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 投稿番号:101288 投稿日:2012年08月07日 20時59分12秒  パスワード
 お名前:はっとりきょうと URL=http://www.hattorike.com/
服部家の歴史
キーワード:書籍配布
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

全国におられる服部さんへ当HPをご覧いただき該当される服部様よろしく
お願い致します。
http://www.hattorike.com/



[2]馬の骨の服部さんからのコメント(2012年08月08日 01時33分07秒 ) パスワード

貴重な情報をありがとうございます。


馬の骨の服部です。

初めまして。
一瞬「武田光弘さま」かと思いました。
    服部家研究では、この方が詳しいと思っておりましたが
   「はっとりきょうと様の服部家研究」が由緒は深いのですね。


神服部家など格式のある服部家もまだ存続していらっしゃるようですね。
永く続いて欲しいです。


わたくしの知り得る最東の服部家では
旧武田家家臣の服部家が江戸時代以降川越に豪商として今でもお住まいです。
ご商売をなさっていらっしゃるので、お買い物ついでに、お顔繋ぎは簡単だと思います。
川越で「服部民俗資料館」をなさっていらっしゃいますから分かり易いと思います。



静岡県は、やはり、古代職業系服部家子孫の居住地でしょうか?
服織とか。
また、なんと申しましても、静岡で服部さんでしたら秋篠宮妃殿下の母方御祖母さまでしょうね。
この方の一族の服部家が天皇に1番近いということで「現代名家の服部家」になりますね。


あとは愛知県に数家、立派な服部家が存続しています。
名古屋にも地名で服織という地名があったように記憶しております。


三重県にも数箇所名家の服部家が存続しています。


高槻の服部氏は余りにも分が違い過ぎて申し上げることはございません。


わたくしは馬の骨の服部家出身なので、分を弁えて、これぐらいしか、書けないです。
[3]はっとりきょうとさんからのコメント(2012年08月24日 18時02分16秒 ) パスワード
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馬の骨の服部様
駿河國服部連(はとりむらじ)の織物生産 古代初期の記録が無く中世の頃の記録として静岡市では阿部川を北西に15キロ程遡ると羽鳥の地名あり。これが古代の羽鳥郷と思われる。
現静岡市葵区羽鳥、羽鳥大門町、羽鳥本町が古代服部郷と決定できる。
残されている記録は阿部郡に服織村(はとりむら)服織庄は服部郷を継承する
東羽鳥庄、西羽鳥庄は中世に服織庄となる。等が記録として残されています。

他には浜松市豊町、豊西町、恒武町、常光町の広域に古代の機織りの羽鳥郷があった記録はあるが詳細な情報はありません。現在地は天竜川を北に20キロ程遡ると左岸に豊、豊西、の地名があります。
これが古代の機織りの羽鳥郷地です。貴方の故郷静岡県に二箇所の古代羽鳥郷がありましたが詳細な情報がなく残念な事です。

次に衣類生産の拠点を愛知県西では服部郷、静岡県以東は羽鳥郷となっていますその理由は判りません。
貴方のご質問の羽鳥郷で働いた子孫が現在も居住されているか? 西暦1200年前後の頃源氏族に拠羽鳥郷破壊の激震で人々は失職した。その後は判りませんが平成19年度の調査ですが静岡県に服部氏は1,439世帯が居住されています。

服織(はとり)について少し解説します。
古代では服部を(はとり)と呼び名字ではありません 時代が下がった後世になって初めて名字として(はっとり)と呼ばれるようになるのですが 、服部(はとり)とは織物に拘わる事の呼称で例えば家を建築する人を大工さんと呼ぶ、機織りの織り手さんを古代では(はとりべ)と呼ぶのです。
服部を(はとり)呼称しますが古代では、他に同意語として服、波土里、波登利、八土利、八島、服織、神服、羽島、等があり全て使用されています。

大阪府高槻市は服部氏族の古代住居で後期古墳時代の古墳二十二基が現存していた、時代は推定西暦400年〜700年と思います。馬の骨の服部さんに知りたい事がコメントして下さい。

少しお聞きしたことがあります、愛知県、名古屋、三重県、の服部さんをご存じのようですね、具体的なお名前や住所などを教えて戴ければ幸いです。

よろしければ直接メールを頂くか、HPの連絡先へご連絡頂けばありがたいです。

私事で申し訳ありませんが私用により連絡が遅くなる事をご理解下さい。
[4]山口さんからのコメント(2012年08月25日 05時50分50秒 ) パスワード

今 落ち目ならその昔を語ることが出来ないのは良くないと思います。それではわかるものもわからなくなると思います。
その昔藤原北家はどんなに頑張っても南家や式家に勝てなかったけれど、悪かったところは改め一軒一軒掘り起こしてよくなるように勤めたら段々良くなっていき、しまいには氏の長者になったとのことです。
橘の「檀林皇后」も橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど自分が出世したら周りの人の為につくしていたようです。
[5]Hattoriさんからのコメント(2012年08月27日 09時34分56秒 ) パスワード

馬の骨も落ち目も、日本人独特の謙虚謙遜の心でお書きになったこと。ご本人も我々読者も全くその様には見ておりませんよ。

どちらの服部さんもご先祖様が歴史の荒波を乗り越えられて
今の世代があるんですよね。

ご先祖様に感謝です。
[6]さなえさんからのコメント(2012年08月27日 10時19分08秒 ) パスワード

ほんとに、ここの管理者の皆様や読者の皆様、そしてご先祖様、おおもとの宇宙の創造神たるかみさま?に感謝しています。「ありがとう。」

きょうとはっとり様へ

メール届いておりましたが、なかなかお返事できませんでした、ごめんなさい。びっくりいたしましたが、うれしくも思いました。また、お電話いたしたいと思っています。よろしくおねがいします。
[7]さなえさんからのコメント(2012年08月28日 15時39分09秒 ) パスワード

昨日、はっとりきょうと様から、「愛知県の(東三河・旧南設楽郡)新城市鳳来町大野に、服部郷があるから、(西三河)一色町の服部と関係あるかもと・・・(思われるむね)」聞かせていただきました。私は、大野は何度か行った事がありましたが、服部郷のことは、まったく知りませんでしたので、早速(ネットで)調べてみました。

そうしましたら、やはり、現在は服部の地名は残っていないようです。なので、地元では知ってる方のほうが、少ないと思いました。そこには、かろうじて服部神社があるらしく、明治の頃まで「赤引きの糸」(?)という絹糸を、伊勢神宮まで奉納するための神社であったと、書いてあったと記憶しています。

そこから、なぜか・・・浜松市三ケ日町の初生衣神社(御祭神・天棚機姫命。宮司・神服部。)とのつながりも、見つかりました。(びっくり)

ただ、現在の大野に、服部姓を名のっている方がいるかは、わかりませんでした。後日、現地に行ったとき、お調べしますね。
[8]さなえさんからのコメント(2012年08月28日 16時19分37秒 ) パスワード

偶然にも、最近の私ときたら、東三河地方が気になってて・・・いろいろ、ちょこちょこと行ってたんですよ。ユングの言う、シンクロニシティって感じ?なのかしら?(覚えたて・笑)。

大野のほど近く(といっても、車で山道をのぼっていくところ)に、「阿寺の七滝」というところあります。すごく大好きなところの一つです。出入り口付近の川の合流するあたりを見ていただきますと・・・左右の川底の石の色・・・右が緑で、左が赤なんです。たぶん、中央構造線のところです!!

