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 投稿番号:101358 投稿日:2014年07月14日 16時13分49秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について13

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様、平川家について13を立ち上げました(^・^)

皆様のご教示のお陰で、かなりの情報を得る事が出来ています。

今後とも、ご教示そしてお導きの程
どうぞよろしくお願い致します<(_ _)>

平川家について12
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101352_92.html

より続きます(^・^)

[1]子孫よりさんからのコメント(2014年07月14日 16時56分28秒 ) パスワード

早速ですが(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます<(_ _)>(^・^)

私は、様々な神社に鎮座されている神様について、全く理解していません。
白石様からのご教示、本当にありがたいです<(_ _)>

とても勉強になります。(理解度が低いので、すみませんが長い目で見て下さい)

そして・・・
今日、白石様のご教示に「すごい」ヒントが隠されていました\(^o^)/

以前から白石様より「平川景家」について、伺っていました。
日本の苗字七千傑様よりも、平頼盛からの「平川」について伺っていました。

本日、こちらの「平川景家」についてどうしても気になって日本の苗字七千傑様の【桓武平氏頼盛流】姓氏類別大観を「じ〜っと」見つめていまして・・

あれっ「八木光盛」・・光盛?・・あっ!!と。

そうです、以前お伝えしていました!
平川家について12 コメント32
「山江村誌」より
人吉庄は球磨庄の本家(蓮華王院)、領家(八条女院)預所(平頼盛 → 光盛、後見として中原清業)の権利を保障する形で成立したといえる。

「人吉庄」の預所は平光盛(後見として中原清業)でした。
そして平光盛(後見として中原清業)から中原盛通。
徳治二年預所が中央势力である中原盛通から在地势力の平河師種に代った。

私、重要人物をスルーしていたのです。
「平光盛」この方です!!

実は、以前コメントしていた徳大寺実春について(前スレッド12コメント32)
この方の周囲に「平光盛」がいらしたのです。

徳大寺実春の父は「徳大寺公国」そして母は「大江広元」の娘。
徳大寺実春の兄「徳大寺実重」この方の母は同じく「大江広元」の娘で、そして・・
妻は・・「平光盛」の娘です!! 
こちらをご覧ください。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/tokudaiji.htm#kb

又は
http://www.geocities.jp/keizujp2011/tokudaiji2.html

この情報は知っていたのですが、繋がりがこの時点で把握できていなかったので、コメントをスルーしていました。

今日の白石様のコメントが無かったら、このままスルーしてしまう所でした。
本当にありがとうございます<(_ _)>

徳大寺実春こと近衛中将実春朝臣と平光盛は繋がっていたのです。

ここから、「平光盛」についてさらに調査いたしました。
そして「平光盛」の娘「安嘉門院左衛門督局」と「弓削田荘」について重要な情報を見つけました。

後ほど、コメントさせて頂きます。

では(^・^)



[2]子孫よりさんからのコメント(2014年07月15日 00時52分13秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

急な外出をしてしまい、コメントが遅くなってしまいました。
すみませんでした。

「平光盛」の娘「安嘉門院左衛門督局」と「弓削田荘」についてですが、書籍の転記をおこなわなければいけません(@_@)

そこで、
「中世久我家と久我家領荘園」の191ページより、関連する情報が記述されていますので、よろしければ、こちらのサイトよりご覧ください<(_ _)>

http://books.google.co.jp/books?id=B9sZ1jxtm8UC&pg=PT205&dq=%E5%85%89%E7%9B%9B%E3%80%80%E7%90%83%E7%A3%A8&hl=ja&sa=X&ei=WRvDU8iPHYuC8gXev4GADg&ved=0CB8Q6AEwAQ#v=onepage&q=%E5%85%89%E7%9B%9B%E3%80%80%E7%90%83%E7%A3%A8&f=false

「平光盛」の娘安嘉門院左衛門督局は光盛より、美濃弓削田荘を譲られていました。
そして、平河家系図にありました「六郎貞行」は弓削田地頭・弓削田苗字となっています。

以前、田川の弓削田についてコメントしましたが、平河貞行こと弓削田貞行が地頭職を務めた、「弓削田」と言う場所が、実際には何処の弓削田であったのかは未だ解っていません。

先入観を持つ事は控えたいので、今は、このような事実があったという事をお伝え致します。

では<(_ _)>(^・^)
[3]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年07月15日 22時26分36秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「弓削田」と言う場所が、実際には何処の弓削田であったのかは未だ解っていません。
 
弓削田荘は美濃国各務郡と豊前国田川郡に有るが、状況的に美濃と見るのが妥当でしょう。
現在、弓削田姓の多い場所は埼玉県さいたま市緑区中尾。
田川には居ないが福岡県鞍手郡宮田町鶴田にも多い。
岐阜県各務原市、関市にも一軒づつ存在。
[4]子孫よりさんからのコメント(2014年07月16日 00時06分54秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご丁寧なご教示本当にありがとうございます。

美濃国各務郡の「弓削田荘」をまず調査したいと思います。

平河家系図の六郎貞行は「弓削田」を苗字としたという事が解っていますので、現地の郡史などに何か形跡が残っていないか、調べてみます。

あらためて、
本当にありがとうございました。
[5]子孫よりさんからのコメント(2014年07月16日 08時37分21秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

日本の苗字七千傑様、球磨と、美濃国各務郡弓削田荘の関係が確実に見えてまいりました。

まず、情報@
各務原市史 - 第 5 巻 - 166 ページ googleブック検索より
美濃国内大洪水。道源、弓削田荘内断福寺の住侶となる。。願成寺に鰐口寄進される。。神瞰伯業顕王美濃権守を兼ねる。。鵜渭庄、鵜沼郷の名がみられる。。後酷醐天皇による討幕計画失敗に終わる(正中の変)。。討幕計両加担者として土岐頼員,多治見国長 ...

各務原市史の記述に「願成寺」との言葉があり、球磨の「願成寺」?。もしや・・と思い調べました。

すると 情報A
中世九州相良氏関係文書集  googleブック検索より
池田公一 七寄進 願成寺免田事合伍町壺段参丈 ... 門院御領一六女安嘉門院左衞門督局(妓上 7 )大和國野翻庄安幕門院御領美膿國弓削田庄加嗣牛分厘如院碩一七女安嘉門院内侍局大和田庄内田地七丁美濃國弓削田庄加納牛分眞如院領右、盧分委細。

こちらに
「願成寺」「 ... 門院御領」「六女安嘉門院左衞門督局」「美濃國弓削田庄加納牛分眞如院領」「七女安嘉門院内侍局」
との言葉が見えます。

八代日記: 付歴代参考関係未刊文書 熊本中世史硏究会 - 60 ページ googleブック検索より
小岩野春蔵主水俣千七兵衛早田又四郎吉田蔵人上村九郎左衛門松江弓削田三郎右
衛門米良美濃窪田三郎右衛門樗蔵人 ト六一永祿三年庚申、今年願成寺金堂 犬童
美作入道休矣、数年経て後、子息之清兵衛頼兄、未兵部と申候時、右合諸侍も相果候事、 ...

「弓削田三郎右衛門」「米良美濃?」「窪田三郎右衛門」「犬童美作入道休矣」

こちらの記述は今、調査をしている内容と関係ないのかもしれませんがただ、

「犬童美作入道休矣」は「犬童 頼安」でした。

上記の情報@および情報Aから、やはり球磨と「美濃国各務郡弓削田荘」は関係していると推測が可能かと。

しかし、何故
「平光盛」の娘安嘉門院左衛門督局が光盛より譲られた美濃弓削田荘と「平河」が繋がっているのかは、今はまだ解りません。

先入観を持たずに、事実を調査すれば、必ず、真実が見つかると信じています。
では<(_ _)>(^・^)
[6]白石さんからのコメント(2014年07月16日 20時10分08秒 ) パスワード

こんばんは
私は先入観が先に立って ごちゃごちゃさせてしまいますが

弓削田 弓削
弓削は物部に関与している。
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由緒 | 春日神社

... 都春日大社の御分霊(ごぶんれい)を勧請(かんじょう)し弓削太神と合わせ奉る成り。 弓削田春日大明神と齋奉り豊前国の一国一社弓矢神と鎮座する。御神威(ごしんい) 盛んに弓削田庄は残らず御神領(ごしんりょう)にて年中祭祀(さいし)厳粛(げんしゅく)也。

上は 弓削田庄で検索をかけたら出てきた表題ですが、しかも 豊前。
ただ 弓削 物部 太田亮氏の古い姓系辞典に 物部は 左京皇別にあり 春日の族だとありました。

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さぁ∼皆の衆!地元の伝統を知るのも楽しいぞ - 田川商工会議所青年部 (Adobe PDF) - htmlで見る
www.tagawa-yeg.jp/images/PDF/what_kagura.pdf

田川市宮尾町にある「春日神社」は、平安末期に藤原氏の荘園であった弓削田庄. に 藤原氏の祖神・崇敬神である春日四所大明神を勧請して庄園鎮守神とし、今から. 約 1230年の昔、宝亀6年(西暦775年)に設立されたという由緒を持つ地域の古社. です 。
ーーーーーーーーーーーーーー
異本 物部系図

【異本 物部氏系図】 ... フツヌシノミコト(3)武甕槌命( - ) 饒速日命( - ) : 布都奴志( - ) |此神 奉於常陸鹿島社|此神奉祀於大倭石上社: ↓此神奉祀於下総香取社 | | : | タカクラチノミコト |ウマシマチノミコト : (4)高倉下命( - ) 甘美眞味命( - ) : ↓ ↓物部氏祖 ↓木積 氏祖.

もう 消えてしまっているかも と 思いながら検索をかけたら まだ 出ていました。にぎはやひ が 尾張氏が祖神としていて あとから 海神にかえられた という人。
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特徴と歴史-蘇我氏との対立-天武朝-石上氏


物部氏考
物部氏は、この世の表舞台からは抹殺された(持統天皇時代)が、日本人の血の中に 脈々と流れている天皇家に負けず劣らずの古く日本全域にその子孫 ...... いずれにせよ 欠史8代の複雑な系図は、諸説あり、ここで物部氏と関係して述べるのはさしひかえたい 。

このブログはおもしろかったです。
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[7]白石さんからのコメント(2014年07月16日 20時21分15秒 ) パスワード

弓削は物部 
どうしても 高岡親王を思い浮かべるのですが(発音がたかおか)

弓削田庄に関連して 真如苑という言葉が出てきます。
高岳親王は 空海のお弟子で 真如親王。
真如苑と関係があるのかしら 
と思って 調べたけど 真如苑は 天台宗のお寺でした。
真言宗とは 密教つながりで 熊野の奥駆けは 右回り・左回りの違いがあるということらしいです。
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親王に関与する場所はどこかしら?と 思って 調べたら 何と世界遺産の熊野の奥の院にお墓がありました。

ウィキには 親王は 名誉回復された と あります。
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[8]白石さんからのコメント(2014年07月16日 20時39分13秒 ) パスワード

安嘉門院左衛門督局
この方を検索したら
安嘉門院左衛門督局
Click Times-平家物語を熱く語る!!-平頼盛一族と北白河院陳子の関係
保業┣女子(北白河院御所・安嘉門院左衛門督局) ┃ ┃ ┣静遍┗女子(北白河院 御所・安嘉門院内侍局) ┃ ┣隆辨 (北白川邸宅) ┃ ┗女子 ┏保家 ‖ ┃ ‖━┫ ‖ ┃ 藤原通基━基家 ┗北白河院陳子┏安嘉門院(北白河院御所) (持明院家) ‖

がでました。
前に 鬼丸 という 言葉がスレッドに出たと思っていますが ほかの スレッドでも書いてありました。

子孫様
霧がかかったみたいに 途中がわからなくなっても ひょいと どこかで 同じ言葉が出てくるのがおもしろいですね。
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北白川の皇室史跡(智成親王墓、聖護院宮墓地(丸山町・地蔵谷町
...
京都市左京区北白川にある三ヶ所の皇室史跡を採り上げます。(以前に少し採り上げ ましたが、今回は写真数を増やしてみます。) 左京区北白川丸山町、銀閣寺方面から 白川の流れに沿って北東に進むと、川の東岸に初代・北白川宮の智成 ...

上のブログの一連のお話も おもしろかったです。

子孫様
私には 個人名を 資料でつきとめる力はありませんが 子孫様は 軽く見つけておられます。期待しています。
私には せいぜい 宮本武蔵が 徳大寺から ますます 近くにいたと 感じるだけです。

[9]子孫よりさんからのコメント(2014年07月17日 00時30分21秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

「弓削田庄に関連して 真如苑という言葉が出てきます」
と言う事に関して調べたのですが

美濃国各務郡弓削田荘の本家は真如院と言う事でした。
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?id=7347260&keyword=%B5%DD%BA%EF%C5%C4%C1%F1 (%C3%E6%C0%A4)

鎌倉期から室町期に見える荘園名美濃国各務【かかみ】郡のうち弓削荘ともいわれ,各務原【かかみがはら】市那加【なか】町に比定される荘園の成立期は不明初見は寛喜元年平光盛所領処分状案池大納言平頼盛の子光盛の所領で,後高倉院の時,新たにこの荘の加納をたて,子孫に相伝すべしとの真如院下文を得たとあるこの拡大ののち,本荘を嫡女安嘉門院宣旨局に,加納半分ずつをそれぞれ六女安嘉門院左衛門督局,七女同院内侍局に譲与加納は真如院領とある(久我文書)その後宣旨局は弓削田荘などを,久我通忠室に譲り,久我家に伝領またこの荘の本家は真如院で,嘉元4年の昭慶門院御領目録に,真如院領「弓削荘,加納」があり,聖護院宮が代々管領することになっていたまた同じ目録の美濃国々衙領の中に,中御門前中納言の知行する「弓削田本郷」がある(京都大学所蔵古文書)弓削田荘の一部であり,久我家領観応元年8月の久我長通譲状写によると「弓削田本荘并加納」は,「不慮違乱所々」の1つに挙げられている(久我文書)建武4年8月,光厳院は弓削田本郷を大徳寺に知行せしめているこれは鎌倉中期以降,真如院・久我家の弓削田荘に対する不知行状態が続き,国衙領に帰属していた本郷が,新たに大徳寺領となったものである応安4年,寺用下行定文に「弓削庄京着土貢五拾貫文歟」とある(大徳寺文書)その後は不明であるが,文明7年の長塚宮の推鐘銘に,「美濃国各務郡弓削田荘佐良木郷長塚宮推鐘」とある(大日料8‐8)佐良木は現在の各務原市那加町...

上記にある「不慮違乱所々」について、先日ご紹介したサイト「中世久我家と久我家領荘園」にも書かれていましたが、当時はこのような問題が、日本各地で起こっていたと言う事ですね(゜-゜)

所で、「鎌倉前期彫刻史における京都」という研究報告書を偶然見つけたのですが、かなり興味深い記述が沢山ありました。

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/85127/1/d776.pdf

特に、37ページ 愛知県稲沢市無量光院阿弥陀三尊像考
ここからの内容は「愛知県稲沢市」「無量光院阿弥陀三尊像」についてですが、実は平頼盛・そして久我家が関係していて、光盛から娘達へ譲渡された所領についても詳しく記述されていました。
そして・・・偶然なのですが無量光院阿弥陀三尊像の中尊・右脇侍の像内墨書についてが記述されているのですが・・「尼妙阿弥陀仏」という名があります。


とても専門的な研究書で、私の能力では、こちらにピックアップしてまとめる事が中々難しいです(@_@)
どうすれば、私が感じ取った事をお伝えする事ができるか考えたのですが・・

皆様、お忙しいと思いますが、ぜひお時間を頂いて、
37ページ 愛知県稲沢市無量光院阿弥陀三尊像考 からの記述をご覧頂けませんでしょうか。<(_ _)>
どうか、よろしくお願い致します。

55ページには
久我家文書「円性〈平光盛〉慮分状案」が記述されています。

美濃国弓削田庄は 光盛の娘の内3名
嫡女 安嘉門院(邦子内親王)宣旨局
六女 安嘉門院右衛門督局
七女 安嘉門院内侍局
に譲られているようです。

白石様にご教示頂いた「静遍」についても記述されていました。

私自身が根本となる部分を理解出来ていないから、皆様から頂く重要なヒントや、自分で見つけた記述も見逃してしまうのだと思います。
ただ、本日、上記の研究書をずっと読んでいたのですが、やはり・・難しいです。

でも、がんばります。

では<(_ _)>












[10]子孫よりさんからのコメント(2014年07月17日 12時10分34秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

最初からですが・・
(@_@。

やっぱり、私はダメです。だって、昨日の私の調査にあった
「省略・・また同じ目録の美濃国々衙領の中に,中御門前中納言の知行する「弓削田本郷」がある(京都大学所蔵古文書)弓削田荘の一部であり,久我家領観応元年8月の久我長通譲状写によると「弓削田本荘并加納」は,「不慮違乱所々」の1つに挙げられている(久我文書)建武4年8月,光厳院は弓削田本郷を大徳寺に知行せしめているこれは鎌倉中期以降,真如院・久我家の弓削田荘に対する不知行状態が続き,国衙領に帰属していた本郷が,新たに大徳寺領となったものである」

★中御門前中納言の知行する「弓削田本郷」
中御門前中納言とは何だ??!
と調べたら、藤原家成に辿りつきました。
ウィキより
藤原 家成(ふじわら の いえなり、嘉承2年(1107年) - 仁平4年5月29日(1154年7月11日))は、平安時代末期の公家。参議・藤原家保の三男。官位は正二位・中納言。中御門を号す。

やはり、全然わかっていません(*_*)
解っていたら、この記述を読んだ時にすぐに「あっ!!」と気が付くはずです(*_*)

ただ、調べた成果はありました。
藤原家成を祖とする「讃岐藤家」。そして鹿の谷事件。平家滅亡の流れが詳しく記述されていた「香西氏研究」という高松大学研究紀要を見つける事が出来ました。

http://www.takamatsu-u.ac.jp/library/06_gakunaisyupan/kiyo/no13/13_II_01-17_fujii.pdf

藤中御門中納言家成が若い頃讃岐守に命じられた事から始まる「讃岐藤家」。
鹿の谷事件の際に西光(藤原師光)が捕えられ拷問を受けている時に平清盛に放った言葉
「清盛がまだ14〜15歳の頃は、いつも故中御門中納言家成卿の家に出入りして、やっと世渡りしていた時代があったではないか、それが何だ、分を超えて威張りくさって・・・」

また、家成の子藤原成親が清盛の屋敷に捕えられ、拷問を受けた後別室に投げ込まれた所へ重盛がかけつけ、成親の哀願に答えるとともに、清盛に忠告する言葉の中に「重盛かの大納言が妹に相具して候、維盛また婿なり」
重盛は成親を殺してはならぬといさめた・・
また、成親の子丹波の少将成経は平教盛の娘が妻になっていたので、教盛の必死の命請いがあった・・

記述には
このように見てくると、中御門家と平家との因縁は、複雑なからまりをもっていたのである。
過去においてはきってもきれぬつながりがあったのである。
とありました(゜-゜)

そして「藤原成親」は記述では「中御門大納言」となっています。

研究書の中には続けて
この中御門中納言処刑の噂は、当然讃岐の藤氏一門にも伝わってきた。
それにかれらの長兄周防守親高は、成親の執政官だったので、すでに殺されていたから、当然讃岐の藤氏一門の清盛憎悪の感情は、内心で燃えていたのである。

治承四年(1880年)以仁王の令旨を受けて諸国の源氏が蜂起した。
また吾妻鏡によれば養和元年(1182年)閠二月十二日の条に、河野通清が、平氏に反して、軍兵をひきいて、伊予の国をさしおさえたと書いてある。
藤大夫資光の妻は河野の一族だったので、この知らせはすでに伝わっていたはずである。

★藤原家成→章隆(讃岐藤家始祖。母・綾大領貞宣の女) 
藤大夫高遠(妻・佐伯頼光の女) → 資高(妻・詫間左衛門頼正の女) → 子 親隆・有高・重高・資光
長男 親隆・・上京して周防守となり、祖父家成の三男で、大納言成親の執政官。
二男 有高・・新大夫と称し大野氏の祖となる
三男 重高・・藤大夫と称し羽床氏の祖となる
四男 資光・・新居藤大夫と号し、綾大領となり、河野左京太夫良広の女を妻として、資幸・信資・資村を生んだ。

★あの・・ここでなのですが。「河野氏」です。
この頃の調査で頻繁に名があがるのが「河野氏(川野氏)」です。
以前、スレッド12コメント50でお伝えした
荒田観音堂内にあり、県下で三例目の墨書きで胎内腹部前面に「奉造立釈迦如来像天台僧林与 保延7年2月14日」の銘文が書かれています。
この調査で解ったのが
荒田寺別当 良峯依高
木造釈迦如来坐像に残された手掛かりによって
「天台僧林与」こと川野林与
平安時代後期の彫刻家、信国氏  ・・・でした。

讃岐の「河野氏」とは繋がらないかもしれませんが、気になります・・

では、記述転記を続けます(゜-゜)
吾妻鏡元暦元年(1184年)九月十九日の条に、讃岐国御家人らに下した頼朝の御判のある文がのっている。それによると
「橘次公業の下知に従って御方に参り、平家追討に参加した御家人たちの交名折紙をたしかに見た。今後とも忠義をつくしてくれ」という前文があって次の人名があげられている・・・
★藤大夫資光を筆頭にした讃岐御家人の名が3ページに記述されています<(_ _)>

それと・・・あっ!!\(◎o◎)/!先祖様!!橘公業の名が登場していました。(やはり、平河を調査していると宮原の先祖が・・?)

ここまで、調べてみました。

やはり、「藤原家成」は先祖の調査で重要な位置をしめしている方なのかもしれません。

先日からお伝えしていますように
徳大寺実春の父は「徳大寺公国」そして母は「大江広元」の娘。
徳大寺実春の兄「徳大寺実重」この方の母は同じく「大江広元」の娘で、そして妻は「平光盛」の娘。
徳大寺実春そして徳大寺実重は「藤原実定」の兄弟である「藤原実家」の孫。
藤原実定の妻は「上西門院女房備後」
この方は、二階堂行政の母そして熱田大宮司藤原季範と兄弟(姉妹)で「藤原季兼」の子供。
熱田大宮司藤原季範の娘は源頼朝の母。
そして・・
「藤原季兼」と「藤原家成」は従兄弟でした。
藤原季兼の母と藤原家成の父「藤原家保」は兄妹。

他にも「藤原顕輔」「藤原定能の祖母」も同じく兄妹。

父は「藤原顕季」です。

続けます(゜-゜)

藤原家成の兄妹は藤原忠宗の妻。

藤原忠宗の兄弟が藤原家光。
藤原家光は「須恵小太良」こと「藤原家基」の父。

そして・・
謀反の冤罪を受けた平河師高に対して、文治三年十二月三日の天野遠景下文は、「謀反他人に勝る」として宇野御厨小値賀島地頭職に補任となっていて・・
所が小値賀島地頭職に実際に補任されたのは・・
藤原忠宗・藤原家光の弟「尋覚」でした。

具体的に見えてきました。

しかし・・「平河師高」がここまでの繋がりのいったい「何処」に位置する人なのか、全く記述がありません。

そして・・最初に戻りますが

「中御門前中納言の知行する「弓削田本郷」がある(京都大学所蔵古文書)弓削田荘の一部であり・・」

平河貞行は弓削田荘の地頭となり「弓削田貞行」と名乗った・・

カーテンがパッ!と開きそうですが、まだまだそうはいきません。

真実を求めて!!調査あるのみ!です。

では<(_ _)>
[11]白石さんからのコメント(2014年07月17日 21時34分46秒 ) パスワード

こんばんは
真如院ですね。
真如苑は家の近くに真如苑があり 大きな宗教団体らしいです。いったことはないけど、緑のきれいな建物が見えます。

それが 頭にあって 字の違いにきがつきませんでした。混乱させてごめんなさい。
============================
>藤原家成の兄妹は藤原忠宗の妻。

藤原忠宗の兄弟が藤原家光。
藤原家光は「須恵小太良」こと「藤原家基」の父。

家基という人を見当で見つけたのですが

持明院基家
持明院 基家(じみょういん もといえ、(1132年) -(1214年4月7日))は、藤原通基の三男。後堀河天皇の外祖父。経歴[編集]

平頼盛の娘を妻とし、守貞親王の乳母人となってその養育・・・舅の頼盛や甥の一条能保の後を追って関東に亡命した。

義仲、平家が滅亡した後には再度都に戻り、妻とともに西
海から戻った守貞親王に再び仕える。持明院を守貞親王の居所として提供し、また娘の陳子をその妃とした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
陳子という言葉があり、 この人ではなかろうか?と思います。
でも 
子孫様 いつもの わたくしの早とちりかもしれず 混乱させてごめんなさいね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
球磨に八条院領又は女院領がありますが
邦子内親王
邦子内親王(1209年) -(1283年9月26日)後堀河天皇准母、皇后宮。院号は安嘉門院。父は後高倉院守貞親王、母は持明院基家の女持明院陳子(北白河院)。同母弟に後堀河天皇、同母姉に式乾門院利子内親王(伊勢斎宮、四条天皇准母・皇后宮、女院)がいる。

父後高倉院より莫大な八条院領の大部分などの所領を譲られる。八条院領を主体とする安嘉門院領はその後、亀山上皇、後宇多上皇、昭慶門院憙子内親王を経て、★後醍醐天皇に伝わった。

後醍醐天皇は母・五辻氏で 五辻氏は 久我文書に言葉が出ていたのでは・・・

おもしろい 形だと思うのは
後醍醐天皇は 南朝で出てくる人
持明院は 北朝で出る言葉では なかったか?と思い
あちらにおいれば こちらにもいる もとみたいな 形に見える。
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[12]子孫よりさんからのコメント(2014年07月18日 00時09分53秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

あの・・・・
白石様は、やはり何か「能力」をお持ちだと思います。(きっとです!)
(私のおっちょこちょいを修正して下さる、導いて下さる能力です)

白石様から、伺った「持明院基家」についてのお話。
私も「持明院基家」について、何だかとても気になりだしたので、調べたのですが・・

持明院基家の娘は藤原実宗の妻です。
持明院基家の娘こそ、「西園寺公経」の母でした!

そして・・私は先日「藤原実宗」についてコメントしていたのに(スレッド12コメント83)、またまた重大な見落としをしていました。(*_*)

藤原実宗の娘は「藤原公国」そうです「徳大寺公国」の室でした(@_@)
藤原実宗 ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E5%AE%97
(何度本当に何度この方のウィキ情報を出しているのか・・)

系譜を見て下さい
父:藤原公通
母:藤原通基の娘 ★★
妻:藤原教良の娘
男子:三条公定(1163-?) - 清水谷流
男子:公修
妻:持明院基家の娘  ★ 
男子:西園寺公経(1171-1244)★ 
生母不明
男子:藤原公仲
男子:公暁
女子:藤原隆忠室
女子:藤原公国室  ★ ここです!!
女子:藤原定家室(1166-1246)

藤原公国(徳大寺公国)の子が近衛中将実春朝臣こと「徳大寺実春」と「徳大寺実重(妻:平光盛娘)(二人の母は大江広元の娘)

そして、西園寺公経の姉妹は徳大寺公国の室だったと言う事です。

白石様から、今日「持明院基家」のご教示を頂かなかったら、おそらく私、マタマタこの情報を見落とす所でした(*_*)

本当にありがとうございます<(_ _)>

系譜で解ったのですが、

藤原実宗の母は「藤原通基」の娘。
と言う事は西園寺公経の祖母は持明院基家の姉妹で・・
なおかつ
西園寺公経の母は持明院基家の娘と言う事ですね。(ものすごく濃い関係です)
そして・・その母方の祖父は「平頼盛」。

そういうことか・・・

今までの調査で、「繋がるのは何故?」と考えてしまっていた方々の
「真実?」何故繋がるのかが、しっかりと見えてきました。

皆様、ほんとうにありがとうございます。
私は、まだまだ「真実」を見つける為にがんばります(^O^)/
では<(_ _)>
[13]子孫よりさんからのコメント(2014年07月18日 13時35分03秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

今日の進捗をお知らせ致します。

結論から言いますと

藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の孫娘は・・・
「久我通基」の室でした。

こちらをご覧ください。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/meika8.html

藤原長方の子「長兼」の娘が「久我通基」の室です。

藤原長兼の母は藤原通憲(信西)の娘です。
弟の「藤原兼高」の母は様々な文献で「藤原師高」の娘となっています。

すなわち(先入観はもっていませんよ(ー_ー)!!)
藤原兼高(藤原師高の孫)の姪は「久我通基」の室と言う事です。

久我通基について調べました。 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E9%80%9A%E5%9F%BA

建長2年(1251年)に父久我通忠が没した時には11歳であった。祖父久我通光は後室三条に遺産の大半を託したため、父からの遺領は唯一、久我荘のみであった。このため、父の死後、経済的危機に立たされることとなった。しかし、父通忠の後室である平光盛の娘(池大納言平頼盛の孫)が、父光盛から継承した池大納言領を久我家に譲与し、その経済的危機を救った。 建長7年(1255年)に従三位となり、公卿に列する。参議、美作権守・権中納言・中納言を経て、文永6年(1269年)権大納言となる。弘安元年(1278年)右近衛大将に任じられる。弘安8年(1285年)大納言に任じられ、正応元年(1288年)に内大臣、源氏氏長者に任じられるも同年に辞す。永仁5年(1297年)、従一位。延慶元年11月29日(1308年)、69歳で薨去。

★平光盛の娘(安嘉門院左衛門督局)が久我家の危機を救ったのですね。

久我通基の正室は「姉小路顕朝の娘」となっています。

姉小路顕朝この方を調べます(^O^)/ ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E9%A1%95%E6%9C%9D

姉小路 顕朝(あねがこうじ あきとも、建暦2年(1212年) - 文永3年9月20日(1266年10月19日))は、鎌倉時代中期の公卿。参議・姉小路宗房の長男。官位は正二位・権大納言。

あれっ?! 姉小路宗房の長男? 「宗房」? 「宗房」と言う名を先日調べましたよ!!・・・・・

ああああああああああああああああああああああああああっ!!
もう一度こちらをご覧ください。藤原長方の孫「宗房」。その子「顕朝」に姉小路と・・・
http://www.geocities.jp/okugesan_com/meika8.html

と言う事は、前スレッド12コメント71で調べていた「藤原長方」の孫「藤原宗房」が「姉小路宗房」と言う事です!!

