開拓の神様である大縣大神(おおがたのおおかみ)で、
一宮の真清田神社に次ぐ尾張国二宮であり、二宮(社)とも呼称され、親しまれている。

     ↑
 真清田さんは蜂須賀小六の奥さんの実家じゃなかったかな?


陰陽石の信仰があり、本殿の背後に「姫石」が安置されていることから、姫之宮とも呼ばれている。
毎年3月15日直前の日曜日には、天下の奇祭とされる姫之宮の豊年祭りが行われる。



やっぱり愛知県の西部とか知多半島は神武天皇と関係するんでしょうね。
[29]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月04日 10時03分08秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 まずは訂正をさせていただきます。
   [21] 兵の馬も倉  → 兵の馬も鞍
   [25] 伊豆伊軍物語 → 伊豆水軍物語

 家康の丸根城攻略はやり過ぎてしまい、信長との暗黙の了解を破ってしま
い、後に信康事件にも影響したのではないかという推測、色々な角度から客
観的に見る事は謎解きには必要な事だなと思いました。

 熊野権現の件については、色々お調べいただきありがとうございました。
 名古屋では、昔は一宮が中心だったということを初めて知り、もう少し一
宮について調べたくなりました。いつも東名高速で素通りするだけですので。
 また、海部郡の七宝町は服部村だったということ、名古屋は服部の一番多
いところですので、その辺の歴史も知りたいと感じました。
 
 伊豆の石廊崎権現、石室神社の話、5〜6年前に訪れた事がありますので、
しっかりと思い出しました。眼下に絶景が広がり、日本一の景観だと感激し
ましたが、熊野との歴史的関係については全く知りませんでした。今考える
と、特に石廊崎は、伊豆の先端ですので西風が強く、ここを回り込んで下田
湾に入れば、風がよけられるので、船の停泊場所としてにぎわったという事
がよくわかります。

 さて、『伊豆水軍物語』(永岡治著)の続きですが、熊野と海賊と山伏につ
いて―
 「伊豆は海に囲まれた半島であり、同時に山の国でもある。波濤を超えて
 伊豆に渡ってきた海人族・海賊が、優れた航海術や漁業技術を持っていた
 のは当然であるが、彼らはまた、熊野あたりから伝えられた狩猟・採鉱・
 製鉄等の山の技術にも長じていた。
  古代以来の「山人」や「海人」は異端者として扱われ、それゆえに彼ら
 は権力者や公民から、「天狗」「鬼」「山姥」「河童」「塩波(しょっぱ)」
 「山賊」「海賊」などと賤称され、危険視され、差別されたきたのである
 が、伊豆における山人と海人は、ほとんど一体のものであるといってよか
 った。
  その山人・海人の系譜の中に、平安時代以降、「山伏」が登場する。山
 伏とは、山岳信仰の修験者のことである。平安中期に書かれた『新猿楽記』
 という本に、大験者次郎という山伏が出てきて、大峰、葛城、熊野、立山、
 伊豆の走湯、比叡山、伯耆大山、木曽御岳、越前の白山、高野山等の全国
 の山々を修行して歩いた事が記されている。同書はフィクションではある
 が、伊豆が古くからの山岳信仰の聖地の一つとして、山岳信仰の聖地の一
 つとして、山伏たちの修行の地となっていたことがうかがわれる。」

  ということで、海人と山人とはほとんど一体関係ではないかという見解
 は、一考する価値があると思います。海路・水路と山岳路は、見つからず、
 近寄れず、一番安全な道ということでもあります。
  また、役の小角や橘逸勢やその他、よく配流ということで伊豆に流され
 ますが、その当時の認識としては「地の果て」ということだったのでしょ
 うか・・・? 伊豆に賀茂氏がいたということは、賀茂氏も流されたとい
 うことかどうか、一度調べる必要があります。それとも海人族であった?
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月04日 11時13分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


レス<26>ですが
秦の始皇帝5世の孫と云われ日本に帰化した(異説もある)弓月君が
物忌奈之命(ものいみなのみこと)と称されるようになった


古代の神々のお話はなかなか理解できないです。

    何かが邪魔をしているのかも
    だいたいアソコかなとは見当がついてますが


物忌奈之命とは大国主命の孫じゃありませんか!
  祖父・大国主命  →  父・事代主命  → 子・物忌奈之命



http://thecometworld.web.fc2.com/kozu-20-monoimiya.html

物忌奈命神社


三島大社で祭られている、事代主命(ことしろぬしのみこと)と
阿波命神社(長浜神社)で祭られている阿波命(あわのみこと)との長男である。


事代主命は、出雲の神話「国譲り」でも登場する。
もともと出雲の国を治めていた大国主命(おおくにのぬしのみこと)の子供である。

神話によれば、高天原(たかまがはら)に住む神々(神の神?)から出雲の国を譲るように迫られた大国主命は独断できないため
子供の事代主命らが良いといったら国譲りを承諾するとした。


事代主命は承諾し、高天原の神々に出雲を譲り、自身は東へ渡り、
富士山の神と共に伊豆の島々を作ったとされている。




村重宝(建造物) 物忌奈命(ものいみなのみこと)神社

所存 神津島村一番地
指定 昭和四十五年一月十日

祭神物忌奈命は三島明神事代主命(ことしろぬしのみこと)の嫡子で永浜神社に祀る阿波・命(あわのめのみこと)は御母である。天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)に出雲国を譲り、事代主命と共に東に下り、伊豆諸島の開祖として居を定められ、以来村民の心の支えとなってきた。

本殿は覆堂形式で中宮を内蔵している。中宮は元本殿として」文化七年(一八一〇)に造営され、高さ五メートル余、入母屋造りの大建築で、棟から向拝にかけて美しく流れる曲線は、重厚な唐破風(からはふ)となって拝者を威圧する。御神体を内臓する宮殿として尊厳性を備え、格調が高い。

 各種の組物は巧を尽し、殊に舞鶴の彫刻と唐破風の檜皮葺は妙技を極め、堂実建築の技法が優れ貴重なものである。覆殿と拝殿もこれに準じて古く、重要な文化財である。

昭和四十五年七月一日 建設

神津島村教育委員会




http://www.genbu.net/data/izu/mono_title.htm?print=on
玄松子さんの物忌奈命神社のサイト


伝説・水配神話とモニュメント

『その昔、伊豆諸島の中心である神津 島の天上山に、島々の神々が集まり会 議をしました。一番大切な会議は、生 命の源である「水」をどのように分配す るかでしたが、言い分がさまざまで、 なかなかまとまりません。そこで次の 日の朝、先着順に分けることになりま した。いよいよ朝になり、一番早く着 いたのは御蔵島の神様でした。御蔵島 は最も多くの配分を受け、次は新島、三 番目は八丈島、四番目は三宅島、五番目 は大島でした。こうして水は次々と配 られ、最後に利島の神様がやってきた ときには水はほとんど残っていません でした。それを見た利島の神様は怒り、 わずかに残った水に飛び込んで暴れま わりました。この水が四方八方に飛び 散り、神津島ではいたるところで水が湧 き出るようになったと言われています。』

 この神話は、神津島(神集島)の島名 を由来すると共に、生命源である「水 の配分」を通して、「地域づくりの道し るべ」を暗示するものと考えます。




『続日本後紀』によると、

神津島は、上津島と呼ばれ、
承和五年七月五日、大噴火があった島。


噴火による造島の霊験により
直後の承和七年(840)無位から従五位下を贈られ、
嘉祥三年(850)従五位上、
仁寿二年(852)正五位下に進められた古社。


噴火によって祀られた『物忌』は東北にもあり、
鳥海山の大物忌神社が有名。


噴火という神威に触れ、物忌を行って神を鎮めるということだろう。


当社の特殊神事にも、二十五日神事と言うものがあり、
旧正月二十四日から三日間、神を向かえ、神を送り終えるまで
島民は物忌を行うという。

また、島の方の話では、
物忌奈命には弟神が存在し、
次男は多幸湾・日向神社に祀られている日向神。
三子は多幸湾沖の祇苗島(通称蛇島)の祠に祀られていたらしい。



『三宅記』によると
阿波・命には二王子あり
「たゝない王子」が物忌奈命、「たふたい王子」が日向神。


***************************


伊豆と出雲族との関係は分かりました。出雲族と秦氏の関係も祖父と孫の関係に
比定した?



では賀茂氏は?
また四国の大三島神社とも関係がある?← 海洋族として関係があったのでしょうね。


[31]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月04日 11時22分24秒 ) パスワード

>海部郡の七宝町は服部村だったということ、
>名古屋は服部の一番多いところですので、その辺の歴史も知りたいと感じました。
 

七宝町は昔の服部村の一部です。
明治以降に七宝村に名を変えました。


七宝町(しっぽうちょう)は愛知県海部郡にあった町。

町名は、域内の遠島村(1890年に宝村の大字となる)において江戸末期より七宝焼きによる工芸品の製造が盛んであったことにちなんでつけられた。


加賀藩主前田利家の正室まつの生誕地。  ← 七宝町1番の出世頭ですね。
                      その上に賢夫人の名も高いし


近年は名古屋市のベッドタウン化が進み人口も微増状態が続いている。2010年3月22日に同郡甚目寺町、美和町と合併してあま市となり自治体としては消滅したが、合併後はあま市七宝町として新市の町名に残る。

(旧美和・甚目寺両町は残していない。)
       ↑
      じもくじの名は残すべきだったのに
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月04日 11時33分33秒 ) パスワード

尾張国の中心部は本来は名古屋じゃないのです
名古屋は家康の息子の義直が赴任して来て以来です。だから17世紀以降。

   大坂の陣の時に築城を始めて
   義直自身は家康死後の元和2年(1616年)に尾張へ入国。



尾張国の中心部は一宮・稲沢・岩倉・江南とかあたりです。

   一宮は名前の通り尾張の一宮の置かれたところ  古代尾張の中心ですね。

   稲沢は織田家の重臣だった丹羽さまの本拠地   かな?

   江南というと南北朝の時の北朝方の拠点だし


ではちょっと勉強してきます。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月04日 11時50分47秒 ) パスワード

真清田神社   蜂須賀の奥さんの「松」(笑) は  益田という尾張の豪族の娘で
        益田の元の名が真清田と読んだ記憶




所在地
愛知県一宮市真清田1-2-1

位置
北緯35度18分27.20秒
東経136度48分7.51秒座標: 北緯35度18分27.20秒 東経136度48分7.51秒

主祭神
天火明命         ←   尾張氏の祖神  ですよ〜


社格等
式内社(名神大)
尾張国一宮
旧国幣中社
別表神社

創建
(伝)初代神武天皇33年



真清田神社(ますみだじんじゃ)は、愛知県一宮市にある神社。式内社(名神大社)、尾張国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。



祭神[編集]
天火明命 (あめのほあかりのみこと)

天火明命は、神武天皇33年にこの地を「尾張」と名づけ開拓した天香山命の父神である。

天香山命の子孫が尾張氏とされ、天火明命は尾張氏の祖神とされる。
なお、祭神については古くから諸説ある。


創建
(伝)初代神武天皇33年



歴史[編集]

尾張氏の一部が尾張国中嶋郡に移住した時に、祖神である天火明命を祀ったのが起源と考えられる。

尾張氏は当社を中心に開拓を進め、後に一族の名が国名になり、日本武尊の妃として宮簀媛を出すなど繁栄した。

平安時代のころより、尾張国一宮と称された。
当社について、阿仏尼の『十六夜日記』に「一の宮といふ社を過ぐる」と記述がある。
同市内の大神神社も尾張国一宮を称する。


戦国時代、のちに森氏に仕えた関成政は、織田信長から正倉院の名香蘭奢待の破片を拝領し、当社に奉納した。



摂社[編集]
                うっそお〜  服織神社?
                  ↓
服織神社 (はとりじんじゃ) - 地場産業である織物の神を祀る。
7月第4日曜前後の織物感謝祭は「一宮七夕まつり」として有名。

[34]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月04日 19時12分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 尾張一宮、真清田(ますみた)神社について教えていただきありがとうござ
いました。境内に服織神社をかかえていて、七夕祭りは服織神社の祭り、即
ち一宮は織物の町であったということになりますね。元々は物部氏が開拓し
た地域だという。やがて養蚕が持ち込まれ、機織業が起る。その一帯を服織、
服部というようになった(?)。蚕は物部氏が持ち込んだのか、それとも秦氏
が持ち込んだのか、織り手としては織部が派遣され、中央(摂津)で服部連が
統括をした。
 蚕はいつ日本にもたらされたのでしょうか・・・徐福の時に持ち込まれて
いてもおかしくはないと思いますが、一度調べてみたいと思います。
 七宝町の服部村と一宮付近は同じ地域なのでしょうか?

 服部氏の分布を多い都道府県順に並べますと、
  1.愛知県
  2.三重県
  3.岐阜県
  4.静岡県
  5.神奈川県
となります。この5県で全国の50パーセント前後を占め、愛知県単独では
ざっと25パーセント前後となります。
 愛知県の中で多い順にというと、
  1.中川区
  2.一宮市
  3.稲沢市
  4.弥冨市
  5.愛西市
  6.津島市
となります。名古屋市内は別として、愛知県でその他の多い所は、あま市、
春日井市、岡崎市、蟹江町であります。

 ちなみに、静岡県はといいますと、多い順に、
  1.静岡市
  2.浜松市
  3.焼津市
4.掛川市
  5.沼津市
  6.磐田市
となり、静岡市の中では清水区が多く、浜松市では旧浜松市・旧浜北市に
まんべんなく散らばっているという具合であります。

 服部は、服部・服織・羽鳥村等の地名を名字にした氏族、服部部という
職業部を名字にした氏族・・・どちらもあるのではないかと思います。
 一つの疑問は、明治8年の「苗字必称令」発令以前では、苗字は武士、
医者、庄屋の一部位しかなかったといいますが、本当にそうだったのでし
ょうか。あるいは以前から皆持っていたけれど、身分制度ということで、
表向き名のれなくされてしまっていたのか・・・その辺をしっかり把握し
たいと思っています。
 伊賀の服部氏は武士となりましたので、堂々と名のっても大丈夫でした。
武士ではない服部氏、服部村の養蚕業者、織物業者は服部とは名のれなかっ
たのではないでしょうか・・・?
 新撰姓氏録に載っている姓は、奈良時代の氏族の姓。朝廷に認められた
姓ということですよね。まだいわゆる武士階級はできていなかった時代。
でも、氏(うじ)、名(みょう)はあったのでは?・・・難しくなりますので、
今後の課題としたいと思います。

 

[35]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月04日 22時44分42秒 ) パスワード

まもなく出掛けますので、とりあえず、1つ書きます。

真清田神社にお電話なさって服織神社の紋をお聞きになってはいかがでしょう?
丸に三つ柏紋ならアソコと同じかも。

そうしますと三つ柏さんのお宅が神社系という可能性が非常に高くなります。

    そして時代が下るにつれて
    武装化していったのでしょう。


      神社もお寺も武装化しましたものね。
      ま、最初っから武装もしていたのでしょう。


ただし神社は15日過ぎも忙しいですよ。
15日あたりはお賽銭の勘定を始めますから。


ということで今年の計画はとにかく丸に三つ柏紋について頑張って調べていきましょう。


それにしても服織神社が一宮にあったとは。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月05日 02時44分43秒 ) パスワード

>七宝町の服部村と一宮付近は同じ地域なのでしょうか?


方向が違います。
一宮は愛知県尾張北部で、名古屋のずっとずっと北
七宝町は愛知県名古屋市から南西方向


一宮の地図
http://www.pref.aichi.jp/ricchitsusho/area/img/owari.gif



七宝町
http://www.pref.aichi.jp/ricchitsusho/area/ama.html
七宝町としては出てないですね
蟹江とか大治村の方向です


愛知県地図
http://www.pref.aichi.jp/0000000209.html


[38]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月05日 03時39分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


服部氏の分布を多い都道府県順に並べますと、
  1.愛知県
  2.三重県
  3.岐阜県
  4.静岡県
  5.神奈川県   ← 神奈川・東京に多いのは引っ越しに寄るものでしょうねえ


>この5県で全国の50パーセント前後を占める     ← ということはヨソにも結構いそうですね

>愛知県単独ではざっと25パーセント前後となります。 ← へえ〜



愛知県の中で多い順にというと、
  1.中川区     ← 意外!  ま、尾張南西部の服部村から川向うに移動したということかしら
  2.一宮市     ← 服織神社系の服部さんかしら?
  3.稲沢市     ←     同上?
  4.弥冨市     ← 旧平家 & 旧南朝方 & 反信長方の服部さんでしょうね
  5.愛西市     ←     同上!
  6.津島市     ← 旧平家 & 旧南朝方 でも 信長の家臣系?
 




名古屋市内は別として、
愛知県でその他の多い所は、

あま市    ← 旧平家 & 旧南朝 & 反信長系でしょう
春日井市   ← 安い家を求めて脱名古屋?
岡崎市    ← 家康に従った服部7家の面々?
蟹江町    ← 旧平家 & 旧南朝 & 反信長で & 尾張徳川家家臣?
         首相だった加藤高明はここの出身です。実家の服部家は代官の補佐の家



ちなみに、静岡県はといいますと、多い順に、
1.静岡市     旧徳川家家臣あたり?
2.浜松市        同上?   または  服織神社系?
3.焼津市        同上?     
4.掛川市        同上? 
5.沼津市        同上?
6.磐田市        同上?   または  服織神社系?

となり、静岡市の中では清水区が多く、浜松市では旧浜松市・旧浜北市に
まんべんなく散らばっているという具合であります。



でもやはり  三重県の伊勢伊賀から出て散らばったか、古代からの服織系か、  そんなところでしょうか。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月05日 04時24分30秒 ) パスワード

姓・氏・苗字・名字の違い:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q147725019


苗字≒名字ですが本来「姓」は全く異なるものです。
明治までは同一人が姓と苗字を両方持っていました。


苗字は近世に発生した語彙で、
古代は氏族集団の氏と階級を表す姓(カバネ)が複合されて使用されていた。


平安時代末期あたりから、貴族は居住地などの称号、武家は名田の名字などを称して、
古代の氏は姓または氏と混称されるようになる。


近世に入ると源平藤橘などの氏は公式文書のみ使われ、
日常は名字が一般的となり苗字と呼ばれるようになる。


明治以降の国民皆称の時代に入ると、氏は廃されて苗字が日常的な呼称となった。


しかし、現代でも文部科学省では名字、法務省では氏を正式呼称としている


______________________________


>一つの疑問は、明治8年の「苗字必称令」発令以前では、
>苗字は武士、 医者、庄屋の一部位しかなかったといいますが、本当にそうだったのでしょうか。

>あるいは以前から皆持っていたけれど、身分制度ということで、
>表向き名のれなくされてしまっていたのか・・・
>その辺をしっかり把握したいと思っています。



江戸時代の武士は姓氏を持ち2本差でした。

   例えば  本姓 平姓    俗姓 服部氏

        だから源頼朝の場合は源が姓だから<の>が入ります。
           みなもとノよりとも

        しかし徳川家康は本姓 源  俗姓 徳川 だから
           みなもとノいえやす  と言っても
           とくがわのいえやす  とは言わない


            最近の「御歌会始め」では山田花子は  やまだノはなこ  と呼ばれてますね

            天皇に対して「山田」は「姓」扱いなんだなあ、と見ています。


________________________


姓は、時代とともに、権力の移動とともに、ゴチャゴチャになっていきましたね。


________________________________



武士以外(そして許された者以外)が名字を名乗れなくなったのは江戸時代ですね

でもみなさん名字はあるんですよ
「公式に」名乗れなかっただけで。

     幕府に提出する書類に署名するときは  百姓新左衛門  と書いたように聞いてます。
     でも村の寄合なんかの署名には  松村新左衛門  と書いてたって。

     で、この名字はお上をはばかって「屋号」という扱いということで、と。


大庄屋なんかの許された家しか公式には名字を名乗れなかったから。
それで他の庄屋は「屋号」ということで、と。

    なんせ田んぼを3町歩だっけ?持ってたら庄屋さんと呼ばれたと聞いたような。

    大庄屋は「村」を10以上だったと思います。



ま、世界には名字の無い民族とか国民なんかいくらでもいますから
日本人でも名字の無い人っていたんでしょうね。

    奴婢なんかかな?
    それから奴婢に落とされた物部氏の人々は物部姓を名乗れなかったんじゃないかな?

    ほかの部の人でも剥奪されたまま明治に至るという人もいたんでしょうね。

でも、こっそり、子孫に伝えて来て明治8年に名乗ったと思いますけど。


_____________________________

明治8年以降の日本の場合は住んでる土地で名字にしたという家も多かったでしょうね。
貴族でも武士でもそうでしたものね。

だけど家にひっそりと伝わった名字があったなら、それを名乗ったと思いますけどね。
どっちに価値があって、名乗るのに聞こえが良かったか、じゃないのかな?
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月05日 05時10分42秒 ) パスワード

パスポートなんかで名字と名前を書くのに
インドネシアとか名字のない国の人は 名字のところに FNU と書きます。
FNU  とは  ファミリーネームアンノウン ということです。


日本の場合は驚くような名字があったりしますね。
   守屋浩    御先祖さまは物部守屋?
   家永三郎   伊賀の家長の子孫?
   川勝     秦川勝の直系?


でも今の時代に合わない名字もありますよね。
   ちょっと書きたくないです。

   芋X とかね
   名字が「奥」とかね。旦那さんなのに奥さんとかね。奥さんとこの奥さんとかね。


また世間を驚かせることをやらかした人の名もありますね
特に珍しい名字だと世間から忘れられないでしょうね。
   


足利出身の人は出身地が足利というだけで軍隊で殴られたとかね。
逆に「楠」なんて名字の人は殴られるのが1回は減らされたかもね。



同じ服部でも半蔵の家は  ほのはやひの末裔だと称しているそうで


      饒速日のこと?穂積や物部と同族?


允恭天皇の御世に織部司に任じ
諸国の織部を拾領。
服部連と号す。

      服織神社がらみ?


で、平氏にして葛原親王の後胤・伊賀平内左衛門が末孫なり


      ほのはやひはニニギと家族だから葛原親王の子孫でもオッケー?


うちは半蔵の8代前の先祖と共通だから  上記  で良いのかな?
[41]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月05日 15時48分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろ勉強になりました。

 服部、長田、秦、物部は線でつながっているように最近思えます。

 ここ遠江長上郡においても―

 1.まずは物部氏が土地を開拓。
 2.長田という村・郡の成立(何で長田かは今後の課題)。
 3.秦氏系の養蚕業の振興、織部の移住。中央の服部連が統括。
 4.羽鳥・服部村・庄の成立。
 5.服織神社の勧請。
 6.服部という土地がらみの姓の成立。

 この仮説を証明するためには、長田氏のルーツをもっと探究する必要があ
ります。

 服部村、長田村、服織神社・・・伊賀でも長上郡でも静岡安倍郡でもセッ
トで存在。備前、尾張、その他はどうか・・・今後調べてみます。

 さて、『伊豆水軍物語』の続き―
 「山伏の活動がもっとも盛んであったのは、平安末期から戦国時代にかけ
 てである。山伏といえば、柿の衣に綾藺笠、錫杖をつき、笈を背にしたイ
 メージが一般的だが、彼らは法螺貝を吹きつつ山中に分け入って厳しい回
 峰修行をした。彼らが苛酷な修行によって身に付けた加持祈祷の呪術は、
 里の民衆から一種の畏敬の念でみられていたのだった。

  ところで、山岳信仰=修験道の発祥の地は熊野である。熊野は、太古か
 ら人間が死後に行く浄土だと考えられ、常世の国、祖霊の地と結びついた
 地域だとされていた。つまり熊野信仰とは、山と海とが混然とした信仰で
 あって、同信仰を全国に広めた熊野の山伏と海賊も、その実態は一つのも
 のであり、両者はほとんど同根同類といってよかった。熊野から伊豆に移
 住した海賊鈴木繁伴が、山伏木島法印を配下としていたことなどは、その
 好例である。繁伴自身も、関東管領に召されて追儺の式をとりおこなった
 ところからみて、やはり祈祷術を身に付けた山伏そのものであったとも考
 えられる。

  南北朝時代以降、熊野信仰を広めようとする勧進活動と相まって、修行
 回国する山伏が特に数を増した。山伏たちの修行の場となった山岳は全国
 に分布しているが、伊豆およびその周辺地区にも、伊豆山、日金山、弦巻
 山、山伏峠、達磨山、愛鷹山、猪鼻岳、明神岳、富士山等々、信仰対象と
 なった山々があった。
  山伏峠と名付けられた峠は全国いたるところに散在するが、いずれも中
 世の山伏の活動の跡を指し示すものである。伊豆にも、熱海市の南西、田
 方郡との境にある山伏峠や、伊豆西海岸の土肥町と賀茂村の境に位置し、
 昔、山伏同士が戦ったところだったという言い伝えのある山伏峠などがあ
 る。山伏は「山武士」にも通じるように、剣技や体技に優れ、集団化して
 いたことから、雇われて合戦に参加することもあった。海賊と山伏とは、
 もともと中身は同質のものであつたのだが、特に伊豆のそれはぴったり重
 なり合う同一体であった。」 
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月05日 22時57分41秒 ) パスワード

間もなく出掛けますので取り敢えず1つだけ:


>服部村、長田村、服織神社・・・
>伊賀でも長上郡でも静岡安倍郡でもセットで存在。
>備前、尾張、その他はどうか・・・今後調べてみます。


尾張国の中では、とは言えませんが

わたくしの生家の近所でも服部家と長田家は近かったです。
長田さんはお金持ちで品のある美しい方で成績も良い家系でした。

そして長田さんの親戚が三重県バリバリの名字でしたから
やはり三重県が絡んでいるのかな
と思います。


   どんどんそちらに特化していきます。
   これはわたくしが望んでいる<答え>ですから。

   こういうのはいけませんね。



静岡県で「賀茂」というのも不思議ですね。
徳川家がらみなのか
昔っから賀茂なのか


帰宅後にまた読み返します、

[43]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月06日 15時22分59秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 長田(永田)の語源的ルーツを探してました。川崎真治氏の『方舟に乗った
日本人』の中で、「長上郡について平安時代では長上郡と長下郡に分かれて
いたが、より古代では阿波国那賀郡のように一つの長郡、那賀郡、あるいは
那訶郡であったと考えられる」ということで、那賀郡について調べてみると、
意外や全国各地に点在しているではありませんか。そこで、インターネット
で検索しているうちに正にそのテーマのサイトに出合いました。下記がそれ
ですので一度読んでみて下さい。

 http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54129025.html
「分布図と海人族居住地(歴史)-民族学伝承ひろいあげ辞典」

 全国なか地名の分布(古代律令体制下での地名)
 「なか」地名と海人族

◆那珂郡(なか・の・こおり、なが・の・こおり)
日本本土最古の「なか」地名は那珂郡(筑前国)福岡県福岡市博多区・那珂(中)川沿線・弥生時代奴国存在・奴の津由来であろう。「な」は難波の「な」である。波が強く航行に難儀する海のそば。

海部郷の記録(律令体制下での表記で宗像郡・那珂郡・怡土(いと)郡に相当する)。

安曇族・宗像族の集中する記録上日本本土最古の海人集団発祥地。
壱岐・対馬を中継地として広く大陸と交流した最古の船人であり、貿易者であり、漁師であり、海中に水没する海士たちの日本一の密集地。
安曇、久米、宗像海人族などがいた。しかし管理者としての海部氏族の記録はまだ見つかっていない。3世紀後半の『魏志倭人伝』記述まで遡れる全国まれな地域。「倭人」。「魏志」は女王国の一大率という国際迎賓施設を伊都国に置いていたと書く。つまり倭人伝に描き出される倭人像とは、とりもなおさずまず伊都国、あるいは奴の津を挟んだ西側の奴国の倭人の記事であると推定してよいだろう。その倭人の風俗はまさしく海人族の風習である。
律令下では東の岡県主(おか=おんがの・あがたぬし)と力を二分する伊都県主が管理。これ以外に海の管理者である海部があったはずだが氏族名が記録に残っていない。一時的に勢力を持つ宗像氏が管轄したか?
弥生時代には中川を挟んで西側は甕棺墓地帯、東側は周溝墓地帯であるから奴国と伊都国は種族が違った可能性もある。こうところから見て伊都国と奴国は中川を挟んで隣接していたとも考えられる。

彼らの派生元を想定するに玄界灘に浮かぶ中継地・壱岐・対馬(魏志の一大國・對馬國)であろうか。日本最古の海人族所在地と見られる。

※※※つまり「なか」地名の震源地は玄界灘である。(更に追求を要す)

「なか」は「なが」と濁るところもあり、表記も「長」「中」「那珂」「那賀」「那加」などと多岐に及ぶ。

イメージ 1
律令体制化以前の奴国・伊都国の県主。

◆なか・なが地名と海人族、海部の関係一覧
発信地
●筑前国那珂郡  福岡県旧奴国・伊都国の奴の津=博多湾

太平洋側
●日向国那珂郡  
イメージ 2

 宮崎県佐土原・住吉周辺のみの非常に狭い領域だが南北那珂郡があった。笠沙の岬と都井岬の馬が有名。曽於君の勢力が強い地域なので肩身が狭そうである。持田古墳群近し。米良街道を北上すると西都原古墳。これらの古墳群の中で前方後円墳を持てるとすれば海部か阿多隼人の曽於君しかおるまいか。5〜6世紀の古墳群なので、倭五王時代のものである。宮崎県には装飾古墳が少ないので、しかし海人勢力としては弱い。

●讃岐国那珂郡   
イメージ 3

香川県。旧伊予国で途中から讃岐郡に分離。ここは吉備海部との深い物資交換の歴史あり。目前の瀬戸内に浮かぶ小島を一手に引き受けている郡であるから、まず海人地名。
♪まわれば四国は讃(さん)州なかのこおり 象頭山金昆羅大権現・・・と歌にあるように金毘羅大権現で有名。サンスクリットの海の神クンピーラ由来の信仰。
海郷(大内郡山田郷)が置かれた場所とは違うのが注目点。


●阿波国那賀郡  
地図なし
徳島県南部の高知県に隣接する忌部族(氏ではない)由来地名。唯一海岸部ではなく、山間部で、何か訳あって内陸に隠れたのであろう。隣に土佐物部(ものべ)部落あり。

●紀伊国那賀郡  
イメージ 4

和歌山県。ながぐんと濁る。海部郡・名草郡の奥地。キーワード熊野水軍。粉河寺。皮田。大古墳群多数倭五王時代。紀氏所管であろう。大伴部がいた記事あり。長忌寸意吉麻呂は紀伊国那賀郡を本拠とする長氏の出で、東漢(やまとのあや)系の渡来氏族
直(あたい)から天武11年 ...

