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 投稿番号:101355 投稿日:2014年06月25日 12時08分20秒  パスワード
 お名前:丸に三つ柏の服部
長上郡の服部氏族X
キーワード:長上郡 服部氏族
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

スレッド「長上郡の服部氏族W」からの継続です。

[1]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月26日 01時01分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 古代史の諸説はさまざまなので、立ち位置が変わるとぐらぐら揺れてしま

う。

 推論(仮説)の信憑性について、いろいろな証左(文献、口承、遺物、遺跡

等)で根拠を補い、また修正しながら、一つの方向性に収束させて行く・・・。

 莫大な時間と労力がかかる―いわゆるライフワーク。

 
 確かに、物部・尾張・葛城・海部・蘇我・中臣・藤原・秦・賀茂氏達の

関係は入り組んだ迷宮である。でも迷宮にはいつも新たな発見があり、それ

が我々を楽しませてくれる。隠れているものを探し出す楽しみ。古代史は

それだからやみつきになるのかも。

 
 ということで、今までの莫大な情報を少し時間をかけながら整理したいと

思っております。

 
 話は変わりますが、よく「アカシックレコード」というのを聞きます。

空海の唱えた無限の記憶=知恵を得るという虚空蔵求聞持法の真言「ノー

ボー、アキャシャキャラバヤ、オンアリ、キャーマリバヤ、ソワカ」のアキャ

シャの部分。昔の人は体験によって無限の知恵の宝庫を知っていた。

 現代、科学的な推論でこの事象を解明しようとすると、ホログラフィー理論

とスカラー波理論を理解しなくてはならないが、特にスカラー波理論はアイン

シュタインの相対性理論やボームの量子力学を理解するレベルの話なので、素

人にはよく理解できないのが実情であります。

 ただ、宇宙のアカシックレコードとは、簡単に言うと、宇宙で起こったこと

(この世界も含めて)は、四次元にホログラムとして磁気テープのように保存さ

れているということである。この記録とアクセスするには同じ波動に共振する

能力が必要で、それが備わると予言・予知〜霊視ができるということになる。

 また、人間の意識によってコントロールされた二つのスカラー波のスカラー

干渉によって、超能力的なエネルギーや物体が現出したりする。

 超能力者や気功家、修行をした人等で、普通の人間が持っていないような

能力をもっている人の体の周囲の場は、普通の人の周囲の通常の場とは異なっ

ているという。

 人間の対外には三層のスカラー波のエネルギー輻射(オーラ)がある。この

大きさは人によって違うが、普通は1メートル以上はあり、能力者になると数

メートルという人もいるので、能力者のエネルギー圏に入ると、その強いエ

ネルギー放射に同調する場合もある。イエスの手がふれないでも、その場に

来た病人は治ったといわれている。そのようなことが起こり得るのである。 

 ―この項、実藤遠(さねとう とおし)氏著『宇宙のスカラー的構造』他一冊
  を参考。


 本日はこれで・・・。

                          丸に三つ柏の服部
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月26日 04時41分36秒 ) パスワード

はい古代史は迷宮だからこそワクワクします。
歴史はとにかく「難しい」のひと言です。



>超能力者や気功家、修行をした人等で、
>普通の人間が持っていないような能力をもっている人の体の周囲の場は、
>普通の人の周囲の通常の場とは異なっているという。

はい
そう思います。



>能力者のエネルギー圏に入ると、その強いエネルギー放射に同調する場合もある。

これはすごく思います。



ケーシーとかワイスとかは何冊か読みました。

今、こちらに夫の親戚の者達が来てて、
夫の親戚の従弟妹達を見ていると、

夫一族の病気の元は「過去」に、つまり「先祖」に、原因があるのでは?と思ってしまいます。

それこそ「アカシックレコード」を読めれば病気の原因が分かるのではないかと。


夫1人見てた時は半信半疑で(まさかね)と思いましたが従弟妹達も加えると確信になって(だよね)と
思ってしまいます。


でもそういう能力のあるヒトと知り合う機会も無いし、夫一族の体調不良は先祖が原因とされるのもイヤですし、
せいぜい(この人は修行したヒトだな)あたりで納得しておくのが良いのかなと思います。


謎々のような記紀を読み解けるヒトを尊敬します。

いろいろな人の、異なった角度からの、解釈を読んで
(ああ、あの話はこういうコトだったのか)
の段階で充分楽しいです。

その中で「同じ波動」に共鳴できるとこの上ない喜びになります。
残念ながらそれは「瞬間」に過ぎないのですが。



終盤にさしかかったわたくしの人生。
古代史研究は冥土で御先祖さまに会う時の予習です。


先祖はニギハヤヒだという説もあって  えっ?!  なのですが

    白村江の戦いで捕虜になった時に観音菩薩の霊験によって帰還することができたそうで

とにかく自分の先祖のことはいろいろ情報を集めておかないと
冥土で先祖に会った時に話が見えないと・・・


古代氏族はみんな親戚回りになるそうなので、ちゃんと勉強しておかねば。
[3]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月26日 09時49分32秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 レスありがとうございます。


 本日は夜までイベント等があり、思考停止になる予定です。


 昨日のメシアさんのブログで思い出しましたが、「淡」、「讃岐」等、

いわゆる封印された「四国(死国)」と大和、出雲、丹後の海部氏との関係

を一度探求解明したく存じます。

 その際、「忌部氏」がキーワードになるのではないか、「忌」は文字から

してきっと奥深い謎が横たわっているような気がします。

                  
                          丸に三つ柏の服部

 

 
[4]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月28日 08時31分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 昨日は二日酔いの頭から立ち直り、所用を済ませた上、「忌部氏」について

情報を集めておりました。表面的な情報が多く、アッと驚く謎は見つかりませ

んでした。期待外れ、手ごたえなしの状況で、ストーリーも組み立てられず、

少し落ち込んでおりました。頭脳天気は一日中曇り時々雨。


 一晩眠ると頭脳天気は変わりまして晴れ。どういうわけかストーリー性が

進展、睡眠を機会に情報の統合力が働いてきた、よくあるパターン。アルファ

ー波が潜在意識に働きかけ、必要な情報を組み立て統合する。


 一つの方向性―


 忌部氏―剣山―失われたアーク―アークの隠蔽―旧約族の隠蔽―天皇家の

隠蔽―そして空海は知っていた


となります。絶対に「忌部」には深い深い謎があります。謎がないのは謎が

ある証拠です。隠蔽されているのだと思います。


 とりあえずここで。医者へ行きます。


                          丸に三つ柏の服部


[5]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月28日 09時35分09秒 ) パスワード

http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_101.html

信長の先祖は越前織田剣神社で  元々は  阿波の忌部氏だ   というお話です。
     越前国二宮 織田剣神社(福井県丹生郡越前町織田)


長篠の合戦図の信長の前に  ダビデの星のマークをつけた3人の男性が描かれている
というお話です。




     ▼戦国時代の歴史の裏で・・・織田信長の背後にちらつく影▼ここをクリックすると絵の解説へ



    紛れもない「六芒星=通称:ダビデの星」。


   ダビデの星マークは
      伊勢神宮の参拝道路の灯籠にもダビデの星が描かれています。
        (※現在は、この灯籠は撤去されてしまいました)

      本伊勢である丹波の籠神社(このじんじゃ)の奥の院の真名井神社の碑にも、
      昔は、ダビデの星が刻まれてあったんです。
        (※こちらも、今は、削られて、普通の巴紋になってしまいました)


要するに、何が言いたいのかと言いますと、、、

我々が知っている、戦国の合戦の様子などは、
教科書やTVの大河ドラマなどで洗脳されて刷り込まれた結果であると言う事です。


織田信長は、すぐ近くに、そうした神道集団を置くほど彼らに接近し、
彼らの協力を仰ぎながら、天下への覇道を進んでいったのではないでしょうか?

そして、もう一つ。

信長が暗殺された本能寺の変は、本当に、明智光秀の単なる裏切りなのでしょうか?

管理人が思い描いている真実の日本史は違います。
明智光秀が本能寺の変を起こす前、信長が、何をしたのかつぶさに見てみて下さい。


そこに、『得体の知れない神道集団』を激怒させるような事件が、眠っていませんでしょうか?


そして、その結果、明智光秀は、彼らに呼応して、信長を討った・・・
というのが、真実の歴史では無いでしょうか?


忌部氏の所在については、「古語拾遺」の中で、斎部広成がこう述べています。



<「古語拾遺」天中の三神と氏祖系譜より>

又、男の名は、天太王命(あめのふとだまのみこと)と曰す。
[斎部宿禰(いみべのすくね)の祖なり。]

太玉命の率たる神の名は、
天日鷲命(あめのひわしのみこと)[阿波国の忌部等の祖なり。]・
手置帆負命(たおきほおひのみこと)[讃岐国の忌部の祖なり。]・
彦狭知命(ひこさしりのみこと)[紀伊国の忌部の祖なり。]・
櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)[出雲国の玉作(たまつくり)の祖なり。]・
天目一箇命(あめのまひとつのみこと)。[筑紫、伊勢両国(ふたくに)の忌部の祖なり。]


このように、阿波・讃岐・紀伊・出雲・筑紫・伊勢などが忌部氏の拠点です。

ただし、上記以外にも備前・越前にも忌部が分布していたと考えられ、
また、東国では、房総半島(安房)へ移住した忌部氏の一族も居たようです。


それで、この福井県の越前町織田まで来て、なんとなく感じたのですが・・・

織田信長のルーツは阿波忌部氏だと言われていますが、、、
それ以上に、備前忌部氏の方の影響が濃いんじゃないのかな?と思います。

それは何故かと言うと、窯業や製鉄等の他、地名の関係からです。



それが何処で分かるかと言えば、福井県丹生郡越前町の地名です。

丹生(にゅう)は、製鉄と関わりの深い地名です。
したがって、この丹生郡越前町付近は、古代で産鉄地だったのだろうと思います。



織田剣神社には、奈良時代の第49代光仁天皇のご奉納と伝えられている
日本で3番目に古い国宝の梵鐘がありますが・・・

こんな重いモノを遠くから運ぶのは、あまり考えられないと思うので、
この梵鐘が作られた製鉄地域も、この越前近辺ではなかったかと推測します。



梵鐘銘文に「剣御子寺鐘 神護景雲四年(※西暦770年)九月十一日」とある。


ちなみに話が逸れますが、770年9月11日の日付は、古代史的にもの凄く重要です。

第48代称徳天皇が、神護景雲4年(770年)8月4日に亡くなり、
第49代光仁天皇が、宝亀元年(770年)10月1日に即位しています。

つまり、この梵鐘は天皇空白期に、(光仁天皇の命令で?)作られている訳です。

しかも、天皇家の系図を見れば分かりますが、
光仁天皇は、壬申の乱以来、ほぼ100年ぶりの天智系の天皇なのです。

別テーマになるので、ここでは、これ以上深くは触れませんが、、、
「なぜ、天智系の天皇が、わざわざ即位前に、織田剣神社に梵鐘を奉納したのか?」
この意味を考えて見るのも、古代史的には非常に面白い試みだと思います。


さて、このように織田剣神社のある地域は、丹生郡の名で産鉄地域だと考えられますが、
忌部氏との繋がりについては、織田剣神社の社伝から分かります。


織田剣神社の社伝にはこうあります。


【座ケ岳の社】(劔神社より引用)

劔神社の古伝によれば、第7代孝霊天皇の御代に織田郷の住民が、
伊部郷の座ヶ岳の峰に素盞鳴尊の御神霊をお祀りしたということになっている。

その後、第11代垂仁天皇の御代に伊部の臣という人が、
鳥取川上宮という社で作られた御劔をもって素盞鳴尊の御神体として祀り、
劔大神と称することになったと伝えられている。


神功皇后の御代に忍熊王(仲哀天皇第二皇子)は、近江の国から越前の国に来られ、
越前海岸やこのあたり一帯に勢力を持つ賊徒を征伐された。

戦いは非常に苦戦におちいったが、座ケ岳に祀られている劔大神より御劔を授けられ、
その御神助によって遂に賊徒を平定することができた。

住民安定の地を定めることができたので、忍熊王は靱大明神の御神徳に感謝し、
座ヶ岳から劔大神を織田の現在地に移し祀られたと伝えられている。
王がなくなられてから後、神功皇后摂政13年誉田別尊は、
武内宿称を織田に遣わされ、忍熊王を劔大神に合祀せしめられたと
劔神杜社記に記されている。



上記に、「伊部郷(いべごう)」とか「伊部の臣(いべのおみ)」などが見られますが、
この織田剣神社や越前焼がある辺りは、昔、【伊部郷】があり、【伊部氏】がいたようです。

すなわち、忌部=伊部 です。
したがって、越前町織田の周辺は、忌部氏の氏族が住んで居ると見て、間違いありません。


<敦賀の劔神社について>

剣神社には、実は、越前町織田の織田剣神社の他にも、
福井県敦賀市莇生野に、もう一箇所"劔神社"があります。


この劔神社は、敦賀市の粟野(あわの)地区にあり、
やはり阿波忌部氏との繋がりを感じさせる地名になっています。

一説によると、越前の忌部氏は元々、敦賀市の粟野地区に住んでいたのが、
後世に丹生(鉄)を求めて、越前町織田に移動したとする説もあるようです。



備前の忌部氏と伊部

ところで、この越前の忌部氏と非常に似た特徴を持つのが、備前(岡山)の忌部氏です。


備前にも、越前焼と同様に、日本六古窯の一つの備前焼があります。

そして、この備前焼、、、実は、別名で伊部焼(いんべやき)とも言うのです。



備前焼(伊部焼)が行われているのは、備前市の伊部(いんべ)地区です。
ここには、忌部神社もありますので、やはり、忌部=伊部なんです。


少し面白いのが、越前では伊部(いべ)だったのが、備前では伊部(いんべ)と読むことです。
備前では、その読み方も、より原型に近いのが分かります。


織田剣神社は何故、剣なのか?

ところで、越前の忌部氏の象徴とも言える、「織田剣神社」ですが、、、
なぜ、「"剣"神社」なのでしょうか。


この解答は、先に、劔神社の古伝に、下記の記述の中に隠されています。
下記には、しっかり、剣がご神体であると書かれています。


その後、第11代垂仁天皇の御代に伊部の臣という人が、
鳥取川上宮という社で作られた御劔をもって素盞鳴尊の御神体として祀り、
劔大神と称することになったと伝えられている。


剣がご神体だからこそ、"剣神社"と言われる訳ですが・・・
そもそも、「なぜ、剣をご神体にするのか?」というのも気になりませんか?


その謎は、忌部氏のルーツが備前(岡山)にある事を考えれば解けます。


まぁ、備前の忌部氏も越前の忌部氏も、本のルーツは阿波(徳島)にあるので、
剣のルーツは、徳島の剣山(つるぎさん)にあると言えば、それもそうなんですが・・・


それ以外にも、剣をご神体にするのは、彼らの職掌も大きく関わっています。



備前で有名なのが、備前長船などの刀剣です。

古くから、良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国には、国内でも有数の産鉄地域で、
それらの地域では、武器を造る刀鍛冶(刀工)も多かったのです。



職掌としている刀、それ自身を神として祀る・・・
だからこそ、備前忌部氏は剣をご神体とし、その後裔である越前の忌部氏は、
その神社の名前を「劔(剣)神社」というように剣を冠している訳です。



なお、先の剣神社の古伝には、「鳥取川上宮という社で作られた御劔」
・・・と書かれていましたが、丸谷憲二氏の指摘によると、、、

この「鳥取川上宮」は、備前国赤坂郡鳥取郷(岡山県赤磐市赤坂町)にある
石上布都魂神社(岡山県赤磐市石上字風呂谷1448)であると指摘しています。




現在の祭神は、素盞嗚尊の1柱であるが、明治時代までは、
素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられていた。
明治3年(1870年)の『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣と書かれている。

上述の十握剣を祀ったのが石上布都魂神社の創始と伝えられる。
この剣は崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたとされており、
このことは石上神宮の社伝にも記されている。


上記のとおり、元々、布都御魂の剣があったのはこの備前国です。

したがって、それを考慮すると、越前の織田剣神社の名前にある"剣"は、、、

大和の石上神宮に祀られている布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を表している!
・・・と考えても良いのかもしれません。


なお、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による
葦原中国平定(大国主の国譲り)の際に使われた剣です。

したがって、大国主の国譲りには、忌部氏が大きく関わっている可能性が高いと思います。





[6]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月28日 09時48分45秒 ) パスワード

忌部氏考

http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-24.html



24.忌部氏考

1)はじめに

忌部(いんべ)氏は、斎部氏とも記す。前稿の中臣氏と共に古来祭祀氏族として天皇家に仕えてきたとされる神別氏族である。祭具の製造・神殿宮殿造営に関わってきた。玉造が得意とされたが、古墳時代以後それは重要度が減り、忌部氏不振の原因ともなったとの説もある。その元祖は、記紀によると、布刀玉命(ふとだま)(太玉命・天太玉命)とされている。天磐戸(あまのいわと)神話・天孫降臨神話に、天児屋根命とコンビの形で登場する神である。忌部氏の本拠地は、大和国高市郡金橋村忌部(現在:奈良県橿原市忌部町)辺りとされており、現在天太玉命神社がある。延喜式神名帳では、名神大社になっていた。その後衰退し、明治時代には村社になった。 一方忌部氏系の地方の豪族は多数いた。中心は阿波忌部氏である。現在の徳島市二軒屋町にある忌部神社がその証拠である。鳴門市には「大麻比古神社」もある。その故地は、阿波国麻殖郡忌部郷(現在:麻殖郡山川町忌部)とされている。この流れが関東の安房国に移り安房忌部氏となったともいわれている。千葉県館山市大神宮にある安房神社がその中心とされている。(洲宮神社神主家も同じ流れである)これ以外にも出雲忌部氏・讃岐忌部氏・筑紫忌部氏・伊勢忌部氏・紀伊忌部氏など多数存在する。

ところが、歴史上名前が残った人物は非常に少なく、中臣氏とは較べようもない。平安時代初期807年に忌部氏の累孫である「斎部広成」という人物が「古語拾遺」なる本を著し、51平城天皇に奏上している。この本は祭祀氏族として古来中臣氏と忌部氏は共に同等の扱いをされてきたのに、当時の忌部氏の扱いが余りに低いものになったことを、歴史的に不当であるとして、忌部氏の正統性を主張したものとされている。

現在この文献は歴史書として、それなりの価値があるとされているが、その内容が史実かどうかは疑問であるとされている。忌部氏の神代からの国家への貢献を記してある。

忌部氏は、地方の神社の神官として永続したことは間違いないが、中央豪族としての活躍は記紀に僅かに記されているのみである。

忌部氏と麻の生産は密接な関係がある。一方岡山県備前市伊部(いんべ)の備前焼(伊部焼)も阿波忌部氏が関与しているとされる。出雲の蹈鞴製鉄の技術も阿波忌部の影響があるとか。

「織田信長」は、忌部氏の末裔である説が濃厚である。一般的には、織田氏は平重盛流の平家の出とされているが、系図的には、忌部系織田氏に重盛流の人物が養子に入ったとする。日本の神社を牛耳った中臣氏と対比する形で見ると、また異なった日本の歴史が見えてくることを期待して、本稿を記した。

 

2)人物列伝

最終的にどの流れを嫡流とするのかは、意見が分かれると思うが、筆者は「下御霊社社家」につながる流れを嫡流と判断して、人物列伝を記した。

 

・高皇産霊命

 

2−1)天太玉命(あめのふとたま)(天照大神時代)

@父:高皇産霊命(古語拾遺説) 母:千々姫?

A妻:天比理乃・(神魂流天背男命娘) 子供:天櫛耳・天鈿女命(猿女君祖)

別名:太玉命(紀)、布刀玉命(記)、天太玉命(古語拾遺)日本書紀では高皇産霊命 と同一神ともしている。

B忌部首祖。出自は記紀には記されていない。

C記紀神話に登場。天照大神の磐戸隠れ神話。天児屋根命と一緒に神事を行った。岩戸から出てきた天照大神を岩戸の入り口に注連縄を張って戻れなくした。

さらに、天孫降臨神話で五伴緒(いつとものお)の一人として邇邇芸尊の降臨に随伴した。

日本書紀一書には、天児屋根命と共に天照大神を祀る神殿の守護神になるよう命じられたとも記されている。

記されている文献により、天児屋根命と天太玉命の上下関係が異なる。

記紀:天児屋根の方が上。

古語拾遺:天太玉命の方が上。

先代旧事本紀:天児屋根命が上?

Dこの一族は日本各地で朝廷の祭祀の場合使用する木綿、麻布などを作ったとされる。

E天太玉命に従った五神。

天日鷲命:阿波忌部氏

手置帆負命:讃岐忌部氏

彦狭知命:紀伊忌部氏

櫛明玉命:出雲国玉作氏

天目一箇命:筑紫・伊勢国忌部氏

 

2−2)天櫛耳

@父:天太玉 母:天比理乃・

A兄弟:天鈿女命  (彦狭知命・手置帆負命)

B米・麻・穀を植えた。

 

・天鈿女(あめのうずめ)命

@父:天太玉 母:不明

A夫:猿田彦命  別名:大宮売命(はっきりしない)

B猿女氏祖

伊勢出身の氏族と言われている。「君姓」宮廷祭祀氏。大和国添上郡稗田(大和郡山市)に定着。稗田氏を称した。

C五伴緒の一人。

D大宮売命は天皇を守護する八神の一人である。

E天岩戸神話の女神として有名。

 

・彦狭知(ひこさしり)命

@出自不明(父:天太玉説あり)

A天太玉に従った五神の一人。紀伊忌部氏祖。

 

・手置帆負(たおきほおい)命

@出自不明(父:天太玉説あり)

A天太玉に従った五神の一人。讃岐忌部氏祖。

B傘屋の神様とされている。

 

・天目一箇(あめのまひとつ)命

@父:天津彦根命<天照大神 母:不明   (古語拾遺)

A別名:麻比止都命、明立天御蔭命、天目一命、天御影命、天久斯麻比止都命、天津麻羅

B山代国造祖。筑紫・伊勢忌部氏祖。

C製鉄・鍛冶に関係した神。

D神武朝の人物。天太玉に従った五神の一人。

E天照大神の岩戸隠れ神話・国譲り神話(紀)

F播磨国風土記に記事。道主日女の夫。

 

(参考)

・天津彦根命

@天照大神と素戔嗚尊の誓約で産まれた神。

A五柱の神の一柱。3番目。  別名:天津子命(出雲風土記)?

B記紀神話には登場しない。

C古事記:河内国造・山城国造・周防国造など多くの氏族の祖。

 

・櫛明玉(くしあかるたま)命

@父:天背男 母:不明

A出雲忌部氏祖。天太玉命に従った五神の一人。

 

2−3)天富命(神武天皇時代)

@父:天櫛命 母:不明

A子供:飯長媛・弥麻爾支

B古語拾遺によると、天富命が天日鷲命の孫を率いて阿波国に移り、穀、麻を植えさせた。

大嘗祭に木綿、麻などを朝廷に献上する。阿波の郡名を麻植という。と記されている。阿波忌部の始まりである。

C神武天皇に天種子命(中臣氏遠祖)らと仕え、祭祀を担当。橿原宮の造営にも携わった。

これらの功により大夫に列せられた、との記事あり。

D現在の橿原市忌部町がその本拠地である。忌部氏宗家が在住した。

E阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀を植え、安房国に安房社を建てた。

 

(参考)

・「天太玉命神社」(橿原市忌部町 旧名:大和国高市郡金橋村忌部)

祭神:天太玉命・大宮売命(天鈿女命のこと)・豊石窓命・櫛石窓命(手力雄命:天太玉の子供説あり)

859年従五位上。名神大社。その後衰える。

 

・阿波国「忌部神社」(別名:天日鷲神社:故地:麻殖郡山崎村、現在:徳島市二軒屋町)

祭神:天日鷲命

 

・「大麻比古神社」(鳴門市大麻町)

祭神:大麻比古命(天日鷲の子供津咋見命別名、天富命の父親とする系図もある)猿田彦説もある。

849年天日鷲神に従五位下叙位。865年大麻比古神と共に従四位下まで昇叙。

 

・安房国「安房神社」(千葉県館山市大神宮)

祭神:天太玉命 天比理乃・命

神武天皇時代に天富命がこの地に太玉命社を建て後に安房社となった。

859年には正三位に昇叙。名神大社。安房国一宮。

 

・安房国「洲宮神社」(館山市洲宮)

祭神:天比理乃・命

安房国二之宮

 

・飯長媛

@父:天富命 母:不明

A夫:由布津主命、子供:訶多々主命(阿波・安房忌部祖)

B斎主

 

・由布津主命

@父:大麻比古命 母:礒根御気比売(出自不明)

A妻:飯長媛    別名:阿八和気比古

B神武朝の人物。

                                          ・訶多々(かたた)主命

@父:由布津主命 母:飯長媛

A子供:伊那左可雄 別名:堅田主命

 

・大麻比古命

@父:天日鷲 母:言笞比売(出自不明)

A妻:礒根御気比売 子供:由布津主・千鹿江比売    別名:津咋見命

B鳴門市「大麻比古神社」祭神。

 

・天日鷲(あめのひわし)命

@父:天背男命 母:不明

A妻:言笞比売 子供:大麻比古・天白羽鳥・天羽雷雄 別名:天日別命、日鷲命

B天太玉に従った五神の一人。阿波・安房忌部氏の祖。

C古語拾遺に「天日鷲をして津咋見神を以て殻木(かぢのき)を植えしめ、以て白和幣(にぎて)を作らしむ」とある。麻植(おえ)神の所以。

D天富命は、この神裔を率いて安房の国に至り、殻麻の種を植え云々とある。

 

2−4)弥麻爾支

2−5)和謌富奴

2−6)佐久耳

 

2−7)阿加佐古(?−?)

@父:佐久耳 母:不明

A子供:玉久志古・古佐麻豆知(和泉穴師神社神主家)・葉耳(日置部祖)

 

2−8)玉久志古(?−?)

@父:阿加佐古 母:不明

A子供:多良斯富・意保熊(白堤首祖)

B10崇神天皇朝に供奉。(安房国洲宮小野氏所伝斎部宿禰本系帳)

C「崇神25年倭毘売命を御杖代として天照大神を佐久久志呂五十鈴川上に斎き奉る時、大幣を執持ちて供奉」の記事。

 

2−9)多良斯富(?−?)

@父:玉久志古 母:不明

A子供:麻豆奴美足尼

B12景行天皇朝に供奉。(同上)

C「景行53年伊勢に行幸し、転じて東海に入る。冬10月上総国安房浮島宮に至ります時供奉。安房の大神を御食都神云々」の記事。

 

2−10)麻豆奴美足尼(?−?)

@父:多良斯富   母:不明

A子供:佐岐大人足尼 多比古足尼

B神功皇后時代の人(同上)

C「息長帯姫皇后新羅を征し給う時、伊伎島に天神国神を斎ひ奉り、云々」の記事。

 

・佐岐大人足尼(?−?)

@父:麻豆奴美足尼

A子供:不明 多比古足尼?

B 15応神天皇ー16仁徳天皇朝に供奉。(同上)

 

2−11)多比古足尼(?−?)

@父:麻豆奴美足尼 母:不明

A子供:那美古・古止禰(小山連祖)

B17履中天皇朝に供奉。

 

2−12)那美古(?−?)

@父:多比古足尼  母:不明

A子供:達奈弖

B21雄略天皇朝に供奉。

 

2−13)達奈弖(?−?)

@父:那美古  母:不明

A子供:豊止美 別名:達撫古

 

2−14)忌部首豊止美(?−?)

@父:達奈弖  母:不明

A子供:宇都庭麿

B29欽明天皇朝より忌部首姓を賜る。

 

2−15)宇都庭麿(?−?)

@父:豊止美 母:不明

A子供:佐賀斯・右麻呂(子孫在阿波国麻殖郡)・加米古(子孫在阿波国名方郡)

B33推古天皇朝に供奉。大礼冠を授け賜る。

 

・忌部首子麻呂(?−?)

正史における忍部氏初見「日本書紀」645年神幣を賦課するため美濃国に遣わされている。出自不明。

 

2−16)佐賀斯(さかし)(?−?) 

@父:宇都庭麿 母:不明

A子供:子麿・色弗

B36孝徳朝で神官の頭(神祇伯相当)。王族・宮内・礼儀・婚姻・占いの事を司った。

(古語拾遺)

 

・色弗(しこふち)(?−701)

@父:佐賀斯 母:不明

A妻:乙名美・(安房忌部久米麻呂娘) 子供:名代・夫岐麿・栄麿・加奈万呂・衣屋・

別名:色夫知

B680年連姓となる。684年宿禰姓。

C690年41持統天皇即位式で中臣大嶋の天神寿詞の奏上に続き、神璽の剣・鏡を天皇に奉る使となった。

D正五位上。神祇大副。

E系図では安房忌部氏久米麿の娘乙名美・を妻としてその子供「夫岐麿」が安房忌部氏本流を継いだことになっている。(安房神社系図)

 

2−17)子麿(?−719)

@父:佐賀斯   母:不明

A子供:狛麻呂・馬麻呂・菟

別名:子首(こびと)子人。

B672年壬申の乱の時、大伴吹負に従い、天武天皇側として古京を護ることに貢献。

C681年連姓を賜り、さらに684年に宿禰姓となった。

D682年40天武天皇は川島皇子、忍部皇子らに詔して「帝紀及び上古の諸事を定めしめ」た。子首は中臣大嶋らとこれに選ばれた。中心執筆者の一人といわれている。

これが日本書紀編纂の元になったとも言われている。

E704年伊勢神宮奉幣使となった。              

F708年正五位下出雲守。718年従四位上に叙位。

記紀編纂での出雲神話・出雲国造神賀詞にも関与ありとされる人物。

G子孫は京にあり、神祇官に仕える。

 

2−18)狛麻呂(?−?)

@父:子麿 母:不明

A子供:虫名・鳥麻呂・比良夫

 

・鳥麻呂(?−?)

@父:狛麻呂 母:不明

A子供:不明

B749年従五位下。伊勢神宮奉幣使。神祇少副。

C信濃守。764年従五位上。

 

2−19)虫名(?−?)

@父:狛麻呂 母:不明

A子供:斎部浜成・島足

B721年斎王「井上内親王」の時斎宮の忌部となった。従八位上。

C735年弟鳥麻呂と忌部氏が伊勢神宮奉幣使になることを太政官に訴え、認められた。

しかし、757年以降同奉幣使は中臣氏以外任じられなくなり忌部氏は完全に退けられた。

 

・忌部宿禰人成(?−?)

8世紀前半官人。

伊勢神宮奉幣使。

・忌部宿禰呰麻呂(あざまろ)(?−?)

出自不明

8世紀前半官人。721年伊勢神宮奉幣使。

757年従五位下、759年奉幣使、765年斎宮頭。

 

2−20)斎部浜成(?−?)

@父:虫名 母:不明

A子供:広成・雲梯・益成

B803年申請して、忌部を斎部と改姓した。正六位上。

C遣新羅使に任じられる。

 

2−21)広成(?−?)

@父:浜成 母:不明

A子供:明成

B806年忌部氏・中臣氏双方が提訴して争い激化。朝廷は祈祷・臨時祭の奉幣使に両氏が並んで任につくべきであると裁定を下した。

C807年51平城天皇の召問に応えて「古語拾遺」一巻を撰進して、斎部氏の祭祀氏族としての過去の貢献を主張し、中臣氏の独占体制を批判した。

D808年平城天皇の大嘗祭に貢献したことが認められ、808年従五位下に叙位された。

 

2−22)明成(?−?)

・子供「伴主」の流れから織田神社神主家発生。この末裔が織田信長であるという説あり。

2−23)木上(?−?)

2−24)木工(?−?)

2−25)親広(?−?)

・京都下御霊神社社家祖。

 

3)忌部氏系図

・忌部氏概略系図  URLへ

公知系図の組み合わせ。筆者創作系図。

・忌部氏神代詳細系図  URLへ

公知系図(諸説多数あり)のポピュラーと思われる系図の組み合わせ。筆者創作系図。


4)忌部氏系図解説・論考

 忌部氏の「忌」は斎戒の意である。神事に携わることから起こったと伝えられている。斎戒とは「心の不浄を浄め、身の過を戒め飲食・動作を慎んで清浄・謹慎を守ること」(広辞苑)とある。これが後に仏教の伝来により「忌」が別の意味に解されることになり50桓武天皇の時803年に「斎」という字をあてることになり「斎部」と記して「インベ」と読むことになった。


忌部氏を考察する時、避けて通れない古書がある。807年に51平城天皇の下問により「斎部広成」という人物が撰した「古語拾遺」である。古来これは、祭祀氏族として中臣氏と忌部氏は対等であったのに藤原氏の台頭に併せ忌部氏の扱いが著しく低くなった、ということに対する朝廷への改善を訴える文書であるとされてきた。 しかし、最近では平城天皇からの正式の調査依頼に対する報告書である、という説が主流である。また歴史的史料としての価値も意見が分かれている。しかし、歴史的には多くの文献に参考にされており、記紀とは異なる観点での日本の歴史を知る史料として、記されている内容の真偽は別として、重要文献と考えられる。例えば天皇の神器について忌部氏は「鏡剣二種説」を主張している。一方中臣氏は「鏡剣玉の三種説」である。古語拾遺は勿論二種説である。記紀の最終的主導権を握った藤原氏は当然中臣氏説を採用したのである。また古語拾遺の内容の多くは、「忌部氏」が神代の昔から朝廷に祭祀氏族としていかに深く関わってきたかを説明し、なのに正規の歴史書である記紀では多くの忌部氏関係の貢献記事が、忌部氏に伝わっていることと対比して欠落していると指摘しているのである。


忌部氏の系図に関しては、筆者は最もポピュラーなものを若干脚色して筆者創作系図として記した。原典は、「古語拾遺」「安房洲宮神社小野氏斎部氏本系帳」「忌部神社系図」「安房神社系図」などが用いられたものと思う。神社系図の詳しい後半部は省略した。

先ず特色的なのは「古語拾遺」でもそうであるが、神代の忌部氏元祖「天太玉命」近辺の系図が非常に詳しいことである。反面その後の人物系譜が著しく薄弱でその事績は殆ど分からない。古語拾遺では途中具体的人物の記事は何もなく、36孝徳天皇朝の「忌部首佐賀斯」から以降の記事しかない。

どこまで信用出来るか分からないが安房洲宮神社小野氏斎部氏本系帳にある記事を人物列伝に記した。

この辺りの事を太田 亮は、その著書「姓氏家系大辞典」の中で概略次ぎのように考察している。

@忌部氏は、中臣氏と対抗する大部族であるが如く古語拾遺などには記されているが、比較的確実と見るべき10崇神朝・11垂仁朝以後帝紀に全く見えず。またその首領は永く「首姓」で40天武朝に連姓となった。到底中臣氏に匹敵することは出来ない氏族である。

A中臣氏は物部氏と共に、蘇我氏と仏教導入問題で争い、これに敗れ、一時衰退した。(本稿「中臣氏考」参照)この頃逆に蘇我氏についていた忌部氏が台頭してきて、忌部首佐賀斯が神宮頭などの地位を得た頃から中臣氏と対抗可能な氏族になったと見るべき。

B古語拾遺が神代以降自家の事を挙げられなかったのは、自家に何も史料が無かったからである。

C忌部氏は蘇我氏が朝廷の三蔵(大蔵・内蔵・斎蔵)の管理の実権を握り国家の財政権を握って発展してきたのに連動して発展してきた。この時、その斎蔵の管理を忌部氏が任されたと推察、これを基にして神祇界を動かし、中臣氏に対抗する力をもってきたと推察。
D記紀神話は上記の反映のみ。各地の忌部を神祇官隷属の品部として祭祀の用具調達などをやらせた。このことが、姓は首姓で低かったが実際上の勢力は甚だ大きかったことは認めざるをえない。

E各地の忌部が総て忌部氏と同じ「天太玉命」より出たというのは間違いで天太玉命は伴造家忌部氏の祖先を記したものである。

F古語拾遺などに記されている天富命の東征記事も疑義あり。元々安房国にあった出雲系の神社をはるか後年になって中央にいた忌部氏が乗っ取った結果 である。

 と断じている。




さて、筆者系図に基づいて解説をする。

先ず「忌部氏神代詳細系図」を解説したい。記紀系図では「天太玉命」の出自は不明である。ところが「古語拾遺」では、天太玉命は、「高皇産霊尊」の子供となっている。母は「千々姫」と記しているものもある。これは筆者は疑問有り。この系図から見ると、中臣氏祖である「天児屋根命」とも非常に近い関係にあることが分かる。天太玉も天児屋根も共に天岩戸神話の中心神様である。天太玉の 子供に同じく天岩戸神話で有名な「天鈿女命」がいる系図もあったので載せた。この神と「大宮売命」とが同神という説と別神という説があるようである。「猿女君」の祖とされており、元々伊勢出身の氏族で宮廷祭祀に関与、大和国添上郡稗田(大和郡山市)に定着して「稗田氏」を称した。


これらの神々はいずれも「邇々芸尊」の天孫降臨神話にも「五伴緒」として登場。大宮売命は天皇家の守護神として高皇産霊神らとともに八神殿に祀られている。

天太玉命に従った五神がこの系図に記されている。いずれも各地の忌部氏の祖となった神々である。阿波忌部の祖「天日鷲命」は天太玉の妻の兄弟である。その子供が「大麻比古」でこの2神の妻の名も記されているがその出自は残念ながら筆者の調査で見つからなかった。

この「大麻比古」の兄弟に県犬養氏の祖「天羽雷雄」がいる。(本稿橘氏考参照)

この大麻比古の子供「由布津主」と天太玉の孫「天富命」の娘「飯長姫」が夫婦となり産まれた子供が阿波・安房忌部氏の祖である「訶多々主命」である。

同じく天太玉の妻の兄弟に出雲忌部氏祖の「櫛明玉命」がいる。これ以外の五神は天太玉と直接関係が不明である。系図によっては天太玉の子供として紀伊忌部祖「彦狭知」讃岐忌部祖「手置帆負」を記しているものもある。

筑紫・伊勢忌部祖とされる「天目一箇命」は、有名な神である。出自には諸説あるようだが天照大神と素戔嗚尊との誓約で産まれたとされる「天津彦根」の子供という説を採用した。

「天御影命」とも同一神との説もある。何故この神が忌部に関係したのかは不明である。

天太玉の孫天富命が神武天皇朝の人物となっている。中臣氏の天種子命と同一扱いである。

この天富が天日鷲らを引き連れて阿波国に移動し麻などの栽培を開始したとのことである。またこの阿波忌部の一部を引き連れ東征して安房国に移り安房神社を建てて天太玉を祀ったとある。以上が古語拾遺に基づく神代ー神武天皇あたりの忌部氏の物語である。

(一部は姓氏家系辞書・古代豪族系図集覧などを参考にした)

ーー古語拾遺によると、「神武天皇の時、神物・宮物を分別せず宮の内に斎蔵を立て忌部氏をしてこれを管掌せしめることとしたが、履中天皇の代となり、三韓の貢献が相ついだので斎蔵の傍にさらに内蔵を造り、雄略朝に諸国の貢調が増加したので大蔵を立て、蘇我麻智をして三蔵を検校せしめ、秦氏を出納、東西文氏を帳簿の勘録を命じた。」とある。

三蔵が出来た時代は大化前代には既に東漢氏の基に内蔵直、大蔵直が存在し、確実に存在していたらしいが、斎蔵に関しては不明な点もある。しかし、諸情報から判断してこの古語拾遺の斎蔵の存在の記述は信用しても良かろう。−−−(黛 弘道)

となっており、時代は大化前としか言えないかも知れないが忌部氏が蘇我氏の基で斎蔵を管理していたことが窺える。

古語拾遺では忌部氏の具体的な名前が出てくるのは36孝徳天皇朝に神官の頭となったとされる2−16)佐賀斯からである。これを安房国洲宮小野氏所蔵伝斎部宿禰本系帳の系譜と較べてみたい。(筆者人物列伝参照。)2−3)天富が神武天皇の「大夫」である。この嫡流として記事が出てくるのが、2−8)玉久志古からである。10崇神天皇朝に供奉とある。その子2−9)多良斯富が12景行天皇朝に供奉。その子2−10)麻豆奴美足尼が神功皇后に供奉。次ぎに筆者系図に無い人物「佐岐大人足尼」が15応神ー16仁徳朝に供奉。2−11)多比古足尼が17履中天皇朝に供奉、その子2−12)那美古が21雄略天皇朝に供奉。2−14)豊止美が29欽明朝より忌部首姓を賜ったと記事がある。(注:当時首姓は連姓に比し相当低位の姓であった)2−15)宇都庭麿は33推古天皇朝に供奉。そして上記2−16) 佐賀斯の記事がある。これ以降は記紀などにも記事が出てくる。この本系帳の記事がどれほど信憑性があるのかは不明である。記紀での忌部氏の初見は出自が分からないが645年の日本書紀記事がある「忌部首子麻呂」である。佐賀斯とは同時代又は前の世代の人物と思われる。

佐賀斯の子供2人が忌部氏としては最も高位についた人物であろう。兄が2−17)子首で弟が「色弗」である。

子首は従四位上出雲守である。これは、壬申の乱での天武側として貢献大とされたのである。伊勢神宮奉幣使にもなっている。この辺りが忌部氏としての最盛期だと思う。姓も「首姓」から「連姓」続いて「宿禰姓」を賜っている。この子首が出雲守になったのは708年である。716年に有名な「出雲国造果安」の「出雲国造神賀詞」が朝廷で行われている。(記録上初めて)それ以前からあったかも知れない(これが最初であるとの説もある)が、明らかに出雲国が大和朝廷に服従したことを示すものであり、大和の勢力がやっと出雲国の神にまで及んだとも解され重大な記録として残されたものと思われる。この行事は平安時代初期までつづいている。これに祭祀氏族忌部氏の首長でもあった忌部子首が単に国司としての役目だけでなく何らかの形で神祇関係で関係している可能性を示唆する説もある。

一方弟「色弗」も神祇大副となっている。また安房忌部の女を妻として、その子供「夫岐麿」の流れが安房忌部の本流を継いだことになった。(太田文献ではこれは子首の子供とされているが、筆者は色弗説を採用)子首の子孫は京にあった。孫の2−19)虫名・鳥麿の時(735年)忌部氏を伊勢神宮奉幣使とするよう太政官に訴えた。中臣氏の専横が目立ちはじたのである。757年ついに中臣氏以外は公式には伊勢奉幣使には任じられなくなった。しかし、実際には忌部宿禰人成・呰麿らは759年に奉幣使になっている。

ところが、これ以降忌部氏固有の職掌につけない傾向が著しくなった。803年虫名の子供2−20)浜成が「忌部」を「斎部」と改姓することを申請して認められた。その子供2−21)浜成の時、806年中臣氏・斎部氏双方から提訴があったが、朝廷は『祈祷や臨時祭の奉幣使は両氏が並んで任につくべき』との裁定があり、表向き斎部氏の主張が認められた。その翌年に古語拾遺が広成から51平城天皇に撰進されたのである。この古語拾遺に対する歴史的価値判断は現在も色々議論があるところである。

しかし、結果的にはこれ以降も斎部氏が朝廷内で勢力を得た証拠はない。これ以降歴史的に残る人物はいなくなるのである。




系図上では京都の下御霊神社社家が斎部氏の末裔とされている。

            信 長
             ↓
また有名な「織田信長」が斎部氏の末裔とされる織田神社神主家(福井県丹生郡織田町、現:劔神社、延喜式内社「織田神社」)の流れであるとされている。(諸説ある)

この場合織田神社神主家に「平清盛」の子供「重盛」の孫が養子に入った関係から、織田信長は平氏の出身であるという説が主流である。この他に同じ織田神社から滋賀県犬上郡多賀町多賀にある「多賀大社」の宮司家も出たとされている。

以上が忌部氏の概略である。

忌部氏の人物で現在没年がはっきりしているのは2−17)子麿(子首)の719年没とその弟とされる「色弗」の701年没だけである。勿論生年は両者とも不明である。

要するに公的な記録に残るような歴史上有名な人物がいなかったのである。しかし、日本各地にその痕跡を多く残している氏族であったことは間違いない。先ず残されている系図から考察してみよう。「安房洲宮神社小野氏斎部氏本系帳」に記されていることを頼りにすると、2−8)玉久志古なる人物が10崇神天皇の頃の人物とされている。

崇神天皇を300年頃の人物と仮定し、2−17)子麿を700年の人物とすると、400年に10代の直系忌部氏がいたことになる。40年/一代となる。これは一般的には不合理な数字である。通常なら約20代近くの人物で継いでくるものである。ちなみに阿波・安房忌部系図の方を色弗から遡ってこの間の世代を推察するとこちらの方は15代ほどはいる。これでも少ないと思われるが未だましである。即ち忌部氏嫡流系図は非常に不完全なものであるといえる。又は10崇神天皇以降でも天皇家系図との整合性はとれていないといえる。よって上記本系帳は信憑性は低いと思わざるをえない。しかし、何らかの氏族伝承はあったものと思う。それが本系帳に記事があるような断片的な記事になったのかも知れない。これが平安時代初期の古語拾遺には記されてないのは不思議である。案外安房忌部の方が本流だったのではないかとも思われる。

確かな人物は2−16)忌部首 佐賀斯からなのである。これと上記黛 弘道の見解・太田 亮などの推定とを併せると、天太玉命なる祖神を仰いでいた一族が17履中天皇ー21雄略天皇の時代に、その頃勃興してきた蘇我氏の配下として朝廷の祭祀の道具などの管理に関与して少しづつ世代を世襲する(出来る)氏族となり、蘇我氏が勢力を増すと共に祭祀の道具に関係する「伴部」となり、部曲(かきべ)品部(ともべ)としての忌部を日本各地に率いるようになった。これが、阿波忌部・出雲忌部・讃岐忌部・紀伊忌部・筑紫・伊勢忌部であったであろう。血脈が繋がっていたかどうかは甚だ怪しい。そして蘇我・物部氏の仏教導入に関する争いに従来からの祭祀氏族であった中臣氏が巻き込まれ、敗者となり没落を余儀なくされた隙間をついて、朝廷の祭祀に関するある一定のレベルを確保(忌部首姓となる)してきた。そしてついに36孝徳天皇朝(645−654)2−16)佐賀斯が神官の頭になったことにより中臣氏と実質的に互角になったのであろう。この後蘇我氏は滅んだとはいえ、未だ藤原氏は台頭してなくて、中臣氏と忌部氏はほぼ拮抗した勢力を朝廷内で保っていたものと思われる。子首・色弗の日本書紀での活躍記事がそれを証明している。色弗が安房忌部の娘と結婚してその子供が安房忌部を継ぐ形の系図があるが、これも実際は安房神社の前身である出雲系の神社?をこのような形で忌部系の神社に変え安房忌部氏なる流れを造ったと考える方がよさそうである。2−3)天富命が阿波忌部を率いて安房国に東征したとの安房神社系の伝承はそそまま信じられない。(太田 亮説参考)ところが子麿(子首)の子供の時代になると、藤原氏の勢力が著しく強くなり比例して中臣氏・大中臣氏の地位が向上して忌部氏の祭祀氏族としての地位は急降下したのである。これが中臣・忌部争論になり伊勢神宮奉幣使に忌部氏も入る入らないという形になったのである。これを以前の状態に戻そうとしたのが「古語拾遺」であるとの説が有力であったが、現在は必ずしもそうではないとされている。

 

さて、これ以降の記述は筆者の記紀神話誕生に関する考察である。


              これは親切
                ↓

先ず記紀神話に登場する神々と古代豪族として神別氏族に分類された主な豪族の祖先神との関係を整理してみたい。

  豪族名         祖先神        登場神話

・物部氏(尾張氏・海部氏)饒速日命(天火明命)神武東征・天孫降臨

・大伴氏         天忍日・日臣命   天孫降臨・神武東征

・紀(国造)氏      (手力雄)天道根命 (天岩戸 )天孫降臨・神武東征

・中臣氏(藤原氏)     天児屋根命(天種子) 天岩戸・天孫降臨・(神武東征)

(藤原氏守護神)     経津主・武甕槌命   国譲り

・忌部氏          天太玉命      天岩戸・天孫降臨

・鴨県主氏         建角身命(八咫烏) 神武東征

・三輪氏          大国主命      国譲り

・出雲臣氏         天穂日命      国譲り

などである。

これを鳥瞰的に見ると神別氏族と後に呼ばれるようになった主要古代豪族の 祖先神は揃って記紀神話の登場人物である。これは偶然そうなったのであろうか。記紀神話の詳しい記述は省略するが、その中心思想は天皇家の特異性・超優位性を主張するものであったことは間違いない。即ち日本の神の嫡流中の嫡流として1神武天皇が誕生する物語になっているのである。それを支える神々の中に古代豪族の有力なメンバーの祖先神が総ており、それぞれ色々な神話の活躍記事を載せているのである。記紀には出雲系神話がらみの神話もあるが、これには三輪氏以外の祖先神は登場しない。

