【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る | 使い方とお願い | 日子の島TOP
 投稿番号:101054 投稿日:2008年09月14日 23時15分52秒  パスワード
 お名前:林原英祐
比企筋「竹御所ロマン」(鎌倉の大奥物語)

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

副題:比企一族(その1)鎌倉比企物語
 確か、2001年7月ころに、服部さんからお誘いがあって、「比企一族」というスレッドを立ち上げて頂きました。おかげで、一人前にパソコンたるものを扱えるようになりました。(?)
 最近、復習をしてますと、未熟さが少し恥ずかしく思え、書き直してみようと思うようになりました。
 書き直してみて、鏡に映る、自分の姿に、、、『老いの失望』を感じるかも知れませんが、暇にまかせてチャレンジ致します。
 宜しくお願い致します。

それでは、、、
 
 鎌倉の世に、「大奥」制度はまだありませんでした。
 官女たちとの交わりは将軍以外は厳しく取り締まられていたそうです。
 反面、唯一将軍にとっては「我がまま」が許される社会として身勝手なサルーンを作り上げていたと考えられます。
 私は、比企筋の祖「比企尼」が、、、その世界の「春日の局」であったのではと思っています。

(全0項目)[投票総数:0票]
順位 票数 グラフ  
投票項目
項目追加 項目を追加するだけで投票しない
項目追加できないようにする(投稿時のパスワード)
[1]林原英祐さんからのコメント(2008年09月14日 23時19分48秒 ) パスワード

(1)ことわり
  私は鎌倉時代(殺戮の歴史)晩年にあって、一途に『幕府』と『朝廷』の間を取り結ぼうと志していた『竹御所(鞠子)』の苦労が幕末の「公武合体」思想に近い様に思えて、熱いものが伝わってきます。今年(平成20年)の大河ドラマ「篤姫」『和宮』にちなんで、『鎌倉の篤姫』ロマンを膨らませています。
 また、「竹御所」ついては世間にあまり知られていないのですが、そんなに小さな存在ではなかったのでは、、、と最近特に注目されはじめているそうです。
 源氏三代の鎌倉殿(頼朝、頼家、実朝)のすぐ後の4代将軍は女性将軍(竹御所)であったのではという歴史学者もいらっしゃるそうです。
 その影に存在した、、尼将軍(北条政子)や実朝の正室であった「西八条禅尼(坊門姫)」などの思いについても『想像』を交えながら展開したいのです。

  大胆な表現になりますが、1221年(承久3)5月に起こったとされる『承久の乱』は歴史の時間には朝廷と鎌倉のまっこうからの戦いとして教えられました。(鎌倉の関が原の戦い)
 実際には源氏3代『鎌倉殿』政治が危なくなった背景下で「公武合体」策が支配的な考えだったのでは、、とおもいます。
 幕府も朝廷も主流派の人たちは、源氏(御家人達を含む)と朝廷(公家)の合体を考えることで、戦い無しに政治の安泰を画策していたように思えます。
 それに対する、北条一族の得宗家(執権政治の中核をなす人々)では鎌倉の私有物化(源氏から北条へ)の為には先制攻撃が不可欠であったのです。
 それが承久の乱の本当の姿ではなかったのでしょうか!と云いたいのです。
 その意味では、朝廷(後鳥羽上皇)の人達は過去に積み上げてきた外交努力から考えて、まるで朝廷側から仕掛けた、「北条義時追討令」がことの発端であるかの筋書きは、その昔『後白河法皇の常套手段を逆手に取った様な陰謀で驚き以外何物でもなかったでしょう。
 その辺の事情は政子(尼御台)が一番よく知っていたと思います。
 鎌倉側は大姫、乙姫の入内工作に見られるように、朝廷に対しては外交努力に重点を置いていたと思える節がありました。
 承久の乱は北条得宗家の執権政治確立の為に不可欠な戦いであったわけであります。
 この辺りから、既に「源氏の鎌倉幕府」は滅亡していたのです。
 あの壮絶な、首なし遺体(三代将軍源実朝)の検分をさせられた実朝の正室「坊門信清の姫」は幕府の整然とした行事の真っ只中で行われた『主殺し』を目の当たりにして、幕府の崩壊を直感的に知ったと思うのです。
 それより、遡ること約15年前(1204年)、北条政子(尼御台)も嫡男:二代将軍源頼家が修善寺で殺害された地獄絵を知っています。その衝撃的な知らせを聞かされた時、『源氏の鎌倉幕府』の終焉を悟ったと思います。

 そんなこともありまして、この話の「結び」は、日頃歴史に関してもの言わぬ女性の代表として、鎌倉三代将軍「源実朝」の正室「坊門信清の姫」、後の「西八条禅尼(84歳卒)」の独り言(グチ)で結びたいと思っています。

 吾妻鏡(北条家が編纂したとされる鎌倉歴史本)の記事から、、、Cつのキィーポイントを設定しました。
 ◆1216年 (建保4年、 丙子)
 3月5日 戊午 晴
  @故金吾将軍の姫君(年十四)御所に渡御す(御乗輿なり)。御台所これに謁し給う。これ尼御   台所の仰せに依って、御猶子の儀なり。
* 竹御所が14歳で実朝の御台所(坊門姫)の猶子(?)になった。
     私は、十四歳(成人式)を待って、実朝の側室(妾)として側に置いたと考えています。

 ◇1219年1月27日 鎌倉3代将軍 源実朝 公暁により暗殺される。
 ◇1219年末(新暦1220年初頭?)「竹御所姫君」産まれる。(記録には残っていない!)
   * 1235年10月28日15歳卒から逆算した(ぎりぎり、実朝の子供では?)

