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 投稿番号:100908 投稿日:2006年05月25日 21時00分08秒  パスワード
 お名前:暇潰しのギャンブラー
平清盛終焉の地はどこ?

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

友人からの質問でございます:


最近こういう記述に接しました。

養和元年(1181)閏2月4日、平清盛が亡くなりました。
『吾妻鏡』は清盛の死去の場所を「九条河原口盛国家」としています。
しかし、平盛国邸は八条河原口であることが明らかにされました。

私は最近この文章を読んだんです。
だから、てっきり清盛が逝った盛国邸は九条だと思っていたのです。

何か、八条河原口に「跡」でも「碑」でもあればいいのですが。
ま、八条辺りをふら付いてみますね。


もしどなたかコノ質問に答えられるかたがいらっしゃいましたらレスお願い致します。

[1]小次郎さんからのコメント(2006年05月25日 22時01分32秒 ) パスワード

こんばんは 小次郎です。

北東から屋敷を見れば「八条河原口」にある大邸宅
南東から屋敷を見れば「九条河原口」にある大邸宅
当時その辺は人口も少ないですし、八条から九条にかけて
平家の郎党や下人を住まわす多数の家、馬屋・牛舎等も含めて、盛国の
屋敷があったとして何等不思議ではないです。

渉成園(枳殻邸)は河原院の一部がかかっているとのことです。
http://www.tomo-net.or.jp/guide/syoseien.html
河原町通りから見ると、長い土塀が続きます。

盛国の屋敷に土塀があったかどうかは存知ませんが、何かで囲われて
いたでしょう。

ちなみに、源融の河原院跡にある小さな石碑を見れば、屋敷があった
のだな〜程度にしか思えません。近所の人も、源氏物語のモデルになっ
たトンでもない豪邸があったなんて、殆ど知りませんよ。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月26日 01時14分55秒 ) パスワード

小次郎さん

ありがとうござます。
早速友人に知らせます。
ぺこり


他のかたも
いろいろな御意見お待ちしております。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月26日 13時19分04秒 ) パスワード

友人からの御挨拶です:


「情報、有難うございました。
 早く京都に行きたくなりました。」
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月26日 13時35分21秒 ) パスワード

こんな事も教えて頂きました:


>北東から屋敷を見れば「八条河原口」にある大邸宅
>南東から屋敷を見れば「九条河原口」にある大邸宅


なるほど・・・

八条通りと九条通りは、距離にして500m弱。
盛国の屋敷が、この間にあったら八条でも九条でも間違いではないでしょうね。

河原口には、屋形町という地名が残っています。
「屋形」というのは、「地位・身分ある人の住む屋敷」という意味ですから、この辺に在ったのかも。
[5]アカコッコさんからのコメント(2006年05月26日 19時53分46秒 ) パスワード

京都市内に詳しい人でしたらスグに分かると思いますが、京都駅の反対側です。

 ヤフーの地図では下記のアドレス(1/8000)

 http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=34.58.29.844&el=135.46.2.539&la=1&fi=1&sc=3




鎌倉幕府の公式文書の「吾妻鑑」にはどんな風に書かれているか検索しました。

吾妻鑑の URLより

 治承5年(1181年)
閏2月2日 [平家物語]
  
 其日のくれ程に、入道病に責伏られてたへがたさに、比叡山の千手院の水を取下して、
  石の舟に入て入道彼水に入て冷給へ共、下の水上に涌上り、上の水は下に涌きこぼれ
  けれども、少しも助かり給ふ心もちし給ざりければ、せめての事にや板敷に水を汲流
  して、其上に臥まろびて冷給へども、猶も助かる心地もし給はず。後には帷子を水に
  ひたして、二間を隔てて投げかけしけれども、ほどなくはらはらとなりにけり。かか
  へおさふる人一人もなし、口にてはとかくののしりけれども叶わず。悶絶僻地して、
  七日と申に終にあつさ死に死たまひけり。(略)今年六十四にぞなり給へる。

閏2月3日 己酉 天陰 [玉葉]
  美乃に在る追討使等、一切の粮料無きの間、餓死に及ぶべしと。坂東の賊徒、勢日を
  追って万倍すと。大略万事至極の時なり。

閏2月4日 庚戌
  戌の刻、入道相国薨ず(九條河原口盛国が家)。去る月二十五日より病脳すと。遺言
  に云く、三箇日以後に葬りの儀有るべし。遺骨に於いては播磨の国山田法華堂に納め、
  七日毎に形の如く仏事を修すべし。毎日これを修すべからず。また京都に於いて追善
  を成すべからず。子孫偏に東国帰往の計を営むべしてえり。

[玉葉]
  夜に入り伝聞、禅門薨去すと。但し実否知り難し。


   合掌




[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月26日 21時39分59秒 ) パスワード

アカコッコさん
ありがとうございます。忝うございます。ぺこり


本当に土地鑑の無い者には あらら? でした。笑



以下は更なる会話です。


平盛国邸が八条でも九条でも、視点が変わればどちらにでもとれるんですね。
恐らく、中間にあったんでしょうから。

最近の疑問は、「本当に盛国邸で逝ったのだろうか」と思っているんです。
だって同じ八条を西に行けば、自分の邸があるんですから。
清盛自宅と曾孫の盛国の家と、誰がみたって不思議ですよね。


