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 投稿番号:101342 投稿日:2014年01月10日 17時19分42秒  パスワード
 お名前:箱柳永田
三河平氏 その3
キーワード:長田+永田
コメントの種類 :その他  パスワード


  豊田市今町を散策してきました、8丁目の高速道路橋脚の真下周辺が、
 縄文から江戸初期の複合遺跡でした。橋脚に当たったから発掘がされた
 と、考えますから非常な幸運でした、もし橋が少し長いと(短くても)
 永遠(大げさかしら)に田畑の下で眠り続けて、、でしょうね。
 高架下付近の農地は結構広く残っており、
   その向こうの矢作川に 川湊があった と聞いて来ました。
   (碧南市)鷲塚住人・清蔵(家次の孫)が水路で繋がるのです。
 20m離れた浄土宗常行院墓地には、10軒の永田=丸に横木瓜がありました。
 1軒、丸にカタバミで、、、この家に興味が出てきます。
  隣町も含めて(電話帳で)20軒ほど住んで見えるようです。
  今町付近の長田さんは一軒、長田開拓団は全員改称した!と考えた方が
  納得がいきます。今町自治区誌は図書館の他、各自治区の交流会館にも
  あります、お近くの会館でどうぞ。

[1]箱柳永田さんからのコメント(2014年09月07日 23時21分56秒 ) パスワード

豊田市今町の永田カタバミ家を訪ねてきました。

1600年頃の矢作川の分岐に並行して、大規模な築堤工事が下流より行われ
 今町付近は常に洪水があり、地形も随分変わっているそうです。
旧川湊は現在の神社の位置にあたるとの事でした。
酢漿草の家紋は、家次が松平の弓術指南として当地を去った後、川湊の責任者を
務めた功績により許されたとの事でした、後に剣酢漿草の使用も許されたが
 主に酢漿草を使用しているそうです。
 この地の支配者は、一向一揆までは酒井将監さんの家ですので、納得のいく処です。豊田市の永田諸家は、今町の長田開拓団と司町(長田屋敷跡)の永田六兵衛開拓団に分けられ、総戸数の約8割が所属しているとわかりました。
 
私信 定年退職とOS8.1の入れ替えに伴い、メールアドレスを変更しました。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月08日 02時33分36秒 ) パスワード

お久です。


酢漿草紋より剣酢漿草の方が武家らしくて良い思いますが
   酢漿草紋は川湊の責任者を務めた功績により許されたということで
誉れがより高いからなんですか。


酒井家と同じ紋を許されたとは名誉なことですよね。


さて窓8の使い心地はいかがですか?
我が家も窓8を買いましたが窓9が発売になったらスグに入れ替えます。

   窓8は失敗作ですよね。
[3]箱柳永田さんからのコメント(2014年09月10日 01時33分03秒 ) パスワード

 あを様
 >窓8は失敗作ですよね。
 窓7にしようか?と悩みましたが、窓9に多分耐えられるマシンを購入しました。噂では2チームが交代でOSを出しており、窓8はビスタの後継に当たるらしく発売前から、、、避けたほうが、、、と、xpの再延長に期待してました。
  不便に耐えられず、、、の窓8ですね。
 酒井将監から家紋を許されたと推察されますので、彼が一揆に組して追放、
 甥っ子の忠次さん(後に東三河の旗頭)が家康方ですので、遠慮して
  酢漿草を使い続けたのかな、今町の当代もそろそろ良いかな?
 このまま行こうか迷っている様子でした。今町永田の衆は、松平町の浄土宗寺院から(許可を得て)新寺を建立してますので、将監の紋は使い辛い!かな。
当時の長田は天台宗で、舟運の関係で浄土真宗(俗にいう一向宗)に変える家が多いのですよ。我が家も、一揆で、隠棲しました。
 時宗=一向宗で、浄土真宗ではありません。蓮如さんもわが宗派は浄土真宗で
  一向宗という輩は破門する、と言ってるのですよ。
 蓮如さん達は一向宗一遍宗信者を大量に浄土真宗に勧誘してますので、細かい所は違っても、阿弥陀如来の信者です。他の宗派からは同じに見えるはずです。

