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 投稿番号:101133 投稿日:2009年10月15日 06時32分58秒  パスワード
 お名前:林原英祐
第V部 比企筋「武智丸ロマン」
キーワード:武智丸 比企 林原
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

拝啓
 少し、早いのですが、、、
 今年も、師走が近づきました。
 喪中につき、年末年始のご挨拶を ご遠慮させていただきます。

 2009(平成21年)1月13日午後2時38分
 母:林原禮(旧姓比企)が永眠いたしました(享年95歳)

  昭和の時代に女系比企筋は林原禮(比企筋)を最後に絶えます。
 嫁ぎ先の主人と33歳にして死別し、御多分ににもれず60余年の歳月を父(士良)の夢を背負って3人の男児の子育てに専念した比企尼(禮)が志したものは何だったのだろうか?
 父(士良)の遺言「立派な人間に・・・・」は何処に居るのだろうか、、、
 
 三部作の『比企筋ロマン』の最後に「武智丸ロマン」をまとめ、、、生前の供養とさせていただきます。

[1]林原英祐さんからのコメント(2009年10月15日 06時37分10秒 ) パスワード

 (1)はしがき  

 「ワシは向島(父の故郷)のみかん山に小屋を建てて病と闘いたい!そうすればこの病気に勝てると思う!」 父(士良しろう)が母(禮れい)にダダを捏ねるように、何度か呟いたと母に聞かされたことがあります。父自身病床で筆を取り、向島の祖父に度々懇願していたようでありますが、


 結局、死ぬまで祖父(複雑な悩み)からの返事は届かなかったそうです。
 母は、その時代の肺結核の難しさを理解しており、自分で納得していたようでありますが、私達(子供)がこのことをこの様な形で覚えているのはことあるたびに聞かされたからでしょう。

  父(士良)の病気は末期の「粟粒結核」と言う病名で、現在でも難しい病気であったそうです。
 度々、岡山の結核療養所を抜け出て、姫路の大塩の自宅に帰り、仕事の後始末をしていたそうです。
 
 若干33歳で妻と、幼い子供たち3人を残して旅立った父の死のことを考えるとき、少し意味合いが違いますが、それなりに『延命拒否』「尊厳死の様な偉大さ」を感じるのです。
 
[2]林原英祐さんからのコメント(2009年10月16日 06時53分11秒 ) パスワード

  (2)自分の目で見た、父上(士良しろう)のこと
 
  随想『かぼちゃの花』 (昭和47年4月、小生の結婚式(当時29歳)の時に書いた文章をそのまま記す)
 
 昭和23年8月4日、、、、

 不思議に、私のアルバムの一頁が、昭和23年8月4日に始まるのは面白いと思います。

向かえの『健午ちゃん』の庭で兄ちゃんとトッチン(弟)と四人で遊んでいました。

 夏の日差しが西に傾き、僕達やんちゃ盛りの子供が走り回るには最適の時間…その日もいつものように、暗い病床の父の傍から逃げ出した幼い三体は外気を一杯吸って汗みどろで遊んでいました。…………

 床に伏せる父を持つ私の家では私達は少なくとも母の負担であったろう。当時よく向かえの『梶原さん(健午ちゃんの姓)』の家にお世話になっていた事を覚えています。  

 その日もいつものように遊んでいました。母方の祖母(比企繁)が母の応援で私の家に身を寄せてからどれくらい経っていたかは忘れましたが、とにかく私達3人を向かえの家へ呼びに来たのは、確かに『お祖母ちゃん』であったと記憶しています。

子供心に邪魔をするお祖母ちゃんの言葉が腹立たしく映った。
 そんな時、さすが年長の兄は聞き分け良く私達2人の手を取って帰宅させた。

夕食にはまだ早いのに私はそんな事を考えていたようだ。弟は黙ってしっかりした足取りで付いて来た。

 家に入ると、母さんはいつもの様に父さんの床の横に黙って座っていた。何も変わっていなかった。玄関の隣にある座敷の間、床は西向きであったし、父は眼を見開いて天井の一角を見据えている様だった。でもずいぶん前から父さんの眼はいつも焦点が無いようであった。

「天井の木目模様に恐れていたと言う…」父さんの話を後になって聞かされたが…多分、もう、その時、父さんは怖い天井を見ないで済んでいたのかも知れない。いつもより楽で安らかな顔立ちであった。

 父が、母さんに言った。『礼子!(本当は禮と言うが、父さんはいつもこう呼んでいた)ずいぶん薄暗くなったが、今何時か?』と…  母はその時少し驚いてはいたが、…

 『4時半よ?まだ明るいわ!変な事言わないで!!』と子供を諭すように言っていた。

私達にも少しその会話は妙に思えた。祖母の顔は既に崩ていた。

一生懸命何かを堪える様子がうかがわれた。

 父は恐らくその時既に、自分の去る時を知っていたのであろう。考えるに、父の当時の生活を聞かされる所によれば半年も1年も前からその日を知っていたらしい。

 生命の限界の前で闘った父さんの勇気と人間味を少しでも今日理解出来ることは私にとって幸せであります。

 次の言葉は『礼子!******居るか?』と、私達には母さんの名前しか聞き取れなかったが、母さんが私達を招き寄せるところから恐らく私達の名前を口にしたのだろうと思った。

私達3人はとにかく母の言うよう床の近くに寄った。父が床に伏してから、こんなにも父の近くに寄ったのは初めてだった。

母はいつも父の傍に私達を近寄せなかった。
父の病気が肺結核で、当時、感染を一番恐れていたと後に聞かされた。
 私達3人を前に、父は意外にもはっきりと言ったのを覚えています。

そして、『次の言葉』が父さんが私達に贈った最後の言葉になってしまいました。

 『3人共、母さんの言うことを良く聞くんだよ!それから立派な人間になるんだよ!………………………………。』後半に何を言ったか、いまだに知らないが、母は多分聞き取っていたのだろうと思う。

その事については今まで聞いたことがない所を見ると母さんとの内緒話を言い残したのであろう。

 一日置いての葬儀は、私達にとって楽しいものであった。たくさんの伯父ちゃんや伯母ちゃんが遠くの従兄弟達が…………複雑な大人の世界をよそに、兄弟3人は御祭りのようにはしゃいだ。

