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 投稿番号:101402 投稿日:2014年12月05日 07時09分28秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
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面白いですよ。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 07時12分16秒 ) パスワード

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まず「平家物語」の右京大夫からコピペ:


右京大夫 私家集で二人の男性との恋を公表した文学者


 正式には、建礼門院右京大夫はその名の通り、後白河法皇の子・高倉天皇の中宮、建礼門院平徳子に右京大夫として仕えた女性だが、終生、建礼門院徳子の側に仕えていたわけではない。そして彼女の本性は、「建礼門院右京大夫集」の私家集に表れている。当時、隆盛の平家一門の貴公子、平資盛、そして歌人・画家として有名な藤原隆信という二人の男との恋に生きた、情熱的な文学者だった。

 右京大夫は1157年(保元2年)頃に生まれ、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての活躍し、1233年ごろ没。父は藤原伊行、母は大神基政の娘で箏の名手である夕霧。1173年(承安3年)、高倉天皇の中宮、建礼門院徳子に右京大夫として出仕。しかし、中宮の甥・平資盛との恋や平家一門の没落などもあって、6年足らずで辞している。そして資盛の死後、供養の旅に出たという。

 傷心が癒えたものか、1195年(建久6年)頃、後鳥羽上皇に再び出仕、その生母、七条院と合わせ20年以上仕えた。建礼門院のもとを辞してから再出仕するまでの16年ほどの間、彼女は私家集に収められた歌を詠み、恋の追憶に浸っていたということなのだろう。

 彼女の私家集「建礼門院右京大夫集」は鎌倉時代初期に成立した歌数約360首を収めた作品。前半は源平の戦乱が起こる以前、1174年(承安4年)のできごとに起筆。中宮のめでたさや平家の栄華を讃えながら、年下の貴公子、平資盛との恋愛を主軸に据え、花をめで、月を愛し、優雅な歌を交わす耽美的な生活を描く。また、歌人・画家として有名な藤原隆信とも交渉を持った経過を述べている。
後半は耽美的な生活が突然崩れ、1183年(寿永2年)、一門とともに都落ちする資盛との別離に始まる。この運命の変化を彼女は、「寿永元暦などの頃の世のさわぎは、夢ともまぼろしとも、あはれともなにとも、すべてすべていふべききはにもなかりしかば、よろづいかなりしとだに思ひわかれず、なかなか思ひも出でじとのみぞ、今までもおぼゆる」 と表現する。

それは「夢とも幻とも、哀れとも何とも言うべき言葉もないありさまであり、どうなっていくのか分からない、思い出したくもないこと」だった。彼女は夢とも幻とも言えないと表現するが、それは夢でも幻でもなく、まさに現実そのものだった。 

源氏との戦いに敗れた平家の滅亡に殉じて、資盛が壇ノ浦の海の藻屑と消えた後、ひたすらその追憶に生きた日々を描いている。
 現代風に表現すれば、これはまさに大評判を呼ぶ“告白本”といえよう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 07時43分20秒 ) パスワード

以下コピペ:

建礼門院徳子 安徳天皇の国母で平家滅亡後、一門の菩提弔う


 建礼門院徳子は、平家の天下を一代で築き上げた太政大臣・平清盛と、桓武平氏の宗家(堂上平氏)の娘・平時子(清盛の死後の二位の尼)の間の娘(次女)で、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母だ。壇ノ浦で源氏との戦いに敗れ平家一門は滅亡し、母の二位の尼や安徳天皇は入水。ところが、徳子は生き残り京へ送還され、尼になり、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔って余生を終えた。59歳だった。

 保元の乱、平治の乱に勝利して、武家(軍事貴族)ながら朝廷内で大きな力を持つようになり、平氏政権を形成した父の清盛の意思で、藤原氏と同様、天皇の外戚となるため、1171年(承安元年)17歳の徳子は11歳の高倉天皇のもとに入内、中宮となった。清盛は徳子のほかに8人の娘があったが、いずれも権門勢家に嫁がせて勢力を強めていった。入内7年後の1178年(治承2年)24歳になった徳子は安徳天皇を産み、国母と称された。

 清盛は皇子降誕を心待ちにしていたが、皇子が誕生すると今度は早く即位させようと躍起になった。一方、後白河院は自身退位後、二条天皇、六条天皇を立てて傀儡化し、強大な力で院政を敷いていた。しかし、この院政も次第に平氏の台頭により大きな制約を受けることになった。

