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 投稿番号:101370 投稿日:2014年09月02日 06時51分08秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族\
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族[からの継続です。

歴史探偵の目で歴史の底流に潜む謎を解明する。

最終目標は服部氏族のすべての謎の解明。

[1]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月02日 09時58分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 久しぶりに海の上でリフレッシュしましたが、気候もこのところ梅雨の
季節に逆戻り、気温もずっと涼しくなっております。本日は晴天で、また
暑さがぶり返すような気配です。釣りは夜中の2時半起きなので、翌々日
まで調子が戻りません。

 さて、いろいろ情報をいただき、それはそれで頭にインプットしており
ますので、いつでも関連の事項に出くわした時に引き出せます。ありがと
うございます。
 その中でも、古代では「八」が無限であるという概念に気を引かれてお
ります。明日、その関連の図書が届きますので、レポートしたいと思いま
す。
 
 このところ、スタックしている状態が続いています。それは、こだわり
屋の私の性分のなせる業なのですが、次のことにこだわりつづけています。

 それは、物部神道の十種祓詞(とくさのはらへのことば)の、

 「ひとふたみよいつむななやここのたり、ふるべゆらゆらとふるべ」

 の「ふるべ」と「ゆらゆら」の意味、語源にこだわっています。

 いろいろ調べていますが、私の満足の行く答えには至っておりません。
 「振る」「振れる」という意味ととらえる解説が多いのですが、何で
「べ」がつくのか、また「ゆらゆら」はポリネシア的な言語で、ヘブライ
的ではない。「布留部」と「布留」の根本的違いは何か・・・等々。

 物部氏の真相を追求するには時間がかかりそうです。これらのテーマで
もう少しまとめます。
 
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月02日 13時44分22秒 ) パスワード

全く門外漢なので勉強:


十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。



概要[編集]

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、
鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。

これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

                  8が出てますね


十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)



布瑠の言[編集]

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。


『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。


    「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
    「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。


饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。



十種神宝の行方[編集]

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。
石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。
いずれにしても、十種神宝は現存していない。


本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、
偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。

石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。



江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。     ← 籠神社


十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。


秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。


[3]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月02日 14時02分48秒 ) パスワード

http://10kusa.digi2.jp/page07.html

1.
布瑠の言

言葉に思いを込めることで、言霊となり、言葉に魂が込められ、凶事を引き寄せることになります。
布瑠の言(ふるのこと)は、十種神宝の絶大な霊力を呼び覚ます「言」になります。

この十種神宝を言にしたのが次の言葉です。

二通りあります。どちらが正解か分かりませんが、同じ言霊になります。

布瑠の言
『ひ ふ み よ い む な や ここのたり ふるべ ゆらゆらと ふるべ』

布瑠の言
『ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここのたり
                  ふるべ ゆらゆらと ふるべ』

「ひふみよいむなやここのたり」と「ふとふたみよいつむゆななやここのたり」は、一から十であり十種神宝を意味しています。

『旧事本紀』に書かれているように、十種神宝とともに鎮魂法で用いられるこの「言霊」を唱えることで、死者が甦るほどの霊験が顕現されるとされているのです。

十種神宝大御名と同じく、鎮魂法において用いられる言霊になります。


2.
音声も聞けます。


3.
物部氏と尾張氏の祖神とされる

十種神宝の祝詞にもきされている河内国の哮峰(大阪府)に天孫降臨したとされるニギハヤヒ命は、物部氏の祖神と言われています。

また、『日本書紀』には、「火明命、こは尾張連等が祖なり」「天照国照彦火明命と号く。是尾張連等が遠祖なり」と記されています。

さらに『熱田大神宮縁起』に、「尾張氏の祖稲種公(いなだねのきみ)は火火明命11代の孫、尾張国造喚乎止与命(おわりくにのみやつこおとよのみこと)の子」であるとしています。

ニギハヤヒ命は、物部氏の祖神とされていますが、尾張氏の祖神としても記されています。
愛知県の尾張一宮の真清田神社では、天火明命が祀られています。
          ↑
         蜂須賀さんの関係でよく目にしました。
             小六の正妻の実家がマスダさんです。
             また正妻の父というのがマスダ姓の他に三輪姓という話もあります(謎)

            どっちにしろ  ソーユー  ことなのか?


           蜂須賀と信長の側室の吉乃の実家の生駒家は親戚関係です。
           信長の母上の土田御前の実家と生駒家が関係があったし。

               みんな南朝方で関係があったようです。
           蜂須賀小六の祖母になる人=正妻が津島神社出身だし。

           ということは  ワタクシも「親戚だよ宣言」しちゃって良いのか?笑
           勿論、分を弁えた謙虚なワタクシは宣言はしませんが。笑
 



4.
天孫降臨(てんそんこうりん)

一般的に言う「天孫降臨(てんそんこうりん)」は、邇邇芸命(ににぎのみこと)が、日本国土の平定を受けて、統治のために降臨した話です。

しかし、この邇邇芸命(ににぎのみこと)が高天原から日本国土に降りる前に、降臨したのがニギハヤヒ命なのです。

この時、授けられたのが十種神宝と鎮魂法なのです。ニギハヤヒ命は、神宝を授かり、おともの神32神と共に、天磐船(あめのいわふね)に乗り、河内国河上の哮峰に降臨されたと言われています。

そしてニギハヤヒ命の子である宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が十種神宝を神武天皇へ献じたそうです。

神武天皇即位の年11月庚寅の日に、十種神宝を用いて「鎮魂之祭」を行ったと「天孫本紀」に記されています。

宇摩志麻治命(うましまじのみこと)から神武天皇へ十種神宝と鎮魂法が引き継がれましたが、鎮魂法は石上神宮へも伝承されてます。

[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月02日 14時10分36秒 ) パスワード

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1439278349

ひふみの歌の説明:


ちょっと手間がかかります。

『先代旧事本紀』に「十種の祓」トクサノハラエという祝詞が漢文で書かれてあり、

「天神(あまつかみ)の御祖(みおや)教え詔りして曰く
若し痛む処有らば玆(こ)の十宝を令(し)て
一二三四五六七八九十と謂いて
布留部(ふるへ)由良由良止(ゆらゆらと)布留部」と読み下されています。


「十宝」は十種の瑞宝であり、天孫降臨の際にニギハヤヒノミコトに授けられた十種の宝のことです。

「布留部(ふるへ)由良由良止(ゆらゆらと)布留部」の解説も↓にありますが、一般にそうと解釈されているだけで、本当にそういう意味かは分かりません。

何故なら『先代旧事本紀』は序文で聖徳太子の死後に書かれたことになっていますが、この本は偽書であり、胡散臭いものだからです。


平田篤胤などによれば、物部氏が平安時代ごろに書いたのだろうとされています。

ニギハヤヒノミコトは物部氏の祖先に比定される神です。

そして「一二三四五六七八九十」は物部氏が祭る石上神宮の鎮魂法です。



ひふみの歌と呼ばれるのは「一二三四五六七八九十」の部分ですが、これは『先代旧事本紀』に読み方が書いていなかったために、様々な読み方を様々な神道学者や仏教僧が唱えました。


物部神道によれば「ひふみよいむなやこともちろらね」と読み、
それゆえ「ひふみの歌」と呼ばれますが、
これでは意味がよく分かりません。


例えば、他には、伊勢神道では「そてなていりさにたちすいいめころして」と読みました。

この意味の解釈は伊勢神道の教理についての説明を必要としますが、まあ、要らないでしょう。



2.

「ひふみ」の意味は分かっていませんね。

ひ:火、一 ふ:風、二 み:水、三 よ:四 い:五 む:六 な:七 や:八 こ:九 と:十 も:百(もも) ち:千 ろ:萬(よろず) までは分かるのですけど、それ以降はまだ解き明かされてはいないようです。




3.


布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。


饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。
とあります。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月02日 14時15分49秒 ) パスワード

http://www.h3.dion.ne.jp/~tsutaya/newpage18.htm

祝詞各種  画像つき



高天原たかまのはらに神留かむづまり坐ます皇吾親神漏岐神漏美すめらがむつかむろぎかむろみの命以みこともちて皇神すめがみ等たちの鋳い顕あらはし給たまふ十種とくさの瑞寶みづのたからを饌速日命にぎはやひのみことに授さづけ給たまひ天津御祖神あまつみおやのかみは言誨ことおしへ詔のり給たまはく汝命いましみことこの瑞寶みづのたからを以もちて豊葦原とよあしはらの中國なかつくにに天降あまくだり坐まして御倉棚みくらたなに鎮しづめ置おきて蒼生あをひとくさの疾病やまひの事有ことあらば茲この十種とくさの瑞寶みづのたからを以もちて一ひと二ふた三み四よ五いつ六むゆ七なな八や九ここの十たりやと唱となへつつ布瑠部由良由良ふるべゆらゆらと布瑠部ふるべ此かく為なしては死まかりし人ひとも生いき返かへらむと言誨ことおしへ詔のり給たまひし随まにまに饌速日命にぎはやひのみことは天磐船あめのいはふねに乗のりて河内國かはちのくにの哮峯いかるがのみねに天降あまくだり坐まし給たまひしを爾後そののち大和國やまとのくに山辺郡やまべのこほりの布瑠ふるの高庭たかにはなる石上神宮いそのかみのかみのみやに遷うつし鎮しづめ斎いつき奉まつり代代其よよそが瑞寶みづのたからの御教言みおしへごとを蒼生あをひとくさの為ために布瑠部ふるべの神辞かむごとと仕つかへ奉まつれり故かれ此この瑞寶みづのたからとは瀛津鏡おきつかがみ辺津鏡へつかがみ八握剣やつかのつるぎ生玉いくたま足玉たるたま死返玉まかるがへしのたま道返玉ちがへしのたま蛇比礼をろちのひれ蜂比礼はちのひれ品物比礼くさぐさのもののひれの十種とくさを布瑠御魂神ふるのみたまのかみと尊たふとみ敬ゐやまひ斎いつき奉まつる事ことの由よしを平たいらけく安やすらけく聞きこし食めして蒼生あをひとくさの上うえに罹かかれる災害わざわひ及および諸諸もろもろの疾病やまひをも布瑠比ふるひ除そけ祓はらひ遣やり給たまひ寿命よはひ長ながく五十橿いかし八桑枝やくはえの如ごとく立栄たちさかへしめ常磐ときはに堅磐かきはに守まもり幸さきはへ給たまへと恐かしこみ恐かしこみも白まをす



ひふみ祓はらへ

一ひ(ひと)二ふ(ふた)三み(み)四よ(よ)五い(いつ)六む(むゆ)七な(なな)八や(やは)九こ(ここの)十と(とをなりけりや)布瑠部ふるべ由良ゆら由良ゆら止布とふ瑠部るべ  

ひふみ祓詞はらえことば

ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおゑにさりへてのますあせえほれけ


みそぎ神歌しんか

朝夕あさゆふに 神かみの御前みまえに 禊みそぎして 皇すめらが御代みよに 仕つかへ奉まつらむ

天神あまつかみ 地祇くにつかみ等たち 見添みそなはせ 思おもひ猛たけりて 吾わが為なす業わざを

遠津神とほつかみ 固かため修をさめし 大八州おほやしま 天地あめつち共ともに 永遠とはに栄さかへむ

雄叫おたけび

生玉いくたま 足玉たるたま 魂留玉たまたまるたま 國常くにのとこ立命たちのみこと

神伝しんでん教おしへの一言ひとこと

掛かけまくも畏かしこき産土うぶすなの神等かみたちより真白玉ましらたまの分霊わけみたまを授さずかり得えて今神國いまかみぐにに生うまれ出いづる人ひとは先まず日本ひのもとの元津教もとつおしへに依よりて霊たまの御柱みはしらを立たてその元もとに報むくひ奉まつらむ為ために天津神國津神あまつかみくにつかみを斎いつき奉まつり曇くもらぬ元津真心もとつまごころを神かみの理ことはりに正ただして人ひとの人ひとたる道みちを渡わたりその生業なりはひを勤いそしみ務つとめ君きみの為ため國くにの為ためには命いのちを惜おしまず人ひとと交まじはりては誠まことを持もちて相親あひしたしみ尊たふときに従したがひ貧まづしきを助たすけ時ときの政治まつりごとに背そむかず開ひらけ世よの法のりに違たがはずば即すなはち神かみの御恵みめぐみを蒙かがふりて現世うつしよにては自おのずから尊たふときに登のぼり命長いのちながく千萬ちよろづの幸さちを得えて家いへ富とみ栄さかへ後のちの世よにては神かみの坐ます高天原たかまのはらに参まいり仕つかへて常つね永久とこしへに憂うき事無ことなく限かぎり無なき楽たのしみを極きはめむと神かみの御前みまえの神事かむごとに照てらして明あきらけきものなり

鎮魂歌みたましづめのうた

ア チ メ オ オ オ

一、天地あめつちに 来きゆらかすは さゆらかす 神かみわがも 

神かみこそは 来きね聞きこゆ 来きゆらかす

ア チ メ オ オ オ

二、すめ神がみの よさしたまへる 大おほみこと 

ふみ行ゆくことぞ 神かむながらなる

ア チ メ オ オ オ

三、よりかへし 打うちかへす 波なみはなぎゆき

海わたの面ももしづけし

四、たけすさびにし あらしもややに すぎゆきて 

そらにかかれる 八重雲やへぐもも見みず

ア チ メ オ オ オ

五、さつをらが もた来きのま弓ゆみ おくやまに 

みかりすらしも 弓ゆみのはず見みゆ 

ひと ふた みい よう いい むう なな や 

ここのたり ふるべゆらゆらとふるべや

鎮魂みたましづめの祝詞のりと

畏かしこしや打うち靡なびく天あめの限かぎり尊たふときろかも打うち続つづをく地つちの極きはみ萬よろづの物ものを生うみ出いでて統すべ治をさめ給たまふ大神おほかみ世よの限かぎり有ありの尽尽ことごと落おつる事無ことなく漏もるる事無ことなく命みことを分わかち霊みたまを通かよはし稜威みいづ輝かがやき給たまふ神かみの御名みなを天照國照統大神あまてらすくにてらすすめおほかみと称たたへ奉まつりて言祝ことほぎ真祝まほぎに鎮魂みたましづめの神業かむわざ仕つかへ奉まつりて大神おほかみの厚あつき尊たふとき霊威みたまのふゆを蒙かがふり奉まつり霊みたまを祓はらひ清きよめて己おのが命みことを明あきらめ悟さとり弥益益いやますますに高たかき命受みことうけむと大神おほかみの御前みまえに仕つかへ奉まつらくを命人みことびとの心こころの傾かたむき曲まがひ過あやまち犯おかし悩なやめる罪つみを始はじめて霊みたまに深ふかく負おひ持もてる先世さきつよの穢けがれ人ひとに代かはりて負おへる罪つみに依よりて身みを苦くるしめ罪つみを重かさねて家族親族うからやからを悩なやまし世よの人ひとをさえ穢けがし苦くるしむる事ことを悲かなしみ憤いきどほりて除のぞかむと神誓誓かむうけひうけひし奉まつり幾千いくちの人ひとの罪つみに足掻あがき憂瀬うきせに落おちて悩なやめるをば我罪わがつみぞと悟さとり憐あはれと思おもひ導みちびき助たすくる事ことこそ己おのが命みことぞと雄心おごころ高たかく動うごかし恵めぐみの心深こころふかく動どよまし神祝かむほぎに御祝みほぎし奉まつらくを曲事禍業まがごとまがわざは科戸しなとの風かぜの天あめの八重雲やへぐもを吹ふき払はらふ事ことの如ごとく悪祓あくはらひ祓はらひ去さらしめ給たまはむ霊輝みたまかがやき直霊栄なほびさかへて白玉しらたまの清きよき霊みたまは高筍だかむくの直直すくすくと生おひ出いでしめ給たまひ努いそしみ勇いさぶる心こころは初日影はつひかげ豊栄登とよさかのぼりに差さし登のぼりて大神おほかみの吉よし祓はらへの御蔭みかげ蒙かがふりて吉事よきことに吉事よきこと居い付つかせ給たまひて弥弥集いよよつどへる命人みことびとの霊みたまを清きよめ輝かがやかし給たまはむ

大神おほかみの高たかき御恵みめぐみ深ふかき導みちびきを頂いただき奉まつりて命みことを横よこさの道みちに迷まよひ入いらしむる事無ことなく疑うたがひ惑まどふ事無ことなく真澄ますみの鏡かがみ影かげも朗ほがらに教おしへ悟さとし給たまひ弥いや高たかき命みことに廻めぐり出いでしめ給たまひて吾われ良よく人ひと良よく今いま良よく後良のちよき成なり行ゆきに出いでしめ給たまはむ

各おのも各おのも楽たのしく面白おもしろの心持こころもちて神笑かむえらぎに笑えらぎ笑えましめ惟神かむながら神遊かむあそばしめ給たまはむ

斯かくしこそ美うまし大道おほみち畏かしこき御教みおしへの儘ままに命みことは美保貴彦命みほぎひこのみことの荒魂あらみたまの雄雄おおしく和魂にぎみたまの優やさしく幸魂さきみたまの爽さわやかに奇魂くしみたまの明あきらかに事ことに及および物ものに当あたりて誤あやまつ事無ことなく違たがふ事無ことなく漏もるる事無ことなく揺たゆたふ事無ことなく玉鉾たまほこの玉たまの真柱まはしら立たち並ならぶ命人みことびとの思おもひは大神おほかみの御心みこころ命人みことびとの為なすは大神おほかみ為なさしめ給たまふ事ことに隔へだてなく叶かなひ合あひ極きはまりて吾良われよく人良ひとよく今良いまよく後良のちよき神かみの御國みくにを今いまの現うつつに此これの命人みことびとより始はじめて現あらはれ出いでしめ給たまふぞと神祝かむほぎ祝ほぎ奉まつる事ことを嬉うれしみ尊たふとび忝かたじけなみ奉まつりて八や平手ひらで百もも平手ひらで打うち上あげ打うち亮ならし舞まひ立たち舞まひ出いで舞まひ退そき舞伏まいふしつつも拝おろがみも奉まつらくと白まをす

美保貴みほぎ大祓詞おほはらへのことば

掻かき見みる空そらの極きはみ無なく打うち見みる地つちの行合ゆきあひに生いきとし生いける物有ものありとし有ある物皆ものみなを心楽こころたのしの随ままに成なり出いでしめ給たまひ恵めぐしの御心みこころより助たすけ育おふし給たまふ神かみの御名みなを天照國照統大神あまてらすくにてらすすめおほかみと称たたへ奉まつりて言祝ことほぎ真祝まほぎに祝ほぎ奉まつらくは大神おほかみは天地あめつちを初はじめて萬よろづの物ものをも生うみ成なし給たまひけるが中なかに此この荒金あらがねの土つちに生おふる天益人等あめのますひとの清きよき明あかき心こころを珍うづの盛さかりに成なし幸さきはへしめ給たまひて世よには荒あらぶる者ものも無なく仕つかへ奉まつらむ人ひとも無なく最いとも楽たのしく尊たふとけく朝夕あしたゆふべに神祭仕かみまつりつかへしめ給たまひ日ひに異けに楽たのしく忝かたじけなき心持こころもちて各おのも各おのも命みことの随ままに勤いそしましめ給たまひて八千萬百千萬やちよろづももちよろづの末掛すえかけて守まもり給たまひ恵めぐみ給たまはむ理ことはりの隠かくろひて八重雲やへぐもの穢湧けがれわき出いでて天津罪國津罪許許太久あまつつみくにつつみここだくの罪出つみいでむを天津奇あまつくすし誓言立うけひごとたてて悪祓善祓あしはらへよしはらへに祓はらへの行仕わざつかへ奉まつり大祓おほはらえの遠祓とほはらへに祓はらひ清きよめて仕つかへ奉まつらくを畏かしこき統大神すめおほかみは天八重雲あめのやへぐもを厳いつの千別ちわきに千別ちわきて聞きこし食めさむ高山たかやまの伊褒理いぼり低山ひきやまの伊褒理いぼりを掻かき別わけて聞きこし食めさむ斯かく聞きこし食めしては天下あめのした四方よもの國くにには罪つみと言いふ罪つみは在あらじと朝あしたの御霧みぎり夕ゆふべの御霧みぎりを朝風夕風あさかぜゆふかぜの吹ふき払はらう事ことの如ごとく彼方をちかたの繁木しげきが本もとを焼鎌やきがまの利鎌とがま以もちて打うち掃はらふ事ことの如ごとく天あめの益人等ますひとらが穢けがれと言いふ穢罪けがれつみと言いふ罪つみをば祓はらひ清きよめ給たまひて畏かしこき統大神すめおほかみに纏まつろひ奉まつり神命みことを尊たふとび奉まつり互かたみに懐なつかしみ親したしみ合あひて統大神すめおほかみの神図かむはかりの随ままに御國みくには八廣殿やひろどのの千木ちぎは高天原たかまのはらに高知たかしり底津磐根そこついわねに宮柱みやばしら太敷ふとしき立たてて青雲あをぐもの棚引たなびく極きはみ塩沫しほなはの至いたり止とどまる限かぎり廣ひろごり栄さかへしめ給たまふ事ことを尊たふとび奉まつり忝かたじけなみ奉まつりて楽たのしく面白おもしろの心持こころもちて各おのも各おのもその命みこと命みことに仕つかへしめ給たまふと言祝ことほぎ真祝まほぎに称詞竟たたへごとおへ奉まつらくと白まをす


復命ふくめい祝詞のりと


綾あやに畏かしこき天照あまてらす國照くにてらす統大神すめおほかみの御前みまえに拝おろがみ奉まつり諸諸もろもろの命神みことがみ等たち世世よよの御祖みおやの命みこと教主命おしへぬしのみこと惠めぐみ蒙かがふれる人ひと等たちの御前みまえをも尊たふとび奉まつりて恐かしこみ恐かしこみも白まをさく

統大神すめおほかみの高たかく尊たふとき霊威みたまのふゆを蒙かがふり奉まつりて任まけ給たまひ寄よさし給たまひし大命おほみことの違たがふ事無ことなく怠おこたる事無ことなく仕つかへ奉まつると諸諸もろもろの荒すさび疎うとぶる禍津日まがつひの禍事まがごとに穢けがるる事無ことなく横よこさの道みちに迷まよひ入いる事無ことなく言退ことそけ行おこなひ和やはして玉鉾たまほこの直指たださす道みちを踏ふみ違たがへじと真木柱まきばしら太敷ふとしく立たてて仕つかへ奉まつりし状さまを忝かたじけなみ奉まつりつつ復命竟かへりごとまをしおへ奉まつらくを見備みそなはし給たまひ聞きこし召めし給たまひて過あやまち犯おかしけむ禍事まがごとを見直みなおし聞きき直なおして教おしへ給たまひ諭さとし給たまひ霊たまの真澄ますみの鏡かがみ弥照いやてりに照てり輝かがやかしめ給たまひて愈愈いよよ高たかき大命おほみことを寄よさし給たまひ身みは健すこやかに家内やぬち睦むつび栄さかへしめ給たまひ永遠とはに天下あめのした四方よもの國民くにたみを安やすけく在あらしめ給たまへと恐かしこみ恐かしこみも白す
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月03日 06時27分47秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いろいろ的確な情報、いつもながら感服いたします。

 十種神宝について、私もいろいろ調べていますが、関連諸説があり、正に
これが正解だと確信できるものはございませんが、中矢伸一氏の『封印された
日本建国の秘密』を読むと、物部氏の分布と銅鐸の分布が一致するということ
です。銅鐸の特に多い地方は、大和・河内地方、伊予・讃岐地方、三河・遠江
地方であります。
 物部氏伝来の「十種神宝」の十番目の「品物比礼(くさぐさのもののひれ)は、銅鐸にみえるという。従って、銅鐸は悪しき霊がもたらす種々の障りを払う
目的で使用されたものと思われるという。
 ここの部分については、私が思いますに「死者も甦る」というのだから、
「銅鐸の中に霊が宿る」の方がむしろ第一義的には正しいのではないか。
 銅鐸はサナギであるという説もあったと思いますが、サナギは死んでいるよ
うで、実は甦る魂・命を秘めている。
 銅鐸については別途考察する必要があります。

 この銅鐸文化は崇神天皇により徹底して破壊・消滅させられて行きました。

 石上神宮のお土産に、「布瑠部」という鈴があるそうですが、銅鐸も鈴の
ように音がした・・・振ることに従って徐々に大きな音が魂のように甦った
・・・。
 振袖という袖の長い着物がありますが、長いものを振ると魂が宿る、即ち
男性が近づいて来るということなしい。従って、独身女性しか着用しないと
いうことです。
 「長い物を振ると魂が宿る」という思想は、神剣「布都御魂」にも言える。元々はそちらから出たものか。また、卜伝の剣法にもつながる思想ではないか。その辺は別途考察する必要あり。

 とりあえずはここで。
[7]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月03日 09時59分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 愛知・岐阜に三輪姓が多いということは、則ち銅鐸文化圏、則ち物部氏を含
む出雲族がヤマトを中心に東西に分布していたということ。特に物部氏族については大和朝廷に対してまつろわぬ外物部として東へ向かったということもあ
り余計に多くなっているのではないかと思われます。
 銅鐸ともう一つ前方後円墳は1つの文化の象徴としての証左になりますね。

 ちょっと思いつきましたので記載しました。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月03日 13時35分31秒 ) パスワード

>銅鐸はサナギであるという説

そうすると「繭」にも繋がるのかと思います。


振袖は確かに独身女性しか着ないものですよね。
男性の注目を集めるための衣装?



