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 投稿番号:100823 投稿日:2005年10月05日 17時44分14秒  パスワード
 お名前:弓丸
敦盛はなぜ無官だったのか?

コメントの種類 :質問  パスワード

 平家一門の中で敦盛は生涯無官だったのはなぜなのか。
同年代の業盛や知章などはきちんと官位を与えられていたのに
どうして彼だけ無官だったのか疑問を抱きました。
母の身分が低かったのか……それともかにか訳があったのでしょ
うか?
無能だったからでしょうか……。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月06日 00時43分30秒 ) パスワード

無断借用ごめんなさい。
もし御不都合ございましたら削除させて頂きます。


http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin19.htm
敦盛は後白河法皇の子だったから
将来天皇になる方かも知れないから無官においたとあります。


更に熊谷がためらった理由として
敦盛の生母が昔熊谷直実のヤバイところを助けたから
と書かれています。
[2]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月06日 00時49分43秒 ) パスワード

ワタクシ個人は
敦盛って笛さえ吹いてれば幸せタイプだったのでは?
と思います。
悪く表現すれば「ニート」みたいな男の子。


だから官位なんて欲しくなかった。
だから呼び止められてわざわざ馬を返した。
だから名も名乗らなかった。


すっごくニヒルでしょ。
世の中を斜に構えているというか。


敦盛にとっては戦いなんて自分の性には合わない。
だから死んでしまいたいと思っていたのかしら?


苦労してまで生きていたいというタイプじゃなかったかもですね。


本当に後白河法皇のお胤だったのかしら?
平家のことをお願いに行って断られて絶望してたのかしら?

ロマンは広がりますね。
[3]弓丸さんからのコメント(2005年10月06日 12時15分28秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、始めまして。
コメントありがとうございます。

>後白河法皇のお胤
それは、私も聞いた事があります。
父の経盛が敦盛に出生を明かした「「一谷嫩軍記」で何処かのHPで
知りました。
私としては「天皇の子だったからってわざと無官にしたなんてうそ臭い」と
思っていました。
>敦盛の生母が昔熊谷直実のヤバイところを助けたから
これも、敦盛と自分の息子を摩り替える為の、作り話かと思っていました。

もっと現実的な…他に事情があったのではないかと、思っていたのですが
…やっぱり資料が少ないから難しいですね。

ちなみに個人的な意見なんですが。
なぜ、敦盛は逃げ切れたのに、一騎打ちに臨んだのか。
「敵に後ろを見せるな・・云々」という直実の言葉に、
「敵に背を向けて、逃げるなんてはしたない真似なんて出来ない」と思っ
取って返して、負け戦と承知で一騎打ちに臨んだのではないかと…。
そして組み敷かれた挙句、いきなり「命助けてやる」と言われて今更後ろ
みせて逃げるのはみっともないから、「ゴチャゴチャ言わずにさったと首
とらんかい!」と半分切れていたのではないかと。
潔いというかあきらめの早いというか・・。
ちょっと美化しすぎた考え方ですねぇ・・・。
[4]弓丸さんからのコメント(2005年10月06日 12時56分38秒 ) パスワード

追加。
>敦盛って笛さえ吹いてれば幸せタイプだったのでは?
>だから官位なんて欲しくなかった。
>だから呼び止められてわざわざ馬を返した。
>だから名も名乗らなかった。

そういう敦盛だったら、なんだか親近感が沸いてしまいます。
私は実は絵描きなんで、「絵を描く以外何もいらない」なんて思って
る馬鹿なので……。
なんてね(苦笑
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月06日 21時32分05秒 ) パスワード

弓丸さん

おお、そうでしたか。

でしたら敦盛と精神世界で共通項を沢山お持ちでしょうね。
だからこそ敦盛という人物に惹かれるのかもですね。


そういうの、敦盛の心境をいろいろ解析なさってみて下さい。
そしてそれは弓丸さんの心の解析でもありますから良い絵が描ける原動力になるかも。
また門外漢の素人にも参考になります。

またいろいろ書き込んでくださいね。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月07日 00時28分14秒 ) パスワード

さっきウオーキングに出掛けて
(どうして敦盛は「無官大夫」と呼ばれたのか?)
と考えてみました。

やっぱり「元祖ニート」だったのかな?と。笑


だいたいが和歌の上手の父親の経盛
兄の経正でも琵琶の名手ということで
芸術系の家系だったんでしょうかねえ?

(次兄の経俊については詳しくは伝わってないようですが)


敦盛というのは今でいうヒッキーみたいだったんでしょうかねえ?
それで父親が(この子には官職などとても無理だ)と思って無官だった?

ところが世間は「将来天皇になるわけじゃないのに無官かよ」と噂して
それが「敦盛は後白河法皇のお胤」なんて話に変わってしまったんでしょうかねえ?

当時の平家は飛ぶ鳥落す勢いでしたから
「そうだそうだ。敦盛どのは法皇さまの落し胤」なんて冗談が言われるようになって
敦盛は後白河天皇のお胤なんて話が定着したのかしら?
[8]弓丸さんからのコメント(2005年10月07日 11時12分30秒 ) パスワード

誤字多し・・すみません・・・
[9]弓丸さんからのコメント(2005年10月07日 11時33分37秒 ) パスワード

あ……なんで敦盛は無官だったのか、という質問のお題なのに、自分で検証しいていた……(それって検証といえるのか?)

暇潰しのギャンブラーさんの「ヒッキー説」に対して批判的な発言してしまったのですが……なんだか自分も敦盛って半分引き篭りがちだったんじゃないかな…と思ってしまいました。「自己嫌悪」が原因で。

お題と全然違う話題になってしまうのですが・・。
熊谷直実のせがれと出会っていたら、敦盛は少しは変われたかな?
出会いは人を変えるって言うし・・う〜ん・・じゃあ、出会いのきっかけは?とつっこんでしまうなぁ・・。

[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月07日 12時24分57秒 ) パスワード

弓丸さん


面白いですよ〜
こういう感じで書いていったら良いのですよ。
人の考えは考え、御自分の考えはこう、そういうのが論文になっていくのですから。


経盛の母は源姓なんですよね。
貴族系の源姓でしょうが「藤原姓」の娘じゃなかった。
だから平家一門の中では小さくなっていたのでしょうかねえ?

頼盛の母は藤原氏の娘で、出世した忠盛に相応しい姫だった。

だけど経盛の母は貴族系の源姓。
こういうのも経盛父子に影響してたのでしょうかねえ?
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月07日 12時38分25秒 ) パスワード

>熊谷直実のせがれと出会っていたら、敦盛は少しは変われたかな?


どうでしょうねえ?
敦盛には直家は野蛮な東国の若者だったんじゃないでしょうかねえ?
接点は無かったと思いますね。
出会ってたら敦盛は(コワイ)と思ったんじゃないかしら?


もし直家が歌がうまかったとか楽器が出来たというなら
出会ってたかもですね。
父親が京に大番役で来てた時にもしかしたら出会えたかも。
敦盛が会いに行ったかも。


それか一の谷で敦盛の吹く笛に誘われて直家が覗きに行った、とか。


それで父直実が敦盛を見て、逃がしてやろうと一瞬心に隙が出来た、とかね。


こうやって空想を膨らませていったら小説になります。
弓丸さんは絵が描けるということで美しいシーンを描写できると思いますよ。


>じゃあ、出会いのきっかけは?とつっこんでしまうなぁ・・。

どんどん突っ込んで行ってください。
[12]弓丸さんからのコメント(2005年10月07日 12時59分29秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん

そうですよね…文才ないものですがら…ちょっと自信がわきました。


>経盛の母は源姓なんですよね。
>貴族系の源姓でしょうが「藤原姓」の娘じゃなかった。
>だから平家一門の中では小さくなっていたのでしょうかねえ?
 なるほど〜やっぱり家系に影響があったのかもしれませんね。
でも、経盛自身は結構謙虚な人柄だったもかも?
上に昇ろうという野心はまったく無く、自分の任務に一生懸命な人だったのかもしれません。

 それに長男の経正は温厚な人柄だったっていうし、父の忠盛暗殺事件だったけ?、その中に熊谷直実の父も参加していた事から熊谷一族皆殺しにされる所、まだ小さかった直実の助命を訴えたのが経盛だったらしい。
そんなお父上だったので、敦盛も温厚な人柄なのかもしれませんよ。
身軽な身分だったので、お忍びで町出ててたり、多少の人との付き合いもあったかもしれないというのは妄想でしょうか?
 
