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 投稿番号:101337 投稿日:2013年12月07日 06時34分15秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について6

コメントの種類 :その他  パスワード

皆様、おはようございます。
前スレッドが90になりましたので、新しくスレッドを立ち上げました。

前スレッドでは北条と平河の関係そして、相良との繋がりなど様々な事がわかりました。
皆様の有りがたい数々のご教示・調査法のご伝授などのお陰です。
本当にありがとうございます。
自分一人では何も出来ない事を痛感しております。
どうか、今後ともよろしくお願い致します。
<m(__)m>

前スレッド 平川家について5
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/101333_90.html

[1]子孫よりさんからのコメント(2013年12月07日 07時53分39秒 ) パスワード

皆様、今日も、どうかよろしくお願い致します。

田部氏について、日本の苗字七千傑様のサイト
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/04/04005f.htm
を拝見して、私の頭では理解出来ない事があります。

こちらの日下部は日向の日下部でしょうか?
違うのかも知れませんが、もしそうであれば、以前、母方の岩切を調べた時に
ウィキで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%88%87%E6%B0%8F
一説によると、平安時代末頃から土持氏と縁戚関係を強めていた日向国の日下部氏が、戦国時代の黎明期に伊東氏の勢力拡大によって打撃を受け、日向国諸県郡国富荘本郷岩切(現在の宮崎県宮崎市郡司分岩切)へと移り、そこで「岩切」姓に改姓したのが始まりと言われている。
この内容と繋がっているのでしょうか?
とすれば、田部氏は母方(岩切)の方に関係してくるのかな?と・・
実は、母方岩切の代々の名に「栄」この字が付いているのです。
祖父もそうでした。実は母にも付いています。
そして、何故か?私の父にも付いているのです??(これは偶然だと思いますが)
それと、母方岩切の祖母か曾祖母の実家がとみた・もしくは・とみたか どちらかだったと思います。???(ここも氏族だと言っていました)
ちなみに、なんと、私の仕事場にも富高さんがいらっしゃるのです。
びっくりしました。
何だかものすごい縁だと思いました。

もしかしたらの想像ですが・・・・
以前見た記述に、平安時代、球磨いえ臼麻には草部氏が居たとありました。
その草部氏と平河は争いを起こしていたようなのです。
敵対していたと書かれているものもあったのですが・・
平河は草部氏を球磨から追い出したのかな?と・・・
現実には草部氏と争った平河師高は一度関東に戻り、その後、球磨の領地は平河に安堵されたとありましたから、もし、昨日ご紹介した本の記述通りであれば、同族同士で敵対した事になります???
でも、その草部氏が日向の方なのか薩摩の方なのかよく解らないので・・
ここは、調べてみます。

続けて後ほど、前スレッド69でお話した藤原魚名の子藤原鷲取(良峯鷲取)と北条の繋がりが解りましたので御報告いたします。\(^o^)/


[2]子孫よりさんからのコメント(2013年12月07日 09時26分39秒 ) パスワード

では、御説明をいたします。
解りやすいように番号を振っていきます。

@ まず、私が注目したのは北条の祖と呼ばれる平直方!ではなくて、直方の祖父の平維将(使。大丈尉。常陸介。従五位上。筑前肥後守)です。
平貞盛の次男。右衛門尉,左衛門尉などをへて長徳元年(995)肥前守となる。北条氏の遠祖にあたる。妻は藤原雅正の娘で,紫式部の父方の伯母。

A そして、ここで注目したのは平貞盛!ではなくて、「妻は藤原雅正の娘」ここです。
藤原雅正 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9B%85%E6%AD%A3

B で、ここで注目したのが御本人ではなく正室!
正室:藤原定方の娘
では 藤原定方とは 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E6%96%B9
この方はとても気になるのですが、後ほどという事で

C 私がここで注目したのは やはり妻!!
妻 藤原山蔭女  では藤原山蔭とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B1%B1%E8%94%AD
四条流庖丁式の創始者!!包丁道はここからだったのですね。!

父:藤原高房  母:藤原真夏の娘(百済永継の血がここにも!!)

D さあ、!!父:藤原高房とは

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AB%98%E6%88%BF
備後・肥後・越前等の守に任ぜられ、地方官として治績を上げる・・
ここでも肥後守です!!
やっとゴールが見えてきました。
この方は前スレッド69でお話ししました。
そう!とても、背が高い方です。
父:藤原藤嗣   母:紀古佐美の娘(ここで紀氏です!!)

E では 父:藤原藤嗣とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%97%A4%E5%97%A3

藤原 藤嗣(ふじわら の ふじつぐ、宝亀4年(773年) - 弘仁8年3月25日(817年4月14日))は、平安時代前期の公卿。名は藤継とも記される。藤原北家、左大臣・藤原魚名の孫。中務大輔・藤原鷲取の次男。官位は従四位上・参議。

藤原魚名の孫。藤原鷲取の次男 
やった〜\(^o^)/  繋がりました藤原鷲取(良峯鷲取)・・わしですよ!

あの・・何も無駄な事を考えずに心を無にして、感がおもむくままに気になる名前をクリックしていったらこうなりました。
さすがに、繋がった時は全身に鳥肌さんがぽ〜ぽっぽ〜(゜-゜)とタチマシタ!

でも、他にも気になるお名前があったので、本当はもっとスムーズに繋がるかもしれません。

という事で藤原魚名と北条氏は繋がったわけです。
以前、日本の苗字七千傑様から伺った
「子供は母方の家で育てるもの」このお話をいつも頭に入れて画面を見ていました。

さて、後ほど触れますとお話していた
Bの藤原定方ですが
父は藤原 高藤(ふじわら の たかふじ)で
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AB%98%E8%97%A4

藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の孫。 ここでも百済永継の血だったのですね。

北条氏が球磨に関わりを持ったという事は、意図が何も無かった訳ではないのですね。
やはり、北条も百済の血。それも、良峯安世・藤原冬嗣・藤原真夏 という事はこの流れはとてもとても濃い百済永継の子孫という事になります。
だから、球磨に来られた。
もう、私のバイブルとなっている日本の苗字七千傑様のご教示

★大伴金村が百済に派遣した達率日羅(葦北国造阿利斯登の子)。
百済は苗字にも地名にも存在して一般的にはクダラと読まれるが、それは日本発祥の地名久多良木に由来するからである。
肥後国葦北郡久多良木(現:熊本県八代郡坂本村久多良木)は、上古の火葦北国の本拠地と推定される。
日羅は百済王に重用されたが、敏達天皇は日羅を召喚して任那回復策を上奏させたが百済使に謀殺されている。
その後、百済日羅の妻子らは河内の百済帰化族居住地の石川百済村の移住したとの記録がある。
河内百済氏の血を引く良峯氏が地頭になるのは地縁があるからなのです。★

このお話にやはり繋がりました。

根本は絶対に重要だと言う事をあらためて感じました。
<m(__)m>



 
[3]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年12月07日 10時13分38秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>こちらの日下部は日向の日下部でしょうか?
 
各系譜単体で無く関連氏族系譜を併せ見れば、見えないものが見えてくる。
下記系譜を見れば疑問は氷解。
【境部氏】(隼人族) http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02152f.htm
【日下部氏】(隼人族)http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02153f.htm
【日向国造】http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01236f.htm
【田部氏】http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/04/04005f.htm
[4]子孫よりさんからのコメント(2013年12月07日 15時03分41秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございました。

日下部氏(隼人族)が田部氏に関連したという事がわかりました。

と、言う事は、母方という事になります。??
昨日、見つけた内容ばかりに気を取られずに、しっかりと頭の中に芯を一本通して(意味が解り辛いですよね。すいません)調べていきたいと思います。

[5]子孫よりさんからのコメント(2013年12月08日 10時45分28秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨日、北条と藤原魚名・良峯の繋がりが解り、球磨になぜ北条がといった疑問も、達率日羅からの地縁であったと自分なりに理解出来ました。

そこで、今朝は、本当の所をカミングアウトいたします。
これをしなければ、先祖の調査は絶対に進まないのかもと考えたからです。

私の故郷球磨には、平家の落人伝説が数多く残っており、実家近くには平景清伝説もあり、そのような環境で子供時代を過ごしてきました。
歴史の勉強はあまり好きでは無く、どちらかといえば、受験の為に仕方なくやった程度で、全くのド素人です。
その状態で、学校で習った源氏と平家の対立。そして、鎌倉幕府の成立。
その時の感情は・・・はっきり言って源氏は敵のような、北条は・・嫌いでした。(以前、夢に出てきた先祖の言葉そのものです)
★こちらのサイトは「平家物語を熱く語る」ですから、今からお話する事を不愉快に思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、申し訳ありません。
子供の頃、丁度NHKの大河ドラマで源平合戦をテーマにしたものがあったと思うのですが、それを、祖母と見ながら、源氏と北条に対し、子供ながらに悪態をついた言葉を言っていたのをしっかりと覚えています。
その時、祖母は黙って何も言わずにテレビを見ていました。
その後も、祖母の元を離れるまで、事あるごとに(ドラマを見たりした時)に同じように、「ばあちゃん、景清様はこの人達のせいで娘さんに合う事ができんかったんやろ?源氏と北条のせいやん!」と。
祖母は、「そうたいね・・」と。何も否定するわけでもなく、それ以外に何も言う訳でも無かった・・・その事を思い出しました。

ですから、平河を調べていて突然「北条」の名前が出て来て、本当は、物凄く驚いたのです。 
カミングアウトします。・・・はっきり言って嫌でした。
その前から、古文書などで、鎌倉幕府との繋がりが見えてきて、調べる事が全て源氏に繋がったりしていて、「何で??」とは思っていたのですが・・

でも、日本の苗字七千傑様のご教示のお陰で馬韓系と辰韓系の対立について理解する事が出来るようになり、昨日の球磨での地縁も解り、やっと自分でも気持ちを切り替える事が出来るようになりました。
全てをじゃましていたのは、子供のころから持っていた固定観念だったのだと思います。
白石様は、私のような全く根拠のない固定観念をお持ちでは無いから、様々な情報を自分の中にきちんと吸収してこられたのだと思います。

私も、固定観念は全て捨てて、新たな気持ちで今日から、調査していきます。
皆様、よろしくお願い致します。




[6]子孫よりさんからのコメント(2013年12月08日 23時37分03秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
前、スレッド63で、
深田村の勝福寺は、平河氏が平重盛の菩提を弔うために建立されたものといわれ、本尊の木造毘沙門天立像ほか7立像が現在も残されています。

という記述を御紹介しました。
平重盛。この方と、平河の関係は何なのだろうと。北条に関係があるのかもしれないと調べて見ました。

平重盛  正室:藤原経子
正室:藤原経子とは藤原 家成(ふじわら の いえなり)の娘
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%88%90
藤原北家魚名流の出身
藤原 家成は藤原魚名の裔! すぐに繋がってしまいました!
平忠盛・清盛父子との親交が深く、若年期の清盛は家成の邸宅に頻繁に出入りしていたと伝えられる。清盛の長男・重盛が正室に家成の娘を迎えたのを筆頭に、両家の間には何重にも姻戚関係が結ばれるに至っている。忠盛の正室(清盛の継母)池禅尼は従姉にあたる。
そして藤原家成の兄弟がなんと藤原家長。
前スレッド69で白石様からのご教示より
熊本県球磨郡のあさぎり町の「荒茂の毘沙門天さま」の胎内に書かれた 平安時代の年号「久寿三年」
あさぎり町の広報にもどって
今回、発見された墨書銘には、木造毘沙門天立像を、いつ、だれが、何の目的で作ったのかが判明しました。その内容は、「当郷の領主の藤原家永が、藤原氏の災いをなくし、命を延ばし、福寿を増長することを目的とし、勧進にあたった僧は源与で、仏師は僧の経助で、この地にて成就し、多治治助ならびに藤原氏の一家の平安を願って久寿三年(1156年)四月二日に安置した」ということが書かれています。久寿3年の年は保元元年にあたり、あの源平モノの大河ドラマなどではよく耳にする「保元の乱」という事件がおこった年です。「藤原家永」という人は、先ほど述べた『図田帳』の「藤原家基」の一族に強い関わりがあると思われます。

平河家文書より  「平河は深田の有智山万福寺建立」となっています。
整理します。
平河は深田村の勝福寺を平重盛(正室:藤原経子<藤原家成の娘。藤原家長の姪>)の菩提を弔うために建立し、深田の有智山万福寺建立。この有智山万福寺木造毘沙門天立像は藤原家長が久寿三年(1156年)四月二日に安置した。 という事です。

平重盛・藤原家長・藤原魚名・平河が繋がりました。
そうです、藤原魚名の裔は北条もでした。
藤原魚名は・・川辺左大臣藤原魚名 正二位、左大臣。川辺大臣と号す。
球磨の川辺川の沿岸は平河の領。
そして平河は良峯氏であり藤原魚名の子供藤原鷲取は(良峯鷲取)となっている。★問題は、この流れが何故良峯氏なのか?です。

良峯と言えば、このような記述を見つけました。
Kumamoto-ken shiryō: Chūsei hen dai 1-5 - 14 ページより
平中目永永野神良吉池師 1 生久高師三位 一號交寄&建久二年 0 房一一木上荒田寺座主頼—師時 1 ^ 1 一良峯師貞^良峯師良良峯良貞 151 ^ 1 〔〇下略)平城天皇— 1 良峯大納言良世 1 , 1 〈〇中略) 1 -良峯貞時!良峯師・ 1 —一敏領平河文書平河氏 11 永池氏&同」〜、良峯姓。平河氏系図^ ... 永池氏&相良氏 0 被官^轉落」左 4 0 ^ ^ ^ 35 ^ * 0 以前、永吉莊 0 地頭職&安堵 3 ^ &良峯師高(平河氏)
文字化けして解り辛いですが、ここにある名前を見て下さい

良峯姓で師時・師貞・師貞・良貞・貞時・師高

他に
ミューゼアム: the bimonthly magazine of the Tokyo National Museumより
^「平河相傳由,」(『平河文書』未刊行)によれば、平河義高は平河師高の父である。 ... 房(以下略)」木上荒田寺座主師時四郎良峯師貞 I 良峯師良 11 * 1 良贞乎次沙弥讓阿三郎 1 丄峯養二裹- 13 家惣領 1 ^峯師・ 1 平城天き I (一一代略) I 良峯左近少貞時^ ... (殆ど文字化けですが・・)
ここにも、木上荒田寺座主師時 師貞 師良 師隆 そして良峯左近少貞時

実はこのような記述は今まで色々な本で見ていたのですが、あまり気にしていなかったのです。でも、北条を調べてあらためてこの記述を見た時に、あれっ?!と気付いた事が・・
これは平河(良峯)の系譜のようですが、この中にある名前で
木上荒田寺座主師時 そして良峯左近少貞時
まさかとは思うのですが
師時と言えば 北条師時
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E6%99%82
北条 師時(ほうじょう もろとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。鎌倉幕府第10代執権である。父は8代執権北条時宗の同母弟である北条宗政。母は7代執権北条政村の娘。父の死後に伯父時宗の猶子となる。
内容がとても気になるのですが、後で調べます。

そして
良峯左近少貞時 貞時と言えば 北条貞時
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E6%99%82
北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。8代執権北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。
こちらも、後ほど調べます。<m(__)m>

でも、まさか?とは思うのですが・・
良峯左近少貞時 とは良峯左近少尉貞時という意味ではと・・??
まあ、きっと9代・10代の執権と同じ名前の人が平河(良峯)に二人いた?という事でしょう・・・・??
後でしっかりと調べたいと思います。

今回のコメントは非常に長くなってしまいました。<m(__)m>
全く関係はないのですが・・
藤原家長が木造毘沙門天立像を久寿三年(1156年)四月二日に安置した・・
4月2日は私の祖母の命日でもあります。
<m(__)m>






 
[7]子孫よりさんからのコメント(2013年12月09日 06時43分56秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

実は昨日、もう一つ調べていた事がありました。

平重盛の周囲を調べていた時に、堂上平氏の記述があり、堂上平氏の平 基親(たいら の もとちか)の娘が治部卿:北条重時継室となっていました。
北条重時といえば前スレッド30で御紹介していましたように
史學雜誌 - 第 89 巻、第 7〜12 号では
「阿夜に文にみえる平河又三郎師里は平河宫内左衛門入道観覚の甥にあたる」
平河宫内左衛門入道観覚が極楽寺重時 → 北条重時でした。
平河(良峯)師里は北条重時の甥。
そして、北条重時の子、北条 時継(ほうじょう ときつぐ/北条 為時 ほうじょう ためとき)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E7%B6%99
母は正室で苅田義季の娘・荏柄尼西妙(えがらのあまさいみょう)。苅田流北条氏の租。苅田時継とも。式部大夫。子に長重、為宗、他。
尼西妙・・・以前、御紹介いたしました。
また、繋がってきました。
為時の母尼西妙は荏柄と呼ばれている事から、鎌倉の荏柄天神社付近に居住していたと思われる。と記述されています。
荏柄天神社 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%8d%8f%e6%9f%84%e5%a4%a9%e7%a5%9e%e7%a4%be
徳川家康が豊臣秀吉の命で社殿の造営を行った。

徳川家康と言えば
平河天満宮
http://goshuin.ko-kon.net/touto_jinja/01_hirakawa_tenjin.html

天満宮と言えば、
川辺左大臣藤原魚名公の墓として知られる
服部天満宮 http://www.apsara.ne.jp/hattori-tenjingu/p2/kawabe.html
足の神様として有名なのですね。


球磨の平河は平家・北条・藤原と様々な家々と関係している事が解ってきたのですが、ウィキなどでは全く紹介はされていません。
唯一、平河という名が登場するのが先ほどの平河天満宮と江戸城になる前の「平河城」その他平河門。
これらの名前と球磨の平河は何か関係があるのでしょうか?
まあ、無いとは思いますが。偶然かな?と。
ただ、極楽寺重時 → 北条重時が平河宫内左衛門入道観覚と名乗っていた訳ですから、なんだろう?やはり、少しは気になります。

さて、今日は月曜日。気持ちを切り替えて仕事に行ってきます。(^・^)



[8]白石さんからのコメント(2013年12月09日 22時09分36秒 ) パスワード

こんばんは
今夜ははげしい雷雨の予想ですが、まだ風が強いだけです。

江戸城 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/江戸城‎
江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の ...

(異説)大田道灌 | 日本歴史と雑事記録 - TeaCup
red.ap.teacup.com/hangui/646.html‎
2007/03/11 - 江戸城は大田道灌によって築かれたから、都庁の前には現在、狩着姿の道灌の立像が有るのです。江戸城を築いた時期は、長禄元年だと言われる、当初は一名「平河城」とも呼んだらしい。驚く事にあの日比谷公園等は海辺で有って、現在の ...

主な城主 太田氏、後北条氏(戦国期)
徳川将軍家(江戸期)
皇室(明治以降)

大田道灌は前に大阪安威川そばに 太田町があって 継体天皇の陵があり、畑の中に中臣藍連のことや大田道灌のことが書いてあると書いたことがあると思いますが、

あさぎり町に大田家住宅があり、つながってくるかも・・・

又 紀氏のルーツで
紀氏のルーツ
B1199「安富庄」
       ・郡名:詫麻郡 熊本市
       ・領家:最勝光院領・皇室領・得宗領(地頭職)
       ・地頭職:詫麿氏(北条時宗系)
       ・史料村郷名:安弘名・鳥栖・依津・蒲牟田・久吉名
              早渡・寺田・枝吉名・公田
       ・明治村字:榜示崎・高江・近見・十禅師・平田・世安
             別所・重富・上牟田・台島・下牟田・春竹
        ※出典:詫摩文書
        ※1395-3-14「安富神蔵西荘」の地の配分を受く
             ・地頭:詫麿氏         
             ・安富庄・安弘名・萓原里・神蔵庄・清松名
             ・栗楠里・早渡里・春武名
             ・屋敷:安富屋山太郎※詫麿頼氏文書

C1218「詫摩庄」
・郡名:託麻郡 熊本市
       ・領家:皇室領
       ・史料村郷名:西郷・土木呂木・漆島郷・新庄
              本庄(安富御領)
       ・明治村字:不詳
        ※出典:詫摩文書
とあり、結構 北条系の所領があったようですね。
そういえば 熊本県は 紀だらけだ と 前に思ったことがありました。

最勝光院 とは - コトバンク - Kotobank
kotobank.jp/word/最勝光院‎
世界大百科事典 第2版 最勝光院の用語解説 - 現京都市東山区にあった後白河法皇の御願寺(ごがんじ)の一つ。法皇の院御所の法住寺殿の一部に建てられ,その女御建春門院平滋子とその子高倉天皇を本願とする。

[9]子孫よりさんからのコメント(2013年12月09日 23時54分20秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、ご教示ありがとうございます。

実は私も、今まで紀氏のルーツというページを見ていたのです。
球麿郡
    @紀平氏 本姓紀氏
        ・紀平二元保
        ・紀氏であるが、のち、平姓を稱したものをいう
        ・球麿郡地頭:良峯師高の子息:紀平次不知実名とある

安富庄・詫麻郡 ひらがなだと たくま・・くまが付きますね。
地頭職:詫麿氏(北条時宗系)・・そうか・・

スレッド続4のコメント99で
日本の苗字七千傑様からのご教示

新羅の昔氏の系図を見ると、筑紫や肥後の関係が見えてくる。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03025f.htm
 
怡土県主の五十迹手も後裔。
肥後玉名の王は新羅の脱解王になっている。
おそらく平川も新羅系の家系だったが、後世の百済系良峯氏が名跡を引き継ぎ平川を名乗ったのが真相かと考える。

以前伺った事が・・「詫麻郡・新羅に関わりのある土地」であると言う事を。

そして、江戸城。
平河城・・・大田氏に関係する平河氏が殿が留守の間、城を守っていたという記述を読みました。
平河という名前は色々な場所にあったのですね。
上記の平河氏と球磨の平河は何か繋がりがあったのでしょうか??

