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 投稿番号:100936 投稿日:2006年07月31日 00時34分04秒  パスワード
 お名前:暇潰しのギャンブラー
新作紹介:「殿様の通信簿」

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「武士の家計簿」の著者でいらっしゃる磯田道史先生の新しい本
「殿様の通信簿」が出ました。

朝日新聞社
1365円

[1]アカコッコさんからのコメント(2006年08月01日 15時28分43秒 ) パスワード

 『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)という元禄期に書かれた本で一部の史家には知られた書物だそうです。
 
 本というよりも幕府隠密の「秘密諜報」といったほうがよく、公儀の隠密が探索してきた諸大名の内情を幕府の高官がまとめたもののようで、書き写すことが、よほど厳しく禁じられていたようで伝来する写本が少なく、世界に一冊しか残されていない。
 戦前は旧広島藩主浅野公爵家が一冊もっていたらしいが、これは原爆で焼失されてしまい、一冊しか現存しない。

目次には

 徳川光圀 浅野内匠頭と大石内臓助 池田綱政 前田利家 前田利常1・2・3 
 内藤家長 本多作左衛門の面々です。 


 今日購入したばかりで、おいおい興味のあることを書き入れます。
[2]アカコッコさんからのコメント(2006年08月01日 19時44分21秒 ) パスワード

 [1]の続き、

『土芥寇讎記』を世に出したのは、東京大学史料編纂所の金井圓教授(当時)でこの書物が、

@おそらく幕府高官が隠密の「探索」に基づいて書いたものであること。

A元禄三(1690)年ごろに書かれたもので、当時の大名二百四十三人の人物評価を載せた稀有な書物であること。

B現存するのは東京大学史料編纂所所蔵の一冊だけであること。などを明らかにし1967年自ら原文を解読されて、活字化された。

『土芥寇讎記』とは聞きなれない言葉だが、『孟子』にその出典がある。

 「君の臣をみること、土芥のごとくなれば、すなわち、臣の君をみること寇讎のごとし」という一文。

 「土芥寇讎」という言葉は江戸の士人にとっては、ごくありふれた言葉であった。

 「殿様が家来をゴミのように扱えば、家来は殿様を親の仇のようにみる」という意味である。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月02日 00時38分00秒 ) パスワード

アカコッコさん

ありがとうございました。

>『土芥寇讎記』

ルビをありがとうございました。
読めなかったです・・・・
「讎」は「復讐」の「讐」だったんですねえ。



またよろしくお願い致します。


磯田先生の本が売れますように。

わたくし達は現代日本語でなきゃ読めないですものねえ。
武士階級の実態を読めるなんて興味深いですよね。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月02日 00時50分08秒 ) パスワード

>「土芥寇讎」という言葉は江戸の士人にとっては、ごくありふれた言葉であった。
>「殿様が家来をゴミのように扱えば、家来は殿様を親の仇のようにみる」という意味である。


ひところ流行った「造反有理」のような言葉ですね。


15年ぐらい前に「殿様の条件」という番組を見ましたが
記憶によれば
岡崎の家老の拝郷さんは家来によって座敷牢に入れられた
だったかしら?


30年ぐらい前に拝郷さんの御屋敷には行ったことがあります。
坂崎出羽の家とか大久保彦佐の家などを回った時に見たのですが
(西郷さんは知ってるけど拝郷さんって?)
といぶかしく思ったので記憶にありました。

いわゆる上級武家屋敷よりもっと古い作りの門構えでした。


服部半蔵の家でもストライキがありましたしね。


今でもどんな上司を頂くかで下で働く者は運命が変わるってありますね。
親友が上司に手柄を横取りされ
結局は象牙の塔に戻りました。某有名大学で教えています。

私はアメリカで働いて
手柄は一緒に働いてくれた下のものに、
という事を学びました。


「土芥寇讎」という言葉
知らなかったです。
[5]アカコッコさんからのコメント(2006年08月03日 09時55分18秒 ) パスワード

>ルビをありがとうございました。
読めなかったです・・・・
「讎」は「復讐」の「讐」だったんですねえ。

>磯田先生の本が売れますように。はい宗ですね。実はこの本と同時に「武士の家計簿」を買い求め今読んでおりますが、たいそう興味深いことが書かれておりますね。

 私がルビをふった分けではなく本からの転載です。私も読めないでした。だけど字を探すのに大変だった(笑い)




「通信簿」と聞くだけで、ゾットする私が殿様の評価をする訳いかないので
 磯田道史氏の表題の本から。

まず、水戸黄門こと「徳川光圀の通信簿」から。

 一、 水戸中納言光圀卿 従三位
    御紋 葵
    元禄三(1690)年に六十三歳
 
 奥方は京の公家出身。五摂家筆頭の近衛家の姫君で「大夫君」といったが、早くに死んでいる。後継ぎは徳川采女正綱条(正四位下・少将)と言う実は実兄・松平頼重(讃岐高松藩=香川県)の次男で、これを養子にしている。最初、頼重の嫡子・綱方を養子にして、「徳川左兵衛督」と名乗らせ、ちゃんと正四位下・右兵衛権少将の官位につけたが、寛文十(1670)のお正月に死んでしまった。ときに二十三歳。そういうわけである。

『土芥寇讎記』には領地のことも書き込まれている。
 
 光圀卿の御居城は常陸国水戸。江戸から三十里(約120キロ)のところにある。御領地石高は二十八万石。このうち四万石は弟の刑部大輔どの・播磨守殿に配分。新田開発や山海の諸運上など雑収入がほかに十万石ほどある。年貢の税率は平均五ツ二三分(五二、三%)である。

 家中の武士には大抵「地方知行」方式で知行地を支給しているが、新参者には蔵米四ツ(知行百石あたり玄米四十石)を支給する。江戸から近いので(江戸詰の旅費がかからず)江戸も水戸も藩士のふところ具合はいい。光圀は家来にも領民にも「御哀憐」が深くみんな安心している。
 
 家来達は文武の諸芸を良く学び率直で勇義が備わっている。ただし住んでいるのが(都から遠く離れた)「下国」だからだろうか、御三家(尾張・紀伊・水戸)のなかでは、藩士たちの風俗が遥かに劣っている。江戸詰の藩士は行儀がいいが、水戸の国育ちの藩士は、言葉にも(なまりがあって)
聞き取りにくく、それで風俗が悪くみえるという話もある。

 さすが、詳しく調べている殿様の実収入から、家来への給与支払い方法、果ては「水戸藩士は言葉がなまっていて、どうも格好よくみえない」ということまで書いてある。
 通信簿を見るかぎり、光圀の成績は悪くない。『土芥寇讎記』の大名評価は辛辣なものが多く。
 
 光圀のように「善政」をたたえられる大名は少ない。当時から「名君」として世に聞こえていたのは間違いない。

 この次は光圀の「素行調査」のほうはどうかな?


[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月03日 12時59分57秒 ) パスワード

アカコッコさん
ありがとうございます。


>実はこの本と同時に「武士の家計簿」を買い求め今読んでおりますが、
>たいそう興味深いことが書かれておりますね。

本当に磯田先生の研究は興味深いですよね。
身近な武士の姿を紹介なさってますから。

武士ってもっと実入りの良い身分かと思ってました。笑


>水戸光圀卿

後継ぎのことは東野栄治郎の水戸黄門の中で知りました。
なかなか出来ないことですよね。

山内一豊の家も娘が死んでしまって一豊の弟に家督を譲ったんですってね。
こういう後継者のことって現代でも大変な思いから決心しますから
大藩であればあるほど大変な思いがあったんでしょうね。


水戸藩は今でも大日本史の編纂をなさってる(完成したのかしら?)と聞いてました。
すごい事ですよね。
先祖に係わる部分を送って貰ったことがあります。


>通信簿を見るかぎり、光圀の成績は悪くない。

将軍吉宗に生類憐みの令の批判もしてますしね。
(これもテレビからの受け売りです)笑


>光圀の「素行調査」のほうはどうかな?

2001年だったか?日本に行った時の石坂黄門さまシリーズは
加賀まりこだったか?演ずる愛人がいましたね。
それで(へ〜)なんて驚きました。笑
[7]アカコッコさんからのコメント(2006年08月05日 06時51分19秒 ) パスワード


光圀の圀の字について説明しておきたい。黄門についてはよく知られておりますが、圀という字は則天武后が作った「則天文字」である。

則天武后は中国四千年の歴史のなかで女性の身でありながら皇帝になった人物です。

 自分の意志で文字を変えた。「国」という文字は「国は八方に拡がらなければならない」という強い意志で口(くにがまえ)の中に「八方」と書かせ「圀」という文字を無理に作らせた。
 
徳川光圀は、こうした話をよく知っていたというよりも国とは如何なる文字で表わされるべきか。形而上の観念世界に没入していく性質を生まれながらにもっていた。光圀には、観念が行動にすべてを支配しているようなところがある。

 「自分でなく、兄が正統を継ぐべきである」前の[5]の養子の点もこうした背景があったのがわかりますね。

『土芥寇讎記』は大名の行状を探っているが、光圀の「素行調査」もしたらしくその部分をみると光圀の品行は、とても方正とはいえない。
最初の部分こそ、名君らしいことが書いてあるが、後半部分には、光圀をめぐる怪しい噂がでてくる。

 世に流布することによれば、「女色に耽りたまい、ひそかに悪所(あくしょ)に通い、かつ、また、常に酒宴遊興、甚だし」と言われている。しかしながら、当時、世上の人は口さがないので、その虚実はわからない。

さすが、御三家の家柄をはばかっているのか、最後に「その虚実はわからない」としめている。
 
「江戸時代の倫理では、国と祖先を祭る儀式につかわれる芸能をのぞけば、あらゆる芸能は「悪」とされる。

 ところが、能は構わない。武士にとっては、能を舞うのは嗜みの一つとされたが、歌舞伎をみるのはまったく不道徳な行いで、俗悪趣味とされた。」

 光圀の時代は、「悪所」とよばれる遊郭も、光圀はあちこちの遊郭に出没しては人に会っていた。
 この時代遊郭は遊里とよばれ、文化サロンの一つになっていた。遊里には詩文・書画・管弦の達人が集まっており、身分をこえた学芸の交流がそこで出来たのである。

 色街に出没する。その噂があるだけで、人々の心は十分に浮き立った。そして、「水戸黄門漫遊伝説」という国民的神話が形づくられていったのである。

[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月05日 08時51分35秒 ) パスワード

アカコッコさん
ありがとうございました。


>「国」という文字は「国は八方に拡がらなければならない」という強い意志で
>口(くにがまえ)の中に「八方」と書かせ「圀」という文字を無理に作らせた。

ほお〜
そういう意味だったとは知らなかったです。

彼女は男勝りとは知ってましたが発想も素晴らしいんですねえ。
見直しました。


>女色に耽り

ということは加賀まりこ演じた愛人役は実話に近かったのかもですね。


>能は構わない。武士にとっては、能を舞うのは嗜みの一つとされたが、
>歌舞伎をみるのはまったく不道徳な行いで、俗悪趣味とされた。


能は武士が始めた、プラス、足利将軍も愛した
そういう歴史があるからでしょうね。

それに比べて歌舞伎は庶民から始まって
河原で演じたり
売春も絡んだし

出雲阿国が死の病に近かった太閤秀吉から認められ損なったというのもありますから
もし秀吉に可愛がられることがあったら歌舞伎は運命が違ってたのでしょうね。


雅楽がロスに来た時の宣伝でも
雅楽は「能や歌舞伎とは違う」上品な芸能だ、という表現がありました。
こういう差別というのは日本だなあと思いました。

このフレーズを入れたのは東儀先生なのか、訊いておけば良かったのですが。
(東儀先生の奥様は梅の花のように美しい京の都の公家の姫君でいらっしゃいます)


>この時代遊郭は遊里とよばれ、文化サロンの一つになっていた

太夫は教養豊かなプロフェッショナルですものね。
今の人は太夫も枕芸者もいっしょでしょうけど。


>色街に出没する。その噂があるだけで、人々の心は十分に浮き立った。
>そして、「水戸黄門漫遊伝説」という国民的神話が形づくられていったのである。

水戸黄門漫遊伝説って実は美しい花から花へ飛び回ってた時の噂の変形だったのですか。
意外でした(笑)
[9]烏夜啼さんからのコメント(2006年08月05日 22時20分37秒 ) パスワード

突然割り込んで、申し訳ありません。

黄門様のことが話題になっていたので、元ミトッポとしては、
ウズウズしてしまいまして。

黄門様についての地元の噂です。
素行が悪いどころでありません。
水戸だか常陸太田だかの某所でひそかに牧場を作って、牛を飼い、
いつも牛乳をぐびぐび飲んで、チーズだかヨーグルトだかを
食べていたそうです。
それどころか、牛そのものも食べていたとか。
豚も食べたとか・・・
斉昭公も牛や豚が好物だったとかで、彦根藩からいつもお肉をもらっていたそうです。
でも、急にくれなくなったので、食い物の恨みで、桜田門外の事件が
起きたんだ、なんて地元の笑い話がありました。