 でもその中でいまだに忘れられない光景が一つあります。

 父さんの葬儀はみじめな程質素であったと後にに聞かされたが当時私達がそんな事を知る由も無い。

とにかく、お花が必要だと言う祖母の一言で母は屋根に咲き誇った『カボチャの花』を沢山集めて来て、一つづつ私達の手に持たせ、最後のお別れに両手で合掌させた。

「カボチャの花」が棺桶を埋め、私達3人は順序よくカボチャの花と共に、父さんに『さようなら』をしましたた。

「父は遠くへ行く!」と母は言う。

浅黒かった父の顔は透き通る様な薄青色に変わった。そんな父の鼻や頬が所々黄色く色付いて見えるのは先程の私達の入れたカボチャの花の花粉がついたのか、母が泣きながら指で拭き取っていた。その色相は美しいものであった。


 翌日の昼下がり、私達は『父の骨』をこの目で見た。母は又泣いた。

そして母は『これがお父さんだ!』と私達に教えた。私達は泣き崩れる母さんの姿を見て悲しかった。母さんが泣かねばならぬそんな出来事が悲しく思えた。

子供にはよくそんなことがあるものです。父は遠くへ私達の傍から去った。

 私達はその日以来『父さん』と呼ぶ事を知らぬ人生に旅立たねばならなかった。

その時、兄(大作)7歳、私(英祐)5歳、弟(利彦)3歳のことである。
参考までに母さん(禮)が32歳、父(士良)33歳であった。                       
 夏も盛夏から残暑にさしかかりつつあった8月上旬の播州姫路(正確には印南郡)大塩町の出来事である。

 それが、敗戦(昭和20年)3年後(昭和23年)から出発した平均より少し過酷な生活のスタートでありました。

 『父さんに……!』

・私達は貴方の事を忘れたのではありません。
・例へ、仏壇に塵が積もり、一輪の花が消えることがあっても「父さん」を忘れておりません。
・母の胸に、私達の身体のなかに、時々「父さん」は目覚めます。
・「父さん」は去世して無力です。でも私達は「父さん」を知っています。
・一本の線香をたくよりも、私達はする事がたくさんあります。
・「父さん」は私達の中にだけ残された潤いが有って幸せ者になれるからです。
・母さんは今でも貴方の事を愛しています。それは私達だけに解るのです。
・唯一つ「父さん」にお聞きして詫びたいのは…
・「父さん」の言った『立派な人間』の意味が未だに解らないと言う事です。
・そして、その為に「父さん」は私から離れるかもしれません。
・私は無智か、それとも父さんの子供なのでしょう。
・鳥はいつか、この大地から飛び立って天に向かうのです。
・そして、その鳥こそ父さんの落とし子なのです。
・今年の夏、父さんの帰りたかった向島(尾道)の山に貴方の墓標を立てます。
・もう25年(回忌)だそうです。そして私達3人もきっとそこへ参ります。

 『昭和23年の秋、屋根一面に蔦を這った「カボチャ」は120余個の大きな実をつけた。』………

この話は家族4人で語り伝えた『当家の不思議な話』であります。
[3]林原英祐さんからのコメント(2009年10月17日 00時59分01秒 ) パスワード

 (3)父が亡くなる前から、貧乏だった

  父が生きている内から私達の家族は充分『貧乏』であったと思う。

 数年間、一家の働き手が『肺結核』で床に伏した家族が、又、身体一つで生きて行こうと言うサラリーマン家庭がこのような状況下で如何に生き続けられるか、以前から母の悩みの種であったろう。その多くは理解出来そうに無い。

 私達兄弟3人の幼い仕草は、母を益々孤独化し、生きることの難しさと重大性を毎日感じさせたに違いない。

後で聞けば、母は余りにも世間知らずであったらしい。娘時代をなんの苦労も味わう事なく過ごしたらしい。

人生のはりつめた緊迫を身を以て感じることは彼女の往年の生活を知るものにとっては余りにも痛々しく感じられたと聞く。

 そして、当時の世相からして、母の再婚ばなしと、私達幼児3人の身の振り方がしばらくの間、親類縁者の中で取り沙汰された。

 そんな中で私達は無気力な生活をした。考えるに、その時こそ「私の物心つきし日」と名付けるべきと思う。

 私達が能動的に「母を感じ」真にあらゆる物から離脱した純粋の母性の光が何であるかを知らされた。

そんな時、私達の母の中に、小さな、ごく小さな社会への、生きることへの一種の矛盾とそれに対する際だった選択の瞬間があったと今想像できる。

 母さんは私達だけの母さんに、その日からなった。
 それは当時の世相知る人たちにとっては「大袈裟」なことなのである。
 当時の社会の常識はそのような事を許す雰囲気ではなかったし、マレな選択であったと思う。

 土曜日の夜になると、よく東灘の住吉に居る母方の祖父母の所へ私達は連れて行かれた。私達には楽しみの一つであったが、何の為に神戸に出かけていくのか当時の私達にはよく解らなかった。

 でも幼年時代の記憶によく古着屋らしき所へ出かけたのをかすかに覚えている。
 後になって知ったのだが、その時、母は自分の持参した花嫁道具(着物)のほとんどを売りさばいていたらしい。

 母は美しく高価(手書き染めの)な着物を数多く持っていたらしい。随分永く神戸元町のガ−ド下の古着屋通いをしたものだ。

 そしてこれまでの母に、よくそれだけのことがやってのけられたと感心する。これが母の最初のチャレンジだったと思う。

 娘時代を4階建ての洋館に2〜3人の女中を傍に育った母によくもそこまでの環境への順応が出来たと驚く他はない。

 でも当時の敗戦の焼け野原のなかにはこんな女性はたくさんいたのかも知れない。

 時はしばらく流れ、そんな生活費もしだいに底をつき始めた頃、母は生活保護を受ける手続きを取った。

 誰がそんな事を教えたか知らないがとにかく無事に貸与される運びとなった。

 しかし、育ち盛りの私達3人を抱える家庭では当時の生活保護費は衣類代にもならなかった。当時の金額にしていくらであったかは忘れてしまったがとにかく惨めなものであった。

よく母は自分の食べる物を食べずに私達に与える事があった。未だにその癖が治らぬ事がある。
習慣とは恐ろしいものであると考えさせられる。

 神戸帰りに元町で『うどん』を食べさせて貰うのが私達の外出の楽しみの一つであった。
古着屋の帰りによく連れて行ってもらった食堂の名前は『びっくり食堂』と言ったが今は痕跡も残っていない。
 いまだにあんな『おいしいうどん』は食べたことが無い。とってもおいしかった。
 でも母は殆ど注文せずに私達3人に食べさせ自分はお茶をのみ子供が残した「お汁」を啜るだけだった。
 もちろん、自分の大切な着物を売ったお金で食べる『おうどん』の淋しさ等、私達が知る由もない。

