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 投稿番号:101182 投稿日:2010年07月24日 11時23分03秒  パスワード
 お名前:ときお
「藤社」と「社」
キーワード:平家
コメントの種類 :その他  パスワード

あを様へ

天正時代に再配分か安堵で領主から頂いたことに成っています土地に「藤社(ふじこそ)」があるのです(今は他姓の準株内家所有)。これは「名田」ですね。そして中世よりのお斎(いつき)祭りに組み込まれている名田なのです。「日本民族体系」にも採り上げられています。もちろん我が家にも該当の名田を持ち、祭りの当屋を例外の2年続きで勤めています。お斎神社は末社で当屋組織によって古い形の祭りをする当地の祭りは、数少ない内の一つに挙げられています。早稲田大学の方が聞き取り調査にこの前も我が家に来られました。希少価値かな?。
また、HP「ごさんべー」さんとのやりとり中で、「姫社(ひめこそ)」と言う小祠があるのが判明しました。地名辞典では外来の神様らしいです。自分では藤原氏関係のかな?。で納得して終わって居ました。

お祭りの神様は村の氏神様の末社として紀州熊野から来たらしいのですが、「藤社」は判明していないわけです。

藤社について、6年ぶりくらいで、調べていたところで、例のスレで平家との関わりのことを知ってびっくりした訳です。

[1]ときおさんからのコメント(2010年07月24日 11時25分46秒 ) パスワード

あを様へ
「こそ」と「いつき」の関係も在るのかな?とも考えているのです。

キーワードとしての「賀茂社」
 当地は賀茂別雷神神社の荘園でして、賀茂社権祢宜「賀茂資保」の知行地です。
丹波の私(き さ)市(大志万氏は元々丹波の一族?。 でも出てきましたね。)もそうだそうです。

キーワードとしての「祭神」
 お斎神社の祭神は倉稲魂命(くかのみたまのみこと)・宇賀魂命(うかたまのみこと) ・保食神(うけもちのかみ)・倭姫命・斎主神などとされています。
[2]ときおさんからのコメント(2010年07月24日 11時28分22秒 ) パスワード

あを様へ

京の北の守り・・・?
 北は北でも丹後地方でした。

藤社神社(ふじこそじんじゃ)
 御祭神: 本社 保食之神(うけもちのかみ)
京都府京丹後市峰山町鱒留(ますどめ)540  
伊勢神宮の外宮の元宮と言われる神社。
丹後地方には、伊勢の外宮に祭られている豊受大神を祭る神社が数多くあります。
雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、丹波国比治の真奈井にいる止由気大神(=豊受大神)を迎えて欲しい、とおっしゃったそうです。(止由気宮儀式帳より抜粋意訳)
*雄略(ゆうりゃく)天皇…第21代天皇(西暦456年−479年)
その丹波国が、今の丹後地方にあたり、比治の真奈井というのが、磯砂山(いさなごさん)だと言うのです。
そして、磯砂山の周りには、いくつか神社があるのですが、藤社神社こそが、伊勢の外宮の元宮だとも言われているのです。
伊勢の外宮の元宮と言われる神社は数多くありますが、 京都府福知山市大江町内宮の「皇大神社(元伊勢神宮)」、 その南に「外宮豊受大神社(元伊勢外宮)」も数ある内の有名な・社です。
また、天の羽衣伝承の原型が 比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)は、羽衣天女とされる豊受大神〔(とようけのおおかみ)‥〕を祀っています。

*お斎神社=保食神(うけもちのかみ)=藤社神社 とみごとに一致するところです。
でも、平家と藤社の関係はまだ分かりません。
[3]海の青空のあをさんからのコメント(2010年07月24日 15時12分30秒 ) パスワード

>平家と藤社の関係はまだ分かりません。

これですか?


高知県の越知(おち=落ち?)町にある横倉山に安徳天皇陵参考地がある。

またその周辺に県境とは無関係に屋島からたどり着いた平家の人たちが分散して隠棲したとの言い伝えがある。

横倉山の前を流れる川を仁淀川と名付けたほか、京都ゆかりの地名が多く存在する。

当時京の北の守りであった藤社神社から北の集落を藤社と呼んだりした。

歴代皇族とそっくり同じつくりの立派な陵が、非常に険しい山中にひっそりと建立される姿は尋常では説明が付かないものの、安徳天皇の墓であるという確証はない。

ただし周辺に点在する平家一門の隠れ里では明治に入るまで墓石がなく石に名前を書いて並べ置く風習があったがこれは戦時の伊勢平氏一門の風習と合致するうえ香川県の屋島→徳島県の東祖谷→と逃れた平家一門が最後に住み着いた場所である可能性は高い。