・この神話が先にあり、各豪族がそれぞれ自分らの祖先神をそこから選択した。

これは違う。

・各豪族には元々伝承として自分らの祖先神がいた。それをまとめて見るとこのような神話になった。

これも違う。

・元々大王家に骨格となる神話が伝承されていた。それに徐々に古代豪族の祖先神が追加されていって記紀神話のようになった。そうのようだが、

これも違う。


            コレが大事
              ↓

◎大王家の正統性を主張する神話の骨格をどこかの時点で意図的に創作する。次いで各有力豪族に伝わっている祖先神の役割を割り振って大王家との関係を明確化する神話を創作習合する。さらに実際に既に存在していた出雲神話を変形させ上記神話と整合させて体系化する。このようにして出来たものをさらに当時の政治状況、豪族の力関係、役割、後代への影響力の効果、過去の歴史の反映と消去など総合的に考慮して出来上がったのが記紀神話である。

これが史実に近いと推定。


 ではいつ頃このような神話が出来たのであろうか。この問題は古来色々議論されてきた。江戸時代から記紀神話創作説はあったとされる。明治以降終戦までの皇国史観は別として、戦後も諸説ある。筆者は浅学なので詳しくは分からない。

古代豪族のことを色々漁っていると天皇家中心の系図・神話・歴史に関して戦後有力説となっているものとは少し異なったものが見えてくる。その観点からこの記紀神話誕生について概括的な考察をしてみたい。細部についての整合は未だとれていないいないが、ここでは、忌部氏関連の資料を主に参考にした考察をしておきたい。


先ず最初に記紀編纂に先立った年代別関連諸事象の整理をしておこう。

・29欽明天皇朝(539−571)最初の「帝紀」「旧辞」が造られた(諸説あり)。この時代に忌部氏に首姓賜姓。

・31用明朝ー33推古朝頃(585−628)出雲国王が大和朝廷の出雲国造となった。(門脇禎二説)(諸説あり)

・608年隋国外交書に天皇号初出。

・620年33推古天皇朝の時、聖徳太子らが中心となって「天皇記」「国記」を編纂した。併せて「臣連伴造国造180部並びに公民等の本記」を録す。

・645年「乙巳の変」で上記「天皇記」「国記」は焼失。

・645年36孝徳天皇朝(645−654)に忌部首佐賀斯が神宮頭となる。

・659年日本書紀で初めて出雲国造記事。

・672年「壬申の乱」

・673年40天武天皇朝(673ー686)

・681年忌部首姓が忌部連姓となった。

・682年天武天皇は川島皇子・忌部子麿(子首)らに「帝紀及び上古の諸事」の見直しを命じた。(日本書紀編纂事業の開始の年とも言われている)

・685年伊勢神宮公認化。

・687年41持統天皇朝(687ー697)

・689年藤原不比等31才で判事として初めて任官。

・691年18氏に墓記の提出を命じる。(物部氏考参照)

・692年持統天皇伊勢神宮参拝。(三輪氏考参照)

・694年藤原京遷都。

・697年42文武天皇朝(697ー707)

・701年大宝律令制定。国名「日本」正式化。不比等大納言となる。

・702年持統上皇没す。

・707年43元明天皇朝(707−715)

・708年忌部子麿(子首)は出雲守として出雲に赴任。不比等右大臣となる。

・710年平城京遷都。

・712年古事記編纂。

・715年44元正天皇朝(715−724)

・716年出雲臣果安が「出雲国造神賀詞」を朝廷に行った。

・719年忌部子首没。

・720年日本書紀編纂。不比等没す(63才)

・735年忌部・中臣氏争論記事。

・782年50桓武天皇朝(781−806)

・807年「古語拾遺」編纂。

・815年「新撰姓氏録」編纂

・827年頃?「先代旧事本紀」編纂

<記紀神話誕生に関する考察>

従来からの諸説でハッキリしていない事項整理

イ)古事記に記された神代神話は、29欽明天皇の時に編纂されたとされる「帝記」「旧辞」に記されていたであろう神話をそのまま踏襲したものであったのか。

ロ)出雲神話は、どの段階で記紀神話に入ってきたのか。

ハ)天照大神は、どの段階で記紀神話に入ってきたのか。

ニ)神武東征神話(筆者はこれも神話として扱う)、どの段階で記紀神話に入ったのか。

ホ)各豪族の始祖神が記紀神話に入ったのは、どの段階であるか。

へ)記紀神話の最終骨格が出来たのはいつ頃であるか。

などである。

@日本が、はっきりとした独立した国家観を持つようになったのは33推古天皇朝である聖徳太子の時代以降であろう。

少なくとも21雄略天皇頃(倭の五王時代)までは中国と対等という概念は薄かったと思う。よってこの頃には、日本独自の体系化された国家神話は存在しなかったのではないか。

断片的な天皇家始祖伝承みたいなものは以前から既に有った可能性は否定出来ないし、出雲国の国引き神話の類みたいなものは、日本のそれぞれの地方にあったとは思うが。

A中国・朝鮮半島などからの文字、書物が輸入され、仏教経典類もどんどん入り出し、遣隋使なども派遣され、日本のエリート達がこれに触れ、日本の本当の姿を認識し出したのもこの推古朝時代以降であろう。対外的にも独立した国家である体制を築く必要性に迫られた。

B宗教的な意味で、それまでの日本人が信じてきた日本の神々と仏教との対比が行われたのもこの頃である。29欽明天皇ー33推古天皇の時代に日本で信じられていた神々は、原始的自然神以外にどんな神々がいたのであろうか。出雲の神々は存在していたことは間違いないようである。問題は記紀でいう天神・天孫系の神々である。

C例えば記紀神話の主役である天照大神でさえ29欽明朝ー33推古朝の時代に本当に実態として各豪族・国民は認知するレベルであったのかよく分からないとの説が多い。伊勢神宮の存在も位置づけも怪しげである(記紀では崇神天皇ー垂仁天皇時代の記事に登場する)。伊勢神宮・天照大神が公認されたのは685年であり、これも記紀神話創作に関係があるであろう。即ち天照大神が神話に組み込まれたのは、この頃であろう。勿論天皇家がそれ以前から祖先神(これが天照大神とする説には多くの疑問有りとの説有力)・守護神的なものを有し、伝統的にそれを祀っていたことは間違いないであろう(三輪氏考参照)。またそれにまつわる断片的な伝承を有していたであろうことは、他の古代豪族にも断片的伝承があったことから容易に推定できる。これが即、記紀神話ではないであろう。

Dこの頃各豪族も自分らの独自の伝承に基づく祖先神、守護神を祀っていたことも間違いないであろう。また新興の豪族等は氏姓制度の上からも自分らの祖先神・系図などを整え

なければならない背景があった。

問題は、天皇家、各豪族がそれぞれ独立して有していたであろう祖先神、守護神の類及び伝承が記紀に記載されているような形の概念で認識されていたかどうかである。同じ事は出雲の神々にもいえる。

E出雲国が大和朝廷に完全に服したのは、門脇説によると6世紀末から7世紀初めである。

よって記紀神話の出雲国譲神話・出雲神話が挿入されたのはこれ以降であろう。但し原初的なこの種の伝承的なことは天皇家に残されていた可能性は否定しない。忌部子首が出雲国司として赴任したのが708年であり、これ以降712年までにさらなる調整がされた可能性あり。

F古代豪族が氏姓制度の進展に伴い必然的に系図的要素を文字が無くても伝承してきたことは頷ける。勿論天皇家はさらに強力にその概念があったことも理解出来る。よって各豪族が祖先神と断片的にではあろうが出自を明らかにしようと試みたことであろう。

どの段階からこのようなことの必要性がある豪族的立場になったかは、各豪族毎にその時期は異なるであろう。通常はその祖先神は、はるか昔で系譜を辿ることなんて到底無理である。だから神なのである。発音だけでしか伝承不可能な神なのである。何の神か位は伝わったかもしれない。しかし、その神がどの神の子供でどの神と兄弟なんて個々の豪族は

知っていたかは、甚だ疑問である。そのそれぞれ始祖神から当時の各豪族に繋がる連続した系譜が史実であったと信じる豪族が幾つあったであろうか。どこかで必要に迫られ断片的祖先伝承の辻褄合わせが行われた事ぐらい認識していたと判断する。

聖徳太子が官位12階を定めたのには、それなりの背景があった訳である。それでも永年培われてきた氏姓制度を切り崩すことは至難なことであったらしい。

この対策として出自が本当は、はっきりしない新興豪族の類に一種の「たが」をはめる方策が必要となった。これが記紀神話みたいな物語を創作せざるをえなかった背景の一つにあったとは考えられないだろうか。原初的創作神話は、天皇家誕生神話及びその系譜であろう。これに重要な古代豪族の類の始祖神を付随的に配置していったものと思われる。この神話に登場しない神を祖とするような豪族又はその系図に記されていない氏族は、新たには氏姓制度の恩恵が得られないようにしたのである。

ところがそれ以降それに漏れた氏族も次々とこの神話系図の中に入り込んできた。これが徐々に整備され、他の要素が盛り込まれたのが712−720年完成した記紀神話及び系図の類であると考える。

G古代豪族の中で一番はっきり系図的に記録が残されているのは、物部氏(尾張氏)である。勿論これも信じる信じないの世界である。しかも記紀が出来て以降これとの整合を図っているので信憑性に疑義ありとする説多し。神話時代は「先代旧事本紀」独自の部分もあるが大勢は記紀と同じである。

H記紀に記載がある出雲系神話と「出雲風土記」(733年完成説有力)に記載のある出雲神話とはかなりその内容が異なる。当たり前であろうが、風土記神話の方が国家的視野を考慮に入れてないだけ、原初的神話に近いのではと考える人が多い。

I日本書紀は、本文と異なる説もかなり併記している。色々な説が当時存在していたことは容易に想像される。しかし、そのような形式をとることによって本論の正統性をより強調しているようにも思える。本論と全く異なる「その一書」の類が、皆無であると筆者は判断した。この事実が逆の裏付け証拠である。即ち、本文と全く異なる異説は、完全に排除されたか、10崇神天皇以降の大和政権のもとで完全に駆逐されていたかである。

J古代豪族が、天皇家も含め、その真の祖先を辿れば(実際は辿れぬが)それぞれ東南アジア、中国大陸各地、朝鮮半島各地、シベリア各地、などバラバラな血族の血を受け継いだ混血氏族で、それぞれバラバラに日本列島に渡来し、さらに混血を繰り返し弥生人となった氏族の末裔である (勿論日本古来からいた縄文人とも混血しながら)ことは、現代からみれば明らかである。よって当時としても、豪族毎に異なった祖先伝承を持っていたとしても決しておかしくはない。その発展の過程でより強い豪族に習合してきたことも容易に想像出来る。それらは祖先神を統合の象徴として祀ってきたであろう。これは記紀神話とは全く異なっていても不思議ではない。記紀神話の各豪族の祖先神の有りようは逆に異常である。

K即ち記紀神話は完全に意図的に創作されたものであると言わざるをえないのである。但し神々の名前・系図的なものが創作であっても、そこに記された事象はその総てが全くの創作とは言い切れないもの、伝承記録みたいなもの、伝説的なものも含まれていると考える。

L記紀神話は、天皇家は勿論、神話に登場した神々を祖として仰ぐ古代豪族にとっては非常に好都合な原典・お墨付きが与えられたもので、その後の氏族維持に大いに活用したことであろう。その典型例が藤原氏・中臣氏である。天皇家にとっては盤石な国家統治の礎が出来たことになったのである。その意義は非常に大きい。

Mこの記紀神話の構築には相当の年数がかかったものと推定する。29欽明天皇朝くらいから始まり推古天皇から数代の天皇朝を経て、最終調整は、天武朝・持統朝までかかり、藤原不比等、持統天皇も関係したであろう。

 一部の学者の間で主張され多くの賛同者がいるとされる、「記紀神話は、藤原不比等こそ創作・改竄の中心人物・張本人である」という説(主に上山春平:本稿参考文献参照)がある。この説は非常に魅力的な説に思えるが、この説には多くの反論も出されている(主に井上光貞ら)。筆者はそれらの反論も参考にはしているが、古代豪族サイドからの諸々の系図調査及びアマチュア感覚ではあるが、上記説には組みせない。

各豪族には、伝承的とはいえ神話部分と切り離せない系図的な過去の記録が記紀編纂時までに既に存在しており、多くの氏族・系図がこれに絡んでくるので短期間での創作だけでは各古代豪族までの調整は、不可能と判断するからである。特に系図は複雑怪奇である。それぞれの主立った豪族の末裔(例えば物部氏・大伴氏。)も未だ勢力をそれなりに維持していた時、不比等が独占的地位を確立する前にその骨格ができていたものと推定する。

忌部氏などは逆にやっと力を得て、神話の中で活躍の舞台を造るチャンスに遭遇した氏族だった観が拭えない。子麿(子首)が681年に帝紀・上古の諸事を定める中心執筆者に選ばれたことはそれを暗示している。

N古事記と日本書紀とで神話部分は多少凸凹はあるが、マクロに見れば一致している。古事記偽書説も古来から根強くあるのもこのせいかも知れぬ。しかし、古事記は僅か2年程で完成したのである(712年)。「稗田阿礼」が何かの元になる情報を暗記していたとされる。この元情報は29欽明天皇朝6世紀中頃に元々編纂され、その後色々改竄が加えられ諸家に伝えられたとされる「帝紀」「旧辞」(編纂時期諸説ある)が主なものであったという説有力。天皇家に伝わっていたものと、各豪族に伝わっていたものは、古事記編纂の頃になるとかなり違ってきており、その整合を太安麻呂がはかったのであろう。ともいわれている。しかし、その作業は余り多方面にわたったものではないことがこの短期間に編纂されたことから窺える。

一方、620年33推古天皇朝に聖徳太子らが中心となって「天皇記」「国記」を編纂した。しかしこれらは645年「乙巳の変」の時蘇我蝦夷宅と共に焼失されたとされる。天皇記・国記の中にも神話の原型みたいなものがあったのではなかろうか。帝紀・旧辞の中にもさらに古い形の神話的なものがあったことは間違いなかろう。併せて氏族系図の類と思うが「臣連伴造国造180部並びに公民等の本記」なるものも推古朝には録されている。記紀はこれらも下地にしたと考える。いずれも現存してないので確かめようがない。勿論どの段階の神話も天皇家中心のものであったことは容易に想像される。

O記紀には天太玉命が「忌部首」の祖と記されている。忌部氏が首姓から連姓になったのは681年である。これは少なくとも神話のこの辺りの記述の骨子は、681年以前に出来ていたことを傍証している。即ち忌部氏始祖神である天太玉命が登場しない原初的神話はさらにそれ以前に既に存在していたことが推論される。

ちなみに忌部氏本系帳によると忌部氏が首姓になったのは29欽明天皇朝(539?−571)とされている。大雑把にいえば570−680年の間に神話の天太玉命の記述が入ったと考える。



記紀神話は、幾つかの別々の話を繋ぎ合わせ、時系列的に整合をとった物語になっている。

          あら、そうだったの?へえ〜


この中で重要な位置づけがされている天岩戸神話・天孫降臨神話において中心的役割が記事として残されているのが、後に

    祭祀氏族となる中臣氏の祖神「天児屋根命」と
    忌部氏の祖神「天太玉命」である。

    神話全体の流れから見ればこの2神は異常な扱いがされている。


                へえ〜

これこそこの部分の神話を創作した時点の朝廷内での中臣氏・忌部氏両氏の立場の反映と思うべきである。忌部氏が朝廷内で祭祀を司る長官となったのは孝徳朝(645−654)のことである。これから44元正朝の719年頃までが最盛期であったと判断するが、忌部首姓は681年までである。よって新興豪族である忌部氏が中堅豪族であった中臣氏とほぼ同格の扱いで天太玉命を忌部首祖として神話に登場させえたのは、680年以前と考えられる。

一方、「古語拾遺」の中で忌部氏側の伝承を日本書紀編纂後約90年後に記した内容は、記紀の内容とマクロに見れば同一である。




ということは、忌部氏が関与したであろう創作された天岩戸神話・天孫降臨神話と記紀神話はほぼ一致していたことを意味する。但しそれでも古語拾遺の中で忌部氏伝承と記紀神話の内容が一部異なることを指摘している。例えば天孫降臨の際の神器の件などである。

(忌部説:神器は鏡・剣の2種、に対し、記紀は鏡・剣・玉の3種とされている)よって記紀神話の重要部分である天岩戸神話・天孫降臨神話などは不比等がその国家思想を盛り込むために改竄出来たとしてもその余地は僅かであったと推定する。



古事記には当時存在したと思われる氏族に関連する始祖伝承記事の類が204氏族も記載されている。一方日本書紀には111氏族である。この中で首姓に関しては古事記4氏族日本書紀7氏族と僅かである。その中の1つが忌部首氏である。古事記の方がより古い伝承、豪族の記録の類を記載しているものと思われる。欽明朝以降各豪族が競って旧辞の中に自分らの始祖をはめ込んできたことが窺える。これを691年18氏族の家記を提出させ当時の各豪族の勢力・政治状況も考慮して調整・整合した結果が日本書紀になったのであろう。但しこの段階では、記紀神話の主要骨格の変化があったとは思わない。

筆者が未だスッキリしないのは、神代に繋がる古代豪族(後の神別氏族)の始祖神の出自系図の類がいつ頃形成されたかである。

記紀では天孫系についてはスッキリ記されているが、各豪族の始祖神の出自は、ハッキリ記されていない。ところが「新撰姓氏録」編纂時には、それも詳しく記されるようになっている。古語拾遺・先代旧事本紀でもしかりである。これは何を意味するのであろうか。

1.記紀編纂後各氏族がそれと整合した形で神代についても系図創作をした。

2.欽明朝ー推古朝には既に各豪族も神代系図を有していた。例えば「臣連伴造国造180部並びに公民等の本記」には既に始祖神及び各神代系図が記録されていた。

3.日本書紀の系図1巻が現存していないが、その中には主な氏族の神代系図も天皇家系図とともに記載があった。

などが考えられる。筆者は2.に近いと判断している。

現在公知になっているような各氏族整合がとれていたかどうかは分からぬが氏姓制度の因子は現在の我々の想像を超えるものであったろう。出自のはっきりしない氏族の朝廷内での地位は全く不安定であったであろうことは容易に想像される。長年月かけて各豪族間の調整が進んでいたのではなかろうか。天皇家の存在は、他の氏族とは異なっていた。後に

皇別氏族と言われた天皇家から別れたと伝わる氏族は、それなりにハッキリしていたのであろう。ところが後の神別氏族とよばれた氏族の出自問題は、当事者には非常に深刻な重大な事柄だったと判断している。よって、各豪族は天孫系図とは異なる天神系図みたいなものをどこかの段階(その時期は豪族毎に異なるであろうが、欽明ー天武の間)で創作していたものと考える。その一部は推古朝の「臣連伴造国造180部」に記されていたものと推定する。

筆者は記紀の神武東征の記事も記紀神話の一つとしてとらえている。この記事の中にも多くの古代豪族の始祖達が登場し、活躍している。

この記事も古来色々な議論がされており、現在も続いている。これも記紀神話誕生とほぼ同時期に創作されたものと判断している。それがいつ頃かはよく分からない。649年に大伴長徳が36孝徳朝の右大臣になっている。また壬申の乱で功を挙げた大伴吹負・馬来田らが没したのが683年である。よってこの頃までには神武東征の功臣の一人として大伴氏の祖とされる「日臣」が神話に導入されたであろうと推定される。天武朝までには、この神話も骨格は出来ていた。

筆者は記紀神話は、練りに練った記紀としての根幹部分の一部と理解する。

国家としての思想が神話という形で象徴的ではあるが、キチット整理して記されてある。

この時代の朝廷・古代豪族・政治状況などから判断して、現代人である我々がどう思うかは個人個人異なるであろう。筆者は少なくとも学校教育の中でその内容を殆ど教えてもらえなかった。今となってはそれが幸いしてクールにこれらに接しられる。

筆者は、この時代にこれだけ練りに練った記紀神話を創作したご先祖さんにある種の敬意を表したい。世界に誇れる国家創作神話である。こんなのは神話ではないと主張する学者もいる。しかし、これ以降これ以上の神話が日本に残されていない。先代旧事本紀・古語拾遺に記された神話も記紀神話の範囲を逸脱するものではない。

勿論単なる神話ではない。これが根本となって世界に類を見ない「天皇制」が現在まで続いたことは間違いないと筆者は考える。それほどの威力が後年出てきたと考える。

今から、あれは間違いであった、嘘であった、全くの作り話であった、と言ってもどうすることも出来ない。我々は過去の歴史の真実を知り将来に備える必要がある。

蘇我氏が当時の天皇家の地位を脅かしたことから、より安定な国家を願った戦略的神話だったとも判断する。そうなら蘇我氏滅亡後に現存に近い形になったとも思える。

記紀神話の基本骨格の誕生は、645−686年の間となるがいかがであろうか。勿論藤原不比等(659−720)の影響が全くなかった時代である。(不比等が政治の場に顔を出すのは689年以降である)

一方記紀編纂に先立ち691年に当時の有力氏族18氏(忌部氏は含まれていない。本稿

物部氏考参照)の家記墓記の類の朝廷への提出が求められた。これらの資料も参考にして

さらなる追加・削除が繰り返されたのである。この際家記などの廃棄を求められた氏族も

あったらしい。(朝廷の方からみて余りに不都合な家記の類は後世に残らぬようにした)

P以上を要約すると、天皇家・古代豪族各氏らが営々と語り継いできたであろうそれぞれの祖先伝承・伝説の類を国家意識の高揚に伴い、欽明朝・推古天皇朝以降徐々に朝廷サイドに集約習合する活動が潜在的に進んでいった。その過程でバラバラであったこれらの伝承の類が天皇家を中心とした国家統合の象徴として、神の中の神(天照大神)、天孫族、神武天皇、などの創造(それまでに既に、はっきりはしてなかったものの天皇家が他の豪族とは異なる特別な一族であることは、広く国内に認知されていたことだと、筆者は認める。)及び天皇家とは異なる天神族の創造をはかり、日本という国名(これもいつからかは、諸説ある。聖徳太子以降であることは間違いない。701年「大宝律令」以降正式に対外的にそうなっていたとの説主流)の誕生、伊勢神宮という国家神を祀る中心のお宮の公認化(創建の時期は、謎である。諸説ある。筆者は公認化は、天武朝685年と判断する。)、「天皇」号の一般化(初出は608年の「隋」外交文書とされている)への準備が着々と進んだ。

原初的な神話は、欽明ー推古朝頃に出来たであろうが、それは記紀神話ほど完全ではなかった。そして紆余曲折はあったであろうが、「中大兄皇子」から天武天皇の時代には、その天神族も含めた基本骨格が出来たのである。

但し、天智天皇本人はこれら修史事業には熱心でなかったとされている。最後まですっきりしなかった出雲国の神々問題もこの辺りで統合された。

この間に各豪族毎に著しく改竄がされ当時の天皇家にとっても許容の限度を越えた豪族も幾つかあったであろう。彼等は競ってこの古い帝紀・旧辞の類の神話の中に自分らの始祖神を勝手に組み込んでその氏族の出自を明確化するのに利用したことが想像出来る。日本人の横並び思考の原点みたいな行為をやったのである。生きるための知恵だったのである。と推定する。

しかし、この帝紀・旧辞の改竄が朝廷の許容を超えてきたものも発生したので、40天武天皇は国としての正式な歴史書の編纂を勅した。681年以降朝廷内で見直しが始まり、追加・削除が繰り返され、天武天皇朝(673−686)では詳細部分は別にすれば確定していたと推定される。そして古事記(712年)日本書紀(720年)の記紀神話の形になったのである。

この686年から712年の間に神話の根幹部分が大幅改変されたとは思わない。

以上が記紀神話誕生に関する筆者の現段階の見解である。

<この部分のまとめ>

・記紀神話の原初部分(記紀神話のように整ってはいない)

ーーー欽明朝「帝紀」「旧辞」ー推古朝「天皇記」「国記」(539−620)

◎記紀神話の基本骨格(天照大神・主要豪族始祖神・出雲神話・神武東征神話などでの役割なども決まる)ーーー645−686年

・記紀神話の調整(出雲神話・国譲り神話部などの調整・整合)ーーー686−712年

・記紀神話最終調整(始祖伝承などの一部割愛など)ーーー712−720年

 上記記紀神話誕生の筆者の推論は、忌部氏だけでなく他の古代豪族の検討も参考にした結果である。日本書紀編纂後各古代豪族の末裔達が自分らの伝承された系図の類との整合性をとる細工をしたことは容易に想像される。しかし、譲れない基本部分はどこかに残されているはずである。それを類推することが日本古代史の謎を解く道の一つに繋がると筆者は確信している。

 

5)まとめ(筆者主張)

@忌部氏(斎部氏)は天太玉命を祖神とする神別氏族であり、古来中臣氏とともに祭祀氏族として朝廷を支えてきたとされる。しかし、その真の姿は中臣氏とは歴史的にも実力的にもかなり見劣りのする古代豪族であった。

A蘇我氏の勃興、台頭とともに、朝廷の三蔵の内の斎蔵を管理する氏族として発展してきて、全国の忌部を配下にもって、祭祀用具を調達し、勢力を伸ばし、36孝徳天皇朝(7世紀中頃)になってやっと中臣氏に対抗出来るレベルの祭祀氏族となった。しかし、その姓は首姓であり連姓ではなかった。

B忌部子首(?−719)の時が忌部氏として最盛期であった。従四位上出雲守である。このことからも忌部氏の朝廷内の位置は明確である。大臣まで出した中臣氏とは較べようもない。

C忌部氏系図は神代「天太玉命」から残されている。しかし、筆者判断では、残されている系図は、不完全であり、かつ祖神「天太玉命」のみ異常に詳しい神話的事象記事が記紀「古語拾遺」などに残されているが、その後の忌部氏関連の公的記事は非常に乏しい。

これは推古天皇頃から天武天皇朝くらいまでの忌部氏の祭祀氏族としての活躍を記紀神話・祖先伝承の形に反映させた結果であり、史実とは全く関係ないと考える「太田 亮説」に組する。

D全国に分布する忌部氏は、古代豪族忌部氏と血族であるとは思えない。一種の習合が行われた結果であるとする方が妥当であろう。

E807年に斎部広成が撰した「古語拾遺」は、歴史的に価値ある文献である。史実として価値あるというよりも、当時の豪族の末裔が自分等の祖先をどのように考えていたか、氏族伝承というものがどんなものであったかを知る上で重要である。

F忌部氏は、藤原氏の台頭、それに伴う中臣氏の祭祀部門の独占支配のもと、歴史上からその姿を消した。平安時代初期までである。

G本件とは直接関係ではないが、忌部氏の記事などからも推定して、記紀神話誕生の時期を聖徳太子ー天武天皇までの間であるとした。

徐々に国家観の形成につれて発展させ、645年−686年の間に基本骨格が出来たものと推定する。

藤原不比等・持統天皇が記紀神話創作の張本人説には組せない。最後の調整的創作には関与したとは思うが。

即ち、『天皇家は他の豪族とは異なり、神の中の神「天照大神」の嫡流中の嫡流「神武天皇」の嫡流で万世一系の血脈を有し、姓も無く、いかなる他の氏族もこれを犯すことは許されない』という「天皇」思想を、日本国誕生神話と、他の有力古代豪族は総て神代の昔からその随臣の出身であるとした物語を併せた神話の基本骨格を天武天皇時代末頃までに永年にわたって朝廷内のエリート達が醸成・創作したのである。と推論する。

41持統天皇ー文武天皇時代は、それに磨きをかけた最終調整の時代(これも大変だったことは想像される)だったと判断する。

 

6)参考文献

・「日本神話の英雄たち」林道義 文芸春秋(2003年)

・「埋もれた巨像」上山春平 岩波書店(1997年)

・「天皇制の深層」上山春平 朝日選書 朝日新聞(1995年)

・「神々の体系」上山春平 中公新書 中央公論社(1994年)

・「続・神々の体系」上山春平 中公新書 中央公論社(1994年)

・「日本の神々」松前 健 中公新書 中央公論社(2001年)

・「藤原不比等」高島正人 吉川弘文館(1997年)

・「聖徳太子」坂本太郎 吉川弘文館(2000年)

・「聖徳太子」田村圓澄 中公新書 中央公論社(1999年)

・「日本の神々の辞典」薗田稔ら 学習研究社(1997年)

・「古代史の秘密を握る人たち」関 祐二 PHP研究所(2001年)

・「日本神話と古代国家」直木孝次郎 講談社(2001年)

・「古代豪族の研究」別冊歴史読本 新人物往来社(2002年)

・「姓氏家系大辞典」太田 亮 角川書店

・「古代出雲」門脇禎二 講談社(2005年)

・「神話の二元構造とヤマト王権」溝口睦子 古代史の海(2006年)

         など

                         (2006−12−6脱稿)



非常に興味深いお話でした。汗
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月28日 10時07分56秒 ) パスワード

たいした話ではないけどアップ



http://uzumasa-1962.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-3533.html

歴史の陰に秦氏あり
秦一族の系譜

2011年6月29日 (水)


秦氏と藤原家

秦氏の裏話・・・。
http://uzumasa-1962.at.webry.info/201106/article_21.html  


香春岳は重要地点でしたね。あの辺りは鷹伝説が沢山!日田も鷹伝説が?水の伝説は知ってましたが、長い間鶴が舞い降りたと勘違いしてた。鷹だったのですね。(伊藤)


どうも私の考えでは秦一族が日本に渡って来た時に、最初の拠点とした場所がこの‘香春岳’=(かわらだけ)だと思えてなりません。この場所を‘香春’と名付けたのも、高い所へ神を祀るという風習も、とても古さを感じます。倭の時代はまだ何も無かった素朴な島(日本)だった事でしょう。それに3つ並んだ連山の‘香春岳’はまさに‘カバラ’に適していたと思います。尚且つ、此処は‘鉱山’であった事が‘錬金術’を得意とする秦一族にとっては正にピッタリ。おそらく色んな条件が揃っていたと思います。(秦)


日田の高台の平地に遺跡はあれど、川沿いの平地には無し。元は水の底だったと。伝説は正しいのかも。英彦山とも近いし、熊本や鹿児島、卑弥呼伝説のある朝倉あたりへの通り道。重要地点です。(伊藤)


秦一族の象徴である‘鷹’を香春岳の頂上に神として祀っていた事からか、昔は香春岳の事を‘鷹栖山’=(たかのすやま)と言われていた事があったとの事です。その後の知られざる秦氏の分布は、全国にある‘鷹の巣’という地名になって残っていたりしており、私の父までの実家である淡路島にも鷹ノ巣という所があるのを知り、また鉱山のある場所であったのが判明!これは秦氏と鉱山は拠点の条件と言えましょう。英彦山も八幡も鉱山のある場所です。そして、いずれも‘鷹’の伝承があるのは偶然ではありませんね。‘英彦山’の伝承は、鹿狩りで死んだ鹿を三羽の鷹が生き返らせる。‘八幡’の伝承は金色に光る鷹が現れて、神として祀られる様になる原初の八幡の神。

鹿児島にはイチキという所に‘太秦神社’がありますよ。
太秦神社という名前の神社は唯一、此処だけ! 

そして‘鷹子神社’という神社もあります。鹿児島の‘鷹’ですね。この神社の伝承では、三羽の鷹の子が毒蛇を全て喰らい殺し、人が住める様になったと言われています。


おそらくこれは象徴でしょうから、
鷹の秦氏が蛇の一族をやっつけたという陰の意味があるでしょう。

蛇族が何であったか?は、不明ですが。

かく言う‘日田’も鷹の現れた伝説のある場所ですね。(秦)



日田は天皇家直轄の天領でした。鷹の勢力内ですね。日田の山奥に金山あるし。鷹が舞ってたのでしょう。ン?鷹、金、金鷹が舞う?金鉱見つけてたのかな〜?(伊藤)


金鷹などの‘金’とは、おそらく‘金属’という隠語ではないかと思いますよ。‘鉱山採掘’の‘金鉱山’の‘金鉱’の‘金’を鷹に付けて‘金鷹’としたのでしょうね。そして秦氏の象徴を‘金色に光る鷹’と表現する様になった。日田が金山であった事は‘秘伝’=‘ひでん’=‘日田’ですね。(ホンマか!) 日田が天皇家直轄の天領となるのは‘金’があるからなんでしょうね。(秦)


皇后伝説も壱岐対馬〜宗像〜福岡一帯に散らばってますね。宗像大社は日本で最初の神社だと・がいってましたよ。韓国〜壱岐対馬〜宗像の2つの島〜宗像に上陸。島伝いに行き来をしてたって。宗像大社には日本でも珍しい光臨の地があるもの。ふと、古代のオーラを感じるような錯覚をする場所です。これ私がそう感じましたよ。(伊藤)


‘宗像大社’の‘三女神’の正体は、何だと思いますか? 
実は‘スサノオ’の‘娘’なんですよ。

この意味わかりますか? 

最近私もこの謎がやっと判りましたよ。この三女神はスサノオが皇御祖神‘イザナギ’から‘神やらい’=‘追放’されて、去る前に‘アマテラス’に合ってから去る事にしようと高天原に向かった所、アマテラスはスサノオが高天原を襲撃に来たと思い、武装して迎えた。スサノオが{襲撃ではない}事の旨を述べ、この時に二人はお互いに契りを交わし、その時に生まれたお互いの御子で、宗像の三女神はスサノオの側の娘である‘三姉妹’という事です。


しかし、これは古事記で藤原家が仕掛けた神話であって、おかしい面が沢山あるのです。実はスサノオはアマテラスの弟ではありません。スサノオはアマテラスよりも古い神で、物部の一族の祖神です!! 最初にイザナギから海を守る様にと言われていますが、スサは母に会いたいと泣いてばかりと神話にあります。しかし、スサノオは‘イザナミ’の死んでから‘後に’現れている御子であって、この時点でこの神話は‘ウソ話し’である事が理解出来ます。古事記の神話ではスサが母親を知っている訳がありません。ですからスサノオが「母親に会いたい」‘などと言う訳がありません’・・・。おそらくイザナギと争っていたと考えるべきで、天皇家が先住民の物部一族の領地を占領した事を、作り変えた‘おはなし’です。つまり、スサは母親に会いたいと言って泣いていたではなく、陰陽二元論で言えば、物部一族が天皇家に負けて泣いていると言った‘バカにした’話しになる。この後のスサノオが高天原に行ってアマテラスに別れを告げに行った話しも‘陰陽二元論’つまり、逆の話しという事になる。

スサが高天原で暴れまくった話しは本当で、
アマテラスとスサノオが契りを交わし、子が生まれ、和解したというべきでしょうね。

その時に生まれた三姉妹が‘宗像三女神’という訳です。(秦)


香春を中心にして東は宇佐。北は京都郡や行橋、瀬戸内。西は宗像、八幡、博多。南は卑弥呼伝説の甘木朝倉、高千穂、熊本、鹿児島方面に面してます。本陣は山に囲まれてますが…守るには良い場所かな?侵略で作られた日本国。歴史も勝者の手で書き加えられ編集。どの国もいつの時代も同じ繰り返しですね。(伊藤)


最近の裏の話しでは、アマテラスとは本当は‘天照国照彦’の事で、これはニギハヤヒの事だと言っております。

ニギハヤヒとは、物部一族の祖神の事ではありませんか。もしこれが真実であれば、アマテラスは別の存在・・・。

もしかするとアマテラスとは卑弥呼だとささやかれている話しは本当の事かも知れませんね? 

甘木朝倉、高千穂と卑弥呼。日向三代天皇家とアマテラス。ニギハヤヒと、アマテラスは入れ替わっていたのかも知れません。

そして物部一族が復活し、日本の本当の歴史が蘇る!


邪馬台国は物部一族が築いた国だとも言われています。しかし、ニギハヤヒは天孫族??? 天孫族とは本当は物部一族の事かも知れません。違うのであれば物部一族の祖神はニギハヤヒではなく、スサノオそのものという事になりますね。(秦)


三輪…朝倉、甘木を含むあの一帯は卑弥呼伝説の場所ですよ。英彦山〜宝珠山を抜け朝倉甘木経由で三輪に行けます。そして山を越えたら大宰府に抜ける近道があります。その山越の手前で飯塚、田川、香春からの別の道も重なりますよ。私も高速に乗らない時はそこを通り博多に帰ってました。その大宰府からの道は古賀、宗像方面に抜けます。古代歴史の道ですね。(伊藤)


私の聞いた話しでは、日向の高千穂だけは物部の一族の手が空いていたとされ、天孫族が唯一、降臨出来た場所だったという事らしいですよ。裏の情報ですけど。(秦)


 


という事で今回はこれまで・・・。(^^) ちょっと破天荒な話しだっただろうか? しかし、秦一族の話しもやっと離れて来たみたいで、これからは‘物部一族’の時代だ。それにしても我が一族を乗っ取り屋みたいに言うのは聞こえが悪いじゃねぇか? 飛鳥さんよ・・・。アンタ、確か‘佐藤’だったな? 伊藤女史の名が伊勢の藤原で‘伊藤’という事は、佐藤は‘佐渡’に起源がある藤原氏という事だよな? て事は、高鴨の神も嫌な思いをさせてくれた歴史がある訳だ・・・。


まぁいずれにしてもアンタは藤原の血筋という訳だ。そのアンタが我が秦一族を乗っ取り屋みたいに言うは‘タブー’じゃね〜のかい? ど〜なんでィ?! 言葉の使い方をよく教えておけよ、三神さん・・・。今さら言うほどの事じゃねぇが、物部の血筋と、我ら秦氏と、賀茂氏が婚姻関係である事は知ってるよな・・・? 


 
以下コメント集

藤原氏は秦氏ですね。違うならば、“元”から違うことになってしまいます。
 

金鷹

藤原家は、確かに秦氏とは婚姻関係にありますが、秦氏ではありません。藤原の祖は鎌足で、元は中臣(なかとみ)と言います。中臣氏の一族が鎌足の代になって帝より藤原の名を頂いて、それから藤原家が始まっているのです。元々は卜部(うらべ)氏や忌部(いんべ)氏など神道の神事を行っていた一族の血筋です。因みに卜部氏は後の吉田神道の吉田になっております。全国の国家神道の神社の元締めとなったのが中臣一族で、裏神道を司るのが忌部氏。中臣と忌部は対立をしていた神道の一族で、元を糺せば面白い話しが沢山あります。最近、物部の一族が注目されておりますので、それらの面白い話しは明かされて行く事でありましょう。

厳眞
《内容》
天皇家の名のもとに色々と動かしていたのは藤原の事。秦氏が建立した全国の神社は八万社。関係している社をあわせると九万社に及ぶ。天皇家よりも古くから神事に関わっていたのは忌部氏。忌部氏は、物部の血筋。


日向族から天皇制度が始まり、物部も秦氏も天皇家に支配される。


秦氏の一部は山背の鴨川流域に拠点を置き‘鴨’を名乗り‘賀茂氏’となる。

                へえ〜

秦氏が建立した全国の神社に賀茂氏が関係している。太古の昔に物部と秦氏は交流があった。しかして賀茂氏と忌部氏も当然の関係がある。古神道と国家神道とのパイプラインに秦氏が居る。神社を建てる一つの意味は、そこは我が国であり、我が土地である印とするもの。神社を建立したのは秦氏だが、建立させたのは天皇家である。物部の祀る神々も神社へ入れた。秦氏の意思ではなかったが。


秦氏であるPOINT」を御教授下さい。
《内容》
お二人のコメントを読ませて頂きました。秦氏が婚姻関係のあった藤原氏を「秦氏の政治担当にした」のだということでしょうか?婚姻関係が有ったのですから、秦氏+藤原氏のハーフの「血脈」が受け継がれて今も沢山の子孫がいるように思われますが、ハーフでは秦氏ではなくなると言われる。それは、どういった「分別」で秦氏となるのでしょう。伊雑宮と内宮の因縁のお話も耳にしております、九事本紀を禁書にしたことや…



 


《内容》
そうではない。実際の政治をしていたのは藤原の一族。
鍵は不比等と天武。

秦氏は天皇家に遣える一族であるが、常に陰に居たのは、物部と同じ事。
秦氏を知るものは天皇家の秘密を知り、日本の秘密も知る事になる。


日本の象徴は天皇家でなければならぬ事。
それを主張したのが、藤原家。そして天武帝。
藤原の陰に秦氏は居たが、それは控えていたに過ぎぬ事。


藤原家は天皇家と婚姻関係を持ち、日本の歴史は天皇家の歴史とした一族。


本や雑誌が秦氏を面白く書いているが、それらの正しい事は3分の1と思った方が良い。
ハーフの血筋の事は母親が秦氏、妻が秦氏の出自であるというだけの話し。
藤原が秦を名乗る事は無い。
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月28日 10時12分11秒 ) パスワード

http://www.oct.zaq.ne.jp/terakoya/rekishi2html.html


地味だけど謎だらけの国 阿波


まず最初に書きたいのは、阿波の国徳島についてです。


四国は地味な印象がありますが、その中でも徳島県は特に地味なイメージがあります(笑)


しかし、調べてみると徳島県には日本の秘密が隠されているように思えます。



要点だけ書いてみると



・天皇の大嘗祭の麁服(あらたえ)を作っている三木家がある。

・日本で唯一、イザナミ命のみを祀る伊射奈美神社がある。

・神社のお札のことを大麻(おおぬさ)と言いますが、日本で唯一 大麻比古神社がある。

・その大麻比古神社のご神体に当たる大麻山の麓には、日本最古の前方後円墳・萩原一号墓 がある。

・奈良県桜井市の国内最古と言われていた前方後円墳ホケノ山古墳はこの萩原一号墓がモデルになっている。

・四国といえばお遍路さんですが、1番札所と2番札所の間に大麻比古神社がある。

・阿波風土記には,空より大きな山が阿波国に落ちてきて,それが砕けて大和国に落ち,天香久山(あまのかぐやま)になったと書かれている。

・徳島の方言で,ものが壊れて欠けることをカグという。




などなど、これ以外にも阿波の国の特異性を示すものがたくさんあります。







阿波の国の特異性の元に、「忌部氏」がいるようです。

忌部氏の歴史は古くて、日本書紀神代に,日神のこもる天石窟(あめのいわや)のまえで「・・・下枝には,粟国(阿波)の忌部の遠祖天日鷲命(あめのひわしのみこと)が作れる木棉(ゆう)を懸け・・・」と書かれています。




忌部氏はこの天日鷲命を祖先としているようです。

天日鷲命は一般的にはあまり有名でないのですが、姓氏録では高魂命(高皇産霊尊)の孫だと書かれています。




この天日鷲命と少彦名命が同一神であるとしていたり、ほかにも別神の名前をもっており、三島溝咋耳命・鴨健角身命・陶津耳命・八意思兼神とも同じだという説もあったり、

高魂命後裔氏族には、葛城国造(葛城連)や賀茂県主・鴨県主などなど、古代からの有力氏族がいるとも言われています。




話はどんどん拡大していきますが、阿波の郷土歴史家の方の中には、古事記のイザナギイザナミの神話の物語はすべて阿波の物語であるとしている方まで居ます。



ここまでいくと何処までが真実なのか検証しようがないのですが(笑)




でも、それぐらい阿波には古代からの何か封印されているんじゃないか?

とも言えます。





封印といえば、もっとぶっ飛んでいる説では、失われたアーク(聖櫃)が剣山に隠されているという説もあります。

失われたアーク(聖櫃)とは、シナイ山でモーゼが神から授けられた十戒を刻んだ石板の入れものと言われていますが、出エジプト記に書かれている内容によると日本のお神輿にソックリだったりします。




いろんな説を調べてみるとそれなりに説得力があるのですが、検証できないのでこれだと決め付けるわけにないかないのが、歴史の難しいところでもあり、面白いところでもあるのですが。。





ざっと阿波の国のことを書きましたが、書いたことはあくまでも表面的なことで、その裏に封印された何かがあるのではないかと考えています。




その何かとは、ある秘密に繋がっているんじゃないか?




その秘密は日本建国に関わっているんじゃないか?





阿波の国の始まりは定かではありませんが、縄文にまで遡ることができます。

縄文から連綿と続いてきた文化が、阿波から日本の各地に広まっていたとしたら。。。




などと考えていくとドキドキワクワクしてきます(笑)




歴史書に書かれていることだけが歴史ではなく、その裏側に真実が隠されているのかもしれません。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月28日 13時55分32秒 ) パスワード

<7>と呼応



http://uzumasa-1962.at.webry.info/201103/article_2.html

漢波羅秘密組織   ←漢波羅とは賀茂氏のなかでも特別な賀茂氏(裏の陰陽師)

        秦氏のトンデモ話?



われら忌部は秦氏である。

秦氏には色々な職業、家系がある。


例えば、政治関係を担当した秦氏は藤原家がある。
経済担当は三井家があり、三井家が神宮遷宮時の費用を捻出しておった。
武家担当の秦氏には源平等がある。
よろしいか?

秦氏は歴史から姿を消した。
それは改名したに過ぎない。
役割分担をはっきりさせると共に国体の護持の為に秦氏は改名したのだ。
われら忌部は秦氏の中でも祭祀を専門に担ってきた。
よろしいか?

われら忌部は秦氏の中で祭祀を職に持つ者。
よって、われら忌部は秦氏と同族である。
しかして、われら忌部は物部に祖がある。
物部氏の中でも祭祀を担当するわれらの祖先が後に神武天皇と共に渡来した秦氏と婚姻を結び、現在秦氏としての忌部がある。



貴殿が申される
「「新撰姓氏録」によると斎部氏が忌部氏の祖であり、元々は斎部と書いたそうですがどうなのでしょうか?」

に対しての答えは新撰姓氏録が編纂された時に物部系忌部から秦氏系忌部に変わっただけの事。
秦氏系忌部を斎部と名乗る事もある。
秦氏系忌部は神宮、熱田、諏訪、宇佐、高良等の大社の祭祀をしておる。

しかして、物部系忌部は出雲、伊雑、籠、石上、大神神社等の古社の祭祀をしておる。
祭祀支族の太祖に、天細女命、天児屋命、天太玉命などがある。


天細女命は猿女氏、天児屋命は中臣氏、天太玉命は忌部の太祖である。
よろしいか?


記紀の奥義の一つに、全ての神道祭祀が開始されたのは、「天岩戸開き神話」からとある。
「天岩戸開き神話」において、祭祀の中心は天児屋命、天太玉命である。
天児屋命が太祝詞言を奏上し、天太玉命が五百津真賢木に鏡、勾玉を飾り付けて自ら持った。
この時の祭祀が神道祭祀の始まりである。



天児屋命の子孫、中臣氏の「中臣」は神と人の間という意味がある。
中臣氏の中でも亀トを専門に行うものをト部氏と申す。

現在、広く知られている神宮、宮廷祭祀を担当するのはこの中臣氏である。

後に中臣氏の中で政治を担当する者は藤原と名乗った。
この藤原氏の中で一般向けの祭祀を行う者は斎藤と名乗る。  ← へえ〜 なるほど 言われてみれば


天太玉命の子孫であるわれら忌部は太祖天太玉命が五百津真賢木に鏡、勾玉を飾り付けて自ら持った。
とある様、神器を直接扱う事が赦された者である。
天太玉命の太祖は高皇産霊神であり、その娘である万幡豊秋津師比売命が生んだ子なり。
天太玉命には5人の配下が存在し、それぞれが天太玉命とは別に忌部の祖となった。



阿波忌部の祖「天日鷲命」讃岐忌部の祖「手置帆負命」紀伊忌部の祖「彦狭知命」出雲忌部の祖「櫛明玉命」筑紫・伊勢忌部の祖「天目一筒命」また、安房忌部の祖は「天富命」である。



賀茂氏は忌部の中でも最高の祭祀支族である。
大祭司は賀茂氏であり、忌部の中の忌部である。
よって、賀茂氏も秦氏である。


神宮の祭祀は中臣氏であるが、それは表の儀式。
陰陽道は裏表がある。
裏の祭祀で神宮の心御柱を直接奉蔡されるのは賀茂氏。
賀茂氏の中でも陛下直属の賀茂氏は戸籍と姓名が無い。
戸籍の無き賀茂氏をわれらは「漢波羅」と呼ぶ。        ← 表題の件
表の陰陽師を陰陽師、裏の陰陽師を漢波羅と申す。
この漢波羅が神道奥義を握っておられる。


********************



以上である。これをどう思うかは自由である。


因みにこの内容を分析してみると、「忌部氏は物部氏の血筋」という事だ。
つまり、簡単に言えば、昔ならば様々な争いがあったが、現代ではもはや秘密にするほどの事ではないと思えるなぁ・・・。


忌部氏は、秦氏や賀茂氏などの一族と婚姻関係を持つ事により、親戚になりましたよ、という話しだ。


そして全国の神社神道を司っている中臣氏の裏の事は、忌部氏が処理しています、という感じかも知れない。

あくまでも簡単に言えばの話しであるが・・・? 
しかし、忌部氏が物部氏の流れであるという事は凄い事ではないか? 
物部氏は蘇我氏によって滅ぼされた一族と言われているが、
元々は古い氏族であり、
氏族の中でも大きかったと推測する。


また、祖神はニニギと言われているが、これは間違っているのではないかと思っている。
その理由は、物部の一族は天孫族よりも古いかも知れないからだ。


奈良の葛城山の葛城氏と同じ様に古くからの先住民になるのではないだろうか?