 1179年(治承3年)、清盛はクーデターを断行し高倉天皇の父、後白河法皇の院政にとどめを刺し、天皇は譲位し上皇となり、安徳天皇はわずか3歳にして即位した。しかし、実父の後白河法皇と岳父、清盛との確執や福原への遷都、平氏による東大寺焼き討ちなどが続き、こうした心労が重なって、高倉上皇は病床に伏し1181年(養和元年)、21歳の若さでこの世を去ってしまう。

 その後、建礼門院徳子は源氏に追われ都落ちする平家一門とともに生きながら、数々の苦しみを経験する。壇ノ浦では硯石や焼石(カイロ代わりの石)を懐に詰めて後を追うが、そばの船にいた源氏の武者に熊手で髪をからめられ、助けられる。源氏に捕われの身となってから、髪を落として、京都の大原にある寂光院に隠棲した。1186年、後白河法皇の大原御幸があり、法皇と親しく対面。この後、それまでの波乱万丈の生涯とはうって変わって、ひたすら平家一門の菩提を弔う静かな生活を続けたといわれる。

 それにしてもこの徳子、周知の通り悲劇のヒロインとして人気がある。清盛の野望の犠牲者とも考えられるが、ほとんど何も自分ではせず、自分の意思というものがあったのかどうか分からない。結婚生活をみても、子づくりには執着せず、成長した高倉天皇が他の女性に子供をつくってしまう。最初の相手は30歳の乳母で、次が小督局。驚くことに小督を天皇に薦めたのは徳子だといわれている。自分の夫が他の女性と浮気し、子供をつくっても平気だとは、とても考えられない話だ。高倉天皇が亡くなったときも徳子は嘆き悲しんだ様子がうかがわれない。彼女には愛というものが希薄だったことは間違いない。

(参考資料)対談集 永井路子vs 福田善之 
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 07時52分35秒 ) パスワード

これは良く説明出来ていると感心しました。
以下コピペ:


丹後局 夫の死後、後白河法皇の愛人となり時の政治を動かした女性

 丹後局は後白河法皇の愛人で、寝ワザを利かせて時の政治を動かしたという意味で楊貴妃と対比される女性だ。それも、40歳を過ぎてから実力を発揮し始めたという。果たして何が彼女をそう変えたのか?

 結婚前の名が高階栄子。高階家は受領で、はじめ後白河法皇の側近・平業房に嫁ぎ、5人の子供を産み40歳頃まではごく平凡な母親だった。例えば夫の業房が後白河院を自宅に招待したときなど、下級官吏の夫に目をかけてもらおうと一所懸命、接待に努めた気配がある。

 治承3年(1179)、平清盛がクーデターを起こして後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した事件で、後白河法皇の側近だった夫・業房が捕えられ伊豆に流される途中、逃亡したが捕えられ殺される。栄子はこれを機に後白河院に接近する。彼女は鳥羽殿に幽閉されている後白河法皇に仕えることを許され、丹後局と称するようになる。その後、後白河法皇の愛を受けて覲子(きんし=宣陽門院)を産んだ。

 以後、復帰した後白河法皇を後ろ楯に政治に参加、院政という個人プレーの取りやすい政治体制の中で権勢をほしいままにした。清盛が亡くなった後の平家が安徳天皇を奉じて都落ちしたあと、後鳥羽天皇を推挙擁立したと伝えられているのをはじめ、政治、人事にことごとく口を出し、その美貌と相まって、当時の人々は丹後局を楊貴妃と対比した。

 後白河院はいろいろな女性に子供をたくさん産ませているが、本当に愛した女性は建春門院と丹後局ぐらいといわれる。かなり好き嫌いのはっきりした人だったようだ。楊貴妃に擬せられているが、残されている文献・記録には丹後局が美人だったとはどこにも書かれていない。ただ、非常に好みの強い後白河院が終生、丹後局をそばにおいたということは、よほど魅かれるものがあったのだろう。正式の皇后はいるのに、全然名前が出てこないのだから。