三輪姓 ←→ 銅鐸 ←→ 物部氏

驚きました。



ホントに古代史は今の時代から眺めるのは難しいですね。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月04日 06時16分07秒 ) パスワード

桃太郎のお話です:


古代出雲は大変強い。

なんせ,任那の日本府も出雲の領地でした。

日本書紀で,倭宰と言われるところです。
「やまとのみこともち」と言いますけど。最近,古代南朝鮮は,出雲の領地だったという説が強くなってきています。

古代は,出雲VS九州・吉備という構図です。出雲は,東北地方まで抑えていたという説もあります。

なんせ,神武は,ニギハヤヒの家に養子に入って即位できました。
ニギハヤヒとは,出雲最後の王大国主命です。
それで,神武はニギハヤヒ家を乗っ取ろうとした。

家康なんか,霞むほど腹黒い人物です。


吉備に鬼城と言う朝鮮式山城がありますが,ここが桃太郎が鬼退治をした城と言われています。



続き:
桃太郎は,吉備津彦です。
吉備津彦は,孝霊天皇の三男と言われていますが,
鬼城にいた鬼さんを退治したと言います。

それで家来に,犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)の3人がいた,
これがお供の犬,猿,雉のモデルです。


鬼城ですけど,これ,白村江で負けた時,天智天皇が,九州から明日香までの,瀬戸内海沿いに造らせた山城と言われていますが,考古学的にはもっと古い城で,4世紀くらいの城だと言う考古学者もいます。


日本書紀には,天智天皇は,国内を防衛するために,九州から明日香まで山城を築きましたとさ。
としか書いてありませんので,
どこに城を作ったかは,日本書紀に記述は全くありません。



犬養健ですけど,2.26で暗殺された犬養毅首相は,犬養健の子孫だと言っていたそうです。


鬼は,多分,唐の時代,色目人と言われたペルシャ人だと思います。
唐の都長安には,色目人と言われるペルシャ人の居住区があり,
唐の金持ちは,赤ワインを飲み,ペルシャ人女を抱くのがステータスシンボルでした。

ですので,日本に漂流してきてもおかしくありませんし,赤ワインを飲んで真っ赤な顔になっていてもおかしくありません。

日本には,既に奈良時代にブドウは,中国から伝わってきたようで,甲斐からブドウが租税として納められたと言う記述もあります。


そして,甲斐ではワインも造られていたようです。


このワインですが,現在のヨーロッパの醸造技術と違い,中国の醸造技術で作られていました。
この中国の醸造技術は,今では中国にも伝わっていませんが,武田信玄も日本酒でなくワインを主に飲んでいたと言う説もあります。


奈良時代,甲斐からワインも献上されていたようです。


それと,桃は洋の東西とも不老不死の果物でした。
信長が家康に,季節外れの時期に大きな桃9個送ったのは,俺にはこのようなことができる財力があると言う示威行為でした。


特に,ローマ時代,桃は最高級の果物で,皇帝や貴族以外食えませんでした。

桃太郎が,桃から生まれたのも,不老不死の象徴だと思います。



それと,吉備団子ですけど,どうも元禄年間に出来たようです。
それまでは,「とう団子」と言っていたようです。
吉備団子は,江戸時代名物だったようで,川柳にも読まれているそうです。

ただ,吉備団子と「とう団子」は別物のようです。

以上
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月04日 09時01分34秒 ) パスワード

続き:



鬼は白人ではないと思います。
白人が海外に出るのは,大航海時代ですから,
ペルシア人だと思っています。


ただ,飛鳥から奈良時代は,日本でも鬼は,幽霊や外国人も入っていました。

鬼は,見たことがない人という意味です。

斉明天皇の葬儀を,鬼が見ていたと言う記録が日本書紀にありますけど,
この鬼は,唐人か百済人で,大海人に政権をとらすための特殊部隊という説があります。

天智天皇は,百済べったり,反唐ですから。
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月04日 11時53分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 いい情報ありがとうございます。興味深いエッセンスが凝縮されていて、
これだけでもそうとうなテーマの量となり得ます。
 昔話は寓話として何かの事実を含んでいるので、それぞれ探求するに価し
ますね。
 それにしても、鬼、鬼城、ブドウ、桃、犬・猿・雉、犬養毅、吉備団子、
それぞれに裏話・裏の事実があるということ、またそれをうまく物語として
作った人達がいるということ、人間の知的レベルは高かった。それがどこま
での時代まで遡れるのか・・・縄文時代もそれなりに高かったようですし、
ひょっとして1〜2万年前も高かったのではないか。むしろ何十万年も前から、人間の知能は高かった。つまり頭蓋骨格・脳容量はすでに出来上がって
いた、IQは高かったのではないかと思いますが、最新の考古学を研究する
必要があります。
 考古学はかなり進んでいるようです。特に古墳についても。そちらの最新
知識が不足していますので、これから勉強したいと思います。

 さて、例の「布留部、由良由良止布留部」には本当のところその解釈に未
だ私は納得し切れないものがあります。
 説としては次の2説になります。
 1.神剣説・・・神剣を振る。由良由良は刀が空を切る音。長い物を振る
         と霊が宿る。
 2.銅鐸説・・・十種神宝の十番目が銅鐸。銅鐸は鐘。振ると音が出る。
         銅鐸はサナギ。霊が宿る。霊力により清める。
 昨日読んだ本、大山元著『古代日本と縄文語の謎に迫る』の中に、「部」
・「伴」は「とも」と読まれ、刀のことを指すと書いてありましたので、
「布留部」は「布留」の「刀」を意味するということになる。「布留」とは
石上神宮の鎮座地。またニギハヤヒの幼少時の名前を「フル」といったとい
うことからして、石上神宮の神宝「布都御魂横刀」、則ちニギハヤヒの刀と
いうことになる。

 さて、「由良由良止」であるが、現代語では揺れる様を「ユラユラと」と
いうが、古代語ではまだそこまでの使い方はなかったと思われる。古語辞典
を引くと、「ゆら」は「鈴が音を立てる様」の意味と書いてあるので、鈴を
鳴らすということになる。

 そうすると矛盾が起きる。「神剣」と「鈴=銅鐸」が共存してしまうこと
になる・・・共存→長い刀に鈴が付く・・・つまり剣と鈴が一緒であると
いうこと・・・。すると、ルーツは天岩屋戸開きの時に遡る。つまり、天宇
受売命が「神代鈴を付けたちまきの矛」を持って踊ったということにルーツ
が・・・?。ここらにかかかわってくるような気配がいたします。
 鈴矛というものがあります。それは古代刀のような矛の根本に鈴が付いた
物であります。それも1つの証左になります。

 物部氏については、見えそうで見えないというところがあります。
 物部氏と剣は切っても切り離せない。そして、古代(紀元前)では、隕石の
隕鉄で刀を作っていた。石上神宮の布都御魂横刀がそうらしい。そして、
ニギハヤヒのハヤヒは隕石の早さにちなんだものらしい。そうすると、その
後裔の物部氏は星にからんでくるということになる。
 ところで、物部氏という姓は総称であるという。しかるに、その実態を担
った人達は何と呼ばれていたのだろうか、そこが最大のポイントになる。
 姓氏の変遷の歴史(訓から意訳、音訳、命名、縁戚)をとらえなければなら
ない。


[12]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月04日 12時16分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 レスがスレ違いました。天武天皇もある意味で最大の歴史のキーマンで
ありますね。海人族の系統・・・。これはこれで大変なテーマとなります。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月04日 12時58分36秒 ) パスワード

>天岩屋戸開きの時に遡る

そこまで遡りますか。




http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Amaterasu_cave_edit2.jpg

それで検索してみましたが
「刀と鈴」を持ってますよね?
違うかしら?



こちらの方が良いかしら?
http://www7b.biglobe.ne.jp/~nanbu_kagura/nanbu/enmoku/iwato.html

鈴と刀。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月04日 13時04分54秒 ) パスワード

神社と鈴は切っても切れない関係ですよね?
あれは  神さまに  「ごめんください」  と声を掛けるようなもので
今で言えば  チャイム  でしょうか?

「お休みのところ失礼しますが、起きてください」とか。



神社の神様を拝む所に鈴がぶら下がってますよね。

あれは  銅鐸の簡易型  または 簡素化 なのかなと思いました。

本来は銅鐸を下げたかったのかなと。
[15]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月05日 05時39分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 銅鐸については、『真説日本古代史 特別編の三』に詳しく解説されていま
す。

  http://www2.plala.or.jp/cygnus/s3.html

 しかしながら、使用目的については別の説もありますので、それは別途考察
したいと思います。

 一旦、ここで切ります。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月05日 06時33分38秒 ) パスワード

読んできました。


>銅鐸は、征服した氏族の抹殺された文化遺産

へえ〜


だから何のために使われたのか分からないのですか。
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月05日 10時36分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 古代史を探求するにあたって、一番ファンダメンタルな歴史事実の構成要素
は、次のとおりではないかと最近思っています。極論でいってしまえば、「こ
とばの定義」であるともいえます。この言葉には話し言葉、書き言葉、姓氏・
名前も含みます。
 歴史を語る時、その一言一言の意味(定義された意味)が間違っていたら、結果はぜんぜん違った方向へ行ってしまうでしょう。ちょうど犯人の「似顔絵」
を描くのと一緒です。輪郭やそれぞれの顔の構成要素の特徴の把握がが間違っていたら、全然赤の他人になってしまうでしょう。
 そういう意味で、「言葉の定義」という事が大事になって来ます。
  
 では、その言葉の定義とは一体何なのでしょうか?
 それは、
   1.「日本語」の成立と構成
   2.「姓氏」の成立と構成
です。分かりやすくいえば、昔の人はどんな言葉をしゃべり、どんな文字を
書き、またどんな名前で呼ばれていたのかということです。

 この2つの把握なくして歴史を語るのは、コンパスなしで大海を航海する
のと一緒ではないでしょうか。歴史という大海の上で、「だいたい」とか
「たぶん」で目的地に着くというのは、なかなか難しいのではないでしょう
か。

 ということで、この2点について簡単ですがこれからまとめてみます。
 テキストは、1については、大山元著『古代日本史と縄文語の謎に迫る』、
2については、武光誠著『名字と日本人』を主にいたしたいと思います。

 ま、ここでちょっと一休みいたします。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月05日 12時55分18秒 ) パスワード

よろしくお願い致します。


   縄文語?
   考えたことも無かったです。


古代アイヌ語は結構何かの時に出て来ますね。


縄文語は古代アイヌ語か、その前の時代の言葉でしょうか?
結構今でも使ってたりするのかもですね。

   地名には多いでしょうね。
   このあたりしか分かりません。
[19]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月05日 14時12分53秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 それでは続きを─
 概略をまとめます。 

1.日本語の成立と構成
  日本語って一体何をいうのといった場合、まずは文部科学省の定める
現代の「標準語」を指すことになりましょう。この標準語でさえ、ちょっと
戦前に遡れば、現代とは表記方法も少し違って来る。方言もある。ましてや、2000年〜3000年前に遡れば、想像ができない程混沌とした状況であ
ったことはほぼ間違いないでしょう。

 大山元氏は、縄文時代の混沌とした言語を大まとめにして「縄文語」とい
とし、そこから時代ともに変遷して「弥生語」、そしてやがて「日本語」、
弥生語から派生して「琉球語」、縄文語の本筋がだいぶ残された形で「アイ
ヌ語」の発生としている。もちろん、この中に「渡来系言語」がいくつも
吸収されて行くわけであるが、氏はむ具体的には言及はしていない。ただ
こう言っている。
 「縄文語自体、どのような要素で成り立った言語なのか、あまりに昔の
ことで議論できる言語資料がない。また、1万年の長きにわたって他の外来
言語の影響がなかったはずもない。やむを得ず縄文末期に日本列島で用いら
れていたであろう単一の言語として考えたに過ぎない。1万2000年前の
縄文語の成立にも、その後も、何回もの波が北からあるいは南から来ていた
のであろう。」

 不思議なことに、「古事記」や「万葉集」をシュメール語で解読した、ヘ
ブライ語(アラム語)で解読した、アイヌ語で解読した、ポリネシア語で解読
した、古代朝鮮語で解読したというような話を聞きます。
 縄文時代の言葉は、コミュニケーションの必要性から、色々な言葉がコス
モポリタン的な言語として、跡形を残しながら1つに融合・変形・進化して
行ったのでしょうか? それだけの多言語を吸収して来ているということに
はなります。
 もっとも、現代日本語を同じように解読しようとしても、それはなかなか
難しいものだとは思いますが。

 書き文字として日本の書物に登場するのは、「万葉集」や「古事記」それ
に「日本書紀」といわれていますが、本当のところ、焚書されてしまってい
るものが多いようです。残っても信憑性のない古文書として、また神代文字
として扱われているのみ。

 万葉仮名というものがあります。
 大山元氏は言います─
 「古来日本には独自の文字が無かったので、やまとことばを書き表すため
に、本来は表意文字である漢字を、現在のひらがなやカタカナと同じ1字1
音の表音文字(万葉仮名)として使ってきた。」

 その実際の運用の形として、次の3つがあるという。
 1.やまとことばに漢字の音のみを当てはめたもの(この場合、漢字のも
   つ意味は無視) 例)河川(かせん)
 2.やまとことばにその意味と同じ意味の漢字をあてはめたもの(この場    合、漢字の音は無視) 例)河(かわ)
 3.1と2をミックスした形。いわゆる「ゆとう(湯桶)」読み、及び
  「じゅうばこ(重箱)」読み。またそれらの複雑な組合せ。

 はたして、縄文語や弥生語はどんな言葉だったのでしょうか。聞いてみた
いですね。いまの方言と同じような感じだったかもしれませんね。現代でも
方言によってはぜんぜんわからない。沖縄語は琉球語から来ていると思われ
ますのでよけいわからないのかも知れません。

 ここで一旦切ります。  
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月05日 21時30分07秒 ) パスワード

ありがとうございます。


壮大過ぎて・・・



弥生語から派生して「琉球語」に  というのがことに新鮮でした。



東南アジアからもしっかり言葉が入ってたのでしょうね。

  古代に巫女が入れられていた木をくり抜いた棺桶がベトナムのハノイあたりでも使われていたそうで
  これには驚きましたが
  その前には、タレントの安めぐみさんの母の母の母の・・・大昔の母の遺伝子型はやはりベトナムあたりの出身者で

      わたくしはD型で、99.9%+が典型的な東アジア人ですが
      それこそ1万2000年間は。

我々の先祖の中には西アジアや東南アジアあたりの先祖もいたし、北方からの先祖もいたし、太平洋の人々もいたし

      白人はわたくしには全く入ってませんが


言葉ともなると、もっと複雑に日本語の中に入って、現在でもそうとは知らずに使っているんでしょうね。



沖縄の言葉には古い日本語が残っていると聞くので鎮西為朝が琉球に行ったという話にロマンを感じていましたが
いえいえ
       為朝なんてツイ最近よ
でしたか。



昔の人がいくつで子供を生んでいたのか分かりませんが平均12歳で生むとして
わたくしの1000代前の、母の母のそのまた母の先祖の1万2000年前の母は、確かに縄文語を話していたのか。


わたくしの遺伝子上の先祖達が「言葉」を話している賑やかな姿が突然見えて来ました。笑

   音声付きの先祖の姿は考えたことも無かったです。トーキー時代に突入です。笑


自分の縄文時代の先祖がかなり身近になりました。
新たな覚醒です。


心楽しい情報をありがとうございました。ぺこり
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月05日 22時50分18秒 ) パスワード

友人から:


日本語で清々しいという言葉ありますけど,
これ,蘇我蘇我しいが語源と言われています。


出雲に蘇我の神社ありますけど,ここに参拝した気持ちが蘇我蘇我しいです。


それがなまって,スガスガシイになり,漢字が入ってきて,清々しいと言う漢字を当てたそうです。


物部と蘇我は親戚です。

日本書紀では,推古が蘇我馬子に,天皇家と蘇我氏は同族だから,葛城をやらないといったと書いてあります。
推古は,6世紀頃の天皇ですから,天皇家,物部,蘇我は同族だったと思います。
特に,石上麻呂という人物がいます。
物部の本流の末裔で,持統に可愛がられ,左大臣という最高位にまで上り詰めていますが,結局,物部の復活を願い出ますが,生涯認められませんでした。


これは,蘇我も同じです。


つまり,出雲は物部,蘇我の王国だった可能性が濃厚です。
それで,九州がそれを乗っ取ったと思います。
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月06日 04時55分27秒 ) パスワード

友人の話:


銅鐸が消えたのは,出雲のものだったからです。
出雲は,九州に占領されました。

天武天皇が,出雲最後の天皇と言われています。    ← そうなの?
壬申の乱は,出雲と九州の決戦です。         ← そうなの?



銅鐸は,楽器です。
鐘のように使ったと言われています。
2m位の銅鐸もあります。

吊るして,ガンと鳴らす。

銅鐸は,出雲滅亡とともに消えました。
それで,今はないですけど。


強いて言ったら,お寺の釣鐘です。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月06日 07時06分42秒 ) パスワード

服織神社

羽鳥本田、向かい組の鎮守、延喜式内社として歴史がある神社である。
織物をつかさどる神・天穂日命と機織りの機械の神・建御名方命が祭ってある。

また当時のこの辺りには織物に関係した職人が集団で住んでいたという言い伝えが残っている。


境内の招魂社は、明治11年に建立されたもので、傍らの社碑には漢学者近藤準平の、三烈士の功をたたえる格調の高い詩文と、松島十湖の「在りし世の事や思ふて魂祭り」の句、また一面には戦死された鈴木石龍の遺詩が刻まれている。

服織神社(はたおりじんじゃ)
静岡県浜松市東区豊町2501


天穂日命、建御名方命



2
はたおり神社

服織神社は、はたおり神社といい、式内社である。
式内社とは延喜式(延長五年、927年)の神名帳に載せられている選ばれた神社のこと。
近隣には数少ない格式の高いお宮である。



いろいろ見てるのですが
やっぱり服織神社関係者でしょうか?




神服神社





移動: 案内、 検索



神服神社

Kamihatori01.jpg

所在地
大阪府高槻市宮之川原元町2-25

位置
北緯34度51分59.8秒
東経135度36分0.6秒

主祭神
樋之速日命・麻羅宿爾・素盞鳴尊

社格等
式内社 小社

例祭
5月5日
テンプレートを表示

神服神社(かむはとりじんじゃ)は、大阪府高槻市宮之川原元町に鎮座する神社。現在は、”しんぷくじんじゃ”と呼ばれている。延喜式神名帳にある摂津国島上郡三座の一つで小社。



目次 [非表示]
1 祭神
2 歴史
3 境内社
4 交通アクセス
5 関連項目
6 出典
7 外部リンク


祭神[編集]
樋之速日命・麻羅宿爾・素盞鳴尊

歴史[編集]






本殿
神社の北西、塚脇にある古墳群の「服部連塚」と「御女塚」が服部連の夫婦墓とされ、この地の服部連が祖神を祀って服部神社と称していたが、延喜年間(901年〜923年)に神服神社と改めた。 維新まで安岡寺の僧侶が社務をとっていた。、
明治5年(1872年)郷社に列す。
明治40年(1907年)11月に宮之原河原の春日神社・稲荷神社を境内に移す。
明治41年(1908年)、塚脇の上宮神社、浦堂の若宮神社、大蔵司の神明神社を合祀。[1]。
平成25年(2013年)改修工事完了(施工:[1]成喜建設株式会社)

境内社[編集]
春日神社 天児屋根命
稲荷神社 宇賀御魂神
上宮神社 服部大連公
若宮神社 天児屋根命
神明神社 天照大神・豊受大神

交通アクセス[編集]
JR京都線高槻駅高槻市営バス原大橋行き服部下車徒歩3分

関連項目[編集]
阿久刀神社 両社は早くから神輿渡御を交すなど深い交流をもっていた。
安岡寺 (高槻市) 神服神社の元神宮寺。

出典[編集]
1.^ 吉井良隆 「式内社調査報告 第5巻」 (1977)全国書誌番号:78005760

外部リンク[編集]

http://www7b.biglobe.ne.jp/~kamuhatori/index.htm

これは何?
三つ柏紋?


[24]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月06日 07時17分10秒 ) パスワード

上記紹介の神社名の案内の画像の件ですが どこに行ったか失念しましたが
我が家使用の正式  服   の字はその画像にある  「又」 ではない 「く」 です。
これは服の字の俗字と思いますが  我が家の戸籍では 俗字が正しいんだそうです。

    明治の先祖が無教養だっただけ?




http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daionokuni/1327734974981.html


神服神社と服部


服部村にあり。『延喜式』に出づ。此所の生土神(うぢがみ)とす。
例祭四月八日。『姓氏録』に云ふ服部連は速日命十二世麻羅宿禰の後なり。
允恭帝の御時織部司に任じ、諸国織部を惣領す。

『摂津名所図会』より

神服神社


神服(しんぷく)神社は、摂津峡につらなる帯仕山(おびしやま)のすそ野にある服部盆地の最奥に鎮座しています。

この帯仕山の山すそから山頂にかけての塚脇地区一帯には、約50基もの古墳が群集する塚脇古墳群(古墳時代)が、また、神社の南側には、大蔵司遺跡(弥生時代〜鎌倉時代)がひろがり、このあたり一帯は古くから人々が生活を営んできた地域でもありました。また、江戸時代には、神社の近くを通る道は神峯山寺へと参るために利用されており、神服神社へ立ち寄る人も多かったのではないでしょうか。

神服神社は、927年に編纂された『延喜式』に記載されている律令時代の神社で、ヒノハヤヒノミコト、マラノスクネ、スサノオノミコトが祀られています。この地は、奈良時代、摂津国島上郡服部郷にあたり、服部連(はっとりのむらじ)の本拠地であったとされています。

第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代(5世紀前半)に、機織りの織部が各地に多数設置されることとなり、朝廷は管理者をおきました。管理者はやがて「服部(はとりべ)」と呼ばれ、諸国の織部の総領として「服部連」の姓を賜りました。この神服神社のある地域一帯を服部というのは、織部がこの地に設置されたことによります。

さて神社の名前ですが、服部連は祖先を勧請し、「服部神」と称していましたが、延喜年間に「神服神社」と改称しました。明治時代には、宮之川原の春日神社や稲荷神社、塚脇の上宮神社、浦堂の若宮神社、大蔵司の神明神社を合祀し、現在に至っています。塚脇の上宮神社は、かつて連塚(むらじづか)とよばれる古墳の上にあって、祭神が服部連となっていることから、この塚は同連の墳墓であろうという伝承として息づいています。

神服神社の例祭の神輿渡御式は、「服部棒振祭」とも「チョーハ祭」とも呼ばれ、昭和初期まで盛大に執り行われてきました。神輿は、笠森神社、阿久刀神社を巡り、総勢100名をこえる行列は周囲を圧倒するものがあったといいます。今は、神輿渡御は行われていませんが、伝えられている神事のみが、5月5日に行われているといいます。

お問い合わせ先高槻市 教育委員会 教育管理部 文化財課 
電話番号:072-674-7652
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月06日 07時25分46秒 ) パスワード

http://kamnavi.jp/en/settu/hattori.htm


豊中の服部天神宮のサイトですが
文字化けして読めないです。


これを見てクリックしたんですが・・・

少彦名命、菅原道眞 摂社 部えびす神社、初酉稲荷神社. 由緒 機織りの技術を伝えたと云う秦氏の子孫が多く当地に住んだと云う。
地名の服部は機織部から成り立っ ...



豊中系の服部さんは  秦氏系?

高槻系とは異なる?






[26]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月06日 07時40分35秒 ) パスワード

奈良の服部神社:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/nara-hatori.html


服 部 神 社


村屋坐弥富都比売神社境内摂社
奈良県磯城郡田原本町蔵堂
祭神−−天御中主神 天御鉾神
                                                              2014.03.27参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城下郡 服部神社二座 鍬靱』とある式内社だが、今は村屋坐弥富都比売神社の摂社として、境内の左奥(本殿域西側)に鎮座する。
 服部は“ハトリ”と読むことが多いが、  ←  ええっ?そうなの?知らなかった
 当社では“ハットリ”と呼んでいる。


※由緒
 社頭に掲げる案内には、
  「服飾関係を司る神である。

 これより西2kmばかりの所に、大安寺村字神来森(カキノモリ)という土地がある。

  そこに鎮座して波登里村(ハトリ)・阿刀村(アト)の氏神であった。

                    ↑

                   阿刀?
 


