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 投稿番号:100989 投稿日:2007年03月12日 17時04分40秒  パスワード
 お名前:平田徳左衛門
高棟王流平田氏と高望流平田氏とはどう違う?
キーワード:家紋
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

 我が家は平田氏、家紋は丸に立ちおもだか。本籍地は三重県津市美里町。
先祖はどのあたりでしょう?教えてください。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月13日 01時10分28秒 ) パスワード

平田徳左衛門どの

初めまして。

結論:ヨソの御宅のことは分かりません。



ま、こんなあたりじゃないの?というのを書いてみます。

三重県で平田姓で美里だったら
バリバリの平家なんじゃないですか?
南北朝時代は当然南朝方で
戦国時代は反織田信長。

これ以外有り得るんでしょうか?笑


とはいえその家のアイデンティティというのは、また別ですから、
違ってたら書き込んでください。


標題の「高棟王流平田氏と高望流平田氏とはどう違う?」は
堂上平氏(時子や時忠系)と武家平氏(清盛系)の違い
に尽きるのでは?

それが平家全盛時代に絡み合ってぐちゃぐちゃになったと思います。
ですから御自分の家に伝わるお話が正しいということになります。

外野は外野にすぎない、です。



平田姓で伊勢伊賀だったらフツー武家平氏の「平家系=高望王子孫」じゃないんですか?


ま、平田という姓は日本人の願望を表していますから(つまり平地に田圃が欲しかったということ)
堂上平氏だけでなく源氏でも橘氏でも藤氏でも他の氏でも平田という姓は名乗ったと思います。


自分の家のことは御自分のアイデンティティの問題ですから
人のハナシより御自分の家に伝わる系図や家書を信じるべきだと思います。


明治初めの御先祖を戸籍謄本で辿り、
史料を教育委員会から手に入れ、
それを自分の家の資料とつき合わせる。

その溝を埋めるのが子孫の役目だと思います。
そしてそれを末代まで伝えていく。


どこの家でも(天皇家も含め)1本の筋では語れません。
どこでどうグチャグチャにもつれたのか
そこに御先祖さまの誇りや涙が隠されています。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月13日 01時56分22秒 ) パスワード

と、いうことで

高望王流の平氏系
伊勢伊賀平氏=つまり平家=本姓平で俗姓平田。

こんな感じじゃないですか?


本領地は大山田村あたり。

清盛の遠い親戚で
清盛の家に代々仕えた平家貞の3男か4男か5男か6男かそのあたりの家継の子孫かな?


平田家継のお城のあった跡に建てられた明昌寺というお寺は、
大山田村平田にあり

もし行かれるのでしたら

名阪中瀬IC→R163→7km・・・コスモGSとアニーズの信号交差点から150mです。
コスモGSで道を訊いてはいかがでしょう。


石垣が明昌寺の裏に1部残っているそうですから
行って見てはいかがでしょう。


何も感じなければそれで良し
もし思う所があれば御先祖さまの地かも。


平家が滅びた後に老いた身に鎧を纏い、
源氏軍に一矢報いて佐々木兄弟の父を殺して源氏に恥をかかせた史実があるのですから
7月19日の命日にでも行ってあげてはいかがでしょう?


何か御先祖さまからメッセージを頂けると良いですね。
[3]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年03月13日 18時18分32秒 ) パスワード

 ありがとうございます。島津家の家老、平田家が丸に立ちおもだかで高棟王流と聞いたので高棟王流の方かと思ってました。
それにしてもどうして生き残れたのでしょうか?それが不思議です。
三重県の歴史を読むと、侵略に次ぐ侵略で平家の血流はもう途絶えてしまっていると
諦めていまして、ご先祖が平家だと伝えてきてくれたことに懐疑的になっていました。地に這いつくばってでも命をつないできてくれたのだと思うと感謝でいっぱいです。

[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月14日 00時23分38秒 ) パスワード

薩摩平田氏について
播磨屋さんの「風雲戦国史」を見て来ました。


URLが出ないので紹介できませんが
1部こちらに書いてみます。

(播磨屋さん、ごめんなさい。不都合がございましたら削除いたします)


>桓武天皇の十三代内大臣宗盛の三男宗正の子大炊介信宗の後裔、
>新左衛門親宗入道玄親に始まる。
>親宗は島津氏久に仕えた。

>戦国時代増宗の代で断絶した。
>島津氏家中には庶流平田氏が多く仕えていた。
 

>二代重宗の次男宗保から分かれた平田氏は、
>天正十六年、豊前守宗祇のとき島津義久の上洛に従い、
>同十八年ころ薩摩国指宿郡揖宿郷の地頭となった。
>子の宗正は慶長四年戦死している。

>三代氏宗の次男宗勝に始まる平田氏は、
>出羽守宗仍が日向国末吉郷の地頭となり、
>永禄元年豊州島津家の家臣を引き連れて常吉宮ケ原の合戦に参陣し子の新左衛門宗徳とともに戦死した。
>宗徳の子宗応は、のちに鹿児島に住み、関ヶ原の戦で戦死した。
>この流れから、宝暦の木曽川治水工事の総奉行を務めた平田靫負正輔が出た。
>正輔は、宝暦の治水工事の完成後、
>工事費の超過や多くの犠牲者を出したことの責任をとって自刃した。
>正輔を始め工事に従事した薩摩武士は、「薩摩義士」として今も尊敬されている。


*******************************************


>薩摩平田氏には、桓武平氏高棟流の家があり、薩摩国谷山郷山田村の平田から興る。
>高棟の子孫良西が薩摩国に下向し、薩摩国始羅郡帖佐郷の地頭となり、
>その子信宗が帖佐から平田に移って平田氏を称した。
>その子孫にあたる重宗は島津元久・久豊の国老を務めた。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月14日 00時44分43秒 ) パスワード

薩摩平田氏は2つありますね。
堂上平氏と武家平氏ですね。


上記が武家平氏の流れ
下記が堂上平氏の流れ



1.まず、平家が敗れて九州に行った平氏もいますし
2.南北朝の戦いで後醍醐天皇の命により懐良親王を大将として九州に行った元平家の平氏もいますし

だいたい懐良親王に従って九州に行った平氏(平家)じゃないかと想像しています。


家紋というのは1家に1つじゃないんです。
いろいろ事情があって家紋は1家に1つ以上あったと思います。
(女性は家を表す紋の他に自分の好みで紋をつけたりしますしね)


播磨屋さんのHPには「丸に上り二つ引両」(桓武平氏宗盛流)
宝暦の治水の指揮を執った家老平田靫負の家紋でもある。

と書かれています。


平田靫負が尾張藩のお手伝いに工事をやらせられたことは平家時代からの因縁だったかも(笑)


3.堂上平氏

>薩摩国谷山郷山田村の平田から興る。
>高棟の子孫良西が薩摩国に下向し、薩摩国始羅郡帖佐郷の地頭となり、
>その子信宗が帖佐から平田に移って平田氏を称した。

そうすると、この平田さんは清盛の妻の時子さんとは別の系統の堂上平氏みたいですね。
もともと九州に行ってた堂上平氏か?
時子さんや時忠におねだりして九州に土地を貰ったのか?
例えば清盛の家老の家貞は九州に縁があるから、その時について行ったのかも知れませんし。

これは鹿児島県教育委員会から史料を取り寄せれば出ていると思います。


だけど
鹿児島から三重県に戻った?というのは何故かを考えると
もともと三重県の人だと思いますけどね。


それか
平田靫負に従って尾張の治水に来て、先祖の地の三重県に留まったか。


人間は動きますから、なんとも言えないですね。
やはり御家に伝わるお話に軍配を挙げるのが良い、と思います。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月14日 00時54分02秒 ) パスワード

>三重県の歴史を読むと、
>侵略に次ぐ侵略で平家の血流はもう途絶えてしまっていると諦めていまして
>ご先祖が平家だと伝えてきてくれたことに懐疑的になっていました。
>地に這いつくばってでも命をつないできてくれたのだと思うと感謝でいっぱいです。



伊勢伊賀は平家の本貫地ですから
三重県人で平家がらみじゃない人間は逆に白い目で見られる方だと思いますよ
(にっこり)

伊勢伊賀は鎌倉時代になっても鎌倉幕府に従わず、という抵抗をしていましたから
そういう歴史が南北朝時代には南朝方で宗良親王や懐良親王に従って転戦し
戦国時代にも忍者とか(笑)そういう形で反抗を続けてたと思います。


>地に這いつくばってでも命をつないできてくれた

これはそうですね。
だから我々が今こうして存在しています。


良く分かりませんが
家紋から遡って先祖を見つけるというのは方向違いと思いますが
もしかすると堂上平氏だったかも知れませんしね。


やはり三重県や鹿児島県教育委員会から歴史資料を貰うことでしょうね。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月15日 01時34分27秒 ) パスワード

>やはり平家の末裔ですか。

平家と源氏のミックスです。笑


父方は平家で

母方は平家に仕えていましたがイヤな代官に苛められて源氏方について
時政の娘と結婚したので頼朝と相婿になり義経が烏帽子親になったりして源氏を名乗り
後に北条家からきた正妻の子に家督を奪われて南朝方となり
ここで楠正成と共に働いて菊水紋を使用してた時もあり
秀吉に仕えてたこともあったのに反旗を翻し
結局大坂方になって負け、
徳川幕府に許しを得て仕え、以来、紀州から嫁を貰ったりして、伯母達は源氏を名乗ってます

母方は氏やら名字やら家紋やら、物凄い変遷があります。
母方は、家書を読んでいると、先祖の生きてきた時代も分かりますし
うまくやったり失敗したり

自分がこうして生きているのは先祖がそういう時代をなんとか生き延びたからだなあと思います。
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月15日 02時05分56秒 ) パスワード

>私どもは、八代目徳左衛門のときに平田姓から別の姓に変えています。
>理由はよくわかりません。
>平田姓が多すぎるからとしか伝わっていません。


そうなんですよ。
日本の名字は細かく細分化してるのが特徴です。
だから日本は名字がやたらと多いのです。

逆に中国や朝鮮やイギリスは名字が極端に少ないです。
(世界には名字の無い民族も結構いるしね)


権力を握って豊かになると当然子供の数も増えますしね
日本全国に散らばると、その土地の地名を俗称したり
京都にいてもその場所を屋号みたいにして名乗ったり呼び合ったりしてたんですよ。


でないとみんな「平」ですからね。


また、平家と仲間関係で俗に「平」姓で呼ばれる一族も出ますしね。
特に三重県の伊藤さんですね。
伊藤さんは本来は藤原氏ですが
藤原秀郷が平貞盛と一緒になって平将門を討って以来刎頚の友となって
伊勢に移って伊藤姓を名乗り
平家とつるんで平家の軍事を担当し
だから藤原忠清親子は俗に「平忠清」とか「平景清」なんて呼ばれています。

{藤原忠清の父親は「古市」で呼ばれてます。知ってますよね、古市}



ですから日本の名字というのは簡単には語れません。
そもそも「氏姓制度」自体が崩れましたから。
(日本人なのに「うじかばね」についてきちんと説明出来る人なんてそんなにいないでしょ?)


だから平田姓から他に替えたというのはそれなりの理由があって

そもそもの元は桓武天皇の末裔で
平氏で
伊勢伊賀に行った平氏だから坂東の平氏と区別して「平家」と呼ばれるようになり
さらに土地の支配者となってその土地の名で呼ばれるようになって固定してしまう。

そしていろいろな事情があって俗に呼ばれる名が定着してこれを名乗るようになる。


早い話が
良い方では「金持ちで子供をたくさん持てたから名字が変わった」
悪い方では「追っ手から逃れるために名字を変えた」←母方の先祖もこれをやってます


母方は江戸時代の終わりの1840年頃にやっと本来の名字に戻る許可が出ました。
(家紋の方は許されませんでした)


ですから明治時代の初めに日本人は名字を名乗るように命令されましたから
この時に先祖の姓の「平」を名乗れば良かったのですよ。
この時に「桓武」とでも名乗れたのにねえ。笑


でも周りとの関係もあってそういうワケにもいかなかったのが日本人の謙虚さだと思います。

自分とこのホンヤが「平田」なのに自分とこが「平」だの「桓武」なんて名乗ったら
一生、親戚付き合いを断られますよね。袋叩きですよ。笑

こういうのが日本人の「分」とか「分際」ということなんですよ。


平田姓から名字を変えた、そのいきさつ、今は謎ですが、当時はちゃんとした理由があったワケです。


こういう経緯をちゃんと家書に書き留めている家と書かなかった家があるわけです。
でも親戚中を訊いて回ればその経緯を知っている・書き留めているそういう家があるはずです。


わたくしは母方の家書の記録を基に各教育委員会に問い合わせましたら
膨大な史料の中からいろいろ裏書してくれる史実が分かりました。
それまで表の歴史と我が家の家書の記録がずれている部分が
「それこそが南朝方と北朝方の差異だった」
というのが分かりました。

これがアイデンティティということです。
だから世間で流布されてるハナシより御家に伝わるお話の方が重要なんです。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月15日 02時19分33秒 ) パスワード

>平田家継以降の家系図は三重県の教育委員会に問い合わせればわかるでしょうか?

