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 投稿番号:100918 投稿日:2006年06月11日 20時34分23秒  パスワード
 お名前:
石川県

コメントの種類 :質問  パスワード

あちこち調べていますが、混乱するばかりで結局なにもわかりません。
ここの人が一番物知りと思い、聞いてみたいと思いました。
祖先が言い伝えでは平家の落人ということになっているらしいのですが、
実際には前田家に擁護されていたこと(前田家も平家で同じ出自かもしれませんが)や天皇陛下にかなり似ている人も親戚にいることなどから、身分の高かったものが身分を隠して隠れ住んでいたような気がしてきています。
なにを質問したらいいのかわからないですが、まずそんな人の存在はありえるものでしょうか。
前田家が平家という可能性はどうでしょうか。
(余談ですがもう一方の先祖は今川義元なんだそうです。気が合わないみたいです。ただ単におもしろいと思ったので。)

[1]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年06月11日 23時20分59秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

前田家は公式的には菅原氏です。
厳密には藤原氏利仁流斎藤氏裔で藤原氏とも言えます。
菅原氏裔の原田仲光の男仲利が、斎藤氏裔の前田利倫の娘婿となり前田を称したことに拠ります。通字に利の字が多用されていることが物語っています。
詳細は姓氏類別大観(http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm )の菅原氏をご参照下さい。
[2]さんからのコメント(2006年06月14日 18時46分25秒 ) パスワード

こんにちは、ご返信ありがとうございます。
平家とは関係ないのでしょうか。
うちも梅鉢紋です。堀、中村、前田、竹?という名字も一族にいるのでその辺なんでしょうか。
でも前田利家の出自が藤原氏利仁流氏裔というのは間違いないことなんでしょうか。
[3]小次郎さんからのコメント(2006年06月14日 20時54分20秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年06月14日 20時57分53秒
[4]小次郎さんからのコメント(2006年06月14日 21時04分43秒 ) パスワード

すみません、削除したのは、もう少し内容を加えたかったからです。
申し訳ありません。

 >ゆ さん

何をどう調べてこられたのか皆目わかりませんので、コメントのしようが
ないと思います。
もう少し具体的にお話し下されば、何か出てくるかもしれません。

平家の落人伝説は全国に山のようにあります。
言い伝え以外に何もないのでしょうか。

私は室町幕府に関する文書(直接史料と呼ばれる物)を沢山読んでいますが、
織田信長の入京以前に「前田」という名は見た覚えがありません。
戦国期の幕府はほぼ畿内政権と言えますので、地方のことは判らないですが、
織田氏は幕府に参じていますから、前田氏が織田家の被官クラスでないことは
確かです。

従って、室町幕府関係者が「前田利家の出自が藤原氏利仁流氏裔」などと
いうことは誰も知らなかった筈です。

本人が江戸期に自称したことによります。

家系のことに関しては、個人のプライバシーの問題でもありますので、
軽々に論ずることは(私は)控えております。

「ゆ」さんご自身が前田の殿様の直系のご子孫だとして、ある日突然、私も
前田です。家紋も一緒ですから、親戚です。といって来られたらどうでしょうか。

武家・公家は「家系」というものを大事にしています。傍系を作ったのなら
それなりの証拠が本家・分家に何かあるはずです。
[5]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年06月14日 22時57分26秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

ゆさんへ
 
>でも前田利家の出自が藤原氏利仁流氏裔というのは間違いないことなんでしょうか。
 
あくまでも公式見解です。
藩翰譜に「前田は利仁将軍の後胤、鎌倉の時、六波羅の沙汰人斎藤伊予入道玄基が末流にて、藤氏たるにやと云う。されど武家補任を見るに、此の別れ菅原のよし見えたれば、それに従う」と記載されている。
前田系図は諸本錯綜して異流多く、見解に迷った新井白石先生の胸中を行間に読んで下さい。
出自についての考え方は、
日本の苗字七千傑Q&AのQ19(http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/q&a2.htm#019 )をご参照下さい。
[6]さんからのコメント(2006年06月15日 15時47分45秒 ) パスワード

小次郎さん日本の苗字七千傑さん返事をありがとうございます。
新井白石先生の見解でまだまだわからないこともたくさんあるということでしょうか…。
梅鉢紋で調べるといろいろな苗字の人がいるので家紋が一緒だから親戚と言ってるわけじゃないんです^^;
それなりにいろいろあったり調べての結果なので。
家紋や系図が売買されたことも聞いたことありますし。
いろいろ調べていたら平家前田織田同じ古い一族のような気がするのです。

