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 投稿番号:101111 投稿日:2009年07月01日 19時07分02秒  パスワード
 お名前:旧姓原田(鈴木)
旧姓原田です(鈴木)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

昨年10月平熱様に辿り着き、おかげ様で私の先祖のルーツ《私のルーツも》を
知ることが出来ました。ご指導いただきましてありがとうございました。
その後、少しだけ調べてみました。
実家の菩提寺は能代市にあります真言宗の「西福寺」と判りましたが、
私が生まれる以前に能代の大火に遭い過去帳など全部消失してしまった為、
先祖が安東実季に仕える以前の経歴が判らずにいます。原田家の誰が浅内に来たのか本当は知りたいのですが調べる手立てがなくなり、残念の一言につきます。今考えてみれば結婚して間もなくのことですが不思議な夢を見ました。
鎧兜の武将が私の前に立っていてじ〜っと私を見ているのです。怖くなった私は必死で逃げるのですが、どういう訳か逃げているうちに砂の中へと埋もれていく途中で目が覚めました。ほんとに怖かったです。今回私が先祖を調べたのも先祖の導きのような気がしてなりません。
私のようにご先祖様を知りたいと思っていらっしゃる方々に、歴史に無知な私ですが、大蔵氏族「原田家」の家紋を調べましたので参考にしていただければと思います。

[1]旧姓原田(鈴木)さんからのコメント(2009年07月01日 19時15分31秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2015年03月18日 18時10分50秒
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月02日 02時37分21秒 ) パスワード

能代大火でお寺の記録が焼失していたとは、残念でしたね。

でも、一族のどなたかが写しを持っていらっしゃいますよ。
必ず、そういう使命を持った人が、いるのですよ。
その人が見つかると良いですね。

きっと、その人も旧姓原田さんを、
「我が家の記録を託せる人はどこにいるんだろう」と
気にかけていらっしゃいますよ。


それには、矢張り、一族の結束というか、血の結びつきというか、
原田家が纏まることでしょうね。
昔はお盆とかお正月、または冠婚葬祭で、一族が集まったものですが
今は無理になっていますね。


もうすぐお盆ですから、
この際、東北近辺の「原田家」を電話帳などで調べて
お手紙を送りまくるとか、
何かなさってはいかがでしょう。

恥ずかしいでしょうけど、こういう機会を利用して、行動なさってください。
今はコピーも出来ますから
昔に比べましたら、やり易くなっていますよ。


お調べになった事をお書きになって、
事情を御存知の方、知ってる人を御存知の方、是非御一報を、と
返信用切手を貼った封筒もお入れになったら、

どなたかからお返事があるかも。


知ってる方は本当に後期高齢者になっていますよ。
80歳以上でしょうね。
今、やっておかないと、もう本当に途切れてしまいます。


実は、わたくしも先月ですが、ひょんな事からある人の質問に答えていましたら
「鈴木さん」とおっしゃる一族との不思議な御縁に行き着きました。
へえ〜、双方の先祖が引き合わせていたのか、と納得しました。
そして「御縁」が成立しなかった理由も分かりました。惜しかったですよ〜   笑



全国の大蔵氏系原田家紋を拝見してますと
何か共通性というか、歴史というか、が感じられますね。


夢枕に立った武将、
御先祖さまでしょうか?
いつか大蔵氏系原田家ゆかりの土地を歩いてみてください。
夢枕に立った鎧兜の武将に出会うかも知れません。

わたくしも似たような経験をして、わたくしの場合は、その鎧兜の武将に29年後に会いましたから。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月02日 03時32分32秒 ) パスワード

平家関係はオカルト的なことが源氏系より多いように経験しています。
わたくしの場合は父方の平家系の経験がすごいです。
とはいえ、あの鎧兜の武将に会って以来、急速に減って来ていて、今は、殆ど起きないです。
たぶん「満願成就」だから。


    先日友人が送ってくれた「オーラの泉」を見てましたら
    いろいろな不思議な事が起きるのを 「シンクロニティ」 と呼ぶのだそうです。



夢枕に立った武将について、目を閉じて、思い浮かべてください。
何か見えて来ないか?
何か周りにはないか?
誰か他に来ていないか?

わたくしの場合は「姫路の西」という土地の感覚があって。


その後、夫と出会って結婚したのですが、変な事を言う男で・・・一族全体がね。
それまでは「平家物語」なんて読む気も無かったのに。平家は軟弱ということで。
母方が源氏方だったので、その影響で。


でも、やっぱり夫の方が「力」が強いのでしょうね。
夫の御蔭で母方についての詳しい本が偶然に手に入りました。
ここから母方を調べている内に父方が気になって平家に辿り着きました。
10年前からこちらに居座るようになったのは平家がらみの不思議な経験があったからです。


で、「姫路の西」の「鎧兜の武将」が誰だか分かっていきました。
そして
800年以上も昔、わたくしの父方の先祖の女の子がその武将の帰りを待ってた約束の場所が分かり
そして、その武将に会いました。

「姫路の西」から29年後でした。


結局日本人って島国の中でずっとやって来て
時々大陸とか半島とか南蛮とかの血も混じったかも知れないけど基本的には日本人で
だから我々の遺伝子は日本人が殆どで
その遺伝子には先祖の記憶が刷り込まれていて

それでシンクロニティが起き易いんじゃないかな?


たとえば旧姓原田さんが鈴木さんと御結婚なさって
御先祖さまが、原田家の事を忘れないようにね、と夢枕に立ったのかも。
原田家の事をちゃんと纏めておいて子孫に伝えよ、とかね。


シンクロニティも科学で随分説明がつくそうですよ。
結論は、我々は自分に都合の良いことを選択するから、だったかな?


わたくしの場合は「姫路の西」という場所が気になったという「時」です。
あの時、気にならなかったら、平家にはのめり込まなかったです。
そして父方先祖の女の子の思いにも行き着かなかったです。

今でもあの女の子のことを思うと涙で一杯になります。
たぶんワタクシの血の中のDNAが泣いているのだと思います。


「我々は自分に都合の良いことを選択する」のは「血」がそうさせるんじゃないかな?
結局は日本人だから。日本の歴史を生きて来たから。
その都度選択して、今に至る、わけで



旧姓原田さんも、数十年後に、夢枕に立った鎧兜の武将の思いが分かると思いますよ。
[5]旧姓原田(鈴木)さんからのコメント(2009年07月03日 06時51分15秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、お久しぶりです。
コメントありがとうございます。

そうですね!東北の原田さんにお手紙を送りまくって調べてみようと
思います。

このままではなんかすっきりしません。

鎧兜の武将の夢の話ですが、コメントすると長くなってしまいます。

初めは主人の母が出てきたんです。
結婚する前に亡くなっていたので写真でしか知らないのです。
黒いサングラスをしてる女性が夢に出てきまして、サングラスをはずしたら
目が真っ赤な血の色でびっくりして逃げたのですが
途中で鎧兜の武将に会いその武将の前で立ち止まったのです。

此方をじ〜っと見てました。又怖くなって逃げ出したのです。
朝主人に夢の話をしたら主人の母の生前写した写真を見せてくれました。
ほんとに驚きました。主人の母は目の血管が浴切れてサングラスをして
いたそうです。

夢の中の風景は林の中だったと記憶しています。
そのほかはあまりの怖さに記憶がないです。

[6]旧姓原田(鈴木)さんからのコメント(2009年07月03日 07時02分09秒 ) パスワード

↑の「浴切れて」は「よく切れて」の入力ミスです。

あと息子が幼稚園の年中のときのことなんですが
風邪をひいたときのことです。
お薬を飲ませて2階の部屋で安静にさせていました。
なんだか気になって様子を見に行ったときのことです。

熱が急に上がってしまってうなされていたときデス。
息子が兜をかぶった人が部屋に入ってきたというのです。
それから白いふわふわの服を着て杖をついたおじいさんが
入ってきたというのです。

そのときには私が見た夢も息子が熱にうなされて言ったことも
特に気にかけませんでしたが、今はなんでか気になっています。

何でも結びつけるのは良くないですよね。
[7]旧姓原田(鈴木)さんからのコメント(2009年07月03日 07時29分33秒 ) パスワード

昨年、「原田と平家家紋」のスレッドを勇気を出して投稿させていただいて
良かったと思います。
おかげ様でいろんな事を知りました。
私の大昔の先祖は渡来人だったこと、初めて知りました。

いろいろインターネットとかで調べたら
歴史に出てくるお名前が関係していることなどほんとにびっくりです。

昨年のスレッドに暇潰しのギャンブラーさんが

>秋田の八郎潟とか男鹿半島とか能代とか
 あのあたりの浅内ですか。山本郡の?

