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 投稿番号:100742 投稿日:2005年02月02日 22時30分59秒  パスワード
 お名前:鹿島の守
「高場」の出自はどこ?
キーワード:「高場」
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

「吾妻鑑」の養和2年1月28日の「太神官に奉られるべき神馬の事」で高場の次郎進す1匹の青黒が高場次郎が郎従の生澤の五郎がこの馬の取り扱い不注意にて頼朝が不機嫌になる場面がありますが、この高場氏はどこの氏姓かご存知のかた、教えて下さい。

[1]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月03日 03時31分14秒 ) パスワード

全く分かりませんが

高場という名字は地名の高場から出ているのではないでしょうか?
茨城県ひたちなか市の高場じゃないかと想像しています。


その根拠とするのは

   一疋鴾毛  江戸の太郎進す   一疋河原毛 下河邊の四郎進す
   一疋栗毛  武田の太郎進す   一疋栗毛駮 吾妻の八郎進す
   一疋青黒  高場の次郎進す   一疋鴾毛駮 豊田の太郎進す
   一疋鹿毛  小栗の十郎進す   一疋葦毛  葛西の三郎進す
   一疋白栗毛 河越の太郎進す   一疋黒瓦毛 中村庄司進す

からです。


1番の正攻法鎌倉幕府の御家人のリストを見ることだと思います。
[5]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月03日 04時42分04秒 ) パスワード

土地鑑ゼロの人間が書いてるので御容赦を。


鹿島神宮関係なら元は桓武平氏(坂東平氏)でしょう。


茨城県の南(下総)は坂東平氏の土地ですねえ。
茨城県の北の常陸国は佐竹など源氏だけど治承4年頃は平家の味方をした。


茨城県の教育委員会の歴史編纂課に問い合わせたら「高場の次郎」のことが分かると思いますよ。
今でも引き続き「大日本史」の編纂をなさっていらっしゃるので頭が下がります。
わたくしも先祖のことでは大変お世話になりましたのよ。


大きな図書館に土地の歴史を書いた本があるそうですから、そこでお調べになってみてはいかがでしょう。
[7]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月03日 05時06分34秒 ) パスワード

ちょっと調べてみました。

下河邊氏は藤原秀郷の子孫だけど
あとは
桓武平氏の子孫が多いですねえ。

特に下総国関係者は
良文子孫の吾妻氏と
平貞盛の弟の繁盛の子孫(大ジョウ氏)の子孫の皆さんみたいなんですねえ。


平 江戸の太郎   藤 下河邊の四郎
平 武田の太郎   平 吾妻の八郎
? 高場の次郎   平 豊田の太郎
平 小栗の十郎   平 葛西の三郎
平 河越の太郎   平 中村庄司


武田の次郎さんは甲斐源氏かと思いましたが
大ジョウ氏に武田さんというのがいますから
平氏なんですねえ。

ということで高場さんもひたちなか市の高場さんなら坂東平氏みたいですねえ。
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月03日 05時50分07秒 ) パスワード

平熱のオカルト事件がわたくしに、たった今、起きましたので記しておきます。


上記の武田氏。

最初は甲斐武田かと思いましたが
調べてみたら坂東平氏の武田らしい

そう書きました。


そう書いてからメールチェックをしましたら
なんと平家パワーを受けていらっしゃる方より

「御先祖さまゆかりの土地の武田はどこかと探したら常陸国那珂郡の武田で
ここから甲斐武田が発祥した」

とメールを頂いていたのです。


わたくしがせっせとここに書き込みをしていた時
同じことをお考えの方がいらっしゃって、わたくしに書いてくださっていらっしゃいました。


常陸国那珂郡武田郷は重盛の知行地で武田は平家に仕えていたとお書きだったのです。

それで慌ててここにその奇遇を書き込んだ次第であります。
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月03日 05時56分56秒 ) パスワード

鹿島の守さんも一生懸命御先祖さまを敬愛なさいましたら平家のオカルト・パワーを頂けるかもですよ。

御先祖さまの方から働きかけてくださるんです。
一生懸命お調べになりましたら御先祖さまが答えをくれます。
丁度このように。


わたくしだって「高場氏?鎌倉の御家人でしょ?源氏板で訊いた方がいいんじゃないの?」と思いつつ
平家のオカルト・パワーが「香取・鹿島は関係あるんだから調べてあげなさいよ」と言うので。


平家はスゴイ!
[10]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月03日 05時59分32秒 ) パスワード

ひたちなか市って漢字変換が出来なくて
どういう漢字を書くのか?と思いましたが
常陸那珂ということだったんですねえ。


物理的に8500km離れててもオカルト・パワーは時空を越えるんですねえ。
いやあ久し振りでしたあ〜
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月03日 10時37分05秒 ) パスワード

教えていただいた事をここにちょっとお裾分け:


常陸国の武田郷は

・平氏系(常陸大掾一族)と源氏系が入り乱れているのですねえ。
・源氏の武田さんは源義光の子が佐竹と武田に分家しているんですねえ。
 武田の産みのママは鹿島清幹の娘だそうで。


余談:
足利さんだって
源氏の足利さんと藤原氏の平家に仕えていた足利さんがありますものね。
今は源氏の足利さんの方が市民権を得ていますが)


甲斐の武田有義さんはもとは重盛の剣持ちだったとか。
それで頼朝の剣持ちをさせられそうになって逐電したという話もあるそうです。


久慈は実は母方の先祖の関係者が承久の変で敗れ流されここで斬られています。
常陸も切っても切れない場所なのでございます。
[12]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月03日 10時42分15秒 ) パスワード

結論としまして
平氏源氏どちらかと言うとやはり錯綜しているのかもですね。
血で言ったら絶対混じっているでしょうし。

常陸ですから源氏かも。
でも元は平氏で頼朝に従って以降「源氏方」を称しているのかな。
それが誤って今は自称源氏で定着してしまっている?


鹿島神宮との関係が深ければやっぱり常陸大掾平氏一族ということになるのかしら?


その内に他の方も書き込んでくださいますよ。
[13]鹿嶋の守さんからのコメント(2005年02月03日 21時42分16秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、本当に参考になるお話をいただきまして有難うございます。今日は叔母が入院したので、水戸へお見舞いに行って、今、帰ってきました。出掛けに10話まで読んでいましたが、今さらに2話増えて12メールになっていたので、いたく感激いたしています。電車の車中からでありましたが、偕楽園の梅も少々開花しはじめおりました。後10日間程で見ごろになるようです。ご紹介頂いておりますので、後日あらためて水戸へ行き、茨城県の教育委員会の歴史編纂課及び「大日本史」の編纂をなさっている方にお会いして、お話を伺ってくるつもりです。私の両親は水戸の出で、ご先祖さんは鹿嶋郡の柏熊村で鹿嶋神宮末社?の神官をしていたとのことで、頼朝軍に烟田氏が加わったのでこの一群に集められて参加させられた、とのことです。しかし疑問だらけで、まず末社が鹿嶋神宮の本敷地の外にあって、しかも目と鼻の先で、神官なぞおくだろうか、いささか疑問です。そして何か良い働きをして頼朝に即決で常陸那珂の土地を貰ったというのでしょうか。そうでなければ、1年半ぐらいで「高場の〜郎」などの名が付かないとおもうのだが?・・・以上、単純な素人のぎもんでした。「鹿島の守」は「鹿嶋の守」に変更します」。鹿島は佐賀です。
[14]鹿嶋の守さんからのコメント(2005年02月04日 00時49分09秒 ) パスワード

神と馬とのかかわりあいは、古くから馬は神の乗物として神聖視され,祈願に生馬を献上する風があった。黒毛の馬を献ずるのは雨乞祈願,白毛の馬を献ずるのは止雨祈願をすることで『続日本紀』の763年(天平宝宇7)の条に記載されている。水の神に馬を献じて祈る習俗から当時雨乞いを必要とする位雨が降らなかったので、10頭の馬から高場の次郎の黒毛の馬が選ばれたのであろう。ところが郎従が馬の世話をサボって怠った為、伊勢神宮に向かって出発する時になって、毛艶がおちて見るも無残なお馬さんになっていたので、頼朝さんが怒ってキジルシになって、かんべんならないって、きっと斬首とか言ったんだろうと想像できる。伊勢神宮の宮司が「血で汚してはいけない」と頼朝にとりいった為に許されているので、このように想像できる。嵩神天皇の時より鹿嶋大明神に馬を献上される習があることより、馬が沢山鹿嶋神宮にはいたと想われ、高場の次郎は末社の宮司ではなくて、今でいう牧場の場長だったのではないのかなと想像している。
[16]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月04日 05時35分03秒 ) パスワード

御存知と思いますが

高場の次郎が平氏出身なら当時の名乗りは「本姓平氏俗姓高場の次郎の某」になります。

日本の俗姓というのはゴマンと変化する可能性がありますから
俗姓から本姓を遡って捜すというのは難しいです。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月04日 05時49分55秒 ) パスワード

日本の名字は複雑すぎて難しいですねえ。


(7)の武田の太郎さん

「武田の太郎進す」
武田は場所名または俗姓ですよねえ。
武田んとこの太郎。


この「武田」は甲斐の武田なのか?常陸の武田なのか?