家継の家については教育委員会では「どうなんでしょう?」と思います。
教育委員会で把握するには(ムリじゃないでしょうか?)と思います。
そこまでオオモノじゃないですから。


でも家継の乱の史実や、その後、伊賀伊勢で起きた反乱などの史実に
平家関係の人物の名が出ますから
そういうのを丹念に拾って繋げていくということが出来ます。


例えば
平清盛の孫(知盛の子)は伊賀の北で育てられ「北姓」を名乗って
さらにその子孫が足利義満を暗殺しようとして失敗した
そういう史実がありますから
こういう事件を扱った物を読んでいけば平田家の子孫の名が出て来ると思います。


ですから物凄い量の史料を読まなきゃいけないです。



>津の家にしまいこんである骨董品をいちどちゃんと調べなくてはいけないと思ってます。

最高の史料ですよ!(にっこり)


明治初めの除籍謄本が手に入るといいですね。
江戸時代末期にどこに住んでたか分かります。


とにかく今年のお盆を目安に御親戚一同が集まっていろいろ昔の話をしたら良いのですよ。
北畠家には仕えていたんだろうか?とか
藤堂に仕えていたんだろうか?とか
話題はいくらでもありますから皆さんの御存知のことを教えていただく。
誰が系図をかっぱらって行ったか?とかね。笑


今やっておかないと、時代が進んだら、今以上に分からなくなります。
御先祖さまに感謝なさっていらっしゃる御姿がよく分かりますから
御先祖さまが守ってくださいますよ。
[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月15日 02時34分36秒 ) パスワード

もし明昌寺の和尚さんが歴史好きで平田家継に興味をお持ちでしたらいろいろ御存知かも。
伊賀なんて清盛関係の安楽寺でしたっけ?平楽寺だったかな?
結構あると思います。
そういう方がいろいろ情報をお持ちかも。

なんせ伊賀伊勢は平家の本貫地なんですから、ここでこそ平家の歴史を大切に守っていただきたいです。


>平家討伐の手から逃れるために、東大寺の所領で木こりや農民などをやりながら生き延びてきたのかな?


平家討伐の追っ手が来ても
立派な主人だったら家来の家族やその親戚が守ってくれましたよ。

ですから家継の子孫は名主あたりにはなったんじゃないかしら?
ひょっとすると百地家なんか家継の子孫かも。


ですから御宅さまの家紋も実は何種類もあったかもですよ。
だけど「うちは平家だからアゲハ蝶紋をこれからは使おう」なんて
紋を突然替えたら(アイツはなんだ?)とおじ様おば様から白い目で見られるかも。


で、お盆の席なんかで、皆さんとのおしゃべりの時に
「え〜?うちは平家なんですか?じゃあ、アゲハ蝶紋を使うかな?」
と言って、使うようにすれば、皆さん納得なさいますよ。

これを「談合」とか「根回し」とか言います。あはは
一応そういう話に持っていけば反感を買いません。


平田姓から違う姓に変わったのも、こういう席だったと思いますよ。

ですから、今後「家書」を書いていく時に
「2007年夏 一族会議に於いて 本紋のアゲハ蝶紋を再度使用することを決定」
と書いておけば、1000年後の御子孫に親切でしょ。笑
[14]アカコッコさんからのコメント(2007年03月15日 14時10分53秒 ) パスワード

 下記のようなURLがありました。その一部から。ご参考に。
 
「信長の伊勢侵攻1」
http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido134.htm

だが平田城(鈴鹿市)の平田賢元は屈服することなく、千余人の兵を率いて
平田城に立てこもっていた。また鹿伏兎主馬もひそかに城を抜けて平田城を
助勢した。
しかし衆寡敵せず多勢に無勢では結果は知れていた。城将の弓削玄蕃、久我
壱岐、稲主外記らは壮烈な戦死をとげた。
 
 また助勢にきていた鹿伏兎主馬も士卒七百人を失った。

 やがて城主の平田賢元も戦死を遂げた。このとき嫡子の平田元綱は三百余人を引き連れて城を脱出している。
 こうして矢折れ弾尽き果てて平田城は落城した。


[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月15日 23時11分21秒 ) パスワード

アカコッコさん

素晴らしい情報をありがとうございます。


平氏も、平家も、
人間とは複雑に家と家が絡みますから
(移動で場所を動くし)
平姓だからと言っても堂上平氏か武家平氏か分からないですし
武家平氏出身でも公家系と婚姻したりで堂上平氏になっていくでしょうし
こういうのは外野がガタガタ言う資格はないですよね。

やっぱり各自の家の歴史に従うよりないですよね。

例えば元は武家平家でも堂上平家と関係が濃くなって堂上平家のサイドに入って
武家平家から妬まれて(笑)足を引っ張られるようなことを言われたり


人間のことは難しいですよね。


平田賢元という人物は御初ですが
家継系だったということは想像がつきますね。

この人の先祖が南朝方だったなら元は平家だって想像できますし。


こうやって誰か見つかったらその人物の縦と横を調べていく。
そうすると1本の糸で繋がってきます。
嫡流が庶流か、そのあたりの誤差はありますでしょうけど。

いや、ホント、素晴らしい人物が出てきましたね。
やっぱり御先祖さまが助け舟を出してくださったのでしょうね。
感謝でございます。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月15日 23時28分50秒 ) パスワード

平田徳左衛門どの

やっぱり昔は平家で
土地の人間から慕われてたから庄屋に収まってたのですよ。

悪逆無道な人物だったら農民達が離反しますしね。家は続かないですよ。

江戸時代は地方を治めるのに土地の有力者を庄屋にして纏めてましたからね。
ということは元々はその土地の豪族なんですよ。
江戸幕府から認められていたということですよ。


藩には分限禄という記録がありますし
村にはやっぱり出身とか記録したものがありますから
そういうのに出てると思いますよ。

(宗教については宗門あらためなんて記録がありますでしょ?)

やっぱり教育委員会に古代からの史料を頂いて
さらに史談会作成の本を紹介して頂いて(土地の歴史研究家のお知り合いが出来ると良いですね)

その土地、その土地の、歴史の本が手に入ると良いですね。
教育委員会の作成した書類の文献にもなってますから
そういう古文書を印刷した本が手に入りますように。

どこの県や市でもそういうのが売られてますよ。
大きな図書館にも置いてるそうですし。


>母方の祖母は藤堂藩の家老、須藤家の娘だったそうです。

わたくしの友人にも藤堂の家老の家の出身者がいます。
でも須藤家かどうかは聞いてないです。笑  (聞いとけば良かったな〜)
江戸家老、京都家老、国家老など何種類も家老はいますから
案外みんな繋がっちゃったりね。

日本人は8代も遡るとみんな繋がるそうですから。笑


明治時代の先祖が「蝶の紋は縁起が悪いのであれはだめだ」
「蝶の柄の着物は着るな」という話を親戚のおばあさんが
従姉に言っていたとか。


>明治時代の先祖が「蝶の紋は縁起が悪いのであれはだめだ」
>「蝶の柄の着物は着るな」という話を親戚のおばあさんが
>従姉に言っていたとか。

やっぱり平家みたいですね。
情況証拠はいろいろありますね。



>百地三太夫はたしか伊賀忍者の始祖ですよね。

そうですね、藤林vs服部vs百地、の3者で伊賀の首領の座を争ってたみたいですね。
結局は千賀地の服部家が勝ちましたが。笑


>うちの一族は科学系と芸術系の人間が多くてスポーツの優秀な遺伝子に恵まれていません。

我が家もそうですよ。
芸術系が得意です。絵とか書とか音楽とか。

能の始祖になる人物も服部家出身だそうで平家ですしね。
妻は楠の姉だか妹だとか。


だから平田どのは忍者系じゃなくて芸術系の平家なのでは?
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月16日 06時17分28秒 ) パスワード

>「信長の伊勢侵攻1」
http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido134.htm
の続き「信長の伊勢侵攻2」を読んで来ました。



美里って長野あたりのことだったんですか?

実は昔、南朝方武士の名前一覧を見た時の記憶に
赤堀とか長野とかの武士の名があったのです。


平田徳左衛門どののお宅はやっぱり南朝方だったんじゃないかなあ?
そうするとやっぱり平家だろうし
元は武家平家だろうし。


そうすると伊賀の大山田の平田出身で家継の御子孫かな?


参考文献として
「勢陽雑記」「伊勢軍記」「信長公記」「九九五集」「北畠物語」「鈴鹿郡郷土誌」「関家由来」
が出てました。

こういう歴史書をお読みになると良いのですよ。


アカコッコさんには改めて感謝です。 


是非「信長の伊勢侵攻2」もお読みになってください。
美里という地名も出てきますし。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月16日 22時58分25秒 ) パスワード

あらら
東京にお住まいでいらっしゃいましたか。


では国会図書館とか利用出来るではありませんか。
それに東大所蔵の古文書も凄いですしね、あたりまえですけど。
それに宮内庁の蔵書も許可を頂いて見る機会もありますし。
ラッキ〜


>すでに平田家は壊滅、散り散りばらばらになっていると思ってました。

いえいえ
一致団結ですよ。
鎌倉や信長などの外敵に対しては。


でも身近な御近所に対しては
結局は頭1つ飛び抜けた実力者が出なかったために(服部半蔵家は江戸ですしね)
どんぐりの背比べで

織田信長の侵攻があった時
伊賀伊勢はせいぜい南朝方時代の北畠家を中心になんとか織田勢に対抗しようとしたんじゃないですか?
各家がどこまで織田勢に抵抗しようとしたかはバラバラだったでしょうね。


ま、織田信長に対しては
自称平家末裔を称する織田信長には反発したと思いますよ。
「我等こそ平家正統の子孫なり」
ってね。


とりあえず
「勢陽雑記」「伊勢軍記」「信長公記」「九九五集」「北畠物語」「鈴鹿郡郷土誌」「関家由来」
このあたりが手に入ると良いですね。

裏づけに他にもいろいろな古文書の発行が紹介されているでしょうから取り寄せる。


手掛かりは掴めたじゃないですか。
取っ掛かりが見つかりましたからとにかく古文書を集めまくる・読みまくることです。
[20]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年03月19日 13時04分16秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、ありがとうございます。
これからいろいろ集めることにします。
また何かわかりましたら、ここに書き込みお願い申し上げます。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月27日 22時56分56秒 ) パスワード

ちょっと地図を見てきました。

伊賀街道を降りてくると長野峠があって北長野・南長野となるんですねえ。
長野川があって。


ということは南朝方時代に長野の一族とも懇意にしてたのでしょう。
やっぱり元々、平家で南朝方で反信長で、という流れでしょう。

丹念に古文書を読むことと長野あたりの平田さんと懇意にすることでしょうね。


今年のお盆あたりに伊賀伊勢の平田さんとお会いしてはいかがでしょう。
電話帳で住所を調べてお手紙を送りまくったら良いですよ。
清水十郎兵衛の清水家も元はどっちにしろ平田一族なんでしょう。


8月まで時間がありますから、そういう活動をなさっては?


