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 投稿番号:101356 投稿日:2014年07月09日 00時34分48秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏の服部
長上郡の服部氏族Y
キーワード:服部氏族 長上郡
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「長上郡の服部氏族X」の続きです―

[1]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月09日 07時18分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 服部氏について書かれた本(単独本)てなかなかない。秦氏と比べるとはるか

に少ないですね。歴史上に出てくる服部氏のすべてがわかる事典みたいなもの

あを様作りましょうか?


 服部氏というと伊賀の服部氏にすぐ結びついてしまいますよね。その他にも

たくさんおられるはずですし、歴史もたくさんある。秦氏と服部氏の関係も、

もっとはっきりさせたい。日本に来る前のルーツまでさかのぼってまでも・・・

トルコのアナトリアに行けば何か見つかるかも、いずれ行きたいと思っていま

す。「ハ」という言葉に何かあるような気がします。


 今まで継続して来ました「星」に関する謎と、「忌部氏」に関する謎、

「物部氏」に関する謎のまとめは近いうちにアップいたします(有言実行。

自分自身にプレッシャーをかける)。


 こちらの地方は七月にお盆となっております。菩提寺に行って本家の位牌

のおまいりをしてきたいと思っています。何か書かれていればいいなと思って

おります。

 それにしても、台風8号が今来ています。被害の少ないことを願っています。


                           丸に三つ柏の服部
[2]久居の服部家さんからのコメント(2014年07月09日 10時50分30秒 ) パスワード

丸に三つ柏の服部様
空の青海のあを様

途中で脱線させてしまいスレ汚し申し訳ございません。
いろいろアドバイスいただきありがとうございます。

伊賀市役所や伊賀越資料館に行ってみたものの、何も解からず、
やはり図書館かなぁと思っておりましたが、
いろいろ調べる方法がありますね。

皆さん歴史に詳しくて、
私はもともと歴史に全く興味なかったので、
どこから手を付けたらいいのかすら解からない状態でした。


我が家もお寺の過去帳などから
藤堂高虎に仕えた後、藤堂高通とともに久居に移ってきたようです。
ただ、高虎の時代は平左衛門を名乗っておらず、
荒木又右衛門の父とは繋がりません。

又右衛門の父・兄は岡山で亡くなったようで、
その後すぐ、うちがなぜ名前を変え
平左衛門を引き継ぐようになったのか、
非常に興味深いところなんです。

単純に当時の一大事件の元仲間の名前を
勝手に名乗っただけなんでしょうかね。


我が家は現在、三重県から離れているため
なかなか調べに行けなくて残念です。


しばらく台風から目が離せませんね、
皆さんが被害に遭われないように
お願いしてます。

[3]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月09日 12時02分00秒 ) パスワード



 私も実はルーツを探しておる途上であります。ただ服部氏とその背後に

ある歴史も同時に理解したいという欲張り心があるため、脱線・脱線の連続

であります。レスのやり方もぜんぜん知らなかったのですが、「空の青海の

あを」様という心強くありがたい女神様が降臨し、指導していただいておる

ところでございます。まだ3ヶ月に足りませんが、レスも6つのホルダーが

でき、6冊のファイルが出来上がっております。


 歴史というバックグランドに大きく網を掛け、服部氏族に関係する情報を

少しでも集められたらという途方もない方法に挑んでおります。もちろんフィ

ールドワーク的作業もぼちぼちやってはおります。


 いずれにしても、ぴったりの情報というのはなかなかないものと思われ

ます。整合性のとれない情報が多いと思います。何らかの改竄やら誤謬も入

り交じっています。資料さえ集められれば、後は状況証拠をかためて、推測

して行くのみです。頑張って下さい。私もまだ駆け出しのいわば歴史探偵社の

研修生ですが、どんな情報でもいいので種をまいてみて下さい、推理してみ

たいと思います。

                          丸に三つ柏の服部

[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月09日 22時38分44秒 ) パスワード

丸に三つ柏の服部さんへ


   バビロニアの星の話以下については向こう V に書きますね。



久居の服部家さんへ


   東京近辺にお住まいなら国会図書館をご利用ください。

   わたくしの場合、20数年前は県や市などの教育委員会の歴史編纂所に手紙を書いて
   史料を送ってもらってました。

   当時は景気が良かったので?

とっても親切にして戴き
   また国立大学の日本史のエライ先生を紹介してくださったり土地の史家を紹介されたり
    ド素人のわたくしでしたから顔から火が出そうな経験を何度もしました。



服部氏といってもいろいろです。

久居の服部家さんのご先祖様についてはわたくしの背後にいるパワーが
「うちは鈴鹿から14世紀に出たんだから知らんがな」
と言ってます。


これは丸に三つ柏の服部さんの時とは全然違う背後パワーの反応です。


   ま、うちは南北朝時代に南朝がらみで鈴鹿から出た服部家ですから。


平(内)左衛門の名を使っていた
ということは
その藤堂家の中では  平(内)左衛門を使っても許される家格  にあったということだと思います。


その上に、昔は勝手に  通字の「保」の字  を使うことは許されないし
   確か藤堂家の家老の服部家が「保」を使ってましたよね


だから久居の服部家さんの御先祖さまは「保」の字の使用を許される家だったんだな、と思います。



そしてわたくしの背後パワーが言うには「なんで平左衛門なの?」「なんで平内左衛門じゃないの?」です。笑


わたくしの背後パワーが何やらゴチャゴチャ言ってますが、
    壇の浦後、うちが鈴鹿に移った時に、先祖同士で何かあったのかもね。
    笑
    それか南北朝でうちが鈴鹿から出た時に、先祖同士で何かあったのかもね。
    謎


わたくしの前世に於いて、過去、久居にいた記憶があります。

過去世でまだ少女の時代です。

そして予野まで歩いて行ったような記憶もあります。
    桜を見に行ったのです。
    花垣神社です。

    平安時代の終わりです。
    幸せな時代です。

久居ではいくつか不思議体験をしています。
15年前にも。←これが1番最近の=最後の=久居行きです。



と、まあ、こんな感じですので藤堂高通を深く掘り下げたら、その前後で御先祖さまのことが分かると思います。

キイワードは高通公ですね。


   やっぱり「久居に」入府なさって来た、
   ですか。

   
   これは背後パワーが「藤堂がらみで久居に来たんでしょ」とちらっと言ってたので
   あらら、当たってたわね、御先祖さま、です。笑



さっきPCが勝手にセキュリティの更新をして中断されたので
何を書こうと思ってたのか忘れちゃいました。


取り敢えず三重県と津市にお手紙を書かれたら良いと思いますし
除籍謄本をお取りになって
久居のご住所近くの服部さん
または服部家本家になる家にお手紙を書いたら良いと思います。


とにかくたくさん読まないことにはね。

頑張ってたくさん情報を集めるところから始めてくださいね。
[6]久居の服部家さんからのコメント(2014年07月10日 18時49分50秒 ) パスワード

空の青海のあを 様

的確なアドバイスを
ご丁寧に本当にありがとうございます。

私もご先祖様と話してみたいです。笑

以前、見える方に、
先祖に店をやっている人がいる、と言われたのですが、
そんなこと聞いたことも無かったので
色々調べたら明治時代に雑貨店をやっていたことがわかり
びっくりしたものでした。


平左衛門と平内左衛門の違いは良くわかりませんでしたが、
当時の他の仲間には内の付く方はいらっしゃいませんでした。

うちは色々あるようですね。
空の青海のあを様のご先祖様と何かトラブルがあったのでしょうか。

うちは少子・早死の家計で分家が少なく、我が家が本家になります。
早死ゆえに先祖の話も聞けず曖昧な部分も多いのです。

今度、国会図書館へ行ってみたいと思います。
その前に教育委員会をあたってみます。

ありがとうございます。頑張ってみます。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月11日 03時46分38秒 ) パスワード

久居の服部家さん


藤堂高通の母上は多羅尾光誠の娘ということなので
この多羅尾家を調べたら何か分かるかも、です。


あ、その前は家紋は何ですか?
普通、伊賀系の服部氏は並び矢とか、源氏車の中に並び矢とか、切り竹矢筈とか
だいたいそういう感じです。

   服部半蔵家は源氏車に並び矢で定着したようですが
   初めは源氏車の中に矢?切り竹矢筈?が横に寝てました。

   だんだん時代が平和になってデザインに凝るようになって「影の軍団」のようになったと思います。





多羅尾氏
●抱き牡丹/藤巴
●藤原北家近衛氏流

・『寛政重修諸家譜』には「大割牡丹」とあるが、本ページでは多羅尾にある多羅尾氏菩提寺─浄顕寺の紋に拠った。
 


 多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾より起こった。信楽は十一世紀初頭に関白藤原頼道の荘園となり、その後、近衛家に伝領されたものであった。十三世紀の末ごろ職を辞した前関白近衛家基は信楽荘小川に隠居、永仁四年(1296)にこの地で亡くなった。家基の子経平も信楽荘に住し、多羅尾の地侍の娘との間に男の子をもうけた。その男子が多羅尾氏の祖という左近将監師俊で、はじめ高山太郎を名乗っていた。

 師俊は小川を中心として小川出・柞原と領地を広げ、さらに長野・朝宮まで領有、その勢力を信楽全体へと拡大していった。多羅尾氏の祖が近衛家の落胤とする確かな資料があるわけではなく、各地に流布する貴種譚のひとつと思われ、もとより信じることはできない。おそらく、近衛家との関係を梃子として信楽に勢力を伸ばした在地領主(土豪)の後裔であろう。


多羅尾氏、勢力を伸張

 多羅尾氏と並んで信楽に勢力を保っていた武士に鶴見氏がいた。「鶴見氏系図」によれば鶴見弾正左衛門長実が近衛家基に従って信楽に来住、嘉元三(1305)年に小川城を築いたとある。一方、平安末期より信楽にある興福寺領の下司職として小川東部に居住、鶴見伊予守道宗(定則)が正安二年(1300)に小川城を築いたとする説もある。

 南北朝時代を迎えると鶴見氏は南朝の味方して活躍、暦応三年(1340)、鶴見俊純は朝宮城を築き、山城国和束の米山一族との戦いを展開した。この戦いに多羅尾播磨入道は鶴見氏を後援、合戦は鶴見方の勝利となった。このことから、南北朝の争乱に際して多羅尾氏は南朝方として行動していたことがうかがわれる。

 以後、多羅尾氏と鶴見氏は拮抗するかたちで並立、小川の地の統治は交互に行われるということがつづいた。


  室町時代を迎えると守護大名の強大化から幕府の権威が動揺、さらに将軍後継をめぐる内訌が生じ、応仁元年(1467)、応仁の乱が起こった。乱の一方の主要人物である足利義視は伊勢の北畠氏を頼って京を脱出、多羅尾氏は信楽に入った義視を守護して伊勢に送り届けている。また、義視が伊勢から京に帰るときも多羅尾氏が道中の警固をになった。甲賀の地は伊賀を通じて伊勢に通じる道筋にあたることから、甲賀武士たちは中央貴族の往来を保護する任を担っていたようだ。

  応仁の乱がもたらした下剋上の風潮は、諸国の守護・地頭らが荘園の押領をうながし、貴族らの経済基盤はおおきく揺さぶられた。応仁二年、近衛政家が信楽に下向してきたのも、京の戦乱を避けることもあっただろうが信楽荘の経営安定と立て直しが狙いであった。政家を迎えた多羅尾玄頻はその接待につとめ、信楽荘の年貢公事等の徴収にあたるという契約を結んだ。かくして、多羅尾氏は、近衛家の年貢徴収役をあずかることで、地域に大きな基盤を築き、近衛家への公事徴収からの利益を得ることでさらに勢力を拡大していったのである。

  応仁の乱における近江は、佐々木六角氏が西軍、佐々木京極氏が東軍に味方してそれぞれ抗争を繰り広げた。多羅尾氏ら甲賀武士は六角氏に属して活躍、文明年間(1469〜87)になると六角氏と京極氏の対立はさらに激化した。文明三年(1471)の蒲生黒橋の戦いに参加した甲賀武士の多くが戦死した。

 応仁の乱より反幕府的姿勢を明確にする六角高頼は、自己勢力の拡張をめざして、近江国内にある寺社領、幕府奉公衆の所領を蚕食していった。幕府は再三にわたって六角高頼の行動を制止したが、高頼は幕命に応じることはなかった。高頼の態度に業を煮やした将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角高頼攻めの陣を起こした。いわゆる長享の乱で、高頼は居城の観音寺城を捨てて甲賀に逃走した。以後、幕府の大軍を相手に六角高頼はゲリラ戦を展開、そして、多羅尾四郎兵衛ら甲賀武士は将軍義尚の鈎の陣を夜襲する活躍をみせ、甲賀五十三士と称された。


表舞台への登場

 多羅尾氏と並ぶ信楽の有力武士であった鶴見成俊は将軍方に属したため、多羅尾氏は小川城を攻略、敗れた成俊は山城の椿井播磨守を頼って没落した。多羅尾氏家譜によれば、光教十二代の孫が光吉で、左京進・和泉守などを称し、永禄十一年(1568)に死んだとある。このことから、鶴見氏を逐って小川城主となったのは、光吉の父か祖父の代かと思われる。

 鶴見氏を逐って信楽の最有力者となった多羅尾氏は、近衛氏領である信楽の押領を繰り返すようになり、ついに明応十年(1501)、近衛氏は信楽郷を守護請として支配を放棄するにいたった。その後、多羅尾氏は伊庭氏の代官職管掌のもとで庄官を務め、近衛家領を完全に掌握し、名実ともに信楽随一の領主に成長したのである。

 光吉の子が多羅尾氏中興の祖といわれる四郎兵衛光俊(入道道可)で、光吉より信楽の領地七千石を受け継ぎ佐々木六角氏に属した。永禄十一年(1568)、六角氏が信長の上洛軍に敗れて没落すると信長に仕え、天正九年(1581)の伊賀攻めの陣にも参加した。ところが、翌天正十年(1582)六月、信長が明智光秀の謀叛によって、京都本能寺において生害した。

 本能寺の変に先立って信長に招かれ安土で響応を受けた徳川家康は、変の時、和泉国堺界隈を遊覧しているところであった。信長死去のことを聞いた家康は、ただちに京師に馬を進めんて光秀を征伐せんとした。しかし、家臣らは寡兵の故もあって家康を押し止め、まずは本国三河に帰って兵を整えることを説いた。しかしこのときすでに、海道筋は明智方が押さえるところとなり、家康主従は長谷川秀一を先導として大和路より山川を経て漸く近江路へと落ちていった。

 ちなみに、家康と同じく信長に招かれていた穴山梅雪は、事変当時、家康とともに和泉方面にあったが、家康主従と別行動をとり、結局野伏に殺害されている。いいかえれば、家康っまた非常に危険な状況に身をおいていたのである。

 長谷川秀一は、以前より交流のあった田原の住人山口藤左衛門光広の邸に一行を案内した。

        光広は多羅尾光俊の五男で、

山口家を嗣いだものであった。光広は家康一行を迎え入れ、このことを父光俊に急報した。光俊は嗣子光太とともに、光広の邸に急行し、家康に拝謁して改めて信楽の居宅に家康主従を迎え入れた。光俊は嗣子光太、三男光雅、山口光広らに従者五十人、さらに甲賀の士百五十余人をそへて家康を護衛、伊賀路を誘導した。そして、伊勢国白子の浜まで家康主従を無事送り届けることに功をなした。



栄枯盛衰を味わう

 山崎の合戦後、織田家中に勢力を伸ばす秀吉に対して、北陸の柴田勝家や信長の三男・信孝と滝川一益らが反秀吉の姿勢を示した。この情勢を察した秀吉は、柴田勝家が雪に閉じ込められている間に伊勢の一益と岐阜の信孝をたたこうと計画、大軍を近江国・草津に集めた。一方、浅野長政に山城国から信楽、伊賀に出て、柘植から加太越えに一益の亀山城を攻めるよう命じた。

 この長政軍の前に立ちはだかったのは   多羅尾光俊で、

四男光量の拠る和束の別所城に攻め寄せた長政軍を光俊は夜襲で撃退した。敗れた長政は力攻め愚をさとり、光俊に和睦を申し入れ、一人娘を光俊の三男光定の嫁にする条件で和睦は成立した。かくして、多羅尾光俊は秀吉に従うようになり、天正十四年頃には、信楽を本領に、近江、伊賀、山城、大和に八万石余を領する大名となったのである。
                  ↑
            多羅尾家のバブル時代ですね

 やがて、豊臣秀吉が天下を掌握すると、秀吉の養子秀次が近江四十三万石を与えられ、近江八幡に城を築いた。近江の太守となった秀次は領内の視察を行い、多羅尾城にも立ち寄った。光俊らは一族をあげて秀次を歓待、その場に光太の娘万も連なった。万を気に入った秀次は、光俊・光太に万をもらいうけたいとの申し出を入れ、光俊・光太らは万を秀次のもとに差し出した。のちに、これが災いして多羅尾一族は没落の憂き目にあうことになる。

                  ↑
            バブルがバーストしましたね


 天下人となった秀吉は朝鮮への出兵を行い、その留守を秀次に命じた。秀次は京都の聚楽第に住して、国内の政治にあたったが、次第に残虐な行為を募らせるようになり「殺生関白」のあだ名をつけられた。その背景には秀吉に実子が生まれたことに対する我が身の不安、秀吉の吏僚である石田三成らの策謀があったといわれる。文禄四年(1595)七月、秀吉は秀次を高野山に追放、さらに切腹を命じ、秀次の首を三条大橋西南の加茂河原にさらしたのである。さらに、翌八月には秀次の妻・子供、側室らをことごとく処刑した。そのなかには多羅尾光太の娘お万の方も含まれていた。

 この秀次粛正事件により、秀次と関係があったという理由で光俊をはじめ多羅尾一族はことごとく改易の憂き目となった。光俊は光太とともに信楽に蟄居、雌伏のときを強いられたのである。
 
                   ↑ 
               多羅尾家のデフレ時代


多羅尾氏の歴史を訪ねる


鎌倉時代の末期、近衛家基と子の経平が隠棲したと伝える信楽町小川にある大光寺、寺紋は近衛家に縁の牡丹紋であった。境内後方の裏山には家基・経平と経平の子で多羅尾氏の祖という高山太郎師俊の墓碑が並んでたっている。小川の地には戦国時代に多羅尾氏が拠った小川城址、西の城、中の城などの城砦の跡が存在している。




江戸時代のはじめより明治維新まで多羅尾氏が世襲代官をつとめた多羅尾陣屋跡、いまもご子孫の方がお住まいで、石垣の撮影までを許していただいた。

多羅尾代官所の近くには高山太郎師俊ゆかりの里宮神社、多羅尾氏の菩提寺の浄顕寺などが散在、浄顕寺の寺紋は多羅尾氏にちなむ「抱き牡丹」である。信楽の郷の南部を訪ね歩くと、そこかしこに多羅尾氏の名残を感じることができる。



近世に生き残る

 慶長三年(1598)、秀吉が死去した。豊臣家の今後のことを議するため大坂城に入った家康は、伊賀越のときに世話になった多羅尾光俊の近況を調べさせ、苦しい生活を送っていることを知った。
                    ↑
                 多羅尾家復活


家康は光俊・光太らを召し出すと、当座の手当てとして二百人扶持を与え旗本に取り立てた。

同五年、光太は上杉景勝征伐に随行、つづく九月に起った関ヶ原の合戦にも参加、戦後、代々の領地であった信楽七千石余を与えられた。その後、光太は大坂両度の陣にも一族とともに出陣し、徳川幕府体制下における地位を確立したのである。


 光太のあとを継いだ光好は、寛永十五年(1638)、江戸に呼び出されて代官に任命された。そして、屋敷内に「代官信楽御陣屋」を設けるよう命じられた。御陣屋は近畿地方の天領を治める役所であり、一般に多羅尾代官所とか、天領信楽御役所と呼ばれた。

以来、多羅尾氏は江戸時代を通じて信楽のほか近江甲賀、神崎、蒲生三郡と美濃、山城、河内の国々の天領代官に任じられ、最盛期には十万石余を治める、全国代官所中の首席となった。

                    ↑
                  完全復活


 多羅尾家の家紋は、近衛家ゆかりの「牡丹」紋であった。そのほか、「藤巴」「牡丹菱」なども用いていたことが知られている。・2008年04月18日

【参考資料:信楽町史/多羅尾の歴史物語/甲賀郡誌 ほか】



ということで藤堂家と多羅尾家が  滋賀とか甲賀とか で関係があることとか
徳川家康から感謝されたこととか
これで娘が高通を生む背景が分かりました。


ここから久居の服部家さんとの関係を調べていくわけです。


早い話が家康の伊賀越えで半蔵の家と多羅尾家が固く結び合ったのは想像出来ますしね。


久居の藤堂家の分限禄が手に入ると良いですね。


また久居の服部家の本家になるんでしたら津の歴史編纂課に出入りし易いじゃないですか。
どなたか津の役所にお勤めのご友人ご親戚はいらっしゃいません?


多分  藤堂家・多羅尾家・服部家 は固い絆で結ばれているはずです。


   藤堂家の家老の1人に服部家があったと記憶しています。
      藤堂家との関係も調べてみてください。

   でも久居という場所に限定されると
   やはり多羅尾家との関係が強かったと思います。

   つまり高通公の母上のご実家(多羅尾家)関係だと思います。


何か分かると良いですね。


あ、そうですね、久居の服部家スレということで新しいスレッドをお立てになってはいかがでしょう?

ここはダラダラえんえんと1つ1つのレスが長いので。  > 自分
大汗

スレッドが立ちましたら古いのをワタクシが移動させますよ。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月11日 05時42分05秒 ) パスワード

http://books.google.com/books/about/%E8%97%A4%E5%A0%82%E8%97%A9%E3%81%AE%E5%B9%B4%E3%80%85%E8%A8%98%E9%8C%84.html?id=MbPTAAAAMAAJ


藤堂藩の年々記錄, Volume 94

Front Cover


服部保邦, 村林正美

三重県鄉土資料刊行会 - Tsu-han (Japan)


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Title 藤堂藩の年々記錄, Volume 94
藤堂藩の年々記錄, 服部保邦
Authors 服部保邦, 村林正美
Publisher 三重県鄉土資料刊行会
Original from the University of Michigan
Digitized Apr 1, 2009



この本が国会図書館で閲覧できると良いですね。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月11日 06時24分41秒 ) パスワード

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%97%A9%E5%AE%B6%E8%87%A3%E5%9B%A3


津藩家臣団


この項目では津藩の家老及びその歴代当主一覧について述べる。


藤堂采女家[編集]

藩主一門格(藤堂家臣・佐伯惟定の娘婿)、伊賀上野城代。

歴代当主[編集]
1.服部元則(藤堂采女家[編集]

藩主一門格(藤堂家臣・佐伯惟定の娘婿)、伊賀上野城代。

歴代当主[編集]
1.服部元則(服部保長の曾孫)
2.服部元住
3.藤堂元稠
4.藤堂元杜
5.藤堂元福
6.藤堂元長
7.藤堂元孝
8.藤堂元晋
9.藤堂元施
の曾孫)
2.服部元住
3.藤堂元稠
4.藤堂元杜
5.藤堂元福
6.藤堂元長
7.藤堂元孝
8.藤堂元晋
9.藤堂元施



*服部保長とは?

服部 保長(はっとり やすなが、生没年不詳)は、戦国時代の忍者および武将。

服部氏の当主。諱は正種ともいう。
千賀地保遠の子。
千賀地保元、服部正成の父。  ←  初代半蔵の父上ってことで良いでしょうか?


いわゆる、初代服部半蔵(「半蔵」ではなく「半三」と記した記録もある)。

伊賀の忍者には服部氏族の子孫である「千賀地」「百地」「藤林」の三家があったが
狭い土地において生活が逼迫したため、
その中の一家である千賀地家の保長は旧姓である服部に戻して伊賀を出て
室町幕府12代将軍・足利義晴に仕える事となる(北面武士就任の説もある)。

   それで足利家に仕えてた、と聞いてたのか。

だが当時は室町幕府の衰退期であり、
保長は見切りをつけて三河に赴き松平清康に仕える事となる。

   ここで良い選択をしたのですね。




以上が通説であるが、詳細は不明である。

   あらら・・・


また、松平家も清康の代には大きく伸長したが「森山崩れ」を境に一気に衰退、その間の保長の動向も不明である。


千賀地氏城に関する伝承によると、
上記の伝承とは逆に、足利義晴に仕えていた服部保長が伊賀に戻って、千賀地氏を名乗った事になっている。


徳川家康の代に松平家改め徳川家が大きく伸長した頃には既にその子服部正成の代になっている。

    この人がいわゆる服部半蔵ですね。



登場作品[編集]

小説[編集]
戸部新十郎『服部半蔵(1)〜(10)』光文社文庫書き下ろし、1987〜1989年
山田風太郎『甲賀忍法帖』講談社文庫「山田風太郎忍法帖」、1998年

関連項目[編集]
千賀地氏城


       千賀地には花垣神社があって特別な桜がありました。
       今は最近植えられた苗がちょっと大きく育ったところ。


       千賀地の服部家は伊賀の忍者軍団の中では決して身分の高い家ではありませんでした。
       家康との関係で頭1つ抜きんだため伊賀の忍者軍団から反感を持たれてもいました。

       忍者がストライキをした時に「我等より下の家の出身のくせにエラそーにー」
       と弾劾されています。


       
http://www.2nja.com/legend_2nja/hattori_hanzou.html
服部半蔵忍者マイスター

フィクションなどで取り上げられる伊賀忍者筆頭としての「服部半蔵」は、正式には服部石見守正成(はっとり・いわみのかみ・まさなり、まさしげ)と言います。この服部正成は、1542年に生まれ1596年に没するまで徳川家康に仕え、武将として様々な武功を打ち立てたといわれています。


「服部半蔵」とは何者なのか


では、服部正成はなぜ「服部半蔵」を名乗っていたのでしょうか。服部氏というのは、伊賀の出で百地・藤林に並ぶ伊賀忍者の頭目であったというのが定説となっています。遡れば、服部氏の祖先は聖徳太子が大伴細人と共に使っていた「志能備」であったとも言われています。このように、由緒ある忍者の血統である服部氏のトップに立つ者が受け継ぐのが「服部半蔵」の名なのです。つまり、「服部半蔵」は世襲制の役職なのです。


なぜ半蔵が徳川に仕えるようになったのか


では、伊賀忍者のリーダー格である服部半蔵は徳川家の家臣となったのでしょうか? それは正成の父である服部保長の代で家康の生地である三河国に渡り、家康の祖父である松平清康に仕えるようになったからなのです。つまり、服部正成自身は伊賀で生まれ育ってはいないのです。


服部半蔵は忍者ではなかった!?


忍者になるためには幼少期からの修行が不可欠ですが、伊賀から三河に移り住んだことで服部正成自身は忍者としての修行を受ける機会は無かったと考えられています。服部正成が得意としたのは槍で、同じく「半蔵」の名を持つ同僚の渡辺半蔵守綱と合わせて「鬼半蔵」「槍半蔵」と呼ばれる猛将であったと言われています。つまり、私たちが知っている忍者としての「服部半蔵」のイメージは、後世が作り上げたものなのです。



半蔵の名を知らしめた「伊賀越え」


そして、忍者としての「服部半蔵」のイメージに最も寄与したと考えられているのが家康三大危機に数えられる「伊賀越え」です。この伊賀越えは、叛旗を翻した明智光秀によって織田信長が本能寺で討ち取られた「本能寺の変」に端を発します。信長を討ち取った光秀は、家康・秀吉などの有力武将を討ち天下を取る準備に入っていました。堺から京都に向かっていた家康は、本能寺の変を知り一刻も早く自国へ帰らなくてはならなくなったのです。この時、家康が連れていた家臣はわずか30人程度。家康たちは明智勢の追っ手と、褒賞目当ての地元の土豪たちの襲撃に会わぬように帰途を急ぐという離れ業をしなければならなかったのです。この時、家康を助けたのが伊賀忍者頭領としての「服部半蔵」だったのです。


伊賀忍者の助けによる「伊賀越え」の功績


服部半蔵正成は伊賀忍者頭領としての立場を活用して伊賀忍者に渡りを付けて、伊賀を抜けて三河に帰るためのルートの使用と道中の警護を伊賀忍者に行わせることに成功します。このルートは、伊賀忍者しか知らなかったものであったため家康一行は安全にかつ早急に三河に帰国できたのです。この功績により、かつて信長によって離散していた伊賀忍者たちを家康が同心として召抱えることになり、伊賀忍者たちを服部半蔵が統率するということになったのです。後に江戸に徳川幕府を開くことになった際には、伊賀同心たちは服部半蔵の下で江戸城西門の警護を行うようになります。これが現代にもその名を残す「半蔵門」の由来なのです。



http://mumyoudou.uijin.com/novel.4/kassen-56.html
半蔵の伊賀越えと鈴鹿越えについてもちょっと書かれています。


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http://kazusanosukede.gozaru.jp/busyou/toujyoujinbutu-ha.htm
服部姓の人々


服部小平太
書かれてないので書きこみます。
桶狭間の合戦で今川義元に1番槍をつけたと噂の人。
これで信長から5000貫を貰ったとか。
後に秀吉によって関白秀次の守り役とされ、秀次事件に連座して詰め腹を切らされた。


    我が家にとっては「津島の服部さん」は敵です。
    笑


服部 小藤太 はっとりことうた
服部小平太の弟、兄に代わり津島服部家の家督を相続、織田信長に仕えた、信長が安土城に移ったときに織田信忠づきを命じられ文書発給に携わった、本能寺の変では二条御所で討死、ただし、討死したのは小平太で、本能寺の変ののちの小平太の経歴が小藤太のものであるとの説もある




服部 藤次兵衛 はっとりとうじべえ
新陰流の剣客、神後伊豆守の弟子、山城の出身




服部 友貞 はっとりともさだ (服部左京亮)   ←尾張服部家のホンヤさんの家はこの人の弟


尾張・弥富の土豪、織田信秀の家臣服部政家の子、友定ともいう、通称・左京亮、父の死後に伊勢・北畠家に仕え、桶狭間の戦いでは今川方に属す、義元の討死によって尾張に引き上げる、その後長島一向一揆に与して織田信長に対抗した、のちに信長の謀略にかかり自害。

員弁の米野というところにお墓があります。




服部 半八 はっとりはんぱち
松平忠頼の寵臣、水野忠胤邸へ主君・忠頼に伴って行ったとき、大番士・久米左平次と口論となり刃傷に及んだ、この責任をとって自刃する




服部 平左衛門 はっとりへいざえもん
伊賀の住人、藤堂高虎の家臣、荒木又右衛門の父、淡路で浪人した後に備前・岡山藩の池田忠雄に召し抱えられた




服部 平兵衛 はっとりへいべえ
伊勢・桑名城主本多忠勝の家臣、子がなかったため服部平左衛門の次男・丑之助(のちの荒木又右衛門)を養子とした





服部 正重 はっとりまさしげ
服部半蔵正成の次男、関ヶ原で抜け駆けの功名をたくらんだため徳川家康の勘気にふれ蟄居を命じられる、その後許されて大久保長安預かりとなった、長安の娘を娶り佐渡金山などの目付として派遣された、大久保一族の事件の連座は免れたが、許可無く任地を離れたことを咎められて村上義明預かりとなる、のちに松平定綱のもとに身を寄せて二千石を与えられた




服部 正尚 はっとりまさなお (服部平大夫)
伊賀の国人、一説には丹波出身で猿楽師であったともいう、通称・平大夫、戸塚忠春が戦死したのちに妻を娶り、その子・お愛(のちの徳川家康の側室・西郷局)を育てた、本能寺の変が起こった情報をいち早く家康に知らせ、家康の伊賀越えに同行した

   
   この人物について丸に三つ柏の服部さんといろいろ書き合いました。




服部 正就 はっとりまさなり
服部半蔵正成の嫡男、伊賀同心からは慕われておらず、同心が正就の罷免を求めて四谷の長善寺に籠城した、幕府の調停で首謀者が処罰されたが、正就が首謀者の一部と勘違いした伊奈忠次の家臣を斬殺したため閉門、大坂の陣に御家再興を願って参陣したが討死した


    上記に書いた「忍者のストライキ」の時の人物ね。
    「影の軍団」の半さんの父上かな?