水戸の殿は代々悪食ですよ。
特に黄門様。生類憐みの令完全無視。
犬の毛皮の着物を作ったんでなかったかしら・・・
[10]アカコッコさんからのコメント(2006年08月06日 07時16分38秒 ) パスワード

鳥夜啼さんいらっしゃい。

 以前「時忠卿の頭の中って」人を食ったようなタイトルでこの「平熱」に登場したころより、だいぶ成長されました様にお見受けしますね。はじめはただの○○おたくかと思っておりましたけど、郷土の英雄を弁護するなど想像も出来ませんでした。それが人の「心」だと思いますよ。

 時忠の御子孫があのタイトルでどんな感じをもたれたか?。たぶん好感情は無いと思いましたが。これは年寄りのたわごとと聞き流してください。

 これからも書物に載っていない、隠れた逸話などドシドシ投稿してください。待っております。

「殿様の通信簿」を続けます。

 浅野内匠頭と大石内臓助
 
 なみいる大名のなかで、浅野内匠頭ほど名の知られた大名はいない。実際大名は思ったよりもたくさんいた。

 人間一世代が二十五年〜三十年であるとすれば江戸時代は約十世代だが、大名は、まるで種馬のように「早めの子作り」を強制されていたうえ、政治的にも「代替わり」があったからたいていの藩は十三代目あたりで明治維新をむかえた。

 一藩に十三人の藩主がいて、藩の数は約二百五十。13×250=3,250ほどになり三千人以上いた。
 
 考えてみれば内匠頭というのは不思議な人物である。生きているうちは、全く無名の存在であった。例の江戸城の「松の廊下事件」の件で切腹しまた赤穂浪士の討ち入り」で田舎大名から歴史上の重要人物に押し上げた。

「討ち入り以前」の浅野氏については、さっぱり資料がなく。世間も気に留めていなかった。
 しかし「討ち入り」の後、手のひらをかえしたように浅野家贔屓になった。義士の手紙などはある程度残されているが、「討ち入り以前」の浅野家に関する資料は、「御家断絶」で藩自体が潰れてしまい、史料が少ない。
 
『土芥寇讎記』の巻第二十に「浅野内匠頭源長矩」と記載がある。この通信簿は内匠頭が事件をおこすまえに書かれた史料であり当時の人間が内匠頭をみてどういう人物か、あれこれ評論したものである。

 一、 浅野内匠頭源長矩 従五位下
     紋 丸に違い鷹の羽
     元禄三(1690)年に二十三(二十四)歳

 奥方は(広島の三次藩主)浅野因幡守長治の娘(名前は「あぐり」といい、長矩からみれば、父親の又イトコになる)。嫡子はまだいない。

 浅野内匠頭は幼いころ「又市郎」と呼ばれていたらしい。『諱・いなみ』は「長矩」ながいものさしという意味である。
 
 ただしこの「長矩」という諱は「忌み名」であって、滅多なことで他人がよんではいけない。親がつけて大切な実名であり、いってみれば、父祖の系譜に載るための名前である。「名にこだわる」といのは、ある種、日本人の性(さが)といってよい。
 
 浅野内匠頭の官位は「従五位下」である。一般に大名は位階は低かった。
 高家は禄高は少ないが、官位はずば抜けて高い。『吉良上野介』は家禄はわずか四千二百石にすぎない。だが従四位上・左近衛権少将。
 
 吉良の位階は浅野より三ランク高いだけである。しかしこの三ランクの差は天と地ほどの差である。従四位上といえば、当時、加賀百万石の前田綱紀の位と同じで、つまり位のうえでは前田家と同格だったのである。

 吉良上野介は「高い官位」にこだわり、浅野内匠頭も(ある一つの自意識)をゆずらなかった。
 そのこだわりとは「城持大名」という強烈な誇りであった。あまりしられていないが、江戸時代の平和な時に、めずらしく『築城』というものをやっている。
 
 この築城につれ、浅野家の藩風は妙なものになっている。戦国時代のような築城工事がつづいていた。家中の武士には、軍学好きがふえ、気風も粗野な者が多くなった。
 全国から兵学者や腕に覚えのある兵法者があつまり、「山鹿素行」もその一人であった。
 このような意識が、浅野内匠頭にも大石内臓助らにも共有されており、知らず知らずのうちに、偏狭な自尊心を築いていったのかもしれない。

「上野介、なにするものぞ」「長袖者め!」。長袖とは、公家や僧侶など長袖を着る文官を馬鹿にして、武人が発する蔑視の言葉である。

 勅使接待役などやらされ、朝廷だの官位だのを持ち出され、浅野内匠頭は吉良上野介にさんざんに自尊心を傷つけられ、ついにそれが爆発、発作的に切りつけてしまった。突けば殺せたが、切ったので相手が逃げた。

[11]アカコッコさんからのコメント(2006年08月06日 07時28分03秒 ) パスワード

続き

 『土芥寇讎記』には家民豊かなり、物ごと自由かない、よろしき所なり」とあり、こういう豊かな土地から「六公四民」という高率の年貢を取り立てていたのである。
 
 家老についても触れている。
  家老 大石内臓介(助)
     藤井又左衛門
 大石家(千五百石)、藤井家(八百石)
 
 大石家が筆頭家老になるきっかけは、大阪夏の陣である。内蔵助の曽祖父は多いし良勝といい、その弟は大石信云といった。この二人は、よほど血の気が多い性質であったらしく、夏の陣で浅野家が窮地に陥ったとき、逃げまわる浅野家譜代の家臣たちを尻目に奮戦し、獅子奮迅の働きをした。

 『土芥寇讎記』には長矩は智があって、利発である。家臣、領民の仕置き(政治)も、よろしい故に、士も百姓も豊かである。しかし女色を好むこと切である。
 
 ただこのとき内匠頭は二十四歳である。この年齢で女のことばかり考える男はめずらしくない。好色は男の性(さが)であるといってよい。

  内匠頭は「女色にふけるの難」があり、「淫乱無道」(原文)だとはっきりいっている。そのうえで、このままでは「家を滅ぼす」という、恐ろしい予言まで残している。そしてその矛先は、大石たち家老に向けられている。 
 
 「なぜ若い主君が色におぼれるのを黙ってみているのか、なぜ諌めないのか」ととどめ、家老の大石と藤井をー不忠の臣―とし名指しで非難している。

 「殿様の通信簿」に近い書物が伝わっている。「諌懲後正」(かんちょうこうせい)という大名の行状を記した書物であり、やはり東京大学史料編纂所に所蔵されている。元禄十四年(1701)年に書かれたもので、刃傷事件をおこす直前、まさに一月か二月まえに、彼の行状をまとめた機密報告である。
 
 一部抜粋して訳す。
 
 長矩は文武を学ばず、武道を好む。生まれつき気が小さく、律儀である。淳直な性格で非儀はしない。贅沢はしないが、民からむさぼっている。軍学と儒道の心がけはあり、公の勤めは怠らない。世間の交際は専心するが、その気質は幅がなく、知恵がなく短慮である。中略 先年、奥方の下女について、少々非道のやり方があって、このごろ世間のきこえがよくない。
 −すでに、この家は危ない。そういった噂がたっていた、というのである。「赤穂浅野家は近いうちに改易になるだろう」
 
  さらにいえば、内匠頭とその母親との関係にも関心がある。内匠頭は父親を早くに亡くしわずか九歳で家督をついだ。自然母親の存在が大きなものになる。
 
 母親は鳥羽藩内藤家(三万五千石)から嫁したきたが、その弟、内匠頭の叔父、内藤忠勝といったが、ある事件をおこし、「切腹」になっている。
 
 しかもこの事件というのが、内匠頭とまったく同じようなシチュエーションでおきている。刃傷事件から遡ること、二十一年前、芝増上寺で将軍家綱の法事があり、この叔父は「勤番」をつとめたが、将軍の法事という極度の緊張の場で、何を思ったか、同役の丹後宮津藩主永井信濃守尚長を刺殺してしまった。このとき内匠頭十四歳。
 叔父の殺人と切腹という強烈かつ異常なトラウマが残ったに違いない。

ドラマや芝居では精錬潔白な青年大名として描かれているが、本当はそうであったのか。古文書に記されたところから、その心の襞を一つずつ解きほぐしていくと、まったく違った姿がみえてくる。
[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月06日 09時44分51秒 ) パスワード

アカコッコさん

もうビックリ!
浅野内匠頭は意外な人物でございました・・・


>「浅野内匠頭源長矩」

浅野は美濃の土岐源氏の流れなんですってね。
それが秀吉と仲良くなって大大名に出世した。

浅野と吉良は足利以来仲が良くても良さそうなのに
実は何らかのしこりが「前からあった」のかもですね。

それで長矩は刃傷事件で「前から遺恨があった」と言ってるのは
昨日今日の怨み辛みじゃなかったのか、と思いました。
わたくし達は「前から遺恨があった」というのを饗応に係わる怨み辛みを想像しますけど。


>『土芥寇讎記』には家民豊かなり、物ごと自由かない、よろしき所なり」とあり、
>こういう豊かな土地から「六公四民」という高率の年貢を取り立てていたのである。

豊かだから税率が高かった?え?でございますね。

これも今から考えれば「豊かなら税金が安くてもいいんじゃないか」という訳じゃなかったのですね
累進課税の考え方が既にあったのかしら?と思ってしまいました。笑

ま、税金というのは、豊かでも貧しくても、払う側には取られ損ですよね。爆笑
日本でも1970年代の終わり頃には沢山稼ぐ人は罰のように高率の所得税を課されてましたものね


>『土芥寇讎記』には長矩は智があって、利発である。家臣、領民の仕置き(政治)も、よろしい故に
>士も百姓も豊かである。しかし女色を好むこと切である。

女色を好む、というのは初耳でした。
奥方の下女に悪さしたという感じですね。レイプ事件かしら?
殿様なら下女に何をしようが許される、というのが日本だと思いますけど
奥方の下女に手を出すのは当時もタブーだったのかもですね。

それもマタいとこ関係の夫婦ですものね。


長矩について、実態は知らない、伝わっていない、
浅野の殿様の悪行は美談の蔭に隠されてますね。


長矩が切腹になってアグリさんが未亡人になって
長矩の弟?の大学でしたっけ?
この人がアグリにちょっかい出してアグリは迷惑した
という話は描かれてますけど

ここの家は(父方の浅野家も母方の内藤家も)素行が悪かったのかもですね。
DNAにそういうのが刷り込まれていたのを「あそこは血が悪い」と当時の人には思われてたのかも


もう、へー!ハー!と驚きの溜息ばっかりでございましたよ。
ありがとうございました。
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月06日 10時15分18秒 ) パスワード

>刃傷事件から遡ること、二十一年前、芝増上寺で将軍家綱の法事があり、
>叔父・鳥羽藩内藤忠勝(三万五千石)は「勤番」をつとめたが
>将軍の法事という極度の緊張の場で、何を思ったか、
>同役の丹後宮津藩主永井信濃守尚長を刺殺してしまった。


調べてきました。


延宝8年5月8日(新暦1680年6月4日)4代目将軍家綱が薨去し
綱吉が5代将軍になって
最初に断絶減封にした大名家の2つでございました。


延宝8年6月26日
永井尚長  丹後宮津7万3600石 被殺害減封 新封地は大和新庄1万石

同日
内藤勝忠  志摩鳥羽3万5000石 殺害断絶  


永井家とその家臣には迷惑な事件でしたよねえ。
江戸時代ってこういう苛酷なお仕置きの時代だったんですねえ。


加害者側が断絶になるのは仕方無いとして
被害者側も処分されたのですから
吉良家はお構いなし
というのは赤穂の人々には許せなかったというのは叔父さまの前例から
確かに大石一派には吉良家討ち入りの理由があったのですねえ。

はあ〜


逆にあの赤穂浪士の討ち入りって吉良家側にはホント迷惑な話だったのですねえ。
現在に至る旧吉良藩の領民にとっても納得いかないですね。
斬りつけられて討ち入られて首取られて、今でも吉良側って馬鹿にされてますものねえ
[14]烏夜啼さんからのコメント(2006年08月06日 23時29分22秒 ) パスワード

アカコッコ様

突然失礼致しました。
黄門様のラーメンとか、心越禅師の日本語とか、風車の矢七の墓とか、
地元には何の根拠もない笑い話やネタがあふれておりまして、
黄門様の牛乳もその一つでございます。
名誉毀損な発言、失礼致しました。

