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 投稿番号:101135 投稿日:2009年11月04日 11時13分26秒  パスワード
 お名前:林原英祐
課題:比企筋『女系ロマン』
キーワード:比企 越前福井 松平 女系
コメントの種類 :人物  パスワード

2009(平成21年)1月13日午後2時38分
 林原禮(旧姓比企)逝く、、、享年95歳

 在りし日を偲び、、『比企筋ロマン、、番外『女系比企物語」』を再掲します。


心経(観自在菩薩、、、)
 先日、比企の知子さん(北海道在住)に皆様の大切な御祖母ちゃん(先輩)のことを整理してお送り致しました。
 その節の結びに、比企の有名な猛女たちのことをよくもここまで勉強しましたね!とお褒め頂きました。
 応えて、小生が申しました。「あの世」でお会いして、其の後の修正をして頂けるのが楽しみだ!でも、こちらはこれだけ沢山の御祖母ちゃんのことを知っているのに、お会いした時に、御祖母ちゃん達に『貴方,誰あれ?』と言われるかも知れない?と申しますと、、、
 知子さんが笑いながら、、「あの世の御祖母ちゃんは全て、お見通しですよ!」
と笑っていらっしゃいました。(英ちゃんと向こうから声を掛けて下さるそうです!)
 「禮」祖母ちゃんには大分予習させましたから、、迷わずに、御祖母ちゃん達の懐に飛び込んで行けるでしょう。
 多分、良く頑張ったね!と苦労を労って下さいますでしょう。    合掌
                             林原英祐

[1]林原英祐さんからのコメント(2009年11月04日 11時16分16秒 ) パスワード

比企筋ロマン(番外:女系比企物語)

はじめに

ずうっと昔、小生(禮の次男:英祐)が学校を卒業して会社に勤め始めた頃の話なのですが、
 
 故有って、比企の姓(母方)を名乗っていました。

 工場で現場実習をしていた私に声をかける方が現れました。
 「比企さん!」「貴方の家は『女系』ではありませんか?」と聞かれて驚かされたのを覚えています。 その方は歴史の勉強に熱心な、確か『木村さん』と言われる方だったと記憶しているのですが、余りにも突然の事で印象が強烈で今でも忘れられません。

 小生の比企筋への関わりはその日にインプットされ目覚めたと思っています。
 そして、その枕詞は確かに『女系』と言う響きの有る言葉でありました。
 その方(木村さん)の表現を借りれば、、、「女系ゆえに、全国のタウンページに比企姓は拡がらなかった!」と妙なことを呟かれたのですが、、、、

 その程度の話題でその方とはお別れ(すれ違い)してしまったのでございます。
 若干22歳のころの小生に「受け止める感性」が無かったのでしょう。
 そのインプットが40年も経ってから『天の声』として聞こえてきたのですから、学習と言うものの不思議な力を感じます。

 私が『主観的な歴史観』にことさら拘るのは、この不思議さに囚われているのだと思います。


[2]林原英祐さんからのコメント(2009年11月05日 06時12分01秒 ) パスワード

T、女系(そのT)、、、入り嫁達の駅伝レース
 
 鎌倉比企家が『女系』であると歴史家に言われた!
、、、と書き出したレポート(鎌倉を騒がせた5人の娘たち)がありますが、その後、越前比企家にその伝統がどのように伝わったかを探索することが、小生のロマンでありました。
 
そして、結果として『家風:後家猛女』らしきものの流れを検証しました。
その代表選手として、ベストEを以下に上げて、『女系比企一族』の謎の『件(くだり)』にしたいとおもいます。
 
前に、『女紋』の話を述べましたが、『比企家』への「入り嫁」が血筋(ハ−ド)とは関係無しに、嫁ぎ先で家風(ソフト)に染まるなどは、現代にあっても、『貴重な教訓』に思えてなりません。
 
 今日のコンピュ−タ−社会(全盛期)にありましても、ハ−ドは恐しいまでに発達しましたが、それを補完するソフトの遅れが『漫画的』に浮き上がって来ております中で、比企家の入り嫁(猛女達)の奮闘は教示的で意味深い物を感じさせると考えます。
 
 鎌倉時代から伝わる『比企尼』の話、『松下禅尼』の話等は比企一族の血筋の中にある話でありましたが、越前福井の比企家の話は、入り嫁達(他人)の話であります。
 
 そして、私が少しひいき目にE代比企尼とした林原禮(小生の母)は御影比企家(比企雅)の嫡女の話であり、その『禮』と共に、女系が絶えるという話は皮肉な落ちの着いたお話です。
 
 何か、鎌倉中期の『竹御所』の悲話を思い出すような話ですが、多分『血筋(ハ−ド)』は絶えるが、お婆ちゃま達が残した『家風(ソフト)』は「とこしえに…」生き続けると信じます。
 
そして、少し飛躍した話になりますが、最近問題になっています『東洋』対『西洋(アングロサクソン)』の対立軸でいいますと、唯一東洋が勝利するのはそのような『ソフトの継承』技術であると思えてなりません。(味噌汁の味!と云われた方が居ましたが?)
 
 わが国で永く虐げられ続けてきました女性の勇者の皆様、、、
地下に潜った『比企筋』の血が『女紋』のようにして、生き続ける話は楽しいと思いませんか?
 
 隣の家で、そして街角で『比企尼』の『猛女』達に出会う時、鎌倉時代から永く引継がれた我が国の文化そのものを感じ『誇り』に思えませんか?
 