すなわち

久我通基の正室も「藤原長方」のひ曾孫(こういう言い方で良いのかな?)となります。

藤原長方の孫もひ曾孫も久我通基の室。

まとめます。

久我通基の正室および室は藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の孫およびひ曾孫であり、久我家・「久我通基」は、父通忠の後室である平光盛の娘(池大納言平頼盛の孫)が、父光盛から継承した池大納言領を久我家に譲与し、その経済的危機を救われた。

上記の平光盛の娘「安嘉門院左衛門督局」が、光盛から譲渡された「弓削田荘」におそらく補任されたのが「平河六郎貞行」こと「弓削田貞行」。
そして・・
平光盛の娘「安嘉門院左衛門督局」の姉妹は「平河」が訴訟を起こした相手「徳大寺実春」の兄「徳大寺実重」の妻。

なおかつ・・
今まで、頻繁に調査で登場してきた「西園寺公経」の妹は上記の徳大寺実重・実春兄弟の父「徳大寺公国」の室。

と言う事になります。

あの・・・ところで・・
私のスレッドを読んで下さっている皆様は、私が今まで何故か?「藤原長方」に拘っていた事を十分御存知の事と思います。

自分でも、解らないのですが、どうしてもこの方が気になっていたのです。
(この方の亡くなった日(2月11日)が私の誕生日と言う事も・・(ー_ー)!!関係ないか<(_ _)>)

「藤原長方」と言う方は、今まで何度も私の調査に登場?してこられました。

この方は須恵小太良こと藤原家基や久米氏にも繋がっていました。
藤原長方と木綿葉川(球磨川)の詩歌を詠んだ藤原定隆は従兄弟でした。
「夏来れば 流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊しつらむ」

でも、今まではその繋がりが、偶然?かもしれない・・と。

しかし今回の調査で、「偶然ではないかもしれない」と、いえ(ー_ー)!!
本音を言います!。間違っているかもしれませんが・・
「偶然」ではないと思います。\(゜ロ\)(/ロ゜)/

何だか、未だに「偶然かも・・」とか言っていたら先祖に叱られそうな気がしてきました(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

と言う事で、今日、私が見つけた「真実」の報告でした。

では<(_ _)> (^・^)
[14]子孫よりさんからのコメント(2014年07月18日 14時47分30秒 ) パスワード

ちょっと、脱線話を(^・^)
(難しい所ばかりを調べていたので頭がつかれました(^・^)

唐突ですが、私には「ものすごい男前」の先祖様がいらしたようです。

ぼ〜っとしていたら急に思い出しました。

私の息子がまだ赤ちゃんの時のお話です。

実家(旧岡原村)に息子と娘を連れて里帰りをしました。
祖母は息子と初対面で、その時は多良木の平川に嫁いだ伯母、「多良木のばあちゃん」も息子を見に来ていました。

そして、息子の顔を見ながら、祖母と伯母は
「こりゃ〜この子は本当に男前バイ!!。うちの先祖様で、どっか遠くに行かれて亡くなった、そりゃあもう、ものすごか男前がおんなったらしいバッテン。その人に似とんなるちゃあナカか〜\(◎o◎)/!(●^o^●)」と。

訳します<(_ _)>
「うちの先祖に、どこか遠くに行かれたまま亡くなった、それはとても男前の人がいたそうだけれど、その人に似ているのでは?」
(きっと、祖母と伯母の孫ひいきだと思いますが・・)

でっ、私はせいぜい100年程前の方かな〜と思い二人に聞いた所・・
「う〜ん、多分、何百年か前じゃあなかかな〜(・_・)」と。

げっ!(?_?)「何百年か前?!」と私。

「それは、言い伝え?( 一一)」と聞くと、二人は「そうタイ(●^o^●)」と言っていました。

先祖の真実を調べる事が出来たら、今度はゆっくりとその「超イケメンの男前の先祖」の事も調べてみようかな〜と思います(^・^)

しかし・・・今になれば・・
男前の先祖の伝承よりもっと、別の、そうです、先祖の真実を聞いておけば良かった(*_*)と心から思う私でした・・・

では<(_ _)> (^・^)

[16]子孫よりさんからのコメント(2014年07月18日 17時48分56秒 ) パスワード

皆様、マタマタ登場しました(^・^)

というか・・まだまだ続きが見つかりました(゜-゜)

コメント13でご紹介した藤原長方の孫「藤原宗房」。

この方の父は長方の子「藤原宗隆」です。
そして宗房の母は「平業房の娘」です。

そこで「平業房」を調べました。コトバンクより
http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E6%A5%AD%E6%88%BF

平安末期の後白河院の北面の武士。斎院次官平盛房の子。後白河法皇の寵妃高階栄子(丹後局)の前夫。ふたりの間には業兼,教成ら数子がある。治承1(1177)年に鹿ケ谷の変で平清盛に捕らえられたが,法皇の再三の請いによってひとりだけ放免され,同3年に正五位下左衛門佐となる。その出世は妻の存在によるところが大きいが,自身も今様を学び,下北面から身を起こして院に近習し,「御寵人」とまでいわれた。同年11月の清盛のクーデタで解官され,伊豆へ配流されるが途中で逃れ,再び捕らえられて殺された。<参考文献>米谷豊之祐「後白河院北面下臈」(『大阪城南女子短大研究紀要』11号)

★この方も鹿ケ谷の変に関係していたのですね(゜-゜)

父は斎院次官平盛房。
ここで、「平盛房」?何処かで以前に・・・あれ・・・?あれ・・?あっ!!

この方は「宮原三宮社」の!!!!
熊本県神道青年会 - 宮原三神宮 ご覧ください<(_ _)>
http://www.kumamoto-shinsei.jp/shrine-map/modules/gnavi/index.php?lid=145

二条天皇(1159-1169)の勅命によって、平治元年(1159)9月、越中前司平盛俊が社殿の造営にあたり、応保元年(1161)6月16日に落成し、同年8月13日、勅使として、内大臣平重盛、副使として肥後守平貞能が「あまさかる肥後国八代郡火の村に神輿をかついで勧請した」とある。ご祭神として、伊勢の内宮(天照大神)、滋賀の日吉大社(國常立尊)、京都の下賀茂神社(神武天皇)の御分霊をお祀りしてあります。社司には造営奉行平盛俊の弟、平盛房を兵庫頭従四位下に任じて奉仕させた。その子孫が廣松家となり、代々その職をついで今日に至っている。

そうでした\(◎o◎)/! 社司には平盛房を兵庫頭従四位下に任じて奉仕させた。

そして・・のちに
宮原公忠(先祖さま〜)はこの宮原三宮社の御隣に宮原城を築城して居城していたのでした!!
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/miyanohara-jyo/

以前にもコメントしたかと思うのですが・・
前職で何年間も「廣松」さんと言う方と一緒に仕事をしていました\(◎o◎)/!

ごっ御縁がやはりあったのですね〜〜!!

と言う事で
藤原宗房(姉小路宗房)の曾祖父は宮原三宮社の社司を務めた「平盛房」でした!!

というお話でした\(◎o◎)/!<(_ _)>
[17]白石さんからのコメント(2014年07月21日 05時06分55秒 ) パスワード

こんばんは
姉小路宗房

室は 勧修寺流藤原光房をとおる子孫

姉小路について 三木という言葉がでるが
みきについて 短絡的だけど 阿波の三木家が検索できました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

麻と天皇家
天皇家と三木家. 三木家は徳島の剣山のふもとの木屋平村にある。 三木家の大麻は、 日本で唯一天皇家に献上する太古からの家柄である。 このあらたえの行事は今も尚、 続いている。 天皇の歴代の即位式の衣装はすべてこの三木家で作られている。 三木家 ...

阿波忌部氏の直系当主、三木信夫さんの家を訪問 - 桂 米團治
麁服──、天皇が即位する時、その儀式となる大嘗祭で着用する麻の服のこと。衣には 麁 ... 麻布を作るため、畑で大麻を栽培し、それを織って麁服を作り、皇居まで運ぶという 一連の作業を、古来より三木家が担ってきたのです。 邪気を払って ...
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
忌部については 古 我が国の因を尋ねるに どうしても つじつまが合わない部分があったが 忌部家に伝わる話でようやく わかった
という 話がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

三木には 藤原 中原 などの 言葉も見え 宇多源氏の言葉も見え 
私がおぼろに思っていた 事代主(にぎはやひ) から 藤原へ
つまり 中原も にぎはやひ を 祖としているので 同じ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宇多源氏に関して 高岡 溝口 などがあり
私 前に
うちの白石によくしてくれた 免田の溝口があって のち 五木に一家そろって移住して 洪水にあって 全員亡くなったと いうことから
溝口 白石を 調べたことがあり

故郷の集落で うちの家と 平川ととなりどおし (高岡から平川へ婿養子)
坂の下に溝口があり 川向の溝口の家の柱は 熊本城の柱を持ってきてある。その家の枝分かれは お茶の栽培で有名。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
溝口は 斯波氏の言葉もあり 
清和源氏と宇多源氏は からまりあったようだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
清和の一流 武田から でることばに 室・三条氏 小笠原・白石などがある.
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
竹田に大伴武田の神 竹田河辺 などの言葉があり
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
川辺川は故郷にある川。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
平家城跡もある。
源氏 平家などというより(二つとも天皇の別れというのだから)その前の形がある。

うちの白石には 他に 山口の母の実家にまつわる話として 
戦時中のどさくさに紛れて 祖母なきあと 平野という家の人が勝手に席をいれてしまったのだと 母が猛烈におこっていたことがある。
後 母の叔母の一人が親子関係不存続の訴えを起こして勝ち
母は 遠く九州にいたので そのままになっていた。

その白石は 戸籍では 福岡になっていた。
平野の姻戚関係で特徴なのは 父方の故郷にある家の苗字の言葉が複数みられること。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
白石でもうひとつ
白石正一朗という人
維新のスポンサーで この人の財がなかったら 維新はとうていならなかったろうという。
月照上人、平野国臣、真木保臣らと親しかった経緯から尊皇攘夷の志に強い影響を受けて、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助した。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。

維新がなり 他の人が次々と政界入りを果たしたのに 一人 赤間神宮に入った。赤間神宮には 真木和泉の奥津城もある。

そして
真木の言葉には 佐田の家の婿養子(こちらも佐田から嫁に行っては代々からまりあっている)に入った人が 
家の墓の中に 武田の血を引くが 武田を名乗れず 真木という姓を浅野の殿様から頂いた 云々
と 彫りつけてあると 明かしてくれました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

子孫よりさん - 日子の島TOP

2013年12月30日 - 日本の苗字七千傑様のサイトを拝見していて「松野氏」の系譜の中に記載がありました。 ..... 日本の苗字7000傑http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01217a.htm# 002 ★良峯姓丹羽氏の系図を見ると .... 天太玉命・・・忌部氏の祖
という 子孫様の過去のブログが出ました。
松野氏の言葉も見えます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
いつものごとく とりとめない話ですが なんのなにがしの子孫としてつなぐより ぼうーっと とおくをみつめるようにすると ひょいと 話がつながってくるように思います。









[18]子孫よりさんからのコメント(2014年07月21日 09時43分25秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年07月21日 09時46分32秒
[19]子孫よりさんからのコメント(2014年07月21日 09時46分09秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございました。

「阿波忌部氏の直系当主、三木信夫さんの家を訪問 - 桂 米團治」
こちらのブログを拝見致しました。

こちらの「三木家」は阿波忌部氏となられるのですね。
日本の苗字七千傑様の《阿波忌部氏》〔阿波国造家〕姓氏類別大観も拝見しました。

そして、姉小路氏に関連したこれまた「三木氏」ですがウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E6%B0%8F

三木氏の姉小路氏継承[編集]
三木氏は宇多源氏の佐々木氏の庶流である多賀則綱を祖とするという。彼は同族である飛騨守護・京極氏の家臣として飛騨に移り、室町時代には竹原郷を支配するようになる。戦国時代に入って京極氏の支配が緩むと、三木氏は次第に力を付け始めて三木直頼のときに飛騨を支配する戦国大名にまで成長した。
そして直頼の子・三木良頼のときに飛騨国司だった姉小路家の内紛に乗じて姉小路古川家を乗っ取り、その名跡を継承した。朝廷では三木氏の姉小路家継承を認めるか否かで紛糾したが、良頼の政治工作が実を結んで認められることになり、永禄元年(1558年)に飛騨守に叙任している。そして翌永禄2年には姉小路姓を正式に称した。

★三木直頼の子・三木良頼のときに飛騨国司だった姉小路家の内紛に乗じて姉小路古川家を乗っ取り、その名跡を継承した。朝廷では三木氏の姉小路家継承を認めるか否かで紛糾したが、良頼の政治工作が実を結んで認められることになり・・
「三木直頼のときに飛騨を支配する戦国大名にまで成長した」
にもかかわらず???何故、そこまでして三木氏の姉小路家継承は必要だったのでしょうか・・?

三木直頼については ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E7%9B%B4%E9%A0%BC
三木 直頼(みつき なおより、明応6年(1497年)? - 天文23年(1554年))は戦国時代の武将。飛騨三木氏の当主。姉小路良頼の父。大和守。
直頼の三木氏の出自は多賀氏(佐々木氏の一族)とも藤原氏ともいわれはっきりしない。直頼の父は三木重頼と伝わるが、直頼以前の三木氏については不明な点が多い。

何か良く解りませんが、謎が多いようですね。(?_?)

日本の苗字七千傑様の《市野瀬氏/多賀氏/三木氏》姓氏類別大観を拝見しましたが、多賀朝則 → 三木則綱 → 綱良 → 直頼 となっていました。

私の過去のブログに(昨年12月)「天太玉命・・・忌部氏の祖」と言う言葉があったとは!と思いまして確認いたしました。
良峯姓丹羽氏の系図と上記のお話は無関係のようです。おそらく、検索でピックアップされた情報が繋がって表示されたのだと思います。

しかし・・
白石様がこの記述をピックアップして下さったお陰で・・(^・^)・・
平川家について7 コメント8 (白石様からのご教示でした(^・^))
転記しますね(__)
5にある高橋より
http://ehime-jinjacyo.jp/?p=7291
愛媛県西条市洲之内甲773の★橘新宮神社・・・伊勢神宮外宮同体
主祭神 豊受大神
    瓊々杵尊(ににぎのみこと)
    天太玉命・・・忌部氏の祖

神主★高橋刑部太夫義定同高橋近江介義道

(^・^)とご教示頂いていました\(^o^)/

ところで・・
橘新宮神社について他のサイトも・・
http://homepage1.nifty.com/kisetunokaze/s_history/s_history9.html

記述の中に・・
元宮は?
しかし、由緒による創始はずいぶん古く、天智天皇4年(665年)の棟札が残っていたそうであり、つまり同年か、それ以前とのことだろう。この地に移る以前は現在の安知生新開の旧跡にあり、現在も目印のためか畑地の脇に松の木が植えられている。この辺は区画整理が行われたのだろうか。現在の地図上では安知生新開に入っているようだが、以前は西田(にしだ)の土地だったのかもしれない。いずれにしても境界付近にある。
ただ、当該畑地のあたりは、現在の地形から考えると、往古は遠浅の海中ではなかったかとみられることから、それ以前の社はどこか別の場所に鎮座していて、安知生新開の畑地が退潮なり干拓なりで陸地になった後に、遷宮あるいは、新たに分霊を勧請したことも考えられよう。

この旧跡は律令制下の橘郷と神戸郷の境目ではあるが、私見では奈良時代の橘郷の中とは思えない。神社名から推察すると、元は神社そのものが橘郷から遷ってきた可能性も考えられ、その元宮の場所は楢木(ならのき)ではないかという話もあるようだが、はっきりしない。(*注1)

西の鳥居脇の灯籠には弘化5年(1848年)、氷見の上町と宮ノ下の寄進者の名が刻まれていることから、楢木を含む氷見村(ひみむら)との往古の縁も考えられるが、寄進の当時は、神戸郷までが大庄屋による氷見組の範囲内でもあったので、そちらの関係で寄進しているのかもしれない。

世の中には沢山の地名や「名」は数え切れない数程あると思うのですが・・
上記の記述にあった2か所の地名「西田」と「楢木」。

皆様、過去の私のスレッドを思い出して頂きたいのですが
「西田」は祖母の兄、平川の二男が養子になった家名でして、そして「楢木」は・・
実家から300メートル程先の「お隣」様です。
でも、あちらは井口川を渡るので「岡本」地区になるのかな?

偶然なのかもしれませんが・・(ー_ー)!! (^・^)

それこそ
白石様のコメントで頂いたお話の
「ぼうーっと とおくをみつめるようにすると ひょいと 話がつながってくる」
という感じです。(^・^)

では<(_ _)>(^・^)
[20]子孫よりさんからのコメント(2014年07月21日 16時13分48秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

かなり、調査を進めている所ではありますが・・・
先祖の話とはまた別の件で一つ<(_ _)>

お陰さまで、19日に娘の結婚を祝う会が行われまして、これで、やっと親の役目を果たす事が出来ました。

所で・・

娘の嫁ぎ先のお父様も、私も、ちょっとだけお酒が入って、色々お話をさせて頂いていたのですが、私が、御親戚の「足がとてもお早いあの方」の事を伺った流れで、苗字の話になりまして・・

するとお父様が
「以前の姓から今の姓に変わったのは、かれこれ、今をさかのぼる事430年程前でございます。」
とおっしゃいまして・・

私は、心の中で「えっ!!?今、430年程前って・・わ〜お」となりまして・・
続けてお父様が、「430年前からの代々の墓もございまして・・ただ、調べますと、その先は児島高徳にどうも何かしら関係しているようでして・・」と。

私は「こじまたかのり」??こじまたかのり・・児島高徳・・あっ!!

そして「そうでいらっしゃいますか!」とお答えしたのですが・・

白石様、本当にありがとうございます<(_ _)>

私、白石様から「児島高徳」と言う方についてご教示を頂いて初めてこの方の事を知りまして・・
もし、白石様とお知り合いになる事なく、以前の私のままでしたら、ここで
「どちらのコジマ様ですか??(?_?)」
と答えてしまう所でした。(かなり危険でした(*_*))

歴史を知らないと言う事は本当に恐ろしい事でございます(*_*;

しかし・・・
娘夫婦は、出会いは「ロックのライブ」でして・・(超現代的です!!)
その後は音楽を介しての友達付き合いから始まりまして。

娘は普段はとても静かなのですが、音楽がからむと・・
ライブでダイブのような子でして・・(お解りいただけますでしょうか・・?)
好きが高じて、ロックのライブ会場でDJなども時折やっていまして・・

という二人の出会いだったのですが・・
実際には両家とも、「昔むか〜しある所に・・」と言った「家」でございました。ありゃ〜〜〜です(?_?)

何でしょうか、人の縁は本当に「摩訶不思議」でございます。

その日、私は、布団に入って、暗い天井を見つめながら
「ううん??将来生まれてくる孫の名はロックベイ・・ろっくべい・・六兵尉・・\(^o^)/(^○^)」
と一人笑いをしながら寝たのでした。
(ー_ー)!!娘から叱られますね(*_*)

では、<(_ _)>(^・^)






[21]子孫よりさんからのコメント(2014年07月22日 17時12分39秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

弓削田地頭となった「貞行」を調べているのですが、中々情報は見つかりません(*_*)

しかし・・
様々な記述に「肥後国山本庄」と久我家について書かれていました。
久我家根本家領相傅文書
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kogake-konponkaryo.htm

比丘尼西蓮譲状案の説明では
一七号(二)こによって久我荘以外の久我家領諸荘園相続を安堵された三条(西蓮)が、肥後国山本荘・近江国田根荘・伊勢国石榑(いしぐれ)荘の三ヶ所を、その娘である如月に譲り、如月の没後は時の権大納言西園寺実兼の妻源顕子に譲るよう書き残した譲状である。顕子は、久我通光の弟中院通方の孫娘にあたり、こうした血縁関係をたよって時の実力者西園寺実兼の庇護を受け、継子にあたる通忠など久我家側の人々との相続争いを有利に運ぼうとしたのではなかろうか。

とあります( ..)φメモメモ

続けて・・
亀山上皇院宣案 では
肥後国山本荘以下四ヶ所の所領・家地等を、一七号(三)の西蓮譲状に従って如月に安堵するよう、西園寺実兼に伝えた院宣である。本文書が一七号(三)の半月ほど前に、西園寺実兼に対して下されていることから、この時、既にこれらの所領は 事実上西園寺家の管轄下におかれていたことが知られる。実兼はこの時権大納言で 春宮大夫(春宮は後の伏見天皇)を勤め、かつ関東申次の任にあって、事実上、時の朝廷での最高権力者の一人であった。

とあります( ..)φメモメモ

続けて・・
後宇多上皇院宣案 では
久我通光の孫雅相が、通光の遺産をめぐり如月を相手どって起こした訴訟に対する院宣である。雅相は既にその継母に対し厳重な起請文(きしょうもん)を書き与え相続権を放棄しているとして、その訴えを棄却し、如月による領有を安堵。その旨を西園寺公衡に伝 えている。この三年前の正安元年、公衡は父実兼から西園寺家の家督を相続しており、如月の庇護者として、事実上その所領を管轄していたと考えられる。また雅相は通光の子息である雅光の子であり、本文書に見える継母は雅光の妻か、あるいは通光の妻西蓮とも考えられ、判然としない。

と言う事でした( ..)φメモメモ

記述はまだまだ続いていますが・・・

肥後国山本庄は「西園寺家」の領となったと言う事ですね。

何だか・・・何を調べても「西園寺家」が登場します・・
でも、これもまた、御縁?と言う事かな・・?

だって、私の実家があるあの土地は、そもそも先祖「橘公業」が西園寺公経と替地をした土地ですし・・その旧久米郷宮原に祖母の実家「平川」もある訳ですから、それこそ「コリャマタ御縁がありますな〜」という事かもしれません(・_・)
まあ、現代的に言うと、親会社と子会社・下請け会社の縁は日本全国にあったと言う事でしょうか・・???

所で・・
肥後国山本庄と言えば、平河の先祖「良峯安則」が菊池経頼を頼って肥後に来て、球磨に来る前に住んでいた場所です。

山本庄も広いので、いったい「良峯安則」は山本庄の何処に住んでいたのか?調べました。(・_・)

多良木町史 - 142 ページ
永吉荘と平河氏嫌倉将軍家領たる永吉荘地頭職平河師高は、良峯安世〖梪武天皇
皇子、延暦二十一年(八 0 二)に良峯朝臣の姓をえて臣籍に入る)の末孫で、良峯四郎安則の代に、菊池経頼をたよって肥後国山本郡(鹿本郡植木町山本.楠原附近)に住んでいた ...

★肥後国山本郡山本楠原附近

何か情報が残っていないか調べました。
この場所は現在、熊本市となっています。そして楠原には「楠野神社」と「楠原阿蘇神社」そして「楠原城」がありました。

楠原城
http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/kusubaru-jyo/
築城年代は定かではないが鎌倉時代に鹿子木貞教によって築かれたと云われる。 鹿子木氏は中原氏流大友一族で貞教が鎌倉時代に鹿子木荘の地頭職を得て下向し鹿子木氏を名乗ったのことに始まるという。

以後、鹿子木氏の十代目鹿子木親員(寂心)までおよそ三百年在城したという。

城は楠原集落の北東端にある楠野神社一帯に築かれていたという。この神社はちょうど丘陵の北東端にあり、北と東側は天然の要害となっている。

こちらのサイトで
N「楠原阿蘇神社」O「楠古閑菅原神社」をご覧ください<(_ _)>
http://www.kumamoto-koujin.com/index.php/ujigami/ichiran/

良峯安則が住んでいたと言われる山本庄楠原は現在熊本市北区楠野町楠原となっていたと言う事です。

他にもこちらのサイトを<(_ _)>
http://cjn-koga.life.coocan.jp/yama/kyushu/kumamoto/kumamotasi2008/kusui00.htm

少し離れた場所に「井上城址」。地区は井上です。
井上城の城主は鹿子木氏説と小佐井氏説との二説と・・そう言えば「小佐井」という姓は旧岡原村にもいらっしゃいました。

と言う事で調査結果でございます。

良峯安則が住んでいたと言われる山本庄楠原は現在熊本市北区楠野町楠原となっていた。
楠野町楠原には「楠原阿蘇神社」があり、隣接する一帯は楠原城址であった。
楠原城は築城年代は定かではないが鎌倉時代に鹿子木貞教によって築かれたと云われる。
以後、鹿子木氏の十代目鹿子木親員(寂心)までおよそ三百年在城したという。

と言う事です。

少し????となっています?
偶然なのかも知れませんが、良峯安則の住んでいた「楠原」に「鹿子木氏」か・・と。
鹿子木貞教とは三池貞房の子ですよね・・

記述によれば、三池貞房の裔である三池貞家は球磨郡久米郷を譲られて・・
それこそ、井口川を渡ってすぐの御隣さんでした・・あれれっ???(?_?)

という事実を発見しました<(_ _)>というお話でした。

では<(_ _)>(^・^)
[22]子孫よりさんからのコメント(2014年07月22日 18時16分58秒 ) パスワード

追記でございます(・_・)

あの・・・・
私、今まで、ずっと井口川を挟んで反対側が岡本地区と言ってきたのですが・・
確かに、今はそうなのですが・・

鎌倉時代初頭はどうだったのかな?と。

よ〜〜〜〜く考えてみました(・_・)

宮原(橘)と西園寺公経が替地をしたのは橘公業の時代で嘉禎2年(1236年)。

実際に橘薩摩(橘佐渡?)が下向したのはずっと下って1299年。

でっ!気になるのは宮原と平川の土地なのですが・・

城跡からずっと下って免田の築地(例の築地原の戦の築地です)まで続く一本の少し広い道があります。
今は真っ直ぐ通っていますが、以前は、今とは違う少しそれた所、それこそ私の実家前を通る道があってそれが本道だったようです。

では、皆様、わかりずらいかとは思いますが土地のイメージを想像して下さい<(_ _)>

まず、城跡から少し下ると、幸野溝(こうのみぞ)という溝(といってもかなり大きな水路のような)がありまして・・
問題はここからです(・_・)

戦前は、この溝の上一帯と溝を超え、先ほどお話した実家前を通り、築地に繋がる「道」。この道の左側?一帯が「宮原家」に係わる土地でした。
(多分これが球磨郡久米郷東方下分の中の南北朝の戦後、残された土地だと思います。戦後の政策で土地の大半は譲渡されました)

そして、溝を渡って、この道の右側?は「平川家」に係わる土地だったのです。
(こちらも戦後の政策で土地の大半は譲渡されました。川を挟んで反対側がどこまで平川の土地だったのかは解りません(*_*))

とすると、何処までが最初に橘が所領した「久米郷東方下分」だったのか?と言う事ですよね??
前もお話しましたが、戦前祖母は井口川の事を「うちの川」と呼んでいました。
(本当は国の河川です(ー_ー)!!)

というか・・・
祖母の実家「平川家」がいつからあの場所に来たのか???
戦前持っていた土地はいつから「平川」の土地になったのか??
私は、全く調べていませんでした(*_*)

以前お話した、「庚申塔」には、1600年代には「平川」の名はありました。
と言う事はそれ以前・・
いったい「いつ?」だったのか・・?

この部分が何故か、今日調べた事に強く関わってくるのでは?と、でも、先入観と推測はいけませんね(ー_ー)!!(*_*)

でも、何だかお腹に何かがたまった気分です。(便秘ではありません(ー_ー)!!)

では<(_ _)>(^・^)


[23]白石さんからのコメント(2014年07月22日 21時54分18秒 ) パスワード

>室は 勧修寺流藤原光房をとおる子孫

こんばんは
光房先祖・高藤のまわりの話をするはずだったのが あれれ!!わたくし 寝ぼけ眼で書いてたのですね!!

高藤のまわりに高田がいて 菊池の侍帳に 高岡 坂本 白石 平川がいて 尾方 高田牧宰の言葉があって いろいろの記憶と 南北朝期と 河野と 白石と ・・・
からまりからまって すべっちゃいました。
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すべりついでに
菊池と 高階氏・・・道隆子孫が菊池氏とも
藤原道隆と高階貴子(紀長谷雄の血をひいているとも)
女子・定子が一条天皇中宮

高階一族から出る
高階栄子
第77代 後白河天皇 [雅仁、行真]
配偶者・高階栄子
[丹後局・浄土寺二位] 父・法印澄雲
母・平 政子[若狭局]
  (平正盛の女)
※はじめ★平業房の妻 観子内親王 院号宣下、宣陽門院
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

>城跡から少し下ると、幸野溝(こうのみぞ)という溝

>築地

白石の家を祖父が買ったところが このあたり
その場所を 祖母のはがきを見ると 「木原」 と 書いている。
木原は 下益城郡の方の 前妻の実家があったところで (父・前妻は いとこ) 木原は 父の手帳に書きつけてあった家の苗字。親せき。

木原は 「山口」でもある。
阿蘇文書で 「源姓」。
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太田氏の姓系辞典に 高階氏は山口 と。
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鹿子木氏は 中原・・・佐田ともいえる。
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山本郡の山本は 言葉だけでは 母の実父が 山本。
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建久図田帳は 宇都宮信房の建久図田帳という言葉が 球磨郡誌に見える。

宇都宮信房は 豊前宇都宮氏・

この 「佐田文書」に 橘薩摩氏が 肥後の守護職であったことが書いてある。
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宮原 平川は からまりからまっていて 一緒に動いた?

 

[24]白石さんからのコメント(2014年07月23日 05時19分01秒 ) パスワード

平河(川)という集落がないのが 不思議ですね。

下を書いているうちに 木江平川というところがあり、平川横穴古墳群というのがあるのを 知りました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
晴山の近くに 平川というところがあり

晴山は 昔は 「木綿の里ゆうのさと」と いわれていたそうです、。
木綿と書くので もめん とばかり 思っていたのですが、麻だったのですね。

雀部朝臣が 皇太子にかわって 木綿たすきをかけて 膳をつかさどりき
というはなしがあるけど
この 木綿も 麻だったのかしらん と 思います。
この人は 武内宿禰の系にある。

神八井耳命の子孫ともあり
雀部は 笹井か?と 辞典にもあって
福島の方では 西園寺実氏を祖先にする 笹井がある。

実氏は 公経の子供。実氏の女子が 両院並立のもとになる 両天皇をうむ。
 
高槻の笹井の 資料館で 佐々木道誉に かっこ 笹井と ありました。

話はかわりますが
崔氏
韓流ドラマで 初めて知ったのですが
高麗の崔氏は 王姓を 名乗っているのですね。
長野に 笹井という百姓の 家ばかり20軒ほど あり、高句麗の人らしい。

百済義慈王の子孫の 百済永継 義慈王と似たような時代の人・崔(王) 同じころ新羅の金春秋 ゆしん。
義慈王の子供に 春秋の妹か娘をめあわせる話があり そのあと どうなったか? 

太田亮氏は
中臣・鎌足に関して ゆしん のことを 書いており
いつか テレビでは 百済の王族が唐へわたり 唐から新羅をとおって 日本にやってきた人と していた。

もう少し 半島の歴史をしりたい と 思います。


殷の微子啓が宋に封じられた。宋に崔あり 
後世 宋の人・重源が 東大寺の大仏の頭の修復をしたら お目目はくりくりお目目だったと・・・

周とは ちがった筋になるのかもしれないけど
殷も 周も 貴帝の筋のはずで
劉は 神皇氏の筋のはずで

神八井耳命で 多氏と つながって

熊本には 佐々木(佐々)がいて、
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日本の苗字7000傑高階氏の系をみていると
信西が高階の系にはいってきているのですね。
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孫様 いつから 平川を 名乗ったか
いつから すむようになったか 
もしかしたら 苗字が変わっているかもしれませんね。
子孫様の調査力にかけるしか・・
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平河の霊社は 山田葉木に あったのですね。
[25]子孫よりさんからのコメント(2014年07月23日 06時49分39秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます(^・^)

昨日の私の調査は、白石様の御親戚に関係していると言う事ですね。

と言う事は、平川と白石様の御親戚の繋がりと言う事なのかもしれません(^・^)

宮原と平川の行動は、ちょっと解りません(?_?)