 そういえば敦盛はある女房との噂もあったって何処かの掲示板で書いてあったんですが…もしかしたら経盛一家の昇進を彼なりに図っていたりしたかも?
以外に強かな奴だな〜…と感心していたんですが…はは…(苦笑)
[13]弓丸さんからのコメント(2005年10月07日 13時12分08秒 ) パスワード

>敦盛には直家は野蛮な東国の若者だったんじゃないでしょうかねえ?
>接点は無かったと思いますね。
>出会ってたら敦盛は(コワイ)と思ったんじゃないかしら?

最初は引いてしまったかもしれないけど、意外と接点が無いほど、あ互い惹かれるものがあったかもしれませんよ(笑)
野生児・直家に振り回されながら、いつの間にか逞しくなってく…みたいな(笑)
お父さんの直実って意外と情の脆い所があるから、親父譲りの性格かもしれないし…(短気なところも似てるかも?)

>弓丸さんは絵が描けるということで美しいシーンを描写できると思いますよ。
 ありがとうございます!
色々な意見を聞きながら、参考していきますm(__)m
ホントに助かってますよー。
歴史に関して、語れる人がいないものなので(苦笑)

[14]弓丸さんからのコメント(2005年10月07日 13時15分02秒 ) パスワード

訂正:あ互い惹かれるもの→お互い惹かれるもの
でした。誤字が多い(汗
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月08日 02時32分46秒 ) パスワード

弓丸さん


>そういえば敦盛はある女房との噂もあったって

私もこれどこかで読みましたよ。
ま、肉体的には正常な男子だったらしい?笑



熊谷直実ですが
2歳で父に死なれ
大番役で京都にいてある問題に巻き込まれ
平知盛に仕えて
その間に叔父さんに所領を奪われ ← 後に頼朝が叔父の味方をして直実は出奔出家
石橋山の戦いでは平家方につき
後に頼朝に従った
とありますから


かなり複雑な心境だったようですね。


だとすると直実は実は敦盛を知ってた?
直家と敦盛は同じ1169年生まれですから
1180年の石橋山の戦いまでは直実は平家方ですから
直実が敦盛に心が動いたというのはそういう昔のよしみもあったかもですね。


直家は多分坂東で育ってたと思うから敦盛とは会ってないけど


ひょっとすると敦盛が振り返ったのは知った声だったからかもですね。


平家物語はストーリーですから面白おかしく書かれているけど
実はお互い知らぬ仲というワケじゃなかった?
とすると直家と敦盛が実は竹馬の友だったというストーリーも成立しますね。


直実は大番役で京都に行ってて、叔父さんに不在中、所領をごまかされるということがあり
後に頼朝が叔父さんの味方をする態度をしたから腹を立て逐電してしまった。
その前にも頼朝に腹を立てて所領を減らされるということもあり

「こんなんだったら頼朝の味方なんかしなきゃ良かった」と思ったかも。
結局は出家してしまいましたから所領がなんぼのもんじゃい!と。


平家方で言うと伊東祐親みたいな激しい気性の人だったんでしょうね。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月08日 02時46分25秒 ) パスワード

熊谷直実はある問題で助けられてた。
この助けてくれた女性が敦盛の実父・後白河法皇の愛人の何とかの局で敦盛の実母
それで敦盛を助けたかった
そういう話があるそうですね。


熊谷直実は平家にも恩があったけど所領が坂東だったから頼朝に仕えないわけにいかなかった。


だけど頼朝に仕えて受けた仕打ちを思い返すと
「平家の皆さんの方がましだった!」
そういう思いがあったかもですね。


「所領地がなんぼのもんじゃい!」


だけど損得よりも敦盛がらみの方が心を動かす悲劇的なストーリーの文学になりますよね。
損得話で出家したとするとあんまり人の心を動かさない。
だから敦盛の話になったんでしょうね。

でも実は敦盛とそれなりの関係があったらしい。
かな?
[17]弓丸さんからのコメント(2005年10月08日 11時03分00秒 ) パスワード

敦盛が後白河法皇の子説についてなんですが。
前にも述べた通り、余りにも美化しすぎた話だったので、私個人としては受け付けなかったんです。
 敦盛が皇族の血を引いていた??そんな馬鹿な話があるか!と。(笑)
だっておかしいではありませんか。
いくら敦盛に関する資料が無さ過ぎだからって、天皇家の…しかも雲の上の存在の列に並ぶなんて、都合が良すぎると思っていました。
というか、自分の中のイメージの敦盛に反するみたいなことを考えていたのかもしれませんね…気が付かないうちに(苦笑)
でも……う〜ん…いくら後白河法皇の子だからって、誇れる事でもなかったかもしれませんね。
敦盛自身にしてみれば「後白河法皇の落胤?いきなり言われて、はい、わかりました。なんて言えるか!」…内心、良い迷惑だったかも。
事実だったら…の話ですけどね。


直家と敦盛について

京と武蔵との距離からすると、カナリの道のりだったから、偶然武蔵の国で会ったっていう設定は無理があるでしょうか?
やっぱり無理かな…直実が平家側についていた頃に1度か2度くらい一緒に京へ上って、暇潰しのギャンブラーさんの言っていた、敦盛の笛の音がきっかけで顔なじみになった・・っていうのも面白い話なんですが、ココからが分からないんですけど…大番役についた直実は武蔵から京に通勤していたってことになるんでしょうか?一族は武蔵に留まって、直実だけ出張?みたいな形で京に留まっていたの?それとも、一族共に京で暮らしていたのかしら?


熊谷直実について

>2歳で父に死なれ
>大番役で京都にいてある問題に巻き込まれ
>平知盛に仕えて
その間に叔父さんに所領を奪われ ← 後に頼朝が叔父の味方をして直実は出奔出家
>石橋山の戦いでは平家方につき
>後に頼朝に従った

直実の人生はまさに逆境に中で戦いながら生きてきたんだと、改めて思いました。
その中で一生懸命に生きて、戦功を立てまいと数々の人を殺めてきた直実にとっては武士としての生き方で自分を一族を守るためにがむしゃらに走ってきたんでしょうか?畠山重忠も同じ事もいえるんでしょうが・・。
でも、敦盛一人の出会いのために、直実の人生をまた一転させたって言う話は心惹かれるものがあったのかもしれませんね。

>損得話で出家したとするとあんまり人の心を動かさない。
なんていうか・・・ちょっと爆笑してしまいました(爆)
まあ、そいうこともあったかもしれないけど、やっぱり敦盛の事も含めて出家の道を選んだかもしれませんね。
もしかしたら、密かに敦盛を生かしていたから、敦盛の事じゃなくて損得話のみ出家したっていうのも、面白い話かもしれません。(個人的な意見ね)
…って話になったらどうやって敦盛を助ける事が出来たんだ?ヤッパリ直家と引換えに…いや、そうなったらもうすでに出家しているはずだし…。
う〜ん…。何かいい方法は無いかな?(は?)




[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月08日 16時54分32秒 ) パスワード

大番役ですが
直実は叔父さんの久下氏の代わりに京都に行ってたのですって。
久下は母方の叔父だけど
直実の父の代に熊谷姓を名乗ったようなので
元々は一族なのかしら?


で、この大番役というのはお金がかかるばっかりで
地方の弱小武士には負担で
大変だったそうです。

普通は妻子を置いて赴任するので直家は京都には行ってないと思います。
でも金持ちの武士の家庭だったら可能でしょう。


以上の印象を受けています。


弓丸さんの「直家と敦盛は友達だった」説もなかなか面白いですよ。
紙芝居のように大まかなストーリーを立てて
それから細部を埋めていったら良いと思います。


有名な作家でも最初の頃は大家の作家の話を20回とか書き写して勉強するそうです。
弓丸さんも永井路子あたりの作品を真似て書いて何度も推敲校正したら良いですよ。
敦盛と熊谷父子の関係で非常に面白いお話が書けそうじゃないですか。
[19]弓丸さんからのコメント(2005年10月08日 18時37分54秒 ) パスワード

>直実は叔父さんの久下氏の代わりに京都に行ってたのですって
>久下は母方の叔父だけど…
久下氏の代わりということは、家族は久下氏の屋敷に預けられたのかな?
熊谷一家の屋敷はちゃんとあったのか?
あ〜・・ちょっと待って・・・わからなくなってしもうた(混乱)


>普通は妻子を置いて赴任するので直家は京都には行ってないと思います。
>でも金持ちの武士の家庭だったら可能でしょう。
という事は…京で出会う可能性は低いという訳ですね。
久下氏の代役で行ったという事は…お金は久下氏が出してくれたのでしょうか?出してくれてもべつにおかしくないと思うのですが…。
だからといって、家族を連れて行くのは難しいかな・・・。
確か大番役の勤めの最中に平知盛の気に入られて仕えてたっていうから、その後ちょっと息子も一緒に連れて行った可能性もあるかもしれませんね。
短期間だけど、一族共に京で暮らしたのかも?