 祭礼には、氏子が盆に綿を盛り、その上に十二祷を乗せてお参りした風習があった。今は、綿の栽培がなくなったので、此の風習はなくなった。

 元弘年間(1331--34・南北朝)の兵火に遭い社地を没収される。更に天正年間(1573--92・織田信長)にも兵火に罹り、神主が御神体を背負い本社(式内・村屋坐弥富都比売神社)境内に遷したと言われている。

 この頃、波登里・阿刀村も消滅して、神社の経営成り立たず、そのまま本社境内末摂社となる。
  と同時に、壬申の乱の神功を称えるお渡りも中断するに至り、未だ復興することができない。 

   文・村屋坐弥富都比売神社 守屋広尚 宮司」

                 ↑
                守屋姓?

とある。




 当社に関する資料として
 ・大和志(1734・江戸中期)に
  「大安寺村に在り、波都里神と称す」
とあり、これによれば、江戸中期には大安寺村にあったととれるが、

 ・大和志料(1914・大正初年)には
  「延喜神名帳に服部神社二座と、志に在大安寺村今称波都里神と見ゆ。
 村屋神主家記には、本と大安寺村にありしを天正中社殿兵火に罹り、後に村屋坐社(村屋坐弥富都比売神社)の境内に遷し祭る。今川東村大安寺に“ハトリカミ”と称する田地あり、是其の旧趾なりと云ふ。之に拠れば志に謂ふ処は旧趾を指せるものに似たり。

 祭神詳ならず。姓氏録大和神別に服部連は天之御中主神十一世孫天御鉾命之後也とあれば、古へ此地に服部氏の住するありて、其の祖神を祭れるにあらずや」

とあり、大和志の在大安寺村とは旧鎮座地の地名を指すという(磯城郡誌にも略同文あり)。


 なお、大和志料がいうハトリカミとは、現田原本町大安寺にある森市神社の北にある小字・ハツリカミ(波都里神)の地を指し、そこに服部神社があったと考えられるという(式内社調査報告・1982)。

 また、神社明細帳(1879)には、
  「当社は天之御鉾命。旧事記に建田背命(タケダセノミコト)神服連(カムハトリノムラジ)祖と云ふ、姓氏録に大和国神別服部連天之御中主命の十一世孫天之御鉾の後也と云ふ。

 崇神天皇の7年之創立にして、既に式下郡村屋郷大安寺に服部神社二座、其の神地に本宮の御旅御幸の時の御休所なり。

 天正の度国乱のために社頭衰微し、
                     もりや  と 物部  すっごお〜い!
                      ↓
  故に天正癸酉元年(1573)正月十三日神主森屋斎宮太夫物部通明誠敬し、
  謹んで服部神社を背に負い奉り、本社(式内・村屋坐弥富都比売神社)に社殿を設け遷社す。故に、旧神地字波都里神と云ふ。


 天正2年(1574)8月15日、神殿一社相殿に齋鎮せり。宝永2年(1705)・寛政9年(1797)に改装せり。然るに元亀・天正の度兵火ありて大安寺・阿刀の民家亡ぶと云時に当社の旧記失なへり。


 古史伝に平篤胤大人(平田篤胤・1776--1843)云へり、
 服部神社は式下郡大安寺村にありと、其地今字波都里神(ハツリカミ)と称す是なりと云ふ。

  今、本社村屋坐弥富都比売神社社地瑞籬(ミズガキ)の西側の神社是ぞ服部神社なり・・・」
とあり、当社の沿革をやや詳しく記している。

 ここで、当社創建を崇神7年としているが、これは崇神紀7年条にある、
  「(大物主神と大国魂神を祀ったとき)別に八百万の群神を祀った。よって天つ社・国つ社・神地・神戸を定めた」
との記述によるものだが、これは我が国における神マツリの始まりを崇神朝に求める書紀の方針に基づくもので、史実とは受け取れない。
 また、古墳前期(4世記)とされる崇神朝での神マツリは、その都度神籬(ヒモロギ)を設けてのものであって、恒常的な祭祀施設としての神社はなかったと思われる(弥生時代の遺跡から神殿らしき建物跡が何カ所か出土しているが、当地にそれらしき遺構はない)。

 なお、当社の創建が延喜式神名帳(927)編纂以前であるのは確かだが、当社に対する神階・封戸など綬叙記録はみえず、当社の創建時期が何時頃まで遡及できるかは不明。


※祭神
 今、当社の祭神は天御中主神(アメノミナカヌシ)・天御鉾命(アメノミホコ)となっているが、
 ・磯城郡誌(1915・大正初年)−−式内服部神社に天御鉾命・誉田別命(ホムタワケ・応神天皇)を祭る 
 ・大和名所旧跡案内(刊行年不明)−−村社服部神社二座鍬靱 祭神天御拝(鉾の誤字)命・誉田別命
 ・式内社調査報告(1982)−−神社明細帳(1879・明治12)に『祭神・天之御中主命・天之御鉾命』とありしを、明治19年(1886)8月27日祭神の誤りを大阪府庁へ更正願許可されている
とあり、一座を誉田別命という。
 ただ、上記由緒等からみて、当社に誉田別命を祀る由縁はなく、また、当社を八幡宮と呼んだとの資料もなく、誉田別命とする根拠は不明。

 天御鉾命とは記紀等には見えない神だが、神宮雑例集(13世記初頭頃、上古から鎌倉初頭までの伊勢神宮に関する雑記録集)に、
  「天照大神が高天原に坐せし時、神部(カムハトリベ)等の遠祖・天御鉾命を以て司とし、八千々姫を織女と為して織物を奉る」(漢文意訳)
とあるように、機織・織物を司る神とされ(足利市にある神部神社では、天御鉾命・八千々姫を七夕伝説の牽牛・織女に充てている)、
 また、新撰姓氏録(815)に
  「大和国神別(天神) 服部連(ハトリノムラジ) 天御中主命十一世孫天御鉾命之後也」
とあることから、当社は、大安寺村の辺りに住んでいた服部氏が、その祖神・天御鉾命を祀ったのではないかという(式内社調査報告)。

 また、姓氏録に
  「摂津国神別(天神) 服部連  熯之速日命(ヒノハヤヒ)十二世孫麻羅宿祢(マラスクネ)之後也
                       允恭天皇の御世、織部司に任じられて諸国織部を統領し、服部連と号す」
とあるように、
                             尾張氏?
                              ↓
    出自は異なるものの同じ服部連を名乗り(熿之速日命は尾張氏系の祖神−先代旧事本紀)、
    諸国の織部を統括した氏族があることから、
    当地の服部連も同じく織物に関係した氏族と思われる。



 天御中主神が当社に祀られるのは天御鉾命の遠祖ということからだろうが、この神は、古事記冒頭の天地開闢に際して、混沌のなかから最初に成り出た造化三神の中心神だが、成り出るとともに身を隠した神でその事績は記されていない。

 これが中世になっての記紀神話の再解釈のなかで、
この神を天地創造の主宰神とする思想が生まれ、
神仏習合の進展とあいまって、                 
                             星が出てきました
                              ↓
北極星を宇宙の中心神とする星辰信仰(妙見信仰)と習合して“妙見さん”として信仰され、
明治の神仏分離により神道系妙見信仰の主祭神へと展開している(仏教系では北辰妙見菩薩という)。


 妙見信仰の根源が星辰信仰・北極星信仰であり、それが七夕信仰・棚機姫(タナバタツメ)信仰へと変遷していったことから、当社の天御中主神は、天御鉾命の遠祖であると共に、機織りの神としても祀られたともいえる。


※社殿

 式内・村屋坐弥富都比売神社の境内左奥(本殿域の左隣)簡単な門をもつ板塀の奥に鎮座する。

 門の左に
 「延喜式内社 蔵堂 服部神社 
     祭神・天之御中主神 天之御鉾神」
と刻した石標が立つ。

 案内に、「社殿 切妻造・妻入り・庇付きカラー鉄板葺」とあるが、春日造の変形ともとれる。



[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月06日 07時59分26秒 ) パスワード

しつこくおさらいです:


服部(服織)氏


古代職業部の機織り部門を担った機織部の服部(hatoribe)に由来する姓氏。

「ハタオリ」「ハトリベ」から「ハトリ」そして「ハットリ」と呼ぶようになった。

衣食住の「衣服」に関係する職能部族には「綾部」「錦織部」や「衣縫部」「赤染部」などがあり、
それぞれ姓氏として名残をとどめているが、
その中でも服部氏が一番多い。

その居住地が服部の地名になった。



 服部は、文明が高く人口の多い畿内から、全国の主要地に配置されていった。

それらを中央で統轄する伴造が服部連であった。    ← なるほど

この系統の有力な服部氏は、山城・大和・摂津・河内・伊賀・伊勢・三河・武蔵など、当時の文化地域に進出していった。


 代表家紋は「矢車」と「矢筈」。


■各地の服部氏の由来

■大和の服部
和名抄 当国山辺郡に服部郷を収め、波止利と註し、東大寺要録に服部の荘を載せたり。又、延喜式 城上郡に服部神社あり、皆 この部の在りし地なり。又、後世 高市郡の医師に服部時寿(子篤)あり、宗賢と号す。高取藩に仕う。名医なり。


■摂津の服部
和名抄 当国 島上郡に服部郷を収む。又、延喜式に服部神社、荘園目録に服部御領を載せたり。

又、服部城あり、松永久秀築く。  ←   初耳です 

当国には、服部連(諸国の織部を総領す)住す。又、後世、大阪 神戸などに服部氏多し。




■山城の服部
当国にもこの部民多かりしならん。

又、後世 伊賀服部氏の後の服部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃別当、伊賀国呉服明神の神職、後に山城国宇治田原に住す、後 家康に属す)−貞富、家紋 車輪竪二本矢、七本矢、矢の字桔梗」と。


又、京都の人に服部元喬あり、もと伊賀の服部より出づと云う。荻生徂徠門の俊才にして、南郭と号し、服 南郭と称す。宝暦卒。その長男 惟良は夭折し、次男 惟恭、詩名ありしも、また早世す。よりて門人 西村元雄を季女に配して家を継がしむ。又、国学者服部中庸は、元居門にして、水月と号す。

又、服部敏夏あり、これも本居門にして、通称を中川屋五郎右衛門と称せり。

又、剣客に服部藤次兵衛あり、神後伊豆守の門(新陰流)、皆 京都の人なり。



■遠江の服部              ←  3つ柏さんのご先祖?

延喜式、当国 長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり、共に古代服部の奉齋せし、神社なるべし。

而して、長上郡に服部氏の名族あり。    ←  3つ柏さんのお家?





■駿河の服部
当国安倍郡に服職庄あり。而して、後世 服部氏多く、又、府中浅間社家に服部氏見ゆ。



■武蔵の服部
和名抄 当国都筑郡に高幡郷、幡屋郷、また、男衾郡に幡々郷、また、久良郡に服田郷を収む。服部の部民の多かりしを知る。

後世、久良岐郡の名族にこの氏あり。新編風土記に「服部氏(弘明寺村)。先祖を玄庵道甫と云う。村内 寶林寺の開基なり。相伝う、元は伊賀国名張の城主なりしと云えど、正しき伝えはなし。後、故ありて跡をくらまし、当所に来て隠棲し遂に農民となれり。されど系図は無し、先祖より持ち伝えし物とて、甲冑二領、刀、短刀五振、文書四通を蔵せり」と。又、足立郡服部氏は、二本矢を家紋とす。



■両総の服部
和名抄、下総国埴生郡に酢取郷を収む。後世、羽鳥村の残るを見れば、羽鳥の誤りにて、この部のありし地ならん。後世、豊田郡下石毛村の人 服部謙蔵・波山は、書家として名あり。



■常陸の服部
真壁郡に羽鳥郷あり、この地より起りしもあらん。



■近江の服部
和名抄、野洲郡に服部郷を収め、八土利と註し、高山寺本には、波止利と訓ず。後に服部村あり。この地名を名乗りしもあらん。



■美濃の服部
和名抄、当国安八郡に服織郷あり。



■奥州の服部
磐城国標葉郡、岩代国会津郡などに羽鳥の地名あり。この部民のありし地か。この地名を名乗りしもあらん。田村家臣に服部氏あり。又、新編会津風土記に「耶麻郡猪苗代 進功霊社。社司服部安休尚由の社なり。安休は初め春庵とて、林道春の弟子にて、後、保科正之に仕え、侍臣となる。天和五年没す」と。



■越前加賀の服部
天平神護二年の越前国司解に「余戸郷戸主 服部子虫、鹿蒜郷戸主 服部否持」など見え、又、和名抄、今立郡に服部郷を収め、波止利と註す。又、神名式に「江沼郡服部神社」見ゆ。

               へえ〜


■因幡の服部
和名抄、法美郡に服部郷を収め波止利と註す。又、神名式、法美郡に服部神社を載せたり。後世、服部庄起こる。この地より起りしもあらん。



■伊賀の服部氏
当国阿拝郡に服部郷あり。延喜式、阿拝郡に小宮神社あり。伊賀考に「小宮は、服部氏の惣社にして、伊賀国二之宮」と云い、三国地誌に「昔は服部の輩、阿拝郡を領地せる故に、服部の社もありと、永閑記に見ゆ。土俗なべて服部氏を秦人の裔となすは、非なり」と。

この氏族滋蔓して、伊賀一洲に散在す。平内左衛門尉家長が源平盛衰記に現われ、その名最も高ければ、この族を桓武平氏となすもの多し。

又、東鑑 文治二年六月二十八日條に「左馬頭能保の飛脚参着す。去る十六日、平・仗 時定(平家物語には、服部六郎時定)、大和国宇陀郡に於いて、伊豆右衛門尉源有綱(義経の婿)と合戦す。而して有綱、敗北し、右金吾相具し、深山に入りて自殺し、郎従三人傷死し了んぬ。残党五人を搦めとり、右金吾の首を相具し、同二十日、京都に伝う云々。これ伊豆守仲綱の男なり」と。

又、円覚律師、これは服部広元の子にして、京都 法金剛院、及び清涼寺の僧侶たりしが、慶長元年卒すと。



■三河の服部氏
服部系譜に「将軍義晴 臣 服部半三保長(石見守・三河に来たり松平清康に仕う)−石見守正成(半三・遠江国八千石)−石見守正就、弟 伊豆守政重(半蔵・三千石・後 松平定綱家臣)」と。

編年集成に「服部半蔵正成、伊賀組 二百人にて、谷村城を守る」と。寛政系譜に「家紋、八桁車の内竪矢筈二、十六桁矢筈車、十六葉菊、むかい蝶矢車」と。



■伊勢の服部氏
和名抄 奄芸郡に服部郷あり、八止利と註す。この地より起りしもあらん。
永禄中、服部友定あり、長島砦を修し、ここによりて、北畠氏に属す。
      ↑
     反信長ですね
     
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月06日 08時08分17秒 ) パスワード

25のレスの書き直しです。



 服部天神宮
大阪府豊中市服部元町1


      秦氏系?
      秦氏の陰謀が垣間見える?


交通

阪急 服部駅東500m


祭神
少彦名命、菅原道眞
摂社
部えびす神社、初酉稲荷神社


由緒
 機織りの技術を伝えたと云う秦氏の子孫が多く当地に住んだと云う。
 地名の服部は機織部から成り立っていたからとされる。

 『新選姓氏録:摂津国神別』に服部連は之速日命十二世孫麻羅宿禰之後也。允教恭天皇御世。任織部司。於領諸国織部。因號服部連。
とある。

秦氏の手法で出自を神別にしたのか、
当地の北側が曽根、南側に穂積、物部氏を思わせる地名があり、
この麻羅宿禰は饒速日命降臨供奉の麻羅からとった祖先名、
または物部氏の中で織物に従事していた集団が秦氏の配下に入ったとも考えられる。

 『新選姓氏録:大和国神別』の服部連は、天御中主命十一世孫天御桙命之後也、と記載されており、天御桙命は天日矛命をもじった神名のように見えるが、これは秦氏そのものだったのだろう。

天日矛命を天御中主命の裔にするのは大胆。



 当社は菅原道真が太宰府に赴く際、持病の脚気で足が動かなくなった際に、その頃は路傍の小祠であった服部天神の医薬の神である少彦名神に平癒を祈願されたと伝わる。

  天神信仰が盛んになって当社も菅原道真を祀るようになって以降、門前市をなすようになったとの神社の説明である。
 

  少彦名命は辰韓にはじきとんだとされる神であり、
  辰韓とは秦韓で、
  渡来前の秦氏のとどまっていた所である。          ← 秦氏の出身地  へえ〜

 


社殿

お姿
 住宅地域に鎮座。さほど広い境内ではないが、朱色の目立つ神社。 足神さんらしく藁ぞうりが多く奉納されている。

『大阪府神社史料』社域甚だ広からざれども樹木蒼鬱として社頭を蔽ひ、一見して其の古社たるを知る。

 賽者常に集し殊に男女芸人の崇敬頗る深く、地高燥にして水清きが故に近年夏候に至れば脚気患者の来りて保養するもの甚だ多し。



お祭り

  10月25日 例祭



由緒


その昔、朝鮮から機織の技術を我が国に伝えた人々に「秦氏」の姓氏を与えて、これらの子孫の多くがこの地に住まいました。              


「服部」の地名は秦氏の人々の住むところとして「機織部」から成りたったものと思われますが、第十九代允恭天皇の御代に、織部司に任ぜられ、諸国の織部を総領した「服部連」の本拠地がこの服部であります。

  (新撰姓氏録、第十八巻摂津国神別)外来部族であった秦氏は、外来神であり医薬の祖神である「少彦名命」を尊崇していましたので、当神社はこの服部の地に古くから、おまつりしていたものと思われ、その創建は菅公御生前より遠く、相当古い年代であったと推定されています。


右大臣、菅原道眞公は、讒訴に遭い、太宰権師として左遷されることとなり、延喜元年、京都から遥か筑紫の太宰府へ赴く途次、このあたりで持病の脚気に悩まされ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。そこで村人のすすめで、医薬の祖神「少彦名命」をまつる服部の路傍の小祠に詣で、一心にその平癒を祈願されたところ、不思議に痛みや、むくみが治り、再び健康を取り戻して、無事太宰府におつきになったと伝えられています。

菅公没後、北野天満宮をはじめとして、天神信仰が全国各地に起こり、路傍の小祠であった当社に菅公の霊を合祀し「服部天満宮」として堂宇を建立し、「菅公、脚気平癒の霊験」が広まり、聞き伝えた人々の参拝で、次第に門前市をなす様になり、「脚気天神」「足の神様」として全国の崇敬をあつめる様になりました。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月06日 08時26分26秒 ) パスワード

ネットサーフィンして見つけました:


http://13131313.com/archives/2011/05/%E3%80%8C%E6%9C%8D%E9%83%A8%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%94%B1%E6%9D%A5.html



服 部 堂


「服部」の由来

投稿日時: 10 5月, 2011


本日、秦氏の末裔という方からメールを頂戴した。
以前このブログで秦氏に関する記事を掲載したことが
あったが、そこでの内容に一部デマが入っていたため
そのことに対するご指摘を頂いた。

こちらの内容はコメント欄をご参照いただきたい。

また、今回、服部姓についての貴重な情報を
頂戴したので、ここでご紹介したい。



ブログ:「秦氏の集い」より以下抜粋

「秦一族の服部」

秦一族の中に服部(はっとり)という名がある。
服部は秦氏とは関係ないとささやいている研究家が
チラホラと居る様だが、これは前回までの{笑える話し}と
同じ事だ。文献等でしか研究していないからそうなるのだ。
現地取材などもちゃんと行わなければ知らぬ事も多い。
知らないままで、知っているかの様に言っていると
恥をかく事になるぞ。

今回はその点について紐解いて行きたいと思う。

今回は金鵄様にも来て頂いているので、改めて認識出来るものと思う。

そもそも‘はっとり’と言う名の原初由来は‘はたおり’の変化である。
つまり‘機織’だ。従って秦一族の中でも‘かいこ’の関係にある。
織物の関係である絹や綿を作り、またそれらを用いて
色んな物も様々に世に出していた。
秦一族の‘製鉄’や‘革’等を合わせた武将達の‘鎧’も言うまでも無い。


そういえば、このブログの全国ネットワークの関東の人に
服部氏がおりますが、以下の様な事を言ってました。

「服部(はとり)、漢服部とか、服部神社とか痕跡が残ってたかと思います。」

「あと祖父の実家は「蚕」を‘お蚕さま’と呼び、大切にしていたそうです。
祖父に繋がる家系は代々、服部の姓を名乗っていました。」

うむ、服部とは書いて字の如く‘服’に関係した秦氏である。
この者の祖父が‘かいこ’を‘お蚕さま’と呼んでいたのはまさに然りである。
京都の<蚕の社>と共に祀られている‘木嶋神社’について述べれば、
此処は日本三大鳥居で有名な<三柱鳥居>がある場所であるが、
実は此処の宮司を勤めていたのは、[神服氏]である。

これは神主=服部=氏族の略だ。服部は伊賀忍者の集団の
頭領としても有名であるが、実際はその時代よりも遥かに
長い歴史のある秦氏である。


~中略~

だが、服部を調べるならば、元伊勢の神社らを調べると良いだろう。
その中に吉備の織部(おりべ)がある。              ← へえ〜  これは知らなかった


これは‘服部郷’と呼ばれており、‘葉田’や‘服部’の地名がある。
桃太郎の童話にある吉備だんごが有名な所であるが、
実は秦氏関係の服部の里である。


元々秦一族は伊勢神宮とも深い関係があるから、移動して
来た場所には秦氏に関わる所が多いのだ。


因みに、この吉備には秦氏の神=加羅(加耶)の神を
祭神とする神社がある。調べてみよ。



『服部氏の祖は酒ノ君なり』

これは服部の一族が秦氏である明かしである。
そして木嶋神社(木嶋坐天照御霊神社)の宮司をしていた
明かしでもあり、蚕から機織(織物)をしていた明かしである。
「酒ノ君」とは最初の太秦である秦酒公(はたのさけのきみ)である。

この酒公は同じ山背の大避神社に‘太秦明神’として祀られておる。
秦の始皇帝と弓月君ともにの。そして三柱鳥居の木嶋神社には
造化三神の始めである‘天御中主命’が祀られておるのだ。
これだけでも珍しい事であるが、さらには国津神の大国主も
祀られているのだ。これはどういう事か?


う〜む、確か・・・ 秦一族の原初は、同じ渡来人である葛城氏や、
物部の一族とも何らかの関係があったと聞いた事がる。

                            そうなの?


