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 投稿番号:101360 投稿日:2014年07月22日 11時44分08秒  パスワード
 お名前:丸三柏服部
長上郡の服部氏族Z
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

長上郡の服部氏族Yからの継続

[2]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月22日 15時57分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ハードの問題、なんとか来年までもつといいですね。

 私の家庭のパソコンについても、修復なかなか難しいです。

 今後の様子を見て、場合によっては、自分用のパソコンをとも思っており

ます。それまで、なんとか要旨をまとめ、迅速にアップできるよう努力いた

します。


昨日は「濱名惣社神明宮」に行って来ました。今までこのような神社が

あるなんて知らなかった。何と無知な私だったことか。倭姫が40日位留ま

っていたということ。倭姫をかわいく思うようになりました。


 浩宮も子供の頃よく三ヶ日町のプリンス岬(と言われるようになった)に

滞在されました。その訳は結局「初生衣神社」や「濱名惣社神明宮」があっ

たからなのでしょうね。

 当時は、こんな田舎によく来られたものだと不思議に思っていました。


 今、『古事記に隠された聖書の暗号』という本にアタックしております。

 時間、時間のやりくりの毎日です。またまとめて報告いたします。

 服部氏族の問題も中断した形ですので、一度整理します。


                          
[4]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月23日 11時20分51秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 日曜日の釣りは、べた凪に近く、また午前中は曇りで暑くもなく、最高の

気象条件でありました。釣ったのは前半スルメイカ、おもしろいように釣れ

ました。後半は底もの狙い。鬼カサゴが主ですが、巨大なハタを2匹釣り逃

しました。

 魚等の名前も意外とおもしろく、こんな名前もあります。

 うっかりカサゴ。馬頭ダイ、カッポレ。馬糞うに。

 海にはもちろん危険もあります。ここ御前崎は風が強く、海流も複雑なの

で難所と言われております。サメもいます。以前サメを釣り上げたこともあ

ります。

 海に魅力を感じるのは、海がある意味で「心象世界」であるからでしょう

か。闇の遠い世界とつながっているような。怖れと未知への冒険心。

 海と語るというのは、自分自身と語るということ。『老人と海』のつぶや

きです。


 さて、時間さえあれば一杯書きたいことがあるのですが、それも望めませ

んので、断片的になってしまい、誠に申し訳ございません。


 まず、加藤家の系図による光泰の子供達ですが、よく見ると3人でした。

    1.長男 泰清  号 五郎兵衛

    2.次男 清成  号 岩太郎  永井・服部之祖

    3.長女 女子  ××家  池田の荘官


 そして、次男の清成の子供

    1.長男 清武  号 五郎兵衛

    2.次男 武光  号 亀太郎  松島・鈴木之祖

 以後は、号 五郎兵衛を引き継ぐ加藤家一本の系図となっていました。

 家紋は下藤丸。

 以前より解読が一歩前進しました。あを様のおかげです。


とりあえず今回はこれまで。


 

 
  
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月23日 15時12分05秒 ) パスワード

なるほど

1.
清成とその子武光関係=つまり養子に行ったか嫁に行ったか=が  
善地の名家である服部・永井  と   松島・鈴木  の家と縁が出来て名を継ぐことになった
または  全く  新しい4家をこれらの名字で作った、ということですね。

これで合理的に理解が出来ましたね。


2.
新しい4家の創立なら
善地に前からあった名家の名前と同じにしたのかも。
  この場合の服部家と大本家さんは別ものですね。


  もしかすると江戸時代に大本家さんかその分家さんに関係したか。

    大本家さんがどう言ってるか知りたいところですね。 



3.
もし江戸時代に服部家というのが善地で創立されたなら
この加藤家は秀吉・秀次・秀頼時代に
伊賀系武士の服部家と関係があって(特に津島出身で秀頼の守り役だった服部家との関係)
服部家を作ったのかも。


   その場合の家紋は  矢紋系にした?

   それとも家紋は三つ柏?← 大本家さんも三つ柏?



かなり絞れて来ましたね。


善地に来た加藤家が秀次がらみで服部姓の家を始めたのなら
尾張や畿内関係の服部家であって
大本家さんには関係が無い服部さんですね。

    家紋が分かると良いですね。加藤家系と大本家さんの両方の家紋。



だんだん入力が出来なくなって来ました。



海は恐ろしいですよ。
くれぐれも御油断無きよう!



[8]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月23日 16時14分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 服部の大本家の家紋も「丸に三つ柏」です。

 加藤家は「丸に下がり藤」。

 永井家は「丸梨切口」。

 松島家は「丸に一の字」。

 鈴木家は「丸に違い鷹の羽」(×型に重なるもの)。


 そうそう、長田さんも善地に以前よりいました。

 何かそれらしいにおいがしてきました・・・。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月24日 03時28分32秒 ) パスワード

善地の服部家の紋を調べたら
3柏紋は平安時代あたりから37代続く服部家
それ以外は別の服部家かもですね。



    でも家紋は流動的ですから
    大本家さんの流れでも理由があって違う紋を使っているということは有り得ます。


ヨソから来た服部さんが3つ柏紋を使おうったって世間=善地の皆さん=が許さないです。


家紋も結構自由じゃないです。
特に有力者と同じ紋を使うことは分不相応ということで。



梨の紋のことは珍しいとかで
加藤光泰がらみで出て来ましたっけ?


永井家が梨紋なのは特別に加藤家から使用を許されたからでしょうね。



ごめんなさい。
PCが動かない。


オットのPCの窓8の日本語変換バーが行方不明で見つからないです。


[10]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月24日 09時15分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 平熱にはアクセスできるのでしようか? 日本語への変換が可能なのでしょ

うか?


当大本家の祖先についても、はたして37代というのが正しいのかどうか、

すなわちその時代より土着して家を構えていたのかどうかについては確定的

証左はありません。ひょっとして加藤家の系図を見て計算した可能性もなき

にしもあらずです。


 あを様のおかげでそれらしき時代の背景が見えてきたことはありがたいこ

とです。更に探求していきたいと思っております。


 今、『古事記に隠された聖書の暗号』という本を読んでおりますが、あを

様のよく言っておられた「水蛭子」についての推定がおよそ次のようにあり

ました。

 「イザナギ」と「イザナミ」を「アダム」と「イブ」に想定すると、最初

の子の「水蛭子」と「淡島」は「カイン」と「アベル」になるということで

す。

 その理由として、共通する点が次のとおりある。

<一方が死亡>

 「水蛭子」と「淡島」・・・水蛭子は葦船に入れて流される。

 「カイン」と「アベル」・・・アベルはカインに殺される。

<系譜には含まれない> 

 「水蛭子」と「淡島」・・・「子のたぐいにはいれざりき」とあり、次の

              「大八島国」でイザナギらが生んだ子の数に

              は含まれていない。

 「カイン」と「アベル」・・・創世記に記載されている「アダムの系譜」
              
              (創世記五)には含まれていない。

 それにしても、川に流される、海に流される、葦船にて、甕(?)にて─と

いうモチーフはモーゼ、川勝にもありましたね。


 神話の物語や人物は、いつの時代のものであったのか。モデルとして実在

した人物はいたのか。

 あるいは、神話の神々の子孫(人間)との時間的整合性はとれているのか。

この世に下りて来た命達は、そのモデルとなった実在人物がいるのかどうか。


 神話の最終章をこの世の出来事に置き換えたのか?

 そのつなぎ目を解明するのが一番肝心な事のように思われます。


それではこれにて─
[11]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月25日 00時05分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 当方、自宅でのPCの平熱へのアクセスが解除されました。こんなうれしい

ことはないのですが、逆にあを様のPCが限界に来てしまってということは誠

に残念でなりません。

 あを様の気持もよくわかります。

 ま、こういう時はあせらずのんびり行きましょう。

 私の方は宿題もありますので次回よりそれを発表させていただきます。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月25日 02時58分10秒 ) パスワード

ご心配をお掛けしております。

PCが冷たい内は結構書けるのですが
ファンが動き出すといけません
フリーズしてしまいます。

なかなかサクサクというわけにはいかないです。
コピペが出来ないのも残念です。



このPCはアメリカのもので作ったのは中国人。
で、保証は1年で、
わたくしのは1年でみごとにオシャカになり
その後
オットのを借りて4年
よくもったものです。


あと1年半もって欲しいのですが。


ここ2年ぐらい全くメンテをしてなかったので
ゴミがたまりに溜まったのでしょう。


後で消します。
[13]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月25日 03時42分08秒 ) パスワード

3柏さんのPCが直ったのは良かったですね。
おめでとうございます。
にっこり



大本家さんの系図がどう始まっているかですね。

37代目というのは、どなたから37代なのか
そこが分かると良いですね。



    わたくしは母方で84代目です。
    母の先祖の本貫地に住む同じ子孫の人々も84代目と言ってたので
    人皇○代XX天皇より84代目 
    というのは共通しています。

          既に86代目も生まれているそうです。


確か鎌倉末期あたりの先祖が50代目だったような?
なので大本家さんの家は平安時代末期〜鎌倉時代末期あたりから始まっているのでは?と。


    平安末期ですと   神服部さんと同時期に遠江に?
    源平時代ですと   平家方の橘遠茂の味方?
    鎌倉時代ですと   御家人系?     
    鎌倉末期ですと   北朝方として?南朝方として?


とにかく大本家さんの系図を見ないことには分からないですね。



加藤光泰子孫系だったら、元からいた服部家の名を継いだ?
              この服部家も秦氏系か伊賀系か?



秀次事件あたりからだったら  20数代  でしょうね。
だからもっと前から?


加藤光泰の御先祖さまを足しての37代?
これでしたら結構数字的には合う?

     早世があったり長生きがあったりして数字は乱れますから。



調子が良いうちにコピペしますね:



加藤氏(光泰家)
蛇の目/上り藤
(藤原氏利仁流)


加藤氏は藤原氏の一族といい、加賀の藤原からきたものといわれる。
『尊卑分脈』によれば、源頼義の郎党藤原景道が加賀介であったことから「加藤」を称するようになったとみえている。

景道は藤原氏利仁流で、前九年の役で「東奥七騎」とうたわれた兵(ツワモノ)であった。
景道の曾孫にあたるという加藤次景廉は、源頼朝の旗揚げに参加、鎌倉幕府が成立すると鎌倉御家人となった。

ところが、景廉は梶原景時の謀叛事件に連座して失脚、一族離散して、一部が三河へ流れてきた。

     それが、三河加藤氏の始めということになっている。

                              秀次事件を連想させますね


            三河加藤氏は遠江にも動いているでしょうから
            秀次事件で浪人となった人達が遠江の遠縁を頼ったかもという説も可能でうすよね



 さて、加藤光泰の加藤氏は修諸修諸修諸、『寛政重家譜』によれば藤原利仁の曾孫重光二十代の後裔景秀の嫡男景泰は斎藤氏に仕えて、美濃国多芸郡(養老郡)橋爪荘で七十貫の所領を持っていた。


景泰の嫡男が光泰で、斎藤氏が没落したあと羽柴秀吉に仕えた。
光泰の一代で大名に出世したことだけは紛れもない史実である。


光泰の出世

 父の死後、家督を継いだ加藤光泰は斎藤龍興に仕えたが、永禄十年(1567)、稲葉山城は信長によって落とされ斎藤氏は没落した。主を失った光泰は美濃衆の一人として、織田信長の部将羽柴(豊臣)秀吉に仕えるようになった。

 元亀二年(1571)、近江国横山城において浅井長政勢と対戦、左足に重傷を負い、秀吉から七百石の知行を与えられた。併せて与力十余人を預けられたというから、光泰は秀吉に仕えたとき美濃の所領は失っていたのであろうか。以後、秀吉に仕えて順調に出世階段を昇っていくことになる。そして、天正八年(1580)、播磨三木城攻めに活躍、播磨に五千石の地を与えられた。


 天正十年六月、明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺で討死した。山崎の合戦で光秀を破った秀吉から、光秀の旧城の一つである周山城と一万七千石を賜り万石取りの武将に出世した。ついで、近江国海津城、大溝城へと転じ加増を受けて二万石、さらに尾張国犬山城の在番を命じられた。信長死後、山崎の合戦を制した秀吉は、信長後継をめぐる候補者争いを自らが推す三法師(のち秀信)で決着をつけると天下人への道を驀進しはじめた。


 天正十一年、ライバルの柴田勝家を賤ケ岳の合戦に破り、翌年には織田信雄と徳川家康の連合軍と小牧・長久手で対戦、翌十三年は越中に佐々成政を攻め屈服させた。その間、光泰は犬山城で徳川・織田連合軍と対峙するなど最前線に身をおき、美濃大垣城を与えられ四万石を領するようになった。併せて秀吉の蔵入地二万石を預けられたが、秀吉の勘気を蒙るところがあり、豊臣秀長に預けられた。秀長のもとでは一万石を与えられ、天正十五年には宇陀郡秋山城において一万六千石を与えられた。



 同年、秀吉の赦しをえて従五位下遠江守に任じ、近江国佐和山城と二万石を賜った。天正十八年小田原攻めのときは駿府城在番の任をつとめ、北条氏没落後、甲斐国甲府で二十四万石を与えられ大大名となった。ここに至るまでの光泰の経歴をみると武将としての派手な活躍は少ないが、文武ともに水準以上の能力を発揮し、生え抜きの武将が少ない秀吉にとって貴重な人材だったのではなかろうか。



加藤氏の浮沈

 新しい所領となった甲斐国は、関八州に封じられた徳川家康と境を接するところであり、秀吉の光泰に対する期待が大きかったことがうかがわれる。光泰もまた領内の検地を進め、甲府城を築くなどして領国経営の安泰につとめている。

 文禄元年(1592)、文禄の役が起こると光泰も出陣、朝鮮に渡海して活躍した。翌年、日本に帰ることになった光泰は、宮部長房の陣での宴に出席したのち、にわかに発病して西生浦の陣において帰らぬ人となった。一説に、石田三成の意を受けた宮部長房による毒殺ともいうが、その真相は闇の中である。光泰の死によって甲府二十四万石は収公され、家督を継いだ貞泰は美濃国黒野城四万石に転封となった。この六分の一という減封は、光泰に過失があったわけでもなく、貞泰が若かったということを差し引いても奇異な感じを受ける。ここにも、三成による光泰暗殺説が生まれた一因があるようだ。


 慶長三年、秀吉が病死すると徳川家康と石田三成の対立が顕在化、政情は一触即発の状態となった。そして、慶長六年、関が原の合戦が勃発した。三成の催促を受けた貞泰は竹中重門、稲葉貞通らと犬山城に入ったが、三成に意趣を含む貞泰は密かに徳川家康に通じ弟光直を質に送っていた。そして、井伊直政に属して大垣城攻めに参加、関が原の合戦後は近江水口城攻めに功があった。戦後、伯耆国米子城を賜り、二万石を加増されて六万石を領した。


 大坂両度の陣にも出陣して功があり、元和三年(1617)、伯耆国米子から伊予国大洲六万に移された。それまで大津と呼ばれていたものを大洲と替えたのは、ほかならぬ貞泰のときで、以後、加藤氏は代々伊予国大洲六万の藩主として続き、明治維新を迎えた。




加藤一族の中でも伊予大洲について行くほどの身分ではなかったようですね。

もちろん石高が甲府時代から75%カットになっているんですから
秀次に仕えたあたりから他人の関係になってたでしょうしね。




友人より神智学系の創世記についての本を贈られて
それが  日本語で書いてあるのに  サッパリ  読めないです。


だいたい  神智学って何?  の段階です。
神智学が分かってない人には創世記は分からないらしい。


     お前には分からないと宣言されたものを読むのか?と。


でも友人には理解出来たのだから、ワタシにも理解できるんだろうとは思うけど
本の最初の単語が  神智学  で始まっているので
ものすごく敷居が高いです。



でも日本の神話と聖書の話も随分共通点がありますよね。



3柏さんのお話を楽しみにしておるます。


アップできますように。
[14]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月25日 04時11分47秒 ) パスワード

<8>の家紋の話:


加藤家は「下がり藤」

       これは大名の加藤家の「上り藤」に遠慮して、だと思います。




永井家は「丸梨切口」

       これは  凄い!
       「梨紋」というのがそもそも珍しいですよね。 




永井氏の家紋

 『長倉追罰記』に「永井と那波は三つ星と一文字(本当は一文字に三つ星)」ともみえるように、室町中期には、永井氏がすでに一文字に三つ星紋を用いていたことが知られる。


一文字に三つ星/永井梨切口/石持地抜き唐梨

 そして、永井氏は一文字に三つ星紋の他に、唐梨(からなし=木の下に示とも表記する)と、鉄線紋も用いていた。唐梨は四弁の花のように見えるが、梨の実の切り口で、丁寧には「永井梨切口」という。鉄線は朝顔に類似した植物で、その蔓が鉄のように丈夫なことから鉄線と呼ばれるようになった。そして、宗支によって、家紋の意匠を違えている。三つ星の場合、一文字の書体に変化をつけ、唐梨は加納永井家の場合、「石持地抜き唐梨」であった。さらにいえば、鉄線は高槻永井氏が用いていた。



 いずれにしろ、唐梨紋は永井氏の独占紋ともいえる、珍しい紋であろう。



「永井梨切口」画像:これを使用できたということは、本物の永井家の養子だった?

       江戸時代は名字と家紋と名前の漢字は身分の高い人に遠慮して下の者は別のを使うんですよ。


[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月25日 04時28分19秒 ) パスワード

かなり書き込みが困難になっています。



ということは  わたくしの想像では  秀次事件で逃げ落ちた時の様子は


秀次家臣だった人は永井家とかなりの関係があって
永井の勧めで三河の永井家の遠縁を頼って落ちて行ったのかも。


次男清成の母が永井の娘だったのかも。
それで伊賀系服部氏とも親戚だったのかも。

   それで清成の子達が永井と服部を名乗ったのかも。
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月25日 04時51分34秒 ) パスワード

矢張り秀次についての研究書を読むことですね。


その中に秀次に仕えた加藤という人物がいて
              光泰の一族でしょう
この人物の友人・親戚に永井とか服部とかがいたのですよ。
              この縁を頼って落ち延びたのでしょう。



      こうなると、この服部氏は家康関係の服部氏になってきますね。
         そうすると伊賀の服部半蔵の系統?



加藤光泰子孫の永井家って
善地ではものすごい身分のあった家だったんでしょうね。


     名字と家紋から、
     江戸時代は凄い家だったんだろうな
     と思います。


最近はいろいろ経済情勢が変わってしまったけど
つい最近までは素封家だったんだろうな、と。



やっぱり何故に3つ柏?
謎 
[17]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月25日 12時08分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 ありがとうございます。当服部家の出自についていろいろな推理をしてい

ただき、たしかに何かがにおってきているような気がします。光泰関係の歴史

書もありますので見てみます。光泰は武闘派だったので、関白秀長や秀次と

は近かったと思います。秀次事件の時には光泰はすでに物故しているので、

子孫に影響が及んだ可能性があります。池田村の荘官・庄屋の古文書等も

図書館で探してみます。


 パソコンといえば、私も以前パソコンが熱を持つと動かなくなくなるので、

アイスノンを上下にあてて、なおかつ扇風機で風をあててしのいだことを思

い出しました。


 とりあえずはここで。またアップします。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月25日 12時49分14秒 ) パスワード

ご心配をお掛けしております。
ありがとうございます。


アイスノンはやってみます。
にっこり



新しく窓7を入れてもらいました。


まだまだ先週までと比べましたら戻ってはいませんが
この1週間に比べたら回復したと言えます。




やはり古文書を読まないといけないでしょうね。




ではではお礼と回復の御報告まで。


[19]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月26日 05時26分09秒 ) パスワード

またまた家紋の本を見直しました。



上記の梨紋の項に  永井家(大江流)  出てました。 



そして
柏紋の項に平氏流  服部家と長田家   出てました。



そうしますと本姓平氏の俗姓服部家?   
つまり伊賀系?
[20]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月26日 05時37分00秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 今、物部氏と星との関係を考察しているのですが、びっくりする記述に出会

いましたので、ご報告をいたします。


 物部氏の秘密の深奥を理解するためには、彼らの行っておこなっていた祭祀

を探究しなければ真の理解は得られません。それがとりあえずの私の結論です

が、その祭祀は天体と結びついている。一番崇高なものといえば、やはり天体

ということになる。日(太陽)、月、星々。


 船場俊昭『消された物部氏「天津甕星」の謎』の中で、

 「日は陽(陽魂)の原理であり、月は影(陰魂)の原理である。このふたつが

合わさって万物が生じるのだ。いうまでもないと思うが、「日」に「月」を

合わせれば「明」となる。つまり「日月星=明星=金星」なのである。」


 「日」に「月」を合わせれば「明」となる。逆に言うと「明」は「日」と

「月」を合わせ持っているということ。やはり素晴らしい漢字だったんです。


 断片的で申し訳ございません。とりあえずこれにて。


 
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月26日 05時38分28秒 ) パスワード

もう少し詳しく調べました:


三つ柏紋は旗本の家がたくさん使っていて  その中に  服部と長田も名前が出ていました。



蘇我氏系の、三河宝飯郡牧野出身の牧野家も使用だそうです。


    え?
    蘇我氏?宝飯郡?牧野?
    この関係もアリでしょうか?
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月26日 05時48分55秒 ) パスワード

http://www.harimaya.com/kamon/column/kasiwa.html



柏 紋
古代、柏は食器としても用いられ、神事の際にも使われた。
そして、神官などが紋とした。



柏はブナ科の落葉中高木で、英語ではJapanese Emperor Oakと呼ばれている。葉は大きく柔らかく弾力があり、 秋に枯れた葉が新芽が出るまでは落葉しないという特長を持っている。この特性が、「代が途切れない」 縁起物とされて「柏餅」を包むのに用いられるようになった。

古代には柏の葉の適度な大きさから食物を盛る器として用いられ、神に供物を捧げる際の器としても使用された。 また、樹木の葉を守護する 「葉守の神(御饌津神(ミケツカミ)」は柏の木に宿るとされ、源氏物語の柏木の巻にも記されている。 いまでも、神社に参拝したとき神意を呼び覚ますため「柏手を打つ」が、これも柏と神との関係からきたものである。


これらのことから、柏はやがて神社の紋となり、神事に奉仕する神官や有力氏子などが家紋として用いるように なった。

伊勢の久志本氏は皇大神宮に奉仕し、尾張の千秋氏は熱田大宮司として奉仕をし、それぞれ柏を家の紋としている。
その他、筑前宗像大社宮司の宗像氏、吉田神社の神官 卜部氏、備前吉備津神社宮司の大守氏はなどの神官が柏紋を用いている。

大守氏のものは、 「庵に柏」という意匠で、神に御饌を供える姿を象ったものであろう。


一方、衣服の文様として古くより蔓つきの三つ葉柏が多く用いられるが、 『前九年絵巻』のなかに描かれている蔓付きの三つ葉柏が古い例である。


新義真言宗を唱えた覚鑁上人が開いた「根来寺」の寺紋は 「三つ柏」で、境内のいたるところで目にする。居合わせたお坊さんに 由来を尋ねたが明確な回答は得られなかった。根来寺は、 鉄砲伝来と戦国末期に秀吉軍の攻撃を受けて一山焼き尽くされたことが 知られているが、いまも焼亡を免れた多宝塔に当時の弾痕が残っている。


武家では、藤原秀郷流首藤氏からわかれた山内氏、桓武平氏良文流の葛西氏の「三つ柏紋」が知られている。


山内氏の場合、土佐山内氏家譜には先祖の武功譚にちなむと記されているが、それ以前から「三つ柏」を家紋として いたことが知られ、時代的にはうなずけない。むしろ、熱田神社の千秋氏との関係から柏紋を用いるようになったとする 説の方がうなずける。


 山内氏は奥州・安芸・丹波地方に一族が広がったが、いずれも三つ柏を家紋としている。 土佐山内氏の柏紋は「細柏で」、とくに「山内柏」「土佐柏」と呼ばれる。


葛西氏は源頼朝の奥州征伐に従軍して功があり、その恩賞として葛西五郡、 胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿・本吉・六十六島など、宮城県北部から岩手県南部にわたる広汎な領土を得た。 奥州の新領地に下向した葛西三郎清重は牡鹿郡石巻で祝宴を開いた。 そのとき、「、空より三葉の柏が舞い下り、清重の盃に映った」これを家門繁栄の瑞祥として家の紋にしたと伝えている。 葛西氏からは江刺・薄衣・岩淵・柏山などの庶子家が分れ、こぞって三つ柏を紋としたが、葛西氏本家の 三つ柏紋は葉の先端に月星を配して嫡庶を明らかにしていた。


 室町時代に成立したという『見聞諸家紋』には、熱田大宮司千秋氏の「実付き三つ葉柏」、宗像神社宮司宗像氏の 「一つ柏」、さらに、水原・山内氏の「柏巴」、雀部氏の「違い柏」、野間・上林氏の「枝柏」、朝日氏・清和泉守の 「六つ葉柏」などが収録されていて、柏紋が多くの武家に用いられていたことがわかる。


■見聞諸家紋に見える柏紋
水原・山内 雀部 野間・上林 朝日氏・清和泉守



また、近世大名では徳川譜代大名である牧野氏の「三つ柏紋」が有名だ。


外様大名では、豊後岡藩主の中川氏、阿波藩主の蜂須賀氏らがが柏紋を用いた。 中川氏のものは円をずらしながら組み合わせた独特の「抱き柏紋」である。


牧野は槙野とも称するが、槙とは神聖な木を指し柏と同義に扱われることが多い。


その他、清和源氏では今井氏・神尾氏・井上氏、 藤原氏では中御門氏・萩原氏・藤井氏・高橋氏・加納氏、桓武平氏では長田氏など。ほかに大江氏流の境野氏が 「上り藤内に三つ柏紋」を使用している。



柏紋を使用した戦国武将家

荒木氏(丹波) 岩淵氏 薄衣氏 江刺氏 小畠氏 葛西氏
柏山氏 上林氏 千秋氏 ← 千秋氏!