滝まで行くところの道の岩からは、岩から小石が生まれ出てくるような、不思議なけしきです。もちろん滝も素敵ですが、形容するのは難しいので、(皆さんに)ぜひ見て欲しいですね。(百間滝も有名みたいですが・・・近いです。)

長篠は、長篠の合戦で・・・めちゃめちゃ有名です。でも私は少し切なく淋しい思いが、どうしてもします。

それから、作手村の「平地分水点」は、湿地からの水が南の豊川水系、北の矢作川水系に分かれる、不思議なところで・・・その、両方の川の名は、「巴川」なんです。地図で見ますと、確かに巴の形に・・・神秘的です。

他にも、鳳来山、乳岩峡、湯谷温泉、いろいろです。

そして、そこから、秋葉街道(中央構造線上)をあがりますと・・・諏訪大社につながります。通称タケミナカタ・ロード、国譲り、南北朝時代の南朝とのつながりも出てきます。(今度行きたいところなんです。)
[9]さなえさんからのコメント(2012年08月28日 16時38分41秒 ) パスワード

それから、東三河大野服部神社で、検索しましたら・・・前田 豊さんの「徐福伝承」にヒットしました。

徐福から、日本の秦氏や朝廷との関係と東三河が古代の大和または、東ヤマトではないかとの説を、いろいろなことで検証し、本も出版されている方のようです。(知りませんでしたが、気になります。)

徐福という方も、絹や機織、稲作など日本に伝えた方と、言われているのですね。

またそこから、新城市鳳来町の鳳来山の役行者さん、弘法大師さん、いろいろな仙人と呼ばれた方のつながりも感じました。何かありますね・・・においますな・・・。

では・・・、何かわかりましたら、また・・・
[10]さなえさんからのコメント(2012年08月28日 20時21分22秒 ) パスワード

補足・・・

大野に服部神社がある。と、書きましたが・・・

実際には、大野にある、大野神社の中の内社らしくて、大野神社で検索しないと、出ないかも知れません。
[11]さなえさんからのコメント(2012年08月28日 21時15分09秒 ) パスワード

私が、今、先祖調べ(先祖供養)や、神様(伊勢神宮やその他日本の神々)について、心のこと(生き方とも言うべきこと)について・・・考えたとき・・・参考になったと思う、面白かった本を、(皆さんに)紹介いたします。(あくまでも、私の主観によるものなので、正否はわかりません・・・)

「鬼の太平記 まんじゅう伝来史」 沢 史生著 彩流社
「隠された聖書の国・日本」 ケン・ジョセフ シニア&ジュニア著 徳間書店
「日本書紀と日本語のユダヤ起源」 ヨセフ・アイデルバーグ著 徳間書店
「アルカナシカ」 田口ランディー著 角川学芸出版
「宇宙縄文神とのまじわり 日月神示」 中矢伸一著 ヒカルランド

以上です。参考になればうれしいです。読み物として・・・面白いと思ってます。
[12]さなえさんからのコメント(2012年08月28日 22時51分46秒 ) パスワード

はっとりきょうと様へ

「シンクロニシティー」とは、意味のある偶然の一致・共時性・集合的無意識、などと言うそうです。簡単な例でいえば・・・「友達のことを思ったら、その友達からの電話がなった」とか「調べたいことが、たまたま見た喫茶店の本に書いてあった」とかかしら?、と思います。

それから、お願いがあります。くどいようですが・・・
「服部一族」 (株)日本家紋協会 著 日本家系家紋研究所 出版
に、書かれて言うという、湯舟庄五地頭の姓の発祥と、その後が気になるんです。京都の図書館には、ありませんかしら?
[13]さなえさんからのコメント(2012年08月29日 20時05分45秒 ) パスワード

はっとりきょうと様へ

伊賀の服部町のバス停「服部」いいですよね(にっこり)。
そのバス停のまん前に、小宮神社(おみやじんじゃ)があったのは、ご存知ですか。代々その土地の服部氏が大切に祭って来たときいています。御祭神・呉服比売命。名前の由来、一の宮につぐ、二の宮の説・「麻績(おみ)」から来ている説があるそうです。
[14]さなえさんからのコメント(2012年08月31日 08時54分32秒 ) パスワード

私が、(今を)生きること、心のこと、そして生まれた国(日本)について考えたとき、参考になったし面白かったと思う本の紹介{第二弾}です。

「「いのち」を養う食」 佐藤初女 著 講談社
「TOKYO 0円ハウス 0円生活」 坂口恭平 著 河出文庫
「おさながたり」 出口すみこ 著 天声社
 
「自在力」 塩谷信男 著 サンマーク文庫

「ミロクの暗号」 中矢伸一 著 徳間書店
「日本はなぜ神道なのか」 中矢伸一 著 ワニ文庫
「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」 竹田恒泰 著 PHP新書
[15]さなえさんからのコメント(2012年08月31日 15時25分30秒 ) パスワード

「熊野詣」 五来 重 著 講談社学術文庫

「熊野三山 七つの謎」 高野 澄 著 祥伝社黄金文庫
    こちらの本は、NHK大河ドラマ「平 清盛」の頃の話が書いてあるので、比べるとわかりやすいです。白河院と熊野信仰の関係や、源氏や平氏と熊野の別当家の関係がわかりやすく書いてありました。「立田腹の女房」という、私にとっては怪しい女性のこと・・・源氏とも平氏とも関係をもつ・・・かいてあります。そのなかに、竹谷荘・蒲形荘は熊野別当家の荘園とあり、驚きです!。私の住む町の隣町(愛知県蒲郡市)と、当時の熊野との海の交流が確認できました。それではじめて、「どうりで、蒲郡あたりの神社は、熊野に関係する神社や、藤原俊成に関係する神社が多いのか・・・」と、気づかされるなんて・・・。ほんとに、長年住んでいても、知らないことの方が多いのですね。
[16]さなえさんからのコメント(2012年08月31日 15時46分03秒 ) パスワード

もう一つ、蒲郡市のことですが・・・

私がどうしても時々行きたくなる神社のひとつに、竹島神社(正式には、八百富神社。地元の人は、弁天さまとも言う。御祭神・いちきしまひめみこ。藤原俊成も祀っている。)があるのですが、ほんとに気持ちよく感じるところなんですよ。
で、ドラマ「平 清盛」にもどると・・・、「あらあらもしかして・・・、ここは、厳島神社と平氏の関係だったのね?」ってことになるわけです。不思議です。今まで、そんなこと知らないで行ってましたから・・・。

