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 投稿番号:101278 投稿日:2012年03月30日 03時49分33秒  パスワード
 お名前:いちご
祖父母と探した大分県大在の墓続き
キーワード:ひら クマ たいら
コメントの種類 :その他  パスワード

埼玉苗字辞典ひら つづき 
国は羅と称し、火羅、日羅、肥羅の渡来人は佳字の平(ひら)を用いる。二字の制度により平井、平江とも称す。ヒ、ヒノクマ、アヤ、クマ条参照。浦和、与野、戸田、草加、朝霞、新座、入間、熊谷等に存す。タイラ参照。

[1]いちごさんからのコメント(2012年03月30日 04時00分34秒 ) パスワード

うちには 平井姓のつながりはないようだけど、参考
埼玉苗字辞典 
平姓平井氏 
上野国緑野郡平井村(藤岡市)より起る。秩父秘話(大西シゲ著)に「我家の先祖は、桓武天皇の子神野親王・別名恵多羅親王(嵯峨帝、即ち初代平井大衛門)であり、上州緑野郡平井村に来り住み、平井大衛門は秩父妙見大菩薩として秩父神社に祭られ、関八州より崇められた、即ち関東平氏の祖である。一門秩父重忠は平井大衛門代々の家で育った」と。嵯峨天皇の家司平井大衛門屋敷は秩父神社の北西にあり、東方に小名神野台あり。秩父氏の本名か。秩父条七項、畠山条六項参照。
[2]いちごさんからのコメント(2012年03月30日 04時13分34秒 ) パスワード

関東(坂東)平氏ネットより
源頼朝が鎌倉に幕府を(ひらく)およそ90年前、鎌倉・湘南地方は、大庭、 梶原、長尾、 村岡、 鎌倉のいわゆる関東平氏五家が割拠していた。この五家は、 系図によれば、平良文( 村岡五郎)の流れを組んでいる。

贏姓 高丘系図1で検索
【贏姓 高丘氏系図】. 【始祖】高陵君参 【世系】高丘氏は、もと贏姓にして、秦王室第26代 恵文王の苗裔なり。 【歴史】秦第28代昭襄王の弟「参」が、高陵に封ぜられ「高陵君」と 称す。 よつて子孫を「高陵氏」と云ふ。

百済蓋鹵王妃 クリック→百済・扶余系図が出る。→スライドして左一番下に「若狭彦神社」がでる。→クリック→皇別・笠氏系図(笠氏の出自がわかればよしとする)→祖先の枝分かれに『桓武天皇母・高野新笠』がいる。→百済王禅廣(善光)下の↓クリック→三松系図→一番右 藤原内麻呂室は桓武天皇の子・良峯安世や藤原真夏・冬嗣を生む。清和天皇の后・高子は冬嗣の子孫。



[3]いちごさんからのコメント(2012年03月30日 04時15分23秒 ) パスワード

『埼玉苗字辞典』より
蓋・笠・笠井・葛西・石井・豊島・桓武天皇子孫 村岡五郎 ・秩父・壱岐など
(選び出した言葉については笠氏と平氏考察を見てください)

『占部家系図総覧−占部家系傳』より
桓武天皇よりの系図 (国香の子孫の方が清盛につながりますよね。)
★桓武天皇―良文(村岡五郎)―常有(占部太祖なり)占部兼安
★卜部系図
臼井常有

常有(占部太祖なり)占部兼安。
又時代がさがってからだが 『吉田』姓との通婚がある。このころはもう一般人になっているのかも知れないが・・・

『HOME−占部家系傳』より
裏伊勢と呼ばれる宗像大社がここにある。占部は宗像大社の神官であり、宗像大社の大宮司宗像家の家臣であった。浦辺・浦部姓は多いが、占部姓は珍しい。今では全国に広がっているが、その殆どがこの地域の出である。

『臼井氏−占部家系傅』『大城長者昔語り』より
朝倉市佐田の山奥に今も数件の占部氏が住んでおられる。

実はここに、占部六郎常有から30代余り続いている家がある。宗像家の最後を見届けた占部貞保の次男末保の子孫である。以下はここの一族の方々からいただいた資料にもとづいている。
・ ・・・常有は宗像に潜入した後は姓を占部・・・

桓武天皇から続く卜部氏と京都の吉田氏・吉田(藤原)経房はえっ?と思われる関係になるかも知れないが、うらの(女子の)つながりをみればわかりやすい・・・と思います。
[4]いちごさんからのコメント(2012年03月30日 21時52分49秒 ) パスワード

父 高岡(白石へ養子)
母 佐田

佐田
卜部 中臣 大中臣 藤原

・任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県
・娑陀(さだ)族は出雲国秋鹿郡佐陀庄(島根県八束郡鹿島町及び松江市)に渡来し佐太大神社(鹿島町)を祭る。其の一族は伊勢国度会郡佐田村(玉城町)に移住し狭田国生(さたくなり)神社を祭る。
サルタ条参照

さるた猿田
古事記・天孫降臨条に「僕は、国つ神、名は猿田毘古神ぞ。

・神代に渡来した猿田彦は別名「国底立神」とある。神代初代国常立尊の別名で、二代が豊国主尊である。
・一説に猿田彦は出雲国秋鹿郡許曽志神社(松江市古曽志町)が生地であると伝承あり。
・高麗郡猿田村の猿田氏 埼玉の神社に「上鹿山村八剣社、元亨二年に猿田村に住む猿田豊前守吉清という武士が勧請す」と見ゆ。八剣神主田中右近の先祖か。

佐田はサッタとも読む。薩田条参照。
・斎藤氏族の定氏
・斎藤とは斎宮頭の藤原氏より採った組織名の斎藤にて苗字にあらず。
・定は佐田とも書き、サッタと読まれ薩田とも書く。 
[5]いちごさんからのコメント(2012年03月30日 22時31分02秒 ) パスワード

さだ おがた やまぐち 同族又は同祖
尾方は後世契丹の貴族にもいる。山口は他他粒氏。八旗族のひとつ。

尾方 長男の嫁(地域の長の娘)
・「市房神宮宮司」 尾方
・「青井阿蘇神社」大同年間尾方大神大賀惟基が阿蘇神社を勧請して建てた。
いずれも天孫系の神社

惟基はウイキより
「平家物語」や「源平盛衰記」等にも記されている、祖母山大明神の神体である蛇との蛇神婚伝説で殊に有名である。
豊後国の山里に住んでいた娘(「平家物語」では名が記されていないが、「源平盛衰記」では塩田大太夫の娘、「九州治乱記」では藤原仲平の娘、「大神氏系図」では藤原伊周の娘とする。)と祖母山大明神の神体との間の子。
・尾方は緒方

又祖母山大明神はくしふる神社 又 高知尾明神でもあるらしく、宇佐八幡の阿蘇神社縁起ではこの神と阿蘇神社 宇佐八幡をきょうだい神とし、高知尾明神を神武の二郎(神八井耳命)とする。




[6]いちごさんからのコメント(2012年03月31日 05時04分22秒 ) パスワード

4については前に「徐」や「楚」「孫」などで考えたことがあるけど、佐田と田中はつながっている。

「八剣神社」
白石 平賀 竹内 12に八剣神社と熱田神宮大宮司・武内氏について書いているが、武内は田中。

神宮が遠祖とする「海神の子・振魂命」
倭氏は綿津見豊玉彦命(海神)の子で穂高見命の弟の振魂命を始祖としており、阿 曇氏とは親戚関係にある。振魂命は尾張氏・津守氏 ... 紀氏の祖は、武内宿禰と宇豆比 古の娘で宇乃媛の子、紀(木)角宿禰ということになっている。
[7]いちごさんからのコメント(2012年04月01日 21時48分33秒 ) パスワード

阿 ア
・ア、オ、オオは同じ
・百済のクはオ(阿)、オオ(大)
・大ノ国は後の百済、及び加耶地方の総称で、大加耶国(おおかや)、安羅国(あら)と称し、此の地より渡来した集団は、大野、安部、阿部(あべ)等を名乗った。また、阿(あ、お)はクマと読まれて、熊ノ国とも称し・・・