>直家と敦盛は友達だった」説もなかなか面白いですよ
最近あるサイトの小説を読んで「敦盛と直家の出会い」をテーマにした話があって、それに惹かれてちょっと敦盛と直家の事をもっと研究したいなぁ・・と思ったわけです。
自分の中の二人(直家と敦盛)のイメージが中々整理しきれなくて、何処かの歴史掲示板検索したらココにたどり着いたんで…。
ちょっと試しに質問してみたんですが、スレ作ってみてよかったです。
色々分かった事が沢山あって、勉強になります。


>紙芝居のように大まかなストーリーを立てて
>それから細部を埋めていったら良いと思います
なるほど…自分でストーリー書くなんて考えても見ませんでした。(笑)
なんだか、書いてみたくなりましたね。
絵ばかり描かないで、ストーリーとして纏めるのも、いいかな…?

>永井路子

この人の本は詠んだことは無いのですが、ドラマで知りました。
その大河ドラマ「草燃える」自体見たことなのですけど。
でも、一度読んでみます。

[20]弓丸さんからのコメント(2005年10月08日 18時40分19秒 ) パスワード

訂正;見たことなのですけど→見たことないのですけど
[21]弓丸さんからのコメント(2005年10月08日 22時42分49秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさんへ


敦盛がなぜ無官であったか…という話題に戻りますが、暇潰しのギャンブラーさんの個人的な意見に段々興味深くなってきました。
最初はなんだか受け付けなかったんですが…。

笛だけあれば幸せで他に感心を示さない、孤独を愛する美少年……、誰とも話さず部屋の奥に引き篭もり、自分の世界だけに生き続けた哀れな公達。
親兄弟も敦盛の自我に目覚めない心の病にどうする事も出来ず、遅れて元服したものの、官職に就く事が難しかったので官位を与えられなかった。

…というのはいかがでしょうか?
あ…でも、笛に魅入られたきっかけはなんだったのかな??
どう思います?
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月09日 01時36分30秒 ) パスワード

>…というのはいかがでしょうか?
>あ…でも、笛に魅入られたきっかけはなんだったのかな??
>どう思います?


例えば生母から頂いた笛とか(自分の出生の秘密を知りそれでヒッキーになったとか?)
後白河法皇から頂いた笛とか
こんな所が一般的でしょう。

そうですね後白河法皇は歌がお好きだから
何かの折に後白河法皇からお誉め頂いて笛を頂いた。
それで御落胤説が出たというのも良いですね。
[23]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月09日 01時53分46秒 ) パスワード

播磨屋さん
またもや無断紹介ごめんなさい。ぺこり

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kuma_k.html


熊谷家というのをちょっと混乱してました。
ごめんなさい。


宣化天皇の子孫に私市姓を名乗ったり久下姓を名乗るものが出
さらに久下から熊谷姓を名乗るものが出た。

そして熊谷姓を名乗る子孫熊谷直孝には娘が2人いただけで
それぞれの娘に養子を取らせ熊谷姓と久下姓を継がせた。


桓武平氏の子孫から養子に来て熊谷姓を名乗ったのが直定でその子が直実
一族から?久下から?養子に来たのが直光。


直実が2歳の時に父と兄が死んだ?
それで後見人になったのが直光。


ここから直実の恨みツラミが始まるわけです。
直定が死んだので直光叔父は当然直定の所領を欲しい。
よくある話です。

現代だってよくある話です。
財産家ほど遺産相続で喧嘩がスゴイことになるんじゃないかしら。
その上、直実が2歳で父親が死んだのですから。
そりゃ直光叔父は横取りしようとするわよ。

(この直実の話って平将門の身の上に似てますね)


やっぱり直実出家の理由は所領争いだったかも。
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月09日 02時17分17秒 ) パスワード

永井路子


彼女は中世では並ぶ者がいない大作家なので是非たくさんお読みになってください。



大番役のことですが
京都に行くのにだいたい本人と家来を連れて行くのが普通だったようで
家族は地元で家を守るわけです。

ところが伊東祐親の娘は父親が不在中になんと頼朝と恋仲になってしまい
祐親が京都から戻って来たらワケ分からない赤ん坊がいて
事情を知ってビックリ仰天。

それで伊東のオヤジさんは赤ん坊を殺させ娘は遠い親戚に嫁にやってしまう。


その後頼朝がちょっかいを出したのが北条政子。本当は彼女だったかもですが。
ここから時代が大きく動いたわけです。


当時の地方豪族にとって出費を強いられる大番役の仕事は大変だったし
国許でもとんでもないことが起きる可能性があり
アタマの痛いお役目だったようですよ。


平将門は大番役の時に藤原純友と出会い
2人はそれぞれ朝廷に対し反乱を起こす約束をした
なんて小説がありました。


熊谷直実のように大番役の時に所領を奪われていたなんてアチコチで起きてたかも。
久下の叔父さんが直実に行かせたのもそういう魂胆があったから?
小説になりますね。
[25]弓丸さんからのコメント(2005年10月09日 11時14分02秒 ) パスワード

直実の母が父と一緒になる前から、久下氏と熊谷氏は親戚にあたる関係だったんですね。まったくの他人だったと思っていました。
ということは、所領争いはその直実の父親の代から密かに始まっていたんでしょうか?

大番役もあまり良い役職なかったようですねぇ…。

直実も平知盛に仕えた時期、色々贈り物やら知盛から頂いていた、と聞いた事があったんですが、それが要因で久下直光が怒って熊谷の所領を奪い取った…とありますが、それは所領を奪う言い訳にしたかったのでしょうか?
有頂天になっていた直実に対しての軽率さゆえ…みたいな?
…一晩中考えてみたんですが、知盛に仕えた後に京に屋敷を知盛から頂いて、一族も京に移り住んだっていうの、おかしくないと思ったみたんです。
その間、直家も京で過ごすようになって、滞在中に敦盛との出会いのきっかけとなったんじゃないか…?と。

直実の出家後の逸話をちょっと調べてみたんです。
あるとき上人が九条兼実のもとへ出かけようとすると、直実がどうしてもお供すると言い出した。兼実は藤原氏の出で摂政、関白職も務め、動乱期を詳述した貴重な史料である日記『玉葉』を残した人物である。深く法然上人に帰依し、法然の主著『選択集』は兼実の頼みで書かれた。そういう貴人を訪問するのに直実では、と上人は止めようとなさったが、相手はなにしろ変わり者だからと、ついてくるがままにした。
お邸までお供したものの、直実は中には入れず、縁に手をかけ、寄りかかって待っていると、中での会談の声がかすかにもれ聞こえた。すると直実は大きな声で、「穢土(この世)ほど残念なところはないな。極楽ならこんな差別はないのに。お話の声が聞こえないわ」と言った。それを聞いた兼実が「あれは何者ですか」と問うと、上人は「熊谷の入道といって、武蔵国から上って来た変わり者です。強引に供をしてきたのです」とおっしゃる。兼実はやさしく「呼びなさい」と命じ、かくて直実は昇殿を許された。念仏は極楽往生という遠い将来の幸福を得るためのものだが、いまこの現世で昇殿という幸福を得たのも念仏のおかげであると、都中で評判になったという。


直実はその名のとおり、「愚」がつくほどの真直の人であった。「不背西方」、弥陀の浄土のある西方に対して背を向けてはいけないと言われれば、行住坐臥、決して西を後ろにせず、京から関東へ帰るときも、鞍を逆に置き、馬に後ろ向きにまたがって行ったという。

あるサイトの一部の文章なんですが、なんていうか、微笑ましい場面だと思ったので。当に直実の人柄が見える逸話だなあ…おもいました。






[27]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月09日 12時13分37秒 ) パスワード

わたくし想像しまするに

久下の叔父さんにすれば熊谷の土地だって元は久下の物だった。
熊谷は久下から分家したのだから。

そういう腹があったって想像します。


それで久下の叔父さんは熊谷直定が死んでほくそえんだでしょう。
直実はまだ2歳ですから。当時は数えですからまだ1歳ですね。


こういう問題って難しいですね。
遺産相続がすんなり執行されたって話はめったに聞きません。
財産があればあるだけ喧嘩がスゴイ。
財産のたいしたことのない家でも「泣く泣くも 良い方をとる 形見分け」なんて言われますし
最近の川柳には「遺産分け 知らない人が いる不思議」なんてのもありました。
弓丸さんも将来こういう経験をなさるかも。


我が家も金銭的な物は50−50で夫と独身の義兄が分けましたが
分けられないものがありますものね。
そういう時には欲の深い<他人>であるワタクシが貰っちゃって
義兄はやっぱり怒ってるようですよ。
ふふふ
一応義兄はいらないなんて言ってたんですけどねヤッパリ私達夫婦の方が得してるんです。

義母からは私が売って現金に換えたら半分は義兄に渡すように言われてますけどね
ふふふ
あはは
こういうのってそうなると思います?