昨日、冷静に考えてみたのですが、宮原は南北朝の動乱で久米郷東方下分の所領内で失った場所があるわけですから、もしかしたら、それが、祖母の実家の平川が持っていた土地であったりして・・・(?_?)(*_*;・・なんて事も脳裏をよぎりました。(+_+)

所で、昨日のコメントに書いた
「戦後の政策で土地の大半は譲渡されました」と言う言葉ですが、これはあくまでも、第二次世界大戦の後と言う事でございます<(_ _)>
ややこしい文章を書いてすいませんでした<(_ _)>

所で・・・
今朝は、皆様にお詫びをしなければいけません(*_*)

あの・・親戚の姓を書き忘れていました<(_ _)>

いい訳になりますが・・
こちらの親戚の姓を書き忘れていたのは、かなり前に気が付いていたのですが、『ばあちゃんはいつも「親戚よ!!(^・^)」と言っていたけど、まあ、いいか(^○^)」と思っていました・・
しかし、この頃の調査で、同じ「姓」が登場しまして・・
でも、まだその時は、
「きっと、全国的な姓だから、偶然偶然(ー_ー)!!」と思ってコメントにあえて書いていなかったのです(+_+)

しかし・・・
昨日、その親戚と「同姓」の今調査している所を調べていて、偶然検索でピックアップされてきたサイトを何気に読んだら
こちらの姓は「熊本県では29件」とありました・・・
そこで「あれっ?!少ない!!」と・・
子供の頃から身近な「姓」だったので、驚きました。

そして・・
白石様のコメントを読んでいると白石様が、しっかりと御自分の御親戚の調査をされている事、そして関連性を重視されている事が良く解りまして・・
私は、反省いたしました(*_*)

回りくどくなりましたが(*_*)
書き忘れていた親戚の姓は「久我」です。

あさぎり(岡原)や多良木の「久我家」が、今の調査と関係は無いかも知れませんし、単なる偶然かもしれませんが・・
私の一つ年下に女の子(あえてこう書かせて下さい(__))がいて、祖母が生前、とてもお世話になっていました。
祖母の事を「おばさん!!おばさん(^○^)」と、とても慕ってくれていまして・・

祖母が天国から
「ま〜た、この子は忘れている。娘さんにはお世話になったのに(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」
と怒っているかもしれないので、あえてコメント致しました<(_ _)>(*_*)

まだまだ、忘れている事が沢山あるかと思いますが、思い出したら随時、コメント致します<(_ _)>

では。(*_*)






[26]子孫よりさんからのコメント(2014年07月23日 07時57分24秒 ) パスワード

追記

白石様、ご教示ありがとうございます。

コメントを書いていて、ご教示を読んだのが、アップした後でした。
すいませんでした。

「平川」という集落のお話ですが、確かに、祖母の実家周辺や岡原には「平川」という集落はありません。

おそらく(あくまでも)ですが、今のところの私の考えですが
「平河」の庶子はそれぞれ土地を持っていたので、その流れかな?とは思うのですが・・(本家は相良氏に殲滅されましたので・・)

鎌倉時代後期からは「平川師門」など、久米郷に「名」が出てきますから、もしかしたら、それ以降かな??と。

以前にもお話致しましたが、「平川」と言う名の親戚は、多数ありまして、しかし、私が知らないだけかもしれませんが、うちの親戚の「平川」は、多良木(久米・黒肥地を含む)と湯前です(上球磨に集中しています)。
でも、これまた以前お話致しましたが、祖母の甥(平川の伯父)は五木と人吉に土地を持っています???(何でだろう?とは思うのですが、これは伯父さんにはちょっと聞けないかな(*_*;)

それから・・
半島の歴史、これからも、ぜひ!ぜひ!ご教示下さい<(_ _)>(^・^)
とても、興味があります。
(本当は、こちらの方が何故かワクワクします(^・^))

ちなみにですね・・
実家の父の書斎には、古代日本に関する書籍や、古代中国や半島の歴史に関する書籍が、沢山あります。(でも・・私は読んだ事がありません(*_*))

そして父は、何故だか、平安時代以降、鎌倉時代などの事には全く興味を示しません(?_?)
せいぜい、奈良時代や飛鳥時代までですね・・
私が室町時代の話などをちょっとでもすれば・・
「お父さんは、そのような新しい時代の事はち〜っとも興味がわかん(ー_ー)!!だいたい解っているから(ー_ー)!!」と言います(*_*;
(これこそが、以前から話題に登っていた「宮原」の「ヘンチクリン?」の血かな??・・あっ先祖様ごめんなさい<m(__)m>(*_*))

鎌倉時代を「新しい時代」と言う父はいったい「何時代の人?!」という感じです。( 一一)(^・^)

父に聞いても、あまり私覚えられないので、ぜひ、白石様、今後ともご教示の程よろしくお願い致します。(^・^)

では。
[27]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年07月23日 22時55分10秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「平川」という集落のお話ですが、確かに、祖母の実家周辺や岡原には「平川」という集落はありません。
 
また良峯姓や平川苗字が古代から連綿と続いていると考えること自体が幻想。
何故なら、良峯から椋橋、更に良峯へ復姓、橘へ改姓、更に良峯へ復姓と変遷が激しいのが現実。 

平安末期から鎌倉初期は、女系伝領(婿取り婚)から男系伝領(嫁取り婚)への移行期であり、改姓ラッシュの時代。大江広元は二回も改姓している。
上古の名族が源平藤橘などを始めとする中古の名族に再編成される過渡期なのです。
典型的な例として中原閨閥図を良く見てください。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213.htm#002
 
更に最後の方に現れる大友氏は、実は高皇産霊命裔の大伴氏が復活したものです。
地名も大伴皇子を避けて大伴は少なく、大友が圧倒的に多い。
大伴氏から佐伯氏が別れる(空海も末裔)。
伴氏は応天門の変により衰亡。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02103.htm#002
末裔の佐伯経範は、母系の波多野を称して藤原に改姓。
波多野経家は相模大友庄大伴郷に住して大友を称する。
恐らく母系が伴氏(もと大伴氏)だったのだと思われます。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b1.htm#004
系は経家の娘婿近藤能直に移り、大友を名乗る戦国大名へ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020c1.htm
この様に歴史は、男系/女系が交錯してくるくると回るものなのです。
[28]子孫よりさんからのコメント(2014年07月24日 01時03分41秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「平安末期から鎌倉初期は、女系伝領(婿取り婚)から男系伝領(嫁取り婚)への移行期であり、改姓ラッシュの時代。」

「歴史は、男系/女系が交錯してくるくると回る」

情報を拝見して、理解出来ました。

平河も、例えば女系伝領にて尾張の「良峯」の名を継いでいたという可能性もありうると言う事ですね。

調査の幅が大きく広がりました。
ご教示頂き本当にありがとうございます。

「経家の娘婿近藤能直に移り、大友を名乗る戦国大名」

あの・・・
姓の女系伝領そして男系伝領のお話を理解して、上記の御言葉を読ませて頂いた時に、私の頭の中の疑問が溶けてきたようです。

例えば・・
もし、ある人物の妻が「近藤氏(あくまでも一例です(・_・))」であったとします。

その人物は、経家の娘婿近藤能直のように、「近藤姓」を名乗る事もあったと言う事ですね。
もしくは、その人物の子が「近藤姓」を名乗る可能性もあったと言う事でよろしいのでしょうか。(「近藤」でなくても、「小川」でも「田中」でも一例は良かったのですが・・)

「良峯」「平河」に拘らず、柔軟性を持ってこれから調査していきたいと思います。
ありがとうございました(^・^)

では<(_ _)>(^・^)

[29]白石さんからのコメント(2014年07月24日 03時02分00秒 ) パスワード

子孫様 
昨夜 京都の大船鉾のテレビニュースを見ていたら その町内の人の時間間隔は200年ぶりのことが せいぜい 15年位のことだそうです。
お父様みたいですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
久我は古閑 古賀 空閑 に 通ず 
姓系辞典の覚えですが

久我は 村上源氏。北畠氏も村上源氏。伊勢の北畠一族・・・北畠氏一族の系譜 - 異聞歴史館
ここの 系図3−1に佐田家があるなあ と ぼうーっとみているのですが。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
肥後の古閑・古賀について

[30]白石さんからのコメント(2014年07月24日 03時09分05秒 ) パスワード

「熊本」と「こが(古賀・古閑)」地名の由来:目からウロコの地名由来
の表題が見つかりました。八代には 古閑浜町というところがあり [こぜ]
 と 呼んでいます。
---------------------------
肥後の内古閑家の由緒について教えてくれるか? - Yahoo!知恵袋より
藤原北家日野流の伊賀守藤原鎮基の長男備前守基貞が、★肥後国山本郡に下ったという説と、明徳元年(1390年)に肥後に下ったという説があります。下向の時期が100年も離れているので、この説自体が正しいのかどうかは不明です。いずれにしても、元は★伊賀国服部郡の地頭だったようです。

その後、肥後の菊地氏の家臣になり、内空閑を領したことから「内空閑(うちのこが)」と名乗ったそうで、「内古閑」とも書いたそうです。「うちこが」「うちくが」と読む家もあります。
山鹿市の康平寺、熊本市北区の内空閑神社が関連の施設です。

補足
佐々成政が肥後を治めていたときに一揆勢に加わり、天正十六年に切腹した成政に代わり、一揆鎮圧に当たった安国寺恵瓊に討ち取られ、内空閑氏は滅亡しました。
一族で生き残ったものはその後「財満氏」を名乗ったそうです。

古閑氏についてですが肥後国内に、菊池市古閑、山鹿市古閑、八代市古閑浜、玉名市古閑、熊本市奥古閑、益城町古閑、美里町古閑、富合町古閑、植木町古閑、和水町用水古閑・高野古閑、玉東町古閑、西原村古閑など「古閑」とつく地名が多数ありますので、名字としての「古閑氏」と「内空閑氏」との血縁関連はあまり無いものと思われます。
ちなみに、肥後国では「古閑」と書く例が多いですが、肥前国では「古賀」と書く場合が多いようです。
[31]白石さんからのコメント(2014年07月24日 03時22分21秒 ) パスワード

次はたまたま 検索ででてきたことで 奥古閑と村上源氏 古閑と村上源氏というだけのことのようですが

村上源氏と花山院流
「奥古閑村」に関連した英語例文の一覧(7ページ目) - Weblio英語例文検索 では
「奥古閑村」に関連した英語例文の一覧(7ページ目) ...
奥古閑村"に完全一致する例文 のみを検索する .....
室で仲資王の母が大中臣氏である上に、顕康王が有力な村上源氏 の源顕房の猶子となっているという、多くの要素により、王氏復帰が成立したのである

あけてみたら

。•その★神祇伯の重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で仲資王の母が大中臣氏である上に★顕康王が有力な村上源氏の源顕房の猶子となっているという、多くの要素により、★王氏復帰が成立したのである。

たぶん これは 花山院流のこと。王氏。源氏の言葉がある。

私 なんだか 前からよく この流がでてくるなあ と 思っているのですが・・・ 
[32]白石さんからのコメント(2014年07月24日 03時35分26秒 ) パスワード

平頼盛と久我家 信西と久我家 平光盛と久我家
>13 の 13藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の孫娘は・・・
「久我通基」の室でした。
久我通基
父通忠の後室である平光盛の娘(池大納言平頼盛の孫)が、父光盛から継承した池大納言領を久我家に譲与し、その経済的危機を救った。

ウィキ久我家より
通光は承久の乱に連座して内大臣を更迭され、後に太政大臣に任ぜられたものの晩年に久我家の家領のほとんどを後妻「西蓮」に与えたことから、通光の没後に後妻と先妻の子である嫡男久我通忠との間で家領相論が発生し、不利となった後妻側は鎌倉幕府との関係が深い有力公家である西園寺家に久我家領を譲ることを条件に庇護を求めたために久我家は所領をほとんど失い、没落寸前となった。だが、通忠の後妻が有していた祖父平頼盛の旧領(「池大納言家領」)が久我家に継承される。この所領は鎌倉幕府によって保障された関東御領としての性格を持ち、それを足がかりとして久我家の再興が図られた。通忠後妻に庇護される形となった通忠先妻の子久我通基は正応元年9月12日、初めて宣旨をもって源氏長者に補任されて久我家の源氏長者の権威づけを図った。更に南北朝時代の久我長通は当時の公家社会における一門上首から家嫡系統を重視する風潮への変化に合わせて久我家を中院流の嫡流として確実にすることに力を注いだ。すなわち、西園寺公宗の処刑による混乱に乗じて西園寺家に渡った旧久我家領を取り戻し、他の中院流公家の源氏長者補任の阻止を図った。その工作が功を奏し、長通の没後に源氏長者になった嫡男久我通相以後源氏長者は久我家の独占となった。

[33]白石さんからのコメント(2014年07月24日 04時59分22秒 ) パスワード

一方 同じ佐田というから出てくる 毛利。これは 母方が中原つながりで大内氏。大友氏。毛利氏。
そして 豊前宇都宮流佐田氏は もと 中原を 称していた。

日野家 - Wikipedia
新しい日野家の当主となったのは、やはり日野流に属する裏松家の当主で義教の指示 により暗殺された義資の孫勝光であった。 ... 同じ藤原北家真夏流の堂上家として、広橋 家、柳原家、烏丸家、竹屋家、日野西家、勘解由小路家(かでのこうじけ)、裏松...

日野氏は 親鸞を出した筋で 後年 興正寺には毛利輝元の養女が嫁入っている。
また
興 正 寺 史 話 - 本山興正寺には
冷泉為益の娘と顕尊上人の結婚は誠仁親王の在世中になされた と書いている。

この二人の女性の関係は 
ウィキ 
准尊(じゅんそん、天正13年10月7日(1585年11月28日) - 元和8年4月24日(1622年6月3日))は、日本の僧。興正寺第十八世門主。諱は昭玄。十七世顕尊の子で本願寺第十一世門主顕如の孫にあたる。母は冷泉為益の娘・祐心尼。妻は毛利輝元の養女・長寿院妙尊尼(もと小早川秀秋正室、実父は宍戸元秀)。幼名は八十丸。諡号は不退院。

宍戸氏
源頼朝の重臣八田知家を祖 とする。宍戸元秀は毛利元就の外孫。
八田知家muchakunn
八田氏の族として 高岡がいる。
小田氏の祖知重は源義朝の庶子で宇都宮氏に養われた八田知家の子である。
畑氏は 北畠氏に通じている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上は 検索にかかったことを 書いたものですが
母やおばがいっていた 
おばあさまは 毛利様から因業をいただいた。
実家には長い長い系図があって おばあさんは それを 見たといっていた。
母の実父;山本の父が 戦後 訪ねてきて 母を連れて行こうとしたがいかず、業を煮やしてつながっているもの全部を引き連れていこうとしたけど とうとういかなかった という話。
父は戦時中 都濃郡に住所を持っていた。
下益城郡の守富の先妻の実家には 長兄・次兄など 自衛隊に入るとき 泊まっているんだよと 姉が不思議そうに言っていた。
その先妻の母方は 殿様の侍従か何かをしていたんだよ やっぱ いいところでないとなれないんでしょ そういうの と 姉が言っていた。

戦争をはさんで なにもかも 失って 家の記憶がとぎれとぎれになってしまったけど こつこつ調べていると ひょいと 出てくるものがあると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太田氏は 古賀条だったかに 劉 朴など 書いていたように 思っています。
[34]白石さんからのコメント(2014年07月24日 05時08分29秒 ) パスワード

相良村川辺の下に 深見というところがあって(皇室領)、禄は少ないけど 白石・平川が 相良の外城を守っていたそうです。

うちの平川は 良峰師高所領の地域にあり、おばは 平川は元 士族だったといっていました。
そして 平川の息子(私の一つ下)も 平川のおじ・高岡のおじ・坂本のおじなどが集まっている席で みんなで 「平家城のあったと」と 父に教えていました。

どの家にも 本といえるものは ありませんでしたが、
又 あとから 戦争を経験した人たちだから あの頃 仮につけられた「北倭古代史書」といわれる本などみたり また 話など聞いて 話など聞いて 知識を得たのかしらん? と 思ってもみたのですがちがうようです。

それなのに そんな話をしていたのです。
そして
私も 父の膝に座って聞いていたような年齢なのに その時だけ 耳がピット立って はっきり 覚えているのです。

その城のことは 城郭体系という本で たしかにあったことを 知りました。
[35]子孫よりさんからのコメント(2014年07月25日 00時05分11秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

肥後の「久我家」について、お調べいただいてありがとうございます。

久我と古賀・古閑は関係性があると言う事ですね。

そして「日野氏」。

実は、先日から「為教」と言う名の人物を調査していて(後ほどコメント致します(・_・))日野氏・親鸞そして三善氏について記述を読みました。
ですから、白石様は、私の頭の中の情報が見えるのかな??と驚いてしまいました。(゜-゜)

四浦の平家城について、先日「矢瀬主馬助」にも関係しているとの記述を読みました。

もう一度確認して、後日コメント致します。

所で、今日の進捗はかなり長くなりそうなので、あらためて、次のコメントでご紹介致します。

では<(_ _)>(^・^)
[36]子孫よりさんからのコメント(2014年07月25日 02時26分33秒 ) パスワード

では、調査進捗状況をお伝え致します。

まず、最初に
私は、白石様から伺った
「宮原 平川は からまりからまっていて 一緒に動いた?」
この言葉がとても、気になっていました。
一緒に動いた?というか、もしかしたら、球磨以外に宮原(橘)と平河(○○?)は接点があったのではないか?と考え始めています。
実際に「平河伝授巻・平河家系図(多良木黒肥地平川氏所蔵)」の中にも宮原との姻戚関係が確認出来ます。

私は、せっかく導かれて来た事の中で、大きな見落としを繰り返しているのかもしれないと考えました。
自分が気になって仕方ない事を、素直に受け止めていない事も原因かもしれないと・・・
そういう考えはもう外します(ー_ー)!!
違っていた時は、また、調査するだけですから(^・^)。では早速。

まず、「四国の近藤氏」について
橘公業が西園寺公経と替地をした伊予国宇和郡。
橘と伊予いえ四国との関係は、コメント10でご紹介した
「藤原家成を祖とする「讃岐藤家」。そして鹿の谷事件。平家滅亡の流れが詳しく記述されていた「香西氏研究」という高松大学研究紀要」
こちらを読んで理解出来ました。

そこで四国の近藤氏についてですが、この様な記述を見つけました。
http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi13.htm

近藤国平 (*)藤原・七。相模国の豪族。近藤八・国澄の息。近藤能成の従兄弟。頼朝挙兵に参陣。源平争乱後、1185年頼朝の行政官として畿内の平家残党の掃討に中原久経とともに派遣される。1199年後藤基清に代わり讃岐守護。「承久の乱」に没落。<阿波板野郡の豪族、近藤七・親家との関係は・・。><京都侍・後藤家の遺領を継承するようです。><若狭一色家臣に近藤氏あり。>
★近藤八・国澄の息。近藤能成の従兄弟
日本の苗字七千傑様の近藤氏 姓氏類別大観を拝見致しました。
昨日、ご教示頂いた「近藤能直」と非常に近い関係にある事が解りました。

そして上記記述にあった「近藤七・親家との関係は・・」
この言葉が私も「非常に!」気になります。

そこで
近藤親家 (*)六・(七?)。藤原師光の息(六男)。阿波板野郡の豪族。のち平家を離反。1185年源氏方に出仕。四国攻め義経軍。<頼朝側近、近藤七・国平との関係は・・。>
こちらのサイトでは、「謎」を含んだ言葉となっています。

非常に気になるので「近藤親家」を調べました(・_・)
まずは、こちらのサイトから
周桑郷、庄屋・地主達の系譜 愛媛県西条市
http://dayzi.com/zisyo/a-kondo.html
近藤氏は藤原氏より出 代々阿波勝浦の新居見山城主たりしが 室町時代 畑野城薦田氏を頼り西条舩形横山城主となった
源平合戦の時、源義経が平家を追って阿波に上陸その時屋島まで道案内したのが近藤親家で西国武士には珍しく鎌倉幕府の御家人となり、阿波に基盤を築きました。(西条近藤氏の始祖)

近藤国平の従兄弟「近藤能成」と三浦氏との関係も、先日読んだ「相模三浦一族とその周辺史」に記述されていました。
http://books.google.co.jp/books?id=MFJI9SU6RaAC&pg=PA59&lpg=PA59&dq=%E8%BF%91%E8%97%A4%E8%83%BD%E6%88%90&source=bl&ots=fO9Etn6KxX&sig=XWuodC2-A5QUbi029OOtAY_7d6Q&hl=ja&sa=X&ei=NDHRU8D1Coml8AXsyYCACQ&ved=0CFAQ6AEwCQ#v=onepage&q=%E8%BF%91%E8%97%A4%E8%83%BD%E6%88%90&f=false

そして近藤能成は「相模国愛甲郡古庄郷司」であった・・・「愛甲」です。

続けて「近藤景頼」についてですが、ウィキにこの様な記述がありました。
美作菅氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BD%9C%E8%8F%85%E6%B0%8F
近江に藤原支族の近藤氏がおり、近藤景頼の子宇合頼資が保元の乱(平治の乱との伝もあり)で新院側に与して作州豊田庄に配流、二階堂維行の娘である妻ともども住して近藤村(是宗村)と称した。夫妻には長男・公資、二男・公継の2人の子があった。頼資が死したため、この2子を連れて有元(当時菅原)家に嫁ぐ(『東作誌』是宗村)。
知頼から四代後の仲頼と二階堂維行の娘との間に三穂太郎満祐が生まれ、ここから菅家七流と呼ばれる有元氏・廣戸氏・福光氏・植月氏・原田氏・鷹取氏・江見氏らが派生。有元氏が頭首となって美作菅家党と呼ばれる武士団となった。(『東作誌』 有元家略系図)
★近藤景頼の子宇合頼資・二階堂維行の娘である妻
二階堂氏との繋がりがあったのですね。

藤原家成からの流れ「讃岐藤家」の支流にも「近藤氏」があると言う事でした。

もう少しコメントを続けたいのですが、もう、すでに真夜中となっていますので、この続きは明日に致します。

では<(_ _)>(^・^)
[37]子孫よりさんからのコメント(2014年07月25日 13時04分25秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)
(本日の睡眠時間はトータルで3時間程になってしまいました(*_*;。でもがんばります(・_・))

では、昨日(今朝か?)の続きを<(_ _)>

阿波の近藤氏に関して記述のあるサイトを見つけました。
西国の山城:白地・大西城
http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html

ピックアップして転記させて頂きます
白地大西城址
所在地 徳島県三好市池田町白地
●築城期 平安末期〜鎌倉時代初期
●築城者 近藤京帝(大西氏)
●城主 近藤(大西氏)、長宗我部氏

白地大西城は田井庄(四国中央部)の庄司近藤氏が建武2年(1335)この地に城を構え、郷名をとって大西と改姓し、政を取って以来8代(250年)にわたる居城である。大西とは阿波の最西地を意味し、往時この地は土佐、讃岐、伊予の各地に通ずる兵事交通の要路であり、大西氏は外に出ては大剛、内にあっては民治に意を用いた領主であった。

★白地の沿革
中世に白地は西園寺の荘園田井之庄の館として荘官近藤京帝(1150年頃)がこの地に居を構え城を築いたのが白地城のはじまりである。近藤氏は大西氏に改姓、白地落城までの約400余年郡内はおろか、西讃東予に力をのばし善政をしき禄高2〜5万石の城主として住民の信頼を得てきた。

(・_・)白地は西園寺の荘園田井之庄の館として荘官近藤京帝(1150年頃)がこの地に居を構え城を築いたのが白地城のはじまりである・・
こちらの近藤氏は「西園寺家」の荘園の荘官だったのですね・・
1150年頃・・又も「西園寺家」でした(・_・)

転記を続けます(゜-゜)
九条家と西園寺家
白地地域は鎌倉前期には、田井之庄の荘園があったところとされ、その領有者は西園寺氏とされている。当地が同氏の所領として確立したのはおそらく、西園寺氏中興の祖といわれた公経(きんつね)の時と考えられる。そして、同氏とさらに深い関係を持っていたのが、摂関の九条家である。

中略・・
大西(近藤)氏と小笠原氏
今稿の白地は、こうした流れを持った西園寺氏の荘園である。田井之庄の荘官・近藤氏も当然ながら西園寺氏から派遣された人物だったのだろう。

ところで、この近藤氏がその後、姓を大西氏と改姓しているが、大西という名称は、南北朝時代に至って、阿波国三好郡の西部を総称して呼ばれたという。このことから、姓を大西氏と改姓したのは南北朝期と思われる。

ここで再び話は遡って恐縮だが、承久の乱以前に当地の守護職として任命されていたのは佐々木経高である。

経高の兄・定綱が、近江・石見・長門の守護職並びに隠岐国地頭職を得たのは建久4年(1193)の暮れであるから、おそらく経高が阿波国守護職を得たのもこの頃だろう。

承久の乱においては、宇多源氏佐々木氏流でありながら、幕府側につかず、後鳥羽上皇側に属した。このため、上皇側の敗北によって、自害の道を選んだ。
 佐々木氏が阿波国の守護職としてあったとき、近藤氏がどのような状況になっていたかわからないが、おそらく一時的には佐々木氏の元に属していたのだろう。

乱後、幕府は佐々木氏に代わって、小笠原長清を阿波国守護職として任命することになる。ただ、前記したように、阿波国の中でも白地地域は既に承久の乱において西園寺氏は幕府方についていたため、当地を預かっていた近藤氏は、そのまま当地支配を維持し、吉野川の対岸池田大西を守護所(池田・大西城)として本拠を持つことになった新守護職・小笠原氏の傘下となったと思われる。

当然ながら小笠原氏が入部するさい、近藤氏の協力が働いたことは想像に難くない。両氏はその後縁戚関係も度々重ね、100年後の南北朝動乱期においても四国南朝方の主力として活躍していくことになる。

(・_・)まとめます
今稿の白地は西園寺氏の荘園であり田井之庄の荘官・近藤氏も西園寺氏から派遣された人物だった。(1150年)
承久の乱以前に当地の守護職として任命されていたのは佐々木経高である。
経高の兄・定綱が、近江・石見・長門の守護職並びに隠岐国地頭職を得たのは建久4年(1193)の暮れであるから、おそらく経高が阿波国守護職を得たのもこの頃。
★ありゃっ?!長門の守護職。
と言う事は!橘公業は承久3年(1221年)、長門国守護となるので・・
佐々木定綱の後。承久の乱が関係していたのですね( ..)φメモメモ

そして、その後、阿波国守護職は小笠原長清となった・・・
小笠原長清(加々美長清)は橘公長と幼なじみであり、なおかつ、二人は「平知盛の家人」でした。
そして、先に小笠原長清(加々美長清)が平家を離脱して、その後、橘公長は小笠原長清の仲介で源頼朝の麾下に入る・・という事でしたね・・

阿波の記述に戻りますが・・
小笠原氏が入部するさい、近藤氏の協力が働いたことは想像に難くない。両氏はその後縁戚関係も度々重ね、100年後の南北朝動乱期においても四国南朝方の主力として活躍していくことになる。

以上ですが・・

上記の内容を理解して、とても気になる事を思い出したのです(・_・)。

では・・
続けて「平知盛」の子「平知忠」の乳母であった「橘為教(為範)」の妻についてコメント致します。

★皆様は、私が、何を調べようとしているのか!もう薄々お解りの事と思います。(・_・)
そうです!!この「部分」を調べなければ、私のお腹にはずっと何かが溜まった状態なのです(+_+)

間違っている可能性もありますが、その時はその時(ー_ー)!!
また、別の方向を調べるのみです(^O^)/

では、一旦休憩を。<(_ _)>(^・^)
[38]子孫よりさんからのコメント(2014年07月25日 16時52分07秒 ) パスワード

では、早速コメントを再開します(^・^)
(猫がうるさくて、私、お昼寝出来ませんでした(+_+))

西光という人物  と言うサイトです
http://www.bakumatsu.jp/blog/takeogawa6619/2012/10/post-303.html

ピックアップして、転記します。
彼の生年は詳らかではありませんが、出身については、阿波国(現徳島県)の麻植郡(おえぐん)の忌部(いんべ)神社の神官で、国衙の在庁官人でもあった麻植氏の出であるといわれています
(現在の吉野川市に当たります)
(別の説に依ると、秀郷流藤原氏の流れを汲む阿波近藤氏の出身ともされています)

★(・_・)何らかの姻戚関係が秀郷流藤原氏の流れを汲む阿波近藤氏とあったと言う事でしょうか?

転記、続けます(・_・)
彼は信西入道の乳母子であったといわれています
西光の母と信西との関係は、皆目わかりませんが、当時の社会では養い君と乳母一家の繋がりは、実の親兄弟より強く、乳母の子は乳兄弟といって、養い君とは固い絆で結ばれていたのです

西光は信西と主従関係であると同時に、乳母兄弟という間柄から、信西が一番近しくかつ、信頼のおける人物であったと思われます

★そうか・・・(・_・)
でも・・と言う事は、「藤原長方」はこの強い絆で結ばれていた乳母兄弟の其々の娘を妻に持ったと言う事ですね・・・(何故だろう?あらためて思いました)

転記続けます(・_・)
また、故角田文衛氏の『王朝の明暗』の中に収録されている『平知盛』の項では、西光の娘?が清盛四男知盛の次男知忠(ともただ)の乳母であるという記載があります。
この話が本当なら、西光は清盛と極めて良好な関係を有しており、重盛一族と二重三重の婚姻を結んでいた義兄弟成親と極めて良く似た政治的立ち位置を占めていた事になります

★(・_・)「西光の娘?が清盛四男知盛の次男知忠(ともただ)の乳母である」
この情報は実は前から、私も確認していたのですが・・
以前は、平清盛・藤原家成・西光の関係を理解していなかったので、「何故?」という感じだったのですが、やはりこちらもコメント10でご紹介した
「藤原家成を祖とする「香西氏研究」を読んで、「最初から険悪な関係という訳ではなかった」と言う事を理解出来ました。

ぜひ調査したいと思いました(・_・)

平家物語の批判的研究 - 第 2 巻 - 1008 ページ
そして知盛の乳母は鹿谷事件で清盛に斬殺された西光法師の娘で、紀伊次郎兵衛こと橘為範の妻であり(延慶本巻二,長門本巻二,盛衰記巻六)、平氏の滅亡後、為範とその子太郎兵衛、次郎兵衛は知盛の三男知忠を披護し、建久七年十月七日、京都守護藤原 ...
他、様々な書籍に同様の内容がありました。
★★紀伊次郎兵衛こと橘為範。妻は西光の娘

平知忠 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E5%BF%A0
平 知忠(たいら の ともただ)は、平安時代末期の平家一門。平知盛の次男。母は治部卿局。
寿永2年(1183年)、源義仲の攻勢の前に平家が都落ちを決意したとき、知忠は幼少のために父の命令で伊賀にいる乳母子の橘為教のもとへ預けられた。そのため、伊賀大夫とも称されている。父の知盛は寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水自殺し、母は一命を助けられて京都に戻った。知忠は伊賀で成長した。
しかし建久7年(1196年)、突如として京都法性寺に現れる。これらには諸説があるが、有力説は源頼朝の妹婿である一条能保の暗殺計画を企み、平家の再興を図ったものと言われている。しかし幕府にいち早く察知されて、知忠とその主従はことごとく討たれてしまった。享年17。

★知忠は幼少のために父の命令で伊賀にいる乳母子の橘為教のもとへ預けられた。
橘為教は他の書籍では「橘為範」となっていました。

平知忠の父「平知盛」
橘公長と橘公業は「平知盛」の家人でした。すると、「橘為範」と「橘公長」は知り合いであった可能性もあると言う事ですね・・・
橘公長の平家離脱に関しては、頼朝の祖父・源為義への恩と言うだけではなく、吾妻鏡によれば「平宗盛」との人間関係によるものもあったとの記述がありました。(今となっては真実は解らないので、記録に頼るしかありませんが・・)

平知忠の母「治部卿局(じぶきょうのつぼね)」
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E9%83%A8%E5%8D%BF%E5%B1%80

はじめ従二位平時子に仕えて南御方(みなみのおんかた)と呼ばれ、治承3年(1179年)、守貞親王の乳母となって候名(さぶらいな)を「治部卿」とした。後年は四条局(しじょうのつぼね)と呼ばれる。出自ははっきりしていないが、「御方」と敬称で呼ばれるのは大臣の娘である事から、治部卿局が時子の女房となった時期に内大臣の地位にあり、平清盛と縁の深い内大臣藤原忠雅が父親と考えられる。

治部卿局の父「藤原忠雅」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%85
藤原 忠雅(ふじわら の ただまさ、天治4年(1124年) - 建久4年8月26日(1193年9月23日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家花山院流・藤原忠宗の次男。官位は従一位・太政大臣。花山院太政大臣と号す。
系譜を見て下さい
父:藤原忠宗
母:藤原家保の娘
妻:藤原家成の娘
男子:藤原兼雅(1148-1200)
男子:忠恵 - 興福寺法眼
男子:忠雲[1](?-1185) - 宝幢院検校
女子:藤原忠子[2](?-1220) - 松殿基房室
女子:源通親室
生母不明
男子:藤原兼経
養子:藤原行雅 - 実は藤原公行の子
養子:藤原隆雅 - 実は藤原家長の子
★母:藤原家保の娘 妻:藤原家成の娘
そして父は「藤原忠宗」
皆様、もうお解りと思いますが・・・
藤原忠宗は藤原家忠の子。すなわち・・
治部卿局(平知忠の母)の祖父「藤原忠宗」と須恵小太良こと藤原家基の父「藤原家光」と・・
そして、しつこく何度も書きますが
謀反の冤罪を受け暇を賜り天に遣わされたと言われた「平河師高」に対して、文治三年十二月三日の天野遠景下文は、「謀反他人に勝る」として宇野御厨小値賀島地頭職に補任となっていて・・
所が小値賀島地頭職に実際に補任されたのは・・
藤原忠宗・藤原家光の弟「尋覚」でした。

平知忠の乳母は「西光」の娘であった。
「藤原師高」の姉妹は平知忠の乳母・・
「平河師高」の代わりに小値賀島地頭職に補任されたのは平知忠の曾祖父の兄弟「尋覚」という事実がわかりました。

実は、まだまだ、続きはありますが
一旦アップを<(_ _)>(^・^)

[39]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年07月25日 20時11分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>何らかの姻戚関係が秀郷流藤原氏の流れを汲む阿波近藤氏とあったと言う事でしょうか?
 
