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 投稿番号:100822 投稿日:2005年09月27日 21時45分34秒  パスワード
 お名前:勉強中
ちょっとお尋ね:平資盛の妻はどなた?
キーワード:資盛
コメントの種類 :質問  パスワード

いきなりなんですが、平資盛の妻というのは誰なのでしょうか?
幾つか論文を読みまして、重盛が藤原成親の妹を妻に、維盛・清経が成親の女を妻にした、というのを発見したのですが、長男と三男は書いてあるのに次男資盛について述べられていなくて・・・・・・・。
資盛と維盛の関係(何か確執はなかったのかな、と)について考えておりまして、このことがとても気になったのです。
どなたかわかりましたらお願い致します。

もしもどこかで既に話題になっていましたらすみません!

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月27日 23時42分35秒 ) パスワード

勉強中さん

勝手にタイトルをいじらせて頂きました。
この方が大勢の方の目に触れてレスを頂き易いと思いますから。
タイトルは希望のものがございましたらおっしゃってくださいね。変更しますから。


さて表題の件ですが
知らないです。


でも10代の時に伊勢に追放されて土地の娘に手をつけて、
その子孫が「関氏」を名乗ってますし

有名な愛人としては建礼門院右京大夫がいらっしゃいますね。


27歳で亡くなるまでに愛人はたくさんいたと思いますが
正妻はやっぱり藤原家の姫だったと想像しています。
該当女性が見つかると良いですね。
[2]takahiroさんからのコメント(2005年09月27日 23時53分57秒 ) パスワード

平資盛の正妻は、ギャンブラー様の仰るとおり、藤原氏(藤原基家)の娘であり、資盛は藤原基家の持明院邸に居住していたため「持明院三位中将」と呼称されていました。なお、資盛と基家娘の間には子女はなさなかったと言われています。
[3]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月28日 00時35分57秒 ) パスワード

takahiroさま

なるほど。
それで正妻の名が残らなかったのでしょうね。


http://nekhet.ddo.jp/people/japan/heishi01.html
盛綱
親真
という2子の名が出てますが

親真は後世織田信長がこの人の子孫だと称していた人物ですね。
[4]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月28日 09時22分43秒 ) パスワード

takahiroさま

分かりましたのよ!
さすがtakahiroさま!
御先祖さまがらみでございましたのね!


この藤原基家という人物。
「藤原基家」という姓名は藤原氏の中では結構何人もいらっしゃるから混乱しますが
持妙院の三位=権中納言藤原基家=でございましょ?

この人のもう1人の娘はなんと!後堀河天皇の生母=北白河院陳子さま。


さらに!さらに!この天皇の御父上は後高倉上皇=守貞親王=ではありませんか!
「義経」の中では安徳天皇がすり替ったことになっている親王さま。


そしてこの藤原基家という人物は1159年の平治の乱ではナント信頼方だった?!
つまり清盛の敵方。
でも成親どのもコッチ側でしたから

やはり重盛関係維盛関係の人物ということで娘が資盛の正妻になったのですねえ。


takahiroさま
わたくしの推理
いかがでございましょう?
ふふふ
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月28日 09時24分47秒 ) パスワード

それで
>資盛は藤原基家の持明院邸に居住していたため「持明院三位中将」と呼称されていました

なのでございますね?!


持明院・三位・中将
これがヒントになりましたのよ。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月28日 09時34分09秒 ) パスワード

実は今朝平熱関係のことでtakahiroさまのことを思い出しておりましたのよ。

そうしましたら上記の書き込みがあり

(1)の書き込みで
「資盛の正妻だから父親の重盛や兄の維盛関係に見劣りしない藤原氏の姫君に決まってるわよ」
と書きたかったのですが、もし間違っていたら恥ずかしいので
「正妻はやっぱり藤原家の姫だったと想像しています」と謙虚に書き込みました。


まるでtakahiroさまから「暇さんなら分かるでしょ?」との謎々を頂いたような気分で
あっ!
と思い出した次第でございます。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月28日 10時03分05秒 ) パスワード

