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 投稿番号:101400 投稿日:2014年11月26日 19時44分06秒  パスワード
 お名前:平松健吾
平松
キーワード:平氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

初めて投稿致します。
わたくし、平松と申します。
本家は、姫路市。母方は洲浜紋。肝心の平松の家紋はよく分からないようです、、、
約2年間、合間に調べたり致しましたが確信に至る結果には至りませんでした。
2012年以来、私に起こる出来事や気付きはもしや本当に縁がある家系かと思うのですが、確固とした物証が現在の所ございません。
四国出身の私の祖母(洲浜紋)の言い伝えは、元々公家と言われてたと聞きました。
当時は気にも止めなく、武士ではないのかと落胆してた次第。
単純に、お歯黒と言って笑っていた次第です。しかし、公家とはなりたくてもなれない家柄と知り、興味深くなり謎はふかまるばかり、、
源平藤橘は渡来系民族との可能性もありとも見ました。
いわゆる、イスラエル12氏族が云々、、、
祇園祭もその手の祭り。
山鉾に、放下鉾と言うのがあり、ペルシャ絨毯の柄が宮殿にフクロウが飛んでいる柄が織られており、家紋は洲浜紋でした。
因みに、父や祖母、また私の娘は正しく中東辺りの顔つきです(笑)
私の父などは、既に70才越えましたがターバンを巻けば違和感ないです
少し笑い話も入りましたが、この程度の内容で何かおわかりになりますでしょうか?
系図をどなたかが、辿った形跡の紙片はありますが途中で断念したようです。

[1]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年11月26日 23時46分12秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>源平藤橘は渡来系民族との可能性もありとも見ました。
 
源平藤橘に限らず渡来時期は異なるが、
日本人の99%以上は古代バビロニアからの渡来系ですからね。
渡来系などという言葉は何の意味も持ちません。
家紋の発祥も古代バビロニア。
 
>因みに、父や祖母、また私の娘は正しく中東辺りの顔つきです。
 
だから当たり前ですよ。

>わたくし、平松と申します。
>この程度の内容で何かおわかりになりますでしょうか?

とにかく情報が極端に少なすぎで、何もわかりません。
多くの調査から、出自のわかる家系は1%以下が実感。
即ち現代の約4000万家系のうち、40万家系以下ということ。
ほとんど出自不詳が現実。家系のわかるのは幸運。
 
平松姓は約5万人、源平藤橘在伴菅紀清ほか出自は無数に存在。
公家の平松家は桓武平氏、家紋は揚羽蝶。
州浜紋も非常に多くの家系が使用。
家紋だけでは、何もわかりませんよ。
 
現代では家系などが語られるのは法事などの時で、
語る人も次々と冥土へ旅立っていますので急いで下さい!
やはり除籍簿調査、過去帳調査、菩提寺訪問、
現地の郷土史徹底的調査などで判明する幸運をお祈りします。

[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 07時10分10秒 ) パスワード

平松さん

初めまして。

全く分かりませんが
公家で平松氏ということで調べてみました:


1)
第6諸大夫
摂家・清華家の職事(近習)・家司(用人)を務めた。
なかには大納言まで昇るものもあったが
少・中将には任ぜられないのがきまりであった。

大納言隆房が中将となったのは妹が平重盛の妻であったための特例とされている。


名家のうち比較的家格の低い竹屋・日野西・裏松・勘解由小路の諸家
および長谷・石井・交野・西洞院・平松(以上平氏)の諸家がこれに属した。



ここでアップします。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 07時27分44秒 ) パスワード

2)
(1)の詳細:


平氏には桓武平氏・仁明平氏・文・平氏・光孝平氏の4流あって
なかでも最も古く最も繁栄したのが桓武平氏。


桓武平氏は桓武天皇の第五皇子葛原かつらはらしんのう  (786〜853)  が
天長2年(825年)重ねて上奏してそのすべての子女に平の姓を賜って臣籍に降ったのが平姓の始まり。