とコメントしてくださっています。

最近は何故か「なまはげ」が気になって仕方ありません。
この行事は東北では山形と岩手他にも北陸で似たような行事が
あるようです。

秋田県では男鹿半島のなまはげが有名ですが、能代でもなまはげの行事が
古くからあります。男鹿半島のなまはげと殆ど同じことをします。
能代のなまはげは、たぶん私の故郷のことだと思います。
浅内村では本村でしか行われていない行事デス。

大晦日の夜、神社で身支度を整えてから各家々をまわります。

この風習も『原田家』と何か関係しているのではと思ってしまいました。

又、がんばります。

暇潰しのギャンブラーさん、ご指導宜しくお願いいたします。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月03日 13時18分09秒 ) パスワード

夫の母も、よく、目が真っ赤になっていました。
普通に赤くなるとかじゃなくて。
義母本人は腕で目を押さえて寝たから、なんてケロッとしてましたが。


>このままではなんかすっきりしません。

焦りますと逃げて行きますから、長い時間をかけて少しずつ、向こうからの働きかけを待ちましょう。

とにかくいろいろな本を読んだり資料を集めたりなさることです。
東京の国会図書館にもお暇がありましたら徐々に通ってみてください。
最初は手続きで疲れてしまいますでしょうけど。


>何でも結びつけるのは良くないですよね。

いえいえ
これが「シンクロニティ」なんでしょうね。

余りにも偶然がすごいではありませんか。
旧姓原田さんだけじゃなくて、息子さんまでも。
ですから、御自分に都合良く解釈すれば、この偶然はメッセージがあるのではないか?無視できない!と。


息子さんは熱があったから幻覚を見た、と言えますが
その内容が、幻覚だけとは言えませんものね。


幼い子供は前世を記憶しているとか
生まれた時の事を知っているとか言いますよね。


>白いふわふわの服を着て杖をついたおじいさん

どちらかというと「中国」でしょうか?半島かも知れませんが。
日本人のおじいさんで白いふわふわの服を着て杖をついてるイメージはないですよね。
御先祖さまなんでしょうか?日本に渡来する前の?


>最近は何故か「なまはげ」が気になって仕方ありません。

なまはげのこともお調べになってみてください。


まさか、と思う分野に思わぬ情報が隠れていたりします。



本当にいろいろな本を読んでください。

息子さんの「ふわふわの服」というのもどこかで出会うと良いですね。


原田家と鈴木家の御縁というのが深かったのだろうな、と思います。
原田家で行き詰まったら鈴木さんの方にも目を向けてください。
和歌山や熊野や三重県に至れば(やっぱり平家がらみでしょ)と思いますし。


とにかく今はお手紙作戦でしょうね。
本当にお盆には何か新しい発見がありますように!
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月04日 14時12分49秒 ) パスワード

チラッと思ったのですが
子供さんがおっしゃった時に「お絵描き」させたら良かったかもですね。
案外細かいところを記憶なさってて
実は原田家の御先祖さまじゃなくて鈴木家の御先祖さまだった、というどんでん返しがあったかも。


でも、トラウマになるといけないので、
    PTSDあたりのトラウマを脱出させるには「お絵描き」は良い方法だと思いますけど
描かせなかったのが良かったかも。


わたくしは夢はあんまり見なくて
でも見るとしたら高い所から落ちていく夢を見たりしたものです。
崖からです。


薬で変な夢は見たことがあります。
医者が「変な、怖い夢を見るでしょ」と訊いてから見るようになりました。
寝ていると押入れから真っ黒な、形としては男の人、が這い上がって来る夢でした。
これは医者に言われたからだと思います。


平家にのめりこんでいた時は白昼にいろいろ体験しましたから
あんな夢はどうでもなかったです。本当にただの夢だったと思います。
これが「シンクロニティ」でしょうね。
医者が期待してたから、見ただけで、御期待に沿ってあげただけ。
あれは医者にとっての「シンクロニティ=幸運な偶然」で、
わたくしには変な夢を見ちゃった、ぐらいの軽いことでした。ワタクシはシンクロニティとは思っていない、というスタンスです。



平家にのめり込んでた頃に母方の先祖ゆかりの地を訪ねていた時
比叡山でそれは素晴らしい体験もしました。
「火」が灯っている根本中堂で、真っ暗な中、どうなっているのか
高感度カメラで夫が撮影しようとしたのですが
何も映ってなかったのです。
夫は映画関係の仕事をしてて、カメラはプロ方向なのに。専門は特殊撮影。


夫も「比叡山はスゴイ所だ」と関心してました。
まるで休火山みたい。表面は何も起きていないみたいなのに、中ですごいエネルギーが渦巻いてる、そんな感じ
なんて言ってました。

他にも
母方の関係者の御真影像があるということで建物の中に入ったら
にっこり笑って「よく来たね」とニッコリ笑ってくれたのです。

もうびっくりして、思わず滂沱の涙が噴出しました。

ええっ???!!!と驚きました。


この人も一族ゆかりの地をアチコチ訪ね歩いてましたから。


それで先祖はいつもわたくし達を見守ってくれている、という確信が出来ました。
昔、蛇蝎の関係にあった人から、「アンタには神様とお地蔵さまがついてるんだってよ」と言われたことがあって
その時はイヤな気がしたのですが
今、考えれば、なんという嬉しいことを大嫌いな人からも認められてたのか
と感激でございます。

今は先祖というのは子孫の幸せを願っているというのが良く分かります。
何度も死に掛けましたしね。
不思議な光景を体験して助かっています。

死神が、西洋のあの鎌を持った形で、そして死神に引っ張られたのも2回経験しました。
日本人ですから、黒子の姿で見るなら納得でしたが、どうして西洋式なのか、おかしかったです。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月05日 00時57分09秒 ) パスワード

「シンクロニティ」の選択の岐路の例でございますが(どちらを自分が採用するかということですが)


昔、1991年のNHKの大河の「太平記」ですが、見ていたら突然合戦シーンが恐くなりました。
そして、自分の中で、相手の刀の刃を素手で掴んで指がポロポロ零れるような気になりました。


この時は、わたくしの中で「母方の女の子」が嘆き悲しんでいる、そういう気になりました。
鎌倉炎上の時代でございます。
わたくしは母方の先祖の女の子で、材木座あたりの鎌倉に両親がいて・・・
名前も分かっています。
変な日本語ですが。


合戦シーンが恐くて指がポロポロという理由にそういうシンクロニティを採用していました。


それより前に新選組の油小路事件を記録したものを読んだことがあり
ここの描写に「指がたくさん零れて落ちていた」というのがあって
でも読んだその頃は平気だったのです。
合戦シーンも刀を掴む話も。


それが「NHKの大河太平記」ではまるでトラウマのようで
見てて辛かったです。我が身をナマスのように切り刻まれるみたいで。


他のNHK大河の合戦シーンは今でも普通に見ていられます。
感情移入は無いです。
   他にあると言えば関が原の大垣城のシーンぐらいです。大坂城落城は平気です。


   ロスの暴動の時、サンタモニカの町から黒煙の上がるのを偶然見て
   当時大坂にいた先祖が船に乗って出身地の四国に行く光景が浮かびました。
   曽祖父はこんな気持ちだったのかな?と思いました。


で、最近、父方の親戚のことで
我が家は幕府方100%と思っていたのに
実は・・・
伊東甲子太郎の弟子で勤皇方もいた    ← 新選組に惨殺された
という話が飛び込んで来まして

この伊東甲子太郎の油小路事件があの指がポロポロ零れていたという話の最初の情報源ですから
エッ?と驚いているのです。
それに伊東先生は昔の名前は「鈴木さん」なんですよ。養子に行って伊東になったのですって。