愛媛県にある平家追討軍が引き返したという地にはひっそりと「平家終焉の地」の碑があるがそのすぐ南には仁淀川が流れ平家の隠れ里がある。

村おこしや明治以降の尊王思想でできた派手な周辺施設の多くは後の創作物と思われ本物の末裔は余りの不便さでほとんどは都会でひっそり暮らしている。
[4]海の青空のあをさんからのコメント(2010年07月24日 15時20分47秒 ) パスワード

>当時京の北の守りであった藤社神社から北の集落を藤社と呼んだりした。


これは   以下コピペ:

京丹後市峰山町鱒留に鎮座。
国道312号線、比治山トンネルの東1kmあまり、鱒留川と磯砂(いさなご)山に挟まれて鎮座する。
国道から小道を南に曲がり、橋を渡って西に折れて進んでいくと見つかる。
曲がるところには電柱に表示があるので、見落とさないようにしないといけない。

『延喜式』神名式、丹後国丹波郡九座の一、比沼(治)麻奈為神社の論社の一社。
祭神は保食之神(うけもちのかみ)。食物の神であり、豊受大神と同一視される。

『類聚神祇本源』ほかが引く丹後国風土記逸文には、

丹後国丹波郡に比治(ひぢ)の里があり、比治山の頂上に井戸があり真奈井(まなゐ)といった。今は沼となっている。
その井に八人の天女が天下って水浴びをしていたが、老夫婦がそれを見てそのうち一人の衣裳を隠してしまった。
その天女は天に帰ることができず、老夫婦が衣を返すかわりに娘になってほしいと嘆願したので、天女はそれに従った。
この天女は酒を醸すことが上手で、その酒を飲むとどのような病も治るので、人々は大金を積んでその酒を買い求め、
老夫婦の家は豊かとなり、土形(ひぢかた)は富んだ。ゆえに土形の里といい、のちに比治の里と呼ぶようになった。
さて、豊かになった老夫婦は天女に冷たくなり、おまえは娘ではないと言って追い出してしまった。
天女は老夫婦のあまりに身勝手な仕打ちに慟哭したが、老夫婦はどうしても出て行けとせきたてる。
天女は人間の世に長くとどまりすぎたために天に帰ることができなくなっていた。
天にも帰れず、地上に行くあてもない彼女は、

天の原ふりさけ見れば霞立ち家路まどひて行方知らずも

と歌い、放浪して荒塩の村に到り、村人に言った。
「老夫婦の心を思えば私の心は荒塩(荒潮)となんら異なることがありません」
ゆえに比治の里の荒塩の村という。また丹波の里の哭木(なきき)の村に到り、槻の木にもたれて泣いた。
ゆえに哭木の村という。また竹野の郡舟木の里の奈具の村に到り、村人らに言った。
「ここに来て私の心は奈具志久(なぐしく。平穏に、の意)なりました」
そしてこの村に留まり住んだ。
これがいわゆる竹野郡の奈具社に坐す豊宇加能売命(とようかのめのみこと)である。


という伝説が記されている。
藤社神社の南にそびえる磯砂(いさなご)山が『丹後国風土記』にいう比治山であると地元では言われており、
社号の「ふじ」は「ひじ」の転訛といわれ、
天女の降臨は崇神天皇の御世、神社の創祀は開化天皇の皇子・彦坐王の御子で、丹波を平定した丹波道主王によると伝えられる。
現在の社殿は、昭和二年の丹後大震災によって倒壊した社殿を、
伊勢の神宮の式年遷宮にともなう古材の下賜を受けて昭和十一年に再建したもの。


境内には、てめえらの血はなに色だと聞きたい老夫婦・和奈佐夫婦を祀る社もあるが、それもその時建てられたもの。
[5]海の青空のあをさんからのコメント(2010年07月24日 15時31分55秒 ) パスワード

>京都ゆかりの地名が多く存在する


高知県越知町地名
(ちょっとズレてるけど)

【あ】
あそお
浅尾 いまなり
今成 おおひら
大平 おち
越知 おち(おつ)
越知(乙) おち(こう)
越知(甲) おち(てい)
越知(丁) おち(へい)
越知(丙)

【か】
かたおか
片岡
かまいだくやぶ鎌井田桑藪
かまいだせいすけ
鎌井田清助 かまいだひのうら
鎌井田日ノ浦 かまいだほんそん
鎌井田本村 きりみがわ
桐見川 くろせ
黒瀬 ごみ
五味