安 ア
・阿と同じ用いられ、またヤスに転ずる。古事記の高天ヶ原とは大加耶(意富加羅国)の高霊(たがま)郡の地である。
・此の地に居住していた海洋民の越族は韓族の南下により、縄文・弥生時代に我ヶ国へ大量移住し、母国の名を冠して安部・阿部と称す。

阿部には阿部高田姫の名があり、阿部と和徳と関与しており、佐田・高田(阿部)と通じていると前から思っていましたが、・・又、東北に阿部郡磐井の地があり、九州の磐井は古代の「君姓。」
武列天皇の頃くらいまで消息があり古代に活躍していたと思われ、磐井は「白石」が名のった。後世白石は清和源氏。藤原に入ると高倉になるという。

阿部は大彦命に関与しているようで、切れ切れながら服部氏に関係してくるように思う。

新羅におほ氏がおり、「天狭霧尊」の子孫。この神や国常立尊・豊国主尊などは「葉木国尊」の別名を持つ系統で、狭霧尊は天祖天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊。

葉木は萩
故郷の萩という集落に高岡 永田 田中 高田の4軒。この中の田中と高岡は姻戚関係。田中 高岡と田山も姻戚関係。田山は天孫系の市房神宮のお鏡を持つ。

又 山田の葉木に良峯朝臣子孫・平河氏の霊社があったと伝える。良峯朝臣は劉姓。 
[8]いちごさんからのコメント(2012年04月01日 22時20分19秒 ) パスワード

・大ノ国の渡来集団を阿部(あべ)と称し、其の居住地を大と呼んだ。大は、意宇、意布、意冨の地名を付け、また大野、小野とも名付ける。是等の地名に阿部氏、安部氏は多く存す。
・阿部族の源流は越族である。
・しかし、北方の満州地方に住んでいた韓民族の夫余族(後の高句麗、百済を興す)の南下移動により、押出された越族は出雲国古志郡、北越地方(越ノ国)へ上陸し、日本全国の地へ移住する。越族は其の首領を、大ノ国の王と呼んで大彦命(阿部族首領の代々の襲名)を崇め、古志王神社の祭神とした。阿部族は最大の渡来集団にて、其の一族で物を作る集団を物部と称した。
・八千矛神、高志国の沼河比売を婚はむとして幸行でましし時、その沼河比売の家に到りて歌ひたまふ」と見ゆ。沼河比売は越後国頚城郡沼川郷の奴奈川神社の娘なり。また、東日流外三郡誌に¬耶馬台之国続く処領、大祖建沼河別命なる君主の地なり。その胤、安日彦・長髄彦、二柱ぞ荒吐族の大祖なり」と見ゆ。神武東征に敗れた耶馬台(やまと)の長髄彦兄弟は建沼河別命の子孫と伝える。孝元天皇の子・大毘古命、その長子に四道将軍の一人建沼河別命あり、是も襲名である。大毘古の次子大稲輿命は越国造の祖であり、延喜式の古志郡伊奈具志神社は此の国造の祖廟たり(地名辞書)と。

・高句麗国の越族大彦命 中国東北地方(北満州)の夫余族が南下して、後の高句麗と百済の両国を建てる。三国史記に¬朱蒙(高句麗国王の祖)、卒本に至り、★越郡の女を娶る★」と見ゆ。卒本(桓仁)地方は鴨緑江支流の佟佳流域の地で高句麗国の内なり。此の地は古代越族の居住地である。当地方出身のオオヒコは高句麗国王によって日本に派遣されたと云う。
[9]いちごさんからのコメント(2012年04月02日 01時24分05秒 ) パスワード

・平良文(村岡五郎)の妹は常陸介藤原維幾の妻となって藤原為憲の母になったという。為憲の子孫に当たるのが伊豆の伊東氏・工藤氏・狩野氏。相良氏は彼らと同族。
・平良文と源宛(箕田)は親友・・・宛の子孫が松浦氏。
故郷の隣の集落に箕田家がある。
・上野国碓氷郡より信濃国佐久郡に亘り、新羅渡来人秦族橘姓が多く存す。信濃橘姓は新開条参照。と埼玉苗字辞典にあり、
・新開 シンガイ
辰韓の秦族渡来地
別府、相石、益田、友成、玉井、近正、真道、新開、大子良林、国時」と見ゆ。とあって
球磨郡にも別府という地名があり「びゅう」と呼んでいるのが秦系らしく思える。
・新開氏の本名 
新開氏は在名にて苗字にあらず。新開氏の名跡(家紋松皮菱)を継承したのは、新開屋敷跡より数百メートル離れた新開郷高島村の正田隆平家(家紋蔦)先祖なり。
・同じく埼玉苗字辞典に
秩父氏は後世桓武平氏を冒す。
とあるのだが、誰にでも居る父母のつながりの関係から平氏といっているのでは?
・橘姓の良文
今昔物語卷二十五に「東国に平良文と云有り、字をば村岳の五郎と云ふ。頼光朝臣の郎等に平の貞道と云兵有けり」。卷二十九に「村岡ノ五郎平貞道と云ける者也」と。この書は平安末期の嘉承頃の編纂であり、平良文と記されていても不思議では無い。前太平記に「信濃国碓氷郡の浪人橘氏、諏訪明神に祈りて碓氷荒太郎貞道を生む、後源頼光に仕へ貞光と改め、靭負尉に補せらる」と。薩摩国阿久根郷の英禰(あくね)系図に「源頼光の臣四天王の一人、平貞道碓氷荒太郎より八世孫、英禰に下向す」と見ゆ。良文は俗史に村岡五郎貞光に作り、更に橘姓碓氷荒太郎貞道と云ふ。碓氷荒太郎橘貞道を平貞道に作るのは、後世の作品である為か。平群系図に「良文―忠道(号村岡二郎大夫、源頼光朝臣四天王之内。法性寺関白以来、世之人改忠字、称サダ道)」。桓武平氏金子家系図に「村岡五郎良文(下総国相馬郡御厨下司、天徳四年卒、号東光院)―村岡小五郎貞道(本・忠道、源頼光朝臣郎従)、弟村岡二郎恒明(本・忠頼、相馬郡御厨下司相伝)」と見ゆ。

・さらに
五秩父郡司
 武蔵国大里郡及び秩父郡は、藤原冬嗣の子良房、其の孫忠平、其の子右大臣九条家藤原師輔の所領にて、秩父郡司は其の家宰である。大里条参照。秩父郡司の後裔秩父氏は中村郷(秩父神社附近)に居住していたが、武基が秩父牧別当に任ぜられてからは吉田郷を本拠地とする。秩父氏後裔の薩摩国★伊地知氏★系図(平安遺文十一・・・・・・・

伊地知氏は佐田に関与して出雲の方であった。

・故郷は橘紋の高岡(父) 巴紋の佐田(母)とふるい時代に活躍された祭神を祭る神社「市房神宮」「阿蘇神社」に関与する話がある地域。
・橘と平氏 橘は母系の遠祖に神魂神を持つ。兵庫あたりの「鷲尾家」の本では神魂命から神武天皇へとつないでいるという。
・又市房神宮は若狭彦神社と祭神が同じ。若狭彦神社に関与する「笠氏」(笠氏と平氏考察)。笠氏に関与する嬴姓高丘氏。
[10]いちごさんからのコメント(2012年04月02日 01時37分05秒 ) パスワード