 私は、戦後(比企の乱)800年〔西暦2003年〕の比企残党の戦いを感じるのです。そして、その事が歴史そのものであると考えています。
 
イメ−ジとして、薩摩の国から『サツマ芋』を代用食にしながら、青年達を送り出した「お百姓さん」の家族愛に勝るものは無いと思い続けています。(明治維新にあった話…)
 
最後になりますが、、、課題でありました、、越前福井『比企家』の比企尼E名の駅伝レース(タスキ渡し)をまとめました。
 
[3]林原英祐さんからのコメント(2009年11月07日 00時11分21秒 ) パスワード

@初代越前比企尼『リヨ』(1697〜1773)享年76歳…生田十左エ門の娘      
 『3代比企佐左衛門榮搶の後妻』…心光院常譽妙照大姉

 先妻『リノ』が1歳の乳飲み子(4代榮禎)を残し19歳の若さで他界します。先妻の実家でありました鈴木家は松平藩の重臣(家老450石)の出で、苦心の策として鈴木家の親戚筋の生田家から、一度『鈴木家』に養女に入れてから『比企家』の後添えとして、、、入っています。
後妻『リヨ』の役割は、嫁いだその時から嫡男『榮禎(1歳)』の養育が待っていたのであります。
 
 私はこの『後妻リヨ』は『乳母』のような存在の人で、まさに『比企尼』そのものであったと考えてなりません。
 3代「榮搶」が47歳という比較的、若死であったことを考えますと、『後妻リヨ』の比企家に於いて果たした役割は大変なものであったと推察することができます。
 手塩にかけて育て、成人した「榮禎」の嫁を自分の実家である『生田家』から輿入れさせているは、何か女らしい物言いのようにも思えてならない。
 
[4]林原英祐さんからのコメント(2009年11月10日 06時09分32秒 ) パスワード

A二代越前比企尼『チヨ』(1754〜1834)享年75歳…筒井仁右ヱ門の娘
 『5代比企佐左衛門榮脩の後妻』…専求院清譽白法大姉

 先妻『ツル』は鈴木亦吉〔重臣鈴木家〕の娘であったが婚前死のため、実質的には『チヨ』が名実ともに正室として迎えられたということです。
 
『チヨ』は後の「6代榮庸(越前比企家の最高峰)」の実母であり、その嫁『キン(3代尼)』を育てた姑であります。
 
 『チヨ』は「亀之助(後の6代榮庸)」と『捨五郎(後の真田源五郎幸孝)』と「三十郎(後の本多門左エ門)」の3名の男子と菅沼平兵衛室『ナヲ』を産み、育てています。                              
 
 子宝に恵まれた『比企尼』であったと考える。特に『榮庸』の母としての評価は高いと思います。
 『捨五郎』をあの『真田家』へ、『三十郎』をあの『本多家』へ養子にに出しているのも立派なものだと思います。
 ここで、少し気残りなのは、、、
 この菅沼平兵衛の室『ナヲ』という人が、何か大変な人(???)であったのではと思えてならないことです。
 特に根拠の無い話なのですが、テレパシーのようなものが、ビンビンと伝わってきます。気になって仕方の無い一人であります。
 
[5]林原英祐さんからのコメント(2009年11月11日 15時04分53秒 ) パスワード

B三代越前比企尼『キン』(1789〜1870)享年81歳…横田作太夫の娘
  『6代比企佐左ヱ門榮庸の後妻』…智照院光譽妙貞大姉

 福井松平藩の重臣『横田家』から『比企家』に後妻として嫁いだのですが、嫡男『榮信』を35歳の若さで失い、『跡目相続』で活躍することになります。
 
 養子『8代比企幸次郎栄貞』(先代の孫)の相続に成功しますが、『栄貞』も25歳で病死することになります。
 不幸の連続の中で、『7代栄信の妻』…『モト』に思いを託し、孫『9代栄徴』の養育に全てを掛けます。
 
『榮貞』(キンの養子)の死亡時点での、、、
 『キン』(当時62歳)の取り巻き…
 ★3人の娘達 @嫡男『榮信』の後家『モト』(当時30歳)
        A8代榮貞の室(キンの実娘)後家『リュウ』
                      (当時29歳)
        B鈴木主税重榮の妻(キンの実娘)『ジュン』
                      (当時30歳)
 ★3人の孫達 @9代当主『榮徴』(当時12歳)
        A10代『儀長』(当時10歳)
        B別家『福造』(当時6歳)
 
 明治維新の松平春嶽の片腕といわれた『鈴木主税重榮』の妻『ジュン』(キンの嫡女)の事が知りたいのですが、記録が残っていません。
残念でなりません。
 
[6]林原英祐さんからのコメント(2009年11月14日 07時14分37秒 ) パスワード

C四代越前比企尼『モト』(1822〜1890)享年68歳…津田弥太六の娘
   『七代比企五郎左ヱ門榮信の室』…清壽院儀譽賢哲大姉

 上記の家族『後家キン一家』の後継者は自然な形で『キン』から『モト』に移って行きました。
 
『モト』の苦労は、嫡男『榮徴』の養育と次男(加藤家養子)と三男(儀長)、四男(福造)の養育でありました。男子4名の子育ては並大抵ではなかったかと創造されます。
 
『モト』婆さんが『嫡男(榮徴)』を49歳(比較的若死に)で失うのですが、その時点での「モト」67歳で次男儀長47歳が相続します。
 
 1889年(明治22年)のことであります。その当時の福井比企家の家族構成は、、、
 後家『モト』67歳を中心に、家長(次男)『儀長』(47歳)妻『サダ』37歳、後家『先代榮徴の妻(サミ)』42歳、後家『別家比企福造の妻(タマ)』42歳と、、、、
 
子供たち(従兄弟たち)
『忠』(9代榮徴の嫡男)23歳、『彰』(10代『儀長』の嫡男)5歳、『雅』(別家福造の嫡男)6歳のいとこ達が同居していたそうです。
 
 そして、『タマ』が中心的な後継者になっていくのです。
 『モト』婆さんは若くして、名誉の死をとげた『別家福造』の妻、『タマ』が『不憫で、、』、気になって仕方が無かったと想像されます。
 
[7]林原英祐さんからのコメント(2009年11月16日 15時06分51秒 ) パスワード

D五代越前比企尼『タマ』(1857〜1929)享年72歳…中川一歸の六女
   『別家:比企外五郎福造の室』…淑芳院殿明譽玉成大姉
 
 私の実母の『禮』の敬愛する「お婆ちゃん」は、この『たま』婆さんであります。
 実際は「禮」は3代「モト」婆さんと瓜二つの人生を送ることになったのですが、「たま」婆さんを通じて伝わるものがあったのでしょうか、とにかく「たま」婆さんの大ファンでありました。
 
 前節で「たま」の姪(中川稔子)について、「禮」の独り言を書きましたが、私はこの「稔子」婆さんの壮絶な生き方がこよなく好きです。
 考えてみたら、実質的にこの「稔子」婆さんの母親的(伯母さん)な存在が「たま」婆さんであったことが今回始めて、私の知るところになったわけで、感激であります。
 