左様・・・。秦氏の祀る神は{笑える話し}の項では天津神、国津神、
八百万の神たちであると、そなたは答えておったが、
原初は新羅神であった。
                      へえ〜

だが元を糺せば秦一族は何度も渡来して来た。


文献のそれぞれに誤差があるのだ。

弓月君の話しは大和や山背に移動してから後の渡来の話である。
従って最初は物部の一族とも関わっていた。神武以前の関係である。


太秦(ウズマサ)について述べれば‘光の賜物’とも訳されているが、
厳眞の「本当の謎」の項にある九州の研究から出て来た
地名の一つである辛国宇豆高嶋や、神社の一つである
韓国宇豆峯神社などの名前にある‘宇豆’こそ日本での
太秦のウズの始まりであるのだ。その時代は京都の山背よりも
遥かに古いと言えよう。ウズは‘山’の意味を持ち、

‘高きもの’という事である。

太秦とは、高きものとして地位=光を賜わったもの・・・。

−−−−引用ここまで−−−−

なんかこうしてみると「服部」という名前に不思議な因果を
強く感じる。今月は無理だが、来月には少し時間ができるので、
是非伊勢に訪問して確認してきたいと思う。
自分の名前だけでなく、地名などにもいろいろな歴史が
込められているので、そうしたものを紐解いていくことが
これからすごく大切なように思う。



“「服部」の由来” への6件のコメント



Ryoichi Yamato 11 5月, 2011 3:53 PM より:


私の実家、伊勢崎市は秦氏が祀られています。地名が、「伊勢神宮の前(サキ)」にある土地ということで、伊勢崎になったようです。伊勢神宮と関係が深い土地だったのでしょう。だからこそ、伊勢崎、桐生、足利などは繊維の街になっていったのでしょう。




秦 嘉伸 12 5月, 2011 7:29 AM より:


大きく取り上げて頂いて有り難う御座居ます。

服部の名は、おそらく奈良時代から平安に掛けて秦一族が一部、名を変えた中の一つ。

それまでは、服部姓も古い時代は「秦」か「幡」或いは「波多」であったと思います。

また、秦一族の象徴は「鷹」ですので、鷹の話しがある所には秦一族が関係していると思います。注意してみて下さい。

因みに絹糸(きぬいと)とは音読みで‘きんし’であり、これは神武天皇の東征の話しに出て来ます‘金鵄’の隠語です。
[30]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月06日 09時23分29秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 沢山の情報ありがとうございます。熟読いたします。

 服部氏族の出自、いろいろな説があります。秦氏もしかり。私もいろいろ
調べておりますが、いろいろな説がありそれらをすべて把握した上で、総合的に判断する方向でと考えています。

 それには、日本語の成立(訓、漢字の使用)、姓氏の成立をしっかり押さえ
た考察が必要となってきます。

 前回書きました「日本語の成立と構成」もほんの概論ですので、日本語の
起源については、まだまだ諸説あります。大きくアルタイ語属、チュルク語
に起源、百済語に起源、新羅語も影響、東南アジア系等諸説あり、本当のと
ころどうなんだと言いたい、というよりも自分なりの結論を今後出して行き
たいと思っています。

 姓氏も、日本語の成り立ち・漢字の使用と正に一心同体です。姓氏の漢字
表記がいつ始まったか・・・これがポイントです。それと姓氏とはそもそも
何なのか、血族か、血族でないのか・・・これも大きなポイントです。もち
ろん血の途切れることもありますので、グループとして全体で血縁を何とか
守っているということも評価しなければいけないと思います。

 姓氏の成り立ちと構成については、次のレスで少しまとめます。
 ここで、一旦切ります。
[31]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月06日 17時14分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 2.姓氏の成立と構成
   姓氏の成立と構成ということですが、分かりやすく言うと、縄文時代
  ではどんな呼び名で、どんな表記がなされていたのか、弥生時代にはど
  んなだったのか、古墳時代にはどうだったのかということです。

   古代より奈良時代末期くらいの歴史上の中で、姓氏についてのエポッ
  クメイキング的な出来事は、
  @ 5世紀の應神天皇の時代あたりからの本格的な漢字の導入です。実
   際にはもっと早く伝わっていたようですが。
    ただ、口語を漢字に表記するにはそうとうな知識と集団的徹底努力
   が必要であったかと思われます。
    ここまでの時点、則ち漢字が導入される迄は、姓氏・名前はどのよ
   うに発音され、また表記(?)されていたのでしょうか。

  A 西暦645年の「大化の改新」により、豪族の姓を朝廷に登録させ
   ることになる。670年には「庚午年籍(こうごねんじゃく)」という
   全国的な戸籍が作られ、姓を持たなかった民衆にも姓が与えられた。
    この時までには漢字表記が大勢をしめたということになる。

  B 桓武天皇の時代の799年から「新撰姓氏録」の編算が始まり、
   弘仁天皇815年に完成する。これで姓氏の漢字表記は完全に完成
   する。

    この漢字での姓氏の表記過程は、万葉集や古事記から日本書紀
   へと、国の根幹テキストの編集作成が行われて行く過程とほぼ平行
   している。

    要するに、言語として漢字を使用するという(訓も活かしながら)
   国家的統一がなされたということである。

    従って、姓氏というのは、いつから確定したのか、それぞれの
   姓氏について個別に検証しなければならない。

    例えば、「服部氏」であるが、氏族の勃興より、どのような呼び方、
   表記がなされ、変遷があったのか。
    成立過程にはいくつかの説がある。
<漢字伝来以前>
   @ハッティ説 ハッティ族の出身。ハットリになった。
   Aハトリ説(秦氏のバタ説と同じ 韓国語で海のことをバタ、パトリ
    と言った。海を渡ってきた。)
    <漢字導入後>
   B機織部説 ハタオリベがハタオリになり、さらにハットリになった。
    (この理論で行くと機織部→機部となるはずだが、何で服部に変わっ
    てしまうのだろうか?)

渡来氏族というのは、渡来前より呼び名があって、それが日本定着後、
 訓読みの音に合わせて音が一緒の漢字で表記されたのか、または本来の
 意味と同じ意味の漢字をそれにあてはめ、本来の訓読みはそのまま残した。
  あるいは、全く新しい名前を付けられた。

  いずれにしても、検証作業は並大抵でない。

        
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月06日 22時13分25秒 ) パスワード

おお〜
ありがとうございます。



<漢字伝来以前>
   @ハッティ説 ハッティ族の出身。ハットリになった。
   Aハトリ説(秦氏のバタ説と同じ 韓国語で海のことをバタ、パトリと言った。海を渡ってきた。
<漢字導入後>
   B機織部説 ハタオリベがハタオリになり、さらにハットリになった。
    (この理論で行くと機織部→機部となるはずだが、何で服部に変わってしまうのだろうか?)



なるほど・・・

Aのハトリというのは  多い  ですね。
パトリは   日本の発音はH音の前はP音だった  というのからも合いますし。


Bの 機織部→機部となるはず   織部 は日本の名前として普通に違和感が無いですね。

   はとり  が  はっとり になったのは  撥ねる発音の方が景気が良いですからね。
   そこのところは分りますが  でも  何故  服部 に?


   「呉服」=絹織物  太物=綿製品  ここから高級品を扱う部族ということで服部に?


       服部 よりは  綾部とか錦・錦部・錦織 の方が高級感が漂ってますけど・・・
       笑


とにかく「はっとり」という発音は非常に日本的です。
外国人には日本人並みの「xっとx」という音の撥ね方はまずムリです。
                      =息の止め方


本当に検証作業は厄介です。



姫路の「明珍」さん。
甲冑作りの明珍さんという姓は某天皇から拝領したということで、ま、「明珍」というのは新しい姓ではありますが

この家は縄文時代から続く家
ということで
要するに  出雲族  とか  そういうことなんでしょうね。

   わたくし的には  出雲出身か  物部か  そんな感じ。

つまり神代の時代からの家。
出雲の千家さんも続いているそうですから他に続いている家も結構あるんでしょうね。
言わないだけで。



そうして考えて服部氏を顧みますと
   人類が保温だけでなく裸では恥ずかしい・権威も纏いたいなど
   というようなことを願うようになって以来の姓ではないかと。
       自画自賛

やはり古い古い名字なんでしょうね。最初は  屋号  だったのかな?
   「お〜い、そこの服を作ってる家のヤツぅ〜」

    その後、専門職に?
    アソコのアイツに任せたら体にフィットしたヤツを作ってくれる、とか?

    こんどウチの神様にも素敵なのを誂えたいからお願いできるかね?
    とか?

         着物の「たとう」に[お誂え]なんて書いてありますよね
             高級品仕立て、ってことで



こうして考えていると
 @のハッティ族が  1番早く衣類の技術を持って日本にやって来て
           服部氏として特化したのかなとか


空想が膨らんでなんだかどんどん愛しくなりますね。
[33]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月07日 00時33分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 『日本家紋総覧』という本で高槻市の神服神社の神紋らしきものを探して
みました。葉っぱの模様からいきますと、@柏、A桐、B蔦の三種にしぼら
れますが、丸に三つ×××となると、ほとんど「丸に三つ柏」紋に近い。
 葉脈がないけれど、ほぼ柏の葉と思われます。柏は神文に使われていること
も考えると、間違いないものと思われますが、はたして神服神社の神紋かどう
かはさらに確認する必要はあります。
 しかしながら、あを様の霊的センスは信頼しています。

 服部氏についての調査、貴重な資料としてとっておきます。
 秦氏も物部氏も単一でないので、あらゆる情報を統合しないと何が何だか
わからなくなります。秦氏と秦の関係、徐福と秦の関係、徐福とニギハヤヒ
の関係、ニギハヤヒと物部氏の関係、物部氏と秦氏の関係、三輪氏・賀茂氏
葛城氏、尾張氏、物部氏・・・いろいろな氏族がループした関係になってい
ます。

 とりあえずはこれにて。 
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 06時01分29秒 ) パスワード

神さま系は  柏紋が多い
蔦は  松平家が徳川家に遠慮して蔦を使用  しかし使用禁止令を出さなかったから一般人にも普及
桐は  こういう使い方はしないと思うので  除外


ここで「茗荷」というのが浮かび上がりました。
   茗荷は神仏の加護=冥加=に通じる
ということで  茗荷紋  かも知れないという意見を得ました。



やはり直接問い合わせるのが良いでしょうね。


服部氏で「抱き茗荷紋」というのは結構あるようです。
隈さんとこも茗荷だったと記憶しています。



この神社の紋は○の中に入ってるから  戦う神様  でもあった?
と思うようになりました。

でも全ての武家の家紋が○の中に入ってるわけじゃないので逆も無いのかも。


   家紋は名字と共にムズカシイです。
[35]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月07日 07時01分40秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 秦氏と物部氏ほかについての記述ですごいサイトがありましたので、記し
ます。一度見て下さい。

 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/index.html
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 10時02分09秒 ) パスワード

読んで来ました:


    かなり整理されてますね。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/joukosi-nagare.htm

前略
二世紀後葉に原初大和朝廷を形成した。この王家一族の後裔諸氏の多くは、
皇別(皇親)や神別の天孫に属したが、
初期大和朝廷の王統(皇統)自体はこの部族内で交替があったとみられる。

天皇家・息長君のほかでは、物部連、出雲臣、額田部連、服部連、鳥取連、玉祖連、鏡作連、忌部首や宇佐国造、火国造、筑紫国造などを代表とする。


服部連がこんなに早期に出て来ますか。


この服部連は高槻の神服神社関係ですね:

http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daionokuni/1327734974981.html


そうすると本来の服部さんは高槻エリアが総氏の長者?
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 10時30分05秒 ) パスワード

高槻の  神服神社

       もともとははっとり神社。
       かむはとり神社
       現在は  しんぷく神社  と読むようになっているそうです。



神服神社<しんぷくじんじゃ>

延喜式神名帳にある摂津国島上郡三座の一つで、服部連が5世紀中頃に創建。

当時は服部神社といったが、
延喜年中に名を神服神社に改めた。

「かむはとりじんじゃ」と読むが、現在は「しんぷくじんじゃ」と呼ばれ親しまれている。



御紋 これが謎ですね。柏なのか?蔦なのか?桐なのか?三茗荷なのか?



所在地  大阪府高槻市宮之川原元町2-25
TEL   072−687−8770
ここに直接電話が早いですね。



お問い合わせ先
高槻市 産業環境部 産業振興課 
電話番号:072-674-7411
FAX番号:072-675-3133
メール   sangyous@city.takatsuki.osaka.jp; こんな感じで産業振興課 宛てみたいですね。


産業振興課では紋の名前が分かるんでしょうか?




消えるのがイヤなのでココでアップ。    
[38]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 11時05分59秒 ) パスワード

初生衣神社の神主さんが  神服部さんで  800年  お祀りしているということで平安時代以降。



浜松の服織神社はもっと古い。そして出雲国関係の神社。


服織神社

羽鳥本田(はとりほんだ)、向かい組の鎮守(ちんじゅ)、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)として歴史がある神社である。

織物をつかさどる神・天穂日命(あめのほひのみこと)と機械の神・建御名方命(たてみなかたのみこと)が祭ってある。


服織神社(旧郷社)の歴史について、氏子の鈴木道男・藤田真次郎・鈴木秀雄の三氏は、古希を記念して平成3年8月、由緒碑として社前に建碑された。


    服織神社の氏子代表が  鈴木家  ですか?


 

【延喜式神名帳】服織神社 遠江国 長上郡鎮座

【現社名】服織神社
【住所】静岡県浜松市東区豊町2501
    北緯34度46分19秒,東経137度48分15秒
【祭神】穗日命 (合祀)建御名方命
    『神名帳考証』多奈波太姫命
    『神祇宝典』天棚機姫神
【例祭】8月25日 例大祭                終わってるぅ〜〜〜
【社格】旧郷社
【由緒】創建は和銅元年(708)
       慶長6年(1601)社領寄進
       明治8年2月郷社
       同43年9月神饌幣帛料供進社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「権現社」「若一王子」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・社務所・神庫
   【境内社】招魂社・秋葉神社

豊西小学校北、豊田川西岸近くに鎮座する。
和銅元(708)出雲の国より勧請。当時天竜川沿いのこの地には多くの織物職人が住んでいたという。



服織神社由緒

当社は、今からおよそ1280年前、元明天皇の和銅元年(708)出雲国から、神様をお迎えして造られたといわれている。

祭神は「天穗日命」 (織物・文学の神)と「建御名方命」(織物の機械の神)で、その当時は、天竜川沿いのこの辺には、織物に関係した職人が集団で住んでいたらしい。

当社は、延喜式内神名帳にのせられており、明治8年(1876)郷社に列せられ、8月25日の例祭日には、幣帛使と呼ばれる人が見えて、紅白の絹布を献上し、豊西村長をはじめ、小学校の児童達も参列した。





三重県のは機殿神社

神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)・神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)はいずれも三重県松阪市にある神社。

元々は同じ場所に鎮座していたが、大垣内町の神服織機殿神社と井口中町の神麻続機殿神社の2社に分かれたと考えられている。

いずれも皇大神宮(内宮)所管社で、両社を合わせて両機殿と呼ぶ。両機殿の所在地は旧機殿村。


両機殿で行なわれる御衣奉織行事は松阪市の無形民俗文化財に指定されている


『倭姫命世記』では垂仁天皇25年、

倭姫命が天照大神を伊勢の百船(ももふね)度会国玉掇(たまひろう)伊蘇国に
一時的に祀られたときに建てられた神服部社(はとりのやしろ)が
のちの麻績機殿神服社で、       ↑
                  なにゆえに神服部社がはとりのやしろ?


内宮が現在地に定まったときに内宮近くに機殿を作り、天棚機姫神(あめのたなはたひめのかみ)の孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に神の教えに従って和妙を織らせた。


倭姫命は翌垂仁天皇26年、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせた。そこに社を建て、
服織社(はたとりのやしろ)と名付けた。
  ↑
 なにゆえに服織社ではたとりのやしろ?    


神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた。天智天皇7年(668年)8月3日に両機殿が火災で失われたため、この年の9月の神御衣祭のための作業は仮屋で行ない、その後30丈離して両機殿を別々に建てたと記されている。



ふ〜ん・・・
服織  と書いて   「はたとり」と読むのですか。



結論:

これは、まあ、服織神社の氏子代表の鈴木家を突撃訪問、ですね。
800年神職さんをなさっている神服部さんよりは服織神社の氏子代表の鈴木さんが浜松の名家になりますか。


鈴木家はひょっとすると和銅元年708年以来の名家かもですね。
出雲関係?


ということで遠江国 鈴木氏を調べて来ましたので   ここで  一応アップ。
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 11時17分01秒 ) パスワード

遠江国の鈴木氏


1.

鈴木一蔵

鈴木 一蔵(すずき いちぞう、弘治2年8月7日(1556年9月10日) - 没年不詳)

松平元康(後の徳川家康)の庶長子という説がある人物で、諱は重康。
母親は遠江国磐田郡見附宿の旅籠の娘と言われる。

雑賀党鈴木氏(または三河鈴木氏)の下で養育された為、鈴木姓を称したという。


家康の長男は松平信康であるが、この人物の存在が事実とすれば次男ということになる。 弘治3年(1557年)正月に家康が築山殿と結婚したことを考えると、築山殿の親類である今川家に取り入る為、一蔵は実子とされなかった可能性がある。

一般的な俗説として家康に庶長子がいたと語られているのみで、一次史料からは確認する事は一切できない人物である為、著しく信憑性に乏しい。

関ヶ原の戦いの後、徳川頼房(家康の11男)に仕えた鈴木重朝と同一人物とされることがある。




つまり  家康が初恋の女性に産ませた子が鈴木一蔵  ということになりますか。
                
                    隠し子です。


築山殿と結婚したのは今川一族の娘だったから。築山どのが家康を好きだったみたいですね。

その上に築山殿は嫉妬心の激しい女性でしたから
なんせ
築山殿の侍女をしてた知立神社の女性(お万どの 永見吉英の娘)が懐妊したのを許さなかったし
生まれた秀康を家康は遠避けることになりましたしね。


だから築山殿と結婚する前に恋人に子供まで生ませてたなんて秘密中の秘密だったんでしょうね。



ということは鈴木家は長上郡の名家の永井家のような格のある家だったんでしょうね。
ヲイヲイ
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 11時24分27秒 ) パスワード

もうビックリするのが出て着ましたよ!

http://jiyodan.exblog.jp/22396377/



松平忠輝(まつだいらただてる)と浜松・旧鈴木家

徳川家康の六男・松平忠輝(まつだいらただてる)は、浜松藩の庄屋・遠州鈴木家とチョットした縁がある。


旧浜松藩の筆頭庄屋格・旧鈴木権右衛門家は、遠江国・万斛(てんしゅうとおとおみのくに・まんごく/現・浜松市東区中郡町)に在った。

三河国から遠江国に進出した徳川家康が浜松城に入城した頃、遠州鈴木家の在地は万斛村(まんごくむら)と呼ばれ、その庄屋を任じていた。


断って置くが、この遠州鈴木家は江戸期に幕府制定で確立した庄屋制度以前の万斛庄差配(まんごくしょうさはい)の庄屋で、つまり氏族由来の在地百姓家である。


如何に旧鈴木家が有力だった証に、遠州鈴木家は「家康側室・阿茶局(あちゃのつぼね・雲光院/うんこういん)を匿(かくま)った」とされる古文書が残る。

     わあ〜
     すごい!

        この阿茶局という女性は女ながらなかなかの政治力に長けた女性で
        アタマの良さで家康が頼りにしてました。

        大坂冬の陣夏の陣の時の重要人物ですよ〜



阿茶局(あちゃのつぼね/飯田須和)は、武田氏の臣・飯田(筑後)直政の女で、松平忠輝(家康の六男)、松平松千代(夭折)の母である。


松平忠輝に関しては、阿茶局の家柄軽きを以って家康が「余り好いて居なかった」と言う説が在る。


だが家康は、忠輝を最終的には越後高田六十三万石と信濃国川中島十二万石を合わせ七十五万石の大身に処していた。


つまり忠輝は、家康二男とされるも双子の兄の子説も在る松平(結城)秀康の越前六十八万石依りは確り多くを与えられている。


松平忠輝は、大阪冬の陣では留守居役を命じられ、夏の陣では出陣をしている。


大阪の陣の後、大坂復興が一段落すると、忠輝は総大将を務める天王寺合戦で遅参した事が理由の一つとなり翌年に改易となった。



江戸期の浜松藩別格待遇・旧鈴木家は、一説には室町時代から万斛(まんごく)に屋敷を構え、地元では「強い統率力を持っていた」とされている。


但し平安末期から江戸幕府成立まで、平安末期に源義経に臣従して三河国に土着した三河鈴木家(挙母・鈴木氏)の例にも在るとおり、全国の鈴木一門は紀伊国熊野の豪族(熊野別当)の出自から派生した地方豪族である。


そして家康が生きた時代は、鈴木重意(しげおき/雑賀孫市)が活躍し、鈴木(一蔵)重康(すずき(いちぞう)しげやす)の存在や水戸藩重臣・雑賀(さいが/鈴木)家の謎など、多くの鈴木家が徳川家康との歴史を刻んでいる。


現在でも、浜松地方一帯は鈴木姓の多い土地柄で、SUZUKI(鈴木)を冠した大企業や浜松市長(二千十四年現在)などが目立っている。

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【第三巻】に飛ぶ。
【第四巻】に飛ぶ。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 11時27分53秒 ) パスワード

三河鈴木家というか挙母(尾張よねえ?)の鈴木家って
三河の松平家とはドンパチやってるんだけど
別系統なのかな?


   とてもココには書けない秘密のお話があります。
   ニカ〜
   気が向いたらメールでお知らせします。

   
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 11時39分37秒 ) パスワード

http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/01/post-9790.html


どんなに優れた女性だったか捜して来ました。以下コピペ:
家康は後家好みと言われるだけあって、この阿茶局も後家さんだったんですねえ。



家康の信頼を一身に受けた側室・阿茶局



寛永十四年(1637年)1月22日、徳川家康が最も信頼した側室・阿茶局こと雲光院が83歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

阿茶局(あちゃのつぼね・本名:須和)・・・出家後は雲光院(うんこういん)と号しますが、その出家は2代将軍・徳川秀忠が没した後で、彼女の人生の中では、わずか5年間という事なので、本日は、最後まで阿茶局という名で呼ばせていただきます。

武田信玄の家臣であった飯田直政の娘として生まれた阿茶局は、はじめ、今川家の家臣・神尾忠重(かんおただしげ)のもとに嫁ぎ、男の子をもうけました。

しかし、夫が合戦にて戦死・・・。

やがて、甲斐(かい・山梨県)や駿河(するが・静岡県東部)に侵出してきた徳川家康の目に止まり、25歳の時に召されて側室となったのです。

家康が一目で好きになっちゃうくらいですから、そりゃぁもう美人・・・しかも、かなり頭が良く、家康との会話もグレードの高い物だったようで、合戦にも度々同行させています。

あの小牧長久手の戦い(3月21日参照>>)の時にも、彼女が妊娠中にも関わらず戦場にまで連れていきますが、さすがにこれは負担だったようで、その子は流産するという悲しい結果となってしまいました。

その流産がたたったのか、それからは、阿茶局が家康の子供を出産する事はありませんでしたが、子供がないからといって、家康の彼女への思いが薄れる事はありません。

いや、むしろ、江戸城の奥を取り仕切るなど、家康が生涯に渡って、最も信頼する側室となったのでした。

     NHK大河の「江」の話だと思います
       ↓
つい先日も出てきました大坂の陣のきっかけとなった方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)・・・この時の豊臣方の使者・片桐且元(かたぎりかつもと)を、本多正純(ほんだまさずみ)と金地院崇伝(こんちいんすうでん)が詰問したと書かせていただきましたが(1月20日参照>>)、かた苦しい会見の中の一服の清涼剤のように同席していたのが阿茶局でした。

見て美しく難交渉もやってのける・・・家康にとって、これほど頼もしい女性はいませんよね。

その翌年の慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣では、その和睦交渉の中心人物として活躍する阿茶局・・・

と言うのも、この時、交渉の舞台となったのが、徳川方の京極忠高(きょうごくただたか)の陣所で、その交渉役に立ったのが忠高の義母・常高院(じょうこういん)だったのです。

常高院とは、浅井3姉妹の次女・お初さん・・・あの淀殿の妹でお江さんの姉=今年の大河ドラマで水沢あさみさんがやってる役ですね。

彼女は、豊臣秀吉の仲介で従兄弟に当たる京極高次と結婚していたのです(5月3日参照>>)。

本来なら、このような交渉・・・事実上の大坂城内トップである大野治長(はるなが)か、豊臣秀頼の後見人をやっていた織田有楽斎(うらくさい・長益)(12月13日参照>>)なんかがやりそうなものですが、おそらくは、抗戦か講和かで喧々囂々の城内の事もあって、豊臣と徳川の両方に強固な縁を持ち、かつ、中立を保つ事のできる彼女こそが、絶好の交渉役という事になったのかも知れません。

一方の徳川方の阿茶局・・・これも、やはり相手を見た家康の判断でしょうね。

もちろん陣所を貸した忠高のサポートもあったのでしょうが、天下を動かす戦乱の中、にらみ合う大軍の前に進み出る女性二人の姿は、いかにも凛凛しく優雅であった事でしょう。

やがて徳川の天下となった後、すでに75歳を迎えていた家康は、死の床につくわけですが(4月17日参照>>)、この時、その遺言として、彼女にだけは剃髪をして尼になる事を許さなかったのだとか・・・

普通は、正室・側室ともに、ダンナさんが亡くなれば、その後は尼となり、一族の菩提を弔うというのが一般的なコース・・・しかし、阿茶局だけには、「仏門に入らず、息子・秀忠の補佐を頼む」と家康は言い残したのです。

どれだけ信頼が厚いかがわかりますね。


実際、家康の死後の阿茶局は、江戸城竹橋門内の屋敷に300石を与えられて住み、秀忠どころか第3代将軍・家光にまで仕え、特に外交面で、その手腕をふるいました。

元和六年(1620年)に秀忠の娘・和子が後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)の中宮として入内する時には、その母親代わりとして見事にお世話したのたとか・・・

その功績が認められて従一位を賜った彼女は、宮中では神尾一位殿と呼ばれていたのだそうです。

やがて寛永九年(1632年)、秀忠の死とともに、その役目を終えたかのように剃髪し、雲光院と号した阿茶局・・・

その5年後の寛永十四年(1637年)1月22日、彼女は静かに息をひきとります。

前夫の死後に巡り合った家康という後の天下人によって、その運命が大きく変わり、江戸時代という長き武士の世の基礎を築く事になった女性・・・阿茶局。

女だてらに鳴りやまぬその腕を、思う存分ふるえた事に、さぞや満足だったのだろうと思う反面、前夫が亡くならなければ、生まれた息子とともに、暖かい家庭を築いて、フツーの主婦をやってのかしら?
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 11時45分15秒 ) パスワード

http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/top_10.htm#002

7000 傑さんのサイトより
全国2位の「鈴木氏」
愛知県に多かったとは驚き。


鈴木姓は、物部氏族の穂積国興の三男基行が鈴木を称するに始まる。
 大姓の出自の主流が源平藤橘と称する中で、鈴木姓は穂積を主流としている。

 紀伊国牟婁郡熊野邑が発祥地のち名草郡藤白浦が本拠地、諸国の鈴木氏は此の流より分かれたと伝えられる。

 藤白神社は熊野権現九十九王子社の別格五体王子の一つで、源義経に仕えた鈴木三郎重家は藤白地頭である。

 一都三県一道を除けば、静岡県、愛知県がダントツに多く関東以北にも多いが、発祥地の和歌山県には少ない。

 愛知県に多い理由は、奥州平泉への途次、病の為に三河の留まった重次が三河鈴木党の祖となり松平家臣となったことに因る。 三河松平氏の出自については諸説があるが、元は鈴木党で松平の地名を称したという異説もある。