はい、まことにご指摘の通りでございます。ご指導、ありがとうございます。配慮に欠ける、未熟者で、どうぞこれからもご指導下さいませ。

お邪魔致しました。
[15]アカコッコさんからのコメント(2006年08月07日 12時18分53秒 ) パスワード

 『殿様の通信簿』は見開きでB5ですから、b6では徳川光圀のページが18pで、浅野内匠頭と大石内臓助のペ−ジが26pもあります。
 著作権の問題もありますから、本の内容の紹介程度を書き入れております。著者の磯田様の「殿様の通信簿」には色々知られていない内容が豊富にあり、感謝申し上げます。勉強のため転載をお許し頂けるものとして進めさせていただきます。


 池田綱政 曹源公の子、七十人おせわし

 曹源公というのは私(磯田道史)の郷里岡山の殿様、二代目藩主池田綱政のことである。
 殿様は偉かった。
 藩祖の池田光政を「芳烈公」、二代目の綱政を「曹源公」とよぶ。綱政は父の光政と違って、なかなかの美男である。綱政の容色が美なのは、まったくの偶然ではない。
 母は絶世の美女といわれた家康の孫娘・千姫の孫である。千姫は豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪落城ののち、暫く孤閨をかこっていたが、これまた当時の大名のなかでは、図抜けた男前といわれた本多忠刻に嫁いだ。二人の間に生まれた姫君であったから、綱政の眉目が秀麗になったのは、ある意味では必然であった。
 
 「殿様の通信簿」である『土芥寇讎記』には はっきり、「生まれつき馬鹿(生得、魯)」と書かれためずらしい殿様である。
「綱政、生得、魯にして、分別あたわず」
 
 ただ綱政にも言い分はある。「親父」が偉すぎるのだ」父光政は名君とされている。
 
 江戸時代はじめ、『名君』は四人いる。ひとりは、水戸の徳川光圀、もう一人は金沢の前田綱紀、会津の保科正之、そして、岡山の池田光政である。

 いずれも儒学を好み、みずから藩政を導いて、治績をあげた。 儒学をもとに独特な思想体系を築いており、この思想でもって領土全土をその思想で染め上げたといってよい。当時の大名の中で、能力はずば抜けて高い。戦国時代にうまれていれば、間違いなく覇を唱えた人物である。
 
 光政の正室・勝子は、千姫が母、本多忠刻が父。美形で良妻として世に知られているが、夫・光政の容貌の醜さ(疱瘡を患いアバタ顔)だけは、残念で仕方が無かったらしく。
 『夫婦になるのは、一世の縁ではないけれど、みんな神様のお引き合わせ、だから、どんなに醜い夫でも夫と決まったからには、尊敬しないとね・・・』(明良洪範)
 
『綱政、生得、魯にして、分別あたわず』
 と書いたあと、親父光政は、天下に沙汰して文武両道の達人なり、その子として、不学文盲なり。
 儒書・軍書は山のごとく積み重ねて、これ有りといえども、いっぺんも見たことなし』綱政の父・光政は、稀代の勉強家である。これほど本好きの大名もいない。
 何しろ、光政は書を蔵にたくわえるだけでなく、「参勤交代のときも、本を読みたい」と言い出し「移動文庫」を作らせた。
[16]アカコッコさんからのコメント(2006年08月07日 12時25分05秒 ) パスワード

続き

『土芥寇讎記』には綱政のことを、さんざんに書いている。綱政の阿呆ぶりを詳細かつ克明に記して、読んでいるうちに哀れになってくる。
 
 現代語に訳すと「綱政は、物の道理というものがわかっておらず、行いが悪い。昼も夜も酒盛りと遊覧のことばかり考えていて、政冶はそっちのけである。
 
 御旗本たちのあいだでは、『バサラ道楽(見栄っ張りの派手好み)』の悪名をとり、世間から後ろ指をさされている。そのくせ、坂部三十郎のような不良旗本とは、無二の仲良しで、昼は蹴鞠、夜は芸能人を集めて、酒を飲んだり、舞いをまったり、そんなことばかりしている。

 『土芥寇讎記』を読み進めると、核心的な記述が出てくる。「あまつさえ、女色を好むこと、倫を超えたり」「学者の子に、かくのごとき、不学・文盲・短才もめずらし」と、風聞あり、臣ら、忠義を思わば、いずくんぞ、諌めざらんや」 
 
 これを裏付ける史料が残っている。

 『宍粟日記』(しさわ)という。綱政の叔父、播磨山崎藩主・池田恒元は筆まめで、物事をはっきり言う人物であった。池田家の内情をあれこれと書状にしたためて、家老にいくったから、これを読めばある程度、本当のところがわかる。
綱政の乱行は間違いないらしい。
『きずい』ということがよく掛かれている。「気随」と書く。わがまま、気まま、というほどの意味であり、まず悪い意味でつかわれた。
 
 いよ殿は、この(気随)の最たるものだ。まず仮病を使う。家中の者太刀は、第一、女色がこれほど強いのは、よそにあるまい。と思われる。正室の女中までよく知っていて、女さえ(いよ殿)あなどっている。これは「幼少のころからあまりに甘やかした所為だ」

 綱政自身が書いた文章がかなりのこされている。実際のところ、綱政は文盲どころか、多くの著作を世にのこしている。
 
 『丁未旅行記』という名で、参勤交代のとき、綱政がつづって紀行文であり、明らかに名文である。これはけして文盲のできるわざでない。

 もとより、荒磯の波の音、浜の松に響きた、ゐも寝ず。独り寂しく臥せるに。たのめぬ月は隈なく闇のうちいさぎ入り。せめて仮寝の友ながら。なお慰め難う覚えて。
 
 ひとり寝は いとど物憂き 
  荒磯の 波のまくらに 月を浮めて
   などとある。この感性は父の光政には絶無のものといってよい。

[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月07日 21時12分30秒 ) パスワード

アカコッコさん
烏夜啼さん


いやあ〜
もうビックリでした!

実は烏夜啼さんの書き込みを拝見して
今の水戸の殿様の御子孫は畜産業をなさってて牛を飼っていらっしゃる
という番組を見たことを思い出し、
更に、
徳川慶喜はケーキ作り(や刺繍や)なども御趣味で、
というのを思い出し、

それで昔の殿様の御子孫はいろいろなさっていらっしゃるのねえ、多角経営で、
特に岡山の池田さんとこは牧場や動物園も持ってらっしゃるのでしょ
なんて思い出していたのです。

昨夜はな〜んか何度も目が覚め、

今朝開けてみたら岡山の池田家のことが書かれていてもうビックリ!
これはもう、平家のオカルト・パワー炸裂!だったのでしょうか?笑


アカコッコさんがいろいろ教えてくださるパワーが8000kmを飛んで届いたのですねえ。
[18]箱柳永田さんからのコメント(2006年08月07日 23時08分21秒 ) パスワード

 >延宝8年6月26日
永井尚長  丹後宮津7万3600石 被殺害減封 新封地は大和新庄1万石
 少し訂正 させて下さい

 被害者は 無嗣断絶 末期養子を認めず
   新たに親族をもって 立藩 信濃守を名乗る。

 ○チガイは遺伝しないが、なりやすい体質は遺伝します。
  済みません 差別用語の取り扱いに不慣れです。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月08日 03時15分48秒 ) パスワード

箱柳永田さん

訂正恐れ入ります。ぺこり


> ○チガイは遺伝しないが、なりやすい体質は遺伝します。

アル中でも遺伝はしないのでしょうけど
家族にアル中がいて振り回されると
いずれアル中になりかねないですよね。
[20]アカコッコさんからのコメント(2006年08月08日 06時40分41秒 ) パスワード

読み返してみると、誤字や脱字が多く見られ、御免なさい。
[ 15]/[16]だけだと、ただのバカ殿様に終わってしまうが、続きがあります。



七十人おわせし

『池田家履歴略記』には
世につたえて、曹源公の御子七十人おわせしという。今ここに載るところ、男子の御子二十一人、女子三十一人。歴史上さかんに子供を産ませた絶倫の者はかなりいる。

 織田信長は親譲りの性豪で二十数人の子がいたし、徳川家康も十六、七人。水戸藩の徳川斉昭は三十七人。歴代将軍では徳川家斉が五十五人の子をもうけ、最高記録となっている。
 増えすぎた子供が、城からあふれだした。とうとう、作りすぎた子供を家来に配りはじめた。私(磯田道史)の曽祖父の兄は、丹羽という岡山藩の先手物頭の家を継いでいたが、この家にも綱政が随分無理を云ったという話が残っている。
 
 光政は幼少との理由で、すぐさま姫路四十二万石から、冬は雪に閉ざされる鳥取三十二万石に減封され、どん底にあえいだ。ようやく気候の良い岡山三十一万五千石に移されたかと思うと、今度は大洪水に襲われ、領土全土が飢餓地獄になった。

 米を配らなければ、百姓たちは餓死する。しかし、家来たちは承知しない。
 
 『武士が飢えているのに、百姓に米を配るとはどういうことだ。百姓は牛馬のようなもの糠でも喰わせておけばよい!』
 平然とそう言い放った。しかし、放置すれば、幕府に責任を問われ、領地を召し上げられる。光政は決断した。
 「言うことをきかない家臣は殺す」
「武士も百姓も人間としては同じ。慈しまねばならぬ」と光政のなかにも、ある種の、江戸の人権意識が芽生え始めた。しかし、それを具現化するときに、過酷な恐怖政治をおこなった。
 
 綱政はこの父を見ながら、育っている。(父のようにはなるまい)すべてのことには反対をした。ひたすら『源氏物語』の雅な世界に憧れた。
 
 「公家になりたい」と本気に思っていたようである。公家風にならい、武家蛇蝎のごとく嫌った。
 熊沢蕃山などは、この姿に眉をひそめ、綱政に書状を出している。
「殿様は・・・武将の専一になさるべきことは、おろそかにて、公家様のように、衣類様のこと、こまかに御詮議なされ候」
 
 たしかに、綱政の政冶は危うかった。津田永忠などの能吏に実務を任せて、とりあえず政冶になっていたが、世間の評判は最悪であり。

『土芥寇讎記』などは「綱政、文盲不才をもって、政道雅意にまかせば、年を経ずして、三十万石余を失わん」

 「綱政、愚かなれど、悪事なきは、猿知恵あるには、まさりなん」(綱政は馬鹿だから、悪事もできない、する賢い大名よりは、よほどましだ。)続く。
[21]アカコッコさんからのコメント(2006年08月08日 07時56分31秒 ) パスワード

岡山城の奥向きは、光政の好みで、質素をきわめた。大名の印籠は、黄金の蒔絵をほどこすのが通り相場であったが、光政の印籠には黒うるしが塗ってあるだけで、何の文様もない。
鋏箱の蝶つがいも、金から鉄に変えさせてあった。寝所の蚊帳の釣手も、「観世より」という、戦場で用いる特殊なこよりをつかい、古筆の軸を切って結びつけていた。この質素さは、池田家の家風といってよく、光政の祖父池田輝政の時代からそうであった。

輝政は、五十万石の大大名になっても、「婦人の愛する器物の玩弄(がんろう)を禁じ・・・二、三万石の領主にひとし」『池田家履歴略記』という暮らしぶりで、とにかく金銀をあまらせ、すべてを武備と築城につかった。姫路城が異様に立派で、今日、世界遺産となったのは、輝政のこだわりによるところが大きい。

ところが、綱政は、この質実剛健な家風を一代でかえてしまった。
「あがのうて参れ」といって、京から屏風や扇子をとりよせ、城のなかに。
そのうち、生きた人間も。京女である。自分だけの『源氏物語』をつくり、その住人になろうとした。

綱政はそこに雅やかな京ことばで、ともに語る「上臈」が欲しい。「玉岡・幸品・梅辻」など。

 「綱政の遺言」とおぼしきものが出てきた。嫡男の池田継政に言い残したものである。

 「国家の政道を専ら心がけ、なまけてはいけない」そこまで筆をすすめて、(いやまてよ)と思ったらしく、改めてこう書き加えている。「仁愛慈悲第一の事」それにつづけて、「武芸は何によらず、上手になろうと望んではいけない。芸を覚えるまでにしておくがよい」
また政冶(政事)については
 「政冶においては、極重悪人といっても、十に一つも許すべき道理あれば、きちんと穿鑿して、重罪を軽くするのを、真の政事と心得よ」
 
まさにこれが綱政の信条といってよい。『自愛・慈悲』
 
だが彼が遺言に書き残した最後の指示は、
 『墓に埋めるときは、公家風の衣冠をきちんと着せてくれ』
というもので、あの世でも、公家の如く、雅でいたかったのであろう。

感想:現代においては、なんか金持ちの三代目にソックリな人も大勢いますね。
 幸いにして、親の財産もなく、質素・質素で過ごしておりますが(笑い)
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月08日 15時34分46秒 ) パスワード

背筋が寒くなりました。


>綱政はこの父を見ながら、育っている。
>(父のようにはなるまい)すべてのことには反対をした。ひたすら『源氏物語』の雅な世界に憧れた

いますね。
源頼朝の家もそうですものね。
徳川家でも3代目の将軍はとかくの噂がありますし。


最近は自閉症だの引き篭もりだのニートだフリーターだと親を嘆かせていますね。
親が立派すぎると子は辛いのでしょうね。


>「政冶においては、極重悪人といっても、十に一つも許すべき道理あれば、
>きちんと穿鑿して、重罪を軽くするのを、真の政事と心得よ」

安堵致しました。


大岡越前が或る日家来が来た時に「お前は蜜柑をこの部屋から盗んだろう」と言い
その家来が否定するので拷問に掛けたらその家来が盗んだととうとう白状したので
自白の強要は違法だ、と知った(だったかしら?)

