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 投稿番号:100980 投稿日:2007年01月31日 03時58分44秒  パスワード
 お名前:たいら しゅう
平ノ判官康頼
キーワード:平康頼後抄
コメントの種類 :人物  パスワード

 私の父方のご先祖は、同じ平家でもあの清盛一族を転覆せんとして鹿ヶ谷の謀議に連座、俊寛、成経らと共に鬼界ヶ島に流されて、やがて大赦に依って帰洛した平ノ判官康頼(現存する彼の母へあてた遺言状では自分の無罪を主張)と系図にあります(やや、不透明な部分もあります)。本家は鎌倉時代開山の福井の旧い寺で、現住職は第二十七代目です。

 私は此処スペインに長く住んでおりますが、数年前から始めたルーツ探しは外国住まいの為に資料、史料の入手が困難で知る事柄にも限界を感じています。この欄で康頼についてのご意見、帰洛後の生活、子や玄孫について情報頂ければ幸いです。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年01月31日 11時55分30秒 ) パスワード

たいらのしゅうさん
初めまして。

平判官康頼
1179年に赦免船が来て京へ戻る。
帰京後は東山双林寺あたりに住んで仏教説話集『宝物集』を記し?
1186年には源頼朝の推薦により阿波徳島県麻殖保(おえのほう)保司の職に就く。
中原頼季の子か?
愛知県美浜町の野間大坊に康頼の墓がある?


このあたりの情報はお持ちと思いますが
関係教育委員会歴史編纂課にお手紙をお出しになって資料を請求なさってはいかがでしょう?
切手は日本の御家族に送って頂いて2000円〜3000円分あたり同封なさったら良いかと思います。


>本家は鎌倉時代開山の福井の旧い寺で、現住職は第二十七代目です。

ということは鎌倉時代あたりから続いているのかしら?
御本家の記録が1番アイデンティティを伝えていると思います。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年01月31日 12時05分24秒 ) パスワード

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ihara-kesao-shinanono-kamakurashiko.htm


承久の乱後、小笠原長経がおえのほ(徳島県鴨島町)や阿波守護職についた、
と書かれてますね。


ということは平康頼は?その子は?福井に移ったのかしら?
面白いですね。
どういう経緯でお寺さんになったのかしら?

この辺り、福井と徳島の県教育委員会あたりで分かりそうですね。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年01月31日 12時14分45秒 ) パスワード

野間大坊

愛知県知多郡美浜町野間東畠50
野間駅から8分だそうですよ。


ここには
源義朝の墓
家来の鎌田政清夫妻の供養塔
寺を整備した平康頼の供養塔
織田信長の3男の信孝の墓があるそうです。秀吉から切腹させられた。


美浜町は中部国際空港セントレアのあるところです。
福井も名古屋経由で行けますから1度セントレアを御利用なさってはいかがでしょう?
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年01月31日 12時19分20秒 ) パスワード

野間大坊
御存知ですよね?


源義朝は清盛に追われて
大垣青墓で頼朝とはぐれ(はぐれたのは頼朝の方だけど)
家来の鎌田と尾張に逃れ

鎌田の婿でもある家来だった野間の長田家を頼って落ちてきて
お風呂に入ってる時に長田父子に襲われて殺されてしまいました。


「木刀の1本もあったら」とのことで木刀がたくさん納められています。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年01月31日 13時33分51秒 ) パスワード

<2>のサイトの御方は
史学博士・長野県立歴史館専門主事さんだそうですから

麻殖保のお話はメールでサイト・オーナーの小太郎さんに問い合わせてはいかがでしょう?

ラッキー!
[7]たいら しゅうさんからのコメント(2007年01月31日 19時41分21秒 ) パスワード


暇つぶしのギャンブラーさんへ
初めまして。

 たくさんのコメント有難う御座います。こうして康頼についてど皆さんとお話しできるのは私にとってとても嬉しい事です。スペイン人の妻には祖先の話題も複雑過ぎて話しの相手にはなりません。ルーツの探索についても適当な資料に巡り会えず、やや行き詰まった感じで、少しストレスがたまっている今日この頃でした。

 さて、お話頂いた帰洛後の康頼の消息については凡そ把握しております。野間、阿波、周防、そして福井にも彼の足跡が見えるのです。
 私も数年前訪ねましたが、福井市の大島町に八王子権現諏訪大明神があり、垂跡は康頼とあります。縁起には帰洛の後、成経には豊前国若島、康頼には越前大島を下し給う。北国七ヶ国の探題として大島に居住有。一代康頼、二代康利、三代康綱、四代康元。この康元三十四歳の時帰洛。御屋敷大町御能跡。(以下、不読解。越前名跡考文化12年・1815年)。
 
[8]たいら しゅうさんからのコメント(2007年01月31日 23時35分13秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんへ

 今、スペインは午後二時半です。そちらは夜の九時半頃ですね。

 折角たくさんの情報を送って頂いたのに、凡そ把握している等と申し上げて御気を悪くされたのではないかと気になっています。四十年も日本を離れて生活しておりますと、日本語の使い方や日本人としての気の配り方が疎かになっている様な気が致します。どうか、お気に障りましたらご容赦ください。
 