 三河鈴木氏の家紋は藤で、松平太郎左衛門家の家紋が藤輪に三つ葉葵という事実が両氏の間柄を暗示させる。

 静岡県に多い理由は、建武年中、熊野水軍の鈴木重行が鎌倉公方に招かれて伊豆国田方郡への来往も影響する。

 また熊野新宮神職に鈴木氏多く、熊野三山の末社は約三千、六十余州に熊野神社の無い国は無く、熊野神社勧請の方面でも鈴木姓が全国に広まったのである。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 12時10分32秒 ) パスワード

寄り道   

http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi53.htm
今川義元の家臣団のサイト

   興味深いところのみ抜粋


井伊家


<井伊家は南朝勢力の子孫で、同じく南朝の津島社家・大橋氏と縁戚関係に有り、大橋家を通じて熱田千秋(藤原)、中根、河口、大河内、長田氏と縁が有ります。宗良親王を奉じた信濃の豪族、香坂・諏訪・仁木氏とも交流があったのでは。>



(井伊谷三人衆)

⇔近藤康用 (1517〜1588)勘助・平右衛門・信用。遠江国人。元・今川家家臣。井伊谷三人衆のひとり。1568年鈴木重時、菅沼忠久とともに徳川家に従う。息に秀用。娘婿に中川忠重。

⇔菅沼忠久 (*〜1582)次郎右衛門尉。遠江菅沼氏。菅沼元景の息。鈴木重時の娘婿。井伊家家臣。1568年鈴木重時、近藤康用とともに徳川家に従う。井伊谷三人衆のひとり。



⇔鈴木重時 (1528〜1569)三郎大夫。柿本城主。東三河の豪族。鈴木重勝の息。弟に出雲守*、重俊。1568年菅沼忠久、近藤康用とともに徳川家に従う。井伊谷三人衆のひとり。1569年大沢基胤の拠る「堀江城攻撃」に戦死。息に鈴木重好、重吉。<西三河・酒呑鈴木家の分家らしい。>



三河 譜代家老衆

(西三河) 義元直参。

山田景隆 (*〜1560)新右衛門。岡崎城主。今川家三河奉行人。東条松平忠茂を後援。織田家に近い関係の桜井・大給松平家を圧迫。

長田重元 (*)喜八郎。今川義元の家臣。三河国吉良大浜、羽城城主。1547年織田信長の武者初め(初陣)の標的とされる。<先祖はあの長田氏らしいです。>

大村綱次 (*)弥三郎。1549年東条吉良義安討伐に軍功。

鈴木重勝 (1503〜1595)平左衛門尉。1563年今川氏真から山中・大野郷の軍功を賞される。1568年宇利荘吉田郷に進出。山吉田白倉山城主。息に重時。<井伊谷三人衆につながる鈴木氏。><1563年頃でも徳川家康さんの支配は浸透していない様子です。>



三河外様国人(守護仁木家の守護代)

西三河守護代(岡崎・西郷家)→大草松平 元・三河守護代の家系<元は西郷家とともに一色氏・仁木氏の被官らしい。>。

西郷正員 (*〜1551)弾正左衛門。三河守護代家。今川家臣。松平清康と同盟。三河八名郡の宇利城攻囲に従軍。息に孫二郎・照員、十郎左衛門・正忠、内蔵介・俊員。<野田大宮司・冨永氏の家督相続問題に介入するか。>

▲西郷正勝 (*〜1562)孫三郎・弾正左衛門尉。今川義元の臣。西郷正員の息。菅沼定村の姉婿。1548年「小豆坂の合戦」に織田軍に横槍の軍功。今川義元から三河国内で三千貫の恩賞。1560年息・清員を人質に出し徳川家康に従う。1562年宇津山朝比奈氏(朝比奈泰長(泰充))と合戦し敗北、戦死。息に正元、清員、勝茂、信正。大草松平家と縁を結ぶ。娘婿に戸塚忠春。甥に野田菅沼定盈。<元・吉良家家臣で今川に離反し義元の家臣となっていた国人領主でしょうか。><大草平七は三河一向一揆の旗頭。>

△西郷正元 (*〜1562)西郷正勝の息。母は野田菅沼定村の姉。1562年宇津山朝比奈氏(朝比奈泰長(泰充))と合戦し敗北、父とともに戦死。従兄弟に正好。息に義勝。

      <息子の義勝の奥さんは家康の側室の西郷局となる。>

                      ↑
                     西郷局



▲西郷信貞 (*〜*1525)(松平昌安)・弾正左衛門・信定。西三河豪族。西郷弾正・頼嗣の息。大草松平光重の息(養子?)。松平親貞の跡職を継承し岡崎城主。1524年松平清康・大久保忠茂に山中城を奪取される。その後、岡崎城を松平清康(家康祖父)に奪取される。松平清康を娘婿に迎え和睦。大草に隠居。息に昌久、娘婿に水野忠政。<大草松平昌安と同一人物か?>


西郷俊員 (*〜1560)内蔵介・俊雄。西郷正員の息。西郷家分流。1560年「桶狭間の合戦」に従軍戦死。<子孫は大草松平家に吸収される。>


西郷清員 (1533〜1594)孫九郎・吉員。西郷正勝の息。酒井忠次の妹婿。一時、徳川家人質。兄・正元の戦死により、義勝を後見。陣代として活躍。酒井軍団に所属。弟に正時。息に家員、員重、守勝。


▽西郷家員 (*)孫九郎・弾正左衛門・員好・正員。八名郡西川城主。西郷清員の息。本家の義勝の養子。酒井軍団に所属。1571年武田家との合戦により惣領・義勝の戦死。1571年家督相続。1572年「味方ケ原合戦」に従軍。



(鈴木党) 元守護・中条家の被官。         ←  鈴木さんですよ〜

足助重直 (*〜1584)鈴木重直・喜三郎。足助・真弓山城主。松平清康の頃から岡崎松平家臣。1564年今川家から離反。1571年武田軍の攻勢に居城を奪われる。岡崎信康の後援で真弓山城を回復。石川軍団に配属。<井伊谷三人衆にも鈴木氏あり。>


⇔鈴木重辰 (*)日向守。高橋荘を巡り松平親忠と合戦。今川配下、のち織田家臣。日向守・重辰は清康と抗争。1558年重辰(重教)は今川家から離反。1558年義元の命を受けた能見松平重吉・岡崎松平元康の攻撃を受ける。1560年「桶狭間」の後に松平家と抗争。寺部城主。1566年佐久間信盛の攻撃で降伏臣従。のち石川軍団に配属。1572年「味方ヶ原の合戦」に奮戦。<重辰と重教は同一人物でしょうか、清康の代からなので親子のような・・。><西加茂郡の領主は、1582年までは織田信長に付属していたのかもしれません。>


⇔▽鈴木重教 (*〜*1567)寺部重教。1566年佐久間信盛の攻撃で駿府に落ちる。のち駿河駿府にて戦死。寺部城主。


○青山忠門 (*〜1572)喜大夫・忠義。三河青山氏惣領家。青山忠世の息。松平広忠家臣。今川義元の三河支配では今川直参。1560年「桶狭間合戦」後は徳川家康に従う。1563年三河一向一揆に岡崎城を防衛。石川軍団に配属。1572年武田軍の侵入に岩津村にて戦死。息の忠成は江戸町奉行。<織田の宿老の青山家となにかつながりが?>


↑▲西郷* (*)松平・弾正左衛門尉。1548年「小豆坂の合戦」に織田軍に横槍の軍功。今川義元から三河国内で三千貫の恩賞。<△西郷信貞 (*)弾正左衛門。西三河豪族。岡崎城を松平清康(家康祖父)に奪取され大草に隠居。大草松平昌安と同一人物か?>


<伊勢水軍>     うちの「服部」です。といっても我が家は「馬の骨の服部ですが」

⇔○服部友貞 (*〜1568)左京亮。うぐい浦を本拠とする服部党。尾張の豪族。織田家と抗争。長島顕正寺に帰依。1556年守山城主・織田信次の攻撃を撃退。1560年拠点・二ノ江から今川軍の「尾張侵攻」と呼応し、熱田湊に侵攻するが撃退される。
1568年死去。<滝川と服部で熾烈な忍者対決でもしていたのでしょうか。>        
              謀殺されたから



⇔▽石橋義忠 (*)斯波義忠。尾張斯波一門。海部郡戸田庄の豪族。1561年尾張から織田信長に追われ服部党に参加。<今川義元に呼応した結果か?>

[45]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 12時21分49秒 ) パスワード

http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi63.htm

家康家臣団

<部隊長級・譜代家老衆> 元康(家康)世代 親今川派 ×親織田派。


鈴木* (*〜1572)久三郎。1572年「味方ケ原の合戦」に従軍戦死。
     <家康の采配を預かり影武者となり戦死。>

             へえ〜


<譜代家老衆 第1世代> ≪直属の旗本衆が強化されていく。≫  元康(家康)世代 親今川派 ×親織田派。


服部正成 (1542〜1596)半三・平蔵・石見守。伊賀衆の旗頭。保長の息。1569年遠江大井川「金谷の合戦」に山県軍から家康を守る。1582年家康とともに上洛。「本能寺の変」に家康とともに伊賀越えで帰還。江戸時代徳川16神将のひとりに撰ばれる。

      御存知、伊賀の服部さんですね



<譜代家老衆 第2世代(子飼)>


永井直勝 (1563〜1625)長田。もと徳川信康の側近。「長久手の合戦」に池田恒興を討取り功名。
      <永井と改姓する前のほうが血筋のわかる苗字なのです。>



なるほどね〜
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 12時26分24秒 ) パスワード

http://base1.nijl.ac.jp/~eadfa/db/internal/ocl-JALIT-DHD/changeview.cgi?xmlfdir=ac1948024&xmlfname=ISAD_ac1948024_ead-src.xml&xslfname=EADFAentire.xsl


遠江国引佐郡気賀宿中村家文書





資料群記号 Collection Number: 23X


国文学研究資料館(歴史資料) 歴史資料閲覧室 National Institute of Japanese Literature Reference Room of Archives and Collections


史料館シール DHD-seal


連絡先情報 Contact info.:

編集 Finding Aid Written by:

完成 Date Completed:

目録符号化 Encoding:


国文学研究資料館(歴史資料)
東京都立川市緑町10-3
1900014
Tel:(050)5533-2930
Fax:(042)526-8607
jouetu@nijl.ac.jp http://base5.nijl.ac.jp/~archicol/

安藤正人


刈田友里,









【記録史料の概観 Descriptive Summary】



資料名称
Title:
遠江国引佐郡気賀宿中村家文書


資料記号
Reference code:
23X(ac1948024)

出所・作成
Origination/Creator:
中村家

要約 Abstract:


年代
Date:
1540(天文9)年-1883(明治16)年.(1540/1883)

物的状態(抄)
Physical Description/Extent:
書架延長 Linear meter: 17m  数量 Extent: 3924件items 

収蔵
Repository:
国文学研究資料館(歴史資料)(コクブンガクケンキュウシリョウカンシリョウカン) 歴史資料閲覧室 National Institute of Japanese Literature Reference Room of Archives and Collections

郵便番号 P/C: 1900014.

住所 Address: 東京都立川市緑町10-3.

Tel: (050)5533-2930.

Fax: (042)526-8607.

URL. http://base5.nijl.ac.jp/~archicol/


(担当)記述・編集 Finding Aid Written by: 安藤正人.





まえがき Preface


このファイルは,標記資料の電子的検索手段である.その記述の範囲・水準・規則については,凡例か本文のなかで説明される.

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解題

fonds

収蔵 Repository:   国文学研究資料館(歴史資料)(コクブンガクケンキュウシリョウカンシリョウカン) 歴史資料閲覧室 National Institute of Japanese Literature Reference Room of Archives and Collections

出所 Origination/作成 Creators:   中村家

資料群記号 Collection Number:   23X

資料群標題 Collection Title:   遠江国引佐郡気賀宿中村家文書

年代 Date:   主要年代 Date(bulk):   1540(天文9)年-1883(明治16)年.

形態等状態 Physical Descriptions:  
書架延長 Linear meter: 17m  数量 Extent: 3924件items 
.3924点(875冊、2786通、193綴、6括、64鋪)

履歴/組織歴 Biographical Information

中村家は、1546(天文15)年に中村與太夫が吉村新町(後の気賀)の代官に任ぜられ、次いで16世紀末の天正期には吉村湊の舟役徴収や市日の升取役を命ぜられるなど、中世以来の在地土豪であったと考えられる。気賀は早くから三河と遠江を結ぶ陸上交通の要衝であり、また浜名湖舟運の基点として、浜名湖北岸地域の中心的な町場であった。近世に入ると気賀を貫く本坂通が東海道の脇街道として重要視されるようになり、気賀町に関所と宿場が置かれた。中村家は当初より気賀宿本陣をつとめるとともに、代々気賀町庄屋(名主という場合もある)および気賀上村庄屋を兼任した。また7代当主中村与四郎は、1760(宝暦10)年に気賀領主近藤用随に召し出されて気賀関所平番格となり、その後竹田家を継いで竹田弥次郎重賢と名乗って、1796(寛政8)年に退役するまで地方代官を14年、番頭を16年つとめている(『細江町史』資料編8)。なお中村家は、近世を通じて有力な地主でもあった。






範囲と内容 Scope and Content of Collection

本文書群は、(1)気賀町庄屋文書、(2)気賀上村庄屋文書、(3)気賀宿本陣文書、(4)竹田弥次郎文書、(5)中村家家政文書、の5つによって構成されると考えられる。気賀町は気賀上村のうち街道沿いの屋敷地を気賀町と呼んだものであるが、検地帳などの基本帳簿はもとより、年貢免状も気賀上村とは別のものが発給され、支配行政上あくまで独立した扱いを受けた。また気賀町は気賀宿として人馬継ぎ立ての任務を負い、常設の宿問屋が置かれなかったため、かわって気賀町庄屋である中村家が人馬差配業務など宿運営の中心を担った。<lb/> これらのことから、(1)気賀町庄屋文書には、年貢・土地・戸口・治安・災害・救恤などに関わる町方文書のほか、大名公家等の通行に関する書付類や宿・助郷への人馬割付帳など、多数の宿駅文書が含まれる。気賀湊の碇役銭の取立納入関係文書も(1)に入れてよいと思われる。<lb/> (2)は中村家が気賀町とともに庄屋役をつとめた上村の村方文書である。上村は油田・伊目・呉石・小森・葭本・下の各村とあわせ、気賀村あるいは気賀七ヵ村とも呼ばれた。したがって、治水関係などの分野では気賀七ヵ村全体に関わる文書が多く見られる。<lb/> (3)は(1)と区別が難しい点もあるが、大名公家等の通行・宿泊に関する本陣中村家の帳簿等が多数残っている。<lb/> (4)は、中村家7代当主で後に竹田弥次郎重賢を名乗った中村与四郎が、気賀関所役人や地方代官として在役中に授受あるいは書写したと思われる文書と、退役後に書き残した写本史料からなっている。「本坂通往来留書」「御関所覚書」など気賀関所に関するものと、「気賀御関所御要害郷村帳」など要害村に関するものが目立つ。<lb/> (5)は金融・貸借関係の証文類が主体である。


[利用者のための管理情報 Information for Researchers]

利用条件 Access



使用制限 Publication Rights, etc.



複製の存在 Existence/Location of Copies



望ましい引用の形式 Preferred Citation


受入に関する情報 Immediate Source of Acquisition

      
     鈴木さん
      ↓
気賀町鈴木庫太郎氏より譲渡。

伝来/資料管理履歴 Custodial History

     鈴木さん
      ↓
気賀町鈴木庫太郎氏が中村家より譲り受けたものを1948年度に史料館に譲渡。鈴木氏については『細江町史』資料編8「あとがき」(1994年)参照のこと。

資料操作に関する情報 Processing Information (Description Control)


他の検索手段 Other Finding Aid

『史料館所蔵史料目録』第2集(1953年)およびカード目録

関係資料 Related archival materials

中村尚氏宅(静岡県浜松市)に中村家文書多数が所蔵されており、一部は『静岡県史料』第5輯(1941年)、『静岡県史』資料編13・近世5(1990年)、『細江町史』資料編7(1987年)に掲載されている。

出版物 Publication Note/Bibliography

『細江町史』資料編1(1979年)、資料編2(1981年)、資料編8(1994年)に、「本坂通往来留書」(史料番号776)その他の若干の史料が写真と共に翻刻掲載されている。






[索引事項 Indexing Terms]

以下の用語は,閲覧室のオンライン資料目録における資料の記述を索引付けするために使われる.The following terms have been used to index the description of this collection in the library's online public access catalog.

人名 Names of persons:


 

家名 Names of families:


 

法人名 Names of corporated bodies:


 

名称 Names:


職業等 Occupation:


本陣 

庄屋(名主) 

地主 

関係地 Names of places:


遠江国引佐郡気賀町(気賀上村) 

静岡県引佐郡細江町気賀[現在] 

主題 Subjects:


本陣 

庄屋(名主) 

地主 

機能:


ジャンル:

[47]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 12時33分18秒 ) パスワード

所有者は鈴木勝太郎さんだそうですよ〜


http://rek.jp/?p=6599



今川氏真、鈴木尉に、犬居七人の調略を賞し、所領を与える

 2014年8月29日  高村



今度就〓[公+心]劇犬居七人之者、令同道走回候段、喜悦之至也、然間為其賞、本意之上、於駿・遠両国之内、以望之地百貫文領地可充行、守此旨弥於山中筋、無相違様子可令馳走者也、仍如件、

永禄十二[己巳] 正月廿日

 氏真判

鈴木尉殿


→戦国遺文 今川氏編2255「今川氏真判物写」(東京大学史料編纂所架蔵阿波国古文書四所収鈴木勝太郎所持文書)

 この度の紛争で犬居七人の者について、同道して活躍した段は、喜悦の至りである。ということなのでその賞与として、本意の上、駿河・遠江両国のうち、希望する土地に100貫文の領地を宛て行なうだろう。この旨を守り山中筋において相違の様子なく奔走するように。


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2.今川氏真、鱸尉に遠江国大田郷の内を与える               ←  ココ
3.今川氏真、鈴木源六が越後と相模の連絡をした功を称し知行を与える    ←  ココ
4.今川氏真、篠田弥五郎に、三河挙母城などでの戦功を賞し、所領を与える
5.今川氏真、大原肥前守に、岩瀬雅楽助の兵糧を鵜津山から引き出すよう指示する


そろそろPCが熱くなって来たのでココまでとします。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 15時02分03秒 ) パスワード

これを見たかったのですが出なかったです。



今城



www15.ocn.ne.jp/~yawa/menew/totoumi/.../ima.j.html



おそらく戦国期の鈴木氏による城館遺構であったものと思われるが、どうであろうか。 △ 西側から見た井伊谷川と今城跡。城跡の後方の ... トップページへ 遠江国史跡一覧へ.



これは面白いかも:
http://ameblo.jp/blogbears/entry-11784558724.html


万松山 宗安寺


曹洞宗寺院で、永禄元年(1558)に創建。

こちらのお寺はなんといっても旧浜松市内唯一の三重塔ですね。

平成十一年、檀家である鈴木六郎氏が寄贈したもので、塔内には聖観世音菩薩が祀られています。


     もの凄く奇特な方でいらっしゃいますね。



こんなのも:

『町名の由来』(飯塚伝太郎 川崎文昭 神谷昌志 辻真澄 静岡新聞社 昭和五十四年)

『浜松歴史散歩』(神谷昌志 静岡新聞社 昭和六十年)



http://takatoshi24.blogspot.com/2012/01/blog-post_16.html
戦国武将録
戦国遠江国人名辞典



森町のサイトから:

http://www.town.morimachi.shizuoka.jp/kanko/rekishi/choshi15.html

15 大洞院6派の展開

現在、遠州の仏教寺院を数の上から見ると曹洞宗が圧倒的に多いと言われる。何故そうなったかと言うと、15世紀後半から17世紀前半にかけて、寺院が開かれたり、旧来からの寺院が曹洞宗に改宗されたことによる。その頃の曹洞宗教団の宗風は布教の対象を、国人や土豪だけでなく一般民衆にまで目をむけたからである。遠江、或いは東海地方に曹洞宗教団の発展する基礎をつくったのは如仲天・(じょちゅうてんぎん)(1365<貞治4>年01437<永享9>年)で、その拠点となったのが大洞院(だいとういん)であった。


如仲は信濃国の生まれで、9歳で仏門に入り、のちに越前国(福井県)平田山竜沢寺 梅山聞本 ( ばいさんもんぽん ) の許で印可を受けた。如仲の遠江への布教は、当時、遠江国の守護が今川氏から 斯波氏 ( しばし ) へ交替しており、

越前守護でもあった斯波氏の意向に沿うものであったに相違ない。
如仲の門下から優れた僧侶が輩出されたが、特に 喜山性讃 ( きざんしょうさん ) (喜山派)・ 真厳道空 ( しんがんどうくう ) (真厳派)・ 物外性応 ( もつがいしょうおう ) (物外派)・ 大輝霊曜 ( たいきりょうよう ) (大輝派)・ 不琢玄珪 ( ふたくげんけい ) (不琢派中田雲林寺)・ 石叟円柱 ( せきそうえんちゅう ) (石叟派飯田崇信寺)の6人は、それぞれ寺を開き、如仲を 勧請 ( かんじょう ) 開山とし、自らは二世となり、教線を拡大していった。とくにその中の2人の拠点とした寺院は現在も町内にある。

曹洞宗発展の理由の1つに葬祭と授戒会(じゅかいえ)があり、これらは禅僧が直接民衆1人1人と因縁を結んだもので、従来の諸宗教が満たしてくれない禅僧が持っていた機能であった。



森町の偉人

鈴木藤三郎(すずき とうざぶろう)

氷砂糖の製法を発明!

1855年(安政2年)森町本町に生まれた鈴木藤三郎が、氷砂糖の製法を発明したのは1883年(明治16年)、28歳の時でした。

その翌年、森町明治町に氷砂糖工場を新設。さらに当時の日本に精製糖の工場が少なかったことに目をつけた藤三郎は、持ち前のバイタリティを発揮して東京に進出し、鈴木製糖所、日本精製糖株式会社、台湾製糖株式会社を次々設立し、「日本製糖業の父」と言われています。

また、すぐれた発明家として知られ、特許総数 実に159件を数え、 藍綬褒章 ( らんじゅほうしょう ) を受けています。衆議院議員に当選し、福川泉吾とともに周智農林学校(現周智高等学校)を創設するなど、さまざまな分野で活躍し、1913年(大正2年)58歳で生涯を閉じました。

更に詳しくは、図説森町史「30 鈴木藤三郎と地域の産業社会」をご覧ください。

[49]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月07日 22時57分39秒 ) パスワード

上記のように、いろいろ驚くような話がたくさん出て来て、日本だなあ、と感動しています。

時間的には4時間22分しか眠っていませんが
眠りに落ちたのは1分以内だったようです。
そして眠りの質は100%だったとか。

   
    Your sleep efficiency    100%
    You went to bed at     8:31PM
    Time to fall asleep     0min
    Times awakened        1    レム睡眠かな?
    You were in bed for    4hrs 22min
    Actual sleep time     4hrs 22min



驚きました。

日本人だから  繋がってる  のは分かってますが
わたくしと3柏さんは  何重にも  固いエニシで結ばれていたとは。

   ただ始まりが分らないですね、今のところ。
   わたくしの家は元は  って  ここ1000年ちょっと  三重県と愛知県を中心にと旧遠江と旧甲斐あたり

   でも尾張・三河の線で3柏さんにつながるんだ〜
   と驚きました。


全く赤の他人だと思ってたけど  わたくしの背後のパワーがレスしてやれレスしてやれ  と言ってたのが
上記のレス群で納得しました。
[50]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月07日 23時15分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 すみません。本日は事情により遅くなり、ただ今帰ってまいりましたが、あを
様の神がかりの情報を沢山いただき、今必死で解読しているところであります。

 特に鈴木氏に関する情報、すごいの一言です。今まで、こんなに鈴木氏にスポットライトを浴びせた情報は初めてではないかと思われます。
 
 とりあえずありがとうございますと御礼申し上げます。


[51]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月08日 08時33分37秒 ) パスワード

本日も上記7日のレス群を読んで感動しています。



レス<43>

何度読んでもショックですね。
驚きです。


ここにもコピペ:

鈴木姓が愛知県に多い理由は、奥州平泉への途次、病の為に三河の留まった重次が三河鈴木党の祖となり松平家臣となったことに因る。 

三河松平氏の出自については諸説があるが、

元は鈴木党で松平の地名を称したという異説もある。


三河鈴木氏の家紋は藤で、松平太郎左衛門家の家紋が藤輪に三つ葉葵という事実が両氏の間柄を暗示させる。



鈴木さんは南朝方ですから、服部家と仲が良いのは当たり前。
なのに!
わたくし的には鈴木家がしっくり来ないのは  義経の家来だった  ということか
とこの情報で納得しました。


    家康の祖母になる華陽院さまは大河内の出身だそうで
    大河内も南朝方でした。

        10数年前にいじめで亡くなった西三河の大河内君というのがいますが
        わたくし的には   この大河内一族になると思います。

        この男の子の家である大河内さんはなかなか立派な家だと聞いてるし。


    家康の家の松平家が南朝方だったのは新田の一族でもあるから。



でも松平家と鈴木家が繋がりがあるという話は知らなかったです。
両者の間に酒井家が絡んでいるのかな?