とっかかりが清水家というのが分かりましたから
もっと広く分かっていきますよ。


>現代の平田さんたちは何も知らない人が多いですね。

ですね。
大家族主義が廃止になって今は核家族時代ですものね。
自分の家の由来なんて吹き飛んでますでしょうね。


日本は中国を真似て「氏姓制度」なんてありましたが
すぐに立ち行かなくなりましたしね。

昔、姓が無かったというのは、かなり大変な身分の人だったようで(ヤバイ発言になるのかな?)
でも
今は殆どの日本人が自分チの姓なんか知らないですよね。


姓も時の権力者に遠慮してグチャグチャになりましたし。


徳左衛門どのが今こうして気になさるのは「今のうちに整備しておけ」という御先祖さまからの働きかけでしょう。
今やっておかないと永遠に分からなくなります。


この際、一族に繋がる人々を捜してはお手紙を送りまくることですね。笑
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月28日 12時29分47秒 ) パスワード

長野工藤氏について『ウィキペディア』に下記のように出てますね。


長野工藤氏(ながのくどうし、単に長野氏とも)は、伊勢国に勢力を持った有力国人である。元来は工藤氏と称していたため、他の長野氏と区別するために、「長野工藤氏」と呼称されている。

藤原南家の庶流の一族で、曽我兄弟に殺された工藤祐経の三男・工藤祐長が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃・奄芸二郡を給わり、その子・工藤祐政が長野に来住して長野氏を名乗ったのが、長野氏の起源である。

鎌倉時代から伊勢国中部の有力国人として君臨したが、南北朝時代に入ると、南朝方公家の北畠氏が伊勢に進出する。このため、長野氏は北朝方に与して伊勢の覇権を争った。ちなみに、この時代に書かれた『梅松論』にも「長野工藤三郎左衛門尉」という名乗りの人物が登場している。

南北朝時代が終焉した後も北畠氏との抗争は続き、1467年からの応仁の乱でも長野氏は西軍(山名宗全側)、北畠氏は東軍(細川勝元側)に与してそれぞれが争った。

戦国時代に入っても抗争が続いたが、やがて北畠氏に英主と言われる北畠晴具が現れると、長野氏の第15代当主・長野藤定は晴具の侵攻の前に次第に押されてゆく。そして1558年、藤定は晴具の攻勢の前に遂に屈服し、晴具の嫡男・北畠具教の次男・長野具藤(長野御所)を養嗣子として迎えた上で、長野氏第16代の家督を継がせた。これにより両家は講和し、長野氏は北畠氏の家臣となったのである。

そして晴具の死後、尾張の織田信長が伊勢に侵攻してくる。晴具の後を継いだ具教と、長野氏の当主である長野具藤は織田軍に抵抗したが、信長の攻勢の前に敗れ、北畠氏は信長の次男・織田信雄を、長野氏は信長の弟・織田信包を養嗣子として迎えた上で家督を譲ることを余儀なくされ、北畠・長野両家は織田氏によって傘下に置かれたのである。

そして1576年11月、信長の命令で北畠具教が暗殺された後、長野具藤も田丸城で北畠一族もろとも殺され、国人領主としての長野氏は滅亡した。

[編集] 歴代当主

* 長野祐政【一】
* 長野祐藤【二】
* 長野祐房【三】
* 長野藤房【四】
* 長野豊藤【五】
* 長野経藤【六】
* 長野義藤【七】
* 長野満藤【八】
* 長野宗忠【九】
* 長野政藤【十】
* 長野藤継【十一】
* 長野藤直【十二】
* 長野通藤【十三】
* 長野稙藤【十四】
* 長野藤定【十五】
* 長野具藤【十六】
* 織田信包(長野信包)【十七】

[編集] 一族・家臣団

分部氏

* 分部光嘉

細野氏

* 細野藤光
* 細野藤敦
[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月28日 12時41分34秒 ) パスワード

>他の長野氏と区別するために、「長野工藤氏」と呼称されている。


つまり「長野氏」にはいろいろ流れがあって
1つは坂東平氏の工藤家の「長野氏」ということで
他にも「長野氏」は存在した


????


東国から鎌倉幕府の命でやってきた新参の長野氏のほかに
前から存在した地元の長野氏がいた?
地元出身の長野氏は新参の工藤長野氏に駆逐され消えた?


日本の名字は一筋縄でいかないので難しいですね。

私がずっと考えていた「長野氏」は工藤系じゃなくて平家系と思っていたのですが
北畠家と関係が出来て・・・という長野氏があったのですか。

ワケ分からなくなった〜(笑)
これが日本の名字のややこしい1つだと迷宮入り!
自爆
[27]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月28日 22時56分01秒 ) パスワード

>すでに江戸中期には平田徳左衛門から改姓した苗字が刻まれています。


よく分かりませんが
「平田家」という名字と家紋については
江戸時代に「整理」という形で「分家」については別の姓を名乗るとか家紋を使用するとか
あったのじゃないか?と思います。


我が家の場合は落人になって姓を変え家紋を替えたので
元に戻すのに
名字については240年かかり家紋については許されなかった。


ですから江戸時代になんらかの行政指導があったのかも。

年寄役というのには全く知識はないのですが
江戸時代の人別帳?でしたっけ?
出自とか記したのがありますよね。

こういうのが記録として残ってるといいですね。
ま、見ることのできる機会というのは無いでしょうねえ、普通。
[29]平田半蔵さんからのコメント(2007年03月29日 23時00分17秒 ) パスワード


 何気なくネットをみていてこのサイトに当たったのですが、
 ちょっとびっくりしたのは家も丸に立ちおもだかの家紋で
先祖は服部半蔵の流れをくむと先祖に聞いていましたもので。

 しかし本籍は長野県飯田市で少々三重からは離れます。先祖
には国学者が幾人かいますので平田篤胤の流れでもくんでるの
かと思っておりましたが。廃藩時士族平田なにがしとあるので
武士だったには違いないようですが。

 何かの縁があるかも知れませんね。
[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月30日 02時17分55秒 ) パスワード

>本籍は長野県飯田市

元は服部家のようですか?
そうすると伊賀平氏の平家ということに集約されると思いますけどねえ。


飯田との地理的関係からすると
まず南朝方で宗良親王に従い浪合村まで転戦して、そこに留まった一族か
その後、武田信玄に仕えた一族か
そのあたりじゃないでしょうか?

   武田家臣の服部一族も
   武田家滅亡の後に
   関東に移った家もあるし
   伊勢長島の戦いに参加した家もあるし三重県や愛知県に定住するようになった家もあるし。


人間は「動く」し
家紋はどこの家でもいくつかあって不思議じゃないですけどね。
江戸時代に1つ2つに収まっていったと思いますよ。そして現在はどこの家でも1つしか使ってないと思いますね。

家紋の無い家もあるそうで
一体どういう過程をたどった家なのか?
別の意味があるんだろうなあと思うけど

たいていは1つ以上伝わってると思いますよ。
明治になぜか違う紋を使い出したという家もありますでしょうし。


我が家も
父方は1つしか使いませんが
母方は家書に書かれているイロイロな紋やら、女性だけが結婚する時につける紋がありますし。


名字は事情でいくらでも細分化するし


平田篤胤は養子に入って平田姓になった人で、この平田家も岡山県に移る前はどうだったのか?


人間は「移動」するから
その上、直系でなく養子や融子というのもあるし
乗っ取るというのもありますしね。地縁・血縁。方法はいろいろだと思います。
例えば伊勢の工藤長野氏なんか元からいる長野氏には「うちの名を乗っ取った」という存在でしょう。
もしかすると地元の長野氏の娘を娶って、長野氏と呼ばれるようになったかも知れませんしね。



家紋から先祖を捜すというのは逆だと思いますよ。
表紋・裏紋
拝領紋
それから女性が自分で好きなものを紋にして自分だけが楽しみで付けたというのもありますし。


やっぱり御自分の家に伝わる話が1番の「アイデンティティ」なので
平田篤胤の平田家に話を持っていくなら
岡山に移動した服部家で別スレッドの「隈さん」が遠い遠い御親戚でしょうねえ。


我が家も母方の親戚に紀州藩の平田家がありますが昔々の縁で婚姻したんだろうな想像しています。
やっぱり南朝方だったことと反信長の御縁だろうなと思っています。

林大学頭の子孫で、某御3家の林家の子孫がいうには「うちは源氏」と称していますが
こんな感じでわらっちゃうんですけどね。鼻の先でフン!と。

それでうちの親戚の紀州の平田は何姓を名乗っているのやら。
当然やっぱり「源氏」なんだろうな、と鼻の先でフン!と笑ってるのですが
これをやるから親戚一同から白い目で見られてます。


源氏じゃないのに母方は源氏を称してますよ〜
でも確かにそう称していた時代もあるわけで
しょうがないです。
これが母方のアイデンティティなんですから。


平田篤胤も生家か母方かどっちかが平田家の親戚というのは充分考えられますからね。
昔は馬の骨なんか家に入れませんから
昔々、大昔、なんらかの縁があったと思います。


日本人は8代遡ったらみんな親戚になると夫の甥が京大に行ってた時に聞いてきたので
私も平田篤胤の親戚かもです。笑
わたくし個人のDNAには伊賀の大山田の平田の遺伝子が入ってると思っていますけどね。
平田家継の名を見ると涙がとめどなく流れて止められないですから。
[32]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月03日 01時16分31秒 ) パスワード

昔、1980年代の初めか、もっと前か、
その頃、こんな平家落人伝説を知りました。


服部家次という人物が宇都宮家を頼って落ちて行った。
(平貞能は服部家長の兄で、宇都宮家を頼って落ちて行って保護されたので、その関係と思います)
残念ながら断られた。
それで家次一行はもっと山奥に落ちた、
そういう落人伝説です。秘湯で今は知られた場所です。


この時は(ふ〜ん)で終わっていたのですけど

1字違いの「家継」については全く知らない人物だったのに見た瞬間涙が止めどなく溢れました。
服部家長の弟の平田家継です。


母方に嫁に来た紀州の平田家が家継の子孫なら理解出来ます。
機会があれば紀州藩の武士の記録に出会うでしょう。
その時にハッキリするでしょう。


結局日本人という民族は、同じ日本国内で何重にも血が混じって今日に至る、と思っています。
わたくしの中には父方でも母方でも平田家継の血が流れているんだろうな、です。


「血湧き肉踊る」
これはDNAに刷り込まれた過去の記憶の遺伝子が反応して興奮していることだと解釈しています。

だから初めて出会った人にも何か懐かしさや嬉しさを感じたり逆に嫌悪感を懐いたりする、って。


わたくしの場合は草摺りの音とか雄叫びとか「戦い」の記憶が遠くにあります。
華族出身の知り合いの女性達は十二単を着て貝合わせや歌を詠んでた記憶が浮かぶと言ってました。
私にはそういうのは無いです。

わたくしにあるのは戦国時代の終わり(関が原のあたり)までの遠い感覚です。
ここでブチッと記憶が切れてます。

階段から転げ落ちる恐怖とか火事で死ぬのが怖くて、気をつけなきゃ、といつも思ってます。


鎌倉幕府の終焉の戦いでは刀を両手で受けて指が切れてポロポロ落ちる感覚があって
鎌倉幕府時代の戦いのシーンは見られないです。
戦国時代の合戦シーンにはそういう反応は無いのですよ。

北条仲時さまを好きだった母方の先祖の女の子の経験を思い出しているんだろうなと思います。
北条の人間は嫌いなんですが(母方先祖の妻が時政の娘でしたけど)
仲時さまだけは別で、この人のにっこり笑う顔が記憶に焼きついている感覚があるんですよ。


>子孫の私でも(凡人なので)全然そんなことにはなりませんが・・・。

父も姉も弟も全く無いようですよ。
父は何度も伊賀に行ったそうですが何にも感じなかったって。
それで昔のことなんか分かるもんかと言ってます。

わたくしだって(何で家長関係者の件で泣けないんだあ〜)と思ってます。
泣けるのはなんで家継の方なんだ?って。


「平田さん」にはドッチの平田さんなんだろうな?ってツイツイ思ってしまいます。
だけど「平田姓」には日本人の希望が詰まってますから←平地に田圃が欲しかったわけでしょ
関係無い平田さんは多いでしょうね。


多分「百地さん」が平田家継の子孫なんじゃないかなと想像しています。
平家関係者から伊賀で百地姓の凄い目をした男の子に出会ったと聞いたことがあるので
こういう人物に出会いたいと思ってます。

出会ったら「泣ける」と思う。
1000年分の涙が出るように思います。
平将門を討った以来の涙です。


今迄の人生を振り返ると
わたくしの人生は御先祖さまが必ず助けてくれてましたよ。
何度も生死をさまよう経験+体験をしましたが
今でも五体満足で生きてますから。

世の中には苦労の連続の人生の人がいますでしょ。
私の場合は「幸せ」「幸運」の連続でした。


御先祖さまが助けてくれているんだろうなって
感謝してるんですよ。


2002年の7月に「いつもだったら」私も射殺されたか大怪我したような事件が起きたのですが
文字通り「神風」が吹いて!(台風)
私は「いつもの場所」にその時はいなかったんです。

知ってる人が2人殺されて、知らない人も数人殺されて、大勢が怪我して。
この時は(母方の御先祖さまと氏神さまがが助けてくれた!)と思いましたよ。


偶然なんだろうけど、私には「必然」でしたよ。
なんせ神風に助けられた命ですから。


自分が生まれたことについて先祖に感謝してますよ。
先祖あっての自分だなあって。

だから家継の名前を書きまくっているのかも。
誰か家継を思い出してくれる人はいないかって。
[34]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月03日 14時56分21秒 ) パスワード

>服部家次とは平家次のことですか?違う人物ですか?

