| [1] | ![]() | 永田さん からのコメント(2005年09月25日 21時50分27秒 ) |
パスワード |
補足ですが、当家は幕末まで永田姓の他に山下姓を併用していました。
| [2] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2005年09月25日 23時59分06秒 ) |
パスワード |
永田さん
初めまして。
まったく分かりませんが
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100598.html
に 永田さん=長田さん のお話があります。
御一族かもですね。
| [3] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2005年09月26日 00時07分56秒 ) |
パスワード |
永田さんというのはいろいろ流れがあるそうですね。
代表的なのは
近江国蒲生郡長田村から佐々木氏族で長田が永田に変わったとありますね。
状況証拠からではココかしら?
でも平氏でなく源氏にってしまう?
尾張国愛知郡出身の永田氏は津島神社系で平氏?
ということは南朝方ですね。
とすると当然反織田信長か?
浄土真宗なら宗教的にも反織田信長みたいですね。
笑
三河国額田郡箱柳の永田氏は藤原氏?
他の方よりの書き込みに期待しましょうね。
| [4] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2005年09月26日 01時59分53秒 ) |
パスワード |
お邪魔します 長田支流 箱柳永田です
丸に横木瓜(津嶋神社 社家の紋)
同属に丸に釘抜 この久琢(ひさあきら)家は近江源氏を詐称
信長の死後 秀忠に仕える
>三河国額田郡箱柳の永田氏は藤原氏?
我家はバリバリの平です(鎌倉期は源とか藤原を本家が詐称していました)
その結果、研究者も 永田は藤原だ と思っている
分家時に家紋も一緒に変えた効果が出ている
ご先祖様が、草葉の陰で高笑いしていそうで、、、忍び笑いかな?。
大橋、長田は有名な割りに未調査の家系です
(誰か調べてくれないかと切に願っております)
丸に抱き茗荷の永田様へ
初めて 丸に抱き茗荷の永田家を知りました 勉強不足ですみません。
(津嶋大橋系と良兼子孫の平氏は好い間柄ですので)
紋と苗字からは、長田の伊賀伊勢時代の分岐が考えられます
私の 直感では非常に近い家系と思います
近江源氏ですと一般的には4つ目結いのアレンジが多いです
参考の為に近州侍http://www6.plala.or.jp/gousyuu/index.html を
お勧めします。 佐々木哲氏が、力になって呉れると思います。
| [5] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2005年09月26日 08時53分36秒 ) |
パスワード |
箱柳の永田さん
さすが!(笑)
群馬の永田さん
もしかすると本姓と本紋の他に江戸時代あたりに登録した姓氏と家紋があり
江戸時代のいつぞかに復姓したり復紋してるかも。
わたくしの母方は家書によれば俗姓がいくつも書かれています。
江戸時代末期にやっと本来の姓に戻ることが許されましたが紋の方は許可になりませんでした。
永田姓と山下姓の2つあったということは我が家のような事情があったかもです。
多分江戸時代にその前の合戦で負けたために商人となり姓や紋を替えた可能性があります。
丸に抱き茗荷紋の他に使用なさってた紋が分かると良いですね。
わたくしの母方は大坂の役で敗れて落人になりその時に姓を変え紋を替えています。
お宅さまには南朝方だったという言い伝えはございませんか?
平家だったら南朝方だった可能性が大きいんじゃないかと思いますが
滋賀あたりだと佐々木源氏系を称した可能性もありますね。
(元に戻っちゃった、ごめん)
わたくしの母方の一族も「源氏方」だったことを「うちは源氏だった」と断定で語りますし
楠木正成と同じ南朝方で戦ったことから「菊水紋を使ってたこともある」と語りますし
ま、部分的には確かにそういう時もあったけれど
大筋では違う
というのをなかなか納得してくれません。
群馬の永田さんの一族の皆様が一同に会して御当家に伝わる話を披露し合うことが出来ると良いですね。
来年のお正月にもそういう機会が持てるように今から御準備なさってはいかがでしょう?
