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 投稿番号:101388 投稿日:2014年10月05日 20時16分36秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族]X
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「長上郡の服部氏族]W」からの続きです。

自称「歴史探偵」の目で歴史の奥底に秘められた謎の解明を図る。

究極目標は服部氏族についての解明。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 03時34分24秒 ) パスワード

埋もれるのが惜しいので、スレッドXIVのレス<51>からの転載です。
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101387_52.html


丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月05日 20時10分30秒 )


台風18号が近づき雨もひどくなりそうなので、本日の岩村行きは延期にし、
その代り、近場の細江へ行き、服部中保次の墓を見に行くことにしました。

 姫街道(261号線)の坂を下り、少し行くと左手にマックスバリュー(スーパー)
があり、もう少し行くと気賀の手前を都田川が流れ、落合橋がかかっている。

 そのマックスバリューの交差点を左折し、山すそを右折。ぐるっと山(台地の
裾)を回り込んで山道を行くと、まずは看板と石碑があった。

 「服部小平太最後の地
  服部小平太(中保次)は、永禄3年(1560)5月19日の桶狭間の戦いで、織
田信長の家臣として、毛利新助らと共に、今川義元を打ち取った功労者であっ
た。

 この地方が徳川の勢力下に入ると、小平太は信長亡き後、家康の家臣として、勲功によりこの地を治めた。もともと今川領だったこの地方には、桶狭間に
出陣して戦死した者もあり、小平太に恨みを持つ者もあった。

天正15年(1587)6月18日、小平太は単身このあたりを巡視の折、ここで何者かに討たれた。

 なお小平太の墓はこの下数十メートルにあり、祥栄院殿湖雲淨鑑大居士と刻
まれている。

 また、ここより200メートルほど北に、小平太を祀ったといわれる宗安寺
の跡がある。     

     平成2年3月20日 細江町教育委員会」
とあった。


 そしてその左下に石碑があった。石碑には「服部中保次様最期之地  天正
15年6月18日」と刻まれていた。石碑は花崗岩を大きく削ったもので、形
はちょうど細かな加工をする前の灯篭の原石といったところか。

 小平太が襲われた所は、刀も振り回せない姫街道といっても森の中。物陰か
ら一気に突かれたら防ぎようがないような所であった。油断をしたのか、謀ら
れたのか、わからないが、何かあったに違いない。

 そこから徒歩で坂を下り、右へ回り込んで50メートル位行くと、「中保次
の墓→」の小さな案内看板が家の軒下に立っていた。雨で濡れる細い草むらの
登り道を20メートル位登ると、3メートル四方の石の垣根で囲まれたまずま
ず立派なお墓があり、両側に80センチメートル位の高さの灯篭が左右の端に
立てられたいる。墓の左右の筒ににコウハナが飾られており、ちゃんとお祀り
してくれている方がおられるようだ。(心で感謝)


 墓には先ほど教育委員会の案内に書かれていた戒名が刻まれていた。墓を
更によく見る。墓のてっぺんに家紋らしきものがあるようだ。苔むしているの
でよく見えないが、雨の中、こすってみると紋が表れた。

 それは、源氏車に横並び矢のようだ。矢の形は少しかわっていて、ちょうど
左右に長い長方形の右辺・左辺をМ字形にしたもの、もう少しイメージしやす
い表現でいうと、2つの矢羽根の上部を横に切り、その2つを向かい合うよう
にして貼り付け、それを二枚横に平行に並べた形。

 いずれにしても、伊賀服部氏の家紋に間違いない。墓の左面に「天正年中 當所領主俗名服部中小平太・・・」その下の文字は苔に隠れて見えない。先ほどの石碑とほぼ同じ説明書き の看板が立てられていた。



 雨の中でもあり、余りゆっくりもできないので、家に帰ることにした。地元
の墓を少し調査したいという考えもあったからだ。


 それは、長田氏の墓の家紋。長田氏は「丸に三つ柏」を使っている。服部家
に長田氏から養子が何代か入っていれば、男系の家紋に代わる可能性があると
思ったからだ。はたして・・・長田氏の墓はなかった。または、見つからなか
った。

 しかし、新たな発見をした。ここの寺には五氏の墓が圧倒的に多く、五氏の
家紋はすでに調べてわかっていた・・・のだが、何と見落としていた。

 それは、永井氏であるが、「永井梨の切り口」の家紋があったのでそれがす
べてだと思っていたのだが、出るは出るはぞくぞくと。永井の墓の半数は、何
と「丸に三つ柏」であったのだ !

これは即ち、永井氏が長田だった頃の家紋、元々の家紋を変えなかった筋の
人がいたのではないか・・・そして服部家は女系が続き、永井家より何代か婿
養子が入った。そして家紋も「丸に三つ柏」に変わった。

 (あるいはその反対だったのかも知れない。だがこの場合は丸に三つ柏紋の
由来の説明が難しくなる。)

 
 いずれにしても、本日の収穫は、中保次の家紋と永井氏の家紋。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 03時46分38秒 ) パスワード

何度読んでも背筋がゾクゾクします。


>新たな発見をした。
>ここの寺には五氏の墓が圧倒的に多く、

ということは長上郡の名家5氏のお寺なのでしょうね。

いつ頃のお墓なのか分かると良いですね。
さらなる調査が必要かも。



>五氏の家紋はすでに調べてわかっていた・・・のだが、何と見落としていた。
>それは、永井氏であるが、「永井梨の切り口」の家紋があったのでそれがす
べてだと思っていたのだが、
>出るは出るはぞくぞくと。永井の墓の半数は、何と「丸に三つ柏」であったのだ !


江戸幕府の重鎮になって行く前なのか
理由があって遠江に残った永井氏なのか

   だってそこには松平家時代からの縁があったでしょうから
   離れられない理由があったのかもですね。

      長田氏時代からの歴史的なものがあったのかも知れないし。
      長田郡が上と下に分かれる前からのものがあったのかも知れないし。


>これは即ち、永井氏が長田だった頃の家紋、元々の家紋を変えなかった筋の
人がいたのではないか・・・
>そして服部家は女系が続き、永井家より何代か婿 養子が入った。
>そして家紋も「丸に三つ柏」に変わった。

 (あるいはその反対だったのかも知れない。だがこの場合は丸に三つ柏紋の
由来の説明が難しくなる。)


これまで三つ柏さんが「長田と服部はセットで行動してたのではないか?」と思ってらっしゃったのが
かなり古い時代から関係があったのかも知れない
という確信になって来ましたね。


この謎を解かなくてはね。

 
>いずれにしても、本日の収穫は、中保次の家紋と永井氏の家紋。

大物2つでしたね。


台風18号さまさまですね。
記念になりました。

[3]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 04時59分06秒 ) パスワード

こんな話があったのでアップ:


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1314127373


服部家の家紋。

服部氏流の服部家は、対い蝶(むかいちょう)、平蝶の「蝶の家紋」を使用。(平氏の家紋)
http://www.harimaya.com/kamon/column/tyou.html


服部氏が主に用いてる家紋として、矢筈(やはず)の家紋。

この服部氏は、『新選姓氏録』によると渡来系の服部氏でなく、ホノハヤヒノミコトから出た神別の服部氏。
http://sky.geocities.jp/poko7648/newpage31.htm
残念ながら出なかったです。


                    渡来系じゃなかった?
                    驚

未勘源氏の服部氏は、升の家紋。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/masu.html


なお家紋は、主流、支流、一門一党とひろまり、原形を保ちつつ変化し、同系の子、孫と受け続いたもので、また、定紋(本紋、正紋)の他に、副紋(そえもん)、替紋(控紋、裏紋)があり、勲功で下賜されたり、婚姻その他で紋を加えたりして、一家に数個家紋を持っている家もあります。

また、女紋は嫁いだ家の家紋を使用せずに、女性の実家の家紋を使用しても良い事になっています。
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 05時43分47秒 ) パスワード

「家紋」のスレッドと重複します:



ざっと家紋の本を読みました。


服部姓が使っている家紋を列記:


柏紋         平氏系服部     平氏系長田も

矢紋         平氏系服部   
           源氏系服部


矢筈紋        平氏系服部
           源氏系服部
           服部氏系服部

               (藤原氏系では無し)

枡紋         源氏系服部

巴紋         平氏系服部


二引竜紋(二引両)  藤原系服部

一文字紋       源氏系服部

十文字紋       服部氏系服部
[5]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月06日 05時59分26秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 台風18号は、今熊野沖に来ています。午前中には三重県から静岡県の範囲
で上陸かという状況です。

 レスのコメントありがとうございます。歴史は知らない所で眠っているので
すね。あを様のおかげでここまで知識や事実を知ることができました。もしも
平熱に投稿しなかったら、何も知らずに時間を費やしそしてお墓へ直行となっ
ていたかもしれません。つまり時の流れの中に沈んでしまった歴史の事実のひ
とかけらも知らずに・・・ま、それが大半の人の行き方かも知れませんが。あ
りがたく感謝申し上げます。

 長田(こちらでは「おさだ」読み。「ながた」と「おさだ」は同じなのか)ま
たは永井と服部の関係、どんな人間関係があったのか知りたいと思っています。
長上郡は元々長田郡、西国から見て東の辺境。天竜川は平野部の川と違い、三
方原台地と磐田原台地、標高50メートル以上の崖が両側に連なり、その裂け
目―といっても何キロメートルもあるが、の間を天竜川はのた打ち回って暴れ
ていた。従って、西国からいうと「東の果て」のイメージだったのではないか
と推察いたします。但し、天竜川沿いに伊那盆地そして長野へと縦の線が続く
ことが別の意味で重要だったのかと。東三河とも表裏の関係であるし、いわゆ
る三遠南信といわれている文化交流圏があったような感じがします。というこ
とは京—伊勢—三河というトライアングルが歴史のベクトルの拠点地域であった。
もちろんその中心に尾張・三重・近江があったということ。なかんずく尾張は
中心であったのかと思います。信長、秀吉、家康と日本の歴史は決定となった。

 話は変わりますが、例の大久保地域ですが、浜名湖が今切で切れて外洋とつ
ながったという事は、ただ単に海水が満潮に向って昇って来るという現象だけ
でなく、浜名湖一帯が陥没し湿地帯が入り江となったということである。大久
保陣屋も平地より一段高いところに石垣が築かれ、その上に建てられていた。
私の姉も近くの神ケ谷に住んでいますが、やはり一段高いところに家が建てら
ている。平地には今は田んぼがあり、川がありますが、浜名湖よりボラという
魚が昇ってきます。ということは海抜1メートル位かとも思います。
 最近それを証明する資料を入手しましたので間違いありません。大久保や
志都呂、いわゆる浜名湖周辺は入り江であった。その水際に神ケ谷、大久保、
志都呂、いわゆる神久呂地域があったということである。

 姉(長女)の家は松下といい、位牌には江戸時代より戒名が連綿と書かれてい
る。家紋は「丸に並び矢」で伊賀服部と同じ。神久呂地域では祭事等中心的存
在という。
 私のすぐ上の姉の嫁ぎ先は中安家で、やはり江戸時代より連綿と位牌に戒名
が書かれている。祖先は堀江城に関係した中安兵部安定のように思われる。
歴史を探究すると色々な事がわかって来る。一般的には皆さん知る方法を知
らないのである。私も半年前まで実はそうでありました。あを様の驚異的な
能力によって歴史の真実が次々に見えて来て、私は幸せ者であります。私一人
が幸せ者になってもいけないので、皆さんにもなってもらいたいと思ってお
ります。あを様には本当に感謝申し上げます。
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月06日 10時23分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 台風18号は午前8時過ぎ、浜松地方に上陸。ちょうど通勤時間帯であっ
たので交通が乱れました。久しぶりの大雨で道路が冠水したり、川の増水の
ため、各地に避難勧告が出されました。しかしながら、台風は北東へ進んで
行ってしまいましたので、被害は思った程ひどくはない模様です。
 何か私が台風を呼んだみたいな変な気持ちです。「嵐を呼ぶ男」石原裕次
郎、「太陽の季節」の石原慎太郎が元々服部家出身であったということ、
服部にはまだまだ深い謎が隠れていますよ、絶対に。

 猿楽についてまとめていますが、本当のことを言いますと、図書館に1ヶ
月位籠もって論文を書きたい位ですが、そうもしていられませんので、瞬間
芸でまとめます。瞬間芸は宴会部長には必要。いつでもサッと出せるよう日
頃から備えております。麻績服部さんが「ひばりさん」であるのも何かの縁
のような気がします。美空ひばりは私も18番。今回の台風も18番。18
番というのはどういう意味? 1と8をたして9で最強という事か?

 さて、猿楽に触れたいと思います。
 まず、「猿」というと何を思い出しますか? 私的には、
  1.木下籐吉郎が信長から「猿」と呼ばれた事
  2.猿蟹合戦の猿
  3.桃太郎の猿
  4.猿女氏
  5.十二支の申(猿)
 1から4までは、すばしっこく、騒がしくまた一方でクレバーに活躍する
イメージがあります。
 1の猿は、実は日吉神社では猿は神の使いと言われていたことに由縁があ
ります。つまり籐吉郎の出自が日吉神社にからんでいたということでありま
す。
 4の猿女氏の始祖は、アメノコヤネであり、やはり神に通じる役でありま
す。
 猿楽とは、従ってそういう要素を持っているということが推察されます。

 今、資料が揃っておりませんので、これ以上は家に帰ってから書きます。
 いずれにしても、突っ込み不足にはなると思いますが、服部と猿楽との
関係、理解しておかなければならない重要なキーワードであります。 
 
 
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 14時42分51秒 ) パスワード

ご無事のようで何よりです。

東京駅では新幹線も11時半あたりから動いているようで
   5時間待たされた人達がいたとニュースで言ってましたが
とにかく足が確保出来て良かったです。


台風がこんな遅い時期に来て、太平洋に外れるのかと思いましたら、浜松の冠水をニュースで見ました。

お家に無事に帰れると良いですね。



頂いた情報はボチボチ調べていきます。


まだ感動が冷めずにいます。


日本は本当にみんな親戚だらけで
それは「馬の骨とは結婚しない」という縛りがあったから

   だって厳しい社会でしたから変なのと結婚して連座して処分されたら迷惑というのもあったし


服部氏と長田氏
平家で繋がる前から縁があったのだというのは長上郡がらみで分かったけれど
  武士の勝つ負けるは時の運
ということで、互いに涙を流し傷を舐め合い、今に至るのか
と感慨を新たにしていました。

    しばらくボーッとしていたい気分なのです。

きっと平家が富士川で負けた時、
敗走途中長田氏に助けられたのかも知れないし
それは誰か服部氏と長田氏が婚姻してたからでしょうし


江戸時代に自分の家の家紋を決めて幕府に提出する時
平氏で丸に三つ柏紋
と決めたのには必ず大変なそれなりの事情があったからだと思います。


   平氏で服部姓なら矢系の紋でしょうが
   なぜ三つ柏紋?


江戸時代は名字も家紋も変更などとても許されないことでした。

服部氏に養子に入った旧大内氏は将軍綱吉の許可で大内氏を再び名乗れるようになったそうで


    わたくしの母方も大坂の役で落人になって姓と家紋を隠し
    姓の方を許されるのに200年を超えてからの幕末近くでした。
    でも家紋の方は許されませんでした。


これだけ厳しい武士社会でしたから
平氏なのにそれなりの理由があって丸に三つ柏紋に決めた
その経緯が知りたいものです。


  旗本で平氏で服部姓で丸に三つ柏紋

答えは近くに出ていそうなのになかなか掴めないです。
どこかに書かれているはずなのですが。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月06日 15時37分23秒 ) パスワード

スレッドXIVと重複します:



長田さんの過去の暴露?


他田氏


家紋   
不詳

本姓
他田部氏

種別
武家
神官

出身地
信濃国小県郡    ←  小県は前にもしつこく書きましたね
             伊那とこんがらがってましたっけ(恥)
             そうそう  佐久  のことでしたよね?

主な根拠地
信濃国小県郡
信濃国諏訪神社


他田氏(おさだし)とは、日本の氏族のひとつで、
神武天皇の皇子  神八井耳命 かむやいみみのみこと を祖とする多氏に属する古代氏族とされる。



概要[編集]

他田氏の祖は部民制における他田部の出で、
部民制は7世紀に血縁に基づく氏族制へと変わっていくが、
部称は氏族名に転化されて残り、
                        いな!笑
奈良時代の神護景雲2年(768年)に爵2級を与えられた伊那郡の他田舎人千世売(おさだのとねり-ちよめ)や
万葉集に防人の歌を残した小県郡の他田舎人大嶋(おさだのとねり-おおしま)など、
主に信濃国を中心に他田を名乗る人物が記録に残されている。

ただし、同じ「他田舎人」であっても祖先が「他田の宮に奉仕する舎人」だったということ以外は示しておらず、
必ずしも血統的な同族と特定されるわけではない。


また、承平8年(938年)に東山道を京に向かう平貞盛と追撃してきた平将門の軍勢100騎とが信濃国分寺付近で戦った記録に、戦死者として信濃国小県郡の郡司他田真樹(おさだのまき)の名前が残されている。

     ここら辺りで  平氏  に変わったのかも



後述する他田目古系統など、主に各地の郡衙などに勤める地方役人であったとされるが詳細はわかっていない。

9世紀中頃より郡司の権限が国司に集約されるに従って、他田氏の記録も見られなくなっていく。


他田目古[編集]

有力な他田氏としては、他田目古の系統がある。

多氏出身とされる科野国造家の後胤とされる金刺舎人直金弓(金刺氏)の子で、

他田舎人部の伴造家となったことから他田舎人直となり、

子孫は他田を名乗ることになる。


したがって、目古の兄である金刺麻背を祖とする諏訪氏とは同祖の関係となる。


他田目古の子孫は、孫の老が従六位下伊那郡擬少領(「擬」は臨時の意味)に補されたことで主に南信濃に勢力を持ち、文治5年(1189年)の奥州合戦で勲功をあげた他田太郎重常を輩出している。

また伊那の豪族で、江戸時代に柳間詰交代寄合(三千石)として家門を保った知久氏の祖も目古系統の他田氏とされている。



その他[編集]   信濃の御厨(長田御厨や麻績御厨など)のコピペをしてた時ですね


祖が長田御厨の庄官を勤めたと伝えられる信濃国高井郡発祥の保科氏には「長田は他田に通じるもの」として他田氏出身とする説があり、

「信濃史源考」では諏訪氏の庶流としていることから前述の他田目古の系統である可能性もある。



ここで再び  松島と長田と麻績服部と伊賀服部が  絡みますね。
結局やっぱりみんな繋がってしまいますね。


箱柳さんが  金指とお書きになってて  これは 金刺 と通ずるのかと思い書きます。


http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira/matudaira_082.htm

金指など:旗本の近藤さん


http://www1.odn.ne.jp/usakun-castle/matudaira/matudaira_082.htm


近藤氏


始祖秀郷流藤原氏脩行が近江掾となり、近江藤原から近藤を称したことに始まる。



その後 一流が伊豆に移住し、源平合戦・承久の乱に名が見える。

直満の代に三河国八名郡宇利庄に住した近藤氏もその分流にあたり数代目(不詳)満用の時、松平清康(家康の祖父)に仕えた。


享禄三年(1530)  清康が宇利城を攻めた折、満用は松平氏に臣従したようである。


満用は宇利村を領していたと思われる。


満用の長子乗直は、松平清康に従い狩猟時に鹿を捕らえその角を裂く勇力から鹿角紋を与えられる勇者であったが、戦傷で歩行の自由を失い、弟忠用が家督を継いだ。


守山崩れによる松平清康の不慮の死により一時期近藤氏は今川に属すが、桶狭間合戦後忠用・康用父子は再び松平傘下となる。


ココ
 ↓
西遠江の案内役を務め康用は、武田氏の侵攻を宇利にて防ぐ功を上げている。
のち康用の子 秀用は井伊谷を与えられ武田の侵入防止役を任されている。  秀用は、長篠役でも軍功を上げるが、小牧の役時は、井伊直政に付属させられのち井伊家臣となることを嫌い出奔した。

慶長七年(1602)許され帰参、徳川秀忠に仕え上野国青柳にて五千石を得、槍奉行を務め、相模国内にて一万石に加増され諸侯に列した。

のち、所領を遠江国井伊谷に移されるが、家禄を子に分知し 子孫は旗本家五家となって続いた。



<旗本家として続いた引佐五近藤家>

近藤秀用の跡 宗家季用−貞用に五千四百石(金指)、
秀用二子用可に三千四百石(気賀)、
秀用四子用義の子用将に五千石(井伊谷)、
さらに気賀家用可の長子用行が三千石の分知(大谷)、
秀用の弟用伊が分知された(花平)


引佐町石岡の宝林寺の東隣の山腹に金指近藤家の墓所がある。

龍潭寺(井伊谷1989) 近藤家墓所もある。

[9]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月06日 22時40分43秒 ) パスワード

  青様

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%AD%A3%E5%B0%B1
 井上正就の母 永田氏

  秀忠保育園 園長は岡部氏 実働(哺乳係)は永田他2名なんてこと
 想像してます。 味方原で藤三郎が戦死してますので、妻なのか、妹や実子なのか不明なのですが、女子名の記録がないので苦労しています。

 別情報 長田氏族の足跡 by長田 一(ひとし)故人 によれば

 長田致房 後3年の役後 伊豆加茂に住す 伊豆守 号 加茂次郎
   伊豆 高根神社に足跡があるそうです
 
   子 行致 伊豆守兵部卿 号 平三郎
  行致 長子 致俊   号 門真 
 
 致俊長子 親致 右衛門尉  保元にて敗走 大浜蟄居
  4男 壱岐守(平治乱後) 忠致  
  (兄弟) 他の長田系図には 門真(庄司)三郎(たぶん住 門真市)

  忠致長子景致 左衛門尉  野間事件より 丸子に移住 
    富士山の西麓 若彦路にて 忠致、景致は戦死
  
   景致長子 長田忠清 清盛に仕え 富士川合戦にて参謀を務める
     次子  忠久  若彦路より落ち延び 甲斐国 猪狩に隠棲
      猪狩長田氏の祖となる(系図の照合はまだです)
     
  忠清3男 後日 頼朝殺害に失敗、捕縛。 目のあるうちは頼朝を狙うと
 公言し 公の前で両目を自らえぐり落とす。
  公により後年  日向国 の検校使として 九州下向 
    生目神社(宮崎市)では 眼病の神として神水を戴ける と
  宮崎県観光記録にあるそうです。 

  忠清(世間では藤原)の参謀就任は 地理不安内で 疑問が多かった
 忠致の孫なら  出陣を急いでのち、約一か月の停止後、再出発が(祖父を気使い 急ぎ、喪に服して行軍停止) と 納得のいく処です。
 
  長田入道=長田忠致は 頼山陽が説いている、世俗の説は
 2回死ねる方法を提示する必要があると思いますが、どうでしょう。

  かなさし 変換ミスで申し訳ない 
  
 豊田舞木町の永田集落には、当初リーダーは近藤氏で次に永田が
 引き継いだと 言われております。 同竹元町には 近藤氏も共存していて
  鈴木近藤永田は古くからの開拓仲間みたいです。

  私的には 鈴木(鈴御幣)一族の消息を追ってます、
 >http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%81%A9%E5%AF%BA_ (%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%B8%82) 鈴木山光恩寺 伝 (鈴木)善阿弥 建立

  善阿弥は義経を追って 矢作宿で病気になり 療養中に義経死亡、、で
 豊田矢並に隠棲後竹元、矢作で西尾平口に居住 三河12代官の一人
 別説には 津島に良王お送り届けたのち、矢作に隠棲、後矢並へ の
 浪合記が正しいと思っています、が、調査中です。
[10]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月07日 01時27分00秒 ) パスワード

  丸三柏服部さま
 ものすごい、うっかりがありました。
 家祖 平良兼は京都大山崎の出身で、父高望王(賜姓 平)に従い
 関東に赴任・土着します。長じて独立した場所は筑波山の麓
 
  真壁町羽鳥(元 紫尾村機織 又は服織)でありました。
 
 三河の伝承では、平の良兼ですが、 長田一氏では 田造の長で
 長田を名乗ったことになってます、また 千葉氏の伝承では 粟飯原と
 称したことになってます。
  三河では伊賀上野 長田地区 木津川(長田川)南岸に居を構えたとき
  屋号を長田に としています。
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月07日 02時36分45秒 ) パスワード

井上正執について読んで来ました:

旗本で目付の豊島信満(正次、明重とも)は正就の嫡子正利と大坂町奉行・島田直時の娘とを縁組し、
仲人を務めることに約定していた。

しかし、将軍家光の乳母で、当時権勢並びなき春日局が正就に鳥居成次の娘と縁組みするように持ちかけ、
正就は直時との縁組みを破談した。


   ここまでは時々あるような話ですが・・・


仲人としての面目が丸潰れとなったことを恨んだ信満は、
寛永5年(1628年)8月10日、登城した江戸城西の丸廊下で行き会った正就に対し

「武士に二言は無い」

と叫んで脇差で斬りかかった。


番士の青木忠精が信満を羽交い締めにして取り押さえたが、信満は脇差を自分の腹に刺し貫いた。


脇差は羽交い締めにした忠精にまで達し、結果、正就と信満それに巻き添えを食った忠精が絶命した。

     3人全員が死んでしまったなんて、これにも驚き。


井上氏はお咎めなしで正利への相続が認められた。

     だって春日局が絡んでますものね。


豊島氏は老中酒井忠勝の配慮により嫡子継重の切腹と断絶の処分のみが下り、他の一族への連座はなかった。


島田直時はこの事件への責任を感じて自害した。

     この人は気の毒としか言えないですね。
   


秀忠の乳母が何人もいるのは
中心になる家と この場合は岡部家 (だいたい執事の家というか家老のような立場の家)
実際におっぱいを上げる女性達の家  (子供を産んだ授乳可能な女性達が必要)
が存在するからで

実際におっぱいを上げてたのは井上正就の母の系統の女性でしょうね。
   子供を産んだばかりの井上正就の母=永田氏=の 妹 とか 下女 とかで
井上正就の生母本人ではないようですね。


   秀忠  天正7年1579年生まれ
   正就  天正5年1557年生まれ

   正就の弟の正重  天正13年1585年生まれだから


正就がずっとおっぱいを飲み続けていたなら、生母にはおっぱいが出続けていたでしょうけど

弟の正重の時には秀忠は既に6歳になってるから。おっぱいは必要無いし。



で、岡部の乳母が登場するのはお愛の方=西郷の局が亡くなったから、という話から
西郷局が亡くなったのは  天正17年だから1589年。秀忠は10歳になっていたので


要するに  乳母  というのは「おっぱい」を文字通りあげる女というよりは
後見人というか  命を掛けて秀忠の生涯の世話をする家  という意味でしょうね。

秀忠の場合は  岡部の家があって、井上の家があって、永田の家があって、
その他にもいろいろな家が  乳母の家に立候補し、乳母の家になりたいと申し出て、
秀忠軍団を将来作っていくそういう母体なんでしょうね。


服部家のホンヤは尾張藩8代目藩主の宗勝を養育した家ですが
乳母の家というのは、確か右手で足りないほどあったように記憶しています。


だから秀忠の場合の乳母の家というのは、浜松中と岡崎中で、乳母の家になりたいと立候補したんでしょうね。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月07日 06時33分02秒 ) パスワード

>私のすぐ上の姉の嫁ぎ先は中安家で、
>祖先は堀江城に関係した中安兵部安定のように思われる。


とりあえず堀江城からアップ:

http://www.ai-trip.com/trip/horie/horie2/horie2.html

4.堀江城の中期

加増を受けた基相(もとすけ)

先代基房の時に、今川氏のために岡崎城や二俣城へ出陣して功を立てたことによって、天文2年(1,533)12月4日、今川氏輝から浜名湖往来の船を取り締まる権限を与えられた。

また天文13年(1,544)11月9日には今川義元より上田(かみだ)村(協和)の90石1斗8升6合の加増を受けた。

更に天文18年(1,549)基相は上野端城の戦いに兵を出したが、この戦いで基相の家臣紅林甚二郎は大いに奮戦して抜群の功を立てたので、義元より次のような感状を受けた。

感状 去る23日上野端城落城に骨を刻み候条感悦なり、いよいよ忠節を励ますの状件の如し
天文18年12月3日  義 元  花 押
紅林甚二郎殿



堀江城の改築と基胤(もとたね)

堀江城の改築は永禄年中(1558─1569)とされているが、はっきりしていないし、誰が改築したかも不明である。

基相の時だという説もあるが、基相がいつ頃まで生存していたかもわからないので決定しかねる。

基胤の時だとすれば、恐らく永禄の前半であろう。
なぜなら永禄後半は、属城堀川城へ援軍を送ったり、家康に対する作戦準備などでその余裕がなかったろうし、
続いて徳川軍の井伊谷三人衆との決戦があって、その年、永禄は終わっているからである。


完成した城の規模は、わずかな資料で想像するしかないが、大体次のようなものであったろうか。

明治十年ごろ堀江藩邸の競売入札が行われたが、その時の入札物件によっておよその規模がわかる。

1号  表門代金3両
2号  同右長屋 3住居瓦葺平屋
   20両 3間梁桁付5間
3号  同左長屋 1住居瓦葺平屋
   10両 2間半梁桁4間
4号  大砲小屋 瓦葺
   3分 2間4方板張
5号  新土蔵 梁間3間奥行5間
   62両 2階付入口引戸窓
6号  内長屋 瓦葺3間梁桁行
   3両 5間2住居
7号  内長屋 瓦葺3住居梁間
   15両 3間桁行8間
8号  内長屋 瓦葺2住居梁間
   4両2分 3間桁行7間
9号  稽古場 ワラ葺梁間3間
   1両2分 桁行10間
10号 営繕小屋 ワラ葺5間に3間
11号 合薬基地 瓦葺7尺に18尺
   3分
12号 牢屋 瓦葺2間4間
   2朱 外番小屋4方矢来
13号 玄関広間 使者の間中の口まで
   28両
14号 座敷 2棟吟味共
   70両
15号 ○○所
   48両
   〆建物15号塗塀21間板塀3
   5両 17間
   境内立木 杉松3尺廻り1尺まで 60本
   80両
   椎の木3尺廻り8尺まで 60本
   同3尺以下 100本
16号 腰掛所 瓦葺2間3間外
   7両 押入2ヶ所
17号 土蔵外に木戸1ヶ所
   13両

落札 平地建物物置10
   78両1分
落札 境内山地一円
   83両1分
落札 西畑地並びに木戸1ヶ所
   3両 石垣敷石共残らず
   15両
代金総計 555両

右の通り入札仕リ候処相違御座無く候
落札の上は地代金畑地の分は5ヶ年
賦上納その外の代金は即日上納のこと


東丸に城主大沢氏が住み、西丸には大沢家臣の実力者中安氏が住んでいた。

当時の領民は、大沢家を領家殿、中安家を堀江殿と言っていたが、後にはこの呼び名は両方とも大沢家に使われた。



堀江城の実力者中安氏

堀江和泉守光真(ほりえいずみのかみみつざね)が応永年間(1394─1427)に越前国(福井県)から遠江国へ来て初代の佐田城主となった。


光真の先祖は藤原時国で、越前国で新田氏に属して度々武功を立てたが、更に東方の反乱を静めようと、後醍醐天皇の第一皇子尊良親王に従って、伊勢湾から乗船して遠州灘にさしかかった時、逆風のため難破して将兵は四散し、やっとのことで親王と共に福田港に漂着した。そこから高部(袋井市高尾)へ行き行宮(あんぐう)を建てて住んだが、17年後親王は薨去(こうきょ)した。


時国は越前国坂井郡に帰り堀江の庄70か村を領有したので、堀江と姓を改め、元中3年(1386)に死去した。時国の後は、景経(かげつね)、景重と続いて光真となった。


佐田という地名は「堀江、内山を佐田と号す」と三ヶ日金剛寺の過去帳に見えるけれども、さて佐田城の所在となると不明である。

しかし光真以下六代の城主やその子孫が存在していたことは事実である。

堀江光真が佐田城へ来る4・50年前に、すでに大沢氏は堀江城にいた。


系譜でわかるように中安氏は佐田城主五代目の為清の次男豊種から出ている。


ここで知っておかねばならないことは、佐田城と堀江城に関する理解である。

資料の少ないこともあるが、後世になって理解の混乱を招いた主な点は、
佐田城主の堀江という姓と堀江城を結びつけやすいことである。
すなわち堀江城の城主が堀江氏であったとの錯覚である。


佐田城、堀江城、大沢氏、堀江氏、中安氏が複雑にからみ合った当時の庄内地方の状況を年代別に整理してみると、

卓治年間(1362─1367) 大沢氏が堀江に下向。
応永年間(1394─1427) 堀江氏が佐田城に居住。
明応八年(1499)    佐田城主五代為清の次男豊種が内山で生まれ、中安氏を名乗る。
永世元年(1504)    堀江城、佐田城が今川氏に降り、大沢氏は村櫛に移る。?
大永二年(1522)    佐田城落城後、中安兵部豊種が堀江城主となる。
天文四年(1535)    大沢氏堀江城へ戻る。
弘治元年(1555)    中安氏堀江城主となる。
永禄三年(1560)    中安氏堀江城主として竜泉寺を建つ。
永禄五年前後(1562前後)大沢氏堀江城改築。
元亀元年(1570)    中安兵部死去

