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 投稿番号:100907 投稿日:2006年05月20日 12時11分58秒  パスワード
 お名前:暇潰しのギャンブラー
湯河原:土肥

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

先日福島の伊東の領地について「熱海というよりは湯河原に似てる」と書いたのですが
友人が湯河原の土肥の大杉跡を見に行くと言ってました。


「土肥の大杉は、景時が頼朝を助けた有名な木ですから是非見たいんです。
 大木そのものは、大正時代に腐って切られてしまいました。
 跡でも仕方ありません。

 鵐の窟は、安房に渡る前に数日を過ごした洞窟ですが、今も残っています。
 神秘的なところです。

 欠点は山道であること。
 鵐の窟はまだ街道筋に近いですが、大杉は登山道です。
 足元をしっかりしないと、とんでもないことになります」


それで足元をしっかり固めて出掛け直すそうです。

[1]GuessWhoさんからのコメント(2006年06月11日 14時35分23秒 ) パスワード

「杉」関係の話はよく源氏方に出てくるのだが、例えば「前九年の役」で源頼義・義家父子が奥州へ下る際、箱根権現で戦勝祈願した「矢立の杉」。詳しく言うと、文治元年三月二十四日の卯の刻(夜明)に始まった壇ノ浦合戦の際にも使われた、双方の大将が敵を前にして鬨をあげた後の「矢合わせ」で使う「鏑矢(かぶらや)」。普通の矢の先に鹿角等、中空プラス数個の穴をもつ矢のことで、射ると高音を放つという鏑矢を「上矢の鏑矢」として杉に立てかけた。
「吾妻鏡」建久四年での「子の刻、故・伊東次郎祐親法師の孫子、曽我十郎祐成、同五郎時致、富士野の源頼朝御旅館に推参を致し、工藤左衛門尉祐経を殺戮す」、いわゆる「曽我兄弟の仇討ち」の項にもあるように、石橋山の合戦での伊東(工藤)祐親の奥方は土肥実平の姉妹であり、頼朝方に捕まり、縄をひかれ鎌倉御家人たちの前に引き出された曽我五郎時致を見て、「縄だけははずせないないものか」と気づかうのも土肥実平の子の御家人・新開実重(埼玉県深谷市新戒付近を本拠)であるが、これを仏教用語でいう「善の縄」であると五郎時致は言い返す。いわゆる、人を善処へ導く縄(綱)であり、片方を阿弥陀如来像の手にかけ、極楽へ導かれるとされるものである。五郎時致尋問の際、頼朝の左右には結城朝光と大友能直が座し、梶原景時、和田義盛、狩野宗茂、新開(土肥)実重が座すのである(「吾妻鏡」)。
[2]GuessWhoさんからのコメント(2006年06月13日 21時30分12秒 ) パスワード

例えば、相撲における「河津掛」。「石橋山の合戦」以前、関東地方の武者達五百騎あまりが伊豆に集まり、伊東祐親のもてなしを受けるという機会があった(「曽我物語」)。

その際、武者たちは余興に相撲をはじめ、中でも相模国の俣野五郎影久(大庭影親兄弟)が強く、図に乗って長老格の一人、土肥実平に侮る言葉をはくのである。そこで、すくっと立ち上がったのは曽我兄弟の実父・河津(伊東・工藤)祐泰であり、自分の烏帽子親が侮られたのを黙っているわけにいかなかったのである。俣野を二度に渡り投げ飛ばし、いわゆるこんにち角界でいう「河津掛」。即ち「出て掛ける」のである。

祐泰亡き後、祐泰の子・曽我十郎祐成、同五郎時致は北條時政の館を訪れ、元服時の烏帽子親になってくれるよう依頼する。快く承諾した北條時政は自分の名の一字「時」を与え、五郎時致を名乗らせたのである。「吾妻鏡」建久元年九月七日条によれば、それは甚しき雨の降る夜のことであったという。

源頼朝が富士野で狩を挙行すると触れを出したことで、曽我兄弟は「決死」の覚悟をかため、親しい人々にそれとなく別れをつげる。五郎時致は、伊東祐親の娘で、土肥遠平の妻となっていた伯母に挨拶し、遠平と酒を酌みかわすのである。現在、箱根権現(箱根神社)にある曽我神社の横にも「兄弟杉」が存在。
[3]GuessWhoさんからのコメント(2006年06月14日 21時15分20秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2008年10月26日 07時09分29秒
[4]GuessWhoさんからのコメント(2006年06月16日 07時31分30秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2008年10月26日 07時08分56秒
[5]GuessWhoさんからのコメント(2006年06月26日 07時18分46秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2008年10月26日 07時08分17秒
[6]総督さんからのコメント(2006年06月26日 10時48分03秒 ) パスワード

勉強になります。
[7]GuessWhoさんからのコメント(2006年06月26日 16時23分04秒 ) パスワード

「平治の乱」で囚われの身となった源頼朝は池禅尼の嘆願により一命を救われ、伊豆国北條郡蛭ヶ小島に配流になった際には監視役は伊東祐親であったことはよく知られる。石橋山合戦の際、相模中央部平氏方首領・大庭影親三千余騎と対峙する一方、伊豆から追尾してきたのは伊東祐親三百騎である。

後に頼朝の体制立て直し後、相模国鎌倉に入ってきた頼朝の変化にあわてた大庭影親は恭順の意をしめして降伏するも、逃亡するところを捕まった伊東祐親は娘婿の三浦義澄のもとに預けられるが、北條政子の懐妊を祝して恩赦が行われた際に、三浦義澄もこの機に伊東祐親の恩赦を申請(「吾妻鏡・寿永元年」)。頼朝も許すが自刃、平清盛公への「忠烈」を成すのである。

これに対し、壇ノ浦の際に九州で菊池隆直がその主と仰ぐ平家から一旦源氏方につくものの、さらに平家方へ戻る、いわゆる経学でいう「返忠(かえりちゅう・元のサヤへ収まる)」とは対照的であり、儒思想哲学に反してしまった菊池氏は鎌倉期を通して幕府に冷遇されるのである。「幕府」とは本来、頼朝が上洛を実現させた際に朝廷から近衛府の左右の長官である武官職の最高位「右近衛大将」に任じられ、近衛府という官制の唐名、一種の儒名を「幕府」と呼ぶが、武家政権を表す「幕府」と意味的に一致するかは不明。
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