 いずれにしても後白河院を後ろ楯に、院との間にできた娘を格上げして門院にしてしまう。門院は普通の内親王と違い、役所と財産権がつく位だ。本来は天皇を産んだ人しかなれない、それを彼女自身、身分が低く女御でもないので娘も位が低いのに、強引に門院に押し込んでしまったのだ。娘が門院になると、丹後局はその母親ということで二位をもらう。また、彼女の口利きで出世した身内の人たちは少なくない。その他、様々に政治にタッチしていたことが分かっている。まさに、やりたい放題、公私混同もいいところだ。

 それにしても、どうしてこれだけ無茶なことができたのか?それは「院政」という政治形態に尽きる。現代風に言えば院は代表権つきの会長で、これに対し天皇はサラリーマン社長で、ほとんど実権がない。天皇の上に“治天の君”がいるのだ。それが院で、本当の権力者だ。しかも、官僚機構が発達していない。非常にプライベートな形で権力が振るえる。だからこそ、丹後局は働けたのだ。だが、これだけ好き放題やった女傑も後白河法皇の死後は、すっかりにらみが利かなくなり、法王の廟を建てるよう進言しても政治の実権者になった後鳥羽上皇は耳を貸さなかった。

 歴史に「…たら」「…れば」をいっても仕方がないが、清盛のあのクーデターがなければ丹後局という女性が現れることなく、下級貴族、平業房の奥さんで終わっていただろうに…。

(参考資料)永井路子対談集「丹後局」(永井路子vs上横手雅敬)    
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 07時57分04秒 ) パスワード

以下コピペ:

北条政子 愛情過多、壮大な“やきもち”で源家三代の悲劇起こす

北条政子は周知の通り、鎌倉幕府の創立者、源頼朝夫人だ。現代風に表現すれば鎌倉時代のトップレディーのひとりで、夫の死後、尼将軍などと呼ばれて政治の表面に登場するため、権勢欲の権化と見る向きもある。しかし、実際は愚直なほどに愛情過多で、また壮大な“やきもち”によって源家三代の血みどろな家庭悲劇を引き起こす遠因をつくった悪女といえよう。

政子がどれだけやきもちだったか?やきもち劇の始まりは頼朝が政子の妊娠中、伊豆の流人時代から馴染みだった「亀の前」という女性と浮気したときだ。政子はこともあろうに、屈強の侍に命じてその憎むべき相手の亀の前の隠れ家を無残に壊してしまったのだ。鎌倉じゅう大評判になった。ミエや夫の名誉などを考えたら、普通ここまではできない。頼朝は懲りずに第二、第三の情事を繰り返し、その度に政子は狂態を演じることになる。

      ↑
     分かるなあ〜


夫の死後、彼女は長男の頼家を熱愛しようとした。ところが、すでに成人していた頼家は愛妾若狭局に夢中で、母には振り向きもしない。彼女は絶望し、若狭局を憎むようになる。現代も母と嫁の間によくあるケースだ。その後、母と子の心はさらにこじれて、可愛さ余って憎さ百倍、遂に政子は息子頼家と嫁に殺意を抱く…。すべてが終わったとき「私はとんだことをしてしまった」と激しい後悔の念に襲われる。

      ↑
     普通の日本の姑は息子がダメなのは嫁がそそのかしていると嫁だけに憎しみがいくと思うけど


そこで、政子はせめてもの罪滅ぼしに、頼家の遺していった男の子、公暁を引き取り、可愛がる。父の菩提を弔うために仏門に入れ都で修業もさせるが、やがて手許に引き取り、鶴岡八幡宮の別当(長官)とする。ところが、この孫は祖母の心の痛みなどは分かっていない。父に代わって将軍になった叔父の実朝こそ親の仇と思い込み、遂にこの叔父を殺してしまう。

母と子、叔父と甥、源家三代の血みどろの家庭悲劇を引き起こしたのは、政子の抑制の利かない愛情過多がその一因になっていると言わざるを得ない。もちろん幕府内部の勢力争いもからんでいるが、政子の責任は大きいのだ。

一般に政子を冷たい権力欲の権化、政治好きの尼将軍と見做す向きもある。しかし、彼女は決して冷たい人間でもなければ、政界の手腕家でもない。唯一、承久の変が起こったとき、確かに彼女は鎌倉の将兵を集めて大演説をしている。しかし、これも今日では彼女の弟、策略に長けた稀代の政治家、北条泰時の指示のままに「施政方針演説」を朗読したにすぎない−との見方が有力だ。