【さ】
さのくに
佐之国 しぼお
柴尾

【た】
ちょうじゃ
長者 ちょうじゃ(こう)
長者(甲) ところやま
野老山

【な】
なかおおひら
中大平 【ま】
みなみかたおか
南片岡 みなみのかわ
南ノ川 みね
峯 みやじ
宮地

【や】
やまむろ
山室 よこばたけきた
横畠北 よこばたけなか
横畠中 よこばたけひがし
横畠東 よこばたけみなみ
横畠南

京都に関係する地名でしょうか?
全然分からないです。
[6]海の青空のあをさんからのコメント(2010年07月24日 15時52分26秒 ) パスワード

ときおさん


>でも、平家と藤社の関係はまだ分かりません。

>屋島からたどり着いた平家の人たちが分散して隠棲したとの言い伝えがある。
>横倉山の前を流れる川を仁淀川と名付けたほか、京都ゆかりの地名が多く存在する。
>当時京の北の守りであった藤社神社から北の集落を藤社と呼んだりした


これは高知県の教育委員会から史料を頂くより手はないのではないでしょうか?


横倉って
常陸平氏から出た横倉氏から名づけたのでしょうかねえ?

これは  平家方だった横倉なんでしょうかねえ?


あの平家落人のお話以外で
今迄平家で藤社という名字や地名にはお目にかかったことが無いような。
[7]ときおさんからのコメント(2010年07月25日 11時29分11秒 ) パスワード

あを様、有り難うございます。神話時代に突入しそうですね。

でも、平家がらみで考えると、もしかすると清盛公前後の人の内に、丹後守・但馬守・丹波守などを務めた方で、その方の麾下に入った人々ないしは深く関わった人々もいたのかも?。すると「丹後守」かな・・。
そこで、判明したのは御三方しか探せませんでした。

平 忠房 従五位下侍従兼丹後守            
平 正盛 天永元年(1110年)丹後守
平 重盛 丹後守

でも意味不明です。どうでしょうか、あを様。
[8]海の青空のあをさんからのコメント(2010年07月25日 13時44分43秒 ) パスワード

ときおさん

そう来ましたか。


ではワタクシからも。


治承4年(1180年)
若狭     経俊
但馬     経正

丹波     清邦
播磨     忠度・・行盛


平清邦
http://kira03.fc2web.com/jiten/01heishi/heishi1-2.html
平清邦 <たいら・の・きよくに> (1175− ? )

 
 平清盛の養子。清国とも。
 実父は五条大納言藤原邦綱、母は右大臣藤原公能の娘。
 父邦綱が長年に渡り平清盛と親交を結んでいたことから、その養子となった。なお、姉妹の輔子も清盛の五男重衡の正妻となっており、両家の結びつきの強さを物語っている。
 治承2年(1178)6月に叙爵の後、翌治承3年(1179)12月に丹波守に任じられ、さらに、治承4年(1180)4月には、高倉上皇の厳島御幸の勧賞により、正五位下に叙された。
 以後の消息については未詳。
 
 

もう1つ


平清邦 たいらの-きよくに
http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E6%B8%85%E9%82%A6

?−?平安時代後期の官吏。
藤原邦綱の子。母は藤原公能(きんよし)の娘。平清盛の養子。治承(じしょう)3年(1179)丹波守となる。翌年,高倉上皇の厳島(いつくしま)神社参拝に供奉(ぐぶ)して正五位下にすすんだ。



ということで
この人の関係なんでしょうか?


ときおさんのお考えの「藤原氏との関係」も繋がりますね。
[9]海の青空のあをさんからのコメント(2010年07月25日 13時50分24秒 ) パスワード

では次に丹後国について

http://www.pref.kyoto.jp/kaidai/mokuzi097.html



第六章 鎌倉時代の丹後
第一節 源平争乱と八丈院領
一 知行国主平重盛 388

平氏一門の隆盛 / 平氏一門と丹後 / 知行国主平重盛 / 重盛の死去と平氏政権の成立

二 源平争乱と丹後 394

内乱の激化 / 内乱期の丹後 / 平氏の没落



これ、読みたいですね。
[10]海の青空のあをさんからのコメント(2010年07月25日 14時07分32秒 ) パスワード

続き
http://www.pref.kyoto.jp/kaidai/mokuzi097.html


京都府内市町村史目次(宮津市史 通史編(上巻)) [総合資料館]−京都 ... 二 丹後守保昌と和泉式部 317. 藤原保昌の家系と経歴 / 武人としての保昌 / 国守としての事績 / 保昌と妻和泉式部 ... 第六章 鎌倉時代の丹後. 第一節 源平争乱と八丈院領. 一 知行国主平重盛 388. 平氏一門の隆盛 / 平氏一門と丹後 / 知行国主平重盛 / 重盛の死去と平氏政権の成立 .... 二 戦国時代の丹後と『御檀家帳』 690. 戦国大名の登場 / 『丹後国御檀家帳』の性格とその内容 / 『御檀家帳』にみる政治情勢 ...


