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 投稿番号:100894 投稿日:2006年04月27日 09時51分19秒  パスワード
 お名前:暇潰しのギャンブラー
懐良親王使節団400人を明に送る

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

朝日新聞2006年2月1日の記事より。


室町時代に日本人僧達が中国の政争に巻き込まれ
遥か雲南に流され大理にて没したそうです。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月27日 09時58分24秒 ) パスワード

フランス国立高等研究院の東アジア史のシャルロッテ・フォン・ヴェアシュア教授によると


日本では南北朝の頃、南朝の征西大将軍として九州に勢力をもっていた懐良親王が
明朝に400人にのぼる使節団を派遣したそうです。

ところが明の都・南京に到着すると間もなく
1380年に朝廷を揺るがす謀反事件が発覚。

連座し3万人が殺害されたという大事件。

大理の日本人僧はこの政変に巻き込まれ罪に問われ雲南に流刑になったという。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月27日 10時05分31秒 ) パスワード

1380年代から1436年までの間に9人の日本人僧が大理に滞在し
1人は日本に帰国したが残りは大理で永眠したようです。


9人のうち名前が分かっているのは
・*(禄の字が示す扁ではなくシンニョウ・シンニュウ)の光古
・闘南・・・京都妙光寺の僧
・天祥
・機先
・大用・・・播州宝林寺などの僧:この人だけ帰国した。
・演此宗
・曇演
・桂隠
の8人。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月27日 10時11分10秒 ) パスワード

・*(禄の字が示す扁ではなくシンニョウ・シンニュウ)の光古は「詩に長じる」とされ詩集を作っていたとみられる


・天祥は定期市に買い物に出かけ雪山の氷を買って食べたとする詩を詠んだ。


・機先は「長相思」と題した詩を詠み、祖国の恋人や朝廷を懐かしんだ。この詩の他にも中国から日本の恋人に手紙を書いたこともあったようだ。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月27日 10時12分51秒 ) パスワード

大理には日本人僧4人が葬られているとされる塔もあり
「単騎、千里を走る」に出演したが高倉健さんが改修工事に寄付をしているそうです。
[5]総督さんからのコメント(2006年04月27日 23時38分13秒 ) パスワード

南北朝の頃の明の時代に日本と中国との交流あつたんですか、よく知りませんでした文化と結う物わいろんな所から出てくるんですね,勉強になります。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月28日 00時03分47秒 ) パスワード

>南北朝の頃の明の時代に日本と中国との交流あつたんですか

わたくしが知ってた明と日本の関係は
足利義満が「日本国王」の称号を貰ったり
南朝方の武士達も倭寇として明国に引渡し、この武士達は極刑に処せられた ←釜茹刑とか
というあたり。

懐良親王が遣明使を送っていたなんて
戦いをしてても?
と意外でした。


懐良親王が使節団を送ったということは
北朝方から連絡がいって大陸での政変のドサクサに紛れて南朝方の息のかかった者を処分させた
ということもアリかな?

と裏読みをしてしまいます。
[7]総督さんからのコメント(2006年04月28日 20時40分15秒 ) パスワード

すみません懐良親王てどんな氏素性の人ですか。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月28日 21時57分26秒 ) パスワード

懐良親王は後醍醐天皇のお子さまの親王のお1人です。
鎌倉幕府を倒すため後醍醐天皇の南朝方の将軍のお1人として九州に派遣されました。


後醍醐天皇は北条幕府を倒して自分と自分の子が日本を支配すべく立ち上がり捕まり隠岐に流され
忠臣の者に助けられ脱出し足利尊氏や新田義貞を使って鎌倉幕府を倒しました。


その後足利尊氏が謀反を起こし
そして楠木正成が採用され
日本は南朝方と北朝方に別れて100年ぐらい戦いに明け暮れました。


結局南朝方が北に妥協して足利将軍3代目の義満の頃に決着しました。
一休さんが骨を折りました。←後小松天皇のお子様のようですよ。それで義満も頭が上がらなかった


足利義満は中国の明の皇帝から「日本国王」の称号を頂いたけしからん男で(笑)
日本の南朝方武士を倭寇(日本人海賊)として中国に引渡し処刑させたり
あ、一般的には金閣寺を建てた人です。


