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 投稿番号:101320 投稿日:2013年09月07日 23時02分48秒  パスワード
 お名前:瀧本 正彦
私の先祖を知りたいのです!!
キーワード:平家四国落人
コメントの種類 :落人伝説  パスワード

はじめまして。
ここにたどり着いて、日も浅いのですが、目を凝らして皆さんのご意見などを
拝見しています。見るもの聞くもの、すべて、わくわくドキドキの連続です。
私も実は「先祖探し」をしておりますが、雲をつかむような状況になって、行き詰りました。皆さんから知恵をつけていただければ有難いと投稿いたしました。
私は、「瀧本」の姓を継いで、現在、北海道に住んでいます。
私の曽祖父は、弘化元年(1844年)高知県高岡郡斗賀野村(現佐川町)永野164番屋敷で生まれたことが、佐川町役場の戸籍謄本でわかりました。明治28年、妻と子供一たこと家を連れて、北海道紋別郡湧別へ移住してきました。四国生まれの祖父も祖母もも四国時代のことは一切語りませんでした。
私の「瀧本」姓は、和歌山県に多いのに、先祖はなぜ四国に住んでいたのかなどを調べていくうちに、佐川〜越知〜仁淀川〜椿山の延長線上に、「瀧本軸之進霊社」があることを知りました。そして、安徳帝〜壇ノ浦〜平家武士と思いは馳せるのです。
この時期、熊野の別当堪増一族は源氏かた平氏かたに分裂し、平氏についた法眼行明は「瀧本」を名乗っていたとのことです。私は、その末裔かな…いやいや、それは空想にすぎないもの…と、今、77才になった私は、この先を諦めかけています。
皆さんにこの先の手掛かりを見つけるお知恵を頂けないものかと、ここにお願いする次第です。どうぞよろしくお願いいたします。


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[1]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月08日 05時45分28秒 ) パスワード

瀧本 正彦さま


初めまして。

全く分かりません。
7千傑さんからレスがあると良いですね。



お書きのように「瀧本姓」は
   熊野別当の一族と
   もう1つ、陸奥津軽瀧本から始まる南部氏の一族の
計2つの系統があるようですね。


そうしますと、県の教育委員会などの歴史を編纂している所に問い合わせると良いと思いますが。


1)高知県高岡郡斗賀野村(現佐川町)  佐川町役場に問い合わせる
  北海道に入植したいきさつなども。

2)北海道紋別郡湧別の役場あたりで北海道への入植の記録が手に入ると良いですね。


3)「瀧本軸之進霊社」「熊野」「法眼行明」あたりを県の教育委員会から史料を取り寄せる。


もう隠居なさっていらっしゃるなら、御趣味になさって、いろいろ取り寄せたりなさったら良いと思いますが。
[2]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月08日 05時54分00秒 ) パスワード

瀧本軸之進霊社で検索しましたら

http://tosareki.gozaru.jp/tosareki/niyodogawacho/tsubayama.html


1)
滝本軸之進霊社の標柱がありました。

椿山に落ち着き生活していると、川下でお椀を拾ったという人が訪ねて来て、
美しいお椀なので逃れてきた都人が暮らしているのではないかと聞く。

旅の僧だというが、きっと源氏の間者であろう。

帰らせては危険だ。軸之進は覚悟を決めた。
刀を合わせると やはり相当の腕前で、武術に自信のある軸之進もやっとのことで仕留めたのです。

間者が来たということは、椿山にいては危ないので皆を横倉山に向かわせ、自分は従者とともにここに残り、
氏仏堂を建て僧の霊を弔ったのでした。



2)
屋根葺替修復の寄付者名簿がありました。

滝本、山中、平野など平家から派生した苗字が並んでいます。


_________________________________

これを読んで、以前、横倉さんという方から書き込みがあったのを思い出しました。

新選組にも横倉という隊士がいたように記憶しています。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月08日 06時02分04秒 ) パスワード

http://www006.upp.so-net.ne.jp/yamato/yama/tubayama/tubayama3.htm

山登(やまと)さんという方がサイトのオーナーのようです。

   瀧本さんへの連絡用なので
   不都合があれば削除致します


以下抜粋コピペ:


こんな辺鄙なこんなに自然の厳しい地に、椿山という集落がなぜ発生したのかを私は知らない。

かつて合戦に敗れた平家の落人が四国の脊梁山脈を辿り、椿山に居を構えたともいう。

その時、安徳帝を先導した平家一族の「滝本軸之進」が椿山の祖といわれ、集落の中央には「滝本軸之進霊社」があり、椿山神社には安徳帝や平教経、二位尼など平家ゆかりの七人が祀られている。



集落の歴史を見守ってきた杉の古木の元には「氏仏堂(うじぼとけどう)」があり、ここには「不開の箱(あかずのはこ)」がある。

お堂の梁が厨子を押さえていてその下にある「箱」はお堂を解体でもしない限り開けることができない。

一本角の鬼面、百足や人魚の彫り物、人面の刻まれた蟹(平家ガニ)など様々な装飾と、平家隠れ里として幾多の伝説を伝える「不開の箱」。

一説によるとその中には、百足丸という宝剣や平家の氏仏が収められてあるといわれ、平家の守本尊と伝えられる将軍地蔵がそれを護っている。

[4]瀧本 正彦さんからのコメント(2013年09月08日 12時20分24秒 ) パスワード

☆空の青海のあをさんへ…
早速お調べくださり、有難うございます。いただいたコメントを読みました。
なぜか、身が震えて、血がのぼり、ほかの事に手がつかない状況が続いています。
全部プリントして、綴りひもで綴じました。繰り返し読んでいます。有難うございました。これからも、よろしくお願いいたします。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月08日 14時17分24秒 ) パスワード

瀧本さま



以下は「東鑑」より:


1185年 (元暦2年、8月14日改元 文治元年 乙巳)


6月2日 癸丑
  去る月二十日、配流の官府を下さる。上卿源中納言(通親)参陣。頭の弁光雅朝臣こ
  れを仰すと。その交名の目録、今日鎌倉に到着す。流人、前の大納言時忠(能登)、
  前の内蔵の頭信基(備後)、前の左中将時實(周防)、前の兵部権の少輔尹明(出雲)、
  法印大僧都良弘(阿波)、権の少僧都全真(安藝)、権の律師忠快(伊豆)、法眼能圓
  (備中)、法眼行明(常陸)。



ということは戦後処理で  法眼行明は常陸国に流された  ようですね。


なんかね


   あ、法眼行明が{菩提を弔って欲しがっている}のでは?と感じました。
   お彼岸に間に合うように?

   それで、瀧本さまに訴えているんじゃないか、って。


   もう一族の中で法眼行明を覚えている人がいなくなっているようで
   瀧本さまに「忘れないでいてくれているのは そなただけじゃ」と期待なさっているようです。


いつか熊野に行けると良いですね。


それに敗れた平家といえど、その後、子孫は、南朝方として和歌山や奈良に赴いているはずです。


熊野にも記録があるかも、ですね。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月08日 14時30分04秒 ) パスワード

こういうのもありますね:




雑談 - Yahoo!ブログ - Yahoo! JAPAN



blogs.yahoo.co.jp/envlow/folder/157960.html‎


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Jul 20, 2013 - 1130, 沙門行誉、那智山瀧本近くの金経門に経塚を造営。 ... 熊野衆徒、平氏に加担して上京しようとした熊野南法眼行命の子息・一族郎党を討滅する.


熊野の歴史/略年表 - 転載歓迎 日本(水俣・福島)復興 環境法規制 ...



blogs.yahoo.co.jp/envlow/23735048.html‎


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Aug 19, 2012 - 1130, 沙門行誉、那智山瀧本近くの金経門に経塚を造営。 ... 熊野衆徒、平氏に加担して上京しようとした熊野南法眼行命の子息・一族郎党を討滅する.