綱政は大岡越前よりずっとマシですよね。



>曹源公の御子七十人おわせしという

笑っちゃいました。
「酒池肉林」は男子たるものの夢ですよね。
あはは

そういえば昔ご近所に明治天皇の御落胤という(噂の)男性が住んでまして
天皇家が移動する時には公安だか私服だかが見張りに来てました。

我が家は誰も信じていませんでしたけど
見張りが来るほどでしたからアヤシイですね。

あの人の母上は御伽に出されたニョショウだったのかしら?
ふふふ
[23]アカコッコさんからのコメント(2006年08月17日 07時47分44秒 ) パスワード

 前田利家についてはあまりに有名で、書き尽くされておりますが「殿様の通信簿」から。

前田利家- 信長、利家をお犬と申候

加賀は百万石であり、日本最大の大名である。今でも誇り高い文化をもつ。
筆者がはじめてみた加賀人を見たのは、高校を出てすぐ。この浪人生が『藩祖』を「前田利家!」と呼び捨てにせず利家公ときちんと「公」をつけて呼んでいるのがとても不思議だった。
ちょっと自慢げに「僕は、金沢、百万石の金沢」、「夏になったら、利家公の百万石祭りをするげん」と加賀訛りで言った。私にはその語尾が、たいそう優しい響きにきこえて、「ひょっとすると、加賀言葉というのは京言葉よりも、たおやかなのではないか」と思えた。

利家の人生は、呼び捨てにされるところから始まっている。織田信長は「お犬」と呼んだ。
 利家の面白さは、信長に踏まれても蹴られても、この暴君の天才性に心酔しきって、離れようとしなかったことである。
 
利家は体が大きく、身長が高かった。六尺(180センチ)もあったと。今日残っている着物の丈が長く、よほどの長身であったことがうかがえる。
戦国時代の男性は身長が低かった。徳川家康が160センチほど、豊臣秀吉などは150センチあったかさえ、うたがわしい。
異形の者といってよかった。恵まれた体躯を生かして、戦場という戦場をあばれまわった。
合戦のたびに、利家は首を獲った。例の又左衛門槍の先にその首をくくりつけて、得意そうにもどってきた。

このような利家であったが、生まれつきある種の「徳性」を備えていたのだろうか。暴れ者のわりに、義にあつく、友に好かれた。なかでも「秀吉」がまだ卑賤であったことから、親しく交わり、家族ぐるみでつきあった。
 
秀吉が天下を獲ると利家は重きをなした。秀吉は最大のライバルである家康を掣肘する役目をになわされた。家康に「内大臣」の官位をやれば、利家には「大納言」の官位をやる。
 秀吉が死ぬと、実力者の争いは、「加賀の前田か、徳川内府か」。
 
 利家は、秀吉の子である秀頼の後見役になったが、驚くほど忠実に秀頼を守ろうとした。
 そのころ秀頼は伏見城にいたが、軍事的に見れば、裸同然だったので「大阪城は天下の名城、太閤様のご遺言である」と無理やり大阪城に移した。
 
 利家はさかんに家康が秀頼から天下を奪おうとしていると非難し。
 『大節に臨んで奪うべからず』(秀頼の天下を誰も奪うな)ということである。
 
 利家は『家康とは先々かならず戦う』と思っていたようで、はっきりと「自然の儀、これあらば、家康とは敵々に必ずなるべく候」(利家夜話)と豊臣家に弓をひけば、俺は必ず、敵になる」と宣戦布告していた。

 
[24]アカコッコさんからのコメント(2006年08月17日 08時10分27秒 ) パスワード

続き、

 晩年の秀吉は無理と無茶を重ねた。甥の秀次一族をみなごろしにし、無謀にも朝鮮にも出兵して、ついには、その政権を自滅させた。
 
 そういう秀吉に対し利家は静かに座り、話を聞いてあげていたにちがいなく、この長身の槍の名人の不思議な優しさが、私には、いとおしく思えてならない。

 前田利長 1 家康曰く、其方 何としても殺さん
 
 徳川幕府が三百年近く続いたその理由について考えたい。それを考えていくと、結局徳川に謀叛する大名が出てこなかった。
 徳川時代、最大の大名は加賀の前田家であった。
 
 家康が死んだとき、謀叛を起こしそうな大名が三人いた。金沢の前田利常、熊本の加藤忠広、広島の福島正則である。
 この時代、薩摩の島津と長州の毛利は、まだ臆病かぜにふかれていた。力の論理が支配する軍事的な社会では「一度、叩いた犬は、しばらく吼えない」という法則が見事に成り立つ。
 
 前田家は「福島や加藤のように取り潰されてはかなわない」と思ったのであろう。
 『家康の遺言』と称するものを世間に吹聴した。
「家康公は、死ぬ間際に、前田は助けることにした、と仰せられた。福島のほうは潰すつもりであったらしい」この話を必死になって言いふらした。

 『家康公の遺言なら、前田家は潰せない』と自然とそういう話になるのを狙って組織的に宣伝した。

 江戸初期の幕府と大名は「殺るか、殺られるか」の関係である。そのなかで、平和が壊れるか壊れないかのギリギリの綱渡りをやってのけ、徳川の平和の枠組みをつくった張本人は、前田利常であるといってよい。
 
 前田利常という男、生い立ちからして、歴史に登場するはずの人物ではなかった。
 
 前田利家の胤ではあったけれども、あまりにも母親の身分が低すぎた。
 
 天正十二年、秀吉は朝鮮への出兵をはかり、大名を九州・肥前名護屋に集めた。

 「陣中では、さぞ不自由であろう。こちらで洗濯女を雇うように、国元から下女を呼び寄せるのも勝手次第」秀吉は機智がはたらく。そう言っておいて、次の一言を行け加えた。

 「嫉妬するような妻で、下女を遣わさないところは、妻本人が来なさい」
 のこのこ出ていけば「私は嫉妬する妻」ということになり、物笑いの種になる。武将たちはこぞって、妻より若く見目の良い女を洗濯女として呼び寄せた。[続く]

[25]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月18日 15時32分16秒 ) パスワード

アカコッコさん

ありがとうございます。


私の金沢の旧藩士出身の友人は全然違う言い方をします。
まず「加賀百万石じゃなくて前田百万石と言ってくれ」と。
それから主君前田家についてはボロクソです。理由は説明してくれましたが他藩の者には?でした

でも戦後の華族制度廃止の時に国許の家来が東京にいる主君一家を助けたと聞いていますから
やっぱり良い主従関係だったと思います。


>戦国時代の男性は身長が低かった。豊臣秀吉などは150センチあったかさえ、うたがわしい

ナポレオンが5フィートという話ですから153cmぐらいでしょうか?
更にナポレオン家は胃癌家系だそうで
秀吉の晩年の体調不良は(腎虚なんて聞きましたが)何らかの癌だったのかしら?


>前田利常

この人はラッキーでしたね。
利家の妻のお松さんの気持ちはいかばかりだったか、
彼女もよく我慢したと思います。家を守るために自分が江戸に人質に出たのでしょ?


前田家に比べると
羽州の最上家は嫡男を殺してまで徳川家に忠誠を誓ったのにお取潰に合ってるのですから
合いませんよねえ。


わたくしなんて前田型か?最上型か?と問われたら「最上型」で
むざむざ自分の家を潰す方だと思います。
利家の妻のお松さんは賢い人ですよねえ。


戦国時代とは女性のあり方も問われた時代でしたね。

お市さんのような人生 (この中で1番気の毒な人だと思います。私が女優ならこの役がしたい)
ねねさんのような人生 (この中で1番コワイ人だと思います)
お松さんのような人生 (この中で1番賢い人だと思います。私だったら人質より自害を選ぶ)
千代のような人生   (日本女性としてマトモだった人だと思います)
淀殿のような人生   (賢くないけどプライドに殉じた人で、ワタクシもこんな感じかしら?)
[26]アカコッコさんからのコメント(2006年08月21日 07時45分32秒 ) パスワード

続き

 しかし前田家では困ったことになった。利家の妻まつは、まさに「嫉妬するような妻」で、気が強い、ほかの女が夫に近づく等許せないたちである。秀吉に言われ、下女を肥前名護屋に送らぬわけにいかなくなった。「誰か肥前名護屋に下るものはいなか」と。誰一人として声をあげるものがいない。まつの性格のきつさは天下に知れ渡っている。
「私、まかり下るべきや」と二十二歳の娘「ちよ」があらわれた。

 五十五歳の利家と廿二歳の娘の間にすぐに子ができた。

 「ちよ」は金沢城につれもどされ、文禄二年、赤子をひっそりと産み落とした。介添え役の飯炊き女が一人ついていただけであった。
 その赤子がのちの前田利常であるが、そのときは誰も関心を示さなかった。生まれた日さえはっきりと覚えている者がいなかったほどである。
                                        父の利家が「この子は越中の前田対馬に預ける」との一言で母親と引き離された。一説によると利家がまつに遠慮したため、そんな遠くへ遣ったのだという。

 前田家では嫡子には利家の幼名である「犬千代」と付け『高徳院(利家)様のようにおなりなさいませ』と奥の女たちに言われながら育てられた。
 だが利常は「お猿」と呼ばれていた。

 だが六歳になったとき、急に父の利家が「あいたい」といってきた。慶長三年。「御成人にて初めて大納言(利家)様に御対面」(陳善録)とあるから、それまで一度も会っていなかったのは確かである。

 お猿をみて利家は大層よろこんだらしい。刀と脇差(金箔が打ってあり豪華なものであった。その刀を利家の手から受け取っている。
 利家は、余程、お猿が気に入ったらしく、思わず抱きついたらしい。
面白いのは、ただ抱きついただけではないことである。戦国武将らしく、我が子の肉付きをみた「ふところまで御さすり御覧なされ候」とある。

 お猿は、どの子よりも利家の体つきをよく受け継いでいた。六歳にして異様に体が大きく、頑強にみえる。利家が死んだのはそのちょうど一年後である。

 前田利家は子育て、人育てがうまい。

 『子供を悪くしてしまうのは、親のせいである』と。普通なら此れに続けて「厳しく育てよ」といいそうなものであるが、利家はちがう。
『絶対に、子のことを親が悪くいってはいけない。なかでも他人のまえで自分の子を悪しざまにいうのが一番いけない』

 事実、長子の利長は、若いこの素行がおもわしくなく、利家は心をいためた。利家はそのころ単身越前府中にいたから、家来を派遣してこの不肖の子をよく諭した。
 家臣を遣わすときは、必ず最後に「利長のいうことは金言と心得よ」と言い添えた。そうしておいて、利長の評判が世間でよくなるように工作し、『前田家の立派な嫡子』として利長が振舞わざるを得ないように、仕向けていった。
 そんな利家の苦心もあって、利長はそれなりの武将に育ったが、家臣団を統率する人間的魅力と徳望は、父の利家にはるかに及ばない。

 利長には「目鑑(めがね)」があった。この時代物事を見抜く能力があることを「目鑑が強い」といった。利長は頭が良くなかったが、この「目鑑」があり、それによって前田家は危機をすり抜けていった。関が原の合戦のときがそうである。
「お味方くだされば、北陸七カ国を進上いたそう」というまい派なしであったが、利長は応じなかった。すでに利長は母親まつを徳川に人質に差し出して、家康と争わぬことを明らかにしていた。

 父利家はいまわのきわに、利長を枕元によび「おれが死んでも三年は金沢に帰るな。大阪城にいて、秀頼公をお守りしろ」しかし、これは利家の遺言に背く行為であった。
 利長には利長なりの考えがあった。のちに『三州割拠』とよばれるとうになる独特の外交戦略である。
 第一に中央での争いには加わらない。第二に、穴熊になったつもりで加賀・越中・能登の三カ国に立て篭もりひたすら時を待つ。そのうち中央での政権争いで、覇者たちが疲れるから、そこに出て行って、漁夫の利をしめる。そういう持久戦法であった。結局これが、明治維新弐いたるまで、前田家の伝統的な外交方針になる。
 利長は一見愚鈍にみえて、実は賢い。常に偉大な父を仰ぎ見ながら育っただけに、自分の限界を知り尽くしていた。