 母の着物姿を想像すると、常に思い浮かぶ姿がある。ここにも私達だけの共通の母さんのイメ−ジがあった。
 ほとんど同じ柄の物であった。色こそ染め替えられて次第に地味になっていったが、縦縞の1.5センチぐらいの柄の着物であった。疎らに金糸が光るのを母が気にしていたようだ。この着物を忘れることは出来ない。

 そして寒くなれば、無地のビロ−ドの様なコ−トを一つ持っていた。今もこうしたものは持っていると思うが最近目に触れるのは『共通の帯』だけになってしまった。

 母はパ−マを決してかけなかった。化粧もほとんどしなかった。こんな中に私達に共通の母さんに対するイメ−ジがのこる。

 何か暗闇ででも僕たちには母さんを見つけ出せるような自信がある。その時代の特有の母へのイメ−ジであったのかもしれない。
[4]林原英祐さんからのコメント(2009年10月20日 05時12分01秒 ) パスワード

(4)母が、父親として戦うのを見た

 私達兄弟3人が小学校に行き始めた頃、母は仕事をする事を真剣に考え始めていた。

 そして、まず最初に手を付けたのが『和裁教師』であった。母が自分の娘芸で身に付けた腕が社会で仕事(プロ)として成り立つ事を知ったのはその時だったらしい。

 これが母の2番目のチャレンジであったと思う。

 私の家に町の年頃のお姉ちゃんが数多く出入りするようになった。私達にたくさんのお姉ちゃんが出来た。お姉ちゃん達は母のことを『先生』と呼ぶ。
 私はとっても嬉しかった。他の母ほど外見こそ美しくは着飾っていないが私達は『先生』と呼ばれる母が自慢であった。
 美しい盛りのお姉ちゃんと見比べてとても嬉しかった。
 母がとっても美しく大きく私達の目に写った。

 母が仕事をし始めた頃から、急に生活保護の調査員が私達の家庭を訪れる回数が増え始めた。 昼に来てお姉ちゃんの下駄の数を数えて帰ったり、食事時に茶の間につかつかと上って来て食卓のオカズを覗いたり、御飯の米と麦の比率を問題にしたり、随分ひどかった。

 母はよく仏壇の前へ私達を座らせて泣いた。
 母は女であったし、私達は幼かった。
 全く抵抗する事は出来なかった。
 母が泣いている時何が悲しいかを理解することは出来なかったが、泣く母を見て3人共泣く他はなかった。………

 母が例え何人の生徒(針子)を教えたとしても当時の田舎町でいくばくかの月謝が私達の生活費に足りたとは今考えても考えられない。

 しかし、世間の実際はそんなに甘くはなかった。しばらくして、『生活保護』は打ち切られるはめになった。そして母は仕方無く内職の強度を増さねばならなくなった。

 『和裁』『洋裁』『茶道』『華道』『刺繍』『機械編み』に渡る教師と内職の夜なべの仕事が続いた。

 私達3人が寝付く時、傍に座って仕事をする母の姿は夜中に目を覚ましても朝起きても常に一緒であった。『母は何時寝るのであろう??…』私達は知らなかった。

 そして母は倒れた! 『結核性肋膜症』であった。母は背中を切った!そして入院した。傷は縫い合わせる事が出来ない程化膿が進んでいた。今でも母の背中にその傷跡が大きく残っている。

 私と兄が台所の仕事を覚えたのはその頃からであったと思う。自分が食べる為に仕方無かった。

 弟が空腹のため泣くのがやりきれなかった。カマドで炊く御飯の煙に悩ませながら泣き泣き兄と御飯をよく炊いたものです。オカズに苦労したのも覚えています。

 小学3〜4年の私達には少々無理だったのかも知れません。学校で友達もそんな事は教えてくれそうにありませんでした。

 小学校も高学年に入った頃、僕達3人で内職に『にわとり』を飼いました。最初に飼ったのは雑種の3羽の「にわとり」でした。山で『竹』を切ってきて鳥小屋も造りました。

 兄ちゃんの鳥は『ブリマスロック系』で『親ドリ』と名付けました。

僕のは『雉』に似ていたので『キジ』と名付け、弟のは真っ黒だったので『カラス』と名付けました。

 3羽共、僕達の本当の友達で僕達の事を良く知っていて良く言う事を聞いてくれました。

 卵をよく生んでくれました。
 僕達の口に入るのは少なかったけれど、お母さんのお手伝いだ出来たことが私達の喜びでありました。
 母さんは僕達に何時もこんな宿題を課せ自分達の力で解決させるように導きました。

 その内に3羽とも死にました!!母が処分した鶏の死骸を鳥屋さんに返して貰いに…泣き泣き行くのを母は止めませんでした。
 結局死んだ鳥は帰って来ませんでした。幾度もそれから同じ事を繰り返したようです。

 母に話すと不思議にその話を何時も一生懸命に『そうか…そうか…』と聞いてくれました。
 
 今考えると、母さんはその頃全ての事を知っていてまるでなにも知らないような顔をしていたのが解ります。教育とはそんなものかも知れませんねえ…。

 僕達が中学に入る頃、母さんが和裁を止めなければならなくなった理由を知ったのはそれからずっと後のことであります。

 僕達3人の男の子が成長して、大人に近付くにつれての悩みがあったと後に聞かされました。町の年頃の娘さんが家に出入りする事を避けようとしたんですってね。

 僕達が高校に入学する少し前から、母さんは今までに無い『喜び』の様な物を顔に現し始めたのを覚えています。

 そして、あの痛々しくハラハラした「母さんの仕事」は全盛期を迎え、自信に裏打ちされた。
誰にも後ろ指差されない「胸を張った仕事」を選ぼうとしていたのです。   

 最後の母さんのチャレンジは『学習塾(寺子屋)』の開業だったのです。

 地元の田舎町ではありましたが、町の小学校、中学校で3人の兄弟を全て『首席』で卒業させたのは「母さんの塾」の宣伝にはこれ以上のものはありません。

 学校の先生たちも味方に巻き込んでの開業でありました。
そして「かっての世間知らずの母」に周囲の人たちは驚かされるはめになったのです。

 高校に入ってからは兄弟3人は『母さんの寺子屋』の講師にさせられました。

 母の学習塾をあえてカッコ書きで『寺子屋』としたのは、たくさんの生徒さんの中で何時も一割程度の子供が授業料を払っていなかったと云う話しを後で知ったからです。

 「あそこに居る子供さんはどこの子供か分からないの?」「確かに2〜3ヶ月前から来ているんだけれど、名前は知っているだけれど、苗字が分からないの?」と云っていたのを覚えています。