以上の記録をどう組み立て、どう解釈したらよいであろうか。

中安兵部は佐田城落城後、堀江城主として十数年全盛を極めたという。
ここでいう堀江城とは大沢氏の堀江城なのか、それとも領民たちが佐田を改めて堀江村と称したことから、佐田城のことを堀江城と言うようになったのか。


こう見てくると、中安氏が城主となったのは、もとの佐田城であったのかも知れぬ。

それを裏付けるような一つの資料がある。「徳川家康文書の研究」に

一、曾祖父 権田織部佐(ごんだおりべのすけ)(泰長)
一、母方尊々祖父 中安兵部少輔(しょうすけ)(定安)
一、同 大沢左エ門佐(基胤)

右三人遠州堀江城ニ住ス時、権現様永禄十二年右三人ヲ招出サレ、本知相違無ク下シ置カルノ旨御起請御直判ノ御証文頂戴致(中略)大沢左エ門佐、中安兵部親類ニテ罷リ在リ候由承伝候。

とあるように、本知行を下されたのであるから、中安氏も大沢氏と同様にもとの佐田城の知行を下されたものと受け取れる。

中安氏は永禄三年(1560)三月に、菩提寺として大草山の山頂近くに竜泉寺を建てたが、
天正五年(1577)に内山(庄内町)に移転した。        ←  内山!
中安兵部の下屋敷が内山にあったからである。大草山の寺跡は「竜泉寺台」と言って今に伝えられている。

移転後本堂などは改築されたが、山門だけは原形のまま400余年を経た今日でも昔の姿を見せている。

なお、神戸市在住の12代目当主中安武彦氏は、昭和44年5月18日、檀家総代や郷土史研究会の会員ら多数を招いて、石とうろうの寄進と祖先の供養会を、盛大に且つおごそかに執り行った。


堀江城主大沢基胤は後で詳述するように、永禄12年(1569)3月家康軍と戦って和睦の末徳川氏の家臣となった。

その翌年元亀元年、家康に従って江州姉川の合戦に参加し、大沢氏の同族中安兵部は華々しく戦って戦死した。

「四戦紀聞」の「江州姉川合戦記」には「柴山小助、よき敵を討ち取り、なお進み戦って落命す。是は小兵衛正和の兄、時に22才。小川三十郎、中安兵部定安も戦い死す」と書かれている。


中安兵部の法号を「勇将殿茂山玄栄大居士」といい堀江村の平に埋葬した。これが「茂山塚」である。

中安兵部戦死後、家康より子息満千世に感状が渡された。


中安満千世に与えられた安堵状
今度江州合戦ニ父兵部少輔、馬前ニ於テ討死セラレ忠節ノ至リナリ。然シテ先判形ニ載セ候知行ノ員数永ク相違有ルベカラズ。ソノタメ重ネテ判形出シ置ク所ナリ。コノ旨ヲ守リ愈々忠功ヲ抽ンズベキモノナリ。
元亀元年8月13日  家康 御判
中安満千世

この感状の跡に次のような文言が付記されている。

                    

                  名字と家紋を変えたお話             
                       ↓
野中氏ノ家伝ニ曰(いわ)ク、本名中安氏マタ堀江氏、後ニ野中氏ト改ム。
家紋ハ初メ木瓜(ぼけ)ノ内花ベツ甲、後ニ丸ノ内三日月ト改ム。

元祖ノ正国ハ遠江、中安兵部遠州堀江城主、元亀元年権現様江州御合戦ノ節御前ニ於テ討死候。嫡子(ちゃくし)彦次郎康勝初メ名ハ満千世所領相違無ク拝領仕リ候。


中安兵部には4人の男子があり、長男を彦次郎康勝と言った。
この康勝の生涯は数奇な運命をたどっただけに種々の説が生まれ、いずれを正とすべきか判断に苦しむ。

例えば
1、乱心して転々と渡り歩いていたが天正18年(1590)上州安中で自殺した。
2、永禄、元気、天正にかけて東奔西走(とうほんせいそう)、各地に転戦して上州安中で自害した。
3、小田原に出陣したとき、家康から本多の指揮下で合戦せよ、と命ぜられ、これを不満として上州安中に引きこもり自害した。

この説は相当信頼性があるので、その根拠となる「紅林家古文書」を引用すると、

御息(そく)中安彦次郎康勝公は家康に従い小田原陣に発向したところ、今度は本多中将の旗下で合戦せよと仰せられたので、中安家は先祖より一度も他人の旗下に従って一戦したことは無いのでお許し下さい。と申し上げたところ殊の外首尾悪そうに見えたので、元来短気な康勝公は無念の至りと思い、上州安中に引きこもり自害した。


康勝の家臣紅林武右エ門がその自害を見届けている。


4、竜泉寺過去帳には、堀江の主中安彦次郎こと慶長14年(1609)3月死、早世して家絶つ。
5、そして諸説のうちで最も信頼のおけるものとしては、康勝の子孫で神戸市在住の中安武彦家にある記録であろう。それによると、

祖先は堀江丹波守と申す人。遠江堀江内山に生まれ、大沢中将殿遠州御預かりの頃、二の丸(東丸)を御預かり仰せられ、その後茶道を以て東照宮様の御茶頭に召し出され、姓を中安と改め中安立茶と名乗り、段々御意に入り御姫君を妻女に致すべしとの御意を下し置かれ男子を出生す、名を林斉とと称す。のち故ありて姫君と離別後切腹。



戦陣に明け暮れた基胤(もとたね)

(イ)曳馬城攻め

大沢基胤は永禄8年(1565)9月、飯尾豊前守(ぶぜんのかみ)が守る曳馬城攻めのために、城飼郡(小笠郡)の新野(にいの)城主新野左馬助や井伊家の老臣中野信濃守(しなのかみ)らと共に出陣した。この時の堀江勢の奮戦は目ざましかったが、結果は和睦となった。戦後、今川氏真はその臣小鹿右馬助を堀江城に使わして、その功を深くたたえ特に感状を与えたのである。その頃の今川氏の所領は、駿河17万石、三河24万石、尾張12万石の計80万の大勢力であった。
このような勢力を持っていた今川氏も、氏真が暗愚(あんぐ)無能に加えて、遊興の日々を過ごしたため、その支配力は急速に落ち始めた。

薩た峠の合戦に敗れ、駿府に火をかけられた氏真は、遠江における今川勢の拠点(きょてん)掛川城主朝比奈泰朝(やすとも)のもとに身を寄せた。

一方、武田信玄(しんげん)から、駿河、遠江の分割を持ちかけられた岡崎城の徳川家康は、好機到れりとばかり、直ちにその実行に着手した。すなわち、浜名湖の北と南の二手にわけて東進し、その手始めに井伊谷城を血祭りにあげ、続いて刑部(おさかべ)、白須賀、宇津山の諸城をおとしいれ、威風堂々と曳馬城に入った。

家康が曳馬城に入るまでの、すなわち井伊谷、刑部の両城を攻略するまでの経緯を書き添えておこう。それは後で、堀江城攻めに出てくる井伊谷3人衆が、家康の家臣になった事情が理解されるからである。

遠江国都田村の土豪(どごう)、菅沼治郎右エ門忠久は、同族の三河国野田村の菅沼定盈(さだみつ)から来た書状を見た。それは、「このたび岡崎の家康公が、遠州へ向けて進発するが、土地不案内のためその先導を願いたい」というもので、思案に余った忠久は、日ごろ親しく交際している瀬戸の鈴木三郎大夫重路(だいふしげみち)、井伊谷の近藤石見守康用(いわみのかみやすもち)の考えを聞いた。


忠久、重路、康用ら3人は、鎌倉時代からの北遠の名族で、井伊氏の旧家臣であった。

井伊家の当主直親が駿府へ行く途中、今川氏から反逆の疑いがあるとして、掛川城主朝比奈泰能(やすよし)に殺されたばかりか、その領地も没収されて一家は離散し、その子万千代はのがれて流浪するという悲惨なありさまとなった。その結果「我々が恥をしのんで今川氏に従ってきたのは、主家井伊氏の再興の機会を待っていたためである。それにはまたとない好機会である」と相談が一結して家康に参ずることにした。


なお万千代は、のちに登用されて彦根城主井伊直政となる。


定盈の手引きで3人が三遠国境で家康に初対面したのが永禄11年(1568)の12月であった。家康は、屈強な遠州侍を味方にしたことで大変な喜びようで、その場で3人に気賀の郷、蒲の郷、万斛(まんごく)、橋爪、萱場(かやんば)、安間の郷、新橋(にっぱし)、小沢渡(こざわたり)、人見の郷などを与えることを堅く約束した。喜び勇んだ3人を道案内として家康は、今川勢の守る井伊谷城を追い、更に刑部城を攻略し、一挙に曳馬城に入ったのである。



(ロ)掛川城攻め

家康は更に、氏真のいる掛川城を攻略しようと、酒井忠次、石川数正、本多広孝、植村家政、小栗忠吉らに兵2,500余人を与えて進撃させた。

掛川城も三浦秀盛(ひでもり)らが家康軍を攻め、両軍はここを先途に激しく戦い、今川勢の討死した者は、伊藤次郎、同右近、同掃部助(かんべのすけ)、笠原七郎兵衛、菅沼帯刀(たてわき)、朝比奈小三郎ら名のある者38名、ほか雑兵180人ばかりであった。家康方も数人討死したが名のある者ではなかった。それにもかかわらず城は落ちないので、和睦をした。


(ハ)堀川城の悲劇

ここで堀川城合戦の模様をややくわしく述べる。堀川城は堀江城の属城で大沢氏の支配下にあり援軍0名を送っているからである。

掛川城攻めで和睦し、一時岡崎に引き上げようとした家康が、姫街道へ差し掛かったところ、堀川城に立てこもった浪人や農民たちが、家康に反抗の気構えを見せた。

堀川城は気賀の村はずれ油田(あぶらでん)の小高い丘の上に柵(さく)をめぐらし、前面に都田川の水を引き、背面を浜名湖に臨ませた砦(とりで)であった。

城主は新田友作という祝田(ほうだ)で寺子屋を開いていた浪人で、土地の豪族尾藤主膳(びとうしゅぜん)や山村修理(しゅり)、竹田高正などにあやつられて、気賀村一帯の農民をかり集めて築いたのがこの砦(城)で、永禄10年(1567)に完成したばかりである。

農民たちの不穏(ふおん)の気配を知った家康は非常に驚いた。

そこで諸将を集めて善後策を協議したが、諸将はただぼうぜんと顔を見合わせるばかりであったが、やがて渡辺図書(ずしょ)という者の計略で、家康に雑兵(ぞうひょう)の服装を着せ、17騎と共に先発させ、図書は後から200人ばかりの兵を従えて通った。

城兵は後の一団中に家康がいるものと思って攻めかかったが、求める家康がいないとわかって、がっかりした。

こうして岡崎に帰った家康は、3,000の兵を整えて、堀川城攻略に出陣した。
堀川城には、西光院、宝諸寺、桂昌院などの余類があり、基胤の属将には尾藤主膳、山村修理、その他竹田高正、新田四郎などの土豪がおり、刑部には給人、百姓などの内山党があり、また寺社人、地下人と称する者を合わせて1,500人が立てこもった。


平松崎に陣を立てた家康は、永禄12年(1,569)3月12日、満々とたたえられた外堀の水が、干潮(かんちょう)で引き始めた間髪を入れず総攻撃の火ぶたを切った。水が引いた堀川城は裸も同然、それに農民1,500人は、男と言わず女子供までがスキ、クワ、竹ヤリの武器を持っているとは言え、戦うまでもなく城内はたちまち悲惨な地獄絵と化し、女子供まで切り殺され突き殺されて、僅か1日であえなく滅び去ったのである。堀江城から出された20人の援軍もみな討死した。竹田高正は城内で切腹、山村修理は小引佐に逃げて切腹、新田四郎は逃げて僧になったが、後で惨殺された。


尾藤主膳は落城の様子を堀江城に報告するため部下10名と共に小舟でひそかに脱出して堀江城に着き、つぶさに報告したのち城内にかくまわれたが、その年4月、大沢氏が家康と和睦したため、無念の涙をのんで10人と共に切腹した。堀江の大木戸という所に十頂(とうず)(十頭)という古い地名が残っていて、10人の首を埋められた小社が建てられ、十頂八幡宮として祭られていたが、現在はその跡さえ見られない。

悲劇は落城後も続いた。堀川城内の農民兵や女子供は、その半数が戦死したり惨殺されたが、残る700人ばかりはとりことなり、都田川の堤に集められて惨殺された。そこを獄門畷(ごくもんなわて)として碑が建てられている。


その当時、気賀、刑部両村の人工は3,000人であったから、その半数が戦死あるいは惨殺されたのである。そして更にその上、気賀村の全家屋が焼き払われたのである。



堀江城の激しい攻防

城主大沢基胤は始めから家康を好まず、近郷入野村の木寺宮と謀(はか)って兵を集め、堀川城を助けるなど、事毎に反抗の態度を取っていたので、このたびの挙に出たのである。

基胤は、中安兵部や権太織部(ごんだおりべ)などの勇士を養って、近隣にその武名が高く、このほかに村櫛の志津城を守る山崎権太夫、真瀬将監(しょうげん)、山下七郎右エ門らの勇士もいた。

永禄12年(1569)3月25日、井伊谷三人衆の近藤石見守康用その子登之助秀用(のぼりのすけひでもち)、鈴木三郎大夫重路、菅沼治郎右エ門忠久、新八郎定盈(さだみつ)父子らが堀江城を攻めた。

           鈴木さんが出てます
           近藤さんとはやはり仲が良かったようです


堀江城は三方湖に面し一方は沼で、潮が満ちれば攻めにくい要害の地であった。加えて強力な勇士が立てこもり、三人衆は全力を尽くして攻めたが容易に屈する気配も見えない。よって家康は鈴木権蔵に附城を築かせてその陣代とし、長期戦の腹を固めたものの、基胤はよく防戦し、時には城外に討って出て井伊谷勢を苦しませた。総大将近藤石見守でさえ堀江城士新村善左エ門とわたり合って、槍(やり)で股(もも)を突き刺されたほどである。またある時は、堀江勢の逆襲を受けてあわてふためき、具足をつける暇もなく素肌で防戦したこともあって、どちらが攻め、どちらが防いでいるのかわからない攻防が続いた。

       あはは
       よくある話ですね



この時の激戦の模様の一例を挙げてみると

城兵300ばかりがほこを揃えて討って出たので、井伊谷勢はわずか100人ばかりで防戦したが、井伊谷勢が城兵の勢いにのまれて、ほこを合わせないのを見て、城兵の中の一武者が群を離れて進み出で、すでに6─7尺ばかりの距離になったとき、近藤石見守が出てきてこれと一騎討ちをしようとした。同じ三人衆の鈴木三郎太夫は、近藤と同年で常に権勢を争っていたが、この有様を見て近藤の後から進み来て「彼はよき敵である。討ちもらすな。」と叫んだ。近藤は無言のままで進み、鈴木も続いて進んだ。井伊谷勢はこれに勢いを得て、ときの声をあげながら後に続いたので、城兵もたじたじと退いて門内に入った。残った武者が1人で戦っているうちに中から城門を閉じてしまったので、武者は入ることができず木戸わきに突っ立って防戦した。近藤と鈴木は互いに自分の功名にしようと木戸ぎわまで追いつめると、この時やぐらの上に2人の兵が銃を構えて現れ、2人をねらって発砲した。このため鈴木は銃弾を受けて戦死したが、近藤をねらった銃は不発に終わって助かり、直ちに武者を討ち取った。


この武者は数日前他国から武者修行に来ていた者で、生国も名前もわかっていない。


基胤は、この攻防の始まった10日目の4月4日、掛川城主朝比奈泰朝へ書状を送って、近況や心境を伝えている。それを要約してみると、

●久しく御無沙汰(ごぶさた)しているので其の地(掛川)が心配に思うこと。
●当城は今までは堅固であること。
●兵糧は当座2─3ヶ月ばかりは持っていること。
●城下の知行分も欠所になったこと。
●来作(麦)は少しもなくどこからも兵糧の入る当てのないこと。
●敵方から種々の難題をかけられていること。(降伏のことならん)
●今になってこのような次第で無念至極であること。
●堀川城は十分な備えが出来なくて、すぐに攻め落とされたこと。
●給人百姓ことごとく討死し加勢した二十人も討ち死にしたことはくやしいこと。
●末々のことは御下知(げち)を頂きたいこと。

しかしこの書状を送った時はすでに掛川城は家康と和睦した後で、果たして届いたかどうか不明である。
基胤は城外に討って出る時や、敵が攻め寄せる前には、士気を鼓舞(こぶ)するために必ず鐘をたたき太鼓を打ち鳴らしたと伝えられ、これが後世に再現された「堀江陣太鼓」の由来である。


      家康との和睦ですよ〜
         ↓

堀江城が家康と和睦してその家臣となる    

家康は堀江城の意外な反撃に驚き、これを力で攻め落とすことの困難を知って、使者渡辺成忠を城中につかわし、言葉をやわらげて基胤を説得した。

「大沢氏は由緒(ゆいしょ)の正しい家柄で、もとより今川氏の被官でもなく、家人でもない。それだのに古いよしみを重んじ盛衰(せいすい)をもって志を二つにせず、終始今川氏のために守って屈せず奮戦力闘日夜をわかたず、却って寄手を攻めること数度ならず、その忠勇義烈は最も深く感ずるところである。
しかし今や掛川との和睦もなり、遠州一円は我がものとなった。わが領にある者はわが命を聞く、これ天意人道ではないか。われはすでに氏の武勇を認めた。いま帰順したならば、間違いなく所領は元のままにしておこう」と。
家康からの降伏説得はたびたびあったようである。掛川城への書状にも、敵方から種々難題をかけられている、というのはこの説得のことを指しているものと思われる。


基胤はこれに対して「使者の言葉はよくわかった。その言葉が果たしていつわりで無かったら、家康自筆の誓書を得てから、おもむろに考えよう。それが得られぬ場合は我また答える言葉はない」と返事した。


使者は帰って家康にこれを報告した。家康は「基胤の言葉には理がある。我なんぞ誓書を与えることを惜(お)しまう」と言って次のような起請文(きしょうもん)を自ら血判して基胤に与えた。

敬(うやうや)しく白(もう)す起請文の事
1.当城へ居城のこと
1.諸事公事を抜くこと有るまじきこと
1.本知何(いず)れも前々の如く新居のため呉松に替地相違有るまじきこと。
1.当知行分諸不入並びに当城下の諸成敗山河と共に前々の如く為すべき事
1.万事に於いて虚説(きょせつ)などこれ有るに於いては訴人は糺明(きゅうめい)を遂(と)ぐべき事
右の条々偽(いつわ)るに於いては 上は
梵天(ぼんてん)、帝釈(ていしゃく)、四天王総じて日本国中大小神祇(しんぎ)、別して弓矢八幡麻利支天(まりしてん)、富士白山愛宕(あたご)山、秋葉天満大自在、天神様の御罰を蒙(こうむ)り、今生に於いては弓矢冥加(みょうが)を尽くし、黒白病を得、来世にては無間に落つべきものなり。
仍(よ)って起請文件(くだん)の如し
永禄十二年四月十二日  家康 血判
   大沢佐エ門佐殿
     中安兵部少輔殿
     権太織部佐殿


なお同文で同月同日、酒井佐エ門尉(じょう)忠次と石川伯耆守(ほうきのかみ)数正の血判による起請文が渡されて、誓いの固いことを示した。


こうして永禄12年4月12日、基胤は家康と和睦の形で、20日間の激闘が終わったのである。


破竹の勢いで諸城を陥(おとしい)れた家康が、かくまで礼を厚くして和睦したことは、一つには大沢氏の家系の貴(とうと)さにもよろうが、二つにはその士卒の勇武と堅固な自然的地形のために攻めあぐねた結果であり、更に推理を働かせれば、天下統一の大業を前に、このような小城にいつまでもかまってはいられぬ、というあせりの気持ちがあったのではなかろうか。

永禄11年家康は信玄と約して、今川義元の遺子氏真の暗愚に乗じて、駿遠を分取しようとした。すなわち信玄は駿河を攻めて氏真を掛川城に敗走させ、家康また掛川城を攻めた。


思えば、足利氏の一門として、また関東の副将軍として勢威の強大を誇った今川氏も、その末路のあわれさ。懸命の地と頼んだ掛川城も今や四面ことごとく楚歌(そか)。わずかに大沢氏が、家康の根拠地西遠の地において義のために抗戦よく奮戦した。

数代にわたる栄華を夢として、今や正に亡(ほろ)びようとする今川氏に取っては、基胤の善戦こそは無上のはなむけとなったことであろう。


これより10年後、家康の長男信康は信長の怒りを買い、家康の助命運動も空(むな)しく、三河の大浜から堀江城に入り、一宿して二俣城に至り自刃(じじん)して果てた。まことにふしぎな因縁と言うべきであろう。

次号につづく
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月07日 06時34分41秒 ) パスワード

中安盛乗




中安 盛乗(なかやす せいへい[1]、安永4年(1775年) - 嘉永5年(1852年))は、江戸時代の久保田藩家老。通称は波江、主典。号は弦斎。諱は盛乗。中安庄右衛門の婿養子で、夫人は中安庄右衛門の娘。実家は北村氏。久保田藩記録の「国典類抄」の編集者。

経歴[編集]

享和元年(1801年)に中安家の家督を相続し、文化2年(1805年)に副役に就任。翌年(1806年)評定奉行兼町奉行となり、文化8年(1811年)に「国典類抄」の編集を行う。文化10年(1813年)に郡奉行となる。

文政元年(1818年)に用人となり、同4年(1821年)に藩主佐竹義厚の侍読及び江戸詰めとなる。文政年中の須原屋版武鑑にも中安主典の名が見える。

文政8年(1825年)に側頭となり、翌年(1826年)に一代宿老となる。その後、頭取席、大番頭と進む。天保年中の武鑑に側頭取として中安主典の名が見える。天保5年(1834年)、永代宿老の家格となり、家老加談役、家老本役と進む。天保8年(1837年)に辞職、隠居。嘉永5年(1852年)死去。享年78。墓所は秋田市旭北町の鱗勝院[2]。

脚注[編集]
1.^ 「三百藩家臣人名事典1」。有職読みと思われる
2.^ 秋田武鑑でも禅宗鱗勝院を菩提寺として記載している。

参考文献[編集]
三浦賢童編「秋田武鑑 全」(無明堂出版、1981年、原著者は「久保田家中分限帳」の著者)
家臣人名事典編集会「三百藩家臣人名事典1」(新人物往来社、1987年)
「編年江戸武鑑・文政武鑑5」(柏書房)
橋本傳『改訂増補 大武鑑 中巻』(1965年・名著刊行会)
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月07日 06時51分35秒 ) パスワード

わたくしのPCでは開け方が分からないですが:


http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&ved=0CB4QFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.pref.akita.lg.jp%2Fwww%2Fcontents%2F1251352984801%2Ffiles%2Fmokuroku053.xls&ei=WAUzVOT9BYLloASegYLgCg&usg=AFQjCNEktJQmAvlJayPBdqlcA1Y4OJ8SJA

[XLS]中安家文書 - 秋田県

www.pref.akita.lg.jp/www/contents/.../mokuroku053....

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1, 秋田県公文書館所蔵 中安家文書目録, 平成21年12月2日現在. 2, 出所, 中安家, 歴史, 中安家はもともと15石の下級藩士だったが、中安主典盛秉(安永4年(1775)11 ...

    秋田の佐竹ですね
    へえ〜

[XLS]船木家文書 - 秋田県    これも開けられません

http://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=2&cad=rja&uact=8&ved=0CCYQFjAB&url=http%3A%2F%2Fwww.pref.akita.lg.jp%2Fwww%2Fcontents%2F1251352984801%2Ffiles%2Fmokuroku080.xls&ei=WAUzVOT9BYLloASegYLgCg&usg=AFQjCNHhxS1BkuoqAZvmGpikXAQ5kWJ3yQ



www.pref.akita.lg.jp/www/contents/.../mokuroku080....


Apr 4, 2014 - 中安家はもともと15石の下級藩士だったが、中安盛秉(安永4年(1775)11月1日〜嘉永5年(1852)5月27日)が家老まで引き立てられ家禄は170石に ...
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月07日 07時23分16秒 ) パスワード

>野中氏ノ家伝ニ曰(いわ)ク、本名中安氏マタ堀江氏、後ニ野中氏ト改ム。
>家紋ハ初メ木瓜(ぼけ)ノ内花ベツ甲、後ニ丸ノ内三日月ト改ム。


わたくしの本では  野中氏で三日月紋は  源氏  になっていました。



復習:

堀江城の実力者中安氏

堀江和泉守光真が応永年間(1394─1427)に越前国(福井県)から遠江国へ来て初代の佐田城主となった。


光真の先祖は藤原時国で、

        ↑
      この人は平清盛の後妻の時子さんの弟の平時忠の子?
      能登に流された記憶です。
      今でも能登に存続しています。


      時子さんの実家は平姓でも、もともとは堂上家=(中級)貴族系ですから
      それで  藤原姓  になった?



越前国で新田氏に属して度々武功を立てたが、更に東方の反乱を静めようと、
後醍醐天皇の第一皇子尊良親王に従って、        ←   南朝方ですよ〜
伊勢湾から乗船して遠州灘にさしかかった時、逆風のため難破して
将兵は四散し、
やっとのことで親王と共に福田港に漂着した。

そこから高部(袋井市高尾)へ行き行宮(あんぐう)を建てて住んだが、17年後親王は薨去(こうきょ)した。


時国は越前国坂井郡に帰り堀江の庄70か村を領有したので、堀江と姓を改め、元中3年(1386)に死去した。

時国の後は、景経(かげつね)、景重と続いて光真となった。


佐田という地名は「堀江、内山を佐田と号す」と三ヶ日金剛寺の過去帳に見えるけれども、
さて佐田城の所在となると不明である。

しかし光真以下六代の城主やその子孫が存在していたことは事実である。

堀江光真が佐田城へ来る4・50年前に、すでに大沢氏は堀江城にいた。


系譜でわかるように中安氏は佐田城主五代目の為清の次男豊種から出ている。



名字が何度も変わっているのでややこしいですね。

姓もいろいろ変わっているようですし
家紋の話によると野中は源氏というのは
    姓が藤原から源氏に変わったのは
新田に従ってたから尊良親王がらみで源姓を賜ったのかも


   尾張の服部家のホンヤさんがそうだから

でも、この上記レスの内容からでは藤原姓ですね。
[16]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月07日 08時51分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 永田様、あを様いろいろスゴイ情報ありがとうございます。
 内容についてとりあえず熟読いたします。完全理解するまでには時間がか
かりそうです。

 
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月07日 22時37分45秒 ) パスワード

わたくしの家紋の本に出ていた「丸に三日月紋の野中氏は源氏」という情報と異なり
別の家の野中氏については以下の情報がヒットしました。

全く異なる野中氏なのでお気になさいませんように。



野中氏

藤の丸に三つ巴
(村上源氏赤松氏流)

    ということで全く別の野中氏です。
   播磨の野中氏ですね。

    
伊豆守則景の四代孫家則の三男貞国が野中氏を称した。
貞国は元弘の役に際して武功をあげ、印南郡野中城に拠った。
後醍醐天皇方に属して、建武の新政樹立に功があった。

子孫は、福地・坂の上・井上の諸氏に分かれ、さらに石見・舟代の諸氏が出た。


石見刑部左衛門は嘉吉の乱に軍功をあげた。
その子太郎左衛門は赤松政則に属した。
 
戦国時代、石見修理久国・式部久実兄弟は三木城に篭城したが、
落城後浪人となり、飾東郡御着村天川に居住したという。


江戸時代、土佐藩山内氏の家老となって、藩政改革を進めた野中兼山は、この一族で、家紋は三つ巴だった。

かれの改革は、周囲の反発によって挫折し、その一家は押籠めに処され子孫根絶しとなった。


   この野中兼山の小説は読んだことがあります。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月08日 06時27分36秒 ) パスワード

とはいえ、この野中氏は掛川から土佐に転府になった山内氏にくっついて行った、ということでしょうか?