昨日から、藤原・平(たいら)・北条・そして、平河が深く繋がっていた(絆)が見えて、とても、嬉しく思いました。
この一歩は、白石様からのご教示からでした。
本当にありがとうございます。(^・^)



[10]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年12月10日 23時16分39秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>実は私も、今まで紀氏のルーツというページを見ていたのです。
 
紀氏は辰韓系に近いですね。
辰韓系のキーワードは、祇園、稲荷、八幡です。
祇園社(旧八坂神社)は八坂氏の系譜を見れば、行円より祇園社執行家は紀姓。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03020f.htm
石清水八幡宮祠官家、東大寺八幡宮神主家も紀姓。
八幡太郎義家は有名だし、頼朝、島津忠久も惟宗氏閨閥、足利義満は石清水八幡宮祠官家善法寺通清の孫で源氏は辰韓系の末裔。
考えて見れば応神天皇の女系は天日槍命に繋がるわけだから。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03017f.htm
 
惟宗氏の祖秦氏(辰韓系)は伏見稲荷社家、松尾稲荷社家でお馴染み。
秦氏系譜は胡苑から竺達君までは、ズバリ辰韓の王名表そのもの。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03001f.htm
[11]子孫よりさんからのコメント(2013年12月11日 18時18分20秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

「辰韓系のキーワードは、祇園、稲荷、八幡です。」

稲荷も辰韓系なのですね。
私は今は小倉に住んでいますが、以前は八幡西区に20年近く住んでいました。
祇園町という所はすぐに近所で、八幡西区・八幡東区、この辺りにも、辰韓系の人々が多くいらっしゃったのでしょうか。
日本の苗字七千傑様のサイト(祇園社(旧八坂神社)は八坂氏の系譜)を拝見していて、
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03020f.htm
安川氏という姓があったのですが、八幡には工業用ロボットで有名な安川電気があります。
今まで、お話していなかったのですが、実は元嫁ぎ先の義父の姉は秦家に嫁いでいます。
何も知らずに私はそういう家に嫁いでいたのだな〜と。縁とは本当に不思議なものだとあらためて感じました。
(もしかしたら、先祖の導きだったのかもしれませんが、それを自分たちの手で壊してしまったという事です。)

平河(良峯)師貞は紀平次不知実名という名前でもあった訳ですから、紀氏の血もあると言う事ですね。
平安・鎌倉と、混乱の時代の中で、家を守る為に、様々な婚姻関係を結んでいたという事はどの家々でも共通なのですね。

所で、今日は、書店・古本店巡りをしてきました。
歴史の知識は多分小学生並だと思いますので、中学生用の歴史解説本を(恥ずかしいですが基本からと)見たのですが、日本地図を使って北条氏の所領を表しているもの(色づけされているもの)がありました。(皆様笑わないで下さいね(@_@。)
でも、驚いたのは、九州は鹿児島の一部を除き全て、そして備前と伊豆。
関東地方では伊豆周辺。でも明らかに九州での勢力が大きかったです。
これは、何でしょうか?やはり、地縁なのでしょうか。
でも、文字でみるより、地図で見る方がとても解り易かったです。
平河(良峯)師貞は北条重時の甥。これを考えると、九州における紀氏の勢力と北条の勢力が関係しているのかな?と素人ながらに考えました。

今では親戚と言えば、せいぜい「ふた従兄」程度までですが、鎌倉時代いえもしかして明治あたりまでは、親戚というよりは同族(血統?)までも、今で言う親戚と同じような繋がり・絆があったのかな?とふと考えました。

今日はとても寒くなりそうなので、早めに夕食を食べて、ゆっくり調査したいと思います。(同時に勉強も。本を何冊か買いました(*^。^*))

[12]子孫よりさんからのコメント(2013年12月11日 18時41分44秒 ) パスワード

追記
またまたカミングアウトします。
実はわたし、昨年のNHK大河ドラマは見ていないのです。
(えええ〜〜〜っ!!という声が聞こえてきたような・・(@_@。)

だから、今、先祖に関係するであろう方々の名前が出てきても、本当に「はじめましてぇ〜<m(__)m>」という感じで・・
あ〜見ておけば良かった(@_@。
そうしたら、もう少しは繋がりがわかったのかも知れません(@_@。
ちなみに、弟は毎週欠かさずに見ていました。
多分、子供の頃に経験した事が大きく影響しているのかなと、(以前お話した父との体験)去年は思っていたのですが・・
この前、ネットで北条氏に関する画像を見ようとして出てきた写真をメガネなしで見て「わあ〜男前〜!」と思ってメガネをかけて見たら俳優さんでした。(@_@。 
ハイ!勉強します<m(__)m>
[13]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年12月11日 21時21分19秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>安川氏という姓があったのですが、八幡には工業用ロボットで有名な安川電気があります。
 
 類例として、鎌倉時代に北条得宗家譜代の被官が全国の守護や地頭として任地に派遣されるが、例えば伊豆国田方郡長崎郷が本貫の長崎氏が肥前国彼杵郡、陸前国栗原郡、遠田郡に所領を持ち、いずれの地にも長崎が存在する。
 上古まで遡れば同族の土地か、或いは移動により命名されたかのいずれかと思われる。
 一般的には長崎の地名は九州発祥と勘違いされている。 
 
 全国に同名の地名がある場合、偶然では無く同族の可能性が大きい。
 家紋や神紋も併せれば、同族の可能性が裏付けられる。
 本土に多い神紋の巴紋は沖縄でも比較的多い家紋、方言も京都方言に近く本土と同じ民族を裏付ける。
[14]子孫よりさんからのコメント(2013年12月11日 23時28分10秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。

長崎が伊豆国田方郡長崎郷が本貫の長崎氏からの由縁の地名とは、びっくりしました。

「同名の地名の場合は偶然ではない」
北九州の戸畑には中原(なかばる)という地名があります。
地名をヒントにすると、とても解りやすいです。

神紋なのですが、実は今まで意味が解らなかったので(お恥ずかしい)調べました。
そこで、思い出したのですが、実家にある祖父の軍刀を置く為に使用していた兜ですが、家紋以外に岡原霧島神社と同じ紋が付いていたと書かせて頂いたと思います。
今、ネットで様々な紋を見て、たしか「違い鷹の羽」ではないかと・・
この兜は宮原の家の物ですから・・??阿蘇神社?
という事は岡原霧島神社と阿蘇神社は関係があると言う事でしょうか?
でも、岡原霧島神社はいくつかの神社が統合されたと聞きましたので・・

年末に実家に帰る予定なので、しっかりと掃除をしながらもう一度見直します。<m(__)m>


[15]白石さんからのコメント(2013年12月12日 04時45分58秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑様 子孫様 おはようございます。
今日はとりわけ冷え込んでいます。

ずいぶんしらべが進んでいるのだなあ と 一生懸命読んでいました。
この間から暮れの掃除に頑張っていて、子孫様 お正月あけですね。^^

昨夜は雑学をしておりました。
http://ameblo.jp/mzm27784/entry-11666014083.html
われら忌部は秦氏である。秦氏には色々な職業、家系がある。例えば、政治関係を担当した秦氏は藤原家がある。経済担当は三井家があり、三井家が神宮遷宮時の費用を捻出しておった。武家担当の秦氏には源平等がある。
※以前 佐田に関して 三井がついている系図を7000傑様に教えていただいたことがあります。わあ ここにも 三井がでている と 思って読んでいました。

秦氏は歴史から姿を消した。それは改名したに過ぎない。役割分担をはっきりさせると共に国体の護持の為に秦氏は改名したのだ。

われら忌部は秦氏の中で祭祀を職に持つ者。よって、われら忌部は秦氏と同族である。しかして、われら忌部は物部に祖がある。物部氏の中でも祭祀を担当するわれらの祖先が後に神武天皇と共に渡来した秦氏と婚姻を結び、現在秦氏としての忌部がある。
※多分私の中のもやもや は このあたりなのだろう と 思います。
神武の皇子・2代目天皇の宮の名を「葛城高岡(高丘)宮」という。
高岡は物部の系もある。

新撰姓氏録が編纂された時に物部系忌部から秦氏系忌部に変わっただけの事。秦氏系忌部を斎部と名乗る事もある。秦氏系忌部は神宮、熱田、諏訪、宇佐、高良等の大社の祭祀をしておる。しかして、物部系忌部は出雲、伊雑、籠、石上、大神神社等の古社の祭祀をしておる。
※高岡は嬴姓高丘系図もあり、秦では佐多(島津)がおり、私の父方・母方。

賀茂氏は忌部の中でも最高の祭祀支族である。大祭司は賀茂氏であり、忌部の中の忌部である。
よって、賀茂氏も秦氏である。神宮の祭祀は中臣氏であるが、それは表の儀式。
陰陽道は裏表がある。裏の祭祀で神宮の心御柱を直接奉蔡されるのは賀茂氏。賀茂氏の中でも陛下直属の賀茂氏は戸籍と姓名が無い。

戸籍の無き賀茂氏をわれらは「漢波羅」と呼ぶ。表の陰陽師を陰陽師、裏の陰陽師を漢波羅と申す。この漢波羅が神道奥義を握っておられる。
※ここなのです。天照国照彦天火明櫛玉饒速日命を祖先とする高岡がおり、その高岡は物部で、フツ主を祖先とする兵法家の家に伝わる異本物部系図。平川から出たフツ主。これらに関与するのは「ひのはやひの命」。これが わたしの もやもやの最大の原因なのです。ひ の 字は 漢の字が書いてある。

http://ameblo.jp/mzm27784/entry-11715595750.html
山奥の元神宮瀧原宮
櫛田川は元は★磯部河と呼ばれていました。
磯部は外宮の神官度会氏の旧名である磯部氏から来ています。
さらに出雲神の★イソ・タケルに由来します。

(金鷹:前回も言うとったが、こりゃ★博多の櫛田神社の名を川に名付けておるのう、)
(銀狼:★大幡主神が天照大神を伊勢に先導したのであるから、その縁であろうな。)

[16]子孫よりさんからのコメント(2013年12月12日 06時25分12秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございます。
伺ったサイト拝見しました。
解り易くて、おもしろかったです。(*^。^*)

ところで、
「平川から出たフツ主」とはどういう意味なのでしょうか?
すいません(@_@。やはり、理解していませんでした。

ネットでフツ主を調べたのですが、http://www.dai3gen.net/kessi8-7.htm
戦争の越側大将がフツ主
フツ主の娘達(或いは孫娘達)が川俣姫、川津媛、賦登麻和訶比賣。
putu=川口、pet=河がキーワード。
フツ主系は川津姫
フツ主系は賦登麻和訶比賣

川口・河がキーワード

?????
やっぱりわかりません(@_@。
「平川から出たフツ主」の意味を、すいませんが、教えて下さい。
よろしくお願い致します。<m(__)m>
[17]白石さんからのコメント(2013年12月12日 20時45分12秒 ) パスワード

こんばんは^^
良峯師高の荒田のことば → 田縣神社 → ヤマトタケル → 星宮神社 → ヤマトタケル・徳川家康尊・ふつぬし で 出てきたと思います。前に書いています。

川津姫 川津は 了円寺様の苗字です。
お寺様は佐賀から養子でこられたそうです。
先代の方が 私が5さいくらいの頃 お寺に父と行った時、父は養子だったので私は白石と思っていたけど、
「お父さまのお名前は?」と 聞かれ、白石です というと また聞かれるので
思いついて 高岡です というと やっと うなづかれました。その時 高岡という言葉を意識しました。

※瀧原宮に関して 前にしらべたことがありますが、その時は手も足も出ない状態でした。何かに関して 淡海三船の 名が出て、この人に関与して高丘皇子がいたと記憶しています。ので 高丘(高岡)を強く意識しています。
私は親から聞いたことや家のつながり、地域での山のすみわけなどから入っているので資料で これ と いえないのがくやしいですが・・・

川津姫は 初期のころの后の名にありますね。
サダにからんでいるようです。
ふつぬしの系にあるとは 知りませんでした。

越なら 夏の劉の可能性大ですね。 ・・と 思うのですが・・・もしもそうなら子孫様 すばらしいですね。はるか はるか 昔の おじいちゃ〜ん おばあちゃ〜んの 顔が浮かんでくるようなものですから。


 
[18]白石さんからのコメント(2013年12月12日 21時02分21秒 ) パスワード

ふつぬし は 鹿島神宮に関与。
とりあえず 簡単にネットの表題を借りてみると
磯良崎と磯良神
www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1107a.htm‎
磯良神とは★綿津見神のことで、志賀明神、阿度部の磯良、安曇磯良とも言い、志賀島の磯良崎に現れるという。 ... 磯良は筑前国志賀島大明神(志賀海神社)であり、★常陸国鹿島大明神(鹿島神宮)でもあり、かつ★大和国春日大明神(春日大社)でもある。

安曇日羅は 芦北でもでましたよね。

また 尾張熱田神宮の先祖・天照国照彦天火明櫛玉饒速日命だったが、大分前に振魂命にかえられた。この命は海神の子神で、熱田氏の本姓は安曇だと 大田亮氏は書いている。

つまり 芦北と熱田神宮はつながりがあったといえる。

振魂命の系に 八木氏がいた。
http://choshi-geopark2.doorblog.jp/tag/%E5%85%AB%E6%9C%A8%E6%B0%8F
 『千葉県神社名鑑』では、「銚子市八木町の阿蘇大神の祭神は阿曾津彦(アソツヒコ)命、健磐龍(タケイワタツ)命で、例祭は旧2月1日。景行天皇紀40年★日本武尊と下った★八木連が創建したらしい」とあります。

平清盛の異父兄弟の★平頼盛の孫に八木盛定・★平川景家がいます。『新撰姓氏録』によれば、八木氏は、和多罪豊玉彦(ワタツミトヨタマヒコ)命の児神、布留多摩(フルタマ)乃命の後裔とされます。ここで思い出されるのは、振魂(フルタマ)命に関わる渦海(ウヅミ)族の伝承です。

※日本の苗字7000傑様のお言葉に 前に 薩摩からあがってくる頼盛系の平川がいる と あったと 思っておりますが・・・
[19]白石さんからのコメント(2013年12月12日 21時40分17秒 ) パスワード

武家家伝_但馬八木氏
www2.harimaya.com/sengoku/html/t_yagi_k.html‎
但馬の戦国武将八木氏は、但馬の古族日下部氏から出た朝倉高清の次男安高(一説に孫)が、但馬国養父郡八木を領して八木氏を称したのが始まりとされる。以後、同地の豪族として成長し、南北朝期には但馬守護山名氏の配下となり国老四家のひとつと呼ば ...

前に おばあちゃまがおっしゃった ? か お母様がおっしゃった? 朝倉から但馬国造の日下部氏がでたことがあり、7000傑さまから 薩摩隼人の方ではないか? という 指摘をうけましたが、

式内社 但馬國朝來郡 赤淵神社
旧県社

御祭神
大海龍王神 赤渕足尼神 表米宿禰神

日下部氏の奉祭する神社で、
一説には、日下部氏の祖・表米宿禰命が外寇討伐のおり、
沈没しかけた船を、大海龍王が、アワビの大群を用いて
救ったといい、大海龍王神=赤淵明神と考えられている。

一説には、表米宿禰命が外寇討伐のおり、
大風が吹いて船舶が破壊された時、粟鹿神に祈ったところ、
神験があり、これを祀ったとも云われ、
と同じ神とも考えられている。

赤淵の名は、赤渕足尼命からとられたものと思われるが、
赤渕足尼命は、表米宿禰命の祖。


大海龍王神=赤淵明神=粟鹿神=赤渕足尼命=日下部氏=表米宿禰命=彦坐王
イコールでつないだけど、同じ流れにあると捉える。結果として大海龍王神は海神ではないのか?

赤淵神社由来記
仰 赤淵大明神 人皇始以来第九代開化天皇御代也 是時皇子四道将軍祀★彦坐王  是★粟鹿大社之流也 彦坐王為但馬國造子孫代々國造而 司神事執行政務開 拓國土劃治水振興農業以愛民生偉業烈烈恩澤普及 自是營一祠祀歴代國造赤淵 大明神是也
號日下部表米宿禰命 赤淵宿禰五世孫而忠功有奉聞 丹後丹波但州三箇國可為 守賜宣使本國也
因在所窮見給枚田郷内高山麓淵有之淵尋赤淵云 平城守東向赤淵大明神奉祝之 宮也 赤淵神社合祀久世田庄勘納岡表米明神奉祝 然而惣名日下部姓始祖神表 米御子在所分附給 ★朝倉 絲井 奈佐 ★日下 ★八木 本山 太田垣 宿南 姓 是也 属者尊崇殊厚是皆在所名也 日下部表米流丙与繼為子孫不依上下男女可奉 仰 昭和四十五年三月二十七日赤淵神社為國重要文化財 枚田郷赤淵神宮司佐 宗氏同郷地頭枚田氏始氏子連之厚思奉謝 茲来裔氏旌考證家傳祈念之建碑傳永 世者也

丹波と丹後は同義ともいわれ、伊勢神宮内宮・外宮とも丹後から来ている。
丹波のいそ(左は山・右は石)部神社
いそ部神社の御祭神は・・・

★「奇日方命(くしひかたのみこと)」・・・「玉櫛媛(たまくしひめ)」の第一子

第二子は神武天皇の皇后である「韛五十鈴姫命(たたらいすずひめのみこと)」

★「譽田別命(ほんだわけのみこと)」・・・応神天皇の異称

★「神功皇后(じんぐうこうごう)」・・・応神天皇の母

★「比賣大神(ひめおおかみ)」

以上のように、天皇や天皇と深い関係のある女神がお祀りされています。奇日方命は、

いそ部の人々の祖先とされているようです。

いそ部は先ほど 出た言葉ですね。

[20]子孫よりさんからのコメント(2013年12月12日 23時56分15秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、ご教示本当にありがとうございます。

まず、浅倉の名前を出したのは母(岩切)です。
よく、意味はわかっていないようだったのですが・・
ただ、言えるのは、母の故郷、高鍋は太平洋(日向灘)に面して、なお且つ母の実家の蚊口は小丸川(おまるがわ)の河口に面した場所です。
小丸川(おまるがわ)の河口はとても広く雄大で、私も、2年前に行ってみましたが、それは、今まで見た事がない景色でした。

伺った様々な神様には「津」という字がついていますよね。
白石様から伺ったサイトの中に「熊襲と呼ばれる部族には、狭義の熊襲と広義の熊襲があった。」という記述がありました。
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/sono404.htm
中で、特に興味を引いたのが「熊襲として記述されているとおもわれる部族名」の中に
弟熊津彦(おとくまつひこ)熊県(くまのあがた、熊本県球磨郡〜人吉市)
「津」がついています。
そして
津頬(つつら)玉杵名邑(たまきなのむら、熊本県玉名郡〜玉名市)
やはり「津」です。
球磨も玉名も山で、海には近くありませんが、共通なのは川それも大河。
球磨川と菊池川ですね。

そこで・・
以前御紹介した、私が先祖の事を調べるよりずっと前から興味を持っていた狗奴国に関するサイトを、色々教えて頂いて、少しは解るようになったかな?と思いあらためて見て・・びっくりしました。
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-01yayoijidai.htm
記述をスライドしていくと「松野連系図」という表題があります。
その中に「中国の史書には「周の元王三年、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記されている。「松野連系図」によると、この夫差の子「忌」が、生まれ育った江南地方を離れ、日本列島にやってきたと伝わっている。この系図によると「忌」のところに「孝昭三年来朝。火の国山門に住む。菊池郡」と記されている。」
以前読んだ時は意味が良く解らなかったのですが、ここに火の国菊池と!!
そして読み進むと(ここは以前御紹介致しました)
「BC473年呉が滅亡したのを機会としてその子「忌」は東シナ海に出て、現熊本県玉名市近辺の菊池川河口付近に到達し、菊池川を遡って現在の菊池市近辺に定住したものであろう。一族はそこを拠点として繁栄し、後の球磨国(狗奴国)となったと推定される。」
先ほど出てきました「玉名付近の菊池川河口」そして球磨。
サイトの記述を読み進んでいくと

イザナギ一族と球磨族は共に同系統の一族のはずであるが、「忌」の正統な系統は球磨族の方である。幣立宮が始原となっているが、それ以前に住んでいた地があるはずである。それが全く伝わっていないことからして、イザナギ一族は球磨族から仲たがいして分派したのではないかと思われる。当初菊池市近辺に住んでいたが、球磨族と意見の相違があって、その地を離れ、緑川を遡り幣立宮の地に移り住んだのではないかと思う。その人物が神漏岐命・神漏美命であろう。その時期は定かではないが神世七代から推察してBC200年頃か。この頃は秦徐福が菊池市一帯のすぐ近くの佐賀平野に上陸しており、徐福一族とのかかわりが一族分裂の一因かもしれない。
★、「忌」の正統な系統は球磨族の方である。
ええええ〜っ\(◎o◎)/!(久しぶりです)

この時代よりずっと下った、平安・鎌倉の時代に、何故中央の勢力がこの球磨の地に・・??と思っていたのですが、日羅の時代より前そして、天孫降臨よりも前!からの流れが存在して、その同族?が後世で球磨にコレマタ関わりを持って来た。そう考える事も出来ると言う事ですね。

これはこれは、もう絶対に「古代日本の領土の起源」この本を熟読しなければ。(図書館には返しましたが、絶対に買おうと思い、色々な所をあたっています。)
とても長くなりましたが、どうも私はこの時代の事をお話する方が、興味が湧いて来てワクワクします。
では<m(__)m>




[21]子孫よりさんからのコメント(2013年12月13日 06時30分15秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、昨晩のご教示に白石様が調べていらっしゃった、平川景家のお話があったと思いますが、今朝、東大のフルテキストベースで調べてみました。
平川景家では出て来ないのですが、「景家」と入力して見ると
寛元2年6月5日
幕府、蓮性と市村景家との相論を裁決す というのがあり
市村景家とは市村小次郎景家で蓮性は藤原知家という所まで調べました。
別にネットで出た情報には為家と対立する蓮性(藤原知家)というのもあり名前に「家」が付くのでちょっと気になりました。

吾妻鏡より
6月5日 甲戌 申の刻雷鳴雨降る
日来炎旱に依って、当に祈雨を修せらるの時、この雨有りと雖も、猶国土を潤すに足 りずと。猶不足の間水天供延引すと。今日千田判官代入道蓮性と市村の小次郎景家と 相論の事、一決を遂ぐ。景家蓮性を以て人の勾引を為すの由訴え申すに依ってなり。 然れどもその実無きの間、讒訴の過料に募り、一所の橋を直すべきの由景家に仰せ付 けらると。平内左衛門の尉・鎌田三郎入道等これを奉行す。

全く関係はないとは思いますが、お役に立てずにすいません。<m(__)m>

[22]子孫よりさんからのコメント(2013年12月13日 19時21分04秒 ) パスワード

皆様、今晩は。

今朝、白石様がお調べになっていた平川景家。この方を調べている時に偶然出て来た平川の名前が「平川師門」。
この人を調べたところ・・・

これをご覧ください
まず見つけたのが 歴史學硏究 - 第 512〜523 号 - 27 ページ
即ち相良前頼,相良右親,相良多良木頃忠,久米(ぬ為縝.平川師門,奥野(代)助景,須恵重宗,恒松峯,岡本鎮季,永里武網,宮原橘公冬である.これだけ多数の国人が参加した地域を他にみることはできない.满範が最初に下着した球磨郡にふさわしい現象といえよう.

何だか、宮原の先祖の名前まであるぞ〜?と。
これは何だろうともっと探ると・・・
同じく 史學雜誌 - 第 87 巻、第 1〜6 号 - 77 ページ
)、#野(代助^、岡本・季,永里武綱、宮原公冬、相良前頼らとの良前頼らとの一体化した行動、 3 ;では相良右頼,平川師門、久米(代為語る。 1 :では球磨郡国人小田房成、永里隆能,橘佐渡(宮原)公・、相(韻) 3 :は著名な南九州国人一揆に相良多良木遠江守 ...

南九州国人一揆?? ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E4%B8%80%E6%8F%86

南九州国人一揆(みなみきゅうしゅうこくじんいっき)とは、南北朝時代の天授3年/永和3年(1377年)に結成された国一揆である。九州探題今川了俊と島津氏久の衝突に際して薩摩・大隅・日向・肥後4ヶ国の国人衆が結成した[1]。

この一揆に参加した球磨の皆様でございます
良前頼,相良右親,相良多良木頃忠,久米(ぬ為縝.平川師門,奥野(代)助景,須恵重宗,恒松峯,岡本鎮季,永里武網,宮原橘公冬,小田房成,永里隆能,橘佐渡(宮原)公・
あれれ〜っ!宮原の先祖が二名も参加です!!
そして平川師門(すでに平河ではなく平川です)そして久米・奥野(奥野は岡原) これは!!祖母方の平川に間違いありません!!
多分参加したのは、球磨でも上球磨の面々だと思います。
???小田?恒松? あっ!親戚です\(◎o◎)/!