 『母さんに……
・他人が僕達に苦労をしたかと問えば…
・母は別にして…
・私達3人は口を揃えて『苦労をした!』とは答えないだろう。
・なぜなら、少なくとも、僕達の中に苦労の…貧乏の…何であるかを知る者がいないから、・間違って他人がその幼年期の楽しい思い出を聞くなら…
・私達3人の話の中に物の欠乏と愛の存在を感じるだろう。
・そして、3人の話が余りにも楽しそうで、余りにも目が輝いているのを見て…驚かされ るだろう。ある人は感謝に満ちた大人っぽさを感じるかもしれない。
・その時、人々は僕達の母の存在が何であるかを知るだろう。
・真の母性はどこにでもある。誰にでもある。人々が気付かないだけである。
・教育とはそんなものであると母から教えられたと思っている。
・私達はそんな母のことが自慢である。
                                以上

          ……1972年4月30日 当時、英祐29歳
              原文のままを(写)としてワ−プロで整理した………
                  (昭和の比企尼…林原禮のこと…)

 
 追記    平成10年11月 三男 利彦が死去した。(卒年 54歳)
 
 母(禮)を一番大切にした末っ子「利彦」が、不幸にも…先に旅立った…
母(禮)は86才で尼崎市武庫之荘に健在である。(H13.12現在)


 弟(利彦)の通夜の席でのこと、弟の嫁(明美)に母(禮)が指図するようにいいました。

 『明美ちゃん!その「ご飯」の盛りをもっと多くしてやって!!』
 
 仏前に供えられた。あの大盛りの茶碗のご飯を指差して云った母の心に何か昔の忘れられない出来事が去来したのであろう。

 傍で聞いていた私が思わず「詰まる」ものを感じたのを「誰か?」が気付いただろうか??



[5]林原英祐さんからのコメント(2009年10月22日 00時31分20秒 ) パスワード

(5)元気な内に、母の独り言を聞きました

 平成14年2月15日
 母(禮)から『一通の手紙』が届いた!(前文は略しますが、小生の要請に応えてのものでした。)
86歳の高齢ですが、文章がしっかりしているので、原文のまま写して残します。



「覚えていることを書きましょう。あやしい覚えですよ。

雅(マサシ)のこと(解説 御影比企の当主、禮の実父)
 
明治16年の生まれ、2歳の頃父(福造)死亡、母(たま)と福井(手寄上町拾番地)の家に皆で同居(忠・彰・しげ(忠の妹)達の両親など)

県立福井中学を卒業後、京都の家へ同居、京都には忠(雅より15歳位年上と思う、京大に勤めていた)がいたから、学校は大阪の工業専門学校(阪大の前身:工学部機械)に京都から通学。

 卒業後、大阪に独立している。
今の、大阪駅の近く(此花区福島)に家を持ち、『日支テレジン商会(貿易商)』(神戸の海岸通り昔の居留地にあった)

 結婚は大正のはじめと思う。長男『佐(タスク)』大正3年2月12日うまれ(福井の堀家(母の里))、その頃(母親タマ)大阪に連れてきていた。
 
私(大正4年5月15日生れ、大阪福島)、私が病弱なので、空気のきれいな武庫郡住吉村へ転宅する。次男『能(シノブ)』からは住吉村で生れる。

『能』大正6年生、『重』大正7年生、だから『住吉』へは大正5年に来たと思います。

 阪大の工学部が出来たのは遅いと思います。

 会社が合併して、『フレザー商会』になったと思います。

 アメリカへ行ったのは、、、
その頃は外国へ行く人は普通には無く、華族か(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵〜戦後なしになった)大変な用事のある人でないと行けなかった。

『ハワイ』「ロサンゼルス」「ニューヨーク」「ワシントン」と廻ってきています。

 お船で「近衛」さんと一緒だったと話してくれました。

 会社が招いてくれたので、行けたのでしょう。
 昭和7年か8年の頃と思います。

 丁度、私が親和高女を卒業して、京都の女専(今、府立大学に合併した)の寄宿舎に居た時に外国から手紙が良く来ていたので覚えています。

『フレザー商会』は東京と横浜と大阪と神戸、、、くらいかしら??
日本の総支配人ということです。英語がペラペラでした。

 『シオノギ』等は小さい薬局の頃からの出入りです。「薬」を輸入していた。

 ピアノもドイツ製で、私が小学校2年頃輸入してきた物です。

 戦争で20年に全滅です!(解説、ここでぷっつりと終わっている)



 中川稔子のこと(解説、私が今回一番知りたかった人、すごい人だと思っている。)

比企たま(旧中川たま)の兄の子、「たま」(雅の母)の里である中川の嫁が亡くなって、後に来た嫁の子供で、「たま」の兄がなくなったら、稔子(小さい子供)を置いて帰ってしまった。

      ので、兄の子供なので「たま」が引き取って育てた。

 私より、7つか8つ年上だと思う。 
 「繁(私の母)」が良く育ててくれたと思う。

 独りで生きる為に、大阪の日本赤十字の学校へ入れ卒業する。
『緒方先生』が大阪日赤病院に居られた頃に、看護婦をしていた。
梅田で独立開業された頃、引き抜いて病院を止めて『緒方病院(眼科)』に勤めていた。

 緒方先生が、大分の臼杵(うすき)というところの出の人で、別府の駅前の流川の所に、500坪の病院を建てて『眼科病院』を開く。母屋も同じところに有った。

 奥さんが病弱で早く亡くなられた。先生の姉さんが「出戻り」で居られて、お世話されていたのを手伝っていた。

 まだ大阪に居た頃に、次男の彰(?)NHKのアナウンサーをしていた、後に出世して『総合論説委員』になった「あの緒方さんのこと」を連れて住吉の家へよく遊びにきていた。のを覚えている。

 緒方病院の婦長として最後まで先生を見送って上げた。籍は入れなかったけれど、母親(あきらちゃん等へ)の役目は通していた。

 先生の死後、「あきら」が東京へ『稔子』を引き取る話も度々出たけれども、『稔子』が別府の地を離れたくないと言い『独り暮らし』をして残った。

 ある昔からの知人が世話(老後を考えて)をしてくれて、『上野』という独り暮らしの老人と60歳をすぎてから結婚した。

 『雅(父)』が生きていて、後(自分の死後)が心配だから結婚してくれと許した。

 『上野稔子(中川)』となった。(別府でなくなった。)

 上野さんは山口県萩市の人で前の奥さんが萩焼の名人(田原陶兵衛)からでているそうです。(亡くなったときに、田原陶兵衛の萩焼の食器がひと揃え置いてあった)

 疲れましたので、今日はここまでにします。続きは又かきます!