野中氏というと政治家の野中広務さんを連想します。
野中氏のことは、野中兼山のことが原因なのかな、と思いました。
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月08日 06時51分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 永田様、ありがとうございます。長田氏について、服部氏とどのような関係
があったのか知りたいと思っておりますので、わかりましたらよろしくお願い
いたします。

 あを様、堀江の荘などほとんど庄屋屋敷位にしか思っていませんでしたが、
ビックリ、唖然でした。こんなにすさまじい戦いがあったとは全く知りません
でした。中安氏を武将と改めて認識いたしました。近々義兄には伝えます。
 松島十湖の「曾孫」さんには、来週早々食事をしながら伝える予定です。さ
あ2人の反応はどうであろうか・・・興味をさらに持っていただけたらなあと
思っています。

 細江町気賀という所は浜松の守りにも、また逆に外から攻める場合にも、正
に重要なポイントだったのがよくわかって来ました。今のように国道一号線、
新幹線が浜名湖の橋の上を横断していませんでしたから。
 昔を理解するには、昔の地理、環境の中に舞い降りないと正しい認識・理解
は得られないこともよくわかりました。

 昨日は時間がなくて、読み砕くのがやっとでしたので、新たな話題展開が
できませんが、今後気賀、新居の関所や近辺の史跡、堀江の荘の調査に行って
まいります。何かの発見はあると思いますので。

 永井氏についてですが、加藤家の系図の中に、光泰の傍系子孫と思われる
五人兄弟(猪豫依り遠州に下向)の二男加藤清成・号岩太郎が永井・服部の祖と
なると書かれています。確かに、実態として隣近所として永井と服部は暮らし
ています。
 また、四男の加藤武光・号亀太郎が松島・鈴木の祖となると書いてあります
が、正にこれも隣近所としてお互い暮らしています。
 長男の泰清・号五郎兵衛が加藤家を継ぎ、加藤氏族が全体のツナギとなって
来たといえばそうかもしれません。
 いずれにしても五氏についてあを様のおかげにより、いろいろな背景・関係
が見えて来ましたことは事実です。100パーセントの確証はございませんが、
今後更に確証に近づけるよう、状況証拠なりを見つけ出して行きたいと思って
います。
 善地1番地の近くにに天満宮があるはずですが、除籍謄本から見ると、私の
本家のおじいさん(私の祖父の兄)は1番地の加藤家より嫁をもらっています。
曾祖父は高祖父の家に婿養子で入っていますが、除籍謄本の記載より探ると、
6番地に家があったように思えます。つまり、神社のすぐ周りに取り囲むよう
にして加藤、服部、永井、そして一段おいて松島、鈴木が住んでいたという形
が見えてまいりました。
 加藤本家には光泰が賤ヶ岳で脇に鎗傷を受ける活躍をして、肥前の忠吉とい
う名刀を賜り、それが加藤本家に残っていたという。また加藤分家には槍があ
ったと聞いています。 
 ・・・さらに探索を続けて行きます。

 猿楽については次にしますが、一点下記のとおり訂正をさせていただきます。
    猿女氏の祖:アメノコヤネ→アメノウズメ
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月08日 13時23分16秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/yasuko8787/o-077.htm


多氏というのがどこかで出てきましたよね

多氏と猿女の密接さの接点はなにか




 猿女君が『古事記』つまり「フルコト」にかかわることは、次の記事からもうかがえる。『先代旧事紀』の神武天皇の条に、
  鎮魂祭の日には、猿女君らが多くの歌女(うたいめ)を率いて、その”言本(ことのものと)”を挙  げる。神楽歌舞(かぐらかぶ)はその縁による

とある。

「歌女」が「コトノモト」を挙げることと、「神楽歌舞」が「コトノモト」と関係があることからして、この「コト」も、「フルコト」と同じ意味にとってよいであろう。

 猿女君は、「言(こと)」を挙げているが、歌女が言挙(ことあ)げをしていることからして、節をつけての「コトアゲ」であろう。



          

       稗田氏は猿女君とともに芸能の始祖神アメノウズメの子孫
                   ↓
ところで『古事記』の序文によれば、稗田阿礼は天武天皇の詔をうけて、「帝皇日継(すめらみことのひつぎ)」と「先代旧辞(さきのよのふること)」を「誦習」したとある。

「誦」とはただ「よむ」ことではない。節をつけて読むことである。「習」とは繰り返しである。だから「誦習」とは、節をつけて繰り返しよむことである。

 これは、猿女君が歌女とともに「言本(ことのもと)」を挙げるのと似ている。誦習とは「フルコト」の「コトアゲ」であろう。

とすれば、「フルコト」(序文では旧辞(ふること)と書く)の誦習には、猿女君は欠くことができなかったのである。

とすれば、猿女君の姓稗田を誦習者に使うのは当然であるが、このことは「神楽歌舞」にもかかわっている。

 猿女君の祖天鈿女(あめのうずうずめ)命は、天岩戸の前で歌舞をやった。『古語拾遺(こごしゅうい)』に、神楽は天鈿女命によってはじまっYに記されているように、猿女は鎮魂の儀式に携わるためである。そしてこの猿女は縫殿寮に属すると『西宮記』にある。

『延喜式(えんぎしき)』によれば、縫殿寮の猿女は緋色の「ヒレ」をつけて鎮魂祭に列したとある。この「ヒレ」は『古事記』や『肥前国風土記』に「ヒレフリ」と出てくるように、呪力を「ヒレ」に託す「巫女」の行う呪術である。

 鎮魂祭は「タマフリ」と「タマシズメ」があるが、猿女の役割は「ヒレ」を振ることによって神の魂を呼びおこす「タマフリ」である。

だから天鈿女命が神楽をした時に陰(ほと)もあらわにして皆が打興じたので、何事かと天照大神が戸を開けて見たとするのは、猿女の鎮魂祭における「タマフリ」の歌舞を神話化したものである。

                                多氏 
                                ↓
 ところで、日本芸能史における神楽・舞楽の祖は誰かというと、多自然麻呂(じぜまろ)ということになっている。このことは宮内庁の雅楽寮にある「雅楽家系図」に記されている。

この多自然麻呂は、承和から貞観の頃に活躍した人物である。『樂家録』にも、神楽舞楽の祖は多自然麻呂と明示されている。

前述したが、この多自然麻呂を祖とする多氏が、今も宮内庁の雅楽寮の樂人なのである。彼らは神楽の人長役をやる家柄である。

このように、多氏と伝承上の神楽の祖天鈿女命の後裔である猿女の君とは、神楽や歌舞ではピッタリ結びつく。

歌舞は本来「神事(かみごと)」であるが、例えば「神語(かみがたり)」という言葉があるように、かたりもまた神事である。

つまり神の言葉を人に伝え、人の言葉を神に奉ずるという形で、語りがある。「カミガタリ」は
「アマガタリ」ともいわれれるが、これらに猿女君も多氏もかかわっている。

そして、「カミガタリ」「アマガタリ」とは、前に述べたように「フルコト」である。「フルコト」が神の語りである。

 古代人にとって、「昔こういうことがあった」と語ることは、普通の会話ではない。またそういう古い昔のことを知って語る人も、普通の人ではなかった。

だから、このような「フルコト」を語れる人は特別な人であり、そのような「フルコト」は、単なる話し方ではなく、特別な話し方、つまり言葉に節をつけて語った。

それが「歌」になったのである。琴に合わせて語ったのが歌となった。それらの歌で宮廷にある歌を大歌といったのである。

 その大歌を誦したのが大歌氏の多氏であるが、大歌師の多氏のところに、現存『古事記』や異本『古事記』をのせている『琴歌譜』があった。

 折口信夫は大歌について、「宮廷における鎮魂の歌である」と書いておられるが、多氏が大歌師であるということは、猿女と同じく、鎮魂の語りをやっていたということである。

樂家多氏の役割はこの大歌を誦することである。それは、多自然麻呂以来、現在の樂家多氏の時代まで、多氏の役割として伝えられてきた。

 宮内省の樂部の樂長をしていた多忠竜が、昭和十八年に刊行した『雅楽』という本の中でも、「多家は神楽の家といっても、歌の家柄なので、昔は笛や篳篥(ひちりき)を吹かなかった。
吹こうと思えば吹けたけれど、御神楽のときは歌だけを受けもっていた。

これが大むかしのこととなるともっとはっきりしていて、まったく歌一方、篳篥とか、笛とかは、それぞれの専門の家にまかせていたものです」と語っている。

 御神楽の歌、つまり神語りとしての大歌の歌をうたうのが多氏であった。その歌に合わせて歌ったり舞ったりするのが猿女氏である。

 もちろん多氏は人長として舞いもやるが、中心は歌である。鎮魂の大歌は振りと歌に分かれる。そして「振り」を猿女がやり、歌を多氏がやった。

『古事記』と『神楽』で結びつく多氏と猿女氏の関係を図示すると、次のようになる。

    ――稗田阿礼――猿女君――伊勢海人――神語――
   ↑                                 ↓
  古事記                              神楽
   ↓                                 ↑
    ――太安萬侶――多 氏――大 歌  師――大歌――

 猿女は伊勢海人であり、「アマガタリ」「カミガタリ」をやったとある。この伊勢海人――神語が、多氏では大歌師――大歌の関係である。

このように神楽の線で猿女と多氏が平安朝の頃に結びついていたことは確かである。とすれば、多人長が撰録者太安萬侶に対し、誦習者として、稗田阿礼という姓名で猿女氏を登場させるのは、当然のことと考えられるのである。

 今までは、記憶力のいい聡明な稗田阿礼が語ったのを、文才のある太安萬侶が記録したというだな段階でしか解釈せず、稗田阿礼・太安萬侶の背景にある氏族の視点が欠落していた。

しかし氏族の視点でみれば、太安萬侶に対して稗田阿礼の登場は、しごく自然なのである。





 『古事記』を伝えた後宮の女たち




「阿礼」のもつ神聖観念とは、日つぎの御子の誕生である。『古事記』の長い説話のほとんどは産育説話である。母と子の物語である。

『古事記』が一番スペースをとっているのは、ヤマトタケル物語とホムチワケ物語とホムタワケ物語である.いずれも母(姨)と子の物語である。……

 『古事記』に息長・和邇氏の伝承が多く入っていることについては、国文学者・歴史家の多くが指摘している。

私(大和岩雄)はこれらの氏族を、皇妃出身氏族・または産育氏族と書いているが、これら後宮の氏族の伝承が集大成したものが『古事記』なのである。そのことは稗田阿礼という言葉に象徴されているのである。

 皇子の産育を「壬生(みぶ)」というが、多氏もまた「壬生」にかかわることは、高橋六二の論考「ミブと文学――多氏の職掌をめぐって」にくわしい。

高橋教授はふれていないが、例えば多品治の湯沐令についても、子供を育てることを湯沐(ゆのうながし)という。子供が生まれた時に湯に入れてやるという意味である。だから、湯沐令は、皇子の直轄領地を管掌する責任者ということである。

 高橋六二は「ミブと文学」で、ミブ(壬生・乳母)と多氏の関係の深さを論じて、

「『古事記』はその成立から言って<女の文学>である。しかもその伝承上の本質は、<産育の文学>にあると言えよう」

と述べているが、多氏にも、阿礼にかかわる性格が氏族としてあると考えられる。太(多)神社の性格にもそれが見られるが、太神社の御神体は女神像である。

なお、『古事記』が後宮に関係があることは、三谷栄一・阿部寛子らが力説しておられるが、阿部寛子は「古事記と尾張氏」で、

『日本書紀』は必ず後宮の場合はそう明記しているが、古事記はまったくそのことは書かない。そして采女の交情や采女が姦通したとかいう記事はあるけれど、そのときに後宮ということは書かない。要するに、采女の話があっても采女とか後宮という字を入れない。ということは、逆に采女や後宮がそれを伝承しているから、語らずして語っているのであろう、

と書いている。

 このことからして、原『古事記』は、天武朝の後宮の「阿礼」にかかわる氏族の伝えてきた伝承を、猿女らに語らせまとめたものと推察できるのである。





 稗田阿礼という姓名のもつ意味、




 『古事記』は、一言で言えば、巫女文学であり、姨(乳母)の語りである。平安時代の後宮の女房文学のはしりは、『古事記』にみられる。しかし、『古事記』はプレ女房文学としての性格だけではない。

 稗田阿礼は天武天皇の舎人という設定になっていて、現存『古事記』の後宮的性格を示しているが、後宮の阿礼だけでなく、柳田国男のいう「漂泊の婦女」としての阿礼がいた。

この阿礼たちが伝えた「数限りもない古事記は永く平民の間に活き働いていた」と柳田国男は書くが、私が重視したいのは、この「数限りもない古事記」である。

猿女というのは日本の芸能の源流になっており、猿楽などの言葉でも分るように、漂泊芸能民である。差別され、いためつけられた漂泊芸能民としての伝承、そういう「フルコト」が「フルコトブミ」の原点にある。

 その意味では、勅撰書らしくしたてられた『古事記』の序文を取って、古代人の人々が伝えてきた「フルコト」の原点を、この『古事記』から探り出したいと思っている。

その視点に立てば、誦習者としての稗田阿礼は、実在しないとしても、重い意味を持っているのであり、序文は偽作であっても、現存『古事記』は、古典として価値高い書であることに、変りはないのである。

[21]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月08日 13時40分06秒 ) パスワード

等の青海のあを様

 石見守というのは、服部氏族の肩書きにしばしばつきますが、石見は銀山。
金山奉行として大久保長安が有名です。もちろん銀山も手がけました。
 長安ももともとは猿楽師。また服部氏族には、猿楽師(能楽師)がまた多い。観阿弥・世阿弥親子・音阿弥、服部正信・友清親子・・・。

 猿楽師と金・銀の関係の必然性はどこにあるのでしょうか?

 猿楽の由来と山の民の由来、則ちまつろわぬ民と化した古代氏族の落人ネ
トワークと秘技。 
 金山衆と猿楽師は強いつながりがあったようである。

 十二支で申(猿)の後ろの正面は何でしよう。そう、寅(虎)です。虎は金色
の縞模様、金運を招くという。猿が虎を呼び金運をもたらす・・・。
 
 こんなことを考えてみましたが、「申」、「申楽」に含まれる謎はもっと
深いと思います。

 長安一族達は、秘密を知り過ぎていた。また不気味さと、末恐ろしさと、
これからの邪魔者と化すので粛正された・・・真相はこうではなかったのか。
 もちろん大久保一族と本多一族の争いも根底にはあったことは確かではあり
ますが・・・。

 簡単にまとめすぎましたか・・・。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月08日 22時48分54秒 ) パスワード

書き直し


三つ柏さん


神代の時代に話がいくと、神様のお名前と役割が理解不可能なほどワケが分からなくなります。

    もっと全体を見て理解してからでないとダメですね。

同じ神様が複数のお名前を持っていたりするので更にワケが分からなくなります。


そしてその神様から派生した人々の名前・・・


    もうグチャグチャです。


でも確実に現代まで繋がっているんですよね。



この平熱でも(この人とこの人とこの人とこの人とこの人と・・・略・・・この人とワタシは繋がっているのか)と
驚きます。

昔のクラスメートでも戦国時代に繋がっていたり敵対していた関係だったのかと驚きます。


残念ながら歴史の授業で出て来た人物の名前の役割はほんの表面だけで
    その人の2つ3つの情報だけ
に過ぎないんですよね。


大久保長安の危険性は何だったのか?
   確かに表面的には横領をやってたんでしょうけど
   その横領を罪として幕閣から閨閥も共に排除しなくてはいけなかった秘密って?
   何故大久保長安と共に服部氏も排除されたのか
となんとなく分かって来ました。


   猿楽も1つなんでしょうね



核心にはまだまだ全然辿りつけないのですが。
それには本多家についても調べないといけないですね。


   本多って名字はなんとなく嫌いでしたが
   大久保 vs 本多  の争いに服部も無関係じゃなかったんだと
   上記の三つ柏さんの書き込みで思いました。

   逆に本多には実は本心で服部潰しがあったのか?と。


   本多と服部の関係を調べないとね。
    ひょっとすると長安を大久保に引っ張って来たのは服部氏だったかも知れないし。


謎が謎呼ぶ疑獄事件。
面白くなって来ました。


って、どんどん逸れて行ってしまいます。


それより加藤氏・松島氏・永井氏・鈴木氏との関係を調べなきゃいけない・・・・
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月09日 10時31分58秒 ) パスワード

天満宮というのがそもそも 道真ゆかり というのしか分かりません。
加藤氏・服部氏・永井氏・松島氏・鈴木氏と道真公との関係は?




長上郡[ナカノカミ]:5座並小


大歳神社[オホトシ]
大歳神社「素戔嗚尊、大歳神、櫛稻田媛命」景行天皇御代。

御由緒・沿革

天王宮          ← これは素盞嗚命ですよね


当社は、景行天皇40代事代主命が須羽に天王社を建立し、祖先を祀るに創りこの霊殿を日本武尊東征の年、この地の首長御久和神人この処に遷座したものである。

坂上 田村麿が東征に出陣の際、武運長久を祈願したとも言われ、遠州一園の天王社の総社 と言われている。

大歳神社 当社は延喜式内社であり、約千二百年前、醍醐天皇の御代に編寡された「延喜式神名 帳」に遠江国長上郡小一座大歳神社とある。

静岡県浜松市天王町1484-1 阜嵐健


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蒲神明宮[かば]

「天照皇大御神 配 天手力男神、萬幡豐秋津師比賣命、豐受比賣神、國之常立神、天兒屋根命、天太玉命」大同元年。

御由緒・沿革

当神社は「蒲神明宮」と申し俚言は、ごんしんさまと称へ勧請は大同元年3月16日 にして神位は三代実録に貞観16年5月11日正六位上蒲大神に従五位下を授くとある。

往古は蒲大神と称し中古より蒲神明宮とす。

天正6年正月と寛政5年12月の2 回の災に罹り古書焼失す。

しかれども鎌倉幕府以来の古文書39通を蔵す。

旧御朱印 260石並に新田高55石7斗余。

明治6年3月郷社に大正10年11月19日県社 に昇格す。

境内に土推を祭るもの二つあり。
   一つは土の宮と一は高の宮と称す。伊勢 神宮の規範に従って20年遷宮を行う。1月1日早旦お田打の神事を行う。

静岡県浜松市神立町471 阜嵐健


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邑勢神社[イフセ]
邑勢神社[おおせ]「豐受大神 配 天津彦火瓊瓊杵命、天兒屋根命、天太玉命」

御由緒・沿革

当神社は遠江国62座の内、旧長上郡5座の1座にして延喜式神名帳所載の邑勢神社なり。

創立年代不詳なれども元亀元年庚午9月15日再建の儀棟札あり。

旧社領光明 天皇の御宇伊奈備前守の頃高5石4斗徳川家光公より寄進せられその後代々朱印証文を賜る。

当社は維新以前は邑勢神社神明宮と称してきたれる所、明治6年3月郷社となり、邑勢神社と改称す。

往古より21年毎に新殿を造営し、御遷宮をしてきた。

静岡県浜松市大島町1244 阜嵐健


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服織神社[ハトリ]
服織神社[はたおり]「穗日命」

静岡県浜松市豊町2501 阜嵐健

                 何にも情報が無い?


それでワタクシがアメノホヒのミコトについてコピペします。

アメノホヒ


アマテラスとスサノヲの誓約(『古事記』に基づく)


アメノホヒは、日本神話に登場する男神。天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神などと書かれる。


天照大神とスサノオが誓約をしたときに、
天照大神の右のみずらに巻いた勾玉から成った。

物実(ものざね:物事のタネとなるもの)の持ち主である天照大神の第二子とされ、
アメノオシホミミの弟神にあたる。


葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、
大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、
3年間高天原に戻らなかった。

その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、
子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。


任務を遂行しなかったというのは『古事記』や『日本書紀』による記述だが、『出雲国造神賀詞』では異なる記述になっている。

これによれば、アメノホヒは地上の悪神を鎮めるために地上に遣わされ、
地上の様子を天照大神にきちんと報告し、
子のアメノヒナドリおよび剣の神フツヌシとともに地上を平定した、としている。


すなわち、こちらでは地上を平定した偉大な神とされているが、『出雲国造神賀詞』はアメノホヒの子孫である出雲国造が書いたものであるので、そこは割り引かなければならないかもしれない。


名前の「ホヒ」を「穂霊」の意味として稲穂の神とする説と、「火日」の意味として太陽神とする説がある。

          なるほど なるほど
           ↓    ↓
農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神などとして信仰されており、能義神社(島根県安来市。出雲四大神である野城大神と呼ばれる)などの旧出雲国内だけでなく、
天穂日命神社(鳥取県鳥取市福井)、鷲宮神社(埼玉県久喜市鷲宮)、桐生天満宮(群馬県桐生市)、芦屋神社(兵庫県芦屋市)、馬見岡綿向神社(滋賀県蒲生郡日野町)など全国で祀られている。

六甲山山頂、六甲山カンツリーハウス敷地内にアメノホヒ=天穂日命の磐座がある。




天穂日命を祀る神社 [編集]

能義神社 島根県安来市
出雲大社 境内 氏社 島根県出雲市大社町
天穂日命神社 鳥取市福井
大江神社 鳥取県八頭郡八頭町
芦屋神社 兵庫県芦屋市
綱敷天満宮 兵庫県神戸市東灘区御影
馬見岡綿向神社 滋賀県蒲生郡日野町
太宰府天満宮 境内 天穂日命社 福岡県太宰府市

                天満宮も出てますね

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朝日波多加神社[アサヒハタカ]
神明宮「天照皇大神、豐受姫大神、天手力男命、栲幡千千姫命」

社頭掲示
創立年代不詳なるも、当地を宇治乃と称せし時代に伊勢皇大神宮より勧請し、
祭主藤原氏市右衛門道次、神主又左衛門、菅性三良左衛門此処に祭祀す。

大日本史によれば朝日多賀神社は、宇治乃(内野)にあり神明社と称し天照大神を祀り、長上郡内五座の一社なり。


遠江風土記神風抄に、遠江国宇治の御厨にして神明社朱符之神田高三石とあり。

静岡県浜北市内野713 阜嵐健


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六所神社[ろくしょ]

「表筒男尊、中筒男尊、底筒男尊、表津少童尊、中津少童尊、
底津少童尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照皇大神、月夜見尊、素盞嗚尊、蛭子尊」
                                 ↑
                                ヒルコ・エビス  


静岡県浜松市半田3390


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有玉神社[ありたま]
「天照意保比留賣貴命 配 天手力男命、萬幡豐秋津姫命 合 譽田別命、息長足姫命、大鷦鷯命、猿田彦命、菅原道眞、國狹槌命、彌都波能賣神、 金山彦命、稻倉魂命、事解男命、速玉男命、大年神、御年神、志那都比賣命、須佐之男命、大物主命、大山祇命、伊邪那岐命、伊邪那美命、志那都比古命」

御由緒・沿革
明治40年、当時の有玉村は世帯数380戸あり、地域内には郷社神明宮を初めとし て村社、無格社合わせて12社があり、そのうち村全体で祭典を行う神社が3社、小 部落で行う神社が9社あった。神社の多くは境内、社殿共に狭く神社の尊厳を保持し がたく、加えて祭典の繁雑さを訴える世論が台頭してきたので関係者協議の結果、1 村1社に合併し、宏荘・尊厳なる社殿を建築して氏子の信仰と高の社会教化の中心に しようとして、明治40年9月10日、郷社神明宮を八幡宮境内に移転し併せて11 社を合祀し、郷社有玉神社を称することにした。

新社殿は大正2年に完成し、同年9 月10日に御遷宮された。
昭和27年8月20日宗教法人有玉神社の認証を受け、静岡県神社等級規定により6 等級神社と承認された。


静岡県浜松市有玉南町1916 阜嵐健


蒲神明宮 式内大歳神社に掲載済み。
稲荷神社「大己貴命、大宮比賣命、經津主神、太田命、保食神」


静岡県浜北市小林1542 阜嵐健



子倉神社[コクラ]



子安神社「木花之佐久夜毘賣命」静岡県浜松市白鳥町1350 阜嵐健


稲荷神社「蒼稻魂命 配 保食命、大國主命、大田命」

静岡県浜松市飯田町929 阜嵐健
[26]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月09日 11時32分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 とりあえず─

 大久保陣屋の「服部」の家紋が「丸に並び矢」
 神ヶ谷(神久呂)の「松下」一門の家紋も「丸に並び矢」
 
 「松島」氏は「丸に一文字」です。

 以上、取り急ぎご連絡申し上げます。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月09日 14時35分13秒 ) パスワード

>大久保陣屋の「服部」の家紋が「丸に並び矢」
>神ヶ谷(神久呂)の「松下」一門の家紋も「丸に並び矢」
>「松島」氏は「丸に一文字」です。


そうでした、そうでした!
ありがとうございました。


松「下」と松「島」がこんがらがってました。
松「下」が完全に落ちていました。

上記は書きなおさなくては。


ところが最近アチコチで「松下」家を見かけるんです。
不思議です。

何か関係しているのかも。
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月09日 14時40分47秒 ) パスワード

書き直し:


家紋についてとんでもない勘違いがありましたので(恥)
削除の上、書き直しをいたします。




>加藤家の系図の中に、光泰の傍系子孫と思われる五人兄弟(猪豫依り遠州に下向)あり

>長男   加藤泰清・号五郎兵衛が加藤家を継ぐ

>二男   加藤清成・号岩太郎が永井・服部の祖となる

                  ↑
         ここでも養子縁組をしてるんでしょうね
                  ↓
    
四男    加藤武光・号亀太郎が松島・鈴木の祖となる



3男さんと5男さんはどこに養子に行ったのでしょうね。

    仲田家とか中安家だったらスゴイのヒトコトですね。



>善地1番地の近くに天満宮があるはずですが、除籍謄本から見ると、
>私の本家のおじいさん(私の祖父の兄)は1番地の加藤家より嫁をもらっています。

    まことに、当然の嫁取りですよね。
    これで加藤家と服部家の資産が守れます。


>曾祖父は高祖父の家に婿養子で入っていますが、

    きっと服部家の高祖父さまと曽祖父さまの関係は  伯父甥の関係  だったかも
     


>加藤、服部、永井、そして一段おいて松島、鈴木が住んでいた

    天満宮を中心に一族関係でしょうね。
    5家ともにこの天満宮の氏子?

    加藤家が氏子代表?



>加藤本家には光泰が賤ヶ岳で脇に鎗傷を受ける活躍をして、
>肥前の忠吉という名刀を賜り、それが加藤本家に残っていたという。
>また加藤分家には槍があったと聞いています。 

    ↓


肥前忠吉 (初代)

初代 忠吉は、肥前新刀鍛冶。橋本新左衛門。
龍造寺家の家臣である橋本道弘の子。
名手とされる。新刀最上作最上大業物 山城国埋忠明寿門人。


初代忠吉は元亀3年(1572年)、高木瀬村長瀬(現佐賀県佐賀市高木瀬町大字長瀬)に生まれた。

橋本家は元々武士で少弐氏の一族とされる。

九州の大名龍造寺氏に仕えていたが、祖父の盛弘と父の道弘は天正12年(1584年)3月24日に島原での沖田畷の戦いの際に討死をしている。


この時忠吉はまだ13歳であったがために、軍役叶わずとして知行断絶した。


このため一家は刀匠に転身し、慶長元年(1596年)に 上京して、
山城国の埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の門に入り刀工としての技を磨いた。


慶長3年(1598年)に帰国して 佐賀城下町(現長瀬町)に居を構え、
鍋島勝茂から戦功ある家柄であったということであらためて取立てられ、
代々藩工として栄えた。


橋本家は鋳物師の谷口家(初代谷口清左衛門長光)とともに「手明槍」(佐賀藩の下級武士)となり、
世禄二十五石を貰うようになった。


制作の時期により、五字忠銘、秀岸銘、住人銘、改銘後の忠広銘に分かれる。


初期は「五字忠銘」といって「肥前国忠吉」の銘がほとんどのようである。
                

秀岸というのは僧侶らしく、この人の書く字を真似て切った癖のある切銘のことを言う。
秀岸銘をやめてのち、「肥前国住人忠吉作」などと切る住人銘になる。


晩年は武蔵大掾を受領し名を「忠広」と改め「武蔵大掾藤原忠広」と切る。
重要美術品の刀、脇差しがある。


息子の近江大掾忠広以下、幕末まで一貫して続く肥前刀の開祖といえよう。



刀の所有歴があると言われる人[編集]
田宮重正 - 田宮流居合の開祖 元和五年に肥前の初代忠吉に刀を注文する。
勝海舟
岡田以蔵
萬屋錦之介 愛刀百華選165pにて紹介
佐田の山晋松 愛刀百華選164pにて紹介



墓地[編集]

真覚寺(佐賀市)(浄土真宗本願寺派)
2代より9代の墓は長安寺(佐賀市)(浄土真宗本願寺派)
[29]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月09日 16時56分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 引き続き推理の方ありがとうございます。見えそうで見えないのが歴史な
のか、でも限りなく近づくことはできると信じています。

 善地の5氏はもちろん善地天満宮の氏子でございます。天満宮というのは
今では珍しく浜松には数宮しかないということです。この天満宮の謎、現在
は松島氏がここの神主も兼ねている。誰が何のためにこの天満宮を創建した
かという謎が解ければ、服部に関する謎も明らかになるはずです。
 服部・永井の関係、永井氏と天満宮の関係からいえば、摂津にルーツがあ
りそうな予感がいたします。遠江と摂津は離れてはいますが、摂津に転封さ
れた藩主と家来、そして関係する服部氏を調べてみたいと思っています。

 服部氏と永井氏の目に見える形の関係は、「伊賀越え随行」にあります。
 服部半蔵正成、服部平太夫正尚、服部権太夫中保治次、服部市郎右衛門保
英(正成の甥)、服部美濃守貞信、服部源兵衛保成(中保次の父)、伊賀衆で
服部勘六、服部金之丞保知、服部源助、服部新九郎、服部内臓、服部伝五右
衛門、服部伝次郎、服部孫兵。
 一方の永井氏関係は、永井伝八郎直勝、長田瀬兵衛、永井肥後守永弘、長
田平右衛門直吉、伊賀衆で永井水之助、永井太郎八、永井八郎左衛門、永田
久右衛門。
 伊賀越えはある意味踏み絵と同じで、一心同体の同志であることの証明と
なったのであろう。そして、それは最大の秘密─信長暗殺の当該者としての
暗黙の仲間意識に包まれていたのであろう。さらにいえば、最大の秘密─光
秀の秘密をも、一部の人は共有したのであろう。
 服部と永井の関係はここに原点があるのだろうか。
[30]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月09日 18時23分53秒 ) パスワード

  丸三柏服部様
 菅原さんと長田・羽鳥(地名なのか?)の接点。

 菅原道真公の碑について(手元にある)長田氏族の足跡に触れてありました。


 場所は 旧筑尾村字羽鳥

 碑文  延長4年2月25日(926)
     常陸国羽鳥菅原神社 祈
     為右菩提供養せ
      菅原景行、源護、平良兼等せ
         と読み取れるそうです。(昭和末期の話)
 
  長田一氏の解説文によると
   道真の3男景行が持っていた遺骨を埋葬して祭る。
   もともと菅原氏は羽鳥に荘園を持っていた。
    景行は地方官としてこの地で余生を送ったと 伝えられている。
   尚、<日本名勝地誌>の中では海音寺潮五郎氏が
  記録によると菅原景行は幼児であったので、父・道真公と共に同道する事が  許されて九州の大宰府に土着し此処で成長した。
  <常陸国筑波山の麓に紫尾の里と言う所がある。これは、まろが家相伝の所   領である故そこへ行って余生を送りたい> これが羽鳥の地であり
  此処で将門と良兼の娘良子を景行が仲介して結婚させていると記している。
 尚 景行の兄達は追われて紫尾へは行けず路頭に迷い野露と消え去ったと
 記している。
 
   小出しで、すみません
    後々に将門と良兼の諍いに 女(良子)問題が起こるのは
   当時の遺産相続の相場が、男女平等の均一割り であるので、
   猿島の将門(犬飼氏を母に持つ)と源護(良兼の義父)の
  境界線のごたごたの伏線が一つ生じた と見ています。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月09日 22時52分20秒 ) パスワード

松島さんが神職なのは   やはり諏訪大社がらみ  でしょうか?
松島姓は、もともとは、諏訪大社から派生した名字、と大昔に書き込みしました。


>菅原さんと長田・羽鳥(地名なのか?)の接点。
>場所は 旧筑尾村字羽鳥
>常陸国羽鳥菅原神社

    筑波山で服部家がウロウロしてた話がどこかでありましたよね。


すごい情報が出ました。
それで天満宮と永井家=長田家=と服部家が繋がるのでしょうね。

羽鳥は服織とも通じますからね。

    伊賀の服部はもともと遠江に関係してたのかもですね。
    伊勢伊賀では長田家と服部家は繋がっていたでしょうし。


やっぱり平家以前からの繋がりですね。
[32]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月10日 01時04分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 箱柳永田様ありがとうございます。
 スゴイ情報にビックリです。この地における天満宮の存在の必然性について
全く手がかりがなく、頭をかかえていた状況でありまして、これはもう迷宮入
りかと半分思っていました。

 ところがです、道真が「羽鳥」に関係していた。つまり羽鳥(養蚕・絹織物
をやっていた)が所領であった。
そして死後は羽鳥に埋葬してくれと「羽鳥」をこよなく愛していたということ
が、永田様のご指摘によりわかりました。全く想像だにしなかったことであり
ますし、正に驚きです。

 更に調べてみると、三男景行によって天満宮・墓を移転した豊田郡飯沼(将門
の支配下)、その別当の安楽寺の北西に、柏木部落(食事の調理・配膳をしてい
た人が住む)があるという。柏紋もからんで来る可能性があります。その地で
景行は学問所を開いたという。そして下総・常陸に24年間住み、京都へ帰っ
たということである。

 そして、さらに調べると、長上郡と常陸の間を取り持つ人に、「秋鹿氏」が
いた。朝治はこちらの羽鳥庄喜平郷、中泉郷、南郷の地頭で、府八幡宮の神官
でもあった。朝延は天正18年に常陸国へ転封され、そして慶長5年に遠江旧
領を賜り戻る。朝就よりは府八幡宮の神主に専従となる。

 また、服部中も両地方に関係が深い。しかも秋鹿氏と長上郡で旧知の仲で
ある。服部中保正は上総・下総に采地があったが、天正16年に常陸等で賊徒
が蜂起したので、久永重勝(加茂氏)等と共に征伐に出かけ退治した。保俊の代
になって荒井の関所番になり、采地を遠江敷知郡・長上郡に移されている。 

 長上郡にも「羽鳥」がある。養蚕をやっていた。秋鹿氏は両方に関係する。
しかも神官(神主)。服部中保正も両方に関係する。天満宮、これも両方にあ
る。
 長上郡(豊田郡)の天満宮は誰が勧請したのか・・・。羽鳥に郷愁があるの
は服部氏(伊賀羽鳥郷)、永井氏も同族、道真の怨念は加藤氏もわかる、松島氏
もわかる、鈴木氏は神官である。地震もある。秀次事件もある。時代は徳川
の時代。お宮を建てようと機運が盛り上がった・・・とストーリーを描いて
みる。
 ただ時代考証・年代の検証がされてない。天満宮はいつ建てられたのだ。
天正20年(1592年)に再建とある。文禄の役があった時である。そして
翌年光泰は朝鮮国西生浦(せすがい)にて死去。だいたい時代は一致する。
秀次事件は文禄4年(1595)年。加藤家の帰農が秀次事件と同時であるの
で、天正20年にはまだ土着していない。4氏の後から入って来たというこ
とになる。

 頭が疲れて来ました。ここまでにしておきます。後は、聡明なあを様よろ
しくお願いします・・・!

[34]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月10日 03時04分43秒 ) パスワード

意外なことが出て来ましたね。



加藤泰清は光泰の傍系どころか、もっと近い血縁関係かも知れないですね。
そして上記の加藤遠江守のうちのどなたかの弟さんかも知れないですね。

ということは元々遠江に土地があって、秀次事件が起きて、戻って来たのかも。
そうすると光泰の子供関係で秀次の近習を調べたら出て来る人物でしょうか?