最近「鈴木さん」で心がザワザワしてたのに
旧姓原田さんがレスをお立てになって
エッ?とまたまた驚いておりました。笑


今の大河の「天地人」の合戦シーンはぜ〜んぜん恐くないです。
感情移入がゼロですから。
トラウマが蘇らないのです。


でも最近見た「陽炎の辻  居眠り磐音」の労咳の浪人が刀を素手で掴んで
というシーンにトラウマが蘇りました。もう恐くて怖くて、見ていられなかったです。


ですからね
わたくしの心に起きた1991年に始まった「指がポロポロのトラウマ」について
さあ、どう解釈しようか?と。


テレビで見るんですから本当に偶然なんですけど
「トラウマ」が起きていたたまれないというのは
遺伝子の中のそういう刷り込まれた記憶が呼び起こされるのかな?と。


たぶん鎌倉時代の末期に母方の一族にそういう不幸が起きていた
そして
事実として江戸時代の末期に父方の一族にそういう不幸な話があった


オオモトは日本人ですから、
日本にはそういう歴史上の事実があって、先祖はそういう話を知っていて、
何かの時に(これはホント)とわたくしの体の中の遺伝子が反応しているだけかも。

日本にいくらでもあった話を自分の先祖に結びつけるのが「シンクロニティ」=幸運な偶然=なのかも知れません。


とはいえ、鎌倉滅亡時やら幕末に特化されるというのが、ワタクシなんですよね。
他の人も日本人なら同じように刷り込まれているはずなのに。
殆どの人は平気で見てるし、そういう演出に「そういう」こともあっただろうな」と見てるのだろうし。


日本人の視聴者の中には(キャー!やめて〜!)と悲鳴をあげている人もわたくし以外にもいるでしょうね。


この人とわたくしも「シンクロニティ」を共有しているということでしょう。
「幸運な偶然」。
でも、その人は違う時代の違う事件からトラウマが再発してるだけかも。笑
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月05日 01時34分54秒 ) パスワード

ですから旧姓原田さんが「鎧兜の武将が・・・」とおっしゃっても
わたくしは(あ、御先祖さまね)と思うのですが
フツーの人は(なに?この人!)と思うかも知れません。

だって日本人の殆どは、昔は、戦争とは「弁当持って見物に行く」楽しみの1つで、殆どの日本人には無関係でしたものね。
ま、田畑が踏み荒らされたり略奪された、という怒りや悲しみはあったでしょうけど。
戦争してる当事者は、平和な時はそういう乱暴狼藉はしちゃあいかん、と知ってても
命をやりとりしてる現場では無我夢中ですから、そういう思いは吹き飛んでしまう。
見物に行く方も、災難が自分に降りかからなきゃ、今日のはつまらなかったとか面白かった、とか
話の種にしてたんじゃないかな?


江戸時代は80%を超える日本人が公には刀は持てないし苗字も名乗れなかったし。
この時代に殆どの日本人は先祖のことを忘れ
さらに戦後のこの60数年に本当に忘れる+語らない方向になってて。


母方の遠い親戚がハワイに住んでて、同じ世代の3世になる男の子が
「先祖はサムライだったらいいな」
と言ったのですよ。

その子の祖父は教会を始めるのにハワイに来たから
先祖が武士だった士族だったという話は100%してないのです。


伝えていかないとこういう事になるのかとビックリしました。
すぐに系図をコピーして
英語で書かれた先祖の本の紹介のURLを教えてやりました。
家紋も画像をいくつか「この時代にはコレを使ってた」と紹介しました。


彼のハワイの一族は
1つは全くの白人系
1つはほど良いアジア系
もう1つはどう見てもハワイ人ですから

「うちの先祖は日本のサムライだった」なんて言っても周りの人は(なに?この人!)でしょうね。
日本にいる日本人にはもっとビックリでしょうし。


でも将来、彼の遠い子孫から、日本の先祖について知りたいと思う人が出現するかも知れません。
そう思って先祖の情報はちゃんと渡しました。
必ずそういう子孫は出て来ますもの。
突然「鎧兜の人が・・・」と言い出しますよ。ふふふ

ね?ちゃんと先祖のことは言い伝えていくべきと思いませんか?
[12]旧姓原田(鈴木)さんからのコメント(2009年07月06日 02時02分34秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、
いろいろなことを体験していらっしゃるんですね。
私は子供の頃から他の人より霊感が強かったようです。

祖母のお葬式の夜に回りの大人たちには聴こえなかったようですが
私にだけ祖母の声が聴こえたり、良く朝方見た夢が現実におきたり
しました。

20代の頃ですがトランプあてゲームを友達としていたときのこと
なんですが、友達のトランプを当てる順番が回ってきたとき
目の前に大きくトランプが見えたのです。スペードの6と・・・
自分でも驚きました。あたっちゃいました。

私は時代劇など見るとき刃物に弱いデス。切られるシーンの時には
目をつぶってしまいます。自分の体が痛みを感じてしまうので。
それはどの時代劇でも同じなので私自身が刃物関係が苦手なんですね!

私はまだ先祖のことを調べ始めたばかりなんですが、
半歩づつでも前に進めたらいいなって思います。
きっと、私が人生を終えるときが来ても調べきれないと思いますが!
先ずは原田さんにお手紙を送りまくって少しでも手がかりを集めたいと
思います。

[13]旧姓原田(鈴木)さんからのコメント(2009年07月06日 02時28分47秒 ) パスワード

夫の家のことは訊くと夫が嫌がりますのでまだ何も手がかりは
得ていません。少しづつ前に進もうと思ってます。

原田の本家には以前は養子に入った家の家紋とか、原田の使っていた家紋とか
あったようですが、現在は殆どがなくなってしまい現在は武蔵藤原北家から
出た「成田家総家」(秋田のかな?)の家紋しか残ってないとのことです。丸に二つ引きです。
これも先祖を調べる手がかりになるのでしょうか?

[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月06日 04時14分42秒 ) パスワード

>私は子供の頃から他の人より霊感が強かったようです。

そうなんですか。

わたくしは子供の時は自宅の2階に1人では上がれないほどの怖がりで
何かいたらどうしようとか、いつも怯えていました。
でも霊感じゃないです。

ところが学校を出て働き始めて、夜、見回りなんてのがあって、もう、怖い思いは一杯しました。
思い出すのもイヤなぐらい。

それでアレは「気のせい」とか、自分に言い聞かせていました。

いつも懐中電灯を持って行くのですが、1度、見回りで、ある場所に行ったら、
影が幕に映るんですが、ワタクシの影じゃないのですよ。動きも違うし。

そしたら、後日、あそこの幕の後ろには仏壇が置いてあって、戦争の時に亡くなった人達を弔ってある、と聞いて。
別に幽霊というわけじゃないのです。

でも、辞めましたよ。

ここは採用されて赴任した最初っから、いろいろあって、
1年で辞めました。
自分の影に怯えててはいけない、と叱咤して我慢して働いてましたけど限界でした。


>私にだけ祖母の声が聴こえたり、

夫の一族が同じです。

夫の母によると、誰やらが亡くなって、その時、魂が抜け出て部屋の隅に浮かんで
それをみんな親戚の人達も見た、と言ってました。

それで義母は
「人が死んだら、それはもう物体で人じゃないから、だからそれで終わり。
死の床に駆けつける必要も無いし、お葬式もしなくて良い」
という簡単な人でした。

義父が亡くなった時、そんなふうでしたよ。
電話で「もう亡くなります」「亡くなりました」と連絡があっても病院に行かなかったし、
ひとしきり涙を流して
「さあ、捨てるよ」と義父のモノをバンバン芥箱に捨て始めたのにはビックリしました。

ワタシは(エエッ?)とビックリしながらも一緒に捨てまくりました。


義母に言わせると「私が愛した夫は死んだ。病院にある遺体はあの人の抜け殻。」


義母には、義父はとっくに天国に旅立ったから抜け殻に涙したって無意味でしょ、でした。

過去に魂が?命が?抜けていくのを実際に見たからでしょうね。


その後、「さっき(義父が)来てたわよ」なんていう事もあり
わたくしも1人で2階にいたら義父が階段を上がって来る足音がして
とっくの昔に動かなくなった祖母の形見のオルゴールが鳴ったのです。
鳴らないはずのモノが鳴ったというのは、もう一回ありました。


壊れて鳴らないオルゴールが鳴った。
こういうのを「シンクロニティ」=幸運な偶然=と呼ぶのだそうですよ。


6年前に引越した先でも義父をちらっと見ました。義母の存在は感じました。
夫も見たと言ってましたしね。
「あ、ついて来たんだ」と思いました。


この引越先ですぐに夫が入院することになり
1人で待ってたら
夜中にいろいろな音がして、臭いまで漂って来て、
もう怖くて怖くて、入院している夫に帰って来てもらいましたよ。