 ◆1234年 (天福2年、11月5日 改元 文暦元年 甲午)
 7月27日 甲子
  A寅の刻御産(兒死して生まれ給う)。御加持は弁僧正定豪と。御産以後御悩乱。辰の 刻遷化す(御歳三十二)。これ正治将軍の姫君なり。
   *竹御所の難産による出産死(32歳)
     私は北条一族(時房?)による薬殺を信じています。
     北条による執権政治を不動にするためには、竹御所と頼経による『公武合体』政治体制への流れが承久の乱以降も続いているのを、潰す必要があった。と思っている。
 ◆1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
 7月27日 戊子 晴
  B竹御所の姫君、相州の御亭に於いて御除服の儀有り
   *野口実先生は『竹御所姫君』の記事を吾妻鏡の誤記では?と書かれているが??
    私は実在した「姫」として、ロマンを求めています。「実朝と竹御所」の愛の結晶はこの「姫(ロマン)」の存在においてのみ歴史に登場するからです。

 ◆1235年 (文暦2年、9月19日 改元 嘉禎元年 乙未)
  11月14日 癸酉、、
  C京都の使者参着す。去る月二十八日将軍家の御姫君(御他腹、御年十五と)御卒去と。
   *京都で15歳で死んだ将軍家姫君は『竹御所姫君』では??
     私は、京都とは、西八条院で「実朝と竹御所」の菩提を弔いながら、そして『竹御所姫君』の余生を見取った『坊門信清の娘』であると思っています。


 よくご存知ない方に、、、(少し解説)

 『竹御所』が金吾将軍(二代源頼家)の姫であることは間違いの無い話なのですが、その母が「若狭局(比企能員の娘)」であるかどうかには異論(母:木曽義仲の娘?)があります。
 ここでは、あくまで周囲の状況証拠にもとずき、竹御所が比企筋の女性であるという前提で話を進めさせて頂きます。

 比企筋は『女系』一族であると歴史家に言われています。
 私は永く、『比企尼』の存在が余りにも大きいためにそのように言われるのか、と思っていました。
しかし。その後勉強しまして気付いたのですが、沢山の女性達が入れ替わり立ち代り登場して、比企一族の歴史に華を添えて来たのに気付かされました。

 前置きはこの辺にしまして、、、
 元祖総本家の『比企尼』の話から始めます。
[2]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2008年09月15日 14時35分30秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/

参考までに。
竹御所の母は美乃局(河野通信の娘)。また美乃局の母は北条時政の娘。
伊予河野氏は源氏と閨閥があり、伊予河野水軍が屋島や壇ノ浦で平家に潰滅的な打撃を与えたことが源氏大勝利の主因で、義経快刀乱麻の活躍は後世のヨタ話のたぐいでしょう。
また源氏・北条・河野の閨閥形成が頼朝の時代ではなく、源頼義の時代に始まることが解ります。
伊予北条(河野氏の旧姓)と伊豆北条が結びつくのも何かの縁でしょう。
頼朝鎌倉幕府の権力構造は、北条、河野、比企、藤原摂家の4大閨閥により形成されており、中でも比企氏の新興閨閥が目覚ましく危機を感じた北条一族は、比企能員の謀殺という行動に出たのでしょう。

4大閨閥の詳細は下記略系を参照のこと。
源氏・北条・河野 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01112.htm
源氏・比企 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01219a.htm#001
源氏・藤原摂家 http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01019.htm#001
[3]林原英祐さんからのコメント(2008年09月15日 17時15分31秒 ) パスワード

 日本の苗字七千傑様、ご教示ありがとうございます。
 小生が実社会で65年間、それなりに生きてこれました一番のお師匠様のお名前が『河野さん』(ご存命です)と申されます。
 服部明子先生がよく言われる「この世で関わりをもつ方々は昔、仲間同士か殺し合いをした敵か、何かの縁に結ばれている方だと思います」と教えられたのを思い出します。
 河野さん(伊予)のこと、勉強してみたいとおもいました。父親の尾道(向島)、林原とも、一緒に海賊船で頑張っていたのかもしれませんね。
 初対面で少し慣れなれしい会話で、失礼致しました。
 続きは又書きます。取りあえず、お礼まで
[4]林原英祐さんからのコメント(2008年09月18日 15時21分41秒 ) パスワード

(2)鎌倉を騒がせた比企筋の女たち

1、比企尼(春日局)の思い、「源氏の血」(頼朝の血)を絶やすことなく!

 比企尼が自分の長女と次女の孫娘を、頼朝の命で、義経(河越尼の娘)と範頼(丹後内侍の娘)に嫁がせたなどは、春日局(政治力)全盛の取組みであったと考えます。

 比企尼が頼朝の乳母(実質の母親)として、傍で一番考えていたことは「源氏の血」を絶やすことなく確かなものにすることだったと思います。

 それは、徳川家康が春日局に託した『大仕事』そのものであり、最近の若者世代の女性にブームになっている『大奥』の鎌倉版そのものでありました。

 比企尼にとって、比企筋の血への拘りも重要なテーマであったと思いますが、そのこと以上に『源氏の血』への執着は「比企筋の血」話の比ではなかったと想像します。比企尼にとって「頼朝」は実子以上の存在であったからです。「北条家」や「政子」などはその思いに於いて「め」では無かったと考えられます。

 私はこの頼朝の初期的な段階における「比企尼」との繋がりは、真に頼朝の実母にのみ考えられる「思い」がひしひしと伝って参ります。

 余談になりますが、後にも先にも、この「比企尼」のような母性愛(源家の家を愛する)が育たなかったことが、北条一族(頼朝の妻:政子の里)の下品なところであると思えてなりません?
 又、政子の嫉妬話が有名ですが、政子は「大奥」の春日局の役割に於いても失格であったと思うと、政子は晩年に淋しい思いを味わったであろうと推察します。(北条の一族(親戚)はいったい何んであったのだろうか?)

 1)義経の正室に比企尼の次女(河越尼)の娘
 
  『源義経』と言う人がこの世に出現し、人々に、壮大で派手な『ロマンチズムの夢』を与えた影に、又『静御前』の美しい悲話の裏に、歴史の本当の壮絶なドラマが潜んでいたのです。
 お堂の表で無数の矢を受けながら「立ち往生」した弁慶の影で、燃え盛る「お堂」の中で、義経の一子(姫)を刺し、返す刀で自害してはてた「坂東武者」の娘のことはあまり知られていない。
 この壮絶な死の光景はその後の比企の運命そのものを表していたのです。
 私はもう一人の静御前として記憶しています。
 
 1203年の『比企の乱』の前触れとなった不吉な悲劇の戦い第1弾は、なんといっても、
 1189年 源義経(奥州平泉…衣川)自刃、河越氏の滅亡が事の始まりであったと考えます。 
 1184年9月 武蔵河越荘の河越太郎重頼の娘が、頼朝の声掛りで義経の正室とされた。
          頼朝の乳母「比企尼」の孫である。
 鎌倉幕府成立に伴い、頼朝の比企一族に対する『流人時代の恩返し』は大変なもので、比企能員の幕閣への登用、その娘『若狭局』を嫡子頼家の妻とする等々…
 当時の『義経』にとっては、比企一族の娘に繋る武蔵の豪族『河越氏』から正室を迎えたことが、頼朝の認知の証しとして考えられただろうと想像します。