 帰洛した四代康敏(後述する専照寺の寺伝には八王子権現縁起にある康元ではなく、康敏とあります)は別の名を俊職といい、正嘉二年故あって殺害事件を起こし執権北條政時によって曾祖父と同じ硫黄島に流されます。

 康敏の妻は悲嘆に明け暮れ幼い珠千代麿を親鸞上人に預けられます。歳月が流れ、成人した康頼の玄孫、如道(如導)はかつて両親や祖父母が住んだ越前大町の地に専修寺を建立します。その後、この寺は専照寺と寺号を代え、真宗三門徒派本山となつておおいに繁栄の道を辿ります。

 数年前、私はこの大町を訪ねました。北陸街道の傍の青田の中に大町一族、即ち平一族の墓地がありました。如導の墓もそこにありましたが、他の墓石の名は風雪に削られ読み取る事は不可能でした。

 
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月01日 01時15分36秒 ) パスワード

たいら しゅうさん

いえいえ
「こちらこそ」 ここの平熱の皆さんは御存知ですがワタクシは日本在住じゃないです
でございます。


確かスペインの女性で
日本文化に精通してらっしゃって
日本人でも難解のなにやらという文学をスペイン語訳なさっていらっしゃるとか
(平家物語だったかしら?)


でも外国人には日本人の家系のことは難しいですよね。
日本人にも難しいのですから。


わたくしの夫がイギリス系+ドイツ系アメリカ人なんですが

イギリスの血の方はクビを切られた王様の一族からアメリカのボルティモアに派遣された
人の子孫になります。
出身地からするとロビン・フッドの敵だった悪徳代官とされる人物の家系みたい(笑)


ヨーロッパは教会に記録が残ってるので面白いですね。

夫の先祖はウイリアム・ペンと土地争いをやって負けてます。←→ペンシルバニア州
独立戦争時には王党派で、この時に土地をアメリカ新政府に200年差し出して
200年後に返してくれと訴訟を一族で起こして門前払いされています。当たり前ですが

わたくしもここに名を載せられていると一族から言われました。笑


ドイツの方はハプスブルグさんの流れの女性がアメリカに来て結婚して
ということですから皇太子が自殺したあの事件より前になりますね。


こういう記録が教会に残ってますから日本とは別の意味の「家系」が存在しますね。
日本は個別の人間の生死の日までは書かれてませんから。
特に日本は出生地というのは書かれてませんものね、教会の歴史では分かりますのに。

日本は「家」ですがヨーロッパは「個人」ですね。

家系図も
日本は先祖が1人いて、どんどん末広がりになって自分がやっと下の方に小さく書かれる
ヨーロッパは自分があって両親がいて祖父母がいて曽祖父母がいて高祖父母がいて
というようにドンドン先祖が増えていく。この人達の生年月日から出生地まで分かっている。


ま、こういうお話を交わせるのはたいらしゅうさんだけでしょうね。


>帰洛した四代康敏(後述する専照寺の寺伝には八王子権現縁起にある康元ではなく、
 康敏とあります)は別の名を俊職

昔は自分の名乗りを何度も替える機会がしゅったいしましたが
今は法で変えられないし変えるとしたら裁判所にお願いしなきゃいけないですから
昔の人が名前を変えたり漢字を変えたりするのが、今のわたくし達から調べる時に面倒ですね。

でもたいらのしゅうさんの御宅に伝わる家書が1番の資料ですから
学者がなんとかかんとかおっしゃったり書いたりなさっている「史実」に振り回されることはないと思います。


最近塩野七生女史のインタビュー番組をいくつか拝見し
彼女自身
1つの事実を学者が考えることと、作家が考えることが違ってて当たり前
とおっしゃってました。

ですから御宅に伝わる情報が血や涙の歴史を伝える最高の資料ということになります。
遠慮なさることはないのですよ。
世間に対してうろたえてはいけません。笑
[10]たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月01日 01時50分34秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんへ

 如導が大町に専修寺を建立したのが1285年頃で、康頼の玄孫の浄盛(俗名信盛)が近くの村に常照寺を建立したのが十年後の1296年でした。この常照寺開基浄盛が私の先祖となります。浄盛の師は親鸞の長子善鸞で、如導の裏方(妻)は善鸞の娘です。真宗十派のうち、四本山が福井にありますが、みな善鸞と繋がっています。常照寺の開基浄盛は九十歳で入寂、一生独身でした。第二世康正は本願寺三世覚如の子で、本願寺四世善如の弟とされています(善如は覚如の孫ですからこれは少し変なのです)。常照寺は開基から十三世まで京都粟田口門跡青蓮院より大僧都及び上人号、紫衣を赦されます。一時は三千七百の門徒、七十余宇の末寺があつたと越前名跡考派伝えます。
 我が家の本家常照寺は現在小さな一宇で昔日の面影はありませんが、旧い仏像、福井藩主源慶永(松平春獄)の黒痕鮮やかな六双の金屏風、山号も「真宗精舎」の扁額も春獄の書、幕末の志士橋本左内の見事な漢詩の掛け軸、後陽成天皇の御親筆による紺地にくすんだ金泥の文字、何が書いてあるのか分かりませんでした。この寺は浄土真宗出雲路派の三ヶ寺のひとつで本山には開けずの間と言って平家の宝物が納められているとの事です。これは、越前一向一揆のとき、本願寺門徒軍から逃れた際、寺の宝を本山に預けたものとみえます。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月01日 02時54分59秒 ) パスワード