今年中にはまた別な場所に引っ越します。
今はその新しい引越先です。
このPCでは文字化けが激しくて検索が出来ないです。


[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月06日 04時50分15秒 ) パスワード

>武蔵藤原北家

いわゆる「武藤さん」でしょうか?
最近の他のスレッドに「武藤さん」が書き込みをしていらっしゃいますね。
この方によれば平家系の武藤さんですね。

それで旧姓原田さんとの一致性が非常にあって、御親戚かしら?と思いましたよ。
これもシンクロニティ=幸運な偶然=なのでしょうか?笑


現在のPC環境やら引越状況から、調べられないのでなんとも言えないですが
本当に偶然の一致事項は多いな、と思っています。
それで旧姓原田さんの御先祖さまの武藤さんと他のスレッドの武藤さんは一族じゃないの?と思います。


ワタクシ的には「武藤さん」は美濃の源氏系というイメージです。
それに丸に二引き両の代表の家って、足利家なので、源氏というイメージです。


でも、家紋って断定は出来ないので、
偶然の一致なのか
足利家から拝領したのか
そういう記録が伝わっていないのが残念ですね、と思います。


御主人さまが興味の無い方でしたら、どうしようもないですね。
興味の無い人には迷惑でしかないですから、下手すると夫婦関係に隙間風が入りかねないです。


わたくしの過去の「鈴木さん」ですが
当時のわたくしには彼は迷惑でしかなかったんです。

今はね、彼の家の歴史を知ってますから、惜しかったな〜、なんて思います。
ふふふ
その前のバブルの時は、そんな資産家だったの?惜しかったな〜!、でしたが。あはは


こういうのが「縁」なのでしょうね。

先祖達はちゃんと引き合わせてたのですよ。
でも、ワタクシは別な先祖から縁の無い方向に連れて行かれました。

今なら幸せな2人になれますけど当時のワタシではぶち壊したでしょうね。
傷つけなくて良かった。
たくさん男の子を泣かせてきたけど、唯一人、わたくしの毒にやられなかったのは
やっぱり御先祖さまがそうしてくれたのかな?

今ならお友達になれそうです。って?汗
[16]旧姓原田(鈴木)さんからのコメント(2009年07月19日 09時26分01秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、おはようございます。

コメントありがとうございました。又、調べてみたいと思います。

それと、全国の大蔵氏系原田家の家紋を見て疑問に思ったことがあります。

揚羽蝶の家紋を使用しているのは、実家の先祖だけなのですが、

原田孫十郎(孫次郎)は(1592年以前の経歴が不明なのですが)1592年より

以前から拝領して使用していたものなのでしょうか?

[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月19日 14時12分12秒 ) パスワード

家紋のことは難しいですね。
でも、当時は、一族なら当たり前の了解だった、のですよね。


やはり「特定」されるのではないでしょうか?
この地域でこの名字でこの家紋なら、一族の中でも血が濃い一族、と。



☆秋田県・・・大蔵氏族
 亀甲に揚羽蝶・中陰丸に五三桐・三つ盛り亀甲に花菱・丸に三つ柏



揚羽蝶と柏は、おお!平家系だなあ、と思いますね〜(にっこり)


五三桐ですと、源氏方だった原田家かな?とか、足利に味方した原田家かな?とか。


三つ盛り亀甲に花菱ですと、今のNHK大河の直江家の紋と同じなの?と思いますね。
つまり直江家は蘆名を助けるのに佐竹と組んで伊達に対抗しようとしたから、秋田では三つ盛り亀甲に花菱紋はオーケーだったのかもですね。


家紋は本当に複雑怪奇ですね。
どうして他の地域の原田家は揚羽蝶紋を使わないの?とか。
秋田の原田家は「平家」だった記憶を残したの?とか。
最後まで平家と運命を共にした原田家の末裔なの?とか。


全く分かりませんが

>原田孫十郎(孫次郎)は(1592年以前の経歴が不明なのですが)1592年より以前から
>拝領して使用していたものなのでしょうか?

昔は藩主や上司に遠慮して、その方達より上になる名字や家紋や漢字は使わなかったし
使えなかったし。
両方使う、というのは「認められていた」のでしょうね。
フツウ、遠慮してどちらかに決めなくてはいけなかったと思いますよ。名字か家紋か、のどちらかに。
両方の使用を「藩から許された」というのは特別の配慮を頂いた、ということでしょうね。


原田姓に揚羽蝶紋ですと(ああ、あそこの子孫の、あの時代の、あの家!)ってスグに分かりますものね。
百姓町人だって分かったでしょうし。


御先祖さまに人徳があったということでしょうか?
   両方使えたほどの「実力」があったということでしょうか?
   御先祖さまの「献身」ゆえに許された?
   御先祖さまの貢献が藩から「感謝」された?


両方使えたということは、何か、そういう理由というのを系図や家書に書き残したり
または口伝で子孫に伝える、と思いますから
どなたかが知っていると思います。


原田家も平家方で敗れた原田氏と源氏方だった原田家とあって
両者は後に敵対したり融合したり
「それでも」揚羽蝶紋を使ったというのは「それだけの理由」があったように空想します。


ひょっとすると平家から妻を貰った、または、嫁に行った、または養子関係とか
平家との格別の「こだわり」があったんでしょうね。


考えていたら涙が出てしまいましたよ。
普通は「生きるために」妥協するではありませんか。
同じ大蔵一族の原田家でも、どこも揚羽蝶紋は使用しない。
敢えて捨てたのか、それとも、使用を許されなかったのか?


播磨屋さんの家紋によれば
九州の原田氏の紋は、「筑前では大蔵氏一族の原田氏は三つ引両」となっています。

旧姓原田さんがお書きの件ですと
大勢の原田さんが三つ引両紋を使っているのは福岡と富山だけ。。。。。?
福岡は地元ですし、富山は平家の力のあった所ですから大蔵氏系原田さんが元の紋を守っている
というのは理解できます。


家紋は難しいですが
秋田の原田家は最後まで平家を誇りにした九州の大蔵氏系原田家の子孫ということで
藩からも認められていた、ということでしょうか?



>以前から拝領して使用していたものなのでしょうか?

「拝領」の文字は消しましょう。
以前から使用していたものでしょう。
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月19日 14時28分19秒 ) パスワード

そうしますと
大蔵氏系原田家の家紋は

本来が「三つ引両」ということで?
平家方以降が「揚羽蝶」でしょうか?

旧姓原田さんの御実家は少なくともこの2つの紋を使っていらっしゃったということでしょうか?

http://www001.upp.so-net.ne.jp/Strumgeschutz-3/harada.htm

平家が敗れた後、原田氏は領地を没収され、
種直は捕らえられ、鎌倉に幽閉された後に解放され
種直は源氏に味方させていた息子の早良種成を頼り早良郡へ行き、
後に頼朝より怡土庄の地を与えられる。


こういうことで同じ父の子であっても種成=源氏=の世話には絶対にならないと決心した
そういう御子孫なのかも知れませんね。

それで使用紋が揚羽蝶紋なのかも。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月19日 14時34分49秒 ) パスワード

涙が出た、と書いた頃
原田孫十郎さまのお姿
ほんのちょっと見えた気がしました。笑


学ランみたいな感じの長い黒いコートのような物を羽織っていらっしゃいました。
足元は脚絆を巻いていらっしゃるような。
下駄じゃなくて草鞋でふくらはぎまで?膝上?まで紐で縛っている?

正面じゃなくて横でしたが。
一瞬でしたが、そんなイメージでした。
体型は精悍。脂肪無し。体脂肪率10%ぐらい。イチローよりもう少し太い感じ。


こういうのを「妄想」と言うのでしょうね。笑
[20]旧姓原田(鈴木)さんからのコメント(2009年07月27日 23時39分27秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、お返事ありがとうございます。
HP見てインターネットの旅をしてました。

>家紋のことは難しいですね。
でも、当時は、一族なら当たり前の了解だった、のですよね。
>やはり「特定」されるのではないでしょうか?
この地域でこの名字でこの家紋なら、一族の中でも血が濃い一族、と。

ということは種直の子供の中の一人・・種直には数人男子の子供がいますが!