西光の第四子は近藤親家。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02122a.htm#002
 
いずれにしても近藤氏から九州の武藤/少弐氏と大友氏は派生している。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b4.htm#004
 
また中原閨閥を無視しては鎌倉初期の権力構造は理解出来ないのが当然。
 
「師」の字が何か暗示していませんか?
[40]子孫よりさんからのコメント(2014年07月25日 23時39分18秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「西光の第四子は近藤親家」
書籍によっては「藤原師高」を「近藤師高」と記載するものもありました。

近藤氏からの武藤/少弐氏と大友氏は派生。
そうですね!少弐氏と「平河」の関係はすでに確認が出来ていました。

「師」の字の暗示・・
西光は「藤原師光」子息に「師高」「師経」・・「師」

平河は「師高」の後は「師良」「師忠」「師貞」「師頼」「師種」「師里」「師門」「師時」
中原氏との姻戚関係があった・・・と考る事が可能と言う事なのでしょうか。

平河については「師時」の後、しばらく「貞」の通字が続いています。
その後「師」に戻り・・「頼」「重」「親」の繰り返しのように・・

同じように「師」から「貞」の通字に移行してしばらく「貞」が続いていたのは
「三池氏」でした。

日本の苗字七千傑様の中原氏閨閥図をしばらく見つめて気が付いたのですが・・
あくまでも偶然かも知れませんが、お聞き下さい。

西光は「師光」子息の名は「師高」「師経」・・「師」
そして「広永」・・・「広」 「親家」・・「親」
『師・広・親』

中原師任 → 尾張氏からの養子で「貞親」 → 「広宗」
『師・親・広』 ですね・・

平河は「師」・「貞」・そして・・「広」(助広・広安があります)

これは、何を意味するのか・・
偶然でしたら・・すみません(ド素人ですので<(_ _)>)

きっと真実は見つかるはずですよね!!
頑張ります!

では。<(_ _)>(^・^)
[41]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年07月26日 11時26分13秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>これは、何を意味するのか・
 
藤原西光の長子師高は、尾張愛知郡井戸田に流罪。
尾張と言えば、良峯姓丹羽氏の本拠。
何らかの縁戚で良峯に改姓とは考えられませんか?
中原氏は尾張熱田大宮司一族から養子を迎えている。
源頼朝の母も熱田大宮司一族。
島津氏も源頼朝の後裔。
ここに九州三人衆の少弐、大友、島津が勢揃いしているでは有りませんか。
鎌倉幕府初期の権力閨閥は、肥後でなく尾張がキーポイントですよ。
[42]子孫よりさんからのコメント(2014年07月26日 15時45分49秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

日本の苗字七千傑様、ご教示本当にありがとうございます。

尾張に配流された時の「藤原師高」について、以前、コメントした事がありました。
もう一度、検証したいと思います。
そして、以前、その情報を見た時に私が、感じた疑念?のようなものがもしかしたら、真実に繋がる糸口かもしれません。(なんちゃってですが(+_+))

所で・・
私のコメントを読んで下さっている方々が他にもいて下さっているのであれば・・
皆様は、何故、私が「このような方向に調査を進めているのか?」それこそ不思議に感じていらっしゃるのでは?と思います。

理由は一つです。それは
「私が、素直でないから」

もし、とても素直な心を持っている人であれば、ここまで、調べてきた事に直面した時に、素直な心で「あ〜そうなんだ」と思われるはずです。
でも、私は・・・

実は最初からずっと疑念だらけだったのです。

疑念その@
球磨に関する平安時代の記録が殆ど残っていない事。

私も最初は、「記録に残すような事が何もなかったのかな?」と思いました。
しかし、調査を進めると、そうではありませんでした。
平安時代の初期から球磨に係わった人物は、当時の中央に繋がる方々でした。
なのにも係わらず、「何も記録がない」全くおかしい事です。

しかし、記録は残っていました。
全て、神社仏閣に関係する場所に・・

ありがたい事に、先祖や先祖に係わる方々はとても信仰心の高い方々でした。
仏像や観音様の胎内にしっかりと「名」を残して下さっていました。
スコープや特殊な赤外線を用いて、仏像や観音様の胎内を調べる時代が訪れるとは、きっと、当時のどなたも思っていなかったはずです。
そして、現代の情報の膨大な共有化も想像できるはずはなかったと。
どんなに、何かを隠しても、「神様や仏様」には決して嘘をつく事はできなかったのだと思います。
そして、「法名」に関しても同じ事が言えるのだと思います。
「法名」(ほうみょう)とは、仏弟子[1]となった名告り[2]である。故人に対して贈られる名前と誤解されることも多いが、正しくは生きている間に三宝に帰依し、仏弟子として生きていくことを誓い授かる名である。」
どんなに「名や姓」を変えて記録を残しても「法名」は嘘を書けません。

実は以前、日本の苗字七千傑様に、寺社の調査を進めて頂いた時に、私は「真実は隠し事が出来ない嘘をつけない神社やお寺に残っている」という風に考えました。(素直じゃないでしょう(^・^)(*_*;)

ですが・・
もしかしたら・・きっといつか、そういつの日か、遠い子孫が真実を見つけるのでは?と先祖や先祖に係わる方々はお考えだったのかも・・と思います。
もしかしたら・・本当はそれを望まれていたのかも・・と。
(すべて、私の推測ですが(^・^))

疑念そのA
訴訟の文書を読んだ事
平河師高が受けた謀反という冤罪によって、平河師高が暇をとり天に遣わされたという言葉と、その冤罪によって一族60名以上が辛い悲しい思いをしたという、その「冤罪」に対する先祖全ての「悔しさ」を感じた事です・・

疑念そのB
大河ドラマを見た事。
いったい何を言っているのか?と思われたかと・・
以前から言っていますように(というか、皆様すでにお解りの通り・・)私は、歴史を全く理解していません。はっきり言って「歴史」は苦手でした。
テストの為に勉強したようなもので、頭の中には何も残っていませんでした。
何度も言いますが名前を知っていた人物は「平清盛」「源頼朝」「北条政子」「聖徳太子」「徳川家康」「豊臣秀吉」「織田信長」・・
子供の頃、祖母と一緒に大河ドラマを見ましたが、それもテレビが一つしかなかったので仕方なくです(*_*;だから記憶には・・ありません(ー_ー)!!(*_*;

ですから・・
先祖の調査をしていて、その時に私が調べている人物が、当時どの様な立場の方だったのかも全く解らずに、(もちろん官位などを見ても意味が解りませんので・・)今まで、来ました。(無謀!!との合唱が聞こえたような・・)
「藤原家成」という方を例にあげても、「よく名前が出てくる遠いおじいさん」のような何故か親しみまでも感じていました。
「藤原長方」という方は「誕生日が・・あれっ!」のような、この方もとても親しみの湧く、遠い伯父様のような気持ちが湧いていました・・

所が!!
見てしまったのです・・一昨年放映された大河ドラマを・・「平清盛」を・・
あまりにも何も知らないのは問題だっ!と思い、先日(1週間ほど前)、YouTubeですが、ダイジェスト版の最初の数本を見たのです・・

しょっ!衝撃を受けました!!
「藤原家成」さんがテレビに出ていました!!
「藤原忠実」に至っては、ものすごく威張って・・じゃない(ー_ー)!!、とても権力があった方だったのだっ!と・・
他にも、今まで調査していた方々が多数出演?されていました。
ダイジェスト版を15分程、数本見ただけなのに、この衝撃でした!
(嘘だろ!!と思われた方!・・本当です!(*_*;)

最初は「しまった!!私が調査対象としていた方々は、とてつもない人達だった(*_*;。コメントを読んでる方々はきっと私の事をアホかっ!と思っているに違いない(*_*)」
と、悲しくなりました(*_*;

でも、フト思ったのです。
「何で??この方々の名前が調査で出てきたのだろう??」と。
そして、最大の疑念が湧きました。
「いったい、平河師高とは?どういう人物だったのだろう!」と。
そして・・
やはり!「あの方」を調べなければ!!

となった次第です・・・(・_・)<(_ _)>

真実が何であったのかは、もちろん今はまだ解りません。
私が対象としている方が「平河師高」では無いかもしれません。

でも、きっと本当は見つけて欲しいと望んでいたはずの先祖や先祖に係わる方々の真実を私は必ず見つけたいと思います。
がんばります。

では<(_ _)>(^・^)
[43]子孫よりさんからのコメント(2014年07月27日 01時42分30秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

実は尾張に関してではないのですが・・・
とても気になる事実がありまして、ご紹介致します。

藤原師高が加賀守となり、城を築いて居城していました。
城の名は「松任城」です。

こちらのサイトをご覧ください 古城の歴史 松任城
http://takayama.tonosama.jp/html/matto.html

ピックアップ致します
松任城址公園にある石碑の碑文によると、安元2年(1176年)加賀介近藤師高(もろたか)の造営した館が松任城の起源だという。

そして、後世にこの松任の地を所領していた大名は・・・
丹羽長重です。
ウィキより 丹羽長重
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%95%B7%E9%87%8D

丹羽 長重(にわ ながしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹羽長秀の長男。

元亀2年(1571年)、織田氏の家臣・丹羽長秀の長男として生まれる。
主君・織田信長の死後は、父・長秀と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い(病床にあった父の代理)に出陣した。
天正13年(1585年)に父が死去し、越前国・若狭国・加賀国2郡123万石を相続した。ところが、同年の佐々成政の越中征伐に従軍した際、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、羽柴秀吉によって越前国・加賀国を召し上げられ、若狭1国15万石となり、さらに重臣の長束正家や溝口秀勝、村上頼勝らも召し上げられた。さらに天正15年(1587年)の九州征伐の際にも家臣の狼藉を理由に若狭国も取り上げられ、わずかに加賀松任4万石の小大名に成り下がった。これは、秀吉が丹羽氏の勢力を削ぐために行った処置であるといわれている。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。

★所領を取り上げられ、最終的には加賀松任4万石と・・

しかし、復活されています!
その後、豊臣氏による小田原征伐に従軍した功によって、加賀国小松12万石に加増移封され、このときに従三位、参議・加賀守に叙位・任官されたため、小松宰相と称された。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康から前田利長監視の密命を受けている。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍の前田利長と戦ったため(浅井畷の戦い)、戦後に一旦改易となる。慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰し、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では武功を挙げたため、1617年、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の御伽衆として、細川興元、佐久間安政、立花宗茂らと共に抜擢される。長重以外の三名は長重より年長で、武功の実績も多かった[1]。元和5年(1619年)に常陸国江戸崎2万石に加増移封された。元和8年(1622年)には陸奥国棚倉5万石に加増移封される。この棚倉の前の藩主は、長重と共に御伽衆として秀忠に仕える立花宗茂であった。
長重の出世を知り、各地へ離散していた旧丹羽家の家臣達が、長重の元へ戻ってきた。それまで、長重は立花宗茂が居城としていた赤館城を使っていたが、新たな城の築城を決め、そこから南にある近津明神の境内に新たな城を築城することを決意した[2]。この近津明神を動かすことで、住民と悶着が起こったが、長重は別当の高松一族から高松良篤を家老として登用し、彼の主導で明神の遷宮及び城の築城を行わせた[3]。この城がのちの棚倉城となる。
しかし、寛永4年(1627年)、会津藩の蒲生忠郷が嫡子なくして死去、転封されたため、その領地に、加藤嘉明と長重が移った。長重が得たのは、石高10万700石の白河。築城中であった棚倉城は放置され、その後移ってきた内藤信照によって完成した[4]。各地へ離散した長重の旧家臣達はますます集まるようになり、また蒲生家の旧臣なども召し抱えた[5]。長重は、白河に白河小峰城を建築した[6]。

丹羽長重は児玉丹羽氏となっていますが、父の丹羽長秀は良岑姓丹羽氏となっていました。
丹羽長秀 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%95%B7%E7%A7%80

丹羽 長秀(にわ ながひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田氏の家臣。
天文4年(1535年)9月20日、丹羽長政の次男として尾張春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は天文19年(1550年)から織田信長に仕えた。天文22年(1553年)、梅津表の合戦にて19歳で初陣。弘治2年(1556年)の稲生の戦いでは信長方に付き、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにも今川義元の攻撃部隊には入っていないものの従軍はしている。

中略・・
清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫三法師を支持。結果として、諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。秀吉と勝家とが天下を争った一戦である天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大々名となった。

(・_・)平安時代・鎌倉時代からはかなり下ったお話ですが、実は、私、こちらの「丹羽氏」の事を今まで調べていませんでした。

丹羽長秀が豊臣秀吉から与えられた加賀二郡。

藤原師高と良峯の関係を調べていたら偶然出てきた記述でした。

もちろん、「松任」をめぐる内容も「偶然」なのかもしれませんが・・

藤原師高の後に松任城に居城した「松任氏」についても気になりまして・・
日本の苗字七千傑様の藤原氏利仁流 林氏 姓氏類別大観を拝見したのですが・・
本日調査した「松任氏」は、こちらで、よろしかったのでしょうか?

とても気になるのは「兼松氏」の家紋です。
違い鷹の羽なのですね・・

そして、藤原氏利仁流の姓氏類別大観も拝見したのですが、偶然にも「井口氏」がありました。

おそらく、今日の調査は、偶然の方が大きいかもしれませんが(+_+)
それでも、少しでも、新しい情報が見つかる様にがんばります(^・^) 
[44]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年07月27日 09時48分33秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年07月27日 09時49分19秒
[45]公忠公の末裔さんからのコメント(2014年07月27日 09時49分56秒 ) パスワード

お久しぶりです。

家の建て替えも終わり新築に移ってきたはいいが、段ボールの山に辟易としつつ、最近やっと片付いてきたという今日この頃です。
近いうち(と言っても、まだ未定ですが)に九州から祖父が訪ねてくるようです。

それに合わせて、ひとまず系譜を作成する事にしました。私は本来の系統はどうだったのかという事を中心に考えています。

当方の橘氏についてもそうですが、貴種に繋がる箇所は疑いをもって見る必要があると思います。
今となっては、そういう貴種に繋がるものは、個人の虚栄心を満たす道具にしかなっていないのが実情だと思います。
自分は特別な人間であるはずとの思いが前提になっており、それを根拠づけるために貴種に繋がっていてほしいという気持ちが出てきます。
たまたま、どこの馬の骨とも知れぬ人間に繋がるものを見つけたとしても、機種への誘惑を突き放す事が出来ず
大方は、そのまま恣意的に捉えてきたものを盲信し、開き直って結論付けて終わりにするのが関の山というところだと思います。
伝わっているものを無批判に、そのまま「信じる」とか「信じるべき」という前提で考えるのは、学問的というより信仰的ですね。

そのような考えを取り払っ方が合点がいくと考え、饒速日命を祖神と位置付け、宇摩志麻遅命から線を引いていきました。

橘好古からそのまま公長・公業に繋げるものは言わずもがなですが

・越智実遠が伊予国司橘清正から橘姓を賜った(橘清正の実在性。越智氏後裔氏族が共有する架空人物の可能性は?)
・橘遠保が橘安麿後裔の成行の養子に入った(橘成行の実在性)
・橘遠保は橘広相の子公統の子孫に当たる(「公」という字が共通する系統に後世繋げた可能性は?)

など、謂れの一つ一つに、作為が見え隠れしていて疑問があります。これだけあると、むしろ事実は別の所にあるのだろうと思いました。
それらが否定しようとしていること。つまり、地方豪族の出だということになります。
何故、そのような事をしなければならなかったのかという当時の時代背景などを調べる上では一定の価値はあると思いますが。

越智氏のオリジナルを考えたら、大山祇神が頭に浮かんできましたが
かといって、物部氏との関係性も無視できなかったので、前者を採りました。

今の時点で思うのは、先代旧事本紀にある詳細な東遷の話などをみると
古代においても「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」のような権力の変遷があって
上記で言うと、織田か羽柴が饒速日命(物部)で、徳川は皇室という具合に。
少なくとも、最初から皇室が一人で餅をついてこねて食べたとは思えないんですよね。

越智氏に話を戻すと、伊予国風土記逸文に
「御嶋に坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり」
「是の神物は、難波の高津宮に御宇天皇世に顕れましき。 此神、百済国より度り来まして津の国御嶋に坐しき」
とあり、越智氏の人物は新羅との交戦記録も目立つので、百済とは浅からぬ縁があり、新羅とは対立的な関係にあった豪族だったのかなという印象です。

物部氏や越智氏の神話的な匂いが残る人物は、その一人一人が「個人」というより「群像」だと思います。
例えるなら大きなモザイクアートのようなもので離れた所から見ると何かの絵として捉えられます。
でも、もっと寄ればより鮮やかに見えるかなと近づいてみたが、様々な色の小さな欠片が無数に貼られている事しか分かりません。
この色は元々誰だったのか、この色は…?はたまたこの色は…?そもそも、元々は誰だという事すら無い欠片もあるかもしれません。

逆に言うと、ちょうど良い距離から大まかに眺めるくらいがいいのではないでしょうか。

これは、物部氏や越智氏に限らず、皇室やその他の氏族も含めて民族の帰属を理解する上での神話を共有する為に、様々な集団ないし人の事績を一旦分解し再構築した結果というもので
よく出来てはいますが、天然と人工を合わせたものなので、どうしても不完全さが残り、所々齟齬が見え隠れしているという所だと思います。

蛇足になりますが、越智氏を孝霊天皇に繋げるもの一つをみても
欠史八代というのは諸豪族を皇室に繋げるためのテーブルタップの役割もあるのではと思いました。
越智氏が孝霊天皇の後裔というのは、一体どういう基準によって分類されたのかは少し気になります。

系譜には橘へ改姓した事は書いていますが、謂れは何も書きませんでした。
最初は偽から始まったとみていますが、それを数百年名乗り続けてきた事実もあるので
一種の覚悟として理由を並べず示唆するように、弱点をそのまま残しました。


以前、父と話していると「祖母の甲斐氏の方も調べたらどうか」と提案されましたが
「自分は宮原氏であって甲斐氏ではないし、近しいといっても他家の事だから詮索する道理はない」と答えました。(軽くつまむ程度には調べてあります)

父は少し腑に落ちない顔をしていましたが、家というのはそういうものだと私は思っています。
家を考える上で、血というものはあまり重視しません。その時代の他家との関係については多少手がかりになると思いますが、その程度だとも思っています。

「血」は絶対的・固定的で「家」は相対的・流動的なものだと認識しています。
家は変わり得るものですが、血は変わりません。

血の方が揺るがないため、信じる対象にしやすいと言えます。
皇室はその点で、日本国・日本国民にとって扇の要になっていると思います。

ただ、血もルールを課さずに捉えると逆三角形に際限なく拡がり、極論を言えば歴史人物事典をランダムに開いたら大体先祖という事にもなります。
仮に自分は特別な存在だという事を示すために、そういう発想をする人がいるとしたら、結局のところ矛盾に陥ると思います。
母方の祖父の父方の祖母の…と辿って血筋上先祖だと言っても、それは自分にだけ当てはまるものではなく、大多数の人にとってもその人は先祖になりますから
それを以って特別な存在である事を示すものにはなりません。逆に、みんな辿ると共通の先祖を持っているのだから、いま生きている人はみんな親戚や兄弟。だから争いはやめようと
宗教家が説くような平等・平和を謳う方便としては使えると思います。ただ、それを説いた所で現状はさして変わらないと思います。

これは人生観のような話になりますが、自分というのは相対的な存在で、様々な人と巡り合い、影響しあう事によって、絶え間なく変化していくものだと思っています。仏教でいう「縁起」ですね。
ジグソーパズルの欠けている1ピースこそ自分だと信じ、そのピースがどこかにあるはずだと人は探そうとするものですが、最初から欠けたピースという実体はどこにもありません。
他のピースに囲まれて、ぽっかりと欠けて見えていたあの空間こそが自分だったという事です。他のピースの形によって自分の形も変わりますし、自分の形が変わる事で他のピースの形も変わります。

メーテルリンクの「青い鳥」の原作では、青い鳥は結局どこかへ逃げてしまいます。
私は、その青い鳥は「生きてきた意味」だと考えています。何の為に生まれてきたのかという根源的な悩みが人にはあって
「生きる意味」を探し求めて歩き出すのですが、結局そんなものは見つからずに、次第に歩く力も無くなり、遂には立ち止まってしまいます。
息も絶え絶えに、ふと後ろを振り返った時に一瞬みえたのは「生きてきた意味」でした。
しかし、それが見えたのも束の間、その人はその場で崩れ落ちて死んでしまいます。結局分かったのか分からなかったのかも分からずにこの世から消えてしまうのです。

私にとって系譜を作成するという事は、漠然と向こうの方へ指をさすことだと考えています。
それを見る人がそこから何か意味を見出したい(別に見出さなくてもいいですが)のであれば、私の指さす指先を見つめてほしくはありません。
どうせなら、指先ではなく指し示す方向を見てほしいです。要は「先祖は大体こんな感じで生きてきたけど、お前は今までどう生きてきてこれからどう生きるんだ?」ということです。

「お前は…」以降の部分が無ければ、結局は一つの歴史の羅列にすぎません。
そもそも、私としては、ただそれだけでいいんですけどね。


追記

我が家の家紋は「丸に並び鷹の羽」ですね。
家の表札にも、その家紋を入れてみました。

恐らく、どこかで分かれて現在の家紋を使用しているのだと思いますが。
「鷹の羽紋」はポピュラーですからね、特に南九州では。
[46]子孫よりさんからのコメント(2014年07月27日 10時28分00秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

今朝は、今まで私が集めていた「師高」に関する情報をもとに検証を致しました。
実は、こちらのスレッドにコメントをした情報以外に、いくつか、今までご紹介していない情報もありまして、それも含めての検証です。

以前は、「偶然かもしれませんが」と書いていました。
その事により、曖昧な検証となっていて、突き詰めた事までは探っていなかったのです。

しかし、今は違います。
きっと何かある!と。
では、早速<(_ _)>

まず、西光の子息・子女について
現在、解っているのは
「師高」「師経」「平永」「親家」そして、平川家について11 コメント3でご紹介した「師平」「師親」。
西光には子息は6人いたとの記録がありました。
子女については、平知盛の子「平知忠」の乳母であり橘為範の妻であった女性。
他に子女については現在調査中です。

重要な部分ですので再度 西光の子息

「師高」「師経」「平永」「親家」「師平」「師親」 です。

では、未発表?であった情報からご紹介致します。
中原師元の兄弟、中原師安の子「師高」についてです。
まず、こちらの2件の記述をご覧ください。

日本歴史 - 第 434〜439 巻 - 6 ページ googleブックより
音博士大^物」)も存在は確書類従所収『中原系図』をみると、「師高」(師元の甥。師安の八年(一一九七)卒去しており、該当しない。そこで、続群い・・

もし「前相州」が、中原御読^始」の「御侍読」としてみえる「相摸権守(源)仲镜』元久三年(建永元年.一二 20 正月十一一日条に「 ... の保安元年当時、五十一歳、正五外記となり、それから四十一年後の大治五年(一ニニ 0 〕、六によると、大外記中原師平の男で、宽治三年(一〇八九)大
この ...

13 ページ
されば、この『江家』は、『師遠』と共に、『秘抄』の袓形を考える有力な手懸りとしてよいはずである。 ... 勘物)を集成再編したようなものといえようが、その大半は既存の中原家流年中行事書を承けて補訂したものと思われる。 ... もしこの推定に大過ないとすれば、経閣本であり、おそらく師尚^師光らの書写加筆本と思われる。そのうち、師高.師世らの書写加筆本とみられるのが尊(割注,傍注,頭注)や勘物裏書などを付け加えたものであ.

★かなり、解り辛くて申し訳ありませんが、よく読んでみると・・
「師高」(師元の甥) そして何かが「該当しない」とあります。
「師高・師世」との言葉も見えます。

続けて
平安朝儀式書成立史の研究 - 653 ページ googleブックより

ついで、^の「音儒 8 行」は、尊柽閣本裏書付載の略系図や続群害類従所収の「中原系図」によれば、師元の孫にあたる。 ... (師元の甥。師安の男。「博十:」)も「師世」(師高 の孫。「音博士大監物」)も存在は確認しうるから、やはり、奥害の原文に従うべきであろう。 ... 延応元年(一二三九)害写本の底本は、前大監物中原師世の所持本 5 であり、それは師世の祖父「博士師高」の自 3 せ筆本 2 に、師世が近代の事を多く勘入したものである ...

★上記では 師元の甥で師安の男 という言葉があります。
そして、師世の祖父「博士師高」とも・・・
さらに「師世が近代の事を多く勘入したものである」 と。

では、最初の疑問「日本歴史」にあった
『中原系図』をみると、「師高」(師元の甥。師安の八年(一一九七)卒去しており、該当しない。
とは何を指すのかを検証しました。

まず中原師世についてですが、同名の方が二人??
「中原師世」で調べると
外記補任 
http://books.google.co.jp/books?id=BpPJQKTvqjEC&pg=PP286&dq=%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E4%B8%96&hl=ja&sa=X&ei=bDTUU4KdI9fl8AWmiYDYAg&ved=0CBsQ6AEwAA#v=onepage&q=%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E4%B8%96&f=false

正長元年となっています。1428年です?

続けて
師郷記 2 - 7 ページ - Google ブック検索結果
http://books.google.co.jp/books?id=iSERRmwn1jEC&pg=PA7&lpg=PA7&dq=%E5%B9%B4%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E4%BA%8B%E7%A7%98%E6%8A%84%E3%80%80%E5%B8%AB%E4%B8%96&source=bl&ots=Y-4WAvtPaw&sig=jEQrEvXnss5WgwKUGvrKhhrZeXc&hl=ja&sa=X&ei=ykTUU9tWk4PyBb_5gvgJ&ved=0CCoQ6AEwAw#v=onepage&q=%E5%B9%B4%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E4%BA%8B%E7%A7%98%E6%8A%84%E3%80%80%E5%B8%AB%E4%B8%96&f=false

永享五年 1433年です????

日本の苗字七千傑様の 大外記中原氏 姓氏類別大観を拝見したのですが
中原師安と中原師世はかなり離れた年代のようです。

続群害類従所収の「中原系図」はどうなっているのか?
解りやすいサイトがありました。
注※中原氏系図
尊卑分脈等では、勝良からの系図しか記されていないので、それ以前の系譜は、押小路家譜をそのまま引用した(物部氏系図の一説として掲載する)。
とあります。
http://www.geocities.jp/okugesan_com/hokana.htm

画面上の「中原」をクリックすると中原氏系図が出ます。

確かに師安の子に「師高」
師高 → 邦安 → 師世(師高嗣)とあります。
しかし・・「邦安」にマウスを合わせると解るのですが
「邦安」は・・為 源邦広子 となっていました。
こちらの「師高」と言う人物が「源邦広」の子「邦安」を養子にしたと言う事でしょうか。
外記補任に記録のある「中原師世」とこちらの「師世」は別人と言う事になります。

「該当しない」という言葉はとても気になりますが・・

ただ、もう一つとても気になる事があります。
こちらの「師高」の父とされた「師安」なのですが、別の書籍では「師康」と記述されているものがありました。

そこで中原師安について調べたのですが
新修稲沢市史: 資料編 - 第 7 巻、第 1 号 - 133 ページ
使顯業卿、资信朝臣等清害、又蔵人頭左中弁藤資信朝臣依臨時恩叙正四位下、藏
人藤家輔钗爵、一中略)尾張守正五位下源盛 ... 左少辨源師能等参八省、次参右近陣、御論義如常、此日、内大臣於里第召大外記中原師安、被仰可解却右近衛少將兼尾張
★新修稲沢市史に「大外記中原師安」の記録が残っていました。

同じく
新修稲沢市史: Kodai chūsei (2 v.) - 133 ページ
参訴右大弁疎頼業卿候執筆、構中納言撰李成卿、参詳群公行卿留伏座、行清書事
少納言源師國、中務柱大輔平清盛朝臣等助 ... 内大臣於里第召大外記中原師安、被仰可梓却右近街少坤兼尾張守源朝臣成雅所帯南官之由、師安書育三日下之、依有刃侍

★こちらには「大外記中原師安」以外に「平清盛朝臣」「少納言源師国」等、他にも見えます。

他の書籍においても「尾張」に関係する「中原師安」の記述がありますが、全て古文書ですので、とりあえず、「新修稲沢市史」と言う事で「稲沢市」について調べました。

すると
尾張国総社と式内社
http://akon.sakura.ne.jp/jinja/souja.html

愛知県稲沢市の尾張大国霊神社の儺追神事、「国府宮はだか祭り」
この歴史をすこし辿ってみようと思いました。

儺追神事は神社周囲1里(4km)を神垣と呼び、その外で難負人を捕らえ、厄を押し付けて放つ。少し卑劣ではありませんか。この神事の時代背景を知りたかった訳です。
はだか祭りの起源は神護景雲元年(西暦767年)全国の国分寺に出された吉祥天悔過の法の勅命に由来するという。この尾張平野は今から1230年前どんな姿だったのだろう。古式を伝える祭りの真相は、この歴史の中でお伝えしないと、誤解を招きかねないと思ったからです。

国府宮の神殿脇に磐座(ときわざ)があります。磐座とは狩猟民族の祭祈の場といわれます。そしてその磐座は本宮山を向いて祭礼をしたように配置されているという。
往古、本宮山の麓は邇波縣(ニワアガタ)と呼ばれ、豪族丹羽氏が治めたといわれる。ここには”田県神社豊年祭り”があり、この祭りは、朝廷に近い新興勢力
”尾張族”との融合を物語るものでないかと思われました。

★往古、本宮山の麓は邇波縣 (ニワアガタ)と呼ばれ、豪族丹羽氏が治めたといわれる。
★朝廷に近い新興勢力”尾張族”との融合を物語るものでないか
とありました。

愛知県稲沢市が非常に気になり調べたのですが、その成果として
現在の丹羽郡と「丹羽庄」の違いが解りました。

尾張国丹羽庄について マイナー武将列伝より引用。
丹羽庄は愛知県西北部にあった。現在の丹羽郡とはやや異なる。
もともと丹羽郡に属し郡名の元となったが山田郡を廃するにあたり丹羽郡と中島郡の郡界も東にずれ 中島郡に編入されたという。
現在の稲沢市東部下津から奥田にかけての地かと思われる。

尾張国丹羽庄。現在の愛知県稲沢市の「新修稲沢市史」に
中原師安の記録があったと言う事が解りました。

でも・・以前から気になっていた「中原師安」までもが尾張の丹羽庄に関係していたとは、やはり驚いています。

では、続けての調査は以前コメントした内容を検証いたします。
しばし休憩を(^・^)<(_ _)>
[47]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年07月27日 11時43分36秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>現在の丹羽郡と「丹羽庄」の違いが解りました。
 
尾張の丹羽は丹羽郡丹羽郷と中島郡丹羽庄が歴史的に認知されている。
山田郡の愛知郡への編入、海西郡、中島郡、葉栗郡の一部美濃編入があり、
激しく郡界変更が平安末以降実施されており注意。
現在、丹羽郡の丹羽庄を始め南西部諸村は一宮市に編入されている。
丹羽の場所は旧丹羽郡西成村丹羽。
 
また人名も初名、別称があり、同名人物が時代を超えて存在するので注意。
何事も先入観で決めつけないで、周辺の状況を加味することが重要。

[48]子孫よりさんからのコメント(2014年07月27日 13時02分00秒 ) パスワード

公忠公の末裔様、お久しぶりです。

お家の御新築をされたのですね。
おめでとうございます。

お引っ越しの疲れは出ていませんか?猛暑が続いていますので、お身体には十分気を付けて下さいね(^・^)

系譜を作成されるのですね。
饒速日命を祖神と位置付け、宇摩志麻遅命から線を引いてこられたと。

私は、実家の宮原については、父の考えに従うつもりです。
(父がどのように考えているかは、実は話した事がないのですが)
私の意志が全くないと言うわけではありません。
やはり、男性と女性の考え方の違いになるかとは思いますが、特にうちの場合は「家長」に従うのが「女」であるといった中で育ってきましたし、それに、私より、父の方がずっと、「宮原の後継ぎ」として、先々代の曾祖父からも、何かしら教えを受けていると思います。
(これまた、私には、未だ伝わってきていませんが)