服部 政秀 はっとりまさひで (服部権大夫)
服部左京亮の子、はじめ右京進、のちに権大夫と称す、父とともに桶狭間の戦いで今川方に属し、大高城に兵糧を運んだ、のちに父と袂を分かち徳川家康に仕えた




服部 康高 はっとりやすたか (服部源左衛門)
今川義元の家臣、通称・源左衛門、法号・浄圓、若いときに伊賀で人を殺めて駿河に逃れて義元に仕えた





服部 保次 はっとりやすつぐ
伊賀・阿拝の国人、服部中保次、宗次、服部小平太と同一人物とも言われる、織田信長に仕えたが、徳川家康の三河統一後に徳川家に仕えた、武田領との国境守備を担当しながら、謀報活動に従事する、本能寺の変後、鉄砲同心百二十二人の長となった、その後甲斐で岩殿城番となる、大久保長安事件に連座した




服部 保俊 はっとりやすとし
服部保長の長男、徳川家康に仕えた、桶狭間の戦いののち、三宅右衛門大夫の高橋城攻めに参加して討死した




服部 保長 はっとりやすなが (服部半蔵・半三)
伊賀の上忍、服部半蔵正成の父、初代・服部半蔵、半三ともいわれる、官名は石見守、室町幕府十二代将軍足利義晴に仕えたが、のちに三河に移住して松平清康に仕えた




服部 康成 はっとりやすなり
服部正成の子といわれる、長門守、津軽為信に仕え、関ヶ原の戦いでは美濃・大垣城攻略戦で一番乗りを果たし、徳川家康から一字をもらって康成と称した




服部 保正 はっとりやすまさ
服部保長の次男、源兵衛、長男・保俊より年上だったが、母の出自の関係で次男とされたと言われる、三方ヶ原の戦いで討死した





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津藩家臣団の続き(おまけ)

その他:

名張藤堂家[編集]

藩主一門。伊賀名張領主・1万5000石。維新後男爵。

歴代当主[編集]

→名張藤堂家の歴代当主を参照

藤堂出雲家[編集]

初代藩主・高虎の異母弟 藩主一門。津藩内・7000石

歴代当主[編集]
1.藤堂高清(初代藩主・高虎の異母弟)
2.藤堂高英
3.藤堂高明
4.藤堂高武
5.藤堂高豊
6.藤堂高文(高豊の養子)
7.藤堂高周(高文の養子)
8.藤堂高茂
9.藤堂高芬
10.藤堂高克



藤堂内匠家[編集]

藩主一門

歴代当主[編集]
1.藤堂正高(初代藩主・高虎の異母弟)
2.藤堂高義
3.藤堂高隆
4.藤堂高充
5.藤堂高貞
6.藤堂高溥
7.藤堂高忠
8.藤堂高包
9.藤堂高愨
10.藤堂高託
11.藤堂高浚
12.藤堂高粲
13.藤堂高敞

藤堂仁右衛門家[編集]

藩主一門

歴代当主[編集]
1.藤堂高刑(初代藩主・高虎の甥)
2.藤堂高経
3.藤堂高広
4.藤堂高光
5.藤堂高房
6.藤堂高美
7.藤堂高景
8.藤堂高因
9.藤堂高基
10.藤堂高彰
11.藤堂高覚
12.藤堂高泰


藤堂数馬家[編集]

藩主一門

歴代当主[編集]
1.藤堂光誠
2.藤堂光明
3.藤堂光名
4.藤堂光信
5.藤堂光模
6.藤堂光寛
7.藤堂光訓
8.藤堂光徳

藤堂新七郎家[編集]

藩主一門・伊賀上野城代付5000石。

歴代当主[編集]
1.藤堂良勝(初代藩主・高虎の従兄弟)
2.藤堂良精
3.藤堂良長
4.藤堂良族
5.藤堂良躬
6.藤堂良聖
7.藤堂良弼
8.藤堂良得
9.藤堂良規
10.藤堂良資




[10]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月11日 06時29分31秒 ) パスワード

今治藩(いまばりはん)は、伊予国北中部と島嶼を領有した藩。藩庁は今治城(現在の愛媛県今治市)。


   ここの家老が服部家です。

   石原慎太郎や石原裕次郎の父親だったか祖父だったかが石原家にムコに出たとか。


慶長5年(1600年)、豊臣時代に伊予国板島(後の宇和島市)で7万石を領有していた藤堂高虎は、関ヶ原の戦いの戦功により20万石に加増された。同時に今治市内にあった国分山城に移り今治藩が立藩した。しかし、国分山城は中世山城で城下町造営が不便なため、慶長7年(1602年)、今張浦に近世城郭建設と翌年に城下町建設に着手、慶長9年(1604年)、現在の今治市街地となる城と城下町が完成した。

高虎は、慶長13年(1608年)、伊賀国・伊勢国にて22万石に加増の上、領地替えとなり津藩に転出した。しかし、越智郡2万石が残されたので養子である高吉が今治城主となり残った。のち、寛永12年(1635年)、伊勢国名張に領地替えとなり藤堂氏の支配は終了した。

同年、伊勢国桑名藩より松平定行が伊予松山藩15万石に転封となり、同時にその弟定房が伊勢長島城7千石より3万石に加増され今治に入った。寛文5年(1665年)、定房は江戸城大御留守居役に任ぜられた。役料として武蔵国・下総国・常陸国から1万石を加増され、4万石となる。

2代藩主・定時は、嗣子・定陳に遺言として、定陳の弟・定直に関東領地のうち5千石を分知するよう残した。このため石高は3万5千石となった。元禄11年(1698年)には、関東領地5千石が収公となり伊予国内の宇摩郡5千石を代替として与えられた。藩の財政を支えた産業として塩・白木綿・甘藷等が挙げられる。塩田開発を行い塩を特産とし、また、白木綿の生産を奨励した。

7代藩主・定剛は文化2年(1805年)、藩校の前身である講書場を構えた。文化4年(1807年)講書場を拡充し藩校・克明館となる。

幕末の10代藩主・定法は文久3年(1863年)、軍備を洋式に改革し、沿岸に砲台を建造した。また、時勢を積極的に見極めようとし京に長く駐在し、幕府・勤王派の周旋に尽力した。慶応元年(1865年)の第二次長州征伐の際、情勢を見極めた上、朝廷側に付くことを決意した。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、いち早く京に兵を進め御所の警護を行った。その後も藩兵の一部は官軍として、戊辰戦争では、奥州まで転戦した。今治藩の宗家で隣藩である伊予松山藩が将軍家の親族であることを理由に、鳥羽・伏見の戦いまで佐幕を通したこととは大きく異なった。

明治元年(1868年)、太政官布告により松平氏を返上し、菅原姓久松氏に復姓した。明治4年(1871年)、廃藩置県により今治県となった。その後、松山県・石鉄県を経て愛媛県に編入された。明治17年(1884年)、久松家は子爵となり華族に列した。

歴代藩主[編集]

藤堂家[編集]

外様 20万石 (1600年 - 1608年)
1.高虎(たかとら)〔従四位下、和泉守・左近衛権少将〕

松平〔久松〕家[編集]

譜代 3万石→4万石→3万5千石 (1635年 - 1871年)
1.定房(さだふさ)〔従四位下、美作守・侍従〕3万石→加増により4万石
2.定時(さだとき)〔従五位下、美作守〕
3.定陳(さだのぶ)〔従五位下、駿河守〕分知により3万5千石
4.定基(さだもと)〔従五位下、采女正〕
5.定郷(さださと)〔従五位下、筑後守〕
6.定休(さだやす)〔従五位下、内膳正〕
7.定剛(さだよし)〔従五位下、壱岐守〕
8.定芝(さだしげ)〔従五位下、采女正〕
9.勝道(かつつね)〔従五位下、駿河守〕当初は定保(さだもり)と名乗る
10.定法(さだのり)〔従五位下、壱岐守〕

家老[編集]
服部伊織家

筆頭家老 1000石
1.服部正純(服部正就の孫)
2.服部正令
3.服部正隆
4.服部正道
5.服部正恕
6.服部正順(正恕の養子)
7.服部正邁(正順の養子)
8.服部泉
9.服部速水(泉の養子)

幕末の領地[編集]
伊予国 宇摩郡のうち - 19村
越智郡のうち - 81村
[11]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月11日 06時56分16秒 ) パスワード

http://iga-ueno.or.jp/wp-content/uploads/2013/10/d001a6a0a06ed9226965774e50058ee6.pdf

伊賀のお話


コピーガードがかけてあるのかコピペが出来ません。


観世三郎清次は平家の流れを汲む服部元成の三男で伊賀市守田町で生まれた。
     世阿弥も服部氏だと名乗っている。
母は楠正成の妹。
時代が足利の世だったから名を隠していた。


大阪の造幣局の通り抜けの桜については、
   造幣局は籐堂藩の蔵屋敷跡で、
   藩主が桜ノ宮の桜を好きだったから伊賀市寺町の服部庄左衛門が植え
   現在も手入れがされている。


江戸の籐堂中屋敷は現在の上野の動物園の中にあって、
ここを上野と呼ぶのは、伊賀の上野の地形に似ていることから高虎が上野と呼んだから。
高虎の墓が園内にある。


こんな話が書かれています。
[12]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月11日 07時29分08秒 ) パスワード

http://roadsite.road.jp/history/chishi/hanshi/ise-tsu.html


津藩


安濃津藩とも呼ばれる津藩は伊勢中部の津周辺と伊賀一国、大和と山城相楽郡の一部を領した外様大藩である。


津は慶長5年(1600年)の関ヶ原役当時は富田氏が5万石を有していたが、慶長13年(1608年)に伊予宇和島に転封となった。

同時に伊賀上野で20万石を領していた筒井定次は乱行を理由に改易され、変って伊予今治から藤堂高虎が、津周辺及び伊賀一国、大和・山城・伊予の一部合わせて22万石で入封した。


高虎にはその後加増があって、津藩は最終的には32万3千石となり、藤堂氏は幕末まで津藩主として続いた。


なお、三代高久の時に5万石で支藩久居藩を立藩している。
久居藩は封地を持ち参勤もした独立した藩であったが、石高は津藩領の内高として扱われる。



高虎入部前の伊勢・伊賀

伊勢の地は戦国末期には国司から戦国大名化した北畠氏が割拠していたが、織田信長の侵攻にあって事実上滅亡して織田領に組み込まれた。

信長は二男信雄に北畠氏を継がせて、伊勢を領有させたが信長死去後秀吉の時代になると信雄は秀吉の不興を買い改易される。

津周辺は織田氏の一族信包が領有していたが、文禄年間に近江に減知転封され、後には秀吉側近の富田信広が5万石で入った。

信広は慶長4年(1599年)に死去し、跡を知信が継ぐ。知信も秀吉の信頼が厚く朝鮮戦役でも活躍したが、秀吉死去後は家康に接近した。

家康の会津討伐が発向すると討伐軍に従軍し東下した。その間に西軍の毛利秀元ら3万の大軍に津城は包囲された。

急ぎ引き返した知信は津城に入り籠城し、城下の大半も焼失するほど激しい戦いとなるが、衆寡敵せずに開城し高野山に入る。

戦後家康により2万石を加増され7万石となり、慶長13年(1608年)に5万石加増のうえ伊予宇和島に転封された。

一方伊賀は戦国末期には北畠氏の勢力も及んでいたが、土豪が割拠していた。信長の伊勢侵攻により信長の勢力圏となり、北畠信雄が伊勢とともに領有した。

信雄改易後は、大和から筒井定次が入り伊賀一国20万石領主となった。定次は関ヶ原役でも東軍につき会津討伐軍に加わるが、その間に西軍の近江柏原城主新庄直忠に居城上野城を攻撃された。

急ぎ引き返した定次は上野城を占拠した直忠を追い出し、城を取り戻し、戦後本領を安堵される。しかし、慶長13年(1608年)に乱行を理由に改易された。



高虎の入部

慶長13年(1608年)8月に伊予今治から藤堂高虎が津に転封されてくる。実質的に津藩はここから始まるといっていい。

高虎の封地は伊賀一国10万540石、伊勢安濃郡・一志郡で10万400石、伊予越智郡内で2万石の合計22万石余りであった。

この転封は家康の意向によるものであった。家康はこの時期、大坂城に拠る豊臣秀吉を滅ぼし、徳川幕府の後顧の憂いをなくすことに没頭していた。

そのための大坂城攻撃の際、敗れたときは家康は伊賀上野城に引き、秀忠は井伊家の城下である彦根に引く事を考えていた。

この戦略のために高虎は入国早々伊賀上野の城と伊勢津の城の整備修築にかかる。

高虎は、築城技術に長け居城だった板島(宇和島)、今治などのほか丹波篠山、膳所城などを築城し、江戸城の改築にも手腕を発揮していた。家康がこの時期、高虎の築城技術にも着目したの当然であった。

高虎は特に上野城に対しては根城とし、東西13間南北11間の五層の天守を持つ城を築いたが、慶長17年(1612年)完成直前に畿内襲った暴風雨で倒壊した。

上野城の天守は再建されることなく、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣を迎え、高虎も家康の命により大坂に向かう。

冬の陣ではさしたる戦闘はなかったが、翌元和元年(1625年)の大坂夏の陣では兵5千を率いて参陣し、先鋒となり長宗我部盛親、増田盛次の隊と激戦に及び多くの武将を失ったが、家康方勝利に貢献した。

戦後この功に対して伊勢鈴鹿・安芸・三重・一志郡内で5万石を加増され27万石となった。

高虎は知られているように外様でありながら譜代扱いを受けるほど家康、秀忠に信頼されており、何事も公儀つまり徳川家第一に考えて忠勤を励んだ。

時としてその姿は阿諛追従に映り、嫌悪感を抱かれもしたが、戦国末期を生き抜いた武将としては一つの生き方であったろうし、文字通り槍一筋で国持大名にまでなったのだから大成功者であったことは間違いない。

それが家康の死去の際にも表れていて、大坂夏の陣が終り安心したかのように家康が病床に伏すと、高虎は家康が拠る駿府に駆けつけ病床に侍り看病した。



家康の死と晩年の高虎

家康が没すると天海僧正と議して日光東照宮を築き、家康の遺体を久能山から改装し、下って寛永4年には江戸上野忍ヶ丘の下屋敷の邸内に東照大権現を祀る。

これら多年の功績に対し元和3年伊勢度会郡田丸5万石が加増され、津藩の表高は32万石となった。この時に弟正高が下総で拝領していた3千石を津藩領に加算している。

なお、田丸5万石は元和5年に和歌山に徳川頼宣が移風されてくると和歌山藩領となり、替地として大和と山城に5万石が与えられた。

その後も高虎は秀忠・家光に対し忠勤を励み、その信頼は厚く、江戸柳原の藩邸にはしばしば秀忠や家光が訪れ、また江戸城へ呼ばれることも頻繁であった。特に秀忠が催す夜話会には必ず出席した。

元和9年(1623年)ころから眼疾に罹り、寛永7年(1630年)には完全に失明した。寛永7年(1630年)10月5日徳川家に忠勤を励み、外様ながら譜代以上に信頼を得た高虎は江戸において死去、75歳であった。


この高虎の考え方は晩年の寛永2年(1625年)に世子高次の与えた「条々」19か条にもよく表れている。

公儀に対する御奉公第一や孝行の道を忘れるななどの基本的な精神から軍役・合戦の心構え、日常の生活、藩主の心得などが掲げられている。

この「条々」は太祖遺訓と呼ばれ、以後の藩政に影響を与えた。骨子となるのは封地は公儀からの預かり物であり、したがって公儀への奉公の精神を忘れず、将軍家や幕閣要人とは常に昵懇にすべしとの主旨で、これが以後の藤堂家の政治姿勢の基本となる。



名張藤堂家

その姿勢は高次襲封後の寛永12年(1635年)江戸城二の丸修築工事、寛永16年(1639年)江戸城本丸火災焼失後の修築などに表れている。

高次が家督をついですぐの時に、高吉の問題が起きた。高吉は丹羽長秀の三男で、天正16年(1588年)に当時高虎の主人であった羽柴秀長の養子になり、その後子がなかった高虎の養嗣子となった。

しかし高虎に実子高次が生まれると嫡子を廃され、高虎が津に転封となった際に飛び地として残された伊予越智郡で2万石を領することになる。

高虎としては伊予の飛び地の城代の意識であったが、高吉は2万石の大名との認識であった。

高次が家督を継いだ際には、高吉の動きを牽制し、葬儀に列席する為に伊予から出てきた高吉を近江水口で止め帰国させている。

この伊予の飛び地は寛永12年(1635年)に伊勢多気・飯野郡内の2万石と交換され、これにより高吉の高次への臣従は決定的となった。

高吉は伊賀名張郡内に2万石を与えられ、名張藤堂家の祖となる。2万石とはいえ身分は藤堂家の重臣に過ぎず、これが名張藤堂家の不満となり、やがて名張家は独立事件を起こす。

時代は下るが享保20年(1735年)5月六代藩主高治の時のこと、名張藤堂家の5代目の長煕が江戸参勤ができるように幕府要路に働きかけるという事件を起こす。

参勤交代をするということは大名になるということで、宗家にすれば到底許すことは出来ず、この事件を知った高治は長煕を隠居させ、名張藤堂家の家老三人に切腹を命じた。

この後名張には目付を置いて名張家の監視を強めた。この事件は享保騒動とも名張騒動とも呼ばれ、御家騒動とは無縁だった津藩の歴史の中で最も大きな政治的事件であった。

       ↑
名張大騒動



初期の藩政

江戸期になると遅かれ早かれ各藩は財政難に見舞われるが、津藩の場合は二代高次の頃に早くも財政の窮乏化が表れた。

高次の治世は寛永7年(1630年)から始まるが、直後から度々凶作や飢饉が続き、寛永18年(1641年)には大雪とも重なって葛や蕨も掘り出せない事態となる。

津藩では先代高虎の代の慶長14年(1609年)から定免制が適用され、それも同年の「定条々」で四ツ成、つまり米のできに関係なく年貢率は検地高の40%と決まっていた。

ところがこの寛永18年は伊賀では未進米2千石に達し、米の出来不出来に関係なく一定率を収める定免制が適用できず、収穫高を基準とする検見法によらざるを得なかった。

この寛永年間の飢饉の衝撃から、次の慶安年間には農政に力を入れた。慶安年間には寛永の飢饉状況を活かした法令が一気に発布され、慶安2年(1649年)には農村調査である「家並改め」が実施された。

さらに西島八兵衛を起用して川除普請を行い新田開発進めた。八兵衛は雲出井と呼ばれる長大な用水を完成させて旱害を防止し、さらに山中為綱も高野井を改修して今までの4倍強の灌漑を行い新田を開発した。

また伊賀では新たに溜池29ヶ所が作られ、15ヶ所が修築された。これらにより承応2年(1653年)に検見法から定免制に再び切り替えが行なわれた。しかしこの定免制への切り替えは新たな問題を生んだ。

津藩では慶安2年(1649年)の「家並改め」を基礎に平高(ならしだか)が作られ、それに年貢率がかけられていた。

平高は検見法が常態となったために、「家並改め」までの間の年貢額を平均して、その年貢高が40%になるように村高を変化させたものである。

つまり年貢の平均額を割り戻して村高を変えたわけで、これによって多くの村で村高が増加した。そこで定免制に戻したから極端な例では年貢高が90%近くになる村までもあった。

             ひどいね

これは他藩では見られない方法で、津藩独自のものであった。これら新田開発や強引とも言える年貢増進策が行なわれたが藩財政は悪化し好転しなかった。

こうしたなか、高次は万治元年(1658年)に1万1500両を投じて江戸染井に別荘を作り、また焼物に凝って伊賀に窯業場を設け藤堂焼、大学柄という陶器や金工細工を行い大名や家来に与え、骨董品を買い漁ったとされる。

これは当時の世相から、公儀に対してたわけ者であると思わせるために策であったというが、これらの浪費により藩財政の悪化に拍車をかけたことは事実である。



三代藩主高久

高次は寛文9年(1669年)9月29日に嫡子高久に家督を譲り隠居し、延宝4年(1676年)11月16日76歳で没した。

高次を継いだ三代藩主高久は、悪化した財政に対処するために藩主となった翌年の寛文10年(1670年)から5年間、藩士に対し禄米の10%の分掛かり、つまり給与カットを実施している。

延宝6年(1678年)には藩士が藩から借金することを禁じ、延宝8年(1680年)には江戸詰めの藩士に木綿着用を強いている。さらにこの年には6分の1の分掛かりとなり、給与カット率は16.6%になった。

この間、延宝5年(1679年)には催合金(もやいきん)制度が実施された。これは、藩士を高利貸から守るための貸付制度で、資金は藩と町人富裕層からの借上げで賄い、無利息で藩士に貸し付けた。町方からの借入利息は藩が負担した。

民間資本を導入しての藩士救済制度ではあったが、無利息ながら貸付期間は一年間に限られたために、利用できない層も多く、そのために御用金制度として小臣向けの少額貸付制度もはじめた。

さらに貞享3年(1686年)からは利息だけ払えば元金は繰り延べられる袖判拝借制度も導入する。これらはすべて給与カットされて窮した藩士を救うためのものであった。

特に江戸詰めになった場合は、別居生活を強制されたうえ江戸での消費経済に巻き込まれて困窮する藩士が多く見られたようである。

一方農村に対しても新田開発を推進するほか、裏判金という低利での融資制度を開始した。さらに延宝5年には百姓成立仕置令を発布し農政の基本方針を示し、さらに領内に三か条の判物を出した。

この三か条は一条目は褒美、二条目は罪科、三条目は処罰となっており、孝行や精勤を褒め不孝や怠惰を戒めている。その根底には公的な立場として百姓を見ることを求めている。

そのほか延宝9年(1681年)には36か条に及ぶ「定」が出されて法制が整備されていった。


                投資失敗事件
                   ↓

このような中で伊賀において銅山開発事業への投資が失敗するという事件が起きた。

これは上野の城庁が独断で行なったもので、年貢米を不正に流用して備中の石塔山の銅山開発に投資したが事業の見込みが立たず、また投資も回収できずに、結局損失を出してしまったもので、損失は1万2500俵余りにも上った。

この事件で上野の加判奉行加納藤左衛門と石田清兵衛が切腹、その子は斬罪、両人の弟は暇となった。さらに普請奉行の佐藤治部右衛門と服部少左衛門は追放、ほかにも多くのものが処分された。

                   ↑
               服部さんも連座


投資は失敗に終わったが、動機とするところは財政難への対処であり、逼迫した財政が上野城庁の焦りをよんで独断に走ったものと考えられる。

藤堂家の家風は公儀第一であり、高虎・高次ともそのことを何度も繰り返して述べている。高久も公儀第一の考えをもち、幕府の要職者への接近を心がけた。

高久の正室は下馬将軍とも言われた大老酒井忠清の娘であり、これも公儀随一の実力者との間に縁戚関係を築く手段であった。

しかし五代将軍綱吉が就任すると忠清は失脚し、実力者は綱吉将軍の実現に功あった堀田正俊になる。

高久はすぐに正俊に接近、その正俊も江戸城中において暗殺されると、次の実力者老中阿部正武や側用人牧野成貞に接近した。

また綱吉側近の柳沢吉保が幕府随一の実力者となると、吉保はじめその家族や家臣にも頻繁に贈り物をし、池田綱政(備前岡山藩主)、細川綱利(肥後熊本藩主)、松平頼常(讃岐高松藩主)などとともに「柳沢家の玄関番」と陰口を叩かれたが、これも藤堂家伝統の世渡り術の表れともいえる。



久居藩と藤堂出雲家     ←  久居藩ですよ〜

高久が元禄16年(1703年)4月に66歳で死去すると、四代藩主には高睦が就いた。高睦は支藩である久居藩の出身である。

久居藩は、二代高次が高久に家督を譲る際に二男高通に5万石を分与して立藩した。これは宗家が無嗣の場合に家系が絶える危険を回避するためのもので、ほかの大藩でもよく見られた。

久居藩の場合は独立した領地を持ち陣屋も構えていたが、あくまで津藩の内高として扱われた。以後宗家に子がない場合は久居藩から津藩主になる場合が多く見られる。

また伊勢・伊賀・大和・山城に封地がまたがっていた津藩では、津に家老を置いて伊勢を統括させ、伊賀は上野に城代を置いて伊賀一国を統べさせた。

上野城代は初期には高虎の弟高清から始まる藤堂出雲家が就くが、のちに家臣の藤堂采女家が世襲した。

また大和山城には城和奉行を置いて、統治をさせた。
これが津藩の統治体制であり幕末までこの体制が続く。


高睦は久居藩二代目から宗家の高久の養子となって、高久死去を受け家督となった。



また久居藩のほかに先に書いた出雲家という高虎の弟高清から始まる家があった。

この出雲家は久居藩同様に藤堂宗家の相続に深く関った家であった。


六代高治はこの出雲家の出であり、享保8年(1723年)に養嗣子として久居藩を継ぎ、久居藩主として5年間を過ごし、その後宗家を継いで津藩六代藩主となった。

七代高朗も出雲家の出身で、久居藩四代藩主から津藩六代藩主となった。




九代藩主高嶷

九代高嶷は久居藩主であったが、八代高悠が在任わずか1年で死去すると、宗家をついで津藩九代藩主となった。

なお、高嶷は高悠の兄ではあったが高悠は正室の子であり、高嶷は庶子であった。

このために高嶷は久居藩を継いだが、高悠が病弱であったためにその養嗣子となったものである。

高睦から高嶷の時代は元禄期から寛政期にあたり、華やかな元禄時代から寛政の改革という倹約の時代に世の中も大きく動いていった時期である。

津藩ではすでに財政難であり、これに対して藩では積極的な対策は何も打てなかった。

            ↑
      津藩って結構貧乏だったんだね
      2代目の1630年頃から既に財政が悪化の一途だったんだね


農村政策や金融政策など対処療法的な政策は行ったが、所詮藩財政の好転に繋がるものではなく、凶作や公儀普請の手伝い、江戸大火での藩邸焼失などの事故や災害などによる出費も大きく、財政状態は年々悪化の一途をたどった。

九代高嶷はそのような状態にかなりの危機意識を持って臨み、寛政元年(1789年)に岡本景淵を加判奉行に、翌寛政2年には茨木重謙を郡奉行に任命して藩政改革にあたらせた。

改革は倹約令を基本に、菓木(果樹・徳用樹・徳用作物)の栽培を中心とする殖産振興、切印金の据置や返済打ち切りを中心とする金融政策、均田制実施を柱とする土地政策の三つであった。

倹約令は奢侈の禁止を主旨としたが、寛政8年(1796年)に出された25か条に及ぶ「覚」では、生活への過度の干渉が見られ、領民の反感を買った。



寛政の改革

殖産振興については柿、梨、桃、栗、梅、蜜柑、桐、漆などの樹木や薩摩芋、薬草、椎茸、養蚕などにも及び、寛政4年(1792年)には菓木役所が設けられた。

一方で耕作の邪魔になっている樹木を伐採(蔭伐)したり、延享4年(1747年)に置かれた組合目付を廃止し城廻目付を置いた。

しかし蔭伐については由緒ある神木なども容赦なく伐採した反面、藩役人の邸宅内の木は見逃されるなど不公平であり、目付も組合目付であれば情実を聞いてくれたものが、常回では形式的に判断されるだけで、農民にとっては監視が厳しくなったとの印象しかなく、評判が悪かった。

金融政策では切印金制度の弊害をなくすべく、切印金5ヵ年据置、借入利率を7%から3%に引き下げる一方で貸し出し利息を'7%にした。

しかしこの程度では農民を救済できず、寛政7年(1795年)には切印金の貸主への返済は半額で打ち切り、農民からの返済は百年賦とした。

百年かかって貸した金の半額しか返済されないのでは、貸した側にとっては大打撃であり、富商はともかく零細な町人は憤慨した。

さらに土地政策では均田制、つまり農民に平等に田畑を分ける政策が実施に移された。大百姓、中百姓から田畑を取り上げ小百姓に分けるのだが、これが大・中・小全ての百姓から反発を食う。

    アイデアは良いけど、共産主義は早過ぎたね


大百姓は多くの田畑を取り上げられ、小百姓は田畑を貰っても耕すだけの資金も労力もなく年貢だけがかかり、中百姓は汗水たらして努力して広げた田畑を自分達より努力しなかった小百姓に持っていかれるのだから最も怒った。

一揆の下地は充分すぎるほどであった。寛政8年(1796年)冬、均田制に強く反対した一志郡小倭郷9ヶ村の農民が大庄屋を通じて均田制中止の訴えを起こす。

藩では延期を約束したが、一方では役人を派して農閑期に地割を強行しようとした。

ついに12月27日各地で農民が立ち上がり津城下に押し寄せた。藩側では藩士を緊急動員して防衛線を張り、伊賀への波及を恐れて伊勢伊賀国境を封鎖した。

一揆勢は津城下の富商の打毀しを行い、城下を三方から包囲、その数は3万人ともいわれた。藩側も人数の多さになすすべもなかったが、翌28日に大雪となり農民たちは帰村した。


        百姓一揆冬将軍の前に鎮静


一揆は沈静化したが藩では均田制の中止、城廻目付の廃止など一揆側の要求をいれ、改革の中心人物であった茨木重謙を罷免して知行と屋敷を没収し、蟄居を申し渡した。

ほかにも城代家老を始めとする多くの役人が処分された。


一方農民側も11ヶ村134人が処分を受け、
大庄屋池田佐助、庄屋森彦兵衛は牢死、
森宗左衛門、多気藤七郎、町井友之丞の庄屋三人が処刑された。
                        ↑
                      ひどいね

名君高兌

藩政改革は一定の成果は挙げたものの、実情を無視したあまりにも過激な方法が、大規模な一揆を招いたというのが後世の評価であった。

その寛政の一揆から10年後の文化3年(1806年)8月26日高嶷は61歳で死去し、中興といわれる名君高兌が十代藩主となった。

高兌は、先代高嶷の代に大規模な一揆を招き結果として失敗に終わった改革により、危機的状況に陥った藩政を一時的に救った人物だった。

高兌は先代高嶷の三男で久居藩主として17年間を過ごし、久居藩主当時も貧民救済のための義倉の設置や倹約を旨とする政策などで成果を挙げ、高嶷の死去によって21歳で津藩主となった。

高兌は家督を相続し家老から財政状態の報告を聞いたが、当時の藩の年間収入3万5千両に対し支出は5万1千両、負債である藩債は86万両に達しており、その利息だけで年間7千両が支出されていた。これを聞いて高兌は、「財政難とは聞いていたがこれほどとは知らなかった」と驚いたという。
             ↑
          オ〜マイガッ〜

    そうなんだよね「あるように見えて無いのがお金。無いように見えてあるのが借金」笑
   

高兌の改革の第一は倹約にあった。藩主自ら経費の節減に率先して取り組み、予算制度により台所経費を三分の一に、女中を四分の一に減らし、藩経費も2万2千両以内と決めた。火災で焼失した江戸藩邸の再建は中止、衣服も木綿のみとした。

        すっごい緊縮財政+賃金カット!
           こんな金融引締策、
         ワタシだったらグレちゃうな

刑法を改めて死罪と追放だけであったものを更生の機会を与えるために徒刑や敲を導入し、奉行や代官が私宅で取っていた公務を役宅を設けて出勤させ、公私の別をはっきりとさせた。

         名君だね

寺社への風紀にも手をつけ、治外法権的な扱いの寺社が犯罪行為や不法行為の温床にならないように留意した。

農村対策としては、久居藩主時代に始めた義倉制度を社会事業に発展させた。すなわち積立金制度とし、町人や富農から資金を借りて、藩が管理して貸付を行い、その利息で社会事業を行うという藩営銀行のような制度であった。

         すごいね 


さらに灌漑事業や荒地の開墾も積極的に行い、菓木事業の継続拡大、養蚕の奨励も行なって、藩主夫人にも蚕を飼わせ、上野国から技術者を招いて織物や繰糸を教示させた。

農村の人口増加策として男は30歳、女は20歳までに結婚するように奨励し、農村間の農民の移動を行い、農村人口の平均化にも意を尽くした。


            教育は最高の投資だもんね 
                 ↓
 
文教面では、文政2年(1819年)藩校有造館を設立した。
藩校はすでに多くの藩で設立されていたが、津藩では財政難もあってこの時期まで作られなかった。

設立の際に家老の反対もあったが、反対する家老を更迭して断固たる決意を示し、設立費用は藩主の節減で得られた財源を利用した。

              名君だね〜


藩校には文科と武科があり、嘉永6年(1853年)からは泗水術(観海流)、すなわち水泳が課業に加えられた。

伊賀上野にも有造館の分校的考え方で、文政4年(1821年)に崇広堂が設けられ、さらに名張にも名張学校が作られた。

高兌の藩政改革は藩主の率先垂範、文教の奨励、経費の節減、士風刷新、風俗の矯正など儒教的な面が強く、仁政が基本であった。

高兌の就任時には破綻状態であった藩財政は、高兌の改革でも好転するまでには至らなかったが、少なくとも悪化を食い止めて好転する方向への道筋はつけた。

しかし時代は幕末の動揺期に突入しようとしていた。その兆しが現れ始める頃の文政7年(1824年)12月18日45歳で死去した。

           惜しいね
         


幕末の津藩

名君といわれた高兌の跡を受けて藩主となったのは高猷で、襲封時13歳、明治4年に隠居するまで44年間藩主の座にあった。

嘉永6年(1853年)にペリーの来航があって以来、海防問題がやかましくなり、伊勢湾を抱える津藩では洋式兵備への切り替えを目指し、砲工廠を新設して洋式砲20門を鋳造し、乙部村に火薬製造所を設けて火薬を製造した。

安政2年(1855年)からは兵制をオランダ式とし、大口径砲を作り、兵隊の編成替えを行なった。
これより前の弘化4年(1847年)に志摩半島沿岸の測量をし沿岸警備を強化、伊勢湾岸の港には台場を設けた。

幕末における津藩の態度は公武合体推進、尊王佐幕、攘夷延期論であった。

ペリー来航の際に老中阿部正弘の諮問に対しても、「燃料や食料など差し支えないものは提供し、漂流民は帰国させる。しかし測量など行なう場合は設問して詫び状をとる。来航は長崎とし浦賀に来た場合は打ち払う」としている。

安政5年(1858年)8月18日の禁門の変では和歌山・彦根両藩とともに出動して天誅組を鎮圧したが、第一次長州征伐には不参加、第二次長州征伐には中止を上申したが却下され、3千人を出兵したが、将軍家茂の死去により征伐は中止となったために実戦には及ばなかった。

このような世上の中、伊勢領内では「ええじゃないか」と囃しながら踊って、伊勢神宮に参宮する男女で溢れた。

夏に尾張・三河地方で伊勢神宮のお払いが降りたといって男女が踊り始めたのはたちまち伝播し、伊勢でも桑名・四日市・白子・松阪・たまるなどでお札が降ったといって狂喜した。

この事態にすでに力を失っていた藩は藩士への参加は禁止したが、領民には「往来で踊らず、家内か指定の場所で踊れ」と消極的な禁止令しか出せなかった。

慶応3年(1867年)になると朝廷では武力による倒幕を主張する岩倉具視らが急速に勢力を伸ばし、公武合体派を追放、王政復古の大号令が発布された。

津藩では徳島・熊本・佐賀藩ら11藩と協議して、将軍慶喜に対する寛大な処置や人心鎮定などの建言書を提出した。

これにより対立は回避されたかに見えたが、江戸薩摩屋敷に対する挑発行為が元で、会津・桑名藩を中心とする幕府軍と薩長軍との間に慶応4年(1868年)1月鳥羽伏見の戦いが起きた。

京都守護の任を負う津藩は、京と大坂の中間にある山崎に軍を駐屯させていたので、双方に影響力を発揮できる立場にあり、そのために両者間を斡旋したが、逆に双方から疑いの目をもって見られた。

その間勅命として新政府軍への加担を要請され、ついに家老藤堂采女は「徳川氏の洪恩は忘れがたいが、当地出張のものとしては勅を奉ずる以外に道はない」として幕府軍に対し砲撃を開始、これによって幕府軍は潰走した。

この行為が将軍慶喜の江戸帰国、朝廷への恭順を決意させたと言われ、「藤堂の犬侍」と後に批難も浴びることになる。

津藩はその後東征軍にも加わり、関東・東北を転戦して明治元年(1868年)11月に帰還した。

明治4年(1871年)6月に高猷の隠居によって、藤堂宗家の第十二代の最後の当主に高潔が就いた。既に版籍は奉還されており、藩主ではなく藩知事の時代であった。

家督を受け藩知事となったが、その翌月には廃藩置県があり、免官となりここに津藩の歴史も幕を閉じる。
[13]久居の服部家さんからのコメント(2014年07月11日 23時47分46秒 ) パスワード

空の青海のあを様

ありがとうございます。
今日は詳しいことが書けずに申し訳ございません。

家紋は恥ずかしながら覚えていないので
確認してまいります。


スレッドは立ち上げたほうがよろしいのようで…

取り急ぎお返事のみで。
失礼いたしました。

[14]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月13日 08時04分41秒 ) パスワード

茂さんへ


あの納音占いをずっと調べ続けたところ
「桑拓木」そうしゃぼく
というのがあって

これは「英知を示す神木」と出ていました。


つまり桑の木って神木?