最後にウィキでは
元中4年/至徳4年(1387年)に氏久が60歳で死去、後を継いだ子の元久も了俊への帰順と離反を繰り返しながら幕府と直接交渉して日向守護職に補任され、明徳5年(1394年)の相良前頼の戦死と応永2年(1395年)の了俊の九州探題解任もあって守護領国制を確立していった。
国が平定される前に先祖はがんばられたのだな〜と。
とっても、子孫としては感動致しました(@_@。


[23]白石さんからのコメント(2013年12月13日 21時49分53秒 ) パスワード

こんばんは。
子孫様 一杯名前が出てきて・・・^^
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その中で 私 前から中原とか 花山源氏 王氏 ヤマトタケルの話 飛鳥井も一度話したことが・・・ そして 中山は 明治天皇ご生母の筋で 山口に話がある。山口に話が行けば わからなくなるので ・・・ と 前に書いたことがあるのですが、あまりにも 時代も 何もかもが はなれているのでね。

我々の方は
急角度でつながるのでなく ゆるく 昔に つながっているのだろうと 思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
花山天皇のことで 私 この方の名前をみると うふふ と つい 笑みがこぼれることがあります。桜の木を御所の塀の外に植えさせた話。

御所より外へ気軽に出かけられない身で、くるん と 頭を働かせて、塀の外に木を植えればきれいな花がみられて いいじゃないか !!と あとは ツルの一声でそうさせた。毛虫などは 塀の外に落ちるので きれいなお花を眺めるだけ!!
と これは 私の想像の中の話ですが
ここでも 陽成天皇と同じく 闊達な天皇が 限られた生活で精一杯楽しみを見つけて生きた ことを 信じたいです。
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藤原知家号:大宮三位入道 法名:蓮性寿永元年(1182年) - 正嘉2年(1258年)11月)
藤原北家★魚名流、正三位・藤原顕家の子
母・源師兼の娘の子。

花山院家系図(師兼のほう)
家忠までの詳細な系図は、藤原北家道長孫系図を参照。

花山院家一門の堂上家に大炊御門・中山・難波・飛鳥井・野宮・今城(元称中山冷泉)があり、絶家した五辻・鷹司がある。
また、華族類別録によれば、丹波篠山藩主・美濃郡上藩主の 青山家も花山院家の庶流という。ただし、 寛永諸家系図伝等では藤原氏秀郷流となっている。


★★西園寺秘本★★なる本によると、師信以下の系図は次のように なっている。長親、師兼などは歌人として名を残している(出自に関しては諸説ある)が、他の多くは実在が確認できず、信憑性に乏しい。

┗ 兼信 ┳ 師兼(実師信二男。権中納言正三位。但馬権守)


花山院 師信[ 文永11(1274)年 〜 元亨元(1321)年11月1日 ]
師継二男。母家女房(毛利季光女)。号・後花山院内大臣。
正応4(1291)年7月29日任参議。
従一位・内大臣。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
毛利季光 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/毛利季光‎
父の広元は源頼朝に招かれて都から鎌倉へ下り、幕府創業に尽力した。季光は父の所領のうち相模国毛利庄(厚木市)を相続し、毛利氏の祖となる。正式な名のりは大江 季光(おおえ の すえみつ)だが、領した荘の名から毛利 季光・・・

中原から大江に姓を改め、のち出家して「西阿」と称した季光は、やがて「毛利」の姓を名乗ることになる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
子孫様 本当に子孫様の調査力に期待し うれしいと思います。
まちがっていない と 思うけど。

私 母方のおばが おばあ様は毛利様から院号を頂いたのだよ と 言っていたことを覚えているのです。


[24]子孫よりさんからのコメント(2013年12月14日 00時47分57秒 ) パスワード

夜も更けて、底冷えして来ました。
皆様、風邪にはお気を付け下さい。

白石様、ご教示ありがとうございます。
藤原知家号:大宮三位入道 法名:蓮性寿永元年(1182年) - 正嘉2年(1258年)11月)
藤原北家★魚名流、正三位・藤原顕家の子
母・源師兼の娘の子。
わぁ〜!何故でしょうか?私が見つける?お名前はやっぱり何故か
藤原魚名に繋がるのですね??(何も考えずにピックアップしました。本当にハテナ?です)
白石様は毛利氏にも繋がるのですね!

所で!!マタマタ見つけてしまいました!
きっかけは、南九州国人一揆です。
後で、ネットで見たのですが、教科書などに載るような国人一揆だったのですね!(どれだけ勉強していなかったかバレバレです<m(__)m>)
そこで、ウィキの記述を見ながらフト「よっぽど其々の絆があったのだな〜」と思い、「同族」の言葉が頭をよぎりました。
ウィキより
かつては了俊の主導で一揆が結成されたとする見方があったが、近年の研究では国人衆の自主的な動きから一揆が作られたとしている。
市来氏、渋谷氏、牛屎氏、菱刈氏、禰寝氏、肝付氏、伊東氏、土持氏、北原氏、野辺氏、相良氏など。
そこで、ウィキに記述されていた方々の名前をジッと見ていて
すごく気になったお名前が、それが北原氏です。
何故、気になったのか・・それは・・不明です(というか自分でも解りません)
早速ウィキで表示された「北原氏」をクリック
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E6%B0%8F

勢力範囲は、真幸院(現・えびの市)5ヶ郷(加久藤、飯野、吉田、吉松、馬関田)及び三ツ山に加え、東方面は高原、高崎、野尻、山田、志和池、西岳(以上 現・宮崎県)付近まで、西方面は、財部、吉松、栗野、横川、踊、日当山(以上 現・鹿児島県)あたりまでを領有していた。

真幸院は・・・平河が所領していました。
「東方面は高原、高崎、野尻、山田、志和池、西岳(以上 現・宮崎県)付近まで」
西諸県・・・あっ!平河は平西諸県縣郡司の裔ではないか?という記述がありました。
北原(きたはら)氏は日向国の氏族で、大隅国肝付氏の庶流。
肝付氏?と思い次に進みました
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%9D%E4%BB%98%E6%B0%8F
その他の庶流も薩摩藩士、佐土原藩士として多くが残っている。との記述が。
ここは後ほど・・・
では、そのまま伴氏へ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%B0%8F
大伴氏・・・皆様の方がずっとお詳しいとは思いますが<m(__)m>
私が気になった所だけピックアップしますね。
「大和の拠点が磯城・磐余地方に集中していた。河内には大伴金村の「住吉の宅」(『日本書紀』欽明元年(540年)九月己卯条)があり、「大伴の御津の浜」(『万葉集』1-63・68)「大伴の高師の浜」(同1-66)と詠われている。住吉は倭王権の重要な港であった住吉津が所在したところであるし、「御津」は難波津、「・師」は現高石市一帯のことであり、摂津から和泉にかけて拠点を所持していたことは、5世紀から6世紀にかけて外交・外征面において、倭王権では重要な役割を果たしていたものと考えられる。」
昨日のコメントで私が気になってしまった「津」・・・
倭王権の重要な港であった住吉津・「御津」
「・師」は現高石市一帯のこと 「師」
これだけでは無いのです。
「政争への関与と衰退」 この項目の中に「壬申の乱で擁立した天武天皇とは別系統の桓武天皇が即位すると、今度は氷上川継の乱への関与を疑われて、再び左遷されてしまう」
氷上川継の乱!! やはり繋がりました。
藤原魚名もこの事件がきっかけで大宰府に向かう途中で亡くなりました。
そして氷上川継の父は氷川氏。
清和天皇朝に国道の子、伴善男(とものよしお)が頭角を現し、864年に久々に大納言を出すが・・伊豆に流罪になる。・・伊豆!
早速、日本の苗字七千傑様のサイトで確認しました。
大伴氏 → 三河伴氏 → ★ここであれっ?!と岩切の祖母は佐土原出身で富田家でした。(母に確認しました・士族です)では進みます
大隅伴氏・・・・ここで、見つけました。井口氏!!
球磨・岡原の実家の目の前に流れる川は球磨川の支流「井口川」です。
その少し上流のやはり川のすぐ横に祖母の実家「平川家」があります。
井口川・・・井口氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/iguti_omi.html
井口氏は延暦寺千僧供領であった近江国富永庄総政所を主宰する荘官で、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を管理していた「井頼り」でもあった。「井口氏系図」によれば、井口氏は崇峻天皇の後裔という近江中原氏の一族ということになっている。一説には、近江守護職である六角佐々木泰綱の曾孫経方が高時川の水利を統治する井頭に任ぜられ、地名を井口と呼び代々井口姓を名乗ったことに始まるともいう。いずれにしろ、いつのころか伊香郡に住し、井口を名乗るようになり、土豪として成長していったことだけは間違いない。
大隅伴氏の井口氏とは関係ないかも知れませんが、こちらも川に関係されているのですね。  そして、大江中原氏の一族。

なんでしょうか?全てが繋がっているようで・・・
これこそ、もしかしたら、同族の関係?でしょうか・・
長くなりましてすいませんでした。<m(__)m>


[25]子孫よりさんからのコメント(2013年12月14日 07時57分48秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
今朝は、昨日の流れから、今まで、何も調べていなかった伊東氏についての記述を読んでいました。(こちらも、皆様方は良く御存じだと思いますが、なにせ、私はゼロからのスタートなので<m(__)m>)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E6%B0%8F
伊東氏(いとうし、いとううじ)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本貫地としていた豪族。藤原南家・藤原為憲の流れを汲む工藤氏の一支族。
こちらも伊豆だったのですね。φ(..)メモメモ
工藤氏の一族である工藤祐隆は、伊豆国の大見・宇佐見・伊東からなる久須見荘を所領としていた。

祐隆は出家して法名寂心、久須美入道(久須見氏)と号し、嫡男祐家が早世したため、後妻の連れ子であった継娘が産んだ子を嫡子に取り立てて伊東荘を与えて伊東祐継と名乗らせた。一方、早世した祐家の子である祐親は次男として河津荘を譲り、河津氏を名乗らせた。

『曽我物語』によれば、祐親は祐継を「異姓他人の継娘の子」と呼び、真名本『曽我物語』では祐継は寂心が継娘に産ませた子で、祐親の叔父であるとしている。

伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去し、9歳の嫡男金石(のちの工藤祐経)の後見を義弟の河津祐親に託した。祐親は河津から伊東荘に移り住み、河津は嫡男祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせる。また、祐親の次男祐清は伊東を名乗っている。金石は元服すると工藤祐経と名乗り、約束通り祐親の娘・万劫御前を妻とした。その後祐経は14歳で祐親に伴われて上洛し、平家の家人として平重盛に仕える。
\(◎o◎)/!あれっ!!平重盛。この方がここで登場するとは思いませんでした。

祐経を都へ追い払った祐親は所領を独占し、押領された事に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。祐親は娘万劫を取り戻して相模国の土肥遠平へ嫁がせる。所領も妻をも奪われた祐経は憤り、祐親親子の殺害を計画、安元2年(1176年)10月、祐経が送った刺客により 、伊豆の狩り場で河津祐泰が射殺され、のちの曾我兄弟の仇討ちの原因となる。
(-_-)とても奥が深い話になってきました。

源頼朝は平治元年(1159年)の平治の乱で父源義朝が敗死した事により、14歳で伊豆国へ流罪となり、伊東祐親は在地豪族としてその監視の任にあたっていた。祐親が大番役として上洛している間に、頼朝と祐親の三女八重姫が通じ、千鶴という男子をもうける。安元元年(1175年)9月、子が3歳になった時に祐親が帰郷して事を知り激怒、平家への聞こえを恐れ、千鶴を川底へ投げ捨てて殺害し、さらに頼朝を討とうとした所を、次男の祐清が頼朝に知らせて北条時政の邸に逃がした。のちに頼朝は時政の長女政子と結ばれ、北条氏が頼朝の後見として頼朝の挙兵に加わる事になる。
(*_*; 一貫した考えがあったのだと思いますが・・時代のせいでしょうか・・

この事件の5年後、治承4年(1180年)8月、頼朝は打倒平氏の兵を挙げて坂東を制圧し、平家方として敵対した祐親は頼朝方に捕らえられ、一端は娘婿である三浦義澄の奔走によって助命されるが、それを由とせず自害した。次男祐清は頼朝から命の恩人として賞を与えられるが、これを拒んで平家方として西国へ下り、篠原の戦いで討ち死にした。工藤祐経は頼朝に仕えて側近として重用され、祐親父子亡き後の伊東荘を安堵される。祐経は頼朝の挙兵から13年後に河津祐泰の遺児・曾我兄弟によって父の仇として討たれた。
(@_@)読んでいて、胸が詰まってきました。

とても、長いウィキの記述を、私にしては珍しく、一気に読んでいきました。
表記されていた様々な方の名前のリンクも読みました。
固定観念で、伊東氏は「九州から見たらよその人」そういうイメージしかなかったのですが、今は一言では言い表せない感情で・・

そして、記述されていた方々の中から、インスピレーションを感じた方の情報を進んでいきました。その方が
伊東祐清・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E6%B8%85
源頼朝の乳母である比企尼の三女を妻とする。
(゜-゜)何故、この方が気になったのか・・・
治承4年(1180年)8月の頼朝挙兵ののち、平家方であった祐親と祐清父子は頼朝軍に捕らえられた。その際、頼朝は祐清にかつて自分を助けた事による恩賞を与えようとしたが、祐清は父が頼朝の敵となっている以上、その子である自分が恩賞を受ける事は出来ないとして暇を乞い、平家に味方するために上洛した[2]。

その後、平家軍に加わった祐清は北陸道の合戦で討ち死にした[3]。祐清の妻は義兄・祐泰が工藤祐経に討たれた後、生後間もない祐泰の子(曾我兄弟の弟で僧となる)を引き取り、祐清と死別したのちに子を伴って平賀義信に再嫁している。『平家物語』(覚一本)では、篠原合戦で伊東九郎祐氏が討ち死にしたとある。
(@_@。今の平和ボケした自分ではまず考えられない行動を選ばれたのですね。

また、インスピレーションが・・

祐清の妻は祐清と死別したのちに子を伴って平賀義信に再嫁している。
平賀義信・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E7%BE%A9%E4%BF%A1
平賀 義信(ひらが よしのぶ/源 義信 みなもと の よしのぶ)は、平安時代末期の河内源氏の武将。父は新羅三郎義光の四男で、平賀氏の祖である源盛義。諱は義宣とも。
新羅三郎義光の四男・・・以前、とても気になって調べた新羅三郎義光
日本の苗字七千傑様からも、ご教示頂いていた新羅三郎義光!
ここで、繋がってくるとは・・・!!
建仁2年(1202年)3月14日、永福寺で頼家と北条政子が、頼家の乳母を務めた義信の妻の供養を行っている。建仁3年(1203年)9月に起こった比企氏と北条氏の対立による比企能員の変では、双方と縁戚関係を持つ平賀氏では北条時政の婿である子の平賀朝雅が北条氏側として比企氏討伐軍に加わっている。乱後に3代将軍として擁立された源実朝の元服の際には加冠役(烏帽子親)を務めている。
子  大内惟義、朝雅、朝信(三郎)、小早川景平
どうも、「三郎」という名前は、私が気になる沢山の方々に付いているような?(゜.゜)?
では最後に平賀氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%B0%8F
新羅三郎義光の子盛義が佐久郡平賀邑を有したことに始まり、子の平賀義信の代に、源氏御門葉として、また御家人筆頭として隆盛を誇ることになる。

さっ!これで今朝は終わろうと思った次の瞬間\(◎o◎)/!
その後は、平賀郷の在地豪族などが平賀姓を名乗っていたが、信濃源氏小笠原氏の庶流大井氏の勢力下となり、庶流の岩村田大井氏出身の平賀玄信が記録に残されている(江戸時代の平賀源内は、この岩村田大井氏系平賀氏の子孫を名乗った)。

玄信の滅亡後、一族は陸奥国白石に移り伊達氏に仕え、名字を白石に改めた。

あっ!!白石さま〜!! 白石様には関係ない内容かもしれませんが、でも地名が同じの場合は同族の可能性がと伺ったので・・

そして、安芸平賀氏
国人としての自律性を有しながらも毛利氏への従属を深めていった。
毛利氏が最大勢力を築いていた頃には、平賀氏の所領も最大となり1万8,000石を領する規模まで成長していた。
平賀氏はその後も毛利氏家臣として続いた。

昨日、お母様方の毛利氏との関係についてお話がありましたが、「平賀=白石」で、白石様との関係性はわかりませんが・・でも、最後に毛利氏が出て来たので、本当にびっくりしました。

またまた、今朝も長くなりましたが、
やっと、歴史を勉強することがとてもおもしろく(すいません)なって来ました。(^◇^)
[26]子孫よりさんからのコメント(2013年12月14日 09時21分50秒 ) パスワード

あれ〜〜〜〜〜〜!!っ\(◎o◎)/!(今朝は終わろうとしていたのですが、すいません)
今、自分のコメントを読んでいて、自分でビックリ!する事を書いていた事に気付いたのです!!

その後は、平賀郷の在地豪族などが平賀姓を名乗っていたが、信濃源氏小笠原氏の庶流大井氏の勢力下となり、庶流の岩村田大井氏出身の平賀玄信が記録に残されている(江戸時代の平賀源内は、この岩村田大井氏系平賀氏の子孫を名乗った)。

大井氏!!大井氏ですよ!!
球磨の所領をめぐって、平河(良峯)と大井氏は、幕府に訴訟を起こしていました。あの!大井実春!!・・(父は紀実直。本姓は紀氏。)
えええええええ〜っ!!
なんだろう?これは?
ぐるりと回って、平河に戻ってきました。???

ついでに番外編?を
比企尼(ひきのあま、生没年不詳)平安時代末期の女性。武蔵国比企郡の代官で、藤原秀郷の流れを汲む一族である比企掃部允の妻。
娘が3人おり、源範頼の系譜である『吉見系図』によると、嫡女・丹後内侍は惟宗広言と密かに通じて島津忠久を産んだのち、関東へ下って安達盛長に再嫁し、盛長は頼朝の側近となる。次女(河越尼)は武蔵国の有力豪族・河越重頼の室となり、三女は伊豆国の有力豪族・伊東祐清に嫁ぎ、死別したのち源氏門葉である平賀義信の室となっている。

嫡女・丹後内侍は惟宗広言と密かに通じて島津忠久を産んだ。
惟宗氏・・・日本の苗字七千傑様からご教示頂きました。
「石清水八幡宮祠官家、東大寺八幡宮神主家も紀姓。
八幡太郎義家は有名だし、頼朝、島津忠久も惟宗氏閨閥、足利義満は石清水八幡宮祠官家善法寺通清の孫で源氏は辰韓系の末裔。」

藤原秀郷の流れを汲む一族である比企掃部允
藤原秀郷・・ウィキよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E9%83%B7
出自を藤原北家魚名流とするのが通説
また、魚名様が出て来られました。
そしてコメント5で白石様からご教示頂いた百足伝説がここにも!!

北条義時の室は姫の前。比企朝宗の娘・・・比企氏
義時の子供 北条重時。
北条重時は平河宫内左衛門入道観覚 そして甥は
平河又三郎師里・・・何だかぐるぐる回っているような・・・(@_@)

うう〜ん??
入口は違っても必ず、ぐるぐる繋がってきます(@_@)
では、しばし休憩を。
またまた、長々とすいませんでした。<m(__)m>
[27]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年12月14日 17時39分00秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

比企能員の変により鎌倉幕府を支えていた閨閥は綻び、頼朝の有力家臣団も失脚して北条執権独裁体制が確立された。
比企氏閨閥図参照。 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01219a.htm
 
しかし、その後も支えた北条氏の最大閨閥の足利氏が終局的に天下を取る。
その足利氏は日野一門(藤原姓)、石清水八幡宮(紀姓)との閨閥を形成する。
足利氏閨閥図 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01015.htm#002
 
その日野一門(藤原姓)松波家の末裔が有名な齋藤道三で魚名裔の齋藤氏の名跡を嗣ぐわけだから歴史は面白い。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02016a.htm#003
  
その後は織田信長が齋藤道三に勝利して、例の本能寺の変では織田家臣明智氏の筆頭家老齋藤利三(魚名裔)が指揮を取るが山崎の戦いで敗北処刑。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02017e2.htm
 
しかしその後、娘の春日局は徳川将軍家に仕え江戸城大奥に権勢を築いた。
結果、遺された齋藤一族も徳川旗本や諸藩の藩士として明治に至る。
幕末には春日局の縁で出世した淀藩稲葉氏(越智姓)が徳川家を裏切ることにより、日和見だった多くの大名家は怒濤の如く官軍へ寝返り徳川幕府滅亡。
 
歴史というものは、いつもぐるぐる回っているものですね。
[28]子孫よりさんからのコメント(2013年12月14日 23時20分31秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
齋藤道三は魚名裔の齋藤氏の名跡を嗣ぎ、齋藤利三は魚名裔。
そして、ぐるぐる回って・・徳川幕府滅亡。
時代の中心には何故か藤原魚名の影が見えるのですね。
とても、不思議です。
本当に歴史はめぐりめぐる。
ふと、輪廻転生という言葉が頭をよぎりました。

今朝、伊東氏について勉強したのですが、「そう言えば相良氏は・・!」と・・

日本の苗字七千傑様のサイトを拝見して、最初からびっくりしました。
最初はやはり伊豆。
伊豆 → 工藤 → 頼寛・・・・?!
相良頼寛の妻は 八幡太郎義家の娘!!\(◎o◎)/!
辰韓系の末裔という事ですね。
球磨に何故、相良氏が?という疑問はこれで完全になくなりました。
でも、最初は、人吉では無く多良木だから・・
あっ!そうか久多良木(坂本)は百済につながる。
という事は、多良木という地名も関係があると言う事なのでしょうか?!

実は、今日、日本と新羅の関係を勉強中です。
日本の苗字七千傑様からご教示頂いた「玉名」に関係する記述がありました。

朴氏の始祖説話に登場する瓠公は倭人であり、これが朴氏初代の朴赫居世ともいわれる。また昔氏の始祖説話においても、倭国東北一千里のところにある多婆那国の王妃の子が脱解王である。「多婆那国」は丹波国とも比定されている[5]。ほかに但馬国、肥後国玉名郡などの説がある。
日本側伝承では新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとされている[6]。また昔氏の出生について倭国東北1千里(当時の1里はおよそ500m)とされ、今の兵庫県北部等と推定されるが、時代を下ると、兵庫県豊岡周辺のアメノヒボコ伝承との関連が指摘される。昔氏は現在の日本の但馬、丹波、肥後のいずれかの地域から船で渡った倭人と見る向きが多く、その後、日本に戻ったとされる。天之日矛に登場した王子は但馬に腰をおろしている

但馬、丹波、肥後 今までの調査に頻繁に出て来た場所でした。

では、しっかり勉強いたします。(^^ゞ



[29]白石さんからのコメント(2013年12月15日 02時17分28秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 とても よく 整理されていて わかりやすく 驚きました。
私の場合 この間も書きましたが、資料より父方母方のつながりからでる言葉を追いかけ、聞いた話に該当しそうな出来事をより集めてきたので、こうして整理されてつながってくると楽しくなります。

白石正一朗(まだ若かった頃調べたときに この人から平賀が出ました。真木は私の母方の婿養子の姓・・・この人も結局佐田の血を受けている。武田の子孫だが戦に負け武田を名乗れず廣島の浅野の殿様から真木姓を頂いたということが墓の内側に彫り付けてあるそうです・・・うちの真木ではないようだけど、真木和泉の祖先の話が福岡の水天宮にある)
維新のスポンサー 彼の財力がなかったら とうてい維新はならなかったろう といわれる。維新後 他の人達は次々と政界入りを果たしたのに、一人赤間神宮へ入った。近年まれにみる 清廉の士だと西郷隆盛にいわしめた。

明治維新後は、赤間神宮の2代宮司となった。明治13年(1880年)、69歳で死去。赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には★真木保臣の次男・真木菊四郎の墓が並ぶ。

前に見た姓系辞典でこの人が書いてあり、平賀源内も白石だと書いてありました。が、子孫様のように平賀=白石のつながりはわかりませんでした。

平賀は武内(竹内)ともつながっているのですが、
清和源氏義光流。新羅三郎義光の4男平賀冠者盛義を祖とする(知譜拙記による。華族類別譜によれば、義光の子義業の二男義信を祖としている)。元、久我家諸大夫だが、足利氏と同族であった為か、室町幕府の執奏で堂上に列せられた。庶流に中務大輔久盛を祖とする竹内流柔術家がある。

公卿類別譜平賀で打ち込むと高倉・竹内・高辻・富小路など表示されます。
高倉が藪になっていくようです。
はじめ北家にはじまり のち 藪は南家になっている。
またまたいっぱい名前が出てきて 私の頭はごちゃごちゃ状態ですが、
藪は属閑院流(高丘など)のグループにおり、堀河などもみていると出てくるので 私の故郷にも堀川がおり おそらく 昔に遡れば つながっていくのだろうと思います。

[30]子孫よりさんからのコメント(2013年12月15日 06時10分40秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございます。

偶然、「白石」という姓が出て来たので、思わず書いてしまいました。
真木姓は昨日も見かけました。
ご教示頂いた「白石正一朗」様。赤間神宮は、近いので、何度か行った事があるのですが、今度行く時にはしっかり確認してきます。

今日は、日曜日でもう15日。大掃除をこまめにとは思うのですが、私なりの歴史の勉強?の方が楽しくて中々すすみません。(言い訳ですね(^^ゞ)
掃除用具ばかり買い集めて、買う時はワクワクするのですが・・・
私が住んでいる部屋は狭いので、どうにかなるのですが・・年末に実家に帰った時は・・大変です。
今のうちに体力を温存しておかなければ・・(また言い訳でした<m(__)m>)


[31]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年12月15日 09時58分52秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>時代の中心には何故か藤原魚名の影が見えるのですね。
 