では、私自身は先祖をどう考えているか?となりますが
もう、お解りと思いますが、昨年までの私は、系譜には全く興味はありませんでした。
ですから、公忠公の末裔様がこれまで、ご自身で大変な調査を重ね、検討をされた結果、今回、公忠公の末裔様の「宮原家」の系譜が完成すると言う事を、本当にすばらしい事だと思いますし、公忠公の末裔様がいらっしゃらなければ、私も「宮原」について何も知る事が出来ませんでした。

公忠公の末裔様から伺った「橘公業」からの流れ「宮原」を理解したうえで、父に質問をした事により、ようやく、父から話を聞く事も出来ました。
本当に感謝しています。
あらためて、ありがとうございます。

私の先祖に対する考えに戻りますが、先にもお話したように、昨年までの自分は系譜と言うより、今、自分がここに生まれてこれた事は全て「先祖あっての事」という気持ちからの「先祖への感謝」。これだけでした。
ですから、今でも、おっしゃる「貴種に繋がる」事への期待もありません。
というか、お解りの通り、地位や名声・官位等々、私、全く解っていませんから(^・^)

「平川」の調査に関しても本来は「他家」の事です。
しかし祖母の実家「平川家」に関しては、きっと、子孫が継いでいかなければいけない「何か」があるのではと考えはじめています。
祖母がどうしても私に伝えなければいけないと考えた「何か」です。
何故、調査を進めているのか?という事に関して、以前もコメントしましたが、先祖を分霊した事以外に、実は、こちらでコメント出来ない諸事情があります。

ただ、現在の調査に関しては、本当はすごく悩みました。
「平川」は祖母の実家以外に、子孫は沢山残っていますので、「隠された事実」を何処まで、調べれば良いのか?他家はどう考えるのか?と。

親戚同士で話をするのが一番良いのかと思いますが・・
ただ、それでは、私が子供の頃から祖母や平川の伯父に教わった、先祖への感謝、先祖のお陰で自分が生まれてくる事が出来たという心からの感謝に繋がら無いような気がしたのです。
でも、これも結局の所、自己満足に過ぎないのかもしれませんが。

申し訳ありませんが、オカルト的な事と受け止められるかもしれませんけれどお話致します。

「見つけて欲しい」「探して欲しい」との気持ちが何故か解るのです。
きっと、心理学的な問題とおっしゃる方もいらっしゃるかと思いますが、でも、科学で説明出来ない事は、必ずあります。
「あります」と断言してしまいましたが、実際に私自身がそれを頻繁に体験していますし、子供や心の許せる友人も、私の側にいて、それを体験して「真実」だとしっかりと理解してくれています。

あっ!!何だか暗い雰囲気になってしまいました。すみません<(_ _)>

本当に調べたいのは・・
この何だか解らない不思議な「能力?」「体質?」がいったいどの先祖からの遺伝なのか?です!(^・^)
そう!!きっと「遺伝」です。(-_-)

公忠公の末裔様にはありませんか?この「体質」。

もしなければ・・やっぱり「祖母」方からかな〜????
実は、従兄弟や伯父・親戚に多数、本当に「多数」いるのですこの「体質」が。
変でしょう?
この不思議な「体質」の遺伝も先祖の調査で明らかになればと、心から願っています。

最後に
公忠公の末裔様。
家を考える上で、血というものはあまり重視しません・・
「血」は絶対的・固定的で「家」は相対的・流動的なものだと認識しています。
家は変わり得るものですが、血は変わりません。

とお書きでしたが、「家」の考えを抜きにしても、公忠公の末裔様と私は「血」の考えでは繋がっていますので、どうか、今後ともよろしくお願い致します。
<(_ _)>(^・^)
これこそが、先祖のお導きですね。
このサイトが無ければ、私達はお知り合いになる事は出来ませんでしたから。(^・^)

では。



[49]子孫よりさんからのコメント(2014年07月27日 13時39分40秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

また、いつもの悪い癖で「先入観」を持って突っ走ってしまいました。

反省しております。

所で、「葉栗郡」に関して、以前の調査で記述がありました。
もう一度、確認したいと思います。

今度は先入観なしで「事実」だけをしっかりと調査致します。

日本の苗字七千傑様には私の頭の中が「見え見え」のような気が・・。もしかしたら、日本の苗字七千傑様にも・・ 失礼いたしました(*_*;<(_ _)>

がんばります。
では<(_ _)>
[50]子孫よりさんからのコメント(2014年07月29日 01時37分44秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

コメントが遅くなりましたが、実は、今日(7/28)娘夫婦とM田さんと4人で阿蘇に行って参りました(^・^)

まず、一番に阿蘇神社へお参りに行ったのですが、なんと、幸運にも本日は阿蘇神社のおんだ祭り(御田植神幸式)が行われていました。

http://kumanago.jp/event/?mode=detail&isEvent=1&id=430000003331

古式ゆかしき、行事(祭り)を拝見する事が出来ました。

気持ちが凛となり、すばらしい体験をする事ができました。
今日、出かけたのは偶然でして娘夫婦・M田さんの休日が一緒になり、M田さんの発案で、まず「阿蘇神社」へ行きましょうとなりまして、そして御田植神幸式を拝見する事が出来た・・という事です。

娘婿は、九州出身ではありませんので、初めて阿蘇神社へご参拝させて頂きまして、私も、娘が幸せに結婚出来た事のお礼と感謝の気持ちを込めてお参りさせて頂きました。

阿蘇山火口も見学。
雄大な自然を堪能して、気持ちもリフレッシュ出来ました。

明日は、しっかりと調査を進めたいと思います。
では(^・^)

[51]子孫よりさんからのコメント(2014年07月30日 08時44分05秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

調査は精力的に継続中です。
今日は、弟の病院へ行きますので、進捗状況の紹介にはなりませんが、気になる記述を見つけまして・・

家紋についてです。

私は、この通り、歴史には疎く、ましてや家紋については全くの無知識です。

以前より、お伝えしていますように実家の家紋は「丸に剣片喰」。
兜には丸に剣片喰と違い鷹の羽の二つの家紋がついています。

では、平川の紋はといいますと・・

曾祖父の写真の中に紋付き袴で撮られたものがありまして、ただし、この写真はかなり古く、紋の所がはっきりと解らないのです。
(紋については平川の伯父に聞くのが一番良いのですが、「何で?」と聞かれたら・・・)

そこで、父に聞いたのですが、父いわく
「家と同じ」と言うのです(?_?)

でも、曾祖父の着物の紋は何だか違うような・・・よく見えません(*_*;

所が父は「仏間にあった何かに家(宮原)と同じ紋があったのを子供の頃見たのを覚えている」と言うのです。
ですから、ずっと????となってコメントしていなかったのですが・・
それに丸に剣片喰は結構どこでも見かけるので、遠い久米郷宮原のご近所さん同士で「あっ!この紋はかっこヨカ!これば使おうタイ」と人気になったのかな?と(^・^)・・(ー_ー)!!先祖に叱られますね(-_-)

所が・・
今朝、何だか家紋が突然気になってしまいまして・・いつもの感です(+_+)

調べたのですが、何だか「もしや??」という記述を見つけてしまいました。

http://ameblo.jp/syakusyorin/entry-10492913560.html

すごく気になったので転記させて頂きました<(_ _)>

中略・・
また私が研究する民族史観からすると、古代の渡来人は朝鮮半島や北方アジア等から多く移民し、中でも高句麗人は、いち早く前衛隊虎族「イェ」(青銅器文化)と後発隊熊族「ヤ」(鉄の文化)に分かれ入って来ている。後に百済や新羅からも入ってくるのだが、特に高句麗人と百済人は、高朱蒙「チュモン」(東明聖王とも言われ、紀元前58年ー紀元前19年。高句麗建国初代王)を共にルーツとする扶余系(フヨ、ハングルではプヨ族)同族である。実はこの高句麗人が日本の要とも云うべき豪族に変貌を遂げるのだ。彼らは日本名藤原(旧姓中臣、天智天皇より藤原の苗字を拝命)と名乗り、この国で実権を握る。それは7世紀飛鳥の時代からで現代まで脈々と連なり、日本的フリーメールともいう可きネットワークを構築しているのである。

さてその藤原氏だが、奈良時代に南家、北家、式家、京家の四家に分かれたが、中でも北家は、平安時代に皇室と姻戚関係を結び、摂政政治を行った。後の鎌倉時代となると、藤原氏は近衛氏、鷹司氏、九条氏、二条氏、一条氏などの苗字を名乗った。藤原氏の家紋は枝垂れ藤のように藤をあしらったものが一般的だが、武藤氏(丸に剣片喰)の様に片喰をあしらった紋様は藤原裏家紋と称される。片喰(かたばみ、葉先がハート型)とは種類が違うが、別名白爪草(葉先は丸く白い線がある)とも言い、英語ではクローバー(三ツ葉は三位一体、四つ葉は十字架を表す)ともシャムロック(ケルト人の信仰)とも言われ、ともに繁栄を表す意味がある。

五年前私は公務と私的研究から、高句麗のルーツである。韓国映画「大王四神記」の主人公・高句麗中興の祖と称される公開土王「北朝鮮の呼び方」別名好太王「中国の呼び方」(中国吉林省集安)の陵墓(ピラミッド)に行った。その際、ある発見をした。公開土王墓(第19代国王)や、長寿王墓(第20代国王)、また好太王碑の周り一面に片喰が生えていたのだ。いや植えていた。これは何を意味するのであろうか。扶余族をルーツとする藤原氏の裏家紋が片喰である以上、興味は尽きない。地を這いながら広く繁る片喰は、日本全国に触手を伸ばし、周到に繁栄を築こうとする藤原氏の野望を彷彿させるものがある。

さて藤原氏から輩出した一族には他に武藤氏、近藤氏、佐藤氏、遠藤氏、斎藤氏等がある。とくに鎌倉時代以降の上記の藤原氏は、東北に新たな所領地を求め勢力を伸ばすなど、破竹の勢いで北進した。確かに山形県には、武藤氏を始め、遠藤氏、佐藤氏、斉藤氏等、藤原氏に因んだ苗字がなんと多いことか。

これより上記豪族の謂われを紹介しよう。武藤氏、私の本名も武藤であるが、藤原氏の一族である藤原北家、藤原秀郷の流れとも、藤原道長の流れとも言われる。武蔵に拠点を置いたため、武藤と名乗ったとの説が有力だが、本来は藤原景頼の子、頼平が武者所に就いたことが有名である。その末裔としては、出羽の大宝寺氏頼平の子の氏平が祖であり、筑前備前の少弐氏頼平の子の資頼がある。さて武藤氏の元々の出生は美濃であり、藤原高光に従事した武家集団でもあった清和天皇ゆかりの源氏である。また武藤氏と近藤氏の末裔である大友氏は同族である。頼平の兄弟の能成の子が大友能直である。因みに、山形県の出羽三山にある、国宝羽黒山五重塔は、長慶天皇文中元年約六百年、庄内領主羽黒山の別当であった武藤政氏が再建した。遠藤氏は千葉常胤の六男東胤頼を始祖とし、東胤頼の子孫は東氏と称して美濃国に入った。後に遠藤氏と称して八幡城に入る。斎藤氏は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、郡上藩を与えられた。斎藤氏は藤原一族の斎司を担う豪族で、美濃国岐阜に勢力
をもっていた。斎藤氏から分家した苗字は大変多く、中でも有名なのは、加藤氏、富樫氏など、山形秋田福島に多く、藤原利仁にはじまり、越前加賀など、北陸各地に武家として発展した。加藤氏は加賀に移った藤原氏である。佐藤氏は藤原秀郷を源流とし、福島に多く、佐渡に移った藤原氏である。伊藤氏は伊勢に移った藤原氏である。近藤氏は近江に移った藤原氏である。後藤氏は藤原利仁流の美濃国前田氏の末裔であるが、また藤原秀郷流の後藤氏だとも云われ、備後に移った後藤氏から、播磨の後藤氏、肥前の後藤氏と全国に分家した。

★藤原氏の家紋は枝垂れ藤のように藤をあしらったものが一般的だが、武藤氏(丸に剣片喰)の様に片喰をあしらった紋様は藤原裏家紋と称される。

(゜-゜)えええっ!! 武藤氏は「丸に剣片喰」紋??!
片喰をあしらった紋様は藤原裏家紋???

なんですと!!

武藤氏から小弐氏を調べた時に「丸に剣片喰紋」は見かけた記憶はないのですが!!???

しかし・・・
このサイトに記述されていた事は、今、私が調査している事「そのもの」の様な気がして・・・

でも、(ー_ー)!!先入観は持たないように憶測では動かない!!でございます。

と言う事で まとめますと・・
平川の仏間には「丸に剣片喰紋」があった。(平川の紋は「丸に剣片喰紋」かもしれない・・父の記憶ですから(?_?))
武藤氏は「丸に剣片喰」紋・・?
片喰をあしらった紋様は藤原裏家紋?

という事です。

では、弟の病院に行ってきま〜す(^O^)/
[52]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年07月30日 12時07分49秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>片喰をあしらった紋様は藤原裏家紋?
 
与太話の類ですよ。
片喰に限らず藤原氏使用の多くの紋が替紋、裏紋なのだから。
それは上古の名族が藤原氏族(特に秀郷流、利仁流)に吸収再編されたのが歴史だから当然。
藤原氏の正紋は、陽明家である近衛家が用いる牡丹紋。
島津氏や津軽氏、伊達氏、鍋島氏、矢田松平氏も近衛家から下賜されている。
藤紋が藤原氏の紋とされるのは俗説。
花札を見ればわかるでしょ!
牡丹(藤原氏)に蝶(平氏)が群がっている。
家紋の発祥に対する参考記事は下記URL参照。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#024
 
>武藤氏は「丸に剣片喰」紋・・?
家紋は、あまり当てにならないことを前提に。
武藤氏の中に「丸に剣片喰」使用家が存在する。
 
宇多源氏三上氏族平川氏も「丸に剣片喰」使用家が存在する。
近江から肥後合志郡への分流も存在する。(後裔に熊本藩士)
だからと言って早合点して決めつけないように。
[53]子孫よりさんからのコメント(2014年07月30日 23時59分19秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

弟の病院から帰ってきました。
弟は、お陰さまで調子も良く、とても喜んでくれました。

実は、今春、弟から「数年間やめていた絵を描きたいのだけど」と言われて、一番小さなキャンバスと筆そして絵具をプレゼントしていました。

弟は、筆を口にくわえて絵を描き、以前は個展を開いていたのですが、ここ数年は、絵を描きたいと言わなくなっていたので、この言葉に私もとても嬉しくなりました。
今は寝たきりで顔を動かす事も出来ない弟ですが、それでも、一生懸命、がんばっています。
絵具の配合は、そのつど、介助して下さる方にお願いしているようです。
今日は、未完成状態の絵を見せてもらいました。

躍動感のある、今にも走りだしそうな馬の絵です。
草原の草花もいくつもの色を重ねて描いています。
完成がとても楽しみです。

所で・・
高速バスを降りて、病院まではいつもタクシーで向かうのですが、今日、タクシーの運転手さんに、「楠野や楠原はここからどれくらいの距離ですか?」と聞いた所、「車で10分もかかりませんよ」と言われました。

合志の弟の病院から車で10分もかからない、とても近い距離に良峯安則が住んだ楠原があったのです。
40年以上も、こちらの病院に入院している弟は、きっと、遠い遠い先祖に守られているのだな〜と、心から先祖に感謝致しました。(^・^)


日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
家紋について、とても勉強になりました。

シュメールやバビロニアに起源を持っているとは、本当に驚きました。
(こちらのお話の方が私は本当は大好きです)

平川の家紋については、「丸に剣片喰」が確定した訳ではありませんが、伺ったように、家紋に拘らず、しっかりとした情報をもとに調査を進めたいと思います。

弟に負けないように姉もがんばります。
では(^・^)
[54]子孫よりさんからのコメント(2014年07月31日 09時23分34秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

実は・・
考えてみると、今まで武藤氏についてあまり理解していませんでした。
調査で、数回調べたのですが、まだ、何か見落としをしているかもしれません。

平河と徳大寺実春との最初の訴訟では、永吉庄の預所職は武藤〈少武)景資に代わり、一旦状況が治まりました。
と言う事は、武藤〈少武)景資の永吉預所職を平河は納得したと言う事です。

武藤氏について、もう一度勉強致します(゜-゜)

まず・・・
武藤氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E6%B0%8F

武藤氏(むとうし)は、日本の氏族の一つ。
藤原氏の一族、本項で述べる。
甲斐源氏武田氏庶流大井氏族。一時的に真田昌幸が、名跡を継いだ。
藤原氏の一族である(藤原北家)。藤原秀郷の流れとも藤原道長の流れともいわれる。 武蔵に拠点を置いたため武藤氏と名乗ったとの説が有力である。平安時代後期に藤原景頼の子の頼平が武者所に就いたことで有名である。
その末裔としては、出羽の大宝寺氏(頼平の子の氏平が祖)、筑前・肥前の少弐氏(頼平の子の資頼)がある。また、武藤氏と近藤氏(末裔には大友氏等を輩出)とは同族である(頼平の兄弟の能成の子が大友能直)。

武藤頼平 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E9%A0%BC%E5%B9%B3
武藤 頼平(むとう よりひら、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。武藤頼兼の子。武藤景頼(近藤貞成)の猶子。
『武藤系図』によれば、頼平の姉妹が平知盛の妻で平知章の母とある。平知盛の目代として武蔵国に在住したという。治承・寿永の乱で源頼朝に臣従し、鎌倉幕府の御家人となる。養子に武藤資頼(後に鎮西奉行として少弐氏と称する)がいる。墓所は師岡郷にあったという。

★武藤頼兼の子。武藤景頼(近藤貞成)の猶子。
★頼平の姉妹が平知盛の妻で平知章の母
★平知盛の目代として武蔵国に在住
★養子に武藤資頼(後に鎮西奉行として少弐氏と称する)

では養子 武藤資頼について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E8%B3%87%E9%A0%BC

武藤 資頼(むとう すけより、永暦元年(1160年) - 安貞2年8月25日(1228年9月24日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
出自は不詳。藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となり武藤氏の名跡を継ぐ。初め平知盛の部将であったが、一ノ谷の戦いのおり知人の梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人となる。頼朝の嫡男頼家の元服の式典において有職故実の指導をし、ついで奥州合戦に出陣し功を立て、出羽国大泉庄の地頭に任ぜられる。この在任期間中、修験道の本拠・羽黒山領を侵し、羽黒山衆徒と抗争する。
建久年間、九州に派遣されて大宰府の少弐職に任ぜられ、義父頼平の甥に当たる大友能直と共に鎮西奉行に就任。さらに、肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の守護となった。
一介の御家人の身分でありながら、本来公家の官職である大宰少弐に任ぜられたのは資頼が初めてであった。大宰少弐職は資頼の子の資能に継承され、以降世襲となる。資能は少弐を称し、その子孫は北九州の名族の少弐氏として発展した。

★出自は不詳。藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となり武藤氏の名跡を継ぐ
???出自は不詳とは?
★平知盛の部将であった。
★梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人となる。
★建久年間、九州に派遣されて大宰府の少弐職に任ぜられ、義父頼平の甥に当たる大友能直と共に鎮西奉行に就任。
★大宰少弐職は資頼の子の資能に継承され、以降世襲となる。

そしてもう一つ武藤資頼に関連する情報なのですが
平知宗について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E5%AE%97

平 知宗(たいら の ともむね)は平安時代末期から鎌倉時代中期の平家の落人。平家一門の平知盛の三男。惟宗 知宗(これむね ともむね)や宗 知宗(そう ともむね)、武藤 知宗(むとう ともむね)とも名乗っている。
寿永3年(1184年)、平家の都落ちで各地を転々としている時期に誕生。元暦2年(寿永4年/1185年)に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、長門国斎藤兵庫を経て鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。
その後、武藤資頼の養子になり、正治2年(1200年)に太宰大監に任官する。
建長7年7月5日(1255年8月8日)、大宰府北殿で死去。享年72。死去した日については異説あり、建長7年7月3日(1255年8月6日)とする説もある。

★壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後、長門国斎藤兵庫を経て鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。(゜-゜)平知宗の乳母は惟宗氏だったのですね。
★武藤資頼の養子になり、正治2年(1200年)に太宰大監に任官
(゜-゜)ここで惟宗氏が登場いたしました。

以上「武藤頼平」と「武藤資頼」についてまとめたのですが・・・

やはり、見落としていました(゜-゜)
というか、以前調査した時には、スルーしてしまった事。
それは、「武藤頼平」と「武藤資頼」が「平知盛」の家人であったという事です。

これまでに調べた「平知盛」の家人又は関係者は・・
★橘公長・公業 ・・・私、宮原の先祖です。
★加々美長清(小笠原長清)・・・橘公長の幼なじみであり、加々美長清の仲介で橘公長・公業は源頼朝の麾下に入りました。
★紀伊次郎兵衛こと橘為範の妻・・・西光の娘。平知盛の子息「平知忠」の乳母。
★「平知盛」の妻 治部卿局(平知忠の母)・・・祖父「藤原忠宗」と須恵小太良こと藤原家基の父「藤原家光」そして「尋覚」(「平河師高」に補任された小値賀島地頭職であったが、実際に補任されたのは「尋覚」)は兄弟
★武藤頼平・・・姉妹が平知盛の妻で平知章の母。平知盛の目代として武蔵国に在住
★武藤資頼・・・武藤頼平の猶子。平知盛の部将であったが梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人となる。
★平知宗・・・平知盛の三男。壇ノ浦の戦後、鎮西奉行武藤資頼と乳母の惟宗氏によって庇護される。武藤資頼の養子となり太宰大監に任官。

(゜-゜)まだまだ、今後の調査で、他の情報が出てくる可能性もあります。

上記の調査で惟宗氏が登場しました。
「惟宗」と言えば・・以前ご紹介しましたが
球磨の仏師源覚が青蓮寺の阿弥陀二尊彫った文字について「右為惟宗聿・尊霊往生極楽也」とあり、惟宗聿高の極楽往生を願って仏師源覚が彫った文字であると。
様々な書籍で、惟宗聿高については平川師高とする説のほか諸説があるとの事でした。????? (この件については解明されていません)

そして、武藤氏・小弐氏と平河の関係について見落としていた事がもう一つありました。
★武藤資頼の養子「平知宗」は太宰大監に任官
★武藤資頼は本来公家の官職である大宰少弐に任ぜられ、大宰少弐職は資頼の子の資能に継承され、以降世襲となる。

では、平河は?
あらためて、以前ご紹介した訴訟の文書を転記します。
依実春朝臣之押領、良貞乍帯御下文等、一類六十余人佗傺、交山野、永削御家人名字事、生涯愁歎也、但難無以歩(前?)所帯、遺子息宰府、勤宿直事、著到無其隠、是随分忠節也、可然者、任右大将家御下文并相伝知行八十余年々紀、返給彼永吉。欲令勤仕重代御家人役云々、爰如良貞等所進遣于遠景(天野)・盛時(平)時六月十六日付文治三年奉書案者、平河三郎師高謀反勝他人由有其聞、然而冤罪程、給暇天所下遣也、早可安堵ノ由可下知也云々、如同所進遠景同年十二月状案者、下球磨御領、可早任御教書、被安堵平河三郎良貞身事、右去六月十六日御教書今月三日到来、子細云々者、早任状如本可令安堵云々・・

★平河三郎師高謀反勝他人由有其聞、然而冤罪程、給暇天所下遣也、
★遺子息宰府、勤宿直事、著到無其隠、是随分忠節也
遺子息は宰府にて勤務を行い忠節は十分尽くしていると書かれているのでしょうか?(と「平川家について10 コメント63では私、書かせて頂きました(゜-゜))

この「遺子息宰府、勤宿直事、著到無其隠、是随分忠節也」から
平河師高の遺子息は宰府で勤宿直事。

と言う事は・・太宰大監平知宗と武藤資頼その後、大宰少弐職を継承された資頼の子資能以降世襲となった少弐氏のもとで「平河師高」の遺子息は務めた・・と言う事になるのでしょうか?

大宰府に関係したのは「平河師高」の遺子息だけではありませんでした。

同じく訴訟で使用された文書で
観蓮陳情 本名良氏 於宰府 弘安八年番之
とあります。
ただ、以前もご紹介したか?と思うのですが、訴状の中で平河良貞は、何故か「良貞」本姓?本名?に関して「今は憚る」とあったのです。
何故だろう?(もう一度訴状を確認してみます)

弘安八年とは岩門合戦で少弐景資と安達氏一族の安達盛宗が討ち取られた年です。

やはり小弐氏のもと、「平河」は大宰府に務めていたと言う事ですね・・・

所で、こちらの調査を行っていて、また一つ新しい情報を見つけました。

福岡県の地名 - 435 ページ googleブック検索より
為頼は武藤資頼の子。宗像氏忠の妻張氏の養子 ... 天田坪二町小は一円神領であるとして、社家に沙汰させる応永五年二三九八)四月二日、守護少弍貞頼は稲本村内引父が譲られ、一一〇 0 年間知行が^ ^ないと注進している。所宛に出し、須恵,土穴,稱本三 ...

★為頼は武藤資頼の子。宗像氏忠の妻張氏の養子

調べたのですが
サイト 大日本史料第五編に
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/5-09.html

9月17日少弐為頼、宗像庄三村安堵さる

為頼は少弐氏庶流。宗像氏忠の妻、氏重の母である張氏(宋の人だそうです)の養子となり、譲与を受けた。で、氏重と相論。のち氏重後家や氏重の子の氏遠・氏村と相論になります。

宗像社が刊行された『宗像大社文書』を見ると解説があります。また、
「訂正宗像大宮司系譜」が史料編纂所にありますので(請求番号2075ー900)、ご覧下さい。

とありました。

以前ご紹介した相良家文書と宗像文書の相違「良峯女子」と「宗形女子」の記述が気になる所なので、こちらも、再度調査したいと思います。

非常に長いコメントになってしまいました。すみません(*_*;

最後に。
日本の苗字七千傑様、お忙しい所大変申し訳ございませんが、お教え下さい。
武藤資頼に関して出自不詳とありました。武藤資頼の本当の父はどなたか?と私も調べたのですが、わかりませんでした。
武藤資頼の父はどなたなのでしょうか?
本当に出自不詳なのでしょうか?
どうか、ご教示の程よろしくお願い致します。

では。
[55]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年07月31日 23時38分43秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>武藤資頼の父はどなたなのでしょうか?
 
頼平の猶子とも言われるが出自不明。
恐らく那須氏や首藤氏と同様に守部氏と思われる。
守部氏と言えば尾張国造と祖を同じくする天忍人命の後裔。
資頼は梶原平三景時の娘婿、梶原氏の家紋が丸に四ツ石。
資頼後裔の少弐氏が寄せかけ四目結で似ているね。
島田氏も表面上は藤原秀郷流だが、丹羽臣の祖は島田臣、島田臣は尾張国造と縁戚。
[56]子孫よりさんからのコメント(2014年08月01日 01時11分54秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございました。

「那須氏や首藤氏と同様に守部氏と思われる」
という事ですね。

【守部氏】姓氏類別大観を拝見致しました。

那須与一は「資隆」の子となるのでしょうか。
ウィキでは「宗隆(宗高)」と記述されていました。
那須与一(宗隆)の弟が椎葉村の伝説に登場する「大八郎宗久」という事ですね。

守部氏・・・尾張国造と祖を同じくする天忍人命の後裔
丹羽臣の祖は島田臣、島田臣は尾張国造と縁戚
古では繋がっているのですね。

実は、私、藤原秀郷流「島田氏」と丹羽臣の祖・島田臣の関係がずっと気になっていたのです。
いつか日本の苗字七千傑様にお伺いしなければと思っていました。

ご教示頂きましてありがとうございます。

資頼は梶原平三景時の娘婿。
知りませんでした(゜-゜)

実は、以前から梶原景時に関して、気になっていたのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E6%99%AF%E6%99%82%E3%81%AE%E5%A4%89
梶原景時の変

合議制成立の半年後の秋、将軍御所の侍所で結城朝光が、ありし日の頼朝の思い出を語り「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べた(『吾妻鏡』10月25日条による)。翌々日、御所に勤める女官である阿波局が朝光に「あなたの発言が謀反の証拠であるとして梶原景時が将軍に讒言し、あなたは殺される事になっている」と告げた。驚いた朝光は三浦義村に相談し、和田義盛ら他の御家人たちに呼びかけて鶴岡八幡宮に集まると、景時に恨みを抱いていた公事奉行人の中原仲業に糾弾状の作成を依頼した。

10月28日、千葉常胤・三浦義澄・千葉胤正・三浦義村・畠山重忠・小山朝政・結城朝光・足立遠元・和田義盛・和田常盛・比企能員・所左衛門尉(藤原)朝光・二階堂行光・葛西清重・八田知重・波多野忠綱・大井実久・若狭忠季・渋谷高重・山内首藤経俊・宇都宮頼綱・榛谷重朝・安達盛長入道・佐々木盛綱入道・稲毛三郎重成入道・安達景盛・岡崎義実入道・土屋義清・東重胤・土肥惟平・河野通信・曽我祐綱・二宮友平・長江明義・毛呂季綱・天野遠景入道・工藤行光・中原仲業以下御家人66名による景時糾弾の連判状を一夜のうちに作成し、将軍側近官僚大江広元に提出した。景時を惜しむ広元は躊躇して連判状をしばらく留めていたが、和田義盛に強く迫られて将軍頼家に言上した。

この連判状の人数が66名。

★無知識ですみませんが・・
実は・・この時代に連判状・それも66名・・と、かなり以前この記述を読んだ時に驚いたのですが、その時に「平河の訴状」を思い出しまして、一族60名以上の署名?を提出していました。

何か、気になります。
繋がりとかそういうのではなく、何か平河が「真似た?」もしくは、わざと「似せた?」かのような・・・(わたくし素直でなくてすみません(*_*;)

ふと・・「目には目を歯には歯を」のあの言葉が脳裏をよぎりまして・・

ですから、朝の調査で梶原景時の記述が出た時に「あれっ!」と思ったのですが、日本の苗字七千傑様から「資頼は梶原平三景時の娘婿」と伺って、かなり驚きました。
多分、気のせいだとは思いますが。

梶原景時の変の後・・
京都では、忠臣であった景時を死なせたことは頼家の大失策であると評された。

景時滅亡後の正治3年(1201年)正月23日、景時が庇護して御家人となっていた城長茂が上洛し、大番役で在京していた小山朝政の宿所を襲撃する。長茂は後鳥羽上皇に頼家追討の宣旨を得ようとしたが叶わず、吉野で幕府軍に討たれている。一方越後国では長茂の甥城資盛が蜂起して幕府軍と戦った。また長茂与党として藤原秀衡の子高衡が討たれている(建仁の乱)。
景時追放の3年後、頼家は北条氏によって将軍職を追放されたのち、暗殺された。代わって実朝が将軍に立てられ、北条氏が幕府の実権を握る事になる。

京都側の記録
『玉葉』(正治2年正月2日条)によると、他の武士たちに嫉まれ、恨まれた景時は、頼家の弟実朝を将軍に立てようとする陰謀があると頼家に報告し、他の武士たちと対決したが言い負かされ、讒言が露見した結果、一族とともに追放されてしまったという。『愚管抄』では頼家殺害と景時滅亡の因果関係を強く指摘している。


鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』では、景時弾劾状に北条時政・義時の名は見られないが、景時の一行が襲撃を受けた駿河国の守護は時政であり、景時糾弾の火を付けた女官の阿波局は時政の娘で、実朝の乳母であった。この事件では御家人達の影に隠れた形となっているが、景時追放はその後続く北条氏による有力御家人排除のはじめとされる。

当時では、頻繁に起こりえる事であったのかもしれませんが・・
どうしても「目には目を歯には歯を」の言葉が浮かんでしまって、少し怖くなってしまいました。

ですが
ご教示頂いた事が広がっていきます。
本当にありがとうございました。

では(^・^)
[57]子孫よりさんからのコメント(2014年08月01日 09時12分37秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

今朝は昨日の調査の続きから梶原景時についてもう少し詳しく調べて見たくなりまた。

早速。
武藤資頼の舅「梶原景時」について
梶原景時 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E6%99%AF%E6%99%82