長江氏 (奥州) 中川氏 広嶺氏
宗像氏 本吉氏 山内氏(会津) 山内氏(土佐)
[23]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月26日 18時31分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 加藤光泰の正室は一柳右近可遊の娘であった。

一柳右近可遊は秀次事件の連座責任を問われたが、家康預かりとなった。

妻女は伊藤伊賀守預かりとなった。

 (服部一忠は切腹、妻女は吉田清右衛門預かり。)


 一柳家とは仲の良かったものと思われる。従って加藤家にも何らかの連座

責任の矛先が向けられても不思議でない。黒幕が石田光成であるからだ。


なお、光泰は賤ヶ岳の役にて黒田官兵衛とも羽柴軍で一緒に戦っています。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月26日 21時32分44秒 ) パスワード

すみません。
行き違いに気付きませんでした。


    ズリズリがなかなかうまく出来ないので見落としていました。



日月星   =   金星   =  「天津甕星」  =  陰陽   陰陽道  =  物部  =  半島


こんな連想をしました。



加藤光泰は朝鮮の役で亡くなってましたよね。  ← PCが重くて確認に行けないのが残念です

その縁者で秀次に関係していた人は三成から何らかの罰を受けていますよね。
この人が誰なのか分かると良いですね。

   とにかくこの事件では大名達も切腹の嵐でしたから
   巻き込まれた人々の中で加藤光泰関係者が分かると核心に近づけると思います。


      まだまだなかなかPCがサクサク動かないのでアチコチ見に行けないです。
      「秀次」で検索しまくってみてください。 
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月27日 08時16分37秒 ) パスワード

http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/ziken.htm  

 ここでは秀次事件は何だったのか、後の影響など事件を考えてみます。


 

◆秀次事件を振り返る

 事件が起こるまでを振り返ります。

○関白職譲渡から文禄4年以前

 秀吉は天正19年(1591)12月に関白の座を秀次に譲ります。秀吉は聚楽第を関白の政庁と位置付けていたようで、関白職とセットで聚楽第を彼に譲り渡しました。ただ、豊臣家の城である大坂城や秀吉の持つ広大な領地、石田三成ら豊臣政権の官僚達は秀吉が保持したままです。徳川家康が秀忠に征夷大将軍を譲り、大御所として秀忠を後見したということとは全く異なります。

 文禄2年(1593)8月に秀頼が誕生すると秀次は直後から10月まで湯治に出かけました。「秀頼誕生により自分の立場がどうなるかわからない」という不安を鎮め冷静に対処しようと考えたのかもしれません。しかし、湯治中に秀吉が秀次に日本の5分の4を与えるという案が示され、10月には秀吉から秀頼と秀次の娘の婚約話を持ちかけられます。秀吉は秀頼誕生直後から秀頼擁立のために動き出しました。 

 また、秀吉は前年から豊臣氏の本拠地大坂と聚楽第がある京の間にある伏見の月見の名所である指月(しげつ)に隠居所としての城を築城中でしたが、秀頼が生まれると秀頼の居城にするため本格的な城として築城します。

 文禄2年閏9月に秀吉が大坂城から伏見城へ移住したのを機に、諸大名の伏見屋敷が作り始められ、翌年には山中長俊を町割奉行に任じるなど伏見を豊臣政権の首都として城下街を整備します。諸大名は秀吉の命で伏見に大名屋敷を築きます。秀吉は諸大名の屋敷を聚楽第周辺から秀頼の居城となる伏見へ移させることで、秀次と諸大名の関係を引き裂こうとしたそうです。

 また、横田冬彦「豊臣政権と首都」(『豊臣秀吉と京都/聚楽第・御土居・伏見城』編 日本史研究会 文理閣)の「表1 秀吉 秀次 家康の御成等があった大名屋敷」の秀吉が大名屋敷を訪れた回数を見ますと天正15年から秀頼が生まれるまでの期間と秀頼誕生から秀次事件までの期間では回数が圧倒的に違います。前田、蒲生、宇喜田、上杉など有力大名への御成には他の有力大名や公家を引き連れて行きました。何を話したのかわかりませんが時節柄、後継者問題が話題になったのは間違いないでしょう。秀次の立場から考えると秀吉の動きはこの上なく不愉快でしょう。

 文禄3年(1594)8月に秀吉の聚楽第御成が10月に延期されます。理由はわかりませんが2人の関係の悪化の一途がわかります。

 

○切腹までの経緯

 秀次の右筆である駒井重勝は日記(『駒井日記』と呼ばれているもの)の中で文禄4年(1595)4月10日の記事に前後の記事と関係なく突然、聚楽第の広さを記します。秀次の側近として2人の関係は修復不可能なほど悪化し、秀次が悲劇的な最後を向かえ、聚楽第が壊されることを予測していたとも考えられます。

 4月16日に療養中の秀次の弟の秀保が領国の大和十津川で17歳の若さで亡くなります。『駒井日記』では死因は疱瘡としています。しかし、『戦国人名事典』の豊臣秀保の項では「大和十津川で病死。一説に、十津川で入水、横死したと伝えられる。」とあるように死因は自殺、他殺と諸説あります。この約三か月の秀次事件と関連付けて、秀吉が秀保を亡き者にしたという考え方もできますが、若年での病死は当時としては珍しいことではないため、病死の可能性も考えられます。正確な死因は不明です。

 むしろ問題となるのは、秀吉が嫡男がいない秀保の死により大和豊臣家(秀吉の弟の秀長が祖)を断絶させたことです。秀次の息を秀保の養子という形にして継がせるという選択肢はありましたが、秀吉は断絶させました。

 『太閤さま軍記のうち』によると7月3日に秀吉の奉行衆の石田三成、増田長盛、前田玄以、富田知信(『甫庵太閤記』では宮部継潤を加える)が聚楽第に秀次に「謀反の疑いがある」と糾弾してきます。彼らの求めに応じて謀反をする意思はないという七枚継ぐの誓紙を彼は提出しました。

 それでも秀吉の疑いは晴れず、8日には秀吉は秀次の元へ使者を遣わし、伏見へ来るよう命じます。『甫庵太閤記』ではこの使者を山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏、宮部継潤、前田玄以としています。彼にとって山内、堀尾、中村は近江八幡城主時代に秀吉から補佐役として派遣された附家老、宮部は元養父(人質という意味合いで彼は一時期、宮部家へ養子に出されていました)です。京都の行政を担う京都所司代の前田は、京都の聚楽第に住む彼とは役目柄会う機会が多かった人物でした。彼が疑いもなく伏見へ来るため、彼と関係が深い人物を使者に選んだとも考えられます。

 伏見に到着した彼は伏見にある彼の屋敷ではなく秀吉の命で木下吉隆の屋敷に行き、秀吉との面会を待ちます。しかし、秀吉は彼に会うことなく、彼を高野山へ追放するよう命じました。7月15日に秀吉からの切腹命令が伝えられ、彼はその日のうちに切腹しました。



○高野山で切腹させたのはなぜ?

 秀次を高野山に流した理由は昔の政治犯は大寺院に流されたからです。「領地と官職を奪い政治の表舞台から退場させる代償として、世俗の権力から離れた大寺院に蟄居させることで命だけは助ける」という不文律のルールがありました。

 例えば、関ヶ原の戦いで西軍に属した真田昌幸は徳川家康により高野山の寺領がある九度山に流され生涯を終えました。高野山へ流された秀次は世俗の地位と領地を全てを失いますが、高野山で余生をおくるはずでした。

 わざわざ高野山に流した後に切腹させたのは、この間に秀吉の気が変わったとしか言いようがありません。生かしておけば秀吉が亡き後、秀頼の反対勢力である何者か(秀吉は生前最も徳川家康を警戒していた)が彼を担ぎ出すのではないかという不安に捉われたのかもしれません。

 

○秀吉、秀次両者の行動から謀反は事実ではない

 秀吉側、秀次側の行動から謀反が事実とは思えません。仮に彼の謀反が事実という前提で秀吉からの糾弾の使者が彼と面会した7月3日から彼が秀吉の命令で伏見へ行った8日までの両者の行動を考えてみます。

 まず、秀吉側から考えると石田らを聚楽第へ向かわせ、謀反の疑いで秀次を糾弾した7月3日以前に彼の謀反の企てを察知していることになります。この時点で送るべきは彼を糾弾する使者ではなく、謀反を未然に防ぐため首謀者である秀次らを捕らえる者です。謀反を企てている相手が謀反を糾弾する使者に素直に会うとは考えにくです。 

 謀反を企てている相手へ謀反を糾弾する使者には、謀反を起こす決意表明のために殺される危険性があります。そのような危険な使者に石田ら重臣を選ばないはずです。豊臣政権の行政を担う石田と増田らを一度に失うことは政権にとって大きな損失です。それほどのリスクを背負ってまで、秀吉が彼らを糾弾の使者に選んだとは考えられません。彼が謀反を起こすと考えているならば、送るべきは糾弾のための使者ではなく彼を捕える者です。抵抗されることも予想されるため兵を伴うでしょう。また、本気で謀反を企てている相手が「謀反を起こす意思がない」という誓紙を書いたところで謀反を思いとどまるとは考えにくいです。

 また、彼の謀反の備えて聚楽第がある京都周辺の要所に兵を置き、謀反軍を討伐するための兵を集めるなど軍事的な動きや諸大名に彼の謀反に加担しないようにするための説得工作など秀吉側は彼の謀反に対し何らかの手段を講じるはずです。しかし、この期間は特に目立った動きはなく、これから謀反が起こるかもしれないという緊迫感が全く感じられません。

 彼に謀反の企てがないと秀吉側が考えるからこそ、石田ら重臣を糾弾の使者に選び、謀反への備えも行わなかったと推測できます。

 一方、秀次が謀反を考えているのなら7月3日に秀吉からの糾弾の使者が来た時点で彼の謀反の企てが秀吉側に露見していることがわかります。企てが露見した以上、決起するか秀吉に処断されるしか選択肢はないです。彼が謀反を起こすならば、彼が取るべき行動は秀吉が彼の居城である聚楽第へ討伐の兵を差し向けて来る前に、謀反に必要な武器や兵力を準備し、謀反に加担する大名達へ決起を促す使者を送るなど謀反に向けての準備です。しかし、そのような行動を取った痕跡がないです。

 まして、謀反の企てが秀吉側に露見している状況にも関わらず、彼が秀吉の命令に応じて、伏見の秀吉の下へ武装した兵も引き連れずに弁明に行けば自ら捕まりに行くようなものです。身内とはいえ謀反を企ている彼を秀吉が許すはずはなく、彼が聚楽第に生きて帰ってこられないことは容易に予想できます。彼の側近が命を賭けてでも伏見行きを止めるはずです。彼が謀反を起こすつもりなら、伏見への出頭命令に来た使者を捕えるか命を奪い、伏見へ秀吉と一戦交えるだけの兵を率いて行くか、命令を無視して聚楽第で決起するはずです。

 彼は謀反を起こす意思がないからこそ秀吉と直接話し合えば身の覚えがない謀反容疑が晴れると考え、秀吉の命に応じて伏見へ向かい、側近も伏見行きを止めなかったと推測できます。

 7月3日から彼が秀吉の命令で伏見へ行った8日までの期間、両者の行動から彼の謀反が事実とは考えられません。

 秀次や側近達は、高野山や預け先の大名の屋敷での自害です。切腹は死刑の中でも軽い部類に入り、「武士としての体面を保ち、自らの罪を自らの手で裁いた」という自裁の意味合いがあります。謀反が事実なら関ヶ原の戦いで敗れた石田らが市中引き回しの後に六条河原で群集の前で処刑されたように理由を明らかにし、公衆の面前で斬首か磔になるはずです。

 『お湯殿の上の日記』の同年7月16日の項によれば謀反の疑いが無実とわかり、切腹となったとあります。謀反の疑いをかけられたことが彼の罪という解釈です。しかし、その容疑も秀吉側によるものと考えられます。彼の謀反容疑は冤罪の可能性が極めて高いです。そもそも、謀反容疑をかけられたことが切腹に値する罪とは思えません。

 

○常軌を逸した秀吉の処分

 秀次とその男子を処刑しただけの処分なら「戦国時代によくある御家騒動の悲劇の1つ」と考えられ、秀吉の評価を大きく下げることはなかったでしょう。むしろ、「秀吉は自身の死後に起こるであろう秀次と秀頼の後継者争いを防ぐため、苦渋の判断を下した」と好意的に評価する人もいたかもしれません。

 しかし、彼の妻子ら30数名(本によって人数は多少違います)を彼の首と対面後に処刑し、死体を塚に埋めさせた方法は異常です。通常、切腹した者の首を晒すことはしません。彼らが秀次の無実を訴えるのは目に見えているため口封じと無実を訴える者への見せしめ、朝鮮出兵などで秀吉に不満を持つ大名への脅しなど様々な意味があったと考えられますが、残酷すぎます。

 彼が住んでいた聚楽第以外に彼が城主だった近江八幡城(当時の城主は京極高次。この事件後に京極は加増される形で大津へ移ります)までも廃城にした行為は、秀次が生きていた証を地上から全て消したいとしか思えません。秀次事件での狂気の処分により秀吉は評価を大きく下げました。

 ちなみに秀次事件後に豊臣家の嫡男になりえるの秀頼のみです。現代の我々は秀頼が無事に成人することを知っていますが、当時の人は当然知らないです。秀頼が成人せずに亡くなった場合は秀吉以外の豊臣の血を引く男子が絶えてしまいます。冷静な判断ができる状態なら、このような処分は行わなかったはずです。

 

○連座した人々

 彼の側近は自害、家臣は彼の側室の親族でなければ改易です。『太閤さま軍記のうち』によると彼の補佐役と思われる木村常陸介のみが斬首です。木村のみ斬首の理由はわかりませんが『太閤さま軍記のうち』では彼だけが悪人として描かれています。『太閤さま軍記のうち』には事実と異なる記述が多いため、木村が悪人であったかは定かではありません。その他の者は改易の上、他家に預けられた後に自害です。秀次の家臣に関する史料が少ないため、誰が秀次の側近であるのかは、この時に処分された人からわかります。家臣以外の側室の親族では最上義光が謹慎、伊丹正親が追放です。

 意外なところでは秀次の重臣である粟野秀用が元は伊達の家臣であったことから「伊達政宗が元家臣の粟野を介して秀次を通じていた」という疑いをかけられ、洛中には娘が秀次の側室として処刑され謹慎を命じられた最上と共に謀反を起こすという噂が流れました。

 伊達は秀吉により没収された旧領大崎葛西で起こった一揆を扇動した疑いがあり、秀吉にとって伊達は要注意人物でした。秀吉は秀次事件を利用し、秀次との関係から伊達と最上を取り潰し、政情が不安定な東北の問題までも解決しようと企てたようです。伊達は国許から急遽伏見へ向かい、秀吉に弁明し許されました。

 秀次が秀吉から関白職を継ぎ、秀頼が生まれるまでは彼が豊臣家の実質的な後継者と考えられていただけに、諸大名が彼と交誼を持つのは当然でした。そのことを秀吉が「秀次と通じていた」と考え処罰できるなら、ほとんどの大名を処罰できます。

 細川忠興は娘が秀次重臣の前野景定に嫁ぎ、『新訂寛政重修諸家譜』によると秀次から黄金百枚を賜ったことで嫌疑がかけられ、「黄金は借りた」と弁明し徳川家康から金を借りて秀吉に返済し疑いを晴らしました。

 連歌師の里村紹巴は讒言により三井寺で蟄居、秀次に仕える医師の曲直瀬玄朔(まなせげんさく)は追放です。

 彼、もしくは彼の側近が謀反を企んでいたと仮定するなら、それなりの人数の大名が謀議に加担していたはずでしょう。改易された大名はいずれも彼の周りの大名が中心です。異常人格を理由にする割には連座した人物が多く、謀反にしては少なすぎるという印象を持ちます。彼の家臣達までも一掃したのでしょう。

 

○なぜか事件直後に加増された人達

 秀次の切腹当日に秀次が近江八幡城主時代の附家老だった山内一豊は8千石、中村一氏は5千石加増され、石田三成らと謀反の疑いがあると秀次に糾弾した使者の富田一白は加増されて伊勢安濃津城5万石(2万石を息子に分地)になりました。

 事件で重要な役割を果たしたと考えられる石田は加増されて近江佐和山19万4千石になりました。石田の加増前の正確な俸禄には諸説ありますが小和田哲男氏の『石田三成』(PHP新書)に基づけば、事件後に9万4千石加増です。

 石田と同じ近江出身で石田に通じていたと考えられている田中吉政は翌月に3万石を加増(『寛政重修諸家譜』の田中吉政の項では秀吉の直轄地3万石を預けられたとあります)されています。

 事件直後に事件に関わった大名の加増は事件での貢献による可能性が考えられます。

 

○実は戦乱の危険性をはらんでいた

 大勢力の秀吉の前には適わず、やむなく豊臣家に随っている大名も多かったです。「天下統一で長年続いた戦乱の時代が終わりようやく平和な時代が来る」という期待感の中での朝鮮への戦争は政権への失望感を抱かせました。

 戦争と数々の普請で過分の負担を強いられた諸大名は領民に重税を課さざるを得ず、領内は疲弊し政権の求心力が低下し、不満が高まったことが秀吉亡き後に政権を失った原因です。 

 伊達政宗など秀次と深い関わりのあったと秀吉が考える大名への対処を誤り、彼らが国許で蜂起し、他の豊臣家へ不満を持つ大名も呼応すれば、戦乱の時代に逆戻りする可能性も考えられます。 

 

◆首謀者は?

○石田三成達?

 『甫庵太閤記』では殺生関白説を採りつつも、秀吉の奉行衆の石田三成と増田長盛が秀吉に讒言したとあるように当時から彼らが首謀者と考えられていました。「秀次が後継者になれば秀吉の側近である彼らは失脚するから首謀者になった」と考え方もあります。一時的に失脚する可能性はありますが、政権の実務を担う彼らなしでの政権運営は困難で、復帰するでしょう。

 また、江戸時代では関ヶ原の戦いの勝者の徳川家康の正当性を強調するため、敗者である石田は実情以上に悪く描かれます。

 江戸時代の「太閤記ブーム」の影響により、主人公である豊臣秀吉を悪者扱いにできない事情から、物語上の構成上秀吉の評価を下げるような事柄の原因を石田達に押し付けた結果、彼らが豊臣家滅亡の原因を作ったと考えられるようになりました。彼らが台頭してきた時期と秀吉の晩年が重なり「秀吉の人柄が変わった」とは知らない(もしくは信じたくない)当時の人々は秀吉の命令を執行する立場の石田が首謀者だと誤解していた可能性もあります。

 秀頼生母の淀殿は石田ら官僚達の出身地の北近江の領主だった浅井長政の娘です。彼らは淀殿を拠り所にして派閥を形成しているため、秀頼が豊臣家を継ぐことに異存はないはずです。信長死後の織田家が後継者争いで衰退し、秀吉に実権を奪われた経緯を知っている彼らは後継者争いが政権存続の大きなマイナスになることは承知のはずで、何らかの手段を用いて後継者問題に決着をつける考えはあったでしょう。しかし、秀吉の強引な方法に心の底ではどう考えていたのかわかりません。

 朝鮮出兵と数々の普請で多大な負担を強いられた諸大名の豊臣家への不満が高まる中、追い詰められた秀次が本当に謀反を起こせば呼応する大名もいないとは言い切れません。そうなると政権にとって好ましくないです。石田らが秀吉に反対すれば、冷静な判断が下せない秀吉により、彼らが処罰することも予想されるため職務として執行しただけです。

 秀次が切腹する3日前の7月12日に石田と増田は「秀頼に二心なく忠節を誓う」という起請文を提出します。彼らが提出することで諸大名の自発的な提出を促すためでしょうが、諸大名より先に出さなければならない何らかの事情が秀吉と彼らの間にあったようです。実の甥でも必要がなくなれば排除する秀吉の姿勢に、側近の彼らですら身の危険を感じたかもしれません。

 

○やはり秀吉が首謀者

 秀吉の意向がなければ、彼の子供や側室への狂気の処分を下すことはなかったです。

 特に石田らが事件当時、京極高次が城主である近江八幡城を秀次が城主だったという理由で城を破却するように秀吉に提案するとは考えられません。京極は近江八幡から大津へ加増される形で移りました。京都に聚楽第のような拠点が必要だったのか、事件の三年後には京都に京都新城を造営しています。財政を担う石田らが首謀者なら、壊してまた建てるような財政上無駄なことをするとは思えません。

 あまり触れられませんが、当時の感覚では高齢である秀吉はこの頃はすでに病にあったと考えられています。秀頼を後継者に指名しても、秀次が生きていれば他の者が秀吉死後に指名を無視して幼少の秀頼ではなく彼を後継者にすることも想像できます。

 遺言を残しても守られる保証がないことは戦国時代を生き抜いた秀吉がよく知っていたはずです。秀頼を後継者に据えるには秀頼以外の後継者候補を消してしまうことが最も確実な方法です。

 秀次事件の三ヶ月前の秀保急死の件は、病死、他殺など正確な死因はわからないです。仮に秀保が秀次事件まで生きていたとすれば、「秀保は兄の秀次と共に謀反を企んでいた」など何らかの口実を作り、謀反人として殺してしまうということはできたでしょう。事件の三か月前に亡くなったからこそ、秀次事件と関連付けられ、他殺ということになったのでしょう。

 むしろ、秀吉が大和豊臣家を断絶させた意味の方が重要です。秀次の息に大和豊臣家を継がせなかった理由は、秀保が亡くなった時点で秀吉は秀次と彼の息子という秀頼の後継者就任の障害となる人物の排除を決め、近い将来殺すと決めた秀次の息に大和豊臣家を継がせる意味がないと考えていたのではないかと推測します。

 

 

◆秀次事件のその後の影響

○秀吉没後体制の確立

 秀吉が関白職に就いたのは政権の正当性を朝廷に求めたからです。織田信長の孫・三法師(成人後は秀信)の後見人という名目で織田家の勢力を継いだため、彼が成人すれば彼に領地を返還する義務が生じます。秀吉はその問題を解消するため人臣最高位(天皇・皇族を除けばもっとも高い位)の関白に就任しました。全ての大名は関白の秀吉より自動的に地位は低くなり、諸大名が関白である秀吉の命に従うのは当然という論理になります。

 天正16年(1588)の聚楽第行幸では行幸に供奉した大名達に「関白殿被仰聴之趣。於何篇聊不可申違背事。」(関白殿の御命令には、どのようなものであろうと少しも背きません)という条文がある起請文を書かせ、天皇の力を背景に秀吉に忠誠を誓わせました。

 秀次事件の直後には秀吉は直接、豊臣家と秀頼に忠誠を誓うという起請文を諸大名に書かせます。秀吉は朝廷に触れを出すなど秀吉と朝廷との力関係が逆転し、豊臣家の力のみで日本を治められるようになりました。

 秀次事件直後に秀吉が諸大名に秀頼に忠誠を誓わせたことで、秀吉は正式に秀頼が後継者であることを明確にしました。このことで世間はこの事件の本当の理由を悟ったはずです。

 秀吉は政権の有力大名の徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家(秀吉の養女が妻)、小早川隆景(秀吉が亡くなる一年前の慶長2年に亡くなる)らの合議で政権を運営するようになります。前田と宇喜田が秀頼の傅(もり)役を務め、坂東は上杉と徳川、坂西は毛利、小早川が宰領し、石田ら奉行衆が実務を行う分権体制を作り上げ、秀頼が成人するまでの体制を整えました。事件の3年後の慶長3年(1598)に秀吉は亡くなります。

 

○関ヶ原の戦いへの意外な影響

 あまり知られていませんが、秀次事件の処分は関ヶ原の戦いの東軍勝利に少なからず影響を与えています。事件で処罰された多くの大名が関ヶ原の戦いで東軍に属しています。

 秀吉から秀次事件を利用する形で謀反の疑いをかけられ、窮地に追い込まれた東北の伊達政宗と最上義光はこの事件での豊臣家や石田への恨みという私情ではなく、冷静な情勢分析に基づき家康有利と判断しただけかもしれませんが、東軍に加わります。彼らが東軍に加わり江戸へ攻め込む動きを見せた会津の上杉景勝を牽制したことで、家康は大坂で挙兵した西軍を迎撃するため本拠地の江戸を離れることができ、関ヶ原の戦いにつながります。

 また、秀次事件で家康に助けられた細川忠興は石田への恨みからか、慶長4年(1599)には加藤清正らと共に石田を討つため大坂の彼の屋敷を襲撃しました。関ヶ原の戦い直前の石田と家康との対立では秀次事件での恩返しもあり東軍に属します。石田は東軍に属する大名の妻子を人質にすることで味方に引き入れようと目論みますが、忠興の妻ガラシャが石田の人質になることを拒み自害したことで目論みは大きく外れ、諸大名の石田への不信感が増すという逆効果になりました。忠興とガラシャの行動が東軍勝利の一因となりました。 

 近江八幡城主の京極高次は前城主が秀次だったという彼とは全く関わりのない理由で、城を壊され加増される形で大津に移ります。京極は東軍に属し大津城で籠城し、大軍の西軍を前に降伏しました。降伏は関ヶ原の戦いの前日であったことから大津城攻めの軍勢は翌日の関ヶ原での戦いに参戦できませんでした。京極が大津城で関ヶ原の戦いの前日まで大津城攻めの西軍を食い止めていたことも東軍勝利の大きな一因です。

 秀次事件で被害を受けた大名達は、その恨みを関ヶ原の戦いで晴らしたとも考えられます。

 

◆まとめ

 秀次事件により秀吉政権への不信感が増大しました。特に狂気の処分により秀吉の評価は大きく下がりました。また、この事件で嫌疑を受けた大名の多くが東軍に属したことで関ヶ原の戦いでの西軍敗北につながりました。

 当時の人々は秀吉からにらまれ、連座させられないように秀次を弁護するどころか関わった記録すら削除しました。そのため、秀次事件は秀次を弁護する史料がないまま、秀吉側の言い分だけによる冤罪事件だと思います。 

 秀次が秀吉の考えをくみ取り、自発的に関白職を辞め、秀頼に従うという起請文を出せば助かったという考え方もあるでしょうが、秀吉が信じる保証はなく、秀吉が彼の命を奪う前に亡くなる以外、彼が助かる道はなかったと考えられます。

 結局、多くの人が考えたように「我が子秀頼可愛さに邪魔になった秀次を排除した」というのが事件の根底だと考えます。

 
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月27日 08時22分31秒 ) パスワード

from 空の青海のあを



彼、もしくは彼の側近が謀反を企んでいたと仮定するなら、それなりの人数の大名が謀議に加担していたはずでしょう。

改易された大名はいずれも彼の周りの大名が中心です。

異常人格を理由にする割には連座した人物が多く、謀反にしては少なすぎるという印象を持ちます。


彼の家臣達までも一掃したのでしょう。 This line is interesting!