大宮の 内まで聞こゆ 網引(あびき)すと 網子(あご)ととのふる 海人(あま)の呼び声(こゑ) (3−238)

名草、海部、ながは海人がいたところということ。

●伊勢国(伊賀国)名賀郡 
イメージ 5

三重県。一時的に伊賀国。名張町と合併。鈴鹿山地国境にあって所属が決めにくかったようだ。
同じく濁る。伊勢海人族。記録に「名賀郡は伊賀国に、度会郡は伊勢国に、それぞれ属す。」とあるから伊賀国だった時代があったようだ。
観阿弥・世阿弥出身地・・・つまり杉の木服部一族(海人系秦部?)のいたところということになろうか。忍者の里。松尾芭蕉。徳川家康の脱出。

●伊豆国那賀郡
イメージ 6

  静岡県伊豆半島西部。中郡、仲郡、那可郡ともいう。大宝元年(701年)から和銅3年(710年)までの間に、仲郡が成立し後に那賀郡。鴨郡、田方郡に隣接。いずれも海人地名である。漁師町。

●相模国中郡
イメージ 7

  神奈川県西部、秦野市周辺。寒川神社六摂社のひとつ寒田神社(ヤマトタケル)あり。中世には波多野氏の管理地。「さぶた」はサビから。製鉄地名。

●武蔵国那珂郡  
イメージ 8

 埼玉県本庄市(児玉町秋山、児玉町小平)及び児玉郡美里町(大字広木、駒衣、中里、古郡、甘粕、木部、白石、猪俣、円良田)がここ。ここはさきたま古墳群のオワケの一族か?秋山村があったらしくこれは縄文蝦夷地名だろうか。荒川(旧利根川)最上流で秩父に隣接。船の資材である森に遡上して炭を焼き製鉄し船クギを得ただろうが、途中でオワケ氏族と関係したか?ワカタケル時代にはすでにそこにいただろう。

●常陸国那珂郡 
イメージ 9

 茨城県。現在「仲郡」ここの息須(おきす)神社に相模の仲郡から来た寒田郎子(さむたの・いらつこ)という地名記録がある。寒田地名は確かに神奈川県西部の秦野市にあるのでそこも記録にはないがかつての仲郡であろう。

日本海側
●石見国那賀郡
地図なし
 島根県石見地方中部浜田市周辺。石見国府所在地。海直(あまの・あたい)管理地か?
江の川は唯一中国山地を越える川である。重要。安芸国=広島県と深く関わる。間に出雲を挟んでの敵対なのかどうかは不明。

●丹後国中郡
イメージ 10

  京都府大宮町・峰山町周辺。丹波道主(のちの丹波国造か)の娘で記録では崇神の妃である竹野姫に関係する。旧たには郡。「たには」は丹波。谷の端か?山が多い。丹後半島。近くの海岸部・岩滝町に太田南遺跡群。紀年銘鏡。となりの竹野町に著名な前方後方墳あり。網野銚子山古墳は間人姫か竹野姫か?

「中」表記には字義通り「真ん中の」意味がある地域もあろうかと思う。
1 網野銚子山古墳   竹野郡網野町網野    前方後円墳   中期  198m

2 神 明 山 古 墳   竹野郡丹後町宮     前方後円墳   中期  190m

青龍三年(235年)紀年入り、日本最古の方格規矩四神鏡が著名。青龍は魏の年号ゆえに、ヤマトや九州よりいち早く単独で朝貢していた地方豪族のいたところと理解。近くに天橋立、加悦町、与謝町。宮津市の北部。ここは半島伽耶国由来地名。逃れてきた渡来氏族と見た。筆者長い滞在(峰山半年、宮津半年)の経験あり。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「長」「中」「那珂」「那賀」「那加」は表記の年代別の変遷にすぎず、意味はみな同じであろう。
諸説あり
サンスクリットのナーガ=太陽信仰と関わるヘビ=オロチから。
郡と郡との真ん中に位置するから。
波が荒く難かしい海に面した場所。
奴国の勢力の移動居住地。
など。

このほかにナガスネヒコ由来で、群馬の仲曽根や大阪の曽根、沖縄の仲宗根などの大元地名などというおもろい説もある。じうれにせよ縄文時代からあった古い地名であろうから、語源を探れば大陸をどこまでもたどれそうな地名。

朝鮮語起源や中国南部の長江文明起源もあるだろうが、遡ればこれらの地名にも必ずまだ大元はあるはずである。手近の類似で決め付けるのは早計な論理。古代はもっと視野を地球規模にする必要がある。

◆なかとなが
濁るところと濁らないところがあり、「なが」と濁る地域には共通項が垣間見言える。濁る濁らないは地方色で、そこにいた民族特性であろう。
熊野、伊勢、武蔵、北関東で濁るようである。
一方濁らない地域はおそらく大陸系(中国・半島)の音訓であろう。

韓国語で那珂は「ナカー」と発音する、ところが那賀・名賀になると「ギリー」に変化。中は「ジュンあるいはエイ」。仲は「サイ」でばらばらになってしまう。つまり「なか」地名は半島語由来とは見えない。
それが中国語として同じ単語を入れて韓国語変換してみると、またまったく違う音になる。
現代音声ではなにがどこなのかさっぱり難しい。やはり現代語ではまったく比較にならない。

「な」の大元表記は「灘」ではないかと思う。
兵庫県灘市は「なだ」と読むが、大分県杵築市奈多は「なた」と発音する。半島系在日の人は「なだ」を、「濁らない!」と怒る人が多い。「なか」も濁らないのは半島海人族の発音だろうか?

灘は荒い波を表す文字であろう。
神戸市灘区の対面する海は狭い海峡で波が早い。それでここに来た倭直一族=椎根津日子子孫たちは速水瀬戸と呼んだ。この「はやすなと」というのが神になって「速吸比売」はやすなとひめ として大分県の北海部郡佐賀関半島の突端に祭られているから、両地域は同じ種族の海人族だったと想定できる。ここにはちゃんと椎根津日子神社もある。だからヤマトの古い氏族である倭直・倭国造氏は東九州から来たと想定できる。

灘の津が博多湾と大阪湾の古い呼称である。
大阪湾を住之江と呼ぶが和歌の古い表記では「墨の江」となっている。
葦が生い茂りそれがバクテリアを放出し、鉄成分を集めると、当時汽水湖だった河内湖は墨のように黒かったと考えている。大阪府花は葦である。
波が荒くて容易には近づけない湾どが「な」である。それに意味がわからない「か」がつく。
「なた」ならばあら波が多いと理解できるが、「なか」とは?
辞書で調べると
中・・・ナ・カ   ナだけで中、カは国の中心部、河川と河川の中間の土地と出た。

中心部ではそのままであって中で充分事足りる。奈良時代に二文字表記指令が出ている。それでよい文字でそれぞれの土地で勝手に表記は決められた。
河と河の間は普通河内である。河の中流域なら理解できそうだ。しかしほとんどが海岸部にあって海人族地名なら灘のほうがふさわしかろう。まあ、保留にしておくとする。
鴨郡が同時存在する地域多し。これもヒントになりそう。

 ここで、一度切ります。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月06日 22時43分02秒 ) パスワード

三つ柏さん

難しくてワケ分からなくて昨夜は寝てしまいました。


長が那賀とも書かれるというのには目からウロコでした。


>「な」は難波の「難」の「な」
>波が強く航行に難儀する海のそば。

お〜
という感じですね。



>しかしほとんどが海岸部にあって海人族地名なら灘のほうがふさわしかろう

ですよね


古代の漢字の使用状況が分かってないから
現代からは古代の人がどういう意味でその漢字を当てたのか
考えるのは難しいですね。


ワタクシは古代のことがサッパリ掴めないです。


今年早々に≪神の子≫というキリストの映画を見ましたが
  アブラハムはすべての人間の祖となるように
  という神の啓示で
  ワタシもこの人の子孫なのかなあと
  そして昨日オットが受診した医者の名前はイスラエルの祖達の名前です。
 
  ミドルネームはMなので  モーゼなのかなあ?  と想像してました。


人類がアフリカから始まったというのは認めて
中東を経て
東に移動して
そして日本に来たのでしょうか?



>ナガスネヒコ由来で、
>群馬の仲曽根や大阪の曽根、沖縄の仲宗根などの大元地名などというおもろい説もある。
>いずれにせよ縄文時代からあった古い地名であろうから、語源を探れば大陸をどこまでもたどれそうな地名。


うちの母方の先祖もナガスネ彦の話が絡みますが
その時以前からの家なのかなあと



>大阪湾を住之江と呼ぶが和歌の古い表記では「墨の江」となっている。
>葦が生い茂り
>河内湖は墨のように黒かった

>大阪府花は葦である


ここで母方を思い出しました
「住吉」

この「吉」は葦のよしだったのかなと


いっそう母方が住吉大社に庇護された理由が身近になりました。


我々は先祖がいてこそ。
そして先祖は古代どころか神代の時代から。
そしてその前はアブラハム?



>サンスクリットのナーガ=太陽信仰と関わるヘビ=オロチ

アダムとイブの話にも蛇(爬虫類  地を這う存在)が出て来ますから
長田のナガは  蛇  蛇の体  蛇の体の長さ  の意味もあるのか

などと感心してしまいました。


長田氏がアダムとイブの時代にまで行き着いてしまいました。



結局現代の日本人はナガスネ彦も饒速日も物部も大伴も
みんな繋がっているのか、と


尾張西部の「海部郡」は神代の時代から地名が続いて来たのか、と驚き。
祖父江さんとか丹羽さんとか、海部郡あたりの豪族どころか大豪族の血と名を嗣ぐ人々なのか、と。

日本人は名前を聞けば  あそこのアイツ  と分かるけど
日本はすごい
神代の時代の素性までバレてしまう。


この<43>のスレッド、壮大過ぎ。
長田さん、壮大な背景を持っているのかも。

これからは尊敬の眼差しでお会いしなくては。
にっこり
[45]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月07日 00時30分34秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 同じサイトのこちらの方がわかりやすいかも知れません。

―那珂と伊都・地名由来―
 「福岡県の博多は昔「那(な)国」とか「那ノ津」と呼ばれていた。現在も「那ノ津大橋」や「那の津通」等にその名残が見える。また、博多区には「那珂(なか)」という地名もあり、その名をとって福岡市の都心を貫き、博多湾にそそぐ川の名を「那珂川」という。「那国」は、後漢の光武帝から授かった例の金印に書かれた「漢委奴国王」に見える「奴(な)国」のことである。」

 「長島温泉で有名な三重県桑名市長島(ながしま)町は、町全体が木曽三川(木曽・長良・揖斐)の形成した三角州にあり、周囲をぐるりと堤防に囲まれた完全な「輪中集落」である「川中島」の呈をなしている。本来なら「中島(なかしま)」となるべき地形名であるが、この輪中は南北に細長いので「長島」と濁音になってしまった。「中」が「長」や「永」に変わってしまった地名も各地に多く見られるので、注意を要する。」

 「長野市「長野」は・・・背後に丘陵地を控え、南向きで日当たりもよく、このあたりでは一番良い場所に寺を建立したと思われるので、やはり地名の由来は「中野」ではないかと思う。長野市の北方、北信の中心地には正真正銘の「中野市」があるが、長野市と発音が似ており、よく間違えられて困る、と中野市民はなんとなく憂鬱を抱えている。」

 「石川県金沢市の都心部には「中橋」「中村」「長田」があるが、この「長田」も「中田」であろう。岐阜県恵那市の中心部には「永田」「長島」「中野」という地名が一箇所にかたまっている。いつのころからか「中田(なかた)」が「永田(ながた)」になり、「中島」が「長島(ながしま)」になり、さらに「長島」を「おさしま」と呼ぶようになった。日本の常民の発音の妙と情念の豊かさを感じる。 」      http://baba72885.exblog.jp/7169179/  

 「なか地名の点在についてはここでも以前、それが海人族地名であることを分析した。
 転載・全国那珂・那賀・名賀・中・仲郡の分布図と海人族居住地

イメージ 1
「那賀」「那珂」などの「なか」は多くにごって「なが」と同じである。
分析すると「な・か」に分けられる。

「な」の基層語は縄文倭語の「灘 な」である。つまり海岸線や湾曲(わんど)、河川沿い、海・水をさす言葉。「なーみ」「なーには」「なーだ」。

「か」は助詞の「が」でいにしえの「の」ある。「灘が土地=海のある場所」が「ながと」である。

 筆者近隣地名では宇佐市のそばに「長洲」がある。「なーかーす」で、「長洲」はたいがいが漁師町。長い州は海岸線の海浜が長いという意味なのに、砂浜はさほどでなく、むしろ灘のそばの州=テリトリーなのであり、文化とか言葉に昔から違いがあった。はっきり言えば部落である。海岸線の部落はほとんどが古代海人族の頃からの流れである海人が住まう。気比も三方も美浜も伊方も玄海も福島中通も全部そうである。「木屋」とか「中洲」とか「なかすね」もそう。「灘が州根」である。

 灘はそもそも「儺」を行う場所でもある。語源は同じであろう。「難」はあやうい場所である。

「なのつ」は福岡市の湾をさす。「灘の津」→「那の津」と表記が変化した。

「那」と言う文字には「耳」という意味があり、湾の形状が耳のようであることを示すが、同時に耳は「王」に準じる身分の役職をも指し、「王の海」という意味も持つ。中国が「奴国」と、卑字「奴」を用いた国がここにあった。那珂川。」


川崎氏は、長田(永田)という地名の由来をシュメール語にありとし、その
原語(ダフ・アー・ダ)が音転しつつ、詰まって那訶田(ナカダ)になり、さら
に長田(永田 ナガタ)と変化した。また、ダが省略されて長(ナガ)ともいわ
れるようになったと言っている。記サイトもシュメール語とはいわないが、
日本古語から類推による解釈をしている。

 結局のところ、海人族(少なくとも海を渡って来て日本に住みついた氏族、
一般的には安曇族が有名)が残した地名、さらに姓ということになる。
 しからば、安曇氏とはいかなる氏族かといえば、古代日本列島の各地で、
海・水産物を貢納する海部や安曇部を統括していた氏族ということになる。
 その安曇氏はどこから来たのか―は、次回以後記します。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月07日 02時42分55秒 ) パスワード

>安曇氏はどこから来たのか

どこから来たのですか?


ま、海といえば「聞け、わだつみの声」の世界ですね。

そうすると  海幸  にまで行きますか?
海幸彦に話が行くのでしょうか?


「海ゆかば」も連想します。


やっぱり日本は「海」に回帰しますか。

書き込み、お待ちしております。



[47]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月07日 17時13分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 熊野と海賊と山伏と忍者についてですが、今回にて言及は最後とします
が、『伊豆水軍物語』では次のように言っています。
 「彼ら(海賊や山伏)はまた、忍者と相通じるものを持っていた。海賊や
山岳武士はゲリラ戦を得意としていた。海上戦や山岳戦の場合、地の利を
得た彼らは、少ない兵力でよく大敵を負かすことができた。敵の虚をつい
て奇襲をかけたり、夜討ちをかけたり、岩かげにひそんでいて近づいてく
る敵を狙撃したりするのは、海・山に共通した戦法であった。
 甲賀者とか、伊賀者とかで知られる忍者部落も、もとをただせば山伏集
団であったといわれるが、甲賀や伊賀だけでなく、伊豆にも忍者集団は存在
した。のちに伊豆流とか北条流、あるいは風魔忍法とか称された戦国時代の
忍びの者たちがそれである。
 この伊豆流忍びの術は、これまた紀州流の系譜に連なっている。熊野海賊
ははやくから中国大陸や東南アジアとの交易を行っていたが、その関係で同
地方には、いちはやく火術を取り入れた忍びの術が発達した。特に鉄砲が伝
来した後は、鉄砲火術にすぐれた津田流・根来流・雑賀流などの諸流派が栄
え、戦国史を陰からあやつったことが知られている。彼らは忍者集団・鉄砲
集団であると同時に海賊衆であり、熊野信仰の伝播者であった。伊豆の海賊
と密接につながっていたことではあり、伊豆流忍びの術が発達したのも首肯
できるとこるである。」
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月07日 21時27分46秒 ) パスワード

ポイントは「熊野信仰」ですか。



>伊豆流忍びの術
>のちに伊豆流とか北条流、あるいは風魔忍法とか称された戦国時代の忍びの者たちがそれである。


ですね。


もとは「西」の影響。


>鉄砲火術にすぐれた津田流・根来流・雑賀流

はい
鈴木孫市は特に有名な人物ですね。



>海賊や山岳武士はゲリラ戦を得意としていた。海上戦や山岳戦の場合、地の利を得た彼らは、
>少ない兵力でよく大敵を負かすことができた。
>敵の虚をついて奇襲をかけたり、夜討ちをかけたり、岩かげにひそんでいて近づいてくる敵を狙撃したりするのは、
>海・山に共通した戦法であった。

特に「源義経」を連想します。


鞍馬山で修業中に体得したのだなと。
義経は天才だったのだなと。



熊野信仰からこんなサイトを見つけました:

http://kanazawa-sakurada.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/33.html
修験者(山伏)と忍者にまつわる歴史秘話、山伏、忍者、家康の伊賀越え、とは(2009.9.30)

修験道(しゅげんどう)は、原始(縄文、弥生、古墳時代)からの山岳信仰(さんがくしんこう)に、古代(飛鳥、奈良時代)の道教(どうきょう、中国、朝鮮からの渡来人によって伝えられた、神仙思想、老荘思想、易、陰陽、五行、医学、占星の説など含む宗教)、仏教(ぶっきょう、仏陀創始の宗教、欽明天皇(きんめいてんのう、?〜571年(欽明32.4)の代、538年または552年、百済(朝鮮)の聖明王から朝廷(日本)に仏像、教典などが届けられた、仏教公伝)などが融合した民衆宗教(みんしゅうしゅうきょう)です。 


 修験者(しゅげんじゃ)は、山伏(やまぶし)とも呼ばれ、山林修行による呪術力(じゅじゅつりょく)の獲得を旨とし(修験道)、独自の儀礼によって治病、各種の祈祷(きとう)に従事しました。その起源は、奈良時代のはじめ、役小角(えんのおづの、生没年未詳、大和国葛城山に棲む、呪術をよくし、金峰山上で蔵王権現を感得、葛城山一帯から吉野、大峰を越え熊野まで、捨身の行を積む)を修験道の開祖とすることが多い。


役小角は、日本古来の山岳信仰に密教(雑密、ぞうみつ、道教、仏教含む)の秘法を加えて、新しい独自の宗教、修験道、を開き、これが全国に広まって行きました。護摩(ごま)を炊(た)き、呪文(じゅもん)を唱(とな)え、祈祷(きとう)を行い、難行(なんぎょう)、苦行(くぎょう)をして、神験(しんげん)を修得すると言われています。

 密教(みっきょう、仏の境地に達した者にしか開示されない秘密の教え)については、平安時代、空海(弘法大師)が開いた東密(とうみつ、東寺、真言密教)と最澄(伝教大師)が開いた台密(たいみつ、延暦寺、天台密教)を、純密(じゅんみつ)と呼んでいます。

 平安中期以降、熊野、吉野を中心とする修験者(山伏)の活動が活発化し、熊野は鎌倉末までに寺門派の聖護院を中心とする本山派に組織化されました。出羽三山(でわさんざん、月山、羽黒山、湯殿山、山形)、四国石槌山(しこくいしずちざん、愛媛)、九州英彦山(きゅうしゅうひこさん、福岡、大分)などの山岳でも宗派が形成されました。

 山伏は、熊野、大峰山の修行を終えて、本山、本寺から院号、坊号、法印、権大僧都などの各種補任を受け、身分を保障されました。補任料は、山伏の加持祈祷など日常活動に対する檀家の支援によって賄われました。近世(江戸時代)には、平安末に成立した、本山派修験(天台宗系、聖護院門跡、熊野から吉野へ、順峰)と鎌倉末に成立した、当山派修験(真言宗系、醍醐寺三宝院門跡、吉野から熊野へ、逆峰)の二派が競合していましたが、1872年(明治5年)、明治新政府による神仏分離令(しんぶつぶんりれい)により修験道は廃止、解体されました。戦後は、地方に帰農した昔の山伏とその一派が、再び独自の宗教的な活動を行っています。

 ところで、忍者(にんじゃ)は、鎌倉時代から江戸時代、大名や領主に仕え諜報活動や暗殺を仕事としていた、個人ないし集団の名称です。伊賀(いが、三重、西部)と甲賀(こうが、滋賀、南東部)の忍者は有名ですが、様々な特殊訓練を行い、特殊な道具なども所持しており、この道具を忍具、逃走術を含む種々の技術を忍術(にんじゅつ)と呼んでいます。

 忍術には、修験者(山伏)が用いた、九字護身法(くじごしんぼう、九字を切る、九字(臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前)の呪文を唱え、手印を結び、悪鬼、怨霊から身を守る、道教)、山嶽兵法(さんがくへいほう、亀六の法、敵が攻めて来ると、亀が手足を甲羅(こうら)の中に入れるように、山中に身を隠し、敵が疲れるのを待って、襲撃する、甲賀)などもあります。

 また、伊賀には、金属武器製造の技術集団、渡来人(朝鮮、中国)がいたことは、伊賀一宮(敢国神社、あえくにじんじゃ)の祭神(金山比・命、かなやまひめのみこと、少彦名命、すくなひこなのみこと)が、渡来系の鉄の神であることから想像されます。鉄製造のためには高温の火が必要であり、それは忍者の狼煙(のろし)、火術(木炭、硫黄、硝石などが原料の火薬使用、敵の城内で火を放つ術)とも関連しています。また、毒と薬は表裏一体であり、甲賀者は薬(薬草、和漢秘薬)も巧みに使っていました。薬は山岳で修行する山伏と密接な関係があると言われています。


 伊賀者(いがもの、伊賀衆、忍者軍団)が大きな脚光を浴びたのは、織田信長が本能寺(京都)の変で倒れた、1582年(天正10年)6月の時で、徳川家康は信長に招かれ、40人余りの家臣と共に、和泉(いずみ)国、堺(さかい)の見物に出かけていました。京都の商人茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろうじろうきよのぶ)から信長の訃報を聞き、三河への最短経路である伊賀路によって帰国しようとしました。甲賀から伊賀の山中を通って伊勢に抜け、海路で三河へ帰還したのですが、最大の難所は伊賀でした。


 この伊賀越えの時、家康は何度も一揆衆に襲われましたが、伊賀者(200人)、甲賀者(100人)に警固(けいご)されたと伝えられています。徳川実記(とくがわじっき)によれば、「これを神君(しんくん)伊賀越えといい、御生涯艱難(かんなん)の第一とす」とあるように、家康にとっては生死にかかわる厳しい逃避行となっています。その後、伊賀者は伊賀越えの功績により、伊賀組同心(どうしん、警護、護衛)として徳川家に雇われています。服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり、伊賀組屋敷前が江戸城半蔵門)は、その組頭(くみがしら)に任じられています。

 江戸の泰平な時には、伊賀と甲賀の忍者は、早朝より畑を耕し、午後より先祖から受け継いだ兵法の訓練をし(傭兵、ようへい)、通常の百姓と大差のない生活を送っていました。

(参考文献) 永原慶二監修、石上英一ほか8名編: 岩波日本史事典、岩波書店(1999); 和歌森太郎:  山伏、入峰、修行、呪法、中央公論新社(2001); 小向く正司編: 密教の本、驚くべき秘儀、修法のの世界、学習研究社(1993);  歴史群像編集部編: 決定版、忍者、忍術、忍器大全、 学習研究社(2009). 



[49]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月07日 21時30分50秒 ) パスワード

続き
法螺貝の項が面白かったです:


   日本古来の伝達手段かと思っていたら
   こんなところにもインドの影響!