でもまあ、松平家が小石だらけの痩せた土地でカツカツの暮らしをしてた時代に鈴木家・酒井家・松平家が縁を結んでいたのかもね。




レス<44>よりコピペ:

    わたくし的には鈴木家ってこの人のこのイメージです。

鈴木重辰

日向守。
高橋荘を巡り松平親忠と合戦。

今川配下、のち織田家臣。
日向守・重辰は清康と抗争。

1558年重辰(重教)は今川家から離反。
1558年義元の命を受けた能見松平重吉・岡崎松平元康の攻撃を受ける。

1560年「桶狭間」の後に松平家と抗争。
寺部城主。

1566年佐久間信盛の攻撃で降伏臣従。
のち石川軍団に配属。
1572年「味方ヶ原の合戦」に奮戦。

   <重辰と重教は同一人物でしょうか、清康の代からなので親子のような・・。>
   <西加茂郡の領主は、1582年までは織田信長に付属していたのかもしれません。>


    この鈴木家は松平家と抗争の連続。
    わたくしの脳内鈴木家はそういう家です。



長上郡の名家の鈴木家が「名家」として記録されてても
江戸時代ということもあって、
その理由は「憚る」から書かれていないのが残念です。



水戸徳川家について行ったとされる鈴木家の情報が欲しいところですね。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月08日 08時42分13秒 ) パスワード

ということで水戸の鈴木さんをチェック。



水戸鈴木家の歴史 (1983年) − – 古書, 1983/9/1

鈴木 重一 (編集)

登録情報

−: 399ページ
出版社: 鈴木重一 (1983/09)
ASIN: B000J77G9C
発売日: 1983/09



扱ってないんですって。



鈴木家住宅 - 茨城県教育委員会

www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/kenzou/...
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鈴木家は、水戸藩時代庄屋をつとめ、徳川光圀の娘を嫁に迎えたほどの旧家であり、光圀が西山荘への往復途中立ち寄り ...

残念ながら開きませんでした。



この家との関係は分かりませんでした。


鈴木重義 (雑賀鈴木家)
(すずき しげよし、寛永11年4月4日(1634年5月1日) - 寛文8年9月6日(1668年10月11日))

江戸時代初期の水戸藩家臣。水戸藩主徳川頼房の十一男で、母は興正寺門主准尊の長女(石山本願寺顕如の曾孫)。徳川光圀の異母弟にあたる。紀州雑賀衆の裔、雑賀鈴木家を相続した。

略歴[編集]

寛永11年(1634年)生まれる。幼名は仙千代、武蔵。養子になった後は通称を孫三郎、孫一。

雑賀衆の裔である鈴木重朝は徳川頼房に仕え、子の重次が跡を継いだが、重次には男子がなく、重義が婿養子となった。寛文4年(1664年)養父の重次が死去したため、家督を相続。禄高は3千石、大番頭に准じられた。寛文7年(1667年)大番頭となり、与力を付けられる。寛文8年(1667年)3月、光圀の江戸参府に従って上京し、将軍家綱に拝謁する。9月、35歳で死去した。墓は浄光寺。

雑賀鈴木家は重義の代までは禄高3千石の家老格であったが、重義の跡を継いだ養子・重春(鈴木重井の子)が幼少であったことや、家人の不行跡により、禄高は600石となった。以後も重臣層として、明治維新に至る。

参考文献[編集]
「水府系纂」15巻


ここでアップ。
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月08日 09時01分09秒 ) パスワード

http://www.jalan.net/kankou/100000/100500/spt_08342ae2180126638/

重要文化財鈴木家住宅。


鈴木家は、水戸藩時代庄屋を務め、徳川光圀の娘を迎えたほどの旧家であり、光圀が西山荘への往復の途中に立ち寄り宿泊にも用いたとされている。


名称鈴木家住宅 (スズキケジュウタク) .所在地〒311-0107
茨城県那珂市額田南郷464 MAP
.文化財都道府県指定重要文化財
.その他情報建築年代1 :江戸中期



http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/suzuki.html
雑賀衆人名簿



http://www.nukadajinjya.e-naka.jp/tokugawake-keizu.htm

光圀は、元禄7年(1694年)に額田の鹿嶋宮と八幡宮を合祀し鹿嶋八幡宮を建立した。
また、系図外の娘を額田の庄屋である鈴木家に嫁に出している。

    なんとなく石坂浩二演じた光圀のドラマを思い出します。


ここで出てくる  額田  が   三河の額田がらみ?  と連想しました。

額田藩


額田藩(ぬかだはん)は、江戸時代前期に常陸国に存在した藩で、水戸藩の支藩である。

藩史[編集]

寛文元年(1661年)9月、水戸藩主徳川頼房の四男松平頼元が、兄の徳川光圀から水戸藩領のうち那珂郡内2万石を分与される内分分知で立藩した。当初は領地を与えられず、水戸藩から2万石分の年貢を与えられる形であったが、翌年には地方(じかた)に改められ、年貢を直接徴収できるようになった。また、御三家の分家(連枝)であるため参勤交代の義務がない定府大名であった。元禄6年(1693年)に頼元は死去し、嫡子頼貞が相続した。

元禄13年(1700年)9月、頼貞は幕府から陸奥国田村郡などに2万石を与えられたため、陣屋を田村郡内の守山に移した。旧領は水戸藩に返され、以後は守山藩として存続した。

歴代藩主[編集]
松平(水戸)家
2万石。親藩。
1.松平頼元(よりもと)
2.松平頼貞(よりさだ)



徳川光圀公(水戸黄門)と西山荘と額田村


元禄3年(1690年)10月14日に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の綱條が水戸藩主を継いだ。翌15日、権中納言に任じられた。11月29日江戸を立ち、12月4日水戸に到着。5か月ほど水戸城に逗留ののち、元禄4年(1691年)5月、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所(西山荘)に隠棲した。佐々宗淳ら60余人が伺候した。


     助さん格さん、ですね。


額田の由来は分かりませんでした。
鈴木家のことも分かりませんでした。

   でも、この鈴木家が特別な家だというのは重要文化財になっていることで分かります。







[54]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月08日 10時40分30秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ニュースです! 本日朝10時、高槻市の神服神社さんへ電話しました。
ちょうど宮司さんが出られたので、さっそく神社の・紋についてお尋ねしま
したところ、昔から「丸に三つ柏」で伝わっているとの答でした。但し、詳
しい謂われはこちらでもわかっていないがとのことでした。

 1つの手がかり、謎を解くカギになるかも知れません。高槻城主に永井氏
もいましたし・・・。永井と服部と加藤と鈴木と松島の5姓の謎。更に探求
を続けて行きます。あを様よりいただいた過去のレスももう一度読み直して
みます。

 鈴木氏について、わたしのお付き合いをしている鈴木さんていう方の本家
が昔からの大地主で、ちょうど築山御前を殺害し刀を洗ったといわれる「太
刀洗の池」(たちあらいのいけ)はその所有地内であったようです。
 今まで、鈴木氏については余り関心がなかったのですが、急に興味が涌いて
来ましたので、今後は色々調べてみます。

 取り急ぎご連絡まで─
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月08日 13時05分49秒 ) パスワード

3つ柏さん!

なんと!なんと!なんと!
レス<54>でみんな繋がりがかったような?


ということは、もう1度、本当に最初っから考え直さないといけないようですね。


浜松の神服部さんより古くから  高槻の神服神社関係がらみで? 浜松に住んでいたのかも?

そして浜松の服織神社との関係は?創建 708年

    高槻の神服神社 ← 浜松の服織神社 → 出雲?  さらに  熊野神社も鈴木氏と?
    この関係が繋がると良いですね。



神社の紋については古代は紋を使用していませんから、平安時代あたりからかも、ですね?


    まず柏紋は伊勢神宮や熱田神宮の神官達が使用  その後 いろいろな神社でも使用。

    武士では最初に桓武平氏の葛西氏が文治5年=1189年=に家紋とした

    平氏では服部氏も使用 他の平氏系では豊前・久間・室・長田・飯塚・横尾・久野・堀屋
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月08日 13時19分43秒 ) パスワード

柏 紋


古代では柏の葉にご馳走を盛って神に捧げていた。
これに由来して柏が「神聖な木」と見られるようになった。
柏手を打つとは神意を呼び覚ますことをいう。

柏は神社や神家と切っても切れない縁があるようだ。
柏紋を最初に使ったのは、神社に仕えた神官だったようだ。

公家でも神道を司った卜部氏が用いた。


現在、柏を神紋としている神社は各県に一社はあるという。



主な使用家

代表的なのは、土佐山内氏と譜代の牧野氏である。

牧野氏は槙野とも称するが、槙とは神聖な木を指し、柏のことである、という。


伊勢の久志本氏は皇大神宮に奉仕し、尾張の千秋氏は熱田大宮司として奉仕をした。
筑前の宗像氏、
吉田神社の卜部氏等神官に柏紋が多い。
また、備前吉備津神社宮司の大守氏は、庵に柏という珍しい紋を使用している。


清和源氏では今井氏・神尾氏・井上氏。
藤原氏では中御門氏・萩原氏・藤井氏・高橋氏・加納氏。
桓武平氏では長田氏など。
ほかに大江氏流の境野氏が上り藤内に三つ柏紋。




柏 紋

古代、柏は食器としても用いられ、神事の際にも使われた。
そして、神官などが紋とした。


柏はブナ科の落葉中高木で、英語ではJapanese Emperor Oakと呼ばれている。
葉は大きく柔らかく弾力があり、 秋に枯れた葉が新芽が出るまでは落葉しないという特長を持っている。
この特性が、「代が途切れない」 縁起物とされて「柏餅」を包むのに用いられるようになった。

古代には柏の葉の適度な大きさから食物を盛る器として用いられ、
神に供物を捧げる際の器としても使用された。

また、樹木の葉を守護する 「葉守の神(御饌津神(ミケツカミ)」は柏の木に宿るとされ、
源氏物語の柏木の巻にも記されている。

いまでも、神社に参拝したとき神意を呼び覚ますため「柏手を打つ」が、これも柏と神との関係からきたものである。



これらのことから、柏はやがて神社の紋となり、神事に奉仕する神官や有力氏子などが家紋として用いるようになった。

伊勢の久志本氏は皇大神宮に奉仕し、
尾張の千秋氏は熱田大宮司として奉仕をし、
それぞれ柏を家の紋としている。

その他、筑前宗像大社宮司の宗像氏、吉田神社の神官 卜部氏、備前吉備津神社宮司の大守氏はなどの神官が柏紋を用いている。

大守氏のものは、 「庵に柏」という意匠で、神に御饌を供える姿を象ったものであろう。

一方、衣服の文様として古くより蔓つきの三つ葉柏が多く用いられるが、 『前九年絵巻』のなかに描かれている蔓付きの三つ葉柏が古い例である。




紀州根来寺の寺紋…三つ柏紋   根来は雑賀衆の鈴木家と関係がありますね

新義真言宗を唱えた覚鑁上人が開いた「根来寺」の寺紋は 「三つ柏」で、
境内のいたるところで目にする。

居合わせたお坊さんに 由来を尋ねたが明確な回答は得られなかった。

根来寺は、 鉄砲伝来と戦国末期に秀吉軍の攻撃を受けて一山焼き尽くされたことが 知られているが、
いまも焼亡を免れた多宝塔に当時の弾痕が残っている。


武家では、藤原秀郷流首藤氏からわかれた山内氏、
桓武平氏良文流の葛西氏の「三つ柏紋」が知られている。

山内氏の場合、土佐山内氏家譜には先祖の武功譚にちなむと記されているが、
それ以前から「三つ柏」を家紋として いたことが知られ、
時代的にはうなずけない。

むしろ、熱田神社の千秋氏との関係から柏紋を用いるようになったとする 説の方がうなずける。


山内氏は奥州・安芸・丹波地方に一族が広がったが、いずれも三つ柏を家紋としている。

土佐山内氏の柏紋は「細柏で」、とくに「山内柏」「土佐柏」と呼ばれる。


葛西氏は源頼朝の奥州征伐に従軍して功があり、その恩賞として葛西五郡、 胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿・本吉・六十六島など、宮城県北部から岩手県南部にわたる広汎な領土を得た。

奥州の新領地に下向した葛西三郎清重は牡鹿郡石巻で祝宴を開いた。

そのとき、「、空より三葉の柏が舞い下り、清重の盃に映った」これを家門繁栄の瑞祥として家の紋にしたと伝えている。

葛西氏からは江刺・薄衣・岩淵・柏山などの庶子家が分れ、こぞって三つ柏を紋としたが、
葛西氏本家の三つ柏紋は葉の先端に月星を配して嫡庶を明らかにしていた。


室町時代に成立したという『見聞諸家紋』には、
熱田大宮司千秋氏の「実付き三つ葉柏」、
宗像神社宮司宗像氏の 「一つ柏」、
さらに、水原・山内氏の「柏巴」、
雀部氏の「違い柏」、
野間・上林氏の「枝柏」、
朝日氏・清和泉守の 「六つ葉柏」などが収録されていて、
柏紋が多くの武家に用いられていたことがわかる。



■見聞諸家紋に見える柏紋


水原・山内 雀部 野間・上林 朝日氏・清和泉守


柏巴 /違い柏 /枝柏 /六つ葉柏


また、近世大名では徳川譜代大名である牧野氏の「三つ柏紋」が有名だ。

外様大名では、
豊後岡藩主の中川氏、阿波藩主の蜂須賀氏らがが柏紋を用いた。

中川氏のものは円をずらしながら組み合わせた独特の「抱き柏紋」である。
牧野は槙野とも称するが、槙とは神聖な木を指し柏と同義に扱われることが多い。

その他、清和源氏では今井氏・神尾氏・井上氏、
藤原氏では中御門氏・萩原氏・藤井氏・高橋氏・加納氏、
桓武平氏では長田氏など。
ほかに大江氏流の境野氏が 「上り藤内に三つ柏紋」を使用している。



柏紋を使用した戦国武将家

荒木氏(丹波) 岩淵氏 薄衣氏 江刺氏 小畠氏 葛西氏
柏山氏 上林氏 千秋氏 長江氏 (奥州) 中川氏 広嶺氏
宗像氏 本吉氏 山内氏(会津) 山内氏(土佐)

[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月08日 13時34分33秒 ) パスワード

蜂須賀さんは  柏でも  ふたつ柏紋  ですって。
        卍が有名ですよね。


丸に三つ柏紋 または 丸にみっつ柏紋の牧野氏は蘇我氏の末なんですって。
三河宝飯郡牧野出身。
別名、牧野柏だそうです。


土佐の山内家の丸に三つ柏紋は別名、土佐柏紋だそうです。
ここは首藤氏の支族で相模国鎌倉郡山内の出身だそうです。




旗本の服部家も。


この旗本の服部家というのが分かると良いですね。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月08日 13時51分16秒 ) パスワード

旗本の服部さんを検索しました。



1.
酒井の名が出ました。笑

服部貞勝(はっとり さだかつ、宝暦11年(1761年[1]) - 文政7年5月22日(1824年6月18日))

江戸時代後期の旗本。服部貞徳の長男。母は酒井忠香の養女。通称は久太郎、頼母、久右衛門。官位は従五位下備後守、のちに伊賀守。室は戸田氏朋の娘。子女に服部貞陽ら。



目次 [非表示]
1 来歴
2 脚注
3 関連項目
4 参考文献


来歴[編集]

中奥番・服部貞徳の長男として生まれる。寛政6年(1794年)小姓組となり、天明8年(1788年)に家督相続、1400石を継ぐ。

天明9年(1789年)に中奥番士、文化2年(1805年)御徒頭、同3年西丸目付、同4年本丸目付と昇進し、文化7年(1810年)、駿府町奉行となる。文化9年(1812年)地誌「駿河大地誌」の編纂を企画したが、11月に松前奉行に転任となった。文化13年(1816年)5月に勘定奉行勝手方兼務(松前奉行は12月に退任)となる。文政2年(1819年)閏4月に勘定奉行公事方となり、道中奉行も兼務、但し同年9月、小普請組支配となった。

文政7年(1824年)死去。墓所は世田谷区赤堤3丁目の西福寺。

脚注[編集]

1.^ 『徳川幕臣人名事典』によれば明和6年(1769年)生。

関連項目[編集]
文政丁銀

参考文献[編集]
寛政重修諸家譜
『徳川幕臣人名事典』東京堂出版、2010年



2  この人は浜松に関係する服部さんのようです
http://www.town.miyashiro.saitama.jp/www/wwwpr.nsf/155be1bc775295aa492576a50003c9bf/efcf9fdb938f49c74925705400287053?OpenDocument


[09百間陣屋と旗本服部氏]

文献史学的に旗本服部氏について分かる直接史料(旗本史料、地方史料)は幕府で編纂されたもの以外には皆無といえる。
僅かに残る地誌や家譜などから旗本服部氏を考えてみたい。



1)旗本服部氏の太田庄支配

(1)『寛政重修諸家譜』によると
服部家の祖先は、伊賀国服部(三重県上野市)の住人で、永禄3年(1560)に家康に仕えたと伝えられている。

政季(政光)は天正18年(1590)の小田原への参陣の際には、家康に従い本多忠勝の配下に属し、御使番を勤めている。

徳川家康の駿河から関東への移封に伴い、文禄元年(1592)に武蔵国太田庄の内3000石を宛がわれた。

さらに、慶長5年(1600)の上杉景勝の征伐に参陣し、この後に近江国長浜(滋賀県長浜市)に1000石の領地を与えられている。

その後、慶長19年の大阪冬の陣、元和元年(1615)の大阪夏の陣にも参陣し、同年4月26日に京都で没している。

妻は岩槻城主高力清長の女子である。

政季(政光)の子の政信は、慶長5年の関ヶ原の戦いに参陣して御使番を勤め、帰陣後に武蔵国臼井で500石の領地を宛がわれている。

慶長19年の大阪冬の陣、元和元年の大阪夏の陣にも御使番を勤めている。

同年、父の遺領のうち、3000石を相続し、併せて3500石を知行した。


        ココに注目
          ↓
その後、元和5年遠江国今切(静岡県浜名郡新居町)の関所番となり500石を加増され、采地も遠江国敷智郡に移されたと記される。



(2)『記録御用書本古文書』・・・史料1・2

▼徳川家康から服部与十郎に天正20年(1592)2月1日太田荘の内3000石を与えられたことが分かる。

                          ココに注目
                            ↓
徳川秀忠から服部権太夫に寛永2年(1625)12月11日に遠江国敷智郡に所領を与えられた朱印状が残る。



(3)『寛永諸家系図伝』によると・・・史料7
服部政光に天正19年(1591)武州太田領3000石を賜る。

元和元年(1615)政光死去、政信父の遺領の内太田荘3000石を継ぐ。

         ココに注目
           ↓ 
元和5年(1619)遠江国今切の関所番として遠江国敷智郡へ移封。



(4)『武徳編年集成』・・・史料4
▼天正18年(1590)8月武蔵太田郷3000石を服部権太夫政季が賜る。とある。

赤線部分に太田庄百間郷三千石とある。
「諸家系譜」服部与十郎政季の条 



2)太田庄百間郷の範囲

▼文禄元年、徳川家康から旗本服部政季に太田庄3000石が与えられたことが分かる。

しかし、太田庄のどこに所領があったかについては判明しない。

しかし、平成15年1月に(独)国立公文書館内閣文庫に年未詳「服部家略譜」や文化8年「諸家系譜(服部)」があることが分かり調査を行った。

その結果、服部政季・政信父子が領したのは太田荘の内百間郷3000石であることが判明した。

それでは百間郷3000石とはどの範囲をいうのであろうか。

元禄16年の「日光御成道道拵免除願」(百間村折原家文書4717)によると「先規百間村一村ニ而高弐千四百石ニ御座候」
とあり百間村は2400石であることが分かる。
残りの600石については、その後の百間村相給を考えると分かる。

                   ココに注目
                     ↓
▼寛永元年(1624)、百間村は旗本朽木氏、永井氏、池田氏にそれぞれ1000石づつに分け与えられた。

「武蔵国田園簿」によると百間村隣村須賀村には「阿部対馬守知行 弐百六石弐斗六升」とある。

「元禄郷帳」では須賀村の石高は「八百弐拾五石九斗壱升九合」とあり、
約600石の誤差が生じている。

須賀村は岩槻藩領の他、旗本池田氏・永井氏の知行地でもあった。

永井氏・池田氏との須賀村の知行地はそれぞれ300石であったことが戸田家文書(旗本永井氏)や渡辺家文書(旗本池田氏)の年貢割付状により確認されている。


一方、百間村(百間東村)の永井氏知行地は700石、百間村(百間中村と百間中島村)の池田氏知行地は700石であったことが確認されている。

これらのことからも、百間村2400石に須賀村600石を併せた範囲が服部氏の知行地であったと推定される。

                 計3000石?


黒色部分が宮代町における旗本服部氏の領地(須賀村は岩槻藩領含む)



3)百間陣屋(旗本服部氏屋敷)

服部氏の陣屋(屋敷)については、「新編武蔵風土記稿」や『百間史料』にその記載がある。



(5)『新編武蔵国風土記稿』

▼「服部氏の家譜に、権太夫政信慶長20年父政光が跡、武州太田庄3千石に自領500石を合わせ是を賜うと記せり。村内(百間村三組)に権太夫が屋敷跡あれば彼所領なるべし。」


(6)『百間史料』
▼「権太夫が屋敷跡は今の青林寺の境内及其北林是なりと云う。」と服部権太夫の屋敷が百間村の西原にある青林寺付近であると伝えられていることを記している。

▼元和5年の百間村検地帳(百間三組分)が残っていないため詳細は不明であるが元禄10年の百間村検地帳では、すでに青林寺は現在地にあることが確認されている。

検出された堀の覆土に宝永の火山灰が堆積していないことからもそれ以前に破城されたものと推定される。



4)旗本服部氏の百間郷から移封

▼『寛永諸家系図伝』によると政光(政季)の子政信が「同五年勤遠州今切関御番干時加賜五百石」とあり元和5年に遠州今切に赴任したことが分かる。

▼『記録御用所本古文書』にも寛永2年に徳川秀忠から服部権太夫宛の朱印状が確認できる。

▼これらのことから、旗本服部氏は文禄元年(1592)から元和5年(1619)まで百間郷に領地があったことが推定される。

服部政信の従兄弟である岩槻藩主高力忠房が元和5年に浜松に移封したことと関係があると推定される。

▼なお、高力忠房も寛永2年に秀忠からの印判状が確認できる。
元和5年に百間領5000石の天領(幕府領)の検地が行われているのは、旗本服部氏が百間郷を離れたためであろうか。


赤線部分が百間郷三千石と記される。(「諸家系譜」服部、服部権太夫政信の条)


        この服部権太夫政信という名前はどこかで見たような記憶が?