 その時『歴史が動いた』と言えば少し大げさかもしれないが、結果として「比企」はその時、大きな運命の分かれ目を背負わされたのですが、知る由もありませんでした。

  『河越氏』滅亡の後処理が『河越尼(比企尼の次女)』に河越荘を相続させている不自然さは残るが、歴史家は当時の土地相続の考えは女性中心であったと分析していることから考えると、そうなのかなあと思ってしまいます。



 
 2)範頼(頼朝の弟、義経の兄)の正室に丹後内侍(比企筋)の娘
 
  鎌倉幕府成立の翌年に、頼朝の実弟で一番の存在であった『範頼』の排斥が起こっています。
 1193年 源範頼(修善寺)での自刃させられました。(比企の悲劇第2弾であります。)

 『比企尼』の嫡女『丹後内侍』が安達藤九郎盛長(頼朝近臣)の妻であり、その娘(比企尼の孫)が『範頼』の妻とされていました。

 源範頼が伊豆修善寺で嫡男と共に誅殺される時。『比企尼』と『丹後内侍』の必死の助命嘆願で次男範円(4歳)と三男源昭(2歳)は命ばかりは助かったらしい。

 源範頼の子孫とされる『吉見家系図』によれば、家系の祖を比企尼に置いて居る。又『安達家』の鎌倉御家人としての存在が大きなものであった事を示しています。

 『比企尼』の「ブレ−ン」的存在の嫡女『丹後内侍』の知的な謀は『安達家』を通じて『北条一族』に対抗した様に思えてなりません。

 私の想像では、この『範頼』の排斥は、『北条政子』の考え(頼朝死亡説)によるもので、何か「うさんくさい」ものを感じるのです。

 又。この戦いが『政子』対『丹後内待』の対立軸を一番はっきりと解かるようにしている点に興味を抱かさられます。

 頼朝を中心とした『政子』と『丹後内待(比企家のブレーン)』の三角関係が、恐ろしい女の嫉妬の戦いとなって繰広げられたのではと考えています。

  『安達家』も範頼事件以降しばらくは、歴史の表から姿を消すことになります。



 『比企尼』と『丹後内待』と『河越尼』の女性達の画策があったと想像しても、決して考え過ぎではないと思います。

 『河越家』も『安達家』も『比企』のお陰で迷惑したのが本当の気持ちではなかったかと思います。



[5]林原英祐さんからのコメント(2008年10月08日 06時44分27秒 ) パスワード

2、比企尼の企て、、、源頼朝の「ご落胤」!

 頼朝の浮気(本人は本気)は、ご落胤説の真偽は別にしまして、『政子』の懐妊年表が主軸をしめていると私は考えています。(春日局が考えて、設えた話だと思います。)
 政子の4度にわたる出産:
 @大姫(1177) A頼家(1182) B乙姫(1185) C実朝(1192)、、の4回の政子(頼朝御台所)のご懐妊の周辺に『ご落胤』の「跡」があると推理するのです。
 私は当時存在しなかったはずの「大奥制度」を想定して、『比企尼』を鎌倉の『春日局』として位置付けますと、、、
 多分比企尼は、「嫉妬心の強い」政子の性格や「女好き?」の頼朝の癖を知り尽くしていたと想いますからに、この4度のチャンスを見逃すことは無かったと考えるのです。
 江戸時代の大奥ではごく当たり前のシナリオが、仕事熱心な比企尼によって400年以上前に演出されたと想像するのです。
 よく、頼朝と秀吉を並べて日本一の好色武将のように云いますが、口の悪い人は、見境無しに臣下の奥方まで「やりまくった」など、「いやらしさ」を強調しています。
 ご本人の名誉の為に申しますが、当時は武家社会では「棟梁」の重要な仕事は子孫繁栄、そのためには臣下であろうが、時には親族であろうが、見境なしと言うより、それが常識の範囲に入っていたのです。
結論を先に独断と偏見により申しますが、、、4回の『ご落胤』は、、、、

 @島津忠久(丹後内侍)A北条泰時(阿波局)B貞暁法印 (大進局)C北条朝時(姫の前)
 
   @島津忠久は惟宗広信(京都)が養父、、、比企尼の長女(官女)
   A北条泰時は北条義時(鎌倉)が養父、、、北条時政の娘、政子の妹(官女)
   B貞暁法印は大江景国     が養父、、、伊達時長の娘、(官女) 
   C北条朝時は北条義時(鎌倉)が養父、、、比企藤内朝宗の娘(官女)
  全て、官女に手を付けているところに、比企尼(春日局)の存在を意識するのです。
 又年代的に、この辺りまでが、比企尼の元気な立ち回りの跡が見られるのです。

[6]林原英祐さんからのコメント(2008年10月21日 22時07分53秒 ) パスワード

1)嶋津忠久(惟宗)丹後内侍(比企)

  頼朝は政子が長女「大姫」を懐妊した頃に、手近にいる比企尼の娘「丹後内侍」に手をつけ、島津忠久(薩摩島津家の祖)を産ませています。その時は,惟宗広信(京都)に 丹後内侍を預けています。(関西で出産したことで、雨の日に摂津住吉神社の石の上での出産挿話が薩摩藩に残っている)
 その前、京都時代に『惟宗広信』に一度嫁いでおり、薩摩藩の祖と言われる『島津忠久』と『若狭忠季』を生んでいます。
 だから、若狭忠季(若狭の守護、越前島津藩の祖)は島津忠久の兄にあたることになります。
 弟かどうか、説が定かではありません。
  室町時代頃から、薩摩島津家の祖が『忠久』で鎌倉の源頼朝のご落胤だと言う説が永く語り伝えられていますが、最近では真偽の程は定かでないと学者さんは言う方が多いそうです。
 しかし、母が、比企尼の嫡女「丹後内侍」であるという説は頼朝「ご落胤」説よりはだいぶん精度の高い話のようです。その場合は父親は『惟宗広信』ということになりますか、、、
 薩摩焼酎に『島津雨』と言うのがありまして、丹後内侍の摂津住吉神社での『島津忠久』の出産の時に雨が降り続けていた事にちなんで、薩摩藩では「雨」は吉兆の証と言われているそうです。(確か、お米の焼酎だったと思います)