御一族の明治の初めの御先祖さまの戸籍まで遡って取得なさって
明治の初めにお住まいだった地域の皆さんにお手紙を出しまくってはいかがでしょう。
早くなさいませんと御存知の長老のかたが鬼籍に入ってしまわれます。
今回がその最後のきっかけになるかも。
| [6] | ![]() | 日本の苗字七千傑さん からのコメント(2005年09月26日 21時08分00秒 ) |
パスワード |
| URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm |
永田は天下の大姓で異流も多く、系図も過去帳も無いとなると困難である。
また抱き茗荷紋は縁起が良いことから出自に関係なく広く使用されている。
参考情報として、
近江国蒲生郡長田邑発祥の宇多源氏佐々木氏流の政相系幕臣永田氏が、
抱き茗荷を定紋としている。
| [7] | ![]() | 永田さん からのコメント(2005年09月26日 21時34分35秒 ) |
パスワード |
皆さん、貴重な御意見をありがとうございます。
言い伝えによりますと、当家は南朝方ですし、近江国蒲生郡長田村のナガタでないことは判明しています。(故人ですが、既に焼失した系図を見たことのある住職の話によれば、起源が桓武天皇で平姓の名前も載っていたとのことなので。まぁ、系図の信憑性がどのくらいのものかは分かりませんが、どうせ嘘の系図を作るなら源氏にするでしょうし。)
また、今は使っておりませんが、揚羽蝶の紋の変体で、桜の花で揚羽蝶を表現したものも使用していたそうです。(これも平家につながる?)
当家は一族の本家(小さな意味で)だったので、戦前までは近江に残った分家からお中元やお歳暮が届けられ、連絡も取り合っていたそうですが、戦争で音信不通となったので今では向こうがどのような状況なのか全く分かりません。
一応むこうに残した屋敷の登記証も残っているのですが、今や効力は無さそうです。
群馬に一緒に来た分家も、既に途絶えてしまっており、今群馬に住んでいる分家は昭和以降に当家から分かれたものだけの状態です。(群馬では永田姓は珍しいので孤立無援の一族です。涙)
戸籍調査は試みたのですが、群馬へ来た本人のものは無く、二代目からのものしかありませんでした。
・・・どうやら謎のままですね。
| [8] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2005年09月27日 01時28分37秒 ) |
パスワード |
群馬の永田さん
ということは本紋は桜に蝶かも知れませんね。事情があって抱き茗荷紋に替えた?
本姓は平氏で俗姓が永田→山下→永田と変遷?明治時代に永田姓で登録したということですね。
近江国蒲生郡日野町の町史というのが手に入ると良いですね。
滋賀県教育委員会あたりで編纂していると思いますよ。
近江商人の歴史は日本史上でも大切ですものね。
江戸時代に平氏だの平家だのを通したということはかなり骨のある御家だったと思いますね。
または源氏や藤氏に詐称が許されなかったという事情があったかも。
>>>>どうせ嘘の系図を作るなら源氏にするでしょうし。
と思います。
愛知県の津島神社関係の永田氏ですと平家+南朝方+反織田信長あたりでスッキリ収まりますね。
機会があって戦国時代あたりで滋賀に移ったというのも考えられますしね。
やっぱり頑張って除籍謄本をお取りになるのが良いですね。
御自分から遡って父上のを取って祖父上のを取って更に曽祖父上のを取って
1人1人直系の御先祖さまのを丹念に取っていくのです。
時間もかかりますけど。
江戸時代の終わりに生まれた御先祖さまのを取るのです。
それから登記証もお持ちでしたら家の所在地が分かりますね。
近江国蒲生郡日野町に永田姓の御家が見つかると良いですね。
系図ってけっこう写しをどなたかがお持ちという可能性もありますよ。
我が家は結婚の時に伯母が系図交換というのをやってるのでその時の写しが残ってます。
今でいう戸籍謄本の交換(見せ合いっこ)みたいなものだと思います。
でも系図は「見せてくれ」「あいよ」という簡単なことじゃないので(出して来るのも大変ですし)
それなりに相手に納得のいく手続きやらをしないと持ってても「ない」と断られるでしょう。
とにかく近江国蒲生郡日野町の永田家を捜して親しくなることが第1歩ですね。
昔のよしみを作り直さないと。
わたくしでも母方の系図の写しを手に入れるのに時間がかかりました。
大叔母が系図を持っているという話を子供時代にちょっと聞いてから30年はかかったと思います。
あちこちで断られ、持ってる筈の人から無いと言われ、空襲で焼けたという話も聞きましたし
そしたら母の姉が結婚の為に写してたという話が聞こえて来て手に入りました。
思わぬ人が持ってたのです。
一族を纏めるというのはお金もかかって大変ですけど
返信封筒を入れて皆さんに知ってる事を書き送って頂いたり
そういうのを纏めて、再び送って、返信に期待したり
1年に1度か2度御先祖便りというのを定期的になさったらその内に重要な話が聞こえて来ますよ。
| [9] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2005年12月25日 18時04分15秒 ) |
パスワード |
抱き茗荷の永田さん
近江膳所で三代目永井本家が7万石を跡継ぎ無しで断絶しています。
原因 寛永寺で内藤某(浅野匠の叔父)に刺され死亡
家老に永田がいます(末期養子として永井を名乗る)断絶後永田に戻る
再興した永井は美濃加納に(永田は家老として再就職している)
この間5万石以上の差がありますので、あふれた人は(特に分家)帰農した可能性が高い。 もし似たような言い伝えがあればと書きました。
| [10] | ![]() | 熊本泉村の永田さん からのコメント(2006年08月03日 18時00分40秒 ) |
パスワード |
初めまして
私も同じ永田姓です。
私の先祖は熊本県泉村の栗木という所に
住んでいたらしいのですがこの熊本県の永田姓のルーツは何処の誰なのでしょうか?