「稔子」(私たちは通称『別府のお婆ちゃん!』と呼ぶ)の存在は「鎌倉の比企尼」そのものの面影を残す話であります。
 
 仏教的な表現になるが、別府で独り旅立った(死去)とき、片付けにいった「仏様」の脇に萩焼の名器「田原陶兵衛」が一人分(自分が使っていたものらしい)が石炭箱の中に入れて、ひっそりと置いてあった等は、余りにも「美しい話」ではないかと思えます。
 
 母の口癖に、「中川家」は越前福井松平藩では比企の上席の家柄であったと言っていたが、何か、「稔子(別府の)お婆ちゃん」にノックアウトされた感じですね!! 
 すばらしい『品位』のある話に接して、心が洗われる気持ちがいたします。
 
 比企系図に出てこない『アングラ』な中川稔子婆ちゃん(失礼、上野稔子)に拍手喝采であります。
 そして「たま」婆さんはその事一つを取り上げても、すばらしい『5代比企尼』に相応しい人であります。
 
 
[8]林原英祐さんからのコメント(2009年11月19日 03時03分15秒 ) パスワード

E六代(番外)越前比企尼『禮』(1915〜2009)享年95歳…比企雅の嫡女
         『林原士良の妻』      …
 
 私の母親で、既に『主演女優賞』の人〔別記しましたので、、、〕ですので省略します。
 
MEMO(猛女婆さん達)
                享年『タスキ』期間『後家』暦    記事 
@初代越前の比企尼、『リヨ』婆さん
     (1697〜1773)  76歳(19年間)  42年間  先妻の乳飲み子(榮禎)
A二代越前の比企尼、『チヨ』婆さん
     (1754〜1834)  75歳(45年間)  18年間  5代榮庸を手塩にかけて
B三代越前の比企尼、『キン』婆さん
     (1789〜1870)  81歳(48年間)  23年間  実子『榮信』35歳で死去
C四代越前の比企尼、『モト』婆さん
     (1822〜1890)  68歳(33年間)  40年間  主人「榮信」と35歳死別
D五代御影の比企尼、『タマ』婆さん
     (1857〜1929)  72歳(14年間)  45年間  主人「福造」と39歳死別
E六代御影の比企尼、『禮』婆さん
     (1915〜2009)  95歳(   )  60年間  主人「士良」と34歳死別
以上
共通して言えることは、、、
 @長寿であること。A後家暦が長いこと『尼』。B子育てに専念したこと。C主人と若く死別していること。D駅伝レースのように、タスキが繋がっていること。など、、、
[9]林原英祐さんからのコメント(2009年11月23日 06時20分55秒 ) パスワード

 U、女系(その2)、、、嫡女たちの奮闘(支え)

 『比企家』が女系で世継ぎに恵まれず、永い間常に「御家」が絶えることの危機に晒されてきたとすれば、神(もし存在すれば、、、)が、助け舟をだして「嫡女」の名に相応しい女性を「はめ込むこと」も又、忘れなかったのでは?と言うのが、私のひいき目にみた『歴史の仮説』なのです。
 
 以前、比企家の不思議「女系」を女紋の話など引用しながら、入り嫁達の話として、6名の代表的な「比企尼」の存在を上げてお話を締めくくりました。
 
 「系図」などに記事として残ります記録は「入り嫁」のことは比較的詳しく残っているのですが、比企家の実娘たちの話は、他家に嫁ぐことを最後に記録から消えてしまいます。
 
 ところが、何度も目を通していますと、その少ない「他家」の寂しい姓『二文字』の中に何かを言いたげな重みを感じるのです。
 そこで、残された嫁ぎ先「二文字」を頼りに、想像も加えながら推理小説を書くことにいたしました。
 
 まず『九人の比企娘』を選ぶことにしました。
 
@初代比企義重の嫡女『山原傳左エ門友勝の室(名前不詳)』(1636~1689)卒齢53歳
 
 山原傳左エ門友勝の父は山原勘右エ門友政と言い、戦国時代『織田信長』『豊臣秀吉』の家臣であった「長谷川藤五郎秀一」の槍持を務めた家柄で、その誼で『藤五郎秀一』の実姉を妻としていた。
 
 「傳左エ門友勝」は「長谷川藤五郎秀一」の甥(姉の子)ということになります。
 
 その妻として、比企義重の嫡女(其)が嫁いでいたことが、後に二代越前比企家の世継(養子)を成功させることになる。それは後のことで、その段階では知る由も無い事でした。
 
 この『山原家』の次男(四郎兵衛榮翦)が二代越前比企家の当主(養子)となります。
 
[10]林原英祐さんからのコメント(2009年11月24日 07時34分04秒 ) パスワード

A初代比企義重の次女『高塚甚兵衛の室(名前不詳)』(1646~1666)卒齢21歳
 
 高塚甚兵衛の妻になった『義重』の次女は嫁いで直ぐに『娘』を産む事にになるが、「乳飲み子」を残して、若干21歳で若死にする事になります。
 
 その残された娘(其)が後に二代比企四郎兵衛榮翦(養子)の正室に迎えられるのですが、多分『山原家』に嫁いだ『姉(叔母)』が早く母に死別した『姪』のことを不憫に思い、何くれと無く、世話をしていたのであろうと想像します。
 
 だから、『榮翦』と「高塚の姫」とは兄弟のように育った「幼馴染」(従兄妹同士)で自然な形で「言い名づけ」のような『縁』につながっていったと考えるのが妥当でしょう。
 
 この二人(『榮翦』と「高塚の姫」)の間に三代『比企榮禎』が産まれたときは越前比企家にとってこの上無い最高の状態であったと思います。

 特に、山原家に嫁いだ友勝の室にとっては高塚家へ嫁いで若くして(21歳)1歳の幼女を残して旅立った実妹のことを考えると感慨無量のものがあったと思います。
 
 多分、21歳で『幼子』を後に『想い』を残しながらこの世を後にした『母の想い』が適えられたのだろうと思いたい。
 
[11]林原英祐さんからのコメント(2009年11月25日 23時52分23秒 ) パスワード

B二代比企四郎兵衛榮翦の嫡女『堀庄左エ門の室(レン)』(1686~1770)卒齢84歳
 
 二代比企榮翦には「比企榮禎」と言う世継に恵まれたことはもとより、84歳と言う長寿に恵まれた『レン』と言う嫡女がいた。
 この娘の嫁ぎ先「堀家」に私は興味を持っています。
 