(注)蒲郡・竹島神社は、よくサスペンスなどのドラマの背景に使われたりしてるので、皆さんも意外と見てると思います。
[17]さなえさんからのコメント(2012年09月01日 21時22分46秒 ) パスワード

はっとりきょうと様の書籍を読んで(読み中)・・・

 服部家のご先祖様が、ひのはやひのみこと様と突き止めたことは、ほんとにすごいと思います。そして、よくここまで調べられたものですね・・・感服いたします。

 その中で、私が新たに疑問をもった事項もありましたので、また教えて下さるとうれしいです。

{姓氏家系大辞典 第三巻}よりの抜粋で服部家のこと、よく分かって参考になりましたが、「トノハトリの條を見よ」「クレハトリの條を見よ」「カムハトリの條を見よ」のところが気になってしまいます。詳しく知りたい気持ちになりました。

{神代御系図}よりの、第一別天神の、天之御中主神ところに・・・服、服部、御手代、神人、中臣、渡会等の條をみよ、となってます。こちらもすごく気になります。
 天之御中主のみこと様===>服部氏の先祖神となることが、もし本当ならば、天照大御神様よりもずっと上の位の、大宇宙の創造神となりますが・・・いいのでしょうか?それが本当ならば服部家は、すばらしくも恐れ多いこととなります。

 また、先日のお電話の件ですが・・・、私は自分が渡来系であろうとなかろうと、あまり気にしていません。いろいろ調べると、日本の国というところは、いろいろな国の人々(中には、本国から追われてきたような人や王族)を、受け入れることのできる、開けた国、ユートピア的な国、やさしい国だったと思うからです。そしてまた、最近のDNAの研究などからも、日本人はかなりの混血人種であることがわかります。なぜなら、種族の元となる国では、失われたDNAが、日本人にあったりするからです。話が長くなりましたが、私は学者ではないから、ほんとのところはまだわかりませんので、ごめんなさい。


「間宮林蔵・探検家一代」 高橋大輔 著 中公新書ラクレ
    現代の探検家高橋大輔さんが、当時の文献を参考にしながら、間宮林蔵の足取りをさがす、面白い本です。間宮林蔵と異国人とのやり取りから、人間を考えさせられるし、いろいろな文化、しきたり、人柄がおもしろいです。魚でつくる服ってどんなん???なの?・・・すごく色鮮やかでおしゃれっていうし・・・今あったら見たいなあ・・・って思います。そう思うと、今消されてしまった国や文化のいかに多かったことか・・・と、思わずにはいられませんねぇ。

 それから、それから・・・西尾市の久麻久神社は、小さいですがすごく気持ちのいいところで、だいすきなんですが、久麻久連の建てたもの(後に徳川家が統治管理と思う)だそうです。久麻久連って、何でしょう?。


  では、   きょうとさま、おからだ、おだいじに。

[18]さなえさんからのコメント(2012年09月01日 23時01分32秒 ) パスワード

 今、思い出したことがあるので、続けて書きます。

伊勢神宮外宮の神は、とようけのおおかみ?ですが・・・、ほんとうのお姿は、天之御中主神様という説が浮上した時期があると記憶しています。もちろん異端視される訳ですが・・・その説をもちだしたのは、ほかでもなく度会氏だったような。

そんなこんなで、中矢伸一氏の著書では、ユダヤに通じるのですが・・・真意を、善悪・正否で判断すると、ものの本質が見えなくなると思うので・・・おもしろいこと・・・と、楽しんで探求しましょうね、きょうと様。

[19]姫沙羅さんからのコメント(2012年09月04日 12時06分50秒 ) パスワード

さなえさんへ

どうもご無沙汰しております。隈改め、姫沙羅です。
横レスで失礼いたします。m(__)m
伊賀服部家の事はさちこさんの方がお詳しいので、私が出しゃばるのもどうかとは思うのですが。

>「服部一族」 (株)日本家紋協会 著 日本家系家紋研究所 出版
に、書かれて言うという、
>湯舟庄五地頭の姓の発祥と、その後が気になるんです。

との事。

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100354.html

を読んだところ、湯舟庄五地頭の記述があるのは、
「服部一族」 (株)日本家紋協会 著 日本家系家紋研究所 出版
ではないようです。

実はうちにもこの本のコピーがあるのですが、実際、湯舟庄五地頭の記述は無いです。

過去ログの情報が錯綜してますが、

《服部誠さんのお祖父様が執筆に加わったらしい、
日本家系協会出版の別の本(1974年出版、表題は不明)》

に、湯舟庄五地頭の記述があるようですね。

なので、服部誠さんとご連絡が取れれば良いのですが。
[20]さなえさんからのコメント(2012年09月06日 10時27分35秒 ) パスワード

隈さん改め、姫沙羅さんへ

 こんにちは、うれしいです。貴重なご意見ありがとうございます。
横レスなんて、とんでもないです。

 ということは・・・湯舟庄五地頭・・・ってなんなんですかね???

 実は、すでに はっとりきょうと様から(京都の図書館で)「服部一族」の本の中に、その記述は見当たらなかったのですが・・・と、連絡がありましたの。申し訳なかったけれど・・・確実ですね。

 
 はっとりきょうと様と、一色(いっしき)町の服部(私の実家は、家紋が 六桁の御所車に並び矢)についてお話したことなんですが・・・

 はっとりきょうと様ご指摘の、大野の服部郷から来た説も考えましたが・・・、大野はかなり古い時代の服部郷で、現在服部姓が見当たらないのと、湯舟庄五地頭の姓の氏族が、一色町と近郊の一部地域に密集していることからも、伊賀地方からその時代に来た説のほうが有力とおもわれます。
 もしかすると、大野から浜松、浜松から津や伊勢、熊野、そこから京都や伊賀との交流も、昔は船で物資を運搬したことから・・・ありえますね。

 (最近、北前船にも興味あります。間宮林蔵さんも好きです。)

 とりあえず、(私ができること)近郊のお寺(お墓)で、五地頭の家紋など調べてまいりますね。

 ありがとうございます。

 
[21]さなえさんからのコメント(2012年09月06日 10時38分07秒 ) パスワード

服部姓の皆さんへ

 はっとりきょうと様の御本、とても丁寧に服部(ご先祖さま)のこと調べられています。同じ家紋の服部姓の方に、(限定で50冊?)無料でお配りされていますので、ホームページの家紋をご覧になりまして、興味のある方はご連絡してみてくださいませ。

 いろいろなことわかって楽しいですよ。

[22]さなえさんからのコメント(2012年09月06日 11時31分59秒 ) パスワード

服部誠さまへ

 気になります・・・見ていたら、よろしくお願いします。(ぺこり)
[23]姫沙羅さんからのコメント(2012年09月07日 12時24分28秒 ) パスワード

>私の実家は、家紋が 六桁の御所車に並び矢

>大野の服部郷から来た説も考えましたが・・・、
>大野はかなり古い時代の服部郷で、現在服部姓が見当たらないのと、
>湯舟庄五地頭の姓の氏族が、一色町と近郊の一部地域に密集していることからも、
>伊賀地方からその時代に来た説のほうが有力とおもわれます。