知ってる方は、ぜひ教えてください。m(__)m
| [11] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2006年08月04日 01時42分31秒 ) |
パスワード |
熊本泉村の永田さん
全然分かりません、どなたかが書き込んでくださるのを待ちましょう。
でも御自分で出来ることもありますよ。
明治の初めの御先祖さまの戸籍謄本(除籍謄本)をお取りになり
そこの住所の近辺にお住まいの永田姓の方が御親戚かも知れませんから
お訪ねになってはいかがでしょう。
永田家の総本家が見つかると良いですね。
また家系図・家書・家紋・菩提寺など話題に出して情報を頂きます。
明治の初めにお住まいのところは江戸時代に住んでた所でしょうし
また明治維新で戻った所=先祖の地=の可能性が高いです。
それから地元の教育委員会の歴史編纂課の作成した資料を取り寄せます。
古代から現代に至るまで調べてますよ。
大きな図書館にはある筈です。
もうすぐお盆ですから
御親戚の長老の方からお話を聞けると良いですね。
どこの家でも良く知ってる人や系図を持ってる人(それを知ってる人)がいます。
そういう人が見つかると良いですね。
| [12] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2006年08月12日 14時07分54秒 ) |
パスワード |
>熊本県の永田姓のルーツは何処の誰なのでしょうか?
あまり役に立ちませんが、私の理解しているところで
1 文書では区別できない 血流に
A平氏長田(おさだ) B長田連(ながたむらじ)長田臣(おみ) の2つある 臣連は多数あり(血族関係は確認してません)
2 両長田は異属であったが、都へのパイプと現地での実力を統合する為
姻戚関係になることが、多かった。(源平藤橘に収斂する時代)
3 源氏の迫害により 長田から 永田や他田(おさだと読みます
臣連の時代よりある名です)他の姓を選択する
4 地形 開発者名(長田)の地名を 名乗る 新興領主が現れる
5 明治以後 永田の復姓 新姓が固定する
千年上がろうと思えば 20から30の長田のどこかに収斂する
しかし 2の状態を経てますので、平氏以外の文献は極めて少ない
3の状態を経て5に至る間の詐称、付け替えを精査するのは困難を極める
家紋を中心に遡ることをお勧めします
以上私の考え方です
幸い我家は四百年の物証と本家長田が碧南大浜に存在していたので
確認できました。
| [13] | ![]() | 鹿児島の永田さん からのコメント(2006年12月20日 23時55分45秒 ) |
パスワード |
永田です。
家には鎌倉時代からの系譜があるんですけど
祖先は「長田」さんでした。
都落ちした平家だそうです。
ご先祖様は伊勢神宮の宮司さんだったようで
ヤタガラスのボロボロなオフダみたいのが家宝です。
ここにいる永田さんと何か繋がりがあれば面白いと思って
書き込んでみました。
| [14] | ![]() | 熊本泉村の永田さん からのコメント(2007年01月03日 00時10分11秒 ) |
パスワード |
お久しぶりです。
さっそく親戚の方にいろいろ聞いてきたのですが
我が家の家紋は祖父の代でまったく別の家紋に変わってしまったそうです。
曾祖父のふるい写真がありますがその写真に写っている家紋も
怪しいです。(ちなみに木瓜紋でした。)
それから本家が見つかったので訪ねようとしたのですが
我が家と本家は敵対関係にあるようで(5年前にどちらが本家なのか争ったらしいのです)
結局、本家訪問は無理でした。。。。。
| [15] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2007年01月03日 02時22分15秒 ) |
パスワード |
熊本泉村の永田さん
>我が家の家紋は祖父の代でまったく別の家紋に変わってしまったそうです。
>曾祖父のふるい写真がありますがその写真に写っている家紋も
>怪しいです。(ちなみに木瓜紋でした。)
家紋は、今は、姓とは違って国の規制を受けないので
好きなのをつけたら良いのです。
とはいえ16弁の菊や葵の御紋をつけたりしたら世間が笑うでしょう。
でも、それ以外だったら、自由ですよ。
お祖父さまは御自分の思いから紋を替えたのでしょう。
