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 投稿番号:101009 投稿日:2007年07月08日 13時22分03秒  パスワード
 お名前:ナッツ
毛利家・村上水軍について

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

源氏方 因島村上水軍が毛利氏に従って長門(山口県)に移住をしたそうですが、その後村上水軍や毛利家はどのようなルーツを辿ったのでしょうか?
毛利元徳が北海道に移民開拓に入ったようなんですが、開拓に入る前の毛利家をご存知でしたら教えていただきたいのですが。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年07月09日 04時29分27秒 ) パスワード

1.
源氏方 因島村上水軍が毛利氏に従って長門(山口県)に移住をしたそうですが、その後村上水軍や毛利家はどのようなルーツを辿ったのでしょうか?

これは山口県と愛媛県の教育委員会で資料を頂いたら良いと思います。
それか大きな図書館で調べるとかね。


2.
毛利元徳が北海道に移民開拓に入ったようなんですが、開拓に入る前の毛利家をご存知でしたら教えていただきたいのですが。

北海道の教育委員会で資料があると思います。
毛利元徳が北海道のどこに開拓地を開いたのか、そこを調べて、その町に資料を請求なさったら良いと思いますよ。


3.
開拓に入る前の毛利家

これは山口県教育委員会に資料を請求なさることでしょうね。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年07月09日 04時31分42秒 ) パスワード

2については 「毛利元徳 北海道 開拓」でたくさんヒットしますね。
大江村とか。
[3]ナッツさんからのコメント(2007年07月17日 22時58分56秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんへ

返事が遅くなり申し訳ございませんでした。沢山の回答をありがとうございました。
各都道府県の教育委員会などに資料請求などをして情報を集めたり、大きな図書館から本を借りたりしながら辿っていきますね。
[4]mino阿弥さんからのコメント(2007年07月18日 16時12分48秒 ) パスワード

「伊予中世史への招待」http://yudukijou.web.fc2.com/
というHPの掲示板の前年の10月30日に「村上文書群発見さる」というタイトルの投稿があります。
ここは、主に伊予河野氏についてのHPです。
ご参考まで。
[5]さんからのコメント(2007年07月18日 17時39分34秒 ) パスワード

ナッツさん、どうも初めまして。

〔別冊歴史読本 戦国水軍と村上一族(新人物往来社)〕によれば、
能島村上氏、因島村上氏ともに、毛利氏の「御船手組」として三田尻(現山口県防府市)に居住したそうです。
(屋敷跡地に石碑があったり、御船倉跡のお堀が一部残ってます)
その他、周防大島にも所領を貰っていました。

ちなみに因島村上家の菩提寺は、防府市牟礼の極楽寺(旧雲岩寺)です。

詳しい情報が知りたい場合は、山口県文書館(HP有り)に問い合わせると良いのではないかと思います。
毛利家、村上家に関する古文書を多数所蔵していますので。
[6]ナッツさんからのコメント(2007年07月20日 00時01分26秒 ) パスワード

mino阿弥さん、隈さん貴重な情報有難うございました。開拓以前は山口に居住していたようですが、村上氏はその後、毛利氏と共に北海道開拓に入られたのでしょうか?
山口県文書館のHPで色々と調べてみますね。有難うございました。
[7]さんからのコメント(2007年07月20日 10時37分39秒 ) パスワード

村上氏が山口県経由で開拓に入っているかどうかは分かりませんが、
北海道入植した水軍系のお家は多かったようですね。

村上氏も全員が毛利氏について長州・周防に移動したわけではなく、
大半はしまなみ海道周辺に残ったので、明治になって直接北海道に入植した人の方が多かったかも。
確か、広島県は他所への移民の多いことで有名ですよね。

特にしまなみの島々は土地がやせていて農作物が育ちにくく、
収入源を得るのが大変だったので、新天地を求めて島を出る人が多かったのです。

例えば、ウィキペディアの「百島」を見ると・・・
ここも村上水軍の拠点の一つだったようですが、
明治28年に、島の人口の12%が空知郡栗沢町に入植した、と書かれています。
[8]アカコッコさんからのコメント(2007年07月20日 10時51分30秒 ) パスワード