 
[4]空の青海のあをさんからのコメント(2014年09月10日 13時00分46秒 ) パスワード

そうそう!ビスタも失敗作でしたね。
窓9まで買うのを待ちたかったのですがいろいろ不都合があって買いました。
それで窓8は試運転の段階です。

   窓8の良いのは早いことですね。
   ラスベガスにいた時のスピードで繋がります。
   汗



家紋の話は名字と同じでいろいろ政治的にもムズカシイですね。
どの紋を使うのが良いか迷います。

   子孫としてはどの時代の紋を使おうか迷います。
   1家に1紋と思ってるような気楽な人は逆にそれでイイですよね。迷いが無くて。

   長田系だったら  柏のバリエーションじゃないの、と思うけど
   拝領の紋があったりするから 
   決して柏紋ばっかりじゃなくて・・・という所が「我が家のアイデンティティ」なんですよね。

   酒井家との繋がりをアイデンティティにしたくても、ここでもいろいろ「有る」し。


   迷いますね。


やはり家書にちゃんと書いて子孫に伝えていかないといけませんね。
[5]箱柳永田さんからのコメント(2015年05月23日 00時51分16秒 ) パスワード


 三つ柏 服部様

 矢作川の通運に関して調べていました処、意外な縁組が見つかりまして
 ちょっと驚いています。

 当家3代清蔵は矢作の河口 鷲塚に伝承として住んでいました
 先回、初代家次が豊田今町に湊を開いた。
 豊田押鴨町 今町のすぐ南(伝承)埼玉土屋の清蔵長子の出身地
 安城野寺町 本證寺4男が一揆に参加した
 岡崎渡里町 清蔵5男と孫が与力として 鳥居氏と共に長篠戦に参加

  肝心の岡崎城付近には我が家の身内は、、、居る筈と、
  でも 居ないのね。
 本題 http://bitougumi.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-6112.html
   岡崎 下佐々木町(上宮寺 のある所) 大庄屋 太田家
   >http://bitougumi.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-2fec.html
     安城市島町太田屋敷 
   >http://www.8miso.co.jp/history.html  まるや八丁
     創業者 太田氏 現社長は浅井氏
 長田家で岡崎の町家に嫁に行った者がいるのは聞いていましたが
  大庄屋は 町家ではないし と疑っていましたが
   味噌屋さんなら 交易の湊の大口利用者ですし 町家でもあるし
  可能性は高いのです。 今でも 太田諸家は岡崎で有力な家が多いので、
 断定はできませんが、7割位の手応えかな。
 
   豊田まで主要な湊には身内がいたと 確信が持てました。
 付録 >http://www2.tranzas.ne.jp/~smikio/rennyo-mikawa.html
    矢作川河口周辺 古地図  伝承通りに鷲塚は島です。
[6]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月26日 23時55分10秒 ) パスワード

箱柳永田様

 うっかりして遅くなりました。太田家のお話、「まるや」さんが太田家で
あるということ、大変興味深いです。
 太田資宗は第8代浜松藩主であり、今興味を持って調べております。そち
らにつながるような話がありましたら、連絡させていただきます。
[7]箱柳永田さんからのコメント(2015年05月29日 01時43分48秒 ) パスワード


 丸三つ柏服部様

 未確定情報で申し訳ないですが、徳川秀忠の乳母の一人に
 永田氏がありまして、井上さんの(多分)後妻ではないかと考えてます。
  で、彼女の産んだ3男と4男は小姓として仕え、大名になってます。
  出身の家を探しているのですが
1三河永田党の出自なら3代清蔵の長男藤蔵兵衛(味方原討死)の縁者
 次に考えられるのは、浅羽の長田忠致の子孫と称する、丸に茗荷の永田氏。
 3つ目は、浜松市和田町(旧永田村)の有力な庄屋階級なのです。

  伊豆から伊勢までの、大半は、元々は長田と考えてます。
  三河一向一揆で一族が割れて、、、どちらにも加担しないと
   隠棲した清蔵とその次男が帰農した家ですので、あまり資料が
  ないのです。
 
 
[8]丸三柏服部さんからのコメント(2015年05月31日 00時48分36秒 ) パスワード

箱柳永田様

 秀忠関係は今後さらに探究したいと思っています。中泉(磐田市)の代官
の大草氏は元は永田氏(長田忠致一族)です。大草氏より養子をもらいまし
たが、家康から大草の名前ばかり呼ばれ、大草に替えております。その墓
の周りは永田、永井の墓が一杯あります。