 と申しますのは、以前、越前比企物語の最後に書きました1677年(延宝5)、「初代比企義重」の嫡男『藤四郎』の板取駅(宿)での自害(不審死)についてです。
 
 私は、松平直堅(権蔵)騒動の犠牲と断じたのですが、真偽の程は分かりません。全て歴史の謎であります。そのときの犠牲者の一人に『堀十兵衛』と言う人が登場するのですが(史実)、、、
 
 堀十兵衛は時の藩主(光通)の命で「直堅」の説得に当たるのですが失敗して、今宿の地で『腹を切ってしまいます!』
 その「堀十兵衛」の孫がこの『堀庄左エ門』だと思います。以前から「比企家」と「堀家」は親戚の間柄であったと推察されます。
 (私の祖母[比企雅の妻]シゲも堀家の出です)
 
[12]林原英祐さんからのコメント(2009年12月03日 22時52分27秒 ) パスワード

C三代比企榮搶の嫡女『加藤所左エ門の室(ミヤ)』(1719~1782) 卒齢63歳
 
 ものの本によれば、、、、曽祖父・加藤宇之助重成は肥後守清正の父・弾正右衛門兵衛清忠の弟。重成の孫・内蔵助重政は加藤家改易後の寛永15年(1638)、三代・忠昌に召しだされるが、越前に赴く道中病死し、子の『重直』が替わって召しだされたとあります。
 
 その名を「加藤所左エ門重直」と記されてあります。
 
 多分この「比企榮搶」の娘『ミヤ』の婿「加藤所左エ門」は上記「加藤所左エ門重直」の子になると考えます。
 
 *七代比企榮信の次男『虎五郎』が加藤文太(福井士族)の養子になっている(明治11年)加藤虎五郎信興と号す。
 
[13]林原英祐さんからのコメント(2009年12月10日 00時10分29秒 ) パスワード

D五代比企榮脩の嫡女『菅沼平兵衛の室(ナヲ)』(1790~1845) 卒齢55歳
 
 実は、夢枕に立つ女性は、この『菅沼平兵衛の室(ナヲ)』と言う人です。何故か解かりません。
 
 先日、仕事の関係で随分社会的には地位の高い人で「菅沼」姓の方にお会いしました。おもわず「貴方の故郷は福井ではありませんか?」と聞いてしまいました。
 
 実はその方は『お父さん』を戦争で亡くされ。お母さんとご苦労されながら、今日大成された方で、ご本人は京都ですとおっしゃっていらしゃいましたが、、小生はほとんど病気と言う感じです。聞かれたご本人は変な気持ちになられたのではと少し心配です。
 
 「北陸歴史ねっと」にも参加することに致しました。ひょっとしたら、『菅沼』さんが連絡をくれるかもしれませんから。
 
 お寺は『花蔵寺』と書いてありますが、福井の方にお聞きしますと、本当は「華藏寺」だとおっしゃっていました?
 
 実は平成13年12月25日に足羽1丁目の臨済宗妙心寺派の華蔵寺の山内御住職様から頂戴しました「お便り」によりますれば、『当寺の檀家にお問い合わせの「門野家」「菅沼家」はあります。  御子孫もご存命です』とありました。
 
 多分、この『菅沼』さんは実在する方であると信じます。だって『テレパシー』のようなものが迫ってくるのですから、、、
 
[14]林原英祐さんからのコメント(2009年12月15日 00時17分08秒 ) パスワード

E六代比企榮庸の嫡女『鈴木主税重榮の室(ジュン)』(1822~????)卒齢不詳
 
 鈴木主税重榮は余りにも有名です。「橋本左内(安政の大獄で刑死)」の産みの親とされる越前松平藩の家老職であった鈴木家は比企家12代に渡る江戸時代の系図に4度も姻戚関係として登場してきます。
 
 「横田家」「生田家」なども縁者だと推察されます。
 
 お寺は「孝顕寺」が菩提寺です。
 
 *孝顕寺の住職の便りでは、「主税重榮」の直ぐ横に『女;蝶子の墓』と言うお墓があると言われていましたが、娘(普通、女とは娘のことを言う)とはいったい誰なのか、『ジュン』の痕跡を探す旅に出たい心境です。
 
 世直神社の世話人「山方典和」さんの便りによれば、鈴木主税重榮の子孫は養子「福井藩士雨森藤四郎の弟鈴木傳之丞重徳(若死)と実子小太郎重弘(相続)、そして実孫鈴木薫さん」、といわれていました。
 
 しかし、御子孫も絶え現在はいらっしゃらないと言われていました。
 
F六代比企榮庸の次女『真田源五郎の室(リュウ)』(1824~1887) 卒齢63歳
 
 ものの本によれば、、、「真田五郎兵衛信正」のことを、父は真田弾正忠幸隆の次男・兵部大輔昌輝。
 
 昌輝は天正3年、長篠の戦で戦死し、当時2歳であった信正は叔父・安房守昌幸に養育された。信正は慶長16年、松平上総介忠輝に7百石で仕えるも、断絶により浪人。
 
 元和4年、三代松平忠昌に召しだされた。と、、、
 
 b間違いなしに、あの『真田家』であります。
 
 ところが、この『リュウ』は故有りの和順離縁をして里(比企)に帰っています。
 
 比企家の大事(七代比企榮信の若死による世継ぎ問題)により『御家』の犠牲になり8代比企榮貞の正室(再婚)として、役割を果たすことになります。 
 
 しかし、その八代当主「榮貞」も25歳で死んでしまいます。
 しかし、必死で御家の為に一生を捧げる「リュウ」に打たれるものを感じます。これが比企家の娘たちの家風であると思えるからです。
[15]林原英祐さんからのコメント(2009年12月23日 16時47分40秒 ) パスワード

G九代比企榮徴の嫡女『比企榮(シゲ)』(1878~1945)終戦行方不明没 67歳
 
 この人は、越前比企家が仕事(サラリーマン)の関係で「東京」と「御影」に別れて出て行ったとき「戦前(第二次世界大戦)」のことですが、一人残って「比企の屋敷」と「菩提寺(清源寺)」の墓守を志した『女傑』だと聞いていますが、
 