 隈さん、ご無沙汰です。

 何もわかりませんが。NHKのその時歴史が・・・のアンコール放送が下記の通りあります。何か参考になるのでは?。


 信長の巨大鉄船、戦国の海を制す
 〜織田水軍 VS 村上水軍、決戦大坂湾〜

 平成19年7月25日 (水) 22:00〜22:43 総合
[9]さんからのコメント(2007年07月20日 22時46分59秒 ) パスワード

アカコッコさん、どうもお久しぶりです。(^^)/

どうも情報ありがとうございます。m(__)m
忘れないよう録画しなくては。

これは大いにうちの先祖に関わる話なので、楽しみです。
[10]アカコッコさんからのコメント(2007年07月21日 08時04分27秒 ) パスワード

どうも、隈さん。

HARIMAYAさんのwebには能島村上氏:因島村上氏:来島村上氏等三家の詳細が記述されており、毛利氏との関係もよくわかり、これは大いに参考になると思います。

(既にご覧になっていたら、御免なさい。読んでいない人の為に!!)

 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mura_kai.html
[11]mino阿弥さんからのコメント(2007年07月21日 09時20分45秒 ) パスワード

皆様、本当にすごいですね。歴史についてのご造詣が深い方ばかりで驚いています。
村上文書は東大史料編纂所にもありますが、やはり山口県文書館の方が研究されていると思います。
村上水軍の嫡流と言われていた故村上公一氏(村上家直系第三十六代当主)は、名古屋に在住されていましたが、「村上図書組の家が没落し、そこにあった史料は当初右田(防府市)の毛利家に行ってしまい、今は山口県文書館にある。しかし、山口の文書をはじめ、因島、来島の文書のすべて能島村上家に写し取ってあり、それを「他家文書」として「能島村上水軍資料館」においてある。海賊の研究をしようとされる方は、山口や因島に行かなくても全部ここで見ることができる」とインタビュー記事の中で話されておられます。ご参考まで。
[12]さんからのコメント(2007年07月21日 16時28分44秒 ) パスワード

アカコッコさん

ご紹介ののペ−ジはまとまっていて、分かりやすいですね。

ちなみに因島村上氏の当主であった村上吉充・吉国父子は能島村上氏同様毛利氏に従い、
吉充の孫・元充は御船手組頭7人の一人として三田尻(防府)の御船手屋敷に住んだようですが、
時代が下ると子孫は能島村上氏(村上図書)の配下に組み込まれていったそうです。
(上に紹介した「歴史読本」の記述より)

mino阿弥さん

こんにちは、どうも情報ありがとうございます。m(__)m

さっそく「能島村上水軍資料館」について調べてみましたら、
平成14年今治市(旧伊予大島)に新たに「村上水軍博物館」がオープンしており、
それに伴い「能島村上水軍資料館」は廃館になっています。
なので村上文書も新しい博物館に移されているようです。

「村上水軍博物館」のHPもあって、故村上公一氏の著書も紹介されています。


「武者の影 村上公一著 

能島村上家36代当主、故村上公一氏の著書。明治維新の裏面史をとおして見た、時代の生きざまを描く」

だそうです。

ナッツさんがお調べになっている北海道開拓についても、
こちらで問い合わせると情報が得られるかも知れないですね。
[13]さんからのコメント(2007年07月21日 23時35分53秒 ) パスワード

>平成14年今治市(旧伊予大島)に新たに「村上水軍博物館」がオープンしており、

× 旧伊予大島  ○ 旧宮窪町

ですね。失礼しました。m(__)m
[14]アカコッコさんからのコメント(2007年07月28日 11時02分24秒 ) パスワード

あまり関係がないのですが。

 毛利家第十五代元徳(公爵)→元昭→元道氏と続いたわけですが。

1871年(明治4年):毛利家が朝廷から神田橋邸の替わりに芝高輪の屋敷を賜わる。とあるので弘化3年(1846年)の地図を見ると、その場所は有馬孝五郎下屋敷、通りの向かいには奥平大膳大夫下屋敷とあり.