特に「平」と名付けたのは
平安京の創開者たる桓武天皇の末孫であることを意味したものと思われる。


桓武平氏にも4つの流れの別があるが
なかでも葛原親王の末流平氏が最も繁栄した。


その系図のうち高棟王の末は主として朝廷に仕えて公家として栄え
烏丸・安居院・西洞院・平松・交野・石井・小松・梶野・長谷等の諸家に分かれる。


「平家にあらずんば人に非ず」と豪語した権大納言平時忠は平高棟10世の孫。

    妹の1人は後白河天皇の女御に上がって高倉天皇を生み
    妹の1人は宗盛の妻となり
    妹の1人は重盛の妻となり
    姉は清盛の妻だものね。  

    確かこの高棟王の子孫は堂上平氏と呼ばれて公家系で有名です。


ここでアップ。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 07時33分42秒 ) パスワード

高棟王の子孫が公家系なのに対して

高棟王の弟の高見王の子で寛平5年に平氏姓賜った平高望の末は武家として雄飛した。


高望は上総介となって関東に下り
その長子は平国香   略略略   この子孫が清盛です。



ここでアップ。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 07時42分29秒 ) パスワード

つまり

>四国出身の私の祖母の言い伝えでは、元々公家と言われてた、と


堂上平氏ということで確かに公家です。

だから正しい言い伝えということです。




>武士ではないのかと落胆してた

つまり平松健吾さんのDNAに、
  ご先祖のどなたかの高望系の平氏に対する武士への憧れとか野心とかがあった、
ということでしょう。


ここでアップ。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 07時57分34秒 ) パスワード

>約2年間、合間に調べたり致しましたが確信に至る結果には至りませんでした


そりゃ2年じゃムリだ!
こういうことは一生かけて調べなきゃ。

「普通の家の人」は慶弔とか盆とか正月なんかで一族が集まる席で情報収集したりして
少しずつ少しずつ近づいていくのですよ。



でも言い伝えで「公家」とあればカンタンじゃないですか。

わたくしでもスグにいろいろヒットしましたよ:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%9D%BE%E5%AE%B6


平松家

一応平松家は定紋ということで揚羽蝶紋だって。
でも各家また別に家紋は有るからね、
そこのところは蔵の中を引っ掻き回して袱紗とか紋付きとか探し出さないとね。





平松家

家紋
揚羽蝶
割菱


本姓
桓武平氏高棟王流
西洞院庶流

家祖
平松時庸

種別
公家(名家)
華族(子爵)

出身地
山城国

主な根拠地
山城国
東京都

著名な人物
平松時方
平松時厚

支流、分家
石井家(半家) ← うちの遠い遠い親戚に石井がいるから、それで先祖がレスしてやれって
          それで書いてます。


平松家(ひらまつけ)は、「日記の家」(今鏡)として知られる桓武平氏高棟王流で、西洞院時慶の次男時庸を祖とする堂上家(名家)。



概要[編集]

家格は名家で、江戸時代後期の平松時章が正二位・権大納言に昇ったのを例外として、歴代当主の極官は正二位・権中納言。代々右衛門督を務めたほか、更に議奏・院伝奏・日光例幣使に就任する者も出た。近衛家の家礼内々新家。江戸時代の家禄は200石。居所は西院参町。菩提寺は十念寺。


江戸時代初期に西洞院家(半家)の西洞院時慶の次男平松時庸が分家して家を興す。


二代平松時量(正二位・権中納言)は近衛基煕と親交が深く、その娘近衛煕子が甲府徳川家の徳川綱豊(のち六代将軍徳川家宣)と縁組した際には、形式的に煕子を養女に迎えている。また、平松家の遠祖平信範の日記『兵範記』の一部を基煕公より譲り受けている。平野神社拝殿の三十六歌仙絵(近衛基煕書・海北友雪絵)は、時量の寄進である。なお、時量のあとは弟時方が嗣ぎ、時量の子行豊は石井家として分家した。


三代平松時方(従二位・権中納言)は、野宮定基らと並び有職故実に詳しく「有職四天王」の一人に数えられる。


朝廷特に近衛家と島津家とのパイプ役として、島津家またその家老らとの関係が深かった。


幕末には、平松時門の娘である徳子(上臈名:飛鳥井)・逸子(上臈名:涛子)が将軍家に上臈として仕えた。


戊辰戦争の際には、平松時厚が仁和寺宮嘉彰親王(小松宮)に随行、その戦功により賞典禄50石が与えられた。明治時代以降は子爵。のちに、時厚は河鰭実文・秋月種樹・山内豊誠・正親町公薫らと、華族有志の団体で日本最初の政治結社である通款社の発起に参加する(のちの華族会館となる)。