常陸から甲斐に行った武田の一族が1180年パパ信義と平家に反旗を翻し頼朝方についた。
この人は武田有義。
ママは鹿嶋の娘。
この人が「一疋栗毛  武田の太郎進す」とは思います。

1188年頼朝の剣持ちを辞して頼朝の怒りをかい
後に梶原くんと一緒に組んで負けて逐電。


この人も面白い人物ですねえ。
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月04日 05時58分16秒 ) パスワード

鹿嶋の守さん

高場氏はもともと常陸国那珂郡高場の豪族だったのは確かでしょう。

ここのところが聞けると良いですね。
どうして、いつ、誰が高場に来たのか?
そういう記録が分かると良いですね。


そして高場の「太郎」さんはどっちに付いたのか?嫡男という意味です。
ひょっとして平家方?
1つの家で分かれて戦ったというのは充分ありますから。
(伊豆の大庭の家でも兄弟が敵味方に分かれて戦っています)


>烟田氏


かまたさん。
ここも鹿嶋の一族ですねえ。


常陸国の歴史を一式全部頂けると良いですね。


鹿嶋の守さんの御先祖さまは鹿嶋神宮の押さえとして当時始められた神社の神主さんが御先祖さまでしょうか?


>何か良い働きをして頼朝に即決で常陸那珂の土地を貰ったというのでしょうか。

もともとが豪族で、そこの次男だった、ということでしょう。
それで高場の家督は次郎さんが相続することになったかもですね。



>そうでなければ、1年半ぐらいで「高場の〜郎」などの名が付かないとおもうのだが?

「高場んとこの次男」という意味ですから
もともと通称でそう呼ばれていたと思います。


10人の錚々たる御家人の中に名前を並べているのですから
それに馬を献上する役目ですし
もともと常陸那珂の豪族だと思いますよ。


下河辺さんが藤原氏ということで9人の坂東平氏を抑えてリーダーだったのかな?とも思いました。
[19]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月04日 06時35分54秒 ) パスワード

高場の次郎さんが鎌倉幕府の御家人になったのはどうやら本姓平氏の鹿嶋神宮影響のようですね。
高場氏が鹿嶋一族の中でどういう位置にあったか、そこが分かると良いですね。


もともとは平氏の常陸大掾一族の致幹が源頼義・源義家に従って「前九年・後三年の役」で活躍。

源義家はこの大掾致幹の娘を妻にし、
義家の弟の義光の長男の義業が鹿島成幹の妹を妻にした。

こうして常陸大掾一族および鹿嶋一族は血で源氏と結びついた。


治承4年(1180年)の源頼朝の旗揚げに一族が参加。
以後、鹿島氏は鎌倉御家人に連なり、勢力を拡大していった。


そして南北朝時代は北朝方で北畠を攻めた。

さらに戦国時代に佐竹に一族を虐殺された。

かな?
[20]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月04日 07時00分01秒 ) パスワード

桓武天皇ー→平姓を賜い臣下に下るー→常陸国へ下向し大掾一族ー→鹿嶋ー→高場

こういう流れでしょうか?


鹿嶋一族の支流と思いますが名が残ってないですね。
どこで絶えたのでしょうか?
[21]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月04日 07時16分31秒 ) パスワード

甲斐源氏となった常陸の武田もやっぱり元は常陸大掾一族の支流の治める土地であり家だったのかしら?と。

初めに常陸大掾の武田があって源氏の父子が乗っ取ったのかな?と。


佐竹の動きも面白いですねえ。
[22]田中愛造さんからのコメント(2005年02月04日 17時13分22秒 ) パスワード

 常陸国那珂郡高場に其の地名あり。鎌倉初期には領有する地名を誇示する意味において、武家の殆どが出身地名を名乗り、之が氏素性として名字に変化したのは周知通りで有ります。暇の無い、暇潰しのギャンブラー様のご努力に有り難く頭が下がります。少し調べましたので違った見方をして見ます。
 茨城の高場氏は(丸に四つ目紋)宇多源氏佐々木氏族と、小林先生の「都道府県・姓氏家紋大辞典」に記されて居り、他・山口の高場氏(上がり藤に大の字紋)広島の高場氏(丸に四つ目紋)土佐の名族、とあります。謂わずと知れた四つ目結は佐々木氏の紋で一族全てが同紋を使用しております。氏族庶流を探しましたが高場の名が見当りません、然し乍ら四つ目は佐々木の独占に等しく、違い無かろうと解釈致し、次に、土佐の名族を見ると、福岡藩眼科医高場氏に高場正山あり、之は元陽(乱)父で幕末には有名ですが、其の祖、福岡藩医として迎えられたのが高場進士兵衛順世〜1686没で、彼は熊本の天草藩寺沢氏に仕え天草の乱後主家の没落で筑前に移る、其の祖は、土佐の一条氏に仕えたらしいが一条衆53家の中には見られない、然し野中氏等と共に長宗我部に下り更に又、長宗我部滅亡で浪々す。
 常陸と土佐の高場氏の考証は、離れすぎ難しくも有りますが共に(丸に四つ目)を使用するに於いては同族だと思います。尚、家紋としての文様は鎌倉時代に四つ目結が流行したのも考慮しなければ成らないと思います。高場の次郎の郎従の生澤が小山朝政に預けられたのも、その勢力が大で有った事が伺い知れます。
[23]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年02月04日 20時39分20秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