*******************

これまたスゴイ情報ですね
驚きました。
こんなに大勢の名前が出て来て驚いています。


>服部氏と永井氏の目に見える形の関係は、「伊賀越え随行」にあります。

>服部半蔵正成、服部平太夫正尚、
>服部源兵衛保成(中保次の父)、服部権太夫中保治次、服部市郎右衛門保英(正成の甥)、
>服部美濃守貞信、
>伊賀衆で服部勘六、服部金之丞保知、服部源助、服部新九郎、服部内臓、服部伝五右衛門、服部伝次郎、服部孫兵。


>一方の永井氏関係は、
>永井伝八郎直勝、長田瀬兵衛、永井肥後守永弘、長田平右衛門直吉、
>伊賀衆で永井水之助、永井太郎八、永井八郎左衛門、永田久右衛門。

長田氏、永井氏、永田氏も大勢参加してたのですねえ。



そうすると伊賀越えの時に同行した服部氏と永井氏が縁組して
名字は服部で家紋を丸に三つ柏紋にした旗本
の可能性も出て来ましたね。

上記の中に該当する人物がいらっしゃるのかも。


日本人の出自を考えると神代から考えないといけませんね。
今年は皇紀2672年?
3000年の歴史を考えないと、どうしてココとココが仲が良いのか、見えて来ないですね。

   数百万年前我々はアフリカの猿だった
   何億年前は海の魚だった

そのあたりから降りて来ないと麻よりもモツレタ?こんがらがった?家と家の関係がが整理できないですね。

わたくしは神代の時代で既にワケが分からないです。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月10日 03時46分54秒 ) パスワード

*ごめんなさい。
これまで  服部正吉が仕えてた家を  蘆名 と書いてきましたが
蘆田(=依田)が正しいです。

やっと気がついた・・・・遅過ぎ〜

この蘆田氏は武田に仕え、後に、北条と戦い、後に、徳川に仕えたという流れです。



これまたスゴイのが出て来ました。

http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/echizen-kasin.html



蘆田信蕃のぶしげに仕えてた服部正吉(重好)について書きましたが
松平秀康の家来に蘆田信蕃の子の加藤氏がいらっしゃいました。


秀康・忠直家臣団履歴

※出典の略称

・「諸士」(「諸士先祖之記」『福井市史』資料編4、1988)
・「寛政譜」(『新訂 寛政重修諸家譜』)
・「叢記」(福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会編『福井県郷土叢書第七集 国事叢記』(上)、1961)


加藤四郎兵衛(宗月)   ← 元の名字は「源」→「依田」→「蘆田」→「加藤」


実名康寛。

父は芦田右衛門佐信蕃で武田家に仕えていたが滅亡後徳川家に属す。


信蕃は天正十一年岩尾城攻めで討死。

嫡子竹福丸は家督相続を命じられて諱と松平の称号を賜り松平源十郎康国といって小諸城にいた。

弟の福千代丸は天正十四年十三歳で元服、諱と松平の称号を賜り松平新六郎康実(のち康寛)と称した。


小田原攻略では兄弟共に奮戦するも、兄康国が自害したため家督を相続。

上野国藤岡に知行を与えられ、右衛門大夫に任ぜられた。


のち故あって蟄居していたが慶長五年、秀康に宇都宮で召し出され、
加藤四郎兵衛と号して日光の警護を仰せつけられる。


越前入国では大野郡木ノ本に知行を与えられた。


秀康死後、剃髪して宗月と号し、大坂の陣では大野郡が一揆所ということで大野城代をつとめた。(「諸士」)


どうして加藤姓?
母方の姓は跡部なので?母方の姓ではないようですが側室の子なら加藤姓でも可?


******************




芦田姓[編集]   もともとは源満快の子孫ですって。この満快ってどこかで出て来ましたよね
          源氏系服部氏の時でしょうか?


室町末期に、依田から芦田(蘆田)に姓を変更している。だが、実際にいつ変更したかは諸説ある。

大きく分けると、大井氏との抗争前に芦田郷に進出して改姓したとする説と、大井宗家滅亡後の文明18年(1486年)、芦田城(長野県立科町茂田井)の滋野系芦田氏を滅ぼし、当時の依田光徳が改姓したとする説(この時期は村上氏に属していたとされる)。

この時期の記録には、依田姓と芦田姓が共に残されており、依田氏が従属した当時の大井氏の重臣にも芦田姓がいる。しかし、上述の滋野系芦田氏と依田氏(芦田氏/蘆田氏)の区別が非常に困難な状況にあり、時期については確定していない。


***********************


依田(=蘆田)信蕃のぶしげ


生誕
天文17年(1548年)

死没
天正11年2月23日(1583年4月15日)

改名
源十郎(幼名)、信蕃

官位
常陸介、右衛門佐

主君
武田信玄→武田勝頼→徳川家康

氏族
依田氏(蘆田氏)

父母
父:芦田信守

兄弟
信蕃、信幸、芦田重方、信春、信慶?、 妹(松井宗直室)
 ↑
本人でしょ?


跡部勝資の娘


康国、
康勝(加藤康寛) ← この人が秀康に仕えた
 

依田 信蕃(よだ=蘆田= のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣、後に徳川氏の家臣。


生涯[編集]

はじめ武田信玄に信濃先方衆として仕え、信玄の死後は引き続き勝頼に仕えた。

永禄11年(1568年)12月、武田氏の駿河侵攻で駿府に乱入した軍勢の中に信蕃の名も見える。

                   ここにいたんだ〜
                      ↓
天正3年(1575年)の長篠の戦いの時期には遠江二俣城の守将を務めた父の依田信守と共に、信蕃兄弟も籠城し抵抗した。

しかし、長篠の戦いで武田軍が大敗し徳川家康率いる徳川軍が反攻して来ると、僅かな手勢で堅固に守った。

この間に病床にあった信守は死亡。

信蕃が守将となり籠城が続行された。


徳川方は攻めあぐね、城の周囲に複数の砦を築き、兵糧攻めにするしかできなかった。

実に半年にも亘った攻防の末、結局力攻めでは落せないと判断した徳川方の申入れにより、全員の助命を条件に開城、高天神城に退去した。


        そうするとこの頃に服部正吉は家康を知ってたようですね
        
        武田にいた服部氏というと川越の服部さんのご先祖さま?
        家紋は源氏車に並び矢紋です


退去の際、城内を清掃したのち、整然と退去したとされている。
後に駿河田中城の城将となった。


天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐が始まると、信長に呼応した徳川家康に田中城を攻められたが、またしても堅固に備えを立てて落城の気配も見せなかった。


攻めあぐねた家康は成瀬正一に命じて開城の説得に当たらせるが、信蕃はこれを拒絶。

さらに籠城を続けるうちに織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である穴山梅雪からの開城を勧める書簡を受けてから、ようやく大久保忠世に引き渡している。

     最近穴山梅雪の名前が出て来ましたよね


田中城開城後、家康より召抱えの要請を受けるが、
「勝頼の安否の詳細が判らない内は仰せに従いかねる」と答えこれを謝絶。
自領の春日城へ帰還した。


同年6月2日、本能寺の変が起こり、

北条氏直との戦い(神流川の戦い)に敗れた滝川一益が同20日に家臣・道家正栄の守る小諸城に入ると、
同22日に信蕃は滝川一益と対面し佐久・小県郡の人質を集め、一益に引き渡した[1]。

この人質には嫡子依田康国や真田昌幸の老母が含まれていたという。

一益は同27日に小諸城を信蕃に明け渡して旅立ち、28日には諏訪から木曽谷に入り、当初の約定通り佐久・小県郡の人質を木曽義昌にゆだね、7月1日に伊勢長島に帰還した。


同年9月17日、佐久・小県郡の人質は、木曽義昌から徳川家康に引き渡された[1]。


7月12日、碓氷峠を越えて北条氏直の兵が進出すると信蕃はこれに抗し春日城を放棄し、三澤小屋に籠城した。

その後、ゲリラ戦を展開、甲斐国若神子まで進出していた北条軍の補給線を寸断した。


また信蕃は徳川家康と連絡を密にしており、甲斐衆を主体とした家康の援軍が7月14日(芝田康忠、辻弥兵衛)、9月25日に岡部正綱、今福求助、三井十右衛門、川窪信俊等が三澤小屋に到着している[1]。

同28日、信蕃はそれまで北条方であった真田昌幸を調略、翌10月26日には春日城を奪還している[1]。

加えて郡内地方において北条軍が徳川軍に敗北したことにより、戦力的には劣勢な徳川に有利な条件で後北条氏との講和が10月29日に成立した。


これらの功績により信蕃は北条方の大道寺政繁が撤退した後の小諸城も任され、周辺の勢力が続々と信蕃の下に集ってきたが、これを好しとしない勢力は、北条方の岩尾城主大井氏の下に集まった。


天正11年(1583年)2月23日、大井行吉の岩尾城を攻略しようとするが、即座に落とせると考えた信蕃の意に反し、予想外の抵抗に遭い苦戦する。


攻城三日目、焦れて先頭に立って督戦中に敵の銃撃を受け、その戦傷がもとで死去した。

享年36。
この時、弟の信幸も討ち死にしている。


後に長男の松平(依田)康国が整備した蕃松院が墓所となる。
同寺に信蕃の位牌と、信蕃夫妻の墓所とされる墓石塔が残る。



脚注[編集]
1.^ a b c d 平山優『天正壬午の乱』

参考文献[編集]
平山優『天正壬午の乱』学習研究社、2011年



*********************

ここに出て来た服部氏は関ヶ原の戦いなどから本多父子に仕え、後に、駿河大納言忠長卿に仕えて、のちに悠々自適生活へ。

この服部氏の子孫が後に田安家の近習番に。



名前がゴチャゴチャして最近とんでもない事を書いているのでは?との恐怖がぁ〜
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月10日 05時20分58秒 ) パスワード

ここで疑問です:



嫡子竹福丸は家督相続を命じられて諱と松平の称号を賜り松平源十郎康国といって小諸城にいた。

弟の福千代丸は天正十四年十三歳で元服、諱と松平の称号を賜り松平新六郎康実(のち康寛)と称した。
                                ↑
                          この人が加藤四郎兵衛康寛ですね
                               

加藤(源・依田・蘆田改め加藤)四郎兵衛康寛についてですが
なぜ兄と共に、2人までも、「松平」姓を拝領したのでしょう。
そして何故、加藤姓を拝領?称したのでしょう?
  

何か重大な理由があったはずですよね。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月10日 06時15分46秒 ) パスワード

「康」の字は蘆田信蕃の武勇と戦死を褒めて家康から拝領したそうです。

そして加藤姓は「母方」に因むそうです。


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yori_k.html
依田氏に詳しいです。


コピペ


依田氏     ← 名門だったのね

三つ蝶
(清和源氏満快流)


依田氏の先祖は『尊卑分脈』によれば、清和源氏満快流の為公が信濃守となって信濃に下り、
その子孫が伊那・松本・上田盆地に広がった。

そのうち依田庄を開発した為実が依田氏を称して、依田氏の祖になったとある。


余田二朗実信は源平合戦のとき、木曽義仲に属して京都に攻め上ったが、義仲が頼朝に滅ぼされると、
依田庄は茂木氏に与えられ、依田氏は飯沼を領するだけの小領主となり、
飯沼氏を称した。

                 飯沼氏も名乗ってたの?!


その後、北条氏執権下において、得宗家臣となって次第に勢力を盛り返し、
茂木氏の支配に抵抗して、依田庄の支配権を回復していった。


鎌倉幕府の滅亡に際して依田氏は、足利尊氏に属して依田庄の支配権を確保するとともに、室町幕府の奉行人となり、

応安六年(1373)将軍足利義満のときには、依田左近太夫入道元信は評定衆に加えられた。

信濃に本拠をもつ武士のなかで、幕府の最高裁決機関である評定衆に列したものは、依田氏以外には例がなく、依田氏の室町幕府内における地位は注目すべきものがある。



依田氏の発展

南北朝期以来、依田氏は依田荘全域を支配し丸子郷に進出し、箱畳峠を越えて立科方面までも支配下におさめようとした。

そして、箱山城・善正城を築いて芦田古町に進出し、芦田古城を築いた。

ところが、芦田古城の築城は、佐久の強豪大井持光を刺激し、芦田と大井の争いに発展した。

この争いに対してときの将軍足利義教は大井氏支持を決め、信濃守護小笠原政康に芦田征伐を命じた。
                              ↑
                            小笠原が出て来ました


一方、芦田氏は村上・海野・禰津氏らの国人連合の支援をえて対抗、
村上氏は関東公方足利持氏の力を背景としていたことから強気の姿勢を示した。
  ↑
村上も出て来ました


しかし、公方持氏は将軍義教との衝突を憂慮する管領上杉憲実の諌止によって出兵ができず、
小笠原政康は永享八年(1436)三月、海野・禰津氏らの本拠を攻めて破った。

このため、芦田氏は孤立して守護軍に降り、村上氏も敗れて幕府に降伏した。


以後、芦田氏は大井氏の家臣となり、その執事を勤める重臣の位置を占めた。

永享十二年の結城合戦には大井持光の命を受けて、清野氏とともに足利持氏の遺児永寿王丸を危険をおかして結城城に送り込むという重要な任務を果たしている。

その後、永寿王丸は成人して、足利成氏を名乗り鎌倉公方になった。


        武田信玄の母上の実家かもね
           ↓ 
文明十一年(1479)、大井氏の家督を継いだ大井城主政光が、前山城の伴野光信と合戦をして大敗した。


政光は伴野方に生け捕りされ、執事の阿江木入道も討死した。

この阿江木氏は芦田氏の支流で、「一に芦田、二に相木(阿江木)」と称される大井氏の重臣の一人であった。

その後、政光は開放されて大井城に復帰したものの失意のまま若死した。

そして、弟の安房丸が大井氏を継いだが、文明十六年(1484)、村上政清の大軍に攻められて大井城は落城し大井宗家は滅亡した。

大井宗家の滅亡後の芦田氏の動向については明らかではないが、
大井氏の支配から脱して芦田領主として自立の道を歩んだものと考えられる。


応仁・文明の乱が京都で勃発すると、その余波は日本各地に戦乱の時代を招来した。
信濃も例外ではなく、にわかに騒がしくなった。



戦国期の信濃
              信玄の父上ですね
                ↓
天文十年(1541)五月、甲斐の武田信虎が諏訪頼重・村上義清を誘って海野氏を攻め、海野平・禰津をことごとく攻め破った。

敗れた海野棟綱は関東に走って、関東管領上杉憲政を頼った。

憲政は大軍を率いて海野に攻め込み、諏訪頼重はこれを迎え撃つために長窪に兵を出した。

憲政は信州勢の優勢なさまを見て、芦田郷を荒らしただけで関東の平井城に兵を帰してしまった。


これを見る限り、当時の芦田郷は領主もないような有様であったことがうかがえ、
ほどなく芦田郷は諏訪頼重の知行地となった。

そして、芦田信守は諏訪氏に従い、頼重は芦田郷を信守に治める手はずをして諏訪に帰った。
                 信玄ですね
                   ↓
ところが、翌天文十一年七月、頼重は武田晴信によって滅ぼされてしまった。


翌年になると、晴信は長窪城に大井貞隆を攻めて生け捕りにし、
つづいて望月城を攻めて望月一族を降して甲府に帰った。

このとき、芦田信守は武田氏に降ったものと思われる。
            ↑
         ここで武田に仕えたのか


『千曲の真砂』の芦田城の項には「天文十二年武田晴信出馬、信守武田に降り、先手の将と為る」とあるが、芦田氏はその前年に晴信が諏訪頼重を滅ぼしたときにはすでに武田氏支配下に組み込まれていたものであろう。

以降、武田氏先方衆としての芦田氏の活躍は『依田記』などに詳しい。


その後、武田氏の信濃侵攻は激しさを増し、
小笠原氏・村上氏などが抵抗したものの、
結局、信濃は武田氏の大名領国に組み込まれるに至った。


元亀三年(1572)、武田信玄は上洛の兵を起こしたが、その雄図なかばにして病死をとげた。
ときに、天正元年(1573)のことであった。


このころから、約百年に及んだ戦国の争乱も次第に有力な大名だけが勝ち残り、ようやく統一のきざしが見えてきた。

なかでも織田信長の勢いは一頭群を抜き、信玄が死去したことにより信長の天下統一事業はさらに大きく前進することになった。そして、信玄没後間もなく形ばかり続いていた室町幕府を滅ぼし、京都に近い近江に安土城を築きその勢を天下に示した。



武田氏の滅亡

信玄死後の武田氏は勝頼が継ぎ、その武威を示していた。

しかし、天正三年(1575)、三河長篠において武田軍と織田・徳川連合軍は激突し、
連合軍の鉄砲の前に武田騎馬隊は壊滅的な大敗を被った。

以後、武田氏の勢威は衰え、ついに天正十年、織田軍の甲斐侵攻によって武田家は瓦解し、勝頼は天目山で自刃し武田氏は滅亡した。
 
               駿河で家康と対峙でしたか
                     ↓
武田氏が滅亡した当時、依田信蕃は駿河の田中城を守って徳川家康と対峙していた。
                 
                 家康に臣従ですか
                     ↓ 
武田氏滅亡を知ると、信蕃は家康のすすめを受けて城を明け渡している。


家康は信蕃を召し抱えたいと言ったが、信蕃は国の様子もわからないので信州の春日城に帰り、小諸城で森長可と対面した。

それから信長に御礼をしたいといって、小諸を発ち諏訪へ向かった。

その途中家康より急使がきて、「信長は信蕃など甲州や信州の大名に切腹を命じているから、家康のもとに来なさい」という便りを見せた。

これに接した信蕃は、ただちに家康のもとに走った。

           家康が武田の家臣を多く雇ったのはこういう事情でしたか


ところが、同年六月、織田信長が本能寺の変で横死すると、信濃・甲斐の織田勢力は雲散霧消してしまった。

その結果、信濃・甲斐両国は徳川氏・北条氏、そして越後の上杉氏の草刈場と化したのである。

このとき家康もまた甲州・信州に食指を伸ばし、かくまっておいた依田信蕃に命じて甲斐の武士たちを味方に引き入れさせた。


その後、信蕃は家康の後援を得て、佐久に攻め入り、北条方の軍勢と戦った。

そして、伴野氏の守る伴野城を攻め落とし、小県郡の真田昌幸を説いて徳川氏に従わせ、
協力して碓氷峠で北条氏の後方連絡線をたって徳川・北条の和睦を実現するなどの活躍を示した。

         ↑
       信蕃の活躍


家康は信蕃の功を賞して佐久・諏訪の二郡を与え、小諸城代として報いた。

しかし、信蕃に降ることを快しとしない者は北条氏に属する岩尾大井氏のもとに馳せ集まり、
それに大井氏譜代の佳辰たちも続々と行吉のもとに集結した。

依田信蕃は武田氏麾下にあったころから勇将として知られ、岩尾大井氏は無名に近い存在であった。

さらに徳川氏を後楯とした信蕃の軍勢に対して、
岩尾大井氏の軍勢は烏合の衆であり、
周辺のほとんどが信蕃に属したなかにあって、
まさに孤軍と呼べる存在であった。


しかし、岩尾城に籠った大井勢は「窮鼠猫を噛む」のたとえの通り、依田信蕃軍に徹底的に抗戦を行ったのである。



信蕃の戦死

天正十一年二月、信蕃は岩尾城攻めにかかった。

岩尾城は逆茂木を隙間なく並べ、逡巡する依田軍に対して鉄砲・矢の集中攻撃を行い、依田軍に多大な犠牲者を強いた。

家康から付けられた軍監の柴田康家は力攻めをやめて家康流の気長な戦術をすすめたが、強気の信番は力攻めを強行した。

岩尾城は武田信玄が手塩をかけた縄張りだけに、さすがの信蕃も攻めあぐんだ。


柴田は信蕃の陣に使者を送り、広言を発しながら城が落ちないのはどういうわけかとなじった。

これを聞いた信蕃は翌日はなんとしても落してみせると意地になり相変わらずの強気を見せた。



猛将信蕃は翌日も戦法を変えることなく遮二無二に攻城を繰り返した結果、
岩尾城の大手門を破り台郭に突入して城方との間で乱戦となった。

城方は矢倉の上から敵味方を識別して狙撃したため、依田勢はばたばたと撃ち倒された。

しかし、信番は次々と新手を繰り出し激戦は夕方まで続いた。


信蕃軍の二日間にわたる総攻撃にも岩尾城は持ちこたえ、面目を潰された信蕃は却って意地となり、また柴田に援軍を頼むこともできなかった。

そして、攻撃三日目には陣頭に立って兵を督戦し火の出るような攻撃を仕掛けた。

この信蕃の姿を目にとめた城方の淺沼平兵衛は配下の鉄砲隊に命じてこれを狙撃させた。

            
          信蕃兄弟お討ち死に
              ↓
放たれた弾丸は狙い過たず信蕃に命中、
信蕃とともに攻城を指揮していた弟の信幸も弾丸に当たり依田兄弟は空しく討死を遂げてしまった。

主将を失った依田勢は戦意を喪失し、信蕃の末弟信春はひとまず兵を引き揚げた。


この事態に軍監柴田康家は開城降伏の使者を送り、行吉の奮戦ぶりを讃えこれ以上の戦いは無駄であると説得した。

行吉もその説得を容れ、城中の将士に城内の財物を分け与えると柴田に城を明け渡した。

この岩尾城の攻防戦は、前途洋々たるものがあった依田信蕃に思いがけない挫折を与える結果となった。

           家康、「康」の字を信蕃子息に下賜
                ↓
戦後、家康は依田信蕃兄弟の死をあわれみ、信蕃の子竹福丸に家康の「康」の字を与えて康国と名乗らせ、さらに「松平」の名字をも与えて松平康国として小諸城主とした。

  ここで大久保が登場!(だったら服部氏も絡みますね)なるほど!
       ↓
そして、大久保忠世を後見人として佐久郡を治めさせた。




依田氏の没落

小諸城主になった康国は父の遺領十万石を与えられたというが、
佐久郡の石高は五万四千石余であり、
駿河国志多郡を含めた領地高であろう。


天正十二年(1584)家康と秀吉とが戦った「小牧・長久手の戦い」が起り、
家康は後顧の憂いをなくすため
北条氏と結んだ講和条件の定めによって真田昌幸に沼田城を北条方へ引き渡すように命じた。

       真田vs徳川
         ↓
しかし、昌幸は家康の命令に服さず上杉景勝方に寝返ってしまった。


家康はこれに激怒し、小牧・長久手の戦いが終わった翌十三年八月、
大軍を率いて昌幸の拠る上田城を攻めたが、
昌幸の作戦に翻弄されて散々な敗北を喫した。

この上田城攻めに康国が初陣として参加し、家康から感状をもらっている。  



その後、不穏な状勢の続いていた佐久地方の戦後復興、人心の安定、寺社領の安堵、知行割りなど、康国は家康の後楯をえて、着々と進めていったことが残された家臣宛の知行状などから知られる。


家康を服属させた豊臣秀吉は九州の島津氏を屈服させ、小田原北条氏にも上洛して命に服するように何度も書状を送ったが、北条氏の態度は明快をかき、ついに天正十八年四月、秀吉は小田原征伐の軍を発した。康国も家康に命じられて上州に出陣し前田利家に属して大導寺政繁の守る大井田城攻めに加わり、つづいて石倉城攻撃に加わった。

石倉城主寺尾左馬介は康国を通じて降服を申し入れてきたため、康国はわずかな手勢のみで城内に入った。

            信蕃の長男の死
                ↓
そのとき、攻城軍の間に騒動があり、騒然とした城外の様子に誅せられるのではないかと思い込んだ寺尾によって康国は斬り付けられ、重傷を負いながらも応戦したが力つきて討死した。

享年二十一歳という若さであった。



康国の死後は、弟の康真が家督を相続した。

小田原の役後、家康は関八州を与えられ江戸に入部した。

依田氏も家康に従って関東に移り、改めて武州榛沢、上州緑野両郡において三万石を与えられ藤岡城主となった。

文禄三年(1594)康真は二条城築城奉行を命じられ、井伊・榊原氏らとともに上洛し本丸・隠居郭を完成させえいる。


そして、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に先立ち大坂にあった康真は、旗本小栗氏と囲碁の勝負をしたが、負けた小栗が康真に悪口雑言を口走った。

この雑言を聞き捨てにできなかった康真は即座に小栗を斬ってしまった。
                  ↑
                短慮な次男
           故あって出奔の理由はコレだったのですね

                   
家康の旗本を私闘によって斬り捨ててしまった罪は重大で、康真は大坂を出奔し高野山に上り沙汰を待った。

             それで秀康に拾われたのですね
                 ↓
結果は藤岡三万石を改易され、結城秀康のもとに食禄五千石を与えられお預けの身となった。
           
           ということは母上は側室だったんでしょうね
                ↓
康真は松平姓をはばかり母方の加藤姓を名乗り、子孫はのちに芦田姓に改めたという。

いずれにしろ、大名依田氏はわずか三代の命運に過ぎなかったした。



【資料:佐久市志/南佐久郡誌/小県郡史(長野県立図書館蔵書) ほか】


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なるほど大久保には関ヶ原の前に真田憎しがあったのですね。
それで関が原の時に真田を行き掛けの駄賃で潰したかったのですね。


そして大久保忠隣と本多の争いに
家康の後継者争いもあったのだそうです。

大久保忠隣は秀忠を押し
本多正信は秀康を押していたんですって。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E9%9A%A3

文禄3年(1594年)に父・忠世が死去すると、忠隣は家督を継ぐと共にその遺領も相続して相模国小田原6万5,000石の領主(後に初代藩主)となる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時には東軍の主力を率いた秀忠に従い中山道を進むが、
途中の信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸に対して、攻撃を主張して本多正信らと対立する(上田合戦)。

             大久保 vs 本多  R1


慶長6年(1601年)、上野高崎藩13万石への加増を打診されるが固辞した。
慶長15年(1610年)には老中に就任し、第2代将軍・秀忠の政権有力者となり、

大御所となった家康が駿府で影響力を行使する二元政治の中、

家康重臣である本多正信・正純父子と対立する。

             大久保 vs 本多  R2
     


その底流には、武功派と吏僚派の対立があり、忠隣は武功派に強い求心力を持っていた。

本多父子が家康の後継者に次男・結城秀康を推奨していたこともあり、
側近として秀忠を後援する忠隣には看過しがたいものがあった。



秀次事件の際、豊臣秀次が秀忠を人質にして家康に仲介してもらおうと画策した。
しかし忠隣は秀次が送ってきた2度の使者を巧みに追い返し、その間に秀忠を伏見屋敷に避難させて難を逃れたという(藩翰譜)。
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月10日 07時01分00秒 ) パスワード

なるほどね。


武田の家臣が家康の許に集まった時に
大久保家が多いに関わって
そこに服部家も絡んで
最大の人物大久保長安も絡んだのか。





大久保 長安(おおくぼ ながやす(ちょうあん))は、戦国時代の武将。武田氏、次いで徳川氏の家臣。後に江戸幕府勘定奉行、老中となった。



大久保長安

時代
戦国時代から江戸時代前期

生誕
天文14年(1545年)

死没
慶長18年4月25日(1613年6月13日)

別名
藤十郎、十兵衛(通称)

官位
従五位下石見守

幕府
江戸幕府勘定奉行、老中

主君
武田信玄→勝頼→徳川家康

氏族
大蔵氏(秦氏)→土屋氏→大久保氏       ←  秦氏になってますね

父母
父:大蔵信安(大蔵太夫十郎)

兄弟
大久保新之丞、大久保長安


正室:下間頼龍の娘              ← 下間って伊勢長嶋一揆では一向宗の側の指導者でした

          妻の父、下間頼龍は
          戦国時代の武将、本願寺の僧侶。    ← 尾張の服部家ホンヤさんも絡む?
                       
          父は下間真頼
          妻は池田恒興の養女で織田信時の娘   ← ここも意外



継室:大久保忠為の娘             ← ここで長安は大久保と関係


大久保藤十郎、大久保藤二郎、
青山成国、大久保運十郎、
大久保藤五郎、大久保権六郎、
大久保藤七郎、長女(服部正重室)、
次女(三井吉正室)




生涯[編集]

出生[編集]

天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれる。

長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、
父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。
この頃に生まれたのが長安であったという。


武田家臣時代[編集]

父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。

長安は信玄に見出されて、猿楽師では無く家臣として取り立てられ、譜代家老土屋昌続の与力に任じられたという。

この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。


信玄没後は武田勝頼に仕えた。

天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄の新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。

天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって、甲斐武田氏は滅亡する。

但し一説では武田勝頼から疎まれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。

                  アヤシイ


徳川家臣時代[編集]

甲斐武田家が滅んだ後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。

家康が甲州征伐の時に逗留するための仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。

また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、
家康に仕えるようになったともいわれている。
 
     そんな感じがしますね、チャッカリ男って感じ。

      

長安は大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。

この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。

天正10年6月、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の領地となる。

しかし当時の甲斐国は武田家滅亡後の混乱から乱れていた。

そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて甲斐国の内政再建を命じた。


但し、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。


長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐国の内政を再建したと言われている。


天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は伊奈忠次や青山忠成、彦坂元正らと共に奉行に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。

これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。


また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は元正、忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。

天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8000石の所領を与えられた。


但し、実際は八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。

長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。


長安はまた、家康に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。

    忍者も関係しそう。


慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。


戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。

すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、慶長6年(1601年)春に甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。


慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、
家康の6男・松平忠輝の附家老に任じられた。


7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という間尺を整えたのも長安である。山がちであり、各地に諸勢力が散在する封建日本でこうした着想があったのは幕府という統一的な行政機構の発足ゆえであろう。


これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。

また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。


そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称され、大久保忠隣と共に大久保派を幕府内に形成し、家康に寵愛されて本多派を形成していた本多正信と初期幕政の権勢をめぐって争い、岡本大八事件で本多派に勝利し、一時は幕政を牛耳ったとまで言われている。

この頃、長安の所領は八王子8000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。


しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官をはじめとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、卒中のために死去した。享年69。



死後[編集]

長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたという理由で、長安の7人の男児は全員処刑され、縁戚関係にあった諸大名も連座処分で改易などの憂き目にあった。さらに、家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して晒し首にしている。

また、長安の庇護者であった大久保忠隣らも後に失脚した。しかし長安が不正蓄財を行っていたという見解はほとんどなく、これは近年では、幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・正純父子の陰謀とも言われている。また、彼の財力と権勢を警戒した徳川家による粛清や、不正を行い易い他の代官に対する見せしめの意味もあると思われる(大久保長安事件)。


人物・逸話[編集]
まったくの外様(30歳近くまで徳川家と関わりがなかった)で老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。

無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。

金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという(このような派手な出費ぶりが家康に長安の不正蓄財の疑いを抱かせたとも)。


一説に長安は、家康より政宗のほうが天下人にふさわしいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたと言われている。

長安の墓の所在は不明だが、一説には伊豆の土肥温泉街にあるのではないかと言われている。



長安による開発が行われた都市[編集]
桐生市(群馬県)
八王子市(東京都)


参考文献[編集]
所三男「大久保石見守長安と信濃」(一志茂樹先生還暦記念会編『地方研究論叢』,1954年)
村上直「大久保石見守長安の研究覚書(1)〜(5)」(『信濃』19-1〜3,5,6)ほか
大野瑞男「大久保長安の『遺書』」(『日本歴史』472,1987年)
林基「奥州・江戸間内陸舟運路の初期段階(1)〜(7)」(『専修史学』16〜22,1984年 - 1990年)
藤井讓治編『近世前期政治的主要人物の居所と行動』(京都大学人文科学研究所,1994年)
曽根勇二『近世国家の形成と戦争体制』(校倉書房,2004年)
曽根勇二『秀吉・家康政権の政治経済構造』(校倉書房,2008年)

関連項目[編集]
小説堀和久『大久保長安〈上・下〉』講談社
斎藤吉見『大久保長安 家康を支えた経済参謀』PHP研究所
半村良『講談大久保長安 (上・下)』光文社文庫
山田風太郎『銀河忍法帖』講談社 KODANSHA NOVELS SPECIAL
山田風太郎『忍法封印いま破る』講談社 KODANSHA NOVELS SPECIAL
岳宏一郎『御家の狗』毎日新聞社
鬼丸智彦『猿楽を舞う如く―天下の金山奉行 大久保長安』ブイツーソリューション
[39]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月10日 10時27分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 音楽でいうとオーケストラの奏でる交響曲に匹敵する程のレスありがとう
ございます。ソロとかクインテット位までならすぐ読めるのですが、学生の
頃よくクラシック喫茶、あるいはジャズ喫茶へ行ってレコードを聞いた頃を
思い出します。
 コーヒーを飲みながらじっくり鑑賞したい・・・そんな気分です。

 読解に頭のカンピュータをフル回転させますが、ミトコンドリア理論によ
って糖質を控えていると、脳が悲鳴を上げるのが早いですね。
 いつも眠気と大脳の疲れとの戦い、時間とコンディションを調整するのが
へたなタイプBですが、頑張ります。
 
 ではまた─

 あーそうそう、先日報告し忘れましたが、戦いの絵図の中にあった縦3本
の矢紋、浜松市の大霊園で1つ見つけておりました。帰ってカメラデータを
見てみます。服部だったかな・・・。

 それとアメノホヒに関連する新たな情報も入りましたので報告いたします。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月10日 12時47分03秒 ) パスワード

3本矢の服部さんは   かなり冷遇される服部氏  ですね。
   3男だか4男だか以下が使用とか
   庶子が使用とか


昔は  区別=差別  がありましたからね。
     


アメノホヒ
一体何者だったのでしょう?
この人の子孫なのかしら?
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月10日 15時00分08秒 ) パスワード

<33>の書き直し




遠江国 (とおとうみのくに)

かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、東海道に位置する。
現在の静岡県の大井川の西部に当たる。

かつて、大井川の河口は現在より東だったため、現在の焼津市の旧大井川町域も大井川の右岸で、
明治初期まで遠江国榛原郡(はいばらのこほり)であった。

遠州(えんしゅう)とも呼ばれ、現在もしばしば用いられる。延喜式での格は上国、中国。

http://www.geocities.jp/keizujp2010/tootoumi.html


遠江守   在任期間    介    在任期間   掾   在任期間   守護   在任期間




平重盛 1158〜1159
平宗盛 1159〜1160




武家の官位

加藤光泰 1587〜    これは調べる必要がありそうですね
加藤泰恒
加藤泰温
加藤泰武       これの加藤氏は何者なんでしょうね?
加藤泰済        秀次事件で連座したあの加藤氏の一族でしょうか?
加藤泰幹
加藤泰秋


小堀政一 1608〜     備中松山藩主のあの小堀遠州ですよ〜  
小堀政房
榊原康勝
土井利隆 1630〜
永井直輝 1842〜       永井さんも名乗ってる!  箱柳さん、調べてえ〜!

