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 投稿番号:101324 投稿日:2013年09月23日 06時27分27秒  パスワード
 お名前:子孫より
平川家について(続1)

コメントの種類 :その他  パスワード

スレッドが重たくなたのであらためて立ち上げました。(^○^)
ナンバー101からの続きです。
今後もよろしくお願いいたします。<m(__)m> 

[3]管理者 aさんからのコメント(2013年09月23日 10時00分12秒 ) パスワード

このスレッドは
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101319_102.html
からの続編です。
[5]代理書き込みさんからのコメント(2013年09月23日 10時04分14秒 ) パスワード


[101] 子孫よりさんからのコメント(2013年09月23日 06時18分58秒)


おはようございます。
ご教示ありがとうございます。
苅田という地名は福岡県にもありますが何か関係があるのでしょうか?
そして、今朝のビックリは!http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Densekiryoo.html#anchor1539168
をクリックして、表示された内容を読んでいた時に狗留孫という言葉が・・・
山口県長門市を目指し海沿いではなく山道の方へドライブしている時(下関→菊川→豊田方向・解り辛いですね<m(__)m>)狗留孫山という標識があって、(多分、この山を越えれば川棚方面の海沿いになると思います)
このお山の名前がとても気になって・・・同時に例の、ズンズンゴーゴー(言葉に出来ない(*_*))という頭の中に声ともつかない響きが・・・その後、この道を通るたびズンズンゴーゴー(笑わないで下さいね(*_*))
ものすごく気になる狗留孫山ですが、あまり響くので((*_*)?)怖くて調べた事はありません。そして、今朝、またこの狗留孫という言葉が・・!
ところで、白石様、”良峯の荒田の言葉”とは何ですか?私、お恥ずかしいですが知りません。教えていただけますか?
私が、祖母や平川の伯父から聞いている平川の家に伝わる義高公の言葉は、自ら命を絶たれる前に、もし子孫(家族・親戚)に害を加えたら、大変な事になる(あまり使いたくない言葉ですが祟る)と言われたと。「そのようにして、子・孫(家族・親戚)は義高公の命(いのち)によって守られた。だから、ばあちゃんも生まれてこれたし、(私の名)も生まれてこれたとよ。ご先祖様にいつも感謝しなさいね」といつも言われていました。<m(__)m>
[6]代理書き込みさんからのコメント(2013年09月23日 10時04分55秒 ) パスワード


[102] 白石さんからのコメント(2013年09月23日 09時15分29秒 ) パスワード


もしかしたら テレビで放映された人は弟様ではなかったかしら?花の絵でした。筋ジスでも 頑張っている人もいる と 思ってみていました。ずんと まえでしたけど。 本当に画期的な治療法が待たれますね。
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何かに守られている話。あると思います。よかったですねえ。
車の運転には本当に気をつけてくださいね。私の姉娘は福岡から人吉まで一時間半位で走ると 言っていました。昔とは違うと思うけど、高速を使うのでしょう。事故を起こさないようにと 祈るばかりです。
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祈り
前に皇后陛下が (自分たちのしていることは?)祈りだと 思います と おっしゃられた と 週間誌で読んだことがあります。
そうですよね。どうぞ お元気で。どうぞ ご無事で。祈るしかないけど、子孫様とお知り合いになれ、球磨という地域でつながってわたしの先祖も(今は自由に大空で心が羽ばたいているだろう)無事に毎日を送るように・・・と 気を送ってくれると思います。
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[7]代理書き込みさんからのコメント(2013年09月23日 10時05分52秒 ) パスワード


子孫よりさんからのコメント(2013年09月23日 08時21分14秒 )


今日は休みなので、ゆっくり二度寝をしようと思っていたのですが、どうしても気になる事があって・・またコメントしています。
前のスレッド最後の101で質問しているのに、追加ですが別の質問があってすいません。
日本の苗字七千傑様・白石様 どうかご教示下さい。
昨日、弟に会って来た事がきっかけです。
離婚した母の事です。私と弟には母の血も流れていますから・・やはり気になります。
母は宮崎県高鍋町の岩切家から嫁いできました。父とは恋愛結婚です。
私も離婚して、母の気持ちが解るようになってきて、交流する事が出来るようになりました。(母は偶然ですが北九州に住んでいます)この事は父も知っています。
母は自分の実家の家系について、私に話した事はありません。(多分、私が聞かないからだとは思います・・)
岩切の家について、父からもあまり聞いた事がなかったのですが、去年の正月、さすがに離婚して40年近くたったからか、父みずから話してくれました。
「岩切家は士族で、薩摩藩士。岩切は宮崎には沢山あるけど、お前のお母さんの家はその中でもとても由緒ある家柄だったとよ。」と。
でもその時??と何で高鍋で薩摩藩士??鹿児島まで遠いし・・・?それに、以前、福岡県内にある秋月に散策に出かけた時に、”秋月藩はその後高鍋に移った”と書いてあって「あ〜っ!!高鍋!!懐かしい(^・^)」と思った記憶があったのでなおさら・・・・????と(父には言いませんでしたが・・)
確かに子供の頃の記憶で強烈な印象で残っているのが、お墓です。
子供だから大きく見えたわけじゃないと思います。広いのは敷地?(でいいのかな?)周囲が囲ってあり、おおげさじゃないけど、子供の頃に住んでいた自衛隊近くの借家より広かったので、お墓参りの時は走りまわって怒られていました(*_*)。そこに墓石がたしか一つ(単位がわかりません(*_*))。いや、四隅の所にもう一つあったような・・あっ!!仏様が彫られたかなり大きな石が隅にあった! 触っちゃダメと(ー_ー)!!怒られた記憶が(怒られた事ばかり思い出しました)
この前、母が自分のお墓を買ったというのでビックリして「なんで?!高鍋のお墓に入ればいいのに(まだまだ母は元気です(^O^)/)」と言ったら、「高鍋のお墓は昔から岩切家の当主しか入れんのよ!!伯父さんが入るんだから!!(おじもまだまだ元気(^O^)/との事)」と言うので、むむっ!変わった家だな〜?!!と思いました。余談ですが、母はものすごいおっちょこちょいです。代々宮原家・平川家に受け継がれてきた高い鼻が私には受け継がれず・おっちょこちょいなのも母譲り。
実は、岩切家の事について自分で調べようと思ったのですが、何だか亡くなった祖母に申し訳なくて・・(両親が離婚して宮原の祖母が私を母代りになって一生懸命私を育てて、可愛がってくれたので)
何も出てこないかもしれませんが、どうか、ご教示よろしくお願いします。
[8]子孫よりさんからのコメント(2013年09月23日 13時01分41秒 ) パスワード

マタマタコメントしています。(*_*)
あの〜(*_*)皆様に無理難題をお願いしましたが、もし、出て来なければ、大丈夫です。岩切という名前は全国区ではない珍しい名前なので<m(__)m>
父が言った薩摩藩士も???ですし。(*_*)岩切の親戚から聞いたのであれば間違っているかもしれません。薩摩に関係があると言われたのかも・・そこも謎です。もし、出なければ、心の整理をしながら自分で地道に探してみます。
(母に聞いてみようかなっと思うのですが、・・・うう〜ん(*_*))

所で、掃除を済ませ、横たわっていると、また、気になる事が・・・
この前、木花開耶姫のお話をウィキで読んでいる時に、火中出産という言葉が下にあったのですが・・・・
あれは、現代における、”妊娠中に火事をみてはいけない”という言い伝えとは何か関係がありますか?
実は・・・役者をしている息子は右耳全体に黒いあざがあって・・生まれてきた時からあるので本人へ申し訳なくて・・苦しいのは本人だと思いますが・・役者になってドウランであざを塗って隠して・・「あ〜だからこういう道をあの子は選んだのかな」とも思います。(このサイトを息子が見る事はまずないと思うので、書かせて頂きました)
息子を妊娠中に私、リアルタイムで雲仙普賢岳の火砕流の映像を見ていたのです。そしたら義母から「妊娠中にこの火の映像を見たらダメよ」と言われて・・。言い伝えとはいえ、やはり息子には申し訳ないと思っています。
木花開耶姫のお話から脱線してしまいました。すいません。<m(__)m>
[9]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月23日 15時35分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>表示された内容を読んでいた時に狗留孫という言葉が・
 
狗留孫とは仏の名で、過去七仏の第4の仏。賢劫一千仏の最首。
詳細は長阿含第一大本経を参照すれば良い。
しかし、それでは何の疑問も解消出来ません。
クルソンを理解しても、次々と疑問が浮かび上がります。
このような疑問点をインターネットで断片的に追っても混乱するばかりでしょう。
体系的に理解するには、下記書籍の一読をお勧めします。
「古代日本領土の起源」桜井光堂著 (新有堂刊行)
この書籍は桜井博士が法学博士の学位を授与された論文を刊行したもので、多くの古代史ヨタ本とは一線を画する。
とりあえずは大きな図書館で閲覧されると良いでしょう。
  
くるそん山とは連合国家の領域を確定する重要な地名なのです。
「くるそん山」とは古代の複数国家群による連合国家であるかを示す為に、長門くるそん山、周防くるそん山、奈良くるそん山、広島吉和村くるそん山(冠山)、高千穂くるそん山および薩摩黒園山(くるそん山)が置かれ、九州の豊前・豊後と長門からなる国家と中国の周防から石見・出雲に至る国家と、安芸の広島から備後に及ぶ国家や熊曽国などが、共に毛野<ケヌ>(毛人国)と曽野<ソヌ>(麻の部族で和人)との連合国家であることを示しケヌソヌノヤマという語になり後に仏教化されてクルソン山に改称。
 
この事実により日本の古代領土の詳細が解り、巧妙に事実を隠蔽した太安万侶の古事記や邪馬台国のヨタ話から初めて解放される。
上記書籍では、特に周防・長門の神祇統治社会(原始小国家群)の分布構造について詳細に書かれており該当地域の方が読めば驚くこと請け合いである。
[10]子孫よりさんからのコメント(2013年09月23日 16時28分06秒 ) パスワード

ご教示ありがとうございました。
お伺いした書籍、何としても読ませて頂きます。
”くるそん山とは連合国家の領域を確定する重要な地名”
そうなんですね!古代の連合国家!
やはり、古代において、日本には発達した文明をもった連合国家が複数存在していたのですね。
本当に驚きました。日本の苗字七千傑様、本当にありがとうございます。
ただ、なぜ私の頭は、くるそん山に頭痛がする程反応したのか・・・?
もし科学的に証明されるのであれば、もしかしたら、解明が進んでいるDNAの研究において、この頃発見された”記憶のDNA”が関係しているのかと・・。父もよく、どこどこに行ったら、初めて訪れた場所なのに、記憶にあったような感じがしたとか・頭が痛くなったとか言うので、同じです。
以前、父に記憶のDNAの話をしたら、多分それだと思う!と言っていました。私の中にある、様々な先祖のDNAが、関連のある場所に反応しているのかもしれません。でも、豊前・豊後・長門方面には関連ないような・・・
脱線いたしました。申し訳ありません。この件は自分で解決します。<m(__)m>
[11]白石さんからのコメント(2013年09月23日 20時15分00秒 ) パスワード

こんばんは
昨夜 もたもたと書いてるうちに スレッドが変わっていました。

狗留孫
仏様もだけど 古代の領土がからんでいるのですね。

ここで もうひとつ 私の疑問ですが
私は 佐田彦は 道の神様 領土を決めて歩いた と 覚えていました。
いろいろ 神としての性格はあるでしょうが・・・

佐田彦出自から 曽於族に 近い とも思えるのですが
前スレッド80の天津来目命
そして山部赤人の話

山辺赤人を検索したら
神魂尊にいきつく・・・

皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊を守護してきた天津来目命も曽於族なのでは?
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球磨にも白髪岳あたりの狗留孫にいた 熊襲
明治30年代 吉田東吾の地名辞書487では

按に熊襲の詞に二種の別あり。景行紀に熊襲とあるは、一は熊県襲国を連ねて
指せる名なるべく、一は襲をのみさして、熊をば勇猛の形容詞として負わせたる者也。風土記逸文に見ゆる、球磨曽於(字が古い)は厳然として二国を分かち呼べる者と知らる。(大隈の襲国の条に肥人の説あり、参考)
とあります。
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[12]白石さんからのコメント(2013年09月23日 21時27分45秒 ) パスワード

子孫様の宮原は橘氏 平川は良峯氏

私の父の生家 親戚 集落にいる尾方 が 橘紋を使う
父の家の集落の親戚の平川 村誌に 良峯所領とある

などから 親しみを感じて 祖先の話をさせていただいていました。
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球磨郡誌木上村
・平河氏の本拠地
・平河義高の零社が荒田大王で、球磨郡神社記に「昔日当所岩城城主平川右衛門三郎義高霊社なり」とあり、師高の霊社が平川鎮座の大王神社である。

深田村
城主は平川師高とつたえ、師高は寛喜年間相良長頼の攻撃により、断頭坂で自刃したという。屋敷跡地近くに平川師高主従の墓所と伝える五輪石塔群がある。

山田村
元禄12年の球磨郡神社記によれば、山田の大王神社は平河氏の霊社と伝え、・・・萩に萩大明神がある。

永吉庄(鎌倉幕府領)
建久2年 良峯師高所領譲状案(平河文書)に、相伝の私領として、「永吉庄之内」の次の各地を挙げている。
横瀬(現多良木町説あるも疑問)
青山之村(現相良村四浦晴山とする説がある)
目田之村(現免田町)
山田之村(現山江村)
黒田之村(現免田町)
原田之村〔現人吉市〕
深水〔現相良村〕
をうかき(大柿、現人吉市)
平野之村〔現錦町〕
永池之村(現免田町)
中神之村(現人吉市)
渡之村(現球磨村)
目良生之村(現錦町)
深田之村(現深田村)
河辺之村(現相良村)
尾瀬之村(大瀬・現球磨村)
高野瀬之村(現球磨村)
五木之村(現五木村)
田代之村(現相良村)
はしかミ之村(初神・現相良村)

平河氏は 鎌倉時代中期以降、永吉庄の知行権を巡って預所と争うことになるが、預所が大江広元に与えられたのが、建久3年であり、当文書は訴訟に際し、それ以前の平河氏の所領内容を主張すべく、後年作られたものと思われる。

庄の特徴は 球磨川・川辺川・万江川の流域に沿って存在し、開発領主と称する平河氏の性格を考えさせるものがある。

・・・・これらのことから、永吉がかつては三善と呼ばれていたことがわかる。
・・・・平河道照・・・
・・・・軍事的には庄内の山田城が肥後北朝方最大の拠点とされ、・・・

鎌倉殿御領500丁
預かり所因幡太夫判官(すなわち大江広元・毛利広元・中原広元)
永吉300丁
地頭良峯師高子息字平※師貞
紀平次・・・実名知らずとある。
須恵小太郎家基領150丁

300丁は誤りと思われる。

以上 球磨郡誌に 平河のことが書かれているものを 集めてみました。




[13]白石さんからのコメント(2013年09月23日 21時36分59秒 ) パスワード

三善
平河は三善でもある と 解されるのでしょうか?

三善 三好は 南北朝期 神器をめぐって の 話がある。
[14]白石さんからのコメント(2013年09月23日 21時41分23秒 ) パスワード

うちの白石は木上から きている ということです。
同級生宮原が 黒田に改姓していた。母方の苗字らしい。
黒田は 免田だったのですね。

川筋の家は 郡部の人と通婚していた ということを考えると ありうると思います。

 
[15]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月23日 21時49分08秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊を守護してきた天津来目命も曽於族なのでは?
 
違います。
天津来目命は天神族。
曽(曽於)族は隼人族に属する地祇族。
 
また話題にされているサタ(佐太)の本流は倭漢氏族、大隅の佐多は地名から建部氏(称平氏)、秦氏が居る。
その他は伊勢に佐田(称村上源氏および中臣氏)でしょう。

同姓異流もあり学者により異説もあるが、公に認識されている氏族分類を参照されたし(※主要氏族派生図)
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/clan_derivation.htm
[16]白石さんからのコメント(2013年09月23日 23時06分15秒 ) パスワード

ありがとうございます。

感覚的に 私の場合、天神 地祇 というより、佐田彦の祖先伝承 などから 同じという捕らえ方を するようです。

史料の上での 別け方では 別なのですね。
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ヤマトタケルと平河
平河
いろいろ説はあろうけど、ヤマトタケルに関しているものを集めました。7000傑様のように きっちり はっきり 区分けしてというわけにはいきませんが、私の 肌の感覚です。

邇波が丹羽と思える。
又 神八井耳命の筋からもあるようなのだが、豊後清原氏も 清原に中原の言葉がでたように、多氏が からんでいるように 思えるのです。

多氏は中原 十市 などと 同族。
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ネットより
大県神社 - 古今宗教研究所

大荒田命は邇波県君〔にはのあがたのきみ〕の祖で、倭建命〔やまとたけるのみこと〕 三世の孫とされる(『新撰姓氏録』)。
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田県神社と大県神社

田県神社と大県神社. 田県神社と大県神社というところが愛知県の小牧にあります。 田 県神社は男性の神社です。対して大県神社は女性の神社(姫の宮)です。 まずは田県 神社のご神体です。 さて、なにの形でしょう? わからない人はお引き取りください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E7%B8%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE
祭神は御歳神と玉姫神で、五穀豊穣と子宝の神である。社伝によれば、当地は大荒田命の邸の一部で、邸内で五穀豊穣の神である御歳神を祀っていた。玉姫は大荒田命の娘で、夫が亡くなった後に実家に帰り、父を助けて当地を開拓したので、その功を讃えて神として祀られるようになったという。

http://www.tagatajinja.com/pg17.html
御祭神

 御歳神(ミトシノカミ)
 玉姫命(タマヒメノミコト)

 御歳神は素戔嗚尊(スサノオノミコオ)の孫で、大歳神(オオトシノカミ)の子。農業をつかさどる神様で五穀豊穣の守護神です。
 玉姫命は尾張地方開拓の祖神である大荒田命(オオアラタノミコト)の王女。尾張氏の健稲種命(タケイナダネノミコト)の妃。二男四女の子宝に恵まれましたが、夫亡き後は故郷荒田の里(現鎮座地)に帰り、父を助け開拓に励み、子女教育に勉められ、その功績を称え、後に合祀しました。


 また当神社に合祀された玉姫命は、『尾張国熱田太神宮縁記』などの史料によると、爾波縣君祖大荒田命の娘として生まれ、尾張氏の建稲種命と結婚しました。子宝にも恵まれて幸せに暮らしていた夫婦でしたが、建稲種命は日本武尊のお供として出征し、遠江で運悪く戦死してしまいます。一人残された玉姫命でしたが、故郷に戻った後は母親として立派に子供達を育てあげ、民達のお手本として懸命に働き、在地の発展と子孫繁栄を成し遂げたそうです。


日本武尊

尾張に入ると豪族の娘の美夜受比売(みやずひめ:宮簀媛)と出会い,東国の平定後に 結婚すると約束した。 美夜受比売の兄の建稲種命(たけいなだねのみこと)は尾張の 水軍を率いており,副将軍として東国の平定に出かけることとなった。

公卿類別譜丹羽氏系図
良峯朝臣子孫

ウィキより
児玉丹羽氏
起源

良岑氏を本姓としている[1] 
丹羽長秀


藤堂高吉 - Wikipedia

生涯-系譜

丹羽長秀の三男で、羽柴秀長、次いで藤堂高虎の養子となった。
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ヤマトタケルといえば 白鳥が思い出されるが
川辺川筋は良峯氏所領
そこに 白鳥神社があり、白鳥神社は大分などにもあり、ヤマトタケルを祭神としていた。時代がさがるとかわってくるようだが・・・
[17]白石さんからのコメント(2013年09月23日 23時18分03秒 ) パスワード