    他のサイトの桑拓木について
        〜桑柘木〜
       (そうしゃぼく)



         ≪属性≫
         木

         ≪意味≫
         神木でもある桑の木


         ≪象意≫

         強靭な精神を持つ、着実に進む慎重派


            暗示
         ★知恵を宿す聖なる木。
         ★ゆっくりと成長し、強靭な幹を伸ばしてやがて実をつける。
         ★様々な用途に用いられ、人の役に立つ。


            性格

         ★強靭な精神を持ち、忍耐力、持久力に優れる。
         ★確固たる自分の信念を持つ。
         ★思考は現実的で、無駄なことをしない。
         ★才能豊かで、多くの人に夢を与える。
         ★慎重で着実に、物事に取り組む。スロースターター。
         ★気紛れで行動すると調子が狂う。
         ★大器晩成型なので、じっくりと自己を磨いて成功する。


           人間関係

         ★初対面では人見知りをし、親しくなるまで時間がかかる。
         ★人に信頼され、尊敬されることが多い。
         ★打ち解けると、世話好きで親切ぶりを発揮する。
         ★言葉が足りずに誤解されることもある。
         ★来るもの拒まず、去るもの追わず。余裕のある態度。
         ★人にへつらわず、マイペース。
         ★無言の影響力を持ち、他人を成長させる。

 


ということで「桑の木 神木」で検索したら
     神木龍之介は出て来なかったのですが
     笑


http://www.ntts.co.jp/SO/so16/sou.html

桑は神木である、という概念が古代中国にはあったらしい。
無論、そこここに生えている桑の木が全て神木であるわけではない。

「扶桑」とよばれる特別な桑の木である。

東の海上にこの桑の神木・扶桑が一本生えている。
日々の朝陽は、この海上にそびえ立つ巨大な親睦を伝わって昇ってくるという。

転じて、扶桑はその神木が生えている土地、 すなわち日本をさすことにもなった。                        ↑
                         エエッ?!

                         日本って神木である扶桑の生えている土地?!


想像をさらには逞しくすると、さながら太陽は光り輝く蚕といったところか。

                        ↑
                    蚕が出て来ましたよ〜  


桑が東の海上に屹立する神木に見立てられているのは『説文解字』とよばれる古典中においてだが、
これより時代をさかのぼった『列子』にはもっと荒唐無稽な世界観が現れてくる。


やはり東の海原の果てに帰墟とよばれる底無しの谷がある。
ここには世界のすべての河川、すなわち地上の大河はいうにおよばず、天の銀河ですら流れ込む。

この巨大な谷には浮き島が 五つあり、一つの島を巨大なウミガメ三匹が六万年交替で支えている。
ところが都合十五匹のウミガメのうち、六匹がある日巨人に連れ去られた。
五島のうち支えるものがなくなったニ島は 漂いだし、やがて北極に没してしまったという…。


なんとも人をくった話である。


世界観、あるいはパラダイムに飛躍と誇張とユーモア、そして不思議なことに奇妙な秩序性がある。


**********************


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AF
桑の木の神話・伝承[編集]

古代バビロニアにおいて、桑の実はもともとは白い実だけとされるが、赤い実と紫の実を付けるのは、ギリシャ神話の『ピュラモスとティスベ』という悲恋によるこの二人の赤い血が、白いその実を染め、ピュラモスの血が直接かかり赤となり、ティスベの血が桑の木が大地から吸い上げて紫になったとされている。


桑の弓、桑弓(そうきゅう)ともいい、男の子が生まれた時に前途の厄を払うため、家の四方に向かって桑の弓で蓬の矢を射た。起源は古代中華文明圏による男子の立身出世を願った通過儀礼で、日本に伝わって男子の厄除けの神事となった。桑の弓は桑の木で作った弓、蓬の矢は蓬の葉で羽を矧いだ(はいだ)矢。


養蚕発祥の地、中国においてはクワは聖なる木だった。
地理書『山海経』において10個の太陽が昇ってくる扶桑という神木があったが、
羿(げい)という射手が9個を射抜き昇る太陽の数は1個にしたため、天が安らぎ、地も喜んだと書き残されている。
太陽の運行に関わり、世界樹的な役目を担っていた。

詩書『詩経』においてもクワはたびたび題材となり、クワ摘みにおいて男女のおおらかな恋が歌われた。

小説『三国志演義』においては劉備の生家の東南に大きな桑の木が枝葉を繁らせていたと描かれている。


  日本と桑の木
    ↓
日本においてもクワは霊力があるとみなされ、特に前述の薬効を備えていたことからカイコとともに普及した。

古代日本ではクワは箸や杖という形で中風を防ぐとされ、
鎌倉時代喫茶養生記においては「桑は是れ又仙薬の上首」ともてはやされている。


ことわざ・慣用句[編集]

滄桑の変、桑田滄海ともいい、クワ畑がいつのまにか海に変わってしまうような天地の激しい流転の意。
神仙伝が出典であり、仙女の麻姑が500年間の変化として話した内容から生まれた。
月日の流れの無常を示す言葉として、唐代の劉廷芝の詩にも使われている。


蓬矢桑弓(ほうしそうきゅう)
元々は上記にある中華・日本においての男子の祭事や神事であるが、
払い清めをあらわす言葉の比喩として万葉集や古事記にも用いられ、
「蓬矢」・「桑弓」それぞれ単独でも同じ意味を持つ。




http://oki-park.jp/kaiyohaku/inst/87/113
沖縄と桑の木

桑の木は神木として、シヌグ行事の「ウフユミ」の時の弓に、悪神を祓うとのことで桑の木の枝を使用します。

また、桑の木は太陽神とも関係があり、雷雨の時沖縄では「クワーギヌ下(シチャ)デービル(桑の木の下にいます。どうぞ落ちないでくださいの意)」といいます。



薬草としての桑
http://www.e-yakusou.com/sou/sou207.htm


名前の由来は、中国の古書には、蚕(かいこ)が葉を食べる神木として、桑の漢名があてられています。

日本では、蚕(かいこ)の、食う葉(くうは)から転訛(てんか)して、クワの名が生まれたといいます。

クワは、蚕(かいこ)の唯一の飼料で、まゆを作り、絹糸をとり、布を織ります。

絹は中国文化の代表で、古代文化の盛んであった地中海沿岸でも、絹が無かったのでシルクロードと呼ばれる砂漠を絹を運んだことはよく知られています。

日本にも中国からクワと蚕が朝鮮半島を経て、奈良・平安時代(8世紀)頃に古くに渡来しました。

クワは中国と朝鮮半島の原産ですが、日本に野生するヤマグワも飼料として用いられます。

現在までに、ヤマグワ、ロソウ、カラヤマグワなどを基本にして、多くの品種改良がされています。




薬効

桑白皮(そうはくひ)には、利尿、血圧降下、血糖降下作用があり、漢方薬の清肺湯(せいはいとう)、華蓋散(かがいさん)などに処方されます。

桑白皮(そうはくひ)だけを用いる場合は、1日量10〜15グラムを煎じて服用します。

桑葉(そうよう)は、細かく刻み茶材として、お茶のように急須にいれてのむと便秘、高血圧、動脈硬化、補血、強壮、咳止めの予防になります。糖尿病、口渇き、頭痛、たん、せき、目の充血には、1日量5〜10グラムを煎用とします。

桑枝(そうし)は、リューマチ、神経痛、関節炎に1日量30〜60グラムを煎用します。

桑椹(そうたい)は、肝臓、腎臓の機能を高める作用があり1日量10〜15グラムを煎用します。


*******************


桑の木が神木という身分を持っていたとは知りませんでした。

やはり古代の勉強をするには古代の文化も知らないと「当たらず遠からず」の理解にとどまってしまいますね。


つまり我々が思っていたより絹織物はずっとずっと神聖な織物だったのですね。
神服織部は高貴な身分だったんでしょうね。
[15]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月13日 20時51分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 桑の話、蚕の話、ありがとうございます。服部氏のまさに真骨頂のテーマ

ですね。

 私の家でも小さい頃お蚕様をかっていました。蚕の肌は乳白色で、という

よりも雪石膏のようできめが細かく本当にきれいでした。

 桑の木は反っているので、刀にもってこい。皮はスルスルとむけるし、

むいた肌は白く、表面はやわらかいので細工がしやすく、刀をよく作って遊

びました。

 
 ということで、蚕についてはテーマとしていつかはまとめたいなと思って

いましたが、すでに目を通している関連の本が三冊ほどありまして、今ペラ

ペラめくってみましたところ、今まで気が付かなかった、びっくりする程の

大発見がありました。これもあを様のおかげです。

 今雑用が入り、時間がありませんので、後ほど書きます。お待ちください。


                         丸に三つ柏の服部

 
[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月13日 22時54分38秒 ) パスワード

>今まで気が付かなかった、びっくりする程の大発見がありました。

本って読み返すと、その度に違う発見がありますね。


わたくしも桑や蚕が日本に伝わったのって奈良や平安じゃなくて、もっと古い時期かと、思ってました。

絹織物を輸入してたのは知ってましたが。平安時代でも舶来物の話が出て来ますから。



そうしますと服部部とか機織部とか神服部部って想像してたほどには古くないのかな?と。

神代の時代とか古代とかの文化や背景が、やっぱり、いま1つ分かってないな、と。




秦氏は一体いつ日本に来た?
   秦の崩壊後、大陸をウロウロし、半島でもウロウロし、
   その後、ですから   紀元後  でしょうね。

   始皇帝           (紀元前259年 - 紀元前210年)
      中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)




徐福   中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士(方術に秀でた者・学者)

伝承[編集]

日本における伝承[編集]

青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名である[7]。

徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。ちなみに冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生している。 丹後半島にある新井崎神社に伝わる『新大明神口碑記』という古文書に、徐福の事が記されている。

徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されている。波田須駅1.5kmのところに徐福ノ宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。



徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し[8]、徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である。『富士文献』は富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群で、漢語と万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している。富士文献は徐福が編纂したという伝承があり[8]、また徐福の来日した年代が、『海東諸国記』の孝霊天皇の頃という記述が『宮下文書』の記述と符合することが指摘される。ただし、宮下文書はいわゆる「古史古伝」に含まれる部類の書物であり、文体・発音からも江戸後期から近代の作で俗文学の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない。



中国における伝承[編集]

北宋の政治家・詩人である欧陽脩の『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」(日本人の祖である徐福は日本に薬を取りに行くと言って秦を騙し、その地に長らく留まり、連れて行った少年少女たちと共にその地で老いた。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)と言った内容で日本を説明する部分が存在する。



朝鮮における伝承[編集]

朝鮮半島で書かれた『海東諸国記』には、孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるとある。



その他・現在[編集]

1982年に、中国において『中華人民共和国地名辞典』編纂の際の調査において、江蘇省連雲港市贛楡県金山鎮にある徐阜という村が清の乾隆帝の時代以前に「徐福村」と呼ばれており、徐福にまつわる伝承や遺跡があることが判明した[9]。

ただし、1980年代になるまでは、現地の旧家では「明代になって先祖がこの地に移住した」との伝承がなされていたことと、徐福の実在性自体が疑わしいことから、

     これは「日本からの観光客を狙った村おこしではないか」との指摘がなされている[4]。

実際、徐阜村では日本人観光客が多く訪れ、名物「徐福茶」も好評とのこと。



また徐福が出航したとされる候補地の一つ、慈渓市では2000年3月30日に「徐福記念館」が開館したことを契機に日本の徐福研究者や縁者との交流が始まり、翌2001年秋には同市三北鎮文宛南路に「徐福小学」が開校した(なお同校の揮毫は日本徐福会名誉会長を務める羽田孜が行った)[10]




結局、 秦氏とは?徐福とは?服部部とは?  いったい何なんだァアアア〜〜 叫


やはり先入観を一掃して、いろいろ読んで、1から組み立てないと、土台がぐらぐら・・・



   ひとりごと:天武天皇・持統天皇あたりの時代か、そのちょっと前か、または後か?

         神服部家の歴史のホントの所が分かるとかなり分かって来るのかな?

         神話と伝説と伝承と思い入れが膨らみ膨らみ美しい話になったのかな?


茂さん、このレスは無視なさってください。
[17]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月14日 04時15分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 レスが遅れて申し訳ありません。

 「養蚕・絹織り」の歴史について、私の所に関連する3冊の本がございま

す。それは、

 1.『織物史稿』(山本又六著)

 2.『錦とボロの話』(龍村平蔵著)

 3.『倭人の絹』』(布目順郎著)

であります。


 その本の中で『倭人の絹』(布目氏は、執筆当時京都工業繊維大学の名誉

教授)という本ですが、日本の古代の「養蚕と絹織り」についての学術的・

考古学考察をされた結果の話が書かれています。長くなりますので結論だけ

書き出しますと、


 1.日本で養蚕、絹織りが開始されたのは弥生時代前期末以前(前150

  年以前)であり、その場所は北部九州である。


 2.弥生中期前半以前においては華中系蚕品種が多く飼育されていたと

  みられることから、日本の養蚕技術は華中方面から伝えられたと思われる。


 3.弥生中期中葉以降、楽浪系養蚕品種が北部九州へ盛んに導入される

  ようになった。


 4.当時の中国は、養蚕法をはじめ、蚕種や桑種子の国外持ち出しを厳禁

  していたので、日本への伝来は華中方面にいた非漢民族(呉越の末裔や苗

  族などの少数民族)、あるいは中国へわたっていた日本人ではないか。


と述べています。ひょっとして徐福とも時代的な整合性はあります。

 「薬草としての桑」の記述の8世紀は、奈良時代ですので、秦氏の渡来より

もさらに後、誤認だと思います。


  さて、びっくりする大発見と申しましたが、それはよく考えてみますと、

既成観念としてまかりとおっていること、すなわち服部氏は秦氏であるという

ふうに簡単にすませられてしまっていることに対し、その観念を根本から考

え直さざるをえない事象、記述を見つけたからなのです。

  実は、私は以前は秦氏と服部氏は別の氏族だと思っていました。それが

ほとんどの書物で服部氏は秦氏の同族であると簡単に済ませてしまっている

ので、私もその考えにいつの間にか傾いてしまっておりました。

 しかしながら、私は心底ではこの説に対して疑念を抱き続けております。

悪徳検事の結論まずありきでプロセスを持論で固めていくというストーリー

にも似ておりますが、まず「機織り(はたおり)」から「はっとり」になった

というのは子供だましのように思います。その当時の言語体系は音があって

漢字は後から当てはめられた。「はっとり」に近い口語(発声音)がすでにずっ

と以前から存在していたのではないでしょうか。

 たぶん西方のハッタイト(ヒッタイトの前、ハッチ族ともハッティ族ともい

われる)から来ているのではないか。秦氏の「はた」は「はた、あるいは、ぱ

た」という口語よりたどれば、ヘテ族か、もう少し大きな集団から来ているの

ではないのか、「秦」の字は後から当てはめた。

 当時、口語(発声後)と漢字のマッチングが行われていた。国家の統一の必要

性もあり、またヘブライ隠しということが特に聖徳太子時代より行われ、持統

天皇、そしてさらに藤原不比等により二重に作成・改竄・隠蔽された。それは

言語、名前、歴史すべてにわたっていた。


 その地平線に立って今一度歴史というものを考え直すべきではないだろうか

と強く思います。


 論理が少しずれましたが、びっくりする新発見とは、

 『遠江織物史稿』を見ますと、遠江には東三河から遠江の浜名北部まで養蚕

・絹織りの一大産地があった。東三河大野に服部神社、わ繰神社(わくくり 

漢字が難しいので略します)、犬塚神社(犬が繭を食って糸を吐いたという言い

伝えあり)、蚕塚、遠江に神服部の初生衣神社、そして引佐に蜂前神社(はちさ

き)、長上に服織神社と半月状に地域が広がっている。


 蜂前神社はもとは鳥飼神社または羽鳥大明神と云われていた。この地域は

八田(秦)氏が開拓。麻羅宿祢が養蚕職工に貢献。允恭天皇の時代に麻羅宿祢

の祖、熯速日命の御親子四柱を脇宮に奉斎したという。


 麻羅宿祢は服部氏の祖でもある。従って服部氏の祖は熯速日命、即ち

その親の甕速日命、さらにその親のスサノオであるということである。


 つまり服部氏は全くの秦氏ではないということである。意思を同じくする

グループか、または婚姻関係による親族。

 そうなれば秦氏もスサノオ物部氏とも親戚となる。

 要はどれだけ濃いかの問題にはなる。実はみんな多かれ少なかれつながって

はいるのである。


 あを様、いかがですか、服部氏はもっともっと忌部氏のような天孫の中枢の

存在のような気がします。私はそう信じたいです。ハッタイトの歴史、ヘブラ

イの歴史、日本の古代の歴史をもっと調べたいと思います。

 また、アナトリア高原への旅行、いつか実現したいと思います・・・。


 夜更かしをしてしまいました。


                          丸に三つ柏の服部



 を得ない

  
 



から前)
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月14日 04時32分59秒 ) パスワード

はい
日本人は本当に何重にも繋がっています。


そうなんですか  服部氏=秦氏  というわけではない。



日本の養蚕と絹織物は弥生時代からですか。

   なんとなくそう思っていました。
   奈良時代では遅過ぎやしないんじゃない?と。




面白いのを見つけました。

徐福と物部氏の関係です。


http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_191.html
          このサイトの派生スレッドもなかなか面白いお話が満載です。


秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(前編)


   ここでは徐福は斉の出身というより越の方だろうと。

   越と日本は似ている:例えば「刺青」の風習

   徐福は日本に2度来ている。

   もたらしたものは  米 。



このサイト主が参考にした本:


▼飛鳥昭雄 失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎


徐福の2回目の渡航に関しては、 佐賀市金立町などの北九州の地が上陸地の可能性が高いと思います。


では1回目はどこか?

それは(2)で。


ここでアップします。
30分前にアップしようとしたら  はねのけられてしまいましたから。



[19]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月14日 04時50分30秒 ) パスワード

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_192.html

秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(中編)


果たして、徐福の日本渡来の「最初の上陸地」と「2度目の上陸地」は何処なのか?


この答えについては、我々一般人は容易に知ることが出来なかったんですが・・・
実は、その答えを裏の神道組織である「八咫烏」は知っていたんです。


                 裏神道の「八咫烏」氏  登場!笑


飛鳥氏の推測に基づく論拠であれば、管理人も文句や反論もしようもんですが、
「八咫烏」が言う事は、管理人も一切反論できません。

なんせ、日本の神道祭祀のTOPに君臨する組織の見解ですので、、、
それは真実の歴史であると見なさなければいけません。



八咫烏が明かした徐福の上陸地点は、若狭と北九州だった!

まぁ、「八咫烏の言う事を信じるかどうか?」は、読者の方にお任せしますが・・・

先ほどの、飛鳥昭雄氏の「失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎」の本の中で、
八咫烏が述べている要旨は、下記の3点です。


•@徐福の1回目の上陸地は、若狭湾である      ← 1回目は若狭湾到着
•A徐福の2回目の上陸地は、北九州の西側である
•B物部氏は、徐福とともに来ている         ← 物部氏登場!

 
特定すると
若狭湾の伊根町新井崎のハコ岩と呼ばれる場所に徐福が漂着したとされる。
伊根町新井崎にある、新井崎(にいざき)神社には徐福伝承がある。


徐福が求めてきた神桑というのは「九節の菖蒲と黒茎の蓬」であるとされている。
    黒茎の蓬はからよもぎといい、普通のよもぎと異なって
    葉の裏の白毛が少なく、よもぎ餅を作るのに適する。
    生長するともぐさになる。


        ええっ?!
        「神桑」って「桑」じゃなくて菖蒲と蓬だったの?!


不老不死の薬が、「九節の菖蒲と黒茎の蓬」というのは管理人もよく分かりませんが、
徐福の求めた三神山の一つ蓬莱山が、別名で蓬が島(よもぎがしま)とも言うので、
三神山の名前に、あやかっているのかもしれません。


あと、徐福伝承以外に気になる点として、新井崎神社の古文献「新大明神口碑記」に、
「丹後奥郡澄之江の里は、龍宮城と同所にして異名なり」という記述があります。



これは、日本書紀の雄略紀にも出てくる丹後地方に残る浦島子伝説です。
『丹後国風土記』逸文の浦島伝説では、「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読ませてますが・・・

実は、11代垂仁天皇の命により、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めて
タジマモリ(アメノヒボコの子孫とも言われる)が渡った国も、常世の国です。

徐福伝説と浦島太郎伝説、タジマモリの話は、全て丹後半島の話ですが、
それぞれのストーリーに妙に、不老不死の伝説(常世の国)が絡んで居るのが印象的です。




籠神社と海部氏のルーツ

さて、八咫烏の指摘などから、徐福の最初の渡航の漂着地は与謝郡だと考えられますが、
この地に徐福が上陸した事に、管理人は物凄い大きな意味があると考えます。

なぜなら、、、この与謝郡には、元伊勢籠神社が鎮座しているからです。



籠神社と言えば、代々の宮司さんは、海部(かいふ)氏です。
(現在の宮司さんは、82代目の海部光彦氏です)


この海部氏が持つ家系図は、天皇家に匹敵するほど古く国宝にも指定されています。
(※海部氏の家系図には、「本系図」と「勘注系図」の2種類があります)


それで、興味深いことに、海部氏系図を見ると、海部氏の始祖は、
彦火明命(亦の名を天火明命(アメノホアカリノミコト))に始まる事が分かります。


天火明命は、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命と萬幡豊秋津師比売命との間に生まれ、
天孫 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は、天火明命の弟に当たります。


さらに、この天火明命ですが、『先代旧事本紀』には、この天火明命こそが、
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒのノミコト)だと記されています。



▼饒速日命(ニギハヤヒノミコト)=天火明命(アメノホアカリノミコト)


そして、この事は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の子孫である
神武天皇の東征とも深く関わってくることになるのです。。。


海部氏は、物部氏の中の物部氏

ここで、一旦、記紀の神武東征の場面を紹介します。

神武天皇は、九州から大和に登り(東征)、長髄彦と対峙していますが、
下記は、そのクライマックスの場面です。



イワレビコ命(神武天皇)は、
「天神の子供は大勢いる。そなたが君とする人が本当に天神の子なら、
必ずしるしの物を持っているはずである。それを見せよ。」
と言いました。

長髄彦はニギハヤヒ命の天羽羽矢(あまのははや)を一隻、
また歩靫(かちゆき)を持って、イワレビコ命に見せました。

イワレビコ命はこれを見て、「本物だ。」と言って、
戻って自分の所有する天羽羽矢一隻と歩靫を長髄彦に見せました。

長髄彦はその天表(あまつしるし)を見て、畏れかしこまりました。
しかし、武器を構えていて、その勢いを中途で止められませんでした。
またなおも間違った考えを持ったまま、捨てる気持ちになりませんでした。

ニギハヤヒ命はもともと天神が大切に思っているのは、
ただ天孫だけだと知っていました。

それに比べて、長髄彦のひととなりはねじけた性格で、
天孫と人との違いを教えても理解出来ないのを見て、ついに殺してしまいました。
そして、衆人を率いてイワレビコ命に帰順しました。

イワレビコ命はもともとニギハヤヒ命は天から降ったという事を知っていました。
そうして、今、忠誠心を示しました。それを褒めて寵愛しました。
この人が物部氏の遠祖です。


この神武天皇のストーリーの中では、神武天皇とニギハヤヒが、同じ徴を見せ合う事で、
双方が「天神の子供(天津神系)」であったことが、示されています。

そして、最後の部分には、「ニギハヤヒ命は物部氏の遠祖だ」としっかり書かれています。


ここで思い出して下さい。八咫烏は、こうも言ってました。


      B物部氏は、徐福とともに来ている



要するに、、、

神武天皇が大和を制圧する前まで、
大和の地を抑えていたニギハヤヒ命は、徐福の連れてきた一族だった訳です!


しかし、現在の籠神社の宮司の海部光彦氏は、こうもコメントしています。



しかし、現在の籠神社の宮司の海部光彦氏は、こうもコメントしています。



物部氏と海部氏では格が違う。
一つの大きなグループを形成していたが、中核を担ったのは海部氏である。


上記は「失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎」より引用

上記の"一つの大きなグループ"とは、物部氏全体のことを示唆していると思われます。
要するに、物部氏の中でも海部氏はその中心勢力であると、氏は述べている訳です。


以上のことから察するに、海部氏は、天津神系の末裔です。
(海部=あまべ=天部で、天津神の末裔を示していると思われます)

さらに、海部氏は、物部氏族の長的一族の一つだったと考えて良いと思います。


また、海部の名前に"海"が入っているのは、
徐福や連れてこられた一族が、海人の多く住む中国の越出身であり、
彼らは海人族(海を治めた航海民)であった事を暗に示していると考えられます。


そして、最も大事なことですが・・・
彼らこそが、神武天皇が大和朝廷を樹立するまでの
倭の国を治めていた中心勢力の一つだった訳です。
(※本当はここで、邪馬台国の議論にも発展するんですが、邪馬台国論争は、色々他にも検討しなければいけなくなるので、ここでは言及しない事にします)


しかし、そう考えると、不思議なのが、神武天皇です。
神武天皇とは、一体、何者だったのでしょうか?

もちろん、神武天皇の名前自体は、後世で淡海三船が付けた漢風諡号なので、
実際のそういう名前の人物は居なかったと思います。

また、記紀に書かれた神武天皇には、「建国記念の日に隠された謎」の記事で書いたように、
人物のモデルとして、聖書のエフライムの息子のベリアやモーゼが仮託されて居ると思います。


しかし、ここで問題としているのは、
それら神武天皇のモデルを差し引いて現れる、真実の日本の歴史はなんのか?
・・・という部分です。

記紀に、神武天皇のストーリーが組み込まれたのには、
何か、日本の歴史を語る必要要素があったからに他ならないのです。

そう言うところが、まだここで述べていない、
「A徐福の2回目の上陸地は、北九州の西側である」に関わってきているような気がするのです。


後編に続く
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月14日 05時13分29秒 ) パスワード

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_193.html
後編



徐福の二度目の上陸地、「A北九州の西側である」について探ります。
また、同時に、神武天皇ストーリーに隠れている日本の真実の歴史を探っていきたいと思います。


徐福の二度目の渡来と北九州に残る長江流域の文化

さて、ここで思い出して貰いたいのが、八咫烏が述べた二つ目の言葉です。
八咫烏は、徐福の二度目の上陸地を、「A北九州の西側である」と述べています。


北九州の西側と言えば、佐賀県が鹿児島辺りになりますが、、、

前回で述べたように、稲作の伝播ルートから察すると、
佐賀県西部辺りが徐福の二度目の上陸地点と考えて良いのではないかと思います。
(詳しい上陸伝承は「徐福の佐賀県の上陸伝承」をご覧下さい)



そして、この佐賀県で、弥生時代の有名な遺跡に、吉野ヶ里遺跡があります。

実は、この吉野ヶ里遺跡は、徐福伝承のある金立神社から東へ8キロ程の場所で、
ほとんど、同一圏内と言っても良いもので、(直接的な物証はないものの)
吉野ヶ里遺跡にも徐福が関わっている可能性は大いにあります。


この吉野ヶ里遺跡には、色々特徴がありますが、
環濠集落や高床式倉庫などは、とても有名だと思います。


高床式倉庫などは、お米の貯蔵庫だと考えられていますし、
実際に、吉野ヶ里遺跡からは、ジャポニカ米の炭化米も発見されています。
※ただし、吉野ヶ里遺跡からは、水田跡が見つかっていないため、熱帯ジャポニカと思われる

そして、中国の研究者によると、吉野ヶ里遺跡に見られる
環濠集落や高床式倉庫などは中国の江南地方特有のものなのだそうです。



さらに、北九州地方には、その特有の風習として、甕棺墓が多く見つかりますが、
この甕棺の風習も、元々は、中国の戦国時代の頃まで長江河口流域に残っていたものです。


また、九州の甕棺墓の研究をしている藤尾慎一郎氏によりますと、この甕棺墓は、
(一部例外を除き)ほとんどが、九州の西半、かつ、北部九州地城にのみ見られるそうです。


また、氏によると、この甕棺墓の風習の発生時期を、弥生時代早期としており、
それまでは、甕棺墓の風習は見られなかったようです。


以上の事から察すると、北九州地域に縄文晩期〜弥生早期に、
それまでと違った風習を持つ民族が渡来した事は、明らかです。

民族の渡来時期や八咫烏の指摘、さらにイネの伝播や長江方面との文化の類似などから
それは、紀元前3世紀後半頃に中国の越(江南地域)からやってきた、
徐福の連れてきた集団(部民)によるところが大きいのではないでしょうか?


特に、二度目の徐福渡来時は、三千人規模とかなりの大人数でした。


     良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子と
     さまざまな分野の技術者を徐市に託して旅立たせた。



長旅の航海を終えて、まずはこの地で日本国内での拠点を築いたと考えれば理にかないます。


と言う事で、徐福の二度目の渡来は、
北九州の佐賀県西部辺りが、最も可能性が高いように思われます。


その後の徐福のルートは?