下記は今井さまの「平治物語」より


<信頼卿の舎兄兵部権大輔基家>なんて書かれてますね。


ということは信頼と兄弟だった。
だから弟側についた。


以下無断書き込みごめんなさい>今井さま

『官軍除目行はるる事付けたり謀叛入賞職を止めらるる事』 

 伏見源中納言師仲は、「勧賞をかうぶるべき身にてこそ侯へ。信頼卿内侍所を取(っ)て、東国へ下しまいらせんとせられ候しを、女、坊門局の宿所、姉小路東洞院にかくしをきまいらせて候へば、朝敵にくみせざる支証分明に候。但信頼、時時伏見へ来りしも権勢におそれて、心ならぬまじはりにて候き。叛逆のくはたてにをひては、かつて存ぜず。よく<きこしめしひらかるべし。」と陳じ申されけり。河内守季実、其子左衛門尉季守は、のがるゝ所なくして、父子ともに誅せらる。 やがて叙位除目おこなはれて、大弐清盛は正三位に叙し、嫡子左衛門佐は伊与守に任じ、次男大夫判官基盛は大和守、三男宗盛は遠江守になる。清盛舎弟三河守頼盛は尾張守になる。伊藤武者景綱は伊勢守に補す。上卿は花山院大納言忠雅卿、職事は蔵人朝方とぞきこえし。 

信頼卿の舎兄兵部権大輔基家・

民部権少輔基通・舎弟尾張守少将信俊・子息新侍従信親・幡磨守義朝・中宮大夫進朝長・兵衛佐頼朝・佐渡式部大夫重成・但馬守有房・鎌田兵衛政家已下、七十三人の官職をとゞめらる。此内両人やがて尋出されて、民部権少輔基通は陸奥の国へ、尾張少将信俊は越後国へぞながされける。其外或は誅せらるゝ者、後日にもおほかりけり。 昨日まで朝恩にほこ(っ)て、余薫一門に及びしかども、今日は誅戮をかうぶ(っ)て、愁歎を九族にほどこす。朝につかへて、楽を春花の前にひらき、いましめをかうぶ(っ)ては、なげきを秋の霜のもとにあらはす。夢の富は、おぼえてのかなしみ也。一夜の月はやく有漏不定の雲にかくれ、朝の咲は暮の涙なり。片時のはな、むなしく無常転変の風に随ふ。盛衰のことはり、眼の前にあり。生界の中に、誰人か此難をのがるべき。(略)
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月28日 10時15分55秒 ) パスワード

日本の歴史の藤原氏って(藤原氏だけに限らず)あっちもこっちも親戚で、
親戚どころか兄弟だったり義兄弟だったり
「えっ?信頼と基家が兄弟?」
ということは
基家と成親も藤原一族というよりもっと近い関係だったのでしょうね。
遠くても妻同士が姉妹とか従姉妹とか。


こうして細かく調べていくとわたくしの母の祖母方になる藤原氏はtakahiroさまの御先祖さまと
実は・・・
という関係かも知れませんねえ。


日本人ってホントにハラカラなんですねえ。
8代も遡ったら親戚になっちゃうとは聞いてましたが

みんな赤の他人みたいに知らない人と思ってるのに実は父方でも母方でも繋がってる
DNAに共通する遺伝子を共有してるんですねえ。(驚)
[9]勉強中さんからのコメント(2005年09月28日 11時28分23秒 ) パスワード

ありがとうございました!!!
いろいろとお話がありましたが、正妻は基家の娘・・・・なのですね。

暇さま。
タイトルまで変えていただいてありがとうございました!
とても勉強になりましたです!
[10]takahiroさんからのコメント(2005年09月28日 11時32分43秒 ) パスワード

>この藤原基家という人物。
>「藤原基家」という姓名は藤原氏の中では結構何人もいらっしゃるから混乱しますが持妙院の三位=権中納言藤原基家=でございましょ?


はい、お記しの通り、権中納言藤原基家で、この人物の娘が資盛の室となっていると尊卑分脈には記載されていました。

そして藤原基家の正室は、平頼盛の娘であり、この基家と頼盛娘の間に、後の北白川院藤原陳子が生まれています。(ただ、資盛室の母もまた頼盛娘であるか否かは未詳のようです。資盛室の母の項目は記載無しになっています。)


なお尊卑分脈では、平治の乱の時点の持妙院藤原基家の官位官職は、正五位下右少将ですので、「信頼卿の舎兄兵部権大輔基家」との関係はもう少し見てみようと思います。

確か信頼卿は、頼盛母である池禅尼の系である藤原隆家流の流れであったと記憶します。

隆家嫡男良頼の末が藤原宗兼の娘宗子(池禅尼)であり、隆家次男経輔の末が藤原信頼に繋がります。

藤原宗兼(池禅尼父)の姉妹(典待従三位隆子)が、藤原家成の母に当たりますので、池禅尼をキーパーソンとして、信頼卿と藤原家成・成親一族も繋がっていたのかもしれないですね。