 結論から申しますと、、福井空襲の時に一人「福井の家」を守りながら、行方不明になられたと聞いています。記録によれば、昭和20年7月19日空襲で行方不明死亡届を受理(認定)してもらったと書かれてあります。
 
 遺品を清源寺に葬り、祭ったとあります。
 
 今回の私の探索で福井市の教徳寺からのお便りによれば、先々代の住職(現在の住職の祖父)の時代、住職は昭和17年に亡くなられたそうですが、、その時代(戦前)に永代経帳に「比企榮(シゲ)」の名前で『拾円』の寄贈が書き込まれてあります。御連絡して頂きました。
 
 当寺としては稀な記録でありますので気が付きました。
 当時の額では「相当高額な金額です」と書いてこられました。
 
 考えてみましたら、行方不明死亡(空襲)の福井残留の最後の女傑『榮(シゲ)婆さん』の足跡がこのような形で判明したのも、お引き合わせによるものと、感激です。(お便りを下さった教徳寺の現住職「羽野文雄」さま、ありがとう御座いました)
 
[16]林原英祐さんからのコメント(2009年12月27日 08時20分50秒 ) パスワード

H別家比企雅の嫡女『林原士良の妻』( 1915〜2009 )卒齢95歳
 

 母が大切にしていました『姿見(鏡)』の染め抜きの「布のカバー」がありましたが、、、その表面に『左金輪巴』紋が栄えていました。少し変わった『紋』だったので覚えています。間違い無しに比企から嫁ぐ時の荷物(嫁入り道具)に付けた『女紋』のようなものだったのでしょう。

 其の後、越前福井の比企家の紋が「左金輪巴」であると知りました。
 歴史書によれば武蔵や相州鎌倉の比企家の紋は武田家と同じ『菱』の紋だと云われますので異なった紋であります。

 2009年1月13日午後2時38分、享年95歳で帰らぬ人となりました。母『禮』は「年齢」も「後家暦」も最長不倒距離を達成いたしました。『比企家のギネス』に載る記録です。

 御影比企家の最後の生き残りだったのですが、、、、系図上は消える事になります。
 800年の重い流れは表面上は消えますが、、、
 たくさんの御祖母ちゃんが志していた、、『ソフトの伝達(味噌汁の味)』は密かに続いていくことでしょう。
 以上で越前比企家の娘(姫)達の嫁ぎ先の詳細と致します。多分、比企筋の血筋を背負って活躍されたのだろうと想像されますが、今となっては「謎々話」として残るだけです。
 
 越前福井に在住のご親戚の皆様「や〜い」、お便りをお待ちしています。
                         
                             合掌   
                                    
[17]呉服問屋さんからのコメント(2010年01月11日 04時36分16秒 ) パスワード

こんにちわ。呉服問屋です。

もし間違っていたらごめんなさい。
確か篤姫も比企系ではなかったでしょうか。

鎌倉比企家の女性が源家の寵愛を受け
子供を授かったものの正室から嫉妬をされ
縁戚のお公家さんを頼って京都へ。

その後、そのお公家さんの領地だった薩摩の
現地管理者的な立場を任され薩摩へ移住。

島津家(篤姫のお家)には、そういう言い伝えがあるそうです。
なので、島津家は武士の祖といえるような源家の血筋を引く由緒正しき家柄ということ点が注目されやすいようです。
しかしながら、その血を伝えたのが比企系の女性である点が
比企系の女性はすごいのかなと思いますし、ある意味
篤姫も比企系の女傑?なのかもしれませんね。

でわ

でわ
[18]林原英祐さんからのコメント(2010年01月13日 22時46分22秒 ) パスワード

お便りありがとうございます。
昔々の話ですから、どこまで信憑性のある話かわかりませんが、、、
島津家(忠久)が頼朝の落胤であると言う説は、多くの学者から「NO!」を突きつけられています。(ほぼ学者さんの考えが正解だと思っています)
でも、比企尼の嫡女『丹後内侍』が京都の惟宗広信との間に、、、島津忠久(薩摩島津家の祖)と若狭忠季(若狭島津家の祖)を産んだことが、吉見(源範頼の実家)系図に残っています。
http://hikoshima.com/bbs/heike/100144.html
の[13][29]あたりに書き込みましたので、、御参考に、、
随分前(5年程)になりますが、、当時中学生の大分の方がお母さんと相談して、、『島津雨』と言う『お米』の焼酎を一本送ってくださいました。
 丹後内侍が北条政子の手を逃れ、、住吉神社で島津忠久を石の上に産み落とした、、その時『雨』が降っていた、、薩摩では「雨」は吉兆の兆し、、と語り伝えられているそうです。
 彼(中学生)も随分立派になられたことでしょう、、、しっかりした文章を書かれていたのが忘れられません。それでは、、、
[19]林原英祐さんからのコメント(2010年08月17日 11時57分15秒 ) パスワード


今年(2010)のお盆のお話


私の気になる「人」、菅沼平兵衛室『ナヲ』が何故か「解明」できました。

 又々、神がかりなことを云うと「知子」さんに、笑われるかもしれませんが、以前(2002頃)書いた小生の文章があります。

「引用文@」

●二代越前比企尼『チヨ』(1754〜1834)享年75歳…筒井仁右ヱ門の娘
 『5代比企佐左衛門榮脩の後妻』…専求院清譽白法大姉

 先妻『ツル』は鈴木亦吉〔重臣鈴木家〕の娘であったが婚前死のため、実質的には『チヨ』が名実ともに正室として迎えられたということです。
 
『チヨ』は後の「6代榮庸(越前比企家の最高峰)」の実母であり、その嫁『キン(3代尼)』を育てた姑であります。
 
 『チヨ』は「亀之助(後の6代榮庸)」と『捨五郎(後の真田源五郎幸孝)』と「三十郎(後の本多門左エ門)」の3名の男子と菅沼平兵衛室『ナヲ』を産み、育てています。                              
 
 子宝に恵まれた『比企尼』であったと考える。特に『榮庸』の母としての評価は高いと思います。
 『捨五郎』をあの『真田家』へ、『三十郎』をあの『本多家』へ養子にに出しているのも立派なものだと思います。
 ここで、少し気残りなのは、、、
 この菅沼平兵衛の室『ナヲ』という人が、何か大変な人(???)であったのではと思えてならないことです。
 特に根拠の無い話なのですが、テレパシーのようなものが、ビンビンと伝わってきます。気になって仕方の無い一人であります。