以下略 
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月10日 15時13分17秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 またしても台風19号が来週の月曜日くらいに到来するという。今年は8
月から天気がおかしくて、漁師も出漁の機会が少なく困っているようです。
 私も今年はカツオ・キハダマグロを釣る機会を逸してしまいました。来週
には空の青海のあをの水平線の彼方へ出かけられそうです。ヤリイカ、ワラサ
、イサキ、真鯛等を狙います。底ものの場合では、鬼カサゴ、ハタを狙いま
す。2ヶ月も大海に出ないとストレスがたまります。やっぱり大海はいいな
あとしみじみ思います。
 釣りも一瞬の喜び、スレッドのレスも一瞬の喜び、長くは続きませんが、
その一瞬の喜びをまた味わいたくてやめられないです。
 歴史のミステリーって、かくれんぼで隠れる・見つけ出すという快感と似
ていますね。子供ほど純真でないけれど。

 さて、アメノホヒですが、天照大神の次男だそうです。先日の日曜日に、
出雲大社で高円宮典子様と出雲神職千家国麿さんの結婚式が執り行われた
わけですが、この千家さんの始祖はアメノホヒ、天皇家の始祖アメノオシホ
ミミの弟であります。出雲の関係はややこしいので説明は省きますが、いず
れにしても、元々の兄弟関係、そして伊勢と出雲の復縁という画期的な出来
事であります。
 今後、神道の行方、皇室の行方に注目したいと思っています。

 ちなみに出雲系のアメノホヒはあを様ご指摘のように当地の服織神社の祭
・の1つでもあります。

 明日は丸一日、関市を訪れて刃物市等見て回ります。できればどこかお寺
等に寄り、歴史のひとかけらも拾えたらなあと思っています。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月10日 15時51分19秒 ) パスワード

加藤泰清ですが加藤光泰の一族を調べてみました。
光泰の直接の子孫は 「泰」を通字にしてますね。
泰清もココに繋がるのでしょうか?

   光泰の弟や養子は「光」を通字にしているみたいなので。



やっぱり泰清は光泰の子供の系統でしょうか?
でも秀次の名前が出て来ないです。
光泰の長男はどうなったのでしょう?



加藤光泰

(かとう みつやす、天文6年(1537年) - 文禄2年8月29日(1593年9月24日))

戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将、大名。斎藤氏、豊臣氏の家臣。
加藤景泰の子。弟に光政。

正室は一柳可遊の娘。子に貞泰、竹中重門室。

養子に可遊の子で義兄弟にあたる光吉。


*******************


加藤 貞泰(かとう さだやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。美濃黒野藩主、伯耆米子藩主、伊予大洲藩初代藩主。加藤光泰の次男[2]。


生涯[編集]

天正8年(1580年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣・加藤光泰の次男として誕生する。

文禄2年(1593年)8月、父・光泰が朝鮮出兵において陣没したため、わずか14歳で家督を継いで秀吉に仕え、甲斐国を領した。文禄3年(1594年)、叙任し、豊臣姓を下賜された。 文禄4年(1595年)に美濃黒野4万石へ移封となった[3]。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、当初石田三成に従い、その要請を受けて尾張犬山城を守備したが、東軍に寝返って井伊直政の指揮下につく[3]。美濃大垣城にて西軍と対峙した後[3]、本戦では島津義弘率いる島津軍と戦い、本戦後は稲葉貞通と共に西軍の長束正家が守る水口岡山城攻略で功を挙げたため、徳川家康より所領を安堵され藩主となった[3]。

貞泰は黒野城と城下町の建設に努め、慶長15年(1610年)1月には黒野に楽市の免許状を出した。7月15日に2万石を加増されて伯耆米子藩6万石の藩主となる[3]。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方として参戦して戦功を立てた[2]。元和3年(1617年)に伊予大洲藩に同じ6万石で移封となる[3][2][4]。

元和9年(1623年)5月22日に死去した。享年44。跡を長男の泰興が継いだ。

【歴代当主】

■初  代■加藤貞泰
■二  代■加藤泰興
■三  代■加藤泰恒
■四  代■加藤泰統
■五  代■加藤泰温
■六  代■加藤泰衑
■七  代■加藤泰武
■八  代■加藤泰行
■九  代■加藤泰候
■十一代■加藤泰幹
■十二代■加藤泰祉
■十三代■加藤泰秋

【藩変遷】

慶長 5年(1600年)  美濃国黒野藩
慶長15年(1610年)  伯耆国米子藩
元和 3年(1617年)  伊予国大洲藩


************


加藤直泰
(かとう なおやす、元和元年(1615年) - 天和2年1月5日(1682年2月12日))は、伊予新谷藩の初代藩主。

伊予大洲藩初代藩主・加藤貞泰の次男。母は小出吉政の娘・法眼院。正室は小出吉親の娘。官位は従五位下、織部正。幼名は大蔵。織部。大洲藩2代藩主・加藤泰興の弟に当たる。

元和9年(1623年)、貞泰が世嗣を定めないまま死去したため、幕命により泰興がその後継とされ、直泰には1万石分与の内諾が下されたが、泰興はこれを認めようとしなかったため対立した。寛永16年(1639年)、藩内分知とすることで和解した。寛永19年(1642年)、喜多郡上新谷村に新谷陣屋を築いた。また歌道を良くし、古今伝授を受けている[要出典]。

天和2年(1682年)正月5日、68歳で死去し、跡を泰興の孫で養嗣子の泰觚が継いだ。法号は要関院殿一機直入居士。墓所は大洲市新谷の法眼寺。

【歴代当主】

■初  代■加藤直泰
■二  代■加藤泰觚
■三  代■加藤泰貫
■四  代■加藤泰広
■五  代■加藤泰宦
■六  代■加藤泰賢
■七  代■加藤泰儔
■八  代■加藤泰理
■九  代■加藤泰令



***********************

加藤光泰家

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/katou_m.html


加藤氏は藤原氏の一族といい、加賀の藤原からきたものといわれる。

『尊卑分脈』によれば、源頼義の郎党藤原景道が加賀介であったことから「加藤」を称するようになったとみえている。

景道は藤原氏利仁流で、前九年の役で「東奥七騎」とうたわれた兵(ツワモノ)であった。

景道の曾孫にあたるという加藤次景廉は、源頼朝の旗揚げに参加、鎌倉幕府が成立すると鎌倉御家人となった。

ところが、景廉は梶原景時の謀叛事件に連座して失脚、一族離散して、一部が三河へ流れてきた。

それが、三河加藤氏の始めということになっている。
      ↑
     三河加藤氏?

       この三河加藤氏が戦国時代に遠江に来た可能性はアリでしょうか?
       当然浜松に来ますよね?



 さて、加藤光泰の加藤氏は修諸修諸修諸、『寛政重家譜』によれば
藤原利仁の曾孫重光二十代の後裔景秀の嫡男景泰は斎藤氏に仕えて、
美濃国多芸郡(養老郡)橋爪荘で七十貫の所領を持っていた。

景泰の嫡男が光泰で、斎藤氏が没落したあと羽柴秀吉に仕えた。

一方、『美濃国諸家系譜』に収められた「加藤氏系図」では、
加藤次景廉の孫で美濃国恵那郡岩村に住した景村の後裔になっている。
               ↑
              岩村


景村の子景光は遠山加藤太を称したとあるが、遠山氏系図は錯綜したものが多く、その真偽のほどは判然としない。いずれにしろ、光泰の一代で大名に出世したことだけは紛れもない史実である。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月10日 16時02分01秒 ) パスワード

http://www1.parkcity.ne.jp/sito/190.html

家紋は   白蛇の目紋  ?


藩祖・貞泰(さだやす)
生没・天正8年(1580)〜元和9年(1623)

加藤光泰の長男 母は一柳氏    ←   下記へ

豊臣秀吉に仕えるも父光泰の没後、文禄4年(1595)甲斐24万石を収公され、美濃黒野4万石へ移封される
従五位下左近大夫
正室・小出吉政の娘(吉政は岸和田藩主、子孫は出石へ移封するが、後に無嗣除封)

子女・女子→谷田部藩細川興昌室 2代泰興
直泰(別家新谷藩藩祖)


加藤貞泰

*加藤光泰の長男 母は一柳氏

長男と次男が錯綜してますが  (宿題)
貞泰が次男でも長男または嫡男とされるのは母が名門の出だからかも。


母の出が低いと長男でも嫡男になれず「長子」とわたくしの母方では呼びます。

家督は母の身分の高い者へ。


ひょっとすると泰清の父は光泰の長子だったのでしょうか?
それで秀次の家臣になったのかしら?


まだまだ謎です。

[45]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月12日 00時32分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は、関市の「刃物まつり」に行ってまいりました。毎年訪れるように
なって5年程経ちますが、関の刃物に魅かれるのは、匠の技で鍛造して研いだ
刃物そのものの切れ味に他なりません。この切れ味はまさに歴史の厚い頁を切
り裂いて、遠く江戸時代や戦国時代を垣間見せてくれる神器でもあります。
 今回は、初めて歴史にまつわるものを見たいと思い、少し時間をさいてみま
した。深く突っ込んだものはありませんが、表面的に拾えたものは次の3つで
す。
 1.長野にある善光寺の分院が関市にあったこと。関善光寺といい、来年に
  御開帳があるという。長野との関係が深いと思った。
 2.善光寺の側に、関の鍛冶の始祖「元重」翁の石碑を見つけたこと。元々
  は九州からやって来たそうです。鎌倉時代の末で「折れず、曲がらず、
  よく切れる」という評判だったそうです。そのおかげで関は「刀都」と呼
  ばれるようになったという事です。
 3.同じく善光寺の側で、芭蕉十哲の「広瀬惟然(いねん)」の草庵「弁慶庵」
  を見つけました。こんなところに何故芭蕉の弟子がと不思議に思いました。
  弁慶庵は娘が尼になって父を祀り、以後尼寺としてずっと引き継がれて来
  たそうです。
   最後の句として、「年の雲、故郷に居ても ものの旅」があるそうです。

 明日は、岩村に行く予定です。
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月12日 02時53分14秒 ) パスワード

<46>の書き直し:主語が混乱してました


関に行ってらっしゃいましたか。


「関」というと伊勢の関と美濃の関でこんがらがります。

その上、伊勢の知り合いが先祖は刀鍛冶だった、と言ってたので余計にこんがらがります。


やっと最近、
   前述の「明智光秀」の小説で、関の刀鍛冶の息子が光秀の家来になって娘をもらったたと読んで
区別がつくようになりました。


伊勢の関は平家がらみで清盛の孫の資盛が公家に無礼を働いて
暫く関に流されたというか、関に追放されてたといいうか、勘当されてたというか、
そういう場所なので


これだけ違うのにどうしてこんがらがるのか不思議ですか、脳が退化してますから・・・・



1.長野にある善光寺の分院が関市にあったこと。
  長野との関係が深いと思った。
 
  ですね
  信濃と美濃?
  ということで下記の人物に関係があるのかと思いましたが、全然外れでした。


長沼宗政

鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。長沼氏・皆川氏の祖。下野国の有力豪族・小山政光の次男。

文治5年(1189年)9月、頼朝の奥州合戦に随行。頼朝から信濃国善光寺地頭職を与えられたが、
承元4年(1210年)8月に改替。
正治2年(1200年)11月、美濃国大榑荘の地頭職を得た。
                ↑
               現在の安八郡ですね
               揖斐川と長良川に挟まれた土地の低い所

だから全く関係が無かったですね。残念。



それで調べたら関善光寺は宗休寺で結構最近のお寺さんで、宗教上だけの関係のようですね?


1753年(宝暦3年)創建。

1798年(寛政10年)、等順によって宗休寺にて信州善光寺の出開帳が行なわれる。
これが縁となり、善光寺を模した本堂、戒壇が建てられることとなり、1818年(文政元年)に建立された。

       まだ200年のお寺でしたか。




2.善光寺の側に、関の鍛冶の始祖「元重」翁の石碑を見つけたこと。
  九州からやって来たそうです。
  鎌倉時代の末で「折れず、曲がらず、よく切れる」という評判だったそうです。


ということで調べて来ました。

http://www4.kcn.ne.jp/~usuitoge/hamonohan04.htm


関鍛冶の始祖

 刀祖(関鍛冶の基礎になった人)は元重・金重とされている。

   はっきりとわかっていない。
   なぜなら、関鍛冶の系譜などが
    関鍛冶が成立した室町時代以降に追記されたり、
   江戸時代の写本などであるからである。

   また、刀祖が製作した刀が存在しないためである。


         へえ〜
         それまた意外です


元重について

基重は関鍛冶の刀祖とされている人物である。
その証拠としては、江戸時代などの書かれた古剣書や関鍛冶系図にその名前が刻まれているからである。
しかし、刀祖元重としての名が刻まれた刀が存在しないことや証拠が江戸時代のもののため、
存在自体が疑問視されている。

同時代、備前など各地に元重の名を持つ人物が複数いたので、
その人物の誰かが、刀祖「元重」という説もあるが、確実な確証は今の所ない。

元重の出身については、多く意見があるが「九州」とされる説が有力である。
それは、多くの古剣書に九州の地名が記載されているからである。

一方で、「伯州ヒバラ」(山陰)が出身という説もある。
これは、関刀の原料となる玉鋼の生産地が山陰地方であることに由来していると考えられる。

             ↑
      出ましたね、製鉄王国「出雲国」との関係


 いずれにしても、基重という人物については、確証の得られない点が多い。



金重について

金重は元重と違って、名を刻んだ刀が実在する。そのため、金重を刀祖とする説もある。
金重の出身地は「大和」と考えられている。
その理由は、過去の文献に記載されていることと、
関鍛冶(美濃伝)の多くが大和鍛冶を基礎としているからである。



 3.同じく善光寺の側で、芭蕉十哲の「広瀬惟然(いねん)」の草庵「弁慶庵」
  を見つけました。
   こんなところに何故芭蕉の弟子がと不思議に思いました。
  

広瀬惟然

ひろせ いぜん / ひろせ いねん、慶安元年(1648年)? - 宝永8年2月9日(1711年3月27日)


生涯[編集]

美濃国関(現・岐阜県関市)に酒造業の三男として生まれた。
通称は源之丞。
14歳の時、名古屋の商家、藤本屋に養子に入るが、
貞享3年(1686年)39歳の時、妻子を捨てて関に戻り出家した。

貞享5年(1688年)6月、松尾芭蕉が『笈の小文』の旅を終え、岐阜に逗留した折に芭蕉と出会い門下となった。

      へえ〜

翌年にも『奥の細道』の旅を終えた芭蕉を大垣に訪ね、その後関西に滞在した芭蕉に近侍した。


元禄7年(1694年)、素牛の号で『藤の実』を刊行する。
芭蕉没後は「奥の細道」の逆順路の旅などもした。

元禄15年(1702年)ころから芭蕉の発句を和賛に仕立てた「風羅念仏」を唱えて芭蕉を追善行脚した。
晩年は美濃に戻り、弁慶庵に住んだ。


惟然の口語調俳句[編集]

惟然の俳句には擬音まじりや、口語調の俳句があることが特徴である。以下に例を示す。

水鳥や むかふの岸へ つういつうい
水さつと 鳥よふはふは ふうはふは

     へえ〜
     かわいい
     可愛い句に驚き


それにしてもこの広瀬惟然
酒屋の生まれだということでお金持ちの家だったのは分かりますが
    知り合いに酒造りの家があって
    その資産たるや!

奥の細道を逆に辿ったりした?


   ヒバリさんのブログで知りましたけど
   そして杉本苑子の「終焉」で読みましたけど

   江戸時代って個人が勝手に自由に旅行なんて出来ないし
   お金だってすごくかかったでしょうし

   でも僧なら関所も荷物を調べられずに通れるから
   そして芭蕉の弟子という肩書もあるし

この人物も実はアヤシイでしょうか?


歴史って、調べれば調べるほど奥が深くて新しい発見があって、興味は尽きないですね。


台風19号が東海地方に接近する前に岩村でいろいろ収穫があると良いですね。
ご報告を楽しみにしています。
でもお気をつけて。


   洪水になってお家に帰れない
   仕事にも行けない
   なんてなってはいけません。
   あはは
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月12日 10時56分41秒 ) パスワード

加藤光泰と岩村の関係:

ウイキより:途中で加藤氏関係の「橋爪」についてを挿入します。


復習:   加藤光泰家

蛇の目/上り藤
(藤原氏利仁流)


加藤氏は藤原氏の一族といい、加賀の藤原からきたものといわれる。

『尊卑分脈』によれば、源頼義の郎党藤原景道が加賀介であったことから「加藤」を称するようになったとみえている。

景道は藤原氏利仁流で、前九年の役で「東奥七騎」とうたわれた兵(ツワモノ)であった。

景道の曾孫にあたるという加藤次景廉は、源頼朝の旗揚げに参加、鎌倉幕府が成立すると鎌倉御家人となった。

ところが、景廉は梶原景時の謀叛事件に連座して失脚、一族離散して、一部が三河へ流れてきた。
それが、三河加藤氏の始めということになっている。


さて、加藤光泰の加藤氏は修諸修諸修諸、『寛政重家譜』によれば藤原利仁の曾孫重光二十代の後裔景秀の嫡男景泰は斎藤氏に仕えて、
美濃国多芸郡(養老郡)橋爪荘で七十貫の所領を持っていた。
 
            三重県の近くで岐阜県の大垣の近くですね

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

ここから加藤家についての情報を挿入します:

http://www.tagizou.com/main/elibrary/pdf/36hasidumenorekisi.pdf
これによると
加藤家は吉野より逃亡する義経捕縛のために頼朝から命ぜられて
伊勢から美濃国橋爪に駐屯するようになったのだそうです。
           

70ページ  21章  八幡神社のある加藤家


橋爪の加藤家は代々私社として若宮八幡神社を守護されているが、
同家の由来はどのようであろうか。

藩翰譜という書物がある。

これは甲府中納言徳川綱豊(六代将軍家宣) の命により、新井白石が元禄十五年(一七O二)に編著したもので、慶長五年(一六OO) の関ヶ原の戦いより延宝八年(一六八O) 四代将軍家綱の時代の終りまでの、八0年間にわたる大名三三七家の経歴や系譜を収録してある。



この頭注に「加藤遠江守光泰は鎮守府将軍利仁二三代の後商加藤権兵衛景泰の子也。
景泰・美濃多芸郡橋爪庄七O貫を領して、初は守護斉藤氏に属す」とある。


藩翰譜には「左近大夫貞泰は遠江守光泰が男也。光泰・初め織田殿の家人(作内と申しき)。元亀元年(一五七O) の春、木村、生駒、前野等と同じく羽柴藤吉秀吉の手に属せらかしこしゅくやる。

これより秀吉世の事を知り給ふに至りて、是処彼処の戦功、夙夜奉公の労を積みてければ、天正二一年(一五八四)、近江田高島の城を賜ひ、叙爵して遠江守に任じ、同じき一八年(一五九O)、甲斐国を悉く賜ひ領しぬ(二四万石)。

きれば殿下(秀吉)年来の御家人にて、御覚え他に異なりし故、斯かる大名にもなし立て給ひ、時の栄世の華なりしかど、いつしか、ざん人の為に申しさまたげられて、御気色宜しからず。

文禄の初め、朝鮮討たるべき事起りて、光泰も軍勢引具して彼の国に打渡り、是処彼処の軍し、終に陣中にて空しくなりぬ」と載せている。

         三成に讒言されて
         朝鮮で没したというお話ですね

また、新撰美濃志に

「東黒野村黒野古城、加藤遠江守光泰の子左衛門尉貞泰、是に居れり。
父光泰甲斐国二十四万石を領し、谷村の城にありしが、
文禄二年(一五九三)征韓の役に彼地にて卒去し、
貞泰幼稚なるにより領地を滅ぜられ、僅か四万石にて美濃の黒野城に移り、
慶長一五年伯香米子城に移り、六万石を領す」と書かれている。



加藤氏がいつ頃から橋爪に居住したのか分からないが、藤原時長七代の後胤景道が始めて加藤氏を名乗っている。


光泰の子貞泰は後に四国の伊予大州六万石に移封した。貞泰の子は泰興だが、その弟直泰は伊予新谷一万石に封じられ、両家の子孫ともそのまま明治に至り華族に列せられて、子爵を与えられている。


光泰の弟に光定があり、この子孫が現在橋爪に在住している加藤氏の祖先らしいと言われる。

また光泰の娘は二人あり、姉は竹中重門、妹は石河光遠の室となった。


橋爪の伝承では、徳川時代の末ころに大名行列が橋爪を通り、殿様が村人を呼んで

「この地に加藤と云う者が居らぬか」

とたずねた。


その頃、加藤家は没落して一農家になっていたので、村人は叱責と難儀のかかるのを恐れて「さような者は当地には居りませぬ」と答えた。

大名行列はそのまま通り過ぎていったという。


同家で永年にわたって護持されている若宮八幡宮の勧請由来については分からないが、
このような農村の個人の家で、一社を経営することは、加藤家の昔の由緒と繁栄を、無言に物語るものであろう。


次は21章
省略


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
以下ウイキの情報に戻ります

景泰の嫡男が光泰で、斎藤氏が没落したあと羽柴秀吉に仕えた。一方、『美濃国諸家系譜』に収められた「加藤氏系図」では、加藤次景廉の孫で美濃国恵那郡岩村に住した景村の後裔になっている。景村の子景光は遠山加藤太を称したとあるが、遠山氏系図は錯綜したものが多く、その真偽のほどは判然としない。いずれにしろ、光泰の一代で大名に出世したことだけは紛れもない史実である。

周山 光泰の出世

 父の死後、家督を継いだ加藤光泰は斎藤龍興に仕えたが、永禄十年(1567)、稲葉山城は信長によって落とされ斎藤氏は没落した。主を失った光泰は美濃衆の一人として、織田信長の部将羽柴(豊臣)秀吉に仕えるようになった。
 元亀二年(1571)、近江国横山城において浅井長政勢と対戦、左足に重傷を負い、秀吉から七百石の知行を与えられた。併せて与力十余人を預けられたというから、光泰は秀吉に仕えたとき美濃の所領は失っていたのであろうか。以後、秀吉に仕えて順調に出世階段を昇っていくことになる。そして、天正八年(1580)、播磨三木城攻めに活躍、播磨に五千石の地を与えられた。
 天正十年六月、明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺で討死した。山崎の合戦で光秀を破った秀吉から、光秀の旧城の一つである周山城と一万七千石を賜り万石取りの武将に出世した。ついで、近江国海津城、大溝城へと転じ加増を受けて二万石、さらに尾張国犬山城の在番を命じられた。信長死後、山崎の合戦を制した秀吉は、信長後継をめぐる候補者争いを自らが推す三法師(のち秀信)で決着をつけると天下人への道を驀進しはじめた。
 天正十一年、ライバルの柴田勝家を賤ケ岳の合戦に破り、翌年には織田信雄と徳川家康の連合軍と小牧・長久手で対戦、翌十三年は越中に佐々成政を攻め屈服させた。その間、光泰は犬山城で徳川・織田連合軍と対峙するなど最前線に身をおき、美濃大垣城を与えられ四万石を領するようになった。併せて秀吉の蔵入地二万石を預けられたが、秀吉の勘気を蒙るところがあり、豊臣秀長に預けられた。秀長のもとでは一万石を与えられ、天正十五年には宇陀郡秋山城において一万六千石を与えられた。
 同年、秀吉の赦しをえて従五位下遠江守に任じ、近江国佐和山城と二万石を賜った。天正十八年小田原攻めのときは駿府城在番の任をつとめ、北条氏没落後、甲斐国甲府で二十四万石を与えられ大大名となった。ここに至るまでの光泰の経歴をみると武将としての派手な活躍は少ないが、文武ともに水準以上の能力を発揮し、生え抜きの武将が少ない秀吉にとって貴重な人材だったのではなかろうか。
………
写真:光泰がはじめて城持ちになった周山城祉

肖像 加藤氏の浮沈

 新しい所領となった甲斐国は、関八州に封じられた徳川家康と境を接するところであり、秀吉の光泰に対する期待が大きかったことがうかがわれる。光泰もまた領内の検地を進め、甲府城を築くなどして領国経営の安泰につとめている。
 文禄元年(1592)、文禄の役が起こると光泰も出陣、朝鮮に渡海して活躍した。翌年、日本に帰ることになった光泰は、宮部長房の陣での宴に出席したのち、にわかに発病して西生浦の陣において帰らぬ人となった。一説に、石田三成の意を受けた宮部長房による毒殺ともいうが、その真相は闇の中である。光泰の死によって甲府二十四万石は収公され、家督を継いだ貞泰は美濃国黒野城四万石に転封となった。この六分の一という減封は、光泰に過失があったわけでもなく、貞泰が若かったということを差し引いても奇異な感じを受ける。ここにも、三成による光泰暗殺説が生まれた一因があるようだ。
 慶長三年、秀吉が病死すると徳川家康と石田三成の対立が顕在化、政情は一触即発の状態となった。そして、慶長六年、関が原の合戦が勃発した。三成の催促を受けた貞泰は竹中重門、稲葉貞通らと犬山城に入ったが、三成に意趣を含む貞泰は密かに徳川家康に通じ弟光直を質に送っていた。そして、井伊直政に属して大垣城攻めに参加、関が原の合戦後は近江水口城攻めに功があった。戦後、伯耆国米子城を賜り、二万石を加増されて六万石を領した。
 大坂両度の陣にも出陣して功があり、元和三年(1617)、伯耆国米子から伊予国大洲六万に移された。それまで大津と呼ばれていたものを大洲と替えたのは、ほかならぬ貞泰のときで、以後、加藤氏は代々伊予国大洲六万の藩主として続き、明治維新を迎えた。
………
写真:加藤光泰画像 (東京大学史料編纂所データベースから)

【参考資料:寛政重修諸家譜・戦国大名緒家譜 など】

[49]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月12日 11時19分29秒 ) パスワード

橋爪の本の8ページから秦氏についてちょっと書かれています:

聖徳太子の死後
入鹿が
皇極二年(六四二)、太子の御子皇子を始め一族をことごとく殺した。

そして朝廷における太子の残存勢力の一掃を図った。

この時、秦河勝公も追われて兵庫県の赤穂に逃れた(大避神社由来記。広隆寺記には流罪と記してある。)
その赤穂の坂越に建てられたのが大避神社(旧郷社)で、ご祭神は大避明
神また大酒明神とも云い、河勝公をお杷りしてあると云う。

大酒神社は他に、広隆寺境内社、愛媛県青島、山口県仙寄、油谷にも存在するとのことだが詳細は不明である。

河勝公が前述の欽明帝からの五朝にお仕えしたとの伝承にはいささか疑問がある。欽明帝の崩御が五七一年で入鹿の乱が六四二年、この間が七一年間あり常識では信じ難い。

河勝公が特に長命だったとの記録もない。

朝廷を追われた河勝公が橋爪に来られたとの確証はない。入鹿の乱で逃れたのは河勝公だけでなく、その一族もそうであったろう。そのうちの誰かが秦の民の多数居住する橋爪に来ることもあるのが当然である。

その人が秦民統合のための神社を建立したとしても不思議でないし、それ以前秦民が当地に分置されたときに精神的支柱として、祖先を崇拝する洞のようなものを造ったとも考えられる。

また河勝公が仏像を賜わったとき、仏教信仰の厚い公が有力秦族のいるところに模造を供与したかも知れない。

更に壬申の乱(六七二)で戦功を挙げた橋爪の秦族の統領をも、祖先と共にお把りしたとも、ご神体から推察可能である。

ご神体は二柱あり、ご一体は高さ二尺一斗リ五分(約六五センチ)の仏像で観世音菩薩と云われる。木彫金泥塗の立像で、大久保休吾氏は広隆寺の仏像の模造であるとされている。


だが、広隆寺の国宝弥勤菩薩とは外観が全く違うのでいぶかしい。太子より河勝公に賜わった仏像は百済より贈られたものと言われるから、太子本願御形とは異るかも知れない、とも考えられる。

以前からあった仏像は慶安三年ヤロカの大水で流失したらしく、現在奉安の仏像は洪水二O年後の寛文十年(一六七O) に開眼供養されたと棟札にあるので、そのとき新しくお作り申したのであろう。その際の新像は以前のを模造したのか、全く別の華やかな像をつくったのかは不明である。

もうご一体は高さ七寸五分(一一一一センチ七ミリ)の木彫の立像で無冠、有髭、直衣ょうの衣服を召された様式の彫刻像である。ヤロカの大水の際、大樹にかかったと伝承されるのは、舎人ふうのこのご神体ではなかったろうか。


秦氏をお杷りした神社は養老郡には他に見られない。この神社を氏神として多年崇敬してきた橋爪が、秦の民の居住地であったと考えても決して無理ではない。現在岡山の東に桑の木原の地名がある。この附近でとれた桑の葉で秦の民が養蚕したのかも知れない。

        ↑
      秦の民と養蚕


篠塚神社は美濃国神名帳によっても一千年、もし、秦河勝公の時代からとすれば二二五O年の歴史を持つことになる。


四章  秦民と垂穂郷


秦の民を多数この地に配置した理由は何であったろうか。国郡に分置するのは中央政府の方針だったが、異国の一族をあまりに少数ずつ分散しては言語習慣の違いが生活に困難をもたらすので、かなりの数であったろう。それだけに美漉に割当てられた秦民をどこに置くかには、国府の役人も困ったと思われる。


当時の美濃の中心は西濃で、国府(いまの県庁)は垂井町府中にあった。国府の無い時代も東国への出入口にあたる西濃は政治文化で重要な地位を持っていた。

府中より橋爪までは二里程度(約八キロ)、速からず近からず監督も可能である。低湿でないので竪穴住居も建設しやすい。

古橋爪は大和・伊賀・伊勢より東山道や国府に通ずる主要道の伊勢街道に沿い、水利がよく、しかも水害に遭うことも少なく、移住の先進文化を持つ秦民族が生活を営むのに最も適当な場所と考えたのであろう。田畑や家屋の水没の恐れの少ないこの地は、朝廷に奉献するための養蚕織絹にも有利であったろう。

古橋爪に秦の民が居住していたと思われるのは、篠塚神社の由緒だけではない。奈良にある正倉院文書中の寧楽遺文に優婆塞貢進解があるが、その一通に「秦公豊足年廿九、美濃国当曙郡垂穂郷三宅里戸頭秦公磨之戸口」とあり、天平四年(七三二)三月二五日の日付が記載されている。

二九歳の秦公豊足が住んでいた三宅里はどこだったか。三宅里は屯倉(ミヤケ、屯家、であろうと云われるが、垂穂郷の一部であることは間違いない。象鼻山の南麓か東麓かいずれにしても朝廷に奉納する諸物資を収納保管した屯倉(後にはその土地をも云う)を、この地に置かれる事もうなずける。


彼らが住んでいたと思われる古橋爪は、象鼻山麓の岡ケ鼻一帯より東南方に拡がり、牧田川河川敷を含む地域であろうと考えられる、かなりの大集落であったらしい。

ここに名前のあらわれる垂穂郷とは何であろうか。

養老郡は古代は多芸郡と云い、現養老郡と海津郡北西部や大垣市の南西部を含む広大な地域であったが、斉衡二年(八五五) 石津郡(上石津・下石津)を分離した。

多芸は当芸・多伎・当者・当噌・多紀とも書かれる。

承平七年(九七三)に源順が撰した倭名類衆抄によると多芸郡には八郷があった。

郷とは租税や労務提供、兵士の徴募等の行政単位で現在の村のことである。

八郷は富上・物部・立野・有田・垂穂・田後・佐伯・建部で、その所在地は一千年以上の昔のことでハツキリしないが、多くの学者によっていろいろと推定されている。

だが、垂穂と立野については全くと言っていい程わかっていなかった。垂穂は乗穂とかいた古記録もあろが、いずれかが、書き写しの際の誤りであろう。垂穂の方が多いので本書はそれに従うことにする。


篠塚神社のご祭神から見ても、また、他の地域にはそれらしい処が見当たらないこと、更に前述の諸般の状況から推察すると、垂穂郷が古橋爪の地域であったのは、ほほ確実と考えられる。

ところで、ここに居住していた秦の民はいずこに消えたのだろうか。
そもそも、固有の日本民族なるものがあった訳ではない。アイヌ、蒙古、朝鮮、南方

   この先コピペ不可能
   要するに

その他と混血して日本民族の中に埋没していったのであろう
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月12日 11時20分23秒 ) パスワード

48と49はのちほど  明日か明後日 削除します。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月13日 06時34分30秒 ) パスワード

レス48と49は下記のURLに行ってください。
そんなに目新しい話は無かったように思います。

ただ帰農して過ごしていた加藤家の一族に
どこかの殿様が加藤家の消息を尋ねたのを村人が配慮して「そんなものはいない」と答えたのは
今となっては良かったのかどうなのか
仕官の道が開けたのかも知れないし。




加藤家についての情報:

http://www.tagizou.com/main/elibrary/pdf/36hasidumenorekisi.pdf
これによると
加藤家は吉野より逃亡する義経を捕縛するよう頼朝から命ぜられて
伊勢から美濃国橋爪に駐屯するようになったのだそうです。            
序文に出てたこの話はどこに書いてあるのか分からなかったです。
70ページ  21章  八幡神社のある加藤家
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月13日 09時53分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 加藤氏の探究、ありがとうございます。その中で、「帰農」という言葉が
出て来たので何か親近感を感じました。

 昨日は、山道を往復300q以上、約6時間以上走ったので、帰宅後はパソ
コンにも手がつかず、疲れて眠ってしまいました。

 岩村は想像していた田舎の村とは全く違って、800年にわたる城下町と
いうことで、また国の特別景観保護も受け、街並みが整備され、きれいな街
でありました。また、城跡も想像以上のもので、城郭はなくなっておりまし
たが、石垣は山頂を利用した地形の上に見事に計画され築かれておりました。
 中でも6段積みという石垣が正面にあり、他にはない珍しいものでありま
した。もし城郭も復元できたなら、日本では有数の城となることは間違いあ
りません。
 岩村歴史資料館も立派でありまして、冑、鎧、刀、槍、籠はもとより、
高札、目安箱、日本初の英和辞典、大名の家紋事典みたいなもの、その他諸々
の物が展示されていました。歴史資料も20点位頒布されていて、その内3
冊を購入して来ました。今後読んで新たなる発見がありましたらお知らせい
たします。
 岩村城の創築は加藤景廉。
 景廉の長男の景朝が遠山を名乗る。
 次男景長の子孫に加藤嘉明が出る。
 四男景義の子孫に加藤光泰が出る。
 瀬戸の陶工加藤景正は景廉の兄。
 
 天正3年(1575)より岩村藩主は、松平親忠の長男乗元(大給松平)の五世
孫の家乗、その子乗壽と二代続く。ちなみに家康は松平親忠の二男の長親の四
世孫である。
 その後、藩主に丹羽氏が五代続き、再び松平氏に戻り、七代続いて明治とな
っている。

 岩村での特に目立った収穫は、次の2点の発見であります。
 1.織田信長が本能寺の変の80日前に、岩村城に泊まったという事実。
 2.地元の酒に「女城主」といううまい酒があった(購入して飲んだ)。
   女城主とは信長の叔母であり、遠山景任の妻である。武田と信長の間
   でいろいろあって、そこの悲劇のヒロインが「女城主」即ち信長の叔母
   であった。信長により逆磔にされたという。何とむごいことを!
この酒を飲みながら、この叔母の涙を盃に感じるようだった。
   
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月13日 10時46分32秒 ) パスワード

三つ柏さん


300km以上ですか。
遠かったですね。
日帰りですものね、お疲れでしたでしょうね。

でも無事で良かったです。


>1.織田信長が本能寺の変の80日前に、岩村城に泊まったという事実。

これは100%、全く、知らなかったです。




ウイキより
加藤景廉について


生誕
保元元年(1156年)?