高場氏の発祥地名としては、
常陸国那珂郡高場邑、筑前国夜須郡高場邑の二カ所が存在します。
地名は発祥だけでなく、移住して地名が遷移したことも考えられます。
また高場氏の家紋としては、四つ目結が多い傾向にあります。
ここからが推測ですが、筑前国夜須郡と土佐国香美郡のいずれにも夜須庄があり高場氏が多く、夜須は安、野洲に通じることから近淡海安国造(近江国野洲郡を中心とした地域の国造)の後裔が移住した地域と推定されます。
近淡海安国造は開化天皇皇子彦坐王の後裔です。
従って上古の近淡海安国造の後裔が後世の宇多源氏佐々木氏族(四つ目結紋の使用傾向が強い)に吸収されて、常陸、筑前、土佐をはじめゆかりの土地等へ移住した可能性が高いものと思います。
[24]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月04日 23時16分34秒 ) パスワード

田中愛造さん
日本の苗字七千傑さん

ありがとうございます。
佐々木が出て来ましたか。

鹿嶋一族なら雷さんの紋だとばかり思っていました。


4つ目結紋ということは佐々木ですねえ。
まぎれもなく。
姓氏家紋は本当に難しいですね。
[25]鹿嶋の守さんからのコメント(2005年02月04日 23時53分47秒 ) パスワード

すごい、凄い、こんなにいろいろなことが判明してくるとは、想ってもいませんでした。ご先祖様がどんどん天上人になっていくので、怖いぐらいです。「田中愛造さん」や「日本の苗字七千傑さん」が、高場氏の家紋としては、四つ目結で宇多源氏佐々木氏族かな?と想定されています。私の家の家紋は茨城県の家紋使用では上位にある「丸に違い鷹の羽」です。1604年ごろ浅野長政が老後の年金として5.5万石を徳川幕府から頂いて常陸に居住しました。その後、元禄時代の赤穂事件が起こり、あの浅野家の紋所が当時常陸から下総方面にかけて一大ブームになり、「あの家紋がかっこいい」といって、阿蘇氏・菊地氏・阿倍氏でもないのに、藤原をはじめ源平入りみだれての家紋変更をした家が沢山ありました。それが証拠に、坂東の地なのに、現在、茨城県と千葉県では「丸違い鷹の羽」だらけです。当方のご先祖さんもこの時、元禄平和ボケで「もう戦なんか起きない」とおもって、「丸の四つ目結」をこのとき変えたかもしれません。
[26]鹿嶋の守さんからのコメント(2005年02月05日 01時27分58秒 ) パスワード

暇潰しのギャンブラーさん、田中愛造さん、日本の苗字七千傑さん、三者三様それぞれ他人のご先祖さんのことで悩ましまして・・・ごめん。もうお分かりだとお思いでしょうが私はこの世界において、かなりのズブノ素人です。そうなんです、トーシロウなんです。歴史の事は高校時代以来何十年もたっています。お三方の様にアカデミックな文章もかけませんが、おおめにみてください。

そこで甘えさせていただいて、大胆な仮説をたててみました。

あの事件で「高場っちの次郎」は郎従の出来事は主人と同罪ですので、完全にコケました。ところが救いの手を差しのべるお方がいるではないですか。そうです、梶原さんです。あちらも事情があって、「いざ梶原!」の時に死んでくれる人の人材募集中だったのです。そして1200年の梶原さんが落ちていった後、豊丸も梶原内羽黒7人衆に伴われて甲斐経由で落ちてゆきます。7人衆の内の「寺澤右門充重」の側よういんとして「高場っちの次郎」も落ちてゆく。時代は信長→秀吉→家康となり、寺澤家は関が原で東軍につき、戦功により唐津の大名になった。後は「田中愛造さん」の説明通りで高場乱に至る。さて次は土佐の豪族をどうするかだが、これは正治2年1月20日、梶原景時本体は滅びましたが、残党及び景時子孫は沼島に落ちていったとのことですので、当然このルートにも「高場っちの次郎」一族がいたのではないかと想定できる。

後、気になっていることは、尾張国甚目寺の南大門が頼朝に命じられて、みずから普請奉行となって梶原景時が再建しています。「次郎」が頼朝に叱られたのが1181年でこの南大門の再建が1196年です。次郎は梶原一族に引き取られてから15年たってます。私のクエッションは、現在、この甚目寺駅前一帯が「高場」であり、昔は「高場村」であった。これは「日本の苗字七千傑さん」のおっしゃるところの「後裔が移住した地域」でよいのか調べてみようと思っています。名古屋にも「高場」さんが結構いますし、「高羽」さんもいます。かなり以前に大府の市長さんが「高場」さんでした。

