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 投稿番号:100838 投稿日:2005年11月11日 17時51分04秒  パスワード
 お名前:烏夜口帝
経盛一家

コメントの種類 :その他  パスワード

パソコンを処分して半年。昨日久々に平熱にお邪魔致しました。が、午後から出掛け、1週間程帰宅できません。携帯から書き込んでおりますが、スレが途中までしか読めず、投稿もできない困った我が携帯です。 弓丸様の[経盛親子について]に投稿すべき内容ですが、こちらに書かせて頂きます。 申し訳ございません。

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[1]烏夜口帝さんからのコメント(2005年11月11日 18時01分39秒 ) パスワード

弓丸様の[経盛親子について]のコメント[9]までしか私の携帯には表示されないので、その後の事と内容がかぶっていたら、ごめんなさい。 二条天皇の万葉集についてです。あれは六条家の清輔が献上したものだとか。清輔と経盛は二代后多子に長年仕えた仲で親しく、経盛家歌合の判者は清輔がすることが多かったようです。そこら辺の関係から経盛は二条天皇と親交があったのかもしれません。あと、いとこの師長は二条天皇の琵琶帝師ですから、その関係かもしれませんね。
[2]烏夜口帝さんからのコメント(2005年11月11日 18時20分24秒 ) パスワード

清輔と経盛との贈答歌が『経盛集』にありますが、経盛が息子を愛していたのだなぁ、と思えていいです。清輔との仲も良好だったことがわかります。父に疎まれていた清輔には経盛と経正・広盛の姿は眩しかったでしょうね。ちなみに、経正が舞人で清輔が四位陪従だった時の贈答歌もあります。 ところで、後白河院五十御賀には、経正は参加しています。経正は院の后の職事です。皇太后宮亮ですから。多子の同母姉ですから、親子揃って徳大寺家の后にお仕えしてたんですね。
[3]烏夜口帝さんからのコメント(2005年11月11日 18時44分03秒 ) パスワード

経盛の母は村上源氏で俊寛僧都の縁者であったこと、又、経盛のいとこが反平家派の師長であったことは事実ですが、これが平家傍流たる理由ではないでしょう、きっと。単に経盛が脇腹で、しかも同じ脇腹でも摂関家の人を母に持つ教盛よりは劣り腹だというだけのことではないでしょうか。それで、出世が遅れたのか…?経正や広盛が敦盛くらいの年齢の時、経正は左馬権頭で広盛は六位蔵人。広盛は蔵人でも、五位ではなかったのですから、15、6で五位だった敦盛よりよほど不遇では?しかも、広盛の六位蔵人はもっと年長だったと思われます。
[4]烏夜口帝さんからのコメント(2005年11月11日 19時13分05秒 ) パスワード

昇進のコースに、六位蔵人を経てから従五位下になるというパターンがあります。その時、蔵人は自動的に辞めさせられることになっています。兼職していなければ無官になる。無兼の六位蔵人が五位に昇進した時、まさしく無官大夫になるのです。実は、平家の半数くらいはこの昇進コースをたどっています。家盛も頼盛も教盛も。経盛は違いますが…あと、平家が栄華を極めた頃はチビでも清盛の子なんかはいきなり五位以上になっています。だから、六位蔵人から五位になるコースを辿る平家公達は中堅どころなのでしょう。
[5]弓丸さんからのコメント(2005年11月12日 05時05分37秒 ) パスワード

なるほど。『経盛集』は読んだ事は無いけど、経盛は子煩悩だったのは確かなのですね。経正や広盛は年長で敦盛よりもはるかに年上だったので、時間の経過で考えると、色々な公務を勤めたきたのもうなずけます。
敦盛が公務に参加できなかったのは、まだ幼かったからなんだと思いました。
都落ちした年齢だとまだ14、5歳だし・・・、不運な時期に生まれて来ちゃったんだね・・・。

経盛の出世が遅れたのは、やはり母の身分が原因だった訳ですか。
けど、経盛の人柄の良さが忍ばれる話ですね。
清輔との親交は深さにちょっとびびっときました。
経正の温厚な人柄はこの経盛の人格たるゆえんだったのかもしれませんねぇ。

新たな人物が出てきてた、広盛、清輔、経盛の娘のこと、詳しく教えてください。ちょっとこの3人の話は良く知らないので。

すみません、お忙しいのに、スレまで作ってまで、コメントいただいて。m(__)m
[6]烏夜口帝さんからのコメント(2005年11月12日 10時31分34秒 ) パスワード