秀次事件で被害を受けた大名達は、その恨みを関ヶ原の戦いで晴らしたとも考えられます。
[27]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月28日 04時24分55秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 炎天下での芝刈り、日焼けしてむずがゆくてたまりません。


 さて、関ヶ原の戦いはそういう伏線があったということを知り、歴史とは

点でなく、線なんだなと勉強になりました。


 古代から近代に至るまでの権力闘争は、表層だけ見ていても真実は読めない。

 その深層では、

  1.情報入手と伝達のネットワーク

  2.情報謀略・攪乱能力

  3.呪詛力

 が渦巻いていた。

 具体的には、
 
  1.いわゆる鬼族(まつろわぬ民)等による情報のネットワーク伝達

  2.忍者等によるスパイ活動(諜報・謀略・暗殺・拉致・攪乱・ゲリラ戦)

  3.陰陽道等による呪詛(のろい)

 この3つが戦術のソフト部分で、軍隊・戦力はハード部分と言えるだろう。


 秀次事件によって、どういう訳か、秀吉配下の忍者頭大名多羅尾光俊は、

8万石の領地をすべて没収された・・・? 伊賀越えに関係していた?


 秀次は秀吉に世継ぎが生れたので、陰陽道宗家の土御門家に呪詛の祈祷を

頼み、それが発覚して秀吉を激怒させた。


 ひょっとすると、信長の鬼族系の殲滅作戦を期に本能寺の変、秀次事件

を期に関ヶ原の戦い、そして夏の陣、冬の陣の一連の流れの底流には、裏の

世界がからんでいる。その首謀者達は・・・? 伊賀の上忍か?

また、カラクリの中で光秀は生き残った? 光秀は何者か?


 最後の生き残り、光秀=天海が最大の謎を解くキーワードになり得るので

はないか?


[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月28日 11時32分31秒 ) パスワード

>炎天下での芝刈り、日焼けしてむずがゆくてたまりません

やはりしっかり首も手ぬぐいなどで保護しませんとね。

むず痒いあたりで良かったと思ってくださいね
うちの夫は首が焼け過ぎて火傷状態になって寝込みました。

   寝込んだのは甘えからですけど




わたくしのマシンはいまだに不調で療養中です。
それで古いのを頼りにしています。2008年ものだそうです。コンパックです。こんなのありましたね。

すっごくキイパッドが小さくてうち難いです。

アチコチ触ってしまって  翻訳ボタンを押したらしく、笑ってしまうような英訳になっていました。




関が原の戦いは秀次事件も確かに影響してたんでしょうね。
まったく考えたことも無かったです。


天海和尚は光秀だったんでしょうか?
この人物も謎ですね。


敵の敵は味方、と言いますから
家康に歓迎されたんでしょうか?

ま、教養もあったし学問もあったし。
幕府には無害とされたのでしょうか?


[29]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月28日 17時18分56秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 多羅尾光俊の嫡男光太の嫡女「万」が秀次に見初められれ輿入りしたばかり

に、秀次事件の連座により信楽の本領・8万石余の領地を剥奪され、一族は

伊賀国に逃れ、隠れ住んでいろいろ苦しい思いをした。

 徳川家康の伊賀越えを助けて以来の仲も原因となっていたという。

 秀吉死後に、家康から救いの手が伸ばされている。


 藤堂高虎の正室は多羅尾光成の娘。高虎は秀次の弟秀保に仕えるが、秀保

は秀次事件の3ヶ月前に不可解な変死を遂げる。変死後、仙丸を跡取りにと

願い出るも秀吉に願い出るがあたわず、高野山に出家する。連座という程の

ものはなかったようだ。文禄の役にも出兵。


 服部一忠 文禄の役で朝鮮出兵。秀次事件の連座で、伊勢国一志郡3万5

千石の所領を没収。上杉景勝に預けられた後、切腹。


 一柳可遊 文禄の役で朝鮮出兵。桑名領主。秀次事件の連座で、家康に預け

られた後、切腹。


 加藤光泰の正妻は可遊の娘。従って、光泰の死後ではあったが一族が連座に

問われた可能性は非常に大きい。光泰は朝鮮にて石田三成に毒殺されたとい

われている。


 高虎、一忠、可遊、光泰・・・みんな朝鮮出兵の戦友達である。

 何かある・・・?


 また、

 永井直勝 父は大浜郷の領主。徳川信康に仕える。朝鮮出兵。


 加藤、服部、永井は朝鮮出兵で結びつくが・・・?



 
 
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月28日 21時55分08秒 ) パスワード

>永井直勝 父は大浜郷の領主。徳川信康に仕える。朝鮮出兵。


お父さまは碧南の人でしたか。



>加藤、服部、永井は朝鮮出兵で結びつくが・・・?

こういう縁で養子の話が出てたかもですね。


[31]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月29日 12時01分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 前回のレスに書きましたように、加藤、服部、永井は秀次事件がらみで

考えるのに都合のいい状況証拠・・・ま、ご都合主義ではありますが、そんな

雰囲気・においが少しあります。裏付けの証拠はというと余りありません。

今後、さらに状況証拠を探して探求を重ねて行くつもりです。


 善地には服部と永井は世帯数が少なく、鈴木、松島がそれより多く、加藤

が一番多くなります。旧長上郡的には松島、鈴木はぐっと多くなります。

服部の系統はいわゆる増加率が低い傾向にあります。永井もそうかもしれませ

ん。むしろ減少していずれなくなってしまう可能性の方があります。

 37代も続いていれば、世帯数も相当なくてはなりませんが、善地近辺

には服部家は10世帯位ですので、37代という割りには少なく、疑問符

がつきそうです。


 服部一忠の身辺を少し探ってみたいとは思います。加藤光泰とは戦友にな

ると思いますので。


 藤堂高虎が秀次事件の直前に出家した時、その家来達はどうしていたので

しょうか。家来に服部も少なからずいたでしょうし、その人達の行動にも

興味が涌きます。


 とりあえずはこれにて。

[32]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月29日 15時44分27秒 ) パスワード

藤堂系の服部氏でしたら  伊賀系  でしょ、と思いますが

松平家がらみで
伊賀系でも駿河あたりまで広がっていたでしょうね。
その人達が藤堂家に仕えたことも考えられますよね。


川越の服部家は武田系ですから
それでも家紋は伊賀系の車の中に並び矢なので
南朝方で甲斐に行った家なんだろうなと思います。


やっぱり人間は移動するので限定したことは言えないですね。



わたくし的には服部氏は東は静岡までは考えられます
西は大阪あたりですが
大阪ですと太閤さんにくっついて行った人達だろうなと。


でもその前から関西に別系統の服部さんが大勢したのだろうし。
そうなると秦系とか物部系かな?と。
[33]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月30日 13時30分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 秀次事件について余り納得できておりません。その背後にある裏の(さら

にまたその裏の)情報を求めるべくさらにもがいております。


 連座して切腹になった「服部一忠」は松坂城主まで出世し、文禄の役では

伊勢松坂勢800名を引き連れ、釜山から漢城間の要路警護と秀吉渡海時の

御座所普請を担当。


 同じく連座して切腹になった「一柳可遊」は伊勢桑名勢400名を率い、

服部一忠と担当を同じくしている。


 「加藤光泰」は軍監として甲斐甲府勢1000名を引き連れ、石田三成等

と同行動を取っている。


 秀次は本国にて待機。


 昔は人馬の時代。情報も人馬、鳥、のろし、音、矢の時代。情報を制する

ためにはより多くの忍者・間諜を派遣し、また情報ネットワークをより広

範囲に築かなければならない。

 徳川家康は一番抜きんでていた、その中枢に服部半蔵がいたといっても過

言ではない。


 家康は冷静に秀吉の行動を見ていた。というより忍者等より情報を集めて

戦略を立てていた。秀吉と秀次の関係も情報分析がされ、将来も見通して

いた、というより何か見えないところで糸を引いていたのではないかという

気がしてなりません。情報として何も残っておりませんが、仲違いをおこさ

せ自滅させれば、家康にとってこんな楽なことはありません。しかも名だたる

大名が連座でいなくなる。願ってもかなったり。服部半蔵等軍師なら絵に描

くこと当然ではなかったか。


 ま、も少し情報を探ってみます。

[34]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月30日 22時21分18秒 ) パスワード

3柏さん


秀次事件の裏に家康の陰謀有りですか。
驚きました。

でも面白いですね。


秀次事件で大坂方の大名が消えれば徳川方の漁夫の利になりますものね。
いやあ〜
そこまでは考えていませんでした。


   秀次事件もいろいろ謎があるそうですしね
   なるほど
   影で操った人物=実効犯=に服部半蔵ですか。

   面白いです!
   笑



   最上の娘も側室に差し出してすぐに殺されてますから
   最上も反秀吉になるに決まってますものね。


戦国時代とはいろいろな人間が絡んでさまざまな人間像が見られて
世の中を渡って行くのに参考になりますね。


物部のお話も是非読ませてくださいね。
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月31日 05時22分57秒 ) パスワード

驚きました:

籐堂家に仕えた服部さんで調べていたら西軍についた服部家や川勝家がありました。

http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi16.html


近江国内  1万石  慶長5年10月16日  服部土佐守正栄  関ヶ原西軍参加


丹波国内 3530石 慶長5年10月16日  川勝右衛門尉秀氏  関ヶ原西軍参加   子に540石安堵



日本史を見る目が変わってしまいます。
[36]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月31日 07時12分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 秀次にこだわっていましたが、どうやら抜け出せそうです。

 秀吉が激怒したことでもう一つの大きな出来事は、関白になった秀次が、

聚楽第の金蔵にある金(天正大判 現在価格1枚50万円)を秀吉の許可なく

して、下記のとおり用立てたということである。

 当時の大名の負担は、膨大であったことも事実。朝鮮出兵、伏見城の築城、

京都の大仏殿の建立・・・。

   毛利輝元 300枚 (安芸他100石)(ざっと1億5000万円)

筒井貞次 200枚 (伊賀20万石)

   石川康勝 100枚 (松本6万石)

   金森長近 100枚 (高山4万石)

   細川忠興 100枚 (丹後12万石)

   木下重賢  70枚 (美作2万石)

   分部光義  60枚 (伊勢1万石)

   石川家清  50枚 (尾張1万石)

   田中吉政  50枚 (三河10万石)

   小川祐忠  30枚 (伊予7万石)

 また、朝廷に白銀5000枚を献上。

 愛児秀頼の加護もあったが、これらが決定的な断絶・決断となったようで

す。一度決断すれば秀吉は鮮烈となる。もちろん戦国の世、信長も家康も同

様であったと思う。他への見せしめ、そうでなければ他の大名からなめられ

てしまう。

 ただ、秀吉としては、高野山において、切腹について断ってくれれば、また

逃げられたとして逃がしてくれればとのかすかな希望をもっていたという。

 だが、高野山側も仕打ちを恐れ断行したという。


 家康は、やはり秀吉側の情勢をよく読んでいた。もとより秀吉と対峙・戦っ

た過去がある(小牧・長久手の戦い)。秀次に対するシンパシィはなかったもの

と思われる。

 秀次切腹の2ヶ月前、秀忠に「もし秀吉と秀次の間に争いあれば、秀吉に

味方せよ」と言い含めたという。


 あを様、いろいろ調べて行く内に、高虎は数々の武功を重ね、また朝鮮出兵

については水軍の指揮もとっている。やはり熊野水軍と近い関係にあったので

しょうね?

 久居の服部さんの方のスレも拝見させてもらっていますが、高虎について更

に興味が湧いております。またさまざまな服部氏の登場、勉強になります。
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月31日 22時59分22秒 ) パスワード

3柏さん


驚きでした。
ありがとうございました。


秀次はNHK大河の「江」では
教養人として描かれてましたよね。


本日は情け深い人という・気前の良い人という印象を受けました。
   でもあのお金は秀吉が稼いだものですから(ぶん捕ったの方ですが)
   勝手に人に気前良くあげては秀吉は怒ったでしょうね。



さまざまな面を見る楽しみをありがとうございます。
[38]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月01日 06時59分57秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 一部修正:レス[36] 毛利輝元 100石 → 100万石


 『古事記に隠された聖書の暗号』(石川倉二著)を通読いたしました。感想

としては、日本の古事記・日本書紀に出てくる神々と旧約聖書に出てくる

ユダヤ民族アブラハムの家系に出てくる人物名との比定がされていますが、

日本側の記紀の方が複雑すぎて素直に頭に入らなかったというのが実感です。

 必要な時にまた読み返せばいいと割り切っています。

 
 ただ、最後の結論だけはおもしろいと思いました。それは、古事記をプロ

デュースしたのは「聖徳太子」であったという推論です。また、聖徳太子は

蘇我馬子であったという推論・・・。

 

 そういえば、物部氏の『先代旧事本記』をプロデュースしたのも聖徳太子

と秦氏。

 聖徳太子は絶対解き明かさないといけない課題ですね。


 神話や隠蔽のない本当の歴史書がほしい・・・! 


 
 週末に至りますので、いよいよ物部氏に挑みます。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月01日 22時13分50秒 ) パスワード

朝ご飯を食べてちょっと元気になりました。
にっこり


<39><40>の書き直し:上記は消します


>古事記をプロデュースしたのは「聖徳太子」であったという推論です。

    へえ〜
    この人なら理解出来ます。



>また、聖徳太子は蘇我馬子であったという推論・・・。

    これは聞いたことがあります。


 
>そういえば、物部氏の『先代旧事本記』をプロデュースしたのも聖徳太子と秦氏。

    へえ〜
    有り得ますね。



>聖徳太子は絶対解き明かさないといけない課題ですね。

    はい

    日本の古代史の1番興味深いところですね。



>神話や隠蔽のない本当の歴史書がほしい・・・!


    ムリですが(汗)
    
    でも本当のところはどうだったのか知りたいですね。
     


 
>週末に至りますので、いよいよ物部氏に挑みます。

    楽しみにしております。




実はDVDで映画「ノア」を見ました。
ノアの方舟の「ノア」です。


ノアには3人の子供がいて
シェム
ハム
ヤペテ

聖書的にはこの3人が現在の人類の祖ということです。

   カインの末裔の人類は大洪水で死んだという設定です。
   それでアダムとイブの第3子の「セス」の子孫ノアが全人類の先祖の親になるわけです。



ということで
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/seisho4.htm
ここをお読みください。


下の方の苗族の伝承を。


東洋人は誰の子孫か

 以上、あまり馴染みのない名がたくさん出てきましたが、これらの多くは、高校の世界史の教科書や参考書にものっているものです。考古学や歴史学の成果は、聖書の記述を否定するのではなく、より具体的に明らかにするのに役立っているのです。
 最後に、中国人、モンゴル人、韓国人、日本人、東南アジア人などの、いわゆる「東洋人」は一体だれの子孫なのか、という問題を見てみましょう。
この問題は、じつは容易ではありません。というのは東洋人の居住地は、バベルからきわめて遠い所にあるからです。
 バベルの塔以後、人々は世界中に離散していきました。しかしその際、中国やモンゴル方面の遠い地に移り住んだ人々は、おそらくバベルの塔以後、かなり時間がたってから分かれ出た人々と考えられるのです。
 そのため東洋人の起源をたどるのは、かなり大変です。実際、東洋人はハム系である、という人もいれば、セム系であるという人もいます。
 しかしハム説や、セム説は、強力な証拠があるわけではありません。私はむしろ、いくつかの理由から、モンゴル人や中国人、日本人などのいわゆるモンゴロイドと呼ばれる人々は、ヤペテ系であると考えています。
 その理由を述べましょう。

                  以下をお読みください。


 中国には、「ミャオ族」(苗族)という部族がいます。じつは彼らは原始の時代のことや、自分たちの起源に関する言い伝えを持っていて、それを非常によく保存しています。
 その言い伝えは天地創造、人類創造、大昔の大洪水、また自分たちの民族の起源など、広範囲に及ぶものです。しかもその内容は、驚くほど聖書の記事に一致しています。
 彼らの言い伝えは、韻律のかたちをとっていて、次のようなものです。
「神は、天と地を創造された日に、光の門を開かれた。神は地球に、土と石で山を築かれた。また空には、天体、太陽、月などを造られた。・・・・神は地上に、ちりから人を造られた。・・・・」
 また大洪水についても、
「土砂降りの雨が四〇日間降り注いだ。・・・・水は山々と山脈を越えた」
 と述べています。


ミャオ族は、聖書を与えられたユダヤ人以外の民族としては、原始のことを最も正確に語り継げてきた民族であるようです。彼らは聖書を持たず、またユダヤ人と接触したわけでもないのに、この言い伝えを原始の時代から、続けてきたのです。



 彼らの言い伝えはさらに詳しい事柄にも及んでいます。とくに注目すべきことは、その言い伝えによれば中国・ミャオ族の先祖は、ヤペテの子ゴメルである、ということなのです(詳しくは、聖書と科学の会『インパクト』一五九号参照)。
 彼らの言い伝えによると、漢族にも、ヤペテの血が入っています。こうした言い伝えを、彼らは先祖代々続けてきたのです。
 この言い伝えが真実を表すものなら、中国人や韓国人、モンゴル人などは、みなヤペテ系でしょう。いわゆる「モンゴロイド」(黄色人種)はヤペテ系だ、ということになります。
 実際モンゴロイドは、今のロシアあるいは北アジア経由でやって来た人々、と一般に考えられています。これはヤペテ系民族の散らばった方角です。
ですから、モンゴロイドがヤペテ系だとしても、決しておかしくはありません。「モンゴロイド」と「コーカソイド」(白色人種)は、ヤペテから分かれ出た二大人種に違いありません。
 そして、日本人もヤペテ系でしょう。ミャオ族すなわち苗族が、日本列島に移り住み、日本人を形成する一種族となったことはよく知られています。日本民族学のパイオニア=鳥居竜蔵博士は、日本人はミャオ族と血がつながっている、と述べています。
 ミャオ族は、日本に稲をもたらしました。「稲」にはインド型と日本型(ジャポニカ)の二種があり、日本に見られる日本型稲は中国のミャオ族から伝わったものなのです。
 博士はまた、日本人はミャオ族(苗族)のほか、漢族、アイヌ、ツングース、インドネシア族(隼人)の血をもひく混血民族だ、と述べています。
 これらの民族のうち、日本に古くから住むアイヌを除いては、いずれも典型的なモンゴロイドです。アイヌは一般に「旧モンゴロイド」とも言われていますが、彼らはコーカソイド(白人)の特徴を多く持っていることでも、知られています。
 アイヌは、モンゴロイドの特徴であるお尻の青あざ"を持ちません。コーカソイドは、青あざを持たないのです。またアイヌの人々の肌は、一般の日本人よりも白く、多毛です。アイヌは、ヤペテ系民族の中でも、コーカソイドに近いモンゴロイド"と言えるかもしれません。
 こうしたことを考え合わせてみると、コーカソイドとモンゴロイドとは近縁関係にあり、ヤペテという同じ先祖から出てきた、という考えは決しておかしくはないと思われます。
 もしモンゴロイドがヤペテ系だとすれば、日本人は基本的にヤペテ系、ということになります。「ヤペテ」系民族は、「広い」を意味するその名が示す通り、世界の非常に広い範囲に移り住んだのです。



ここで不貞寝をしたというわけです。笑
[42]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月02日 06時55分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 おはようございます。苗族の話、私も最近目にしたばかりです。ルーツ

はヤペテに遡るということは、シュメールに遡るということになり、シュ

メール民族の後裔が各地に散らばったということになりますね。


 一つ修正がありました。[38]の先代旧事本記の記→紀に修正。


 物部氏は秦氏以上に難しい課題です。広範囲に膨大な資料を収集しなくて

はいけない。そのひとつひとつがまた難しい。

 ということで、まだ資料不足、探究不足ですが、見切り発車をいたします。

 主とするテキストは、

  船場俊昭著『消された物部氏 「天津甕星」の謎』、及び

  飛鳥昭雄・三神たける著『失われた徐福のユダヤ人 「物部氏」の謎』

その他であります。

 それでは―
 


 T.物部氏とは


   戸矢学氏の『怨霊の古代史 蘇我・物部の抹殺』によると、

 「初めにヤマト言葉ありき、その後、漢字を求めて合体する。それが最も

 古い時代の日本語表記の成り立ちである。氏族名も当然例外でない。

  たとえば「物部」氏。「もののふ」というヤマト言葉がまずあって、こ

 れを漢字表記するために「物(ブツ)」と「部(ブ)」という漢字を借りる

 こととした。物は武器を意味する漢字であり、部は職掌(それを司る者)。

 軍事に携わる氏族すなわち「もののふ」を「物部」と表記しているうちに

 「もののべ」と訓読みするようになるのは自然の成り行きだ。」


  船場氏によると、

 「物部氏はふたつの面で、大和朝廷に貢献していた。

  ひとつは、軍事面。物部氏は大和朝廷の先兵となって、地方平定に尽力

 したのである。
  
  「物部」の「物」は、「武士(もののふ)」の「もの」という意味をもっ

 ている。

    〜中略〜

  そして物部氏が貢献したもうひとつの面が、祭祀であった。

  読者の中には、軍事と祭祀は結びつかない、と思われる方もいるかもし

 れない。しかし古代において、軍事と祭祀は切ってもきれないものなのだ。

  それというのも、侵略とは軍事力によるものだけでは不十分であり、精

 神的にも侵略して初めて完全な征服がなされるからである。

    〜中略〜

  さきほど物部氏の「物」が「武士」の「もの」であると述べたが、それ


 以外にも「霊」「鬼」という意味を持ち、霊的・神的な術をよくする一族

 であるということを示しているのである。

  彼らは特殊な神事を司り、それを大和朝廷に伝えた。

  その一つに、「鎮魂帰心法」がある。魂を鎮め、神縣るという法であり、

 神道の中核をなす行法である。

  さらに神道最大の秘術「十種神宝(とくさのかんだから)」の法がある。

     〜中略〜

  伝承によれば、これら「十種神宝」を使い、「ひと、ふた、みよ、いつ、

 むゆ、ななや、ここのたり。ふるへ、ゆらゆらとふるへ」と唱えれば、死

 んだ者さえ甦るという。」


  次回は、物部氏の関連一族について、まとめてみたいと思います。



  
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月02日 10時33分27秒 ) パスワード

ありがとうございます。


物部とは
  武士であり
  祭祀である
というのが第一義でしたか。


     要するに「支配者」層ですね。
     古代日本の最初の支配者層だった?