[7]太郎さんからのコメント(2006年06月15日 17時11分20秒 ) パスワード

横レス失礼します。

ゆさんへ

あるときから、織田信長は自らを平資盛(たいらのすけもり)の子孫と称し、蝶紋を使い始めました。それに合わせて秀吉も自らを平氏と称し、池田恒興も信長に蝶紋を許されたことから家紋を揚羽蝶に定めたようです。
そこら辺のいきさつからすると、前田利家も自らを平氏と称したかも知れません。

では、信長、秀吉、恒興、利家、彼らが平氏であったかどうか。
彼らは源氏の名門である今川家や武田家などを次々と倒し、武家源氏の頂点ともいうべき足利将軍家まで倒しました(室町幕府を滅ぼしました)。
彼らの成したことを見る限り、当時、彼ら以上に「平氏らしい」ことを成した戦国大名・戦国武将はいなかったのではないでしょうか?
源頼朝の首を望みながら死んでいった平清盛や、足利家に滅ぼされた北条高時たちが、信長たちに平氏を名乗ることを許さない理由があったでしょうか?

そんなことを考えてくると、私は信長たちには平氏の血が一滴でも入っていたか、あるいは平氏の霊が乗り移っていたか、とにかく彼らは「平氏だった」というように思えてなりません。

古くからある「源平交代説」からしても、足利幕府を滅ぼした信長たちは平氏ということになりますね。

以上、系図とは違った視点からの、太郎のアプローチでした☆
[8]さんからのコメント(2006年06月15日 20時50分31秒 ) パスワード

(今8時40分ですがこのページを開けて見ました)

太郎さんありがとうございます。
「平家物語」はただの物語で「平家」の身を隠すためのもので、織田や前田などなども「源氏」方との親族争いだったのかななんて思うこともあります…。
(くわしいひとにはバカにされるんでしょうけど)

でも今川氏だった父と平家だった母が離婚したのも仕方ないですね^^;
(ネット内をいろいろ見ていると両者とも遺伝子引きずっているみたいです^^)

[9]さんからのコメント(2006年06月15日 22時25分06秒 ) パスワード

前のスレッドも見てみましたけど
利家の妻まつは淡路島出身ですよね
[10]さんからのコメント(2006年06月16日 22時52分17秒 ) パスワード

誰が自分の祖先だったんだろうかといつも気になるけどどうしたらいいのかわかりません。
[11]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年06月16日 23時56分02秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

ゆさんへ
 
利家の父利昌(利春)は天正14年の画像の讃に「平氏」と記載されている。
何の根拠も無く称したのではなく、利昌の祖父仲利の旧苗原田に着目したものと思われる。
原田氏は筑前国御笠郡原田を本貫として、全国に繁衍して地名も遷移している。
繁衍経路の主流は筑前─美作─美濃─尾張─三河と推定される。
筑前発祥の原田氏として次の三流が著名である。
大蔵姓(後世平氏と称している家も多い)・・・重ね桔梗紋
桓武平氏良文流(後裔は美作菅家党として菅原に改姓)・・・梅鉢紋
筑紫菅原姓(菅公の後裔)・・・梅鉢紋
 
大蔵姓の原田種直が平家方に属したことを考えれば、原田氏の子孫は平氏を称して菅公ゆかりの梅鉢紋に仮託したがうかがえる。
[12]さんからのコメント(2006年06月18日 19時41分46秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんありがとうございます。
根拠があることなんですね^^
母から話を聞いても半分は聞き流してしまっているので私がいけないんですが。もう一度母に聞けば私などの話よりももっといろいろ知っていることがあるんだと思います。
…でも今まで社会科の回答のような返事しかもらえなかったので、ここは詳しい人が多いですね。みなさんおいくつくらいの方でお勧めの書物などあるのかな、など思います。
他のスレッドも読んでみます。
[13]中村さんからのコメント(2020年07月06日 11時46分32秒 ) パスワード


以前から気になっていましたので、横スレで失礼します。

ゆ様の
前田家が平家という可能性はどうでしょうか。の問いに、

日本の苗字七千傑さんは

※前田家は公式的に菅原氏です。厳密には藤原氏利仁流齊藤氏裔で藤原氏と言えます。
と申されていますが、

日本紋章学では、・・・・・・
〇斎藤氏は天満宮を崇拝す。

夫斎藤氏ハ利仁将軍ノ後胤ニシテ。子細有リテ聖廟(道真ノ廟)ヲ崇メタテマツル。昔加州富樫・越中井口ノ輩越前斎藤氏の面々、何レモ菅家ノ霊ヲ崇メテ加州敷地ノ天神ヲ、此ノ三氏ノ氏神トス。
此故ニ斎藤氏暫く住セシ所ニハ、此?多ク勧請セズト云事ナシ。加納・岐阜・長良・文珠・關・北方・白樫・堀津・加賀井・三井・八?・此所所ハ、皆齋藤氏の面々住シケル故、彼社ヲ立テ今ニ何レニモ在り。齊藤家ノ紋ハ、梅鉢ヲ付ケル故、菅原氏ト云フ事誤ナルベシ。-後略-
  日本紋章学 沼田頼輔