(追加説明) ○ 古代中国の陰陽五行説は、諸子百家(紀元前6〜4世紀)の時代に、民間の風習や自然宗教から発生した道家(老荘思想)、陰陽家(おんようか、または、おんみょうか)及び五行(木、火、土、金、水)説が基になっています。五行の思想と、万物は陰と陽からなるという陰陽家とは何の抵抗もなく融合し、五行にはそれぞれ陰陽の2要素があり、木の兄(きのえ)、木の弟(きのと)−−−などと呼ばれる十干の考え方が生まれました。

 すなわち、十干が複雑に絡み合って万物が出来上がるという思想が陰陽五行説です。この思想は、確証のない考え方でしたが、日本を含む東アジアに広く行き渡り、占いや縁起かつぎとして、鬼門、あるいは仏滅、大安など、今も生き続けています。

 古代インドでは、水を万物のもととする一元説のほかに、四大(しだい、地大、水大、風大、火大)説がありました。四大とは、釈迦が説いた仏教用語で、それぞれ硬さ、湿り気、動き、熱さを本質とし、これらが集まって自然現象の世界、色(しき)、を構成すること、また、これらは万物のもとである空(くう)から生じ空に帰るとされています。お寺の五重塔や墓地の五輪塔は、四大と空の五元素の思想を形で表したものです。

○ 護摩(ごま)は、智慧(ちえ)の火で煩悩の薪を焚(た)くことを意味する密教の修法です。護摩壇(火炉)で護摩木を焚き、火中に五穀等を投じて、本尊と行者の三密が一体となる作法により、息災、増益、降伏(ごうぶく)、敬愛を祈願し、この趣旨を板や紙に書いた護摩札を護符(ごふ)とします。古くは、インドで行われていた祭祀法を採り入れたものです。

○ 護摩の灰(ごまのはい)とは、旅人らしく装って、旅人をだまし財物をかすめとる盗賊のことですが、高野聖の扮装をして、弘法大師の護摩の灰と称して押し売りをした者の呼び名から転じて用いられたと言う。

○ 法螺(ほら)は、インドで人を集めるのにホラガイを吹いたのを、仏の説法に集まる人の盛んな様子、また仏の説法そのものにも喩(たと)えました。日本では、山伏が悪獣を追うために用いましたが、のち重要な法具となり、法会でも用いられるようになりました。

○ 1582年(天正10年)5月、徳川家康は、安土を経て上洛(じょうらく)し、織田信長の計らいで、本能寺の変が起こった、1582年(天正10年)6月、堺見物に出かけ、豪商、今井宗久、津田宗及らの接待を受けていました。この時同行していた茶屋四郎次郎清延(呉服商、京都、三河出身)が、伊賀の土豪(伊賀者)に渡りをつけて、最短の伊賀越えに協力させ、伊賀山中を抜け、白子の浜(伊勢)から大浜(三河)へ着き、家康の城がある岡崎へ帰したと言われています。
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月08日 10時33分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 山伏というと、以前から浜松には馬込町という所があって、謎めいていま
すが、山伏がたくさん住んでいたといいます。
 郷土史家の神谷昌志氏によると―
 「馬込町は江戸時代の敷智郡馬込町で、浜松宿の東にあった小さな村だが、
 山伏が数多く住んでいた修験の里として秘めた歴史をもつ村でもあった。
  元禄16年(1703)の調べによると、百姓14戸に対し、修験者の家
 は23戸もあった。3軒に2軒は山伏の家であったのである。しかもこの
 比率は幕末までかわることがなかった。修験の祈祷所がこの村には20ヶ
 所以上も集団的にあったというのであるから、驚くほかない。」
 「馬込が修験の拠点となったのは室町時代といえる。その後、江戸時代に
 入っても増え続け、元禄年間にはその数23ヶ院にも達したのである。
  参考までに元禄年間にあった修験の道場をあげておくと次のとおり―
  永教院 観音院 玄宝院 文殊院 常楽院 覚寿院 両宝院 養学院
  智教院 吉祥院 金剛院 正学院 寿命院 般若院 快教院 妙法院
  快楽院 安養院 正宝院 宝蔵院 東学院 玄養院 智積院
  20有余もあった修験の堂院も、江戸末期には永教院など16院に減少
 した。この衰退に追い討ちをかけたのが明治政府による「廃物毀釈」の
 嵐であった。これによって弱体な堂は次々と姿を消し、明治5年の時点で
 残ったのは永教院、観音院、玄宝院、文殊院の4院だけであった。いずれ
 も室町時代開創の古い歴史をもつ院てせあった。しかし、この4院も単独
 での存在は認められず、明治5年6月に京都の醍醐山三宝院に帰入するこ
 とによって命脈をつないだのであった。」
 「だが、この4院も明治から大正にかけた中泉や浜名湖北に移ってゆき、
 現在の祈祷所は全くない。あれほど全盛を極めた山伏の村は完全に消え、
 かって馬込の地が法院の里であったことを知る人もほとんどいない。」

  この馬込の山伏の里について、何故ここに山伏が集まり、何をやって
 いたのかが知りたいのですが、今のところ推測するしか手がかりはありま
 せん。山伏が純粋にある宗教を広めるために出歩いたのか、各地の情報を
 とるために出歩いたのか、祈祷によりある意味病気の治療を行ったのか、
 占い、予知をおこなったのか、悪霊払いを行ったのか・・・。
  一方で権力者の加護を受けたのか、例えば今川氏・・・。情報収集には
 必要不可欠な存在ではある。下剋上の世では情報収集が一番必要、今の
 ような電波メディアはない訳で、足と目と耳と口によるマンパワーしかな
 かった。
  山伏については、更に探究したいと思います。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月08日 11時46分02秒 ) パスワード

三つ柏さん


>馬込町は江戸時代の敷智郡馬込町で、浜松宿の東にあった小さな村だが、
>山伏が数多く住んでいた修験の里として秘めた歴史をもつ村でもあった。

実は村全体が謎に包まれた世界だったのかしら?
面白そうですね。


そうしますと「山伏」とは仮の姿だったかもですね。
いえいえ「忍者」が副業だったのかしら?


山伏なら世間と違う行動をしてても、いろいろな家に入り込んでいても、
どんな人が訪ねて来てても、不思議じゃないですね。


面白い世界があったのですねえ。


去年ハワイには高野山系の阿闍梨が来てたそうで
ホノルルマラソンにも出たらしいです。

   ホノルルは舗装されてますから軽く42km走れたのでしょうね。
   笑


千日行とか山伏とか
ロマンがあっていいですね。

でも・・・実は・・・・裏で忍者やってたなんてね。
いえいえ忍者がトレーニングを山伏姿でやってたのかも。



一体山伏ってどういう人なんでしょうね。
 
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月08日 23時40分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、午後より「賀茂真淵記念館」へこの歳になって初めて行ってまい
りました。収穫はかなりありました。これについては、今頭の中でまとめて
おりますので、改めてご報告させていただきます。

 長田の件ですが、川崎真治氏のシュメール説は説明用語自体が平易でなく、
今後更に理解できる水準まで掘り下げてみたいと思っています。
 長田氏は安曇族と同等の氏族か、物部氏族の仲間か、秦氏の仲間か、はた
また加茂氏の仲間か・・・具体的な割り出しを行いたいです。
 それと、安曇族のルーツも知りたいです。そして徐福との関係も。
 また、長田と和田は近い関係にあるように思われます。和田はシルクロー
ドのホータンのことでもあります。長田を中国語で読むと何と読むのでしょ
うか。安曇族はどうやら呉からの難民のようです。また呉族は弥生文明の
開拓者であったということです。シルクロードと呉族の関係も調べなければ
なりません。ちょっと時間がかかります。

 時間ができた分、思考や資料検証についやす時間は増えましたが、何事も
すぐに結論には到達しませんので、書き込む時間についてはなかなか増えま
せん。
 今回はこれにて―
 
  
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 02時45分57秒 ) パスワード

三つ柏さん

なんという偶然の一致でしょう!
実は  ホータン  について考えていたところでした。

もはやワタクシと三つ柏さんはテレパシーで結ばれているのかも。




>シルクロードのホータン

実は昨日日本人の友人宅に行って「翡翠」の宝石なんかを見せてもらってて
今朝、香港人の宝石商夫婦に翡翠についていろいろ聞いて来たところなんです。



さっき検索したら
中国では「ヒスイ」の硬いのは産出しなくて軟玉をホータンから持って来るんだそうです。


ウイキより翡翠:

不老不死および生命の再生をもたらす力を持つと信じられており、
古代においては遺体全体を玉で覆うことが行われた。

秦の始皇帝の遺体も玉で覆われていたとされる。
中南米の王族の墓でも同様の処置が確認される。


翡翠の産出地は世界的にも限られている。
なお、中国のホータンで産出される翡翠(和田玉)は軟玉であり、
よく誤解されているが中国に硬玉の産地は存在しない。


硬玉の主な産地(日本のみ書きます)

新潟県糸魚川市姫川流域、
北陸の海岸や富山県の宮崎・境海岸(ヒスイ海岸)、
兵庫県養父市(旧大屋町)、
鳥取県、
静岡県引佐地区、                 ←  アヤシイ!
群馬県下仁田町、
岡山県新見市の大佐山、
熊本県八代市泉町など。


軟玉の主な産地
中国の新疆ウイグル自治区のホータン(和田)地区:古代において西域諸国と中国との間の重要な交易商品となった。
                        ここで採れたものは特に和田玉と呼ばれている。



そして更に驚いたお話:

世界で最初に翡翠を使ったのは、約5000年前の縄文前期末の人々であり、
世界最古の翡翠大珠が山梨県で見つかっている。



もしかすると三つ柏さんがお好きな「青い玉」とは  青=緑  ということで翡翠なのかも。


そして古代人はヒスイを求めて日本中を探し回っていたのかも。
徐福も案外翡翠を探していたのかも。



香港人の宝石商が言うには
翡翠は自分を守ってくれる霊玉だって。

それで手首や首につけるのかも。

   年寄は手首をよく折りますからね。


この香港人の奥さんは手首に翡翠のブレスレットをして、首にも翡翠の大きなペンダントをしています。

手首のは30年前に2000ドルって言ってたかな?
ペンダントの方は見るからに高級品で値段は教えてくれなかったです。



中国では、他の宝石よりも価値が高いとされ、古くから、腕輪などの装飾品や器、精細な彫刻をほどこした置物など加工され、利用されてきた。

ニュージーランドやメソアメリカではまじないの道具としても使われていた(メソアメリカでは腹痛を和らげる石として使われていた)。

また非常に壊れにくいことから先史時代には石器武器の材料でもあった。


ヨーロッパでは翡翠で作られた石斧が出土する。


日本では古代に糸魚川で産出する硬玉の翡翠が勾玉などの装飾品の材料とされ珍重されていたと推定されるが、奈良時代以降その存在は顧みられなくなっていた。



またもや古代の話に戻りましたね。

ラピスラズリや翡翠。
きっと三つ柏さんには古代の記憶が微かに在るんだと思います。
それが何なのかまだ分からない段階なのでしょう。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 02時49分12秒 ) パスワード

長田の発音を調べたら  中国語では  永田に変換されてしまい  「ようちえん」と言ってるみたいでした。


https://translate.google.com/?ie=UTF-8&hl=en&tab=wT#zh-CN/zh-TW/%E9%95%B7%E7%94%B0

長田 は  「ちゃん・ぴえん」  でした。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 02時59分01秒 ) パスワード

https://translate.google.com/?ie=UTF-8&hl=en&tab=wT#zh-CN/zh-TW/%E9%95%B7%E7%94%B0

はアドレスバーにコピペなさってから https の<s>を削除してクリックなさればサイトに行けると思います。


「永」を「よう」と読むのはお寺さんの名前で時々ありますね。

永福寺 の読みは えいふくじ  かと思うと  「ようふくじ」だったり。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 03時19分04秒 ) パスワード

またまた思い付いたのですが

Q:
徐福が日本に来たのは何故?
A:
始皇帝の不老不治の薬を得るため。

ファイナルアンサー:
この候補に「翡翠」があったのかなと。


最近起きた中国からの赤珊瑚密漁。
   赤も中国人の大好きな色ですよね。


徐福もこんな感じで船団を組んで大勢の人間を連れて日本に来たのかしら?
捜していたのは「翡翠」。



始皇帝:おい、徐福。東の海の向こうの国にホータンより良質な翡翠があるそうじゃないか

徐福 :はい、陛下。ホータンの翡翠はいろいろな国から掘りに来てますから
    新しい鉱脈を探さないと枯渇しますね

始皇帝:お金ならいくらでも援助してやるから、東の海に翡翠を捜しに行け


こんな経緯だったのかな?



わたくしは三つ柏さんと違って古代や神代の時代はさっぱり掴めないのです。
なんか拒否する力が働くような。

定説をすんなり受け入れるような。
なんでだろうと疑問を抱くより、グチャグチャになってワケが分からなくなります。


いまだに
先祖の神様と住吉っさんの神さんが昔っから親しかったとか
だから
わたくしの一族を危難から庇護してくれる
というのが具体的に納得できないでいます。

もちろん定説上の関係は読んで知っていますが。


今回は三つ柏さんの「シルクロードのホータン」で  あれ?  と思うことがいくつかありました。


ホータン=和田? ⇔ 日本の和田氏とも結びつく?
和田氏と言ったら楠正成の一族にも存在ですしね。


グッと入り込んで来た気がします。

ちなみに  和田 は「ふゥ・ちえん」ですって。


まだまだ三つ柏さんの気にかかっているコトには到達していないです。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 03時32分18秒 ) パスワード

ウイグルのホータン
ウイキより



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%B8%82


ホータン市(-し)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区ホータン地区に位置する県級市。高品質の軟玉の産地として知られる。



地名の由来

古代西チベット語で「玉の城」「玉の村」
ウイグル語で「玉の町」
土地に居住していた集団の名前


古代のホータンは「于闐」(ウテン、üdün)と称されるオアシス都市国家で、シルクロード(西域南道)の要衝であった。

土地の名前は転訛を繰り返し、
中国語で和闐、和田と音訳されて現在に至っている。

また、テュルク語のイリチ(伊里斉)の別名でも知られる。
     ↑
    トルコとかアゼルバイジャンとかの西アジアの言語でしょうね



ホータンは古くから白玉(和田玉)の産地として著名であった。

玉は中国、ペルシャ、イラクに輸出され、
東西交易の利益によって西域有数のオアシス都市に発展した。


5世紀から10世紀にかけて、ホータンではガンダーラ語を継承したと考えられているホータン・サカ語が使用されていた。

                  白人
                   ↓
話者である古代のホータンの住民はコーカソイドに属し、
ホータン・サカ語はインド・ヨーロッパ語族に分類される。

東西交易の要所であるホータンでは、イラン、インドをはじめとする様々な地域の文化が受容されてきた。


       火と水の宗教ですね:日本の「お水取り」なんかに見られるように
         ↓
于闐王国ではゾロアスター教が流行した一方で、
仏寺が多く建立された。

     ヲイヲイ!オットの医者の名前ですよ
         ↓
于闐王国はヴィジャヤ家(Vijaya, Visa)によって統治され、
中国は彼らを「尉遅氏」と呼んだ。


紀元前2世紀の前漢代に中国が初めて于闐王国と接触した時、
既に于闐は東西交易の中継地として繁栄していた。

73年に于闐は将軍・班超の攻撃を受けて後漢に従属したが、後漢の西域経営が行き詰ると于闐は自立する。

3世紀頃、于闐は鄯善、疏勒、亀茲、焉耆と並ぶタリム盆地の五大国となり、
西晋からそれぞれの国の王に晋侍中大都尉奉晋大侯の称号が贈られた。


4世紀から6世紀まで、于闐王国は前涼、前秦などの政権に従属し、
吐谷渾やエフタルなどの遊牧民族の攻撃を受けた。

隋末期から唐初期にかけて于闐は西突厥の支配下に置かれるが、
648年に疏勒、亀茲、焉耆と共に安西四鎮に組み入れられ、
唐の影響下に入った。

唐の西域はしばしば吐蕃の攻撃を受け、于闐も唐と吐蕃の係争の地となる。
761年に于闐に毗沙都督府が設置されるが、
790年までに唐の西域経営の拠点である安西大都護府と北庭大都護府が吐蕃の攻撃によって陥落し、
于闐は吐蕃の支配下に入った。

吐蕃の撤退後、李氏が于闐に独立政権を立てる。
11世紀、李氏は中央アジアのイスラーム国家カラハン朝に敗れ、
ホータンはカラハン朝に併合される。

カラハン朝の支配下でホータンのイスラーム化が進み、
イラン・インド文化は消失する。

主要交易路の変化などの理由により、イスラーム化が進んでからのホータンは国際交易の拠点から地方交易の拠点へと役割を変える。



この時代の後の王家の「カシュガル」がオットの家に絡みます。


いやあ〜
It's a small world.
です。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 05時26分03秒 ) パスワード

>安曇族はどうやら呉からの難民のようです

服部氏の秦氏は呉から半島を経て日本に来たと読んだ記憶。

つまり  秦国 → 呉に亡命して → 半島に数百年いて  → 日本へ。
そうすると長田氏とは呉以来?



ウイキより:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F

秦氏の出自[編集]

『日本書紀』において、
応神14年(283年)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、
百済より百二十県の人を率いて帰化したと記されている。[1]

 (別名は融通王[2])を祖とする。
 『新撰姓氏録』によれば弓月君は秦の始皇帝の末裔とされるが[3]、
 その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって[4]、
 その真実性には疑問が呈せられており[5]、その出自は明らかでなく以下の諸説がある。


   ・秦の遺民が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)の系統。(太田亮)
   
   ・百済系渡来氏族。
      弓月の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音である。
      また『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化した
      との所伝もこの説を補強する。(笠井倭人・佐伯有清)[6][7]

   ・弓月君は中国五胡十六国時代の羌族が興した後秦に由来する。
    また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、

    同言語においてハタは辺鄙の土地、
    ウズは第一、
    キは長官を意味することから、
    ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。

    同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す。(田辺尚雄)

   ・景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)。(佐伯好郎)[9]



『隋書』には、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されており[10]、
これを秦氏と結び付ける説もある[11]。


本居宣長や新井白石は『新撰姓氏録』や『古語拾遺』に依ってハタでなく
韓国(からくに)語のハダ(波陀)と読むとした[12]。



ここでアップ
続く
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 05時31分23秒 ) パスワード

続き


氏姓
秦公  秦造   秦忌寸

氏祖
称・弓月君   (称・秦の始皇帝後裔)

種別
諸蕃

本貫
豊前国
大和国
山背国葛野郡
山背国紀伊郡
河内国讃良郡
丹波国桑田郡
美濃国加茂郡       ⇔  加茂郡?
相模国大住郡など

著名な人物
秦河勝

後裔

惟宗朝臣
東儀家(地下家)
小畑家(地下家)
瀬尾家(地下家)

土山家(地下家)
三上家(地下家)
調子家(地下家)
藤木家(地下家)

松室家(地下家)
平田家(地下家)
石川家(地下家)
大石家(地下家)

東家(社家)
南家(社家)
西大路家(社家)
大西家(社家)

羽倉家(社家)
荷田家(社家)
川勝氏(武家)       ⇔   分かり易い
大蔵氏(武家)
松下氏(武家)など     ⇔   ですね


秦氏(はたうじ)は、「秦」を氏の名とする氏族。
東漢氏などと並び有力な渡来系氏族である。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 05時47分54秒 ) パスワード

歴史[編集]


日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。


大和国のみならず、
山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、
同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、
河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、
摂津国豊嶋郡など各地に土着し、         ⇔  神服神社?
土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。



アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)説話のある地域は秦氏の居住地域と一致するという平野邦雄の指摘もある[13]。

  ↑
アメノヒボコ伝説は海人族の海の神への信仰にも繋がるんだそうです

  (ほのはやひの命なら服部半蔵の家に繋がるので納得できるのですが。残念)


難波津の西成・東成郡には秦氏、三宅氏、吉氏など新羅系の渡来人が多く住み、百済郡には百済系の渡来人が住んだ[14]。


山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。


雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、
公の姓を与えられた[15]。


欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾に任ぜられたといい、
本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしいとされる[要出典]。


また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した[16]。



秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦が分かっているが、
河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名がある。


河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、
付近の古墳群からは5〜6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。


秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ[要出典]、
現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとされる調査結果もある[要出典]。
伝秦河勝墓はこの地にある。


また、山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、
年代はさほど遡らないことが推定される[要出典]。


秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される[要出典]。


山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。

                 これは参考になるんでしょうか?
                  ↓
山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる[要出典]。


秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、
山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。


秦氏の末裔はこれらの社家となった[要出典]。


秦氏は相模原にも上陸し、現在の秦野市の地域に入植してその名を現在に留めている。
高麗神社などが点在することから、足取りをうかがうことができる[要出典]。


天武天皇14年(685年)の八色の姓では忌寸の姓を賜与されるが、忌寸のほかに公・宿禰などを称する家系があった。


平安遷都に際しては葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとする説もある。


平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、
秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。

東家、南家などは松尾大社の社家に、
西大路家、大西家などは伏見稲荷大社の社家となった。

伏見稲荷大社の社家となった羽倉家、荷田家も秦氏の出自という説がある[要出典]。


日本最古の戸籍半布里戸籍にも記されている(富加町)。


__________________________

秦氏と賀茂氏はライバル関係だったのでしょうか?
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 05時53分58秒 ) パスワード

続き


秦氏が創建に関係した主な神社・寺院[編集]   

神社松尾大社

伏見稲荷大社

木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)

大避神社 - 兵庫県赤穂市坂越にあり、秦河勝を祀る。対岸の生島には秦河勝の墓がある。

敢国神社



寺院
広隆寺



秦氏に関する人物[編集]

弓月君

秦河勝 - 聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。村上天皇の日記には「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」と記されており、平安京への遷都や造成に深く関わっていたことが記紀の記述からも読み取れる。またほぼ同時代に天寿国繍帳(中宮寺)の製作者として秦久麻がいる。

大生部多 (おおふべのおお) - 駿河国の不尽河(富士川)で虫を常世神とする新興宗教を唱えた。秦河勝に討伐されたが、大生部多も秦氏の系統といわれる[17]。

朴市秦造田来津 - 白村江の戦いで戦死。

秦吾寺 - 蘇我倉山田石川麻呂の謀反計画に連座し処刑。

藤原葛野麻呂 - 母方の祖父が秦嶋麻呂で、秦氏は藤原北家と婚姻関係を持った[18]。

弁正 - 秦牛万呂の子で、次男が秦朝元。秦朝元の娘は藤原清成の室(妻)となり、藤原種継を生んだ[19]。

道昌 - 俗姓は秦氏。法輪寺を再興した僧侶で、恒貞親王に密教を教えた[20]。

慧達 - 法相宗の僧侶。美濃出身で俗姓は秦氏[21]。

賀美能親王 - 秦氏で、嵯峨天皇の乳母[22]。

法然(母が秦氏の女性)

秦公春




末裔とされる氏族[編集]

末裔・枝氏は60ほどあるとされる[23]。


秦首、秦公、秦人、秦子、秦冠、秦姓[24]。
勝氏、忌寸氏、部氏[25]。


朴市秦氏(えちはた) - 近江国愛知(えち)郡。
内蔵氏、大蔵氏[23](漢氏と共通)[26]。


朝原氏、太秦氏、長蔵氏、長田氏[23]       ⇔    長田氏  見っけ〜〜〜

惟宗氏[23] 薩摩島津氏[23] - 惟宗氏からの派生氏族。島津氏自体は当初は藤原氏末裔、後に源氏末裔を自称。

宗氏[23] - 惟宗氏からの派生氏族。宗氏自体は桓武平氏末裔を自称。

執印氏 (鹿児島氏) - 薩摩国一宮新田八幡宮社家。

神保氏[23]、安芸氏、市来氏、川原氏、河俣氏なども惟宗氏の出とされる。

長宗我部氏 - 信濃秦氏の秦能俊が土佐国長岡郡宗部郷の地頭となったため改姓。

川勝氏[27][28]

赤松氏[29]      ⇔  赤松も?驚

東儀家

松下氏 - 松下氏自体は近江源氏流六角氏の末裔を自称。庶家に花井氏がある。

[62]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 05時56分06秒 ) パスワード

とうことで  秦氏の中にも  長田氏  がありました。
へ〜



ということは三つ柏さんがお気になさっていらっしゃった  服部氏・長田氏・服織神社の関係は

    成立!

ですね。
[63]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月09日 08時57分03秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 よくぞ探していただきました。奇跡的です!

 秦氏の大陸での足取りは余り探究したことがなかったので、今後調べて
みます。それと海人族といわれる諸氏族、そして特に「ワニ」氏・・・。

 長田氏が秦氏のグループ、服部氏も同様。服部氏と長田・永井は元々関係
が深かったといえますね。
 物部神社の神官を長田氏がやっていたともいいますので、物部氏とも重層
的に関係している。物部氏族は徐福の後裔的氏族でもありますので、徐福→
物部氏→秦氏→長田氏→服部氏、ほぼこんな具合に点と線がつながりますね。

 更に解明したくなりました。
 
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 10時22分25秒 ) パスワード

物部神社の神主に   長田  の名前がありましたよ。
島根の物部神社の項目をご覧ください。



もう1度  物部神社  の復習:

物部神社(もののべじんじゃ)は、古代日本の物部氏に由来する神社。

この名前を持つ神社は東日本から西日本にわたる広い範囲にわたって分布している。
その多くは、物部氏の初代の宇麻志摩遅命や祖神である饒速日命を主祭神としている。


各地の物部神社[編集]

物部神社 (大田市) - 島根県大田市(式内社、石見国一宮、別表神社)
物部神社 (高岡市) - 富山県高岡市(式内社)
物部神社 (上越市) - 新潟県上越市(式内社)
物部神社 (柏崎市) - 新潟県柏崎市(式内社)
物部神社 (佐渡市) - 新潟県佐渡市(式内社)
物部神社 (笛吹市) - 山梨県笛吹市(式内社)
物部神社 (名古屋市) - 愛知県名古屋市東区(式内社)
勝部神社(旧称・物部神社) - 滋賀県守山市(旧物部郷の総社)

____________________________


島根の物部神社

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、
神武天皇の大和平定を助けた後、
一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿したという。

宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、
継体天皇8年(514年?)、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。

神階は貞観11年(869年)に正五位下に叙され、同17年(875年)に正五位上に、元慶元年(879年)に従4位下に[1]、天慶4年(941年)に従四位上に[2]昇叙した。延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。


社家については、
景行天皇の時代に物部竹子連が石見国造に任ぜられ、
その子孫は川合長田公を名乗り代々祭祀を行っていたというが、     ⇔  ここ  長田公

文治4年(1184年)金子家忠が安濃郡の地頭として赴いたときに子の道美が取って代わって当社の神主となり、
以降金子氏が代々の祭祀を行うようになったという[3]。

戦前に金子氏は出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、
全国14社家[1]の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。




名古屋の物部神社


垂仁天皇の御代に初めて社殿を造営したと語り継がれている。

平安時代前期の延喜式神名帳には愛智郡(愛知郡)の式内社として物部神社があった。
平安時代末期の尾張国内神名帳には、従三位物部天神と記されている[2]。

JR中央本線千種駅を中心として物部神社や高牟神社がある地域は、
   古代には物部郷古井村、
   中世には鳴海荘古井村と呼ばれ、
物部氏の拠点があったとされる。

      鳴海には立派な服部家がありますから
      関係があるのかな?


いずれも式内社の両社は400mほどしか離れておらず、尾張名所図会には物部神社と高牟神社が同一図に描かれている。

元禄年間(1688年-1704年)には、第3代尾張藩主徳川綱誠が社殿を修復した[1][2]。
1868年(明治元年)、尾張国千種村の本社が延喜式神名帳の物部神社に同定された。
つづいて村社に列せられた。1953年(昭和28年)には本殿拝殿が造営された[2]。

祭神は物部氏の祖神である宇麻志麻遲命。
尾張国や美濃国には数多くの物部神社が存在したが、
多くが合祀された結果、
現在では尾張国では本社だけが残り、
美濃国では本巣に2座のみが存在するという。





勝部神社:

概要[編集]

旧社格は郷社で、旧物部郷の総社。祭神は、主祭神の物部布津命・火明命・宇麻志間知命と、相殿神の住吉神・猿田彦神を合わせて祀る。大化5年(649年)に物部宿禰広国が物部郷勝部村の現在地に祖神を祀り、物部大明神と称したのが起源とされる。


ここでアップ
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 10時29分55秒 ) パスワード

川合長田公って?
と思い、川合氏を調べてみました。


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%B7%9D%E5%90%88


【名字】川合

【読み】かわい,かわあい,かあい,かわえ,かわごう

【全国順位】 560位  
【全国人数】 およそ37,200


川合君、
川合宿禰、
村上天皇の皇子具平親王の子師房にはじまる源氏(村上源氏)赤松氏流、
桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流など多流がある。

語源は、川の合流点の意味からきている。地名としても全国に多い。




都道府県別ランキング

北海道 417位 およそ2,100人

青森県 1,735位 およそ80人
岩手県 2,991位 およそ30人
宮城県 1,093位 およそ200人
秋田県 1,778位 およそ40人
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福島県 1,241位 およそ200人
茨城県 2,211位 およそ100人
栃木県 1,748位 およそ100人
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千葉県 885位 およそ1,000人
東京都 563位 およそ3,600人
神奈川県 788位 およそ1,700人

新潟県 599位 およそ600人
富山県 303位 およそ700人
石川県 863位 およそ200人

福井県 1,429位 およそ70人
山梨県 904位 およそ100人
長野県 736位 およそ400人

              東海4県に集中しているんですねえ(謎)
岐阜県 181位 およそ2,300人
静岡県 185位 およそ3,600人
愛知県 171位 およそ7,600人  確かに名古屋にはカワイさんって多いです。
三重県 181位 およそ2,000人

滋賀県 398位 およそ600人
京都府 634位 およそ600人
大阪府 629位 およそ2,200人

兵庫県 1,278位 およそ600人
奈良県 356位 およそ700人
和歌山県 537位 およそ300人

鳥取県 1,730位 およそ40人
島根県 859位 およそ100人    島根に少ないのがコレまた不思議!
岡山県 853位 およそ400人

広島県 1,985位 およそ200人
香川県 1,630位 およそ70人
愛媛県 2,971位 およそ30人

大分県 1,473位 およそ100人
[66]丸三柏服部さんからのコメント(2015年01月09日 12時36分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 川合長田公の話、ありがとうございました。またもや発見ですね。

 そういえば、当方の5氏族ですが、氏類のおじさん(今は亡くなっておりま
すが)より、川井氏も5族の仲間(善地には少ないですが)ということを聞いて
おります。特に磐田に多いようですが。

 歴史の水底が薄ぼんやりと見えてきたような感じがしますね。

 歴史に名前を残している氏族は、だいたいは繁栄した氏族ですね。
 土地、産物、商い、お金、権力・支配・・・。

[67]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月09日 21時56分52秒 ) パスワード

三つ柏さん


川合長田公
かわい氏の母上がながた氏出身の女性だったかも知れないですね。
で八色の姓で「公」を頂いたのかも。


     8〜9世紀において改賜姓がさかんに行われているのは、
     八色の姓において、
     上級の氏姓にもれた下級の身分の者や、
     これらの農民を主な対象としたものである。

     その順位は、無姓を下級とし、
     造、公、史、勝、村主、拘登(ひと)、連と身分が上がっていく。

ということは、この川合長田のきみは、身分は低かったようですね。

    

>歴史の水底が薄ぼんやりと見えてきたような感じがしますね。

はい。
三つ柏さんの遠い記憶の歴史が見えて来たようですね。



しかしやはり元に戻りましたね:

1.もともと古代から静岡県にいた?
     服織神社の周りで長田氏が祭祀をして服部氏が織物をやってた?