第2弾を楽しみにしております。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月02日 10時48分51秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%96%B9%E8%88%9F

ノアの方舟各種伝承:


ノアの方舟

英語: Noah's Ark
旧約聖書の『創世記』(6章-9章)に登場する、大洪水にまつわる、ノアの方舟物語の事。
または、その物語中の主人公ノアとその家族、多種の動物を乗せた方舟自体を指す。
「はこぶね」は「方舟」のほか、「箱舟」「箱船」などとも記される[1]。



目次 [非表示]
1 『シュメルの洪水神話』(粘土板)における記述
2 『ギルガメシュ叙事詩』における記述
3 『創世記』における記述
4 形状
5 捜索 5.1 残骸発見

6 大洪水について
7 脚注
8 関連項目



『シュメルの洪水神話』(粘土板)における記述[編集]

壁のかたわらで、わたしはおまえにひとこと話そう。わたしのいうことを聞きなさい。わたしの教えに耳をかたむけなさい。われわれの・・・・・により、大洪水が聖地を洗い流すだろう。人類の種をたやすために・・・・。これが神々の集会の決定であり、宣言である。・・・・あらゆる嵐、しかもはなはだ強大なのが、ひとたばになって襲ってきた。同時に、大洪水が聖域を洗い流した。七日と七夜、大洪水が国中を洗い流し、大舟は嵐のために大波の上でもてあそばれた。そののち、太陽神ウトゥ(英語版)があらわれ、天と地を照らした。ジウスドラは大舟の窓をひらいた。英雄ウトゥは光を大舟のなかにさしこませた。王ジウスドラはウトゥの前にひれ伏した。




『ギルガメシュ叙事詩』における記述[編集]

アシの小屋よ、アシの小屋よ、壁よ、壁よ。アシの小屋よ聞け、壁よ察せよ。ウバルトゥトゥの子、シュルッパクの人よ。家をこわし、舟をつくれ。持物をあきらめ、おまえのいのちを求めよ。品物のことを忘れ、おまえのいのちを救え。すべての生きものの種を舟に運びこめ。おまえがつくるべき舟は、その寸法をきめられたとおりにせねばならぬ。その幅と長さとをひとしくせねばならぬ。ウトナピシュティムがつくった舟は七階だてで、各階には九室あったようだ。七日目に舟は完成した。洪水が起こると、彼は全財産、つまり銀や金、生きもの、家族、身よりの者、職人たちをすべて舟に乗せた。すると、六日と七夜、風と洪水がおしよせ、嵐が国土を吹きまくった。七日目になると、洪水をもたらした嵐は戦いに負けた。それは軍隊の攻撃のような戦いだった。海はしずまり、嵐はおさまり、大洪水はひいた。空模様を見ると、まったく静かだった。そしてすべての人間は粘土に変わっていた。見わたすかぎり屋根のように平らになっていた。天窓をあけると、光がわたしの顔にさした。わたしはうなだれ、坐って泣いた。涙がわたしの顔をつたって流れた。わたしは広々とした海を見回して岸を探した。十二の場所に陸地があらわれた。船はニシル山についた。山は船をとらえて動かさなかった。このようにして船は六日間ニシル山にとまっていた。七日目に、ウトナピシュティムはまず鳩をはなした。鳩は休み場所が見あたらずにもどってきた。つぎは燕をはなしたが同じ結果になった。そのつぎには大烏をはなしたところ、水がひいていたので餌をあさりまわって帰ってこなかった。そこで彼は山頂に神酒をそそぎ、神々に犠牲をささげた。




聖書の『創世記』における記述[編集]

神は地上に増えた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノア(当時500〜600歳)に告げ、ノアに箱舟の建設を命じた[2]。

箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていた。箱舟の内と外は木のタールで塗られた。ノアは箱舟を完成させると、妻と、三人の息子とそれぞれの妻、そしてすべての動物のつがいを箱舟に乗せた。洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。その後、箱舟はアララト山の上にとまった[3]。

40日のあと、ノアは鴉を放ったが、とまるところがなく帰ってきた。さらに鳩を放したが、同じように戻ってきた。7日後、もう一度鳩を放すと、鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきた。さらに7日たって鳩を放すと、鳩はもう戻ってこなかった[4]。

ノアは水が引いたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出た。そこに祭壇を築いて、焼き尽くす献げ物を神に捧げた。神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全ての生きとし生ける物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさない事を契約した。神はその契約の証として、空に虹をかけた[5]。



形状[編集]

方舟は「長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビト」で3つのデッキを持っている。これは、タバナクル(テント式神殿)の3倍の高さであり、タバナクルの前庭の3倍の広さとなっている。この大きさによって、神の考えにおける人類の魂の救済という意味が同時にこめられていることを聖書の著者が念頭においていたことが示唆される [6] 。

さらに長さ300キュビトは60の5倍、高さ30キュビトは60の半分であり、このサイズには、60という数字が根底にあると言われている [7]。(1キュビトを伝統に従って約44.5cmとして換算すると、およそ「長133.5m、幅22.2m、高13.3m」となる[8]。)

またこの「長:幅:高=30:5:3」の比率は、現在のタンカーなどの大型船を造船する際に、最も安定しているといわれる比率とほぼ同じとなる。
  

            へえ〜
            これは面白い情報でした。
  
              

捜索[編集]

『旧約聖書』内の記述から、実際に多くの学者や冒険家たちによって、この方舟の捜索がなされてきた[9]。


残骸発見[編集]

現在までに、アララト山に漂着したとされる「方舟発見」(と、主張される痕跡)の報告が何例かなされている。 引用元がないため、信憑性は低いが、下記に示す。


古くは、紀元前3世紀に、バビロニアの歴史家ベロッソスが書き残していた。

1世紀のユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスは『ユダヤ古代誌』の中で残骸を見たと記述している。

13世紀には、マルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で言及していた。

中世にはアララト山自体、神聖視されていたが、1840年の火山噴火により、付近一帯が壊滅状態となった(それ以降の噴火はない)。

1883年の火山性地震により、ノアの方舟の残骸らしき、古い木材建造物が一部露出する。トルコ政府関係者が調査するも、内部が崩落する危険性があり、途中で断念。その際に、欧米諸国にニュースが報じられる。

詳しい年代は定かとなっていないが(1880年 - 1910年頃であろうと推測される)アララト山周辺を勢力圏としていた帝政ロシアが大規模な捜索隊を編成しノアの箱舟の残骸を捜索しかなりの成果を収めたものの、ロシア革命の混乱が原因で公表される前にその資料が遺失してしまったという。

1920年以降、様々なレベルで調査が、その都度行われている。標高はおよそ、5,000メートル付近といわれている(その後、地震や氷河の融解によって、渓谷を滑り落ち、下に移動していったとする説もあった。またこの近辺は、冬期間は完全に氷河に閉ざされてしまう)。

戦後、米国の軍事衛星による撮影でCIA内部でも実在説を支持する勢力が増えたことがある。

1950年代の複数の調査によると、氷河に閉ざされていた影の長さは120 - 130mあったと報告された。また、その数年後に調査したグループが、残骸から切り取ったとされる、ほぼ炭化しかけた、化石といってもよいような木材を、数箇所の大学や研究機関で、放射性炭素14法などを用いて年代測定したところ、およそ、カイロ博物館では紀元前3000年 - 紀元前4000年、エジプト農務省では紀元前5000年、マドリード大学などいくつかの大学では紀元前2000年〜紀元前3000年といった結果が出た。一方で、カリフォルニア大学など、アメリカのいくつかの大学では、およそ1200年前〜1400年前という結果が出たという。その材質はオーク材であった。『聖書』の「ゴフェルの木」は、一般に「イトスギ」と訳されているが、実は「ホワイトオーク」であったとする科学的な見解もある。ただし、この近辺1000km四方に、ホワイトオークは古来から存在しないため、証言どおりであるならば、明らかに、遠い過去の時点で、大量にその地帯に持ち込まれた、あるいは、運び込まれた材質であるといえる。

1959年には、トルコ空軍による報告が残されている。

1960年代に入ると、冷戦激化に伴い、旧ソビエト連邦と国境を接するこの地区には入ることが不可能となった。しかし、駐トルコのアメリカ空軍によって、この船影らしき長方形の黒ずんだ物体が、何度も確認されたという。これらは、アララト山北東斜面に集中しているといわれている。 それらの情報を総合すると、箱舟伝説を信じる調査者たちの中では、現在は、北緯39°26′4″、東経44°15′3″、海抜1870m付近のものが有力とされる。
ノアの方舟かどうかは不明ながら、現在、それらとは別のものと臆される船型地形の現地写真のみならず、人工衛星写真も撮られていて、こちらは、文字通り船型をしている。全体のサイズは、聖書の記述とほぼ合致するといわれている。掘削調査は行われていないが、非破壊の地中レーダー観測も行われ、竜骨など木製内部構造も調査されている。また、石材製の碇と思われる巨大なパーツや、同じく、石製のリベットらしきパーツも、その地形周辺から出土している。

2010年4月27日 トルコのアララト(Ararat)山の山頂付近(標高およそ4000メートル地点)で、方舟の木片を発見。炭素年代測定を行ったところ、ノアの方舟がさまよったとされる今から4800年前と同時期のものであることが確認。発見された構造物はいくつかの部屋らしきものに分かれていたことから、普通の住居の残がいなどではあり得ないと結論。(標高3500メートル以上で人の住まいが発見されたことは過去にない事由による)



大洪水について[編集]

古代の大洪水にまつわる伝説や神話(大洪水神話)は、世界中に存在し、その発生を主張する学者や研究者も多い。但し、それが、『創世記』やメソポタミア神話(特に『ギルガメシュ叙事詩』)にあるように、世界規模で起こったとする者は少なく、「メソポタミア近辺での、周期的な自然災害」、あるいは、「氷河が溶けた当初の記憶」などと見解の方が多く、「地球規模で発生し、人類や生物の危機となった」とする、それらの神話の記述との食い違いもみられる。

メソポタミア地方周辺の地質調査の結果、実際に洪水跡と推測される地層の存在が確認されている。しかし、この災害が、この地方の神話や『聖書』内の大洪水の伝承の元となったとするならば、ローカルなレベルでの比較的大規模な洪水であったという域を出ず、世界的な大洪水の証拠とはならない。

また、方舟に収容された「雌雄一対(つがい)の動物」とは、成体である必要はなく、洪水の期間や塩分濃度およびその間の餌の確保という(重大な)問題を除くなら、水中で生息できうる動物の収容の必要はない、との見解もある。

『聖書』を信じる創造論者の中には、アメリカ合衆国のグランド・キャニオンなども、この大洪水が原因で生成されたとし、大陸移動や氷河期などもこれ以降に急激に発生し、恐竜などの絶滅もこれに起因し、各種化石もこの洪水の作用によって作られたとする説を唱えるものもいる。

『灼熱の氷惑星』(高橋実著、原書房1975年発行、現在絶版)にノアの大洪水の原因について天文学的見地から仮説・検証を行っている。約3000年周期で地球を訪れる地球とほぼ同じ大きさの氷(水)で組成された彗星「天体M」によるものと記述されている。地球軌道に近づくにつれ、「天体M」は水の天体となり、地球に接近した時には大音響と共に地球に約600京トンの水をもたらした。その洪水(津波)は直撃地点付近で8750メートルとなり、地球全域を覆い、地球上の海面を100メートル以上上昇させた事が原因であるとし、さまざまな洪水伝説との類似点も検証している。地球は、惑星としてはあまりにも水が多く、その原因として著者は「天体M」を仮説として考えた。現在は地球に向かって来る後半の1500年以内に相当するものであると記述されている。疑似科学の一種であり、飛鳥昭雄などはこの説を継承している。

現在の黒海が形成された際の洪水や(黒海洪水説)、エトナ山噴火に伴う津波が大洪水の原因という説が最近あげられつつある。




8.^ 英語版によると、エジプトで用いられていた「キュビト」の場合に、最小で「長129m、幅21.5m、高12.9m」、最大で「長165m、幅27m、高16.5m」となり、その単位設定: 約43cm‐55cmで差が生じる
[45]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月03日 08時30分12秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 ノアの大洪水・・・40日も続いた。これは雨が降り続き、洪水になった

ということか、また洪水は津波を含んでいるのか。箱舟が、1870mも

4000mもみずによって持ち上げられるというのは、想像を絶する世界で

あります。

 世界各地に洪水伝説があり、彗星の海への落下、衝突によるもの、天体М

が地球の側を通過した時に水と砂がもたらされたというもの、謎の第12番

惑星によるもの、火星が月に接近し月の中から水と砂がもたらされたという

もの等々、いろいろな仮説がありますが、いずれにしても天体の影響が原因

であったのは間違いないでしょう。出エジプト記の時代にも火星の影響がい

ろいろあったみたいですから。いわゆる「葦の海の軌跡」・・・海が割れた。


 
 さて、物部氏に移ります。


U.物部氏族とは


 まずは、テキストとして神一行氏の『神社が語りつぐ古代史の真実』を
 
つけ加えます。



 物部氏も秦氏と同じくグループ全体の総称として使われている。生物学

でいえば物部氏は「目」で、その下に個別の姓、いわば「科」がある。

 秦氏の場合は、大化の改新あたりから秦氏では不具合が生じる事態になり、

一斉に名前を変え出した。

 
 物部氏の場合はどうか、もちろんそういうこともあったろうが、日本に

渡来した時のグループ名がはっきりしている。

 『先代旧事本紀』によれば、物部の集団は32神と25部を形成し、ニギ

ハヤヒとともに「天磐船」に乗って河内の河上タケルガノ峰に天降ったとい

うことである。


 飛鳥昭雄氏によれば、この集団はユダヤ人「徐福」の集団で、同じくユダヤ

人の血を引く童男童女と技術者、即ちアケメネス朝ペルシアから東漸し、秦帝

国へとやって来た亡命ユダヤ人たちの子孫であるという。

 
 船場俊昭氏によれば、32神はニギハヤヒを守る防衛(ふせぎまもり)。

そして、副官となる五部人(いつとものひと)。職業集団の長である五部造。

五部造に率いられた天物部ら二十五部人。そして船長1名、舵取1名、船子

4名である。


 32神の名前はわかりにくいため、その後の子孫の名前で代表的なものを

記します。

 物部氏、尾張氏、猿女氏、忌部氏、中臣氏、渡会氏、安曇氏、海部氏、

間人氏・・・。

 そして船長は阿刀氏。

 

 
 ここまで約3時間かかりました。いろいろ確認しながらの作業、大変で

す。とりあえずこれにて終わりますが、次は徐福、あるいは星との関連に向

けて進めたいと思います。
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月03日 09時26分49秒 ) パスワード

>ここまで約3時間かかりました。

ありがとうございました。
早朝から大変な作業でしたね。
もう汗びっしょりでしょうね。
感謝です。



また全く想像もしていなかったレスを読ませて戴きました。
ありがとうございました。



>秦氏の場合は、大化の改新あたりから秦氏では不具合が生じる事態になり、一斉に名前を変え出した。


有り得ますね。

聖徳太子が薨去なさってから一族が殺されたりしていますから
聖徳太子一族と近かった秦氏は名前を変えて目立たないようにしたのでしょうね。

それで秦氏は歴史の表舞台から消えたのでしょうね。



>『先代旧事本紀』によれば、物部の集団は32神と25部を形成し、
>ニギハヤヒとともに「天磐船」に乗って河内の河上タケルガノ峰に天降ったということである。


>船長は阿刀氏

    これに1番驚きました。
    空海の母上の出身ですね。

    そういう家だったんですねえ。
    やはりかなりの家だったんでしょうね。




>河内の河上タケルガノ峰

初めて知りました。



それで2−3調べて来ました:

http://naratuusinn.blog111.fc2.com/?mode=m&no=47

ニギハヤヒさんは、天祖から預かった十種の神宝を持って、河内国河上のタケルガ峰に天降ってから、鳥見白庭山へ遷座している。

天の川から富雄川へ・・・・。

さらに斑鳩にかけての一帯は古代枢要の地であった。 

富雄川一帯にはニギハヤヒさんの墓、ナガスネヒコ本拠地跡、はたまた神武天皇聖蹟鵄邑(とびのむら)顕彰碑・・・・。杵築神社、登弥神社、矢田坐久志玉比古神社などなど、半径数キロの間に我が国最古のてんこもりで、解釈も好き勝手に楽しめる。


今、私の住んでいる場所は奈良朝の頃は大倭国添下郡 鳥見庄 中村、別名を藤ノ木と呼び、河内、生駒にまたがる生駒山頂から東に6キロ、鳥見谷の中心地で登美の神奈備(とびのむら)の東麓に当たり、物部氏の祖神の地でニギハヤヒさんの本拠地であり、あまたの中心地であったぞ。




http://sorakaranojyouhou.at.webry.info/201303/article_17.html

イカルガ(何鹿)

京都府綾部市は以前「何鹿」と書いて「イカルガ」と呼んだ。
この本に出てくるのは全てこちらのイカルガ。

「祈ることで力が与えられる」という意味。
鹿の角は「白い木=稲妻=星の宮」をあらわしていて、鹿も同じ意味合いを持つ。

ヤマトの権力者がこのイカルガの名前を持って行ったと知らされている。

ホシノミナが降りたと伝えられる星原や、物部氏発祥の地でもあり、
倭の国と呼ばれ栄えていたが、ヤマトに徹底的に滅ぼされた。


・・・「阿波国風土記」  そらより降り下りたる山のおおきなるは、
阿波国に降り下りたるを、天のもと山と云い、その山のくだけて、
大和国に降り着きたるを天香具山というとなん申(まをす)。

⇒ 砕けた破片(大きな落し物?又は分身?)が
難波の仁徳天皇陵となった。

*)物部氏の伝承の先代旧事紀のなかに、
「天の磐船に乗って河内の国の河上の哮が峰に座す」とあります。

この「哮が峰」をタケルガ峰と一般的には読まれますが、
これをイカルガ峰と呼ぶ例もあります。

以下推測です。
「哮が」の「哮」は「吠える」ことですが、
「猛々しく吠える」から「怒る」で「イカルが」と読んでいるのかもしれません。

これを逆に考えると、倭の国の「何鹿」(イカルガ)を
「怒る」→「吠える」→「哮が」と当てたのかもしれません。


物部の守屋

「物を述べる」から来た名前。
モノとはイシカミやヤマタイコクの物語を言い伝えていた。

イカルガ(=何鹿)の物部村から出た人で,
仏教を強制する蘇我氏や聖徳太子と戦った。

星延べの子供の後見人であったので、守屋という名前。
綾部の私市円山古墳には大小の遺体があったが、
これが物部氏と、星延べの子供。

星述べ=いて座のイシカミからいろいろと農業や日常生活のアドバイスを受けていた人。特に子供や女性。


続・物部氏、マンタ、鯨の大量死。

2002年1月21日「お知らせするように、星たちから言われました。

物部の守屋が、蘇我氏の一族から追われたのです。
それはいたいけな子供も一緒でした。
白い木の子孫を守るために、物部氏はホシノミナを目指したのです。
それは極少ない人数で人目を惑わすために、僧侶の身なりをして逃げました。

道中サンカに助けてもらいながら、遂にイカルガ (綾部) に逃げて来ました。
そしてイカルガ兵が守る所にたどり着いたのです。

お墓に一緒に葬られていたのが白い木の兄の方です。
信貴山の寺に預けられた子供は弟のほうでした。
物部氏は殺されましたが遺体は残されました
。何故なら坊さんの姿をしていたからです。
連れていかれたのは身代わりの人です。

敵がいなくなってから丘の上に葬りました。
昔から、丘は (イシカミが作ったと) 大切にされていました。
(私市円山古墳は) 人間が作った丘ではありませんでした」



http://murata35.chicappa.jp/yomoyama/0812/#271


=武甕槌神(たけみかづちのかみ)が従える「天鳥船神(あめのとりふねのかみ)」とは?=

 国譲りの神話に出てくる天鳥船神は、船を神格化したものである。

その船は海を行き来するとともに、地上と高天原との間を往来するとされた。


天鳥船神は、伊弉諾尊と伊弉冉尊が国生みの後で生んだ神々の中の一柱である。


別名を鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)という。古代の日本では、クスノキがもっとも良い丸木船の素材とされていたため、その名が起こったのだ。

この部分では天鳥船神は航海の神とされている。

ところが、「日本書紀」第五段第二の一の書では、
伊弉諾尊、伊弉冉尊が鳥磐橡樟船(とりのいわくすふね)を生んで、
その船に蛭子を乗せて流したことになっている。

             え〜〜〜?
             蛭子?
   

また、高皇産霊尊が大国主命に、お前が海に行き来するために「高橋、浮橋、天鳥船」を作る約束をする場面もある。こういった箇所では、天鳥船(石楠船)は船そのものだ。


鹿島神宮の近くに、岩船明神がある。それは自然にできた船型の巨石を御神体とするものだ。
国譲り神話に出てくる天鳥船神は、鹿島神宮と深い関わりを持っている。
そして、国生み神話の天鳥船神はもとは蛭子を流す船だった。


両者は、元来別のものなのだ。
ところが、日本神話を整えるときに、そのような船の神はすべてまとめて天鳥船神とされた。


ところで、『常陸国風土記』に鹿島(香島)の神がもとは船の神、水上交通の神であったことをうかがわせる次のような記事がある。

倭武(やまとたける)天皇の時に、香島の神が中臣巨狭山命(おおさやまのみこと)の夢の中に現れて、いますぐに、私の船に奉仕せよと命じた。
そして、明け方にもう一度お告げがあった。「お前の船を海においたぞ」と言う。巨狭山命が見ると船は岡の上にあった。さらにお告げがあり、「船は岡の上においたぞ」と言う。ところが船は海に浮かんでいた。こうしたことが続いたので、巨狭山命は大きな船を三隻作って神宮に納めたという。もとは、利根川や霞ヶ浦の水上交通を押さえた豪族が鹿島の神を祭っていた。

それゆえ、鹿島の神は船を守る神としての性格をつよくもっていた。

ところが、鹿島神宮が中臣氏と結びついて武神になっていく。
これが、日本神話で武甕槌神が天鳥船を従えて地上に降りる話になったのだ。

こうして、鹿島の神の船の神としての性格が薄れていく。


そういった段階で、鹿島神宮の主祭神が武甕槌神になり、
鹿島の神の役割の一部を、別の社に移す型で岩船明神が設けられ、
それが天鳥船になった。         「日本神話と神々の謎」より


=編集後記=
 時に長髄彦、乃ち行人を遺して、天皇に言して曰さく「むかし天神の子有しまして、天磐船に乗りて、天より降り止でませり。」    (『日本書紀』)

(イザナギとイザナミが)次に生める神の名は、鳥之石楠船神(とりのいわくすぶね)、またの名は天鳥船(あめのとりふね)という。     (『古事記』)
                        =了=




>次は徐福、あるいは星との関連に向けて進めたいと思います。

よろしくお願い致します。
特に星は最近すっごく気になっています。
[47]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月04日 06時56分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 昨日は、時間があっても進まない日でした。今、4日の朝を迎え、しばし

集中しております。


 物部氏族の続き―


 物部氏族の中も、大きく2つに分かれるということ。32神の内の代表的

な氏族は次のように分けられる。

 1.祭祀氏族・・・忌部氏、猿女氏、中臣氏、渡会氏、海部氏

 2.軍事氏族・・・物部氏、尾張氏、安曇氏

 このグループとは別のグループとして、「秦氏族」の秦氏、賀茂氏。

 も一つ後発の「藤原氏族」。

 よくわからないのが出雲系と蘇我氏・・・ここが物部氏とつながっていて、

3者共に日本史の中で隠された部分である。


 従って、生物学の分類「目」でいうと

 1. 物部「目」

 2.秦「目」

 3.藤原「目」

 の3「目」が日本を動かして来た3代氏「目」ということができよう。


 話は戻って、物部氏族における祭祀氏族はいわば「古神道」の中枢を担って

来た氏族である。

 飛鳥氏に言わせれば、物部氏の中の物部氏、中枢であると言う。なぜなら、

ズバリ忌部氏、中臣氏、猿女氏はユダヤ・レビ族ゆえ別格であるということで

ある。


 話はややこしくなるが、更に賀茂氏は忌部氏の中の忌部氏であり、レビ族

の中のレビ族、アロン直系のコーヘンであると言っている。

 賀茂氏は天皇の祭祀の現場では出てこない。秦氏と賀茂氏は別サイドで探究

する必要がある。いろいろややこしい限りである。みんなどこかでつながって

はいるのであるが、目と科のルーツははっきりしておいた方がいいというの

が、今後に対する私の意見である。

 
 さて話はまたややこしくなるが、大和の統一に際し、大和朝廷に協力した

物部とあくまで協力しなかった物部があった。前者を「内物部」、後者を

「外物部」という。これが物部氏を更にややこしくしている元凶である。


 外物部の方が、祭祀系の色彩が強く、ここに船場俊昭氏の言う「天津甕星」

が登場するのである。




 やっと、星の入り口まできました。

 とりあえずこれにて。歴史は二重三重にねじれているので、その糸を解き

ほぐのが非常に大変。釣り糸が絡むのは慣れているけれど・・・。


   
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月04日 07時13分22秒 ) パスワード

3柏さん


釣り糸は絡んでもほぐせますし、バッサリ切っても良いし。



歴史の糸のからまりは「人間」が絡んでいますから「糸」のようなわけにはいかないですね。


「人間」であれば組織が大きければ大きいほど反目があったり離反があったり。
それが人間社会ですから。


賀茂氏は忌部氏の中の忌部氏ですか。
へえ〜


>アロン直系のコーヘン

すっご〜ぉ〜い〜

   コーヘンはレビーンと並んで代表姓です。
   ハードコア、ってことですね。




物部氏:
1.祭祀氏族・・・忌部氏、猿女氏、中臣氏、渡会氏、海部氏
2.軍事氏族・・・物部氏、尾張氏、安曇氏

この分類、非常に分かり易いですね。
ありがとうございます。



「天津甕星」のお話
楽しみです。
[49]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月05日 06時56分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 いろいろな本・資料を読めば読む程、ループしてこんがらがってわからなく