春実ー種光ー種材ー(略)ー種廉ー種平ー種成ー種雄ー種直ー種栄ー種秀ー略
                            種国
                            種和
                            種成


種成のほかに「種栄、種国、種和」の子供の中の一人が、もしかしたら私の
先祖かもしれないのでしょうか?
そう思っただけで胸が熱くなってしまいました。

秋田にも平家落人伝説がありますが・・・・
なんだかだんだん先祖に近づいてきているような気がします。

って、まだ原田さんにお手紙書いてないんですけどね!
今は家の片づけで忙しくひと段落してからにしようと思ってます。

                         
                 
                
                 
   

             

[21]旧姓原田(鈴木)さんからのコメント(2009年07月27日 23時43分30秒 ) パスワード

↑投稿したの見たら文字がずれてしまっていました。種国、種和、種成は
種栄の下にきます。すみません。

                            
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2009年07月28日 01時22分06秒 ) パスワード

お3人の中のどなたか、かも知れませんね。
だと良いですね。


もうお盆はスグですから
来年のお正月かお盆に間に合うように
ユックリで良いのですよ。

家庭の方が、日々の生活の方が大事ですよ〜
[23]佐賀出身の原田さんからのコメント(2009年09月17日 01時15分13秒 ) パスワード

はじめまして。

私は東京に住む原田と申します。先祖のことを調べているうちにここを
見つけました。

私の先祖は佐賀藩士でした。江藤新平の生涯を表した司馬遼太郎の歳月
という小説の中に佐賀藩の筆頭家老として出てくる「原田小四郎」は
私の祖父の祖父にあたります。種を通字として使用してきました。
また、原田吉衛門をほぼ代々使用しています。(前記小四郎は養子)

私の家の家紋ですが、4種類伝わっています。

唐菱  自漢朝伝来紋

撫子花 自朱雀帝賜錦之御旗紋

唐団扇 近代加丸為定紋  (軍配団扇)

剣菱  替紋 (図柄からは剣花菱)


撫子は女紋として使用されていました。

佐賀藩には、二代藩主の光茂公の時に召し抱えられたとのことで、ここまでは
過去帳・位牌で確認できていたそうです。
昭和の時、菩提寺が火事になり、位牌は焼失 過去帳のみが残る。

ネットで調べると、家紋的には上記の4種類は九州の大蔵氏系の家での使用例
が多いようです。

我が家の家系図からすると、1500年位の代に嫡流から分かれたことに
なっています。(原田興種の頃)

ご参考までに


[26]旧姓原田(鈴木)さんからのコメント(2009年10月18日 22時47分02秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、こんばんは。

暫くぶりにこちらに来ました。

最近、叔父に教えてもらったのですが、(八十歳を過ぎてます)

実家の原田家は、叔父が言うには原田家の本家だと言ってました。

家紋も揚羽蝶は原田家の中で1軒だけだと!

私が幼いとき亡くなった祖父から聞いていたそうです。

(家紋は既に私が調べていたことなのですが・・・)


種直には、種栄、種国、種和、種成と男子の子供がいますが

種栄の母は(母正室平重盛養女久子[平家盛女])とありました。

又、(弟嘉摩種国、種泰、弟五郎種成[花若丸・五郎種成。原田種政嗣])

とあり、五郎種成(花若丸・五郎。原田太郎種直子。母同種栄)とありまし

た。

ということは、種栄、種国、種和、種成はは母同じということですか?

そして実家の先祖は家紋から考えてみると、種直と正室平重盛養女久子の

血を受け継いでいると思うのですが!



佐賀出身の原田さん、こんばんは。

ご先祖様のことをいろいろと教えていただきありがとうございます。

とても羨ましいです。参考にさせていただきます。

私の実家の先祖のことは能代の浅内に土着する以前、安東実季に仕えていたこ

との他、土着してからのことしか解りません。

代々原田五右衛門を称し肝煎りをしていました。
[27]空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月19日 04時22分16秒 ) パスワード

旧姓原田(鈴木)さん

お久し振りでございます。

叔父さまからお話をお聞き出来て良かったです。
叔父さまからのお話が御当家のアイデンティティになりますから重要です。


>種栄の母は(母正室平重盛養女久子[平家盛女])とありました。

平家盛の娘ということは
頼盛の姪=頼盛の同母の兄弟の娘=ということになりますか。


重盛の家に養女に行って「清盛の姪もであり孫」という形で原田家に嫁に行ったということで

やはり平家との関係が非常に強固な原田家でしたか。
それで揚羽蝶紋なのですか。
平家との関係を維持してきた御家ということなのですね。


こういうことは家書を整理して後世にちゃんと伝えなくてはね。



>代々原田五右衛門を称し肝煎りをしていました。

源平時代の家だということも配慮されてのことだったのでしょうね。



>私の実家の先祖のことは能代の浅内に土着する以前、
>安東実季に仕えていたことの他、土着してからのことしか解りません。

紆余曲折や涙や血の歴史があったということなのでしょう。
でも、九州の名家+平家一門というのは、分かる人には分かる、だから敢えて記さなかったのでしょう。
ここに御先祖さまの「思い」が感じられますよ。
いっぱい泣いてあげてください。

良い御供養になります。(もらい泣き)
[29]空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月19日 05時03分26秒 ) パスワード

書き直しです:

「種栄、種国、種和、種成は母が同じということですか?」との御質問の答えは「ノー」だと思います。

種栄と種成の母は同じというのは確かに言えますね。



整理してみますね:
   >種直には、種栄、種国、種和、種成と男子の子供がいますが
   >種栄の母は(母正室平重盛養女久子[平家盛女])とありました。

   >又、(弟嘉摩種国、種泰、弟五郎種成[花若丸・五郎種成。原田種政嗣])
   >とあり、五郎種成(花若丸・五郎。原田太郎種直子。母同種栄)とありました。

   >ということは、種栄、種国、種和、種成は母は同じということですか?


父:種直

子:種栄;種国;種和;種成

母:久子(種栄母;種成母)


結論:「ノー」
理由:久子さんは種栄と種成を生んでいて、この2人の父親も同じみたいですね。


弟の嘉摩種国は父は同じでも母が正妻じゃないようですね。それで別家をたてた?
嘉摩って名字ですよね?嘉摩って今の福岡の地名の「嘉麻市」でしょうか?


種泰は早く亡くなったのでしょうか?
この人には詳しく記録されていないですね。
戦死でしょうか?幼くして亡くなった?
それとも母の実家がたいしたことがなかった?


弟五郎種成[花若丸・五郎種成。原田種政嗣]):
5番目の男の子みたいですから
もしかすると、もう1人、前に生まれていて、すぐに亡くなっているのかもですね。
で、原田種政の家に入った?後を継いだ?
それとも種政が継いだ?

>五郎種成(花若丸・五郎。原田太郎種直子。母同種栄)とありました。

これからすると
父は原田種直で母は種栄と同じ、という意味でしょうか?
そうすると種栄と種成は、父も母も同じで、嫡流ということになるのではないでしょうか?


原田種政という人物がどういう人物か分かると良いですね。
きっと種直の弟か叔父か・・・一族なのは確かでしょうね。



>原田太郎種直子

この書き方に疑問が出て来ますね。
では種栄の父は?と。笑

これは種成の正嫡性のために父は種直だと明確にしただけなんでしょうね。
4人の父は種直なんでしょうね。

4人のうち種栄と種成は母も同じで嫡流という意味でしょうね。


あ、ハンドルネームを引越で変えました。笑
[30]空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月19日 05時14分28秒 ) パスワード

種国と種泰の母がハッキリしませんが

原田一族の娘かも知れないし
平家一門の娘かも知れないし

正妻の子じゃなかったかも知れないし、
ハッキリ書かれていないということは
久子さんほどの血筋の良い女性ではなかった
ということかも。



昔は有力者には妻がたくさんいましたから


我が家の母方の先祖は父親が数え17歳の時の子でした。
長子ではあっても嫡子ではなかったです。

つまり母は鎌倉幕府の御家人の娘で
正妻になった人は北条氏の娘でした。

だから我が家は家督を継げなくて後に大暴れしました。笑
[31]空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月19日 05時24分15秒 ) パスワード

ウイキペディアでちょっと調べましたが

原田家の滅亡という欄に

「戦国時代、最後の当主・原田信種の代には大友氏を駆逐し糸島全土を領土となした。しかし、豊臣秀吉の九州征伐の際に遅参し領地を没収される。 その後、加藤清正の配下となり朝鮮へ出兵するも、蔚山城の戦いにおいて病死。 その子孫は会津藩に仕え、幕末には家老・原田種龍、朱雀隊・原田種英らが官軍と戦う。」