さらに昭和9年の地図では、毛利邸、向かいは奥平邸となっております。
奥平さんはその頃自分たちは伊達さんとか言ってた覚えがあるのですが、伊達さんと奥平さんとは縁戚関係があったのかな?、そこのとことがハッキリしない。

毛利邸に司法研修所設置。戦時中法務省が借り上げ。

 昭和23年 司法研修所が紀尾井町に移転した為旧長州藩主 毛利元道氏より、西武鉄道が毛利邸を買収。

 西武鉄道.は元長州藩毛利家屋敷門をユネスコ村に移築(不動寺総門) 1952年

毛利邸について私の思い出話。品川駅前の昭和20年代後半の頃、高輪にまだ毛利邸が現存していた。道路から門まで砂利が敷かれ右手にはちょっと高くなった所に塀があり家臣達の官舎があった。門の中には大きな屋敷と広大な庭園ありました。同級生がいたので、よく屋敷の方にいって遊んだものでした。

現在では高輪界隈は時代の先端をいくホテルなどが立ち並んでいます。


[15]さんからのコメント(2007年07月30日 10時33分58秒 ) パスワード

アカコッコさん

「NHK・その時歴史が動いた」を見ました。
九鬼水軍の巨大な鉄製の船、到底機動力は無さそうだけど、結局どうやってケリをつけたの?
と思っていたら、舶来の大砲を装備してた訳ですね。

でも、その後使われた記録が無いということは、やっぱり使い勝手が悪かったということか・・・
後は解体して鉄砲にでもしたのかな?

余談ですが、父方の祖母(山藤家)の弟が九鬼家(旧三田藩士)に養子に行って九鬼姓を継いでます。
一方、母方の故郷はしまなみ海道の島=村上水軍の拠点。

先祖は敵味方に分かれてます。(^^;


ところで毛利邸のお話。
>品川駅前の昭和20年代後半の頃、高輪にまだ毛利邸が現存していた。
>現在では高輪界隈は時代の先端をいくホテルなどが立ち並んでいます。

そういえば・・・
十数年前私が会社勤めをしていた頃、東京研修の際の宿舎が新高輪プリンスホテルの傍でした。
朝御飯込みで一泊3,000円でした。
社員じゃなかったらあり得ません。(^^;

実はあの辺りが毛利邸だったんですねぇ。
[16]アカコッコさんからのコメント(2007年07月30日 18時18分07秒 ) パスワード

どうも、隈さん。新高輪プリンス界隈で研修とか、なにかと縁があるみたいですね。
 生まれてから中学生まで、高輪で生活しておりました。自分の生家はそのホテルの地下深くに埋没してしまいました。

ご覧になられましたか、実はその日サッカーの放送があり、時間までと思い見ていて、スッカリ失念し、見れませんでしたが、今日なにげなく1chに合わせたらなんとまた再放送しており、16:05からゆっくり見れました。ラッキーでした。

>奥平さんはその頃自分たちは伊達さんとか言ってた覚えがあるのですが、
>伊達さんと奥平さんとは縁戚関係があったのかな?、

で調べてみました。伊達宗徳(男爵)の弟が奥平昌邁を名乗っておりますので、戦後の事なのでご一緒にお住まいかも知れません、あながち間違いでなかったかも。

また今回調べたことで、江戸末期(1865ー67)の外国人が撮影した有名な写真『江戸の有馬様屋敷』が「芝高輪にあった大名屋敷」と解説がついていた意味がやっと判明したのも収穫でした。
[17]さんからのコメント(2007年07月31日 13時46分35秒 ) パスワード

>なにかと縁があるみたいですね。

ご縁がありますね。(^^)/
実は、何故か津島市にも会社の研修で行ったのですよ。
研修でもなければ訪れる機会もなかったでしょう。

私は一人暮らしをしていた頃にあちこち行ったのですが、
当時訪ねた場所が今頃になって、妙な縁で繋がってくることが度々あります。

ご先祖様に連れ回されていたのかも。(笑)


話が毛利・村上氏からそれますが、うちのご先祖の山藤家が江戸詰だったと
分かったので、主君・永井家の江戸屋敷跡を探してみました。
江戸詰の家臣は、主君の上屋敷の敷地内に居住スペースがあったそうなので。

ご先祖の単身赴任先は何処だ〜(笑)と探したら、有楽町駅傍の電気ビル(外国人記者クラブが入ってるらしい)の辺りが跡地だそうです。
あ〜ここは私が勤めてた会社の東京本社に近いな〜へえ〜と感心したり。(笑)