こうしてみると、政子の真骨頂は庶民の女らしい激しい愛憎の感情を、歴史の中に残したところにあるといえそうだ。また、その分、女の中にある愛情の“業”の深さを浮き彫りにしたのが政子の生涯だったといえるのではないか。

(参考資料)永井路子「北条政子」、永井路子「歴史をさわがせた女たち」
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 08時00分26秒 ) パスワード

以下コピペ:


平清盛 日本初の武家政権を開き、武士では初の太政大臣を務めた人物

 平清盛は平安時代、周知の通り日本で初めて武家政権を開いた人物だ。保元・平治の乱を経て、源氏との戦いに勝利した、清盛の率いる平家はその後、旭日昇天の勢いで勢力拡大していくことになる。清盛は8年間に、正四位から従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて、武士では初めて太政大臣となった。『源平盛衰記』によると、一門の栄達も重盛の内大臣をはじめ、公卿16名、殿上人30人余、その他の国司や衛府の武官は80人余にも達した。

 また、娘の徳子を高倉天皇の「中宮」として参内させ、皇子をもうけるや1歳3カ月の幼帝(=安徳天皇)を誕生させた。清盛は天皇の外祖父となり、朝廷内に閨閥を張り巡らせ、天下の権を掌中にした。まさに、“平氏にあらずんば人にあらず”(『平家物語』)といわれたほどの隆盛ぶりだったのだ。

 ただ、清盛は新しい世の中のしくみをつくり変えるまでの意欲を示し得ぬまま、旧来の王朝政治を踏襲しつつ、多少の“繕い”を施したにとどまった。そのため、本格的な武家社会の構築は、次代の鎌倉幕府・源頼朝に委ねられた。

 平清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として、伊勢産品(うぶすな、現在の三重県津市産品)で生まれた。生母は不明だが、祇園女御の妹という説が有力だ。母の死後、祇園女御の猶子になったといわれる。この祇園女御の庇護の下に育ったことから、清盛は一説には白河法王の落胤ともいわれる。清盛、浄海などに改名。別名・平大相国(たいらのだいしょうこく)、六波羅殿、福原殿、清盛入道などとも呼ばれた。清盛の生没年は1118(元永元)〜1181年(治承5年)。

清盛の父、忠盛が死去し平氏の棟梁となったとき、清盛は36歳だった。時代はまさに大きな転換期を迎えていた。奈良朝から平安時代にかけて、日本は公地・公民の制度を政治の根幹としてきたが、長い泰平はいつしかこの基本をタテマエにすりかえてしまった。中央の貴族や大寺院・大神社などは、己れの特権を活かして、“荘園”という名目の私領をつくり、増やすことに熱中した。

そのため、中央での出世を諦めた官僚たちは、地方の役人として天下り、官権を利用して公民を使役し、原野を開墾したり、公地を詐取して、さらには婚姻政策で勢力を拡大。そうして得た領地(荘園)を、朝廷の権力外にある、勢力ある公卿や神社仏閣に寄進し、自らはその管理人となった。

 もちろん、このしくみは名目に過ぎない。寄進とはいえ、名義料的年貢を納入することで、国家の課税や課役を免れるのだから、その貯えは莫大なものになった。こうして全国に無数の在地地主(後の武士)が誕生した。その一方で、藤原氏の摂関政治に代わって、退位した天皇(上皇)が院庁を開き、“治天の君”と呼ばれ、朝廷の政治権力を掌握するシステム「院政」が生まれていた。

 平安時代末期、先の平治の乱では平氏に敗れたものの。東国武士団の頭領として源氏が登場、源義経など天才的な軍略家を輩出。配下の武将にも戦場で大活躍する多くの名将が出てくる。しかし、この清盛は戦場での名将とは言い難い。むしろ戦術を政略とからめて考察するタイプの武将だった。彼は終始、朝廷の機嫌を取り、次の後白河法皇による院政ではその保護を得て、前代未聞のスピードで昇進し、権力の座へかけ昇っていった。1167年に太政大臣となり、1171年に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させ、生まれた子を安徳天皇として即位させ「天皇の外戚」という立場を手に入れた。

 位人臣を極めた清盛は、平氏一門を高位高官に取り立てた。その結果、一門の知行国は30を超え、所有する荘園は500カ所以上に上った。また、父忠盛が関与を始めた「日宋貿易」を積極的に行い、莫大な富を手中に収めることに成功、平氏政権の財政を支えた。