全く分かりません。
伝説を読んだのはもう何十年も前ですから記憶に定かじゃないですし
興味が無かったし。


>平家次(平田家継)は佐々木源氏との戦いで戦死しているはずですが。

はい。
この人は家「継」の字でしか見たことはありません。
「次」でも古文書には出てるでしょうけど。


>平家貞の息子は、長男が貞能、次男が家次だと思ってますが。

家継は四郎だったと記憶しているので4男だったんじゃないかしら?

昔の兄弟の番号はなんとも言えないですよ。
母が正妻なら遅く生まれても嫡男になるし太郎にもなるし
母が正妻でないと長男に生まれても嫡男にはなれず太郎にもなれず(長子というそうですよ)

と、そういうのもあったようで

貞能はきっと正妻の子だったんじゃないかな?と思います。家貞の跡を継いで清盛家の家老ですしね。
家長と家継は身分が下だったように思います。「家」の字から始まってますから。

でも分からないです。


家長は身分的には家継より上です。
なぜなら清盛の4男の「知盛さま」の御守り役ですから。
もし家継が宗盛の御守り役だったら家継の方が格上だろうと思うけど、
そういう記述が無いのですよ。

だから客観的に考えて 貞能>家長>家継 こういう順番だろうな、と。


昔は生まれた順番より母の実家の格が先に来るから  なんとも言えない  です。
こういうことが何かにちゃんと出てると良いのですけど。


(我が家の母方も 祖父が○十郎という名で、 弟になる大叔父が X次郎 なんですよ。
だから、 名前の四郎だの六郎だのという呼び名もアテにならないし
昔のことは本当に今の感覚からは分からない点がいろいろあります)


家長は六郎だったように(平六)思うのですけど
だったらなんで知盛さまの御守り役なんだ?という疑問があるし。
そうすると母の出身のせいか?


>家長が伊賀忍者の始祖とは聞いてますが。

ですよ。


>この家長は家次の兄弟ですか?

ですよ。


>その子孫に百地家があり服部半蔵がいると認識しています。

私は忍者の話はよく分かりませんが
百地や半蔵は時代がずっと下がって戦国時代の人で

強力な指導者のいない伊賀の覇権争いに 湯舟の藤林vs喰代の百地vs千賀地の半蔵 の戦いがあって
藤林と半蔵が組んで百地を追い出し、藤林が半蔵に譲歩した、そういうふうに解釈しています。

千賀地の半蔵はそんなに身分の高い家じゃなくて、それで2代目あたりの時に伊賀人が反乱を起こした
「半蔵の家は我等の家より格が落ちるのに態度がデカイのは許せない」
そういう話を読んだことがあります。

ここでも名乗っちゃったモン勝ちで
半蔵の家はたいしたことないのに服部姓を名乗って家長の後裔を標榜している
そういうことだったんじゃないかな?


俗姓の藤林や百地は悔しかったと思いますよ。
家格は半蔵の家より高いのに自分とこは「服部姓」を名乗れない。

(甲賀の望月家も絡んで、このあたりのドタバタは面白いですよ)


平田家は大山田村ですから、北伊賀の服部からは、やっぱり土地的にも落ちると思う。
なんせ服部には服部神社があるし。←忍者の守り神なんでしょ?元は秦氏というか

こういうことを思うとやっぱり 家長>家継 という差があったのかな?と。


>家継に服部という姓をつけるのは疑問です。

服部家が潰れてますからね、平田家も潰れている。
だから平田家の人間が服部家を再興してもおかしくないです。

(昔の戸籍はいい加減ですから、今の戸籍法で考えない方が良いと思います)

つまりそういうことで  
服部家の正統な後継者はどの家か?
と 藤林vs百地vs半蔵 の争いがあったんじゃないかな?


後継者問題って 皇室の愛子さまvsひさひと?さま問題同様 大変なんですよ。


家が潰れそうになると誰かが継がなきゃいけない。
ま、平家が滅びてからの伊賀の正統な後継者は宗清なんでしょうけど、
頼朝を助けているから正統な有力者は宗清の家でしょうけど
この人も服部姓で見掛けますよ。

それで宗清をめぐってゴチャゴチャして柘植なんか服部姓を名乗るな!と反発があったでしょうし
柘植さん(柘さん)だって頼朝のバックを頂いて負けてはいないでしょうし。


誰が誰なんて後世から考えたって無理なんですよ。
力のある人間が奪うのが1番ハッキリしてて良い。
そこで戦国時代の終わりに半蔵が徳川さまと結んで伊賀=半蔵で収まった。

(だけど伊賀の人間は 半蔵1代目+2代目を感情的に許せない)「自分こそ!」と思うから。

平田の子孫が服部家を継いでもおかしくないですよ。血で繋がってるから。


だから宇都宮に行った伝説の服部家次という人物は
ハッキリ言えるのは確かに平家の人間で伊賀の関係者で
服部家長か平田家継の血族関係者で
貞能にならって宇都宮家を頼って落ちて行った
そういうことでしょう。

同じ家貞の子孫でしょう。一族の人間ですよ。いいじゃないですか服部も平田もこんがらがって。
宗清だって頼朝から伊賀の後継者として許されているんですから服部を名乗ったって。


平田さんが服部家長の子孫というお話が伝わっているなら、そういうことなんですよ。
どこかに事実があるんですよ。
[36]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月03日 15時13分41秒 ) パスワード

ここで柘植さんが出て来ちゃいましたね。


昔映画でありましたよね。
「梟の城」。

あれは秀吉の時代で
主演は中井貴一でしたっけ?
違ったかな?
柘植って忍者が出て来ますよね。

名前を見てるといかにも伊賀だなあって名前ばっかりですよね。
葛籠は知りませんが。


柘植(柘)さんも自尊心は高いと思いますよ。
特に頼朝関係で。


伊賀という場所がこうしてどんぐりの背比べでゴタゴタやってたというのが分かりますでしょ?
みんな正統な後継者なんですよ。

それで織田信長にやられちゃった。

配役  
葛籠重蔵 ................ 中井貴一
小萩 ................ 鶴田真由
木さる ................ 葉月里緒菜
風間五平 ................ 上川隆也
摩利支天洞玄 ................ 永澤俊矢
服部半蔵 ................ 根津甚八
下柘植次郎兵衛 ................ 山本學
黒阿弥 ................ 火野正平
前田玄以 ................ 津村鷹志
豊臣秀吉 ................ マコ・イワマツ
雲兵衛 ................ 筧利夫
石田三成 ................ 花柳錦之輔
上野弥兵衛 ................ 若松武史
老女 楠 ................ 馬渕晴子
淀君 ................ 田中伸子
今井宗久 ................ 小沢昭一
徳川家康 ................ 中尾彬
葛籠太郎兵衛 ................ 中村敦夫
北政所 ................ 岩下志麻
ナレーター ................ 中村敦夫
[37]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月03日 15時46分22秒 ) パスワード

訂正:
伊賀人のストライキがあったのは3代目半蔵の時代ですね。
ちょっと勘違いしました。

「影の軍団」の半さんは4代目になるんだ。


>明治政府に全ての家に苗字を付けることが義務化されましたが、
>美里村の平田さんの中にも明治以降の平田さんもいると思われます。

だと思います。

でも明治以降に称した平田さんというのは
江戸時代に名字の許された平田さんじゃないというだけであって
本当は一族だったんじゃないかな?

でなきゃ(アイツが平田姓を名乗るなんて許せない!)と周りからの圧力で
平田姓は名乗らなかった、名乗れなかった、と思います。


昔は身分差が凄かったから
長男だけが(嫡男だけが)えらくて
次男以下は家畜並みだったんですよ。

だから次男以下の家というのは長男の家に対して主従関係になって行きましたから
当然表立って平田姓を名乗れない。
でも心の中ではオラッチだって平田だという思いがあるから
明治になって堂々と平田姓で登録した。

平田姓も庄屋や年寄りなどの役付きの正統な平田姓の人はいいけど
江戸時代苗字も屋号でも平田を名乗れなかった庶民に対して
アイツは明治以降うちの苗字を名乗りやがって
そう思うかも知れない。

哀しいよね。

「平田」じゃなくて、いっそ「平家」とか「平」とか名乗っておけば良かったのにね。
2007年の現代は「平田さん」と「平さん」と「平家さん」がいたら
格は
平>平家>平田かな?
あくまで「平熱上」ね。笑
いっそ「桓武」とかね。

「うちは桓武天皇の子孫ですの」ほっほっほっ

こうして逆転になります。笑
名乗っちゃったもん勝ちです。(それがあの時代には可能だったんですよ)

正直申告で本姓じゃなくて俗姓や屋号を登録した家は悔しかっただろうな。笑



>美里村の平田一族は、戦前まで長い長い間、同じ平家の血筋の家だけで
>婚姻を繰り返していますので新参の平田さんとの区別はあったと思われます。

ですね。
平家の子孫というプライドと
平田家の子孫というプライドがあれば
身分の高い家同士で婚姻したと思います。


昔は身分がハッキリしてましたから、次男以下の家の流れは下の方に組み込まれましたから
そういう家とは許さなかったでしょう。


昔は長男だけが結婚を許されて次男以下は奴隷のように働かされるだけというのがありましたよ。
武家でも次男以下は「部屋住み」と呼ばれて小さくなってました。
3男以下は養子に行くものとされてました。
(次男は長男が死んだ時用にスペアだった。長男に子供がいないとかね)

まるで皇室の愛子さまvsひさひとさま問題ですよ。
秋篠宮さまはスペアですよ。で、スペアに男子が生まれた。


こういう問題が昔は日本中であったのですよ。
男子は長男に生まれなくては何にももらえないんです。
長男のために命を捧げる存在だった。

だから正室が嫡男を挙げないことには大変。


美里村の新参の平田家も旧家の平田家からは認められていない。
でもちゃんと平家貞の子孫じゃないのかな?


平地に田圃が欲しいという理由で平田姓を名乗った人は本当の新参だと思いますけどね
でも
同じ苗字で、同じ希望なんですから、お仲間に加えてあげてくださいよ。笑
[39]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月05日 02時08分10秒 ) パスワード

>応仁元年(1467年)

この年代ですと南北朝戦争が終わって落ち着いた時代ですね。

ですから「家継」で語るには余りにも時代が離れている。
ざっと300年近い年月の後ですから。


平家が負け
鎌倉幕府の世になり
鎌倉の代官に反抗しつつ
後醍醐天皇が出現し
南北朝の戦いがあり
伊勢伊賀の元平家は宗良親王に従い浪合村まで転戦し
所々で落ち着いた平田氏もあり
一部は伊勢伊賀に戻って定住を始めた。

ここでやっと
平田氏は亀山市にある海善寺城から応仁元年(1467年)伊賀枚田郡平田に城を移した
という話になると思いますよ。


伊賀伊勢は平家の本貫地ですから
伊賀伊勢中に身を寄せる所があって
伊賀伊勢あたりには平田一族がそこら中で武装して住んでた。
その1つが海善寺城ということで15世紀の応仁の乱に巻き込まれて行く。

そして100年後織田信長と激突した

そういう流れですね。
[40]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月05日 02時26分17秒 ) パスワード

ということで

平田菊蔵さんが平田兵庫頭の正統な御子孫ということになるんでしょう。


それで
平田菊蔵さんが南朝方だったかで反鎌倉だったのか?
分かると良いですね。

そういう言い伝えがあるなら逆から想像して「平田菊蔵さん宅は平家だった」となるでしょうし
もし北朝方だったなら鎌倉から来て平田姓を乗っ取った?婿に入った?そういうことになるのかな?



鈴鹿も
平家が滅びて家継が鎌倉方に弓を引いた時に一緒に戦った
平信兼の勢力範囲ですから

そういうよしみで平田家と平信兼の子孫は手を取り合って生き延びて来たんでしょうね。


>家継が戦死(嫡男、家兼も戦死か?)した

家兼の名を見て
おーおー!
平信兼から貰った「兼」をくっつけた名前なんだろうな!
と思いました。


こういう名前からその時代というのが分かりますね。


まだ平田菊蔵さんの御家が存続しているなら
ここの御宅に系図があるんでしょう。
すごい発見ではありませんか。


かなり本筋に近づいたと思いますよ。


でもわたくしが見た本の記憶からすると「平野」という南朝方の武士は存在するんですけど
平田姓は無かったような???