2.伊勢伊賀から松平家に仕えて静岡県に移った?
     静岡の服部氏と交流した?
     伊賀の呉服明神の服部氏と交流した?
 

可能性は3つ?  1か2か  1と2の合体か  ですね。


とにかく戦国時代に、松平家に仕えて、徳川幕府下で「平氏で旗本」になった、と。


    伊賀の呉服明神のもともとの紋も知りたいところですね。


ということで

高槻の神服神社との関係を知りたいですね。
      ここと長田氏も絡んでいると良いですね。

尾張一宮や浜松の服織神社の紋も丸に三つ柏紋だとスッキリしますね。



>歴史に名前を残している氏族は、だいたいは繁栄した氏族ですね。

だから今に至る。


しかし堅実にやって来た家も1980年代のバブルに踊らされたりバーストで一緒に没落したというのもあるでしょうね。

その上に少子化で家自体が消滅もしているでしょうね。


それでも名家として続いている家は本物ですね。
周りもほっとかないでしょうし。
   東大寺?法隆寺?を建てた金剛組もなんとか続いてますものね。


うちの祖母は男子を5人生んだものの、今は、じり貧です。
わたくしの子供達の代では2家=人数=しか名を継いでいません。
   この2人に男子が生まれなかったら  終了  です。 滅亡 か?断絶ですね。 
 
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 02時03分56秒 ) パスワード

さっき  川合長田公  についてどんな人物であったのかな  と考えてみました。


レス<64>
島根の物部神社の社家については、

    景行天皇の時代に物部竹子連が石見国造に任ぜられ、
    その子孫は川合長田公を名乗り代々祭祀を行っていたという     



物部竹子連
その子孫  川合長田公  を代々名乗り  祭祀を行う


ということで  物部氏  物部神社  可合氏  長田公  となりますから
空想では  物部氏の川合さんと秦氏の長田さん  が合体?
物部氏と秦氏の関係が見てとれる?


長田公という名前からも長田は祭祀関係?

___________________________


物部氏の復習

物部氏

氏姓
物部朝臣

始祖
饒速日命

種別
神別(天神)

本貫
河内国哮峰

著名な人物
物部麁鹿火
物部尾輿
物部守屋

後裔
石上朝臣
新家連
新家宿禰
高岳首
石見国造金子氏(社家・華族(男爵))
厚東氏(武家)
曾禰氏(武家) など


物部氏(もののべうじ)は、「物部」を氏の名とする氏族。

河内国の哮峰(現 大阪府交野市か)に神武天皇よりも前に天磐船により大和入りをした饒速日命を祖先と伝えられる氏族である。

饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。

              ココ大事ですね
                 ↓

穂積氏が本宗家とされ、熊野国造とは先祖を同じくする同族とされる。




元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、
しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。

5世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、
雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。

物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、盟神探湯の執行者ともなった[1]


物部氏は528年継体天皇22年に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられた。
これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。



その後、蘇我氏との対立があって没落、587年9月9日崇峻天皇即位で、ですね。


そして天武天皇の御世に復活?

天武朝[編集]

連の姓(かばね)、
684年天武天皇による八色の姓の改革の時に朝臣姓を賜る。




その後:

石上氏が物部氏の本宗家となる。


686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。

石上の姓はもと物部守屋の弟である贄子が称していたが、
のちに守屋の兄・大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある[3]。


石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。
その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。

息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、
乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。
また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。


石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。

また、石上神宮祠官家の物部氏を宅嗣の弟・息嗣の子孫とする近世の系図がある[4]。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 02時29分20秒 ) パスワード

続き


枝族・末裔

物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、
無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない。

長門守護の厚東氏、
物部神社神主家の長田氏・金子氏(石見国造)、     ←   物部系長田氏
廣瀬大社神主家の曾禰氏の他、
穂積氏、采女氏をはじめ、
同族枝族が非常に多いことが特徴である。

江戸幕府の幕臣・荻生徂徠は子孫といわれる。



東国の物部氏

下総物部氏
     香取神宮と物部氏の関連も指摘されている。

尾張物部氏
     古代尾張の東部に物部氏の集落があり、
     現在は物部神社と、武器庫であったと伝えられる高牟神社が残っている。

石見物部氏
     石見国の一の宮「物部神社」(島根県大田市)は、
     部民設置地説以外に
     出雲勢力に対する鎮めとして創建されたとする説もあり、
     社家の長田家・金子家は「石見国造」と呼ばれ、    ←  物部系長田氏     
     この地の物部氏の長とされた。
     金子家は、戦前は社家華族として男爵に列している。

備前物部氏[編集]
     江戸期には岡山藩の池田家から尊崇を受け「物部」姓を名乗ることを許されたといい、
     今の宮司も物部氏をついでいる。
     大和の石上神宮の本社ともいわれているが、神宮側は公認していない。








ちょっと三つ柏さんの思考に近付きました。


物部氏   
熊野の穂積氏=鈴木さんですね
さらに和田氏にも絡みました。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 02時36分53秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E5%9B%BD%E9%80%A0

熊野国造


熊野国造家


本姓
熊野直

家祖
大阿刀足尼

種別
神別(天孫)

出身地
熊野国

主な根拠地
熊野国

著名な人物
熊野広浜
橘広方      あらら・・・
和田正遠      あらら・・・

支流、分家
和田氏
真砂氏



熊野国造(くまののくにのみやつこ、くまのこくそう)とは、熊野国(後の紀伊国牟婁郡、現在の和歌山県南部と三重県南部)を古代に支配した氏族。物部連や穂積臣と同祖。



「和田氏系図」によると、子孫の一部は和田氏を称したという。




南北朝時代には、
河内国の和田正遠が楠木氏(伊予橘氏)の家系を継承したが、
正成一族を除き、他の子息(正季、正家ら)の一族は和田氏に復している。

正季の子息・和田高家は岸和田古城を築いたことで名高く、
同じく正季の子息・和田賢秀は「歯噛様(はがみさま)」として現在もその武勇を讃えられる。



南朝方の家臣・和田正興や正武は系譜不詳。
『太平記』などは正興らを楠木氏と同族とするが、
実際は和泉国の御家人・和田(みきた・にぎた)氏(大中臣姓)の出であったとも考えられる(婚姻関係などにより同族化した可能性はある)。

ただし、国造和田氏の流れを汲む多くの氏族(橋本氏、神宮寺氏など)が南朝方に付いて、同族の楠木氏と共に戦った。



結局、神代の時代だけでなく、古代、中世、南朝方でも、わたくしの父方・母方とも何重にも繋がるのですねえ。
さすが日本!

他人だと思って悪口なんか言おうものなら自分の悪口ということいなりますね。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 02時53分21秒 ) パスワード

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-2-4.htm



物部氏は扶余人



『秀真伝(ほつまつたえ)』

筑波王朝に睨みを利かせるために、大国主神の息子である建御名方(タケミナカタ)神を諏訪に駆逐することで武功のあった建御雷之男神(武瓱槌神・建御雷神・建羽雷神)を鹿島大社の祭神とした。

そして、物部氏はこの建御雷神を氏神とした。



『鹿島神宮』由緒

祭神の武瓱槌神は香取神宮の経津主神と同体と見なされており、これから見ても藤原氏の隆盛には、往古からの物部氏の蓄積を活用した様子がわかる。鹿島神宮の神々と河内の枚岡神社の神々とは、物部氏の拠点に鎮座していたが、藤原氏の氏神として春日大社に迎えられていることが、それを物語っている。



 栄華を誇った藤原氏の礎を築いたのは藤原不比等だが、その足がかりを作った父の中臣鎌足は、神職者の家系というだけで、出自不明とされる人物だが、物部氏に連座して中央政権から追われた中臣の宗家に代わって中央に登場した鎌足は、蘇我氏に取り入り、鹿島神宮の祭祀権を手中にしている。

 蘇我氏との政権争いに敗れ、滅亡した物部氏の莫大な資産は、半分が四天王寺の建立費用、残り半分が蘇我氏に分配されたが、その財産を築いた源泉は常陸国から得たと考えられることから、常陸は物部氏の「打出の小槌」だったのだろう。



『鹿島神宮』では、「鹿」を神の使いとして現在も境内で飼っており、鹿島神宮の神々を分奉した奈良の春日大社も大々的に鹿を飼っている。



  物部氏が奉祀した鹿島神宮が、鹿を「神鹿」として扱うことから、物部氏は鹿をトーテムとする氏族だと思われる。

だとすれば、ニギハヤヒは扶余族の王族である可能性が高い。

  ちなみにトーテムとは、社会の構成単位となっている親族集団が神話的な過去において神秘的・象徴的な関係で結び付けられている自然界の事物で、集団の祖先と同定されることが多いと『広辞苑』は記しているが、端的には特定の部族内で共通の象徴として崇拝する、始祖神話に関与した動植物や岩などである。


   うちのオットのカナダの親戚のトーテムは「カラス」です。笑


  扶余国は、燕国(前燕)の慕容(ボヨウ)氏から二度の壊滅的被害を受けている。

285年には武宣帝・慕容廆(カイ)、346年には文明帝・慕容皝(コウ)によって、国を破られ、その後は高句麗の従属国として命運をつないだが、410年に高句麗に併呑され、歴史から姿を消している。


従って、285年前後か遅くとも346年までに、その遺民が倭国に渡来したものと思われるので、その足跡を探してみよう。


@ 扶余系部族連合

  秦の始皇帝の大帝国が出現した紀元前3世紀、中国遼寧省から朝鮮半島の北部に扶余(フヨ)・高句麗・獩貊(ワイハク)・沃沮(ヨクソ)が登場するが、それらは扶余族を宗族とする同族系国家連合、いわば扶余系部族連合である。

扶余系部族連合は、粛慎国に帰属する穢(ワイ)族系部族の連合体で、獩族(ワイ)・貊族(ハク)・狛族(コマ)などが包含されていたものと想像するが、その連合体の王を出す主要部族が扶余族であり、扶余とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてたものと思われる。


  古代中国大陸では、トーテムによって各自の帰属する部族を明示したが、扶余族は「鹿トーテム」部族だが、扶余系部族でも狛族(高句麗)のトーテムは「鳥」で、始祖神話に「南方系の卵生型」と「北方系の日光感精型」が混合していることから、北方の扶余系部族と南方の部族とが混血融合した部族だと思われる。


蛙御手水 高句麗の始祖神話には、扶余王「金蛙」が登場するが、日本でも「淡嶋神社」では少彦名命の使い神、伊勢「二見興玉神社」では猿田彦命の使い神として、参道に蛙が鎮座しており、松本市には「蛙明神社」がある。


中国の神話では「弓の名手が女神の西王母(セイオウボ)から得た不老不死の仙薬を、密かに盗んで月に逃げた妻がヒキガエルにされ、月に住み続けることになった」とされ、この話から中国では「兎は雄がいなくても、月を見るだけで子ができる」と言われ、兎は子孫をつくり永遠に生き続けることができ、ヒキガエルは前述の不老不死の仙薬を飲んだので永遠の命を持つとの伝承がある。


  熊野速玉大社は熊野三山のひとつとして「熊野新宮」とも称されるが、山上にはゴトビキ岩と呼ばれる巨岩が鎮座している。このゴトビキ岩が神々の御神体とされるが、ゴトビキとは「ヒキガエル」のことである。


また、『摂津國風土記逸文』には垂仁天皇の御代の末頃、榎津は不細工で強欲、かつ悪逆非道な「イボガエル」に支配されていたと記されている。


古代の神話では、ヘビやカエルなど様々な動物が登場するが、
坑道で鉱石の採掘を担っていた人々が朝廷から「土蜘蛛」と呼ばれたように、 ← そうなの?
そこになにかの象徴が秘められていることもある。

                               そうなの?
                                ↓
悪逆非道なイボガエルは高句麗で、蛙の天敵はヘビだが、三輪山の御神体は蛇。



大和の大王家が摂津に侵攻してきた高句麗系の部族を撃退したという物語なのかもしれない。
あるいは少彦名や猿田彦が高句麗系渡来人だったとも考えられる。



A 扶余王・依羅(イリ)



『渤海国・国書』

渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。



神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。そこには、日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余の王族の末裔とみていたことが示されている。国書に記すだけの確たる根拠があったと思われる。


   285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、
   国王の依慮が海に投身自殺したほどの潰滅的な打撃を受け、
   王族は沃沮に避難するが、
   翌年、再び慕容廆の侵略を受け、王子の依羅(イリ)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建するのだが、
   高句麗系の史書『朝鮮史』には驚くべき記事が載っている。



『朝鮮史』

依慮王、鮮卑(センピ)の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。
子弟走りて、北沃沮を保つ。
明年、子の依羅立つ。
自後、慕容廆、また復(フタタ)び国人を掃掠す。
依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。
                      ↑
                    ええっ?
 
    
   この記述の信憑性はともかく、
   名前の「イリ」から、いり(渡来)系王朝とも呼ばれる御間城入彦 (ミマキイリヒコ)五十瓊殖尊。
   第10代の崇神天皇だろうと推察される。


崇神天皇を『日本書紀』では御肇国(ハツクニシラス)天皇。
『古事記』では初国知らしし御真き(ミマキ)天皇とし、
ともに初めて国家を立ち上げた大王だとしている。


『記紀』神話でも、大倭(やまと)王朝の初の天皇はニニギ(神武天皇)のはずなのに、
なぜか「初めて国を統治した」として、神武ではなく、
嵩神天皇の方を「初の天皇」として扱っている。



 扶余王の依羅が倭国に渡来したのが285年前後とすれば、『魏志倭人伝』の記事からして、邪馬台国の二代目女王『壹與』が50歳前後の頃で、おそらく神武東征の前後の時期かもしれない。アマテラス(天照大神)を女王「壹與」だと仮定すれば、彼女から十種の神宝を授かったニギハヤヒとは『扶余王の依羅』の可能性がある。


 なお、依羅との関係は不明だが、依羅連(ヨサミノムラジ)という氏族がいる。



B 依羅連(ヨサミノムラジ)



『旧天孫本紀』     物部が出てます


物部木蓮子大連 (イタビノオオムラジ)。ニギハヤヒ(饒速日命)十二世の孫。父は布都久留、母は依羅連柴垣の娘の全姫。仁賢天皇の代に大連となり、石上神宮を奉斎し、御大君の祖の娘の里媛を妻にして、二児を生んだ。



『姓氏録』では、依羅連は百済人の素彌志夜麻美(ソミシヤマミ)の君の後裔とあり、大阪府松原市天美は依羅連が居住した依羅郷で、現在も依羅宿禰を祭神とする田坐神社、酒屋神社、阿麻美許曽神社がある。


『新撰姓氏録』では、日下部宿彌と同祖、彦坐命の後、百済人の素彌志夜麻美乃君より出ずる、また饒速日命十二世の孫の懐大連の後とある。


万葉歌人の柿本人麻呂の妻は依羅娘子(ヨサミノオトメ)といい、『万葉集』に短歌3首を載せているが、依羅娘子もやはり百済系渡来氏族の出である。



『大依羅神社』由緒

依羅氏は、丹比郡依羅郷に繁栄した百済系渡来氏族で、後に住吉区庭井に移住したことから大依羅郷と称された。依羅吾彦が祖先の建豊波豆羅別命(系譜では崇神天皇の兄弟)を祀るため、大依羅神社を建てたが、別名は『毘沙門の宮』、崇神天皇62年、ここに農業灌漑用の依羅(依網)池を造った。



ここでは崇神天皇の兄弟を依羅連の祖先だとしているが、物部氏の系譜では一族諸氏に「物部依羅連」の名があり、物部氏の系譜につながっている。


物部氏が扶余系であるなら、なぜ依羅連は百済系だとなっているだろう。

 中華王朝の史書には、「百済とは扶余の別種で、仇台(キュウダイ)という者がおり、帯方郡において国を始めた。その尉仇台を始祖とする」とある。



『三国史記』百済本紀は「温祚(おんそ=高句麗の始祖の庶子)が百済を建国した」とするが、それでは百済の王姓が「扶余」であることの説明がつかない。


  百済では、支配階級は扶余語を使い、庶民は馬韓語を使うというように、言語や風習が二重構造の社会だと記録されており、王族の姓は、後に漢風に一字姓の余に改姓するが、代々が扶余を名乗っていることからも、扶余族が馬韓を統一したことものと思われる。扶余王の依羅は、倭国では百済王族だと名乗ったのだろう。



『晋書』馬韓伝

太康元年(280年)と二年(281年)、その君主は頻繁に遣使を入朝させ、方物を貢献した。同七年(286年)、八年(287年)、十年(289年)、また頻繁に到った。

 太熙元年(290年)、東夷校尉の何龕に詣でて献上した。



 これが中国史籍での馬韓に関する最後の記述で、この後は百済が登場する。

 そして、東夷校尉の何龕に献上したとの記述があるが、扶余王の依羅が扶余国の再興を嘆願した相手が、この東夷校尉の何龕であることから、おそらくこの段階ですでに馬韓は扶余の分国になっていたものと考えられる。



『通典』百済条

晋の時代(265年−316年)、高句麗は遼東地方を占領し、百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。今の柳城(龍城)と北平の間である。晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を占領した。



  上記は、朝鮮古代史の研究者を悩ませる記述だが、扶余が一時的に滅亡するのが285年、その前後の期間に渤海を渡って遼寧省の西部を占領支配していたとすれば、百済が二国あったことになる。

『日本書紀』は、朝鮮半島の百済を「百済」、遼西の百済を「呉」と区別している。


     「呉」は「呉でも」
      へえ〜

この「呉」を中国江南の三国時代の「呉」と錯覚している人も多いが、
倭の五王の時代に、現在の上海まで簡単に渡航できる船も航海技術もない。
従って、呉服は中国伝来ではなく、遼西百済からの伝来である。

      え?
      そうなの?



  ちなみに、『梁書』百済伝には「百済では全土が王族に分封され、その領地を檐魯(タンロ)という」とある。これは国内に止まらず、異国にも檐魯を有している。

中国の広西壯族自治区に百済郷があり、ここの住民は大百済(テバクジェ)と韓国語で呼んでおり、済州島の古名も耽羅(タンロ)国で、常に百済の支配下にあった。


  また、大阪府の南端には百済の大門王が統治したという淡輪(タンノワ)があり、田村(たむら)や外村(とむら)などの姓は「檐魯」の住民だったことの名残とされる。

  このことから、坂上「田村」麻呂も、百済系だったことになる。




C 物部は扶余の神官       ←  物部again

 万葉仮名では、物は鬼「もの」、部は「伴(とも)のう」である。

物部氏は兵馬を担当する氏族とされるが、扶余国では神官、すなわち王族だったのではないだろうか。



『石上神宮』縁起

神武天皇東征のおり、国土平定に偉功をたてた霊剣(平国之剣=フツノミタマ)とその霊力を布都御魂大神と称し、また饒速日命降臨に際し、天神から授けられた鎮魂の主体である天璽瑞宝十種と、その起死回生の霊力を布留御霊大神と称し、この二神を物部連の遠祖の宇摩志麻治命をして宮中に奉斎せしめた。



  布都(フツ)=スサノオの父、布都斯(フツス)=スサノオ、布留(フル)=ニギハヤヒ。このスサノオ家三代を祀った宗廟が石上坐布留御魂神社(石上神宮)である。

ニギハヤヒが長脛彦(ナガスネヒコ)の妹を娶って、生まれたのが宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)。この物部氏の遠祖とされる宇摩志麻治命(事代主神)は十種の瑞宝を献上してニニギに帰順した。これらの品々は十種神宝(トクササンタカラ)と言われ、布留魂大神(フルノミタマノオオカミ=ニギハヤヒ)の御霊である。


スサノオが紀伊国熊野に上陸したときに持っていた神宝剣を、佐士布都神(サジフツノカミ)、瓱布都神(ミカフツノカミ)、布都御魂(フツノミタマ)とも言う。


当時の神剣は王権の象徴であり、それを石上(イソノカミ)神宮が祀ることは、物部氏が王統だと表している。古代には王権が祭祀権に統括されており、物部氏が祭祀に関わる一族であることを意味している。


  現に石上神宮では、魂振りの呪術、鎮魂(フルミタマ)や布留倍祝詞(フルベノノリト)が継承されているが、これを『物部の呪術』と呼んでいる。鎮魂とは身体から遊離した霊魂を戻すことで、これは古代の『鬼』の神霊力とされたもの。


また、高句麗の始祖神話では、東扶余国王の夫婁(フル)の庶子「朱蒙」は、卒本扶余の沸流(フル)国で高句麗を建国し、沸流(フル)という息子を得ている。まさにニギハヤヒの布留(フル)に合致している。



『常陸風土記』香島郡の条

大坂山(場所不明)の頂上に、白細(しろたえ)の大御服を着て、白鉾を杖とした香島の神が現れ、自分を祀るなら、国々を統治させるであろうと託宣した。

崇神天皇は恐縮して、いろいろな御供物を香島(鹿島)神宮に奉納した



 土着民の首長が崇神に国譲りした伝承にも思えるが、白い服を着るのは、扶余の風俗であり、鹿島神宮の権威付けのための話かも知れない。

『日本書紀』は次のような、崇神天皇の奇妙な行動を記述している。

崇神天皇は即位してまもなく疫病が流行り、これを鎮めるため、宮中に祭られていた天照大神と倭大国魂神を皇居の外に移し、更に大物主命を祭った。



天照大神は、現在の檜原神社に移し、その後60年をかけて各地を移動し、次の垂仁天皇の時代に、現在の伊勢神宮内宮に鎮座した。

倭大国魂神も、何度も場所を移動し、最終的に現在の大和神社に鎮座した。

大物主命は占いにより祟りをなしている事が判明したため、大物主の子孫である太田田根子に託して祀らせた。現在の大神神社で、三輪山を御神体としている。

 皇居の外に移したとは宮中から排除したことで、しかも、物部の八十平瓮(ヤソヒラカ)をもって大物主大神を祀るとも記している。

八十平瓮は重要な神事、祭祀で用いられる多数の平皿だが、その材料となる土に重要な意味がある。その土を用いて平瓮を作り、呪詛をかけるのだが、これは出雲の流儀であり、大物主は出雲大社の祭神の大国主の別名とされる。

 さらに、天照大神からニニギに授けられ、歴代の天皇に継承されてきた神器も、このときに鏡と剣を大和の笠縫邑の檜原神社に移し、後に鏡は伊勢神宮の御神体、剣は熱田神宮の御神体になる。そして宮中には模造の鏡と剣を置いたという。

  これでは前政権の全面否定である。やはり扶余王だとしか思えない。

  日本海に現れた粛慎「みしはせ」と呼ばれた異国の鬼は、物部氏が扶余の出身であれば、物部氏とは同祖関係にあたり、秘められた同盟関係を感じさせる『物部・安倍・出雲」には友好関係を結ぶのに苦労はなかったと思われる。


だとすれば、阿倍比羅夫は粛慎を退治したのではなく、彼らと交易をしたものと推定できる。そして、蝦夷・粛慎・物部・安倍・出雲・東北の土蜘蛛が東北地方で密かな団結をしていたと想像する。

[72]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 02時57分24秒 ) パスワード

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-2-2.htm


物部氏系の国造



  大和王朝はその土地の支配者を国造(クニノミヤツコ)に任じていることから、物部氏の国造を『先代旧事本紀』国造本紀でみてみよう。ただし、当時の大和王朝の支配権は福島県までとされるので、国造本紀から「秋田物部氏」の存在を確認することはできないが、物部氏の全容を知るには参考になるので列記する。



○ 第13代 成務天皇の時代

遠淡海 (トオツアウミ) 国造(静岡県浜松市周辺)

物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の子の印岐美(イキミ)命

珠流河(スルガ)国造(静岡県富士川下流、富士市・沼津市・裾野市)

物部連の先祖の大新川(オオニイカワ)命の子の片堅石(カカシ)命

久自(クジ)国造(茨城県久慈郡)

物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の三世孫の船瀬足尼(フナセノスクネ)

三野後(ミノノシリ)国造(岐阜県美濃)

物部連の先祖の出雲大臣(イズモオオオミ)命の孫の臣賀夫良(オミカフラ)命

尾張(オワリ)国造(愛知県西部)

天別の天火明(アメノホノアカリ)命十世の孫の小止與(オトヨ)命

参河(ミカワ)国造(愛知県三河地方)

物部連の先祖の出雲色大臣(イズモシコオノオオオミ)命の五世の孫の知波夜(チハヤ)命

熊野(クマノ)国造(和歌山県熊野地方)

饒速日命の五世孫の大阿斗足尼

末羅(マツラ)国造(長崎県松浦)

物部氏の同族・穂積臣の同祖の大水口足尼の孫の矢田稲吉命




○ 第14代 仲哀天皇の時代

久努(クヌ)国造(静岡県袋井市磐田市の中間)

物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の孫の印播足尼(イナバノスクネ)

○ (15代)神功皇后の時代

伊豆(イズ)国造(静岡県伊豆半島)

物部連の先祖の天御桙(アメノミホコ)命の八世の孫の若建命(ワカタケ)命

○ 第15代 応神天皇の時代

小市 (オイチ)国造(愛媛県越智)

物部連と同祖の大新川(オオニイカワ)命の孫の子致(コチ)命

風速(カゼハヤ)国造(愛媛県)

  物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の四世孫の阿佐利(アサリ)




○ 第16代 仁徳天皇の時代

松津(マツツ)国造(長崎県)

物部連の先祖の伊香色雄 (イカシコオ) 命の孫の金弓連(カネユミノムラジ)




@ 物部氏ゆかりの神社

 物部氏系の国造は、南から長崎県、愛媛県、和歌山県、岐阜県、愛知県、静岡県、茨城県に分布し、その半数が東海地方に集中している。ただし、史書や古文書類が常に正しい記録を記載しているとは限らない。



全国各地の物部氏に関わる神々を祭神とする神社を列記すると次のようになる。



『東北地方』 37社

  福島県18社、山形県6社、秋田県5社、宮城県4社、岩手県2社、青森県2社。

『関東地方』 60社

『久自国造』茨城県13社、千葉県22社、

栃木県3社、群馬県5社、埼玉県10社、東京都3社、神奈川県2社、山梨県2社。

『中部地方』 85社

『尾張国造、参河国造、三野後国造』 愛知県50社、岐阜県18社、

『遠淡海国造、珠流河国造、久努国造、伊豆国造』 静岡県6社。長野県11社。

『北陸地方』 73社

新潟県60社、富山県5社、石川県5社、福井県3社。

『関西地方』 295社

三重県45社、大阪府70社、奈良県60社、京都府30社、兵庫県40社、滋賀県25社。

『熊野国造』和歌山県25社。

『中国地方』 41社

鳥取県7社、島根県20社、岡山県8社、広島県4社、山口県2社。

『四国地方』 55社

『小市国造、風速国造』愛媛県30社、徳島県8社、香川県10社、高知県7社。

『九州地方』 65社

『末羅国造、松津国造』長崎県10社

福岡県40社、佐賀県4社、熊本県2社、宮崎県7社、鹿児島2社。  



  全国の合計711社に対して、物部氏系の国造の支配地の合計は174社である。

  本拠地とした畿内はともかく、国造がいないのに「新潟県60社、福岡県40社」という数字(数字は約数である)は異常である。

北陸地方には、高志国造、高志深江国造、加宜国造、能登国造、若狭国造がおり、福岡県には筑志国造、兵庫県には針間国造、針間鴨国造がいるが、これらは全員が安倍氏の国造である。この安倍氏の国造の支配地での神社数は次のようになる。

 福島県18社、栃木県3社、群馬県5社、新潟県60社、富山県5社、石川県5社、

福井県3社、兵庫県40社、福岡県40社。合計179社になる。

物部氏系の国造の支配地に174社、安倍氏系国造の支配地に179社。この合計で全体の半数を占めている。物部氏は出雲族だけではなく、安倍氏族とも密接な関係があるとしか思えない。