因みに、私は寒川の一宮に生まれて22年間すんでいました。歴史は特に勉強していなくても、梶原一族のことは古老からよくきいていました。但しアカデミックではない。いわゆる、古老がいうには・・・・・っていうお話のたぐいです。また名古屋も5年間すんでいました。そのときは特に気にもしていませんでしたので甚目寺の前は普通に通りすぎていました。


[27]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月05日 03時31分25秒 ) パスワード

鹿嶋の守さん

しっかり御先祖さまのお導きがあるではありませんか。

寒川とは梶原クンのゆかりの地ですし
梶原クンは愛知県の春日井に所領地を持ってましたし(岐阜県知事さんが梶原さん)
確かに「高羽さん」って名古屋にいますねえ。
甚目寺のことは知らなかったです。


そうなんですか
やっぱり梶原クンと一緒に武田有義ともども命運を共にしたんですかあ〜
(梶原クンとこも元は坂東平氏で頼朝を助けて源氏方になり息子は「源太」なんて呼んでますねえ)
それで歴史から消えたのかな?


高場家の家紋
源平時代は何を使用してたか?
分かると良いですね。

けっこうミーハー?

[28]鹿嶋の守さんからのコメント(2005年02月05日 15時38分56秒 ) パスワード

全国の「高場さん」の電話帳登録からの分布
*但し平成10年現在の古いものです。
 しかし、現在では携帯登録利用の人が圧倒的ですので、大変貴重なものです。
 
全国  566 件の登録

北道  29 埼玉  13  静岡   6  島根   6  大分  25
青森   1  千葉   4  岐阜  10  鳥取  11  佐賀  32
岩手   2  東京  36  愛知  33  岡山   5  熊本  14
宮城   0  神川  30  三重   8  広島  65  長崎   8
秋田   0  新潟   1  滋賀   3  山口  15  宮崎   5
山形   0  富山  50  京都   4  徳島   1  鹿島   2
群馬   0  石川   3  大阪  30  香川   0  沖縄   0
栃木   2  福井   2  兵庫  22  愛媛   7
福島   7  山梨   0  奈良   4  高知   1
茨城  16  長野   4  和山   3  福岡  46

う〜〜〜ん、この表から何か感じうることがある!しかし、生来、科学的人間ではないので、わから〜〜ん!

あくまでも出自なので、大都市圏と北海道の数値は甘くみたほうがよさそうです。1000年の都、京都は4件とは!富山の50件は何だろう?日本の苗字七千傑さんの説がなんだか本当に感じてきてしまう。国造で、私が高貴な人になってしまうし〜〜。開化天皇皇子彦坐王の髪の毛が一本手にはいればDNAでわかるんだけどね〜!!!東京都は品川が多いので、梶原さんのからみもありそうだし〜〜〜!良くわかんない。
[29]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2005年02月06日 01時02分54秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

鹿嶋の守さん
 
苗字の出自で、つい漢字表記にとらわれてしまうのですが、タカバ姓の異字同訓に着目するといろいろなことが見えてきます。
例えば尾張地域にも高場姓が多いのですが同時に高羽姓、鷹羽姓、高波姓も多く分布することが解ります。
これは偶然でしょうか?
 
発祥地に近いところから表記が高庭−高羽(鷹羽、高波)−高場−鷹場と変化した様に見受けられます。
常陸は高場ですが、陸奥では鷹場になっています。
越中(富山県)に高場姓が多いことに着目されていますが、お隣の加賀(石川県)に高羽庄が存在して高羽姓が存在しますが、さらに移動して高場姓になったのではないかと思います。
 
また鎌倉時代に北条得宗家譜代の被官が全国の守護や地頭として任地に派遣さますが、例えば伊豆国田方郡長崎郷が本貫の長崎氏が肥前国彼杵郡、陸前国栗原郡、遠田郡に所領を持ち、いずれの地にも長崎の地名が存在します。
 上古まで遡れば同族の土地か、或いは移動により地名遷移で命名されたかのいずれかと思われす。

 梶原氏についても同様に全国に分流した場所に多くの梶原邑が存在します。

 このように地名は家紋と同様に出自氏族を推測するキーワードです。
[30]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年02月06日 02時55分59秒 ) パスワード

日本の苗字七千傑さんの書き込みでかなり纏まって来ましたね。


ビックリした事を書きます。

平将門を一緒に討った藤原秀郷のママは下野鹿嶋の娘なんだそうです。あらら

さらに常陸国は平氏下向のずっとずっと前に嵯峨源氏の地だった。

確かに平将門や貞盛の時代
坂東平氏のオジサマたちは嵯峨源氏系の名前が1文字のお方達とつるんでますよね。


それで源氏の「源」の字に引っ掛かって嵯峨源氏も清和源氏も宇多源氏もこんがらがっていくのでしょうか?
[31]熊襲姫さんからのコメント(2006年02月06日 00時34分01秒 ) パスワード

