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 投稿番号:101259 投稿日:2011年10月08日 02時08分25秒  パスワード
 お名前:はるか
笠氏と平氏考察(ネットからのコピーばかりだけど・・・)
キーワード:武寧王 笠氏 高望王 葛西氏 藤原氏
コメントの種類 :その他  パスワード

古代の笠氏
@嬴姓高丘系図
秦王26代・恵文王・諱駟((BC356-BC311))の子・昭襄王(BC325-BC251)の兄弟の高陵君・諱参の子孫で高軌の女子・真華姫と百済の百済蓋鹵王との間の子・百済第25代武寧王(斯摩(462-523))。

A武寧王の子孫が和史になり、1つの流れが桓武天皇后・高野新笠を出す。
1つのながれが若狭彦神社の笠氏になる。

※昭襄王の子孫が秦始皇帝。島津氏の祖・弓月君(太秦の君)
武寧王の子・聖王の子・琳聖太子。推古19年(611)渡來於日本國周防多々良濱

※大内氏がこの太子の子孫とする。

[1]はるかさんからのコメント(2011年10月08日 02時12分32秒 ) パスワード

葛西氏と笠氏
熊本県球磨郡に「十島菅原神社」があり何か関係ないか?と思って豊島氏を検索。この神社は人工の池の上に10個の島があり、そこに建っている。勿論菅原道真を祀る。上流に「阿蘇神社」さらに五木の方に行くと「祇園社」。

豊島氏
「桓武平氏良文流」・秩父氏の一族。鎌倉時代に別れた支流に「葛西氏」がいる。
秩父氏から出た氏族は「畠山氏、稲毛氏、河越氏、江戸氏」など。
[2]はるかさんからのコメント(2011年10月08日 02時13分45秒 ) パスワード

埼玉県の苗字辞典より
笠かさ
笠 カサ 上サ、賀佐、風(かざ)に同じ。上西(かさ)、上在(かさ)はカサイとも称す。和名抄の讃岐国香川郡笠居郷(高松市)は、天暦十一年太政官符に讃岐国香河郡笠郷と見え、江戸時代は★笠井村、或は葛西とも書いた。足立郡遊馬村字上サ(大宮市)は古の村名にて、★八幡社宝暦七年庚申塔に笠と見ゆ。
[3]はるかさんからのコメント(2011年10月08日 02時18分34秒 ) パスワード

※八幡社 平塚神社の話と関係あるか?

蓋 カサ 
紀元前の三韓時代に馬韓(後の百済)、辰韓(後の新羅)、弁韓(後の迦耶)あり。弁韓の弁(べん)は蓋(ふた)に通じ、カサと称した。
★蓋馬韓 蓋国と書かれる。解に通ずる。

「令集解」の百済戸・狛戸の条に蓋縫(かさぬい)と見ゆ。
神武東征以前の渡来にて、先代旧事本紀の天神本紀に「饒速日尊(にぎはやひのみこと)河内国に天降坐す。五部人を副従為て天降(あまくだり)供奉(つかへまつ)らしむ、笠縫部(かさぬいべ)等の祖天勇蘇(あまのゆそ)。船長(ふねのおさ)同く共に梶取(かじとり)等を率領(ひきい)て、天降供奉る、笠縫等の祖天津麻占(あまつまうら)、曽曽笠縫等の祖天都赤麻良(あまつのあかまろ)」と見ゆ。
[4]はるかさんからのコメント(2011年10月08日 02時25分03秒 ) パスワード

河西 カサイ 
弁韓の笠(かさい)族なり。各市町村に存す。甲信地方に多く存す。

笠井 カサイ 
葛西清重を曽我物語に笠井三郎清重と載る。弁韓の笠(かさい)族なり。

葛西 カサイ 
下総国葛飾郡葛西庄(江戸川区、葛飾区、墨田区)あり、伊勢神宮領となり葛西御厨と云う。
 
秩父氏流葛西氏 千葉上総系図に「村岡次郎忠頼―武蔵守将恒―武常(一説秩父武綱三男)―常家―康家(号豊島太郎)以下系あり

鍛冶師の葛西氏 隅田川流域は古代より砂鉄を採取していた土師族の居住地なり。沙石集に「故河西ノ壹岐ノ前司(清重)と云しは、秩父のすえにて、弓箭の道ゆりたりし人なり」と見ゆ。葛西氏が秩父氏の一門を称していたのは、東国の鍛冶統領秩父氏の配下であって、川越氏、稲毛氏、江戸氏、豊島氏等と同じく鍛冶集団である。

★葛西氏の本名は石井氏にて、葛西庄の鍛冶頭であろう。秩父条参照。

肥前石井氏/佐賀石井家(ひぜんいしいし/さがいしいけ)は、
室町時代から明治時代初期にかけて肥前国を根拠に栄えた武家である。★「本姓は藤原氏で、北家兼通流」を称する。肥前国守護代★千葉氏及び、佐賀藩主★鍋島氏の一族

石井氏は藤原氏北家流で、関白兼通を祖としている。兼通の弟兼家の子が藤原氏の 栄耀栄華を極めた藤原道長で、兼通の子左大臣顕光は従兄弟にあたる道長と覇権 をめぐって争い敗れ去った。 顕光の子因幡守顕忠には二人の男子があり・・・

★道長の兄弟・道兼子孫が宇都宮流佐田氏(中原)。左三つ巴。
前に鎌足は百済の王族の一人とテレビでみたことがあるのでこれに対応しているのだろう。上の狛につき サダはアイシーン・ギョロ 西方の雑種 愛新覚羅 董 季。
[5]はるかさんからのコメント(2011年10月08日 03時00分44秒 ) パスワード

葛西御厨の葛西氏
千葉県佐原市の★香取大宮司家文書
「香取社造営注文。寛元元年十一月十一日、猿俣・壹岐入道跡に宝殿一宇、下葛西・同跡に二ノ鳥居一基の所役を課す」。文永八年注文に「正神殿雑事は、往古より国中大名を以て造る。治承は★豊島三郎清基・葛西郡年貢、建久は★千葉介常胤・□□三ヶ年々貢、嘉禄は★壹岐入道定道・葛西郡年貢、宝治は千葉介時胤・神保萱田吉橋等国領□□、今度は葛西新左衛門入道経蓮・末代莫大之所役也。