 まずは出雲族との関係を調べてみよう。


A 秋田物部氏

現存する物部氏の系譜からは「外物部」の検証は難しいが、『唐松神社』(秋田県仙北郡協和町)に保管されていたという『物部文献』には、通説とはまったく異なる伝承が記録されている。

天日宮PHOTO『唐松神社』由来

秋田物部氏の遠い祖先は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)で、天の鳥船に乗って千樹五百樹が繁茂する鳥見山(鳥海山)の山上湖に天降り、逆合(協和町)の日殿山に「日の宮」を造り天地の神々を祀ったと言われています。(左は唐松神社の『天日宮』)



ニギハヤヒの降臨地は、奈良の鳥見山ではなく、出羽の鳥海山だとするが、鬼首で「前九年の乱」を戦った安倍宗任は『鳥海弥三郎』とも称しており、この鳥海が鳥海山の山名になったと思われるが、奈良の鳥見山に由来するのかもしれない。

当時の荒雄岳と鳥海山は、物部氏と蝦夷にとっての聖地だったのだろう。ただ、『日本書紀』には天磐船に乗って大和に飛来した。『先代旧辞本紀』には河内国哮峰(大阪府交野市私市)に天降ったとあり、いずれも関西だとしている。



『物部文献』

ニギハヤヒは東国を平定した後、大和まで進み、畿内に留まったが、神武天皇の東征が始まるや、神武に帰順し、畿内だけでなく自ら平定した東国をも神武に献上した。神武はその恭順の意を容れ、ニギハヤヒの子・真積命(ウマシマヂ)を神祭と武の長に任じた。物部氏はここに始まる。(中略)

 こうして物部氏は祭祀と軍事の両面から大和朝廷を補佐し、その威勢を振るってきたが、蘇我氏との戦争(587年)に敗れ、物部氏はその勢力を一気に失った。物部守屋は敗死、守屋の一子「那加世」が鳥取男速という臣下に守られ、蝦夷の地へと落ちのびた。東北に逃れた那加世は、物部氏発祥の地である仙北郡に隠れ、日の宮の神官に納まった。現在の唐松神社宮司家は、この那加世の子孫である。



宮城県には『賀茂小鋭(おと)神社』『雄鋭(おどの)神社』、岩手県にも天照御祖神社摂社鎮魂殿神社(釜石市)、止止井神社(胆沢郡前沢町) など、ニギハヤヒに由来する神社があるが、これだけでは東北を降臨地とする確証にはならない。

 

『稲村神社』茨城県常陸太田市

創立年代は不詳。一説には高倉天皇の御宇の鎮座。あるいは、景行天皇の御宇、日本武尊によるとも。当社近くに佐竹寺が存在し、佐竹郷の中心地であった。佐竹の名は、饒速日尊に随った狭竹物部に由来すると考えられ、また、久自国造は物部系氏族であったということから、明治以降、現在の主祭神は饒速日尊とされた。



『天速玉姫(アメノハヤタマヒメ)命神社』茨城県日立市

泉神社由来 崇神天皇の四十九年、久自国造の船瀬宿禰の奉請で、大臣伊香色雄命を、勅命を奉じて此に鎮祭りしたという。古くは天速玉姫命神社という。

享禄三年九月、佐竹義篤が社殿を造営、社号を泉大明神という。



 佐竹氏系図では河内源氏の流れとするが、実際は物部氏だったのだろう。だが、佐竹氏は徳川家康によって秋田県に移封されただけで、唐松神社がいうところの「秋田物部氏」ではない。



 そもそも物部氏系の神々を祀る神社は、近畿地方に集中しており、その他では、愛知県、新潟県に多くみられるが、東北地方には数えるほどしかない。だから東北地方には物部氏はいなかったと断言はできないが、氏神を祀れるほどの勢力はいなかったと推察できる。ただ、東北蝦夷のアテルイ、後には奥六郡の安倍氏が反逆者とされたことから、祭神が変更された可能性も考えられる。

ただし、荒脛巾(アラハバキ)神を祀る神社の分布が、出雲族や物部氏に関連しているようにおもえることから、出雲・物部氏・安倍氏には、複雑な相関関係があるのだろう。ただ、出羽(秋田県)で物部氏を名乗った氏族の史料がないので、詳細はわからない。


[73]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 03時02分24秒 ) パスワード

古い話の蒸し返しですが:天津瓱星(あまつみかぼし)など復習



http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-2-3.htm


出雲族と物部氏



 物部氏の東国の拠点が常陸であったことは、鹿島神宮や香取神宮の存在が明白に証明しているが、この常陸には出雲神話や出雲の神々を祭神とする神社が多いことでも知られている。物部氏と同様に、出雲や熊野もニギハヤヒを祖神とする氏族の勢力範囲であったことから当然ではあるが、なぜ常陸に集中しているのだろう。



@ 天津瓱星(あまつみかぼし)



『日本書紀』神代

一書に、天神は経津主神(フツヌシノカミ)と武瓱槌神(タケミカツチノカミ)を派遣して、蘆原中国(アシハラナカツクニ)を平定されたが、二神が言うには「まだ天に悪神がおり、名は天津瓱星(アマツミカボシ)、またの名を天香香背男(アメノカカセオ)といいます。先に楫取(カトリ)の地にいるこの神を誅して、その後に天降りなさいますように」と請うた。



『鹿島神宮誌』

  その昔、星神香々背男(ホシガミノカカセオ)一族は、駿河国の富士山麓の海岸にあって、暴力で人民を悩まし、天尊系の大和民族の発展とともに北へ北へと駆遂させられ、常陸国の海岸の一隅である三日星の浜辺に専住することになった。


鹿島神宮の祭神「武瓱槌神」は、出雲の国譲りの後、各地を平定されて国の統一をはかり、未開の東国に入って星神香々背男を討ち、国中を平定された。星神香々背男は常陸国の先住民の頭領だったのです。


天津瓱星の荒魂を封じ込めた宿魂石の上に建葉槌(タケハツチ)神を祀る奥宮が鎮座しているのが当社です。常陸国に悪神がおり、名を『大瓱倭文(オオミカ シトリ)神社』(茨城県日立市久慈町)  天津瓱星またの名を天香々背男といい、大瓱上に陣取り東国地方の陸地はおろか海上にまで一大勢力をもっておりました。さすがの鹿島・香取の神も、この勇猛なる大勢力の前に為す術がありませんでした。


その時、この武神である二神に代って瓱星香々背男討伐の大任を負わされたのが、当社の御祭神武葉槌命でありました以後、建羽雷神は星山に永住し、織物製紙の業を興したので諸神の崇敬を集め当社に祭られました。



  上記から、富士山周辺には星神という先住部族の首領がいたが、大王家の勢力に故地を追われ、ついには常陸国まで移動し、星神香々背男の時代には久慈郡大瓱山を拠点とする王国を立て、霞ヶ浦を海上交通の基地として北日本の制海権を握ったということのようたが、駿河国から常陸国にかけての関東地方で、星神香々背男を祀る神社があるのは当然としても、なぜか全国各地で祭神として祭られている。


   『天香香背男を祀る神社』


『東北地方』 秋田県1社

『関東地方』 栃木県7社、群馬県3社、茨城県7社、千葉県5社、神奈川1社

『中部地方』 静岡県3社、愛知県5社、岐阜県7社、

『北陸地方』 石川県2社、

『関西地方』 三重県4社、京都府1社、和歌山3社、

『中国地方』 島根県9社、岡山県5社、広島県3社、

『四国地方』 徳島県4社、香川県2社、愛媛県4社、高知県10社、

『九州地方』 福岡県1社、熊本県1社、大分県1社、宮崎県1社、鹿児島2社。



 平田篤胤は、天津瓱星の神名の瓱「ミカ」を厳「いか」の意であるとし、天津瓱星は「金星」のことであるとする。また、香香背男の「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものだとする意見もあるが、「カカ・ハハ・ヌカ」は蛇を意味しており、香香背「カカセ」は、山カガシ(左の写真)というように「カカシ(蛇)」であり、出雲神を象徴しているものと考える。



A 天瓱津姫(あめのみかつひめ)

上記の他に天香香背男(天津瓱星)の妻と思われる天瓱津姫を祀る神社がある。

『出雲国風土記』から天瓱津姫を調べてみよう。



○「秋鹿郡伊農郷」

出雲の郡伊農の郷に鎮座される赤衾伊農意保須美比古佐和気能 (アカフスマ イヌノ オオスミヒコ サワケ) 命の后である天瓱津比女命(アメノミケツヒメ)命が国内をご巡行になった時、ここにお着きになって「わが夫よ、伊農(イヌ)よ」と申されたのが伊農郷の由来である。

 

 なんとも長い名前だが、『出雲国風土記』には、次のような記述がある。

 「出雲郡の条」に、赤衾伊努意保須美比古佐倭気能 (アカフスマ イヌノ オオスミヒコ サワケ) 命は、意美豆努 (オミツヌ) 命の御子とある。八束水臣津野 (ヤツカミズオミツヌ) の別名である。

『古事記』では、淤美豆怒(オミツヌ)神と記され、須佐之男(スサノオ)命の五世孫であり、大国主(オホクニヌシ)神の祖父だとしている。



○「国引き神話」意宇郷の由来

八束水臣津野命は、「八雲立つ出雲の国は小さい国だ。余った国を引き寄せて、大きくしよう」と言われ、志羅の辺りの四島を引き寄せられ、島根半島を造られたが、最後に「おう(意宇)、やれやれ」と安堵の声をだされ、持っていた杖を道ばたに突き休まれた。その杖から根が出て、意宇(オウ)杜になった。



上記から、スサノオの時代の出雲は小国にすぎず、八束水臣津野命(意美豆努命)が志羅(新羅)から四部族を率いて出雲に上陸し、出雲国を大国に成長させたものと考えられる。

『新撰姓氏録』皇別に記載された新良貴(シラキ)は、瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊(ウガヤフキアエズ)は神武天皇の父であり、稲飯命は神武天皇の兄に当る。このように神武天皇も新羅国と関係があり、当時は三韓との関係は密だったと思われる。

 この「国引き神話」は、出雲の真の建国者は八束水臣津野命だと言っているが、なぜ「出雲大社」では赤衾伊努意保須美比古佐倭気能を祭神にしないのだろう。

  また、『出雲国風土記』伊農郷の条は、天瓱津比女(アメノミケツヒメ)は意美豆努 (八束水臣津野)の妻だとするが、楯縫郡の条に天御梶日女(アメノミカジヒメ)命は、阿遅須枳高日子(アヂスキタカヒコ)命の后(キサキ)だと記している。名前の類似が気になる。



○「嶋根郡の条」

御穂須須美(オホススミ)命は、奴奈宜波比賣(ヌナガハヒメ)命と所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)の御子である。



所造天下大神とは大国主神のこと。奴奈宜波比賣は沼河比売とも記され、高志(越)の国の姫神で、大己貴命(大国主神)の妻。『先代旧辞本紀』は諏訪大社の祭神の建御名方神(タケミナカタノカミ)の母とする。新潟県糸魚川市「奴奈川神社」の祭神。

  従って、御穂須須美命とは諏訪大社の建御名方神のことだが、阿遅須枳高日子も大国主神の子であり、天瓱津比女は彼らの曽祖父の妻にあたる。

 

 今度は『尾張国風土記』に目を移してみよう。



 『尾張国風土記』吾縵(アヅラ)郷

垂仁天皇に品津別(ホムツワケ)と云う御子がいたが、七歳になっても言葉が出ないので、天皇が心配していると、皇后の夢に、多具の国の神で阿麻乃弥加都比売(アメノミケツヒメ=天瓱津姫)という女神が現れ「今後、祠を立て私を神として祭るなら、御子はすぐに口が利けるようになり、天寿を全うするだろう」と告げた。そこで、建岡の君に祭神の事を御委せになった。



垂仁天皇は、安倍氏の始祖「大彦命」の娘の御間城姫(ミマキヒメ)命と崇神天皇の子。

品津別(ホムツワケ=誉津別)の母は、兄の沙本毘古(サホヒコ)王に命じられて夫の垂仁を小刀で刺そうとするが、垂仁がヘビの夢を見て発覚。兄と共に稲城に篭り、天皇軍に皇子だけを手渡して、兄と共に火をかけて没する。

一説には、品津別は大人になっても口が利けず、泣いてばかりいたが、ある日、白鳥が飛んでいくのを見て初めて言葉を発した。そこで天皇はその鳥を捕えるように命じるが、鳥は出雲で捕まえられたとある。

ちなみに、品津別は元気になると、とたんに美女のもとに夜這いに行くのだが、相手の姫の正体は大蛇だったので必死に逃げたとされるが、大神神社も出雲大社も御神体は「蛇=大物主神(オオモノヌシ)=大国主神」である。



『日本書紀』崇神天皇

天照大神、倭大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)の二神を天皇の御殿の中に祀っていたが、その神の威光に畏れ、共に住むことに不安を持ち、豊鍬入姫 (トヨスキイリヒメ) 命に命じ、天照大神を大和の笠縫邑(カサヌイノムラ)に祀り、さらにその地に堅固な石の神籬(ヒモロギ)を造った。また倭大国魂は、渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ) 命に預けて祀った。ところが渟名城入姫命は髪が抜け落ち、体は痩せ衰えてお祀りすることが出来なかった。



その名が示す通り崇神天皇は、神に祟られる天皇のようで、それも出雲の神とは犬猿の仲だったのだろう。祭祀が気に入らなかった倭大国魂とは大国主神のこと。そして、渟名城入姫命は尾張大海媛の娘である。



天瓱津比女命の話が「出雲・尾張・美濃」に登場するのは、物部氏が「尾張国造、参河国造、三野後国造」だったことに関連していると推察する。



『尾張大國霊神社』(愛知県稲沢市国府宮)

社伝によれば、神職には古くから尾張族の遠祖・天背男命の子孫が代々奉仕して来たが、後に久田氏を名乗った。



また、『前田家系図』(金沢市立図書館加越能文庫所蔵)は、加賀藩主前田氏の虚飾された系図を整理して、神代(遠祖を天照大神とせず、意美豆努 (オミツヌ) 命とする)から説き起こし、出雲国造の野見宿禰から出たと記している。

 『日本書紀』では、天津瓱星(天香香背男)は天神の一人なのに、天孫族から悪神にされている。おそらく天津瓱星の存在を記載したくなかったのだが、無視するには存在が大きすぎたのではないか。だとすれば、『記紀』『出雲国風土記』がともに、出雲建国の主あるいは中興の祖であるはずの意美豆努命の事績には触れず名前を記しただけであることに結びつくと想像する。



 「出雲大社」で奉祭されていないのは、スサノオの出雲国を侵略したからで、大和王朝に不都合なのは、意美豆努命の御子とされる赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命こそが悪神に貶めた天津瓱星(天香香背男)、彼の妻が天瓱津比女(阿麻乃弥加都比売)だったからではないだろうか。

  大和王朝に攻められた天津瓱星は、物部氏や土蜘蛛と組んで出雲を離れ、駿河に富士王国をつくり、常陸に勢力を延ばして筑波王国を立てたが、東進して来た大和王朝との戦いに敗れて東北に逃げ、東北の蝦夷と合体した。それが「外物部」と呼ばれた原初の「東北の鬼」の集団ではないだろうか。出雲から常陸までの経路は、物部氏の国造の勢力範囲と妙に合致しているのは、それが原因だと推理する。

[74]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 03時08分06秒 ) パスワード

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-2-1.htm


内物部と外物部(そともののべ)


 物部氏は磐余彦尊(イワレビコ=神武天皇)より前に、河内国の哮峰(大阪府交野市)に天孫降臨したとされる饒速日(ニギハヤヒ)命を祖先とする大豪族だが、

 用明天皇二年(587年) 物部守屋は蘇我馬子らに攻められて戦死し、
 一族は離散し、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなったともいわれる。

    だって奴婢に落とされたりしてるものね。
    日本全国の物部氏を頼って落ちて行ったりしたでしょうね




ただし、物部氏族はこの後も物部氏を名乗って活躍しており、物部宗家も守屋の弟が石上氏を賜ったとされ、後には左大臣も出している。


 また、このときに中臣氏(宗家)も物部守屋に連座して衰退するが、なぜかこの後、忽然と中臣鎌足が歴史上に現れ、彼の次男とされる藤原不比等によって、藤原氏は強固な基盤をつくることになる。


 既述したが、この藤原不比等が中央政権で権勢を握り、天皇家の『正史』として『日本書紀』を編纂させたが、実体は藤原家のための歴史書だとする説が有力で、『記紀』での藤原氏の関する記述部分は、それを留意して読む必要がある。



『先代旧事本紀』は、序文に推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したと記し、古事記・日本書紀・古語拾遺の引用部分が多いが、物部氏の祖神である饒速日尊に関する独自の記述が特に多く、物部氏の書いた書ではないかと考えられ、通説では、平安時代初期の成立とされ、序文以外は偽作ではないと考えられている。

鎌倉時代には慈遍が神道の思想の中心と考えて注釈書『舊事本紀玄義』を著し、「度会神道」に影響を与え。室町時代には、吉田兼倶の吉田神道でも、『記紀』と『先代旧事本紀』を「三部の本書」として重視している。



『日本書紀』神武紀

○ 長髄彦(ナガスネヒコ)は、昔、天神の御子が天磐船に乗って天降られた。名を櫛玉饒速日(クシタマニギハヤヒ)命といい、我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶り、生んだ子が可美真手命(ウマシマデ)であるといった。

○ 磐余彦尊(イワレビコ=神武天皇)は、饒速日(ニギハヤヒ)命が天から降りてきた事が事実だと知り、いま忠誠を示した(長髄彦を殺して帰順した)ので、これをほめて、臣下に加えて寵愛した。この饒速日命が物部氏の先祖である。



『古事記』神武紀

 邇芸速日(ニギハヤヒ)命が参上して、天神の御子(磐余彦尊)に「天神の御子が天降りされたと聞きおよび、後を追って降って参りました」と申し上げ、天の神宝を献上してお仕えした。邇芸速日命が登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ=登美毘古トミヒコ)の妹の登美夜毘売(トミヤヒメ)を娶って、生んだ子は宇麻志麻遅(ウマシマヂ) 命。これは物部連、穂積臣、采女臣らの祖先である。



『先代旧辞本紀』天孫本紀

○ 饒速日 (ニギハヤヒ) 尊は天神の御祖の命令を受け天磐船(アメノイワフネ)にのって、河内の国の河上の哮峰(イカルガノミネ)に天下った。大倭の国の鳥見(トミ)の白庭山(シラニワノヤマ)に移った。饒速日尊は長髄彦(ナガスネヒコ)の娘の御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)を娶り、懐妊させた。だが、生まれる前に饒速日尊はお亡くなりになった。


○ 天孫の天津火瓊瓊杵 (アマツホノニニギ) 尊の孫「磐余彦尊」が天下を治めようと、軍を興して東征されたが、往々に命令に従わない者が鉢のごとく起り、中州(ナカツクニ)の豪雄の長髄彦は、饒速日尊の御子の宇摩志麻治 (ウマシマチ) 命を推戴して、君として仕えていた。



『記紀』と『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒの扱いがまったく違う。

先住の天孫族のニギハヤヒを討伐したとなると、大和王朝が侵略者だったことが明白になる。ニギハヤヒの存在を無視して、一切記載しないのが最善の方法だが、現にニギハヤヒを祖とする氏族がおり、それではあまりにもバレバレである。


そこで、ニギハヤヒを神武天皇の臣下に仕立て上げた。もし、これに異議を唱えれば天皇に対する反逆として誅罰するぐらいの腹積もりだったのだろう。



ただし、物部氏が大和王朝に出仕していたのは歴史的事実であることから、先住のニギハヤヒ系とは別の針路を選んだことは間違いない。だとすれば、ニギハヤヒ系にとって、物部氏は「裏切者」だったことになる。

     あっら〜


   一説には、大和地方の王「ニギハヤヒ」は、
   後に九州から侵攻してきたニニギに大和地方から駆逐され、
   東へ東へと逃れ、さらに東北へと追われたが、


   そのとき、侵攻勢力に迎合した「内物部」と、
   大和地方の土蜘蛛や蝦夷とともに東国に奔った「外物部」に分かれたとする説がある。


      これが  内物部  外物部  ですか。



 祭神は饒速日 (ニギハヤヒ) 命。

岩船の地名の由来は「昔、饒速日命という神様が、磐樟(イワクス)舟に乗って、この浜に上陸された」という伝説にある。 饒速日命は古代大和王朝の大豪族「物部氏」の祖先神で、天津国より天磐船(アマノイワフネ)に乗って、河内の国に天降ったとされる神で、明神山の上に鎮座する石船神社は『石船(いわふね)神社』新潟県村上市岩船三日市 饒速日命を祀った神社ある。

  大同2年(807年)北陸道観察使、秋篠朝臣安人が下向のおり、京都貴船町より貴船明神を勧請して石船神社に合祀し、社殿を建立した。



村上市教育委員会は「伝説から考え、饒速日命の大和朝廷に恭順したさい、一部はよしとせずに安住の地を求めて来た人達か、蘇我氏との崇仏排仏の争いに敗れた物部氏の一統がたどり着いて遠祖饒速日命を祀り、天の石樟舟の伝説を残したのではないか」としている。いわゆる「外物部」である。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 09時36分08秒 ) パスワード

http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E3%81%AE%E9%B7%B9-%E8%AC%8E%E3%81%AE%E7%A7%A6%E6%B0%8F%E3%81%A8%E7%89%A9%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%A3%E3%81%A6-%E8%B0%B7%E5%B7%9D-%E5%81%A5%E4%B8%80/dp/4309224520



四天王寺の鷹 謎の秦氏と物部氏を追って 単行本 – 2006/5/19

谷川 健一 (著)
1300円ですって。


聖徳太子が起請した四天王寺に、なぜ太子が蘇我氏と共に滅した物部守屋が祀られているのか。四天王寺に秘められた物部氏と秦氏の謎を綿密なフィールド調査と鋭い分析を駆使して追求する。谷川民俗学の集大成とも言うべき一冊。


登録情報

単行本: 328ページ
出版社: 河出書房新社 (2006/5/19)
ISBN-10: 4309224520
ISBN-13: 978-4309224527
発売日: 2006/5/19
商品パッケージの寸法: 19.2 x 13.6 x 3 cm
おすすめ度: 5つ星のうち 5.0 レビューをすべて見る (3件のカスタマーレビュー)



投稿者 かわかつ 投稿日 2006/7/14
秦氏が祭る神の国をさらに深く!!
形式: 単行本

谷川健一氏の最新作『四天王寺の鷹・謎の秦氏と物部氏を追って』は宇佐神宮と秦氏、物部氏の関係を、独自に探索した、学者としては初めての宇佐周辺の渡来問題に切り込んだ意欲作です。

ここで谷川氏は、私個人とは一部異なる見方も示され、かつより詳細に証拠を提示されております。すでに民俗学の領域をはるかに越えて新しい人間行動学的歴史学の傑作と言える。



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敗者の深層に迫る民俗学
投稿者 保武佳吾 トップ500レビュアー 投稿日 2006/8/1
形式: 単行本

 四天王寺では、合戦で敗死した物部守屋の怨魂が悪禽(啄木鳥)となって危害を及ぼし、聖徳太子は鷹となって追い払ったとも伝えられる。


物部氏は正史『日本書紀』でも近代史家の間でも不当に遇せられている。


本書では民俗学の立場から物部氏と金属文化との関係を追求し、秦氏の役割も重視している。


秦氏は鉱山開発等に貢献した帰化人で、「秦姓の舞」と称する四天王寺の楽人として活躍した。
また、らい病者の救済に挺身した僧忍性は四天王寺の別当であったという。

著者は広々と開放的な四天王寺に人間の精神の解放を感じるという(雅)

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始天皇時の「タカ」
投稿者 北風家のフアン 投稿日 2012/11/12
形式: 単行本

北風家中興の祖、北風荘右衛門貞幹は青木村(おおぎむら)の北風家の親戚から養子に来ているが、雅号が「来屯」(きむら)である。


この本によれば青木村の木村家は蘇我・物部戦争で敗死した物部守屋大連の子孫とのこと。
北風家と物部氏との関係が気になるところだ。
北風家の先祖が仕えた神功皇后の愛馬の名前が白鷹といい、新羅(しらぎ)、白藤(北風家の旧名)氏など、謎の「白」の世界が展開する。


また、「たか」あるいは「たけ」という言葉は大和朝廷の始祖に関係している言葉のようだ(石上神宮の出雲タケ雄神社の存在など)。



大王への中央集権化を図った雄略天皇の晩年、豊受大神の伊勢神宮合祀・豊国法師など、「トヨ」の復権が行われるが、これは、雄略天皇が勢力を削ごうとした市辺押磐皇子(石上神宮)、葛城氏などの復権と重なる。


守屋大連敗死後、子息たちが広瀬で狩りをするふりをしながらどこかに隠れたとしているが、石上神宮と馬見古墳群に分かれて隠れたと私は考えている。


物部氏の氏神でもある石上神宮は精神的アジール(避難所)として有名であり、葛城の馬見古墳群では堀をもつ古墳へ物理的に立て籠もれる。広瀬はこの2所の丁度中間にある。また、この2所は「とよ」と関係が深いと考える。


本中、赤染(常世)氏が祀る常世岐姫という女神は「とよきひめ」と読むような気がする。
初代伊勢神宮斎宮「豊鋤姫;とよすきひめ」に非常に似ているが、偶然だろうか?


大和高田市築山の隣村の神楽(じんらく)は、昔「秦楽」と書いたらしいが、秦氏と関係があるのだろうか?
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 09時42分40秒 ) パスワード

http://www.millnm.net/qanda3/17sEBhFfLqcE27106.htm

物部氏が封印された理由



1.
月刊ムー7月号によると、2009年1月、八咫烏が久しぶりに飛鳥氏と面会。

「物部氏は徐福とともに日本に来た」と告げて去った。徐福といえば、ユダヤ人と言われる秦の始皇帝と同族で、漢訳聖書では「ヨセフ」。
http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/000000sekaiidennsi3.htm

『義楚六帖』によると、徐福集団の子孫は今も秦氏となって日本に住んでいるから、物部氏は秦氏である。


しかし、この秦氏は紀元前3世紀に徐福によってもたらされた部族であり、
4世紀に朝鮮半島を経由してやってきた秦氏とは別の系統である。

      あら、そうなの?



物部系秦氏は、物部神道を形成し、紀元前から日本の中核にいた。


蘇我氏と聖徳太子が仏教を導入した際に、物部氏は神道を守って、導入を阻止しようとしたが敗れた。


しかし、蘇我対藤原の戦い(大化の改新)で、藤原氏が勝ち、神道派が復活。


だが、藤原は、同じ神道派の物部氏の台頭を嫌って迫害し、明治まで続く藤原王朝を形成した。


物部は闇に葬られた。


藤原氏が物部氏を闇に葬ったのは、少し奇妙である。

藤原氏の背後にはこの一族を動かす者たちがいたからである。

それが、八咫烏であり、その中核は賀茂氏であった。        ← 賀茂氏にやられた?!


実は、賀茂氏も物部なのだ。                   ← ええっ?
                    