建稲種命は神宮系図にもついています。
源頼朝を出す南家藤原氏が入り婿する前、尾張氏。

建稲種命をウィキで見てみました。
妃玉姫(丹羽氏の祖大荒田命)とありました。

[18]子孫よりさんからのコメント(2013年09月24日 00時02分00秒 ) パスワード

ご教示ありがとうございます。
白石様、様々な情報、本当にありがとうございます。
頂いた球磨郡誌の内容を見たのですが、私は亡くなった祖母・祖母の兄の平川の伯父(祖母の兄弟は祖母を最後に皆、亡くなっています。)
からは平川義高公の話を聞いていて、平川由来の親戚からも義高公の話が主に出てきて、よく考えると師高公のお話は聞いた事がありません?。祖母が亡くなった後に現平川当主の伯父の所に歴史学者の方がみえ、伯父はその方より色々話を聞いたのですが、以前もお話したように伯父は内容について私の父や親戚にはあまり詳しく伝えてくれていません。ただし兄弟のようにして育った父にだけは「平川(うち)の先祖がとてつもない血筋で自分一人で抱えるのが怖くなった・・」と心内を明かしたとは聞きました。(伯父はこのスレッドの事を知りません・・おじちゃん、ごめんなさい)
伯父は教育者で、実直な方ですし、当主でもあるので、より深刻なのだと思います。私のように第三者の立場で調べていこうとは考えられないのだと思います。
良峯家についてはある程度皆知っているので、他にも何かあるのかな?とこの頃考えていたのですが・・。父からは「私が今度帰ってきたら、伯父と話をしなさい。(私の名)だったらいろいろ話してくれると思うよ」と言っています。
こんな私でも、宮原家を継ぐにあたって、色々考えたり、悩んだりと時には重く感じる事もあったので、幼い頃から当主として育った伯父の心境を考えると・・家を継ぐとは先祖を供養し後世に伝えていく事・・私にとっても非常に難しい課題です。

先祖について改めて考えなおして、やはり決めました。今の自分でも、私の子供・孫(まだいませんが)ひ孫・・・→と私も後の世では先祖となるのですから、自分の中に流れている”記憶のDNA”の解明の為?(^・^)
母方の先祖の事を調べてみます。こういう事は自分で始めるべきですね。
解らない事はどうか皆様ご教示下さい。

[19]子孫よりさんからのコメント(2013年09月24日 01時11分06秒 ) パスワード

このスレッドの最初の目的は、私の球磨の家、宮原家・平川家についてご教示を頂きたく立ち上げたものです。
最初の主旨とは異なりますが、このたび”私自身に流れる先祖の血”についてより理解しようと考え、母方の先祖について調べました。

母方 岩切家

@母の実家 宮崎県高鍋町 
A父からの情報で  岩切家は士族で、薩摩藩士との言葉
B福岡県内にある秋月に散策に出かけた時に、”秋月藩はその後高鍋に移った”との内容を見た事により父の言葉が”薩摩に関係がある”と言われた可能性も考える
この三つを念頭に入れ、ネットで検索を行いウィキにてこのような記述がありました。

岩切氏
”古代より続く有力豪族であり、薩摩隼人の末裔とも言われる日下部氏から派生した氏族のひとつ。日下部氏の系図には血縁から発生した約80の氏族の中のひとつとして「岩切」姓が記述されている。

一説によると、平安時代末頃から土持氏と縁戚関係を強めていた日向国の日下部氏が、戦国時代の黎明期に伊東氏の勢力拡大によって打撃を受け、日向国諸県郡国富荘本郷岩切(現在の宮崎県宮崎市郡司分岩切)へと移り、そこで「岩切」姓に改姓したのが始まりと言われている。”

日本の苗字七千傑 様のサイトにて
日下部氏
開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、但馬国造家の後裔である。 孝徳天皇裔とする系図が多く見られるが、大日本史の説に従う。 越前の戦国大名朝倉氏は、日下部氏の後裔を称する。

日下部氏族の中に岩切氏との言葉がありました。

意を決して、初めて母方、岩切家について調べました。
本当の所を言うと・・・かなり驚いています。
実は・・子供の頃(8歳になったばかりでした)、父と母が離婚して祖母に引き取られた際、寂しくてさみしくていつも泣いていました。宮崎の家まで、祖母と平川の伯父(祖母の兄)が迎えに来てくれて、岡原に一緒にきました。
なんで離婚したのかと・・母を憎んだ事もあります。
平川の伯父はそんな私をとても可愛がってくれました。
祖母には中々聞けなかったので、ある日、平川の伯父に
「どうして、お父さんとお母さんは一緒にいれなくなったの?」と泣きながら聞いた所、伯父は
「お父さんのご先祖様とお母さんのご先祖様の血がそれぞれ強すぎたとよ」
と答えました。私は意味がまったく解らなかったのですが、言われた言葉はしっかりと記憶しています。もう8歳でしたから、その時、大きくなったらきっと解る!と思いました。
ただ、実際に大人になってからは父・母の二人の問題のはずだからあまり触れないでおこうと考えて、伯父の言葉は自分の中に封印してしまっていたのです。
母方の家の事を調べるのは怖かったけど意を決して良かったと思います。
私には平川の伯父と祖母の「昔は昔今は今。ただ、正直に生きていけば良い」の言葉がありますから。


[20]白石さんからのコメント(2013年09月24日 06時21分26秒 ) パスワード

おはようございます。
彼岸ももう終わりですね。

彦座王 からは 丹波道主王など 道 の 一族といえる 人がいて、道一族などが 気にかかるところです。
7000傑様からは 怒られそうですが
前スレッド37
熊本・「高橋東神社天社宮 由緒書きに★道君首名は★大彦命★の後胤と書かれている。」

道氏の系は 日本書紀ではつくれない とか 書いているスレッドをみたことがありますが、女の系に 関わってくる のではないか?

まだ 私は わかっていません。
[21]子孫よりさんからのコメント(2013年09月24日 07時40分46秒 ) パスワード

おはようございます。
まだまだ、勉強不足・理解不足で、母方の日下部氏や開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、但馬国造家という言葉を読んでもすいません<m(__)m>まだピンとこないのが現状です。
ただ、このスレッドで拝見てきたお名前があるような・・
という感じで・・・・まだまだダメです(*_*)
今日は、仕事なので、気持ちを切り替えて頑張ってきます。(^・^)
[22]白石さんからのコメント(2013年09月24日 19時52分00秒 ) パスワード

前スレッド5
達率日羅(葦北国造阿利斯登の子)が送ったとものとされる地蔵菩薩が安置されている。 葦北国造は孝霊天皇の孫三井根子命に始まる皇別の氏族である。

平河が地頭になるのは地縁があるからというところ

日下部氏出自には諸説あるようだけど
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まず 彦坐主王でウィキに検索をかけると ヤマトタケルの子供・仲哀天皇と神功皇后の夫婦の関係の図が出ます。

日子坐王(日下部氏)と三輪氏:イザ!
http://rokujigen.iza.ne.jp/blog/entry/2281906/ より
古代史論議をするつもりはありませんので、コピーしたままのせますね。

日子坐王 (ひこいますのみこ 日本書紀は彦坐王) は、9代開化天皇と 和邇氏 の女性と の間に生まれた皇子です。

日子坐王の子は次の計15人

・和邇氏の姫を娶って生まれた5人

・春日の姫を娶って生まれた4人

・山代の姫を娶って生まれた3人

・近江の天御影神の娘を娶って生まれた3人
和邇(わに)氏は5代天皇の皇族と記していますが(日本書紀)、『旧事紀』『新撰姓氏録』『粟鹿大明神元記』は三輪氏の同族としています。

春日の春日臣は和邇氏の同族です。

山代には三輪氏同族の賀茂氏の勢力がありました。
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まるこちゃんが 本物の春日です。としていました。上では 和邇氏 三輪氏 春日 三輪氏同族の賀茂氏
皆 つながる と しています。
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子孫様の 父母 どちらの系から 高い鼻 大きなお目目 は きたのか 私には?ですが
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日下部氏 - nifty
また、大屋田根子命の兄に、吉備氏系の日奉部氏★(火葦北国造家)★の祖の三井根子命 がおり、(※ここで 芦北国造が出る。)同じ「日」を奉斎するという意味からも、「部」という名からも、天皇家と同等の家 に奉仕する部曲かと思われる。 また、但馬国造の日下部君の祖但馬国造の日下部君の祖とされるのは、沙穂彦・沙穂姫の異母弟、山代之筒木真若王の子で、船穂足尼(ふなほ?のすくね)。その甥っ子の息長宿禰王の娘が、仲哀天皇の皇后・息長帯比売(神功皇后)である。但馬というのは、神功皇后の母方の祖先、天之日矛を祀る出石神社(兵庫県出石郡)があり、興味深い。
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平河は 桓武天皇の頃から 天皇家にからまるのではなくて その先があったのですね。
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そして 
岩切家も
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と 私は思います。
どこか 勘違いをしていて またまた 7000傑様にしかられそうですが・・・
[23]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月24日 21時05分06秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

岩切氏は、日向日下部氏族(隼人族日下部氏)で日子坐王裔の日下部氏とは家系的なつながりは一切ありませんので勘違いをしないように。
 
日下部とは仁徳天皇と髪長媛との間に生まれた大草香皇子(大日下王)と幡梭皇女(若日下王)の両日下王の御名代部で五畿内を始め六十余州に置かれた。
当然、日向に於いても、隼人族の中から日下部(いわゆる部民)が構成された。
髪長媛は日向国造諸県君牛諸井の女。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01236.htm
 
大化の改新(646年)により部民制が廃止されて、御名代部などの部民は部を取り日下を称した者が多いが、諸国の日下部を統括したリーダーである日子坐王裔の日下部氏が有名だから、日下部を継続して名乗ったり家系を仮冒したむきも多い。
[24]子孫よりさんからのコメント(2013年09月24日 21時28分22秒 ) パスワード

ご教示ありがとうございます。
今日はとても暑かったですね。皆様お体大丈夫ですか?
母に今回岩切家を調べた事を話しました。
ところが、この母さほど驚いた風でなく「あ〜そうか。詳しくは解らないけど何となく知ってた(^・^)。お墓憶えてる?当主しか入れないお墓とは別に大きな石に仏像が刻まれたお墓があったでしょう。あのお墓は、古い古〜いお姫様のお墓よ!!(^・^)あっそれからアサクラという名前わかる?アサクラという名前はお母さん小さい頃からよく聞いていた(^・^)アサクラさんはどなた?」と・・・トホホ アサクラさん→朝倉→??何で母はこの名前を・・??
世の中の人より数倍おっとりしていて、おっちょこちょい。でも、急に正義感に燃えて怒りだしたり・・すぐ冷める。交流が深まったのはこの6年程ですが、現代の侍!!のような父(武道の達人?!)とこの母。熱烈な恋愛結婚だったのは知ってますが何が二人を引きつけ合ったのか・・・((+_+))??
でも、この母宮崎県内の超有名進学校を卒業しているのです・・・?????
母の生家は高鍋の蚊口という変わった地名にあります。
ネットで調べたら”日向国児湯郡嘉口”とあり、お墓の近くには高鍋鵜戸神社があります。百済の福智王がこの蚊口に上陸されたとの記述もありました。
私はこの地名がとても気になります。例の感だと思います。
何だか似たお名前でカグツチと・・”カグツチとは、記紀神話における火の神”とあって・・キーワードは”かぐち”のような・・すいません又感で物を言ってしまいました。
[25]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月24日 21時39分02秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>同じ「日」を奉斎するという意味からも、「部」という名からも、天皇家と同等の家 に奉仕する部曲かと思われる。
 
日奉部(日祀部)を一緒くたにしてはいけませんよ。
日祀部とは天照大神を祀る為に設けた品部。(敏達紀を参照のこと)
[26]白石さんからのコメント(2013年09月24日 22時11分40秒 ) パスワード

神功皇后が出たので 又 前スレッド51蔵作※鞍作=林臣=蘇我氏 53武内宿禰 99安陪 磐井 大彦命 そして 祖先がきょうだいから分かれて出るのが、武内宿禰。

少し 脱線ですが、応神天皇は 武内宿禰の子供 ということを 示唆している本が 黒岩重伍の「女龍王神功皇后」にあります。

氏は 巻末の談で 「本当です。」と 言っておられました。

武内宿禰は孝元天皇にはじまる。
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前スレッド24久留米 高良大社
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http://www.geocities.jp/shoki_otoku/fudoki.html より
九州におけるヤマトタケル経路途中の久留米市にある筑後一の宮の高良大社(こう ら たいしゃ)に見出せる。ここに武内宿禰が別名高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)として祭られている。

高良大社の表向きの由緒からは武内宿禰の名が消えている。

なぜ、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)が武内宿禰と分かるのか。簡単なことである。高良大社を勧請(かんじょう)した近隣数十ヶ所の高良神社(高良玉垂神社とか玉垂命神社としている社もある)の方では、いずれも高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)に代わって、武内宿禰が祭神となっているからだ。また、同じく高良坂本なる社が近隣二ヶ所にあるが、祭神はそれぞれ、武内宿禰の子の若子宿禰とヌノイロ姫(『古事記』によれば応神天皇妃)である。

高良大社も現地調査をしてみれば、高良大社(こう ら たいしゃ)奥宮(奥の院)の説明をした高良大社社務所の掲示板に、「古くは『高良廟(びょう)』『御神廟』と称し、高良の神である武内宿禰の葬所と伝えられていた」と由緒正しく残されている。

山口県玖珂郡錦町大字広瀬にある広瀬八幡宮は大同二年(807)豊前宇佐八幡宮よりの勧請で由緒ある神社であるが。境内に高良社があり武内宿禰が祭られている。
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日本の苗字7000傑紀氏

紀氏族綱要へ

武内宿禰

紀氏へ

豫姫と施基皇子
越智氏

孝霊天皇・・・三井根子命

越智氏

伊予橘氏
つながりつながっているのですね。
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蘇我氏(石川氏)自体はその血を引いていた天武天皇の皇統断絶等もあって、姿を消す事となった為、女系ながらも彼女が藤原氏を通して、その血統を現在まで伝える事となった。
なお彼女の他に蘇我氏の血を残したのは、時代を遡り蘇我稲目の娘である蘇我堅塩媛のみである。その系統は蘇我堅塩媛―桜井皇子―吉備姫王―皇極天皇―天智天皇…今上天皇となる。
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蘇我娼(温)子は 南家武智麻呂の母 つまり 相良氏の祖先



[27]白石さんからのコメント(2013年09月24日 22時29分46秒 ) パスワード

海幸のほうでしたか。^^
それとも 海幸と 薩摩隼人は つながらない?
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いまひとつ
木花咲夜比売の火中出産
南方系の 出産時 出産後 火で身体を温めると 産後の回復が早くなる という話を 読んだことがありますが、関係ありますか?

イギリスの 女王の母も出産時 身体を温めた と 本ですが、読んだことがありますが。

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と ここで
血液クレンジングなる ネットが出ました。
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温めると血の巡りがよくなることは確かですよね。
[28]白石さんからのコメント(2013年09月25日 00時06分16秒 ) パスワード

平河義高は錦町にありました。
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/iwanjou.html
岩城と窪田越後(いわんじょうとくぼたえちご) 錦町 - 熊本県庁

平河氏は、桓武天皇の皇子である良峯(よしみね)親王を祖とし、良峯安則の代に、山本 郡を経由して、球磨郡木枝(木上)平河に居住し、平河姓を名乗ります。城主の平河右 衛門三郎義高が相良長頼(注1)に討たれて自害した後は、地頭の ・・・
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今日は いっぱい書きすぎたような^^!
無駄話が多かったような気も・・・

おやすみなさい。
[29]子孫よりさんからのコメント(2013年09月25日 06時37分17秒 ) パスワード

おはようございます。
今日も4:30起きの・・早起きです(^・^)
沢山のご教示ありがとうございます。
実は、昨日、仕事中から、なんだろう身体じゅうが(筋肉?)めちゃくちゃ痛くて(全く運動はしていません(*_*))頭も痛かったので、夕食後、「今日も、いっぱい勉強するぞ〜!!」と意気込んでいたのですが、10:00前にダウンしてしまいました。
皆様がご教示して下さっているのにすいません<m(__)m>
風邪かな?とは思うのですが、もしかしたら・・私の様々な”先祖の記憶のDNA”が一斉に目を覚まし?(ワサワサゴソゴソ)体内で自己主張をしていたのかも・・・\(◎o◎)/!なぜなら・・!!白石様のご教示の中で平河氏のコメントを見ていたら、身体が痛いのがスーッと取れてきました。
どうも、この方が、チームのリーダー??取り仕切っていられるような?「皆の者静かにせい!!(-_-)/~~~ピシー!ピシー!と・・・脱線しました<m(__)m>
本題に戻ります<m(__)m>
岩城と窪田越後(いわんじょうとくぼたえちご) 錦町 - 熊本県庁
恥ずかしながらこちらのサイト、見た事が無かったような・・
熊本県庁? そういえば、平川の伯父の所に来られた方は”熊本県より依頼を受けて・・”と聞いた記憶が・・・
あの〜県庁の人で思い出したのですが・・・・これを言ってはダメなのかも・・その方から伯父は「代々伝わる刀(太刀?)が無かったですか?」と聞かれたそうで・・
家宝の刀はあったのですが、戦時中に平川の伯父が朝鮮(今の韓国)のどなたかにさしあげたと・・この話は親戚一同みんな知っています。私も祖母から聞きました。その方は「国宝級の刀だったのですよ!!」と落胆されたそうで・・。以前、父にその刀はなに?と聞いたら「伯父さん以外誰も見た事ないけどドウダヌキと聞いてるよ」と、ドウダヌキ??と思い調べた所、熊本県の名刀という事で・・・
でも結構沢山あると思うのですよねドウダヌキ・・?国宝級の刀って言われるのかな??
その刀以外に絵巻物があったそうで・・とても立派な着物を着た女の人が赤ちゃんを抱いていて、周りに女官の方々が沢山描かれていたと・・この絵巻物は平川の叔母(祖母の兄・平川の伯父の奥さん)は見た事があると聞きました。
何でも火事にあって焼失したそうです。(*_*)残念 見たかった・・
うん?でも、平川の伯父は何をしにわざわざ、戦時中、韓国に行ったのかな??
思い出したら気になる事がいっぱい出てきたので・・
ふと、平川の伯父は何かを解放?したかったのかもと思いました。何かの重責? ああいかんいかん(ー_ー)!!いつもの例の変な感がウズウズと・・・
他の親戚には、この変な感はまったくありません。父と私そして私の息子だけ・・この頃、何かの力が私のハードディスクの中に”失われた記憶を取り戻そうとしているような”気がして・・・・
あ〜皆様の またまた(ー_ー)!!という声が聞こえてきました。
すいません。<m(__)m>



[30]白石さんからのコメント(2013年09月25日 13時56分12秒 ) パスワード

岩城と窪田越後(いわんじょうとくぼたえちご) 錦町 - 熊本県庁
岩城(いわんじょう)は木上城(きのえじょう)ともいわれ
木上でもあるのですね。うっかり 読み過ごしていました。
うちの 白石の祖父は 木上からきたみたいです。前スレッドにも書きましたけど。
そして うちの 平川の当代の嫁は 一武から来ています。この世代は一度都会に出ているので、古くからの濃いつながりかどうかはわかりませんが、見合いと聞いています。長男である当主は早くになくなり、二男が横浜で警察に勤めているそうです。
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良峯安則の代に、山本郡を経由して・・・
山本の言葉が目を引きました。
何でもかんでも 気になる?^^

私の母の実父は 山本です。
父方の川向、平家城跡があったところにも 山本がありました。

そして、
前スレッドにも書きましたが、景家の子孫のことも知りたいと思っています。
平景家がついている系図に 山木があり、しかし、ネット検索で 山木にやまもととふりがあるのをみて、近くにいたみたいと思っています。
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そして、景清姫。景清のおじが 景家なのですね。。
宮原家が 足利の方からも苗字が出たことは 前スレッドで書きましたが、

景清の系はhttp://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100381_24.html
伊藤氏(伊東)みたいで、相良氏の同族ですね。

そして 足利尊氏と関係ない足利氏がいて 藤原秀郷が先祖というのも目を引きました。
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http://www.kanko-miyazaki.jp/kaido/50story/densetsu/040/
平景清は宮崎に消息があってネットのとおり

景清姫は人丸でしょうか?
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姫についてきたとかして 景家の男子または女子がいなかったのかしら ?ときになるところです。