さて、ここからは、その後の徐福の足取りを考えて見たいと思います。

まず、一番最初に考えないといけないのは、、、
「そのまま、徐福は、北九州で定住したかどうか?」という問題です。


この問題について、最初から秦の始皇帝を騙すつもりであれば、
北九州にそのまま住みつくのも考えられますが・・・



一度目の航海で、何も成果も挙げられ無かったにも関わらず帰国した徐福です。
その徐福の性格を考えると、始皇帝を騙すつもりも無く、
さらに、不老不死の薬を求めて、さらに東に向かった可能性が高いと思います。


実は、国内で徐福伝承を見ると、最初の渡航地である京都府伊根町を除いて、
ほとんどが太平洋側に伝承が偏ってみるのが見られます。

また、徐福の墓も、九州にはそれらくきものがなく、
むしろ、徐福の墓の伝承は、和歌山県新宮市や山梨県富士吉田市辺りにあります。

以上の事を考慮すると、北九州はあくまで徐福船団の日本の拠点の一つであって、
徐福自体は、そのまま太平洋側から船で東進したのではないかと考えられます。


以下からは、徐福伝承から推測される東進ルートを挙げていきます。
佐賀県を出た徐福は、まずは鹿児島県いちき串木野市に寄港します。

冠岳連峰の西岳において、徐福が自らの冠をとって、
封禅(ほうぜん)の儀式を行ったという言い伝えがあるようです。


その後、鹿児島県の坊津町などを通って、九州の南東側の日向の国に出ます。
途中寄港した延岡市には、徐福が乗ってきた船をつないだ岩というのがあるようです。


徐福一行は、さらに紀伊の国に向かって東進します。
高知県土佐沖で暴風雨にあったらしく、徐福とともに日本に来ていた
もう一人の秦の重臣"張郎"なる人物が、洲崎浦に漂着しています。

ここで、張郎は地元の人に聞いて、仙薬探しに
虚空蔵山に登ったという伝説が残っているようです。



しかし、結局、仙薬は見つからず、張郎は仙薬探求失敗を報告するため、
そのままこの地を後にしたようです。

しかし、徐福は、そのまま三重県の熊野に向かったのだとか。


熊野に向かった徐福は、熊野川の河口近くの蓬莱山に上陸。

徐福はこの地で天台烏薬という木を発見し
それが不老不死の薬だとこの地では言われているようです。

また、富士宮古代文献「宮下文書」によると、紀伊熊野に迷い着いた徐福は、
しばらくこの熊野の地(波田須辺りか?)に留まった、、、ということも書かれています。



以後のルートについては、富士宮古文献「宮下文書」によりますと・・・
不老不死伝説がある蓬莱山、富士山に徐福一行は向かっているようです。




「現代語訳 神皇紀―徐福が記録した日本の古代"富士古文書」より

(第7代孝霊天皇の)七十四年甲申年(紀元前217年)九月、秦国徐福が高天原に来た。
これより前、徐福は秦始皇帝を欺き、大船八十五艘を造り、金銀銅鉄、五穀衣服、器具
その他諸々の品々を用意して、老若男女五百余人を従え、不二山を目標として東海に来た。

本島の南海で不二山を見失い、木日国熊野山に惑っていたが、
ある日再び不二山を見つけ、今、漸く高天原に上り来たものであった。


(管理人注)
「ホツマツタエ」によると、古代高天原は一か所だけでなく複数あったとされています。
(日高見(宮城多賀城)、ハラミ山(現富士山)、淡宮(近江多賀大社)など)
また、中国出発時には、老若男女三千人だったのが、ここでは五百人まで減っており、
ここまで来る途中に、2500名が、何処かに消えていることに注意。



そして、その後、徐福は富士山北麓で徐福は七男三女をもうけ、
その地で、一生を終えたようです。(下記は徐福の子孫)

•長男:福永⇒福岡と改名、父の跡を継ぐ
•次男:福萬⇒福島と改名、紀伊熊野に郎党50人を連れて移住
•三男:徐仙⇒福山と改名
•四男:福寿⇒福田と改名
•五男:福畑
•六男:福海
•七男:福住

七人の息子達は7箇所に分かれて子孫を増やした。
その多くは秦を姓とし、又、氏に福の一字を付けた。


(管理人注)
徐福伝説に秦氏の影がついて回るのは、後の子孫が、秦を姓としたためかもしれません。
                         ↑
                       なるほどね



したがって、厳密に言えば、後世の弓月君(融通王)を始祖とする秦氏一族とは、
分けて考えるべきではないかと思います。

    (徐福の子孫は、物部氏系の秦氏と言えます)



取りあえず、以上のように、徐福の辿ったルートをざっと説明しました。

あくまで、徐福伝説のある土地を結んでいっただけですが、こうして見ると、
鹿児島から宮崎、、、そして熊野に至るルートは何処かで見たような気がしませんか。。。

▼徐福が辿ったルート(推定図)



そう。。。
このルートは、かなり神武天皇の東征のルートに近いかもしれません。


しかも、徐福の本隊は、大和から見て東側の富士山周辺に移り住んでおり、
さらに、その一部に、紀伊熊野に移住した集団が居ることにも気付きます。
(神武天皇のストーリーでも、熊野で高倉下や八咫烏の助力がありましたね)


そう考えると、徐福の九州ルートの船団が、神武天皇のモデルだったのか?と考えたくなります。



しかし、残念ながら、、、
徐福自体は、神武天皇ではありません。



神武が徐福なのであれば、徐福に征服者としての痕跡が残るはずです。
しかし、それが無いのは、神武天皇と徐福とは別の存在であるという事です
                 ↑
            神武と徐福はイコールではない
            これは大事な点ですね

                イコールにしない管理人は良い人だと思います




ただし!
先ほどちらっと述べましたが、文献によると、徐福が富士山まで来た時は、わずか500人です。

一方、中国の史記では、約3000人の童男童女と技術者が出航した事が書かれています。

その差は2500人とかなり大きく、
もしかすると、その大部分が、最初の上陸地であった北九州に残ったままだったのではないでしょうか?


そして、その集団が、稲作文化を九州に定着させ、
九州で勢力を蓄えた後、稲作文化の東進とともに、大和方面まで勢力を伸ばしてきた

・・・とは考えられないでしょうか?



実は、そんな仮説も十分あり得る事が、最近の調査では分かって来ています。


証拠@:稲作の東方への伝播と遠賀川式土器

よくよく考えて見れば、稲作は、東から伝播しています。


この稲作の東進の指標に、
「遠賀川式土器(おんががわしきどき)」がという土器あります。

福岡県遠賀川下流の川床で多量の弥生式土器が
採集されたことから、その名前が付けられました。

遠賀川式土器は、下記のように、九州から西日本に広く展開していることが既に分かっています。



▼遠賀川式土器の展開

【上記は、佐々木高明著「日本史誕生 集英社版 日本の歴史 (1) (日本の歴史)」より引用】


この遠賀川式土器は、初期の水田稲作の西から東への伝播の指標にもなっており、
西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになっています。

古代において、文化の流れは人の流れですから、
九州から東方面へと人が流れて言っているのが分かります。



証拠A:北九州と大和の地名の類似

実際に、この北九州地方⇒大和地方への移動は、地名にも現れています。

安本美典氏は、著書「卑弥呼と邪馬台国」において、
下記のサイトの図のように、福岡県朝倉市(旧朝倉郡夜須町)付近の地名が、
大和付近の地名に一致していることを発見しています。


<参考図:大和と筑紫の地名の比較>


筑前高田⇒大和高田、笠置山⇒笠置山、御笠山⇒三笠山、小田⇒織田、
平群郷⇒平群郡、三輪⇒三輪、雲梯⇒雲梯、朝倉⇒朝倉(桜井)、
三井⇒三井、浮羽町⇒音羽山、鳥屋山⇒鳥見山、鷹取山⇒高取山などなど・・・


興味深いのは、"雲梯"と言った滅多に見られない地名が双方で見られることや、
九州の地名と配置が、そのまま似たような形で、大和に移し替えられていることです。

この事実は、確実に、北九州の人々が大和に入植していることを示唆しています。


さらにもう少し深く言えば、九州の遠賀川周辺の残した地名には、
物部氏の部民としての地名が多く残っており、それは畿内においても見られますので、
九州の物部氏の部民が畿内に大量に移動してきたことを、如実に示す結果となっています。


物部氏というのは、「物作りの部民」の総称の意味もあります。     へえ〜
要するに、モノづくりの専門技術者の集団と言っても良いでしょう。



一方、徐福が2度目の航海で連れてきた人々は、どうだったでしょうか?


中国の史記では、「約3000人の童男童女と技術者が出航した」
・・・としっかり書かれていますよね。

以上のように、九州から東に向けて文化が伝わったのは、
こうした"徐福が九州に残した物部氏"の影響が強いと考えられる訳です。

こうして、徐福が残した二つの集団が、原始の日本の国を形成していくことになる訳です。



※おことわり
ただし、上記のような考察を続けていくと、
神武天皇は、徐福が九州に残した部隊の一族ではないか?
という可能性は、いやがおうにも高まってきます。

しかしながら、この仮説については、管理人も現在考察中であり、
さらに深く検討すると、神武天皇の東征や邪馬台国の論議までをも考慮せざるを得ず、
今現在の徐福という人物の話の本節から大きく外れてしまいます^^;



なので、読者の方には申し訳ないのですが、
徐福が九州に残した集団が、その後の日本の物部氏の基礎になっている所までを示し、
それ以上の事については、現段階では触れずに、今後の課題にさせて頂きます。


なお、籠神社の海部宮司は、「物部氏と海部氏とは格が違う」と述べていますが、
これは、もともとの「物部氏=物づくりの部民」なのに対し、
「海部氏=古代の王家の祭祀一族」ということに由来しているようです。

               ↑
           物部氏=物づくりの民
           海部氏=古代祭祀一族



結局、徐福とは何者だったのか?

さて、ここまで色々と徐福の謎を考察した訳ですが・・・
しかしながら当シリーズ最初に示した謎には、まだ何も解答していません。


すなわち、、

なぜ秦の始皇帝は、最初の渡航で何の成果をも挙げられなかった徐福に一切の罰をも与えることなく、
再び巨費を費やしてまで、二度目の渡航を許可したのか?

また、なぜ、始皇帝は、そこまで徐福を信用できたのか?


・・・という問題です。


この問題については、残念ながら、
今となっては有る程度、推測でしか答える事が出来ないのですが・・・

「徐福が、元々、秦の始皇帝の同族であった!」のが理由ではないかと考えられます。


       徐福が罰せられなかったのは徐福がもともと始皇帝の同族だったから?


中国の研究者によると、徐福の姓として、
元々は「「「エイ」」という名字を持っていた事が近年分かってきたそうで、
同じ名字を持つ秦の始皇帝は徐福と同族の可能性が高いようです。


秦の始皇帝が、初回の航海時の失敗にも徐福を咎めなかったのは、
こうした同族意識が働いていたのかもしれません。


あと、以前述べた通り、秦の始皇帝は、「呂不偉」を実質の父親(?)とした、
ユダヤ人の可能性がありましたが、徐福自体はどうなのでしょうか?

こちらの徐福の血統面でのルーツは、なかなか探る事は出来ないのですが、
しかしながら、徐福の思想面においては、大いに類推する事は出来ます。


まず、徐福の名前はジョフクですが、
エジプト名で言えばジョセル、英語ではジョセフ、ヘブライ語ではヨセフです。

もし、徐福の名前が、ヤコブの息子であるヨセフを意識して名付けられた物だとすれば、
徐福自身が、ユダヤ教徒である可能性は非常に高いと思われます。


まだ他にも論拠はあります。
徐福が、最初に渡来したのは、与謝郡です。

ここで、もし、徐福がユダヤ教徒だったら・・・という思考で考えて見て下さい。


もし、ユダヤ教徒ならば、きっと、新しい入植する新天地を、
聖書のカナンの地に当てはめることになるのではないでしょうか。

聖書ではイスラエル民族のカナン入植を導いた人と言えば、、、
モーゼの跡を引き継いだヨシュアです。

このヨシュアの地名を、入植地に名付けるのは、
ユダヤ教徒的な立場から考えれば、何らおかしい事ではありません。


翻って、この与謝郡(古名では與謝・吉佐・匏など)の地名に注目してみると、、、
与謝=ヨシュアであり、まさに、旧約聖書の名前と同じです。


また、徐福が連れてきた物部氏も、後世に垂仁天皇の時代に物部氏の姓を賜っていますが、
平御幸氏の説によると、「物部=牛を拝むこと勿れ」の意味も含まれているようです。


牛を拝む事勿れは、まさに、金の仔牛像を想像させる名前と言えます。





上記に述べた事は、言って見れば単なる文字のごろ合わせに過ぎませんが・・・
そこに物証が伴って来た場合は、大きな意味を持ちます。

思いだして下さい。徐福一団の中心氏族たる海部氏が崇拝する籠神社。
この籠神社の奥の院「真名井神社」の石碑には、以前は六芒星(カゴメ紋)が刻んでありました。


▼籠神社の奥の院「真名井神社」の旧石碑

この六芒星マークこそが、海部氏の持つ、籠神社の裏社紋であり
イスラエルと同じカゴメ紋であることに、非常に大きな意味があると思います。


以上の事から、管理人は、徐福が率いた物部氏の一族は、
ユダヤ教徒が中心だったのではないかと考えます。

また、ユダヤ教徒が多い=その中に、ユダヤ人が含まれていた可能性が高い!
・・・と言えると思います。


以上が、徐福と物部氏の正体についての謎解きです。

少し、不完全燃焼な記事かもしれませんが、書ききれなかった部分は、
今後、随時追加で検討していこうと思います^^;



最後に、ちらっと述べると、飛鳥氏の下記の著書によると、
(物部氏の事を指しているかどうかは分かりませんが)
日本の神道祭祀のTOPである八咫烏は、その公式見解として、
日本人にユダヤの血が入っていることを認めているようです。
[21]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月14日 11時45分49秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 物部氏と徐福の関係の情報、勉強になりました。すごく重いですね。いろ

いろなものがからんでくる。


 それにしても、このサイトの管理人「ふえ」さんてただ者でない。ほとんど

の闇に閉ざされた歴史の謎を解き明かしておられる。理論的にも整っている。

どんな人なのかたいへん興味があります。


 改めて、

 1. 物部氏の真底の本質とは?

 2. 秦氏と物部氏の関係は?

 3. 神服部氏と服部氏の関係は?

 4.  秦氏と服部氏の関係は?

 5. 徐福とヨシュアの関係とは?

等について、更に探求して行きたいと思っています。


                         丸に三つ柏の服部
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月14日 15時23分45秒 ) パスワード

>どんな人なのかたいへん興味があります。

はい


自分の空想を押し付けないところも良いですね。
ちゃんとブレーキをかけていらっしゃる。



以下想像してみました:


1. 物部氏の真底の本質とは?

日本の文明化の曙を担った人々、かな?



2. 秦氏と物部氏の関係は?

秦氏=徐福=がツアー・リーダーとして開拓民=物部氏=を日本に連れて来た、かな?



3. 神服部氏と服部氏の関係は?

服部さんは、顧客は政治系の人間で、皇室や朝廷や公家関係を相手にした衣類関係者
神服部さんの顧客は神道関係なのかな?神様専用の宗教系衣類関係者なのかな?
と思うようになりました。

服部さんと神服部さんは全く系統が違うのでは?と。

服部さんの扱う主素材は麻で、注文に応じて絹も扱うが
神服部さんの扱う素材は絹のみ、かな?笑



4.  秦氏と服部氏の関係は?

服部氏は秦氏の膨大な職能集団の1部分でしかない。
秦氏は技術改革をして、それを実効部隊の服部氏に伝授し、稼動させた、かな?



5. 徐福とヨシュアの関係とは?

ユダヤ教系か景教系の信仰を持っていた。



徐福は   ヨシュアがカナンの土地を見つけたように
      長い航海の後に見つけた土地を、約束された地という意味で
      「与謝郡(古名では與謝・吉佐・匏など)」
と名付けた、かな?


参考:
ヨシュア(ヘブライ語:Yehoshuʿa)は『旧約聖書』の「民数記」や「ヨシュア記」に登場するユダヤ人の指導者。

エジプトを出て放浪するユダヤの民。その1人だったヌンの子ホシェアはモーセによってヨシュアと呼ばれるようになる。彼はカレブたちと共に、モーセに命じられて自分たちの目指す約束の地であるカナンを偵察する。ヨシュアとカレブはカナンのすばらしさを伝えるが、それ以外の者たちはカナンの地に入ることの困難を強調する。そのため、民は動揺し、モーセに向かって不平を言うが、ヨシュアとカレブだけは不平を言わなかった。このため、ヨシュアとカレブだけは約束の地に入ることをゆるされるが、他の成人たちには許されなかった(「民数記」)。

モーセは120歳になると、自分の後継者としてヨシュアをたてて亡くなった(「申命記」)。

ヨシュアは指導者として約束の地に入るべくヨルダン川を渡ってエリコを攻める。エリコの城壁は祭司たちが吹く角笛と民の叫びの前に崩壊した。ヨシュアはエリコの人民を全て虐殺する。ヨシュアは民を率いてカナンの各地を侵略、抵抗運動を粉砕して全カナンを制圧した後にレビ族を除くイスラエルの十二族にくじびきによって分配した。

ヨシュアは死の床で民の代表者たちに神への信頼をとき、この世を去った。110歳であった。その遺体はティムナト・セラに埋葬された。





茂さんのお好きではないかしら?と思うスレッドのご紹介:

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/666.html
イスラエルとエルサレムに隠された666年周期


エルサレムの支配に関わる666年周期

これはイスラエルというよりも、、、
エルサレムの支配に関わる666年周期と言った方が良いかも知れません。


これは管理人も、久保有政氏のレムナントのサイトを見て、初めて知りましたが、

氏の指摘によると、、、
エルサレムはおおよそ666年ごとに、異なる民族の支配を受ける傾向にあるそうです。


詳しく見ていくと・・・

最初、モーゼの出エジプトの後のカナン入植が起源前1260−70年頃になされ、
エルサレムは、一つのイスラエルという国の支配下にありました。

しかし、イスラエルは起源前925年に、南ユダ王国と北イスラエル王国に分離し、
紀元前722年には、アッシリア王国によって北イスラエル王国が滅ぼされてしまいます。

その後、アッシリア王国は、南ユダ王国も支配下に治めようと、
起源前701年頃には、アッシリア王国セナケリブ王が、ユダ王国に侵攻しています。
(起源前31年を起点に666年を遡ると、起源前697年なので、多少誤差があります)


起源前697年から666年後は、起源前31年で、ここでアクティウムの海戦が起こります。

この海戦で、クレオパトラ・アントニウス連合軍が、ローマ側のオクタウィアヌスに破れ、
エルサレムの支配権は、ローマ帝国に移ることになりました。


さらに、起源前31年から666年後は、西暦636年となります。
ここでは、イスラム系のサラセン帝国が、エルサレムを支配下に置きました。
(この時点で、長く続いたローマによるエルサレム支配が終焉を迎えます)

その西暦636年から666年後は、西暦1302年となります。
少し年代にズレがありますが、エルサレムがマルムーク朝の支配下に入ったのがこの頃です。


そして、最後に西暦1302年から666年後は、西暦1697年となります。
西暦1968年には、第三次中東戦争によって、イスラエルがエルサレムを奪還しています。


このように、不思議なことに、エルサレムは666年という周期性を持っている訳です。


そして、現在のエルサレムは、サイクル初めのユダヤ人の支配の時と同様に、
イスラエルが建国されて、ユダヤ人の支配という元と同じ形になっています。
(アシュケナージのユダヤ人の問題は置いといて・・・ですが)

2664年(666×4)の時を経て、同じ民族の支配に戻ったのは脅威的です。


まぁ、サイクルの最初と最後は同じになる、と管理人は思ってはいますが、

ただ、一つだけ昔と異なるとすれば、、、
紀元前722年まで居た北イスラエル人が、今のイスラエルには居ないと言う事です。


もし、歴史サイクルが対称形として存在するのであれば、もしかすると、
今後、北イスラエルの人々がエルサレムに集う・・・と言う事があるのかもしれません。


このように考えていくと、我々の歴史は、偶然で成り立っているのではなく、、、
一つの道筋に沿って構築されている、、、そんな気になりませんか?


   ちなみに、日本の歴史も666に関連した数字を持っています。

   神武天皇の東征開始日は、西暦元年1月1日から666年+66日遡った、
  起源前667年10月5日(新暦10月27日)になっています。

   詳しくは、「神武天皇の東征『179万2470余年』の謎」をご覧ください。


2014年のレベル1の月蝕は1968年以来

久保有雅氏の著書「2014年 ユダヤの大預言」では、
連続して起こる月蝕を、三つのレベルに分けて考えておられます。

   ・レベル1:皆既月蝕を4回以上含む時期
   •レベル2:皆既か部分か半影の月蝕を4回以上含む時期
   •レベル3:皆既か部分か半影の月蝕を2〜3回以上含む時期


上記の通り考えると、レベル1の月蝕が最も影響度が強そうですが、
奇しくも、2014-15年に起こる月蝕は、このレベル1です。

このレベル1の月蝕が起こるのは、奇しくも666年サイクル終了時の1968年以来です。
その前のレベル1は、1948年のイスラエル建国の時です。

奇しくも、両方ともに、イスラエルにとっては大事件が起きている年です。


いよいよ本日4月15日を皮切りに、レベル1の皆既月蝕が、始まります。
何が起こるか、注目して見て行きましょう。




*わたくしの紹介するURLは、ご興味をお持ちになりましたら、URLに行って全文をお読みくださいね。

   時々コピペを失敗しているかも知れないので。








[23]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月14日 16時29分04秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 いろいろご教示ありがとうございます。勉強になりますと同時に、また

啓発されていきます。


 神服部については、「かむやまといわれひこ」のように「かむ」のついた

姓(諡か)は余りないはずですので、大きな謎が存在するものと思われます。


 いずれにしても、あれやこれややっているうちに、全体像がおぼろながら

にも見えてくるような気がいたしますね。


 古代は複雑なラビリンス・・・イスラムモスクのアラベスク模様に飲み込

まれて行くような目眩を感じる・・・感性を研ぎ澄まし脱出するしかない。

あを様の力強い呼び声に目を覚ましながら・・・。


 明日で小生の人生復活、丸3ヶ月になります。お付き合いお疲れでしょう

が、さらに今後1年を目差して頑張ってみる所存ですので、よろしくご指導

の程、勝手ながらお願い申し上げます。


 ところで、海部家出身で空海と壮絶な二人行を成就した「厳姫(いつくひ

め)」の「厳」には何か秘密がありそうな気がします・・・。


                          丸に三つ柏の服部


 
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月14日 21時26分39秒 ) パスワード

茂さんへ


   今朝はコピペが出来ないのでマニュアルです。

>「厳姫」の「厳」には何か秘密がありそうな



わたくしもそう思っております。

と言いますのは「厳」という字です。



女性に「厳」という字?と。

でも「うつくしい」「愛らしい」という意味もあるので
   「絶対的な美しい女性」
という意味があるのかもですね。


どこかでこの名付け理由に出会うと良いなと願っております。
[25]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月15日 13時50分27秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 1.神服部氏について調べましたところ、三ヶ日の「初生衣神社」の宮司

のみが持つ苗字で(全国でも10人のみ)希少なものであることがわかりまし

た。何か隠された秘密があるように思えます。・・・1つの糸口。


 2.古代の絹の関係を真に理解するキーワードは「門外不出」と「一子

相伝」であります。たぶん想像以上に管理され閉ざされた世界だったのかも

知れません。それは絹が持つ本質的価値と神的・宗教的価値(ラピスラズリ

のように)の両方があり、秘密を保つことが重要であったと推測いたします。

・・・1つの糸口。


 3.「門外不出」・・・天皇家の祭祀関係従事者・・・忌部氏、中臣氏、

卜部氏、賀茂氏、(渡会氏)・・・等。本当は表に出てはいけない影の氏族だ

ったのではないか・・・1つの糸口。


 4.伊勢神宮には星辰信仰があった。太一と北斗である。物部氏にも星辰

信仰があった。天孫と相容れない原因はそこにあったのかも・・・1つの

糸口。


 古代は、現代人の感覚で推測していくと理解できないものがたくさんあり

ます。別次元の世界と思って、固定概念、既成概念を捨て去ったほうが、より

真実に出会える確率が高くなると思うようになりました。これもあを様のお陰

です。進歩!


 いずれにしても、1つの糸口から糸をたぐって行って、点と点を線で結ん

で行く。糸口をたくさん見付けることが肝心か。


 時間があっても進まない時があります。時間がなくても進む時があります。

今は前者のほう、クーラーをかけるといい気持ちになり眠くなってしまう。

正に夏です。日本の蒸し暑い夏がやって来ました。暑さと眠気との闘い!



                           丸に三つ柏の服部
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月15日 15時41分45秒 ) パスワード

茂さんへ


1.神服部氏について調べましたところ、三ヶ日の「初生衣神社」の宮司のみが持つ苗字で(全国でも10人のみ)希少なものであることがわかりました。


>何か隠された秘密があるように思えます。・・・1つの糸口。


ということで調べて来ました:


      神服部氏と源頼政との関係
      1155年の初生衣神社創建の謎解き 

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-date-20130906.html




「家祖天建羽槌命以来一子相伝の秘呪妖化體顯蟇目をもって祈祷し」とある部分が注目されます。


何と神服部氏は機織りだけでなく、家祖天建羽槌命以来一子相伝の秘呪・妖化體顯蟇目を伝える一族だったのです。

                  ↑
        神服部氏は秘呪・妖化體顯蟇目を伝える一族?!

        すごいのが出て来ましたね。



(注:蟇目とは鏑矢を用いる妖魔退散の術です。妖化體顯蟇目は、鏑矢を用いた妖魔を退散させる特別な術を体現したものとでも言いましょうか?なお、多くの神社で催行される奉射(ぶしゃ)神事は蟇目神事が元になっています)


851年に神服部氏が従五位下(貴族の末席に位置する)を朝廷より賜ったのは、神道や陰陽道の秘法である蟇目の術に精通していたことによると考えられます。

           そうしますと政治的には9世紀にデビュー?!



つまり神服部氏は従来の伊勢神宮に神御衣を奉じる立場から、
陰陽道を中心に据えた一族へと立場を大転換させたのです。

           陰陽道の一族?!


察するに、彼らはこの時点で朝廷における立身出世を目指したのでしょうね。

           政界デビューですね



(注:天武天皇期に神服部連は宿禰を賜ったのですから、実際には地位が低下していることになります。
地位の低下した部分のみ舊記に記載するのは妙ですし矛盾を孕んでいると思われ、追って検討します)



          三ヶ日の「初生衣神社」の宮司の始まりですね
                ↓

これらの点を理解した上で岡本村移住の経緯を探ります。

神服部氏が久壽二年(1155年)に官を辞して山城国乙訓郡から
遠州濱名郡岡本村に移り住む2年前、             ← へえ〜

仁平3年(1153年)のことです。宮中に鵺(ぬえ)が出没したので、
武勇の誉れ高い源頼政は鵺退治を命ぜられました。

彼は神服部氏より蟇目の術を伝授され、首尾よく鵺を退治します。

鵺の死体はばらばらに切り刻み、空舟(うつぼぶね)に乗せて鴨川に流したそうです。
鵺退治の詳細は以下のWikipedia記事を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%BA




神服部氏は自分の秘術で源頼政の鵺退治を助け、面目を施しました。

それが2年後になって、突然山城国乙訓郡から遠州濱名郡岡本村に移り住むことになったのです。
この間にどんな事件が起きたのでしょう?
そもそも乙訓郡では宮廷に出仕するのに遠すぎます。
多分宮廷近くの役宅から乙訓郡に移り、そこから岡本村に移住したとの経路を辿ったはずです。


この問題を解くには、久壽2年(1155年)に鵺よりも強大な妖魔が出現したと考えるしかありません。
もしかしたら神服部氏は、蟇目の術が通じない妖魔に敗れ去って、職を辞さざるを得なくなったのかも……。


と言うことで、どんな妖魔がこの年に出現したかを調べてみました。

すると、いましたよ。かの有名な玉藻前(たまものまえ)が変身した白面金毛九尾の狐です。

                  ↑
            神服部氏  九尾の狐事件で蚊帳の外に?
            これで遠江へ引き篭もることに?


久寿2年(1155年)、美貌の女官・玉藻前は鳥羽上皇に寵愛されていましたが、上皇は次第に病み衰えるようになりました。
原因は不明であったため、陰陽師・安倍泰成に真相究明の命が下ります。

彼は上皇の病が玉藻前の仕業だと見抜き、真言を唱えます。

泰成の真言により玉藻前は本性を現し、白面金毛九尾の狐の姿となって宮中から逃げ出しました。
狐は那須野に隠れたのですが、三浦介義明、上総介広常などを将軍とした夥しい数の軍勢が派遣され、あえなく最後を遂げることとなったのです。


これほどの妖魔が出現したのに、なぜか神服部氏は登場してきません。
ちょっと変だと思いませんか?
そう、神服部氏は狐退治のメンバーに加えられなかったのです。
彼らは一子相伝の秘呪・妖化體顯蟇目を操る一族でした。
ほんの少し前には鵺退治に貢献もしています。
なのに、狐退治から外された。
多分神服部氏は、その恥辱に耐えられず官を辞し乙訓郡に引き籠ったのです。


では、なぜ神服部氏は狐退治のメンバーから外されたのか?
全くの推測ですが、鵺退治の手柄を神服部氏にさらわれた陰陽道本家本元の安倍氏が、今回は巻き返しを図ったのです。
出世競争は今も平安の昔も同じだったのですね。

            ↑
       神服部氏  陰陽師の安倍氏に敗れる


朝廷に仕え立身出世を目指した神服部氏は、安倍氏の高い壁にぶち当たり、
平安時代後期に至って望みが潰えてしまいました。

いたく落ち込んだ彼らは、秦氏の拠点でもあった山城国乙訓郡に引きこもります。

                神服部氏、秦氏の本貫地乙訓郡に蟄居
                    ↓
 
                神服部氏遠江に移動
                    ↓

神服部氏の心中を察した源頼政は、都を離れ遠州濱名郡岡本村(現浜松市北区三ヶ日町岡本)に移住し、一族本来の職掌である神御衣の織作に戻るようアドバイスしたのでしょう。

頼政の言葉で目覚めた神服部氏一族は、勧めに従うこととしました。

こうして久寿2年(1155年)、神服部家は倭姫命の元伊勢の地であるに岡本の地に移住したのです。
                   ↑
                神服部氏岡本へ

                神服部氏、初生衣神社創建
                   ↓  
以上が1155年の初生衣神社創建に至る推定経緯です。
神服部氏の動きが様々な歴史と連動していることに驚かされますね。




ではここで話を横道にそらせます。世阿弥作の「鵺」によると、源頼政に退治された鵺は空舟(うつぼぶね)に乗せられ鴨川に流されます。(注:世阿弥は秦氏の末裔と自称しています)九尾の狐の死骸もまた空舟で流されました。いずれも空舟で符合しますが、これらにはもう一つ不思議な符合があります。


大和岩雄氏は「天照大神と前方後円墳の謎」(六興出版)において以下のように書いています。

鹿児島県の大隅正八幡の縁起に、震旦国王の娘、大比留女(オオヒルメ)は日光を受けて七歳で懐妊したので、子と共に空船に乗せられて、流れ着いたのが、日本の大隅の磯で、この日の御子が八幡の神である、と書かれている。


天照大神の太陽を祭祀する巫女段階における別名は大日孁貴(おおひるめのむち)でした。つまり、天照大神の前身も空舟に乗せられ、その子は八幡神(=秦氏)だったのです。
                              ↑                     
                         八幡神って秦氏だったの?

そしてこれらにはさらに不思議な符合がありました。高齢となった秦川勝は世阿弥作の「風姿花伝」にあるように、攝津国難波の浦からうつぼ舟に乗って海の彼方へ向かい播磨に漂着したのです。

摂津国難波の浦より、うつぼ船にのりて、風にまかせて西海に出づ。播磨国、坂越(さこし)の浦につく。

以上から、鵺も狐も秦氏を象徴する存在となってしまい、それに天照大神まで絡んでいることになります。何だか現在書いている「東三河の養蚕と機織り」と同様に、とても錯綜した話になっていますね。



源頼政の鵺退治はほとんど伝説的ストーリーのように見えますが、実は一定の根拠もあります。


三ヶ日町には鵺代、胴崎、羽平、尾奈の地名があり、
鵺代は鵺の頭部、胴崎は胴体、羽平は羽、尾奈は尾を意味しており、
それぞれがこの地に落ちたとの伝説が形成されました。


それは源頼政が持ち込んだか、或いは神服部氏の移住がもたらしたものだったと推定されますが、
武士が地名を持ち込むとは考えにくいので、
神服部氏の移住に関係する可能性が高そうです。


でもなぜこんな場所に源頼政は神服部氏を移住させたのでしょう?

調べてみると鵺代は、鵺を退治した褒賞として源頼政が帝より賜った土地でした。

                        なるほど、それで神服部氏が遠江に?


つまり、頼政は自分の領地の一部を神服部家に分け与えたのです。

     (或いは領地の近くを神服部氏が賜った)

しかもこの場所は、浜名神戸の地。


頼政と神服部氏の深い関係や移住先選定の妙が見て取れ、とても偶然とは思えません。神の配剤とでも言うべきでしょうか?ともあれ、以上のような経緯で神服部氏は岡本に移住したのです。



頼政はその後平家との戦いで自刃します。
かろうじて生き残った一族は、鵺代に逃げ落ちて猪鼻氏を名乗り、
その子孫は浜名氏となりました。


あれこれ書いているうちに横道に入ったので、話を元に戻します。


初生衣神社解説板では由緒が久寿2年(1155年)から始まっていますが、
前史は神代の時代から延々と続いていたと理解されます。

                   はい


しかもその流れをほぼ復元できるのですから驚きです。


東三河の秦氏 その35 養蚕と機織りに続く




へえ〜
驚きでした。

神服部氏が本職の他に陰陽道にも手を染めて、多角経営?
さらに手を広げ過ぎて破綻?