ピックアップして転記します。
(出来れば、後ほどで結構ですから、全文をお読み下さい<(_ _)>)

梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族であり、大庭氏とは同族である。曾祖父、または従曾祖父に後三年の役で源義家のもとで戦い武勇を謳われた鎌倉景政がいる(梶原氏の祖・景久の従兄弟)。梶原氏は大庭氏らとともに源氏の家人であったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。

治承4年(1180年)8月、源頼朝が挙兵して伊豆国目代・山木兼隆を殺した。景時は大庭景親とともに頼朝討伐に向い、石橋山の戦いで寡兵の頼朝軍を打ち破った。敗走した頼朝は山中に逃れた。


土肥の椙山のしとどの窟
大庭景親は追跡を続け、山中をくまなく捜索した。『吾妻鏡』によると、この時、景時は飯田家義ともども頼朝の山中の在所を知るも情をもってこの山には人跡なしと報じて、景親らを別の山へ導いたという。
『源平盛衰記』ではより詳しくこの場面が述べられている。敗軍の頼朝は土肥実平、岡崎義実、安達盛長ら6騎とししどの岩屋の臥木の洞窟(現在の湯河原町)へ隠れた。大庭景親が捜索に来てこの臥木が怪しいと言うと、景時がこれに応じて洞窟の中に入り、頼朝と顔を合わせた。頼朝は今はこれまでと自害しようとするが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝ったときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て蝙蝠ばかりで誰もいない、向こうの山が怪しいと叫んだ。大庭景親はなおも怪しみ自ら洞窟に入ろうとするが、景時は立ちふさがり「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄った。大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は九死に一生を得た。

中略・・
12月に景時は土肥実平を通じて頼朝に降伏。翌養和元年(1181年)正月に頼朝と対面し御家人に列した。弁舌が立ち、教養のある景時は頼朝に信任され鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行など諸事に用いられた。時期は不明だが景時は侍所所司(次官)に任じられている。

寿永2年(1183年)12月、上総広常と双六を打っていた景時は、にわかに盤をのりこえて広常の頸をかき斬り討ち取った。広常に謀反の企てがあるとの噂があり、頼朝が景時に命じて殺させたものだった。後に謀反の疑いは晴れて頼朝は後悔しているが、広常は鎌倉政権軍の中でも飛びぬけて大きな兵力を擁しており、そのために不遜な振る舞いが多く、また上洛して平氏を倒すよりも関東での割拠を指向しており、武家政権の樹立を目指す頼朝にとって危険な存在であった。

★上総広常の妹は原高成の妻であり、生まれた娘は平忠度の母でした。
ただ・・
(・_・)ここで・・・またです。また、このような話が出て参りました(@_@。
感情や、先入観を抜きで調査をする事が重要とは重々承知なのですが
あまりにも、私の調査にはこのような話が多すぎて・・とても辛くなる事があります。
言葉は良くないですが、相手を油断させた状況での「不意打ち」です・・
列記します。
★ヤマトタケルの熊襲征伐。(女装しクマソタケル兄弟の寝所に忍び込み、これらを討ち、その際に「タケル」の名を弟タケルより献上されたという神話)

★相良長頼と平河義高について(平頼盛の代官である矢瀬主馬助に人吉城の明け渡しを迫ったが主馬助が拒否したため、木上城主の平川義高の協力を得て大晦日にこれを胸川に誘い出して滅ぼし人吉城に入城した。)

★平河義高と姻戚関係を結び、友好関係を結んでいた相良長頼が、油断した平河義高に対し、突如兵を向け、本家筋を殲滅。

後は、書き出すのも躊躇するほどあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%BF%A0%E9%A0%BC
★南九州国人一揆 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E4%B8%80%E6%8F%86
そして、本日の調査にて・・・

時代背景もあるのでしょうが、あまりにも多すぎて・・とても複雑な気持ちです・・・

では、ピックアップした転記に戻ります(・_・)
幕府宿老[編集]
景時の讒言と呼ばれるものには夜須行宗と畠山重忠の事例がある。夜須行宗が壇ノ浦の戦いでの恩賞を願ってきたとき、景時は夜須という者の名なぞ聞いたことがないと申し立て訴訟になり、証人が出て夜須の戦功が明らかになり景時は敗訴した。罰として景時には鎌倉の道路の普請が科せられた。
畠山重忠が罪を受けて謹慎させられ千葉胤正に預けられた。重忠は罪を恥じて絶食してしまい、頼朝は重忠の武勇を惜しみこれを赦免。重忠は武蔵国の館に戻ったが、景時はこれを不審として、重忠が恨みに思い謀反を企てていると言上した。頼朝は重忠へ使者を遣わせると、恥辱と感じた重忠は自害しようとし、使者はこれを押しとどめて申し開きをするため鎌倉へ行くよう説得。景時が尋問役となったが重忠は身の潔白を断固として反駁し、頼朝もようやく疑いを解いた。人望のある重忠を陥れようとしたとして景時は御家人たちからひどく恨まれた。一方で景時は都築経家、金刺盛澄、城長茂、曾我兄弟の赦免を願い出ることもしている。
★景時は都築経家、金刺盛澄、城長茂、曾我兄弟の赦免を願い出ることもしている。 姻戚関係があったのでしょうか?金刺氏・曾我兄弟?

★徳大寺家との関係について記述がありました。
建久元年(1190年)、頼朝が初めて上洛すると景時はこれに供奉し、途中の遠江国橋本宿での遊女を集めての宴で頼朝と景時が和歌を交わしている。また、『沙石集』に奥州合戦の際に頼朝と交わした和歌が残されている。建久2年(1191年)の徳大寺実定の死去の記事に景時と弟の朝景が実定から学んだとの記述があり、梶原氏は優れた歌人を輩出した徳大寺家と交流を持ち和歌を学んでいた。

※徳大寺実定から和歌を学んでいた・・

★『吾妻鏡』は、景時が上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に建てて反乱を企てたとしている。しかし義経の転落を見ていた景時が同じ轍を踏むとは考えられず、土御門通親や徳大寺家といった京都政界と縁故を持つ景時は、都の武士として朝廷に仕えようとしていたと見られる[2]。梶原一族滅亡の地は梶原山と呼ばれている。なお、吉香友兼が景茂を打ち取った際に所持していた青江の太刀は、友兼の子孫である安芸国人吉川氏の家宝として伝授され、国宝「狐ヶ崎 」として現在に伝わる。

※土御門通親や徳大寺家といった京都政界と縁故を持った。

徳大寺実定とも縁があり土御門通親とも縁があった・・

土御門通親は「源通親」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%80%9A%E8%A6%AA
系譜を見て下さい
妻:藤原範子(藤原範兼の娘)・・・藤原範兼は「信西」の従兄弟です
三男:久我通光(1187-1248) - 子孫は久我家
久我通光の孫は「久我通基」。正室・室ともに「藤原長方(妻・信西の娘・藤原師高の娘」の孫および、ひ曾孫。
★コメント13に繋がっていました。

ウィキでは最後にこの様な記述がありました。
後世の評価
一般に、景時には「義経を陥れる讒言をした大悪人」といった印象が持たれている。残されているエピソードや資料における記述などから、力のあるものにはへつらうが、格下相手には高圧的で尊大、という印象を持たれている[3]。ただし、その悪名には誇張が含まれていることも多いと推測される[4]。
鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』では、その死に際する記事で「二代にわたる将軍の寵愛を誇って傍若無人に振る舞い、多年の積悪が遂に身に帰した」と記されている。景時追放の原因とされた讒言は、『玉葉』によると将軍・源頼家に、その弟・実朝を将軍に担ごうとする陰謀がある事を報告したものであり、景時追放の3年後には北条氏の陰謀によって頼家が追放・暗殺され、実朝が将軍となり北条時政が実権を握っている事から、北条氏に不都合な景時追放の真相は歪曲され、景時を悪人として断じているのである。元々その職務から恨みを買いやすい立場であった景時への、御家人たちの不満に火を付けて煽ったのは時政の娘で実朝の乳母である阿波局であった。
『平家物語』『源平盛衰記』では、逆櫓論争など義経と景時の対立の話がより具体的に記述されている。そして、義経を主人公とする『義経記』では景時は敵役として描写されている。
景時に対するこうした印象が本格的に定着したのは、庶民文化が隆盛した江戸時代であった。分かり易い勧善懲悪が好まれた歌舞伎や講談で義経を悲劇の英雄とする判官贔屓とあいまって、敵役の景時はこれを陥れた大悪人とされた。[5]

(・_・)他、多数の評価が記述されていました。

まず、武藤資頼の舅「梶原景時」についてを簡単にですが、勉強いたしました。

上総広常(妹は原高成の妻)・徳大寺実定・土御門通親と言った方々の名が出てまいりました。

ですが・・・
実は、まだ、ありました。

梶原景時の母は横山孝兼の娘。

ここからの調査は長くなりましたので、次のコメントでご紹介致します。
では(・_・)
[58]子孫よりさんからのコメント(2014年08月01日 10時12分25秒 ) パスワード

では、続けます。

武藤資頼の舅「梶原景時」

梶原景時の母は横山孝兼の娘。

横山孝兼を調べました。
横山党の祖義孝の孫経兼、嫡子の孝兼は横山氏を継ぐ。

まず、日本の苗字七千傑様の《横山党》姓氏類別大観を拝見しました。

そして・・
北条重時の正室「荏柄尼西妙」の父「苅田義季」がこちらの姓氏類別大観の中に見えます。
北条重時は「平河観覚」とも名乗り、平河師里は北条重時の甥でした。
そして、「尼西妙」の名は球磨の記述に残っています。
様々な書籍には「尼西妙領」は平河一族か?とのクエスチョンマーク付きで記述されています。(解明はされていないようです)

以前、こちらの姓氏類別大観を拝見した時には、「尼西妙」と「苅田義季」が平河の何に繋がるのか全く解らなかったのですが・・
ただ、相良氏も横山党「愛甲氏」と姻戚関係がありますから、憶測は避けたいと思います。(ただ、現在は家も愛甲とは親戚ですが・・)

横山党の祖は「義孝」なのですね。

横山党を再確認する為にウィキの記述を
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%9A

横山党(よこやまとう)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国多摩郡(現・東京都八王子市)横山荘を中心として、武蔵国(大里郡・比企郡 - 橘樹郡)および相模国北部に割拠した同族的武士団である。武蔵七党の一つ。家紋は丸ノ内万字卍。武蔵七党系図の筆頭。有名人としては、中条家長(初代評定衆として御成敗式目の策定に関与)や愛甲季隆(弓の名手。畠山重忠を討ち取る)、横山時兼(正治2年)(淡路国の守護)などが居る。時兼の叔母は鎌倉幕府侍所別当の和田義盛の妻、妹は和田義盛の長男常盛の妻であった。建暦3年(1213年)和田義盛と執権北条義時とが対峙した和田合戦で姻戚関係にあった和田氏に与したが敗れ衰退した。なお猪俣党も一族である。(八王子市の歴史を参照)横山義隆の弟の時範(時資)が猪俣となった。

横山党の諸氏
横山、椚田、海老名、藍原(相原、粟飯原)、平子(現在は三浦氏族とする説が有力)、野部(矢部)、山崎、鳴瀬(成瀬)、古郡、小倉、由木、室伏、大串、千与宇、伊平、樫井、古市、田屋、八国府、山口、愛甲、小子、平山、石川、古沢、小野、古庄、中村、大貫、田名、小沢、小俣、本間、中野、成田、中条、横瀬氏(由良氏、新田氏と自称)、小山

姓や名に拘ってはいけませんが「横瀬氏」「成田氏」が見えます。

「成田氏」? あれっ?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E6%B0%8F

出自は藤原氏説と、武蔵七党の一つ・横山党説がある。少なくとも鎌倉時代以前、武蔵国北部に拠っていたとみられる。
藤原氏説には先祖を藤原道長とする説と藤原基忠とする説の2つがある。道長説は、道長の孫子・任隆が武蔵国幡羅郡へ下向し、その曾孫・助隆が成田を名乗ったとする(『藩翰譜』)。ただし藩翰譜で道長の孫子に任隆はみえないと指摘される。
基忠説は江戸時代に成田氏の末裔が作成した「成田氏系図」[1]にみえるもので、藤原行成の弟基忠を祖とする。基忠が武蔵守となり、武蔵国崎西郡に居住したのが始まりとされる。基忠の子宗直が崎西郡司となり家忠・道宗と続き、助隆の時に成田郷に居住して地名を氏としたとされる。 この基忠説は誤りで、『続群書類従』に収録されている「成田氏系図」は、現在の熊谷市の龍淵寺所蔵のものを写したようですが、その元の文書は「忠基」となっています。
一方、横山党説は『武蔵武士』(渡辺世祐・八代国治 共著、1971年)が提唱したもので、小野姓横山党の横山資孝の子・成任が成田を称したとあり、藤原姓としたのはこの系統の仮冒とする説である。『埼玉県史』などは横山党など武蔵武士出身ではないかとする。

(・_・) あれっ??!

★基忠説・・藤原行成の弟基忠を祖とする。基忠が武蔵守となり、武蔵国崎西郡に居住したのが始まりとされる。基忠の子宗直が崎西郡司となり家忠・道宗と続き、助隆の時に成田郷に居住して地名を氏としたとされる。
(・_・)こちらであれば、先祖は「藤原義孝」となりますね・・

★横山党説・・『武蔵武士』(渡辺世祐・八代国治 共著、1971年)が提唱したもので、小野姓横山党の横山資孝の子・成任が成田を称したとあり、藤原姓としたのはこの系統の仮冒とする説
(・_・)横山義孝の子は横山資孝。
横山資孝の子、成任は、「苅田義季」に繋がります。

(?_?)と言う事は平河の記述や系図に、「どちらの説を採っても」繋がると言う事ですね???
なんだこれは??(?_?)

二人の「義孝」です。「藤原義孝」と「横山義孝」

そして、最初に戻りますが、梶原景時の母方の祖父「横山孝兼」は「横山義孝」の曾孫。

とても長くなりましたが、このような事実を見つける事となりました。

では<(_ _)>(^・^)・・・(?_?)
[59]子孫よりさんからのコメント(2014年08月01日 10時23分22秒 ) パスワード

追記
土御門通親の猶子は
男子:大江親広(?-1242)- 大江広元嫡男

でございました。

では<(_ _)>
[60]子孫よりさんからのコメント(2014年08月01日 18時50分50秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

って笑っている場合ではありませんでした(ー_ー)!!

またまた、先入観を持って「横山党」を見ていました(+_+)
横山党 = 「武蔵国!!!」っと頭の中がいっぱいになっていました(*_*;
大失敗です。

横山党・小野成綱から南北朝時代まで、こちらは「尾張国守護」ではありませんかーーーーー!!!

偶然、こちらの記述を見つけまして
系図研究の基礎知識: 家系に見る日本の歴史 - 第 1 巻 - 384 ページ より

成綱は武蔵の横山党の出身で、横山野大夫成任の子、野三刑部丞と称し、弓の達者であったというさて、鎌倉時代の尾張の守護 ... 六世綱俊のとき、原大夫良峯・春とともに、関東御家臣真昨より五代前から郡司をつとめ、その後も歴代郡司をつとめていた。

★原大夫良峯・春とともに、関東御家臣真昨より五代前から郡司をつとめ、・・
なっナンデスト!!

ものすごく気になったので調べたのですが
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakajo_k.html

中条氏の登場

 横山義孝の孫成任は北埼玉郡成田を領有して成田大夫を称し、嫡男の成田太郎成綱は保元元年(1156)の保元の乱に際しては源義朝に従って大炊御門口の戦いで奮戦した。つづく平治元年(1159)、平治の乱に敗れた義朝が殺害されたのち、伊豆に流された頼朝に対して変わらぬ態度で接したという。
 治承四年(1180)、頼朝が旗揚げをすると、成綱は一族とともに馳せ参じ、安達盛長とともに頼朝の側近として活躍した。成綱の弟成尋は中条義勝房法橋を称し、甥の盛綱とともに武蔵国北埼玉郡中条保に住していたが、兄成綱とともに頼朝の旗揚げに加わり石橋山の合戦で奮戦した。

と言う事で、上記の「成田太郎成綱」が尾張国守護「小野成綱」と言う事ですね。

(そんな事も知らなかったのかぁ!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!という何だか、合唱のような声が)

わたくし、だいぶ理解しはじめました(__)
では。
[61]子孫よりさんからのコメント(2014年08月02日 07時26分38秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

いつもの通り、一つの事に拘り過ぎて、また、重要な事を見失ってはいけませんので、今朝は、一つ頭を切り替えて、故郷旧久米郷宮原について何か情報の見落としがないかを確認致しました。

すると・・・
先祖に直接関係はありませんが、故郷の切畑地区にあった「切畑大明神」について、とても重要な事が理解出来ていなかった事に気が付いたのです。

平川家について12 コメント60でご紹介した「切畑大明神」
転記します。

私の故郷、球磨郡あさぎり町(旧岡原村大字宮原宮麓)の切畑地区に以前鎮座していた切畑大明神についてです。
明治時代に、他の神社と合祀されて「岡原霧島神社」となっています。

切畑大明神は大同年中に鎮座となっています。806年から810年までの期間を指します。この時代の天皇は平城天皇です。
御神体は阿蘇神社同体
神社記の中で康平六年(1063年)の記述に登場したのが・・平河師澄でした。
切畑大明神についての記述から球磨の「平河師澄」についての情報が得られていたとは全く知りませんでした(@_@)

そして・・切畑大明神は何度か再興・修復が行われています。
永萬元年乙酉、池大納言平頼盛により切畑大明神再興。(1165年)
延文年中修復(1356年から1360年までの期間)
天正十三年 藤原忠房公御願として藤原重興 再興。 ★おそらく相良忠房
天正十八年藤原頼房公及び家門の祈願  ★おそらく相良頼房
・・・・「神社記」および「星原内記」(補) より
実は鎌倉時代に入り御祭神としてあらたに祀られた方がいらっしゃいます。
平景清(藤原景清)の母君です。
(私、このお話も全く知りませんでした(@_@))

と言う事をコメントしていたのですが・・・
鎌倉時代に入り御祭神としてあらたに祀られた方、平景清(藤原景清)の母君

では平景清(藤原景清)の母君とはどのような方だったのか?
そう、思いまして、藤原景清の父「藤原忠清」について見落としが無かったか調べなおしたのですが・・

やはり、ありました(*_*;
藤原忠清の妻、平景清(藤原景清)の母君のお話ではなく・・
藤原忠清の娘についてです。

藤原忠清の娘は源為義の妻であり・・
源義朝の母。すなわち、源頼朝の祖母でした。
と言う事は、源頼朝にとって、平景清(藤原景清)は、祖母の兄弟と言う事になります。

藤原忠清と妻である方は源頼朝の曾祖父母と言う事です。

私の故郷にあった切畑大明神の御祭神として鎌倉時代にあらたに祀られた方は
源頼朝の曾祖母、藤原景清の母君。

それから・・
「永萬元年乙酉、池大納言平頼盛により切畑大明神再興。(1165年)」

この記述も、深く考えていませんでした(+_+)

もっと深く考えていなかった事があります。

鎌倉時代に、切畑地区を含め久米郷宮原を所領していたのは・・・
橘薩摩。すなわち宮原の先祖でした。

平頼盛と橘薩摩・橘公業の関係は・・
父・橘公長は、「京に馴るるの輩」という事で頼朝に重用され、元暦元年(1184年)、平頼盛の帰洛にあたって餞別の宴に同席した。

あの・・・・・・
「平頼盛」「源頼朝」といった方々を調査していて、何だか、物語の登場人物のようにすごく・すごく遠い方のイメージが強かったのですが・・

やっぱり、私は自分の・「宮原」の先祖の事が理解出来ていないな〜とつくづく今朝は痛感致しました。

先祖を「遠い遠いおじいちゃん」といった、親しみを持った単純な気持ちで、この時代を調査してはいけない事にやっと気が付きました。

そのような単純な気持ちを持って、情報をみるから、きっと見落としをするのだと、反省致しました。

やっと、今までの調査の点と線が繋がり始めています。
新たな調査以外に、今までの「沢山の見落とし」も、確認したいと思います。

では(__)





[62]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月02日 12時15分01秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>横山党 = 「武蔵国!!!」っと頭の中がいっぱいになっていました(*_*;
 
横山党に限らず武蔵七党の族葉が全国的な拡がりを見せている。
言わば武蔵七党は傭兵集団。
武蔵七党についてはhttp://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a3.htm#028
治承・寿永期における源平勢力対立状況は
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/bunritsu.htm
梶原氏、大庭氏にしても源平に別れて保険をかけていたわけだ。
梶原平三景時の息子は源太景季、後から父も源氏方へ寝返りだから恨む輩も多いわけだ。
こんな事は保元・平治の乱から明治維新後の西郷家まで同じ事の繰り返し。
 
児玉党小代氏は豊後、筑後、肥後に広大な所領を持ち、肥後最大の国人。
武蔵七党の西党小川氏は薩摩の離島である甑島まで進出。
武蔵七党を無視しては鎌倉・南北朝の九州抗争史は理解困難。
いつまでも肥後中心の頭を切り換えないと前進は無いでしょう。
[63]子孫よりさんからのコメント(2014年08月03日 00時49分50秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)
色々調べていましたら、遅い時間となってしまいました。<(_ _)>

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「横山党に限らず武蔵七党の族葉が全国的な拡がりを見せている。」

ここが、理解出来ていなかったので、私は、思考が偏ってしまっていたのだと痛感しました。

「源平に別れて保険をかけていた」

いずれかに分かれていれば、後世に「名(家)いえ、(ー_ー)!!子孫」は残って行くと言う事ですね。

「児玉党小代氏は豊後、筑後、肥後に広大な所領を持ち、肥後最大の国人」

まだまだ、理解していませんでした。(というか知りませんでした(+_+))

「肥後中心の頭を切り換えないと前進は無い」

しっかりと頭を切り換えて、前に進みます(__)


もう、すでにお気づきだと思いますが
先日の「武藤資頼の父はどなたなのでしょうか?」という質問ですが・・
実は、武藤資頼の父よりもしや「師高」に何らかの繋がりがあるのでは?と浅はかな、期待を持ってしまったのです。
そう甘くはありませんでした。
しかし、ご教示頂いたお陰で「梶原平三景時」や「武蔵七党 横山党」の勉強をする事が出来ました。
本当にありがとうございます。

所で・・
日本の苗字七千傑様、大変お忙しい所、毎回申し訳ありませんが、お教え頂きたい事があります。(夜分、遅くなりましたので、お時間のある時で結構です。申し訳ありません)

西光の娘、「藤原師高」の姉妹が妻となっていた「橘為範」という方は、どのような方なのでしょうか?
知識不足も重なって、かなり調べてはいるのですが、見つける事ができませんでした。
まず「橘」という姓もあり、尊卑分脈など系図関係も調べたのですが、見つける事が出来ませんでした。

しかし、この方は「伊賀」に関係した方だと言う事は解っているので「伊賀」まずは伊賀の「橘氏」を調べようと思ったのですが・・

「橘為範」に繋がる情報かどうかは解らないのですが、一つ「橘」に関する情報を見つける事が出来ました。

伊賀という国さえ、よく解っていないので(お恥ずかしい(*_*;)「伊賀国」についてまず、勉強をと思いまして、
「伊賀国」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%9B%BD

人物 国司
★伊賀守
礪波志留志
伊賀朝光
島田清田
平経盛
平知忠
橘成季   ← ★こちらです。 
二条定高
藤原公則
源光清従五位上

橘成季 伊賀守 です。
早速調べました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%88%90%E5%AD%A3

橘 成季(たちばな の なりすえ、生没年不詳)は、鎌倉時代の人物。橘則光の後裔である橘光季の養子。官職は伊賀守。『古今著聞集』の作者。

\(◎o◎)/! 橘則光の後裔である橘光季の養子 ・・ええっ!!

競馬をよくし、詩文や管絃・絵画を好み、藤原孝時から琵琶の伝授を受けたが破門された。寛喜2年(1230年)頃には右衛門尉の官にあり、九条道家の近習として競馬等に活躍している。1254年(建長6年)に成季が編著した説話集『古今著聞集』の序文では「散木士」、跋文(ばつぶん=書物の本文の後に書く文章)では「朝散大夫」と自称している。『古今著聞集』を完成させた建長6年(1254年)には既に隠居しており、文永9年(1272年)より前に没したらしい。

日本の苗字七千傑様の《橘氏嫡流》姓氏類別大観を拝見致しました。
「橘成季」は橘光季の養子。
「橘光季」は橘公長と近い関係?!

そして、ここから「橘成季」が何処から養子に入ったのか調べたのですが
「橘氏」http://www.geocities.jp/keizujp2011/tatibana1.html

「橘成季 たちばなのなりすえ 橘清則の子 橘光季の養子」
と言う事は伊賀守「橘成季」は橘公長・橘公業と同族と言う事です。

★ここで・・私の考えですが、「橘公長」は伊予橘氏とこちらの橘則光の後裔という二つの系がありますが、いずれにしろ、どちらの系とも何かしら繋がりがあったのではないか?と思うのです。
先日もお伝え致しましたが、橘則光の後裔を考えると、
「橘公業のふた従兄、大炊御門家当主「大炊御門師経」と鎌倉時代における球磨郡久米郷の久米三郎こと藤原家宗(大炊御門家宗)は義兄弟」
といった情報も出て参りますし、もちろん、伊予をはじめ讃岐・阿波などの四国とも強い繋がりがある事も理解出来ています。

祖母の先祖「平川」を調査するにあたっては、私は、「双方に関係がある」と考えて進めていきたいと思っています。<(_ _)>

(__)では調査内容に戻ります。

平知忠も伊賀守でした。

先にもご紹介した「伊賀守」の方々を簡単ですが、調べてみました

★礪波志留志
越中国礪波郡(富山県)を本拠とする,奈良時代の郡司級地方豪族。氏は利波とも書く。宝亀10(779)年2月伊賀守となる。地方豪族が財力を背景に国守にまで昇った例は少ない。

★伊賀朝光
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。藤原秀郷流の関東の豪族。伊賀氏の祖。娘に鎌倉幕府2代執権・北条義時の後室伊賀の方がいる。
妻は・・二階堂行政の娘

★島田清田
平安時代前期の貴族。姓は臣のち朝臣。正六位上・島田村作の子。孫に島田忠臣がいる。官位は従五位上・伊賀守。

★孫の島田忠臣について
島田 忠臣(しまだ の ただおみ、天長5年(828年)- 寛平4年(892年))は、平安時代前期の貴族・詩人。伊賀守・島田清田の孫。弟に島田良臣、子に島田仲平・仲方がいる。官位は正五位下・伊勢介。号は田達音(でんたつおん)。
菅原道真の師として知られ、娘宣来子はその正室となった。また、この時代を代表する漢詩詩人でもある。
※娘宣来子は菅原道真の正室。
母は不明だが、祖父の島田清田は、尾張の地方豪族[1]から、大学寮を出て学者・官僚として活躍、朝臣の姓を与えられ、従五位上・伊賀守に昇り、『日本後紀』の編纂者の1人に加えられた立志伝中の人物であった。
※尾張の地方豪族・・脚注には「島田臣は多氏の一族とする」とあります。
「島田清田」「島田忠臣」は多氏の一族でした。

★平経盛
平忠盛の三男。平清盛の異母弟。平敦盛らの父。
父・忠盛から歌人としての側面を受け継ぎ、歌壇での活動は活発であった。守覚法親王の仁和寺歌会や二条天皇の内裏歌会などに出席し、自らも歌合を催している。太皇太后・藤原多子の職事を長年に亘って務めた関係から、歌壇の中心である徳大寺家の実定・実家(多子の兄弟)、女流歌人・小侍従(多子の女房)、六条藤家の藤原清輔(共に太皇太后宮多子に仕えた)・重家兄弟と親密な交流があった。
※徳大寺家の実定・実家(藤原多子の兄弟)・・・親密な交流があった。

★平知忠
平知忠(たいら の ともただ)は、平安時代末期の平家一門。平知盛の次男。母は治部卿局
※乳母は紀伊次郎兵衛こと橘為範の妻。西光の娘。藤原師高の姉妹

★橘成季
橘則光(母:良峯義方の娘)の後裔。橘清則の子 橘光季の養子。
※橘公長・橘公業とは同族。

★二条定高
二条 定高(にじょう さだたか、建久元年(1190年) - 暦仁元年1月22日(1238年2月8日))は、鎌倉時代前期の公卿。参議九条光長の子。兄・参議海住山長房の猶子。
※娘は姉小路顕朝の妻
姉小路顕朝は藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の曾孫。娘は久我通基室。

★藤原公則
平安時代後期の公家・武士。民部少輔藤原伊伝の子。
河内守源章経の養子となって源姓を称したといわれる。子息のうち公貞の系統が河内国坂戸(現在の大阪府柏原市付近)を地盤として河内源氏に臣従し坂戸源氏と呼ばれたほか、則経の系統は利仁流の大族である後藤氏となった。

★源光清従五位上
源 光清(みなもと の みつきよ、生没年不詳)は、平安時代後期の貴族。文徳源氏。左少弁源致文の次男

簡単に調べただけなのですが・・偶然とは思いますが、少し鳥肌がたってしまいました。

@「妻が二階堂行政の娘」であり A多氏の一族であり B橘則光(母:良峯義方娘)の後裔にして橘公長・公業と同族であり
C徳大寺家実定・実家と親密な交流があり D娘が藤原長方の曾孫の妻である

という方々が「伊賀守」に連なっていました。

もちろん先入観はもっていません。
今、ご紹介した事は、不思議ですが偶然とはいえ事実です。

大変長くなってしまいましたが、調査の「点」と「線」が繋がる様に、しっかりと勉強していきたいと思います。

では(^・^)<(_ _)>
[64]白石さんからのコメント(2014年08月03日 02時08分13秒 ) パスワード

こんばんは
まるで 関係ないお話ですが 新聞を見ていたら 北條 本名・七条と いう言葉がありました。ある病気にかかっている人が本名をあかしておられるのですが
なので 北條は どうか?と思いますが
この七条とは 
七条家(羽林家) 町尻家(羽林家) ... ★水無瀬家(みなせけ)は藤原北家★隆家 流の堂上家である。家格は羽林家。★親王家。家紋は菊。 ... 平安時代中期、藤原隆家は 兄・伊周とともに叔父・道長と摂関の地位を争って敗れ出雲権守に左遷された。

水無瀬家は戦国時代に血統が途絶え歌道で有名な★三条西家から養子を迎えた。。
とウィキにあります。
隆家は菊池の遠祖といわれるひとですね。つまり 菊池も相良も平川だったので平川に関与する家ともいえる。

水無瀬北條(または北條水無瀬系図)系図というのを 過去に 公卿時点で見たことがあります。
御鳥羽天皇に関与する水無瀬神宮が大阪にあり、これらから 桜井の言葉も出ます。
言葉だけなら 近い世代に 岩倉具視・堀河などの言葉がありますね。
[65]白石さんからのコメント(2014年08月03日 02時12分53秒 ) パスワード

梶原 横山 何と なつかしい言葉がでたことか!!と思いながらコメントを拝見させていただいていました。
二つとも 血縁はないのですが
子どもを背中に負ぶって図書館通いをしていた頃
母の実家のお寺様の苗字が香川氏なので 本で ★梶原の子孫と 読んだことがあります。
そうだとは 確認していませんが、 いろいろ 推考するとそうなります。
祖先は 平良文。この人は 東国に行くとき 熱田神宮に 寄っている。
―――――――――――――――――――――――
以下は多分子孫様がおしらべになったことをなぞらっているのだろうと思うのですが、私あらためて 私の近くにいる家の苗字(過去に調べたことがでてくるということ、つまり 祖先をさかのぼると小さくまとまってくる)が、何小路とか なんとか家とかでなく 俗名(本名)みたいなもの なのでは?と思います。