だからワタクシとしましては久下の叔父さんの気持ちって凄く分かります。

昔はね嫡男が死ぬと家督相続をした者が嫡男の物を全て相続するって慣習があったんですよ。
それには未亡人になった夫人も含むんですよ。
だから熊谷直定の土地をかすめたなんて久下の叔父さんには当たり前だったと思います。


我が家の昔の先祖の話にもそういう話がちゃんと書き残っているんですよ。

嫡男となって家督相続をするということはその家の全てに責任を負うという事だったんですから。


だけどやられる方はたまらないわよね。
直実は怒ったと思いますね。


今時でも外国に行った人には遺産を分けないなんて話を聞きます。
でも親子関係は国籍を放棄したって血の関係は切れないから遺産相続の権利はあるんですけど
日本人って「あいつは外国に行ったからやらない」って考える人がいるようですよ。

久下の叔父さんも直実を遠くにやって、その間に横取りした、
ま、よくある日本人かな、と思いました。
[28]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月09日 13時27分48秒 ) パスワード

>直実も平知盛に仕えた時期、色々贈り物やら知盛から頂いていた、
>と聞いた事があったんですが、
>それが要因で久下直光が怒って熊谷の所領を奪い取った…とありますが、
>それは所領を奪う言い訳にしたかったのでしょうか?


これは、だから頼朝が久下の叔父さんの味方のような態度だった、という話に通じますね。

もともと久下の叔父さんは直実の土地を欲しがった。
さらに直実が訴訟を起こして両者の言い分を言わせたら久下の叔父さんは
直実は平家から親しくされていい気になっていた
なんて証言したら直実には不利ですね。


なんとでも言えるし
平家はああいう負け方をしてるし頼朝には平家は父の仇だし


久下の叔父さんはしっかり頼朝を味方に取り込んでたようですね。
[29]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月09日 13時35分13秒 ) パスワード

九条兼実
なかなか人格者ではありませんか。
上人の方がいやらしい人間ですね。
でも上人にすれば兼実に直実が失礼をしては申し訳ないという腹があったのでしょうね。


直実にすれば幼い時に父や兄と死に別れ
面倒見てくれた叔父さんは財産を横取りするし
臍曲がりにならざるを得なかったのでしょうねえ。

非常に気持ちが分かりますね。

なんとなく敦盛を助けたかった直実の心境って分かりますね。


直家と敦盛が友達だったらもっと助けたかったでしょうね。
そして助けられないと分かったら自分が首を落としてやろうと思ったのかも。


でもやっぱり首を落したらトラウマになりますよね。
そうすれば出家するのも当然。


直家・敦盛親友説
なかなか説得力が出て来ましたね。
[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月09日 13時53分43秒 ) パスワード

>直実の出家は一の谷の合戦の8年後だった

ということはやっぱり所領争いで久下の叔父さんに負けたからですね。


そうすると「なんだ、やっぱり平家の人達の方が良い人だった」そう思ったのかしら?


直実にすれば久下の叔父さんが自分の大番役を俺に押し付けて
俺が知盛どのと親しくなったことを後で文句言われたってなあ
と思ったのかもですね。


でも久下の叔父さんは1180年の頼朝挙兵から源氏方についていて
梶原景時とも親しくなっていて
その上、1192年の訴訟合戦で自分は当然負けて
こんなの自分が嵌められたってことじゃないか。


多分直家はとっくに熊谷庄は諦めていたのでしょうね。
オヤジ、争ったって勝ち目はないじゃないか
そう見てたのかもですね。
直家はオヤジさんを冷めた目で見てたのかも。

自分は手柄を立てて恩賞を頂く方向で頑張るぞ〜
だったのかも。


やっぱり直実にとって鎌倉というのは腹の立つ存在だったのでしょうね。
そうすると敦盛を討ったのが悔やまれたでしょうね。

「こんなことの為にオレは平家を討って鎌倉に仕えたのか?損をした〜!クソー!」
かな?


敦盛の供養うんぬんは鎌倉への嫌がらせだったかもですね。

直実のクヤシサ
伝わって来ますねえ。


久下にしたって結局は埼玉から引っ越しているでしょ?
そして久下で名を残した子孫っていないし
直実は草葉の蔭で(ザマーミロ!)と思ってるかも。
[31]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月09日 14時00分52秒 ) パスワード

敦盛と直実の話は実は単純な出家話じゃなかったんですねえ。


人の生き方
よく出てますよね。

直実は頼朝よりは長生きした。直実の勝利
久下も伝来の土地を去った。ザマーミロ
直家の子孫は繁栄して名字を広めた。圧倒的に 熊谷姓>久下姓 ですものね
900年後の今でも「欲の深い久下の叔父さん」に復讐してる。訴訟では負けたけど


ということは直家の目から見た人間像のさまざまが小説に出来ますね。
[32]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月09日 14時14分32秒 ) パスワード

実は知り合いに久下姓の人がいましてね
なんとなく好きになれないのですよ。
どうしてかな?
そう思ってた謎が解けた気がします。

やっぱり血のDNAの中に熊谷直実と久下の叔父さんの件が記憶として刷り込まれているのでしょう。


日本人って熊谷直実をなんとなく好きでしょ。
実像は頑固で天邪鬼な男だけど
そういう姿より出家した直実が好き。

土地を取り戻したいから一生懸命に頼朝に仕えて頑張ったのに結局は受け入れられなかった。
絶望する直実は敦盛の供養を思い立つ。

「おい、本当に出家するんかよ?」
本当に出家してしまった直実に世間は非常に同情した。

そういう事なのかしら?


久下の叔父さんは1192年の訴訟で直実には勝ったけど大局的には負けた。
現代の日本人が名前を知ってるのは直実だし、
直実は文学にも美しく語られている。

久下の叔父さんは悔しがっているでしょうね。
「え?何だって?俺って日本一の欲張り叔父さんなの?」


いやあ〜
是非とも弓丸さんには小説を書いて欲しいですね。
これまでに語られてきた直実像や敦盛像じゃなくて。
そうすると直家が語るということで新鮮なお話になりそうですよ。
[33]弓丸さんからのコメント(2005年10月09日 21時13分28秒 ) パスワード


遺産相続問題に巻き込まれた事無いから分からないけど・・・金の事となると人って豹変するから怖いですよね…仲良かった兄弟が遺産相続で揉めて溝を深めてしまうみたいな事って、よくありますし……。
口の上手い人にとっては、カナリ有利になるとは思いますが。
久下直光は口の上手い人物だったのかも。

直実は刀を握れば負けるものは無かったかもしれない。
でも、口下手で短気だったが為にが久下直光に有利にしたのでしょうね。
短気は損気って言いますし。
所領問題に関しては、上手く口裏を合わせれば口の上手い人が勝るに決まっています。梶原景時も久下直光の味方になっていた事も裁判の勝利に繋げたんでしょうし…。
現に私もその犠牲者になった事がありますから…違う理由でね。
なんていうか…直実にとっては屈辱的だった訳でしょうけど、直家にとっては執着する程の事じゃない。熊谷郷はまたの機会で奪い取れば良いと考えていたんでしょうね…。裁判が始まる前日に直家は父を宥めようとしたけど、結局は喧嘩になってしまったんでしょうか。
確かに「もう知らんわ。勝手にしろい!」と呆れていたのかもですね。
そして当日。
久下の叔父さんには有力な味方と口の上手さを武器に、裁判は久下の叔父さんに軍配が上がったのでした。
そして、不公平な判決に直実は癇癪を起こし、出奔。
直家はどう思ったんでしょうか・・・。
「ああ…父上の病気が始まった…」と内心ハラハラしてしまったのかも?