 自分の旧姓について、論じられていたので興味ふかく拝見しました。高場という珍しい名前です。祖母は、旧姓が、梶原です。梶原と高場は、ともに佐賀の多久であり、親戚関係にあります。遠い昔のことは、よくわかりません。先祖のことを調べようと父親が戸籍謄本を取り寄せて調べておりましたが、士族であるということくらいしかわかりませんでした。森という家から養子にきているために
高場の血筋は、絶えているようでした。
[32]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年02月06日 01時26分43秒 ) パスワード

熊襲姫さん

初めまして。

>梶原と高場は、ともに佐賀の多久であり、親戚関係にあります。遠い昔のことは、よくわかりません。


もうバッチリ昔からの御縁の深さが分かりますね。
鎌倉時代に地頭になって下向した、その御縁なんでしょうねえ。

佐賀県教育委員会に当時の記録などあると思いますから
梶原家・高場家の御先祖さまのことが出て来ると思います。

県図書館や県教育委員会などでアクセスできると思います。
[33]熊襲姫さんからのコメント(2006年02月06日 21時04分36秒 ) パスワード

 暇潰しのギャンブラーさま
 はじめまして 熊襲姫です。佐賀県まで行かなくても、調べられるということに驚きますね。教えていただいて、本当にありがとうございました。
祖母の家の近所に美智子妃殿下の母上の実家が、あるそうです。祖母の嫁ぎ先の副島と姓名が同じで、御成婚の時には、私の母に祝電が、届いたそうです。恐れ多い間違いでした。遠い親戚だとしたら、本当にに恐れ多いことです。
 
[34]小林雅成さんからのコメント(2006年02月06日 22時57分27秒 ) パスワード

横レス。

おー、佐賀藩の副島氏!
[35]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年02月06日 23時03分52秒 ) パスワード

熊襲姫さん

是非教育委員会にお手紙をお出しになって資料をお取り寄せになってみてください。


副島さんも、
やはり昔の鎌倉幕府以来のお仲間で今日に至るようですね。

熊襲姫さんも恋した男性達は鎌倉時代以来のお仲間の御子孫だったのかも。
そんな人はいらっしゃいませんでした?
初めて会った人なのに血沸き肉踊ったような印象を受けた男性。

DNAは記憶している、というのがわたくしの持論です(笑)
[36]烏夜啼さんからのコメント(2006年02月07日 02時04分51秒 ) パスワード

突然、割り込んで申し訳ありません。
ウズウズして、つい耐え切れずに書き込んでしまいました。
ひたちなか市の高場って昔私が住んでいた所のすぐ近くですよーーー。
歩きでも行けます。うちは近所の真言宗っぽい地名でした。
あんなところにかつて豪族なんかがいたとは・・・・・・?????
驚きです。
高場は地元では上高場、下高場に分けて、学区もわかれていますから、
とても広いので、私もよく知らないのですが。
那珂の方なら、上高場かな?昔、宿場だった現ド田舎ですね。
うちからは遠いほうです。
でも、もっと地元の歴史を学んでおくのでした。
反省。
虎塚古墳と武田氏しか知りませんでした・・・

すみません。
あまりに懐かしくて、意味のない書き込みをしてしまいました。
失礼致しました。
[37]烏夜啼さんからのコメント(2006年02月07日 02時14分57秒 ) パスワード

あ、そういえば、近所に幾つか中世の小豪族の城が幾つかありましたよ。
足崎城とか。清水城とかいうのもあったとか、話だけは聞いたことがあります。高場の方にも城があったって、聞いたような気もするなぁ。。。
申し訳ありません、記憶が定かでないです。
[38]烏夜啼さんからのコメント(2006年02月07日 03時02分27秒 ) パスワード

高場という地名は本当に高い場所にあるからかな、と思いました。
周囲は高野、小貫山とかいうのですが、実際そこら辺は高いです。
東海村との境にあり、東海村から来ると、田んぼばかりの低地から、
長く急な坂を上りきって高場、高野、小貫山地区に至りますから。


武田は甲斐武田氏発祥の地と地元では信じられていました。
武田氏館なんていう観光スポットもあります。
武田氏の邸跡に中世の武家屋敷を復元(?)してます。
なかなか面白いです。
ひたちなか市になる前、勝田市だった頃、
勝田祭りというのがありましたが、武田軍団という行列が練り歩いていました。ひたちなか市になった今は、その武田軍団なるパレードがあるのだかどうか。ちょっとわかりません。


高野には八幡宮があり、義家が立ち寄ったなどという伝説が。
地元は源氏好きみたいですね。



[39]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年02月07日 05時54分48秒 ) パスワード

>地元は源氏好きみたいですね。

でしょうね。
モロ源氏方。鎌倉御家人。ですものね。

東海村の近くなんですか。
これでちょっと土地勘掴めました。(ほんと?恥)