葛西氏の名は、★源平盛衰記に「武蔵国住人葛西三郎重俊」と。笠井系図(続群書類従)に「三郎清重(武州河越人也、母下河辺庄司行平之姉)」とあり。★吾妻鑑卷一に「治承四年十一月十日、武蔵国丸子庄をもって葛西三郎清重に賜ふ」。

★、壹岐入道定蓮」★壹岐三郎時清 ★壹岐小三郎左衛門尉時清★伯耆前司清親・壹岐六郎左衛門尉朝清いろいろ

津軽の葛西氏 古代★笠(かさい)族の後裔にて、佳字の葛西を用いる。★「東日流外三郡誌」に「合浦卒止浜之卷、川崎柵・葛西善兵衛之築城。華和郡之卷、葛原館・葛西祐清之築城」と。

「南方記伝」に「延元三年三月五日、尊氏は、葛西安東権介を陸奥のかみに任ず」と見ゆ。西津軽郡深浦館・円覚寺(深浦町大字深浦)は★安東氏の拠点であり、安東浦とも称された。是等は武蔵国葛西氏とは無関係なり。(これは?)但し、後世、大光寺村★(平賀町)へ同姓をもって武蔵国葛西庄木庭袋村より葛西氏を名乗って移住す。応永五年下総国葛西御厨注文に「木庭袋・七十丁、内堀内青戸合二丁半木庭袋」とあり、葛飾区青戸町の附近なり。★「津軽藩祖略記」に「大光寺城主伊与守★葛西頼清は葛西清重の裔也」と。「円覚寺覆堂棟札」に「永正十五年、葛西木庭袋伊勢守頼清再建」と見ゆ。

★★九州の安東氏で検索すると安東氏のルーツが出て、藤原氏。魚名。秀郷。常遠(安東祖)と出る。
安東大将軍・・・「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安 東大将軍倭国王」
★★倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」などに冊封された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。

[6]はるかさんからのコメント(2011年10月08日 03時05分24秒 ) パスワード

笠臣国造 ( 吉備 )
鴨別命は御友別の弟で、福井県小浜市の若狭彦神社の社務家である笠氏(笠臣)の祖 と言われ、岡山県の吉備中央町にある鴨神社では笠臣(かさのおみ)が祖である鴨別命 を祀ったと言われている。新撰姓氏録の笠朝臣(かさのあそみ)の項では、孝霊天皇の・・・

以上を考えるに 一軒一軒を尋ねてみても わからない。嬴姓高丘氏だけをみてもわからない。あっちからこっちから見なければ・・・
[7]はるかさんからのコメント(2011年10月09日 05時45分21秒 ) パスワード

4の千葉上総系図に「村岡次郎忠頼で検索すると、卜部家系図総覧以下の表記がみられた。
佐田は卜部・大中臣・中臣・藤原であり、私は高岡・佐田の関与を上からの流れの中に見る。高岡は遠祖・天照国照彦天火明櫛玉饒速日命が姓系辞典にあり、若狭彦神社祭神は熊本の市房神宮の祭神と同じ。山幸などは海神族と結婚して神武につながってくる。3の軍団を形成している人たちは海神族であり、養蚕をとくいとしている人たち。アマテラス・スサノオ・月読命・住吉の神などは筑紫日向橘小戸阿波岐原「江田の地」でうまれており、アマテラスの山陵は八代にあったと昔はいっていたそうだ。アマテラス・スサノオなどは天に行き、子孫が又帰ってきたことになっている。
さらに、スサノオを祀る天王社は全国に三千社もある。その総本社は愛知県津島市の津島神社だったことが尾張名所絵図に出ている。「第七代孝霊天皇のとき西海の対馬に祀られ、欽明天皇(29代)の御代(540年)に対馬から奉遷された」とある。もと対馬に祀られていた祭神を、スサノオの後裔・尾張氏が尾張国に遷したのであろう。同社にはスサノオの肖像画がある。

大同五(810)年正月、嵯峨天皇は(尾張の)津島神社に、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、日本総社の号を奉られている。また、一条天皇(寛和二(986)〜長元九(1036)年)は、津島神社に天王社の号を贈られた23)。

810年と云えば、日本書紀が撰録されてからすでに90年も経っている。記紀にある惨めなスサノオ像は、すでに誰の眼にも明かだった筈なのに、嵯峨天皇はわざわざ新年にスサノオを「皇国の本主」と讃えて「日本の総社」と崇められたというのである。

当時から天皇は、スサノオの真相をよくご存じだったのであろう。平安時代の天皇家も、スサノオやオオトシ(ニギハヤヒ)を祀る紀伊の熊野三社(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を、京都御所から遠路再々、参られたのは有名の史実で、海南市藤白から山越えの熊野古道が世界文化遺産に登録された。

高松塚古墳の女子群像は右手の方の襟が上、岩戸神楽の図のアマテラスも同じに見える、津島のスサノオの絵も上はひげもじゃらなのでわからないが帯のあたりの打ち合わせは同じ。在地勢力は右手の方を上に重ねていたのではないか?もう少ししらべないとわからないが・・・倭人伝では「貫頭衣」だったというし・・・

[8]はるかさんからのコメント(2011年10月09日 05時46分08秒 ) パスワード

占部家系図総覧−占部家系傳
この系図は、占部貞保の次男末保の子孫、朝倉市の占部様と三男貞俊の子孫、宗像市 上八の占部様、宗像市深田の占部様他のご厚意により写 ... 良将─将門・・・ └良文( 村岡五郎)┬忠通(村岡小五郎)・・ └忠頼(村岡二郎)┬将常 └忠常─常将─常永┬常 家(上総權介)─常時(明)─常隆─ ... 常有(占部太祖なり)占部兼安→┐ │ └常重── 常胤───胤正─成胤─胤綱 │ │ (従五位下下総權介) (従五位下千葉介下総守護 職) ・・・

桓武平氏と千葉氏−占部家系傅
... 公雅・・・ ├良将─将門・・・ └良文(村岡五郎)┐ ┌─────┘ ├忠通(村岡小 ...