今から出ますので、消化不良のままですが、このまま投稿します。


>DNAに共通する遺伝子を共有してるんですねえ。

私も服部様とは特に強く共有を感じます。
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月28日 12時47分30秒 ) パスワード

藤原家成

この人物は後白河と一緒に義朝方に拉致監禁幽閉されてるんですよね。
藤原氏の氏の長者。← 絶対的な立場の人物ということですねえ。
藤原成親の父親。
父と子で敵味方に別れたのですねえ。


こうして考えますと頼朝を助けた池の禅尼も
その理由というのは単に自分の亡き息子と頼朝が似てたという単純な理由じゃなくて
もっともっと深い深い縁でどうしても助けなくてはならない理由があったのでしょうねえ。
それで清盛も池の禅尼と遠い親戚になる頼朝の命を助けざるを得なかった。


父と子が争い
兄と弟が争い
叔父甥で争い

あの保元の乱・平治の乱というのは物凄い戦いだったというのが改めて分かりますね。
だからこそ頼朝は京とは距離を置いたというのも分かりますね。


清盛が成親を許した意味がイヨイヨ深まりました。
[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年09月28日 13時08分37秒 ) パスワード

勉強中さん

藤原基家という男性はワタクシの計算では物凄い数の子供を持った人という印象です。

後堀河天皇が1212年生まれですから
その母は20歳で産んだとしても1192年生まれ。

更にこの母親の父が1159年の平治の乱に参戦してますから
当時ギリギリ若くて参戦したとして=17歳として=1142年生まれかな?
1138年生まれの平重盛かその弟1139年生まれの基盛さまあたりの年齢だったでしょう。

平資盛が1158年生まれですから
その奥様は数年下だったでしょうね。ですから父親基家の若い時の子供でしょう。

後堀河天皇の母上は基家の晩年の娘でしょうね。
50歳か(もうちょっと老いてからか)。


ちなみに加山雄三の父上の上原謙さんは70を過ぎてから子供をもうけてます。
[13]右京さんからのコメント(2005年10月02日 13時05分15秒 ) パスワード

はじめまして
資盛のことを調べていて、ここにたどり着きました。
ちょっと話題にずれているかもしれませんが・・・

先日、大阪市東淀川区の「江口の君堂(寂光寺)」に行きました。
西行と妙(遊女)の歌問答で知られているお寺ですが、妙は資盛の娘とのことです。平家滅亡後、乳母を頼って淀川岸の江口に来たそうですが、この妙の
母親は誰だったのでしょうね?平家が滅亡したとはいえ、資盛の娘が遊女に身を落とすと言うことは、母親は身分の低い人だったのだとは思いますが、何かご存知でしたら教えて下さい、
以前「資盛の謎」の所で、資盛と建礼門院右京大夫の娘が秘妙、静妙であるという説を拝見しましたが、何か関係あるのでしょうか?
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月02日 21時33分17秒 ) パスワード

takahiroさま

家保どののことも想像をめぐらしてしまいましたのよ。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月03日 01時29分40秒 ) パスワード

念のため削除した14の書き込みをここに書き写しておきます:


[14] 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月02日 21時32分25秒 )


>平家が滅亡したとはいえ、
>資盛の娘が遊女に身を落とすと言うことは、
>母親は身分の低い人だったのだとは思いますが


右京さん
初めまして。


全く分かりませんが上記の部分には異論がありますので書いてしまいますね。
この部分がスルーできなかったので。笑


まず
壇ノ浦で平家が敗れて(平家に限らず地球上のどの時代のどの国でも戦いに敗れた側は)
女達が身を落としたことは御存知ですよね?

下関にはそれを記念した祭りがありますよね。

太平洋戦争後でも華族の女性が身体を売って生きなきゃいけなかった時代がありました。



ですから妙さんが身分の低い女の娘ではないか?というのはイコールでは語れませんよね。



その上西行という人物のことをお知りでしたら
彼が身分の低い人間を相手になどしないことも御存知でいらっしゃいましょう?
たとえば木曾義仲のことでもバカにしている。


その西行ほどのプライドの高い歌読みが遊女に感心をしたということは
彼女がどのような女性であったか
おのずから答えが出ていると思いませんか?