現在、平松家に代々伝わった朝廷関係の記録文書や国文学の写本などは、京都大学附属図書館に平松文庫として所蔵されている。中でも、『兵範記』・『範国記』・『知信記』は重要文化財に指定されている。ほかにも刊行されている古典文学作品の底本とされているものも少なくない。


また、江戸・明治時代の公家・華族資料2076点が、国文学研究資料館に山城国京都平松家文書として保管所蔵されている(1961年、平松家の寄贈による)。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 08時10分14秒 ) パスワード

ここで公家の平松氏ではない  武家の平松氏  についても書きますね。



この平松氏は平清郷を祖とする。

清郷には3子がいた。

   長男:平岡泰清
   次男:石川隆家
   三男:平松庄司泰秀    つまり武家の平松氏はこの3男の子孫ということね



建久6年、平松直泰が豊後国に下り、竹尾にじゅうして(従?住?)大友能直に仕えた。

家紋は沢瀉(おもだか) または  三葉柏。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 08時27分36秒 ) パスワード

一応日本の国の中では旧華族といえども
     京都系(公家とか貴族)  >  武家(大名にでも) 
だそうですよ。


だから外国に皇室関係者が御幸・行啓ある時に招待されるのは京都系なんです。
武家系はたとえ薩摩系でも分家だったりすると招待されないのです。


そして在外公館の中では「公家たって、一流から五流まであらあな」とバカにしています。

    五流でも京都系は天皇皇后の晩餐会の御招待に預かるんですけどね。



だからね、お祖母さまの「うちは元々は公家」とおっしゃったこと
とっても貴重な情報なんですよ。


お祖母さまがどこを比較して「うちは元は公家」とおっしゃったのかは分かりませんが
    「堂上平氏という公家の出」であって「武士の平氏出身ではない」
とハッキリ線引をなさったのかしら?


ご先祖さまがハッキリして良かったですね。


ここからあなたのなさる事は、上記の情報を元に、いろいろな史料を取り寄せて読みまくることです。


取り敢えず明治の初めの除籍謄本を取り寄せるとかね
これで江戸時代の終わりに住んでた場所がかなり特定出来ますからね。
江戸時代も姫路にいたのか?

   姫路にいたのなら、兵庫県?の教育委員会の歴史編纂所から史料を取り寄せて
   読みまくる。

   県の図書館で歴史の本を片っ端から読み漁る。



1冊本が手に入れば、奥付の情報から、次にどの本を取り寄せるかの参考になるし



とにかく何万ページも読みまくらなきゃ。


菩提寺に訊きに行く時は菓子折りや金一封は持参しなきゃね。
膨大な量から調べてもらうってものすごく大変なことだから。

あ、お数珠も忘れないようにね。ポーズだけでも。笑
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 08時32分52秒 ) パスワード

>2012年以来、私に起こる出来事や気付きはもしや本当に縁がある家系かと思うのですが、
>確固とした物証が現在の所ございません。

何があったのですか?
ご先祖さまから働きかけが来てた?

良いことですよ。


ご先祖さまは子孫が幸せになるように見守ってますから。


だからこれを機会にご先祖さまについて調べまくって、感謝なさってください。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 08時35分25秒 ) パスワード

平松時庸


時代
江戸時代前期

生誕
慶長4年4月28日(1599年6月20日)

死没
承応3年7月12日(1654年8月24日)

改名
金千代、金法師、国夜叉(幼名)→時興(初名)→時直

官位
従二位、権中納言

主君
後陽成天皇→後水尾天皇→明正天皇→後光明天皇

氏族
西洞院家、平松家

父母
父:西洞院時慶

兄弟
西洞院時直、時庸、善忠、長谷忠康、交野時貞、行子(東福門院上臈)


正室:日野輝資の娘(或いは日野資勝の娘)   さすが!
継室:をさい(秋月種長の娘)         さすが!