魚名の裔でも利仁流と秀郷流が特に武家集団として末流の拡がりが大きい。
藤原利仁の母は越前国人秦豊国の娘で、辰韓(秦韓)系産鉄集団の本拠地越前坂井郡で経済力を背景に栄えた背景がうかがえる。
平安京遷都を背後から経済的に支えたのも秦氏であり、やはり辰韓系がキーワード。
平成の現代でも商業/工業系企業は、秦氏の氏神である稲荷を祀る傾向が大きい。
[32]子孫よりさんからのコメント(2013年12月15日 12時36分23秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑様。
ご教示ありがとうございます。
稲荷神社と言えば、商売の神様のイメージが強かったのですが、秦氏の氏神だったのですね。
先日、稲荷のお話を伺ったすぐ後に、小倉城の前にあるリバーウォークという商業施設で食事を取りながら小倉城の方を見ていて、お濠のすぐ先に他とは隔たりがある別区画がありそこに赤い鳥居がいくつもあって、小さなお社がありました。上から見ないと気付かない場所で「あれ?小倉城の中にも稲荷が祀られている?!」と。
小倉城のすぐ横には八坂神社があります。
小笠原家に関係するのかな?と気になり少しだけ調べました。

小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。その後、高橋鑑種(たかはし あきたね)や毛利勝信(もうり かつのぶ)が居城し、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興(ほそかわ ただおき)によって、1602年に本格的に築城が始まり約七年の歳月を要しました。

忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させました。

細川氏熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真(おがさわら ただざね)が、1632年に入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。

細川家と小笠原家は姻戚関係にあるのですね。
今まで、小倉の歴史は調べた事がありませんでした。

どおりで、私のマンションの周囲には熊本という地名が付いているのだな・・と。
ここも、辰韓(秦韓)系の土地だったと言う事ですね。

あの・・神様と言えば、故郷、球磨の多良木には、山の中の土地なのに「恵比寿神社」があります。
毎年のお祭りを子供の頃楽しみにしていました。でも、子供ながらに「海からは遠いのにな〜」と思っていたのです。
懐かしくなって、今、サイトを見たら神文は巴紋でした。
旧岡原の、霧島神社よりホンの少し先、井口川の手前(橋を渡ると地区は「岡本」です)小高い丘の上にもお稲荷様がありました。

稲荷様というと・・・すいません<m(__)m>ここからは久しぶりに脱線話をさせて下さい。
子供の頃、ちょっとしたオカルトブームがあって、小学校で占いのようなゲームがはやりました。
お稲荷様に関係するあのゲーム?です。(すいません、本当に怖い目にあったので、ゲームの名前も書きたくありません)
私も、最初は嫌だったのですが、何となく面白半分で参加したのですが・・
きっと、他の人は何も無かったのだと思うのですが、私はその後、授業中も放課後家に帰る時も、ずっと沢山の人の声が(すごく怖い・助けてとすがる様な)聞こえて。ご飯も食べれず、夜も一人で寝れなくなって・・
祖母が「どうしたんね?」と心配するので話したらその時は優しく「もう、したらいかんよ」と一緒に寝てくれました。
次の日、学校に行っていたら友達が「ばあちゃんが、来とるよ。校長先生と話をしてるよ」と教えてくれて見に行った所・・
昨日とは別人のように物凄く怒っていて「孫にはこういう事はさせたくないので、禁止して下さい」と言っていました。
という事でこのゲーム?占い?は絶対に禁止となったのです。
その日、急きょ、以前お話した、鹿児島(出水か霧島かよく場所が解りません)のお寺様のおばあちゃんが来られて、これまた、水のようなものを飲んだり、身体じゅうを、沢山の葉っぱの付いた枝でパタパタされたり、最後は白い紙?の付いたものでパタパタされたりして・・順番とかは覚えていないのですが、何だかこういう感じだったような。
「○○ちゃん(私の名前)にはいっぱい頼ってくるけんね。もうしたらイカンよ。」と言われました。
その時に、お寺様のおばあちゃんから呪文のような言葉を教えてもらったのですが、すぐに忘れました(難しすぎたような)(*_*)
子供だったので、きっと暗示にかかりやすかったのかな?怖いとおもったからかな?と今では思いますが・・・
お寺様のおばあちゃんから言われたように何かが寄ってきやすい体質?のようなので、その後は、一切そういう占いのような術のようなものには関わった事はありません。(今まで、白い服を着た人?などは良く見かけて?来たのですが全然怖くはありませんでした。唯一「怖い!」と感じたのはその時だけです)
めちゃくちゃ脱線致しました<m(__)m>
実は子供の頃に体験した事はこれだけではなく、この頃地名を聞くたびに「あれっ?」と思う事があるのです。

中学生の時に通っていた塾主宰のキャンプで霧島に行きました。
キャンプ場は霧島神宮のすぐ近くにあったように記憶しています。
目的は、韓国岳登山。最初は良かったのですが、頂上に近づくと高所恐怖症の私には拷問のような感じで。でも無事に頂上にたどり着き、そして、下山しました。
その夜。好奇心いっぱいの年頃なので、テントを抜け出し、友達5人くらいで冒険?に出かけたのです。
キャンプ場の外に、高原のような広い場所があったのを昼間ちらっと見ていて、星が綺麗に見えそうなので「そこに行ってみよう(^O^)/」と懐中電灯を手に向かった所、小さなフェンスがあって「立入禁止」という札が貼ってありました。ここまで来たからには!と、腰のあたりまでのフェンスを乗り越えて、中に潜入したのです。((ー_ー)!!思春期とはいえダメですね)
しばらく進むと、広場のように開けた場所があり、そこに一段高いステージのようになった所がありました。(コンクリートではなく上手に土が固められてできていました)
そこで、私は友達を観客に見立てて、何と「松田聖子」の真似をして歌を歌ったのです。((-_-)/~~~ピシー!ピシー!すいません)
何の曲だったかよく覚えていないのですが、1コーラス歌い終えるかどうかの時に・・・
観客がわりになっていた友達の座っている場所からはるか後ろに、全身に白い服を着た白い髭のはえたお爺さんが、す〜っと来られて、何故か私の歌を聞いているような感じで・・
友達にジェスチャーで「後ろ!後ろ!」と。友達も一斉に振り向いたのですが、お爺さんはまだそこにいらっしゃるのです。
という事で目撃者?は、私だけではなく全員です。
お爺さんはまるで、まだ歌いなさいというような感じだったので、何と私は、2コーラス目まで歌いました。(アホですね(ー_ー)!!)
でも、頭の中では「誰だろう??。」でも、全く怖くないのです。
歌い終わってお爺さんを見たら・・
何と歩かずにホント宙を浮いているようにスーッと移動されたのです。
それを見た全員は、何も言わずに一斉にもと来た道を走り出しました。
乗り越えたフェンス辺りで、塾の先生とキャンプ場の管理の方がおられて、ものすごく叱られました。
でも、先ほどの事を言わなければと皆で説明した所、キャンプ場の管理の人が一言
「だから!、立入禁止になっとるでしょう!<(`^´)>」
と言われたのです。(その場は先生も含めて私たち全員が「だからって・・えっ?ええ〜っ!!」という感じでした)
でも、その後友達が「あのお爺さんニコニコしていたよ」と言っていました。
私にもそう見えたのです。全く怖くなかったのです。
今でもしっかり覚えています。真っ白の全身を覆うような何だかドレスのようなスカートのような長い服でした。髭があったように?やはり記憶していますね。
しばらくは「白い爺ちゃん」と私たちの間では呼ばれていました。
祖母に話したら、当然のごとく物凄く叱られました。(-_-)/~~~ピシー!ピシー!<m(__)m>

思い出話をと思ったのですが、すごく、脱線してしまいました。すいませんでした<m(__)m>







[33]子孫よりさんからのコメント(2013年12月15日 15時32分16秒 ) パスワード

皆様、御報告があります。

結論から申し上げると
球磨でよく使う方言「だんだんな〜」(ありがとう・御苦労さまなどの感謝の言葉)はなんと!!韓国語でした\(◎o◎)/!

掃除をしながら、何故か頭の中に「だんだんな〜」という言葉が出て来て、ふと、調べてみようかな?と思ったのです。
そこで、まずこちらのサイトから
愛媛の伝承文化
http://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/78abe72a159d085df113dffc6eb4af77
 「ありがとう」の意で「だんだん」を方言として用いる地域は西日本各地にある。列挙してみると、鳥取県西伯郡、島根県、山口県大島、高知県幡多郡、福岡県博多、熊本県、大分県直入郡、宮崎県高千穂などである。
伊予でも使うの??と思い・・
でも、コメントでは「だんだんありがとうございます」が短くなったと書かれているのですが、私はこれに??と。
地域が特定されていると言う事は違うのじゃないのかな?と。
そして、もしやもしやと
キーワードを「方言 だんだん 韓国」と入力してみると・・
日本語と韓国語は同系語: 2012年12月というサイトが
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html

記述をスライドしていくと丁度中段くらいに「だんだん」 と 「도움」(2)という表題があります。
「だんだん」は「どうもどうも」を連想させないだろうか。これらの言葉は「使うタイミング」「意味」「音」がそっくりである。さらに気づくことは、これらの言葉がハングルの「도움<doum> 支援 世話」に似ていることである

言葉は残って行くもの、受け継がれていくものなのですね。
記述の最後に近づくと

百済王朝と新羅王朝の言葉
全栄来(全北日報論説委員 全北道立博物館館長 韓西古代学研究所所長)は「新羅による半島統一による百済の滅亡後、民族の移動と文化交流が引き起こされ、多くの百済人が倭国に亡命・移住した。彼らは日本列島に新しい文化の移植・開花をもたらした」と述べている。
とありました。

では、皆様いつも「だんだんな〜」<m(__)m>
[34]白石さんからのコメント(2013年12月15日 22時19分26秒 ) パスワード

>球磨でよく使う方言「だんだんな〜」(ありがとう・御苦労さまなどの感謝の言葉)はなんと!!韓国語でした\(◎o◎)/!

なるほど そうでしたか!!
出雲のほうとか京都とばかり思っていました。

先祖は半島をとおってきた と いえますね。^^

宮中の祝詞の言葉は 新羅のものだと 本で読んだことがあります。
ご先祖様たち 大きく動いていたのですね。

新羅の昔氏は多羅波国から行っているというし・・・

今の私たちよりも行動力があるのでは・・・^^
[35]子孫よりさんからのコメント(2013年12月16日 22時55分38秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、だんだんな〜の由来を見つけましたよ(^・^)
球磨では、普通に飛び交う言葉なので、びっくりしました。
祖母は「京ことば」と言っていたのですが。
本当の所は韓国語からきていたと言う事ですね。
多羅波国・・読みはたらば?タラバガニの「タラバ」ももしやここから?

航海術もかなり進んでいたのでしょうね。
海外に向かう時もそうですが、国内の移動も、船を使った方が断然早いでしょうから。

さて、今から、調査開始です。
歴史の流れは少しずつ解り始めたのですが・・何せ、本来一番見つけたい所は何も変わっていないので・・
まあ、ダイエットで言う所の停滞期ですかね。
めげずに、がんばります(^O^)/

[36]子孫よりさんからのコメント(2013年12月17日 02時13分00秒 ) パスワード

皆様。もしかしたら、平河家文書に書かれていた「安則」。この人に関係するのではなかろうかという人物を見つけました。

今日、私はふと「菊池経頼(藤原経頼)と安則と呼ばれる人物の関係は何だったのだろう」と考えました。
そこで、「安則 菊池」というキーワードを使いgoogleブックで検索をかけたのです。
そこで、表示された本の中から 肥前叢書: 肥前風土記 - 第 1 巻を見つけました。有りがたい事に、こちらはプレビューではなく、実際に内容を読む事が可能な情報(本)でした。そして・・・
南北朝時代、肥前における内容が記述されていて菊池氏(菊池肥後守)と諸国の領主に関する話の中にこのような記述があったのです。

そこに、このような記述を見つけました。
治亂記日、今年少貮入道四國ヨリ肥前ヘ歸入
本朝鍛冶考日、肥前國、鍛冶系圜、則行後圓融御宇應安則末子又日守次後圓融御宇應安平戸住、

ここに圓融御宇應安則という名前が見えます。
その他見当たる名前をピックアップすると 則行・安則・安平 となるのです。
続けて、キーワードとして「則行 安則 安平」とgoogleで検索すると
表示された一覧より、
紀氏のルーツ 紀氏の歴史の軌道 が出てきました。(いつも利用していたあのサイトです)
http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub19.html
・・・1185-3-5 金剛峯寺下政所三方百姓等起請文 ※平安遺文 第八
ここに
@河南 ・紀則行(略押)
    ・紀安則(略押)
    ・紀常清(略押)
    ・紀宗延(略押)
    ・紀国弘(略押)
    ・紀安延(略押) 以下 A河北 B下方・・・・・
そして最後に
1185-11 紀実春 伊勢国香取五ケ郷を拝領

紀実春・・・大井実春 繋がったのです。
その他 国立国会図書館所蔵の本朝鍛冶考18巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563723
尾張鍛冶系圜に同じく安則(未上)後村上御宇正平或御堀河御宇寛喜そして
月西・・後圓融御宇應安安則子 
とありました。

鍛冶系圜とは何でしょうか?鍛冶屋さんでしょうか??
私の調査とは関係は無いのかもしれませんが、「安則」この方を探していて見つけた情報でした。<m(__)m>




[37]白石さんからのコメント(2013年12月17日 02時26分43秒 ) パスワード

こんばんは
子孫様 だんだんなあ の 由来 すごいですね。どんなものでしょう?
多羅波国 逆転して 多波羅国 多波那国? ここらのことは わからないですが、私は たらば国と記憶していました。

それに
ぎゃんして ぎゃんなって ぎゃんたいな という 言葉。
ぎゃんにいろいろ話の経緯が込められて 本人しかわからないときがあって・・・この 言葉も 不思議です。

くぬ の ことは だんだんなあ あたりから 見つかるような気もするのですが・・・句奴(字がこうだったかしら?)9部族。9部族も記憶です。

子孫様 今は 高速が走っていて 福岡から球磨へも速いのでしょうね。
気をつけて お帰りくださいね。

今 私の職場は 五右衛門が辞めたいきさつの 余波で うるさくなっていますが、余り 相手をしていると 余計に こじれるので、自分のやるべき仕事をたんたんと しています。2本の足・2本の手・1つの頭しかないのですから。

五右衛門は 上司に 損害賠償請求をしてきたのですよ。^^笑ってしまう。本人のそれまでのありようを 私知っているので。

変な話を聞かせましたね。
そのこと意外は 快適に過ごしています。

子孫様 気ぜわしい年の瀬ですが、お体気をつけて 
そうそう ひらかわ ひら 白髭明神 この明神は猿田彦のことでもあるみたいですが どうなのでしょうか?
それと
相良氏が遠江から連れてきた願成寺の2世の本名。私どうしてもこの人が見つけられないのです。なんという人なのでしょうか ?

相良氏と平川がつながっているなら この僧の本名ももしかして・・・と気になっているのですが・・・
[38]子孫よりさんからのコメント(2013年12月17日 11時42分04秒 ) パスワード

皆様、こんにちは。
昨日、調べた紀安則。この方をもう少し調べて見ようと東大の平安遺文フルテキストデータベースを利用して「紀 則行 安則」で検索をした所・・・

高野山文書続宝簡集 の中に
元暦2年3月5日 河南文為則(略押)紀則行(略押)紀【常】是清(略押)
教珍(花押)文常次(略押)紀安則(略押)尾張常廉(略押)僧頼 
ここに紀則行・紀安則と見えます。

そして同様に 高野山文書続宝簡集 の中に
長寛2年7月16日 高向安則(略押)国覓守国(花押)国覓

紀安則ではなく高向安則になっています。
紀安則 = 高向安則・・・?

そこで、今度はキーワード「紀安則 菊池」とgoogleブックで検索すると
Kamoto-gun shi - 70 ページ
始めて具言宗ゼ學び後淨十奠宗に歸す爾來十九代の孫池尻理右衞門正俊承應三年二 0:本^當寺は肥後國菊池城主大夫監則隆の家臣池尻宗護太郎朝重の末葉にして十五代の孫池尻越後娃重佛速照寺其宗本派の本願寺派な 6。なるもの^後國玖珠郡に住し ...
完全に文字化けですがただ、これが出て来たのか不思議で。どこにも「紀安則」の名前が出ていないのですが・・
記述の中に菊池則隆・何方かの十九代の孫・池尻理右衞門正俊
肥後國菊池城主大夫監則隆の家臣池尻宗護太郎朝重の末葉にして十五代の孫池尻越後娃重佛速照寺其宗本派の本願寺派
池尻氏とは?
もしや?と思い早速、日本の苗字七千傑様のサイトを拝見。
やっぱり、池尻氏は紀氏でした。
そして、気が付いたのです。この本のタイトルは
Kamoto-gun shi = 鹿本郡誌
鹿本郡・・・ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E6%9C%AC%E9%83%A1
1896年4月1日、郡制に基づき山鹿郡(やまがぐん)・山本郡(やまもとぐん)が合併してできた。郡名は、合併前の両郡の名前を合成したものである。当時の郡域には、現在の山鹿市の全域および熊本市植木町に相当する。

\(◎o◎)/!山本郡!!
やった!!繋がりました!!
平河(良峯氏)は安則の代に菊池氏を頼って下向し、山本郡にしばらく居住していた!!

ここまでを整理します。
高向安則・紀安則・池尻氏・菊池氏・山本郡。

今まで、出て来なかった姓 高向氏・池尻氏

さて、今からまたまた、調べます(^O^)/
ところで、何故、今、コメントを?と、今日は有休消化の日です(^O^)/
では<m(__)m>
[39]子孫よりさんからのコメント(2013年12月18日 06時40分37秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
昨日は、コメント後、いろいろ調べていたのですが、今一つです(*_*)

高向氏について 日本の苗字七千傑様のサイトを拝見しました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03008.htm
魏の武帝(曹操)の太子文帝の後裔と伝え、河内国錦部郡高向邑を本拠として高向村主姓を賜う。
河内国錦部郡高向邑・・・錦部郡・・錦・・にしき?

球磨の西村・木上・永吉は今の錦町になります。
にしき?
関係ないとは思いますが繋がるとすればこの「錦(にしき)」という言葉くらいでしょうか。
う〜ん。やっぱり、高向氏とは関係ないのかな・・・。

コメント36でご紹介した記述に出ていた少貮入道
少弐氏(しょうにし) ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%BC%90%E6%B0%8F
少弐氏は、武藤資頼が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まる。資頼は藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となって武藤の名跡を継ぐが、資頼の出自は不詳である。その意味では、少弐氏は、資頼の養父の武藤頼平の家系からすれば、頼平の先祖である藤原秀郷の後裔になるが、資頼の血筋からすれば、先祖不詳ということになろう。
先日、日本の苗字七千傑様からご教示頂いた藤原秀郷の流れとなるのですね。

資頼は藤原秀郷の流れを汲む武藤頼平の猶子となって武藤の名跡を継ぐ。
武藤氏 ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E6%B0%8F
甲斐源氏武田氏庶流大井氏族。一時的に真田昌幸が、名跡を継いだ。
ここでも大井氏が出ました。という事は紀氏であると言う事ですね。
★少弐氏=紀氏 だから、コメント36の記述があったのか・・φ(..)メモメモ
続けて
その末裔としては、出羽の大宝寺氏(頼平の子の氏平が祖)、筑前・肥前の少弐氏(頼平の子の資頼)がある。また、武藤氏と近藤氏(末裔には大友氏等を輩出)とは同族である(頼平の兄弟の能成の子が大友能直)。
武藤氏と近藤氏は同族。
近藤氏 ウィキよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E6%B0%8F  
近藤(こんどう)氏は、藤原秀郷あるいは藤原利仁の子孫と称する一族。由来は近江国(滋賀県)の藤原氏とされる。
藤原秀郷あるいは藤原利仁の子孫と称する一族。
同族とはすなわち藤原魚名の流れであると言う事ですね。

先日から、ずっと藤原魚名。この方に繋がる記述ばかりです。

豊後国の大友氏の祖の大友能直は、古庄郷司の近藤太能成(近藤能成)の子であり、能直は最初は古庄能直と名のり、次いで父の苗字で近藤能直と名のったが、やがて母の実家の波多野経家の所領の相模国大友郷を相続し大友能直と名のった。また中原能直とも名のり、苗字を二転三転させている。 四国にも多く、阿波・讃岐・伊予国の近藤氏は四国藤原氏の中の名族とされる。

母の実家の波多野経家の所領の相模国大友郷を相続
ここで波多野経家・・・とても気になるので波多野氏を検索。
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%B0%8F
前九年の役で活躍した佐伯経範が祖とされ、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。経範の父・佐伯経資が頼義の相模守補任に際して、その目代となって相模国へ下向したのが波多野氏の起こりと考えられている。経範の妻は藤原秀郷流藤原氏で、のちに波多野氏は佐伯氏から藤原氏に改め、藤原秀郷流を称している。秦野盆地一帯に勢力を張り、河村郷・松田郷・大友郷などの郷に一族を配した。
佐伯経範が祖。経範の妻は藤原秀郷流藤原氏・・・またです。

佐伯氏・・・あれっ?!先日調べた記述に繋がってきたような・・
ウィキより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E6%B0%8F  
天孫降臨の時に彦火瓊々杵尊を先導した天押日命(あめのおしひのみこと)を祖とし、大伴室屋の時に大伴氏から別れた神別氏族である。

大伴氏に繋がりました。
またまた、例のごとく、ぐるぐる回っています。

本当は平河を調べたいのですが・・・
他の方々を調べていて、ぐるぐる回ってしまい・・・
いつになったら、平河の良峯四郎安則に繋がるのでしょうか・・(@_@。

気持ちを切り替えて、仕事に行ってきます!
[40]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年12月18日 12時14分12秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>頼平の先祖である藤原秀郷の後裔になるが、資頼の血筋からすれば、先祖不詳ということになろう。
 
不詳どころか藤原氏長家流ですよ。頼平は平氏、惟宗氏と縁戚。
だから後に源氏方へ鞍替えした武藤資頼は、平家方だったわけですよ。
長家流で有名なのが藤原定家。
那須与一、加藤清正、山内一豊も後裔。
大江広元も実は後裔、鎌倉幕府の中枢が関係してくるわけだ。
財閥三井家も後裔、末裔は豊田家(トヨタグループ)との閨閥を形成している。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02004f.htm
 
秀郷流、利仁流、長良流とも重層的に繋がっている。
長良流といえば、実は藤原基経(良房の養子となる)を出した藤氏公卿筆頭の支配家系、清和天皇は長良の娘婿。
[41]子孫よりさんからのコメント(2013年12月18日 22時33分10秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
大江広元は中原広元であったとは理解していたのですが、このような繋がりがあったのですね。
藤原定家の明月記(解説本)を買ったのですが、作者の方の個人的意見が多くて、本来の日記の部分が詳しく書かれていないので中々先に進みません。
今度は日本の苗字七千傑様のサイトで紹介されていた「「明月記」をよむ―藤原定家の日常 」を読んでみたいと思います。

頼平は平氏、惟宗氏と縁戚。源氏方へ鞍替えした武藤資頼は、平家方だった。

ウィキには、武藤資頼は平知盛に仕えた平家の武将であったが、一ノ谷の戦いの時に源氏方に投降し、その後、許されて源頼朝の家人となる
と記述されていました。

あれっ?朝は気付かなかったのですが「平知盛に仕えた平家の武将であった」!!
宮原の先祖である橘公長も平知盛に仕えていたと・・・
ウィキより・・橘公長
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%85%AC%E9%95%B7
弓馬と知謀に優れ、元々平知盛の家人であったが、治承4年(1180年)12月に平家を見限り、同僚であった加々美長清の仲介で源頼朝の麾下に入る

武藤資頼と橘公長は平知盛に仕えていたという事ですね。
(祖母の平河を調べていたのに何故か、宮原の先祖の方に話が繋がってきました)

この記述で、何故かとても気になる方が
加々美長清。この方を調べてみます。
ウィキよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E3%80%85%E7%BE%8E%E9%95%B7%E6%B8%85
加々美長清・・小笠原 長清(おがさわら ながきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。
\(◎o◎)/!あっ!小笠原氏。先日コメントしました。
小笠原忠真(おがさわら ただざね)が、1632年に入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていた。
昨日も、小倉城の近辺をうろうろしてきました。今、住んでいる所の近くには
小笠原藩の菩提寺、広寿山福聚寺があります。
ついこの前も景色が好きで娘と散歩に行ってきました。

橘公長(宮原の先祖)は同僚であった加々美長清(小笠原 長清)の仲介で源頼朝の麾下に入った。
小倉小笠原藩は明治まで続いてきた・・
そして、私は今、小倉に住んでいる。という事でこれは、地縁じゃなくて、遠い先祖の縁なのかな?と、とても不思議な気持ちです。

・・・・\(◎o◎)/!あああああああ〜っ!!
小笠原 長清。この方の子供の名前が・・・
小笠原長経、八代長光、小田清家、伴野時長、大井朝光、伴野教意、伴野為長、大井行長、鳴海清時、大蔵清家、大倉長隆、八代長文、伴野行正、大倉行信、伴野行意、
大井氏が!!
大井 朝光(おおい ともみつ)は、鎌倉時代の武将、信濃国大井城城主。甲斐源氏、信濃守小笠原長清の七男。信濃国大井氏の祖。

大井氏に繋がりました\(◎o◎)/!
平河(祖母方)は大井実春と領土に関して訴訟を起こし、そして、宮原(橘)の先祖、橘公長の同僚?であった小笠原長清の子、大井朝光は信濃国大井氏の祖。

もう、完全にぐるぐる状態です(@_@)目がまわりそうです。ぐるぐるぐるぐる(@_@)

まだ、ぐるぐるは続きます。
ウィキより 大井 朝光(続き・・)
建久9年(1198年)、小笠原長清の七男として生まれる。母は上総権介平広常の娘。
上総権介平広常に繋がりました。

建暦3年(1213年)5月、3代将軍源実朝は由利八郎惟平の子由利惟久が和田合戦に際し、北条義時について和田勢と戦いながら戦後「造意の企」ありとして、由利の所領を没収し養育係の大弐局に与えた(『吾妻鏡』)。大弐局は源頼朝の側女であったと思われるが、子がなかったので甥の大井朝光を養子とし、出羽国由利郡の所領を継承した。以後、由利郡には大井氏一族が地頭代として移住し、由利十二頭に称せられる、仁賀保氏、矢島氏などの祖となった。それ故、由利郡には、矢島、根々井、長土呂、平塚、沓沢、軽井沢など佐久郡と共通する沢山の地名が存在する。

北条義時の子は北条重時(平河宫内左衛門入道観覚) そして甥は
平河又三郎師里

またまたぐるぐる回っています。

もしかしたら、すごく近い部分まで包囲網?を張っているのかもしれません・・
その中で、ぐるぐる回っているような気がしています。

今日、ここまで登場してきた方々の情報から、見落としが無いかもう一度確認したいと思います。

では<m(__)m>








[42]白石さんからのコメント(2013年12月19日 05時01分15秒 ) パスワード

雑談
おはようございます。
昨夜はこのスレッドにつなごうとしたら、サーバーがみつかりませんなどと出て、エッと思いながら、寝てしまいました。その間に 次々とコメントが入っていたのですね。

願成寺の2世の地蔵堂が 私の故郷の 平川集落にあり、そこに 坂本 高岡 平川 愛甲 北村 ほか の家があるので、
願成寺の2世の本名が知りたい 

と 思っているのですが、そのことはなかなか・・・
かわりに 遠回りに かすっている話が出てきました。

人吉願成寺2世智積(智積はねぼけまなこで多分こうだった と 思って打ち込んだのですが)
伊予の戦国史 | So-netブログ
iyo-sengokushi.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name...‎
2010/05/23 - 十二世宥英法印の嫡弟であり、その俗世での出自は宍戸但馬守景好の子であると記されています。 7歳から宥英法印の下で学び、14歳 ... この願成寺は人吉にあり、代々の相良氏の菩提寺でもある古刹です。 宥雄は高雄山で恭畏から教えを ...