埼玉苗字辞典秩父氏
・先代旧事本紀卷三・天神本紀に「高皇産霊尊の児思兼神の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃と為して、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生す」と。
・秩父国造の祖・思兼神(おもいがねのかみ)の兄弟の万幡は多くの機織、豊秋津師は織物のすぐれた布、千々は多くの幡。千々布(ちちぶ)は布(はた)の数が多いの意味で、八幡(やはた、はちまん)の八も多いの意味である。
地名辞書(吉田東吾著)に「此郡(秩父郡)崇神天皇十四年十二月、知々夫彦命を国造とし、美濃国不破郡引常の丘(岐阜県垂井町)より倭文部・長幡部を率い来り、民に養蚕を教へ大いに機織の術を開く、故に其名に因て秩父の国と称す」と見ゆ。栲幡・即ち新羅国出身の思兼神の子孫知々夫彦は織工集団の首領であり、居住地を八幡荘と唱へ、織工の奉斎神である八幡社を祀る。後世秩父氏は八幡社を氏神とし、新羅の白旗を用いる。
[11]いちごさんからのコメント(2012年04月03日 19時07分52秒 ) パスワード

橘氏の言葉がでる話では、 地域の話では 父方・高岡の寺があるあさぎり町。そこに 島津家久にまつわる話がある。

あさぎり面白ばなし4 広報あさぎりNo32より
千手の局(つぼね)の伝説(その2)
 戦国大名の島津貴久公の四男家久を産んだとされる「千手の局」。この人は薩摩の当地では「橘姫」「少納言」の尊称でよばれている。

上相良氏の流れを汲む氏の出である姫がよばれた橘姫。
・9より平良文(村岡五郎)の妹は常陸介藤原維幾の妻となって藤原為憲の母になったという。
・橘姓の良文
・今でも続く うちの高岡と上相良氏が名のった「山井」との通婚。
・島津の分家が名乗る「佐多」

[12]いちごさんからのコメント(2012年04月03日 19時45分44秒 ) パスワード

9ででる英禰(あくね)系図を検索すると「神崎成兼(初代あくね氏)」がでます。

ここで もうひとつ すでに 「坂東平氏と源氏」というスレッドがあって、 あくね氏について書かれているのを知りました。なかなか 一覧の全部に目を通すことが出来ないのと、自分の家に関与していることを追いかけているので。・・・

武家家伝神崎氏で検索してもずばりは出ませんでしたが、「宮本武蔵」のスレッドに関して英保氏の分流・総社の神主になっている「神崎氏」がでました。

・英保氏は佐田に関与する。
英保(あぼ)氏は宇野(小寺)氏の分流で、始めは江見氏を称した。
新免武蔵の系に関与するかもしれない宇野氏。

・これらの言葉は佐田から出る。




[13]いちごさんからのコメント(2012年04月05日 02時58分31秒 ) パスワード

9平良文(村岡五郎)(橘氏)の妹は常陸介藤原維幾の妻となって藤原為憲の母になったという。相良氏遠祖・為憲」
・ネットの荒木田家嫡流伝承の作者は武智麻呂の母は島津(秦氏)だと書く。
・武智麻呂の母は曽我氏。
・橘神道は武内氏で検索をかけると「服部 藤堂高虎」がでる。
・前にみた本に「橘神道」は「武内氏」とあった。
・玉木 京都梅宮大社・・・縣犬養橘三千代・・・又「平資盛」などの言葉が出る。
・玉置(玉木)は尾張連の系を引くという。
・梅宮大社の祭神・・・山ノ神。木花咲夜姫(若狭彦神社と同じ祭神をまつる市房神宮に祭られる。又大阪高槻の鴨神社の祭神・山ノ神)
・賀茂神社の社家に「田中」「林」がある。
・武内は田中又林で曽我氏(蘇我氏)

橘=秦=島津=曽我=武内=武内は田中=高岡
尾張氏 振魂命の系を引く「尾張熱田神宮の宮司は武内氏だった。」女子が源頼朝をうんだので藤原氏(南家)に職をゆずり「八剣神社」を創設した。

過去に読んだ本では大伴氏 藤原氏 蘇我氏 物部氏は同祖であがっていく と書いてあった。源氏 平氏なども 彼らが姿かたちを変えて時代をおりてくる。



[14]いちごさんからのコメント(2012年04月09日 01時23分08秒 ) パスワード

五木と四浦は昔はひとつだった。
ということは 五木に居る人のご先祖と四浦の人のご先祖は同じかもしれない。
私からは戸籍の取り寄せは出来ない。
「霧島神宮」を勧請して「久米城主・市房」が建てた「市房神宮」のお鏡をうちの高岡・田中と姻戚関係にある田山家が預かっていること。宮司・尾方氏。
人吉青井阿蘇神社は大同年間・阿蘇神社を尾方大神大賀惟基が勧請して建てたこと。
父の出の高岡は田中・田山と姻戚関係。
母は私の氏神が「阿蘇神社」といっていたこと。

単純に以上から
ネットに「キーワード開設」五木村を見つけみていると

大久保のだんな様の田山 とある。
旦那衆は山土地を持ち旧家だった。
現在 商工会会長は田山さん、副会長は田中さんと現在も活躍されている。
前にテレビで高岡家も出ていた。
阿蘇神社があり、尾方氏が神官で、この方は小学校のとき先生だった。
大平地区と「霧島神社」
などが目についた。

「霧島神宮」は霧島のほうでは田口という地に建っている、
五木頭地にも田口という集落がある。

など やはり つながりがあったように思える。
五木あたりは縄文時代の遺跡がある。
又銅山もあった。川辺川筋に温泉もあり鉱脈が走っているようで、それは鉱石があることを意味しているのかも。
さらに 古代 入り込んだ人たちは鉱山の知識を持っていたかもしれない。


[15]いちごさんからのコメント(2012年04月09日 21時52分23秒 ) パスワード

武家家伝三田井氏
三田井氏の起りについて『高千穂古今治乱記』には、「抑も三田井の家系を尋ぬるに、地 神鵜カヤ草葺不合尊の御子、太郎の尊の御後胤なり。

また三田井に高千穂神社、岩戸に天岩戸神社が鎮座し、「天孫降臨」など神話上の伝説 地ともなっている。

白鳥神社 宮崎県えびの市大字末永
古来より白鳥山をはじめ霧島の山々は 神山であり、当地は日本武尊が熊襲征伐に下向された縁深く・・・

白鳥神社つながり
・白石 平賀 竹内
・いわいさんへ 白石・真木・平賀100から102の続き、
ヤマトタケルがでる。
[16]いちごさんからのコメント(2012年04月11日 05時21分08秒 ) パスワード

田口
埼玉苗字辞典より
梁書・百済伝に「邑を檐魯と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し。其の国、二十二檐魯あり」と。クダラのクは大きなの意味、ダラは邑・郡県の意味で、クダラとは大ノ邑・大ノ国と云う。大、太、多はタと読まれ★田★の佳字を用いる。口は人の数で、大族の集落を田口と称す。オオ条参照。大和国高市郡田口村(橿原市田中町・和田町附近)は百済族蘇我氏一族の居住地なり。古代氏族系譜に「武内宿祢―蘇我石川(蘇我臣)―満智―韓子―高麗―鳥―田口川堀(田口臣蝙蝠)―島古(高市郡少領)―田口麻呂(田口朝臣)」と。姓氏録・左京皇別に「田口朝臣。石川朝臣と同祖、武内宿祢大臣の後也。蝙蝠臣・推古天皇の御世、大和国高市郡田口村に家す、仍りて田口臣と号すと。日本紀に漏れる」と見ゆ。

ウガヤフキアエズ
宮崎の田口の言葉はウガヤフキアエズに関与する。
この王朝が70数代 又は 50数代と伝えるのは
「上記(猿田彦出自を伝える)」「宮下文書(竹内文書)(この文書に「田中王のことばがあると。又宮下家を武田信玄が訪ねまさにそのとおりと古屋の姓を与えたと。古荘。古屋系図。」)」「九鬼文書(佐田・中臣・)」

田⇔田中は天津日子根命に関与する。又 田中⇔武内⇔曽我石川宿禰 蘇我⇔林⇔鞍作り(私にとって大事な苗字。高岡から婿養子に入った平川は球磨では良峯朝臣の子孫になっている。葉木に平河の霊社があったと伝える。平川のおばが林の家を屋敷と呼んでいた。林の苗字は球磨川の大石をとりのぞいて水運を開いた。相良氏のおじ。つまり南家は曽我氏に関与していて曽我は秦でもあった。)