なってしまう。からんだ糸は必ずほどけるものであるが、それには時間がかか

る。長い年月、多くの氏族のことである。一筋縄にはいかない。



 V.物部氏と星の関係


 大きな観点から言うと、古代社会の「政りごと」は正に「祀りごと」が必要

であった。

 いわゆる「祭祀」と呼ばれるものであるが、祭祀とは何かが古代を解き明か

す大きなカギとかる。今手元には天皇の祭祀に関する詳しい情報はないが、

祭祀には原始的なアニミズム・シャーマニズム・天体の観測による占い・祈祷

が混じり合っているのではないか。


 世界史の中でとらえると、シュメール・バビロニアあたりから、特に天体

観察に基づいた「占い」を深化させていた。

 「占い」とは何かといえば「未来予測」、それは天体観察によって1年の暦

ができ、季節が測れ、農作物の作柄、治山治水、また戦争にも大いに役だった

と思われる。

 占いの占いたるものは、神がかり的な降霊による神のお告げ(神託)・予言、

あるいは霊視・千里眼等だろう。

 また、呪術による調伏、病気平癒、願望成就等もある。

 そんな中でも人智を超えた天体の存在は一番の大きなインパクトになった

ものと思われる。


 シュメールにおける天体観察はバビロニアにおいて「占星術」に進化した。

 太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星・・・。

 バビロニアでは各地に天文台が設けられ、専門の神官が常時天体を観察して

いたという。

 これらの天体信仰は、その後エジプト、ギリシア・ローマ、アラビアと伝え

られそれぞれ進化して行く。

 ルーツを中東に持つ民にとって、天体、特に星は切っても切り離せないもの

であったと思われる。その民とは「物部氏」に比定される。
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月05日 21時29分43秒 ) パスワード

ありがとうございます。


   ルーツを中東に持つ民にとって
   その民とは「物部氏」に比定される


ここでハタと思うことがございました。

NHKのヒストリアで見た卑弥呼の墓らしき回で
「麻の実」も一緒に埋葬されていた
ということから  ああ 巫女は神の託宣を受けるのにラリっていたのか  と思いましたが


「中東」ということからハシシを連想しました。

今でもハシシを服用して神と繋がる踊りを奉納する某民族の信仰のドキュメンタリーを見たことがございます。


ま、どこの民族でもどの宗教でも薬物は使用されていたのでしょうけど
元々はそういうことだったのか?
と思いました。
[51]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月06日 00時43分58秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 神と通じるためには仙薬的なものを使う、世界的に言えば錬丹術から錬金

術への発展も既にみられていたし、時代は後になるが、空海も水銀等仙薬を

使って虚空蔵真言を唱え、いわゆるチャクラを開いたのかも知れない。

 卑弥呼と大麻は現実的にはおおいにありえたことだと思います。



 さて、物部氏と星との関係ですが―


 物部氏と星の関係がなぜ必要不可欠なものであったのかというところが

今回の一番大事なポイントである。なぜ物部氏だけがという謎である。


 それは、飛鳥氏に言わせれば、物部氏集団が亡命ユダヤ人だからである。

 中でも忌部氏、中臣氏、猿女氏はユダヤ・レビ族ゆえ別格であるという

ことである。

 
 3氏だけかというと、その他の氏族でもレビ人に属すものがいるかも知

れないが、祭祀を執り行うには、星の秘術を使い、人間の運命をよみ、

そして生命を操つるという必要性もある。

 物部氏にとって、「星」は信仰上の重要な崇めるべき対象であった。



 船場氏に言わせれば、

 「物部氏が軍事・祭祀の面で大和朝廷に貢献したことは、すでに書いた。

 実は、これらの技術はどちらも「星」と深く関わってくるのである。

  まずは、物部氏の軍事力のもととなった金属精錬技術。これは「鉄器」

 を作ることに長けていたということである。

  古代において、鉄は何よりも価値があった。それまでの青銅と比べ、

 格段に強度があり、強い武器が作れる。だからこそ、物部氏の軍隊は強か

 ったのだ。

  この「鉄」と「星」にどんな関係があるというのか―実は、大いに関係

 ありなのだ。

  そもそも「星」の語源とは何か。それは「火石(ほし)」―熱く焼けた石

 の意味であり、即ち「隕石」のことである。

    〜中略〜

  隕石の中には、鉄とニッケルを主成分とするものがあり、これを隕鉄と

 いう。
    
    〜中略〜

  空から落ちてきて「鉄」をもたらす「星」を、製鉄に関わる者たちが

 崇めないはずはない。

  金属精錬をよくする物部氏とて例外ではなく、彼らもまた「星」を崇め

 ていたに違いないのだ。」


 それでは、その星が何の星であったのか・・・?



 とりあえずはこれにて。





 

 
[52]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月07日 06時47分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 星辰信仰のところで決定打がなく、とまどっています。

 
 物部氏が崇めた星とは―

 ユダヤと星辰信仰をつなぐ強力な証左がなかなか見つからない。

 言い換えると、物部氏にどうしても切り離せない星との強い関係、必然性

が見い出せない。どうしても守らなければならない星との関係とは。


 ただ、状況証拠として、シュメール、バビロニア、エジプト、アラビア

等には星辰信仰があり、メソポタミア出身のユダヤ人にも当然浸透している

だろうという推測はできる・・・。


 ただ、ひとつのヒントは見つかった。それは、

 イエスは自らを指して「ダビデのひこばえ、輝く明けの明星」であると

述べたそうである。自分がダビデの星六芒星、そして金星であると・・・?


 比定の対象となる星はいくつかある。

 明るさの順に言えば、

  1.金星(Max4.8等星)

  2.火星(Max3.0等星)
 
  3.木星(Max2.8等星)

  4.北極星(1.96等星)

  5.シリウス(1.46等星)

 赤い色に輝く星というと、

  1.金星

  2.火星

  3.シリウス

 星の伝説から言うと、

  1.金星・・・バビロニアでは女神イシュタル=戦争の女神
         ギリシャではアフロディーテ=愛と美の女神
         ローマではヴィーナス=愛と美の女神
         ヘブライではルシファー=堕天使

  2.火星・・・バビロニアでは疫病・戦争・洪水などの神

  3.シリウス・・・古代エジプトではイシス神 太陽神ホロスを生み
           出す神

 バラバラな状況証拠はあるような気はするのだが、もう少し証拠となる資料

を集め統合する必要がある。


 今ひらめいている仮説は、

  金星 = ルシファー = スサノオ = キリスト

 の図式である。


  物部氏(外物部)がどうしても守りたかったのは天津甕星=キリスト、そし

て本当の復活であると・・・。


 とりあえずはここで。
 


 

[53]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月07日 07時36分40秒 ) パスワード

>そもそも「星」の語源とは何か。それは「火石(ほし)」―熱く焼けた石の意味であり、即ち「隕石」のことである。


へえ〜
驚きました。


古代人、賢い!


「隕鉄」の不足を補うのに「砂鉄」の入手や「たたら製鉄」が行われるようになったのかなと
連想がいきました。




青銅器文化のエジプトは鉄器文化のヒッタイトに敗れた。


   日本でも同じことが起きた:


1)
http://blog.goo.ne.jp/n_ishii517/e/bb58d9a9d060b162c6ec959a7304be53

倭国、大和国とヘブライ王国
ヤマトとはヘブライ王国の神・ヤハウエの民を意味するヘブライ語‘ヤァ・ウマトゥ’が変化したものであろう


スサノオの八俣大蛇退治

古事記の大蛇とは何を言い換えているのだろうか。大蛇族と言う名の部族がいたのだろうか。古事記は大蛇を次のように表現している。

「その目は赤迦勝ちの如くして、身一つに八頭八尾あり。又その身に苔と檜椙(ひすぎ)と生い、その丈は渓谷八谷峡八尾に渡りて、その腹を見れば悉に常に血爛れつ」。


             この描写が隕鉄と製鉄現場のようにも思えますね。



八っの谷と八っの尾根に跨る蛇などいるわけがない。出雲は古代から「たたら」と呼ばれる鉄の生産で知られている。一時は国内の鉄の生産の8割に達していたと言う。今でも鉄の資料館などの施設が沢山在る。和鋼博物館、鉄の未来科学館、古代鉄歌謡館、奥出雲たたら刀剣館、たたら角炉伝承館などがある。

ここである映画を思い出した。宮崎駿のアニメ映画「モノノケ姫」である。この映画の粗筋を簡単に纏めると次のようになる。古代某地において鉄の生産が活発に行われていた。鉄の生産には大量の火を必要としたため、生産地の森が失われていく。その山々は赤く燃え、河は真っ赤な廃液のため汚染していく。現代の公害、自然破壊が古代に既に行われていたのだ。この鉄の生産から森を守ろうと立ち上がったのが「モノノケ姫」である。

古事記の中にある大蛇の様子を示す「又その身に苔と檜椙と生ひ・・・」と言う記述は、檜と杉に覆われて苔むす森の様子を示していると解釈する。

このアニメの舞台は出雲だったと考えている。

スサノオは斐伊川の上流の須佐に降臨したとされている。地図で斐伊川を調べてみた。日本海に面した宍道湖に注ぐ斐伊川の支流は扇状に広がり、地図に見られる名の付いた支流を数えてもその数は八支流を越えている。裾野から八雲立つ山側を望めば、八っの谷と八っの尾根がうねって見えるのであろう。更にそれらは夜になると谷や尾根の製鉄所が赤く燃え上がり、昼河を見れば河が赤く汚されていたに違いない。この出雲の山川の惨状を見れば、正に古事記の表現の通り「赤く輝く目、血に爛れた腹を持つ大蛇」にたとえたとしても何の不思議もない。

山は剥げ洪水が起こり、河は汚れ稲作も出来ず、森の動物も去り、木の実さえ取れなくなっていたとしたら、里の人たちは鉄の生産者(ここで大蛇族とする)を嫌い、或いは恨んでいた事だろう。古事記は人質に出す姫の名を‘櫛名田姫’としているが、日本書紀は‘稲田姫’としている。古事記でも読みの音の中に「稲田」が隠れている。これは河の汚れにより稲が取れなくなった様を抽象的に書いたと推察した。


この大蛇族とは何処から来たのだろうか。先に隠岐の島に出雲を取ろうと、別のイスラエルの失われた支族が拠点を定めている話をした。そしてこの支族は天孫族の取ったルート(黒潮に乗って渡来した)と違い、朝鮮経由で渡ってきたとした。その支族は朝鮮で製鉄をしていたことから、出雲を落とすと直ちに砂鉄と木に恵まれた地であることを知り、鉄の生産を始めていた。

そんな時に出雲に降臨してきたスサノオは、その惨状を見、里の人からの訴えを聞き、一肌脱ぐことを約束する。元々武力には優れていたスサノオは、見事大蛇族を倒す。古事記では大蛇に酒を飲ますとしているが、、実際はどうしたのであろう。

私はスサノオはこの大蛇族の家系に近い血筋であったのではないかという仮説を考えている。故に激しい戦いはせず、上手く酒を使って懐柔させたと見ている。つまりスサノオの家系が、大蛇族より家柄が上と言う事実で従えたのではないだろうか。

最後に大蛇の尻尾から都牟刈(つむがり)の大太刀(後の草薙の剣)が出てくる話がある。これは出雲は優れた砂鉄が取れたので、質の良い刀が作られていたことを示していると思われる。きっと大蛇族の大酋長が大事にしていた大太刀を、戦利品として取り上げたことを、抽象化したものだと推察している。

古事記ではこの大太刀を大変な名刀であるとして、天照大神に献上したとしている。この時天照大神は直ぐには「国譲り」に動かなかったことを考えると、まだ出雲までは手がまわらなかったと考えられる。





2)

スサノオとやまたのおろちと剣のお話
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1027646670
ここのyuuriyakuさんのアンサーが面白かったです。



質問:天照大神になぜスサノオは草薙剣を渡したのだろうか?


回答:この話は古代日本の宗教と鉄に関係があります。

つまり古い力と新興の力が対立し、最終的に新しい方に組み込まれていったと言う事です。

しかしこの時は新しい勢力は古い方を全滅させようとはせず、習合し合っていくことになります。

      A、最も古い=八岐大蛇=蛇神=越国(北陸)=青銅文化=弥生時代の原点
      B、Aの次に古い=スサノオ=大国主神系=出雲=初期の鉄文化=Aと習合し弥生時代全盛
      C、新しい=アマテラス=天皇系=邪馬台国=新しい鉄文化=Bと習合し古墳時代の幕開け


細かい説明を加えると「日本書紀」に不思議な話が2つあります。

1つは「出雲の国譲り」と言う話で、高アマが原の神が、大国主神に「出雲を譲れ」とせまりますが、大国主は息子の事代主に聞けといい、事代主は「はいどうぞ」と簡単に承諾します。

また継体天皇ですが、百済に伽耶の国譲りを申し込まれますが、これも申し受けます。(2つとも不思議で怪しいはなしですが)


私見では、これらの話は同一の話ではないかとおもいます。

まとめますと、越国を中心とした青銅文化が半島・出雲を中心とした初期鉄文化に習合され、
そして半島経由の大陸の新しい鉄文化が習合したと思います。

つまり草薙剣は金属文化の象徴であり、神々は宗教の象徴と言う事です。


そしてこの話にはまだ続きがあります。「倭姫」が「ヤマトタケル」にこの剣をプレゼントする事になります。

「ヤマトタケル」は日本各地を平定し、伊勢で生涯を終えますが、草薙剣は熱田神宮に祀られます。

ちなみに「倭姫」とは「ヤマトタケル」の伯母で、斎王(巫女の長)です。


また剣の神話はユーラシア大陸各地にあり、シルクロードやヨーロッパまで幅広く存在します。
私は日本の神話と無関係では無いとおもいます。
このあたりの謎を研究すれば、今までの学説では解けない事も解けるのではと思います。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月07日 07時51分05秒 ) パスワード

ダビデの星:

以下コピペ

ダビデの星



ダビデの星(ダビデのほし)は、ユダヤ教、あるいはユダヤ民族を象徴するしるし。二つの正三角形を逆に重ねた六芒星(ヘキサグラム)といわれる形をしておりイスラエルの国旗にも描かれている。文字コードはU+2721(Unicode、✡)。



六芒星形との異同[編集]

紛らわしいが、ダビデの星と六芒星は必ずしも同じ記号ではない。正式なダビデの星は図形内部の線が必ず入っている。が、六芒星形とは突起が6つある星型をいうのだから、厳密にいえばアウトラインだけで内部の線はあってもなくてもよい。


由来・起源[編集]

このしるしは、古代イスラエルのダビデ王に由来するとされるが、歴史的に実在した実際のダビデ王とは関係がない。


           ええっ?!そうだったの?!


三十年戦争末期の1648年、神聖ローマ帝国の側に立ってプラハを防衛していた民兵軍がスウェーデン軍を撃退した。これを受けたハプスブルク朝のフェルディナント3世は、民兵軍の武勲を嘉して各部隊のそれぞれに旗印を下賜した。

民兵の中にはユダヤ人部隊もあったが、ドイツの宮廷には、ユダヤ人の印としてどんな図柄を使えば良いか知る者がなかったどころか、宮廷ユダヤ人のオッペンハイマー家ですら何のアイディアも出せなかった。そこで、ウィーンの政府はイエズス会に何か良い知恵はないか相談したところ「ダビデ王は楯の紋所にみずからの名前の最初と最後の文字『D』を使ったに違いなく、古いヘブライ文字でDの字はギリシャ文字『Δ』に似た三角形だから、Davidのスペルの最初と最後の『D』の字二つを表す三角形を、互いに組み合わせた形にしてはどうだろうか」というアイディアを得た。こうして、ユダヤ民兵部隊に「ダビデの楯」をあしらった旗が下賜されることになった。

この印は欧州のユダヤ人社会に野火のように広がり、19世紀はじめにはロスチャイルド家の家紋にも取り入れられた。


つまり17世紀に起源するものであって古代に遡るものではないため、例えば日ユ同祖論等の根拠に使うことはできない。



    意外でした。
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月07日 08時13分39秒 ) パスワード

>イエスは自らを指して「ダビデのひこばえ、輝く明けの明星」であると述べた


http://homepage3.nifty.com/eternal-life/preachings2005/05.11/11.27.htm



待降節説教「ダビデのひこばえ、明けの明星、来てください」


見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。

命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。
わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」“霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。

この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。

以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。

主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。(ヨハネの黙示録 22:12-21)


教会の暦では、今日からアドベント、待降節、それは今日から12月24日までを言います

が、今日はその第一主日です。待降節とは、文字通り主の降誕を待ち望む時です。イスラエルの民は歴史を通して長い間、メシヤ、救い主の来臨を待ち望んでいました。

先程読みましたヨハネの黙示録も「主よ来て下さい」という言葉がありましたように、主の来臨を待ち望む気持ちに満ちみちた文書です。ただそれは再臨と言われているようにこの世の終わりの時の来臨の待望なのです。その中に「ダビデのひこばえ」という言葉がありました。


ひこばえというのは老木あるいはその切り株の根本から生えてくる若木のことです。ですから、「ダビデのひこばえ」とは、ダビデの子孫という意味です。イエス様が言われます、「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」と。この世の終わりの時に再びお出でになる主イエスが言われる言葉になっていますが、これは再臨を待ち望んでいたキリスト教徒たちの信仰というか、キリスト理解が反映しているのは当然でしょう。イエス・キリストはイスラエルの救いの歴史の中から出てこられたわけで、イスラエル民族のメシヤ(キリスト=救い主)待望の、期待の、大きな高まりの中に登場したのです。また黙示録の、再臨の「主よ来て下さい」という叫びは、イスラエルの歴史の行き詰まりの真っ暗な、息の詰まるような状況の中でのメシヤ待望の再現とも言うべき現象でした。「ダビデのひこばえ」というメシヤ待望の時の言葉の用いられていることがそれをよく表しています。なぜかというと、イスラエル民族の信仰として、メシヤはダビデ家の子孫から生まれて来るはずだったからです。

マタイによる福音書の冒頭やルカ福音書3章23節以下、イエスの系図と言われるものが出ています。これは、イスラエルの歴史の中で、イエスという人物が、どういう位地にあるのかを示そうとするものです。ヨセフと結婚しないで、乙女マリヤから生まれたのならヨセフの側の系図は意味がないように思われるのですが、多分それは、イエス様をヨセフの名分上の長男とすることで、キリストはダビデのひこばえ、ダビデの子孫として生まれて来るはずだとのイスラエルの伝統的なメシヤ信仰に合わせようとしたものでしょう。私たちにはどちらでもかまわないように思われるのですが、イスラエルの人々には重大なことだったのでしょう。

さて、イエス様がお生まれになる直前のイスラエル、ユダヤでは、人々は真っ暗で息詰まるような思いをしていました。異教徒であるローマの軍隊に占領され、その総督のもとに縛られ、その上ローマの傀儡のような暴虐な専制君主に支配されるという二重の鎖に縛られていました。

唯一の望みはエルサレムの神殿で神様に祈りと賛美を捧げることだけでしたが、それも職業化した祭司たちの金儲けの材料にされ、律法学者、パリサイ派の人々からは厳しい掟の遵守を迫られて、喜びのひとかけらも感じられない暮らしだったのです。もちろん現実に貧しく、また病気や障害で苦しむ人も数多くいました。彼らはその病苦だけでなく、病気や障害は自分の罪のゆえの罰なのだということで、差別されるという苦しみも負わされていました。そんな中で、かつてイスラエルが栄えた時の理想的な王様ダビデの子孫から、そのダビデのような王者が現れて、彼らを苦しみから救い出してくれる、それは先ず現実的に、ローマの支配から国を独立させることだと考え、望をおいたとしても、全く無理からぬことではないでしょうか。この13日にもお話ししたように、人々が「神の国はいつ来るのか」と問い、またユダがそれを切望するあまりに間違いを犯してしまったのもそこから出て来たことだったのです。

一方、その神の国とは地上のものではなかったのですが、キリストの十字架と復活に接して天に望みを託した信徒たちが、相変わらず続くローマの支配の許、いやイスラエルが反抗の挙げ句に完全に独立を失ってしまう中で、キリスト者として、ユダヤ人たちからも、またローマ当局からも迫害されるという状況の中で、今度は約束された最後の審判、そのためのキリストの再臨を待ち望んだことも理解できるのです。そのキリストの再臨待望の信仰の中で書かれた、一種の預言書がこのヨハネの黙示録です。黙示というのは、弾圧者の目をはばかって事柄を直接的に表さず、比喩、譬えを用いて、黙って指し示したものと言う意味です。

さてその中で、読みましたように、次のように言われています。「『わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のこと(最後の審判のできごとのことです。それ)をあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。』“霊”と花嫁とが言う。『来てください。』これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」ここで、キリストの誕生を待ち望むいわゆるアドベントと、再臨を待望する信仰とが二重にだぶっていることが判ります。「ダビデのひこばえ」「輝く明けの明星」という言葉でそれがよく判ります。「ダビデのひこばえ」の方はすでに言いましたが、「輝く明けの明星」という言葉はといいますと、思い出されるでしょう。そうです。マタイ福音書2章の占星術の学者たちを導いてきた星を連想させてくれる言葉ですね。

では、私たちはどうなのでしょうか。当然私たちは、イエス様の誕生以後の人間ですから、むしろ再臨を待ち望む方でしょう。しかし、毎年繰り返し繰り返しクリスマスを前にアドベントの飾りの蝋燭に火を灯して、新たな気持ちで待ち望むのは、やはり幼子イエスの誕生でしょう。現実のイエス・キリストは二千年昔に生まれてしまっていますが、私の心の中には、今年もイエス様がお生まれになる、このことは何という新鮮な喜びでしょうか。それと同時に、そのイエス様に既に救われた者として、神の国の完成を待ち望む、主の再臨を待ち望むというのも本当のところです。「『来てください。』これを聞く者も言うがよい『来てください』と。」

フィリピ3:20-21 にはこう書かれています。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。(これは再臨のイエスです。)キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」

ここで言われていることは、私たちはこの地上で、飢えや、寒さや、貧困、病気、障害、戦争、迫害、その他様々な困難の中で苦しんでいますが、実は国籍は既に天国に置かれている、そこから主が再びお出でになるのを待っているのです。それは、神を信じない人々にとっては裁きのためと映るでしょうけれども、主の御救いを信じる私たちにとっては、私たちを天に迎え入れるためにお出でになるのです。私たちに復活の栄光の身体と、永遠の生命を与えるためなのです。先ほどの聖句の後半にあった通りです。すなわち「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」と。

それから、もう一つ知っておきたいのは降誕と再臨の間、まさに今、キリストの恵みを証しし伝道する上でも言われていることです。黙示録に「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」とあったのがそれです。これは、今も、いつでも、求める者に救いをもたらすため主がお出でになる、現にお出でになって救いの手をさしのべているということなのです。以上のすべての意味で、つまり、2000年昔のクリスマスの意味で、私たちの現在の救いの到来という意味で、そして招来の最後の栄光、永遠の生命のなかへと入れていただく意味で、つまり過去と現在と未来を踏まえて、私たちは「ダビデのひこばえ、明けの明星、来てください」と祈るのです。これに応えて主は言われます。「然り、わたしはすぐに来る。」私たちは重ねて言います。「アーメン、主イエスよ、来てください。」と。

クリスマスを前に、アドベントの第一週に、三重の意味での「主よ、来てください」という祈りについて学びました。




そうか
明けの明星ですか。
[56]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月07日 08時22分43秒 ) パスワード

http://www.mars.dti.ne.jp/~fenot/jesus/lucifer.html

ルシファーと言う悪魔の謎


はじめに

キリスト教団には「明けの明星(ルシファー)」と言う「悪魔」が存在する。

最初にルシファーと言う名前を聞いて、それが「明けの明星」のラテン語だと
知った時は「イエスはこの世の光」を想起し希望の光を示す気高い天使の名前
ではないかと思った。

実際、ヨハネ黙示録も、その様な意味でイエスの事を「明けの明星」と言ってるし、
ペテロ書間もまもなく夜が明ける(世界が明るくなる)兆しとして捉えているので、

到底「悪魔」ではないのだが、


どこからこの様な不可解な解釈が存在する様になったのだろう?