想像を掻き立てられますね。





[34]弓丸さんからのコメント(2005年10月09日 21時39分16秒 ) パスワード

 直実の生い立ちや直家の賢明な生き方を考慮し上で、敦盛と直家の友情ストーリーを作って言ったら結構良い小説が描けるかも知れませんね。
 でも、小説を書くなんて考えても見ませんでした。
ええ!?私が小説を??文才の無い私が??出来るかな(汗)
でも、こうして直実親子と敦盛との繋がりを考えながら、歴史を勉強すると改めてイメージが膨らみます。

>直家が語るということで
彼が一番長生きしたんですから、直家を視点で物語を書いていったら。深みが出るし、敦盛との絆、熊谷一族の跡取りとしても立場。父の直実との考え方の違いでの葛藤やら、久下直光との確執、直実出家後の一族を養う為に懸命に武士として戦う姿勢やら、色々書けますね。
うわ〜なんだか面白くなってきました。
[35]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月10日 00時46分08秒 ) パスワード

そうですよ是非とも弓丸さんに書いて欲しいですね。
今は骨格の段階ドラフトですね。


久下の叔父さんはどうやら元々が一族の1つの久下氏出身みたいなので
桓武平氏から養子に来た人間が熊谷を相続して面白くなかったんでしょうね。
そこへ熊谷に養子に入ったのが若死にしたので(バンザイ!)。
こうなったら全部久下のものにしてやろう、と。

久下の叔父さんにはちゃんとそういう理由がある。
だけど直実は冗談じゃない。熊谷はオレのもんだ。


息子の直家は呆れて見てたでしょうね。
熊谷なんかに拘らなくてもいくらでも土地があるじゃないか、と。


弓丸さんに必要なのは遺産相続の数々の実例を知ることでしょうね。

私の夫の祖父母というのがスゴイお金持ちで実はいろいろあったんですよ。
それで夫の父親が死んだ時も祖父母の遺産相続でもめ事を起こした人物が騒ぐんじゃないか
そういう心配を義母はしてました。
我が家は義兄が独身でガールフレンドが沢山いるんで義兄が死んだら騒ぎがありそうだし
私と夫には子供がいないのでマタマタいろいろ起きそうだし。

お金のことって人間性が1番出そうですよ。


平家物語に熊谷直実の話を残した人でも直実の訴訟のことには触れられない事情があって
ああいう話だけにしたのかも知れませんし。
直実の出家の真相はホントはこうこうだったんだけどソレは書けないから、と。


久下の叔父さんの方がアタマは良かったのでしょうね。
訴訟に勝つ方法というのを知ってたから。

そこへいくと熊谷直実は直情型で人を敵に回してしまうタイプ。
特に頼朝を敵に回してしまった。
だけど直実は感情を押さえることができなかった。


こうやって目先に捉われて大局が見られず滅んだ一族がいましたね。
尼子勝久と山中鹿之助主従。
過去の領地に拘って大局の読めない尼子と山中を織田信長は見殺しにした。

(でも山中鹿之助の婿の亀井の殿さまの家系はちゃんと生き残って明治を迎え
今でも政治家になって名を繋いでいらっしゃるでしょ。
それから山中さんの一族は鴻池として富豪になった)


こういうのって直実・直家父子の生き方の差に似てますよね。

意地に拘るか大局を取るか
わたくし達の生き方にも通じると思いませんか?


だからこそ弓丸さんが小説になさる価値があるのですよ。
10年ぐらいの構想でお書きになったら良いのですよ。
[37]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月10日 00時51分58秒 ) パスワード

>亀井の殿さまの家系はちゃんと生き残って明治を迎え
>今でも政治家になって名を繋いでいらっしゃるでしょ。

あ、下品な人じゃない方ね。
ちゃんと書いておかないとね(笑)

私の勘違いかも知れないけど、勝手にそう思ってます(笑)
[38]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 04時20分32秒 ) パスワード

>遺産相続の数々の実例
わわわ・・・(汗)
遺産相続の実例っていうのも…相続問題のテーマにしたサスペンスドラマとかで何度か見たことがありましたけど…色々あって覚えきれなかったですが。
財閥の党首が亡くなって、その娘さんが学生さんと恋に落ちて、行方不明に。
その遺産相続で親戚中揉めたとか、その分家に当たる当主の甥達が会社の権力闘争で色々企んでいたとか…姪っ子さんは夫の借金で財産を狙っているとか…当主の娘さんはすでにお亡くなりになっていて、その後娘さんと学生さんとの間に出来た息子さんがいて、分家の親族さんにとって不利になってなんとか画策しようと企むとか…なんだか在り来たりな事くらいしか分かりませんね…。
[39]夏月さんからのコメント(2005年10月10日 07時52分51秒 ) パスワード


弓丸様、暇潰しのギャンブラー様、初めまして。平家ファンの一人として、この掲示板
楽しくロムさせていただいておりました。

弓丸様は熊谷直実、直家親子と敦盛の関係について、いろいろ調べていらっしゃるんですね。
直家と敦盛の接点があった可能性についてですが、上横手雅敬先生のご著書『平家物語の虚構
と真実』の中に、熊谷直実は叔父久下直光の代理で大番役のため上洛したが、同僚は直実が代官
だというので侮辱したため、腹をたてて、そのまま知盛に仕えて都にとどまったとあります。
代官として侮辱したというのは、直実がものすごく若かったからでは?もしかして独身だった?
直実は幼くして父親をなくし苦労していることから、妻子をおきざりにするようなことは、絶対にしなかったと思うのですが。都で結婚して直家が生まれたという可能性はどうでしょう。
知盛の長男知章も同年代なので、若様のお相手に呼ばれた時にたまたま出会う....というのは?
(ごめんなさい。私かってに話をつくっていますね。)

暇潰しのギャンブラー様の敦盛二―ト説おもしろかったです。絶世の美少年とか称えられて、
今までなんかちょっと現実感のなかった敦盛が、かえって身近に感じられるような気がしました。
ただ、お二人がお考えになっているように、敦盛の官位を知章や業盛と比べるのは少し無理が
あるのではないでしょうか。私個人としては、経盛家の末っ子である敦盛が無官であったのは
それほど不思議なことではないと思うのですが。知章はなんといっても、清盛と時子の子で
清盛の秘蔵っ子であった(九条兼実の日記『玉葉』に知盛は清盛の最愛の子であるとの記述
があります。)知盛の嫡男であり、また業盛の父教盛と経盛には、政治的に大きな力の差が
ありました。
平治の乱後、貴族たちは後白河院政派と二条天皇親政派に別れて、激しい勢力争いを繰り広げていましたが、平家一門はだいたい天皇派についていたようです。ただ教盛は、母が待賢門院(後白河母)の女房だったこともあり、早くから後白河に接近していました。憲仁親王(後の高倉天皇)誕生後、皇子を皇太子にしようとした陰謀のかどで、時忠といっしょに解官されてもいます。永万元年(1165)二条天皇が二十三才の若さで急死すると、政局はいっきに動きました。後白河は清盛の妻の妹との間にできた高倉を擁立することで平家と結び、二条派を押さえ
ます。教盛は平家一門と後白河を結ぶ重要な役割を果たしたとおもわれます。その後の教盛家
の昇進ぶりは言わずもがなの感があり、高倉天皇即位とともに、蔵人頭、ついで参議(頼盛より先になっています)また、長男の通盛もいっきに正四位下となり、国盛(後の教経)も七才で伯耆守に任命されています。
それに対して経盛家はどうかというと、はっきり言って高倉即位の恩恵をあまり受けていないような気がするのですが....もともと弟たちより一歩遅れて出世していたので、昇進の遅れは当然だと思うのですが、高倉母の健春門院の殿上初めとか、後白河法皇五十賀等の晴れの儀式をことごとく欠席しているのも気になります。
経盛は歌人としても著名ですが、すばらしい万葉集の本を所持しいたことが記録に残っています。この経盛本万葉集は実は、もともと二条天皇がお持ちだった万葉集を天皇のおゆるしを得て
経盛が書写したものだったそうです。経盛の家集の中には、二条天皇の殿上歌会での歌がいくつか残っていますが、二人の間には、個人的に親しい交流があったことがしのばれます。
経盛は二条天皇崩御後、さかんに歌合を行いますが、政治的に二条派が押さえつけられていく不満を歌にまぎらわせていたとも思えるのですが....谷山茂先生の『平家の歌人たち』には、経盛が中心になった平家歌壇は後に九条兼実が中心になった九条家歌壇にくらべ、開放的でかなり自由であったと述べられています。私はこれは、二人の性格が反映されているのではと思っています。小侍従集(小侍従は太皇太后多子の女房、源頼政の恋人として著名、経盛は都落ちの日まで、24年間にわたって多子に仕え、小侍従とも大変親しかった)の中に、経盛との贈答歌がありますが、ユーモアあふれる人柄がしのばれます。ただし、最後まで後白河におもねることがなかったのは、二条派としての信念を徹したのでしょうか。この頑固さは、敦盛最後の熊谷の助けをこばんだ敦盛の頑固さに通じるような気がるのですが.....