そうですね、私もそんな気がします。

私の母方の先祖にも服部氏がいますが、
うちの場合は、近くの服部村から移住してきたため「服部」を名乗ったそうです。
墓石にその旨、掘られていました。

ただ、うちの場合は家紋が矢紋ではありません(抱き茗荷)。
矢紋の場合、伊賀出身の確率が高いのでは。

戦国時代、三河から駿河にかけての地域に移り住んだ伊賀者は多かったみたいです。
天正伊賀の乱の前から、今川義元や徳川家康に仕えたりして。
確か、東湯舟を本拠とした藤林伊賀守も、若い頃は今川氏に仕えていたとか。

天正伊賀の乱の時、そうした伝を頼って伊賀から落ち延びた人もかなり居たと思います。


ちなみに、全国各地の「服部」という地名の場所に、「服部さん」は少ないです。
というのも、大抵は服部村を出た後、よその土地で「服部村から来ました」と名乗るから。
私も自分の先祖を調べるようになって、知りました。
 

>もしかすると、大野から浜松、浜松から津や伊勢、熊野、
>そこから京都や伊賀との交流も、昔は船で物資を運搬したことから
>・・・ありえますね。

最初に服部連が配置されたのは、九州からの海上輸送の玄関口だった摂津三嶋(現大阪府高槻市)でした。

服部一族は古代から海上輸送(絹織物の輸送?)に携わっていたためか、
各地の服部村を結ぶネットワークを持っていたみたいですよ。
他の氏族に比べて、やたら行動範囲とか、通婚圏が広かったりします。

うちの先祖のルーツの服部村(現広島県福山市内)も今は内陸だけど、
古代は海に面していて、海上輸送に便利な場所でした。

先祖は戦国時代以降、近くのしまなみ海道の島に移住しましたが、
その周辺は伊勢神宮の御厨だったこともあり、苗字分布に伊勢との繋がりが見て取れます。
[24]さなえさんからのコメント(2012年09月07日 15時52分19秒 ) パスワード

姫沙羅さんへ

 いろいろ教えてくださってありがとうございます。

ほんとは、昔の人のほうが、フットワーク軽いのかも・・・ですね。私の想像も、私の行動範囲も、先祖の足元にも及ばないのかもです。でも・・・ロマンと自由があって、楽しいです(先祖になりきって想像中)。そして、伊勢の神様のお力(天皇家の力?)は、太古から強大だったのですね・・・。

 あの・・・それから、私は本当に歴史の授業は苦手でしたから、いつもとんちんかんなんですが・・・

(私の住む地方)愛知県西尾市の今川町には、今川氏発祥の地という場所があります。今は、田んぼの中に、古い祠が祀ってあるだけですが・・・。何か関係ありそうですね。

歴史も文献も知りませんが、自分の足で、感じたことこれからも書いていき、先祖の供養になれば・・・と思っていますので、よろしくおねがいしますね。
[25]姫沙羅さんからのコメント(2012年09月09日 12時08分53秒 ) パスワード

>(私の住む地方)愛知県西尾市の今川町には、今川氏発祥の地という場所があります。

調べてみたら、今川氏って吉良氏から分かれたのですね。
発祥地が幡豆郡吉良町に近いのも、納得。

私は昔、名古屋に住んでいたことがあって、友人の家が吉良町にあったので、
一度だけ近くを訪ねた事があります。

その友人が
「忠臣蔵に出てくる吉良上野介は、本当は良い殿様だったんだよ。」
と言っていたのを思い出しました。

忠臣蔵が分かり易く物語化される過程で、悪者にされてしまったんでしょうね。


話を服部家に戻して・・・
そういえば以前、電話帳で伊賀周辺の服部姓の分布を調べた事があります。

やはり伊賀市服部町に服部さんはいませんでしたが、
伊賀市北部の槙山地区にはたくさんいらっしゃるようです。
私が数えたときは、29軒ありました。
それから、佐那具に6軒、玉瀧に7軒。
なんとなく、湯舟地区の西に広がってる感じです。

あとは、少し離れて愛田地区に13軒、隣の甲賀市信楽下朝宮に18軒。
こっちは街道沿い。

伊賀で、湯舟庄五地頭の姓の分布と比べてみるのも、面白いかも知れませんね。


私は伊賀の事にはあまり詳しくないですが・・・
また何か分かることがあったら、お知らせします。(^^)/
[26]さなえさんからのコメント(2012年09月12日 17時07分47秒 ) パスワード

姫沙羅さん、ありがとうございます。

 姫沙羅さんが、吉良町に一度だけでも、来たことがあるなんて・・・
ただならぬご縁を、(手前勝手に)感じております。

 ただいま、私、三河地方の古地図など、調査中です。
また、まとまりましたら・・・書き足しますね。
[28]はっとりきょうとさんからのコメント(2012年09月17日 18時33分10秒 ) パスワード
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さなえさんへ
服部家々紋の古代よりの掟と崩壊
予想もしなかった六桁の『御所車に並び矢』が実在して驚きと嬉しさが一緒になって唖然としました。 服部連(はとりのむらじ)の上位家紋は八桁の『御所車に並び矢』の一種のみと固定観念が強くその様に思っていました。 新種の発見を機会として『服部家の歴史』に記述しなかった『掟と崩壊』を議題としての文書を書く事に致しました。
服部家々紋の発祥由来は誰がいつ頃、そして家紋の基礎となる 高貴な『御所車』の名称を使える御身分高い古代の貴族様が服部家 家紋の原案(印)の創造者と想定していますが服部家 家紋の古代からの伝言は唯一【最初は乗物、旗、幕、着物、その他に印(しるし)として使用していたが後世に家紋として進化した。たったこれだけが古代からの資料です】殆ど資料皆無の家紋の解明は相当難しいと思いますがその原案の(印)を創造された御先祖様は古代の姓(カバネ)大臣(おお おみ)【現在で言えば総理大臣】をお持ちの古代有名女神様の十一世孫 彌蘇足尼(みそのすくね)様以外に該当者はおられません。時代が下がった或る時代に別の御先祖様が幾種類かの家紋を使いわけして当初は合理的に目的を達成されたが何時しかシステムは崩壊して現在に至ったと想定しています。その目的とは一家の安定と血統を守る為に考案された掟(おきて)です。古代では血統を守るために長男を特別扱いで育て次男、三男、四男、五男は、長男に逆らう事は許されず従属を求め易くする為 家紋で差をつけたと想像しています。古代からの記録はなく此れからの文書はすべて想像で書きますので御了解下さい。
伊賀の国に基幹となる服部郷を興し其処から全国の地方に服部郷、羽鳥郷を40〜50箇所程建設した。責任者として各郷に血統の繋がりがある服部氏族を移住として送りその地に新たな子孫が出来るが権力の統合を強める事が安定に繋がるので一つの郷に本家は常に一家族と決めた。それを可能に出来る方法は家紋の使い方にある そして掟が出来ました。