読みたいですね。
[11]海の青空のあをさんからのコメント(2010年07月25日 14時13分13秒 ) パスワード

丹後国
ウイキより

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E5%BE%8C%E5%9B%BD

丹後国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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令制国一覧 > 山陰道 > 丹後国


丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陰道に位置する。現在の京都府北部にあたる。北丹や奥丹と呼ぶこともある。延喜式での格は中国、近国。

目次
1 沿革
2 分国の背景
3 国府、一宮など
4 守護
4.1 鎌倉幕府
4.2 室町幕府
5 江戸幕府
6 郡
7 関連項目
8 脚注


沿革 [編集]
古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある(丹後王国論を参照)。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説もある。

和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれた。


分国の背景 [編集]

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心[要出典]であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられている。南部の桑田郡は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」[1]とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備を備前、備中、備後とするような分割)[2]とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる[3]。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる[4][5]。

国府、一宮など [編集]
国府は、和名類聚抄および拾芥抄では、加佐郡。現在の舞鶴市内と思われる。

ただし、易林本の節用集では、与謝郡とある。しかし、中世には宮津市の龍神神社近くが府中であったし、丹後国分寺跡もそこから一キロほど離れたところに所在することから国府は古代から与謝郡のこの土地に置かれていた可能性がある。現在の宮津市府中と推定される。

延喜式神名帳には大社7座6社・小社58座58社の計65座64社が記載されている。大社6社は以下の通りで、竹野神社以外は名神大社に列している。

加佐郡 大川神社(舞鶴市)
与謝郡 籠神社(宮津市)
与謝郡 大虫神社(与謝郡与謝野町)
与謝郡 小虫神社(与謝郡与謝野町)
丹波郡 大宮売神社二座(京丹後市)
竹野郡 竹野神社(京丹後市)
一宮は籠神社であり、二宮は大宮売神社とされている。総社は不詳であるが、籠神社が総社を兼ねていたとする説もある。


全然分からないな・・・
[12]ときおさんからのコメント(2010年07月28日 11時11分53秒 ) パスワード

あを様へ
>和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれた。
・熊野郡・・・熊野神社が村社なのですが、紀州熊野より・・・と成っています。古代の 気配を感じます。

治承寿永の時代とは違いますね。

越中次郎兵衛盛嗣は城崎温泉の2〜3キロ東の気比で捕縛されていますので、落人伝説とはリンクしそうですね。藤社神社に近いです、気比は。旧城崎郡気比は但馬になるかも丹後との境目にちかいかな?。

>藤原邦綱の子。母は藤原公能(きんよし)の娘。平清盛の養子。
白河院の従兄弟の公実が娘・・・公・・・と思ってみたら、藤原公能は徳大寺家で「待賢門院璋子(祇園女御の猶子)」につながりました。同じく清盛公も祇園女御の猶子だったと言われていますから、強烈なつながりですね。兼康も祇園女御の猶子とも考えられるし・・。
丹後の藤社との関係したかも分かりませんね。
[13]海の青空のあをさんからのコメント(2010年07月28日 13時46分34秒 ) パスワード

>旧城崎郡気比は但馬になるかも丹後との<<<境目>>>にちかいかな?。

土地勘ゼロですが
昔の国境って、しょっちゅう変更というか、移動?がありますから
  境目
というのは、「その時」はどっちだったか分からない、というのがあるんじゃないかな?
と思ったりします。

愛知県の南西部なんて
伊勢国だったり尾張国だったり
時の権力者が(信長だけど)部下に土地を与える時にグチャグチャです。

今は愛知県内でも信長の時は伊勢国内だったり。

あれ?そうなの?
です。

ま、川の西はXXで、川の東は○○で、というようにハッキリしていれば簡単ですが
川は氾濫するしね。笑


村人がどう思ったかで落人の命が決まったでしょうね。良い感情なら落人を匿ったでしょうね。
また匿った村人が大事にしてくれて、話に尾ひれがついて、平家の身分の高い人が落人になって住んでいた
という話にもなっていくでしょうし。