江戸切絵図でご先祖ゆかりの地を探すのも、なかなか楽しいですね。
[18]さちこさんからのコメント(2007年08月03日 13時17分38秒 ) パスワード

ナッツさん。
はじめまして。

話がそれてしまうのですが少し驚いたことがあったので。

うちの菩提寺に服部伊賀守源宗純と書かれた墓誌があることは以前にも書きました。
かなり古いもので読めないところが多いのですが、
先日永代経で寺に行ったら足利義昭の文字が。
服部家が足利義昭に仕えていたと書かれてました。

足利義昭に関してはよく話題になってたので読めたら今までに気がついていたはずなのに急に字がはっきり浮かび上がってきたようで怖い。

何を根拠にしているかは判らないのですが、
織田信長、豊臣秀吉等の名があるのは地域的なものもあると思います。
でも足利義昭の名がわざわざ長島にでてくるのは何らかの根拠があるのでは?

住職は村上家だし。やっぱり村上水軍の末裔?

びっくりしたので隈さんにご報告でした。

[19]mino阿弥さんからのコメント(2007年08月03日 16時39分42秒 ) パスワード

ご先祖は「浪合記」、寛政重修諸家譜、系図纂要などにも出名する有名な方ですね。
「武将系譜辞典」HPの足利将軍家人名録に服部氏が記載されています。

私見ですが、本願寺教団と海賊衆は、いつもセットでいるようです。
播州英賀の本徳寺、琵琶湖堅田の本福寺、吉崎御坊、三河柳堂(国重要文化財)
美濃の河野十八門徒など海や河川の近くに寺があり、水運に適した所に立地しています。石山本願寺もそうですが。
そういう意味では、長島にも海賊衆が相当昔から居て不思議ではないと思います。
伊予の河野水軍と熊野水軍は壇ノ浦の合戦で源氏を勝利に導いた誼があり河野四郎通信の孫が一遍上人です。
一遍上人は「我が法門は熊野権現夢想の口伝なり」と言っています。
また紀州興国寺が本山であった後醍醐天皇とも縁のある臨済宗法燈派の法燈国師から印可を受けています。室町幕府は、鞆(鞆の浦)に興り鞆で滅んだとも言われますが、鞆の浦の安国寺は西日本における法燈派の活動拠点です。鞆の浦は足利尊氏が九州から勢力を挽回し京に攻め上る際、兵力を結集した所とされ、近くの尾道の浄土寺には、足利尊氏他土岐氏など数名の和歌が残っています。一遍上人は弘安六年甚目寺に七日逗留したとされていますが、上人が立ち寄るところは、必ず河野氏(海賊衆)と関係のある地との説もあります。
余談が多くなりましたが、海賊衆は、現代人の想像以上に行動範囲が広く全国各地に痕跡があると思います。
[20]さんからのコメント(2007年08月05日 10時33分52秒 ) パスワード

さちこさん、ご無沙汰してます。(^^)/

「服部伊賀守源宗純」と「服部家が足利義昭に仕える」という字が同じ墓石にあったわけですね。
しかも長島のお寺に。なるほど・・・

結構これは大事なポイントかも知れませんね。

やっぱり「鞆幕府」と長島は通じ合ってたということでしょうね。
もちろん船便で。(^^)

「源」姓なのはやはり、足利将軍家に仕えた関係でしょうか。

この話を見て、「服部要介」を思い出しましたよ。
数年前に私が妙に拘っていたのを憶えているでしょうか?(^^ゞ
足利義昭の道案内をしたという人物です。
名張出身で、近江の住人。

それと、「寛政重修諸家譜」に載る幕臣の「服部要介保次」。
服部宗純末裔といってます。平姓だけど。

この二人が同一人物かどうかは分からないけど・・・
ひょっとしたら幕臣の服部要介保次も、元々は足利将軍家に仕えていて、
義昭から徳川家に派遣されたのではないか・・・という話を他のサイトで読んだので。

服部半蔵の父も元は足利将軍家に仕えていて、徳川家の家臣になってますよね。

ホンヤさんに頂いた服部家系図を見ると、
織田家臣→徳川家臣と移った服部家が複数あります(何れも矢筈紋)。
しかも徳川家に仕えるようになったのが、永禄年間という半端な時期。
・・・なんでこの時期に?と思っていたのです。