その後日野富子が夫の足利8代目将軍義政と不仲で義政は銀閣寺を作り浪費して
日本は再び戦乱になり
戦国時代にと繋がりました。


後醍醐天皇はお子様が男女合わせて分かってるだけで50数人いて
男子をそれぞれ将軍としてアチコチに派遣して北朝方(足利方)を征服しようとしました。


九州を征服すべきとして送られたのが懐良親王です。
我が家は中部地方に送られた宗良親王に従って長野まで転戦して負けました。


ですから懐良親王が使節団を大陸に送ったというのは???謎???
昔は戦いながらもそういう余裕があったのかなあ?
それとも遣明使には別な意味があったのかな?
深い深い謎があるようです。
[9]田中愛造さんからのコメント(2006年04月28日 22時56分34秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラー様

>足利義満が「日本国王」の称号を貰ったり、
 此処で面白いのが、将軍義満が1402nen明の建文帝から日本国王に冊封されたが、其れより30nen前に懐良親王が、明は「日本国王懐良」と認めて居た事実があり、南北朝の二人の生き様がよく見えますね。
 天皇の陪臣では国王として認めなかった明、その事で官を辞し出家し、国王として呼んで貰ったのも、皇位の纂奪構想にあり義嗣を親王に仕立てたのも許され無いものがあります。
[10]総督さんからのコメント(2006年04月29日 01時01分22秒 ) パスワード

どうも済みません。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月29日 01時09分16秒 ) パスワード

田中愛造さま


そうしますと、このスレッドがイヨイヨ意味を持ちますね。
ありがとうございました。


懐良親王はかなり政治的に賢い人だったようですね。
でも明国も1368年に元を滅ぼして日も浅く、なかなか南朝方の力にはなれなかった様子。
[12]総督さんからのコメント(2006年04月29日 13時12分07秒 ) パスワード

室町時代とか南北朝とか足利時代とかどんな時代だつたのかなあ、一休さんの話わ良く聴くし楠正成の話もしつているけど、体制がごちゃごちゃしていてはつきりしないですね、いつたい何処お見ればいいんでしょうね。
[13]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月29日 14時14分15秒 ) パスワード

>いつたい何処お見ればいいんでしょうね。


そうですねえ結局は1331年楠木正成が挙兵したあたりから1392年の100年間でしょうね。

平安時代 → 源氏の勝ち → 鎌倉時代 → 北条氏が鎌倉幕府を乗っ取る →後醍醐天皇の政権奪還運動 → 南北朝争乱期 → 室町時代 → 足利将軍義政日野富子夫婦喧嘩 → 動乱 → 戦国時代 → 江戸時代


室町時代というのは
1333年に鎌倉幕府が倒れて1338年に足利尊氏が幕府を開いて
南北朝の動乱から始まって 一旦落ち着いたものの 応仁の乱があって下克上があって戦国時代で終わる(織田信長が1573年に足利義昭を追放した)約240年間を指しますね。


江戸時代が1603年〜1867年として、ほぼ同じ期間ですね。
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月29日 14時40分15秒 ) パスワード

室町時代というのは突出した力のある人が出なかったからドングリの背くらべのように決着が着かなくてズルズル続いたんだと思います。


鍵屋の辻のあだ討ち(伊賀の鍵屋の辻であだ討ち事件があって)
荒木又右衛門が助太刀をしたことで有名な決闘ですけど

この時の決闘は荒木又右衛門が見守る中6時間も続いたそうですよ。
理由は2人が下手糞だったから。
どっちも剣に能力がなくて怖くてへっぴり腰でやってたからですって。
それで6時間、押し合うだけで、双方、傷だらけ血だらけになってたそうです。