賀茂氏も葛城山から始まっている。


だが、秦一族は九州の豊国からである。      ←  そうなの?

[10]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月28日 14時12分01秒 ) パスワード

http://jew-beast.seesaa.net/article/153627630.html

クリス=獣=さんのブログ
前にアップしているような?



難しすぎてついていけないので混乱。



まず、宇宙神霊アーリオーン(アリオン)という存在について説明しておこう。
アリオンは、ルシファーの双子の兄弟のミカエルの力の一顕現だという。
また、古代エジプトでは、シリウスがルシファーとして崇められていたが、アリオンはシリウスを軸としたオリオン星系を司るエネルギーだという。
更に、ルシファーは「明けの明星」で象徴されているが、アリオンも「明けの明星」を名乗っている。
アリオンはゾロアスター教の主神「アフラ・マズダー」でもあったと言っているが、アフラ・マズダーは「光り輝く者」の意でルシファーと一致する。
随って、アリオンもナイトルシファーの崇拝対象となっている。

そして、アリオンは次のように述べている。

「愛国の民を陥れたる真の闇帝王、封印に執着するも終わりを知る」


真の闇帝王とは、アマテラスの義弟の呪術集団である。
アリオンによると、アマテラスの義弟たちの数字は「四」で、彼らが隠れ、逃げ込んだ地域が四国だという。
その正体はズバリ、日本最古の神道祭祀氏族である「忌部氏」である。
アマテラスの義弟たちは、アマテラスの影にあり、日向族の実権を掌握していた。

「国造本紀」によると、伊勢国造は忌部氏であり、伊勢神宮の建設や大嘗祭の儀式に至るまで忌部氏が関わっている。
伊勢神宮に祀られる「天照大神」の正体はズバリ、イザナギとイザナミの娘「アマテラス」である。
イザナギ・イザナミは伊是名島出身で、鹿児島語は「a」を「e」と発音することから、本来の「イザナ島」が「イゼナ島」と発音されるようになり、更に、濁音のなかった時代には、「イゼナ」は「イセナ」と呼ばれ、「ナ」は古代の「国」を意味する名詞なので、「伊是名=伊勢国」となるのだ。



アマテラスの義弟たちは、アマテラスの影にあって、日向族の実権を掌握していたという。

また、忌部氏がいなければ、天皇は天皇になれなかったと言われている。


つまり、日向族の王(天皇)の背後で日本を支配してきたのが忌部氏であり、
その支配体系を維持する為に出雲族の抹殺・封印が施されてきたのである。




秦の闇帝王になったイエスメ―ソン

「真の闇帝王」であるアマテラスの義弟たち(忌部氏)は日向族の人間である。

彼らは「渡来系民族」の力を借りて、出雲族の封印に乗り出したという。

出雲族も日向族も「アマ族」と呼ばれる渡来人だが、ここで言う渡来系は「秦氏」のことである。

                         秦氏だって・・・


彼らはユダヤ人原始キリスト教徒「エルサレム教団」の末裔で、その中核が「イエスメ―ソン」である。

では、なぜ秦氏は忌部氏の出雲族封印に力を貸したのか……。


それは、両者が共通する部族だったからに他ならない。



忌部氏は王を影で動かす祭祀一族だった。
日向族の中核は南ユダ王国のユダヤ人だったというのが我輩の仮説だが、恐らく忌部氏は祭司レビ族の末裔だった。


一方、秦氏の中核であるイエスメ―ソンは「賀茂氏」と呼ばれているが、賀茂氏もレビ族だったと言われている。


通説によると、秦氏は4世紀中頃、九州北部に大量に上陸して連合国を成立し、高度な土木技術で日本文化の基礎を築いたという。


九州北部は日向国であり、忌部氏と秦氏が同盟を結んだということである。

秦氏の中核が忌部氏で、忌部氏の中の忌部氏が「賀茂氏」だという説があるが、真相は賀茂氏が忌部氏と提携して同化したのである。


但し、同じレビ族という意味では同族であり、同族同士の協定だということができる。



賀茂氏は「八咫烏」とも呼ばれているが、『先代旧事本紀大成経』に次のように記されている。

「八咫烏は天照大神の直属の組織を持つ使者であり、忌部氏の斉元神道を継承して天皇を守護する使命を持ち、鳥居を創建して全国の神社を取り仕切る」



高度な土木技術や建築技術を持つ秦氏は、文字通りフリーメーソンであり、中でもイエスが説いたカバラの奥義を継承する賀茂氏(イエスメ―ソン)は「秦の闇帝王」となったのである。


アリオンは、『日月神示』を降ろした神「ルシファー(国常立尊)」と同じ霊統だと名乗っているが、
その『日月神示』には「この神に鳥居と注連縄は要らんぞ」と示されており、
鳥居や注連縄が「封印」の型であることが明らかにされている。
                               結界で良いのかな?


また、賀茂氏は天皇家の祭祀を一手に握る裏神道の総元締めであると同時に、
陰陽道の宗家でもあり、
賀茂保徳や役小角、安倍晴明などの呪術者を輩出したという。


陰陽道とは、祟り神を東北(丑寅=艮)の方角に封印した呪術で、
その為、祟り神は「艮の金神」と呼ばれて忌み嫌われている。


また、艮の方角を「鬼門」と呼ぶことから分かる通り、艮の金神は「鬼」である。


アリオンによると、「スサノオは艮の金神とも呼ばれている」という。

『日月神示』では、艮の金神は龍神の総大将「国常立尊」だとされている。


封印された龍神の総大将とは「ルシファー」のことであり、
スサノオの堕天神話とルシファーの堕天神話の一致から検証すると、以下の等式が成り立つ。

   「スサノオ=艮の金神=国常立尊=ルシファー」

それは、鬼・祟り神・悪神・堕天使・サタンなどと呼ばれ、
闇の帝王たちが日本列島に施した大規模な呪術によって封印されてきたということなのだ。

それによって、日本人が本来の力を発揮できなくされてしまったのだ。


極論言えば、日本は呪われて建国された国だったのである。
我々はまず、真の闇帝王の呪いを解き、封印を解くことに全力を上げる必要がある。



この記事へのコメント


忌部氏は、物部の血筋。
秦氏や賀茂氏と婚姻関係を結んだと述べているが、表の中臣氏の裏を担っている。元々は物部の血脈であって、秦氏でも賀茂氏でもない。

秦一族、
太秦之厳眞。

Posted by 金鵄 at 2011年02月23日 06:12



物部の祖がニギハヤヒであれば、忌部が物部の血筋ということは考えられないと思いますが・・・

Posted by チェンリー at 2011年03月03日 18:58



物部の祖はニギハヤヒではない。
その話しは仕掛けられたものである。
物部は天皇制度の無い時代からの部族である。
私は秦一族の末裔であり、国の仕掛けである事を知っている。
物部は本来「古事記」の世界の外に居た。
氏族の中でも葛城と並ぶ古い一族である。

Posted by 太秦之厳眞:金鷹 at 2011年03月17日 18:03



では、物部の祖は誰でしょうか?
ニギハヤヒの後裔は誰でしょうか?

Posted by チェンリー at 2011年03月18日 01:27



物部の祀る神は、スサノヲ・・・。
そして関係しているのは、イソタケル。
ニニギやニギハヤヒの話しは、物部の血筋の長脛彦と安日彦によって作られた話し。
物部は牛も祀る。
後から来た天皇家によって塗り替えられている。
物部は国津神系とされ、出雲に追放された。
物部は天皇家とのいざこざで、制圧を受け、落ちて部族の類とされ、辿り着いた所を部落と呼ばれる様になる。


                          「部落」?
                           

また、アマテラスとスサノヲは別のもの。
本来は天皇家よりも前からスサノヲを神とし、国を治めていた一族。

Posted by 秦一族:金鷹 at 2011年05月28日 18:53



秦一族:金鷹様の話では、物部の祖はウマシマジ(ニギハヤヒの長男)ではなく、長脛彦や安日彦の系統ということですね。
その物部が出雲に追放されたというなら、なぜ物部は出雲の王スサノオ(牛)を祀っているのでしょうか?
また、ニニギやニギハヤヒの話が後から来た天皇家によって塗り替えられているということは、長脛彦と安日彦によって作られた話を採用したということになりますね?
アマテラスは日向族、スサノオは出雲族、長脛彦はニギハヤヒが大和入りする以前から大和に拠点を置いていた日向族だと解釈しています。
その証拠に、三輪王朝の「三」は日向族を象徴する数字であり、長脛彦がアマテラス(卑弥呼)に仕えた難升米である事が学術的に認められているからです。
また、後から来た天皇家というのは、日向国から養子に来たイワレヒコのことだと解釈しています。
では、物部とは・・・・。
物部の祖がウマシマジだとされているのは何故でしょうか?
物部氏が今の天皇家より古い由緒ある家柄であるなら、今の天皇家がそのような創作をするとは考えられません。
また、全国の物部系神社が加茂氏に乗っ取られていったことは歴史的事実です。
加茂氏(秦氏)と物部氏が同族に見えるのは何故でしょうか?
そういったことを様々な角度から検証していくと1つの仮説が浮き彫りとなります。



Posted by チェンリー at 2011年06月17日 15:28


どうやら、要の部分につまづいているようですね。
断言しないほうがよいかと…

Posted by 蘇我馬子 at 2012年06月08日 09:41



蘇我馬子さん、こんにちは。
要の部分とは、どの部分のことでしょうか?


Posted by チェンリー at 2012年06月17日 18:37



[11]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月29日 02時07分01秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 たくさんの情報ありがとうございます。

特に織田信長との関係はおもしろく、掘り下げると新事実がたくさん出て

くるのではないかとの予感がします。


 信長の失敗は、歴史の二重構造(表の権力者 vs.裏の世界に生きる者達即

ち敗北者・闇の勢力・山人等)を知りぬいた上で、武力によって闇の力を押

さえつけようとした。比叡山の焼き討ち惨殺、一向宗の弾圧惨殺、天正伊賀

の虐殺・・・徹底した皆殺し・・・そしてそれが、逆に本能寺の乱となり、

計画的に誅殺された。

 闇国家の首領はだれか、「百地丹波」か・・・服部半蔵の別名かも知れない

が、余り語られたことはない。裏の世界は資料を残さない。一度探探究してみ

る必要が大いにある・・・。
  

 それに対して、徳川家康は闇の勢力をうまく使った。そして三百年の安泰

を得た。


 これは一面から言うと「忌部氏」vs.「賀茂氏」の闘いではないか・・・

これは全くの直感によるクエスチョン!


 闇の系譜とは「物部氏(外物部、大和朝廷と闘って負けた方)」の系譜と言

ってもいい。

 

 本日はここまで。


                          丸に三つ柏の服部

[13]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月29日 12時15分11秒 ) パスワード

神代について知らないことだらけで驚いています。


現代の政治でさえ裏どころか表も分からないのに
神代の政治の表も裏も  人物名がややこしいし  閨閥(笑)もややこしいし

   アマテラスとスサノオは姉と弟で子供を作ってた?

      これは古代では普通だったのかも知れないけど(ハワイ王朝は血筋を守るためにコレでした)
      エジプトでも血筋を守るのにクレオパトラの夫は弟でしたから、この話が使われた?


まだまだ  点  を1つ1つ拾ってはイチイチ驚いているところです。


まるで漢字で表記するところの「英語」を習った子供が、
英語とは本場の「 ENGLISH 」とは以って非なるものだったのか
と驚いているような感じです。

   分かるのは片手で足りるあたりの数の英単語のみの情報のように
   神代の時代の情報はまったくありません
   自分ではちゃんと知ってたつもりなのに。



昨日英語の古代史の図鑑を買って来ました。
日本については4ページの説明でした。

   
原始時代とその後の時代が紹介されてて
その後の時代は「 The Kofun Period 」 と書かれていて  興奮時代って何?
と暫く  ???  でいっぱいでした。  当然  古墳時代  ですが。大恥

  竪穴式住居
  神道
  富士山
  米
  埴輪 
  土製の甕の中に死者を葬ったこと(挿し絵にはアタマが無い!)
     子供は1つの甕に、大人は甕2つを<>−O>こんな形で合わせて泥で封印して納められたこと
  大人は1ヶ所に葬られたこと
     墓場は記しがつけられて埋葬場というのが分かるようになっていたこと
  紀元前1万500年に世界で1番早く陶器(土器)が日本で作られたこと
     今から1万2500年ほど前ですね
  抗争の時代があったこと
     挿し絵の馬はどう見ても アラブ  だな
  その他
  結構知らない話が書かれていました。恥



   でも日本の神代の時代の文化って結構進んでたんだなと思いました。



で、驚いたのですがNHKのヒストリアでやってた邪馬台国?卑弥呼?巫女?の埋葬ですが
丸木を縦に半分に割ってくりぬいて死者を納めたという棺ですが

      (今のハノイの)ドンソン文明がこの埋葬式なんです。
       槍なんかの武器や来世で使う道具も一緒に納めています。


巫女というか卑弥呼というか邪馬台国はずっと後の世だから
その当時は日本では木棺が高度文明だったのかなと。
それか特別な身分制度の人の棺を示しているのかなとか?



もうワタクシのアタマの中はグジャグジャです。


神代の時代の人々は  国際的  だったのかなと。
   弥生人 vs 縄文人というよりは
征服者側には根絶やしにする土人の特徴は分かり易かったのかなと。

例えば  熊襲とか隼人とか土蜘蛛とか  こういう人々はそれぞれの区別がすぐに分かるような生活をしてたのかなとか。



まだまだたくさん読まないといけません。


信長の陣営にダビデの星の人物達が描かれていたのは何故?
ユダヤ教?
この人達は江戸時代のキリシタン禁制に関係がある?
それとも秦氏がらみの占い師?つまり信長の軍師だった?


ま、少しずつ勉強していきます。
[14]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月30日 00時15分25秒 ) パスワード

空の青海のあを様

  
 信長の陣営にダビデの星のマーク・・・陰陽道、賀茂氏、忌部氏と関係する

可能性が高いと思います・・・。


 引き続き、忌部氏の探究を行っています。やはり中枢の中枢の極秘につなが

って来ました。いろいろなものがからんでいますので、簡単には表現できませ

ん。もう少し情報を補い、いろいろ整合性をとった上でと思っております。


 大きなテーマはとりまとめが大変。小さなテーマから追って行くほうが楽し

いですね。少しずつ継続的に発表できますしね。


 「忌」という字そのものにこだわっていましたが、字そのものに隠されて

いる秘密がついに見えました。「己」は蛇、「心」はこころではなく、中心

の「心」「心棒」。即ち「心の御柱(みはしら)」。

 従って「忌」は「心の御柱」の上に「蛇」がまきついている形。

 どこかで見たことがありませんか。そう、旧約聖書に出てくる・・・モーゼ

の青銅の蛇の旗竿・・・。


 とりあえず本日はここまで―


                          丸に三つ柏の服部




 「忍」も「刃」の下に「心」が組み合わされている。


[15]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月30日 02時53分29秒 ) パスワード

えっ?!

忌部氏とモーゼが繋がりましたか。

[16]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月30日 03時58分43秒 ) パスワード

ちょっと調べて来ました。

日本では蛇を家紋には取り入れていないですね。


     龍はあるけど。源氏系高氏と坂上氏系田村氏。




上記画像の説明:


お話1:「十戒」などの映画に描かれますね
モーゼ(とアーロン)はエジプト王のファラオのもとに出向いて
杖を蛇に変え、蛇を杖に変えた。

するとエジプト王の魔術師も杖を蛇に、蛇を杖に変えた。

しかしアーロンの杖(蛇)はエジプト人の魔術師の杖(蛇)を飲み込んだ。



お話2:
モーゼの青銅の蛇

「民数記」では、エジプトを離れたイスラエル人の一行が葦の海の途中までやってきたときに、苦しみに耐えかねて不平を言った。そこで神は炎の蛇を送ったので、かまれた人々の中から死者が出た。民がモーゼに許しを願うと、モーゼは神の言葉に従って青銅で蛇を作り旗ざおの先に掲げた。この蛇を見たものは炎の蛇にかまれても命を永らえた。


民は神とモーゼに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れのぼってこの荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」 そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーゼのところへ来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーゼは民のために祈った。すると、主はモーゼに仰せられた。「貴方は燃える蛇を作り、それを旗さおも上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」 モーゼは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし、蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎみると、生きた。(新改訳:「民数記」21.5-21.9)


しかし、「列王記」下18:4では、ユダ王国のヒゼキヤ王の時代に、それまで人々が香をたいて崇拝していた青銅の蛇がアシェラ像とともに打ち壊された。

彼はすべて父祖ダビデが行なったとおりに、主の目にかなうことを行った。彼は高き所を取り除き、石の柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーゼの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人はこれに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。(新改訳:「列王記 U」18.3-18.4)

       つまり偶像崇拝になってたからね


お話3:
祭礼・復活の象徴

旗ざおの先にからまる蛇。竿とはいえ、十字架となっている。

モーゼ時代からユダ王国のヒゼキヤ王の時代まで、それまで人々が香をたいて崇拝していたことからもわかる通り、この蛇は祭礼用としての色彩が強い。

キリスト教徒にとっては癒しと罪を肩代わりしたキリストの象徴(予型)でもある。
蛇は脱皮することからもわかる通り、復活の象徴でもある。
蛇は不死や治癒、罪からの癒しの象徴であり、失楽園の蛇のような原罪の象徴だけとは限らないのである。

ゆえに、『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」3:14 では、ニコデモとイエスの対話の中でこの青銅の蛇がたとえとして用いられる。

イエスはかかげられた青銅の蛇のように「人の子もあげられなければならない」と語っている。


お話4:
権威の象徴としての杖と蛇

ギリシャ正教会の主教が用いる権杖はこの青銅の蛇をモチーフにした杖を使用している。
したがってギリシャ正教会では、イエスの復活のみならず、権威の象徴でもあるのである。



まず、旧約聖書を信仰しているユダヤ・キリスト教の考えにおいて、忘れてならないものが二つあります。

一つ目は、蛇は彼らの教えの中で”呪われたもの”として扱われているということ。
アダムとイブの話にあるとおり、蛇は狡猾で、醜く呪われた存在とみなされています。
現在でも“蛇=悪魔”と考えられています。「あいつは蛇(スネーク)だ」などという言葉をキリスト教徒に対しては、決して使ってはいけません。大変な侮辱になります。


二つ目は、彼らは“偶像崇拝”を禁じているということです。
ではなぜモーセが銅の蛇を作ったのかというと、神の教えに従ったから。確かに銅の蛇に祈ったものは蛇にかまれても死ぬことはないと書かれていましたが、これは神への信仰とはどうあるべきかをモーセに示させたのです。蛇自体を崇拝するのではなく、信仰のきっかけとして作られたと考えます。そのためその後、銅の蛇自体が信仰の対象となり、神への信仰を持たずに祈っている状況になった時、偶像崇拝であるとして蛇の像を破壊したと記録されています。


こうした前提を踏まえ、考えられるのは、蛇などの偶像を信仰する異教徒に対して、自分たちの”本当の信仰”というものを説く際に使われたお話だと思います。神への信仰によって奇跡が起こるのであり、神への信仰をもたずに蛇や雄牛などの像に向かって祈ることは意味のないことだ、ということの例えとして書かれているのです。



現代における蛇と杖のシンボル:

1.
アスクレピオスの杖
(蛇と杖   しかし蛇は1匹)

ギリシア神話に登場する名医アスクレピオス(アスクレーピオス)の持っていた蛇(クスシヘビ)の巻きついた杖。

医療・医術の象徴として世界的に広く用いられているシンボルマークである。





2.
ケリュケイオン(カドゥケウス)  蛇と杖と羽  蛇は2匹
上記画像の左



ケーリュケイオン(カドゥケウス)

ギリシア神話における神々の伝令であるヘルメースの持物である。

柄に2匹の蛇が巻きついている杖であり、その頭にはしばしばヘルメースの翼が飾られる。


カドゥケウスの図像は、現代では商業や交通のシンボルとして利用されることが多い。

概説[編集]

カドゥケウス(ギリシア語のケーリュケイオン、伝令使の杖)はギリシア神話のヘルメース神の携える杖である。

一般的に使者が手にする杖でもあり、例えばヘーラーの使者であるイーリスも同じ杖を持っていた。

2匹の蛇が巻きついた短い杖であり、時には双翼を上部に戴いている。

古代ローマの図像表現では、神々の使者であり、死者の導き手にして商人・羊飼い・博打打ち・嘘つき・盗人の守護者であるメルクリウスが左手に持っているさまが描かれることが多かった。

象徴物としてヘルメース(または古代ローマのメルクリウス)を表しており、
その延長で、その神と結びつけて考えられる商売や職業や事業を象徴する。

古代後期にはカドゥケウスは水星を表す惑星記号の基になった。そしてそれは、占星術と錬金術におけるその用法を通じて、同名の金属元素〔メルクリウス=水銀〕を表すようになった。


この棒は眠っている人を目覚めさせ、目覚めている人を眠りにいざなうと言われる。

死にゆく人に用いれば穏やかになり、死せる人に用いれば生き返るという魔法の杖である。

メルクリウスおよびヘルメースとの結びつきの延長で、カドゥケウスは現代では、釣り合いのとれたやり取りや互恵関係が理想とされる二つの領野である商取引と交渉とを表す、一般に認められたシンボルでもある。


カドゥケウスは医術の伝統的なシンボルであるアスクレーピオスの杖と混同されるため、
特に北米では、誤って保健医療団体や医業のシンボルとして用いられることが多い。

しかしアスクレーピオスの杖の方は蛇は一匹だけで、翼が描かれることはない。




世界保健機関を始め世界各国の医療機関で用いられている、医の紋章である「アスクレーピオスの杖」は本来ヘビが1匹の意匠。

しかし、2匹の蛇が巻きつく杖のシンボルが「medical caduceus」という名で、欧米の医療機関の標章として、

また、軍隊では医療部隊章として、広く用いられている。


日本でも多数の医院で採用されており、カドゥケウスの名を冠した医療系のゲームソフトも発売されている。

[17]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月30日 04時23分21秒 ) パスワード

>信長の陣営にダビデの星のマーク・・・陰陽道、賀茂氏、忌部氏と関係する可能性が高いと思います・・・


>「忌」という字そのものにこだわっていましたが、字そのものに隠されている秘密がついに見えました。
>「己」は蛇、「心」はこころではなく、中心の「心」「心棒」。即ち「心の御柱(みはしら)」。


>どこかで見たことがありませんか。そう、旧約聖書に出てくる・・・モーゼの青銅の蛇の旗竿・・・。



そうか・・・・


日本の忌部氏は西の世界の影響の強い部族だったようですね。
もともとユダヤ系?


そして祭祀=医術というのもあったんでしょうね。
そして占い師。


   中国では  占い師=軍師  ですから
      たとえば戦いに適した日を占いで決めたりしたし
      戦術を立てるのに気候なんかも考慮に入れたし
 
そうすると天文学にも通じてないといけないし。
平安時代には陰陽師ですね。


当然土木にも明るいわけだ。
古墳なんかまさに!ですね。飛鳥の石建造物なんかもね。


やっぱり西の世界の知恵のある部族だったんでしょうね。




>「忍」も「刃」の下に「心」が組み合わされている。


これにもビックリ!

「じっと耐えこらえる」ことが「忍ぶ」だと思っていました。
「こっそり身を隠す」から後世「忍者」という字が作られたのかな?
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2014年06月30日 12時38分14秒 ) パスワード

知り合いからのレス:



縄文人がいなければ,ポリネシア人がいなかった。
アメリカで,インディアンより古い人骨が出た。
これ,日本の縄文人とDNAが同じでした。
そして,ネイティブアメリカンとは,DNAが違う。
ネイティブアメリカンの協会猛反発しているようですけど。


土器が,最初に日本で生まれたのは,縄文人はドングリを主食にしていたからです。
ドングリは,アクが強いので,水につけてアクを抜く必要がありました。
それで,土器ができた。


で,縄文人が全太平洋にバラけたのは,姶良カルデラの大噴火。
鹿児島湾が出来た噴火ですけど,この噴火,青森県の三内丸山遺跡でも,火山灰が10cm積もっていました。

ですので,九州から大阪あたりは住めなくなった。

それで,縄文人は太平洋に漕ぎ出した。



子供の棺桶は,玄関先に埋めたようです。
母親が,毎日またぐことにより,早世した子供が,母親の子宮に戻ってきて,再度生まれてくるという思想だったようです。



口裂け女を覚えてますか?
これは縄文時代,豊穣の神様で,
裂けた口から大量の食べ物を出してくれる女神さまでした。


縄文時代は,多神教で,ジブリ映画のトトロも神様で,メイという女の子が「まっくろくろすけ出ておいで」と言っていた「まっくろくろすけ」は夜の神様でした。


貧乏神もトイレの神様も,縄文時代の神様。
座敷わらしもそうです。
貧乏神は,この神様,貧乏を引き受けてくれる神様です。
だから,貧乏神がいる家は栄えました。


でも,大和朝廷が天下を取ると,縄文の神様は,邪悪な神様にされて,妖怪に殆どがなって行きます。



縄文人は,太平洋全域を航海していたようです。
エクアドルから,熊本の粘土で焼かれた縄文土器が,南太平洋のバヌアツから,
青森の粘土で焼かれた縄文土器が出土しています。

旧ポナペ島,今はポンペイ島と言いますが,
ここからナンマドール遺跡と言う,
記録にもない人工港の遺跡があります。

縦1.2km,奥行600mの巨大な人工港です。

伝説もないので,相当古い時代のものと言われています。
この人工港を作ったのは,縄文時代という説もあります。


ムー大陸ご存知でしょうが,インドには,ムーとのみ書いてあり,大陸とは書いてありません。

大陸にしたのは,チャーチワードというイギリス陸軍大佐です。


最近,太平洋の海底の調査が進んできて,太平洋には,大西洋のような大陸が沈んだ跡がないので,ムーは大陸でなく,ユーロ圏のような経済圏だったという説が強くなってきています。

古代の太平洋周辺の経済圏がムーだったという説です。
これは,ナンマドール遺跡の発見が大きいのですけど,そのムー経済圏の中心は,縄文時代の日本だったとも言われています。
[19]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年06月30日 13時56分41秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 「モーゼの杖と蛇」についての情報、ありがとうございました。


 また、アメリカ大陸での縄文人のDNAの話、ありがとうございます。

先日テレビでもやっていました(太古日本人がインカにも来たという話)。

考えてみれば、縄文時代というのは長いのですよね。今から1万2000年、

紀元前1万年前後に大激変をもたらす天変地異があった。日本海もその頃で

きたのか・・・これらもテーマとしておもしろいですが、何分証左が少ない。

海の中に沢山の遺跡があるのでそれらの発掘、検証を願いたいですね。


 私が釣りに行く御前崎沖はせいぜい60メートル位の水位ですから、100

メートル水位が下がれば、駿河湾を除いて沿岸部は大部分干上がってしまう。

そしたら想像を絶する世界が現出するでしょうね。


 ムーやアトランティス、ギルガメッシュ、シュメール、のテーマもおもし

ろい。全部日本につながる可能性がありますね。


 これからまだまだものすごい発見が続いて行くことを願います。


 とりあえずのところこれにて─


                          丸に三つ柏の服部
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月01日 05時48分27秒 ) パスワード

いろいろ考えてみますね、そして、アチコチ読みにも行ってみます。


以下は友人から:子供の埋葬場所が玄関先だった話の派生
日本の神代の時代の人々の精神的背景を考えるのに役に立つかなと。



>早く生まれ変わるように、と?

と言うより,
もう一回,自分たちの家の子供になって生まれてきてほしいと言う意味のようです。

縄文人は,輪廻の思想すら持っていました。
冬になったら,草木はかれますけど,春になったら再度芽吹く。
これが輪廻だと。

まあ,輪廻と言ったかどうかわかりませんけど,物事は循環すると言う思想がありました。

つまり,玄関先に子供を埋めることにより,
その子が,再度,母親の子宮に宿り,自分の家の子となって生まれてくると言う思想です。


山姥と言ったら,悪い神様ですけど,
この神様,縄文時代は山を守る神様でした。

山姥が,山を守るから,イノシシやシカがいなくならない。
蕨やぜんまいと言う山菜もなくならないと言う思想です。


この延長線に植林があります。
植林は,日本だけの文化ですけど,いつごろ始まったかわからないくらい古い。


      もっとも,今の花粉症の増加は,植林思想がなければ,杉なんか増やしませんから,
      花粉症は,ここまで増えなかったと言う医者もいますけどね。
[21]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月01日 07時03分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 昨日はやや風邪気味で、薬を飲んだら眠くなり思考停止となりました。

 いずれにしても、聖徳太子の時代のヘブライ隠蔽、天武天皇・藤原不比等

の時代の出自隠蔽工作、これらが大きなテーマ(ハードル)となっています。


                         丸に三つ柏の服部
[22]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月01日 14時38分25秒 ) パスワード

あらあらお大事になさってね。


>聖徳太子の時代のヘブライ隠蔽、天武天皇・藤原不比等の時代の出自隠蔽工作

ホントに何があったのでしょうね。



聖徳太子の出生話には中東の、キリストの生誕噺が土台のようですし
天武天皇は天智天皇より年上という話もありますし
藤原家も謎が多いし


天智天皇と天武天皇の場合は
   先に生まれても親の身分が低いと弟が嫡男になって兄が家来になるというのは日本的なので
   天武天皇の父上の身分が低かったら先に生まれてても家来扱いだったのかも。
   天武天皇の父上は一体どなただったのか。


古今東西権力闘争は最初は敵を力を合わせて倒し
敵がいなくなると内訌になる

そういうのを日本の古代も(今に至るも)やって来たのでしょうね。



わたくし的には、物部氏と忌部氏がいま1つ分かりません。
知り合いに占部という人がいますが、これも判りません。


まだまだアチコチで情報収集をせねば。
[23]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月01日 15時37分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 縄文時代の話が出ましたが、7〜8世紀の政変は、大きく言うとこの縄文

時代から続いたいわば「縄文王朝文化」を新興の「弥生王朝文化」にすり替

え(縄文色の隠蔽)しようとする試みであったと思われます。


 まず、聖徳太子による日本語の統一・ヘブライ色の一掃(ヘブライ隠蔽)が

あった。


 次に、聖徳太子は縄文系のエースであったため弥生系から抹殺された。最

大の隠蔽とともに。


 そして、大化の改新と壬申の乱。

 国号を倭国から日本に、また天皇号の使用。天皇家の出自・出身地(四国か

ら大和へ)の隠蔽が行われた。


いずれも、藤原氏(中臣の鎌足〜藤原不比等)が背後にいる。


 鎌足・不比等が最大の黒幕の顔である・・・探求する必要がある。



 今回はここまで─


                         丸に三つ柏の服部
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月01日 22時31分22秒 ) パスワード

>聖徳太子は縄文系のエースであったため弥生系から抹殺された

コレ、面白いですね。



そして天武天皇によって天智系が抹殺され更に天武天皇系が抹殺されて藤原氏が力を持つ
という流れでしょうか?



現段階、わたくしは縄文から弥生への転換をもっと読まねば。


アチコチ行って面白い話があるとツイツイ読み耽ってしまい道草ばかり食ってます。


続きをお願いします。
[25]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月02日 06時26分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 縄文時代(旧約族の渡来時代)から近代まで、敗者として追いやられた者達

の存在とネットワークが、日本の歴史を闇から動かす原動力として底流にあ

ったのではないか。歴史を探究すればするほど認識せざるを得なくなります。


 その謎・実態を解くにあたり、「スサノオ(朱砂の王)」がキーワードとし

て浮かび上がっております。神話としてのスサノオでなく、裏実態・真実ま

たは概念・象徴としてのスサノオです。


 荒ぶる神スサノオとは・・・深く探究する必要があると思っています。

 いわゆる日本の歴史の根幹にすべてからんできます。


 とりあえずはここで―


                          丸に三つ柏の服部

[26]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月03日 07時18分33秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 その後、いろいろ調べておりますが―、


 @長篠の合戦で信長側にいた六芒星の紋を陣羽織の背中に描いている3人

の件ですが、やはり同じ絵士が同時に描いている絵巻の家康側にも2人の六

芒星の紋をつけた人達がいることがわかりました。

 これは「牛まわり」と呼ばれる陰陽師達だそうです。信長は忌部氏、家康

は賀茂氏と密接に結びついていたと推測されます。


 A天武天皇から持統天皇の時代の天皇家の出自隠しですが、仏教勢力の拡

大につれ、天皇の祖先が、その仏教に反対した物部氏の直系の先祖であるの

はどうしても都合が悪くなった。神武天皇は、日向の系統であったので、出

雲の系統を抹殺すべく歴史の書換えを行ったということです。


 とりあえずここで―

                          丸に三つ柏の服部

[27]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 10時47分47秒 ) パスワード

牛まわり」?

「馬廻り」は知ってましたけど。


>これは「牛まわり」と呼ばれる陰陽師達だそうです。
>信長は忌部氏、家康は賀茂氏と密接に結びついていたと推測されます。


スゴイ情報をありがとうございます。


確かに信長は越前の織田剣神社系ですから忌部氏と関係があったろう、と分かります。
そして家康は賀茂氏出身というのも聞いたことがあります。

でも「陰陽師」には思いが至りませんでした。



http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=291536


表神道と裏神道7〜忍者の任務は諜報活動、すなわちスパイ活動〜
 


『失われたイエスの12使徒 八咫烏の謎(著:飛鳥昭雄・三神たける) 第6章 表神道の呪術「陰陽道」と裏神道の呪術「迦波羅」』よりご紹介します。


「忍者の任務は諜報活動、すなわちスパイ活動」にあるという。神社を目印に活動するこの諜報機関は、忌部氏に通じる葛城系の人々によって営まれていたのではと思われます。この時代も情報収集が必要であったようです。



●戦国時代の忍者

 日本の歴史は呪術の歴史であるといっても過言ではない。今でこそ、呪術は非科学的なイメージが強いが、かつては違った。呪術こそ人を動かし、天を動かす方法であると信じられてきた。律令制においても、現在の内閣に相当する太政官の上に神祇官があり、彼らが行う儀式によって政治が動いた。

 戦国時代になると、陰陽道はさまざまな形で歴史を動かしてきた。典型的なのが忍者である。服部半蔵(はっとりはんぞう)、百地三太夫(ももちさんだゆう)、藤林長門(ふじばやしながと))、それに石川五右衛門らは、みな秦氏。

伊賀流忍術伝『万川集海』によると、忍者を初めて使ったのは聖徳太子であるといい、そこには「志能備(忍び)」という言葉が見える。聖徳太子のブレーンが秦氏の首長、秦河勝だったことを考えれば、忍者を仕切っていたのも、もちろん秦氏である。



 忍者というと、映画や芝居で演じられる派手なアクションを連想してしまうが、これはフィクションであって、事実ではない。忍者の活動は、もっと地味である。確かに手裏剣や三菱などといった武器を使うが、それはあくまでも非常事態のみ。通常の任務において使用されることは、まずない。

 忍者の任務は諜報活動、すなわちスパイ活動にある。そのために、全国津々浦々する神社を目印に、さまざまな裏道を使う。神社の形、鳥居の色なども、この土地に何があるという暗号にもなっており、ときに神社に隠れて寝泊まりすることもある。忍者にとって、神社はある意味、仲間との情報交換の場でもあった。

 また、忍法などといって、瞬時に消えたり、宙に浮いたりするが、これもフィクション。確かに、魔術的な行為はある。薬や化学品を用いて、事をなすこともあるが、本当の忍術は呪術である。忍者が手印(しゅいん)を結び、丸字を切るシーンがあるが、まさにそれだ。丸字は陰陽道の手法である。忍者は奇門遁甲(きもんとんこう)や風水術などはもちろん、あらゆる呪術に通じていた。




 こうした歴史の裏で特に活躍したのは漢波羅である。漢波羅はさまざまなネットワークと呪術によって、戦国大名を操ってきた。もともと戦国大名自身、秦氏であることが少なくない。

たとえば、薩摩の島津氏、対馬の宗氏、四国の長宗我部氏、越中の神保氏は、みな秦氏。
武田信玄や豊臣秀吉、毛利元就らもまた秦氏との関係が深い。



 そして、かの織田信長に至っては、自称、平氏とはいうが、実家が「織田剣神社」の神官で、本当は忌部氏である。
当然ながら、そのバックには忌部氏集団があり、漢波羅が動いていた。



 これは余談だが、忌部氏において「剣」という言葉がしばしば登場する。阿波忌部氏が聖地と崇める剣山にも、剱神社がある。剣を古代朝鮮語で発音すれば、ククリ、コクリとなり、これに日本では「菊理」という字を当て、加賀の白山比?神社の主祭神「白山菊理姫(はくさんきくりひめ)」とした。白山神社の近くには、同じ白山系の剣神社がある。織田剣神社は、この系列に属する神社なのだ。



 ところで、織田信長と漢波羅の関係で、ひとつ興味深いことに、「長篠の合戦」を描いた古図の中には、この陰陽師らしき人物が見える。織田信長のそばに薙刀や槍をもった男がいるのだが、その背中に赤い六芒星を描いている。六芒星とはユダヤのシンボル、ダビデの星であり、迦波羅で使われる象徴図である。彼らは牛まわりと呼ばれる人々で、いわば武将の世話役。武士ではない。正体は陰陽師、漢波羅である。



 信長は戦場に漢波羅を配し、戦況を占っていたに違いない。しかし、本当の主従関係は逆である。信長を動かしていたのが漢波羅なのだ。事実、信長が忍者の拠点である伊賀を打ったことが漢波羅たちの怒りを買い、それが原因で抹殺されることになったというのが真相である。これについては、いずれ機会を改めて述べたい。



 そして、もうひとり。「長篠の合戦」で、六芒星を背負った漢波羅をしたがえている人物がいる。徳川家康である。彼こそは裏神道にもっとも通じていた武将だった。


へえ〜
なるほどね〜
[28]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 10時51分27秒 ) パスワード

>天武天皇から持統天皇の時代の天皇家の出自隠しですが、
>仏教勢力の拡大につれ天皇の祖先がその仏教に反対した物部氏の直系の先祖であるのはどうしても都合が悪くなった。
>神武天皇は、日向の系統であったので、出雲の系統を抹殺すべく歴史の書換えを行ったということです。


ここを読んでビックリしました。

もし女性宮家創設が成ったとして
出雲大社に嫁がれる典子さまにお子さまが生まれたら
出雲系天皇家が出来るかも知れませんね。


日本史が改めて大回転しますね。

面白いですね。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 14時21分04秒 ) パスワード

http://ascensionnote.blog.shinobi.jp/%E4%B8%96%E3%81%AE%E7%AB%8B%E3%81%A6%E6%9B%BF%E3%81%88%E3%83%BB%E7%AB%8B%E3%81%A6%E7%9B%B4%E3%81%97/%E7%9C%9F%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B9%E5%BE%A9%E6%A8%A9%EF%BC%81%E2%91%A0%20%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F%E3%81%AE%E9%A0%90%E8%A8%80%E7%B7%A8

先日「ヤタガラスを動かせ」とのメッセージを受けた人の話を聞きました。

旧正月である2009年1月26日、早朝、京都糺の森にある賀茂御祖神社通称「下鴨神社」においてとある神事がおこなわれたようです。(詳細は不明ですが・・・)

     はい、ちらっと記憶にあります。


ところで「ヤタガラス」ときくと、熊野三山を思い浮かべるかもしれませんが、人間界でいう所の「ヤタガラス」とは、裏神道秘密組織「八咫烏」のことを指します。


「八咫烏」とは生まれもって戸籍に入る事を免除され、法律上は存在していない事になり日本国民でもありません。

一生を国体と神道の護持に捧げていき、もし死んでも騒がれる事もないそうです。


決して歴史の表舞台に登場することはないが、日本の歴史が大きく動くとき、影には闇夜の烏のごとき暗躍するそうです。

ちなみに過去に「虚無僧」とよばれた者は彼らの下部情報収集用のスパイであり、常に日本国の動きを把握し、操作していた様です。



数少ない民間人として、彼らとパイプを持つ飛鳥昭雄氏によると、「八咫烏」の人数は、数十人。

中枢をになっているのは「十二烏」とよばれる12人であり、更にその上に「大烏」と呼ばれる人がいます。


大烏は、3人存在し3人で「金鵄」と呼ばれ、「裏天皇」としての役割を担うといいます。

彼らは全員が「漢波羅」とよばれる迦波羅(カバラ)の達人で、陰陽師でもあります。


その正体はイスラエル12氏族の内、祭祀をつかさどっていたレビ族の末裔で、「賀茂氏」と呼ばれる「秦氏」の一派だといいます。


あの気鋭の陰陽師、安倍清明やそのライバルの蘆屋道満はもちろん、そもそも陰陽道の開祖である役小角も「賀茂役君小角」と呼ばれる「賀茂氏」の一員であったそうです。


神道の祭祀氏族には中臣氏や卜部氏、猿女君氏、忌部氏などが存在しますが、
天皇の即位式である大嘗祭のように、直接天皇祭祀に関わるトップが「賀茂氏」というわけです。


そしてその「賀茂氏」=「八咫烏」裏神道の本拠地が、京都にある「下上賀茂神社」だそうです。

事実、賀茂別雷神社、通称「上賀茂神社」は全国約11万社の神社の総元締めでもあります。


実はこの「下上賀茂神社」はあの「伊勢神宮」と表裏一体の動きをなし、雛形でもあるといいます。

要は、「伊勢神宮」に「動き」があるときは、それに先じて、「下上賀茂神社」に「動き」があるわけです。


「上賀茂神社(賀茂別雷神社)」≒「伊勢内宮」
「下鴨神社(賀茂御祖神社)」 ≒「伊勢外宮」


では、その「動き」とは一体何か?
それは、「伊勢神宮」の封印が解かれることを意味します。


では、その「伊勢神宮の封印」とは何か?


現在、伊勢神宮には、「内宮」と「外宮」、および数々の「別宮」があります。しかしその中心はやはり「内宮」と「外宮」の二正殿。


しかし、「八咫烏」はこの構造において伊勢神宮における封印されしもう一つの「正殿」が存在する事を明らかにします。


其の名は「伊雑宮」!


先にも紹介した「旧事本紀」が神庫から発見されたあのお宮です。

(何故「伊雑宮」が第三の本宮かという理由は、「八咫烏」自身が時が来たことを悟り、飛鳥氏の著書の中で明らかにされています。)


この「伊雑宮」の封印が解かれる時、すなわち、現在の「伊雑宮」の格式が正式に内・外宮と並び、そこに納まるべぎ「三種の神器がそろう時」、伊勢三宮として「伊勢神宮が復活する」というのです。



では真の伊勢神宮が甦ったとき、一体何が起こるのか?



「八咫烏」の大烏は、飛鳥昭雄氏との対談の最後に、驚愕の言葉を口にします。

「伊勢神宮が甦った後、地上に天照大神が降臨する。

その時、誰もが天照大神の御姿をその目でみることになる。そして伊勢神宮の使命もまた、それをもって終焉となる。」



まさに、「八咫烏」の預言ともいうべき驚愕のセリフです。


では、我々は前もって伊勢神宮の復活を知る事が出来ないのか?

・・・・・出来ます!


先ほどの上下賀茂神社が伊勢神宮の雛形であることを思いだしてください。
伊勢神宮が三宮であるならば、封印されし「伊雑宮」の雛形は何処なのか?


それは「下鴨神社」の摂社とされ、同敷地内にある「河合神社」です。
「河合神社」≒「伊勢伊雑宮」


伊勢神宮の次回の式年遷宮(建て直し)は、なんと奇遇にもあの2012年の翌年。

それまでに京都の「河合神社」に動きがある場合、式年遷宮時に伊勢神宮の封印が解かれ「内宮」「外宮」「伊雑宮」の三宮が並び建つ可能性があります。


そして、それは同時に「天照大神」の人間界への降臨を意味します。
(とすると、きっとあの山も動くんでしょうね)


さあ、2012年から一体何が起こるのでしょう・・・・・?