[31]子孫よりさんからのコメント(2013年09月25日 23時15分57秒 ) パスワード

ご教示ありがとうございます。
コメント遅くなりましてすいません。<m(__)m>
仕事でガタガタしていたもので・・
山本郡とは、肥後の時代に存在した郡で、今の熊本市北部や植木町・鹿央町近辺のようです。そして、山鹿郡と合併して鹿本郡となったようです。
そして・・弟の病院は今は合志市ですが、合併前は西合志町。須屋黒石原という地名なのですが・・ここもほとんど山本郡に含まれるようで・・やっぱり縁ですね・びっくりしました。弟は、先祖にやはり見守られていると思います。

ちなみに地元に伝わる景清姫のお話ですが、父上の消息を探しに、縁のある岡原に来られた時の事です。蕎麦畑で突然黒猫が飛び出してきて、姫は驚いて転んでしまい、蕎麦の穂で目をついてしまわれたそうです。目が見えなくなっては父上の顔がもう解らないと落胆された姫は、お持ちだった自分が景清姫だと示す旗を切り裂いてしまったそうです。その後、その話を聞かれた平景清公が、姫を悼まれて、宮崎に目の神様である生目神社を作られた・・・と子供の頃に聞きました。ちなみに親戚の家(黒木家)の集落を切旗といいます。切旗では黒猫を飼ってはいけない・蕎麦は栽培してはいけない といった言い伝えが今もあります。
所で・・!平景清公は宮崎に向かわれる前に多分岡原に滞在されていたのだと思います。だって、クワガタの事を、岡原ではカゲキヨと呼ぶのです。
数年前、父に「日本全国でクワガタをカゲキヨと呼ぶのはこの辺だけだよね?」と聞いた所・・クワガタの角が景清公の立派な兜に似ていたからそう呼ぶ様になった。この辺の昔の子供は皆意味を知ってたよ!と言っていました。
<m(__)m>


[32]白石さんからのコメント(2013年09月26日 05時00分17秒 ) パスワード

おはようございます。朝から風が吹き荒れています。

山本郡のこと
景清姫・景清にまつわる話 初めてばかりです。
本当に驚きです。

黒木という家も隣の 村では 中心地だった 集落にありました。
うちとは 姻戚関係はありませんが・・
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山口の方の景清祠の案内では 「大庭景清」と なっていますね。
呼び名がいろいろあるようですね。
子孫様のコメントを読んで、いろいろ検索したら 上のことなど ネットで見つけることが出来ました。
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景清公がなくなられた後、窪田越後という人が治めるようになり、のち 一武にうつるのですが、

次のネットを見て驚きました。全文はこちら↓
http://www.kumamoto-shinsei.jp/shrine-map/modules/gnavi/index.php?lid=174
熊本県神道青年会 - 加茂神社
木上の地頭、藤原長善( 窪田越後)が指揮して神社の再興をした。それから19年後の永禄9年(1566)11月20日 に第18代藩主相良義陽公の願いによって竹田彦三郎(平 重昌)の指揮で拝殿が造り 替え
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竹田が 平だと・・・

うちの平川の当代の嫁は一武から来ている。
いろいろ考えるのに
私のふるさとの方は 平家城跡の上に 相良の外城の遺構がかさなっているようだ といい、相良氏の治世がながかったので、

または 最初から 相良氏と仲がよかったので、

うちの 姻戚関係にも 相良氏子孫がつかった 苗字があります。
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一武には 丸目蔵人も晩年住んだ? 
丸目姓も 父の生家の姻戚関係にあり、川向にあります。

嫁の実家の苗字は知りません。
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藤原長善( 窪田越後)
と 彼は 藤原姓です。系は どこに あるのでしょうね。
木上の地頭をしていたのだから 系図は あるはずですよね。

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藤原長善と藤原景家のつながり で検索をかけると 
鵜殿氏 - Wikipedia

鵜殿氏

起源-鳥取池田家家老・鵜殿氏-旗本・鵜殿氏-系図

本姓は藤原氏、藤原実方の子孫と称している。諸説あるが、『鳥取藩史』の着座家伝に よれば紀伊熊野の別当・湛増の子・某が新宮鵜殿村に住したことから、鵜殿姓を名乗っ たという。 その後、三河国宝飯郡蒲郡(西郡)に移ると、鵜殿長善の子・鵜殿長将(上

というのが 出ました。
相良氏も藤原氏で 岡山池田氏とは 養子関係 ということから つながりが ありそうな 気もしますが・・・
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あまり 手を広げても まだ 知識がないので とは 思って も いますが、どなたか 窪田越後の 系を ご存知の方は おられないでしょうか?
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そして
竹田彦三郎(平 重昌)です。

うちの 家の川筋(川辺川)を のぼると 野原というところがあって、そこから 宮原さんが 来ていました。前スレッドにも 書きましたが・・・

竹田さんも いました。
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そして 
この人の目が 大きくて まつげが長くて 顔の輪郭は 女性なので まろやかでしたが、

やはり ご子息の イメージに 近いのです。というか おじょうさんの顔ですね。

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私の故郷には 川辺川があり、川辺姓も 父の生家の姻戚関係にあるのですが

竹田には 
竹田川辺の 言葉があり
川辺には
薩摩 坊津あたりが 平家の本拠地で
このあたりを 川辺と いったと 本で見たことがあります。

坊津 - Wikipedia
坊津(ぼうのつ)は、薩摩国川辺郡坊津(現在の鹿児島県 南さつま市坊津町坊)
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日本での仏教黎明期の538年に百済に仕えていた日本人の日羅が、龍厳寺(後の一乗院)を建てる。と 個々にも 日羅がでてきます。
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伊勢にも竹田さんはあるようです。

なんだか どんどん どんどん ひろがって きますね。
往古 大きな勢力を持った人達ですから 当然ですが・・・

とりとめない 話で すみません。






[33]子孫よりさんからのコメント(2013年09月26日 06時32分34秒 ) パスワード

おはようございます。
こちらは静かな朝です。(^・^)
日本国内の全く別の場所にいる白石様と、私。
お会いした事もないのに、こうやって、お話をする事が出来る。
やっぱり、何かの縁ですよね。(^・^)
ところで、白石様の今朝のコメントで私が触れていなかった、(何でだろう(*_*))とても大事な事に気づきました。
岡原の(旧宮原村)の実家のある集落を侍村(まちむら)と呼びます。★地名ではありません。なぜかそう呼ぶのです。
そして、ご近所さんの名前は 窪田(3軒)・久保本・平川(遠い親戚と聞いています)楢木・斎藤・星原・皆越・・・そして集落の少し離れた所に平川家。私が子供の頃は平川の家の周囲は樫の木で覆われ、外から敷地内が見えないようになっていました。(神社みたい?)
集落の家々の名前が何処かで聞いた事のある、武士の名前のような・・・
そして、皆様とても結束しているのです。この侍村(まちむら)の川(井口川)を挟んで反対側が岡本。
ううん??例の感が鳥肌まで立てて・・この集落、何かの意図を持って作られているような気がしてきました。
そして、どの家のかたも平川をなぜか「みなみ」と呼ぶのです。例えば平川さんのばあちゃんが・・というのではなく”みなみ”のばあちゃんが・・・のように。
ちなみに、平川家を”みなみ”と呼ぶのはここだけではありません。
高校の友達の家に初めて行った時(湯前)、友達のお母さんから「え〜っ?!岡原の宮原さんね〜!!おばあちゃんは”みなみ”から来られとるとやろー!!」って言われて、なんで家の家庭事情を初めて行った家の人から言われたのだろう?と・・そして平川の家を”みなみ”と・・・
(この友達の家も、もと士族と聞いています。)
この時から、”みなみ”は東西南北の南じゃあないなー!!と思うようになりました。
よく考えたら、このスレッドの最初にあげた 平川=みなみ??の謎が解明されていませんでした。多分、そうとう昔から平川家は”みなみ”と呼ばれているのだと思います。
ううん??先祖に”みなみ”という人がいたのかな??
不思議はまだまだ続くようです。<m(__)m>

[34]白石さんからのコメント(2013年09月26日 19時40分00秒 ) パスワード

謎が謎をよびますねえ。
集落にある苗字は 平川以外 私の方には ありません。

侍村
これも おもしろい ですねえ。
検索してみたら 岩手県にありました。同じ呼び名をするかどうかは わかりませんが・・・

良峯氏は 秋田城司でもあったと 書いた本をみたことがあります。
そして 橘薩摩氏(渋江)も 東北にいたと・・・
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平川家のみなみ
みなみ という 言葉だけをとりあげれば 相良氏遠祖・武智麻呂の屋敷が北家・房前邸に対し、南にあったので、みなみ と いったということがあります。
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藤原南夫人 とは - コトバンク

748 奈良時代,南家藤原武智麻呂(むちまろ)の娘。 母の名は不明。聖武天皇の夫人の ひとり。仏教信仰にあつく,自邸に経師をまねいて経文の書写をおこなったり,家地を 東大寺に寄進したりした。天平(てんぴょう)9年 ... 藤原南夫人 【ふじわらみなみのぶにん 】
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須恵村には
1935年 - 1936年 - 文化人類学者ジョン.F.エンブリー (1908年 - 1950年) によって調査され、日本の農村として 紹介された。

野原にも 誰だったか 調査が入った。
私が子供の頃 飛行船が川沿いに登っていくのを、家の前の柿ノ木の間から見ていました。なにせ、まだまだ 夜は 電気をおおっていた ような頃なので、不気味でしたが、子供の好奇心でじっと見ていると、向こうも中から何人かこちらを見ていました。多分 それだったのでは・・・
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熊本県の地名 日本歴史地名体系 平凡社
野原遺跡
川辺川の上流野原の薬師堂近くを、昭和40年開田中に発見された。
縄文時代早期、前期、中期の山形、楕円押型文土器、曾(字が違うかも)畑式、阿高式、南福寺式の各期の土器とともに、石器では磨石、石皿、石斧、石鏃などが発見された。
当遺跡の上流8キロの五木村頭地に下手遺跡があり、両遺跡の出土品の多くは類似している。山間部における河川を介した文化交流を考える上でも重要な遺跡と言える。
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球磨に過去 調査が入ったということですが、
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[35]子孫よりさんからのコメント(2013年09月26日 21時35分43秒 ) パスワード

こんばんは(^・^)ご教示ありがとうございます。
私なりにネットで”みなみ”をキーワードで検索してみたのですがさっぱり・・??
意味なく時間ばかり過ぎたので、違う方向からと考えて、平川・宮原の共通点は?あっ!妙見信仰??と早速検索。
ウィキ(手っ取り早く)のページを見ていたら星宮神社とあり・・
うん?星宮・・星原・宮原?まあ妙見信仰にはよくある名前の組み合わせですがクリックしてみると
”星宮神社(ほしのみやじんじゃ)は、岐阜県郡上市美並町高砂にある神社”
とあり・・星と宮と美並??美並=みなみ あ〜このパターンもあるのかと思い、もう一度、良峯・美並と検索したところ良峯家の家系に美並のお名前がありました。でもこの方は丹羽家で美並公。でも丹羽は#丹羽郡(にわぐん)は、愛知県西北部に位置する”とあり、やはり関係ないような・・・
やはり東西南北の”みなみ”なのかな??
まだまだ謎です。
[36]白石さんからのコメント(2013年09月26日 22時27分16秒 ) パスワード

春日井郡
私のおば いとこが住んでいるところです。
出身は山口県ですが、あちらに住み着きました。なので こちらから の 話ではないのですが、

ここから 岐阜は 余り 遠いとは感じないようです。
お寺も 岐阜に持ち、恵那峡へは 遊びに行っていました。
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星の宮神社で 検索をかけたら 栃木の方が出てきました。
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そして 次のような言葉が読み取れます。
※飛鳥井(飛鳥部とはちがう。藤原氏。どうなのかしら?なんらかのつながりがあるのかしら?) 
※磐裂神、根裂神 経津主神 天御中主大神 肥後国八代郡八代の神社 常陸大掾平貞盛
※※伊勢平氏へ 子孫 清盛が関与してくる。
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これから考えると 前スレッドで 平時子が星祭をしたことも うなづけるかも?
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栃木県神社庁http://kir579053.kir.jp/jinjyacyo/?p=534
星宮神社

(ほしのみやじんじゃ)

星々を祓い清めて明日を開く
人々の背負う星々(一生)をお守りする当神社は、藤原鎌足公十代の後裔飛鳥井刑部卿が開拓司として当地に居住し、大同2年4月10日に、地方鎮守の神様として磐裂神、根裂神をお祀りしたのが始まりとされます。
一説には、康和元年上皇の命によりこの地に社を祀ると有るが定かではありません。
後に当地に城を築いた児山三郎左ヱ門公が、香取神宮より経津主神を勧請し守護神とされ、御神徳は武運・開運・厄除・学問、そして窮地を救うと言う、まさに一生をお守りする神社です。
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http://www.city.ryugasaki.ibaraki.jp/hisinomiyajinnjya

星宮神社=ほしのみやじんじゃ(若柴町)

北極星や北斗七星も登場するロマンあふれる由来


hosinomiya1.jpg


hosinomiya2.jpg

若柴町の金龍寺の近くに星宮神社はあります。星宮というロマンチックな名にはこんな由来があります。

「この社の祭神天御中主大神は、天地が創造されたときに、最初に高天原に現れた造化三神の元首で、高天原即ち天の真中に座し、神徳あまねく、宇宙主宰、無始無終、全知全能の創造主である。天の真中とは北斗七星(北極星)と考えられ、星宮神社の所以である。延長2年(924)、肥後国八代郡八代の神社から分霊勧請して祀った」(社伝)。

また、「常陸大掾平貞盛が、この神の信仰厚く、天慶4年(880)に社伝拝殿を建立し、寄進した」とも伝えられています。現在の社殿は、江戸時代に全氏子によって再建され、平成元年に社殿の修理、拝殿の改築がなされています。
[37]子孫よりさんからのコメント(2013年09月26日 23時19分36秒 ) パスワード

あれれっ??
最後に出てきた肥後国八代郡八代の神社とは以前伺った、八代妙見神社の事でしょうか?
遠く離れた地域でも、無関係ではないとの暗示かな?
ご教示ありがとうございました。<m(__)m>
[38]白石さんからのコメント(2013年09月26日 23時48分38秒 ) パスワード

そして もうひとつ 百済永継から 前に 7000傑様から教えていただいた河内   みなみ という 言葉からは はずれるけど かつち


以下に出る言葉で
※仁明天皇 河内飛鳥 経津主命 隼人石
前スレッドに出た
善峯寺に関与する 僧正「遍照」の俗名は「良峯宗貞」、
父は桓武天皇の皇子大納言安世(良峯氏)であり、仁明天皇とは従兄弟になり寵愛を受けていた。
百済永継は藤原永継ともいう。

※河内飛鳥
近つ飛鳥 遠つ飛鳥についてはウィキの飛鳥をみてください。
飛鳥とは 百済の言葉で安住を意味するという。

※ 経津主命と 石上神宮の布津の御霊は関係があるのかしら?
※ 経津主神の出自の一説にはイザナギが★カグツチ★の首を取った十握剣(とつか のつるぎ)から流れ落ちた血から生まれた神がいわさく ねさくで その両神の間の子という。 
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ja.wikipedia.org/wiki/藤原内麻呂 - キャッシュ
[藤原永継] gooブログ検索結果

次の文は 藤原永継とかかれてあることと、文徳天皇だけ見る。表題しか出ない。

http://blog.search.goo.ne.jp/search_goo/result/?MT=%C6%A3%B8%B6%B1%CA%B7%D1  杜本神社 もりもとじんじゃ

2013年8月5日 - 平安初期には百済宿袮永継 とその祖先の飛鳥戸氏を祀る神社であったようです。 藤原 永継の子・冬嗣は、娘の順子と仁明天皇との間にもうけた文徳天皇が即位すると 、 外祖父として宮廷の実権を握ります。 そして、永継とその祖先神をまつっていた。・・・
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E7%A4%BE

羽曳野市

杜本神社

羽曳野市の杜本神社-祭神-歴史-施設

杜本神社(もりもとじんじゃ)は、大阪府(旧河内国)にある神社である。式内社(名神大社 )であるが、延喜式神名帳に記載される「河内国安宿郡 杜本神社二座」の論社は羽曳野 市と柏原市にそれぞれ1社ずつある。羽曳野市の杜本神社の方が有力な論社とされる。
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杜本神社 - 羽曳野市

駒ヶ谷駅から東に約10分程歩いた宮山頂上付近にある神社です。現在の祭神は、経津主命(ふつぬしのみこと)・経津主姫命(ふつぬしのひめのみこと)とされていますが、平安初期には百済宿袮永継(くだらのすくねながつぐ)とその祖先の飛鳥戸氏(あすかべし)を祀(まつ)る神社であったようです。
人身獣面の隼人石などが残されています。
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ふつぬし と ヤマトタケル は 関係あるかしらと 思って
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE
葛西神社もみました。
なんなんでしょ??
徳川家康尊?
家康も平氏だったというけど・・・神社の祭神は ゆかりの方を祀ると言うけど・・・
またまた 不思議の世界が広がりました。
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どんぴしゃ みなみ って でなくてごめんなさいね。
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今日も 不思議 不思議 と ながくなりました。
頭を冷やして 明日 考えてみます。
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でも 布津が出たら 岩切の 海幸?(薩摩隼人)にも ひょろひょろと たどりつくかも・・・市房神宮では 海幸は 天火明としています。

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この人のことは 諸説ふんぷんですが、昔にたどり着くのには 避けて通れない人です。


[39]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月26日 23時50分04秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

子孫さん へ
 
「みなみ」で悩まれているようですね。
またまた与太話にも惑わされていますね。
現在球磨地域には「平川姓」しか見当たりませんが「平河姓」が併存。
良峰依高の子に深田太郎盛高、山田次郎遠高、平河三郎師高、横瀬四郎高実。
平河三郎師高は永吉庄の領主となり北朝方に属したが、後に相良氏に属した。
 
一方、相良氏は惣領家は上相良氏で南朝方、下相良氏が北朝方で抗争。
次第に下相良氏が主導権を握り上相良氏が滅亡、下相良氏が惣領家となり相良氏は北朝方となる。
さらに南朝方の名和顕忠を追って八代地域に進出したが、秀吉時代に球磨郡のみ所領安堵。
恐らく平川(平河)氏も南北に別れて抗争、平川氏は南朝方だったので「みなみ」と呼ばれたのでしょう。
他に在地土豪の芦北衆に南氏あり。
[40]白石さんからのコメント(2013年09月27日 05時15分29秒 ) パスワード

おはようございます。今日は涼しいをとおりこして、朝方はひんやりしています。
>肥後国八代郡八代の神社とは以前伺った、八代妙見神社の事でしょうか?
ごめんなさい。わかりません。ネットであれこれ検索していたらでてきたのですが、

でも 子孫様の元夫の方の 神社も八代の方でしたよね。
八代というところ が なにか つながっているのかしら?