京都寺社案内*石清水八幡宮 - 京都風光 - FC2



everkyoto.web.fc2.com/report505.html‎


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三蹟の藤原行成の筆を松花堂昭乗が写した扁額、「八」は、二羽の鳩の意匠となっている。 ..... 塔院)の建立を行う。1029年法眼、1037年別当職を譲り検校。1043年法印、1047 ... 近衛信尹に仕え、17歳で石清水八幡宮で出家、滝本坊実乗に仕え、真言密教を ...
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月08日 14時41分12秒 ) パスワード

熊野の歴史:
平家時代あたりからコピペ:
西暦年のあとは天皇の名前です。


1109 鳥羽 権大納言藤原宗忠、熊野三山に参詣。新宮で御師(※)の宿坊に泊まる。御師の初出

1119 白河上皇、熊野山に紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐5か国各10烟、計50烟を寄せる

1121 沙門良勝ら、大般若経600巻を熊野本宮に埋納。のち三山に多くの経典埋納が行われる

1125 崇徳 白河上皇・鳥羽上皇・待賢門院、熊野に御幸。上皇は以降21回御幸。女院の御幸多数

1129 熊野新宮の僧徒、高野山の民と合戦し、新宮側の4人が殺傷される



           瀧本が出てますね
             ↓


1130 沙門行誉、那智山瀧本近くの金経門に経塚を造営。金銅仏・密教大壇具なども多彩に埋納

1134 鳥羽上皇本宮で住僧と客僧に各100石の僧供米を贈り、山伏の奉幣・大峯入の作法を見る

1137 相模房法橋相澄、熊野長床執行となる(長床執行のはじめ)

1142 近衛 熊野三山検校覚宗、少年のとき(1086〜1107)那智で補陀落渡海僧を見たという
この頃、西行法師、熊野で修行し歌を残すという

1143 鳥羽法皇・崇徳上皇熊野に御幸

1150 那智山如意輪堂が西国第一番札所、那智千手堂が第二番札所として記される

1151 源義国熊野山御宝前に祈願。美作国稲岡南荘を御師職高坊範助法印を通じて知行させる

1156 後白河 大泰寺の阿弥陀如来坐像が造立される。胴内に「保元元年法橋尊誉」の銘

1159 二条 平清盛、熊野参詣の途中に源義朝らの挙兵を聞き切部宿より帰京。別当湛快は武具を贈る
行慶園城寺に熊野権現を勧請する
熊野三山造営のため遠江を造営料国とする。奉行平重盛

1160 後白河法皇、熊野に御幸。本宮にて奉幣・経供養・神楽・今様など行う。のち34回御幸
後白河法皇、京都東山に熊野権現(若王子社)、御所法住寺殿に新熊野社を創祀する

1161 三井寺覚忠の三十三所巡礼記に「一番、紀伊国那智山云々」と見える
文覚上人、那智山に入り荒修行を行うという

1163 甲斐守藤原忠重の熊野社領八代荘侵犯に関して出された『長寛勘文』で熊野神の性格が論議される。この勘文に唐の天台山の王子信が、熊野権現として降臨したという縁起が収録される

1173 高倉 後白河法皇、熊野三山検校覚讃を新熊野社の検校、弁宗を別当とする

1176 平清盛、船で伊勢方面より熊野参詣

1180 安徳 八条院蔵人源行家(新宮十郎)、伊豆国北条館に赴き、以仁王の令旨(※)を頼朝に伝える
熊野権別当湛増、謀叛を起こし、弟湛覚の城を焼き所領を略奪
熊野別当ら平氏に背くとの風聞



     行命は行明のことかも?
      ↓

1181 熊野山衆徒、伊勢・志摩に乱入し、平氏家人らと争う
熊野権別当湛増ら、関東方に加担して挙兵したとの風聞
熊野衆徒、平氏に加担して上京しようとした熊野南法眼行命の子息・一族郎党を討滅する
平氏、熊野山鎮圧のため加賀守平為盛を紀伊国に遣わし、熊野僧徒を討たせる
後白河法皇、新熊野社仏聖燈油料として全国28か所の荘園を寄せる

1183 源義仲・源行家入京。後白河法皇、平氏追討の院宣を下す

1184 平維盛、屋島の戦いから逃れ、熊野の海に入水住生を遂げるという

1185 後鳥羽 源頼朝、三河国竹谷・蒲形両庄を熊野山の行快僧都に還付
壇ノ浦合戦で平氏一門滅ぶ。湛増ら熊野の水軍、義経の軍に加担
源行家・源義経を追補するための院宣が、源頼朝に下る

