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 投稿番号:101196 投稿日:2010年09月15日 08時30分51秒  パスワード
 お名前:空の青海のあを
平家一門まとめの参考資料

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi57.htm

よく整理されていて参考になると思いました。

[1]空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月15日 11時09分20秒 ) パスワード

館ひろしの御先祖さまが出てたりして(謎)
なかなか面白いです。


難波家って吉備津彦神社の神主さんだったのでっすか。
思ってた以上の名家の出身だったのですね。
[2]孝康さんからのコメント(2010年09月20日 19時40分51秒 ) パスワード

空の青海のあをさん。

情報ありがとうございます。
とても参考になりました。

*平知盛と平信兼が行動を共にすることがあったのは初めて知りました。
[3]空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月21日 02時30分43秒 ) パスワード

孝康さん


>平ノ清盛の家臣団と軍団 平家の領地国のページです。
>@清盛の朝廷支配・A清盛の後鳥羽上皇勢力の粛清・B平ノ重盛の家人・C平家・平氏の知行国主・D平家・平氏の知行国司・E源氏討伐軍


「A清盛の後鳥羽上皇勢力の粛清」のようなスグに分かる勘違いミスも御愛嬌ということで。
[4]孝康さんからのコメント(2010年09月21日 14時32分11秒 ) パスワード

空の青海のあをさん。

お恥ずかしい話、

>「A清盛の後鳥羽上皇勢力の粛清」のようなスグに分かる勘違いミスも御愛嬌ということで。

当方何が御愛嬌の勘違いミスかも分からない程の知識のレベルでして・・・

知盛というより
遠い昔に伊賀家長と関信兼は顔を会わす事があったのかなぁ?
なんて些細なことを思っています。
[6]空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月21日 14時49分34秒 ) パスワード

>「A清盛の後鳥羽上皇勢力の粛清」のようなスグに分かる勘違いミスも御愛嬌ということで。

清盛             1118年生まれで 1181年薨去

後鳥羽上皇          1180年生まれ


時代が違いますね。
「後白河法皇勢力の粛清」のつもりだったと思います。


後鳥羽上皇は承久の変ですね。1219年とかの時代。
[7]空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月21日 15時00分29秒 ) パスワード

>遠い昔に伊賀家長と関信兼は顔を会わす事があったのかなぁ?
>なんて些細なことを思っています。

もちろんありましたよ。
世代が同じはずですから。


関信兼は、家長の兄弟の山田村の平田家継(兄なのかな?)と共に平家が壇ノ浦で滅びた後に
伊賀で挙兵していますから

それに家継は伊賀をまとめていた人ですし
信兼は伊勢をまとめていた人ですし
この2人はしょっちゅう会ってたと思いますよ。

家長が伊賀に来る時は当然家継の家で信兼に会っていたでしょうし。


この3人は同じような年代だったと思います。
[8]孝康さんからのコメント(2010年09月21日 17時04分02秒 ) パスワード

空の青海のあをさん。

ありがとうございます。
御愛嬌ミス、分かりました。
そういえば鎌倉幕府の時代に後鳥羽上皇は近江瀬田付近で戦いに負けて何処かに行かされたとか?
昔初詣で水無瀬神宮の宮司さんに聞いた記憶が・・・
後鳥羽上皇の肖像画を見ながら、

家長と信兼が会った事があるかなんて話、
お答え頂きありがとうございます。

貴殿にメールしても良いですか?


[25]孝康さんからのコメント(2010年09月22日 23時06分21秒 ) パスワード

消えてしまいましたが家と貞の違い、

うーん。なかなか面白い推測ですね。
親族とのお付き合いもあるのでネット上の返事はご勘弁ください。
いつかメールが繋がった時にでも。

話し変わって壇ノ浦の後
関信兼と柘植宗清さんは仲が良かったのでしょうか?

二人が会ったことがあるか?とか
仲が良かったか?とか
何が知りたいのコイツ!!
ってな書き込みで皆さんスミマセン
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月23日 02時16分40秒 ) パスワード

孝康さん

あれから自分にもメールしてみました。

全然自分に届いてないです。
どこに行ったのでしょう?

やっぱり調子が悪いのかも。それがPCのせいなのかプロバイダーのせいなのかは分からないですが。


「家」と「貞」の関係の名付けは勘違いを発見したので削除しました。



「平家貞」だったんですねえ。御先祖さまの名前を勘違いしてはいけませんよね。




それで書き直しですが

「家」の字のついたのは伊賀関係・平家関係の女を母にして生まれた場合だったのかな?と
訂正します。笑

「貞」の字は盟友関係や東国関係の子供が対照だったのかな?と。


家貞という人物は
足元は固める
そういう性格の人だったのかな?と。

   

長男  家継  伊賀を任せる?
6男  家長  伊賀を忘れないように?
9男  家員  (殺されてしまったので詳しいことは分からない)


次男  貞能  藤原姓宇都宮氏の娘に産ませた子で
        京都における平家の対外関係上、自分の跡を継がせた?(清盛の家の家令職)
        非常に政治的配慮?