全てはオリゲネスの誤解によるのだろう

イザヤ書14/12〜15
ああ、「お前」は天から落ちた、(自らを)「明けの明星」、「曙の子」
(と呼んだバビロンの王)よ。
お前は地に投げ落とされた、もろもろの国を倒した者よ。
かつて、お前は心に思った。
 「わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、
  神々の集う北の果ての山に座し、
  雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」と。
しかし、お前は陰府に落とされた、墓穴の底に。

この「お前」はと言うのは、バビロンの王の事なんですがね。


イザヤ書の14/4に
あなた(第2イザヤ)は、バビロンの王に対して、この嘲りの歌を詠う。
とありますので、

多分バビロン王朝がペルシャのキュロス軍に滅ぼされた直後の光景を描いているのだと思います。

隆盛を誇り自らを「明けの明星」、「曙の子」などと奢り高ぶったバビロンが
ペルシャ軍によって、見るも無残に崩壊した様を「お前は陰府に落とされた」と
嘲ったんですね。

ユダヤ人は、バビロン捕因でバビロンで働かされていた時期ですので
ユダヤ人の心境としては「ざまあ見ろ」とでも言いたいんだろうと思います。

この文章から、「明けの明星」を悪魔にしてしまうと、それは新たな悪魔神話を
造る事になります。(キリスト教団が再々やってる事ですが)


さらにこの場において、「墓穴の底に」に落とされた分けですから、その後の
悪魔様の御活躍と矛盾してしまいます。


ここで、「陰府に落とされ、墓穴の底」にあるのは、実際に崩壊して消え去った
バビロン王国でしかありません。

そして、何よりも「明けの明星」を肯定的に取り上げてる、ヨハネ黙示録やペテロ書が全く説明不能になります。



他の文書では

第2ペテロ書1/19
こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。
夜が明け、「明けの明星」があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に
輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。

この「明けの明星」は、「希望の光」とでも言うべき物だろうと思います。



ヨハネ黙示録2/28
同じように、わたしも父からその権威を受けたのである。勝利を得る者に、わたしも「明けの明星」を与える。

この「明けの明星」はイエスが神から授かった物で、それをティアティラの教会
の人達にも授けると言ってるんですね。教会としての権威の様な物ですよ。



ヨハネ黙示録22/16

わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。
わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く「明けの明星」である。」


黙示録のこの部分は2〜3世紀に書き足されたものではないかと思うのですが
この「明けの明星」にも少なくとも「悪魔」を想起する様な意味はあるまい


キリスト教のルシファーは

キリスト教団の「明けの明星」は明らかに、イザヤ書の読み間違えか、意図的な
物語のすり替えです。

キリスト教団は「明けの明星」に言及した所から、
多分カナン神話のシャハルと結びつけて(イザヤがシャハルの神話を流用したとする説)「明けの明星」と言う客体が「陰府に落とされた」事にしてしまってます。

その主客のすり替えが、ヨハネ黙示録やペテロ書が書かれた時期のものであれば
ヨハネ黙示録やペテロ書の編者が、それを知らないハズがあるまい。


これは、どう考えても、黙示録やペテロ書以降に、黙示録やペテロ書が肯定的に
書かれてる事を知らないオリゲネスや2世紀の教父やそれ以降のキリスト教団が、黙示録やルカ福音書にある、「悪魔」が「陰府に落とされた」話と混合し、
「明けの明星」が「陰府に落とされた」話になったのではないだろうか。



事はそれでは済まされない


キリスト教団が通常の思考体系から成り立ってる人達の集団であれば
「なんだそんな事だったのか」で済むのですが。実は「ルシファー」と言う悪魔は悪魔神話の大好きなキリスト教団において、若年信者を洗脳する重要な言葉です。

キリスト教徒の多くは、この「刷り込み」が思考の中心的存在で、聖書の文言や他の文書との整合性を説明しても全く受け入れる要素がありません。それがキリスト教徒なんですね。



グノーシスのルシファー

グノーシスの一派にルシファー教徒という物があると言う噂がありますが、どうやらガセネタではなかろうか?

@現在発見されてるグノーシス関係の資料には、ルシファーを扱った資料は殆ど皆無である。

Aルシファー教徒にかんする資料は、すべて中世以降のものである。
(グノーシスに関する資料は3〜4世紀までしか存在しない。)

Bルシファー教徒を自負する人達の発言を聞いても、グノーシスの思想とは全くかけ離れおりルシファー教徒なる人達は、全くグノーシス関係の書物を研究していない。

[57]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月07日 09時08分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 やはり、さすがあを様です。待ってました。ヨハネの黙示録、ルシファー

に対する解釈・・・深い深いものがあります。私にはここまで情報を取る能力

がありません。

 これらをよく理解して次のステップに進みたいと思います。


 神道(できれば物部神道)の祭祀の中身を探ってみようと思っています。


 それにしても、物部氏、忌部氏、中臣氏、渡会氏、賀茂氏、海部氏、出雲氏

卜部氏、神服部氏、尾張氏・・・神道祭祀に関係する氏族の関係はループして

からみあっている・・・何とかを解き放ちたい!

 神道も、神社神道、古神道、それぞれたくさんの流派があり複雑。

 いずれにしても古代史はすべて複雑。そうとうな量の情報のインプットと

整理統合能力が必要であることがわかりました。




[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月07日 22時50分21秒 ) パスワード

はい
最近言われる   「史実」と「歴史観」のギャップ  ということですね。


「史実」は隠蔽され忘れられ行方不明になる。
しかし
政治によって「歴史観」が創設され、
   これが事実と誤認され、そのうちに真実扱いされてしまう。


3柏さんは大胆にもその歴史の闇に挑戦してしまったわけです。
人類の文明の黎明から解いていこうと。
   余りにも壮大。



もうすぐお盆休みです。
ちょっと頭を休めて、また、頑張ってくださいね。
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月07日 22時59分20秒 ) パスワード

上記の



>多分バビロン王朝がペルシャのキュロス軍に滅ぼされた直後の光景を描いているのだと思います

>隆盛を誇り自らを「明けの明星」、「曙の子」などと奢り高ぶったバビロンが
ペルシャ軍によって、
>見るも無残に崩壊した様を「お前は陰府に落とされた」と嘲ったんですね。



この部分が  「天津甕星」  神話・伝承 に取り入れられたのかな  と思いました。


また考えてみます。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月08日 04時51分48秒 ) パスワード

ということで人類の文明の黎明期の神話にジャンプします。



バビロニア

バビロニア神話は、メソポタミアのあたりに伝わる神話・伝説のことである。


神話の特徴[編集]

これは『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話である。 紀元前3千年頃のシュメール文明で成立した。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなるような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)

この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。




ということでギルガメシュ:秦の始皇帝の不死の薬捜しに似ているのでは、と。


ギルガメシュ(アッカド語  Gilgameš)またはビルガメシュ(シュメール語: Bilgameš)は、
古代メソポタミア、シュメール初期王朝時代のウルク第1王朝の伝説的な王(在位:紀元前2600年頃?)。
数多くの神話や叙事詩に登場するこの王は実在の人物であったと考えられている。


シュメール王名表によれば彼はリラの息子であり127年間在位した。ただし、後世の神話ではルガルバンダの息子とされている。ギルガメシュ自身に関する考古学的史料は現在の所発見されていないが、伝説の中でギルガメシュとともに登場するエンメバラゲシの実在が確認されていることからギルガメシュも実在したとする説が有力である。彼は数多くの神話に登場するが、その実際の姿は殆ど分かっていない。後世の伝承にはギルガメシュが偉大な征服王であったかのような記述やキシュと戦いこれを征服したという記述もあり、シュメールで覇権的地位を得た人物の一人であると考えられている。他に彼の業績としてウルクの城壁を建造したことが重要視され、バビロン第1王朝時代にも引き合いに出されている。



神話のあらすじ

ウルクの王ギルガメシュは、ウルク王ルガルバンダと女神リマト・ニンスン(英語版)の間に生まれ、3分の2が神で3分の1が人間と言う人物であった。ギルガメシュは暴君であったため、神はその競争相手として粘土から野人のエンキドを造った(写本そのものが粘土板から作られていることにも注意)。

ギルガメシュがエンキドに娼婦(シャムハト w:Shamhat、女神イシュタルに仕える女神官兼神聖娼婦という版もあり、彼女の役割に付随するニュアンスが少々異なる)を遣わせると、エンキドはこの女と6夜7日を一緒に過ごし、力が弱くなったかわりに思慮を身につける。その後、ギルガメシュとエンキドは力比べをするが決着がつかず、やがて二人は友人となり、さまざまな冒険を繰り広げることとなる。

二人はメソポタミアにはない杉を求めて旅に出る。杉はフンババ(フワワ)という怪物により守られていたが、二人は神に背いてこれを殺し杉をウルクに持ち帰った。このギルガメシュの姿を見た美の女神イシュタルは求婚したが、ギルガメシュはイシュタルの気まぐれと移り気を指摘し、それを断った。怒った女神は「天の雄牛」をウルクに送り、この牛は大暴れし、人を殺した。ギルガメシュとエンキドは協力して天の雄牛を倒すが、怪物を殺したこととイシュタルへの侮辱に神は怒り、エンキドは神に作られた存在ゆえに神の意向に逆らえず死んでしまった。

ギルガメシュは大いに悲しむが、自分と同等の力を持つエンキドすら死んだことから自分もまた死すべき存在であることを悟り、死の恐怖に怯えるようになる。そこでギルガメシュは永遠の命を求める旅に出て、さまざまな冒険を繰り広げる。

多くの冒険の最後に、神が起こした大洪水から箱舟を作って逃げることで永遠の命を手に入れたウトナピシュティム(英語版)(『アトラ・ハシース』)に会う。大洪水に関する長い説話ののちに、ウトナピシュティムから不死の薬草のありかを聞きだし、手に入れるが、蛇に食べられてしまう(これにより蛇は脱皮を繰り返すことによる永遠の命を得た)。ギルガメシュは失意のままウルクに戻った。

友情の大切さや、野人であったエンキドが教育により人間として成長する様、自然と人間の対立など、寓話としての色合いも強い。

[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月08日 05時05分07秒 ) パスワード

http://uranailab.ehoh.net/VenusTransit/03.html

神話と金星の関係



●神話と金星

 金星の、その神秘的な明るい輝きは、古代より人々の心に強い印象を残していたようで、それぞれの民族における神話の中で、象徴的な存在の名が与えられていることが多いです。

 古代バビロニアやアッシリアでは「女神イシュタル」として、愛と戦いの女神としてあがめられました。



         へえ〜
         上記のギルガメシュ神話にイシュタルが出てますね。



中国では、金星とも太白ともいい、初めは宵ノ明星と暁ノ明星とを別々の星と考えて、長庚(ちょうこう)、啓明(けいめい)と呼びわけていました。
 唐の詩人、「李 太白」は生まれた時に、母が長庚星が懐に入ると夢みたために、こう名づけられたようです。



 バビロニア、そして古代中国でも、金星は戦いの星とされ、戦果を占う重要な星でした。それは勝利こそが、金星の輝きに象徴される美と魅力と豊饒と繁栄をもたらしたからでしょう。



 また、金星が愛と豊饒を象徴していると同時に、奔放で醜悪な面や、快楽に堕落した時の争い、愛憎そのものが戦いの原因となっていることも考えられます。


        これがルシファーと結びついたのでしょうか?



 陰陽博士として著名な「阿倍晴明」の六代目の、「阿倍泰親(あべの やすちか)」は、久寿2年(1155年)の7月に、占文を後白河天皇に奉り、「月が金星を犯すので、悪いことが起こる」と述べています。ここでは金星を凶星としていますが、これは金星を「戦いの神」とした、紀元前600年頃の古い時代の占星学の考え方です。



              あらら
              やはり日本の占いや陰陽道の元はメソポタミアから?


 ヨーロッパでは、明けの明星の何にも勝る輝きを、穏やかな美と愛の女神アフロディーテ(英語でビーナス)(ローマではウェーヌス)に例えています。

 神話では、クロノスが父ウラノスを殺害した際に、切り落としたウラヌスの身体の一部が海に落ち、その時の白い泡から生まれたという説と、ディオーネとゼウスの間に生まれた娘、アフロディーテとする説があります。


 また、ギリシャ神話の中で有名なトロイア戦争は、このアフロディーテと、ヘラ、アテナの3神の器量比べが発端となっています。


 古代メキシコのアステカ神話で金星と言えば、ケツァルコアトルです。

      他の神話では、金星は女性の象徴であることが多いのに、
      ケツァルコアトルは男性として扱われているのは興味深いことです。

      ケツァルコアトルは蛇の姿をして、
      まるで「エリマキトカゲ」のように羽毛が首の周りをぐるりと取り囲んで生えています。

      アステカ族がメキシコの地に定住する以前からトルテカ族に崇拝されていた古い神で、
      アステカ族からは自分たちの神々からは縁遠い、異色の神であると見なされていたようです。
      風と生命と豊穣を司り、太陽神、大気、天空の神だともいわれます。

      エヘカトル[大気]、ヨルクアット[響尾蛇]、トヒル[漫歩者]、フエマック[強き手]、
      ナニヘヘカトル[四つの風の主]、トラヴィズ・カルパン・テクトリ[曙の光の主]など
      多くの別名をもち、マヤではククルカン、キチェではグクマッツと呼ばれました。

      1519年、コルテス一行がメキシコに現れた時、アステカ人達は彼らをケツァルコアトルと思い込み、
      受け入れた結果、滅亡させられました。

      何故ケツァルコアトルが金星かというと、以下の神話があります。

 彼がアステカの神々に敗北し、ついにトルテカの国を後にしなければならなくなった時、彼は薪をうず高く積み上げ、そこで焼死自殺しようとしました。

 ケツァルコアトル達の従者達は彼をひきとめようとしましたが、彼は積みあがった薪にその身を横たえると、火をつけてしまいました。

 従者達は泣きながら彼が焼き死んでいく姿を見守っていました。すると、ケツァルコアトルは炎の中から従者達に向かって言いました。

「悲しむことはない。私の身体はこの世からは消えるが、天界に再び星となって現れ、お前たちを見守っているから」

 彼の身体はほとんど焼け落ちましたが、心臓だけは燃えずに残っていました。そして悲しむ従者たちの目の前で、その心臓が空高く舞い上がっていき、光輝く美しい星、金星となった。ということです。


 


●宗教と金星

 

仏教伝承では、釈迦は明けの明星が輝くのを見て、真理を見つけたといいます。


キリスト教においては、ラテン語で「光をもたらす者」、ひいては明けの明星(金星)を意味する言葉「ルシフェル」(Lucifer)は、他を圧倒する光と気高さから、唯一神に仕える最も高位の天使、そして後に地獄の闇に堕とされる、堕天使の総帥「サタン」の別名として与えられました。



 キリスト教の伝統的解釈によれば、ルシファーは元々全天使の長であったが、神と対立し、天を追放され、神の敵対者となったといいます。


 キリスト教では、キリスト教以前の時代の古代の神々はすべて悪魔として扱われていますが、その長たるサタンが、そもそも金星を示すルシファーであるということは、大変興味深いものがあると思います。



 Lucifer の語源はラテン語で、(luc-, 光 + -fer 生む)です。


 この存在は、旧約聖書(ヘブライ語原典)にも新約聖書にも全く言及はなく、後世のキリスト教徒による創造であると言われています。


      上の方のレスにありましたね。


 Lucifer という言葉が、最初にキリスト教文献に登場するのは、ラテン語訳聖書の「ウルガタ」だそうです。しかし、この中でのLucifer は、単にヘブライ語の「明けの明星」を意味する言葉 Heylel Ben-Shachar(イザヤ書 14:12)の翻訳語として当てられたものです。そして前後の文脈から見て、本来バビロンの王を指すものであったと言われています。



 バビロンと言えば先程も出て来ましたが、古代バビロニアでは、金星は女神イシュタルとして、あがめられていたのです。



 キリスト教は一神教であり、他の神の祝福を受けるものを嫌います。

 聖書に登場する神を示す称号、『世界の光』、『律法を定める者』、『正義の判事』、『万軍を率いる者』など、もともとがイシュタルの祈りの文句にあったものです。

 一神教であるキリスト教の人々は、絶対なるものを認めようとするあまり、それに対抗していたイシュタルをサタンとしてその地位を落したのでしょう。


        そうするとサタンは女性?


 
 


●【神話/イシュタルの冥府下り】

 それでは、一つ神話を御紹介しましょう。

 私は、個人的には、今回のビーナス・トランシットは、このイシュタルの冥府下り、という神話が、最も象徴していると思います。

 「冥府下り」というモティーフは、様々な神話で見られる典型的なパターンです。


 日本においては「イザナギの冥府下り」、ギリシャにおいては「オルフェウスの冥府下り」と、同様の話が多いことを、皆さんもご存じだと思います。



 さて、イシュタルの場合は、諸説ありますが、最も典型的なストーリーを紹介します。



 イシュタルは、不慮の大怪我で死んでしまった恋人タンムズを求めて、単独、冥府へ向かいます。

 冥府への関門となっている、7つの門を通過するたびに、彼女は冥界の掟によって、以下のものを全て剥ぎ取られていきました。

     第一の門では頭を飾る「大王冠」
     第二の門では「耳飾り」
     第三の門では「首飾り」
     第四の門では「胸飾り」
     第五の門では「誕生石をあしらった腰帯」
     第六の門では「腕輪」と「足輪」
     第七の門では立派な「衣服」



 彼女は、全てを取られて丸裸になりながら、威厳を失うこともなく、冥府の女王アラトゥの前に堂々と立ち、恋人に会わせてくれ、と言いました。

 アラトゥは、この死の世界の最下層に降り立ち、自分の持ち物を全て失ってもなお失わない、彼女の威厳と美しさに嫉妬しました。

 そこで女王は、疫病の悪魔ナムタルに命じ、イシュタルの全身を病気の杖で打ちました。そのため、イシュタルは息も絶え絶えになり、あとは死ぬばかりとなりました。

 イシュタルは大地の生育や豊饒を象徴します。それが杖で打たれ死に向かうということは、豊饒の死をも意味するのです。

 地上の草木はしおれ、枯れはじめました。

 他の神々は驚き慌てて相談し、獅子と人間の怪物を使者として作り、7つの門を破る力を与えて、冥界のアラトゥのもとへ向かわせました。

 その化け物の威力にかなわないアラトゥは、しかたなくナムタルに命じて、タンムズを生きかえらし、イシュタルには命の水を飲ませて、もとの体に治しました。

 更にイシュタルに、7つの門を出る毎に取り上げたものを返しました。
 イシュタルは最後に出る時に、ナムタルに珠飾りを与え、タンムズの傷を癒してくれた御礼をしたと伝えられています。

 別の話では、実は、冥界の女王自身が、自分の王を失い悲しみにくれていたところに、イシュタルがやってきて嘆く彼女の姿を見たために、彼女を殺そうとした、というものもあります。

 しかし、神々が送った使者が、冥界の女王の悲しみに共感し、涙を流して話を聞いたため、女王の気持ちはおさまり、イシュタルを甦らせる、というストーリーです。



 冥界の七重の門を抜けるごとに、彼女は着ているものを一つ脱いでいきます。

 これはすなわち、彼女の地上での役割を捨てることを意味しています。
 神官としての役割、性的な力、女王としての力などを次々と失い、最後には死を宣告され、命まで失い、殺されてしまいます。

 しかし、彼女はおのれの役目を果たすことで、見事に甦ったのです。

 この話は、先のケツァルコアトルの話や、火の鳥の話を思い起こさせます。





      日本の神話にも似ていますね。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月08日 05時09分19秒 ) パスワード

http://uranailab.ehoh.net/VenusTransit/01.html

金星のお話


ビーナス・トランシット
※ちなみにTransitとは星や太陽の経過(通過)のことです。



URLで画像も参考にんさってください。


2004年のビーナス・トランシット


 今回2004年6月8日(火)の「ビーナス・トランシット(トランジット)」とは、「金星の日面通過」という珍しい天体現象です。


 地球−金星−太陽と、一直線に並んで、地球から見ると、太陽面の中を金星が移動していく様子が見えるはずです。

 この現象は1882年以来、122年ぶりの現象で、日本では1874年以来、130年ぶりとなります。

 その日、日本では、日面通過が始まるのは、14時過ぎ頃で、この時の太陽の高度は60度あまりもあるのでかなりな好条件といえます。

 金星の大きさは57秒(1秒=3600分の1度)以上もあり、去年の「水星の日面通過」の場合よりも5倍もの大きさになり、迫力満点です。天候がよく、太陽の減光対策をしっかりすれば、じっくり観測できるでしょう。

 残念ながら、金星が日面通過の状態のまま日没をむかえ、終了は日没後となるため、全行程を日本で見ることはできません。

 金星日面通過は、百年を超えるサイクルでしか訪れない現象です。
 人によっては、一生見れない人もいるかも知れません。

 しかし今回、私たちは、2004年と8年後の2012年、二度も見ることができるのです。



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●金星の日面通過とは何か

 内惑星である金星は、太陽と地球の間を584日毎に通過しています。
 それを内合と言います。

 しかし、金星の軌道面は地球の軌道面に対して約3.4度傾いているので、たいていの場合、太陽の北か南を通過してしまいます。
 これは新月毎に日食が起こらないのと同じ理由です。

 金星が太陽前面を通過するのは非常に稀ですが、一定の周期で起こることが知られています。

 金星が地球の軌道面を南から北へ抜ける点を昇交点、北から南に抜ける点を降交点といいます。

 昇交点通過は毎年12月上旬、降交点通過は毎年6月上旬です。
 ちょうどその時に、金星が内合になれば、日面通過が見られるというわけです。

 そして1回起こると、8年後にまた起こります。8年間に2回の日面通過が1セットになっています。その次は、113年か130年のどちらか(交互に繰り返している)になります。総体的に243年で4回、というサイクルを繰り返しています。


ビーナストランシットのサイクル

113年周期

130年周期 1518.06.05 → 1526.06.03

1631.12.06 → 1639.12.04
113年周期

130年周期 1761.06.05 → 1769.06.03

1874.12.08 → 1882.12.06
113年周期

130年周期 2004.06.08 → 2012.06.05

2117.12.10 → 2125.12.08





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●1874年のビーナス・トランシットの時、日本は…

 1874年のビーナス・トランシットの時、当時の日本は明治7年でした。

 前年の明治6年から、太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されたばかり。
 まだまだ江戸時代の名残をとどめていた時代です。

 この時、欧米各国が世界70ヶ所以上に観測隊を派遣しました。
 そして日本にはフランス隊、アメリカ隊、メキシコ隊が、このビーナス・トランシットを観測するために派遣されましたが、当時の明治新政府も、来日した観測隊の目的がよく理解できず、右往左往した様子です。

 斉藤国治氏は、天文月報に「科学の黒船」という表現を使って、当時の事情を紹介しています。

 3国の観測隊は、フランス隊が長崎・神戸、アメリカ隊が長崎、メキシコ隊が横浜と、当時の主要港町で観測をしました。

 幕末から続く明治維新の混乱の時に、今まで接点のなかった海外と国内の技師や軍人や留学生が、力を合わせて観測したという記録が日本各地に残っています。

********

 当時の天文学では、地球-太陽間の距離(1天文単位)が正確にはわかっていませんでした。

 エドモンド・ハレーが提唱した(1656-1742)「日面通過中の金星を精密観測することにより天文単位が確定できる」に基づき、当時の科学先進国が国威をかけ、世界各地に金星観測隊を送り出したというのが、この大観測の理由で、そして、金星観測絶好地の一つとして、日本が選ばれたのでした。

 実は当時から、金星日面通過観測による天文単位計測(三角測量法)は正確性の限界が問われ、8年後の1882年のビーナス・トランシット(日本では夜のため観測できず)には、各国とも、あまり熱心な金星観測は行われなかったといいます。

[63]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月08日 05時13分49秒 ) パスワード

http://uranailab.ehoh.net/VenusTransit/02.html

金星が象徴するもの




●天体としての金星

 金星は太陽、月に次いで明るく輝く天体で、夕方の西天に見えるものを「宵の明星(ヘスペロス)」、明け方の東天に見えるものを「明けの明星(フォスフォロス)」として天空に姿を見せます。

 公転軌道が地球より内側にある金星は、天球上では太陽の近くに位置することが多く、最大離角は約47度、最も明るくなるときの離角は約40度です。

 普通は太陽の強い光に紛れ、金星を肉眼で確認することは簡単ではありません。

 しかし、夜明けや夕暮れ時など、太陽が地平線の下に隠れて空が暗くなっている間に、金星が地平線上に現れていることがあります。

 その時、最大光度は1等星の約170倍にもなり、まだ明るさの残る空にあっても、ひときわ明るく輝いて見えています。





●占星術の中での金星の位置付け

 占星術の中での金星の位置付けとしては、「楽しみ方 嗜好 趣味性の方向」を示します。

 個人の感受性や、楽しむ能力。
 快適な生き方をするときには、この金星の力を最大限活用することになります。

 金星の記号は、女性を表す記号「♀」と共通しています。

 つきつめて考えれば、金星とは、徹底的に受け身になっている、女性的な欲望と快楽の部分と言い換えることもできるでしょう。

 永遠に女性的な力とは、エロスとも言い換えられます。金星の力はエロスに導かれた「愛」を呼び覚ますのです。

 そこから関係して、その人の対人的な愛情のかたちや、恋人、愛人、妻の関係性を示します。

 またそれだけでなく、所有から金銭や財産、芸術・芸能を堪能する能力、芸術一般の主星として、人生の問題に大きく関わっている星です。

 また、人間の心のなかにある女性原理や理想の女性像も金星星座に表れます。
 通常、男性にとっての理想の女性像、恋人像を示し、女性にとっては恋人や異性に対して演出する、もっとも魅力的な自分のイメージを示します。