そうしますと遠江の服部氏は、反平家方だったかもですね。
だから遠江の服部氏は伊賀とは関係が薄かった?
それで南朝方ではなかった?


なんとなく茂さんの御先祖さまが分かって来たような?
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月15日 16時11分42秒 ) パスワード

http://blogs.yahoo.co.jp/corsa2003sp/34408419.html

初生衣神社と神服部氏


*******************


http://www.sengoku-shizuoka.com/castle/1106054/
神目代屋敷
じんもくだいやしき

別名  神服部、因幡様

神目代氏の先祖が平安中期から代々居住してきた屋敷


神目代屋敷は岡本区の東南、神戸川(現釣橋川)の神戸橋(ゴンドバシ)を南より渡った右手に位置し、現初生衣神社境内を併存している神服部氏の宅地一帯である。旧宅建物は徳川初期の建造であるが今尚古式を残している。
この屋敷の居住者は神目代(ジンモクダイ)氏の先祖が平安中期(俗称久寿元年より)以来代々居住した所である。その間證徴される主な事項を上げると、天慶3年(940)神宮神領浜名神戸がこの地域を中心として立券寄進され、以来明治18年まで永続した初生衣調進神事は久寿2年(1155)以来の神事と伝承あり(『神服部由緒書』)、慶長8年(1603)には朱印領29石8斗2升を附けられており、明治維新後、明治6年よりは無格社として存置されている。



*********************



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%AE%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE
機殿神社



   神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)
   神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)

は、いずれも三重県松阪市にある神社。

元々は同じ場所に鎮座していたが、大垣内町の神服織機殿神社と井口中町の神麻続機殿神社の2社に分かれたと考えられている。

いずれも皇大神宮(内宮)所管社で、両社を合わせて両機殿と呼ぶ。

両機殿の所在地は旧機殿村で、松阪市立機殿小学校に「機殿」の地名を残している。


両機殿で行なわれる御衣奉織行事は松阪市の無形民俗文化財に指定されている。



両機殿共通事項

社格等
皇大神宮所管社

創建
伝垂仁天皇25年

本殿の様式
神明造

主な神事
神御衣奉織始祭
神御衣奉織鎮謝祭



神服織機殿神社・神麻続機殿神社とも櫛田川下流右岸に位置し、
地元では神服織機殿神社を下機殿(しもはたでん)
   あるいは下館 (しもだち)、神麻続機殿神社を上機殿(かみはたでん)
   あるいは上館(かみだち)とも呼ぶ。

神御衣祭での位置関係から神服織を右門、神麻績を左門と呼ぶ。

両機殿の境内には本殿よりも大きい機殿(はたどの、機織をする作業場)があり、八尋殿(やひろどの)と呼ぶ。



所管社は摂末社とともに伊勢神宮に管理される神社で、古代の儀式帳に名前が記されていないが神事に重要な神社と、明治以降神事を行なうために神社とされたものに大別できる。

両機殿は神御衣祭(かんみそさい)に供える

     和妙(にぎたえ、絹布)
     荒妙(あらたえ、麻布)の御衣(おんぞ)を調進する御料地(ごりょうち)であるので前者である。


ただし、明治以前は奉織作業を行う八尋殿が主で、神社は従であった。

神社とされる御料地は他に御塩(みしお)を調進する御塩殿(みしおどの)のある御塩殿神社(みしおどのじんじゃ)が伊勢市二見町にある。
御塩殿神社は両機殿と同じく皇大神宮所管社であり、明治以降に神社が主とされた点でも両機殿と同様である。



御衣を織る作業を奉織(ほうしょく)、使用する糸を御糸(みいと)と呼ぶ。

かつては奉織工を「人面(にんめん)」と呼んだが、現在は「織子(おりこ)」と呼んでいる。


両機殿は斎宮以西、神堺西端にあたる櫛田川分流の祓川(はらいがわ)左岸に位置する点で特異的であるが、紡績業が盛んであった地域を選んで機殿を構えたと考えられている。

櫛田川流域はかつては紡績業が盛んで、古代には『古語拾遺』に麻績が地名として記され、江戸時代には上流部で生産された木綿糸が伊勢商人の主力商品とされた。

両機殿の東、多気郡明和町斎宮の北に現在も「御糸」という地名が残っている。



歴史[編集]

==和妙==絹織物     服部==はとりべ==奉職

『倭姫命世記』では垂仁天皇25年、倭姫命が天照大神を伊勢の百船(ももふね)度会国玉掇(たまひろう)伊蘇国に一時的に祀られたときに建てられた神服部社(はとりのやしろ)がのちの麻績機殿神服社で、

内宮が現在地に定まったときに内宮近くに機殿を作り、天棚機姫神(あめのたなはたひめのかみ)の孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に神の教えに従って和妙を織らせた。

倭姫命は翌垂仁天皇26年、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせた。

そこに社を建て、服織社(はたとりのやしろ)と名付けた。



==荒妙==麻織物    麻績部==おみべ、麻績氏==奉職

神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた。



天智天皇7年(668年)8月3日に両機殿が火災で失われたため、
この年の9月の神御衣祭のための作業は仮屋で行ない、その後30丈離して両機殿を別々に建てたと記されている。

ただし、『倭姫命世記』は鎌倉時代に荒木田氏あるいは度会行忠が記した伝承・説話であり史実ではないとするのが一般的である。『伊勢二所太神宮神名祕書(神名祕書)』に同様の記述がみられるが、『倭姫命世記』と同様で鎌倉時代の弘安8年(1285年)に度会行忠が記したものである。

複数の資料に記されていても史実である可能性は極めて低いと考えるべきであるものの、天智天皇7年の火災の記述は国記などが記された以降の話であるなどの理由から、史実である可能性が高いと考えられる。



信憑性が高いと考えられている資料では、『神祇令』・『延喜式』・『皇太神宮儀式帳』に神御衣祭が記されており、遅くとも平安時代初頭には御衣の奉織が行なわれていたことは確実である。


和妙は服部(はとりべ)が、荒妙は麻績部(おみべ、麻績氏とも)が奉織し、それぞれ封戸22を与えられていた。


神宮に仕えたこれらの一族は神服部(かんはとりべ)、神麻績部(かんおみべ)とも呼ばれた。


服部は三河国より赤引の糸(あかびきのいと)と呼ばれる絹糸を入手していた。

麻績部には土師器を調進する一団がいたほか、信濃国などの東国に進出し、機織などの技術とともに天白信仰を伝えたと考えられている。



白河天皇の承暦3年(1079年)、神麻続機殿は現在地に移された。室町時代には北畠家が室町幕府の意向を無視し、神宮の神領を収奪し勢力を拡大した。北畠家の領地と隣接するこの地は特に早期に支配され、服部部・麻績部ともに姿を消してしまう。


両機殿は地元住民らが祠を祀るだけとなり、奉織の行事と祭祀は中絶となった。

この時期は定かではないが、神御衣祭は宝徳3年(1451年)を最後に中絶となった記録が残されている。


               神服部氏と初生衣神社
                ↓

静岡県浜松市北区の初生衣神社(うぶぎぬじんじゃ)で行なわれる「おんぞ祭」は東方へ移動した神服部が1155年から内宮へ和妙を納めたことに由来するとされる。
                   
                信長の伊勢侵略により神御衣祭衰退
                    ↓

織田信長と次男の織田信雄の計略により北畠家は北畠具教を最後に実質的に滅亡した。豊臣秀吉が日本を統一し治安が回復したころから伊勢神宮への参拝客が増え始めた。

両機殿へは山城国・紀伊国などの織物業者が講を作り参拝するようになった。

上機殿は参宮街道に近い立地条件から、下機殿よりも参拝客が多かった。

神宮に直接管理されなかったこともあり、このころから両機殿は分不相応な社殿などを造営するようになった。


                 神御衣祭復活
                    ↓

江戸時代に入り、天下泰平となった元禄12年(1699年)には神御衣祭が再興され、糸が奉納された。

                 明治時代の到来により神御衣祭完全復活
                    ↓

ただし神宮から神職が参行するまで復興されたのは明治7年(1874年)であり、奉織が再興されたのは大正3年(1914年)5月である。


享保3年(1718年)、この地の領主の津藩主藤堂高敏の寄進により両機殿が修理された。

文化・文政のころ、神服織機殿神社は服太神宮と、上機殿は麻績太神宮と称するようになった。

このころの両機殿の様子は天保年間発行の『太神宮両御機殿通俗畧記』(外部リンク参照)に詳述されている。

寛政9年の『伊勢参宮名所図解』には、左右に八幡宮と春日社の社殿を配置して三社信仰の形態であったことが記されている。明治初期の『神三郡神社参拝記』では、左右の社殿を東西宝殿と記している。江戸時代後期から明治初頭にかけて、分不相応な社殿は両機殿だけではなく、神宮が社殿などを管理しなかった瀧原宮・伊雑宮・御塩殿神社でも同様であった。

明治31年(1898年)、両機殿は明治維新後初の造替が行なわれたが、桁行1丈6尺(約4.85m)・梁行9尺8寸(約2.97m)とされた。これは明治6年に定められた一等摂社の桁行9尺・梁行7尺を大きく越え、格式に不相応な大きさであった。昭和9年(1934年)の造替でも貞享4年(1687年)の記録の規模に縮小されたが、それでもまだ所管社には不相応に大きい規模である。


御衣奉織行事[編集]

毎年5月と10月の初旬、両機殿の八尋殿で皇太神宮正宮と別宮の荒祭宮での神御衣祭に供える御衣を奉織する。地元で「おんぞさん」と呼ばれるこの行事は戦国時代に中絶となり、皇大神宮の神職による形式的な祭祀のみが行なわれ、愛知県で奉織された和妙や、奈良県奈良市月ヶ瀬で奉織された荒妙などが神御衣祭に供えられていた。

大正3年5月に愛知県木曽川町(現在の一宮市木曽川町)の職人により機殿での奉織が再興されたが、地元の住民はこれを無様と感じ機織りの技術を習得し、伝承することにした。1967年(昭和42年)以降、和妙は祖父らから継承された女性が奉織することになったが、荒妙は現在も男性が奉織している。松阪市は1975年(昭和50年)9月27日、和妙と荒妙の奉織を「御衣奉織行事」として無形民俗文化財に指定した。

ただし地元住民による両機殿での奉織は神御衣祭に必要な和妙36匹(正宮24匹、荒祭宮12匹)と荒妙120匹(正宮80匹、荒祭宮40匹)のうちの各1匹のみで、残りの和妙・荒妙は他に必要とされる頚玉(くびたま)・手玉(てだま)などと合わせて木曽川町と奈良市月ヶ瀬の専門の業者に奉織を委託している。

祭祀[編集]

両機殿では神御衣奉織始祭(かんみそほうしょくはじめさい)と神御衣奉織鎮謝祭(かんみそほうしょくちんしゃさい)が行なわれる。

神御衣奉織始祭[編集]

神御衣奉織始祭は奉織を始める前に清く美わしく奉織できるように祈る祭で、毎年5月と10月の1日、下機殿では午前8時、上機殿では午前9時から行なわれる。奉織作業に従事する地元住民は先だって境内の斎館で潔斎し、予め身を清める。白衣白袴を着てから御塩で清め、八尋殿の内部を清掃する。機織りの道具を準備し、御糸を納める。神職の拝礼ののちに奉織が開始される。織子は夕方に帰宅するが、神宮から参向する神職はこの祭の前日に斎館に入り潔斎し、神御衣奉織鎮謝祭まで斎館に滞在する。織子は翌2日以降の朝に出向き身を清め、白衣白袴を着て八尋殿に入り、完了するまで奉織を行なう。

神御衣奉織鎮謝祭[編集]

神御衣奉織鎮謝祭は奉織が無事に終わったことを感謝し幣帛を奉る祭りで、毎年5月と10月の13日の午前8時から両機殿神社で行なわれる。 この祭ののちに御衣を2つの辛櫃(からひつ)に納め、約20km離れた内宮まで運搬する。昭和30年代から自動車での運搬に変更されているが、それ以前は午後9時ころに出発、参宮街道を夜通し歩いて宮川を船で渡ったのちにまた歩き、外宮で仮眠し、14日の午前5時ころに内宮到着であった。警護のために衛士2名が前を歩き、権禰宜と宮掌が随行していた。

神服織機殿神社[編集]


神服織機殿神社

神服織機殿神社

所在地
三重県松阪市大垣内町

位置
北緯34度34分44.8秒
東経136度36分24.7秒

主祭神
神服織機殿鎮守神




和妙の奉織
神服織機殿神社の祭神は近年は神服織機殿鎮守神とされることが多いが、服部の祖先の天御桙命(あめのみほこのみこと)と天八千々姫(あめのやちぢひめ)とする伝承がある。

和妙の奉織[編集]

和妙は神服織機殿神社境内の八尋殿で奉織される。女性の織子は毎朝8時に出勤する。白衣白袴が基本であるが、細い絹糸を見やすくするために黒い布を膝に掛ける。指先が荒れていると糸をうまく扱えず作業性が低下するため、織子は指先を荒らさないように留意する。

絹糸は現在も愛知県の三河産の赤引の糸を使用する。4本の単線維を1本の絹糸とし、36本の絹糸を1あざりとし、67あざりの縦糸で幅1尺5寸(約45cm)の和妙を織る。4 x 36 x 67で9,648本の単線維を使用することになるが、絹単線維の長さは有限であるから、糸を繋ぐ作業が必要である。糸を繋ぎ織機に縦糸を取り付けるだけで3日程度必要になるため、近年は予め専門家が繋いだ糸を使用することで奉織期間を短縮している。横糸は予め水に浸けておき、7-9本の単線維を1本として糸巻き機で巻き取ってから使用する。

4丈(約12.1m)の和妙を織るのに通常4-5日、乾燥にさらに数日を要する。乾かした和妙は箱に入れ、神御衣奉織鎮謝祭まで棚の上に安置される。



神麻続機殿神社[編集]


神麻続機殿神社

神麻続機殿神社

所在地
三重県松阪市井口中町

位置
北緯34度33分45.9秒
東経136度36分4.2秒

主祭神
神麻続機殿鎮守神


神麻続機殿神社の祭神は近年は神麻続機殿鎮守神とされることが多いが、麻績部の祖先の天八坂彦命(あめのやさかひこのみこと)とする伝承がある。


荒妙の奉織[編集]


荒妙の奉織
荒妙は神麻績機殿神社境内の八尋殿で奉織される。男性の織子は毎朝8時に出勤する。白衣白袴を着用し、指先を荒らさないようにするのは和妙の奉織と同様である。織機に縦糸を取り付け、横糸を糸巻き機で巻いた後に水に浸ける。

かつては近辺の松阪市御麻生薗(みおぞの、神宮の麻園に由来する地名とされる)産の麻を使用していたが、現在は奈良県奈良市月ヶ瀬産の麻を使用している。

910本の縦糸で幅1尺(約30cm)、長さ4丈1尺(約12.4m)の荒妙を織る。作業は織子4人で行なう。1人が織機を操作し、1人は伸子(しんし)を張り替え、残りの2人は織機の左右両側で待機し、糸が切れたら繋ぐ。

麻糸の引張り強度は湿度で大きく変化する。湿度が低いと特に切れやすくなってしまうが、逆に高すぎてもやや切れやすくなるため、奉織の進み具合は天候に大きく影響される。通常5-6日で織り終わるが、作業が遅れると蝋燭の灯りを頼りに夜遅くまで作業し、10日ほどかかることもあるという。

織り上げた荒妙は数日乾燥させ、御衣奉織鎮謝祭まで八尋殿に安置される。



境内社[編集]

両機殿のそれぞれの境内に御前の神を祀る大小8つの祠があり神服織機殿神社末社とされているが、いずれも祭神は不詳である。

社殿など[編集]


両機殿ともに本殿は内宮に準じ内削ぎの千木と6本で偶数の鰹木を持つ神明造で南面する。本殿東側に奉織作業を行うための八尋殿が併設される。本殿は独立した鳥居を持たない。

八尋殿は内宮別宮と同じ8本の鰹木と内削ぎの千木を備える茅葺屋根で、本殿より大きい。棟持柱はなく、東面以外の3面に扉が儲けられている。この3面の扉は奉織時には開けられる。八尋殿には鳥居が与えられる。

本殿と八尋殿は個別の板垣で囲われ、本殿左右に2つの祠がある。

両機殿ともに潔斎のための斎館が本殿南側に設けられている。

交通[編集]
最寄駅:近鉄山田線漕代駅から上機殿まで北へ約2.5km、下機殿まで北へさらに約2km、国道23号の南側。





採点:当たらず遠からずでしたね。
   てへっ
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月15日 16時15分33秒 ) パスワード

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-date-20130918.html
東三河の秦氏 その43 養蚕と機織り



初生衣神社神服部家の舊記をベースにした日本のシルクロードを辿る旅もほぼ終わりを迎えました。しかし、東三河はあまり出てきませんし、秦氏の姿もほとんど見られません。今までに書いてきた内容が正しいのかどうか、再度別の視点から検討を加える必要がありそうです。と言うことで、改めて古い時代から見ていきましょう。もしかしたら、今までに書いた内容がひっくり返るかも…。ちょっと恐ろしいですね。

などと尻込みしていても始まらないので、検討を進めます。「その32」において以下のように書いています。

「日本書記」の天武天皇13年(684年)に、50氏に宿禰の姓を賜うとありますが、その中に神服部連が入っています。この年天皇は八色(やくさ)の姓を定めました。宿禰は八色の姓の第三位に定められ、主に連(むらじ)姓を持った神別氏族(天津神や国津神の後裔氏族)に与えられています。

連(むらじ)は、大和朝廷で使われていた姓(かばね)の一つで、家臣の中では最高位に位置していた姓の一つとされています。宿禰は第三位ですが、第一位は皇族なので実質的には朝臣に次ぐ第二位となり、極めて高い位に神服部氏が就いていたと理解されます。

時代は下り、神服部氏は851年に従五位下を賜りました。ちょいと奇妙に思えませんか?従五位下はぎりぎり貴族として認められる地位で、宿禰に比べると大きく位が下がっているからです。もっと奇妙なことがあります。神服部連は宿禰を賜ったのに、その事実が舊記に書かれていない点です。

第二位の宿禰と貴族の末席に過ぎない従五位下。なぜこうした地位の低下が起きたのか、或いは全く別の事情があったのか、理由や事情を明らかにする必要があるでしょう。と言うことで、まず当初の位である「神服部連」を調べてみます。

どの氏族が連(むらじ)などを賜っているのかを見るには、「新撰姓氏録」が参考になりそうです。「新撰姓氏録」で神服部連を探したのですが…、おかしなことに見当たりません。
じっくり探した結果、以下のような記載を発見しました。

大和の服部連として、天御中主命十一世孫天御桙命之後也
摂津国の服部連として、之速日命十二世孫麻羅宿祢之後也 允恭天皇御世。任織部司。領諸国織部。因号服部連

「日本書紀」では天武天皇期に神服部連が宿禰を賜ったとありますが、「新撰姓氏録」には神服部連が見られず、神が抜けた服部連となっていたのです。これは多分、神服部連=服部連なのでしょう。初生衣神社の神服部宮司さんは天武天皇の時代における神服部氏の地位は非常に高かったとしておられますが、やや疑問に思えてきました。

祖神に関しても、神服部氏は建羽槌神なのに、服部連は天御桙命や麻羅宿祢で異なっています。初生衣神社の神服部氏と服部連は同じなのか別なのか。これが「その32」などの(注)で別の問題を孕んでいる、と書いた理由です。

では、服部連がどのような一族なのか、神服部氏との関係はどうなのかを調べてみましょう。豊中市服部元町1−2−17に鎮座する服部天神宮のホームページには以下のような記載があります。

昔、朝鮮を経由して吾が国へ渡って来た秦の人々は、機織りの技術を吾が国に伝えましたので、秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着きました。当地「服部」の地名も、このあたりに秦氏の人々が住んでいたことから成りたったものと思われます。

服部天神宮のホームページ。
http://www.apsara.ne.jp/hattori-tenjingu/yui.html

服部天神宮に関してWikipediaには以下のような記載があります。

御鎮座の時期については詳らかでないものの、帰化人集団「秦氏」が允恭天皇の御世(412年 - 453年)に織部司に任じられ、当地を服部連の本拠とした際、外来神の少彦名命(医薬の神)を祀ったのが始まりとされる。

Wikiの内容に関しては既に書いたように、「新撰姓氏録、第十八巻摂津国神別」の服部連に以下の記載があることから確認できます。

允恭天皇御世。任織部司。領諸国織部。因号服部連

上記のように、摂津国神別の服部連は允恭天皇の世に織部司に任じられ諸国の織部を総領していたのです。既に書いていますが、「鳳来町誌」には、「服部郷に関して、秦氏など帰化人で機織りを伝えた服部部にちなんだ地名と推測でき、」とありました。

秦氏が織部司に任じられ、摂津国を服部連の本拠とし、服部の地名も秦氏にちなんでいるとしたら、三河大野の服部郷も「鳳来町誌」が推測するように秦氏の関係となります。東三河の豊川に沿ったエリアは秦氏エリアであることは既に確認しており、その上流部にも秦氏の影響が及んだと考えても無理な解釈ではないでしょう。

仮に秦氏=服部連=初生神社宮司の神服部氏であれば、今まで検討してきた内容の全体に秦氏の網が掛かっていることになり、記事タイトル「東三河の秦氏 養蚕と機織り」と見合ったものになりそうです。これで目出度し目出度しですが、秦氏=服部連として良いものかなおも疑問が残ります。

厳密に言えば、秦氏の一部が服部(はとりべ)を称した、秦氏傘下の織部系一族が服部を称した、秦氏と協業した織部一族が服部を称したなど様々なケースが考えられます。ここでは、服部は秦氏と関連のある職能民としておきます。なお、服部連=初生神社宮司の神服部氏であるかどうかは依然として確認できません。

以上より、「日本書紀」には天武天皇期に神服部連が宿禰を賜ったとありますが、これは秦氏と関連のある服部連を意味しており、初生衣神社の宮司である神服部氏とは別物である可能性が浮上してきました。またこうした「連」などの位は朝廷が各豪族や氏族に下賜するものです。となると、秦氏関連と思われる服部連は、伊勢神宮ではなく朝廷との関係で考えるべきです。さらに検討を続けます。

             東三河の秦氏 その44 養蚕と機織りに続く
[29]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月15日 16時49分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様

  
 今、オープンしてビックリ、スゴイの一言・・・形容詞がなくなります!

 あを様は「神の子」、いつもスゴイ能力を発揮される・・・尊敬!


 これは、情報の「お中元」として、ありがたく頂戴いたします。
 
 今、極上の吟醸酒のようなエンドルフィンが涌いています。

 今晩の楽しみとして持って帰ります。


                        丸に三つ柏の服部


                         丸に三つ柏の服部
[30]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月16日 01時27分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 とりあえずの感想。神服部氏の陰陽道は衝撃的でした。また、三ヶ日の鵺代

他の地名もよくわかり、勉強になりました。鵺については化け物の名前位にし

か感じていませんでしたが、こんなすごい因縁・歴史があるとは! 改めて

三ヶ日ってすごい所だなと感じ入る次第であります。「みかん」だけじゃな

い。また、猪鼻氏(湖)も浜名氏も出ている。


 初生衣神社へは、この5月に行き写真を撮って来ました。檜皮葺きの瀟洒

な建物ですが、伊勢神宮のような気品を感じました。観光地化は余りされて

いないのがさすがだなと思いました。


 繭で思い出しましたが、今生天皇の皇后様が蚕を飼われておられるそうで

す。蚕(繭)も無数の種類があるそうですが、其の中でも皇后様が飼育され

ている「小石丸」という品種は日本原種で、その品質が奈良時代の糸に近い。

即ち桑を食べる量が少ない割には繭の量が多い。さらに強い伸性、粘り腰、

耐水性、水分吸着性に優れ、染色性もよい。但し糸が細く扱える職人が少な

く、また収穫できる繭量が少ないため養蚕する人もいなくなり、皇后陛下が

慮って紅葉山養蚕所で飼育されてきたそうです。


 この糸で出来上がった錦は、日にかざすと、あたかも黄金で織ったかのよ

うな輝きを放ち、それはまさに上代において神々に奉献した「黄金の錦」

そのものであるということです。


 ところで1個の繭で何メートルの糸ができるでしょうか? 

 1400mだそうです。すごいでしょ!

 
 も一つ思い出しました。神服部氏は海部部氏と租が同じ、即ちニギハヤヒ

の6世孫のタケタセノミコトより出ているということ。すなわち物部系。

また忌部系。一方の安倍氏は賀茂系。即ち秦系。忌部氏と同じく衰退させ

られて行く運命だった。


 最後にご報告。私のオオホンヤの当主(又従兄弟)は第37代当主に間違い

ありませんでした。代々お前は何代だと言い継がれてきているそうです。

 そうすると一代25年として約900年前、1100年代に服部家の初代

がここで始まったということか。違う場所から移動して来たことも考えられ

る。あるいは本家から独立したということも考えられる。いろいろ考えられ

る。時代的には神服部が三ヶ日に来た頃でもある。

 別の角度からいうと、大本家当主の曾祖父の時代(江戸末期)には善地天満

宮の門前に家があり、土地もたくさん持ってたという。但し博打が好きでそ

れで財産を減らし、少し離れた今の場所へ移動せざるをえなくなったという。

その線でいうと、天満宮に関係する神職かとも思える。

 ま、気長に考えるとしよう。

 
 それではこれにて。


                          丸に三つ柏の服部




 
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月16日 08時00分30秒 ) パスワード

茂さん


わたくしも  神服部氏と遠江国の関係に驚き  また  陰陽道もやってた  というお話に驚愕でした。

三ヶ日の鵺代   他の地名   本当に驚愕ですよね。


まさか源頼政の名前が出て来るとは、
とこれも驚きでした。



でも、茂さんの感じから、
     (伊賀系服部氏ではないな)と思うようになり
じゃ、どこの出身なの?と考えると

  37代の大本家さんから  ざっと1000年前に遠江に移った?

ということで神服部系という状況証拠が(笑)積み重なってきますね。


あれやこれやアチコチ検索に行っても何も脳内に入りません。
ただし源頼政関係で遠江に移ったというのは有力な情報ですね。


     ここから反平家だろうし
     南朝方ではないだろうし


     こういうのも伊賀系ではないなの状況証拠になるのでは?と思います。笑



あとは大本家さんがどのような情報をお持ちか
分かると良いですね。

でもこういうのはお家のアイデンティティですから大本家さんのみの情報かもですね。


    長上郡の服部氏と神服部氏との関係が分かると良いですね。
    


>神服部氏は海部部氏と租が同じ、即ちニギハヤヒの6世孫のタケタセノミコトより出ているということ。
>すなわち物部系。
>また忌部系。


>一方の安倍氏は賀茂系。
>即ち秦系。


>忌部氏と同じく衰退させられて行く運命だった。


興味深いですね。





カイコを巡る伝説[編集]

日本[編集]

日本にカイコから糸を紡ぐ技術は、稲作などと相前後して伝わってきたと言われているが、
古来においては様々な言い伝えがあり、
日本神話が収められている『古事記』や『日本書紀』の中にもいくつかが収められている。


『古事記』上巻にて高天原を追放されたスサノオ(須佐之男命)が、食物神であるオオゲツヒメ(大気都比売神)に食物を求めたところ、オオゲツヒメは、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して差し出した。

しかし、スサノオがその様子を覗き見て汚した食物を差し出したと思って、オオゲツヒメを殺してしまった。

すると、オオゲツヒメの屍体から様々な食物の種などが生じた。頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生まれたという。



『日本書紀』神産みの第十一の一書にてツクヨミ(月夜見尊)がアマテラス(天照大神)の命令で葦原中国にいるウケモチ(保食神)という神を訪問したところ、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。

ツクヨミは口から吐き出したものを食べさせられたと怒り、ウケモチを斬ってしまった。

これを知ったアマテラスがウケモチの所にアメノクマヒト(天熊人)を遣わすと、ウケモチは既に死んでいた。

ウケモチの屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。

アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ってアマテラスに献上した。



また、日本書紀における神産みの第二の一書にて火の神カグツチ(軻遇突智)を生んだために体を焼かれたイザナミ(伊弉冉)が亡くなる直前に生んだ土の神ハニヤマヒメ(埴山媛)は後にカグツチと結ばれてワクムスビ(稚産霊)を生むが、出産の際にワクムスビの頭の上に蚕と桑が生じ、臍の中に五穀が生まれたという説話がある。



これらの神話はいずれも食物起源神話と関連している事から戦前の民俗学者である高木敏雄は、
これは後世においてシナ(中国)の俗説に倣って改竄したものであり、
植物から作られた幣帛を用いる日本の神道には関わりの無い事であり、
削除しても良い位だと激しく非難している。

だが、仮にこの説を採るとしても、『古事記』・『日本書紀』が編纂された7世紀の段階で養蚕が既に当時の日本国家にとって重要な産業になっているという事実までを否定する事は出来ないと言えよう。



なお、蚕は『古事記』下巻の仁徳天皇記に再び登場し、
韓人(百済からの帰化人)奴理能美(ぬりのみ)が飼育していた

  「一度は這(は)う虫になり、一度は鼓になり、一度は飛ぶ鳥になる奇しい虫」(蚕)
   を皇后磐之媛命に献上する逸話が語られる。



三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に秦の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、
珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、
豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。

忌宮神社では毎年3月28日に、蚕種祭が行われ、
1981年(昭和56年)から毎年、
生糸つむぎと機織りの実演が披露されている。
以上



蚕から糸を採るなんて、一体、誰が思いついたのでしょうね。
その上にものすごく細い糸を縒って太くして織るなんて、誰が考えたのでしょうね。
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月17日 07時57分19秒 ) パスワード

もう1度東三河・遠江の秦氏と服部氏について考えてみたいと思います。


下記URLに行って全文をお読みください。



http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1362.html
東三河の秦氏 その30 養蚕と機織り




機織りは天照大神の死と再生の場面にも登場してきます。天照大神が忌服屋に座して、神御衣(かんみそ)を織っている時、スサノオが天の斑馬を投げ込み、驚いた天の服織女は梭(ひ、機の横糸を通す道具)で女陰を突いて死んでしまいます。これに激怒した天照大神が天の石屋戸にお隠れになり、世界は真っ暗闇になりました。ここは日本神話における最も重要な場面ですね。(注:文脈からすれば死んだのは巫女段階のアマテラス自身)

このストーリーと関係するのか不明ですが、秦氏の神社である蚕ノ社の正式名称が木嶋坐天照御魂神社であるのも象徴的です。以上のように、太陽神・天照大神の死と再生ストーリーに機織りが関係し、死と再生を司る秦氏は養蚕や機織りを自らの職掌としていることから、天照大神と秦氏は深層部において密接な関係にあると推定されます。

そこで、東三河における養蚕・機織りの検討から、秦氏や天照大神の存在が浮き彫りにできるのではないかと考えました。もちろん狙い通りうまく行くかどうかは何とも言えません。でも、どこにとっかかりがあるのでしょう?東三河に秦氏の存在は確認されましたが、秦氏と養蚕との関係を示す史料などなさそうです。





http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1364.html
東三河の秦氏 その31 養蚕と機織り


神服部家の歴史は初生衣神社の創建よりずっと古い時代から始まっていると理解されます。よって神服部家の歴史に関し、舊記を参照しつつ検討することからスタートしましょう。

例の如く、以下の訳文が正しいか保証の限りではありません。大体の主旨が理解できればよしとして、間違いがあった場合はご容赦ください。(注:文面には番号を付けています)

1.天照大神が天の岩屋戸に入って世の中が常闇となった時、建羽槌神(たけはずちのかみ)に縑(かとり)を織らせて供え奉った。

2.秘伝に言う縑とは斯圖利(かとり)のことで、糸を二筋合わせ、絹を織り作るのを今の世では縑と言う。

3.毎年4月に神御衣(かんみそ、神様の着衣に使用する布)をお供えするのを初生衣(うぶぎぬ)と称する。神代以来代々欠けることなく目出度いしきたりが続くのは天下太平の神事である。

4.瓊々杵尊(ににぎのみこと)が日向国に天降ってからも建羽槌神の神孫がそれを継ぎ、神武天皇から文徳天皇(もんとく天皇、在位850年〜858年)の時代に至り縑宮造(かとりのみやつこ)と称す。

5.神代以来絶える事なく天照大神御初衣調進の職を掌ったところ、仁寿(にんじゅ)元年(851年)従五位下に叙せられ、神服部宿禰毛人女(かんはとりすくねもとめ)と称し朝廷に奉仕した。

6.久寿(きゅうじゅ)二年(1155年)官を辞し山城国乙訓郡(おとくにのこおり)より遠江国浜名岡本に移り住んだ。神服の一字を取り神目代と称し、五町八反を賜り、初生衣を調進した。


上記のように、舊記には1155年に至るまでの経緯が比較的詳しく記載あるので、順に見ていきましょう。「1」には、天照大神が天の石屋戸に入り世の中が闇に包まれた時、建羽槌神が縑(かとり)を織って奉じたと書かれています。「その30」にて記載した織殿の解説板内容、「往古「加止利」ト称スル文帛(シドリ)ヲ織リテ伊勢神宮ニ納メタコトガアッタ」は、この辺りの記述が元になっていると思われます。(注:建羽槌神には多くの別名がありますので、今後は都度その場面に合った名前で記載することとします)

「2」の記述から、「縑」(かとり)とは糸を二筋合わせて絹を織作する技法であると理解されます。「3」には、初生衣とは毎年四月に神御衣(かんみそ)を奉じることで、天下太平の神事だと記載あります。現在でも御衣祭(おんぞまつり)が行われており、これは神様が夏と冬の御衣を取り替える、衣替えに係わる一連の神事です。なお神御衣と言っても奉献するのは衣服ではなく布とになります。

伊勢神宮の神衣祭では神御衣(絹の布)を針や糸などと共に供えます。つまり天照大神自身が自分の着衣を織ることになるのです。これは多分、「その30」で書いたように天照大神が巫女アマテラスの段階では織女であったことによるのでしょう。伊勢神宮においては、もっとも原初のありように沿って神衣祭が催行されていると理解されます。伊勢神宮の神衣祭に関しては以下を参照ください。
http://www.jia-tokai.org/sibu/architect/2007/08/ise.html


「縑」(かとり)は固織りの絹の布で、神御衣(かんみそ)も絹の布です。両者の違いは微妙ですが、神御衣は神様に奉献する着衣用の布なので、初生衣神社の神服部宮司さんによれば具体的に説明することはできないそうです。(注:初生衣神社訪問時に宮司さんから1時間ほどあれこれお話を伺いました)

「4」の記述は、天照大神の死と再生に続く日本神話の重要場面・天孫降臨に関係します。ニニギノミコトが日向國に天降ってからも建羽槌神の神孫が継ぎ、神武天皇の世にから文徳天皇(827年〜858年)の御世に至り縑宮造(かとりのみやつこ)を称したとあります。

「5」の内容に移ります。神服部家は、神代以来絶えることなく天照大神の御初生衣を調進していたが、仁壽元年(851年)従五従位下を賜り神服部宿禰毛人女(かんはとりすくねもとめ)と称して朝廷に仕えたとのことです。神武天皇から850年頃の文徳天皇即位に至るまで、神服部家は神御衣を伊勢神宮に調進していたのに、851年になって自らの立場を変えてしまい朝廷に仕えるようになったのです。一体何が起きたのでしょう?