>気比

って、敦賀にもありませんでした?
気比神宮、って。
南朝方の神社じゃなかったかな?
というとやっぱり前身は平家方だったんだろうし。
となると越中次郎兵衛盛嗣さんが・・・・


播磨屋さんのサイトは文字化けして読めないのですが
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/taisyo_k.html

『田結庄系図』によれば、桓武天皇の皇子葛原親王の後裔とみえ、七代後の越中次郎兵衛盛継は源平合戦に敗れ、城崎郡気比に隠れ住み、のちに捕えられて暗殺された。しかし、その子の盛長は一命をとりとめて田結庄に住み田結庄氏を称したという。 ...なの?


こっちも読めないのですが

平盛嗣 - Wikipedia
... 生年不詳 - 建久5年(1194年))は、平安時代末期の平家方の武将。 父・ 平盛俊 同様平家の郎党として勇名を馳せた。 通称は越中次郎兵衛盛嗣。 ... 盛嗣は 城崎郡 気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われている。 その後盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っている。 ... 以下読めない。



そのほか

平 盛嗣(たいら の もりつぐ、生年不詳 - 建久5年(1194年))は、平安時代末期の平家方の武将。父・平盛俊同様平家の郎党として勇名を馳せた。通称は越中次郎兵衛盛嗣。

生涯
『平家物語』では「越中次郎兵衛盛嗣」の通称で呼ばれ、平家においてその豪勇を称えられる名将であった。源氏との数々の戦に参戦し、屋島の戦いでは源義経の郎党である伊勢義盛との詞戦(簡単に言えば嘲笑合戦)の逸話を残している。

寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、彼は自害を快く思わず、京の都に落ち延び、その後但馬国で潜伏生活へ入った。盛嗣は城崎郡気比庄を本拠とする日下部道弘(気比道弘)に身分を偽り、馬飼いとして仕えたと言われている。その後盛嗣は道弘の娘婿となり、平穏な落人生活を送っている。しかし源氏側は盛嗣の行方を厳しく追及しており、源頼朝は「越中次郎兵衛盛嗣、搦めても誅してもまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したとされる記述が『平家物語』(延慶本)にもある。建久5年(1194年)、捕縛された状況には諸説あるものの、盛嗣は源氏方に捕縛され、鎌倉に送られることとなった。盛嗣は源頼朝の面前に引き出された際に「今は運尽きてかように搦め召し候上は、力及び候はず。とくとく道を召せ」と堂々と自説を述べ、ついに由比ヶ浜にて斬首された。
[14]海の青空のあをさんからのコメント(2010年07月28日 13時56分43秒 ) パスワード

図らずも璋子の生んだ四宮雅仁親王が天皇に指名された(後白河天皇)。璋子の長子崇徳上皇はこれを不服とし、やがて源平の武士が召集され、保元の乱。


璋子の子供:

第1子   祟徳天皇
           第2子 通仁親王  第3子  君仁親王はともに障害者
第4子   後白河天皇


ここに平家(清盛)が絡みますから


>丹後の藤社との関係したかも分かりませんね。

何重にも絡んでいるのでしょうね。
[15]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2010年07月30日 23時47分50秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

姫社(比売語曾)神社について
 
各地に姫社神社あり。肥前国基肄郡には姫社郷あり。
祭神は下照比売命(別名は阿加流比売)。
大国主命と多紀理比売(別名は田心姫命)の娘。
田心姫命は宗像三女神の一人で沖津宮(沖ノ島)に祭られている。
下照比売命は天之日矛の妻となったが、天之日矛の横暴から逃れる為に難波に小舟で着いたと伝える。
古事記では応神紀。日本書紀では垂仁紀に記述があるが、下照比売命は神武天皇以前の人であり、大きな年代矛盾が横たわっている。
社(こそ)は古代朝鮮語で、姫社神社が辰韓系(のちの新羅)と思われる。
藤社神社も同様であろう。
 
因みに沖ノ島、沖津宮は神域で、一般非公開(5月27日のみ関係者と抽選200名のみが上陸可)となっているが、本邦建国(天津神と国津神の国譲条約締結)の謎が封印されているものと考える。
[16]ときおさんからのコメント(2010年08月02日 00時28分25秒 ) パスワード