 


●金星が象徴するもの

 
●人体
腺、静脈、腎臓

●事柄
数の6、金曜日、15〜24歳

●色
パステル調の色彩

●宝石
エメラルド、緑玉石、サファイヤ

●金属
銅、青銅

●人物
資産家、金持ち、富裕階級の人、美男美女、愛人、婚約者、若い女性、女の子、平和主義者、快楽主義者、芸術家、画家、音楽家、刺繍師、女優、花、香水、婦人服、装身具を扱う人

●物品
エナメル、絹、レース、刺繍や縫い取りをした衣装、夜会服、リボン、香水、化粧品、コスメチック、良質の宝石を使った装身具、婚礼衣装、有用で美しい品物、贅沢で美しい品物、寝具、寝室やけ消失用家具、手袋、クッション、クッション付き家具、園芸や庭園用の備品や用具、室内装飾を目的とした彫像、絵画、花瓶、置き物、弦楽器、絨毯、敷物

●場所
社交場、サロン、舞踏室、喫茶店、客間、寝室、化粧室、婦人室、屋外カフェ、パーラー、画廊、音楽室、美しいものを扱う商店、美容院、理容店、タイル張りの床、芝生、植え込み、花壇、庭園、果樹園、牧草地、牧場、平野

●動植物
ペット、小さい動物、猫、ウサギ、カナリヤなどの声の良い小鳥、鳩、白鳥、香りの高い花、バラ、蘭、花束に使われる花、地を這う草、つる草、紅茶、軽くて甘い飲み物、菓子、甘い食品
[64]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月08日 06時59分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 昔読んで頭に残らなかった本も今読むと活きた情報となって輝き出す・・・。

 それは、今テーマを持って臨んでいるから、それに合致した情報が意味を

持つ・・・。

 昔は特にテーマというものを持たずに、ただおもしろそうだなという本は

たいがい購入した。もちろん今もそうである。買ってもたいしたことないや

と積ん読となる。10冊に1冊位は夢中になる本がある。でもなかなかそう

いう本には巡り会わない。

 

 さて、物部氏族についてであるが―

 
 いろいろ祭祀族を列挙したが、その中に漏れている重要な氏族もあった。

 「三輪」氏である(強いて言えばもう一族、葛城氏)。名前から言って何か

 特別な意味がありそうである。

  実は、私の親戚にも長上郡に属すと思うが、三輪氏がいる。農地解放

 まで庄屋であった。地方銀行を作ったりしているので相当な資産があった

 と思う。特に今まで深く探究したことはない。


  今、物部氏を探究するにあたって改めて『八咫烏の「超」日本史』とい

 う本に目を通している。買った時はそんなにインプレッションがなかった

 が、今は輝く情報の宝庫となりそうに思える。著者は大賀茂真也氏。賀茂

 族に属するものと思われる。

  その中に、三輪氏は賀茂氏と共に大きく出ていた。三輪氏は賀茂氏と

 同族で、天皇家の初代神武天皇から3代目天皇まで、その皇后を一族から

 輩出していたと。


  いずれ三輪氏についてはまとめてみたいと思うが、大賀茂氏の結論とし

 ては、物部、尾張、葛城、蘇我、賀茂、三輪氏は同族であった。つまり、

 通説では、出雲系、大和在来系など別系として分類されているようである

 が、古代中央豪族は皆同族。すなわち八咫烏の系譜「葛城系豪族」であった

 という事である。


  物部氏や忌部氏との関係、秦氏との関係、徐福との関係についても今後

 探究してみたい。


  もう一つ、何故キリストが「金星」かという問題にもさらに探究してみた

 い。


  とりあえずはここで。


  

[65]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月08日 07時05分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 すみません。レスがすれ違いました。すごい情報ゆっくり読ませていただき

ます。
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月08日 14時15分36秒 ) パスワード

3柏さん


    古いコンパックで書いています。
    XPなので窓7にしたいのですが古過ぎて7が搭載出来ないようです。


三輪さん=日本の神の氏族という印象です。
尾張さんより古いという感じ。



キリスト教は政治と繋がって権威の道具になってしまったので不都合な部分は消されたから
キリスト=金星は「シンボル」になってしまったのかもですね。

   もしかすると神々は金星に住んでいるのかも。
   笑

   キリスト教は(ユダヤ教も)一神教のはずなのに
   時々表現が「我々」というのがあって戸惑います。

     ヤハベの神が自分=1人称=を言うのに複数形=2人称=を使うのか?
     神と精霊とキリストの三位一体を指しているのか(でも、これってカトリック系じゃないのか)


考えれば考えるほどこんがらがって行きます。



知り合いにコプト教?とか聖墳墓教?とか  ものすごく古い初期のキリスト教らしい  信者がいたけど
今となるといろいろ聞いておけば良かったとは思うけど、やっぱり理解を超えたんだろうなと思います


イスラムのシンボルというと  月と星  ですよね。
あの「星」って何の星だったんだろうと今更考えます。
    わたくし的には木星なんですが
    ひょっとすると金星だったのかなと。

       このPCではここに書きながら検索が出来ないです・・・


日本で言う「月星」の「星」って何の星なんでしょう?月星靴なんてありましたよね。古過ぎますか?恥


   夜空に広がる星すべてだったんでしょうか?
   それとも金星だけ?


こうして考えていると昔むかし昔のオリエント=メソポタミアなんかの地域=の暮らしを思い出すような感覚に捉われます。

   やはりアダムとイブが我々人間の御先祖さまなのかなとか。
   人類の記憶はメソポタミア文明にいきつくのかなとか。
[67]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月08日 14時38分06秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

丸三柏服部さん へ
 
太古史に興味があれば、下記書籍をお勧め。
他の類書をはるかに凌駕する内容。
バビロニア学会スメル学会編「天孫民族六千年史の研究」昭和2年刊行
 
軽装本を入れれば百万冊以上出回っていたが、現在では極めて入手困難。
当局により「焚書」されたというウワサも。
此の書籍を補註した下記書籍がアマゾンから入手可能。

天皇アラブ渡来説―日本アラブ古代交流史 (1974年) − – 古書, 1974/1/1
バビロニヤ学会スメル学会 (著), 八切 止夫(補註編著)
 http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E8%AA%AC%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E4%BA%A4%E6%B5%81%E5%8F%B2-1974%E5%B9%B4-%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%AB%E5%AD%A6%E4%BC%9A/dp/B000J9H18Q/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1407474463&sr=1-1&keywords=%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E8%AA%AC
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月08日 14時40分27秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97


イスラム系の国の国旗には月と星が使われていて
これはもともとはトルコのオスマンのシンボルのようですが
いろいろ伝説があって


コピペできないのでURLに行ってください


14世紀のコソボの戦いの時に月と水星が水に映ったからとか
いやいやもっと古いギリシャのシンボルで月は狩猟の女神のアルテミス(?)星は聖母マリアだとか
いろいろあるようです。


**************

そういえば古代の天皇が長生きなのは木星から来たからだとか
   木星では人間は長生きして400歳とか生きられるとか

(まさかねえ)とは思ったけど聖書の人物も長生きなのよね。


そうして考えていると教待和尚ってどなたかのパクリ?
などと考えてしまいます。


こういう無邪気な楽しみに感謝です。
でもほんとこんがらがりますね。

いやいや
[69]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月09日 08時21分31秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 あを様のよく言われる「ヒルコ」に関する本が手に入りました。読み砕い

てまたご報告いたします。

 そういえば相模地方の徐福伝説も報告する予定でしたが未完了となってい

ます。どこかで一度徐福の関連で述べたいと思います(さほどインパクトは

感じられませんでしたのでそのままになってしまった)。


 さて、「ひこばえ」を古語辞典でしらべてみたら、「蘖(ゲツ ゲチ ひこ

ばえ)」の一文字、または「孫生(ひこば)え」の両方がありました。

 漢字と訓の当てはめ方によるものと思われますが、「ひこ」は「彦」また

「曾孫(ひこ)」を連想させます。曾孫と孫なら意味合いから言って子孫とい

うことでは合いますが。

 訓を漢字にあらわした時に、訓読みはそのままに音は無視し、漢字の象形

文字としての形だけ取ったと思いますが、ずいぶんマッチングに優れた才能

のある人々であったことかと思います。



 さて、「物部氏」に入ります。

 前回大加茂氏は「古代豪族は皆同族」と言っていると書きましたが、確か

に婚姻等でそうなってしまうことはあり得るでしょう。ただ、そう言ってし

うと何も見えなくなってしまうので、「目」、いわゆるルーツとしての「グ

ループ」名だけははっきりさせておかないといけない。

 例えば、大賀茂氏と船場氏をまとめると、

  「出雲グループ」― 出雲氏、賀茂氏、三輪氏、葛城氏、蘇我氏・・・

  「物部グループ」― 物部氏、尾張氏、忌部氏、猿女氏、中臣氏、渡会氏、

           安曇氏、海部氏、阿刀氏・・・

 中矢伸一氏の『封印された日本建国の秘密』によれば、グループ分けに少し

違いが見られる。こちらの方が真実に近いのかも知れません。少し長いですが

以下に記します。

 「富氏(出雲神族の語り部)の伝承によれば(整理の都合上番号をふります)、


 1.シュメール系の海洋民族であった出雲神族は、紀元前約2000年に、

  日本列島に到来したという。彼らは「竜」や「蛇」をトーテムとしており、

  クナトの神を租神として奉じていた。

   オオクニヌシ、スクナヒコナ、ホアカリ、タケミナカタ、イセツヒコ、

  イザワトミらは出雲神族であり、賀茂氏・三輪氏・尾張氏・海部(あまべ)

  氏、磯部氏らはその末裔である。


 2.はるか後年になって、スサノオを奉じる一族が朝鮮半島から渡って来た。

  彼らは「牛」をトーテムとするウル族で、出雲族とは敵対関係にあった。

   このウル族というのは、古代オリエントを発祥とするセム系遊牧民で

  あり、ユダヤ系の祖先たちであったと思われる。

   ホアカリ系支族のなかには、このユダヤ系ウル族とも積極的に提携し、

  姻戚関係を結んだ者もいた。渡会氏などはその代表氏族であった。


 3.その次にやって来たのが、ニギハヤヒを一族の長として奉戴する物部

  氏である。

   物部氏は、先住の出雲神族らすでに土着となっていた民族と衝突もし

  たが、だいたいにおいて宥和策をとり、旧勢力の取り込みに成功した。

  そしてホアカリ系やイセツヒコ(クシタマ)系の一族をも、ほぼ併合する

  に至った。こうして生まれたのが、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊

  (アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)」

  という神名である。これは一柱の神を表しているのではなく、古代豪族

  が連合提携したことで生まれた象徴名であった。


 4.それから、九州の日向(ひむか)から、神武天皇を長とする天孫族が

  東征してくる。この天孫族というのは、太陽神を崇拝する大陸から渡来

  して来た部族であったと思われる。彼らは、土着の海部族やサンカの

  勢力をも取り込み、協力な軍を差し向けてきた。富氏の伝承によれば、

  神武というのも象徴名で、実際には七人いたという(防府、河内、熊野

  などで六人の神武が死んだが、七人目の神武は強かったといわれる。)

   神武天皇は大和入りを果たすと橿原で即位し、出雲系支族と日向系

  氏族との連合がはかられた。神武皇妃には出雲神族のヒメタタライスズ

  ヒメが迎えられ、両氏族の合体をもたらした。以後数代の天皇まで、

  皇妃は出雲神族の王家の娘が選ばれた(これには、皇妃は神武から九代

  ・開化までニギハヤヒの神裔からあがったという異説あり)。


 5.そして、朝鮮半島からやって来た崇神天皇が大和・纏向に王朝(イリ

  王朝)を築くと、それまでまがりなりにも存続していた出雲の勢力は完全

  に駆逐されるに至る。銅鐸文化の突然の消滅はそれを物語っている。

   ところが、崇神天皇は出雲族や物部氏ら国津神氏族からの強烈な抵抗

  に悩まされ、ついにそれまで宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神

  (ヤマトオオクニタマノカミ)を、外に出してしまうことになった。この

  ときの天照大神とは、天照国照彦天火明命と同格であり、また倭大国魂神

  とは、大和に連合王朝を築いたニギハヤヒの変名であった。」


 これにてひとまずおわりますが、三輪氏についてその漢字の分解推測をして

みます。

  三輪:@ 三は太陽を表すという。太陽の輪?

     A 三羽 三つの天使 三柱?

     B 巳の輪 蛇の輪?

     C 巳の羽 竜?

     D 巳八 八匹の蛇 八岐大蛇?

     E 神(みわ 大神神社:おお・みわ・じんじゃ)?

     F 三つの輪 太陽・月・星

     G 三つの巴 666?


  「天津甕星」と「天香香背男」についても漢字分析をしてみたい・・・。
   
     

 
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月09日 09時26分40秒 ) パスワード

3柏さん


業務連絡:
7000傑さんから重大メッセージが<67>に届いていますよ。



蛭子の件
よろしくおねがいします。


   漫画家の蛭子能収さんが「自分の家は徳島出身で長崎に定着した」とおっしゃってました。
   徳島、というところに驚きました。

     「ひるこ」じゃなくて「えびす」という読みも凄いですね。



ひこばえって「蘖  ゲツ ゲチ」ムズカシイ字なんですねえ。
ありがとうございます。でも、とても書けない。笑

   終わった根っこからまた新しい生命の芽が出る感じは出てますよね。



古代勢力の整理整頓をありがとうございました。
大変な作業だったと思います。



>「出雲グループ」― 出雲氏、賀茂氏、三輪氏、葛城氏、蘇我氏・・・

>「物部グループ」― 物部氏、尾張氏、忌部氏、猿女氏、中臣氏、渡会氏、安曇氏、海部氏、阿刀氏・・・


へえ〜
わたくし的には賀茂氏・三輪氏・葛城氏は奈良あたりの土着の豪族という感じでした。
出雲グループになるんですか。



日本を支配した古代勢力の変遷:


1.
シュメール系の海洋民族であった出雲神族
彼らは「竜」や「蛇」をトーテム

     「蛇」がトーテムというのは分かります。
         出雲大社の巨大注連縄からですが。

     
   オオクニヌシ、スクナヒコナ、ホアカリ、タケミナカタ、イセツヒコ、イザワトミらは出雲神族

   賀茂氏・三輪氏・尾張氏・海部(あまべ)氏、磯部氏らはその末裔



2.
スサノオを奉じる一族が朝鮮半島から渡って来た。
彼らは「牛」をトーテムとするウル族   ← モーゼの時代に「牛」を崇拝するシーンがありましたっけ
  
   出雲族とは敵対関係

   このウル族というのは、古代オリエントを発祥とするセム系遊牧民であり
   ユダヤ系の祖先たちであったと思われる。

   ホアカリ系支族のなかには、このユダヤ系ウル族とも積極的に提携
    渡会氏など




3.
ニギハヤヒを一族の長として奉戴する物部氏

   物部氏は、先住の出雲神族らすでに土着となっていた民族と衝突もしたが、
   だいたいにおいて宥和策をとり、旧勢力の取り込みに成功した。


   そしてホアカリ系やイセツヒコ(クシタマ)系の一族をも、ほぼ併合


    「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)」

      これは一柱の神を表しているのではなく、古代豪族が連合提携したことで生まれた象徴名





4.九州の日向(ひむか)から、神武天皇を長とする天孫族が東征してくる。

    この天孫族というのは、太陽神を崇拝する大陸から渡来して来た部族
    彼らは、土着の海部族やサンカの勢力をも取り込み、協力な軍を差し向けてきた。

    富氏の伝承によれば、
     神武というのも象徴名で、実際には七人いたという
    (防府、河内、熊野などで六人の神武が死んだが、
    七人目の神武は強かったといわれる。)

   神武天皇は大和入りを果たすと橿原で即位し、出雲系支族と日向系氏族との連合がはかられた。

   神武皇妃には出雲神族のヒメタタライスズヒメが迎えられ、両氏族の合体をもたらした。

   以後数代の天皇まで、皇妃は出雲神族の王家の娘が選ばれた(これには、皇妃は神武から九代・開化までニギハヤヒの神裔からあがったという異説あり)。




5.朝鮮半島からやって来た崇神天皇が大和・纏向に王朝(イリ王朝)を築くと、
  それまでまがりなりにも存続していた出雲の勢力は完全に駆逐されるに至る。

  銅鐸文化の突然の消滅はそれを物語っている。


          なるほどね〜

  ところが、崇神天皇は出雲族や物部氏ら国津神氏族からの強烈な抵抗に悩まされ、
   ついにそれまで宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)を、
   外に出してしまうことになった。


          天照が外に出たというのは知ってましたが


  このときの天照大神とは、天照国照彦天火明命と同格であり、
  また倭大国魂神とは、大和に連合王朝を築いたニギハヤヒの変名であった。



以上が流れですか。
ありがとうございました。


   シュメール系出雲族
   ユダヤ人の先祖セム族のスサノオ系が半島より
   物部氏
   大陸から日向経由で天孫系神武の東征
   半島から鉄器文明の崇神系が大和・纏向に


ざっと5大部族の激突があったのですね。
この流れが分かっていないからゴチャゴチャになってたのですね。





三輪:  
      @ 三は太陽を表すという。太陽の輪?

     A 三羽 三つの天使 三柱?

     B 巳の輪 蛇の輪?

     C 巳の羽 竜?

     D 巳八 八匹の蛇 八岐大蛇?

     E 神(みわ 大神神社:おお・みわ・じんじゃ)?  これは分かります
   
     F 三つの輪 太陽・月・星            これもなんとなく分かります

      G 三つの巴 666?              666が来ますか?
  



>「天津甕星」と「天香香背男」についても漢字分析をしてみたい・・・。
   
面白そうですね
「 甕  」これをどうして  「みか」って読むのでしょうね。


楽しみにしています。   
[71]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月10日 10時30分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 昨夜から三重県は台風11号の影響で雨がひどく、四日市や鈴鹿市をはじめ、

避難勧告や非常警戒注意報が出ています。四国に上陸、近畿地方を縦断、日本

海へ抜けるものと思われますが、四国、近畿地方を中心にして大雨をもたらす

大変な台風となっています。


 こんな時にレスをアップするのもどうかとも思いますが、昨日の続きだけ

少し載せたいと思います。


 三輪氏にこだわっています。

 みわ:38

    3:聖数   三位一体 3神
    8:聖数   ヤハウェの8 ヤー ヤサカ ヤハタ 
    3×8=24 ヨハネの黙示に出てくる玉座の周りに座る
           「金の冠」をかぶり「白い衣」を着た24
           人の長老達

 甕(みか):

    み:接頭語
    か:瓶・甕のこと
また、平田篤胤によると、
    みか:いか(厳)の意で、
  天香香背男の「かが」は輝くの意、星が輝く様子を表したもの

  今一つ納得性に不足・・・。
 

 いずれにしても、今私に不足している知識は、神社の宮司と部族の祭祀者

または天皇の祭祀者との相関関係。

 そして天皇の祭祀の中の神道と陰陽道との相関関係。


 祭祀の様子が鮮明になれば、氏族間の関係も鮮明になると確信します・・・。


 とりあえずはこれで。
 
[72]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月11日 08時21分22秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 [69]のレスで、出雲の変遷の5段階について中矢伸一の説を以下のと

おり記しました。

 「崇神天皇は出雲族や物部氏ら国津神系支族からの強烈な抵抗に悩まさ

れ、ついにそれまで宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神を、外に出

してしまうことになった。」

 その後の事について、関裕二氏は『神社が語る古代12氏族の正体』の

中で、明らかにしている。


 「崇神天皇は、アマテラスとヤマトノオオクニタマの二柱を宮中で祀っ

ていたが、神威に圧倒されて宮外で祀るようになったと、『日本書紀』は

いう。この結果、伊勢に祀られたのがアマテラスで、大和神社で祀られた

のがヤマトノオオクニタマである。」

 ここの背景についてはもう少し納得性のある説明が必要となるが、今後

の課題としたい。


 また、このアマテラスについては関裕二氏はさらに今までにない大胆な

見解を述べられているが、その点については混乱するので今は触れないで

おく。


 更に、関氏は崇神天皇の時代のオオモノヌシとオオタタネコの関係につ

いては、次のように言っている。

 
 「祟るオオモノヌシを鎮めるために、オオタタネコが招かれたが、彼は

男性であり、巫女ではない。」と。


 私はオオタタネコは妙に現代風ではあるが、女性の名前だなと思ってい

ましたのでビックリした次第です。巫女(女性)ではなかったということで、

ここに大きなき変遷があったことを指摘しているが、やはり混乱するので

今は触れないでおきます。


 関裕二氏もここまで研究して来た成果として、最近の持論についてはか

なり自信と確信を持ち、完成の域に達せられて来たように感じられます。


 話題は少し変わりますが、何故「金星」が注目の星になったかという説明

の補強材料として、次の事実(?)を記しておきます。


 ヴェリコフスキーの言うように、金星は50年ごとに地球に近づく彗星で

あり、惑星ではなかった。それが紀元前2000より紀元前1500年頃ま

でに惑星との接近で軌道が変わり、ついに太陽系惑星になったという。

 これにもいろいろな説があるが、ややこしくなるので省きます。

 金星は、地上に色々な影響を与えながら惑星として落ち着いたということ。

 それは、その当時の人達にとってものすごい衝撃と焼きつく印象をもたら

したに違いない。ニュースター(新星)として。恐ろしさと美しさとを合わせ

持った輝く星として。


 それでもキリストが何故金星なのかという裏付け資料としてはまだ不十分

です。今後もさらに探究を続けます。



 物部氏と天津甕星の関係の解明は、まだまだ先になりそうです。

 人によっては天津甕星は金星ではなく北極星という人もいるのです・・・!?
 