西行が相手をしたとしたら
物凄い家の血を引き教養豊かで歌も西行が驚く上手だった
または
西行が彼女の歌に驚き調べたら立派な家の血を引く女性だった
そういう女性だったと思いますね。


西行はすがる妻や子を蹴飛ばして出家してますものね。
妙さんもそのような心を持った女性だったのではないでしょうか?


こうしていろいろ想像して空想を膨らませるのって楽しいですね。
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月03日 02時27分04秒 ) パスワード

右京さん

やだあ〜(笑)
確認のためにhttp://www.city.osaka.jp/higashiyodo/walk/spot02.html で調べたら
>仁安2年(1167年)の秋、歌人西行法師が遊女妙に出会ってる
んですねえ。


全然時代が違うじゃないですかあ〜
1167年なんて資盛の生まれ年が1158年ですから
当時の資盛に歌を返せるようなそんな大きな娘がいたとは思えませんねえ〜(笑)


>>>妙は資盛の娘とのことです。

ということは(13)の書き込みは成立しませんねえ。



吉川英治の作品だったか江口の遊女と親交のあったのは資盛の祖父の清盛だったように記憶しています。


西行は崇徳上皇方でしたよね。
ということは西行が清盛と関係があったかも知れない女の家に泊めてくれなんて
あのスゴイ性格の人ですから
本当に泊めてくれと言ったなら西行に心境はいかばかりでしたでしょう(笑)


と思いましたので書き込んでおきますね。笑
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月03日 02時41分14秒 ) パスワード

以上のことを踏まえて2人の問答を読み直しますと
また味わいが出て面白くなりますね。


昔って人の家を訪ねるのに使いをやって問うなんて聞いたことがありますが
妙さんには清盛の敵方の武士だった西行を泊めるなんて冗談じゃない。
それで断った?

断られた西行さんは「なんで俺ほどの人間を断るんだ〜」と再度しつこく泊めろと

西行:「世の中を いとふまでこそかたからめ かりの宿りを惜しむきみかな」
妙女:「世をいとふ 人としきけば仮の宿に 心とむなと思ふばかりぞ」


西行さんは「やられた〜!」かな?
2人は大笑いしたのでしょうか?

このやりとり面白いですね。


妙さんの頭の良さ
こういうところが清盛や西行に愛されたのでしょうね。

やっぱりそんじょそこらの馬の骨の出の女性だったとは思えませんね。笑
[20]右京さんからのコメント(2005年10月03日 22時10分29秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん

コメントありがとうございます。
確かに、年代が合わないですね。

2つの別の話があるように思います。

・淀川岸の江口の里は交通の要所で遊女の里でもあり、遊女の中には没落有力貴族の子女も含まれていた。旅の途中の西行が立ち寄り、江口の君(妙?清盛と関わりのある女性?)との歌のやりとりがあった。これが1167年。

・資盛の娘(妙?)が平家没落後、乳母の郷里・江口で遊女になったが、後に出家し、ここに庵を結び寂光寺の基となった。これが1205年。

この2つの話が混ざって伝えられたのではないでしょうか?

[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年10月04日 01時48分09秒 ) パスワード

>この2つの話が混ざって伝えられたのではないでしょうか?

2つだけじゃないでしょうね。
能にもなってる江口の遊女話など
いろいろなお話がこんがらがっているのでしょう。


「江口の遊女」というのは今で言うと雄琴の女とかススキノの女というかんじで
普通名詞だったでしょう。

また「妙」というのも、これも仏教で言う「女」ぐらいの意味だったかも。
例えば女の子の名前で花子とか和子ぐらいの意味。


資盛の娘だったら
田舎在住の家来が引き取ったり
八条院でしたっけ?こういう資盛を可愛がった人が娘を引き取ったという
そういう事があったと思いますね。

一説には資盛の娘が江口に住む叔母を頼ったという話もあるので
江口=遊女というのも先入観から出た話かも知れませんし。


戦後華族制度が解体されて
武家出身の華族は田舎の家来が養ってくれて困らなかったって聞いています。
でも公家系の華族は宮内庁の役人が面倒をみてくれていたから
華族制度が空中分解したから宮内庁の役人も免職になって
誰も面倒をみてくれなくって
宮さまの中にも自転車に乗って仕事に出てた人がいたそうです。


平家の名のある人の姫でしたら
田舎で匿ってくれたり嫁に行ったりそういうことがあったんじゃないかって思いますね。
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