そのお祖父さまの思いを尊重なさってあげてください。
曽祖父さまは木瓜ですか。
でも明治の初めあたりですよね。
ということは江戸時代にその紋を使っていらっしゃったのかもですね。
木瓜って名古屋には多いそうですよ。
織田信長絡みなのかな?と想像します。
もし御先祖さまが尾張出身なら合うけど。
>我が家と本家は敵対関係にあるようで(5年前にどちらが本家なのか争ったらしいのです)
これはよくあることですよ。
わたくしの母方でもいろいろあって私が引っ掻き回して母や伯母達の心象を悪くしました。
外野には関係無いから「どっちもどっち」なんですけど
当人達には重要な事です。
本家だ、総家だ、元祖だ
こういうのは「金銭が絡む」と余計こじれて裁判沙汰にもなります。
当人達には死活問題ですから。
熊本泉村の永田さんが気にかかるというのは
御先祖さまから「仲良くしろよ」とメッセージが来てるからなのかも知れませんね。
でも、こういう争いって仲良くしろと言われて簡単に出来ることじゃないです。
当事者が生きている間は、腫れ物には触れない方が良いでしょうね。
余計こじれますから。
暫く文献探しに精をお出しになるのが良いでしょうね。
熊本に永田さんとおっしゃるとても知的な御一家がいらっしゃいました。
熊本だったら平家関係か南朝関係か織田信長関係か。
1度尾張の知多半島なんか散策なさってはいかがでしょう?
内海とか野間とか
あのあたりは平安時代の長田家が支配してたエリアなので。
(当然源義朝が暗殺された所でもありますが)
このあたりに何か感じるものがあれば御先祖さまの地かも。
| [16] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2007年07月09日 18時52分55秒 ) |
パスワード |
鹿児島 永田様
確認に時間がかかり 遅くなりました
大隈半島に 長田忠致の次男 致将が城を築いていた記録が有りました
山田城(やまだじょう)肝属郡南大隅町根占山本
治承-寿永年間1177-85
この人は平忠常の子息で 忠致の養子となり次男になっています
実父のお陰で粛清を免れたと思います
私見ですが
恐らく 壱岐の守 代理として壱岐の赴任し 統治をしたと思われます
その後 薩摩大隈へ 移動(長田の場合 航路で思考する必要あり)
幕府成立時に 守護地頭の与力? 家来?として土着したと考えていますが いかがでしょうか
忠致には愛知豊田 司町と 静岡浜松 和田町に居住の記録がありますので
壱岐にはいってないと思われます
長男は富士の北で共に戦死していますので 司か和田のどちらかで
恐らく忠致の近くにいたと考えます
お札について
長田の家では牛頭天王社や 熊野神社を祭っておりますが、神社の名前は
何でも良いのです(明治政府が統廃合したお陰で、小さな神社は名も無くなり大きな所でも 改名してますから)肝心なのは祭神が(スサノオ)の尊である と言う事です
熊野神社の遣いは カラスで 祭神の一人は スサノオですから
かなり (心情的に)近い所にいる方であろうと想像しているのですが
| [17] | ![]() | 箱柳永田さん からのコメント(2007年08月20日 12時59分08秒 ) |
パスワード |
抱き茗荷 永田 を見つけました
お盆に長田忠致の4男後裔を名乗る永田家が
袋井市浅羽町諸井にあるという噂を確認するために出掛けました
この家が、神社に納めた十一面観音は明治に廃棄され
菩提寺の松秀寺が拾い上げ安置した事を浅羽の郷土館発行の
郷土史で確認しました
(箱は神社に 裏面に寄進者長田庄司名 郷土史写真より)
観音像は寺に有り 観る事が出来ました
後 子孫の方を尋ねあて再確認をしました(代々庄屋さんを勤めた家)
神社は王子神社でやはりスサノオ系でした
| [18] | ![]() | 暇潰しのギャンブラーさん からのコメント(2007年08月21日 00時56分22秒 ) |
パスワード |
良かったですね。
観音さまも無事に保護されてて良かったですね。
そして此処に書き込まれて
ホントに良い2007年のお盆になりましたね。
| 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
||||||||||||||
| ◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.25 SAG. |