[6]林原英祐さんからのコメント(2009年10月24日 06時13分02秒 ) パスワード

 (6)再び、他人から聞いた父上(士良しろう)のこと、、

 父の事は余り詳しく知らない。

 5才で死別しているので知っていればおかしい。

 母とか祖父母とか伯父さんとかに『聞かされたこと』が中心となって頭に入ったと思う。

 例えば、尾道の向かえの『向島』の『江の奥』と言う谷には『林原』と言う『家』ばかりで、父の祖父の代以前から『庄屋』をしていた。だから「墓地」があんなに立派なのだ。

 又、その谷(江奥)から、当時、兄弟3人(省三:栄:士良)全て『大学』を卒業するなどは稀な事であった。等『田舎の自慢話』も随分聞かされた。

 父(士良)は広島の中学を出て、旧制の『大阪高等学校』を卒業後、大阪大学の工学部(造船科)を卒業し、三井造船(玉野造船所)に入社したそうである。

 その後、戦前は、満州鉄道の『大連造船所』に勤務していた。と母(禮)によく聞かされた。

 父母にとって『大連』は『スィ−トホーム』の地であったせいか、引き揚げる前の大連はそんなに悪い印象の地としては語らない。

 むしろ良い想い出として聞いた(何故か、仲代達也と新珠三千代の演じた『人間の条件』の中国の光景が頭に浮かぶ…)勿論、小生(英祐)は未だ生れていない昭和17年未明の話である。

 その後、昭和17年になってから、日本に引き揚げて『尼崎(立花)』で私が生れる。

 その頃、に父(士良)は、迫りくる『第二次世界大戦』を意識していたかどうかは別にして、播州姫路の海岸にある『塩業の町』大塩町で『武智造船所』を開くのである。

 後に聞かされた話であるが…

 武智さんは、私の同世代の方なら、『武智鉄二』(白日夢…ポルノ監督)を御存知と思うが、その方の『お父さん』が御影(芦屋)の大富豪で当時『造船王』とまで言われた方だったそうで、その方に『認められ』…海軍の造船所『武智造船所』を開設したそうです。

 父を知る『父の友人(故人)』や『伯父さん達(故人)』の話によれば、『頭がすばらしく良い人間』でそのため『ヤマ気』が多く、『一発屋的』な面が、沢山のエピソ−ドを残しているそうです。(冗談半分に…生きて居なくて良かった!苦労させられていただろう。大金持ちになるか?乞食をしているか?どちらかである。云々……)

 そういえば、少し前(昭和50年代後半)の話ですが、母の友人がNHKのテレビを見ていて『特集…浮体工法「関西新空港」』の中で、姫路(大塩町)の武智造船所が出てきていた。

 その中で、戦前戦中に鉄材が不足してきた時に『コンクリ−ト』の『タンカ−』を研究していた『造船技師』がいて、何隻かの『コンクリ−トタンカ−』を姫路で進水させている。

 現在調査しているが所在が掴めない。生存も定かでない等アナウンサ−が言っていた。と… 多分御主人のことだと思うという電話が入った。

 母から聞いて、感激して(少し大袈裟だが…)NHKのディレクタ−に電話して話を直にききました。その時、母が密かに死んだ父から預かっていた『20枚程度のキャビネ版の白黒写真』をお送りして関係者にこれは貴重な資料だと感心されたのを覚えている。

 当時の海軍の造船所の中で『極秘裏』に進められた『秘密の計画(コンクリ−トタンカ−)』は多分表沙汰になると処罰される計画だったと思う。

 にも関わらず、父(士良)が『造船技師魂』でどうしても『内緒』で写真を取って残したかった気持が伝わってきて、何かジ−ンとくるものを感じました。何となく、嬉しかった。そんな父が自慢でした。

 昭和23年8月4日に父は結核で亡くなりましたが、その後35年も経ってから、その写真が一度は表に出たのだから、それは素晴らしい事だとおもいます。

 母は(平成13年4月現在…86才)で健在ですが、残念ながら、その父の形見の写真は『結婚写真』と一緒に『阪神大震災』の時に家屋全壊で失ったそうです。

 それでも、私達の記憶のなかに立派に残っているのですから、良いと思います。

 私はこの『コンクリ−トタンカ−の話』を戦中の全ての欠乏した中での『知恵の実例』として『語り伝える』つもりです。

 結局、関西新空港は『埋立て方式』で『浮体工法』は採用されませんでしたが、関西新空港を見る度、聞く度に『父(士良)』が蘇ります。

 武智鉄二監督のポルノ映画を見た時も『父(士良)』を思い出したのを覚えています。

 考えてみたら、人々が過去を『歴史』を思い返すのは。必ずしも、一般論として思うのではないと思います。

 関わり(主観的)のようなものが出発になるものです。
 
 『西暦794年…平安京…ナクヨ、ホトトギス平安京!』等は漫画であって、歴史の初等教育が、このような形で年表を暗記することから始まるのはおかしいと考えます。

 父方の祖父(頑固者だったそうです)『庄吉』の口癖が『禮子さん!(母の事)…ワシは世が世なら「切腹者」じゃ!』『比企家(母の里)』と縁組をするなど考えただけでも恐ろしい!』と言ったという話を聞きました(父の兄伯父さん…省三)その事が、母方の歴史に興味を持たせました。