 
[73]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月11日 09時02分04秒 ) パスワード

ありがとうございます。
驚くべきことばかりでございました。



これもすっかり忘れておりました。

    甕(みか):

       み:接頭語
       か:瓶・甕のこと

「おみ足」とか「おみおつけ」などの言い方がありましたね。



>天香香背男の「かが」は輝くの意、星が輝く様子を表したもの

へえ〜




>オオタタネコ

   蘇我馬子や小野妹子なんかがいますから、古代では男性だったんでしょうね。


正体:
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1240902112

1)女性説

崇神天皇の御世に、世の中が乱れに乱れた。そこで、大物主を祀ったのだが、いっこうに効き目がない。
そこに、大田田根子に大物主神を祀らせると良いとのお告げがあったので、そのようにすると、世の中に平和が戻った。
ということですね。

大田田根子の父親は大物主神、母親は活玉依姫で、その間に生まれた娘となっています。
実際にそうとも思われないので、ひょっとしたら、巫女さん、あるいは現代でいう占い師のようなものだったのかも。



2)男性説

先の回答者様の説明は、『日本書紀』の記述に基づく物で、
『古事記』では少し説明が異なります。

崇神天皇の御代、疫病が発生したのは同じなのですが、
『古事記』では、天皇の夢に大物主大神が現れ、
「意富多々泥古(おおたたねこ)をして我を祀れ。」と
告げました。
河内の美努(みの)村でみつかった意富多々泥古の言では、
「僕(あ)は大物主大神、陶津耳命(すえつみみのみこと)の
女(むすめ)、活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶して生める子、
名は櫛御片命(くしみかたのみこと)の子、
飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)の子、
建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子、
僕(あ)意富多々泥古ぞ。」
と系譜を語っています。
つまり、大物主大神の5代目の子孫という事になっています。

いずれにせよ、大物主大神の直系の子孫とされています。

また、意富多々泥古はその後、御諸山(三輪山)の神主になり、
神(みわ)君、鴨君の祖となった、と書かれていますので、
男性でしょう。


へえ〜
溜息



金星についても驚きました。

>金星は50年ごとに地球に近づく彗星であり、惑星ではなかった。
>それが紀元前2000より紀元前1500年頃までに惑星との接近で軌道が変わり、
>ついに太陽系惑星になったという。

これも、へえ〜



以下コピペ:
人類と金星[編集]

歴史と神話[編集]

欧米ではローマ神話よりウェヌス(ヴィーナス)と呼ばれている。メソポタミアでその美しさ(明るさ)故に美の女神イシュタルの名を得て以来、ギリシャではアフロディーテなど、世界各国で金星の名前には女性名が当てられていることが多い。

日本でも古くから知られており、日本書紀に出てくる天津甕星(あまつみかぼし)、別名香香背男(かがせお)と言う星神は、金星を神格化した神とされている。時代が下って、平安時代には宵の明星を「夕星(ゆうづつ / ゆうつづ)」と呼んでいた。清少納言の随筆「枕草子」第254段「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。」にあるように、夜を彩る美しい星の1つとしての名が残されている。

ヨーロッパでは、明けの明星の何にも勝る輝きを美と愛の女神アプロディーテーにたとえ、そのローマ名ウェヌス(ヴィーナス)が明けの明星すなわち金星を指す名となった。

キリスト教においては、ラテン語で「光をもたらす者」ひいては明けの明星(金星)を意味する言葉「ルシフェル」(Lucifer) は、他を圧倒する光と気高さから、唯一神に仕える最も高位の天使(そして後に地獄の闇に堕とされる堕天使の総帥)の名として与えられた。

仏教伝承では、釈迦は明けの明星が輝くのを見て真理を見つけたという。また弘法大師空海も明けの明星が口中に飛び込み悟りを開いたとされる。

アステカ神話では、ケツァルコアトルがテスカトリポカに敗れ、金星に姿を変えたとされている。

マヤ創世神話内では、金星は太陽と双子の英雄であるとされ、金星を「戦争の守護星」と位置付け、特定位置に達した時に戦を仕掛けると勝てると考えられた[16](一種の軍事占星術であり、金星の動きと戦争が繋がっていた)。



占星術[編集]

金星は七曜・九曜の1つで、10大天体の1つである。

「金星」の名は中国で戦国時代 (中国)に起こった五行思想とかかわりがある。また、中国ではかつて金星を太白とも呼んだ[17]。



浅田次郎の「蒼穹の昴」の中で不思議な老婆の名前は    太白白 たー・ぱいぱい   だったような。

     彼女の名前にも意味があったようですね。

    
西洋占星術では、金牛宮と天秤宮の支配星で、吉星である。妻・財産・愛・芸術を示し、恋愛、結婚、アクセサリーに当てはまる[18]。



本当にありがとうございました。
[74]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月11日 20時11分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 いよいよ盆休み、休み前のひとまとめをさせていただきます。


 「ミカ」という言葉、どこかで見たはずだと思って探したところ、ユダヤ

人のアビグドール・シャハン博士の『古代日本に辿り着いたユダヤ人 失わ

れた十部族の足跡 イスラエルの地から日本まで』という本に出ていました。


 この本は、NPO法人神戸平和研究所が出している本で、昨年の3月1日

に出版されたばかりで330ページにわたる大書です。一応通読はいたしま

した。


 その中に、

 「士師記にはミカと呼ばれる男性が登場する。このミカという男は神殿を

もっており、エフォドとテラフィムを造って、息子の一人の手を満たして自分

の祭司にしていたとある。聖書によると、ダン族がライシュに攻め上る途中

ミカの家に寄り、ここに記されている聖なる道具は、全てダン族によって奪わ

れた。ダン族はライシュを占領した後、そこをダンと名付けたが、ミカの家で

祭司を勤めていたレビ族の若者を連れていって、新しい町の祭司に任命した。

やがてこのダンの町には、ナバテの子ヤロブアムによって建設された二つの

神殿のうち一つが置かれることになる。十部族がイスラエルの地を追放された

とき、彼らは、元の持ち主の名前に因んでミカと呼んでいた聖なる道具も、

一緒に持ち出した。その後、神道では女性の祭司を、祭儀の時に使う聖なる

道具に因んで巫女と呼ぶようになったのではないだろうか。」


 ミカ→ミコに変化したとのこと。このミカはガリラヤ人。B.C.700年

前後の人。
 
 おそらく、十部族とその子孫は全て宗教儀式に従事する者を「ミカ」と呼ん

だであろうと言う。

 ヒミコのヒは太陽、ミコは女性祭司を表す。よってヒミコは太陽の女性祭司

という意味になる。

 たしかヒミカという言葉もどこかで聞いたような・・・?


 秦氏とユダヤとの関係は多く語られているが、物部氏とヤダヤについては

余り語られていない。

 シャハン博士のいうところのミカと呼ばれた聖なる道具とは、ひょっとした

ら、物部氏の伝えた「十種神宝」だった可能性もあるのではと推察する。

 その辺の物部氏とユダヤをつなぐ情報は少ない。一度石上神宮に行ってみ

たいなと思います。神道を突き詰めて行けば、自ずとそのルーツとつながりが

見えてくるはずです。


 さて、ズバリ古代氏族と失われた十氏族の関係を述べた本がありますので、

それを以下記します。著者は中原和人氏、著書名は『いま明らかになる古代史

のタブー 封印された古代日本のユダヤ』です。


 1.シメオン族・・・秦氏、和玥氏、土師氏、羽田氏、宇治氏、阿部氏

 2.ゼブルン族・・・葛城氏

 3.レビ族・・・物部氏、東漢氏、大伴氏、鳥賊津氏、膳氏、忌部氏、

         大和氏、大三輪氏、火奉氏、雄儀氏

 4.イッサカル・・・三輪氏、凡河内氏

 5.ダン・・・平群氏

 6.ガド・・・多治比氏、巨勢氏、津守氏、三島氏

 7.ヨセフ・・・エフライム族(西文氏)・マナセ族に分かれる

 あと、ユダ族、ルペン族、ナフタリ族には有名な氏族がないようです。

 アシェル族とベンヤミン族は日本に来ていないということです。


 根拠についてはわからないが、どうしてわかったのか教えてほしいもので

す。ユダ族も比定できるのではと思います。もう少し探究したいと思います。

 尚、服部氏はガド族とのこと・・・桓武天皇も。


 これから残念ですが、しばらく「ブランク」になります。

 ではまた。
[75]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月11日 21時53分07秒 ) パスワード

ありがとうございます。


平家はガドで源氏はダンだと
岡山の小林先生がどこかのスレッドに数年前
   リーマンショック前の好景気の時に(ですから2006年前後あたりでしょうか)
お書きでした。


ミカと巫女の関係はなるほどそういうことかと驚きです。



暫くお盆休みですね。
お気をつけて!

では数日後に。
にっこり
[76]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月16日 01時16分18秒 ) パスワード

奏楽の青海のあを様


 本日、ただ今より復帰いたします。 


 平熱スレッドを見ますと、お盆で先祖の供養に合わせて振り返るという

ことで、にぎやかな雰囲気がいたします。


 台湾の暑さにも慣れましたところで日本に戻って来ましたが、台湾へは過去

には4回ほど行っていますが、今回新たに発見・見直したのは、台湾には日本

からは消えつつある何かが健在であるということ。その何かとは日本の古き良

き時代の純朴さと親切さ、誠実さと思いやりの心なのかと感じました。

 もちろん日本に対するシンパシィや憧れも強いものがあるようですが。


 味も日本人に合いますし、意外と油っこくない。太った人も中にはいるけど、

女性は概してスリム。日本人とほとんど変わらない見分けがつかない人も多く

見られました。一度日本民族のルーツを広く勉強し直さなくてはと思いました。

 
 華麗な衣装の少数民族もいますし、東欧なんかにも華麗な民族衣装がありま

す。こちらの方も世界の歴史の中でどのようなルーツとつながりを持っている

のか大いに興味が湧いております。


 さて、物部氏について探究の途中ですが、まだまだ物部氏の姿ははっきり

見えて来ていません。神話の陰に隠されてしまっているのか。

 日本側の視点からでなく、失われた10氏族側からアプローチした方が早く

わかるのではないかという気がします。


 それと三輪氏の存在。物部氏とどのような関係であったのか。そして忌部氏、

中臣氏、賀茂氏、卜部氏等・・・祭祀族の関係は。


 三輪の漢字から言えることは、前回に引き続き―


 三輪:38・・・3は神、8はキリストを表すという。

   :888・・・888はキリスト(666の表現に対抗)を表すという。

 
 今回はこの辺で、次回よりまた続けます―      
[77]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月16日 01時21分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 先ほどのレスのあを様の名前が間違っておりました。注意力散漫で申し訳ご

ざいませんでした。
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月16日 05時10分10秒 ) パスワード

お帰りなさい。
にっこり
お疲れさまでした。


やっと復帰ですね。
楽しみです。



「奏楽」の青?
一瞬、東儀さんとの関係?と思いました。


東儀先生にはロスで何度かお会いしました。
奥さまは二条?家のご出身とか。
   ピンクの薔薇の花のような美しい女性です。

     でも近くに三条?家ご出身の方もいらっしゃったので2と3がグチャグチャになっています。汗


1980年代か90年代にロスで雅楽のコンサートがあった時
この時のコマーシャルが「雅楽は歌舞伎なんかよりずっと古くて雅な日本の伝統文化」というもので

   (「歌舞伎」を引き合いに出すことはないのに)と思いました。

ま、それが矜持ということなんだから、とは思いましたが。
確かに過去の歴史を見れば歌舞伎と同列に思われたくないというのが雅楽関係者の気持ちだったかも。


雅楽はきっと半島経由の大陸の音楽なんでしょうね。
それか大陸と半島のごった混ぜの音楽が日本で洗練されたのかも。



台湾あたりは南太平洋の人々の血や肉になっているはずです。
南太平洋の文化としては1番古いのがフィリピン系釣り針だそうですが
台湾とフィリピンは目と鼻の距離ですから台湾からはミクロネシアもスグだったでしょうね。


台湾と沖縄は、またまたスグの距離ですから、沖縄経由で日本にも来ているでしょうね。


台湾の良いところは「漢字」が旧体なところ。
やはり守って欲しいものです。
[79]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月17日 08時27分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 物部氏にこだわり、多方面から調べてみましたが、日本の古代の歴史的背景

―単純化して言えば、旧約族の日本渡来より日本建国、その後の原始キリスト

族(旧約族に対しては新約族)の渡来と歴史・宗教のオーバーラップ(塗り替え)

といった大きな背景の方がおぼろげながら見えてきました。


 物部氏にはその流れの中でどういう意味・価値・真実を持っているのかと

いうことは核心まではまだ捉えてはいませんが、時代(年代)からいってもと

もとはキリスト以前より勃興した氏族だと思われますので「キリスト」に直接

からむことはないと思われます。


 物部氏とは正確にいうと、「物」に関わる多くの氏族の集団をいい、単独の

氏族ではない。強いていうならば「物部連」が物部氏といえばいえるという

ことであります。

 この辺の詳しいことは、畑井弘氏の『物部氏の伝承』に載っています。

 「物」とは軍事全体をいう。すなわち製鉄・刀の鍛造・占い・祭祀までを

含んでいる。従って、「物部」氏というと忌部氏や中臣氏も含んでいることに

なります。


 個々の氏族の関係は、これはこれで精査しなければならないと思います。

勃興の年代と筋がそれぞれにあるからです。単純には行きません。


 また、三輪山信仰もキリストには直接からむことはないでしょう。

 但し、三輪氏は新興氏族・後続氏族であるようですので、ひょっとすると

「キリスト」に直接からむ可能性はあるかも知れませんので、引き続き探究

を続けたいと思います・・・。


 「キリスト」を日本の歴史・宗教の中にいかに塗りこんだ・埋め込んだか

は「秦氏」のストーリーを読まなければなりません・・・。


 まだ、物部氏についても秦氏についても全体を統合するだけの明確な知識・

情報に不足しています。いずれはストーリーが語れる日が来る事を願うのみ

であります。
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月17日 10時06分14秒 ) パスワード

そうですか
物部氏のことはいまだにスッキリとは晴れませんか。


   古代日本も敵の記録を焼くという蛮行をやっていますから
     物部氏も先の有力豪族の記録を焼き
     自分達の記録は蘇我氏によって焼かれ
     またまた蘇我氏の記録も焼かれ・・・


惜しいことですね。



キリスト教が入って来たのは崇仏でも疫病などの災害から救われなかったからでしょうか?


法隆寺の柱は
   法隆寺東伽藍回廊にある柱に、エンタシス式のがあります。


キリスト教はどうして栄えなかったんでしょうね。
[81]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月17日 17時21分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 蘇我稲目の方墳が見つかったということ、蘇我氏の全貌がわかるといい

ですね。蘇我氏の汚名は晴らされるべき、また同時に物部氏の全貌もわかる

といいですが。蘇我馬子の妃は物部守屋の妹であったということで、そこへ

聖徳太子が絡む。物部、蘇我、聖徳太子がわかれば古代の霧が随分晴れる

ことになるでしょう。

 
 今のところ、物部氏に深く突っ込んでも、なかなかアッと驚く秘密は出な

いような気もします。物部氏の一番の奥儀は物部神道ともいうべき呪法で

あると思われますので、そちらの方向からのアプローチを強化してみたいと

思っています。それと物部氏のグループに属するたくさんの氏族。物部氏と

どういう関係にあったかの究明もいたいと思います。時間がかかります。



 蒸暑さで、頭がオーバーヒート気味につき、クールダウンさせます。

 次は、三輪氏についてまとめます。三輪氏も物部氏も天皇家に妃を何代か

出している外戚。そこには何か秘密がある。蘇我氏、藤原氏もそうです。
 
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月17日 22時26分10秒 ) パスワード

三輪山のことをコピペしてたんですが
消えてしまいました。


で、またまたコピペしてたら、突然、戻って来ました。
ちょっと薄気味悪いです。


http://777news.biz/n/2014/02/28/26587

日本一のパワースポットと噂される三輪山とは!?


数年前からちょっとしたブームになっているパワースポット。今回は奈良県桜井市にある知る人ぞ知る三輪山という場所を紹介したいと思います。三輪山は実はスピリチュアルカウンセラーである江原啓之や様々な芸能人、著名人も行く程のパワースポットで日本一という噂もあります。



パワースポット三輪山とは!?

三輪山は山自体が御神体となっており、大神神社が三輪山を祀っています。場所は奈良県の桜井市にあり標高は約467mとそこまで高くない山ですが、古くは縄文時代、弥生時代から自然物崇拝の対象となっていました。

かつて三輪山は山そのものが御神体であったため一般の人は入れず禁足の山として知られました。一般の人でも入れるようになったのは明治時代に入ってから。その頃三輪山では「入山者の心得」という規則が出来、これを厳守すれば一般の人でも入れるようになりました。



三輪山の不思議な現象

三輪山には不思議な事が起こると色々噂されています。


・山に呼ばれる
三輪山の中でもかなり不思議な現象。実は三輪山行きたくても行けない人がいるらしいです。何日も前から予定をあわせても天候が悪くなったり、スケジュールがキャンセルになったり、呼ばれてない人は入山すら出来ないそうです。逆にちゃんと入山出来た人は「山に呼ばれた人」だから入れるそうです。

・裸足で歩いても痛くない
三輪山は往復で2時間の険しい山道、入山者の中には直接足の裏からパワーを貰うために裸足で入山する方もいるそうなのですが、そういった方も険しい山道にも関わらず足を怪我する所か元気に健康的になったと言う人までいるそうです。

・総合的に運が上がる。
ある人は健康に、ある人は商売繁盛、ある人は縁結び、とにかく三輪山に入山した人達は何かしらご利益を得ているようです。



三輪山の参拝方法

三輪山へ参拝するにはただ山を登ればいいという訳ではありません。入山前に狭井神社の社務所で「入山の許可」を貰わなければいけません。社務所では300円を納め、参拝証となる白いたすきを受け取り氏名、住所、電話番号などの連絡先を記入し更にお祓いを済ませば入山する事が出来ます。

三輪山は上記した通り、そこまで広くない山にも関わらずたまに人がいなくなる事もあるそうで、白いたすきは人数確認の意味もあるそうです。


入山時の決まりとして白いたすきは常に着る事、入山している間は飲食禁止、喫煙禁止、写真撮影禁止などがあります。基本的に三輪山は片道1時間、往復で2時間ほどでのぼる事が出来ます。午後4時以降は入山禁止のため2時までに受付けを済まさなければなりません。また、入山する時間も定められており、3時間以内に下山しなくては行けません。

様々な決まりが合ったり、不思議な現象が起こると噂される三輪山。機会があれば是非行ってみましょう。日本一と噂されているパワースポットなので何かご利益があるかもしれません。




物部氏と蘇我氏(と聖徳太子)は不思議な関係ですよね。

蘇我氏は卓抜した国際感覚を持っていたから物部氏にとって替わったのでしょうけど
親戚関係なのに物部氏を滅ぼした
というのがすごいなと。


こういうのを知ってた聖徳太子は自分の子や孫の代には同じような目に遭わされるのを予感してたのかなと。



ぼちぼち頑張ってください。
にっこり


なんか三輪山 怖い。
ここでアップします。
  
[83]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月18日 06時36分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 三輪山の情報、ありがとうございます。何だか不気味さが漂って来ますが、

やりがいはありそうなテーマだな(?)との予感がします。


 三輪の意味の解釈でさらにもう一つあります。これは大神神社による解説

だそうですが、御祭神は「大物主神」と「大国主命」と「少彦名神」の三体。

 そして、この三体を「三つの輪」に見立て、「三輪」と称しているとのこと

です。

 意味(神道の奥義)としては、@和魂(にぎみたま)、A幸魂(さきみたま)、B

奇魂(くしみたま)をあらわしているという。

 出雲大社の心御柱(昔の大社跡の支柱)が三本一束で、輪切りにするとちょう

ど三つの輪、いわゆる「三輪」となる事例もある。


 また、大神教会(明治時代に神社に対する規制がなされ、祈祷・お札の販売

等は、切り離されて別窓口—教会となったという)には、大神神社から分離した

三柱鳥居が門前に建っている。

 三柱鳥居といえば、京都太秦の「蚕の社」木嶋神社が有名。秦氏(4〜5世紀

渡来)による原始キリスト教(景教か)の三位一体(御父、御子、精霊)を表すとい

われるモニュメント、禊の神泉池の中に建っている。


 大神神社もこれらの流れをくむものなのか・・・出雲との関係は強い。

 しかし、太秦との関係は想定外であるので、関係を精査する必要がある―。


 今回はここまでとしますが、三輪関係の話はしばらく続けます。


 先日「ミカ」の件でレスをいたしましたが(ミカがミコになったという話)、

ヒミカかヒミコかの疑問について記述がありましたので記します。

 古田武彦氏は『吉野ヶ里の秘密』の中で、

 「卑弥呼は、なぜヒミコでなく、ヒミカなのか。対馬国(対馬)、一大国

(壱岐)の長官は「卑狗(ヒコ)」。つまり魏志倭人伝では「コ」の音(おん)に

は「狗」を使っている。

 とすれば、「呼」の二音「コ」と「カ」のうち、倭人伝では「コ」でなく、

「カ」の音に使っている。そう考えるのが当然だ。もし「ヒミコ」なら「卑

弥狗」と書くはずである。」


 それから「甕」を「ミカ」と呼ぶ場合と「カメ」と呼ぶ場合の違いについて、

「では、なぜ、甕幹は「カメカン」でなく、「ミカカン」か。

 甕(かめ)は、煮沸する日用土器。
 
 甕(みか)は、神に供える酒や水を入れる祭祀用の器。」

 従って甕棺は遺体を入れて祭祀—葬儀を行う「ミカカン」であるという。


 吉野ヶ里遺跡では、「甕棺(みかかん)」が総計で二千三百個も見つかった

という。甕棺に葬られる人はある程度身分が高い人。庶民・奴婢ではない。

 また、墳丘墓があって、その西側の甕棺からは有柄銅剣とガラス製管玉(く

だたま)が出て来た。その管玉は、最大6.6p、70個以上で、ブルートパ

ーズ様の水色の管が多いということである。

 
[84]空の青海のあをさんからのコメント(2014年08月18日 12時26分47秒 ) パスワード

このスレッドもレスが80を超しましたから、そろそろキリの良いところで新しくスレッドを立ててくださいね。



三輪山はホントなんだか不思議です。

   なんかジャマが入るというか
   なかなかその理由が見つからないです。

機会がありましたら三輪山にいらっしゃってください。
はだしで歩いてみてください。
   爪を剥がしたりしても責任は負いません。笑



大物主


大物主(おおものぬし、大物主大神)は、日本神話に登場する神。

大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。
             ↑
            「ミカ」がついてますね 


『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。
大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。別名 三輪明神。



大物主は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。なお、大国主の分霊であるため大黒天として祀られることも多い。

明治初年の廃仏毀釈の際、旧来の本尊に替わって大物主を祭神とした例が多い。一例として、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮は、近世まで神仏習合の寺社であり祭神について大物主、素戔嗚、金山彦と諸説あったが、明治の神仏分離に際して金毘羅三輪一体との言葉が残る大物主を正式な祭神とされた。明治の諸改革は王政復古をポリシーに掲げていたので、中世、近世のご本尊は古代の神社登録資料にも沿う形で行われたので必ずしも出雲神への変更が的外れでなかった場合が多い。


伝承[編集]

大国主神と大物主神[編集]

『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。



勢夜陀多良比売との出逢い[編集]

勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。勢夜陀多良比売に何とか声をかけようと、大物主は赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子が比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)で、後に神武天皇の后となった。



    なんかデバ亀みたい。笑



倭迹迹日百襲姫の悲劇[編集]

箸墓古墳と関連があるとされる伝承である。  へえ〜


倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)は、夜ごと訪ねてくる男性に「ぜひ顔をみたい」と頼む。男は最初拒否するが、断りきれず、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝小物入れをのぞくよう話した。朝になって百襲姫が小物入れをのぞくと、小さな黒蛇の姿があった。驚いた百襲姫が尻もちをついたところ、置いてあった箸が陰部に刺さり、この世を去ってしまったという。

    日本の神話って「陰部」の話が好きですね
    イザナミが火の子を生んで死んでしまった話もありましたっけ


      子宮癌か卵巣癌で死んだという話なんでしょうね



活玉依比売の懐胎[編集]

活玉依比売(イクタマヨリビメ)の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかし活玉依比売はそれからすぐに身篭ってしまった。不審に思った父母が問いつめた所、活玉依比売は、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が3回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという。




意富多多泥古の祭祀[編集]

崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依比売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。なお、『古事記』では、三輪大神は意富美和之大神とされる。




>御祭神は「大物主神」と「大国主命」と「少彦名神」の三体

    キリスト教の「三位一体」みたいですね。



>もし「ヒミコ」なら「卑弥狗」と書くはずである。

これは全く知らなかったです。



>甕(かめ)は、煮沸する日用土器。
>甕(みか)は、神に供える酒や水を入れる祭祀用の器。

この違いは面白いです。


   そういえば、漢字の成り立ちを勉強した時に  #「甘」に似た象形文字があって#
   今、思うと 甕(みか) のことかな  と連想します。


       具体的に書くと白川静の甲骨文字の研究です
       どこかにメモがあるはずですが家の中は物でグジャグジャで
       場所は特定できているけど膨大な数の紙切れなので

       巨大な家からだんだん小さな家に引っ越して来たので整理できないのです


   *甘の漢字は  クチ 口 の中に物を入れた状態で  味わうこと
           つまり  甘い ・ 美味い=甘(うま)い 

   それで # # に書いた象形文字は  甘 という字ではありません。


その象形文字は神様に捧げる供物の入れ物だったような。


白川静に対する批判:

白川は、甲骨文字や金文といった草創期の漢字の成り立ちに於いて宗教的、呪術的なものが背景にあったと主張したが、
実証が難しいこれらの要素をそのまま学説とすることは、
吉川幸次郎、藤堂明保を筆頭とする当時の主流の中国学者からは批判され、
それを受け継いでいる阿辻哲次も批判的見解を取っている。

しかし、白川によって先鞭がつけられた殷周代社会の呪術的要素の究明は、
平勢隆郎ら古代中国史における呪術性を重視する研究者たちに引き継がれ、
発展を遂げた。

万葉集などの日本古代歌謡の呪術的背景に関しての論考もしているが、専門家の支持を受けているとは言いがたい。




>吉野ヶ里遺跡では、「甕棺(みかかん)」が総計で二千三百個も見つかったという。

すごい!



>その管玉は、最大6.6p、70個以上で、ブルートパーズ様の水色の管が多いということである。

へえ〜
「ラピスラズリ」は手に入れられなかったからかしら?



日本の国石は「水晶」ですが
色がついてた
というのが面白いですね。

   ブルートパーズ系の青ということはアクアマリンより青が濃い。

やはりラピスラズリには及ばないけど宝物だった、ということでしょうか?
[85]丸三柏服部さんからのコメント(2014年08月18日 14時05分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 「長上郡の服部氏族[」のスレッドを立ち上げました。今後はそちらで

のアップをお願いをいたします。


 色の表現は難しく、管玉の色ですが、コバルトブルーともいえるかも知れ

ません。ラピスまで濃い色ではありません。当時としては、ラピスと同じ位

値打ちがあったと思えます。吉野ヶ里にガラス工場があったようです。

 青は赤と違って霊が感応する色なのでしょうね。


 大物主はキーワードですので、更に深く探求したいと思います。


 糸巻きに3回りだけ残って「三輪」というのもおもしろいと思いました。


 神武天皇の后はたしか賀茂氏出身だと思いましたが、そこら辺も探求した

いと思います。


 久しぶりに、少しエンドルフィンが涌いてきました。
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