菊蔵さん御一家と親しくなれますように!
[42]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月05日 23時28分02秒 ) パスワード

>それを発掘調査の人に見せていてもいいはず。


いえいえ
御当家の方達にはそんな気にはなれないようですよ。

藤原忠清の御子孫の家でも拒否してるって聞きました。


それなりにそれなりの理由があって
外野が思うほど簡単なことじゃないようです。


平家が滅びて800年強の歴史がありますから
その間の歴史というのは
外野の「公開してくれればいいのに」という簡単な思いには合わないようです。


だからこそ「心」で迫らなきゃね。

藤原忠清の御子孫の人も「心」で説得されたら蔵を公開したと思いますけど
そういうのが無かったんでしょうね。
[43]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月06日 13時00分37秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2007年05月01日 17時23分40秒
[44]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月06日 13時11分35秒 ) パスワード

すごい情報が入りましたね。
お返事が頂けますように!
楽しみですね。



>平家兼が居る。
>字は平五、故筑後入道家貞が孫、平田六郎家継の子となっている。

家兼は平5
ということは5男ということで平五郎(平家の五男)ですか。

母は信兼の娘なのかしら?
空想が膨らみあmすね。


家継は6郎なんですか?驚


>平重盛系の実忠なる人物

お初にお目にかかりました。笑
どんな人物だったんでしょうね。


>一筋縄ではいかない流転の歴史。

そうですね。
でも、そうだからこそ、空想や夢が広がりますね。
[45]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月06日 13時24分08秒 ) パスワード

昔の兄弟の順番ってホントわけが分からないです。

家継は4郎の他に6郎説もあるんですねえ。6男だったのが上の兄2人が死亡して4男になった?

平田の叔父の家に養子に行ったから平田の太郎とも言うらしいし。




古い書き込みを拾ってきました:

出典はここ
(無断使用ごめんなさい。不都合がございましたら削除いたします。ぺこり)

http://www3.ocn.ne.jp/~mh23/heike232.htm

「平家物語」 下巻32話では

同じく18日、肥後の守・定能の叔父・平田入道定次ほか、伊賀と伊勢両国の官兵が、
近江の国まで討って出ましたが、源氏の末葉らと合戦に及び、たちまち、討たれてしまい
ました。平家に連なる家人達で、平家のよしみを忘れない者達でしたが、余りにも無謀な
戦いでしたから、世にこれを、三日平氏と言われました。


とあるそうです。
よく分かりませんが
という事は平田家継は平家貞の息子に生まれ家貞の弟(貞継)の所に養子に行った?
[46]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月06日 14時35分26秒 ) パスワード

久保文武氏の「伊賀史叢考」によると、

家貞
  平田入道(源平盛衰記)筑後守(尊卑文脈/東大寺文書保延三年文書)
  左衛門尉(中右記)

家貞の子(年齢順から)

1.家長
    平六・平内左衛門尉(源平盛衰記)
2.家実
    中務丞(尊卑文脈/東大寺文書保延五年文書)
3.家継
    平田太朗入道(吾妻鏡/尊卑文脈/玉葉/源平盛衰記)
4.貞能
    前筑前守(尊卑文脈/玉葉)
    筑後守(源平盛衰記)
    肥後守(源平盛衰記)
5.貞継
    平田四郎法師(源平盛衰記)
6.家員
    十郎兵衛尉(源平盛衰記)

と、あります。
書いてあることがまちまちで混乱します。
要は皆一族ということでよろしいかと。
[47]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月06日 23時57分13秒 ) パスワード

へえ〜
ホントまちまちですねえ。

家員は平家物語で義経の ごじょう ということで那須与一が射殺した老人ですね。

貞継は家貞の子になってますか。一説では弟だけど。

貞能が4番目?この人はどっちにしろ身分の高い女性に産ませた子だったんでしょうね。

家実は早めに死んでるのは知ってましたが。


家長が長子になりますか。
お祖父さんが参内する時に護衛について行ってるからかなりの年齢とは思いますが。



昔の家族関係というのは本当にややこしいですね。
ありがとうございました。
[48]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月09日 12時25分22秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2007年05月01日 17時25分21秒
[49]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月10日 10時45分00秒 ) パスワード

あらあ〜
良かったですね。


>玉石混交は織り込み済として

いえいえ、こういう事がその御家のアイデンティティなんですよ。
それなりの理由があったワケです。

外野には合理的な意味が分からないからケチをつけますでしょ。
それで系図とか家書というのはヨソモノには見せないとしたものです。


貴重なものなのですから
本当に心から感謝と誠意でワタクシの分も拝見させて頂いてくださいね。


良かったですね。
5月に、こんなに早く見せて頂ける機会ができて。
ご先祖さまに感謝なさってね。


何か繋がりが分かると良いですね。
どこの出身か
平家か
南朝方か
反信長か
そういうことも忘れずに訊いてきてくださいね。

うん、楽しみだ〜
[50]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月11日 17時13分23秒 ) パスワード

http://wagafurusato.michikusa.jp/oonohara/oonohara.htm

上の「平田家の開墾」を読むと、平田与一左衛門のことが書いてあります。
この人は江戸時代の伊賀の平田出身らしいです。大金持ちだったとか。
現代の子孫の人はいるかな?
[51]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月12日 02時33分41秒 ) パスワード

平田与一左衛門でしたら香川県あたりの四国に飛びますね。
生駒関係って、信長の愛妾の生家の生駒家関係になるのかしら?
江戸時代、徳川家がらみで、生駒さんに従って四国に移ったのかしら?

江戸時代の出身がハッキリしているということは、やっぱり平家がらみかな?
それも大山田村の平田だったら平家の平田さんでしょうねえ。


飛びついでに

新潟県北蒲原郡に
豪農平田多七、平田類右衛門
という人がいて北海道に平田農場を開いたそうですよ。


明治の初め頃までは人口が多いのが新潟で
東京より栄えてた
という話をNHKの何かの番組で見ました。


ま、人間は動きますから、「平田姓」や「大山田の平田出身」からでは遡れないですね。

大山田の平田さんもいつから平田姓を名乗ったか分からないですからね。
名門平家の平田家の跡を継いだだけかも知れないし。

5月の訪問が楽しみですね。
[52]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月13日 14時09分25秒 ) パスワード

 >大山田の平田さんもいつから平田姓を名乗ったか分からないですからね。
名門平家の平田家の跡を継いだだけかも知れないし。

その可能性もありますね。
長野氏は北朝方についたとありますからね。
平家筋は皆、南朝方ですか?
[53]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月14日 00時17分10秒 ) パスワード

>平家筋は皆、南朝方ですか?

「政治力学」という言葉を聞いたことがありますか?
「敵の敵は味方」という言葉を聞いたことがありますか?
まだ世間とか職場でとかの権力抗争に巻き込まれた経験は無いですか?

世の中は単純明快じゃないです。


先祖の苦労ってピンと来たことがありますか?
「北の零年」とか「バルトの楽園」で初代開墾者の苦労が描かれていて
(大変だったんだあ〜)
と思いましたが

昨年我が家の庭の樹齢7年のまだガキの木を切って根を掘り出したのですが
    うちはウインチを使って掘り出しましたが
機械の無い時代に人力で幼い木でも根を掘り出す大変さというのを体験しました。

それを考えたら先祖がどんな思いで土地を守ったか
その命懸けの思いというのがちょっと分かった気がしました。


日本人の場合は「土地」とか「場所」というのは必死に守るものなんです。
その為には敵も味方になったり、ある朝、突然に、味方が敵になったり。


で、本題に戻りますが
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すのに
諸国の武士に声を掛ける時(院宣って言いましたっけ?)
書記官達に鎌倉の「敵」を調べ出させて命令を出すんですよ。


「鎌倉幕府の敵」は?と考えたら最初に浮上するのはどこか分かりますでしょ。


最初は敵が北条家ですから源氏の足利や新田も後醍醐方。
そして北条家が滅亡。
やがて争いは足利と新田の潰し合いに移った。

ここで
1.新田と旧平家勢力が結びつきますよね。
2.足利と結んだ旧平家もあったでしょう。

というのは
旧平家の中でも、源氏の足利vs新田の争いのように、内訌してた家はありますからね。

それ以前に旧平家でも頼朝方になったのがあります。頼盛家や柘植さんなんかそうでしょう。
また柘植家や頼盛家の中でも分裂していたでしょう。
こういう事態で、そういう内訌が噴き出すんですよ。


だから「平家=100%が南朝方か?」と話題をふられたら困る。
でも伊勢伊賀に於いて「平家で北朝方だったら」最初に血祭りに挙げられたのでは?

(平家で北朝方だったと言う人にはまだ会ったことがないです)


人間関係は複雑ですよ。
地縁・血縁という言葉がありますでしょ?
「血」で敵と親戚になってた家もあるでしょ。


わたくしの母方は
父が17才の時の長子に生まれて、元寇の戦いに14歳で出陣し、怪我もし
ずっと自分が後継者だと思ってたんです。

長生きの父親が62でやっと死んだと思ったら(笑)

遺言状に第9子の1番下の弟に家督を譲ると書いてあって(←北条家出身の正妻の子)
わたくしの母方の先祖は怒り心頭に発し!

鎌倉から出身地に帰り、この怒り、どうしてくれよう!と毎日を鬱々と送り
その子孫の時に後醍醐の院宣が下ったわけです。

当然母方は北条を敵としました。(当たり前よね)
その後
当然南朝方になりました。

その頃には楠木方の旗や紋を使用してました。
そして新田と行動をした一族の者は琵琶湖の北で大敗北して
このことが「太平記」に書かれています。


家書も、北朝方と南朝方の記事は微妙に違うんですよ。
その使用された文字で北朝方か南朝方かハッキリするんです。
これがアイデンティティということです。


平家の場合も
1180年代に滅びてから150年ほどの間にいろいろあって

鎌倉とつるんだ家は当然北条方だったり
あるいは
足利方だったという家もあるでしょう。

伊勢伊賀はこの時代だいたい南朝方ですよ。
(とはいえ北条についたり北についたり)
そういう身内の争いを日本中でエンエンとやったのが南北朝の戦いなんです。



たとえば南朝方ナンバー1の忠臣楠正成一家でも
子供の1人は北についたりしてますよ。3男の楠正儀です。
そして自分の立場が悪くなって南朝方に戻ったりね。


足利尊氏の弟も後醍醐天皇方についたりね。


これが日本の有名な内戦の現実です。
何が何やらグチャグチャですよ。
それが内戦ということです。


ですから無邪気に「平家筋は皆、南朝方ですか? 」とふられると・・・困る。


わたくしもね経験しました。
アメリカで長く働いて、遂に、職場で日本人同士が喧嘩して
これに勢力争いが絡んで、
職場が2つに割れたんです。


(面白〜い!)
と見てたらね


なんと!
両方からワタクシが「敵」として見られて両方から「攻撃」を受けましたよ。
自爆

そんなもん、さっさと勝つ方を見極めて旗幟を鮮明にすべきでした。
Show the Flag
ですね、最近の言葉では。


戦国時代の伊賀の頭領争いでも
3家に収まって三つ巴の戦いをやって
結局百地は藤林服部の連合軍に敵対して
藤林服部連合軍の足を引っ張る行動に出たようですよ。


わたくしとした者が、日和って高見の見物を決め込んでたら、
いつの間にやら、彼らの共通の敵にされてました。
ウッソー!だったよ。何でワタシが?って。
「私はどちらにもつかず平和・平等の人間の立場でいたかっただけなのに!」

これは
現在イラクでガタガタやってますが「敵の敵は味方」という言葉があるように
    人の心の中は分かりませんから
いつの間にやら自分が1番のワルにされてたという現実でした。汗


喧嘩やってる双方の話を面白がって見たり聞いたりしてたらね
会社の本部から呼ばれちゃって事情聴取もされたりして・・・
当の本人達は「知らぬ存ぜぬ」で通してましたよ。

両方からその事情を1番良く知ってるのは「ワタシ」なんて会社に報告されててね。


結局半年後に自分でこの争いを解決しましたよ。
結果は思わぬ人から期待され、尊敬してた人からは引っ越すまで敵と思われて軽蔑され。
誤解なんですけどね。でも誤解を弁解しようとは思わないです。
わたくしの一生の不覚。人生の汚点です。