「岩戸へお入りになりたのを、だまして岩戸を開いたのでありたが、岩戸を開くのが嘘を申して、だまして無理に引っ張りだして、この世は勇みたらよいものと、それからは天のうずめの命どのの、嘘が手柄となりて、この世が嘘でつくねた世であるから、神にまことがない故に、人民悪くなるばかり」(大本神諭 明治38年旧4月26日)

「天照皇太神宮様の岩戸開きは、騙した、間違いの岩戸開きざから開いた神々に大きなメグリあるのざぞ」(日月神示 磐戸の巻 第十五帖)

「次の岩戸閉めは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、騙した岩戸からは騙した神がおでましぞと知らしてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇太神日の大神揃ふてお出まし近うなってきたぞ。」(日月神示 五十黙示録 弟十帖)



現在、「河合神社」境内には「八咫烏」を祀った宮がひっそりとたたずみ、その未来を見つめています。



P.S  「伊勢神宮」の動きの後、その影響が全国約11万社の神社に現れるかもしれません。ここに、太古に日本の国に仕組まれた壮大な仕掛けがあり、「日月神示」の示すところの「神一厘の仕組み」があるように私は感じます。

P.P.S 「伊雑宮と浅間山の封印」や「偽天照と物部氏」については、また機会があったら記したいと思います。

[30]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 14時29分15秒 ) パスワード

http://intec-j.seesaa.net/article/18982695.html


●ヤタガラスは陰陽道と関係がある
●鳥居は『鳥が居る』ということである


2006年06月08日


●漢波羅の本拠地は下鴨神社である(EJ第886号)

 昨日のEJで、陰陽道自体の陽と陰――すなわち、表の陰陽道
と裏の陰陽道があるという話をしました。

この表の陰陽道の使い手が陰陽師です。彼らには陰陽寮という役所に仕える役人のような存在の陰陽師と在野の陰陽師があります。

有名な安倍晴明は正式な陰陽師、すなわち陰陽寮に仕える陰陽師です。


ところが裏の陰陽道というものがあります。この裏の陰陽道のことを「迦波羅」(カッバーラ)といい、カッバーラの使い手を「漢波羅」というのです。まとめておきます。

     陰陽師 ・・・・・ 表の陰陽道の使い手
     漢波羅 ・・・・・ 裏の陰陽道の使い手


日本では、「カッバーラ」ではなく、「カバラ」という名称で次のようなものが伝えられています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     カバラ・タロット     カバラ占い
     カバラ数秘術       カバラ占星術
     カバラ魔術        カバラ恋愛術
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

これらは本物のカッバーラではなく、カッバーラから派生した枝葉末節の呪術に過ぎないのです。専門家によると、この手のもの――とくにタロットなどは、興味本位でもてあそぶのは危険であると警告しています。何かの拍子に魔界に入ってしまう恐れがあるからです。「コックリさん」という遊びをやっていて、そう
なってしまった人が実際にいるからです。


ちなみに、イスラエルでは「カッバーラ」は「領収書」のことであり、あくまでも相手から差し出され、受け取るものをいうのです。これを人間と神の存在におきかえると、カッバーラとは神から人間に与えられる知識(叡智)であり、それなりの修行をし勉強してはじめて手にすることができるものとされます。そして
神からカッバーラの奥義を授けられた者が「預言者」といわれるのです。預言者とは「神の言葉を預かる者」という意味です。この「神の言葉」こそカッバーラなのです。


 カッバーラは、預言者の間でのみ口頭伝承されてきており、イエス・キリストからその弟子に伝えられ、現在まで継承されてきています。中でもイエス直系の教えを受けているとされるのが、エルサレム教団であるといわれます。


 日本には、神道というかたちでカッパーラが根付いていますが問題はそれがどこから、誰からもたらされたものかということです。表面上神道は日本古来のものであるとされていますが、渡来人が日本に持ち込んだものという説が有力なのです。そして、その渡来人は「秦氏」という一族であり、そのルーツは、歴史の舞台から姿を消したエルサレム教団――失われたイスラエルの十二支族にたどりつくといわれているのです。



 それはさておき、神道には表と裏があるように、神社にも表と
裏があります。

      表神道の頂点 ・・・・・ 伊勢神宮
      裏神道の頂点 ・・・・・ 賀茂神社


 神社の総本山はよく知られているように、伊勢神宮ということになっています。これが表神道の頂点ということになります。これに対して、裏神道の頂点は京都の賀茂神社です。

いい換えると賀茂神社は、裏神道の呪術、「迦波羅」(カッバーラ)の使い手
の本拠地ということになります。


 既に述べたように、カッバーラの使い手を漢波羅というのですが、漢波羅はすべて賀茂氏なのです。その賀茂氏が崇拝する神社の中枢が賀茂神社なのです。
 

伊勢神宮の本殿は、「内宮」と「外宮」があり、その周りに数多くの別宮や摂社、末社が配置されています。賀茂神社についても本殿は次の2つがあり、境内には数多くの摂社があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
  1.下 鴨神社
  2.上賀茂神社
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これら2つの本殿は、「下上賀茂神社」(げじょうかも神社)というのですが、下鴨神社が「下賀茂神社」ではないというのは興味深いものがあります。
 

本来、賀茂氏の「カモ」は、「加茂」、「迦毛」、「加茂」、「可毛」などと表記しますが、その真に意味するところは「鴨」――つまり、鳥であるということです。神道祭祀にかかわる氏族は、何らかのかたちでシンボルとして「鳥」とかかわってくるのです。それは、鳥が天と地を行き来できる存在であり、神と人と
の間を取りもつ象徴として意義があるからです。

 繰り返しますが、重要なことは、伊勢神宮と賀茂神社が表裏一体の関係にあるということです。表の神道において全国の神社の頂点に立つのは伊勢神宮ですが、裏神道において事実上全国の神社の頂点に立ち、実質的な権限を握っているのは賀茂神社なのです。

いわば、神道界の総元締め的存在が賀茂神社といえます。


 なぜなら、天皇が天皇になるためにもっとも重要な儀式といわれる「大嘗祭」を主催し、そのすべてを取り仕切っているのは、宮内庁でも伊勢神宮でもなく、京都の賀茂神社――それも、天皇の儀式のいっさいを執り行うのは下鴨神社なのです。              
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 14時45分48秒 ) パスワード

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2377

漢波羅の本拠地は下鴨神社

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/982

関連記事:裏天皇のコメント

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/561.html


☆「金鵄」の真実 秦氏 八咫烏


☆「金鵄」の真実について述べる「秦氏のブログ」☆

http://ameblo.jp/amezisto0214/entry-11598290257.html


漢波羅とは<kanpara>と読む。
表の陰陽師が賀茂氏や安倍晴明を始めとする土御門家など五芒星を用いるのに対して、裏の陰陽道・漢婆羅は六芒星を使う。

<漢婆羅>とは、カンバラとも読み、その正体は<カバラ>である!!
これを使う陰陽師とは賀茂氏ではなく、秦氏である。


陰陽道はカバラの秘法=生命の樹を知らなければ真髄を知る事は出来ない。
これを日本に伝来したのは‘秦氏’である。

表の陰陽道は五行の思想で五芒星=桔梗紋(セーマン)を使う。
だが陰陽術の本分は陰と陽を示す二元論の六芒星、つまり縦の3と横の3の天地、陰陽と、表裏一体を知らなければならない。
‘3’は全てを顕す。
正三角形と、逆三角形を合わせて六芒星になる。陰と陽だ。


秦氏の一族の支流の一族こそ、賀茂氏である。
だから賀茂氏は陰陽道を使う・・・
秦氏が賀茂氏に陰陽道を教えたのではなく、賀茂氏は元秦氏であるから陰陽術を使うのだ。


裏の陰陽道を<迦波羅>といい、それを用いる陰陽師の事を<漢波羅>(カバラ)という・・・。

(以上 転載)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

長々と引用させていただきましたが、秦氏自らによる、八咫烏(ヤタガラス)と金鵄の真実の暴露です。

まとめてみると・・・

元秦氏である、秦氏の一族の支流の「賀茂氏」は、表の陰陽道で、五芒星=桔梗紋(セーマン)を使う。
それに対する裏の陰陽道であり、表の陰陽道はもとより全ての陰陽道を司り統括するのが、裏の秦氏の「漢婆羅」(カバラ)で、六芒星を使う。

つまり、大元締は六芒星を使う秦氏の「漢婆羅」(カバラ)。

そして、秘密組織の八咫烏集団は賀茂氏一族。
そのボスは、金烏(きんう)。
ボスは‘裏天皇’として‘3人’居る。

(そういえば、日本の神道とは、原始キリスト教<聖書ではなく、イエス自身の説いた教え>であり、‘裏天皇3人’とは、イエスの弟子の「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ」の三人に比している。

また、迦波羅の最高奥儀は「生命の樹」を基本とした原始キリスト教のことであり、京都の「下鴨神社」が本拠地であると言われています。)

しかし、金鵄とは一人であり、それは八咫烏ではなく、陰で糸引く「秦氏」。



(秦氏とはイスラエル10支族のエフライム族で、彼らが引き連れてきたのが祭祀担当のレビ族。

そのレビ族が、表の賀茂氏という図式でしょうか。。。)



なかなかややこしくわかりずらいですが、秦氏の日本への渡来も、縄文時代・弥生時代・奈良時代と、三度に及び、これらの間の行き来を入れると十数度に及んだと述べられています。

日本人の根幹をかたち造ったという感じですね。


ちなみに、ここには詳しく書かれていない‘3人の裏天皇’についてですが、それは・・・


○下鴨神社の大宮司
○鎌倉八幡宮の大宮司
○熱田神宮大宮司の曾孫の広瀬祐也(フリーメーソン33位階)
○NPO法人「糺の会」で日本ユダヤ学会会員の千葉糺(ただす)氏(現在学習院高等科の教師)

の4人のうちのどなたか3人が、サンカの頭領のアヤタチであり八咫烏の秘密結社であり裏天皇である、ということです。



参考までに・・・

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/480.html

サンカの社会は、彼等独自のもので、アヤタチと呼ばれる大親分(おおやぞう)を頂点に、クズシリ、クズコ、ムレコの各親分(やぞう)が、(あるいは頭領の補佐としてミスカシ(透破)ツキサシ(突破)の三羽カラスとして) 各地のセブリを取り仕切り、その生活は、彼等が理想とする誇り高き社会を守るために、独自の掟(ハタムラ)によって厳しく規定されていたと言われています。

山の民サンカとは、やはり八咫烏だったのですね。

どうも裏天皇というのは、日本だけではなくて、実は世界政府のリーダーや闇権力者たちの頂点に立っている存在でもあると漏れ伝え聞いています。

スイスに隠してあるゴールデン・リリー(天皇の金塊)のせいでしょうか?
エンペラーよりも上位にいる天皇という世界で最も古い存在の皇統ゆえなのでしょうか?
世界を牛耳る存在が実は、この日本にいるとしたら・・・?
世界を動かせるのは、この日本のはずなのですけれどね。
何をやっているのでしょうか?この時代に八咫烏と金鵄は。。。?

実は八咫烏も南朝と北朝に分かれ、仕掛ける側と仕掛けられる側になって闘っているようですが・・・?

裏天皇のコメントより...........

日本の秘密.....

http://uzumasa-1962.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-d473.html

以下転載

『裏神道高官のナマの声をあげましょう。
われら忌部は秦氏である。

秦氏には色々な職業、家系がある。

例えば、政治関係を担当した秦氏は藤原家がある。

経済担当は三井家があり、三井家が神宮遷宮時の費用を捻出しておった。

武家担当の秦氏には源平等がある。

よろしいか?

秦氏は歴史から姿を消した。
それは改名したに過ぎない。

役割分担をはっきりさせると共に国体の護持の為に秦氏は改名したのだ。

われら忌部は秦氏の中でも祭祀を専門に担ってきた。
よろしいか?

われら忌部は秦氏の中で祭祀を職に持つ者。
よって、われら忌部は秦氏と同族である。
しかして、われら忌部は物部に祖がある。

物部氏の中でも祭祀を担当するわれらの祖先が後に神武天皇と共に渡来した秦氏と婚姻を結び、現在秦氏としての忌部がある。


貴殿が申される
「「新撰姓氏録」によると斎部氏が忌部氏の祖であり、元々は斎部と書いたそうですが、どうなのでしょうか?」
に対しての答えは

   新撰姓氏録が編纂された時に物部系忌部から秦氏系忌部に変わっただけの事。

秦氏系忌部を斎部と名乗る事もある。



秦氏系忌部は神宮、熱田、諏訪、宇佐、高良等の大社の祭祀をしておる。
しかして、
物部系忌部は出雲、伊雑、籠、石上、大神神社等の古社の祭祀をしておる。



祭祀支族の太祖に、天細女命、天児屋命、天太玉命などがある。

天細女命は猿女氏、天児屋命は中臣氏、天太玉命は忌部の太祖である。
よろしいか?

記紀の奥義の一つに、全ての神道祭祀が開始されたのは、「天岩戸開き神話」からとある。

「天岩戸開き神話」において、祭祀の中心は天児屋命、天太玉命である。

天児屋命が太祝詞言を奏上し、天太玉命が五百津真賢木に鏡、勾玉を飾り付けて自ら持った。

この時の祭祀が神道祭祀の始まりである。




天児屋命の子孫、中臣氏の「中臣」は神と人の間という意味がある。
中臣氏の中でも亀トを専門に行うものをト部氏と申す。
現在、広く知られている神宮、宮廷祭祀を担当するのはこの中臣氏である。
後に中臣氏の中で政治を担当する者は藤原と名乗った。
この藤原氏の中で一般向けの祭祀を行う者は斎藤と名乗る。


天太玉命の子孫であるわれら忌部は太祖天太玉命が五百津真賢木に鏡、勾玉を飾り付けて自ら持った。

とある様、神器を直接扱う事が赦された者である。


天太玉命の太祖は高皇産霊神であり、その娘である万幡豊秋津師比売命が生んだ子なり。

天太玉命には5人の配下が存在し、それぞれが天太玉命とは別に忌部の祖となった。



阿波忌部の祖「天日鷲命」讃岐忌部の祖「手置帆負命」紀伊忌部の祖「彦狭知命」
出雲忌部の祖「櫛明玉命」筑紫・伊勢忌部の祖「天目一筒命」
また、安房忌部の祖は「天富命」である。

     賀茂氏は忌部の中でも最高の祭祀支族である。
     大祭司は賀茂氏であり、忌部の中の忌部である。

    よって、賀茂氏も秦氏である。




神宮の祭祀は中臣氏であるが、それは表の儀式。


陰陽道は裏表がある。

裏の祭祀で神宮の心御柱を直接奉蔡されるのは賀茂氏。
賀茂氏の中でも陛下直属の賀茂氏は戸籍と姓名が無い。
戸籍の無き賀茂氏をわれらは「漢波羅」と呼ぶ。

表の陰陽師を陰陽師、裏の陰陽師を漢波羅と申す。
この漢波羅が神道奥義を握っておられる。



以下略
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 14時55分16秒 ) パスワード

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=272504


272504 裏天皇の漢波羅秘密組織「八咫烏」がもたらす衝撃の事実と徐福の真実
 

裏天皇の漢波羅秘密組織「八咫烏」がもたらす衝撃の事実と徐福の真実
というタイトルで、興味深い内容がブログでアップされている。

裏天皇の秘密組織は、レビ族の末裔で、「賀茂氏」と呼ばれる「秦氏」。
伊勢音頭に隠された神聖ユダヤと古代日本の民の繋がりには、おおいに興味が湧く。

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失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎

神道を奉じる古代豪族「物部氏」の正体は、なんと、徐福が率いてきたユダヤ人だった!裏天皇の漢波羅秘密組織「八咫烏」がもたらす衝撃の事実!はたして紀元前3世紀の東アジアに何があったのか!?兵馬俑から発見されたペルシア人の人骨が意味するものとは!?最初に中国全土を統一した秦始皇帝の秘密と巧妙に仕掛けられたトリックの向こうに見えてきたのは、秦氏の仮面をかぶったもうひとつのユダヤ人だった。


この本のP166から

八咫鳥の使命は日本という国體のために、古代から連綿と続けれてきた神道儀式を執り行うことにある。



★八咫烏によると、物部氏は、徐福とともにやってきたとある。
その徐福の墓が和歌山県の新宮にある。


和歌山県新宮市の阿須賀神社にも徐福の宮が祀られている。

飛鳥昭雄氏の新刊では
この徐福こそが物部士族である言う。


失われたユダヤ人徐福:物部氏の謎

★崇神天皇のあたりから物部氏が天皇家の後ろ立てになっている。

物部氏はアジアの各地(シルクロード沿い)にイスラエルから日本に移住する拠点を築いていた。

★日本書記によると初代から4代までの天皇の後ろ盾は賀茂氏(八咫烏)がつとめていますが,(正室が賀茂氏から出ている)その後5代天皇からは尾張氏が引きつきそして崇神天皇のあたりから物部氏が天皇家の後ろ立てになっています。

★徐福伝説と物部氏の歴史を記した先代旧事本記を読めば分かるが調査では『徐福集団の多くは秦氏を名乗った』ようだ。

これもまたまた偶然なのです、オイラの住んでいる羽倉崎は物部氏の畿内地区で徐福の名前が地名に残されている大阪府阪南市では毎年10月10日に昔から豊作祈願を祈る地車(やぐら)祭りが行われるが、この宮本地区の青年団がなかった時に、その祭りの保存会を通じてこのやぐらを曳航して本宮祭では、豊作祈願を祈る為に「波太神社」に各地区のやぐらが宮入する。

その宮入の勇姿でそのやぐらが波太神社の階段を駆け上り、みごとその波太神社の本殿への階段を登りきった地区は、その年は豊作大漁に恵まれると言い伝えがある豊作祈願祭で大変迫力がある。

本当にこれもまたまた偶然なのですが、そのやぐらの波太神社の宮本地区の氏子総代の青年団を復活させた実行委員長を務めた過去がある。


伊勢音頭に隠された神聖ユダヤと古代日本の民の繋がり

このやぐらを曳航する時のはやし音頭があります。
それは、伊勢音頭なのです。

★不思議なのがその祭り音頭をユダヤ語に訳すと下記の意味なるのです。

ヤ-トコセー = お前たち、喜びなさい。主は敵を沈めた
ヨーイヤナー = 主は哀れみ深い
ハーリャーリャー = 主を賛美せよ
コレワイセー = 彼は呼び出し、救った


この宮入する神社の名前が「波太」=「はた」と読みます。

以下略
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 15時06分17秒 ) パスワード

昭和天皇の大葬の儀の時に脚光を浴びた八瀬の童子ってそういうことだったの?


http://shig1.blogspot.com/2009/05/blog-post_29.html


2009年5月29日金曜日




古代出雲王国−スサノオの光と影−53 被差別民の真実−彼らは出雲族だった!!


士農工商穢多非人(し・のう・こう・しょう・えた・ひにん)。
今はどうか知らないが、僕が中学校に通っていたとき、教科書に書いてあった。

京都府洛北八瀬に「八瀬童子」という人たちがいる。
「八瀬ことば」と呼ばれる八瀬独特の言い回しで「あんな」「こんな」と言うべきところを、彼らは
「あがな」「こがな」と話す。同じ意味のことを出雲の人が話すとき、
「あげな」「こげな」という。


金刀比羅宮の章でみたように、ニギハヤヒが統治した、愛媛県では、
「ありがとう」を「だんだん」と、出雲の人と同じ意味で使う。言葉は簡単には変わらない。
出雲の「雲」と伯耆の「伯」を取って、雲伯なまりと呼ぶが、このなまり、はるか離れた地でも使われている。

出雲族はなぜそんな遠くに住んでいるのだろう?
そして、八瀬にも出雲族は住んでいた。
「八瀬童子」として古来、朝廷に奉仕した。


八瀬童子について、Wikipediaを見てみよう。
「大正元年(1912年)、明治天皇の葬送にあたり、喪宮から葬礼場まで棺を陸海軍いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾し、その調停案として八瀬童子を葱華輦(天皇の棺を載せた輿)の輿丁とする慣習が復活した。明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。

この例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。
平成元年(1989年)、昭和天皇の葬送では棺は車輌によって運ばれることとなり、葱華輦は式場内の移送にのみ用いられることとなった。」

非人についての記述を見よう。
「江戸においては、近世中期に穢多頭の浅草矢野弾左衛門の支配下に入った。弾左衛門の支配下には各地域ごとに非人頭がおり、非人を管理下においた。身分的には穢多より非人は下位に置かれていたとされているが、これは江戸の事例であり、京都や大坂などでは穢多身分との支配関係はなかった。」


彼らは、古来より、高貴な方の穢れ、すなわち、死の場面において、活躍してきたのだ。


それは、人がする仕事ではなかった。だから、人に非なる者にその仕事をさせた。
八瀬童子。出雲族。突然出雲から移住してきたわけではない。
先に見たように、大和はニギハヤヒのものだった。
そして、古事記では、神武天皇はニギハヤヒの娘、ミトシに婿入りしている。

その後、大和朝廷はなぜか、譲ってもらった大和の拡大の過程において、
スサノオやニギハヤヒのような、緩やかな連合王国など目指さなかった。

蝦夷退治、熊襲退治に見られるように、殺戮と征服を繰り返したのだ。


出雲族は賤しい身分とされ、時に「鬼/オニ」「物/モノ」と呼ばれ、桃太郎の「鬼退治」のように、悪者として伝承させた。

物部氏の末裔がどのように処遇されたかは、別の章で明らかにしよう。


ところで、エタを調べていると、ある神社の由緒書が、僕の目を点にした。
東京都多摩にある、小野神社。

正和二年(一三一三)秋七月、神主澤井佐衛門助藤原直久の誌した、『式内社小野神社由緒』によると、次のようにある。


「人皇三代、安寧天皇ノ御代、御鎮座、祭ル所天下春命大神也、此御神ハ、神代ニ有テ、天孫饒速日命、始テ河内國土哮ケ峰ニ降臨ノ時、天上ヨリ供奉随身シ玉フ三十二神ノ中、一神ニマシマシ、出雲臣祖、以下略」


さて、ここに出てくる、小野神社の祭神「天下春命(あめのしたはるのみこと)」
彼は饒速日命(ニギハヤヒ)とともに河内の国を治めるために降臨した三十二人のうちの一人だった。

その父親が天八意思兼命(アメノヤゴコロオモイカネノミコト)である。

兄は天表春命(アメノウワハルノミコト)といい、信濃の阿智神社、戸隠神社宝光社の祭神になっている。

川を挟んだ府中市にも、小野神社はある。
そして、この「天下春命」を小野神社に祀った人の名に注目。

天下春命の後裔、「兄多毛比(えたもひ)」
僕は言葉を失った。

ニギハヤヒの腹心は遥か関東まで追いやられ、その後裔の「エタモヒ」の名を貶め、最下層に置き、それが1千年をはるか超えて、今なお、被差別民の代名詞として使用されている。

この記述、物議を醸すであろう。


しかし、古代出雲王国。
スサノオやニギハヤヒの名誉のため、敢えて発表する。
今、由なく差別されている方々を想う。
是非、誇りを持って頂きたい。

日本の文明のあけぼのを切り開き、民を思い、善政を敷き、征服することなく大倭国を築き、
人々から真の尊敬を集めたスサノオ、ニギハヤヒ、イソタケル・・
あなた方は、本物のエリートの血を引いているのです。


出雲族こそ、真の日本の建国者なのです。と。


僕は昨日、ある政党の支部に出向き、被差別民について話し、聞いてきた。
彼は言った。

「要するに、差別意識をなくさなければならないんですよ」
差別と言うのは、そんな簡単になくなるものではない。
理由などないのだ。意識下に刷り込まれた、理不尽な気持ち。

そして、それが遠く平安の昔まで遡って意図的に出雲族に対して行われたことに怒りを感じずにはいられない。

「罪を憎んで人を憎まず」と言う。

けれど、僕は憎む。時と空間を超えて。
このような歴史的犯罪を犯した、遠い昔の見知らぬ人たちを。

そして、過去に飛んでいけるものなら、声を大きくして彼らに言いたい。

「あなたたちこそ、人で無しだ!」と。



    まったく知らなかったです。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 15時12分19秒 ) パスワード

http://shig1.blogspot.com/2009/06/blog-post.html

2009年6月2日火曜日


古代出雲王国−スサノオの光と影−54 恩讐を越えて 浅草にて


40章ほどで終わって出版するはずが、54章まで来てしまった。
ここには記さないが、その過程で自分自身の出自がわかり、愕然としている。



浅草は東京や関東の被差別民が集中的に住んでいたところである。

「非人 弾左衛門」で検索されるとよい。引用はしない。
前の章で、僕は時と空間を越えて「憎む」と言った。

だが、先祖が犯した罪をその子孫、今生きている人に対し償えとは言わない。
今まで書いてきたことはすべて、真実である。


天皇家を裏で支えてきた、闇の氏族の高官から直接聞いた内容も入っている。


アクセス解析すれば、裏神道関係者が僕のいくつかのサイトを定期的に覗きに来ているのがわかる。


天皇家がユダヤだ、と悪感情を抱かれる方は、知らず差別意識を持ってしまっていることに気付いてほしい。


僕は大和朝廷の犯してきた歴史ゆえに天皇を憎んだりはしない。
年配の方々にとって、天皇家は今も心の支えである。
生まれたときから、戸籍を持たぬ皇室の方々は人生を選べない。
こんな辛いことがあろうか。


僕にカッバーラを伝えてくれた裏神道高官もまた、名前がないことに哀しみを表明しながらも、僕になんとか「光の道」なるものを伝えようとされた。
彼は心から神を敬い、へりくだる立派な方だった。
陸軍が暴走した先の戦争において、昭和天皇はなんとか止めようとされたと聞く。

だから、これ以上、過去を暴くことはしない。
僕の記事を読んでくださっている皆さん、どうか自分の住む地域、先祖が住んでいた地域について、自ら調べていただきたい。


人が書いたものを100回読んで信じられなくとも、自分自身が調べ、発見したなら事情は異なる。


次章から、裏神道の情報や、彼らの先祖が行ってきたことについては、
ほとんど記すことはないだろう。

その代わり、
「古代より語り継がれた本当の歴史」と裏神道の方々が教えられてきたことを
根本から覆すことを記そう。
そこには、表も裏もない。
検証することもできない。
それを信じるかどうかは、読者自身が体験するしかないのだ。
僕がそうだったように。
キーワードは、「石」と「剣(つるぎ)」である。
表の方も、裏の方も、ご期待あれ。

[35]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 15時17分09秒 ) パスワード

http://shig1.blogspot.com/2009/08/blog-post_04.html



2009年8月4日火曜日




古代出雲王国−スサノオの光と影−57 八幡様はスサノオ



古代出雲王国−スサノオの光と影−57 八幡様はスサノオ
谷田茂

さて、全国どこにでもあるある神社といえば、八幡様、お稲荷様、天神様。
そのおびただしい数。本当の神様は誰だろう。

まずは八幡様から。
もちろん、筆頭は宇佐八幡宮だ。Wikipediaを見てみよう。


宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社である。全国四万四千社と称する八幡宮の総本社である。式内社、旧官幣大社。正式名は宇佐神宮だが、宇佐八幡あるいは宇佐八幡宮とも通称される。
主祭神は八幡三神と呼ばれ、祭られている神殿の順に応神天皇(一の御殿)、比売大神(ひめのおおかみ/二の御殿)、神功皇后(三の御殿)の三柱の神が上宮・下宮に祭られている(メインは上宮だが、上宮・下宮どちらも三柱全てを祀っている)。比売大神は宗像三神のこととされる。
このほか、境内には仁徳天皇以下五柱の通称「若宮五神」を祭る若宮神社、応神天皇の子神を祭る春宮神社、大山積尊を祭る亀山神社(亀山は当宮が位置する山の名前)、境内の菱形池を守る水分(みくまり)神社、菅原道真を祭る天満神社、素戔嗚尊を祭る八坂神社、武内宿禰を祭る黒男神社、和気清麻呂を祭る護皇神社、初代大宮司・大神比義を祭る大神祖神社、かつて東征中の神武天皇をこの地でもてなしたとされる菟沙津彦・菟沙津姫を祭る宇佐祖神社などが末社として敷地内に存在する。
社伝等によれば、欽明天皇32年(571年)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があった(扶桑略記 東大寺要録、宮寺禄事抄)と言われている。
そして遅くとも社殿を新たに建て替えたと考えられている和銅元年(708年)頃までには大神比義と関係がある大神一族が大和朝廷より宇佐の地にやってきて、あるいは大和朝廷と手を結んで、神仏習合、八幡神創出を行ったと考えられている。
また、宇佐神宮は三つの巨石を比売大神の顕現として祀る御許山山頂の奥宮・大元(おおもと)(=御許:おもと)神社の麓に位置し、豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態であろうと言われている。
そこに、当初は香春岳山麓に住み、その後、現在の中津市大貞薦神社で神官もしくは巫女を務めていたと思われる、渡来系のスサノオの子、五十猛命(いそたける)が始祖と言われている辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込み、後に宇佐辛嶋郷に住んで、辛嶋郷周辺に稲積六(いなずみろく)神社(単に稲積神社とも表記。宇佐市中561)、乙・(おとめ)神社(宇佐市下乙女宮本1343)、さらに酒井泉神社(宇佐市辛島泉1)、郡瀬(ごうぜ)神社(昔の表記は瀬社(せしゃ)。宇佐市樋田字瀬社187-1)と社殿を建築した。
708年創建と伝えられている大隅正八幡宮は、隼人の聖地・石体宮(しゃくたいぐう)に由来するもので、興味深いことに平安末期の記録には、辛島氏出身の漆島氏および酒井氏がその神官を務めたとあり、地主神に、おそらくは豊の国から移住してきた、秦一族の八幡神信仰が合祀されたと考えられている。
699年には辛国の神山名に由来、辛嶋氏に関係すると思われる「稲積城」が日向南部に築かれたことからして、豊の国の秦一族、中でも祭祀を主に司っていた「辛島勝」姓を名乗らなかった辛嶋氏の一部(こちらが本家筋ではないか、とも言われている)が7世紀頃より移住した、と考えられている。「辛嶋」氏の中で、隼人の反乱に勝利した宇佐の辛嶋氏が、大隅の辛嶋氏と区別するため、後に「辛嶋勝」姓を名乗った、という説もある。「勝」は、本来は一族の長である、「村主」が語源と考えられている。

あまりに長いので引用を大きく省くことになったが、賢明な読者はもう、お分かりになったであろう。
宇佐八幡宮の神様は、応神天皇、比売大神、神功皇后の3神であるが、当初は比売大神だけであったものを、大和朝廷が乗っ取って、天皇の租神を加えたのだ。
「秦一族の八幡神信仰」とはっきり書いてある。この地にはぞくぞく秦氏が移り住んでいる。
前に触れた大和のニギハヤヒ関連の神社界隈も、丹後籠神社あたりも、秦氏が多く住んだ。
大和朝廷と秦氏の策略が見えてくるではないか。
では、宇佐の真の神様はだれか?答えはすでに出ている。

「豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態」
「そこに、当初は香春岳山麓に住み、その後、現在の中津市大貞薦神社で神官もしくは巫女を務めていたと思われる、渡来系のスサノオの子、五十猛命(いそたける)が始祖と言われている辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込み」
「素戔嗚尊を祭る八坂神社が末社として・・」

作用。答えはスサノオである。宗像三神がスサノオと習合したことも書いてある。
消された歴史。それは、スサノオによる北九州制覇であった。もちろん、征服はしていない。
秦氏が持ち込んだとされる養蚕、農耕、鉄文化などを伝え、豪族宇佐氏を連合国に加え、宇佐の地に九州制覇の基礎を築いたのであった。
ならば、八幡宮の「八」は、八坂神社や八雲、八俣オロチなど、スサノオに因むものではないか。

結論。
全国四万四千社を誇る八幡宮の真の神はスサノオである!
源氏が八幡様を頂いたのは、当時も武神といえば、スサノオが最高神だったからだろう。

次回はお稲荷様である。もちろん、答えはスサノオだが、きちんと説明してみたい。
58につづく


[36]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 15時18分37秒 ) パスワード

http://shig1.blogspot.com/2009/08/inri.html


2009年8月5日水曜日




古代出雲王国−スサノオの光と影−58 稲荷・INRI・豊受・裏神道



古代出雲王国−スサノオの光と影−58 稲荷・INRI・豊受・裏神道
谷田茂

八幡様が全国四万四千社と前章で書いたが、お稲荷様・・これは数えきれない。
というのは、だれでもどこでも祠を建てて、白いお狐様を買ってきて祀ってしまうからである。
もちろん、どこの神社にも末社として赤い鳥居を何本も連ねて祀ってある。
間違いなく、日本でもっとも祀られている神様である。それもダントツ。
なぜこんなに多いのか?それは商売繁盛の神様だから・・・それもある。
しかし、稲荷の字を見れば分かるように、本来穀物の神様である。
もちろん、お狐様は神ではない。油揚やキツネうどんも無関係。
では、そこんところ、総本山伏見稲荷大社を調べると、以下のようにある。


伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は京都市伏見区にある神社である。稲荷神を祀る全国約4万社の稲荷神社の総本宮とされる。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。

宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)を主祭神とし、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神(しのおおかみ)を配祀する。稲荷神が農業の神であるために、五穀豊穰・商売繁盛・交通安全といったご利益がある。

毎年初詣の時期は近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める。
和銅年間(708〜715年)(一説に和銅4年(711年)2月7日)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる秦氏にゆかり深い神社であるが、秦氏来住以前の原信仰が基礎となったとされる。
山城国風土記逸文には秦氏が稲荷神を祀ることになった経緯が以下の様に記されている。

秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)達の先祖である伊侶巨秦公は稲を多く持ち富裕であったが、稲を舂いて作った餅を的にすると、その餅が白鳥となって稲荷山に飛翔して子を産み社となった。伊侶巨秦公の子孫は先祖の過ちを認め、その社の木を抜いて家に植え寿命長久を祈った。

やれやれ・・・またしても秦氏である。
さて、五穀豊穣が筆頭に挙げられているように、本来農耕神である。
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)がご祭神。ご存知の方はほとんどいない。
それだれ?はい、豊受大神の別名でございます。
豊受、伊勢神宮・外宮の神様です。
もう少し調べると、

トヨウケビメは、日本神話に登場する神。
豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている。
古事記では豊宇気毘売神、日本書紀では豊受媛神と表記される。
古事記ではイザナミの尿から生まれたワクムスビの子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている。
神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。
後に、他の食物神のオオゲツヒメ・ウケモチなどと同様に、稲荷神(ウカノミタマ)と習合し、同一視されるようになった。

伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。即ち、元々は丹波の神ということになる。

記紀ではスサノオまたは月読が食べ物をもらいに、この神様のもとへ行くと、口からいろんな食べ物を出したので、怒って切り殺してしまう。そのとき、 死体からいろんな穀物が出てくるわけだが、
この受持さま、このシリーズでもたびたび登場している、丹後は籠神社から直接外宮へと遷された、異例の神。内宮の天照大神とセットになっている。
なぜわざわざ二人にしたのか?
いやそれよりも「天照大神が一人で食事ができない」などというのはどういうことか。
それは伊勢神宮を立てた時点で「ウケモチ」が無視できない存在であったからだ。
穀物を全国に広げたのは誰か?
もちろん、スサノオ一族である。
祭神名を変えていても、もとはスサノオの息子ニギハヤヒや娘たちが神様であった神社は全国にあるのだ。

はい、お稲荷様はスサノオでありました。びっくり!

最後に秦氏の展開した「裏神道」のうんちくを紹介しよう。

イナリ=INRI
裏神道情報によると、伊勢神宮は内宮、外宮の二つではなく、彼らがこだわる「3」つあり、
秘されている「伊雑宮」をいずれTOP、本宮として発表するらしい。
なぜか。それはこの宮には「首」があるからだと。首?
イエスの罪状板のことだ。ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていたと聖書に記されている。
「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」
この頭文字をとると、INRIになる。で、イナリ。
これがカッバーラ。
いやはや・・

全国のお稲荷さんを拝んでいる皆さん、それはイエス・キリストですよ。
とは、裏神道の言い分。

いいえ、違います。
お稲荷様は、日本のヒーロー、スサノオです。
スサノオは白狐に乗って空を飛んだという言い伝えがあり、狐が眷属(神の使い)とされるのはそのせいでした。



写真は裏神道高官も「白狐である」と断言した写真。
撮影は不肖谷田茂。
著書「霊磁力」東洋出版発行の表紙にも使ってある。
59につづく
[37]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 15時21分35秒 ) パスワード

http://shig1.blogspot.com/2009/08/blog-post_08.html




2009年8月8日土曜日




古代出雲王国−スサノオの光と影−59 え!?天神様も天照大神もスサノオ!!



古代出雲王国−スサノオの光と影−59 え!?天神様も天照大神もスサノオ!!
谷田茂

さて、長い時間かけて日本のほとんどの神様がスサノオやニギハヤヒであることを綴ってきた。
そもそも神などという存在は、実在の人物が死後、崇められて「神」となることが基本中の基本。

これまた全国にある、天神様。
天満宮。菅原道真を祀る。学問、知恵の神様だがもともとは祟り神。
優秀なるがゆえにとんとん拍子で出世し、それをねたんだ藤原氏の陰謀で大宰府に流され、
それを恨んだ結果、雷の神となって究敵を死に至らせる。
しかし、僕は昔から疑問だった。
飛梅の歌をご存じだろうか。
京都の宅で愛した梅の木が一夜にして大宰府に飛んで来たという。
「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
読者のみなさん、梅の木にさえここまで愛される人が祟り神になるとお思いか?
僕は、思わない。
それに、あまりに全国に多すぎる。左遷は平安京、京都で行われたことなのだ。
なぜ全国区に?
はい、その通り。もともとスサノオ神社であったものを菅公にすり替えたのだ。
根拠は?祟り神の名が「火雷天神」であること。
シリーズですでに述べたように、火の神、雷の神といえば、スサノオしかいない。
それに祟る神が全国区になるわけがない。
愛の神・スサノオだからこそ、どこでも感謝の気持ちと共に祀られていたのだ。
だれが塗り替えたか?もちろん藤原氏や秦氏たち。左様、裏神道奥儀である。
あは、お話になりません。

そして、44章でみたように、スサノオの息子にして大和の大王・ニギハヤヒの本名
「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命」と同じ名を持つアマテラス。
これまた主権だけでなく名前まで乗っ取り、「天照」大神とした裏神道の陰謀。

と、いうわけで、みなさん、天照大神=ニギハヤヒ=スサノオ
でした。

これで日本の神社だの祠だの、北海道から九州・沖縄まで、神社の神様は、
なんと100%、スサノオに収斂してしまいました。

裏神道ファンの皆さん、これをどのように説明されるのかお伺いしたい。
60につづく


以下御自分で調べてみてください。


物部がどのような仕打ちを受けたのか、というお話を読んでみたいです。


[38]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月03日 17時29分11秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 さすがあを様すごい、必要な情報をすべて網羅して提示してくれています。

 感嘆! 余韻・・・・・・。

 
 カバラ〜八咫烏〜裏天皇〜アヤタチ〜徐福〜八瀬の童子〜スサノオ
 

 日本の裏世界の深層を覗き見る・・・ゾクゾクするではありませんか!


あを様の気にしておられる鞍馬、貴船もたぶんその中に含まれますね。

 京都は特に魔界と魔界封じの結界だらけ・・・。

 魔界・怨霊に対する畏怖というのは、現代の我々とは比較にならないほど

強烈な世の中だったんですね。呪は原始的人間の本能かも知れませんね。

卑弥呼の時代からずっと続いていた・・・。


 ありがとうございました。とりあえずこれにて─

                          丸に三つ柏の服部
[39]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 22時41分06秒 ) パスワード

そのうちに物部の話をみつけてアップします。



弾左衛門

弾左衛門(だんざえもん)は、江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の頭領。穢多頭(えたがしら)。幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領等を除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。「穢多頭」は幕府側の呼称で、みずからは代々長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門と称した。浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。


概要[編集]

戦国時代は小田原近在の山王原の太郎左衛門が関東の被差別民の有力者であり、弾左衛門は鎌倉近在の由比ヶ浜界隈の有力者に過ぎなかったとされている。ただし、太郎左衛門家の権力も、それほど強いものではなかったとされる。1590年後北条氏が関東の支配権を失うと、徳川家康が代わって支配者となった。小田原太郎左衛門は、後北条氏より出された証文を根拠に引き続き被差別民の支配権を主張したが、徳川家康は証文を没収し、代わって弾左衛門に与えたという。

弾左衛門は、非人、芸能民、一部の職人、傾城屋などを支配するとされていた(「弾左衛門由緒書」偽書)。このうち職人などは早い時期に支配を脱した。1708年、京都の傀儡師小林新助が、弾左衛門が興行を妨害した件で江戸町奉行に訴えた。弾左衛門は敗訴したため、傀儡師・歌舞伎は弾左衛門の支配を脱したと受け取られた。1713年初演の歌舞伎十八番の一つ『助六』は、市川團十郎 (2代目)が弾左衛門の支配から脱した喜びから制作したもので、悪役の髭の意休は、1709年に死去した弾左衛門集誓をモデルにしたと言われている(特に初期の公演では、意休が被差別部落の人間であることがはっきり分かる描写があったという)。これに刺激を受け、非人頭の車善七が訴え出たが、弾左衛門が勝訴した(1722年)。非人は下層芸能民である猿飼(猿回し)・乞胸と並び、幕末まで弾左衛門の支配下に置かれた(ただし、一部の猿回し・芝居・能師・三河万才は、安倍晴明の子孫であり陰陽道宗家となっていた土御門家の管理下に置かれていた)[1]。

身分的には被差別階層であったが、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工等の製造販売に対して独占的な支配を許され、多大な資金を擁して権勢を誇った。皮革産業は武具製造には欠かせない軍需産業であり、当時の為政者から差別を受けつつ保護される存在であった。弾左衛門の地位は世襲とされ、幕府から様々な特権を与えられ、その生活は豊かであった。巷間旗本や大名と比較され、格式1万石、財力5万石などと伝えられた。また一般の庶民と同様、矢野という名はあくまで私称であり、公文書に使用されることはなかった。

『弾左衛門由緒書』等に依れば、秦から帰化した秦氏(波多氏)を祖先に持つとされ、平正盛の家人であった藤原弾左衛門頼兼が出奔して長吏の頭領におさまり、1180年、鎌倉長吏頭藤原弾左衛門が源頼朝の朱印状を得て中世被差別民の頭領の地位を確立したとされる。しかし、江戸時代以前の沿革についての確証はなく、自らの正統性を主張する為のものとみられている。しかし、江戸幕府がこの主張を認めたのは、太郎左衛門より弾左衛門を支配者にした方が都合が良く、その点で両者の利害が一致したからではないかといわれている。

弾左衛門屋敷は山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に位置し、現在の東京都立浅草高等学校の運動場あたり(東京都台東区今戸1-8-13)である。屋敷一帯は、浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であったが、周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていた。屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち、300から400人の役人家族が暮らす住宅もあった。弾左衛門は支配地内の配下は勿論のこと、関東近国の天領の被差別民についても裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられた。関東大震災と東京大空襲の被害を受けたこともあり、弾左衛門にかかわる遺構はほとんど残っていない。部落の神社も近くの神社に合祀され、その痕跡もない。

幕末に活躍した第13代弾左衛門は、長州征伐や鳥羽・伏見の戦いで幕府に協力した功労によって、慶応4年1月(1868年)に配下65名とともに被差別民から平民に取立てられた。明治維新後に弾直樹(内記)と改名し、近代皮革・洋靴産業の育成に携わったあと、1889年(明治22年)に死去した。弾(矢野)家の菩提寺は、屋敷跡向かいにある浄土真宗(大谷派)本龍寺(元和3年(1617年)建立)である。

歴代弾左衛門[編集]

以下は歴代弾左衛門の在職期間である[2]。生没年でない点に注意。
1.弾左衛門集房
2.弾左衛門集開( - 1617年)
3.弾左衛門集道( - 1640年)
4.弾左衛門集蓮(乗蓮)( - 1669年)
5.弾左衛門集誓(乗誓)(1669年 - 1709年)
6.弾左衛門集村(1709年 - 1748年)
7.弾左衛門集囿(1748年 - 1775年)
8.弾左衛門集益(1775年 - 1790年)
9.弾左衛門集林(1793年 - 1804年)
10.弾左衛門集和(1804年 - 1821年)
11.弾左衛門集民(1822年 - 1828年)
12.弾左衛門集司(後に弾譲)(1829年 - 1840年)
13.弾左衛門集保(後に弾直樹)(1840年 - 1868年)
集房と集開は同一人物と言われる。
乗誓と集村の間に夭逝した吉次郎。
集開〜乗誓までは法名。


芸能界がヤクザと絡んでいるとか枕営業とか、分かるような分からない話がちょっと理解出来ました。





車善七


車 善七(くるま ぜんしち)は、江戸時代の江戸浅草の非人頭が代々世襲した名前。


由緒[編集]

同家の由緒については諸説あり、確定していない。
元祖は佐竹家の家老車丹波守義照の子車善七郎という説(『地方凡例録』など)
常陸国の戦国大名佐竹家の家老車義照は関ヶ原の戦いで西軍に加わることを進言した。結果として敗れ、佐竹家は秋田に転封となった。義照はこれを不服として水戸城を奪還する企てを起こす。これが幕府に露見し、捕らえられ磔となり、善七郎は浪人となった。その後、徳川家康の暗殺を企てて捕らえられるが、許されて非人頭となった。三河国渥美村出生説(『浅草非人頭車千代松由緒書』)
初代車善七は三河国渥美村の出生だったが、天正18年(1590年)徳川家康の関東入国のときに江戸に移り、浅草の大川端に住んでいた。その後、慶長13年(1608年)に非人頭に任命された。


概要[編集]

寛文6年(1666年)以降は、江戸の新吉原の隣接地に移され、900坪の土地に広大な住居を構えていた。配下の非人小屋は300軒を超え、小屋が持つ勧進場からの収入で生活を営んだ。江戸の非人頭の中では最も勢力を誇っていた。

また、病囚等の保護を行う浅草溜の管理を任されていた。

穢多(えた)頭(=長吏頭)矢野弾左衛門との間には、配下の雑芸民の管轄や生業に関わる権益などで何度も訴訟が起きた。しかし、享保6年(1721年)から7年(1722年)に訴訟に破れると、長吏頭の配下という地位が確定し、幕末に至った。

明治4年(1871年)の身分解放令によって非人自体が廃止され、非人頭としての地位を失い、その後「長谷部善七」と改名した。


弾左衛門
松右衛門(品川の非人頭)
善三郎(深川の非人頭)
代々木久兵衛(代々木の非人頭)
木下川久兵衛(木下川の非人頭)
旦那場




穢多と非人に区別があったなんて100%知らなかったです。

そういう歴史があったのですねえ。

結局、歴史に興味があっても、知らないことばかりですね。




江戸の被差別民衆と弾左衛門

 現在、被差別部落民(「部落民」)と呼ばれている私たちの先祖は、少なくとも中世にさかのぼるさまざまな被差別民衆だったと考えられています。
 江戸時代、浅草に幕府の下にあって東日本全域の被差別民衆を支配した「弾左衛門」(だんざえもん)という人がいました。江戸の被差別民衆は、この弾左衛門の直接・間接の支配下にあって、被差別民衆の仕事とされるさまざまな仕事に従事し生活していました。この江戸の被差別民衆が、私たち東京の部落民の祖先です。

        
 弾左衛門とは? 


 弾左衛門(だんざえもん)は、江戸時代13代続いた全関東の被差別民衆の支配者です。幕府側の正式呼称は「穢多頭弾左衛門」、自らは「長吏(頭)弾左衛門」と称しました。世襲制で身分は長吏(穢多身分)に属し、江戸町奉行の支配をうけていました。

 弾左衛門の支配下にあった被差別民は、長吏(ちょうり)、非人(ひにん)、猿飼(さるかい)、乞胸(ごうむね)などです。また歌舞伎を江戸中期まで興行面で支配しました。皮革・灯心・筬(おさ)等各種の専売権や全関東の被差別民衆への支配権を背景に、歴代弾左衛門は、旗本なみの屋敷に住み、上級旗本の格式で生活し、その財力は大名をしのいだと言われています。

 弾左衛門とその配下にある長吏たちは、江戸市中の警備・警察、刑場と刑の執行管理をつとめていました。こうした役は中世以来長吏たちの仕事だったのです。また弾左衛門は、巨大な財力を背景に金融業を営み、市中に手広く貸し付けていました。町民たちはこの金を「穢多金」などど呼んで蔑視していましたが、しかし借りに来る町民は後を絶ちませんでした。

 巨大な権力と財力にもかかわらず、弾左衛門の身分は賤民であり、武士はもちろん江戸の町人からも差別される対象でした。歌舞伎や古典落語、あるいは各種の記録には弾左衛門とその配下に対する江戸庶民の強い差別感情が記されています。一方、歴代の弾左衛門は、被差別民の専制的支配者であると同時に代表者としても行動しています。被差別民の利益確保のために幕府に対して様々な訴えをおこないました。特に最後の弾左衛門となった13代集保(ちかやす?)は、幕末・明治維新の動乱期に、自分と配下の被差別民の身分引き上げをもとめて強力な活動を展開しています。

 弾左衛門家の家伝によれば、弾左衛門の歴史は次のようになっています。
 ― 平安後期から鎌倉初期に摂津国から鎌倉に移り住み、鎌倉幕府を起こした源頼朝によって被差別民の支配権を与えられた。その後江戸に移り住み、江戸近在の被差別民を支配するようになる。やがて戦国末期、徳川氏康が江戸に入府したとき(1590年)これを出迎え、鎌倉以来の家の由緒を述べた。そして徳川氏から全関東の被差別民支配の特権を与えられた。実はこのとき、後北条氏のもとでそれまで関東の被差別民の筆頭の地位にあった小田原の太郎左衛門が「後北条氏発行の証文」を差し出して支配権の正当性を訴えたが、徳川氏はこれを許さなかった。そして太郎左衛門の「証文」を取り上げて弾左衛門に与えてしまった ―

 この家伝のうち、徳川家康の江戸入府以降の話は事実、それ以前の話は、弾左衛門の被差別民支配権を正当化するための作為と考えられています。おそらくこうした作為は幕府にとっても都合がよかったので、積極的に「許容」されたということでしょう。

 徳川氏の江戸入府以前の弾左衛門の地位ですが、江戸近辺に定住する中世以来の地域の被差別民の頭、後の長吏小頭(ちょうりこがしら)的存在であったと考えられます。また、まだその頃には「弾左衛門」と名乗っていなかった可能性も強いと言われています。

 いずれにせよ弾左衛門の支配体制は、あるとき突然確立したものではりません。それは江戸幕府と強く結びつくことによって、近世中期(享保期)になってようやく確立したものでした。



秀吉が身分が低い者として差別されていたのは針を行商してたから、というのは知ってました。

でも母上は御器所の人で、ここは平清盛が父上から相続した土地の1つであり、南朝方でもあって、

別にたいして差別されるいわれは無いのに、と思っていました。


針売りという仕事に就いてたのが差別される元なのかと思っています。


    秀吉が中村生まれというのは、なかさんが中村に嫁いだから。

        あ、中村って、戦後ちょっとまで遊郭があったのは
        江戸時代、という時代背景・政治背景のせいなのかな?


また名古屋は信長が清洲に城を移した時に播磨から工人を呼び寄せ、
また信長という人は能力のある者を重宝する新しいタイプの人だったから
当時の名古屋では(清洲時代)差別が無かったと聞いています。

その後、徳川家のいわゆる名古屋城が建設されて、名古屋が発展していくけれど
名古屋は新しい町だから差別は存在してなかったのです。


江戸時代、心中未遂者が非人に落とされたという話を聞いています。

名古屋にもアチコチにそういう特殊エリアが存在します。
実にアチコチにあって(そんなに心中って流行ってたの?)と意外ですが
有名なのは2ー3箇所あたりです。


江戸時代に開発された新田ではそういうのは無いわけで
ま、古い所にあるわけです。


でも殆どそういう話は戦後生まれは知らないわけで、わたくしも全く知らなかったけれど

秀吉の出自が卑しい、と言われて来たことで
   でも信長は認めていた
名古屋では秀吉は「太閤さん」と呼ばれているけど

大坂方が負けたことで、逆に、秀吉は出自が卑しい、と再び言われ
それが今でもエンエンと言われ続けているのかと思います。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月03日 22時55分13秒 ) パスワード

東京都民の不思議:
なぜ台東区と荒川区は合併しないのか?