平 良文(たいら の よしふみ)は、
平安時代中期の武将。桓武天皇四世。平高望の五男 とされ、生母は高望の側室である藤原範世(または藤原師世)の娘とされる。

で 師世の系を見てみると 北家の系図・小一条流に
良房・・・師尹★〔小一条流〕・・・庶流に飛騨国司家の姉小路家・華族類別録によれば、摂津三田藩主・丹波綾部藩主の★九鬼家と、下野壬生藩主の★鳥居家も師尹の裔ということになっている。・・・師成 師季(母・肥前の守・藤原定成女子)・・・師綱・・・済綱―家綱(母・★藤原親能女子)―時綱(★中原広季女子)
済綱弟・親綱本名・親憲(母・★藤原俊忠女子)―家時・・・師世
家時の子・信時の兄弟から姉小路

藤原俊忠 - Wikipedia
藤原 俊忠(ふじわら の としただ、延久5年(1073年)- 保安4年7月9日(1123年8月2日) )は平安時代後期の公卿、歌人。藤原北家御子左流、大納言藤原忠家の次男。従三位・ 権中納言。二条を号す。

[66]白石さんからのコメント(2014年08月03日 02時15分33秒 ) パスワード

上は公卿類別譜からですが
人物の紹介の部分で
藤原 師成[ 寛弘6(1009)年 〜 永保元(1081)年9月1日 ]
通任一男。母★藤原永頼女。

康平6(1063)年7月26日叙従三位。
永保元(1081)年8月5日出家。
正二位・参議。

※生年は、公卿補任・尊卑分脈の没年齢73歳から逆算。没年齢は要記作72歳。
※母は、尊卑分脈には或藤原信理女とある。
※没日は尊卑分脈係11日。
藤原永頼は山井三位と号し・・・永頼の子孫は院政期に★藤原信西、藤原朝子夫妻、源義朝の遺児源範頼の養父である藤原範季やその娘で順徳天皇母の修明門院、源頼朝の外祖父藤原季範や母の由良御前などを輩出している。

[67]白石さんからのコメント(2014年08月03日 02時23分57秒 ) パスワード

藤原範世の系は
南家高倉流。戦国末期に中絶するが、四辻公遠の子嗣良が再興し、藪に改号する。藪家は、属閑院家として、羽林家に列される。

高倉系図については 二つあり
北家長良子孫につく系
長良の女子(★高子。母藤原総継女贈正一位乙春。清和院女御。陽成天皇母) 

子孫ずっとさがって 永康が高倉を号し、永経が冷泉を号する。

私高子がでることで ここは おそらく 魚名の系とからんでくるのではないか?魚名の系は初め北家嫡流だった。その系に 伊達氏 などが おり 白石が関与してくる。伊達は四条でもあり 鷲尾貞子の四条とも 通じてくる。
これは 大雑把な 把握です。

[68]白石さんからのコメント(2014年08月03日 02時37分06秒 ) パスワード

別系として
南家武智麻呂四男巨勢麻呂の十三男貞嗣の後裔。範季の時に高倉を号す。嫡流は範久で中絶するが、藤原北家閑院流の四辻公遠の次男嗣良が再興し、家名を藪に改姓する。
季綱・・・4世孫・範季が高倉(藪)を号す。
季綱の孫・通憲(信西)・・・女子(三条公房室。★安喜門院母〔女院小伝によれば、
安喜門院母は従三位範季女修子

前にわたくし 高岡のことで
熱田神宮で教えていただいたとき 初め北家閑院流 子孫に 南家武智麻呂流から養子 と 言われました。そのことを 書いたとき 7000欠様から たかおかは 血流から 南家に分けられる と ご教示いただきました。

高倉は わたくしの意識では白石に近いのですが うちの 高岡・白石(父母夫婦養子)の関係を考えると やはり 白石の方だと思います。

過去に 小さい本で 白石は 後漢霊帝子孫・漢王室外戚・王氏子孫と見たことがあり 何か 系図にあらわれていない ものが あるような 気がしています。

王氏については 前に出ていますので・・・
[69]子孫よりさんからのコメント(2014年08月03日 09時11分30秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。
お久しぶりです。お元気でしたか?(^・^)

あの・・・
ご教示の中にあった
「水無瀬家は戦国時代に血統が途絶え歌道で有名な★三条西家から養子を迎えた。。
とウィキにあります。
隆家は菊池の遠祖といわれるひとですね。つまり 菊池も相良も平川だったので平川に関与する家ともいえる。」

というお話ですが、「三条西家」つまり「正親町三条家」に繋がっていく事が解っているのは、実は「宮原」の先祖、すなわち「橘公業」「橘公員」「薬上助局」でございます。

まずはご説明を。

以前より橘公業の娘「薬上助局」を詳しく調べなければと思いながらも、以下の記述までしか進めていませんでした。
吾妻鏡 1239年 (暦仁2年、2月7日 改元 延應元年 己亥)
11月5日 庚午
薩摩の與一公員と伊豆の前司頼定と相論する出羽の国秋田郡湯河湊の事、今日御前に 於いて一決を遂ぐ。散位康連これを奉行し、公員に付けらると。頼定妻女の父の遺領 たるの由これを申すと。

そして・・
http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?word=%25C2%25F4%25C6%25E2%2528%25C3%25E6%25C0%25A4%2529&id=7259426
鎌倉期に見える郷村名出羽国秋田郡のうち延応元年6月橘公業譲状案・同年11年5日鎌倉幕府裁許下知状案に,「あいたのこほりのうち,さはのうち」「秋田郡沢内」地頭職とある(小鹿島文書)文治5年奥入合戦の勲功賞として,秋田郡・小鹿島【おがしま】の両地頭職に補任された橘公業は,元久元年郡内の沢内地頭職を妻藤原氏女に譲渡承元4年藤原氏女は娘薬上(助局・源姓毛利頼定妻)に移譲したが,延応元年薬上の死去により公業はこれを悔返し,十一子公員に改めて譲渡頼定との幕府法廷での相論の結果,公員の当知行地と決定した裁判の様子は「吾妻鏡」延応元年11月5日条にも記載(ただし,この条では沢内のみ見えない)地名は川の流れる山間部によるとみて,従来は新城【しんじよう】川の上流域山間部に比定してきた(地名辞書・南秋田郡史)むろん確たる根拠があるわけではない馬場目【ばばめ】川の上流域山間部も大村であり,沢内といい,現在も沢内【さわうち】の字地をとどめる馬場目の町村にまつる神明社の鎌倉期棟札には「橘朝臣」とも記載候補地の1つに入れるべきであろう...

★登場人物は
橘公業 公業の妻:藤原氏 薬上助局 夫の源姓毛利頼定 橘公員 です。
上記に書かれているように、延応元年(1239年)には訴訟対象の土地は橘公員の当知行地と決定したようです。

以前、薬上助局 夫の源姓毛利頼定を調べたのですが、「毛利」という言葉に先入観を持ってしまい、結局、見つからなかったのです。

所が、最近、宮原の先祖「橘」と平川が何処かで関係しているのでは?と思い、あらためて、こちらの内容を調べたのですが・・
今回は・・解りました(^O^)/(少しは、歴史が見えるようになったのかな??なんちゃってです(ー_ー)!!)

今回は下記の記述を見つけました。
「延應元年(1239)十一月大五日庚午。薩摩与一公員与伊豆前司頼定相論する出羽國秋田郡 湯河湊の事、今日御前にて一决を遂ぐ。」

薬上助局 夫の源姓毛利頼定を「伊豆前司頼定」と書いています。

ここから、やっと「源姓毛利頼定」を見つける事が出来ました(^・^)

『千葉一族』こちらの「押田」をご覧ください(゜-゜)
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku32.htm

少し転記します。
千葉一族。その遠祖は八幡太郎源義家の六男・源義隆(六郎)。義隆は義家の子の中ではもっとも長生きし、源氏の長老として崇められていた。平治の乱(1159年)のときには、高齢の身に鎧を着込んで源義朝(頼朝の父)に従って戦ったが、義朝はあえなく敗戦し、義隆も近江から美濃へと落ちていく途中、落ち武者狩りの集団との戦闘の中で、首筋に矢をうけて死んだ。

 義隆が亡くなった当時、子・頼隆は生後五十日足らずであり、乳母に連れられて千葉介常胤を頼ったため常胤のもとで成人し、治承4(1180)年に千葉介常胤とともに下総国府において頼朝と対面する(『吾妻鏡』治承四年九月十七日条)。頼隆は常胤の傍らにひざまずいて頼朝の言葉を待った。常胤は「これなるは陸奥六郎義隆殿の遺児、森冠者頼隆と申す者でございます」と紹介する。頼朝は「あの陸奥殿の子息か。我もそなたもともに源氏の胤子じゃ。ともに平家を倒し先祖の願望を達そうぞ」と、頼隆を常胤の上座に座らせた。

こののち頼隆は毛利冠者と呼ばれ、従五位下・伊豆守に叙せられた。その後も頼朝の信任厚く、養和元(1181)年6月19日、頼朝が三浦に納涼のために出かけたときには護衛として同行した。また、建久元(1190)年10月9日の院参のときには後陣の随兵として付き従った。

 頼隆の長男・頼胤(若槻太郎)と弟・頼定、子・頼広は下総の千葉氏の庇護を受け、頼胤は下総守に任じられた。子孫も千葉氏の側近としての地位にあったようだ。一方、頼胤の弟・頼定は伊豆守を称して御家人の列に列し、森氏の祖となった。建長8(1256)年1月1日の御所における椀飯において見える「若槻伊豆前司」が頼定である。康元2(1257)年1月13日、酉の刻に「若槻前伊豆守従五位下源朝臣頼定」は七十九歳で亡くなっている。頼定の子孫は織田信長に仕えた森蘭丸が有名。

★八幡太郎源義家の六男・源義隆(毛利冠者) → 若槻前伊豆守従五位下源朝臣頼定(森氏の祖)
この方が、橘公業の娘(公員の姉)薬上助局の夫でございます<(_ _)>

では、最初に戻り、「橘公業」や「薬上助局」が「正親町三条家」に繋がるかといいますと・・

日本の苗字七千傑様の【清和源氏義隆流】《森 氏》姓氏類別大観をご覧ください。
頼貞の子「信義」からの後裔が「藤原氏公季流戸田氏」へと繋がっています。
「戸田氏」につきましては
日本の苗字七千傑様の《正親町三条家》姓氏類別大観。そして《戸田氏》姓氏類別大観をご覧ください。(なんて言っていますが、私もやっと解りました(__))

所で、今朝、このコメントを書きながらあらためて気が付いたのですが・・
 
《正親町三条家》姓氏類別大観のページを下げていくと・・
《赤尾氏/奥村氏/浅井氏》の赤尾氏の家紋が・・・あんれっ??剣方喰だっ!
と。(関係はないとは思いますが)

と言う事で、かなり長くなりましたが、
橘公業の娘「薬上助局」は
八幡太郎源義家の六男・源義隆(毛利冠者)の子息若槻前伊豆守従五位下源朝臣頼定(森氏の祖)の妻であり・・・
「頼貞」の末裔は正親町三条家の「戸田氏」へと繋がっていると言う事です。

(__)頼貞の子「信義」が薬上助局の子供かどうかは系図を見て確認はしていません。(あわてて、コメントしましたのですいません(*_*;)

ただ、私自身が驚いているのは

八幡太郎源義家 → 源義隆(毛利冠者) → 源朝臣頼定
こちらに「橘公業」が繋がっていた事なのです。

皆様、覚えていらっしゃいますか??
私が、こちらのスレッドを始めてしばらくして、「八幡太郎源義家」にものすごく拘っていた事を。
源義隆(毛利冠者)にも、拘っていました。

今、思えば「そういう事か・・」と。
どうも、「平川」の先祖ではなく(ー_ー)!!「宮原」の先祖のDNAが
「あっ!!ここ!ここ!!調べなさい!!」と私に伝えていたのかもしれません。
がっ!!しかし!!橘の子孫である私は・・
「ボ〜〜ッ(?_?)(-_-)zzz」とスルーしてしまっていたのであります。

それから「ボ〜〜ッ(?_?)(-_-)zzz」とスルー繋がり?ですが

昨日の日本の苗字七千傑様のご教示にもあった「武蔵七党・児玉党」に関してですが、ここ数日の調査で思い出していました。
(皆様、マタマタ(ー_ー)!!と言わないで下さいね)

私、かなり以前、コメントしていたと思うのですが、先祖が夢に出てきて
『「コダマに聞け?」か「コダマを聞け」と言った』と言うお話です。

あの時私は意味が解らずなおかつ最大のミスを犯していました。
「コダマ」を「やまびこ」と思い違いをして「ヤッホー」とか書いていたのです。(*_*;

さぞや先祖は泣いていた事だと思います。
きっと『「児玉党・武蔵七党」を調べなさい』だったのかな・・
それを「やっほ〜〜」だなんて(*_*;

もしかしたら・・
「宮原の先祖」と「平川の先祖」が私の「おっちょこちょい」をめぐり、どちらに似たのかで「お空の上」で「合戦」を始めるかもしれません(*_*;

そうならない為にも、私は日々、勉強を続けます。(__)

では<(_ _)>(^・^)

[70]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月03日 09時45分04秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

西光の娘、「藤原師高」の姉妹が妻となっていた「橘為範」という方は、どのような方なのでしょうか?
 
西光が藤原姓に改姓する様に、様々な氏族のものが橘姓に改姓しているのだが不明。
感覚的には、阿波か尾張の氏族でしょう。
系図を利用する上での常識として下記記事を熟読してください。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a5.htm#047
 
尊卑分脈は4万人も収載されているので利用者は多いが、
諸家の系図を渉猟して編纂したものでは無い。
藤原道長を中心とした系図の銀河系なのです。
従って藤原氏、源氏が主体で、平氏、橘氏、その他は散開星団扱いで収載人物も大幅に省かれている。
分脈意外にも系図類は多く存在するが月とすっぽんで話にならない。
 
後は公開されている「源平盛衰記」を始めとする各種文献の全文検索をすれば、運良く該当記事を見つけられるかも知れないので頑張って下さい。
[71]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月03日 10時13分40秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>過去に 小さい本で 白石は 後漢霊帝子孫・漢王室外戚・王氏子孫と見たことがあり 何か 系図にあらわれていない ものが あるような 気がしています。
 
白石姓は、圧倒的に伊予に多く越智氏族(称孝霊帝裔)。
越智は小市の表記もあり物部姓だが、阿智王随従七姓の中に朱姓小市氏があり伊予に居たようだ。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03004.htm
朱姓小市氏が物部姓に改姓した可能性もあるが何とも言えない。
[72]子孫よりさんからのコメント(2014年08月03日 10時53分14秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、お忙しい所、お答を頂き、本当にありがとうございます。

「感覚的には、阿波か尾張の氏族」と言う事ですね。
(とても、この方が気になります・・)

http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a5.htm#047

こちらを拝見致しました。

系図の確認だけではなく「各種文献の全文検索」を行っていきます。がんばります(^・^)

所で、今朝、コメントしました橘公業の娘「薬上助局」について、やっと理解する事が出来ました。(でも、先ほどの内容で合っているのでしょうか?)

今回も、やはり、「姓」に対する私の拘りが、調査を妨げていました。
源姓毛利頼定という記述から「毛利」という姓に拘ってしまい、結局、以前は見つける事が出来なかったからです。
源姓毛利頼定(伊豆前司頼定)は「源頼貞」であり「森頼貞」。

源 → 森 という事ですね。

ちなみに先ほどのコメント一部間違っていました。すみません、おっちょこちょいで(*_*;
「橘公業の娘「薬上助局」は
八幡太郎源義家の六男・源義隆(毛利冠者)の子息若槻前伊豆守従五位下源朝臣頼定(森氏の祖)の妻であり・・・」

「子息」ではなく若槻前伊豆守従五位下源朝臣頼定(森氏の祖)は
八幡太郎源義家の六男・源義隆(毛利冠者)の「孫」でした(__)
お詫びして訂正いたします。(__)(@_@。

源義家 → 源義隆 → 源頼隆 → 源頼定 となるのでした。

お伺いしたように、肥後に拘らず、全国を見渡すと「宮原」の先祖・「平川」の先祖の情報が見えてきました。

日本の苗字七千傑様、ご教示頂きまして、本当にありがとうございました。

では、本日もがんばります(^・^)
[73]白石さんからのコメント(2014年08月03日 20時33分47秒 ) パスワード

こんばんは
7000傑様ご教示ありがとうございました。
一人ではまるで みつけられないことでした。
朱氏
まったく 知識がなく とりあえず ネット検索をかけると 
【正史】『呉書(ごしょ)・孫休朱夫人伝(そんきゅうしゅふじんでん)』あり
がみつかり

朱子学の朱氏がみつかり
(朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系)
半島は儒教の国ともいい、始皇帝は 儒者を迫害した。その谷が「鬼谷」で 鬼谷には 熊野にある善財王伝説の妃の出産の話があり、
鬼谷先生が 魏の司空王昶より出る山田宿禰(新選姓氏禄)


山田宿禰:魏の司空王昶より出づ。
山田連:山田宿禰と同じき祖。忠意の後なり。
山田造:山田宿禰と同じき祖。忠意の後なり。
長野達:山田宿禰と同じき祖。忠意の後なり。
志我閏連(しがへのむらじ):山田宿禰と同じき祖。王安高の男、賀佐の後なり。
三宅史:山田宿禰と同じき祖。忠意の後なり。


時の殷の皇帝に見初められ第二妃となり、皇子を設ける。

周の太子・しん か ?周の外戚に王氏があるのだとか・・・

また 朱家は魯の出身である ともいう。
   朱家は漢高祖・劉邦と同時代の人。
[74]白石さんからのコメント(2014年08月03日 21時37分06秒 ) パスワード

私の母の実家のお寺様は 香川氏です。400年位続いた真宗のお寺だそうです。
お寺は 山口県にあります。他に 村上水軍の姫が毛利氏の援助で建てたというお寺の名を教えてもらっており、そのお寺の呼び方は 土地の人が使う言葉だと お寺様から教えていただきました。

子孫様の 梶原氏のコメントをみて 
以前 私が 香川氏について 梶原氏の子孫という ことなどを本で見ていたので なつかしくなりました。四国へ行ったことはないのですが・・・

そして うちの場合 香川氏はお寺様で 家の筋ではなさそうで(佐田は檀家筆頭と教えていただきました。)、上のそういうお話と どう つながるのかは? わからないのですが、香川氏は毛利氏につかえたとブログにあります。
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御霊神社の祭神:鎌倉権五郎景政(景正とも書く)は、
平安時代後期に活躍した桓武平氏の流れをくむ武将(平良文の五代の孫)。
父景成が鎌倉を領し「鎌倉氏」を名乗る。

16歳で源義家に従って「後三年の役」に出陣し、右目を射られながら奮戦したという伝説が残されている。

源頼朝の挙兵に敵対した大庭景親、梶原景時らの先祖でもある。
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平良文は東国に行くとき 熱田神宮に寄っている。


[75]子孫よりさんからのコメント(2014年08月04日 01時06分58秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

白石様からご教示頂いた
「平良文は東国に行くとき 熱田神宮に寄っている。」という言葉がとても気になりました。

恥ずかしながら、私「平良文」という方の事を理解出来ていませんので、まずは勉強をと思いまして、調べました。(多分、以前も調べたはずなのですが・・悲しいかな頭に入っていません(*_*;)

平良文 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E6%96%87

平 良文(たいら の よしふみ)は、平安時代中期の武将。桓武天皇四世。平高望の五男とされ、生母は高望の側室である藤原範世(または藤原師世)の娘とされる。官位は従五位上、陸奥守、鎮守府将軍。

武蔵国熊谷郷村岡(現・埼玉県熊谷市村岡)、相模国鎌倉郡村岡(現・神奈川県藤沢市村岡地区)に移り、そこを本拠に村岡五郎を称したとされるが、謎の多い人物である[3]。加えて下総国結城郡村岡(現・茨城県下妻市)にも所領を有し、現在の千葉県東庄町、同小見川町にも居館があったとされる。

★村岡五郎と呼ばれた方ですね( ..)φメモメモ

妙見菩薩と良文
平将門が叔父の平国香と争うと、良文は将門に味方して染谷川で戦いを繰り広げた。この戦いで将門・良文の軍勢は苦戦し七騎のみとなり、良文は自害する場を求めてさまよっていた。そこに突然不思議な声が聞こえ、その声に誘われるままに後をついていくと寺院が現れた。その寺院の寺僧によるとここは妙見寺という北斗七星の化身・妙見菩薩を祀る寺院であり、良文が妙見菩薩に選ばれた者であるといい、七星剣を渡された。また寺僧の言葉の通り、その証拠として良文の体には月と星の印が浮き出ていた。この出来事以降、妙見菩薩の加護を受けた良文・将門軍は勝利を重ねて坂東八カ国を討ち据えたが、良文はこの乱中に、北を目指して陸奥守、鎮守府将軍として陸奥国胆沢に赴任していった。一方、将門は凶悪の心をかまえ神慮に憚らず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門を離れ良文の元に渡ったとされる。
また、後代千葉氏の一族によって編纂された『源平闘諍録』には、良文が甥である将門の養子となっていたので、将門の窮地を救った妙見菩薩が良文から忠頼を経て千葉氏に伝わり、結城浜の戦いでは千葉成胤を助け源頼朝を守ったとする記述がある。

★妙見信仰ですね。

子孫[編集]
良文には5人の子がおり、長男の平忠輔は早世したが、春姫(平将門の娘)を正室とした三男・平忠頼からは千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏などが、五男・平忠光からは三浦氏、梶原氏、長江氏、鎌倉氏などが出て、さらにこれらの氏族から多くの氏族が分かれて「良文流平氏」を形成した。後に、源頼朝による源平合戦に従軍して鎌倉幕府の創立に協力し、鎌倉幕府で有力な御家人になった者の多くがこの良文流平氏に属する。
★今朝、コメント致しましたが「千葉氏」。「源頼隆は乳母に連れられて千葉介常胤を頼ったため常胤のもとで成人した。」とありました。

こうなれば「千葉介常胤」この方も調べます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%B8%B8%E8%83%A4

千葉 常胤(ちば つねたね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。千葉氏を地方豪族から大御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。

出生[編集]
桓武平氏良文流千葉氏の一族。父は下総権介・千葉常重。上総広常とは又従兄弟。平安時代末期における下総国の有力在庁官人であった。官途名は千葉介(ちばのすけ)。

★上総広常とは又従兄弟。

平治の乱で敗れた源義朝の大叔父にあたる源義隆の生後間もない子が配流されてきたため、常胤は流人としてこれを監督しつつも、源氏への旧恩から、この子を密かに源氏の子として育てた。これが後の源頼隆である。

とありました。

『吾妻鏡』では9月17日に常胤は一族300騎を率いて下総国府に赴き頼朝に参陣したとしている。ただし、頼朝が途中、常胤の本拠である千葉荘を通過して千葉妙見宮などを参詣したと伝えられている

「千葉氏」について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E6%B0%8F

千葉(ちば)氏は、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる下総の豪族で、守護大名・戦国大名となった一族である。桓武平氏良文流。通字は「胤」[2]。

桓武平氏良文流。しかし、古代豪族とのゆかりもあるともいわれ、千葉氏は、古代の多氏の部曲の多部(おおべ)、或いは知々夫国造の出という説もあるが、それらの説を裏付ける傍証はない。

★古代豪族とのゆかりもある・・千葉氏は、古代の多氏の部曲の多部(おおべ)の出の説もある(裏付ける傍証はない)

常胤の孫の千葉成胤の没後、千葉氏に幼少の当主が相次いだのに対して、早くから兄とともに幕府に出仕していた弟の千葉常秀の系統が房総平氏の惣領的な地位に立つ事になる。その子・千葉秀胤は鎌倉幕府の評定衆に任じられ、幼少の千葉氏当主千葉頼胤の後見としたため、千葉氏の一族の多くも秀胤に従うこととなった。ところが、宝治合戦で縁戚である三浦氏に連座した秀胤は北条氏に攻め滅ぼされ、秀胤に従った房総平氏の多くも処分された。千葉頼胤は罪を問われることなく、名ばかりであった千葉氏の当主としての主導権を回復させたものの、一族の多くを失った打撃が大きかった。千葉氏が妙見菩薩を千葉氏宗家(成胤とその子孫)および一族の守護者であることを強調する主張(“妙見説話”)を完成させたのは、頼胤の時代であるとする説がある[3]。

★千葉氏が妙見菩薩を千葉氏宗家(成胤とその子孫)および一族の守護者であることを強調する主張(“妙見説話”)

元寇に出陣した千葉頼胤が戦死して嫡男の宗胤が代わりに九州に下ると、下総の留守を守る家臣達の中に下総守護の職務が行えない宗胤に代わって弟の胤宗を当主に擁立して宗胤には肥前国に留まるように望む意見が高まった。これに反発する宗胤とそれを支持する家臣はこれに抵抗し、長期にわたって紛争を続けた。宗胤没後長男の胤貞は、折りしも勃発した南北朝の戦いに際して北朝方について南朝方の貞胤(胤宗の子)を攻め、貞胤は北朝方に降伏した。しかし降伏した貞胤は北朝側に寝返って、室町幕府より下総守護の地位を保証された胤宗の子孫が千葉氏宗家として存続した。このため、宗家の地位を失った胤貞流の千田氏はその後衰退し、肥前国に在った宗胤の次男胤泰が九州千葉氏を興す事になった。

(・_・)
千葉氏について、初めて、しっかりと記述を読みました。

※桓武平氏良文流。しかし、古代豪族とのゆかりもあるともいわれているのですね。「多氏の部曲の多部(おおべ)、或いは知々夫国造の出という説」(裏付ける傍証はないとはありましたが・・)

そして
※妙見菩薩を千葉氏宗家(成胤とその子孫)および一族の守護者であることを強調する主張(“妙見説話”)

以前、コメントしたと思うのですが、平川を調べている時に「千葉氏」に関連する情報が出てきて、気になっていたのですが・・

でも、千葉氏に由縁があったのは「宮原(橘)」の方だったと言う事で・・

何故、平川の調査をしていると「宮原(橘)」の情報につながるのか?この謎?も、先入観をもたずに調査を進める事で見つかるのかもしれません。

しかし・・・
白石様は、やはり「何かの能力」をきっとお持ちです。
その能力が、私を導いて下さっています。
ありがとうございます(^・^)

では。
[76]白石さんからのコメント(2014年08月04日 01時41分30秒 ) パスワード

お寺は山口県ですが、香川県多度津は香川氏の城があったところ。
多度津は 空海が生まれたところ。屏風岩。そこの近くが屋島。

梶原 大庭と同祖になるのは 長尾なども・・・
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空海が開いた高野山は 久米邑といっていた。空海は佐伯氏で 京都小野の随心院に景行天皇の系をとおる血脈があると・・・
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その高野山の奥の院に高岳(高岡)親王が建てた親王院がある。
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中央の佐伯氏( 佐伯連)は,所伝では大伴氏と同祖
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ウィキより
『日本書紀』神代下天孫降臨章1書には、大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(天久米命)を率いて瓊瓊杵尊を先導して天降ったと記されており、『新撰姓氏録』左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。このことから、久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられている。

ただ、『古事記』には天忍日命と天津久米命の2人が太刀・弓矢などを持って天孫降臨に供奉したとあり、大伴氏と久米氏を対等の立場として扱っており、両氏の関係を考える上で一つの問題点となると思われる。

また、神武天皇東征説話に見える来目歌、戦闘歌舞の代表といえる久米舞は、久米氏・久米部の性格を考える上で重要である
とある。
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児玉党
武蔵児玉党の祖を祭る有氏神社
有氏神社(ありうじじんじゃ)は,JR児玉駅(八高線)の南西8キロメートルに鎮座する。社地は,群馬県と埼玉県を分けて流れる神流川(かんながわ)の右岸である。
当社は,武蔵児玉党の始祖,有道氏(ありみちし)を祭った神社だとされている。

武蔵児玉党流富田氏[編集]

武蔵国児玉郡富田邑(現在の埼玉県本庄市富田)発祥の氏族。武蔵七党中最大の武士団とされた児玉党を構成する氏族であり、児玉氏の本宗家から派生した。遵って、藤原姓とあるが、本来は有道(在道)姓である。

『吾妻鏡』、元暦元年(1184年)8月2日条(雨降る)、平氏の残党と合戦し、残党は敗北、90人余り、討ち死にした(三日平氏の乱も参照)。この平氏残党の張本は4人であり、そのうちの1人は富田進士家助なる人物とされる。

子孫より12に 家助の子孫?・黒田氏について 書いていますが・・・

[77]子孫よりさんからのコメント(2014年08月04日 09時31分34秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございました。

平川家について12で白石様から「富田進士」について伺いまして、その時、私も勉強をと調べていました。(コメント42)

吾妻鏡に登場する「富田進士家助」は「伊勢平氏の首領・平信兼の子」とありました。

武蔵児玉党流富田氏とは、また、別の流れ「富田氏」のようですね。

がっ!しかし、
白石様のコメントにもありました

『吾妻鏡』
元暦元年(1184年)8月2日条(雨降る)、平氏の残党と合戦し、残党は敗北、90人余り、討ち死にした(三日平氏の乱も参照)。この平氏残党の張本は4人であり、そのうちの1人は富田進士家助なる人物とされる。

このお話には平川家について12コメント42でご紹介したように
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma03-08.htm

上記の4人方々の他に「山に逃げられてしまった」人物がいました。
「前出羽守信兼の子供達とそれに上總介忠清法師達は、山の中へ逃げられてしまいました。」
とあります。

上總介忠清法師とは・・平景清(藤原景清)の父「藤原忠清」です。

先日から「藤原忠清」この方のお話によく繋がります。

うんんん??
藤原忠清のは源頼朝の曾祖父。
藤原忠清の娘は源為義の妻であり・・
源義朝の母。すなわち、源頼朝の祖母でした。

あの・・・白石様のコメントのお陰で、私、以前から「あれっ?」と思っていた事を一気に思い出しました。
ありがとうございます。

そういえば・・
藤原忠清は鹿ケ谷の陰謀に非常に深く関係されていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%B8%85

藤原 忠清(ふじわら の ただきよ)は平安時代末期の武将。伊勢国度会郡の古市荘を基盤とする藤原秀郷流伊藤氏の出身で、平氏譜代の有力家人である。伊藤忠清とも。

左兵衛尉を経て、嘉応2年(1170年)に右衛門少尉となる。忠清は平氏一門の中でも特に平重盛に近仕しており、重盛の嫡男・維盛の乳父(めのと)でもあった。その後、何らかの理由で上総国に配流された忠清は、現地の有力在庁官人・上総広常の歓待を受ける。広常の態度は「志ヲ尽シ思ヲ運テ賞玩シ愛養スル事甚シ」かったという(『源平盛衰記』)。
★別名が上総介忠清でした。

忠清は閑院内裏の警備軍を指揮する立場にあり、安元3年(1177年)4月の延暦寺大衆の強訴では防備に当たった。この時に威嚇射撃の矢が神輿に命中し、大衆側に死傷者が出た。この結果、院と延暦寺の抗争は激化し、天台座主・明雲の配流と奪還、後白河法皇による延暦寺攻撃命令、鹿ケ谷の陰謀へと展開していくことになる。
★★以前「平川家について11」コメント65でも調査しましたが・・
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101348_95.html

ピックアップして、転記します。
「平川家について11」コメント65より

内容は筑前入道家貞(平田入道家貞)の孫で、平田家継(平家継)の子らが「射,神輿官兵-六人禁獄事」すなわち神輿に矢を放ち禁獄された・・という内容です。
鹿ケ谷謀議につながる「白山事件」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%82%B1%E8%B0%B7%E3%81%AE%E9%99%B0%E8%AC%80

禁獄された6名の名が源平盛衰記 師高流罪宣事にありましたので転記します
●平利家字平次 是者薩摩入道家秀孫 中務丞家資子
●平家兼字平五 筑前入道家貞孫 平田太郎家継子 ★
●藤原通久字加藤太 
●藤原成直早尾十郎 右馬允成高子
●藤原光景字新次郎 前左衛門尉忠清子 ★
●田使俊行字難波五郎

★平家貞の孫 平家兼
★藤原忠清の子 藤原光景 昨日コメントした「伊藤忠清」の子ですね。平景清(藤原景清)の兄弟です。

白山事件において
上記の6名は禁獄 藤原師経を備後国に流罪 藤原師高は尾張国への配流
となりました。

(・_・)と言う事をコメントしていた訳です。

この調査には続きがありました。
平家貞の子、平家継の兄弟「平貞能」は、宇都宮朝綱を頼って、1185年鎌倉方に投降後、消息不明となっているが、1198年に建立された山江村の寺院「高寺院(たかでらいん)」に平重盛公の念持仏であった一寸八分の黄金の毘沙門天を、重盛公供養の為に躯内に納めて祀った。という記録あり。
そして、その後、
平貞能の妻が「原高春」の娘である事がわかりました。

なおかつ・・
藤原忠清の甥藤原景俊は壇ノ浦で亡くなったという事でしたが、同名の「藤原景俊(平景俊)」という人物が「建保6年(1218)、阿蘇谷(熊本県球磨郡須恵村)預所院主惣公文であった」との記録が国宝「山王十社本地懸仏1面」で確認されている。

今まで、コメントしていなかったのですが・・
実は、このような記述も見つけていました。
日本宗教文化史研究 - 第 1〜2 巻 - 92 ページ
たと考えられることから、景俊を須恵氏の荘官であると推定しておられる。そこで、改めて建久図田帳の須恵氏に関する記述をみてみよう。これによれば、須恵小太良藤原高家(家基)は、人吉庄六百町の政所であるとともに、鎌倉殿御領のうちの百五十町の領主・・

傳教大師硏究 - 第 2 巻
平景俊はそれを管理したので、懸佛銘から建保六年(一二一八)には阿蘇の所領は沒收されていたと思われる。出しているが、須惠家基が沒し、須惠尼が繼いだ貞應(二三二―二四)の頃狼藉の咎で、將軍家預りとなってい姓を名乘つていることがわかる。須惠 ...