 続く:なにしろ前田家だけで90頁余もあるので、うまくまとめられないので、読みにくく意味が通じない箇所もあるかと思われますが、私なりに頑張って進めております。
 本当に磯田道史さんの本は勉強になりますね。
[27]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月21日 12時39分32秒 ) パスワード

アカコッコさん
ありがとうございます。

90頁を纏めるなんて大変な作業ですね。
ありがとうございます。


お松さんは子供を次々に大勢生んでいるのに
自分の子が家を継げないというのは、さぞや悔しかったろう、と思います。


利常はラッキーでした。
母親の「ちよ」さんも晩年は恵まれたのでしょうね。
NHKの「利家とまつ」では「おちょぼ」と呼ばれてましたが確か
多分「おちよ坊」が短縮されたのかも。


あの戦国時代を生きた女性達も凄かったのですねえ。
常に選択を迫られ、1つ間違うと命を落す。自分の子や孫も殺されるんですから。

そういう大変な人生を過ごして守ってきたのに、最後に、下女の産んだ子に家を乗っ取られる。
わたくしでしたら「許せない!」と怒り狂って嘆くと思います。

ねねさんのように「私が作った豊臣家を誰にも渡すものか」と終わらせるのもすごい選択。
自分の産んだ子じゃなかったから豊臣家を諦められたのでしょうね。


自分の産んだ子が大勢いて婿もたくさんいて、それなのに下女の子に家を渡すなんて
くやしかったでしょうね。


>利長には利長なりの考えがあった。のちに『三州割拠』とよばれるとうになる独特の外交戦略である
  >第一に中央での争いには加わらない。
  >第二に、穴熊になったつもりで加賀・越中・能登の三カ国に立て篭もりひたすら時を待つ。
  >そのうち中央での政権争いで、覇者たちが疲れるから、そこに出て行って、漁夫の利をしめる
>そういう持久戦法であった。結局これが、明治維新弐いたるまで、前田家の伝統的な外交方針になる
>利長は一見愚鈍にみえて、実は賢い。常に偉大な父を仰ぎ見ながら育っただけに、自分の限界を知り尽くしていた。


「一見愚鈍にみえて、実は賢い」
これが前田家の処世術なんでしょうね。
疑われないように。
松さんも疑われないように人質になって江戸に行くんですものね。


わたくしには真似できないです。アホだから。


>本当に磯田道史さんの本は勉強になりますね。

そうですね。
こういう時代だからこそ昔の人がどのように生きたのか身を立てたのか是非読んで欲しいです
[28]アカコッコさんからのコメント(2006年08月29日 07時42分54秒 ) パスワード

この関が原の戦いのなかで、「お猿」こと前田利常が、重要な役回りを演じている。
人質になったのである。前田家の領土の南には小松城主・丹羽長重がいた。

南下するには、丹羽領を通らねばならない。丹羽は西軍・石田方に組していたから、領土を通れば戦いになる。丹羽は二十万石にすぎず、百万石の前田の敵ではない。たちまち破った。
長重は丹羽長秀の子であり、もともと信長の家中であったから、前田家と親しい。
 東軍が勝利したとの報に接し、煮え切きらぬ態度をみせていた丹羽はあわてて講和に応じてきた。
 
利長はこの虫の良い申し出をうけたばかりか、ともに手をたずさえ軍勢をそろえて、家康の陣に向う約束した。まず丹羽の軍勢を先に歩かせ、その背中に前田の軍勢が火縄銃をつきつけながら、ともに行軍して京都に向った。
 互いに裏切らぬように人質が交わされた。丹羽側から長重の弟長紹をよこし、そのかわりとして、前田側から利長の弟お猿(利常)が人質として遣わされることになった。

この時点でまだ兄の利長はただの一度もお猿の顔をみたことがなかった。

これは人質に丁度よい。と考えたのは家老たちであった。さすが知恵者ぞろいの家老達で「越中にお猿というのがいた」と人質に仕立てた。人質はいざという時に殺される。
 こういう場合、会ったこともない、別段可愛くない弟がいれば、まことに好都合であった。
小松城に入ると、当主の丹羽長重がじきじき出てきて、梨の皮をむいてお猿に食べさた。
ともあれ、八歳のお猿の心に、丹羽長重は(前田家の総大将になるかもしれない)という希望の種を最初に植えた。
 
人質生活をおえて、お猿は兄の利長に対面した。関が原の戦いの戦果として、利長は所領を加増され、その祝いの能見物の席で、前田一門の子供達が集まっていた。生田四郎兵衛は乳母からお猿の正体を聞かされ、よほど感動したらしく、お猿を肩に抱き上げた、一番上座の席に座らせた。

利長がはいってきて、「あれは誰の子か」生田が「あれはお猿でございます」と。
「大きくなったな、眼が大きい」「骨組み、たくましく、一段の生まれつきかな」とため息ついた。

利長には子がなかった。養子を決めようという話になった。
あるとき、友人の浅野弾正・蒲生秀行・細川忠興らが前田邸にやってきた。思いきって利長にいったらしい。「あなた様は実子がない。誰か養子を決めておいたほうが良いのではないか」

 利長は「内内、そう思っている。しかし弟の大和(利孝・利家五男)は公家のようで色白くやわらかな男、ほかに七左衛門(知好・同三男)とか七兵衛(利貞・同六男)というのがいるが、どちらも馬鹿なので、私は気に入っていない」(三壷記)
あまりに弟達を悪くいうので、皆困った顔をして聞いていた。利長はさらに言葉を続けた。
「ただ、猿という弟がいる。色も黒く、目玉が大きく、おおいに骨太な子、姉に養育させていますが、これを養子にしたい」
 
あっという間に前田家の世子となった。犬千代を名乗ることが許され、この瞬間から利常の殿様らしい人生がはじまった。

続く・・・
[29]アカコッコさんからのコメント(2006年08月29日 07時48分04秒 ) パスワード

前田利常―百万石に毒を飼うべきやー

 慶長十年、十三歳になった利常に注目した男がいた。徳川家康である。
前田家を親徳川化したいという野望があった。前田家にも、もはや徳川の天下という認識がひろがりつつあった。
「お猿とかいう子が、その道具じゃ」
家康はそう考え、その年四月、その幼な子に会おうとした。場所は伏見城である。その頃家や簾は悩んでいた。悩みは幾つもあったが、その一つが前田家である。家康は六十四歳。老いを重ねて死に近づきつつある。最後の悲願は「豊臣家を滅ぼす」。ということである。

 徳川勢力圏は彦根から東の『東国政権』に過ぎなかった。
前田の砂時計―・・・砂時計のように少なくなってくる前田家当主の寿命によって、豊臣政権の寿命が決まってくるというものである。
前田利長は利家から「どんなことがあっても秀頼様を守れ」(秀頼のお守り役)。
関が原の戦いの折も徳川に味方するにあたって、「自分が生きているうちは、秀頼様に手を出さない」という約束を家康とかわしていた。
利長は家康よりもはるか年下である。死ぬのを待っていれば、家康のほうが先に逝ってしまう」

 『利長が隠居するほかあるまい』徳川と前田のパワー・ゲームの落しどころはそれしかなかった。
 父と利家の遺言に縛られ、お守り役を退くのが、やわらかな解決法のように思われた。
 
 徳川と前田の高次元の政冶取引の結果、驚くべきことがおきた。
 まだ十三歳の利常が一挙に前田家の当主にされたのである。お猿と呼ばれ、馬鹿にされ、なんの注目もされていなかった子供が、世子にされたかと思うと、今度は前田家の総師に上げられた。
 慶長十年四月、利常は利長とともに、伏見の家康の前に出た。この対面は対等なものではない。
大御所・家康と将軍・秀忠に前田父子が「出仕」という君臣拝謁の儀式である。
 この五年前、家康はわずか八歳の利常に、孫娘を嫁に遣わすと約束している。姫の名は『珠姫』(秀忠の娘でまだ二歳であった。)
 徹頭徹尾、利常を子供の頃から徳川の色にそめていきたい。と目論んでいた。これ以上ないほど露骨は政略結婚であった。

 利常は家康の前に平伏し、黄金三十枚を差し出し、加賀羽二重を三百反と小袖を五十枚献上した。

 家康は上機嫌で「長光の刀と、光包の脇差じゃ」といいながら、そのあと「松平の姓をあたえる。これからは松平筑前守と名乗られよ。官位は侍従に任ずる」

 したがってこの時期の前田家は「松平筑前守と名乗る利常」と「羽柴肥前守と名乗る利長」の二人がいた。

 まだまだ続く・・・
 
 ヘタナ小説を読んでいるより面白く為になりますね。

[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年08月29日 12時53分17秒 ) パスワード

>ヘタナ小説を読んでいるより面白く為になりますね。

本当にすごいお話ですねえ。
ビックリの連続でした。


<28>にも驚きましたが<29>にも驚きました。
いろいろな本やドラマでも利常に家督が渡った経緯がありましたが
何やら、わけが分からないうちに、分かったつもりになってました。

利長が利常を推薦したんですか。
他の兄弟達は父に似ぬ無能な兄弟だったんですか。
これも驚きでした。


徳川家康は頭が良かったんですねえ。笑
頼朝以上の戦略家だったんですねえ。驚


いやあ、本当に、面白いですね。驚きました。
お松さんが江戸に人質に出て無事に存続したのかと思ってましたが
虚虚実実のかけひきがあったのですねえ。

次回を楽しみにしております。ぺこり

[31]アカコッコさんからのコメント(2006年09月01日 09時30分49秒 ) パスワード

続き・・・
 
 まさに豊臣と徳川の狭間といってよかった。(きたるべき豊臣滅亡に前田家がまきこまれてはならぬ)利長はそう考え、利常という「徳川の若い婿」を藩主に押したて、この難局を乗り切ろうとした。
 そればかりでなく、利長はこの世から自分自身の存在を消し去ろうとつとめた。隠居して、富山高山の城にひきこもった。(自分が死ねば家康は秀頼様を殺しに逝く)そう思いながら、荒れ野にでて日々、鷹を放った。
 
 そのうち、体に腫れ物ができ、歩くこともできなくなった。
利長は不可解な行動をとりはじめた。みずから書状をしたため、徳川方に自分の病状を知らせはじめた。
 自分の病状ををこと細かに伝え、医師の派遣まで頼んだ。
 
さらに、医師たちに不思議な誓約書を書いて渡した。

一、 御薬下さる己来、女方などの義これなく候、自今以後なおもって御薬下され候うち、少しも不養生いたすまじき事
 一、食事や好物は、たびたび書き上げていただいたものの外に、毒の入っているような物は食べさせられておりません。これからは書き上げていただいた通りにいただきます。
一、薬をいただていないのに、いただいたと、偽りは申しません。
実際、徳川からきた医者の薬をのんでも、病状は快方に向わず、悪くなる一方であった。
 
 この病状にあった、利長は、前田家が将来にわたって、徳川家にはむかうことが出来なくなるような人事話までのんだ。
 その話は伊賀の藤堂高虎からもちかけられた。
『本多政重という男を前田家の家老にむかえないか』といってきた。
本多政重は家康の側近・本多正純の弟。家老にむえてしまえば、前田家の秘密はすべて、徳川に筒抜けになる。

 利長は遺言書を書いた。

 「大御所(家康)様と将軍(秀忠)様に忠勤を尽くし、胸の奥底に異念をいただいてはいけない」
「公儀の御用などで、毎年、国持大名と参会するだろう。そのときは相手の分限(家格)をみて、きちんと挨拶なさい。自分より格下の人が訪ねてきても慇懃に対応するように」
「父年家以来、既に三代、家中に異変がないのだから、いよいよ子孫が続くようにと願っている」
 
 この遺言書が徳川にもれるのを計算して書いた。あらゆる手を尽くして、前田家の親徳川路線をはっきりさせたといってよい。
 それから三年後、長くわずらっていた利長はあまりにも出来すぎたタイミングで死んだ。
 いよいよ徳川と豊臣の戦いが迫ってきたとき、秀頼は利長に使いを派遣してきた。
「秀吉公との誓いを守って、大阪方に味方いただきたい。」
父利家の遺言もある。利長としては無下に断るわけにいかない。
「せがれ(利常)のほうは徳川の婿であるから徳川と一味になるであろう。せがれとはいいながら、その心底は分からない。タダ、私がいきているうちは、隠居の私の分の軍勢だけは残らず豊臣方に差し上げよう」(「夜話抄」)。
 
 ところが、にわかにその心配は消えた。ころりと利長が死んだからである。それを聞き前田家中は、みな泣いた。
「利長様は御自身で毒を飲まれた」。江戸時代、加賀藩では、この話は公然の秘密であった。

 利長は徳川との対決をさけるため、毒を飲んで自分の存在を消し、それで晴れて前田家は徳川方として豊臣攻めに加わることができた。

  加賀藩ではずっと、そのように信じられてきた。服毒の真否は今となってはわからない。
 
 
 