「6」はさらに時代を下ります。その後久壽二年(1155年)に官を辞して山城国乙訓郡から遠州濱名郡岡本村に移り住み、神目代を称し五町八反を賜り、神御衣を調進するようになりました。目代(もくだい)とは、平安中期から鎌倉期に、現地に赴任しない国司が派遣した私設代官のことです。神目代とは神様が派遣した代理人になるのでしょうか?

神話や伝説的な部分もありますが、「神服部家舊記」に従えば、建羽槌神の子孫が神服部氏で、彼らの先祖は日本神話の最重要パートに係わっていると判明しました。しかもその家系は、現代に至るまで脈々と受け継がれているのです。現在の宮司も神服部さんですから、本当に驚きですね。



http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1365.html

東三河の秦氏 その32 養蚕と機織り

「古語拾遺」に天羽槌雄神は倭文氏の遠祖とあるのに、神服部氏の遠祖とは書かれておらず、舊記には香香背男服従させた重要な場面が出てこない。これらの問題点から、神服部氏は自分たちの祖神に織物と関係のある建羽槌神をくっつけてしまったとも推測されます。

それは多分、建羽槌神が織物に関係する神であり、神服部氏の職掌にほぼ合致していたことによるのでしょう。また、神服部氏は朝廷における自分たちの地位を確保するため建羽槌神を祖先神にしたとも推測され、その根拠は以下の通りです。

「日本書記」の天武天皇13年(684年)に、50氏に宿禰の姓を賜うとありますが、その中に神服部連が入っています。この年天皇は八色(やくさ)の姓を定めました。宿禰は八色の姓の第三位に定められ、主に連(むらじ)姓を持った神別氏族(天津神や国津神の後裔氏族)に与えられています。神服部氏が建羽槌神の子孫でなければ、宿禰のような高い位を得るのは困難でした。よって神服部氏は、織物と関係の深い建羽槌神を自分たちの祖神として朝廷に申告したと推定されるのです。(注:この部分は別の問題点を孕んでいるので、追って再検討します)

さて、前回の神服部家舊記「3」で、「毎年4月に神御衣をお供えするのを初生衣(うぶぎぬ)と称する。」と書いています。初生衣神社において、三河赤引の糸から神御衣を織って伊勢神宮に奉献するまでの一連の神事を御衣祭(おんぞまつり)と言います。

これが伊勢神宮においては神衣祭となります。御衣祭と神衣祭は密接不可分の祭りなので、伊勢神宮の神衣祭について調べれば、舊記の内容の裏付けが取れるはずです。と言うことで、伊勢神宮の神衣祭に関しても歴史史料で裏付けを取ってみました。


「令集解」(りょうのしゅうげ、9世紀前半(868年頃)に編纂)7(神祇令)孟夏条・神衣祭、には以下のような記載があります。

謂。伊勢神宮祭也。此神服部等。斎戒潔清。以二参河赤引神調糸一。織二作神衣一。又麻績連等。績レ麻以織二敷和衣一。以供二神明一。故曰二神衣一。釈云。伊勢大神祭也。其国有神服部等。斎戒浄清。以二三河赤引調糸一。御衣織作。又麻績連等。麻績而敷和御衣織奉臨二祭之日一。神服部在レ右。麻績在レ左也。敷和者。宇都波多也。此常祭也。古記無レ別。

神服部が伊勢において三河国・赤引神調糸(赤引の糸)を用い、神衣を織作するとの記事が出てきました。「令集解(りょうのしゅうげ)」の編纂が868年頃であること、「令義解(りょうぎのげ)」(833年頃)にも同様の記述があることから、平安時代初期には神服部氏の手で三河の赤引の糸を用い神御衣が織られていたと推測されます。

さらに言えば、これらの史料は大宝律令(702年)や養老令(757年)の注釈書であることから、神服部氏が三河国赤引の糸を使って神御衣を伊勢神宮に奉献したのは、天武天皇、持統天皇の時代に遡ると考えられます。

以上から、神服部家は伊勢神宮の実質的な創建時期である天武天皇〜持統天皇期において既に、三河赤引の糸を用い、神御衣を織って伊勢神宮に献じていたと理解されます。伝説的な部分はさて置いても、彼らの名前の初出は天武天皇13年(684年)で非常に古いものとなり、神服部家舊記「3」の記載内容がほぼ裏付けられています。ただ、「神服部家舊記」を「2」から「5」まで見ていくと大きな矛盾が出てきます。以下訳文を再掲します。


2.秘伝に言う縑とは斯圖利(かとり)のことで、糸を二筋合わせ、絹を織り作るのを今の世では縑と言う。
3.毎年4月に神御衣(かんみそ、神様の着衣に用いる布)をお供えするのを初生衣(うぶぎぬ)と称する。神代以来代々欠けることなく目出度いしきたりが続くのは天下太平の神事である。
4.瓊々杵尊(ににぎのみこと)が日向国に天降ってからも建羽鎚神の神孫がそれを継ぎ、神武天皇から文徳天皇(もんとく天皇、在位850年〜858年)の時代に至り縑宮造(かとりのみやつこ)と称す。
5.神代以来絶える事なく天照大神御初衣調進の職を掌ったところ、…以下略

縑とは固織りの絹、つまり目を緻密に固く織った平織りの絹布を意味しています。「2」は縑と言う布の織り方を説明しています。それが「3」では神御衣に変わっています。「4」の表現は縑宮造ですから、神服部家は文徳天皇に至るまでずっと縑=絹布を織っていたとなります。「5」ではまた御初衣になっています。

これでは神服部家が縑と言う布を織る一族なのか、神御衣用の布を織ることを職掌にしているのかはっきりしなくなります。一方「令集解」によれば、「此神服部等。斎戒潔清。以二参河赤引神調糸一。織二-作神衣一。」とあります。ここから、古代より赤引神調糸(=赤引の糸)を用いて神御衣(神様の着衣用の布)を織るのが神服部氏の職掌となりそうです。

つまり神服部氏は、最初から神御衣を伊勢神宮の天照大神に調進する一族だったのです。(注:縑と神御衣の違いは既に書いたように、明確ではありません)

舊記にはこれと矛盾して縑(=布)に関する記述があるのはなぜでしょう?この矛盾は、神服部氏が縑(=倭文)を織る神・建羽鎚神を自分たちの祖先神としたことから生じたものと考えられます。やはり神服部氏は、宿禰の地位を得るため自分たちの祖先神に建羽鎚神をくっつけてしまったのです。(注:伊勢神宮の神衣祭における神服部氏に関しても別の問題を孕んでいるようなので、別途検討します)



ここでアップ
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月17日 08時24分41秒 ) パスワード

神服部家と伊良湖神社との関係

    これが書きたくて上記のレスを書きました。
    ごめんなさい。


    遠江の神服部家と東三河は切っても切れない関係ですね。
    伊良湖は伊勢神宮領でもあったのですか。



http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1366.html

東三河の秦氏 その33 養蚕と機織り

前回は「神服部家舊記」における神代から古代に至る時代を見てきましたが、少なからず問題点もあったと思われ、後の回で別途検討します。今回は舊記「5」から始めますので、内容を再掲します。

5.神代以来絶える事なく天照大神御初衣調進の職を掌ったところ、仁寿(にんじゅ)元年(851年)従五位下に叙せられ、神服部宿禰毛人女(かんはとりすくねもとめ)と称し朝廷に奉仕した。

「その31」で書いたように、神武天皇から850年頃の文徳天皇即位に至るまで、神服部氏は神御衣を伊勢神宮に調進していたのに、851年になって突然自らの立場を変えてしまい朝廷に仕えるようになりました。機織りの一族が宮仕えの官僚に変身してしまった訳です。なぜそうなったのかを考える前に、神服部氏の動きを推定します。

平安時代の前期である851年前後に神服部氏が朝廷に仕えていたとすれば、一族は京都に在住していたことになります。伊勢から平安京に移住してすぐに従五位下を賜るのは常識的に考えて難しいので、少なくともそれより以前に平安京に入ったと考えられます。ここで思い付くのは、彼らが伊勢神宮に奉献していた神御衣はどうなるのかと言う点です。

神御衣を奉献する一族が伊勢からいなくなれば当然伊勢神宮としては困るので、きっと何らかのリアクションが起こったはずですね。と言うことで、この時代の前後に何かなかったか調べてみます。すると、ありました。伊良湖神社の創建です。ひょっとしたら、神服部氏の平安京移住が伊良湖神社の創建の原因になっているのではないでしょうか?


当初は渥美半島先端部の宮山山頂に鎮座していたそうですが、戦時中砲台を建設するため現在位置に移されました。旧鎮座地は伊勢を望む場所にあったのでしょうね。

神社の概要は以下の田原市ホームページを参照ください。
http://www.aichitabi.com/tahara/irago.html


伊良湖神社の創建は嘉祥元年(848年)に勧請されたのが始まりで、古来この地は伊勢神宮の神領とされていたとのことです。

さらに以下を参照ください。
http://masakaki.web.fc2.com/newdir/toukai/irago/irago.htm

拝殿前の案内板には、「伊良湖神社の創建は古く嘉祥元年(八四八年)あるいは貞観十七年(八七五年)とも伝えられ、」と書かれているとのこと。伊良湖神社創建時期は嘉祥元年(848年)と貞観17年(875年)の2説があることになります。ほぼどんぴしゃりで、神服部氏の平安京移住の時期に重なっています。

どちらの年代が正しいのかと思って「渥美町史」でチェックしたところ、伊良湖神社棟札に「大略年号者貞観十七年乙未正月九日ノ鎮座」とあることから875年説があり、「統叢考」は嘉祥年中、「参河国名所図絵」は嘉祥元年(848年)とありました。そして、「渥美町史」は875年説を採用しています。


以上の点を踏まえ、伊良湖神社の創建時期を検討します。常識的に考えれば神服部氏の伊勢から平安京への移住は、851年の従五位下を賜る以前のことになります。そこで、移住が嘉祥元年(848年)であったと仮定します。するとどうなるでしょう?神服部氏は三河国より赤引の糸を調達し、伊勢の地で織った神御衣を伊勢神宮に調進していました。(注:既に書いたように神服部氏が伊勢の地で神御衣を織った点も問題を孕んでいますので、別途検討します)

ところが一族は、848年に朝廷に仕えるため伊勢の地を離れ平安京に移住します。伊勢神宮にとってこれは大問題になります。848年の時点で、天照大神の神御衣を織るメンバーが伊勢から消えてしまうからです。

困った伊勢神宮は、自分たちの神領に近い渥美半島先端部に伊良湖神社を創建させ、そこで天照大神の神御衣を織らせることになったと推定されます。ではなぜ渥美半島となったのか?以下の「尾三文化史談」記事を参照ください。


大野から神御衣料の糸を献上しましたのは、服部宮の神主である鈴木家から、桓武天皇の御代に渥美神戸庄の名によって奉献したのが最初ラシイのであります。その後清和天皇(生没年は850年〜881年)の御代から伊良湖神社に奉斎して、ここで織り作りして伊勢神宮に上がったのでありました。

渥美神戸は後で詳しく書きますが、濱名惣社神明宮同様倭姫命が天照大神を奉じて訪れた元伊勢です。これが深源にあったことから、三河大野の赤引の糸は渥美神戸庄の名によって伊勢神宮に奉献されたと考えられます。そうした流れを受けて伊勢神宮は渥美半島に伊良湖神社を創建させ、ここで神御衣を織らせたのでしょう。伊良湖神社の登場は一見唐突そうに見えますが、他に歴史的な適地はなく、必然性があったと言えます。

神服部氏が従五位下を賜ったのが851年で、平安京移住はそれ以前として848年。移住とほぼ同時に伊勢神宮は渥美半島に伊良湖神社を創建させた。以上の観点から、伊良湖神社の創建は嘉祥元年(848年)とするのが妥当なようです。

もちろん、神服部氏の指導により848年から渥美半島で神御衣の製作が始まり、875年には神社が創建されたとの推定も成り立ちますが…。いずれにしても、神服部氏の移住が伊良湖神社創建に連動しているのですから驚きですね。



それが1155年になると、神服部氏は突然山城国乙訓から遠州濱名郡岡本村(現・浜松市北区三ヶ日町岡本)に移住することになります。移住後はまた赤引の糸を自分で調達して神御衣を織り始めます。よって伊良湖神社における神御衣の製作は廃止されることになるのです。(注:伊良湖神社における神御衣の製作廃止も「尾三文化史談」記事画像を参照ください)


ここでも、神服部氏の動きと伊良湖神社の動きが連動していることから、神服部氏の平安京移住と伊良湖神社創建は連動していると再確認されます。



ここからは既にレス(26)で書きました:

問題は、なぜ神服部氏が唐突に官を辞して山城国乙訓から遠州濱名郡岡本村(現・浜松市北区三ヶ日町岡本)に移住したのかと言う点です。どのような事情があったのかきちんと調べる必要があるでしょう。

                  ↑        
        副業で始めた陰陽師業で源頼政の鵺退治に力を貸して繁栄したものの
        後に安倍氏の巻き返しに遭って撤退
        遠江に心機一転の移住


  
結論:東三河と遠江は宗教圏・経済圏で昔から一衣帯水、切っても切れない関係だったんですねえ。
   その鍵を握っているのが神服部家。


   だから天武天皇や持統天皇が遊びに来たという記録があるんですねえ。


   神服部さんは凄い力を持ってたんですね。
[34]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月17日 09時56分20秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 昨日の夜は家のパソコンから平熱へのアクセスが不能になりました。

 物部氏と星信仰について探求していますが、秦氏、徐福との関係も

からんでなかなか時間がかかります。

 最も、物部氏と秦氏は日本の歴史そのものでありますので、そう簡単

にはいきませんね。


 とりあえずはこれにて。

[35]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月17日 11時37分23秒 ) パスワード

東三河と遠江の秦氏との関係


東三河の秦氏 その35 養蚕と機織りもお読みください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1368.html


垂仁天皇時代には、国造が三河国渥美郡の神戸を朝廷に寄進している(『太神宮諸雑事記』第一)

そこで、「『太神宮諸雑事記』第一」の内容をチェックします。垂仁天皇の第4皇女倭姫命は天照大神の鎮座地を求めて各地を転々としたのですが、「『太神宮諸雑事記』第一」には、天照大神が伊勢に鎮座するまでに立ち寄った地が書かれていました。関係部分は以下の通りです。

次三河国渥美郡一宿御坐、国造進渥美神戸、次遠江国浜名郡一宿御坐、国造進浜名神戸

「倭姫命世記」によれば、倭姫命は三河国渥美宮の次に遠江国浜名宮に巡行しており、「『太神宮諸雑事記』第一」の記述と整合しています。この浜名宮が現在の濱名惣社神明宮に当たることになります。いわゆる元伊勢ですね。(注:濱名惣社神明宮の詳細は後で書きます)

ところで、渥美神戸の成立は一般的には天慶3年(940年)とされています。建久3年8月の「伊勢大神宮神領注文」に「参河国 本神戸国造貢進二宮 新神戸二宮 去天慶三年依 勅願奉寄」とあるからです。一方、「神宮雑例集」には「参河国。冊戸本神戸廿戸。号 渥美神戸。新神戸十戸。号 飽海神戸」とあります。ここから何が読み取れるでしょうか?

二つの史料を併せ考えると、本神戸は三河国の国造が貢進したものとなり、これが渥美神戸と推定されます。国造の貢進となれば時代は大化の改新以前に遡るので、天慶3年ではありません。よって、新神戸である飽海神戸の成立が天慶3年(940年)になると理解されます。

では、渥美神戸の所在地はどこに比定されるでしょう?地図を見ると、田原市に神戸の地名があることから、この一帯であると考えられます。渥美神戸=渥美宮とするなら、倭姫命が天照大神を奉じて立ち寄った場所(元伊勢)は現在の田原市となるはずです。でも、これだけで確定はできません。


倭姫命は嵐に遭って田原市北方にある姫島(島名は倭姫命に由来)に漂着し、現在の田原市仁崎に上陸したとされているようです。

また仁崎には五十鈴川があって不思議だと思っていたのですが、ちゃんとストーリーがありました。伊勢に入り五十鈴川のほとりに天照大神を鎮座させた倭姫命は、仁崎の村人のもてなしに感謝し、仁崎村に流れる川を五十鈴川と名付けたそうです。二つの史料に上記の伝承も加えれば、渥美神戸すなわち元伊勢である渥美宮は現在の田原市であると考えて間違いないと思われます。


初生衣神社で織られ濱名惣社神明宮(=浜名神戸、浜名宮)にて一時保管された神御衣は、本坂峠を越えて豊橋市の湊神明社に送られます。その関係からすると、湊神明社が渥美神戸のようにも思われます。けれどもこの場所は、幡太郷すなわち秦御厨に含まれると想定され、さらに飽海神戸(現在の豊橋市飽海町)のお隣であり、渥美神戸ではないはずです。(注:湊神明社に関しても後の回で見ていきます)

秦御厨に関しては、豊橋市中心市街地活性化基本計画なるデータを見ていたところ、関連する記述が出てきました。この資料に「湊神明社(田町神明社)伊勢神宮神領内渥美郡の秦御厨(はたみくり)に奉祀された神社といわれる」と記載されていたのです。

また湊神明社のすぐ近くには安久美神戸神明社が鎮座しており、同社のホームページには以下のように記載されていました。

天慶3(940)年、朱雀天皇より伊勢神宮に三河国の飽海荘(あくみのしょう)が寄進されました。この地に天照皇大神を奉斎し、地域の人々の繁栄を祈願したのが当社の始まりです。「安久美神戸(あくみかんべ)」というのは、この地域「安久美」の「神戸(神社の領地)」という意味です。

安久美神戸神明社のホームページは以下を参照ください。
http://akumikanbeshinmeisha.blog.fc2.com/blog-category-1.html

渥美宮は渥美半島の田原市でほぼ間違いないと理解されます。ちなみに、建久3年8月の「伊勢大神宮神領注文」には、「参河国 本神戸 国造貢進二宮 新神戸去天慶三年依 勅願被奉寄 …中略… 遠江国 本神戸 国造貢進二宮 新神戸去天慶三年依 勅願被奉寄」との記載もあり、浜名神戸と渥美神戸が内容を同じくして並列的に扱われています。

上記の内容を突き合わせると、渥美郡の渥美宮と遠江国浜名宮はいずれも倭姫命が天照大神を奉じて立ち寄った地(元伊勢)であり、渥美神戸と浜名神戸の奉献品は秦氏とも関連しそうな絹糸や絹織物であったと推定されます。

なお、「『太神宮諸雑事記』第一」に記載されている「次三河国渥美郡一宿御坐、国造進渥美神戸」の渥美神戸と、「伊勢大神宮神領注文」に記載されている「参河国 本神戸国造貢進」及び「神宮雑例集」にある「参河国。冊戸本神戸廿戸。号 渥美神戸」の渥美神戸が同じものか(同じ時代のものか)明確ではありませんが、少なくとも連続性はあると考えられます。

三河国の神戸に関しては「中世伊勢神宮領荘園の年貢輸送」を参照ください。非常に詳しく書かれています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/31/5/31_5_401/_pdf

以上、神服部氏の古代から1155年に至るまでの動きの中に浜名郡岡本村や渥美半島に鎮座する伊良湖神社などがあり、それらが重要な役割を果たしていました。その深源には、倭姫の元伊勢とそれに続く浜名神戸や渥美神戸の存在があり、伝説と史実が融合した形で綿々と続いていたのです。





東三河の秦氏 その36 養蚕と機織り
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1369.html

               秦氏との関係です


前回で、「参河国 本神戸国造貢進」と書いています。では、ここに記載されている国造とは誰のことでしょう?「天孫本紀」によると、物部十市根命(といちねのみこと)は垂仁天皇の御世に物部連公の姓を賜り、次に大連となったとあり、その子の物部膽咋宿禰(もののべのいぐいのすくね)は三川穂国造(みかわのほのくにのみやつこ)である美己止直(みことのあたい)の妹・伊佐姫を妾とし、一児を生む。とあります。

時代を考えると、渥美神戸を献じた国造とは三川穂国造の美己止直となりそうです。また名前から判断して、美己止直は「古事記」に記載ある三川穂別(みかわのほのわけ)の祖とされる朝廷別王(みかどわけのみこ)と同一人物かもしれません。

しかし、允恭天皇の時代に導入された臣連制により、別(わけ)は君、公(きみ)姓に、国造・県主は直(あたい)姓に改められたことからして、朝廷別王と美己止直は時代も地位も異なるので、そう断定はできないと思われます。ちなみに、太田亮氏は「神社を中心としたる宝飯郡史」において、「美己止直は朝廷別王と酷似しており、その子などではあるまいか」としています。

いずれにしても、「『太神宮諸雑事記』第一」と「伊勢大神宮神領注文」のどちらも三河国造と記載されており、三川穂国造ではありません。こうした点からも穂国造の存在が疑問視されているのです。

ところで、元伊勢の第一号は大和笠縫邑とされています。笠縫邑比定地は幾つかありますが、酔石亭主は秦氏が創建した秦楽寺境内(奈良県磯城郡田原本町秦庄)がその場所だと考えています。他の場所も含め元伊勢には秦氏の関与があるのです。秦楽寺に関しては以下を参照ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%A5%BD%E5%AF%BA

元伊勢の第一号に秦氏の関与があるとすれば、渥美郡渥美宮と遠江国浜名宮のいずれも秦氏の関与があったのかもしれません。渥美宮所在地は既に書いたように現在の田原市神戸町周辺地域と想定されるのですが、元伊勢の第一号の所在地も田原本町秦庄(大和における秦氏の居住地)で、同じ名前が入っている事実に不思議な繋がりを感じます。また田原市神戸町周辺には豊島、豊丘、豊南、高畑、山畑など秦氏に由来しそうな地名が見られます。

「人類進化の謎を解く」から「秦氏の謎を解く」に至る一連のシリーズで秦氏は死と再生を司る一族である点を詳述しています。養蚕は何度も書いたように秦氏の職掌であり、蚕は幼虫から繭、蛾へと変容を繰り返す不老不死の常世の虫であり死と再生の象徴でした。アマテラスの神御衣は、死と再生の象徴である蚕から採った糸を織って作られたものです。

また「その30」にて書いたように、巫女アマテラスが忌服屋で神御衣を織っていた時、スサノオが天の班馬を投げ込み、驚いたアマテラスは梭(ひ、機の横糸を通す道具)で局所を突いて死にます。死んだ巫女アマテラスは天の石屋戸に入り、石屋戸から出た時には太陽神天照大神として再生しました。

これらから、養蚕と機織りは天照大神の死と再生における最も重要な要素を構成していると理解されます。よって、養蚕・機織りに係わる東三河と遠江国浜名郡は、秦氏と、自らを天照大神に擬そうとした持統上皇にとって重要な地になると想定され、この辺は第4部で詳しく検討します。

[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月17日 11時57分51秒 ) パスワード

東三河の秦氏 その37 養蚕と機織
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1370.html


鳳来町の服部神社の件


図書館で読んだ「渥美町史」にはおおよそ以下のように書かれていました。桓武天皇(737年〜806年)の頃に八名郡大野(鳳来町大野)の生糸(赤引の糸)を、渥美神戸の名によって伊勢神宮に奉納した。清和天皇(850年〜881年)の頃から、八名郡大野の糸を伊良湖神社に奉納し、ここで機織りされてから伊勢神宮に献上するようになった。八名郡大野の服部宮は繭や糸を供え、神事を行うために創建された。(注:9世紀前半(868年頃)に編纂された「令集解」には、謂。伊勢神宮祭也。此神服部等。斎戒潔清。以二参河赤引神調糸一。織二-作神衣一。とあり、「令集解」は養老令や大宝律令の注釈書なので、赤引の糸の奉納は天武天皇から持統天皇の時期からと思われる)

赤引の糸の奉納が始まる時期の問題はさて置いて、神服部氏が伊勢神宮に神御衣を奉献する前提には、赤引の糸があると理解されます。と言うことで、まず八名郡大野(鳳来町大野)の生糸(赤引の糸)発祥地に鎮座している服部宮(=服部神社、かつての服部郷に鎮座)を見ていきます。

「鳳来町誌」によれば、服部郷に関して、秦氏など帰化人で機織りを伝えた服部部にちなんだ地名と推測でき、新城市八名井にある旗頭山古墳群はその関係かもしれない。一方、鳳来町大野に古来より服部神社が祀られ、「赤引の糸」を作り、遠州三ケ日の神服部家(初生衣神社)に送り、ここで伊勢神宮の神御衣(和妙)を織る原料とした…以下略。と記載あります。あくまで「鳳来町誌」の推測ですが、ようやく秦氏が出てきました。



      やっと秦氏系服部さんの登場?!


服部神社鎮座地(新城市大野字奥林54)

地図画像では大野神社となっています。服部神社は大野神社の境内に鎮座しており、この一帯が「三河赤引の糸」の発祥地と考えられます。地図画像には赤引温泉もありました。では、大野神社に行ってみましょう。神社は三河大野にあり、この地はかつての大野宿でした。大野宿において豊橋と別所(現在の東栄町)を結ぶ別所街道と、鳳来寺山から遠江国秋葉山の秋葉神社に向かう秋葉街道が交わり、数多くの巡礼者で賑わった場所です。と言うことで、少しだけ建物探訪モードに切り替えます。



   赤引き糸の神  服部神社

   服部郷   大化の改新 ( 645年 )ごろには服部郷であった


赤引糸の神 服部神社
この地方は、大化の改新(645年)頃には服部郷と呼ばれ、沢山の野生の桑が繁茂し、生糸が紡がれていたが、その品質は全国屈指の優秀品で、赤引糸といわれて明治維新まで千余年間、伊勢神宮へ奉納されてきた。
この服部神社は赤引糸に関係した神で、数百年前野火にあい、伊兵衛沢からこの境内に舞い移ったと伝えられ、神殿前の古い欅の巨木は、それ以来のご神木といい、大野山名木の一つとなっている。

大化の改新(645年)頃には服部郷があり、生糸が紡がれていたとすれば、「その32」にて推定していたように、伊勢神宮が実質的に創建された天武天皇から持統天皇の頃には神服部氏が三河赤引の糸を織って神御衣を奉献していた可能性が高くなります。内容を「尾三文化史談」でもう少し詳しく見ていきます。


大野から御衣の糸を献上したのは服部宮の神主である鈴木家から、桓武天皇の御世に渥美郡神戸の名によって奉献したのが最初らしいとされています。その後清和天皇の御世になって伊良湖神社に送られた糸を織って伊勢神宮に奉献されるようになりました。鈴木家は代々伊兵衛を襲名し、服部宮の神主でした。初めて生糸を奉献したのは四代目伊兵衛で、大野には伊兵衛の名を取った伊兵衛沢もあります。

服部神社はかつて赤引・伊兵衛沢にあったものが、こちらに遷座したとのことです。なお、赤引糸の生産地には別の説もあります。それが、赤孫郷に鎮座する赤日子神社(鎮座地:蒲郡市神ノ郷町森58) です。理由は赤日子の社名が赤引から転じたもので伊勢神宮に奉献された三河赤引の糸との関係が想定されることによります。

しかし赤日子神社は、祭神が彦火火出見尊、豊玉彦命、豊玉姫命と明らかに海人系であることから安曇氏が奉斎する神社であり、初生衣神社に見られるような壮大な伝承・儀式はありません。また、赤孫郷の名前から推定されるように赤日子は赤彦であり、赤引が転じたものとは考えられないことから、この説は間違いと思われます。

久寿2年(1155年)にまで時代を下り、ようやく初生衣神社が創建されます。神服部氏が遠江国神戸庄岡本村に移住してからは、八名郡大野の糸はここで織られることになりました。と言うことで、初生衣神社を実地に訪問します。




三河の秦氏 その38 養蚕と機織りに

初生衣神社


当社は往古より浜名神戸(かんべ)の地に鎮座、伊勢神明初生衣神社または浜名斎宮(さいぐう)とも称され、機織(はたおり)の祖天棚機姫命(あめのたなばたひめのみこと)を祭る。神服部家(かんはとりけ)の旧記によれば、久寿(きゅうじゅ)二年(1155)以来、境内の「織殿」において、三河の赤引の糸をもって御衣(おんぞ)を織り、八百年の長い間毎年皇大神宮に奉献した古例を有する他社に比類のない古社であって、当社が遠州織物の発祥の地として遠近の崇敬を集めているも偶然ではない。先年奉献の古例が復興された。…以下略


史跡 織殿 往古「加止利」ト称スル文帛(シドリ)ヲ織リテ伊勢神宮ニ納メタコトガアッタガ、後年ハ生糸ヲ三河国大野ニ取リ神衣料荒妙絹ヲ織リテ之ヲ献ズル例トナッタ…以下略

この解説板の内容に関して別の視点から見ていきます。まず「加止利」とありますが、これは香取ではないかとの連想が働きました。(注:神社側は「固織りの儀」と言う絹のこととしています)香取と言えば香取神宮がすぐ頭に浮かびます。この神社に鎮座する神は経津主神(ふつぬしのかみ)で、この神と関係の深い武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祀る鹿島神宮は、利根川を挟んで相対するように鎮座しています。

既に書いていますが、この2神は『日本書紀』では葦原中国平定の段において、悪しき神である天津甕星をまず誅すべきと天照大神に奏上しています。ところがその少し前には、2神に服従しないのは唯一星神である香香背男(かかせお)のみと記載あり、倭文神建葉槌命(しとりがみたけはつちのみこと)を遣わして服従させたとあります。「しどり」は倭文神建葉槌命と関連していました。ここまでで、経津主神、武甕槌神と倭文神である建葉槌命(=建羽槌神)が出てきています。



                神服部氏の御先祖さまは天津甕星を服従させた建葉槌命   
                         ↓

以上から、謎の星神・悪神である天津甕星を服従させた建葉槌命の子孫が神服部氏となります。最強の武神である経津主神と武甕槌神をもってしても屈することのなかった香香背男=天津甕星(あまつみかぼし)が、なぜ機織りの神に過ぎない倭文神建葉槌命には服従したのでしょう?不思議ですね。天津甕星は「熱田神宮の謎を解く」でも終わりの方で登場した謎の神です。現在のテーマからは脱線しますが、ちょっとだけ見ていきましょう。

建葉槌命は「古語拾遺」によれば、天照大神が天の石屋戸から出て頂くために、倭文布を織った機織りに神で、既に書いたように別名は天羽槌雄命など幾つもあります。また初生衣神社の祭神である天棚機姫命はこのとき神衣(かんみそ)を織った神とされます。倭文布は麻などの繊維で織った布を意味し、天羽槌雄命は濱名惣社神明宮摂社の祭神となります。

初生衣神社だけでなく、濱名惣社神明宮の宮司も神服部家が勤めています。
             ↑
            ええっ?!        