(註)利仁は藤原不比等の流れで、北家の魚名の玄孫です。「家系」豊田武著   P92

Webで以下を検索すると。
@ 前田氏-Wikipediaに「利家の系統が菅原姓を称するのは、系図上その出自が美作菅氏支流原田氏だからである」

A 美作官氏‐Wikipedia加賀藩の前田氏は美作菅家原田氏の家系を自認し、家紋は菅家の梅鉢紋を使用している。

上記は全て自己の先祖を誇示するために、家系を装飾し捏造したものです。

上記@Aの反証!

※❶前田氏が系図上原田氏の出自ではありますが、原田氏が美作菅家の支流ではありません。美作菅家の系図について、専門家は「管原氏系図」道真の末裔美穂満佐子忠門が、美作国久米郡原田郷(岡山県美咲町原田)を領して原田氏呼称はいささか信憑性に乏しい。
「日本家系・系図大辞典」奥野敬之著 鞄結桴o版  P824

※「管原氏から出た菅家党の諸系図を照合してみると、異説が多く混淆して収拾できない。
「姓氏家系大辞典」に載せる「有元系図」が美穂満佐の子に「有元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見」これが菅家七流祖としている説を根本的に履している。各人の実名が広戸豊前守佐友・鷹取長門守佐利以外は全く逸脱しており、そのまま信じられないのである」
「系図研究の基礎知識」近藤出版社 近藤安太郎著 P1067

※❷家紋は菅家の梅鉢紋を使用している。
・・・以下反証致します。

平姓原田氏は何時から梅鉢紋は何時から使用?

※梅紋(梅鉢紋)は平氏一門の専属だった、平良文の流れから出た秩父氏の諸流は」、先祖の良兼・良文が国香に攻められた時、北斗七星・妙現菩薩がその前に現れて危機を救ってくれたとのの由緒に基づき、みなその移住地に妙現菩薩を勧請して、延命長寿・怨敵退散を祈った。世継ぎの元服式も妙現の祠の前で行い、紋様にも星を用いた。『羽継原合戦記』に月に九曜は千葉介、八曜は上総介、九曜星は標葉氏と見える。この場合、千葉介の嫡流は月星をかたどって家紋とし、庶流は七曜・九曜などの諸星をもって家紋とした。-後略-梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜、六曜などの変形したものであろう。
「家系」豊田武著 P247

◇鎌倉時代(1333年〜)に北野天満宮が道真の「東風吹かば  匂いおこせよ“梅の花 主なしと を忘るな」の愛梅の故事に因みて梅紋を神紋とし、菅家の一門たる高辻・唐橋・及び天神信仰もつたものがこの梅鉢紋を用いた。                                               日本紋章学

※以上の事から、梅鉢紋は菅家よりも300年以上も前から良文流平氏が使用していたのです。

※月星紋、及、七曜・九曜・十曜等の紋章は、平良文千葉氏は、及、その一族専用紋とす。即ち、嫡流は月星を用ゐ、その一門は六曜・七曜・九曜・十曜の諸星を用いたり。
「日本紋章学」 沼田頼輔著 P297

※九曜紋を用ゐるものは、主として平氏良文流の出なる千葉氏なるを以って、この分布は前の月星紋と、(略)同一の経路を辿れり、六星紋は六個の星形より成れる。*形状は⁂星辰崇拝の妙見信仰よりこれを用ゐたる。梅鉢紋と云うは、六曜星を混同せりものなり(略)
「日本紋章学」 沼田頼輔著 P309〜310

※七曜・九曜・十曜等の紋章は、平良文流千葉氏、及、その一族専用の家紋とす。梅鉢紋や梅花紋も星の九曜、
六曜・などの変形したものであろう。前田家の出自とされる平姓(號原田氏)は平忠常の五男で「家之紋梅鉢折枝九曜亀甲」=「亀甲に梅鉢」です。前田氏が梅鉢紋を使用しているのには整合性があります。
「家 系」豊田 武著 等参照
梅紋・梅鉢を菅原道真は家紋として使用した確証はない。

※鎌倉時代北野天満宮が梅紋・梅鉢紋を神紋としたが、これより、300年も前に、梅鉢紋や梅花紋も、星の九曜・六曜などの変形したもので、平氏良文流千葉氏、及、その一族専用の家紋としている。日本紋章学参照