 
 2)北条泰時(義時)阿波局(北条)・・・この人は比企筋ではありません!
 頼朝は政子が嫡男「頼家」を懐妊した頃に、手近にいる政子の妹(北条時政の娘)「阿波局」に手をつけ、北条泰時(後の三代執権)を産ませています。その時は、熟慮の結果、北条義時に北条家宗家(得宗家)を継ぐ嫡男として明確に位置付けて預けています。
 全く同じ時に同時進行で「亀の前」騒動や「源義平の未亡人」恋文事件などが歴史上の記述に残っています。…北条時政が怒って伊豆に帰ってしまったと言う『お話』が、有名になっていますが、時政が伊豆に帰ってしまうには少し問題が小さすぎると思いませんか。
 官女「阿波局(北条時政の娘)」、、、間違っても「政子(御台所)」の妹に手を付け、その兄(北条義時)の嫡男として預ける(北条の後継者:北条泰時)などは、、、さすがの北条時政も常識の範囲を超えた話で、『頼朝』が北条を、時政を、政子を、義時を、何と考えているのか、怒り心頭に達したのだと、思います。
 北条時政が「キレ」て伊豆に帰ってしまった。のが理解できるお話になりました。
 一連の「亀の前」騒動や「源義平の未亡人」恋文事件などは後に作られた『鎌倉歴史(吾妻鏡)』のフェイント(騙し)話だと思うのです。
  「泰時」の母は、「阿波局」と言い、官女であったとされていますが、「不明」と書かれるか「阿波局と言われているが、定かでない」と表現されています。
 又、後の歴史学者は確か、北条義時の妹に「阿波局」と言う姫がいたと思うが、別人だと考えられます。と書物の中で但し書きまでされているのを見た事があります。
 そんな解説によって、歴史が作られていく場合が多いのです。(伝聞) その事が逆に「出生のロマン」を生み「頼朝のご落胤」説にまで広がる場合もあります。
 政子が長男「頼家」を懐妊したときは、もっとも手近な毎日生活をともにしている、政子の妹(阿波局ー真野響子)に手を付け、後の三代執権となる北条泰時を最も信任厚い北条義時に預けています。
 今から考えると、『歴史はまさに、この時に動いた!』のです。
 『源氏』から「北条」へ、、、鎌倉幕府の北条一族による私有物化の陰謀(時政と義時)はこの時、はっきりと芽生えたのです。 『政子』はことの発端から考えて、主犯ではないは無いと思います。むしろ、北条時房(相州)など、北条のブレーンが主犯格であると思います。
 北条による執権政治(三代)をもって、徳川で云う『徳川家光』が「北条泰時」であったわけです。
 後に出てくる、北条朝時(名越流)も北条本家筋なのですが、「家光」に対して、『秀長(尾張)』に位置付けられたというのが、永く鎌倉の歴史を不安定にするのです。
 北条政子の妹(阿波局)が産んだ『北条泰時』(得宗家)が、姫の前(比企藤内朝宗の娘)の産んだ『北条朝時』(名越家)に打ち勝ったと言うお話です。
 
 勿論、種(父筋)は「源頼朝」(ご落胤)なのですが、育ての親(預かり親)がどちらも『北条義時』であったと言うシナリオが「義時」の「義時」たるところであって、この北条一族独占による執権政治の安泰をまねいたのです。
 北条義時は凄い人だと思います(少し陰湿ですが、、)
[7]林原英祐さんからのコメント(2008年10月30日 22時24分23秒 ) パスワード

 別稿)北条泰時の秘密 (北条得宗家の当主)
 
鎌倉時代の歴史は『吾妻鏡』が残されたことで「年月日」記述が鮮明になり、驚くほど細かい歴史が勉強できます。

 『吾妻鏡』が北条家歴史書の傾向が強く、一方で評判が良くない部分があるのは事実ですが、後世の我々にとって、歴史を身近なものにしてもらえた点は率直に喜びたいと思います。

 さて、その『吾妻鏡』の中に、北条泰時について『512ヵ所』の記事が登場すると、どこかで目にしたことがあります。

 三代執権の地位にあった「北条泰時」が北条の歴史書「吾妻鏡」にそれぐらいは登場するのは当然であって何等不自然ではありません。

 ところが、その『泰時』がどのような経緯で、誰を母として、どこを産所にして、何月何日何刻に生まれたかが詳述されていません。義時の嫡男ですから、、、

 私が、ことさら『泰時』と言う人に強い興味と拘りをもったのはこの点が引っ掛かったからでございます。

 特に出生に問題があり、 気を遣った痕跡が感じられます。意識的に抹消しなければならない理由があるのではと推理してしまいます。(母、阿波局。の表現は簡単過ぎます!)

 『泰時』が初めて、「吾妻鏡」に顔を出すのは確か建久3年(1192)5月11歳の時で、御家人「多賀重行」が散歩中の泰時に下馬の礼をとらず、頼朝から所領を没収されたという記事でああります。 (この時も泰時が多賀重行の非礼を庇ったとされています!)
 
 史実によれば、泰時は寿永2年(1183)の生まれで、祖父「時政」は46歳、父「義時」21歳のこと、7月に平家が安徳天皇を奉じて都落ちし木曽義仲が入京した慌ただしい年の出来事であります。
 (参考までに頼朝が37歳の……)

 建久5年(1194)2月、泰時は「金剛」の童名で元服し、頼朝の『頼』の字を与えられ『頼時(北条頼時)』として華々しいデビューを飾るのである。が、、、

 この鎌倉殿(頼朝)から頂戴した名誉ある『頼時』の名が何時から消えた(改名)かが定かでないのも少し不自然であります。

 『泰時』を伝える「話」はたくさん残っているのですが、、、

 *1201年9月(19歳)の将軍「頼家」が政務を忘れ蹴鞠に熱中するのを「諫め」将軍の怒りにふれ、伊豆江間に謹慎した記事がある。(その時も、伊豆の農民達に愛されたと評判まで添えられている。)

 *1211年9月(29歳)で修理亮に任官し31歳で「実朝」の学問所番の筆頭に選ばれている。(学問及び和歌に秀でていた!…)

 *武将としては、建保元年(1213…31歳)の『和田義盛の乱』と承久元年(1219…36歳)の『承久の乱』の武勇が残されている。

 しかし、私がここでどうしても述べなければならない「泰時」の「拘りのエピソード」は3つあります。

 まず@は「朝時」に関わるエピソードで、1231年9月(泰時…49歳)に名越亭(朝時の館)に賊が侵入した時、幕府の評定を中断して駆け付けた話、、、朝時は以後「泰時」に足を向けなかったと言われています。(この話は誇張話に思えてならない!)