【服部氏族 総領家(宗家)】の家紋
順位  十六葉菊(使用不可) [明治以前は使用可]
(1)   十六葉八重菊(現在使用可)
(2)車輪十六桁内竪矢筈
(3)車輪十六桁内横矢筈
(4)車輪 八桁内竪矢筈
上記家紋の使用状況及び子孫にどのようにして継承されたか詳細は判らない。
家紋の名称は古代では『御所車に…』でしたが源氏に仕官した時より上記の名称に変更された。変更理由は『御所車』の文字を源氏は許さないと判断した。そして服部連の家紋の名称も此のおりに『御所車』から『源氏輪』に変更された可能性はあるが、いずれも真実は判らない。 大和朝廷織部司の支配下にある服部連(はとりのむらじ)の実態を想像で描写して書いていますが確かな証拠もなく参考程度に考えて下さい。
【服部氏族 服部連】の家紋
地方の服部郷、羽鳥郷の責任者は本家となる

本家  家紋  長男                 八桁『御所車に並び矢』
     〃   次男 (長男の予備)分家の場合 六桁『御所車に並び矢』
     〃   三男     〃           八桁『御所車に並び切竹』
     〃   四男     〃           八桁『御所車に二つ切竹』
     〃   五男     〃            六桁『御所車に二つ切竹』
以上が服部郷の家紋の使用方法と思われますが、これによれば本家は初代より幾世になっても長男の家紋は八桁『御所車に並び矢』となり安定します。全国各地の服部郷、羽鳥郷の活躍で服部氏族は現在もこの家紋を大切にされています。朝廷の織部司、服部連、服部郷、羽鳥郷、服部神社、家紋の掟も一緒に消えた。時代は西暦1185年壇の浦で平家滅亡以後の頃です。


[29]さなえさんからのコメント(2012年09月19日 14時08分01秒 ) パスワード

はっとりきょうと様へ

 インターネットで「三河国設楽郡宗高町之事」検索してみてください。
そこの{別のこと}というところに、湊神明社のことが書いてあります。
三河国服部郷のことと、御衣(おんぞ)祭のことと、浜松市三ケ日町との関係がかいてあります。参考になるとおもいます。
[30]さなえさんからのコメント(2012年09月19日 14時16分50秒 ) パスワード

はっとりきょうと様へ

 同じくインターネットで服部郷のこと調べていましたら、「15矢筈・矢作 地名分析から古代の謎がすべてみえた!」にヒットしました。

 こちらは、服部郷のことは、詳しくないですが、何かのヒントになるかもしれません。
[31]さなえさんからのコメント(2012年09月21日 09時34分39秒 ) パスワード

ホームページの{「美遊人」〜男の着物&料理}を、見つけました。皆さん、いろいろすごいですね。そこの、サイトの、「男の着物」を開きますと、「古代史・日本人のルーツ」とかいうページがございます。おもしろいですよ。
[32]さなえさんからのコメント(2012年09月22日 22時58分22秒 ) パスワード

前田 豊さんの本「消された古代東ヤマト」手に入れました。なぜか、少しですが、機織の服部、赤引糸などの記述が目に入ります。もっと詳しくしりたいものです。
[33]さなえさんからのコメント(2012年09月23日 07時15分29秒 ) パスワード

皆さん、はっとりきょうと様・・・たびたび、雑多に書き込みまして、失礼します。

豊川市 本宮山(三河一ノ宮 砥鹿神社の奥宮)の程近く、(私がよく通っていた道)21号線沿いに、服織神社があるようです。昔の服部天神であるらしいです。今も弓祭りが行われているそうです。服部氏と関係あるらしいです。
また、しらべなくては・・・

それから、東三河は(前にも書いたかもしれませんが)役行者さんの修行の場・伝承・祠などたくさんあるそうです。役行者様は、伊賀忍者も大切に信仰したかたですね。

以外に近くに、古代服部氏と関係する土地や人物があるものです。
なんとかは・・・遠くにありて近きもの???

まだ、碧南あたりの服部ほか五地頭のお墓探しと古地図調べできませんが、今しばらくお待ちくださいませ。
[34]さなえさんからのコメント(2012年09月23日 07時50分03秒 ) パスワード

地図で確認しましたら・・・服織神社(足山田)は、通ると気になってた、古い石段あるの趣ある場所の神社でした、道から見えないけれど、服織神社とかいてあったなんて・・・。

はっとりきょうと様に言われなければ、私は三河のこと調べなかったと思います。だから、きょうと様には、感謝です。

今日はこれからお仕事なので、行ってまいります。
こちらは、現在雨です。お彼岸中なので、いつもよりご先祖様が、近いです。思いをめぐらせながら、がんばりましょう。
[35]さなえさんからのコメント(2012年09月25日 21時25分34秒 ) パスワード

「消された古代ヤマト」  久しぶりに面白い本でした!。

大野の服部郷の謎も、少しわかったような・・・?(気がしています)。

正否はわかりませんが、本によると、服部郷及び服部連は・・・紀元前の縄文時代〜欠史七代の頃、または聖徳太子の頃までは、あったかも・・・です。

でも、そうすると・・・天照神とか天孫降臨とかの時代とあいますね。「古事記」「日本書紀」に書かれなかった欠史七代が怪しいです。

しかし、服部でこうも奥深いとは・・・思わず、しかも今自分の住んでる地域が、京都や奈良よりもすごかったんなら・・・うれしいです。そして今、こうしていろいろわからせてもらってるなんて・・・ロマンです。


話は変わりますが・・・、三河湾に浮かぶ佐久島、新城市の作手(旧・南設楽郡で蓬莱寺山の西の山の中の村)などから、縄文土器、石器など出土しています。古墳も結構そこらじゅうにあります。私は、現代人の考えで・・・「こんなところによく住んでたな・・・」って思ってましたが・・・、案外自然は豊富だし、気候温暖、湾内は波穏やかで、航海もしやすくて・・・水は豊(飲み水、温泉、農業用水)で・・・いいとこなんだね、知らなかったです。お金や物、工場、車がないと暮らせないと思ってました。

それから、前にも書きましたが、名古屋(尾張)も三河も、大野のある古代ヤマトの豊川・豊橋方面も、今より海岸線がもっと奥なので・・・もっと海の交流あったと思いました。

わたし、ご先祖様含めて、太古の日本人の心(魂)に触れたいのかも、知れません。

[36]さなえさんからのコメント(2012年09月25日 23時08分06秒 ) パスワード

家紋の矢羽について考えるとき・・・どうしても、武士の象徴と考えてしまいますが・・・

「矢」を調べると、神話の海幸彦・山幸彦などの「さち」という意味があるらしく、人々に、海・山のさちをもたらす意味があるそうです。また、悪霊を祓うとか、占いをするとかにもつかわれるようで、霊力の宿るものと思われていたそうです。