長々と思うことを書いてしまいました。
私個人の思いこみで間違ったことがあるかもしれません。お許しください。







[40]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月10日 10時52分15秒 ) パスワード

夏月さま

面白いお話たくさんありがとうございました。

知盛さまとの縁では知盛さまの人間性の良さが出てますね。
やっぱり直実は東国の人々より平家の人々が好きだったかも。

ひょっとすると敦盛ー知章ー直家が友達関係だったかもですね。

経盛がどういう人物だったか分かりませんでしたが
お蔭で人物像がちょっと掴めました。
ありがとうございました。
おとなしい一家のイメージがありましたがなるほどそういう経緯だったのですか、と。


弓丸さん
ここでスレッドを立てて良かったですね〜(笑)
[42]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 12時12分24秒 ) パスワード

うわ〜嬉しいです!
真月さん貴重なアドバイスありがとうございますm(__)m

>直実は幼くして父親をなくし苦労していることから、妻子をおきざりにする>ようなことは、絶対にしなかったと思うのですが。都で結婚して直家が生まれたという可能性はどうでしょう。
>知盛の長男知章も同年代なので、若様のお相手に呼ばれた時にたまたま出会>う....というのは?
>(ごめんなさい。私かってに話をつくっていますね。)

いえいえ、私もずっと考えて、纏めたくても纏まらなかった知章・敦盛・直家
の出会い説。
実際、知章と敦盛は直家と出会う前から、良く遊んでいたのかもしれませんし・・。
とても参考になりました。
直実の都で結婚説も、イメージが膨らんできましたよ。


経盛一家の事も凄く勉強になりました。
文章長いのので(笑)考えを纏めて書き込みしたいと思います。

ギャンブラーさん(名前が長いのでギャンブラーさんと呼ばせてもらいます 笑)

本当に!
勇気もって立ててよかったです。(笑)
もっと、イメージが出てきたら、書き込みしたいと思います。
その時は、ご指導下さいm(__)m

ROMして気なった方も、遠慮なく書き込んでください。

それで、話が変わりますが。
ずっと一の谷の直実と敦盛との一騎打ち説を覆すような、事実らしい一説を見つけました。
敦盛はなぜ引き返したのか。

平家物語「敦盛最後」では、熊谷直実に呼び止められた敦盛は、観念して潔く浜へ引き返し、直実と戦って討たれました。しかし本当はこのとき、敦盛の馬は足にけがをして、船にたどり着けずに仕方なく引き返したのだと言います。この時代、戦に負けたときは次の戦での勝利のために逃げ延びるのが普通でした。
  もっとも、物語を盛り上げるためには、仕方なく引き返したなどと言うことはかけません。そのために、作者の演出として引き返しの場面が作られたのでしょう。

とありります。
…ということは、敦盛の「ニート」説を裏付けるきっかけにもなりますよね??
それに、一旦船に逃れたものの、愛用の小枝の笛と巻物を陣営に置き忘れて、陣営に戻って取りに行った後に直実に見つかって、打たれたという話もありました。
どう繋げていこうかな…。
[43]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月10日 12時38分22秒 ) パスワード

馬が足を怪我して引き返したという説もあるんですか。

皆さんどうして敦盛がわざわざ引き返したのか分からないからでしょうね。

やっぱり直実を知ってたから声を掛けられて思わず振り返ってしまった?

[45]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 12時54分54秒 ) パスワード

ギャンブラーさん

>馬が足を怪我して引き返したという説もあるんですか。
>皆さんどうして敦盛がわざわざ引き返したのか分からないからでしょうね。
>やっぱり直実を知ってたから声を掛けられて思わず振り返ってしまった?
それもありえそうかな・・・と思ったんですが、その時直実は名乗りを上げなかったのではないかと…「敵に後ろをみせたもうな…云々」とだけで敦盛を呼び戻そうとした。
その時、直実は敦盛の馬が怪我をしているのに気付いて、「これは良い機会だ」とチャンス到来とばかりに、敦盛に突進ししてきて、馬から落として組み伏せた。
その時、敦盛の兜を剥ぎ取った時、直実は「あ!」と気付いたのでしょう。
確かに息子と同い年、しかも美しい容貌に殺意が緩んだ。
敦盛も直実の顔を間近で見たとき、「この男は小次郎(直家)の…」と初めて気付いたのではないでしょうか?
どうでしょう?


[46]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 13時01分02秒 ) パスワード

最期の行がら3行目の続き。
確かに息子と同い年、しかも美しい容貌に殺意が緩んだ。
それだけじゃなかった、直家が良く話していた、息子といつも一緒に居た公達だ、と思ったんでしょうか?
直家が敦盛のお陰で随分と変わったことで、殺意も緩んでしまった。
なんとか助けたいとも思ったいたのでしょうね。
[48]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 17時10分16秒 ) パスワード

>経盛の家集の中には、二条天皇の殿上歌会での歌がいくつか残っていますが、>二人の間には、個人的に親しい交流があったことがしのばれます

二条天皇との交流が深かった経盛は、歌人として有名でまさに公家の繋がりが深かった。しかし母は源氏という事もあって、他の兄弟(教盛、清盛、頼盛など)とは、目立たない場所にあったため、出世も遅れた。と考えていたんですが、二条派という立場を貫き通した為・・・とも考えてもいいのかもしれません。
つまりは、敦盛と知章との接点はかなり難しいという事になる。
二条派という立場を貫きたいがために、経盛は意地を張っていたということは、直実と久下の叔父さんとの居たコザは立場は違うけど、敦盛も親戚関係で悩んでいたという風に捉えても良いと思うのですが。
従兄弟と会うことも難しく、ただ一人っきりで寂しく横笛のみ友とした敦盛にとって心の支えだったに違いない。
[57]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 20時17分30秒 ) パスワード

今、知章、敦盛、直家の友人説を考えてみました。
直家の父の直実は平知盛とと親しくなった事から、平家に仕えるようになった。
きっかけで直家も知章と接点の可能性は極めて高い。
同じ長男という事もあって、結構気が合っていたのかもしれない。

だけど敦盛は嫡流平家から遠い位置にあったため、直家とは会える可能性は低い。

こういう事から、知章の事は、余り触れずにいようと思っていました。
だって、知章と直家の接点からしたら、敦盛は居場所がなくなってしまいます。

知章は日のあたる場所にいる。直家だって存在感のあるはっきりした、相手のほうがいいに決まっている。

仮に敦盛に会ったとしても、あまり関心が無かったかもしれない。
知章の存在に霞んでしまう。
それほど、敦盛は存在の薄い人物なんだと思う。

敦盛をもっと存在を大きくするには、もっと彼自身を目立たせたキャラ、つまり陰より陽の部分を出さないといけないし、やっぱりそれでも、知章の存在感には敵わないのでないかと思ったり。
知章にしても、敦盛なんぞ眼中に無いかもしれない、直家に敦盛の悪口を言って彼を蚊帳の外に出されるだろうし・・・。
知章って嫡流の家系に当たるという事もあって、苦労というものを知らないんじゃないかとも思ったり。
活発で明るい、聡明なイメージが沸いていきます。
やっぱり直家は知章以外には目もくれなかったかも。
敦盛なら尚更目に付かなかったかもしれません。
いや〜〜そんなの敦盛が可哀想・・・(鬱)
[58]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 21時27分12秒 ) パスワード

レス42の一部の文章。
>…ということは、敦盛の「ニート」説を裏付けるきっかけにもなりますよね??
今、「ニート」の意味が分かりました。


「ニート」とは

就業者でもなく、

求職「活動」もしておらず、

主婦(主夫)でもない

という者をさす。

だそうですね・・・。

わたしってば、全然意味も分からずに、「ニート」説に関心を示していました。馬鹿だわ・・私・・・(鬱)

 


[59]弓丸さんからのコメント(2005年10月10日 21時43分30秒 ) パスワード

改めて「ニート説」に一言。

敦盛がニート…。
確かに横笛に魅入られて、横笛以外はどうでも良いという敦盛の横笛に対する愛着ゆえのニート。
そして、一の谷の合戦での直実に呼ばれて、引き換えしてきた理由。
もう、どうでも良くなったから?
賢明に生きようとする執着心はまるで無く、自由を奪われた。

こんな事があって良いのか。
そんなの嫌だ。
死にたい。
笛だけあれば良かったのに。
幸せだったのに。
生きていく気力が無い。
早く楽にして欲しいと敦盛は切に願った。

なんだか切ないですねぇ・・。

でも、直家と敦盛の友情説には、ちょっとズレがあるかな?
繋がるかしら?
そういえば、前に「出会いが人を変えるかも」って自分で言ってたわ。
[60]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月11日 00時09分55秒 ) パスワード

弓丸さん


敦盛の人物設定に
ひょっとしたら今ハヤリの「若年鬱」なんて良いかも。
それで「ニート」してた。


今時の若者像を参考にしたら良いかも。
ちょっとしたキッカケで不登校になってヒッキーになって鬱になってニートになっちゃった?
あはは
でも自分の好きなことには没頭できるのよね。
今時の若者って。