たいらのしゅうさん

日本史をしっかり体験なさっていらっしゃるのですねえ。


鎌倉時代があって (頼朝から優遇された)
南北朝時代があって(鎌倉に恩があって北朝方でも後には南朝方だったのかしら?)
戦国時代があって(一向一揆とか織田信長とか勝家とか前田とかともいろいろあったのでしょうね)

すごい歴史の激動時代をいくつも(全部)乗り越えていらっしゃったのですねえ。


驚きました。
[12]たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月01日 06時16分50秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんへ

 そうですか。貴方様は女性で私同様外国に住んでいられるのですか。思いも依らない事で少々驚きました。

 ルーツ探しの想いは外国に住んでいると強くなります。一言で申せばアイデンティの問題ですね。

>南北朝時代があって

 康頼の玄孫如導は後醍醐天皇から『一向専修之理神妙」の口宣と『上人号』の綸旨を賜ります。白鬼女河原で義貞を励まし、如導も戦いますが利あらず、
傷を受け、それが原因で歴応三年遷化します。

 さて、ここまで自分の祖先として康頼を語ってきましたが、他の方々にもつと参加して頂く為に『平家物語」の一主人公としての彼を捉えようと、問題提起をしたいと思います。

 なぜ、清盛は丹波少将藤原成経、康頼を許し、俊寛を大赦の対象にはしなかつたのでしょうか、分からない事のひとつです。皆さんのご意見をお聞かせください。
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月01日 08時14分44秒 ) パスワード

>ルーツ探しの想いは外国に住んでいると強くなります。一言で申せばアイデンティの問題ですね。


本当に!

わたくしの場合は日本にいた頃、母方には興味があって、いろいろ霊的な不思議な体験をしてきましたが
夫と結婚してから父方に繋がる不思議な体験をするようになりました。


夫が「自分は、昔、蟹だった」なんてバカなコトを言うのですよ「蟹と呼ばれた」とかね。
厳島神社や赤間神宮神宮に非常に行きたがりまして
厳島神社には何度も何度も自分1人で出掛けてました。

赤間神宮にやっとワタクシが心の準備が整って行った時にも凄い体験をいろいろとしました。
それで「心の籠った神宮だ」というのが納得出来ました。つまり平家の皆さんの魂が今でも寄り合う場所という意味で。
それまでは壇ノ浦で入水した安徳天皇をテキトーに祀っている所という認識だけでした。
[14]たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月01日 18時29分00秒 ) パスワード


 そうですか。私も昔、テレビ番組でなんでもない小母さんが出席者の背後にいるという守護霊を次々と言い当てていくのを見てショック。一時、霊に関する本をよく読んでいました。

 仏教では霊は空なり、空は無なり、といって霊は肉眼では見えないものと教えていますね。私は霊は感ずるものだと思うのですが。その存在を感ずること、信じることの出来る方は体質的に霊の出す周波数が届く範囲内にいるのではないですか。

 是非、差障りが無かったら赤間神社での霊体験をお話してくれませか。とても興味があります。

 厳島神社も訪ね、康頼灯籠や卒塔婆が流れ着いた場所も見てきました。私の従兄はこの神社を訪ねて宮司に平の子孫ですと名乗ると『平様には昔からとてもお世話になっています」と下にもおかないもてなしを受けたという話で、思わずと笑ってしまいました。
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 00時42分59秒 ) パスワード

あらら・・・
ちょっと違う方向の「堂上(貴族方の)平氏」でいらっしゃるのにねえ。



>卒塔婆が流れ着いた場所

俊寛が赦免されなかった理由は物語の中で描かれたことしか分かりませんが

丹波少将藤原成経を許したのは藤原氏ですし親戚になっていくし
(でも成親は配流先で殺されてますね)

平康頼は賢い人が周りにいて卒塔婆が厳島神社に流れ着いたという話にしたんじゃないかしら?
と思ってます。

俊寛は西光を惨殺したように殺したかったのでしょうけど
罪1等を免じてやって流罪にしたんだから
一生そこで苦しんでおれということじゃなかったのかな?
謀叛の相談場所が彼の別荘だったということで首謀者として見られたのは当然だと思いますし
後白河を罰っせない以上替わりに俊寛に憎しみが集中したんじゃないかしら?
と思います。

周りに力のある人がいなかった事と頭の良い人がいなかったことが俊寛の悲劇じゃないのかしら?


平家の怒りは3人ともを赦免する程には収まっていなかったんじゃないかしら?
それで俊寛だけは許さない!ということになったのかな?と想像しています。


あの時代は腐敗も大変な時代でしたでしょうから
俊寛の周りの誰かが役人に賄賂を掴ませてたらこっそり島を脱出するぐらい出来たのではないか?
と思いますから。

それか、迎えに行った時は既に死亡してたのかも、ですし。


「俊寛は硫黄島で死んだ」が史実で、「実態」は分からないというところじゃないかしら?