と、書かれていたので江戸時代に会津藩に仕えているということで
こちらの原田家も紆余曲折があったのですね。


旧姓原田(鈴木)さんの御先祖さまの場合はもっと早く東国に移っていたのかも知れませんね。


昔は一族を頼って移動しましたから
会津の原田家を調べたら御先祖さまのことも出て来るかもですね。


仙台の有名な原田甲斐もやはり九州の名家の原田家ということで家老の家だったのかもですね。
[32]旧姓原田(鈴木)さんからのコメント(2009年10月20日 18時46分44秒 ) パスワード

空の青海のあをさん,こんばんは。お返事ありがとうございます。
ハンドルネームを変更されてたんですね。

色々と勉強になりました。
今とても気になっているのは、何故私の祖父は実家の原田家を本家と言ってるのでしょう・・・
ということです。

「壇ノ浦で平氏が惨敗すると原田氏は岩門郷三千七百町の領地を没収され、種直も十三年近く鎌倉に幽閉される。
開放された種直は源氏に味方させていた子 種成(早良種成)を頼り早良郡へ行き、後に頼朝より怡土庄の地を与えられる。」

とあるのですが、種成の子孫が会津藩士として続いた嫡流ですよね・・・・ということは・・・本家ではないかと!
私はネットで見ただけなのですが・・・・そう思ってました。

種栄は平家が滅びた後どういう環境にあったのだろうと思います。
もしかしたら種栄が私の先祖の一人かもしれないと思ってしまうのですが・・・
これは先走りでしょうか?

以前、種直に引き込まれて離れられなくなってしまったときと同じような気持ちです。
[33]空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月21日 00時43分05秒 ) パスワード

>何故私の祖父は実家の原田家を本家と言ってるのでしょう・・・


きっと「種栄」の系統  または  あくまで平家方だった  だからではないでしょうか?
家紋を「揚羽蝶」を使っているというのが状況証拠ではないかと。


種成の子孫なら頼朝や北条や源氏方に遠慮して揚羽蝶紋を使わないでしょうし。


原田家も種栄・種国・種泰・種成の4つの本家があって当然です。
また種直の庶子系の原田家もあったでしょう。この家も当然本家を称して良いわけですし。
特に平家一門の女性からの庶子でしたら、本家を名乗っても当然ですし。


また、時代と共に、福岡に戻ったり
福岡から奥州に来たり
そこで原田家同士の血が混じって濃くなったり
そういうこともあったと思います。

    そういう部分が伝わっていると良いですね。
    叔父さまが何かお聞きだと良いですね。


12世紀から幕末までの700年の間に
紆余曲折を経て
原田姓と揚羽蝶紋をお使い
ということで

昔はそれだけで「平家一門の原田家の正統子孫」と認められていたと思いますよ。

昔の日本は名字を勝手に名乗ったり家紋を勝手に使ったりはできないですから。


わたくしの母方は大坂の役で敗れて逃げて名字を変え家紋を替え
元に戻すのに大変な努力をしていました。
名字は幕末近くに戻せましたが家紋は許されませんでした。
   
     両方許されたら家格が高くなり過ぎて某大家より立派な家になってしまうところでしたから。

家書を読んで、ああ、この記述は子孫として、忘れてはならないんだ、と思いました。


旧姓原田(鈴木)さんが御家の歴史を整理して家書をちゃんと残せると良いですね。


力のあった人ほど子供の数が多かったのですから
本家を名乗る人は多いと思いますが
姓と家紋で旧姓原田(鈴木)さんの御実家が「ああ、あの源平時代の原田家の子孫か」と分かります。


種成の子孫の福岡の原田家もいっぱい頑張ったんだ〜

お互い日本の南北に分かれても
種直の子孫は一生懸命生きて死んだんだ〜

と認め合ったら良いのですよ。

ウチは平家一門の原田家として日本の北で頑張りました、って。


>以前、種直に引き込まれて離れられなくなってしまったときと同じような気持ちです。

もうすぐ、また、何か驚くような情報が来る兆しと思いますよ。
御先祖さまが喜んでくださっているではありませんか。
[35]旧姓原田(鈴木)さんからのコメント(2009年10月22日 10時46分01秒 ) パスワード

空の青海のあをさんおはようございます。
いつもご返答いただき感謝しております。

私の考えでは・・・本家とは1軒だけ存在するものと考えていました。
実家も嫡流の本家の1軒と思っていいのだとわかり安心しました。
祖父の言っていることを我が子、そしてまだ見ぬ子孫にちゃんと伝えて
いけるように、今まで調べてきたことをちゃんと整理をして残そうかと
思っています。

父のお墓を作るときに、蕨さんに言われて初めて知った「平家」の家紋。
それが私の実家の家紋でもあることだった・・・
それが始まりで先祖を調べてみようと思ったこと・・・
先祖が私に働きかけてくれたと今思っています。

身内にはもう調べなくてもいいのでは? と言われていますが、
私の実家もそして原田五右衛門家も女子だけの子供しか出来ずに、
誰も後継ぎがいないため、とても淋しさを感じてしまい、今回本家に
頼まれたこともあり調べました。

この寂しさこそ先祖の嘆き、悲しみ、寂しさだったのではないかと、今
思っています。

空の青海のあをさんのご指導のもと、色々なことがわかり、驚き、喜び、
感激・・・とこの短い期間に色々な気持ちを持たせていただいたこと・・・
本当に感謝いたしております。

歴史に無知な私がここまで頑張れたのも、空の青海のあをさんのおかげです。
本当にありがとうございます。

まだまだ知らないことがたくさんありますが、これからも一歩一歩前に進んで行きたいと思っています。

どうぞこれからも宜しくお願いします。
[36]空の青海のあをさんからのコメント(2009年10月22日 15時00分50秒 ) パスワード

>私の考えでは・・・本家とは1軒だけ存在するものと考えていました。

1軒だけでしたら天皇家さえ、とっくの「古代」で「終了」しています。
今上さまは126代目なのかしら?
決して1本の線で皇室は126代?続いてきたわけじゃないです。
天皇家の負の歴史もスゴイものがあります。
桓武天皇も天皇になれた経緯にはスゴイ話があります。


徳川家でさえたった15代ですが錯綜しています。
どこの家から将軍を迎えるか、駆け引きが凄かったです。
8代将軍吉宗なんか名将軍なんて言われていますが
結局は将軍家を自分の血で続けたかったから
嫡男(9代将軍)が障害者で子供は無理だからと田安家とか一橋家とかをチャッカリ立てちゃって。
将軍は御三家から出す、というのを反故にしちゃいました。


なぜ昔は子供をたくさん残したか?

それをお考えになったら、先祖はいろいろな筋で自分の血を後世に残したい伝えたい、
だから出来るだけ多くの子を持ちたい、
と必死でした。それも男子でなくちゃ、と。

ま、女子でも、良い家に嫁がせて男の子をたくさん生ませて
実家に男子が生まれなくても、娘の所から男子を養子に入れれば、世間に顔が立つというもんだ、
そういう駆け引きもあります。


子孫は「家の名」や「家の紋」を必死で守ろうとしました。
これで世間にはスグに分かりますから。



>実家も嫡流の本家の1軒と思っていいのだとわかり安心しました。

そうですよ。
安心なさってください。

原田姓で揚羽蝶紋なら歴史に興味のある人ならスグにピンと来ますよ。
これは御先祖さまの御蔭です。にっこり


昔の日本はスグに(ああ、アソコのアイツか)と素性が分かりました。
分からない人は「馬の骨」と呼ばれ、警戒されました。笑
娘が馬の骨と恋愛しようものなら、親は勘当しました。
親の顔に泥を塗るような恥でしたから。
もし婿さんが・・・実は・・・という家の出なら手の平返して歓待になりました。笑


>身内にはもう調べなくてもいいのでは? と言われていますが、

源平の戦いで御一族はバラバラになりました。
源平の戦いだけではなく、その後、何百年もの間、いろいろありました。

そういう時に、血が絶えても、遠くにいる一族が呼ばれて養子になったり
そういう交換があった筈です。


調べていったら、もっともっと思わぬ事態に遭遇するはずですよ。


何代も過去に分かれた家から養子を取るのは日本なら当たり前です。
江戸時代の日本では名家の子孫を探し出して召し抱えたりしましたしね。

*********************


でも必ず一族の中で興味の無い人がいて足を引っ張ります。
逆に伝えたくて伝えたくてたまらない人も存在しますが。
そして知りたくて知りたくてたまらない人もいますしね。


>この寂しさこそ先祖の嘆き、悲しみ、寂しさだったのではないかと、
>今
>思っています

ね?御先祖さまの存在ってホントに感じますでしょ。

でも普通の人は日常の忙しさに、行動には移れないのですよ。
そうすると御先祖も諦めてしまうんでしょうね。
そういう御先祖は迷子になるでしょうね「どこに自分の存在を認めてくれる子孫がいるんだ〜?」と。




>どうぞこれからも

また、新しい発見がありましたら、お教えくださいね。


南北朝時代は「南朝方」だったんじゃないかと思います。
北畠に従って奥州まで行ってるんじゃないのかしら?