 秀忠といいますと、バックに青山氏(服部氏正尚系)が控えていますが、
お愛の方が28才で亡くなってしまったので、そのタイミングにて
乳母として、岡部貞綱の長女(夫河村重忠を亡くす)に白羽の矢が当たり、
「御乳の人」「大姥の局」と称され、2000石の知行を与えられている。
永井氏族からも乳母がということ、大変興味深いですので、いろいろ調べ
てみます。
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2015年05月31日 02時44分54秒 ) パスワード

横ズレ、ごめんなさい。


対助さんの玄孫になる女性が若林の岡部という家に嫁い行ってますね。
[10]丸三柏服部さんからのコメント(2015年06月03日 05時51分28秒 ) パスワード


この岡部家は賀茂真淵と関係する岡部三家に属すると思われます。
その三家とは、西岡部、中岡部、東岡部で、賀茂真淵は東岡部の流れの
岡部政信の子であります。
[11]箱柳永田さんからのコメント(2015年06月03日 23時19分44秒 ) パスワード

家康と三河武士を中心に講演会、展示会などを紹介しているサイトの
 紹介です。 家康没後400年という事で、いろんな都市で開催されてます
 カレンダーの日付からも紹介記事に飛べますので、使い勝手は良いです。

 >http://rmb.lo-ol.net/rmb/index.php/schedule
   byかしな さん
 http://rmb.lo-ol.net/rmb/index.php/schedule/view/266
 6月6日 午後2時より 市役所の東庁舎の建物に付属してます
 駐車場は北側に道路を挟んで立体駐車場があります(直近)
  http://rmb.lo-ol.net/rmb/index.php/schedule?date=201507
  一向一揆は必ず出席しますが、1日のアクトシティは
  真剣に悩んでいます、、、多分、満員が予想される。
[12]箱柳永田さんからのコメント(2015年06月04日 00時52分26秒 ) パスワード





 
http://niccorin.com/archives/42670644.html
>織田信長の父・信秀が三河の岡崎(現在の愛知県岡崎市)を一時的に支配していたことが、村岡幹生・中京大教授(日本中世史)の研究で分かった。
今春刊行の「愛知県史資料編14」で公表された。
徳川家康が幼少期に「誘拐」されて織田家の人質となったとの通説も誤りの可能性が高いという。
  
  脳内地図の再構築が必要、、だろうと、再吟味中です、
 まだ半信半疑ですが、、、、大橋4男広正が長田に入り、3男が川口氏に
  その上、大河内さんとこから大橋に養子が、で跡継ぎとなり、、、。
 大河内さんの養女が華陽院さんで、川口さんとこに再婚で入るのかな。

  何が起こってるのか判らんが、我が祖、家次が長田次男としての位置で
  分家独立し永田。 数代後、西尾永田から大浜長田に養子が入り
 長田の血脈は元に戻っている、、、大橋系長田は全て(多分)永井になり
 大名旗本に、、、。 織田信秀さんの頃、南朝系の家に、異変があるのは
  勢力図が変わったとすると、納得は行くのだが、、、
 三河の土着民としては、拒否反応が、、あるのね。
  
  取り敢えず、村岡先生の講演会(あるのかしら)を探してみます。







[13]空の青海のあをさんからのコメント(2015年06月04日 04時40分21秒 ) パスワード

箱柳さん


竹千代は実は父によって織田に差し出されてた?

    かわいそうに。


大橋さんと川口さんは元々が親戚で、華陽院さまでさらに大河内さんと親戚で
そこに長田さんも絡んでさらにこの4家が親戚になって・・・
ですか。

    ついてけない。汗


さらに大橋が蜂須賀とも親戚だし、蜂須賀と信長も親戚回りになっていくし、
すごい時代でした。
[14]箱柳永田さんからのコメント(2016年02月17日 18時20分39秒 ) パスワード

 三つ柏様 浜松の方々

 浜名湖北岸での、長田党居住について範囲が狭まってきましたので
 お知らせします。 

http://jpon.xyz/2000/43/20/13.html?p=1 引佐町 横尾  永田
http://jpon.xyz/2000/43/21/9.html?p=15  細江町 気賀  永田
http://jpon.xyz/2000/43/21/9.html?p=17   上に同じ   白柳
http://jpon.xyz/2000/43/21/9.html?p=23   上に同じ   長田
 此処で気になる苗字(白柳さん)が見つかり、、、またもや無知を自覚!。
どなたか、読み方 を教えてください。orz 。
 我が町 箱柳は古くには白楊と書いておりました、税として 楊で作成した
柳行李を納めていまして、白い絹糸で縁をかがり、筥柳と呼ばれたと、
菅生真澄の文にあります。
(大庄屋永井文書より) 箱の大きさは弁当箱サイズだそうです。
時代的には、永田が箱柳に領地を得るのは500年前で、浜名湖北岸の開拓は
ずっと古いのですから、無関係と考えられますが、、、読めない!、、
 凄く気になります。 