 その事で『日本史』を良く知っています。鎌倉時代から現代まで興味を持ちました。それは別におかしいことでは無いとおもいます。

 父が早く亡くなったお陰で、父のことも以外と良く知っているのかも知れません。

 現在のような『平和』で『物に満たされた』時代に浸っていると『どちらでも良い話』で片付けられる話です。

 『中国』等は良く学習していて驚かされることがあります。家族団欒の夕食の席で、急に自分達の祖先の話をとうとうと話始める等、よく見かける光景です。

 私たちの世界にも以前はそんな光景を目にすることがあったのですが、今は皆さんテレビなどで忙しくそんな光景は昔の話になってしまいました。 
[7]林原英祐さんからのコメント(2009年10月26日 22時12分20秒 ) パスワード

 (7)この歳(60余歳)で、、はじめて自分で知った父上のこと

 父(林原士良)の白昼夢(武智鉄二監督の『白日夢』をモジッテ、、、

 先日(平成14年12月)生まれ故郷(厳密には育ち故郷!)で小学校の同窓会が35年ぶりに開かれました。前に書きました姫路市大塩町での話しです。

 この町(播州の塩田町)が私たちの人生の背景を語る町になるわけですが、私たちが何故「大塩町」(姫路の下町)に住み着いたか(昭和18年頃----戦前)は私達だけしか知らない意味深なわけがあります。

 もちろん、私たちの家族の所帯主(父----林原士良)の仕事のためであります。

 話は少し逸れますが、同窓会の翌日姫路に住んでいます友人を誘いまして、『姫路シーサイドゴルフ』(昔の塩田を廃田にして18ホールの立派なパブリックコースが出来ている)でゴルフに興じました。

 その時、の何番ホールか正確には覚えていないのですが、確かショートホールだった『テイーグランド』に立ったときの前景に「父の思い出の全て」である!『武智造船所跡』のヨットハーバーが登場したのです。

 前にも書きましたが、小生が5歳の時にお別れ(病死)した父親のことは事実関係で申しますと余り知らない!記憶に残っていないのですが、最近母方のご先祖(比企)様のことを『服部先生』のお陰を持ちまして勉強する機会を得まして、少し歴史、、、オセンチ(病気)がヒドク、その為か、その景色に釘付けにされたと言うお話であります。
 
 自宅に帰りまして、その景色が頭から離れず、インターネットの検索欄に「武智造船所」と思わず打ってしまいました。ここから今日のお話が始まります。


『.近代世界艦船事典The Encyclopedia of World , ...』からはなしがはじまります!!!
『引用文』

 第二次大戦の日本のコンクリート船

 太平洋戦争開戦により(中略)とにかく船腹の不足に苦しんだ日本では、昭和17年末頃からコンクリート船建造が計画されました。舞鶴工廠が中心となって実験と研究をし、新設の武智造船所でコンクリート製被曳航油槽船5隻、武智丸級コンクリート製輸送船3隻が建造されたのでした。

(中略)

 武智造船所というのが、なかなか興味深い存在です。
 創業者の武智正次郎は元々は土木工学家で、浪速工務所というコンクリートの杭打ちを行う土木工事会社を大阪で経営していました。しかしながら太平洋戦争開戦による工事の激減、鋼材の不足が起こり、更には職員工員が招集されることを憂慮した武智氏は、東條内閣にコンクリート船の建造を建白、これが認められてコンクリート船の建造を行うことになったものです。
 コンクリート船建造のための工場用地を探索した結果、兵庫県曽根町(現:兵庫県高砂市)の廃塩田跡地に適地があり、ここに武智氏の名前を取って「武智造船所曽根工場」が建設されたのでした。(中略)
 武智造船所で最初に建造されたのは、コンクリート製被曳航油槽船というものでした。
(中略)
 被曳航油槽船建造の成功に伴い、今度は改E型船程度の貨物船をコンクリートで建造することとなりました。これが武智丸級です。(中略)
 最初に3隻が海軍雑役船として建造されることとなり、第1船は昭和19年3月に進水、造船所名にちなんで「第一武智丸」と命名されました。進水後の第一武智丸は三井玉野で艤装工事を受けて同年6月に竣工、引き続いて「第二武智丸」「第三武智丸」も竣工しました。

 完成した3隻は日本近海を中心に時には南方にまで航海をし、好成績をあげたとされています。航空機から銃撃を受けても弾丸の直径の穴があくだけでモルタルを盛っておけば修理でき、また至近距離で機雷が爆発しても全く損傷がなく、鋼船より強靭であることを示したということです。

(中略)
 しかしながら、当初年間5万トンを建造する計画は戦況の悪化に伴い繰り返しの縮小を余儀なくされ、昭和20年8月のG型船大量建造計画の際、コンクリート船の建造は中止となったのでした。
 終戦時には第四武智丸が進水して艤装中であったのみで、計画造船として竣工したコンクリート船はありませんでした。

(中略)
--------------------------------以上が引用文であります。


 母、林原禮(87歳生存-----林原士良の妻)の話による武智鉄二(映画監督)さんの父がこの武智正次郎(芦屋の造船王)さんだと思います。

 母の話によれば、この大塩の武智造船所(正確には隣町、印南郡曽根町)の所長(父の若さ、当時30歳程度から推察して、多分所長代理か何かだったのだと想像します)が父(林原士良)であったと聞かされています。

 この辺りの話は前6)項「他人から聞いた父上(士良しろう)のこと 」に少し書きましたので省略しますが、とにかく、、、これは『夢』の話ではなしに『白昼夢(武智監督の映画は『白日夢』ですが---)』の出来事でありました。

 話はまだ続きます-------------『武智丸』(第一-------第四武智丸、実際に進水したのは第三武智丸までらしい?)のその後について『文献』に記されてあります???

引き続き『引用文』-----------
[8]林原英祐さんからのコメント(2009年10月27日 20時32分44秒 ) パスワード

日本のコンクリート船の戦後

 コンクリート製被曳航輸送船の終戦時の状況については、私の調べた範囲ではわかりませんでした。
 5隻建造されたうちの1隻が、広島県音戸町の漁港に防波堤として残されています。

 武智丸級は、戦争中に第三武智丸が失われ、第四武智丸は艤装中に終戦を迎え、終戦直後に荒天により沈没、戦後解体されました。

 第一と第二の武智丸は終戦まで健在で、第二武智丸は終戦後のごく短い期間に大阪商船に貸与されたようです。

 現在、第一武智丸と第二武智丸の2隻は広島県安浦町で、これも防波堤となって残存しています。

(後略)


 以上が私の見つけた父上(武智丸)の話でした。

 父の故郷は広島県御調郡(みつきぐんと読む)向島町であります。
 父の霊が自分の造ったコンクリートタンカーに乗って里帰りしていたと言うお話です。
 広島県安浦町は向島町からは少し西に位置する(ほん近くの、、)漁港であると地図で確認しました。

 たった今から、安浦漁港の防波堤(武智丸の残影)を父(士良)の墓石とします。
そして、近い内に最初の墓参りに参ります!