北極星は 船乗りに関する 星ですよね。

海幸
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山幸と海幸は きょうだい
記紀に 山幸に負ける海幸がかかれるけど、山幸に匹敵する力を持った人と言う見方も出来る。
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7000傑様おはようございます。^^
なるほど と すっきりです。

私の方の 平川は みなみ と いっていないので、子孫様の方が より 南朝方の色合いが 濃いのでしょうね。
昔のことなので、一概に 言えませんでしょうが・・・
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むしろ 私は うちの 平川が 林のことを 「屋敷」と言っていたことが 気になります。敷地が大きいから そういった ということと 違って

子孫様のところのように 何かがあって そういっていたような・・・

林は 相良氏のおじ にいた。
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[41]子孫よりさんからのコメント(2013年09月27日 07時13分52秒 ) パスワード

おはようございます。
皆様ご教示ありがとうございます。
そうか!南北朝時代が関係していたのですね\(◎o◎)/!
”みなみ”の謎が解けました。日本の苗字七千傑様、ありがとうございます。

やっぱり、私は平和ボケをしていました。
私の頭の中では平川義高公の時代では争いがあったけど、その後は今まで平和にの〜んびり先祖は過ごしてこられた(めでたしめでたし・・・)と思っていました。  (ー_ー)!!これが間違いのもとだったわけです。!(*_*)
平川家内部でも、南北朝の戦いにおいて、わかれて戦ったのですね。(*_*)
よく考えてみると、平川の親戚(平川という名字です)は、久米・多良木・湯前にあって・・・私が知らないだけかもしれませんが、上球磨に集中しています。そしてこの平川グループ?の中心は祖母の実家の平川家。
そういう事か!!うう〜ん(*_*) 悲しいな・・その時代では仕方がない事で、今の自分にはわからないのかもしれないけど(*_*)  でも!!\(^o^)/
私と白石様がお知り合いになれたのですから!北朝方平川(勝手に決めてはいけませんね)と南朝方平川はこのスレッドにおいてやっと一つになれました。
だって、平川義高公が望まれたのは、子孫の安泰!です。私が”みなみ”にこだわったのも、ちゃんと理由があったのかも知れません。

ところで・・白石様。氷川の妙見・宮原三宮と八代妙見神社に関係していたのは私めの宮原家でございます。(*_*) 元夫ではございませぬ(*_*)
あれやこれやと○○家が出てくるので混乱しますよね。すいません<m(__)m>

あの・・脱線しますが。妙見信仰という事を今まで何も理解せずに過ごしてきた私ですが、なぜか、子供の頃からお星様を見るのが大好きで首が痛くなるまで見ていました。北九州に来てからは工場地帯なので、星があまり見えなくて。昔、花火大会に行った時(この花火大会小倉市街地のど真ん中で行われます)、打ち上げの前に夜空に星が一つだけ見えたので「あっ!!星が出てる(^・^)」と言ったら、それを聞いた他の群衆が一斉に上を見上げて・・
口の悪い近くにいた知らないお姉ちゃん(−−〆)から「なん?星?花火じゃなくて星を見にきたん?!」と言われました(*_*)
あっ!!時間! 仕事に行ってきます。<m(__)m>

[42]子孫よりさんからのコメント(2013年09月27日 17時05分22秒 ) パスワード

皆様こんにちは(^・^)
なぜ、?こんなに早くに平日コメントできるのかって?ですか?
咳がこの頃よく出ていて、前にもコメントしたように身体が痛くて(特に背中)数日前から頭痛もあり・・今日仕事場で「ゲッホゴホゴ!!」とあまりにひどいので(マスクしていました)上司から「その咳はおかしい!!早く病院に行きなさい(-_-)/~~~ピシー!ピシー!」と言われ早退して、病院に行ったら
”マイコプラズマ性の気管支炎”でした。\(◎o◎)/!
気がつかなかったー(*_*)てっきりアレルギーと思っていました。身体はきつかったけど、先祖のDNAが騒いでいるのかと思っていました〜(ー_ー)!!
クラリスロマイシンという薬を飲んでぐっすりと寝たら熱が35度8分まで下がって身体が痛いのが取れていました〜(@_@)
普通はここまでなると気付くらしいのですが・・アレレッきついな!ぐらいで・・(*_*)
皆様、私の先祖の嘆きが聞こえていらっしゃるでしょう。”この子はもう!”っという声が。
今まで知り合った全ての人(仕事場とか様々)は共通して私の事を
朗らかでおっちょこちょいそして・・・”異常なまでにおおらか”と言います。異常なまで!!と(*_*)普通は怒ったり・言い返したりするでしょう?!という場面でもポ〜ワ〜ッとしているそうで、我慢せんでもいい!!と言われるけど、”うん?我慢してないケドな?(*_*)”と・・・・
血の気が多い先祖の中にどなたかこういう人がいたのだと。この方の性格は、多分に私という人格の形成に強烈に影響しているのではと思います。
<m(__)m>
[43]白石さんからのコメント(2013年09月27日 18時45分34秒 ) パスワード

今日もコメントが入っているかな?と楽しみに帰って来ました。
子孫様 お体 大丈夫ですか? 気管支炎はしんどいですよね。

咳をしても痛いわ 息をしても痛いわ・・・肋骨は痛いわ・・・私も のどがすぐやられるので いつも マスクをしています。

体が資本みたいなものだから 本当に気をつけてくださいね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
平川が つながって 良かった 良かった・・ぱちぱち
多分 護良親王に味方したのではないか?と 思うのですが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
妙見社
宮原家  あらら・・・どこかで 頭が混乱してしまいましたね。

橘と妙見社

そういえば 宮原へ来る前 八代にいた と 書いてあったような・・・−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そしたら 山岳ルートで 川辺川筋を 降りてきたかもしれませんね。
人吉ー八代間は 昔は 球磨川の急流で 遡りはむつかしく、道は 崖にへばりついて 人一人が やっと とおるようなところだった そうです。
水俣へ入り 陸路というのは きついようです。あしがきついではなく のりを稼いでしまう という。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
むしろ 山岳ルートで http://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=1014
この地図で 仰烏帽子山 を 出して、そこを 左上にクリック 氷川 宮原がでます。
さらに 左下をクリック 坂本 芦北 水俣が出ます。
右へ1・5回ほどクリックすると 錦・あさぎり町・多良木・湯前・水上・市房が出ます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ところで
前スレッドで 私の故郷から 岡原まで 父は 一日で 北岳神社にあった道をとおり、往復していたと書きました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
仰烏帽子山へは 遠足で 行っていました。これも 一日で帰ってきていました。
故郷から 山田へは 山を越えて これも 半日で 行くと 男の人が言っていました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昔のように 交通手段がなかった頃、
私など 山へ 登るのに 仰烏帽子山の写真をみてもらうとわかるけど、段々畑(あったなら)や 木が植えてあるところ など 山に直角に登るのです。(この年では死んでしまいますけど)、高みに登って 見晴らしがよくなってから 目的地の方へ 向かいます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
父の生家(山の上)のおじが
ここからは 市房のみゆっと と 言っていました。まっすぐ 先に見えました。
村の古老(故人)が 江戸時代に 山の向こうで 古文書の出たとたいな
と 言っていました。
多分 上記 の ことと 思います。市房の西で 見つかったと 上記について書かれた本で 読んだことがあります。
佐田彦出自が 書かれているということでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宗像家と もう一軒 多分 大友家に 写しだか 何だか 書が あったそうだけど、洪水で 大友家のほうの分は 流されたということです。
これは 話に余り関係ありませんでしたね・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
故郷では 本当に 星が 手が届きそうにすぐそこに ありましたよね。
マリモが 黄色に光って 空に浮かんでいるような・・・

お墓も家の山にあって 
死んだらお星様になるという話を 大分 信じ込んでいました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
橘の宮原家と 平川家も 星つながり?
ネットをやたら 検索して ヤマトタケル 経津主命に平川の 永継のご先祖様が行き着いて
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
えらい神様ですね。神様に えらいえらくないは ないけど・・・国土平定に関与しているのでしょう?
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[44]白石さんからのコメント(2013年09月27日 20時08分45秒 ) パスワード

今日もコメントが入っているかな?と楽しみに帰って来ました。
子孫様 お体 大丈夫ですか? 気管支炎はしんどいですよね。

咳をしても痛いわ 息をしても痛いわ・・・肋骨は痛いわ・・・私も のどがすぐやられるので いつも マスクをしています。

体が資本みたいなものだから 本当に気をつけてくださいね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
平川が つながって 良かった 良かった・・ぱちぱち
多分 護良親王に味方したのではないか?と 思うのですが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
妙見社
宮原家  あらら・・・どこかで 頭が混乱してしまいましたね。

橘と妙見社

そういえば 宮原へ来る前 八代にいた と 書いてあったような・・・−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そしたら 山岳ルートで 川辺川筋を 降りてきたかもしれませんね。
人吉ー八代間は 昔は 球磨川の急流で 遡りはむつかしく、道は 崖にへばりついて 人一人が やっと とおるようなところだった そうです。
水俣へ入り 陸路というのは きついようです。あしがきついではなく のりを稼いでしまう という。
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むしろ 山岳ルートで http://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=1014
この地図で 仰烏帽子山 を 出して、そこを 左上にクリック 氷川 宮原がでます。
さらに 左下をクリック 坂本 芦北 水俣が出ます。
右へ1・5回ほどクリックすると 錦・あさぎり町・多良木・湯前・水上・市房が出ます。つまり あさぎり町・岡原と八代は ほぼ 一直線。
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ところで
前スレッドで 私の故郷から 岡原まで 父は 一日で 北岳神社にあった道をとおり、往復していたと書きました。
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仰烏帽子山へは 遠足で 行っていました。これも 一日で帰ってきていました。
故郷から 山田へは 山を越えて これも 半日で 行くと 男の人が言っていました。
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昔のように 交通手段がなかった頃、
私など 山へ 登るのに 仰烏帽子山の写真をみてもらうとわかるけど、段々畑(あったなら)や 木が植えてあるところ など 山に直角に登るのです。(この年では死んでしまいますけど)、高みに登って 見晴らしがよくなってから 目的地の方へ 向かいます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
父の生家(山の上)のおじが
ここからは 市房のみゆっと と 言っていました。まっすぐ 先に見えました。
村の古老(故人)が 江戸時代に 山の向こうで 古文書の出たとたいな
と 言っていました。
多分 上記 の ことと 思います。市房の西で 見つかったと 上記について書かれた本で 読んだことがあります。
佐田彦出自が 書かれているということでした。
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宗像家と もう一軒 多分 大友家に 写しだか 何だか 書が あったそうだけど、洪水で 大友家のほうの分は 流されたということです。
これは 話に余り関係ありませんでしたね・・・

私は 方言で書いています。少し 乱暴に聞こえるでしょう? でも おだやかにはなすと 聞きやすいです。姉は 祖母に免田で育てられました。祖母も姉の母も 下益城の人です。話し言葉は 私と全く違います。抑揚も・・・下益城の庄屋をしていた家だと言っていました。惣領息子は故人になり、家はあきや 状態だといっていました。
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下益城郡守富(富合)は 8世紀頃 肥後の国府がおかれたところです。
源為朝の雁回山の話があります。

為朝には 琉球の話もあります。
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山本の言葉を前に書きましたが、母の実父の山本は 山口 朝鮮(戦時中)下益城 別府 と 移り住み、山口へ帰り死亡。
なにやら 肥後と 言っていた頃 山本という 地名が 結構広くあったことと 関係あるのかな ? と 思います。
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姉の母の実家の人の中には 鹿児島に 移り住んでいる人がおり、不思議に 父の生家の長男も鹿児島にいました。(故人)

この話も 子孫様には 関係ありませんでしたね。
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故郷では 本当に 星が 手が届きそうにすぐそこに ありましたよね。
マリモが 黄色に光って 空に浮かんでいるような・・・

お墓も家の山にあって 
死んだらお星様になるという話を 大分 信じ込んでいました。
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橘の宮原家と 平川家も 星つながり?
ネットをやたら 検索して ヤマトタケル 経津主命に平川の 永継のご先祖様が行き着いて
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えらい神様ですね。神様に えらいえらくないは ないけど・・・国土平定に関与しているのでしょう?
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9の本 私も 読んでみたいと思います。
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狗留孫神社って何? と思って やっぱり 検索してみました。

くるそん 全文はこちら↓
なぜか山ガール?狗留孫 - ビジネスホテル 肥前屋 あさぎり町 - おてもやん


狗留孫山に八大龍王 の中の健磐(たていわ)と沙伽羅(しゃがら)の二龍王がいました。
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※ 龍王 龍城国 28人の龍王 
しゃがら・・・龍王の中で 最強の王
松浦の 淀姫神社にもいるらしい。
淀姫神社には しおみつ玉 しおひる玉がある。

http://yodohimejinja.com/?page_id=43
淀姫神社詳細の項
松浦地方の族長 磯良
「高良磯良」は、恐らく武内宿禰の率いる部族、「安曇磯良」は福岡の志賀島を拠点とする部族だと思われます。
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熊本県 あさぎり町−文化財 - あさぎり町役場

表題の部分
康正2年(1456)、麓に白髪神社鎮座の時からの伝承と考えられている。もともと ... もと 真言宗寺院、宝持院があった所で、開山の快善は、★狗留孫神社★別当寺の兄弟であり 天正年間(1573〜72)に永里に来て増幅寺を建て、慶長3年(1598)に瑞山寺宝持院と改
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白髪神社(7月15日会場) | Facebook

鎮座地 上宮(御池神社)熊本県球磨郡あさぎり町上 白髪岳 中宮(皆越白髪神社)熊本 県球磨郡あさぎり町皆越 皆越 外宮(上村白髪神社)熊本県球磨郡あさぎり町上 麓 白髪 神社の御祭神は、日向の★鵜戸神宮★と御同体で、鵜茅葺不合命・彦火火出見命・彦五瀬 ..
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https://www.facebook.com/media/set/?set=a.340016906073005.76687.335113306563365&type=1
白髪神社
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http://blogs.yahoo.co.jp/tackun2/25035049.html
、九州中央山地の南端で、、熊本県、人吉市の免田町から、宮崎県のえびの市にまたがる山地一帯です。その山地の主峰「白髪岳」を貫いて走るのが「白髪〜狗留孫林道」総延長30.5kmです。
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http://blogs.yahoo.co.jp/tackun2/25020487.html
狗留孫神社遺跡 PART T
上り口にある碑
<神武天皇遊幸ノ地ニシテ五穀の種子ヲ領千給ヒシ所ト侍フ>
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[45]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月27日 20時20分17秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>妙見信仰という事を今まで何も理解せずに過ごしてきた私ですが、
 
月星紋とは妙見信仰によるものだが、紋のデザインは月が星を喰らう形となっている。
月星紋の丸で無く五星形にするともっと解りやすくなる。
世界は日神、月神、星神の三大神が多数派で、現代では国旗に象徴されている。
北京紫禁城の南方に天壇、西方に月壇、東方に日壇が配置されていることからも象徴的。
 
日神系は丸(或いは太陽)を配し、月神系は星を月が喰う配置、星神系は星を配す。
日神系は、日本、台湾(青天白日旗)など。
月神系はイスラム圏に多く、星神系の老舗はソロモン王の系譜のユダヤ(現イスラエル)でダビデ星、王者は米国で五十星条旗、中国の五星紅旗、他に十字星系が英国ほか欧州に多い。
 
日本は天照大日霊尊(日神)、月読命(月神)、素戔嗚尊(星神)と考えると解りやすいのでは?
素戔嗚尊は辰韓王から星辰(ほし)に結びついている。

月神系のイスラム暦は、日本の旧暦のように閏月補正を行わないため季節は毎年11日づつ早まり33年で一巡する。
有名なラマダン月は、日中断食という一種の月神信仰が顕れている。
世界の国旗を眺めると国相が垣間見える。
[46]子孫よりさんからのコメント(2013年09月27日 23時08分37秒 ) パスワード

皆様ご教示ありがとうございます。
私は、クラリストマイシンという薬がみごとに効いてすごく楽になりました。
ご心配頂いて、ありがとうございます。
ところで、白石様!!
本当に地図では氷川とあさぎり(岡原)は一直線ですね!\(◎o◎)/!
びっくりしました。日本の苗字七千傑様よりご教示頂いた、「高天原は実在して東遷した」の地図を拝見した時に、様々な神社の配置にも意味があった事が理解できたのですが、全て直線で繋がっていました。
氷川の宮原三宮(妙見神社)と岡原(もしかして家かな?)が直線で繋がっているのも妙見信仰上何か意味があるかもしれないと。直線状に城を築いた可能性はあるのでしょうか?ううん?不思議です。
★そうそう白石様、私、球磨べん大好きです。(^・^)

日本の苗字七千傑様。国旗に例えて頂いて、こんな私でも理解する事が出来ました。本当にありがとうございます。日神、月神、星神の三大神。世界に共通な信仰だったのですね。ふと古代の人は宇宙自体を創造した神(?)にはどのような崇拝があったのだろうと考えてしまいました。
私は子供の頃からこの宇宙が誕生する前(ビッグバン以前)の事を想像するのが一番怖かったのです。考えようとすると、怖くなって脳が拒絶してしまいます。脱線してすいません。
”素戔嗚尊は辰韓王から星辰(ほし)に結びついている。”というお言葉。やはり妙見信仰に関連した宮原家は辰韓の人の血が流れているのかな?

宇宙(日・月・星)を理解する事が出来て、初めて、時間・暦・夏至や冬至・航海や陸上での移動の道しるべ等々を知る事ができるわけですね。
でも、世界中どこも同じ自然環境ではありませんよね?そう考えると温暖で四季がはっきりとしている日本に来られた古代の人は、パラダイスのように感じたのでは?(^・^)ずっとここに居たいと思われたのでは・・・と思います。

そういえば、夜空を見るのが大好きだった私に祖母が、「星は見ててもいいけど、女の子だから、月はあまり見てはいかんよ。月を見て良い事があるのは男の人だけ。女の人はあまり見るものじゃないからね」と不思議な事を言っていました。????

皆様のお話を伺って、とても楽しく(勉強させて頂いているのにすいません)病気も良くなったような気がします。(^・^)
ありがとうございます。




[47]子孫よりさんからのコメント(2013年09月28日 06時54分24秒 ) パスワード

皆様、おはようございます。
私、体調もかなりよくなりました。背中が痛かったのは嘘のようにもうどうもありません。
本日は土曜日ですが、仕事です。(交代制で月に一度出勤)
昨日は、上司より、具合が悪かったら必ず休むようにと”指示”が出ていたのですが、朝、起きたら、咳もほとんど出ずにとても楽になりました。
マスクをして仕事してきます。(私に感染?していたウィルスは、殆どの場合、成人は発症しないそうです?!乳幼児から小児までが感染するとの事で(ううん?)この場合も症状が出ないで治る場合が殆どで、ただし症状が出たら気をつけなければいけないとの事でした。
乳幼児から小児???成人では症状は殆どでない???ううん?
40代で感染したわたしは??? (^・^) → \(◎o◎)/! →(*_*)

こんな子供のような私に子供のような疑問が湧いています。
なぜ、素戔嗚尊は日本書紀ではとても困った方のようにえがかれてしまっているのでしょう?。子供の頃に読んだ絵本(次元の低い話ですいません)でもそうでした。怖い方というイメージが植え付けられたような気がして・・・
しかし、妙見信仰に代々関連してきた(悲しいかな日本の苗字七千傑様よりのご教示であ〜そうかとやっとわかり始めた・・ご先祖様ごめんなさい)血が、これはおかしい?!!(ー_ー)!!と騒いでいます。
素戔嗚尊をこのような立場に置いた理由が必ずあるのでは?
素戔嗚尊(辰韓王から星辰(ほし)に結びついている)と言う事は辰韓と敵対した何かの意図が隠されているようで・・・(-_-;)??