紀氏には佐田も関与する。
ヤマトタケル 田中 佐田
・隅さんへより 
田は始皇帝の頃 中国の文化の最高水準を誇った「田斉」がある。荒木田家の祖先が持っていた アマテラスのご遺骨。後から神武のご遺骨にかわった そうだが、甕棺だったそうな。これは 新の頃につかわれたそうだが、それより先にもあったらしい。
王モウは田斉の 最後の王・王建の子孫。

高句麗が滅んだ頃 王氏は田 全 玉に 改姓している。

王氏は王様だったから「王」といったといい、韓半島ではあまりに恐れ多くて使う人は少ないという。

前に薄い辞典で「白石」は漢王室外戚とあったのだが、今辞典に見えない。
が、ネットで
太原王氏(福建福安下白石——古黄岐)宗祠董事会寻成都王氏宗亲222.212.95.* 1楼

王威的九世孙王霸居住太原晋阳(今山西)唐高宗元章年河南中州固始县,来福建开闽。
王朝王审知王文光,
审知公任闽王,福建威武节度使,封为开闽第一王;王文光封守城都督。王三公生一子 寿郎,生二子,长子世龙,次子世凤,世龙迁居泉州监务行;
世凤第四代,四子,长子迁居福清王坂,次子迁居连江(三子察公务昆)

北宋长溪赤岸为一世公,下白石古名黄崎,白石司。吕公黄崎一世公,到十九世分九十四公天房,九十七分地房,九十八公人房。到二十三世人丁80多人后去处不明。人房何处去是谜,地房在黄岐400多人,天房迁居苏坂500多人。天房19世胞弟28人,苏坂周宁县库上回苏坂一人,二十多何处去谜。


王氏二十二世,朝聘公,王鼎,于康熙八年五月调任四川成都内总提督候补绩奉,随带家眷及官兵两千多人,当时住成都县东门城内总府街,湖广公馆隔壁东巷内,今北门大水金街布政司衙门口左边,今下白石镇——古黄岐 王氏宗祠董事会,特邀请朝聘公王鼎的后人回家参加晋祖庆典仪式。
こういうのがでていた。意味はわからないが白石・王・山西などが見える。





 


[17]いちごさんからのコメント(2012年04月11日 23時59分24秒 ) パスワード

田中 佐田 白石 笹井の接点
・北魏は 山西省に関与し、そこに 切妻造りの家がある。
・高槻の重要文化財の笹井は古墳時代の神殿の屋根のつくりとおなじだから指定された。笹井も切妻造りに関与
・岡山の今村宮の宮司・笹井神主の黒住氏が孝明天皇に「アマテラス」の神道をご進講した。
・福島大神宮(アマテラス)宮司・笹井氏(常磐井氏遠祖西園寺実氏)。

西園寺は藤原
佐田も藤原
・佐田は鷲尾でもあり、中原に関与。彼らは高天原族。

・紫雲山中山寺奥院 兵庫県宝塚市中山寺
聖徳太子は大仲姫のお告げによりこの山をお開きになりました。

重文)木造十一面観音立像・(重文)薬師如来坐像・(薬師堂安置)がある。

西国三十三ヶ所の宝印が納められたのでこの地を「宝塚」と呼ばれるようになった。
籠坂王子・忍熊皇子・は仲哀天皇の妃・大中姫との間にできた皇子で、近江の豪族、犬上君の祖・倉見別と難波の吉師の祖・五十狭芽(いさち)宿禰を味方にした。 この戦いで五十狭芽(いさち)宿禰は戦死したが、難波吉師は推古朝で活躍し、摂津の大豪族となっている。

・中山局が 安産祈願をした 宝塚の 「中山寺」
・千手観音は11面観音と同じ
・千手観音像の日本における現存作例では、8世紀半ばの制作とされる「葛井寺像が最古」とされる。葛井⇔白石
・千手観音をまつる著名寺院としては、清水寺、三十三間堂 があり、大阪茨木の「総持寺」もそうである。総持寺を建てた「藤原山陰」は道長の母の祖父。京都吉田神社も建てた。
・両院並立のもとになる西園寺姞子は大阪府太子町の叡福寺(聖徳太子ゆかり)に分骨された。両院並立の話には「鷲尾貞子」も関与する。・・平清盛の子孫より
・中山氏は 藤原北家 花山院流(花山天皇子孫は王氏・先代旧事本紀を持つ)である。
・この 中山氏に 嵯峨源氏子孫の 松浦水軍の系を引く 松浦氏の 女子が 嫁になり
・出来た 女子が 明治天皇を生む。
・松浦氏には 安部氏の血が 入る。安部高田の言葉がある。
・東北 安部郡磐井の地があり、磐井は 「白石」が 名乗った。九州の磐井は「君姓」で、新羅に通じていた という。
・維新の スポンサーは 福岡にいた(過去に見た本では福岡と書いてあった。) 豪商「白石正一郎」だった。
・維新がなった後 白石は 「赤間神宮」に 入った。
・新羅に先代旧事本紀の祖先伝承の神「天狭霧」をいう「おお氏」がいた。
先代旧事本紀の祖先伝承は「伊勢神宮荒木田系図」の祖先と同じ名で古い伝説と思われる
と 大田亮氏は 書く。
・高魂産巣日神は 新羅をとおってきたといい子孫「大伴氏。」大伴武田・竹田川辺のことばがあり「多氏がまつる神社」でも 川辺の 言葉が出る。鹿児島の川辺は建部の地でヤマトタケルにゆかりする。又平氏の本拠地。

・松前氏は 武田氏。「松前神楽」は 「新羅の記録 下巻」がある。この松前神楽に「常磐井(笹井)」が関与する。

・大己貴命は大国主でもあり、千手観音・熊野夫須美大神:千手観音でこの神は いざなみ

・天照大神は 十一面観音。
・佐田は藤原でもあり、鎌足の弟は アマテラスを名乗り、太洛稽氏でもあり、陳であり、候莫陳氏である。
・大歳神社の大歳神は、「伏見稲荷大社」の祭神の宇迦之御魂大神の兄弟神であり、さらには、「広隆寺」の建立に深く関わる伝承を有する向日神(御歳神)の親神なのである。
・「広隆寺」の「聖徳太子」の像の衣は天皇が即位式で用いたものを下賜されるというならわしになっているとのことで、広隆寺には何代も前の天皇からの衣服が保管されているという。現在聖徳太子像が身に着けている服は、今の天皇から贈られたものなのだという。

・「大歳神社」は秦氏の一大拠点である山背国乙訓郡大原野に存在している神社であることを、改めて実感する系譜である。

なお、現在の社殿は、長岡天満宮の本殿を移築したものであり、境内は「栢の森」とも称されている。京都市西京区大原野灰方町575。
     ↓
・中山寺は 聖徳太子が 大中姫のお告げで 建てた寺。
・聖徳太子のスポンサーだったのが 広隆寺を建てた 秦川勝(川辺氏)
・向日神の 親神が 大歳神。
・中山局は 中山寺に 安産祈願された。
・向日神社の 神職に 六人部氏が いる。(十市王)十市・中原・磯城⇔佐田
・六人部氏は尾張氏族「始祖・天火明命 亦名奇魂迩杵速日命」

・伊勢神宮祭神のアマテラスは「撞賢木厳御天疎向津毘売尊」ともいい、賢木の言葉は 「珍」の子として 書かれる 多氏が まつる神社にもある。
・『新撰姓氏録』では、八咫烏はカミムスビの曾孫である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後鴨県主(かものあがたぬし)の祖となったとする。ヤタカラスの先祖伝承には 又 「高魂産日神」もつく。
・ネットより天皇即位礼
皇位継承「儀式」宝典』(人物往来社)によると、天皇即位礼に使用された「袞竜衣(こん りょうい)」は、その左胸に 「三足烏」、右胸に「ひきがえる」が刺繍されており、その背面 には北斗七星と四神が描かれる。このように、三本足の カラスの格式は高い。