5)服部政光と政季について

▼「寛政重修諸家譜」や「寛永諸家系図伝」では太田庄を領したのは政光と記されるが他史料では政季と記される。

「寛政重修諸家譜」編纂にあたり服部家から出された「服部略譜」や「諸家系譜」などでも政季と記されている。

しかし、「寛政重修諸家譜」では政光となっているが、これは「寛永諸家系図伝」を引用したからであろう。

このようなことから、「寛永諸家系図伝」の編纂の際、政光と政季を錯誤し記載したものと推定される。



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[59]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月08日 13時58分45秒 ) パスワード

>鈴木氏について、
>わたしのお付き合いをしている鈴木さんていう方の本家が昔からの大地主で
>ちょうど築山御前を殺害し刀を洗ったといわれる「太刀洗の池」(たちあらいのいけ)はその所有地内であったようです


9月7日版の嵐のようなレスに関係しそうですね。
築山御前の名も出ましたし。

西遠江っていろいろな城があったのですよね。


そういう中で  鈴木家  が家康に絡んでいますね。
土地は拝領したのかもですね。

特別な立場の家だった、というのが改めて浮かんで来ますね。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月08日 14時53分03秒 ) パスワード

こんなのがありました、ということで:http://matome.naver.jp/odai/2138676775656707901



鈴木氏

古代の氏族であり、物部の伴造(とものみやつこ)として軍事、刑罰を担当した物部氏族穂積氏の子孫、

現和歌山県と三重県南部である紀伊国熊野の豪族で熊野神社勧請で広まる。

左記のように紀伊国熊野発祥の族は穂積姓、
紀伊国牟婁郡鈴木庄発祥の族は藤原南家がある。

桓武平氏千葉氏流、清和源氏松平氏族、美和下流、駿河龍、雑賀流、泡流、関東流、東北流などがある。


語源は、田の中の穂積みに立てた一本の棒、稲魂招来用で、鈴木氏はその化身とされる。

家紋は竹笹、竹に笠、笠、鷹の羽など。




高橋氏

古代の氏族であり、物部の伴造(とものみやつこ)として軍事、刑罰を担当した物部氏族の高橋連、伊勢神宮祠官、弥彦大宮司など全国的に様々な流派がみられる。

古代高橋邑人の末裔、大和国添上郡高橋発祥の高橋朝臣は安倍氏族、
三河国賀茂郡高橋郷発祥の族は藤原北家大森氏族、

遠江国城飼郡高橋郷発祥の族は物部氏族と藤原南家狩能氏族と二流ある。   ←  へえ〜

駿河国庵原郡高橋発祥の族は大宅氏族、
ほか佐々木氏流、彌彦大宮氏流、利仁流藤原姓後藤氏族、丹波の族、伊予国大三島の大祝家で越智氏族などある。

語源は、高い橋、高い柱。川に高い橋を架けることにあこがれ、また、天と地を結ぶために柱を立てることは祭祀の一つであり、高橋氏は職掌も司った。それにより氏の名や地名も発生したとされる。


[61]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月08日 17時31分09秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 まだ頭の切れが戻っておりません。頭脳のズーミングができません。
 色々お調べいただき、ただただ感謝の一言です。

 高槻(昔は高月といったそうです)の神服神社の神社紋が丸に三つ柏であ
ったという事が確認できたこと、これは衝撃的でした。今まで探求し続けて
来た謎を解く切り札に近いものと思われます。この関係を深く探求すれば、
更に何かが出てくるような予感がします。長上郡の服織神社の神社紋ないし
有力な氏子の家紋が同じであればほとんど確定となります。
 服織神社の近くのお寺にしばらく前に行き、墓の紋を調べたことがありま
すが、有力な氏子の池田氏が丸に三つ柏でありました。また調査に行って、
鈴木氏他の墓の紋・名前も調べてみたいと思っています。
[62]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月08日 21時18分42秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 [61]一部訂正します。氏子→檀家。うっかりしました。
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月08日 22時46分56秒 ) パスワード

はい、最初に戻って、考え直す、ですね。


そう言えば、池田さんのお名前も上記をコピペしている時にどこかで出ましたっけ。

   鈴木さんのお名前の時だったかも。



もう1度セットアップ、初期化して、最初っから考え直さないと
ですね。
にっこり
[64]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 04時23分38秒 ) パスワード

池田さん:
レス<58>の旗本服部氏を調べてた時に 永井さんと 池田さんの名がありました。


<58>の簡略コピペ:全文は<58>へどうぞ


旗本服部氏

(1)『寛政重修諸家譜』によると
服部家の祖先は、伊賀国服部(三重県上野市)の住人で、永禄3年(1560)に家康に仕えたと伝えられている。

徳川家康の駿河から関東への移封に伴い、文禄元年(1592)に武蔵国太田庄の内3000石を宛がわれた。

妻は岩槻城主高力清長の女子である。



    加筆します

    服部権太夫または与十郎政季(政光)の子の服部権太夫政信は、母が岩槻城主の娘。


    服部政信は慶長5年の関ヶ原の戦いに参陣して御使番を勤め、
    帰陣後に武蔵国臼井で500石の領地を宛がわれている。



         ココに注目
          ↓
その後、元和5年遠江国今切(静岡県浜名郡新居町)の関所番となり500石を加増され、
采地も遠江国敷智郡に移されたと記される。

       今切も合わせて  計  4000石  ?



(2)『記録御用書本古文書』・・・史料1・2

徳川家康から服部与十郎《父》政季=政光に天正20年(1592)2月1日太田荘の内3000石を与えられたことが分かる。

         ↑
          

        父と子

                              ココに注目
         ↑                     ↓
徳川秀忠から服部権太夫《子》政信に寛永2年(1625)12月11日に遠江国敷智郡に所領を与えられた朱印状が残る。



(3)『寛永諸家系図伝』によると・・・史料7
服部政光に天正19年(1591)武州太田領3000石を賜る。

元和元年(1615)政光死去、政信父の遺領の内太田荘3000石を継ぐ。

         ココに注目
           ↓ 
元和5年(1619)遠江国今切の関所番として遠江国敷智郡へ移封。



(4)『武徳編年集成』・・・史料4
▼天正18年(1590)8月武蔵太田郷3000石を服部権太夫政季(政光)が賜る。とある。

赤線部分に太田庄百間郷三千石とある。
「諸家系譜」服部与十郎政季の条 



2)太田庄百間郷の範囲

▼文禄元年、徳川家康から旗本服部政季に太田庄3000石が与えられたことが分かる。

   服部政季・政信父子が領したのは太田荘の内百間郷3000石



                   永井氏   池田氏  ↓
                     ↓   ↓
▼寛永元年(1624)、百間村は旗本朽木氏、永井氏、池田氏にそれぞれ1000石づつに分け与えられた。


須賀村は岩槻藩領の他、旗本池田氏・永井氏の知行地でもあった。

永井氏・池田氏との須賀村の知行地はそれぞれ300石であったことが
戸田家文書(旗本永井氏)や渡辺家文書(旗本池田氏)の年貢割付状により確認されている。

      戸田家文書  に  旗本永井氏の記録
      渡辺家文書  に  旗本池田氏の記録      
                        なんで?

      百間村(百間東村)の永井氏知行地は700石、
      百間村(百間中村と百間中島村)の池田氏知行地は700石




服部政信の<母の実家の>従兄弟である岩槻藩主高力忠房が元和5年=1619年に浜松に移封したことと関係があると推定される。


    すごいね
    従兄弟が岩槻藩の藩主なんて   この従兄弟と一緒に浜松に移封したのか。
    

    ということで、岩槻藩主が移封するのに伴って、旗本の服部氏も遠江に来たってことですね



そこで使用家紋の謎について:

    この旗本服部氏は元々は伊賀国服部の出身者
    
    旗本の服部氏が  丸に三つ柏紋を使用している  とありましたね。



伊賀者なら並び矢紋だろうと思うけど   遠江に来たことで三つ柏紋に替えた可能性もありますよね



でも服部家本家さんは  37代目  でしたっけ?どこから数えてなのかしら?
平家が没落してからなら 37代目  で数字は合いますね。
[65]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 04時37分09秒 ) パスワード

名乗りや名前がコロコロ変わるので  ↑  四苦八苦しました。汗


で、旗本服部政信の母片のお祖父さまの高力氏について調べて来ました。



高力清長

生誕
享禄3年(1530年)

死没
慶長13年1月26日(1608年3月12日)

別名
新三、与左衛門(通称)。仏高力

墓所
埼玉県さいたま市の浄安寺


主君
松平広忠→徳川家康→秀忠


武蔵岩槻藩主


父母
父:高力安長、母:板倉氏



正室:阿部道金の娘


正長(長男)、娘(服部政光室)


高力 清長(こうりき きよなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
徳川氏家臣。三河高力城主。のち武蔵岩槻藩主。島原藩高力家初代。高力安長の長男。

     三河の高力は幸田町だそうです。

        幸田町の県道483号線の高力のバス停そばに高力神社あり、高力清長を祭っている。
        また東へ100メートルほどのところに高力城址がある。
 
        この城の城主として安長、清長、正長がこの地を治めていたようだ。
        字名として高力の名は、現在まできっちり残っているわけである


家康初期から中期の重臣で、政治家・軍人として多大な功績を立てた。陪臣ながら豊臣秀吉にもその才能を賞賛されて寵愛された。


生涯[編集]

三河出身。天文4年(1535年)に松平清康が森山崩れで暗殺され、直後に織田信秀が三河に侵攻してきた際に父の安長と祖父の重長は共に戦死した[1]。このため、わずか6歳の清長は叔父の重正に養育される[1]。清長は松平広忠に仕え、天文21年(1552年)から徳川家康に仕え、駿河で人質時代を送る家康に従った[1]。

永禄3年(1560年)5月、家康に従って今川義元の尾張攻めに従い、尾張大高城の兵糧入れを行なった[1]。義元の戦死で家康が独立すると、永禄5年(1562年)の清州同盟締結の際に家康が尾張清州城に赴いた際、清長も同行した[2]。その後は西三河平定戦、永禄6年(1563年)の三河一向一揆の鎮圧戦で武功を立てた[2]。しかし清長の功績は武功より政治的な物が大きく、一向一揆鎮定後に仏像や経典の保護に努めて散逸を防ぎ、寺社を元通りに戻したという[2]。このため、翌年に岡崎奉行に任命された[2]。永禄8年(1565年)、本多重次や天野康景らと共に三河の三奉行に任命される[2]。

永禄11年(1568年)の遠州平定戦では掛川城の途上にある久野城攻めで、今川氏真の譜代の重臣・久野宗能を使者として説得し、徳川方に寝返らせた[2]。翌年の掛川城攻めでは氏真の家臣・朝比奈泰朝の善戦に遭って清長ら参戦武将は苦戦するが、長期戦の末に落城している[3]。

元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いにも参戦し、武功を立てた[3]。この功績により、遠州長上郡に100貫文の地を与えられた[3]。元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いにも参加したが、武田信玄に大敗して徳川軍は敗走し、清長は負傷し、一族や郎党が数十名戦死した[3]。天正8年(1580年)に家康より遠州馬伏塚城と鎌田郷を与えられた[3]。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が討たれると、家康の伊賀越えに随行し、小荷駄奉行として殿軍を務めたが、この時に追撃する賊に襲われて鉄砲疵を受けている[3]。同年、駿河田中城を与えられ、同時に駿河先鋒の25騎を与えられた[3]。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加する[3]。戦後は秀吉への使者を務めたが、この際に清長は秀吉に気に入られ、天正14年(1586年)に豊臣姓を下賜され[4]、従五位下河内守に叙任される[3]。この年から着工された聚楽第造営の普請奉行を務め、新藤五国光の脇差を秀吉より賜る[3]。

天正18年(1590年)の小田原征伐では、秀吉の旨を奉じた家康の使者として成瀬国次と共に小田原城に赴き、北条氏政・氏直父子と交渉している[3]。小田原征伐後、武蔵岩槻に2万石の所領を与えられた[5][6]。この際、足立郡浦和郷に1万石を預けられている[5]。天正20年(1592年)からの秀吉の朝鮮の役では肥前名護屋城まで赴き、軍船建造を担当する[5][7]。

慶長4年(1599年)に嫡子・正長が早世する[5]。このため慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は隠居し、嫡孫の高力忠房に家督を譲った[5]。

慶長13年(1608年)に中風により死去した[5]。享年79[5]。埼玉県さいたま市の浄安寺に葬られた[8]。

人物・逸話[編集]

三河三奉行の時、康景は慎重、重次は剛毅、清長は寛大と評され、「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」という様に、「仏高力」として名が知られている[2]。このように清長は正直者で知られていたが、それを示す逸話も多い。家康から岩槻2万石を与えられた際、預け地1万石も与えられた。預け地とは事実上はその責任を伴う者の領地同然で、当然収入として上がる年貢は役得として自分の物としてもさして問題ないのだが、清長は預け地の年貢を1度も自分の手にすることなく直接江戸へ運ばせた[5]。文禄の役で軍船建造を担当し、余った建造費である金20枚を家康に返上しようとした際も、その正直さに感激した家康はそのまま褒美として与えている[5]。

豊臣秀吉も清長を陪臣ながら寵愛して重用した。秀吉が岩槻に立ち寄った際、その饗応に秀吉は感心し、庭前の萩の花を詠んだ和歌を清長に与えた[5]。

脚注[編集]

出典[編集]

1.^ a b c d 山下昌也 編『家康の家臣団 - 天下を取った戦国最強軍団』学研M文庫、2011年、p.134
2.^ a b c d e f g 山下昌也 編『家康の家臣団 - 天下を取った戦国最強軍団』学研M文庫、2011年、p.135
3.^ a b c d e f g h i j k 山下昌也 編『家康の家臣団 - 天下を取った戦国最強軍団』学研M文庫、2011年、p.136
4.^ 村川浩平『日本近世武家政権論』P38
5.^ a b c d e f g h i j 山下昌也 編『家康の家臣団 - 天下を取った戦国最強軍団』学研M文庫、2011年、p.137
6.^ 『寛政重修諸家譜』
7.^ 『寛政重修諸家譜』
8.^ 『寛政重修諸家譜』

参考文献[編集]
書籍山下昌也『家康の家臣団 - 天下を取った戦国最強軍団』学研M文庫、2011年
史料



ということは、旗本服部氏はもともとは家康の家来だった三河の服部さんでしょうね。

通字が「政」の字ということは  伊賀の服部半蔵家の通字の「正」に遠慮して  だったかも。

服部半蔵とはちょっと遠い関係だったのかなと思います。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 05時09分59秒 ) パスワード

とにかく  丸に三つ柏紋使用の旗本服部家  が存在する。断定!



<58>の旗本服部家が丸に三つ柏紋を使用していたかどうか?

<58>の旗本服部家は  元々は伊賀の服部  の出身。

        そうなると普通は並び矢紋ではないか?
        通字が正の字でないことも少々謎。


        しかし戦国時代に三河国幸田字高力から嫁をもらった。

        ということはこの時には既に家康・松平家に仕えていた?

        その前は家康と共に駿河国に一緒にいた?
        または今川家に仕えていた?
          


この家のことが分ると良いですね。



この能役者父子はたびたび遠江に来てた?

宝永5年1708年  新城能

  菅沼家二代目城主定易(さだやす)の許しを得、遠州三ヶ日の喜多流能役者服部三左衛門正信(伊勢国菰野の藩士で宗家二代目左京直能の弟子。しばらく三ヶ日の大福寺に寓居していた。)と友清親子が新城裏野(本町)で勧進能を2月9日から12日にかけてひらいたところ好評により22日まで延長しました。

[67]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 05時54分15秒 ) パスワード

すごいのが見つかりました!

長上郡の服部家!
お旗本でした!


服部家
3,000余石
遠江国敷知郡・長上郡内伊賀服部惣領家。
天正10(1582)年、徳川家康の伊賀超えに従う。



伊賀服部惣領家?
これが服部家の本家さん?




以下遠江国内に知行地を頂いてた旗本をコピペ。
その他の旗本、その他の国のは割愛します。

秋元家
4,000石遠江国豊田郡内初代・秋元忠朝が徳川家光に近侍し、累進する。


井上家
4,000石丹波国氷上郡、常陸国真壁郡、遠江国城東郡内徳川氏家臣・井上清秀の子・井上重成は幼児より徳川家康に仕えた。一時、勘気を受けたが、寛永2(1625)年に召し出された



大草家
3,500石遠江国榛原郡・豊田郡・山名郡・城東郡、駿河国志太郡内初代・大草高正[19]の義母・大草局[20]の縁で徳川家光の抱守を勤め、700石。二代・大草高盛は累進し、800石、後に1,000石加増。三代・大草高忠が1,000石加増され、寄合に列する。



大久保家
3,000石遠江国城東郡、相模国淘綾郡・大住郡、武蔵国入間郡・多摩郡・荏原郡・都筑郡・埼玉郡、上野国邑楽郡、下野国安蘇郡内初代・大久保長重が慶長8(1603)年に召出されたが、大久保忠隣の改易に連座し、一時蟄居した。



太田家
3,000石遠江国城東郡、武蔵国多摩郡、相模国愛甲郡・高座郡内徳川家宣の側室右近の方[21]の実家。宝永3(1706)年に召出される。


近藤家
5,400余石遠江国引佐郡・長上郡・豊田郡、相模国大住郡・愛甲郡内三河譜代。旧・遠江井伊谷藩主家。


近藤家
5,000石遠江国引佐郡・豊田郡・麁玉郡、相模国愛甲郡・大住郡内寛永8(1631)年、本家・近藤秀用の遺領を近藤用将[34]が本家より分知される。



近藤家[7]
4,300石信濃国伊那郡内美濃国内1万石を領した近藤政成[35]が没し、嗣子近藤重直が幼少により半知減封され交代寄合となる。重直の死後、子の近藤重信が4,300石を相続し、弟の近藤重郷に700石を分知して4,300石となった。四代・近藤政徳にときに寄合に移った。


近藤家
3,000石遠江国引佐郡・敷知郡・長上郡・豊田郡・佐野郡内寛永元(1624)年、交代寄合旗本近藤用可[36]の長子・近藤用行が2,000石を分知される。寛永8(1631)年、祖父・近藤秀用の遺領のうち400石を分知される。寛永10(1633)年、500石を加増され、新田を加えて3,000石となる。



杉浦家
3,500石駿河国富士郡・、遠江国佐野郡内徳川綱吉に従い、上野館林藩臣より移る。



菅谷家
4,500石遠江国山名郡・豊田郡内常陸小田氏旧臣。文禄元(1593)年に召出される。



曽我家
6,500石駿河国庵原郡、美濃国方県郡、相模国高座郡、遠江国佐野郡内徳川綱吉に従い、上野館林藩臣より移る。



高木家
4,000石遠江国豊田郡・榛原郡・周智郡内三河譜代。初代・高木広正は武功を重ねる。広正、二代・高木正綱は忍城番を勤めた。



土屋家
3,000石遠江国周智郡内土屋氏惣領家。延宝7(1679)年、上総久留里藩主土屋直樹が発狂・不行跡で改易。子・土屋逵直が名跡相続した。


長谷川家
4,000余石遠江国城東郡・山名郡・豊田郡内初代・長谷川正吉は徳川秀忠に近侍し、加増を重ねる。



                   ココですよ〜

服部家
3,000余石遠江国敷知郡・長上郡内伊賀服部惣領家。天正10(1582)年、徳川家康の伊賀超えに従う。


花房家[7]
5,000石遠江国豊田郡・周智郡内備前宇喜多氏旧臣。家中内訌により、徳川氏に従う。初代は花房正成。



北条家
3,400石→1,400石遠江国豊田郡・周智郡・長上郡内小田原北条氏一族[56]。嘉永7(1854)年、1,400石に減知。文久元(1861)年、甲府勝手小普請[57]を命ぜられる。



本多家[7]
4,200余石遠江国城東郡、伊豆国君沢郡内正保2(1645)年、三河岡崎藩主本多忠利の長子・本多助久が本藩より分知される。



本多家
3,000石安房国朝夷郡、遠江国山名郡、下野国塩谷郡内旧・下野宇都宮藩主本多正純の名跡。正純の子・本多正勝の次子・本多正之が寛文4(1664)年に赦免される。本多家
廩米500俵旧・遠江相良藩主本多兵庫家名跡。明和5(1768)年赦免。天明8(1788)年、本多忠央の養子・本多忠由[62]が再興。



五井松平家
5,500余石遠江国長上郡・豊田郡・引佐郡・周智郡内五井松平氏惣領家。


長沢・大河内松平家
5,000石遠江国山名郡・周智郡・豊田郡・佐野郡内寛文12(1672)年、武蔵川越藩主松平信綱の四子・松平信定が本藩より分知される。



長沢・大河内松平家
新田3,000石遠江国長上郡・豊田郡、三河国幡豆郡内享保5(1720)年、上総大多喜藩主松平正久の三子・松平正佐が本藩より新田分知される。


宮城家
4,000石遠江国城東郡・榛原郡内近江国旧族。豊臣氏旧臣。慶長16(1611)年に召出される。室賀家
5,500石遠江国山名郡・城東郡・佐野郡、美濃国各務郡内徳川綱吉に従い、上野館林藩臣より移る。



米津家
4,000石遠江国城東郡・山名郡、三河国宝飯郡内貞享元(1684)年、武蔵久喜藩主米津田盛の次子・米津田賢が本藩より分知される。



渡辺家
3,100石遠江国山名郡・豊田郡内天正19(1591)年、初代・渡辺宗綱[67]が召出され、累進して加増を重ねる




出典:

旗本寄合席

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC%E5%AF%84%E5%90%88%E5%B8%AD


旗本寄合席(はたもとよりあいせき)は、江戸幕府の3,000石以上の上級旗本無役者・布衣以上の退職者(役寄合)の家格。正しくは、寄合という。

旗本の家格にはほかに高家・小普請組がある。若年寄支配。交代寄合は旗本寄合席に含まれ、寄合御役金を支払うが、老中支配である。幕末には交代寄合を含め180家存在した。


概要[編集]

享保4(1719)年6月、留守居支配(留守居は老中支配)より若年寄支配の寄合となり、元文5(1740)年、3,000石以上の旗本を全て寄合とした。

寄合の基準は以下のとおり。
家禄3,000石以上
家禄3,000石以下であっても留守居・大番頭・書院番頭・小姓組番頭の次代は寄合に入る
家禄3,000石以下でも交代寄合は寄合に入る[1]
家禄3,000石以下布衣以上の役職を勤め、無役となった者は役寄合として寄合に入る
例外として、旧大名の金森家・本多家(本多忠央系)は寄合に入る[2]
例外として、仙台藩伊達家縁家である田村家[3]は寄合に入る

ただし、3,000石以上であっても表高家に属する者は寄合に入らない

寛政2(1790)年に寄合より非役職の寄合肝煎が選出され、寄合より役職・出役への推薦・斡旋を行うようになる。小普請金にあたる、寄合御役金は100石に付き金2両の割合で8月と2月の分納であった。

旗本寄合は、寄合肝煎の調整・指示のもと、駿府加番[4]・江戸城門番[5]・中川御番[6]を交代で勤務していた。



おもな旗本寄合の一覧[編集]
※『国字分名集』(文政10(1827)年)による
以下は上記URLへ
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 06時00分50秒 ) パスワード

長上郡の名家服部家は伊賀越えに功有りとして旗本だった。


   では何故丸に三つ柏紋?

   伊賀服部って書いてありますよ。


   どこで紋を替えた?
   信康を殺した時?


   それとも前々から三つ柏紋だった?
   服織神社から貰った?
   長上郡の織物関係で名家だった服部家と縁を結んだ?
      地取り・血取りという親戚関係を結んだ?


かなり迫りましたね。
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 06時08分40秒 ) パスワード

復習


服部半三(あるいは半蔵)。石見守と称す。服部保長の子。

先祖が伊賀国阿排郡服部を領し、以来、服部を家号とする。

父保長(半三、石見守、浄閑)は「寛政重修諸家譜」によると、<万松院義晴に仕え、安綱の刀を与えられる。その後三河国に来たり、清康君、広忠卿、東照宮に歴仕し、のち致仕す。某年岡崎において死す>とあります。

正成も父の遺領を継ぎ、三河国西郡宇土城の夜討ちに際し、伊賀の忍者6,70人を率い戦功を上げ、

遠江攻略の諸戦にも従い、殊に永禄12年(1569)正月の掛川城攻めに本多重次、渡辺守綱らと諸軍を率い接戦する。

その後も元亀2年(1571)12月三方が原の合戦において功を上げ、家康公から槍一筋を賜り、この時伊賀喪の50人預けられる。

天正10年(1582)、本能寺の変の時、家康公は信長の勧めにより泉州堺におり、急遽三河に帰還することになるが、この伊賀越えの危難に際し、正成の本国が伊賀である事から、家康公を伊勢白子まで、無事補導したという。


     へえ〜   ココで長上郡に留まった?
      ↓
後に遠江国内で八千石を与えられ、天正18年(1590)関東入部の際、与力30騎・伊賀同心200人を支配した。


服部正成は忍者として有名ですが、実像としては武将ですね。


この頃歌われた麦搗き歌に

「徳川殿はよい人持よ 服部半蔵 鬼半蔵 渡辺半蔵 槍半蔵 渥美源吾は首切源吾」とあったという(「三河物語」)。


半蔵のエピソードでは信康切腹事件は欠かせないでしょう。

「初め半蔵は御自裁の様見奉りて、おぼえず振い出て、太刀とる事あたわず。山城、見かね御側より介錯し奉る。後年、東照君(家康公)、御雑話のおりに、半蔵かねて剛強の者なるが、さすが主の子の首打には腰を抜かせしと宣いし」

(「寛政重修諸家譜」)

「(天正)7年9月15日、岡崎三郎信康君、御ことあるのとき、仰せを受けて天方山城守通綱とともに、そのことにあずかる。正成、これを本意なきことと思い、のち信康君のために麹町において一寺を建立し、安養院(のち西念寺)と号し、尊牌を安置す。」(「寛政重修諸家譜」)


徳川16神将の一人
矢車紋

[70]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月09日 13時01分43秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 本日は朝からカンファレンスがあり、開くのが遅れました。
 ただ、開けてみると、ビックリ仰天、
  エエエッ・・・
 と思わずその世界に吸い込まれてしまいました。

  一体これは?・・・確かに初めから見直すということであったが・・・

 旗本服部氏:

  1.服部正信(権太夫)。服部与十郎政季の嫡男。関ヶ原の戦い、大阪冬
   ・夏の陣に出陣。遠江敷智郡に移封。3500石の旗本。

 そして、

  2.服部半蔵、武将で旗本。    
    伊賀服部惣領家として遠江長上郡・敷智郡に3000石。
    家康の伊賀越えに同行。後8000石に加増される。
    情報を司るいわばCIA長官。
    

 こんな情報は誰も知らなかった、見たことがなかったのではないか。

 さすが歴史博士のあを様、今回は鳥肌が立っています!