伊予!! 願成寺 人吉
っと 思い 読んでみました。
[43]白石さんからのコメント(2013年12月19日 06時07分21秒 ) パスワード

http://iyo-sengokushi.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name=hagi-manganji
景好の男子で満願寺の住持を務めたと伝わる宥雄法印(良春あるいは良俊)

『防長寺社由来』(以降『寺社由来』)の満願寺の項[3]によれば、この満願寺の住持十三世が宥雄法印です。

肥後人吉願成寺
宥雄法印は後に仁和寺宮の命で★肥後の願成寺へ赴き、願成寺十六世堯辰のもとで「地蔵院方一流密法」を極めたとあります。

堯辰―宥雄―覚任(願成寺十八世)

★母方・村上景親ー宥雄法印

四国霊場49番札所西林山三蔵院浄土寺
少しあやふやだけど、
浄土寺を再建
浄土寺には文明14(1482)年、★河野通宣が再建した伽藍
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私の母方の祖母は・毛利氏と同格の村上水軍をつくった村上氏が建てたというお寺に眠っていると母が言っていました。

母がいっていたお寺の呼び方は土地の人が言う言い方だと お寺様がいっておられました。戦後の生活でお寺にもいけなかったのですが、お墓もさびれているようです。

祖父は末っ子の甘ちゃんで 地域のためであったとはいえ、3度も請け判をおしてはだまされ、家土地をとられ、祖母の実家の力で2度は買い戻したけど、3度目はとうとう怒られてしまったと母が言っていました。

この祖母の実家にも佐田の血がぐるぐる入っていて、祖母のあと佐田には 佐田の娘が嫁入っていて要するに母には2人母がいるわけですが、

私も 家の関係をしらべていて 
どこが頭でどこがしっぽなのだか
ぐるぐる ぐるぐる とまわりながら 出てきます。

つまりは
娘が嫁入って そんな家の中から また 元の家に嫁に来て
その 関係の濃い人が 産んだ子が 大事にされた。
母は 自分が 自分の一族の中で 一番佐田の血が濃いので 大事にされ

実父の山本の父も 母の佐田の血をほしがって しまいには 繋がっている人達全部を引き連れて 山口に連れて行こうとしたけど、熊本から動かなかったといっていました。

戸籍ではわかりません。
山本という母の実父と母の母はいとこ
この二つの家は ずっと前から こういう関係
神力という家とも佐田とこういう関係 つまり 子供の親は いとことか近い関係

神力は塩をつくっていたようで、浜人のだんな様と呼ばれ いつも何人か人をひきつれていて、その人が佐田の家に来たら 土間にはいつくばって当主と話をしていた と 母が言っていました。

季節には 神力の舟で こんぴらさん などへ 遊びに行き、豪遊していたと山の中の不便な生活で懐かしんでは 
隣の平川のおばから 
ここを都にすれば よか と!!と言われていました。


[44]子孫よりさんからのコメント(2013年12月19日 06時42分28秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございました。

人吉願成寺2世のお話ですが、検索してみたのですが・・
西南地域史研究 - 第 13 巻 - 380 ページより
上の点から、蓮仏(長頼)の願成寺建立について、天福元年という記事が見られ、新恩地人吉庄の地頭として、西摘され、この間 ... また、二世弘専が願成寺に入院したのは永享十年二四三八)で、弘秀の院主の福寺の住侶であった点を否定すると共に、願成寺・・・

二世弘専が願成寺に入院とあります。

改訂増補九州相良の寺院資料 - 16 ページ より
願成寺から平等寺に隠居した弘秀も、平等寺から願成寺に入った弘専も、〈門中堂社害〉の「平等寺」の歴代住職には見られない。人吉市の願成寺僧墓地にある墓碑(五輪石塔)には、次の刻銘がある。当寺第一一世建立弘専権大僧都 1 康正三年丁 0:1:1 権大 ...

平等寺から願成寺に入った弘専とありますね。

その他 美術史論集 - 201 ページより
願成寺二代ノ先師弘専成秀勢秀、夫ヨリ勢尊勢勝等皆平等寺ノ前住也

やはり二代ノ先師弘専となっています。

平等寺については 肥後國史料叢書 - 第 3 巻 - 49 ページより
縁類余党ヲ駆集井野木村山井野木田落城一一代住侶トス、是ヨリ真言也阿蘇山平等寺ノ弘専真言再興シテ住ス:故、弘専今以テ当寺ノ真言弘秀ノ後時宗二押移ル事ー一百余年、其後時宗退転-一仍テ I 同三年丁丑(長禄改元)九月廿八日、弘専寂、願成寺ハ ...

真言也阿蘇山平等寺ノ弘専真言再興シテ住ス とあるので・・

平等寺 = 阿蘇山平等寺 という事ではないでしょうか。

でも、本姓が無いですね(*_*)

お力になれなくてすいません。<m(__)m>

今後も調査継続(^O^)/で行きます。


[45]あさこやんさんからのコメント(2013年12月19日 09時59分55秒 ) パスワード

あさこです

おはようです


ここに山本一族が
いるということで
来ました。


私は宮本です。


またコメントしますね。





[46]あぼかどさんからのコメント(2013年12月19日 10時07分12秒 ) パスワード

浅古のものです。

おはようございます。

どうも霊感の強い私は

塩川の姓に
親近感をもってます。


宮原?宮本も気になりますね


よろしくお願いします。







[47]根雨クロウさんからのコメント(2013年12月19日 10時16分24秒 ) パスワード



根雨です。

紀氏の方々が集まっているのですね


私の名前には記が

あります。


本当は本名もいいたいのですが
父はアサキチです。」

クチノがどうとか
言ってそのまま私の元を離れていきました。

13年立ちます。

私もここにいさしてもらえますか


(中村)より
[48]godoさんからのコメント(2013年12月19日 11時01分59秒 ) パスワード

ごどです
こんばんは

雪がふりはじめました

木負は記氏or紀氏につうじる

私市も木が入る。

木下もき紀氏ではないかと思う。


木下といえば橋場

このネタをつかう本は多い


橋場=立花のイメージだが

木下の謎をひもとくのがよさそうだ


ごどより

[49]godoさんからのコメント(2013年12月19日 11時45分19秒 ) パスワード

少し
話題を変えます。

というより
元に戻す

平川が
あたかも平家でないような
話だが

平家でありたくないような
根拠をつくっていると妄想する・


これからは
未来の話だが


木負や久知野には

平家の落人がいるという噂が
広まるであろう。

その時のために言うと

平家物語の構成しているもの


そもそも

漢音でいえば

平家の平は

開につうじる。

[50]godoさんからのコメント(2013年12月19日 11時48分02秒 ) パスワード


少しく間違えた
申し訳ない。


閉が開と
セットと覚えてもらうとよい。

伊地知の姓は鎌倉近辺に多い。

日本人の姓は
決して 一か所にはまとまらない

>根雨様


とても親近感がわきます。

浅古ですか

覚えておきますね。

大塩より
[51]真舎人さんからのコメント(2013年12月19日 12時01分26秒 ) パスワード

私も大塩です。

よろしくお願いしますです。



木負の辺りに住んでいます。

木負がでるとは
思っていなかったです。


するがなのかイズなのか
わからない
木負
はやく解決したいです。


[52]ごどさんからのコメント(2013年12月19日 12時04分22秒 ) パスワード

すごくにぎやかですね


びっくりしました。

木負が駿河かどうかは
永遠に謎かもしれません。

木負は駿豆というべきでしょうか


駿豆=薦州、糖州


と思えばなにか
みえてきますよ
[53]ごどさんからのコメント(2013年12月19日 12時58分37秒 ) パスワード


ところで根雨様

金口が親戚におりませんか


私のカンでは

口の
つく姓は、平家の玄孫/高祖父の関係にあると思っています。

まだ調べてはないが口は猿田彦にも通じるかもしれない。
[54]根雨クロウさんからのコメント(2013年12月19日 14時25分01秒 ) パスワード

言い忘れました

私はすでに
工学士なんですが
中村先生におつきあいがあるので
中村には親近感があります。中村は渡会吶と浅古に
聞きました。

浅古様<またお会いしましょう。
大塩、宮本も渡会など三重に関係あるかもしれません。

[55]__ロコンドJPさんからのコメント(2013年12月19日 21時08分18秒 ) パスワード


平家?
大震災の後に
この騒ぎはおさまらんですね?


浅古はん
今日はおやすみなさい。
[56]白石さんからのコメント(2013年12月19日 23時15分44秒 ) パスワード

子孫様 こんばんは
皆様はじめましての方も ごださまも こんばんは
一度に賑やかになりましたね。おこたをはさんで わいわいの気分です。

子孫様 早速調べていただいてありがとうございます。
朝はやはり ねぼけまなこだったようで、熊本県の地名 日本歴史地名大系 平凡社をみたら、

平川(ひらこうと呼ぶ・・・あちらのほうの別府をびゅうと地名辞書にあり こういう 呼び方に通ずるのか?これは私の推測です)

元禄12年(1699年)の球磨郡神社記によれば、阿蘇社の棟札に永正12年(1515)★平貞尚再興と記されていた。

地蔵堂は人吉願成寺2世住職★智心の霊を祀る常福寺の跡と伝え、堂内の薬師如来は天文23年(1554)の銘を持つ(九州相良の寺院資料)

この 智心が弘専なのか?

???です。

[57]白石さんからのコメント(2013年12月19日 23時33分27秒 ) パスワード

42宍戸景好
(宍戸但馬守景好) [人物]

関ヶ原の折に伊予侵攻軍を率いたともされる宍戸善左衛門尉景好について、まずは系図資料から見ていきたいと思います。 景好は宍戸元秀の子で★毛利元就の婿として著名な宍戸隆家の孫、毛利元就の曾孫にあたり、その名乗りからは小早川隆景の偏諱を受けていると考えられます。 宍戸氏本家は長兄の元続が継いで輝元の重臣として活動し以降代々一門衆として続きましたが、景好の家系は子の代に萩藩を離れています。

うちには 宍戸という家はつながりにありませんが、
毛利の婿で、元就の曾孫
元就は広元の系で その母方の祖先は 中原・毛利・大江を名乗り、人吉蓮華王院領の預かり所をしていた。

毛利元就 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/毛利元就‎
毛利 元就(もうり・もり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)の国人領主・戦国大名。本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。寒河江氏などは一門にあたる。

[58]子孫よりさんからのコメント(2013年12月20日 07時36分59秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
沢山の方々からコメント頂き、本当にありがとうございました。
ごど様、お久しぶりです。
口のつく姓・・
以前、コメント16で書かせて頂いたフツ主
putu=川口、pet=河がキーワード。
口=河口という考えは繋がりませんでしょうか?
それと・・先祖を調べていると、「中村」姓が様々な所に関係しているような
気がしています。 とても、ご縁を感じています。

ところで、
「平川が
あたかも平家でないような
話だが

平家でありたくないような
根拠をつくっていると妄想する・」

このお話ですが、コメント5を読んで頂ければありがたいです。
私のカミングアウトの話です。
このコメント5でも書かせて頂きましたが、
私の育った熊本県球磨・人吉地方は、「平家の落人伝説」が沢山残っている場所です。
ですから、「平家」に対して、子供のころからとても親近感を感じて育ってきました。
それは、日本全国同様な地域に住んでいる方々も私と同じではないかと・・
そして、故郷、球磨を離れて特に感じる事は
遠い昔の先祖に対する特別な思いを其々が大事にしているな〜という事です。
これも、皆様と同じですよね。

科学も発達し、ネットで世界と繋がり、過去の情報はDNAの鑑定において分析できる、他様々・・このような現代に生きていても、過去の時代(先祖に対して)思いをはせる。

私は、学生の頃、実はやんちゃをした時期がありました。
学校では多分悪い意味で目立っていたかもしれません(カミングアウトです)
(服装や髪形などでもいつもしかられていました)
そう言う時に、祖母・親戚・ましてや学校の先生までもが口にした言葉。
「世が世なれば・・!!」です。
このサイトをご覧の方々の中にもこの言葉を聞いて育った方が多数いらっしゃるのでは?と思います。
よその人が聞けば「今の時代に何を言っているのか?!」と思われるような言葉ですよね。
「うちは、有名な大名家でもないし、企業を起こしたわけでもない。政治家が出たわけでもない。ただ普通に今の時代を生きているだけなのに、いまさら何を言っているのか」と、当時は祖母をはじめ回りの人に私はとても反発していました。
実は、その環境が嫌で、球磨(実家)を離れたのです。
祖母は、母代りに私を育ててくれて、私が離れる事が本当はとても寂しかったのだと思います。そして、その環境に反発していた私には色々な事を話しずらかったのだと思うのです。
大人になり、結婚して(家を継がなければならないのに勝手に自分で決めてさっさと結婚してしまいましたが・・)子供を育てて、精神的に少しは成長してきたかと、祖母が、やっと私に色々な事を伝えようとしていた矢先に・・
全ての言葉を伝える前に祖母は亡くなりました。
何方も同じだと思います。大事な人をなくし、私は1年ほどは精神的に落ち込んでしまい、後悔ばかりが頭に浮かんで、立ち直るにはとても時間がかかりました。
だから・・知りたいのです。本当の事を。先祖の事を。
宮原の事はある程度解ってきましたが、今、行き詰っている「平川」に関しては、「平川家文書」および「平川の系譜」に関して、以前もお伝えしたように、国が管理していて、容易に見る事が出来ません。
球磨の「平河」に関して以前の事は文献でも全く記載がなく、たどる事さえ出来ない。
でも、このサイトを利用させて頂き、様々な方々からのご教示によって、色々な流れは見えてきました。
「平川が平家でありたくないような・・」
こういう考えは全くありません。平川には「字平(あざ・たいら)」が
付いている訳ですから。
でも、もう平家・源氏という時代からを調べるのであれば、「平川」には辿りつかないと、自分では確信しています。
平家・源氏といったくくり(すいません)ではなく、もっと先・・。
そうですね、時代で言えばその数百年前からを把握しないと・・
すなわち「同族」という事です。
ここを理解していかなければ祖母の「平川」には決してたどり着く事は出来ないと。
こちらのサイトは「平家物語を熱く語る」ですから
私の今までのコメントに対して不愉快に感じている方もいらっしゃると思います。
本当に申し訳ありません。
ただ、「先祖の事を知りたい」という気持ちは皆様と同じです。
どうか、これからもご協力よろしくお願い致します。






[59]白石さんからのコメント(2013年12月20日 21時59分53秒 ) パスワード

こんばんは
今日も一時 サーバーにつながらなくて今ようやくつながりました。

宍戸景好嫡流の系譜と彦根藩
yo-sengokushi.blog.so-net.ne.jp/hikonehan-shishidoshiでは
元真の実母を示している系図はないように思いますが、生母が景好の正室であれば、★村上景親の娘で、村上武吉、村上通康、河野通直、平岡房実といった戦国期の伊予関係者の多くの血を受け継いでいる存在でもあります。

彦根藩宍戸氏より
知真の名は、父元真の一字と★宍戸家の遠祖である★八田知家から採ったものでしょうか。 知真の子孫は代々四郎左衛門、あるいは善左衛門を名乗っており、善左衛門景好の系譜を継ぐものであることは間違い無さそうです。


知真の系譜は後に50石の加増を受けますが、そのまま中級藩士として幕末まで彦根藩に仕えています。 また、「由緒帳」で見る限りは、養子を迎えることもなく元真の血統が続いているようです。
[60]白石さんからのコメント(2013年12月21日 00時04分55秒 ) パスワード

何だか 毛利や八田(高岡と見て)・村上(佐田とみて)などが出て、蓮華王院領から 大友氏も毛利広元と同じく、預かり所。相良氏は地頭。大友氏も中原つながり。

として 高岡・佐田などにつながっていくようだけど、
平川氏と高向氏で検索したら

近畿地方の難読地名一覧 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/近畿地方の難読地名一覧‎
... 鹿海(かのみ) - 伊勢市; 神社港(かみやしろこう) - 伊勢市; 城田(きだ) - 伊勢市; 佐八(そうち) - 伊勢市; ★高向(たかぶく) - 伊勢市; 東大淀(ひがしおいず) - 伊勢市; 宮後(みやじり) - 伊勢市; 駅部田町(まえのへたちょう) - 松阪市; 深長町(ふこさちょう) - 松阪市 ...... 寒川(そうがわ) - 日高郡日高川町; 早藤(はいくず) - 日高郡日高川町; ★平川(ひゅうがわ) - 日高郡日高川町; 三百瀬(みよせ) - 日高郡日高川町; 牟婁(むろ) - 西牟婁 ...

と なにやら 別府をびゅう と読み 平川をひらこう とよぶ読み方に通ずるらしいものが出ました。

日高・・・皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の諡号は古事記』では天邇岐志国邇岐志天津★日高日子番能邇邇芸命

神武天皇の父 ウガヤフキアエズは古事記』では天津★日高日子波限建鵜草葺不合命

日高川町は、和歌山県の中部に位置する町である。2005年5月に旧★川辺町、★中津村、美山村が合併して誕生した。

京都美山町。は

京都府のほぼ中央に位置し、府下一番のその広大な面積の大部分を森林が占める南丹市美山町。町の中央には、鮎で有名な清流を誇る★由良川水系の美山川、南北に走る棚野川が走り、それらの川に沿って古いかやぶきの住居が多数現存し自然景観と見事に調和しています。

由良御前 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/由良御前‎
由良御前(ゆらごぜん、生年未詳 - 保元4年3月1日(1159年3月22日))は平安時代末期の女性。本名未詳、熱田神宮の伝承で由良姫と呼ばれ、系図では大進局とある。源義朝の正室で、源頼朝の母。
[61]白石さんからのコメント(2013年12月21日 00時35分38秒 ) パスワード

上はランダムに出てきた言葉だけど、

武家家伝_平川氏で検索 したら 下の問註所氏も表題に出てきました。
www2.harimaya.com/sengoku/html/bit_hirakawa.html‎
平川氏は近江源氏佐々木氏の一族で、備中国川上郡平川にある紫城主であった。 近江源氏佐々木氏は、宇多天皇の後裔成頼が近江国蒲生郡佐々木庄に居住し、佐々木氏を称したのがはじまりといわれる。 源平時代の佐々木秀義は平治の乱に源義朝に属し ...

武家家伝_問註所氏
www2.harimaya.com/sengoku/html/mon_tyu.html‎
応仁の乱のころに成立した『見聞諸家紋』には、幕府に仕えた町野氏の「欄干輪に違い★鷹の羽」が見えており、こちらが古形かと思われる。 ... の子で布施・飯尾氏の祖で、康信系とは異なる)の後裔町野中宮太夫属散位従五位下★三善朝臣康信入道善信云々、嫡子は問註所氏と称し、庶子は★町野、或いは★平川、或いは★三善」とある。 ... 以後、問註所氏は武家方に属して、康行の子氏康は延文二年(1357)、翌延文三年に功を立てている。

漢族系三善氏
『類聚符宣抄』によれば、元は漢の東海王の末裔であった波能志(はのし)の子孫で錦部村首、後に錦宿禰を名乗った。
[62]子孫よりさんからのコメント(2013年12月21日 07時46分44秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
今日は、休みなのですが、弟に会いに行くので、今朝はめちゃめちゃ早起きです。(^・^)
弟の私服?はパジャマなので、今年のクリスマスプレゼントは、ちょっとおしゃれなパジャマを選びました。

白石様、ご教示ありがとうございます。
私も、以前、武家家伝 平川氏を見たのですが、その時は、よく解らなかったのです。でも、今朝、ご教示を拝見して・・
日本の苗字七千傑様から伺った「同じ地名・名(姓)は同族の可能性がある」このお話を思い出しながら「同族」なのだろうな〜と

武家家伝 平川氏より
秀義(佐々木)の嫡男は定綱で、その子信綱は所領を四子に分割、長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となった。四男氏信は、大原庄、高島郡田中郷を除く江北の愛智・犬上・坂田・伊香・浅井・高島の六郡を相続し、京都の館が京極高辻にあったことから京極氏と呼ばれるようになった。平川氏は泰綱の流れで、右衛門尉高泰の子掃部助高親に始まるという

整理します 
佐々木秀義 →佐々木定綱 → 佐々木信綱 → 佐々木泰綱(六角氏)

続けて 武家家伝 平川氏より
『尊卑分脈』には、泰綱のあと壱岐守長綱、上総介貞長、左衛門尉頼貞と続き、頼貞の弟が高泰となっている。ちなみに泰綱系の嫡流はのちに六角氏を称し、近江守護職を世襲した。また、弟氏信の系は京極氏を称して、室町幕府草創期に出た道誉高氏の活躍で六角氏とともに幕政に重きをなした。

佐々木泰綱(六角氏) → 壱岐守長綱 →上総介貞長 →左衛門尉頼貞

そして 武家家伝 平川氏より

高泰の子高親は近江国野洲郡平川に住して平川を称し、建武三年(1336)、備中国川上郡穴門郷の領家職を得て現地に移り住んだという。そして、故郷である平川を村名とし、紫城を築き、近江平川から氏神鋤崎神社を勧請したという。また永享十年(1438)銘が刻まれた石造延命地蔵菩薩立像のある菩提寺曹洞宗長建寺も建立している。

球磨の平河は、師高が平安末期から鎌倉初頭に名前が出てきます
近江国野洲郡平川に住して平川を称したこちらの「平川」は年代は建武三年(1336)という事で、時代の流れを考えると・・・

佐々木秀義と球磨の平河(義高・師高)が同年代という事になりますね。

ここも「同族」と考える事が出来るのでしょうか?