天棚機姫命は棚機(たなばた)であり、織姫星と考えられます。となると天棚機姫命と対になっている天羽槌雄命は彦星と考えられ、星神です。星神である天津甕星を制することができるのは、同じ星神と推定される天羽槌雄命しかいないのではないでしょうか?

一般論としては、倭文は鞍などに使われた丈夫な織物とされています。それで星を絡め取ることができることから、天羽槌雄神は天津甕星を服従させることができたとされます。

しかし、上記の説はいずれも説得力に欠けます。では、どう理解すればいいのでしょう?神服部家は神御衣の調進のみならず、妖化體顕蟇目の神呪を操る家系とされていいます。この神呪は初生衣神社の略記によれば、天照大神が天羽槌雄命に授けたものとされます。それ故に天羽槌雄命は天津甕星を服従させることができたのです。

初生衣神社を見ていく中で、天照大神、天棚機姫命、天羽槌雄命、経津主神、天津甕星が出てきました。延喜式によれば、駿河国と常陸国から調布として倭文布が上納されています。当然のことながら、倭文神社はこの両国に多く鎮座しています。実に奇妙ですが、天津甕星を祀る神社も駿河国と常陸国に多いのです。駿河国の代表的な倭文神社に関しては以下を参照ください。
http://www.genbu.net/data/suruga/sitori_title.htm

解説板の由緒には以下の内容があります。なお、健羽雷神は天羽槌雄命と同神です。

古代高天ヶ原時代、当地に星神として君臨して居た香々背男が、貫戸、岩本付近の神々を糾合して、中央政府に反乱を企てたので経津主神と、武甕槌命は健羽雷神を遣して之を討滅せしめた。以後、健羽雷神は、星山に永住し、織物製紙の業を興したので諸神の崇敬を集め当神社に祀られた。

常陸国の大甕倭文神社に関しては以下を参照ください。
http://kamnavi.jp/en/higasi/oomika.htm


解説板の由緒には以下の内容があります。なお、健羽雷神は天羽槌雄命と同神です。

古代高天ヶ原時代、当地に星神として君臨して居た香々背男が、貫戸、岩本付近の神々を糾合して、中央政府に反乱を企てたので経津主神と、武甕槌命は健羽雷神を遣して之を討滅せしめた。以後、健羽雷神は、星山に永住し、織物製紙の業を興したので諸神の崇敬を集め当神社に祀られた。

常陸国の大甕倭文神社に関しては以下を参照ください。
http://kamnavi.jp/en/higasi/oomika.htm

天津甕星は「熱田神宮の謎を解く」で書いたように、尾張国にも出てきました。尾張においては当初物部系がいたところに尾張氏が入っている点も書いています。だとすれば、天津甕星も物部系の神だったのかもしれません。調べてみると、「旧事紀」の天神本紀にニギハヤヒに従って天降りした人物に天津赤星(あまつあかぼし)がいました。

両者の名前はほとんど同じで、天津赤星は筑紫弦田物部の祖とされます。天津甕星は金星とされていますが、赤星も明けの明星が赤く見えることから付けられています。天津甕星が尾張にいるように天津赤星も例えば、愛知県愛西市の星大明神社は赤星明神として存在しています。

以上から天津甕星は天津赤星である可能性も浮上してきます。となると、本来は物部系の神である経津主命が同族の天津甕星を誅すべきと天照大神に奏上したのはちょっと理解に苦しみます。

    まあ、天津甕星ははぐれ物部氏なのかもしれませんが…。

              ↑
          はぐれ物部氏とは!


神服部氏の祖は天羽槌雄命で、「加止利」から香取が連想され、香取神社祭神・経津主神が登場し、悪神、星神である天津甕星が出てきて、この神を服従させたのが、経津主神に遣わされた天羽槌雄命と、連想ゲームのようにぐるっと回って元に戻ってきました。よって、「加止利」は香取であるとの連想も何となく根拠がありそうに思えてきます。

とにかく、ほとんど日本唯一の星神であり、悪神とされている天津甕星を服従させたのが神服部氏の祖である天羽槌雄命なのですから、それが伝説に過ぎないにせよ、いかに神服部家が物凄い家系なのか理解できます。大脱線したので元に戻しましょう。


         すごいね。
         やっぱり凄い!






[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月17日 12時12分10秒 ) パスワード

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1372.html

東三河の秦氏 その39 養蚕と機織り
初生衣神社



三河大野の服部神社から送られた赤引の糸はこの初生衣神社にて神御衣(かんみそ)に織作されます。神御衣は唐櫃(からびつ)に納められ、「太一(たいち)御用」、「おんぞ奉献」などの旗を立てた行列が濱名惣社神明宮へと向かいます。

そして摂社の天棚機姫命社に一時保管された神御衣を再び唐櫃に入れ、初生衣神社に戻ります。神御衣はその後、本坂峠を越えて豊橋市の湊神明社へ送られ、同神社での神事が終わってから、渥美半島伊良湖港よりフェリーボートに乗せられ伊勢湾を渡り、伊勢神宮に奉献されるのです。なお、輸送ルートに関しては後でより詳しく書く予定です。

濱名惣社神明宮は既に書いたように、倭姫命が天照大神を奉じて立ち寄った場所です。天棚機姫命は天照大御神が天の石屋戸にお隠れになった際、大神に献上する神御衣を織られた神です。記紀の記述からすれば機織女=アマテラス(太陽神に変身する前の巫女)となりますので、天棚機姫命は巫女アマテラスと同一の神とも見做せそうです。

話は変わります。三河赤引の糸に関してさらに調べたところ、「日本書紀」の持統天皇6年(692年)閏5月丁未(13日)条に以下の記載がありました。

伊勢太神奏二天皇一曰。免二伊勢国今年調役一。然応レ輸二其二神郡赤引糸三拾伍斤一。於二来年一当レ折二其代一。

伊勢太神が天皇に奏上して、「伊勢国の今年の調役は免除されることになったが、二つの神郡よりの赤引絲参拾五斤は(それがないと「神衣祭」が催行できなくなるので)徴収し、来年に相当分を免除することで対応させていただきたい」と申し述べた。

実際に神様が天皇に奏上することはないので、神託を受けた神官の言葉となります。この記事は赤引糸の初出と思われますが、内容に問題を含んでいます。二つの神郡とは度会郡と多気郡で、それらの郡の赤引糸となると三河赤引の糸ではないように理解されるからです。頭を抱えてしまいますが、この問題をどう考えればいいのでしょう?多分、赤引糸は三河国に固有の糸を指しているのではなく、神御衣用の光って美しく清浄な糸を意味しているのです。

それにしても、神様が問題を先送りするとは理解に苦しみます。来年に度会郡と多気郡からの赤引糸を免除すると、その時点でまた「神衣祭」は催行できなくなるからです。焦った神官たちは神前において対策を鳩首協議したのでしょう。

その結果、急遽、三河国より赤引の糸を調達するようになったのでは、と推定されます。すなわち、持統天皇7年(693年)より三河国赤引の糸が初めて伊勢神宮に献納されることとなったのです。

この少し前の持統天皇6年(692年)3月、持統天皇は伊勢行幸を決行しました。伊勢神宮の実質創建時期もこの頃と思われ、赤引糸の問題と妙にうまく時期的な辻褄が合っています。と同時に、新装開店間もない神社において、神官たちが慌てふためく様子まで目に浮かぶようでもあります。

次回は濱名惣社神明宮(鎮座地:浜松市北区三ケ日町三ケ日大輪山122) を訪問します。


http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1374.html
東三河の秦氏 その40 養蚕と機織り

濱名惣社神明宮

初生衣神社のすぐ近くに鎮座しています

由緒:創立年月日は詳らかではないが、口碑によると垂仁天皇の皇女倭媛命が天照皇大神の御神勅によって三種の神器を奉じて大和の国より伊賀・伊勢・美濃・尾張の地を経て御鎮座の地を定めよとの思召しによって太田命の御先導で御船にてこの地に行幸になられて四十余日御行宮の後、更に御神託によって勢州渡会の五十鈴川の辺に移御なされた。斯る畏い御由緒であり神倉造りとして他の神社と異り古式の神殿で歴代の将軍・国守の尊崇の念が厚く特に豊臣・徳川両氏の代々の将軍は掟を定めて朱符の田四十二石を寄進して崇敬の意を表している。本社は昔から神服部氏が伊勢大廟に奉献する御初生衣の御清祓所とした所である。明治5年8月2日郷社に列す。明治40年2月11日神饌幣帛料供進社指定。

この神社は、主祭神が天照皇大御神で、境内摂社御祭神が太田命、天棚機姫命、天羽槌雄命となります。解説板によれば、濱名惣社神明宮は倭姫命が行幸した元伊勢の地であり、太田命が先導したとのことです。そうした位置付けがあったから、この地が伊勢神領(浜名神戸)になり、神服部氏が移住して初生衣神社で織った神御衣を一時保管する場所となったのでしょう。

そこで気になるのが、倭姫命を先導した太田命です。三ヶ日地方は浜名県主が支配する地であり、彼らの祖神である太田命を祀った英多神社(あがたじんじゃ)が濱名惣社神明宮の前身でした。

その後天慶3年(940年)に一帯が伊勢神領となり、天照大神が主祭神となったため、太田命は従属的な位置に落されてしまいます。太田命とは大和の三輪山において大物主神を祀った太田田根子命のことです。それは濱名惣社神明宮の鎮座地が大輪山であり、三輪山を想起させる名前である点からも確認できます。


太田田根子命は蛇神・大物主神の子或いは子孫で三輪氏の祖ですが、三輪氏の元は出雲族と考えられます。彼らの痕跡は東三河の石巻山一帯にも見られ、石巻神社は八名郡美和村神郷の石巻山に鎮座しています。ここまでを簡単に纏めれば以下のようになりそうです。

県主の歴史は国造よりも古く、当初は浜名県主が自分たちの祖神である太田命を祀っていた。その後三ヶ日地方に倭姫命が入り、国造が浜名神戸を寄進した。太田命を祀る英多神社は940年の新神戸寄進の時点で祭神が天照大神となり、濱名惣社神明宮となった。


神社庁ホームページによれば、本殿は浜名神戸より伊勢神宮へ貢進品の収納庫として使われたと云われ板倉造(井籠造)という全国でも類の少ない古式の形式で国の重要文化財に指定されている。とのことです。

静岡県神社庁ホームページは以下を参照。
http://www.shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4415060


解説板。縣榮雄(あがたしげお)翁頌徳碑

縣の名前から連想されるものがあります。この姓はほぼ間違いなく浜名県主の「縣」に由来するものと思われます。縣姓を検索したところ静岡県全体で131人。浜松市北で48人と圧倒的な数字になっており、ここからも浜松県主の流れに連なる姓であることが確認されます。


ついでに愛知県でも見ていきます。愛知県全体では33人で豊橋市が10人と突出していました。彼らの痕跡は石巻山周辺(八名郡美和村神郷)に見られると書きましたが、豊橋市に10人の縣姓が存在するのは、その事実に対応していると理解されます。

いずれにしても、縣姓は倭姫以前に遡るとても古い名前と言うことになります。また遠い昔に天照大神を祀る神明宮になったにもかかわらず、なお浜松県主の関係者が神主を務めていた事実は、地元の神に対する信仰の根強さを物語っているものと思われます。



なんで神社には神様が複数祀ってあるのか不思議でしたが
なんとなく分かりました。


また服部氏と星信仰も  七夕 でやっと分かりました。

             ↓

さきのレスよりコピペ:

天棚機姫命は棚機(たなばた)であり、織姫星と考えられます。
となると天棚機姫命と対になっている天羽槌雄命は彦星と考えられ、星神です。

星神である天津甕星を制することができるのは、同じ星神と推定される天羽槌雄命しかいないのではないでしょうか?


   そうか彦星は天津甕星を制する星なのか。


なんかちょっと疑問が解かって来たような。


[38]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月17日 12時52分21秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 ちょっととりこんでおりましたので、あを様のアップを確認せずレス

してしまいまして申し訳ございませんでした。


 今、開いてみて、またもや脱帽です! クワット・・・はやめておきまし

ょう。あを様は攻めるときはグイグイ攻める。まるで軍師の素質を持ってお

られるよう!


私も勇気をいただいております( inspired !)


 縣または阿形等の名前が三ヶ日方面に多いということに何かありそうという

ことを前回述べようと思っていましたが、ずばり来ました。


 また、今晩の楽しみができました。家にてゆっくり解読いたします。

 私の方もがんばってみます(真夏到来で、毎日30度を超し、頭が煮えて

しまいます。やれやれ)。


                          丸に三つ柏の服部

  
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月17日 13時09分38秒 ) パスワード

茂さん


茂さんのレス(34)の疑問がちょっと・・・解けてきたようです・・・謎


>物部氏と星信仰、
>秦氏、徐福との関係
>最も、物部氏と秦氏は日本の歴史そのものでありますので、そう簡単にはいきませんね。


はい
なかなかカンタンにはいきません。



一応下のように考えてみました。

   またもや当たらず遠からずでしょうか?


神服部さんの御先祖様は  天建羽槌命 = 建羽槌神 =            天羽槌雄命(彦星)

服部さんの御先祖さまは  帰化人秦氏 + 日本人経津主神子孫物部 → 服織女 天棚機姫命(織姫)

星信仰は七夕の織姫と彦星で  彦星が天津甕星=はぐれ物部=スサノオ=を征服  アマテラスが満足した?


こんな感じでしょうか?
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月17日 13時19分30秒 ) パスワード

おんぞ奉献の儀式が七夕祭りになったのかな?と思いました。
これは  神服部さんと糸とりの服部さんの共同作業で伊勢神宮に奉納する お祀り  なのかなと。


梅雨が明けたら、もっと暑くなると思います。
夏の暑さに負けないように頑張ってください。
にっこり

   


[42]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月18日 12時16分18秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 今回は、本当に驚きとともに、何かおいしい物にあたりついたような

満足感が漂っています。


 1.神服部氏の祖が天津甕星を服従させた建葉槌命であったということ

 2.それも日本唯一の星神で悪神である天津甕星であったということ

 3.持統天皇の伊勢行幸の背景、倭姫の濱名惣社神明への行幸の背景
 
   がわかったということ

 4.縣の名前の由来がわかったこと

 5.天津甕星=スサノオ 彦星=建葉槌命 織姫=アマテラス そして

   七夕の天の川の神話関係がわかったこと

  今、極上のお刺身「石鯛」を食べた時のような満足感が漂っております。


 家からのアクセスができなくなりましたので、対策を考えたいと思ってい

ます。


 とりあえず、これにて。


                          丸に三つ柏の服部
 
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月18日 14時58分16秒 ) パスワード

茂さんへ


もうすぐ連休ですね。
そうすると空と海と茂さんは三位一体になれますね。

日射病になりませんように。

   首の後ろを太陽にジリジリ焼かれたりしないでね。
   アタマには麦藁帽子、クビには手拭でしっかり対策をとってください。
   熱中症になっては大変ですから。



神服部家のご先祖さまと伊勢のアマテラス嬢は、切っても切れない関係だったんでしょうね。
アマテラスの愛人は神服部家の御先祖さまだったのかもね。



今後の目標は  服部氏のサイトが見つかると良いのですが。

    服部氏はいつ来たのか?多分、持統天皇の時代?
    桓武天皇の御世には既に。

    この服部氏は、帰化人の秦氏系なのか?日本人の物部氏系なのか?
    そういうのも分かると良いのですが。 





「長上郡の服部氏」の最初のスレッドの<42>に     4月ですね   お書きの

     善地村に5名あり(加藤、服部、永井、松島、鈴木)と「遠州風土記伝」に書かれているそうですが、
     これも私が実際にその資料にまだ当たっておりませんので、
     書かれているかどうかはわかりませんが、
     事実としては5姓は昔から在住しています。


     その内の加藤家に家系図が残されていますが、
     歴史的年代や人物との整合性が一部取れなくて発表できませんが、
     この5姓は同族となり、そのルーツは加藤光泰であると書かれています。


加藤光泰は戦国時代の人ですから、この5家は、もっと昔っから善地に根を張っていたのではないでしょうか?

その善地の加藤家の中から加藤光泰が出た?

   

>善地村に5名あり(加藤、服部、永井、松島、鈴木)

昔っから善地にお住まいでしたら、当然、この5家は血でも何重にもがんじがらめで結びついていると思います。
皆さん親戚ですよね。


このスレッドでコピペをしてた時、何度も「鈴木」さんが出て来ました。
上の方のレス<33>から鈴木さんのことが出ています。


   (鳳来町でしたよね?)大野から神御衣料の糸を献上しましたのは、
   服部宮の神主である鈴木家から、
   桓武天皇の御代に渥美神戸庄の名によって奉献したのが最初ラシイのであります。

   その後清和天皇(生没年は850年〜881年)の御代から伊良湖神社に奉斎して、
   ここで織り作りして伊勢神宮に上がったのでありました。



ということは、なかなか面白い情報ですよね。

服部宮の神主が鈴木さん。
桓武天皇。
その頃(8世紀)には東国に移住してた。


    普通、鈴木さんと言えば、熊野神宮関係者かと。
    そして鈴木さんは南朝方だったと思います。
    さらに後には家康と仲が悪かった三河の鈴木さんもいます。
    この三河の鈴木さんはかなりの力を今でも持った家です。


>養蚕と機織りは天照大神の死と再生における最も重要な要素を構成していると理解されます。
>よって、養蚕・機織りに係わる東三河と遠江国浜名郡は、秦氏と、自らを天照大神に擬そうとした持統上皇にとって重要な地になる。


   そうしますと善地の服部さんは持統天皇の時代には遠国にいたらしいですね。





そして茂さんとの応酬の中で
どこかのスレッドに教待和尚の話をコピペしています。


空海の姪の子の円珍=後の智証大師が、貞観10年?に三井寺に来るまで、
その地を守っていたのは教待和尚、162歳。


   三井寺はもともと古代氏族の大友(大伴)氏の氏寺だったのを
   天智天皇が再興しようとして中断し
   天武天皇も再興しようとして中断し
   結局は空海の甥の円珍が比叡山のエライ人になって三井寺を再興することになったという園城寺のこと。

   円珍の死後、園城寺(三井寺)は比叡山と仲が悪くなりましたが。


教待和尚は貞観17年(875年)に遠江で幡教寺(現在の大福寺)を開基。
教待和尚、169歳?!

     伊良湖神社創建時期は嘉祥元年(848年)と貞観17年(875年)の2説があることになります。
     ほぼどんぴしゃりで、神服部氏の平安京移住の時期に重なっています。


神服部氏は1155年あたりでしたっけ?遠江に来たのは。
ということは  善地の5家は神服部氏よりずっと前に東三河や遠江にやって来てた?



書き込みがウロウロしていますが
なんか善地の服部家が見えて来たと思いませんか?


   神服部家より善地の服部家はずっと前からいたらしい。
[44]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月18日 17時28分38秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 あを様引き続きハイテンションの推理、すごいなと思います。私がここ

数日考えていたことをズバリご指摘になられました。あを様のお陰で少し

ずつ色々な背景が見え来ると同時に、関係の無かった物がつながり出す。

この快感は何ともいえないですよね。


 加藤家にある系図の話ですが、どうしても整合性がとれない部分があり、

俎上にのせられないのです。

 1.それは光泰は朝鮮で毒殺されたと言われているのに、秀次の事件に

  からんで池田庄に逃避して来たと記載されているという不整合性。

 2.その後逸民となって云々。子供が5人いて、加藤家の祖、
  
  服部・永井の祖、松島の祖、鈴木の祖、池田の庄屋に嫁いだ女

  がいると書かれているのはいいが、文献にのっている子孫の名前と

  全く違っている。

   もっとも昔の大名も側室がたいさんいたと思われるで、傍系の

  子孫なのかも知れませんが。


 あを様の言われるように、加藤光泰より先に4姓があって光泰の子孫と

結ばれたということになりますね。服部家にとってみれば、加藤光泰より

もっと以前から居住していたが加藤家と姻戚関係になったということになり

ますね。

 この考え方、今まで私の頭の中にありませんでした。発想の転換というか。

ありがとうございます。視野が広がりました。

 今まで加藤家をルーツにあたかも5家が派生したイメージを持っていまし

たがそうではない。男と女両家で成り立っている。どちらを主とするかです

ね。加藤家にとっては、枝流が4つできたということになるわけですね。


 いずれにしても、これが本当なら、光泰の血が私にも少し入っているとい

うことになる・・・。

 刀も実際にあったという。美作の刀。これは賤ヶ岳の7本槍の報奨でいた

だいたものと系図に書かれている。

 だが、確証に至るまでにはほど遠い。


大福寺にいた喜多流の能楽師服部正信・友清親子。伊勢の菰野出身という

ことがわかりました。

  服部三左右衛門正信(1718 71歳没)

  服部源左右衛門友清(1758年 91歳没)

菰野氏か伊勢市か、今の市長が服部氏、喜多流の謡曲をたしなむという。

解決の糸口・・・。

                         丸に三つ柏の服部

[45]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月19日 03時06分38秒 ) パスワード

遠江国風土記伝

遠江国風土記伝 内山真龍筆 とおとうみのくにふどきでん
(浜松市天竜区大谷 内山真龍資料館寄託)
平成12年3月17日 県指定有形文化財(古文書)


内山真龍は、元文5年(1740)大谷村の名主の長男として生まれました。宝暦10年(1760)、21歳のとき賀茂真淵(かものまぶち)に入門し国学を学び、多くの門弟を育てる一方、諸国を旅行し、その他の故事を探り数多くの著作を残しています。

「遠江国風土記伝」は、遠江国13郡下の郷名・村・駅・地図・古述・古跡や元禄高帳による石高・口碑伝説などが記され、各郡を1巻として13巻からなり、完成までに10年の歳月を費やしています。



そうしますと18世紀中頃の聞き書きということになりますね。


18世紀の中頃、善地村に5名あり(加藤、服部、永井、松島、鈴木)。


   加藤家を中心にしていた。
   この加藤家は加藤光泰の子孫。



加藤家は藤原利仁の子、斎藤叙用(のぶもち)の6世の子孫加藤景道を始祖とするから
かなり時代は下がってますね。

この斎藤叙用は斎宮頭だったそうで
ということは伊勢神宮とご縁があったということになります。


ウイキより:

利仁流加藤氏[編集]


加藤氏

家紋   不詳

本姓
藤原北家利仁流

家祖
藤原景道

種別
武家

主な根拠地
加賀国

支流、分家
遠山氏(武家)
伊丹氏(武家)

加藤氏の初代と思われるのは源頼義に仕えた武士藤原景道で、加賀介となったことから加賀の藤原を略して「加藤」を称するようになったとされる。

景道の孫といわれる加藤景廉は源頼朝の挙兵に参加し、平家が滅亡して鎌倉幕府が成立すると鎌倉御家人となった。頼朝から安田義定を討つように梶原景時とともに加藤景廉も命ぜられた。


後に遠江国浅羽荘の地頭職を得たが、     ←   ココ


梶原景時が討たれた際、景廉は景時と親しかったためか所領を没収された。

その末裔としては、美濃の遠山氏やその係累である加藤光泰系の加藤氏が挙げられるが、
                         ↑
                        ココね

なかでも異色の経歴を持つ者は賤ヶ岳の七本槍の一人加藤嘉明である。嘉明の祖父加藤朝明は、元来は甲斐の武田氏の家臣であったが、何らかの事情があり、三河国に移住し、徳川家康の祖父松平清康、父松平広忠に仕えた。その子、加藤教明は三河の一向一揆に加担し、松平氏を退去し、尾張の織田家に仕え、後の豊臣秀吉に見出されたという。



これで善地の加藤氏の由来がなんとなく分かりますね。

   伊勢神宮と関係があり
   遠江にも縁がああった。


ここでアップ。
   
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月19日 04時01分57秒 ) パスワード

ウッカリ消してしまった。


服部(服織)氏


古代職業部の機織り部門を担った機織部の服部(hatoribe)に由来する姓氏。「ハタオリ」「ハトリベ」から「ハトリ」そして「ハットリ」と呼ぶようになった。衣食住の「衣服」に関係する職能部族には「綾部」「錦織部」や「衣縫部」「赤染部」などがあり、それぞれ姓氏として名残をとどめているが、その中でも服部氏が一番多い。その居住地が服部の地名になった。

 服部は、文明が高く人口の多い畿内から、全国の主要地に配置されていった。それらを中央で統轄する伴造が服部連であった。この系統の有力な服部氏は、山城・大和・摂津・河内・伊賀・伊勢・三河・武蔵など、当時の文化地域に進出していった。

 代表家紋は「矢車」と「矢筈」。



■遠江の服部
延喜式、当国 長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり、共に古代服部の奉齋せし、神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。



服織神社:

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/rituryou/engi/engi09.htm
延喜式 卷第九 神祇九 神名帳上


◦遠江國,六十二座。【大二座,小六十座。】 ◾濱名郡,五座。【大一座,小四座。】


◾長上郡,五座。【並小。】

   ◾大歲神社
   ◾邑勢神社
   ◾服織神社
   ◾朝日波多加神社
   ◾子倉神社


服織神社

服織神社

羽鳥本田(はとりほんだ)、向かい組の鎮守(ちんじゅ)、延喜式内社(えんぎしきないしゃ)として歴史がある神社である。

織物をつかさどる神・天穂日命(あめのほひのみこと)と機械の神・建御名方命(たてみなかたのみこと)が祭ってある。


服織神社(旧郷社)の歴史について、氏子の鈴木道男・藤田真次郎・鈴木秀雄の三氏は、古希を記念して平成3年8月、由緒碑として社前に建碑された。


                  昔々からの鈴木家の皆さんでしょうか?


境内の招魂社は、明治11年建立されたもので、傍らの社碑には漢学者近藤準平の、三烈士の功をたたえる格調の高い詩文と、松島十湖の「在りし世の事や思ふて魂祭り」の句、また一面には戦死された鈴木石龍の遺詩が刻まれている。







服織田神社


式内社 遠江國蓁原郡 服織田神社
旧郷社

御祭神
麻立比古命 天八千千比賣命
合祀
蛭子命 天之忍穗耳命 市杵嶋姫命 木花咲夜比賣命
速玉男命 猿田彦命 石長比賣命 大山祇命 少名比古命


      蛭子命が出てます!
      なんという偶然!



静岡県牧之原市にある。
東名高速吉田I.C.の南8Kmほどの静波に鎮座。
旧榛原町役場の東200mの場所。

参道入口に鳥居が立ち、50mほどの参道を歩くと境内。
境内は南東向き。

境内に入ると右手に御神木らしき、大きな木が茂り、
正面にコンクリート造りの拝殿。
拝殿の後方に、流造の本殿が繋がっている。

参拝が、天気の良い日の午後だったからか、
とにかく明るい境内だった。
青い空と緑の木々が美しい。

社伝によると、景行天皇の七年に勧請。

「服織田」の社号の由来は以下の三説。
1.鎮座地が、往古、服織田村と称した地名に由来。
2.四国の服織から移住してきた人々が奉祭した神。
3.祭神が、服織の神。

で、四国の服織ってどこだろう。
阿波国勝浦郡に、阿佐多知比古神社(朝立彦神社)というのがあるが、
当社祭神・麻立比古命と関係があるのだろうか。

いずれにしろ、式内社・服織田神社に比定されている古社。

拝殿のガラス戸に、巴紋が付けられていた。
ということで、神紋は三つ巴だと思う。

赤い境内社が社殿の右手に一つあったことは記憶しているが、
境内の案内では、境内社は稲荷と津島の二つらしい。

『平成祭データ』には、末社として、
西宮神社(蛭子命)、天満宮(菅原道眞)、
八王子社(天之忍穗耳命)、津島神社(建速須佐之男命)
の4社が記載されているが、西宮・八王子は、
案内板では、合祀されていると書かれている。




境内社 稲荷神社 津島神社
例祭日 十一月二日

神職 (宮司)川村五郎 (禰宜)川村忠司

由緒 服織田神社は延喜式神明帳に記載されており、 景行天皇の七年に勧請され上古は圭田を賜った。

                          ↑
                         ものすごく古いですね
                         4世紀前半 


往古 は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八 年の検地帳に記載されている。

安政元年の大地震直後 建立、明治六年三月郷社に列せられた。


八王寺社・弁天神社・勝間田神社・猪鼻社・熊野社・ 西宮神社・白岩浅間神社・山神社・十二所社・蔵王社 十社何れも明治七年五月当社に合祀された。

明治四十 年三月十五日神饌幣帛料供進社に指定される。
昭和四十四年十月二十三日明治百年記念事業として、 拝殿幣殿が竣工した。

−境内案内より−



景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日)。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。常陸風土記には大足日足天皇。播磨風土記には大帯日子天皇、大帯日古天皇、大帯比古天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。

「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が出されている。記紀の記事は多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は4世紀前半かと考えられている。




遠江国とは:

遠江國ハ、トホツアフミト云ヒ、後ニトホタフミト云フ、
東海道ニ在リ、東ハ駿河、西ハ參河、北ハ信濃ニ界シ、南ハ海ニ至ル、東西凡ソ十八里、南北凡ソ二十里、
其地勢ハ、一般ニ山巒多ク、特ニ北部ニハ赤石山脈ニ屬スル高峻連亘シ、西南ニ走ルニ從ヒ、漸次峻嶮ノ度ヲ滅ズ、

此國ハ、古ヘ國府ヲ豐田郡ニ置キ、濱名(ハマナ)、敷智(フチ)、引佐(イナサ)、麁玉(アラタマ)、長上(ナガノカミ)、長下(ナガノシモ)、磐田(イハダ)、山香(ヤマカ)、周智(スチ)、山名(ヤマナ)、佐野(サヤ)、城飼(キカフ)、蓁原(ハイハラ)ノ十三郡ヲ管シ、

延喜ノ制、
上國ニ列ス、     
    
              遠江は上国だったんだ!


            長上郡のお話
              ↓
初メ長上、長下ノ二郡ハ、長田郡ト稱セシガ、和銅二年ニ之ヲ分置シ、後更ニ長下郡ヲ長上郡ニ併セ、

              ↑
             長田郡!


(以下どーでも良い話)
又山香郡ヲ周智郡ニ合シ、城飼郡ヲ城東郡ニ改ム、

明治維新ノ後、濱名、敷智、引佐、長上ノ四郡、及ビ麁玉郡ノ一部ヲ廢合シテ引佐、濱名ノ二郡ト爲シ、
又豐田、山名ノ二郡、及ビ麁玉郡ノ一部ヲ磐田郡ニ、佐野、城東ノ二郡ヲ小笠郡ニ併セテ六郡ト爲シ、
靜岡縣ヲシテ之ヲ治セシム、





中臣氏族概観

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/nakatomig.htm

中臣氏族概観


○中臣氏族は、天孫降臨五伴緒の一、天児屋根命の後裔であり、中臣一族は広く神祇及びト占関係の職務について朝廷に仕えた。その本拠地は本来、河内国の河内郡・高安郡ではなかったろうか。
 
氏神は大和国添上郡春日神社(祠官は大中臣朝臣、中臣殖栗連)、河内国河内郡の枚岡神社(祠官は平岡連)を中心として、これらに加え、一族の神社祠官家として荒木田神主(伊勢内宮)、恩地神主(河内国高安郡恩地神社)、卜部宿祢(京の平野、吉田、梅宮社)、中臣鹿島連(常陸国鹿島神社)、神奴連(摂津国住吉郡中臣須牟地神社、同州武庫郡西宮神社)、中臣宮処連(摂津国八部郡長田神社)、

大中臣朝臣(伊勢神主、遠江国浜名郡英多神社)、        ←  ココ

伊伎宿祢(京の月読宮。系譜に疑問もあり)等を輩出している。


  この氏族は、中臣連姓を負う以前はト部(占部)姓を負ったが、本来は河内の平岡連の系統のほうが本宗的な存在であったことも考えられる。




天之御中主神の後裔と称する中臣氏族、伊勢国造(なお、この一族と称する度会神主も天之御中主命まで系を遡上させるが、これは丹波国造の支族が伊勢国造の系に接木したもので別族)、


         中臣に服部もあり?
            ↓

及び服部氏族、御手代首(録・大和神別)、神人(録・河内神別)については、同族(伊勢国造)ないしなんらかの関係(服部以下の三者)が想定される。

 

 

〇 中臣氏族の姓氏及びそれから発生した主な苗字をあげると次の通り。

(1) 藤原鎌足後裔……藤原朝臣(録・左京)、藤原恵美朝臣(後に復藤原朝臣姓)、能原宿祢、井手宿祢。藤原朝臣の主要な分流は「藤原氏概説」を参照のこと。

 

(2) 中臣黒田連の子、常盤連後裔

 大化前代、常盤連の流れが本宗家の地位(本宗家たる勝海連の衰退後に、本宗家格となったものかもしれないが)にあったが、可多能?(方子)連の諸子の代に三門の流れに分かれた。その大半は初め藤原姓となったが、この姓が不比等後裔に限定された後は中臣朝臣姓となり、更に平安中期までに大中臣朝臣姓と変った。長く本来の職務である祭祀に関わった氏族である。

 中臣連(三門の金連後裔と称する吉田社人の鈴鹿氏は朝臣姓という)、藤原朝臣(この系統では、後の中臣改姓のため残らず)、中臣朝臣(大森−下野国日光二荒社旧神主家。瀧尾、加藤、金子−同社祠官。中田−下野国那須郡中田原村住)、仲麻呂〔中丸、中麿〕−下野国都賀郡久次良村社官、二荒社社家)、大中臣朝臣(録・左京。主要な苗字は後掲)、惟岳宿祢。なお、系統不明も伊勢神宮祠官の龍氏は中臣朝臣姓という。

 大中臣朝臣姓の主な苗字は、次の通り。

●一門(御食子流)……河辺−伊勢国度会郡継橋郷河辺里より起る、伊勢神宮大宮司家、明治に男爵家。正眞院、中東、中、中西、奥、奥田、西、向井−和州添上郡の春日神主家及びその同族。

●二門(国子流)……藤波−伊勢国度会郡藤波邑より起る、伊勢神宮祭主家で堂上家、初め三条とも岩出とも称。土御門−祭主家の一も、絶家。殿村、粥見、相可、箕曲、宮田、七見、伊蘇、波伊萬世、岩田、内田、長森、中方、岩崎、鳥羽、佐奈、大田、佐田、小田、麻績、越智、原、竹、田村、青野、泉、山幡、桜井、田辺、須崎、沢、山村、麻田など−藤波同族で伊勢住。小泉、保泉−同上、武蔵国大里郡住。

             アガタさんが出てますよ
               ↓
縣(安形)−遠江国浜名郡英多神社祠官、縣大夫物部氏跡を継承。



樋口、小俣、河田、狩田−伊勢住。鹿島−常陸の鹿島大宮司。栗林−鹿島社検非違使兼息栖神主。木滝−鹿島社惣追捕使、押領使。片岡−鹿島社祠官。


以下略
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月19日 04時04分40秒 ) パスワード

<41>は消します。


スサノオに殺された服織女はアマテラスだという説もあって
ということは 天棚機姫命(織姫)=アマテラス ?