有王でしたっけ?
この少年が迎えに行ったのに、という悲劇のお話を作るのに
ああいうストーリーになったんじゃないかしら?


「俊寛は硫黄島で没した」
これが事実ということだと思います。
後は物語の味付けに過ぎない=ここに文学性がある=と思います。
物語が加速した背景には「思いが果たせず空しく死んでいく人が大多数だから」かな?
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 00時54分18秒 ) パスワード

わたくしの母方の家の事は女と生まれた頃から跡取りになるならないという問題があり
結局後継者にはならず血の繋がらない人達があちこちで継いでいます。

父方については父が全く興味無し。父自身が後妻の第7子で5男だったから
後継者になんて100%可能性が無かったので。

というわけで
母方が源氏方だったということで「平家の男は軟弱」←確かに父方は芸術系が勝れています
という「軽蔑」を持って育ちました。


アメリカ人の夫が「自分は蟹」だなんて言うし「水の中に永いこといた」なんて言うし
(この人、アタマ、大丈夫?)
でした。


夫とロスの紀伊国屋さんに行くと先祖関係の本が向こうから存在を主張し買って読んだら
もう先祖の話がいろいろ書かれていて
だんだん母と父の結婚の経緯というのが分かってきました。

母方も元は平家に仕えていたのに代官が悪い人間でやがて平家に反旗を翻した。


でも同じく南朝方ですし反織田勢力ですし浄土真宗ですし徳川幕府方ですし。
何重にも縁で結ばれているのだと思いました。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 01時00分06秒 ) パスワード

赤間神宮には永いこと夫を連れて行けませんでした。

でも夫を連れて伊賀に忍者屋敷を見に行った時でもいろいろ不思議な体験をしましたし
(あ、歓迎されてる!)
って思いました。


夫と結婚してからホントに物凄い経験体験をさせられました。

比叡山の根本中堂でも物凄い体験の連続があって
夫も
「ここってドーマントだね。表面静かで穏やかで何も起きてはいないのに奥深くでマグマがたぎっている」
と言ってました。


こういう不思議な体験があって赤間神宮にとうとう連れて行ったのです。
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 01時15分58秒 ) パスワード

出掛けた時は普通の朝で普通に赤間神宮に着いて普通に赤間神宮の中を見物して
(ふ〜ん)
と思っただけでした。

江戸時代に建てられた石塚群があって、これも(ふ〜ん)と眺めて、
ま、普通の観光でした。


見終わってそろそろ帰宅しようかとバスを待ってたのですが
バスが来ないんですよ。
あんまり来ないので赤間神宮から貰ってきたパンフレットを見ながら時間を潰そうとして

ここで「七盛塚」というさっき見て来た石塚群の解説に目をやったら
御先祖さまの名前があって
慌てて赤間神宮に戻ったのです。

ウッソー!でした。
本当に?

おいおい、うちは平家なの?と。
ま、伊賀の出身だろうな、とはなんとなく思ってたけど、平家つながりのバリバリ?
と。


バスがなかなか来なくて
赤間神宮から「まだまだ帰らないで」という呼び掛けの感覚はあったのです。
それで七盛塚をちゃんと見ようと戻りました。
写真も撮って来ました。


で、実家に帰ろうと、新幹線に乗って、
ガラガラに空いてたので
夫とわたくしと離れて座ることにして席の準備をしてたら

背中にバックパックを背負ってたのに
背中とバックパックの間に人の手を感じたのです。
「来てくれてありがとう」


ビックリして夫の方を見たら
夫は絶対手の届かない向こうの方の席で快適なように自分の荷物を片付けたりしてたんですよ。


丁度その場所あたりというのが壇ノ浦の戦いのあった辺りというのを平熱の管理人さんから知らされて
「エッ?壇ノ浦の戦いってホントにあったの?」
でした。


日本史って
わたくし達の先祖が実際に経験したことだなんて信じられなくて
絵空事でしかなかったのに
先祖がいたから自分が今存在しているのか
とやっと分かったのです。


それでいろいろ自分の周りの人間を調べてみたら
やっぱり大昔からの付き合いで
初めて会った人なのに出会った瞬間に懐かしく思ったり理由も無いのに反感を懐いたり。

ああ、これって血の中の遺伝子が過去を思い出して反応しているのか、と思うようになりました。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 01時33分43秒 ) パスワード

家に戻って、
アメリカに戻って、
自分の過去と周りの人間達を思い出し
ずっと自分の半生を考え直したのです。


幼い頃から伊賀伊勢の平氏系=平家=の皆さんと遊んでたのだなと分かったり


まだ子供の時に何百人といる中でたった1人特別に引き合った男の子がいて
アメリカに来てから
この人とわたくしの先祖達は10世紀からの命を預け合った刎頚の友だったのが分かりました。