死没
承久3年8月3日(1221年8月21日)

改名
景廉、覚蓮房妙法

別名
藤次郎、加藤次、景廉法師

墓所
静岡県伊豆市牧之郷 一族五輪塔

官位
従五位、左衛門少尉、検非違使

幕府
鎌倉幕府

主君
源頼朝、頼家、実朝

氏族
藤原利仁流、加藤氏

父母
加藤景員

兄弟
光員、景廉

 ↑
それで加藤家は「光」が通字なのですか。
「光泰」の「光」はどこから来てるのな、と不思議でした。。



景長、景義、遠山景朝(遠山氏祖)


加藤 景廉(かとう かげかど)は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。藤原利仁の流れを汲む加藤景員の次男。



経歴[編集]

加藤氏は元々伊勢国を本拠としていた。


伊勢加藤氏の館は、安濃津の近くの下部田(現在の三重県津市南羽所)にあったと言われているが、
明確な所在は不明(『津市史』より)。


    平家の本拠地に近いじゃないですか。驚





平氏との争いにより父・景員に従って伊豆国に下り、
工藤茂光らの協力を得て土着勢力となった。

嘉応2年(1170年)に伊豆諸島で勢力を伸ばした源為朝討伐に従軍し、
大敗して自刃した為朝の首をはねて、戦功を挙げたと伝わる。
         ↑
        ええっ?!


治承4年(1180年)に源頼朝が平氏打倒のため挙兵すると、
父や兄と共にその麾下に参じ、平氏の目代・山木兼隆を討ち取るという大功を立てた。

頼朝が石橋山の戦いに敗北した後、
兄・光員と共に甲斐国大原荘(富士吉田市、富士河口湖町)に逃れるが、
やがて武田氏と共に駿河国に侵攻、
鉢田の戦いで目代・橘遠茂を攻め滅ぼす。

その後頼朝は関東を制圧して鎌倉殿と称されるようになり、景廉は側近として頼朝に仕えた。

病持ちであったと見られ、
寿永元年(1182年)6月7日、鎌倉由比浦で弓馬の芸の披露が行われた後の宴席で気を失い、
佐々木盛綱が大幕で景廉を包み抱えて運び出したという。

翌日、頼朝が車大路の景廉の家へ見舞いに訪れている。


元暦元年(1184年)から翌年にかけての源範頼率いる平氏追討に病身を押して参加、頼朝の賞詞を得る。

その後の奥州合戦でも戦功を立てた。

頼朝の信任は厚く、建久4年(1193年)頼朝の命により安田義資を誅殺し、
その父・義定の所領遠江国浅羽庄地頭職を与えられた。
              ↑
             遠江国


頼朝が死去した後、
正治2年(1200年)に梶原景時の変で梶原景時が滅ぼされると、
これと親しかったため一旦は連座して地位を失う。

建仁3年(1203年)9月の比企能員の変において、
北条時政の命で比企能員を謀殺した仁田忠常を、北条義時の命によって景廉が謀殺している。


その後も和田合戦などの諸戦で幕府方として働き、再度元老の座に返り咲いた。


三代将軍・源実朝が暗殺された際、警備不行き届きの責任を感じて出家し覚仏と改名。


承久3年(1221年)6月の承久の乱では宿老の一人として鎌倉に留まったが、8月3日に没した。


その他にも美濃国恵那郡遠山荘(岐阜県恵那市・中津川市の大部分と瑞浪市の陶地区)も領地として与えられた。


恵那市岩村町の八幡神社には加藤景廉が祭神として祀られており、
岩村町歴史資料館には加藤景廉公の神像が保存されている。


子孫[編集]

長男の景朝が岩村城を本拠地として遠山氏の初代となり、遠山景朝と称し地頭となり戦国時代末期まで存続した。その分家苗木遠山氏は江戸時代に苗木藩1万石の大名となり廃藩置県まで存続して明治に子爵となった。また分家明知遠山氏は江戸幕府の旗本となった。江戸の町奉行となった遠山景元(遠山の金さん)は、明知遠山氏の分家の子孫である。

その他に豊臣秀吉の直臣として活躍した加藤嘉明など、景廉の子孫は伊勢、伊豆、甲斐、美濃、尾張、三河、その他全国に広まった。


参考文献[編集]
網野善彦「『加藤遠山系図』について」『中世古文書の世界』
関幸彦・福田豊彦編著 『源平合戦事典』 吉川弘文館、2006年。



ということは加藤家は元々遠江国に縁があったのですね。
[54]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月14日 06時52分37秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 台風19号も通り抜け朝を迎えました、この地域では予想した程の風雨もな
かったので大した被害もなさそうです。

 さて、遠山氏でも別の系統の遠山氏がいて、以前からこんがらがっていまし
た。浜松から二俣、水窪を抜け青崩峠を越えて南信濃へ入りしばらく行くと、
遠山郷という所に出ます。ここに遠山氏がいて和田城を造った。私は歴史に詳
しくなかった頃、例の遠山の金さんと関係があるのかと思ったりもしましたが、
別系統である事がわかりました。初代が遠山景廣といい遠江守でありました。
家紋は「丸に二の字」、茶碗に箸を2本並行に乗せた文様であります。遠山氏
は初め武田に仕え、反織田で、信長死後徳川につきました。
 ということで、南信濃にも遠山郷、遠山氏がある事をお伝えいたします。

 次に、服部正勝の件ですが、服部左京亮の子政光、政光の子政信、その弟の
政重、政重の子政次、政次の子政勝—政勝は大久保四郎左衛門忠重の次男で服部家に養子に入ったという所まではわかっていましたが、では一体大久保忠重と
はどういう人かというのを知りたくて調べてみましたが、大久保一族の家系の
大きさにビックリしましたので、その一族をあらわした「三河大久保氏総系譜」
というサイトをぜひご覧になっていただきたいと思います。下記アドレスです。

http://plaza3.dws.ne.jp/~m.okubo/MikawaOkubo-SouKeihu.pdf

これによると、忠重は忠隣の孫に当たります。忠隣は例の小田原藩主、大久
保事件に連座して改易となっています。
 その孫の大久保忠重の次男が服部正次の養子になっているということは、
小田原藩にいた家老の服部氏とは、やはり政光・政信の系統でしょうか・・・。
もっと調べたくなりました。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月14日 11時32分44秒 ) パスワード

台風が無事に?通過して、お仕事に行けるようで良かったです。


>南信濃にも遠山郷、遠山氏がある事をお伝えいたします。

ややこしいですね。


調べて来ました:

信州遠山氏
信州遠山氏(江儀遠山氏) - 信濃国伊那郡南部に拠った一族。
              美濃遠山氏と同祖とみられる。
             「伊那旧事記」は明知遠山氏の分家としている


福岡遠山氏
福岡遠山氏       ー 美濃国恵那郡福岡町に拠った一族。
              景朝の子・景村が祖。
              広恵寺城を守り遠山一雲入道が後醍醐天皇の皇子・宗良親王に仕えていた。






それにしましてもすごいのが見つかりましたね。
http://plaza3.dws.ne.jp/~m.okubo/MikawaOkubo-SouKeihu.pdf
大久保家の系図の整理が大変だったでしょうね。


_______________________________


大久保忠保(ただやす)(吉次郎)

     服部権之進某が養子、権之進罪ありて家録を没収により、甥忠方へ帰る
     この人は大久保忠昇(ただすみ)(矢九郎)(1746-1795)50の弟ですね。
     それで甥になる大久保忠方(ただかた)(矢九郎) 1,200石の家に引き取られたのですね。



     「権」がつくから服部権太夫の一族でしょうか?
             でもどなたでしたっけ?
    
             尾張服部家の兄の息子筋になる服部政光・政信・政次でしたっけ?


______________________

大久保元政(もとまさ)(五郎八郎) 実は六太夫次男、忠勝が養子に、大阪の陣の時傷を受ける。元和6年没31歳
     この人の弟は大久保元勝(もとかつ)(文左衛門) 三宅島に配流せらる

             これもビックリですね


____________________________


大久保忠堯(ただたか)(権兵衛) 勘気ゆるされ駿河大納言忠長に付属し忠長罪こうぶりで、また勘気こうぶられる

    この人の一族の大久保忠尚(ただなお)(半助 将監) 慶長19年兄忠辰忠政と共に勘気こうぶるが、
    大坂の両役に於いて首級を得、また勘気こうぶられる



__________________________________


こちらの一家は水戸家に仕えることが出来ましたね。
   大久保重成(しげなり)(甚五左衛門)(1676-1753)78 家康に仕、忠隣が事で勘気を被り、後水戸中納言頼房に付属

   大久保忠與(ただとも)(彦四郎 甚五左衛門) 父に継いで水戸中納言頼房卿に仕える

   大久保忠雅(ただまさ)(藤七郎) 水戸中納言頼房卿に仕える



_________________________________


大久保昌幸(まさよし)(七郎左衛門) 大久保相模守忠隣がもとにあり、故ありて高野山に登り、後松平因幡守が家臣

   この人も連座してますね。

    弟の大久保昌之(まさゆき)(加平次) 家光に仕え、
      采地千石の加恩あり、隊下の士の事で御勘気をこうむり、采地公収。


___________________________


5ページ目に小田原藩主だった家が出てますね。




    ここ重要です  6ページの下の方
       ↓
大久保忠成(ただなり)(虎丸 兵吉 四郎左衛門 玄蕃頭 従五位下 致仕号道喝)(1565-1672)108 (1577-1672)95 5,000石

   子)大久保忠重(ただしげ)(四郎左衛門 致仕号一運)(1604-1682)79

   孫)大久保忠兼(ただかね)(四郎左衛門 玄蕃頭 従五位下)(1631-1706)76 6,700石

***孫で忠兼の弟  大久保正勝(まさかつ)(杢之助) 服部杢助政次が養子
                           ↑
                       政信の弟で今切の関所番ですよね


           ここで服部家と繋がりますね。

ということは二宮尊徳が仕えた小田原藩の家老の服部家が今切の関所番だった旗本の服部家に繋がりますね。



           つまり今切の関所番だった旗本の服部家と大久保家が繋がって
           更に小田原藩主の大久保家とも服部家が繋がる。
           
           さすが日本!何重にも繋がりますね。 


&&&忍者の服部半蔵の家は大久保長安事件で連座して岳父の松平定勝に仕えましたから、
三つ柏さんのご先祖はココでは絶対に  無い  ですね。


&&&あとは暗殺された服部中保次の子孫で江戸に行かず敷知郡長上郡に領地を持ってた旗本の服部家
が三つ柏さんのご先祖の可能性がありますね。

この2つの家のどちらが三つ柏紋を使用していたのか
二宮尊徳を招聘した家老の服部家の紋が何だったのか分かると良いですね。

結局やっぱり2つの家が残りましたね。


______________________________


9ページ

大久保忠重(ただしげ)(勘九郎 了雲) 忠隣の家臣で有ったが、追放され彦左衛門領地の三河坂崎村に住まわれる。後に石川主殿頭忠継に仕える
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月14日 13時02分22秒 ) パスワード

大事なことを1つ忘れていました。

12ページ目に加藤景成が大久保忠世に仕えて
大久保忠茂の長女を妻として
大久保姓になったことが書かれていますね。


ここでも加藤家と大久保家が繋がりました。
だから当然服部家とも繋がりますよね。


三つ柏さんが加藤家について気になるのも当然なのかも。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月14日 13時47分06秒 ) パスワード

服部権太夫政信 でしたね
お恥ずかしい。
赤面


レス<55>の

     大久保忠保(ただやす)(吉次郎)

     服部権之進某が養子、権之進罪ありて家録を没収により、
     甥忠方へ帰る
     
     この人は大久保忠昇(ただすみ)(矢九郎)(1746-1795)50の弟ですね。
     
     それで甥になる大久保忠方(ただかた)(矢九郎) 1,200石の家に引き取られたのですね。



この大久保忠保も今切の代官だった服部家ゆかりの家に養子に行ってたのかもですね。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月14日 14時12分09秒 ) パスワード

服部権之進という人物は誰か分かりませんが


権太夫政信の関係者は
   政信の子孫あたりに  権右衛門信親という大番になっている人がいて

         自分の書いたメモが読めないというテイタラクなのですが
     
         (兄)新左衛門政久で  2790石
         (弟)与左衛門信成の次男? 1500石
            意味不明(恥)


         母は川口久助宗次の娘

              ↑

            川口家は徳川家康の生母方の祖母の華陽院さまを賭でゲットした家で
            尾張の津島神社の大橋家の分家の人です


             華陽院
             はじめ、三河国刈谷城城主・水野忠政に嫁いで水野忠重や於大の方ら3男1女を生む。
             ところが、隣の岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、
             松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたといわれている。
             清康の死後、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが、
             いずれも夫に先立たれている。



天和2年、父から夷隅郡の内、300石分け与えられた。
とにかく夷隅郡岩熊の支配は代々信成系がした。

大番になった。

子は昭政(てるまさ)で大番になった。

弟は信隆で  孫右衛門・権太夫
服部権太夫信解の養子

とメモにありますが
字が自分でも読めないという悪筆で
さっぱりワケが分からない文章です。


とにかく政信の子孫は「権」がつくようです。
大汗


寛政重修諸家譜の70ページに書いてあったようです。
[59]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月14日 14時12分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 素晴らしい解説ありがとうございます。やはりあを様の総合力には頭が下がります。もう一度よく読みこなして次の調査につなげたいと思います。

 本日、松島十湖の曾孫さんと会食しながら、松島家の出自についてあくまで
も推測の一つですがと前置きしながら、松島対馬守の秘話についておそるおそ
るお話をさせていただきました。
 反応はどうであったか・・・方向性は間違っていなかったようです。ご本人
も実際伊那へ行き、現地松島地域を見て回ったとのこと。松島氏の墓もあるということがわかった。自分達の祖先は武士の出のようである。14代前までは名前が分かっているが、それ以前がわからない。調べていただいた情報は貴重なもので、ありがたく感謝いたします。今後もよろしくお願いしますとの事でした。
 
 それから、姉の嫁ぎ先の松下家ですが、大久保陣屋の近くにあり、江戸時代
まで遡れ、大久保陣屋の代官と同じ「丸に並び矢」がどうも気になって、少し調べてみましたところ、「松下房利」という人物に突き当たりました。この人
は1606〜1676まで生きた人ですが、旗本で「伊賀守」だったということです。
 伊賀守といえば、服部氏のブランド名のようなものですが、この松下氏は、服部権太夫正信や服部中保次とも関係があったのではなかろうか。あを様が前
に言っておられたように、松下之綱の関係一族で、服部家から松下家へ養子に入ったか、何らかの婚姻関係があったのではと推論しているところであります。

 わからないことばかりですが、掘れば掘るだけ色々な驚きの情報が出て来てゾクゾクしますね。

 ではまた。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月14日 22時17分32秒 ) パスワード

三つ柏さん

途中までレスを拝見していまして
思い出したことで「忘れないうちに」(恥)書いておくことが1つあります。



それは新井の関の代官の代々のお名前のところに
「政次には嗣子が無かった」から違う家に代官職が渡った件です。

     とはいえ、服部中の家に渡ったようです。


http://bird.blue.coocan.jp/forarai/arai_sekisyo.html

元和5年(1619)〜 寛文4年(1664)4月

服部権太夫政信
服部杢助政重
(両名1才違いの兄弟)
服部杢助政次
服部中安俊


幕府から与力・同心の配属はなく、各関所奉行の家来を関所の運営にあたらせていたようである



服部中保俊
佐橋甚兵衛吉次
三宅半七郎重吉
土屋忠次郎利次
本多彦八郎助久

慶安元年(1648)に服部中保俊・佐橋甚兵衛吉次の代になって、幕府から直接与力・ 同心が配属されることになった。
それぞれの関所奉行 に与力6騎・同心20人ずつ配属された。


第6代佐橋甚兵衛吉次、第8代土屋忠次郎利次の役屋敷は
橋本村三軒屋にあったが、他は志都呂村にあった。


_________________________


<貰請け役人>

関所奉行制が廃止になり、以前の、関所の役人(奉行、奉行に付属した与力・同心たち)は 江戸へ引き上げた。 

しかし、吉田藩は関所管理の経験が無いので元関所役人の内、
特に関所運営に熟練の与力・同心を貰請けて吉田藩士とし、
この貰請け役人を 中心に関所の運営を行った。


その役人は、与力の五味六郎左衛門、同心の神田四郎兵衛、服部加左衛門、 鈴木次郎右衛門、神田新助、加藤忠太左衛門、中村源左衛門であった。


そして、関所運営の専門家として、世襲し、吉田藩主の転封移動に関係なく関所運営の実務を行った。

特に、五味六郎左衛門は吉田藩士の中でも重臣であり、幕末には、家老に次ぎ、 250石取り、役料2人扶持であった。


____________________________

わたくしは  政次に嗣子が無かった話を探していましたが
    服部加左衛門
なる人物の名前に遭遇し

    ひょっとすると「この方が三つ柏さんのご先祖では?」と思いました。


すると  服部政信系なのか?服部中系なのか?  の謎が新たに浮かび上がりました。


政信系の家紋は  源氏車の内矢筈 揚羽蝶 16葉菊  の3つあります。
服部中の家紋は書かれてなかったようです。見落としたかも。でも車に矢の紋であることは同じでしょう。


旗本で服部で三つ柏紋  ということなので加左衛門さんも入れて  この辺りに絞られますね。


それにしても「貰請け役人」のお名前の中に鈴木とか加藤とか中村のお名前があるのは
やはり敷知郡長上郡の名家という感じですね。

その他、神田さんも敷知郡や長上郡の名家なのでしょうか?
五味さんは吉田藩の出身で幕末には家老に次ぐ重臣だった、と書かれていますね。


「長上郡の5名家」というのは新井の関所の役人の家だったということでしょうか?


ではレスを拝見しますね。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月14日 22時23分35秒 ) パスワード

これもコピペしておきます:


管理体制---吉田藩の時代

  元禄15年(1702)閏8月、幕府は、三河国吉田藩主久世出雲守重之に対し、新居関所の管理を命じ、 管轄を幕府直轄から吉田藩へと移した。

新居関所が吉田藩の管理になると関所の運営が円滑・厳重に出来るよう新居町ばかりでなく、
その周辺村落も吉田藩領に編入された。

これらの村々を吉田藩は新居付村とよんだ。
また、関所の運営のため、「貰請け役人」を設け、世襲化もした。
                         ↑
                        コレですね


吉田藩では関所を含めて「新居付村」の支配に当たった役人を”新居付役人”と呼び、
江戸詰・江州付役人とともに本藩役人と区別していた。


新居付役人は次の3つに分かれていた。
@関所役人(関所の管理) 中之郷の北屋敷に居住
A町方役人(新居町方の民政支配) 源太山南(地籍は橋本村)の南屋敷に居住
B地方役人(新居付村の年貢収納などの地方支配)
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月14日 22時45分41秒 ) パスワード

>色々な驚きの情報が出て来てゾクゾクしますね。

はい
ゾクゾクします。


今朝改めて新井の関所のサイトに行って
貰請け役人、という項目に初めて目が行きました。

これも何かのお導きなのでしょうね?
以前は気が付きませんでした。
でも今朝は  
     その役人は、与力の五味六郎左
   衛門、同心の神田四郎兵衛、服部加
この2行に目が行きました。

すごい偶然!


きっとご先祖さまのパワーが気を付けさせてくれたのでしょうね。



>方向性は間違っていなかったようです。
>ご本人も実際伊那へ行き、現地松島地域を見て回ったとのこと。
>松島氏の墓もあるということがわかった。
>自分達の祖先は武士の出のようである。
>14代前までは名前が分かっているが、それ以前がわからない。
>調べていただいた情報は貴重なもので、ありがたく感謝いたします。
>今後もよろしくお願いしますとの事でした。


松島家の本来は諏訪大社の神職さんだったのでしょうね。

  それが時代の波で戦わなくてはならず
  そして武田信玄に敗れた

そういうことなのでしょうね。
信玄に敗れて、更に、織田に敗れて信濃にはいられなくて遠江国まで下りて来た、
のかしら?


また何か新たに情報が見つかるのを願っています。




>「松下房利」という人物に突き当たりました。
>この人は1606〜1676まで生きた人ですが、旗本で「伊賀守」だったということです。

>伊賀守といえば、服部氏のブランド名のようなものですが、
>この松下氏は、服部権太夫正信や服部中保次とも関係があったのではなかろうか。
>松下之綱の関係一族で、服部家から松下家へ養子に入ったか、
>何らかの婚姻関係があったのではと推論しているところであります。


https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%88%BF%E5%88%A9+%E3%81%AF


松下房利(まつした ふさとし、慶長11年(1606年) - 延宝4年8月22日(1676年9月19日))

江戸時代の旗本。通称、彦兵衛。官位は、従五位下伊賀守、のちに豊前守。

松下安綱(常慶)の五男。
母は落合蔵人の娘。
兄弟に松下重綱、仙誉、昌俊、松下貞綱、松下氏秀。

室は松下長晴の娘、継室は大久保忠重の娘。   ←  後妻さんが大久保ですよ〜
                          興奮の余り「指が」動かない!

子に松下長房、松下貫長室、大久保忠因室。
                ↑
娘が大久保に嫁に行ってますね


寛永6年より徳川家光に仕える。


のちに小姓組番士を務め200俵を給され、寛永10年(1633年)2月7日、武蔵国足立郡上尾下村、門前村(一部)、須ヶ谷村(一部)(現・埼玉県上尾市)等加増分200石を加えて400石を賜る。

寛永16年4月15日に中奥番士に、承応2年10月22日二の丸留守居になる。
そして、万治3年4月13日には後水尾天皇御所附となり、摂津国島上郡、島下郡において500石を加増される。

同年10月16日、従五位下伊賀守に叙任される。
             ↑
            伊賀守です

延宝元年7月末日に職を辞し旗本寄合席となる。
延宝3年12月14日、家督を長房に譲り、養老料300俵を賜る。延宝4年に71歳で没する。
法名笑円。墓所は上尾下村放光院。


 

この人の流れのようですね。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月14日 22時51分19秒 ) パスワード

新訂寛政重修諸家譜 26: 索引 4 - Google Books Result



books.google.com/books?isbn=4797102306 - Translate this page

1967 - ‎Japan
... 抱義(川井久一) @264 伯耆公(佐々木定賀) @57 峰休(内藤重種) @250 豊沐(松下房利) @128 放牛(杉周貞) @93 峰穹院(高木正豊) @386 宝暁(田中抄邦) @269 法 ...


http://books.google.com/books?id=FIF8LbOZqpsC&pg=PP42&lpg=PP42&dq=%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%88%BF%E5%88%A9+%E3%81%AF&source=bl&ots=Jx844RmXLz&sig=hcTQFlMRNmEJk0eWUVXKxopX9Ko&hl=en&sa=X&ei=eic9VPz9LIvjoATO6YLoAg&ved=0CFIQ6AEwBw#v=onepage&q=%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%88%BF%E5%88%A9%20%E3%81%AF&f=false

寛政重修諸家譜の7の128に出てるようですね。
これがナカナカ行けないという難があるので後ほど頑張ってみます。
行けたら内容をアップします。
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月15日 02時28分22秒 ) パスワード

残念ながらディジタル化されていないようでした。


旗本松下家は13家あるそうです。
嘉兵衛の娘は柳生宗矩の嫁いでいたのですねえ。


松下氏

日本の氏族のひとつ。
戦国武将として有名なものに、豊臣秀吉が少年時代に仕えた松下之綱らを輩出した遠江国頭陀寺城主の松下氏がある。



系統[編集]    源氏系説と秦氏系説があるのですか。

松下氏の苗字の地は、三河国碧海郡松下郷(現在の愛知県豊田市枡塚地区・矢作川の西岸)である。家系は、宇多天皇の第八皇子・敦実親王の子孫を称する近江源氏佐々木氏一族の庶流・近江八幡市円山城主西條氏から分かれたとする説と、秦氏の系統とする説がある。

傍系として松平忠輝の姉婿花井三九郎が出た花井氏がある。


佐々木氏流松下氏の系統で最も有名なのは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて大名となった之綱の系統である。

之綱は遠江久野城主16000石となった。
之綱の子・重綱は久野から転封され、常陸小張城主となり、「小張松下流綱火」(国の重要無形民俗文化財に指定)を考案して、領民に伝えたと言われている。
その後、下野烏山城主を経て陸奥二本松城主5万石となった。

重綱の子・長綱は幼年を理由に陸奥三春城主になり、土佐藩主・山内忠義の娘・喜与(喜代、清とも)と婚姻するが、

縁戚であった加藤明成・明利の改易に連座して改易され、
以後は上総・伊豆に所領を持つ交代寄合旗本3000石として存続した。

江戸時代の旗本であった松下家は13家を数えるほどである[1]。
子孫の松下加兵衛重光は幕末維新には、箱根戦争で、木更津脱藩藩主・林忠崇(昌之助)や小田原藩の軍と戦っている。

子孫の長至(ながよし・松下家14代)は明治31年(1898年)、親族の侯爵・山内豊景(とよかげ)や子爵・加藤明実(あきざね)、子爵・小笠原家の連名で、宮内大臣・田中光顕に対して男爵に推挙されたが、果たされなかった[2]。なお、子孫は現在に至る。

他には、徳川家康の家臣、松下清景・松下安綱(常慶)兄弟があり、清景の子孫の系統は、越後(井伊)与板藩の家老を代々務めた。常慶は家康の信任厚く、子孫は、火付盗賊改方を務めている。子孫は現在に至る。

高知県には、土佐山内家の中老職を務めた之綱の弟・継綱の家系がある。また、荻野山中藩(神奈川県)の用人を務めた松下家(松下長範の子孫)では、幕末に松下祐信が出ている(厚木市)。

子孫は現在に至る。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月15日 02時41分11秒 ) パスワード

松下之綱

父母
父:松下長則

兄弟
松下則綱、松下継綱


松下連昌の娘


松下暁綱(長男)、松下重綱(次男)、松下方綱(三男、一時期山内康豊養子)、
おりん(柳生宗矩正室)、娘(松下長重室)、 娘(中村正吉室)、娘(夏目吉信室)                     
                          ↑       ↑
                        あの中村家?  旗本の?漱石の先祖?