 さらには平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、1179年(治承3年)の政変で法皇を幽閉して、幼帝・安徳天皇を擁し、清盛は政治の実権を握ることに成功する。だが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受けることになる。やがて、各地で源氏による平氏打倒の兵が挙がり、緊迫した情勢の中、平氏にとってあってはならない悲劇が起こる。総帥・清盛が熱病を発症、あっけなくその生涯を閉じたのだ。

大黒柱の清盛を失った平氏はその後、まさに坂道を転げ落ちるようにその勢いは衰え、清盛の死後、わずか4年後の1185年、壇の浦の戦いで敗れ滅亡した。清盛の存在があまりにも大きすぎたことと、彼が武家による新しい世の中のしくみや、統治システムを用意できないまま亡くなったためだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「武将列伝」、加来耕三「日本創始者列伝」、井沢元 彦「逆説の日本史・中世鳴動編」
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 08時04分16秒 ) パスワード

平家方にこういう人物がいたらねえ・・・

以下コピペ:


北条義時 若いときは平凡人、だが中年から凄腕の政治家へ大変身

 人には早熟型と大器晩成型のタイプがある。ここに取り上げる北条義時は、まさに後者のタイプだ。彼は40歳を超えたころから、鎌倉幕府内で不気味な光を放ち始めたのだ。伊豆の小豪族、北条氏が財閥クラスの大豪族と付き合ううち、徐々に実力を付け、人々が気がついたとき、いつの間にか北条氏は、幕府内で押しも押されもせぬ大派閥に伸し上がっていた。

頭がよくて、大胆で、しかも慎重で、ちょっと見には何を考えているのか分からないような男、それが北条義時だった。病的なくらいに用心深く、疑り深い人物だったあの源頼朝でさえ、信用し切っていたというから、“猫かぶり”の名人だったかも知れない。そして、源氏の「天下」を奪ったのは紛れもなく、この北条義時なのだ。義時は恐らくこう宣言したかったに違いない。「天下は源氏の天下ではなく、武士階級全体の天下であり、源氏はその本質は飾り雛に過ぎない」と。

 北条義時の父は時政。姉は政子、つまり源頼朝は彼の義兄にあたる。彼が17、18歳になったころ、頼朝の挙兵があり、一家は動乱の中に巻き込まれるのだが、その中で彼は目立った活躍はしていない。平家攻めにも出陣しているが、彼の手柄話は全くない。つまり、このころは面白くもおかしくもない、極めて印象の薄い人物だったのだ。それから約10年、鳴かず飛ばずの日々が続く。気の早い人間が見たら、「こいつはもう出世の見込みはない」と決め込んでしまうところだ。

 ところが、義時は40歳を超えてから輝きだす。初めは父の時政の片腕として、後にはその父さえも自分の手で押しのけて、姉の政子と組んで、北条時代の基礎を固めてしまう。彼はいつも姉の政子を上手に利用した。頼朝の未亡人だから、政子の意志は随分権威があったのだ。政子には男勝りの賢さがあった。また彼女は、頼朝との間に生まれた頼家(二代将軍)や実朝(三代将軍)にはもちろんのこと、頼家の子の公暁にも深い愛情を持っていた。そんな政子は義時の巧妙で自然なお膳立てにあって、それを支持しないわけにいかず、遂に婚家を滅ぼし、その天下を実家のものにしてしまう結果になった。

結果的に北条氏の勢力拡大に大いに手を貸したのが、鎌倉三代将軍源実朝だった。実朝はもはや政治への出番がなく、彼自身はいわば北条氏の“操り人形”に過ぎず、実権のない将軍を演じることと引き換えに、和歌の世界を生きがいとして、のめり込んでいったからだ。実朝は藤原定家に和歌を学び、京都風の文化と生活に傾斜していった。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿のそんな姿に関東武士たちの間に失望感が広がっていった。

 北条義時はこの情勢を格好の機会とみて、“源氏将軍断絶”と“北条氏による独裁支配”の計画を推し進めたのだ。義時は1213年(建保1年)、関東の大勢力の和田義盛を打倒。これまでの政所別当に加え、義盛が担っていた侍所別当を合わせて掌握。これにより政治権力と軍事力、北条義時はいまやこの二つを手中にした。そして、いよいよ北条氏による執権政治の基礎を築いたわけだ。