. 千葉系図(問話休題)「村岡五郎平良文―経明(初村岡二郎忠頼、相馬御厨下司)―」 において、経明が村岡忠頼と同一人物かが問題。 ... 坂東八平氏、千葉、秩父、三浦、 梶原、大庭、土肥、上総、長尾の古代苗字としての起源について・・・
。 ...
紋章を求めて”墓荒らし”の記(3) 古沢襄 | 杜父魚文庫ブログ
2007年1月16日 ... 太田亮氏の「姓氏家系大辞典」によれば、総州(上総・下総)は板東平氏が発祥の地。 高望王が上総介となって長子の国香が常陸大掾、五男は良文(村岡五郎)。良文の子・ 忠頼(村岡次郎)が千葉氏の開祖となっている。ついでながら高望王の・・・

葛西正兵衛家 - 近世こもんじょ館 きろく解読館
また盛岡葛西系図には武常を豊島次郎・葛西権守とする一方、千葉上総系図は、武常 の孫を豊島太郎康家、その孫であり豊島権守 ... 良文━忠頼━将恒(将常)━武常━常 家━康家(常康)━清光(常清)━清重 千葉上総系図、仙台葛西家系図による ( )内は ・・・

2011年5月3日 ... 坂東八平氏は寛平7年(890年)に上総介として関東に赴任した桓武天皇の曾孫高望王 の子の良文・良正の子孫であり、武蔵・ ... 坂東八平氏の中で大きな勢力を占めていた のは、秩父氏です、秩父氏は良文(村岡五郎)の子、村岡次郎忠頼から出ており、 ... 一方武蔵七党は、「武蔵七党系図」によれば、横山・猪俣・野与・村山・児玉・丹・西の 諸党を指していますが、野与の代わり ・・・

通称は村岡次郎。 ... 千葉大系図』には平忠頼の項目に「初号経明」とあり、忠頼と同一 人物とされている。 .... 忠頼はこの繁盛との騒動以前にすでに陸奥介に任じられており、 伝承によれば、その後は上総・下総・常陸の介を歴任して、最終的には従四位下、陸奥・・・

千葉・上総介氏略系図
(千葉・上総介氏). 桓武天皇 ─── 葛原親王 ─── 高見王 ─── 高望王 ─┐ │ ┌──────────────────────────────┘ │ 村岡└ ─ 良文 ─── 忠頼 ─── 忠常 ... 介 周東太郎 │ ├─ 常茂 ─┬─ 常吉 │ │ │ │ │ │ 周東次郎 │ │ └─ 常泰 │ │ │ │ 上総介 小権介 │ ├─ 広常 ─── 能 ...


平 忠頼(たいら の ただより、延長8年6月18日(930年7月16日)? - 寛仁2年12月17 ... 父と同じく村岡を号とし、村岡次郎と称した。名は経明、恒明 ... と対立した。子孫は秩父 党(河越氏、畠山氏)、房総平氏(上総氏、千葉氏)、中村党(土肥氏、土屋氏)などに 分かれ、関東における.

平将門怨念ツアー 将門考記 飛んだ首の謎 落ちた首2
阿豆佐味(あづさみ)天神社」 祭神:少彦名命、素戔嗚命、大己貴命延喜式内多摩八座 の一つで、寛平4年(892年)従五位下上総介高望王の創建という。その後天正12 ... 村岡五郎良文−二郎忠頼−将常−太郎武基−十郎武綱(伊予守) −下野守重綱−重 継(始号江戸)−太郎重長」 「畠山系図」 「重綱(下野権 ... 今までに見てきたルートから 見ても、後に千葉六党といわれた千葉・相馬の一族の領地となっている箇所なのである 。 .
[9]はるかさんからのコメント(2011年10月09日 19時52分57秒 ) パスワード

清和源氏・桓武平氏の血に入る百済氏。
嬴姓高丘系図
百済系図
三松系図
若狭彦神社・笠氏に至る系の武寧王子孫・武助の子・赤麿と兄弟の乙継の子の枝分かれに高野新笠がいる。(桓武天皇生母)

武寧王の子・聖王の子・淋聖太子が亀蛇で多々良氏で大内氏。
淋聖太子の兄弟・恵王の子孫・義慈王の子・善光の子孫に敬福がおり、その子孫に永慶がいる。

永慶の子が仁明天皇に嫁し、高子内親王を生む。(賀茂斉院)
[10]はるかさんからのコメント(2011年10月09日 19時54分11秒 ) パスワード

良峰朝臣父母・百済永継(飛鳥部奈止丸女子)
善光の曾孫の孝忠の兄弟。女子が北家・藤原内麻呂に嫁し真夏・冬嗣を生む。(良峰安世の異父兄弟)
真夏の子孫からは日野家を初めとして、広橋家・柳原家・烏丸家・竹屋家・日野西家・勘解由小路家・裏松家・外山家・豊岡家・三室戸家・北小路家の計12家の堂上家が成立し、真夏流と呼ばれる。
親鸞は日野氏の出。

冬嗣の系からは後、「九鬼氏」。師輔・・・兼家・・・道兼
道隆
道長さん兄弟がいる。
冬嗣の子・長良の女子・高子は「清和天皇」に嫁し、子孫「清和源氏」

道兼の子孫が「豊前宇都宮流・佐田氏」。
道隆子孫が「菊池氏」
良峰氏、子孫・良峰師高(球磨の平川)。良峰氏は林他と共にわが国の文化を「国風文化」にした。

紫式部
藤原冬嗣・・良門・・利基・・・紫式部と
藤原冬嗣・・良門・・高藤・・・宣孝は夫婦。
二人の関係は母方が従兄弟どおしだと。
[11]はるかさんからのコメント(2011年10月09日 23時23分44秒 ) パスワード

天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫・高岡
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命子孫・中原・押小路