そして、白石様に続けてご教示頂いた問註所氏。
武家家伝_問註所氏を見ると
問註所氏は三善姓で、鎌倉幕府の初代問註所執事三善康信(善信)の後裔である。康信は平安時代前期に文章博士兼大学頭に任ぜられた三善清行五代の孫で、鎌倉幕府を開いた源頼朝に招かれて、元暦元年(1184)幕府の問注(註)所の初代執事となった。 とあります。

そこで、いつもの感で、とても気になるお名前が

三善清行 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E6%B8%85%E8%A1%8C
三善 清行(みよし の きよゆき/きよつら)は平安時代中期の公卿、漢学者。淡路守三善氏吉の三男。正義感に溢れた経世家で権威に屈せず、そのために官位が停滞したと言われている。

父:三善氏吉、母:佐伯氏・・・佐伯氏が出ました。

兄弟:清江、清行、清風・・・清風? 同名が多い時代?

そして、何故か三善氏がとても気になり・・
三善氏 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E6%B0%8F
三善氏(みよしし)は、日本の姓氏の1つ。元は渡来人系の一族であるが、実際には百済系の一族と漢族系の一族の2系統が存在する。ただし、後世において2つの系統が結び付けられているものがある。
百済系と漢族系!?
百済系 三善氏 ウィキより
『新撰姓氏録』によれば、元は百済の速古大王の末裔で錦部首、後に錦部連を名乗った。延暦年間の桓武天皇後宮に、錦部姉継・同弟姉という女官がいた。同24年(805年)頃にその一族が三善宿禰を授けられた。
又「錦・にしき」ですね。(高向氏・・河内国錦部郡高向邑を本拠)
でも高向氏は魏の武帝(曹操)の太子文帝の後裔ですよね・・やっぱり違うかな

漢族系 三善氏 ウィキより
『類聚符宣抄』によれば、元は漢の東海王の末裔であった波能志(はのし)の子孫で錦部村首、後に錦宿禰を名乗った。貞元2年(977年)頃に三善朝臣の姓が授けられ、その1人であった三善茂明が主税頭兼算博士に就任し、その子孫は代々算博士を継いだ。茂明の孫の三善為長は、越中国出身の門人射水為康を養子に迎えた。

白石様のご教示にもありました。錦部村首、後に錦宿禰
あれっ?錦部村・・高向氏(しつこいですが<m(__)m>)河内国錦部郡高向邑
場所的には近いのかな?
やっぱり「錦・にしき」ですね・・・むむっ!??

続けてウィキより 漢族系 三善氏
また、鎌倉幕府の初代問注所執事となった三善康信もこの一族とされ、子孫として町野氏・太田氏・飯尾氏・布施氏らが挙げられる。彼らは鎌倉幕府引付衆あるいは室町幕府奉行衆として活躍した。

太田氏・・・あっ!太田氏
ひっ平河城・・江戸城!!でも太田道灌は清和源氏頼光流太田氏だから・・(やっぱり違うのかな(*_*)?)
でも何か繋がりはあるのでしょうか・・・

そして
百済系と漢族系の三善氏・・別系統であった
実在人物である錦良助と三善清行・三善茂明との血縁関係の有無も不明である。

そうか・・(゜-゜)
でも、これに新羅系が入ると、何処かの一族と似ていますよね(゜-゜)
百済系と新羅系と、もしかしたら漢族系の混合の一族。
と言えば・・!???(*_*)やっぱり違うかな・・(*_*)

でも、「錦・にしき」という言葉はきになりますよね・・・。

あっ!今、思い出しました。何だか、子供の頃に聞いた(誰だったかな?平川のじいちゃまかな?)言葉。
この前、父も何だか似たような事を言っていました。
漢字が解らないのですいません。
「にしきのみはた」?こういう言葉はありますか?
何で聞いたのか全く覚えていないのですが・・・(*_*)
それで、「にしき」という言葉が気になっていたのかも知れません。
それと、球磨の錦町の「錦」が重なって頭を駆け巡っていたのかも・・

あっ!気が付いたら、かれこれ3時間近くは調べていました。
いかんいかん(ー_ー)!!
では弟に会いに行ってきま〜す(^O^)/
[63]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年12月21日 17時11分25秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>百済系と漢族系の三善氏・・別系統であった
 
錦部を全て同族とするのは、飛躍のし過ぎでしょう。
錦部に漢族系、百済系、物部系が有り。
三善氏が百済王家裔とは確定できないが、河内国錦部郡や若江郡錦部郷発祥の錦部連の後裔であることは確かで和泉の錦部氏や三善氏も同族。
 
職名としての職業部の錦部が後に地名化したもので、「錦」そのものは漢土渡来のもの。
 
他に、
山城国愛宕郡錦部郷の錦部村主は、漢族で東漢氏族波能志の後裔。
山城国愛宕郡錦部郷の錦部首は、物部目大連の後裔。
近江国滋賀郡錦部郷、浅井郡錦部郷の錦部村主は、漢族で波能志の後裔。
 
錦部氏関連姓氏として錦織氏(錦部氏と通ず)があるが、
近江、河内の錦織氏は、新羅三郎義光裔の清和源氏山本氏族だから辰韓系でしょう。
[64]子孫よりさんからのコメント(2013年12月21日 21時22分53秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
弟に会いに行ってきました。とても調子よさそうで、先祖の調査の現在の報告をした所、すごく「おもしろい」と言って喜んでいました。
私が忘れていた事も弟は覚えていて、「みなみのじいちゃん(祖母の兄)はいつも、着物を着ていたよね。」と。
私も「あっ!そうだった」と今頃思い出しました。
それに、子供の頃正月の挨拶に平川に行く時は、私も弟もちゃんと着物をきて出かけていました。(完全に忘れていました)
先祖の調査に関して「僕が出来ない分、お姉ちゃんにがんばってもらうしかないけどよろしくお願いしますね。」と。
私も「がんばるよ〜!(^^)!」と約束してきました。
年末から球磨に帰るつもりですが、平川の伯父(父の従兄)に会えると嬉しいのですが。今、伯父は岡原ではなく仕事の都合が良いと言う事で、人吉の平川が元々持っていた土地に新たに家を建てて住んでいますので・・
岡原の平川は伯父の子供すなわち私のふた従兄が住んでいます。
あっ!土地と言えば、伯父は五木にも土地があって家を建てていました。(こちらも仕事の都合が良いと)ううん?五木??


日本の苗字七千傑様。ご教示ありがとうございます。
「錦部に漢族系、百済系、物部系が有り。」
物部系もあるのですね。色々な錦部が存在したという事ですね。

「近江、河内の錦織氏は、新羅三郎義光裔の清和源氏山本氏族」
「山本義高」以前調べた方ですね。義高!と喜んで調べたのですが違っていたようでした。
「山本義高」と「平河義高」は辰韓系という繋がり?ですね。

球磨の錦町の「錦」は何の「にしき」なのかな?っとふと考えました。

弟との約束もあるので、先祖の調査がんばりたいと思います。
<m(__)m>





[65]子孫よりさんからのコメント(2013年12月22日 08時41分53秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
昨夜、寝る前に、気になる記述を見つけたので、とても気になり
早起きをしてしまいました。

三善氏がとても気になりgoogleブックで「球磨 永吉 三善」と入力すると

東アジアと日本 - 第 2 巻 - 75 ページ より(いつものように文脈が崩れていますが、すいません)
平親盛の後継者(頃盛は文治二年六月二日没)ら荘園領主側の権限(得分)は、幕府もこれを保障せこのように球磨御領の片寄卩 ... 殿御領とされた段階で、それまで三善と呼ばれていた平河氏の所領に、は、「球磨庄安富領内三善幷西村預所職」とあり、「永吉^ ...

(゜-゜)?殿御領とされた段階で、それまで三善と呼ばれていた平河氏の所領に、・・・ 三善と呼ばれていた平河氏の所領?

続けて 史學雜誌 - 第 93 巻、第 1〜6 号 - 74 ページより
つまり球磨御領に於ける預所と地頭の関係は、並存ではなく、常に預所によるのみなら ... 歴代の預所は多くが地頭職の押領を企て、文永預所の主要な目的は、永吉地頭平河氏の勢力を能うる限り縮小する一点に存したのではあるまいか。それはひとり預所平河氏の ... とおく常陸国の関東御領、真壁郡竹来郷の預所三善氏が、地行為というに近い

「文永預所の主要な目的は、永吉地頭平河氏の勢力を能うる限り縮小する一点に存したのではあるまいか」
(゜-゜)?平河氏の勢力を能うる限り縮小する??
\(◎o◎)/!とおく常陸国の関東御領、真壁郡竹来郷の預所三善氏が、地行為というに近い。
真壁郡竹来郷の預所三善氏と同じような対応になっていた!?

そして・・
Shigaku zasshi - 第 93 巻 - 65 ページ より
肥後国における安富領は、球磨郡のみならず、詫磨郡にも設定されていたことが知られ付したけれども、肥後安富領は直領として保留

妙弥・阿夜の文書に出ていた「安富領」は詫磨郡にも設定されていた。という事ですね。

続けて 日本荘園史大辞典 - 128 ページより 
肥後球磨郡の場合は、建久三年に半不輪の球磨荘(球磨御領)を片寄して、王家領の人吉荘、関東御領の永吉荘,須恵荘、および ... があり、建保五年一一二一七)六月八日地頭善信(三善康信ー6 文に、「於,ー加徴一者不,可,,片寄一」(『高野山文害』)とある。

(゜-゜)?地頭善信?「善信」?
三善康信・・・\(◎o◎)/! 昨日コメントした方です。
漢族系 三善氏
鎌倉幕府の初代問注所執事となった三善康信もこの一族とされ、子孫として町野氏・太田氏・飯尾氏・布施氏らが挙げられる。彼らは鎌倉幕府引付衆あるいは室町幕府奉行衆として活躍した。

(゜-゜)?三善康信。この方が何処の地頭だったのかが解りません(*_*)

昨日の日本の苗字七千傑様のご教示で
山城国愛宕郡錦部郷の錦部村主は、漢族で東漢氏族波能志の後裔。
近江国滋賀郡錦部郷、浅井郡錦部郷の錦部村主は、漢族で波能志の後裔。
と伺ったので共通の「波能志」で調べてみます。

出ました\(◎o◎)/!「球磨 波能志」で検索すると
大同2年(807)創立といわれ、祭神は阿蘇三柱神。対照2年8月21日大山祇神九体と弥都波能売神が合祀されています。 .... 山田大王神社は永吉庄山田村地頭であった平河次郎藤高の霊を祀る神社です。 本殿は天文15年(1546年)、拝殿及び神供所は宝 ...

創立807年で祭神は阿蘇三柱神。大山祇神九体と弥都波能売神が合祀。
この神社は何処?と調べると・・

人吉 http://nisiyoko.sonnabakana.com/hitoyoshi.html
一勝地阿蘇神社でした。\(◎o◎)/!
弥都波能売神 ウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%85%E3%83%8F%E3%83%8E%E3%83%A1
淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。

『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。

神名の「ミヅハ」は「水走」と解して灌漑のための引き水のことを指したものとも、「水つ早」と解して水の出始め(泉、井戸など)のことともされる

淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。

\(◎o◎)/!私が以前、例の感でめちゃくちゃこだわってしまった「カグツチ」様をお生みになっています。!!

その他、別のサイト(画像)で
十柱生命の樹(稲荷山の鶴)の中で自己(美)弥都波能売神
というものがありました。稲荷山・・辰韓系のキーワード

弥都波能売神と東漢氏族波能志の関係は無いのかも知れませんが、今日、調べた事がこのように繋がってくると、何故か身体の中がゾクゾク・ザワザワしてきました。

今朝のコメントもすごく長くなってしまいました。すいませんでした。

頭の中を整理します。
球磨の平河とは
@良峯氏である。A紀氏でもある。B平(たいら)でもある。
C辰韓系である。D漢族で東漢氏族波能志の後裔(三善氏)との関係性も高そうである。
E良峯四郎安則は菊池経頼(藤原経頼)を頼って下向。
F良峯(平河)師高が地頭となった地は「先祖伝来開発の地」となっている。
G大井氏との関係もある。H藤原魚名の影も見える。
I深田村の勝福寺を平重盛(正室:藤原経子<藤原家成の娘。藤原家長の姪>)の菩提を弔うために建立。
J深田の有智山万福寺建立。
(有智山万福寺木造毘沙門天立像は藤原家長が久寿三年(1156年)四月二日に安置した。)
K上記Jにより藤原家長との関係も見える。
L北条重時(平河宫内左衛門入道観覚)の甥は平河又三郎師里
鎌倉時代までをまとめるとポイントはこのようになりました。(?まだあったかな?)

という事で・・・・
良峯四郎安則とは・・いったい!!誰なのですか〜〜〜!\(゜ロ\)(/ロ゜)/
ふ〜っスッキリしました。心の叫びでした。<m(__)m>




[66]子孫よりさんからのコメント(2013年12月23日 11時52分18秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
実は、昨日、平河(良峯)に関する新しい姓?を見つけました。

東大の鎌倉遺文データベースで「三善 球磨」と入力して検索した所

鎌倉遺文より 肥後永井文書
建永2年3月14日 下球磨御領内永吉名住人可早以良
          下球磨御領内永吉名住人可早以良四郎

建永2年3月14日とは1207年3月14日という事です。
以良?早以良?可早以良?どれだろう?ともかく
永吉名住人可早以良四郎。となっています。
永吉に住んで、肥後永池文書なので、この方は球磨の良峯(平河もしくは永池)に間違いないと思いさっそく調べました。

googleブックにて検索 日本歴史地名大系 - 第 44 巻 - 817 ページより
下球磨御領内永吉名住人可早以良四郎師忠致沙汰
可早以良四郎師忠
良峯(平河)師高の子永池師忠です。

以良?早以良?可早以良?これは地名でしょうか?
あ〜漢文が読めたら良かった(*_*)(@_@。

やっと新たな手掛かりがつかめたかと思ったのですが(@_@。
がんばります。<m(__)m>




[67]子孫よりさんからのコメント(2013年12月23日 12時34分02秒 ) パスワード

追記
もしかしたら
永吉名住人可早以、良四郎師忠 かも?
良四郎かもしれません。(@_@。<m(__)m>

[68]白石さんからのコメント(2013年12月23日 22時44分43秒 ) パスワード

子孫様こんばんは
具体的にずいぶん固まってきていますね。
私 平川ひらこうにある阿蘇社 が  気になって、子孫様の以良 は 恵良?かしら・・・と検索してみました。

ずらっと 表題が出ましたが、この一番下の
人名力:日本姓氏語源辞典 コウリ〜コガニ で 
佐賀県唐津市北波多稗田をしらべると

※ 旧北波多村の東端にそびえる峻峰「岸岳」に、★松浦党の棟梁、★波多氏十七代の盛衰を秘めた岸岳城跡が残る。佐賀県の史跡に指定されている。
※波多氏は紀氏
となります。
 
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 清原氏【2】
www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01214a.htm‎
【清原氏】【山田氏】【小田氏】【吉藤氏】【魚返氏】【横尾氏】【長野氏】 【堀立氏】【大熊氏】【故後氏】【平井氏】【須立氏】【古後氏】【平井氏】【志津梨氏】 【原口氏】【綾垣氏】【飯田氏】【松木氏】【美津氏】【小野氏】【松本氏】【美濃氏】 ★【恵良氏】【野上氏】【右田氏】【帆足 ...
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 阿蘇氏
www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01223.htm‎
【阿蘇氏】 最古の皇別である神武天皇の皇子、神八井耳命裔の多氏と同族。 阿蘇国造家の後裔は阿蘇神社を奉斎する。 南北朝時代は一時三分裂した後、 ... 景以降)》 阿蘇大宮司家へ戻る. 【阿蘇氏】★【恵良氏】【宇治氏】【坂梨氏】【阿蘇品氏】【菊池氏】【赤星氏】 ...
日本の苗字7000傑 Q & A
www.myj7000.jp-biz.net/q&a/8boin.htm‎
苗字に残る八母音表記 ... 中央政権樹立後は地域に拠る方言は存在するものの、日本語の基層(文法)が北方系、語彙が南方(中国江南)系で言語の融合が進み、奈良朝頃までは八 ... ゑ, 遠藤 ★恵良 恵藤 恵本 恵比須 恵川 恵島 絵内 絵野沢 絵所 絵沢 殖栗.
日本の苗字7000傑 Q&A 二朝分立時代
www.myj7000.jp-biz.net/q&a/bunritsu.htm‎
50 件のアイテム - Q & A. 二朝分立時代. 上古の二朝分立時代存在説もあるが、確認 ...
出 自
平 家 方
源 氏 方.
清和源氏義重流
新田義重
里見義成 山名義範.
阿蘇惟澄 - プロフィール - Yahoo!検索(人物) / するめ
sulume.com/page/2485681‎
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 ★阿蘇氏 ... 惟澄は第6代当主・阿蘇惟景の子とも第7代当主・阿蘇惟国の子ともいわれるが、阿蘇 氏の支族である★恵良氏の出身であり、第8 ... デジタル版 日本人名大辞典+Plusの用語解説 - 南北朝時代の武将,阿蘇大宮司。
有島氏の系図 - ucom.ne.jp / するめ
sulume.com/page/1171371‎
当時、南朝方にあった大宮司阿蘇惟澄(恵良 惟澄)の所領日向国臼杵郡塩見(日向市塩見)の地に、有島通行の長子行村が居して ... ... 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 阿蘇氏. 【阿蘇氏】 最古の皇別である ... 惟国 の子か。惟時の娘婿,★恵良氏を称す。通 ...
全国で 姓(苗字,名字,氏)の順に表示 ページ3(20001-30000番目)
douseidoumei.com/dousei/d_seisrt/00/0003.htm‎
同姓同名検索サイトでは、同姓同名、同じ苗字、同じ名前、ランキングなど様々な検索が、日本の地域ごとにできます。 自分と同姓同名の人や自分と同じ名字の人が、日本や各都道府県に何名いるか調べることも可能です。 子供の命名時に同姓同名を調べるの ...
住所でポン! 兵庫県神戸市中央区港島中町 - 苗字でポン!
atamaga.jp/whitepage/index.php/4/30/66.html‎
... のものです。 2001年から2011年の電話帳を見たい方はAndroidアプリ版、 iPhone/iPadアプリ版をご利用ください。 苗字でポン!もどうぞ。 .... 078-302-7363 · イラン・中近東・日本コーポレーション · 兵庫県神戸市中央区港島中町3-1-41-503 · 078-302- ...
人名力:日本姓氏語源辞典 コウリ〜コガニ
archive.is/qwvr‎
2012/12/20 - 佐賀県唐津市北波多稗田が起源地で助け合おうということからの創姓ではないかと伝える。 ゴウリキ ... コエマル 肥丸 熊本県八代市。 コエモト 声元コエモト 声本コエモト 聲元コエラ 古恵良 大分県宇佐市。★恵良姓あり。 ..... 日本の苗字7000傑.

[69]白石さんからのコメント(2013年12月23日 22時58分18秒 ) パスワード

松浦党の系をひく 平戸藩主の女子が明治天皇御生母の血に入ってくるのが公表されている系で、前から私 ヤマトタケルなどからの話で 中山局を書いていましたが、明治天皇御生母は
権大納言・中山忠能の次女で、母は平戸藩主・松浦清(靜山)の十一女・愛子。

瀬戸内方面に於いては、摂津国渡辺津(現・大阪市中央区)を本拠地とし、瀬戸内海の水軍系氏族の棟梁だった★渡辺党、その一族で13世紀の元寇に奮戦したことで知られる九州の★松浦党、10世紀の藤原純友追討に伊予の水軍を率いて活躍した橘遠保や、保元 ...

平戸城 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/平戸城‎
下松浦党の棟梁である松浦鎮信(法印)は、豊臣秀吉の九州征伐に加わり松浦郡と壱岐の所領を安堵された。文禄・慶長の役の後、慶長4年(1599年)現在の城地である日之嶽に最初の築城を開始した(現・平戸市岩の上町)。しかし、完成も間近となった慶長18 ...

※清原真人は中原真人からなっていて
※神八井耳命 多氏 などは 中原・十市・etcと同族で(佐田に関与)
波多が関与している紀氏も佐田・高岡などに関与していて

すみません。漠然とですが、やっぱり 大きなところにつながっていきます。
[70]子孫よりさんからのコメント(2013年12月24日 06時02分38秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示頂きありがとうございます。
私の疑問に対し沢山お調べ頂いて、本当にお手数おかけ致しました。

恵良氏・・
阿蘇の「黒川温泉」や「わいた温泉」に出かける時はいつも、玖珠町を通るのですが、国道沿いに「恵良」という地名があって、気になっていたのです。
実は職場に「恵良」さんがいて、もしかしたら、この辺りに関係しているのかな〜と。
だから、今朝はびっくりです。
「恵良」さんは由緒ある名前だったのだなφ(..)メモメモと。
(今まで、あまりお話していなかったのですが。私の職場には、このスレッドに登場してくる姓の方が結構いらっしゃいます。)

渡邊党・松浦党。
様々な戦いにおいて、海を支配している力を見方につければ、圧倒的に有利になる訳ですよね。

先日、弟の所に行く時の高速バスの中で、熊本城に関するパンフレットを読んだのですが、参勤交代に使用した船の模型が載っていました。
私が、無知識だったのだと思うのですが、今まで参勤交代と言えば、時代劇に出て来る「下に〜したに!」のあの歩くイメージだったので、ビックリしました。
明治に至るまで、汽車などの交通機関が無い時代は、今以上に海上には沢山の船が行き交いしていたのでしょうね。
陸上の交通も川を利用した方が早いでしょうし・・・。
船を持っているいや・・造船の技術があれば・・・・
そうか!船を作るには資材が必要。木材ですね・・・
う〜ん?何だかまたウズウズしてきました。何でしょうこの感は?

白石様のご教示はいつも、私に大きなヒントを与えて下さいます。

とっても気になるのですが、仕事です。
では、行ってきます(^O^)/<m(__)m>


[71]ごどの代理さんからのコメント(2013年12月24日 13時27分34秒 ) パスワード


みなさん、もう年の瀬ですね

浅古やごど
とは深い縁です。

私はごどより
浅古はもちろん気になるが
𣑑子(木字子)もだと

兄弟分というか遠い祖先ではないかと
いっておりました。
苗字としてはすごく少ないようです。

木=紀伊、字≡浅井のイメージとのことです。

また来年もここに顔を出そうと
思って終えります
[72]子孫よりさんからのコメント(2013年12月25日 00時42分26秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。
ごど様の代理様、コメントありがとうございます。
字≡浅井のイメージ。
以前、調べた内容に浅井氏に繋がる内容がありました。
もう一度、確認させて頂きます。
来年もよろしくお願い致します。(^・^)

今日は、球磨の平河に関する情報だけでは中々先に進まないな〜と思った所でふと、「山本庄」に何か残っているのでは?と考えました。
そこで、早速調査開始です。

まず、googleブックで「菊池 山本庄」で検索した所
鹿本郡誌という本が表示されました。
その中に橘宗頼川尻乙王丸という名前があり大江広元の名前も。
そこで、この場所がとても気になり、さらに橘宗頼川尻乙王丸で検索をかけると・・

Kumamoto shigaku - 第 51〜67 号 - 12 ページより
山本南庄下司宗形氏網が詫麻西郷に属する枝吉名内田畠九町七反を川尻乙王丸に沾却しているのがわかる ...