[32]アカコッコさんからのコメント(2006年09月01日 09時46分20秒 ) パスワード



 ただ利長の心情としては「毒でも飲みたい」と思っていたのはたしかである。

 利長の臨終が迫ったとき、利常はあわてて金沢から駆けつけた。利常が到着すると、人払いをして、二人だけになり、ぼそぼそ何事かを遺言した。
 その様子を次の間にいた児小姓が目撃しているが、何を言っているのかサッパリ聞こえなかったという。
 
 家康が利長の死をきくや、直ちに動きはじめた。翌月には、豊臣家から片桐且元をよびつけ、豊臣家が建てた方広寺の鐘銘に「国家安康」とあるのを取り上げ、難癖をつけ、大阪攻めの支度をはじめた。
 
 冬は三万、夏は二万五千といわれる前田の軍勢のなかで、誰よりも体格のよい利常は馬上に映え、目立った。二度の豊臣攻めに加わることができ、徳川政権下で生き残る道がひらけた。
 
 家康は秀忠に「利常だけは生かしておいてはならぬ」と、しきりに意見したが、人柄のよい秀忠は顔をしかめて同意せず。いつもどおり誠実な言い方で娘婿をかばった。
 
 この大阪の陣で利常は家康から『感状』をもらった。戦功を賞した感謝状であり、武家社会ではこれをもっていることが重大な意味をもつ。とくに豊臣恩顧の大名にとっては、徳川家のために命がけの「奉公」をつくした証拠書類となる。

 「当家は大阪の陣に従い、家康公から感状を賜った家である」ということになれば、余程の落ち度がない限り、その家を取り潰せない、感状とはそれほどの代物である。

 ともかく二十三歳の利常は、大阪の陣でその天才性をみせた。利常の戦の才能については、嫡子の光高(みつたか)がこう語っている。

 「実は、我が家の軍法には第一の秘伝がある。中納言様(利常)はさして学問もなかったが、我が親ながら覇者の名人というものではなかっただろうか」
 
 前田家では、本多政重が利常に毒を盛るという噂がたえなかった。その噂を耳にした利常は「安房(本多政重)など何の為に、筑前守に毒を飼うべきや、さように申し触らす者は成敗」といって取り合わなかった。
 しかし、到来の菓子などは、けっして食べず、家族にも、そう厳しく申し付けていた。

 「微陽両公遺事」とい記録には『大名の用心は御食物、ことのほか大切なることに候由にて、お振舞いに御座なされ候ときは、毎度、御下食あそばされなれ御座候・・・他所より御到着菓子など上げ候の段、沙汰の限りに思し召し候』
 
 続く・・・

 前田家とは百万石にあぐらをかいていたものとばかり思い込んでおりましたが、お家存続には大変な苦労があったことが分かり、勉強になりました。
[33]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年09月01日 10時02分22秒 ) パスワード

>前田家とは百万石にあぐらをかいていたものとばかり思い込んでおりましたが、
>お家存続には大変な苦労があったことが分かり、勉強になりました。


本当にさようでございますねえ。
物凄い思いを決心して母も息子も前田家を守り抜いたのですねえ。

いやあ〜
もう〜
背筋が寒くなりましたよ。

これだけの努力をして前田家を明治まで守ったのですねえ。


家のためには命も惜しまない
はあ・・・(もうひれ伏すより他なし)
[34]アカコッコさんからのコメント(2006年09月11日 14時17分34秒 ) パスワード

前田利常3・・・小便堪え難く候

 前田家にはひとつの怪談が伝わっている。
殿様の家族が用を足しているときまって、怪しげな婆が現れる。
ふつうの人には見えないが、まだ利常の血をひく者にだけ、その姿が見える。
 利常の孫、五代藩主の前田綱紀は「天下の名君」として知られているが、「幼いころ、はっきりとこの目でみた」と『混見摘写』という前田家の古めかしいことを集めた書物に
『松雲院様(綱紀)にも御幼少の砌、御目に顕れたる事も有之と也』とある。

「かわ婆」という名前までつけて、家族うちでよびあっていたらしい。しかも驚くべきことに、前田家の人々はこの死霊の正体が何者かを知っていた。『あれは天徳院様の乳母の局である』。天徳院様というのは利常の正室、珠姫のことである。
 徳川家から輿入れしてきた時に珠姫はたくさんの付き人を徳川家から連れてきた。
それらの人々はいわば隠密であり、前田家の内情をさぐり、江戸に報告する役目を負ってきた。その最たるものが、珠姫の乳母の局である。

  徳川が天下を取れたのは、一つには、女と隠密のつかい方がうまかったことによる。
徳川のやり口は、まことに狡猾で、敵対する大名がいると、まず閨門をおさえることからはじめる。縁組と称して、幼い娘を嫁がせ、これに添える付き人集団を江戸から送り込む。

 前田利常も、この徳川の謀略にさらされた。わずか九歳で徳川の娘・珠姫を妻に迎えているが、この二人の夫婦仲はおそろしく良かった。夕方になると、利常は珠姫の部屋にやってきて、向かいあって座り、部屋からは笑い声が絶えることがなかった。

 その様子の見ていた御殿女中が88歳まで長生きして。
『御両公(利常と珠姫)御中善て、御対座にて御快、御笑、御語あり(新山田畔書)』
と語り草にしている。
三歳で輿入れしてきた珠姫は、女の体になると、たちまちにして、利常の子をはらみ、十六歳で初産、それからは毎年、妊娠し、二十四歳までに実に八人もの子を産んだ。
 産後に母乳を与えていれば、ホルモンの関係で暫くは妊娠しないが、授乳は乳母にゆだねられている。
 当然限界がくる。元和八年の春、珠姫は女児を産み落としたが、産後の肥立ちが悪く、二十四歳の若さで死んだ。

 珠姫は利常のことを愛していたから、ごく自然に利常とむつむのであるが、徳川の付き人にしてみれば、それは裏切り行為であった。なかでも親代わりの乳母の局は珠姫をはげしく責めた。
 女中の記憶していたすべての会話が記録されている。

 「何事に娯布(うれしく)、面白事有て、快、御様子なるぞ」「筑前殿は家来にてはなきか」「御家来と御夫婦に被為成給が十分なる御事か」「甲斐なき思し召しや、腹立や」などほとんどヒステリー状態であり、珠姫はじっと下をむいて、その罵倒に堪えていたが、そのうち目から涙がこぼれはじめた。
 この乳母は十九歳の時から珠姫に乳をあたえ、輿入れのときも、この局が珠姫を抱きかかえて金沢に下ってきた。珠姫はこの人のほかに頼るものがなかったといってよい。その乳母からののしられることは、深窓育ちの姫君には堪えられぬことである。

 乳母の局は姫様を利常に会わせぬようにするしかあるまい。乳母は一計を案じた。奥の一間に珠姫を押し込め、利常がくると「恐れながら、姫様は臥せっておられます」と言って寄せ付けぬようにした。珠姫は悲嘆にくれ、食も細って、みるまに体調が悪くなっていった。

 利常はある日、強行突破し珠姫のもとにきた。しかし珠姫は腹部につかえがき、やせ衰えて、すでに死相が顔にあらわれていた。
「是は姥が出来させし、是故に早や、拘りはせじ」と言ってこの世を去った。

 続く・・・


[35]アカコッコさんからのコメント(2006年09月11日 14時25分23秒 ) パスワード


 利常は激怒した。珠姫が死んだ直後は、憔悴しきって、別人のようになり、「御眩暈出て、御城中は一度ならず二度迄、魂を滅ける」とある。

 乳母の局への復讐を考えはじめた。「かの女を裸に剥き、蛇桶に込めて、責めよ」と。

中略:本文にはもっとオドロオドロした文が書いてありますが。・・・・

 徳川秀忠は嫁がせた娘の珠姫がいなくなったあとも、利常はそのまま婿として丁重に扱われた。
 
 利常は、乳母の局を成敗にするにあたり、江戸にうかがいをたてたが、そのときも秀忠は『ご成敗、いかようとも(御成敗如何様共、可被仰付)』といい乳母の局の処分を黙認した。

 その後も、利常は幕府との悶着をいくつか引き起こした。
 しかし、その多くはたわいのないものであった。駕籠に乗って登城するとき「ここで駕籠を降りなされ」と制止されると意地になり「俺は加賀の前田利常である。かまわん、やれ、やれ」といって押しと通ったり、「城中で頭巾をかぶってはならぬ」と注意されると、わざと派手な頭巾をかぶって登城する。「小便禁止」と書いてあるのみて、さしてしたくもないのに、小便を立て札に向ってかけはじめる。

 「加賀だけは特別な家である」。これを幕府と世間にみとめさせるためであれば、利常はどんなつまらないことでもやった。

 案ずるに利常ほど、つかみどころのない大名はいない。

 ひとつだけたしかなのは、利常が織田信長がはじめた中世をぶち壊した狂気の精神を受け継ぐ最後の大名であったということである。


 前田家関係は完了(あんまり長いので・・・ハショリ過ぎかな?)
 
 ちなみに私の姪っ子二人は前田姓の人と結婚しておりますが(笑い)
[36]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年09月12日 02時55分43秒 ) パスワード

いやあ〜
怖かったですよ〜
背筋がゾクゾクしました。

このお話は初めてでした。
ありがとうございました。

16歳から24歳まで年子で次々に出産でしたか。
そりゃあ母体が大変だったでしょうね。
若くて健康だったのですね。


利常って・・・
>案ずるに利常ほど、つかみどころのない大名はいない。
面白い人だったんですね。
「人間的な、あまりに人間的な」。

妻を愛し、
そして「つまらない形」で自己主張をして幕府方を「苦笑い」で済ませられたし。
なかなか興味深い人物でした。


本当にありがとうございました。
[37]アカコッコさんからのコメント(2006年09月18日 18時53分57秒 ) パスワード

内藤家長 猛火のうちに飛入りて焚死す

家康が天下をとったのは、ひとつには三河武士のきまじめさによる。

 日向(宮崎県)の延岡に「内藤」とい大名がいた。徳川譜代の大名である。譜代大名は「鉢植え大名」といわれるように、幕府の命令ひとつでどこにでも移される。

徳川家康は大名を配置するにあたり、一つの防衛構想を持っていた。

家康は西国の外様大名を信用しておらず、自分のつくった幕府を攻め滅ぼしに攻め上がってくると想定し、拠点、拠点に腹心の大名を置いた。
 西国から江戸を攻めるにあたって、敵が必ず通過する地峡をまず押えた。
 
「彦根・桑名線」。彦根には先陣の家、井伊家。、桑名には本多家を据えた。ただ桑名の守りのほうには、後に松平定信の子、定永が据えられてから久松松平家にかえられた。
 余談だが、幕末になって徳川の天下が危うくなったとき、命がけで徳川をまもろうとしたのは、やはり彦根や桑名の藩主たちであった。
 彦根の大老・井伊直弼は、「安政の大獄」をやり、恨みを一身にうけ殺されている。

また幕末の桑名藩主・松平定敬も、実兄の会津藩主・松平容保と一緒になって京都で奔走した。いずれも徳川家を守ることにかけては徹底した家風をもつ家であった。
 
九州で乱が起こった場合、一番最初におさえないといけない最重要地点は「小倉・下関線」である。ここさえ取れば、本州と九州の連絡路を押えることができ、海上物資の輸送まで、とめられる。
 小倉は小笠原家、中津には」奥平家、それより南の延岡には内藤家。

 実はここが一番困る。島津家の大軍をひとりで引き受けることになるのである。
 
 内藤家の家士は士族四百九十戸に卒族(足軽)九百四十四戸であわせて千五百人ほどである。

十五万の大軍を引き受けるという、まさに敵中に浮いてる状態で、守りきれるはずもなく、延岡城は「捨て城」といってよかった。
 ここを守らせるには、絶対に裏切らない大名でないといけない。
 
内藤家は「徳川を絶対に裏切らぬ」理由があった。
 
初代の内藤家長は弓の名人で家康の自慢の家臣であった。「力量人に勝れ、騎射の達者なりしかば、三河国の亀井戸において八千石の采地をたまう」と優遇されている。
 
 豊臣秀吉は徳川家の武将をさかんにほめた。家長は忠義の心が強く、徳川家を動かない。とうとう秀吉は家長の嫡子、政長に目をつけ「豊臣姓を与える」と言い出し、「豊臣政長」と名乗らせた。徳川に忠誠を尽くしたい家長父子にしてみれば、ありがた迷惑であった。

内藤家が天下にその名が知られるようになったのは関ヶ原の合戦の前哨戦となった『伏見城の戦い』であった。
 家康が会津討伐するとして、軍を率いて東国へ下るとき、下れば石田三成が挙兵するのは確実であった。