ワルの方は鎖帷子を着てたそうですから
ひょっとすると荒木又右衛門が鎖帷子を突いてワルの腕を切って決着を着けたのかも。


室町時代って日本史上そういう時代だったのじゃないかな?と思います。
いいかげんにしいや!
そういう時代だったんじゃないかな?と。
いろいろな意味で。

南北朝の戦争時代でも
楠木正成の息子の(正行じゃないほう)正儀だっけ?南朝方を裏切って北に付いたり
足利尊氏の弟でも兄を裏切って南朝方に付いたり
グッチャグチャ。


中東の争いを見てるといつも南北朝時代や鍵屋の辻のあだ討ち事件を連想します。
(もう終わらせたら?)と。(そうはいかないしね)と。
荒木又右衛門だって手を出して自分が解決するワケにはいかなかったんだし。
そこへいくと織田信長という武将はやっぱり天才だったんだなあと思います。我が家の敵でしたけど。
[15]田中愛造さんからのコメント(2006年04月29日 14時50分53秒 ) パスワード

 日本・明・朝鮮と何れも時代の転換期にあり、共に巧く利用しあった。其れの表れが勘合貿易の先駆けであったと理解致します。
 1369nen明は懐良親王に使いを送り来り禁寇乞う。時に足利義満11才将軍一年生、1374nen幕府、使僧を明に派遺、明これを遇せず、翌年、高麗使、禁寇を乞う、義満これを拘留。明、重ねて禁寇を乞い、通商を勧む。とあり、1383nen親王薨去。1392nen南北朝合一し、その後、明の国書に国王を受け勘合貿易を始め倭寇を鎮圧する。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月29日 15時04分32秒 ) パスワード

>日本・明・朝鮮と何れも時代の転換期にあり、共に巧く利用しあった。
>1369nen明は懐良親王に使いを送り来り禁寇乞う。
>高麗使、禁寇を乞う。


ちょっと時代は下りますが
「朝廷女官チャングムの誓い」の時代にも重なりますね。

あのドラマの中でも倭寇に困ってる半島の様子が描かれてますね。


>1369nen<明>は懐良親王に<使いを送り>来り<禁寇乞う>。

これはスゴイ情報ですね。
ありがとうございました>田中愛造さま

[17]田中愛造さんからのコメント(2006年04月29日 17時12分22秒 ) パスワード

 余りドラマに興味の無い小生ですが、「チャングムの誓い」完結まで見ました。
 邦画にある一件落着型と違い、宮廷の厳しさや権力の闘争を背景に、他国との、特に中国との軋轢に危機とした中の画策、物資の流れにも気を配り、理由の如何を問わない処罰、大変良く出来た物語でした。
 1335nen中先代の乱で大塔宮が刺殺されず、生きてさえ居れば。宗良親王が歌など興じ無ければとは小生だけか、今の時代に立派に残った母方の冷泉家、これこれ、冷泉家に罪は無い。
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月29日 23時23分03秒 ) パスワード

>宗良親王が歌など興じ無ければとは小生だけか今の時代に立派に残った母方の冷泉家、
>これこれ、冷泉家に罪は無い。


宗良親王直筆の歌集が神戸の旧家で最近(数年前)発見されたそうですよ。
日本ですし、皇室の方ですし、当時は立派な雅な親王さまだったのでしょう。
モトモト戦う親王像の方が無理だったのです。
政治感覚も無かったのでしょう。


懐良親王と比べますとエライ違いですね。
[20]雲南大王さんからのコメント(2006年10月13日 20時10分05秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんへ

教えて欲しいのですが、

〔2〕で暇潰しのギャンブラーさんへが書いています、
1380年代から1436年までの間に9人の日本人僧が大理に滞在し
1人は日本に帰国したが残りは大理で永眠したようです。


9人のうち名前が分かっているのは
・*(禄の字が示す扁ではなくシンニョウ・シンニュウ)の光古
・闘南・・・京都妙光寺の僧
・天祥
・機先
・大用・・・播州宝林寺などの僧:この人だけ帰国した。
・演此宗
・曇演
・桂隠
の8人。


の情報は、どんな文献を見れば分かりますか?
人物について知りたいのです。
また、出身寺を見に行きたいのですが、間違いないですか?