1186 源頼朝、後白河法皇の院宣により、熊野詣の供米を献上
北条時定ら、和泉国小木郷(大阪府貝塚市付近)にて、源行家を捕え誅殺

1187 後鳥羽 湛増(湛快次男)を熊野別当とし、法印に叙する
湛増、源頼朝に綾30端を進上したが、下心あるのを疑われ返される

1192 會我太郎助信、熊野御師尾崎氏に願文を提出する(願文の初出)

1193 後鳥羽 北牟婁(尾鷲・海山ほか)方面の各地が、伊勢神宮の御厨(※)として記される

1194 但馬国多々良岐荘(兵庫県朝来郡朝来町付近)の地頭職(※)に熊野鳥居禅尼を任じる

1198 土御門 熊野坐神社に、祓の神事に使う湯立釜が鎌倉武将らによって奉納される
後鳥羽上皇初めて熊野に御幸。以降28回参詣

1201 歌人藤原定家、後鳥羽上皇らと熊野に詣で王子社などで和歌会を催し、懐紙(※)にしたためる

1202 熊野に所領を持つ静恵法親王聖護院に入寺、以後聖護院が熊野と関係を持つ

1207 鎌倉幕府、和泉・紀伊国を上皇の熊野詣の駅家雑事役に充て、守護職を停止する
院宣により熊野三山検校・臨幸先達を元のごとく園城寺(天台寺門派三井寺)に付与させる

1208 北条政子、熊野詣のために鎌倉を出発。夫頼朝と子頼家を弔うためという
[8]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月08日 14時56分01秒 ) パスワード

こういうのもありますね。

全文はこちらへ:
http://www.geocities.jp/kyoketu/5727.html


土佐新本川郷戸中村稲村山に行在所の跡と伝えられる処があり、傍に平家の巌窟と称する岩屋がある。 

吾川郡池川郷椿山にも行在所の伝説地がある。安徳天皇は従臣で平家の一門なる瀧本軸之進に命じ、稲村山より更に奥ふかく深山幽谷を跋渉して行在の好適地を探らしめたが、池川郷椿山は古来斧鉞を入れない深山で、森林蒼鬱、人跡なき神秘境で山上には恰好の巌窟もあり、麓の渓流は銀鱗の溌剌として泳いでいるので、行在所にふさわしい土地であると奉答したから、天皇は知盛、教盛、時子、乳母虎岡姫ら八十余人を従えさせられ椿山の国王山の王人の跡というに行在所をしつらへさせられ、オモゴヤ邸地には近習の人々を住ましめ、上邸、中邸、西邸、西小路等諸将を住ましめられた。鍛冶屋、コマトゲなどの跡がある。

ある日源氏一族のもの両人池川に潜行して平氏の余類を捜索中に、図らずも川中に朱塗の椀の流れて来たのを見て、川上に必ず平家の落人が住んでいるに違いないと推断して椿山に到着するや、忽ち平氏方に発見され立ち所に斬戮せられた。現在その二名の墓が残っている。安徳天皇は此地も永く駐るべき所でないと椿山をたって名野川郷奥名野川へ向われた。この瀧本軸之進は椿山部落の祖先で瀧本神社として祀られている。                                     

名野川に御潜行中、村民が帝に対し奉り余りに冷淡な御待遇を申上げ、十分供御の物も調べまいらせなかったのでその事を知って別府村別子の奥に行在所を奉仕し帝をお迎へ申し上げた。今名野川に不飲水という峠の越は帝が村民の不誠意を憤らせられ名野川の水は飲まぬとの御言葉があった為に残った地名である。天皇のご一行は別府村高瀬の西谷口の上仁淀川の岸から山に登らせられたが、道路険悪のため帝の御 手をひき奉ったので手引という地名が残った。坂路を攀じ登らせられた所を上倉という。別子郡の行在所竣工に時間を要したので其間は高瀬の峯という所に御駐輦になったが、土人が掛樋を通じて供御の水をささげた誠忠を嘉せられその村人どもに掛水の姓を賜はり功労を称された。         