時量、娘(溝口宣直継々室)、娘(溝口宣直継々々室)
養子:陽和院殿(島津光久継室、交野時貞の娘)


平松 時庸(ひらまつ ときつね)は江戸時代前期の公家。西洞院時慶の次男。西洞院家から分家して新家「平松家」を興す。


寛永3年7月24日(1626年9月14日)、徳川秀忠・家光に従い上洛した伊達政宗が催した香席に、近衛信尋(関白)・一条兼遐兄弟や父の西洞院時慶らと招かれており、その「饗応香会の記」が日本に現存する最古の香記録として残る(個人蔵)。

養女を島津家の正室としたことで島津家中との交流が活発になった。特に、島津氏家臣・禰寝氏との関係は深く、元々建部氏を本姓としていた禰寝氏が、後に「小松氏」に改姓し平氏の子孫を称するようになったのは、平松家の示唆・影響による物という指摘がある[要出典]。

また、平松家は近衛家の門葉とされたため、近衛家とのつながりも深かった。後に近衛基熙の要請によりその娘・熙子(天英院)を密かに養女としたのもこの縁によるものである。

参考文献[編集]
公卿諸家系図(続群書類従完成会、ISBN 479710483X)
山本博文『徳川将軍家の結婚』ISBN 4166604805
村山知一編『近世・禰寝文書』
神保博行『香道の歴史事典』

[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 08時38分48秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14105442414


2013/4/1012:37:48
Q
桓武平氏を出自とする公家は、交野家・平松家・長谷家・西洞院家・石井家の五家ですか?

A
hamaboo_papaさん
2013/4/1014:01:57


桓武天皇皇子葛原親王の子高棟王が、最初に平朝臣の姓を賜る。この臣籍降下の時期については、尊卑分脈には、承和10(843)年閏7月とあるが、この年は、閏年ではない為、信憑性が低いとされる。公卿補任の高棟の尻付によれば、天長2(825)年閏7月に賜姓したことになっている。高棟の後裔が堂上家の西洞院家で、その庶流に平松家、石井家、長谷家、交野家がある。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 08時41分24秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13105392943

Q
平松時方は、公家平松家の著名な人物でしょうか?


A
hamaboo_papaさん
2013/4/917:05:44


平松家
本姓 桓武平氏高棟王流
西洞院庶流
家祖 平松時庸
種別 公家(名家)
華族(子爵)
出身地 山城国
主な根拠地 山城国
東京都
著名な人物 平松時方 平松時厚
支流、分家 石井家(半家)
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 08時44分05秒 ) パスワード

公卿諸家系図: 増補諸家知譜拙記
edited by 土橋定代


http://books.google.com/books?id=cyTFBkjQ1d8C&pg=PA6&lpg=PA6&dq=%E8%A5%BF%E6%B4%9E%E9%99%A2%E3%80%80%E5%B9%B3%E6%9D%BE%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=N1ev33Jqog&sig=BnPfyoxw7aaYUyQiiEsQV3-VDFc&hl=en&sa=X&ei=Dqp3VJjBIsTroASZ8YDoAw&ved=0CGMQ6AEwCA#v=onepage&q=%E8%A5%BF%E6%B4%9E%E9%99%A2%E3%80%80%E5%B9%B3%E6%9D%BE%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%81%AF&f=false
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年11月28日 08時49分07秒 ) パスワード

大友能直

時代
平安時代末期 - 鎌倉時代初期

生誕
承安2年1月3日(1172年1月29日)

死没
貞応2年11月27日(1223年12月20日)

改名
一法師丸、能直

別名
古庄左近将監、大友左近将監

戒名
勝光殿二豊太能蓮大禅定門

墓所
大分県豊後大野市大野町藤北
常忠寺、勝光寺

官位
左近将監、豊前・豊後・筑後守護
鎮西奉行

幕府
鎌倉幕府

主君
源頼朝

氏族
近藤氏、大友氏(本姓:藤原氏、中原氏)

父母
父:近藤能成、母:利根局(波多野氏)
養父:中原親能

兄弟
能直、重能、仲教、親実


深妙


親秀(親季)、時直、北条朝時妻

大友 能直(おおとも よしなお)は、鎌倉時代初期の武将・御家人。近藤氏の出で、大友氏の初代当主。父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。



出自[編集]

相模国愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子として生まれ、当初は古庄能直と名のり、次いで父と同じく近藤能直と名乗った。その後、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地の相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗る。また父能成が早世したためか、母の姉婿の中原親能の猶子となり中原能直とも名乗った。

父能成の弟(叔父)が武藤頼平とされ、頼平の猶子が少弐氏の祖となった武藤資頼である。また頼朝旗揚げ以来の御家人であった近藤国平は又従兄弟とされるほか、弟仲教の子孫が後の水谷氏に繋がるとされている[1]。