答え:


荒川区は小さい。
台東区の北側という感じだ。

だったら、合体させて一つの区にすりゃいいのに、と思う。


しかし、そこには歴史的因縁があるのだ。


台東区は穢多頭弾左衛門の支配地で、荒川区は非人頭車善七の支配地なのだ。



形式的には穢多が非人のうえだが、実態は対立していた。
だもんだから、いまだに両者は分かれているのだった。

 


http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/history/index.html

弾左衛門家の家伝によれば、弾左衛門の歴史は次のようになっています。

― 平安後期から鎌倉初期に摂津国から鎌倉に移り住み、

鎌倉幕府を起こした源頼朝によって被差別民の支配権を与えられた。

その後江戸に移り住み、江戸近在の被差別民を支配するようになる。

やがて戦国末期、徳川氏康が江戸に入府したとき(1590年)これを出迎え、

鎌倉以来の家の由緒を述べた。

そして徳川氏から全関東の被差別民支配の特権を与えられた。




http://blog.goo.ne.jp/bittercup02/e/b07e55783079183c3d2b92e36f4e3d08

『男はつらいよ』の公開は昭和44(1969)年。

「フーテンの寅さん」と呼ばれた車寅次郎が16歳で家出して旅暮らしの香具師となり、20年ぶりに故郷の葛飾柴又に戻ってきた、

という設定になっている。香具師の本拠地は浅草。江戸の非人頭の名前が「車善七」だった 



江戸時代の制度化された身分では「士・農・工商」の下に「エタ・非人」という賤民身分が存在した。

江戸・東京こそが差別の原点だ。


関東八州における被差別民の支配者「エタ頭」が弾左衛門で、非人も支配下に置いた。

4人いた非人頭のなかでもっとも大きな勢力を持っていたのが車善七である。

浅草の非人たちをすべて統括するのが非人頭の車善七の仕事だった。


http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-date-20100418.html

『男はつらいよ』の寅さんはテキヤです。

商品を抱えて行かないと行商にならないのに、寅さんは旅する時は何も持っていない。

各府県に親分がいて、そこで商品を仮り、売った分だけが取り分となるシステムになっている。

生れ故郷は柴又となっているが、本当は浅草だ。

テキヤは浅草に住む非人頭の車善七の手下だから、車寅次郎を名乗らせている。

こうしたことを知って見るとまた違った味わいがある。


http://blog.livedoor.jp/daddy101s/archives/50966835.html

同じ浅草にエタ頭と非人頭がいました。この二人は皮革産業の利権をめぐり、争いを繰り返してました。

しかし、最終的には非人衆はエタ頭の支配下にするという寺社奉行の決断が下されます。

けれどもエタ頭の支配下から抜け出る非人衆もでてきます。それが歌舞伎や能の役者たちです。


http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/history/danzaemon02.html

 ところが、中世末期から近世初期にかけて、一般社会の側は長吏・かわたを指して「穢多」と呼ぶようになります。そしてこれが徐々に浸透していき、江戸幕府も正式な身分呼称として「穢多」を用いるようになるのです。

 長吏・かわた身分の人たちは、このような呼び名には納得できませんでした。ですから彼らは、自分たちを「穢多」と呼んで差別することに対して何度も抗議しています。東日本全域の被差別民の頭である弾左衛門も、長吏身分に属する身でした。だから歴代弾左衛門は、幕府に対しても誰に対しても、自らのことを誇りを持って「長吏・弾左衛門」あるいは「長吏頭・弾左衛門」と自称し続けたのです。



何にも知らなかった〜

そうか歴史を神代の時代にまで遡ると今の時代が見えて来るのか〜
へ〜

1万2500年前以前から見て来なきゃいけなかったのか〜

ホントに何にも知らないことばっかり・・・
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月04日 06時04分41秒 ) パスワード

スサノオの光と影  60


読者からのコメント

ここまでスサノオ(僕は信仰させていただいている立場なので大神様とよばせていただきます。)
に、深く入れ込んでいらっしゃる姿勢には、頭がさがります。僕が奉祭させていただいている神社?の御祭神
も素盞鳴大神(別名 嵐庄鬼神牛頭天王)様でいらっしゃいます。貴兄の研究?にお役立ちになるかどうか、
また、到底信用してもらえる様な話ではない事も承知
の上で提示させていただきます。



    社伝よれば御神体(素盞鳴大神様の神像)の由来は、
   応仁の乱の頃に出雲大社御内殿より持ち出されたものだそうです。

   持ち出したのは、南朝家臣、藤原の七勇者(藤原宗近、藤原忠秀、藤原影征・・・)
   目的は、
    御家再興。
   その一族が御神体を祈願しながら西日本を転々としていたそうですが、
   御神徳現れず最終的に相州相模の国字鳥屋村に落ち着いたそうです。

   その地でもさらに数十年祈願を続けたそうですが、
   神徳どころか、嵐はふくは、疫病は流行るはで、
   当時の首領、浅川裕範征行、この神は、国家国有
   神社神と悟り川に流したのだそうです。

      (慶長四年、七月中頃)  

   その下流に住んでいた藤右衛門といふ人が、御神体を拾い上げ、
   村人と共に近所の八坂神社に祀ったということです。

    何故この様な過去の経過が分かっているかと言いますと、昭和初期に大神様の神霊が、ある人物に懸かり
   由来、その他教えてくれたそうです。


信用していただけるとは、思っていませんが、何か御役立ちになればと思います。

       大神様が詠んだ歌

 出雲立ち 立ち現れし 八雲神 雲さえ立てば
 
   出雲なり 出雲八重咲く 八雲神


ちなみに素盞鳴の尊様には、左目に傷があったとの事です。



********************


筆者からのレス

さて、スサノオ信仰は時代と共に多様化し、朝鮮の牛信仰と習合したりしていますので、
各地さまざまな伝聞があろうかと思います。

ともあれ、霊的な存在としてのスサノオは存在すると僕は信じています。
あのブログを書いているときは、スサノオが乗り移ったように感じたものです。

ですから、井上さまの仰ることを信じない、ということは、全くありません。

確か記事に書いたと思いますが、江戸時代まで、出雲大社のご祭神はスサノオだったようです。

そのことに関し、出雲大社の高官に聞き糺したところ、言葉を濁しながらも、
「いや、大黒様です」と答えましたが・・

現在、拝殿から見て正面には祭神がいないのですが、
本殿を通り越したところに「素賀社」があり、スサノオの小さな祠があります。

地元の人は、拝殿横の通路を通って、素賀社に詣り、祠の周りをぐるっと一周。

      足の病が治るとか・・

裏は崖で、遥か昔の岩くら信仰。
出雲大社のルーツかもしれませんね。


大きなしめ縄の拝殿で手を合わせているのは、氏子と観光客だけではないでしょうか。

とはいえ、あまり悪口も言えません。

前回出雲大社を訪れた時は(総務に話をつけておきました)
若い神官の方が、滝や湧水を案内してくれましたからね。


******************


物部氏がどうなったのか、そのサイトがみつかりません。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月04日 06時24分46秒 ) パスワード

http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/03/post-76f7.html

物部氏の御先祖さまのお話が分かり易く書かれていました。



2011年3月30日 (水)
仏教を否定した河内の老舗豪族=物部氏


敏達天皇十四年(585年)3月30日、仏教に反対する物部守屋らが、塔・仏殿を焼き、仏像を川に捨てました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この物部守屋(もののべのもりや)らによる仏像投げ捨て事件そのものについては、昨年の3月30日に書かせていただいておりますが(昨年のページ参照>>)、そもそもは、仏教伝来のその日(10月13日参照>>)から、仏教推進派の蘇我(そが)氏VS仏教反対派の物部(もののべ)氏という構図も出来上がっていたわけで、それが、最終的に、古代最大級の内乱とも言える合戦に発展するのですが・・・


では、なぜに、
蘇我氏は仏教を推進する側に、
物部氏は、それを反対する側になったのか?


まずは、推進派の蘇我氏・・・
こちらは、昨年のページにも書かせていただいたように、この蘇我氏自身が渡来系だった可能性が高いとされています。

そもそも突然、歴史上に現われて、「満智(まち)→韓子(からこ)→高麗(こま)→稲目(いなめ)」という、わずか3代で天皇の臣下のトップを獲得する蘇我氏ですから、その出自は謎だらけなのです。

ただ、たとえ蘇我氏自身が渡来系ではなかったとしても、この時代に、最先端の技術とともに大陸からやって来た渡来系の技術集団を束ねるような役目をしていた事は確かで、彼らと天皇家とのパイプ役という立場から、大陸の人たちが信仰する仏教を、日本にも取り入れようとするのは、言わば自然の摂理・・・その方が、より彼らと意気投合する事は間違いないですから・・・



一方の廃仏派の物部氏・・・
こちらは、古くからの天皇の臣下という立場でした。

蘇我氏がいきなり登場した外資系企業なら、こちらは何百年と続いた老舗・・・そもそもの話は、あの初代天皇=神武天皇の東征に始まります。


ご存じのように、あの高天原(たかまがはら)からこの地上に降り立った=天孫降臨(てんそんこうりん)したのが、太陽神である天照大御神(天照大神・アマテラスオオミカミ)の孫=日子番能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊・ヒコホノニニギノミコト)・・・

そのニニギノミコトの孫が神倭伊波礼毘古命(神日本磐余彦命・カムイヤマトイワレビコノミコト)こと神武天皇で、ジッチャンが降り立った日向(ひゅうが・宮崎県)の高千穂から、東の地方を征服するために、3人の兄とともに旅立つのです。

九州から船で東を目指す彼ら、途中、戦ったり、あるいは貢物を受け取ったりしながら、その土地々々の有力者を配下に治めていった神武天皇ですが、最も苦戦を強いられたのが、浪速(なみはや)から上陸してまもなくのところを待ちうけていた登美(とみ)の豪族・那賀須泥毘古(長髄彦・ナガスネビコ)でした。

・・・で、このナガスネビコが言うには、
「この国には、もうすでに天津神の御子である邇芸速日命ちゅー神が降りてきてて、俺の妹と結婚して子供までおる。
せやから、今、俺は、この神を主君として仕えてるんや。
天津神の血筋が二つあるわけはない・・・今頃、天津神の子孫やっちゅーてやって来て、他人の国を奪おうなんて、けしからんやっちゃ!」


そう、実は、この大阪から奈良にかけての河内一帯は、あの天孫降臨の少し後に、別ルートで降臨していた神様=邇芸速日命(饒速日命・ニギハヤビノミコト)が、すでに統治していたんです。


現在、大阪の枚方・交野から生駒山を越えて奈良へ向かう168号線沿いには、磐船(いわふね)神社という神社がありますが、この神社のご神体は巨大な石・・・これが、ニギハヤビノミコトが天から降りる時に乗って来た天磐樟船(あめのいわくすふね)という乗り物・・・近くには、そのニギハヤビノミコトを祀った天田(あまだ)神社も存在します。



このナガスネビコの言い分を聞いた神武天皇・・・
「天津神の子って言うても、いっぱいおると思うで〜
なんやったら、ホンマに神の子かどうか、その証拠見せてみ〜や」
と・・・

「ならば!」
と、ナガスネビコが証拠となる宝物を見せると・・・
「なるほど・・・ホンマモンやな。けど、それやったら、これも見てみぃ」
と、神武天皇・・・実は、同じ宝物を神武天皇も持っていたのです。

驚きながらも、「もはやあとには退けぬ」と戦いに突入する両者・・・



と、ここで、『古事記』では・・・
激戦のうちにナガスネビコ倒した神武天皇のところに、かのニギハヤビノミコトが、例の宝物を持参して、
「いやいや、天津神の御子が来はったて聞いて、臣下になるために参上しました〜」
と、宝物を献上してあっさりと家来に・・・



『日本書紀』では・・・
「あっちが正統やから譲ろうや」というニギハヤビノミコトの説得を聞かないナガスネビコを、自ら殺して、神武天皇に忠義を誓い、臣下になったと・・・

いやはや、記紀神話では両方ともに踏んだり蹴ったりのナガスネビコさん・・・もちろん、先日も書かせていただいたように(3月18日参照>>)、記紀は、「天武天皇とその系統が、いかに日本を治めるにふさわしい一族であるか」を内外に示すための広告みたいな物ですから、そのストーリー自体は、そのまま信じられるものではありませんが、そのような過程で臣下となったとされるくらい、古くからの家来だったという事は確か・・・



長いお話になりましたが・・・
そう、このニギハヤビノミコトの子孫が物部氏なのです。


実際に、神武天皇が建御雷神(タケミカヅチノカミ)から授かったとされる布都御魂(ふつのみたま)という神剣を宮中から預かって、それを祭神として祀った石上(いそのかみ)神宮を代々の氏神として管理していた物部氏・・・


以前、履中(りちゅう)天皇が家に放火されて逃亡するくだり(2月1日参照>>)でもお話させていただきましたが、この石上神宮は、長年に渡って、神社というよりは朝廷の武器庫のような役割をしていたと見られ、その事を踏まえれば、当時の物部氏という一族は、宮中祭祀と国家の軍事を一手に握る超一級の臣下の一族だった事がわかります。


このように、物部氏は、神武天皇より先に、一部とは言え畿内を治めていた、しかも、天津神の子供だと名乗ってた人の子孫なのですから、その立場上、自分たちのご先祖以外の神様を容認する事はできなかったのです。



そんな立場とはうらはらに、近年の発掘調査では、物部氏の住居跡から、幻となっていた渋川廃寺跡が発見されています。


自分んちに寺を建てるくらいですから、つまりこれは、物部氏も、仏教の信仰自体に反対していなかったという事がわかっています。


今回の敏達天皇十四年(585年)3月30日の仏像投げ捨て事件の時も、守屋一派の独断ではなく、実は敏達天皇の許可が出ていた事が『日本書紀』にも書かれていますし、奈良の元興寺(げんこうじ)の縁起にも「天皇、仏法を破らんと欲したまい」と、この頃の仏教弾圧が天皇の意思だった事が見えます。


    へえ〜

つまり、この頃の仏教弾圧は、国家としての宗教を守るために異国の宗教を排除するという公的な取り締まりであった可能性大なわけです。


    でしょうね


しかし、歴史は勝者が造るもの・・・


この後の戦いで敗れる物部氏は、生き残った者がことごとく奴婢(ぬひ・奴隷)や流浪の民となってしまうほど、一気に墜落してしまいます。


   え?
   そうだったんですか?!

   昔っから戦いに負けた側は奴隷にされるというのは日本だけでなく古今東西の掟ですしね



そのため、記紀の編者は、この時に仏教の導入に反対したのは天皇=国家ではなく、あたかも物部一族とその一派だけのように思えるような書き方にした・・・という事なのでしょう。


    なるほどね

    やっぱり戦いに負けるというのは苛酷な運命が待ってるものですね。



きっとわたくしが捜していた物部氏の末路というのは
奴婢にされたとか流浪の民になったとか
そういうお話だったのでしょうね。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月04日 06時33分41秒 ) パスワード

上記<2月1日の履中天皇のゴタゴタ話>とは何?
と思ったので検索しました。



2011年2月 1日 (火)

カノジョ寝撮られ放火され…ゴタゴタ即位の履中天皇





履中天皇元年(400年頃)2月1日、第17代・履中天皇が即位しました。

・・・・・・・・・・・・・・


あの日本一・・・いや世界一の広さの古墳でおなじみの仁徳天皇。

履中(りちゅう)天皇は、その仁徳天皇の長男として仁徳天皇二十四年(336年)頃に生まれました。


その御名を大江之伊邪本和気命(大兄去来穂別尊・オオエノイザホワケノミコト)と言います。


その恋多き性格ゆえ、女のモメ事が絶えなかったものの、「民のカマドは賑わいにけり」のお話に代表されるように、国の乱れ的な騒動はなく、おおむね平和な国家を築いていたとされる仁徳天皇・・・(1月16日参照>>)。


実像はともかく、そのような名君の後には、得てしてその後継者を巡っての争いが起こるもんです。


仁徳天皇亡き後、長男で皇太子だったイザホワケは、羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘(葛城葦田宿禰の娘とも)である黒媛(くろひめ)を妃にしようと考えました。


しかし、ここに彼の即位をヨシとしない者が一人・・・イザホワケの弟・墨江中王(住吉仲皇子・スミノエノナカツノミコ)です。

「なんとか邪魔してやろう」と、兄の名をかたって黒媛のもとを訪れたナカツノミコは、その勢いのまま、彼女と一発・・・もとい、彼女と一夜をともにします。


そうとは知らぬイザホワケは彼女を皇妃に迎えるとともに履中天皇元年(400年頃)2月1日に大和の磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)にて、第17代・履中天皇として即位しました。


ところが、事件はその祝宴の夜に起こります。


彼女と先にヤッちゃった事件が大きくなる事を恐れたナカツノミコ・・・もちろん、そこには、兄に代わって自らが皇位につこうという野心もあったのかも知れませんが、とにかく、酒宴の席で酔いつぶれ、グッスリと眠り込んだ兄を殺そうと、宮殿に火を放ったのです。


しかし、近臣・阿知直(アチノアタイ)の機転で、炎の中から脱出した天皇・・・ひとまず、石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)へと、その身を隠します。


この時、履中天皇らの逃亡先が「なぜ、石上神宮だったのか?」という理由については、記紀ではふれていませんが、この石上神宮は、あの神武東征の時、神武天皇のピンチを救うべく建御雷神(武甕槌・タケミカヅチ)という神様が、高倉下(たかくらじ)という男を通じて神武天皇に授けた佐士布都(さじふつ・布都御魂=フツノミタマとも)という刀を奉る神社です(2月11日の中盤部分参照>>)。


これは、「当時の石上神宮が、多くの武器を納めた武器庫のような役割を果たしていたと事を刀を奉る神社という言い回しにしてある」なんて事も言われ、しかも、その管理をしていたのが物部(もののべ)氏という事ですから、履中天皇は、逃走してそこに身を寄せたというよりは、大量の武器と物部の軍事力を確保するために、石上神宮に籠城したとの見方もあるようです。

      ↑
   ここにも物部氏



とにもかくにも、その石上神宮に、兄貴の事を心配して陣中見舞いにやってきたのが、さらに下の弟・水歯別命(瑞歯別尊・ミズハワケノミコト:後の反正天皇)でした。


しかし、すぐ下の弟に殺されかけた履中天皇は、どうもミズハワケの事を信じられず、せっかくやって来た弟にも、会おうという気になれません。


そこで履中天皇・・・ミズハワケに
「スミノエノナカツノミコを殺してくれたら、お前の事、信じるから」と・・・


「あいわかった!」
と二つ返事のミズハワケは、ナカツノミコの側近で隼人族の曾婆加理(ソバカリ・刺領布=サシヒレとも)に
「ナカツノミコを殺したら大臣にしてやるよ」
と約束して、ソバカリに皇子を暗殺させたのです。


    あらら・・・


こうしてナカツノミコを倒したミズハワケは、ソバカリとともにその報告に兄のもとへ向かうわけですが、その道すがら、隣にいるソバカリの事が気になってたまらなくなります。

なんせ、自分の
「ナカツノミコを殺したら大臣にしてやるよ」
の話に、いとも簡単に主人であるナカツノミコを裏切ったソバカリです。


いつ何どき、「今度は、自分が裏切られるかも知れない」と思い出すと、たまらなく不安になり、結局、このソバカリを騙し討ちにしてしまうのでした。
(自分勝手やなぁ〜( ̄○ ̄;)!)


    よくある話ですよね。



こうして、即位前後のドタバタ劇を終え、何とか落ち着く履中天皇ですが、その治世は、先の仁徳天皇の時代を受け継いだうえに、平群木菟(へぐりつく)や蘇我満智(そがのまち・あの蘇我一族の祖と言われている人です=3月3日の中盤参照>>)、物部伊莒弗(もののべのいこふつ)などの側近にも恵まれ、おおむね天下太平の世となったとされます。



・・・とは言え、履中天皇のお名前自体が「大江之伊邪本和気命=古事記」と「大兄去来穂別尊=日本書紀」の二つの表記があるように、お話の前後や内容も、古事記と日本書紀では微妙に違っていたりしますが、本日は、両方をミックスしつつも古事記寄りにお話を展開させていただきました。

ご理解くださいませo(_ _)o
 


コメント



 黒媛とは吉備では仁徳天皇と相思相愛なのに后になれなかった媛ということになっていますが、古事記と日本書紀で違うんでしょうか?または、別の人物かな?お福さんもほぼ同時代に複数出てきますが・・

投稿: syun | 2011年2月 1日 (火) 18時12分



syunさん、こんばんは〜

古事記と日本書紀では、話が前後したり部妙に違っていたり、まったく同じ内容が別の人のエピソードとして出てきたりしますね。

このゴタゴタのお話も、古事記だと即位してからですが、日本書紀だと即位の前だったと思います。

wikiを見てみても、黒媛は仁徳天皇と履中天皇の両方に「妃」となってますね。
記紀で違いがあるので、一つにまとめ難いって感じでしょうか…
本文にも書かせていただいた通り、黒媛の出自も曖昧なので、ひょっとしたら、おっしゃる通り、別人なのかも知れません。
[45]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月04日 08時57分45秒 ) パスワード

空の青海のあを様

 
 あを様の情報力と的確さにはいつもながらさすがとうならされます。

 またエンドルフィンがカッカッと涌いております。


 ここ両日いただきました情報は内容が特に濃いところなので、完全解釈

をするべく熟読いたします。


 いずれレスにて発表をと考えていますが、色々な情報がからみあうので、

その整合性を考える考察の時間が必要で、少なくとも1週間位はかかって

しまいます(会社勤め、家庭の雑用、趣味の時間、頭脳の天気もありますし

)。もちろんテーマにもよりますが。


 忌部氏の謎、赤星(金星)、各種隠蔽工作の謎については自分なりにまと

めたいテーマでもありますので、思考錯誤にならないよう試行錯誤(仮説〜

推論)を重ねております。


 それでは、これにて。沢山の情報ありがとうございます。



                          丸に三つ柏の服部
[46]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月04日 16時15分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 インターネットで「竹取翁博物館」(京田辺市)というものを見ましたので、

検索してみましたら、想像以上に興味深く、是非あを様にみていただきたい

と思いました(すでにご存じかも知れませんが)。

     www.youtube.com/watch?v=dpKHCJ3PUTI

 館長の小泉氏の話もおもしろいですし、品川氏の方はさらに数段おもしろ

いです。

 世の中、奥が深いですね。調べれば調べるほど、無限と言ってもいい程、

いろいろな事実(諸説)が出てきますね・・・。

                        丸に三つ柏の服部
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月04日 22時57分16秒 ) パスワード

ありがとうございます。


法然が秦氏?
これは知らなかったです。


右の方にも興味深い動画がたくさんありますね。

またもやネットにへばりつきそう。



もう1度、ありがとうございます。
[48]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月05日 06時17分49秒 ) パスワード

法然をウイキで調べたら母上が秦氏となっていました。




生い立ち

長承2年(1133年)4月7日、
美作国久米(岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国と母・秦氏君(はたうじのきみ)との子として生まれる。

生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。


へえ〜


そして後鳥羽上皇の時に大事件が起きて連座した時に名前を「藤井元彦」と替えさせられたそうです。

   ↓

元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、
法然は『七箇条制誡』を草して門弟190名の署名を添えて延暦寺に送った。
しかし、元久2年(1205年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(1207年)、
後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された[注釈 6]。

念仏停止の断のより直接のきっかけは、
奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが
法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、
さらに出家して尼僧となったという事件であった[6]。

この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、
それが上皇の大きな怒りを買ったのである[6][注釈 7]。

            ココね
             ↓
法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。



確か「藤井」というのは古代の大豪族「葛井」と通じるような記憶です。

で、調べてきました:


葛井寺=ふじいでら

葛井氏は応神天皇の時代に日本へやってきた百済(くだら)の王族だったようです。


応神天皇のとき帰化した百済王族辰孫王の子孫、白猪史 (しらいのふひと)一族の氏寺だったそうです。

聖武天皇が春日仏師に命じて、千手千眼観世音菩薩(=国宝)を作らせ、
神亀2年(725年)藤原房前(ふじわらふささき)を開眼の勅使として
つかわし、
 行基(ぎょうき)を導師として開眼供養をしたという記録が残っているんだって。


境内 白猪史は奈良時代に改名して、葛井連(ふじいのむらじ)になります。


天平20年(748年)8月21日、聖武天皇は葛井連広成(ひろなり)の家へ行幸され、
お泊りになって帰られたという記録が「続日本紀」にあります。




父上の漆間時国について:
漆間 時国(うるま ときくに、承徳2年(1098年)頃 - 保延7年(1141年)?)
美作国の押領使で、法然上人の父にあたる。妻は秦氏である。左衛門尉。



出自[編集]

漆間氏は美作国の豪族で、稲飯命の後裔とされる。
時国の父を国弘あるいは親国とする系図がある[1]。


略歴[編集]

長承2年(1133年)4月7日に、息子が生まれ、名を勢至丸と名づけた。
勢至丸というのは勢至菩薩のように賢い知恵を持った子供という意味で、
学問と武芸に秀でていて、ことに弓を射ることにおいては格別のものがあった。

ところが、保延7年(1141年)、明石源内武者定明が不意に夜討ちを仕掛けてきた。
時国は、この時重傷を負ってしまった。
勢至丸が定明に向かって矢を射つと、矢は定明の顔面に命中し、彼は這々の態で逃げ帰った。

時国は瀕死の床の中で、決して仇を討たないようにと、勢至丸を諭し[2]、その後間もなく亡くなった。


異説(醍醐寺本『法然上人伝記』別伝記)であれば、法然が15歳になった久安3年(1147年)に
父と師の観覚に比叡山に登る意思を伝えた際、
時国から「自分には敵がいるため、もし登山後に敵に討たれたら後世を弔うように」と告げて送り出した。

その後、比叡山で出家した法然が修行中に時国が殺害されたと伝えている。

この説に従えば、時国の殺害は久安3年よりも後のことになる[3]。


蓮生(出家した熊谷直実)は各地を行脚する中、建久4年(1193年)美作を訪れ、
法然の父である漆間時国の旧宅、すなわち法然生誕の地に誕生寺を建立した。

法然の父は地元の人に、尊敬されるような人だったと言われている[4]。




法然さんは秦氏族
http://blogs.yahoo.co.jp/ciaocommodore/63145252.html


山田繁夫さんの「法然と秦氏」を読む。

法然は今から800年ほど前の平安末期、1133年の長承2年4月7日、岡山県(美作)久米の南条稲岡庄の誕生時で生まれている。

父、漆間時国、母秦氏。

幼名を勢至丸と言い、長じて「源空」、1212年、建歴2年1月25日、今の知恩院傍で、薨去。享年79歳。


この漆間氏は、新羅・加羅からの渡来系で、最初、北九州の香春岳付近に定住。香春神社の祭主となる。その当時は辛島と言っていたらしい。


香春神社の祭神は辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命の三神で、
その後、宇佐八幡に移り、そこの禰宜をしたとのこと。

                  ココね
                   ↓
この香春岳は当時銅が産出され、これら秦氏一族は精錬、精銅、製鉄などに長けていて、
宇佐の祭神は八幡様となっている。


その辛島氏が美作に移り住み、漆間を名乗り、又もう1家は立石を名乗っているようだ。

     ココね    
      ↓
法然が秦氏の渡来系タタラ一族の出自を知り、意外な感がした。


                       へえ〜
                        ↓
この中で役の行者の話しも出ていて、彼は渡来系の賀茂氏の一族。

     だれ? 
      ↓
又、豊国法師、法蓮も又秦氏系で、英彦山を開いた修験者だった。



この漆間、立石氏の家紋は「銀杏」であり、「陀羅尼助丸」に通じる。
今欧州(ドイツ)の製薬会社の多くもこの銀杏を原料としているようである。



*************************



漆間・漆部  佐伯部と大伴氏http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/52437599.html


■大伴氏同族佐伯氏と波多野・古沢氏姓

「佐伯氏関係の苗字の殆どが、相模の波多野一族出自のものであるが、これには疑問も残る。

波多野をはじめ、以下にあげる一族は秀郷流藤原氏の猶子となった祖先をもつことで藤原姓も称するも、
実際には相模の古族の出の可能性もありか。」
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/sizokugairan/ootomo-k.htm


波多野は大友氏の母方姓である。
大友氏は相模波多野の大友郷に入って大友を名乗る。今の神奈川県秦野市。

      物部氏で海部氏?
         ↓

■大分国造及び物部氏族と称する漆部連
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/sizokugairan/ootomo-k.htm
大分国造は多氏(カムヤイミミ)の流れで、海部でもある。


■大分君末裔を名乗る大分の漆島氏
「大分君、鶴見公(鶴見−豊後国速見郡人、のち近江に分る、称大伴姓。速見、矢上−鶴見一族)、奴留島公、漆島公(漆島−肥後国託麻郡の世継明神祠官)、漆島宿祢(辛島−豊前国宇佐郡人、辛島社司、辛島郷司。奥、樋田(日田)−宇佐郡人、宇佐八幡摂社瀬社神主家。金光−宇佐八幡宮祠官、高家郷人。居倉、皆木、小迫、上田−宇佐貫首。高村、泉、岐部、古竹、切畑、宮時、部宇、形部、引田、志月、小坂、岡野、恒久、今村、小原、長江、赤尾、新開−同上族。元重−宇佐郡人で、称清和源氏。漆間−日向国高千穂神社社家。日向国諸県郡の漆野、薩摩の宇留島〔売島〕も同族か)。

 
なお、漆島宿祢支流が美作国苫田・久米郡に遷り中世には漆間一族として発展したと伝え、
この一族は物部氏族とされる漆部連が本姓で、        ← 漆間一族はもとは物部?
その仮冒かともいうが、
おそらく久米氏族の族裔か(久米氏族を参照のこと)。」


「大分国造一族とみられるものに、大分之穴穂御埼別、海部直、海部公、海宿祢(海老原−日向国宮崎郡の奈古八幡宮祠官。黒木−日向国真幸院の一宮剣大明神神主、薩摩国出水郡加紫久利神社社司など、初め阿万(阿満)。加久藤−真幸院二宮神社祠官、安曇姓ともいう)。なお、日向国造一族もこの同族とみられるが、景行天皇後裔氏族のほうに掲げた。」
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/sizokugairan/oho1g.htm



※なお、漆島氏は大分でも玖珠郡の領主となった。その出自は四国水軍の河野氏である。

    空海との関係?
     ↓
つまり空海の母方に同じ氏族か?久住山から湧き出る川を潤島川(うるしまがわ)というが、
漆島氏はもともと漆部(ぬりべ)を名乗っていたようである。


大元は鹿児島県南部にいたと思われる中央の大伴氏同族久米部(海人族)の流れで、そもそも水軍になる血筋のようだ。

おそらく磐井の乱で物部氏が九州へやってきたときに協力したのが河野氏や漆島氏である可能性があるだろう。


それが物部傍流を名乗ったか?
となれば河野水軍は鹿児島の久米部出身か同族だったのが最初、熊襲や隼人に加担していたのが、
熊襲・隼人が歴代中央にやられていくと倭五王時代には大伴氏に加担、
やがてそれが物部氏に乗り換えたのが河野氏?


四国河野氏には蓑島系と漆島系があるが、秀吉時代になぜか玖珠郡領主に入れられている。


えにしとしては豊後大友氏時代から漆部氏として協力した?


船を手繰るが漆も扱う氏族ということなのだろうか?


ならば船による貿易で繁栄した大友氏にとって漆間氏は役立ち、
それが府内への中継港だった瓜生浜=潤浜に常時いてもまったくおかしくはない。

バテレンたちは豊後に入るのに、必ず沖ノ島(うるのはま)で小船に乗り換えたと記録がある。

つまり別府湾は浅かった。府内は別府湾から大分川を少し遡った元町・古国府(ふるごう)にあった。
ふるごうという地名も大友氏の父方姓である古庄や、配下だった古沢に関連したか?


大友氏とウルシならぬ南蛮漆喰(シックイ)
「白壁の材料となる漆喰を百科辞典で調べると「消石灰が主材料で、これにスサを加え糊液で練った物を指し、粘土を混ぜたものを“大津”と呼んだ。

スサは、高級仕様では紙をほぐしてドロドロにしたもの。並仕様は麻(上塗りは麻を漂白したもの)を裁断したものを使う。糊液は海草(ツノマタ・ギンナン・フノリ)を炊き、これを濾して作る。

海草糊や麻スサを用いるのは、日本独自の工法で外国では糊を使わず、時に膠を用いスサとして動物の毛を使う」と記されている。


この漆喰に南蛮の名前がついた南蛮漆喰は、中国やマカオを経て、ポルトガルやスペイン人によって伝えられたと思っていたら、どうやらそうではないらしい。

各地で南蛮漆喰と呼ばれているモノは、泥と石灰を混ぜたものを指し、南蛮またはナンバと呼ぶ地方もあれば、砂と石灰だけのものを南蛮と呼ぶところもある。


大分では、漆喰に油を入れたものが南蛮漆喰だが、誰に聞いても何故南蛮なのかはっきりしない」http://www.jplime.com/bunkaisan/007/007.pdf


漆をまぜて作ったとすれば漆喰もなんらかの漆部技能になったことが考えられる。南蛮シックイとは考えつかなかった。



■やはり瓜生島には河野氏系漆間氏と久米部系古沢氏がいて漆加工品を輸出入していた?
それが「うるししま」から「うりゅうしま」に音韻変化したとなるか。

漆間氏が河野氏出身は知ってはいたが、
それが薩摩の久米部から分かれ、佐伯部にも関連したとなると、
にわかに性空と空海の真言修験道の関係が思い出される。  ← 性空と空海の関係?


   後の方ほどワケ分からなくなりました。

[49]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月05日 07時06分07秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 いただいた情報の整理をしています。もったいないですがらね。

 スサノオ、アマテラス、ヤマトタケル・・・物部か天孫か・・・。

 時間軸が広大すぎて・・・。日本に来る前の神話と日本へ来てからの

歴史の区別がなかなかわからないです・・・。神話の内容を日本で発生した

ものとみなすととんでもない創作・フィクションであるということになる。

 時間がかかります・・・。


                          丸に三つ柏の服部
[50]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月05日 09時08分54秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 レスがすれ違いました。最近は早朝に読書・探索、朝食までにレスをとい

うパターンになり、なんとかあを様のレスよりは早くアップできるかなと思

っておりましたが・・・(夜更かしのパターンを変えつつあります)。


 法然と熊谷直実の関係、美作の鉄(刀)、水軍、空海の祖の流れ、いろい

ろわかりました。本当に深いですね、歴史の底流は。


 情報、重ね重ね御礼申し上げます。


 早く何かまとまったことを載せたいと思っております。

 本日は出勤日。明日は日曜日で時間が取れそう・・・。

 も少しお待ち下さい!

                         丸に三つ柏の服部
[51]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月05日 14時18分49秒 ) パスワード

>スサノオ、アマテラス、ヤマトタケル・・・物部か天孫か・・・。
>時間軸が広大すぎて・・・。日本に来る前の神話と日本へ来てからの歴史の区別がなかなかわからないです・・・。
>神話の内容を日本で発生したものとみなすととんでもない創作・フィクションであるということになる。


はい
そうですね。

ついつい騙されますから難しいですね。
どう騙されてるのかが、まず、分かってないし。


ま、勿論、記録がテキトーにごちゃまぜだったり  ← しょうがないのかなとも思います
よくある出自の嵩上げがあったり   ← 願望でしょうし

   そういうのがちょっと見えると我々の先祖の古代人が身近になります。


「とんでも噺」でもコチラとしては(そういう話もあるのか)と一応目を通さなくてはいけないし


とにかく  ユダヤ人にしても基本的な部族の区別が分かってないからゴチャゴチャだし

情報の整理が大変です。(これがなかなか出来ないです)



>明日は日曜日で時間が取れそう・・・

明日は晴れたら海の人じゃないのですか?



釣りに出掛けるのは良いですね
釣れなきゃ釣れないでじっくり考える絶好の機会です。

   釣れたら尚良し、ですしね。



時間はしっかりあります。


とにかくパズルのピースのような神代のお話がどこでどう繋がってるのか少しずつじっくり読みたいです
よろしくね。にっこり

   
[52]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月06日 09時46分24秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 スサノオの理解度については20%程度で、自分自身全く納得できる状況

にはありません。狼藉者としての神話も信じる気になれません。真実はどこ

にあるのか・・・?


 歴史探究は、正に推理して点と点をつなぐ作業。関係しそうな予感のする

証左をそろえ、それを結びつけるべく裏付けを取って行く。一見関係がなか

ったように見えた物が、ある日突然輝きだす、語り出す、意味を持つ。


 ということで、昨日と今朝調べた「点」をランダムに列挙します。

 それは、古代の「星」についてでありす。


 1.マリアは「ステラ・マリス(海の星)」と言われた。

  海の星とは航海では「北極星」のことか・・・?。


 2.「北極星」は実は二重星であった。光度の強いポラリスA(2等星)

の側に光度の弱いポラリスB(9等星)が並んでいるが、ポラリスAの

  光により肉眼ではその姿は見えない。

   古代の人は知っていた?


 3.イエスがベツレヘムで生まれた時、東から来た博士たちがエルサレム

  に着いて言った。

  「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。

  私たちは東の方でその星を見たので、その方を拝みに来ました。」

   その星とは何の星か・・・?


  注)博士とは「マーゴイ」といい、「占星家」または「天文学者」を

   さす言葉である。


 4.物部氏はニギハヤヒとナガスネヒコの妹が結婚して生まれたウマシ

  マジ命を始祖とする。物部氏の伝承を集成した「先代旧事本紀」には

  ニギハヤヒに率いられて天磐船でやって来た者達の名前が記されてい

  て、その中に、

    筑紫弦田物部等祖 天津赤星

  という名前が見える。「赤星」とは何の星を意味しているのか・・・。


 5.尾張国風土記に「尾張国玉置山に一石あり。赤星の落るところなり。

  ふもとに星池というあり。星、常にこの池に宿る・・・」

  赤星とは何の星か・・・?


 6.ルーブル美術館にある紀元前23世紀頃のシュメールを平定したアッ

  カドのナラム・シンの戦勝碑。これは「スサ」出土。弓を手にした王

  ナラム・シンが山岳地方で敵を撃破している闘いの様子を描いている

  が、空に星が2つ描かれている。

   何の星か・・・二重星か?

 
 7.バビロニア時代(紀元前19世紀〜16世紀)のハムラビ時代の円筒形

  印章にはレリーフのように人物、動物等が浮き彫りされているが、その

  中に星が描かれている。

   これは何の星か・・・。


  バビロニアの神観念の特色は、天体崇拝が導入されたことである。特に

 金星と日月が重要で、金星はイシュタール、太陽はウトゥ(シャマシュ)、

 月はシンという神々で表されたという。


 8.イエスのシンボルとしての星はは何星か・・・金星か?


 9.スサノオのシンボルとしての星は何星か・・・金星か?


 10.金星は不気味で嫌われる星なのか・・・それはなぜか?


と星についての関連情報と疑問を列挙してみました。本日最後に紹介しま

すのは、ヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』です。この本は30年位前

、『謎の氷惑星』だったか地球に水と砂漠の砂をもたらした天体Мについ

ての本を読んだ時に関連して購入したものですが、聖書も関係し内容もヘビ

ーで500頁もあったので、サラッと目を通しただけでありました。

 今、改めて星(特に金星)を知りたいということでこの本の中を見てみます

と、正にそのための本と言ってもよい本ではないですか・・・!

 この本に書かれていることは膨大でありますので、少しお時間をいただい

てまとめ、発表をしたいと思います。金星という星の謎と歴史への関連が

わかります・・・。

 本日は中途半端ですがこれにて―

 ランダムな証左・疑問等の諸「点」はいずれ「線」で結びストーリー化

いたします。


 福田漁港に海鮮丼を食しに出かけます。

                         丸に三つ柏の服部






 
[53]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月06日 13時56分27秒 ) パスワード

茂さんへ


難しい話題ばかりです。


ただ1つ2つ思い浮かぶことがあります。


まず「不吉な星」と言ったら  火星  しか思い浮かびません。
   赤くて不気味
   戦いの星
そんなイメージだったと思います。



また「赤星」と言ったら
日本では元寇の時、菊池有隆が奮戦して衣類が血で染まって赤い星のように染まったのを
亀山天皇が「汝の姿はまさに赤星のごとし。爾来、菊池を改めて赤星と称せよ」とおっしゃったそうで


こんなことしか思い浮かびませんでした。
まだまだいろいろ調べないといけません。



せっかちにテキトーにサイトを見てもどんどんずれて行くと思うので
じっくりゆっくり検索したいと思っています。

[54]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月07日 07時11分15秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 貴重な情報、ありがとうございます。『衝突する宇宙』の主要なテーマも

金星と火星となっておりますので、火星にも注目したいと思います。


 星も北極星や金星だけでなく、その他意外と意味を持つ星もあるので、今

調べています。

 過去に購入した本が今になって急に意味を持ち始めています。


 とりあえずはこれにて―

                          丸に三つ柏の服部
[55]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月07日 08時14分05秒 ) パスワード

>過去に購入した本が今になって急に意味を持ち始めています

そうなんですよね
昔はサラッと読んだ本を今頃になってジックリ読みたいってありますね。


   丁度、大掃除で畳をどかしたら、出て来た古い新聞が面白くて読み耽ってしまうように。


だから「本」っていつまでも持っていたいですね。
ま、お書きになった著者の方も嬉しいでしょうね。



「金星」って宵の明星(の方でしたっけ?)
日本人は好きな星ですよね。

   明けの明星は水星でしたか?
   こっちは太陽のすぐ近くなので、スグに消えちゃうし、金星ほど好まれてないように思いますが。


「金星」は英語ではビーナスですから、
「金星」に不吉、というイメージは西洋でも日本でも含まないと思いますが。謎


   でも古代人は別のことを考えていたかも知れないし


あと、明るい星というと  シリウス  ですか?


木星も結構時期によっては大きく見えたりしますよね。月のすぐ傍らで。


日本人が他に好きな星というと「すばる」ですね。
中国人には「昴」は人の運命を司るみたいな感じで「蒼穹の昴」を読みました。


という具合で、古代人とは、全然方向違いのことを考えているのかなあと。
レス<52>は全然レスがつけられないでいます。

   アチコチのサイトに行って面白い話が出ているとソッチにフラフラ行ってしまうし。



(1)については航海の星といったら北極星ですね。
   特に北半球に住んでいる我々には。


(2)については  ポラリスBとは初めてでしたが
   モンゴル人は視力が  6.0  とかいるそうです。

      日本人はせいぜい  1.5とか1.2 で、「良い」方ですよね。
      西洋人は  「良い」というと 2.0  あたりですが  遠視の人がホントに多いです。
         日本人は近視が多いですけど。

   だからポラリスBを古代人が知ってた可能性は高いですよね。


(3)のキリスト生誕の星は

    *1614年、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーは、紀元前7年に起きた、木星と土星の3連会合、
     すなわち両惑星が合体して見えるほどの接近を3回繰り返したのがベツレヘムの星の正体であると結論付けている


    *紀元前2年に惑星の会合が頻繁に起きている事実を重視し、6月の日没後にバビロンの西の空(しし座)に
     金星と木星の大接近を見た東方の博士が星の方向、
     すなわち西方に向かって旅立ち、
     8月の日の出前(しし座)にベツレヘムで水星・金星・火星・木星の集合を見たとする説もある


    *彗星であったという説もある。
     紀元前12年にハレー彗星が現れた事が中国の記録に残されているが、
     キリスト生誕の年としては早すぎる。

    
    *紀元前5年にも何らかの天体が中国や朝鮮半島の観測者によって目撃されている。
     その天体は70日間観測されているが、彗星であったか超新星であったかは不明であり、
     これがベツレヘムの星であったと断定する根拠もない。

     *ベツレヘムの星の他の候補としては天王星が挙げられ、
      紀元前9年に土星と、紀元前6年に金星と会合しているが、
      実際には天王星は肉眼ではほとんど見えないので可能性はないと考えられる 。

     
     *2005年には、アンドロメダ銀河の近くで爆発した超新星や極超新星とする仮説が示されてた。
      しかし銀河系外で発生した超新星残骸を分析して正確な爆発時期を割り出す事は困難である。


     *アイザック・アシモフは、『東方の星』でベツレヘムの星に関する9種類の解釈を提示している

         1.天与の霊感なしには理解できない神秘的な何か
         2.マタイ伝の筆者による創作
         3.三博士たちにしか見えない何か
         4.春分点がおひつじ座からうお座に移ったこと
             (初期のキリスト教において、魚は救世主を指す暗号であった)
         5.ハレー彗星
         6.超新星
         7.金星
         8.明るい流星
         9.紀元前3年および紀元前2年に、しし座のレグルスの近くで起こった木星と金星の会合
            (ライオンはユダ族のシンボル)

             最初の3つは天文学とは無関係であるし、
             残り6つの解釈に対してもアシモフは懐疑的である。




(4)天津赤星とは

    天津甕星?
    http://aoisiro.digiweb.jp/motoneta/kakaseo.html
    コピペできないのが残念です。


    または、天磐船の船長?


    鬼部の内紛?(物部の中の抗争?)

        よく判りません・・・


(5)尾張国風土記 
   「尾張国玉置山に一石あり。赤星の落るところなり。ふもとに星池というあり。星、常にこの池に宿る」


   隕石というのが多いようです。

http://ameblo.jp/duku510/entry-11871226432.html
このブログ主さん、着物を「左前」に着ていらっしゃるようですが?




玉置山
   熊野という土地にある玉置山。

   実はここには、こんな記禄が残されて居るのです。


『尾張国風土記』(逸文)
「玉置山 出鹿狐。在神號道主命。亦有一小石。昔人云、赤星之所落也。山麓有星池。星之常宿所也。亦有怪石。星之所化石也。今猶且星落焉。」

「玉置山 鹿、狐出る。神在り。道主命と号す。また一つ小石あり。昔の人が言うに、赤星の落たる所也。山麓に星池有り。星の常に宿る所也。また怪石あり。星の化せし石也と。今、猶且つ、星、落る。」

「今猶且星落焉」ですから。「焉」は断定や強調などの意を表す置き字です。


つまり星(隕石)が落ちた事に、かなり確信や証拠が有ると思われます。

「星之所化石也」は墜落したUFOの破片かも?





ここに出て来る星池・・・さてこれは一体どこかなと思い詳細を調べると・・・・。


尾張風土記ニ尾張國寄り
玉置山に一石あり。
赤星の落る處也。

梺に星池といふあり。
星常に此池に宿ると。
怪石一ツあり。
星の化せし石也と。
今猶、時々、星、此山に落るといへり。


(岩波古典大系本採択)



「星之常宿所也」→この記述で解ります。もしそれが隕石であるなら
常に・・・・つまり同じ場所に狙った様に何度も落ちまくると言う意味になるので明らかに不自然です。



上の事からわかることは、光る発行体が同じ個所に何度も降りて来て、、星池の湖底に常に着地という事になります。

その離陸・着陸(離池・入池)が何度も目撃されてるということでしょうね。


つまりこれってどう考えてもUFOに関する記述であると感じませんか?



       舞台は京都へ飛びます


【天の橋立は一体どのようにして出来た地形か?】

籠神社HPより引用

 當宮の御鎮座は両宮共に、前期の如く、神代、又は懿徳天皇の御代と傳えられているが、當宮境内の地続きに有名な日本三景の一つである天橋立が存在する。


 その起源については、上代は、當宮の神地神境否、神座とされていたもので、元初は、天神が天降られていて、国々島々を生み成されたとの傳であったが、一般に知られている古風土記には、男神伊射奈岐神が、久志備の浜の北辺にある真名井原(女神所在の奥宮)へ天から通われる時に造られた梯(これを天浮橋と云う)が、大神が地上で一夜寝ていられた間に倒れ伏して出来たのが天橋立であるという説が伝えられている。


 天橋立は、又、海橋立ともいって、別に海浮橋という古傳もあった。内海(阿蘇海)を、神輿が、神幸(船渡御)されて、龍穴から龍宮城へお出ましになった古傳もあり、海神の宮も橋立明神と稱して現存し、龍灯の松の傳もある。
 

 同大神は、真名井神社の裏側の磐座(磐境とも云う、社殿創始以前太古の祭場)西座にお祭りされてあり

       ↑
      真名井神社


             
この磐座を俗には、鶺鴒石或は子種石と呼んで、天照大神御出生の地と伝えられ、日之小宮という。



  この伝説で窺われるように、我々の遠い祖先人は、天上の神と地上の人間界とを結ぶ梯、天浮橋が倒れて出来たものが、天橋立であると素朴に感得したのであって、遠い上代から當神社の神域の内であり、又、近代に至っても境内であったが、後に参道ともなった。


 幕末文政の頃、元伊勢(當宮の事)を目指した善男善女のお蔭参りの列が、天橋立を埋めつくしたと云う記録が残っている。

古歌に「神の代に、神の通ひし跡なれや、雲居に続く天の橋立」と見えていて、その聖地であったことを物語っている。

即ち、天橋立は、ひたすらに神を信じ、真、善、美を、その生の中に追求した敬虔な祖先人の心境にはぐくまれて、白砂青松、幾千代変らぬ麗姿を神と人とのかけ橋として、紺青の海に示現しているものである。



その生誕は極めて神秘であり、清浄である。


何人かの歌に、「何時よりか天浮橋中絶えて、神と人とは遠ざかりけむ」と見える。
 

 今の宮津市は和名抄に載っている昔の宮津郷であって、宮津と云う地名は當宮の古称である与佐宮、又、籠宮の宮の津(港)の意であって、それから宮津の地名が起きたと伝えられる。




又、宮津市域に隣接している与謝郡の地名も、當社奥宮の古稱吉佐宮から発祥したもので、天橋立・宮津・与謝の三地名は、古代の當社との縁由を物語る貴重な資料である。

そうなんです(*^^)v天界が作った梯子がそのまま、この土地になっている・・・・。




内海(阿蘇海)を、神輿が、神幸(船渡御)されて、龍穴から龍宮城へお出ましになった古傳もあり


はいそうです・・・・。竜宮への入り口でもあるという事になるのでしょう。

何人かの歌に、「何時よりか天浮橋中絶えて、神と人とは遠ざかりけむ」と見える。


という表現は、人々が彼等とアクセス出来なくなってきた事を示すのではないかしら?つまりは現代の様に。


稀に、龍が見える方が居ますが、その時の名残なのではないでしょうか・・・・。




しかし・・・この天界の橋が倒れて出来た神秘の天の橋立・・・・。


上の記述の様にのどかで平和な事ばかりではなかった様子なのです・・・・。

ここでは激しい戦いの跡が有ったのでした・・・・。

ここに秘められた戦いの跡とは一体なんでしょうか・・・?