そして、日本の弓矢は世界的に珍しい形と複雑な作りをしているそうです。もちろん機能性は抜群です。「和弓」といい、「魏志倭人伝」にも、記述があるとか・・・
[37]さなえさんからのコメント(2012年09月26日 16時43分44秒 ) パスワード

はっとりきょうと様へ

一色町内、服部家墓地にて、本家の家紋が、十桁の御所車になっているのを確認しました。(・・・???なんで? 家のは六桁なのに・・・?。謎です。あせりました。)ほかに、十桁の車に矢筈二つ紋、それから、丸に矢羽二つ紋あり。八桁の矢羽・矢筈あり。三矢姓は、丸に矢羽三つ紋のみ、確認。以上
[39]さなえさんからのコメント(2012年09月29日 10時19分24秒 ) パスワード

(訂正とお詫び)

三河一色の服部家家紋について、今まで私が「矢筈」であると書いて、思っていた紋は・・・「切竹」であったようです。「矢羽」の方はまちがいないです。両方とも、縦のデザインです。

[40]さなえさんからのコメント(2012年09月29日 10時41分05秒 ) パスワード

10桁の車については、再度確認してきます。私の数え間違いかもしれませんし・・・(不安になってきました)。

はっとりきょうと様へ

私は、あまり渡来系かそうでないかにはあまりこだわっては、本当のことが見えにくくなる気がします。日本は島国ですから、西から人類がやってきたなら、全て渡来人ということになりますす。天皇家を含めて、記紀の神話でも、何度と無く天孫降臨(渡来系の降臨)があるからです。ただ、他の国と違っている点は、先にいた先住の民を、皆殺しにはせず、混血した(仲良く暮らしたた)点だと、認識しております。

それよりも、何故・・・服部郷の服部連・服部司は忽然と歴史から消えたのか・・・。

何故・・・伊賀の服部は、忍者だとか、悪党とか言われて、皆殺しにされなければいけなかったのか(ほんとに皆殺しにされたかはわからないけど)。

少し悲しい過去がある気がしますね。

それでも、先祖が「服部」というちょっと変わった読み方の名前を繋げてくれたのだから、大切にしたほうがいいですね。
[43]はっとりきょうとさんからのコメント(2012年10月02日 17時35分50秒 ) パスワード
URL=http://www.hattorike.com/

さなえさんへ
あまり知られていない古代風土記の全体像と播磨風土記
播磨風土記に付いての詳細な説明文を書いてみたいと思いますがその前に風土記の意味合が理解されずに質問があると思いますので風土記その物からお話しを致します。
古代の風土記は奈良平城京(西暦710年)から始まった日本全国の情報収集が最大の目的で情報の殆どない時代の様々の出来事、様子、手紙、日記等に書き留めた古文書を集めそれを再編した書籍で原文は漢文です。名称は○○国風土記として処理された、その規模は大きく風土記の一覧表を例記しました。

(1)播磨国風土記     (2)近江国風土記   (3)伊勢国風土記   (4)尾張国風土記
(5)参河(三河)国風土記 (6)丹後国風土記   (7)丹波国風土記   (8)但馬国風土記
(9)因幡国風土記     (10) 伯耆国風土記  (11)出雲国風土記  (12)駿河国風土記
(13)伊豆国風土記   (14)越前国風土記  (15)越後国風土記  (16)常陸国風土記
(17)備前国風土記   (18)備中国風土記  (19)讃岐国風土記  (20)安芸国風土記
(21)阿波国風土記   (22)肥前国風土記  (23)肥後国風土記  (24)伊予国風土記
(25)日向国風土記   (26)豊後国風土記  
(平成20年度の調査資料 服部光延記)
記録では一部に未完の風土記が有る様です、漢文を日本語に翻訳された風土記の詳細はわかりませんが、服部家に関する記事は播磨国風土記と出雲国風土記だけの様で他は不必要と思われます。次は播磨国風土記の服部氏族に関する事項を詳しく説明致します。

讃容群(さよのこほり)の337行〜345行に翻訳された彌蘇足尼(みそのすくね)様の家族一同のお名前と娘二人の様子を紙面で表現した文書で時代は(推定 西暦420年前後)

(みかづききはら なんばたかつのみやのみよ  ははきのかぐろ いなばのおほゆこふたり)
弥加都岐原。難波高津宮天皇(仁徳天皇)の世に伯耆の加具漏 因幡の邑由胡二人に

(いたくおごりて わきためなく すみさけをもて てあしをあらひき ここにみかど)
大く驕りて 節 夭く     清酒  を以て 手足を洗ひき  是に 朝庭

(のりにたがへた さいのむらじ さやをつかわして このふたりをめさしめたまふ)
過度     狭井連   佐夜を遣わして  この二人を召さしめたまふ

(そのときにさや すなわち ことごとにふたりの やからいを いましめて まいおもぶく)
爾時に 佐夜 仍ち   悉に二人の     族を    禁しめて  赴参く

(ときに しばしば しみずのうち  いたくたしなむ なかに おみなふたりあり)
時に 屡    清水の中に   酷く栲たしむ  中に  女二人あり

(たまをてあしにまけり ここに さやあやしびて とふに こたへていはく あはこれ)
玉を手足に纒けり  是に  佐夜怪しびて  問ふに 答へて 日はく  吾は此

(はとりのみそのむらじ  いなばの くにのみやっこ あらさかひめ をめとり うめるこ)
服部彌蘇連      因幡   国造     阿良佐加比売  を娶りて 生める子

(うなひめ  くはひめなり といふ そのときに さやおどろきぬ  こはこれ)
宇奈比売  久波比売なり と言う  爾時に  佐夜驚きぬ  此は是


(おほまへつぎみ のむすめなれば すなわち かへしおくりき。 おくりしところを すなわち)
※@執政大臣  の 女なれば   即ち     還し送りき。 送りし 処を   即ち

(みおきやまとなずけ かづけし  ところ すなわち もかづきはらと なづく)
見置山と号け    溺けし   処を  即ち   美加都岐原と  号く

(うののさと)
雲濃里   ※@(執政大臣)  ※A(土は上の中なり)



※@ 執政大臣を(古代では おほまへつぎむ)と呼称されていたと思いますが、西暦400年頃は大臣をおほ
おみと呼称されています【大臣(おお おみ)は臣姓の諸氏を統領し、大連(おおむらじ)は連姓の諸氏を統領し臣連二造の上で庶政を総覧せよ】そして更なる後世に右大臣 左大臣制度ができて初めて大臣(だいじん)と呼称される様になったのです。

※Aは各地の風土記として情報収集に土地(農産物の育制度)の状況も調査されていた。

服部氏族に関与する記事はこれだけですが古代としては大変貴重な文書で彌蘇足尼(みそのすくね)様は有名女神様の十一世孫に当たるお方様です。仁徳天皇が彌蘇足尼様の娘二人の奢(おご)りを論する為に佐夜を遣わした状況ですが挟井連(さいのむらじ)と佐夜様も古代の記録に記される有名貴族様です。