天皇は文治元年六月都行在所に御到着になったが、同地の庄司西森勘三郎という土地の豪族が自分の屋敷の傍に行在所を営んだのである。都の不入は帝が王座の遺跡として注連を引き諸人の立入を禁止している。ここにも掛水の地名があるが矢張り掛樋を通じた名称である。この東西二丁余の所に窺石という巌がある。随従の平家の一族が敵を監視したあとである。又西谷入口に小越と言う所があって小石を積んである。敵来襲の際は村民はこの石を以って防戦する用意である。今でも此石を動かすと崇があるといっている。酸漿の奈路、あららぎ峠との地名があり、都という地名は永遠の都を意味している。竈床、都橋、追手の村柴酸の畝、山路の桜、竹笛の跡などの地名がある。

源氏の追窮いよいよ身辺に迫るを覚えて、都の地も永く駐ることができず(ここに数十名の郎党の名が列挙されているが、割愛)、文治三年(一一八七)春三月横倉山上の行在所の御造営なるを待ち御移りあり、詩歌管絃蹴鞠の御慰みも出来、また武臣の人々は弓馬剣撃の武道を怠らず、前記の人々二十五軒棟をならべて茲に新都を営み、ここに佗住し給うこと十六年、正治二年(一二〇〇)八月八日天皇は御年二十三歳を以て崩御遊ばされ、追て同年九月八日鞠が奈路に鎮まり給う。王室大明神として御嶽神社に斎き祀い奉った。同山に残れる地名は常時の都の全貌をよく現わしている。今その地名を列記してみると、




的 堂  武臣弓術の稽古場

中屋敷  天皇最初の御仮屋の跡

御釜床  行在所中央にあり、廣さ六尺高さ三尺余り注連をはり清浄にし不浄を忌む。

遠城戸  都の良門口昔城戸のありし所。 

西屋敷  長者村伊津見にあり、この土地の某所に五面の古鏡あり平氏仮屋の跡である。




不入社  都のこの杜にも一面の古鏡がある。

笹菜権現社  別子の都権現社にも古鏡一面あり。

烏帽子掛の岩  長者村鳥形山の頂上に水の乾いた小池があって、遥かに太平洋を望んで望野絶佳、この岩は供奉の人々が烏帽子を抜いで掛けた跡。

更衣か峯  都より長者村に通う山腹の平地、此慶にて帝が更衣遊ばされたと伝う。

ササヤキの畝  長者村大植にある。御潜行の当時村人の高声を禁じた為に残れる地名。




平家の窟  長者村泉山上にある、平氏一族のものがかくれたといい伝う。

中の宮  別府村川渡にあり、都から横倉山へ御移動の際、帝御駐輦のあった跡。同地に山祇の社、神奈の社などの小祠がある。供御の水を運んだあとを川道ともよんでいる。

九穴の鰒  寛政年間佐川深尾家の山奉行土居勝蔵が別府山中を巡視の際、西森勘助の家に泊し同家の塩を入れる容器を見、それを譲りうけて高知の山地覚蔵に鑑定を頼んだが、朝廷の御物九穴の鰒の拓形と毫も違わずとして深尾家より山内家へ、山内家より更に朝廷へ献上し、御褒美として下賜の一幅土居勝蔵へ賜はったという。

馬攻場  鞠が奈良の西一段低き処にある。

王室大神  御嶽神社の絶頂に神籬を設け、茲に安徳天皇を斎き奉る。




十握谷  御嶽の南岩壁を伝い南下一町計りの処にあり、岩屋神社神号天叢雲尊。

楠神一の森基  東山麓楠神の南方にある、当時戊兵をたてた所。

神母城  東の山帝楠紳にある、戍兵をたてた所  

上峠  越知町上峠、是又戌兵をおきし所。

畝火山  鞠か奈路の西南にある、帝この処にて神武天皇を遥拝れた跡処という。




以上が高知県下に於ける安徳天皇御潜幸の概略である。

(土佐伝説全集より・昭和二十三年)
[9]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月08日 22時11分06秒 ) パスワード

湧別はもろに屯田兵の世界だったようですね。

津軽藩などから来たんじゃないかという想像はありますが
実際は土佐藩からも来たんでしょうか?


お手紙を書いて湧別の屯田兵についてお問い合わせになってはいかがでしょう?