 Aは『和田義盛の乱』であの歴史上有名な三男『朝比奈義秀(猛将)』と一騎打ちをして人々の称賛を獲た実弟「朝時」の武勇が目立ち過ぎて、「泰時」を引き立てるための誇張話だと考えます。

 そして、その頃から密かに「朝時」排斥が進められています。
 
 その後の「朝時(名越)」と「泰時(武州)」との格付けは、一言で言えば……『姫の前との起請文』と『北条頼時』(烏帽子親)の重さの違いであります。
 
 「源頼朝」との位置取りにかかった戦いであったと思います。

 私の嫌らしい『ご落胤』推理によれば、「泰時」の母である『阿波局』(北条保子)と、、、
「朝時」の母である『姫の前』(比企朝宗の娘)との戦いでありまして、『北条』と『比企』の対角線上にあり、究極的には『実朝』派の「泰時」と『頼家』派の「朝時」の対立軸でありました。

 ここで、奇妙な襷がけの関係に気付きませんか、、、
 『実朝』は北条朝時と同い年で『頼家』は北条泰時と同い年です。

 本来なら、頼家の泰時、実朝の朝時がお側衆の常識であったにもかかわらず、、、

 生まれが「腹違い兄弟」であることへの拘りがこのような襷がけ(対角線)を生み出したとしたら、 
本人とは別の取り巻き達の企てであったと考えられます。



  B番目に、六波羅で、『義時』が急死したとの報告を受けた泰時の挙動について、、、
 
 急遽、六波羅から鎌倉へ『時房(相州)』と『泰時(武州)』は取って返すのですが、その帰路について、泰時は鎌倉の近くまで着てから、すぐには鎌倉に入らずに、後から京都を出発した時房の到着を待って鎌倉に入っています。

 この不自然さがいまだに謎とされています。
 『時房』に『政子』との間で「泰時」の3代執権を事前協議をさせています。
 
 この時の歴史的に重要な調整役に相州時房(あの五郎)が当たるのですが、、、北条五郎時房(相州)は幼少の頃は『金吾将軍(頼家)』の側近で「比企一族」に一番近い北条側の人でありました。
 ところが頼家亡き後はいっぺんして『義時』の側近として、『実朝』派に乗り換えをしています。『八方美人』の「北条時房」が目に浮かんできます。
 
 私の嫌らしい想像では、『北条政子』に対する「五郎」の説得(殺し文句)は「泰時」が実は「北条保子(政子の妹)」の実子であり、 「義時」が「頼朝」から『北条家の得宗』を泰時(頼時)に継がせる約束(起請文があったかは?)になっている。との話をしたのだと考えられます。
 北条義時と言う人が、凄いのは、「泰時」「朝時」両者を頼朝から預かったことを、死ぬまで時政と時房以外には漏らしていなかったということです。そしてその事を墓場まで持っていったと言うことです。政子にはどうしても云えなかった(ハレモノ話)のでしょうか?

 北条一族の最長老である「北条時房」の大博打が成功した裏には、既に鎌倉殿(頼朝)も無く、頼りにしていた兄義時にも先立たれ、すっかり弱気になっていた「政子」の心理を見事に捕らえた「五郎」の根回しでありました。

 政子も頼朝生前は「浮気虫の嫉妬」に狂い続けましたが、頼朝死後は哀れな程、源氏の血(頼朝の種)を追い求めて「鎌倉殿」の後継者を捜し続けています。

 政子も世間の風評とは少し違った「自信の無い」「淋しがりや」の女性であったと思える節がありました。

 彼女が最後まで源氏の血に拘りを持ち続けたことが同じ北条一族の人達にも理解出来なかったとされています。
 後に登場します『竹御所ロマン』はその北条政子が北条一辺倒では無しに、夫源頼朝『鎌倉殿』の血筋を辿って、朝廷(公武合体)にまで手を伸ばしていた『足跡』を見る事ができるからです。その辺は又後述いたします。
 
[8]林原英祐さんからのコメント(2008年11月06日 05時03分35秒 ) パスワード

 3)安達景盛 丹後内侍(比企)

  頼朝は其の後も比企尼の長女「丹後内侍」と関係を持っていた痕跡が残っています。
 『安達盛長』の妻に『丹後内侍』となってからは、夫盛長公認での「頼朝」のお相手をつとめていたようです。
 安達家は伊豆蛭が小島の頼朝にとって、比企尼と同じ程度に気を許した、北条家以前の身内の付き合いでありましたから、頼朝がどこまで安達家の血筋に関わっているかわかりません。
 随分時間が経過してからの話ですが、、
 事の発端となったのは、得宗家(北条貞時)の内管領平頼綱が『貞時』に…

 『「安達泰盛」の嫡男宗景が、曽祖父「安達景盛」は征夷大将軍「源頼朝」の血を享けた子であるから、源氏を名乗ってもさしつかえないとして、源姓に改めた』と言うのである。

 安達景盛が果して頼朝の子であったかどうか、それを証するものは無いが、子孫の宗景が源姓を名乗ろうとしたからには何か信ずべきものか、あるいは安達家にそうした伝承があったかどうか?(一般には、平頼綱のでっち上げと言われている)

 余談になりますが、『推測』論として、『比企尼』の嫡女「丹後内侍」のことが浮かんできます。

史実によれば、「安達景盛』の父『安達盛長』の妻は『丹後内侍』である。『丹後内侍』はとかく噂の人(頼朝の妾)であり、先夫『惟宗広信』との間に生まれた『島津忠久(薩摩藩の祖)』も『頼朝の御落胤』説があるくらいで、安達盛長の妻とあるが、実際に頼朝との関係は続いていたことは十分考えらことです。
 これは、後日談として、この世に出て来た話なのですが、、『比企尼(春日局)』のお仕事の一部を垣間見るはなしとして、ここに載せておきます。
[9]林原英祐さんからのコメント(2008年11月18日 22時58分50秒 ) パスワード