あの時代「高見の見物」で消された家は多かったと思いますよ。
そういうことで伊勢伊賀で今も残っている家系図を持ってる家なら平家・南朝方で反信長という家だと思います。

伊勢伊賀で反平家で反南朝方で親信長だったという家の人がいたらお友達になりたいです。
どういう思いで800年を超える日々を生きてきたのか知りたいです。
敵の中で孤立して生きた、という知恵とか強さを尊敬してるから。

ま、婚姻かな?と想像してます。
[54]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月14日 08時52分26秒 ) パスワード

ごめん!
読み直したらすっごく長かった!
ぺこり


院宣を出す時
諸国の武家に命令を出すでしょ。


朝廷はね実績のある者(とはいっても実力じゃないのですよ)
つまり姓のある者ですね(源平藤橘などの)

だから北条を倒す時は源氏や平家に当然命令が出る。


平家は「過去の栄光よ、もう1度!」と考えているだろうから当然お声がかかる。
伊賀守なんてタイトルをいただいて一族をまとめて後醍醐のもとに参集する。


能力のあった楠正成の場合は先祖に過去の実績がないから(楠?WHO?ですよ)
利用はされても重用はされない。
楠正成の参内の時のお話なんて気の毒ですよ。

で、能力はなくても身分が高い公家がクチを出す。


そして足利尊氏が天皇を豊仁親王だっけ?(光明天皇)を押し立てて後醍醐に対抗する。
持明院統は後醍醐に対抗して諸国の不満分子の武士に命令をだす。


だから伊賀伊勢でも北朝方についた家はあると思いますよ。
でも、その話を聞かないのですよ。
伊勢の国守の北畠家は南朝方ですしね
反織田信長の時には伊勢や伊賀や西尾張あたりの武士は北畠を頼ってますしね。


(淘汰されたんだろうな)と思ってます。


実際には南朝方は負けてるんですけど楠正成なんて日本一の忠臣だし
軍隊で「足利出身」というだけで上官に殴られたなんて読んだことがありますしね

その土地で生き延びるのに伊勢伊賀あたりは平家で南朝方で反織田信長がスローガンだったと思いますよ。


>平田兵庫頭系図

ここの御宅はどうなんでしょうね?
実に興味があります。
[55]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月16日 12時41分18秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2007年05月01日 17時26分54秒
[56]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月16日 22時57分16秒 ) パスワード

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nagano_k.html
>ここを読むと長野工藤氏はおおむね北朝方について行動した、と書いてあります。
>どうなのかなぁ・・・?


この「長野氏」は工藤系ですから当然北条方になりますが
私が「南朝方忠臣の○家X名字」の欄で見た「長野氏」はこの長野工藤氏じゃないようですよ。
だから私が見た長野氏はもともと伊勢伊賀の長野さんなんだろう、と。
それとも長野工藤氏が分裂して南朝方についた長野工藤氏なのか?


南北朝時代はグチャグチャですよ。
我が家の母方の先祖も戦いに行く時に船に乗るのに北朝方と一緒に乗ってた
という話を読んだことがあります。
(作戦としてこっそり敵に混じって乗船した)という有能な話じゃないです。


もうボケボケのことをやってたようですよ(笑)


どんぐりの背比べみたいに
力が同等だったからこそグチャグチャやってたんじゃないかしら?
なかなか勝負がつかなくて、死闘を繰り広げた、そんな感じ。



平田兵庫頭家系は平家だったのか南朝方だったのか反信長だったのか
そのあたりだけでも分かると良いのですけど。
[57]さんからのコメント(2007年04月17日 10時40分38秒 ) パスワード

平田徳左衛門さん、どうも初めまして。
ギャンブラーさん、こんにちは。(^^)/

突然横から失礼します。m(__)m

長野城主家臣の清水家は北朝方では?というお話ですが。

上にリンクされたページにもあるように、結局永禄元年には北畠具教の二男具藤が長野氏の養子になり、
長野氏は北畠の幕下に入ってるんですよね。

ということは、清水氏は元々長野工藤氏の家臣だったのか、それとも北畠具藤の養子縁組の際に北畠家からついて来たのかで状況が変わってきますよね。

長野工藤氏と家紋が同じということで、おそらく殿様から拝領した紋だと思いますが、
それも養子縁組の後のことかも知れませんし。


ちなみに、このような清水氏もおられます。
(管理人さん、もしリンクに不都合がありましたら削除して下さい)

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/irokawa.html

>色川清水氏

このお家はギャンブラーさんおっしゃるところの「バリバリの平家・南朝方」ですね。
(^^)

もっとも「清水」というのはよくある姓ですから、長野の清水氏がここの出身であるかでどうかは分かりませんが。参考までに。
[58]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月17日 11時35分43秒 ) パスワード

隈さん

お久です。
さすが、隈さん、面白いのを引っ張っていらっしゃいましたね。


維盛は入水と偽って行方をくらましてあちこちで子供を残しただろう
というのは想像できますね。

さらに新宮の十郎さんの子孫だの頼盛どのの子孫だのが出てきて
こういう子孫が存在するのは十分考えられるし。



>結局永禄元年には北畠具教の二男具藤が長野氏の養子になり、
 長野氏は北畠の幕下に入ってるんですよね。


それで長野氏は南朝方って言うようになったのかしら?

本当に「いつの話を言ってるのか」で話がまったく変わって来るから
これが「その家のアイデンティティ」ってことなんですよね。
確かに「事実」で(笑)
永禄以降は南朝方だったのは「事実」だと言えるわけで。(笑)


家とか血とか
そういうのがゴチャゴチャなんですよね。


北朝方だったのが南朝方に化ける
また
南朝方だったのが北朝方に化けた
というのもあるんでしょうね。


結局日本人は「みんな親戚」ということでヤッパリ納まっちゃうか。

だから「昔のことは分かりません」と。

日本の「家」とか「血」とかグチャグチャというのが日本人ということなんでしょうねえ。
なるべくスッキリしているというのが名門ってことかしら?
ふふふ


今テレビに「隈研吾」さんが出てますよ〜
「プロフェッショナル:仕事の流儀」です。 
[59]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月17日 12時34分36秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2007年05月01日 17時27分52秒
[60]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月17日 22時17分30秒 ) パスワード

>五月に清水家にも話を聞く予定です。

ラッキー!
楽しみです!



1晩寝て起きてきたところです。

隈さん
ショックです。


だってだんだん揺らいできましたから。


私が「南朝方忠臣○家X名字」で「長野」という名を見たのは平熱オカルトパワーの御蔭でしたが

この長野氏が地元の昔っからの長野氏なら自信満々ですが
戦国時代に北畠から人が入った長野工藤氏が
永禄以降に南朝方を称しているなら
(北畠絡みで納得はしますが)

「浪合記」が徳川家に都合の良いように書かれたもの
という明治政府側の話を否定できなくなってしまいます。


一遍上人スレで「浪合記」は服部家ホンヤ所蔵と書かれていますが
そうすると服部家ホンヤが徳川家を格上げするために
新田の4男の子孫
という話をでっちあげた(?笑)と言われても仕方なくなるのか・・・
って。


ま、ここで服部家ホンヤと徳川家の揺るぎの無い関係がよく分かるけど(笑)
私の贔屓の引き倒しもヤバいな(爆笑)


やっぱり人間はグチャグチャに絡んでいるから1本の糸では辿れない、か。

どうか、あの平熱オカルトパワーで見た
「赤堀・長野・平野・堀田・藤原・服部他」
の名前が御先祖さまが御褒美で見せてくれたということでありますように。

そうするとヤッパリ服部家の御先祖さまが見せてくれたのかな?爆笑
[61]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月17日 22時56分53秒 ) パスワード

でもやっぱり平熱オカルトパワーというか御先祖さまパワーはすごいと思う。

私は三重県には土地鑑は無いし
三重県の赤堀とか長野という名称は
名字も地名も知らないし
(井伊直弼の腹心の長野という武士は知ってたけど)

だから平家の御先祖さまが教えてくれたとしか思えない。


浪合記もいろいろ写本があって
江戸時代あたりに書き写されたものが現存するそうで
だから江戸時代に写し手が書き加えた話も載っているのかも。


それで「長野家は(北畠が入った家だから)南朝方」という話になったのか
もともと「長野家は工藤長野家とは違い南朝方」だったのか
300年の時間にわれわれには振り回されてるけど

当時はそれで納得されてた、というのが「事実」(の1つ)だったんだろうな。


戦国時代〜18世紀初めの御先祖さまの思いというのがビシバシ胸に来ます。
あの時代を経験して生き残った者達の涙と血かな?
それを書き残さずにはいられなかったんだよ、って。

「単純な話じゃないんだよ」
だって。笑
[62]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月18日 17時07分23秒 ) パスワード

先日、昭和30年制作、溝口健二監督作品「新・平家物語」という映画ビデオを借りてきて家族皆で観ました。
市川雷蔵という俳優が清盛役で、忠盛、清盛親子が公家たちに虐げられながら
だんだん実力をつけてくるまでの「おしん」時代を描いた作品。
けっこう現実感覚があって興味深い映画でした。

名門といっても現実は貧しく食い扶持を稼ぐために、ご近所の時子や滋子は糸を
染めて布を織る仕事をしているんですよ。百姓の女のようなかっこうで。
清盛もくわを持って畑を耕していました。
忠盛は律儀な辛抱強いおじさんという感じで、公家に苛められて屈辱をいやとい
うほど味わって自害して・・・。
きっと現実はこんな感じだったんだろうな、と思わせる人間くさい作品でした。
これを見ていると確かに高望流、高棟流なんてきどったものではなく、皆ご近所
親戚という感じです。

[63]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月18日 22時14分10秒 ) パスワード

へえ〜
そういうお話なんですか?
面白そうですね。


平太は高下駄を履いてという
原作が吉川英治の「新平家」だからでしょう。

吉川英治の原作では清盛と叔父さんの関係が描かれていますね。
なるほどそれで乱の後、叔父さんや従兄弟を打ち首にしたのか
って分かりますね。
お金の問題は今でも親戚関係を壊しますものね。



でも実際には忠盛の時代に参内してますし
清盛は御落胤なんて噂もされてましたし

ですから貧しかったというのはちょっと意味が違うかも。

もう少し前の時代の
上総に住んでた頃や伊勢伊賀に移った頃は
家族総出で田んぼを作って機織もして
という「おしん」の時代だったと思います。

(実は10年ぐらい前に上総国に行って、そんな印象を持ちました。
平将門の軍が押し寄せて、村が蹂躪されるシーンをイメージしました。
ああ、それで貞盛が藤原秀郷(藤原忠清の先祖)と結んで討ったのかって)


忠盛って自殺するんですか?