ここでは宗形氏網という名前が見えます。

何かある!!と確信。そこでさらに調査を進めると・・・
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E8%83%BD
このサイトの中に以下の記述がありました

【神蔵荘】より
…成立後まもないころの領家は浄土寺大納言法師御房(藤原公房?)で,田数(公田)は28名716町5反であり,本年貢120疋を最勝光院御念仏衣服料として出すことになっていた。在地領主に宗形氏綱とその沽券(こけん)を受けた橘宗頼の名が見えるが,1199年(正治1)当時には関東補任の中原親能が下司,宗頼は下司代となっていた。1209年(承元3)親能の猶子大友能直が地頭下司職に補され,その子詫磨能秀が相続,以来詫磨氏が分割知行した。…

山本庄に関係している人物は
藤原公房 宗形氏綱 橘宗頼 中原親能 大友能直 詫磨能秀

ここで、いつものインスピレーションでとても気になる人物が
藤原公房。この方を早速調べました。

三条公房(1179年−1249年):閑院流、公季の子孫。左大臣実房の子。従一位太政大臣に至り、清華家としての三条家の地歩を固めた。浄土寺相国と号す。
藤原公房(1030年−1102年):小野宮流、実頼の子孫。参議資房の子で、同流の大納言経任の養子となる。正三位参議左京大夫に至る。白髪宰相と号す。
藤原公房・・同名となる人物が2名。
???藤原・・三条・・??あれっ?以前に・・・・

続けます。
三条公房 ウィキよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E6%88%BF

父:三条実房 母:藤原経宗の女
気になるのは母:藤原経宗の女 すなわち父の藤原経宗

ウィキよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%AE%97
藤原 経宗(ふじわら の つねむね)は、平安時代末期の公卿。大炊御門家の初代の藤原経実の四男(あるいは五男)。同母姉に贈皇太后・懿子(二条天皇の生母)がいる。
様々な記述がありますが、その中に!
平家に対しても平重盛の妻・経子と、その子・宗実を猶子とするなど親密な関係を築いた。\(◎o◎)/!
また、
平重盛の子・宗実を猶子に迎えて実子同様に可愛がり知行国である土佐守に任じさせていたが、平家滅亡後にはこれを追い出したと見せかけて東大寺にて出家させて逃がし、更に宗実が北条時政に捕らえられると鎌倉幕府に宗実の助命を迫っている。

その他平重盛の子・宗実についてウィキより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E5%AE%9F
平 宗実(たいら の むねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。平重盛の七男。『吾妻鏡』では末子とされる。平清盛の孫。

嘉応元年(1170年)、3歳で左大臣・藤原経宗の猶子となる。治承2年(1178年)に土佐守となる。翌治承3年(1179年)11月、常陸介に転じる。

わずか5歳で土佐守ですよ\(◎o◎)/!

『尊卑分脈』や『平家物語』「六代被斬」によれば、藤原姓に改姓したとされるが、治承3年の『玉葉』『山槐記』によれば、平姓のままで改姓はしていない。寿永2年(1183年)7月の平家の都落ちには加わらなかったが、『平家物語』によれば、平家滅亡後は家から追われ、東大寺で出家した後、鎌倉へ送られる道中で断食死したとされる。また許されたのち高野山に上り、のちに鎌倉に呼び出された道中で断食死したとされるなど、諸本によって詳細が異なる。

一方、鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』文治元年(1185年)12月17日・26日条によれば、平家滅亡後に北条時政の手勢に捕らえられたが、猶父・経宗が源頼朝に宗実の助命と身柄の引き渡しを求めて認められたという。

\(◎o◎)/!これこそが、実は生きていました!!の証拠ですね!!

後回しになってしまいましたが・・  三条公房いえ三条家。

皆様、前スレッドのコメント70でお話しました。

「藤原家長の子供 藤原隆雅 この人は 藤原忠雅の養子になります。
そして・・藤原忠雅は藤原隆雅(家長の子)以外にもう一人養子が・・
その方が 藤原行雅 - 実は藤原公行の子

藤原公行・・・三条 公行(さんじょう きんゆき)は、平安時代末期の公卿。三条実行の次男。」

そして・・・・ つづけて前スレッドコメント70より
下の歴代当主の中に 三条公茂 名前があります。
では、古文書の内容に戻ります。
この三条公茂さんの事を 鎌倉遺文では

伊勢少掾藤井松永内竪頭目良峯充村 <中宮大夫藤原朝臣>となっています。

良峯充村・・・三条公茂・・・中宮大夫藤原朝臣・・・(同一人物)
と言う事です。」

という事で
三条公茂は三条公房の4代後の三条家当主です!!

山本庄を調べたら 平重盛・平 宗実・藤原家長・藤原経宗・三条公房・三条公茂 と繋がりました。

では、またまた、長くなりましたが おやすみなさい
<m(__)m>
あっ!! 橘宗頼。この方については明日調べます。<m(__)m>





 
[73]子孫よりさんからのコメント(2013年12月25日 06時46分36秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。

昨日(?今日か)コメントした内容で、とても気になる事があり、実はあまり眠れませんでした。

そこで、今朝は、皆様にお願いがあります。
今から書く内容を、皆様の想像力を発揮して頂きながらじっくり読んで頂きたいのです。
こじつけだと思われてもかまいません。
では・・・・

まずは 平 宗実。この方から
平 宗実(たいら の むねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。平重盛の七男。『吾妻鏡』では末子とされる。平清盛の孫。
★平重盛の七男

続けて 母 藤原経子<藤原家成の娘。藤原家長の姪>
ウィキより 
平重盛の正室となり、清経・有盛・師盛・忠房を産む。仁安元年(1166年)、叙爵。同年10月、憲仁親王の立太子にあたり、乳母に選ばれた。仁安3年(1168年)、高倉天皇即位により、従五位上・典侍となる。嘉応元年(1169年)11月の八十嶋祭では、勅使役を勤めた。夫・重盛の官位から、大納言典侍、大納言三位と呼ばれた(ただし、従三位に叙された時期は不明)。承安元年(1171年)以降の記録は見られないが、重盛没後も存命であり、その後出家したものと推測される。
★夫・重盛の官位から、大納言典侍、大納言三位と呼ばれた。その後出家したものと推測される。

続けます
ミューゼアム: the bimonthly magazine of the Tokyo National Museumより
平河家について
・・・系図中の三位房にっいて「木上荒田寺座主」と記されている
★木上荒田寺座主を三位房と呼ぶ

そして、平河家文書より(文字化けしていますがすいません)
@平城天王御子大納言正三位良蜂朝臣安世任武蔵守棹武天王ノ孫長岡ノ御子良峯蔵人頭宗^ 0 四位-肉少将宗處トモ云、御子! :九郎義方、御母七郎荒田寺別当依高
A天王臼丁桓武天王ノ係ト士立、御子雨四 ... 四位雨少特宗貞郎戎方、御母七郎荒田寺別営依高、御子有智山寺姓立之吏仁平元群十月十八日卯時桂立三年久さ万年移ル、
★御母七郎荒田寺別当依高

ここまでを整理します。
★平 宗実は平重盛の七男
★藤原経子は大納言典侍、大納言三位と呼ばれた
★木上荒田寺座主を三位房と呼ぶ
★御母七郎荒田寺別当依高 または 御母七郎荒田寺別営依高

今まで、調べて来た事をまとめただけです。
どうか、皆様の想像力をもって、お考え頂き、ご教示いただければありがたいと思います。
では、仕事に行ってきます。<m(__)m>





[74]白石さんからのコメント(2013年12月25日 21時23分35秒 ) パスワード

こんばんは
風が冷たくなってきました。マスクが手放せません。
平重盛
河辺村・・・永吉庄に属していた。高尾野の薬師堂には明応4年(1495の
)円福寺観音宝前 重盛敬白の銘を持つ鰐口がある。

円福寺で検索をかけると
円福寺
住所: 熊本県上天草市大矢野町登立13137
電話: 0964-56-0587
が出ましたが、第一に上の 重盛 とは平重盛なのか 不明。

しかし 後世 豊臣秀頼の子供が天草四郎という話もあり、
宮原について 隠れキリシタンと教えてくださった方もあり、
妄想ですけど 何だかつながるのかしら?と思います。



[75]子孫よりさんからのコメント(2013年12月26日 00時02分24秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
白石様、ご教示ありがとうございます。

隠れキリシタン。
以前、足利からの宮原を見た時に、真里谷氏(まりや)がありました。
これは?と。
今まで、皆さまから様々なご教示を頂いて、海外からの民族の移動も含め、宗教であっても伝来は、教科書に載っている時代はあてにならないと思うので・・

想像が膨らんでいきます(^○^)

それに、今日はクリスマスですから(^○^)

実は私も、幼稚園は宮崎の西都にあるカトリック系の幼稚園です。
幼稚園バスなどなくて、首から定期券をぶら下げて公共の交通機関(バス)に乗って一人で通っていました。
(誰の教育方針だったのだろう???)
今度、正月に父に聞いてみます。(^^ゞ

では(^・^)
[76]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年12月26日 19時37分41秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>教科書に載っている時代はあてにならないと思うので・・
 
古事記(712年成立)、日本書記(720年成立)、三国史記(1145年編纂)の史書のいずれもが紀年延長と系譜変造をしているからですよ。
神武天皇即位が、紀元前660年がおかしい。
本当は紀元361年即位で稲氷命が新羅初代(赫居世と同一人物)。
三国史記の新羅初代が紀元前57年もおかしい。
新羅建国は紀元356年で約400年遡らされている。
4世紀の五胡十六国時代の漢土地域の混乱を利用して日朝二国が歴史の偽造をしたということ。
 
建前上皇室は馬韓系だが、天忍穂耳命が辰韓系から養子、応神天皇(いわゆる八幡宮の御祭神)も辰韓系、だから武烈天皇の後継を継体天皇(応神天皇裔)に拘ったわけ。
「古代日本領土の起源」を熟読すれば、太安万侶の迷彩工作が立ちはだかっていることが理解される。
[77]白石さんからのコメント(2013年12月26日 22時18分27秒 ) パスワード

こんばんは
お正月が指折り数えて待ち遠しいです。
同級生にクリスマスプレゼントを贈ったら、25日が誕生日だと喜んでいました。
そして 判明したことが・・・以前宮原から黒田に姓が変わった同級生のことを書きましたが、黒川から宮原へ変わりさらに結婚して別の性になり、熊本にすんでいるのでした。
ただ、苗字は黒がつけば下の言葉がちがっても流れが同じ と 子供の頃に聞いたことがあり、黒田とたどりたどればつながっていくのかも・・・

子孫よりさん - 日子の島TOP
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2013/11/13 - [3], 日本の苗字七千傑さん からのコメント(2013年11月13日 23時03分36秒 ), パスワード ... 白川は南阿蘇を流れ、北側の阿蘇盆地を流れる黒川と立野付近で合流して熊本市へと向かう。白ナイルと青ナイルのように合流点ではそれぞれ水 ...

という文を思い出しました。
そして日本の苗字7000傑様の黒川は
表題を見てもいろいろあるのですが、越智氏・平氏良文流・そして久米氏・・この子孫の女子が藤原の母方ともいえる。
そして多々良氏は大内氏になり、藤原二条祖とかいているブログが前にありました。その前の祖先が藤原とからまっているように思えますが、
秀郷流は多くの中世武家がこの流から派生しており、
宗像氏は山口をたどりたどればこの氏にいきつく。
あと清和源氏にもあるがつまりは古代に遡れば小さなわっかだったのが、時代をさがるにつれ姿かたちがかわって、まるで違う筋になってしまったのだろうと思います。
[78]白石さんからのコメント(2013年12月26日 22時46分23秒 ) パスワード

いろいろあるなかで、日本の苗字7000傑で黒川をみると、
日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 藤原氏秀郷流【8】広沢氏・和智氏
波多野氏へもどる
荒木田氏や大友氏の名がみえる。大友は古荘姓にも関与していて、免田に古荘先生がおられた。大友は中原に関与する。
荒木田家遠祖は中原(さだの時)遠祖・神魂尊ときょうだい神とされ、神魂尊の女子と津速魂命と結婚していると本で見たことがあります。
荒木という家も故郷の集落にあります。

その先佐藤氏になり、
これをみると まあ いつの頃わかれたのだろうと思うけど、子孫様期待しています。尾崎は平川の筋ですよね。

※伴氏は紀氏ですよね。
天押日命の後裔氏族。軍事職掌の氏族。
姓は、元は、連。天武朝より宿禰。弘仁14年に伴氏に改姓。
「伴大納言絵詞」の主人公として有名な伴善男が、応天門の変で伊豆に配流された為、大伴氏は歴史の表舞台から消え去った。
鎌倉の鶴岡八幡宮神主は、伴善男の子孫という。また、三河にも伴氏を称する一族があり、大伴氏の系図は、従来は、これらの系譜によるものであったが、近年になって浅間神社宮司の古屋家に伝わる古屋家家譜が、発見された。
大伴氏系図
尊卑分脈に大伴氏の系図はなく、諸説あるので、公卿補任に記された血縁関係を基本とした。
天中主尊 ━ 天八下尊 ━ 別天三降尊 ━ 別天合尊 ━ 別天八百尊 ━ 別天八十万魂尊 ⇒
⇒ 別天八百尊 ┳ 高皇彦霊尊 ━ 天忍〔押〕日命 ━ 天津彦日中咋命 ━ 天津日命 ⇒
┣ 神皇彦霊尊
┗ 津速彦霊尊
⇒ 道臣命 ━ 味日命 ━ 雅日臣命 ━ 大日命 ━ 角日命 ━ 豊日命 ━ 武日 ━ 健持 ⇒
※以上は、続群書類従の伴氏系図によるものだが、続群書類従には、ここまでの系図が2種類収録されていて、片方の系図は、次の室屋まで三世中絶とあるが、公卿補任の表記に従えば、室屋は健持(武持)の子。
金村以降を公卿補任に記載された血縁関係だけで整理すると、下記の如くとなる。
? ━ 金村 ━ ? ━ 咋子 ┳ 長徳 ┳ 御行
┃ ┗ 安麻呂 ━ 旅人 ━ 家持
┗ 吹負 ┳ 牛養
┗ 祖父麻呂 ━ 古慈斐 ━ 乙麻呂
? ━ 望陀
? ━ 馬来田 ━ 道足(或いは、安麻呂の子) ━ 伯麻呂
? ━ 古麻呂 ━ 継仁(人) ━ 国道 ━ 善男
? ━ 兄麻呂 ━ 潔足
? ━ 駿河麻呂
? ━ 春雄 ━ 保平
金村の父親に関して、金村を室屋の子とするものと、室屋の子談の子とするものとがある。
また、寛政重修諸家譜の山岡系図によれば、健持と室屋の間に健友・武季・建室の三代がはいる。
⇒ 室屋 ┳ 金村 ━ 咋子 ━ 長徳 ┳ 御行
┃ ┗ 安麻呂 ━ 旅人 ━ 家持 ⇒
┣ 御物〔林宿禰祖〕
┗ 語 ━ 歌〔佐伯氏祖〕 ━ (略) ━ 空海
⇒ ┳ 室屋 ┳ 金村 ⇒
┃ ┗ 御物
┗ 談
⇒ 室屋 ┳ 談 ━ 金村 ┳ 磐
┃ ┣ 狭手彦
┃ ┗ 阿被布古 ━ 咋子 ┳ 長徳 ⇒A
┃ ┣ 馬来田 ⇒B
┃ ┗ 吹負 ⇒C
┣ 御物 ━ 戸難目連公
┗ 歌〔⇒佐伯氏〕
※尊卑分脈によれば、藤原鎌足の母は、大徳冠大伴久比子卿乙女智仙娘とある。久比子を咋子とするものが多い。寛政重修諸家譜の山岡系図によれば、咋子は、狭手彦の子。
※佐伯氏の祖に関しても、諸説あり。金村の弟歌を祖とするものが多い。また、御物は林宿禰の祖とされている。
A⇒ ┳ 御行
┗ 安麻呂 ━ 旅人 ━ 家持 ━ 永主
B⇒ 道足 ━ 伯麻呂
C⇒ ┳ 牛養
┗ 祖父麻呂 ━ 古慈斐 ━ 乙麻呂 ━ 勝雄 ━ 須賀雄 ━ 春雄 ━ 保平⇒D
※古麻呂 ━ 継仁(人) ━ 国道 ━ 善男 の流れに関しても諸説ある。
古麻呂の父を家持とするもの、御行とするもの、長徳とするものなどがある。

※兄麻呂 ━ 潔足
兄麻呂の父を御行とするもの、長徳とするものなどがある。

※駿河麻呂
道足の子とするもの、兄麻呂の子とするものなどがある。
※D以下は、地下家伝による。この系は、 ★小野を称した。
D⇒ 彦貞 ━ 忠陳 ━ 惟信 ━ 貞資 ━ 定政 ━ 広貞 ━ 広信 ⇒
大伴 健持(一云武持、又武以)[ 生没年不明 ]
健日命の子。豊日命孫。道臣命七世孫。天忍命の後裔。
〔以上、公卿補任による表記。健日命は続群書類従によれば、初号武日命〕。
仲哀天皇元年大連(大連の始)。
※名は系図纂要作武持。
大伴 室屋[ ?〜顕宗天皇御世 ]
武持大連の子(公卿補任による)。
允恭天皇御世任大連。
大連。
大伴 金村[ ? 〜 欽明天皇御世 ]
仁賢天皇5年2月任大連。
称老帰住老家大連。
大伴 長徳(孝徳天皇御世)[ ? 〜 白雉2(651)年7月 ]
咋子連男。金村大臣曾孫。字馬養。或鳥養。
大化5(649)年4月20日任右大臣大紫。
右大臣大紫。
大伴 望陀(天武天皇御世)[ ? 〜 天武天皇9(680)年6月3日 ]
初任不明。
大納言
大伴 御行[ 大化2(646)年 〜 701年正月15日 ]
難波朝右大臣長徳連五男。
701年正月5日任大納言。
正三位(正三位始)・大納言〔贈(追贈官位始)正広二(正二位)・右大臣〕。
※続日本紀によれば、700年8月叙正広三。
大伴 安麻呂[ ? 〜 和銅7(714)年5月1日 ]
難波朝右大臣大紫長徳六男。
701年3月19日叙従三位。
正三位・大納言〔贈従二位〕。
大伴 旅人(一云多比等・淡等)[ ? 〜 天平3(731)年7月1日 ]
安麻呂一男。
養老2(718)年3月3日任中納言。
従二位・大納言。
※没日は、25日とも。
大伴 道足[ 生没年不明 ]
馬来田男。
神亀6(729)年2月任参議。
天平14(742)年以降、不見。
正四位下・参議。
※初見時の尻付には、安麻呂一男とあるが、伯麻呂の祖父が馬来田となっているので、父を馬来田とした。
※極官位は続日本紀によれば、従四位下。
※天平13(741)年逝去か。
大伴 牛養[ ? 〜 天平感宝元(749)年閏5月27日 ]
贈大錦中少吹負男。大徳咋子連孫。
天平11(739)年4月19日任参議。
正三位・中納言。
※続日本紀によれば、参議任官日は21日、没日は29日。
大伴 兄麻呂[ 生没年不明 ]
公卿補任に父名不記載。
天平勝宝元(749)年7月2日任参議。
天平勝宝9(757)年以降、不見。
従三位・参議。
公卿補任に、或本。天平宝字2(758)年謀反とある。
大伴 駿河麻呂[ ? 〜 宝亀7(776)年3月 ]
公卿補任に父名不記載。
宝亀6(775)年9月27日任参議。
正四位下・参議〔宝亀7(776)年4月3日贈従三位〕。
※没年は、宝亀8(777)年7月5日とも。従三位追贈日は、続日本紀によれば、7月7日。
大伴 古慈斐[ 大宝元(701)年 〜 宝亀8(777)年8月4日 〕
平城朝越前按察使従四位下祖父麻呂男。飛鳥朝臣常道頭贈大錦中小吹負孫。
宝亀6(775)年正月5日叙従三位。
従三位・非参議。
大伴 伯麻呂[ 養老2(718)年 〜 天応2(782)年2月3日 ]
道足男。馬来田贈大紫孫。
宝亀9(778)年9月任参議。
天応2(782)年閏1月13日坐事解官。
従三位・参議。
大伴 家持[ 天平元(729)年 〜 延暦4(785)年8月 〕
大納言従二位旅人(又名多比等)之子。
宝亀11(780)年2月1日任参議。
従三位・中納言。
大伴継人・竹良らの藤原種継暗殺事件に関わったとされる。没年は、公卿補任によるもの。
大伴 潔足[ 霊亀2(716)年 〜 延暦11(792)年10月2日 〕
参議従三位兄麿之子。
延暦9(790)年2月9日任参議。
従四位上・参議。
※生年は没年条の年齢から逆算したもの。初見時の年齢から計算すると、養老5(721)年生まれ。
大伴 乙麻呂[ 天平3(731)年 〜 大同4(809)年5月 ]
古慈斐男。
延暦14(795)年叙従三位。
従三位・非参議。
大伴 国道[ 神護景雲2(768)年 〜 天長5(828)年11月12日 ]
左少弁従五位下継仁〔人?〕男。遣唐副使正四位下古麻呂孫。
弘仁14(823)年5月14日任参議。
従四位上・参議。
尾崎(桂宮諸大夫)
大伴 積興[ 延享4(1747)年11月23日 〜 文政10(1827)年後6月7日 ]
正五位下正殖朝臣男。
文政8(1825)年2月11日叙従三位。
従三位・非参議。
※皇親系によれば、娘敦子は有栖川宮韶仁親王の生母。

ながくなってしまいましたが、コピーをかけたらじょろじょろとうつってしまいました。
[79]子孫よりさんからのコメント(2013年12月27日 00時37分57秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
今日は、息子が帰って来ると娘と待ちに待ったのですが・・
友達に最終の新幹線で帰ってくると連絡したら、わざわざ総勢で迎えに来てくれたそうで・・・八幡に行くそうです。
何と今日は会えません(*_*)
何というか(*_*)でも、遅い時間に迎えに来てくれるのですからありがたい事です。
という事で、今まで、コメントもせずにボーッと待っていたわけです。
明日は、むこうの(元嫁ぎ先)お爺ちゃんとお祖母ちゃんに会ってお墓参りに行くそうです。(子供の頃からとても可愛がってくれた二人ですから大事に考えてくれるのはありがたいです)
1年ぶりですが、私は、毎日ネットにアップされるファンの方々のありがたい写真を見ているので、久しぶりという感覚はあまりないのですが・・・
でも・・・はぁ〜母はいつも元気と思っているのかな〜トホホです。

日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示ありがとうございます。
年代を其々の国が偽造?!
時代が変わって現代においては、真実の情報が知りたいですね。
でも、ふと紀元前660年と紀元前57年この双方の年には何か重要な意味があるのでは?と考えてしまいました。
偶然にも、日本の苗字七千傑様のサイトを見ながら多氏が気になって、調べていた所だったので先ほど「太安万侶」を調べたらあれっ?と。
でも、何の為の偽造なのでしょうか?九州がかなり関係しているようですが・・。

白石様、沢山のご教示ありがとうございます。
大伴氏。日羅に関係してくるのですね。
系譜は後でじっくり読ませて頂きますね。φ(..)メモメモ

先日、日羅についていろいろ記述を読んだのですが、百済使から暗殺されたという話も、ものすごく奥が深くて。
関係する人々にもかなりの謎があり、今後もっとじっくりと調べたいと思っています。

古代の小さなわっかが、時代を重ねるごとに大きな輪へと変わってきたのですね。
そして、私は、その輪の中をぐるぐると回って、中々、先祖にたどり着く事が出来ません。

あっ!それから。
皆様、教えて下さい。 字平(あざたいら)とは、「平家」の事ですか?それとも「平氏」の事ですか? ご教示よろしくお願い致します。<m(__)m>





[80]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年12月27日 20時37分55秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>でも、ふと紀元前660年と紀元前57年この双方の年には何か重要な意味があるのでは?と考えてしまいました。
 
神武即位は西暦361年(辛酉年)なのだが、それでは倭は三韓(馬韓、辰韓、弁韓)連合王国の後継国家ということになるので西暦紀元前660年(辛酉年)迄遡らされたのです。
その為に皇位に就いていない八代天皇(綏靖〜開化)を挟み込み、それでも足りないので各天皇の享年にゲタを履かせたのです。
流石に良心の呵責か、太安万侶は古事記で「かれ御毛沼の命は、波の穂を踏みて、常世の国に渡りまし、稲氷の命は、妣の国として、海原に入りましき。」と記述して神武天皇の皇兄稲氷の命が新羅初代であることを暗号的に伝えております。
 
紀元前57年は干支の始まりの甲子年ですので、キリが良かったのでしょう。
三国史記は記紀より400年も後世の史書なので、記紀が祖を神話化して千年も遡らされたのを良いことに三韓(馬韓、辰韓、弁韓)の記事を曖昧にして新羅建国を西暦前57年、百済建国を西暦前18年に遡らされたのです。
 
しかし漢土の史書から辰韓滅亡、新羅建国が西暦356年ですから矛盾が生じています。
[81]子孫よりさんからのコメント(2013年12月27日 22時09分30秒 ) パスワード

皆様、今晩は。
日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
双方の国が、系譜・年代を偽造する事によって、お互いに都合良くはこんだ訳ですね。
太安万侶の良心の呵責による暗号。後世において、きっと、この謎は解かれてしまう事を最初から予測しているかのようです。
『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。とウィキに記載されていました。
その他
人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営。
八色の姓という言葉は伺ったことがありましたが、氏姓制度を再編する為だったのですね。

陵(みささぎ)は、奈良県高市郡明日香村大字野口にある檜隈大内陵(桧隈大内陵、ひのくまのおおうちのみささぎ)に治定されている。公式形式は上円下方(八角)。考古学名は野口王墓古墳。

ひのくまのおおうちのみささぎ
?まるで、こちらの名称も何か暗号のような感じです。

所で、馬韓、辰韓はしっかり理解できるようにどうにかなってきたのですが、弁韓系の民族は日本ではどのような形(系譜)で残っていったのでしょうか。
とても興味があります。中立的な立場だったのでしょうか?