 
[15]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月18日 02時25分07秒 ) パスワード

箱柳永田さん


http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E7%99%BD%E6%9F%B3

白柳
【読み】しらやなぎ,しらやぎ,しろやなぎ,はくりゅう
【全国順位】 6,010位
【全国人数】 およそ1,600人

関連姓は柳氏。

清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)小椋氏流、吉見氏流、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、紀氏(紀朝臣出が多い。竹内宿禰を祖とする。源平藤橘につぐ大姓)などにもみられる。

近年、静岡県遠江地域に多数みられる。 
[16]丸三柏服部さんからのコメント(2016年02月19日 11時54分22秒 ) パスワード

箱柳永田様

 先日、自分のスレッドの方に箱柳永田様宛でうちこんでいましたので、
コピーしてこちらに載せます。以下―

 〜話は変りますが、先日、箱柳永田様より、永田姓で細江に関係する系統が
あるということを伺い、気に留めておりましたが、本日、『重修 浜名史論
上・下・完』をひも解いていましたら、偶然その箇所に出くわしましたので
記しておきます―

「〜大江助朝父子については、明徴しえないのであるが、後南北朝期貞治四
年(1365)に二体の掛佛を只木神明宮に奉納しその背板墨書銘に「願主 大江
末光 敬白」と記されてある人の先にして、室町以後三ヶ日町岡本に栄えた
永田(長田)氏の祖ではなかったか。頼朝の片腕として活躍した大江廣元の
子孫を調べるに、大江系図(尊卑文脈)に「廣元―那派掃部介宗光―左エ門
政茂―左近将監頼廣―式部宗廣(上總介)―四郎教元―弥五郎宗光―五代重光
(長田平エ門三州大浜庄官)―直時(永井)」とあげられているのである。ここ
に注目されるのは、大江系長田姓を称する重光があることで、この人は三州
大濱の庄官とあり程遠からぬ地域の住人である。ところが、濱名神戸の本拠
たる岡本区内の旧家に永田(古くは長田と書く)氏数軒が現存しているので
あり、同家は古来より神目代初生衣神社の社家として伝わった家であり、そ
の系図によれば永田重右衛門親郷を応永年代岡本居住の祖として、その後
初生衣神社に奉仕し、荒妙調進見送りの副使神官を勤めた由を記しているが、
これこそ先に掲げた大江系長田氏と同一系統に属するものではないか。」

 白柳氏については、皆「丸に三つ柏」なので私は親近感を感じていました―
 永田様よりいただいた情報、さらに探究してみます。
[17]箱柳永田さんからのコメント(2016年02月21日 01時45分45秒 ) パスワード

三つ柏服部様 あを様

>永田重右衛門親郷を<応永年代>岡本居住の祖として

 100年周期に津波を伴う東海南海地震では  (ウィキより)
 
 1498年の明応地震以降は文献資料が豊富で発生間隔も100年前後で一定しているとされてきた。しかし、それ以前は東海地震の発生記録が無いほか、
 1361年正平地震以前の間隔は記録に欠損があり
  @この辺りの年代は記録が少なく、傍証から想像するのですが、
 もう一つ 1400年頃には 応永の乱>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1 の後 人事の改変も遠州駿河にもあり
 >今川了俊は幕府から討伐の命を受けたために上洛して謝罪し、助命された。但し遠江・駿河守護職は取り上げられ、甥の今川泰範に与えられている
 守護交代に地方ボスの入れ替えが有ったと視ているのです。
  南朝の残党がもそもそ動いている のかな、大浜長田は南朝方です。
   武豊等 知多半島には、丸に三つ柏の永田諸家があります。
 半田市域には一時的に永田(長田親致系)久琢(織田信雄家臣1500貫)がいましたので、長田忠致系と判別はつかない!
 まーどちらも同族ですので、それ程気にしません。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2016年02月21日 22時57分34秒 ) パスワード