七夕は 天羽槌雄命(彦星) と 天棚機姫命(織姫) のデートのお話?



ということでアマテラスの愛人とは誰か検索したら
http://read2ch.net/min/967697623/
ここが面白かったです。

以下略
[49]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月19日 04時19分11秒 ) パスワード

永井氏


    この家は江戸時代ですね。
    平氏系長田氏が江戸時代に徳川家をはばかって改姓なさったのですから。


    長田さんは愛知県の尾張・知多半島の内海とか大野とかいうあたりです。
    海水浴に子供の時、行ってました。
    
    当然、源義朝の墓があります。


        長田氏(おさだし)は、平安時代にかけてあった武家。 本姓は平氏。
         桓武天皇を祖とする桓武平氏の一流である良兼流を汲み、平致頼より長田を名乗り
        尾張平氏とも言われる。尾張国に勢力を張り、
        平治の乱において源義朝を暗殺した長田忠致がある。

        庶家は平姓水野氏と長田親致(忠致の兄)の後裔を称する徳川氏譜代家臣の永井氏など。



概要[編集]

桓武平氏良兼流の致頼を祖とする長田氏の系統で、平安時代末期に主君源義朝を弑した長田忠致の兄である親致が永井氏の祖である。右近太夫直勝の代に、主君徳川家康の命により、主君を弑した忠致に繋がるとして、大江姓永井氏に改姓された。

直勝は譜代大名となり、次代の尚政が老中に就任する他、尚政の子弟が分家を興すなど隆盛の気運にも恵まれた。

ところが1680年、直勝の曾孫・信濃守尚長が志摩鳥羽藩主の内藤忠勝に刺殺され、永井宗家は一旦改易となる。だが、尚長の弟・直圓が御家再興を許され、大和新庄藩主として復帰した。以後の永井氏は明治維新まで存続した。

また、幕末期に将軍・徳川慶喜に付き従い活躍し、明治政府の元で開拓使御用係、左院小議官、元老院権大書記官などを務めた永井玄蕃頭尚志は旗本家の出身。永井荷風らを輩出した愛知県の豪農・永井家は安土桃山時代の頃に別れた分家にあたる。



だから「遠州風土記伝」に書かれた永井氏とは   長田氏  のことでしょうか?
[50]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月19日 04時23分56秒 ) パスワード

松島さんのことは諏訪大社系じゃないの?というのを先に書きました。

または熱田神宮の社家の松島さん。



諏訪神社系なら土地が近いから。
熱田神宮系なら千秋氏がらみかも。


どちらにしろ  神社  または  御先祖さま  関係で繋がっているのでしょうね。
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月19日 04時43分31秒 ) パスワード

鈴木さんは   鳳来町の服部宮の神職さんで御神衣の儀式に関係していた  ということで
服部家とは古くから関わっていたのでしょうね。


その上に鈴木さんは熊野大社もからむし。



>善地村に5名あり(加藤、服部、永井、松島、鈴木)

やはり神社と先祖でがんじがらめに血と地を共有してきた家々でしょうか?



服部家は中臣氏の中にも名前が出てて   そうしますと加藤家と先祖がらみでも仲が良かった?


永井氏は徳川家の重臣になっていますから政治的に?



永井氏
黒餅に鉄線
(桓武平氏長田氏流/大江氏流)


 先祖は長田左衛門尉親政というが、長田が源義朝を討ちとった家号であるため、家康の命で大江氏となり永井を称した。


永井氏は重元のとき家康の父広忠に仕えた。広忠は三河国大浜郷に砦を築き、重元に守備させた。 
                         碧南です

天正十年(1582)、織田信長の横死のあと、家康が伊賀越えで伊勢の白子に上陸したとき、重元は船を用意して三河の大浜郷の自身の館に迎えたえという。

永井氏は大浜郷の領主であったようでもある。



 重元の子が直勝で、かれは家康に仕え、見込まれて嫡男信康の近習を務めた。不幸にして信康が亡くなってからは、もっぱら旗本として戦場に立ち、天正十二年(1584)の長久手の戦いでは、秀吉方の将、池田恒興を討ちとり、味方を勝利に導くとともに、一躍勇名を轟かせた。

 直勝に討たれた恒興は信長の乳母の子で、本能寺の変後、清洲会議で柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀らと並んで宿老の四人のひとりに数えられたほどの人物。後年、恒興の次男で、家康の娘婿にあたる輝政は、直勝と雑談におよんだおり、ふと「その方の禄はいかほどか?」と尋ねたことがあった。直勝が七千石だと答えると、輝政は「我が父ともあろう人の首にしては、安いものよのう」と冗談まじりにこぼしたという話が伝わっている。



 武将としての直勝の名は、朝鮮の役のおりにも秀吉から「比いなき勇士よ」と賞賛され、面目を施している。慶長元年には、従五位下・近衛大夫に任官。
 しかし、直勝は単に武功を重ねたのみならず、関ヶ原の役が終わってのちは、天下を平定した家康の片腕となって、その論功行賞をめぐる直参と大名家の反目を調停する任にあたった。なかでも井伊直政や本多忠勝に意見した話は有名である。
 直勝のこうした活躍は、元和三年(1617)の常陸国笠間三万二千石、同八年の下総国古河へ七万二千石の加増移封というかたちで報われ、幕府の評定衆に列する栄誉をも担うこととなる。晩年、細川藤孝について、有職故実を学び、徳川家の礼儀、幕府の式典を定める重責を担った。


 『長倉追罰記』に「永井と那波は三つ星と一文字(本当は一文字に三つ星)」ともみえるように、室町中期には、永井氏がすでに一文字に三つ星紋を用いていたことが知られる。

           ↑
          永井氏(当時は長田氏)は室町時代にも武士をしてたようですね。


永井氏家紋
一文字に三つ星/永井梨切口/石持地抜き唐梨

永井氏は一文字に三つ星紋の他に、唐梨(からなし=木の下に示とも表記する)と、鉄線紋も用いていた。唐梨は四弁の花のように見えるが、梨の実の切り口で、丁寧には「永井梨切口」という。鉄線は朝顔に類似した植物で、その蔓が鉄のように丈夫なことから鉄線と呼ばれるようになった。そして、宗支によって、家紋の意匠を違えている。三つ星の場合、一文字の書体に変化をつけ、唐梨は加納永井家の場合、「石持地抜き唐梨」であった。さらにいえば、鉄線は高槻永井氏が用いていた。
 いずれにしろ、唐梨紋は永井氏の独占紋ともいえる、珍しい紋であろう。



永井氏は  長田氏時代=尾張   その後  三河  その後  遠江にも移動して長上郡に?



加藤光泰の時代に加藤氏と永井氏(当時は長田氏)とは親交があったでしょうし。
[52]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月19日 04時57分21秒 ) パスワード

>加藤家にある系図の話ですが、どうしても整合性がとれない部分があり、 俎上にのせられないのです。


>それは光泰は朝鮮で毒殺されたと言われているのに、秀次の事件にからんで池田庄に逃避して来たと記載されているという不整合性。



これはね、写し間違い、「脱字」が起きた、ということですよ、多分。


秀次の事件にからんで池田庄に逃げて来たのは「加藤光泰の一族」ですよ。


現代から見ると不整合に見えますが、
こういう小さな間違いは、
当時の人や、ここ300年400年の人には、
納得の上なんですよ。


加藤光泰の一族の、秀次に仕えていた者達が、主人=秀次=の咎で遠江国の遠縁を頼って落ちて来た
その人々が長上郡に腰を落ち着けて
18世紀には服部家や松島家や永井家や鈴木家と仲良く親戚付き合いをしてたのを内山真龍が書き留めた

そういうことです。



きっと長上郡善地の加藤さんには、この部分は涙無くしては読めない箇所だと思います。


わたくしもツラツラ入力してて(大変な思いをして遠江まで逃れて来たのだろうな)と思うと
涙を禁じ得ません。
[54]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月19日 05時56分44秒 ) パスワード

納音占いで剣峰金(けんぽうきん)

   切れ味鋭い剣の矛先

と出たわたくしですから敢えて書きますと



血と涙を分け合って来た昔のヨシミも今では赤の他人になった21世紀
茂さんは加藤家の家譜を「赤の他人」の目で読んだでしょ?!
です。



だから  系図とか家譜とか家書とかは  門外不出にするんです。


自分の家の「汗と血と涙」の歴史を他人の「目」になんか読まれたくなんかないから。



    この事を入力しながら涙が止りません。

    わたくしの背後のパワーが(これを言いたかった)ようです。



>自分の家の汗と血と涙の歴史を他人の目に「なんか」読まれたく「なんか」ないから。

                            ↑
                  この「なんか」2つをつけろってうるさいです。笑


「なんか」を付け足したら、パワーは向こうに行きました。


ま、剣峰金ということで、書きました。
あはっ

    最初は「まろやかな」書き方をしてたんですけどね、背後のパワーがうるさいから剣峰金丸出しで。



上のレスでは「写し間違い」「脱字」と書きましたが

   物理的に
      「写し間違えた」というのは何百年もの間に系図を何度も書き直す時に生じます。

      「脱字」もそうです。


ですが心理的な
      「写し間違い」とか「脱字」もあります。


      先祖の苦しみを思うと「ぼやかしたい」という心理が生じます。
      分かる者が分かれば良い、と。
      わざと「書かない」のです。


秀次の事件から400年以上でしょうか?
その間に一子相伝の伝承が途切れたのかもですね。

20世紀や21世紀に「加藤光泰ゆかりの者」のプライドは  So what? ですものね。

こうして先祖の記憶が消えていきます。


現在加藤家の系図をお持ちの方はちゃんと御子孫に伝えないとね。


   我が家は父方で加藤高明
       母方で加藤嘉明と繋がっています。

   尾張の加藤と服部は親戚ですし。


だから今回加藤家の系図のことでクチ出しをさせて頂きました。   



[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月19日 08時01分58秒 ) パスワード

その後、逸民となって云々からの 2 がイマイチ分からないです。


>その後逸民となって云々。


逸民とは
1 俗世間をのがれて、隠れ住んでいる人。
2 官に仕えず、気楽な生活を楽しむ人。


中国の隠者。自己の節義や志を全うするため,名利を捨て官職を離れて野に隠棲する人々で,隠逸,高逸,高士などとも。伯夷・叔斉,竹林の七賢,陶淵明などが代表者。


中国の隠者。
知識階級に属しながら政治の世界を俗として仕官せず,
民間に隠れて高潔に生きる人々で,隠逸,高逸,高士などともよばれる。

聖天子の尭に招かれても,
これをけがらわしいとした許由(きよゆう)や,
周の武王の治世でもその粟をくらわなかった伯夷(はくい)・叔斉(しゆくせい)などが,その典型とされる。

生活態度は道家に近いが,儒家でも《論語》には〈邦に道なければ〉隠遁する人を〈君子〉として評価しており,
民の声を示す暗黙の批判者として逸民を容認し尊重することが,為政者の務めとされる。




>子供が5人いて、加藤家の祖、服部・永井の祖、松島の祖、鈴木の祖、池田の庄屋に嫁いだ女がいると書かれているのはいいが、


ここは「その加藤さんって図々しいんじゃないの?」と書きたいです。



子供が5人いた。   なるほど、それで?


>加藤家の祖、服部・永井の祖、松島の祖、鈴木の祖

    加藤家の祖、服部・永井の祖、松島の祖、鈴木の祖になった?
    そうすると善地の5家は全部「加藤光泰のゆかりの者」?


            そうすると善地の皆さんは戦国時代末期からの家、ということ?
            400年ぐらい続く家?


A:要するに子供たち4人が服部・永井・松島・鈴木に養子に出た?


  娘は池田の庄屋の家に嫁に行ったけど
  この娘も入れて5人なのか?

    というのは  「服部・永井」ということで  1人ずつの計2人?
    それとも服部と永井を1人の息子が継いだ?孫の代で1人ずつ服部と永井に養子に出した?


  娘は省いて、男子が5人いて、それぞれが加藤・服部・永井・松島・鈴木を継いだ?

  これだと分かり易いですが。



  普通、自分の家の名字を継がせたいから男子5人を全員加藤姓にしたいものだと思いますけどね。


B:当時、服部・永井・松島・鈴木の家には娘しかいなくて
  これらの娘を嫁にして、
  生まれた孫にそれぞれ嫁の実家を継がせた?



とにかく善地の服部家・永井家・松島家・鈴木家は昔っから続く家で
これらの家と加藤家は戦国時代の末期に親戚になった
ということだと思います。


加藤家の系図は加藤家が中心になって書かれているから
善地の他の4家からすると
図々しいことが書かれているのだと思います。

   だから系図は門外不出。
   ヨソの人に見せたらガタガタ言われること請け合い。
   笑



>文献にのっている子孫の名前と全く違っている。

文献に載っている子孫の名前は嫡流ですから、
   嫡流でなかった次男三男以下や、長子でも母の身分が低いと、文献には載らないでしょう。


秀次に仕えていた加藤某がどんな人か
秀次関係で調べたら実在しているかも知れないですね。


昔の人の名前はコロコロ変わるし、漢字も書くのに画数が多いと面倒だからテキトーな文字で代用するし、
まさか自分が使っていた名前が全部登録されてはいないと思うし。
通称とか名乗りとか屋号とか
昔の人の名前は鱸やブリみたいに、ものすごくたくさんあるので、難しいですね。



>もっとも昔の大名も側室がたいさんいたと思われるで、傍系の子孫なのかも知れませんが。


はい
力のある人はそれだけ側室が多かったので
よほどでないと歴史や文献には名が載らなかった、というのもありますね。


今の世のように戸籍でがんじがらめで名前と親子関係が動かせない時代とは違って
昔の力のある人は自分の子以外に養子や融子を持っていたし。



もっと恐ろしいのは「なりすまし」もありましたしね。

京の都で起きた出来事は遠江の長上郡に正確に知られてたわけじゃないから
加藤光泰の家来が子供のフリして落ちて来たというのもあったでしょうし。

   「当たらず遠からず」のゆるい関係で加藤家の名を利用したのもいたかも知れないし。



わたくしの母方も男子が育たず結局は養子が岐阜や名古屋で名字を継いでいます。
この人達にも系図をコピーして渡しました。

   いいじゃないですか、血で繋がっていなくても、名字を名乗ってくれているのですから。


「家」とは血なのか?名字なのか?


とにかく「名乗ったもん勝ち」ということで、
系図を持っている加藤さんは
    善地の服部家も永井家も松島家も鈴木家もみんな加藤から出た家
と言えるからラッキー!


37代続く服部家大本家さんは、加藤家の系図からすると、戦国時代以降の家ということにされ兼ねなくて
やはり一族の者には系図の写しを渡しておくべきだと思いますね。
[56]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月19日 10時27分23秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 確かにあを様の言われるとおり、「血と汗と涙」の歴史の重み・つらさを

感じることもなく、ただ興味本位で検証の対象としたという愚かさを恥じて

おります。


 何か今こみ上げて来るものがございます・・・。

 名を隠し、名を偽ってというような文言が入っていたような記憶があり

ます。そんな祖先霊の苦しみも知らないで、へらへらと興味の対象物とした

私が愚かでありました。さっそく、家で線香をたき、経をあげます。

 目を覚まさせていただき、本当にありがとうございました。


 系図に対しては、大局的な把握でよしといたします。おまいりをしてい

れば、そのうち祖先の声が聞こえて来るはずです。


 光泰と嘉明は利仁流でつながっています。利仁は勇猛であったと。その

血は大河の一滴ではあるが後裔に流れつがれいるかも知れませんね。


 ここ3ヶ月いろいろ勉強して来てみて、歴史の闇がかすかに薄ぼんやりと

見えて来た感じがします。まあ、思い上がらず、謙虚に臨んでいきたいと

思っていますので、今後共よろしくお願い申し上げます。


 とりあえず、今はこれにて。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月19日 13時49分16秒 ) パスワード

>子供が5人いて、加藤家の祖、服部・永井の祖、松島の祖、鈴木の祖、池田の庄屋に嫁いだ女がいると書かれているのはいいが、



この部分!
今、はたと気付きました。


この子供が5人というのは、   女子が5人いた

それぞれ  加藤氏の本家  服部氏の本家  永井氏の本家  松島氏の本家  鈴木氏の本家  
そして  池田の庄屋に嫁いだ娘もいた  ということだったのかなと。


そうすると数が合わないので  服部永井は  これで1つ?
又は、
(武士?神職?あたりの)名家に嫁いだ娘が5人で、庄屋に嫁いだのが1人  の計6人?


ちょっとやはり意味不明ですが、誇らしい気持ちは分かりますよね。


やっぱり系図というのは他人には分からないですね。
一子相伝で親から子に説明していたんでしょうね。
[58]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月19日 13時58分30秒 ) パスワード

茂さんへ


業務連絡です。
ラファエルじゃなかったです。恥
ラパーですね、Rapah。

この画面の1番下の右にありますね。
15年ぐらい勝手にラファエルだと思い込んでおりました。




>名を隠し、名を偽ってというような文言が入っていたような記憶があります。

「逸民」ということで
言葉の本来の意味は上の方のレスに書きましたが

「逸」ということから  落人になって隠れ棲んでいた  ということじゃないかなと思いましたが

そういう「落人」という言葉を使わず「逸民」という言葉で飾ったのでしょうね。


   教養のある人物が書いたのでしょうね
   武士のプライドが覗いているように思います。


と申しますのは、
わたくしの母方は大坂の役で落人になり住吉大社に匿われて隠れ棲んでいましたから
とても気持ちが分かりました。

でも上で「逸民」と書かれていたから   「政治なんかくだらん!」  という意味で
権力者である大坂の秀吉一族と訣別したのかな?と。 


やはり系図には  ものすごい思い  が隠されているのだなと。 
[59]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月19日 15時04分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 善地に天満宮(門前に服部家の屋敷及び土地があった)があります。

鎮座・創建の年代ははっきりしませんが、天正20年霜月13日再建の棟札

があり、以後9体を数えています。浜松市には、天満宮という名称のつく

神社は3箇所ありますが、その内宮司さんがいる(常駐はしていない)のは

ここだけです。宮司さんの名前は松島さんといいます。


 天正20年というと、秀吉が・将に朝鮮出兵を命じた年であります。その

前年には秀次が関白に就任し、主として内政を司った。以後文禄2年に秀頼

が生まれ、文禄4年に秀次事件が起こり、連座により一族郎党、従者が処刑

された。服部一忠、一柳可遊、木村志摩守、前田惠定、羽田正親、渡瀬繁詮、

明石則実、粟野秀用、白江成定、熊谷直澄、瀬田正忠、等切腹。木村重茲、

前野長康、助命後自裁。

 不破万作、山本主殿、玄隆西堂、山田三十郎、雀部重政、等殉死。その他

多数改易、流罪等々。


 難を逃れた人:田中吉政、中村一氏、山内一豊。藤堂高虎、毛利輝元、

堀尾吉晴、伊達政宗、最上義光、細川忠興、浅野長政、等々。


 日本国中、想像を絶する大変な事態であったと思われます。


 この善地村にも何がしかの影響はあったのかも知れません。

 

 今後の探求のために時代背景を頭にインプットしておきます。


今回はこれで。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月20日 08時24分00秒 ) パスワード

今日は雨は大丈夫でしょうか?




>善地に天満宮(門前に服部家の屋敷及び土地があった)があります。

天満宮ということは天神さんですよね、道真さん。


道真公は903年没だから 950年頃以降に創建でしょうか?
200年後だったら丁度神服部さんが遠江に来たころですね。

    一緒に連れて来た?


    でも神職さんは松島家。


ここも謎ですね。
松島家が神職というのは頷けますが、諏訪大社でもなく熱田神宮でもなく。
何故に天神さん?



>鎮座・創建の年代ははっきりしませんが、天正20年霜月13日再建の棟札があり、以後9体を数えています


天正20年11月13日再建ということで背景を調べました。

   万里小路 孝房  天正20年10月10日(1592年11月13日) − 元和3年4月1日(1617年5月5日))
            江戸時代の公家。

                  惜しい!  違いますね。



   20年(1592年) 4月12日 - 小西行長が釜山に上陸、<<文禄>>の役が始まる
           5月3日 - 小西行長、加藤清正らが漢城に入る
           6月15日 - 小西行長、黒田長政らが平壌を占領

                  関係無いでしょうね?


                  ムリにこじつければ文禄の役の勝利祈願で再建した?


   20年 1月4日 - 松平忠輝、徳川家康の6男(+ 天和3年)誕生

                  これも関係無いでしょうね


                  ムリに考えれば忠輝誕生を記念して再建された?



   20年亡くなった人
      3月14日 - 山田重直、伯耆国の武将(* 大永5年)
      7月22日 - 大政所、豊臣秀吉の母(* 永正10年)
      9月9日 - 豊臣秀勝、戦国期の武将、豊臣秀吉の甥(* 永禄12年)
      11月24日 - 顕如、本願寺第11世門主(* 天文12年)

                  これも関係無いでしょうね


こういう時代背景ですね。




前年(天正19年12月)には秀次が関白に就任し、主として内政を司った。
以後文禄2年に秀頼が生まれ、
文禄4年に秀次事件が起こり、


連座により一族郎党、従者が処刑された。
    服部一忠、一柳可遊、木村志摩守、前田惠定、羽田正親、渡瀬繁詮、
    明石則実、粟野秀用、白江成定、熊谷直澄、瀬田正忠、等切腹。


    木村重茲、前野長康、助命後自裁。

    不破万作、山本主殿、玄隆西堂、山田三十郎、雀部重政、等殉死。

    その他多数改易、流罪等々。


   難を逃れた人:田中吉政、中村一氏、山内一豊。藤堂高虎、毛利輝元、
          堀尾吉晴、伊達政宗、最上義光、細川忠興、浅野長政、等々。


              でも最上義光は娘が秀次の側室にと望まれて送り出してすぐに殺され   
              妻も死んでしまい、大変でした。  



日本国中、想像を絶する大変な事態であったと思われます。


 この善地村にも何がしかの影響はあったのかも知れません。

 

秀次切腹事件は、本当に日本国中を震撼させた大事件でした。
秀吉が狂ってる、というのを証明するような連座事件でした。



当時秀次に仕えていた  または  連座して処分された大名に仕えていた  加藤光泰の関係者が
遠江国の遠い親戚か知り合いを頼って逸民=浪人=となってやって来たのでしょうね。


で、長上郡の名家と姻戚を得たのか親戚となれたのか、はたまた乗っ取ったのか。


で、後世の内山真龍には 加藤光泰 の名にネームバリューがあった、と。
何故なら加藤家は大洲藩主の家だったから。


それに長上郡は 幕府領、旗本領、浜松藩領だったし。



で、加藤家について調べて来ました:

    加藤家には好学の気風があり、大洲藩もこれに倣い好学・自己錬成を藩風とした。
    初期の大洲藩からは儒学者の中江藤樹が出ている。
 

加藤家[編集]

外様 6万石 (1617年 - 1871年)
1.貞泰(さだやす)〔従五位下、左衛門尉〕
2.泰興(やすおき)〔従五位下、出羽守〕
3.泰恒(やすつね)〔従五位下、遠江守〕
4.泰統(やすむね)〔従五位下、出羽守〕
5.泰温(やすあつ)〔従五位下、遠江守〕
6.泰衑(やすみち)〔従五位下、出羽守〕
7.泰武(やすたけ)〔従五位下、遠江守〕
8.泰行(やすゆき)〔従五位下、出羽守〕
9.泰候(やすとき)〔従五位下、遠江守〕
10.泰済(やすずみ)〔従五位下、遠江守〕
11.泰幹(やすもと)〔従五位下、遠江守〕
12.泰祉(やすとみ)〔従五位下、出羽守〕
13.泰秋(やすあき)〔従五位下、遠江守〕

 
ね、遠江守を称しているので調べて来ました:


加藤光泰

天正13年(1585年)には大垣城主2万石となり、
同時に秀吉の蔵入地を預かったが、自身の給人地としたため、
同年9月に国替えされ、豊臣秀長に預けられる。

    要するに横領?背任?


天正15年(1587年)には赦免され従五位下遠江守に叙任。      ← ココですね


近江国佐和山城番を務め、
天正18年(1590年)の小田原征伐では駿府在番。

大垣城主であった一柳直末が同合戦で戦死したため、
羽柴秀勝の美濃国岐阜への国替えに伴い甲府24万石を与えられる。


    子の代で徳川幕府によって大洲6万石に?

    ということは加藤家は元々秀吉に近い家で、徳川にとっては外様だから  左遷  された?
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月20日 15時39分14秒 ) パスワード

善地の5名家について考えてみました:


加藤家   武士または元武士    加藤光泰の一族またはゆかりの者であろうから

服部家   ?   武士? and/or 神職?

永井家   武士          遠江では永井姓は幕府の重職と同姓ですから百姓は遠慮申し上げるべきだから

松島家   神職 > 武士     神職で決定で良いかなと または兼業武士
                  「松島村」というのがあったのですねえ。

鈴木家   神職または武士  神職 and/or 武士    武士と神職の兼業                           


服部家は
   天満宮に近いということで、おそらく、神職もしてたと思う。
   遠江で服部姓を名乗るということは武士かな?と。これも天領や旗本領や浜松領ということから
      もし武士でないなら遠慮して違う姓(屋号)を名乗ったのだろうと


   ただし神職としたら何故天神さんの神職?たまたま近くだから?

   もともとが神職としたら元は物部氏系?
   


神社[編集]
延喜式内社『延喜式神名帳』には、大社2社2座・小社58社60座の計60社62座が記載されている。大社2社は以下に示すもので、いずれも名神大社である。蓁原郡 敬満神社 - 敬満神社(島田市)に比定


浜名郡 角避比古神社 - 明応7年(1498年)の大津波で流され、その後に各地で再建・遷座されたため、論社が3社あり結論が出ていない。明治4年(1871年)に「角避比古神社」として国幣中社に指定されたが、その後、「鎮座地不明」として社格が除かれた


総社・一宮以下総社:淡海国玉神社 (磐田市馬場町) - 1789年の『遠江国風土記伝』によると、磐田郡向坂郷の磐田明神が、国府のある見付に移されて惣社とされたという


一宮:以下の2説がある。1127年の史料に「遠江国一宮」とあるが、これは笠原荘一宮の高松神社を指す。 小国神社 (周智郡森町一宮) - 1235年の史料に「当国鎮守小国一宮」とあるのが初見


事任八幡宮 (掛川市八坂) - 『大日本国一宮記』ではこちらになっている。
    吉田家の系統の書物ではこちらになっていて、神社が権威を付ける為に、
    神社界の権威の吉田家に一宮の認定を依頼したという説がある

            ↑
           「軍師官兵衛」出て来た吉田兼和の吉田家です
            1番有名なのは兼好法師です




二宮:以下の2説がある。中世史料に二宮についての記述はない。 鹿苑神社 (磐田市二之宮) - 「高根明神」
二宮神社 (湖西市中之郷)




ということは天満宮は中世ではなく、もっと、後の世に始まった?




角避比古神社



角避比古神社(つのさくひこじんじゃ)は、遠江国浜名郡にあった神社である。

延喜式神名帳では遠江国で2つだけの大社の一つであり、名神大社に列している。

明治4年(1871年)に「角避比古神社」として国幣中社に列せられたが、論社のどれが「角避比古神社」であるかを特定することができず、結局「鎮座地不明」として社格が除かれた。『特選神名牒』には「角避比古神は津の幸彦の神にして、湖口の開塞を知りて民の幸福を知ります神と云義にて、実は水門の功徳を称へ奉れる御名ならん」と記されている。元は浜名湖口の現在の湖西市側に鎮座していたが、明応7年(1498年)8月25日の大地震・大津波で流出した。


旧浜名郡内にこの名前の神社は現存せず、以下の3つの神社が論社とされている。

細江神社(浜松市北区細江町気賀996、旧郷社、祭神 建速素盞嗚尊・奇稻田姫尊)
湊神社(湖西市新居町新居1788、祭神 須佐之男命)
諏訪神社(湖西市新居町新居1379、旧郷社、祭神 建御名方命・八坂刀賣命)

       ↑
    松島さんチは本来はココの神職さんとして派遣された?



村櫛の歴史より

http://murakushi.net/information/history_06.html

明応7(1498)年 7月14・15日 ・暴風雨・洪水・高潮等により、遠江国の民家・田地・塩竈に多くの被害出る。

        8月8・9日 ・暴風雨により、遠江国の神社・仏閣・民家等に被害多く出る。
        8月25日 ・明応地震。遠江国で地割れ・崖崩れ・津波とうのため大被害が出る。
        「円通松堂禅師語録」

        角避比古神社が流失した災害ですね。




天正6(1578)年 8月28日 ・遠江国に暴風雨「武徳編年集成」
       10月28日 ・遠江国で地震あり、余震が続く「家忠日記」


       ↑

   これが茂さんのレスの>>>天正20年霜月13日再建の棟札がある<<<の件でしょうか?




元々方向音痴の上に土地勘は無いし、ヨソの家の系図の行間も読めないし
どんどん方向違いに行ってしまった感じがします。


善地は磐田の方に目を向ける方が良かったのかなと反省しています。

磐田は遠江の国府のあった所でしょ?
それで善地のヒトは磐田の方に経済圏政治圏を持っていたのかなと?


また明日考えてみます。
[62]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月21日 22時42分00秒 ) パスワード

業務連絡



わたくしのPCがデフラグメントが必要ということで
既に18時間ほどオットがガタガタやってるのですが
まだ終わっていません。


   とにかく遅い
   入力してそれが反映されるのにワンテンポ〜ツーテンポ遅れるので
   早打ちが出来ないです。

   やたらと変な広告が自然に出て来るし
   ワタシはロシア美女なんかとお知りあいになんかなりたくないのに

   とうとうプロバイダーからお知らせが来て
   PCがおかしくないですか?
   だって。


       昨日からプロバイダーに何度もコンタクトしようとしているけど
       閉店中なんだって

   ということはうちのプロバイダー自体に問題があるらしい?


というわけで昨日も今日も臨時休業です。
笑 
   
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月22日 04時00分59秒 ) パスワード

オットが寝ている隙に書いてしまいます。

   まだレジストリーのエラーが448あるそうです。


ハワイ島のヒロを出たホクレア号とヒキアナリア号は15日かかってタヒチに6月16日到着してたそうです。

北斗七星を背に、地平線上に見える南十字星を目指してひたすら南へ南へ。


南十字星の下にあるというタヒチに15日かかって。


距離は「km数」じゃなくて「日数」なんですね。



 これだけ書くのに20分かかりました。
 汗
[64]丸三柏服部さんからのコメント(2014年07月22日 13時03分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 いろいろトラブルに襲われていますが、とりあえずここは正常ですので、

時間帯を考えながら、レスをいたします。また新たなスレを立ち上げました

ので、次回からそちらにお願いします。「長上郡の服部氏族Z」です。

 ここ4〜5日のあを様の推理はスゴイものがありました。今、改めて

熟読するところであります。これにつきましては、改めてレスをと思って

おります。

 あを様の歴史探偵としての能力は、神がかりのように思われます・・・。

 昨日は、濱名惣社神明宮に行って写真を撮ってまいりました。

 初めて行ってみて格式の高さに驚きです。籠神社に行ったときのような感

じです。浩宮も訪れて記念の植樹をしています。

 
 それではこれにて(時間切れ)。次回は「Z」の方でお願いします。


                            丸三柏服部
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