4)北条朝時(名越)姫の前(比企)

  頼朝は政子が次男「実朝」を懐妊した頃に、手近にいる官女『姫の前』(比企藤内朝宗の娘)に手をつけ、北条朝時(後の名越流北条の当主)を産ませています。
 その時は義時と官女との恋物語「結婚したら、絶対に別れません!」と言う起請文を頼朝が義時から取り付けたと言う純愛挿話残ました。
 私は『義時』の話はどこまでも「当て馬」で頼朝浮気(落胤)のフェイント話だと思っています。実際は、北条朝時がお腹にいる状態で朝時の将来を約束(本家名越家の嫡子)を北条義時から起請文を提示させて下げ渡したと考えるのです。 
 そのことで、わざわざ義時との純愛物語として800年後の今日まで語り伝えたのは、中々、手の込んだ話だと思います。
 前から気になっていたのですが、『姫の前』が『北条義時』と『結ばれる』逸話の中で、『頼朝』が『義時』から「決して、離別しません!」と言う『祈請文』を取ったという話です。

 一般に歴史家は、この話を『義時』の「生真面目さ」を表現するための『話』として、又、あの神経質『義時』が熱烈な恋愛、それもタブー『官女との恋』をした。など
 義時の意外な一面を表す『逸話』として今日まで、語り伝えてきたのであります。

 私は、永く『北条義時』を「徳川綱吉」に仕えた『柳沢吉保』とダブらせています。

 確か、綱吉が「お手つき中巃」を柳沢吉保に下げ渡した話は有名ですが、、


 私の大胆な「推論」によりますと、「姫の前(比企藤内朝宗の娘)」が北条義時に嫁がされた時は、お腹の中に頼朝の子「北条朝時」が居たという想定です。

 源頼朝の心境と「北条義時」への約束
<政子嫉妬狂説>
@ 北条政子の強度の嫉妬心が怖い、過去に何度(子供を殺す)も見せられてきた。
A 歳を取ってからの「子」はことさら「情」がかかる。
B 「政子」から「子供の身(朝時)」を守れるのは、鎌倉で「義時」の所だけである。
<北条家安泰説>
C 「時政」の亡き後、鎌倉の外様御家人に列して「北条家(政子の郷)」の安泰を図るには、『印籠(源)』が要る。
D 「北条義時」は知略に優れ、功名心も強い(柳沢吉保風)、よって、かみ分けて話せば.理解、承諾すると「頼朝」は読んだ。
E  あくまで、当初の「義時」の心境は「姫の前(北条朝時)」を頂いて、北条一族にハクを付けて、「鎌倉幕府」の中で不動の基盤を確立する助けにしようと言う魂胆であったと思う。
<北条本家(名越)相続説>
F 「頼朝」の条件として、「名越流」北条家(北条本家)を「朝時」に継がせること。
G 「姫の前」をどんな事があっても「離別」しない事。例え「政子」が難題を持ち込んでも、「別れない」と約束する事。(本当の祈請文)
H 「姫の前(官女)」は胸を張って「北条家」に乗り込んだと想像する。(ヒモ付き)
<朝時が官女恋文騒動を起こす:その時>
I 北条義時が「朝時」19歳のころ、北条政子付きの女官(佐渡守親康の娘)に恋文を出し、夜這いをするなど執心する事があったときに示した「義絶」と言う厳しい態度は、何か不自然で陰湿的なものを感じる。
J 一般には「義時」の教育熱心な生真面目さの話として述べられているが、自分がかってした事を子供にするな!と言うのは不自然で、「義絶」は執拗すぎる。自分がそんなことはしていないと身体で言っているようだ。
K 頼朝が義時に弾圧的に自分の女をあてがった事への反感的な態度に見える。
<北条光時(名越)の言葉>
L 北条朝時は「泰時」の前に出ないように謙虚で地味で、遠慮がちな一生を送り、泰時死去後も出家して、喪に服したとあるが、
M 長男「光時」が1246年に名越光時の乱を起こした時に、
「我は義時の孫、時頼は義時が彦なり」と言って執権職に執着したとあるが、
そのまま、義時を頼朝と置き換えると、意味が明確になる!
「我は頼朝の孫、時頼は頼朝の彦(現:配下)なり」と、

なぜ、名越『朝時』は北条本家(得宗)を継げなかったか?
@ 基本的な理由は「頼朝」の「七光り」が消えたことである。
A 「義時」は死ぬ前から、鎌倉幕府を北条家のものにする考えで固まっていた。
B 「北条政子」は絶対に「頼朝」と別の女の血を受け入れる考えはなかった。
C 最終的に「朝時」を除外したのは、「比企の乱」である。「比企藤内朝宗の娘(姫の前)」の血筋が北条家から疎んじられた。
D 義時は1224年62歳で死去するのであるが、1203年(比企の乱)頃から「姫の前」の消息がプッツリと消えている。
E 朝時も1206年に13歳で元服して、1212年に19歳で官女恋文事件で義絶、翌年、和田合戦に戻されるが、それ以降『遠慮がち』な立場を取っている。

  北条義時の死をもって、尼御台(政子)は「北条一族」の三代執権に、頼朝と阿波局(政子の妹)の間に出来た落胤『北条泰時』を選んだのです。
[10]林原英祐さんからのコメント(2008年12月01日 11時09分16秒 ) パスワード

3、鎌倉幕府の表舞台に登場した『二人の比企筋の姫』

  1)若狭局(二代金吾将軍:源頼家の妾)「一幡」の母


 比企筋の女性で一番高い位置に上り、一番悲しい最期を迎えたのが『若狭局』であります。別に『讃岐局』と言われます。
 
 比企尼の養子『比企能員』と渋河兼忠の娘の間に生まれた『比企家』直系の娘で祖母『比企尼』の力で頼朝の嫡子である2大将軍『源頼家』の側室となり、世継『一幡』を生んでいます。
 
 1203年『比企の乱』で「比企能員」が北条時政に誅殺され、翌日、鎌倉比企谷の『小御所』において『一族』全てが『一幡』を道連れにして自害すると言う、痛ましい最期を遂げるのでありますが、
 