これ以上語るとますますトピズレなので(笑)、続きは他所で。

ただ、足利義昭の動きには要注意かも。


mino阿弥さん

>播州英賀の本徳寺、琵琶湖堅田の本福寺、吉崎御坊、三河柳堂(国重要文化財)
>美濃の河野十八門徒など海や河川の近くに寺があり、水運に適した所に立地
>しています。石山本願寺もそうですが。

備後福山辺りもそうですね。

>鞆の浦の安国寺は西日本における法燈派の活動拠点です。

鞆の浦には、一向宗の拠点もあったのです。
村上水軍の家来達も、門徒が多かったそうですよ。
それもあって、石山合戦に参加したのです。

村上氏は全国に散らばっていますね。何といっても機動力が持ち味ですから。
この間も北陸だか東北に、村上水軍の末裔と伝えるお家を見つけました。
[21]さんからのコメント(2007年08月05日 23時56分57秒 ) パスワード

>鞆の浦には、一向宗の拠点もあったのです。

正確には、山南の光照寺です。(鞆の浦から内陸に入ったところ)
広島県では安芸門徒が有名ですが、浄土真宗は初め備後のこの寺から広まったとのことです。

[22]mino阿弥さんからのコメント(2007年08月06日 11時37分41秒 ) パスワード

情報ありがとうございます。
浄土真宗については、というより宗教的なことは、よくわかりません。
海賊衆(水運業者・海賊追捕吏など)とのつながりがあるようで水運を特に利用していたのではないかと思います。
拙宅は、代々天台宗(延暦寺)ですが、ほとんど何も知りません。
お盆と法事ぐらいですが、特に不熱心とも思わず、日本人の平均像ではないかと思っています。
また、浄土真宗は「般若心経」を読まないと言うことも、つい最近知りました。
鞆の浦は、古代よりの湊であり、時宗など、いろいろな寺がたくさんあるようですね。
足利尊氏が戦勝祈願した際の尾道浄土寺の住持は、土岐頼貞の次男という説もあります。この辺りの説も、どうしてなのかよくわかりませんが。
長島は、河野墨俣氏(河野四郎通信の孫河野政氏)の居た墨俣にも近く、海賊衆のテリトリーであったと思います。
海賊衆について何らかの史料や伝承があれば、お教えください。
[23]さんからのコメント(2007年08月06日 14時03分00秒 ) パスワード

>浄土真宗については、というより宗教的なことは、よくわかりません。

いえいえ、私も全然詳しくないですよ。
あんまり偉そうに言えた義理ではありません。(^^ゞ
現在、実家は真言宗、婚家は臨済宗の檀家ですし。
ただうちの先祖絡みで、石山合戦についてちょっと調べているので。

海賊衆についてもそんなに詳しくは知らないのですが・・・
母方のルーツがしまなみですから、母は「海賊の末裔」に囲まれて育ったと思いますけど(笑)。
小中学校のクラスメートも「村上さん」が多くて、父との結婚の際の仲人も「村上さん」でした。

尾道は母親の帰省について行って、何度か訪れています。
浄土寺は線路そばの小高い場所に建っているので、よく目に付きますね。
もっとも尾道の寺院は殆ど坂の上にありますけど。

鞆の浦には、先祖の話に興味を持ってから行きました。
歴史資料館に行きたかったのですが、真夏の暑さに子供がぐずりだし、断念しました(苦笑)。
いつかは行ってみたいです。
[24]mino阿弥さんからのコメント(2007年08月06日 17時44分21秒 ) パスワード

尾道や鞆の浦も、ゆっくり行ってみたいと思います。
おととし、四国の方達と歴史の趣味の会の交流会を企画し、道後湯築城資料館長や愛媛大教授など専門家にも出席して頂きました。
今から思うと赤面の至りですが、専門家を前に、なんと図々しくも素人の私が、講義してしまいました。
(荒唐無稽な説と批判されても仕方ないようなことを。しかし趣味ですからお許し頂けたと思います)