★平景俊は須恵氏の荘官であると推定。
他にも、平景俊(藤原景俊)を須恵小太良こと藤原家基の代官

と記述されている書籍もありました。

同姓同名の
藤原忠清の甥「藤原景俊」と須恵氏(須恵小太良こと藤原家基)の荘官「平景俊(藤原景俊)」

藤原家基の祖父は「藤原家忠」

「藤原家忠」の曾孫は平知忠の母「治部卿局」

「平知忠」の乳母は、白山事件で尾張に配流された「藤原師高」の姉であり西光の娘。

「藤原忠清」と鹿ケ谷謀議につながる「白山事件」の関係を調べたら・・
「球磨に繋がり」そして結局・・「鹿ケ谷謀議」の関係者に戻る・・・

何だか、ぐるぐる回っているようです。

所で、実は、新しい情報を見つけています。

長くなりましたので、次のコメントで。
では<(_ _)>(^・^)
[78]子孫よりさんからのコメント(2014年08月04日 11時22分39秒 ) パスワード

では、続きを(^・^)

阿波もしくは尾張に関係する「橘氏」を調べていたのですが、偶然、「橘氏」とは関係ない、このような情報を見つけました。

阿波の西光の「城」についてです。

帝國博物学協会 阿波國徳島縣城址(帝国博物学協会 阿波国徳島県城址)
http://www42.tok2.com/home/hakubutukan/awa/Awa_Tokushima.html

★広長城 板野郡吉野町柿原
     近藤氏 鹿ヶ谷変の西光法師の居城。

そこで「広長城」について調べました。

広長城は板野郡吉野町柿原にあった城です。
そして、板野郡吉野町柿原には「源太城」という城もありました。

では、まず、「広長城」から
http://blogs.yahoo.co.jp/soma_hinagi/32247052.html

広長城
形式:平城?
歴史:不明
所在地:阿波市吉野町柿原字植松
城主:近藤氏  鹿ヶ谷変の西光法師の居城。

中略・・
「中にも故少納言信西がもとにめしつかひける師光・成景という者あり。師光は阿波国の在庁、成景は京の者、熟根いやしきげろうなり。健児童もしは格勤者などにて召しつかはれけるが、さかざかしかりしによて、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉とて、二人一度に靫負尉になりぬ。信西がことにあひし時、二人ともに出家して、左衛門入道西光、右衛門入道西敬とて、是は出家の後も院の御倉あずかりにてぞありける」(『平家物語』)。また、「源師光庁 柿原広永里にあり、其の址今に存す」(『阿波誌』)とあり、師光の阿波国の在庁は、板野郡吉野町柿原、現在の阿波高等学校の敷地内と伝えられている。

藤原師光(西光)の居城「広長城」の記述ですが
『阿波誌』には★「源師光庁 柿原広永里にあり、其の址今に存す」
とあります。「源師光」と藤原師光(西光)は別人ですから、「源師光」も板野郡吉野町柿原に関係したのかな?と・・

続けて
同じく板野郡吉野町柿原 「源太城」
http://blogs.yahoo.co.jp/soma_hinagi/32239203.html

源太城
形式:不明
歴史:承暦・永保の頃、佐渡氏の居城。
所在地:阿波市吉野町柿原
城主:佐渡源太重実は、源頼光の孫と伝えられています。

★地図で見ると広長城と源太城はとても近いです。

★城主:佐渡源太重実は、源頼光の孫
いつものごとく、私、何も知りませんので勉強いたしました(・_・)

源頼光について ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%85%89

源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊女。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。
満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。

っとここまで書いて思い出したのです。
私、この方以前コメントはしていませんが、調べた事があります。(と言っても、ただ、見ただけですが・・(+_+))

「四天王」という言葉が気になったからです。
球磨の四天王・・熊本県神社誌 - 356 ページ より
平川師高(ひらかわもろたか)平川義高の第三子にして、深田三郎師高と称し、深田の領主であった。長兄の横瀬太郎盛高、次兄山田次郎藤高、弟の平川四郎重高と共に郡の四天王と云った。 II 藤原保昌(ふじわらのやすまさ)平安時代中期の歌人にして官人。・・・

他の書籍にも同様に「球磨 郡四天王」という記述が複数ありました。

そして、上記の記述にある「藤原保昌」を調べた時に「源頼光」の記述を読んだのです。

ウィキより続けて
寛仁元年(1018年)3月、大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王らとともに6人で摂津国大江山へ向かい夷賊討伐を行う。成相寺に頼光が自らしたためた追討祈願文書がある。

「頼光四天王」
母の一族の嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭にした頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)や藤原保昌などの強者の家臣がいたと言われ頼光が実際に郎党を従えていたことを反映しているとも考えられている。

補足
藤原保昌は「道長四天王」でした。
藤原保昌(肥後守)は武勇に秀で、源頼信・平維衡・平致頼らとともに道長四天王と称された。

(?_?)「師高」の時代から随分遡りますが、「頼光四天王」や「道長四天王」と、当時は武勇に秀でた4人を「四天王」と呼ぶのが流行だったのでしょうか?

では本題に戻ります(・_・)

「佐渡源太重実は、源頼光の孫。」とありましたので調べました。
源重実 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%87%8D%E5%AE%9F
源 重実(みなもと の しげざね、生没年不明)は、平安時代後期の武将。清和源氏満政流。佐渡守源重宗の長男。弟に重長、重時らがあり、子に重成、重貞、重遠らがある。鳥羽院武者所。通称は佐渡源太。八島重実とも称した。
承暦3年(1079年)の美濃国内における父重宗と源国房との合戦には重実も与していたとされる。その後は鳥羽院に伺候し四天王の一人とまで呼ばれたという(『尊卑分脈』)。
★ここでも「四天王」です・・

系図をまだ見ていないので、「源頼光」と「源重実」の関係は確認していないのですが・・

ただ、気が付いた事があります。

「源頼光」の子「源頼国」 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%9B%BD

源 頼国(みなもと の よりくに、生年未詳 - 天喜元年(1058年)?)は、平安時代中期の武将・官人。源頼光の長男。母は藤原元平、あるいは藤原元尹の娘。弟に頼家、頼基らがある。正四位下、蔵人、左衛門尉、讃岐守、美濃守。

系譜を見ると
妻:藤原仲清の娘 子 師光
とありますので、先にご紹介した
『阿波誌』の★「源師光庁 柿原広永里にあり、其の址今に存す」はこちらの方なのかな?とも思いました。

しかし、次の記述を見て下さい
多くの子女に恵まれた。頼実、頼綱、師光は歌人としての活動が知られるほか、頼資、頼綱、国房、師光らの子孫が後代武門として様々な形で歴史に名を刻んでいる。また娘達のうち、師実妻は左大臣家忠(花山院家祖)、為房妻は参議為隆(吉田家祖)、権中納言顕隆(葉室家祖)らをそれぞれ生んだことで知られ、さらに別の娘の一人は歌人「六条斎院宣旨」として名を残している。
★源頼国の娘は
左大臣家忠(花山院家祖)★
権中納言顕隆(葉室家祖)★
為房妻は参議為隆(吉田家祖)

左大臣家忠(花山院家祖)とは「藤原家忠」(またまたの登場です)

源頼国は藤原家忠の祖父。
源頼光は藤原家忠の曾祖父。 と言う事でした。

権中納言顕隆とは藤原顕隆。
藤原長方(妻:信西の娘・藤原師高の娘)の父です。(こちらもまたまたの登場です)
源頼国は藤原長方の曾祖父。
藤原長方は源頼光の玄孫。(言葉を覚えましたよ( 一一))

板野郡吉野町柿原の「広長城」と「源太城」を調べたら、何故かまた、このような情報につながりました。(しかし・・・偶然かもしれません(__))

でも・・四天王という言葉を何回書いたかしら??

と言う事で、今朝の進捗を終わります。
では(^・^)


[79]子孫よりさんからのコメント(2014年08月04日 14時37分24秒 ) パスワード

皆様、こんにちは(^・^)

っと、笑っている場合ではありませんでした。

またまた、見落としていました。(*_*;

源頼光のウィキの記述をもう一度見ていて「系譜」の一番下に
養女:相模(998?-1061後)
とあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%85%89

おんやっ??この方は?と思いクリックすると・・

相模 (歌人)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%A8%A1_ (%E6%AD%8C%E4%BA%BA)

相模(さがみ、生没年不詳:998年(長徳4年)頃 - 1061年(康平4年)以降か)は、平安時代後期の歌人である。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。実父は不詳で、摂津源氏但馬守頼光の養女。母は能登守慶滋保章[* 1]の娘。

(・_・) あっ!!
初名は乙侍従(おとじじゅう)。十代の頃、橘則長[* 2]の妻となるが離別[1]、1020年(寛仁4年)以前に大江公資[* 3]の妻となり、「相模」の女房名で呼ばれるようになる。夫の任地相模国に随行したものの、結婚生活が破綻し、1025年(万寿2年)頃離別した。この頃、四条大納言藤原公任の息男であり、自身も歌人として名高い中納言藤原定頼との恋愛も知られている。やがて一条天皇の第1皇女(入道一品宮)脩子内親王に出仕[* 4]。1049年(永承4年)内親王薨去後は、さらに後朱雀天皇の皇女祐子内親王(脩子内親王の弟の孫)に仕えた。この間、数々の歌合に名をつらね、後朱雀・後冷泉朝の歌壇で活躍した。彼女は和歌六人党(藤原範永・平棟仲・藤原経衡・源頼実・源頼家・源兼長)の歌道の指導的立場にあったばかりでなく、能因法師・和泉式部・源経信などとの交流もそれぞれの家集から伺える。『後拾遺和歌集』では和泉式部についで第二位の入集歌数を誇る他、以降の勅撰集、家集等に多数作品を残している。

★十代の頃、橘則長[* 2]の妻となるが離別
ナント!!
もう、おわかりでしょうが、とりあえず(__)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%89%87%E9%95%B7
橘 則長(たちばな の のりなが、天元5年(982年) - 長元7年(1034年)4月[1])は、平安時代中期の歌人。父は陸奥守橘則光、母は清少納言。官位は正五位下・越中守。

(・_・) 源頼光の養女「相模」は橘則光の子「橘則長」と結婚していた・・そして離婚。

再婚相手は「大江公資」
大江公資 【おおえのきんより】コトバンクより
http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%85%AC%E8%B3%87

?−1040 平安時代中期の官吏,歌人。
相模(さがみ)の夫。寛仁(かんにん)4年(1020)相模守(さがみのかみ),のち遠江(とおとうみの)守をへて従四位下,兵部権(ごんの)大輔。儒者の家柄であったが和歌をこのみ,歌は「後拾遺和歌集」などの勅撰集にある。長暦(ちょうりゃく)4年11月7日死去。名は「きんすけ」ともよむ。

その後、
四条大納言藤原公任の息男であり、自身も歌人として名高い中納言藤原定頼との恋愛も知られている。

帰京後に恋愛関係が表面化する藤原定頼とは、任国下向以前から何らかの交流があり、好意を抱いていた。大江公資に強引に妻にされ、任国下向させられたのは、彼女にとって不本意[* 5]なことだった。しかも、夫公資はやがて現地の女性と懇ろになり--といった悩みを、1024年(治安4年)正月、百首の歌に詠んで伊豆走湯権現の社頭に埋めた。すると、4月になって、権現からの返歌だと称する百首の歌が社僧からもたらされた。彼女は、それに対して更に百首の返歌を詠んだ。家集にはそれらが収められているが、権現作と称する百首を詠んだのが誰なのかは未だに不明である[1]。
その中に、夫が愛人を作ったことを訴える歌・・

(・_・)現代であれ、遠い平安時代であれ、女性の心は変わらないのですね・・

しかし・・・
西光が居城した
板野郡吉野町柿原の「広長城」とお隣の「源太城」を調べる為に・・

源頼光について勉強をしたら・・

「藤原家忠」と「藤原長方」に繋がって・・・

橘則長にも繋がってしまいました・・・・(?_?)

今日は、別の事を調べていたはずなのに・・
「宮原(橘)」の先祖が出てまいります〜〜!!? 何故?

あっ(ー_ー)!!そうでした。
昨日もコメント致しました。(冷静をよそおいつつ・・)

何故、平川の調査をしていると「宮原(橘)」の情報につながるのか?この謎?も、先入観をもたずに調査を進める事で見つかるのかもしれません。

と言う事です。
では(^・^)
[80]子孫よりさんからのコメント(2014年08月04日 23時23分17秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年08月04日 23時25分59秒
[81]子孫よりさんからのコメント(2014年08月04日 23時25分21秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、すみません。

昨日、コメントした戸田氏と薬上助局は繋がらないのかもしれません。

薬上助局の子は「毛利景行」。または「藤原景行」

日本の苗字七千傑様の《小鹿島氏》姓氏類別大観 を見て気が付きました。

また、あぶなく「橘」の姓に拘る所でした。

でも、今回は、冷静に考えて調べました。

毛利景行は日本の苗字七千傑様から、先日ご教示頂いた
「治承・寿永期における源平勢力対立状況」
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/bunritsu.htm

こちらの藤原氏系不明 として 平家方に名がありました。
実は「藤原氏系不明」で毛利氏とは?と・・この時に不思議と目が止まった方だったのです。

毛利景行の所領地は「愛甲郡毛利荘」

古代地名大辞典: Honpen - 1427 ページ googleブック検索より

未詳であるが,「尊卑分脈」「平治物語」などによれば,平安末期に源為義の弟の 8 降は森冠者と称し,当荘を支配していたという,一方,当荘は平安末期から鎌倉初期の武士毛利景行の名字の地で,当地を支配した開発領主の一族力、と思われるが,詳細は不明

図説神奈川県の歴史(全2巻): 上原始古代・中世・近世,下近代・現代 より
石橋山の合戦では、平(足下郡土肥郷)、三浦義澄(三浦郡)の人々であ座郡飯田)、毛利景行(愛甲郡毛利茌)、土肥実平盛久(糟屋荘)、河村義秀(河村郷)、飯田五郎(高郎(愛甲郡本間)、曾我祐信(足下郡曾我)、糟屋(高座郡渋谷)、国分太郎(同 ...

地方史硏究 - 第 139〜144 号 - 14 ページ

源頼朝挙兵のとき、相模国の平家方であった大庭景親の軍に「毛利太郎景行」がいた。これよ 0 以前承安二年十一月に、伊豆走湯山に神鏡を寄進した「相州下毛利.藤原景行」は、右の毛利景行と推定される。景行はのち頼朝に降り御家人として勤仕 ...

毛利元就のすべて - 11 ページ

毛利荘にさきの毛利景行の 1 族と思われる印景と名乗る僧が居住していたことが明らかであり、『吾妻鏡』養和元年(一一八一)正月十八日条に、「... ...是相模国毛利庄住人僧印景之説也。」とみ毛利景行は、石橋山の戦いで平家方として源頼朝攻撃軍に ...

安芸毛利一族 - 15 ページ

頼朝に帰参し、平氏討伐のため西海に赴き、また幕府御家人として活動している石橘山合戦の際に、平氏方軍勢として毛利景行と一緒に戦った渋谷重国,海老名季貞,曽我祐信,ものもいる( ,上正? ^ )。道修得のために上り、治承四年十二月の平氏の東大寺.

橘公業の孫 「毛利景行」

愛甲郡毛利荘について
http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7305319
模国愛甲【あいこう】郡のうち森荘とも書く「吾妻鏡」治承5年正月18日条に「相模国毛利庄住人僧印景」が見え,これ以前に立荘されていたものと思われる。立荘時期は未詳であるが,「尊卑分脈」「平治物語」などによれば,平安末期に源為義の弟の義隆は森冠者と称し,当荘を支配していたという。一方,当荘は平安末期〜鎌倉初期の武士毛利景行の名字の地で,当地を支配した開発領主の一族かと思われるが,詳細は不明荘園。領主についても不明であるが,文亀3年9月10日の石楯尾神社棟札銘写に「相州毛利庄,大和国春日太明神御領也」と見え(相文5),春日大社であった可能性も考えられる。建久5年8月8日,源頼朝が日向薬師に参詣する途中,大江広元は下毛利荘で頼朝を饗応しており(吾妻鏡),下毛利荘は大江広元の所領になっているが,上毛利荘についてはこの時期の史料には見えない。「寛政譜」は「治承四年頼朝将軍の招きにより関東に下向し,のち相模国愛甲郡毛利庄を宛行はる」と伝える。その後,広元の子孫は毛利氏を称した(大江氏系図/続群7下)戦国大名毛利氏はその子孫上毛利荘については,戦国期天文11年12月吉日の光勝寺鰐口銘(新編相模),永禄2年2月10日の日月神社棟札(同前)に見えるのみで,詳細は不明

毛利家発祥の地を探る
http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/morisyo.htm

平安時代の末期、神奈川県厚木市から愛甲郡一帯は「森庄」と呼ばれていた。
鎌倉時代に入ると京都の公家大江広元(おおえのひろもと)が源頼朝に招かれ、政所の別当として鎌倉幕府の創設に大きな役割を果たした。
広元の功績の中でも特筆すべきは、源氏の家来を全国に置いて統治する守護地頭のシステムの確立である。この制度を実現した功績により、広元は頼朝から森庄を賜った。そして四男季光(すえみつ)にこの地を譲り、季光が毛利氏を名乗ったことから「毛利庄」に改められた。

(・_・)
今はまだ、調査はこの段階です。
毛利景行と大江広元はおそらく同じ時代を生きた人達でしょう。

なぜ、毛利荘が大江広元に渡ったのか、まだ、調べていませんが、でも、今、私実は鳥肌が立っています。

「平河」と大江氏の関係を必死で調べてきたのに・・
実際は橘公業の孫「毛利景行」と大江広元が領地をめぐって関係があった・・

なおかつ、毛利の名跡を継いで大江広元の子「大江季光」から毛利氏を名乗った。

毛利氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%8F

大江広元の四男・大江季光を祖とする一族、したがって大江広元の子孫ではあるが嫡流ではない。名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市周辺)を本貫とする。中世を通して「毛利」は「もり」と読まれたが、後に「もうり」と読まれるようになった。

この一年間、平河が「大江広元」と何か関係が必ずあるのではと、信じて調査してきました。
一年後に見つけたのは「平河」ではなく「宮原」の先祖「橘公業」の孫「毛利景行」。

ここで、立ち止まれません。
ここまで、導かれたのですから(・_・) 先に進まなきゃ。

がんばります!
[82]子孫よりさんからのコメント(2014年08月05日 00時54分09秒 ) パスワード

追記

このような記述を見つけました
http://23.pro.tok2.com/~freehand2/frame-375.html

この中に毛利荘について書かれています
※毛利荘:現在の厚木市街地の西部で山林が多かったため元々は「森の庄」だった。八幡太郎義家六男の義隆が「森冠者」と呼ばれたのは「森の庄」を
領有していたためと伝わる。その後は平家の所領となり、家人の毛利(藤原)景行が支配した。景行は石橋山合戦に平家側として参戦し後に降伏して頼朝御家人となったが建保元年(1213)の和田の乱で義盛に与して滅亡、毛利荘はこの際に大江廣元の所有になったらしい。

★毛利(藤原)景行は和田の乱で義盛に与して・・

1213年か・・

では。

[83]白石さんからのコメント(2014年08月05日 03時25分50秒 ) パスワード

こんばんは
熱田神宮と 毛利
毛利
遠祖・平城天皇の皇子の子孫が熱田神宮に養子に入り 再び出て 天穂日命の子孫の毛利をついだ。

神宮の中は 別に 藤原から婿養子が入り 源頼朝をだし、現在も続いている。

大宮司家は もともと 武内氏で(蘇我稲目のいもうと ?が嫁入っている)

熱田氏の本姓は 安曇氏。

熱田氏を尾張氏がついだ? または 婿養子?

我が国の文化を「国風文化」に変えたのは 良峯安世 他 林氏など全部で12人。林が 武内や蘇我。相良氏のおじとか。

神宮は振魂命に祖先を変えられている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
>上總介忠清法師とは・・平景清(藤原景清)の父「藤原忠清」です。

藤原忠清のは源頼朝の曾祖父。
藤原忠清の娘は源為義の妻であり・・
源義朝の母。すなわち、源頼朝の祖母でした。

藤原を名乗るのだから 婿養子に入った人の方の系でしょうか?
============================
橘公業の孫「毛利景行」

橘公業と西園寺金経は おじ・おいの関係
と 辞典で見たことがあるのですが、 親のどの人とどの人がきょうだいなのでしょうね。


30年来かかえていた 疑問 が 7000傑様のご教示で 朱氏というのを知り、やっと ああ そうか という思いになりました。

公業と公経のことも わかればと思います。 


[84]白石さんからのコメント(2014年08月05日 03時47分27秒 ) パスワード

>頼光の養女「相模」は橘則光の子「橘則長」と結婚していた・・そして離婚。

党祖と というブログで

相模と6人党 能因 摂津源氏 橘即長について 

頼光と6人党 33 37ページ

相模の母方は★慶滋氏 賀茂氏を読み替えてそういう。
という言葉がありました。

清盛の母も 賀茂氏の女性だったのですよね。

そして
7000傑様のサイトで 慶滋氏に関与して 世良田 松平親氏 が 出ます。
徳川家康は この親氏に系をつないだ という。

若いころ読んだ本では 家康は 菅原朝臣 藤原朝臣 豊臣朝臣 源と つぎつぎ姓を変え 源は 近衛に教えてもらってつくった系だという。

児島高徳関係で 家康につながる系が書いてありました。
[85]子孫よりさんからのコメント(2014年08月05日 06時02分44秒 ) パスワード

皆様、おはようございます(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

まず、藤原忠清と源頼朝の関係について
「藤原を名乗るのだから 婿養子に入った人の方の系でしょうか?」

と言う事ですがコメント61で調べましたように

藤原忠清の「娘」が源為義の妻となり
源義朝をお産みになった。
源義朝は源頼朝の父である。

すなわち、藤原忠清は、源頼朝の祖母の父「曾祖父」と言う事になります。

と言う事は、源頼朝にとって、平景清(藤原景清)は、祖母の兄弟と言う事になります。

藤原忠清と妻である方は源頼朝の曾祖父母と言う事です。

私の故郷にあった切畑大明神の御祭神として鎌倉時代にあらたに祀られた方は
源頼朝の曾祖母、藤原景清の母君。

と言う事ですね。
(解り辛いコメントですみませんでした(__))

橘公業の妻は3人であったと記述を読みました。

娘「薬上助局(源頼定の妻)」を産んだ女性は「藤原氏女」と様々な書籍には書かれています。

橘公業から「秋田郡沢内地頭職」が妻の「藤原氏女」に譲られ、そして娘の薬上助局(源頼定の妻)に譲られた・・

薬上助局の子供「毛利景行」が「藤原景行」ともあるのは、祖母方の「藤原」を名乗った事があると言う事かな?と私は解釈したのですが・・・

ただ、薬上助局の母、「藤原氏女」が「何方の娘」かは、色々調べたのですが今は解りません(*_*;

日本の苗字七千傑様の「二朝分立時代」
「治承・寿永期における源平勢力対立状況」
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/bunritsu.htm

こちらにも 毛利景行 は藤原氏(系不明)
とありました。

「遠祖・平城天皇の皇子の子孫が熱田神宮に養子に入り 再び出て 天穂日命の子孫の毛利をついだ」

このお話も、とても気になります。
ご教示頂きまして本当にありがとうございます。

最後に書かれていた
「児島高徳関係で 家康につながる系が書いてありました」

という事でしたが、「児島高徳関係」ですか・・

全てが、何かしらの縁で繋がっているのですね。

では(^・^)
[86]子孫よりさんからのコメント(2014年08月05日 08時04分51秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様

ご教示頂きたい事がございます。

お忙しい所、何度もご質問を致しまして、大変申し訳ございませんが
どうか、お教え下さい。

《小鹿島氏》姓氏類別大観 の薬上助局の系にある「彦夜叉丸」についてです。

彦夜叉丸を調べていた所、東寺百合文書にて同名の彦夜叉丸と言う名の人物に関係する古文書を見つけました。
http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=6911

差出人 売主彦夜叉丸 母米世女法名宗清 請人衛門次郎末国
宛名書
端裏書 無
事書 奉売田地事
書止 為後日状如件
人名 重吉 了観 増長院 衛門次郎末国 彦夜叉丸 米世女法名宗清
地名 西山田 紀郡*鳥里 壬生 感田
寺社名
その他事項 左馬寮、右馬寮、名主

とありまして、早速「彦夜叉丸 母米世女法名宗清」
という情報を手掛かりに調べたのですが

「法名宗清」に関して

森可光(よしみつ)〔二郎、法名 宗清〕
という情報を見つけました。

法名に関しては「同名」は数限りなく存在する事は、理解出来るようになってはいるのですが、「森可光(よしみつ)〔二郎、法名 宗清〕」に関して

以下の情報がありました。非常に気になっています。

森氏 (熱田氏) : 尾張国愛智郡森郷(現在の愛知県名古屋市)を本拠地とする熱田神社の神官の熱田氏の庶家。木下氏・杉原氏・浅野氏(根尾氏)とは同族という。この系統に森可光・可房父子が出ており、その玄孫には著名な長可(鬼武蔵)と長定/成利(蘭丸)兄弟がいる。

熱田神社の神官の熱田氏の庶家の系統である「森可光(よしみつ)〔二郎、法名 宗清〕」と
薬上助局の系にある「彦夜叉丸」は同一人物なのでしょうか?

どうか、ご教示の程よろしくお願い致します。

かなり、以前より薬上助局の系は《小鹿島氏》姓氏類別大観で拝見する事が可能であったにもかかわらず、調査を怠っていた事を、大変反省しております。

日本の苗字七千傑様、申し訳ございませんでした。
[87]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月05日 14時10分37秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>森氏 (熱田氏) : 尾張国愛智郡森郷(現在の愛知県名古屋市)を本拠地とする熱田神社の神官の熱田氏の庶家。木下氏・杉原氏・浅野氏(根尾氏)とは同族という。この系統に森可光・可房父子が出ており、その玄孫には著名な長可(鬼武蔵)と長定/成利(蘭丸)兄弟がいる。
 
全くのヨタ話で論外。従って彦夜叉丸も無関係。
大宮司社家に尾張、藤原以外の多くの異姓社家が多く存在するが森氏は確認不可。
支流に藤原姓毛利四郎経広が居るが養子にいったんでしょ。
 
森氏は清和源氏義隆流、本貫相模、後に信濃経由で美濃に移動して土岐氏に属する。
土岐滅亡後の所属は織田、豊臣、徳川氏へと変遷。
木下、杉原、浅野も関係なし。
下記URLを参照のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01018.htm#001
[88]子孫よりさんからのコメント(2014年08月05日 15時27分20秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様
ご教示、ありがとうございました。

お忙しい所、お手間を取って頂きまして、申し訳御座いませんでした。

森氏(清和源氏義隆流)と熱田氏庶家の話は全く関係がないと言う事ですね。

調査の方向が変わってしまうかも・・と、とても気になっていました。

今回は「誤った情報」が偶然、今までの平川の調査に関係しているかのごとく感じてしまい、混乱致しました。

お教え頂き、本当にありがとうございます。

頭を「肥後・球磨郡内」の固執から離した事で、様々な事が見えてきました。

先入観なしで、事実に基づく調査を行いたいと思います。

どうか、今後ともよろしくお願い致します。
では。
[89]白石さんからのコメント(2014年08月06日 20時44分16秒 ) パスワード

源の頼朝は摂津多田の館で生まれ、義経は近江多田の館で生まれた。

源満仲が初めて武士団を形成した摂津多田(兵庫県川西市多田)の地を頼光が継いだ。

頼光の妻・ひろしげ氏の女子・相模
彼女は定子の子・脩子内親王に仕えた。
定子の弟が隆家。子孫・水無瀬家として残る。

頼光の摂津源氏一族になった相模
頼光の四天王のひとり・渡辺綱は嵯峨源氏。
この綱の系が平戸藩主・松浦氏で
松浦系図支流に峯氏がある。

頼朝は神宮内の話だけど 生地は摂津。

松浦氏の娘婿に安倍宗任の3男がなっている。

松浦氏の女子と中山氏の男子が結婚。その女子が明治天皇ご生母。











[90]子孫よりさんからのコメント(2014年08月06日 23時53分06秒 ) パスワード

皆様、今晩は(^・^)

白石様、ご教示ありがとうございます。

「頼光の四天王のひとり・渡辺綱は嵯峨源氏。
この綱の系が平戸藩主・松浦氏で
松浦系図支流に峯氏がある。」

松浦氏に関係して「平川家について12」コメント70で
宇野御厨小値賀島地頭職に補任となった僧尋覚と松浦十郎連の相論についてご紹介していました。

尋覚の母が肥前国宇野御厨内小値賀島の本領主、清原是包の妹であったという事も、こちらの調査で解りました。

今までの私は清原氏についてあまり調査(勉強と言った方がいいのかな?)をしていませんでした(+_+)

これまでの調査で「清原氏」が登場?したのは・・
★橘則光の妻、清少納言の父「肥後守 清原元輔」
★上記に関係して、藤原家忠の曾祖父である源頼光の養女「相模」が橘則光と清少納言の子「橘則長」と結婚していた。(橘則長は清原元輔の孫となります)
★藤原家忠の子、尋覚の母が肥前国宇野御厨内小値賀島の本領主、清原是包の妹であった。

という事になります。

???????
こうやって書いて見て、あらためてやはり何だか・・?

藤原家忠の子、尋覚が補任となった宇野御厨小値賀島地頭職は、そもそも、「謀反他人勝る」として「平河師高」が補任されるはずだった・・・
しかし、その時点で源頼朝は、師高に関して「然而冤罪程、給暇天所下遣也」と・・
宇野御厨小値賀島地頭職に補任された尋覚は、地頭職をめぐり松浦十郎連と相論をおこした・・
尋覚は、藤原家忠の子であり「清原是包」の甥。そして源頼光の玄孫でもある。
源頼光の養女「相模」は橘則光と清少納言(清原元輔の娘)の子「橘則長」と結婚していた・・

上記に出たのは
「良峯(平河)」「藤原」「源」「橘」「清原」・・・

そして「橘則光」は、母方では「良峯義方」の孫となるのでした・・。
丹羽氏は「椋橋」→「良峯」→「橘」→「良峯」となっていました。
こちらにも「橘」がありますね・・・

(・_・)確実な情報をもとにしっかりと調査すれば、きっと事実が見つかると信じています。

松浦氏についても、しっかりと勉強したいと思います。

所で・・・

「平川家について12」コメント1でご紹介した
平川師澄についての調査ですが、大村氏に関連して、見落としていた情報がありました。 

次のコメントでご紹介致します。
では(^・^)
[91]管理者 aさんからのコメント(2014年08月07日 06時38分04秒 ) パスワード

続きは
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101362_1.html
へ。
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