〇祖先を記念せんがため特に定めたる家紋 

※公家の家紋は、或は車の文様より来たり、或いは衣服の文様より転ぜるもの多かるかるべきもの、亦記念的意義に本づきて、家紋を定めたるものなきにあらざるべし。例えば菅原氏即ち菅家の一門たる高辻・唐橋・清岡・桑原の諸家が、いずれも梅鉢紋を用ゐるが如きは、菅原氏の祖先たる道真が、その生前梅を好み給える記念的意義に本ものの如し。官公が生前梅を愛し給ひしことは、その書屋を紅梅殿と名づけたるが如き、又東風吹かばの歌詠のありしが如き、いずれもこれを證することを得べし。されば(*そうであるから)官公の後と稱するものが、その祖先の觀賞せる梅花に象(かたど)りて、これを家紋に定むるに至れるは、記念的意義に本づけることを知るべし。
日本紋章学  29P

梅を天満宮の神紋とせる理由
抑々(よくよく)梅を天満宮の神紋として擇びしは、官公が、平素梅を鑑賞し給ひし事蹟に因めるものにして、是等の事は、彼の紅梅殿の命名、東風吹かばの歌詠等に就きて、容易にこれを知ることを得べし。而して、そのこれを天満宮の神紋として用ゐ始しことの鎌倉時代にありしことは、北野天満宮縁起中、官公の著用し給える衣服、及、輿車等に、特にこの文様を畫けるを以ってこれを知るべし             日本紋章学 488P

梅 紋
梅紋は,他の紋章の如く従来流行せる文様より移れるものならんも、これを持ちゐしものは官公の子孫に係るものか、若しくは天満宮を信仰せしものなるより考ふれば、尚美的意義より持ちゐられたるものと云はむよりは、寧ろ記念的若しくは信仰的の意義に本づけるものと云うべし。梅を家紋として用ゐたることは、其始を鮮にせずといへども、その始めてこれを用ゐしは、天満宮の神紋としてこい給いし事蹟に因めるものにして是等の事は、彼の紅梅殿の命名、東風吹かばの歌詠等に尽きて、容易にこれを知ることを得べし   日本紋章学  P484〜5

梅   紋
〇菅原氏橘氏の家紋が恰も姓の目標たるが如き觀を呈せし理由

橘氏・菅原氏等の如き餘り繁衍せざりし氏族の名字にありては、〜然れども是等は決して橘氏・菅原氏が賜姓當時よりその家紋を用ゐたるものにあらずして、後世に至りてこれを用ゐたるものなるも、橘氏は聖武天皇賜姓の故事に因みて橘門を用ゐ、菅原氏は道真愛梅の故事に因みて梅紋を用ゐしより、かくて橘氏の出自(すいじ)に係る諸氏は大概橘紋を用ゐ、菅原氏の出自に係る諸氏は大概梅紋を用ゐるに至りしものとす。-後略-
日本紋章学・沼田頼輔 

では、美作菅家の筆頭有元氏は何者?
菅原道真の三代前に菅原古人、その弟の真仲が延暦九年に大枝(大江)姓を賜った。子孫の大江匡房の三男に大江有元(文章博士・従四位下・式部少)がいる。その子孫が有元を名乗った。と思われます。大江氏は菅原道真の子孫ではなく、菅原氏の支流なのです。

大江氏の子孫(有元氏)は名家ですが、系図を捏造した時から、武家の品格を捨てたのです。有元氏が藩の要請で古事を提出した時点で、80年もまえに、帰農した原田氏が古事を書き、藩に提出する事は100%無いとして捏造したのです。           「群書類従」 第四号 大江氏― 216P―参照

※大江匡房の子孫に、頼朝の死後北条氏と共に幕政を固めた大江広元、後の毛利氏も子孫です。大江匡房が美作乃守であつたその縁で、有元氏も美作に行き着いた?と考えられる。

※大江有元の子孫が有元の名を初代とした。こんな例として、平家全盛時代に、「平家にあらずんば人にあらず」を遺した清盛の義弟平時忠が能登に流された、時忠の子時国の子孫が、大江有元と同じように、時国の名を初代とした例がある。


 Web Communication Board-平家物語を熱く語る!!美作菅氏殿
2018年2月8日・前田氏 ―Wikipedia に「利家の系統が菅原姓を称するのは、系図上その出自が美作菅氏の支流原田氏だからである」とありますがこの根拠は? ご存知の方も教えて下さい。

としたらすぐに返答がありました。是非ご一読下さい。

                        - 以 上 -

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