教えてください!

[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月16日 12時43分48秒 ) パスワード

「その時歴史が動いた:足利義満」で

1368年
中国ではモンゴル民族の元から漢民族の明に王朝交代があった。
日本では11歳で義満が将軍に。


当時の日本は南北朝の戦いの真っ最中で
南朝方の懐良親王は明に挨拶を送り
明から日本国王と認められる文書を持った使者が捕らえられ義満はビックリ。
義満は室町幕府が正当な政府だと反発。


明から
「将軍は天皇の臣下だから」義満は日本の代表者とは認められなかった。
また明の皇帝への謀叛事件に義満が絡んでいると疑われた。


いろいろあって(略)

明の使者を迎える迎賓館に金閣寺を建てた。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月16日 13時00分42秒 ) パスワード

(1)の謀叛について


1380年に発覚した明の左丞相(大臣)胡惟庸の謀叛で


胡惟庸(? - 1380年)は中国明初期の政治家。
定遠(安徽省)出身。
安徽省の出身だったため、朱元璋(洪武帝)の家臣であった李善長とは顔なじみであり、
その推挙で朱元璋に仕え、紅巾の乱などで朱元璋とともに戦った。


胡惟庸は政治的に優れた人物であり、
明王朝成立後は中書省の役人から左丞相までに出世を重ねた。

しかしそれをいいことに、
朱元璋が旗揚げしたときに活躍した功臣の劉基などの排除や、
自身に反対する一派を徹底して弾圧して専横を極めたため、
やがて朱元璋からその存在を疎まれるようになる。

そして1380年、胡惟庸は日本や北元と内通して謀反を起こそうと企んだ罪により、
洪武帝によって処刑された。

このとき、連座によって胡惟庸派の重臣はすべて殺害されたという。
これが有名な洪武帝の粛清事件の一つである胡惟庸の獄である。


この後、1390年には李善長も胡惟庸の獄との関係を問われて死を命じられた。


しかし近年の研究においては、胡惟庸の謀反を立証する証拠は少ないため、
これは洪武帝によるでっちあげであり、
粛清を行うための口実とされたのではないかとも疑われている。

また、これにより中書省は廃されて、皇帝の独裁権が強化されることとなった。
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月16日 13時13分48秒 ) パスワード

義満が明から認められるために
まずしたのが日本の支配者だと示すために九州の南朝方の制圧をやった。


1381年6月九州の南朝方を制圧。
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月16日 13時19分05秒 ) パスワード

懐良親王は1383年八女市(筑後矢部)で没しているそうです。

ここって平家ゆかりの地よねえ。
やっぱりねえ。
[25]総督さんからのコメント(2007年02月17日 00時17分40秒 ) パスワード

室町時代とか南北朝の話なんかいきいても分からないですね。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月17日 01時05分54秒 ) パスワード

そうですね。

南北朝と将軍家の3者鼎立だったので
南北朝での争いと
足利家を認める認めない
の政治問題があって

さらに中国でも王朝の交代があったり謀叛があったり


この番組を見てたら「足利義満は偉大な政治家だった」というのが分かりました。
それも少年だったんですからね。少年なのに先を見る目があった。
驚くべき人物でした。


でも、中国から永楽通宝だったかな?銅銭を輸入するより、
鎌倉幕府鋳造の貨幣を発行すべきだったと思います。
ま、その力は無かった、ってことなんでしょうね。


当時の日本は地価が5分の1になって、デフレ経済だったんですって。
[27]総督さんからのコメント(2007年02月17日 04時30分49秒 ) パスワード

あの時代に韓国あんなに豊かだつたんですかねえ、韓流テレビ面白いけど本当にあんなに安定していたのかなあ。
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