もっともっと事実に基づいた事を勉強したいと血が騒いでいます。
<m(__)m>

[48]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月28日 11時29分13秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

 素戔鳥尊は、太安万侶の迷彩工作で編集された古事記により訳がわからなくなっているが、「古代日本領土の起源」(桜井光堂著)を読めば素戔鳥尊の真実もわかり疑問が氷解するでしょう。
 ただしこの書籍は難解なので「古事記は神話ではない」シリーズ4巻(桜井光堂著)を読むのも良い。
 
 全国的に知られる櫛田神社の博多祇園山笠は、当社の祇園神(素盞嗚命)に対する氏子の奉納神事。 
 松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まるとされ、松阪の櫛田神社の祭神の大幡主神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照大神も一緒に勧請されたと伝えられる。天慶4年(941年)、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都の八坂神社に祈願し、平定した後に当社に素盞嗚神を勧請したと伝えられる。

八坂神社について。
 斉明天皇2年(656)高麗の調度副使伊利之使虫が来朝。
 新羅牛頭山(現:韓国江原道春川牛頭山)の素戔鳥尊を八坂郷に祀る。
 伊利之の子保武知は山城国愛宕郡八坂郷に居住、八坂造を賜姓。
 その後、神仏習合を受け天慶5年(945)祇園社(現・八坂神社)に改称、祭祀は八坂氏の後裔が務める。
 後裔の真綱に至り、紀長谷雄の曾孫忠方の娘を妻として、永保元年(1081)祇園社執行となる。
八坂氏系譜については http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03020.htm  
 
祇園はシオンの転訛ではないかと考えるむきもあり、シオンはイスラエルのエレサレム地方の歴史的地名で紋章はダビデ星でしょう。
[49]白石さんからのコメント(2013年09月28日 21時14分33秒 ) パスワード

こんばんは
今夜はまた 風が強く吹いています。

でも 雨は何日か降らず 洗濯物が良く乾いてうれしいことです。
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http://www.syamashita.net/history/kodaishi/susano.html
須佐之男尊(スサノオ)は弥生の和国王だった
というのが ありました。

スサノオは
イザナギの娘・向津姫(※アマテラスだとしている。を娶り・・・

2人は夫婦だったとしている。
記紀には、スサノオとアマテラスの聖婚は天安河原の誓約として書かれる。
子供8人のうち 男子五人はアマテラスが
女子3人は スサノオが引き取った と。
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八重垣神社の壁画
素戔嗚尊とその正妻・櫛稲田姫、天照大神、市杵島姫命、足名椎、手名椎

本で見たことがありますが、ふくよかな顔立ちに描かれていました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲族の(だから 天穂日命よりも先にいた。命は婿養子に入ったのだとする。)出雲の向家の方からいただいたほかのスレッドのコメントです。
今は消えているのですが、
※古代出雲族は インドドラビダ族で 3000年くらい前には日本に来ていたとしている。

向津姫
倭姫が伊勢の内宮で祀られたのは、
出雲の日の女神です。撞榊厳魂天疎向津姫命とも言いますが、
出雲族の向家の姫という意味だそうです。
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http://www.syamashita.net/history/kodaishi/susano.html
スサノオの別名(改竄された神名)・大山祇(大山積 大山津見)神を祀る神社は、全国に一万一千社もある。その総本社は愛媛県今治市大三島の大山祇神社だという。同神社の創建は、祭神の子孫・★小千命★で、神武天皇時代というから最も古い神社で、伊予国一宮で国幣大社だった。小千命は神武天皇の時代に「小千国主に任じられた」とある。小千国は、現在の愛媛県越智郡とみられる。

 また、スサノオを祭神として全国に三千社もある天王社、その総本社は愛知県津島市の津島神社だったということが尾張名所絵図にも出ている。第7代孝霊天皇のとき西海の対馬に祀られ、欽明天皇(29代)の御代(540年)に津島に奉遷されたとある。

 一条天皇が津島神社に天王社の号を贈られる200年ほど前、大同5(810)年正月、★嵯峨天皇★は、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」として、「日本総社」の号を奉られた23)。810年と云えば、その90年も前に日本書紀が撰録されていて、記紀にある惨めなスサノオ像は、すでに誰の眼にも明かだった筈なのに、嵯峨天皇はわざわざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の総社」と崇められたというのである。
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嵯峨天皇の皇后は 橘嘉智子。
宮原(橘) 星
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あざのことを ネットで検索したら
(良くご存知ですよね。お医者様に相談されたのでしょうから)

蒙古斑点のあと 普通は子供の頃 おしりにあって 消えていくけど ときどき他の部位にあったり 又 消えずに 残るそうです。

青いあざは 手術をしたほうがいいけど、ほかは大丈夫みたい。
うちの方の皆は 残らなかったけど、過去に 会社勤めをしていた頃、男の人で右あごからほほにかけて 残っているけど、別にかくさず 結婚もして子供もできている人がいました。

きにするな と言っても ムリでしょうけど・・・案外 本人が気にするほど人は気にはしないのではないか?と 思います。
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[50]子孫よりさんからのコメント(2013年09月28日 23時06分41秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑ご教示ありがとうございます。
祇園神は素盞嗚命 という事さえよく理解していませんでした。(*_*)
櫛田神社の博多祇園山笠を例に取って頂いたのでよく解りました。
北九州にも勇壮な戸畑祇園山笠・黒崎祇園山笠・小倉祇園山笠(小倉は勇壮ではありませんが)と祇園祭りが有名で。私はその勇壮さと太鼓・鉦の響きに心が躍り、毎年欠かさず見に行きます。京都の祇園祭は優雅なイメージですが、戸畑・黒崎は大阪の岸和田のだんじりとイメージが似ています。戸畑祇園山笠では「ヨイトサ」という掛け声をかけます。「ヨイトサ」という言葉の響きも不思議です。山車(だし)がまわるのも岸和田と同じです。
山車はの形は、映画で見た古代の戦車のような形です。ううん??岸和田・・河内に近いのですか?河内と言えば百済?・
山笠(山車)は古代の戦場での勇壮な戦士達の行進のイメージが湧いてきました。でも、この姿は今の東洋系ではなく、バビロニアとかエジプトの戦士のイメージに何故か変わっていくのですが・・(いつもの感ですけど・・すいません)
あっ!以前このスレッドで書いた”失われた10士族”!!この話題がTVで出た時、異常なまでに興味が湧きました。なぜ?だろう。
星神系の老舗ダビデ王(イスラエル) → 辰韓 →素戔嗚尊(星神)日本。これは、民族の移動経路と言う事はないですよね。でも、以前シュメール語の書かれたペトログラフを見に行ったお話を書かせて頂きましたが、あり得ない事はないと思いました。
だから、顔立ちもその血筋がある人は、コテコテの日本人なのに何故か顔がハーフっぽい(彫が深く鼻が高い)とか(何処かで見た事のある一族が・・)
DNA検査をすればすぐにわかる秘密だとは思うのですが・・・・

あ〜すいません。また脱線しました。妙見信仰を理解しようと思ったのに、
違う方向に頭が向いてしまって・・\(◎o◎)/!



[51]子孫よりさんからのコメント(2013年09月28日 23時55分54秒 ) パスワード

白石様。こんばんは(^・^)
いろいろ考えながらコメントを書いていてアップしたら、すでに白石様のご教示が頂けていました。 ありがとうございます。
私は皆様のご教示のお言葉の中から、とても気になるワードがすぐに目に留まって脱線してしまうのですいません。
でも、今日は、とっても”出雲”が気になって仕方がないのです。
素戔嗚尊は出雲ではヤマタノオロチを退治して英雄ですよね。
ヤマタノオロチは、白石様のお言葉にあった、古代出雲族の事なのかな?と。

古代とは全く関係ないのですが、松本清張の砂の器。キーワードとなるのが、出雲地方の一部でも東北の方言(ズーズー弁)が使われていたという話です。
この小説は映画やドラマにもなっていますが、私、ストーリー上で出て来るこのシーンがとっても強烈で後のストーリーより、出雲でズーズー弁???
なんで??とここばかりが気になって・・東北の人が来たのかな??何故??と。でも、今日、気付いたのですが!!
出雲の人(集団)が東北に行ったのかな!!っと。素戔嗚尊(末裔)を中心とした民族の集団が東北に勢力を伸ばしたのか?それとも古代出雲族?
日本の方言を研究している方なら解っている事なのかもしれませんが・・(勉強不足です(*_*))

私の先祖が関係しているのは妙見信仰。
老舗ダビデ王(イスラエル) → 辰韓 →素戔嗚尊(星神)→ 橘家(妙見信仰) → 宮原家(妙見信仰) と
老舗ダビデ王(イスラエル) → 辰韓(百済) →素戔嗚尊(星神)→ 良峯家・百済氏族・(平川家)☆妙見信仰☆
宮原家☆平川家☆ = 妙見信仰 あれっ!はじまりが同じ!!
だから、顔立ちが・・\(◎o◎)/!
でも、かなりの推論です。すいません<m(__)m>

また、脱線してしまいました。



[52]子孫よりさんからのコメント(2013年09月29日 00時13分02秒 ) パスワード

追記
老舗ダビデ王(イスラエル) → 辰韓(百済) →素戔嗚尊(星神)→ 良峯家・百済氏族・(平川家)☆妙見信仰☆ → 白石様!! あっ!!
顔立ちが・・・・\(◎o◎)/!

昨日のコメント”北朝方平川(勝手に決めてはいけませんね)と南朝方平川はこのスレッドにおいてやっと一つになれました。”
で気付いたのです。 白石様・宮原家・平川家 ・・かっ!かお顔立ちが
\(~o~)/


[53]白石さんからのコメント(2013年09月29日 03時10分59秒 ) パスワード

へんな時間に書いています。
でも 睡眠は充分に足りています。

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顔は 違います。
平川のおばさん〔故人〕も 違います。
他の平川姓も 違います。
みんな 普通の顔かな・・・
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私の顔は ずっと前に 見た トン族の中の ひとりの おばあさんの顔に似ていると 思っています。

普通の顔です。が、 以前 パートに行っていた職場の人からは 
熊本の人にしては 顔立ちが違うね と いわれました。
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で、トン族を 見てみました。
http://eikojuku.seesaa.net/article/248733083.html
木の民とも呼ばれるトン族(中国)

トン族の村に入るには、「風雨橋」という屋根つきの壮麗な木造橋を渡っていく。

鼓楼には「設計図」がない。意匠のすべては棟梁の「頭の中」にあり

トン族は「文字」を持たず、その伝承は「口伝」のみ。

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トン族は「百越(越族)」と呼ばれた民の一派だったともいう。

「呉越同舟」という言葉は、呉と越の国の仲の悪さを示すものであるが、じつは両者は同根の民族(百越)である。そして、両者ともに日本にやって来たとも考えられている。

「越」の呼称が残る日本海側は、もちろん越の国の人々。そして、「呉」の地名が残る九州・瀬戸内には呉の人々が住み着いたというのだ(例:広島県呉市)。

越人は朝鮮半島を経由して、呉人は東シナ海を直接日本まで渡ってきたとも言われている。

遺伝子分布統計によれば、Y染色体FR-02bという共通性も見つかっている(さらに細かく分類すれば、朝鮮民族と日本民族は異なる染色体を持つ)。
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ウィキに出ている中央の女性のイメージ・鼻の形に少し似ているかな?
もう少し あごを 四角に(極端でなく)、耳の下をさわると 3センチくらいであごの横の骨にさわります。
丸顔を少し 四角にした形。
母方の顔だと思います。
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母方の母方は 佐田・山本です。いとこ同士でした。
その前も その前も そうだった と 母は言っていました。
母の 父方は佐田から代々嫁入りしていた家です。養子に入っている人もその家のゆかりの人で、妻も その家の人です。
その人達の上世代も 同じ。養子だけど 同じ家から 妻も その家の人。
少しややこしく 戸籍では読み取れません。
が、本家から送ってもらった位牌から書き取った系というのを 見ると 母が 言っていた人が 戸籍に 出してもらった 人と 同じなので、母の言っていたことは本当だと思います。

母は 自分の一族の中では 自分が一番佐田の血が 濃いいのだと 言っていました。

戸籍をとったとき、その 最後に 証明印をおしてあるところをみたら 山本姓でした。あと 松浦姓の 分もあります。
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山本の父が 戦後 母の佐田の 血を ほしがって、連れて行こうとしたけど、頑として 行かなかったといっていました。とうとう 業をにやした 父が つらなっている人皆を連れて行こうとしても 行かなかったと 言っていました。
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[54]白石さんからのコメント(2013年09月29日 03時35分02秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑様
お伺いいたします。

山口県史に
豊浦の人が 尾張氏に 「益城宿禰」の 姓を 与えた と あったのを 見たことがあるのですが、

奈良時代だった と 記憶しているのですが、
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豊浦といえば 蘇我の 豊浦の大臣 を 思い浮かべるのですが、
蘇我蝦夷

26高良大社 武内宿禰が 出ていましたが、あのあたり一帯に 武内宿禰ゆかりの 人達がいたのでしょうか ?

今一つ 
豊浦には 日之影町 が あったはずで、高千穂にも 日之影があって
高千穂神楽は本当は ここの 日之影神楽だ と いう ネットも 見たことがありますが、
日之影神楽は 祇園神楽だと。
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仲哀天皇と神功皇后の地盤とするところは 山口あたりでは 違っていた と 書いてある本も見たことがあるのですが、
ヤマトタケル系の天皇と 新羅を 祖先の一つにもつ 神功皇后。遠祖は 又 辰韓 で ひとつになるけど、あのあたりに ごちゃまくれに いたと いうことでしょうか?

教えていただいた本を早く 読んでみたいと 思ってはいますが、なかなか・・・子孫様 読まれたら 教えてくださいね。
[55]白石さんからのコメント(2013年09月29日 04時01分36秒 ) パスワード

51ヤマタノオロチは、白石様のお言葉にあった、古代出雲族の事なのかな?
向家の方のお話では 違ったように 思っています。

直接 違いますとは 書いてなかったけど・・・
なによりかにより ずっと 前に この国に いた いわば 先住民族なのでしょうね。

でも 奈良時代まで 重要な位置にいたのだと 書いておられました。
パピルスみたいなのに 書かれた もの が ある そうです。(これは 本でみたのか な?)
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インドとバビロニアねえ と 思って、検索しました。今は ネットしか 頼る手段がなくて・・・
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http://www.japanology.cn/japanese/tiyao/041105%E8%96%97%E7%94%B0%E7%A8%94.htm
妙見信仰と道教 - 日本文化研究网

に 古代バビロニアに発する星辰信仰がインドと中国に伝来して大乗仏教と道教とに受容され・・・と 過程がありました。
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秩父平氏に発する畠山氏、千葉氏、相馬氏、大内氏など、鎌倉幕府の成立(一一九二年)を支えた騎馬軍団の軍馬守護神となった。

という 言葉には 大内氏=亀蛇=八代神社 の つながりも みられ 興味深いことです。




[56]子孫よりさんからのコメント(2013年09月29日 09時50分12秒 ) パスワード

おはようございます。
お顔立ちの事、早とちりをしてすいませんでした<m(__)m>
ところで・・
球磨に関しての事なのですが・・
”呉越同舟”やっと出てきました。\(◎o◎)/!
私は邪馬台国の謎とかより、狗奴国がとても気になってきたとのお話を以前させて頂いたと思うのですが・・
狗奴国について調べていた時に
”BC473年呉が滅亡したのを機会として「夫差」の子「忌」は東シナ海に出て、現熊本県玉名市近辺の菊池川河口付近に到達し、菊池川を遡って現在の菊池市近辺に定住したものであろう。一族はそこを拠点として繁栄し、後の球磨国(狗奴国)となったと推定される”
とあって、・・もう2年ほど前だったと思うのですが気になって文書をコピーしてメモ帳に貼ってデータとして保存していました。
”「越」の呼称が残る日本海側”・・山口県豊浦地方は日本海側ですね。
土井が浜・西長門・角島・・日本国内??と言うくらい、すご〜く!海が綺麗です。  越の人が国を作っていたのがこのあたりからとすると、日本の苗字七千傑からご教示して頂いた、古代連合国家の境界線、狗留孫山!。”高天原は実在して東遷した”の地図の古代国家と”越”・・関係してくるのでしょうか?
白石様と山口県は繋がっているのだから・・・

青海島海岸の風景は絶景です。海岸線に断層や洞穴が続いて・・
洞穴・・ううん?? 古代連合国家の表記の中に”穴井”(間違ってたらすいません)というクニがありませんでしたか? 
また、脱線しました。<m(__)m>




[57]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月29日 11時01分05秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>BC473年呉が滅亡したのを機会として「夫差」の子「忌」は東シナ海に出て、現熊本県玉名市近辺の菊池川河口付近に到達し、菊池川を遡って現在の菊池市近辺に定住したものであろう。一族はそこを拠点として繁栄し、後の球磨国(狗奴国)となったと推定される
 
やや事実に近いでしょう。
呉王裔を仮冒した可能性もあり。
新羅王家4代脱解王(昔姓)は、倭人多婆那国王の子とされており、多婆那とは肥後玉名地域と推定されている。
ここでも辰韓に突き当たりますね。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03025.htm
山東半島の倭族も春秋時代の呉滅亡(前473)を契機として朝鮮半島の中・南部へ亡命して辰国を建国。
滅亡した呉族も半島や列島へ逃れたことでしょう。
また春秋時代の呉(姫姓)と三国時代の呉(孫姓)を混同してはいけません。
現代では太平洋側が表日本ですが、当時は玄界灘から越地域が表日本。
 
>穴井 
 
穴門国造の間違いでは?
穴門は後世の長門のこと。
[58]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月29日 11時58分53秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>豊浦の人が 尾張氏に 「益城宿禰」の 姓を 与えた と あったのを 見たことがあるのですが、
 
天平神護元年三月、周防国佐波郡人、尾張豊国等二人に尾張益城宿禰を賜姓。
蘇我蝦夷は120年前に冥土へ、早とちりしないように。

豊浦は単に豊国の豊浦に由来するだけ。
現実に豊国や葦原中津国が存在したからです。
伊勢外宮には豊受大神が奉られています。
秀吉を祀った豊国神社というのもある。

[59]子孫よりさんからのコメント(2013年09月29日 11時59分52秒 ) パスワード

ご教示ありがとうございました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03025.htm 拝見しました。
”承和7年(840)勅により田道間守裔の橘戸、蝮橘、橘連、伴橘連、橘守、橘の六姓は、仁明天皇の生母檀林皇后(橘嘉智子)の本姓橘字を避け椿字に改称することとなる。”
橘!繋がっているのですね。
白石様から”嵯峨天皇の皇后は 橘嘉智子。 宮原(橘) 星”
とのお言葉を頂いて、あれっ!と思ったのですが、やっと理解できました。
宮原家(橘)はやはり辰韓に繋がっていたわけですね。
妙見信仰から疑問が(いつもの感)が始まって、最後にやはり”辰韓”行きつきました。
日本の苗字七千傑様、白石様、ご教示、本当に心から、お礼を申し上げます
ありがとうございます。

穴井→× (*_*)おっちょこちょいですいません。
穴門ですね。???あっ!!!穴門は後世の長門の事。!\(◎o◎)/!
青海島は現在の長門市にあります。!!
そうか、古代の表日本の海から見た青海島は洞穴があって「穴が沢山」!!
あ〜!!青海島に行きついたら前スレッドで最初にお話しした・・
青海島を描いた”東山魁夷作の皇居宮殿波の間の大壁画”壁画の額は市房杉。
あれれっ!!(@_@) きっと・・きっと・・偶然ですよね。
このお話を書いた時、私”初めて見た光景なのにとても懐かしく、やっとこの景色を見る事ができたという感情があふれて何故か涙が出てきて”とコメントしてて・・?? 
マタマタと言わないで下さいね。お解かり頂いていると思いますが、私の体には様々な方のDNAがミックスされて流れているようで。その中の何方かの記憶があ〜懐かしいと??。
いつもの役に立たない変な”感”がいろいろな所に繋がってきていて正直??なぜ!と (@_@)
毎回、脱線しまして、すいません<m(__)m>



[60]子孫よりさんからのコメント(2013年09月29日 12時17分30秒 ) パスワード

言葉が解らなかったりするのが皆様のご教示を理解出来ない原因だっ!と思いこのスレッドを最初から読み返していました所。

白石様(^・^)
スレッド 16 田県神社と大県神社 
ネットの情報は一度、拝見して文書を「ふむふむ(@_@)」とちゃんと読んだのです。その時はスルーしてしまっていました。
今、もう一度読見直していたら・・・あれっ!アレーッ!(●^o^●)

”ぽわ〜っ”としているといつも言われる
これがわたくしめでございます。


[61]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月29日 17時38分15秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>妙見信仰から疑問が(いつもの感)が始まって、
 
妙見にこだわると狗留孫と同じで勘違いの元になる。
仏教伝来以前からの地名は遠見山、遠見の鼻、各地にある妙見岳(妙見山)、妙見岬も同じ。
遠見山、遠見の鼻とは古代の辺境望楼監視所。
役目が終わった後に妙見神社が置かれる。
遠(トホ)が妙(タヘ)に転訛、さらに妙(ミョウへ)と仏教化して妙見。
有名なのが北九州市若松区の遠見の鼻(別名:妙見岬)で明白。

http://kazenoyadori.seesaa.net/article/195827917.html
[62]子孫よりさんからのコメント(2013年09月29日 20時29分23秒 ) パスワード

ご教示ありがとうございます。
妙見にこだわるのではなく、星神系を理解する事ですね。

偶然にも、北九州市若松区の遠見の鼻ですが、今年の7月初めに行っていました。御嵜神社にも・・・
古代の辺境望楼監視所。あの場所を思い出したら伺った意味がよく解りました。
今でも灯台がありました。(ここは立ち入り禁止でしたが)
遠くに見える島々を説明する看板があったのですが、一番遠くに見えたのが長門の角島でした。陸上経由(自動車)で行くと、かなり遠いのですが、「角島へ船でいったら近そう!」と一緒に行った人と話したのをしっかり憶えています。そうか!!拝見した古代連合国家の地図!!そうですね、遠見の鼻は筑紫で長門は穴門。他の国の動きを見張っていたのですね。\(◎o◎)/!