でも確かに公家に苛められる話は想像できます。
なんせ日本は最高文学の源氏物語でも「いじめ」から始まりますものね。

桐壺の女御は身分の高い家の出でもないし強力な後ろ立てもないし
だから妬む側から、渡り廊下に汚物をまかれた、って。
今なら便器を舐めろとかトイレの床を舌で拭けって言われるようなイジメなんだろなって。


ああいうのが日本国の最高傑作ですもの
日本からいじめが無くなるワケないな
って思いましたよ。


新藤兼人さんも父親が保証人になってすごい貧しさを体験したそうで
そういう経験も描かれているんでしょうね。


機会があったらこの映画、見ますね。面白そう。
[64]さんからのコメント(2007年04月19日 14時11分14秒 ) パスワード

長野氏について、ちょっと調べてきました。(^^)/

伊勢の長野氏、というとやはり概ね工藤氏の系統を指すようですね。
資料によっては「工藤氏末葉と伝えられるが、詳細は不明」となってますが、
「伊勢土着の長野氏」が他に居る訳ではなさそう。

但し、例外は姓氏家系大辞典に出ていた「藤原姓」長野氏。
「尾張の名族にして、先祖孫助信方、当国にて恒川を称し、其の子治助方正、織田上野介信包に仕う。
信包・伊勢長野家を継ぐに当り、方正(又廣勝)・長野の称を賜ふと云ふ。」
とあるのですが、「恒川」って四家七名字のうちの一つですね・・・
でもこれは戦国時代になってからで、「浪合記」よりも後の話。

その他、楠木氏配下の武士に「長野左衛門」とありますが、この人は河内丹比郡の出身だそうで。


ついでに浪合記の方も探したのですが、長野氏は北朝方にしか名前がありませんでした。

ただ、はりまやさんのHPにもあるように、長野氏も南朝につくか、北朝につくかで揉めた様子ですから、やはり南朝方の長野さんも少数ながらいたでしょうけど。


思うに、長野工藤氏の歴史的立場は一様ではない気がします。

よく考えたら、源平合戦で「工藤氏」は頼朝の重臣でしたが、父親の伊東氏は死ぬまで平家方でしたし。
頼朝に領地を貰って奥州に移り住んだ工藤氏は南朝方でしたが、日向に下向した工藤氏は北朝方。


そういえばこの前他のスレッドに書きましたが、伊勢の伊藤氏には二流あって、
平家重臣の伊藤(藤原)景清系の伊藤さんと、長野工藤氏系の伊藤さんがあるそうですよ。
(長野工藤氏系だったら、本当は伊東さん?)
服部家に長島城を追い出された伊藤家、実は長野工藤氏系だと聞いてびっくり。

平家系じゃないから服部家と喧嘩したのかな?なんて思いました。


話が反れましたが(^^;とにかく、南北朝時代はややこしいですね。
私も九州の土豪の動きを調べたことがありますが、目を回しました。(@@;
隈氏は高良山に近い立場の神官だったせいで、南朝方だったようですけどね。
(高良山は一時、懐良親王=後醍醐天皇皇子の拠点になっていました。)
[65]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月19日 14時40分14秒 ) パスワード

>でも実際には忠盛の時代に参内してますし
清盛は御落胤なんて噂もされてましたし
ですから貧しかったというのはちょっと意味が違うかも。

映画では、朝廷から海賊征伐のご褒美が出ず(公家が邪魔して)
がっかりして怒る一族郎党を慰めねぎらうため、忠盛は清盛に
馬を売って酒や肴を買いに行かせました。

清盛がご落胤かも?でもぜんぜん公家達には関係ないみたいで
忠盛、清盛親子はさんざん公家たちにいじめられてましたね。

忠盛の自害も、時子の弟、時忠が比叡山の悪僧たちにつまらん
いちゃもんをつけられたのがきっかけで、平家対比叡山の争い
になり、比叡山が朝廷に押しかけて平家をなんとかしろ、と
圧力をかけてきて・・・公家が困って怒り、忠盛がその責任を
とって自害。
そのとき、鳥羽上皇の前で公家に地面に蹴落とされたんですよ。
忠盛は。帰りの牛車の中で自害していた・・・という描写です。
一部始終、側で見ていた清盛は何を思ったかはその後の行動が
証明してますよね。
しかし映画では清盛は明るくて好青年の爽やかな印象でした。

[66]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月19日 14時53分24秒 ) パスワード

あ、隈さん、ほぼ同時に書き込みしてましたね。

>思うに、長野工藤氏の歴史的立場は一様ではない気がします。
よく考えたら、源平合戦で「工藤氏」は頼朝の重臣でしたが、父親の伊東氏は死ぬまで平家方でしたし。
頼朝に領地を貰って奥州に移り住んだ工藤氏は南朝方でしたが、日向に下向した工藤氏は北朝方。

勝敗がどっちにころんでも一族のDNAが生き残れるように、敵と味方に分かれて
闘った・・・?
絶滅だけは絶対に避ける、という究極の生き残り作戦でしょうか。
[67]さんからのコメント(2007年04月19日 15時02分47秒 ) パスワード

あと一つ・・・

織田氏の襲撃から逃げてきた平田元綱が清水家に匿われたのと前後して、
長野城は織田氏に乗っ取られた筈(永禄11年)。
北畠家から養子に入った具藤は追い出されて北畠家に戻り、
父親を暗殺された後に信長と戦って敗れ、自害したそうです。

多くの長野家重臣が織田氏に従う中、平田氏を匿うのは相当の覚悟が必要だったでしょう。

何故そこまで・・・元々北畠家側の人間だったのでしょうか??

清水家訪問で、何か手掛かりが掴めると良いですね。
[68]さんからのコメント(2007年04月19日 15時11分00秒 ) パスワード

あ、すいません、思いっ切り行き違ってしまいましたね。
私が書くのが遅いので余計にタイムラグが・・・(^^ゞ

>勝敗がどっちにころんでも一族のDNAが生き残れるように、敵と味方に分かれて
闘った・・・?
>絶滅だけは絶対に避ける、という究極の生き残り作戦でしょうか。

当時はそういうケースも少なくなかったみたいですね。
どちらかが捨石になっても・・・というのは、現代を生きる私達には真似できませんけどね。
[69]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月19日 16時04分26秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2007年05月01日 17時31分31秒
[70]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月19日 21時55分00秒 ) パスワード

>平家系じゃないから服部家と喧嘩したのかな?なんて思いました。

これは言える!


はい、恒川さんは南朝方忠臣に名があります。


南北朝の戦いでグッチャグチャですね。
縺れにもつれた。

後の世の戦いで「旗幟を鮮明にする」時にマタマタぐちゃぐちゃになっていったのかしら?


え?なんでこの家が南朝方?
と思うけど
その時にはそういう理由があったのだろうな。と。


だからいろいろ事情があったのだろうから
それこそがその家のアイデンティティだから
家書を見なきゃ、ということなんだろうな、と。


これが日本人なんでしょうね。
[71]さんからのコメント(2007年04月20日 09時34分53秒 ) パスワード

>「梟の城」なんか見るとせつなくなりますよ。

この本、今年に入ってから読みました。
DVDをレンタルするか、思案中です。

・・・やっぱり見てるとせつなくなりそうなんですよね。。。

うちの先祖もあんまり史料はないけど、かなり苦労はしたんだと思います。
住んでた場所はやっぱり平家・南朝・反信長方の多い土地で(母方のルーツが備後=広島県東部)、
悲惨な目に遭った人が多いようです。

もちろん、ギャンブラーさんも書かれているように全部が全部平家・南朝方ではないのですが、
それでも「かつての同胞」とは引き合うというか、妙にご縁があります。

例えば近所に、この辺では珍しいなぁと思うような姓の家が固まってると思ったら、
ルーツが備後で、南朝方だったと史料に出ていたり・・・とか。

そんなの偶然だよ、と言われればそれまでですが、意識して辺りを見渡すと、
結構面白いですよ。(^^)
[73]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月23日 12時51分47秒 ) パスワード

 長野工藤氏の件ですが
横山高治著「伊勢平氏の系譜」によると

源氏は徹底的な討伐作戦を展開するが、結局、ベチナムのゲリラ戦みたいに
うまくゆかず、しまいには安濃郡地頭、長野氏(工藤祐経の三男、駿河守祐政
)のように、鎌倉幕府になびいた平家の余党の者を伊勢に送り込み、融和政策
をとったようだ。しかし反乱はくすぶる。
そして最後の最大の反乱がやってきた。建仁3年(1203年)12月の「三日
平氏の乱」である。

平田家継、家兼親子が処刑され、このままでは平田の血は絶えてしまうことを
おそれた平田一族の中で、源氏の傘下に入り生き長らえようという考えと、
いや絶対いやだ、義をたてて平家として生き延びるという考えと二分され袂を
分かった・・・・という推測も不可能ではないですよね。
義を重んじた側の平田氏は亀山の関氏と助け合いながら、細々と血脈を繋いで
きた・・・。そして応仁元年、伊賀の本拠地に帰った・・・。

ここで大胆な仮説をたててみる。(これだから素人はおそろしい〜)
「長野工藤氏は平田氏でもある」
源氏と平氏の混血。

三日平氏の乱で伊賀国守護山内首藤経俊の居館を襲撃、源氏の兵を殺傷した。
のになぜか長野工藤氏を襲っていない・・・。う〜ん、わからない。

[74]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月23日 13時46分26秒 ) パスワード

あ、しかし次にはこう書いてある。

元久元年(1204年)2月、鎌倉幕府は、もうこれ以上火の手が燃え上がっては
たまらない、というわけで同年3月末京都にいた鎌倉随一の猛将、平賀朝雅に出兵を
命じる。
朝雅は近江国から進攻しようとしたが鈴鹿峠が反乱軍によってふさがれているため
大きく迂回し美濃国から南下した。
皮肉にも、いや不幸なことに、源氏軍の先鋒はこれも京都にいた平実忠という
伊勢平氏の庶流、関氏の始祖だった。
いわば同族相打つ悲劇を演じたわけだが、若菜、進士、平田の諸将らよく戦い、こと
に岡本城(安芸郡安濃村明合)の城主、岡八郎真重ら平家の残党は最後までよく戦った。

この戦闘が4月10日から12日までかかったから三日平氏の乱というのか、本拠が関の三日城だったからそうよばれるのかはわからないが、これにて一件落着。伊勢平氏の乱は姿を消した。
 それもそのはず、平賀朝雅は伊賀国守護になって、伊賀、伊勢の地侍を優遇し、
平実忠は鈴鹿郡の地頭に任ぜられて関氏を興している。その弟、盛綱は北条義時に
引き立てられ内管領の長崎家を継いだ。

ということは平田の残党は関氏に吸収されたのだろうか?この関氏は資盛の子孫の
関氏で、貞季流の関氏を継いだということかな?
[75]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月24日 02時23分00秒 ) パスワード

>ここで大胆な仮説をたててみる。(これだから素人はおそろしい〜)
>「長野工藤氏は平田氏でもある」
>源氏と平氏の混血。


いえいえ素人の直感というのがすばらしい発見をするのですよ。
だから「貴重」なんです。



>三日平氏の乱で伊賀国守護山内首藤経俊の居館を襲撃、源氏の兵を殺傷した。
>のになぜか長野工藤氏を襲っていない・・・。う〜ん、わからない。


やっぱり遠縁で繋がってたからかな?

それか
首藤の館の手薄な場所とか時間とかを漏らしたり
あるいは
手引きしたのは長野工藤の1人かも知れないしね。


こういう空想って楽しいじゃないですか。
どうしてかな?
自分だったらどうしてたかな?
とか。
どんどんやってください。



>源氏軍の先鋒はこれも京都にいた平実忠という伊勢平氏の庶流、関氏の始祖だった。

この人物名
どっかで見ましたが。。。
もうゴチャゴチャ・・・


>平実忠は鈴鹿郡の地頭に任ぜられて関氏を興している。
>その弟、盛綱は北条義時に引き立てられ内管領の長崎家を継いだ。

ここから戦国時代に有名な北条1族になっていくのかな?
秀吉に滅ぼされた北条。武田信玄の親戚になっていく北条に。



>ということは平田の残党は関氏に吸収されたのだろうか?
>この関氏は資盛の子孫の関氏で、貞季流の関氏を継いだということかな?


平家が滅びて20年ですね。
鎌倉から派遣された武士も伊賀伊勢では平家の残党と組んだ方が良いと思い
平家の残党も鎌倉の武士と縁組したりして
地縁血縁で結んでいったのかもですね。

だって食べていかなきゃいけないですから
現実には地元では和睦があったのかもですね。


中には最後まで鎌倉方とは縁は結ばないと頑強に頑張った家もあるでしょうから
こういう家が後の戦いで反鎌倉になっていったのでしょう。


平知盛さまの次男の子孫は伊賀で育って  名前忘れた(俗姓は北です)
足利義満暗殺に蜂起して失敗してますから
脈々とそういう思いというのは続いてた、となりますね。

義満なんて南北朝が和睦する時代の人ですものね。


平家が滅びて150年〜200年源氏憎しの思いは続いていたってことになりますか。
[76]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月24日 02時25分36秒 ) パスワード

伊賀国守護山内首藤経俊と長野工藤の関係だった謎ですよ。


長野工藤には首藤は面白くない人物だったかも知れないし。
実は
長野工藤が首藤を1番殺したかったかも知れないし。


[77]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月24日 14時03分11秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2007年05月01日 17時21分49秒
[78]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月24日 15時44分47秒 ) パスワード

>多くの平氏は源氏と混血しているんですね。

この部分をとっても、わたくしなんか「ハーフ」ですしね。笑


坂東平氏でも平家でも藤原氏でも「源氏」を称する家は多いと思いますよ
時代のせいでしょうがなかったし。
鎌倉時代以降日本人なんてほとんどが「源氏」を称したかったと思いますよ。

(平家全盛時代はみんな平家を称したかったでしょうし)


それに歴史の勝者は源氏ですから、日本人はみんな子供の頃は源氏が好きだと思いますよ。
で、中学か高校で「平家物語」を読んで、転向というか、考えが変わるとかね。

で、自分の先祖は?ということに思い至ると思います。
ここから先祖捜しになります(笑)



>服部半蔵は、早々と徳川に召抱えられて働いているけど
>伊賀忍者とはどういうスタンスでつきあっていたかわかりますか?