九州の原田一族は足利尊氏の弟の方についたというお話みたいでしたね。
尊氏とは同じ母の子なのに、弟は「南朝方」になったんですよね。

この時代のことも叔父さまが御存知ですと良いですね。


是非南北朝時代の史料も読んでみてください。
そこに原田氏の名を見つけられたら、また、いろいろ御先祖さまと会話なさってください。


これからもよろしくね。にっこり
[37]旧姓原田です(鈴木)さんからのコメント(2009年11月18日 22時24分06秒 ) パスワード

暫くぶりにこちらにお邪魔しました。
空の青海のあをさん、いつもありがとうございます。
こちらに来るときは質問ばかりで申し訳ありません。

今まで調べた資料の整理をしていました。又、わからないことが・・・
九州の図書館から送っていただいた資料とインターネットで調べたことが
ちょっと気になって、又、質問させてください。

九州からの資料です。

http://beauty.geocities.jp/ryouko10162001/harada.html

↑では、種直の子は、種益・種国・種和・種成となっておりますが・・・
種栄はその下になってるので・・・頭が混乱しています。

インターネットでは、種栄(種益)とありました。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/harada_k.html

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/harada_k.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%A8%AE%E7%9B%B4

どう解釈したらいいのか・・・教えていただけませんか?
宜しくお願いいたします。




[38]旧姓原田です(鈴木)さんからのコメント(2009年11月18日 23時12分20秒 ) パスワード

九州から送っていただいた資料には、種益と種栄はそれぞれ個人として
記載されてると思ってしまうのですが!

種益のところには、早良太郎大夫 原田太郎 従五位とあります。

種栄のところには、原田左衛門大夫とあります。
[39]旧姓原田です(鈴木)さんからのコメント(2009年11月18日 23時25分00秒 ) パスワード

又、種益のところには東鑑、文治元年二月〜六月嘉摩兵衛尉種益トアリ

と記載されています。

「東鑑」とは、東国方面のことなんでしょうか?
[40]空の青海のあをさんからのコメント(2009年11月19日 15時29分36秒 ) パスワード

>「東鑑」とは、東国方面のことなんでしょうか?

これは鎌倉幕府の公式記録です。
ネットでいくらでも見られますよ。
是非検索なさってみてください。


東鑑は日本史での鎌倉幕府の公式記録で、要するに、鎌倉幕府や北条氏の言い分ですね。

これの事実確認のために京都の公家の日記などとつき合わせて読む
というのが必要になります。
[41]空の青海のあをさんからのコメント(2009年11月19日 15時46分41秒 ) パスワード

系図って
いろいろな種類があって

中には写し間違いもあったり
昔は養子や融子などで途中が省いてあったりして親子関係がグチャグチャというのもありますし

ですから「九州は九州の系図」で良いと思うのですが。


例えば
久子さんは実は家盛の娘だけど頼盛の娘として原田家に嫁いだ
でもとっくに家盛は若くして亡くなったので世間的には「頼盛の娘」で通っていた
実際は伯父姪の関係ですけど
亡くなった人の娘というより清盛の生きている弟の娘という方が見栄えが良かったからでしょう。


昔は兄弟でも親子関係にしたりとかありましたから

例えば遠山の金さんでも
父親が41歳の時の子なのかな?
生まれた時には叔父さんが父の養子になってて
それで
金さんはその叔父さんの養子になって、実の父とは家督の上では祖父と孫の関係だったそうですよ。

途中で叔父さんが亡くなったから晴れて実の父の後に家督を継げたけど。


今でも
娘が未婚で妊娠すると生まれた子を両親の子供にして
娘とは母子なのにキョウダイにするってありますでしょ。


だからヨソの系図は参考程度にしておかないと
御自分の家に伝わる話と矛盾していきます。
御自分の家に伝わる話を優先しないといけないですよ。

これが「アイデンティティ」ということです。
[42]空の青海のあをさんからのコメント(2009年11月19日 15時53分19秒 ) パスワード

九州の系図で  *4 とありますでしょ。

この註がどうなっているか読めますか?

わたくしのPCでは写真部分以外は文字化けしてて
播磨屋さんのも文字化けしてて
読めないのでなんとも言えないのですが


種栄が種成の子になっているのは種栄の子を種成の養孫に迎えたからじゃないのかな?


ちょっと急用が出来ました。
[43]空の青海のあをさんからのコメント(2009年11月19日 16時20分08秒 ) パスワード

戻りました。


要するにこの系図は九州の原田一族の種成の家や秋月家の系図であって

種秀の存在は
1。種栄の晩年の子を養孫に貰って一族に加えた?
2。源平の戦いが終わって後の世に種秀という若者が訪ねて来て自分は種栄の子だから身内として扱って一族に加えてくれ

ということだったんじゃないかな?
1か2か
それは分からないけど、血が繋がっているのは確かな存在だったと思う。笑



でも「栄」という字は「ひで」とも読むから
一瞬種栄と種秀は同一人物か?と思いました。




あくまでこの系図は種成家の系図として考えた方が良いと思いますよ。


系図は「錯綜」しますから
後世の人間にはこんがらがります。

でもヨソの家の系図に振り回されることがないようにね。


「長門守」というのはやっぱり平家を意識しているのかな?
と思いました。
[44]空の青海のあをさんからのコメント(2009年11月19日 16時45分42秒 ) パスワード

さて、種益についてですが

種栄は  文治元年1185年の2月〜6月は「種益」という名を名乗っていた  のでしょうか?

ありえますね。

1.
昔は名前をころころ変えていましたから。

2.
平家が負けて落人になって?逃げてた時の名前か
鎌倉に遠慮して名を変えたか


でも「原田の太郎」種栄と種益ですから、やっぱり長男で同一人物で良いですね。


<32>に
「壇ノ浦で平氏が惨敗すると原田氏は岩門郷三千七百町の領地を没収され、種直も十三年近く鎌倉に幽閉される。
開放された種直は源氏に味方させていた子 種成(早良種成)を頼り早良郡へ行き、後に頼朝より怡土庄の地を与えられる。」

とありますが


解放された種直は源氏に味方させていた子 種成(早良種成)を頼り・・・

とありますから

<32の文>種成(早良)
<九州系図>原田四郎大夫(怡土)


あらら?
早良は原田太郎種益・種栄の土地だったんじゃないの?
怡土にも早良にも土地勘が無いので  あらら?  と思いました。

ま、その時には、早良は種成のものだったんでしょうね。
頼朝からお墨付きを貰ったのかな?
早良は原田家の嫡男が相続する土地だったのかも。
だから種成は欲しかったのかも。


こういう事をあれこれ考えるのが好きです。笑
[45]空の青海のあをさんからのコメント(2009年11月19日 16時57分28秒 ) パスワード

<40>の追加ですが

東鑑は吾妻鑑とも書きます。

公家の日記では「玉葉」が有名だと思います。
九条兼実の日記だったかな?