私、妙見信仰=星信仰 と理解していない時は、ずっと妙見という名前は火山とか活断層に関係しているのかな?って思っていたのです。何となくなのですが・・。違っていたのですね。
でも、日本国内における地名には様々な意味があって複雑で難しいです。
でも・・・  理解していくと、とっても、楽しいです(^O^)/
日本の苗字七千傑様からご教示して頂いたお話には、私が偶然行った場所が次々と登場し、その時?と思った事が理解できました。ありがとうございます。 次にドライブに行く時は先々で「あっ、このお話はたしか・・・!」といった楽しみが出来ました。(^・^)

所で、今日は、いつもと違う方向に行ってみようと、香春町の道の駅に行ってきました。前職の時、北九州・田川地区の総合管理職(この私が何故・・??との声が・・これが一番の謎ですか?)だったので毎日のように香春町は通っていたのですが、全く気がつかなかった場所が・・
道の駅に行くには以前通っていた道を途中で行橋市方向に曲がるのですが、道を曲がってすぐに、こんもりと木々に覆われた場所が見えて・・一緒に行った人が「何か大きな古墳みたいやね?」と言うのでエッ?と思い・・。信号で止まった時に標識を見たら”河内王陵”とあり・・河内?王陵? ええっ??!何だここは?!\(◎o◎)/!と。
このコメントを書き終わったら、すぐに調べるつもりです。
あ〜何で、コンナニ次々と・・謎ばかりです。(@_@)


[63]子孫よりさんからのコメント(2013年09月29日 21時56分26秒 ) パスワード

"河内王陵"をウィキで調べました。

万葉集巻第三の417〜419前文に「河内王を豊前国鏡山(かがみのやま)に葬る時、手持女王(たもちのおおきみ)の作る歌三首」とあり、417番に「大王の親魄(にきたま)あへや 豊国の鏡山(かがみのやま)を 宮と定むる」と詠まれている。河内王は大宰帥として九州に赴任しこの地で没したと言われる。このため明治27年(1894年)に天武天皇の皇子・河内王の勾金(まがりかね)陵墓参考地に治定された。陵墓は現在はフェンスに囲まれ宮内庁が管理している。
とありました。
ただ、疑問が?  河内王を今度は調べると・・

河内王 (飛鳥時代)
飛鳥時代の皇族である河内王(生年不詳 - 持統天皇8年(694年)4月以前)は、確実な史料に系譜が見えないものの、『新撰姓氏録』・『皇胤紹運録』などの分析からは、敏達天皇皇子・押坂彦人大兄皇子系統の諸王で、百済王の子か孫である可能性が高い(後述)。その場合、子に高安王・桜井王・門部王がいる。

河内王 (奈良時代)
奈良時代の皇族である河内王(生年不詳 - 神亀5年7月19日(728年8月28日))は、天武天皇の皇孫にして、長親王の第一子と推定されている

と、どうも同じ名前の方がお二人いらっしゃったようで・・・
香春町の河内王陵はどちらのお墓なのでしょうか?

今日、香春町に行ったのは単なる偶然です。夕方5:00より足立妙見宮にて舞楽のゆうべという催しがあり、ぜひ見に行きたいと思って、時間を考えて、野菜を買いに一番近い香春町の道の駅に行っただけなのですけど・・
宮内庁が管理されているので奈良時代の河内王のような気がするのですが・・
ただ、事実はどうなのかを知りたいとおもいます。<m(__)m>

所で、舞楽の夕べとても優雅で初めてじかに雅楽(演奏)を聞く事が出来て素晴らしかったです。(^・^) 舞楽は女人舞楽(原笙会)の方々でした。
曲目は「賀殿 急」「五節舞」「納曾利」。別世界にいるようでした。
五節舞では十二単におすべらかし・・とても素敵でしたが、自分で着たら動き辛そうで・・(どのような時代でも私は着る事は無かったと思いますが・笑)
心豊かな気分で帰って参りました。(^・^)
[64]白石さんからのコメント(2013年09月30日 04時28分01秒 ) パスワード

おはようございます。
何度か書きかけましたが、山口のほうへ行くと 子孫様とのつながりがわからなくなってきて、

そして その間に次々と コメントが入っていて・・・
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7000傑様
豊浦は豊国があったから
ありがとうございます。
年号などわからず ずっと もやもや していました。
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子孫様
河内王陵のこと わたしには わかりませんが、
4世紀頃 河内に 山田 佐田がいた。 と 国史辞典だったと思うのですが、見たことがあり、
山田は 王の言葉に 関わり、佐田の言葉は母の実家の苗字ということから、
(だから 河内王に関わるではなくて) 
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香春田川から
香春神社に関して
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/usa-gen-yahatakami.html
原八幡神の誕生
※新羅系渡来人の東進
別項・香春神社で述べた香春(現福岡県香春町付近)に住み着いた新羅系渡来人(秦氏系というが異論もある)たちは、
5世紀後半頃から、その居住範囲を東方・周防灘沿岸にむけて広げていったという。
周防がでるなあ と 思いました。
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http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/usa-sanmyou.html
宇佐の原信仰/三女神社
妻垣山は太古、玉依媛命(タマヨリヒメ)の御降臨された霊地

八幡大神は
 「昔、伊予国宇和郡と豊後国国崎郡安岐郷奈多の浜を往来していたとき、奈多の浜の松の木の上から住むべき場所を見回した。そこから高知保、豊後・日向・肥後の境の広野を経て、豊前と豊後の境の田布江(現田笛)に着き、鷹居・郡瀬・大禰河(現大根川)・酒井泉(現泉)・乙・浜・馬城嶺・安心院(現妻垣)・小山田を経て、菱形池の畔(大尾山)に帰った。

当社祭神は、古く一般的神名・比・大神とされていたのが、何時の時代化にかタマヨリヒメに変わったのであろう。

玉依姫は 賀茂神社のご祭神にいる。平清盛の母方に行き着く。
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http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/usa-tumagaki.html
宇佐神宮・摂社/妻垣神社
祭神−−玉依媛命・応神天皇(八幡大神)・神功皇后
当社の主祭神と目されるタマヨリヒメとは、海神(ワタツミ)の娘で、姉・トヨタマヒメがアマテラスの曾孫・ヒコホホデミ(山幸彦)と結ばれて生んだウガヤフキアヘズ尊を姉に代わって養育し、後にその后となって神武天皇を生んだとされる(日向神話)。
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http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hachiman-kawara.html

原八幡神/香春神社・古宮八幡宮
香春神社−−福岡県田川郡香春町香春
祭神−−辛国息長大姫大目命・忍骨命・豊比・命
古宮八幡宮−−福岡県田川郡香春町採銅所
祭神−−豊比・命
B 香春神社解文(弘安10年1287成立)
 「日置絢子が採銅所内にある阿曽隈を崇拝し奉る。降って元明天皇御宇・和銅2年、『新宮』に勧請し奉る。是香春也。本新両社と号す」

Bは@とほぼ同意だが、Bを読む限り、新宮合祀以前の神々は3峰別々に祀られていたのではなく、三の峰の採銅所内に祀られる“阿曽隈”一社のみともとれ、この阿曽隈社が、今の『古宮八幡宮』の前身と思われる。なお、同社社伝によりば、
 「古く採銅所邑岩本にあったが、永禄の頃(1688--1704)に現在地に遷った」
という(今も“古宮の森”との旧蹟があるらしい)。
 ただ、阿曽隈の意は不明。新羅の神が最初に鎮座した地名ともとれるが、神名とも解される。阿曽隈をアソクマと読むとすれば、クマとは朝鮮語で“カミ”を意味し、アソとは“卵”を意味する“アル”と同意かと思われる。アル(卵)は神の御子とその母が籠もる容器を指すから、アソクマとは容器に入って渡来した母子神ということになる(朝鮮半島には、卵などの密閉容器から神の御子−始祖神を含む−が生まれたとの伝承が多い)。それは、空船(カラブネ)に乗せられて漂着し、神として祀られたという大隅正八幡宮(鹿児島)の伝承とも連なる。

D 香春神社古縁起(太宰管内志所載、成立年代不明)
 「第一殿は大目命、第二殿は忍骨命、第三殿は空殿なり」
 第三殿空殿の理由として、「第三殿は豊比・命の御殿だが、豊比・命は祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」との注記あり。

Dの古縁起および注記によれば、新宮の神は息長比・と忍骨の二座で、豊比・は阿曽隈=古宮の神と解され、新宮からみれば、豊比・とは社殿はあるものの常住していない客神だったのかもしれない。また、この縁起は“古縁起”というだけで成立年代は不明。あえて推測すれば、@の縁起より古いものかもしれない。

◎豊比・

 豊比・とは、字面からみれば“豊国の比売神”を指意味する一般名称であり、それは豊国の地主神”ともいえる。ただ古代の豊国には、渡来人特に新羅系秦氏が盤踞していたから、豊国の地主神を新羅系とみてもおかしくはない(豊国−−福岡県東部から大分県一帯を指す古い国名)。

風土記にいう新羅の神の後嗣は、今、古宮八幡宮に常座する豊比・

★★★香春社縁起によると、
 「新羅神は比売許曽(ヒメコソ)の神(赤留比売・アカルヒメ)の垂迹で、摂津国東生り郡・比売許曽神社と同体也」
とある。アカルヒメとは日光に感じて成り出でた赤玉から生まれ、新羅の王子・天日鉾(アメノヒホコ)の妻となるが、日鉾の横暴から逃れて渡来し、一旦筑紫に留まり、最終的に難波に祀られたという。筑紫に留まった新羅出身の女神ということからの比定であろう。因みに、アカルヒメの最初の鎮座地は国東半島沖合にある姫島とされている。★★★
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※宇佐八幡の阿蘇神社縁起によれば
宇佐八幡・阿蘇神社・高知尾明神はきょうだい神という。
※高知尾明神は神武の次郎
ウィキより
正和2年(1313年)成立の『八幡宇佐宮御託宣集』巻2に、「高知尾(明神)」は神武天皇の御子である神八井耳命の別名で、「阿蘇(大明神)」の兄神であるとの異伝もあり[1]、また、『平家物語』巻8緒環段では、「日向国にあがめられ給へる高知尾の明神」の正体は「大蛇」で豊後緒方氏の祖神であるとしている[2]。
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市房神宮宮司・人吉青井阿蘇神社を熊本阿蘇神社から勧請した尾方氏・五木阿蘇神社神主尾方氏と 阿蘇神社に関する人は尾方氏なのも 上のこととの関係があるのだろう。
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[65]白石さんからのコメント(2013年09月30日 04時51分22秒 ) パスワード

山口県佐波郡牟礼(防府市)
    その昔、ヤマトタケルが九州へ向け船出したところ。
    たたらの浜ともいう。たたらの浜は 福岡にもある。
    大内氏祖先ともする 「たたら氏」が 上陸したところ。
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垂仁天皇の皇子が住んだところといい、摂津牟礼はこの飛び地である。
    紀元2600年祭をした「牟礼神社」は 大阪府茨城市にあり、
    牟礼別祖である垂仁天皇の皇子・大中津彦命を祀るので、ここらがそう    であろう。
    このあたりは 縄文時代の遺跡があった。
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四国・香川県の牟礼
牟礼
 讃岐国三木郡武例郷の地名。(香川県木田郡牟礼町)
 西は屋島に接する瀬戸内海沿岸部の地名。

 屋島は 源平屋島の合戦の屋島に接するところ。
 屋島は平氏の本拠地のひとつで、鹿児島坊津が平氏の本拠地。
(川辺の地・建部の地)
 又 中国から入る船は 坊津に 入った。

 近衛は 家康や秀吉ににらまれると 坊津へ かくれた。
 建部の地でもあり、建部は ヤマトタケルの名代部。
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大中津日子命の系図

              11代 垂仁天皇
         |        |        |
     (子)12代 景行天皇(子)やまとひめ(子)大中津日子命
         |                 |                (子)やまとたける        牟礼別祖
         |
      (子)14代 仲哀天皇

  大中津日子命は ヤマトタケルのおじ様にあたる。



[66]白石さんからのコメント(2013年09月30日 06時19分51秒 ) パスワード

新羅の血が入っているという 南朝の忠臣・児島高徳 、呉から後の球磨国(狗奴国)となったと推定される
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これも 又 直接のつながりは?だが、ヤマトタケルから
とびとびに 消息がでてくるが
嵯峨天皇子孫渡辺綱の子孫が 松浦水軍の系を引く 松浦氏。
松浦氏には 安倍氏の血も入る。

松浦氏の女子と 中山氏の男子の 間の女子が 公表されている明治天皇ご生母。
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中山氏は 花山天皇の子孫で、藤原北家花山院流。
※前に書いた良峯に関する 元慶寺 で出家させられた。

花山天皇の子孫は 公卿辞典に王氏。 源氏でもある。

この 王氏 伯家白河家が 「先代旧事本紀白河本」を 持っていた。

中山局は 宝塚の 「中山寺」に 安産祈願をされた。

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中山寺は 聖徳太子が大中姫の夢のお告げで 建てた寺。11面観音の総本山。
大中姫の墓も 中山寺にあるという。

聖徳太子には 蘇我氏の血が入っている。
※蘇我氏の女性については 前に 南家武智麻呂・現天皇家につながる元になる人など 書きました。

※中山寺の「白鳥塚古墳には」白鳥伝説がある。
※大中姫
大帯日子(おおたらしひこ)天皇(景行天皇)が迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)を娶って生んだ子の大江王の娘・大中津比売命(おおなかつひめのみこと)

『古事記』は倭建命の曾孫(ひひこ)である迦具漏比売命が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうけるという不可解な系譜を載せている。

どちらにしても ヤマトタケル 景行天皇 垂仁天皇の流れ

姫のうんだ子が忍熊皇子・麛坂皇子だという。 
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多臣氏の元は仲津臣であり、常陸の那珂臣氏はその分かれ
元は仲臣と呼ばれた有力な氏族として、奈良の春日山麓の大春日氏は和邇氏の一族である。
和邇氏は皇統譜に連綿と妃を出した。
※まる子ちゃんの顔が 妙に ご子息と似ている。竹田さんがお嬢さんに似ている と 思っていましたが、春日・和邇が出てきました。
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タリシヒコ
※足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)は 14仲哀天皇のこと。
帯中日子天皇(古事記)。「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、
ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇も同じ称号を持つ。

34代舒明天皇の諱は田村皇子(たむらのみこ)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。

35代皇極天皇は 重祚して第37代 斉明天皇(さいめいてんのう、
諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)。
和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
忍熊皇子・麛坂皇子
仲哀天皇は九州でなくなられ、神功皇后の子・応神天皇の異母兄2人は 
武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を将軍とする皇后軍と戦い、破れ、大中姫と共に 中山寺に祀られると言う。
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川辺川筋に小野という集落があり、伊勢神宮社家にみられる苗字の家があり、観音堂がある。又 京都山科の地は 小野一族が栄えたところ。空海(景行天皇につながる?)にゆかりする髄心院があり、絶世の美女といわれた 小野小町もここにいた。

「小野一族」は自分たちは「アメノタリシヒコ」という人の子孫だと言っていた。
山科の小野の地は藤原が栄えたところ。鎌足が 藤原姓をもらって 他の 藤原氏は 名を 変えた。


「兄天押帯足日子者。<・・小野臣・・之祖也>」(『古事記』孝昭天皇段)
「天足彦国押命。此和珥臣等始祖也」(『日本書紀』孝昭68.01.14)
「大徳小野臣妹子。家于近江国滋賀郡小野村。因以為氏」
(『新撰姓氏録』左京皇別下、小野朝臣条。『日本古代氏族辞典』p.135)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大中津日子命は
山辺之別、三枝之別、稲木之別、阿太之別、尾張国之三野別、吉備之石無別、
許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟礼之別らの祖である。

稲木之別
田中天神跡
愛知県犬山市天神町三の十五
名鉄犬山駅下車、東口より徒歩五分 
田中天神は、稲木神社の俗称である。
祭神 大中津日子命・少彦名命

稲木神社(いなぎじんじゃ)
愛知県江南市寄木町稲木
名鉄犬山線布袋駅より徒歩三十分。
式内社の尾張国★★丹羽郡★★稲木神社である。
江戸時代は「天道宮」と称していたことから、「お天道さん」とも呼ばれている。
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「秀真伝」をしらべて 書いた本 松本善之助氏の本には
二条 天道宮 お天道さんの 宮司・小笠原氏 が出てくる。佐田の 系では ないのだが 武田―小笠原―白石 の 筋が ある。伊予の小笠原氏。

「秀真伝」 は 中臣氏と 原・春日氏の関係について 九鬼文書と 不思議に 一致することを載せるものがある。
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星の他に 日もでてくるけど、神武天皇は 日の神の子孫といっていたので、日・星の組み合わせもあるのではないか? 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
仲津臣は
  大田亮氏姓系辞典より
★ 仲津臣
豊前国に 仲津郡あり。郡内に中臣郷あり。関係あらん。
又 後世 下毛郡に中津の大邑あり。
@ 仲津臣  中臣条をみよ。
A 豊前の仲津氏  
B 下毛郡の豪族にこの氏みゆ。
応永の頃 仲津江太郎あり。大江姓を称したか?と。
★ 中臣氏発祥の地
豊前国中臣郷仲津郷付近
神武紀 
★★中臣祖種子と 豊前国 兎狭津姫と結婚★★したことを伝え、中臣系図がその子を宇佐津臣としている。

神武天皇は 東還のとき 宇佐によられている。

又 景行紀 12年条
天皇熊襲 親征の際 柏峡の大野にて、直入中臣神を遥拝されている。
このことも 中臣が 古く 豊国に 栄えたことを 語っている。


うさつ姫は 高魂産巣日神の 子孫。
この 神から 小山連 山口 竹田 大伴 川辺 など 出た。
大田亮氏姓系辞典
 ★ 中臣
児屋根命の子を 天押雲命 その子を 天種子命という。
うさつ媛と結婚し、宇佐津臣を産む。その 六世孫 大鹿島は
垂仁紀に中臣遠祖 大鹿島と みゆる。当時は 連姓を 称していなかった。
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一杯書きすぎました。ごめんなさい。
頭をひやさなければ・・・





[67]子孫よりさんからのコメント(2013年09月30日 06時45分24秒 ) パスワード

おはようございます。
香春町に関するご教示ありがとうございます。
香春神社には今年の2月頃だったと思いますが、行ってみました。
理由は、単純に、素通りしていたこの町に由緒あるお宮があるのは知っていたのですがどんな所なのだろうという好奇心です。説明文も読んだのですが、言葉やお名前が読めずチンプンカンプン?でただ、宇佐神宮と深い関わりがある事は理解出来たのですが。(*_*)
白石様のご教示により、あ〜そういう事だったのか!!と。ありがとうございます。
2月に行った時にチンプンカンプンだった言葉が、今日はちゃんと(??不安ですが少しは読めるようになりました。)内容が見えてきました。(エ〜まだその程度って言わないで下さいね(*_*))
これも、皆様のご教示のお陰です。
国道沿いに”採銅所”という信号があるのですが、近年の地名かと思っていました。(セメント材料の採掘で、香春の山は地肌がむき出しになっています。(*_*)。日本の高度成長期をお山が支えてきたのですね。)
由緒ある場所だったのですね。
古宮八幡宮近くの信号標識は宮原(ミヤバル)です。ここを通る時は「あ〜お宮があるからね〜」と思っていました。
宮内庁が管理する古墳もあったわけで、香春町は由緒ある場所なのですね。
多分、北九州とか田川というと、現代では全国の人は殆ど”怖い(−−〆)場所”といったイメージの方が強いのかな?と思います(悲しい(*_*))
明治以来の政策で工業地帯へと変わってきて、様々な歴史に関連する場所が開発されてしまって、住んでいる人達も(特に北九州の人々)その土地土地の歴史・由緒など全く知らない人が殆どだと思います。(私もその中の一人でした)
ちなみに、家の近くに(市街地)古墳があったのですが、この頃、開発されて複合施設が建ちました。
福岡県内でも、大宰府とか博多とか糸島地方とかは歴史を大切にしている場所が沢山あるのですが、どうも、北九州方面はこんな事を言ったら良くないかも知れませんが、歴史が蔑(ないがしろ)にされているようで・・悲しい事です。何故なのかな?(*_*)
でも、地名は残っていますよ(^・^)
八幡西区黒崎には”皇后崎”(周りは工業地帯です)など(^・^)
もちろん、経済の発展は大事です。でも、おもむきが変わっても、歴史を後世に伝えていく事は今を生きる人のもう一つの役目ではないのかと思います。
(偉そうな事を言いましたが、うう〜ん、難しい)