だから、賀茂氏は、自分と同族の物部氏を封印したということになる。

これはなぜなのだろうか。

飛鳥氏は、「そこには壮大な預言にもとづく計画があるらしいのだが、全貌はいまだ明らかになっていない」といわれる。



2.
飛鳥氏は、籠神社を取材し、物部氏が徐福とともに来たことを確認しようとした。

宮司の海部光彦氏は、海部氏は、物部氏の中核を担っていたと言われた。

その際に、ごく限られた氏子だけに公開した籠神社の極秘伝の紙を数枚示された。


そこには「カゴメ唄」の秘密が記されていた。


「この唄は、本来、籠神社の隠し歌であり、そこには日本の国家成立にかかわる重大な秘密が暗号として隠されているのです」と海部氏。


この極秘伝には、この歌に登場する「鶴」は伊雑宮を指し、「亀」は籠神社を指すとあった。

飛鳥氏は、これを見て自分の推理が正しかったことを確信したという。



以前、八咫烏から籠神社と伊雑宮は、それぞれ「阿」であり「吽」であると告げられていた。

それに基づいて、伊雑宮の伝承に登場する稲穂をくわえた真鶴が伊雑宮を象徴し、
そして亀は籠神社の伝承に登場する倭宿弥命の乗っていた海亀を暗示していると考えていたからだ。


実は、私も同じことを考えていた。


2005年5月24日の「日本に関する仮説14」で私はこのように書いた。



(*)籠とは、祭神である彦火明命が竹で編んだ籠船で竜宮へ行った故事からつけられた。(http://www.kimura-product.co.jp/kiyouto/kiyouto04.htm ) この籠船が亀に変わったのは、恐らくどちらも六芒星を表すからだろう。カゴメは六芒星で、亀の甲羅は六角形である。ちなみに、ここからカゴメ歌の「鶴と亀」の意味が分かるかもしれない(八咫烏は童謡など人目につきやすいところやものに秘中の秘を隠す)。


亀が籠神社を象徴するとすれば、鶴は伊勢神宮だろう

   (『倭姫命世記』によると、むかしある秋に、伊雑の地で鶴の鳴き声が聞こえ、その地へ行ってみると、稲の一つの根から千の穂が実ってゐて、これは良い稲だと、伊佐波登美神が抜穂にして神宮に献ったといふ。その場所に祭られた「伊佐波登美之神宮」が、伊雑宮のことである。http://nire.main.jp/rouman/ubu/tikata4.htm )。


八咫烏は、この2つの神社を「阿吽(あうん)」だと述べた。つまり、それはAとZ、アルファとオメガ、はじめと終わり。籠神社にも伊勢神宮にも六芒星がある。六芒星は籠神社の奥宮・真名井神社と伊勢神宮の別宮・伊雑宮の社紋である。六芒星であるダビデの星は、天と地の合体、調和、和解を象徴し、それは、イエス・キリストのあがないの業を表す。



鶴と亀と、それぞれが象徴する籠神社(あ)と伊勢神宮(うん)は、合わさって、「私はアルファでありオメガである」と述べたイエス・キリストを表すのではないだろうか。


ある人は、「鶴と亀がすべった」の「すべった」は「統べる」から来ているという。ということは、「イエス・キリストが統治する」という意味になる。

カゴメ歌は、「籠の中の鳥(籠神社の祭神である天照大神=イエス・キリスト)」が「夜明けの晩(新しい時代の始まり)に出て」、「鶴と亀がすべった(イエス・キリストが統治した)」ということを意味するのかもしれない。
http://www.millnm.net/qanda3/75qpNXipfTz222368.htm


まさに、偶然の一致。

もしくは、神が示されたことかもしれない。



3.
物部氏はなぜ歴史の舞台から消えたのか。

なぜ八咫烏は、物部氏を封印し、藤原氏を生かしたのか。

それは、もしかして、表と裏をひっくりかえすためなのかもしれない。「鶴と亀がすべる」とはひっくりかえるという意味かもしれない。


これまで歴史の表舞台に立ってきた藤原氏を裏にまわし、裏舞台で働いていた物部氏を表に出すためなのかもしれない。

これまで裏に隠れていた物部の神社、籠神社が表に出、伊勢神宮において裏方の役割を果たしていた伊雑宮が表舞台に出るためなのか。

それは、とりもなおさず、神道において隠れていた「阿吽=鶴亀=イエス・キリスト」が登場することを意味するのか。


物部氏は、時がきて表に登場させるために、あえて裏に隠しておかれたのかもしれない。


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秦氏に2種類あったのは知らなかった。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 09時57分26秒 ) パスワード

秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(昔、コピペしているので復習です)


前篇  http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_191.html
中篇  http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_192.html
後編  http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_193.html


秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(前編)全文は上記URLへ

秦の始皇帝と徐福

前回、紀元前221年に中国の統一を成し遂げた
秦の始皇帝は、ペルシャ経由のユダヤ人の可能性がある・・・という事を論じました。

徐福(じょふく)とは、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士です。

彼は、秦の始皇帝に、不老不死の妙薬が東の海の三神山にあると吹聴し、
始皇帝の命を受け三千人の若い男女と多くの技術者とともに、
古代の日本にやって来たとされている人物です。


伝説に見られるように、徐福は、都合2回、船出している事が分かります。

二度目の航海以後、徐福がどうなったのかは中国の歴史書には触れられていませんが、
一説には、秦の始皇帝が死んだ事を知り徐福は戻らなかったとも言われてます



さて、一度目の渡航では、莫大な費用を費やしたにも関わらず、
徐福は、不老不死の妙薬どころか、何も得ずに帰ってきています。

しかも、言い訳に、「大鮫に邪魔された」とか、とても信用できる話ではありません。
普通なら、首を斬られてもおかしくない状況です。


しかし、秦の始皇帝は、そんな徐福に対して叱責はしたものの、
なぜか何の罰をも与えることなく、徐福に二度目の出向を許可しているのです。



いったい、なぜでしょうか?
また、なぜ、始皇帝は、そこまで徐福を信用できたのでしょうか?


謎の多い徐福の出自

史記の記述には、徐福は、斉の国出身であったと記されています。


斉の国は、山東半島のつけ根の部分に位置する国で、
紀元前284年に燕・趙・韓・魏・楚の5カ国連合軍に負けるまで、
「東の斉・西の秦」と謡われたほどの大国でした。

紀元前221年に秦が中国を統一するまで、最後まで残ったのも斉の国です。



この斉の国は、中国全土から学者文士を招聘(稷下の学士と呼ばれる)して、
学府として栄えるほど、学問が盛んな土地柄だったようです。

徐福が、方士(方術に秀でた者・学者・呪術師)であったのも、
斉の国の土地柄が影響しているように思います。


この頃の斉の文化としては、上記のようなお国柄であったせいか、
意外と、中央アジア方面由来の文化も見られます。



徐福は斉の国出身ではなく、越の国出身である可能性が高そうです。
(ただし、紀元前473年に越が呉を滅ぼすまで、この地は呉の国でもあった)


ここで、斉から離れて、徐福が生まれた可能性の高い、
越の国の文化について考えてみたいと思います。


実は、この越の国、、、ある意味、昔の日本と非常に似ているんです。


例えば、「荘子」によると、当時の越の人々は頭は断髪で、
上半身は裸で、入れ墨を施していたと書かれています。

実は、入れ墨は、
魏志倭人伝の倭人条に見られる"鯨面文身"と全く同じです。


要するに、越人=海人族であった訳ですね。


それ以外にも、越の国と日本で似ている点は多々ありますが、稲作もその一つです。
越の国は、古代中国においてはちょっと特殊で、稲作や銅の生成で栄えた国です。


古代中国の稲作について考えて見ると、長江中・下流域がその発祥地であり、
他の地域では、それほど盛んではありませんでした。

それは、ジャポニカ米の原産地が長江中流〜下流域だったことに由来します。


★「弥生の要素」には2つのルートがあった。
1つは朝鮮半島経由で、稲作技術とともに渡来した。

もう一つは中国大陸からのもので他の文化とともに
東シナ海を渡って日本列島に達した。(b遺伝子を持つ温帯ジャポニカ)


★2つの「弥生の要素」は、日本列島で再び一つになって日本列島を東進する。
その過程で、池上曽根・唐古鍵遺跡にもb遺伝子を持つイネが栽培されており、
東進の一局面ととらえられる。


★東進の多くの局面で、「縄文の要素」と「弥生の要素」は
併用されていたものと思われる。

すなわち、「弥生の要素」は来たものの、
温帯ジャポニカはそんなに大量にはやってこなかった。

人々は、水田耕作の技術や稲作道具は受け入れたが、
焼き畑耕作の栽培方法は手放さなかった。



イネも多くが熱帯ジャポニカのままであった。
つまり弥生の人々は「縄文の要素」を脈々と受け継いだのである。
「縄文の要素」は中世末頃までは残存した。


★土地の全面が水田であるような平野の景観や、
稲作中心の農村風景は、少なくとも近世に入るまでは存在していなかった。



越のイネは、元々熱帯ジャポニカという種がだったと思われますが、
その後、中国大陸長江流域で生まれたであろう温帯ジャポニカは、東シナ海を経て、
日本の縄文晩期に入って来たと考えられています。



縄文末期から弥生時代に掛けての一番の変化は、稲作の普及と言われてますが・・・

奇しくも、徐福の生誕地である越と日本のイネの発祥地は同じです。
しかも、徐福の日本渡来は紀元前2世紀頃で、弥生文化が花開くのもこの年代です。

さらに、b遺伝子を持つ温帯ジャポニカが、朝鮮由来ではなく、東シナ海由来で
特に、九州に多く到達していることも、徐福が関わっている可能性を示唆しています。
※後述しますが、徐福は二度目の航海で北九州に到達したとされています



日本の弥生文化の到来と、徐福の渡来・・・
ここに何か繋がりがあったとは、考えられないでしょうか。

もっと踏み込んで言えば、(あくまで管理人の推測ですが)
弥生時代の稲作のをもたらしたのは、徐福なのではないでしょうか?

史記では、徐福が二度目の航海において、五穀の種子を
中国から携えて船出したことも書かれており、稲も含まれていると考えられます。


さらに、稲作だけではありません。
弥生文化は青銅文化の発展した時期でもありますが、越も銅の生成で栄えた国です。

徐福は、渡来時に技術者をも一緒に連れてきており、
青銅文化をも一緒にもたらしたとは考えられないでしょうか。


そう考えると、徐福は、日本にとって弥生文化をもたらした人になりますし、
二度目の航海でも、日本に無事渡った可能性が高い訳です。


徐福の日本の上陸地は何処だ?

さて、徐福の生誕地の越と、古代日本とは非常に似ていると言う事が分かりましたが、
徐福は、いったい日本の何処に到着したのでしょうか?

徐福の渡来伝説は、青森県から鹿児島県に至るまで、
日本全国に残っている有様です。



これは、ひとえに徐福の率いた船団の大きさ(数の多さ)も関係しているんでしょうが、
ハッキリ言って、日本全国に散らばり過ぎていて、訳が分からない状態です。


しかしながら、徐福伝承で、地図的に最も密集しているのが北九州です。
特に、佐賀市金立町の金立神社の徐福伝承は、相当に具体的で、有力な候補地です。

他にも、京都府与謝郡伊根町や和歌山県新宮市なども、相当な徐福伝承があります。


さて、ここで考えて貰いたいのは、徐福の渡航は2回あったと言う事です。
つまり、徐福の上陸地は2箇所あるはずです。


そう考えると、管理人は、まず、2回目の渡航に関しては、
佐賀市金立町などの北九州の地が上陸地の可能性が高いと思います。

なぜなら、仮に日本の弥生時代の稲作が、徐福がもたらしたものだとすると、
「こちらのサイトの下部にある図」東シナ海を渡ったb遺伝子のイネの分布と、
徐福の北九州に残る伝説は、一致すると考えられるからです。


しかし、、、もう一か所、徐福の最初の日本上陸地点の方は、
幾ら考えても、それ以上、確信できるような結論には至る事ができません。


「これは困った。。。」
そう思った時、ある一冊の本が、見事に、その疑問を晴らしてくれました。

その本とは、下記です。


▼飛鳥昭雄 失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎


実は、上記の本の中で著者の飛鳥昭雄氏は、
とても非常識な方法(?)で、徐福の上陸地を、ずばり言いのけてしまっています。

その方法とは・・・


続きは、次回の「秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(中編)」で(笑










[78]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 10時05分51秒 ) パスワード

秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(中編)

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_192.html


飛鳥氏自身が、直接、「八咫烏」に徐福の上陸地点を確認しています(苦笑


八咫烏が明かした徐福の上陸地点は、若狭と北九州だった!

まぁ、「八咫烏の言う事を信じるかどうか?」は、読者の方にお任せしますが・・・

先ほどの、飛鳥昭雄氏の「失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎」の本の中で、
八咫烏が述べている要旨は、下記の3点です。


•@徐福の1回目の上陸地は、若狭湾である
•A徐福の2回目の上陸地は、北九州の西側である
•B物部氏は、徐福とともに来ている


まず「@徐福の1回目の上陸地は若狭湾である」についてですが、
若狭湾と言うと、敦賀、三方、小浜、舞鶴、宮津、、、その辺りに絞られます。

しかし、この若狭湾周辺で、徐福上陸の伝承が残っているのは、
ただ、1箇所しかありません。

それは、、、京都府与謝郡伊根町新井(にい)です。


伊根町新井崎のハコ岩と呼ばれる場所に徐福が漂着したとされ、
伊根町新井崎にある、新井崎(にいざき)神社には徐福伝承もあります。



<新井崎神社に残る徐福伝承>

新井崎神社 新井小字松川(旧村社)
祭神 事代主神・宇迦之御魂神とされているが、
元三宝荒神を祭り、現在地区の住民は徐福を祭るとしている。

「与謝郡誌」新井崎神社 にある記述
朝妻村字新井小字松川、村社、祭神徐福、
秦の始皇童男童女に命じて不老不死の藥を此地に求めしめたりなどの傳説あり


「Wikipedia 新井崎神社」
日本全国に残る徐福に関する伝承の一つとして、
新井崎神社にも由緒ある伝説が伝わっており、新井崎神社の祭神となっている。

徐福は、秦の始皇帝に不老不死の薬を探し求めるよう命じられ、
海を渡って新井崎の地に辿り着いた。

探したものの、なかなか見つからなかったが、
そうであろう「九節の菖蒲と黒茎の蓬」を探し当てた。

しかし、海が荒れるなどして帰る機会が無くなり、
新井崎の地で成仏することになった。

徐福は当時日本より文明が進んでいる中国から来たことで、
産業にも力を入れたので村人から慕われた。

海から漂着した人であることから、
漂着地点に近い新井崎神社に祀られ、現在でも信仰の対象となっている。


徐福が求めてきた神桑というのは「九節の菖蒲と黒茎の蓬」であるとされている。
黒茎の蓬はからよもぎといい、普通のよもぎと異なって
葉の裏の白毛が少なく、よもぎ餅を作るのに適する。

生長するともぐさになる。
新井崎神社周辺の新井崎海岸(のろせ海岸)に現在も自生している。


不老不死の薬が、「九節の菖蒲と黒茎の蓬」というのは管理人もよく分かりませんが、
徐福の求めた三神山の一つ蓬莱山が、別名で蓬が島(よもぎがしま)とも言うので、
三神山の名前に、あやかっているのかもしれません。


あと、徐福伝承以外に気になる点として、新井崎神社の古文献「新大明神口碑記」に、
「丹後奥郡澄之江の里は、龍宮城と同所にして異名なり」という記述があります。


これは、日本書紀の雄略紀にも出てくる丹後地方に残る浦島子伝説です。
『丹後国風土記』逸文の浦島伝説では、「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読ませてますが・・・

実は、11代垂仁天皇の命により、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めて
タジマモリ(アメノヒボコの子孫とも言われる)が渡った国も、常世の国です。

徐福伝説と浦島太郎伝説、タジマモリの話は、全て丹後半島の話ですが、
それぞれのストーリーに妙に、不老不死の伝説(常世の国)が絡んで居るのが印象的です。



籠神社と海部氏のルーツ

さて、八咫烏の指摘などから、徐福の最初の渡航の漂着地は与謝郡だと考えられますが、
この地に徐福が上陸した事に、管理人は物凄い大きな意味があると考えます。

なぜなら、、、この与謝郡には、元伊勢籠神社が鎮座しているからです。



籠神社と言えば、代々の宮司さんは、海部(かいふ)氏です。
(現在の宮司さんは、82代目の海部光彦氏です)


この海部氏が持つ家系図は、天皇家に匹敵するほど古く国宝にも指定されています。
(※海部氏の家系図には、「本系図」と「勘注系図」の2種類があります)


それで、興味深いことに、海部氏系図を見ると、海部氏の始祖は、
彦火明命(亦の名を天火明命(アメノホアカリノミコト))に始まる事が分かります。


天火明命は、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命と萬幡豊秋津師比売命との間に生まれ、
天孫 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は、天火明命の弟に当たります。


さらに、この天火明命ですが、『先代旧事本紀』には、この天火明命こそが、
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒのノミコト)だと記されています。

海部氏は、物部氏の中の物部氏

ここで、一旦、記紀の神武東征の場面を紹介します。

神武天皇は、九州から大和に登り(東征)、長髄彦と対峙していますが、
下記は、そのクライマックスの場面です。



イワレビコ命(神武天皇)は、
「天神の子供は大勢いる。そなたが君とする人が本当に天神の子なら、
必ずしるしの物を持っているはずである。それを見せよ。」
と言いました。

長髄彦はニギハヤヒ命の天羽羽矢(あまのははや)を一隻、
また歩靫(かちゆき)を持って、イワレビコ命に見せました。

イワレビコ命はこれを見て、「本物だ。」と言って、
戻って自分の所有する天羽羽矢一隻と歩靫を長髄彦に見せました。

長髄彦はその天表(あまつしるし)を見て、畏れかしこまりました。
しかし、武器を構えていて、その勢いを中途で止められませんでした。

またなおも間違った考えを持ったまま、捨てる気持ちになりませんでした。

ニギハヤヒ命はもともと天神が大切に思っているのは、
ただ天孫だけだと知っていました。

それに比べて、長髄彦のひととなりはねじけた性格で、
天孫と人との違いを教えても理解出来ないのを見て、ついに殺してしまいました。
そして、衆人を率いてイワレビコ命に帰順しました。

イワレビコ命はもともとニギハヤヒ命は天から降ったという事を知っていました。
そうして、今、忠誠心を示しました。それを褒めて寵愛しました。
この人が物部氏の遠祖です。


この神武天皇のストーリーの中では、神武天皇とニギハヤヒが、同じ徴を見せ合う事で、
双方が「天神の子供(天津神系)」であったことが、示されています。

そして、最後の部分には、「ニギハヤヒ命は物部氏の遠祖だ」としっかり書かれています。


ここで思い出して下さい。八咫烏は、こうも言ってました。


•B物部氏は、徐福とともに来ている


要するに、、、

神武天皇が大和を制圧する前まで、
大和の地を抑えていたニギハヤヒ命は、徐福の連れてきた一族だった訳です!



しかし、現在の籠神社の宮司の海部光彦氏は、こうもコメントしています。



物部氏と海部氏では格が違う。
一つの大きなグループを形成していたが、中核を担ったのは海部氏である。


上記は「失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎」より引用


上記の"一つの大きなグループ"とは、物部氏全体のことを示唆していると思われます。
要するに、物部氏の中でも海部氏はその中心勢力であると、氏は述べている訳です。



以上のことから察するに、海部氏は、天津神系の末裔です。
(海部=あまべ=天部で、天津神の末裔を示していると思われます)

さらに、海部氏は、物部氏族の長的一族の一つだったと考えて良いと思います。


また、海部の名前に"海"が入っているのは、
徐福や連れてこられた一族が、海人の多く住む中国の越出身であり、
彼らは海人族(海を治めた航海民)であった事を暗に示していると考えられます。


そして、最も大事なことですが・・・
彼らこそが、神武天皇が大和朝廷を樹立するまでの
倭の国を治めていた中心勢力の一つだった訳です。
(※本当はここで、邪馬台国の議論にも発展するんですが、邪馬台国論争は、色々他にも検討しなければいけなくなるので、ここでは言及しない事にします)


しかし、そう考えると、不思議なのが、神武天皇です。
神武天皇とは、一体、何者だったのでしょうか?


もちろん、神武天皇の名前自体は、後世で淡海三船が付けた漢風諡号なので、
実際のそういう名前の人物は居なかったと思います。

また、記紀に書かれた神武天皇には、「建国記念の日に隠された謎」の記事で書いたように、
人物のモデルとして、聖書のエフライムの息子のベリアやモーゼが仮託されて居ると思います。


しかし、ここで問題としているのは、
それら神武天皇のモデルを差し引いて現れる、真実の日本の歴史はなんのか?
・・・という部分です。

記紀に、神武天皇のストーリーが組み込まれたのには、
何か、日本の歴史を語る必要要素があったからに他ならないのです。

そう言うところが、まだここで述べていない、


「A徐福の2回目の上陸地は、北九州の西側である」に関わってきているような気がするのです。

・・・まだまだ考察する必要がありますが、今回は、ここまで。
続きは、「秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(後編)」にて。


[79]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 10時26分09秒 ) パスワード

秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(後編)


@徐福の1回目の上陸地は、若狭湾である
•A徐福の2回目の上陸地は、北九州の西側である
•B物部氏は、徐福とともに来ている

上記内容は、「失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎」より



今回は、引き続き、徐福の二度目の上陸地、「A北九州の西側である」について探ります。


徐福の二度目の渡来と北九州に残る長江流域の文化

さて、ここで思い出して貰いたいのが、八咫烏が述べた二つ目の言葉です。
八咫烏は、徐福の二度目の上陸地を、「A北九州の西側である」と述べています。


北九州の西側と言えば、佐賀県が鹿児島辺りになりますが、、、

前回で述べたように、稲作の伝播ルートから察すると、
佐賀県西部辺りが徐福の二度目の上陸地点と考えて良いのではないかと思います。
(詳しい上陸伝承は「徐福の佐賀県の上陸伝承」をご覧下さい)


佐賀県に4、弥生時代の有名な遺跡に、吉野ヶ里遺跡があります。

実は、この吉野ヶ里遺跡は、徐福伝承のある金立神社から東へ8キロ程の場所で、
ほとんど、同一圏内と言っても良いもので、(直接的な物証はないものの)
吉野ヶ里遺跡にも徐福が関わっている可能性は大いにあります。


吉野ヶ里遺跡には、色々特徴がありますが、
環濠集落や高床式倉庫などは、とても有名だと思います。


高床式倉庫などは、お米の貯蔵庫だと考えられていますし、
実際に、吉野ヶ里遺跡からは、ジャポニカ米の炭化米も発見されています。
※ただし、吉野ヶ里遺跡からは、水田跡が見つかっていないため、熱帯ジャポニカと思われる

そして、中国の研究者によると、吉野ヶ里遺跡に見られる
環濠集落や高床式倉庫などは中国の江南地方特有のものなのだそうです。


さらに、北九州地方には、その特有の風習として、甕棺墓が多く見つかりますが、
この甕棺の風習も、元々は、中国の戦国時代の頃まで長江河口流域に残っていたものです。

     そうなの?
     甕棺葬は世界史的には日本独自とされていると思ったけど
     もとは中国なのか


また、九州の甕棺墓の研究をしている藤尾慎一郎氏によりますと、この甕棺墓は、
(一部例外を除き)ほとんどが、九州の西半、かつ、北部九州地城にのみ見られるそうです。


また、氏によると、この甕棺墓の風習の発生時期を、弥生時代早期としており、
それまでは、甕棺墓の風習は見られなかったようです。


以上の事から察すると、北九州地域に縄文晩期〜弥生早期に、
それまでと違った風習を持つ民族が渡来した事は、明らかです。

民族の渡来時期や八咫烏の指摘、さらにイネの伝播や長江方面との文化の類似などから
それは、紀元前3世紀後半頃に中国の越(江南地域)からやってきた、
徐福の連れてきた集団(部民)によるところが大きいのではないでしょうか?


特に、二度目の徐福渡来時は、三千人規模とかなりの大人数でした。


良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子と
さまざまな分野の技術者を徐市に託して旅立たせた。


と言う事で、徐福の二度目の渡来は、
北九州の佐賀県西部辺りが、最も可能性が高いように思われます。


その後の徐福のルートは?

さて、ここからは、その後の徐福の足取りを考えて見たいと思います。

まず、一番最初に考えないといけないのは、、、
「そのまま、徐福は、北九州で定住したかどうか?」という問題です。


この問題について、最初から秦の始皇帝を騙すつもりであれば、
北九州にそのまま住みつくのも考えられますが・・・

一度目の航海で、何も成果も挙げられ無かったにも関わらず帰国した徐福です。
その徐福の性格を考えると、始皇帝を騙すつもりも無く、

さらに、不老不死の薬を求めて、さらに東に向かった可能性が高いと思います。


実は、国内で徐福伝承を見ると、最初の渡航地である京都府伊根町を除いて、
ほとんどが太平洋側に伝承が偏ってみるのが見られます。

また、徐福の墓も、九州にはそれらくきものがなく、
むしろ、徐福の墓の伝承は、和歌山県新宮市や山梨県富士吉田市辺りにあります。

以上の事を考慮すると、北九州はあくまで徐福船団の日本の拠点の一つであって、
徐福自体は、そのまま太平洋側から船で東進したのではないかと考えられます。


以下からは、徐福伝承から推測される東進ルートを挙げていきます。
佐賀県を出た徐福は、まずは鹿児島県いちき串木野市に寄港します。

冠岳連峰の西岳において、徐福が自らの冠をとって、
封禅(ほうぜん)の儀式を行ったという言い伝えがあるようです。


その後、鹿児島県の坊津町などを通って、九州の南東側の日向の国に出ます。
途中寄港した延岡市には、徐福が乗ってきた船をつないだ岩というのがあるようです。
徐福一行は、さらに紀伊の国に向かって東進します。
高知県土佐沖で暴風雨にあったらしく、徐福とともに日本に来ていた
もう一人の秦の重臣"張郎"なる人物が、洲崎浦に漂着しています。

ここで、張郎は地元の人に聞いて、仙薬探しに
虚空蔵山に登ったという伝説が残っているようです。


しかし、結局、仙薬は見つからず、張郎は仙薬探求失敗を報告するため、
そのままこの地を後にしたようです。

しかし、徐福は、そのまま三重県の熊野に向かったのだとか。     ← 熊野!


熊野に向かった徐福は、熊野川の河口近くの蓬莱山に上陸。

徐福はこの地で天台烏薬という木を発見し
それが不老不死の薬だとこの地では言われているようです。

また、富士宮古代文献「宮下文書」によると、紀伊熊野に迷い着いた徐福は、
しばらくこの熊野の地(波田須辺りか?)に留まった、、、ということも書かれています。


以後のルートについては、富士宮古文献「宮下文書」によりますと・・・
不老不死伝説がある蓬莱山、富士山に徐福一行は向かっているようです。  ← 富士山!

「現代語訳 神皇紀―徐福が記録した日本の古代"富士古文書」より

(第7代孝霊天皇の)七十四年甲申年(紀元前217年)九月、秦国徐福が高天原に来た。
これより前、徐福は秦始皇帝を欺き、大船八十五艘を造り、金銀銅鉄、五穀衣服、器具
その他諸々の品々を用意して、老若男女五百余人を従え、不二山を目標として東海に来た。

本島の南海で不二山を見失い、木日国熊野山に惑っていたが、
ある日再び不二山を見つけ、今、漸く高天原に上り来たものであった。


(管理人注)
「ホツマツタエ」によると、古代高天原は一か所だけでなく複数あったとされています。
(日高見(宮城多賀城)、ハラミ山(現富士山)、淡宮(近江多賀大社)など)
また、中国出発時には、老若男女三千人だったのが、ここでは五百人まで減っており、
ここまで来る途中に、2500名が、何処かに消えていることに注意。


そして、その後、徐福は富士山北麓で徐福は七男三女をもうけ、
その地で、一生を終えたようです。(下記は徐福の子孫)
•長男:福永⇒福岡と改名、父の跡を継ぐ
•次男:福萬⇒福島と改名、紀伊熊野に郎党50人を連れて移住
•三男:徐仙⇒福山と改名
•四男:福寿⇒福田と改名
•五男:福畑
•六男:福海
•七男:福住

七人の息子達は7箇所に分かれて子孫を増やした。
その多くは秦を姓とし、又、氏に福の一字を付けた。


(管理人注)
徐福伝説に秦氏の影がついて回るのは、後の子孫が、秦を姓としたためかもしれません。


したがって、厳密に言えば、後世の弓月君(融通王)を始祖とする秦氏一族とは、
分けて考えるべきではないかと思います。(徐福の子孫は、物部氏系の秦氏と言えます)


                へえ〜


徐福のルートは、かなり神武天皇の東征のルートに近いかもしれません。

しかも、徐福の本隊は、大和から見て東側の富士山周辺に移り住んでおり、
さらに、その一部に、紀伊熊野に移住した集団が居ることにも気付きます。
(神武天皇のストーリーでも、熊野で高倉下や八咫烏の助力がありましたね)


そう考えると、徐福の九州ルートの船団が、神武天皇のモデルだったのか?と考えたくなります。

・・・

・・・

しかし、残念ながら、、、
徐福自体は、神武天皇ではありません。


先ほどちらっと述べましたが、文献によると、徐福が富士山まで来た時は、わずか500人です。
一方、中国の史記では、約3000人の童男童女と技術者が出航した事が書かれています。

その差は2500人とかなり大きく、もしかすると、その大部分が、
最初の上陸地であった北九州に残ったままだったのではないでしょうか?


そして、その集団が、稲作文化を九州に定着させ、
九州で勢力を蓄えた後、稲作文化の東進とともに、大和方面まで勢力を伸ばしてきた

・・・とは考えられないでしょうか?