東鑑は北条氏の言い分ですから
朝廷側の言い分の玉葉も読まないとね。

それから藤原定家の「名月記」も読まないとね。
この人は木曾義仲が嫌いなんだな、と思いました。


平家の側の言い分としては資盛どのの愛人の建礼門院右京大夫の日記とかね。


御自分の家のことは身内の方のお話を信じるようにして
同じ一族の話は「ハナシ」として参考にする方が良いですよ。
その「差」があなたの御家と系統が別な家の違いなんですから。
どっちが重要かと言えば御身内のお話が重要です。キッパリ
[46]空の青海のあをさんからのコメント(2009年11月19日 17時09分06秒 ) パスワード

実はわたくしも混乱してとんでもない間違いをやらかしたことがあります。


我が家に伝わる系図の漢字と
一般的に出回っている系図の漢字が違うので

「誰が書き写し間違いをしたのよ!」とうちの系図を書き直したら


なんと南朝方と北朝方では漢字が違うのを使用していると後で分かったのです。


我が家は由緒正しき南朝方の○○家でした。恥

同じ一族でも北朝方は違う漢字を使っている、ということが分からなかったのです。


この差が我が家の押しも押されぬアイデンティティなんです。
(御先祖さま、ごめんなさい。ぺこり)


九州の原田家は九州の原田家。
もうヨソの家なんです。


でも長い長い年月の間に養子に行ったり加勢に行ったり
向こうからも来たでしょうしね。

これが一族の証なんです。


ですから種栄の子の種秀が九州の原田家に養子に入ったのは有り得ます。


昔は結婚というと遠い親戚で婚姻しました。
馬の骨なんかより、遠い親戚から嫁や婿を貰いました。


わたくしは「種栄*4ー種秀」というのを見て納得しましたよ。
*4ということで種益と同一人物だなと。


でも*4の註は本当は何だったのでしょう?笑
[47]空の青海のあをさんからのコメント(2009年11月19日 17時45分42秒 ) パスワード

九州の系図で笑ったのは

種秀のところに
「弘安8年 肥前国御家人  種秀あり」
と書かれてますよね。


ヲイヲイ
弘安8年をどうしてそこに書き込む?
と笑いました。


元寇って弘安4年だったかな?

そういう名の御家人がいたよ、あたりの註なら分かりますが。



弘安は、建治の後、正応の前で1278年から1287年までの期間を指すから
弘安8年は1285年でしょ。
平家が滅びたのが1184年。


多分種成は1184年というのは20代か30代と思うのです。
その人の孫として
100年後に御家人ということは非常に長生きしてたということなんでしょうかね。
それか単純に同名だっただけか。

紛らわしい註だなと思いました。


でも有り得るかもですね。

うちの先祖は父親が数えで17の時の子ですが
上原謙でしたっけ?加山雄三の父上は74歳?で子供が生まれているし
岡田真澄も63歳?で子供が生まれていますから。

種成の晩年の子のそのまた晩年の子なら元寇の頃に御家人だったってアリかも、かと。
それでなくても老骨に鞭打って、元寇の役に参戦したかも。謎
[48]旧姓原田です(鈴木)さんからのコメント(2009年11月19日 19時55分49秒 ) パスワード

空の青海のあをさん、詳しいご回答ありがとうございます。

※4のところを見つけました。

種栄は『姓氏家系大事典』所載の原田系図には種直の子とするが、
『佐賀諸士系譜』所収の「原田系図」及び「大蔵姓田中氏系図」では
種成の子としており、後者が妥当である。

と記載されていました。

いずれにしても、空の青海のあをさんの仰るように祖父の言葉を信じようと
思います。
祖父がそう言っているということは代々実家ではそう言い伝えられて来たことだと思います。
これから、色々な本を読まなくてはいけないと思いました。

又、何かありましたらお邪魔いたします。
ありがとうございました。

[49]空の青海のあをさんからのコメント(2009年11月20日 03時15分53秒 ) パスワード

なるほどね。

2説あるんですねえ。


>種栄は『姓氏家系大事典』所載の原田系図には種直の子とする

では、こちらで良いのですよ。


>『佐賀諸士系譜』所収の「原田系図」及び「大蔵姓田中氏系図」では
種成の子

九州ではコッチということで
「あら、九州ではそうなんだ〜」
で良いのですよ。



九州では種秀が種栄の土地を継ぐのに、土地の者を納得させるために、こういう家系操作をしたかも知れないし

実は種成の子が父に可愛がられて父の子になったかも知れないですしね。

いろいろその時の事情があったのですよ。


だいたい自分の息子に兄の「種栄」という名前をつけた?
種栄が父の子になって「種益」という名になった?


こういうことを考えているとドツボに嵌って大きな流れが分からなくなります。


「あら、我が家の言い伝えとはちょっと違うのね」
これぐらいのスタンスで良いのですよ。


我が家の系図も1代分合わない部分があったりします。
どうしてかな?
と思いますが昔は命を懸けて生きていたのですから
その謎の人物は早々に亡くなったのかな?
とかロマンにしています。


人間のことですから
キレイさっぱりとは語れない部分が書き残されたのかな?
で良いと思います。


その方があの激動の日々を思いやるのに幅が、ロマンが、広がるではありませんか。
平家が敗れて逃げる途中いろいろあったのだな、と。


お祖父さまを信じてください。
[51]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2009年11月20日 21時34分13秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

旧姓原田です(鈴木)さんへ
 
大蔵氏歴代は、大蔵春実−春種−種光−種材(村)−種弘−岩門種輔(資)−鞍手種宗(種納)−岩門種和−種平(衡)−秋月種雄−原田種直(種成)−種栄−種秀−種政−種継(次)……………〔以下続く〕が一般的なものであるが諸本により一部異なる。
必ずしも長子相続では無く、兄弟や一族を介しての相続が多いのが現実である。
原田種直も早良種益も別名が種成の同名であるところから系図諸本で混乱している。
恐らく種直の長男種栄に後嗣が無く、早良種益の長男種秀が種栄の養子となったことが真相かと思われる。
原田種直が頼朝から赦免されて三河に留まり、三河原田氏の祖となったが以降の詳細な系譜は不明である。
鎌倉初期は招婿婚から嫁入婚への移行期に当たり、養子、猶子が入り乱れ実子なのか養子なのかが判然しない時代でもある。
後世の学者が正統系図を目指して儚い詮索しているが、家系とはそういうものなのである。
 
原田氏系図諸本を校合して原田種直以降の系譜を再編成していますので、下記URLを参考にして下さい。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03005.htm#002
[53]旧姓原田です(鈴木)さんからのコメント(2009年11月22日 12時35分35秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん、初めまして。

日本の苗字七千傑さんのHPに時々お邪魔させていただいてました。
お知らせありがとうございます。早速行って見てまいりました。
とてもわかり易く、参考にさせていただきました。

>原田種直も早良種益も別名が種成の同名であるところから系図諸本で混乱し ている。


原田種直も早良種益も別名が種成の同名である・・ということは、
早良種益は種直の子で種栄の弟ということになるのですね。
種成の長男種秀が種栄の養子になり種栄の系統が絶えること無く続いて
長い時が流れたということだと思いました。

わからない空白は埋めることが出来ないかも知れませんが
少し前進できたようで本当に感謝いたしております。
ありがとうございました。


[54]原田さんからのコメント(2010年11月11日 21時39分13秒 ) パスワード

原田一族のものです。71歳です。今では、両親も他界し、生前に母から聞いた記憶で、お聞きしたいのですが、私の祖父は長崎市の高平町に御屋敷を構えていたそうです。戦後は長崎の去るデパートの社長さんが住んでいたとか。先祖は加藤清正公とともに朝鮮で戦ったとか。また、もっと以前には中国大陸から朝鮮半島を渡り、船団を組んで出雲に奈良時代のころにやってきた豪族の一族であったそうです。私が子供のころに聞いた母の話の中には、柳川藩、立花公、あるいは平家の落人などの言葉もありました。
長崎の高平町に住んでいた原田の家系をご存じの方がおられましたら、何か聞かせていただきたく思います。 現在、わが原田の家系を調べ始めました。よろしくお願いいたします。

[55]柳川の原田さんからのコメント(2010年11月21日 00時13分55秒 ) パスワード

はじめまして。柳川藩にてお抱え医師(多分漢方医)が、私の母方である原田の祖先と聞いております。時代ははっきり致しません。亡き祖父が申しますには、原田家には伊達家(?)の家臣の手紙があり鑑定したところ本物であるとの返事であったそうです。
家紋は丸に違い鷹の羽です。
どうしてそのような手紙があったのか不明です。内容も私は知りません。
私もこの医者について調べようとしていたところです。
平家の落人に関しては、柳川には六騎(ろっきゅう)といって平家の落人が六人で漁師を始めたという言い伝えがあります。現在では漁師のことを六騎と呼ぶそうです。
長崎の原田様とご縁があるといいですね。
[63]原田さんからのコメント(2015年01月22日 21時16分05秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2015年02月12日 23時35分43秒
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