 更に、高力清長!

 私はこの方に全面的に共感・共振してしまいました。
  1,竹千代の付き人として今川家で世話をする。
  2.姉川の闘い後、遠江長上郡に100貫地の地を与えられた。
  3.家康の伊賀越えに同行。
  4.文禄の役で軍船建造。
  5.清廉潔白。
  6.仏心あり。
 家康と一心同体ではないですか。

 服部半蔵も家康と一心同体と言ってもいい。

 そして更に、高力清長の娘が1の服部権太夫正信の母。

 正信は秀忠に仕え、敷智郡に所領をいただく。

 秀忠の実質的な義父に服部正尚がいる。西郷の局の実質的養父である。
 正尚は天竜川河口の掛塚で一時鍛治屋をやっていたという。それは則ち
船を造っていたということになる。天竜材木で船を建造していた。建造する
のに、特殊な鉄の釘が必要なのである。
 文禄の役でも掛塚で造船がされたと推測する。船造りは熊野水軍の影響下
にあったと思われる。遠州は熊野から来た鈴木氏が全国で一番多い。という
ことは当然熊野水軍と結びつく。

 高力清長は文禄の役で軍船の建造を担当。ということは、服部正尚ともつ
ながり、また同じく文禄の役で水軍を担当した加藤光泰ともつながる。

 ここ遠江では、家康を中心に、服部半蔵、服部正尚、服部正信、高力清長、
の服部グループが大活躍、というよりも影で動かしていたのかも知れない。
そして豊臣家臣団の加藤光泰等ともつながっている。
[71]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 13時51分18秒 ) パスワード

>高力清長は陪臣ながら豊臣秀吉にもその才能を賞賛されて寵愛された。

   加藤光泰の父上とも繋がりがあったのかもですね。



>私はこの方に全面的に共感・共振してしまいました。

   多分、3柏さんのお家が高力家と何らかの関係があったからと思います。
   調べてみたら何か出て来るかも。



>服部正尚
>船造りは熊野水軍の影響下にあったと思われる。
>遠州は熊野から来た鈴木氏が全国で一番多い。
>ということは当然熊野水軍と結びつく。

ですね。
家康と鈴木家との関係も調べたら何か出て来るのかもですね。


>高力清長は文禄の役で軍船の建造を担当。
>ということは、服部正尚ともつながり、
>また同じく文禄の役で水軍を担当した加藤光泰ともつながる。

ですね。



なんか長上郡で皆さんが繋がるのかもですね。


それにしても三河衆は大変な苦労をして家康を盛り立てて幕府を樹立させたのですねえ。



そういえば、有名ではないけれど、尾張の服部家も伊勢長島一揆の時に「服部水軍」と呼ばれているのを目にします。

   信長の前にはボロボロでしたが。
      ホンヤさん、ごめんなさい。

[72]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 14時03分05秒 ) パスワード

「歴史は小説より奇なり」
井田信宏


http://books.google.com/books?id=rVaoLTKsgxIC&pg=PA33&lpg=PA33&dq=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%B0%9A%E3%80%80%E3%81%AF&source=bl&ots=_h3w_OLagk&sig=Vo37666UOuK1PrsL6PTL56FjcxE&hl=en&sa=X&ei=aYcOVPrlBZCvogTBUA&ved=0CGAQ6AEwCQ#v=onepage&q=%E6%9C%8D%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%B0%9A%E3%80%80%E3%81%AF&f=false

ここの33ページ目。
縦書きでコピペが出来ませんが


家康が37歳の時に、服部正尚を訪問して、その時にお茶を出したのが後に西郷の局となるお愛の方で
歳は17歳で後家になっていたのを側室とし

当時はまだ築山殿が生きてて、それでお愛の方を浜松に置いていて

秀忠が生まれたのが4月で
その年の夏に築山殿と信康が殺された

と書かれています。


ビックリです。
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 14時12分50秒 ) パスワード

西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年) - 天正17年5月19日(1589年7月1日))

戦国時代・安土桃山時代の女性[1]。父は戸塚忠春という。
通称はお愛の方。
徳川家康の側室であり、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠、松平忠吉の生母として知られている。
院号は竜泉院、宝台院。


生涯[編集]

三河西郷氏は、菊池氏の一門で三河守護代として三河守護家に従い三河国へ移住した者の末裔と伝えられている[要出典]。

三河西郷氏は現在の豊橋市西郷校区辺りに本拠を置いていた。

2代征夷大将軍徳川秀忠生母西郷局(名は愛)を出した外祖父・西郷正勝の頃には、三河での影響力は今川義元の傘下で命脈を保っている程度にしか過ぎなかった。

母は今川氏の命であろうか、遠江国の住人戸塚忠春に嫁している。


成長して最初の夫に嫁したものの、先立たれて寡婦となっていた。

そこを、同じく正室に先立たれた従兄・西郷義勝の継室に望まれたという。
     ということは家康は3度目の夫?驚


義勝との間に一男一女をもうけている。一説には義勝が最初の夫であるとも言われる。



元亀2年(1571年)、武田氏の先遣・秋山虎繁の南進を阻むため、縁戚・野田菅沼氏に協力した竹広合戦で、義勝が落命する。

     ここに菅沼氏の名前が出てますね。

     後の世に、能役者の服部父子がお世話になってたのも菅沼家でしたよね。


またしても未亡人となったが、彼女の産んだ男子は幼過ぎて家督が継げなかった。


やがて、母の弟・西郷清員の養女として徳川家康の側室に望まれ、秀忠、忠吉を産んだ。

しかし、天正17年(1589年)に38歳の若さで死去した。死後の寛永5年(1628年)になって、正一位が贈られた。


西郷局は美人で、また温和誠実な人柄であり、家康の信頼厚く、周囲の家臣や侍女達にも好かれていた。

また強度の近眼であったらしく、とりわけ盲目の女性に同情を寄せ、常に衣服飲食を施し生活を保護していた。
そのため西郷局が死去すると、大勢の盲目の女性達が連日、寺門の前で彼女のために後生を祈ったという。


なお、不確定ではあるが西郷局の死因は、
罪が不確定のまま殺害された家康の正室築山殿に仕えていた侍女の殺害、毒殺という説もある。



秀忠の異父兄に当たる彼女の残した男子は徳川頼宣付けになるなど、西郷一族は秀忠の治世で優遇される。しかし、秀忠が家康ほど長命でなかったため、その栄華は極めて短かった。

叔父・清員の家系が、安房国東条藩の大名に取り立てられたのが最高である。ところが時代が流れて綱吉の頃には勘気を被って大名の座から転落、5000石の旗本となっている。

家宣の頃に5000石を復権し、1万石に回復するが、その5000石もいとも簡単に失い、元の5000石に戻ったといわれている。


脚注[編集]

1.^ 小林貞美・牧野登 『西郷氏興亡全史』 歴史調査研究所、東京、1994年、 613。
[74]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 14時34分50秒 ) パスワード

レス<68>の
長上郡の名家服部家は伊賀越えに功有りとして旗本だった

というのは案外  服部正尚  関係の一族かもですね。
ということで調べて来ました。再び、驚きですよ〜



正尚には男子が数人いて

長男惣右衛門は忠吉に仕え、のちに尾張藩に根を張る。
男子が2人いて不明
末子は平四郎・笠蓑之助と改名  猿楽の人。宝生座の人

      つまり100年後、菅沼家に能をしに来た伊勢菰野の能役者父子はこの第4子関係者?


正尚は老齢のために隠居して、(青山家を継いだ)弟に将軍家の近習を任せた。

                       ↓

             正尚の弟・七右衛門 成重  は  青山氏を号す。



復習:

青山成重
(あおやま なりしげ、天文18年(1549年) - 元和元年9月7日(1615年10月19日))

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。

江戸幕府老中。服部氏の一門・服部正信(平蔵)の次男。

母は青山忠教の娘。
正室は常岡当自の娘。
子は成次(長男)、娘(浅羽幸正室)。

兄に服部正尚。七右衛門。図書助。


元亀2年(1571年)、母の従兄の青山忠重が戦死し、子がなかったため、主君徳川家康の命で青山氏を嗣いだ。


徳川秀忠の後見役となった。

天正18年(1590年)の家康関東入封の際に下総国香取郡に3000石を与えられた。

慶長6年(1601年)に2000石を加増、さらに慶長8年(1603年)12月25日に下総国内において5000石を加増され、石高が1万石に達したため下総飯田藩を立藩した。

慶長13年(1608年)、老中に就任するが、
大久保長安の子成国を養子にしたことから、
慶長18年(1613年)の大久保長安事件に連座し、罷免、改易される。

7000石を減知され、飯田の地に蟄居した。

大坂の役では本多正信に供奉を懇請して武功を挙げて挽回を図ろうとしていたが、
結局赦免されることのないまま死去した。


3000石は成重が赦免されず死去したため、収公となったが、
改めて嫡男の成次に新知1000石が与えられ、
子孫は旗本として存続する。

成次の子青山成政の代に1200石となり、4代あとの青山成存は勘定奉行になっている。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 14時46分48秒 ) パスワード

長上郡の服部家は  いろいろあったから   憚って  長上郡のただの名家になっているのかもね。


本当にいろいろあったのですものね。


特に大久保長安事件で服部氏は失脚してますから。
青山家も連座してしまって。


だから  「うちは・・・」という自慢話は極力されないように努力して来たのでしょうね。
知ってる人が知っていれば良い、と。

子孫に伝えていくと、どこかで、足を引っ張られるかも知れないですものね。
[76]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月09日 15時55分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 確かに、いろいろ状況が変わって行きます。忍者の系統の服部氏一族は、
何者かによって粛正されて行く。その裏には、大きな秘密、体制の維持には
都合の悪いことがあったのだと思われます。その辺の影響は長上郡において
もあったのかも知れません。ある意味で敗者になったということかも知れま
せん。

 それは、金山に関係しているのか、家康影武者説に関係しているのか、天海
光秀説に関係しているのか、はたまた・・・

 謎は一杯ありますね。

 それでも、浜松の歴史はそんな秘められた過去の出来事とは無関係に流れて
行きます。特に影で暗躍した忍者達の生涯・生き様は正に草場の露として消えて行ってしまいます。いったい忍者達はどんな動きをしたのか、よみがえらせたい・・・。

 掛川の西郷には忍者が住んでいて、何かあれば200人位はすぐ集まったと言われています。家康も浜松城にばかり住んでいたわけではありません。磐田の家康御殿にも暮らしていた。天竜川という要害も戦略の1つとして計算していたと思われます。鷹狩りが好きでということですが、何か秘密がありそう。
いつも身の危険は感じていたと思いますし、他国の忍者は常に隙をうかがって
いたと思いますので。

 少し、頭のズーミングが戻って来ましたので、家に帰って何かテーマをまと
めます。
[77]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 22時22分04秒 ) パスワード

情勢が変わって来ました。
キリの良いところで新しいスレッドをお立てになってくださいね。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月09日 22時51分37秒 ) パスワード

もともと長上郡には

   神服神社系の一族  服部氏  が和銅時代以前にいた  服織神社創建

   その後  他氏族の服部氏もやって来た  職業系服部氏も来た

   平家も来ていた
        治承4年には駿河に平時盛 三河に知度 伊豆を時兼が受領したから平家系の服部氏もいたであろう

   源平戦で負け肩身狭く土地を守った  鎌倉幕府系  源氏系

   平安時代末期に  神服部神社が出来た  神服部氏

   南北朝時代   入り乱れた

   戦国時代 今川系 のちに 松平家がらみ 

   江戸時代初め  大久保長安事件が起き、政治的にゴタゴタした

 
   江戸時代末期  長上郡に5名家有り  と記された

こんな流れでしょうか?
[79]箱柳永田さんからのコメント(2014年09月10日 00時18分37秒 ) パスワード

 三柏服部様 54にレス
永井(摂津)は大浜の(丸に剣柏)長田重元(永井直勝の親)に行き着きます。
長田諸家は蔦柏、三柏及び並び柏、違い柏等 伊豆から伊勢伊賀まで広く生息しています、御殿場、山中湖村には特に集中したところがあります。
 
私が出会った中には、大浜対岸の武豊に丸に三柏の永田氏が10軒くらいあるのです、また知多半島先端まで永田諸家は分布しています。今は分家の長田氏から改名した永田久琢(ひさかつ)が織田信雄の部下として 一時期、半田市の乙川付近で千五百貫を領していた事があり、この系統の子孫と(この地域では有名な大橋さん等に出会ったりしますので、津島大橋を連想してます)
南朝がらみと、伊勢湾交通の仲間として、、、と多方面から再考中です。
 長田の伝承では三河湾だけでなく駿河伊豆まで船で活躍したと、、、で
調べてみると、大規模な津波で静岡の港、伊勢志摩の港は壊滅状態で知多三河の港は被害は軽微との記述があり、嘘ではないが、、鳥なき里の、、みたいです。
 池田輝政の弟長吉の鳥取藩家老荒尾は旗本永井氏からの養子が入っています、
 荒尾氏の勢力範囲に直勝庶子の家(永井荷風を排出)があり豪農、塩問屋として明治を迎えています。
 池田恒興を永井直勝が討つ、は、仇以外にもっと強いつながりがありそうです
輝政が直勝の俸禄の低さを 父親の評価の低さとして 直勝の昇給を暗に迫ったと解釈する。と私は見ています。
この藩に所属する永田穂積之助 藤丸の中に横木瓜(長篠の戦に鳥居の与力)があり、鳥取県歴史博物館で調べたところ三河鷲塚永田家次の子と記載があり、
どのような経緯で辿り着いたか?疑問が増えています。
  余計に混乱したら、ごめんなさい。箱永

 
  
[80]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月10日 05時29分18秒 ) パスワード

箱崎永田様

 貴重なお話、ありがとうございます。

 当地には加藤・服部・永井・鈴木・松島の5姓が昔からあり、その謎を解明
するのも私の興味の一つとなっております。

 永井は長田から改名したと聞きますが、長田から永田へ改名というのもなる
ほどと思いました。長田=永井=永田。当地に長田は少数ですがおられます。
永田については他の地域におられます。
 長田・永田氏が丸に三つ柏、船で活躍、といいますと柏紋は海のお守り的な
象徴として使用されたのかも知れませんね。

 いずれにしても、当地に永井氏がいるというその由来が知りたいと思って
おります。神服神社と服織神社では、摂津と長上はつながっているようです。
 また、高槻に上宮天満宮というのがあり、永井直勝がその拝殿や石鳥居を
建てております(永井氏は永井神社として祀られる)。この地にも天満宮があ
り、普通は八幡宮が多いのに何でなのかなと疑問を抱いております。永井氏
とのつながりかなと微かな希望を抱いております。

[81]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月10日 06時38分06秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 私の理解力が足りませんでした。あを様が言っておられる長上郡の旗本の服部
は、服部権太夫正信のことで、その父親は服部政秀、そしてそのまた父親は、何と、何と、服部左京亮友定だったではありませんか!

 なんと遠回りして来たことやら、あを様と私はひょっとすると縁続きになる可能性が出てきました。あを様のいわれるようにその旗本が柏紋を使っていれば正にその可能性は高くなる。正信はこの地で終焉していることは確かなようです。その子孫については今の所調べていないのでわかっていませんが・・・ひょっと
すると?

 当家が何で丸に三つ柏かの疑問。何で服部かとの疑問。長上の服織神社と何
らかの関係があるのかの疑問。鈴木家との関係。何で近くに天満宮なのかの疑
問。加藤光泰の身内と5姓との関係。定明寺との関係・・・等々。

 その疑問を解くキーワードは、やはり「服部」と「家康」です。家康と各
武将との関係、家康が服織神社によく祈願したということ。そしてこの地には
半蔵正成・正就親子をはじめ、三方ヶ原の戦いで討死した正成の兄の保正、
秀忠の実質的義父になる正尚、そして旗本政秀・正信親子・・・その他「服部」
関係者がたくさんいたということ。

 何かつかめそうでつかめないもどかしさはありますが、それなりの「空気」
のようなものは感じられ、もう少しのところまで来ているような気がします。

 高力清長に共感・共振したのは、よく調べると祖先が熊谷直実であったとい
うこと、なぜ高野山の熊谷寺に私が3回も泊まったのか・・・何かエニシがあ
ったのかも知れません。服部政秀の側、正信の母が高力清長の娘であったと
いうこと・・・。

 今度の週末は、少し現地調査をしてみます・・・。
[82]丸三柏服部さんからのコメント(2014年09月10日 06時42分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 スレッドを立ち上げましたので、「長上郡の服部氏族]」の方でよろしく
お願いします。
[83]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月10日 13時26分54秒 ) パスワード

3柏さん


了解です。


と言いつつ定明寺について記します:

http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4e3f6eacb3322.html



定明寺
じょうみょうじ


郵便番号
431-3107

所在地
浜松市東区笠井町1202

時期
室町時代末期(開創)



定明寺とは

室町末期に土豪笠井備後守定明が開基となり創立された。
定明寺という寺号も備後守定明の法号である「定明院殿道栄(じょうみょういんでんどうれい)」からとったもの。


本堂は江戸時代の後期に建てられた入母屋(いりもや)作りで再建当時は草葺きであったが明治に入って瓦に葺きかえられた。



位牌・碑など

定明寺の位牌堂正面に、江戸時代中期の姫路家中笠井佐左衛門が先祖の霊を供養するために納めたものといわれ伝えられている「定明院殿・一心院殿尊儀」と刻まれた位牌がまつられているが、その裏面には「施行播州姫路家中笠井佐左衛門」と記されている。


境内には筆子などによって建てられた福来寺十世福田観了(ふくでんかんりょう)和尚の碑や、

    

池田庄三郎勝彦の墓、    ←  豪商の池田さんが出てます

浜松藩領内において独礼の格式を持っていた旧家山下左次兵衛の五輪塔、

また俳人内藤彦端こと酔春亭左光の七回忌にあたる文政7年9月に門人たちにより建てられた左光の墓石があり、
側面に「葡萄の実熟したりけり珠の色」の句が刻まれている。



関連項目

定明寺には紺女郎キツネの伝説が残っており、紺女郎キツネをまつってある金如呂(紺女郎)稲荷がある。



参考

『遠州の古寺』(静岡郷土出版社)
『はままつ歴史発見』(静岡新聞社)
『浜松の史跡』(浜松史跡調査顕彰会)




江戸時代後期の浜松藩御用商人の初代。通称池田庄三郎、名は勝彦といい、稲荷明神の神官も勤めていた。
俳諧を江戸の鳥酔に学び、鵞群堂と号した。1864(元治元)年頃から浜松を中心として開かれた国学研究会は池田百洲の別荘比礼廼舎(ひれのや)で行なわれた。
百洲は一面和歌もたしなみ、兄弟子竜庵百明と親しい。
1806(文化3)年5月14日に51歳で他界。定明寺に葬られている。



参考

『浜松の史跡 続編』(浜松史跡調査顕彰会)
『浜松歴史散歩』(静岡新聞社)



浜松藩の御用商人を務めた池田家は代々庄三郎を名乗り、勝定の代に笠井から元魚へ移った。

歴代城主から400石士分として苗字帯刀を許され、全国長者番付にも載る豪商であった。 

勝定は早くして風流の道に入り、池町の芳蘚寺で隠居生活を送る。
子の勝道は勤皇の志が篤く遠州報国隊と行動を共にするが、徳川恩顧と井上藩士分の身を自覚して名は残していない。

しかし、11万両の現金と全財産を朝廷と勤王の志士に寄付して裸一貫となった。

後に東京へ移り、司法省の権判事補となる。

墓は高輪泉岳寺にある。 



もう1つ

歴代は池田庄三郎の名乗りを襲い、笠井村(笠井町)に居住した在方商人で、油・綿・米・の売買を営み、
笠井市場に参画し、やがて村役人層に上昇して、各浜松藩主から受ける待遇も累進していったようである。 

嘉永・安政期に、兄の庄三郎勝道・弟の庄次郎勝古がでて、
井上氏の藩政下にあって経営規模を広げて、
ついに「日本諸州長者番付」に載せられるように至り、
維新期の遠州報国隊の資金として、壱千両をも提供したといわれている。

なお、その当時兄の庄三郎勝道が、芳蘚寺の庫裏を一人で寄進した篤信でもあった。
芳蘚寺で弔い現在もお墓がある。





沢田寧は今の引佐町の生まれで、親と共に浜松へ移り元魚の池田庄三郎の屋敷跡で弁護士を始めた。

行政にも興味を持ち、浜松町議会議員を皮切りに、明治24年(1891)には第5代の浜松町長にもなった。同35年(1902)には衆議院議員にも当選し、時の大問題であった鉄道院工場の浜松誘致に心血を注ぎ、実現させた。

その後の日糖疑獄事件で失脚するが幸せな晩年を送り、   ← あらあら

昭和12年(1937)、86歳で没した。 浜松城公園には寧の頌徳碑がある。


[84]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月10日 13時50分41秒 ) パスワード

レス<81>について


XIよりコピペ:http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101356_64.html


久居の服部さんへのレスでアップした「服部姓の人々」のことですね。



服部 友貞 はっとりともさだ (服部左京亮)   ←現在の尾張服部家のホンヤさんの家はこの人の弟


尾張・弥富の土豪、   ← わたくし的には土豪はひどいけど、ホンヤさんは自嘲気味におっしゃいます。
              お心が広いので。イギリス紳士のような方でいらっしゃいます

織田信秀の家臣服部政家の子、友定ともいう、
通称・左京亮、

父の死後に伊勢・北畠家に仕え、桶狭間の戦いでは今川方に属す、
義元の討死によって尾張に引き上げる、

その後長島一向一揆に与して織田信長に対抗した、のちに信長の謀略にかかり自害。

    員弁の米野というところにお墓があります。8坪だって聞いたかな?




服部 正重 はっとりまさしげ
服部半蔵正成の次男、関ヶ原で抜け駆けの功名をたくらんだため徳川家康の勘気にふれ蟄居を命じられる、その後許されて大久保長安預かりとなった、長安の娘を娶り佐渡金山などの目付として派遣された、大久保一族の事件の連座は免れたが、許可無く任地を離れたことを咎められて村上義明預かりとなる、のちに松平定綱のもとに身を寄せて二千石を与えられた




服部 正尚 はっとりまさなお (服部平大夫)

伊賀の国人、一説には丹波出身で猿楽師であったともいう、通称・平大夫、戸塚忠春が戦死したのちに妻を娶り、その子・お愛(のちの徳川家康の側室・西郷局)を育てた、本能寺の変が起こった情報をいち早く家康に知らせ、家康の伊賀越えに同行した

   



服部 政秀 はっとりまさひで (服部権大夫)   ← この人ですね


服部左京亮の子、
はじめ右京進、のちに権大夫と称す、

父とともに桶狭間の戦いで今川方に属し、大高城に兵糧を運んだ、

のちに父と袂を分かち徳川家康に仕えた




このレスは久居の服部さんに書いたものですが
つまり久居の服部さんとも親戚になるんでしょうね。


だけどなんで3つ柏さんとこは「並び矢」紋じゃないの?

と、そこが3つ柏さんチのアイデンティティ、ということです。


   兄弟は他人の始まり
   いったん親から独立すればそこから自分が自分の人生を作っていく
   だから家紋も替える
   時には名字まで変えてしまう。姓まで(源平藤橘の姓のことね)変えてしまう。
   根付いた所で、そこの人との関係が出来る。


   年月の進みで過去の繋がりが忘れられ切れてしまい他人のようになっていても


      どこかで いつか  何かのきっかけで  懐かしさを思い出す
      だって  血で  DNAで 涙で  先祖を共有しているんですものね。


わたくしの背後のパワーが「レスしてやれ、レスしてやれ」と騒いでたのは
やはりそういうことなんでしょうか?


久居の服部さんには感謝ですね、改めて。
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