 実朝暗殺事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。

 ともかく、こうして幕府は北条氏のものとなった。将軍はいても何の力もない“ロボット”で、義時が執権という名で、天下の政(まつりごと)を取ることになったのだ。
 また、「承久の乱」の毅然とした後処理によって、北条義時は北条執権体制をいよいよ確立する。承久の乱は、実朝の後継者をめぐって、幕府側が朝廷に後鳥羽上皇の皇子をもらい受けたいと申し入れたのに対し、後鳥羽上皇側が交換条件に土地の問題を持ち出し幕府に揺さぶりをかけ、地頭職の解任要求を打ち出してきたのだ。ここは義時が頼朝以来の原則を守り通し、後鳥羽側の要求を拒否した。これに対し、後鳥羽側も皇子東下はピシャリと断ってしまった。ただ、朝廷側にとってそのツケは大きかった。義時は後鳥羽上皇以下の三上皇と皇子を隠岐、佐渡などに配流処分として決着した。
 北条執権体制、この政治形態を永続性あるものにしたのは義時の子、北条泰時だ。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、
永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、
安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 08時06分53秒 ) パスワード

以下コピペ:


源頼朝 武家政権の創始者だが、評価低く、死因にも多くの謎

 源頼朝は周知の通り、鎌倉幕府の創始者だ。彼が開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に「幕府」と名付けられ、王制復古まで足掛け約680年間にわたり長く続くことになる。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されなければならないところだ。だが頼朝の人気は、はっきりいえば、その業績にもかかわらずそれほど高くない。また、そうした特筆される業績を残した、その頼朝の死因は何故か謎の部分が多く、今日なお定まっていない。

 頼朝の人物評については「冷酷な政治家」と見る向きが多い。それは、判官贔屓で高い人気を持つ末弟、義経を死に至らせたのをはじめ、多くの同族兄弟を殺し、自ら兵を率いることが少なく、主に政治的な交渉で鎌倉幕府樹立を成し遂げたことで、戦闘指揮官としては格別の実績を示していないためだろう。

 源頼朝は源氏の棟梁源義朝の三男として熱田神宮近くの旗屋町あたりで誕生。幼名は鬼武者。母は熱田神宮宮司・藤原季範の娘。母が家柄がよく、正室の子だったため、義朝の三男として生まれたが、彼は頼朝を可愛がり、源氏の嫡流として育てられた。頼朝の生没年は1147〜1199年。

 「平治の乱」(1159年)に敗れた父、義朝は30余名の家人らとともに東国に落ち延びる途中で、騙し討ちに遭って殺害された。13歳で初陣した頼朝も捕らえられ、京へ送り届けられた。本来ならば殺されてしかるべきところを、平清盛の継母・池禅尼の計らいで、辛うじて一命を長らえ、“陸の孤島”と呼ばれた伊豆・韮山の蛭ヶ小島(ひるがこじま)(現在の静岡県田方郡韮山町土手和田)へ流罪にした。法的には流人でしかない頼朝は、狩野川の中洲の一つにあった流寓を出ることはできず、外部からの訪問者も、できる限り遠慮しなければならなかった。頼朝は地元の豪族・北条時政、伊東祐親らの監視を受けつつ、14歳から34歳になるまでの20年間、この地で読経三昧の生活を過ごしたのだ。

 1180年(治承4年)、頼朝は平家打倒の旗を掲げ、武家政権樹立へのスタートを切った、木曽の従兄弟・木曽義仲とのライバル争いや、朝廷を牛耳る後白河法皇との確執などがあったが、平家を打倒し全国を制覇した。1192年(建久3年)、征夷大将軍に任じられ、史上初の武家政権を樹立した。長い雌伏の後、鎌倉の地に有史以来初めて幕府を開き、新しい歴史の幕開けを断行したのだ。

 その偉大な政治家でもあった頼朝は1199年(建久10年)、落馬がもとであっけなく亡くなる。その後の源氏の運命は悲惨なものだった。北条時政の娘・妻政子との間に生まれた源頼家・源実朝は将軍になったものの、政治から遠ざけられ、いずれも最後は非業の死を遂げた。そして、その後の政治を継いだのは、政子と執権となって権力を掌握した、その一族の北条氏だった。