生涯[編集]

文治4年(1188年)に17歳で元服。この年の10月14日に源頼朝の内々の推挙によって左近将監に任じられる。病のため相模の大友郷にあり、12月17日になって大倉御所に初めて出仕し、頼朝の御前に召されて任官の礼を述べている。『吾妻鏡』は能直を、頼朝の「無双の寵仁(並ぶ者のないお気に入り)」と記している。翌文治5年(1189年)の奥州合戦に従軍。頼朝の近習を務め、建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ちでは、曾我時致の襲撃を受けた頼朝が太刀を抜こうとした所を、能直が押し止めて身辺を守った。


建久7年(1196年)正月11日、豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行となり、現地へ下向して6月11日に豊後国速見郡浜脇浦より入国した。承元元年(1207年)頃、筑後国守護。任地への在国は一時的だったと見られ、京と鎌倉を頻繁に往来しており、建暦3年(1213年)の和田合戦では京六波羅に滞在していた。九州には守護代を配していたと見られる。 貞応2年(1223年)11月27日、所領・所職を妻子に譲り、京都で死去。享年53。


能直以降、大友氏は代々豊後国大野荘を中心に九州で勢力を伸ばすことになる。



頼朝落胤説[編集]

母・利根局はかつて源頼朝の妾であり、また養父の中原親能が頼朝の側近だったことから頼朝の寵愛を受け、後の大友氏の興隆の因となる。母との関係から能直を頼朝の落胤とする説があり、大友氏の系図では能直を頼朝の庶子としているが、信憑性はないと見られている(参考文献:奥富敬之『吾妻鏡の謎』)。



脚注[編集]
1.^ 『尊卑分脈』藤原北家秀郷流系図。


抱き杏葉紋豊後大友氏初代当主(1172年 - 1223年)


能直 - 親秀 - 泰直(頼泰) - 親時 - 貞親 - 貞宗 - 氏泰 - 氏時 - 氏継 - 親世 - 親著 - 持直 - 親綱 - 親隆 - 親繁 - 政親 - 義右 - 親治 - 義長 - 義鑑 - 義鎮(宗麟) - 義統 - 義乗 - 義親 | 断絶

[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月03日 02時18分45秒 ) パスワード

番外:


http://www.kakeisi.com/survey/survey_siga.html

近江国の名字で
甲賀郡には伴氏の一族として甲賀、平松、大原、山岡があります。
                 ↑
                伴氏は古代豪族(貴族になるのかな)にありますよね。

                この可能性もあるんでしょうか?
[17]平松健吾さんからのコメント(2014年12月04日 17時13分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

空の青梅のあを様始め、皆様方の御懇意に深く感謝致します。
誠に有難うございます。
調査の仕方はまだまだあると感じました。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年12月11日 14時07分56秒 ) パスワード

おまけの情報かも:


https://books.google.com/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=RA4-PA22&dq=%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%A7%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%81%A7%E6%9C%8D%E9%83%A8%E3%81%A7%E4%B8%B8%E3%81%AB%E4%B8%89%E3%81%A4%E6%9F%8F%E7%B4%8B&hl=en&sa=X&ei=3SSJVK-RGsHuoATmz4HIAw&ved=0CB0Q6AEwAA#v=onepage&q=%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E3%81%A7%E6%97%97%E6%9C%AC%E3%81%A7%E6%9C%8D%E9%83%A8%E3%81%A7%E4%B8%B8%E3%81%AB%E4%B8%89%E3%81%A4%E6%9F%8F%E7%B4%8B&f=false


豊後国の桓武平氏流の平松氏が柏紋を使用だと出ています。
[20]平松さんからのコメント(2015年05月30日 05時18分55秒 ) パスワード

平松健吾様

僭越ながらレスさせて頂きます。
平松性を調べていたらここを発見しましたので参考までにですが、
空の青海のあを様が載せて下さった情報内の、平松時庸を祖とする公家の平松家では無いと思われます。
家系図を詳しく調べてみませんとわかりかねますが、私の家がそこの本家筋になりますので、恐らくですか時庸を祖とする平松家では無いかなと。
ご自分の家系をお調べになるのは大変だとは思いますが、頑張って探し出してみてくださいませ。

それでは失礼致します。
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