「引用文A」

 D五代比企榮脩の嫡女『菅沼平兵衛の室(ナヲ)』(1790~1845) 卒齢55歳
 
 実は、夢枕に立つ女性は、この『菅沼平兵衛の室(ナヲ)』と言う人です。何故か解かりません。
 
 先日、仕事の関係で随分社会的には地位の高い人で「菅沼」姓の方にお会いしました。おもわず「貴方の故郷は福井ではありませんか?」と聞いてしまいました。
 
 実はその方は『お父さん』を戦争で亡くされ。お母さんとご苦労されながら、今日大成された方で、ご本人は京都ですとおっしゃっていらしゃいましたが、、小生はほとんど病気と言う感じです。聞かれたご本人は変な気持ちになられたのではと少し心配です。
 
 「北陸歴史ねっと」にも参加することに致しました。ひょっとしたら、『菅沼』さんが連絡をくれるかもしれませんから。
 
 お寺は『花蔵寺』と書いてありますが、福井の方にお聞きしますと、本当は「華藏寺」だとおっしゃっていました?
 
 実は平成13年12月25日に足羽1丁目の臨済宗妙心寺派の華蔵寺の山内御住職様から頂戴しました「お便り」によりますれば、『当寺の檀家にお問い合わせの「門野家」「菅沼家」はあります。  御子孫もご存命です』とありました。
 
 多分、この『菅沼』さんは実在する方であると信じます。だって『テレパシー』のようなものが迫ってくるのですから、、、
 

★今回「知子」さんから送ってもらった、

比企先生『比企忠』(京都帝国大学)追悼號『略歴』(写し)  の冒頭に、、、

 「慶応二年五月十六日福井県福井市手寄上町十番地に生る。始め学を菅沼平兵衛氏に受け、後、聯區勝見小学に入学。、、と書き出されてありました。

 この「菅沼平兵衛氏」は、まさしく小生が気にしていました「五代比企榮脩」と後妻「筒井仁右ヱ門の娘(チヨ)」との間にできた、菅沼平兵衛の室(ナヲ)の嫡男であろうと考えられます。

 これで、私の十年近い「胸騒ぎ」の理由が解けました。
 「比企忠」さんの聡明なエネルギー(あの世からの「便り」!!)はこの「菅沼平兵衛」の室(ナヲ)から発せられたものだったのです。

 多くの方から、比企忠さんのエネルギーは尋常のものではないと指摘されました。

 「解りました!」「今夜は熟睡できます!」


 
[20]海の青空のあをさんからのコメント(2010年08月17日 15時03分40秒 ) パスワード

林原さま


>私の気になる「人」、菅沼平兵衛室『ナヲ』が何故か「解明」できました。

背筋がゾクゾクしました。


御先祖さまってホントにパワーを送ってますよね。
にっこり
ただ、こちらはなかなかキャッチ出来ませんが。
残念!


   わたくしも今年は和歌山〜奈良で先祖のテレパシーをビシビシ感じておりました。
   南朝方だった先祖についてでございました。
   テレビで和歌山の南地方あたりを見てましたら母にソックリな顔の骨をした人を必ず1人は見かけてました。
   勿論母方には紀州の血が江戸時代1人入っていますが。
   テレビを見ながら釘付けになっておりました。

林原さまの場合「お盆」に解決したというところが  サスガ!  今年のお父さまへの親孝行の御褒美のようで
御先祖さまが見守って下さっているという確信になりますね。   



>本当は「華藏寺」だとおっしゃっていました?

この漢字の「華藏寺」って三河がらみでしょうか?
それも源氏の名門系で?

ハッキリ書きますと  吉良さまの菩提寺ですが。
[22]林原英祐さんからのコメント(2013年06月04日 20時42分02秒 ) パスワード

比企の『知子』姉様が一昨日お亡くなりになりました。
小生の母に、最後まで、「礼子姉さん!礼子姉さん!」と良くして頂いた「知子姉さん」が比企の「殿(しんがり)」の様な役目を全うされ、晩年は北海道本別町の特別市民にしていただいて、あの広い「蝦夷」の地を第二の故郷として、思う存分「生き」られました。皆様に良くして頂いて有難うございました。
 母の晩年のこともありまして、女房と一緒に「知床半島」から層雲峡まで、1000KMを「一週間」かけて、喜寿の「お姉さま」の運転に身を任せて、この6月は丁度、丸3年後になります。
 振り返りますと、「平家物語を熱く語る!」に参加しましたキッカケは、服部明子先生と比企知子お姉さまの「導き」によるものでした。
沢山の「思い出」と「お教え」を頂きました。
 心からご冥福をお祈りいたします。
 少し、遅れて参りますが、その節は又宜しくお願い致します。
「英ちゃん、古い写真の中に比企のヒトを探すときは、骨格のがっしりした顔の人を捜しなさい、、男女を問わず、、それが比企の顔ですから、、、」
その「教え」が今も生きています、、「合掌」
 ありがとうございました。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2013年06月04日 22時54分44秒 ) パスワード

林原英祐さま


お久し振りでございます。
最近は、ハワイに越しまして『空の青海のあを』を名乗っております。



比企家最後の後継者でいらっしゃった方が黄泉の国に旅立たれたとは
残念でございます。
ご冥福をお祈り致します。


>「英ちゃん、古い写真の中に比企のヒトを探すときは、骨格のがっしりした顔の人を捜しなさい、、
男女を問わず、、それが比企の顔ですから、、、」


鎌倉時代の誇りある御家人の風貌を今に伝えているということでしょうね。
雑踏の中でも出会えると良いですね。
比企家の血を分けた方達は日本中にたくさん散らばっていると思います。

その方達がいつか比企の誇りに目覚めて平熱を覗いてくださいますように。



本当に林原さまの御研究には御先祖さま方はお慶びと思います。
 
最近、人には『命』が5つある、というのを知りました。
天命・人命・寿命・運命そして宿命。

   宿命とは「生まれる前からの先祖達によって託された命の宿題
   この問題をクリアするために先祖達は色々な能力を与えてくれている」 


林原さまの御研究を拝見していまして、
つくづく林原さまの御先祖さま達の思いと林原さまの宿命を感じておりました。

良いことをなさいました。
御先祖さま方も慶んでいらっしゃると思います。
[24]林原英祐さんからのコメント(2013年06月05日 06時47分07秒 ) パスワード