 当時(鎌倉時代)の習慣からすると、『若狭局』の考え方さえしっかりしていれば、「生き延びることは可能であった(女子には寛大)」と考えますと、
 
 何か『若狭局』の育ち(お嬢様)と人の良さのようなものが滲み出て悲しくなります。

 作家平岩弓江さんが小説『かまくら三国志』のなかで『比企三郎』を中心にして、この若狭局との兄妹愛を描いていますが、多分平岩さんが描いたような姫であったように思えてなりません。
 
 もう一つの『ロマン』は『若狭』と言うことばであります。
 父『比企能員』は35万石程度の領地を治ていたとあるが、『北陸大将軍』に任じられていたとあります(吾妻鏡)。
 
 其の後の比企家が越前福井から出現したことを予言するかのような因縁のある話です。 
 
 参考までに『小御所(比企館)』で最期を遂げた『若狭局』の兄弟:姉妹達をあげると……嫡子(兄)比企余一兵衛尉、比企三郎、比企弥四郎時員(先祖)、比企五郎、河原田次郎(娘婿)等である。
 他に、難を逃れた子孫は…『比企能本圓顕(鎌倉妙本寺開祖)弟…当時2歳』『竹御所(鞠子)当時2歳…実子』
 等、比企系図に残っています。
 ここまでは、本論『竹御所ロマン』の前座であります。
 鎌倉を騒がせた比企筋の女たち(比企尼に連なる女を、、)を書いて参りましたが、本論『竹御所ロマン』はここからです。
 竹御所があからさまに『幕府』と『朝廷』の公武合体を露骨に画策したと云う証拠はありません。むしろ、北条政子(尼御台)の晩年にこそ、そのような流れを感じさせる部分が大きいと思っています。
 そして、政子が其の後の北条一族に失望して、源氏の旗挙げ当初の頼朝との純粋なロマンを求めていたとしたら、『坊門姫』も『竹御所』も『政子』も共通項が見つかるようにおもえるのです。
 そのような観点から、このあまり有名でない竹御所(鞠子)の物語を楽しんでください。
[11]林原英祐さんからのコメント(2008年12月10日 07時13分17秒 ) パスワード


 2)竹御所(鞠子)、二代金吾将軍(頼家)と若狭局(比企)の末娘
    四代将軍藤原頼経の正室
 本論)『竹御所ロマン』
   本論は以前書き込みました下記の番地にてご参照下さい。

     http://hikoshima.com/bbs/heike/100483.html



(4) あとがき 「坊門姫(西八条禅尼)」の思い
  
 私はあの若さで、いつも行き届いた気遣いをして下さった、やさしい実朝様に何かお返しをすることは出来ないか?まじめに考えていたのです。
 今、その頃の鎌倉の生活を思い出そうと努めるのですが、努力しても、思い出せないのです。
 あの恐ろしい『実朝様』の首なし遺体を検分(対面)したことで、あの鎌倉武士たちの荒々しい生き方は努めて馴染めるものではありませんでした。
 でも、何時だったか、記憶は定かではないのですが、、、三浦三崎に尼御台(政子)と実朝様と竹御所(姫)と御一緒に旅したことがありました。
 そのときのことが、楽しかった鎌倉での思い出として、蘇るのです。

 歳のせいか、この頃、自分が何の為にこの世に生誕して、誰の為に役立ち、何が出来たか?そんなことを考える時間がよくあるのです。この手でしっかり掴むことの出来るものは今もって見つかりません。

 私ももう80歳の越える高齢を迎えようとしています。

 あの人生で一番キラキラしている頃に全く知らない東国(鎌倉)に独り嫁ぐことになり、恐ろしい体験をしました。
 門出の宴にはまだ元気な父上(信清)があれこれと指図されていたのに、、亡くなられてからは、
 私が、唯一頼れる肉親だと思っていた兄(坊門忠信)が京都から鎌倉まで二度も足をはこんでくれました。こんな事は中々してもらえないことだと今でも感謝しています。
 不幸にして、二度目は1219年正月、あの忌まわしい日、夫、実朝が甥の公暁の刃に倒れた日に遭遇したのですから、遠く離れた東国(鎌倉)の地で地獄に突き落とされた妹の身体を支えてくださったのも兄上だったのです。

 政子お義母さまも不思議に、私を大変大切にして下さいました。親元から離れて独りで過ごす私を不憫に思って、気を掛けて下さったのだとおもいますが、そんな事に気の付く優しいかたであったのだと思います。
 世間や鎌倉御家人の間では冷たく、恐ろしい方であると言われているのですが、わたしはそのように思ったことは一度もありませんでした。
 政子お義母さまは京都の公家の雅の解る方でありましたし、鎌倉にお世話になっている間に政子お義母さまのそのような一面を知る事が出来て私は幸せでありました。

 私は、あの世でお義母様にお会いしたら謝らなければならない事があります。

 それは、あの承久の乱に朝廷側に加担した『兄上(坊門忠信)』の遠島御赦免について書面でお願いした事であります。後で気が付いたのですが、私がお義母様を品位があり、優しいお方であると思っているからと云って、天下の尼御台のお立場のある方が、いやしくもお国の大儀に於いて裁かれた『兄の大罪』を私的な私のお願いに耳を貸して下さるなど、後で驚かされました。あの世でお会いすることがありましたら、必ずお詫びとお礼申し上げます。
 
 兄上も亡くなるまで、会う度にその事に触れ、感謝いたしておりました。
 私のかけがえのないお兄さまにこんな形でお返しが出来たのは、お義母さまの暖かい『お情け』(お目こぼし)のお陰です。兄もそのように申しておりました。

 もう一つの鎌倉の思い出は「竹御所(鞠子)」さんとの出会いです。
 最初、鞠子さんがどのような生い立ちの姫か知らされていなかったのですが、夫、実朝から聞かされて知りました。先代金吾将軍(頼家)の忘れ形見の姫と知りました。その話を聞いた時も、お義母様の意外な一面に驚かされました。
 お義母様は北条一族の束ねの中心的なお方であるのですが、それ以上に源氏(頼朝様)の良き愛妻になろうと努められていました。北条とは別の人格を感じる事が度々ありました。お義母さまが私などが計り知れない大きな悩みを持っておられたのを感じる事ができました。