 (55回忌)に行くことに致します。
 こんなことまでインターネットは有り難いですね!感謝いたします

[9]林原英祐さんからのコメント(2009年10月27日 20時36分30秒 ) パスワード

(8)父上(士良)との再会(安浦町の武智丸)へ

 55回忌の「父の法要」武智丸

 平成15年5月3日晴れ、連休の中日でしたが、発起して新幹線に乗りました。

 目指すは広島県豊田郡安浦町字三津口、、、勿論、60年の人生で初めて訪れる未知の土地!

 広島駅で降りまして、呉線に乗り換え、呉駅を通過、三原に向かって6駅目の駅が私が目指した「安浦駅」でありました。

 インターネットで探索(検索)致しました限りでは「漁港」とありましたが、比較的開けた土地に見受けられました。駅から東に向かいまして約1km、、一生懸命歩きました。

 やがて海の見える場所に出ました。
 そこから少し行くと「劇的な」場面の展開が用意されていました。

 漁港(ヨットハーバーと言ったほうが相応しいような?)らしい向こうに『真っ黒い』コンクリートの波止のようなものが浮かび上がって参ったのでございます。

 目を凝らして見ますと間違いなしに「目指すコンクリートタンカー」そのものです。

 横に2隻がお尻をくっつけた形で直線に並べられてあります。
 予想以上に大きなものでありました。

 近づいてまいります200mほどの間に、瞬間でしたが、55年前の父親(林原士良)の思いが頭をよぎりました。

 私がこんな形でここを訪ねることを想像したでありましょうか?

 場所が以前にお話いたしました「父親のふるさと向島」に予想外に近かったのにも驚かされました。

 「水の守り神武智丸」と書かれた文字がくっきりと読めるようになりました。

 そして、5歳で別れた「よく知らない父親」とのご対面を実現したのです。

 間違いなしに、これは父親「士良」の墓標そのものであります。

 村の高齢の方(釣りを楽しんでいらっしゃった)に聞きました話では、、、
 「最近、地味ではありますが、訪れる方が少しずつ増えています」
 「先日も千葉県の大学教授が学生を連れてこられて、コンクリートのサンプルを持って帰られた。」
 「あの戦争(第二次大戦)の最中にこのようなものが作られたのはロマンである」
 「昭和48年頃に滅却の話が出たが、補強して残したことが、今となっては良かった。」等など、、

 そこで、持参した「おにぎり」で昼食をしましてしばしの再会を楽しみながら、再度訪れる日を誓いつつ、場所を後にしました。

 帰り道、昭和23年8月34歳の若さで「結核(当時は不治の病)」で死んでいった父が「死ぬまで向島に帰れば元気になるかもしれない!」と言い続けて帰らぬ人になったと母から聞かされたのを思い出して、結局こんな形で帰っていたのだと納得いたしました。

 お父さん、お静かに、安らかに「お眠りください!」、安浦町の皆様に見守られながら50余年の歳月を「水の守り神」として活躍されていたのだと考えると「拍手」を送りたくなりました。又必ず参りますから、、、

 それでも、この漁港は姫路(詳しくは高砂市曽根町)の武智造船所跡「曽根ヨットハーバー」と姫路シーサイドゴルフ場の景観になんと似ていることか、すぐ隣に安浦ゴルフクラブが隣接しており「気味の悪いもの、、」を感じました。

   合掌
[10]林原英祐さんからのコメント(2009年10月29日 15時15分52秒 ) パスワード

 (9)父上の遺言「立派な人間」?

 最近(昨年平成19年10月から、)母が尼崎の病院住まいをしていますから、毎週病院に通学しています。毎回小一時間『お話』をする時間がありますので、いろんなことを話したり、感じたりして過ごしています。
この下りは、その約50回の母上様との話し合いから感じたお話です。

 母が父(士良しろう)のことを、、、(私たち3人を前によく言っていた)

 「父さんの頭の髪は皆よりもっとフサフサ生えていた(33歳の父)。もう父さんのことはよく思い出せない。60年もたっているのだから、当然よねぇ。」

 「昔、女学校の仲良しの友達によく、もう少し『父さんの仏壇』を立派にしなさいといわれたことがあったが、、、、いつも、言い返してやったの、、『文句があったら、、出てらっしゃい!』『話が沢山たくさんあるのだから、、、』と言ってやったの、、、」「父さん、余り出てこなかったのはきっと文句がなかったのだと思うの、、」

 母は口癖のように云っていましたが、、、

 本当は度々(毎日)出てきていたのだと私は思っています。(母は内緒にしているんです)
 特に、父親の役割については全く無智で、毎日、父から学ばなければならなかったはずですから、、

 私たち3人兄弟は、どんな時も「両親(父?と母)」に育てられたと言う気持ちに満たされていたから、そう感じるのだと思います。

 今、一つの不思議は、、、
 私たちが、父や母との思い出を話すとき、こんなにもたくさんのことが沸き出てくるのに、、、
 何故か、@受験戦争とA会社(経済)戦争の「思い」が殆ど出てこないのです。

 我々が置かれた戦後60年の時代は高度成長の歴史そのものでありました。

 明らかに、教育の主軸は@受験戦争とA会社(経済)戦争に置かれていました。
 「横」と「脇」を見て、、『用意!、、ドン!』の時代でした。
 『負ける!』ということは、少し誇張がはいりますが、「死」を意味する程のことでした。
 だのに、その種(受験、会社)の話しが出て来ないのは、もっと大切な『思い』があったからだと思います。

 私たちのテーマは「父と母の存在」そのものなのです。
 父と母が、全くの他人から、結婚して、転々と住まいを変えながら、時代と戦いながら、病気と闘いながら、生活とたたかいながら、、、、、『何を造ろうとしていたのでしょうか?』
 そして、それは「武智丸ロマン」そのものだと言いたいのです。

 父の一生はわずか34年の短いものでした。
 母は94歳で頑張っているのですから、父よりも約三倍の人生を経験したことになります。
 それぞれの人生であったわけですが、その間、何を考え、何に挑戦し、何を思い残したのでしょうか?
 そのことに、思いを巡らすと自ずと、私たちが何んであるか?が見えてきます。

 又、この度,比企知子お姉さまのお便りを機に、江戸時代の10余代の越前福井松平藩に仕えた比企家(母の里)の方々(既に、天国に召された方々)と交信することが出来ました。
 お陰で、、、小生の父と母の数十倍の「武智丸ロマン」を知ることになりました。

 昔の人が『古きを訪ねて、新しきを知る』といったそうですが、、、
 『古きを知りて、新しきを知る』ではありません!
 