服部明子先生へ

 伴奏ありがとうございました。これに代わる「心遣い」はありません。
 私にできる「お礼」はこれしかありません。
 よく知らない方が、、以前「伴奏で」
 「ようきたなぁー」「ここまで、ようきたなぁー」
 が、良い言葉「大賞」だと、褒めていただきました。
 「師匠」に「弟子」、、、、
 「親鸞」と「法然」も
 「二十四の瞳、、」も
 そして、「平熱」に流れる、、「明子先生」の「伴奏」も

 お礼に、「ようきたなぁー」「ここまで、ようきたなぁー」
 を「贈ります!」
 
 http://youtu.be/t_ikuENchnQ
 すぐ「消します!」から、、お許し下さい。林原
 
 ありがとうございました。
[25]空の青海のあをさんからのコメント(2013年06月05日 07時36分19秒 ) パスワード

林原さま


いえいえ、消さないでください。


素晴らしい「巡礼」「鎮魂」「墓標」に仕上がっていて驚きました。
    死して、尚、人の役に立つ!
こんな素晴らしい生き様死に様はめったに無いです。




わたくしも比叡山延暦寺に先祖ゆかりの肖像画を見に行った時
「よく来たな」
という歓迎の言葉を貰いました。

   滂沱の涙が吹き出ました。


林原さまの驚きと、お父さまの息吹をはっきり感じることが出来ました。
林原さまは御自分の宿命を果たされましたね。


是非この動画はDVDに焼いて、御一族の皆さまに永久保存してもらってください。


林原さまは本当にお幸せだと存じます。
お父さまにまたお会いできたんですものね。

そして「形」にもなさいました。

きっと日本全国で林原姓の方達が驚いていると思います。 
林原さまの2いとこ・3いとこ・4いとこなどの遠い一族の方にも誇りになったと思います。 



本当に「ここまで、よう、きたなー」ですね。
にっこり
[26]林原英祐さんからのコメント(2013年06月17日 17時21分10秒 ) パスワード

6月17日(月)夕刻、一枚のハガキがとどきました。

(写)
 八十年の時をすごして、
 お別れが近づきました。
 仲良くしていただいて、教えていただき、励ましていただき、いろいろと手助けして頂いて本当に有難うございました。
 おかげ様で楽しく充実した日々を送ることができました。
 あつく御礼申し上げます。
 どうぞ、良い日々を過ごされますように。   比企知子(ここまで自筆)

 末尾に、平成25年6月1日に、母が亡くなりました。 (ご息女のサイン)

 北海道(本別町)で死の直前書かれた「はがき」は宛名書きも「自筆」でありました。

 いつか、どこかに書き込みました。九州の別府で亡くなった「中川稔子」おばあ様の石炭箱の片隅に片付けてあった「一式の萩焼(きっと、最後まで大切に使っていた)の食器を思い出すような、お洒落な、品位あふれる「お便り」でした。
 本当にありがとうございました。合掌
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2013年06月17日 22時49分24秒 ) パスワード

最後の最期まで、
完璧に御自分の「一生」を生き切った女性だったのですね。


この世に悔い無く、次の世界に旅立たれたのですね。


お幸せだったのだろうと感服しました。


御冥福をお祈り致します。
[33]桔梗さまさんからのコメント(2015年01月26日 23時35分40秒 ) パスワード

服部先生へ
大変、ご無沙汰いたしております。母が亡くなって、青田(訪問者さま)さまがお亡くなりになり、一昨年(2013,6)比企の系図読み取りの機会を下さった比企の知子さんが北海道(本別町)で静かに亡くなられて、、小生も元気が少し無くなり、、静かにしていました。
ああ、もうすぐ暖かくなると知子さんの2年がやってくる!『お姉さま』のダンボール箱を少しは整理しなくては、、、ああそうだ、亡くなられる2ヶ月ぐらい前だったか?はっきりは覚えていないのですが、、「英ちゃん!」北海道の家、片付けていたら、こんなものが出てきた!『古くなった昔を味わってください』、表紙がボロボロで表題もよく読み取れない程の「小冊子」でした。
恐る恐る開けていると、片側を縫いこんだように閉じてあった紐(麻?)がポロっと切れて、ばらばらになりました。何とはなしに、なんでも鑑定団の古い軸箱や箱書き、茶器の箱書きを大切に、を思い出して、クリアーファイルの透明袋に壊れないように、保管しました。中身は「明治中期」の使用済みの切手やエンタイヤやステーショナリー(はがき)がベタ貼りにして保管(玄人の手)してありました。知子さんが最後の贈り物に下さったプレゼントが比企忠様(知子さんのおじい様)、比企系図の編者、ご当人が整理されたものだったのです。
前置きが長くなりましたが、、今日のご報告はここからが本題です。
恐る恐る、あの袋から引っ張り出した「表紙」の題字を笑み取ったのですが?
確かに、『藻塩草(もしおぐさ)』と読めました!
女房につつかれて、「お父さん、元気な内に、処分出来る物は処分してください』何でも大事そうに保管するのが、、好きなんだから、」
ちなみに、ヤフーの知恵袋で『藻塩草』を調べました。ベストアンサーもキャッチしました。
これを、お知らせできるのは「服部先生」しか居ません!
昨年流行りました、コピペやらをごめんあそばして、、

「藻塩草」とQ(問いかけ)しただけ、、で 三番目に、こんな記事がでてきました。
平家物語の巻十・首渡がどうしてもわかりません・・・
すみませんが訳をお願いします。
本文は次の通りです。
三位中将もかよふ心なれば、「都にいかにおぼつかなく思ふらん。首どもの中にはなくとも、水におぼれても死に、矢にあたつても失せぬらん。この世にあるものとはよも思はじ。露の命のいまだながらへたると知らせたてまつらばや」とて、侍一人したてて都へのぼせられけり。
三つの文をぞ書かれける。まづ北の方への御文には、「都には敵満ち満ちて、御身ひとつの置き所だにあらじに、幼き者ども引き具して、いかにかなしうおぼすらん。これへ迎へたてまつて、一所でいかにもならばやとは思へども、我が身こそあらめ、御ため心苦しくて」なんどこまごまと書き続け、奥に一首の歌ぞありける。
いづくとも知らぬ逢ふ瀬の藻塩草かきおく跡をかたみとも見よ