香取慎吾ちゃんの「家族のかたち」の中で西田敏行が着てた羽織の家紋は丸に三つ柏でしたね。


永里家ですか。

http://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E6%B0%B8%E9%87%8C


【読み】ながさと,なかさと

【全国順位】 6,078位
【全国人数】 およそ1,600人

現鹿児島県である薩摩国給黎郡永里村が起源(ルーツ)である。現熊本県である肥後の永里氏は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)隆家流菊池氏族。 「永」は長くのびている地形、器物、生物などの意味。



テキトーにつけた名字かと思ったけど。
家紋もそうだったりして。
[19]箱柳永田さんからのコメント(2016年04月07日 14時55分49秒 ) パスワード

  長田支流永田の諸氏へ
永田次郎衛門の名入礎石を見つけましたので、お知らせします。
(松平家弓術指南役 永田家2代目)
礎石は豊田市元城町、桜城跡の台上にあります、北面の中央付近。丁度石碑の上当たり。
http://www45.tok2.com/home/todo94/photogallery/thumbnail2009/koromo-sakurajo2009-2.JPG
 私は現物を見ていませんが、豊田市歴史博物館の学芸員(発掘担当者)に確認を取りました。櫓臺には登り口はありません、取り壊された隣の建物から橋があった模様で、清掃業者による草刈りの時、拓本を採ったと聞きました。一般人は登頂禁止だそうです。
 次郎衛門家直は一向一揆の時、どちらにも加担できないとして隠棲しました。
晩年、三宅氏に招かれたとしか伝わっておりませんでしたが、桜城の工事に参加した事が判明しました。
礎石には 櫓建形 惣奉行 高木十左衛門 指図 岡田團助 
掛 鈴木與七郎 作事奉行 瀧口與右衛門 掛 永田次郎右衛門 作事棟梁 石井友八
越戸村材木屋 材木入方 加藤弥兵衛 建形掛 知多郡刀村 棟梁磯部権三郎 
勢州神戸宿走町棟梁 井上藤兵衛 明和二乙酉年建立
生國泉州箱作村 城下東町住居 石工棟梁 山内紋右衛門 寶暦七丁丑年櫓臺築造 
   (杉浦学芸員作成の拓影より)
豊田市埋没文化財発掘調査報告書 第33集 拳母城(桜城)跡 に記載。  

 矢作川の洪水に関する本(今は思い出せません)石の写真はこちらにも提供されていて
三河(矢作川流域?)の図書館などにあります。題名は後日報告します。
[20]箱柳永田さんからのコメント(2016年05月06日 00時55分24秒 ) パスワード

長田支流永田の諸氏へ
>永田次郎衛門の名入礎石  掲載本が判明しました。

 定本 矢作川 
 母なる川ーその悠久の歴史と文化  監修 新行紀一 郷土出版社
   (94ページと95ページに写真と解説文)
 優良な書籍を発行していた郷土出版社は残念ながら廃業しましたので
古本屋を捜すことになり、思わず購入しました。
 岡崎市の図書館では禁帯出という事でした。
[22]箱柳永田さんからのコメント(2016年12月23日 15時47分15秒 ) パスワード

 あを様 三つ柏様

 大草氏の集いのHPを見つけました。
 三つ柏様の指摘された大草さんは子が無かったので<大舘氏>より
 2,3,4男を養子に迎え家を継、家光の抱き役を務めたと、ありました。

 此処で大舘!!と 南朝繫がりなんでしょうね。
http://ankou.ojiji.net/okusa/6th-zenkoku.html
 大草(幸田町の字名)は大草松平家で有名ですが、大草氏が
 料理の流派は初めて知りました。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2016年12月24日 07時35分41秒 ) パスワード

箱柳さん


大草氏が尾張の長久手や小牧に足跡を残しているのは知らなかったです。
三河だろうというのは見当がついてましたが
そこに「西尾」も出て来るとは

日本の名字はややこしい。


でも面白いですね。
[24]箱柳永田さんからのコメント(2017年01月11日 15時55分38秒 ) パスワード

 あを様 皆様
   箱永の 身びいきな、お知らせです。
 碧南市 藤井達吉現代美術館にて 1月21日より3月5日 (金四百円)
 <碧南の医人展>があります。 永田徳本&近藤担平一族  
   月曜休日 10時〜5時半
 路を間違えなければ、徒歩1〜2分で徳本稲荷&宝珠寺(長田家菩提寺)があります。
 >https://www.facebook.com/kinryuuzanhousyuji/  フェイスブック
 > 美術館 交通案内 
 http://www.city.hekinan.aichi.jp/tatsukichimuseum/access/
   地図を拡大してください、道が細い&一方通行で
   車だと2〜5分かかります。     