実は、そんな仮説も十分あり得る事が、最近の調査では分かって来ています。


証拠@:稲作の東方への伝播と遠賀川式土器

よくよく考えて見れば、稲作は、東から伝播しています。


この稲作の東進の指標に、
「遠賀川式土器(おんががわしきどき)」がという土器あります。

福岡県遠賀川下流の川床で多量の弥生式土器が
採集されたことから、その名前が付けられました。

遠賀川式土器は、下記のように、九州から西日本に広く展開していることが既に分かっています。


この遠賀川式土器は、初期の水田稲作の西から東への伝播の指標にもなっており、
西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになっています。

古代において、文化の流れは人の流れですから、
九州から東方面へと人が流れて言っているのが分かります。


証拠A:北九州と大和の地名の類似

実際に、この北九州地方⇒大和地方への移動は、地名にも現れています。

安本美典氏は、著書「卑弥呼と邪馬台国」において、
下記のサイトの図のように、福岡県朝倉市(旧朝倉郡夜須町)付近の地名が、
大和付近の地名に一致していることを発見しています。



<参考図:大和と筑紫の地名の比較>


筑前高田⇒大和高田、笠置山⇒笠置山、御笠山⇒三笠山、小田⇒織田、
平群郷⇒平群郡、三輪⇒三輪、雲梯⇒雲梯、朝倉⇒朝倉(桜井)、
三井⇒三井、浮羽町⇒音羽山、鳥屋山⇒鳥見山、鷹取山⇒高取山などなど・・・


興味深いのは、"雲梯"と言った滅多に見られない地名が双方で見られることや、
九州の地名と配置が、そのまま似たような形で、大和に移し替えられていることです。

この事実は、確実に、北九州の人々が大和に入植していることを示唆しています。


さらにもう少し深く言えば、九州の遠賀川周辺の残した地名には、
物部氏の部民としての地名が多く残っており、それは畿内においても見られますので、
九州の物部氏の部民が畿内に大量に移動してきたことを、如実に示す結果となっています



物部氏というのは、「物作りの部民」の総称の意味もあります。
要するに、モノづくりの専門技術者の集団と言っても良いでしょう。

一方、徐福が2度目の航海で連れてきた人々は、どうだったでしょうか?


中国の史記では、「約3000人の童男童女と技術者が出航した」
・・・としっかり書かれていますよね。

以上のように、九州から東に向けて文化が伝わったのは、
こうした"徐福が九州に残した物部氏"の影響が強いと考えられる訳です。

こうして、徐福が残した二つの集団が、原始の日本の国を形成していくことになる訳です。


神武天皇は、徐福が九州に残した部隊の一族ではないか?
という可能性は、いやがおうにも高まってきます。

しかしながら、この仮説については、管理人も現在考察中であり、
さらに深く検討すると、神武天皇の東征や邪馬台国の論議までをも考慮せざるを得ず、
今現在の徐福という人物の話の本節から大きく外れてしまいます^^;

なので、読者の方には申し訳ないのですが、
徐福が九州に残した集団が、その後の日本の物部氏の基礎になっている所までを示し、
それ以上の事については、現段階では触れずに、今後の課題にさせて頂きます。

なお、籠神社の海部宮司は、「物部氏と海部氏とは格が違う」と述べていますが、
これは、もともとの「物部氏=物づくりの部民」なのに対し、
「海部氏=古代の王家の祭祀一族」ということに由来しているようです。


結局、徐福とは何者だったのか?

なぜ秦の始皇帝は、最初の渡航で何の成果をも挙げられなかった徐福に
一切の罰をも与えることなく、再び巨費を費やしてまで、二度目の渡航を許可したのか?

また、なぜ、始皇帝は、そこまで徐福を信用できたのか?


・・・という問題です。


この問題については、残念ながら、
今となっては有る程度、推測でしか答える事が出来ないのですが・・・

「徐福が、元々、秦の始皇帝の同族であった!」のが理由ではないかと考えられます。


中国の研究者によると、徐福の姓として、
元々はという名字を持っていた事が近年分かってきたそうで、
同じ名字を持つ秦の始皇帝は徐福と同族の可能性が高いようです。

秦の始皇帝が、初回の航海時の失敗にも徐福を咎めなかったのは、
こうした同族意識が働いていたのかもしれません。


あと、以前述べた通り、秦の始皇帝は、「呂不偉」を実質の父親(?)とした、
ユダヤ人の可能性がありましたが、徐福自体はどうなのでしょうか?

こちらの徐福の血統面でのルーツは、なかなか探る事は出来ないのですが、
しかしながら、徐福の思想面においては、大いに類推する事は出来ます。


まず、徐福の名前はジョフクですが、
エジプト名で言えばジョセル、英語ではジョセフ、ヘブライ語ではヨセフです。

もし、徐福の名前が、ヤコブの息子であるヨセフを意識して名付けられた物だとすれば、


徐福自身が、ユダヤ教徒である可能性は非常に高いと思われます。


まだ他にも論拠はあります。
徐福が、最初に渡来したのは、与謝郡です。

ここで、もし、徐福がユダヤ教徒だったら・・・という思考で考えて見て下さい。


もし、ユダヤ教徒ならば、きっと、新しい入植する新天地を、
聖書のカナンの地に当てはめることになるのではないでしょうか。

聖書ではイスラエル民族のカナン入植を導いた人と言えば、、、
モーゼの跡を引き継いだヨシュアです。

このヨシュアの地名を、入植地に名付けるのは、
ユダヤ教徒的な立場から考えれば、何らおかしい事ではありません。



翻って、この与謝郡(古名では與謝・吉佐・匏など)の地名に注目してみると、、、
与謝=ヨシュアであり、まさに、旧約聖書の名前と同じです。


また、徐福が連れてきた物部氏も、後世に垂仁天皇の時代に物部氏の姓を賜っていますが、
平御幸氏の説によると、「物部=牛を拝むこと勿れ」の意味も含まれているようです。

牛を拝む事勿れは、まさに、金の仔牛像を想像させる名前と言えます。


上記に述べた事は、言って見れば単なる文字のごろ合わせに過ぎませんが・・・
そこに物証が伴って来た場合は、大きな意味を持ちます。

思いだして下さい。徐福一団の中心氏族たる海部氏が崇拝する籠神社。
この籠神社の奥の院「真名井神社」の石碑には、以前は六芒星(カゴメ紋)が刻んでありました。



この六芒星マークこそが、海部氏の持つ、籠神社の裏社紋であり
イスラエルと同じカゴメ紋であることに、非常に大きな意味があると思います。


以上の事から、管理人は、徐福が率いた物部氏の一族は、
ユダヤ教徒が中心だったのではないかと考えます。

また、ユダヤ教徒が多い=その中に、ユダヤ人が含まれていた可能性が高い!
・・・と言えると思います。


以上が、徐福と物部氏の正体についての謎解きです。
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 10時34分14秒 ) パスワード

http://ameblo.jp/ici05876/entry-11517008918.html

遂に分かった日本人のルーツ:物部・秦の争いが南北朝に


     これまた斬新な説です


日本人の三大源流は(1)縄文人、(2)弥生人、(3)古墳人、からなります。



(1)縄文人は@アイヌ族、A先住海人族・平(へい)氏、B渡来シュメール族・橘氏



(2)弥生人は@渡来古代ユダヤ10支族・海部氏、物部氏、秦氏、A中国華南地域から来た倭族




(3)古墳人は@崇神天皇以降の突蕨系騎馬民族・土師(はじ)氏、西文氏、A応神天皇以降に秦氏が半島から呼んだツングース系越氏




まず、縄文人の先住海人族・平(へい)氏ですが、これはのちの平家となります。



一方、渡来シュメール族・橘氏ですが、和歌山県近辺に渡来し居住、海人族として物部氏とともに蘇我氏と争い脚光を浴びることがなかったが、天武天皇の代から橘美千代が宮中で命婦として勤め、女帝元明天皇から橘宿禰の氏姓を賜り、その子諸兄が有名。皇室の警察犬を使う犬養氏、安曇氏、葛城氏も一族。橘氏は和田氏、楠氏につながります。



これとは別に、南九州にはミクロネシア系の海人族・熊襲あるいは隼人が上陸しました。




次に、弥生人のうち海渡人(ウミワタヒト)という海人族が海部氏、物部氏で、物部氏は秦の始皇帝の側近・徐福によって連れてこられた一団と言われています。

海部氏が社家となる丹波地方にある籠神社では、「アマテルとニギハヤヒの両神は同体なり」として、海部氏と物部氏の合併を言い伝えています。

つまり、聖徳太子と蘇我氏に討たれた物部氏は一部は大和朝廷に残りましたが、一部は丹波地方に移住したようです。そしてその後、蘇我氏は秦氏系の中大兄皇子(天智天皇)、倭族系の藤原氏に討たれます。




その秦氏ですが、山渡人(ヤマワタヒト)という大陸から来た一団を指し、中国秦王朝の末裔と言われています。




さて、残りの古墳人ですが、土師氏は半島由来の北方騎馬民族で、主に古墳の造営を行うゼネコンのような立場だったようです。”はじ”という呼び方も”恥”から来ているようで、半島から人足を集め土木作業をしていたための蔑称と言われています。




西文氏は北陸地方に渡来し、半島からの移民、難民の受け入れ事務所を置き、日々漂着する渡来民を引き受け、労働力として畿内の土師氏に送り込む”手配師”の役割をになっていたと言われています。時代はやや遅れますが、ツングース系越氏も西文氏と同じく北陸地方に居住したようです。




ちなみに、日の丸を国旗として正式に定めるよう要請したのは島津氏。島津氏の初代は島津忠久こと惟宗忠久、惟宗秦氏で、また毛利氏は物部守屋(モリヤ)氏の末裔、源氏は司馬遼太郎氏によると”源新羅三郎”という半島経由突蕨系騎馬民族の末裔といわれています。




ところで、これらの流入民族の流れを背景に、大和朝廷の動きを追ってみましょう。

日本書紀では神武天皇から始まる天皇家ですが、
神武、崇神、応神の各天皇は秦氏系と言われ、
主流から追われた海部、物部、蘇我、橘等の海人族は、主に紀伊半島内陸部に拠点を持ちます。




そして、天智天皇に脅威を感じた海人族・大海人皇子は吉野に隠棲を装い、百済色が強くなった天智系継体天皇陣営を一新して、海人王朝を樹立したのが壬申の乱であり、天武天皇です。天武天皇は伊勢神宮を創建しましたが、この吉野を中心とする勢力が後の南北朝時代の南朝の基盤となるのです。



最後にどんでん返しになりますが、
以上のように日本には古代からいろいろな民族が流入した多民族国家であったことが解りますが、
実は、これらの渡来諸民族はもともとは日本で生まれ、日本から分かれたのが真相なのです。




一般には、日本で最も古い文献は古事記、日本書紀と言われていますが、
実はそれよりも古い、そして古事記、日本書紀のネタ本になったのが
物部興久によって編纂された「先代旧事本紀」、
あるいは稗田阿礼が編纂した「帝王日継」、「記紀」、「古語拾遺」などで、
これに加えて竹内文書、日月神示、出口王仁三郎説によりますと、




世界が一つの大陸だったころ、天(シリウス)から日本にスメラミコト(天皇の祖先)が降臨して国を開き、世界を統治し、また日本人から世界の五色人種が分かれたということです。




しかし、こんなことが明らかになると、ローマバチカンやイギリス王室など、これまで正当とされてきた世界の権威が地に落ち、彼らを中心にした支配の構図が崩れかねない、従って、それを阻止するため日本人を目覚めさせないでおこうという思惑から、日本はこれまでいろいろな艱難辛苦を味わってきました。




そして、逆に日本側からすれば、このようなことが明らかになれば、西欧からの思わぬ攻撃を受けかねないとの配慮から、真実の歴史をを隠すため、天武天皇や藤原不比等らの”天照の天孫史観”によって縄文以前の歴史が封印されたのです。しかし、事実は神武天皇以前にも150代以上も天皇は存在したようです。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 10時40分05秒 ) パスワード

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/09/2604.html

裏天皇の正体1〜大和朝廷成立前夜、倭人の葛城ネットワークと韓人の秦氏ネットワークが並存


裏天皇とは一体、何者か?


●日本民族の三大源流は【1】縄文人、【2】弥生人、【3】古墳人である。
【1】縄文人は@土着アイヌ人、A先住海人族「ヘイ」、B渡来シュメル族「タチバナ」
【2】弥生人は@縄文末期に渡来した古イスラエル北王国十支族(海部・物部・秦)、A海部氏が率いてきた倭族。
多神教のイスラエル北王国は前722年にアッシリアに滅ぼされ、十支族は東方に流移する。その末裔は日本列島に渡来し、海部(アマベ)氏と物部(モノノベ)氏と秦(ハタ)氏になった。これが日本に渡来した古イスラエルの御三家である。
【3】古墳人は@崇神天皇以後の渡来系騎馬民族、A応神期に秦氏が朝鮮半島から呼び寄せたツングース系人


●アッシリアの支配から逃れ、ユーラシア大陸の東南沿岸を北上していたアマベ氏は、華南の越の海岸で倭人に遭遇した。倭人は、原郷の雲南から水稲を携えて長江を下り、越民と混血して半農半漁民となっていた。アマベ氏は、ここで配下となった倭人(越人)を率いて船出し、丹後半島に上陸し、日本では海民の支配者となって各地に海部郷を置く。
アマベ氏は、日本に古イスラエル以来のオリエント多神教をもたらし、太陽神ホアカリを祀る神社を天橋立に建て、自ら祀官となる。これが籠(この)神社で、火明命(ホアカリ)と同体の天照国照彦を併せた太陽神を御祭神として、今も続いている。
アマベ&倭人は、水田を各地で開発し、丹後半島から発して近畿地方の内陸部へと進み、稲作集落を形成してイセと称した。これを証する客観的事実は、滋賀県守山市伊勢町周辺から発掘された巨大な集落遺跡である(集落が営まれた時代は縄文後期から室町時代で、最も栄えたのが弥生時代後期の紀元1〜2世紀)
アマベ&倭人が渡来したことにより、縄文時代から弥生時代に切り替わる。
アマベ氏は、女系相続民族で女神信仰の強い倭人が受け入れ易いように、太陽神アマテル彦から「彦」を除いてアマテラスと読み替え、女神に転換して内宮に祀る。こうして、アマべ氏がもたらした古イスラエル神道は日本神道の基本的根底を成す。


●モノノベ氏もイスラエル北王国の末裔で、アマベより遅れて渡来した。軍事民族にして祭祀族を兼ねるモノノベ氏は、大阪湾に上陸し、祖神ニギハヤヒを石切神社に祀り、大阪湾から奈良に入って、原住民で大和国の首長「登美のナガスネ彦」一族と通婚して同盟する。
熱田神宮大宮司である尾張氏は、天火明命(ホアカリ)の子孫で、籠神社の社家海部氏と同体である。住吉大社の社家の津守氏も同族である。
籠神社の極秘伝は「アマテルとニギハヤヒの両神は実は同体なり」としており、アマベとモノノベが合併したことが伺える。応神天皇により海人首長の座を安曇氏に交代させられた海部氏は、世を憚って尾張氏に名を変えた。また、蘇我氏に討たれた物部氏は一部がヤマト朝廷に残ったが、多くは籠神社の伝承にあるように海部氏と部族合同をし、丹波に移住した。

●秦氏も古イスラエル北王国の十支族の末裔だが、秦氏はシルクロードを通って、やや遅れて日本列島に渡来した。
秦氏とは大秦帝国の国名を族称としたもので、本姓は「呂」であり、秦の始皇帝の実父とされる呂不偉一族の末裔である。始皇帝から処罰され、生き延びた呂一族は東方に逃れた。朝鮮半島にたどり着いた呂氏が率いていた集団には、西域民族も多く混じっていた。そこで集団の総称を秦とし、呂氏は秦君、呂一族は秦氏となり、集団は秦人を称する。
秦人は元々商業民なので、当時国際交易特区だった朝鮮半島南端の任那を本拠として、交易を始める。秦氏の居留地は辰韓と任那の国境にあり、秦韓と呼ばれていたが、秦氏は商業民の習いとして、近隣に駐屯していた辰王国の騎馬隊を傭兵とする。
北方民族で、同種に追われて高句麗方面から朝鮮半島に逃げてきた騎馬部族が、軍事キャンプを馬韓の外れに建てて辰王国を称していた。その隊長が辰王である。
大秦帝国は皇帝独裁の軍事国家であったが、秦韓は商業民の秦氏が建てた商業国家であり、秦君が辰王の騎馬隊を用心棒として雇っていた。つまり一種の華僑である。
秦氏は日本にも渡り、豊後の国東半島あたりを拠点として任那と交易していた。現地で宗像三女神を祀っていた縄文海人系の宇佐君は、新来の秦氏を歓迎し、両者は通婚し、宇佐君は実質的に秦氏の血統となる。

日本人の基層を成すのは縄文人であるが、
2480年前の呉、2340年前の越、2235年前の楚の滅亡に伴って江南人が朝鮮半島や日本列島に亡流した。2500年前〜2200年前に発生した江南人(呉人、越人、楚人)の流民が倭人である。
彼ら江南流民は、何れも少人数で、日本列島では縄文人に受け入れられ、混融していった。この倭人(江南流民)と縄文人の混血が弥生人である。
そして、後に朝鮮半島へ南下してきたツングース族(扶余族、高句麗・百済)と倭人との混血が韓人である。
『金融ワンワールド』の記述によると、タチバナ氏→アマべ氏→モノノベ氏→秦氏という順番で日本に渡来したらしい。
(『金融ワンワールド』では、タチバナ氏がシュメール発、アマべ氏・モノノベ氏・秦氏が古イスラエル十支族発とされている。今の所、完全否定はできないが、彼らが本当にシュメールや古イスラエル発なのかは検証を要する。また、古イスラエル北王国が多神教であったというのは本当か?)
「日本と朝鮮の支配部族の源流」、「日本に脱出してきた徐福が作ったネットワークが大和朝廷」と、『金融ワンワールド』の落合氏の説を補正しながら重ね合わせると、次のようになる。
2480年前(前473)、呉の滅亡→呉人が弁韓へ(呉人タチバナ氏が日本列島へ)、
2340年前(前334)、越の滅亡→越人が馬韓へ(越人アマべ氏が日本列島へ)、
2300年前頃、ツングース系の扶余族が南下し、半島西部に辰国を作り、南部(弁韓)、東部(辰韓)を服属させる。



2235年前(前223)、楚の滅亡→楚人が辰韓へ(楚人の一部は徐福に率いられて日本列島各地へ脱出し、葛城氏と改称し伊豆を本拠として全国的なネットワークを築く。そのうちの軍事部門を所掌したのが物部氏)
この呉・越・楚の倭人勢力が、『金融ワンワールド』の云う海人勢力である。
落合氏は縄文海人系と呼称しているが、正しくは、倭人と縄文人が混融した弥生人である。

〔秦帝国と万里の長城、朝鮮半島の付け根まで万里の長城が伸びている。そこで強制労働させられていた人々が逃げ出し(図中の矢印)朝鮮半島の辰韓を形成 〕
それに遅れて、朝鮮半島から秦氏がやってくる。
2230年前頃、秦帝国の長城建設の為に強制移住させられていた中央アジア発のモンゴル系部族(スキタイ族?)が楚人と共に脱出・南下。朝鮮半島南端の加耶で交易を始めた。これが秦人である。交易部族である秦人は、ツングース系の扶余族が建てた辰王国の騎馬部隊と手を組んでいた(傭兵として雇っていた)。
秦氏が最初に日本列島に渡ってきたのは1950年前頃であろう。
この頃、ツングース系の扶余族が半島北部に高句麗を建国。その分派が南下して馬韓を奪い百済に。百済が、弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を支配。
扶余族、とりわけ高句麗を恐れた秦人は、日本列島に脱出し始める。
亡流秦人たちは、先に大分宇佐に拠点を築いていた倭人(葛城ネットワーク)に受け入れられ、弥生人(倭人)と混血する。宇佐に拠点(宇佐支店)を置いた秦氏は、次第に宇佐のネットワークの主導権を握る。これは、交易部族である秦氏の騙し能力によるものであろう。
「日本に脱出してきた徐福が作ったネットワークが大和朝廷」で述べたように、韓人と弥生人が混血したのが古墳人であるが、その最初が秦氏(韓人)と宇佐の葛城(弥生人)の混血である。これが、宇佐を拠点とする秦氏ネットワークである。
伊豆を拠点とした葛城ネットワーク(倭人→弥生人)と宇佐を拠点とした秦氏(韓人→最初の古墳人)ネットワークが、この時代大和朝廷成立前夜には並存していた。
云わば、中国江南発の倭人(弥生人)ネットワークと中央アジア→朝鮮半島発のモンゴル系韓人(古墳人)ネットワークである。
この両者の関係こそ、その後の日本の支配階級の基層を成すものである。
日本の支配階級の基層は、もう一派ある。ツングース系扶余族である。それを招き入れたのも秦氏らしい。
その経緯は次の記事で明らかにする。

[82]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 10時43分29秒 ) パスワード

裏天皇の正体2〜日本の支配構造は倭人勢力VS百済勢力+キャスティングボードを握る秦氏?

前稿「倭人(弥生人)の葛城ネットワークと秦人(韓人)の秦氏ネットワーク」では、
大和朝廷成立前には、2つの勢力があったことを明らかにした。
【1】倭人(弥生人)の葛城勢力
呉越楚の滅亡によって亡流してきたのが倭人であり、倭人と縄文人との混血が弥生人。
その中心となったのが、秦始皇帝を騙して日本列島に脱出した徐福一派である。彼らは葛城と改称し伊豆を本拠として全国的なネットワークを築く。
【2】秦人(韓人)を秦氏勢力
同じく秦始皇帝の支配から逃れて朝鮮半島に脱出した、中央アジア発の秦人。彼らは伽耶で交易を業としていたが、ツングース系の扶余族(→後の高句麗・百済)の南下を恐れて、日本列島に脱出を始める。大分の宇佐に拠点を置いた彼らは、弥生人と混血し、宇佐を拠点に秦氏ネットワークを築く。
葛城と秦氏の二大ネットワークが、並存していた。これが大和朝廷成立前夜の政治状況である。
そこに、朝鮮半島からツングース系の扶余族が逃げ延びてきて、大和朝廷が成立する。




●こうして豊後地方に勢力を蓄えた秦氏は、護衛のための軍事勢力を朝鮮半島から呼んできた。それが辰王ミマキイリヒコ・イニエ(崇神天皇)である。崇神は他の騎馬民族に追われて日本に渡来した可能性もある。
秦氏に誘われて渡来した崇神は、渡来秦氏の本拠たる豊国(福岡・大分)に駐留。この地には秦氏の日本貿易センターがあり、朝鮮半島からの流民や滞在者が多数居住していた。この秦氏の拠点が、後年608年、隋の使節として来日した斐世清が報告書に「秦王国」と書いたものである。
●ホムダワケ(応神)は崇神の直系子孫である。
応神天皇の別名を「八幡」と呼ぶのは、出自が満州であることを示す。「八」は北方騎馬民族の聖数で、「八幡」は満州騎馬族を意味する。
応神は、アマベや物部らを海辺の僻地や山中に追い払う。応神はヤマトの大王位に就き、豊国秦君は財務と産業政策を掌握する。しかし、各地の海人たちも直ちには降伏せず、全国各地で一斉に反乱を始める。『日本書紀』によれば、応神は安曇氏に海人の反乱を平定させ、安曇氏を海人の宰(首長)とする。この時に放逐された海部氏は、体面もあり尾張氏に改名した。
応神と豊国秦氏は、職能民を管理するための社会機構を作るが、高句麗人・新羅人・任那人・百済人が盛んに来朝する。応神は、韓人に灌漑池を作らせて農業を振興する。この韓人とは、秦氏が招聘した任那人ではないか。
応神14年には、秦始皇帝の後裔を称する弓月君(融通王)が、百済120県の人民を率いて帰化する。弓月君は秦氏グループ本社の秦韓の会長であり、応神がヤマトの大王に就いたのを機に、豊国(福岡・大分)へ本社移転したのである。
天孫族(崇神)の渡来と同期して古墳時代が始まり、応神の治世を契機に巨大古墳が築造される。
秦氏は国家財政を掌握し、養蚕・製糸・紡績の技術を持ち込み、産業振興に注力する。
秦氏の一部は山城国へ移住して、嵯峨や松尾などの桂川流域を支配した。
6世紀の秦君河勝は蘇我氏と密接になり、仏教振興に努め、京の太秦に広隆寺を創建する。
秦氏の分派は丹波に入り、先住の海部氏と混住し通婚する。既に物部氏と氏族統合しつつあった海部氏は、今度は秦氏化が進む(秦氏が海部氏を半ば吸収する)。その結果、丹波は養蚕や服飾の中心地となる。
さらに秦氏は山城国に平安京を誘致し、先住の賀茂氏や山城紀氏などと提携して、上賀茂神社や伏見稲荷社、松尾大社を建てる。
こうして、応神朝廷と秦氏は連携して勢力を拡大するが、海辺山間に追いやられた先住海人衆は勢力の回復を期す。その代表が海部氏であるが、物部氏本流は海部氏と異なり、旗幟を鮮明にせずに応神=秦君の新政権に近づき、神道を奉ずる有力構造として大和朝廷に朝参を続ける。

崇神が朝鮮半島から招き入れられた。その前提となる、当時の朝鮮半島情勢は次の通りである。
312年高句麗が楽浪郡を占拠した。続いて、350年前後、同じく高句麗の南下に対抗して百済、新羅が相次いで建国。
宇佐の秦氏は、高句麗の南下に危機感を懐き、扶余族(高句麗・百済)に圧迫されていた伽耶の崇神勢力を防衛部隊として宇佐に招き入れた。
一方、葛城ネットワークも高句麗に対する警戒を強め、大和政権の樹立を決意。そこで、拠点をネットワークの中心である大和に移し、320年前後、緩やかな大和連合を形成した。
『金融ワンワールド』落合氏は、崇神は宇佐止まりで大和には入らなかったと考えているようだが、奈良県天理市の行燈山古墳が崇神の陵墓であるとする定説が事実ならば、崇神は大和に入ったことになり、秦氏が宇佐に招き入れた崇神を、さらに葛城が大和に招きいれたことになる。
高句麗の南下に備えて、倭人の大和連合と韓人の秦氏ネットワークは協調したのではないだろうか。
次に百済勢力が日本に亡流してくる。
391年〜400年代の高句麗の好太王、長寿王の快進撃(南下)と475年に北百済が崩壊し、大量の百済人が北九州に進入してきた。これを受け入れたのも秦氏らしい。
さらに480年頃、百済の王族を大王(応神)として宇佐に招き入れ、祀り上げた。これが八幡=応神を祭神とする宇佐八幡宮である。
『金融ワンワールド』では応神は崇神の子孫であるとされているが、応神が百済からの亡流であることは間違いないので、伽耶発の崇神とは別である。
日本にきた百済(応神)は、九州の拠点宇佐から東征し、大和ののど元にある河内に拠点を構え、畿内を制圧したと『金融ワンワールド』ではされている。そして、倭人勢力(葛城・物部・海部)の一部は応神によって僻地に追われたとされている。
しかし、当時の日本列島の圧倒的大多数は縄文人+倭人である。
百済から来た応神勢力にとって、縄文人は信じられないくらい素直で従順であり、ほとんど戦争をすることなく、支配体制が受け入れられていった。世界の常識では当たり前の、力の原理にモノを言わせて従わせるということが、縄文体質の世界では全く不要なのである。
従って、百済から秦に招き入れられた応神勢力も旧政権(崇神+秦+葛城)を征圧したわけではなく、招き入れられた可能性が高い。それは南侵する高句麗に備えるためであるが、ここで応神と手を組むかどうかを巡って、倭人勢力(葛城)が割れた可能性もある。
一方で秦氏は、倭人勢力である海部氏や葛城氏(物部氏)と通婚し一体化してゆく。
『縄文と古代文明を探求しよう!』「大和政権の源流と葛城ネットワーク〜母系万世一系の葛城ネットワーク」では葛城ネットワークは母系による万世一系システムであったと述べられているが、秦氏も葛城ネットワークと通婚によって一体化していったのであろう。
応神政権(河内王朝)が樹立されると、高句麗の南侵圧力を受けた秦氏の朝鮮本社も日本に移住を始める。これが弓月君や阿知使臣が137県の百姓を率いて、日本に移住したという件である。
その後、応神と手を組んだ秦氏は、八幡神社や稲荷神社を全国に展開する。