それで貞能は平家一門と行動を共にしなかったのかな?
貞能も伊賀の女を母にした兄弟達とは齟齬があったのかな?と。


こうして考えると納得がいくのです。
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月23日 04時24分40秒 ) パスワード

孝康さん


>話し変わって壇ノ浦の後
>関信兼と柘植宗清さんは仲が良かったのでしょうか?


壇ノ浦の後、 仲が良かった、というのはありえないでしょう?!


壇ノ浦の前に、絶対的に、許せない存在だったと思いますよ、信兼にとって宗清は。

頼朝の挙兵前後を思い出してください。
   

他の平家の面々の(アイツが頼朝の助命をしていなかったらこんなことにはならなかった)という思い以上のコトがありましたから。



決定的証拠:

頼朝は挙兵の際に信兼の息子をまず血祭りに上げています。
これは  宗清が頼朝の助命をしたこと以上に信兼には許せない個人的な怨みだったと思います。


息子の山木兼隆(山木判官代)は北条政子の婚約者でした。
息子の婚約者を頼朝に奪われただけでも面子を潰されたのに  (兼隆とは喧嘩してたそうですが)
頼朝の挙兵にまず自分の息子が血祭りに上げられたのですよ。


ここで信兼の怒りは全開ですよ。
そう思いませんか?


でも・・・

壇ノ浦での平家の滅亡後
関信兼は1184年夏頃行方不明になっていますよね。


伊藤忠清が殺され平田家継が戦死して関信兼は行方不明。
ここの所にひょっとすると信兼が宗清に感謝することがあったかも。

   信兼の息子の兼衡・信衡・兼時らは信兼捜索の命を受けた源義経の邸に呼び出され、
   斬殺、あるいは自害に追い込まれた(←『山槐記』8月10日条) だそうですよ。

   その2日後に義経は信兼討伐のため伊勢へ。


その後の信兼の記録無し。


ということは  匿われていた  ということでしょうね。
伊勢か伊賀か、そのあたりで。


伊賀なら平家の一族はもとより宗清一族が助けた可能性もありますね。



でも年齢的に
保元元年(1156年)の保元の乱に参戦していますから
だいたい50代の終わりか60代か、じゃなかったでしょうか?

ですから1184年夏あたり、亡くなった、としてもおかしくないですよね。
戦死か病死か、何かで。



柘植宗清は家貞の弟の子のようですね。
家長なんかの従兄弟。

ということは宗清と信兼はハトコあたり?のとにかく一族ですね。ひょっとすると従兄弟だったかも知れないし。


宗清と信兼は確かに仲が良かったでしょうね。
まさか、頼朝が伊豆で、自分が伊豆に追いやった息子の兼隆と関わりが出来るとは
そこまでは宗清と信兼は仲が良かったと思います。
でも息子を伊豆にやって、間もなく、頼朝の挙兵がありましたから
息子が政子に逃げられてから宗清との仲がどんどん悪くなっていったでしょうね。



宗清と信兼の仲が良かった理由として
信兼の妻の1人あたりに柘植宗清ゆかりの女性がいたのは当然でしょうね。
息子の嫁に宗清の娘がいたのはもっと可能性があるでしょうし。

だから信兼が宗清一族に匿われたというのもアリですよね。


行方不明ということは伊賀の人間が関信兼を売ったということは無かったということですから。

そして伊賀?伊勢?の人間は信兼の死について緘口令を敷いて鎌倉方に報告もしなかった、ということですね。
[30]孝康さんからのコメント(2010年09月23日 12時34分52秒 ) パスワード

空の青海のあをさん。

そうそう、そうなんですよね
普通に考えると、

山木さんが討たれてしばらく後に三人が牛若丸の家でボコボコにされて。


>伊藤忠清が殺され平田家継が戦死して関信兼は行方不明。
>ここの所にひょっとすると信兼が宗清に感謝することがあったかも。


ここが、壇ノ浦の後二人の仲が良かったのですか?
と、お尋ねした所です。

壇ノ浦の後、宗清さんと信兼が取り決めしたことがあるみたい。
本人がというより其々の一族がの方が正しいかも。
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月23日 13時56分44秒 ) パスワード

>ここが、壇ノ浦の後二人の仲が良かったのですか?
>と、お尋ねした所です。

仲は良かったか?と訊かれたら
良くない(断言!)
と思いますよ。


壇ノ浦後、関信兼は伊藤忠清・平田家継と共に挙兵していますから。

もし宗清が信兼に「頼朝に詫びを入れて許してもらえ」と言ったとしても
絶対にそんな話は受け入れられなかった、と思いますよ。


不肖の息子でも頼朝に殺されているのですから
親として
子の仇に助命嘆願など出来たでしょうか?