[18]いちごさんからのコメント(2012年04月12日 00時42分08秒 ) パスワード

・遠祖をたどりたどれば、「盤古」子孫には 「田」「向」がいた。
田中は 略して田とも言う。向は 佐田から 出た。

・神農氏(炎帝・赤帝)をとおる筋に 向氏がいる・。
・黄帝をとおる筋に「高姓」。又少昊金天氏子孫は「金姓」。サダ・尾方は「金姓」。
・大阪 高槻 「善峯寺」と「花山天皇」
花山天皇が 元慶寺(京都市山科区)にて出家され法皇となられた。
鎌倉時代初期に後鳥羽上皇直筆の寺額を賜ったことによって「善峯寺」と改められた。
・花山法皇の廟所  御陵は京都市北区衣笠の「紙屋上陵」
★神屋と字が違うが「紙屋上陵」
★日向の国中世の館<野尻町の城館跡>
所在地 西諸県郡野尻町紙屋弓場後. 紙屋城 かみやじょう. 築城者 伊東氏臣紙屋氏?(日本城郭大系より). 概要 伊東氏48城の ひとつ。
・中山局の弟は「中山忠光」で明治天皇のおじ。
・愛新覚羅社
満州国の最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の弟である愛新覚羅溥傑とその妻の浩(忠光のひ孫)を祀る。
・十津川には 平氏政権下 関白に立てられた「普賢寺殿(関白近衛基通)」とその北政所・平清盛の六女の完子(さだこ)が、平氏が西海に落ちた後 住んでいた。★このあたり 姫野さんと関係。基実の子が基通。基実、その子基通とも平清盛の女婿となる。
・ねっとより 普賢寺谷中世館跡群は、この普賢寺谷の開口部に近い、京田辺市三山木の西方の南北斜面に所在する。この遺跡に関わる記録は無いが、西に隣接する「観音寺」は飛鳥時代に起源の遡る寺院であり、この寺院に関連する資料として中世の館群も登場している。
 
普賢寺谷中世館群の西に位置する「観音寺」は、奈良時代に創建された普賢寺の後身と言われる現在真言宗の寺院である。
 
白鳳2年(7世紀後半)天武天皇勅願により義淵僧正の開基と伝え、「筒城寺」とも呼ばれていた。また観心山親山寺を前身とも言われる。
 
その後、天平16年(744)には聖武天皇の勅願により良弁上人が再造開基。
奈良時代以降も断続的に記録が残り、とくに藤原氏の崇敬の篤さがめだつ。
平安時代以降も藤原氏の崇敬は続き、厄災の後の再興には必ず藤原氏が関わっている。その中で、最もこの寺に深い関係をもち中興の祖を言われたのが近衛基通(普賢寺殿)である。
・現在、観音寺には国宝の十一面観音が納められているが、それは偶然ではなく、このような歴史的な背景のあったことによるものである。
・花山法皇と 陰陽師=安倍晴明 は親交があったといわれる。
・安部晴明は「土御門家」の祖である。このあたりに平氏嫡流の本姓・桓武平氏の「西とういん家」の別系・本姓安部がいることの因があるのか?土御門家は「畑氏」に関与。
安部→阿部高田→明治天皇の母方の血筋に入る安倍氏。
継体天皇に関与する阿部高田姫。







[19]いちごさんからのコメント(2012年04月12日 01時52分40秒 ) パスワード

・紫式部の「源氏物語」には、これで 王氏から三代入内・・・の記述がみられる。
大田亮氏は 王は 多 ・ 太 でもあるとする。
太安万侶も この 系列であるわけである。
・中山寺の「白鳥塚古墳には」白鳥伝説がある。白鳥には「白鳥神社」つながりで、ウガヤフキアエズから神武二郎 景行天皇 ヤマトタケル 系のはなしがでる。
・山口県佐波郡牟礼に垂仁天皇の皇子が住んでいたといい、その飛び地が攝津の牟礼だという。
・ヤマトタケルは佐波の牟礼から九州に向け船出された。
・垂仁天皇皇子が 大中津彦命。大中津彦命は ヤマトタケルのおじ。
・大阪府茨城市の 「牟礼神社」は祭神・大中津彦命。

牟礼神社は 紀元2600年祭を した。
このあたりは 縄文時代の 遺物が出る。

・「牟礼神社から出る 牟礼別祖 稲木別祖。」
稲木別祖から出る 稲木神社は 「天道宮」ともいわれ天道宮から 「三尾大明神」が 出て、継体天皇は みつ子だった と いう 話が出る。

ネットより
・磐撞別命(いわつくわけのみこと、
第11代垂仁天皇の第10皇子、母は山背大国不遅の娘・綺戸辺(かむはたとべ、弟苅羽田刀弁)で、同母妹に両道入姫命(ふたじいりひめのみこと、石衝毘売命。仲哀天皇の母)がいる。子に磐城別命(石城別王・伊波智和気)がおり、羽咋君、三尾君の祖とされる。「上宮記」逸文によれば、その5世孫の振媛命は彦主人王に嫁ぎ、継体天皇を生んだ。
『先代旧事本紀』「天皇本紀」では丹波道主王の娘・真砥野媛と垂仁天皇の間に生まれ、稲別命と兄弟とされ、また「国造本紀」では羽咋国造・加我国造の祖とされる。

磐撞別命関係系図
命の子孫は高島郡高島村(滋賀県高島市拝戸)に住み、同地に水尾神社(延喜式内社・県社)を創建して磐撞別命を祀った。水尾神社境内には磐衝別命墓があり、大正6年(1917年)宮内省により陵墓に指定された。水尾神社によると命は猿田彦命の天成神道を学ぶ為に同地に訪れ、同地で薨去した。王子の磐城別王が三尾山に命を葬り水尾神社を創建したという。

振媛命は越前(福井県)の出であるが、その福井県坂井市・大湊神社の古い記録によると嘗ては同神社に磐撞別命も祭神として祀っていたという。

・牟礼神社の「大中津彦命」
大中津彦にもどって(この 中津 の 言葉は 「多氏」から 「仲津」
が 出る。中臣である。飛鳥にも通ずる。)

・大中津日子命は
山辺之別、三枝之別、「稲木之別」、阿太之別、尾張国之三野別、吉備之石無別、許呂母之別、高巣鹿之別、飛鳥君、牟礼之別らの祖である。

・稲木之別
田中天神跡
愛知県犬山市天神町三の十五
名鉄犬山駅下車、東口より徒歩五分 
「田中天神」は、稲木神社の俗称である。
祭神 大中津日子命・少彦名命
菅原道真を相殿の祭神として合祀している。

・「秀真伝」をしらべて 書いた本 松本善之助氏の本には
二条 天道宮 お天道さんの 宮司・小笠原氏 が出てくる。白石には 武田―小笠原―白石 の 筋が ある。

「秀真伝」 は 中臣氏と 原・春日氏の関係について 「九鬼文書」と 不思議に 一致することを載せるものがある。

・稲毛浅間神社
祭神 :木花咲耶姫命、瓊々杵命、猿田彦命。 本殿: 流造4坪、南西。 神紋:九曜。 千木:平城・大同3(808)5/30、富士山本宮浅間神社より勧請と伝わる。
出雲・佐陀神社(島根県鹿島町)の神能を母胎としその影響は面の造形に多く残されている。