では若年鬱の原因は?ということで
御落胤説
二条側説
堂上源氏系血統説


こんなあたりかな?
[61]弓丸さんからのコメント(2005年10月11日 01時37分03秒 ) パスワード

ギャンブラーさん

私「ニート説」はもう少し考えさせてもらいますわ。
わたくしの敦盛像はちょっと違うので。

彼が「ニートだった」という説を覆す一説を見つけました。
それはある「女房と密通説」。
敦盛は平親宗の娘・弁宰相という女房と通じてたとかいう伝説があるらしいですよ。
時子の身内と結婚すると平家内での地位が上がるから、 もしかして、経盛家勢力アップ計画だったのかもしれません。
積極的な行動をとった敦盛が「ニート」というのはちょっと考えにくいと思いますね。
私の中の敦盛は、努力家でプライドの高い人とイメージしてました。
決して、運命に流されるような人じゃなく、今の自分をどう切り出そうかと考えていたんじゃないでしょうか。
凄い努力家だと思いますよ。
[62]弓丸さんからのコメント(2005年10月11日 01時58分15秒 ) パスワード

笛に魅入られて敦盛の横笛に対する愛着ゆえのニート説。

これも、とても魅力的だと思う。

でも、官位が無くても、己の運命に翻弄される事を避け、地道ながらもなんとか頑張ろうと努力する敦盛説も魅力的だと思いますね。

父、経盛の頑固、一徹な人格。
もし、敦盛にも受け継いでいたとしたら、彼にも現状打破しようという頑固さがあるんじゃないかと思うのですよ。
かっこいいじゃないですか。勇気付けられる一説じゃないかと。


[66]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月11日 04時16分14秒 ) パスワード

>敦盛は平親宗の娘・弁宰相という女房と通じてたとかいう伝説があるらしいですよ。


これ、使えそうですね。


彼女は時子の親戚の姫でしたか。
そうすると「初恋」のお相手かもですね。
時子によって潰されたのか?弁宰相の父によって潰されたのか?


もし敦盛が後落胤だったら彼女の父親は喜んだんじゃないかな?なんてね。
[68]弓丸さんからのコメント(2005年10月11日 09時54分40秒 ) パスワード

ギャンブラーさん

>敦盛の人物設定に
>ひょっとしたら今ハヤリの「若年鬱」なんて良いかも。
>それで「ニート」してた。
若年鬱〜…。う〜……(?)
陰の部分を引き立たせる良いアイデアかも知れませんね。
でも、直家との出会いは?どう切り出せば良いのかなぁ?


>では若年鬱の原因は?ということで
>御落胤説
>二条側説
>堂上源氏系血統説

二条側説のほうが妥当かしら?
その方が、自然な流れになるかも。

堂上源氏系血統説は…ちょっと良く分かりません(混乱)
どう若年鬱になった原因に繋がるのか、教えてください。m(__)m
[69]弓丸さんからのコメント(2005年10月11日 10時03分47秒 ) パスワード

後白河法皇の御落胤説。

この一説を一晩考えてみたんですが・・・。
伯父の清盛も「御落胤説」が出ているんですよね。
この人なら、頷けると思ったんですよ。
一門の棟梁となっている訳だし、官位も最終的には太政大臣にまで、上り詰めた。ちょっと表向きな方向で単純にそう思えて当然なんですが


で、なぜ敦盛に「御落胤説」が出て来たのでしょうか。

やっぱり「無官」だったから?なぜ、無官だからって後白河法皇の御子だったと言えるのでしょうか?
夏月さんの言っていた、「清盛の直系に一族じゃなかったから」とか「後白河法皇より遠い位置にあったから」という理由で官位を与えられなかった。
この方が、私も自然だと思いました。当時、身分の上下関係は厳しかったし。

でも、どうやって経盛は敦盛を引き取る事が出来たのでしょうか?
経盛は二条派であることを貫きたかったのでは。
後白河法皇の御落胤の子を引き取る筈が無いし・・・。
二条天皇の弟にあたる事から、引き取ったのか?
そして将来の事を考えて「無官」にした。
何か企んでいたのかな?


一の谷の合戦に折、薄化粧をして、お歯黒を塗っていた事。

これは私の考えた事なんですが、密かに法皇の使者が来て、京に帰るように促した。そうだったら、喜んで承知するはず。でも、源氏軍の奇襲に巻き込まれ使者と逸れてしまった?それで、偶々直実に見つかって殺されたのかも?
しかし、一度は承知して、帰京する為に身支度をしたもの、最終的に平家として生きることを選んだ。とか。どちらもありえないかあ・・。他の平家の武将も薄化粧していたかもしれないし。
[70]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月11日 12時40分16秒 ) パスワード

>どう若年鬱になった原因に繋がるのか、教えてください。

例えば初恋の姫との失恋。
実はここに直家を絡ませるというのは?
2人とも同じ姫を良いと思っていた。
姫は敦盛が好きだった。
でも反対された。
それで直家が力づけようとした・・・なんて?


1180年頃平家が土地バブルに沸いていた時
但馬は経正に(丹後守と兼ねて)
若狭が経俊に(伊賀守だったのを父親の若狭を譲られた)

なのになんで敦盛は無官だったのか?
やっぱりココに戻りますねえ。

どうしてなのか実に不思議ですね。

江戸時代の話ですが私の友人の家は数えの12で元服し家督を譲られ嫁も貰ってるのです。
私の先祖も数えの17で男子を儲けてます。
だから敦盛だってそろそろどこかの姫君との結婚話があっても良いし
幼馴染との間に恋愛ごっこがあってもおかしくないのですけどね。
そうすると回りは当然どこかに知行国を与えるでしょうし。

どうしてでしょうね?
[73]弓丸さんからのコメント(2005年10月11日 15時56分26秒 ) パスワード

嘉応元(1169)年>
 平敦盛誕生。

<寿永2(1183)年>
 7月、都落ち。

<元暦元(1184)年>
 2月7日、『一ノ谷合戦』戦死。

1183年に都落ちしたんですよね。
1169年に生まれてから都落ちするまでの年齢は15歳。
何らかの原因で、元服が遅れて、従5位下に昇格されたけど、官位は
与えられなかったとか?
もしかしら男子じゃなくて女子だったって言う説も出ているらしいから。
そこの所も無官でなければいけなかった…という繋がりにもなる…かな?

少女説は、直実が敦盛の顔を見て、女のように美しい顔立ちをしていた事
から少女だったんじゃないか…という風に考えられるとか。
もしかしたら敦盛は性同一性障害者だったのかも知れないなぁ・・という風
に思えてならないんですが。どうでしょうか。
[74]弓丸さんからのコメント(2005年10月11日 16時03分46秒 ) パスワード

>例えば初恋の姫との失恋。
>実はここに直家を絡ませるというのは?
>2人とも同じ姫を良いと思っていた。
>姫は敦盛が好きだった。
>でも反対された。
>それで直家が力づけようとした・・・なんて?

消極的になった敦盛を励まして、背を押してくれる直家。
実は直家もその姫に恋をしていた。
だけど、身分違いだったから、敦盛を応援しようと思った。
良いですね。

でも肝心の出会いのきっかけがどうしても出てこないんですよぉ
従兄弟の中で知章(実はとても面倒見の良いお兄さんタイプ)と
仲が良くて、童殿上している時に、良く遊んでいて、偶々敦盛
が知章と遊びに屋敷に訪ねた時に出会ったとか?
やっぱり無理があるでしょうか…。


ちょっと大河ドラマ「義経」の話に変わるのですが、一の谷の合戦
のシーンで敦盛出てこなかったですよね?
その時、うつぼ役の上戸彩が敦盛役やったら、面白かったになぁと
思っていましたよ。
3年B組金八先生の性同一性障害の鶴元直役が印象的だったから、すんごく似合っているんじゃないかって。
中途半端なうつぼ役よりも、数倍マシだと思って見たり。
聡明で清潔感のある雰囲気が忘れられなかったので。
絶対印象に残るシーンになったんじゃないかと残念だったなぁと。
今更言っても、遅いですが(苦笑)

[75]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月11日 23時55分15秒 ) パスワード

>もしかしたら敦盛は性同一性障害者だったのかも知れないなぁ

かもですねえ。
だから無官だったのかも。
実は世間に出せないタイプだった?


あの「うつぼ」は失敗でしたよね。
上戸彩をどうしても出したかったら若い時の義経役でもやらせれば良かったのにねえ。


ま、義経が主役でしたから平家の公達を美しく描いたら話がメチャメチャになりますから
敦盛も出ませんでしたね。
敦盛を出すとしたら誰が最適だったでしょうかねえ?
[79]弓丸さんからのコメント(2005年10月12日 06時52分55秒 ) パスワード

>敦盛を出すとしたら誰が最適だったでしょうかねえ?