途中の平山郁夫美術館や大山祇神社など、また見学したいと思います。

母方の先祖の地は、新田氏の所領に近い群馬県と埼玉県の境で真言宗です。
臨済宗妙心寺の開山は美濃に居た方で、美濃は臨済宗妙心寺派が比較的多いと思います。

鞆の浦の法燈派に興味があるのは、美濃の三代守護土岐頼康開基の川手正法寺開山が臨済宗法燈派の嫩桂正栄だからです。
法燈派は、まったくわかりません。
鞆の浦安国寺、紀州興国寺、美濃の正法寺(廃寺)、何かつながっているとは思いますが史料が見当たりません。
[25]さちこさんからのコメント(2007年08月07日 00時31分33秒 ) パスワード

mino阿弥さん。

ご指摘の通り長島は水軍勢力の強いところでした。
一向一揆のあった地域の共通点として干拓地などの新しく開発された土地、
水運の良い所、そして貨幣経済が発達した先進地域であることが長島町史にも書かれてました。

真宗は後に農村に広く支持されたこともあり、
一向一揆というと江戸時代の農民一揆とイメージと混同されがちですが、
当時は専業農民というのもいたかもしれませんが少数派ではなかったかと思います。

隈さん。

昨日桑名の石取り祭り久しぶりに行って来ました。
江戸時代からの町衆の祭りです。

地方都市の中心部商店街空洞化は桑名も同じで以前ほどの活気はなくなりましたが、
でもさすが、天下の奇祭、日本一やかましい祭りですね。

長島と桑名は同じ経済圏です。
祭りで山車引いてるのほとんどが長島一向宗徒の子孫と思う。。多分。
それも信長の一向宗徒せん滅作戦、皆殺しを生き延びた連中。

信長に同情するワ(笑)



[26]mino阿弥さんからのコメント(2007年08月07日 10時47分46秒 ) パスワード

河川地帯は「無主・無縁」の地というか領主権力不介入の地があり海賊衆の活動の舞台であったと思います。
川島町(河野島とも称される)、岐南町、笠松町、墨俣、羽島一帯の広大な地域が、その活動範囲であったと考えていましたが、ご教示のおかげで長島も含まれるということが、はっきりわかりました。
(もともと村上水軍は、伊予河野氏配下の武将です)

木曽川中流の両岸、尾張葉栗郡から美濃羽栗郡・厚見両郡にかけては、本願寺教団の枢要な拠点であった。
親鸞帰洛の途次、三河柳堂(西岡崎の妙源寺)で親鸞に直接帰依した九門徒は尾張国葉栗郡本庄郷木瀬(現在の岐南町三宅)に親鸞を迎えて教化に浴した。
その子孫は僧坊となり木瀬道場は竹ヶ鼻御坊になった。
尾張国葉栗郡上門間庄本庄郷河野村の領主河野通勝以下尾張河野九門徒は、文暦ニ年(1235)柳堂で帰依したということと、「尊卑文脈」には、河野氏と「承久の乱」後の美濃守護代藤崎十郎四郎泰綱の婚姻関係が載っていますから、相当以前から土着し、一定の勢力があったのではないかと思われます。
尾張河野九門徒と美濃九門徒を合わせて「河野十八門徒」と称し、「本願寺史」、「大谷遺跡録」にも記述される誇り高き真宗門徒であった。
真宗の門徒は当初商工業者や流通業者が多かったようにも思われます。

信長勢との戦いで戦死した人もあり、延暦寺も焼き討ちされ、尾張に行った人達は追放改易となっているようで、あまり良いイメージはありませんが。


[27]さんからのコメント(2007年08月07日 12時25分14秒 ) パスワード

mino阿弥さん

>母方の先祖の地は、新田氏の所領に近い群馬県と埼玉県の境で真言宗です。

そうですか、最近私が父方の祖母の先祖絡みで調べている場所が
群馬・栃木県境辺りで、やはり新田氏所領の近くです。渡良瀬川のすぐ傍ですよ。(^^)


>臨済宗妙心寺の開山は美濃に居た方で、美濃は臨済宗妙心寺派が比較的多いと思います。

臨済宗妙心寺派は、主人の故郷(久留米)にも多いのですよ。
何でもあの辺りに栄西禅師開祖の寺があって、それで広まったようです。
それでウチも一応、久留米の妙心寺派のお寺の檀家になってます。
今住んでる場所は臨済宗のお寺があまりないため、珍しがられます。

私、河野氏が美濃と関係が深いというのは知りませんでした。
美濃でも信長と戦った門徒が数多くいたのですね。


さちこさん

桑名の石取り祭、というのは知らなかったので(失礼)、
検索して写真を見てきました。

残念ながら音声はついてないので「やかましさ」は分かりませんが、
夏祭りの風情は伝わってきましたよ。(^0^)