4年後に電話してお話ししたら
月が出てるとお互いを思い出したりしてたね、という話になってビックリ。

わたくしは彼が「配所の月を眺めている」そういうシーンを連想してました。
彼もビックリしてましたけどね。ホントにそういう人生を歩んでいる人だから。


この人と話していたら10世紀以来、南朝方でも御一緒してたし、反信長でも一緒でしたし、
江戸時代に交際が途切れたというのが分かりました。
うちは江戸時代に大変良い目にあってるけど彼の方はそうじゃなかったようです。

だから4世紀も後に何百人という人間がいる中でお互いに引き合って知り合って
惹かれ合いながらも避け合い、気になりながらも喧嘩して


上記に4年後電話したと書きましたが
実は伊賀に行った時、自分の予定とは違う方向に身体が行ってしまうのですよ。
それで
彼にその話をしたら自分はそこに下宿してて、そこからわたくしに手紙を書いたよ、と言ってました。


この電話をする決意をした時は
南朝方の武将の家の名の一覧をある本に見つけて
あの子の家だ!
と思いましてね、それで電話したんですけど、いろいろ昔の話なんぞをして
電話を切ってそのページを読み直そうとしても無いのですよ!

いくら初めのページから丁寧に辿っても忽然と消えてました。
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 01時40分04秒 ) パスワード

それから数年して、

伊賀へ行くことにして
彼の先祖の武士と、わたくしの先祖の女の子の、戦いが終わったらここで会おうと約束した場所に行ったのです。


その場所に行こうと泊まった旅館?ホテル?
そこは何十年も前にその男の子と初めて出会った場所だったんですよ。
これにもビックリしました。

ホンの1画、何十年も前に、あの男の子と歩いた畦道がそのまま残ってるのをホテルの窓から見たのです。
それで
上記の平家方の武将の男の子と平家方の女の子が幼い頃に歩いた場所だった
というデジャブー?が浮かんで来てビックリしました。
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 01時56分22秒 ) パスワード

夜中にホテルの部屋に突然光が射して起こされてビックリしました。
誰が来たんだろう?と。
カーテンが2重に閉めてあったので光は入りようが無いし
車のライトかと思って外を見たら、車なんて入れない場所でしたし。


翌朝その約束の場所に行ったのですけど
車の中で約束の場所に行く途中
橋があって、見ましたよ、男性の姿。鎧を着た人。
「待ってるよ」
と言ってましたね。
「来てくれてありがとう」
って。

運転手がワタシの話を聞きながらワケも分からず運転しているので通り越してしまって
結局橋の所を入れば良かったらしいんですけど。


それでいろいろ分かることがあったのです。

何十年も前に何百人もの子供達の中からたった人の男の子を見つけた時
私はその男の子の背後に黒い鎧を着た姿を見てたんです。
場所は姫路のもっと西。
そういうイメージがあって。

ま、いろいろ分かって来ましたけどね。


血わき肉踊る。
あれって遺伝子に刷り込まれた過去が反応してるんだって。

藤戸の合戦に出向く平家の武将だったんです。


彼は彼で、
何百人もの女の子達の中でわたくしを見た時に「立派な家のお嬢様」の姿を見てたんですって。
バーカ!


電話でこういうバカ話をしてたんですけど
わたくしは、自分が生まれてきた理由とか意義とか、分かったように思いました。
「ああ、今生でわたくしは成仏するんだ」って。

この事が分かる為に今迄何度も生まれ変わっては死んで行ったのだな、と。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 02時13分39秒 ) パスワード

この人は抜き身が歩いているような人で
そういう大変な生き方ばかりしてきた人で

伊賀での壮絶な話をしてくれたり(今生も含めて)

そういうのがデジャブーとして思い起こされるのです。


10世紀からのお付き合いの家同士
壇ノ浦の後、わたくしはずっと伊賀の西の千賀地の館跡で待ってたのに
それからずっと戦国時代の関が原の時代まで
何度も何度もこの人と出会ってはツライ別れを繰り返し
やっとお互い8000km離れて「死んだらホントの所が分かるね」なんて
楽しみが出来ましたよ。


アメリカ人の夫とは
どうやらわたくしは南部の南北戦争時のサザン・ベルだったらしい。

夫の家は南北戦争時は南軍だったんです。


次回生まれて来るとしたら
次回はさっさとアメリカ人の夫と出会って結婚して楽しい一生を終えたいと思ってます。


わたくしの平家の女の子の魂は1999年に昇天したと思っています。
最近は全く霊的な感覚が消えてますから。
[23]たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月02日 03時59分19秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんへ

 もうただ、呆然の態で読ませて頂いてます。私はあなた様が「平家物語」が好きで日本史にとても精通してらして、ひょとしたら史学家ではないのかなと想像していましたが、とてもとても私などとは次元が異なる空間で歴史やご先祖と向き合っていられる気がします。ウーン 考えさせられます。

 断腸の思いで海底に沈んだ幾千の平家の無念の思いは凄い巨大なエネルギーとなって訪ねられた赤間神社の隅々に澱んでいるのだと思います。怨みを抱いて他界した霊は子孫に祀られることが一番の喜びだと言いますね。子孫が絶えると祀って貰えないからですね。あなたが訪ねられた事をご先祖様は殊の外、嬉しかったのではないでしょうか。