[20]いちごさんからのコメント(2012年04月16日 00時21分41秒 ) パスワード

★肥・薩
薩摩には肥人がいたといい、島津氏の分家は「佐多」を名乗る。
★大内氏の祖先伝承と八代の「亀蛇祭り」と玄武。
★「球磨の採物神楽と出雲・大庭」と平氏
・「球磨郡 の 採物舞 と 出雲 の 佐田神社」のスレッドより、サルタビコ・出雲
・当スレッド9から「大庭」の言葉を過去のスレッドから思い出したのだけれど
大庭(平氏・この遠祖良文。9より良文は橘氏に関与し、橘氏遠祖は母方に神魂神を持つ。)
同じくサルタビコも神魂神の子孫。「神魂神社」はいざなみを祭る神社の大本。天穂日命が奉斎した。大庭町にある。「大庭の宮」。
・平良文は国香との争いのとき「妙見菩薩」の加護を受ける。菩薩は観世音菩薩でもあり、観音様。真言宗の仏様。
・妙見と八代の「亀蛇まつり」亀蛇は玄武。
ネットより
・八代神社(妙見宮)の「亀蛇祭り」は九州の三大奇祭のひとつ。今から約1300年前に中国から妙見神が亀蛇(きだ)に乗って八代に上陸したという故事。
・  またこの中国渡来説の他、妙見神は百済国聖明王の第三皇子琳聖太子であるとの百済渡来説とがありますが、いずれも「竹原ノ津」に上陸したと伝えている点は同じです。
 その後同11年(682)、益城郡小熊野村の千代松が峯に遷り鎮座しました。この跡を「白木平」といい、その後天平宝字2年(758)に八代郡戸北郷の横嶽ノ嶺に移り、その地に妙見上宮が創建されました。
 妙見宮は北極星と北斗七星からなる星辰信仰が妙見苦薩の仏徳の中へ包摂され、妙見苦薩を本尊とする白木山神宮寺がのち天台・真言の十五坊による供僧制へと発展し、道教的作法が、のちに神道の発展に伴い神主家となり、北辰(北極星)を太一神とするものから国常立尊・天御中主神へと習合発展してきました。
 国常立尊は猿田彦から出て、平良文から出る平氏の「千葉氏」も妙見信仰をしている。
妙見宮鷲頭寺は、推古5年(597年)大内氏の太祖琳聖太子によって開かれ、
大内氏の氏神として栄え、妙見信仰発祥の宮寺と言われています。
当寺の本尊は妙見大菩薩で、真言宗御室派の中本寺です。
・うちの佐田は今の宗派とちがっていたのではないか?と思うのが、母の実家の家の裏にお大師様のお堂があり、佐田の家紋から「豊前宇都宮氏」と同じ三つ巴を使うのだが、仏教辞典に鎌倉時代に宇都宮信房という真言宗の僧がいた と あった。宇都宮信房という名前は豊前宇都宮流佐田氏に見える。又球磨において宇都宮信房の「建久図田帳」ということばがある。
・鷲頭氏は「宇佐八幡」を建てている。九州であり、宇佐のほうだが、どこの宇佐八幡か忘れた。

17より
笹井と観音とアマテラスと雀・雀部氏と佐々木と雀部朝臣と紗紗貴山神社と孝元天皇と白石・竹内・阿部・磐井
・孝元天皇は雀部朝臣と穂積氏によりたてられた天皇で、天皇の実家は雀部朝臣だと原田氏は書く。この天皇の系に阿部氏がつく。
紗紗貴山君と雀部朝臣について「雀の松原」に接点がある。

・笹井は西園寺実氏を祖とする系があるが、うちの笹井は「古儀真言宗仁和寺御室派」。
この宗派は宝塚中山寺も同じ。今は中山寺派になっている。
19より
中山寺はヤマトタケルの白鳥伝説にも関与する。

[21]いちごさんからのコメント(2012年04月16日 00時37分12秒 ) パスワード

・出雲佐田神社
・勝手に持ってきてすみません。
ときお様へのスレッドより
神代の時代のことは、勝者による粉飾決済がされていますので、分かりません。と言うしか有りません。古事記以上に日本書紀は訳の分からない粉飾決済が多いですからね。

当地の大庭の郡衛推定位置には神部(みわべ)の拠点地で美和とも記述します。秦氏の拠点でもありますね。この点では関係有ると思います。

*デジタル大辞泉の解説おお‐にわ 〔おほには〕 【大庭】
1 宮中の紫宸殿(ししんでん)の前面の庭。おおば。
2 寝殿造りで、寝殿の前の広い庭。
3 広い場所で上演される晴れの能。

* 神奈川県藤沢市の大庭の様に小高く広い場所を示す場合もある。

「大庭」は、(おほには)→(おおば)
島根の松江市街地北にある佐多神社の横(南)には「大場」と成って居ますが、「おおば」と発音すると想像します。

「大庭」地名は
大阪以西には大阪に二カ所を含み 10カ所・岐阜以東に岐阜に一カ所を含み8カ所で計18カ所見つけられます。何度も有った町村合併により消えたものや地図には載らない地域名や小字名が存在すると思われます。ので、18カ所以上の数に上ると思います。

「大場」地名は
中部北陸から東北地方に23地域も有り多いですね。どうも小高くて広い土地をいみする地名の様にみえます。奈良・島根・山口に各1で3カ所。四国九州で5カ所有ります。

謎の4〜5世紀から6〜7世紀の実像は、推測の域から出ることは至難の業だと思います。

6世紀半ばから7世紀にかけては、大和から吉備や出雲へと言う図式は誤りと思われます。出雲から吉備へ、そして大和へ伝搬ないしは移住があったようです。・・
そして、各部族や一族の名前の遷移が有ったと思います。

かの「七枝刀」や「断蛇劔」で有名な石上神宮が有ります。
この「断蛇劔」は備前の物部氏の住居する地域に石上神社(今日も物部氏末裔が神職とか。)に有ったものを、石上神宮に奉祭したもので有ると記録されて居ます。
このことからも出雲の氏族の移動状態が推測出来ます。
極論を言えば、八岐大蛇の件は備前の地で有ったとしています。ここを流れて居るのは簸川の支流です。簸川は、今は旭川と呼ばれて居ますが古来より簸川と呼ばれて居ました。

・簸川よりひかわ
神代いざなぎ・イザナミの子の「あしなずち・てなずち」の女子とスサノオと簸川に住むやまたのおろちの物語。おろちの尾から出た剣がアマテラスに献上された「天叢雲剣」別「名草薙剣」これって鉄の剣でしょうか 銅でしょうか?知りたいところです。

ひ 簸 氷 肥
ウィキより
斐伊川上流と船通山 奥出雲町. 斐伊川(ひいかわ)は、島根県東部および鳥取県西部を 流れる一級水系斐伊川の本流。古事記にも★肥河(ひのかわ)★として記述が見られる。日本 における代表的な天井川として知られる。
・肥 火 
7より
阿 ア
・ア、オ、オオは同じ
・百済のクはオ(阿)、オオ(大)
・大ノ国は後の百済、及び加耶地方の総称で、大加耶国(おおかや)、安羅国(あら)と称し、此の地より渡来した集団は、大野、安部、阿部(あべ)等を名乗った。また、阿(あ、お)はクマと読まれて、熊ノ国とも称し・・・

見出しより
埼玉苗字辞典ひら つづき 
国は羅と称し、火羅、日羅、肥羅の渡来人は佳字の平(ひら)を用いる。二字の制度により平井、平江とも称す。ヒ、ヒノクマ、アヤ、クマ条参照。浦和、与野、戸田、草加、朝霞、新座、入間、熊谷等に存す。タイラ参照。

祖父母と旅した大分県大在の墓より
平 ヒラ 
百済・伽耶地方の古名を阿耶(あや)、阿羅(あら)と称す。阿はクマとも称し、阿(くま)ノ国、熊(くま)ノ国、肥(くま)ノ国と云う。肥ノ国は別名を肥(ひ)ノ国、火ノ国、日ノ国と云う。ヒは火神にて鉱山鍛冶神なり。金、即ち鉄(くろがね)の産出する国を火ノ国と云い、王族を始め住民の多くは金(きむ)氏である。