河内王陵の謎から話が脱線してしまいました。すいません<m(__)m>
[68]白石さんからのコメント(2013年09月30日 20時07分52秒 ) パスワード

65の系図はずれてしまいました。
景行天皇の子供・ヤマトタケル 其の子・仲衷天皇。
大中津彦命 が 牟礼別祖 です。
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66児島高徳の方は 越王勾践をいっており。
中国の本では 倭人は呉の太伯の末と 言っている。
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38経津主神とヤマトタケル
葛西神社が出て、徳川家康尊がいて なんなんでしょ!!と思いましたが、

葛西氏は桓武平氏平良文流。

徳川家康と児島高徳
子孫様のお母様が口にされた 朝倉さんとは もしかしたら 北九州?朝倉郡夜須の朝倉ではないのでしょうか?南朝の忠臣・児島高徳の関与する児島の宮があるところ。

大分前ですが、パート先で いとうさん という人と知り合った時、その人が
朝倉郡出身だといって、

お父さんは 昭和天皇と友達だってん と 言っていました。

あさぎり町の平川家が  南朝方であったことは 濃いと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://www.rak1.jp/one/user/yasukuhu/
熊野・伊勢神宮の総本社
夜須天満児島宮ホームページ
南朝の忠臣・児島の宮は夜須にある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
家康と 高徳の関係は
http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=kojima&dd=22&re=584
児島高徳と中条氏

東寺長者道乗妻は上沢、中条家長(後の稗貫氏)上沢氏女
上沢家の先祖について上沢家に伝わるところによると、本姓は伊東といい、九州より兄弟二人で落ちてきたという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

              佐々木氏|
伊東ーーー上沢(中条家長)女子ーーー佐々木の養子・閉伊氏を名乗る。
        ||             和田備後守・範長女
      北條時政女       上沢氏女  ||ーーーー『児島高徳』
       ||ーーー女子     ||ーーー頼宴
       加治信実 ||ーーー東寺長者道乗
            頼仁親王      

閉伊氏の祖は佐々木十郎光幸といい、閉伊郡に所領を得て閉伊頼基を名乗った。
頼朝の口添えで佐々木四郎高綱女の養子
―ーーーーーーーーーーーーーーーー
鎌倉初期、久慈郡や糠部郡は鎌倉幕府の最有力者である北条氏の所領であった。ここにも、佐々木、加地信実との関係が出ている。
北条時政の女が、加地信実の妻になり、生まれた女が、頼任親王にとついで、生まれたのが東寺長者道乗で、
この道乗が上沢氏の娘を娶って六子を生み、
その第二子頼宴が和田備後守範長の娘を妻として生まれたのが児島高徳である。

ーーーーーーーーーーーーーーー

加地信実─時秀─東郷胤時─甥子児島高徳、逸見重氏児島盛綱女婿逸見重氏(法名定心)家長幼少ニツキ逸見重氏盛綱女婿三宅定心
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
稗貫氏 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/稗貫氏‎
稗貫氏(ひえぬきし)は、陸奥国稗貫郡を支配した豪族である。 ... 稗貫氏は奥州藤原氏滅亡後の建久8年(1197年)、伊達氏の始祖である伊達朝宗の4男(3男とも)・伊達為家の子・伊達為重が稗貫郡に下向し、その地名を姓にして稗貫為重と名乗ったのが始まり ...
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(南朝の忠臣)皃島高徳 と 新田 と 佐田 と 徳川家康 の関係

  義助(脇屋)室高徳女子徳子ー脇屋義治(政義女子脇屋義治室)
義明(妻は★★佐田義久★★(脇屋義治の末子)の娘) 義隆.

家時(新田源太郎)ー満義ー政義女子脇屋義治室 
(源)新田義重ー義季(得川四郎)ー頼氏(世良田)ー教氏ー家時ー満義ー政義ー親季ー…★★松平清康━広忠ー徳川家康★★
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夜須町(やすまち)は、福岡県朝倉郡にあった町。2005年3月22日に、★★三輪町★★と合併して筑前町となった。
ーーーーーーーーーーーーー
http://www.catv296.ne.jp/~sensyo/chimei-yasu.htm
ふるさとの「地名の由来」

中世は少弐氏の支配地の一つであった。江戸時代に入り福岡藩の領地となったが、元和9年(1623年)、支藩として★★秋月藩★★が成立し、現在の夜須町の内、三箇山、畑島、下高場、四三島の各村が秋月藩領となった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日下部氏は出てこないけど、朝倉のことばから・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
河内王陵については
河内王は天武天皇の子(または天武天皇の子の長皇子の子)で、西暦689、筑紫大宰 帥(だざいのそつ)大宰府の長官に任じられ、大宰府へ行く途中、大宰府道を通り、この 地で旅の疲れを癒しました、その時世話をしたのが手持女王でした

と 手持女王の方から 出てきましたが、これくらい しか 収穫はありませんでした。

尚 まる子ちゃんのブログで、天武系の 天皇は 皇統譜から はずされている という 意味のことが 書いてありました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
忍阪のことばから 鏡王が 出てきました。
鏡王女王忍阪墓 - 奈良に住んでみました
http://small-life.com/archives/11/08/0818.php

藤原不比等の妻 天智天皇とも関わっていた人
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%8F%A1%E7%8E%8B%E3%81%A8%E7%B3%A0%E7%94%B0%E7%8E%8B&ei=UTF-8&fr=mozff
上代における額田王に関する資料は、『万葉集』に収録された歌の他には、『日本書紀』 天武二年(673)二月の条に「天皇、初め鏡王の女(むすめ)額田姫王を娶して、十市 皇女を生しませり」とあるのみで正確なところは不明です。

鏡王 額田王 共に 正確なことは私は知りません。ネット検索で出たものです。
十市 は 多氏 中原 などと 同族。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鏡王女を 鎌足の妻とするのは 興福寺縁起 のみである。

現在の奈良 興福寺 の起源となった「山階(やましな)寺」は、天智 8年に藤原鎌足が重い病気を患った際に、鏡女王が夫の回復を祈願して山背の地に 造営

なども 他の ネットで散見しました。
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[69]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月30日 20時22分29秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>「秀真伝」をしらべて 書いた本 松本善之助氏の本には
 
秀真伝などの古史・古伝は後世に作られた偽書であることが明白なので引用注意。
詳しくは下記参照。
http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a5.htm#041
 
どうせ欺くのなら、神代文字を8母音で構成するか漢字で表記しておけば馬脚を顕さずに済んだのだが、ここでも太安万侶が笑っていますね。
[70]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年09月30日 20時34分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>香春町の河内王陵はどちらのお墓なのでしょうか? 
 
宮内庁の認識している通り、天武天皇の皇孫、長親王の子。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01216.gif
 
河内王の裔は高橋氏だが、出自仮冒の疑いが持たれている。

[71]子孫よりさんからのコメント(2013年09月30日 23時50分59秒 ) パスワード

皆様、ご教示ありがとうございます。

日本の苗字七千傑様。香春町の河内王陵の河内王は長親王の第一子の方だったのですね。疑問が解けてすっきりしました。ありがとうございます。
天武天皇についてウィキの情報を読んでいたのですが、身長が175センチと推測されると・・この時代に175センチはとても背の高い方だったのですね。以前、桓武天皇もかなり身長の高いかたであったという内容を見た事があります。 現代と比較は出来ない食環境であったと思われるのですが、皆様、当時にしてはかなり大きな方であったのですね。

白石様。朝倉郡!そうですね、私、福岡県に住んでいながら、その発想がなかったです。
岩切は士族と言う事は、高鍋が秋月藩となった時に秋月藩に仕えたのかな?と思いました。その流れで母が朝倉という言葉を覚えていた可能性はあります。
母の事だから朝倉(福岡県)がアサクラさんになった・??多分そうです
<m(__)m> お気づかいありがとうございました。ううん?でも、今、思い出しました。児島のおじさん? あれっ?あれっ?なにぶん、8歳から殆ど親戚関係が解らなくなってしまって。でも、”児島のおじさん”は覚えています。
ううん??すごい近い親戚だったのはたしかなのですが・・そこが思い出せません。(@_@)

お話は変わりますが、早く、日本の苗字七千傑様よりご教示頂いた、”古代日本領土の起源””古事記は神話ではないを”読みたいと思います。とてもとても楽しみです。






[72]白石さんからのコメント(2013年10月01日 05時17分43秒 ) パスワード

おはようございます。
今日も元気に頑張りましょう^^
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7000傑様 ご教示ありがとうございます。
ごちゃまくれになっていた知識が すこしづつ 整理されてきました。
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子孫様
児島高徳 本名は違うようですけど・・・私も うちがこちらの方とのつながりがあったのかどうか など まったく知りません。

上にのせた児島高徳の系のなかに 佐田のことばがあり、この家は 筑後の方かな?とは思いますが、うちとは遠い存在のようです。昔に遡れば近寄ってくるかもしれないとは思います。

うちの佐田は 毛利様に関して 少しばかり おばから 聞きました。
又 しょうゆをつくっていたそうです。

苗字帯刀を許されていて、戸籍を見たら ○○蕃屋敷と 書いてありました。
この書き方が すべての 県民の 他の県では 番地に該当するところにつかわれていたのかどうかは 知りません。
父の方の戸籍は 番地です。

言い忘れていましたが、
高い鼻は 父の生家(高岡)のおじ(いわば高岡当主)が がっしりと高い鼻でした。

山口県は 宰判(?すみません。史料を見ずに書いているので) という 言葉も 使っています。
戸籍係に尋ねたら 江戸時代頃使われた言葉で、自分たちは常識で、全国そうだと思っていました。 と いうことでした。

なぜ 尋ねたか? というと 国史辞典の菊池だったか?のところに 高田牧宰
という言葉があり、牧宰とは 唐の頃の 国主の意味だそうです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次々と 違う 苗字を出して申し訳ないです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上球磨は護良親王。菊池は懐良親王。児島高徳は宗良親王に仕えたと記憶しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ところで
またまた 違う話で申し訳ないですが、宮原(橘)から(※正確には宮原は出ない。橘姫と書かれる。日下部も出ない)
あさぎり町の 千手の局 という お話があるのですが、お母様の薩摩藩士ということから 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宮崎県 宮崎市 佐土原  児湯郡高鍋町 を 地図で検索したら 線路の 次の駅?位ですね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
熊本県 あさぎり町−千手の局(つぼね)伝説(その1) - あさぎり町役場
http://www.asagiri-town.net/q/aview/48/625.html
出てくる言葉
島津貴久  島津家久
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
熊本県 あさぎり町−千手の局(つぼね)の伝説(その2) - あさぎり町役場
http://www.asagiri-town.net/q/aview/48/628.html
でてくる言葉
室町時代に下相良氏に滅ぼされた上相良氏(多良木)の分家の肥知岡(ひぢおか)氏

島津家家老本田丹波守親泰

★★「橘姫」★★「少納言」

★★千手の局(上相良氏)がうんだ 家久については、鹿児島県の串木野(現串木野市)の地頭であり、やがて宮崎の佐土原城主となりました★★

家久公の娘は、相良家の重臣相良清兵衛頼兄(※犬童頼兄)の息子の相良頼安(よりやす)と再婚し相良頼章(よりあき)を産んだといいます。その頼章は薩摩の加治木に移り住み、島津義弘により元服し、相良長毎の次女・於(お)萬(まん)と結婚しています。
※犬童について深水が水俣から入ってきた。と 前に何かで読んだことが・・
※永吉=350丁 良峯師高  永吉は 鹿児島にみられる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
お母様の筋は 日下部氏と はっきりしているので 
何故 薩摩藩士? お父さまと結婚している などのことで
もしかしたら もしかしたら と 思います。







 
[73]子孫よりさんからのコメント(2013年10月01日 07時17分18秒 ) パスワード

おはようございます。
お話の中に子供の頃、聞いた事のあるお名前が”橘姫”と。
どこで聞いたのか宮崎でだったのか球磨でだったのか記憶が・・・?
でも、初めて聞いたお名前じゃないのです??(@_@)
でも、千手の局と言うお名前は初めてで・・
ちなみに母方の祖母は佐土原から嫁いで来られたというのは覚えています。
佐土原や富田(とんだ)とか、親戚のあった地名を覚えているので・・
それで、どの家も氏族だったとは聞いていますが・・。後、都城・小林にもどなたかいらっしゃったような・・・

父と母は航空自衛隊の若手隊員が主催するダンスパーティーで知り合ったとか?聞いた事があります。
今で言うと合コン?(^◇^)あっ、二人に怒られる(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
”先祖が合わなかった”という世にも不思議な離婚原因を聞いた時、子供心に「ううん?お父さんが平家でお母さんが源氏?」とわけのわからぬ事を考えていました。(ー_ー)!!

でも・・私の結婚(結局離婚しましたが)も恋愛だったのに何故か嫁ぎ先が菊池一族とか越智家が関係していて・・ううん?不思議です。恋愛中に、先祖の話など二人ともした事はありません。・・・??????
またまた(ー_ー)!!っと日本の苗字七千傑様も白石様もおっしゃるかも知れないのですが・・これだけは公表?しないでおこうと思っていたのですが(芸能人か?!(-_-;))とりあえず聞いて下さい。
恋愛中に久留米の長門石と言う場所に、霊験あらたかなお寺に(だったかな?神社だったかな?名前が出て来ない)いってみよう(^O^)/と出かけた時の話です。
とっても広い駐車場があって、門を入った所に、ゴザを敷いて座っているお婆さんの集団!が・・「???」と思って見たら占いをされているような・・料金いくらとか書いてあったので、お金も無いし見ないふりをしてそそくさと通り過ぎようとした時、一人のおばあさんが急に「ワァーッ!!ア〜!!」っと叫ばれて。「お嬢さん!お嬢さん!」と声を掛けてきました。「こちらへどうぞ」と言われるので、(お金もないし・何だか怖いし)私は、「あの〜すいません。私は・・(ー_ー)!!」と断ると、「お金なんかいりません。ちょとお話ししたい!!」と言われるので、側に行くと。「お嬢さん!あなた物凄い方が守っていらっしゃいますよ!とても立派なお姿で!そして、その方にはすごい数の侍(だったと思います)の方々が付いて来てこられています\(◎o◎)/!」と・・。
エエッ?私、集団で来た!?と。またまたもう(ToT)/~~~と後ろを振り向いてみましたが誰もいません。(当たり前か)
そして、元夫に(当時はまだ結婚していません)「あなた!!このお嬢さんを泣かせるような事をしたら、とんでもない事になりますよ!!イイデスカ!」と。そして、私を手招きしてこられたので、近寄ると耳元で「あなたは、この方に一生添い遂げるという事はありません」と小声で言われました。
当時は恋愛まっただ中で盛り上がって(?)いる真っ最中だったので「なんだ(-_-;)このおばあさん!もう!(>_<)」と思い、「あの、料金は?」と伺うと「イリマセン!(ー_ー)!!」と・・。私は社交辞令のような笑顔を見せてそそくさとその場を去りました。
その後、結婚すると彼は豹変して・・まあこの場で言うと良くないですが・・
だけど、私に大声を出して寝た後、いつもうなされていて。起きたら、「お前のせいで、怖い夢を見た!」とまた逆切れされて・・。
結局、これまた双方が合わなかったのかな?と今は思います。元夫も結婚するまでは、本当に良い人でしたし。離婚して大病を患いましたが、(この時ばかりは”今は私は幸せだから、助けてあげて下さい”と心から祈りました)娘いわく、「お父さん、本当に変わったよ(^・^)」と昔に戻ったようで、良かったな〜と思う今日この頃です。
やっぱり、何かが合わなかったのでしょう。

皆様、またまた(ー_ー)!!と思われた事でしょう(*_*)
でも、やっぱり、人が生きていく上で何らかの縁は多かれ少なかれあるのだと思います。<m(__)m>
あっ!仕事! 行って来ます(^O^)/



[74]子孫よりさんからのコメント(2013年10月01日 18時55分24秒 ) パスワード

こんばんわ(^・^)
朝は摩訶不思議な妙な事を書いてすいませんでした。<m(__)m>
仕事をしていて時折反省をしていました。<m(__)m>
私が体験した、不思議な出来事は自分だけの問題であって、このスレッドには関係ありませんでした。
どうも、皆様すいません。<m(__)m>

私の事を気持ち悪い人(ー_ー)!!と思わずに、今後もご教示よろしくお願い致します。<m(__)m>
[75]子孫よりさんからのコメント(2013年10月01日 19時12分58秒 ) パスワード

この頃この地名はなんだろう?思った場所を書かせて頂いていましたが、ずっと前から気になる地名が実はあります。
それが新田原です。

実は、この地名私が知っている所で2か所あるのです。
それも、航空自衛隊の基地がある場所。
一つは宮崎県。私が生まれた新富町にある
航空自衛隊新田原基地(ここでは新田原→にゅうたばる と読みます)
二つ目が福岡県築城町にある
航空自衛隊築城基地・自衛隊のすぐ近くが(ここでは新田原→しんでんばる と読みます)

九州の空を守る基地が其々”新田原”にある訳です。
この地名、国を守る為の何か意味合いがあるのでは?古代の国に関係するのかな?と。

何故、新田原に航空自衛隊が??不思議です。 偶然かな??(?_?)
[76]白石さんからのコメント(2013年10月01日 20時36分58秒 ) パスワード

一日があっという間に過ぎていきます。
もう この年なら ゆっくりと季節の移ろい、時間の変化を楽しみたいのですけどね^0^

彼岸花ももうおしまい。栗も頂いたし(栗ご飯は美味しかった)、次は13夜のお月様。
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橘姫 あちらでは 橋姫とかいうらしいですが・・・
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千手の局と あと 篤姫の関係を系図にしました。系がずれなければいいけど・・
           島津義弘   上村長陸  
恒松氏         ||     ||
 ||ーーーーーーーーーーーー女子
相良晴広        



   那須氏・つゆけさ  蓑田甚兵衛妻ー連れ子・田代半兵衛頼昌  
       ||        ||
父・犬童頼安ー相良清兵衛頼兄(犬童清兵衛・田代清兵衛?)ー子・相良頼安
                
                            ↑ーーー相良頼章
        島津家久女(島津久信室 後 相良頼安室(義弘により元服)
                                  ||
                        相良長毎の次女・於(お)萬

前に書いたあさぎり町の千手の局が生んだ 島津家久。この子孫枝分かれから  篤姫。

篤姫の遠祖
島津久丙 は 一所持格/初代薩摩藩主・島津家久(18代)の四男・忠広を祖とする。

http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=3073
さつま人国誌「島津豊久の母の悲しみ」 | 373news.com

島津豊久の墓(左から二番目)とその母(法号:蘭香永春大姉)の墓(右隣)=宮崎市 ★★佐土原・天昌院跡 ★★
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篤姫系図
http://kingendaikeizu.net/simadu.htm
http://kingendaikeizu.net/simadu.htm#narinobu

[77]白石さんからのコメント(2013年10月01日 20時45分05秒 ) パスワード

もたもた書いてたらまたまた先を越されました。
新田原   ???です。

熊本には 田原阪があるけど・・・
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相良清兵衛は2人のお嫁さんをもらった。