結構お祭りは好きなんだけど、うちの家族が付き合い悪いので、
(暑いとか、人混み嫌いとか言って、すぐ帰っちゃう)
なかなかゆっくり堪能できません。
そのかわり我が家の廊下の窓から花火が見えるので、一人で見物してます。(笑)


例の墓石の件を聞いてから妙に気になって、
ホンヤさんに頂いた系図やら、「秦氏の研究」やら引っ張り出して調べてます。
・・・結構面白い事に気付きました。(^^)

ここに書くとどんどんトピズレしてしまうので、久しぶりにスレッド立てようかな。
[28]mino阿弥さんからのコメント(2007年08月07日 16時48分59秒 ) パスワード

妙心寺は足利義満に南朝に通じたという嫌疑で一時廃寺寸前となり名前も変えさせられたはずです。開山の関山慧玄は、岐阜県美濃加茂市の正眼寺に居て、妙心寺の住持は、美濃から仁岫宗寿(妙心寺27世)ー快川紹喜(43世)ー南化玄興(58世)ー単伝士印(74世・春日局が帰依)などの法系が見られます。美濃の守護代斎藤利国の室であった利貞尼(一説には一条兼良の娘とされる)が、およそ10万坪の土地を寄進し妙心寺の中興とされています。
九州博多崇福寺開山南浦紹明(1235〜1309・円通大応国師・鎌倉建長寺などの住持)の門下に宗峰妙超(大徳寺開山)がいて、宗峰妙超の法嗣が妙心寺開山関山慧玄です。また南浦紹明の門下に峰翁祖一がいて岐阜県恵那市岩村町に大円寺(廃寺)を開山し、後に伊予で河野通朝開基大通寺(愛媛県松山市・旧北条市下難波)を開山しています。
峰翁祖一の法嗣大蟲宗岑は宗昌寺開山(旧北条市八反地)、その法嗣月菴宗光は最明寺開山(旧北条市上難波)であり、はるばる岐阜県恵那市の山奥から四国まで行って寺を開山しているわけで、驚くほど広範囲に展開しています。

大分は、豊後臼杵の稲葉氏の関係もありますが、河野氏が多いようです。

昔のことは、本当にわけがわかりません。
解明するのに膨大な時間がかかり、またどうしてもわからないということになるやも知れません。
[29]さんからのコメント(2007年08月08日 14時26分55秒 ) パスワード

>妙心寺は足利義満に南朝に通じたという嫌疑で一時廃寺寸前となり名前も変えさせられたはずです。

私は室町時代に詳しくないので、ちょっと調べてきました。(^^ゞ

「応永の乱(応永6、1399)が起こり、足利義満が妙心寺を没収。
 妙心寺は龍雲寺と改名させられ、中絶した。」

とありました。
妙心寺が、この乱で挙兵した大内義弘に通じたから、ということだそうです。

大内義弘は幕府方として紀州の南朝方と接触し、南北朝合一に貢献したそうですが、
これが「南朝方とつるんでいる」と疑われた、という意味でしょうか?


また話がそれますが、我が家が今住んでいる場所で法要をお願いしてるお寺が「龍雲寺」といいます。
本当の菩提寺は遠くてなかなか行けないので。
・・・でもこちらの龍雲寺は南禅寺派だけど??よくある名前なのでしょうかね。
[30]mino阿弥さんからのコメント(2007年08月09日 10時58分59秒 ) パスワード

宗教的なことは、よくわかりませんが、昔のお寺は権力の中枢とセットで考える必要があると思います。
そういう意味では、高僧達が、当時どのような立場で、誰が帰依していたかということを調べることも歴史を知る上で大きなヒントになると思います。
僧侶は、中国などに留学している方達が多く、先進の知識を身につけ、また語学が堪能であったと思われ、中国、朝鮮半島との貿易などにも活躍したであろうと思います。
(貿易、留学など渡航には、海賊衆の存在が不可欠です)
今で言う外務省的な役割を担っていたように思われます。
また、高僧が想像以上に、権力の中枢に対して発言力を持っていたようで、一国を安堵できるような、また仲介の役もかっていたように思われます。
前述の僧侶は、日本の禅宗史に出名する高僧で、また、それもごく一部の方達であり、まだまだ多くの著名な高僧がおられます。
余談ですが、「峰翁祖一」は、一説には北条時宗と異父兄弟とされています。
また、お寺の開山は、当初中国などの外国僧が多く、それだけ日本が外国の知識を必要としたものと思われます。