携帯からなので、又途中で投稿できなくなったらゴメンナサイ。 六条家の清輔は御子左家の俊成とトップ争いをしていた巨星で、歌人であるばかりでなく、歌学者でした。専門は万葉集。経盛は会う度万葉集の話を聞かされていたでしょうねぇ。それで、万葉集の良本を書写したのかもしれません。経正も万葉集を研究してたようですよ。広盛は経正と共に経盛に連れられ、広田社歌合、住吉社歌合等に参加し、端正で綺麗な歌を詠んでいます。女子のことはあまりよくわかりませんが、あちこち歌合に参加していたらしいです。ちなみに、経正の師は俊成です。
[7]弓丸さんからのコメント(2005年11月12日 11時52分42秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2005年11月12日 11時55分22秒
[8]弓丸さんからのコメント(2005年11月12日 11時55分01秒 ) パスワード

>多子の同母姉ですから
見逃していた所が・・・、経正と多子は姉弟だったんですか?
それとも経盛の事では・・・?

レス番号6
色々な歌会に出席していたんですか。
ほとんど経正と広盛と一緒に。
やはりこの二人は歌人として、経盛にとっては自慢の息子だったですね。
でも、この頃の敦盛はまだ種になっていないか、まだ7,8歳の幼子だったから、絶対無理だったことが分かりました。
清輔はたしか1104生まれ-1177没らしいから、歌会に出席するなどとても無理な年齢ですよね。(ちょっと納得、というか無理に解釈しようとしているかも?)

考えてみると、やっぱり敦盛は(経俊はわかないけど)不運だなぁ・・・もう少し早く生まれていたら・・・歌会などに参加出来たかもしれないのに・・・あくまでも可能性の話ですが。

顕輔と清輔親子。
調べてみましたが、かなり険悪なムードだったんですね。
清輔の意見なんてこれっぽちも聞いてくれないなんて。
清輔は、父の事は嫌いじゃなかったんですね。
一方的に父の顕輔が息子が疎ましく思っていたみたい。
どうして清輔の事を嫌うのでしょう?
[9]弓丸さんからのコメント(2005年11月12日 12時02分12秒 ) パスワード

もう一つ。

経盛に子供達は早くして他界してしまったんですよね?
ということは、広盛もその一人だったんでしょか?
という事は、何かの伝染病が原因で、早死にしたとか?それとも持病があったのでしょか?暗殺されたとか?それとも事故で?
[10]弓丸さんからのコメント(2005年11月12日 12時04分21秒 ) パスワード

また誤字が・・「経盛に」じゃなくて「経盛の」です。「の」(しつこい)
[11]烏夜啼さんからのコメント(2005年11月18日 12時51分17秒 ) パスワード

弓丸さま

先日は、メールで失礼致しました。

多子の同母姉で、後白河院中宮、後に皇太后宮は忻子です。
徳大寺実定の同母姉でもありますね。
経正と親交のあった実守の姉でもあります。
多子は頼長と幸子(多子のおば)夫妻の養女で、いわゆる二代の后です。
二条天皇の后にもなっているわけですね。
経盛は清輔とともに長年この多子に仕えたわけです。
一方、多子の姉の忻子には経正が仕えました。
経正の皇太后宮職は忻子の職事ということです。
ついでに、この徳大寺姉妹の母は御子左家の俊忠の娘(つまり俊成の姉)豪子です。


広盛は承安2年12月の広田社歌合(判者俊成)に経正とともに出詠しました。
しかし、翌月の閏12月の東山歌合(判者清輔)には、経正は出席していますが、
ちょっと広盛については不明です。
翌年の夏、経正は歌合を主催しています。
広盛死去は承安2年末以降、安元元年頃までの期間ではないかと思います。
少なくとも、月詣和歌集が編纂されるより、何年も前のことだと思いますよ。
あれは、故人には冷たいですからね。
経正が13首入集なのに対し、広盛が2首というのは・・・・・・
やっぱり、亡くなって久しいからでしょう。
広盛の極官は刑部大輔ですが、嘉応2年の住吉社歌合の時、既に刑部大輔ですから、
やっぱり承安年間頃には亡くなったんじゃないかと・・・
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