 
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月12日 01時41分11秒 ) パスワード

箱柳さん

お寺で体操を教えているんでしょうか?
ボルダリングまでできると知ってビックリ!
跳び箱も用意してあるんですねぇ。



トクホンさんはアメリカでも知ってる人は知ってるけど近藤担平は知らなかったです。


近藤坦平(こんどう・たんぺい)

天保15年(1844)生まれ。

三河国碧海郡鷲塚村(現・碧南市鷲林町)出身。
明治から大正時代の医師。

江戸で松本良順、長崎でボードウィン、マンスフェルトに学ぶ。

         すごいね、江戸や長崎で医学を学んだとは。
         もともとが三河の近藤氏の一族なんでしょうね。


明治元年(1868)郷里鷲塚村に帰り、明治5年(1872)診療所洋々堂(のち洋々医館)を開設すると同時に東海地方最初の西洋式医学校蜜蜂義塾を創設した。

明治12年(1879)愛知県会議員。昭和4年(1929)死去。84歳。


一方通行の道って(ハワイはそこら中にある)メンド臭いのよね。笑
[26]箱柳永田さんからのコメント(2017年01月12日 12時55分26秒 ) パスワード

 あを様 皆様
  都合のつかない人に、種明かしです。
 徳本翁の業績は、正しく伝わっておりません、と言うか
 変な事が有名になってしまい、埋もれております。
  翁の業績の最たるものは、薬価統一です!。
 それまでは、患者の身分であったものを、貴賤に関わらず一定です。
  後日、小石川療養所に受け継がれ、現在では厚生省が厳格に行っています。
 2番目は、真名瀬さん達と共同になりますが、坊主にならなくても
 医者になる道を整えた事です。
 それまでは、得度をしないと高度な漢文に触れられなかったし
 匙加減で生死が分かれますので、必須だったのです。
 但し、医者は身分の外ですから、坊主のような名乗りをします。
  
 変な事の顛末 翁は幕府からの礼金を断りますが、(薬代は戴いた)
  余りのしつこさに閉口して、役人に下男夫婦の家を建てさせます、で
 そこに居候しました。
  
  あを様の地図で、美術館の左下20mに徳本稲荷はあります、
  この地図には載ってない細道で、宝珠寺裏口に到ります。
  
  住職の余技として、子共さん達に手製の紙芝居をしております。
 出し物の一つ、翁の物語では、改良に次ぐ改良で、別物になってます。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月12日 14時26分08秒 ) パスワード

箱柳さん


>役人に下男夫婦の家を建てさせます

すごい!
考えましたね。

で、そこに転がり込んだ?


>翁の業績の最たるものは、薬価統一です!。

すごい!

アメリカはこれは有り得ないです。
もう滅茶苦茶。
近所に10軒以上の薬局がありますが、みんな値段が違います。


それどころか!
アレルギー対策の(アナフィラキシー対策用)エピペンの値段が数年前の6倍になって
      その儲けが一部ヒラリーの懐に入ったのがメールでバレた

そしたらそのアナフィラキシーのエピペンを作っている会社の女CEOが
「じゃ、ジェネリックを半額で提供する」
と言い出しました。

      ジェネリックってヨソの会社が売り出すもんだろう!

と再び世間が怒りました。


アメリカの薬値が統一でないのが良いのか良くないのか
日本の統一薬価が良いのか良くないのか
   この問題
日本は医療制度が維持できる限りは統一薬価でしょうね。
[28]箱柳永田さんからのコメント(2017年01月12日 21時13分43秒 ) パスワード

 あを様
  >で、そこに転がり込んだ?
 徳本さんは基本、牛の世話人をお供につれて、あちこち放浪して
 お寺や庄屋さんとこを泊歩いて往診しています。
 一番居心地が良かったところが岡谷で、ここでは子供をもうけてます。
 一服 16文(一説には18文)は 今の物価では判断できませんが、
  うどん一杯なのかな?軽い風邪ならべトコンラーメンで直してますから
 妥当な金額かな。 べトコンラーメンは40年以上の昔から岡崎にある
 特徴は小さなお玉で、投入される(すりおろしニンニク)2杯まで
  お好みで追加できたような記憶です。 副作用はご想像の通り
 鼻摘み者 になる。
[29]小牧長田さんからのコメント(2017年01月27日 20時06分22秒 ) パスワード