A(ベストアンサー)
『平家物語』巻十「首渡」

(一の谷で討ち死にした平家一門の首が都大路を渡された。維盛の家来がこっそり見に行ったが、維盛の首はない。かわりに、維盛が病気のため、一の谷には行かず屋島にいることがわかった。維盛の妻子は心配でたまらない。)

三位中将(維盛)も(離れていても家族の)心は通じあうものなので、
「都では(妻子が)どんなに心配しているだろう。(都大路を渡された)首たちの中に(私の首は)なくても、水におぼれて死ぬ事もあろう、矢に当たって死ぬこともあろう(と心配しているだろう)。(私が)この世に生きているとはまさか思っていないだろう。はかない露のような命が、まだ生きながらえていると(妻子に)お知らせ申し上げよう」と言って、侍一人を使いにして都へのぼらせられた。

三通の手紙をお書きになった。まず北の方への御手紙には、
「都には敵(の源氏一門)が満ち満ちて、あなたの御身ひとつの置き所さえないことでしょうに、幼い子どもたちを引き連れて、どんなに悲しく(心細く)思っていらっしゃるでしょう。こちら(屋島)にお迎えもうしあげて、同じ所でどうにでもなろうか(死のうか)とは思いますが、(男の)私の身ならばこそいられもしますが、(女のあなたの)おためには(このような、いつ戦場になるかもわからない所にお迎えするのは)心苦しくて」

などとこまごまと書き続けて、最後に一首の歌があった。
いづくとも……いつどこでまた逢う機会があるかもわからない、(海にただよう)藻塩草(のように、よるべない私が)書き置いた筆跡(手紙)を私の形見と思って見てください

と結んでありました。


なぜ、平家物語なの?なぜ、、須磨(甘藻ともいう)なの?
そして、結びが「形見」なの?

金縛りにあったように、片付けてしまいました!!(いずれ勇気を出して処理させられるのでしょうが、小判切手頃のコレクションは良いものです!)
忠おじい様も知子お姉さまもご健在ですわ!!   お粗末でした。
[34]空の青海のあをさんからのコメント(2015年01月27日 03時46分42秒 ) パスワード

お久し振りでございます。

数年前にハワイに引っ越しまして今は「空の青海のあを」で書いています。
お元気そうで何よりです。



>知子さんが最後の贈り物に下さったプレゼントが比企忠様(知子さんのおじい様)、比企系図の編者、
>ご当人が整理されたものだったのです。

素敵なプレゼントですね。



>なぜ、平家物語なの?

教養が深いから でしょうね。



ある人の宝物は他の人にはゴミなんですよね。
逆に、ある人にはゴミでも違う人には宝物です。



ゴミとして処分されたら気の毒です。

比企忠さま、知子さまの思いを受け継いでくださる方が見つかると良いですね。



比企氏ゆかりの博物館とか資料館があれば良いのですが。
または
埼玉県教育委員会とか埼玉県立図書館にメールをなさってお譲りになっては?
引き取って頂くのはいかがでしょう?
[35]林原英佑さんからのコメント(2015年03月23日 21時04分48秒 ) パスワード

随分前になりますが、、母(禮)のことで、、御影(住吉)の比企の家が空襲で全焼したお話を書きました時に、、服部さんが英語交じりの「ピアノの話」を詳しく送って頂きました。
 母が元気だったので、、尼崎の病床に写しを持っていったのを思い出しました。その日は、ことさら、いつもと違った元気な母を見せてもらいました。
下記の番地で、見ず知らずの方から、、お便りが、、、
「ありがとうございます!」

www.youtube.com/watch?v=ix6supFjlvI

知子姉さんは今もご健在ですね!  合掌
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2015年03月23日 21時25分16秒 ) パスワード

拝聴しました。

   Published on Jun 1, 2013
   2013年6月1日に永眠された中学時代の吹奏楽部恩師、比企知子先生のために即興演­奏で捧げます。
   心からご冥福をお祈り致します。


思わぬところからの「お便り」でしたね。
知子さまは「永遠」です。 
合掌



ネットの時代になって  時空を超えて  存在するようになったのですね。
比企氏の皆さんも「以て瞑すべし」というのですね。
ご先祖さまはお喜びでしょう。

林原さまはご先祖孝行をなさいました。
[38]河原しゅうさんからのコメント(2017年04月22日 11時43分14秒 ) パスワード

はじめまして。比企知子先生の教え子です。
林原さんが知ちゃん(男の生徒たちが用いた比企先生の愛称です)とどういうご関係なのか存じ上げませんが、林原さんも音楽家としての知ちゃんのことをあまり良くご存じないようですね。
例えば、知ちゃんの教え子にはつのだひろさんや村石篤重さん、長洲毅志くん、本多俊之くん、久米大作くん、などなど、クラシック音楽界以外にも多くの現役ミュージシャンがいるんです。
その理由は、知ちゃんの音楽教師としての非凡、偉大さがあったと思います。
三原綱木先輩などとも知ちゃんの噂話をしたことがありますから、音楽家としての彼女の力量や影響力の原因は遅まきながらもっと解明されなければいけないのかもしれません。
そう、比企知子先生は、音楽教育史に残るべき偉大な教育者でもあったのです。
どなたかそういうことを纏める必要があるのでしょうね。
[39]林原英祐さんからのコメント(2017年04月25日 03時34分25秒 ) パスワード

ご投稿ありがとうございます。
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月25日 13時13分04秒 ) パスワード

お久し振りでございます。
お元気でいらっしゃいましたか?


ポケモンの悪役「ムサシ」の声優さんが林原めぐみさんで
いつも林原さまのことを思い出しておりました。
[41]林原英祐さんからのコメント(2017年04月25日 18時03分01秒 ) パスワード

 よっしゃ!
 小生も、もうひと頑張りするか!
 そのように、内緒で誓っています。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2017年04月28日 22時16分05秒 ) パスワード

昨日見た「名探偵コナン」の女の子  灰原哀も  林原めぐみさん  でした。

http://www.google.com/?gws_rd=ssl#q=%E5%90%8D%E6%8E%A2%E5%81%B5%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%B3+%E7%81%B0%E5%8E%9F&spf=1

この女の子です。
本当は大人なのですけど悪の組織によって子供にされたのです。
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