北方領土に近いですよね。
「土佐から」入植、というのがちょっと不思議でした。


また町長さんが原田さんとおっしゃるのが(平家がらみ?)と心楽しくなりました。



湧別町役場


町長
原田雅美

所在地
〒099-6592
北海道紋別郡湧別町上湧別屯田市街地318番地
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2013年09月08日 22時23分10秒 ) パスワード

屯田兵と土佐の関係をちょっと垣間見ることが出来ました:


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%AF%E7%94%B0%E5%85%B5

慶応3年(1867年)、坂本龍馬は大政奉還で武士が職を失うことを予想し武士の力を北海道開拓に活かすことを考え、同志にエゾ(北海道)に渡り、新しい国をつくることを述べていた。


瀧本さんご一家が明治28年に入植、というのが中途半端だなと
日清戦争で軍隊の増強があって
それで引っ越したのかな?と。



ロマンは果てしなく広がりますが
実際の生活は厳しい日々だったのでしょうね。
御苦労のほどが忍ばれます。
[15]stakimotoさんからのコメント(2014年04月30日 17時45分20秒 ) パスワード

瀧本正彦様

瀧本俊二(56歳)と申します。四国新居浜市が本籍です。父方の祖父は瀧本喜作夫、その祖父は藤堂藩藩士で長崎海軍伝習所に派遣された瀧本重吉であります。同藩分限録を調べると、瀧本与兵衛が高虎公に1601年に召し上げられその後
三重、津に転封、伊賀担当、予州与兵衛という名前で知られていました。
さらに調べると平家、軸之進まで辿り着いたのですが、この時代の軸之進という名前には現実味がないように思います。江戸時代につけるような名前がこの時期にあったのかどうか?また河野水軍の名前の全国派生に非常によく似ている広がりのため、現在河野水軍を調べていますが、平家一門として高知愛媛などの山岳地帯に落ちていたことは確かのようです。ちなみに家紋は丸に三鱗(正三角形)であります。 家紋は同じですか?

[16]瀧本 正彦さんからのコメント(2014年08月06日 14時11分23秒 ) パスワード

stakimoto様

ご投稿ありがとうございます。私の祖父は瀧本助次郎、その祖父は瀧本重次です。佐川町役場の除籍謄本では、曽祖父の瀧本重太郎が前戸主亡父瀧本重次から
明治10年(1877年)5月21日に33歳で家督相続をした、というところまで確認できましたが、役場では、その以前の記録はない、と言っています。
実は、私、パソコンが壊れるなどして、しばらくここから遠ざかっていましたが、貴殿の投稿をいただいて、ビックリしました。重吉さまに重次ですから、ひょっとすると、繋がりがあるのではと思っています。家紋は「五七の桐」です。北海道へ来るまでの事情などもよくわかりません。祖母、曾祖母はともに当時の日下村本郷の出です。私、78歳。現役で仕事をやっていますが、そろそろの感があり、先は長くはありません。なにか情報がありましたら、どうぞよろしく。
瀧本正彦、
[17]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2014年08月06日 23時19分34秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

553位 滝本 約35,800人 紀伊の名族は藤原北家熊野別当族、陸奥国津軽郡滝本邑発祥の清和源氏など。
    

滝本(瀧本)は天下の大姓ですから様々な家紋や出自が存在しますが、この程度の情報では何もわかりません。
また家紋は改紋も多く、全くアテにはなりません。
「抱き稲に本の字」、「隅切り角に左三つ巴」、「丸に三つ柏」、「丸に井桁」、「丸に方喰」などであれば熊野別当族の可能性が高い。
 

河野水軍の越智氏に結び付けたい様に思われますが、「折敷に三文字」紋でなければ可能性は低い。
 

機会を見て本家や菩提寺に尋ねるのが良いかと考えます。
このような話は法事など以外では話しにくい内容と考えます。
また現今では出自を語るむきが冥土へ続々と旅立っていますので急いで下さい。


[18]さんからのコメント(2017年10月18日 10時09分56秒 ) パスワード

この四国には古くから、物部氏関連が多く感じます。越智氏や源氏や平家、この歴史はかなり古く、唐、新羅、百済等から日本に来た辺りからの始まりのような気がするのですが。平家も源氏も、昔からの関連ある方達が四国に居るとかは考えがたいでしょうか?武田氏も甲斐源氏ですよね?合戦で負けた平家一門、平家ではないですが、偉かった武将も源氏が居たり、何かしら昔からの合戦からの関連も多く感じます。越智氏も大きな氏族だったり。そういった関連はないですかね?
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