【天の橋立のもう一つの物語】


 前述の話しを要約すると、日本三景の一つとして名高い天橋立は、もともと籠神社の参道として発祥したもので、古来より天と地、神と人とを結ぶ架け橋として信じられていた。





前回とは違う資料古事記からの引用です

『古事記』

登場する神伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)二柱の神が降り立った「天浮橋(あめのうきはし)」は、この天橋立であると云われ、古伝に海橋立(あまのはしだて)、海浮橋(あまのうきはし)ともある。つまり、日本の国生み神話の重要な舞台がここ天橋立であったという事です。




そして天界と地上を上り下りするためのこの天の橋立・・・




昔国生みの神“いざなぎのみこと”(男神)が“いざなみのみこと”(女神:真名井神社を居場所にしていた)に会うため、


天と地の逢瀬に使われた梯子だったと云われいたという事です。




そして一晩で橋が倒れてあの地形に・・・・という事でしたが、実は違う説がもう一つ有ります。




登場人物は変わらないのですが、土地の出来方に差が有るのです。

次に出て来る話しの中では、倒れた橋が天の橋立になってのではなく・・・・・。




龍がこの土地を作ったと言う伝説が残っているのです(*^^)v

その話しは以下の様なものでした・・・・。


【龍神が作りたもう土地。天の橋立】

太古の昔、「いざなぎのみこと」「いざなみのみこと」という神様が、日本列島、そして天橋立をお造りになりました。。

以下
http://ameblo.jp/duku510/entry-11873261089.html



よく分かりませんでした。
ここでアップ。
[57]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月07日 10時31分59秒 ) パスワード

書き直し:

(6)  星が2つの件


https://www.khanacademy.org/humanities/art-history/art-history-400-c-e--ancient-cultures-1/ancient-near-east/v/victory-stele-of-naram-sin--2254-2218-b-c-e

ナレーションでは  「太陽のようなのが2つ、星みたいなのが」  となっていますが

下の方の質疑応答の欄では  
「太陽が2つではなく星が2つで、この2つの星は」と解説があります。


質問:
why are their 2 suns   ←  英語が間違っているのはワタクシのせいではありません。笑
ひっどい英語。
ま、ネット用の英語なので誤字脱字その他、これがネットでは当たり前なので。。。
テキスト英語ってのですね。


「何故太陽が2つ描かれているのですか?」


回答:
They're stars, not suns, and they're the symbols of the deities who led Naram-Sin to victory.

あれは星であって太陽ではありません。
あれはシンボルなんですよ。
ナラム・シンを勝利に導いた神々のシンボルなんです。



ナラム・シンはアッカディア建国の父であるサルゴン大王の子孫で戦勝碑の絵は
4200年前
メソポタミアの東の地域に住むルルビ山の民を征服したことを記念したもの。


これまでメソポタミアの絵は、横長に描いてきたけど
この彫刻は  縦 というところに意味があって
さらに、ナラム・シンが1番上に君臨しているというのが重要で
左に彫られたアッカディア人は右に彫られたルルビの民とは違って統率が取れていた。

アッカディアの軍は上下関係を乱さず列も乱さず
それは右に描かれている山から突き落とされる負けた方のルルビの山の民の混乱と対照的である。


ナラム・シンの角のついた兜は神々の勝利を表していて、
ナラム・シンが現人神になったことを示している。

碑の絵からアッカディアの人々が威厳に満ちた王を神として尊敬の眼差しで見ているのが分かる。

ナラム・シンが天上の神々の地位を得たことを示している。つまり神になったということ。

    こんなところかな?

Victory Stele of Naram-Sin, Akkadian, pink limestone, 2254-2218 B.C.E. (Louvre, Paris)

パリのルーブル博物館蔵。
ピンク石灰岩に描かれたナラム・シンの戦勝碑。
紀元前約2254年ー2218年のもの。

This monument depicts the Akkadian victory over the Lullubi Mountain people.

この碑はルルビ山の民に勝利したのを描いている。

In the12th century B.C.E., 1,000 years after it was originally made, the Elamite king, Shutruk-Nahhunte, attacked Babylon and, according to his later inscription, the stele was taken to Susa in what is now Iran.

碑が作られた1000年後の紀元前12世紀にエラム人の王シュトゥルク・ナフンテがバビロニアを襲い
この碑を現在のイランのスサに移した。


     エラム人は紀元前3千年紀の終わり頃、クティク・インシュシナク(プズル・インシュシナク)王
     の元で高度な政治的統一を見た。

     彼の勢力範囲はイラン高原南西部のほぼ全域を覆っており、
     確実な記録に残るものとしてはイラン高原における最初の統一的政治勢力となって周囲に覇を唱えた。

     以後、エラムはメソポタミアの諸王朝と度々戦火を交え、
     1000年以上の長きにわたってエラムはオリエント世界の重要勢力として存続したが、
     紀元前1千年紀にアッシリアによって主要都市スサが破壊されると
     列強としてのエラムの歴史は終わりを告げた。

     だが、エラム人の作り上げた政治・社会の仕組みと文化は、後にこの地を支配した
     ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)によって継承され、
     後世のイラン世界に有形無形の影響を残し続けた。


A stele is a vertical stone monument or marker often inscribed with text or relief carving. Speakers: Dr. Beth Harris and Dr. Steven Zucker.

この戦勝碑は縦型の石の記念碑で、短い説明文が書かれ、レリーフ彫りがされている。

ナレーションは、ベス・ハリス博士とスティーブン・ザッカー博士。



スサ:
スーサの歴史は古く、アクロポリスからは紀元前4000年にまで遡る神殿跡が発掘されている。紀元前30世紀から紀元前7世紀に跨がるエラム王国の首都であった。

紀元前647年にアッシリアのアッシュールバニパルによって破壊された(en:Battle of Susa)。

紀元前540年にアケメネス朝ペルシャの王ダレイオス1世に占領されてエラムは滅んだが、王宮が置かれて王の道の起点として再び栄えた。

アケメネス朝ペルシャ崩壊後、紀元前324年にマケドニア王国のアレクサンドロス3世がスーサの合同結婚式を行なった。


    ↑
  アレキサンダー大王


旧約聖書関係(ユダヤ関係)では、伝説的人物であるダニエル書の主人公ダニエルの墓とされるものがある。
   
   へえ〜


**********************


アッカド帝国
Akkadは、メソポタミア(現在のイラク)南部を占めるバビロニアの北半分の地域、またはそこに興った最古の帝国。

中心都市はアガデ。

南側にシュメールが隣接し、北西側にアッシリアが隣接している。


歴史[編集]

シュメール文明を征服して、チグリス川とユーフラテス川の間を中心に栄えた。アッカドには、アッカド語を話す人々が定住した。アッカドとは、この地域の中心都市であるアガデの別の呼び方でもある。


アッカド帝国[編集]

紀元前2300年頃のアッカド帝国

サルゴンが登場するまで、アッカドについてアッカド語でかかれた記録はなかった。

伝統的にはサルゴンがアッカドとシュメールの統一帝国の最初の支配者と位置付けられている一方で、
最近の学説は前王ルガルザゲシの下でシュメール人の膨張が始まったことを示唆している。

しかしながら、サルゴンはこの膨張をさらに推し進めて多くの地域を征服し、
彼によって創造された帝国は地中海やアナトリア半島にまで到達した。

サルゴンによって創始されたアッカド帝国は、サルゴンの孫であるナラム・シンの時代までにさらに版図を拡大させたが、各地で勃発する反乱に悩まされ続けた。


ナラム・シンの時代に、自らの名と神を表すサインという語が並記され始めた。

すなわち、王権の神格化が始まったと考えられる。
しかし、ナラム・シンの死後は、アッカド帝国の指導力は衰えて各地の勢力が自立していった。


バビロニア[編集]

後にバビロニアは、シュメールとアッカドをあわせた領域から政治的・地理的に形成されたバビロニアと言う概念の中にまとめられて行き、アッカド語がバビロニアの言語となった。

後代のバビロニアとアッシリアの文学では、「アッカド」と「シュメール」の名がバビロニアの王号の一部として現れる。

lugal Kengi (ki) Uru (ki)(非セム語)= sar mat Sumeri u Akkadi(アッカド語)=「シュメールとアッカドの王」
この王号が単純に「バビロニア王」を意味する。

アッカドの名はペルシア帝国に征服されるまで続いた。



歴代君主[編集]

サルゴン
リムシュ
マニシュトゥシュ
ナラム・シン
シャル・カリ・シャッリ
(空位:紀元前2083年–紀元前2050年)- en:Gutian dynasty of Sumer期 イギギ
ナヌム(英語版)
イミ(Emi)
エルル(英語版)
ドゥドゥ(英語版)
シュ・ドゥルル(英語版)
ウトゥ・へガル(英語版)

このあとウル第三王朝となった。


      これですね
        ↓

ナラム・シンの戦勝記念碑

閃緑岩製のグデア座像 , ルーヴル美術館

初期王朝時代の次がアッカド帝国時代(紀元前2350年-紀元前2113年)である。

「アッカド」とは、サルゴンが作ったバビロニアの北にある中心都市「アガデ」の別称である。

そこの住民は、シュメール語と異なるセム語派のアッカド語を話すため、
シュメール人からアッカド人と呼ばれた。

アッカド王のサルゴンは、当時では特殊であった常備軍を有することで
シュメールに対する軍事的優位性を確保すると、
統一されたばかりのシュメールに攻め入ってルガルザゲシを破り、
シュメール地方とアッカド地方からなるメソポタミアの統一を果たした。


次王リムシュはすぐに暗殺され、マニシュトゥシュが第3代の王になった。


       この人
        ↓
第4代の王、ナラム・シンは新たな王号として「四方世界の王」を採用し、
シリア、アナトリアへ積極的に軍事遠征を行った。

このとき(BC2300頃)アッカド帝国の版図は最大になった。

アッカド王朝以降、アッカドの文化はオリエント全域に影響を与え、
アッカド語はこの地域の共通語として使用されるようになった。
[58]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月07日 10時32分14秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 貴重な情報ありがとうござます。特にキリストの誕生時の星については

深いものがございました。


 明けの明星も金星です。

 ルシファー(正式に調べたことはありませんが)というのは、余り日本には

馴染んではいませんが、金星を悪星というのは、聖書の堕天使(魔王)ルシフ

ァーから来ているのでしょうか?



 母のことを「カカ」様と言う・・・「カカ」は蛇の古語・・・龍神信仰が

影響しているのか。確かに「カカ」様は恐い(笑)。

 ポリネシア言語のような気もいたしますが・・・。


 またまた視野が広がりました。毎日勉強の連続です。読んだだけではすぐ

忘れてしまいますので(水瓶座生まれですが、経年劣化により水漏れしており

ます)、できるだけ帳面にメモをしています(学生時代に戻った? 学生時代

より真剣です・・・笑)。

 
 本当にありがたく、楽しく、感謝申し上げます。


 とりあえずこれにて。


                          丸に三つ柏の服部 
[59]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月07日 10時37分43秒 ) パスワード

(7)以降、ぼちぼち書いていきます。

なんせバビロニアの星がギリシャ神話のもとですから。
[60]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月07日 11時23分28秒 ) パスワード

今、気付きました!

7月7日
それこそ七夕であり服織伝説の日ですね。

すごい偶然。



それに明けの明星も金星でしたか。

確かに「水星」では太陽に近過ぎて「見えない!」ですね。
失礼をば致しました。


ここ最近、脳味噌のオバサン化が加速してて  勝手に  自分の都合の良いように話を解釈しています。


翻訳をお願い致します。
あはは   ←  図々しいオバサン化の開き直りですね  恥




ルシファーと金星について書いて置きます。
これもわたくしの早とちりでした。

ちゃんと調べてから書いてないので、恥を撒き散らして平気なオバサンを自ら証明しまくってますね。
すみません。ぺこり



ルシファー:

キリスト教の伝統においては、ルシファーは堕天使の長であり、サタン、悪魔と同一視される。

悪魔にルシファーの名を適用したのは教父たちであった。

たとえばヒエロニムスは金星を指すラテン語であったルーキフェルを、明けの明星としての輝きの喪失に悲嘆することになる、かつて大天使であった堕天使長の名とした。

この光の堕天使としてのルシファーの名がサタンの別称として普及したが、教父たちはルシファーを悪魔の固有名詞としてでなく悪魔の堕天前の状態を示す言葉として用いた。



ウルガータ聖書より:

「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。」
旧約聖書「イザヤ書」14:12より:

ここでの明けの明星は或るバビロニアの専制君主のことを指し、
輝く者を意味するヘブライ語の「ヘレル」が明けの明星 lucifer と訳されている。


     ↑
    へえ〜



「あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」
— 新約聖書「ペトロの手紙二」1:19


この一節では、明けの明星を意味するギリシア語の「ポースポロス」(Φωσφόρος)が lucifer とラテン語訳されている。

このように、悪魔や堕天使を含意せず、時にはキリストをも指すルシファーの語が用いられた事例としては、4世紀のサルデーニャの聖人である司教ルキフェルの名や、賛美歌カルメン・アウローラ(Carmen aurorae)などがある。

イギリスの詩人シェリーは、地獄の第9層に拘束されているルシファーをおぞましい怪物として描いたダンテを「星たちの群れの中のルシファー」とほめたたえた。


     ややこしい



悪魔としてのルシファー

ルシファーの名の悪魔たるゆえんは、旧約聖書「イザヤ書」14章12節にあらわれる「輝く者が天より墜ちた」という比喩表現に端を発する。

これはもともと、ひとりのバビロニア王かアッシリア王(サルゴン2世かネブカドネツァルであろうと言われる[27])について述べたものであった。

キリスト教の教父たちの時代には、これは悪魔をバビロニアの王になぞらえたものであり、神に創造された者が堕ちて悪魔となることを示すものと解釈された。

堕天使ないし悪魔とされたこの「輝く者」は、ヒエロニムスによるラテン語訳聖書において、明けの明星を指す「ルキフェル」の語をもって翻訳された。以上の経緯をもってルシファーは悪魔の名となったとされる。




美術史家のルーサー・リンクは著書『悪魔』の中で、サタンという言葉とデヴィル(悪魔)という言葉はほとんど同じものとして扱われるが、必ずしも初めから軌を一にした言葉ではないと指摘し、

さらに同様にサタンの同義語として扱われるルシファーについて論を進めている。

ルシファーが悪魔の名とされるようになった由来はイザヤ書の一節の<<<誤読>>>にしか見出せない
と述べた詩人シェリーの悪魔論を引き合いに出し、

また、ルシファーが天を逐われた経緯を最初に決定づけたのは5世紀の教父たちであったことを多くの人は知らないとして、教父たちの解釈とその背景について論じている。


   聖書について確かに<誤訳>の話は聞いたことがありますし
   ギリシャ語やラテン語に翻訳された時にも誤訳が生じたという話も聞いたことがあります。



教父たちによるイザヤ14:12の解釈

テルトゥリアヌスやアウグスティヌスなどの教父たちは「イザヤ書」14:12の墜ちた星ないし墜ちた王をサタンとして論じている。

中でもオリゲネスは、前述のイザヤ書の1節と「ルカによる福音書」10章18節にみる「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た」というイエスの言葉とを結び付け、ともにサタンの堕落を示すものと解釈した。


しかしながら、黙示文学にみられるいくつかの記述と、
この「ルカによる福音書」の1節の示唆するところ、イザヤ書における墜落した輝く星が堕天使を指し示すという理解は、黙示文学の時代にはすでにあらわれており、初期のキリスト教にもこの見方は共有されていたのではないか、とする向きもある。



ルドルフ・シュタイナーにおけるルシファー概念

ルシファーはルドルフ・シュタイナーの提唱した人智学で用いられる概念であり、悪の二大原理の一つである(もう一つはアーリマン)。

ドイツ語で Luzifer と綴り、日本ではドイツ語風にルツィフェルと表記することもある。

シュタイナーは宇宙と人間の進化の過程で人間存在にはたらきかけたさまざまな存在に言及しており、
ルツィフェル(的な霊たち)もそのひとつである。

ルツィフェルの影響によって人間は能動性と自由意志を獲得したが、同時にそれは悪の契機となった、と論じている。




啓蒙の隠喩・象徴としてのルシファー



超常現象などに関するライターであるリン・ピクネットは、ルシファーは進歩と知的探求心の神であるとしている。

神に次ぐ地位にあり、最も美しく聡明な大天使であったが、人間に神をも超える可能性を見出したため、神の意思に反し、大天使長から悪魔に堕とされてまで、人間に(プロメテウスのように)光(知恵)を与えた者として、人間の真の親とされることのある存在でもある。




アラディアの神話におけるルシファー

19世紀アメリカの民俗学者チャールズ・ゴッドフリー・リーランドがトスカーナ地方の女性より入手した古写本と主張する『アラディア、あるいは魔女の福音』に語られる神話においては、


ルシファーは闇である女神ディアーナと対となる光を象徴する男神である。


ディアーナ自身より分かたれて生まれた息子であるルシファーは、
かの女と結ばれ、
ふたりは魔女の女神アラディアとその他の万物を生んだという。

          
            ↑
       この項、日本の神話にありそうですね。



その他

ルシファーは中世以来、神秘劇や文学作品の登場人物としてあらわれ、
ルシファーをめぐる一連のエピソードがさまざまに変奏されて物語られた。

西欧文学において、ルシファーが登場する名高い文学作品としては、
ダンテの『神曲』とジョン・ミルトンの『失楽園』が挙げられる。

特に後者は、神に叛逆するルシファー(作中ではサタン)を中心に据えて英雄的に歌い上げたため、
その後のルシファーにまつわる逸話に多く寄与することになる。


キリスト教の聖書正典に存在せず、主なキリスト教会が公式の教えとして認めたことはないが、
アダムの最初の妻リリスが夫の許から離れた後ルシファーと結婚したという伝説がある。

  ↑
  アダムって誰?リリスって誰?
  ということで検索しました。


    In Jewish folklore, from the 8th–10th century Alphabet of Ben Sira onwards,
     Lilith becomes Adam's first wife, who was created at the same time (Rosh Hashanah)
     and from the same earth as Adam.
     This contrasts with Eve, who was created from one of Adam's ribs.
    へえ〜
    そうだったの?!

    アダムの最初の妻リリスとは、ユダヤの伝承で、
    アダムが神によって造られた時、一緒に同じ土くれから創造されたのだそうです。

    リリスはアダムのアバラから造られたとされるイブと比較される存在なんだそうです。

   
        初めて知った〜!驚


    


この伝説に基づいた文学作品に、ジョージ・マクドナルドの『リリス』がある。


ルシファーと大天使ミカエルは双子の兄弟だという説があるが、
これについて由緒ある典拠は見当たらず、
20世紀以降のフィクション作品から広まった話ではないか、
とライターの森瀬瞭は述べている。


          
   大昔、神父さまに訊いたことがあります。
   「アダムとイブの息子はアベルとカインで
    カインがアベルを殺したから
    残ったカインからどうやって子供が生まれたのか?
    有り得ないじゃないか」と。

   そしたら神父さまは「アダムとイブは生めよ増やせよ」とたくさん子供を作っていた
   と答えました。笑


   その時、子供だったから、なんとなく納得しましたが

   なるほど、前妻にも子供を作ってたのかもね、アダム君。


   聖書のお話をそのまま信じていたわたくしは永くキリストは一人っ子だと思っていました。

       キリストが生まれてからヨゼフとマリアの夫婦は男子を4人?女子を1人?作ってたとか。

       このお話を知って、な〜んだ、ヨゼフとマリアは普通の夫婦だったのか
       と妙に納得しましたっけ。


神話も伝説も伝承も、フツーの人間の作ったただのお話なのかもね。
そして
ただの人間だから同じようなお話をアチコチで作ってただけなのかもね。
[61]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月07日 11時36分46秒 ) パスワード

今、オットに「ねえ、アダムの最初の奥さんのリリスって、知ってる?」と訊いたら
「誰?知らないよ、そんな女」と言うので説明したらビックリしてました。


オットは5月にアバラを折ってるので

「神様にアバラの折れたの1本渡して奥さんをもう1人作ってください」とお願いしたら?」

と言ってやったら「2本折ってるから、奥さん2人作ってくれないかな」だって。

   バ〜カ!
[62]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月07日 13時03分13秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 ユーモアにおもわず笑ってしまいました。


 今の医療技術なら自分のクローンは可能かもしれませんね。自分自身の分

身と結婚となると遺伝子のストレンジな所が増幅されてストレンジな結果が

生まれてしまう。

 古代の王家等はそれに近い状況もあったようですから、実際は歴史には残

っていませんが、あったかも知れませんね。ひょっとすると、収容する施設

のようなもの、あるいは地域のようなものが。これは全くの憶測ですが。


 ルシファーについては飛躍的に理解が進みました。だけど日本人の感覚と

しては、「666のアンチキリストとか獣」と一緒で悪魔という概念そのもの

がわかりません・・・地獄というのはわかりますが。日本には悪魔の思想が

ない・・・閻魔大王くらいか、でも悪魔とは言わない。


 いろいろ探求する題材が涌いて来ます。

 
 では、これにて─


 あっそうそう、今日は七夕でしたね。改めてその由来を調べてみます。

棚機(たなばた)・・・機織(はたおり)、すなわち服部の祖先に関係している

と思いますから。


                          丸に三つ柏の服部
[63]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月07日 15時18分52秒 ) パスワード

>今の医療技術なら自分のクローンは可能かもしれませんね。

ES細胞で可能なんでしょうね。
だから禁止になったのかな?



でも古代の人も「クローン人間」のことをとっくに考えていたかも知れないですね。


   なんせ最近買った「先史時代」と「誰も知らない医学」の本を読んだ時
   脳手術が5000年前に行われていた
   と書かれていて

   昔の人ってすごいな
   ワタシの方がよっぽどか遅れているなと思いましたから

   当時の人も自分のクローンをどうやったら作れるか考えていたかもですね。




>自分自身の分身と結婚となると遺伝子のストレンジな所が増幅されてストレンジな結果が生まれてしまう。


はい。

古代人は血筋を守るために近い結婚をして
でも、障害者が生まれてしまうことを知って

今の言葉で表現すると、

遺伝子がとんでもない誤作動を起こす、と知ってたでしょうね。


特に母親が同じ血統の場合の近い結婚がヤバイって。
だから同母結婚はタブーにした。


古代人もちゃんと学習してますね。



「古事記」を読んだ時にわたくしが気になったのは「蛭子」が生まれた話です。

   障害者が生まれるのは
   古代人は性交の仕方に問題があったのではないか?と思ったのかしら?

   ま、初めてのセックスだったから、やり方が、まだ、分からなかったから   障害のある子が生まれてしまった、
   とか古代人は考えたのでしょうかねえ?


   最後に火の子を生んで妻がアソコを火傷して死んでしまった
   これも面白い発想だなと感心しました。


   きっと・・・昔は子供をたくさん生んだから、その後、長生きせず寿命が来た
   ということなのかな?と思ったりします。


   今は子供を生み育てた後も何十年も生きます。
   でも昔は20歳代には死んでたのかな?


命が生まれ、命のリレーがあって、その後には必ず死が訪れるものだ、
と、そういうのを真摯に考えてたのかなとか思ったりします。




>ひょっとすると、収容する施設のようなもの、あるいは地域のようなものが。これは全くの憶測ですが。

あったのかも知れないですね。


蛭子は海に流されました。

   蛭子が迷惑な存在だったら「障害のある子供は殺した」という話になったのかな?と思います。

   でも殺さずに流した。

       ちょっとモーゼの話にも似ているのかも。

       モーゼは流されたことによって偉大な人間に育ちましたからね。

   その後、蛭子がどうなったかは全く出てこないので
   海に流した蛭子はどこかの世界に流れ着いて
   そちらで育てられ、立派な人間に成長した、
   という願望を古代人は期待してたのかな?
       と空想したりします。



古事記や日本書紀を読んで、神代の人々が何を考えてたのかなと想像すると空想が広がっていきます。


今は「プラチナ・タウン」(大泉洋のドラマ)を見ていますが(来週3話目を見ます)
老人に特化した町にしよう
ということで町の活性化を考えたというところに拍手してしまいました。


昔の人は不老長寿のサプリを願い
因幡の白兎のように再生医療を願い
根の国に行ってもやっぱりもう1度こっちの世界に戻って来たい

まったく現代人の我々の願望と同じですね。


御蔭で茂さんのスレッドでとっくに忘れていたロマンを思い出しました。
もう人生ほとんど終わったから、あとは死んで仕上げだな、と思っていました。



古代について、まだまだ茂さんのようには 自分の力で纏めることは 出来ないので
宜しく、です。

  
     またいろいろ纏めたことを教えてくださいね。
[64]久居の服部家さんからのコメント(2014年07月07日 23時01分57秒 ) パスワード

はじめまして
先祖のことを調べておりまして
ここに辿り着きました。

私の先祖は伊賀の服部平左衛門でございます。
何しろ調べ始めたばかりで解からないことばかりです。
先祖代々服部平左衛門保×
と名乗っておりますが
服部は保の付く方が多いですね。
なぜなんでしょうかね?

[65]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月08日 07時14分51秒 ) パスワード

久居の服部さんへ

 ただ今拝見させていただきました。これから出勤なので時間がありません。

帰宅してから調べてみます。平太夫は知っていますが、平左衛門も聞いたこ

とがあるような気がします。「保」というのは確かに多いですが、親の名前の

一字を子につける習慣からでしょうか。保長がルーツでしょうか。学研М文庫

『服部半蔵と影の一族』を読むとかなり服部氏族のことがわかります。


 空の青海のあを様は詳しくいらっしゃいますので、できましたらお答えして

いただけれはと思います。すみません。出かけますので。

 あを様よろしくお願いします。


                        丸に三つ柏の服部

 
[66]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月08日 16時10分25秒 ) パスワード

久居の服部家さん


初めまして。
代々久居の方でしたら  津藩および久居藩それから名張藩とかの記録を見れば
それこそ正確なところが分かるのではないでしょうか?


   桑名藩も調べないとね。
   それから四国の今治藩とかもね。


       石原慎太郎や石原裕次郎の御先祖さまは今治の服部家出身だそうですよ。 


それには三重県の県図書館や津図書館の記録を調べるとか
三重県教育委員会や津市の教育委員会の編纂した記録を調べるとか。


   その他、愛媛県とか今治も。


特に明治維新以降に久居に越して来たのなら
その前にどこにいたかを調べないといけないですね。

だいたい明治の初めにいた所が江戸時代にいた所だと思いますから
除籍謄本を取得すれば分かると思います。


とにかく藩の分限禄を見る努力をなさってください。

藩によって公開になる時がありますし
ネットで出している藩(県や市)もありますしね。


いろいろ取り寄せて読みまくってください。
奥付を見て参考資料を取り寄せて読みまくってください。


それから本家に行くとかね
明治の初めの除籍謄本が参考になると思います。


もうすぐお盆ですからご親戚の方と会って訊くとかね。

*******************


有名どころで、こんなところはどうでしょう?ということで参考まで:


1)
荒木又右衛門


江戸前期の剣術家。

日本三大仇討の一つ「伊賀上野の仇討」(「伊賀越の仇討」「鍵屋の辻の決闘」ともいう)で有名。

慶長3年(1598年)、服部平左衛門の次男として伊賀国服部郷荒木村に生まれる。


本姓は服部氏で、諱は保知。

伊賀国服部郷荒木村生まれ。

父の服部平左衛門は藤堂高虎に仕えて150石取りであったが、
浪人してのち備前の池田忠雄に300石で仕えた。

又右衛門は12歳のとき桑名藩主本多忠政の家臣で,同族の服部平兵衛の養子となった。



元和3年(1617年)主人忠政の姫路への移封にしたがったが、その後どのような理由からか養家を去ったという。郷里の伊賀へ戻り、姓を菊山、さらに荒木と改めている。
柳生三厳(十兵衛)に剣を学んだとされているが定かではない。事実とすれば三厳が大和柳生谷に暮らした寛永3年(1626年)以降の12年の間であろう。その後、大和郡山藩主松平忠明に剣術師範として250石で召し抱えられていて、いずれにしてもその剣名は広く知られていた。

寛永7年(1630年)、美男で有名だった岡山藩主池田忠雄の小姓渡辺源太夫が、彼への懇想を拒まれた同藩の藩士河合又五郎に殺されるという事件が起きた。
事件後、江戸の旗本にかくまわれた又五郎をめぐって、引き渡しを求める池田家とこれを拒む旗本との対立が熾烈を極め、仲裁に入った幕府も手を焼いた。

荒木又右衛門は、仇討を悲願とする源太夫の兄で妻みのの実弟である渡辺数馬を助け、寛永11年(1634年)11月7日伊賀上野鍵屋の辻において又五郎を迎え討ち、首尾よく本懐を遂げさせた。有名な「伊賀上野の仇討」だが、講談などの「36人斬り」というのは脚色で、史実では河合側死者4人のうち、又右衛門が斬ったのは2人である。

仇討後藤堂家にあずけられたが、鳥取藩の強い希望によって、寛永15年8月13日、鳥取・上野両藩の丁重な護衛の下、数馬と共に鳥取藩へ迎えられる。
しかし、鳥取到着後18日目に41歳で没した。


**********************

2)とんでも説かも。テキトーに読んでください。

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E5%8F%88%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80

荒木又右衛門

荒木又右衛門(あらき またえもん)とは、友人渡辺数馬の仇討に勝手に武力介入してひっちゃかめっちゃかにかき回し、友人の人生を台無しにした傍迷惑なサムライである。


[編集] 人物

この男は後世、大石内蔵助らと並んで仇討物のヒーロー、武士の鑑などと持て囃され、講談や時代劇などで主役として”36人斬り”が描かれることも多い。しかし実際の彼はゴロツキも同然の男で、夜な夜な街を闊歩しては喧嘩やカツアゲに明け暮れるようなどうしようもない荒くれ者であった。


[編集] 前半生

又右衛門は伊賀の国服部郷出身であり、元は服部氏を名乗っていた。服部郷と言えば神君伊賀越えの危機を救ったというエピソードで名高い服部半蔵を輩出したことで有名だが、又右衛門の父服部平左衛門は、自分は初代服部半蔵・服部正成の落胤であると自称し、息子の又右衛門にも言い聞かせていた。


無論これは平左衛門の勝手な思い込みの嘘八百なのだが、自尊心の強い平左衛門は頑なに妄信していたようだ。しかしこれにも理由がある。実際は平左衛門は荒木村重の一族であった。

      え〜〜〜????!!!そうだったの???!!!



村重と言えば家族や家臣を見捨てて一人城から逃げ出した臆病者、というイメージが強い武将であり、平左衛門はその臆病者の一族扱いされる事を頑なに嫌い、服部の姓を名乗り、半蔵の隠し子であると主張するようになったという経緯があった。



平左衛門は始め藤堂高虎に仕えていたが、あの子にしてこの親ありというべきか、乱行狼藉が多く、「俺はかの服部半蔵の落胤よ、本来ならば藤堂の方が格下だ」などと酒に酔った勢いで口走ったため高虎の怒りを買い放逐された。

その後、旧友の渡辺数馬の取り成しで姫路の池田忠雄に仕えた。


この渡辺数馬は後に又右衛門が散々迷惑をかけることになる二代目渡辺数馬の父親である。又右衛門と数馬は親子の代から交流があり、又右衛門自身も数馬の姉を嫁に迎えていた。


又右衛門はその後、桑名藩の服部平兵衛の養子となる。彼は剣の腕こそ卓越していたが、如何せん政のほうはからっきしであり、戦国の世が終わった元和の世では大した役職にもありつけずうだつの上がらない日日を過ごしていた。それならそれでその立場に甘んじておけばよいものを、又右衛門は自尊心ばかりは強く、鬱憤を晴らすように狼藉三昧の日日を送り、養父や主君に対しても暴言を吐くなどやりたい放題やらかしたため当然の如く追放され浪人となる。その後は行く当ても無く故郷の服部郷に帰郷し、前にも増してうだつの上がらない日々を過ごしていた。ちなみにこの間、辻斬りをして糊口を凌いでいたという。



[編集] 鍵屋の辻の決闘

そんな冴えない日々を過ごしていた又右衛門の耳に急報が届く。友人にして義弟である渡辺数馬の弟(つまり又右衛門にとっては同じく義弟にあたる)、源太夫が男色関係のもつれから河合又五郎に殺害されるという事件が起こった。源太夫は藩主池田忠雄お気に入りの小姓であり、お気に入りの小姓を殺された忠雄は憤激して即座に又五郎の首を差し出すよう命じたが、又五郎は旗本に匿われ、身柄引き渡しも拒否されてしまう。このため藩主の上意討ちの命も兼ねて、数馬が敵討ちに赴くこととなった。これを聞いた又右衛門は自らの武名を高める千載一遇の好機と考え、呼ばれても居ないのに無理矢理友人の仇討に助太刀をしに行った。又右衛門は「15歳までおねしょしてたことをバラす」などと脅し、自分が仇討に加わる事を許可するよう数馬を説き伏せた。



1634年11月7日、又右衛門と数馬は伊賀国上野の鍵屋の辻で、江戸へと向かう又五郎を待ち伏せ、討ち取った。この時、又右衛門は36人斬りの大奮闘をしたなどと講談では伝わっている。確かに又五郎は数馬らによる襲撃の話があることを耳にしており、この日護衛を付けていた。しかしその人数は11人であった。しかし又右衛門は実際に36人斬りを果たした。では残りの25人は何なのか、答えは明白、ズバリ残りの25人は味方である。又五郎側の11人に対し数馬、又右衛門達は4人で挑んだとされるがこれは大嘘で、実際は又五郎側の2倍近くの26人いたのだ(数馬、又五郎を除く)。しかし、26人もいれば手柄の取り分が減るし、何より多勢でリンチにしてるようでカッコ悪い、男が廃るという理由で、又右衛門は激闘のドサクサに紛れて次々と味方を斬り殺していったのである。その為決闘の舞台は大混乱に陥り、本来ならば一時間もかからないだろうと思われた決闘は数時間にも及んでしまった[1]。最終的に生き残ったのは数馬と又右衛門、恐怖のあまり木陰に隠れてブルブル震えていた岩本孫右衛門の三人だけであった。決着がついた後、岩本も又右衛門に斬り殺されそうになったが、岩本は又右衛門がピンチに陥った時予備の刀を投げて助けてくれた恩があったこと、基本的に良い人の数馬が必死に又右衛門を抑えた事、そして又右衛門が「一人ぐらいならいいか」と妥協した事で命拾いした。



[編集] 事後処理

仇討成就の後、又右衛門は一躍、友人の仇討を果たした仁義ある英雄と称賛された。ドサクサに紛れて味方25人を斬り殺したことについては、数馬の主君である池田家(このころは移封され鳥取藩となっていた)と、伊賀でふて腐れていた時腐れ縁の関係にあった柳生一族が必死になってもみ消したため、なかったことにされた。


      え〜〜〜???!!!そうだったの???!!!


又右衛門が称賛される一方、渡辺数馬の方は空気扱いであり、それどころか「本来仇討を果たさなければならない立場でありながら、友人の又右衛門に泣きついて手伝ってもらい、仇討も殆ど又右衛門にまかせっきりで自分は何もしなかった」などと嘲笑する者までいた。実際は又右衛門が呼ばれてもいないのに勝手に数馬の仇討に乱入したようなものなのだが、又右衛門が持て囃されてゆく中で、いつの間にか数馬が泣きついて又右衛門に仇討を手伝ってもらった、ということになってしまったらしい。数馬にとっては踏んだり蹴ったりであり、この後二人は鳥取藩に身柄を預けられたが、心労から数馬は間もなく他界した。



一方、又右衛門の方はというと、武名を上げて益々調子に乗ったのか、次は海外にも俺の武名を知らしめてやるぜと一人海外へと旅立ち、二度と戻ってくる事は無かったと言う。その為海外へと飛び立った1638年10月5日が一応の没年とされている。


           海外ってどこ????!!!


           島原の乱
           寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、
           寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。


           ということは海外にも行けたんだ〜???!!!


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http://www.gns.ne.jp/eng/cael/science/9604_1.htm
忍者の話



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http://blog.goo.ne.jp/ushiki111/e/e3499e04874f5a0394a17889aa7d0cba


荒木又右衛門の話


荒木又衛門の仇討ちは池田家の仇討ち

 荒木又衛門1599-1638 は伊賀服部郷荒木の生まれで、父・服部平左衛門は藤堂高虎1556-1630に仕えていた。 藤堂高虎は伊予今治藩主で藤堂家宗家初代である。 何度も主君を変えた戦国武将として知られ、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城など多くの築城を手がけ、加藤清正と並んで築城技術に長けていたという。 平左衛門が淡路で浪人した後、備前岡山藩の池田忠雄(第2代藩主で、池田輝政の三男、母は徳川家康の次女・督姫) に召し抱えられた。平左衛門には、渡辺内蔵助数馬という同僚がいて、ともに大坂の陣で戦う関係にあり、数馬の子・みのは後に荒木又衛門に嫁ぐ。 また数馬には長男・数馬(二代目)と次男・源太夫がおり、義兄弟の縁となるのである。 荒木又右衛門は兄・弥五助が池田家に仕えたこともあり、12歳のときに本多政朝(本多忠勝の長男・本多忠政の次男として生まれ、母は徳川家康の長男・松平信康の娘・熊姫)の家臣・服部平兵衛の養子となった。 しかし、本多家が姫路城主となったあとは浪人して故郷の伊賀に帰っている。 このとき15歳の頃に柳生宗矩やその子柳生十兵衛の門人となったという説もあるが、大和郡山藩・松平忠明に召し抱えられ、剣術師範役に取り立てられた。 剣術師範の上席には、河合甚左衛門がいたが、甚左衛門は河合又五郎の伯父であり、のちに荒木又右衛門はこの河合又五郎と対決するのである。

 日本3大仇討ちのひとつといわれる鍵屋辻決闘は、1634年に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟・源太夫の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討ったというもの。 1630年、岡山藩主・池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまう。 又五郎は脱藩して江戸へ旗本・安藤次右衛門正珍にかくまわれることとなった。 激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否したことから、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展するのである。 1632年、池田忠雄が疱瘡に病んだとき、死に臨んで又五郎を討つよう遺言するのである。 幕府は、事件の幕引きをねらい、旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定すが、源太夫の兄・渡辺数馬は仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれ、脱藩する。

 剣術が未熟な数馬は、姉婿の郡山藩剣術指南役・荒木又右衛門に助太刀を依頼する。 そして江戸へ向かう道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。 又五郎側は叔父で元郡山藩剣術指南役・河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付く総勢11人で、数馬側は又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、河合武右衛門の4人であったという。 河合甚左衛門、桜井半兵衛が討ち取られたことで、又五郎側の多くは戦意を喪失し、逃げ遅れた又五郎は数馬に傷を負わされ、又右衛門がとどめを刺した。 鍵の辻領主である津藩藤堂家は又五郎一行の情報提供、周囲封鎖など、数馬、又右衛門らを支援している。 見事本懐を遂げた数馬と又右衛門は世間の評価を受け、特に荒木又右衛門は賞賛を浴びた。 又五郎の河合家はその昔、小牧・長久手の戦いで池田恒興・元助親子を討った安藤直次(徳川家康家臣)の家臣であった。 実はこの仇討ちはその時の怨念を抱く岡山藩主・池田忠雄のものともいえる。


      へえ〜
      そうだったの?



**************************

http://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/c083985fd69d626769d41b10e2345018


荒木又右衛門の謎  1


 日本三大仇討といわれるのは、曽我兄弟の仇討、赤穂浪士の討入り(忠臣蔵)と「鍵屋の辻の決闘」である。前の二つに関してはブログに書いたが、残るひとつが気になっていた。ご存知、荒木又右衛門の活躍する歴史的事実である。

 ところがである。この荒木又右衛門なる剣豪、謎だらけなのであった。

 たとえば、その生年も慶長3年説、4年説、6年説がある。どうやら4年説が正しいらしいが、平凡社の『日本人名大事典』は慶長6年説を採用している。(ちなみにこの大事典の記述は事実の検証を怠っており、鵜呑みにすると講談のような荒木又右衛門像ができあがってしまう)

 つまり1599年生れと確認して先に進もう。

 私たちは時代劇映画やTVドラマによって、荒木又右衛門といえば、柳生新陰流の達人であるとすりこまれている。柳生十兵衛あるいはその父柳生宗矩の門人だったという説が信じられている。この説、調べれば調べるほど疑わしくなってくるのだが、そのことは後に触れる。まず姓名の謎。



 父の名は服部平左衛門、この父ははじめ藤堂高虎に仕え、のち岡山藩の池田忠雄に召抱えられている。


  又右衛門は次男であったらしく12才のときに養子に出されているが、養家も服部姓であった。

実父・養父の服部姓を彼はなぜ名乗らなかったのか。たしかに、伊賀の国服部郷荒木村の生れであるから、村名を姓にしてもおかしくはないが、一時期は「菊山」姓を名乗ったりもしている。姓を変えるということは、ある意味では素性を隠すということである。彼にも素性を隠す必要があったのではないか。伊賀国服部郷といえば、忍者の産地であるからだ。




荒木又右衛門の謎  2



 さて彼が「又右衛門」と名乗ったのも、正確にはいつの頃からかわからない。
 前名は巳之助とも丑之助ともいわれる。慶長6年生れ説の史家は丑之助とする。その年が丑年であるからだ。しかし、彼の妥当な生年はあくまで慶長4年であって、6年ではない。そもそも生年の干支にちなんで名をつけたとは限らない。たぶん丑之助ではなく、巳之助が正しいと思われる。
 なぜ慶長4年が妥当かといえば、伊賀越えの決闘後、伊賀の城代が藩公に事後の様子を注進した公文書があり、そこに「荒木又右衛門年三十六」とあるからだ。逆算すると慶長4年の生まれということになる。

 ともあれ荒木又右衛門、もと服部巳之助であったということになる。しからば、なぜ又右衛門なのか。
 柳生宗矩は但馬守に任じられるまでは、又右衛門と名乗っていた。だから柳生宗矩が自分の前名を荒木に与えたのであろうというのは、江戸学の泰山北斗と仰がれる三田村鳶魚である。三田村鳶魚は荒木が柳生宗矩と師弟関係にあったことを疑っていないが、これはいかかがなものか。

柳生宗矩は荒木が生れる以前の文録3年(1594年)旗本として徳川家康に仕え、以降秀忠、家光と将軍家の剣術指南であった。家光の時代には総目付として幕閣の中枢を占め、大名に列した人物だ。いわゆる江戸柳生の総帥である。江戸に居る柳生宗矩と西国にいる荒木と接点がないのである。

 なんのことはない、荒木の祖父に又右衛門なる人物がいて、その名を踏襲したという説もあるが、こっちのほうがよほど信憑性がある。



***********************



3)
http://www.soratobuniwa.com/knowledge/jinbutuden/index09.shtml



又右衛門の来歴については不明な点が少なくないが、その父と伝えられる服部平左衛門は、藤堂高虎に仕えて百五十石を食んだといい、父の没後に又右衛門は浪人して、備前・岡山藩の池田忠雄(ただかつ)に百五十石で抱えられた後、致仕(ちし)してから、大和郡山藩の松平忠明に召し出されて、二百五十石をもって剣術指南役に取り立てられたことがわかっている。
 彼にとっては故地の伊賀上野――藤堂氏の支城である上野城の城下において、後世に説話文学、浄瑠璃、芝居や講談などに粉飾され、「又右衛門の三十六人斬り」と世に喧伝される剣名を鳴らしたのは、奇縁というほかない。


 本願成就の後、又右衛門と数馬たちは老臣藤堂式部(本姓・磯崎家信)に身柄を預けられ、その式部没後は城代の藤堂高清に預けられ、客分として二十人扶持を給されていたが、寛永十五年(一六三八)二月二十日に幕府の命が下って、二人して、はれて藤堂家の臣に取り立てられた。
しかし、複雑な政治的背景により、同年八月、かれらの身柄は鳥取藩に移され、又右衛門はかの地に着くと間もなく病死したことになっている。享年四十一だった。
 伊賀市にある「伊賀越資料館」には、今、この仇討にまつわる資料が展示されている。




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3)
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100458_80.html
さちこ姫のレス<67>あたりを読まれては?


鈴鹿出身の南朝方忠臣服部宗純が建てた雲居寺のお話です:


    寺の裏にお墓があって、
    墓参りに使う檀家さんの桶がおいてありました。

    それに苗字と家紋がかいてあるのですが。*以下3家は南朝方のお仲間ですね


         丸に抱き茗荷の大橋家
        丸に抱き茗荷の真野家
        源氏車に並び矢の服部家のものがありました。


由緒書きには、
服部伊賀守宗純が良王君家の近くに住み、
一族の菩提寺としてこの寺を創建したと。

九代目の服部平左衛門が一族を率いて信長に仕え、
平左衛門の長子が服部小平太とかいてありました。

 う〜ん。   (← 今川義元に1番槍とつけた服部小平太は我等の敵ですもんね 笑)


up!

[67]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月08日 16時21分19秒 ) パスワード

分限禄がアップできない!
[68]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月08日 16時22分55秒 ) パスワード



*************************



http://home.att.ne.jp/green/toudou/takatora_bugenchou.htm

藤堂高虎 | 寛永七年 | 分限帳

高山様御世分限帳 寛永七年正月(藤堂高虎って高山様?)

                戒名が寒松院殿道賢高山権大僧都だから?

見に行ってね
[69]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月08日 16時24分19秒 ) パスワード

保の字のことは服部家のその一族の「通字」です。


台風のせいでなかなかアップできないようです。
[70]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月08日 22時10分17秒 ) パスワード

海外に行ったとしても不思議じゃないのかもね。



鎖国令


鎖国


鎖国(さこく)とは、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策である。ならびに、そこから生まれた孤立状態を指す。実際には孤立しているわけではなく、李氏朝鮮及び琉球王国とは「通信」の関係にあり、中国(明朝と清朝)[脚注 1]及びオランダ[脚注 2](オランダ東インド会社[脚注 3])との間に通商関係があった。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。


     ココね
      ↓
一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。但し、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降のことであり、近年では制度としての「鎖国」は無かったとする見方が主流である[参考 1]。

なお海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていた[脚注 4]。



「鎖国」体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成した。
1612年(慶長17年)幕領に禁教令
1616年(元和2年)明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する。
1623年(元和9年)イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖。
1624年(寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。
1628年(寛永5年)タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。
1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となった。
1633年(寛永10年)第1次鎖国令。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
1634年(寛永11年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
1635年(寛永12年)第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた[参考 8]。
1636年(寛永13年)第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
1637年〜1638年(寛永14年〜15年)島原の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助。
1639年(寛永16年)第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[参考 9]。
1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。
1641年(寛永18年)オランダ商館を平戸から出島に移す。
1643年(寛永20年)ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される。
1644年(正保元年)中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。
1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。
1673年(延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。

[72]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月09日 00時29分25秒 ) パスワード



 空の青海のあを様、お答えありがとうございました。


 私も調べてみました。服部家長直系で「保」のつく子孫は、二代目の家清

を除き、三代目から十一代保長まで9代続いております。


 服部小平太については、橋場日月著『服部半蔵と影の一族』の87頁から

98頁までいろいろ載っており、それによると、一番槍をつけたのは小平太

ではなく(膝を切られたので)、弟の小藤太か服部一忠か服部中保次かと推測

しています。


 また、津島の平左衛門尉・小平太・小藤太の服部家は、『張州雑志』によ

ると、先祖が100年あまり前に伊賀から津島に移住してきた末裔なのでは

ないかと述べています。


 零時を越しましたので、また―

                          丸に三つ柏の服部



                                以上

[73]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月09日 06時43分13秒 ) パスワード


 スレッド「長上郡の服部氏族Y」を立ち上げました。そちらに移動します。
[74]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月10日 07時10分52秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 バビロニアの星のこと―


 あを様の星に対する知識は、今私もいろいろ調べていますが、確かなもの

です・・・シリウス、木星、昴、北半球における北極星。どこで星の知識を

得られたのですか。

 ハワイ諸島、イースター島、ニュージーランドを結ぶ三角形の内側―即ち

ポリネシアではすごい航海術があるといいます。今、茂在寅男著『古代日本

の航海術』という本を読んでいますが、その中に書かれています。

 彼らは、

 1.陸から来る匂い

 2.陸の上にできる雲

 3.島にさえぎられる海流のうねり

 4.陸からやって来る鳥の行動

 5.天文、即ち太陽、および星

これらの知識と経験を代々伝えて行く。我々にとって大海原は怖いという感覚

があるけれど、彼らにとっては「ちょっとハワイまで行ってきま〜す」と言っ

て自転車でスイスイと出かけて行くようなものか。水はヤシの実か?。また

食料は飛び込んでくるトビウオか。それとも釣るのか?