この播磨風土記の原本は既に行方不明で平安時代に書き写された写本は昭和十年に国宝となり現在は奈良県の天理図書館の蔵書となっています。この様な貴重な書籍に古代服部家の十一世孫 彌蘇足尼様の御家族一同の御名前が記載されて信憑性(しんぴょうせい)が更に高くなり喜ばしい事です。
[44]神森龍三郎さんからのコメント(2012年11月15日 11時54分13秒 ) パスワード
URL=http://saisentannomizude-zennojyunkanwo.blogzine.jp/kagomekagome/2012/11/post_ca32.html

[17] さなえさん  

﹥服部家のご先祖様が、ひのはやひのみこと様と突き止めたことは、ほんとにすごいと思います。

 ・・・
11月12日(月)三重県名張市から神戸に帰るべく名阪道を走っていましたら、急に「その神野インターで下りてほしい!」と誰かに言われたような気がして、導かれるように神野山という山の山頂まで行かされました。
車から降りて・・、誰かに案内されているような気がしてたどり着いたところに、王塚と言う古墳がありました。
そこの説明板には、熯速日命とのお墓であるとの言い伝えが書かれていました。熯のフリガナには かん と書かれていましたが ひのはやひのみこと でしょうね。  見晴らしの良い素晴らしいところでしたね。

 熯速日命なる王様と、そして王様と共にご苦労なさった方々の姿が観えてくるようです。 

ここの 服部家の歴史 も偶然にPCから現われたので、このシンクロ現象から推測すれば、 服部一族の皆さまに告げてほしいとの御霊の要請のような気がしてここに記しました。 私の思い違いであれば、ご容赦くださいませ。 お詫びいたします。
[46]さなえさんからのコメント(2013年01月03日 09時12分06秒 ) パスワード

無事、新しい年を迎えられましたこと、皆様に御礼申しあげたい気持ちでいます。ありがとうございます。これからも、ご指導よろしくおねがいします。

さて・・・、
新年のお宮参りに、豊橋市の石巻山の石巻神社に、家族で行くことができました。そして、山頂から西に美しい豊川と平野を眺め、東には遠くに富士山を拝むことができました。帰りに、足山田の服織神社にもよれました。どちらも、私には、とても気持ちいい神社でした。

あまりのうれしさに、コメントさせていただきました。
[47]さなえさんからのコメント(2013年01月16日 15時55分32秒 ) パスワード

急に思い出したのですが・・・

いつだったか・・・、テレビで皇后美智子様が、皇居で蚕を御育てになっているのを見ました。失礼な私は、高尚な御趣味だと思って見ていましたが・・・、どうやらアレは、神事(まつりごと、宮中行事)の一つらしいと、最近知りました。

だとしたら・・・、やはり、はるか太古に、糸を紡いで、布を織るということは・・・、(丸裸の動物)人間にとって大切なことで・・・、「衣・食・住」の一番はじめのことで・・・

なにか・・・、神と人間との間に、機を織る事の重要性、祈りのようなもの感じました。
[48]さなえさんからのコメント(2013年01月16日 16時37分19秒 ) パスワード

ところで、昨日久しぶりに本屋さんに行って、偶然手に取った本に、はっとりきょうと様ご指摘の通りの、服部と「ひのはやひの命」の関係が、そのまま載っていましたよ。そのほか、以前から私が気になっていた、中央構造線のこと、稲荷神・八幡(やわた・ヤハタ)神・太秦・景教のこと・・・、ほかには観阿弥・世阿弥のこと、役行者や忍者のことかいてありました。

でも、最終的には謎は謎のままですが・・・、秦氏のことを、広い視野で調べているのがいいと思いました。

それにしても・・・、私が自分の先祖を調べて、服部を調べて行き着いた知りたいことが・・・、「秦氏」のことになってしまうなんてねえ。私の中ではまだ、服部と秦氏は別ものです。途中お互い組み入れたりしたかもしれないけどもね。

ただ、この本に書いてないこともあります。それは、「秦氏」(もしくは服部氏)と天皇との関係です。それから、中央構造線上の歴史に出てくる、神様や天皇と皇子さまの関係などです。

とにかく、言い伝え的文献しか無いような状態ですが・・・、私と同じような疑問を持ち、調べていてくれる人いるんですねえ。私みたいな人間少ないと思ってました。ほんとは密かに・・・機織はシルクロードから来たんじゃなくてね、日本から世界に行ってシルクロードで帰って来たんじゃないか?と思っています。最近のいろいろな発見では、日本には縄文時代(紀元前の世界)には、かなり高度な文明と都市があったといわれるし、大海を自由に行き来する技術も交流もあったようなのだから・・・、今よりずっと自由な発想で、開けた国だったらいいなと、思って楽しんでます。

  本は  「秦氏の秘教」 菅田正昭・著 学研  です。
[49]さなえさんからのコメント(2013年02月04日 11時03分53秒 ) パスワード

はっとりきょうと様へ

こんにちは。いつも気にかけていただいてありがとうございます。あれからは・・・相変わらず、三河一色(矢作川下流)の服部(我が先祖)の情報、進展なしです。でも、はっとりきょうと様にも、調べていただきたいことあって書き込みしましたよ(私的な手紙です)。

一つは、愛知県弥富市の服部家住宅さまです。
 皆様にはご存知の方多いようですが・・・、こちらに行って、家を見て、現在の家長さまに会われると、なにか感じることあると思います。重要文化財ですが一般の住宅なので、事前に連絡して行かなければいけませんが、その分時間をゆっくりお話してくださいます。わたしは、まいあがってしまって・・・何にも聞けませんでしたが。居間にある大きな槍の下で眠るとどうなるか・・・とか、切腹の間の話(私は納得いかないな)とか・・・いろいろです。後醍醐天皇とか、近くのお寺のこととか、難しい話は忘れちゃったんですけどね。家紋も見せていただくの忘れてきました。たぶん、いろいろの紋を使い分けていらしゃる様子でした。三河一色ともおばあさまのころは行き来があったような感じでしたが・・・今は人も、地形も生活も変わってよく分からない感じでした。 連絡先は、弥富市歴史人俗資料館(0567−65−4355)で教えてくれます。住宅の保存のため入場料として300円、頂いているようです。名鉄尾西線・五ノ三駅より徒歩五分となってます。弥富市(Wikipediaで)で調べると、弥富市と服部家のこと詳しく書かれていますよ。

二つ目は、(私の気になる人物の1人)服部長七です。
 こちらは、インターネットで、「日本石灰協会・日本石灰工業組合」のホームページの{特集・服部長七と人造石}が、わかりやすくて、「岩津天満宮(愛知県岡崎市)」のホームページの{服部長七翁物語}が、おもしろかったです。