微妙に私の故郷の方にある秦の名残や父方・高岡と川辺(川辺は秦河勝などいる)と秦人と百済(つまりは新羅・高句麗も同じ)の関係になるが、
私は解(蓋大上皇父・高)と劉邦父。母劉温。に関与し、百済氏=坂上氏=東漢氏で、
坂上一族にある大蔵氏→木原氏→山口。山口はうちの関係で下益城郡富合(守富)にあり高岡・白石・平江(平氏は平井だそうな)に関与する。とつながってくると思う。

[22]いちごさんからのコメント(2012年04月16日 00時42分58秒 ) パスワード

大蔵系図に石秋王阿智王高尊王之彩。其名称(古い方の字)興中国不同。疑是国人尊之為王号(古い字)。とあり、大蔵→木原→山口の筋がある。山口県あたりでは「平賀」。「平賀源内」は「白石」だと辞典にあった。
阿多倍(高尊王)は初めて日本に渡来し、准大臣に任ぜられた。また、敏達天皇の孫・茅渟王の娘を妻にし、3人の男子をもうけた。長男・志拏は坂上姓を、次男・山本は大蔵姓を、三男・爾波木は蔵内姓を賜与された。

山口は又 大内に関与する。
・大内は菊池に関与する。このあたりおおざっぱだが、菊池は後「豊田」を名のる人がいる。大内氏は一子相伝で「豊田」を名のる。
・ 平氏の山口は武蔵山口氏などで良文の子孫。大内氏と同族は牛久山口氏・妙見で二つはつながる。
 山口県佐波郡は「たたらの浜」ともいい、大内氏遠祖「たたら氏」が上陸したところ。
ネット見出しより
長州より発信:歴史
山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします。琳聖太子が日本に渡り、 佐波郡多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、・・・。と以下後に「大内村」に住んだことから大内と名のったという。
・大蔵→木原(阿蘇文書では木原は源姓・山口県萩藩資料では清和源氏子孫の山口がいる。)

★ 秦高陵氏は百済にとどまっていた。高陵氏=高丘=高岡に通ず=高岳
たかおか系図から笠氏 ほかニギハヤヒなどいろいろ出てきた。

備前大内神社
大内神社 古代文字「阿比留文字」の考察 としてネットにでているが

「阿比留文字」
古代神代文字に「阿比留あひる文字・ ★日文肥人書(こまひとのふみ)★」がある。対馬 卜部-阿比留家に伝来したので「阿比留あひる文字」と呼ばれる
唐松からまつ神社(秋田県大仙市)、英彦山神宮(福岡県田川郡)、岩雲神社(四国)、川上神社(岡山県小田郡矢掛町)、法隆寺、三輪神社、鹿島神宮、出雲大社(出雲文字)の他に、丹生神社(三重県多気郡丹生村)、二荒山神社(栃木県日光市)、赤間古墳(下野郡)、貫前神社(群馬
県富岡市)、石上神宮(奈良県天理市)等が知られている。
[23]いちごさんからのコメント(2012年04月16日 01時28分27秒 ) パスワード

★真木 白石のスレッド参照
★笠氏と平氏考察のスレッド参考
・卜部は中臣でもあり、佐田でもある。
ネットより
・肥は薩摩に肥人がいたといい、平より肥の国・熊の国でもある。
備前の大内神社より
・地名学より吉備国の語源、黄蕨こうけつの蕨は突厥国からの渡来者。

サダはサダ突厥の言葉が在り、漢王室・唐王室の外戚であり、唐には真珠を売りに行っていた。又清王室でもある。契丹でもあり、契丹の貴族が尾方大賀。
・サダ(女真)・山口(多々粒氏)・尾方大賀(契丹貴族)尾方は女真。彼らは繋がっている。
備前の大内神社より
・大内神社の神代文字は。神代文字は二種類に分けてかけられている。ひとつは真書体である「肥人書」で、もうひとつは草書体の「薩人書」である。
・大内神社を訪れる人々はまず神代文字がかけられている屋根を見て参拝する。筆者は参
拝客に、屋根の下のところに書かれている文字は何の文字ですかと尋ねると、皆が次のように答えた。遠い昔の日本の文字ができる以前の、神代の時代の文字であるという。ではどうして神代文字を見て、柏手を三回打ちお辞儀をするのかと尋ねたところ「大内神社」は神代文字を祀る社であり、昔から学問の成就を祈願する神社であるとの答え。
・岡山にある「大内神社」は大内氏の先祖を祭る神社である。岡山地方を治める氏族が大内氏であった。
・大内氏族の系譜では、六一一年推古天皇の時百済の聖明王の三番目の息子である琳聖(りんしょう)が周防(山口県)吉敖(よしき)の大内村に土着して、山陽地方と山陰地方一帯に子孫を繁栄させた、と伝えられる
・D 阿比留文字に別伝がある。原田実氏が紹介している。平田篤胤が入手した「阿比留中務なかつかさより出て備前国奈加郡に伝承された文字」がある。その文字を吾郷清彦氏が入手した。その文字は「備前国奈加郡阿比留中務」の伝として近衛家に蔵せられていたものだという。「備前国奈加郡」については史料による確認は取れない。備前市香登と推定している。

奈加なかと発音するらしく、常陸那加国造のことばがある。
[24]いちごさんからのコメント(2012年04月17日 19時34分14秒 ) パスワード

少し話が変わるが
護良親王の妃は「北畠親房」の女子。北畠は佐田。
上球磨の上相良氏は南朝に味方し、護良親王は上球磨に来て勢いを盛り返し京へ馳せ帰った。
一方 足利尊氏は福岡たたらが浜に来て今日へ馳せ帰った。福岡たたらが浜には人吉(下球磨)の下相良氏と同族の相良氏がいた。
人吉は北朝に味方して、山田で戦いがあり、当時400人くらいの人が死んだ。この地域で400人の数は大変なもので、先頭の激しさが伺える。

上球磨には 橘薩摩氏が相良氏を支配していた地域がある。

北畠親房の女子は「立花姫」とも呼ばれた。

[25]いちごさんからのコメント(2012年04月18日 21時45分52秒 ) パスワード

お酒のお供に一押ししたい五木の「山うに豆腐」。これをつくっているお店の人は「橋本さん」だそうだ。高岡 橋本は近くにいる。

藤原北家に高丘家がある。現在は南家になっているが、熱田神宮関係の高丘家ははじまりは北家。閑家流。
公卿辞典に 廃れてしまった閑院家をおこさん と 高丘家に江戸時代・橋本家から養子が入った。
閑院流高丘は西園寺の族。
公卿辞典に橋本をみると 西園寺庶流

上とは別に
橋本龍太郎氏の祖先は岡山県吉備郡★秦村(現総社市)★の出身。
秦 高岡の祖先も秦がいる 吉備は大内 たたら氏 百済 北家の高丘は北家23家の中で 坂上一族 坂上氏=百済氏=東漢氏

橋本氏は倉敷出身としておられる。倉敷に井上町があり、阿智使主の子孫がいた。

西園寺 笹井 アマテラスの神道に関与 今村宮 宮司・笹井 神主・黒住氏
孝明天皇にアマテラスの神道をご進講

笹井 雀部朝臣 雀氏 殷の微子啓 宋 殷の子孫・秦 間に殷の兄弟から出るという周 周武の弟から韓 周武の女子と俊の子孫から 斉 

原初の頃 いろいろな王室 の 子孫の 人たちが やってきて時代をくだり
崇神天皇は漢高祖の子孫 又は 鉄官の子孫という。
坂上など 後に 日本史に重要な位置を占め
元明天皇の頃 日本書紀が完成したら 二神社16家の系図・古文書が国にひきあげられた という。

「橘氏概観」を
そのうえ、橋本氏については、京・山城にはいくつもの家・流れがあり、『姓氏家系大辞典 』には堂上公家の西園寺流橋本家のほか、大炊御門家諸大夫、北野天神社家、石清水 八幡祠官、仁和寺坊官などの橋本氏をあげており、上北面橋本氏の出自もこれら橋本 ...