 ところで、研究が十分でない頼朝の評価とともに、不可解な点がその死因だ。諸説あって定まっていないのだ。吾妻鏡は「落馬」、猪隈日記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊をみて気を失い、病に倒れた」と記している。落馬説から尿崩症説、糖尿病説、溺死説、亡霊説、暗殺説、誤認殺傷説、果ては脳卒中など脳血管障害による脳内出血説など様々な説が挙げられているが、いずれも決め手に欠け、真相は闇の中だ。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、
永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「続 悪霊列伝」、安部龍太郎「血の日本史」、
海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 09時26分50秒 ) パスワード

以下コピペ:

後白河天皇 政治的洞察力に優れ、「院政」を始めた比類なき政略家

 後白河天皇の在位はわずか3年だったが、上皇として院政を始め、一時中断はあるものの、天皇五代30余年にわたり院政を敷いた。その間、隆盛を誇った平氏一門と対立。「鹿ケ谷の陰謀」事件や、平氏政権転覆を企てるなど平氏一門を翻弄し、比類なき政略家、陰謀を好む専制君主だったという見方がある。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝から「日本国第一の大天狗」と評されたほど、権謀術数に明け暮れる一生を送った人物だ。半面、政治的洞察力に優れ、決断力に富んだ偉大な政治家だったのではないかとの見方もある。後白河法皇は果たして本当に“悪役”だったのか否か?見方の分かれる人物に違いない。

 武士の台頭によって、公家政権が衰退していくという大きな流れの中で、後白河法皇のエネルギーは常に公家政権の存続のために費やされた。“武力”を表看板とする武士たちとの虚々実々の駆け引きには、確かに極めて興味深いものがある。

 後白河法皇は第七十七代天皇。鳥羽天皇の第四皇子、母は待賢門院璋子。在位はわずか3年だったが、保元の乱で崇徳上皇方を破り1158年(保元3年)、皇子の二条天皇に譲位、上皇として院政を開始した。そして、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の五代にわたって院政を行い、30年以上にわたり君臨した。後白河は父の鳥羽院から「その器に非ず」との烙印を押され、忠通の子で博覧強記で知られる九条兼実には「不徳の君」などと蔑まれたが、新たに登場した武家の世にその辣腕ぶりを遺憾なく発揮した。

 後白河が院政政権を確立するにあたって協力関係にあった平家とは、平清盛の妾の妹にあたる小弁の君(建春門院)を寵愛し、その所生の皇子を皇位に就けて高倉天皇としたあたりまでだった。この後は清盛と激しく対立し、その流れの中で1177年(治承元年)の鹿ケ谷事件の発覚となった。1179年(治承3年)には亡くなった平重盛の遺領をめぐって清盛と衝突し、鳥羽殿に幽閉されてしまった。しかし、1180年(治承4年)に院の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が源頼政に擁立され、平家打倒の兵を挙げ、源頼朝・義仲らの源氏勢力が次々と蜂起。また高倉院や清盛が相次いで死去する幸運(?)に恵まれ、後白河は再び政界に復帰した。

 源(木曽)義仲と対立した際は、法住寺の御所に兵を集めて戦ったが、敗れて五条内裏に幽閉された。さらに源頼朝と義経との離間を計るなど、権謀術数に磨きがかかってきた。義経には頼朝追討の宣旨を与え、義経が敗れるや、頼朝に義経追捕の宣旨・院宣を与えるという具合だ。比類なき策謀家の面目躍如といったところだが、これによって公家政権が途絶えなかったことを思えば、公家勢力の顕示に貢献するとともに、単なる権力志向や私利私欲ではなかったということだろう。

 1169年(嘉応元年)、後白河は43歳で出家し以後、法皇と呼ばれるようになったが、神仏への信仰は極めて篤く、熊野への参詣は34回にも及んだ。また、今様を愛好し、自らその歌謡の選集「梁塵秘抄」を編んだ。その口伝集によると、世間に評判の能者は、その身分に関わらず院の御所に招き、その一人の遊女、乙前とは師弟の契りを結んだ。後白河法皇は、陰謀を好む比類なき政略家だったが、半面、信仰心の篤い一人の文化人でもあった。

(参考資料)井上靖「後白河院」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、村松友視「悪役のふるさと」、
永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「絵巻」
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月05日 10時03分18秒 ) パスワード