中原は十市・多・磯城・十市は孝昭時春日に改称でもある。
佐田は中原でもある。

佐田は大中臣 大中臣⇔藤原⇔卜部⇔吉田⇔壱岐氏⇔藤井氏

公卿類別譜より大中臣から藤原へ
可多能祐 御食子 〔一門⇒藤原氏・河辺家(伊勢神宮)〕
国子 〔二門⇒藤波家〕
糠手子 〔三門〕

一門・御食子子孫 御食子 鎌足〔藤原氏〕
卜部
【うらべ】 卜部流は藤原鎌足の叔父国子大連から5代目諸魚を祖とし、平麻呂〔*系図纂要-日良麻呂〕の時、中臣から卜部へ改姓する。卜部氏と藤原氏を同祖とすることに関しては、異説があるが、ここでは、尊卑分脈・系図纂要・続群書類従所収卜部系図等に従うことにする。但し、家譜によれば、藤原氏と同祖であるが、諸魚を卜部氏の祖とは、していない。真根子命の後裔となっている〔真根子命までの系図は、中臣氏系図を参照〕。この★真根子命の後裔を★「壱岐卜部氏」と呼び、壱岐〔伊岐・伊伎〕氏・★「松室氏」を称した。六条天皇の生母、有栖川宮職仁親王(実霊元院皇子)の生母等が伊岐・松室氏の女である。
※月雄までの系図は吉田家譜によるもので、加筆していない。

松室(皇室と壱岐氏ネットに出ている)
系図纂要によれば、月雄の子雪雄に松室の号が付されている。
系図纂要を基本とした。

松室氏は「月読命」をまつるが、アマテラス・スサノオ・月読命・住吉の神はきょうだい神なので同族ととらえる。

[12]はるかさんからのコメント(2011年10月09日 23時29分24秒 ) パスワード

藤井
【ふじい】 本姓:ト部氏。華族類別録第六十五類。 新家 外様 鷹司家門流

兼充(吉田兼忠の子?卜部兼国26代裔)が猪熊姓を藤井に改める。宝永6年に堂上家に列せられる。

藤井家系図
方子大連公 ┳ 御食子大連公 ━ 鎌足〔藤原氏祖〕
     ┣ 国子大連公 ━ 国足 ━ 意美麻呂 ┳ 東人 ━ 伊麻呂
     ┗ 糠手子大連公 ┗ 清麻呂 ┳ 諸魚〔卜部〕 ⇒
     ┗ 今麻呂〔大中臣〕
⇒ 治麻呂 平麻呂 豊宗 好真 兼延 兼忠 兼親〔⇒吉田〕 兼国 ⇒


別系
本姓・藤原氏。近衛基実の子藤原忠良の孫教嗣を祖とする。

藤井流系図
教嗣までの詳細な系図は、粟田口家系図を参照。
藤原忠通 近衛基実 基通〔近衛嫡流〕
忠良   基良 良教
              教嗣
     家良〔衣笠〕
    松殿基房
   ★ 九条兼実
   藤原兼房
   慈円

教嗣 嗣実 嗣良
    嗣基
    嗣家 嗣定(左中将)
    嗣忠(少将)
    嗣兼 嗣頼 嗣重(早世)
    嗣長 嗣尹 嗣孝
    女子(近衛基嗣室。道嗣母)
教基(右中将。従四位下)

[13]はるかさんからのコメント(2011年10月09日 23時32分44秒 ) パスワード

藤原鎌足
<建御雷神の系譜>
鹿島神宮社務所発行の『新鹿島神宮誌』には、次のような「武甕槌神の系譜」が記されています。

・武甕槌神ー武治速見命ー火穂見命ー武狭別命ー甕津彦命ー種雄命ー道根命ー建之臣命
ー伊香津子命ー鹿島臣命ー★狭山彦命

また★「崇神天皇の時、大阪山に白妙の御腹に白桙を手にした神が出現し、わが前を治め奉らば天皇のしろしめす国々をおだかやにしましょうといわれた、天皇はどなたのいわれたことかと群臣に問われると、大中臣神聞勝命が、それは香島国に坐す天津大御神のおっしゃることですとこたえ、天皇は神聞勝命に幣、大刀十口、鉾二枚、鉄弓二張などたくさんの品を托して鹿島の神に捧げられた。神聞勝命はそのまま鹿島に止まり、祭祀に奉仕することとなる」
と『常陸風土記』の記述を引用して書かれており、ここに大中臣神聞勝命が登場します。

その後の系譜として

・神聞勝命ー久志宇賀主命ー国摩大鹿島命ー臣狭山命ー★狭山彦命

を載せ、
「狭山彦命はこのように神系にも見えているので、ここに神系中臣系が一致し、神系を含む鹿島中臣氏となった。」
と説明しています。
これらのことは、鹿島神宮に古文書として伝えられたものだと思われます。(はっきりした史料は記されていません。)

『新鹿島神宮誌』では
・『常陸風土記』久慈郡条の「天智天皇の御世に、使いをつかわして藤原内大臣の封戸とを検せしむ」という記述
・孝徳天皇時、中臣幡織田臣等が関東を総領していること
・天平十八年三月 中臣部二十烟、占部五烟に中臣鹿島連の姓が与えられていること
などをあげ、中臣鎌足と常陸の密接な関係を裏付けるとし、「鎌足常陸出身説」の可能性を示しています。

二門・国子子孫
国子 国足 意美麻呂
国足の母大徳官★「安曇大伴」連麻呂女斯詩比売娘。
[14]はるかさんからのコメント(2011年10月09日 23時42分42秒 ) パスワード

大田亮氏姓系辞典
 ★ 中臣
児屋根命の子を 天押雲命 その子を 天種子命という。
うさつ媛と結婚し、宇佐津臣を産む。その 六世孫 大鹿島は
垂仁紀に中臣遠祖 大鹿島と みゆる。当時は 連姓を 称していなかった。
        ↓
―ネットよりー
伊勢の「大鹿首」氏の系譜と氏人
津速魂命  三世の孫、天児屋根命の後なりと見え、
その系譜が中臣連一族に出たことが記され、これではきわめて漠然としていますが、詳細な中臣連の系譜には、崇神・垂仁朝に活動した大鹿島命の子に
@大楯命、
A相鹿津臣命、
B臣狭山命の三名をあげて、
@が常陸の中臣鹿島連の祖、Aが伊勢の大鹿首・川俣連の祖、Bが中臣連の祖と記されます。
[15]はるかさんからのコメント(2011年10月09日 23時54分54秒 ) パスワード