あさぎり町に 恒松家文書がある のを 見て、あれっと 思って かいてみました。
相良氏と結婚する恒松氏が どこかは わからないのですが、私の集落にも市房神宮のお鏡を預かる家と同じところに 恒松があります。

田代 深水は 阿蘇氏支配の頃 阿蘇氏家臣 後 相良氏家老。(本にはそうかいてありました)

子孫様の方では 犬童氏について水俣から入ってきた深水氏。

あと ネット検索で 上の人達を追いかけると 園田も でます。薗田も集落にあります。
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以上 佐志原から 篤姫が 出ました。
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[78]白石さんからのコメント(2013年10月01日 20時52分23秒 ) パスワード

新田原のこと
http://plaza.rakuten.co.jp/WingForPeace/diary/200601290000/
日本語の古くからの接頭辞の「にひ <ニピ:nipi 」に起源を求めるのが素直であって,「にひ →にふ →にう →にゅう」という変化は,日本語の枠の中で完全に説明することができます(参考までに,越中=富山県の「新川郡」は「にふかわ郡」という読み方をされたことがあります)。

いわゆる「アイヌ語地名」らしいです。 (2006.01.30 00:36:32)

同じような疑問を持つ人がいたのですね。

アイヌ ・・・
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[79]子孫よりさんからのコメント(2013年10月01日 22時04分36秒 ) パスワード

ご教示ありがとうございます。
先日、香春町に行った時にも田んぼのあぜ道に彼岸花が咲いていました。✾
ずっと、暑い日が続いていたのに、彼岸花はちゃんと咲くわけですから、植物だけは私たちに季節を教えてくれていますよね。(^・^)

所で!篤姫はあさぎりに繋がっているとはびっくりしました。
球磨の地はほんとうに不思議です。
深水家は私の曾祖母の生家です。以前お話しましたが、平川に伝わる着物を使って私に手まりを作ってくれました。息子の誕生日は、この曾祖母の命日。娘の誕生日は平川の曾祖父の命日。めちゃくちゃ偶然なのです。私、曾祖父も曾祖母も赤ちゃんの時に亡くなったし、二人の命日申し訳ないけど知らなかったから。(*_*) 親戚一同「なんでかね〜?!!」と・・・

ところで新田原の地名に??不思議と思っていた人がやはりいたのですね。
多分、自衛官の人かその家族では?私もアレレッ何でおなじ?と。
まあたぶんなのですが、その地名の場所は、土地が広くて滑走路が作り易かったのかな?と。
でもですね(@_@)宮崎の新田原は古墳が沢山あったのです。(小学校の遠足で行っていました)新田原にこだわるだけでなく、例えば、九州の航空自衛隊基地がある所は久留米の”高良台”・”春日”・”芦屋”・・・どこか古代のお話で聞いた事がある地名でしょう(@_@)
ちなみに、父は奈良の航空自衛隊幹部候補生学校に行きました。”奈良”
もしかしたら、現代の国防(特に航空隊)は何かの定義に基づいて国を守っている?いや守られている?・・・
あ〜またまた、妙な感が出てきたのでこの辺でこの話題は・・・(ToT)/~~~

[80]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月01日 23時26分08秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>いわゆる「アイヌ語地名」らしいです。
 
こんなことで驚いていてはいけない。
縄文時代の主要国家は、ほとんどアイヌ人と倭人の混血種族の国(いわゆる地祇系)。
地名を分析すれば解る。
例えばクマ、ヌタ(ヌマタ)、イガ(ガ)、グスク、グスキなどはアイヌ系地名で、なんとグスクは沖縄に残存。
熊本県は九州アイヌの拠点。
弥生時代に入ってから倭人と韓人の混血族や純粋の韓人系(馬韓/辰韓/弁韓)が民族大移動で新国家の本拠地を大和に樹立。
熊曽国とは、曽の地(鹿児島県と沖縄県)を領土とする南方倭人(麻の人)の国であるとともに九州アイヌ(熊をトーテムとするアイヌ系倭人)との複合民族国家。
「古代日本領土の起源」を閲覧すると、記紀の謎が氷解します。
太安万侶が苦笑いしますけどね。
[81]白石さんからのコメント(2013年10月02日 04時26分27秒 ) パスワード

おはようございます。
日本書紀が出来上がった頃、2神社6家の古文書・家系図が国に引き上げられたのですね。

そして、丹波の王をかついだ 尾張氏・大伴氏は差別されたと本で読んだことがありますが・・・

継体天皇は同じ日に 皇子共々 なくなられた と・・・
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前にテレビでアイヌの町長さんの顔がクローズアップされたので 見たことがありますが、ネットにアイヌの人の特徴が書いてありました。

そして、読んでいると
なんだ 日本人のほとんどが そうじゃないか!! と。

須恵村の調査に入ったあと 百済だろう と 書いてありました。
前からいた人達と かぶっているようです。

私の故郷も 縄文時代からの遺跡があります。そして 神武を祀る神社 平家城跡 相良の外城
古くからある家も 混血してきたのでしょうね。

昔の遺伝子が目覚めて 濃く 出る人もいるかもしれない。

そう思って 同級生の顔からだつきを 思い浮かべると
竹田さん 菊池さんは 同じ顔。それこそ 爪楊枝がのるくらい。
目が大きく まつげ長く 背は普通でした。

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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1290200152 より抜粋

アイヌには[新生児に蒙古斑が無い]など、シベリア経由のコーカソイド(白人)もいます。

沖縄県民と同じタイプの人達もいます。

共通する事は、顔の彫りが深いと言う事ですね。

弥生人は、朝鮮人や中国人と同じ[新モンゴロイド]です。

弥生人は 日本人の30〜40%だそうです。

北方系縄文人は、アメリカの先住民とも同じDNAがあるそうです。

また、上の人の言う[M7a遺伝子]は、沖縄〜台湾発祥の遺伝子で、沖縄県民と北海道縄文人に多い遺伝子です。

同じ会社にいた[アイヌの末裔]は、眉毛に爪楊枝が乗るほど、太く濃い眉毛で、がっしり体型(背は普通)、顔が四角い感じで、確かに毛深かったですね。
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北方系縄文人は、アメリカの先住民とも同じDNAがあるそうです。

※他のスレッドでお話していた方が、マチュピチュの話をしておられましたが、この系統を意識しておられたのかな?
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私の母の顔にそっくりだったトン族は 前にもネット検索抜粋を書いていますが 
遺伝子分布統計によれば、Y染色体FR-02bという共通性も見つかっている。
(さらに細かく分類すれば、朝鮮民族と日本民族は異なる染色体を持つ)。と

弥生人は 朝鮮人や中国人と同じ新モンゴロイドです。と 上に書かれる 
朝鮮民族と日本民族は異なる染色体を持つ のとは若干 異なるようだけど、この遺伝子の話あたりになると 専門的ですね。
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ちなみに 私は 毛は薄い 方です。混血児?
わたしのことは どうでも よかったですね。
つい どっちかな? と 誰だって自分のはるか 昔のご先祖様のことは気になりますよね。
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[82]子孫よりさんからのコメント(2013年10月02日 06時35分05秒 ) パスワード

おはようございます。
皆様、ご教示ありがとうございます。
新田原→アイヌの言葉! 縄文時代とかもっと以前?のはるか昔に繋がっていたのですね。\(◎o◎)/!

ふと、??何だろうと疑問に感じた事が、日本の苗字七千傑様、白石様のご教示により、はるか古代まで繋がって・・このスレッドはまるでタイムマシーンのようです\(~o~)/。白石様のおっしゃる通り、はるかはるか昔の先祖様がいらっしゃったからこそ、現代において自分が存在できる訳ですから・・・
ワクワクして来ました。今週の土曜日にゆっくり図書館へ行くつもりです。
日本の苗字七千傑様から教えて頂いた本 、”古代日本領土の起源””古事記は神話ではない”しっかり読ませて頂きます(^○^)φ(..)メモメモ

あっ!白石様、私は全身は毛深くないのですが(どっちかと言うと薄い・いや薄すぎる特にワキ!お手入れしなくても殆ど生えてきません。きゃ(*^。^*)恥ずかしい)だが!しかし!うなじは・・成人式の前に髪をアップにして父に「お父さん!髪はこういう風にした方がかわいい?(^・^)」と聞いた所、父が言い放った一言「あっ!ゴリラのうなじミタイだぞ!(^◇^)」・・(-_-;)
多分、私もハーフ?です。それも毛濃い血と毛薄い?血がものすごい自己主張をしています。

おっしゃる通り、染色体やDNAの研究でこれからはもっともっと科学的に解明されてくるでしょうね(^○^) 

さっ!帰宅してからの時空旅行を楽しみに、仕事に行ってきまーす。(^O^)/
[83]管理者 aさんからのコメント(2013年10月02日 06時53分34秒 ) パスワード

レス数が90になったら新しいスレッドに移行してください。

99になり次第、このスレッドは閉めます。
[84]白石さんからのコメント(2013年10月02日 22時32分44秒 ) パスワード

こんばんは。お疲れ様です。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
さっきまで 面白そうなのを見つけ、読んでいましたが、わからないところがあって、眠くなり、一眠りして 今書いているところです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
くるそん→龍王→龍城国
なので ★龍城国と燕★・・・(神武の兄は燕(常世国・海原)に行った)なので
で検索したら
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/sub2.htm
--------------------------------
http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/sub3.htm
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/sub4.htm
「馮 弘」の渡来 
★馮 弘の長子・王仁は九州から仏教の種子を蒔きました。★

この 部分です。飛鳥にすむようになった馮 弘。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

^^^^日本の苗字7000傑様 
王仁とは 漢字伝来の新王朝・王莽に関与していた 西文の王仁と同一人物でしょうか?
教えてくださいませ。

王莽は 漢王室の孝元太皇太后になった 王政君のおい で、馮氏が政君と同じく皇帝の寵愛を受ける。

北魏馮太后 ・・・ 北燕の皇族の系・母は 王氏。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/sub4.htm
馮 弘
文中に 馮素弗(北燕国天王馮跋の弟)の 言葉が出てきて、馮跋は 韓流テレビ「広開土大王」に 燕の将軍として 出ている。

後燕国は鮮卑族の一氏族・慕容氏の王である慕容垂が再建し、その後397年に、遼寧省朝陽の
竜城に移転した国で、後に漢人馮 跋次いで馮 弘に天王位が引き継がれました。
漢人の燕国を区別して北燕国と呼んだ

ーーーーーーーーーーーーーー
一方
球磨郡あさぎり町才園古墳では 中国南北朝の頃 の ものと思われるものが出土している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さらに 
沖縄首里 

http://ost58.ti-da.net/e3796345.html
★★馮氏★★諸見里家に系図の調査結果を報告しました:沖縄の精神文化の原点
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
何がどう とは まだ 頭が整理できていませんが
河内 飛鳥 など の 言葉が出ていて 気になるところです。






   
[85]子孫よりさんからのコメント(2013年10月02日 23時17分09秒 ) パスワード

皆様今晩は、伊勢神宮では20年に一度の式年遷宮の儀式が行われていますね。
先ほどニュースで映像が流れていましたが、厳かで、テレビの前で身が引き締まるような気持ちになりました。

日本の苗字七千傑様からご教示頂いた本”古代日本領土の起源”を拝見したら解る事なのでしょうが、熊本県は九州アイヌの拠点というお言葉。遠い古代のお話なのに、とっても嬉しいです。(^・^)

やはり、阿蘇山が関係しているのでしょうか。以前、阿蘇には古代の巨大国家が存在したという話を聞いた事があります。そして、シュメールのペトログラフもあると聞きます。
縄文時代であれば噴火を繰り返す活発な火山活動であったと想像できますが、そのような場所にあえて国を起こす理由があるとすれば、阿蘇山を神と崇める人々の信仰心なのですかね・・・
すべての謎は、土曜日に・・・ (^○^)楽しみです。
[86]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月03日 01時43分26秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>伊勢神宮では20年に一度の式年遷宮の儀式が行われていますね。
 
第62回式年遷宮は「金座」への移動なので、今後20年は「経済の時代」となり、激動・波乱がポイント。
巨大南海地震は「金座」の時期にしか起きていない!
物騒ですね。
前回の金座はオイルショック。
 
皇極経世暦の来年からの十年卦は「山風蠱」で、食物の皿に虫が湧く象、国政壊乱腐敗の恐れ、これを収拾するには心を新たにして丁寧にすれば天下は治まる。(詳細は「易経」を参照のこと)
天の配剤か、いよいよ来年度から消費税増税で政治家の力量が試される。
[87]白石さんからのコメント(2013年10月03日 04時54分10秒 ) パスワード

おはようございます。

阿蘇の内郷がなまって伊勢内宮だと 聞いたことがあるのですが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんなものも ありました。
天皇家以前の日本古代王朝:サーティンキュー

その中でシュメール人の血が一番濃いだろうと、推理するが、もしかすると考えられない 超超古代に日本列島に発生した黄金人種という日本原人が存在したかもしれない。が、 その ... トウビョウ国は漢字になおして、東表国、豊日国、★★豊国★★となる。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
桜島ばかりか 阿蘇まで噴火したら大変ですね。+ 地震。

あさぎり町あたりは 黒土です。
火山の噴火で出来たものではないでしょうか?

向こうにいた頃 桜島の噴火で、人吉あたりも 薄暗くなったことがあります。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
昔 噴火で みな おろおろしていた時、強力に 指導する人物があらわれたら、皆ついていったでしょうね。
[88]子孫よりさんからのコメント(2013年10月03日 07時01分49秒 ) パスワード

おはようございます。
昨晩は、コメントが遅くなってしまいました。<m(__)m>
普通通りの時間に、家に帰ったのですが、何故か、思考回路がストップしていて、いつもの雑念?妙な感?がまったく働かず、頭の中が真っ白けになって、ウズウズ・モソモソ・ワサワサと湧き出てくる?好奇心のような物が全く出てこずにポワーッとしていました。ううん?脳が休んでいたのかな?(@_@)

でも、今朝は大丈夫です。\(~o~)/
日本の苗字七千傑様。式年遷宮とは日本国にとって、とても大事な儀式だったのですね。儀式の本当の意味を何も知りませんでした。 ご教示頂きありがとうございます。
「金座」の時期は”経済の時代」となり、激動・波乱がポイント””巨大地震”と言う事で、頭の中に”動”という文字が浮かびました。今までの時期は、”動”の為の充電期間?パワーをため込む時期だったのかな?(また、感で物を言いました。すいません)
でも、驚きました。現代の政治(国を司る)においても、古代からの教えが大きく影響していたとは。
ご教示頂いた”易経”の意味をウィキ(これしか今のところ手段がありません<m(__)m>)で調べました。
”森羅万象の変化法則を説く。古代中国の哲学と宇宙観の集大成”

”古代における占いは現代にしばしば見られる軽さとは大いに趣きを異にし、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であり、占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。”

とあり、驚きと共に、もっと知りたい!という気持ちになり(とても難しいです)気になる言葉をクリックしていきました。(読んでいっても難しすぎて解らなかったのですが・・・)
経書 → 五経 → と進んだところで、ううん?良岑安世公の、『経国集』
???急に頭の中にこの言葉が浮かんで・・
『経国集』とは単純に詩集??と言うくらいにしか理解していなかったのですが(ご先祖様、大変申し訳ございません)初めて、この先を調べてみたいと思い・・またまた気になる言葉をクリックし始めて・・『経国集』” → 漢詩”とは何??ふむふむ? → 『詩経』 → ”儒教の基本経典・五経あるいは十三経の一”・・  あっ!”五経”  読みながら進んでいくとこうなりまして、繋がりました\(◎o◎)/!

私は、まだ全く意味も何も解っていないのですが・・こうなりました。
でも、経書がとても重要なものだという事はわかりました。

”易経” とは”太古よりの占いの知恵を体系・組織化し、深遠な宇宙観にまで昇華させている”
やはり、宇宙に繋がっているのですね。

現代はコンピュータが身近にあり、”何でも”、自分の頭で考えるより、コンピュータで処理を行ってしまいますが、古代の方々は、自身で考え、とてつもない情報を何千年もかけ積み重ね、重要な”意味”(なんと表現したら良いのか解りませんが)を理解されていた。

今朝は、頭の先から足に至るまで、大きな一本の線が「ドン!!」と入ったような気分です。<m(__)m>




[89]白石さんからのコメント(2013年10月03日 19時29分43秒 ) パスワード

今日図書館で 「古代日本領土の起源」を 予約してきました。
他市からの取り寄せまたは ないかもしれない ということでした。
あると うれしいのですが・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[90]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月03日 22時23分16秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>王仁とは 漢字伝来の新王朝・王莽に関与していた 西文の王仁と同一人物でしょうか?
 
王莽は前漢平帝の外戚で漢王朝を簒奪。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03022.htm#001
 
王莽一族は朝鮮楽浪郡に逃れた様だ。 
後裔の千字文伝来と伝えられる王仁は鸞王の孫と言われている。
王莽〜鸞王の間の系譜は不明。
 
王仁の後裔に行基菩薩が見える。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03009.htm
[91]子孫よりさんからのコメント(2013年10月03日 22時27分31秒 ) パスワード

皆様、今晩は。夕方から肌寒い程になりました。やはり秋なんですね。
白石様、「古代日本領土の起源」は中々読む事が出来ない本なのですね。
わ〜っ(*_*)土曜日楽しみにしていたのに・・でも、頑張って探してみます。

トウビョウ国は漢字になおして、東表国、豊日国、★★豊国★★となる
!!!豊国。すごいですね。
阿蘇山や、久住山・雲仙・霧島・桜島などなど九州には火山が沢山ありますが、そこはいまでも活動しているいわばまだまだ元気な若い山という感じですね。でも豊前・中津・宇佐方面からみる遠くの山並みは、すでに落ち着いた風情で、まるでピラミッドのような山や、恐竜の背中のような山など、私は初めて見たときから、この風景にとても心ひかれました。その山並みは、耶馬渓です。(本当に自然に出来たピラミッドのようです。北九州にも、門司や、平尾台などに同じようなピラミッド?と思わせるような山があります。)
耶馬渓は近くに行くと全く別の風景へと変貌します。
古代に耶馬渓火山の噴火がおこり火山灰は遠く関西にまで到達したそうです。溶岩が風化し、岩肌が露出して、まるで、中国の水墨画に出てくる山々のようです。その姿にやはり人は神が住む場所というイメージを持ったのではないでしょうか?
そして、国東半島。六郷満山と呼ばれる神仏一体の宗教観が、様々な場所に見られます。奇岩群も素晴らしいです。特に両子山。こちらも古代巨大な火山だったそうです。国東 → クニサキ → 国のさき・・・あ〜想像ではなく早く本が読みたいで〜す\(~o~)/
[92]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2013年10月04日 01時28分47秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>河内 飛鳥 など の 言葉が出ていて 気になるところです。
 
驚いてはいけない。
明帰化族の那覇泊系には、なんと平姓當間家が存在する。
中国本土に平(ピン)姓が存在するから一族でしょう。
 
常陸国鹿島郡當麻邑発祥の当麻氏(当間氏)があり、常陸国守に当麻太夫、
相模国高座郡にも当麻村あり、当麻氏(当間氏)は関東地方に多く現在、東京都東村山市に集住。
また奈良県大和高田市にも多い。(こちらは大和国葛下郡当麻郷発祥)
肥後国益城郡に当麻郷。
 
麻の字を当てていることから、麻(曽)の部族であろう。
朝熊、朝間、浅間、浅磨もアサマで同じ、浅間神社(木花咲耶姫)が有名だが伊勢に朝熊山がある。(神社の方はアサクマ)
伊勢神宮が頒布する神札を大麻(神宮大麻)と呼ばれる。
[93]子孫よりさんからのコメント(2013年10月04日 05時51分47秒 ) パスワード

皆様、ご教示大変ありがとうございます。

新しいスレッドを作りました。
これからも、どうぞ、よろしくお願い致します。
<m(__)m> (^○^)
[94]管理者 aさんからのコメント(2013年10月04日 06時18分30秒 ) パスワード

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