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 投稿番号:101276 投稿日:2012年03月17日 20時59分23秒  パスワード
 お名前:jizaemonn
j持統天皇「春過ぎて・・」
キーワード:持統天皇 万葉集
コメントの種類 :その他  パスワード

万葉集 巻一 28番歌 
持統天皇御製
 
「春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
 (はるすぎて なつきたるらし しろたえの ころもほしたり あめのかぐやま)」  
 この歌が            が
 新古今和歌集 巻3 夏歌 1番歌  題しらず 
 小倉百人一首 2番歌               では
  「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」 と、
 内容が想像、伝聞に替わって、現在ではこの歌が広く人口に膾炙され、  意味も 
 《里人が天の香具山に衣を干していた話を、持統天皇が藤原宮で女官  からお聞きになり、春からさわやかな初夏になったと言う、季節の移ろい  の感慨を歌にお作りになったもの》 とされているようです。
 しかし「春過ぎて 夏」と重複した表現、「天の香具山に衣を干す」行為の 奇妙さもさることながら、私はこの歌の情景、特に「衣を干した山」が頭の 中で描けず違和感を持っていました。

 当然ですが、この歌の意味、或いは持統天皇のお気持ちは、原歌の
 「万葉集歌」で考えるべきです。
 下三句の《白妙能 衣乾有 天之香来山》 を考えますと、「天之香来山」 が主語、「乾有」が述語、「白妙能 衣」を目的語とするのが自然です。
 「白妙能 衣」とは単に白い衣、つまり山に降り積もった白い“雪”の比喩  「乾有」の“乾”は「井戸を干す」や「コップの水を飲み干す」 或いは
 「仕事を干される」等々に使われる動詞で、原義は「そこに存在したもの  を徐々に無くす」だと思います。
 つまり下三句は「天之香来山が自身に積もった白雪を少しづつに減らし  て無くしてしまった」と言う意味で、客観的な表現をすると

 「天之香来山に降り積もっていた雪が、次第に融けて無くなってしまった」

 と言う意味で、時間の経過が表されていますが、これが第一,二句の
 「春過而 夏来良之」対応しています。

 《春が終わって夏になったようだ、 天之香来山の頂に残っていた雪が
 消えた》 が正しい意味であると思います。

 この情景は大和(奈良県橿原市)の香具山では起こり得ませんが、これ  は後に述べます。

 「山の雪が融けたら春になる」という様な、現代の我々の一般的な
 季節感ではこの歌は理解できません。
 気象学者 吉野正敏氏のエッセイによると
  (http://www.bioweather.net/column/essay2/aw34.htm )
 《大化の改新から約100年間は、すなわち、7世紀前半から奈良時代の
 初めまでは寒冷であった。
 言いかえれば、飛鳥時代はやや寒冷な時代であった。》とありますので、 季節の進みは今よりずっと遅かったと想像できます。
 
 また、この春、夏の「語」意味ですが、「春」とは冬至から春分まで、「夏」  は春分から夏至まで、の間を表す語で、夏至の「至」は目的するところに
 たどり着くと言う意味で、夏の終りを意味することから理解できます。
 この歌は太陽が,春と夏の境、春分点を通過する時、つまり夏の始まりを 香来山の雪の融け具合で知ろうとしたものです。
 歌の解釈に太陽の運行を持ち出さなくても、と思われるかも知れません  が、後に述べる様に、この時持統天皇は漠然とした春から夏への変化を 知ろうとしたのではなく、正確な太陽の位置を、夏が始まる時を知りた   かったのです。

 万葉集の巻一,二の歌は内容の理解が困難ですが、ただ漠然と、何か  国家やその個人に関して重要なことを語っているように感じられます。
 この歌の現在の解釈の様な、時候の挨拶程度の歌はかえって違和感を 覚えるくらいです。

 持統天皇、いや、まだ天皇即位前の鸕野讚良(うののさらら)はこの時、  後に「草壁」と名づけられる御子を身ごもっていたのではないかと想像し ます。(草壁皇子の誕生は、天智天皇元年(662BC)ですが残念ながら
 誕生の月は不明です。)
 夫の大海人皇子や付き従う侍女達から「あの山の雪が融けたら夏にな  り、御子の誕生が間近ですます」と告げられて、まだ十七歳の鸕野讚良  は、胎内の我が子の成長を実感しつつ、期待と不安を胸に抱きながら、
 次第に雪が消えて行く天之香来山の頂を仰いでいたと思います。
 そして、雪がなくなっていよいよ夏になった、「・・来たるらし、・・・乾したり」 と言う完了形の強い表現からも、初めて母親となる不安を打ち消そうとす る強い決意をこの歌に込めて詠んだとことが感じられます。
  
 草壁皇子の誕生は
 日本書記 巻三十
  高天原広野姫天皇   持統天皇
   天命開別天皇元年(662BC) 生草壁皇子尊於大津宮  
 と有る様に、大津宮の生れで、「天之香来山」は「大津宮」から見える
 ところに存在することになります。
 (草壁皇子の誕生の翌年、姉の太田皇女は男子を産み「大津皇子」と名
 付けられます。)