伏見城に留守番として誰をおくかが問題になった。留守番は確実に死ぬ。
要するに伏見城は「捨て城」として、時間稼ぎだけさせて、見殺しにする。

見殺しにされることになったのは、次の四人であった。
 
鳥居元忠、松平家忠、内藤近正、そして内藤家長である。
この留守番役に、忠義心の強い三河武士のなかでも、なるべく年老いた家来を選んだ。そして必ず、男子の一人は、別れさせ自分が連れて東国に下った。親子で伏見城に入れておいたら討死して家が絶えるからである。
 
子はあとで石田三成の軍にむかって、父のとむらい合戦をさせる。これが家康の腹づもりであった。

続く・・・
[38]アカコッコさんからのコメント(2006年09月19日 08時03分54秒 ) パスワード

鳥居元忠の遺言書が残っていて、家康が言ったことが書かれている。これを読めば、内藤家長や鳥居元忠たちが、なぜ、捨て城にあって、死ぬことをおもいきれたか、おおむね想像がつく。
 
元忠はこどもにこう遺言している。「天下はいくほどなくして、上様(家康)の御手のなかになるべし」
家康は「これで天下が取れる。だから、俺のために死んでくれ」と、鳥居たちに捨て城にはいることを命じていた。
 
だが二人は死に方を巡って喧嘩になった。
家長は「大将あらわれて快死の地にあらず」
元忠は「大将あらわれて快死せざれば、後日にかならずや窓をくくり、遁れたりなど云う」
それで、結局、この二人は同じ伏見城のなかで、対照的な死に方をした。

果たして、元忠は名乗りをあげて快く死んだ。一方、家長は燃えさかる火の中に飛び込み、とうとうその首はいくら探してもみつからなかった。
『家長はもとより弓の達者なれば、手先をめぐらし、さんざんに射て敵をたおすといえども、大軍おりかさなり松の丸の余煙もはげしゅうして逆風吹めぐり、本丸西丸一時に亡ぼす。家長防戦の術つくるがゆえに、猛火のうちに飛入りて焚死す』とある

そうして家康は天下をとった。忠義に励んだ三河武士を、大名に封じていった。
 
鳥居や内藤は、筆舌につくせない、悲惨な目に会い、十分な働きをした。子孫は当然、恩賞を得た。しかし家康はけちである。たいしたものではなかった。
 「忠義の家」ということになったが、いわゆる「日の当たる」扱いにはならなかった。
それどころか「捨て城係」とでもいうべき、損な役割になった。
鳥居も内藤もかわりばんこに、陸奥国の磐城平城を預かった。これも一種の捨て城といってよかった。
 先祖が城を枕に討死したのだから、子孫もそうするだろう」。そう期待されてしまった。徳川社会は「先例」の社会である。

内藤家長の子、政長も運が悪い。関が原のとき、家康側の陣にいれば良かったが、運悪く秀忠側にいた。秀忠は真田軍にさんざんに翻弄され、関が原合戦で何の活躍もせぬどころか、合戦に間に合わなかった。

内藤家長の働きが正当に評価されたのは、家康が死んでのち、秀忠・家光の代になってからであった。
 家光は気前がいい。「内藤は伏見城で、立てこもってあれだけの合戦をしてくれた家である」、様々な理由をつけて領地を加増した。
磐城平に七万石である。北の守りである。徳川に敵対しそうな外様大名は、仙台六十二万石の伊達である。福島をとおって、北側から攻めてくる道はひとつ、中通り。いまひとつは浜通り、海岸沿いに相馬・磐石を通ってくる。それをとめるために磐城平・内藤家である。

三代目、「内藤義概家訓」が残っている。当時二十二歳の嫡子の若殿に送ったものである。第一条は、「幕府に対し先祖よりいささかの不忠もないことを心骨に刻め」そのほか「悪い友だちをつくるな、酒には気をつけろ、女の言葉には気をつけろ、とくに女には政冶に口をださせるな」等々。

「殿様の通信簿」である『土芥寇讎記』にも内藤家の藩主の行状が記されている。
元禄期の内藤家は
義孝、紋は藤の丸、このころは延岡でなく磐城にいた。
義孝の評価はさんざんである。

『義孝、文道の沙汰なし、父義泰以前は、文武を少々学び、歌道も少々心得、記録等を好、諸事を励れしが、近年遊覧に心を被奪けるにや、其の沙汰泣くなりし』
『其の上、罪なき嫡子下野守を(内藤義央)病気と称して蟄居させ、愛子たるを以、二男藤丸に受領させ、家督とせらるも、不義也』
さらに矛先は祖父・忠興にも及ぶ『祖父帯刀(忠興)酒宴を好み、女色に耽る』それだけではない。『其の妻嫉妬の強き事、前代未聞』『然るに帯刀妾余多扶持し・潜に家人共に預け置くの処に』とある。

伏見城の勲功のある内藤家には「うちは取りつぶされない」という甘えがあった。
 
続く・・・・


[39]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年09月19日 13時44分56秒 ) パスワード

久松松平家
お大さんの再婚先の阿久比の久松さんですね。
アカコッコさんの御親類筋ですね。(笑)


>三河国の亀井戸において八千石の采地をたまう

これは知らない地名です。今のどこになるのかしら?加茂郡らしい?
家長というのは弓の上手の伊賀家長にあやかったのかしら?笑

子の政長というのは一説に徳川家康の御落胤の噂もあるようです。
母は松平忠長の娘と書かれています。
それで、そういう噂が出たのかしら?


内藤さんは財政が逼迫して家紋と引っ掛けて参勤交代の時「ボロがぶらさがり藤」なんて
悪口を言われていたと聞いてますから
そのお話が聞けそうですね。(笑っちゃいけない)
[40]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年09月19日 14時09分00秒 ) パスワード

梅花観音
天龍山 宝珠院【ほうじゅいん】
曹洞宗
釈迦如来
常滑市小鈴谷亀井戸62 【0569-37-0348】


検索したらこんなのが出て来ました。
常滑は尾張になるんじゃないのかしら?当時は三河なのかな?よく分かりません。


小鈴谷はソニーの盛田さんの御実家の「ねのひ」さんの所ですねえ。
盛田昭夫さん自身は尾張藩の白壁町の御宅で確か生まれたと聞いてますけど。

思わぬところから思わぬお話が出てしまいました。ぺこり
[41]アカコッコさんからのコメント(2006年09月25日 07時20分17秒 ) パスワード

 続き・・・「殿様の通信簿」である『土芥寇讎記』より。

内藤家については「妾余多抱へ置、無量の幣多し」、お金が要ってしょうがなく、「故に内証逼迫し、近年三四年の間、家士の知行を半分宛借りし」とあるようで、とんでもない殿様といっていい。
家臣を貧乏にし、「当義孝代に成ても、家人の勝手不直と沙汰あり」。

 また「猿楽を好みて」つまり内藤家は家中もみな能を好むので有名であった。
ともかく内藤家では遊びがはやった。「謡・仕舞・囃子等にのみ心をとられ、武芸を好む人一人もなし」
 
 一方、薩摩の郷士は荒々しい。刀を二本差しながら働き、武芸にも励んだ。
 明治維新のとき薩摩が戦いに強く、その後に、士族反乱を起こしたのもこれと無関係ではない。
 明治になって、郷士制のない地域では、大きな士族反乱はおきていない。兵農分離で何百年も都市生活を送ってしまった武士は、叛乱を起こせる条件や、猛々しさを失っていたのかもしれない。

歴代藩主は「家長公のように徳川家に忠義を尽くせ」とずっといわれて育ち、また暮らした。殿様の寝室のすぐ脇にはたいてい大きな「仏壇」がおかれ、先祖代々の位牌がおかれ、寝てもさめてもその先祖と一緒に暮らしているような状態であった。

奥向きで暮らした大名夫人の日記というものが延岡内藤家でも残っている。
 大名の家族は江戸に住まわされたが、幕末になるとそれが、緩められ国許に戻ることもゆるされた。
 元藩主夫人・内藤繁子が延岡にもどった。この繁子は井伊直弼の姉にあたり、誠に詳しい絵日記を書き残した。
 この時代になると大名家の婦人は、一度も農耕をみたことがなかったらしい。文久三年、延岡に下ってはじめて農作業というものをみた。
『賎之いとなみ此国へ来りしを幸、一度は見度と思ひて人々に話』
『どふか時節に成候はば、田舎に行きて一たびは見、賎のほね之事も、知り度』
 結局、藩の役人と交渉して、この繁子は江戸から連れてきた女中とともに、農作業の見物を実現している。
『庄や之方へ行て、刈穂より段々のしわざを一日に致候て見せんとの事』

 姫様が来るというので村のほうでも気をきかせて、穂刈りから脱穀まで、特別に一日でやって見せてくれるという。
 繁子はよほど嬉しかったのか、その様子を絵に書き、日記に残した。

それから五、六年して、幕府は倒れ、三百年つづいた殿様の時代は終焉をむかえた。

 次は本多作左衛門ー本多作左衛門砕き候と申されよー
[42]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年09月26日 03時37分45秒 ) パスワード

江戸屋敷で奥深く生活なさっていらっしゃたのでしょうね。

繁子さまは絵日記にして残したということは才能のある賢い人だったのでしょうね。



そうそう学習院で礼宮さまと御学友だった
内藤の姫君と亀井の姫君が礼宮さまの学生生活をあれやこれやお話になりましたが

亀井の姫はベース型の「かわいい」女の子系でいかにも若さに溢れた女性
内藤の姫は面長の色白きめの細かそうな肌をした「おっとり」系の女の子でした。

両姫君は結婚について
親が家柄だとか「どーたらこーたら」(内藤姫表現)うるさくって
なんておっしゃってました。

繁子さまはどんなお顔立ちなのか空想してしまいました。
また井伊直弼の姉君だとは
大名家ってみんな親戚なんだなあと改めて思いました。
[43]アカコッコさんからのコメント(2006年09月26日 12時42分47秒 ) パスワード

 >また井伊直弼の姉君だとは
 >大名家ってみんな親戚なんだなあと改めて思いました。



 そうですね、特に内藤家と井伊家は特に縁が深くなっております。

 井伊直中の子・政義が内藤延岡藩七代藩主になっており、その弟二人、正優・政成等も内藤姓を名乗っております。
 
 井伊家・・・直中―直亮―直弼

 また延岡藩三代目藩主・内藤政脩(まさのり)は尾張徳川宗勝の十四男であり、まさに、みな親戚。

 当家には内藤兵部信邦の娘が恒康の奥方になっております。
 残念ですが恒康は父に先立ち死去しており、家督は継いでおりませんので血は流れておりませんが。
[44]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年09月27日 04時50分52秒 ) パスワード

>また延岡藩三代目藩主・内藤政脩は尾張徳川宗勝の十四男であり、まさに、みな親戚。

宗勝ですか?!
わあ〜!
まさかココで宗勝公のお名前に接するとは。

本当に「みな親戚」ですねえ。驚
[45]アカコッコさんからのコメント(2006年10月09日 10時49分28秒 ) パスワード

『殿様の通信簿』・磯田道史著より

本多作左衛門 ―作左衛門砕き候と申されよ―

 作左衛門は戦国時代の男である。のちに徳川幕府という近世権力を生み出す三河国に生まれた。家康の家臣のなかでも、これほど面白い男はいない。

 この作左衛門の生涯には、中世と近世の矛盾がつまっているといっていい。戦国の世は何を信じればよいのかわからない時代であった。神仏を信じればよいのか、主君を信じればよいのか、人々は途方に暮れ、迷いに迷った時代である。
この三河武士の実直な田舎侍もそれに悩んだ。
 
 戦国史上、天正十年ほど時代がめまぐるしく動いた年はない。
 まず春三月に織田信長・信忠父子の軍勢が甲斐・信濃になだれこみ、武田家を亡ぼした。

 それから三ヶ月ほどして、あろうことか、今度はその信長父子が本能寺の変であえなく殺されてしまい、織田家も滅びた。家康にとって、恐ろしくて仕方がなかったものが、二つとも一遍に消えてなくなった。

 家康は火事場泥棒よろしく織田家が手に入れたばかりの武田家の旧領甲斐・信濃を横取りし、駿河国まで、おのが手中におさめることができた。

 阿部川の河原で家康の目にとまったものがある。巨大な鉄の大釜であった。「煎人釜」である。
 家康は「この釜を浜松へ運べ」命じられたのは駿府の奉行である。奉行は人夫を駆り立て釜を運びだそうとした。

そのとき、武者が馳せてきた。本多作左衛門である。その釜いずこに。

 「上意により浜松へ」

 すかさず、作左衛門は『なに!上意じゃと!かまわん、砕け・砕け、その釜を微塵に打ち砕け』奉行は恐れおののくばかりで、なす術もない。

 作左衛門は鉄槌を奪いとり、「こうして砕くのじゃ」と釜を壊してしまった。

  続く・・・

[46]アカコッコさんからのコメント(2006年10月09日 10時54分41秒 ) パスワード

 家康の命に反して、釜をこわしてしまった狼藉で「今度ばかりは作左もただではすむまい」
 皆そう噂した。

 作左衛門が物議をかもしたのは、これが初めてではない。

 以前、家康はこの乱暴者を岡崎三奉行の一人に任じ、三河一国の仕置きにあたらせたことがある。相役は天野三郎兵衛と高力清長であり、作左衛門にくらべれば、ともに
温厚な武士であった。とくに高力は仏のように優しい。三河の人々は『仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛』といって囃した。

 そもそも、家康作左衛門を三奉行の一人に加えたことからして、家中は非難の嵐であった。
 なかでも、一向宗の門徒のあいだでは、作左衛門の評判はすこぶる悪い。彼等に言わせれば作左衛門は「仏敵」であるという。

 若いころは一向宗の門徒であった。ところが、作左衛門が三十路にはいり、その半ばも過ぎたというとき、三河の一向門徒が家康公に叛旗をひるがえした。
 
 作左衛門が帰依している一向宗の僧侶は『阿弥陀仏の御為に戦わば極楽往生、家康につかば無間地獄』といった。

 作左衛門は仏を捨て、家康を選んだ。

 『一向宗門徒一揆のとき、重次(作左衛門)其宗旨たりといえども、これをあらため誓紙をたてまつり、ひそかに一向門徒の居所にしのび入、火をはなちて其徒あまたうち取る(寛政重修諸家譜)』、気が付くと、作左衛門の顔は、殺した老若男女の血しぶきで真っ赤になった。この時から鬼のようになった。

  続く・・・

[47]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年10月10日 08時51分03秒 ) パスワード

一向宗だったんですか。

結局は「その僧侶」と「家康」を秤に掛けたのだなと思いましたね。
で、「家康」を選んだ  ?