 星については、あを様ご指摘のとおり、赤道付近と北半球、南半球で天空の

星の位置が変わります。私は浅はかな知識しかなかったので北極星はどこから

でも見えるものと思っていましたが、北極星は北半球でないと見えない。南極

星というのも大昔にはあったそうですが、消えてしまったそうですね。

 具体的には著者はこう述べています。

 「例えば、南緯16度半、東経179度10分のバヌアレブーにおいては、

赤緯(天球上の緯度)で南緯16度40分のシリウス(大犬座の主星で、全天第

一の一等星)が「頭上を通る星」であり、北緯約20度0分、東経約155度0

分のハワイ島では、赤緯で北緯19度19分のアークチュラス(牛飼座の主星

で春の彦星といわれる星)が「頭上を通る星」であることを彼らは覚えていた。

それによって自分が南にいるか北にいるかを判定した。彼らはこのため、星の

名と位置とを歌で覚える方法をとっていた。風は貿易風で一定。指尺で角度を

測った。オリオンは真東から出て真西に沈むので東西の方向はわかった。等々。


 いずれにしても、星の信仰というテーマを探究しています。しばらく悪戦苦

闘が続きます。なかなか抜け出せない予感。


                           丸に三つ柏の服部



[75]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月10日 10時11分31秒 ) パスワード

まず、KAKA はハワイ語で「アヒル」「鴨」のことだそうです。
鳴き声からかも。



ブラジルでは「糞」
これは知ってました。
 

マオリ語では「オウム」鸚鵡だそうです。


   
[76]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月10日 10時34分56秒 ) パスワード

<53>の7について:



7.バビロニア時代(紀元前19世紀〜16世紀)のハムラビ時代の円筒形印章にはレリーフのように人物、動物等が浮き彫りされているが、その中に星が描かれている。

   これは何の星か・・・。


バビロニアの神観念の特色は、天体崇拝が導入されたことである。特に金星と日月が重要で、金星はイシュタール、太陽はウトゥ(シャマシュ)、月はシンという神々で表されたという。



http://www.palette.furukawa.miyagi.jp/space/astronomy/constellation/const_history.htm


面白かったですよ。

人類が夜の天体・星に関心を持ったのは1万年以上前。

    ↓

フランスのラスコー壁画(1万5千〜1万年前)に描かれたいくつかの黒い点々が、おうし座のすばるを、また夏の大三角と模写したと思われる、というのです。

この研究が正しければ、「星をみてそれを記録した最古の人々は」1万5千〜1万年前のフランスに住む旧石器時代の芸術家たち、ということになるでしょうか。



はじめて考古学的に星座の名前が登場するのは、今から約4000年前のことです。紀元前2000年頃、シュメール・アッカド人のあとにアモリ人(アムル人ともよばれる)です。アモリ人は、「目には目を歯には歯を」で知られる『ハンムラビ法典』で有名な古代バビロニア王国を作った民族。彼らも、シュメール・アッカドの高度な文明を受け継いでいました。アモリ人のが残した、今から3800年前のBC1800の記録には、荷車(おおぐま座)、天の狩人(オリオン)といった星座や、現在も星占いの星座として知られる「黄道十二星座」のうち、いて・かに・てんびんを除く黄道9星座が登場しています。つまり、このアモリ人が、「確実に星座をつくった、とりあえず確実な人たち」ということになります。農業を行うために、星ををよく観察し季節を知る必要性があり、やがて暦をつくっていったのでしょう。

 その後、ハンムラビ王が亡くなって、古代バビロニア=バビロン第1王朝が衰退していくと、カッシート族に国をのっとられてしまいます。カッシートの時代は400年も続きますが、あまりよくは知られていません。しかし、境界石(クッドルー)と呼ばれる石碑が大きく注目されます。

 クッドルーは、王が領主に授けた土地所有についての誓約書のようなものだとされています。楔形文字と絵が書かれていて、その絵には動物の姿が多く描かれています。かつては、これが星座絵だといわれていましたが、残念ながら、神々の姿(シンボルマーク)である、ということに現在は落ちついているようです。
 しかし、クッドルーの絵の中には、魚ヤギやサソリ人間、水がめをもつ女神があったりして、これが星座のもとになっていった、という見方もできそうです。



今から約2700年前の紀元前6〜7世紀、アッシリア朝と呼ばれる時代になると、  略  いろんな星座が書かれた資料も多く含まれています。
黄道12星座を含む36の星座がみつかっており、星座の基本が確立したことがうかがえます。


今から約3100前になると、カルディア人は紀元前1100年ごろ、メソポタミアにやってきたアラム系(今のシリアのあたり)地方遊牧民です。そのころのネブカドネザル1世がつくった境界石にはいて座・さそり座・うみへび座などの星座名が認められています。
 B.C.645頃からB.C.550頃まで繁栄したカルディア王国(新バビロニア王国)は、カルディア人が起こした王国ですが、彼らは、天文学・数学などを発達させました。「天文学はカルディアの賜」といわれるほど、カルディアの自然科学や天文学は高度でした。1年が12カ月、1週間は7日、1日は24時間、角度の1周は360度といった現在の常識となっている単位は、みなカルデアで産まれました。また、惑星の会合周期や日食予報など、かなりしっかりと計算され、粘土板にもその数字が残されているといいます。



[77]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月10日 11時10分00秒 ) パスワード

Neo-Babylonian Seal 新バビロニアの円筒型印章の画像


https://www.google.com/search?q=neo+babylonian+cylinder+seals&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=m--9U4rqKJbcoASIx4GYCw&ved=0CCcQsAQ&biw=960&bih=516


面白いですね。


紀元前1500年の「太陽神と崇拝する人」とか
三日月?
星々?
エジプトでは星は天から糸で吊るされてた?


キリストとマリアらしき画像も混じってますね。


人や動物に翼が生えてたりして

   日本だったら「羽衣」になって空を飛びますが
   向こうは「翼」ですから、合理的、ですね。



バビロニアの占星術?の画像

https://www.google.com/search?q=%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%80%80%E6%98%9F&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=I_K9U_HVC4mBogT6-4KABA&ved=0CE8QsAQ&biw=960&bih=516

こっちはカバラとかミトラとか、かなりお遊びなんでしょうね。



*******************


現在の北極星は、こぐま座のアルファ星という2等星ですが、
今から5000年ほど昔、ピラミッドが作られた時代には、りゅう座のアルファ星のツバンという3等星が北極星だったのです。

では、どうして時代によって北極星はかわってしまうのでしょう?

北極星は、北極を地球の自転軸にそってのばした先(天の北極)にある星です。

   実は、地球の自転軸の方が長い間にその向きを変えてしまうのです。

地球には月や太陽などの引力がはたらいています。
このために、ちょうどまわっているコマが首をふるように、
地球の自転軸も周期約26000年で首ふり運動(歳差運動)をするのです。


5000年前、地軸の北極の向きにもっとも近くて明るい星はツバンでした。

そして、今もっとも近いのはこぐま座のアルファ星、現在の北極星です。

今から12000年後には、おりひめ星で有名なこと座の1等星ベガが北極星として北の空に輝くこととなります。


            ↑
         織姫星が出てます



南十字星

これを見たかったら那覇まで行かないと日本では見られないですね。


南十字星は、2つの1等星と2等星、3等星の4つの星でできたこじんまりとした十字形の星のならびで、
全天88星座のうちでもっとも小さなみなみじゅうじ座の中にあります。

南の国のあこがれの星として古くから有名な星ですが、もちろん東京からは見ることができません。それでは、どこまで行った見ることができるのでしょうか。

地球は球の形をしていますから、緯度で10度南に行けば南の地平線10度下の星が見えるようになります。

計算すると、十字のいちばん上(北)の星は、九州南部まで行けばぎりぎり地平線の上に見えることがわかります。

さらに南の沖縄まで行けば、やはり南の地平線ぎりぎりですが、十字全体を見ることも可能となります。

つまり、日本でも南十字星を見ることはできるのです。 


南十字星を探すには、冬の明け方、早春の深夜、春のよいの空がチャンスとなります。

もっとも南半球まで行けば話は別で、
南緯33度以南に行けば南十字星は1晩中沈まなくなり、1年を通していつでも見ることが可能となります。



質問:七夕の夜、2人は会えるのでしょうか?


回答:七夕の星、おりひめ(織女星)、ひこぼし(牽牛星)は、それぞれ、こと座の1等星ベガ、わし座の1等星アルタイルにあたります。

この二つの星は夏の夜の明るい天の川をはさんで輝いています。

七夕の伝説では、織女と牽牛は1年に1度7月7日の夜にだけ会うことができるのです。では、七夕の夜に夜空をずっと見ていたら、二つの星が近づくのが見られるのでしょうか?

私たちからベガまでの距離は25光年、アルタイルまでは16光年です(1光年とは光が1年かかって届く距離のことで、約9兆5千億km)。そして、二つの星の間のじっさいの距離は16光年になります。

すなわち、宇宙でいちばん速い光(秒速30万km)でさえも16年もかかる距離ですから、一晩のうちに二つの星が近づいて会うわけにはいきません。


伝説のお話は美しいのですが、7月7日の夜、七夕の星たちをずっと見ていても、残念ながら二つの星が会うことはありません。


なお伝説では、7月7日が雨の時にはカササギが天の川にそのつばさで橋をかけて織女を渡します。この橋は、現在の星座でははくちょう座の羽のところです。また、ベガとアルタイル、はくちょう座の1等星デネブの作る三角形を夏の大三角とよびます。




************************


http://www.kotenmon.com/str/hitsuji.htm

野尻抱影氏の影響
 日本の星座の本はなにがしか野尻抱影氏の著作に影響を受けており、「羊飼い説」も著書「星座」の中にでてくる以下の記述を孫引きしているものと考えられる。

 「初めバビロニアに星の知識を伝えたのは、B.C.3000年頃、東の山岳地方から侵入してきて、そこに建国したカルディア人であった。彼らは放牧民であったので、夜をこめて羊の番をする間に星空に親しんで、星を”天の羊”、惑星を”年寄りの羊”と呼んでいた。

そして星占いを深く信じていたので、その必要から、太陽が空を一年でめぐる黄道を12の星座に分け、その他の部分にもそれを考えていた。」

 野尻抱影編「星座・第2章バビロニアの星座より」恒星社厚生閣
[78]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月10日 11時25分02秒 ) パスワード

8.イエスのシンボルとしての星はは何星か・・・金星か?

キリストのシンボルの星って?
上記に出た話題ですね。


生誕の時のクリスマスの時のツリーに飾る星はある。

3人の賢者がキリストの誕生を祝った時に星に導かれて、の星はあるけれど
キリストのシンボルの星というのは無いような?



http://www.ancient-symbols.com/japanese/christian_symbols.html

キリスト教のシンボルとその意味


キリスト教の シンボリズムは、対象物や行動にキリスト教の概念を表す内面的な意味を授けています。

キリスト 教は、多くの時代で世界中の全宗教で知られている、一般的な重要なシンボルを借用しています。

宗教的なシンボルは知性と感性に訴えるのが最も効果的です。

シンボルに適している物や行動の選択肢はそれほど多くはなく、たとえそれが全く新し?儀式を生み出そうと試みたものだとしても、他の伝統を模倣する外観を避けることは容易ではありません。





初期の教会で は四大元素のシンボルが広く使われていました。
1.
特に水はキリスト教にとって重要なシンボルで す。
洗礼以外にも、水は清浄や純潔を表しています。
2.
火、特にロウソクの火は聖霊と光を表しています。これらのシンボルの起源は聖書にあります;ペンテコス テの聖霊を象徴する火の舌、イエスの信者は世界の光であるというイエスの記述、ヘブライ12にあるように太陽の火で焼き尽くしているなど。 
3.
今日世界で最 も広く認知されているシンボルの一つが十字で、太古の時代からシンボルとして使用されてきました。
4.
初期キリスト 教で使われてきたシンボルの中で、魚はその重要性において最も高い位置にあるシンボルと言える でしょう。実際に墓などの記念碑から分かるように、魚のシンボルは古代からキリスト教徒にとって身近なものでした。こらはカペラグレカや聖カリスツスのカ タコンベの聖餐礼拝堂などのローマ遺跡で見ることができます。魚はキリスト教のシンボルとして2世紀の初期に描かれました。



古代の人々は 孔雀の肉が死後も腐らなかったことから、クジャクを不滅のシンボルとするようになりました。
このシンボルは初期キリスト教で取り入れられ、このようにして多くの初期キリスト教の絵画やモザイクでは孔雀の姿が見らえます。
クジャクは今でもイースター の季節になると東の地域で使われます。




最もよく知られているキリスト教のシンボルを紹介します。

チ・ ロ はキリスト教で使われた初期十字の一つです。これは”Christ(キリスト)”の最初の2文字をギリシャ語で 重ね合わせた、 chi(チ)=ch、rho(ロ)=rh です。正確には十字ではありませんが、チ・ロはキリストの彼の地位を象徴するだけでなく、キリストの受難を思い起こすものであります。このシンボルが最初 に登場したのは4世紀初期、コンスタンティンが使った皇旗であるラバルムという紋章でした。ラクタンティウスという4世紀のキリスト教の弁証者は、312 年のミルヴィアン・ブリッジの戦い前夜、コンスタンティンが神を見て、彼の部下たちの盾にチ・ロのシンボルを描くようにと命令されたと証言しています。コ ンスタンティンがミルヴィアン・ブリッジの戦いで勝利した後、チ・ロは正式な帝国記章となりました。考古学者は、チ・ロのシンボルが彼の全ての兵士だけで なく、コンスタンティン自身のヘルメットと盾にも飾られていたという証拠を発見しました。コンスタンティンが統治していた時代にはチ・ロが刻まれた硬貨と メダルを鋳造していました。350年にはチ・ロはキリスト教の石棺とフレスコ画で使われるようになりました。 flaming-chalice.jpg (2740 bytes)哲 学者A.N.ホワイトヘッドは、本物のシンボルには歴史を変える力があると言いました。聖杯のシンボルは重要で す。このシンボルは15世紀のチェコの司祭、ヤン・フスの宗教的勇気を表すことで始まりました。彼はワインは司祭のみが共有できるとするローマ教会に対抗 して、集会メンバーと信仰を共有しようと提案して殉教しました。このため彼は火刑柱となり、ユニテリアン派も革新的かつ民主的な宗教行為によって迫害され た歴史があります。



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Vesica Pisces Seed of Life pendant

神 の言葉
ヴェ シ カ・ピセス
命 の種





ichthus.jpg (2229 bytes)イ クトゥスまたはイクスィーはギリシャの言葉で”魚”を意味しています。
イクトゥスのギリシャ文字のスペルでは、イオータ、キー、シータ、ウプシロン、そしてシグマで、英語への翻訳はIXOYEです。これらギリシャ語5文字は "イエス·キリストは神の息子、救世主" という言葉を表していて、ギリシャ語の英表記では“Iesous Christos, Theou Uios, Soter”となります。
このシンボルは主に初期教会年代(1世紀から2世紀にかけて)のキリスト教徒によって使用されました。このシンボルは当時非常に人口の多い港町であったエ ジプトのアレキサンドラから伝わりました。アレキサンドラには多くの物資がヨーロッパ大陸から持ち込まれました。そのため、身近な神であるイエス・キリス トのシンボルとして海岸の人々によって最初に使われるようになりました。

taucross.jpg (872 bytes)タ ウクロス:聖フランシスは聖ダミアン十字のもとでの委託の後、彼はより古代のシンボルを自身の旗に選択しました。

イスラエル経典の解釈によると、初期キリスト教の訳者はセプトゥアギンタでのギリシャ語の翻訳で、ヘブライ語の最後の文字であるタウをギリシャ語の ”T”に転写しました。ヘブライ語の最後の文字をあらかじめ示すことによって、タウ十字の形ができ、キリストが 古いアダムの不従 順を覆し、”新しいアダム”として救世主になったことを意味するシンボルになりました。

latin-cross.gif (1018 bytes)ラ テン十字はプロテスタント十字あるいは西方ラテン十字とも呼 ばれています。
ラテン十字(十字形)はキリスト教のシンボルですが、キリスト教の教会が設立される千年も前から異教徒のシンボルとして使われていました。
中国やアフリカからも見つかっています。これは、雷と戦いの神であるトールのハンマーを描いているスカンジナビアの青銅器時代の石にも見つかっています。  これは幸運をもたらし悪をそらす魔法のシンボルと考えられていました。 岩に刻まれている十字を太陽のシンボル、あるいは東西南北を表した地球のシンボルという人もいます。また、人間を表しているという人もいます。

lamb-of-god.gif (4924 bytes)子 羊: 過ぎ越しの子羊はキリスト、かつキリスト教(キリストは私たち の羊飼いであり、ペトロは彼の羊たちを養うよう言われたからです)のシンボ ルです。また、子羊は初期キリスト教の処女殉職者である聖アグネス(1月21日の祭日)のシンボルです。
dove1.gif (5479 bytes)小 鳩: 聖霊の象徴で、私たちの主の洗礼とペンテコステを表すために使われています。また、死の魂を開放し、ノアの小鳩である希望の前兆を思い起させるために使わ れているシンボルでもあります。 rose49.jpg (6237 bytes)バ ラ:聖なる信仰、聖母、殉教、懺悔の秘密。5本の束ねたバラ はキリストの5つの傷を表しています。
anchor1.gif (2927 bytes)錨:1 世紀の聖ドミッ ティラの墓や、2世紀から3世紀のカタコンベの碑文からも見つかり、特に聖プリシラ(この墓からだけでも70個が発見)、ドミッティラ、カリクストゥス、 コエメテリウム・マーユスの古い墓にあります。 jerusalemcross2.jpg (2984 bytes)エ ルサレム十字:”クルセイダー十字& rdquo;とも呼ばれ、5つのギリシャ十字から構成され、a) キリストの5つの傷と、または b) 4つの福音と地球の4方向(4つの小さな十字)とキリスト自身(大きな十字)を表しています。この十字はイスラムの 侵略に対抗する戦いで使われた一般的なシンボルでした。

baptism1.gif (2218 bytes)洗 礼の十字:ギリシャ 十字に、”Christ(キリスト)”の最初の文字に相当するギリシャ語の”X& rdquo;から構成されていま す。この十字は再生のシンボルでそのため洗礼に関連付けられています。 peterscross.gif (984 bytes)聖 ペトロ十字:ペトロが殉教する際に、キリストを敬って上下逆 さまに磔られることを選びました。上下逆さまのラテン十字は彼のシンボル、 すなわち教皇のシンボルとなりました。悲しいことに、この十字はキリストのラテン十字を逆さまにするという表現から、”反対 ”キ リスト教を目的とするサタン崇拝者(黒’ミサ’など)によって取り込まれてしまいました。
         ↑
      これは知らなかった


Candle火、 特にキャンドルの炎は聖霊 と光を表します。
christian crossキ リスト教 十字架 -
イエス・キリストが磔られたものを表す、最 も知られているキリスト教の宗教シンボルです。キリスト受難の像 (イエスの身体も表した立体的クロスが多い) を表し、さらには一般家庭のクロスシンボルになっています。

十字架のサインは、二つのラインを東西直角 に交差させるシンプルな形で、キリスト教の渡来を示し、人間文明の非常に離れた 時期まで遡ります。十字架は飾りとしてだけではなく、強い宗教的な意味で使用されていたとされています。キリスト教の十字架は様々な形のものがあります。

ラテン十字

latin cross

新コプト教の十字

new coptic cross

crucifix

キリスト受難の像 - イエスの磔を表現した十字架。主にカトリック、英国国教会、ルター派、および東方正教会の教会で使われていて(画が描かれている場所)、キリスト の犠牲 - 磔による死 - を強調しています。キリスト受難の像は今日でも古代と同じように神聖なものです。



総主教十字

上部に二本の横棒があるダブルクロス。上が 短くイエスを十字架に磔にした銘板を表しています。

patriarchal cross

cross crossletクロス・クロスレット
この紋章十字は四つのラテン十字をそれぞれ 直角に組み合わせて、その先端が東西南北をそれぞれ示しています。伝統的に、こ れは十字のメッセージが地球の四つの角に届けられることを表していると考えられていました。エルサレム十字同様、クロス・クロセットは世界の福音の伝道主 義を表すシンボルで、別名ミッションクロスとも呼ばれています。他にも一般的な解釈として、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四人の伝道師を表しているとも 言われています。


christian trinityボ ロメ オの輪は三位一体を表しています。キリスト教では三位一体を表す多くのシンボルがあります。ボロメオの輪は三つの輪が絡み合っているものでキリスト教の三 位一体を表しています。”三位一体”という言葉は”三つが一つ”を意 味するラテン語の名詞 ”trinitas”から来ています。三位一体は、父、息子、精霊として同等で共に永遠の交わりに存在するの三 つの異なる人間か ら神ができているという信仰を表しています。

star of davidダ ビデの星 - ダビデの星は二つの三角形を上下それぞれの向きで重ね合わせて作った六芒星です。ダビデ王にちなんでこの名が付き、イスラエルの国旗にも記されています。 主 にユダヤ教徒とイスラエルのシンボルとして知られていますが、多くのキリスト教徒もダビデの星を同一に考えています。五芒星はキリスト教のシンボルで救世 主イエスキリストの誕生に関連しています。

bread and wineパ ンとワイン - パンとワインはキリストの身体と血を表しています。多くの人がワインを飲むことやパンを食べることを、神聖なことに関連付けたり、あるいは神やイエスと同 様のことを行っていると考えます。

bible symbol聖 書 - 聖書は神の言葉です。

christian circleキリスト教の円は永遠 を表しています。
              ↑
            これも知らなかった 
[79]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月10日 11時56分46秒 ) パスワード

9.スサノオのシンボルとしての星は何星か・・・金星か?


http://books.google.com/books?id=7kOuz5XqwakC&pg=PA79&lpg=PA79&dq=%E3%81%99%E3%81%95%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%80%80%E6%98%9F%E3%80%80%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB&source=bl&ots=lQl-FRWmvg&sig=Df7jco5T5vLi5_MlKjzj2w77gC4&hl=en&sa=X&ei=2_m9U9anItHboATisoLgBQ&ved=0CC0Q6AEwAg#v=onepage&q=%E3%81%99%E3%81%95%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%80%80%E6%98%9F%E3%80%80%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AB&f=false

    なんで縦型なんだ〜〜〜
    コピペが面倒じゃないか〜〜〜
                     絶叫


 シリウス星の謎の古代空間
  by伊東宏之


古代日本と古代エジプトだそうですよ。

シリウス星と謎の古代空間 [単行本]
伊東 宏之

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*************************

URLに行ってみてくださいね。



関連記事

http://kenshin2013.blog.fc2.com/blog-entry-87.html


世界各地の伝説には、龍神(蛇)と神牛の対立構造が見受けられます。
もちろん、日本も例外ではありません。
参考:龍VS牡牛
龍神(蛇)とシリウス。
神牛とオリオン


つまり、龍神系宇宙人の母星がシリウス方面にあって、雄牛神系宇宙人の母星がオリオン座方面にあるとの見解が大勢です。


これらの見解は、主にチャネラーと呼ばれる高次元の霊的交信が可能な方々の情報によるものが殆どであるのが特徴です。



更に話を複雑にさせているのが、ニビルです。



本来なら、これらの話題は避けたかったのですが人類の起源と超古代文明の存在を考慮すると無視出来ない内容です。



もちろん、未確認飛行物体との関連も考慮しなくてはなりません。




参考:何故、江の島は龍だらけなのか


アセンション系の殆どに、シリウスが絡んできます。



そもそも、誰が最初に言い出した事なのでしょうか?



シリウスとオリオンについては、もう少し慎重に検証したいと思います。



参考:シリウス星とドゴン族





次回より、龍神と神牛の対立構造を踏まえながら、日本神話とシュメール文明について考察したいと思います。



*****************


http://kenshin2013.blog.fc2.com/blog-entry-138.html

アラハバキとアヌンナキ上古代天皇家の世界統一王朝の歴史

エジプト18王朝第11代ファラオ・アイは高木神だったのか?


以前も記事にしましたアラハバキ神。

このアラハバキ神の正体は、荒吐三神神でありました。

天神(父神・獅子神・アン)

地神(地母神・蛇女神・キ)

荒吐神(風神・エンリル)

アマテラス・ツキヨミ・スサノオとの関連性がありそうです。

荒吐族は、2系統に大別されます。

阿蘇辺族系(アソベ・獅子神族)

津保化系(ツホケ・蛇の地母神)

参考:全国の阿蘇地名



ここで、川崎真治氏著「謎の神アラハバキ」より荒吐神に唱える唱文をご紹介させて頂きます。


ホーイシヤホー・アラハバキ・カムイ・イシカ・ホノリ・ビッキム・カムイ・ガモ・アヤ・イペ・アパ・カムイ・ホーイシヤホー

アラハバキ・イシカ・カムイ・ホノリ・カムイ・ホー・ダミヤ・カムイ・イシヤホー


上記の唱文は、阿蘇辺族系と津保化系の共通唱文である事を付け加えさせて頂きます。




ガモ・アヤ=賀茂・父

イペ・アパ=伊辺・母(個人的には伊辺は忌部と推察)

ビッキム・カムイ=乳児・神

津軽方言でアヤは父、アパは母を意味します。

江戸時代まで津軽地方では、乳児をビッキと言っていた様です。

イペ・アパについては、少々複雑であるが七枝樹二神を意味する。

即ち夫婦神であり、男神が牡牛神ハル。

女神が蛇神キ。


ここで注意したいのが、牡牛神は蛇女神に統合されて、地神となっている事である。



邪馬台系も、荒吐族の系統であります。

参考までに、邪馬台系が荒吐神に唱える唱文もご紹介させて頂きます。

オロカミマツル・アラハバキ・トカルノスミカニシチマセル・ワノカミツハシラ・アマクタリ・サイハイヲ・オロカミマツル

天神・地神・荒吐之神大三柱・ワノイツソクヲ・サイハイ・タマハク・フシ・オロカミマツル


駆け足でアラハバキ神を説明させて頂きましたが、ここでシュメール神話のアヌンナキを思い出して見ましょう。

アヌ=天神、キ=地神、アヌンナキ=荒吐神である事が理解できます。



       ココね
        ↓
そして、荒吐神とは獅子と牡牛と蛇が融合した龍神であり、スサノオであると言えそうです。

参考:日本の神々と易・五行




参考:シリウス星と謎の古代空間

さて、今後の私の課題を読者の皆さんにお伝えしようと思います。

先ず、私の尊敬する川崎真治氏の歴史言語学的見地から分析した日本の起源についての理解度を深める。

次に、高橋良典氏の長年に渡る地道な研究結果でもある抹消された世界史の復元の鍵となる神代文字の習得。

カラ族(原日本人)による世界統一王朝の歴史の扉を開け、シャーマニズムのリンク先を探求。




#miho

我々が認識不能な3次元物質世界と異なる意識世界と魂との関わり。

ガイア意識と天変地異との関係。

月の謎と太陽系そして銀河系と広がるパラダイム宇宙論の探求。

下画像:岡山県岡山市立オリエント美術館蔵 有翼鷲頭精霊像浮彫 





これらを無限ミクロと無限マクロの観点で、原始から原子へと輪廻する現象と照合する事。

そして、実際に可能な範囲で現地に赴いて物証を自ら確認する事。

以上が、今後の大まかな私の活動方針です。


何やら意味不明の内容になりましたが、今後の課題は山積しております。




#chichibu000


民俗学者である吉野祐子氏のアラハバキ神についての考察をご紹介させて頂きます。

アラハバキのアラは獅子。

ハバキについては、伊勢神宮にハハキ神が祀られている事。

ハハキ神の祀られている方角が、内宮の東南隅(辰巳の方角)。

そして祭祀の時間が、巳の刻。

蛇の古語は「ハハ」。           ←   茂さんの御興味の「ハハ」


    蛇の古語=ハハ=haha  は kaka と音が似ているので混同される
       
    それで kakaが蛇ともなる。


     しかし日本語の音の変化は  古代が P → 戦国時代が F → 現代が H なんですけどね
                  



波波木神は蛇女神だったのです。

参考:神話が生きている聖地



話は飛びますが、シュメール文明における初期のウル王朝を確立したのは、シュメール人では無くウル人である事。

そして、ウル人の牡牛信仰が獅子信仰に変化した事。


獅子信仰と狛犬との繋がり。

天常立王朝11代の天皇とは、エジプト18王朝11代ファラオである事。





特にシャーマニズム抹殺を目論む、サルゴン2世については、ゆっくりとご紹介させて頂きたく思います。




#sarutubo


聖樹と精霊像浮彫・有翼鷲頭精霊像浮彫が日本にある意味を考えてみましょう。

サルゴン2世の壺は昨年、日本にやってきました。

時が迫っております。

最後まで妄想にお付き合い頂きましてありがとうございました。




http://ameblo.jp/bishamonten337/


kokia gematria (full)


関連記事
岩屋天狗とギルガメッシュ王 (05/20)
アラハバキとアヌンナキ (04/20)
八幡山と十六菊花紋 (02/23)
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2014-04-20:ブログ コメント:12:トラックバック:0 Pagetop
コメント

§ エンリル
こんにちは!いつも楽しく読んでいます、ありがとう!私も日本の復活には縄文時代がとても鍵なのではないかと思っています。消された王朝費だ王朝にしても。エンリルはシッチンの本に出てくる二ビルのエンリルのことでしょうか。だとしたらまさに、人類創世の神でもありますよね。
2014-04-20 15:03 花井結花 URL:編集
§ お帰りなさい
何度も更新がされているか確認してました。お帰りなさい!これからも妄想し続けてください
2014-04-20 17:41 mayu URL:編集
§ エンリルはアラハバキか?
花井様へ

はじめまして。
気まぐれ更新のごちゃ混ぜ妄想ブログを読んで頂きましてありがとうございます。
縄文時代に起きた地球規模の大洪水。
その後、日本列島から世界各地に文明復興の為に超古代天皇家が尽力してきた歴史の扉を少しずつ開けていきたく思っております。

世界各地に残る神話の本筋は全て共通点があります。
神話の登場人物の多くは重複しており、日本神話と対比可能とおもっております。
エンリルの正体もそろそろ判りそうです。
今後とも宜しくお願い致します。

2014-04-20 18:32 毘沙門天謙信 URL:編集
§ ありがとうございます。
mayu様へ

はじめまして。
更新が滞ってしまい申し訳ありませんでした。
今後も頑張って妄想してみようと思います。

2014-04-20 18:39 毘沙門天謙信 URL:編集
§ 本、買いました!
こんにちは!「日枝阿礼の縄文語」私も買ってみました。(セブンネットで)読むのが楽しみです!また私も感想を書きますね。



ワケ分からないけれど、いくつか興味深い話があったのでアップ。
URLに行ってくださいね。
[80]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月10日 12時29分10秒 ) パスワード

10.金星は不気味で嫌われる星なのか・・・それはなぜか?

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/mjkawai/clinic/2003/2003.htm

2003年は、空を見上げ、無限の宇宙に思いをはせてみたいと思います。

 
(1月)上弦の月 〜百人一首にみる「有明の月」〜
(2月)王者の驕り 〜オリオン〜
(3月)天北なお動く 〜千石船の夫婦〜
(5月)美の代償 〜四季の始まり〜
(6月)医道の始祖 〜へびつかい座〜
(7月)愛さまざま 〜七夕そしてオルフェウスの琴〜
(8月)不吉な星、希望の星 〜火星〜
(9月)銀河鉄道の旅 〜賢治の星空〜
(10月)秋のヒロイン 〜カシオペアとアンドロメダ〜
(11月)宇宙の旅人 〜彗星としし座流星群〜
(12月)君よ知るや南の星 〜まだ見ぬ南天〜


この中の「火星」のお話の中に金星などがちょっと出ていました。
以下コピペ


http://www.cam.hi-ho.ne.jp/mjkawai/clinic/2003/aug.htm


不吉な星、希望の星 〜火星〜



 これまでは毎月恒星と言う「自分で光っている星」からなる星座をテーマにしてきましたが、今月は27日に何と6万年ぶりの大接近が話題となっている火星など惑星をとりあげることにします。宵の空は旧暦の七夕を迎えて、夏から秋へと移り始めました。夏の大三角はちょうど天頂近くですが、今年の逢瀬は台風10号の前になんとか実現したでしょうか。真南にはさみをふりかざしていたさそりは西へ移り、五月にお話した黄道十二星座でいうとさそりから東へ3つめ、水瓶座の下にその水を受けて飲んでいるというみなみのうお座のフォーマルハウト(この時期南の明るい星はアンタレスと2つだけ)の上にその3倍くらいに火星は赤く燃えています。先日我が家の30年前の小望遠鏡でも上の南極(望遠鏡では上下反対)にある白い極冠を見ることができました。



 水金地火木土天海冥。太陽系の9つの兄弟星を内側からこう唱えて覚えたものですが、これらはその組成から3種類に分けられます。最後の3つは遠いため1781年のハーシェルの天王星発見以後、望遠鏡の発達によって発見が続きましたが、あとの5つはひときわ明るく、瞬かず、独自の動きをするために古代から知られ占星術の立役者となってきました。2000年前の戦国時代の中国では木、火、土、金、水の5つが万物の源であるとする五行説が広まり5つの惑星に当てはめられてその1つの火のように赤い星が火星と名付けられました。


地球より内側の2つは今では月のように満ち欠けすることが知られていますが、太陽に近いために明け方と夕方にしか見えず、ことに明るい金星は明けの明星、宵の明星と呼ばれています。

惑星の名の元となった奇妙な動きは図のように地球との相対的な位置関係から、地動説の理解に役立ちます。

火星は赤いために奇妙な動きがとくに目立ち、人の心を乱し、戦乱や災いをもたらすと考えられるようになったのです。中国では5つの惑星に日、月を加えて7つの天体が日ごとに1日を支配するとして、七曜表というものができました。日本でもすでに律令の時代から七曜の位置を記した暦が元日に朝廷から発表されていたそうです。



 さて西洋でもキリスト教以前から7日という一区切りができていたらしく、惑星の名前(英語)もローマ神話の神々の名に由来しています。



 Marsは軍神、Mercuryは伝令の神で正に水銀の玉のようにすばやく地平線に隠れ、Jupiterは天地を支配する最高神、Venusはむろん美の女神で、Saturnは土にふさわしく農業神です。

曜日となると日、月は共通ですが英、独では軍神Tyrの日(火)、雷神Donarの日(木)、美の女神Freijaの日(金)とゲルマン神話の神々が登場します。

ドイツでは主神Wotanの日では恐れ多いのか「週の真ん中」ですませていますが、これらの神々の名は「ニーベルンクの指輪」ファンにはおなじみでしょう。フランスでは月曜はラテン語のluna(月)から、昔木曜は学校が休みだったことからjeu(遊び)の日、そしてカトリックの国らしくDominus(主)の日、vendre(売る、売り渡す)はキリストが売られた日です。



    これは知らなかった
       ↓

金曜はいずれも美の女神であり、
カトリックでも金星は迷いの嵐吹くこの世を航海する上での導きの星として聖母マリアの象徴となっています。

    金星は聖母マリアのシンボル???
       初めて知った
           

以下略


***************************



http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/201006080.htm

■火星は雄、金星は雌?
 惑星にはそれぞれ、惑星記号というものがあって、その記号一文字である惑
 星を表す場合があります。一文字で書けると言うことと、一見して分かりや
 すく間違いにくいことで今でも使われることがあります。
 
 この惑星記号は、占星術でも使うので見たことがある方もいらっしゃるかも
 知れません。
 見たことが無いという方は、ウィキペディアなどで「惑星記号」を検索する
 と出てきます。

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%91%E6%98%9F%E8%A8%98%E5%8F%B7
  (フリー百科事典 ウィキペディア より)

◇火星と金星の性別?
 あるWeb で記事を読んでいると次のように書かれている箇所に行き当たりま
 した。

  「火星(♂)と金星(♀)が西の空に・・・」

 私は頭の中で次のように読んでいました。

  「火星(オス)と金星(メス)が西の空に・・・」(かわうその頭の中)

 そうか、火星は雄で、金星は雌なんだ。
 そんな馬鹿な。


◇♂と♀
 謎解きは簡単です。
 「♂」は「オス」を表す場合もありますが、惑星記号としては火星を表し、
 「♀」は「メス」を表す一方で金星を表す惑星記号でもあるのです。

 「♂」の「オス」と「火星」どちらが先かというとこれは「火星」の方。
 火星はローマ神話の軍神マルス。ギリシャではこの惑星を表すシンボルとし
 てδ(デルタ)の文字を使っていました。♂はこのδを図案化したもの。軍
 神マルスのもつ槍をイメージして図案化したとも云われています。

 一方「♀」はというと、ローマ神話では美の女神ヴィーナス。ギリシャでは
 φ(ファイ)が金星を表すシンボルの文字とされており、「♀」はこれを図
 案化したもの。金星が美の女神であるので、女性の持つ手鏡をイメージして
 図案化したものとも云われます。

 また、「δ」と「φ」は錬金術ではそれぞれ「堅い金属、鉄」と「軟らかい
 金属、銅」を表すシンボル文字でもあったそうです。

 この「δ」と「φ」から生まれた「♂」と「♀」をオスとメスという意味で
 使われるようになったのは、スウェーデンの生んだ大植物学者カール・フォ
 ン・リンネが生殖器官に着目して植物の雌雄を分けた際にこの記号を使った
 (1735年)からだとされます。
 リンネがこの記号を使って雌雄を書き分けた時には、やはり

   ♂ ・・・ 火星 → 軍神(男神) → 男
   ♀ ・・・ 金星 → 美神(女神) → 女

 というギリシャ・ローマ系の神話があったのだと思います。




つまり、こういう思想から   金星は聖母マリアのシンボル  となっていった?



******************************


占星術のサイト

http://maggie.fortune.ne.jp/blog/2012/04/post-1544.html

2012年5月〜7月のボイド表 ≫

宵の明星が告げること

5/1は、金星がもっとも輝く「最大光度」を迎えます。

この1週間前後は、同じような輝きを保つ期間なので

5/1を中心に、4月23日〜5月8日ごろは

金星がとても輝き、きれいに見えます♪

とはいえ、今日の夕方は、黄砂で金星かすんでましたが…。(T_T)

日増しに金星の輝きは一段と増していくので
機会があれば、午後4時〜6時、西空を見上げてみてください。(^o^)/
これを、俗に「宵の明星」といいます。

さてマヤの神官たちは、
「宵の明星」が見られる前後は、戦いが起こると表現しました。

今でいうと「国際間の緊張」をさすと、私思います。
「宵の明星」前に起こったのが、北朝鮮のミサイル問題でした。

「宵の明星」後にあたる連休明けは、

どんなニュースが飛び込んでくるのか気になるところ。

連休明けの、海外ニュース要チェックですよ!



****************************


http://yamigarasu0909.web.fc2.com/tengu-root.html


天狗のルーツ

【天狗と天変地異】
天狗という言葉は、天竺では「流星」をさす言葉として用いられていた経緯から
中国などで、漢訳されたとき 「天狗(あまきつね)」の字が当てられた。
各種の書物には、天狗の表現があるものの地上に災難を及ぼす 自然現象として認識されていたようだ。
特に中国の山海経には、「天狗(てんこう)」 と読む翼を持つ狐らしき動物として登場しており
他にも、猿や鳥のような姿として語りつがれている事から
現在の人間のような姿の、伝説はほとんど無かったそうだ。

日本でも日本書紀の記述で
舒明天皇の時代 9年に大きな流星が都の東から西に流れ、
雷に似た音がしたのを 中国よりの留学僧「旻(ミン)」が
「流星ニ非ズ、是レ天狗(あまきつね)ナリ、ソノ吼エユル声、雷ニ似タルノミ」
(あれは流星ではなく天狗だ)と言ったという記録が残っており、
これが天狗が文献に初めて出てきたものであるとされている。
この舒明天皇9年という時期は不安定な政局とあいまって旱魃があり日食がありと、
色々な天変地異が起きており、そういった怪異のひとつとして天狗が登場している
「金星」や「流星」などに関わりのもつモノとして位置付けられていることから
まだこの頃は、日本でも天狗は自然現象として捉えられていたようである。



それでは、なぜ天狗は流星や金星と結びついたのか。
共通点として「流星」も「金星」も不吉なモノの象徴だったと言う事である。
「流星」は、古代人にとって非常に恐ろしげな存在だったのだろう。
それを神格化した形が、現在の流星にお願いすると叶う という形で残ったのかも知れない。
金星は、「刃物」「剣」などの武器を連想させ 陰陽道でもっとも不吉な星「大将軍」として、
「方違え」「方忌み」が行われるほどの凶方である。
それが、争い事を好むとされた「天狗」のイメージに合致したのではないだろうか。

【宗教側から見た天狗】
現在の天狗の姿のモデルは、日本神話に登場する「サルタヒコ神」 であると言う説がある
サルタヒコ神は、天孫降臨の際 先導すべく出迎えた国津神であり
特徴として 高鼻で赤ら顔、目は鏡のごとく光を放ち
身長も七尺と高く 修験者のような服装を各地の道の神様として祀られている
今の天狗の姿に、かなり近いのではないだろうか。

また他説として 仏教の教えの中で、頭と嘴が鳥、翼と爪は赤く、
黄金色に輝く人間の体を持ち空を飛び衆生を救済する
「カルラ天」が、伝説や信仰により
天狗と変化していき語り継がれてきたのではないかと言われている。

(カルラ天(迦楼羅)とは、 別名 金翅鳥(こんじちょう)やガルーダとも言われ
日に龍を5000匹食べるらしく 通常の龍では、到底叶う相手ではない
かろうじて 仏教に帰依した八大竜王のみが難を逃れる事が出来ると伝わる。
蛇除けの神様として信仰されている地域もある。)


奈良時代に聖徳太子が命じて書した「先代旧事本紀大成経」には
天狗とは、須佐之男命の 猛気が満ち溢れ吐しゃ物として出てきたもので
その天狗は、女神なのに非常に荒ぶる神だったようで、
その子供である天魔雄命は、天地の間の悪神の長を務めた。
後々の書物に天魔雄命が日本の天狗の祖で、後世天狗となった者たちはみな眷属であると書かれている。

また平安時代の僧「景戒」が書した「日本霊異記」 の中の天狗の説話を読むと
山に分け入り松の葉を食し呪力を得て空を飛び、海上を渡り眷属を使役した
修験道の開祖「役小角」の姿が後々の 天狗の様相である事に気づくのである。
たしかに天狗伝説のある霊山のほとんどが、役小角 により開山されている事実があり
そんな時代背景から山々の不可思議な霊力に憧れて、身に付けようとする人々が徐々に増え
「修験道」が、国中に広がっていく事になる。

天狗という妖怪は、日本古来の山岳宗教と 台密と東密(天台密教と真言密教)と深い繋がりが見られる。
修験者が、深山幽谷にて過酷な難行苦行に耐え 山の霊気と一体になり
神通力(超能力)や呪力、霊力を体得しその山の聖者となり 
やがて彼らは、山に対する神秘感や畏怖感によって 里に住む人々から
「天狗」と言う名の神 として祀られる事となったのではないだろうか。
里人にとって彼らは、病気などがあれば「祈祷」や「薬」を作ってくれる存在であり
神様として認識されてもおかしくはなかったと思われる。
そのような理由から山中に出没する「天狗」と「修験者」が重なって見え 
現在のような修験者姿となったのではないか。

九州地方では山伏のことをヒコサンとかテングとも呼ぶ習わしがあるのも、うなづける。
と言っても 現在の姿になったのは室町時代以降で それまでは背中に翼があり
「嘴(くちばし)」がついておる人のようであったと言うから
どちらかと言えば「カラス天狗」の姿が原型だったらしい。
つまりどんな大天狗も、元はカラス天狗だったということなのだろう。

では、今の姿が、確定した理由としては、
一説によると足利八代将軍義政に仕えた狩野派の絵師 狩野元信が、
鞍馬山の僧正坊を描いた時「天狗の総帥」としての強さを強調するため、
正面に向き大きく金剛杖をついた、顔の赤い鼻高天狗にしたからだと伝わっている。

天狗と一言に言っても、赤い顔と高い鼻 背中に翼 山伏の姿 怪力で 神通力を持ち
大きな羽団扇、姿を消す蓑などを持つ 昔話では、悪役として君臨している者から
古くから神格化され森や山の精霊としての天狗も存在するのです。



**********************


http://www.d9.dion.ne.jp/~k072/Swork/sengokure013.html

アマツミカボシ(天津甕星/天津三日星)別名、天香香背男神(あまのかがせおのかみ)
日本書紀に登場する星の神でなんでか「謎の邪神」。

神建御雷神、経主神が高天原の命で葦原中国の平定を行ったとき、これをはねのけ最後まで服従しなかった「まつろわぬ神」。

ライトな日本書紀解説にはほとんどでてこないです。古事記には名前すら出てこない。

アナログ情報があんまり無いのでネットでしらべたら一部で大人気だった。さすが邪神。



中央政権に反抗した異邦の神
ということでそこ政宗っぽい!とか勝手に思った。それでミカボシなんだー。ルンルン。

星神っていうのもファンシーな響きでステキ。

         ココね
          ↓
「甕星」というのは金星らしいです。
細かくいうと明けの明星を「赤星」、宵の明星を「甕星」。

アマテラス(太陽=中央政権)に迎合せず端で輝く金星は不吉なものだという事で嫌われたようです。

元々古代ジャポン(神道)には星自体を不吉なものとする思想もあり一転超次元的存在として畏怖信仰の対象にもなりまんた。


隕石を祀っておる神社なども結構有ります。


とはいえ容赦なく邪神設定なのはちょっとインポートっぽいなあと思う。金星といえばルシ様。明けの明星ですけど。

すいませんこういうのは魔界部でやれって。


天矛鉾はエロいので慶次に相応しいと思う。是非私を孕ませて欲しい。カグツチは孫っぽい悲哀がいいです。彼の拠点が根の国(和歌山)っていうのも偶然なんだろうけどおもろい。でもこんなネタでグッときたところでなにもかけるわけ無い。…かけるわけが、無い。




ええっ?!

面白かったのでコピペして置きました。
[81]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月10日 14時35分55秒 ) パスワード

>ハワイ諸島、イースター島、ニュージーランドを結ぶ三角形の内側―即ちポリネシアではすごい航海術があるといいます


はい

ハワイからアチコチ航海していたようですよ。

今頃、6月にはハワイは冬季が終わって気候が安定するので、アチコチ航海するんだそうです。


説明を聞いたけど結局は5分もするとワケが分からなくなるので
どういう経緯だったか忘れました。

でも背後に北極星があって南に南十字星があって
それで南北の位置は分かるわけです。


東と西については  (日頃、目の前に北がある感覚で左手側が西、右手側が東で理解しているので)

ハワイからですと後ろに北が来るので右手側が西なので
説明をハワイ式でやられるとスグに西と東がグチャグチャになってワケがわからなくなります。


   何が何だったか記憶に無いです。

      
で、検索して来ました:全文はURLへ

http://special.nikkeibp.co.jp/ts/article/ac0b/139205/200803/

世界の果てへの冒険が人々を魅了するのは、何よりも未知なるものとの出会いがあるからだ。

その点で、1778年にヨーロッパ人として初めてハワイを“発見”したキャプテン・クックには、ある種の同情を禁じ得ない。クックは3度にわたる太平洋遠征で、緑豊かなニュージーランドから不毛のイースター島に至る数々の島を訪れ、最後の航海ではソシエテ諸島から何千キロも北にあるハワイ諸島にも足を伸ばした。

そこはタヒチに住むポリネシア人の古老さえも知らない、未踏の地であった。ところがたどり着いてみれば、カヌーで漕ぎ出してきた島民たちは、クックがそれまでに訪ねた島々で耳にした言語であいさつをしてくるではないか。

 太平洋に広がった言語と文化の驚くべき普遍性を目にしたクックは、後日、日誌にこんな疑問を記している。「かくも広大な海洋に版図を広げるこの“国家”を、いかに説明すべきだろうか?」。

この疑問とそこから派生する多くの問いは、長い間、人々の興味をかき立ててきた。


この素晴らしき航海者たちは一体、何者だったのだろうか。3000年以上も前に大海に漕ぎ出した、彼らのルーツはどこにあるのだろう。新石器時代の人々は航路を導く海図も羅針盤も持たなかった。簡素な造りのカヌーを操るだけで、どうやって、地球の面積の3分の1近くを占める大海に点在する幾百という島々を見つけ、植民することができたのか?