 小生が、あの広島安浦港の武智丸を60年後に訪ねた時に、父のこと、母のことを知ることが出来たのです。
 又、城下町、福井市の菩提寺(系図に記されてある複数のお寺)巡りをすることで、たくさんのお祖母ちゃんにお会いすることができました。(正しく、古きを訪ねたのです、、)
  これから、かって、誰も想像もしなかった程の「超高齢化社会」が到来すると毎日騒いでいます。
 江戸時代の平均的な寿命から考えると、倍以上になるとおもいます。
 交通機関や情報メディアの発達を計算に入れると五倍以上の人生を生きることになるでしょう。

 しかし、それとは全く逆に、何も体験出来ずに人生を終わる方々も増えています。
 平和社会に慣れ、戦争体験は無くなったのですから、、、
 「受験戦争と会社(経済)戦争だけが人生の全てであった。」と云わなければならない人は余りにも淋しいと思います。

 今の世にあって、江戸の世に越前福井松平藩に仕えた十余代の、、比較的長寿であった「10余人」の御祖母ちゃんのことを考えているのです。
 お祖母ちゃん達の時代にも、今よりは少し短い人生だったけれども、充分高齢化社会があったと思います。
 特に、主人を失ってからの後家生活(隠居)は大変だったそうです。

 それより、約700年前に、比企家の祖と云われる「鎌倉の頼朝を助けたと言われる、、、」『比企の尼』のことは歴史の書物を出てきますから、説明は要りません。

 私がここで申し上げたいのは、歴史家の言う『比企尼の美談(頼朝を支えた)』よりも、越前福井松平藩に仕えた比企家の10人の歴代のお祖母ちゃん(福井の比企尼達)の方が『十数倍』の『武智丸ロマン』を残して下さっています。
 そのことに皆が余り気付いていないのです。

 そして、その御祖母ちゃんたちが、、、それぞれが精一杯生きることで、何が『立派か?』について一所懸命、私たちにシグナルを送って下さっているのです。
 
 歴史に学ぶと申しますのは、あの「有名な比企尼」に学ぶことではありません。
 それだけでは余りにも知恵の無い話しでありまして、無知そのものです。
 その後の数十名の御祖母ちゃんたちに学ぶことが大切だと思います。
 そして、そこまで辿りついた時に初めて、私達の『父』や『母』に出会うことになるのです。
 
 日本人は第二次世界大戦に敗北して、国自身が『焼け野原』になりました。『歴史書』も都合の良い様に書き直された部分があります。
 しかし、『父の残した武智丸』も「福井の比企のお祖母ちゃんの美談も、、」残りました。
 燃えなかった『武智丸ロマン』はそのことを気付かせてくれる為に必要だったのです。

 そのことを忘れそうになったら、、、
 平成の世に又、広島安浦港を訪れたいと思います。
 忘れそうになったら訪れるのが、私の『墓標』だと思っています。


 私はそのような、主観的な『歴史観』を恥ずかしいと思ったことは一度もありません。 
 といつもの言葉で締めくくって、このお話を終わります。        合掌 


 追記(あとがき)

 おおよそ800年前、鎌倉の武蔵国に『比企尼』は確かに実在したのでしょうが、、、

 約400年前に越前福井松平藩に仕えたといわれる『比企家』が関係あるかどうか?不確かな部分があります。

 でも、比企知子姉さんや母林原禮(旧姓比企)がその福井比企家の最後のお祖母ちゃん達になることは確かな事実です。
 
 現在94歳の母(禮)の枕辺で、余り言葉を交わさずに以心伝心の力を借りながら話を聞いていると、、
 言葉の端々にでてくる、『お祖母ちゃん達』に学ぶべきところは大きいと思います。

 65歳の小生にして、今更の感のようでありますが、

 このような「近しい人々」から、学ぶ機会がどうして失ったのでしょうか?

 @もちろん「聞く耳」を持たなくなった。若者の側にも問題があります。
 A戦争を境にして、記憶遮断剤を打たれて、戦前(近世の歴史)を悪とした風潮ができあがる。
  近世の歴史から、さかのぼって古代を見ることを避けている。
 Bこれだけ、メディアが発達した割りには『祖母ちゃん』がこの世を去って、焼け野原?になってしまいそう、ついでに『年金記録』等も、滅却すれば幸いなのでしょうか?

 800年前の『他人』や『外国人』から学べるほど人間は賢くは無いと思います。
 最近の韓流ブームなどは韓国の家族(儒教的)の中に何か郷愁の様なものを『中高年』が感じているのではないでしょうか?  
                                               林原英祐
 
 
 

 
[11]呉市民まりもんさんからのコメント(2009年10月31日 03時37分43秒 ) パスワード

近衛さんとは、フミマロの従弟にして異母弟の秀麿子爵であると思われます。
指揮者として欧米巡業を何度かしているので、その際でしょう。

ドール・バナナのCMに安浦が出てきます(泥船は出ませんが、あのへんの海は映ります)。ご覧下さい。
http://www.dole.co.jp/gokusen/movie/
[12]林原英祐さんからのコメント(2009年11月01日 09時01分26秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2010年11月21日 19時55分34秒
[13]林原英祐さんからのコメント(2010年07月04日 00時08分54秒 ) パスワード

『にっぽん巡礼』

「第十一回」
BShi 2010年7月10日(土)
BS2 2010年7月15日(木)

「父が残した海の墓標」
(安浦漁港防波堤・広島県)

短い「映像」ですが、放送されます。
ご覧になって下さい。
[14]林原英祐さんからのコメント(2010年07月04日 21時09分49秒 ) パスワード

追伸、ごめんなさい!放送時間を書くのを忘れていました。
NHKの番組予告を書き込んでおきます。

http://www.nhk.or.jp/junrei/program/2010week/index.html
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