鹿島の面ぶりゅうと鍋島の面ぶりゅう
以前さなえさんへだったかで、小太鼓を連想し、上の二つが離れたところで同じ踊りをするのを不思議に思いましたが、笠⇔葛西⇔石井氏⇔藤原⇔肥前石井氏⇔藩主・鍋島と血縁有で藤原で鹿島とつながりました。

又 
球磨郡の中原の太鼓踊り・私の故郷の太鼓踊り。球磨郡は太鼓踊りがあちこちで行われ、「彩物神楽」だということで、出雲の大庭に関与していた。
大庭は平氏に関与していた。

岡山の神楽には出雲の松尾氏がこられるそうだ。
彩物神楽には「猿田彦」が先頭に立って出てくる。

[16]はるかさんからのコメント(2011年10月11日 21時03分55秒 ) パスワード

多氏が祀る神社の外宮は日原神社
       天神 高御産巣霊神尊 神像円鏡に座す。
       皇妃 桍幡千千媛命○○に座す。
を祀る。
以下を推考すると、高御産巣霊神尊・・・大物主(大国主)―事代主と建御名方神とつながる。
[17]はるかさんからのコメント(2011年10月11日 21時05分37秒 ) パスワード

檜原神社
桧原神社は、万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地の上にある。 大和国中が一望できる絶好の場所に位置し、眼下に箸墓の森が見え、二上山の姿も 美しい。 かってこの付近は大和の笠縫邑と呼ばれた。そのため境内には「皇大神宮倭 笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」と書いた大きな石碑が立っている。・・・

笠縫邑 - Wikipedia
大阪の笠縫島
笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照 大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。同時に宮中を出された倭大国魂神は渟 名城入媛命に託して、後に大和神社に祀った、とされる。 笠縫邑は大嘗祭、豊明節会・・・

田道間守
桧原神社から北へ向かう「山の辺の道」。
この辺りの丘陵地帯から、これから向かう穴師の里あたりにかけては、特に蜜柑畑が多い。蜜柑で思い出すのは、『日本書紀』が伝える第11代垂仁天皇と田道間守の逸話である。この田道間守は三宅連の先祖とされている。

天海と「三宅輪宝」系譜 | 児島宮歴史列伝
天海と「三宅輪宝」系譜 投稿者:児島宮歴研会 投稿日: 8月20日(日)17時24分18秒 最初遠山景玄(かげはる)と名乗り、次に母方を継いで三宅弥平次と改め、さらに光秀の 娘婿となって名乗った明智秀満である。 ... 天海が遠山景玄/三宅弥平次/明智秀満で あっ・・・

児島宮系譜帳
WELCOME TO MY HOMEPAGE 児島宮系譜帳 どうぞ、ごゆっくりご覧下さい。「太平記」の中では、児島備後三郎高徳、小島備後三郎、児島三郎高徳、児島備後守 高徳、★三宅三郎高徳、今木三郎高徳など、さまざまに記され、最後は出家したのか、 児島三郎・・

大和大税帳にのる多氏が祀る神社の外宮
 外宮 
     日原神社
       天神 高御産巣霊神尊 神像円鏡に座す。
       皇妃 桍幡千千媛命○○に座す。

三ツ鳥居のある元伊勢『檜原神社』
@大神神社(桜井市) (奈良の寺社・・・2011年2月21日・・・檜原神社はまた★日原社とも称し、古来社頭の規模などは★本社である大神神社に同じく、 三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古・・・また「茅原(ちはら)」は、日本書紀崇 神天皇七年条の「神浅茅原(かむあさぢはら)」の地とされています。
[18]はるかさんからのコメント(2011年10月11日 21時41分05秒 ) パスワード

天照大神―忍穂耳尊―皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の命―彦火火出見尊(山幸)―鵜葺草葺不合尊―神日本磐余彦尊(神武天皇)

神武天皇の子・皇子神渟名川耳命(第二代綏靖天皇)の母は、奈留多姫命で、神武天皇の姉であるという。母玉依姫・おば豊玉姫である。
神武の正妃は「姫蹈鞴五十鈴媛命」で、(第二代綏靖天皇)は正妃の子とされたようである。
ウガヤフキアエズ           神武姉・奈留多姫命
||―――――――――――――――――神武天皇
姉・とよたまひめ            ||――(第二代綏靖天皇)
妹・たまよりひめ

神武天皇
||―――――――――――――――――第二代綏靖天皇
奈留多姫命
古代の近親婚をあらわしているようだ。
[19]はるかさんからのコメント(2011年10月11日 21時43分04秒 ) パスワード

新撰姓氏録が、『新良貴(しらぎ)』氏の祖先は鵜茅葺不合尊の子・稲飯命で、『是は新良国に出まして国主と為りたまふ』(新撰姓氏録の研究 考証編第二 291頁)と載せる。

新羅は血の純潔を重んじていた。

若狭地方の新羅神社
渡来系の新羅神社であるにもかかわらず、祭神が天孫邇々芸命(高天原から天降った神)である。
社伝によれば、朝鮮新羅城の新良貴氏の祖神「稲飯命」或いは「白城宿禰」を祭るといわれているが、『神社誌』及び『遠敷郡誌』は「天日矛命の後裔が此国に留まり、其の遠祖である鵜茅葺不合尊、又は稲飯命を祀りしもの。地名のシラキは日倉族の新羅人の住みしことあるにより起り、その祖神を祀りしとの説がありこれに従う」としている。

神武も新羅(加耶)国と係わりがあることになる。
児島高徳に関係する「作楽神社」の祭神も天日矛命で、神功皇后の血に入っていく。
[20]はるかさんからのコメント(2011年10月11日 21時59分28秒 ) パスワード

鵜羽神社
屋島の南嶺と北嶺の間に谷があり、その谷を下った所に「浦生(ウロ)」と
呼ばれる集落がある
神社誌によると「伝ふる所によれば、神代の昔 豊玉姫命浦生の地に
来たり(ウガヤフキアエズノミコト)を産み給ふ。
豊玉姫命八尋の産殿を造らせ給ひしかば島の名を八尋島と言ふ。
後世に至り山容 家の形に似たる故を以って屋島と言えリ…」とある