松下 之綱(まつした ゆきつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣秀吉が織田氏の家臣になる以前に仕えた人物で、之綱は秀吉の恩人であり武芸・学問・兵法などを教えたとみられる。


経歴[編集]

松下氏は元来は近江国の守護である近江源氏六角氏の一族で、近江八幡市の円山城の城主、西條氏の庶流である。鎌倉時代末期に三河国碧海郡松下郷(現在の愛知県豊田市枡塚地区)に移住し、これにより苗字を松下と名乗ったとされる。

天文6年(1537年)、之綱は兵法者で槍術の達人・松下長則の子として、三河国にて生まれる。

之綱は遠江国頭陀寺城主(現在の浜松市南区)として今川義元に仕えた。


なお、この頃、松下氏に木下藤吉郎と名乗る以前の豊臣秀吉が仕えていたことがある(年齢から考えて、秀吉が仕えたのは父の長則であると思われるが、通説・各種歴史書では之綱となっている。

ちなみに、冨永公文は、秀吉と松下之綱は同年であるので、秀吉は長則に仕えたと見るべきとしている)。


なお、頭陀寺(高野山真言宗)は遠江川匂荘(かわわのしょう)の領家であるので、
寺侍としての松下氏の位置づけは注目してもよいだろう。
 ↑
 寺侍でしたか

松下氏は、引馬城主・飯尾氏を寄親とする寄子で、飯尾連龍の家臣であるが、連龍が今川氏を見限り、周辺の親今川氏と反今川氏の豪族同士で抗争が起きた際、

永禄6年(1563年)に今川方の軍に頭陀寺城が攻め落とされ炎上したと記録にある(遠州忩劇)。

通称「松下屋敷」の地下に眠る頭陀寺城跡は平成13年(2001年)10月に発掘調査が行われ、炎上跡が確認された。


やがて今川氏が滅亡すると、徳川家康の家臣として仕えた。
しかし、天正2年(1574年)第1次高天神城の戦いでは之綱は籠城して、のち武田氏に降伏した。
すると、長浜城主になっていた秀吉は、之綱を家臣として召し出したとみられる

    (ただし、秀吉が召し出した時について、「松下文書」によって、
     天正11年(1583年)10月6日とされてきたのが通説である)。

天正3年(1575年)の長篠の戦いの際には秀吉の前備として兵100を預けられた(「山内一豊公紀」)。


天正10年(1582年)の本能寺の変から天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いを経て、同年丹波国・河内国・伊勢国などの内に秀吉から3,000石の所領を与えられた。

天正15年(1587年)3月には、秀吉の九州遠征にも前備の直属部隊として兵150を率いて従軍(『久野保心氏所蔵文書』(名古屋市立鶴舞中央図書館蔵)、

秀吉が4月9日付けでその前備17名に宛てた朱印状で、「松下加兵衛の事、先年(秀吉が)御牢人の時、御忠節の仁(人)に候」と述べ、松下加兵衛との旧縁に言及、格別の計らいを指示している。(『松下文書』)

この年、従五位下・石見守に叙位・任官され、同年に丹波3,000石を加増され6,000石となった。


天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康が関東に移封されると、10月3日に遠江で1万石追加され、遠江久野藩(袋井市久能)1万6,000石の大名としての所領を、豊臣秀吉から与えられた。この時の居城である久野城(遠江)は城の規模は小さいが、瓦の格式が高く立派な作りであったと発掘調査の結果明らかになっている。


慶長3年(1598年)2月晦日に死去。享年62。

家督は次男の重綱が継いだ。
長男・暁綱が継がなかった理由はよくわかっていない。

また、娘のおりんは柳生宗矩に嫁いだ。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月15日 07時23分18秒 ) パスワード

http://www.city.ageo.lg.jp/site/iinkai/064110110401.html

上尾の寺社  放光院(上尾下) 


将軍に仕えた旗本・松下氏ゆかりの供養塔を伝える

 「ぐるっとくん」を「陣屋」で下車し、住宅地の中を西方へ60から70メートルも歩くと、信号のある交差点に差し掛かる。

さらに50メートルも歩くと、左手に目指す放光院(ほうこういん)の案内板が目に入る。

案内板は広い境内地の東北端にあるので、山門に達するには200メートルも南へ迂回(うかい)しなければならない。
山門前には老桜(ろうおう)と2基の大きな地蔵尊があり、かわいらしい小さな6地蔵尊が左右に並んで参詣者を迎えてくれる。


 放光院は新義真言宗の寺院で、安養山と号し、開山の教養(きょうよう)上人)は慶長19(1614)年に没しているので、江戸時代初めの草創ということになる(『新編武蔵風土記稿』)。

『寺院・堂庵明細帳』では元禄13(1700)年開基と記されているが、
放光院を菩提寺(ぼだいじ)にしている旗本松下氏の初代房利(ふさとし)は延宝4(1676)年8月に没し、この寺院に葬られている。


松下房利は通称彦兵衛(ひこべえ)、御小姓(おこしょう)組の番士(ばんし)で、寛永10(1633)年2月に上尾下村・門前村(部分)・須カ谷村(部分)などで400石の領地を与えられている(『寛成重修諸家譜』)。


松下氏が放光院を菩提寺にした年は不明であるが、所領の拝領年や初代房利の没年からみて、放光院の草創は元禄13年ではなく、江戸時代初期であったとみられる。
 

本堂に進み参拝することになるが、本尊の木造宝冠阿弥陀座像は市指定の文化財である。
江戸中期の作といわれ、像高46.7センチメートル、寄せ木造り、玉眼、上品(じょうぼん)上生(じょうしょう)の印相(いんぞう)である。

密教的色彩の強い像といわれ、蓮台の下に密教法具である五鈷杵(ごこしょ)2本を組み合わせたものが置かれ、大変注目される(『上尾市史』第9巻、『上尾の指定文化財』)。


本堂の手前左手に「松下豊前守(ぶぜんのかみ)房利の供養塔」があり、これも市指定の文化財になっている。
先にも触れたように放光院は松下氏の菩提寺であり、房利ら歴代当主の墓があったが、
明治になり墓は東京都の愛染院(あいぜんいん)(新宿区)に移されているので、
現在では供養塔が唯一の松下氏ゆかりのものである。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)形のこの供養塔は、安永4(1775)年の房利百回忌に孫の蔵人(くろうど)統?(むねのり)が建立したものである。

統?も祖父房利と同じ旗本で、供養塔建立時は小納戸(こなんど)役で将軍に近侍(きんじ)している。

供養塔台座に「百回忌為供養建立」と刻まれており、「施主松下蔵人統?」の文字も読み取ることができる。


上尾市域は旗本領は多いが、歴史遺跡は少ないだけに非常に貴重である(前掲書)。



お墓は今は東京都の愛染院(あいぜんいん)(新宿区)ですか。

http://www.portaltokyo.com/guide_23/contents/c04097aisen.htm


愛染院

地下鉄四谷三丁目駅の南東、徒歩8分。
もとは麹町にあったが、寛永11年(1634年)、江戸城の拡張工事の際して現在地に移転した。


墓地には塙保己一の墓と、高松喜六の墓があり、どちらも新宿区の史跡に指定されている。
塙保己一は和学講談所を設立して門人を指導するとともに『群書類従』を編纂したことで知られる。

また、浅草の名主の高松喜六は内藤家の四谷屋敷北側に宿場の開設を幕府に願い出て許され、内藤新宿の開発に貢献したことで知られている。

Address   東京都新宿区若葉2-8-3
Phone    03-3351-2781
URL
Access    地下鉄丸ノ内線四谷三丁目駅から徒歩8分、JR・地下鉄四谷駅から徒歩10分
[67]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月15日 08時03分26秒 ) パスワード

松下房利の後妻の父=大久保忠重=について調べました:


https://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E9%87%8D+%E3%81%AF



断家譜 3 - Page 55
こんな本があるんですね。
驚きました。

これによると
books.google.com/books?isbn=4797102683

斎木一馬, ‎岩澤愿彦 - 1969
(三好直次) @118 助五郎(海上某) 2 106 (戸田〔松平〕隆定) @148 助左衛門(大岡某) @212 (大岡某) @212*** (大久保忠重)*** @207 (大久保忠隆) @206 (大久保忠政) 1 ...


[PDF]三河大久保氏総系譜
plaza3.dws.ne.jp/~m.../MikawaOkubo-SouKeihu.pdf

1ページ目に出てました。
大久保忠重(ただしげ)(次郎八)(1593-1655)63 200俵 丸山本妙寺代々.
└大久保忠倫(ただとも)(平三郎)(1629-1681)53 500俵.


系図は壊れるので1ページ目に行ってください。

大久保忠茂(ただしげ)(左衛門五郎)(1476-1547)72 松平清康に仕える。三河国尾尻村長福寺
├大久保忠平(ただひら)(左衛門太郎 九郎右衛門) 正次(まさつぐ)(七郎 七郎右衛門)忠平と忠次が同一人物として扱う、↓
│└大久保正吉(まさよし)(九郎右衛門)(1511-1595)85 長福寺 肥満の為その座を忠俊に譲った。
│ ├大久保忠宗(ただむね)(與左衛門) 上總介忠輝朝臣に仕え、のち井伊掃部頭が家臣となる。
│ ├大久保正信(まさのぶ)(次郎左衛門)(1560-1642)83 駿府大納言忠長に仕える。200石 丸山本妙寺代々
│ │└大久保忠政(ただまさ)(虎之助)(1611-1700)90
│ │ ├大久保忠次(ただつぐ)(九郎右衛門 源太左衛門 次郎左衛門 虎之助)(1648-1705)58
│ │ │└大久保忠房(ただふさ)(百助 源之丞)(1675-1754)80
│ │ │ └大久保忠滿(ただみつ)(求馬 彌八郎)(1716-1743)28
│ │ │ └大久保忠義(ただよし)(斉宮 次郎右衛門)(1725-1791)67
│ │ │ ├大久保忠益(ただます)(次郎左衛門) 200石
│ │ │ │└大久保次郎左衛門(じろうざえもん) 200石
│ │ │ │ └大久保猶之丞(ゆうのじょう) 200石
│ │ │ ├大久保季雄(すえお)(恒之助 新右衛門) 北村重太郎季但が養子
│ │ │ └大久保忠房(ただふさ)(富五郎) 大久保喜平次忠良が養子
│ │ └大久保忠行(ただゆき)(源八郎 蓮覚)
│ └大久保正忠(まさただ)(勘兵衛)(1559-1631)73 丸山本妙寺代々
│ └大久保正重(まさしげ)(七兵衛)(1605-1683)79 700石
│ └大久保忠要(ただもと)(権之助 七右衛門 七兵衛)(1638-1715)78
│ ├大久保忠賢(ただかた)(権之助 七右衛門)(1667-1699)33
│ │└大久保忠喬(ただたか)(鍋之助 勘大夫 七兵衛)(1697-1752)56
│ │ ├大久保忠休(ただよし)(勘大夫 七兵衛)(1723-1759)37
│ │ └大久保忠章(ただあきら)(勘六郎 致仕号蓼山)(1728-1793)66
│ │ ├大久保忠信(ただのぶ)(彦之丞) 200俵
│ │ │└大久保彦之丞(ひこのじょう) 200俵
│ │ │ └大久保団一(だんいち) 200俵
│ │ └大久保忠録(ただとし)(金彌)
│ ├大久保忠益(ただます)(権次郎 七左衛門)
│ ├大久保忠福(ただとみ)(権十郎 勘兵衛)(1675-1743)69 200石 丸山本妙寺代々
│ │└大久保忠脇(ただわき)(舎吉)(1705-1746)42
│ │ └大久保忠金(ただかね)(辰之助)(1730-1766)37
│ │ └大久保忠也(ただなり)(直次郎)(1744-1790)42
│ │ └大久保忠季(ただすえ)(釜五郎) 200石
│ ├大久保友信(とものぶ)(権七郎 與一兵衛) 嶋與右衛門友親が養子
│ └大久保正之(まさゆき)(七平 與右衛門) 嶋與一兵衛友信が養子 長福寺
├大久保忠俊(ただとし)(新八郎 五郎右衛門 常源)(1499-1581)82 一向一揆の戦いの大久保党総指揮官、大久保を名乗る↑
│├大久保忠勝(ただかつ)(新八郎 五郎右衛門)(1524-1601)78 一向一揆の戦いで目を負傷し引退、本家を忠員家に譲る↓
││├大久保康忠(やすただ)(五郎右衛門)(1549-1621)73 丸山本妙寺 小田原大久寺
│││├大久保康村(やすむら)(新八郎)(1584-1632)49 1,030石
││││├大久保康任(やすたふ)(新八郎)(1622-1680)59
│││││└大久保康明(やすあきら)(新八郎)(1663-1708)46 実は喜六郎忠次が3男
│││││ ├大久保忠周(ただちか)(喜五郎 喜六郎) 大久保喜六郎忠亮が養子
│││││ └大久保康命(やすとし)(新八郎)(1677-1723)47 実は平三郎忠倫が2男
│││││ ├大久保康致(やすむね)(新八郎 五郎右衛門 致仕号謙翁)(1703-1759)57 実は康明の5男
│││││ │└大久保康寛(やすひろ)(五郎蔵 致仕号謙祇)(1734-1788)55 実は河野豐前守通喬が8男
│││││ │ └大久保康敬(やすのり)(仙之助 新八郎) 1,030石
│││││ │ ├大久保康孝(やすたか)(仙之助 筑後守) 1,030石
│││││ │ │└大久保新八郎(しんはちろう) 1,030石
│││││ │ └大久保忠英(ただまさ)(虎之助)
│││││ └大久保忠和(ただかづ)(八三郎) 大久保三太夫忠因が養子
││││├大久保忠村(ただなら)(三左衛門 三之助)
│││││└大久保忠安(ただやす)(権平) 実は大久保久六郎忠重が8男
││││└大久保忠知(ただとも)(平六郎 兵部少輔 従五位下)(1626-1664)39
│││└大久保忠重(ただしげ)(次郎八)(1593-1655)63 200俵 丸山本妙寺代々   ← ココ
│││ └大久保忠倫(ただとも)(平三郎)(1629-1681)53 500俵
│││ ├大久保忠恒(ただつね)(庄三郎)(1663-1711)49 500石   ← なぜに500石?
│││ │└大久保忠許(ただもと)(庄右衛門)(1692-1754)63
│││ │ ├大久保忠求(ただもと)(平三郎)(1727-1783)57



1ページ目の下の方ですね。




松下房利の娘の夫  大久保忠因  を調べて来ました:



大久保忠因  ただより
http://plaza3.dws.ne.jp/~m.okubo/MikawaOkubo-SouKeihu.pdf


6ページ〜7ページにかけて以下が見られます。

           6ページの下から3段目に服部正次の名が出てます
            ↓
7ページの最初の段に服部政次の養子になった人の名前があります。
      大久保正勝(まさかつ)(杢之助) 服部杢助政次が養子

大久保忠次(ただつぐ)(申千代 大学 安房守 従五位下)(1644-1667)24 900俵
大久保忠清(ただきよ)(三太夫)(1657-1680)24 実は大久保三十郎忠壽が3男 06

   └大久保忠因(ただより)(三太夫)(1676-1744)69 実は大久保平八郎忠倶が2男 900石

大久保重就(しげなり)(作十郎) 実は大久保源右衛門忠享が2男、忠因が養子になるも父に先立ち没
大久保忠和(ただかず)(宮内 三太夫)(1719-1759)41 実は大久保新八郎
    大久保家の家系図の1ページ目の下の方に「忠因の養子」がいます。
      大久保忠和(ただかづ)(八三郎) 大久保三太夫忠因が養子
      と書かれています。



[68]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月15日 08時33分57秒 ) パスワード

http://www.geocities.jp/keizujp2011/yanagisawa.html

柳沢家に大久保から養子が入っています。

柳沢信武 やなぎさわのぶたけ 大久保忠位の三男 母:高木守勝の娘 柳沢信孝の養子 生没年:宝永3年(1706年) - 宝暦7年7月6日(1757年8月20日) 没歳:52歳


柳沢信門 やなぎさわのぶかど 大久保忠恒の三男 母:大久保忠重の娘 柳沢信武の養子 生没年:享保18年(1733年) - 明和7年5月12日(1770年6月5日) 没歳:38歳
         
どの人達かと大久保家系図を見ましたが
忠重だけで4人以上、忠恒でも複数いて、この辺りでPCがフリーズしてしまい数が数えられなくなって諦めました。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月15日 08時46分39秒 ) パスワード

大久保家の菩提寺としてたびたび出て来る  丸山本妙寺  を検索しました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A6%99%E5%AF%BA_ (%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E5%8C%BA)

本妙寺(ほんみょうじ)は、東京都豊島区巣鴨五丁目にある法華宗陣門流の東京別院。
山号は徳栄山。院号は総持院。本尊は十界勧請曼荼羅。



所在地
東京都豊島区巣鴨五丁目35番6号

位置
北緯35度44分22.773秒
東経139度44分6.387秒

山号
徳栄山

宗派
法華宗陣門流

寺格
東京別院

本尊
十界勧請曼荼羅

創建年
1572年(元亀2年)

開基
久世広宣・大久保忠俊・大久保忠勝・大久保康忠・阿部忠政



      久世 広宣(くぜ ひろのぶ、永禄4年(1561年) - 寛永3年3月19日(1626年4月15日))は
      安土桃山時代の武将、江戸幕府旗本寄合。
      久世長宣の子。室は今川家家臣奥原経重の娘。
      兄弟に久世重利(宇右衛門)。
      子女に久世広当、久世勝宣、久世広之、久世重利、大久保荒之助忠当室など。
                               ↑
                              大久保
      通称三四郎、三左衛門。

      三河国額田郡に住していた小野十郎高広の子高長が母方の姓を称し久世家の祖となった。
      父の長宣は三河一向一揆で宗門側につき徳川家康に敵対して討ち死をした。
                       遠江(母の実家かもですね)
                        ↓
      この時母は2歳であった広宣を連れて遠江国に移り住む。

      16歳の折り、家康に父の罪を赦され、大須賀康高率いる「横須賀衆」として、
      渥美勝吉、坂部広勝らとともに武田勢との戦いに武勇を誇った。
      のちに康高の没後は松平忠政に属したのち、徳川家康の直参となり、
      下総・上総国2500石の旗本に取り立てられた。
      大坂の役に従軍した。

      寛永13年(1636年)に江戸開幕とともに駿河国より江戸に移った本妙寺が全焼し、
      本郷丸山の代替地へ移転させた。

      墓所は本妙寺にある。(明治43年に豊島区巣鴨に移転している。)法名は真性院日詠。




お寺の由緒[編集]

1572年(元亀2年)日慶が開山、
徳川家康の家臣らのうち三河国額田郡長福寺(現在愛知県岡崎市)の檀家であった武将を開基として、
遠江国曳馬(現在静岡県浜松市中区曳馬)に創建された寺である。
   ↑
  もとは浜松


1590年(天正18年)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移った。

1603年(慶長8年)、江戸の家康に征夷大将軍宣下が有った。
その後寺地を転々とし、1616年(元和2年)小石川(現在東京都文京区)へ移った。
1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷五丁目)へ移った。
現在も本郷五丁目付近に「本妙寺坂」なる地名が残されている。

本郷時代には塔頭7院を有した(円立院、立正院、妙雲院、本蔵院、本行院、東立院、本立院)。

1657年(明暦3年)の大火(いわゆる明暦の大火)ではこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられる(異説有り)

(そのため、現在の豊島区の境内の墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がある)。


1667年(寛文年間)、幕府により、法華宗勝劣各派の触頭となる。
1910年(明治43年)現在の豊島区巣鴨五丁目の地へ移転した。

[70]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月15日 13時19分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 今まで、松下之綱と聞いても頭陀寺の殿様で、秀吉が仕えてお世話になっ
た位の浅薄な知識・認識しかなかったわたくしですが、これを機会に180
度見方が変わりました。ありがとうございます。
 歴史とは本当に奥深いものですね。ビックリです。

 私も松下氏について少し調べましたが、松下之綱を中心にして全方位の視覚
が広がりました。
 あを様の推測されたように、
 夏目次郎左衛門は三方原の戦いで徳川家康の身代わりとなって討ち死にした
武将です。
 中村源左衛門は雄踏町の庄屋の中村家の当主で、徳川家康の側室お万の方が
その中村家で結城秀康を生んでいます。
 そして、娘のおりんは、柳生但馬守宗矩に嫁ぎ、柳生十兵衛を産んでいます。
 之綱の義弟の松下源太郎清景と源太郎安綱は、掛川城に忍び込んで、幼児の
井伊直政を朝比奈三郎兵衛の手から助け出している。
 まだまだエピソードはたくさんありますが、これからの楽しみにしておきま
しょう。
 その安綱の五男が松下房利です。継室が大久保忠重の娘。ということは、
服部杢助正次の養子の杢之助政勝とこの娘は姉弟(兄妹)。ということは、松下
家と服部正信系は親戚となる。
 服部家も松下家も影の軍団(諜報部隊)でつながっていたのである!
 それですべてが見えて来る! 丸に並び矢の謎も・・・。

 
[72]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月15日 14時47分40秒 ) パスワード

書き直し:


>まだまだエピソードはたくさんありますが、これからの楽しみにしておきま
しょう。

また知らせてくださいね。
楽しみです。


    わたくしにも繋がっていたのかと思いますと先祖が喜んでいるのが感じられます。



>安綱の五男が松下房利です

松下加兵衛は親戚の松下家から嫁をもらっていて
妻の弟が安綱ですか。
  で、安綱の5男が房利。

へえ〜


さすがですね。
こういう隠された関係は「縁者」以外の外野には全く分からないことです。



>継室が大久保忠重の娘。ということは、
>服部杢助正次の養子の杢之助政勝とこの娘は姉弟(兄妹)。

    はい
    驚きですね。



>ということは、松下家と服部正信系は親戚となる。

   はい


   現代に生きる当人達も親達も知ってる知らないは関係無く、後の時代にも結婚するんですよ。

   きっと昔の時代に良い結婚をしていたのでしょうね。


       日本人は何重にもこうやって結ばれるのだと思います。
         まさかねえ。
      松下家と服部家が過去も現在も結ばれていたとは。


         大久保家が間に入って結ばれていたというのにも驚きました。
         コメディエンヌの大久保佳代子はこれからは呼び捨てにせず
            大久保家の佳代子姫
         とお呼びしなくては。

            三河の子だから、この子ともどこかで繋がっているんでしょうね。


            相方の光浦という名字は全く知らないのですが
            田原の名家だとは聞いたことがあります。
 
            この2人も実は先祖が仲が良かったのでしょうね。


                 なんだか「お友達感覚」で書いてしまいました。笑



>服部家も松下家も影の軍団(諜報部隊)でつながっていたのである!
>それですべてが見えて来る! 丸に並び矢の謎も・・・。


   本当に!


それにしても不思議ですね。

松下家が「丸に並び矢」紋を使用だなんて。
要するに服部家から松下家に養子に入った人がいるのでしょうね。

    で、服部家が長田家の三つ柏紋・・・


まさかねえ・・・
秀吉の主君だった松下加兵衛の家が三つ柏さんの御親戚だったとは。
そして現在形でも21世紀に。


わたくしも戦国時代や江戸時代まで遡ったら松下加兵衛さんと親戚になってしまう・・・
そんなこと100%も夢にも考えたこと、無かったです。


   でも「松下加兵衛っていい人だな」と好感を持ってました。
   その好感とは?
   やはり先祖が「うん、アイツはいい人だったんだよ」と頷いてたんでしょうね。


日本人、やっぱり、何代も遡るとみんな繋がってしまうんですねえ。。。
知らないだけで。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月15日 14時49分43秒 ) パスワード

近いうちに  XVI を立ててくださいね。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月16日 05時41分33秒 ) パスワード

書き直し:


9代将軍家重の生母が大久保の娘なんですって。


     それで服部中保次の子孫の保貞が田安家の家老になっているのですね。
     やっと納得しました。

     
     そして中保次の子孫の保昭が印旛沼の開墾をしているのですね。



     また蘆田に仕えて後に北条氏直と戦った服部正吉(重好)の子孫
      長ヨシ(ヨシの字は  由+隣の旁 を合わせた字)が田安の近習番になっています


    ここでも大久保家との繋がりからですね。


三河大久保氏[編集]

関東の豪族・宇都宮氏の庶流である武茂氏からの分流で、南北朝の争乱の際に武茂時綱の子の武茂泰藤が三河国に移住したのが始まりで、その子孫が松平氏に仕えたとされるが、真相は不明である。当初は宇都宮氏にあやかり宇津氏と名乗っていたが、大久保忠茂又は大久保忠俊の代に大久保(大窪)姓を称した。

『柳営秘鑑』の中では、安祥松平家(松平宗家・徳川家)安祥城居城時代からの最古参の安祥譜代7家の1つに挙げられている。

徳川家康の配下として活躍したのは忠茂の孫で、大久保忠員の子である大久保忠世、忠佐の兄弟が主要な合戦で武功を挙げている。


江戸幕府草創期[編集]

忠世の子・大久保忠隣は徳川秀忠付けとなり、やがて老中に抜擢されるほど重用される。だが、次第に本多正信と正純の親子との権力抗争に発展してしまう。

1613年(慶長18年)、本多親子は忠隣の家臣・大久保長安の横領行為(大久保長安事件)を家康に密告した。これにより、家康は長安の墓を掘り起こさせて遺体を磔にし、その上、長安の遺族さえも処刑させた。

長安の庇護者であった忠隣へも類は及び、改易処分となる。身柄は井伊直孝に預けられ、近江国栗太郡中村へ配流された。跡目に期待していた長子・忠常を失って以来、失意の底にあった忠隣は赦免される事なく、その地で没している。

忠隣の次男以下も処分対象であったが、蟄居処分で済んでいる。


御赦免[編集]

政敵・本多親子の失脚から3年が経っていた1625年(寛永2年)、忠隣の孫・忠職の代になって、ようやく赦免された。当時22歳の忠職は、母方の従兄弟・松平忠隆の死去に伴い、美濃国加納藩の新たな藩主となって大久保家嫡流(大久保加賀守家)を再興させた。

実子に次々と早世された忠職の跡を継いだ大久保忠朝の代から再び、相模国小田原藩に封された。相模守忠隣の改易から、実に70年余の歳月が流れている。その後も小田原藩の統治が続き、明治維新を迎える事ができた。1869年(明治2年)の版籍奉還後、小田原藩の10代藩主・大久保忠良は、そのまま藩知事となった。しかし1871年(明治4年)、廃藩置県の施行によって小田原藩は解体。忠良も罷免された。


傍系[編集]

戦国期の忠世・忠佐兄弟には、他にも『天下の御意見番』の異名で呼ばれる忠教という著名な弟がいた。兄・忠佐からの跡目相続要請を固辞して、旗本で生涯を終えている。

彦左衛門の系統以外に、忠為の系統も存在する。忠為の直系孫・常春は下野国烏山藩を起こした上に、老中に抜擢された。



                     九代将軍の生母
                         ↓
忠為の四男・忠舊は紀州藩士となっていたが、孫娘・深徳院は9代将軍・徳川家重の生母となっている。そのため深徳院の弟たちは幕臣に召し出された。

なお、幕末・明治期の政治家大久保一翁(忠寛)は、大久保忠俊の庶子で嫡出の忠勝とは別家の旗本を起こした大久保忠安の末裔である。



9代将軍家重の生母について

深徳院

(しんとくいん、元禄元年(1688年) - 正徳3年10月24日(1713年12月11日))

紀州藩第5代藩主・徳川吉宗(後の第8代将軍)の側室で第9代将軍徳川家重の生母。

父は紀州藩家臣の大久保忠直。母は同じく紀州藩士・内藤幸右衛門守政の娘。
俗名は須磨(須摩)。


生涯[編集]

吉宗の側室となり、正徳元年(1711年)12月21日に家重を生んだ。
正徳3年(1713年)にも懐妊したが、同年10月24日、赤坂屋敷において難産のため母子ともに死去した。
享年26。
戒名は深徳院妙順日喜大姉。
墓所は池上本門寺。

宝暦13年(1763年)4月16日、従二位が追贈された。





幕末の大久保 一翁について
(おおくぼ いちおう) / 大久保 忠寛(おおくぼ ただひろ)

幕末から明治時代にかけての幕臣、
政治家。
東京府知事、元老院議官を務めた。
栄典は従二位勲二等子爵。



生涯[編集]


頭角を現す[編集]

文化14年(1817年)11月29日、旗本の大久保忠尚の子として生まれる。

第11代将軍・徳川家斉の小姓を勤め、天保13年(1842年)に家督を相続する。
老中の阿部正弘に早くから見出されて安政元年(1854年)に目付・海防掛に任じられた。

その後も意見書を提出した勝海舟を訪問してその能力を見出し、阿部正弘に推挙して登用させるなどしている。
安政3年(1856年)には軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調所頭取などを歴任し、駿府町奉行・京都町奉行なども務めた。


失脚[編集]

この頃、幕閣では第13代将軍・徳川家定の後継を巡る将軍継嗣問題で対立があり、
安政3年(1857年)の阿部正弘没後に大老となった井伊直弼が始めた一橋派の弾圧である安政の大獄で、
忠寛は直弼から京都における志士の逮捕を命じられた。

しかし忠寛は安政の大獄には否定的な考えであり、直弼の厳しすぎる処分に反対した。
このため、直弼に疎まれるようになっていく。


そして忠寛の部下に質の悪い者がおり、志士の逮捕で横暴を振るっているのを知って激怒した忠寛は、
この部下を厳重に処罰したのだが、
これが直弼から志士の逮捕を怠っているという理由にされて、奉行職を罷免させられた。


復帰[編集]

直弼没後の文久元年(1861年)、幕府より復帰を許されて再び幕政に参与する。

そして外国奉行・大目付・御側御用取次などの要職を歴任した。

政事総裁職となった松平慶永らとも交友し、第14代将軍・徳川家茂にも仕え、
幕府が進める長州征伐(幕長戦争)に反対し、
政権を朝廷に返還することを提案している。

第15代将軍となった徳川慶喜にも大政奉還と、諸大名、特に雄藩を中心とした議会政治や公武合体を推進した。


慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、若年寄・会計総裁に選出された。
その後、新政府軍が江戸に向かって進撃してくると、
勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸城の無血開城に尽力した(→江戸開城)。
その後、徳川家達に従って駿河に移住し、駿府藩の藩政を担当した。


明治政府では東京府の第5代知事、並びに政府の議会政治樹立などに協力した。明治21年(1888年)7月31日に死去。享年72。


人物[編集]

非大身の旗本家から出世した一翁は実力ある官僚と評価され、松平慶永や勝海舟ですら敬服したと言われている。

勝の出世の方途を開いたのが一翁であり、元々は一翁は勝にとって上司に当たる。

従って、勝にとっては敬服というよりも恩義がまずあり、後は幕末時に共に政局混乱終息に動いた数少ない同志としての思いが強いといえる。

勝の方が重要な政局に当たったため、一翁の名は勝ほど知られていない。

勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸幕府の無血開城に貢献したため、「江戸幕府の三本柱」といわれる。

幕府存続のため、大政奉還を前提とした諸大名による会議、つまり議会制の導入を早くから訴えるなど、先見の明を持っていた。

福澤諭吉と親交が深く、慶應義塾の維持資金借用を徳川家に相談しに行った。
[76]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月16日 13時00分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 まだ「松下—大久保—服部のつながり」を知るに至った事によるエンドルフ
ィン、高揚がまだ少し残っています・・・。しかしながら、台風一過で急に
冷え込んだせいか、こころなしか心身とも切れが悪い感じです。

 あを様に御教示をいただく事になってより、満6ヶ月が過ぎ、本日より7
ヶ月目に入ります。膨大な情報を毎日いただき、メモもA4のノート2冊に
なり、ペンを走らせるスピードも増しました。記憶の方は消えゆくスピード
の方がが記憶するスピード・能力より勝りますので茫然自失する事もありま
すが、メモをとってありますので、何とか繰り返せば思い出すことができま
す。
 記憶は雑念を振り払い、一心不乱に集中する時間の長さと頭脳内のフレッ
シュさ(疲労物質の蓄積がなく、ブドウ糖が十分供給される状態)の掛け算に
比例するということも身をもって感じ取りました。
 それから、あお様のよく言われる「現場100回」の意味と「みんな幾重
にもつながっている」という事実がよく理解できました。
 詳細な詰め、チェックメイトにはほとんど行き着きませんが、近い所まで
は行く、そこで行き詰まる、次の状況証拠をというふうに続いて行く。100
回まであきらめない覚悟が必要か・・・。

 松下、大久保については想像以上の収穫がありました。
 そして、家康関係の原点は、ほとんどが「伊賀越え」にあることもわかり
ました。
 「伊賀越え」の参加者:
   大久保氏─大久保次右衛門忠左、大久保新十郎忠泰(のちの忠隣)
   松下氏─松下小源太光綱、花井庄右衛門吉孝高(同族か)
       (小源太は誰か?)
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月16日 14時07分53秒 ) パスワード

三つ柏さん


>花井庄右衛門吉孝高(同族か)

答え:
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%B0%8F
   

松下氏の傍系として松平忠輝の姉婿花井三九郎が出た花井氏がある。
          ↑
        ココですね


名字由来ネット
http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%8A%B1%E4%BA%95


三河の花井氏は清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)酒井氏氏流がある。
ほか中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、
古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏、
菅原氏などにもみられる

【全国順位】 1,076位  
【全国人数】 およそ17,500人

花井さん都道府県別ランキング!!
静岡県 およそ800人
愛知県 およそ6,600人
三重県 およそ1,200人

ということは愛知県に多いんですねえ。






1.この花井氏で良いのでしょうか?

花井氏について
http://yoshimori.myi.jp/yoshikawakumano/   吉川熊野神社のサイトから



吉川城は、清涼寺旧記によると、応永四年(一三九七年)吉加波(吉川)将監入道が築城し、居城していたと言われている。

その後、花井氏の居城となった。

花井氏の先祖は花井播磨守信忠であり、
寺本(知多市八幡町)にも堀之内城を築いて居城としていた。

花井氏の五世播磨守平次の子勘八郎ははじめ吉川城主であったが、天正八年(一五八〇年)堀之内城へ移った。


吉川氏の始まりは駿河の国(現静岡県)入江壮吉香邑(キツカムラ)へ入江馬三郎景義の子で吉香三郎と称し、
後に吉川経義と名乗り吉川氏の祖先で鎌倉時代の武将である。

この子孫が吉川城を築城し、花井氏に城主が代わるまで居城し後、中島郡祖父江村に移った。


花井氏は花井家系図によれば、慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦いのおり、
志摩国羽島城主九鬼大隈守喜隆によって、西知多が攻められて、その時堀之内城を落城した。

花井播磨守勘八郎は長男の清捨と共に、信濃国竹佐郷へ逃れ、後に尾張国知多郡へ帰り、
波月村(半月村)南隅の地(通称米田)に住み、余生を送ったといわれる。

花井清捨の墓と位牌は米田の天性寺にあり、現在も花井家一同が集まり供養をしている。

吉川城は天正二年(一五七三年)廃城しなくなり、今は国道一五五線沿いに「吉川城跡」の碑が建っている。



2.
花井氏について

http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/enjoy/bunkakyoyo/bunkazai/shishiteibunkazai/rekisisiryo/hanaishinohaka/index.html


「旗本花井氏の墓」は、江戸時代初期に所沢市域を支配した旗本の地方知行の実相を示す貴重な歴史資料です。

 花井氏は、花井吉高が徳川家康の関東入国に従い、
  慶長8年(1603年)、北野村に知行地を与えられました。

  以降、花井氏は幕末まで同地を知行しました。
 墓石の刻銘や「御地頭花井庄右衛門様系図書 慶応二年三月」(大舘誠十郎家文書)などから、

  この墓は花井吉高嗣子で、病弱のため江戸出仕もままならず、知行地の北野村で病没した花井吉政のものであり、
  施主は花井吉高の養子となって、吉政に代って花井家を継嗣した花井吉久(旗本浅井元吉の三男)
  であると推量されます。



指定年月日 平成25年8月1日

所在地 所沢市小手指南5丁目18番地の13(無量寺墓地内)


3.
松下氏   遠江に元々関係があったのですね


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matusita.html

ここに家系図が出ています:

松下氏
平四つ目結   ←  佐々木流なら当然この家紋ですね
(宇多源氏佐々木氏泰綱流)


    
松下氏は、宇多源氏佐々木氏の流れをくむ。
諸流があり、六角系は高長が初め遠江国笠原庄に住み、
やがて三河国碧海郡松下に移って松下を称した。

京極系は秀頓が遠江国山名郡松下に住んで松下となる。

また佐々木道誉高氏の孫秀豊も松下氏を称している。


ここからですね


三河の六角松下氏の子孫長則のころ今川氏に仕えた。
長則の子之綱は三河生まれとされているので、松下氏が遠江国頭陀寺城主となったのは之綱の代と思われる。

之綱を今川氏の家臣とするが、実は今川氏の直臣ではなく、頭陀寺城そのものが今川氏の支城のひとつである引間城のさらに支城であった。

これから明らかなように、今川氏の直臣飯尾氏の被官、すなわち今川氏にとっては陪臣にすぎなかったようだ。


之綱が世に出たのは、彼のもとに一時期、少年時代の豊臣秀吉が仕えていたからである。


之綱自身は、今川氏の没落後、徳川家康に属していたが、天正十一年、秀吉が賤ケ岳の合戦で柴田勝家を破ったあと呼ばれ、同年、丹波国と河内国内において二千石を与えられた。

さらに、天正十八年には、故地頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられ、
一万六千石の大名にとりたてられた。


之綱の子重綱は、関ヶ原の合戦に東軍に加わり、累積して常陸・下野を転封、寛永五年奥州三春三万石に入って、間もなくそこで死んだ。

幼い長綱が後を継いだが、のちに狂気おさまらぬため改易となった。

                ↑
               へえ〜


子孫は旗本家として存続したようだ。

[78]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月16日 14時13分50秒 ) パスワード

> (小源太は誰か?)