 古代の海洋民族が生きた世界は、長い間謎に包まれてきた。だがここへきて、南太平洋のバヌアツ・エファテ島での驚くべき発見により、その歴史が明らかになりつつある。

今日のポリネシア人の遠い祖先は、いかにして未知への第一歩を踏み出そうとしたのか。新たな発見は、彼らがたどった壮大な海の旅の道筋を示してくれるだろう。


さらに大きな謎が残っている。航海者たちが初めて太平洋の島々へ移住してから、太平洋全域に進出することになる次の航海時代まで1000年以上の空白の時代があった。

航海を中断した理由は何だったのか。

そして、1000年もの中断の後にどのようにして海を渡り、拡散していったのか。太平洋に息づくサンゴや、南米の高山にある湖底の堆積物から収集された気象データが、この謎を解き明かす鍵を与えてくれるかもしれない。

 バヌアツの首都ポートビラから車で東へ30分。太陽がさんさんと照りつけるエファテ島の、とある丘の上で、マシュー・スプリッグスは逆さにしたバケツに腰かけていた。今しがた掘り出したばかりの陶器のかけらを手にとり、そっと泥をはらっている。「この手の出土品は初めて見る。私に限らず、これまで誰も見たことはないだろう。こいつは独特だ」と言いながら、陶器の表面にほどこされた装飾の精緻な模様を、ほれぼれと見つめた。

 “独特”という形容は、この地に眠っていた多くの出土品に当てはまる。「ここには、太平洋を初めて航海した人々を葬った墓所や、彼ら第一世代とその子どもの世代の遺跡が残っています」。こう話すスプリッグスは、オーストラリア国立大学で考古学を教える傍ら、遺跡発掘チームのリーダーも務める。

 遺跡が発見されたのはまったくの偶然だった。荒れ果てたココナツ農園の表土を重機で掘りかえしている最中に、地中に埋もれていた墓が一つ、姿を現したのだ。それを皮切りに数十の墓が見つかった。墓所は3000年ほど前のもので、太平洋の島々で発見されたなかで最も古い。埋葬されていたのは「ラピタ」と呼ばれる古代人の骨だった。この呼び名は、1950年代に彼らの陶器が発見されたニューカレドニアの海岸の名前にちなんでつけられた。

 勇敢にも、まだ見ぬ大地をめざして紺碧(こんぺき)の大海原へと漕ぎ出していったラピタ人たちは、単なる冒険者ではなく、開拓者でもあった。家族、家畜、タロイモの苗、石器など、新たな生活を築くためのあらゆる必需品をたずさえて旅に出たのだ。わずか数世紀のうちに、彼らの居住圏は、ジャングルに覆われたパプアニューギニアの火山地帯から、はるか3000キロ以上東の、サンゴ礁の島々にまで広がった。数百万平方キロに及ぶ未知の海域を探検し、バヌアツ、ニューカレドニア、フィジー、サモアといった、それまで誰も知らなかった南洋の島々を発見しては、入植していったのだ。

 何世紀も時代が下ると、彼らの子孫は、ポリネシアの偉大な航海者として世に広く知られるようになる。

タヒチ人やハワイ人、ニュージーランドのマオリ族、イースター島に謎の石像を立てた人々―その基礎を築いたのはラピタ人だ。

子孫たちが太平洋全域に広めた言語や風習、文化は、もともとはラピタ人たちが島々に伝えたものなのだ。

 栄えある遺産を遺したラピタ人だが、彼ら自身についての記録はほとんど残されていない。私たちは陶器のかけらや動物の骨、黒曜石の薄片、あるいは比較言語学や地質学的な特徴といった曖昧な情報をつなぎ合わせることで、彼らの歴史を推測するしかないのだ。


ラピタ人の航海の出発点は、パプアニューギニア北部の島々までさかのぼることができる。だが、今でも太平洋全域で話されている彼らの言語は、実は台湾に由来するという。また、図柄など独特の装飾がほどこされたその陶器のルーツは、おそらくフィリピン北部にある。


    *魚釣りの針は最も古いのはフィリピン系だと読んだことがあります。






かくも危険な航海へと乗り出す勇気は、いったいどこから生まれたのだろう? アーウィンは、彼らが貿易風に逆らい太平洋を東に向かった点に着目し、この厄介な向かい風が成功の秘密だと考える。「未知の海へと数日間船を進めて偵察し、仮に何も発見できなくても、方向転換すれば貿易風に乗ってすぐに帰港できることを知っていたのでしょう」

 アーウィンの説には、ラピタ人が高度な帆走技術を習得していたという前提条件が不可欠であると、オーストラリア国立大学の先史学教授アソル・アンダーソンは指摘する。「しかし、その具体的な証拠は何一つありません」






南洋に浮かぶ楽園はその後急速に失われていった。ラピタ人は新石器時代の人々であったが、現代人さながらに、天然資源を過剰に消費する性向を持っていた。考古学研究によると、わずか2世代という短い歳月の間に、巨大なニシキウズガイは姿を消した。飛べない鳥もその後を追い、ある種の陸生のワニがそれに続いた。ラピタ人の入植後、太平洋の島々全体で1000種以上の生物が絶滅したと推測されている。

 それでも、ラピタ人の子孫、現在ではポリネシア人と呼ばれる人々が新たな領土を求めて旅立ったのは、それから1000年以上も後のことだ。今から1200年ほど前に、第二期となる開拓時代をスタートさせた子孫たちは、大きな試練に直面する。島伝いに航海できるメラネシアやポリネシア西部の海域と違い、中部太平洋には島の数が少ない。ちっぽけな島から次の島までが、時には何千キロも離れていた。

 大洋で陸地を探すのは当時どれほど難しかったのだろうか。1520〜21年に太平洋を横断したポルトガル出身の探検家フェルディナンド・マゼランの時代でも、相当な苦難があった。マゼラン率いる船団は未知の海を手探りで進み、4カ月もの間、陸地を踏むことはなかった。途中にあったはずのソシエテ諸島、ツアモツ諸島、マルケサス諸島などを見逃してしまったのだ。大勢の船員が、脱水症状や栄養失調、壊血病などの病気によって、フィリピンに到着する前に命を落とした。


ハワイやマルケサス諸島、ニュージーランドといったポリネシアのはずれで目にしたのは、ごくシンプルな船ばかりだったようだ。はるか昔、ポリネシア人を遠い島々へと運んだのは、こうした素朴なタイプの船だったのではないかと、アンダーソンはみている。

 彼は後世の探検家キャプテン・クックの著述をもとに、ポリネシア人の航海術にまつわる通説に疑問を投げかける。クックはポリネシア人のカヌーが自分の船団のまわりをぐるぐると周回するスピードに舌を巻きつつも、彼らが長く計画的な航海をする能力については懐疑的だった。クックの記録によれば、タヒチ人の一団が向かい風の中で帰路の針路を定められなくなり、何百キロも流された末に、現在のクック諸島に属するアイトゥタキ島に漂着したという。

 人間の持つ技術や勇気にすべてを帰する代わりに、アンダーソンは風の加護を重視する。今日の太平洋では厄介者となっている異常気象のエルニーニョが、かつては太平洋の隅々にまで進出しようとする航海者たちに手を貸したのではないかというのだ。太平洋各地に生息するサンゴや南米アンデス山脈の湖底の堆積物から得た気象データは、ラピタ人が生活圏を広げた時代に、あるいは第二期の開拓者たちが太平洋の東端にまで船を進めた1200〜1600年前に、異常な高頻度でエルニーニョ現象が起きていたことを示している。通常は東から西へと吹く貿易風を時には何週間にもわたって逆転させた「スーパー・エルニーニョ」が、水平線のかなたをめざす、長く無計画な航海へと人々を駆り立てたのかもしれない。

 ラピタ人の終着点はトンガだった。第二期の航海と時を同じくして頻発したエルニーニョが、その子孫たちをポリネシア東部の諸島群へといざなったのではないか。「広い外洋さえ渡ってしまえば、各諸島内は島伝いに回れます。マルケサス諸島から追い風に乗れば、ハワイにもたどり着けたことでしょう」と、アンダーソン。船乗りたちがイースター島に到達するのは、さらに400年後だ。イースター島はハワイとは逆方向に位置し、通常なら向かい風を受けるが、これもまた、エルニーニョが頻発した時期の出来事だったと、彼は指摘する。

  人類が太平洋全域に進出していくのにエルニーニョがどれだけの役割を演じていたかについては、学界でも議論の的となっている。人々が1億6800万平方キロに及ぶ広大な範囲に拡散できたのは、本当に、気まぐれな風や幸運に恵まれたからなのだろうか。ヨーロッパ人がこの地を訪れるまでに、地元の航海者たちは、居住が可能な土地(何百という島と環礁)はあらかた発見し、最終的には、南米大陸にまで到達していたのだ。

 彼らは絶滅寸前の、孤独な漂流者だったわけではない。故郷から家畜や作物をたずさえ、集団で移住してきたのだ。アーウィンは言う。「私の直観ですが、単にカヌーが風に吹き流されたという以上の何かがきっと作用していたはずです」。たとえば、夏のモンスーンが吹く時期に貿易風は弱まるため、島民たちは計画的に東へと船を進められたのかもしれない。「それに、高度な伝統航法の伝承があらゆる島に根付いています。それらは島ごとに独自に生み出されたのでしょうか。だとしたら、なぜこれほど多くの共通点があるのでしょう。何を信じるにせよ、真に興味深いのは彼らが使った手法ではなく、その動機です。ラピタ人は、わざわざ荷物をまとめて旅立つ必要などありませんでした。強制されたのでも、故郷が過密化したわけでもない。彼らはただ、旅をしたくて海に出たのです。水平線のかなたにある世界を見たい一心でね」
[82]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月10日 14時57分11秒 ) パスワード

ハワイ人にとって南十字星の下にタヒチがあるということで
南へ南へと船を4000km風に押させ
赤道を過ぎると?北極星は見えなくなるから?
これで正しい方向を確保した。


タヒチからハワイに戻る時は逆をすれば無事にハワイに戻れた。


北極星は北斗七星を基準に捜した。




ヨーロッパ人が未知の大陸を目指して航海した時は、常に陸に沿ったルートを取るか、羅針盤などのツールを必須としてきたのに比べ、

ポリネシア人は計測器も持たず、太平洋の大海原を縦横無尽に航海した。

たまたま島にたどり着いては「発見」を繰り返した西洋人に比べ、
ポリネシア人は定住という目的と共に家畜と植物をカヌーにのせ、島と島の間何千キロを往復した。

ポリネシア人の高度な航海術は、西洋式の海図をたよりにしたナビゲーションではなく、
「ウェイ・ファインディング」と呼ばれる。

太陽、雲、星、風、波、鳥など、ありとあらゆる自然現象を観察しながら、
常に自分が太平洋のどこに位置するかを体で覚え、
コースを決めるという方法だ。



鳥は夜になると島に=ねぐらに=帰るので
これで島のある場所が分かった。


うしかい座の一等星アルクトゥールスをホクレアとハワイ語で呼び場所を決めた。


「ホクレア」とは「幸せの星」という意味だそうです。
へ〜
知らなかった〜



現在「ホクレア号」が航海中だと思う。
でも太陽電池のパネルを積んでいるみたい。

***************


http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/102002569


古代の航海術


ポリネシア人が計器類を使わずに何千キロも無事に航海できたのはなぜでしょうか。ポリネシア航海協会のデニス・カワハラダによれば,おもな道しるべは,太陽でした。

日の出や日の入りの決まった位置は,日中に方角を示すものとなります。夜の航海では,星が出たり沈んだりする位置を利用してカヌーの進路を導くことができます。


カヌーの進む方角に出たり沈んだりする星が全くなくても,天空の他の星を使って方角を確認できます。航海士は星以外にも,月や肉眼で見える五つの惑星を助けにして正しいコースを進めます。


真昼や,曇っていて星が見えない夜でも,航海士は,風や海のうねりを(日の出や日の入りの位置との関係で)利用してカヌーを導くことができます。カワハラダによると,「うねりとは,波を生じさせた恒風や暴風を越えて伝わってゆく波,またはその暴風が静まった後も残る波」です。


そのため,うねりは,方角を確かめる面で,その場で吹く変わりやすい風で起きる波よりも信頼できます。うねりはまっすぐに移動してくるので,航海士はカヌーを目ざす方角に向けておくことができます。大海原のうねりに乗っているか逆らっているかによって,航海士は船が正しい方角に向いているかどうかを知るのです。


証拠が示すところからすれば,古代ポリネシア人は,天体や自然界の力を利用し,はっきりした方向性をもってカヌーを何千キロも操ることができました。
[83]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月10日 16時46分39秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 今レスを見たところです。あらん限りのうれしい情報満載でエンドルフィン

が脳内にクワーッとあふれ出ております。沖縄にシークワーサーという果物

を絞った飲み物がありますが、今頭の中が正にシークワーサーです。しばし

の恍惚感、永遠のひととき・・・。

 さて、今夜は台風が到来します。これから帰宅して、いただいた情報をじ

っくり楽しませていただきます。あを様の情報にたいするセンスは、私の

100! ありがとうございます!


                          丸に三つ柏の服部



             

倍はあります!



 
[84]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月10日 23時47分05秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 星座についてよくわかりました。私の住んでいる地域では星は余り見えませ

ん。都市や都市の周辺は明るすぎてダメなんでしょうね。


『シリウス星と謎の古代空間』はアマゾンで購入することにいたしました。

そのプロローグにある「満天の星の中に、我々はいつかは帰っていくのです」

という言葉とイメージに、今まで感じたことのない新鮮な感覚を抱きました。

砂漠の国に行ってもそうらしいですね。星の下でミイラになるというのもなる

ほどとうなづけそうです。


 竜と牡牛(シリウスとオリオン)の対立が世界各地にみられるということ。

 シュメールのアヌンナキがスサノオに比定されること。

 星々の解釈・・・明けの明星が「赤星」、宵の明星が「甕星」、七夕の解説

・・・カササギは知らなかった。


 その他、もろもろの話、飛躍的に知識が広がりました。


 あさって土曜日は休みなので、何かまとめてアップしたいと思います。


 たくさんの情報、本当にありがとうございました。


                          丸に三つ柏の服部

[85]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月11日 03時00分45秒 ) パスワード

かささぎですけどね

「かささぎが橋を作る」(鵲橋)というのはNHKのドラマの「海峡」(長谷川京子主演)で知りました。

韓国の諺、という形で。


NHKドラマ「海峡」:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%B3%A1_ (2007%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)



カササギが橋を作っていつか愛する男女は結ばれるという韓国のお話は
元々は中国の七夕のカササギの橋からなんでしょうね。



でも日本の七夕話には「橋」とか「鳥」は出てこないですよね。
日本の「橋」の場合のイメージは「この世とあの世にかかるもの」とか「死」とか、
カササギ=鳥=も「死」のイメージなのかな?


日本海を隔ててお話がちょっと変わってしまったのかもね。




1.カササギについて

鵲はカラスより小さいが、カラス科の鳥だけあって、胸一面が真っ白であとは真っ黒である。カチカチと鳴くので、勝烏(かちがらす)、烏鵲(うじゃく)、喜鵲(きじゃく)の名もある。菅原道真の歌のように、七月七日の七夕の夜「鵲の橋」をつくるという、古代中国の伝説がある。

彦星の行合を待つかささぎのと渡る橋をわれにかさなん\菅原道真
陰暦七月七日の夜、牽牛、織女の二星の、年に一度の逢瀬のために、鵲は翼をならべて天の川に橋をつくる。男女の契りの橋渡しをするというので、人形浄瑠璃

『曾根崎心中』(道行)に、
梅田の橋をかささぎのはしとちぎりていつ迄も我とそなたは女夫(めおと)星\近松門左衛門
とある。長い尾を垂れるこの鳥は、黒白に色分けされた翼が特に美しい。



2.
鵲橋(しゃくはし、かささぎばし)とは、中国の伝説で旧暦の7月7日の七夕の日に天の川上にできる橋の名前である。この橋は織姫と彦星が出会うためにできることから、鵲橋とは男女が良縁で結ばれる事を意味する。

『淮南子』からの引用とされている「烏鵲河を填めて橋を成し、織女を渡らしむ」という白孔六帖の文章が出典とされる。 しかし、菅原道真に「彦星の行あいをまつかささぎの 渡せる橋をわれにかさなむ」の歌があり、日本では男性である牽牛星が橋を渡るものとされていたようである。

宮中の階(きざはし)を「かささぎのはし」とも呼ぶ。 また、大阪府枚方市には「かささぎ橋」という名の橋があるが、上の伝説にちなんで命名されたものである。

歌題としても良く取り上げられ、新古今集の冬の部に収録された中納言大伴家持の和歌「かささぎのわたせるはしに置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」は小倉百人一首にも収録されており有名だが、七夕の歌ではなく冬の歌である。



また纏めたお説を読ませてください。
お時間をかけてどうぞ。
[86]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月11日 14時36分28秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 韓国へ行ったとき、「カチ」という鳥を初めて知りました。烏科といい

ますが、烏には見えません。白の胸に黒の羽根、カアカアとは鳴かない。

カチカチと鳴くというが、鳴き声は未だ聞いたことがない。ただ名前を

「カチ」というとガイドより説明を受けた。


 私の住む地域、それこそ豊西町の東の天竜側に新しい橋ができたのです

が、「カササギ大橋」と名付けられた。私は鳥のサギの仲間の一種の名前

かとつい今まで思っていましたが、あの「カチ」が「かささぎ」で七夕に

ちなんでいたとはつゆ知らず、あを様には感謝申し上げなければなりませ

ん。ありがたいことです、賢くなりました。勉強になりました。


 服部家と藤堂家、多羅尾家の話もすべて読みました。ありがたいことです。

本当に勉強になりました。伊賀・鈴鹿越えに多羅尾氏がからんだいたとは。

藤堂家の分限張の中で、家来に「忍の者」10人の名前がありました。


 藤堂高虎は数々の築城を成し遂げました。その辺の秘密も知りたいですね。


 そうそう、「カササギ」でおもいだしましたが、天皇陵を「ミササギ」と

言いますが、こちらからあちらにつなぐのは「鳥」(白鳥)ですよね。何か

謎が横たわっていそうな予感・・・。


 毎日、レスから目が離せません。

 とりあえずこれにて─

                       丸に三つ柏の服部


                   



ます。
[87]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月11日 22時28分40秒 ) パスワード

ホント、「かささぎ」って鳥は「文学上」では出て来ても「生活上」では縁が無いですよね。

    知ってる人は知っている、ということで。


韓国の鳥、
ということなんでしょうね。




>>>『曾根崎心中』(道行)に、
>>> 梅田の橋をかささぎのはしとちぎりていつ迄も我とそなたは女夫(めおと)星\近松門左衛門
とある。

    やっぱり現代の日本人には(あんまり・・・)というイメージなんでしょうね。


花でも「むくげ」は名前は知ってても生活の回りには無いですよね。
これは韓国の国花ですから
日本では回りには見当たらないということかもですね。

    知ってる人は知っている、ということで。




>豊西町の東の天竜側に新しい橋ができたのですが、
>「カササギ大橋」と名付けられた。私は鳥のサギの仲間の一種の名前かとつい今まで思っていました

ですよね
「鷺」の1種かとわたくしも思い込んでいました。


    赤サギは男女間の詐欺で特に結婚詐欺
    黒サギは詐欺師を騙す詐欺

      こんな感じなので「かささぎ」ってどんな詐欺の隠語なのかな?と思ってました。


そして今朝拝見した >>>天皇陵を「ミササギ」と言いますが<<<

   はい、そうでしたね。

   どんな「詐欺」話が隠されているんでしょう?
   謎


で、検索しましたら

http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I10200618-00

古代天皇陵をなぜミササギと呼ぶか

川崎 保,梶田 学




詳細情報


タイトル
古代天皇陵をなぜミササギと呼ぶか

著者
川崎 保

著者
梶田 学

出版年
2009-03

対象利用者
一般

資料の種別
記事・論文

掲載誌情報(ISSN形式)
03869121

掲載誌情報(ISSNL形式)
03869121

掲載誌情報(URI形式)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000008636-00

掲載誌名
古代学研究

掲載通号
181

掲載ページ
10〜25

言語(ISO639-2形式)
jpn:日本語


答えを書いてくれれば良いのにねえ。



更に検索しましたら
http://yatagarasu33.jugem.jp/?month=200608

第8章:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(2)


Aクーデター・大化の改新(乙巳の変)!
『日本書紀』によると、645年の「大化の改新(乙巳の変)」の蘇我入鹿殺害場面で蘇我氏の専横を糾弾している。「入鹿は王位を傾けようとしている。なぜ尊い血脈を、入鹿に替えることができようか。」というのである。

この直前、蘇我蝦夷・入鹿親子は、王家にしか許されていない八佾舞(ヤツラノマイ):六十四人で行う方形群舞)などを行い、蝦夷は天皇を無視して勝手に冠位を入鹿に授けたという。舞を行なった場所は、葛城の高倉(奈良県御所市鴨神、金剛山中腹)。つまり葛城賀茂族の本拠地である。さらに、彼は天皇の墓にしか使わないという陵(ミササギ)という名称を自らの墓に用いた。

     やっぱり「天皇陵」専用の言葉のようですね。


今来(イマキ・御所市東部)には百八十あまりの私有民を使役して、自分と息子の入鹿(イルカ)の為、大小二つの円分をつないだ瓢箪型の古墳で、双墓(ナラビノハカ)と呼ばれる巨大墳墓を建造させ、自らの墓を大陵(オホミサキ)、息子・入鹿(イルカ)の墓を小陵(コミサキ)と呼び、自らが大王(オホキミ)であるかのように振舞っていた。そして、自分の子をすべて王子(ミコ)と呼ばせたという。


故に、『日本書紀』の言い分はもっともな事である。


しかし、不思議なのは、この当の民衆の取った態度である。
蘇我氏に対しての不満が全く見られ無いのである。それどころか、大化の改新による、入鹿暗殺後しばらくして実権を握った中大兄皇子(のちの天智天皇)らの行動に対し、人々は口々に罵り、サボタージュや宮への焼き討ちなど、あからさまに反感を示しているのである。


一般に伝えられている、『日本書紀』による歴史と異なってくる。蘇我氏の悪政に苦しめられていた民衆を救うため、正義の元、立ち上がったのが、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)だったのではなかったのか。

何故、『記紀』が「蘇我氏の横暴」と非難しているにも関わらず、民衆に不満が見られないのか。そして逆にその「蘇我氏を成敗した」中大兄皇子らに対し、民衆は反感を示したのか。


どうも、『日本書紀』が主張する「正史」と当時の民衆の反応が「逆」なのである。


一体この、民衆の中大兄皇子に対する態度をどのように解釈すればよいのか。
さらに、蘇我入鹿暗殺直後の記事として、当の『日本書紀』は、次のように記載する。

韓人(カラヒト)、鞍作臣を殺しつ。(韓の政に因りて誅せらるるを謂ふ。)吾が心痛し
蘇我入鹿暗殺後、古人兄皇子(フリヒトノオオエノミコ)は自宅に駆け込み、このように叫んでいるのである。つまり「韓人」が鞍作臣(蘇我入鹿)を殺した。胸が張り裂けそうだ、と。
と叫んでいるのだ。


蘇我入鹿暗殺の実行犯は、中大兄皇子、と中臣(藤原)鎌足である。そして、実際に手をかけたのは、中大兄皇子だったはずである。


そう記載する『日本書記』は、同時にその実行犯が「漢人(カラヒト)」だったと明かしているのである。一体これをどう説明するのか。
さらに、その注釈には、韓半島のをめぐる外交問題が原因で暗殺されたと明記する。


悲運の皇子・古人大兄皇子(フルヒトモオオエノミコ)。彼はこの時、最も皇位に近い皇子であった。しかし、中大兄皇子らによる蘇我入鹿暗殺後、吉野に逃れていたところ、異母弟の中大兄皇子らによって暗殺される。


これまで、信じられてきた中大兄皇子(天智天皇)や中臣(藤原)鎌足=「正義」、蘇我入鹿=「悪」という『日本書紀』本文の記載による通説を見直す必要がある。


『日本書紀』には、大化の改新の後、入鹿暗殺の現場に居合わせた皇極天皇(重祚して斉明天皇)の周辺に、祟る鬼が出たと記している。
斉明元年(655年)5月の条によると、
空中の龍に乗り、青い笠を着た者が葛城山から西に向かって飛び去ったという。


また、斉明7年(661年)5月には
直後の7月には、斉明天皇も亡くなり、その葬儀の様子を、大笠を着た鬼が覗き見ていたという。


『扶桑略記(フソウリャッキ)』は、『日本書紀』とほぼ同様の事件を追い、この鬼が、豊浦大臣(トユラノオオオミ)であると明記している。そして、斉明天皇の周囲で多くの人々が死んでいくのを見て当時の人々は、豊浦大臣(トユラノオオオミ)の霊魂の仕業だと考えたと言うのである。 


さらに、『日本書紀』に記されている不気味な鬼の正体を、『扶桑略記』は蘇我宗家の祟る姿であったと明かしているのである。この豊浦大臣(トユラノオオオミ)こそ、蘇我蝦夷とも蘇我入鹿とも伝えられているのである。<山口県・豊浦には弥生遺跡が存在する。>


祟りの被害を受けたのは、斉明天皇だけではない。やはり蘇我入鹿暗殺の現場にいた中臣(藤原)鎌足その人も祟りで亡くなったと考えられたという。

中臣鎌足の死は天智天皇8年(669年)10月。その一ヶ月ほど前、『日本書紀』は中臣鎌足の家に落雷があったと記録している。落雷など特に珍しい事でもないのに、『日本書紀』がわざわざ「正史」に記録したのは何故か。


後世、菅原道真が雷となって恨みを晴らしたように、古来、雷は祟りの証だったからである。したがって、中臣鎌足(藤原鎌足)の死の直前の落雷記事には、鎌足だけでなく、朝廷自身<天智天皇・中臣(藤原)氏>の脅えが隠されているのである。


斉明天皇に祟った鬼が蘇我一族の鬼であったことはまだ記憶に新しかったであろう。そうすると、鎌足邸への落雷と直後の死は、蘇我の祟りと直覚したであろうことは容易に想像が付く。

明らかに蘇我蝦夷や入鹿は祟る鬼とされていたのだ。

ここで注目しなければならないのは、蘇我氏の祟りを恐れたということは、誰もが蘇我氏に対し、後ろめたい意識があったからということである。


以下略



尽きないですね。





で、結局、何故天皇陵は「みささぎ」と呼ばれるのか?ですね。


答え:

1.
回答者は6〜7世紀の古墳がゴロゴロある地域に住んでおります。

こちらにある古墳(天皇や大豪族の墓)は、「陵=岡」です。大きいのは「小山」と言ってもいいほどです。

おそらく、ミサザキ(平安時代までは、ミササギではなく、ミサザキと言っていたそうです)は岡だから、
「山陵」または「陵」という漢字を当てたのでしょうね。

    (「陵」を「おか」と読む場合もあります。)

つまり、「陵」という漢字の第一義は「岡(丘)」であるわけです。



2.
http://www.dai3gen.net/sasaki.htm

・上石津ミサンザイ古墳(百舌鳥古墳群)・伝履中天皇陵(大阪府堺市)
・ 岡ミサンザイ古墳(古市古墳群)・伝仲哀天皇陵(大阪府藤井寺市)
・ 鳥屋ミサンザイ古墳・宣化天皇陵(宮内庁による)(奈良県橿原市)
などに見られる「ミサンザイ」という言葉を考え、そこからの展開を見る。

「ミサンザイ」は「ミササキ」から来た言葉だと云われる。
「ミササキ」に「ン」が挿入されて、最後の「キ」が「イ」に変わっている、というものだ。(本論では「サ」「キ」の清濁については吟味しない。)

奈良時代の日本語には「ン」も無かったし、語頭以外に母音が来ることもなかった。いずれも平安時代から見られるようだ。つまり「ミサンザイ」という語形は奈良時代の語ではなく平安時代以降のものだ。

さて、「ミササキ」について、時代別国語大辞典上代編(以下JK)では
「みささき [陵・山陵] 天皇・后妃など皇族の墓。みささぎ。」
としている。また、「ミ」も「キ」も甲乙は不明である、と云う。

「ミササキ」はどのように分解、分析できるだろうか。二つの部分に分析してみると「ミ・ササキ」「ミサ・サキ」「ミササ・キ」が可能であるが、あり得そうなのは最初の「ミ・ササキ」だろう。

JKも「み(御)」の項目の最後の方に「御(ミ)・陵(ササキ)」という用例を上げており、「ミ・ササキ」という分析を示している。しかし、このように「ミ」を「御」の意味に取るのであれば、「ミ」は甲類だと判断していることになり「みささき」の項の説明(「ミ」も「キ」も甲乙は不明)との間には齟齬があることになる。また「御・ささき」と分析するなら「ささき」が墓陵に関する語である、と考えている筈だが「ささき」はそのような語としては掲出されていない。

JKには、「ささき」とは今云う「みそさざい」という名の小鳥のこととして出ている。

仁徳天皇は古事記では「大雀」命と書いて、日本書紀では「大鷦鷯」天皇と書いて「おほ・ささき」(の)みこと/すめらみこと、と呼ばれる。第一義としては「大・みそさざい」かも知れぬが、もしや、「大きな御陵」という意味合いも含んでいるのであろうか。仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳は一、二を争う規模である。 (そうならば、生まれたときからそんな名前だったのだろうか。「おほささき」も死後に「大陵」に因んでの追贈? 竹内宿禰の子との名前「つく」との交換も作り話? 名前交換は「ホムタ」(応神)と「イザサワケ」の間のこととしても伝わっている。ここにも「ササ」の音。「イザサ」「ササキ」の父子。アイヌ語では i-tasa-re 交換する 参照)

このように上代語の範疇で「ささき」を墓陵の意味で使うことの確証はないが、少なくともそのような「ささき」と「墓」を関連づける語源意識があったであろうこと伺わせるものがある。以下に述べる。
日本書紀の一云に、天稚彦(あめのわかひこ)の葬儀のとき、種々の鳥が葬儀を執り行うが、その際、鷦鷯(さざき{みそさざい})が哭者(なきめ{泣き女})の役目を負っている。

「みそさざい」を指す方言は多様である。日本産鳥類リスト50音順・みそさざいに列挙されている。そこから関心を引くものを例に挙げてみると「みそくいどり、はかとり、みそさんざい、みそなめどり、みそつつき、みそきち、みそさんざに、さざい、さざえ」などである。ここで「はかとり」という高知方言が目を引く。「墓鳥」の意識であろう。

またこのサイトでは「みそさざい」の漢字表記として「鷦鷯」に加えて「三十三才」を掲げてあるのも面白い;「みそさんざい」を代表として「みそ(三十)さん(三)さい(才)」と宛てたものだろう。なお、「みそさざい」の「みそ」が数値の30を表しているかどうかは不明だ。「三十」と書くのはあくまで宛字であろう。

「みそさざい」を表すアイヌ語もこのサイトに挙げられており「とーしるぼくんかむい」とある(『分類アイヌ語辞典・動物編』で確認ずみ)。ローマ字表記は tosir-pok-un kamuy で「川岸の下の穴・の下・に入る・神」の意味である。第一語の tosir に近い音で tusir と云えばそれは「墓」のことであるのも面白い符合である。即ち、tusir-pok-un kamuy と作ってみれば「墓・の下・に入る・神」となる。音の揺れ、語呂合わせで、みそさざいと墓を関連づけることはできそうである。但し、このような語の実例は見つかっていないが、ここで試みたような o-u が交代する例は多くはなさそうだが、あることはある:tokkari-tuk(k)ar あざらし;tom-tum 〜の中;opas-upas 雪。

上石津ミサンザイ古墳は百舌鳥古墳群に属する。
日本書紀より

「仁徳天皇六十七年冬十月、河内国石津原に幸(いでまし)て、陵地(みささぎのところ)を定め、始て陵(みささぎ)を築つかしめ給ふ。この日、鹿ありて、野中より走来て、役民の中に入り、仆(たお)れ死ぬ。時に、其の忽ちに死ぬることをあやしみて、その痍(きず)を探ると、百舌鳥、耳より出て飛去さりぬ。よりて、耳中を視るに、悉(ことごとく)咋(くい)割(さけ)剥(はげ)たり。故(かれ)、其所を号(なづけて)百舌鳥耳原といふのは、其、是縁也。」

「(神武天皇即位前紀)庚申年秋八月・・天皇、正妃を立てむとす。・・・「事代主神、三嶋溝瀘(くひ)耳神の女(むすめ)玉櫛媛に共(みあひ)して生める兒をなづけて姫蹈鞴五十鈴媛命と曰す。・・・」

瀘「くひ」の部分は「杭」とも「咋」とも書かれる。

注目されることは「溝くひ耳」と「百舌鳥耳原」伝承の間の高い符合である、即ち、「みぞ mizo:もず mozu」、「くひ:くひ」、「みみ:みみ」。「三嶋溝くひ神」が「百舌鳥耳原」と何らかの関係があったやに伺われる;例えばこの地(周辺)に居た、とかこの地に葬られた、ということではないか。

「みそさざい」の古語が「ささき」であり「みそ」が無いが、方言の「みそさざき」などの「みそ」はこの「溝くひ耳」の「溝」なのではなかろうか。少なくとも、そういう理解が古くにあったものではなかろうか。「みそくいどり、みそなめ、みそつつき」という方言も「溝くひ」との関連をより強く印象づける。

近在に「三国ヶ丘」という地名がある。ここが「摂津・(和)泉・河内」の境であり、即ち「三国」=「三島」ということになろうか。ここに方違(ほうちがい)神社がある。(「国造本紀」に「和泉 元河内国、霊亀元年茅野監 即ち改めて国と為す」とあるを見れば「三島溝咋」の時代に三カ国を見ることは無理か。)


三島溝くひ 人名比較

出典 本人 娘*その配偶者 孫娘
古事記 三島溝咋 勢夜陀多良比売*大物主神 富登多多良伊須須岐比賣 別名、比賣多多良伊須気余理比賣
書紀 三嶋溝瀘耳神 玉櫛媛*事代主神 媛蹈鞴五十鈴媛命 妹=五十鈴依媛は綏靖皇后
先代旧事本紀 三嶋溝杭 活玉依姫*都味歯八重事代主神(八尋熊鰐) 姫蹈鞴五十鈴姫命 妹=五十鈴依姫命:兄=天日方奇日方命


この表から、三嶋溝くひの娘の名は「勢夜陀多良比売」、「玉櫛媛」と「活玉依姫」の三通りが抽出出来るが、いずれも同一人物として考えを進める(姉妹であっても構わないだろう)。

古事記(崇神記)の大田田根子の話と三輪伝説によると、大物主が「三嶋溝杭」の娘「活玉依姫」を娶り、その四世孫が大田田根子だ、という。この人は「河内の美努(みぬ)」に居た、という。この場所は、八尾市西高安町と考えられていて、百舌鳥原からは些か遠い。

日本書紀によれば大田田根子は茅渟県の陶邑(すゑむら)(堺市中区上之(陶荒田神社付近))に居た、という。これなら百舌鳥原と近い(直線8kmほど)。「活玉依姫」(ここでは「陶津耳(すゑつみみ)」の娘だ、とされている)も、そして「三嶋溝杭」もその周辺に居たものとすれば、「三島溝杭」がミサンザイ(周辺)に葬られても違和感は無い。

さて、ここで「三島」の周辺について、愛媛県大三島にある大山祇神社、から考えておく。「大三島大山祇神社が長く『三島明神』『三島大明神』とよばれていた・・・」(大山祇神社略誌 p20)。また、延喜式では「大山積神社  伊予越智郡・大山祇・俗称三島大明神」とされる。これらから「三島」と云えば「大山」、「大山」と云えば「三島」のような密接な関係があったようだ。

とすると、今、仁徳天皇陵とされている大仙陵古墳(「大山」古墳とも云われる)と「三島」の関係も無視しがたいものになってくる。

更に「大山咋神」と「三島溝咋」の関係や如何に、という新たな視点もでてきた。今思いつくのは「大山咋神」は「大年神」の子で「大山咋神。亦名山末之大主神」と古事記にあることだ。「陶(すゑ)津耳」とか「陶邑」など「陶」の字で陶器を連想してしまうが意味は「末(すゑ)」なのかもしれない。「山末」にいる「大山咋」と「陶邑」にいる「陶津耳」、そして「大山」と関係する「三島」と「咋」を共有することから「大山咋」と「三島溝咋」、これらが実は同根の伝承が変化したもののように思われてくる。

まとめ
・「ささき」は今の「みそさざい」
・「ささき」は墓陵のことも意味していよう。「御・ささき」で「みささき」
・「おほささき」は仁徳天皇の名前・「大陵」の意味?
・「みそさざい」の方言に「みそくい」などがあり「溝咋」に通じるようだ
・百舌鳥耳原で百舌鳥によって耳を咋いちぎられた鹿の話→溝くひ耳のこと?
・三島溝咋=陶津耳で
  ↓    ↓
 玉櫛媛 =活玉依姫 で  陶荒田神社付近に居た
・三島と云えば大山、大山と云えば三島
・大山咋神 と 三島溝咋
・陶邑 とは 末村?
簡略な連関を図示してみると次のようになる。



       溝くひ耳 →百舌鳥・耳・くいちぎられる↓
       ↑                ミサンザイ
陶邑←←三島・溝咋 ←← ミソクイドリ ←←  ミソサザイ ←←ササキ
    ↓                            ↓
山末←←大山 咋                      ミササキ(御陵)
                             オホササキ(仁徳;大陵)



なお、
・土師ニサンザイ古墳(百舌鳥古墳群)・伝反正天皇陵(大阪府堺市)
・淡輪ニサンザイ古墳 ・五十瓊敷入彦陵(by宮内庁)(大阪府泉南郡岬町淡輪)
に見られる「ニサンザイ」は上述の「ミサンザイ」の訛りに過ぎないようでもあるが、百舌鳥古墳群の場合には異なる墳墓の名称として使い分けているようにも見える。



こんな感じで学生時代に勉強してたら、ちょっとは人生、マシだったかも。
[88]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月12日 11時25分19秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 またまたすごい世界に行ってしまいますね。本当に奥深い。

 でも「みささぎ」も「かささぎ」も言語感覚からいうと、何ともいえない

詩的な言葉ですね。


 「かささぎ」が菅原道真の歌や近松門左衛門の浄瑠璃にも出てくるとは

全く予期していなかった。あを様のおかげ、勉強になりました。


 関係のない言葉で、音の響きの近い関係でいうと「なぎさ」という言葉も

きれいですね。


 私はどうも言葉の響きにいつも感じ入ってしまいます。過去からの呼び声

のような・・・直感ですが。


 鳥は地上と天上(この世とあの世)を結ぶ聖なる生き物という。カササギの

登場する七夕伝説とは、カササキ—ミササギの関係からいくと悲恋、悲劇に

なってしまう。最後は死がからむような気がしますが、ギリギリのロマンに

抑えてある。

 ピラミッドの不死鳥も、この世とあの世の霊魂の架け橋・・・両方とも鳥

信仰にからむのか。


 ところで「七夕」って何かとあるサイトで調べていったら、「七夕と笹」

ということが書いてありまして、「ササ」(カササギ、ミササギのササ)は

佐々木氏と関係ありということで、佐々木氏の本貫地と七夕の関係、即ち

近江八幡と丹後海部部氏へとの関係、雄略天皇の市部押磐皇子の謀殺事件、

浦島伝説、壬申の乱との関係・・・

と、ととどめなく深みに入って行ってしまいました。

 このサイトあを様もすでにご存じかと思いますが、なかなかのものです。

ちなみにhttpを記しておきます。


  http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_227.html


 昨夜もヴェリコフスキーやらその他もろもろ星に関係する本を漁ってお

りましたが、いつの間にか寝てしまい、ストーリーがまだできていません。

最後は物部氏と星との関係の謎を解き明かすというかたちを目指しており

ます。


 とりあえず、これにて。


                         丸に三つ柏の服部






 
[89]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月12日 14時18分00秒 ) パスワード

あらあらあら・・・

七夕と笹の関係
もの凄い情報量ではありませんか。


ホント不思議ですね。


ササキが雄略天皇の時代まで行ってしまうとは。




>魏志倭人伝には、しっかり、「牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。」と記述されているからです。

これは記憶に無かったです。

そうなんですか
本来の日本には牛も馬もいなかったんですか。


こういう点についても、今頃になって「魏志倭人伝の読み方」を学ぶとは。
人生は終生勉強なんですねえ。


いただいたURLとその派生の七夕と笹などじっくりゆっくり拝見しますね。
ありがとうございました。



http://trizt.com/uranai/
この納音(なっちん)占い面白かったですよ。

わたくしは剣峰金でした。
   (けんぽうきん)



切れ味鋭い剣の矛先



鋭い感性を持った芸術家肌      さあ?
いざとなれば敵を鮮やかに切り捨てる    でしょうね



 音律は商で、金性
 剣峰金とは剣の矛先のこと
 鋭い切れ味なのが剣峰金
 矛先は成敗する武器であり芸術作品である
 明応は使わずともそれだけで価値がある
 だが、さび付いてしまっては意味がない    しっかり錆ついてます


 

 ひらめきとシャープなセンスに恵まれている感性の人   さてさて?
 非凡な才能を持ち芸術家肌でもある           無芸大食です
 正義感が強く改革者としても力を発揮する         正義感は強すぎます
 強気の姿勢をくずさない                 はい
 身のこなしは鮮やかで無駄がない             まさか
 その裏に潜むのは美的感性                ないない
 自分なりの美意識哲学を持つため、表面上はおおらかに振る舞う    はて?
 内心は自分の尺度で物事を計り短絡的にとらえる       まさに!
 発想の転換を図るのが上手                 いえいえ単純思考です
 価値を見いだされて大物へと成長していく人         成長はハヤバヤと止ったクチです
 


 いるだけで存在感があり絵になる人             絵にはならないです
 普段はおとなしくむやみに攻撃しない            言えてる
 しかし必要なときはズバリと指摘し、怖い者無しで行動する   はい
 真正面から戦いを挑む敵には容赦なくぶつかる         はい。売られた喧嘩は買います
 一目置かれ恐れられる存在でもある             それはないと思う
 人に慕われ、仰ぎ見られることが多い             ?
 情に流されないクールなつきあいが得意           ケチだから
 同士を大切にする                     はい
 スローテンポな相手にはいらつく              はい。うちのオットですね



 注目されることが多くもてる                どうでしょう?
 ドラマチックな恋愛シーンを好む              かも
 一目惚れする傾向でフィーリングの合う合わないを重視する   一目ぼれタイプです
 察しのいい相手を求める                   分かって欲しいチャン
 本音をなかなかみせない                  相手によっては、だと思います
 恋のピンチには弱く、煩わしくなると自分から去る方     面倒なオトコは嫌い 
 愛する相手に面倒を見てもらうことも溺れることも少なく、自分のペースを崩さない   へえ〜
 失恋しても立ち直りが早い     次を捜します



 ウィークポイントは、心底に潜む短慮な面        はい
 まろやかな気持ちが、剣峰金の人には必要        はい
 心がけたいのは、温かみのある表現           はい
 内外ともにまろやかであればサクセスを手にする     はい
 


 護符を常に携帯し、持ち歩くとよいです
 自然とまろやかな気持ちになり、温かみのある表現ができるようになります


茂さんもやってみてください。結果を教えてくださいね。あはは
[90]丸に三つ柏の服部さんからのコメント(2014年07月13日 01時31分10秒 ) パスワード

空の青海のあを様


 納音占いの結果は「大海水」 でした。未来系以外すべてあたっています。

 海と青が大好きな点、シンクロしております。


(たいかいすい)

 広大な海の水


 豊かな感情と包容力を持つ
 穏やかさと激しさを併せ持つ


音律は羽で、水柱
 大海水とは海の水のこと
 青海原
 どこまでも広く、どこまでも深く、人の心をとらえるのが海
 さまざまなものを成長させ、すべてのものを飲み込んでいく
 だが荒海になれば、破壊力を満ち、権力をふるう


感受性が豊かで直感力に優れている
 同情深く、涙もろい
 人情家で心優しくお人好し
 太っ腹でたいていのことには寛大に対応する
 一面ルーズ
 いったん怒り出すと一時的に意地を張る
 子供っぽい面と大人らしい面を持ち合わせている
 調子のいいときと悪いときとの差が激しい
 落ち込むときはドッと落ち込む
 人や社会のために貢献することで成功を手に入れる人


人なつっこい
 多面的な魅力を持ち、どのジャンルの人ともつきあえる
 ご縁を大切にし、心のつながりを求める
 相手の能力を引き出す人
 人から悩みをうち明けられ、人の心を癒す場面が多い
 状況に流されやすい
 人と争っても、月日がたつと水に流そうとする
 世渡りは上手で、人付き合いの遊泳術を得ている


恋のムードやシチュエーションにこだわる
 照れ屋で、最初の一歩がなかなか踏み出せない
 言い寄られると弱い
 相手のすべてを愛し、すべてを許そうとする
 相手を真剣に愛する
 包容力に優れている
 愛する相手のためを思って行動する
 愛の証を作りたがり、二人の記念日を大切にする
 別れを切り出すのは下手
 失恋すると相当落ち込む


ウィークポイントは、情に流されてしまう心
 情だけに縛られてしまうと前に進めない
 割り切るべきときは、割り切ること
 感情と理性の両面から判断していけば飛躍が見込まれる人


 この占い何であたるのかびっくり、不思議です!


 さて、明日からお盆。本日菩提寺の位牌におまいりに行って来ました。

服部一族の位牌は一番上座にありましたが、位牌にはこれといった証左はあ

りませんでした。本家の当主が37代目と先代から言われているというのは

確かに記憶があるのですが・・・一度本家に聞いてみます。


 除籍簿の調査もお願いしておりますが、8月末までには何とかなりそうです。


 家紋については菩提寺の創設者の葛西氏にあやかったか、善地天満宮の神職

であったのか、そこらへんかなあと思っていますが、引き続き調査中です。


 神一行氏の『神社が語りつぐ古代史の真実』という本を今読み終えた所で

す。スサノオについてかなりわかってきました。実在の人物として語られ

ておりますが、神話のような感じもします。ヘラクレスにも似ていますし、

例のバビロニアの戦勝碑の将にもにています。脚色されているということ

でしょうか。


 スサノオと言えば京都祇園祭の八坂神社の祭神。何で悪者なのかわかりま

せんね。みんなに祀られている。スサノオについてはもう1週間は探究時間

が必要な気がします。


 物部氏の星の信仰、忌部氏についても同時進行で探究中。もうしばらく

かかります。


 歴史のまとめの論文は、想像以上に難しいことがわかりました。一語ごと、

また一事象ごと確認していかなければならない。誰の論をスタンダードにする

かという問題。それによってぜんぜん違ったものになってしまう。


 熱い夏になって来ました。頭がカバになります。すく眠くなります。

 
 それでは、これにて。明日(本日)は名古屋へ行ってきます。


                          丸に三つ柏の服部



[91]空の青海のあをさんからのコメント(2014年07月13日 01時55分55秒 ) パスワード

あの納音(なっちん)占い
結構当たってますよね。



茂さんが「大海水」というのが  背筋がゾッ  でした。
余りにも不思議な一致ですね。


わたくしの茂さんのイメージもかなり当たってるようですし。


やはり「書かれた文」にはその人が出てるようですね。

だって自分の能力・脳力以上のことは書けないですから
それなりのことがバレバレに出ますね。

    あ〜
    ヤバ〜


スサノオのお話、面白そうですね。
物部氏は  叫んでいるみたい   「我等のくやしさを知って欲しい!」って。

楽しみにしております。
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