屋島の地は源平合戦の地で、隣接する地に「牟礼」がある。
牟礼
山口県佐波郡に牟礼の地があり、垂仁天皇の皇子が住んでいた。その飛び地が大阪摂津の地(茨木)にあり、「牟礼神社」は紀元2600年祭りをした。

屋島の近くに多度津屏風岩があり、「空海」が生まれたところ。

[21]はるかさんからのコメント(2011年10月12日 23時17分37秒 ) パスワード

17以下の話より
大倭氏祖先・珍彦(兎豆比古・椎根津彦)
彼の祖先は「振魂命」で、彼の姉妹が 鵜茅葺不合・神武天皇の皇后。

※現在熱田神宮は祖先を尾張氏遠祖・天火明から海神の子・振魂命に変えられた。
彼らは イザナギ・いざなみ の子孫だった。
そして、珍彦の父は、皇孫本紀で、 鵜茅葺不合の弟から出る。
          
珍彦の父(皇孫本紀)でウガヤフキアエズの弟
海神―振魂命―――大倭祖先・珍彦
―――女きょうだい(豊玉姫・たまより姫)
||
ウガヤフキアエズや神武天皇の皇后
さらに 2代目天皇を生んだのは神武の姉(奈留多姫命)で、母・玉依おば・豊玉だという。
[22]はるかさんからのコメント(2011年10月12日 23時19分35秒 ) パスワード

奈良県天理市別所町 山辺御県座神社 (やまのべのみあがたにいますじんじゃ)
 大和六御県の1つで、山辺県の名前に用いられ、山辺県と東に隣接される闘鶏国(つげ)と、併せて、律令時代に「山辺郡」ができています。
「山辺の道」の散策となると、たいてい、桜井の海石榴市(つばいち)から、天理の石上神宮(いそのかみじんぐう)の間を、歩くことが多いのですが、石上神宮から北へ向かい、奈良市の円照寺(えんしょうじ)まで歩くコースが続いています。
※先ごろ昭和天皇皇女の尼門跡の話が本に出た。余りここの話と関係がないが、この寺のことだろうことで、やはりこのあたりは御皇室と関係があるのだろう。
[23]はるかさんからのコメント(2011年10月12日 23時28分08秒 ) パスワード

※上杉謙信(長尾景虎)の故郷は 出石とは 書いてないが(桓武平氏だという)、
天日鉾命を祀る出石神社神主は長尾市氏で振魂命の子孫。「大和大国魂神社」をまつる。
これは、「北山辺の道」と呼ばれる道です。県座(縣坐)というのは、「あがたにいます」「あがたいます」と呼びます。

この県座神社というのは、奈良県(大和国)にだけに、鎮座する神社と言ってもいいと思います。
大和六御県神社・・・の1つです。

※八木氏は振魂命の子孫にもあるが、朝倉の子孫の八木氏の家が新撰組の宿舎にされたらしい。朝倉は彦坐王の子孫になる。
[24]はるかさんからのコメント(2011年10月12日 23時29分43秒 ) パスワード

大和国には、高市、葛木、十市、志貴、山辺、添の6つの御県神社があります。
(久米を含めて7つの御県神社という場合もあります)
※久米は空海と関係があるようだ。

神武以来の皇后の出自が ここらの 名を冠しており、川津(葉江比売)も関係しています。継体天皇の頃にいる「阿部波延比売」。阿部は高田であり、大阪・茨木の太田陵を守る戸に高田があるが、高田などは 奈良から来ていると近くの呉服屋の奥さんがいっていた。
※阿部は佐々木と関係があり、大彦命と関係がある。
太田陵と「今城塚古墳」は 距離は近く、このあたりに 「闘鶏山古墳」がある。又バス停の名は「岡本」。岡本の苗字の由来は高魂神の五世孫にはじまる。岡本は剣根命の子孫で、剣根命の女子は物部氏と結婚している。
近くの阿武山地震研究所あたりにあるのが「藤原鎌足」の墓といわれるところ。自転車で走り回れるくらいのところにそれらはあり、 山手の旧西国街道にある。「柳原」などの地名は富田寄りの方の道路国道171線にあり、富田の本照寺(もとの本願寺)も太田・今城塚古墳からは 近く「三嶋鴨神社」も近い。疣水さん(磯良神社)・天照御玉社も近く「総持寺」も近い。
※三島鴨神社は高倉天皇安産祈願の場所。
この太田陵の近くに「安威川」があり、橋を渡ったところの畑の中に「中臣連藍」の子孫「太田道灌」の話しが書いてある。
※「天照御魂社」から京都まで二十五キロ位。桓武天皇のもとの都があった長岡はその途中にあります。
※(長岡の光明寺に熊谷直実のことが書いてある。直実の子孫・大室家へという流れらしい)
[25]はるかさんからのコメント(2011年10月12日 23時30分55秒 ) パスワード

三輪のあたり。奈良県桜井市から発する「初瀬街道」
初瀬街道は古代に伊勢の斎王さまが群行(ぐんぎょう)した道のひとつに想定されています。
(もうひとつは初瀬から都祁(つげ)の山間の道に入り、名張から壱志(いちし)へ出て、後世斎宮の建てられた多気(たけ:現在の三重県多気郡)に入るルートがあります。このルートをとると、天武天皇皇女・大伯皇女(おおくのひめみこ)が潔斎をした泊瀬斎宮の跡だという伝説の残る、天神社を経由することになります。)
神の山・三輪山を望み、(現在でもそうですが)伊勢に抜ける重要な道・伊勢街道が通り、大阪の大和川から初瀬川へと舟で遡ってくる水運が開け(高速道路や鉄道のない古代においては「川」による運送力は非常に重要だったのです)、舟で運ばれて来た荷物の一大集積地である海石榴市(つばいち)があり、古代の大街道・上ツ道がそばを通っておりました。