>作左衛門が帰依している一向宗の僧侶は
>『阿弥陀仏の御為に戦わば極楽往生、家康につかば無間地獄』
>といった。



作左衛門は『なに!上意じゃと!かまわん、砕け・砕け、その釜を微塵に打ち砕け』


たとえ主君であろうと家康であろうと「間違ってることには服しない」
そういう「しん」のある人だったんだろうな。


阿弥陀さまのため、なんて嘘を言うな!
たとえ上意であろうと、そんな物は必要ない!


こういう人って少ないですよね。
人間性の正しさ強さ美しさ
そういうものを持った人だったんですねえ。

またこういう人物がいたというのも徳川家の強みだったんでしょうね。
この作左という人は「芯」がある人なんだろうな


[48]アカコッコさんからのコメント(2006年10月10日 11時14分53秒 ) パスワード


 >またこういう人物がいたというのも徳川家の強みだったんでしょうね。
 >この作左という人は「芯」がある人なんだろうな

そうですね。同感です。

 続き・・

 浜松城のなかでは作左衛門が釜を砕いた一件が問題になっていた。

 このままでは「腹を切れ!」といわれても仕方がなかろう。
 作左はいつもの倣岸不遜(ごうがんふそん)な顔つきで登城してきた。
「切腹であろうか、改易であろうか」「今日で鬼作左の姿も見収めかもしれぬな」と処分を噂しあった。

 家康としては思案せざるを得ない。
 
 家康の心には奉行から伝え聞いた作左衛門の話がひっかかっている。

 奉行の話では、作左は釜を壊しながら、こう捨てゼリフを吐いたという。

 「帰って家康公に申せ、釜で煎り殺すような罪人が出て来るようでは、天下国家を治めることは成り申さず」と言って釜を砕いた。
 
 家康の心のうちにもかすかながらも「天下」というものが芽生えはじめている。
いまや家康は三河・遠江に、駿河・甲斐・信濃を加えた「海道一の弓取り」となっている。
 
 誰にも口にしたことがないが、「まかり間違えれば、天下を治める」、それを考えはじめていた。だから作左衛門の言葉が突き刺さった。
 
 −あきらかに作左衛門は「天下を治めることについての理念」を語っている。それは、これまで家康が経験し実践してきたものとは異なるらしい。

 家康の家臣団のなかでも、作左衛門の忠義はぬきんでいた。忠義において、誰一人として作左に勝てるものはいない。作左は世間の悪評を一身にあつめているけれども、その忠義ぶりには誰しも認めている。

 家康もそれを知っている。
 
 続く・・・・・・

[49]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年10月10日 13時20分37秒 ) パスワード

つくづく作左という人は合理的な考えを持った人なんですねえ。
とても400年以上も前に生きた人とは思えないぐらい合理的。


>「帰って家康公に申せ、釜で煎り殺すような罪人が出て来るようでは、天下国家を治めることは成り申さず」と言って釜を砕いた。


「キン」のスレッドで
家康は秀吉とは違って「金」を私物化しなかった、天下のために使った、とアップしましたが
家康の「新しさ」って作左から学んだというのがあったのかもですね。

ホントこの本多作左って「合理的」ですね。
こういう骨のある人物もいたというのが家康に天下を取らせたんでしょうね。


今回のNHK大河の「功名が辻」で
三成は「義の人だ」と言われてましたが
三成の「義」は豊臣家「だけ」に対する「義」ですものね。

本多作左の「義」は主君も超えた「天下に対する義」ですものね。
人間の大きさが違うわあ〜
見てるところが違いますね。
[50]アカコッコさんからのコメント(2006年10月12日 13時46分14秒 ) パスワード

続き

家康は思索した。この稀代の現実家にしては珍しく、天下統治の理念などという哲学的な命題を考えはじめた。
 
考えて見れば、家康が生きている世界は、徹底的な「私」の世界である。「公」というものが、まったく存在しない。
応仁の乱以来、室町の将軍も、天皇も、都から遠く離れたこの国には、何の影響力ももたなくなった。既に公権力が消えて、百年がすぎ「公」という概念そのものが、人々の記憶から失われようとしている。

この国には「私的な暴力体」が存在するだけである。

家康のような大名に臣従の礼をとって「戦国大名家臣団」という名の私的暴力体が出来上がっている。
 戦国の世であるから、強い者は何でもでき、弱いものは何されても仕方がない。
 
家康も、人間を生きたまま釜で煎って殺せる道具を手に入れ、他の大名たちと同じように「みせしめにつかってみよう」と考えたのだが、作左衛門がその釜を打ち砕いてしまった。

それだけでなく『強ければ従い、弱ければ叛く』という家康のこれまでの政冶上の理念まで打ち砕こうとしている。
「その作左衛門をいかに処分するか・・・・・・」家康はいま、それを考えている。

家康は作左衛門に処分を言い渡した。処分は意外なものだった。

『作左衛門、阿部川の煎人釜をはこべと命じたのは、わしの間違いであった。
(過日は心得違いで、阿部川原の釜を遣わすべし所、昨日、其方途中に於ての口上、奉行より聞きたり)「明良洪範」

『・・・・・・』

『わしの間違いに、気づいてくれたこと。かたじけなく思う。この後も、なお、頼みに存ずる(吾が心得違を心付呉候、忝く存ずる也。此後も猶頼み存ずる也)「同前」

―お咎めなし−

作左衛門は大声でいった。『かかる尊慮にあらせられなば・・・国家は万代不易に候』
その声は浜松城の殿中にこだまし、強く、そして重々しく、響いた。

 家康が天下を取ったのは、このときから数えて、およそ二十年後のことである。
その天下は本多作左衛門が「万代不易」と予言したように、永くつづいた。

ただ、家康が天下人になったとき、作左衛門はもうこの世にはいなかった。
 
続く・・・・・・
[51]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年10月13日 05時26分31秒 ) パスワード

作左もスゴイ人だったけど家康もスゴイ人だったんですね。


今の時代だって「私的暴力体」というのは同じですよ。
なのに400年も昔に「公」を考えた人が存在した、
スゴイですね。
そしてその精神を受け継いだ。260年続いた。これもスゴイ。


もし開国当時に日本の金と銀の交換レートが外国と比べてどうなのか
という算盤の出来る幕府の計算方がいたら
もしかすると江戸幕府はもっと長く続いたのかもですね。

どっちにしろ交換レートを変えたら日本経済は大騒ぎだったのかな?


作左は磯田先生にちゃんと書いてもらえて草葉の蔭で喜んでいるでしょうね。
人としてこうありたい
そういう人物像ですものね。
[52]アカコッコさんからのコメント(2006年10月18日 10時27分24秒 ) パスワード

 続き・・・

 作左の晩年は寂しい。豊臣秀吉が天下を握り、家康に出頭を命じてきたとき、徳川家では秀吉の老母を人質にとった。むろん家康が殺されぬための措置である。

 このとき作左衛門は秀吉の母の監視役をつとめていたが、何を思ったか、秀吉の母の目の前に、薪を山のように積んで『家康公にもしものことがあったら、これに火をつけ、生きながら焼き殺すぞ』すごんだ。

 それ以来秀吉は作左衛門を深くうらみ、ことあるごとに「作左を追放せよ」と家康に迫った。

 家康はずるい、秀吉をおそれ、あれほど尽くしてくれた作左衛門を見捨て、その職をうばって、閉居させた。
 
 作左衛門は最愛の主君にすてられたが、ただの一言も家康の悪口を言わなかった。黙って出てゆき、田舎にうつって日々、鳥や獣を追って暮らした。生前、家康が天下人となるのを楽しみにしていたというが、結局、それをみることもなく、下総国の井野という小さな村で不遇のうちに死んでいる。

 ちなみに日本一短い手紙『一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ』は、作左衛門が書いたものである。

 ただ、作左の原文は『一筆申す、火の用心、おせん痩さすな、馬肥やせ、かしく』であったらしい。お仙は娘でなく、作左衛門のたった一人の男の子、仙千代(成重)のことである。

 戦国時代のことだから、痩せっぽちでは、戦場で殺られてしまう、それを心配して陣中から妻に「お仙にしっかり食べさせろ」とわざわざ書き送った手紙である。鬼の作左も妻には優しかった。

 家康は豊臣家を滅ぼすにあたり、突然、このお仙こと仙千代を呼び出して、四万石を与えている。

 ずっと作左衛門に『すまぬ』と思っていたのであろう。

 以上で完
[53]アカコッコさんからのコメント(2006年10月18日 10時39分25秒 ) パスワード

ついでに・・・

殿様の通信簿:後書きから。

 日本人は、長期安定の時代をむかえると、過去にとらわれ、行動が形式化する習性をもっている。
 しかし、いったん、大きな激動がはじまれば、たちまち柔軟性を発揮して、これが同じ人々かと思えるほどに、短期間に変わる。戦国末期がそうであったし、幕末維新期も、戦後の数年間もそうであった。

 ここで描いた殿様たちは「戦国から元禄」という」時代を生きた人々である。
 
 変革から安定という時代のなかに生きた日本人の姿がそこにみえるように思える。

 

 >作左はとしてこうありたいそういう人物像ですものね。磯田先生にちゃんと書い  てもらえて草葉の蔭で喜んでいるでしょうね。
 

 最後に磯田道史先生に『殿様の通信簿』を通じて有意義な勉強をさせて頂き感謝申し上げます。
 
 全部本文からの抜書きでありましたが、本においてはもっと詳しく、分かり易い文章で書かれておりますので、もっと詳しくお知りたい方は買い求めください。まだ店頭に並んでおります。
[54]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年10月19日 04時44分47秒 ) パスワード

アカコッコさん

ありがとうございました。


作左の「おせん」って男の子だったのですか。
「おせんちゃん」って女の子かと思ってました。



ちょっと調べてきました。

作左は没年慶長1年(1596年)
秀吉の没年慶長3年

もう少し長生きしてくれてたら良かったのですけど
作左は家康のお祖父さまの代からお仕えしてるんですから(1529年生まれ)
当時の人にしては長生きの方ですね。


家康は妻と子を信長がらみで死なせてますから
秀吉の不興を買ったとはいえ作左の命を助けてますから結構うまく処理できた、
ということですね。


奥さんは鳥居の娘だったんですねえ。


本多家、鳥居家、西三河の名門ですね。
徳川家のために命を投げ出して尽くしていますね。


おせんちゃん(成重)も徳川家にはちゃんと仕えていますねえ。
家康の次男にお供して秀吉のところに行ったり
後に丸岡城主になって4万石を拝領しているんですねえ。それで「日本一短い手紙」という本が
最近人気作にあるんですねえ。

思わぬところで歴史から戻されて父子ともに草葉の蔭で喜んでいるでしょうね。


本当に良い本ですね。
いろいろな大名家の人間がちょっと違う視点から光を当てられて。


本多作左なんて
400年経って、あの混乱した生きるのが難しい時代にこういう男が生きていた、
大大名じゃないけど、
戦国時代に生きた豪傑の中で、ひときわ輝くものを持っていた。

この人の生き様と晩年を思うとホロリと来ますね。


本当にありがとうございました。
詳しい事情については是非実物を買って読んで頂きたいですね。
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