今回の義経のイメージだったら、やっぱ笛を愛するゆえの「ニート」の風貌の地味な敦盛を出せばいいとおもいます。
配役は誰の方がいいのかな?
[80]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月12日 09時28分43秒 ) パスワード

弓丸さん


楽しく拝見しました。

「敦盛女の子だった説」
直家が恋をした相手というのはいかがでしょう?
女だと思っていたら・・・


それか敦盛は敦子と双子だった。
ところが男の子が死んでしまい女の子が敦盛にすりかわった。
直家はそのことを知ってしまった。

あはは


私も楽しい空想をしてしまいましたよ。
[82]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月13日 00時16分43秒 ) パスワード

直実が寝返った理由は梶原氏・畠山氏などと同じですよ。多分。

最初は頼朝には期待してなかった。
石橋山の戦いで頼朝が敗走した。(この段階では平家方で良かった〜と安堵)
その後
千葉に頼朝が逃げてから坂東の豪族達は反平家になっていくのですよね。


ここの所は
平家から代官で来てたヤツらの性格が悪くてエバッテタのでしょうね
山木が討たれたりして悪徳代官は殺してしまえという風潮が広まったのかしらねえ
それで反平家で結束していったんじゃないかって思います。

(私の母方も平家から来てた代官が態度がデカくて反平家になって頼朝方になりました)


回りがどんどん反平家になっていくから直実も焦ったでしょうね。
自分の領地が完全に久下の叔父さんのものになりそうになって
慌てて頼朝方になった、かな?


それで直家も父に従って頼朝方になった。


ここで直家と敦盛は固い友情を約束して別れた。
だから直実は敦盛を見た時にひるんだのでしょう。
かな?あはは
[83]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月13日 05時53分37秒 ) パスワード

さっき今井翼の番組を見てたんですけど
敦盛と直家の人物設定にタッキーと翼なんていかがでしょう?

直家って男っぽい=土の臭いがする=そんなイメージなんですけどね。

こういう風に演じさせたら誰か?ということで
イメージ作りをしていっても良いと思いましたから書いて置きます。
[84]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月13日 09時02分22秒 ) パスワード

それで直家のパパですけどね
山口智充なんていかがでしょう。
実直そうで直実にぴったりと思います。


久下の叔父さんは石坂浩二かな?
小ズルイ感じがいいな、っと。
アタマも良さそうだし。
[86]弓丸さんからのコメント(2005年10月13日 12時22分16秒 ) パスワード

レス83,84

>敦盛と直家の人物設定にタッキーと翼なんていかがでしょう?
そういえば、知り合いが「タッキーって義経似合わないよね〜」
みたいな事を大河見ながら言ってましたよ。
私ってば義経の事良く知らなかったから、漠然と大河を見てました。
だからそれほど深く考えてなかったので「え?そうなの?」程度で流
してたんですが。

気になったんで、検索して見たら、なんていうか、言葉を失いましたね。
野蛮というか、自分の気持ちに正直っていうのでしょうか?
親父の敵を討つ為なら、何の手段も選ばない激しい、子供みたいな人?
(私が感じた感想です)
確かに、滝沢には合わないわ。
しかも、まるで違う別人のような良い人になっているし。優柔不断な所は
一致するんだけど。
演技力はイマイチだけど、、まあ、敦盛のような上品で風雅な
キャラの方が似合っているかも?(私は認めたくないけど…)

翼は余り知らないですねえ…与一役やってたみたいだったけど、う〜ん・・
って感じです(笑)
鎧姿は似合っていると思いましたね。(でも姿勢が悪かった)
直家は以外に合ってるかも。
坂東育ちの直実のような親父を持つくらいだったら、野生児っぽさのイメ
ージがぴったりですね。

・・・・・・でもジャニーズ系は嫌じゃ・・・・・・・。

>それで直家のパパですけどね
>山口智充なんていかがでしょう。
あははは(爆)
想像してみたら、笑ってしまいました。
いい!合ってます。良いですよ〜。
微笑ましい直実が目に浮かびました(笑)


>久下の叔父さんは石坂浩二かな?
>小ズルイ感じがいいな、っと。
>アタマも良さそうだし。
「草燃える」で頼朝役やってた人でしょうか?
確かに切れそうだし、腹黒そうなイメージが
ピッタリかもしれませね。





[89]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月13日 21時17分42秒 ) パスワード

タッキーというのは私は義経しか知らないのですが
昨日翼がタッキーのことを「リアクションが大きい」と言ってました。

10倍ぐらいリアクションするって
あの「線の細い」イメージのタッキーがねえ、と驚きました。

翼はブラジル移民の悲惨ストーリーの「ハルとナツ」に日系人ブラジル役で出てるそうです。
森光子の孫役です。

その話でテレビに出てたのを見たのですが
眉毛黒々でなかなか骨の太い感じで良かったです。
(私は最近の若い子は知らないのです)



>年の割には、敦盛も直家も考え方がしっかりしてるかもしれません。

だと思いますね。
元服間近だったでしょうし。
嫁さんも決めなきゃいけない時期ですし。

なにより一族郎党を率いなきゃいけないし。
自分がしっかりしなきゃ困るのは自分だけじゃないですものね。
熊谷家は久下のおじさんの件があったし。

ただ1180年当時は平家全盛だし頼朝なんて無力だったし
その後思わぬ展開になっていくとはお互いに考えもしてなかったでしょうね。


>この馬鹿妄想のイメージをギャンブラーさんはどう思っているでしょうか……(苦笑)

小説家が謙虚になったら何も書けなくなりますよ。
画家にも言えますよね。

人と同じ発想で同じ表現方法じゃ価値が無いのでやっぱり個性が大事と思いますよ。
人には真似出来ない個性を出さないと。

ですから全然謙虚になる必要なし。
ですよ〜


最近ウイルスが流行ってるようですね。
うちは今朝2種類来てました。
弓丸さんもセキュリティをしっかり張ってやられないようにね。
[93]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月14日 01時42分17秒 ) パスワード

面白いところに行きましたねえ。

祖父・後白河 vs 父・二条天皇の争いで
結局は二条天皇の息子の六条天皇が2歳で即位。
1168年5歳で叔父・高倉天皇に譲位。 

こうして考えると
1169年生まれの敦盛が噂のように後白河の御落胤で
天皇にでもさせるつもりだったのか「無官」で、なんて噂された可能性がアリだったのかも
ですね。


後白河法皇という人はお子さまが何十人もいましたから
数に入らなかった外に出した子というのも有り得るかもですね。


昔は双子って畜生腹とか言って嫌ったと言いますから
双子で生まれた敦盛と敦子を経盛が引き取った
という説も良いかもですね。
あはは


だんだん弓丸さんの著作権に係わって来るので
細かいことは秘密になさらないとアイデアを盗まれてしまうかもですよ。


なおスレッドは99あたりで(2)を立ててくださいね。
重くなってくるとサーバーの管理人さんがお気の毒ですから。
[95]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月14日 12時48分14秒 ) パスワード

そうですね
次は新しいスレッドが良いでしょうね。
新しいのを立ててください。


>(実はメール蘭のアドレスは一文字記入するの忘れていまして、そのままになってしまったんです)


その方が良いと思いますよ。
アドレスを拾われないように。


というのは(うちはケーブル利用なんですが)御近所の皆さんはセキュリティをしてないらしく
そのせいかプロバイダー経由で変なメールがたくさん来ます。
(プロバイダーしか知らない情報を利用されてるので)

それでメールはしない事にしてるんですよ。

これまで数年間あちこちで迷惑をかけ過ぎたので。
自分経由でヘンなウイルスを配信しているというのが申し訳なくて
それでメールは一切止めです。

親ともメール交換は止めたのですよ。

メールはお互いに(お互い+周りの人にも)迷惑な時代になってますからね。

ということで私はメール交換は止めちゃいましたよ。あはは
[96]弓丸さんからのコメント(2005年10月14日 14時01分29秒 ) パスワード

メール欄にアドレス書き換えてしまったので、レス94は削除しまた。

ギャンブラーさん

ほんとにインターネットは相手の顔が分からないから、物騒になってしまいましたよね。
パソコンも色々便利になっていきましたら。
[97]弓丸さんからのコメント(2005年10月15日 11時47分34秒 ) パスワード

書き込みのまとめ。

なぜ敦盛は無官だったのか。

・後白河法皇のお胤→将来天皇になる可能性を考えて無官に。
・元祖ニート→自分から官職に対して無関心だったから。
・清盛直系でなかった為→傍流の経盛の末っ子である為。
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