これについては検索すれば出てくると思います。


いわゆる服部半蔵というのは2代目で
3代目で潰れて
4代目が千葉真一の「影の軍団」の半さんです。

(千葉真一は「ソニー」とかいう名でロスでは炊飯器のCMに出てました。
 「風林火山」の板倉と全くイメージの違うそこらへんのオヤジって感じ)


徳川幕府によって伊賀忍者が2代目3代目の服部半蔵の下に組み込まれた、
そういうことで
3代目半蔵の時に伊賀忍者がストライキをやって問題になってますから
この事件の名前がどこかに出てると思います。

わたくしが記憶している話としては
「われらの方が上の身分だったのに、下の半蔵家に仕えさせられて不満だった」
という記録があるそうです。



伊賀忍者も半蔵が江戸で召抱えられてみんな江戸に出たんじゃないかしら?
だって食べていくのにはそうなりますよ。


ここで1つ思い出したけど
家康が妻子を殺した時
半蔵と天野というのが妻子に手をかけた(半蔵が築山殿を殺したのかな?)

浪合記を写した人の名が天野某


ということで、そうすると天野家も服部家も
元々南朝方当時からのそういう宿命の家だったのかなあ?なんて思ってしまいました。
[79]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月25日 08時15分06秒 ) パスワード

http://art-random.main.jp/samescale/054.html#h-hanzo

ここにちょっと載ってましたので少々引っ張ってきました。
(管理人さん、不都合がありましたら削除いたします)



2代目服部半蔵正成の嫡男、服部正就は父の死後、伊賀同心200人の支配を引継ぎ、父と同じく半蔵、石見守を通称とした。

しかし正就は徳川家から指揮権を預けられたに過ぎない伊賀同心を家来扱いしたために配下の同心たちの反発を招き、ついに伊賀同心が寺に篭って正就の解任を要求する騒ぎに至った。

このため正就は改易され、服部半蔵家は三代で絶えたと言われるが、正就の妻は桑名藩主松平定勝の姉であり、その息子・服部源右衛門正辰は松平家に仕えた。

また正成の嫡男の次男・服部半蔵正重もまた松平家に召し抱えられ家老職を与えられた。

その後、服部半蔵の名は代々継承され十二代目の服部半蔵正義は二十一歳で家督を継ぎ、桑名藩家老となって松平定敬を補佐し、鳥羽伏見の戦いにも参戦している。
[80]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月25日 08時17分18秒 ) パスワード

私が愛読してた「伊賀の影丸」は5代目服部半蔵という設定だったんですねえ。

じゃ、千葉ちゃんの子供ってことか。
自爆
[83]さんからのコメント(2007年04月25日 17時01分07秒 ) パスワード

どうもです。(^^)/ここ数日、所用でパソコンを離れていました。

やっぱり「梟の城」のDVDを借りてこようか、と思いつつ。
5月は忙しいので、もうちょっと先になりそうです。

>三日平氏の乱で伊賀国守護山内首藤経俊の居館を襲撃、源氏の兵を殺傷した。
のになぜか長野工藤氏を襲っていない・・・。う〜ん、わからない。

「長野工藤氏」で検索して調べたところ、
伊勢に工藤氏が住むようになったのは諸説ありますが、古いもので1239年。
源平争乱直後ではないのですね。。。
一方、三日平氏の乱は1203〜1204年だそうです。
なので、三日平氏の乱の時、まだ長野工藤氏は伊勢にいなかったようですよ。


>伊賀忍者も半蔵が江戸で召抱えられてみんな江戸に出たんじゃないかしら?

そうですね。その後密かに、見張りとして各藩に配置された者もあったかも。
私の先祖(父方の祖母の方です)は高槻藩士でしたが、同藩には結構伊賀系の名前があります。服部とか、柘植とか。
高槻は交通の要衝で、お殿様は永井氏(伊賀越え同行者)でしたから。
[85]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年04月27日 16時16分08秒 ) パスワード

長野工藤氏系の伊東氏は、九州熊本、日向伊東氏と関係あるでしょうか?
[87]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月28日 02時41分19秒 ) パスワード

書き直し:


>長野工藤氏系の伊東氏は、九州熊本、日向伊東氏と関係あるでしょうか?


日向の伊東は工藤祐経の子の庶流なんですってね。
だから長野工藤と遠縁というか先祖は同じになりますね。


伊東というと平家方の伊東祐親ですけど
この伊東家を継いだってことでしょうかねえ。
継いだというより再興というか乗っ取ったというか?
工藤にしてみれば一族の家だから当然自分に資格がある、ってことですね。


工藤と伊東は
元々は藤原姓で伊豆の伊東の一族だけど・・・
工藤と伊東は仲が悪いことで有名ですね。

特に曽我兄弟の仇討ちですね。



「いきさつ」

所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。
1176年10月、祐経は郎党の大見成家と八幡某に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。
2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、
祐泰は死ぬ。

刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されている。

祐泰の妻の満江御前とその子、一萬丸と箱王が残された。
満江御前は曾我祐信と再婚。
一萬丸と箱王は曾我の里で成長した。


その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。
一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。

祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現に稚児として預けられた。


文久3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付けねらうが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる。(後に五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)

箱王は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。

1193年5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩りを開催した。巻狩りには工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、遂に兄十郎が仁田忠常に討たれた。弟の五郎は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。

翌5月29日、五郎は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡す。五郎は従容と斬られた。

なおこの事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することが出来なかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して巻狩りに参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)。」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ範頼は伊豆修善寺に幽閉され、後に自害したと伝えられている。
[88]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月28日 02時55分43秒 ) パスワード

甲賀53家というのは有名ですね。
上記に書いた「望月家」が最高家格だそうです。


ちょっと調べてきました
(管理人さんごめんんさい。不都合がありましたら削除致します)
ぺこり

http://takigumi.fc2web.com/school/53file.htm
詳しくはURLに行ってくださいね。


甲賀五十三家名簿
氏族名    当主     二十一家  地域連合  一族関連人物  関連記事
多喜(滝)氏  多喜勘八郎 ○ 南山六家 中村一氏・瀧飛騨守 瀧組一族
大原氏    大原源三郎 ○ 南山六家 篠山景春・大原数馬  ・
和田氏    和田伊賀守 ○ 南山六家 和田惟政 ・
上野氏    上野主膳正 ○ 南山六家 .・  ・
高峰氏    高峰蔵人  ○ 南山六家 .・ ・
池田氏    池田庄右衛門 ○ 南山六家 ・ ・
岩室氏    岩室大学介 ○ 北山九家 .・ ・
芥川氏    芥川左京亮 ○ 北山九家 芥川七郎兵衛・芥川清右衛門 甲賀古士由緒書
隠岐氏    隠岐右近太夫 ○ 北山九家 .  ・
佐治氏    佐治河内守 ○ 北山九家 佐治三郎 ・・ 
神保氏    神保兵内  ○ 北山九家 .  ・・ 
大河原氏   大河原源太 ○ 北山九家   ・・ 
黒川氏    黒川久内  ○ 北山九家 黒川与四郎 ・ 
頓宮氏    頓宮四方介 ○ 北山九家 .  ・ 
大野氏    大野宮内小輔 ○ 北山九家 .  ・ 
伴 氏    伴佐京介  ○ 柏木三家 伴長信・伴五兵衛 .
美濃部氏   美濃部源吾 ○ 柏木三家 .  .
山中氏    山中十郎  ○ 柏木三家 山中俊房・山中長俊・山中俊好 甲賀古士由緒書
鵜飼氏    鵜飼源八郎 ○ 荘内三家 鵜飼勘右衛門 .
内貴氏    内貴伊賀守 ○ 荘内三家 .  .
服部氏    服部藤太夫 ○ 荘内三家 .  .
小泉氏    小泉外記 .  . .・  .
倉治氏    倉治右近介 .  . .  .
夏見氏    夏見大学 .  . 夏見角助 .
杉谷氏    杉谷与藤次 .  . 杉谷善住坊 .
針 氏    針和泉守 .  . ..  .
小川氏    小川孫十郎 .  . .  .
大久保氏   大久保源内 .  . .  .
上田氏    上田河内守 .  . .  .
野田氏    野田五郎 .  . .  .
岩根氏    岩根長門守 .  . 岩根勘兵衛・岩根甚左衛門 .
新城氏    新城越前守 .  . .  .
青木氏    青木筑後守 .  .. .  .
宮島氏    宮島掃部守 .  . .  .
杉山氏    杉山八郎 .  . .  .
葛城氏    葛城丹後守 .  . .  .
三雲氏    三雲新蔵人 .  . 三雲成持・三雲成長 .
望月氏    望月出雲守 .  . 望月吉棟・望月兵太 .
牧村氏    牧村右馬介 .  .  . .
八田氏    八田勘助 .  .  . .
高野氏    高野備前守 .  .  . .
上山氏    上山新八郎 .  .  . .
高山氏    高山濃太左衛門 .  .  . .
守田氏    守田藤内  . .  . .
嶬峨氏    嶬峨越前守 .  .. .  .
鳥居氏    鳥居平内 .  . .  .
平子氏    平子主殿介 . . .  .
多羅尾氏   多羅尾四郎兵衛 . . 多羅尾光俊(光弘) .
土山氏    土山鹿之助 .  .  . .
山上氏    山上藤七郎 .  . .  .
饗庭氏    饗庭河内守 .  . . .
長野氏    長野形部丞 . . .  .
中山氏    中山民部丞 .  . .  .
[89]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月28日 07時29分27秒 ) パスワード

あの上記サイトに百地家について書かれてましたよ。


>1579年 天正7 天正伊賀乱 百地丹波正西、国境の長尾峠にて織田信雄軍3万を撃破。


99になったら新しいスレッドを始めてくださいね。
5月1日でもいいですが。
重くなると管理人さんが気の毒ですから。
[90]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月28日 14時44分25秒 ) パスワード

>長野氏    長野形部丞


平田さんの名前を探していたのに
長野氏が出ちゃいましたよ。



昔は(大昔は)伊賀と甲賀は同じ伊賀の国だったとどこかで読みました。
だって山の向こう側とこっち側という距離ですものね。
それが伊賀と甲賀に分かれた。


そして「長野氏」が登場。

また振り出しに戻りましたね。
この長野氏はどこの長野さんでしょう?
[92]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年04月29日 13時32分34秒 ) パスワード

面白くなってきましたね。

>とにかく平田兵庫頭についてはきちんと調べてきます。

分かると良いですね。


ボールペンのことも不思議ですね。
日本製だったら奇跡のように珍しいですよね。
御先祖さまからの何かメッセージかもですね。



新しいスレッドを立ててくださいね。
[93]平田徳左衛門さんからのコメント(2007年05月01日 13時27分25秒 ) パスワード

>ギャンブラーさん、隈さん

 プライバシーに配慮しまして勝手ながら、これまでの自分や関係者に
関する記述を削除させていただきました。
これはギャンブラーさんや隈さんたちご親切な返信に対し失礼にあたら
ないか?と考えましたが、あまりに個人的なことを書きすぎたと思いま
したので、よく考えたすえそうした次第です。
何卒、ご理解お願い致します。
また新しいスレッドを立てて投稿するときには、よろしくお願い致します。

                           拝謝
[94]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年05月01日 16時50分50秒 ) パスワード

平田徳左衛門どの

足跡も消しておきました。笑
たぶん全部。


隈さんも気にしてないと思いますよ。
隈さんはなかなかの人物でいらっしゃるから。


「アイデンティティ」ということは「そういうこと」なんですよ。
I am what I am!
他の人から自分のことをガタガタ言われる筋合いもないしね。


これで大きく飛躍出来たってことですね。
5月により大きな発見がありますように!


わたくしもいろいろ勉強になることがありましたしね。
楽しかったですよ。

また新しいスレッドを立てて投稿するときには、こちらこそ、よろしくね。
[95]さんからのコメント(2007年05月02日 13時44分58秒 ) パスワード

平田徳左衛門様、了解しました。事情はお察しします。

もちろん全く気にしてなどおりません、私はそんな「なかなかの人物」ではありませんけど。(笑)

私もギャンブラーさん同様、お勉強させていただきました。

またの機会を楽しみにしていますので、その時はどうぞよろしく。m(__)m
[98]メンテさんからのコメント(2011年04月15日 06時36分43秒 ) パスワード

スレッドが重くなりました。
閉めさせて頂きます。
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