●海石榴市(つばいち)は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が開いた。
初瀬街道を検索すると、桜井市が出る。
桜井市には「長谷寺」がある。
大阪・総持寺の亀観音の像は長谷の童子が来て彫ったという伝えがあり、桜井とのつながりをうかがわせる。さらに、総持寺を創建した藤原魚名流・山陰は藤原道長の母方の祖父になる。
[26]はるかさんからのコメント(2011年10月13日 22時19分29秒 ) パスワード

清和源氏・桓武平氏・良峯安世・大内氏・藤原氏の血に入る百済氏。
嬴姓高丘系図(秦の末期、項梁東阿に起こり西北に定陶に至り再び秦軍を破る。で検索)その先 蓋(解・穢)
百済系図(高丘系図の百済蓋鹵王をクリック)
三松系図
若狭彦神社・笠氏に至る系の武寧王子孫・武助の子・赤麿と兄弟の乙継の子の枝分かれに高野新笠がいる。(桓武天皇生母)

武寧王の子・聖王の子・淋聖太子が亀蛇で多々良氏で大内氏。
淋聖太子の兄弟・恵王の子孫・義慈王の子・善光の子孫に敬福がおり、その子孫に永慶がいる。

永慶の子が仁明天皇に嫁し、高子内親王を生む。(賀茂斉院)

嬴姓高丘氏女子
||―――武寧王―――――武助―赤麿
百済王      |      乙継―●
         |         ●――――高野新笠
         |
         −聖王―淋聖太子(大内・多多良氏)
            ―恵王―――義慈王―善光―――敬福―――永慶ー               ●
               ||
              仁明天皇
永慶ー●
 ||―――高子内親王(賀茂斎院)
仁明天皇
[27]はるかさんからのコメント(2011年10月13日 22時36分49秒 ) パスワード

良峰朝臣父母・父・桓武天皇 母・百済永継女子(飛鳥部奈止丸女子)子孫・藤堂高虎嗣子。

公卿類別譜より
華族類別録第十二類皇別良峰朝臣。桓武天皇皇子右近衛大将良岑安世の後裔。(※系図纂要では、藤原氏に分類されている)
永継は善光の曾孫の孝忠の兄弟。女子が北家・藤原内麻呂に嫁し真夏・冬嗣を生む。(良峰安世の異父兄弟)

真夏の子孫からは日野家を初めとして、広橋家・柳原家・烏丸家・竹屋家・日野西家・勘解由小路家・裏松家・外山家・豊岡家・三室戸家・北小路家の計12家の堂上家が成立し、真夏流と呼ばれる。
親鸞は日野氏の出。

冬嗣の系からは後、「九鬼氏」。師輔・・・兼家・・・道兼
道隆
道長三兄弟がいる。
冬嗣の子・長良の女子・高子は「清和天皇」に嫁し、子孫「清和源氏」

道兼の子孫が「豊前宇都宮流・佐田氏」。
道隆子孫が「菊池氏」
良峰氏、子孫・良峰師高(球磨の平川)。良峰氏は林他と共にわが国の文化を「国風文化」にした。
                 藤原内麻呂
善光―――孝忠           ||―真夏・冬嗣
    −百済永継(飛鳥部奈止丸)の女子
                  ||―――良峯安世(球磨郡で平川。丹羽氏)
                 桓武天皇
[28]はるかさんからのコメント(2011年10月13日 22時39分15秒 ) パスワード

1)良峯氏の子孫は「藤堂高虎」の嗣子になる。丹羽長秀の子・高吉である。
華族類別録

又 本で見た中に 『良峰は「劉姓」。』と書いてあった。

伊予の隅々:玉川町
2003年11月23日 ... 藤堂高吉・今治藩第2代藩主・天正7年(1579)、織田信長の重臣・丹羽長秀の三男 として生まれた。 ・幼名は仙丸。 ・4歳の時、豊臣秀吉に請われて、羽柴秀長(秀吉の弟 )の養子となった。 ・その後、臣籍に下り、藤堂高虎の嗣子となった。 ...

話の中に 高句麗だ 新羅だ 百済だ 秦だ 漢だ といろいろ出るので頭が混乱してくるのだが・・・

蓋・・・笠・・・笠井・葛西・土師族とかさなるか?毛利氏・大内氏は百済系図を併せ持つ。・石井氏・卜部・壱岐氏・平氏 つまり 清和源氏も藤原も根は同じ。
[29]はるかさんからのコメント(2011年10月13日 23時39分10秒 ) パスワード

三松系図は(百済系図の善光の下の矢印をクリック。)

佐田は中原を名乗っており、同じ中原つながりの大友氏を検索すると

大友氏(おおともし、おおともうじ)
古代日本の近江国とその周辺に住んだ氏族。
姓(カバネ)は村主、

大友村主・・・・・・・・大友連[6]・大友宿禰
支族・大友曰佐・・・・・志賀忌寸姓
大友部史・・・・・・・・大友部(大友漢人で組織された品部)の伴造氏
桑原直姓・・・・・・・・大友部史・大友桑原史・大友史等 
前漢高祖の後裔で高句麗人の万徳使主(万得使主)を祖・・
        ・・・・大友桑原史は、桑原史と同族。
万徳使主を前漢の景帝―/
大友但波史は、丹波史と同族。後漢霊帝の七世の子孫である孝日王の後裔
阿智使主――――坂上首名―孝日王
東漢真咋―――――――/
阿智使主とともに日本に渡来した漢人・・西(かわち)大友村主
百済人の白猪奈世の後裔・・・・・・・・・・・・大友史

坂上氏⇔後漢霊帝子孫阿智使主子孫⇔百済氏⇔東漢氏

大友村主は、大友漢人(近江国滋賀郡大友郷(現在の滋賀県大津市穴太・南滋賀・滋賀里)に居住した漢系渡来人)の首長。後漢献帝の後裔と称し[1]、一説には仁徳天皇の時代に阿智使主とともに日本に渡来した帝利[2]を祖とする