臨済宗に限らず、浄土真宗などもそうですが、いろいろな派があって調べきれません。
美濃は、大垣市墨俣に法蔵寺(臨済宗東福寺派・廃寺)があり、南山士雲が住持でした。
南山士雲は、筑前・承天寺、相模・東勝寺、山城・東福寺、相模・寿福寺、相模・円覚寺、相模・建長寺、相模・崇寿寺などの住持を歴任した高僧です。
南山士雲の師は、円爾弁円(1202〜1280・えんにべんえん・聖一国師)であり、門下に多くの禅傑がおられます。
少し調べてみると、近くに高僧の足跡がわかり、驚きと同時に親しみを覚えます。

昨晩は、郡上八幡の盆踊りに行って来ました。
ゆかたに着替えて格好だけは万全でしたが、盆踊りは始めてだったので、うまく踊れませんでした。
ステップが身につかず、センスがないのかもしれません。
昼間に特訓して備えなければ、踊れないと思います。
[31]村上さんからのコメント(2008年06月10日 21時21分28秒 ) パスワード

はじめまして 村上と申します 自分の祖先といわれている
水軍とどうつながっているかを知りたくてスレ致します
祖父までは 愛媛の今治の漁港ちかくに住んでおり その後東京へ移住しました
祖父は 村上俊雄 曽祖父は 村上孝次郎(漢字が違うかもしれません)
明治時代の親戚には 伊予銀行総裁、愛媛の旧地元財閥の黒川家とも親戚
との事です なにか調べる方法やこころあたりなどありますでしょうか
[32]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年06月11日 00時07分15秒 ) パスワード

愛媛出身で村上さんなら簡単じゃあありませんか。


取り敢えず
明治の初めの御先祖さまの除籍謄本を取得し
その頃に住んでた場所を知る。


今治などの市の教育委員会歴史編纂所から史料を入手する。

伊予史談会などの発行する歴史を編纂したものを入手する。
伊予分限禄とかね。
1冊手に入ればあとは芋蔓式に何を買ったら良いか分りますよ。
これは松山の「坊ちゃん書房」(御主人は佐伯さんだったと思います)から買い求める。

そうしますと村上氏に詳しい郷土の歴史家に行き当たります。



坊ちゃん書房さんには「アメリカの人から紹介された」とおっしゃってくださいね。
[33]呑舟さんからのコメント(2008年11月18日 10時33分31秒 ) パスワード

始めまして。
海賊村上氏についての話のようなので書き込みます。
ご承知のように村上三家は、主家河野家を裏切った来島村上は秀吉に擦り寄り後に豊後に領地をもらい明治まで藩として永らえます。

これに対し、毛利・河野側にとどまった能島・因島村上は関が原以後、毛利の防長二州移封にともないどちらも屋代島(現周防大島町)に移ります。

この時中国地域全体を押えていた毛利家は充分な録を食ませることが出来なくなり家臣団の家来を相当数レイオフせざるを得なくなり、大半が帰農か、新領主に仕えることとなります。

今、廣島、岡山、愛媛に残る元毛利・小早川・吉川・河野家家臣の系図を伝承する人たちはこの時、現地に留まるしかなかった人たちが多いのです。

屋代島に移住した能島村上は和田と屋代に領地が与えられ、因島村上は三蒲に
領地が与えられました。

村上宗家は能島武吉で彼の二人の息子が元吉と景親です。

よって嫡流は元吉系(図書家)で景親系(一学家)と分かれますが、毛利藩からは別家扱いとなりますの分家ではなく一つの家として独立します。
のち、御船手組として防府に出仕しますが、領地には家臣を置いて明治まで経営しています。

山口県文書館の村上文書は図書家の文書を寄贈したもので、能島(宮窪)の水軍資料館のは一学家に伝わる文書を寄贈したものです。

一学家の子孫は現在も屋代島和田にいます。図書家は明治の中頃、東京に移り
その子が数年前に死んだと聞いていますのでその遺児たちは今も東京にいると
思います。


PS.mino阿弥様 こちらにもお出まししてたのですね。
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