きっと、信兼は息子を伊豆に追い出したのを後悔したと思いますよ。
父として
伊豆にはやるんじゃなかった
そういう思いがあったんじゃないか?
って思います。


信兼は宗清を
息子の結婚は邪魔されるワ
頼朝は挙兵するワ
息子は血祭りに上げられるワ
宗清の主人の頼盛は鎌倉に頼朝に招かれていくワ
宗清がその後、宗盛に従って屋島に行ったのを(鎌倉に行け、ボケ!)と思っていたでしょう。


壇ノ浦後、伊藤忠清は殺され、平田家継は戦死し、関信兼は劣勢で伊勢伊賀の山の中を逃げ回っている時
伊勢・伊賀の住人は助けてくれたでしょうけど

宗清の息のかかった者達も見逃してくれたと思いますよ。
そういう意味で宗清に感謝はしたと思います。
でなかったら、信兼の最期が伝わっていると思います。


信兼の最期が全く知られていない
というのは
緘口令は宗清も協力したということだと思います。


宗清と信兼は昔のように笑い合ったり酒を飲み交わしたりはしていないでしょう。
宗清に1番の憎しみを持っていたのは信兼ですから。


もし御自分が信兼だったとしたら
宗清の立場の一族の者をどう思いますか?


信兼の心境って小説の題材になると思いませんか?

きっと家継や忠清に悔しさを聞いてもらっていたんじゃないかな?
[32]空の青海のあをさんからのコメント(2010年09月23日 13時59分35秒 ) パスワード

>壇ノ浦の後、宗清さんと信兼が取り決めしたことがあるみたい。
>本人がというより其々の一族がの方が正しいかも。


どういうことでしょう?
[33]孝康さんからのコメント(2010年09月23日 16時38分43秒 ) パスワード

空の青海のあをさん。

関信兼の甥が宗清さんのお父さん。
同じ時代なら???という気もしますが9男という時代女の子もあるし
今の感覚から一代で20年くらい・・・

>もし御自分が信兼だったとしたら
>宗清の立場の一族の者をどう思いますか?

少なくとも関信兼や子・孫は宗清さんの事を悪くは思っていなかったと思います。
逆に壇ノ浦後も親密だった?と感じたので何かご存知かと尋ねました。

古い書き物に書いてあった漢字が読めなくて、所々の漢字で感じたことです。
見ただけなので自分の記憶違いも有るかもしれません。

[34]孝康さんからのコメント(2010年10月08日 13時35分37秒 ) パスワード

古い書き物【古文書っていうのかな?】の意味を少し理解しました。

信兼と宗清さんは壇ノ浦後も仲が良かったかどうかは不明です。

悪くは思っていなかった。と、言う方が現実的かと思われます。
伊勢平氏四家すべて

>伊藤忠清が殺され平田家継が戦死して関信兼は行方不明。
>ここの所にひょっとすると信兼が宗清に感謝することがあったかも。

ここからは多分。
信兼は最後、行方不明というより討たれている可能性が大きいでしょう。
孫・曾孫が再挙兵の準備をしているのですから
宗清さんとは別行動で。
[35]孝康さんからのコメント(2010年10月10日 20時45分01秒 ) パスワード

信兼の事をダラダラと書き込みましたが、

今日は質問です。

他のスレッドに書き込みされている昔からの服部(さん)、
いろいろあるようですが、
【伊賀の服部】って伊賀市なる前の上野市の方の服部さんですか?
[36]孝康さんからのコメント(2010年10月16日 00時04分51秒 ) パスワード


伊賀の服部とは?と、お尋ねをしましたが・・・

私は伊賀の服部は大きく4つの筋(?)があると感じています。
以下の紋の種類が筋の区別では無い。

服部の家紋についてダラダラと

前置きから・・・

秦の始裔の賢女《漢の国=漢服アヤハトリ・呉の国=呉服クレハトリ》を渡来させ
紡績《オミ・ウミと読み小宮の語源》の仕事をしてもらい。
その賢女《漢服や呉服(蕃別)》やサポートする【元々の住民】が居住した家(居住区)を部。
【元々の住民区】がハタオリベ(機織部)>ハトリベ>ハトリ>ハットリ(服部の神別他)
★【渡来の賢女の御子孫は別の名前】
ここから服部連(臣別)・服部郷とか。
後に工人である【元々の住民】服部が少なくなってきて【別の部族(服部以外の姓)】を呼んで
【別の部族】の族長にお酒を振舞って(これが酒の君かな?)云々。

ハタオリベ(機織部)の家紋(家紋というよりは印・マーク)は、
今は無い紋柄であるが、○に蟹のハサミの形を黒く塗りつぶしたような感じが2つ並び。
これが大元という説を根拠があり信じています。

ここから神別の服部が○に並び矢、蕃別は姓が服部ではないので分からない。
臣別の服部が蟹のハサミのような形が元になった
【矢】・【切竹】・【矢筈】
六条院云々の輪の話は不確実なので中だけ
輪も多いのは服部では8桁で、他に6桁・12桁。
また、同じ桁数でも数種類有り。*柏原輪を除く
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