南都焼き討ちは「風のせいだった」と平家物語は弁護してくれてるのに。
以下コピペ:

平重衡 寺社勢力討伐へ、東大寺・興福寺焼き討ちの実行者

 平重衡は1181年(治承4年)、平氏の総帥・平清盛の命により東大寺、興福寺の堂塔伽藍を焼き払った。このとき、東大寺の大仏も焼け落ち、両寺の堂塔伽藍は一宇残さず焼き尽くし、多数の僧侶が焼死した。この「南都焼き討ち」は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒から“憎悪”の眼で見られ、ひどく憎まれた。滅びてはならないもの、また滅びるはずのないものと信じ切ってきた精神的支柱が、たった一晩の業火であっけなく無に還ってしまった驚きは、現代人の理解の範囲を、遥かに超えたものであったに違いない。

戦(いくさ)の中で寺が主戦場となった場合は別として、通常、戦のため寺が火災に遭うのは多くは類焼だ。ところが、この「南都焼き討ち」は寺社勢力に属する大衆(だいしゅ=僧兵)の討伐を目的としたもので、「治承・寿永の乱」と呼ばれる一連の戦役の一つだ。

では、なぜ清盛は重衡に南都の代表的な寺の焼き討ちを命じたのか。それは、聖武天皇の発願によって建立され国家鎮護の象徴的存在として、歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と、藤原氏の氏寺だった興福寺が、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景に、元来、自衛を目的として結成していた大衆と呼ばれる武装組織=僧兵の兵力を恃(たの)みとして、平氏政権に反抗し続けていたからだ。清盛としては寺社の格の区別なく、平氏の“威光”を天下に示す必要があったのだ。

とはいえ、当時の日本人は、僧兵どもの横暴や我欲を指弾しながらも、この鎮護国家の二大道場、東大寺・興福寺に伝統的な畏敬と信頼を保ち続けていた。それが消えた、という事実は彼らの胸を不安と絶望に塗りつぶしてしまった。この事件によって人々が強いられたのは、遂に動かし難い「末法の世」への確認だった。それは“恐怖”そのものだった。

平重衡は、そんな大それた悪行を実行した張本人にしては、年もまだ24歳にしかなっていない貴公子だった。平清盛の四男で、6歳で従五位下・尾張守に任じ、左馬頭に叙せられ、やがて正四位に進み左近衛権中将、続いて蔵人頭に補された。同じ年の5月、源三位頼政が以仁王を奉じ、全国の源氏に先駆けて打倒平家の兵を挙げたとき、重衡は甥の維盛とともに2万の兵力を率いて頼政を宇治に破ったが、合戦の経験といえばこれが生まれて初めての、いわば典型的な“公達”武者なのだ。

今度はその重衡に4万の大軍を与えて、南都攻略に向かわせた清盛の狙いは何だったのか。実は当時、源三位頼政の決起以降、源義仲の木曽での挙兵、さらには源氏との富士川での戦いに平家は敗れ、清盛は都を福原から京都に戻さざるを得なくなり、平家一門にとってはまさに四面楚歌の状態にあったのだ。そこで、そんな局面打開策の一環として、南都攻略が企図されたわけだ。焼き討ちの挙に出るまで、清盛もぎりぎりまで衝突を避けようと腐心し、調停の使者をさしたてている。しかし、使者は髷のもとどりを切られたり、鎮撫の兵も斬られ、奈良僧兵たちがあざけり、挑発的行為に出るに及んで、清盛も怒り、決断したのだ。

そんな清盛の意を受けて、「僧徒たちは悪鬼、寺は悪鬼のこもる城だ。焼き滅ぼして何が悪かろう」。恐らく重衡はそんな思いだったに違いない。しかし、堂塔伽藍が一斉に華麗な炎をあげ始め、さらに大仏殿までが火焔に包まれ始めたとき、彼も青くなり、仏法に仇する“怨敵”の烙印を額に押されて、平然としていられるほど太い神経は持ち合わせていなかったろう。若い重衡には、この体験は残酷に過ぎたといえる。

この事件を契機に、好意的だった寺社勢力さえが離反し、平家の孤立化は決定的となった。そして、源氏との間で「一の谷の戦い」「屋島の戦い」「壇の浦の戦い」と坂を転げ落ちるように平家は負け続け、滅亡の道をたどった。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」
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