 >血の中の遺伝子がー
 こんな事がありました。
 三河以来の徳川の旗本である母の家から”幕末の三傑”と評された岩瀬忠震が出ます。彼は幕府を代表して米、仏、英、蘭、露の五ヶ国と通商条約に調印した外交官です。しかし、安政の大獄で失脚、44歳の若さで向島の別邸で死去します。私の息子が日本に留学し学んだ大学の前身が忠震が学んだ昌平講。息子が博士号論文に選んだテーマが忠震が亡くなった向島のウルバニズムの研究でした。唯の偶然でしょうか。
 また、私が数年前に訪れた本家の福井のお寺の数代前の住職は藩主慶永、その片腕の橋本左内と誼を通じた仲でしたが、忠震はこの左内と書簡の交換をする間柄でした。父と母の先祖が即に接触していたんです。不思議な事ですね。
 
 

 
[24]たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月02日 05時46分04秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんへ

 成経,康頼が赦されて俊寛のみが島に残った件についてコメント頂きましたが、仰言しゃるとうりだと思います。康頼の家族(殊に母)、そして友人たちによって帰洛作戦が練られたのでしょう。最近知りましたが、中原家は代々厳島神社の宮司を世襲してきたそうで(日本の苗字7000傑参照)、同門の中原(平)康頼の救助作戦に関係していたかもしれません。

 康頼の父は信濃の守中原頼季という人物で、今迄、資料でも彼の出自は不明ということになっていましたが、数日前、日本の苗字7000傑で頼季は中原氏貞観流で祖父広季、父広能と知りました。「宝物集」、「平家物語」の研究者の方々にも青天の霹靂でありましょう。頼朝の近臣である大江広元並びに中原親能は祖父広季の養子であり(そうでありながら、この二人の年齢は康頼とそれに近いのです)康頼が鬼界ヶ島から帰洛の後、明らかに頼朝の庇護を受けるのも広元、親能の影響があるのではないでしょうか。
[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 12時26分50秒 ) パスワード

なるほどねえ。
それで中原氏+厳島神社という関連から赦されたという線が浮上しますねえ。


実は厳島神社ですが
ここの神職さんのお1人がとても感じの良い青年で

ただの観光客なのにいろいろ説明してくださって
今、振り返りますと、やっぱり御先祖さま絡みであの神職さんが優しくしてくださったのかしら?
と思います。

「どんなに小さな神宮でも、どんなに有名な大きな神社より、格は全く上だ」
と教えてくださいました。

多分、それで、赤間神宮に行くようになったと思います。
もしこの神職さんに出会わなかったら赤間神宮には行かなかったと思います。



息子さんは優秀でいらっしゃるんですねえ。
さすが林家の後継者でいらっしゃいますねえ。
世が世なら、大学頭になっていらっしゃる資格がおありですね。

尾張藩の先代御当主は堀田家から養子にいらっしゃったのですよ。
堀田家は南朝方ですし。
堀田家の御先祖さまも信濃の浪合村まで転戦したのでしょうね。

愛知県の設楽町とか
地理的にも
やっぱり絡みますねえ。


まさか、こちらで堀田家や設楽のことを書き込むことになるとは思いませんでした。


アメリカでの上司が紀州藩の林家出身の方で
とても有能な方でしたのよ。


ホントに世界は狭いですね。
[26]たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月02日 21時21分18秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんへ

 そうでした。赤間神社ではなくて赤間神宮でしたね。

 忠震の母は林家の出自である事は最近知りました。家族の事をお話しするとこのページをどうも自己主張の場にしている様で気がひけるのですが、息子の専門は建築工学なので大学頭にはなれませんね。彼は留学中、アルバイトでNHK教育テレビのスペイン語講座の進行係りを七年ばかりしていましたから、googleのイメージ欄で ジン タイラと検索されれば出ております。
 大事な事は、世界がすっかりフラット化して国際結婚など珍しくもなくなった今日、この日系スペイン人の彼には二千年以上の日本の歴史を形成してきた有名無名の先祖たちの血がながれている事を、どう認識させてそのアイディンティティを大事に守っていってもらうかという事なんです。だって、設楽家の先祖が系図の通り、道真の末だとしたら、道真ー野見宿禰ー天穂日命まで一気に翔け抜けてしまうのですよ。頼朝の頭脳と言われた大江広元も道真の子孫で、平(中原)康頼の祖父広能の弟(養子)だというのですよ。ここでも、私の両親の先祖はすでに交じっているのです。両親のご先祖だけでこれだけの世界が展開するのですから、何十万人という先祖の重みをあの子は背負っているのです。あの親鸞聖人の血が息子の体内を流れているのかもしれないー、こう考えますと、我々はまことに以って眼には見えない幾万の願いによって生を受け、そして生かされているということに気付かざるを得ません。私が先祖のことを知りたいと願うのは、この子らに自分たちのルーツを正確に伝える為でもあるのです。知った時に、きっと命の大切さを再確認してくれるでしょうから。

[27]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月03日 01時06分40秒 ) パスワード

たいらのしゅうさん

息子さんを検索してみたら結構たくさん出て来て
それも西語!(汗)