武田氏もあっちこっち名門武田氏が残ってて
一般的には武田=甲斐ですけどそうじゃないんですよね。


烏夜啼さんの御蔭でちょっと立体的になりましたよ。
やっぱり土地鑑のある人の書き込みは違うなあと感心しています。
[40]烏夜啼さんからのコメント(2006年02月07日 06時38分40秒 ) パスワード

高場はJR常磐線の佐和駅がある場所です。
多分、佐和駅の住所は高場じゃないかと思います。違うかも・・・小貫山じゃないと思うけど、佐和かな??
でも、東海村の近くでもあり、那珂市の近くでもあります。

ああ、懐かしい。

たいしたことも書き込めませんで、申し訳ありません。
ギャンブラーさまにお教えいただくまでは高場の豪族なんて、考えたこともありませんでした。
ありがとうございました。

[41]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年02月07日 13時31分18秒 ) パスワード

JRの時刻表の地図で見てきました。

水戸から2つ目の駅ですねえ。
勝田は結構大きな町の駅のようですけど、高場はその次の小さな駅なんですねえ。


この地方の小豪族が歴史に躍り出た。
東鑑にも名を残した。
そして九州にも名を留めた。

800年前の人間が生きた証というのがこうして確認できて、不思議ですね。


更に久慈川が近くにあったり
ずっと向うは勿来なんですねえ。

しみじみと「歴史」というものが胸に来ました。
[42]熊襲姫さんからのコメント(2006年02月07日 18時58分22秒 ) パスワード

 高校の時に古墳の発掘調査、城跡の調査をしていました。遺物に接するたびに当時を生きた人たちと会話をしているようでした。熊襲と隼人の攻防の激しさもその古墳の形などから、推察することができました。ロマンあふれる体験でありました。
 男女の出会いのことを書いておられましたが、確かにありますね。母は父に会ったときに、電流が走ったそうですから。あまりにも美しい人だったからだそうです。
[43]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2006年02月07日 20時57分28秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

常陸の高場には静神社(静御前)、隣の高野には白旗神社(源義経)がある。
源義経と来れば、義経の麾下で宇治川先陣争いをした梶原景季と佐々木高綱が有名である。
[44]熊襲姫さんからのコメント(2006年02月09日 01時51分59秒 ) パスワード

 1186年に源平の合戦があったと思うのですが、800年後の1986年に結婚した相手が、熊野大社の神官の子孫でした。源氏方であったのですが、平家と親交が厚かったために信義を重んじて平家と一緒に戦い、寿永3年に一ノ谷の戦いに参戦しており、翌年の屋島の戦いにも敗れて、熊野神社の神霊を奉持して一族17人で四国に落ち延びて、熊野神社を創建しています。それ以来ずっと、四国に居住しています。人のご縁とは、不思議なものですね。驚きました。
[45]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年02月09日 02時25分10秒 ) パスワード

熊野大社の中でも源氏方・平家方に割れたのでしょうね。
特に清盛の弟の忠度と親しかったら平家を裏切れなかった人もいたのでしょうね。


>人のご縁とは、不思議なものですね。驚きました。

そう思います。


でも宿命があって、ちゃんと結ばれるんですよね
こうして結ばれた背景が分かりますと絆は固くなり御家も繁栄するんでしょうね。

でも妻の方が源氏方で夫の方が平家方ですと「カカア天下」でしょうか?爆
[46]熊襲姫さんからのコメント(2006年02月09日 13時54分51秒 ) パスワード

 多分そうでしょうね。動物占いでは、ライオンの妻とコアラの夫ですから。
息子たちは、小鹿と羊ですから。いかに、家を支配しているかが、ご理解できるかと思いますが。猛獣ばかりの家族だと争いも耐えないのでしょうが、うちはいたって平和な家族です。
 なぜなら、猛獣に立ち向かえる動物が、いませんので。残念。
[47]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年02月10日 06時49分53秒 ) パスワード

ああ、やっぱり。笑

矢張り、なるべくしてなった、そういう宿命に沿った家庭なのでしょうね。
ライオンが支配していれば平和が保たれる。

コアラってあちこちフラフラしませんしね。
これと決めた木で生きる、って。

「ライオンさん」に従って栄えなさいという宿命なのでしょうね。
ふふふ
[48]熊襲姫さんからのコメント(2006年02月12日 20時36分35秒 ) パスワード

コアラってあちこちフラフラしませんしね。
これと決めた木で生きる、って。
的確なご指摘に驚きました。男性という生き物は、もっとフラフラするものと思い込んで覚悟していたのですが、まったくそのようなことはありませんでした。
一夫多妻が、当然とされた歴史が、ごく最近まであったにもかかわらず、すべての男性がそうではないということなのでしょう。または、妻の存在が、脅威であるためにフラフラできないということかも知れません。なにしろ、ライオンとコアラですから。
[49]熊襲姫さんからのコメント(2006年02月13日 18時14分53秒 ) パスワード