歴史を勉強する事は、本当に面白いです。
もっと早く目覚めていたならば・・・
いえ、これからです。これからこれから(^・^)<m(__)m>


[82]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年12月27日 23時01分44秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>弁韓系の民族
 
新羅王と同じ金姓で、後の任那王のこと。
百済王裔と称している多々良氏や三善氏が実は弁韓系と思われる。
弁韓(任那)王家は金官王家のこと。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03021f.htm
 
後裔は大内、陶、山口など。三善氏の後裔も九州に繁衍。
他は対馬、伊予、吉備、但馬などに加耶(弁韓)系地名。
国名ズバリの任那姓は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に。
[83]子孫よりさんからのコメント(2013年12月28日 02時03分54秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2014年04月08日 15時32分44秒
[84]子孫よりさんからのコメント(2013年12月28日 08時43分22秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
球磨と花尾(以前住んでいた所)の関係が解ってめちゃくちゃ動揺しましたが、物は考えようで、今は縁を知ってよかったなっと思えるようになりました。

何故か!!それは、昨日の1件のお陰で、何と!球磨と前野(良峯)氏の繋がりを見つける事が出来たからです\(^o^)/

では、と報告に入る前に何故今朝、上記の件を発見できたのか!っと言うと
それは・・・・ご先祖様のお陰です(^・^)((ー_ー)!!マタマタア〜との声が)
では、ちょっと脱線<m(__)m>
今日も久しぶりに先祖大集合!の夢を見ました。(どうも豪華キャストのような)
そこで、代表?の男の人が「相良が気になるか?」と私は宮原の曾祖母が上相良の新堀家から嫁いできた事もあり「ハイ」と。
すると、「すでに、調べていたではないか!」と。私は?????と。
「あわてもので、すぐに気が移る。誰に似たのか・・」
「うちではない(ー_ー)!!」「い〜やうちでもない(ー_ー)!!」ワイワイガヤガヤ。((*_*)私のおっちょこちょいをなすりあっている〜(@_@。)
「喧嘩しないで下さい。」私が言うと・・・
「もう、戦わぬ!!(^・^)」と言われて笑いながら、何処かへ・・・
( (゜-゜)やっぱ戦っていたんかい!??)

という事で目が覚めました。

「相良はもう調べていた」???そんなに詳しく調べていたかな?・・・・
と・・あっ!!ありました。
見たけど意味が全く解らなかった情報!!
慶應義塾大学所蔵古文書検索システムで見つけた「人吉藩 相良家に関する文書一覧」です。
今だったら、少しは意味が理解できるかな?!と思い早速確認。

そして、見つけたのです!!
人吉庄起請田以下中分注進状 \(^o^)/

<m(__)m>長くなったので一度アップします。

[85]子孫よりさんからのコメント(2013年12月28日 11時02分08秒 ) パスワード

8時台にアップしたコメントはかなり、大げさかな?
どうもすいませんでした<m(__)m>
自分で読んで、興奮しすぎと。
言葉を変えます。
もしかしたら、球磨と前野(良峯)氏が繋がるかな?という名前を見つけました。です。

では、ご説明します。
人吉庄起請田以下中分注進状 寛元02 1244年 05月 15日

作成者
惣公文藤原真憲(花押)、田所草部高元(花押)、納所代藤井延重(裏花押)、政所平守員(花押)、沙弥蓮仏(相良長頼)(花押)

姓だけピックアップ。 藤原・草部・藤井・平・相良

時は1244年。なのに何故か草部高元。草部!という事で今度はgoogle
ブックで「草部高元」を検索。 すると・・・

Kadokawa Nihon chimei daijiten - 第 43 巻 - 924 ページ
人吉荘起請田以下中分注進状(同前)力; ,代官調所七郎忠康の立会いのもとに現地の惣公文藤原真憲,田所草部高元,納所代藤井延重,政所平守貝らによって作成され,最後に沙弥蓮仏(長頼)が署判を加えている。
同様に
日本歴史 - 第 380〜385 巻 - 84 ページ
草部高元,惣公文藤原真意ら五人の人吉庄の地頭.庄官たちであった。立ち合つたのは没収分(北方)をうけとりに来た得宗の代官調所七郎忠康である。地頭蓮仏が指揮して作成した右の中分状には多くのことが記職されている。

もっと続けて
大日本古文書: 相良家文書 (2 v.) - 13 ページ
当給人之御代官調所七・忠康相共令見知、始自當所領東端、限西端他領永吉之堺下前河、一方者南方、一方者北方、其兩方中立折、四至・、所令打三十一本之傍示之狀如件、宽元貳年五月十五日惣公文藤原眞憲〖花押)田所草部高元〖花押)納所代藤井 ...

ここまでをまとめると、御代官調所七・忠康が、寛元2年(1244年)に作成された「人吉庄起請田以下中分注進状」をもとに、「相共令見知」すなわち立会って見知(検地?検知)されましたよ。という事でしょうか?

ここまでの全ての名前が気になりますが、ピックアップしたのは
得宗の代官調所七郎忠康。この方誰でしょう?と検索すると何も出てきません。
そこで、当給人之御代官調所七・忠康・・当給人とは北条氏?と考えて
北条忠康と入力すると・・出て来たのです。でも4名(トホホ)

という事で、この中の何方かが代官調所七郎忠康ではないかな?と思うのですが、皆様のご教示をお伺いしたいと思います。
ご協力をお願い致します。

ではお一人目
富永(伴ノ)忠康
http://p.booklog.jp/book/33567/page/513247?p=2
三河国の富永氏は、古代豪族・大伴氏の流れを汲み、平安時代には武神・源ノ頼義、義家親子の奥州遠征に従い、源平争乱期にも源氏方として活躍し、近江、伊勢、三河の各地に富永荘という広大な荘園を経営、南北朝期には足利尊氏軍の先陣大将として太平記に足利軍一番槍の名を残す。

ではお二人目
信濃守忠康(板橋忠康)
板橋氏は、平安末期より豊島郡を支配した武蔵豊島氏の一族であり、その末裔にあたる信濃守忠康は、「寛永諸家系図伝」によると、天正年間(一六世紀末)には、北条氏直に仕えていたといわれています。
忠康の子である忠政は、北条氏滅亡後に徳川家に仕え、子孫は旗本として幕末まで続きました。また、同じく忠康の子で、忠政の弟である蓮源社本誉利覚は、浄土宗の赤坂浄土寺の住職となっており、その関係から歴代の旗本板橋氏は浄土寺を菩提寺としています。
その中で、文禄二年(一五九三)十一月二十一日に亡くなった忠康だけは、本貫地である下板橋宿にあった乗蓮寺を菩提寺としています。

ではつづけて 前野忠康。 この方について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E9%87%8E%E5%BF%A0%E5%BA%B7
前野 忠康(まえの ただやす、永禄3年(1560年) - 慶長5年9月15日(1600年10月21日)?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。舞野 兵庫助(まいのひょうごのすけ)とも呼ばれ、一般的には舞兵庫(まいひょうご)の名で知られている。
妻は豊臣氏の家臣・前野長康(坪内光景)の娘とされる(『武功夜話』には忠康自身も長康の弟の子であったとも)。はじめは豊臣秀次に仕え、若江八人衆の一人として各地を転戦した。文禄4年(1595年)の秀次弾圧時には、秀次近親者どころか関わりのある諸将でさえも処罰の対処となった。秀次の附家老であった岳父の長康と、その子である景定も切腹を言い渡され、忠康は浪人を経て石田三成に召し抱えられている。

北条には関係ないのかな?でも、「前野姓」が出た時にはとてもうれしかったのですが・・

では最後 出雲忠康
http://homepage3.nifty.com/koewokiku/burogu1/591.html
須佐郷は文永8年の出雲大社頭役結番帳では30町3反小の田数であるが、山間部でもありその領域は広大で、現在の出雲市佐田町内の反辺、宮内、原田、朝原と雲南市内入間、波多、穴見、さらには飯南町志津見、八神、獅子、角井に相当する。鎌倉初期には出雲忠康が郷司であったが、承久の乱の結果、北条得宗家が地頭となった。
★鎌倉初期には出雲忠康が郷司であった。
雲南市・・以前久米郷に北条という地名があったとお話した場所ですねφ(..)メモメモ

須佐神社棟札によると寛元元年(1243)に将軍頼経の名で本殿の造営が行われ、永仁六年(1298)にも久明親王により新築がなされている。時期的には問題はないが、北条時宗の弟時輔の母尼妙音が地頭であった横田庄の八幡宮の場合、弘安4年(1281)に妙音が御願主として造営が行われているので、北条得宗による可能性が大きい。
ともあれ幕府滅亡により状況は一変する。須佐郷地頭職は没収され、室町幕府により石清水八幡宮に寄進された。国衙領としての支配も南北朝の動乱の中で、しだいに守護により吸収されていったと思われる。
神社本殿の造営は、その後も応永21年、永正8年に行われたが、願主は須佐郷公文勝部氏一族により担われている。勝部氏とは鎌倉期の出雲国衙の在庁官人筆頭であった朝山氏の一族である。国衙のもとで須佐郷の支配にあたっていたのだろう。飯石郡内では朝山氏に次ぐ多祢氏が多祢郷を支配していたが、両者とも14世紀末までに本領である朝山郷、多祢郷を失っている。永正8年の棟札によると、永仁6年の新築以降は屋根の上葺が行われたのみで、本殿の大破が進んだので、勝部泰久とその一族が私財を投じて造営を行ったという。

どうでしょうか、3名の方は殆ど時代が同じです。
最後の出雲忠康この方だけが鎌倉初期です。

1500年代はまだまだ勉強不足なので、3名の方の記述がよく理解出来ません。

出来れば前野氏に繋がれば〜と願うのですが、どうも違うような気がしてならなくて・・違ったら残念ですが仕方ないですね(*_*)

という事で、皆様のご教示をお伺い出来たら本当にありがたいです。
どうかよろしくお願い致します。







[86]白石さんからのコメント(2013年12月29日 02時01分29秒 ) パスワード

こんばんは
お話が やっと 九州上部から山口・出雲の方に きましたね。
名族大内氏の興亡という本を読んだ時、人吉相良氏と同族の大内氏家臣相良氏という言葉がありました。
福岡たたらの浜に相良氏はおり、足利尊氏が走ってきて、勢いを盛り返し京へ馳せかえった。

他の本だったと思うけど
上球磨に護良親王が走ってきて勢いを盛り返し京へ馳せかえった。
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http://www.hikoshima.com/bbs/heike/101217.html
11/02/19 ●102 13/03/27 さくら 球磨郡 の 採物舞 と 出雲 の 佐田神社 その他

志都見さんからのコメント(2013年01月04日 11時38分38秒 )
と言う方からのコメントを頂いていましたが、朝山様とおっしゃるそうです。
ご調査の助けになるかもしれない と 思いかきました。
[87]子孫よりさんからのコメント(2013年12月29日 08時51分00秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
白石様、ご教示ありがとうございました。

「猿田彦は全国の警察の守護神である。」最初にこのコメントを見て、納得しました。
なぜならば、平河家文書に検非違使別当を経て・・という言葉があり、検非違使別当とは(皆様は、ご存じだったと思いますが、私はやっと先日ウィキで、勉強しました。(^・^))
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E9%9D%9E%E9%81%95%E4%BD%BF

司法を担当していた刑部省、警察・監察を担当していた弾正台、都に関わる行政・治安・司法を統括していた京職等の他の官庁の職掌を段々と奪うようになり、検非違使は大きな権力を振るうようになった。

平安時代後期には刑事事件に関する職権行使のために律令とはちがった性質の「庁例」(使庁の流例ともいわれた慣習法)を適用するようになった。また、この頃から検非違使庁における事務は別当の自宅で行われるようになった。

四等官の長官(カミ)に相当する。唐名大理卿。定員は1名で、現任の正あるいは権中納言または参議にして、左あるいは右衛門督、または左あるいは右兵衛督の兼任者の何れかより補任される慣例である。参議四位で検非違使別当を兼帯した例もある。一方、大納言以上の議政官で兼帯したのは、藤原忠平が911年(延喜11年)に大納言に転任するが、検非違使別当をそのまま兼帯した例のみで他の例は無く、五位以下から兼帯した例も無い。なお、検非違使別当は検非違使を統轄する最高責任者ではあるが、自身は検非違使ではない。

これを読んでなるほどな〜と。今で言う警察庁長官も兼ねた全ての行政の最高責任者という訳ですよね。

(?_?)あれっ?今、このコメントを書きながら、良峯安世又は良峯宗貞の役職だったのかな?と思い、確認したら、記述が無かったのです?
ずっと、そうだと(良峯安世又は良峯宗貞の役職)思っていたので、今、初めて違うのでは?という事に気づきました????
あれれっ?!検非違使別当は良峯の何方の役職なのかな????
ちょっと調べてみますφ(..)メモメモ

後ほど、さくら様のサイトはじっくり読ませて頂きますね(^^ゞ

所で、今朝、球磨に関する新しい情報を入手しました。

熊本県教育委員会 のサイトです  蔵城遺跡(くらんじょう)。平河義高が築城した「岩城」の辺りについてです。
http://kyouiku.higo.ed.jp/page/pub/default.phtml?p_id=1319

蔵城遺跡は追地区急傾斜地崩壊事業に伴い、調査が行われています。遺跡は球磨盆地の球磨川と川辺川の合流地点から球磨川沿いに約10キロメートル程上った、高原台地南端のシラス丘陵上にあります。丘陵頂部からの眺めは良好で、球磨盆地を一望することができます
φ(..)メモメモ ★この辺りを高原台地(たかんばる)と呼ぶのですね。知らなかった<m(__)m>
おや?追地区?「迫」?多良木の平川の親戚は「迫田」という地名に何軒かあります。「迫」????

続けます<m(__)m>
この遺跡がある丘陵は、「蔵城」という字名が示すとおり、相良氏と新宮氏に米を上納する蔵があったと伝えられており、中世の山城跡と考えられていました。
φ(..)メモメモ★「新宮氏」おや?初めて登場しました。相良氏と同様に米を上納する程の「新宮氏」なのに、何故、今まで、名前が出て来なかったのでしょうか? (?_?) 後で調べます。

続けて記述をピックアップ
平成3年に現存する丘陵の東側高台の調査を錦町教育委員会が行った際、掘立柱建物跡3棟、土星、竪掘が見つかり、土師器、土錘、染付皿、天目茶碗、青磁碗、白磁皿などの遺物が出土しています。

遺物は、土師器、瓦質土器、須恵質の擂鉢など中世の日常雑器のほか、青磁碗、白磁碗、宋銭のような中国からの舶載品も出土しています。また、西側高台をはじめ各所から土錘が出土しています。

φ(..)メモメモ★青磁碗、白磁碗、宋銭のような中国からの舶載品も出土!
何故?このような当時の高価な品物が、球磨の城(遺跡)で見つかるのでしょうか?
当時の荘園の地頭は全国皆さんこのような物を持つ事が出来たのかしら?
でも、何で残っているのかな?ううん?誰かが隠していて、その人がいなくなったので、後の人が見つける事が無く、今に至ったとか。謎です?


宋銭・・ウィキよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E9%8A%AD
日本において宋銭の流通が本格化したのは、12世紀後半とされている。当時は末法思想の流行で仏具の材料として銅の需要が高まり宋銭(1文銭)を銅の材料として輸入していた。時の権力者の平清盛はこれに目つけ、日宋貿易を振興して宋から大量の宋銭を輸入して国内で流通させ平氏政権の政権基盤のための財政的な裏付けとした。
続けて・・
宋銭の資金力が平家を台頭させたと考える「反平家」の人々や宋銭の流通によって経済的に不利益を受けるようになった荘園領主、地方武士も、宋銭とこれを流通させようとする平家に強い不満を持つようになった。

宋銭を流通させようとする平家と、これに反対する後白河法皇の確執が深まった治承3年(1179年)、法皇の意を受けた松殿基房や九条兼実が「宋銭は(日本の)朝廷で発行した貨幣ではなく、私鋳銭(贋金)と同じである」として、宋銭流通を禁ずるように主張したもの[4]の、逆に清盛や高倉天皇、土御門通親らがむしろ現状を受け入れて流通を公認すべきであると唱えて対立し、この年、平清盛は後白河法皇を幽閉する。

φ(..)メモメモ★ここまでの記述だけでも、「宋銭」を巡っての対立がその後に大きな影響を及ぼしたのですね。(奥が深いです)
ちなみに・・私、子供の頃この宋銭を見た記憶があるのです。今、思い出しました。その時は子供だから「銭形平次が投げるお金?」程度に思ったような。((ー_ー)!!それは寛永通宝)でも、はっきりと「そうせん」と言う言葉は覚えていました。(何故かな??)

サイトのピックアップを続けます<m(__)m>
発掘調査の結果、西側高台に掘立柱建物跡1棟(写真1)、それに平行する東西方向、南北方向に延びる柵がそれぞれ1列見つかりました。また、西側高台から斜面を東に下りたところを起点に北側斜面及び南側斜面へ延びる竪掘がそれぞれ1条見つかりました。その他に、河原石が溝底に投げ込まれた直角に曲がる大きな溝が1条見つかりましたが、これも城に付随する施設と思われます。
この遺跡では、これら城跡に関連する遺構、遺物の他、縄文土器、古墳時代の土器など、中世以前の人の痕跡をうかがわせる遺物も出土しています。

★ええっ!!縄文土器!?ここは!!縄文時代〜古墳時代にかけて、と言う事は!!もしや狗奴国に関係する遺跡!?
ワクワクしてきました\(^o^)/

続けます。<m(__)m>
また、近世の陶磁器類、民家跡なども見つかっており、中世以降も継続して人が住んでいたようです。
この遺跡の東南に近接して「岩城」という字名を残す丘陵があります。これも中世の城跡で、平河義高の築城と伝えられています。この「岩城」との関連が今後の課題と言えるでしょう。

おやおやおや〜!!何だかこの場所と平河義高は深く関係しているようですよ〜(-_-)むむっ怪しい!!
熊本県の調査に期待します。\(^o^)/

めちゃくちゃ長くなりました。すいません。
今から「新宮氏」について調べたいと思います。
では<m(__)m>






[88]白石さんからのコメント(2013年12月29日 23時26分20秒 ) パスワード

こんばんは
今日は大変寒い一日でした。あと一日仕事したら来年5日までお休みです。うれしい。黒豆やきんとん・煮しめ・棒だら・田作りなどをつくり、つくろうとしています。

高原たかんばる  なつかしい言葉です。あそこらの朝迫あさんせこ に開拓団が入って今お茶が盛んにつくられていますね。我が家は独自に山があったので自分と子でお茶を摘んだり栗をつくったりしていましたが・・・

小学校の頃 遠足であそこらまで行って、北岳神社をとおって帰ってきていました。

大きくなってバイクで錦・木上あたりまで走りぬけたことがあります。
確か(記憶だけで言ってはいけないと思うけど、今資料が見えないので)卑弥呼の頭飾りといわれる三角の金の冠・耳輪など出ているのですね。近くのスーパー銭湯の案内に出ていたと思っていますが・・・

○○迫の言い方は鹿児島に多いですね。
[89]白石さんからのコメント(2013年12月29日 23時49分24秒 ) パスワード

相良温泉茶湯里というところですが、深水という地名ですね。地図で見えるところに山本神社があります。

近くに南小があり、このあたりに 小山こやま勝清先生(故人)の顕彰碑が建っています。おうちは違うところですけど、お孫さんと同級生でした。
過去にこやまで検索をかけると橘嘉智子がでたのですが、今でないようです。
おやまだと北条になります。

 
[90]子孫よりさんからのコメント(2013年12月30日 00時04分48秒 ) パスワード

皆様、こんばんは。
白石様、コメントありがとうございます。

おせち料理、美味しそうです\(^o^)/
でも、手作りされてすごいですね。私には無理です(ー_ー)!!

さて、実は・・明日、球磨についに帰ります。(^^ゞ
実家の掃除などをして、料理は・・・私は適当です<m(__)m>
平川の伯父に会えたら嬉しいのですが。
それと、実家の敷地内にある、800年以上前のお墓。子供の頃からずっとあるので、全然何も考えていなかったのですが、でもですね・・・
何て言うのでしょうか、名前が実はちゃんと残っているのですよ。
難しい漢字ばかりで、今までちゃんと読んだ事がないので。
ちょっとドキドキしています。3基(単位はこれでいいのかな?)あって
2基は女性。1基は男性です。祖母からは、直接、うちとは関係ない人とは
言っていましたが・・・(実はそこのとこも良く解りません)
土地は、宮原の土地なので・・ううん??
しっかり、確認してまいります。<m(__)m>

そして、実は御報告が。
今朝に続き球磨のそれも久米に関する古代のえええええええ〜っ!!という情報を見つけたのですが。\(◎o◎)/!

この情報は明日、ご報告致します。(実はまだ、家を片付け中です。お恥ずかしい<m(__)m>)
では(^・^)

[91]白石さんからのコメント(2013年12月30日 00時11分47秒 ) パスワード

新宮
前に徳川家康についてしらべたことがあったのですが、今あけてみてみたら
★近衛は小川を通称にしていた と書いています。

私がこちらに来て知り合いになった小川さんの奥さん。
故郷の同級生にも小川君(故人)がいました。山の上の家から頑張って通ってきていました。背が高かったです。

徳川家康 前に調べたことで、その後整理されたものをみたことがありますが、その頃のままの抜粋です。
太田亮氏は 徳川家康の父は 松本三郎とし ★富田条に 富田進士が 平家資(家助)であると書いています。松本三郎は 富田進士の 弟です。

平家資は平家没落時、源氏の掃討に1184年蜂起した一人で 富田を冠するので基度の族であろうと ネットでは 書かれています。

富田進士 家助の後は 富田氏、平維茂の後は青木氏。
家助について 寿永年間に 大内惟義に殺され、一時富田城下の荘園は、院の御領として工藤祐経が管理したことがあります「名勝誌」:::が、やがて 元久(1204)には 富田進士基度が居城し、・・・とも ネットでは 書いてあります。

平家助は伊勢平氏。平国香の孫。彼の子孫は 千葉氏もおります。つまり 土肥。また 平清盛もそうです。
又 松平久忠の養子松本太郎三衛門秀雲はもと 三河の人。三河松本。藩主土井候は徳川譜代の名。三河は徳川氏発祥の地。・・・太田亮

又 富田進士盛基の弟、中宮進士教光の三男を松本三郎盛光(富)という。松本は皇太神宮社家にこの名がある。:::太田亮
皇太神宮には ほか 四浦にある家の名では 宮田 村山 などありました。松本 村山は 四浦の小野の中にあります。

富田は藤原北家 熊野別堂の後:::太田亮
※熊野別堂はおそらく熊野別当の私の間違いです。

[92]子孫よりさんからのコメント(2013年12月30日 00時20分53秒 ) パスワード

こちらのスレッドもついに91\(◎o◎)/!
新しいスレッド
平川家について7を立ち上げました。

今後とも、どうぞよろしくお願い致します。<m(__)m>
http://hikoshima.com/bbs/heike/101338.html

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