七千傑様
七千傑様にご教授願えて嬉しく思います。貴重な情報に感謝いたします。

大国主命の娘と言うことは出雲系列ですね。出雲や新羅と結びつきが強い地域である丹波・丹後・但馬に存在する「藤社」。
難波に小舟で着いたと伝えれれる大国主命の娘で下照比売命(別名は阿加流比売)。母が宗像三女神の一人多紀理比売(田心姫命)等々ですね。最後は姫島に戻ったともありますね。
中には織り姫伝承と混ざっているものや下照比売命と多紀理比売の混同もみられますね。

どうも産鉄に関わった秦氏との結びつきの大きい姫社が有るようですね。黒曜石で有名な姫島も鉄の臭いが強いですし、備中は総社市の秦地区の姫社はもろに鉄の神様ですね。「秦氏と姫社」に成るかもですね。すると藤社も「秦氏と藤社」かな。豊受大神だから五穀豊穣を祈る神様・・・。秦氏と平家が何処かでリンク・・かも・・・。

何か、こうなると「秦氏」のスレッドになるかもですね。平家との関わりの「藤社」は幾重にも重なった事情からのものかも知れませんね。

我が地の「藤社」は秦氏一族の居住した倭文西郷(隆起準平原)の山塊の北裾に位置しますので、産鉄にかかわる姫社と関わる藤社かも知れませんね。倭文西郷も賀茂別雷神神社の荘園でした。
[17]海の青空のあをさんからのコメント(2010年08月13日 02時36分44秒 ) パスワード

ときおさん


テレビを見てて知ったことがあります。


桓武天皇って久し振りの「天智天皇系」なんですって。
奈良時代は「天武天皇系」の天皇達だったんですって。


そして桓武天皇の母上は半島系ですから「朝鮮」が入りますね。百済系。
平安京を作ったお金の出所は秦氏。南鮮経由の中国人だそうで、百済か伽那経由でしょうか?


平家は桓武天皇の子孫ですしね。


なんかそういう縦の糸を感じました。


天智(天皇)って663年に白村の戦いをやってるから、わたくし的には天智天皇以降は新羅と仲が悪いのかな?と。

753年の正月、長安の宮殿で、各国の朝貢使が集った大事な儀式に国の序列を示す席次を争って
    西は(吐番)チベット
    東は新羅
がナンバー1になるところを

日本が(大伴古麻呂が)異議を申し立てて、認められて、日本が上座になって
新羅と仲が悪くなったとか。


この年、日本が新羅に送った使節団は王と会えずに帰国したそうです。
正月の影響だそうです。


ということは  ときおさんの気になさっていらっしゃる  藤社神社とか姫社神社って  百済や伽那系かな?
なんて思いました。笑
[19]ときおさんからのコメント(2011年02月01日 16時05分26秒 ) パスワード

あを様へ

あを様は、受け取っていたのでしょうか?テレパシー!!?。

先週の初めより、藤社については別の角度から取り組んでいました。
あを様を含めて何人かの方に連絡しなくては、と思って居たのですよ。
でも半分くらい経過なものでして、まだ早いかなとも思案中でした。
まだ、記述して話せるとこまでは来ていません。

>桓武天皇の母上は半島系
・ですよね。高氏の流れで南扶余(再興百済)の「三つ足鳥」の伝承
 も付いて来ますね。
 もっとも神武東征神話では案内役ですから、神話の時代には「三つ
 足鳥」の一族は日本列島には来ていますね。

>百済や伽那系かな?
 ・今、頭の中でこんがらがってきています。表向きではそうですね。
  以前にもお話しました・・・・だったっけ、東方教会でイラク出身
  でアメリカ国籍の神父さん親子の、「聖書の国日本」の記述では、
  南方から船で直接に新羅経由で日本に来た。と言う説に傾いています。
  「新撰姓氏録」では、127県(あがた)の民を率いて渡来した秦の
  始皇帝の子孫融通王(弓月君)と書かれているようです。・・・・・・
   一時、新羅がじゃまをしたので、みな加羅国に留まったと書かれてい
  るようです。(応神紀14年)

おりあえず・・・です。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2011年02月02日 01時27分54秒 ) パスワード

ときおさん

受け取ってましたよ、やっぱり、送ってました?テレパシー。


>「三つ足鳥」

ヤタガラスって、そもそも、何のイメージ?シンボル?なんでしょうね。


>一時、新羅がじゃまをしたので、みな加羅国に留まったと書かれているようです。(応神紀14年)

加羅国ですか?
カナじゃなくて?


まとまったら、書いてください。
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