このあたりでは「漢」が出てくる。しかし、神武の頃はまだ漢といってなくて、劉姓が120何代か続いて「劉邦」が出る。

又 大伴氏は高御魂巣日神の子孫でもあり、小山連もそうであり、那須地方では「小山」「大内」を 同祖としている。




[30]はるかさんからのコメント(2011年10月13日 23時40分18秒 ) パスワード

佐味神社 祭神・豊城入彦命
滋賀県伊香郡高月町柏原47
豊城入彦命は近江国人「志賀忌寸」の祖にあたり、「佐味朝臣」が祀ったとされる。
『近江伊香郡志』によると、「創建は光仁天皇宝亀年中(770〜781)、佐味朝臣が垂仁天皇の皇子の豊城入彦命を祀る。」と書いてあるそうだ。(崇神天皇の第1皇子で垂仁天皇の異母兄)

謎解き詠花鳥和歌 女郎花と鵲ー25
「和徳」
田辺史、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣らの祖。 思須美(しすみ)、和徳(わとく)の両人 、大鷦鷯(おおさざき=仁徳)天皇御宇の年、 百済国より化来す。しかして言うに、 おのれらの祖これ貴国将軍上毛野公竹合(たかは せ)なりと言えり。

崇神天皇子孫と伝える
上毛野氏子孫・・・宇都宮氏(中原)
下毛野氏子孫・・・坂本
大友の志賀忌寸と上毛野氏の中原同族。

九州の大友氏は始め「磯城津彦」子孫。中原。後 近藤(古荘)から入る。近藤は藤原氏。親能は中原でもある。

藤原鎌足の母は大伴氏。大伴氏祖先は高御魂巣日神。小山連も子孫にいる。
[31]笹井さんからのコメント(2012年09月09日 02時35分21秒 ) パスワード

いえめく族(穢貊族)ツングース系の扶余(プヨ)族

穢王の印・・いえめく族をたばねることが出来る王の印

中国王朝から下賜された王印 に関する一節だが、扶余が保持することから扶余族が穢系部族連合の盟主だとなる。

[32]笹井さんからのコメント(2012年09月09日 02時38分44秒 ) パスワード

穢は解・蓋

蓋太上皇父
劉邦の父に関して
『漢書』高帝紀第一より
漢王室始祖・劉邦の父は、『漢書』高帝紀第一より)《春秋》晉史蔡墨有言:陶唐氏既衰,其後有劉累・・・在夏為禦龍氏・・・「漢帝本系,出自唐帝・・・在秦作劉・・・涉魏而東遂為★豐公・・・★豐公,蓋太上皇父・・・

『新唐書』表第十一より
劉氏出自祁姓。
帝堯陶唐氏子孫生子有文在手曰:「劉累」,因以為名。能擾龍,事夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周封為杜伯,亦稱唐杜氏。至宣王,滅其國。其子隰叔奔晉為士師,生士蒍。蒍生成伯缺,缺生士會。會適秦,歸晉,★有子留於秦,自為劉氏。生明,明生遠,遠生陽,十世孫,戰國時獲於魏,遂為魏大夫。秦滅魏,徙大梁,生清,徙居沛。生仁,號豐公。生煓,字執嘉。生四子:伯、仲、邦、交。邦,漢高祖也。(以上)『新唐書』表第十一より
[33]笹井さんからのコメント(2012年09月09日 02時49分39秒 ) パスワード


紀元2600年祭
ウスボツ
邪摩駘記の 筆者・塢須弗(宝亀4年=773年 渤海国使として来朝した烏須勃のこと)

神武天皇は 
わが国を 秋津洲と 呼んだ。
うすぼつ は 秋洲 と 書いた。

うすぼつは自分とこの王の先祖の扶余と 日本の天皇家の先祖は 親戚だったのだから、親戚の付き合いを復活しようといい、
日本のほうもそうだといって 親戚の付き合いが復活した。
    
渤海は 高句麗の遺民が建てた国で 渤海の人「高歓」が 関与する 北魏・北斉には「神武」「孝明」「孝昭」などの王名がある。

紀元2600年祭と申叔舟 「海東諸国記」
李氏朝鮮領 議政(宰相)申叔舟(シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。

★成化7年辛卯季冬、申叔舟が序に云く、
「密かに国を見るに 東海の中におる者一にあらず。而して 日本最も久しく 且つ 大なり。その地は 黒竜江の北に始まり、わが済洲の南に至り、琉球と相接す。その勢甚だ長し。その初めに処々の保聚各自国を為る。

周の平王48年 その 始祖 狭野 、兵を起こして 誅討し、初めて州都を置く。大臣は各 文治を 占む。尚 中国の封建の如し。甚だしく統属せず。習性強得にして 剣槊(けんさく)に精しく、舟楫(しゅうしゅう)に慣う。

我と海を隔てて相望む。之を撫するにその道を得れば即ち朝聘するに礼を以ってす。その道を失えば則ち輒ち(すなわち)肆(し)に剽窃(ひょうせつ)す。」と。
[34]笹井さんからのコメント(2012年09月09日 03時08分14秒 ) パスワード

「桓檀古記の神武天皇

陝野 の 遠祖 そしもり
「桓檀古記」 檀君世紀 三世 檀君嘉勒は
三世壇君嘉勒が即位した己亥元年はBC2182と考えられる。檀君国家は広義では北扶余・高句麗を含めるが、狭義では北扶余以前の国家で、始祖・王検がBC2333に即位してから第47代・檀君古列加が即位し、北扶余の解慕漱が即位したBC238まで続いた国家である。

三世壇君嘉勒は陝野候の遠祖・そしもりについて次のように述べる。
から戊申10年 豆只州の濊(かい・わい)邑が叛した。余守己に命じて其の酋・素尸毛犁を斬った。
これより其の地を素尸毛犁という。今 転音して 牛首国という。
その後孫の陝野奴(・幋命)は海上に逃れ、三島によって天王を僭称した。
★この記録は 北倭記(契丹史)とは逆に、韓(かん)氏族の立場からのもの。

「桓檀古記」三国遺事は 壇君朝鮮→北扶余→高句麗
日本書紀は 天皇家を伯族のウガヤ王朝の子孫として天皇家の正統を主張した。
        (鹿島昇氏)

★韓室の祖先は周の武王の弟
韓之先與周同姓[一]、姓姫氏。其後苗裔事晉、得封於韓原[二]、曰韓武子。武子後三世[三]、有韓厥,從封姓為韓氏。

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