 竹御所(鞠子)さまのことは、北条(里)と源氏(嫁ぎ先)のハザマでのお悩みを表したお話そのものでありました。

 私が竹御所(鞠子)さんを猶子として迎えるという、お義母さんの発案を素直に受け入れたのはお義母さまの竹御所(鞠子)さんへの愛を通して、金吾将軍(頼家)への愛、ひいては若狭局や一幡への愛を感じ、敬服したからに他ありません。
 結果として、夫、実朝が竹御所(鞠子)さんと闊達に過ごす日々を得、生きる事への喜びを身体で表し始めた、あんな夫、実朝の姿を眼にしたのは始めてのことでした。
 夫、実朝にとって、あの3年間の生活は他人の50年で咲く人生を僅3年で一度に咲いた濃縮された人生そのものでした。
 夫、実朝が亡くなってから9ヶ月で竹御所姫君(美子)が生まれるなんて、私は、鎌倉の一番大きな思い出は「美子」との出会いです。わずか、4ヶ月間の短い赤ちゃんとの生活でしたが、、、
 「美子」できてからは、一日で一番永い時間を「美子」と過ごす毎日でした。
 私の心を一番和ませてくれました。私にとって、宝物のような存在の赤ちゃんでした。

 不幸にして、「美子」の身体が不自由で(今で言う小児麻痺)、思うようにテキパキとした動きはなかったけれども、そのぶん姿は水のように澄んで温かいものをもっていました。
 私は「美子」の為にはどんなことでもしてやりたいと思っていました。
 「美子」を与えて下さった、神様と夫実朝、竹御所(鞠子)に感謝いたしました。
 夫、実朝の生まれ変わりのような縁を背負って、一生懸命生きていました。
 私は、夫、実朝の精気を取り戻すことができぬまま、悩んでいた時に、鞠子さんに出会い、一生でただ一度の喜びを夫、実朝に与えて貰いました。
 坂東武者の殺戮の光景を毎日見せられ、京都の公家の雅を忘れかかった時に、美子を頂戴しまして、心の和みを取り戻したのでございます。
 普通の方にはご理解して頂けないかもしれませんが、政子お義母さまの事を鬼のような方と思われる方々には、自分の夫を寝取られて、子供まで残されたことを、正室が喜んでいるなどはご乱心としか写らないと思いますが、、、私は嘘を申し上げているのではありません。
 私が、夫、実朝さんと死別して、一周忌を待たずに京都の大通寺(尼寺)で独り菩提を弔おうと決心したのは、鎌倉から離れることで、出来る事があるような気がしたからでございます。
 私の鎌倉生活で唯一の総天然色であった、『美子』との生活ともお別れしなければならない時がやってきました。ひっそりと、京都に旅立つことにしました。
 夫、実朝の葬儀の席でお兄様(忠信)と約束していた、帰京が政子お義母さまの計らいで許されたのです。

 京都の大通寺(尼寺)において、夫、実朝の菩提は勿論のこと、政子お義母さま、竹御所(鞠子)さま、竹御所姫君(美子)さまの菩提を御祭りしてあります。

 そうそう、確か鞠子さんがお亡くなりになる1234年7月の半年程前のことお正月だったと覚えているのですが、、
 お手紙を頂戴しまして、4代将軍藤原頼経さま(三寅)のお子を御懐妊になって、少しお腹が目立つようになりました。とご様子を知らせて頂きました。末尾に『美子』の事が気に懸かります。少しずつ弱っていくようで、心細いのですが、万一、私に何かがありましたら、この世で、身寄りの無い美子が不憫でなりません。西八條尼におすがり致すより他に方法も無く何卒宜しくお願い致します。と書いてありました。

 今考えると鞠子さんは既に身に迫り来る何かを直感していたのだと思われるのです。
 しかし、そのときは、大きくなるお腹をみて、心細く少し弱気になっている程度にしか思えませんでした。

 亡くなられて直ぐでした。お悔やみを兼ねて永い手紙を美子宛に書きました。
  実朝お父様の時に私が決めたと同じように、一周忌を待たずに、直ぐ、京都大通寺にいらっしゃい。
 お母様(鞠子)から話は全て聞いていますから、何も心配することはありません。
 これからは、私が「美子」の本当のお母さんだと思うのです。
 相州殿(北条時房)への添え状をつけて、京都への旅仕度等お願いをしました。

 しばらくして、美子さんから、返事がきました。
 「私(美子)のこの世でしなければならない、大切なお仕事は、母竹御所の一周忌を営むことです。」
 『母は源氏最後の血を背負った方なのです。』(生前に鞠子さんから何かを聞かされて、、、)
 「だから、そのお仕事をすませたら、お義祖母さまのもとへ参ります」
 私(西八条禅尼)はその手紙(震える字)を読みながら、15歳にまで無事に育った「美子」が健気に実母を思う姿を思い涙が溢れいるのを知りました。
 美子も精一杯生きているんだ!最後まで鞠子(竹御所)の影の部分をまっとうしようとしている。
 そんな美子が頼もしく、大きく、思えました。

 実際は、翌年の7月27日、相州(北条時房)の館で一周忌を済ませ、その足で京都に向かったと連絡が入りました。25日間(普通は17日間程度)の長旅は大変なものであったようでした。

 しかし、よくも、この身体でやって来たものだ、と感心しました。(身体を抱きしめて褒めてあげました)
 旅の疲れからか、微熱が続き、寝たり起きたりの生活が続きました。
 それから、2ヶ月同年10月28日美子は、京都大通寺の露と消えたので御座います。
 京都に来てからは、病気気味で十分な食事も出来ない状態が続いたのですが、やつれ切った容姿にも拘らず、死顔に満足しきった薄い笑顔を感じたのは私の心を和ませてくれました。
 
 竹御所姫君(美子)の葬儀は静かに京都大通寺の尼達(3名)で営みました。

 棺に横たわる美子の遺体には、、、竹御所(鞠子)が若狭局からもらった「比企の女紋」の入った内掛けと、以前鎌倉でお義母さま(政子)から頂戴した、「北条の紋」の入った着物を重ねて着せ付けられてありました。しかし、それを知る人はいませんでした。

 それから、39年後、文永十一年(1274)84歳での長寿をまっとうした禅尼は何を考えていただろうか?

 少なくとも、「西八條禅尼」の実在した期間は、政子(尼御台)と竹御所(鞠子)と竹御所姫君(美子)の物語は『尼』の心に生き続けていたと思います。
                                                  
  今の大通寺は下京区の大宮通を少し下がったところにあります。
 正式には、萬祥山遍照心院大通寺と言い、明治の神仏分離までは南区壬生通にあったそうです。

                                             合掌
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.25 Rapha.