光綱とありますから、かなり近い一族の者でしょうね。弟?息子?

小源太というのは 
例えば父親が幼名「源太」だからその子供という意味か
兄が源太で、その弟という意味か
そのあたりでしょうね。

加兵衛さんの幼名が分かると良いですね。
加兵衛さんが源太なら、息子か、その弟か。


系図、出ると良いのですが。
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月16日 14時37分14秒 ) パスワード

三つ柏さん


>まだ「松下—大久保—服部のつながり」を知るに至った事によるエンドルフィン、高揚がまだ少し残っています

でしょうね。

素晴らしい系図のサイトを公開して下さったかたには大感謝ですね。
そして三つ柏さんもよくぞ見つけられましたね。


>満6ヶ月が過ぎ、本日より7ヶ月目に入ります。

半年ですか。
やっとココまで辿り着いたところですね。

まだまだ、ナカナカ、核心には到達出来ないですが。



>メモもA4のノート2冊になり、ペンを走らせるスピードも増しました。

そんなになりましたか。
慣れて来ますとスピードも早くなりましょうが字は丁寧に書いてください。
        赤面
        自分の字が自分で読めないワタクシに言われたくないですよね。
        あはは



>記憶の方は、消えゆくスピードの方が記憶するスピード・能力より勝りますので茫然自失する事もあります

本当に、もっと若い時期でしたらちゃんと記憶されるのでしょうけど
通字には悩まされますね。
大久保家の系図はよく出来ているのにわたくしには「視力検査」になっています。

>メモをとってありますので、何とか繰り返せば思い出すことができます。

はい


>記憶は雑念を振り払い、一心不乱に集中する時間の長さと頭脳内のフレッシュさ
    (疲労物質の蓄積がなく、ブドウ糖が十分供給される状態)
 の掛け算に比例するということも身をもって感じ取りました。


脳の栄養は砂糖ですね〜
そして睡眠がたっぷりありますと頭の中が整理されますね〜


>「現場100回」と「みんな幾重にもつながっている」という事実がよく理解できました。

はい
情報を何度も読み返しませんと  読めない  ですね。

    「読書百遍、意、自ずから通ず」

ですね。

なかなか一遍では理解出来ないです。

ちゃんと書かれているのに軽く見流してしまって、後で読み返した時に、気づいたりします。



>詳細な詰め、チェックメイトにはほとんど行き着きませんが、近い所まで
は行く、そこで行き詰まる、
>次の状況証拠をというふうに続いて行く。
>100 回まであきらめない覚悟が必要か・・・。

はい
根気が必要ですね。

頭の中を空っぽにして新鮮な目で読み返すと発見があったりします。

ご先祖さまはなかなかしっぽを掴ませてくださいませんね。



>松下、大久保については想像以上の収穫がありました。

    これには驚きましたね〜

    そして系図にあるように松下加兵衛さんも「石見守」なんですよね。
    これも驚きました。



>そして、家康関係の原点は、ほとんどが「伊賀越え」にあることもわかりました。

>「伊賀越え」の参加者:
>大久保氏 ─ 大久保次右衛門忠左、大久保新十郎忠泰(のちの忠隣)
>松下氏  ─ 松下小源太光綱、花井庄右衛門吉孝高
       

三方ケ原の戦いと伊賀越えは家康にとって苦労=生死=を共にした家臣になりましたから。
怖かったんでしょうね。

   だからこそ本多父子の妬みを買ったのかも知れないですね。


早く「旗本服部氏の家紋は丸に三つ柏紋」の証拠が見つかりますように。


寛政重修諸家譜に家紋の本もあるようなのですが、これは図書館では見られないでしょうか?
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月16日 14時57分52秒 ) パスワード

花井氏
https://www.city.tokai.aichi.jp/6323.htm  東海市



養父町の民話


藪城と惣五郎塚


国道百五十五号線を横須賀町から養父町ヘ向かって南下すると「城之内」という交差点があります。

そのあたり一体を養父町城之内というのは、かつて、そこに藪城があったからだといわれています。

しかし、いまは人家が建ち並び、城跡をはっきりさせることはできません。



いまから五百年ほど前のことです。
応仁元年(一四六七)に応仁の乱がはじまりました。
そのあと、この動乱の舞台は京都から地方に移り、全国が乱れ、約百年の間、戦国時代とよばれる戦乱期をむかえることになりました。

戦乱がつづいた戦国時代には、実力をもった下の者が、実力のない上の者をたおす下克上の風潮が、社会の潮流となりました。

そのころ、いまの東海市には、北から平島城、清水城、富田山中城、木田城、横須賀城、藪城などと呼ばれるいくつかの城がありました。

              花井氏
               ↓
藪城はそのうちの一つで、花井惣五郎という豪族が築いたものだと伝えられています。


尾張の国には守護として土岐頼康がおり、
その下に、富田、花井と名のる二名の守護代が仕えていました。
花井惣五郎はその守護代花井氏の血統をひく一族のものだったのです。

家来が主君の上になる時代です。
かつては守護代として守護土岐頼康に仕えていた花井一族も、いつの間にかその中の一人が実力をつけて、藪城を築き、勢力をほしいままにする地位にのし上がっていたのです。


すぐとなりの知多市八幡には堀之内城(寺本城、花井城)があり、
花井播磨守信忠、勘八・の父子二代が住んでおり、
花井一族がこの地方一体を支配していたものと思われます。


そのころ今川義元は知多半島方面へ進出しはじめました。
これに対して織田信長勢は、今川方に通じているとみられた花井氏の堀之内城を攻めて火を放ちました。


はなしはこのときのことです。

織田勢が藪城へも押し寄せてきました。惣五郎以下よく敵を防いで戦いましたが、城内で裏切りがあって、惣五郎は弓矢をとらないままにあえなく討たれてしまいました。

その最期に際して、
「弓矢さえ持っていたならば、このようにむざむざ討たれはしなかったものを」
とうらみの言葉を残したといいます。


こうして、藪城はまたたく間に落城してしまいました。
このあと、織田信秀の五男、信治(信長の弟)が野夫城の城主となりました。

信治は元亀元年(一五七〇)九月十九日、姉川の戦いで戦死しました。


惣五郎の遺骸を葬ったところを「惣五郎塚」または「弓捉塚」といいます。
以前には、この花井惣五郎供養のための五輪塔が北堀畑の畑の中にありました。

そのそばに植えられている松の木は伸びるままにしてあったので、よく茂っていました。

また、小さな弓矢を塚に供えると病気が治ると信じられていました。

いまは民家の裏庭に小さなお堂が作られ、その中にまつられています。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月16日 15時16分06秒 ) パスワード

尾張の花井のお話

   ここに織田信長の乳兄弟の池田恒興や次男の輝政の話が出て来ます。


http://www.nakanoprint.co.jp/sun/nobunaga/shinkou.html

威風堂々と知多を進攻

那古野城の城内にヒィー!という悲鳴につづいて、火のついたような赤子の泣き声が響いた。

織田信秀の室土田御前が吉法師(信長)に授乳中乳首を噛みくだかれ、思わず痛さに赤子の頬を思いきり叩いたのであった。この日から母は二度と信長に乳を与えることはなかった。
                   
                             恒興
                              ↓
乳母が何人も変わる、その度に癇癪強く乳首を噛切ったが、池田勝三郎(信輝)の母だけにはなつき、穏やかに乳を飲んだ。


幼くして父母は古渡城に移り、信長は肉親の愛蒋き環境で育った。
愛に飢えた反抗期を外に向ける。髪はざんばらを紅の紐で結え、湯帷子に荒縄を腰にまき、片肌脱ぎの姿で瓜や柿をかぶり皮や種を道端に吐き散らす。
近習を引きつれ城下や村々を肩組み闊歩した。
今でいう不良グループである。

「拘りゃになったら怖ぎゃあで、隠れとりゃあ」と人々は軒下に身を隠した。

「尾張の備後(信秀)の跡取りは大うつけ」の評判が諸国に拡まっていった。


信長は巷の噂に関係なく、尾張の隅々を、近習を引きつれ荒らしまわった。道なき山を駆け、赤土の崖を滑りおり、村々で悪童同士の喧嘩となる。石合戦や山の起伏を利用しての攻防は、後の信長の、兵法にない奇抜な合戦方法となる。土地の主立った悪童連中も信長の配下として従うようになった。そんな信長だが土地の古老の話には耳を傾けた。行儀作法や兵法を学ぶよりこの方が楽しかった。誰よりも尾張の地形や気象に熟知していたのが若き日の信長であった。


季節風で荒れ狂う馬走瀬(東海市横須賀)の浜に二千余の織田軍を乗せた船団が漂着した。天文二十三年(一五五四)正月、緒川城の水野信元より今川軍襲来の緊急の報せに、織田信長は軍勢を整え熱田湊より荒天をついて発ったのである。


木田城の荒尾美作守善次は城門を開けて一行を迎えた。兵卒は付近の観福寺や長源寺や神社の境内に分散して野営する。思いもしない大軍団の訪れに、村中総出で湯を沸かし炊き出しに慌ただしい。城内でもごった返していた。女衆をてきばきと指図する際立った立居振舞いの娘が信長の目についた。

「あれは、たしかそちの娘ではなかったか?」

荒尾善次を招きよせ尋ねた。腕白時代に木田城に立ち寄った時、焼き魚を立ったまま頬張る信長に行儀が悪いと窟めた小生意気な小娘を思いだした。

「ああ、あの娘か。なかなか気性もしっかりしとるわ。いい娘になりよったなあ」

側に控える近習の池田勝三郎の肘をつついた。

「よし、喜蔵の嫁にきめたぞ」と言うと、信長の後に従う童顔の弟喜蔵(信時)と荒尾善次に「いいな、それで」有無を言わさず婚姻の話をその場で決めてしまった。


信時はこの三年後に守山城主となるが旧城主の家臣に謀殺される。後家となった室は信長の計らいで池田勝三郎に再縁、荒尾家と池田家は主従を結ぶことになり、池田勝三郎の次男を荒尾家の養子に迎えた。これが後に八十七万石の大名、西国将軍と称えられた池田輝政である。

                     花井
                      ↓
木田城を早暁に発った織田軍勢は、城の西の花井惣五郎守る藪城を睨み、さらに南の花井氏の拠点、堀之内城を左にみて威風堂々と進攻する。

堀之内城は天主の鬼瓦が青銅の鱗形で陽に輝いていたため青鱗城とも呼ばれた。

花井氏は今川の庄力に慌てふためいて人質を送り今川方についた。
それを咎めるかのように信長の軍勢は堀之内城を威圧して佐布里まで進み、そこで方向を東に向け一気呵成に馬を走らせ、緒川城に着く。
村木砦攻めでの壮絶な攻撃で大勝利する。


舅の美濃の斉藤道三はその戦いの一部始終の報告を聞くと「婿ながら恐るべき男だ。いずれ我が息子どもも門前に馬を繋ぐことになろう」と嘆息ついたという。

織田軍は勝利に酔うことなく直ちに引きよげる。途中、堀之内城に兵を向け攻め寄せる。城下に火の手があがり黒煙が帯をひいて寺本の里を流れていった。同時に薮城も攻めるが、花井惣五郎の必死の抵抗に手問取る。だが無勢に多勢、城内より内通者が出てさしもの藪城も落ち、惣五郎は壮絶な最期を遂げた。


村木砦合戦の大勝利が、尾張に信長ありと武名を高めた。尾張を平定し暫しの平和が訪れる。そこに降って湧いたような恐怖が尾張の国を襲った。


駿河の今川義元が上洛し天下に号令せんと行動を起こしたのである。二万五千の今川軍が怒濤のように尾張に進攻してきた。家臣団が籠城を固守するのを無視し、信長は多勢の今川方を急襲する。信長は少年時代に尾張の地理気象を熟知していた。大雨を予知し、豪雨の中を山越えの道を進み、油断する今川軍の本陣を突いて義元を討ち取る。


その日の夜、木田城の麓にある小さな集落に武士の一団が夜陰に乗じて訪れた。花井氏に縁のある名主の屋敷に首のない今川義元の遺体を運んできたのである。秘かに遺骸を葬る。翌日から名主の家には見馴れぬ俄か百姓が増えた。今川の家臣で義元の墓守としてこの地に住みついたという。

文・本美信聿(郷土史研究家)



木田城は名鉄河和線高横須賀駅東にある。
荒尾空善より三代にわたって居城。
荒尾一族の墓は運得寺(荒尾町)にある。

池田信輝の城は平島城といい荒尾町の神明社西にあった。

藪城は東海市養父町の安楽寺が城跡。
花井惣五郎の墓が境内にある。
藪城はその後信長の弟信治が居城したが、信治戦死後廃城となる。


堀之内城は別に寺本城という。
城跡は、知多市寺本の堀之内の天王山にある。
山頂に天王社(津島社)か祀られ、大手門前や本丸の石段、石垣が参道として残る。
城主花井播磨守信忠はじめ花井一族の墓は近くの大祥院にある。



今川さん

今川義元を葬ったという「今川さん」は高横須賀小学校近くにある。
織田の勢力を憚り義元を義基と改め秘かに供養したという。
墓守りとして残つた今川の家臣は早川、北川姓で今も残る。
[82]箱柳永田さんからのコメント(2014年10月16日 20時37分42秒 ) パスワード

あを様

 鳥取池田家中の余談
  後年、旗本永井氏の子息が荒尾分家に養子に入り、荒尾家の家老を、、
 後日荒尾本家に嫡子が無くなった時、本家を継、永井氏の倅が池田の
 筆頭家老になるのね。
 また、池田家には長篠で活躍した永田穂積之助が所属していました。この家で多く使われる通称は蘇武之助(長篠で望月氏を討、鳥居家与力より尾張藩士)どちらも永田清蔵(鷲塚住人)の子と孫になりますので、永井氏と池田氏は
 江戸城で会っても、無視して目を合わさないという世間の話に
   疑問を抱くこの頃です。
 
 幕末期の池田藩砲兵隊長、永田秀蔵は会津まで行ってるようです、
 秀蔵は西南戦争?鹿児島で戦死です。
 会津肥後さんには尾張藩蘇武之助家の分家が永田流砲術をもって
 仕えてるのね。
  鳥取県立歴史博物館にて調査 再掲
  
  永井遠江守には、大した意味はなさそうです。
 江戸中期以降の官位はファッションに近くなっており、空いている中から
 気に入ったのを選ぶ、のが主流のようです。
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月16日 22時40分44秒 ) パスワード

箱柳さん


永井と池田は「不通大名」=絶好状態=の噂のある仲だったのですか?
   例えば  蜂須賀と黒田
        浅野と吉良のような。


荒尾←→永井←→池田  この関係が成立しますか。
            やっぱりみんな繋がってしまうんですね。

   荒尾と永井(長田)はずっと前からの関係のように思いますが
   池田と荒尾は織田時代以降でしょうか?
   それこそ上記のような感じに信長の父あたりからの関係なのかしら?

        荒尾って名古屋では聞かないので全く知らなかったです。
        荒井さんというのはよく聞きますけど。


>空いている中から気に入ったのを選ぶ、のが主流のようです。

初めは朝廷から頂いたけど、後世にはどんどん形骸化しましたからね。
「空いてるのから選ぶ」というのに笑ってしまいました。

有名どころの官位は取り合いだったのでしょうね。


どっちにしろ、自分の欲しい官位名はなかなか手に入らなくて、
皆さん、内心、悔しい思いをしてたりしたのでしょうね。


  ・父祖伝来の官位名を名乗りたい
  ・父祖伝来の土地の名の官位名を名乗りたい
  ・カッコいいのを名乗りたい
  ・その他

事件を起こした大名の名乗ってた官位名なんて名乗りたくなかったでしょうね。
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月16日 22時55分23秒 ) パスワード

三つ柏さん


レス<76>の 松下氏─松下小源太光綱、花井庄右衛門吉孝高(同族か)

>花井庄右衛門吉孝高

この人物についての関連記事がほんの少しありました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%98%E6%B0%8F

大館氏について

新田政義の次男大舘家氏を祖とする。本姓は河内源氏(清和源氏義家流)。家氏は上野国新田郡(新田荘)大舘郷(おおだちごう)[1]に住み大舘二郎(次郎)を名乗った。家紋は大中黒、酢漿草(かたばみ)が基本であるが、このほかに、二引両や三巴、笹竜胆などを使う家系もある。

南北朝時代には、家氏の子宗氏が元弘3年(1333年)に新田義貞の鎌倉攻めに右軍大将として子の氏明・幸氏・氏兼らと参加した。しかし宗氏は極楽寺坂で戦死している(東勝寺合戦)。現在、鎌倉稲村ヶ崎に大舘宗氏主従11人塚が建立され、その事績を残している。

嫡系を継いだ氏明は建武3年(1336年)5月25日の湊川の戦いにおいても脇屋義助とともに和田岬(兵庫県神戸市兵庫区)に布陣して戦う[2]。その後は吉定の元を離れ一時足利方に降伏していたが、逃れて南朝方として活動し伊予国守護となる[3]。1342年9月3日に北朝方の細川頼春の攻勢のため世田城で自害した[4]。このほか南北朝の動乱期には大舘姓の武士が南北入り乱れて活躍していることが諸記録に散見されるが、各々の人物の系譜関係については不明である。

大略

武蔵国の大舘氏[編集]
    所沢ですしね
     ↓
埼玉県所沢市には、宗氏の子孫と伝えている大舘氏があり、もと後北条氏被官の配下で北条氏敗北後、家康の関東入部後に帰農した一派といわれる。


     ここからです
       ↓
室町幕府に仕えた一族との関連は不明。
江戸初期には筆頭名主となった大舘傳右衛門(助右衛門)家がみえる。

                   
                             ココ
                              ↓     この家は領主の旗本・花井氏と関係が深く、家康小姓・花井庄右衛門吉高の廃嫡男子・庄五郎吉政と婚姻関係を結び、

この子孫も傅右衛門家の分家筋として大舘姓を称している。


のち江戸後期に大舘傳右衛門家から名主職はその配下だった大舘清右衛門家に移
り、
それを期に清右衛門系が傅右衛門系より優位になり、

           ココ
           ↓
ついに清右衛門家は花井氏の地代官(名主出身の代官)にもなり、苗字帯刀槍一筋御免となり、
弘化4年(1847年)には、武蔵国入間郡に「大舘氏碑」を建立し総本家を自称するようになった。

          ハハハ
          実力で奪い取りましたね


その碑文によると、大舘式部義隆という人物が新田義貞の鎌倉攻めに従い戦死し、
その子主税義信というのが、新田義興が武蔵国で誅殺されたとき以降、現在の地に帰農したという。

しかし大舘義隆・義信なる人物は史料上に見えず、「帰農」という概念は身分制が固まる江戸期以降のことである。


この系譜は、地代官任命時に創作された可能性が高く、信憑性に問題があるとされる(所沢市史編さん関係資料群)。

傳右衛門系・清右衛門系を含め、この地域の大舘一族が実際に新田大舘氏の系譜を引くのかは同時代の史料的には確かめられていない。
[85]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月17日 02時03分51秒 ) パスワード

花井氏

花井氏はここからやって来た:吉川城
    (その後、寺本城に移り、さらに、大高城も花井氏の城だったというお話)


まず吉川城:上記にもちらっと書いてありますが
http://www.oshiromeguri.com/chita/35yoshikawa.html


所在地    大府市吉川町1丁目
立地     平城
築城時期   応永四年(1397)
築城者    吉川入道
主な城主   吉川入道・花井勘八郎
現状     畑地
地図


●歴史●

応永四年(11397)吉川入道という人が築城し、その後花井氏が居城しました。

花井氏は知多市の寺本城も所有しており、天正八年(1580)に寺本城に移り、吉川城は廃城となりました。

しかし慶長五年(1600)の関ヶ原合戦時、鳥羽城主・九鬼喜隆によって西知多が襲われ、寺本城も落城。

城主・花井勘八郎は嫡男・清捨とともに信濃国(現・長野県)へ逃れ、後に清捨は尾張へ帰り、
現在の大府市吉田町へ住み、余生を過ごしました。


●メモ●

吉川城跡は開発され、遺構は全く残っていませんが、かつて吉川城にあったとされる弁天様が今でも残っています。




http://www.oshiromeguri.com/chita/39teramoto.html

寺本城


所在地   知多市八幡字堀之内
立地  平山城
築城時期   ?
築城者   ?
主な城主   花井播磨守・勘八郎
現状   津島神社
地図

●歴史●

この地の土豪・花井氏の居城。

花井氏はもともと、現・大府市の吉川城に住んでいましたが、寺本城を築城後、移ってきました。

今川氏が尾張へ侵入してきた頃、花井氏は今川氏に属していましたが、桶狭間合戦時は織田氏に帰属、
所領を安堵されます。

時は流れて慶長五年(1600)の関ヶ原合戦時、鳥羽城主・九鬼喜隆によって西知多が襲われ、
寺本城は落城。

花井氏は信濃国(現・長野県)に逃れ、後にまた尾張へ帰ってきました。

    これも謎ですね 


●メモ●

別名『堀之内城』とも呼ばれる寺本城は、現在津島神社になっていますが、周囲より高台にあり、
お城の雰囲気が残っています。

入り口からの階段は、登城口を想わせる折れ曲がりであり、頂上に辿り着くと舌状の削平地がありました。
ここが本丸だったのでしょう。

周囲は住宅地になっていますが、ぐるりと回ると郭跡にも見える突き出た場所もあり、
お城跡を偲ぶことが出来ます。

あと、道路の向こうに秋葉神社がありましたが、寺本城と標高がほぼ同じなので、
かつては寺本城関連の物見台の様な役割の施設があったのか?

想像するとキリがないですよね。



愛知県中世城館跡調査報告W 知多地区より 
作図者 高田徹 氏




大高城
http://www.oshiromeguri.com/nagoya/52oodaka.html


所在地    名古屋市緑区大高町城山
立地     平山城
築城時期    ?
築城者    花井備中守
主な城主   花井備中守・水野忠氏
現状     史跡公園



●お城の歴史●

永正年間(1504〜1521)に、花井備中守によって築かれたお城です。

天文・弘治年間(1532〜1558)の頃は、水野氏が今川方として居城していましたが、
その後、織田方に転じました。


●桶狭間合戦の頃の大高城●

永禄二年(1559)の頃、鳴海城主・山口左馬介教継が今川方に寝返り、大高城を攻略してしまいます。

慌てた織田方は、鷲津砦・丸根砦を築き、大高城を今川勢力と遮断してしまいます。
いわゆる兵糧攻めですね。

今川義元は大高城を重視。
救出すべく、十九歳の若武者・松平元康(後の家康)に大高城に兵糧を運ぶよう指示。

元康は鷲津砦・丸根砦の目をかすめ、みごと百十頭の馬に積んだ兵糧を大高城に運び込みます。


    このエピソードが有名な大高城の兵糧入れです。


桶狭間の合戦が始まると、当時大高城にそのまま居た元康は、鷲津砦・丸根砦を攻め落とします。

しかし、合戦は信長の勝利に終わりました。

その後、元康は早々と岡崎城へ引き上げてしまいました。


●メモ●

その後の大高城はいったん廃城になりましたが、元和二年(1616)大阪城落城の後、
尾張藩の家老・志水忠宗が一万石を領し、お城跡に館を設けて、明治維新まで続きました。

現在、大高城は史跡公園になっており、掘・土塁等、お城の遺構が残っており、お城ファンのみならず、
周辺に住む市民の方々の憩いの場になっています。



参考)桶狭間合戦時、大高城を攻め落とした山口氏の居城   鳴海城
[86]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月17日 16時19分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 やっと元の調子に戻って来ました。

 浜松城の東1キロちょっと行った所に静岡文化芸術大学があり、あの磯田
道史教授がおられます。来年が、家康没後400年ということで、岡崎・
浜松・静岡市において、いろいろなイベント等が企画されます。家康が亡く
なったのは1616年(慶長16年)、75才でありました。一説では鯛の
天ぷらを食べて食あたりで死んだと言われていますが、まずそんなことはあり
得ないはずです。4月に死んでいるので、ちょうど桜鯛の季節であり、この
季節ならば釣ってから二三日で腐ることはまずないし、天ぷらにしてからでも
腐るということは配膳の時間を考えたらまずない。この死因等については別
途考察いたしたいと考えております。
 その没後400年記念事業の一環として、磯田教授が浜松市の広報誌に
家康についての話を連載するということで、さっそく今月号より掲載が始ま
りました。
 今回は第1回目ということで、「何故浜松に城を造ったのか」の理由につ
いて述べておられます。
 それによると、家康は、遠江磐田の見付(国府=県庁があった)に居城を築
きたいと思っていたということです。(ということで中泉に御殿があった理由
が今わかりました)。岡崎城は信康にまかせ、家康は見付城の普請を始め、
屋敷割が進んだところで、信長から「待った」がかかったそうです。つまり、
「もし信玄と敵対した場合、見付では天竜川が邪魔になって、救援に向かう
事ができない。たとえ渡る事ができても、川を背にして戦う事になるので、
城は浜松にしなさい。」と指示が出され、途中で見付城の普請は止めざるを
得なくなったのだそうです。

 磯田教授の関係する事業としては、他に「デジタルでタイムトラベル」と
いうテーマでの講演会が、11月30日の午後、静岡文芸大で開かれます。
これは、高精度のデジタル画像となった絵図を使い、磯田教授の解説により
江戸時代の浜松をバーチャル体験するというものです。私は既に予約申込み
をいたしました(先着順、無料)。
他にも色々な企画が目白押しにあると思いますので、これはというものが
ありましたらご報告いたします。

 歴史を考える時、我々はその時代にタイムスリップする必要があるという
ことを最近強く感じるようになりました。近世まではそんなに変わっていま
せんが、近代から現代に至るまで文明は大きく変わってしまいました。考え
方もそうです。従って今の感覚で過去・歴史を捉えるのは間違いの元になり
ます。できるだけ当時の人達の日常の現実を理解しなくてはなりません。
 磯田教授の講演は、そういう意味で私にとっては、正にグッドタイミング
な企画となりそうです。

 
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月17日 22時19分37秒 ) パスワード

三つ柏さん


浜松に城を築いたのは信長からの忠告からでしたか。
信長は「背水の陣」はやっぱりダメだという考えがあったのですね。
   背水の陣でうまくいけばいいけど
   背水はやっぱり無能な策だよ、と。
   へえ〜

なかなか貴重なエピソードのご紹介をありがとうございました。



最近NHKの子供番組で(ようこそ先輩)
磯田先生が備中高松城の水攻めの検証を子供達にさせてました。

   岡山の岡北中学出身者。

あの堤防は巨大なものだった、ということで
この先生は本当に素晴らしい教育者です。


わたくしも堤防の大きさに驚きました。
現代もこの堤防の一部が残っているんですが削られたりしてて
それで子供達に実際はどんなだったかと。


無料で参加出来るなら「尚良し」ですね。
[88]丸三柏服部さんからのコメント(2014年10月18日 12時07分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 磯田教授が何故浜松へ来たのか、本人曰わく東日本大震災の地震と津波の
脅威を知り、いずれ起こるだろうといわれる南海トラフの連動地震が起これ
ば大変なことになるので、古文書から過去の地震に関する研究をし、世の中
に伝えることができたならと、一念発起され、たまたま機会も訪れたので、
浜松の大学に転職し、江戸時代以前の地震や津波の古文書を探して研究する
仕事を始めたということで、我々にとってもありがたい限りであります。
 磯田教授の本『歴史の愉しみ方』には、古文書や現場検証により得られた
興味深い話がたくさんありますので、徐々にお伝えして行きたいと思ってお
ります。

 今回は、「毒」について書かれていた事をお伝えします。
 『寛永諸家譜』によると、加藤光泰は文禄の役で京城にいた時、食料も少
なくなり、釜山浦へ撤退か残留かで武将田との間で口論になった。光泰はど
んなことがあっても絶対残留して加藤主計頭清正や鍋島加賀守直茂らの帰還
を待つべきだと主張。それに立花左近将監、小早川隆景が同調した。これに
より、明の大軍と戦うはめにはなったが、首級3万八千余を得、明は敗走し
たという事である。その後に、加藤清正達は、朝鮮王や太子等を生け捕り、
京城に戻って来たということで、残留は結果的に正解であった。
 そして、帰陣の時、光泰は西生浦(せすがい)にて鴆毒(ちんどく)にかかり、
卒すとある。これは石田三成により食べ物に毒をもられてのではないかと言
われている。
 この毒について、磯田教授は毒薬を使ったならば「トリカブト」ではない
かと推測されている。
トリカブトを食すると、心臓発作や脳出血に似た症状で死ぬという。暗殺と
は気づかれずにすむ可能性が高いので、暗殺には適しているという事である。

 さらに、磯田教授は甲賀忍者の家系の子孫に会い、その家に残っている古
文書の中に「毒薬之方」というのがたまたまあり、そこには忍者の生物科学
兵器の製造法が書かれていたという。例えば、今で言うロケット弾。「棒火
矢」といい、約3q飛ぶそうである。筒が付いていて、その中に毒薬を詰め
る。その毒薬には、毒性昆虫「唐ハンミョウ」や「ふぐのキモ」等12種類
の物質を粉末にして筒に詰めるのだそうである。殺傷とまではいかなかった
かもしれないが、催涙ガス以上の効果はあったのではないかという。
 忍者は化学者であり、また科学者(技術屋)でもあったのである。
[89]空の青海のあをさんからのコメント(2014年10月18日 14時16分15秒 ) パスワード

磯田先生は本当に素晴らしい学者ですね。
 貴重な古文書を失いたくない
 過去に学ぼう
本当に「学者」ですね、それも「実用」の伴う学者ですね。

*********************


ということは光泰は妬まれてたということでしょうね。

**************



>鴆毒

ま、実際にはトリカブトだったろう、ということですね。



で鴆毒とは何かを調べて来ました:

鴆毒(ちんどく)は鴆と呼ばれる空想上の鳥の羽の毒。一説には、パプアニューギニアに住むピトフイという毒鳥と同種の絶滅種の羽ともいうが、実際には亜砒酸との説が有力である。あるいは酖毒とも書く。

なお、経書『周礼』の中に鴆毒の作り方と思われる記述がある。
まず、五毒と呼ばれる毒の材料を集める。
1.雄黄 ゆうおう(硫化砒素)
2.礜石 よせき(硫砒鉄鉱)
3.石膽 せきたん(硫酸銅)
4.丹砂 たんしゃ(硫化水銀)
5.慈石 じしゃく(酸化鉄)

この五毒を素焼きの壺に入れ、その後三日三晩かけて焼くと白い煙が立ち上がるので、この煙でニワトリの羽毛を燻すと鴆の羽となる。さらにこれを酒に浸せば鴆酒となるという。

煙で羽毛を燻るのは、気化した砒素毒の結晶を成長させることで毒を集める、昇華生成方法の一種ではないかと思われる。日本でも、亜砒焼きと呼ばれた同様の砒素毒の生成法が伝わっている。



砒素毒ですか。


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


http://matome.naver.jp/odai/2135592269522616001

古代中国の謎の毒 鴆毒について


三国志では貴族の自殺アイテム人気ナンバーワンの毒、鴆毒。
(庶民の場合は井戸からの飛び降り)

これは現在では存在が確認されないため伝説の鳥とされている鴆という鳥の羽に毒があり、
その羽をつけこんだ毒酒であったといわれています。

そんな毒についてと、絶滅しただけで本当は実在したのではないか?という可能性について考えてみました。

中国の古文献に記述が現れている猛毒を持った鳥。
大きさは鷲ぐらいで緑色の羽毛、そして銅に似た色のクチバシを持ち、毒蛇を常食としているためその体内に猛毒を持っており、耕地の上を飛べば作物は全て枯死してしまうとされる。石の下に隠れた蛇を捕るのに、糞をかけると石が砕けたという記述もある。



へえ〜
昔の中国では庶民は井戸に飛び降りていたのですか。
迷惑な話ですね。

でも清末期の皇帝の側室の珍妃は政変のゴタゴタの最中に井戸に投げ込まれて殺されたそうですから
井戸は命を絶つ場所として中国では認識されていたのかもですね。

日本はそんなにたくさんは無いですよね。
姫路城のお菊さんあたり?
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