 まず「天之香来山」ですが、Web上[新・古代学の扉
  (http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html#man 'yo)→ 論文→
 万葉の覚醒→これは大和の歌ではない、万葉集は歴史をくつがえす]
 の中の論文、講演で、
 古田武彦氏が「天之香来山=別府の鶴見岳」説を論じておいでになり、  非常に説得力が有り刺激を受けました。
 (論文の中でこの持統天皇の歌についても論じておいでですが、香来山  の解釈が新たになっただけで従来の解釈を抜け出てはません)
 また貞観9年(867AD)の噴火以前は今よりずっと高い山(古田氏の論文 では勿論正確ではないが、2000m近くとの表現も)であったことは間違い なく、山頂の雪も遅くまで残っていたし、隣の由布岳を参考にすると、
 秀麗とも表現できる山容ではなかったでしょうか。

 「天之香来山」に関してはこの古田武彦氏の「別府の鶴見岳」説を使用さ  せて頂きます。

 次に「大津宮」ですが、草壁皇子の生誕の地は、前に述べたように
 「大津宮」です。

  日本書記 巻二十六 に
  天豊財重日足姫天皇 斉明天皇
    七年    (661AD) 春正月丁酉朔壬寅 御船西征、始就于海路
           三月丙申朔庚申 御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮、                        天皇改此、名曰長津

 とありこの記述により、草壁皇子生誕の地は「娜大津」が定説とされてい る様ですが、ここは「長津」に改名されてこれ、以降の中大兄皇子の行動 に関する記事にも「長津」が使用されているので、改名翌年の、草壁皇子
 の誕生地「大津宮」は「娜大津」はではありません。

 「大津」と言う地名は海に面する土地には普遍的にあった地名と想像で  きます。博多湾沿岸「娜」に有った 大津を「娜大津」と表現して、紛らわ
 しさを避けるために長津に改名したのでしょう。

 google map で 大分市大津町を検索してください。

 大分市内、大分川が別府湾に注ぎ込む辺りに、町名の大津があって、
 周辺に、これは後世に名づけられたものでしょうが今都留、中都留、
 花都留、東都留、南都留など港に関係のある地名が点在して、港として 繁栄していた様子が伺えます。
 鶴見岳の「鶴見」は、この「都留」を「見」る所の意で、広くは別府湾に出入 りする船の監視をする山を意味するのではないでしょうか。

 西日本の地図をみると、古代の交通の大動脈であった瀬戸内海航路の 東の終点が住吉、西の終点が、この大津であったろうことが理解できま  す。  住吉入港の時には澪標(みおつくし)が、大津入港にはこの鶴見岳 が目印であったでしょう。
 澪標は大阪市の市標になっていますが、その形から想像すると、単なる 高い木の枠組みではなく、頂上で篝火を焚いて夜間でも目標になる物  だったのではないでしょうか。
 同じように、鶴見も、山腹に篝火を焚いた、火を倶えた「火倶」山だったか も知れません。

 現在の大津町より南西2kmほどのところに、古国府(ふるごう)と言う、古 い昔に役所があった事を示す町が有ります。
 この大分川流域の広い範囲が大津と呼ばれていただろう事は、想像に  難くありません
 古国府から西北西9〜10kmくらいのところに、鶴見岳がそびえています。
 この古国府の辺りの鶴見岳を望む高台に「大津宮」があったと思います。

 日本書記 斉明天皇7年の記事を見てみます。
  日本書紀 巻第二十六
  天豊財重日足姫天皇 斉明天皇
   七年 (661AD)
   春正月丁酉朔壬寅(06日) 御船西征、始就于海路
            甲辰(08日) 御船到于大伯海、時大田姫皇女産女 焉、
  仍名是女曰大伯皇女、
  庚戌(14日) 御船泊于伊予熟田津石湯行宮〈熟田津。
  此云爾枳陀豆。〉
  三月丙申朔庚申(25日) 御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮、
 天皇改此、名曰長津、
 五月乙未朔癸卯(09日) 天皇遷居于朝倉橘広庭宮
秋七月甲午朔丁巳(24日)  天皇崩于朝倉宮、
       八月甲    (01日)  皇太子奉徙天皇喪、還至磐瀬宮
冬十月癸亥朔己巳(07日) 天皇之喪帰就于海、於是皇太子・・・以下略
乙酉(23日) 天皇之喪、還泊于難波

斉明天皇をはじめ、中大兄皇子、大海人皇子等の国家首脳は来るべき  新羅との戦いに備えるべく、船で西征し、天皇は朝倉橘広庭宮にお移り  になり、実務を受け持つ二人の皇子は磐瀬行宮に滞在していました。
 しかし、この地は海に隔てられているとは言え最前線であり、あわただし く戦闘の準備をしている騒然とした、そして何時戦場になるか分からない 危険な地域でした。
 この様な地に、生まれたばかりの大伯皇女、産後間もない大田姫皇女を お連れしたとは考えられません。
 泊熟田津より至娜大津の期間が65日程度と船の航行だけでは時間が掛 かりすぎています。兵や軍船の調達などに時を費やしていたことは容易  に想像できますが、間に、大津に行宮を整備し、そこに大田、大伯の親子 を、そして鸕野讚良皇女を、姉と姪のお世話役として残して娜大津向   かったと思います。

 以上からこ歌の情景を纏めますと、
 
 《鸕野讚良皇女は大津の行宮から戸外にお出になり、何時もの様に
 香来山を頂きをじっとご覧になった。
 「やはり・・」 昨日までは僅かに見られた頂の雪は、今日は姿を消してい た。
 「この季節の間に、私は母親になる。この新しい命のためにも私はもっと 強くなろう。」》
 
 場所は現在の大分市役所南、約1kmのところにある高台、
 
 時は西暦662ADの3月20日頃、
 
 そして今年(2012AD)は、この日本で一番親しまれている歌が生まれて、
 丁度 1350年目になります。



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