  






[26]いちごさんからのコメント(2012年04月20日 04時59分24秒 ) パスワード

埼玉苗字辞典より
天津穂日命=橋本=高橋=長谷=土師=阿部

菅原氏遠祖・天津穂日命はににぎに先立って天下って大国主と仲良くなった。
天津穂日命はににぎの父で皇太子・天忍穂耳尊の兄弟神なので、このあたり天皇家遠祖とされるににぎやニギハヤヒとは近い関係にある。

長谷 ハセ 和名抄・大和国城上郡長谷郷を波都勢(はつせ)と訓じ、桜井市初瀬(はせ)に長谷寺(はせでら)あり、十一面観音を本尊とす。当寺本尊と同一木で刻まれたという十一面観音像を本尊とする大和高田市南本町に長谷本寺(はせもとでら)あり、橋本寺とも称した。

土師本(はせもと、はしもと)、橋本(はしもと)の佳字に長谷本を用いる。寛平八年の土師族菅原道真作と伝へる長谷寺縁起あり。

土師
鉱山鍛冶集落の山間部に橋本・高橋の地名及び此の氏族が多い、土師部の本名なり。

ハシはワシに転訛して鷲の字を用いる。

埼玉郡鷲宮村鷲宮神社は土師宮(はじのみや)より鷲宮(わしのみや)に転訛す。祭神は武蔵国造の祖・天穂日命、武夷鳥命(たけひなとりのみこと)にて、土師部の氏神なり。

高橋
阿部族高氏の土師(はし)製作集団の集落を高橋と唱える。
土師器を製作することから饗膳の事を掌る膳夫(かしわで)となる。

安部族膳臣も添上郡高橋村に居住して、高橋臣、更に高橋朝臣を賜う。
(オオタタネコの話が書いてあり、須恵器製作集団の首領。石上の布留の高橋)
★日本書紀が完成したとき、国に引き上げられた二神社の系図・古文書には石上神宮も含まれる。

越後国及び出羽国地方の古志王神社は安部族の祖神・大彦命を古志王と崇めて祭神としており、神主は高橋氏が多い。古代安部族高橋氏の居住地なり。アベ、アラハバキ、カシワデ、コシ条参照。和名抄に入間郡高階郷を載せ、太加之奈(たかしな)と註すが、正訓はタカハシにて、大袋新田字高橋(川越市)なり

★国底立尊 葉木(萩は葉木の珪字)
 うちの高岡があった集落は4軒で萩。そこに高田がおり 阿部高田姫などのことばが歴史にある。当スレッド7 8より オオヒコは高句麗国王によりわが国に派遣された。

高階
姓系辞典に山口条にのせる。
山口=木原=大蔵=宗像(宗肩)=宗像大神=スサノオ
布留 布都 などは蒙古系の読みだとする本などある。
山口 佐田 尾方 を 蒙古系とすると 古代の話に通じてくる。
(サダ) 尾方などは アジア辞典にも書いてある。

高橋 膳夫などは 竹内宿禰の系にある。
竹内宿禰 紀氏 蘇我氏 橘(立花)

大内 橋本 山口
製鉄集団

須恵器
市房神宮を霧島神宮から勧請したのは 久米城主市房。
久米は球磨郡多良木あたりにあった。このあたりに橘薩摩氏がいた。

久米とは須恵というと前に本で読んだが、ネットに今
「久米評」刻書須恵器 とでている。

久米 屏風岩(空海の生地) 久米村(高野山がたてられたところ) 11面観音

久米氏は藤原氏を称したとされる。
藤原氏の相良氏は 市房神宮を 崇敬した。

11面観音 中山寺 中山氏 藤原 花山院流 王氏 花山天皇 十津川 ヤマトタケル 白鳥伝説

公卿類別譜に橋本をみれば
西園寺 実俊は冷泉を号した。

西園寺 冷泉などは 「平清盛の子孫」のスレッドにも書いたけど
西園寺実氏 四条(鷲尾)貞子 など 関与していた。

西園寺実氏は福島大神宮宮司・笹井(常磐井)氏が遠祖としている。
岡山の今村宮の宮司・笹井氏 神主の黒住氏が孝明天皇にアマテラスの神道をご進講した。
うちの笹井は岡山にいて、その前は長野。松本藩士戸田家家臣に名があり、戸田は辞典では「近衛門流」。

「あひる文字」を蔵していたのは近衛。

護良親王の后の一人に公家の藤原保藤女子がいる。
この筋は「時明院流」にみえるが、ほかに保藤の系があるのだろうか?

保藤の女子の一人に「後醍醐院新按察典侍」という人がいる。
保藤は[ 建長6(1254)年 〜 康永元/興国3(1342)年9月26日 ] 。
護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)、延慶元年(1308年) - 建武2年7月23日 (1335年8月12日)。
保藤女子は随分年長のようだが

藤原でおりてきて時明院に別れていく基家の次男・保家の母は平頼盛の女子。
持明院 保藤は
基保男(実松殿良嗣男)。
松殿の系に 仁和寺 大覚寺 など 見える。

藤原 基保
保家一男。母「高階泰経」女。

持明院 基澄
基光男。母兵部大輔「平親成〔盛?〕」朝臣女。

持明院 基継(本名基嗣・基長・基兼)[ 康元元(1256)年 〜 建武2(1335)年6月21日 ]
左中将「基盛朝臣」男。母「平信繁」女。
と 源平以後も平氏との姻戚関係がある。

持明院 基行(本名基範)[ 生没年不明 ]は
正四位下「基盛朝臣男。」









  

  


















[28]義光さんからのコメント(2017年10月12日 10時43分05秒 ) パスワード

たまたま、拝見させて頂きました
参考になるかは分かりませんが、家も先祖を辿ってました。大体が分かったので辿るいきさつを。家はとても複雑な氏族、沢山分かれていたのでそこでは調べられませんでした。まず、先祖の代々のお墓がどの辺りか分かりますか?又、神代か菩提寺が何処か、檀家でも良いと思いますが、なるべくは江戸時代辺りにあれば良いかと、そこが分かりましたら、誰が建てたとかその土地を支払していた氏。次に家紋ですが、代わったり、明治から作られた家紋ではなければ調べて下さい。その家紋がその県では何流か分かればなお分かりやすいです。ちなみに家は菱家紋で源義光流と知りました。たまたま調べていた方を見つけたので、源義光の子孫はs氏、n氏、t氏、o氏だと。その中の誰かとは繋がりは有ります。子孫なので、家は先祖の名前に源兵衛なる方が居ます。たまたま、越後のo家の図にマルマル源兵衛を発見し、家と繋がる方で同じ家紋を用いて居た方を発見し、家の辺りを支払いしていたのはs氏で、義光の子孫のみよじも有りました。支配していたs氏がどの辺りを辿っていたかを見ると。秋田県から南へ移動をn氏もしています。そこで上手く繋がりがあった訳です。しかしo氏
やその方家と同じ家紋を使っていた方がたとは何処かで分かれている可能性もあるのですが、まだその辺りは分かりませんが。そもそもo氏の中にみよじが違う家が書かれていたのかは分かりませんが。確かに載っていたのは事実なので。後から分かったのは、秋田県の地名が一緒の場所はs氏が支配しており、八幡平神社の祭神は又又同じ、もうひとつ、移動した場所は、水田との関係が有りました。新潟県、秋田県、ちなみに、n氏も岩手県にいて、八戸や三戸等の場所に居まして、九戸郡と言う場所に家のみよじの地名が有ります。おそらく、関係もあるようなと。長くなりましたが、やはり繋がりが有るかと。みよじもどこに繋がるかは分かりませんので、その辺りを支はいした、氏を辿ると情報も多いと。後は、大体昔は同じ氏族と移動してきたので繋がりが有りますから。源氏の家方ですが、伊予k氏と古くから関係あり、ちなみに
義光は新羅で唐方天智天皇の関係があり大昔はこの辺りから北へ行った可能性が有ります。色々と話、上手くつたえられずスミマセン、それからイニシァル表示でスミマセン、家との関係は平井には有りませんが参考になれば
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