でしたら de la とか del とか?
   (西語は全く分かりません:ムーチョ・トラバーホ、ポキト・デ・ネ〜ロ あたりです)

そういうのを裁判所に申請して名字の御出自をはっきりなさったら良いと思います。


そいうのがアイデンティティの主張ですもの。
どこかで軌道修正しておきませんと将来の御子孫がただの普通名詞の名字の平になってしまいますから。
「この平康頼の子孫の」という固有化が良いと思います。


わたくしも機会があって裁判所に名字の変更の申請ができた時
父方の名字を正式にミドルネームとして使用願いを出しました。
母方の名字も併記にすれば良かったかな?と後で思いました。笑


どこかで、そういう軌道修正をなさったら良いのですよ。
もしかしますと、この平熱がその機会となったのかも、ですよ。
[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月03日 01時16分45秒 ) パスワード

>家族の事をお話しするとこのページをどうも自己主張の場にしている様で気がひけるのですが

いえいえ、御遠慮はいりませんよ。
このスレッドは「たいらのしゅうさん」の立ち上げたスレッドですもの。

それに貴重なお話は他の方にも参考になりますでしょうし。


>何十万人という先祖

いえいえ、何十万どころか、天文的数値に至るんですよね。
わたくしも2x2x2・・・と何十代も計算しましたら恐ろしい桁になるのに驚きました。

そういう人達の血を受け継いでいるのですから
血と肉を分けた
というのが納得でした。
御先祖さまあって自分が、今、存在しているんだと。


ですから是非とも御名字に「定冠詞」をお付けになってくださいよ。裁判所が許可してくれるのなら。
[29]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2007年02月03日 01時33分37秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

たいら しゅうさんへ
 
確かに平判官康頼は中原頼季の子で平姓に改姓していますが、貞親流ではなく貞清の曾孫です。
姓氏類別大観「中原氏」を増補しましたのでご参照下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213.htm
[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月03日 01時35分50秒 ) パスワード

良かったですね〜

ラッキ〜!
[31]たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月03日 01時37分11秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんへ

 あなたの不思議な霊体験のお話、とてもインパクトがあって、なかなか寝付かれませんでした。切なくて、そして哀しくもあり。

 あなたはカナダに住む私の従姉に何故か似ている気がしてなりません。あの人もあなたと同じ様な体験ができる体質(精神的なデリカシーを含めて)です。年配になってからカナダの浄土真宗のお寺に嫁ぎましたが、数年前ご主人を失くし、今は念仏三昧の毎日を送っていますが、柴田勝家、村上天皇、南朝の瓜生保ら、重い歴史を背負っていられます。

 今、思い出したのですが、彼女のご主人の姓は林でした。まさか。

 先月末に投稿させて頂いてからあなた様と二人だけの交換ページとなってしまいましたが、とても有意義でたくさん勉強させて頂き、厚くお礼申し上げます。明日から妻と小旅行に出掛けますので、一応、この項は終わらせ、戻って
から、新しいテーマでまた参加させて頂こうと思います。そちらでまたお会いしましょう。有難うございました。

 

 
[32]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月03日 02時08分00秒 ) パスワード

本当に、我々人間は1人で生きているようで、いろいろな人から助けられますね。

そしてその仲介?媒体?が御先祖さまの御力というのを感じます。


先祖を敬愛すれば見えない力で助けて貰える。

見も知らぬ人が思わぬ方向を指し示してくださる。
自分はド壺に嵌って身動き出来ない時に1本のロープを投げてくださる。


わたくしの昔々の知り合いの男の子の背後に見た黒い男性の姿。
そしてその隣には高貴な身分の男性?
なにかイメージが湧いて来るのですがはっきりと形にならない。
その男の子は物理的には近くに住んでいたのにイメージとしてはずっと西、姫路の西の方?

そのうちに点としていろいろな事が分かってきたものの繋がらない。


ところがこれを知らない人が繋いでくれたのです。
   「乳兄弟」。
京大のなんとかの資料に出てたと教えてくれました。



彼も言ってましたね。
自分は馬が好きで、今でも馬には乗っている。
いつも血刀下げてるイメージがある。


こうして書きながら今でも自分の涙ではない涙が出ます。
わたくしが怒り狂って悔しくて悲しくて流す涙とは液体の質が違います。
もっと丸みのある温かい哀しみの涙かしら?せつなさから出る涙かしら?
わたくしの血の中に存在するあの少女のやっと思いを遂げたそういう涙と思います。


ネットって凄いですよね。
PCの向こうに見も知らぬ人がいて、助けてくださる。
善意が見えない力で与えられる。

これは、もう、1つは御先祖さまが御力をくださっているのでしょうね。


わたくしがこうしてレスさせて頂いたのも「厳島神社」の霊験かも知れません。
あの若い神職さんの御蔭かしら?
やはり御先祖さま絡みでしょうか?笑
[33]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月03日 02時23分25秒 ) パスワード