10年以上前に何度か書き込みさせていただいた者です。

珍しい長田忠致に関する論文がありました。もし既にご存知でしたらすみません。

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尾張国野間内海庄と長田忠致
Owari Koku Noma Utsumi Sho and Osada Tadamune

細川 兼睦 HOSOKAWA Kanechika
愛知学院大学 Aichi Gakuin University

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004646575
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小牧の長田氏は忠致の娘(鎌田正清室)が篠木荘の女地頭になったことと関係がある末裔なのかなと妄想しました。
[30]箱柳永田さんからのコメント(2017年01月28日 11時59分06秒 ) パスワード

  小牧長田様
 愛知学院大、細川氏の論文をありがとうございます。
 正確には、鎌田さんの娘さん(忠致の孫娘)なのです。

>篠木荘の女地頭になったことと関係がある末裔なのかなと妄想しました。
  
妄想ではないと思います、忠致孫娘は一時期隠れ住んでおり正確な場所は不明ですが、忠致の勢力範囲であろうと思います。 
一説には鎌田庄ともいわれますが、頼朝さんが将軍になるまでの時間が長く、鎌田庄に鎌田一族が自力で留まっていられるとも、思えません。
 当然、一人で篠木荘を運営できません、番頭とか手代に当たる補佐役がなければ、農地の補修から税の算定までは不可能です。
 篠木荘の熊野神社は、大浜の熊野大神社(旧名 熊野大権現)と祭神が同じ
 伊弉冉、速玉の命、事解の命であるので、長田氏族の家があったと
 想像しています。 
 雑談 豊田市舞木町に永田さんが多く住んでます、で、
 幕末の内藤氏統治の時代、一揆(鴨の騒動)がおこり、2軒の永田氏が処刑されて、参謀役の弟の家が処払いで、春日井に引っ越しています。
 何故春日井なのか、ナンかあるのだと思います。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2017年01月28日 22時35分38秒 ) パスワード

箱柳さん


春日井で思い出すのは  梶原景時の旧領地です。
細かい場所は忘れました。
梶原家も大変な目に遭わされたので、その関係が続いてたのかな?とか妄想が行きます。

とはいえ時代が物凄く離れているから関係無いか。


>何故春日井なのか、ナンかあるのだと思います。

何か  ある  のでしょうね。
[32]箱柳永田さんからのコメント(2017年02月22日 20時08分50秒 ) パスワード

   あを様
 近藤担平氏の家紋が判りました
>もともとが三河の近藤氏の一族なんでしょうね。
 四本抱き角  納得しました。

 24日午後に、岡谷市(徳本翁の終焉地)から碧南美術館に40名ほど来られるそうです。な訳で、説明員助手として<徳本饅頭>を持って参加します。
 >http://www.okayacci.or.jp/tokuhon/about/profile/
 岡谷の方のHPより 
 手強い質問には、、、饅頭で(口を塞ぐの、、かな?)逃げられる?かな。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月22日 22時51分45秒 ) パスワード

箱柳さん

笑ったぁ〜
[34]箱柳永田さんからのコメント(2017年02月25日 20時45分03秒 ) パスワード

 あを様
 岡谷の団体様は、徳本饅頭を始めて見たようで、
 >http://map.goo.ne.jp/place/23000035464/
 ビックリして口が開いたまま、、、
 将軍秀忠を取り巻く徳本翁縁者の方を紹介し、町医者が江戸城に入る
 由縁を説明できたと思います、大変喜んでいただき、ほっとしました。

 雑談  
 信濃毎日新聞(徳本ツアーの案内記事)の上に三島由紀夫氏(永井さんの縁者)の御神渡りを取り入れた小説の記事があり、あまりの偶然にビックリ
 宝珠寺の和尚さんや裏方の方も???、なんで、なんで?
  こ、これは、、、口を塞がなきゃ!
      しまった!自分たち用の饅頭は用意してない!
  
 
  
[35]空の青海のあをさんからのコメント(2017年02月26日 06時26分58秒 ) パスワード

箱柳さん


手亡豆は美味しいですね。金時豆も好きですけど。


前はドンキの日本のを買いましたが
今はアメリカの缶詰に入ったのを買っています。安いですから。


知立の「あんまき」も美味しいですけど
徳本饅頭、いつか機会があるかな?
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