 最近、日本の歴史学者と話をする機会がありましたが、長い間、一夫多妻の歴史があって、正妻と多くの側室がみとめられていた時代がありました。それは、日本のみならず、外国でもそのようでした。しかし、女性の地位向上、社会進出があって、夫婦別姓が求められるようになってきています。かって、入籍すらできなかった女性が多く存在した時代に比べると今や入籍することが逆に困るような事態に変化してきたとは、実に皮肉なことのように感じられます。それだけに女性が、力をつけてきたと言うことなのでしょう。男に依存しなくても生きていくことが可能になったということですね。頼朝や義経にも側室がおりましたが、末路は哀れにも感じました。やはり、女性も自立して強くたくましくライオンのようにならなくとも、せめて狼くらいにはならなくては。
[50]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年02月14日 03時00分50秒 ) パスワード

先日ライオン一族の番組を見ましたが
雄ライオンは用心棒役でした。

はぐれ雄ライオンが縄張りに侵入するのを追い返す
そういう役目でした。

人間社会も
夫が外的にしっかりしてくれて
妻が内的にしっかりしてたら
きっとうまく機能するんでしょうね。

熊襲姫さん宅の御夫婦は一頃前の典型的な日本的家庭のようですから
お子さんもしっかり育ちますよ。

なんせ御主人様がコアラですからヨソには興味が無いようで
良い傾向ですね。
[51]熊襲姫さんからのコメント(2006年02月14日 13時54分36秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2006年02月17日 01時41分25秒
[52]熊襲姫さんからのコメント(2006年02月17日 02時00分53秒 ) パスワード

 以前に梶原さんという人に会ったとき、平氏の落人で東と西に分かれて行ったとのことでした。私の先祖は、親戚との結婚がとても多く、東平、平吉、10代くらい平右ェ門が、ずっと続いておりまして、「平」という字が名前に多いので、源氏ではなく平氏のほうではないかと思っていました。はじめは、源氏だったのかもしれませんが、平氏の落人なのではないでしょうか。その知り合いの梶原さんも祖母の梶原も共通点は、顔立ちが、とても美しいのです。その上、年上の女性と結婚する男性が多いことも同じでした。関係ないことですが。
[53]烏夜啼さんからのコメント(2006年02月26日 15時12分13秒 ) パスワード

ご無沙汰しております。

父に高場に城があったのか訊いてみました。
が、ズバリ「ない」という答えでした。
「ええ?歴史に興味ないから知らないだけじゃないの?」
と言ったら、「なに言ってる。城はないが古墳ならばウヨウヨ群れをなしてあるぞ」
とのことでした。
佐野小学校の裏の奥の方や谷田や林の中に円墳が
沢山あるんだそうです。
上高場の辺りでしょうね。
それから、静神社はどこにあるのか聞いたことがないので知らない、とのことでした・・・
白幡八幡宮は近所でしたし、
建てかえの時お金出したので、
馴染みがあります。
でも、八幡太郎さんの伝説があるんですよね・・・よくわからん。

わりと近所の那珂市菅谷で鹿島神宮を見かけたような記憶が・・・



私は学校が日立市にあったので、毎日電車に乗って通学しました。
佐和駅はびっくりするくらい小さいです。
常磐線の駅の中で最も小さいのでは・・・
三河島駅も天王寺駅も佐和にくらべたら巨大な駅でしょう。
なにしろ自動券売機で特急券買えないんですから。
今は知らないけど・・・
佐和から乗車して、毎日久慈川を渡ってました。
初夏の頃には、よく川面が煙って、霧になっていく様が、とても風情があったことを今でもよく覚えています。
川面からの霧の上に、ぽっかりと山の頂だけが浮んで見えていたのが、海上に浮ぶ島のようでした。
毎日久慈川を渡るのが楽しみでした。




[54]熊襲姫さんからのコメント(2006年02月28日 15時07分03秒 ) パスワード

 高場という地名があることすら、あまり知りませんでした。子どもの時、新潟に高場山という地名を見つけて、兄弟で大騒ぎしたことはありましたね。
 母方の祖父が、自分の歴史と郷土の歴史の資料を多く残しておいてくれたので、兄も私も興味をもって見たものでした。兄は、マンガ大好き人間で天井までマンガ本がつんでありましたが、歴史の本をよくよんでいました。子どもの時から郷土研究に熱心で自転車に乗って文化財の調査に出かけていましたが、高校では、考古学に熱中していました。そのために、私まで考古学の調査に引っ張りだされたのでした。大学でも、もちろん日本史専攻でした。
歴史は、本当に面白いですね。特に、自分の先祖の歴史は、自分にも影響を及ぼしていると考えられるので興味深いものがあります。
[64]思いうかばないさんからのコメント(2015年02月11日 11時35分05秒 ) パスワード

安芸武田氏と高場氏の関係を調べています、どなたかご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。私の生まれは、旧広島県安佐郡安村字上安です、
安の語源についても調べています。
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