偶然のようでも深い所で必然で繋がっているのでしょうね。
日本人は血と肉と涙で繋がっているのでしょうね。


知り合いの武家系元華族の女性が
「よその御宅の悪口は言わないのよ。
だって自分に唾することだから」
とおっしゃってました。

確かに彼女達の世界は婚姻で繋がってますものね。


我々の先祖は日本の歴史を本当に作ってきたんですねえ。
源平
南北朝
戦国
幕末


夫の従弟が京大に留学してた時
「日本人は8代も遡ればみんな親戚」
と聞いたそうで(笑)


わたくしもたいらのしゅうさんと共通する遺伝子を持っているのでしょうね。

ではでは御無事でお帰りを!
[34]たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月03日 05時52分03秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんへ

  息子の写真はGoogle Japan の image でカタカナで ジン タイラ
と検索してください。
[35]たいら しゅうさんからのコメント(2007年02月03日 06時11分17秒 ) パスワード

日本の苗字7000傑様へ

 ご親切に恐れ入ります。

 ところで最近、康頼の父中原頼季はあの義仲の養父で巴御前の父中原兼遠ではないかと推理された論文をネットで読みました。

 nantosei.hp.infoseek.co.jp 北の旅人、番外ー兼遠

 ご意見を伺いたいと思います。旅から帰ってから読ませて頂きます。楽しみにしております。
[36]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月03日 09時21分25秒 ) パスワード

http://www.nhk.or.jp/gogaku/img/spanish/performer/cast_jin.jpg

すっごお〜い!
セクシー!

もの凄い美形ですね。
ああ、今はイケメンって言うんですよね。


お公家さん系の平氏、
まさに!
ですね〜
[37]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2007年02月03日 21時25分23秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

たいら しゅうさんへ
 
「北の旅人」の異説はあくまでも推量の域を出ないものと考えます。
多くの史料では中原兼遠の子は兼光、兼平(あるいは兼衡)、鞆絵の二子一女説ですが、新編美濃志恵那郡落合条に「兼行は木曾中三権守兼遠の末子なり。兼遠三子一女あり、兄を樋口三郎兼光、中を今井四郎兼平、弟を落合五郎兼行、女を巴といふ。皆義仲朝臣に仕へて軍功あり」とあります。
日本の苗字七千傑サイトは、この説を受け入れております。
従って平判官康頼が入る余地も無く、中原兼遠の権守はあくまでも信濃権守で、中原頼季は信濃守ですから両者は別人と考えます。
[38]小林 俊雄さんからのコメント(2009年03月10日 13時50分08秒 ) パスワード

ご執心の「平康頼」の系図。発見しましたが、どなたのホームページだか、
私には遡って調べる方法を知りません。
アドレスは、http://page.freett.com/tokoshienaeni/annei.html
です。

安寧天皇から系図が始まり、「平康頼」の系図とか、平家方の「師元」の系図とか、
「中原兼遠」の源氏方の系図とか、はたまた、「直江兼続」にいたる系図などに、分かれていっています。
ご覧下さい。どうぞ!!!
[39]たいら しゅうさんからのコメント(2009年03月20日 02時03分25秒 ) パスワード

小林俊雄様

  康頼関係の系図表、有難う御座いました。
  康頼は出家して宝物集と題する仏教説話集を書き残しましたが、その故で 
  多くの国文学者が宝物集研究とともに著者の出自を探っていますが、彼の父  が中原頼季であるらしいという処までしか分かっていませんでしたから、真  偽はさておき、とても貴重な資料だと思います。
[40]きむらさんからのコメント(2009年05月16日 06時19分30秒 ) パスワード

 平康頼は中原頼季(なかはらのよりすえ)の子で明法道(法律)の家柄を世襲したが、彼の父頼季は信濃権守になったから、晩年には二等官まで昇進したようである。
 ここに平家一門の中で、有力な地位にある平保盛という人物がいた。保盛と中原家とは密接な関係にあったらしく、康頼は十代で保盛の家人となっている。保盛は長寛元年(1163年)正月二十四日付けで、越前の国司に任ぜられており、当時十八歳の康頼は、越前に派遣された。この頃に主君から平の姓を賜ったものと思われる。また、仁安元年(1166年)十二月三十日付けで、尾張の国司へ転任するが、康頼を目代に昇格して派遣した。
 この知多郡野間荘にある、源義朝の荒れた墓を修理したことが、後白河上皇の耳に入り、思いもかけず、出世の糸口となったのである。
[42]たいら しゅうさんからのコメント(2009年06月02日 07時47分25秒 ) パスワード

きむら様
 私とHikoさん宛てのとても貴重な情報有難う御座いました。康頼が保盛の家人であったとは!驚きです。中原家に生まれた彼が何故「平」姓を名乗るようになったのか、大きな謎でした。
 父の生家は福井の真宗心光山常照寺で、私の曾祖父は当山23代目住職でした(現住職は26代目)。この寺の系図に依れば、開祖は浄盛上人で、仰られる通り、1339年に90歳で入寂しています。この人物が康利の子、康綱であるか、もしくは孫の康元であるのかは分かりません。2代目の康生上人は「本願寺覚如の子なり。4世善如の弟なり。以後、歴代法灯は京都粟田口青蓮院の権大僧都に補され、紫衣を允さる」とあります。
大島の「康頼神社」の由来もとても興味深いです。
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