●応神+秦君の王朝は第24代武烈天皇の代に危機に瀕し、勃興する新勢力に交代する。
越前を統治していた継体が第25代天皇を継ぐ。継体を支援したのは大伴氏だが、大伴氏はタチバナ氏の護衛部隊であったことから考えて、背後勢力は北陸の海人衆(タチバナ氏)と思われる。
タチバナ氏はアマべ・モノノベの渡来より遥かに古く日本列島に渡ってきた海人族で、震源はシュメルのウル都市文明か、あるいは、シュメルの先住ウバイド族かもしれない。その後、朝鮮半島を追われて日本列島に来襲した応神によって、海伝いに僻地に追われた
その後、継体崩御から4代後の欽明の即位に至るまで、朝鮮半島情勢に起因する全国的な内乱が起きたようで、欽明期を契機に百済的要素が皇統に浸透した。それが天智朝まで伝わる。一方、アマべの海人勢力は凡海(おおあま)氏が養育した天武に期待をかけた。
百済救援のために朝鮮半島に出兵した天智は、百済の祖先たる扶余族との関係が窺われる。百済は扶余族の一派として朝鮮半島を南下するが、欽明から天智までの皇統は百済系要素が濃くなった。
天智の崩御後に、尾張氏、県犬養氏、安曇氏ら海人勢力が大海人皇子を促して壬申の乱を起こした。
大海人皇子の背後勢力には、美濃・尾張と丹波を地盤にしていた尾張氏と、近江・伊勢を地盤にしていた伊勢海人衆がいた。尾張氏は海部氏と同体である。
壬申の乱は、海人族が大海人皇子を奉じて、欽明期から百済色の濃くなった王朝を一新して、海人王朝を樹立しようとした戦いだったのである。
継体以来の海人系皇統を復元した天武は、天智系皇統を統合し、挙国一致の天武王朝を樹立した。
紀伊半島内陸部の吉野は、後に南朝の支持勢力となるが、当時から海人衆の勢力圏で、だからこそ天智に襲われる危険を感じた大海人皇子は、吉野に隠棲を装った。その後の南北朝も、総じて北朝は天孫系、南朝が海人系である。
天武は『古事記』を編纂させて国家神道を立てるが、教義の根本を天孫史観に置いたのは、身内同様or実質身内の海部氏の海部神道とニギハヤヒの物部神道を根底に敷きながら、天孫族との大連立は図ったからである。


●海人王朝を復元した天武以後、称徳天皇までが海人系皇統の時代であった。以後は、聖武天皇と県犬養広刀自との間に出来たタチバナ系の井上内親王の婿であることを手掛かりにして、天智の孫の白壁王が皇位を継ぎ、百済色の強い天智系が復活する。
その後、桓武王朝から皇統に百済色が復活して、海人勢力の後退が明らかになる。この間、藤原氏が陰謀の限りを尽くして橘氏を破滅させるが、藤原氏の氏姓を鑑識することはできていない。
藤原氏は騎馬系の臭いがせず、商業系の気配もなさそう。政治性に富むところから、継体王朝のどこかの時期に渡来してきた族種であることは確かで、シュメル系の一分派という説もある。

日本の支配階級には、倭人系の葛城勢力と百済勢力がいて、両者が主導権争いしているという捉え方である。
応神以降は百済勢力、継体以降は倭人(葛城)勢力、欽明から天智までは百済勢力が主導権を握り、壬申の乱で倭人(葛城)勢力が主導権を握る。そこで倭人勢力が押し立てたのが天武であり、天孫族の万世一系神話を主軸とした『古事記』の編纂によって、百済勢力をも統合した大連立政権を樹立する。
しかし、再び桓武朝では百済勢力が主導権を奪回する。
そして、桓武朝を平安京に招き入れたのが秦氏である。
秦氏はそれにとどまらず、九州においても勢力を拡大してゆく



●六尺褌を締め込む姿から「フンドシ族」をも呼ばれる隼人はポリネシア=インドネシア系で、その分派は東京湾近傍や小笠原父島にいるが、その本拠は大隈・薩摩で、古くから東南アジアの海洋を往来し、各地の同族と通交してきた。
当時、親朝廷であった大隈隼人は、大宝律令の施行に強く反抗する。朝廷は豊国から5000人に及ぶ秦人を隼人制圧を目的に隼人町に移住させた。
この朝廷の圧制に対して、大隈隼人は反乱を起こす。朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍とする征討軍を派遣し、援軍として豊前国の宇佐軍(秦人軍)が加わる。これは応神騎馬隊の伝統を受け継ぐ精鋭である。
豊国稲積から移住した秦人は、隼人町に定住して郷名を豊国郷・稲積郷と名付け、氏神を韓国宇豆峯神社とし、聖山を韓国岳と呼んだ。これは秦人が任那からの渡来民だったからであり、元来、この地は朝鮮半島とは何の関係もない。
移住してきた秦氏は、隼人が天孫族の首長ヒコホホデミとその配偶の安曇氏豊玉姫を祀っていた鹿児島神社の祭神を、宇佐から将来した八幡神(応神天皇)に換えた。これが隼人町の大隈正八幡宮である。

薩摩の島津家は、元々の姓は惟宗氏であり、その前は秦氏である。
明治維新の一方の立役者であった薩摩は、秦氏の勢力圏であった。
もう一方の立役者である長州は、百済か秦氏か?


日本の支配階級は3つの勢力から構成される。
【1】徐福⇒葛城をはじめとする倭人(江南人)勢力
【2】中央アジア→朝鮮半島経由で逃げ延びてきた秦氏勢力
【3】高句麗に追われて朝鮮半島から逃げ延びてきた百済勢力(扶余族)
【4】藤原は?
主要には、倭人勢力と百済勢力が主導権を争っているが、そのキャスティングボードを握っていたのが秦氏ではないだろうか。


以上の日本の支配階級の力関係を踏まえた上で、次回から本題である「裏天皇の正体」に迫ってゆきたい。
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 10時47分36秒 ) パスワード

以下の話はアッチコッチで耳にします:

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/10/2608.html

裏天皇の正体3〜裏天皇は南朝発、孝明天皇は偽装崩御して裏天皇となった。

※前回までは、古代の日本の勢力を扱ってきましたが、いよいよ本題のウラ天皇の正体に迫ります。

 明治天皇がすり替えられていたことはよく言われますが、天皇のすり替えはこれが初めてではありません。

この説とセットになっている、「孝明天皇・睦仁親王暗殺説」は実はカモフラージュであり、殺されたと見せかけてそのまま堀川御所に入りウラ天皇となったのです。



●明治天皇は(南朝末裔?)長州奇兵隊の大室寅之祐にすり替えられていた
南朝復元論は、大塔宮護良親王の末裔の中から秘かに選ばれた幕末長州の「寄兵隊(力士隊)天皇」こと大室寅之祐が、世に知らずに孝明天皇の皇位を継承したことが潜在的な効果をもたらした。この大室寅之祐は南朝後醍醐天皇の息子である護良親王の末裔です。


●このような天皇のすり替えは、明治天皇が初めてではありません。天皇のすり替えは南北朝時代から行われていたようです。
天皇すり替えは南北朝時代から行われていた
光厳上皇の皇子とされてきた崇光天皇が、実は護良親王の王子であったのです。
つまり『南朝護良親王→崇光天皇→栄仁親王→伏見宮貞成親王』と続くのが本当の皇室系図なのです。ところが、今日すなわち『落合秘史・南北朝』が公刊されるまで600年に亘り、国民が教えられてきた皇室系図は、『光厳天皇→崇光天皇→栄仁親王→伏見宮貞成親王』とするものでした。
偽りの旧来の皇統図と真正皇統図の違う点はたった一つ「光厳天皇→崇光天皇」と「護良親王→崇光天皇」の違いだけですから、是正するのなら「光厳天皇」を「護良親王」と置き換えれば済むのです。むろん御母についても然るべき変更の必要はあります。真相は『落合秘史・南北朝』で明らかにしたように、建武の新政の際に南北両統の首脳が秘かに合意して、「護良親王の王子を、系図上で付け替えて光厳天皇の皇子とした」のです。
※南北朝は北朝に統合されたというのが定説だが、崇光天皇は実は護良親王という南朝天皇の息子である。天皇のすり替えが行われている。この天皇すり替えは明治だけでなく南北朝時代から行われてきた。


●著者(落合莞爾)の情報源
 「さる筋」からの人聞と、「その筋」からの伝言を多用しましたので、「その正体を明かせ」との声が巷間に聞こえます。これを知った「さる筋」から、「その筋」を秘すのはやむを得ないが、自分の名は必要とあれば明かして良いと伝えてきましたが、やや思うところもあり、取り敢えず本稿では実名を控えプロフィールに止めておきます。
 「さる筋」とは故高松宮殿下(1905〜1987)に陰でお仕えしていた舎人です。殿下の
薨去(こうきょ)を以て一旦致仕した後、現役に復帰して「その筋」にお仕えしている人物で、私の所へ初めて現れたのは1991年のことでした。最初は正体を見せなかったのですが、最近は打ち解けて、「その筋」からの伝言を、判りやすく伝えてくれます。
※「その筋」とは、つまり奥の院(ウラ天皇の側近)の人物で、「さる筋」は「その筋」からの情報を筆者に伝えている人物である。


●学習院の原型である京都学習所は、ウラ天皇がつくった倒幕の拠点であり、尊皇攘夷論を生み出した




建春門外学習所の設立功労者は、表向きは中山忠能と正親町三条実美とされていますが、実は中山忠能が万事を朝彦親王(当時青蓮院宮、のち中川宮)に頼んだに過ぎず、実際の功労者は朝彦親王なのです。
※京都学習所(現在の学習院)を創設した朝彦親王は、明治維新の真の主導者でありキーマンであった。
後の久邇宮朝彦親王は伏見宮邦家親王の第4王子に生まれた。
これには当然背景があり、それが明治維新を推進した秘密勢力の正体は、朝彦の実父の伏見殿邦家新王だったのです。
皇統の外郭だった伏見殿が代々のウラ天皇として永年に亘り国事の重要事項に関与していたのです。伏見宮家の当主伏見殿が天皇と国事を分担していたことは、今日の今日まですなわち『落合秘史・南北朝』が公刊されるまで、朝廷と国家の最高機密だったのです。
1334年に行われた南北朝首脳の秘密合意で、大搭宮護良親王の王子益仁が皇統の系図上で光厳上皇の第一皇子として扱われ、皇位を継いで崇光天皇となり、その皇子栄仁親王と皇孫貞成親王が伏見殿を称し、曾孫の兄が後花園天皇、弟が伏見殿になります。
 すなわち後花園天皇の弟貞常親王が康正二(1456年)に兄の後花園から勅許を受けて永世親王伏見殿と称し、家系は何世の後であっても天皇を出せることが決まりました。つまり、後花園天皇の血筋が絶えた時には、いつでも天皇を出せる血統バンクとなった伏見宮家は、以来明治維新に至る400年の間、皇室と国事分担して海外活動を専管し、国際問題を取り仕切ってきたのです。
 
 いわば秘密の国際天皇だった伏見宮家では、朝彦の父邦家新王(1802〜1872)が幕末期の家長でした。邦家親王は1841年に父貞敬親王が薨去(こうきょ)したことで伏見殿を相続しました。
 ところがこの年、長子で勧修寺門跡の済範入道親王(後の山階宮晃親王)が2歳年下の叔母と駆落ちする不祥事を起こしたために家事向不取締を咎められ、翌年わずか8歳の第6王子貞親王に家督を譲り、隠居して号を禅楽と称します。22年後の1864年、一橋慶喜らの嘆願により、晃親王が罷免されると、禅楽も同時に復飾して伏見殿を再相続します。
 その間も実質上のウラ天皇伏見殿として閑院宮家と国事を分担し外事を専管していましたから、仕事の上では、隠居禅楽を極めこんでいた方が、伏見殿よりも却って好都合だったようです。
※ウラ天皇伏見殿は、実は南北朝時代にすり替えられた南朝系統の崇光天皇の子孫の貞常親王がオモテ天皇閑院宮家のバックアップシステムであり、国事の海外分担を行っていた。


●オモテ天皇とウラ天皇の役割分担
 天皇と国事を分担した伏見殿の専管は海外事項です。国内事項としても測量機関及び諜報機関を配下においていたことは間違いなく、この両者は諸国の自由移動が許されていることから元々不可分な業務で、同一人が測量師でもあり探検家にもなり、密偵としても働いた好例は伊能忠敬です。
後に学習院と改称する建春門外学習所は、「堀川政略」の重要な一旦を担い、矢野玄道が楠公精神を鼓吹したことで、維新志士たちの政治思想を涵養して倒幕の策源地となったことから、明治時代には維新の聖地とされましたが、今日ではほとんど忘れられたようです。
1779年後桃園天皇が崩壊して後継天皇の候補に閑院宮師仁親王と伏見宮貞敬親王の役割分担が10日に亘る議論の末に決定した。折しもアメリカ独立戦争の直後で、多端が予測される国際関係に専念する伏見殿の国事負担を軽減するため、皇室を引き継いで国内事項を引き受ける閑院宮家との国事の分担を話し合っていたのが、議論の真相です。
※護良親王以来、歴代伏見殿の活動拠点はずっと比叡山だった。


●明治天皇はすり替えられたが、孝明天皇が暗殺されておらず、そのままウラ天皇になった
 ことに皇太子陸仁親王の実母中山慶子の実父として、次代天皇の外祖父になる立場にあった中山忠能が、皇太子の外孫陸仁親王を「堀川政略」に沿って「寄兵隊天皇」と交替させ、堀川御所に隠しました。
 孝明暗殺説は「堀川政略」の企画者岩倉具視が「孝明の偽装崩御」が暴露されそうになったときに備えたもので、煙幕として毒殺説と刺殺説の両説をこしらえて同時に流布するという奇手を用いたところ、まんまと成功したものです。
 中山忠能が遺した「中山忠能日記」によると慶応3年7月19日条に、「寄兵隊天皇が、来年の正月上旬ないし中旬のうちに元服と決定と、仰せられました」と書かれています。日記が残っているということが、動かしがたい証拠です。
 1866年12月25日を以て偽装崩御された孝明天皇は、そのまま堀川御所へ入りました。
 ともかく、睦仁親王と入れ替わった寄兵隊士大室寅之祐は、明けて1867年1月7日に践そして明治天皇となりますが、そのかなり前から堀川御所に入ってウラ天皇となりました。


 国民に公表された『大統譜』では、明治天皇は「御父 孝明天皇」で「母 中山慶子」です。国民の多くは今日、これが真実でない可能性を「大室天皇説」の形で耳にしていますが、信じるまでには至っていません。それは大室天皇説が、「孝明天皇・睦仁親王暗殺」の大嘘と抱き合わせになっているが、これは実はカモフラージュです。


【まとめ】
@明治天皇がすり替えられたというのは事実である。しかし、孝明天皇と陸仁親王の2人が殺されたというのは実はカモフラージュであり、堀川御所でウラ天皇としての業務を担っていた。
A世間では南北朝は北朝に統合されたことになっているが、実は南朝勢力にすり替わっていたのである。
B崇光天皇は南朝にすり替わっており、その弟は伏見殿と呼ばれ、オモテ天皇のバックアップシステムとして外交業務を担い、測量機関・諜報機関も牛耳っていたのである。
C伏見殿の幕末期の家長が朝彦親王であり、学習院とそこで明治維新のシナリオとなる『尊皇攘夷論』を構築した。
☆権力者が南朝の末裔に入れ替えられたのは、なぜだろうか?
☆ウラ天皇は南北朝時代からの伏見殿と言われている。一方で、幕末明治の孝明がウラ天皇とされている。両者はどういう関係なのだろうか?→ウラ天皇は一人ではなく、複数いるのではないか?
☆天皇のすり替えは国家的危機状況の時にはいつでも起こりうることであり、公家においては暗黙の了解となっている。
事例をるいネット『伽耶・新羅・高句麗11〜王族は他国に行っても王族〜』より引用します。


極東でも8世紀頃までは、現代では考えられないほど民族間の交流があり、特に為政者クラスは、故国では死んだことにして他国の王に変身するようなケースがあった。
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 10時50分00秒 ) パスワード

http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1822139.html

裏天皇の正体4 南朝を支持したのは市場勢力。それを統括していたのは秦氏

前稿「裏天皇の正体4〜裏天皇は南朝発。孝明天皇は偽装崩御して、裏天皇になった」で発掘された論点は次の通りである。


【1】明治天皇が長州奇兵隊の大室寅之祐(南朝の末裔?)にすりかえられたのは事実であるが、孝明天皇と陸仁親王が殺されたというのは嘘である。孝明と陸仁は生きており、そのまま堀川御所で裏天皇となった。


【2】天皇のスリカエは明治天皇だけではない。南北朝時代にスリカエられている。北朝に統合されたことになっているが、北朝とされている崇光天皇は実は南朝の後醍醐天皇の皇子護良親王の息子である。つまり、北朝とされている皇統は実は南朝にすりかわっていたのである。


【3】その崇光天皇から枝分かれした伏見殿(伏見宮家)が裏天皇であり、表の皇統が絶えた時に天皇を出せるバックアップシステムとなった。と同時に、表の皇室と国事分担して海外活動を専管し、国内でも諜報機関と測量機関を配下においていた。


【4】幕末の伏見殿が朝彦親王であり、朝彦親王が作り上げた京都学習所は尊王攘夷論の拠点となった。


南朝・北朝それぞれの支持勢力がいて、両者は対立していた。それが南北朝の対立である。南朝・北朝の支持勢力は何だったのか?


南北朝の背後にはそれぞれの対立する勢力がいたということであり、


『国際ウラ天皇と数理系シャーマン―明治維新の立案実行者』(成甲書房 落合莞爾著)「第4章 大塔政略と伏見殿」を要約する。


●南北朝の秘密統合(後醍醐と文観が建てた「大塔政略」

「大塔政略」とは、南北朝の秘密統合を実現するために、後醍醐天皇と律僧文観が建てた幾つかの政策と戦略の集合体のことです。その建策は嘉暦三(1328)年に始まりました。この年、在位満十年を迎える大覚寺統の後醍醐天皇は、持明院統との間でなされていた両統迭立の約束により、早々に退位して皇位を持明院統に明け渡さねばなりません。

後醍醐の第三皇子大塔宮護良親王も、この年に早や二十一歳に達してしまいます。不世出の英資により、大覚寺統は謂うまでもなく、対立する持明院統からも、今後の皇運・国運を担う唯一の大人物として期待されていた大塔宮は、両統迭立という不純・非合理な政治慣行により立太子を阻まれ、今後は僧籍に入るしかない状況でした。

折から国内では、旧来の大荘園主たる大社寺および平安貴族と、平安末期以来台頭してきた荘園護衛の武士階層との荘園支配権をめぐる構造的対立が深まり、さらに想定外の国難であった元寇の残響として、武士階層の中に恩賞を巡る不満が蓄積していました。

本当の問題は、貨幣経済の浸透により商品経済が伸張し、流通・商工業者による資本蓄積が始まって金融業が生まれるなど、日本社会の経済的構造が変化しつつある状況それ自体にありました。
つまり、古来の律令制度は言うに及ばず、摂関公家による荘園制も崩壊に瀕し、新興の武士による幕府体制ですら対応できない時代に差し掛かったことにあります。

ところが、鎌倉末期に始まった皇位継承をめぐる持明院統と大覚寺統の争いに鎌倉幕府が介人したことで、両統迭立という愚かな方式を半ば制度化したため、日本国憲法の衆参両院制の下で二大政党が並立した時と同じような、「決められない政治状況」が続くことになりました。

この状況に憂慮したのが、般若寺で修行した律僧で真言密教の醍醐寺を本拠にする文観です。奈良時代の行基の流れを受け継ぎ、非人救済事業に携わってきた西大寺流律宗の現場にいた文観は、荘園の隙間に生まれた自由空間すなわち「散所」における貨幣経済の到来と、商品流通経済の進展を眼前に見ました。


1文観が洞察した「非人経済」の興隆

文観は鋭い経済感覚と、人権に重きを置く公正な社会感覚の持ち主として、さらには有史以来の頭脳を持った、史上稀に見るすぐれた宗教指導者でした。

鎌倉時代に入り、南宋帝国および元帝国から個々と流入する銅銭により、貨幣経済が急速に浸透しつつある時勢を凝視した文観は、貨幣使用により活発化した物資の取引が、商品の生産と流通を促し、これに携わる非人(無籍非農業民)の生活が格段に向上し、さらに進展を遂げることで社会を大きく変えつつある将来を洞察しました。

荘園よりも荘園を取り巻く外側に在って散所(産所)とか別所と呼ばれた地区や、物資と旅客が行き交う街道を根拠とする非人(非農業民)社会の方が構造的に変化していることに注目したのは、文観と後醍醐だけではありません。宗教界では鎌倉新仏教が正にそれで、密教全盛時代の荘園依存と鉱物資源採取による寺院経営から脱皮するために、大衆済度による個人献金に収入源を求めたのです。

こうして社会構造の著しい変化に着目した文観は、宋学により国家統治者としての意識を高めた後醍醐天皇と出会い、今後は荘園社会が停滞するのに引き換え、商品流通社会が到来するという「非人史観」で完全に合意しますが、「非人経済」がやがては「荘園経済」を凌駕して日本を支えるとの両所の見方は、後年ズバリ的中します。

 その流れは今日にもおよび「非人経済」系統の商工業者が今日の「経団連」となり、「荘園経済」系統の自作農民が「農協」を構成して対抗しているのです。

国際的な資本主義の進展により、日本が輸出立国の国柄となってからは前者の旗色が勝ることはご高承の通りです。後者は専ら地方の保守勢力を牙城とし、一票の格差を活用して保守政党の大票田となり、議会政治を通じて国政に影響を与えてきました。

荘園経済の後身農協と、非人経済の後身経団連は、今やTPPを巡って力の限りの綱引きをしています。その中にあって現時の代議政党は、往時の公家よろしく、南(非人)に具せんか、北(農協)に加担せんかと、綱引きの帰趨を見守っています。これが現代における南北両勢力の対立なのであります。


●散所とは何か?
「散所」の語は天平十九(七四七)年の文書に初めて見えるそうです。正式な場所を意味する「本所」の反対語の「散所」は、語義として領主の直接的支配の及ばない場所と、そこに棲む人を指すとされています。平安時代から室町時代にかけての散所は、荘園内の特定地域ですが、ここに定住を認められて年貢の代わりに雑役を負担した非農業民を意味しました。

散所の淵源は、街道沿いの「宿」や港湾の「津」、大社寺の門前および「別院」、有力者の居館などの近傍で、様々な非農業役務の従事者が、俗に非人と呼ばれて集住した地区です。

貨幣の浸透により進展する「非人経済」を、大寺院などの荘園領主が「田畑経済」に取り込む目的で、年貢免除などの保護を与える代償として各種の役務を課す特定地域を、荘園内に設定しました。これが散所で、後世の現業職公務員の原型となる「散所の民」が、ここに発生したのです。

荘園内に設けられた散所は、先行して発達した「宿」や「津」などの非農業民居住地域と、機能的には同じような地域となりますから、本稿では学術的定義に捉われず、これらの一切を総称して「散所」と呼ぶことにいたします。


1「大塔政略」の根本は「荘園史観」から「散所史観」への転換

領主から保護を受けた散所には、公領からの逃散百姓をはじめ、半島を経由して陸続と渡ってきた渡来民など、様々な浮浪民が流入しました。ことに、南満洲から朝鮮半島にかけて住んでいたツングースなどの族種には、元来南下衝動が潜在しているのか、大和政権時代から鎌倉・室町を経て江戸幕府が鎖国するまで一千年に且り、多数の単純労働者と非職能民が渡来して、散所の民となりました。

こうした無籍民の流入による人口増大と、折からの「非人経済」の進展で、散所の経済規模は大きく拡大し、それがまた浮浪民を吸入します。こうした循環によって、スパイラル的に拡大した「散所経済」は、やがて荘園経済の外壁を突き破り、外界と連結しながら中世都市へと発展します。
散所内における商工業の進展拡大に伴い、散所じたいの都市化が進む一方で、古都に流入した散所非人も商工業人化し、その多くは都市住民に転化していわゆる町衆になりました。

散所の地に新たに流入した芸能民ら半定住民・漂泊民は、本来荘園の片隅に定住し、農業や雑業の合間に荘園の外に出て行商や芸能を業としていましたが、都会における芸能需要の拡大に応じて散所に異動してきたのです。
散所に集住して行商や芸能・雑業を始めた彼らは、既に商工業人化か進んで町衆に脱皮した、かつての散所非人から賤視を受けることとなりますが、そこで身分が固定した者が近世の非人(筋目非人)になります。

さて、「散所経済」に注目して、その将来を見通した後醍醐天皇には、社会構造の変革に取り掛かる前に早急に解決しなければならない政治問題が横たわっていました。すなわち、皇位継承に関する両統迭立の政治慣習です。鎌倉時代から朝廷の宿病となったこの階習の解消を図った後醍醐天皇と文観は、政治的策略として両皇統強制統合の奇策を建て、さらに社会改革策とその実現のための政治的戦略を総合した壮大且つ緻密な基本計画を立てます。

それが本稿の謂う「大塔政略」です。
「大塔政略」の二大要素は、政治面では「南北両朝の強制統合」、社会面では「散所経済の発展誘導」に尽きますが、その根本にある歴史観は、幕府と公家ら荘園領主が拠り所とする「荘園史観」に対して、商工・サービス業の勃興を必然と考える「散所史観」なのです。

南朝(後醍醐天皇)の支持勢力は、散所、つまり非農業民の市場勢力あった。
それに対して、北朝の支持勢力は、武力支配による農民からの収奪に立脚した勢力であり、貴族をはじめとする荘園領主であろう。


日本において、こうした市場勢力や芸能勢力が登場したのは何故か?


【1】大陸・朝鮮からの流入は百済の滅亡後〜鎖国まで続いた。彼ら流入民が散所(市場)の住人となっていった。


その需要源となったのは、支配階級の消費需要である。だからこそ、市場(散所)は平安京や平城京の近くにできた。この支配階級の消費需要が市場拡大の源泉であったという点は西洋の市場が拡大した理由と共通する。
西洋市場はそれに加えて金貸しがけしかけた戦争需要によって拡大したが、日本の古代市場は戦争需要による拡大という側面が非常に希薄であるという違いがある。


そして、朝鮮からの流入民を受入れ、統括していったのは秦氏だと考えられる。
それは秦氏の出自が朝鮮半島経由でやってきた交易部族であったからである。


『秦氏の研究』(大和書房刊 大和岩雄著)によると、
「漂白芸能民や白比丘尼が秦河勝・秦道満を祖とすることからみて、古代の日本列島へ渡ってきた朝鮮半島の才人白丁は、秦氏の統制下に入るか、自ら秦氏に結びつこうとしたかの、どちらかであったと推測される。」 
「散所は、中世前期まではそれほど差別的な意味はなかった。しかし、中世後期になると、散所という語は、非人・乞食など被差別民を指す言葉となる。」
「秦氏は、平安京造営のスポンサーになり、藤原氏とも血縁をもち、彼らが祀る松尾大社は上賀茂・下賀茂神社と共に平安京の守護神となっているが、一方では、被差別の対象にもなっている」


【2】国内でも、農業で喰えなくなった農民たちが逃散し、都市の市場に流入した。
それは平安貴族の収奪と寒冷化によるものである。


平安貴族が如何に農民から収奪したかは『暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族』http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.html に詳しい。


また、この時代、1200年代後半から100年間、地球は「1300年イベント」という著しい気温低下に見舞われ、ヨーロッパ北部では大規模な飢饉が起きている。
鎌倉時代末期〜南北朝時代はその真っ最中であり、日本でも飢饉によって大量の流民が発生した。


北朝の支持勢力は荘園領主、つまり武力支配による農民からの収奪に立脚した勢力であり、その主力は百済勢であろう。
北朝(百済勢)の収奪や寒冷化で喰えなくなった農民や朝鮮半島からの流入民が市場の住人(非人、河原者)となったが、そのまとめ役を担ったのが秦氏であり、秦氏が支配する市場勢力こそ南朝の支持勢力である。(倭人勢力である葛城はどういう関係にあったのか?)


長州(山口県)に明治の元勲や戦後の首相を輩出した田布施という朝鮮部落があるが、明治天皇にスリカエられた大室寅之祐もこの田布施の出身である。
この田布施は秦氏の拠点か?それとも百済勢力の拠点か?
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月10日 10時52分16秒 ) パスワード

XXIIIを御用意くださいね。
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