これからも、おからだ御自愛くださいね。
[50]さなえさんからのコメント(2013年02月18日 08時13分39秒 ) パスワード

[44]神森龍三郎様 へ

  [45]で、お礼のコメントを書かせていただきましたが・・・、ほかの(自分の)文章が気に入らず消してしまいました。ごめんなさい。

やはり、神野山に行ってみたく・・・、思いました。いつか・・・行きたいと思います。ありがとうございます。
[51]さなえさんからのコメント(2013年03月18日 18時31分07秒 ) パスワード

先日ですが、新城市の湯谷温泉(ひさご、掛け流しで800円)に行ってきました。それから、大野神社と摂社(?)の服部神社にお参りをしました。薄曇りの日だったのに、少しの間晴れ、風が吹きました。気持ちよかったです。
それから、大宮というところの石座(いわくら)神社にも行きました。ここでも風が吹き、気持ちよかったです。

帰り道、足山田の服織神社の前を通りながら・・・思い・・・

よい日を過ごせました。ありがとうございました。
[60]さなえさんからのコメント(2013年04月11日 13時54分50秒 ) パスワード

ネットで見つけたのですが・・・

大阪府府中市に服部緑地というところがあるのですね・・・

そちらに「日本民家集落博物館」(服部緑地1−2)があるそうなんですが、十津川村の丸田家住宅があったりして、興味深いです。

わたしは、かねてより、昔の人の暮らしぶりや(現代の人が忘れ去ってしまった)知恵や工夫に、興味がありましたし。服部緑地の地名にひかれますし、十津川村は、僻地ではありますが、不思議なつながりのある土地柄ですので・・・、おもしろいですね。
[68]さなえさんからのコメント(2013年05月07日 17時48分42秒 ) パスワード

はっとりきょうと様へ

最近、京都で気になるところは、知恩寺の手づくり市(月一回)。古い路地。
綾部の田舎・・・。
気になる人物は、アレックス・カーさんと、ベニシアさんです。

京都の行ってみたいところ、会ってみたい人に思いをはせてみました・・・。
[69]さなえさんからのコメント(2013年05月25日 19時59分13秒 ) パスワード

たまたま通りかかった、地元(西尾市斉藤町)某所の墓地で、丸に(くっきり)矢羽根2本の家紋を見つけたのですが・・・、なんと氏名が・・・「神谷」なのです!!

わたしの母方の神谷(丸に揚羽蝶)との、直接の親戚関係は無いと思いますが、地理的には同じ 旧・福地村 地内です。

服部と・・・遠い昔に、縁あったのだと思いたい気持ちがいたしました。

しかし、矢羽根の家紋は、特徴的で珍しいと思っていたのに、まさか神谷氏が使っているとは思いもよらず(今は理由もわかりませんが)びっくりです。

神谷のことはよくわかりませんが、三矢氏と語音が似ていたり・・・、神服部氏を連想したりしてしまいます。また、おもしろく空想しているだけですので、ごめんなさい。
[70]さなえさんからのコメント(2013年05月31日 16時22分02秒 ) パスワード

はっとりきょうとさま、元気ですかぁ〜?(^^)

たいへん、大変、ご心配とご迷惑をおかけしました「10桁の車紋」のことですが・・・、どうやら私の勘違いと数え間違いであったようです! よかったぁ〜。でもね・・・父が受け継いだ紋は、6桁でしたよね? だけど、父の実家の実家(ほんや)のお墓の紋は、8桁なので・・・ほんとは、私たち家族も8桁だけど、近所でもらった着物を父(分家ではあるが、血縁関係の濃い、籍の入っていなかった貰い子[つまり養子であって養子でない])に譲ったかもしれませんね。

それから、確認ですが・・・

やはり、その墓地には、いろいろの紋の服部家の墓が集まってまして、「8桁(通称・源氏車で御所車とも言う)車の2矢羽根」「6桁の2矢羽根」「8桁の2矢筈(縦型で上下に切れ込みあり白塗り?の)」「6桁の矢筈」「丸の2矢羽根」三矢姓で「丸に3矢羽根(縦型)」がそれぞれ、2基以上あるかと思います。それから、石工じょうのことかもしれませんが、源氏車(御所車)の桁の部分の外がわが凸のようになっているものと、◎に線のみのものとありますよ。また、矢羽根が上下同じ太さのものと、下が細くなっている物ありました。

仕事上のことで、そこら辺の住宅地図(ゼンリン)を、見てみましたら・・・、お墓の周りに、服部家が密集しています。たぶん、昔、共同体で生活していたからでしょうね。しかし、そこを離れると(分家こそあれ)当地域では、決して多い名字ではありません。そこだけだと思います。

これ以上のことは、プライバシーの問題が発生しますから・・・、現場を見ていただき、皆さんに確かめていただきたいですね。

今となっては、親戚づきあいも薄く、詳しいお年寄りも、お寺も無く・・・「わからない」の一言です。

ご先祖様の、ご冥福とご多幸を願いますが・・・、何故か、今の私には・・・服部家のご先祖さまには、届いている気がいたしませんので、どうぞ、皆様のお力添えを、お願い申し上げます。きっと、何かわかってほしいと思います。

きょうと様に、ご健勝とご多幸を、お祈りしています。
[76]さなえさんからのコメント(2013年07月31日 23時05分06秒 ) パスワード

[70]で、何度も(矢筈)と書きましたが、私の勉強不足で・・・どうも(切り竹矢筈)のようです。みなさん、ごめんなさい。

それから・・・、矢作(新)川(旧)河口付近の、鷲塚町(一色町から対岸になる)の服部氏は、私的には同族と思っていましたが・・・鷲塚付近の某墓所で見た服部家の家紋が・・・・・・
「丸に剣方喰」だったのです。

この件のこと・・・理由があると、直観します。何か言われ等わかる方、宜しくお願いします。
[84]鷹匠さんからのコメント(2013年08月10日 21時45分58秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年08月11日 23時14分07秒
[85]箱柳永田さんからのコメント(2013年08月12日 09時48分01秒 ) パスワード

 さなえ様
>私的には同族と思っていましたが・・・鷲塚付近の某墓所で見た服部家の家紋が・・・・・・
「丸に剣方喰」だったのです。

 これは、酒井さんの家紋ですね、特別な功績があったとか、
 酒井さんから嫁や養子が来たが考えられます。
  三河では服部さんより酒井さんの方が格上(ご免)なので
  (酒井さんの許しが有れば)普通の成り行きです。
[87]さなえさんからのコメント(2013年08月12日 22時55分12秒 ) パスワード

当地域、「丸に剣方喰」紋を使用する家(苗字関係なく)多いのですが、ネットで調べましたら、方喰は繁殖力多い草花で、子孫繁栄・家が代々続くようにの意味で、農民から武士まで幅広く使われる一般的家紋のようです。

酒井家との関係とまでは、まだわかりませんので、宜しくです。
[99]管理者 aさんからのコメント(2013年08月29日 03時15分37秒 ) パスワード

ゴミレスで満杯になりました。
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