あなたも「屋形町」に在ったのではないかと思いますか?
屋形=館 からすれば、まずここに邸宅があったと思いますよね。


義経の件
御館は「みたち」と読みますからね。
御館は領主や主君を指しますから、義経が藤原秀衡を「みたち」と呼んで不思議はありません。


館=舘でしょ?
舘(館)ひろしさんは平家ですか。


屋形町=盛国邸の跡を指すんでしょうね。



わたくしからの返答:


角地の家は住所が複数あって当然ですよね。

きっと盛国の屋敷もどっちの通りからも入れたのでしょうね。
広大な屋敷でしたでしょうから。
それに家来の住まいなども含んでいたでしょうから。
そういう意味だったのかも。

昔の貴族の屋敷って畑なんかもあったそうですものね。

今の20坪や30坪の感覚からは分からないですね。



舘ひろしさんのお家はスゴイ資産家だったようですよ。
あの年代でイギリスに留学したり
お家では「お紅茶の時間」というのがあったそうですし


彼は愛知県出身だそうですけど。


舘家というのは血縁的に我が家に近い平家だったようです。
[7]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年05月26日 22時07分01秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

平安時代の七条から九条にかけての鴨川は現在より東側を流れている。
現在の京阪本線の軌道上あたりで、東京極大路と九条大路の交差する九条河原口は現在の九条河原町より東なのである。
九条邸や平盛国邸は宇賀塚と九条大路を挟んで北側に位置している。
鴨川を挟んで対岸には法性寺の広大な寺域が威容をなしていたと伝える。
現在の住所で平盛国邸は東山区本町14丁目と推定される。
法性寺の寺域は北は六波羅に接し、南は伏見の稲荷山に至るもので、鎌倉期以降は法性寺の衰退とは逆に東福寺の寺域が拡大している。
八条河原口説は法性寺の位置が未確定なことから来る誤解と思われる。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月26日 22時51分56秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さん


ありがとうございました。
早速知らせますね。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月27日 11時15分18秒 ) パスワード

こんな情報も頂きました:


昔、特に平安時代の武士の館は、「広い!」なんてものじゃない。
元々屋敷自体が広いのに、家来やら場合によっては農奴などの家もあった。
農奴は、いざとなったら戦力にも使えましたからね。

当然敷地内には、畑やら馬小屋・武器庫など色々あったでしょう。
とても、20坪や30坪に住んでいる人には想像出来ないですよ。
一つの城と考えていいでしょうね。


「平家物語」の原本を読むには、どうしても地図がないと理解出来ない部分があるらしい。
そこで、六波羅や法住寺近辺の復元図が作られた訳です。
私は、この復元図を信じています。

そうでないと、「屋形町」などは意味がなくなってしまいます。
平安時代の鴨川だって、復元図では今と殆ど変わりません。

まあ色々説があってもいいですよね。



さすがに舘ひろし。
平家は今だ衰えずですね。
しかし、あの顔はどうみても「裕福な家のお坊ちゃま」には見えないけどね。

彼は愛知県名古屋の出身ですね。
父親は医師で、当初医学部を目指したけど挫折して、何故か千葉工業大学に入った。
さすが資産家の息子は、やることが違う。

まあ石原軍団の中心的役割も、何となく納得出来る(?)
軍団も、こういった資産家を抱えていれば喰うには困らない(?)

舘家と服部家は、血縁的に近い平家だった?
それも、凄い話です。
[10]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年05月27日 12時27分10秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

治承4年(1180)6月の福原遷都から11月の京都還都(翌年閏2月に清盛没)までの京都の変貌については、多くの日記や諸書に語られているが、中でも鴨長明の方丈記はお勧めである。
福原遷都が平家滅亡を早めた一因とも考える。
以下に方丈記の都遷りのさわりを掲げる。
 
 又、治承四年水無月の比、にはかに都遷り侍き。
 いと思ひの外なりし事なりき。
 おほかた、此の京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるよりのち、すでに四百余歳を経たり。
ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人やすからず憂へあへる、実にことわりにもすぎたり。
 されど、とかくいふかひなくて、帝よりはじめたてまつりて、大臣・公卿みな悉くうつろひ給ひぬ。
世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残りをらむ。
官・位に思をかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりともとくうつろはむとはげみ、時をうしなひ世にあまされて期する所なきものは、うれへながらとまりをり。
軒を争ひし人のすまひ、日を経つゝ荒れゆく。
家はこぼたれて淀河に浮び、地は目のまへに畠となる。人の心みな改まりて、たゞ馬・鞍をのみ重くす。
牛・車を用する人なし。
西南海の領所を願ひて、東北の庄薗を好まず。

  (以降略)
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年05月27日 23時21分18秒 ) パスワード

関東在住の知り合いよりこんな感想も頂きました:


平安時代の関東では、お金持ちの武士は屋敷の周りに堀まで造った。
これは、どの地方でも同じじゃないですかね。

要塞の中で生きていける規模だったかも。
平安末期の平家だったら、何かに怯えて益々広大な屋敷を構えたでしょう。
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